黒夜行

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霧(桜木紫乃)

どんな生き方をしたいか、と問われても、僕には特に答えはないのだけど、どんな生き方をしたくないかと問われれば、何かしらは返せるだろう。
例えば、本書の登場人物のような生き方は、したくない。
役割が先行する生き方というのは、窮屈だと思う。それが、どんな役割でも構わない。父、息子、上司、部下、先生、などなど。人は誰しも、何らかの役割に収まるように生きているものかもしれないけど、人によっては、人格よりも役割が優位になっている人もいる。極端な例だと皇族などはまさにその典型だろうし、そこまで極端じゃなくても、一個人以上に、自分が収まっている役割を演じきることが求められる人生というのはありうる。僕は、そういう人生は御免だなと思ってしまう。
その窮屈さに耐えられるのは、どういう理由からなんだろうか、と思ってしまう。商売や政治的な繋がりを太くするために、家同士の都合で結婚させられる女。明らかに夫が浮気をしていながら、仕事上の夫の立場を貶めないためにその事実を指摘しない女。政界に乗り出そうとする夫の票集めのために町を束ねる女。もちろん、そういう時代だった、ということも出来る。かつて、女性は、そういう弱い立場に置かれていたのだろうと思う。しかし恐らく現代にだって、そういう役割が先行している生き方を強いられている人はきっとたくさんいることだろう。その生き方の先に一体何があるのか、と考えてしまう。
役割が人格を作る、ということももちろんある。そうなれば、窮屈さや忍耐を感じることもなくなるのだろう。役割に自身の人格を無理やり合わせるのではなく、自身の人格が役割と同化するのだから。変化し、かつての自分を忘れてしまえれば、それはそれである種の幸せと言えるのかもしれない。
人格に役割が付け加わるなら、それは良い。役割があるというのは、ありがたいことだとも思う。しかし、役割に人格が呑み込まれてしまえば、何のために生きているのかわからなくなりそうな気がして怖くなる。子供を持った母親が、「◯◯君のお母さん」と呼ばれるようになるという事実を、僕は怖く感じることがある。役割に呑み込まれないよう、どうにか踏ん張っていきたいと思う。

内容に入ろうと思います。
北海道の最東端である根室は、ロシアとの国境の町だ。根室の町を束ねている存在の一つが河之辺水産であり、その次女である珠生は、同じ町で芸者になった。河之辺という名前から逃れたい、という欲求からだった。
海峡で稼ぐ水産加工会社の社長である三浦という常連客がやってきた晩、三浦の部下である相羽重之を残して三浦は帰っていった。それまでにも町で見かけては、珠生は相羽と接触を試みて、会話を交わすようになっていた。事情を聞くと、明日警察に出頭するのだという。話を聞きながら珠生は、自分のせいで刑務所に行くことになった相羽のことを思う。そして夜中に、海峡を超えた相羽が辿り着いたという野付半島に向かう。
しばらく時が経って珠生は、相羽を偶然町中で見かけた。ヤクザのような風体をしていた。噂は少しずつ耳に入ってくる。相羽は、この町の汚れ仕事を一手に引き受けているそうだ。その働きぶりから、町を束ねる存在である大旗運輸の御曹司に気に入られたようだ。実はその御曹司に、珠生の姉が嫁ぐことになっている。捨てたはずの血縁が、妙な成り行きから近づいてくる。
根室という、否が応でも「敗戦」を意識させられる狭い町で、女には見えない線を挟んでやりあう男たちと、なんの因果か複雑な利害関係に放り込まれることになった河之辺家三姉妹を描く物語。

重低音のような低い振動で読者を揺さぶるような物語だと思いました。
主人公である珠生は、傍目に分かりやすく、様々なものを捨てた女だ。河之辺という名前を捨て、女としての真っ当な人生を捨て、貴重な若い人生を捨てた。姉の智鶴も、妹の早苗も、河之辺という家の中で、その範囲内で生きてきた。次女の珠生だけが、そのしがらみから抜け、好き勝手生きている。
はずだった。
そうではないのだ、ということが少しずつわかってくる。確かに、「色んなものを捨てました」と声高に宣言しているのは、珠生で間違いない。しかし、実質的により多くのものを捨てているのは、姉の智鶴だろう。
作中で描かれる智鶴のあり方は、なかなかに恐ろしい。正直、理屈で串刺しに出来るほど筋の通った行動はしていないはずだ。それこそ女性らしいではないか、という気もするのだけど、しかし智鶴はちょっと普通の女性とは印象が違う。母の期待を背負い、常に100点を取ることを自らに化した智鶴という存在の狂気が、中盤から後半に掛けての物語に大きな影響を与えていく。
この物語は、紛れも無く珠生の物語であるのだけど、様々な場面で姉の智鶴の存在を感じることになる。表に出てこないからこその存在感が強く漂っている。智鶴が一体何を考えているのか、珠生にはだんだん理解できなくなっていく。結婚して以来、大きく変貌を遂げている智鶴の動きは、珠生には謎めいている。智鶴という女がどれぐらい狂気を孕んでいるのか。その点は一つ読みどころになるのではないかと思う。

『この男の、娑婆になろう』

相羽と根付半島に行ってから、珠生はそうひっそりと呟く。寡黙で誠実そうな男を、塀の外で待とうと珠生は決心した。しかし、刑務所から出てきた相羽は、以前とは違った雰囲気を身にまとっている。結婚する前もしてからも、長く一緒にいられることはない。様々なことが相羽の一存で決められていくし、妻になったという喜びを感じる瞬間もほとんどない。
しかし珠生は、仕方ないのだと諦める。それは、芸者の出であるという負い目からかもしれないし、相羽を自分の手で格下げさせるわけにはいかないという意地の部分もあっただろ
珠生は、様々な場面で葛藤する。その度に、グルグルとした思考が、頭の中に満たされていく。しかし最終的には、相羽の傍にいるための最善の選択肢を選びとってしまう。

『相羽に惚れ込んでついてくる部下に、みっともないところは見せられない。珠生がここで泣いたりわめいたりなどすれば、たちまち相羽という男の「格」が下がるのだ』

なぜそれで相羽の格が下がるのか、僕にはイマイチよく理解できないのだけど、恋心から相羽を欲し妻となった珠生は、根室を陰で牛耳る男の「姐さん」として変化していき、その役割を見事に全うする。
その過程が、重苦しいまでに丁寧に描かれていく。

『この世には「幸福」などないのかもしれぬと思っていても、「幸福感」だけは在る気がしてくる』

日常に喜びを見いだせなくなった珠生は、自分らしからぬ振る舞いを率先することで、敢えて振れ幅大きく「相羽珠生」を演じてみせる。まさに、役割が人格を生み出すことになった。
そういう意味では、姉の智鶴も妹の早苗も、それぞれの役割に演じた変化を強いられる。しかし難しいのは智鶴の場合、他人からは「変化」に見える事柄が、ただ抑圧していた自分を解放しただけかもしれない、ということだ。町の様々な場面を自らの手で牛耳りながらも、かつてのような”姉”としてのあり方も捨てていない。女のしたたかさ、たくましさを見ることが出来る。

『男たちが義理だの恩義だのと言い始めるときりがないのあ、面倒なものに縛られなければまっとうに日々を送ることができないからだ』
『座敷でも座敷の外でも、男たちはいつも切迫した事態を好んで選びとっているように見えた』
『男の人にしか見えない線があるのよ、きっと』

女性らしい観点で、珠生はよく男のことを描写する。「男なんて…」というニュアンスが込められた表現には、女性が女性らしく生きていくことの難しさや、まだまだ社会は男が作っているのだという現実がにじみ出る。芸者出身、という出自も、物事の見え方に影響を与えていることだろう。表で町を動かすのは男だ。しかし、そのさらに背後で女性が蠢き、その女性の動きに男たちが気づいていないように思える時、珠生は言い知れぬ感覚に捕われる。あらゆるものを捨てて自由に生きてきた自分が、いつの間にか自由を奪われている。捨てたはずの様々なものに、また縛られている。
男と女の住む世界の大きな違いを感じ、両者の間の踏み越えてはいけない領域を巧みに避けながら男の世界に介入しようとする女の生きざまは見事だ。

土地の狭さも、人間関係の狭さもくっきりとした世界の中で、女たちは隙間を縫うようにして生きる。汚れ仕事を一手に引き受ける夫のあり方に沿うようにして、珠生は自らの気持ちを封じてでも、相羽と一緒に生活する道を選ぶ。目の前の困難を、珠生一人の心裡で処理し、気丈な女として感情を押し殺す珠生のあり方に感じ入る場面は多い。本当の意味での珠生の幸せは、一体どんな形をしていたのか。そんなことを考えさせられた

桜木紫乃「霧」


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2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
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1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
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13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
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新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
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1位 「死のテレビ実験
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番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)