「セッション」を観ました
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「自分を削って完璧な部品を目指す」か、「自分の形のままいられる場所を探す」か。
何かを目指す時、その問いから逃れられる人は多くはないだろう。
生まれつき、圧倒的な才能を有している人間だけは、この問いから逃れられる。自分の形のままいるだけで、自分を完璧な部品として扱うような環境が周囲に整えられる。それは、誰もが憧れる理想だろう。
しかし、世の中そう簡単ではない。
「自分を削って完璧な部品を目指す」生き方は、誰かの理想に賭ける生き方だ。自分以外の誰か、素晴らしい才能を持っている人間のチームとなり、その人物の理想とする形に自らを磨き上げていく。自らを表現するために打ち込むのではない(もちろん、その人物の理想と自分の理想が完璧に一致するなら素晴らしいが)。その自分の理想を表現するために打ち込む。
それは、ある意味では自分を殺すことではあるが、ある意味では生かす。普通にしていれば辿り着けない世界に、その人物が連れて行ってくれるかもしれない。それは、チャンスが広がるということ。多くの人目につくということ。その中で、自分の理想を完璧に生かしてくれる誰かと出会えるかもしれない。そのために、自分を殺す。
「自分の形のままいられる場所を探す」生き方は、成功すれば最高だが、努力では超えられない壁がある。そういう場所を見つけられるかどうかは、ほとんど運次第だ。また、完璧に、ほんの僅かの違いもなく自分の理想と一致する場所など、世界中どこを探してもないだろう。しかしそれでも、自分を殺すことなく、自分を表現するために打ち込むことが出来る。
大昔であれば、ほとんどの者が前者の生き方を選択せざるを得なかったはずだ。何故なら、自分の理想のままでいられる場所を探すための手段が、彼らにはほとんどなかったはずだからだ。それは、本当に運次第。そういう運を掴みとり、成功していった者ももちろんいるだろう。しかしそれは、ほとんど起こりえない幸運だったはずだ。
しかし、現代は少し事情が違う。
世界中、どこにいても、自らの才能を発信することが出来るようになった。誰でも、世界中の才能に触れられる環境を手に入れることが出来るようになった。これまでだったら埋もれていただろう様々な才能を、ネット上で見つけることが出来る可能性が、大昔とは比べ物にならないほど広がった。もちろん、ネット上で見つけてもらえることも、相当な幸運がなければ難しいだろう。それでも、大昔とは可能性のレベルは比較できないほどの差だろう。才能が埋もれずに済む世の中になったのだ。
そんな世の中にあって、それでも前者のような環境が存在する意義は、一体どこにあるだろうか?
『英語でもっとも危険な言葉は、この二語だ。「上出来(Good job)」』
この映画の中で、若き生徒たちを指導する指揮者は、そう口にする。そこに、彼の信念が宿っている。
『皆を期待以上のところまで引き上げたかったんだ』
『私は、どんな教師でも出来ないほど必死の努力をした。それを謝るつもりはない』
彼は、限界まで追いつめられる経験が、人を成長させると信じている。もう無理だ、というところを超えたところにしか、本物は存在し得ないのだと。
彼は、チャーリー・パーカーを例に出す。チャーリーは、ある演奏でミスをし、シンバルを投げつけられた。その夜、彼はベッドの上で泣いた。そして翌日、どうしたか。練習した。そうやって彼は“バード(チャーリーのニックネーム)”になった。シンバルを投げつけられなければ、そこで奮起して練習しなければ、“バード”は生まれなかった。「Good job」と言われていたら、“バード”は生まれなかった。
『「でも、次のチャーリーを挫折させたのでは?」
「どんなことがあっても、次のチャーリーは挫折しない」』
問題は、誰が次のチャーリーか、誰にも分からないということだ。
目の前にいる相手が、間違いなく次のチャーリーであるなら、追い詰める環境はもってこいだ。それによって、指導者は“バード”を生み出し、生徒は“バード”になれる。
しかし、相手が次のチャーリーである保証は、どこにもない。
前者のような環境は、「そのほとんどの才能を潰したとしても、たった一人の次のチャーリーを見つけることが出来れば良い」という考え方を下敷きにしなければ、成立しえない。そして、この前提を持った指導者にとって、前者のような環境は当然過ぎるほどに当然の環境なのだ。“バード”を育てたいと思っている指導者なら、なおさら。『それを謝る気はない』と断言する理由は、そこにある。彼にとって、次のチャーリー以外の存在など、どうでもいいのだ。
生徒には、残酷な場だ。次のチャーリーではない人間にとって、そこは地獄と同義でしかない。次のチャーリーを見つけることしか考えていない指導者の下につくとはそういうことだ。しかし彼らには当然、「自分こそが次のチャーリーだ」という思いもある。そういう思いがなければ、到底続けられない環境だ。
前者のような環境は、指導者の思惑と、生徒の希望で成り立っている。その現実をリアルに描き切ったのがこの映画だ。
アンドリュー・ニーマンは、アメリカ最高峰の音楽院・シェイファー音楽院に通う19歳の青年。日々ドラムの練習を続けている。
シェイファー音楽院には、フレッチャー教授という指導者がいる。彼が率いる「スタジオ・バンド」は、学内最高のバンドとされており、フレッチャーは常時学内を歩きまわっては、有望なメンバーを探している。
そしてある時、ニーマンはフレッチャーの目に留まる。バンドメンバーの中で最年少だ。
「スタジオ・バンド」の練習は、過酷を極める。ほんの僅かでもフレッチャーの“理想”から外れるとやり直しさせられる。直るまで、永遠と。スティックを握る両手から血が滴り落ちてもなお。
すべてはフレッチャーの理想のための部品であり、フレッチャーの理想を構成できないメンバーは、即座に辞めさせられる。
ニーマンは、フレッチャーの“指導”に必死でついていく。しかし、いくらやってもフレッチャーにどやされる。ボロクソに言われる。殴られる。貶められる。
それでも皆、ついていく。フレッチャーが、自分にとってのチャンスだと信じて。ここで食らいつくことが、成功への道筋なのだと。ニーマンも、血だらけになった手を氷水に浸けながら、延々と練習を続ける。
フレッチャーの“理想”を体現するために。
フレッチャーの、次のチャーリーを見つけたい、“バード”を育てたい、という気持ちは理解する。しかし僕は、フレッチャーのやり方は許容出来ない。
確かに、一人では、限界のその先まで行くことは難しい。怒りや後悔、絶望、そうした強い感情がなければ、自らを限界の奥の奥まで追い込むことは難しい。それは分かる。しかしそれでも僕は、フレッチャーのやり方を許容したくない。
しかし、そんな単純な結論が正義であるなら、この作品はそこまで多くの人の心を打たないだろう。
他の人がこの映画を、そしてフレッチャーをどう見るのかちゃんとは分からないが、フレッチャーのやり方を否定する人間も多くいるはずだ。しかし、フレッチャーのやり方を否定する人間の心の中にも、ほんの僅かかもしれないが、フレッチャーの存在を認めざるを得ない気持ちが隠れているのだと思う。フレッチャーになりたくはないし、フレッチャーに教わりたくもない。フレッチャーを許容したくもない。しかし、フレッチャーがいるから“バード”が生まれるのではないか。ほんの僅か、そういう気持ちを捨てきれないのだと思う。
だから映画を見ながらモヤモヤする。フレッチャーのやり方は否定したい。間違っていると糾弾したい。自分だったらそうはしないと断言したい。しかしそれでも、どこかにそうしきれない自分がいる。
それに僕たちも、フレッチャーが与えるような環境を、意識せずに作り上げている。
例えば、マンガの世界。ごく僅かな人間が雑誌連載を勝ち取り、そしてそのごく僅かな成功者も、大衆のアンケートによって消える。残るのは、死屍累々の世界を乗り越えた本当にごくごく僅かな人間だけだ。
僕らが面白いマンガを読むことが出来るその背景には、山程の“死者”が存在する。雑誌連載を目指して成し遂げられなかった“死者”、そして雑誌連載を勝ち取っても続けられなかった“死者”。僕らの目からはほとんど見ることが出来ないそういう“死者”によって、極上のマンガを享受出来る環境は生み出されている。
そして、その環境を生み出しているのは、まさに僕たち読者だ。僕らは“死者”の存在など気にすることなく、簡単にマンガの面白さを評価し、作り手はその評価をチェックする。僕らがそこまで気負ってやっていない“マンガの面白さを評価する”という行為が、死屍累々を生み出す環境を作り出しているのだ。
僕らは普段そのことに無自覚だ。しかし、この映画は、僕らがフレッチャー側でもあるのだということを思い起こさせる。無意識の内に、僕らはフレッチャーと同じことをしている。無自覚であるが故に、この映画がそのことを想起させることに、どことない落ち着きのなさを感じる。フレッチャーを否定しきれないのは、自分を否定しきれないのと同じことでもあるのだ。
もし、マンガの世界に雑誌が存在せず、生み出されたすべてのマンガは同列でインターネット上にアップされるとしたら、僕らは「スラムダンク」や「ドラゴンボール」を読むことが出来ただろうか?もちろん、面白いマンガはたくさん生み出されただろう。しかし、時代を揺るがすような圧倒的なマンガは、果たして登場しただろうか?
それは誰にも分からない。分からないが、しかし、観るものは心のどこかで、フレッチャー的環境がなければ真に素晴らしいものは生み出されないかもしれないという気持ちを否定しきれない。フレッチャーの存在を、否定しきれない。
才能は、初めから存在するのか、あるいは作り上げられるのか。どちらもあるだろう。難しいのは、誰が原石を持っているのか分からないということだ。誰が次のチャーリーか分からないということだ。原石を見つければ、ただ磨くだけで良い。しかし、どれが原石か分からないから、可能性のある岩をことごとく削りだしていくしかない。答えの出ない問いを繰り返し問い続けるしかない。フレッチャーは、本当に“悪”なのかと。
物語のラストが、実に印象的だった。詳しく書くことは控えるが、ニーマンが壁を乗り越えた瞬間からの活き活きとした描写が実に見事だし、ニーマンとフレッチャーの、言葉では絶対に届かない高みでのやり取りが魅力的だ。ラスト、あの場面で、フレッチャーは何を思っただろう。「自分がやってきたことは正しかった」と思っただろうか?あの表情は、ニーマンの中に何を見たから生まれたのだろうか?余韻を残す、非常に印象的なラストだったと思う。
次のフレッチャーは、“バード”にならなければ世界を豊かに出来ないか?“バード”まで達しなければ、価値を生み出せないか?次のチャーリーのままでは、存在価値はないのか?考えることが尽きない物語だ。
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