怒り(吉田修一)
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内容に入ろうと思います。
八王子で、ある殺人事件が起こる。被害者は尾木という夫婦で、犯人は犯行後六時間も現場に留まった。その間ほぼずっと全裸で過ごしていたと考えられている。貴重品は盗まれておらず、また冷蔵庫の中の食料が食べられていた。浴室には、被害者の血を使って「怒」という字が書かれていた。犯人は日付が変わった午前1時過ぎに尾木邸を後にした。その後すぐ、無灯火運転で検問中の巡査に呼び止められ、逃走。以後行方は知れない。
男の名を、山神一也と言う。
房総の漁港にある漁協で働く槇洋平は、歌舞伎町のソープランドで働いていた娘の愛子を引き取りに行った帰りだ。四ヶ月前ふらりと姿を消して以来だ。こんなことが、もう何度もある。洋平は、愛子を不憫だと感じている。幼稚園の頃、少しだけ知恵遅れ気味だと言われたことがある。愛子は、連れ戻されてからは大人しくしている。
二ヶ月ほど前、この漁港にふらりとやってきて、仕事がないか訪ねてきた男がいる。訳ありだろうと思ったが、前に働いていたというペンションのオーナーの紹介状を持っており、また人もちょうど足りなかったところで、漁協で働くようになった。黙々と働く男で、特に変わった様子もない。しかし次第に、戻ってきた愛子と仲良くなっているようだ。
男の名を、田代哲也という。
藤田優馬は、頻繁にパーティに出向く。都会の片隅やビーチの砂浜でそれは行われている。若い男たちばかりの集まりで、気が合いそうな者をみな物色している。優馬は、自分がゲイであることを、真剣には隠してはいない。比較的、オープンにしている方だ。窮屈だと感じたことは、あまりない。いつでも、仲間とつるみながら、一瞬の欲望を謳歌している。
ある日新宿の発展場で、一人の男と出会った。何が気にかかったのか、優馬にも分からない。レイプのようなセックスをして、それから優馬はその男を家に呼んだ。それから、一緒に住むようになった。そいつと出会ってから優馬は、派手に遊ぶことが減り、そいつとの時間を大事にするようになった。兄夫婦や、入院中の母にも会わせた。優馬には未だに、そいつがどんな存在なのかよく分からない。
男の名を、大西直人という。
小宮山泉は、母とともに、沖縄の離島である波照間島までやってきた。ほとんど、夜逃げみたいなものだ。ちょっとだらしない母がしくじってしまったせいで、名古屋にいられなくなってしまったのだ。母は、「波照間の波」というペンションで働かせてもらい、泉は波照間高等学校に転校した。
同学年の知念辰哉という少年に誘われて、波照間島からボートで行ける星島という無人島に行った。着いた途端寝転がってしまった辰哉を置いて、泉は島を散策する。廃墟みたいな建物から、薄汚い男が現れて驚いた。その男は、そこに住んでいるのだという。自分がここにいることは出来るだけ内緒にして欲しいと泉は頼まれた。何故か泉は律儀にその約束を守る。
その男の名を、田中信吾という。
八王子署の巡査部長である北見壮介は、八王子夫婦殺害事件の担当だ。テレビ番組の公開捜査でインパクトのある手配写真を公開して以来、情報提供の電話が鳴りっぱなしだ。捜査は完全に行き詰まっていた。これからは、この電話の情報を一つ一つ潰していくのが捜査のメインとなる。
山神の足取りは、ほとんど掴めていない。
というような話です。
なかなか凄い物語でした。しかし、この物語の凄さは、なかなか伝えにくい。凄い作品なのだけど、ある程度読み進めないとその凄さが伝わらない作品だと思う。正直僕は、上巻を読んでいる間は、この作品の良さがイマイチよく分からなかった。刑事のパートを除くとして、三つのまったく無関係の物語がただ断片的に描写されているだけのように思えて仕方がなかったのだ。それぞれ、田代哲也・大西直人・田中信吾という、経歴不詳の謎の男が登場し、読者は、この三人の誰かが山神一也なのだろう、と考えながら読んでいくことになる。しかし、逆に言えば、それしかこの三つの物語を繋ぐものはない。上巻の間は、その三人が特に目立った動きをするわけでもない。実にじれったい物語だと感じた。
しかし、読み進めていく中で徐々に、この物語が持つ破壊的なパワーに気付かされた。
読みはじめは皆、本書を、三人の内誰が真犯人なのか、という視点で読み進めるだろう。しかし読んでいく中で次第に、この三人は主人公ではない、ということに気づくはずだ。確かに、物語の大きな枠組の中で見れば、田代哲也・大西直人・田中信吾の誰が山神一也であるのか、という命題が作品に底流している。しかし、個々の物語を個別に見ていけば、彼ら三人は主人公ではない。
何故なら、彼ら三人が直接的に誰かに影響を及ぼすわけではないからだ。端的に言ってしまえば、この三人は、ただそこにいるだけなのだ。
では、個々の物語では一体何が起こるのか。それは、彼ら三人がそれぞれいる場所での、幸福の崩壊である。そして繰り返すが、この三人は、その幸福の崩壊に、直接的には関わらないのだ。
この構成は、凄いと思った。
それぞれの物語の中で、三人は基本的には余所者であり、物語の中核を担うのは、そこでそれぞれ人間関係を築き上げている人たちだ。彼らはそれぞれに、些細と言えば些細だが本人的には重大な様々な問題を抱えている。しかしその問題は、ある種の膠着状態を見せていて、そこにいる者たちに、積極的にどうにかしなきゃいけないと思わせるほどの強さはない。
しかし、それぞれの場に、三人の余所者がやってくる。彼らは余所者らしく、それぞれの地域の邪魔にならない程度にひっそりといる。次第に彼らは、それぞれのコミュニティに馴染んでいくのだけど、しかしそれでも、その地域の生活を脅かすような不穏さを醸し出すわけでは当然ない。
しかしそれぞれの場所で、そのまま続いてもおかしくないはずだった幸福が崩壊していく。
確かにきっかけは、三人の登場にある。この三人が、それぞれの場所に顔を出さなければ、その幸福の崩壊は決して起こらなかっただろう。しかし、彼らはあくまでもきっかけであって、原因ではない。原因は、元々そこに生きていた者の内側にある。
人を信じる、ということの困難さが、根本にある。
三人の登場がきっかけとなって、一部の人たちが拭い取ることの出来ない疑惑を抱き続けることになる。その背景にはもちろん、やってきたのが経歴不詳の人物である、という点にあるが、それだけでなく、様々な要因が複雑に絡み合っていく。一度囚われた思考から自力では抜け出せず、しかし容易に他人に話せるような内容でもない。目の前のこの男は、一体何者なのか。どんな過去を持っていて、何故今ここにいるのか。災厄をもたらすようなことはないのか。
ほとんど妄想でしかない考えに囚われ、取り憑かれてしまう。そうかもしれない、という思考が四六時中頭から離れず、しかし同時に、そんなはずがないという思いも加わって、思考が散り散りになる。
人間とは、過去の積み重ねの産物なのだと、改めて感じさせる。目の前にいる人物から直接的に過去が見えるわけではない。決して、五感で捉えられるようなものではない。しかし人間は、現在の姿以上に、誰かの過去を気にする。よく働き、問題も起こさず、人当たりもいい人物が目の前にいても、その人物の過去が知れない、過去を隠しているというだけで、何故か信じられなくなっていく。何故なのか。結局人間というのは、過去を積み重ねることでしか人生というものを形作れないのだろうと思う。目に見えなくても、耳で聞けなくても、過去というものは人間の存在を鋭く規定していて、人はそれを無視出来ないということなのだろう。
そこに、誤解の生まれる余地がある。
一つの誤解が、別の疑惑を呼び、いくつもの疑惑が集まって、不審へと変わっていく。信じたいという気持ちと、もしかしたらという気持ちがないまぜになって、自分の内側がぐるぐるしてくる。余所者の登場によって気持ちをぐちゃぐちゃにされた人たちの直面した現実は、確かに特殊ではある。僕らの人生に、直接的に関係してくるようなものではない。
しかしこの作品は、読者に鋭い疑問を投げかけてくる。
「お前は、周りにいる人間の、一体何を知っているというのだ?」という問いを。
僕らは、親や教師や友達や同僚や趣味仲間と、喋ったり遊んだり議論したり喧嘩したりする中で、様々な価値観を交換する。生い立ちや物の考え方や行動原理を開陳する。その中で、相手がどんな人物であるのか見極める。見極めているつもりになる。
しかし、それらがすべて幻想であると分かる瞬間が来るかもしれない。本書はそう突きつけてくるのだ。お前は本当に、あいつのことを知っているのか?何を知っていれば、一人の人間を“知っている”と言えるのか?あいつのことを、知っているから受け入れているのか、それとも、受け入れているから知っているつもりになっているのか、どっちなのだと問いかけてくるのだ。
作品に内包されるこの問いが、読者を揺さぶっていく。読者は、三人の内の誰かが山神一也であることを知っている。三人とも、凶悪な殺人を犯したとは思えないような日常を送っている。それでも読者は、この作品が要求する通り、この三人を常に疑いの目で見る。だからこそ、ちょっとした違和感でさえも過剰に反応する。読者は、この三人の誰かが山神一也であることを知っているからこそ、彼らの振る舞いに騙されることはない。
しかし、登場人物たちには、彼らを疑う理由がない。余所者だからというだけでは、彼らに疑いの目を向ける強い理由にはならない。彼らは、読者が殺人犯であると疑っている人物を知り、受け入れる。あるいは受け入れ、知っていく。そういう中で彼らはやがて、疑問を抱くようになる。「お前は、一体誰なんだ?」と。
読者と登場人物の明らかな立場の差が、読者を不安定にする。登場人物たちは、読者が信じるべきではないと感じている人物と深く関わっていくことになる。止めておけ、と読者は思う。しかし同時に読者は、止めておけと言える根拠がないことにも気づく。読者にしても、三人の内の誰かが殺人犯であるということしか知らない。残りの二人は、恐らく殺人犯ではないだろう。この残り二人と関わることを止める理由もない。また、たとえ殺人犯であっても、そんな素振りをまるで見せない人物との関わりを止める真っ当な理由も思いつかない。
ずっとこびりついたまま拭い去ることが出来ない違和感と並走するようにして、読者は読み進めていくことになる。これは、新鮮な読書体験だった。今まで真剣に考えることのなかった、「誰かを知っている」ということの境界線のようなものを、読んでいる間意識させられ続けた。SNSなどが広がることで、様々な“自分”を生み出し、発信することが出来るようになった世の中にあっては、その「誰かを知っているとはどういうことか?」という問いはより深い意味を持つことだろう。
「誰かを知っているとはどういうことか?」という問いを自らに突きつけ続け、問いかけすぎて自分が何をしているのか分からなくなった頃自滅していく。そうやって、幸福は崩壊していく。田代哲也・大西直人・田中信吾の三人は、主人公かと思われた三人は、やはりどこまでも余所者で、余所者程度の影響力しか持たない。結局は、人間の弱さの物語なのだ。誰かを信じることが出来ない未熟さの物語なのだ。余所者の登場は、最初のきっかけを作ったに過ぎない。あくまで僕の中ではだが、読み進める中で主人公が入れ替わっていくような感覚があって、斬新だと感じられた。
三つの物語は、最後の最後まで無関係のまま終わる。この構成も凄まじい。三つの物語はそれぞれ、ほんの僅かなかすりさえ見せないまま、個別に終わっていく。三つの物語を繋ぐものは、読者の中にしかない。山神一也かもしれない、という読者だからこそ知っている知識の中にしかない。それにどの物語でも、三人の内面は一切描かれることはない。彼らは主人公ではないが、ある種主人公的な立ち位置に置かれてはいる。それなのに、一切内面描写がなされない。僕は、東野圭吾の「白夜行」を連想した。主人公二人の一切の内面描写を排除し、彼らと関わった人物の側からの描写だけですべてを描き切った「白夜行」と同じく、本書は、主人公的な立ち位置の三人を、周りにいる人間の描写を通じて描き出していく。三つの物語を一切関係させない構成、そして三人の内面描写を一切しない描き方、それで一つの物語としてまとめ上げた本作は、小説の技量と言う意味でももの凄いものがあるという風に感じた。
「殺人犯“かもしれない”」という現実を提示することで、人間の弱さを炙り出す。「自分も巻き込まれる“かもしれない”」という不安に囚われた者を描写することで、社会の不寛容を描く。無関心と濃密さがまだら模様のように交じり合う現代社会の中で、隙間を見つけて身を潜める者と、余所者の存在を受け入れようとする者とが織りなす日常は、やがて崩壊の音を響かせることになる。その奇妙な予感を抱きながら読み進める読者に、この物語が一体何を残すのか。あなた自身で読んで、体感して欲しい。
吉田修一「怒り」
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