黒夜行

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粘膜黙示録(飴村行)

内容に入ろうと思います。
本書は、「粘膜人間」でホラー小説大賞を受賞し作家デビューした著者による、作家デビュー前の『蟹工船時代』を描いたエッセイである。

著者は、東京歯科大学を中退(何故中退したのかは、本書に書かれている。実に恐ろしい経緯である)。「MANGA家」(世界的なマンガ家になるつもりだったという)を目指して奮闘するも、「革命」を夢想したことがきっかけで(これも本書に詳細が書かれている)「MANGA家」の道を諦め、そこから、『僕は毎朝起きるたび、心の底から激しく後悔するようになっていた。勿論、この世に生まれたことに対してだ』と言わしめる、十数年に及ぶ恐怖の派遣工時代を経て作家になった。中高時代友達が一人もおらず、社会に出ることを怖れるが故に大学生を続け、ただ生きるためだけに労働をし、それから紆余曲折を経て、家族以外とは一言も喋らないで小説を書き続ける生活を4年続けて作家になった著者の、恨みつらみオンパレードの、しかし読んでいて楽しいエッセイである。

本当にまあ、よくこの人死ななかったな、と思うほどの生活である。もちろん今現在も、著者と同じ、あるいは著者よりももっと酷い環境で労働させられている人だって世の中にはいるはずだろう。しかし、歯科大学に通い、ドロップアウトしなければ人並み以上の生活が送れたかもしれないというステージから転がり落ちてきた著者の場合、その派遣工時代はよりしんどいものに感じられたことだろう。断片的な、しかも最終的には笑いに変えられるようなエピソードだけしか分からないが、しかし本書を読んだだけで、僕には耐えられないだろうな、と感じられてしまった。とてもじゃないけど、人間が生きていく環境ではない。

本当にこの人、作家として転身出来て良かったな、と。その、ある意味ではウルトラCの転身がなかったら、この人は本当にどうしていただろう?

『僕は、生まれてから一度も神の存在を疑ったことがない。いわゆる筋金入りの有神論者だ。断言するが、神はいる。今までもいたし、今もいるし、これからもいる。
なぜか?
理由は単純だ。この世には<幸運な奴>がいるから。』

著者のことを“幸運”と呼んでいいのかどうか、ちょっと躊躇ってしまう部分もあるけど、少なくとも、作家としてデビュー出来たことは“幸運”だと言っていいだろう。著者としても、神様を信じ続けてきた甲斐があった、ということではないだろうか(ちなみに僕は、完全な無神論者である)

しかし僕は、この著者に共感できてしまう部分がかなりある。

『僕はこのエッセイを含め、大学中退後の苦労について何度か語ってきたが、大学中退を「決断」するに至るまでも、かなりの苦労、というか葛藤があった。では当時、僕の心中で一体どんな思いが相反していたのか?それは「MANGA家になって出世したい」という欲求と、「でも社会には出たくない」という怯えだった。』

僕は、出世したいと思ったことは一度もないが(それどころか、金持ちになりたくないとまで思っている)、「社会には出たくない」というのはまさにドンピシャである。僕は、社会に出ることを怖れるが故に大学を中退した人間で、そういう意味でまさに著者と同じ穴のムジナと言えるだろう。

著者も書いているが、僕も、社会に出るのを先送りにするという目的のためだけに大学に通っていた。僕は中学の頃からサラリーマンにはなれないと思っていたし、サラリーマンになれないのなら社会には出れないだろうと思っていた(サラリーマンとして生きる以外の選択肢をリアルに思い浮かべることが出来なかったのだろう)。そういう意味で僕は、中学や高校さえも、社会に出るのを先延ばしにするための場所と捉えていたはずだ。今でも僕は、社会にはまったく馴染めない、と思っている。まさに僥倖とも言える奇跡的な選択により、今日までどうにか、自分が生き延びることが出来る実に稀な職場を渡り歩いてきたわけだが、その僥倖がなければ僕はさっさと社会から爪弾きにされていたことだろう。

著者も、大学を中退することを両親に納得させるために、こんな力説をしている。

『歯科医という職業に興味がもてない。自分が白衣を着て治療する姿が全くイメージできない。興味がもてないからやる気が出ず、何も頭に入らない。仮にこのまま進級したとして、なんとか卒業できて国試に通ったとしても、絶対に一流の歯科医にはなれない。並の努力で三流、死ぬほどの努力でも二流どまりで終わる。なぜなら嫌々やっているから。世間に出るのが怖いという理由だけで大学に在籍しているから。他の奴らは、僕がつらいと思う勉強を楽しくて仕方ないと笑いながらやっている。この時点でもはや僕は比較の対象にすらならない。しかも歯科医には常に患者がいる。僕のような奴がいるから医療事故が起こるのではないか。深刻な事態が起きてからでは遅いのではないか』

これを読んで僕は、この著者は誠実だなぁ、と感じた。僕が大学を辞めた時は、もっと酷かった。突然誰とも連絡を取らないようになり、大学にも行かなくなった僕を心配した両親が上京、僕の部屋までやってきたが、僕はフロッピーディスク(当時はまだフロッピーディスクが主流だった)を渡して親を帰らせた。そのフロッピーディスクの中には、それまで一度も親に言ったことがない、これまでずっと隠してきた両親への恨みつらみを羅列してあった。それを読んだ親がどう感じたか、今に至るまで聞いたことはないが、まあそれは相当ショックだったことだろう(僕はずっと、良い子のフリをしていたので)。そうやって親にショックを与えて、なし崩し的に大学を辞めた。もちろんそれは計算というわけではなく、結果的にそうなったのだが、振り返って考えてみると酷い男である。

だから、多少アドリブが混じっていても、きちんと大学を辞めたい理由を両親に伝えて説得している著者は、僕なんかよりも遥かに素晴らしい人格の持ち主である。

『そして極めて個人的なことではあるが、僕の人生において大学中退ほど大きな出来事はなかった。それはホラー大賞でデビューしたことは勿論、3.11の震災体験や父親の死すらも凌駕する大事件だった。日本史で言えば「明治維新」や「終戦」に匹敵するまさに歴史的蠢動であり、実際戦中と戦後では日本が全く別の国として認識されるように、大学中退前と後では、僕の視界に映る「世界」も全く別の物になってしまった』

著者が大学中退に至るまでの経緯も、なかなかのものがある。詳しくは本書を読んで欲しいが、確かにそんな出来事があったら中退する以外の選択肢はないだろうな、と僕に思わせる話だった(恐らく、世の中のごく一般的な人は、それでも中退を選びはしないだろうが)

本書には、友達とのやり取り、家族との話、美容院での出来事など、色んなエピソードが語られるが、もっとも多く触れられるのが、派遣工として長い時間を過ごしたとある工場での出来事である。

『工場内の雰囲気や価値観といったものが昔のまま、具体的には昭和四十年代前半(彼らの青春時代)で停滞しており、当時の流行=「常識」が堂々とまかり通っていた』

『集団就職で上京した頃から三十年以上同じ寮で、同じ仲間と共に、同じ部屋(四畳半個室)で生活し続けた結果、変な言い方だが工場の敷地内において「「金の卵」的楽園」のガラパゴス化が発生し、脳内に昭和四十年代の「空気」を充填&保存したまま、肉体だけが時間の経過にさらされて老化してしまうという特殊な現象が起きたのだ』

著者が働いていた工場というのは、こういう環境だった。入ったばかりの頃、「ちあきなおみと佐良直美、どっちが可愛いと思う?」という質問を受けたという。まさに時間が凍りついているかのような空間である。そこはまさに、「個性的」という表現を食い破るくらいに強烈なキャラクターがひしめいていて、爆裂的なエピソードが山ほど存在する。どんあ話が出てくるのか、詳細には触れないが、一番印象的だったのは、田野という、「十八歳から二十二歳の健康な処女」と結婚しようとしていた(というか、彼の中でそういう女性と結婚することは既定路線であり疑う余地のないものだった)「裸の大将」似の男だ。実にインパクトがある。

『今思うに、この頃が人生のどん底だった。当時は気付かなかったが、死に対する認識が現在と大分異なっている。
つまり僕はこの時、俺はいつか「死ぬ」ではなく、俺はいつか「死ねる」―苦しみから完全に解放されると思っていたのである。そして自分のものも含め、死体とはみな「抜け殻」でしかなく、何の価値もないと感じていた。極言すると、精神的なレベルで“心肺停止”の状態であり、ヒトとしてのまともな感情が“壊死”していたのだろう』

僕も、きちんと言語化はしてなかったと思うけど、近いことを感じていた時期はあった。自分の人生がもうどうにもならず、誰とも合わずに、ひたすら家でテレビを見るだけの生活を1年近く続けた。著者は、鬱々とした日々にやられて、感情が消失した経験があるという。僕はそこまでは行かなかったが、著者の気持ちは少しは分かる。今でこそ社会とそれなりにうまく馴染んだように見せかけている僕だけれども、実際のところは、社会に出たくなくて鬱々としている僕個人の内奥は対して変わっていない。それらが表面上に現れてこないだけで、僕の内側にはちゃんと隠れている。

だから僕は、著者のこの人生を、あまり他人事として捉えることが出来ない。この作品は、「僕が経験するかもしれなかった過去」そのものであるように思えてしまうのだ。そしてそれは、どこに落とし穴が待っているか分からない現代においては、誰もが陥るかもしれない世界でもあるのだ。他人事として読む分には、ただ面白いだけのエッセイである。しかし、これが自分の人生に忍び寄るかもしれない、という感覚が、このエッセイに恐怖を与える。さすがホラー作家、なかなかの手腕である。

本書の帯コメントは、マンガ家の峰なゆか氏が書いているが、なかなか秀逸なコメントなので引用して終わろうと思う。

『作家志望フリーターのヒトってこんなことを考えてるんですか?大丈夫ですか?』

自分の人生が異常であったことに、作家になって一年経った頃に知ったという著者が、フルスイングでドブに捨てた青春と人生を全力で描ききるエッセイです。しかしホントに、よく死なずに生きていたものだ。

飴村行「粘膜黙示録」


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2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
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5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
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8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
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新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
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4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
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9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
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小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
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2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
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1位 千早茜「からまる
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5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
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13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
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1位 「「科学的思考」のレッスン
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番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)