幸せ戦争(青木祐子)
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人生は、さっさと諦めた方が幸せだと、僕は本気で思っている。
僕にとって、世間の人が考える“恵まれた生活”は、高層ビルの間に渡されたロープの上を綱渡りしているような感じがしてしまう。みんなが自分のことを見上げてくれて、自分は下にいる人間を見下ろすことが出来る、というのは、まあ場合によっては気持ちいいのかもしれないけど、でもその生活は、「いつか落ちるかも」という恐怖と隣合わせだ。
怖くないのだろうか、といつも思ってしまう。
金持ちになれば、大金を騙し取られたり、無知ゆえにお金を失ったり、お金目当てで集まってくる人間の相手をしなくてはいけなくなるかもしれない。良い会社に入れば、永遠に成果を求められ、一度でも脱落すれば地に落ち、別に嫌いでもない同僚を蹴落としていかなくてはいけなくなるかもしれない。家を買えば、地震や火事などにそれまで以上に怯えなくてはならなくなるし、隣近所との関係に悩むことになるかもしれない。
僕は基本的にマイナス思考の人間なので、必ずこういうことを考えてしまう。それがどれだけ羨ましがられる立場であっても、いや、それが羨ましがられる立場であればあるほど、それを失った時のダメージは大きい。しかも、それが羨ましがられるほど普通には手に入らない幸せであればあるほど、それを狙う者が多く、それゆえに蹴落とされてその幸せを奪われてしまう可能性は高くなるだろう。
僕は割と本気でこんなことを考えている。だから昔から金持ちになりたいと思ったことはないし、会社で出世するような人生は自分には無理だろうなと思っていた。
今でもその考えは変わらない。
僕が何に対して幸せを感じるのか、それはイマイチまだはっきりと捉えきれていないのだけど、少し前に、なるほどと思えるフレーズに出会ったことを思い出す。中島らもの奥さんが書いたエッセイの中に、「中島らもは、頭の中が自由であればあとはなんでも良かったのだと思う」みたいなことが書かれていた。
確かに、「頭の中が自由である」というのは、僕にとっての幸せに近いものがあるように感じられた。
中島らもの奥さんと同じ意味でその言葉を捉えられているのか、それは定かではないけど、僕は、世の中の常識とか価値観とか当たり前みたいなものから切り離されたところで色んな物事を考えられたらいいなと思うし、さらにいえば、それに基づいて行動できるとよりいいなと思う。
地位・お金・モノなんかに本当にあんまり執着がないので、自分でもイマイチ何を幸せだと感じるのかよく分からないけど、「頭の中が自由」というのは確かに一つの理想だなと思う。
僕は、そういう僕で良かったな、と思うのだ。
結婚したいとか、子どもが欲しいとか、家や車が欲しいとか、出世したいとか、有名になりたいとか、そういう気持ちがほとんどない。僕も、まったくないとは言わない。瞬間的に、何かそういうものに対する欲が立ち現れることも、あるとは思う。でもそれは、あまり継続しない。思いついた瞬間から、「いやでも、それ、手に入っちゃったらめんどくせぇ」と思ってしまうのだ。
こういう考え方で生きていると、他人とあまり比べないでいられるので、楽である。僕は、住んでる家とか、給料とか、容姿とか、服とか、そういうもろもろは、基本的に羨ましがられるような感じではない。前に住んでた部屋なんて、「私はここには絶対住めない」と、100人いたら99人はそう言うだろうところだった。それでも僕は全然平気で、劣等感を抱くようなことはほとんどない。
僕が劣等感を抱くのは、頭の良さかな。僕自身も、決して頭は悪くはないんだけど、そこそこ頭が良いせいで、周りにいる“とんでもなく頭の良い人”の頭の良さが分かってしまう。そういう時には、あれぐらい頭良かったらいいなぁ、と感じる。そういう意味では、天才になりたい、という欲はあるな。天才だけは、「天才になったらめんどくさい」と、これまでと同様に感じはするのだけど、それを補ってあまりあるプラスの可能性を感じるのである。
幸せを測る尺度は、自分で作るしかない。他人の尺度で自分の幸せを測っていたら、いつまでたっても幸せになんてなれるはずがない。でも、残念ながら、そのことに気づいていない人が世の中には多くいるように思える。
本書も、そんな「他人の尺度で自分の幸せを測ってしまう人々」の物語である。
連作短編集なのだけど、長編のように内容紹介をする方がやりやすいので、一編一編の短編ごとに内容を紹介するやり方はしない。
ある資産家の娘が、所有していた土地を手放した。地主として自らもそこに住むのだが、土地を四区分して、残り三つを分譲することにした。四軒の建物は、前庭を共有する、ちょっと変わった造りになった。
地主であるのは、覆面作家であると言われている陽平を夫に持つ、資産家の娘である仁木多佳美。そして、陽平の古くからの友人である能生美和も家族で同じ敷地内に住んでいる。高井戸想子はインテリの共働き夫婦。そして、最後に引っ越してきたのが、中古物件を買った氷見朝子の一家である。
氷見家だけ中古物件を買ってやってきたのは、以前に住んでいた堤一家が引っ越したからだった。新築で家を建ててすぐ、まだローンが残っている家を売って堤一家は引っ越して行ったらしい。
昔から夫の“ファン”であり、夫の生活を支えてあげたいと思っている、ちょっと浮世離れした多佳美。親の保険金のお陰で家を買うことが出来た、生活は基本的に庶民的な美和。近所付き合いは最低限にして、美味しい料理を作り、それを美味しいと言って食べてくれる家族という平凡な幸せに満足している想子。そして、自分を可哀想だと思うことが得意で、近所付き合いをうまくやって仲良くなりたいと思っている朝子。同じ敷地内に住み始めたことで起こる日常の様々な出来事。誰もが、「幸せになろう」と思って家を買いながら、彼女たちの理想は、何故かどんどん遠ざかっていってしまう…
というような話です。
なかなか面白い作品でした。基本的にライトノベルを書いている作家だという印象で、今まで読んだことのない作家でしたけど、現代の日常を舞台にした作品を非常によく描き出していると思います。
物語の中では、ほとんど大したことは起こりません。バーベキューをしたり、クリスマスの飾り付けをしたり、お隣さんと会話をしたり。基本的には、そういうなんていうことのないことが描かれていきます。
でも、登場人物が、ちょっとずつみんな個性的で、“幸せ”というものに対する価値観が様々に違う。ある者にとって“幸せ”というのは、自分より恵まれた人間が近くに存在すると手に入らないものだし、ある者にとっては平凡で当たり障りのない日常の継続であるし、ある者にとっては秩序を乱す者を排除する爽快感であるし、ある者にとっては絶え間のない献身である。
この“幸せ”に対する価値観の相違が、僅かずつこの関係性にヒビを入れ、最後には引き裂いてしまうことになる。本書は、その過程を実に丁寧に描き出していく。
彼女たちはほとんど皆、「家を買えば幸せになれるはず」という思い込みを持っていた。これは彼女たちの共通項だ。それぞれ、ただ無邪気に、「家=幸せ」だと思っていたわけではない。家を持っていなかった時に存在していたある問題が、家を買うことで解決されるはずだと、具体的に考えていたのである。そういう意味では彼女たちは、他人の尺度で幸せを捉えていたわけではないと言える。全員ではないが、家を買う前は、自分の尺度で幸せを捉えることが出来ていた者もいた。
しかし、引っ越して近しい距離の中で過ごすことで、徐々に変化が訪れる。他人の存在を、自分の幸せの尺度に組み込むようになっていくのだ。元々そういう性格だった者もいるし、そう変わってしまった者もいる。
その変化を引き起こすものは、大したものではない。それこそ、バーベキューやクリスマスのライトアップなどだ。そういう日常の小さなことの積み重ねの中で、人々が変化していく。
ただ見栄を張って自滅していく、というだけなら、ざまぁみろ、というぐらいの感情しか抱かないかもしれない。しかしこの四人は、そういうわけでもない。特にそれを感じるのは、インテリ夫婦である高井戸想子である。想子は、『家事や育児を率先して手伝うことはないかわり、想子の方針に文句は言わない。体が丈夫でよく働き、なんでもおいしそうに食べる。夫という生き物に、これ以上求めるものがあるだろうか』というような形で夫のことを評価している。想子は料理が得意であり、周囲にも手料理を振る舞うことがある。そんな料理を美味しそうに食べてくれる夫がいる、という事実で幸せを感じられるのである。他人からどう思われていようが気にならず、ただ、きちんとした家と、まっとうな家族がいて、平凡だけど穏やかな生活を送ることが出来るというのが幸せという人間だ。
しかし想子は、バーベキューなどで他の家族と関わることで、夫が実は味音痴で、何を食べても美味しいと感じる人間なのではないか、ということに気付かされることになるのだ。これは、“幸せ”というものに多くを求めない想子にとっては、なかなか大きな問題だ。これは、ご近所付き合いをきちんと避けることが出来ていれば、気付かずに済んだことである。想子は、忌み嫌っていたご近所付き合いのせいで、幸せにヒビが入ってしまう。
仁木多佳美は、見栄を張って自滅する、という形に一番近いかもしれないのだけど、仁木家の場合は、夫の陽平の存在がなかなかに複雑なのである。陽平と多佳美は、お互いの都合のために相手の存在を必要としている。多佳美にとって整って若く見える陽平は、「幸せな結婚生活であることを示すアイコン」であり、陽平にとって資産家の娘である多佳美は、「自身の生活を保証してくれる存在」である。この二人の関係性と、二人が持つ秘密は、この四家族になかなか大きな影響を与える、混沌の原因の一つなのである。
陽平にしても多佳美にしても、ちょっとした嘘で目先の幸せを手に入れようとしてしまったがために、本当の幸せを取りこぼす羽目になっている。
能生美和は、他人の言動に敏感で、裏の意図や相手の目的なんかをすぐに見破ってしまう。だから、先回りしてあれこれ仕掛けたり妨害したりすることで、ご近所付き合いの関係性を自在に操っている。それ自体歪んだ考え方でなかなか不愉快な存在だなと思うのだけど、途中で美和が思う、『もしかしたら、何も見えないほうが幸せではないのかと』という考え方には、ちょっと共感してしまう。
もっと鈍感だったら、もっと察する能力が低ければ、こんなに悩んだりウダウダしたりすることもないのではないか。そう思ったことは何度もある。美和のやり方には賛同は出来ないのだけど、僕と同じく空虚で空っぽな人間であるが故の行動なのであれば、少し同情してしまう部分もある。
しかし何よりも、本書の中で僕に最も強いインパクトを残したのは、氷見朝子である。
朝子は、超ウザイ。もし自分の親が朝子みたいだったら、きっと僕は発狂するだろう。
自分は可愛がられるのが当然で、何か大変なことが起きたら大丈夫でも大変だと言う。仲間はずれや抜け駆けが怖くて人の輪からこぼれ落ちないように必死になってる姿が丸見えで、自分の考え方や価値観がズレているなどとは夢にも思わない。朝子の鬱陶しさを短く描写するのはなかなか難しいのだけど、とにかく僕は朝子のような人間とは出来るだけ関わりたくないと思ってしまう。
彼女たちはみな、自分なりの価値観に沿って、幸せになろうと努力している。しかし、何を幸せだと感じるかという考え方がまるで違う四人が集まってしまったがために、些細なことですれ違い、それぞれの思惑に反して物事がうまく進んでいかない。そして何よりも窮屈なことは、「自分の理想が叶えられなければ不幸だ」と短絡的に考えてしまう、その思考の狭さだ。理想に届かなければ不幸、という考え方は、幸せのハードルを相当上げることだろう。
幸せを他人の基準で測っていると、永遠に幸せは手に入らない。何故なら、いつどこにだって、自分より良い生活をしている人は存在するからだ。世の中のほとんどの人は誰かに負けているのだし、僕らから見て「勝っている人」だってきっと、誰かに負けていると感じているものだろう。
だから、幸せは自分で決める。自分の尺度で掴む。そうしなければこうなってしまうぞ、という警告を与えてくれる作品だと思います。
青木祐子「幸せ戦争」
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