やがて海へと届く(彩瀬まる)
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僕は、人の死に対して、淡白なのだと思う。
正直に言うと、誰かが死んで悲しいと思った経験が、今までに一度もない。二人の祖父や大学時代の先輩など、身近な人の死をいくらかは経験しているのだけど、一度も。
初めは、亡くなった人との距離感の問題なのかな、と思った。仲の良い人間が死んだら、きっと悲しいと思うだろう、と。
でも、次第に、たぶんそうではないんだろうな、と思うようになった。
僕はきっと、相手が死んでも悲しくない程度に、人間関係を調整しているように思う。
昔からずっと、何かに依存することが怖かった。それは、モノでも人でも経験でもなんでもいい。それがなければ生きていけない、それがなければ辛すぎる、というものを、僕は持ちたくなかった。
人間はいずれ死ぬ。僕の命より先に失われる命もたくさんある。それは明らかにわかりきっていることだから、だから僕は、失われても大丈夫な程度の人間関係に留めてしまうのではないかと思う。
眠っている最中に亡くなった大学時代の先輩のことも、自殺してしまった大学時代の先輩のことも、まったく思い出す機会はない。祖父も同じ。他に誰の葬式に行ったんだっけ…と、ちょっと考えなくてはきちんと思い出せない、そんな人間だ。
だから、誰かが亡くなった後の、自分の気持ちの整理の付け方で、悩んだ経験がない。悲しみを押し流す努力とか、忘れないでいようとする努力とは、無縁だった。冷たい人間だなと、自分でも思う。でも、こういう自分を認められるようになっただけましだなと思う。
自分が死んだら、ということを考えてみる。
『あなたたちは、忘れられることが嫌じゃないの?』
主人公が、女子高生二人組にそう問いかける場面がある。親友の“死”をどうしても受け止めきれず、親友のことを忘れてしまうことが罪だと感じられてしまう主人公に、女子高生はこう返す。
『そりゃ、覚えててもらえたら嬉しいけど。でも、あんな死に方をしたかわいそうな子って意味でならいやだなあ』
この作品の中で、僕が一番共感した部分だ。僕も、その通りだなと思う。
僕自身の死をきっかけに、誰かが思い悩んだり絶望したりするようなことがあるとすれば、勘弁して欲しいと僕は思う。そりゃあ、僕が一切悪くないのに僕の命を奪った誰かがいれば、その誰かには贖罪の気持ちを持って欲しい、ぐらいのことはきっと思うだろう。しかし、それ以外の人には、悲しい形で思い出されたくない。生きてた頃の失敗をネタに笑う、なんていう思い出され方をするなら本望だけど、僕の死に、あたかも経験として参加しているような素振りを見せる人がいれば、僕はきっとうんざりするだろう。
僕の死は、僕の死であって、他の誰の死でもない。勝手に悲しむのは自由だけど、それが義務だとか当然だとか贖罪だとか、そんな風に言う人間がいたら、きっと僕はうんざりする。
僕は、こんな風に考えてしまう。だから、誰かが死んだ時も、同じようにしようと思うのだろう。他人の死に淡白だ、という側面はもちろんあるけど、同時に、意識として、むやみに悲しむのは止めよう、と思うようにしている。そいつの死はそいつの死であって、僕の経験ではない。死というのは、他者の経験に土足で踏み入れて感情を露わにしてもよい、という共通理解が社会全体にあるからこそ、葬式や墓参りというのが成立するわけだけど、僕は個人の意見として、その共通理解には違和感を覚える。
『教訓は少しずつ社会の仕組みに吸収して、忘れるとか忘れないとかより、当たり前のものにしていかなきゃいけない。だから、忘れない、ってわざわざ力んで言うのはもっともやーっとした…死んだ人はくやしかったよね、被災者がかわいそうだよね、私たちみんな一緒だからね、みたいな感じでしょ。でも、戦争とか体験してないし、私は身内を亡くしたわけでも家が流されたわけでもないんだから、ほんとはぜんぜん一緒じゃない。だんだん、忘れないっていう言葉が、すごくうさんくさく思えてきたの』
東日本大震災のような巨大な災害に限らず、人の死というものにはそういう、べったりとしたものが付随する。古来から埋葬の儀式などがあっただろうから、人間は他者の死に対してずっとそういうべったりとしたものを抱き続けてきたのかもしれない。それは、人類のDNAにでも刻まれているような、本能に近いようなものなのかもしれない。けれど僕は、そのべったりしたものがどうも苦手だ。社会の一員として無下にはしないけど、出来れば遠ざかっておきたい、と考える人間だ。
『すごく仲良かった子が楽器の途中で、海外とか、めちゃくちゃ遠くに転校しちゃうの。分かれて辛いし、さみしいし、新しい友だちでもできてだんだん思い出さなくなるし、でも元気でやってるといいなって時々思うの。―私が死んだら、リコにそんな風に思われたい。二度と会えなくても、遠くにいても、友達のままでいたい』
死に限らず、物理的にほぼ会えない状態になるなんていうのは、様々な状況が考えられる。でも、その中でも死は、特別なものとして捉えられる。もちろん死は、「絶対に二度と会えない」という点が特異だ。他のどんな状況でも、「絶対に会えない」などということはないだろう。そこに人々は、大きな差を感じるのか。僕には、あまり実感出来ない。亡くなった先輩が、実はどこかでひょっこり生きている、なんていうことだって、僕の頭の中の考え方一つで実現できてしまう。人の死を悼み、葬式や墓参りをするという行為はむしろ、死に区切りをつけたい者が意識的に行うことなのかもしれない。
あるいは、死というものを特別であると感じるようにすればするほど、その対極にある生が、同じだけ特別に感じられる。無意識の内にそんな風に感じている人も、いたりするのかもしれない。
すみれのことを、時折思い出す。恋愛について話したり、いっとき一緒に暮らしたり、将来について考えたり。親友だった。あの日がやってくるまで、すみれとはずっと親友だった。
すみれは、戻ってこなかった。ずっと戻ってこなかった。戻ってこないまま、死んだことにされてしまった。仕方ないとは分かっている。けど、すみれのことを、頭の中から追い出せない。死んだ、ということを、受け止めきれない。
ホテルの最上階にあるダイニングバーでいつものように働いていると、すみれとかつて付き合っていた遠野くんが顔を出した。
引っ越すことになったから、すみれの荷物で引き取りたいものがないか見てくれ。
遠野くんは、前に進もうとする。モヤモヤとしたものが内側に満ちる。それは、すみれのことを忘れるっていうことなの?もう遠野くんの中には、すみれとのことは残っていないの?
もうあいつを頭んなかで生かすのを、止めようと思う。
遠野くんとは、考え方が全然違うみたいだ。遠野くんの言っていることが、全然理解できない。
ある日、遅刻など考えられない店長が、顔を出さなかった。
東日本大震災の時、著者は東北を旅行中だった。命からがら生還した体験をノンフィクションとしてまとめている著者。その時の経験を物語として昇華させている。
鎮魂の物語、と言っていいだろう。暴力的に奪われた死が、何の予感もなく失われてしまった命が、多くの人を呆然とさせたことだろう。心に空洞を作り、重たい何かを取り除けないまま、少しずつ日常に埋没させていくしかなかったのだろう。経験していない僕にはすべてが想像になるのだけど、そういうとんでもない経験にさらされた人々依って立つ楔みたいなものを、本書は打ち付けようとしているのだろうと思う。
冒頭で書いたように、僕は人の死に淡白だ。だから、本書で綴られる“鎮魂の過程”は、僕にはよく分からなかった。僕には、主人公である湖谷の葛藤が、イマイチ理解できない。言葉としては、理解できる。死者のことを忘れてしまうことに対する罪悪感、苦痛を“共有する”ことで得られる安心感。言葉の上では、そういうものは理解できる。でも、僕の内側には、それに近い感情がない。だから、頭の中で生かすのを止めると言った遠野くんや、娘の死を誰よりも先に受け入れていた母親の方に、共感してしまうのだ。
『生まれてきて、育つ間、誰だって頭の中は一人でしょう?でも、いつか一人じゃなくなるって信じて大人になるんじゃないの?それなのに大人になっても一人のまま、死んだあとも隔絶された苦しさの中に置き去りにされて、あ、あんなむごい死に方すら、たった一人で背負うものだなんて言われたら、あの子は一体なんのために生まれてきたの!』
湖谷が遠野くんにそう叫ぶ場面がある。このセリフが、本当に僕には理解が出来なかった。「たった一人で背負うものだなんて言われたら、あの子は一体なんのために生まれてきたの!」の部分を支える論理が、僕にはうまく掴めない。何を言っているのか、分からない。
それに対する遠野くんの反応の方が、僕には馴染み深い。
『死も、無念も、一人でなんとかしなきゃならないのは、俺は当たり前のことだと思ってる。それをそうじゃないことにするのは、人生の最もしんどくて味の濃い部分を、ごまかしてるようにすら思える』
人は、生まれた時はともかく、死ぬ時は一人だと思っている。どんな誰が側にいようとだ。何故なら、生まれた時は、周りにいるのは“既に生まれた経験を持つ先輩”だ。だから、仲間意識を持てる可能性はある。しかし死ぬ時自分の周りにいるのは、“死んだ経験のない後輩”でしかない。だから、誰がどうやって側にいようと、死にゆく者の気持ちに寄り添える人間などいないはずだ。僕はそう思っている。
『それじゃあ、人間が二人でいる意味なんてないじゃない。』
その通り。そこに意味を見出してはいけないんじゃないかとさえ、僕は思っている。
僕は自分のこういう考え方が、普通じゃないということを自覚してはいる。普通は、湖谷の言い分にも遠野くんの言い分にも理解が出来て、読みながら、それまで自分が考えたことのなかったようなことを考え巡らす。本書を読むというのは、そういう経験になるのだろうと思う。しかし僕には、そもそも人の死を悼むという気持ちが欠如しているし、内側に湖谷側の考え方が欠片もない。湖谷の葛藤を、僕はうまく理解できない。本書を読む読者としては、不適合だろう。
死をどう受け止めるか。それは、個人の問題だ。あなただけの問題だ。社会の問題でも、人間の成熟の問題でもない。湖谷のような死の受け止め方を、僕は否定するつもりはない。ただ、僕とは違うだけだ。人それぞれ、死と向きあえばいい。向き合わなくてもいい。僕は、そんな風に思ってしまう。
彩瀬まる「やがて海へと届く」
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