道徳の時間(呉勝浩)
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「道徳」を、正式な科目にする、という話があるらしい。詳しく知っているわけではないから、既に正式な科目になっているかもしれない。
小学生ぐらいの頃、道徳の授業はあったような気がする。ちゃんとは憶えてない。どんなことをしたのかもまるで憶えてない。でも、そういう時間があった気がする。そうか、あの授業は、学校ごとの裁量で行われていたのか、と思った。それが今度は、必ずやらなくてはならない授業に変わるのだな、と。
なんとなくこのニュースに嫌悪感を覚えるのは、きっと僕だけではないだろう。たぶんそれは、「道徳なんて、座学で教えられるようなものではない」という感覚があるからだと思う。
ルールは、覚えるしかない。交通ルール、刑法や民法、ルーティンとして決まっている仕事のやり方など、それらはルールとして明文化され(されていないこともあるだろうけど)、実際に手足を動かして身に付けるものではあるのだけど、しかしルールをルール単体として覚える、という作業をすることが出来る。
でも、道徳はそうではないような気がする。
道徳というのはそもそも、明文化されていない。道徳というのは、例えば「電車ではお年寄りに席を譲りましょう」というようなものだろう。これは、ルールではない。だから、必ずやらなければいけないわけではない。けど、道徳的に、やると良い行いとされる。道徳とはそういうものだ。
しかし、じゃあこの道徳を、「電車ではお年寄りに席を譲りましょうね」と教えるだけで、果たして道徳を学ぶことが出来るだろうか?例えばお年寄りの中には、席を譲られるのは不愉快だという人もいるだろう。また、お年寄りじゃなくても、席を譲るべき対象は存在する。道徳は、ルールではないが故に、様々な選択肢が存在しうるし、状況ごとに正解があると言っていい。
実際には、行動と共に身につけなければ、道徳というのは体得できないだろうと思う。実際に「席を譲る」という行為をすることによって、様々なケースを知り、道徳を理解できるようになる。
もちろん、子供が自ら、「そうか、お年寄りには席を譲ってあげた方がいいんだな」と気づけるわけではない。だから、そういう考え方があるのだということを、知識として教えるのは大事だろう。しかし結局、それを知識として教えるだけでは、何も身につかないのだ。
「道徳を教える」ということに対する違和感にはもう一つ、「道徳を実践している大人が実に少ない」ということが挙げられるだろう。これは、僕自身も人のことは言えない。僕も正直、道徳という観点から見れば不合格な生き方をしているだろう。
例えば大人が皆、率先してお年寄りに席を譲るのが当たり前の社会だったら、「席を譲りましょう」と教えるだけで子供は実践に移せるだろう。そうであれば、ただ知識として道徳を教えるだけで、子供に道徳を身につけさせることが可能になるかもしれない。しかし現実には、とてもじゃないけど大人が道徳的な行動を実践している社会であるとは言いがたい。そんな世の中にあって、知識としての道徳を教えることに、一体どんな意味があるのか、という疑問を持ってしまうのだろうと思う。
人間は様々な価値観を持っている。様々な価値観の存在を前提に、それでも皆が集団として気持よく生きていけるように「ルール」というものは生まれたのだろう。一方、「道徳」はどうだろう?少し考えてみたのだけど、もしかしたら順序は違うのかもしれない、と思った。
まず初めに、「道徳」が存在した。人間が一緒に生活すると言っても、その規模はまだ大きくない。そもそもそういう概念がなかったとはいえ、「ルール」的なものを作らなければならないほど、対立することもなかったかもしれない。しかし、皆がどうすれば穏やかで過ごしやすくいられるのか、その細かな要件みたいなものが少しずつ積み重なり、一般論として形を持ったのが「道徳」だ。
「道徳」は、先程も書いたけど、必ずしも守らなければならないわけではない。守ることが良いことと捉えられる、というものだ。しかし、「道徳」の中から次第に、これは皆で絶対に守らなければならないよ、というものの重要性が高まっていき、それが「ルール」という形に昇華したのかもしれない。
いずれにせよ、道徳を強要することは出来ない。きっと、教わるものでもないだろう。道徳が自然に身につくような社会を作る。それが、道徳を教える、一番良い方法だろうと思う。
内容に入ろうと思います。
伏見祐大はビデオジャーナリストだ。しかし、とある取材対象との関係性から仕事への気力を失い、自宅のある鳴川市で”気力を蓄えている”。鳴川市では最近、イタズラ事件が起こっており、それらの現場には、「生物の時間を始めます」「道徳の時間を始めます」というような落書きが見つかっている。ウサギを轢き殺したり、鉄棒に接着剤を塗って少女にケガをさせるというようなイタズラだったが、地元の名家の長男で、偏屈であるが故に生家から見放されている陶芸家の青柳の死体が見つかった自宅の壁からもイタズラ書きが発見され、町内会は犯人探しに躍起になる。
一方伏見は、自分の名を業界に知らしめる仕事を共にやったことのある田辺から、とある仕事を依頼される。越智冬菜という無名のジャーナリストが、鳴川市を震撼させた鳴川第二小事件のドキュメンタリーを撮るからカメラマンをやってくれ、というのだ。
13年前。鳴川第二小の講堂での講演会中、向晴人という青年が突如壇上へと向かい、公演をしていた正木という教育者を刺殺した。即座に逮捕されるも、向は容疑は認めはしたが、以降黙秘を貫き通した。300人の観衆の中での凶行であり、向の犯行であることは揺るぎなかったため裁判は進行したが、動機や事件の詳細などは一切不明なままだ。
越智は、現場で凶行を撮ったビデオを入手していた。向の犯行の決定的な瞬間は写っていなかった。越智は、本当に向は犯人なのか?という点からドキュメンタリーを撮ろうとしているようだが…。
というような話です。
かなり面白い作品でした。正直、物語のまとめ方に不満がないわけではないのだけど、緊張感を持って作品を読ませる力に溢れていると感じました。
まず非常に面白いなと思った点は、事件らしい事件は起こっていない、という点だ。確かに、向が起こした鳴川第二小事件は、全国ニュースになるレベルの話題性があった。しかしそれは13年も前の出来事であり、しかもその事件については、ドキュメンタリー映画を撮ろうとしているだけだ。リアルタイムで起こっている事件は、鳴川市のほうぼうで頻発するイタズラ事件であり、陶芸家が亡くなっているが、自殺である可能性が高いと判断されている。
被害者がいる事件なのでこういう表現は良くないだろうけど、鳴川市でのイタズラ事件は、正直大した事件ではない。住民は怒り心頭に発するという感じではあるが、身の危険を感じてというわけではなく、周囲に異分子がいることへの不快感という感じだろう。
過去の凶悪事件についてはドキュメンタリー的なアプローチをしているだけ、現在進行形の事件はスケールが小さい。本書では、題材としてなかなか物語を広げにくいものを扱っていると思う。
しかし、それらを読ませる物語に仕立てているのだ。一番巧いなと感じた点は、それぞれの事件が持つ違和感だ。イタズラ事件にしても、鳴川第二小事件にしても、目の前に揃っているパズルのピースが少しずつ条件に合わない。また、イタズラ事件はささやかであるが故に、そして鳴川第二小事件は13年前の事件であるが故に、前提となる状況にも判然としない部分が含まれる。前提が判然としないから、いくら事実や情報を集めて付き合わせようとしてもうまくいかない。だからどうしても、どんな理屈を組み上げてみても、ハマらないピースが残ってしまうことになる。
この違和感の設定の仕方が実に巧いと感じる。題材として扱っている事件の小ささを、この違和感でカバーしているという印象がある。様々な情報が落ち着きを失ったまま宙に浮き、それが事件の小ささを隠している。普通ミステリであれば、「解決すべき謎をはっきりさせること」に力を注ぐものだろうけど、本書の場合、「解決すべき謎がそもそも何であるか分からない」という謎が全体を覆っていて、ミステリの謎としてちょっと斬新な気がする。
それでいて、「何が謎なんだかわかんねーよ」と読者に思わせないのは、伏見が様々なことに巻き込まれていき、それが物語のエンジンとしてなかなか強力だからだろう。伏見は、ドキュメンタリーを取り、それに付随して向晴人のことを調べ、息子が関係するトラブルに関わり、ジャーナリストしての野次馬根性で鳴川市で起こっているイタズラ事件についても調べるという感じで、なかなか忙しい。謎めいた言葉や状況はどんどん増えていき、そしてそれが一体どの状況に属するものなのかも分からない、というような感じになっていく。しかしその中で、「向晴人は犯行を認めながら何故黙秘をしたのか?」「越智冬菜は一体何をしようとしているのか」という二点は、明確な謎として存在していて、伏見の行動力とともに、物語全体を引っ張る役割を果たしている。
イタズラ事件と鳴川第二小の事件を繋ぐものは、起こった場所と「道徳」という単語だ。伏見という男を間に挟みながら、いくつもの出来事が同時並行で進んでいき、どちらの状況も混沌としていく。中盤を過ぎても状況は整理されず、相変わらず疑問が拡散していく展開は、このまま何も解決しないのではないか、という不安さえ抱かせる。さっきも書いたけど、物語の着地点には若干の不満はあるのだけど、そうだとしても、ストーリーの展開のさせ方は巧いと感じた。
「向晴人は犯行を認めながら何故黙秘をしたのか?」「越智冬菜は一体何をしようとしているのか」という謎については、ドキュメンタリーを撮る、という手法と絡んで話が展開していくのも面白い。僕自身はドキュメンタリーをほとんど見たことはないのだけど、ノンフィクションを読むのが好きで、だから作中で彼らがしていた「A」と「ボーリング・フォー・コロンバイン」の議論はなんとなく分かる。
「A」も「ボーリング・フォー・コロンバイン」も、有名なドキュメンタリー映画だ。伏見は越智に問われて、どちらがドキュメンタリーとして優れているか考える。二人の価値観は全然違うのだけど、僕は、越智が語った理屈には納得させられてしまった。
その越智が、冷たい目で、何かをやろうとしている。詰将棋のように、とは伏見が使った表現だが、まるで必勝の一手を少しずつ指していくかのように、越智は明確な何かを目的としてドキュメンタリーを撮っていく。半年前、伏見がドキュメンタリーを撮り続けることに恐れを抱いたきっかけの出来事も思い起こされて、伏見は越智と何度も衝突することになる。
越智がドキュメンタリーを撮る目的は不明だが、表向きは「本当に向晴人は犯人なのか?」を検証する目的に見える。そのために越智は、事件の関係者を様々に呼び、いくつかの疑問を投げかけることによって、向晴人が犯人ではない可能性を生み出そうとしている。
その過程で、向晴人という犯罪者の特異性が浮かび上がる、という構成は良く出来ている。ドキュメンタリーの撮影の被写体として呼ばれた面々が様々なことを語ることによって、向晴人という人物が、より遠ざかっていく。そう、遠ざかっていくのだ。情報を集めれば集めるほど、向晴人という人物の掴みどころはなくなっていく。彼が何を考えているのか、何をしようとしていたのか、余計に分からなくなっていく。
そんな風にして、結末へ向けての展開のさせ方は凄く巧いと思う。著者は大学で映像科にいたらしいし、恐らく課題なのでドキュメンタリーを撮ったこともあるのだろう。映像も文章も、「構成する」という意味では同じなわけで、その構成力は映像を撮る中で身についたものなのかもしれない。
ジャーナリズムとモラルの問題を組み込んでいるのも、それを学んだ者らしいと感じる。越智の手法は、伏見からすれば許容しがたいものだ。越智は、誘導尋問のようなやり方で質問を繰り返し、それが伏見の目には、自分が望む答えを導き出そうとしているようにしか見えない。モラルというのも結局は「道徳」の問題であり、本書では様々な形で「道徳」の問題が出てくる。
結末は、それまでの違和感を説明するものだったし、決して悪いわけではないのだけど、本当にそんなことがあり得るだろうか?とちょっと思ってしまった。世の中には、事件を起こす様々な動機が存在しているのだけど、頭の中にハテナがたくさん浮かぶような動機は大抵、知能指数の高くなさそうな人間によって語られるイメージがある。もちろん、頭が良すぎて、高尚すぎて、その動機が理解できない、という意味での意味不明さもあると思うのだけど。
向晴人は、優秀であるという設定だ。であれば、本書の中での彼の行動は、とても理に叶ってるようには思えないんだよなぁ、と感じはする。それを目的とするのなら、もっと他の方法だってありえただろうに、と思わなくもない。
とはいえ、大きな瑕疵と感じるほどでもないし、全体的な構成力や展開力は見事なので、作品全体としては良く出来ていると感じました。
「矜持」という言葉を、どのタイミングでどんな風に使ってきたのか。その使い方で人生が様々に分かれた人たちの有り様をうまく切り取っているところも良いなと感じました。
様々な理由から、厳しい状況に置かれている人たち。彼らは、ちょっと踏み外すだけで人生から転落してしまうような、そういう危うさを抱えている。そんな中で、「矜持」を胸に、彼らはどうにか生き抜いていく。「矜持」という言葉をどこでどう使ってきたかで人生は様々な色を見せるのだけど、本人なりに筋を通し、自分自身に対して潔白であろうとする生き方は、その最終的な結果がどうであっても認められるべきだと感じました。
新人のデビュー作としてはかなりレベルの高い作品だと思います。筆力は非常に高いと感じました。
呉勝浩「道徳の時間」
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