ミッドナイトジャーナル(本城雅人)
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マスコミ、というものに、あまり良い印象を抱いていない。
その理由は二種類ある。
一つは、報道する価値があるとは思えない事柄がニュースとして取り上げられることが多い、ということだ。この文章を書いているタイミングでは、芸能人やその周辺の人たちの不倫報道が凄まじい。確かに、ある程度影響力の高い公人がある程度の倫理観を求められるのは当然かもしれないが、しかしだからといって、他人の不倫の話をあそこまで大きく取り上げる必要があるのかといつも感じてしまう。
しかしこういうものは、基本的には受け手側にも責任がある。受け手側がそういう情報を好んでしまうが故に、上流から流れてくる情報自体がそういうものになってしまうのだ。一概にはマスコミだけの責任には出来ない。
また、報道されるべき価値のある情報が様々な理由により報道出来ず(スポンサーの関係や政府の圧力などなど)、結果的に報道する価値があるとは思えない情報に偏ってしまう、という側面もあるだろう。マスコミも企業として存続させなければならない以上、ある程度の判断は必要だろうし、この点も理解できないわけではない。
さてもう一つ。こちらは、実に個人的な話である。
僕はかつて、二つのテレビ番組から取材を受けた経験がある。詳しいことは書かないけど、取材クルーが当時働いていた店や、当時住んでいた家に来た。
その時に、あまり良くない経験をした。
一方のテレビ番組の方は、あらかじめ質問事項が送られてきていて、それに対して僕がカメラの前で答える、というスタイルだったので特に不満はなかった。しかしもう一方が、「撮りたい画」のイメージの中に僕をはめ込もうとする人たちだったのだ。
ディレクターの中にもう完成形のイメージがあった。その完成形のイメージは、僕の存在を無視して作られている。だから、ディレクターが望んだ画を撮るためには、僕を都合よく動かすしかないのだ。
僕は、嫌だなぁと思いながら従った。後々思い返して、従わなければよかったなと後悔している。
新聞の取材を受けた経験もある。共同通信社で、僕のことを取材した記事が配信されたのかどうか知らない。その時にも、ちょっとした違和感を覚える出来事があった。
それまで雑誌系の取材を受けたことはあったので、事前に原稿は見せてもらえるものだと思っていた。だから、雑誌系の取材の時と同じように、事前に原稿を見せてもらえるんですよね?みたいなことを確認した時に、「新聞は首相を取材した時だって事前には見せない」みたいなことを言われたのだ。
まあ、社会面とか政治面の記事だったら分かる。でも僕が載った(あるいは載らなかったのかもしれないけど)記事は、文化面とかそういうページだろう。そういうページにまで、社会面とか政治面の理屈を通用させてしまうんだなぁ、と感じた記憶がある。
そんなわけで、マスコミというものにあまり良い印象を持っていない。
とはいえ、これまた当たり前の話ではあるのだけど、「マスコミ」という形で、大きな存在を一括りで捉えることも良くない。例えば僕はノンフィクションが好きだけど、ノンフィクション作家の多くが、現役の記者だったり、元記者だったりする。東日本大震災を始め、様々な災害などでマスコミが果たした役割というのも大きいのではないかと思う。
『昔とは違うんだ。今の新聞なんて無力だ。官僚だってそう思ってるさ。週刊誌に知られたらまずいが、新聞ならなんとでもなるって』
新聞を取ったことはほぼない。読む習慣がない。僕は就活をしなかったけど、僕らの世代では、就活してた時は読んでた、みたいな人が結構多いのではないだろうか。若い世代になればなるほど、ニュースはネットで見ればいい、と感じるだろう。僕もそう感じてしまう。もちろん、新聞社の取材がなければネットのニュースは存在し得ないということは分かっている。分かっていて、そう感じてしまうのだ。
『そもそも今の時代、どこよりも早く報じることは意味はあるのか』
その場にいた一般人が撮った写真や動画がいちはやくネットにアップされてしまう時代、新聞が早く報じることにどれほどの意味があるのか。新聞記者自身がその問いを胸に抱えながら、それでも日々事件を追いかけていく。
新聞は決して事件を解決するわけではない。報じるだけだ。だけ、ではないが、しかし報じることが責務だ。そして、報じるという行為がどれほど権力に対して力を持ち、そのことでどんな化学反応が生み出されるのか、本書を通じて実感できたように思う。
内容に入ろうと思います。
7年前彼らは、世紀の大誤報を打ってしまった。
「被害女児死亡」
そう報じた直後、女児の生存が確認されたのだ。
中島聖哉という青年が、少女を誘拐し殺害した事件。中央新聞は、世紀の大誤報のお詫びを行ったが、しかし中央新聞が訂正しなかった事柄がある。中島に、共犯者がいた、というものだ。しかし結局、中島は単独犯と断定され、死刑判決が下った。
当時中島の事件を取材していた関口豪太郎、藤瀬郁美、松本博史の三人は、それぞれの道に進んだ。誤報の責任と取らされ支局に飛ばされた豪太郎は、今はさいたま支局にいる。藤瀬は東京本社で社会部にいる。そして松本は、自ら望んで整理部員となった。
ある日、さいたまで女児の連れ去り未遂事件が発生する。豪太郎は、7年前の事件との関連を疑う。あの時捕まらなかったもう一人が、また事件を起こしているんじゃないか?と。東京本社では、何かと鬱陶しい豪太郎の行動に辟易しつつも、あちこちからネタを引っ張ってくる力は認めていて、扱いにくい男だと感じている。7年前との関連性を口にする豪太郎を、7年前の誤報で痛手を被った者たちは抑えこもうとし、かつて豪太郎の元についていた藤瀬を埼玉に送りこむ。整理部員となった松本は、かつての事件との関連を想起しながらも、自分はもう社会部の記者ではないのだと自分を抑えこむ。
今起こっているこの事件は、中央新聞に大打撃を与え、豪太郎らの人生を大きく狂わせた、あの誘拐殺害事件と、関連があるのだろうか?
というような話です。
実に面白い作品でした。物語の展開のさせ方や臨場感、人間の造形のリアルさなど、さすが元新聞記者ならではの作品という感じがして、お見事という感じでした。
僕が一番凄いなと感じた点は、物語の全体を通して、事件らしい事件が起こらない、ということです。
こう書くと語弊があるかもしれない。事件らしい事件が起こらない、というのは、「新聞社を舞台にした小説で扱われるだろう規模の事件と比べて大した事件ではない」という意味です。
大体新聞社を舞台にした小説では、冒頭で大事件が起こると思います。そしてそこを起点として、新聞社がどう動くのか、どこでどんな軋轢が生まれていくのかなど、様々に物語が展開されていくわけです。
しかし本書の場合、後半に入らないと事件らしい事件が起きません。連れ去り未遂は発生する。これは、被害を受けた側からすれば恐ろしい恐怖だろうけど、やはり、新聞社を舞台にした小説を成り立たせるのには弱い事件だと感じてしまう。
しかし本書は、このほとんど事件らしい事件が起こらない中で、物語を成立させてしまう。その手腕が凄まじいと感じました。
そこで効いてくるのが、7年前の中島の事件です。本書では、この7年前の事件が最初から最後まで亡霊のように付きまとってくる。
先に挙げた豪太郎、藤瀬、松本にしても、あの7年前の事件で様々の身の振り方をしているし、また社会部長までのし上がった外山は、かつてその大誤報となった記事にゴーサインを出した人物であり、出世争いから一時落ちてしまった。様々な人間があの大誤報によって人生に変転を迎えている。
埼玉で起こった女児連れ去り未遂は、その7年前の事件の存在がなければ、恐らくここまで彼らの関心を引くことはなかっただろう。特に豪太郎は、どこにどんな自信があったのか、7年前の事件との関連性を誰も思い出しもしなかった時から、しつこいくらいに関連を疑い続けるのだった。
そこには、豪太郎なりの想いがある。
『だけど万が一、間違ったとしても、それを警察だけに押し付けるのはどうかと思う。俺たちだって取材してたんだ。犯人を捕まえるのは警察の権限だからマスコミは関係ないなんて、そんな無責任なことは俺は言いたくない』
豪太郎は、恐らく誰よりも、中島の事件のことを悔いている。「女児死亡」の大誤報もそうだが、二人組だったという証言が多少あったにも関わらず、その時突っ込んで取材をしなかったことこそをより強く後悔しているように感じる。豪太郎の、女児連れ去り未遂が7年前の事件と関係するという主張は、さすがに勇み足に過ぎると感じる部分もあるのだけど、しかし、それだけ強い思いを持たなければ真実を明るみに出すことは出来ないのだという信念の現れでもあるのだろうと思う。
『真実は真夜中に出てくるというのが親父の持論だったんだ』
『真実というのは常に闇の中にある』
豪太郎は、真実に人生を捧げるかのように、記者という仕事に没頭する。豪太郎は、あらゆる人間から鬱陶しがられているのだが、その気持ちはとても良くわかる。無茶苦茶な指示を出すし、人使いは荒いし、上司の言うことは聞かないし、どんな状況でも自分が正しいのだという気持ちを隠さない。近くにいたら真っ先に嫌ってしまうタイプだろう。しかし、新聞記者として、真実に人生を捧げている生き方には尊敬してしまう。
『新聞記者に武器があるとしたらそれは書くことだ』
豪太郎が傲慢で傍若無人なのは、真実に対して誠実だからだ。豪太郎にとっては、真実がもっとも大事であり、そこに辿り着くためならなんだって利用する。なんだってする。その気迫が伝わってくるから、豪太郎という厄介な人間を憎めないのだろう。
『だが、新聞記者が出世を考え始めたらおしまいだ』
豪太郎の言葉ではないが、豪太郎も近いことを考えているだろう。豪太郎は、本社に戻りたがっている。ある意味それは、出世だろう。しかし豪太郎は、出世したいわけではない。真実を掴み、真実を掴む技量で認められることで、結果的に出世がしたいのだ。豪太郎が出世のためだけに真実を追っていたら、それこそ誰もついていかないだろう。真実に対して人生を捧げているというその本気を知るからこそ、傲慢な豪太郎と関わろうとするし、無茶な要望にも答えようとする。
取材の現場は、まさに豪太郎に振り回されていると言っていいだろう。しかし本書で描かれるのは、取材の現場だけではない。
例えば外山を中心とした、本社にいて紙面に対して最終的な権限を持つ者たちの話。東京本社にはトップクラスの記者が揃っているはずなのに、豪太郎のいるさいたま支局にやられてしまっている現状とか、暴走していると感じられる豪太郎を抑えこもうとする手段など、紙面を作るという最終局面での争いが非常に面白い。
『新聞記者は、紙面をとってなんぼだ。他紙もよその部署もひれ伏すしかないインパクトのある記事で圧倒する。紙面という陣地の奪い合いが、ひいてはポストの取り合いへと繋がっていく』
社会部と政治部の対立や、色濃く残る7年前の誤報の余波など、紙面作りの局面にもドラマは山程生まれる。さらにそこに、整理部員として、かつて社会部の記者だった松本がいるのだ。
また、二階堂という、かつて大手紙の記者だった、現中央新聞の記者である男の存在も非常に面白い。
一番印象深かったのは、二階堂が警察と警視庁記者に絶妙な形で情報を流し、自らの思う方向に向かせようとする場面だ。二階堂は、手練手管を使って二人の人間にうまく情報を流し、相手の行動をコントロールしようとする。その手腕が絶妙なのだ。老練としか言いようのないやり口で、こんな風に人を動かすのだと感心した。その後も二階堂は、絶妙な場面で登場し、作品全体にいい味を出してくる。
本書では、記者とは、新聞とは何なのか、という問いが常に提示される。ある人にとってそれは、出世への階段であり、生活の糧である。それを否定するつもりはない。記者だけでは新聞社は回らない。豪太郎もそのことは理解している。しかし豪太郎は、記者という存在であることに使命感を抱いている。
『とはいえ、十二年、記者をやっていると、入社前に描いていた理想と現実が大きくかけ離れていることも痛感している。とくに社会部にいると、今起きている事件を追いかけるのに必死で、自分に与えられた使命などを考える余裕はない』
これは藤瀬の言葉だ。豪太郎は、藤瀬が失いかけていると言っている使命を忘れない。自らの役割を、そして責任をきちんと理解し、その上で出来うる限りのことをして真実の尻尾を掴もうとする。
『父は気概がなければ本当のジャーナルは貫けないと考えていたのだろう。だから取材相手に屈することもなければ、妥協することもなかった。魂の消えた記者の書いた記事など、読者がいち早く感づいてしまう』
ただ事実を追うだけではない。時にそこに解釈や想像を加えながら、なんとか真実の一端を掴まなければならない。その豪太郎の想いは、本書のラスト、豪太郎が山之内という新人記者の教育をしている場面からも良く分かる。取材をするとはどういうことか、真実を掴むとはどういうことなのか。そして、取材をし真実を掴むことが何故大事なのか。警察だけではなく、何故新聞という存在が必要なのか、そのことが実によく伝わる設定と描写で最後まで読ませる、骨太の社会派ミステリだと感じました。
本城雅人「ミッドナイトジャーナル」
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