謝るなら、いつでもおいで(川名壮志)
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被害者の父は言う。
『あの子がどういう風に生きていくのかということを、僕は被害者側から求めるべきではないとも思っているんです。本人が考えて、本人が生き方を選ぶしかない。僕にとって不満になることもあるかもしれない。でもそれは、そういうものなんだと思う』
被害者の兄は言う。
『結局、僕、あの子に同じ社会で生きていてほしいと思っていますから。僕がいるところできちんと生きろ、と。』
加害者の父は語る。
『手紙を出すのは勇気がいるし、すごく怖いんです。手紙一枚で、人間性がみられますから。でも、私は娘が、「お父さん、御手洗さんに会って謝りたい」というのを信じている。そのときに「ごめんな、お父さんが手紙サボっちゃってさ、会えないの」なんていえません。そんなことになれば最大の「子不幸」ですから』
2004年6月1日。佐世保市にあるとある小学校。運動会の代休を挟んだ休み明けの給食の時間に、その事件は起こった。
11歳の少女が、クラスメートの女の子をカッターナイフで刺し、死亡させたのだ。
教職員はパニックに陥り、放置された子どもたちは何が起こっているのか分からなかった。被害者の少女はクラスでも人気者であり、また加害者の少女も普通にクラスに溶け込んでいた。血まみれのまま立ち尽くす加害少女。混乱する現場。救急や消防にほとんど状況を説明できない教職員。放置され、校舎内をうろうろしていた加害少女。
何もかも異例の事件だった。
少年法の適用は14歳から。14歳に満たないその加害少女は、「触法少年」として、司法制度とは隔絶された法律によって処分が下されることになる。少年法以上に、加害者の存在が守られる。そもそも14歳未満の場合、「加害者」という概念が存在しなくなる。被害者も加害者も共に、「社会の網の目からこぼれ落ちた被害者」として扱われると言う。動機や犯行の様子などの全容解明も覚束なくなる。被害者は置いてけぼりにされる。
さらにこの事件はもう一つ、普通とは違う点があった。
毎日新聞の佐世保支局長である御手洗恭二。彼こそが、被害少女の父親であったのだ。記者自らが、前代未聞の重大事件に巻き込まれる。11歳の少女による殺人事件という事件の質も、被害者が記者の娘であるという状況も、この事件を取材する記者に様々な異例な事態をもたらすことになる。御手洗氏も、被害者の父親である自分と、記者である自分の両立場の板挟みになる。
この事件を、御手洗氏の直属の部下だった、元佐世保支局所属の記者だった著者が長い時間を掛けて追う。著者は、御手洗氏の住居が職場のすぐ上にあることもあって、被害少女とも仲良くしていた。御手洗氏とは、365日顔を付き合わせて原稿のやり取りをする間柄だった。
『事件取材がしたくて始めた記者稼業なのに、僕は自分の周りだけは例外なく京都同じように明日がくると信じて疑わなかったのだ』
そう述懐する著者は、自らのズルさや狭量さも認めた上で、事件と真摯に向き合っていく。嵐のような報道合戦が過ぎ去った後も、著者は長きに渡り、かつて上司だった御手洗氏、御手洗氏の息子で被害少女の兄である少年、そして被害少女の父の三人にアプローチをし、取材を続けた。結果的に記事にはしたが、取材というつもりはなかった。ただ、知らなきゃいけないような気がした。このまま終わらせるわけにはいかないような気がした。そんな突き動かされる何かに押されるようにして著者は、この事件に自分なりのピリオドを打つために、辛い話を聞き続けるという選択をする。
事件ノンフィクションは結構読んでいる方だと思う。僕の勝手な印象では、多くの事件ノンフィクションは、加害者に迫るものが多いように思う。もちろん本書も、加害者に迫ろうとしている。事件直後のマスコミの報道も、当然それを目指しただろう。しかしこの事件は、少年法ですらない、さらに厚いベールによって閉ざされた事件だった。
だから、と文章を続けるのはちょっと違うような気もするのだが、本書は、かなり被害者をも掘り下げていく。まあ、それは当然だ。著者の上司がまさに被害者遺族なのだから。通常の事件であれば、被害者は、押しかけてきたマスコミに何も語らないという選択をすることも出来る。しかしこの事件の場合、被害者の父親は記者だった。自分がされることを、今まで散々自分がやってきた立場だったのだ。だからこそ御手洗氏は、無理をしてでも言葉を紡ぎ、その時々の思いを語る。そういう状況もまた、本書に被害者の記述が多くなっている要因だろうと思う。
僕は、こういう作品を読んでも、泣きはしない。子供を持つ親であれば泣くかもしれないし、他人の痛みに敏感な人も泣くかもしれない。僕は泣かない。しかし、感情が揺さぶられるし、不安定な気持ちになっていくのは分かった。読みながら様々なことを考えさせられた。事件の衝撃、加害少女の振る舞い、被害者遺族のあり方が、様々な問いを発する、そんな作品だった。
僕らが生きる現実には、基本的に“正解”は存在しない。個々人が正解だと信じるものを持っているだけで、全員で共通して手に入れることが出来る“正解”などどこにもない。けれども、それじゃあ社会が成り立っていかない。著者も、こう書いている。
『しかし、子どものしたことを、大人が理解したと思えなければ、僕たちの社会は立ちゆかなくなる』
だからこそ、何らかの形で“正解のようなもの”を提示しなくてはいけなくなる。理解できないものでも、理解できたと思える形に押し込めなければならなくなる。何か鋳型にでもはめ込んで、形を整えなければいけなくなる。その過程で、様々なものが削ぎ落とされていく。それぞれの個人にとって大事な細部。そぎ落としてしまえば、本質そのものが見失われてしまう、そういう大事な部分が削られてしまう。
そうやって削ぎ落とされてしまうものの存在に、著者は気づく。それは、被害者も被害者の父親も個人的に面識があるからこそ分かるものだ。報道で伝えられる事件の概要や被害少女の有り様が、自分の過去の記憶と接続しない。
『過酷な現実を、自分の痛みにはしない。
(中略)
他人の人生を抱え込んだら、自分の身がもたない。それなら中途半端な優しさは自分のうしろめたさに逃げ道をつくっているだけ。
僕はかたときも仕事から離れないことで、自分自身の喫水線を保っていた。なのに、気分はゆっくりと沈んでいった。僕はやわな人間だった』
著者自身もまた、この事件によって振り回されていく。記者として、被害者遺族に近い者として、そしてこの社会に生きる一人の人間として、著者は、現実の有り様を直視し、そこからこぼれ落ちるものに気を配る。その中で見えてきたものが、本書に満ちあふれている。
この物語は様々な側面を持つ。読む人にとって、何が主軸となっているのか、感じ方は様々だろう。僕が最も印象に残ったのは、被害少女の父親の言動である。
『遺族が事件当日の会見を開くなど、前代未聞のことだった』
自身も新聞記者として、様々な事件と関わりを持った人物が、衝撃的な事件の被害者遺族となった。取材する側から、される側に変わった時、御手洗氏は「記者の論理」と「被害者の論理」の板挟みになる。これまで記者として被害者に要求し続けたこと、そのことから自分自身が逃げてしまっては、記者として申し開きが出来ない。だからこそ御手洗氏は、事件当日に会見を開き、自分の娘の写真を自らマスコミ各社に配った。
『自分も逆の立ち場だったらお願いするだろう』
自分の娘が同級生に殺されるとショッキングな事件に巻き込まれながらも、御手洗氏は記者である自分を客観する自分を捨てきることが出来ない。それは、事件直後、御手洗氏が娘のむごたらしい死体を目にした時にも現れる。
『そのときに私は「現場保存をしなければ」と思った』
『遺体として扱われる娘に、もはや触れることはタブーと認識したのだった』
記者としての論理が、娘の死体と直面した直後にも発動してしまう。
『あのときにどうして怜美を抱き上げてやれなかったのか。それをずっと後悔している』
読みながら僕は、御手洗氏への強い共感を感じていた。僕も同じ状況に巻き込まれたら、御手洗氏と近い判断をしてしまうように思う。被害者遺族である自分の立場を全面には押し出せず、記者としてかつて自分がやってきたこと、その積み重ねに囚われてしまうことだろう。良い悪いの問題ではない。御手洗氏だって、本当は、記者として生きて来た自分のことはすべて忘れて、被害者遺族としてだけ振る舞い続けることも出来たはずだ。それが赦されるレベルの、とんでもない事件だったと思う。しかし御手洗氏は、そうすることを自分に許さなかった。その融通の利かなさみたいなものは、僕の中にも等しくあるように思えて、他人事とは思えなかった。
また、御手洗氏が記者であるという点がここにも関係して来るのだろうか、御手洗氏の事件や被害少女に対する考え方は、非常に理性的で抑えられているように思う。冒頭に挙げた言葉以外にも、御手洗氏は様々な考え方を吐露している。
『少年法が更生を趣旨としていることは、頭では理解しています。ですが「取り返しのつかないこと」をした人間は本当に更生できるのでしょうか。そして、更生させることが被害者にどのような意味を持つのでしょうか。』
『つまりね、今のこの社会の触法少年のあり方でいえば、あの子は自分の過去から逃げようと思えば逃げられるんです。それは、被害を受けた側からすれば、悔しいけれど、受け入れるしかない。そうあってほしくないな、と思うだけ』
『あの子にも、生きていれば楽しいことや嬉しいことがあると思う。それを否定する気はないんです。背負ってほしいけど、でも人生そのものは全うしてほしいというか。あの子への思いを利かれると、それはいつも僕にとって、自己矛盾なんです』
『被害者側の「救い」って何だろうな。彼女が本当にまともになったのが、それが救いかと言われると、ちょっとそれは、今はそうは思えないね。何だか、ないかもしれないね。逆に、全く仮の話だけど、あの子がまた犯罪を犯したら、それは救われないなという気持ちにはなるんだろうね。理不尽だけどさ』
御手洗氏の言葉は、取り乱したような感情的なものではない。被害者という立場を強く主張するものでもない。感情ではなく思考によってたどり着いた価値観を滔々と語る御手洗氏のあり方には、凄みさえ感じさせる。もちろんその思考の過程は、自らの気持ちを鎮める過程でもあっただろう。感情ではなく、思考によって自らを制御することで、心の安定を図ろうとした、その奮闘の軌跡なのかもしれない。記者であり、事実を正確に文章に落としこむことが仕事だったからこそ、御手洗氏は、感情ベースではなく思考ベースで現実を捉えようとしたのかもしれない。これだけの凶悪事件に巻き込まれながら、これほどフラットに状況を捉えられるものかと驚いた。
その驚きは、被害少女の兄に対しても感じる。兄は事件当時、中学三年生。14歳だ。そして被害少女と同じ学校に通っていた。
事件当初こそ、感情が死んでいたり、あるいはその反動で感情的に不安定になっていたりと冷静な思考は難しかった兄だったが、大人になるにつれて過去の出来事を振り返り、自分の中でまとめ上げたその考え方は、父と同じく理性的で抑制が利いている。
『ただ僕は、なぜか彼女に対して、憎いとは一度も思わなかったんですよね。怒りをぶつける相手が違うような気がしました。自分よりも年下の子ですし、やったことの罪の重さは理解できてなかったと思いますし。たしかに怜美を殺してしまったのだから、怒りをぶつけるべき相手なのかもしれないんですが、そうは考えられなかった。』
『でも子どもの罰が軽いのならば、僕はそういう子は施設に押し込んでおくより、逆に社会に出した方がいいと思います。施設に押し込んでおくより、そっちの方が、ずっとつらいはずですから。施設に何年もいて、いきなり出されて社会に戻れるのか?とも思いますし。閉鎖的な施設の中で「きちんと生きる」と言われてもねぇ…という思いがします。出してほしくないという遺族の気持ちもわからないでもないですけど』
『もし彼女が謝罪に来るのなら、「会うのが怖い」という感情は僕にはない。きちんと会うべきだとも思う。僕も相手も、対等な関係で。もう小学生と違って、責任が生じてくる年齢ですから。自分のしたことwまったく理解できていない当時に謝られても、どう思えばいいかわからないけれど、自分がやったことがわかっているはずの今、きちんと謝ってほしい、その方が、スッキリする。
逆に「会わせられる状態にない」というのなら、それは「国が再教育に失敗したんだ」ってぐらいに僕は思っています』
父も兄も、僕が勝手にイメージする「被害者像」からはみ出す。僕のイメージがあまりにもステレオタイプだということもあるだろう。ただやはり、被害者には、加害者に向かう強い感情のベクトルがあるのだろう、と思ってしまう。それが理不尽な死であればなおさらのことだ。どこにぶつけたらいいのか分からない感情が、加害者に向くことは至極当然だと思う。この事件の場合特に、事件の詳細も裁判の様子も、触法少年が起こした事件だということで被害者遺族にも伏せられている。普通の事件よりもなお一層理不尽な状況に置かれているのだ。
それでも彼らは、内側にあるはずの感情を加害者に殊更に向けることはしない。
『それでも、この父子は怜美ちゃんを失った喪失感を、憎しみで埋め合わせようとはしなかった。』
この父子が語る、現実と法律の間の理不尽さや被害者遺族のあり方などに対する考え方は、少年事件という狭い枠組みを超えて、人間として社会の中で生きていく我々に強く訴えかけてくる。感情の応酬では正しい関係性には辿り着けない。そう諭されるような思いがした。
本書はまた、少年法や触法少年に対する司法や児童福祉の限界についても考えさせられる。
被害少女は、自分が人を殺したことは理解しながらも、それがどんな事態を引き起こすのか(引き起こしたのか)はどうも理解していないようだし、結局最後まで被害者への謝罪の言葉を引き出す事ができないままでいた。被害少女は、虐待のある家庭で育ったわけでも、目立って孤立した環境に置かれていたわけでもなかった。誰にでもあるような友人同士のトラブルはあったが、それでも本当に「些細な」と言ってしまっていい程度のものだった。誰もが、その加害少女に、そんな凶悪事件を起こすような兆候を見て取れなかった。そんなごくごく普通の少女が、あれだけのことをしておきながら、被害者や被害者遺族への謝罪の気持ちを持てないでいる。この事件に関わった大人は、この加害少女の謎めいた有り様にずっと困惑しっぱなしだった。
可塑性という、成長途中だからきちんと再教育すればやり直せるはず、という考え方に基づいて少年法が作られているのだが、この事件の加害少女のあり方からは、そういう変化を期待させるような要素がまるでなかったという。そういう状況であっても、児童福祉のルールに則って、一定期間の拘束の後、少女は前科などまったくない状態で社会に出て行くことになる。
僕自身、この問題を深く考えたわけではないのだけど、この加害少女の更生という意味では、先程も挙げた御手洗氏の、『少年法が更生を趣旨としていることは、頭では理解しています。ですが「取り返しのつかないこと」をした人間は本当に更生できるのでしょうか。そして、更生させることが被害者にどのような意味を持つのでしょうか。』という考え方に同調してしまう部分がある。悪いことをしたという自覚を持てない少女は、本当に更生など出来るのか。そして、被害者が存在する犯罪事件において、加害者の更生だけに力を注ぐことは、被害者にどんな意味を与えるのか。この事件は、11歳の殺人犯という、非常に稀なケースであり、この事件がきっかけで新たな議論が始まった部分もあるだろう。当然、すぐ答えの出る問題ではない。しかし本書を読むと、更生という言葉の虚しさみたいなものが迫ってくるようにも思えてしまうのだ。
しかし、司法や児童福祉において甚大な影響を及ぼしただろうこの事件の被害者が、理性的な価値観を持っているというのは、変な言い方ではあるが恵まれていると感じる。誰にとって恵まれているのかと言えば、社会にとってだ。このエポックメイキングな事件の被害者がもし感情的な価値観を持つ人であれば、冷静な議論を続けることは難しくなるかもしれない。この事件を踏み台と捉えているわけではないのだけど、社会の一層の成熟という意味で、御手洗父子の理性的な考え方はとてもたのもしい、そんな風にも感じてしまった。
異例づくしだった凶悪事件における罪と罰を丹念に描き出していく作品だ。正解などない問いに正解のようなものを提示する法律の存在が、現実の様々な歪みの中でそぐわない中、それでもそういう社会を受け入れて納得させていく被害者遺族の価値観の揺れや、法律の枠組みからはみ出してしまっている存在を「裁く」過程における混乱など、割り切れない様々な矛盾を炙りだしていく。答えの出せない問いを問いかけ続ける。そういう人生を背負わされることになった人々の真摯な言葉に、様々なことを考えさせられることでしょう。
最後に、御手洗氏の子どもを育てる親に向けられた言葉を引用して終わります。
『同じ子を持つ大人に言えるとすれば一つだけ。「子どものすべては理解できないと分かったうえで、理解する努力を続けてください。それぞれの言えがそれぞれのやり方で」。』
川名壮志「謝るなら、いつでもおいで」
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