圏外編集者(都築響一)
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2015年の7月に、タイに行った。それまで友人とエジプトに行ったことはあったけど、一人で海外に行ったのは初めてだった。飛行機だけ取って、宿は現地でという、まあバックパックのような旅行だった。2週間。それは、長いような短いような2週間だった。
初日にタイの空港に着き、どのバスに乗ればいいのか右往左往しながら、最初の目的地だったカオサン通りにたどり着いた。初日は宿を確保して、その辺をうろうろするのが精一杯。
で翌日、僕は、タイで恐らく最大の観光地であろう、王宮に向かった。
そこで僕はげんなりしてしまった。
タイの王宮が悪いわけではない。王宮を見て僕の気持ちが盛り上がらないとすれば、それは、タイの歴史に対して無知である自分とか、信仰心のない自分とか、そういうもののせいである。だから、王宮自体に罪はない。
罪があるのは、そこにいた観光客たちだ。
誰もが皆、ひたすらに写真を撮っていた。セルカ棒で自撮りをする人、何人かで集合写真を撮る人。必ず写真には、人間が入っていた。王宮の外観に惹かれて思わず撮ってしまった、みたいな人はたぶん誰もいなかったと思う。誰もが、「今私はここにいるよ」とアピールするためだけに写真を撮り続けていた。
げんなりした。
僕はタイに行くに当たって、ケータイを持って行かなかった。タイに行った当時持ってたのがガラケーだったということもあるのだけど、旅先にケータイなんか持ってくのは面白くないと思ったのもある。不測の事態が発生した時の対応だけ悩んだけど、何人かの連絡先だけはメモして持っていくことで解決した。
王宮で心底うんざりした僕は、それ以来2週間、観光地を回ることを止めた。元々目的地などない旅だったけど、持って行った「地球の歩き方」は、現在地の把握と宿との位置関係の把握、そしてバスなどの交通手段の情報をチェックするためだけに使い、場所の案内は一切見なかった。
2週間僕は何をしていたのか。とにかく僕は、現地のタイ人が住んでいる日常の光景をひたすらに見て回った。タイ人が足を運ぶだろうショッピングセンターに行き、日本人はおろか外国人の姿さえほとんど見かけない町中をうろうろ歩き、たまたま見つけた地元のバザーみたいな場所に飛び込んだり、異臭を放つ貧困層が住んでいるだろう区域に足を踏み入れてその最奥でビーサンを買ったりした。ただ歩いているだけというつまらない時間も多々あったけど、思いがけないものにもたくさん出会えた。
僕が一番テンションが上がったのは、鉄道だ。
タイには3種類の鉄道がある。地下鉄とゆりかもめみたいな電車は、比較的新しい。そして古くからある国鉄が地面の上を走っている。
ある駅では、おっさんがエロDVDを売っていた。海賊版だろう。9割が日本のAVで、パッケージをコピーしただけみたいな粗悪なものだったけど、まさかこんなところで日本のAVに出くわすとは思わなかったからテンションが上がった。記念に一枚ぐらい買って帰ろうかと思ったけど、税関で捕まったら果てしなく恥ずかしいだろうと思って止めた。
また、地図上で「駅」と表記されていた場所には、駅舎らしきものはまったくなかった。おそらく適当なところで止まって、適当なところで降りるのだろう。
またある場所では、線路沿いにバラック小屋みたいなものがズラーっと並んで建てられていた。線路とバラック小屋の間にはフェンスなど当然ない。何故か鶏も放し飼いにされていた。僕は普通に線路の上を歩いて、なんだか爽快な気分になった。なかなか日本では、こんなことは出来ない。
王宮に行った時点で、観光地に行くことを諦めたこと、そしてそれから2週間、退屈さと闘いながらも時折現れる観光地では味わえないだろう体験や光景にテンションが上がった。予定調和は、一定の楽しさや安全を保証してくれる。人々は、そこにお金を出すのだろう。失敗したくない、という感覚がそうさせるのだ。しかし、それは想定内の楽しさでしかない。それを完全に否定するつもりはないのだけど、でもやっぱり、想定外のものに出会いたい。僕はそう思ってしまう。そういう感覚が、まだ僕の中にきちんとあるのだなということを、タイでの旅行で再確認できたので、そのことはとても良かったと思う。
良いものに出会いたい、という気持ちは当然だ。しかし、良いかどうか分からないからこそ、良いものに出会えた時の感動は大きいのだ。本書で著者は、「ぐるなび」を見て行く店を決める編集者は絶対に信用しない、と言っている。確かにそうだ。誰かの評価が先行する体験だけで日常が構成されてしまうのは、僕は怖いと感じる。
僕はこのブログでずっと本の感想を書いているけど、未だに、本を星5段階とかで評価しようと思ったことはない。何故なら、僕がしている行為は、「本を評価する」というようなものではないからだ。自分で読んで、感じたことを、ただ文章というフォーマットに落とし込んでいるだけ。僕自身は、読む本を選ぶ時に、誰かの評価を見たりもしない。そういう自分でこれからもずっとありたいものだと思う。
内容に入ろうと思います。
本書は、「POPEYE」や「BRUTUS」のアルバイトから入り、今に至るまでフリーの編集者として走り続け、誰からも給料をもらわず、ただ原稿料のみで40年間編集者を続けた著者が初めて語る、自身の編集の歴史や手法の話である。
冒頭で著者はこう言う。
『この本に具体的な「編集術」とかを期待されたら、それはハズレである。世の中にはよく「エディター講座」みたいなのがあって、そこでカネを稼いでいるひとや、カネを浪費しているひとがいるけれど、あんなのはぜんぶ無駄だ。編集に「術」なんてない』
『だからこの本「売れる企画を作る」のにも「取材をうまくすすめるコツ」にも、まして「有名出版社に入る」のにも、ぜったい役立たない。がんばればがんばるほど業界から遠ざかってしまった僕のように(2015年のいま、持っている連載は2つしかなくて、ひとつは月間、もうひとつは季刊誌という有り様だ)、むしろ自分が人生を賭けてもいいと思える本を作ることが、そのまま出版業界から弾き出されていくことにほかならない2015年の日本の現実を、「マスコミ志望の就活」とかに大切な人生の一時期を浪費している学生たちに知ってほしいだけだ。給料をもらって上司の悪口を言いながら経費で飲んでる現役編集者たちに、出口を見せてあげたいだけだ』
著者はこれまでにも、編集の極意を尋ねるような企画が何度もあったが、すべて断ってきたのだという。今回引き受けたのは、担当編集者が驚異的に粘りに粘ったこともあるようだが、それだけではなく、『いまの雑誌の、つまり編集者の質の低下を見ているのが苦しくてたまらないからだ』と書いている。
著者は、編集というものをこんな風に捉えている。
『そもそも「編集者」とはどんなことをするのか。ざっくり言うと、編集者の仕事は企画を考えて、取材したり作家に執筆してもらったりして、本や雑誌を組み立てること。なかでもいちばん重要な役割は、著者が創作以外のことを考えなくていいようにすることだと僕は思う』
編集者という存在を、非常にすっきりと言い表しているように感じる一節だ。『著者が創作以外のことを考えなくていいようにすること』というのは、なるほど分かりやすい。著者の場合は、単なる編集ではなく、自ら創作もする(自分で撮った写真を自分で編集して写真集を作ったりするのだから、創作だろう)。ただの編集者というわけではないからその辺りの捉え方はちょっと難しい。
著者がどんな編集者であるのかは、著者がこれまでにどんな作品を世に送り出して来たのかを知るのが一番早いのだが、どの仕事も、なんだか説明しにくい。普段詩だと誰もが思わないものを現代詩と捉えて収集したり、ごく一般の人の部屋の写真をひたすら撮り続けた写真集だったり、ラブドールやバイブなどの写真集だったり、元気で凄いことをやっている老人に話を聞きに行ったりと、とにかく色んなことをやっている。
著者は、編集者の仕事を、役割としてではなく、職業として捉え、こんな風にも語っている。
『編集者でいることの数少ない幸せは、出身校も経歴も肩書も年齢も収入もまったく関係ない、好奇心と体力と人間性だけが結果に結びつく、めったにない仕事ということにあるのだから』
まさにこの著者の仕事の仕方は、『好奇心と体力と人間性』で突き進んでいくタイプのものだ。自分が面白いと思ったものを突き詰めていく。そこには、明確な意味での読者は想定されていない。
『読者層を想定するな、マーケットリサーチは絶対にするな』
「BRUTUS」時代に、編集長から一番叩きこまれたのがこれだったようだ。「POPEYE」や「BRUTUS」には、著者が在籍していた頃は編集会議というものが存在しなかったようだ。各自がやりたい企画を考えて、編集長に話をしにいく。すると、何月号に何ページ空けておくから原稿を書いてこい、となるらしい。そんな風に雑誌が作られていたようだ。今では著者も、編集会議が存在しなかったあの頃の「POPEYE」や「BRUTUS」が普通じゃなかったと分かっているが、しかし、編集会議こそが雑誌を殺しているのだとも主張する。
『それに、すんなり計画が立てられるということは、だれかが先に調べた情報があるということ。その時点で、その企画は新しくないわけ。検索でたくさんヒットするというのは、僕にとってはすでに「負け」だから』
著者は編集者として、「TOKYO STYLE」が一つの転機になったと語っている。「TOKYO STYLE」というのは、ごく一般人の部屋を撮影しまくった写真集である。それまで、何らかの雑誌媒体から取材費を出してもらい、カメラマンもついてもらって取材をしていた著者だったが、「TOKYO STYLE」は、雑誌に載せるわけではなくただ著者の興味からスタートした企画であり、だから仕方なく写真も自分で撮って作り上げた。そんな経験から著者は、情熱さえあればすべては後からついてくると確信するようになる。
『道具も技術も予算もなくても、周囲の賛成がなくても、そんなのは問題じゃない。好奇心とアイデアと、追いかけていくエネルギーだけが溢れるほどあれば、それ以外のものhがあとからついてくる。そういう確信が生まれた本だから』
冒頭で著者は、雑誌が売れない理由を「携帯代が高い」だの「営業の意見が優先される」だの様々に理由をつけて文句を言う様に呆れ、そういう状況を招いたのは結局編集者のせいなのだと指摘する。
『時代がこうだから、不況がこうだから、上司がこうだからと言うのは簡単だけれど、いまよりはるかに厳しい時代に、宮武外骨は不敬罪で22歳にして禁錮3年の実刑判決、筆禍による入獄4回、罰金刑15回、発行停止・発売禁止14回を重ねながら、ベストセラー雑誌を作っていたのだし(後略)』
著者は、出版業界の中でほとんど居場所を失ったような状態になりながらも、それでも本作りを止めない。雑誌の連載は前述の通り二誌だけであるが、現在は週刊のメールマガジンで、雑誌並の分量の情報を詰め込んだものを送っているらしい。著者にとっては、伝えたいもの、伝えるべきものを伝える手段があるなら、それがどんなものでも構わないのだ。あとは、好奇心と情熱を傾けるだけだ。
著者の本作りのモチベーションは、ただ好奇心からだけではない。
『苛立ちと危機感、このふたつが僕の本作りのモチベーションなのは、最初から現在までずっと変わらない』
例えば著者は、日本語ヒップホップの今を一冊の本にまとめあげた。音楽シーンからはほぼ黙殺され、誰も取り上げない。しかし取材してみると、そこには豊穣な言葉の広がりがある。
そういうものを目の当たりにして著者は、「自分が作るしかない」と感じるのだ。
『仕事の量と時間からしたら、原稿料や印税をもらうよりも、だれかが作った本を買って読んでるほうがずっといい。そういう本がもしあれば。でも、ない。
だからつくづく思う、僕はいつも部外者だった。インテリアデザインだって、アートだって、音楽だって文学だって。それでも取材ができて、本が作れたというのはどういうことかというと、ようするに「専門家の怠慢」。これに尽きる。専門家が動いてくれたらこっちは読者でいられるのに。彼らが動かないから、こちらが動く。』
著者の手がけた作品群は、どれも独創的だ。奇抜と言ってもいい。だから多くの人に、「どこからそんなアイデアが浮かぶのですか?」というような質問をされるらしい。しかし著者は、そもそも少し違う感覚を抱いている。
『ここで声を大にして言いたいのは、「TOKYO STYLE」のときからスナックの取材にいたるまでずっと、僕が取材してきたのは「スキマ」じゃなくて「大多数」だから』
この言葉にはハッとさせられた。同じようなことを別の場所でこんな風に書いている。
『インテリア雑誌に紹介されるような部屋の住人って、ほんとは少数派だ。毎朝毎晩、福や靴選びに凝りまくるファッショニスタ(笑)だって、毎晩の夕飯に選び抜いたワインがないとダメ、みたいな食通だって少数派だ。多数派の僕らは、どうしてそういう少数派を目指さなくちゃならないのだろう。どうして、ほかのひとより秀でてなくちゃいけないのだろう。
日本を見渡してみれば、国土の90%は「地方」だ。国民の90%は金持ちでもないし、ずば抜けて容姿に優れてもいない。でもメディアは、残りの10%にしか目を向けようとしない。それがなぜなのかを、僕はそのころからずいぶん考えるようになった』
これは僕も、感覚的には捉えていたが、言語化したことのない感覚として自分の内側にはあった。確かにその通りだ。著者の作品群を「独創的だ」と感じる多くの人は、残り10%にしか目を向けておらず、そしてそのことに気づいていない人だ。僕も、大昔はそうだったかもしれない。たぶん、今はその状態は脱していると思う。
多くのメディアは、残り10%の情報をかき集めることで、情報に価値を乗せてきたのだと思う。90%の人が知らない10%の世界の情報だからこそ価値があると信じていたはずだ。しかし著者は、90%の人たちは、同じ90%の世界のことだって知りたいはずだ、むしろそっちの方がより知りたいだろう、と普通に考えたのだ。
「TOKYO STYLE」を読んだ読者から多くの感想をもらったそうだが、多くの地方在住の人が、「東京でも自分の部屋と大して変わらなくてホッとした」という感想を寄越したという。当時まだまだ、都会と地方の情報格差は大きかった。雑誌では、残り10%の人たちの情報ばかりが溢れている。地方に住み、雑誌でしか都会の情報を得ることが出来なかった人たちは、そんな残り10%の人達の生活が都会の通常なのだと思い、その落差を思い知らされた気分でいたのだ。しかし「TOKYO STYLE」は、東京の90%を活写した写真集だった。それは地方在住者に、新しい都会像を与えた。そしてそれこそが、実像に近い都会なのだ。
そういう意味で著者の取材対象者は「大多数」なのだ。だから、ネタの拾い方もクソもない。その辺に転がっているのだ。何故他の編集者がそれを見つけられないかと言えば、残り10%ばかり探しているからである。90%には価値がないと思い込まされているからである。
『この時代を決定づけるのはなにかというと、それは僕らがすでに「トレンドのない時代」に突入しているのではないかということ。たぶん、現代史上で初めて。』
インターネットが広がり、個人で様々な形の印刷物を発行出来たり、世界に向けて音楽を発信できるようになった世の中を、著者はそんな風に捉える。「トレンドのない時代」というのは、90%を啓蒙するような10%が存在しない、という意味でもあるし、そもそも「残り90%」という形で括れるような90%も存在しない、という意味でもあるだろう。趣味趣向が拡散しすぎて、残り90%のような雑なやり方では捉えきれないほど人間の活動範囲は広がっている。そういう中ではますます、10%を見つけて誌面を作るようなやり方は難しくなっていくだろう。著者の「残り90%」にアプローチするやり方もやりにくくなるかもしれないが、著者のやり方の場合まだ未来はある。どこかの枠組みの中の価値観を、別の枠組みの中に持っていく、というやり方で情報や現象の編集を続けることが出来るはずだ。
『多数決で負けるひとのために、僕は記事を作っているのだから』
「大多数」を取材している著者の発言としては矛盾するかもしれないが、しかしそれは誤解だ。10%は、絶対数としては少ないが、影響力は遥かに強い。影響力という意味で、残り90%は圧倒的に敗者なのだ。その敗者に向けて著者は言葉を紡ぎ、写真を届ける。
『世の中でいちばんアートを必要としているのは、描くことが生きることと同義語であるようなアウトサイダーであるとか、明日死刑になるかもしれない最後の時間に絵筆を持つ死刑囚であるとか、露出投稿雑誌に掲載されるのが人生唯一の楽しみであるようなイラスト職人とか、ドールにだけ自分の気持ちをぶつけられるアマチュア写真家とか、そういう「閉じ込められてしまったひとたち」ではないのか。アートは彼らにとっての、最後の命綱ではないのか。知的な探求としてのアートはもちろんあるし、あってしかるべきだけど、そのずっと前に、人間ひとりの命を救えるアートというのがある。それを僕は知ってもらいたいだけ』
著者が世の中を見る視点を多くの人が獲得することが出来れば、日常は極彩色に輝くかもしれない。何故なら、自分の好奇心を満たすものが、テレビや雑誌の向こうではなく、自分の日常のすぐ傍で見つけることが出来るからだ。そして様々なソフトが揃っている現代であれば、そういう発見や気づきをベースに、誰もが発信者になることが出来る。自らの日常を編集して、何らかの形に落としこむことが出来る。別にそうしたくなければ、一人で黙々と続ければいい。生まれや金の有無や環境なんて吹き飛ばせるくらい、僕らは可能性を秘めた世の中に生きている。著者の活き活きとした筆致は、僕らにそんな実感を強く抱かせてくれる。
都築響一「圏外編集者」
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