黒夜行

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勇者たちへの伝言 いつの日か来た道(増山実)

内容に入ろうと思います。
50歳を超えてなお放送作家を続けている工藤正秋。腕があるわけではなく、他の仕事などやりようがないからただしがみついているだけだ。ワイドショー用に新聞に赤字を引いたり、ミニコーナー用の下調べなど、誰でも出来そうな仕事を引き受けてなんとか糊口をしのいでいる。
ある日、取材先に向かうために阪急神戸線に乗った正秋は、「次は…いつか来た道」という謎のアナウンスを耳にした。そうではなかった。次の駅は、「西宮北口」だった。
かつてこの駅には、西宮球場があった。阪急ブレーブスの本拠地だ。
正秋は、かつて一度だけ父に西宮球場に連れて来てもらったことを思い出し、衝動的に西宮北口駅で降りる。
父は、野球とは無縁の人だった。クリーニング店を営んでいた父は、アイロン台に向かいながら、ずっとラジオを聞いていた。しかし父は、野球放送が流れると常にチャンネルを変えた。幼き記憶に、そんな父の姿が残っている。
そんな父が、正秋が頼んだからだとはいえ、西宮球場に連れて来てくれた。近所のおっちゃんに言われたことがきっかけで阪急ブレーブスのファンになった正秋。その後も、阪急ブレーブスのことはつぶさに見てきて、球団が身売りされ、球場が取り壊されてしまうまで応援し続けた。
球場の跡地には、ショッピングセンターが出来ていた。ふらりと立ち寄ってみた正秋。ここは二塁だったところかな。そんなことを考えながら歩いていると、正秋は不思議な体験をすることになる。
あの、父に連れられて西宮球場にやってきた、あの日に戻っていたのだ。50歳の正秋の記憶を保ったままで…。
というような話です。

内容紹介をここで止めると、よくあるタイムトラベルものなのか、という感じがしてしまうでしょうけど、そういう話ではありません。正秋は、すぐにまた現実の世界に戻ってきます。そして、この不可思議な時空の移動をきっかけとして、それまで知ることのなかった父の歴史を、知ることになったのです。
それは、長く切ない、恋と呼んでいい物語です。

父が語る歴史には、北朝鮮が関係してくる。しかし、この辺りまで深く踏み込むと、内容のほとんどを明かすような感じになってしまうので止めておきましょう。でもそうすると、書けることが少なすぎて、感想を書く方としてはなかなか苦しいのですけど。

全編を通じて、野球が一つの大きな要素として関わってくる。しかし、それはほとんどが“記憶”だ。それぞれの時間軸の中で、リアルタイムに野球をしている人間はほぼ登場しない。登場人物たちは、過去に野球をしていた記憶を語ったり、過去に野球を見た記憶を語ったり、過去に野球をしていた人物との関わりを語ったりする。そしてその中心に、阪急ブレーブスという球団が、そして西宮球場という球場が存在する。

僕は正直、阪急ブレーブスのことはほとんど知らない。というか、野球全般のことをほとんど知らない。本書には何人か、阪急ブレーブスの選手が登場するのだけど、巻末の謝辞を読む限り、彼らは実在するらしい。その内の一人である高井保弘は、代打において数々の記録を打ち立てている選手だ。恐らく、少し野球に詳しい人間なら知っているのだろう。また本書には、阪急ブレーブスの応援団長だった人物まで実名で登場する。恐らく、野球に関係する描写は、事実をベースにしているのだろう。阪急ブレーブスの前身となった球団の話や、日本のプロ野球創設のエピソードなど、阪急ブレーブスを中心にして、野球の話が結構広がっていく。僕は、野球のことは何も知らないなりに、野球を軸にした日本現代史を読んでいるような気分になって、なかなか面白いと感じた。

しかし、その野球の話は、あくまでもメインではない。本書の様々な場面で野球は大きな要素として立ち現われてくるのだけど、しかしあくまでも野球はサブである。物語の中心には、正秋の父と、父が恋した少女の物語が深く横たわっている。

この二人の物語には、その時代が内包する亀裂みたいなものが大きく関わっていく。恐らくその時代でなければ起こり得なかっただろうことが、二人を引き裂いていくことになる。正秋の父は、彼女を引き止めることが出来なかったことを後悔し、少女の方は、自分がした決断を生涯悔いることになる。

もう一生交わることがないだろうと思われた二人の人生。しかしそれらは、正秋という存在を媒介することで、時間も空間も越えて、微かに交わる。膨大な時の流れと、両者が辿ったまったく違った人生。本来であれば知るはずのなかったお互いの人生を、ちょっとした奇跡から知ることになった正秋は、西宮球場を起点とする、名も無き人たちの人生を想い、行動する。人を思いやる気持ちが、決して交わるはずのなかった時間を引き寄せ、大きなうねりとなって正秋を飲み込んでいく。不可思議な流れから運命が流転していく展開は、現実でもファンタジーでもないような、不可思議な質感を持って読者の元に届くことだろう。

時間的にも空間的にも恐ろしく隔たった人生が再び交差するためには、様々な偶然が必要だ。この物語には、いくつもの偶然が登場する。恐らく、普通の物語であれば、ご都合主義的だと思われてしまうように思う。さすがに、そんなに上手くはいかないだろうよ、と。しかし僕は、本書を読んでいて、ご都合主義的だと感じることがなかった。それはなんでだろうと考えた時に、正秋が50歳の記憶のまま過去に遡ったあの場面の存在が大きいのかもしれないと思った。不自然と言えば、この描写が一番不自然だ。しかし、物語全体の不自然さすべてを、この場面がすべて吸い取ってしまったと感じることも出来る。幾重にも奇跡を重ねなければ成り立ち得ない物語なので、狙ってやったのかは分からないけど、一つ大きなファンタジーを物語に組み込んだことは、良かったのではないかと思う。

人の一生を支えるものは何なのか、と考えさせられる。
誰かが自分の存在を覚えていてくれること。誰かが自分のことを思い出してくれること。ただそれだけのことが、誰かの人生を支えるということがあるのだな、と思わされる。僕は、そう実感するほど人生を真剣に生きたことがあるわけではない。だから僕には、正直分からない。けど、分からないなりに、その想いの強さに打たれる。
遠く離れた場所で、誰かが自分の幸せを願っているかもしれない。もしかしたらその人は、一度も会ったことがない人かもしれない。真剣に生きた瞬間を持っている人ほど、そうである可能性が強くなる。

そういう意味で言うと、大したことをしているわけではない、工藤正秋という主人公の造形はなかなか見事だ。若い頃は、時代が良かったお陰で食っていけた。今は、他に出来ることもないという惰性で、放送作家を続けている。正秋にはもしかしたら、人生を真剣に生きた瞬間というのはなかったのかもしれない。

そんな主人公が、父の本気を偶然知る。時代に翻弄され、悲惨な人生を歩まされた女性の一生を偶然知る。想いの強さが誰かを支えることがあるということを、そして時に強い想いは時空を超えるのだということを知る。それは、正秋を叱咤するような出来事だったに違いない。真剣でなくても生きていけてしまう世の中に正秋は生きている。多くの人間が、未来に絶望し、現実を忌避し、どこでもないバーチャルな世界に逃避する現代にあって、真剣に生きるというのはある種の困難さを伴う。真剣でなければ生きていけなかった時代と単純に比較は出来ない。それでも正秋は、50歳になってようやく、真剣に生きるということについて考えを巡らせるきっかけを得たことだろう。

『人は人生によくわからない部分を、適当に、何かそのときに都合のいい、意味のある言葉で埋め合わせ、なんとか脈絡をつけながら、毎日をつなぎあわせて生きているのだ。』

そんな人生に、正秋はきっとピリオドを打つことだろう。

『ぼくは決して忘れずにいようと思います。自ら選んだその道で、懸命に生きたすべての人々が、人生の「勇者」であったことを。』

物語のメインの部分に出来るだけ触れずに感想を書いたので、どうしても奥歯にものが挟まったような文章になってしまった。本書の帯は又吉なのだけど、又吉はこう書いている。

『あまり小説を読まない方にも、いろんな小説を読み慣れた方にも自信を持って薦められる。
物語の中にいろんな仕掛けがあってそれぞれリンクしていて、そうした技術的な構成も見事やと思います』

不可思議な奇跡をきっかけにして、知るはずのなかった人生を深く知ることなる。過去の些細な記憶が、誰かの強い思いが、一人の人間の生きる気力を生み出しうる。そう実感させてくれる、強い物語だと思いました。

増山実「勇者たちへの伝言 いつの日か来た道」


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13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
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新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
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4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
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7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
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小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
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9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
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13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
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2011年の個人的ベストです
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1位 千早茜「からまる
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5位 百田尚樹「錨を上げよ
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12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
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15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
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新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
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6位 「もうダマされないための「科学」講義
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番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)