黒夜行

左脇のプロフィールにある「サイト全体の索引」から読みたい記事を探して下さい。

2008年に書いたショートショート集 No.124~No.165

124.「人間動物園」
「家賃無料」
不動産屋の前を通りかかった時、その張り紙をたまたま見つけたのだった。その時僕は部屋を探していた。すぐにどうこう、というような状況ではなかったのだが、なんとなく引越しをしたいな、という思いに駆られていた時期だったのだ。時々そういう衝動に襲われる。引っ越したところで生活が一変するわけでもないしそんなことを期待しているわけでもないのだけど、一つの場所に腰を落ち着けるというのが性に合わないのだ。だから外に出て不動産屋を見かけると、つい張り紙に目がいってします。その時も、ただなんとなく張り紙を眺めていただけだったのだ。
「家賃無料?」
つい声に出して言ってしまう。そんなバカな、という思いがまず浮かぶが、しかし何か事情があるのだろう。住む場所に特別こだわりがあるわけではない。何か面白いことになるのなら、望むところだという感じである。
「表に貼ってある、無料の物件について聞きたいんですけど」
僕は不動産屋の中に入って詳しい話を聞くことにした。
「あぁ、あれね。あれについてはさ、私じゃうまく説明できないっていうか、そこの大家がね、誰かお客さんが来たら私に連絡して欲しいなんて言うもんだからね、ちょっと待っててもらえるかね」
なんとも分かり難い話し方をする人物であったが、要するに詳しい話の出来る人間を呼ぶからちょっと待ってて欲しい、ということだろう。
「分かりました」
しばらくすると、一人の女性がやってきた。
「三上洋子と申します」
そう言いながら僕に名刺をくれた。名刺なんてもらったことがなかったからどうしたらいいかわからなかったけど、賞状をもらう時みたいに両手で受け取ってみた。合ってただろうか?
名刺には名前以外何も書かれていなかった。既に相手の名前は知っているわけで、となるとこの名刺にはどんな価値があるのだろうか、と僕は一瞬不思議に思った。
「無料の物件に興味がおありですか?」
「まあそうですね。誰だって家賃が安い物件には興味を惹かれるのでは?」
「そうでしょうが、しかし無料というのはいささか怪しい、なんて思われませんでしたか?」
無料の物件を勧めたがっているのかどうなのかイマイチよく分からない話し方である。慎重にことを運ぼうと思っているだけかもしれないが。
「もちろん、何か条件があるのだろうな、と思ってはいます。ただ、面白ければ何でもいいかな、という風にも思っていまして」
「前面鏡張りです」
「は?」
「ですから、壁面すべてが鏡になっております」
なるほど、ちょっとそれは奇妙な部屋だと言わざるおえないだろう。ダンスの練習をするには最適かもしれないが。しかし、それだけで無料というのはよく分からない。
「それだけですか?」
「あと、一日毎に住人が一人ずつ増える予定です」
「言っている意味が分かりませんが」
「非常に広い建物でして、ある程度のプライバシーを確保しながら、最大で50人以上の人間が住めると考えています」
「それは一部屋なんですか?」
「そうです。50人以上が住むことが出来る一部屋の物件です」
それは創造するだに凄まじい物件だと言えるだろう。50人がある程度プライバシーを確保しながら生活できるとなると、東京ドームより広い空間が必要なのではないか。それが一部屋として確保されているというのだから尋常ではない。普通に部屋を区切って貸す方がいいに決まっている。そう出来ない理由でもあるのだろうか?
「また、どうしてそんなことを?」
「説明するのは非常に難しくなりますが、まあ一つのアートであるとお考えいただければ問題はないかと思います。アートの領域を広げるといいますか、アートの常識を破壊すると言いますか、つまりはそういう思想を体現するための場として考えているわけです」
何だか大きな考えがあるようだが、まあその辺は僕とは関係ないと言える。僕が考えなくてはいけないのは、壁面すべてが鏡張りで、かつ住人が一人ずつ増えて行くという超巨大な空間で生活するということと、家賃が無料であるということが釣り合うかどうか、ということだけだ。
「分かりました。そこに決めます」
「ありがとうございました。それでは細かい部分に関しましては不動産屋の方と詰めていただけますでしょうか?」

変な美術館がオープンする、という噂は、少し前から私の耳にも入ってきていた。それ以外、詳しい話はまったく伝わってこない。しかしどうも、この地域で一番の資産家である藤堂家が関わっているようだ、という噂もある。すべては噂であったが、しかしそこまで人々の関心を惹き付けたわけでもなかったから、この噂はそこまで拡散することもなく、狭い地域で留まり続けた。何せ、美術館である。大半の人は、生涯に一度美術館に足を運ぶかどうか、というところではないだろうか。
そしてその噂の美術館がオープンする、という話を聞いて、私は早速行ってみることにした。そこは、それ以外には他に何一つない山奥であり、こんなところにいつの間にこんな建物が作られたのだろう、と思えるような巨大な建物があった。なんとなく宇宙船を連想させる外観である。
それは奇妙な美術館だった。鑑賞者は、建物の中に入ることは出来ない。その建物の外から中を覗く、という趣向の美術館なのである。では中には何が展示されているのか、と言えば、それはまさしく人間なのであった。別に標本にされているとかそういうわけではない。生きた人間が生活をしている、まさにその光景そのものが展示されている、そういう美術館なのである。
美術館の入口(と言ってもそこは屋外であるが)には、パネルのようなものが設置されていて、そこには『一人』という表示がある。内部に一人しかいない、という意味だろう。となれば、この人数はこれから増減するということなのだろう。ありえないほど巨大な空間の中で、様々な人間が生活を営み、それを外から人間が観賞する。悪くないな、と私は思った。



125.「わらしべ長者」
昨日も今日も明日も変わりのない、ただ食って寝るだけのホームレスとしての生活。こんな生活が、これからも永遠に続くんだと思っていた。
ある日のこと、いつものように公園で昼寝をしていると、誰かが近づく気配を感じた。起き上がってみると、目の前にいたのはスーツを着たサラリーマンだった。
「羨ましくってさぁ」
その男は、私に話し掛けているのか独り言を呟いているのか分からないような口調でそう吐き出した。
「毎日毎日さぁ、暑い日も寒い日もさぁ、外を歩き回って営業してさ、そんな人生にもう疲れちゃったんだよねぇ」
私は何も答えなかった。答えるべきことがあるとも思えなかった。
「僕もあなたのようにさぁ、こうやって毎日ダラダラして生きていきたいものだよねぇ」
ホームレスになったばかりの頃は、こういうことを言って来る人間に腹が立った。こっちだって、好きでホームレスをやってるわけじゃないんだ、と。でも、もう慣れた。長いことこうして一人で生きていると、他人のことがどうでもよくなってくるものだ。
しかし、その後男が続けた言葉に私は驚かされた。
「ねぇ、僕と代わりませんか?」
「どういうことですか?」
私は初めて口を開いた。
「そのまんまの意味ですよぉ。あなたが僕の代わりに会社で仕事をして、僕があなたの代わりにここでホームレスとして生活するっていうことです」
この人は疲れすぎて頭がおかしくなってしまったんだな、と思った。関わっていられない、こんな男。
しかしそんな私の態度をどう受け取ったのか、彼は目の前でスーツを脱ぎ始めた。
「えーと、これが社員証で、会社の住所なんかは名刺に書いてあるからいいとして、スイカもまだしばらく使えるし、携帯もそのまま使ってくれていいですよ」
なんてことを言いながら僕の方に服やら荷物やらを寄越してくる。この人は本気なのか、と思いながら、成り行きに任せて僕も服を脱いでいった。
僕はよく分からないまま、サラリーマンとしての生活を手にすることになった。

「今日は無礼講だ。みんな思う存分飲んでくれ」
会社の忘年会である。社長自ら音頭を取り、宴会が始まっていく。
私はあのサラリーマンだった男と人生を交換した翌日、とりあえず会社に行ってみた。追い返されるだろう、と思っていた。しかし、彼の代役としてやってきたと告げると、おぉそうかそうか、などと言いながら僕は受け入れられてしまった。特に誰も疑問を抱くこともなくスムーズに入れ替えは進んだ。
仕事も難しいものはなく、時々周りの人に聞きながらではあったけど、なんとかこなして行く事は出来た。そうしてすっかり僕はサラリーマンとしての生活に溶け込んでしまっていた。
トイレへと向かうと、隣に社長がいた。何となくこういうシチュエーションは気まずい。
「どうだ、楽しんでるか」
「えぇ、もちろんです」それ以外にどう答えろと。
「私はもう楽しめないなぁ」
「そうなんですか?」
「社長っていうのは私には向かないんだ」
弱気なことを言うものだ、と思った。普段はこんな姿を見せることはまったくない。酒のせいだろうか。
「一つお願いを聞いてもらえないだろうか」
「えぇ、社長のお願いでしたら」
「私の代わりに社長をやってもらえないだろうか」
「は?」
聞き間違いだろうか?代わりに社長をやってもらいたい、と言われたような気がしたが。
「もう社長の仕事は飽きたんだ。役員会には後で伝えておくし、これが社長室のIDカード、あと明日にでも何社か回って社長交代を伝えないとだな」
よく分からないが、僕はいつの間にか社長になってしまったようだ。まったくどうなっているのだろう。

「こちらが原稿です。あと30分あります。原稿を見ながらでも構いませんが、出来る限り内容を覚えていただく方が印象はいいでしょう」
「わかった」
「原稿に書かれていないことを言うことは構いませんが、あまり具体的なことは言わない方がいいでしょう。なるべく輪郭をぼかしてください」
「わかった」
「ネクタイがまだ決まっていませんが、とりあえず5本用意してあります。あとでコーディネーターに選ばせます」
「わかった」
さっきから、わかった、としか口にしていない。もう大分飽きてきた。というか、取り巻きの連中が私とは住む世界が違う人間としか思えない。本当に、同じ言葉を話す同じ人間だろうか?
私は30分後に大勢の人の前で演説をしなくてはいけない。その模様はテレビでも流れる。今までこんな経験は一度だってない。人前で喋ることは苦手なはずだったのに、どうしてこんなことになってしまったのか。
手元にある原稿に目を落とす。そこには、『所信表明演説』と書かれている。
今の僕の職業は、総理大臣だ。もちろんこれも、前の総理大臣との交換で手に入れた地位である。



126.「殺された理由」
高校で殺人事件があった、と通報があった。生徒の一人が、別の生徒を刃物で刺した、と。被害者の死亡は既に確認されている。
現場に着くと、そこには異様な雰囲気が漂っていた。俺が一番乗りだったようで、制服警官以外刑事は見当たらない。
校庭に、そこだけぽっかりと空いた空間があった。その中心に、刃物を持った学ランを着た男の子が立っていた。その周囲を、生徒や教師が遠巻きに囲んでいる。
加害者と思しき男子生徒は、ナイフを持つ手をだらんとさせたままただ立っていた。俺の姿を目にすると、刑事だと分かったのだろうか、彼は俺の方へと近づいてきた。途中、自分がナイフを持ったままであることに気づいたようで、ナイフを地面に投げ捨てた。
目の前までやってくる。
「俺は逮捕されるんですか?」
不安がっている様子はない。授業中に分からないところを堂々と質問しているような雰囲気だ。
「君が何をしたかによる」
「人を殺しました」
「なら、逮捕だ」
俺は手錠を掛けるのは止め、そのまま彼をパトカーに乗せた。
「一つだけ聞いてみてもいいか」
「はい」
「何が原因だった?」
「何のですか?」
「だから、何で人を殺したんだ?」
「あぁ、足が折れてたからですよ」
「は?」
こりゃあ大変な事件かもしれないな、と俺はぼんやりそんなことを思った。

学は家に戻ると、まっさきに馬の元へと向かった。僕の家は、競走馬を調教し管理する仕事をやっている。自宅近くに厩舎があり、そこに馬が繋がれている。調教師と仲良くなっていた僕は、いつ行っても馬と遊べるようになっていたのである。
厩舎に着くと、一頭の馬が消えていた。僕のお気に入りだった馬だ。調教師のおじさんにどこに行ってしまったのか聞いてみる。
「足が折れちまったからなぁ、殺しちまうしかないんだわ」
その時僕は初めて、使い物にならなくなった馬を殺しているという事実を知った。
「それ、僕にやらせてくれない?」
調教師のおじさんは困った顔をしていたけど、それでも最後には折れてくれた。その馬を僕が可愛がっていたことを知っていてくれたからかもしれない。
僕が人を殺すのは、この日からちょうど5年後のことである。



127.「起きたらそこは」
目覚めると僕は、空の上にいた。
「は?」
どうなっているのかうまく飲み込めなかった。
僕は、何もない空間の上で横になっていたのだ。しかも生半可な高さではない。眼下には東京ドームらしき建物が見えるのだけど、それが米粒よりも小さくしか見えない。もし雲が出ていたら、僕はその雲よりも上にいるのだろう、と思えるほどの高さだった。
「ひぃぃぃぃ!」
そのあまりの高さに驚き、心を落ち着かせるのにしばらく時間が掛かった。高所恐怖症ではないけど、こんな高いところにいれば誰だって怖いだろう。しかも僕は、何の支えもないままに空中に横たわっているのだ。ちょうどマジシャンが人を浮かべるようなあんな格好だ。
シバラク身じろぎできなかった。動いてしまえばそのまま落ちてしまうのではないか、と思えたのだった。しばらくして緊張感が解けてくると、どうも自分が横たわっている背中の部分には何かあるのだ、という感覚が分かってきた。僕は浮いているわけではなくて、何かの上に横たわっているようである。僕の目には見えないのだけど、何かある。そんな感覚が僕を少し落ち着かせてくれた。
しかしどうしてこんなところにいるのだろう。昨日はちゃんとベッドに入って寝たはず。いつもと変わらなかったはずだ。しかしそんなことを考えても仕方ないだろう。とりあえず、どうしたらいいのかを考えなくては。
とりあえず僕は立ち上がってみることにした。自分が今まで横たわっていたところには、目には見えないけど何かある。ということは、手さぐりでそういう場所を探していけば、とりあえずどこかには歩いていけるんじゃないか、と思う。もしかしたら、地上へと続く目には見えない階段、なんてものが見つかるかもしれない。もし見つかったとしても、信じられない段数を降りなくてはいけないだろうけど。とにかく、出来ることはやってみよう、と僕は思うようになった。
四つんばいの状態で、今いる場所から歩いても大丈夫そうなところを手さぐりで探していく。どこかに切れ目があってそのまま落っこちてしまうことだって充分ありえる。僕は慎重に歩を進めながら、何だか別の違和感を感じ取っていた。
何となくだが、「知っている感じ」があるのだ。この空間が、自分と馴染み深いところであるような気がするのだ。しかしデジャヴというのとも違う。自分でもうまく説明が出来ない。思考の一端でそんなことを考えながら、僕は探索を続けた。
途中ドアがあり、窓があった。壁があり、階段もあった。しかしその階段は、僕が期待しているようなものではなく、すごく短いものであった。
段々と僕は、自分が感じている違和感の正体に気づきつつあった。しかし、それに確信を持つことが出来るようになったのは、どこかから声が聞こえて来た時だった。
「あんた、何やってんの?」
それは紛れもなく母親の声だった。
「四つんばいでうろうろして。コンタクトでも探してるわけ」
僕はコンタクトじゃないよ、と思いながら、そんなことが問題なんじゃない、と僕は思い直した。
まずそもそも、その声を出しているはずの母親の姿が僕にはまったく見えないのだ。どの辺りから声が聞こえるのかというのは漠然と分かるものの、姿が見えないというのは厄介だ。そして何よりも、何故ここに母親がいるのか、という疑問がある。
僕は何となく辺りをつけた方向を向きながら答えた。
「空しか見えないんだ。どうなってるんだ、これ」
母親がため息をついたのが分かった。
「だから言ったでしょうが!今度空の上に引っ越すからちゃんと話を聞いてなさいよって!」
そういえばそんなことを言っていたような気もする。空の上に引っ越すだなんて今日はエイプリールフールだっけか?と思って碌に話を聞いていなかったのだ。しかしそこで何か重要なことを言っていたようだ。
「引越し当日の夜は一日寝ないで起きていること。そうしないと新しい環境に順応できなくなるよって、引越し屋さんにも言われたでしょう!夜寝る前私だってちゃんと言ったわよ!」
引越し屋が何を言っていたのかは全然覚えていない。母親が、今日は徹夜するのよ、と言っていたのは覚えているけど、何で徹夜なんかしなきゃいけないんだ、って思って無視した。なるほど、そういうことだったのか。
「どうすればいい?」
「さぁ、知らないわよ!もう目が見えなくなったんだって思って諦めれば」
無茶苦茶な母親である。せめてその引越し屋に連絡をしてくれてもいいと思うのだけど。まあいい。父親が帰ってきたら聞くことにしよう。
しかし学校とかはどうすればいいというのだろう。この新しい生活に馴染むには時間が掛かりそうだ、と僕は思った。



128.「誰も幸せになれない計画」
アラブの王様は日本の女子高生が大層お好きなようでございます。アラブの王様たちの中では、日本の女子高生と付き合うことが何よりもステイタスであり、仲間内から羨ましがられるのだそうです。
そんなアラブの王様の中に、最近日本の女子高生とのお付き合いを始めた者がいました。彼は日本へ遊びに出かけた時にトウキョーで出会った女子高生に一目惚れ、とにかく金にものを言わせて、とりあえず自国まで連れて帰ってきてしまったわけです。
「ミキちゃん、君の欲しいものは何でも買ってあげよう。何が欲しい?純金製のプラダのバッグも、マライア・キャリーに君のためだけに歌わせるなんてことだって出来るよ。さて何がいい?」
ミキという名の女子高生はしばらく思案顔でしたが、何やら面白いことを思いついたようで、アラブの王様に頼んでみることにしました。
「私ね、今病気で寝たきりのおじいちゃんがいるんだけど」
「ふむふむ」
「おじいちゃんがね、死ぬ前にどうしても見たいものがあるって言うの」
「ふむふむ」
「おじいちゃんはね、若い頃にシズオカに旅行に行った時に、フジサンを見て感動したんだって。あのフジサンをもう死ぬ前にもう一度見たいっていうんだけど、おじいちゃん寝たきりなのね」
「ふむふむ」
「だからお願いなんだけど、ウチの庭までフジサン移してくれないかな?」
「ふむふむ。了解した」
とりあえず一つ言えることは、このアラブの王様、フジサンが何なのかさっぱり分かっていなかったということです。まさか日本で最も高い山だとは思ってもみなかったわけです。アラブの王様は側近を集め、至急指示を出しました。フジサンを、ミキちゃんの家の庭に移すように。お金はいくら掛かっても構わない。

当時のことを聞くと、皆揃って、「映画の撮影だと思った」という風に言います。現在では、富士山跡と名付けられた何もない空間を目にすると、些か物悲しくなってきます。
それは、大量の飛行機が静岡へとやってきたところから始まります。恐らく日本政府との話はついていたのでしょう(現在までも、日本政府は関与を否定していますが)。外国籍の飛行機が何艇もやってきました。
飛行機からレンジャー部隊のような人々が何人も降りてきて、富士山の麓へと集結しました。飛行機に部品を搭載していたのでしょう。工作用の重機をその場で組み立て始めたかと思うと、何やら作業を始めました。
恐らく多くの専門家の意見を聞き、あらかじめ綿密な計画を立てていたのでしょう。彼らのやり口はひと言で言えば、富士山をそっくりそのまま持ち上げて運ぼう、というものでした。アイスクリームを掬い取るようにして富士山を地面から引き剥がし、そのままの形で飛行機によって吊り上げ、移動しようとしていました。
作業は何日にも渡って続きました。初めこそ何をしているのかさっぱり理解できなかった住民も、しばらくすると彼らの意図がおぼろげながら読めてきて、周囲では反対運動が盛んに行われるようになりました。警察や自衛隊が出動されましたが、作業員たちを止める者は誰一人いませんでした。
そしてついに一ヵ月後、彼らは推定100艇近くの飛行機で富士山を吊り上げて移動させることに成功しました。恐らく有史以来、人工的な手段によって自然の山をそのままそっくり移動させたのはこれが始めてのことでしょう。
後日談があります。ミキちゃんのおじいちゃんのことです。結局おじいちゃんは、富士山を見ることなく死んでしまいました。原因は、富士山による圧死です。おじいちゃんも、富士山に潰されて死ぬことが出来て本望だったでしょうか。
富士山は今では東京の名物として定着しています。ちなみに富士山の移動をやってのけたアラブの王様は、資金を使いすぎたために破産してしまったようです。



129.「無眠大会」
ある世界大会が開かれることになり、日本でその予選会が行われることになった。何故か僕もその出場者の一人だった。自分で応募した記憶はないのだけど、既にエントリーされているのだから仕方ない。概ね母親か姉辺りが勝手に応募してしまったのだろう。はた迷惑な家族である。
何の大会なのかと言えば、無眠を競うのである。つまり、いかに寝ずにいられるか、という勝負なのである。何でこんなことをやろうと思ったのか不明だが、しかしそれは多くのスポーツにも同じことがいえる。槍を投げる競技なんて、誰が一体思いついたのだろう。
まず僕ら参加者は、保養所のような施設に集められた。ここで予選会が行われる日までの一週間、共同生活を行う、というのだ。大会当日までの生活習慣を一定にすることで、より公平な状態での試合を行おう、ということらしい。これは世界大会でも準拠されるルールであるようだ。
僕らは、毎朝7時に起こされ、ほんの僅かな自由時間を除いて管理された生活を送った。特に睡眠についてはかなり厳しく調整され、睡眠時間として定められた時間以外に眠ることはもちろん認められないばかりか、ただぼんやりしているような時間も厳しく制限された。ぼんやりしている状態は、寝ているのと近い状態であるらしく、公平さを欠くということのようだった。
そんな堅苦しい生活に嫌気がさして逃げ出す参加者も数人いたが、それはあまり問題にはならなかった。嫌なら出て行ってもらって構わない、という姿勢が如実に現れていたのだった。
そうして僕らは、予選会当日を迎えることになったのである。
予選会はだだっ広い講堂のような場所で行われた。会場を常に一定の環境に保てるように、様々な器機が設置されているようだった。温度や湿度などにも、世界基準があるようで、それを厳密に守って予選会も行われるようである。
参加者にはそれぞれ脳波を測定する装置がつけられ、それによって寝ているかどうかが判断される。また参加者一人につき審判が一人つき、ガムなどの刺激物を食べていないか、目薬などを差していないかなどが監視されることになる。
いよいよ競技が始まった。
無眠の大会とは、睡魔との戦いというよりは退屈との戦いと言った方が正しいだろう。誰も喋らず、目の前の景色も変わらない状態で、ただ眠らないことだけを意識しているのはなかなか厳しいものがある。僕は退屈しのぎに、頭の中で素数を1から数えることにした。これは僕が時々やる暇つぶしで、なかなか頭を使うのである。
周囲を見ていると、時間が経つに連れどんどんと失格者が出てくる。どれぐらいの時間が経過したのか参加者には知らされないので分からないが、感覚としては既に2日は経っているような気がする。自分が何のためにこんな辛い状況に耐えているのかもよくわからなくなってくる。食事や水分は定期的に出され、それだけが唯一の楽しみである。
そろそろ僕も耐えられなくなってきた。4日目に入っているのではないだろうか。見たところ参加者はもう5人ほどしか残っていない。頭がボーっとする。体が睡眠を欲しているのが分かる。とにかく、眠くて仕方がない。
もうダメだ。これ以上は起きていられない、と思った瞬間、僕は目が覚めた。鳥の声が聞こえ、いつものようにベッドの上で寝ていた。
無眠の夢を見ていたようだ。ずっと寝ていたのに眠気に襲われる夢を見ていたとは、なんて馬鹿馬鹿しいんだろう、と僕は思った。



130.「我輩は猫である」
「きゃー、可愛い!ほら、見て。子猫だよ。すごいすごい!」
そう言って佳子ちゃんは子猫の方へと走っていく。もちろん佳子ちゃんに悪いところは何もない。それはちゃんと分かっているんだけど、それでも哀しい気分になってしまう。
僕のことは見てくれないの?って。
「ほらほら、すごいよ。足とかこんなに小さいんだよ。可愛い~」
「…うん、そうだね。可愛いよ」
僕はおざなりな返事しか出来ない。でもそんな僕の態度に、佳子ちゃんは気づくことはない。佳子ちゃんは子猫に夢中だ。
佳子ちゃんに可愛がられている子猫を見ていると羨ましくなる。
僕は生まれてからずっと心と体の問題にずっと悩まされてきた。こうして佳子ちゃんと一緒にいる時、僕は幸せな気分になれる。でも、僕の本当の姿を佳子ちゃんは決して見てはくれない。僕がどれだけ佳子ちゃんのことが好きだろうとも、僕が本当の意味で佳子ちゃんに愛されることは決してないのだ。
どうしてこんな風に生まれてしまったんだろう。ちゃんと心と体が合った姿で産んでくれれば、僕ももっと生きやすかっただろう。今は、歩き方や食べる物も制限されているし、やりたいことも出来ない。僕が本当の自分を表に出してしまったら、周りの人間は僕を奇異な目で見ることだろう。親にだって迷惑が掛かる。僕のことを普通の子供だと思っている両親を酷く傷つけることになるだろう。
それでも、ずっとこのまま自分の心を偽って生きていくことは出来ないと思う。僕が乗り越えなければならないことは山のようにある。永遠に超えられない壁だってあるだろう。でも、少しずつでもいい。変えようと努力していかないと、僕の人生は窮屈なものになってしまうだろう。
僕は意を決して佳子ちゃんに近づいていった。
「みゃ~ご」
猫の鳴き声に、佳子ちゃんは僕の方を振り向いた。そこで不思議そうな顔をしている。それはそうだろう。猫の鳴き声が聞こえたのに、その方向には猫がいる気配がないのだから。
「みゃ~ご」
僕はもう一度そう口に出してみた。佳子ちゃんはようやく、猫の鳴き声を僕が出していることに気づいたようだった。
「猛君って、猫の鳴き真似うまいんだね!」
佳子ちゃんにそう言われた。いや、そうじゃないんだけどなぁ、と思いながら、まあとりあえずこれでいいや、と僕は思った。
僕は、体は人間だけど、心は猫だ。いつか体を猫に変えて、猫として暮したいと思っているんだけど、これはなかなか難しいだろうな、と思う。



131.「かぐや姫」
おばあさんの家の裏には、竹林が広がっていました。そこは一年中青々とした涼しげな場所で、おばあさんのお気に入りの場所でもありました。
ある日のこと。おばあさんがいつものように竹林をお散歩していた時のことでした。ふと、赤ちゃんの泣き声が聞こえてきたような気がしました。おばあさんは初め気のせいだ、と思いました。年を取って耳も遠くなってきたし、そもそもこんなところで赤ちゃんの泣き声が聞こえるわけがない、と思ったわけです。しかし、次第に気のせいではない、と思えるようになってきました。そしてその泣き声は、どうやら竹の中から聞こえてくるようなのです。
おばあさんはすぐにかぐや姫の話を思い出しました。竹の中で見つかった赤ちゃんが月へと帰っていく話です。おばあさんはもしかしたら、と思い、家から斧を持ち出しました。振り上げるのにちょっと力は要りますが、なんのその、おばあさんは慎重に竹を切ってみました。
するとどうでしょう。そこには可愛らしい赤ちゃんがいるではありませんか。まさにかぐや姫のお話通りです。おばあさんは、他の竹からも泣き声が聞こえることに気づいて、次々に竹を切っていきました。そのほとんどに赤ちゃんを見つけることになりました。
おばあさんはどうしたものかと考えました。おばあさんは、死んでしまった夫が遺してくれた莫大な遺産があり、子どもを100人育ててもまだありあまるだけのお金があります。これは私に育てろと神様が言っているに違いない、と思い、おばあさんは竹の中から見つかった子ども達を自分で育てることにしました。

~とある新聞記事~
○○県××市の児童相談所に、「赤ちゃんポスト」が設置されることになりました。日本では5例目ということになります。昨日設置されたばかりの赤ちゃんポストには、既に明け方には一人の赤ちゃんが入れられていたそうです。所長は、里親を探すところまで含めて最後まで責任を持つ、と明言しています。既に赤ちゃんポストが設置されているところでは大きな問題は起こっていないようですが、市の担当者は、微妙な問題も含んでいるので出来れば辞めて欲しい、と語っていました。

博士は、元々パンダの研究をしていました。パンダは何故竹だけを食べて生命を維持できるのか、という興味から研究は始まったわけですが、しかし次第に力点は竹の方に移って行きました。竹という植物の特異性に惹かれ、やがて竹をメインに研究をすることになりました。
博士はその過程で、ある発見をすることになります。博士は、竹から抽出可能な栄養素についての研究を行っていましたが、その過程で、竹を使った生命維持装置の開発に成功したわけです。人体をある特殊な方法で竹と接続することで、竹そのものから酸素や栄養を取り込むことが出来る装置です。
博士はちょっとした実験を思いつきました。
友人の児童相談所所長に協力を仰ぎ、赤ちゃんポストを設置させました。そうやって手に入れた赤ちゃんを竹林に連れて行き、博士が開発した生命維持装置を使って竹の中に入れました。
後日、「現代のかぐや姫」という見出しを新聞に見つけた博士は、今度は研究の興味を、人間を月で生活させる、ということに移したのだそうです。



132.「私これから結婚します」
あと数時間もすると、私はようやく待ちに待った念願の結婚をすることが出来る。私も40歳を超えようとしている。既に結婚対象としてはなかなか厳しい年齢になってしまった。でもいいのだ。私にはタロウがいるんだ。タロウと結婚出来るのなら、他にはもう何もいらない。
18年前のことを思い出す。
まだ若かったあの頃、私は一人の男性と付き合っていた。会社の同僚で、優しくていい男だった。ちょっと不器用で、ちょっと頼りなかったけど、あんまりそんなことは気にならなかった。
彼は犬を飼っていた。一人暮らしで、しかもペット可とは言えマンションで犬を飼うというのはなかなか大変みたいだったけど、彼はどうしても犬を飼いたかったのだという。犬と戯れている彼の姿はまるで子どものように無邪気で、そんな彼の姿を見ているのが楽しかった。私も餌をあげたりしつけを手伝ったりして可愛がった。ペットを飼ったことがなかったけど、ちょっとそういう生活もいいな、と思ったりした。
そんなある日、彼の犬が妊娠したことが分かった。どうやってそういうことになったのか分からなかったけど、とにかくそれからは大変で、動物病院に何度も連れて行ったり、何匹も生まれた子犬の引き取り先を探したりと大忙しだった。そして、最後に残った子犬を私が引き受けることにしたのだった。
思えばあの時、何であんなことをしたのだろう。初めは本当に悪戯のつもりだった。面白いことを思いついたぞ、という程度のことだったのだ。
子犬に名前をつけた時、人間みたいに戸籍も取れるんじゃないかな、と思ったのだった。ちょっとめんどくさかったけど必要な書類を適当にでっちあげて、見事子犬に人間の戸籍を与えることが出来たのだった。
彼にも、こんなことが出来たんだよ、という話をしたり、周りにいる友達にも面白おかしく言ったりして楽しんでいた。それ以上のことなんて全然考えていなかったのだ。
しばらくして、私たちは別れることになってしまった。彼とは結婚するかもしれないな、と思っていただけに残念だった。私は、子犬との新しい生活をスタートさせた。
どこからそうなったのか分からない。ただ、気づけば私は、自分の飼い犬を心の底から愛してしまっていたのだった。言葉が交わせるわけでもない、相手の考えていることがわかるわけでもないのに、私は一緒にいると心が締め付けられるようになってしまったのだった。
これは恋ではないのか。
自然と、結婚したいという発想が浮かんだ。初めは、そのことはすっかり忘れていたのだ。しかし突然、そういえばこいつには戸籍があるじゃないか、と思い出したのだ。戸籍があるなら、18歳を過ぎていれば結婚出来る。私はこの考えに興奮した。
タロウを飼い始めてから、何度か男性に告白されるようなこともあった。結婚を前提に、という話もないではなかった。しかし、私には全然興味がなかった。私の目には、もうタロウしか映っていなかったのだ。
そしてあと数時間で、タロウが18歳になる。結婚が可能な年齢になるのだ。既に婚姻届は書き終えている。証人はでっちあげた。なんとかごまかせるだろう。問題はない。ついに念願が叶うと思うと、私の心は弾んだ。
私たちの生活は、婚姻届一枚出したところで何も変わらないだろう。それに私は、周囲から結婚できない女性だと見られることだろう。しかしそれでもいい。私はタロウの奥さんになるのだし、立派な人妻なのだ。私の中だけの変化だけど、それでも私は、結婚出来ることの喜びに満たされている。



133.「水槽」
家に帰ると、まっさきにそれが目に入る。防音性にしておいてよかった、と僕は思う。
ガラスの向こうからの音は漏れ聞こえてはこないけれども、それでも耳の中で想像の音が聞こえてくる。
むぎゅむぎゅ。
そんな風に表現できる音だ。うごめいていて、すりよっていて、絶えず微動している。これを見ると僕は何だか心が安らいでくる。
これが何なのか説明するのは難しい。
まず、壁一面に沿ったどでかい水槽みたいなものを想像して欲しい。高さ2.5m、横幅3.5m、厚さ0.3mという代物である。この壁に合わせた特注品である。
その中に、猫が入っている。それもたくさん。少なく見積もって100匹はいるだろう。水槽を一杯に埋め尽くすだけの数だ。種類はいろいろで、アメリカンショートヘアーから三毛猫まで何でもアリだ。
彼ら猫は、彼らにとっては狭いその水槽の中で、お互いに体を摺り寄せながらうごめいている。水槽内は一定温度と一定酸素濃度が保たれるようにシステムを組んでいるので、窒息や熱によって猫が甚大な被害を被ることはないように出来ている。しかしもちろん、それで快適な生活が送れるというわけではない。爪に引っかかれて出血しているものは常に見かけるし、中には失明しているのだろう、というやつもいる。
一番楽しいのは食事の時だ。生肉とキャットフードを適度と思える量水槽内に無造作に放り込むのだが、この時の猫の動きは圧巻だ。水槽内にいるすべての猫が、餌のある一点を目指して動き出す。もちろん、すべての猫が餌まで辿り着けるわけではない。しかし餌はうまいこと下にも落ちていく。それを狙ってまた猫が動き出す。それは、指揮者の指示を無視して暴走し出したオーケストラのようで、見ていて爽快である。
また、マタタビを入れるのも面白い。どの猫も眠ったようにトロンとしてしまい、水槽の中には一転静寂が訪れる。まさに凪という感じだが、僕が好きなのはこれが突如破られる瞬間である。ある猫が覚醒すると、他の猫も一斉に覚醒し、水槽の中はまた動的になるのだ。この、何かが破られるような瞬間が楽しい。この水槽を作った甲斐があったというものだった。
時々、交尾をしている猫を見かける。これだけの密集地帯の中でよく出来るものだと感心するが、しかしこれはより面白い状況を生み出してくれることだろう。即ち、子猫が生まれればカオス度はまた一層上がるということである。
これを見ていると、僕は自分が神様になったような気分になれる。自分がすべての支配者なのだ、という感覚である。神様だって僕らをこんな風に見ているに違いない。地球という空間の中に60億人以上の人間を詰め込んで、そこで生きさせる。殺し合いもすればセックスもする。そんな様子を見ながら神様は、人間というのは楽しいもんだなぁ、なんて思っているのではないだろうか。
僕は次のステップについて思いを巡らせている。僕はこれと同じことを、人間でやりたいと思っているのだ。水槽の中でうごめく裸の人間達。決して死ぬことはない環境の中で、彼らがどんな痴態をさらしてくれるのか。考えるだけで今からワクワクしてしまうではないか。
準備は着々と進めている。人間用の水槽も既に発注したし、何よりも今僕の隣で眠っている少女は、人間水槽の第1号のお客様なのである。



134.「初めての行動経済学」
「俺さ、『経済は感情で動く』って本読んでるんだけどさ」
「何その本?面白いわけ?」
「これが面白いんだよねぇ」
「だってさ、そもそもタイトルがおかしいじゃん。経済は感情で動く?動かねぇっつーの。経済は経済でしょうが」
「それがさ、違うんだよなぁ。読んでるとさ、確かにそうだよなぁ、って思うことが多いんだよねぇ。そうそう、確かにそういう場合、そうなっちゃうなぁ、ってね」
「どうゆうことよ?意味わかんないんだけど」
「じゃあさ、ちょっとこの本に書いてある設問をちょっとやってみようぜ。そしたら分かるって」
「おぉ、いいよ」
「じゃあ行くぜ。こういう設問なんだよね。
『今日は土曜日で、大好きなオペラがある』」
「ちょっと待った。俺オペラとか知らないんだけど」
「そういう問題じゃないんだって。オペラが好きだとしたら、って考えてくれよ」
「そんなことできねぇよ。だって想像できねぇじゃん。お前だってさ、今目の前に、あなたの大好きなメキシコに多く生息する哺乳動物のマチョランデのステーキがあります、とか言われても、全然想像できんやろ」
「いやまあ、そらそうだけどさ、オペラぐらい分かるだろよ」
「いや、それは無理無理。別のにして」
「じゃあ何がいいわけ?」
「じゃあ、メロンチャイナのライブにして」
「メロンチャイナって、あのアイドルグループの?」
「そうそう。それだったらもう大好きって言えるね」
「オッケー。じゃあそれでいいや。じゃあもい一回行くよ。
『今日は土曜日で、大好きなメロンチャイナのライブがあります。あなたはうきうきとコンサート会場に出かける。入口に近づいた時、二万円もしたチケットをなくしてしまったことに気がつく。』」
「は?それありえん。それはありえん」
「何が?」
「いやだから、チケットなくすとかマジありえん。そんなアホなこと、俺がすると思うか?それもメロンチャイナのライブチケットでしょ?いやいやいや、ありえん。そんな仮定の話には答えられないわ」
「ええがな。そんなこと気にしてたら先進まんやろ」
「でも、メロンチャイナのチケットなんか無くすわけないんだって。家庭の話でも無理無理」
「じゃあ何ならいいわけ?」
「そうだなぁ。野球とかならいいよ。野球のチケットとかなら、まあそんな大事でもないからなくす可能性はあるよね」
「じゃあ野球で行くよ。
『今日は土曜日で、大好きな野球の試合がある』」
「いやいや、ちょっと待てって。だから、野球は別に大好きじゃないんだってばさ」
「分かった分かった。
『今日は土曜日で、野球の試合がある。あなたは野球場に出かける。入口に近づいた時、二万円もしたチケットをなくしてしまったことに気がつく。
さてどうしますか?チケットを買い直しますか?』」
「いやいや、買うわけないやろ」
「んじゃ次ね。
『さっきと同じ設定で、いまあなたは野球場の入口にいる。けれども今度はチケットをなくしてしまったのではない。チケットはまだ飼ってないのに、上着のポケットにあったはずの二万円が見当たらないのだ。
さてどうしますか?チケットを買い直しますか?』」
「いやいや、その質婚はおかしいやろ。二万円なくなったんだろ?そしたら、二万円探すに決まってるがな。野球の試合なんてどうでもええがな」
「だから、そういう話じゃないんだってばさ」
「その本やっぱおかしいんじゃないの?」
「いや、おかしいのはお前のほうだって」



135.「オススメ小男」
あの男に会ったのは、ラーメンでも買おうと、いつものようにコンビニに行った時のことだった。
「何かお探しですかぁ」
僕がカップラーメンを適当に見ている時、急に誰かに話し掛けられた。初めは話し掛けられたのが自分だとは気づかなかった。何せここはコンビニだ。店員が、「何かお探しですか?」なんて声を掛けてくるとは思えない。しかし声のする方を振り向いてみれば、そこには僕の方を見て首を斜めに傾けている小男がいるのだった。
「何かお探しですかぁ」
その小男はもう一度言った。僕はどう答えていいのかわからなかった。確かに僕はカップラーメンを探しているけど、何か特定のものを探しているわけでもない。なんとなくよさそうなものを選ぼうと思っているだけだ。それに何よりも、その小男はどう見ても店員ではなかった。店員に聞かれるならまだしも、何で店員でもない人間にそんなことを聞かれて答えなくちゃならないのだろうか。
「いえ、別に大丈夫です」
僕はとりあえずそうとだけ答えて、またカップラーメン選びに戻った。
しかし小男は引き下がらなかった。
「今オススメなのはこっちの焼豚エキススタミナとんこつラーメンなんですけどね、これはちょっと今の時間に食べるのは重いかもしれないですね。このニシン醤油ラーメンなんてのもかなりいいですけど、ニシンはどうですか?食べられませんか?結構いるんですよね、ニシンがダメだって言う人。あ、もしかしたら食べたことないですか?それならちょっと試してみるのもいいかもしれませんよ。あとこの、沖縄産の岩塩を使った塩ラーメンっていうのもオススメですねぇ」
小男は一人でそんな風なことを喋り続けている。うっとうしい。僕は、相手にすれば余計につけあがるだけだと思って、無視し続けることにした。
「あとこんなのもありますけどね。電子レンジでチンして出来るラーメン。最近はポットがないという方も多いですからね。水を入れて電子レンジにかけるだけでラーメンが出来るなんて、世の中すごいもんですねぇ」
僕はカップラーメンを一つ選び、レジへと向かった。
「なるほど、そのミソラーメンですか。定番中の定番を選ぶとはお目が高い。やはり定番というのは信頼の証ですからね」
相変わらず喋り続けている。無視無視。この会計さえ終わってしまえば、もうあの小男もいなくなることだろう。
会計を終え、店を出ようとすると、何故か小男が僕の後についてくる。店から出てもついてくる。そのまま歩き始めたのだが、それでもついてくるのだった。
「あそこにカレー屋がありますよね。あそこのカレー屋ではですね、チキンカレーを頼むのがいいですよ。あそこのチキンカレーほど旨いのを食べたことはないですね」
「あそこのパン屋さんでは、12時ちょうどに焼きあがる限定20個のフランスパンがもう絶品ですね。あれを食べないでフランスパンを語ることは出来ないですよ」
「あそこの靴屋、今セール中なんです。なかなかセンスのいい靴ばかりで、お買い得だと思いますよ」
小男は喋り続けている。周辺にある様々なお店について、あれがいいだのこれがいいだのとひたすらに言い続けているのだった。
「ついて来ないでください」
僕は何度かそう言っては見たものの効果はなかった。
「このアパートはですね、203号室が一番いいみたいですね。他の部屋よりも若干広めらしいです。それに日当たりも抜群ですしね」
結局僕の部屋までやってきた。追い出せばいいのだろうけど、どうしたらいいのか僕にはよくわからない。



136.「旅は道連れ」
私が旅を続けるきっかけになったのは、ある一枚の絵のせいだった。今でも、絵が私をどこかに連れて行ってくれる。どこに行くべきなのか、教えてくれる。
初めはカンボジアだった。大学の長い休みを利用して、一人旅に出かけたのだった。特に計画は立てなかった。期間も決めなかった。お金がなくなったら帰ろう。そんな風に思っていた。
遺跡を巡り、川沿いを歩き、動物達を見かけ、珍しいものを食べながら、私は次第に異国の空気に溶けていくように馴染んでいった。
そんなある日のことだった。私は一枚の絵に出会ったのだった。
それは道端に落ちていた。歩いている人は皆その絵の存在に気づかないのか、あるいは気づいていて無視しているのか分からないけど、何度も踏まれたような痕があり、かなりボロボロになっていた。
私はその絵を拾いあげた。それは風景画だった。絵の上手い下手は私にはわからない。でも、好きな絵だと思えた。しかし、初めてその絵を見た時の感想はそんなものではなかった。
それは、何の変哲もない草原に牛やら羊やらが描かれ、奥の方に高い山が描かれているだけの絵だった。しかし、私には分かったのだ、それがどこなのか。知っていたのではない。私はそこには一度も行ったことがない。それでも、その絵に描かれている場所がどこなのか、私には正確に分かってしまったのだった。
そして同時に、どうしてもそこへ行かなくてはならない、と思えてきたのだった。カンボジアにこのままい続けてはいけない、と私は直感したのだ。
だから私は、その絵に描かれている場所を目指して旅を続けることにした。
私はその旅の間中、ずっと写真を獲り続けていた。そして私は時々、撮った写真をそっと道端に置いていった。もしかしたら私のように、誰かの旅のきっかけになればいいな、と思いながら。
私は長い時間を掛けて、その絵に書かれていた場所に辿り着いた。そしてやはりそこには、また別の絵があったのだ。明らかに同じ人の絵だと分かった。そしてまた私には、そこがどこなのか明確に分かってしまったのだった。
そうやって私はずっと旅を続けている。絵が私をどこかへと連れ去って行ってくれる。私はそれを信じているだけでいい。
私の旅は、この絵がある限り終わることはないだろう。

僕が旅を続けるきっかけになったのは、ある一枚の写真のせいだった。今でも、写真が僕をどこかへ連れて行ってくれる。どこに行くべきなのか、教えてくれる。
会社勤めに疲れて、有給をありったけ使って無理矢理長い休みを取った。そして僕はエジプトに旅行に出かけることにしたのだ。エジプトにした理由は特にない。何となく、それまでの日常とはかけ離れたところに行きたい、と思ったのかもしれない。
エジプトでは、遺跡を巡り、暑い陽射しに焼かれ、珍しい料理を食べ、買い物をした。何の目的もない時間というのがこれほどまでに素晴らしいものだったのか、と僕は感動していた。
そんなある日のことだった。私は一枚の写真に出会ったのだった。
それは道端に落ちていた。歩いている人は皆その存在に気づかないのか、あるいは気づいていて無視しているのか分からないけど、何度も踏まれた痕があり、かなりボロボロになっていた。
僕はその写真を拾いあげた。それは風景を写したものだった。写真の上手い下手は僕にはわからない。でも、好きな絵だと思えた。しかし、初めてその絵を見た時の感想はそんなものではなかった。
それは、色とりどりの花に埋め尽くされた、まるで花の洪水とでも言うような場所だった。遠くの方に灯台がポツンと見える。ただそれだけの写真だった。しかし、僕には分かったのだ、それがどこなのか。知っていたのではない。僕はそこには一度も行ったことがない。それでも、その絵に描かれている場所がどこなのか、僕には正確に分かってしまったのだった。
そして同時に、どうしてもそこへ行かなくてはならない、と思えてきたのだった。エジプトにこのままい続けてはいけない、と僕は直感したのだ。
だから僕は、その写真に写っている場所を目指して旅を続けることにした。
その間中僕は、ずっと絵を描き続けた。気になった風景を見つけてはそれをさらさらと絵にして、そしてそれを道端に置いていった。もしかしたら僕のように、誰かの旅のきっかけになればいいな、と思いながら。
僕は長い時間を掛けて、その写真に写っていた場所に辿り着いた。そしてやはりそこには、また別の写真があったのだ。明らかに同じ人の写真だと分かった。そしてまた僕には、そこがどこなのか明確に分かってしまったのだった。
そうやって僕はずっと旅を続けている。写真が僕をどこかへと連れ去って行ってくれる。僕はそれを信じているだけでいい。
これまでも何枚も写真を拾った。そして僕はその度にそこを目指して旅を続けた。ある時、いつものように写真を拾った。その写真の裏にはこう書かれていた。
「ストーカーさん、こんにちわ」



137.「タイムマシン」
気まぐれに、『不確定世界の探偵物語』なんていうSF小説を読んでみることにしたのだけど、そのお陰で長年の謎が解決されたように思う。
『不確定世界の探偵物語』では、たった一台のタイムマシンをある大富豪が持っていることになっている。その大富豪がタイムマシンを使って、過去を自在に改変してしまうのだ。目の前にいる人が突然別の人に変わったり、街並みが突然変化したり、それまでなかった技術が突然現れたりするような世界になってしまったのだった。
なるほど、私のいる世界もこの小説の中の世界と同じなのかもしれない。どこかの大富豪がタイムマシンを持っているのだ。
例えばこういうことがある。ご飯を食べようと思ってテーブルに座っている。しかし次の瞬間、テーブルの上にあったはずのご飯がなくなってしまっている。家族の者に聞いても、さっき食べたでしょ、と言われる始末だ。私には食べた記憶などないのに、である。
しかしこれも、大富豪がタイムマシンで過去を改変していると考えれば謎ではなくなる。過去を改変したことで、私の目の前からご飯が消えてしまうのだ。
「おじいちゃん、独り言ならもっと静かにやって」
孫の声が聞こえる。
「それに、過去が改変されてるなんてことあるわけないじゃん。おじいちゃんはただボケてるだけ」
私はそこだけ聞こえなかったフリをした。



138.「似顔絵ゲーム」
「最も私に似た絵を描いた者に、すべての遺産を与えよう」
実業家であり経済評論家でもあった竹中一郎氏が、自身がコメンテーターを務めるテレビ番組の中でそう宣言したのは、今から一ヶ月前のことであった。
竹中氏は銀行員からベンチャー企業を興した変わり者で、しかも一代で巨万の富を築いた立身伝中の人物であった。一方でその豊富な知識から経済評論家としても活躍し、テレビで目にしない日はない、という人であった。
その竹中氏が、テレビを通じてこう宣言したのだ。
世間はこの宣言に狂喜した。何せ、親族でなくても絵さえ描けば莫大な遺産を手に入れることが出来るチャンスがあるのだ。世界中の人々が、世界中の芸術家にアプローチし、誰もがこの賭けに勝ってやろうと意気込んでいた。誰が遺産を手に入れるか賭けまで行われる始末で、そのあまりの熱狂振りに、他局でも特集番組が組まれる程であった。
さてそんなわけだったから、それなりに名の通った芸術系の大学にいる僕の周りも、この話でもちきりだった。もちろん絵の巧い奴がゴロゴロいるわけで、誰もが山師になった気分で、自分が遺産を手に入れて見せると意気込んでいるのだった。
かく言う僕もその一人であるのだが、僕には勝算があった。そもそも多くの人はこのゲームの本質を見極めていない、と僕は感じていた。重要なことは、絵の判断をするのは竹中氏本人である、ということだ。
僕は、あらゆる伝手を辿って、あらゆる人の手を介しながら、目標へと少しずつ迫っていった。それを手に入れることが出来るかどうかで、ほぼ勝敗が決すると言っても言い過ぎではないだろう。僕は自分では一切絵を描かなかったし、誰かに絵を依頼することもなかった。それでも、僕には間違いなく勝てるだろうという目算があった。
そして発表当日の日がやってきた。会場として指定された場所は、人で一杯だった。それもそのはずで、日本のみならず世界中からありとあらゆる人間が詰め掛けているのだった。
するべきことは単純だった。順番に竹中氏に絵を見せる。これだけ多くの人がいるのだから、見せる時間はほぼ一瞬と言っていい。そして最後まで絵を見終わった後、竹中氏が一枚の絵を選ぶのである。
審査が始まった。ほとんどの時間は待つしかない。退屈でもあり、同時に緊張もしていた。自分の賭けが当たるかどうかの分かれ目なのである。
長い時間を経て、ようやく僕の番がやってきた。僕の絵を見た竹中氏の表情が変化した。そして、これまでそんなことは一度もなかったのだが、竹中氏は付き人の一人と何やら話をし始めたのだった。
僕が見せたのは、竹中氏の一人娘が小学生の頃に描いた父親の顔である。多くの人を介してこれを手に入れることが出来た。どれだけ似た絵を描こうとも、竹中氏の心を掴むことが出来ないのでは仕方がない。
中断していた流れが再会される気配はない。しばらくすると僕のところに、先ほど竹中氏と話をしていた付き人がやってきた。
「恐れ入りますが、その絵をこちらにお渡しいただきたい」
僕は心の中でガッツポーズをした。これはつまり、僕が勝者となったということだろう。
「ありがとうございます」
「勘違いされては困ります。その絵は、竹中氏が小学生の頃に描かれた、お父上の絵です」
なるほど。僕はまったく違うものを掴まされたというわけか。心の中で一人苦笑し、賭けに負けたことを悟った。
「最近、竹中氏のお父上が殺されたというニュースをご存知でしょうか」
彼がそう言った瞬間、サイレンの音が聞こえてきた。まさか。
「警察もあなたにお話を聞きたい、とのことです」



139.「成功の法則」
僕は社長になりたくて仕方なかった。とにかく、なるなら社長だと子どもの頃からずっと思っていた。社長にならなければ意味がない、とまで思っていたほどだ。
そんなことを周りに吹聴していると、友人の一人が一冊の本を僕にくれた。「日本でいちばん大切にしたい会社」という本だった。
「この本何?」
「タイトル通りな、日本でいちばん大切にしたいと思える素晴らしい会社について載ってるんだ。お前がもしホントに社長になりたいんだったら、こういうような人の話を読んでおくのはためになるだろうと思ってさ」
そう言われたので、僕はありがたくその本を受け取り読んでみることにした。
その本には、主に五つの会社について書かれていた。

川崎市にある、従業員の七割が障害者である「日本理化化学工業株式会社」
斜陽産業である寒天を扱って、四十八年間増収増益を続けてきた「伊那食品工業株式会社」
日本一辺鄙な場所にあるが、そこで作っている義肢装具を求めて世界中から顧客がやってくる「中村ブレイス株式会社」
地元北海道で最も親しまれていて、新卒採用の競争率が100倍という「株式会社柳月」
大手スーパーが立ち退いたためさびれてしまった商店街で驚異の売上を誇る「杉山フルーツ」

この本を読んで、僕は成功の法則を見極めることが出来た、と思った。なんだ、会社を成功させるのはこんなに簡単なことだったのか、と僕は安堵したのである。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

フリーライターとして毎日忙しく働いている私のところにある話が舞い込んで来たのは、桜も散りかけた頃のことだった。
私は、自ら企画を立てて文章まで書き、そのパッケージすべてを出版社に売り込むという形で仕事をしているのだけど、ある時変な会社があるので取材に行ってもらえないか、と依頼がやってきた。自分で企画を立てない取材は久しぶりだったものの、依頼主から聞いたその会社の特徴を聞いて、何だか嫌な予感がしたのだった。これは自分で行って確かめるしかない。私はそう決意して、一路滋賀県まで行くことにしたのである。
その会社は、実に辺鄙な場所にあった。滋賀県の奥の奥、もはやここは森と呼ぶべきなのではないか、と思えるところに、突如その建物が現れるのである。しかも奇妙なのが、その建物は商店街の中にあるのである。そんな山奥に商店街があるわけもないので、その商店街も会社の所有ということなのだろう。わざわざさびれた雰囲気を醸し出す商店街の中に本社がある。
本社に入ると、驚くべきことに従業員のすべてが障害者なのだった。受付にいる人は話すことが出来ないようで、すべて筆談でのやり取りだった。エレベーターガールは車椅子に乗っているし、工場の方でも様々な障害を負った人々がそこかしこで働いているのである。
事前に聞いていた話によれば、この会社が扱っているのは寒天と義肢装具だとのこと。ここに至って私の嫌な予感は完璧に的中したと言っていいだろう。
社長への面会を求めると、既に話は通っていたようで、社長室に案内された。そこで私は、旧友と再会することになるのである。
「やっぱり、君だと思ったよ」
「あの時お前がくれたあの本に書かれていることをすべて実践してみたんだ。なかなか困難なものもあったけど、どうだろう、なかなかうまいこと実現したとは思えないだろうか。これで僕の成功も間違いなし、というところだろうね」
私はそれ以上取材を続ける気になれず、頑張ってくれ、応援していると言ったようなことをおざなりに言って帰ってきた。まさかあそこまで馬鹿だとは思わなかった。恐らくあの会社は近い内に潰れることだろう。そう思うと、あそこで働いている障害者の方々のことが思い出されて、何とも言えない罪悪感にさいなまれるのだった。



140.「エア格闘技」
いつものように仕事を終えて部屋に戻ると、郵便受けに一通の封筒が入っていた。表に『招待状』と大きく書かれている以外白紙の封筒で、差出人が誰かも分からない。後で気づいたのだけど、切手も貼っていなかった。明らかに怪しいのだけれども、その時は疲れていたこともあって見逃してしまったのだ。
なんとはなしに封筒を開けて見る。それは、ある大会の予選会への招待状であった。
『エア格闘技全国大会』
「エア格闘技」というのは聞いたことがないけど、要するに「エアギター」みたいなものなのだろう。そこまでは分かるが、しかしやはり実際に想像は出来ない。
僕は小学校の頃からずっと空手をやってきて、それなりの有段者である。空手には型というのがあって、対戦相手がいない状態でその型を披露するというのがある。要するに、それの応用版だと考えればいいだろうか。ありとあらゆる格闘技の攻撃スタイルを一同に介して審査する。その型の良し悪しで、勝敗を決める、というような。ある意味で総合格闘技と言えないこともないだろう。
実は後で気づいたのだが、その招待状の末尾にURLが記されていて、詳しい情報はここにアクセスするように、という注意書きがあったのだ。そこには、エア格闘技のなんたるかということがちゃんと説明されていたのだけど、僕はそのURLにまったく気づかなかったために、自分なりの解釈のみで参加を決めてしまったのだった。ずっと続けている空手の型なら、練習を怠りさえしなければそれなりのものを披露することは出来る。それで大会に臨んでみよう、とそんな風に思っていたのだ。
そして予選会当日の日がやってきた。
会場は、普段参加する空手の大会とはちょっと違った雰囲気を醸し出していた。僕はそれを、様々な格闘技の人間が集っているからだろう、と考えていたのだけど、大会の本当の姿を目の当たりにした時、その解釈が間違っていることを知った。しかし大会が始まるまでは呑気なのもで、どこかに知り合いでもいないかなぁと探す余裕さえあったほどだ。
そして大会が始まった。
会場には畳敷きのスペースやプロレスリングなど、ありとあらゆる格闘技で使用されるステージが組まれていた。そしてそのそれぞれに一人ずつ参加者が立ち、合図を待っている。
合図と共に、すべての参加者が同時に動き出した。それを見て、僕はようやくエア格闘技のなんたるかを知ることになった。
参加者は皆、一人で動き回っている。それぞれの格闘技の型を見せている者はいない。フットワークでパンチを避けている風だったり、寝技を掛けられている風だったりする動きをしている。凄い人なんかは、背負い投げを掛けられている様子を一人で演じている。
そう、エア格闘技とは、いかに相手に技を掛けられているかを演じる競技だったのだ。それに気づいた瞬間、僕はいかにこの場から一刻も早く立ち去るかということしか考えていなかった。



141.「竹石中目」
「竹石中目の本、ありませんか?」
ポカポカ、という表現がぴったりきそうな春の午後、古本屋でアルバイトをしている私は、いつものようにぼんやりとレジに突っ立っていた。平日の午後なんて、時々暇そうなおじいさんが来るぐらいでお客さんなんてほとんどいない。ちょっと前に棚の整理も終わらせて、ちょっと一息、なんて思っていた時のことだった。
お店に年配の女性がやってきて、そう尋ねてきたのだった。
「たけいしなかめ、ですか」
「結構昔の作家みたいなんですけどね。たぶんもうお亡くなりになっているぐらいの」
50代に届くかというその女性は、古びたこの店にはまったく似つかない上品さだった。
私は本好きが高じて古本屋で働くようになったくちだ。新刊書店で働いていないことからも分かるように、昔の文豪と呼ばれるような作家の作品が好きなのだ。夏目漱石や太宰治などはもちろん、泉鏡花や田山花袋、内田百聞なんかもちゃんと読んでいる。現代の作家には描き得ない何かが込められているように感じられて、読むたびに新しい発見がある。昔気まぐれに読んだ村上春樹の小説の登場人物の一人が、僕は既に死んでる作家の作品しか読まない、なんてことを言っていたけど、私もかなりそれに近いと思う。
それでも、竹石中目という作家には聞き覚えはなかった。もちろん私が知らないだけかもしれない。インターネットでも検索してみたのだけど、それらしい作家はどうも見当たらない。かなりマイナーな作家なのだろうか。地方の個人編纂の雑誌にほんの僅か投稿していただけ、というような。しかしそれにしても、インターネットでもまったく情報が出てこない、というのはちょっとおかしい。
お客さんにも、作家の名前が間違っていないか、他に何か分かることはないかと聞いてみたのだが進展せず。その内、あまりに時間を掛けすぎていることにお客さんが気を揉み始め、こちらは暇なので全然構わないのだが、一応何かわかったら連絡をするということで連絡先を書いてもらうことにしたのだ。
「でも、若いのにたくさん本を読んで偉いわねぇ」
本を読んでいるだけなのに褒められるというのもなんだか変な気分だけど、やっぱりちょっとは嬉しい。
お客さんが帰った後も調べてみたのだけど、やっぱりよく分からなかった。店長が戻ってきた後聞いてみたり、同業者の人に確認をしてもらったけど、やっぱり分からなかった。翌日私はそのお客さんに、そういう作家はちょっと分からなかったということを伝えました。
「竹石中目かぁ」
この件が終わっても、私はどうにも気になって仕方ありませんでした。お客さんが売りに持ってくる本の中にその名前を探してしまうこともあれば、個人的に立ち寄った古本屋さんでその名前をチェックしたりしてしまいます。
そんなある日のこと、自宅に一通の手紙が届きました。驚いたことにその宛名は、「竹石中目様」となっていたのです。
大慌てで中身を確認すると、そこにはさらに驚くべきことが書かれていました。

『竹石中目様
という呼び方をしても、恐らくピンと来ないのでしょうね。
石川香苗様とお呼びした方がいいでしょうか。
突然のお手紙、申し訳ありません。私は、時空警察第36方面本部所属の警部であります盛岡敬三と申します。
信じてはいただけないかもしれませんが、私は西暦2348年に生きる者です。要するに、未来人ということになりますね。
私どもの世界ではすでにタイムマシンが開発されていまして、過去や未来への行き来は制限付きで可能になっています。私ども時空警察は、違法な形での時空移動を取り締まる組織でして、日夜時空の安全確保に努めているわけです。
そんな組織から手紙が届いてさぞ驚かれたことでしょう。事情を説明させていただければと思います。
私どもは、ある誘拐事件を追っておりました。とある犯罪者が過去へと遡り、その時代に生きる人物を誘拐し、別の時代へと連れ去って行ってしまったのです。その誘拐犯こそ石川様のお父上でして、石川様こそが誘拐されたご本人ということになります。
石川様はまだ幼い頃に融解されてしまったため、その当時の記憶はお持ちではないでしょう。しかしこれは紛れもない事実であります。
石川様は、そのまま誘拐されずにいれば、竹石中目という名前で著名な作品を残す大作家になっていたはずの人物でした。しかし石川様が誘拐されてしまったために、歴史上竹石中目という人物が存在しないことになってしまいました。私どもはこの歴史をなんとか補正したいと考えています。そこで、無理なお願いと分かっておりますが、正しい時代にお戻りいただくことは出来ないでしょうか?
そういえば先日、我が時空警察の警部補の一人が石川様の職場にお邪魔したかと思います。そこで竹石中目の名前を出したのも、この手紙の信憑性が少しでも高くなってくれれば、と思ってのことです。
もちろんすぐに信じることは難しいでしょう。しばらく待ちますので、どうかお考えいただけないでしょうか?』

私は考えこんでしまった。歴史に名を残す文豪になれるというならそれは魅力的だ。しかし、今の私に小説なんて書けるだろうか。
確かに簡単には結論は出せないな。どうしたものだろうか。



142.「荒野」
『荒野に花を咲かせるんだ』
読んでいた本にそう書かれていた。だから僕は、荒野に種を蒔くことにした。
何もない、ただ広いだけの土地だった。建物も植物も、何かの気配さえ何もない、まさに荒野。砂漠とも違うし、原っぱというのとも違う、荒野としか呼びようのないその土地に、僕は少しずつ種を蒔いていくことにした。
地面は固く乾燥しており、植物が育つには満足いく環境ではないだろうと思った。それでも、なんとか穴を掘り、日々水をやり続け、そうして努力を重ねていたのだった。
一方で僕は、近くに住む人々からの悪意を感じ取っていた。種を蒔き、水をやっている僕の姿を遠巻きに見ては、恨みがましい視線を送ってくるのだった。僕はそれに気づかないフリをして、毎日の作業をこなしていった。僕にとって重要なことは、荒野に花を咲かせることだけだ。それ以外のことは、どうでもいい。
少しずつ、芽が出てきた。このささやかな芽が大きくなり、この地を埋め尽くすのにはまだまだ時間が掛かるだろう。それまで僕はここにいて、その時の流れを見守らなくてはならない。
周囲の人間からの不穏な視線を常に感じながら、僕は言葉に出来ない達成感を感じつつあった。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

その男がやってきたのは、伝説によれば、カウヤビ祭からそこまで日の経っていないある日のことだったらしい。カウヤビ祭というのはこの辺の伝統的な祭りで、森の精霊に感謝を捧げる祭りのことだ。この祭りも、一時期途絶えてしまったが、今でも続いておる。カウヤビ祭が終わって日も浅い時にやってきたこともあって、あの男は悪魔と呼ばれておるのだ。
今ではすっかり変わってしまったが、我々部族は元々森の中に住んでいたのだ。森と共に生きていたと言っても言い過ぎではなかった。木の上に家を立て、木の芽やキノコなどを採取し、動物を狩り、そうやってわしらの生活は成り立っていたのだ。
そんなある日のことだった。突然一人の男がやってきて、我々の住む森を破壊しおったのだ。
それはもう完全な破壊だったようだ。森を焼き、焼き払った後の炭をどこかに追いやり、我々の生活のすべてを完全に奪ったのだ。
そうしてそこには、まさに荒野としか呼びようのない土地が出来上がったのだ。誰もが、何故男がそんなことをしたのかさっぱり理解が出来なかった。その後の男の行動もまるで不可解だった。
男はその荒野に、種を蒔き始めたのだった。見る限り、そこに元々生えていた木や花の種であるようだった。つまり男は、そこにあった森を再生しようとしていたのだった。ならば何故、我々の生活を奪ってまで森を破壊してしまったのか、結局誰にも分からなかった。
その当時の人間はもう誰も生きていない。こうして、伝説として話が残っているだけだ。結局男が何をしたかったのかは分からなかった。森は長い時間を掛けて再生された。しかし、我々が失ったものは、あまりにも大きかったよ。



143.「出会い系」
出会い系サイトを使い始めて半年が過ぎた。初めは、友人の一人に勧められたのだ。一個下のその友人は、出会い系を始めてから三ヶ月で五人の男性と性的な関係を持ったらしい。ホントか?と半信半疑、どころか二信八疑ぐらいだったのだが、しかし何でもやってみるものである。私も、友人には劣るが、半年で四人の男性と性交渉をした。なんだ、まだまだいけるんだ、と大いに自信を持つことが出来た。結婚はしてるし、もちろん旦那と一緒に暮してはいるけど、子どもを送り出してからは話の種もなく、日々ぼんやりと過ごしているだけなのだ。若い男の子でも捕まえないとやってられないではないか。
そんな風に思いながら、今日もメールのチェックをした。毎日数十通のメールが来るのだ。それらを吟味し、これはと思える数人に返信をする。それが私の日常だ。今日も、良さそうな男がいないかチェックする。
これはいいかもしれない。
『初めまして、タケルです。年上の女性に憧れています。まずはメールから、仲良くなりましょう!』
こういうあっさりした文章の方がいいのだ。初めから自分を巧くアピールしようとする男や、何でも書けばいいと思って長々文章を書く男には結局外れが多い。そういう意味でなかなかいいと言える。
私が登録をしているのは、熟女系と呼ばれるサイトだ。基本的に、年下の男性が年上の女性を求める形でやり取りが行われていく。だからこのサイトに登録しているということは年上が好きだということは明白なのだけど、それをわざわざ書いている辺りもいいではないか。
早速返信を書くことにする。
『初めまして、ヨシミです。メールからでよければ仲良くなりましょう。タケルさんはどんな人ですか?』
『ヨシミさん、返信ありがとう!嬉しいです。僕は、中堅の食品メーカーでサラリーマンをやってて、20歳です。ヨシミさんは?』
『食品メーカーですか。私は小規模なPR会社でOLをしてます。もしかしたら取引のある会社同士だったりして(笑)。私は40歳です。ちょっとオバサン過ぎるかな…』
20歳も違うけど大丈夫だろうか。まあしかし、なんとかなるだろう。
『PR会社ですか。すごいんですね。40歳なんてまだまだじゃないですか。全然オッケーです!』
そんな風にして私達のメールは続き、やはり初めに思った通り会う運びになった。
さて、ここからが勝負だ、と私は思った。何せ40歳も年下の男の子とデートをするのだ。自分が60歳に見えないように特殊メイク並の気合でいかなくては、と思った。



144.「ゲーマー」
日々ゲームばかりして引きこもっている。一日十数時間もゲームをやっていると、なんだか現実感が浮遊し、どこか知らない世界へと入り込んでしまったかのような感覚に陥ることがある。
僕はとりあえずどんなゲームでもやる。RPGや格闘もの、ゲームやパズルの類、野球やレースといったものや、エロゲーなんかもやる。とにかく日々様々なものを集めてきては、とにかく時間の許す限りゲームをし続けているのである。
そんなある日のことだった。僕はその日格闘ゲームをやっていた。新発売のもので、さっそくやり込んでいる最中のことだった。
突然目の前が真っ暗になり、それからすぐまた視界が開けた。しかし目の前は、僕の見慣れた部屋の光景ではなかった。僕は自分がどこにいるのかイマイチよくわからないでいた。目がぼやけてしまったのだろうか、どうも周囲の光景がぼんやりとしか見えない。
目の前から、何だか鎧のようなものを着たとんでもなくデカイ男がやってきて、僕と相対した。その時気づいたが、頭上にはパワーゲージみたいなものがあって、つまり要するにここは、僕がついさっきまでやっていた格闘ゲームの中の世界だということだ。
どうしてこんなところに入り込んでしまったのだろうか。ゲームのやりすぎでへんな夢でも見ているのだろうか。それにしてもこれはあんまりではないだろうか。どう考えても僕は今から、このバカデカイ男と戦わなくてはいけないではないか。
どこからか、レディーゴー、という声がして、どうやら試合が始まったようである。僕は何かのキャラクターというわけではなく僕そのもので、だから必殺技みたいなものは何もないだろう。生身の体で戦わなくてはいけないのだ。それで、あんな鎧をつけた大男に勝てるわけがない。やはりここは逃げるしかなかろう、と思って僕は振り向き様に走り出した。
しかし、やはり画面より外には出られないということなのだろう。壁のようなものが僕の行く手を遮ったのだった。なるほど、戦うしかないというわけですか。
まあどうせ僕はここで死ぬのだろう。どうしてこんなことになってしまったのか分からないけど、それだけは確かだ。まあいい。大好きだったゲームの中で死ねるというなら、それも悪くないかもしれない。
僕は大男と戦って、見事敗れた。何だかものすごく痛かったけど、しかしもうこれで終わりだというならまあいいだろう。
しかし、どのぐらいの時間が経ったのか、僕はまた意識を取り戻した。今度は別の場所で、目の前にいる相手もまた別だった。
なるほど、このゲームのキャラクターの一人として取り入れられたということか。だから一回死んでも、何度でも生き返って戦わなくてはいけないのか。
しかしだとしたら、あの苦痛をずっと味わわなくてはいけないのだなと思うと、何だかげんなりするのだった。



145.「なんでも溶かせる薬」
『なんでも溶かせる薬開発!』
東スポにそんな文字を見つけた。記事ではなくて広告だったけど。
っておいおい。そんなんありえねぇだろ。これはよくクイズとかパズルで出される類のものなのだ。そもそも、何でも溶かせる薬を入れておける容器はあるんですか、ということだ。なんでも溶かせてしまうならば、その薬は地球の中心まであらゆるものを溶かしながら落下していくだけだろう。
だからそんな薬が実在するわけがないのだ。しかしこの広告は、東スポとは言え一応新聞に載っているのである。それがまるっきり嘘というのもさすがにないだろう。となれば、ほぼなんでも溶かすことが出来る薬が開発されたということだろうか?
もしそうだとしても特に使い道はないのだけど、ちょっと興味が湧いたのでその薬を注文してみることにした。
しばらく経ったある日、その薬が我が家に届いた。
何だかものすごく大きな梱包である。まさかこんなに大量の薬が送られてきたのだろうか、と思っていたらそうではなかった。中に入っていたのは、様々な種類のパンだった。薬はその片隅に入れられていて、化粧品っぽい入れ物の中に液体状のものが入っていた。
そもそも何でパンが送られてくるのだろうか、と疑問に思ったので説明書を読んでみることにした。それを読んで、なんだそら、と脱力してしまった。
要するにこの薬は、「ナンでも溶かせる薬」なんだそうだ。あのインドとかで食べてそうな、あのナンである。もう一度、あの時の新聞広告を見てみた。すると、「なんでも溶かせる薬開発!」と書かれていた小さな囲みを一つの広告だと思っていたのだけど、それはより大きな囲み広告の一部であったようで、それはパンの広告だった。パンの詰め合わせを誰かに贈りませんか、というやつだ。
なんだかよくわからないが、とりあえず美味しそうなパンがたくさん手に入ったのでよしとしよう。



146.「さてどうなる」
東都テレビ第七スタジオ。そこでは今、ドラマの撮影が行われている。
今日の撮影では、拳銃を撃つシーンが出てくる。その拳銃にまつわる話である。

小道具係の大谷は、撮影で使うモデルガンを持ってスタジオ内に入った。しかしそこで助監督に呼び止められ、その時モデルガンをその辺に置いてどこかへ行ってしまう。

中谷のマネージャーである小磯から拳銃を受け取った小道具係の大谷は、モデルガンを所定の位置にセットした。撮影はもうすぐ始まることだろう。

「ば~ん」
照明係の大森は、メイク係である中西に拳銃を向けられて驚いた。本物であるわけがないとは分かっているのだけど、やはりいい気持ちがしない。なるほど、これが仕返しというわけか。
そこに、ものすごい形相をした中谷がやってきた。拳銃を持っている中西に近づくと、中西を殴りつけて拳銃を奪った。大森も中西もポカンとするばかりだった。

メイク係である中西は、通路脇の台の上に拳銃が置かれているのを見つけた。今日の撮影で使うものだろう。そうだ、さっき大森さんにされた悪戯の仕返しをしてやろう。中西はちょっと借りるつもりでその拳銃を持っていった。

楽屋に戻った中谷は、自分のバッグがなくなっていることに気づいた。そんなバカな。あの中には拳銃が入ってるんだぞ。中谷は急いで楽屋を飛び出した。

出演者の一人である中谷は、同じく出演者の一人である松本に恨みがあった。今日は、中谷が松本を拳銃で撃つシーンが出てくる。このチャンスを逃すわけにはいかない。中谷は、局内になんとか拳銃を隠し持っていた。今それは、楽屋のバッグの中にある。

バッグを持ち出した中西は、通路脇の人目につかないところでバッグを漁った。何だかごちゃごちゃしている。目的のものは見つからなかったが、バッグの中には拳銃が入っていた。今日の撮影で使う小道具だろう。どうしてこんなところにあるのだろう。とりあえず小道具係の大谷のところに持っていってあげよう。

中谷は急いでスタジオ内にやってきたが、拳銃は既に所定の位置に置かれてしまっていた。さすがに衆人環視の中拳銃を摩り替えるのは難しい。仕方ない。松本を殺すのはまたの機会を待つことにしよう。

拳銃を撃つシーンの撮影が始まった。中谷は松本に向かって銃を構える。そして、引き金を引いた。



147.「理想」
僕は趣味で小説を書いている。新人賞に応募したりすることはない。代わりに、インターネット上のブログでその小説を発表している。自分ではまあまあと思える数のアクセスがあるし、時折コメントももらえるような、まあそんなささやかな趣味なのである。
ある日、ブログに載せているメールアドレスにメールが届いた。
『あなたのような人をずっと探していました。是非お会いしたいです』
正直に言って僕は、女性とはほとんど縁がない生活を送っている。彼女だって、これまで一人いただけで、それもすぐに別れてしまったのだ。どんな女性か分からないし、ネット上で知り合うというのも怖いと思ったのだけど、やはりその誘惑に勝つことは出来なかった。
そしてその当日。待ち合わせは僕が住んでいるところの駅前の喫茶店ということになった。お互いに会った時に分かるような目印を伝え合って今日を迎えたのだ。
彼女を見た時僕は一瞬で恋に落ちたと言っても言いすぎではないだろう。それぐらい可愛かった。その時だけ、僕は神様の存在を信じた。
しかし、ハッピーエンドというのはそう簡単ではないようだ。
「違う」
彼女は会うなり、僕に向かってそう言った。
「そんなダサい服を着ているわけがないし、背だってもっと高いはずだし、ブランド物の腕時計をはめていたし、眼鏡なんて掛けてなかった!」
そう言うと彼女は帰っていってしまった。
僕には何が起こったのかさっぱり理解が出来なかった。



148.「シャーロック・ホームズ村」
今自分がどこにいるのか、よくわからなかった。ここは一体どこだろうか。僕は何故こんなところにいるのだろうか。確か、どこか向かっていた場所があったような気がするのだけど、周囲の光景があまりにも様変わりしてしまっているために、イマイチそれを思い出すことが出来ない。
教会や石造りの建物なんかはたくさんあるのだけど、それ以上にやたら背の高い建物やゴテゴテした派手な看板なんかが周囲を埋め尽くしている。音も何だかすさまじい。走っている車のスピードも速すぎて怖いくらいである。
近くにあった喫茶店らしき店に入る。マスターらしき人に話し掛けることにした。
「お仕事中失礼。わたくしシャーロック・ホームズ…」
「あぁ、シャーロック・ホームズ村ね。そこに行きたいのかい?それともシャーロック・ホームズ博物館かな」
「シャーロック・ホームズ村…」
「なるほど。それでそんな格好をしてるってわけか」
「変な格好でしょうか?」
「ん?シャーロック・ホームズ村がどんなところか知らないのかい?」
「ええ、教えてもらえますか?」
「いいとも。ここから北に50キロほど行ったところにその村はあるんだ。変な村でな。そこに住む住人はある共通点があるんだ。戸籍上の名前がシャーロック・ホームズであること。もちろんそんな名前が本名のやつなんかそういないだろうから、みんな改名して行くんだけどな。俺の知り合いの知り合いも改名して、今そこに住んでるらしい。それ以外の条件は一切ない。まあそんなわけで、シャーロック・ホームズって名前のやつしか住んでない村なんだ。変だろう?一応みんな探偵を名乗っていて、だから依頼人として赴けばその村に入ることは出来るだろうよ」
なるほど、そんな村があるのか。偶然ではあるが、僕の名前もまさにシャーロック・ホームズなのだ。コセキがどうのと言っていたのがイマイチよく分からないが、しかしまあなんとかなるだろう。
僕はマスターにお礼を行ってそこを立ち去った。シャーロック・ホームズ村に行ってみよう。それからのことは着いてから考えようではないか。



149.「交換殺人」
「ニュースは見てもらえましたか?」
本当にやったんだ。僕はそう思った。パソコンの表示される文字が僕には思い。
「ええ、確かに死んだみたいですね」
僕はそう答える。チャットというのはメールよりもやり取りが速すぎて、時々ついて行けないような感覚を味わうことがある。
「分かっているとは思いますが、次はあなたの番ですよ」
確かに、言われなくても分かっている。僕らはある契約を交わした。そして、彼はそれを実行に移したのだ。次は、僕がやるしかない。
「そうですね。まだ聞いてなかったと思いますが、誰を殺せばいいんでしょう?」
交換殺人。分かりやすく言えばそういうことだ。彼とは、あるサイト上で知り合った。裏の世界の出会い系のようなもので、お互いに必要としている相手を探して繋ぐことの出来るサイトだ。僕と彼は共に殺したい相手がいた。その相手を交換して殺そう。僕らの話はまとまった。お互いに素性は明かしていない。
彼に殺してもらったのは、会社の同僚だった。不正の証拠を握られ、脅されていたのだった。その不正が今後も発覚する可能性はあるし、その同僚だけを殺せば済む話でもないのだろうが、それでも目先の安心を得たくて殺しを依頼することにしたのだ。
そしてそれは見事に達成された。今日のニュースで、その同僚が電車に轢かれて死亡した、というニュースが流れた。事故なのか自殺なのかあるいは殺人なのか、今のところ判断で来ていないようだが、間違いなくこれは彼の仕業だろう。
そして今度は僕の番だ。
「吉村保という男を殺していただきましょう」
そして、吉村保についての詳しい情報も告げられた。
まあやってやるさ。やらないわけにはいかないだろう。何としてでも成功させてみせる。

吉村保の跡をずっとつけ続けている。今日こそ決行しよう。長引かせてもいいことなんかない。
どうやって殺そうかと考えたのだけど、やはり絞殺にすることにした。返り血を浴びる心配がないというのが一番大きい。やっぱり、血は見たくない。
暗い公園に足を踏み入れた。チャンスだ。ここを逃したらもう機会はないかもしれない。僕は小走りに近づいて、吉村保の首にロープをかけた。お前には、何の恨みもないんだけど。
しかし、その瞬間だった。どこからともなく声が聞こえ、そしていつの間にか僕は組み伏せられていた。ぼんやりと、警察官の制服が見える。どういうことなんだ?
「殺人未遂罪で現行犯逮捕」
そして手錠を掛けられる。何が何だかさっぱり分からなかった。
「あばよ、ネーロン」
その瞬間、すべてを理解した。ネーロン、というのは僕のハンドルネームだ。つまり、僕がチャットでやり取りをしていた人物こそ、吉村保だったのだ。彼が僕にどんな恨みを持っていたのか知る由もないが、彼が僕を嵌めたのは事実だろう。なんてこった。きちんと計画されていたようだ。この分だと、交換殺人を訴えてもその主張はまったく通らないかもしれない。
俺の人生もこれで終わりか、とぼんやり思った。



150.「タクシー」
買い物でもしようかと、大通りをブラブラと歩いていた。特にすることもない休日。買い物と言っても、ただ見るだけのことが多いぐらいで、特に買いたいものがあるというわけでもない。
歩いている途中、何だかずっと肩の辺りに違和感があった。何だかよく分からない。まあ痛いわけでもないし、どうにもすることは出来ないだろうと放っておいたのだけど。
道の両脇のショーウィンドウを適当に眺めながら歩いていると、静かにタクシーが近寄ってきて、僕の横で停まった。なんと扉まで開いた。
近くに誰かタクシーを止めた人でもいるのかと思って見てみるけど誰もいない。誰かがここまで電話で呼んで、その誰かがまだ来ていないのかとも思ったけど、タクシーの運転手は僕を見ているのだった。
「乗らないの?」
運転席のウィンドウを下げて運転手が聞く。
乗らないのも何も、止めてはいないのだからの乗るわけがない。
そう伝えると、
「紛らわしいことしないでくださいよ」
と言って去っていった。何だそれ。どこが紛らわしいっていうんだか。
しかし同じことがその後も何度もあった。道をただぼんやろと歩いていると、横にタクシーが停まって、乗らないの?と聞かれるのだ。怒ったり不思議そうな顔をして運転手は去っていくのだけど、意味が分からないのはこっちの方である。
なので僕は、何度目かに止まったタクシーの運転手に聞いてみた。
「何で僕の横で停まるんですか?」
すると運転手は僕の肩の辺りを指して、
「ほらだってあなた、手を挙げてるじゃないですか」
というのだった。
何をバカなことを言っているのだろう。僕の両手はこうして体の脇にずっとある。手なんか挙げてるわけがないじゃないか。
すると運転手も何かに気づいたようで、素っ頓狂な声を上げて去っていった。運転手が最後に口にした言葉はこう聞こえた。
「う、腕が三本…!」
どういうことだろうか。僕は結局何が起こっているのか分からないまま、また大通りを歩き始めた。



151.「幽霊の見える薬」
「幽霊の見える薬」
ネットで売ってたので買ってみた。面白そうだな、と思ったのもあるけど、今日はお盆だ。お盆には、死者の魂が戻って来るという。去年死んだおばあちゃんとか、僕が生まれる前に死んだらしい兄とか、そういう人達の姿を見ることが出来たらいいな、と思ったのだった。
とりあえず薬を飲んでみる。飲んだ瞬間、目の前にうじゃうじゃ幽霊が見えたら厭だなと思ったけど、そんなことはなかった。お盆ということも関係しているのかもしれない。普段は僕らの周りにもいるのだけど、お盆だから儀式的に一旦幽霊達はどこかに集まっているということなのかもしれない。
その時、遠く空の向こうから、何かがやってくるのが見えてきた。黒いカラスの大群のような感じで、それは次第にそら全体を覆い始めたのだった。
その黒い塊りが近づいてくるに連れ、僕は恐怖に駆られた。それは間違いなく幽霊の集団だった。しかし、ただそれだけであるなら僕だってそこまで驚きはしない。幽霊を見ることの出来る薬を飲んだのだし、見えても不思議ではない。
恐ろしかったのは、やってきたのが人間の幽霊だけではない、ということだった。犬や猫と言ったペットはまだ理解できなくもない。しかし、牛や馬と言った家畜や、蛙やゴキブリや蝿と言った幽霊までもが大群で押し寄せてくるのだ。それがそらを覆い尽くして、僕の方へと向かってやってくる。おいおい、ちょっと待ってくれ。
僕は、幽霊が見える薬を飲んだことを後悔した。僕は、彼ら幽霊の集団がいなくなるまで目を閉じ続けていることにした。まったく、死んだおばあちゃんや兄に会おうと思っていたのに、台無しだ。



152.「服が透けるサングラス」
友人の発明家が、とんでもないものを完成させた、というので彼の研究室に行ってみた。
「これこそ世紀の発明である!」
彼はそう大口を叩いて僕にその発明品の説明をしてくれるのだった。
彼が作ったという発明品は、見た目はサングラスそのものだった。というか、どう見てもサングラスにしか見えない。
「サングラスにしか見えないとか思っただろ。それだからお前は甘いと言われるんだ。いいか、これはな、『服が透けて見えるサングラス』なのだ!」
おぉ!それがもし本当だとしたら、それはまさに世紀の発明に違いない。でも、この友人の発明品にはなかなか信頼のおけないものが多かったのだ。これまでも、空飛ぶ飛行機だの3日で理想の体重になれるダイエットマシンだの開発して、ことごとく失敗に終わっているのだった。
「どうせまた失敗作なんだろとか思っておるのか!これだからお主はいかんというのだ。ほれほれ、とりあえず掛けてみなさい」
そう言って無理矢理サングラスを掛けさせられた。
その瞬間、彼の裸が目の前に映ったのだった。うげぇ。男の裸なんか興味ねぇよ、とか思いながら、でもこれは本物だ、と僕は思ったのだった。
「原理を説明するのは難しいが、要するにそのサングラスは、生体反応を示すものだけを映し、生体反応のないものを透過する、という性質を持っているのだ。ほれ、だから今お主には、この部屋にあるテレビや椅子なんかは見えていないだろう」
確かにその通りだった。今見えているのは彼の裸ぐらいなもので…、っていや違うな。視界の端っこでちょろちょろ動いているやつもいるが…。
「あぁ、ネズミでもいるのかな。ゴキブリかもしらんが」
なるほど。まあそれぐらいの欠点ならまあいいというものだ。
それから僕は、早速そのサングラスを掛けていろんな女性の裸を見まくったのだった。とにかく誰も彼もが裸に見えるのだ。こんな素晴らしいことはない。難点は、視界の中に男がいた場合その裸も見えてしまうということと、あと車や建物がまったく映らないので、そのサングラスを掛けながら移動することはかなり困難だということぐらいである。しかし、それぐらいの困難はまあ許せるというものである。彼の友人でよかった、と僕は心底思ったものである。
僕は長いこと女性の裸を楽しんだ後、家に戻ることにした。もちろんサングラスは外して、である。これからのパラダイスの日々を思うと、どうも足取りが軽くなってしまう。
家につくと、中には彼女が待っていた。
「ただいま」
「おかえり」
同棲を初めて2年。ちょっとマンネリという感じになりつつある。そうだ。彼女がこの部屋で料理を作ったりトイレに行ったりしているのをサングラスで覗けば、いつもと違った感覚が得られるかもしれない。早速サングラスを掛けてみることにした。
しかしその瞬間、僕は驚きに声も出なくなってしまった。なんと、サングラスを掛けた状態では、彼女の姿は映らないのだ。つまりこれは、彼女が生体反応を持っていない、ということになる。まさか、彼女はロボットだとでもいうのだろうか。しかし、そうとでも考えないと説明はつかなくなってしまう…。
彼女がロボットであるかどうかきちんと確かめるにはどうしたらいいだろうか。僕はそんなことを考え初めていた。



153.「タイムマシン」
奇妙な事件が起こったということで、僕が呼び出されることになった。一応僕は、国立研究所に勤める科学者の一人である。専門は機械工学であるが、それよりも後から考えてみれば、SF小説が好きだというのが僕が呼ばれた理由ではないか、と思った。
発端は、島根県にあるとある研究所の敷地内で、不可思議な機械が発見されたことにある。機械だけが見つかったのならばそこまで騒がれることはなかたっただろうが、なんとその機械の内部から、男性二人の死体が見つかった、というのだった。警察により司法解剖は既に終わっていて、それによれば、死因は餓死であり、なんと死後少なくとも10年は経っているとのことだった。
その研究所では、敷地内に建物を増設する計画があり、そのため地面を掘り返しているところだった。その最中、その機械が見つかったのである。
その研究所に着いた僕は、早速その機械を見てみることにした。
その機械は、大雑把に言って長方形の外観をしており、電話ボックスのように見えた。中には様々なボタンやらハンドルやらがついていたが、結局何の目的で使われるものなのか、誰にも分からなかったようである。
僕はその機械を充分に調べてみた。その結果、確信は持てないし、公式の発表をすることも不可能なのだが、この機械は恐らくタイムマシンではないか、という結論を出したのだった。
「間違いない、とは言えませんが、おそらくこの機械はタイムマシンでしょう。どういう原理なのかわかりませんが、それ以外にはちょっと考えられません」
僕は、最終的にそういう報告を提示した。そしてそれからある一つの提案をしてみた。
「この機械がタイムマシンであることを確証するためには、実際に使ってみる以外にはありません」
上層部の人間は初め渋っていたが、確かにそれしかないと判断するに至ったようである。僕一人では検証としては不十分なので、僕以外にもう一人乗せて行くことにした。名乗りを挙げたのは当の研究所の若手研究員であり、僕らは二人でタイムマシンに乗ることにしたのである。
「とりあえず、五年前に行ってみることにします。何らかの形でタイムマシンの存在を証明できるよう努力します」
そう言って僕らはタイムマシンに乗り込んだのだった。

タイムマシンに乗り込み、発進ボタンを押してから、既に二日が経っている。小さな窓から外の光景が見えるが、青い光がうねうねしているような状態で、これがきっと時空を移動しているということなのだろう、と僕らは思った。
「嫌な予感がするんです」
一緒に乗り込んだ若手研究員がそう切り出した。僕もそろそろ口に出そうと思っていた頃だ。きっと同じことを考えているに違いない。
「もしかしたらこのタイムマシン、5年前に辿り着くのに5年掛かるんじゃないでしょうか?」
そう、まさに僕も同じことを考えていたのだった。タイムマシンを稼働させてから既に二日。今のところどこかに辿り着くような気配はない。しばらくしらら五年後の世界に辿り着いているのかもしれないが、その期待はあまり大きくはない。
「だとすればですよ、たぶんあそこで見つかった死体は…」
そうなのだ。嫌な予感の背景には、研究所で見つかった二人の死体の存在があるのだ。あの死体は、死後10年は経っているという。今僕らがこのタイムマシン内で死亡したとして、5年前に着くのに5年掛かるとしたら、さらに発見されるまでに5年掛かるのだから計算としては合っている。しかも、死因は餓死だとのことだった。このタイムマシン内には食料は一切ない。既に二日間飲まず食わずなのだ。このままでは、早晩餓死してしまうことは間違いないだろう。
しかし今さらどうにかなるというものでもないだろう。やはり、理想的なタイムマシンというのは机上の空論でしかないのだろうか、と僕は考えていた。



154.「長い長い階段」
何だか私は、ものすごく長い階段をずっと昇っているのだった。それに気づいた瞬間、あぁきっとこれは夢なんだろうな、と私は思った。たぶんきっと、これは夢だ。
ものすごく幅の広い階段で、端っこが全然見えない。高さもとんでもなくあって、上がどこまで続いているのか全然見えないのだった。
私は、何故かその階段を昇っている。理由は全然分からないけど、何故か昇らなくてはいけないような気分がしてくるのだった。まあいい。昇らなくてはいけないというのであれば昇ろうではないか。私は一歩一歩足を踏み出しながら、懸命に階段を昇り続けた。
周りで階段を昇っている人は様々だった。老若男女、老いも若きもいろいろだった。私は中学生ぐらいで、その年代の男女が一番多いような気もした。一体何の階段なんだろうな、と私は思った。
時々変な人もいる。例えば、階段なのにバイクで昇ろうとしている人や、気球を使ったりしてそもそも階段を昇るのをサボっているような人もいた。いいなぁ、私も自転車か何かで昇りたいなぁ、なんて思うのだけど、まあいいや真面目に歩いていこうじゃん、と思ったりもした。
しばらく歩いていくと、何だか休憩地点みたいなところが見えてきた。見ている限り、どうやらお茶なんかを出してくれるようだ。そろそろ喉も渇いてきたところだった。あそこまでなんとか辿り着こう。
休憩所に辿り着いた私は、冷たいお茶を頼んで、椅子に座ってゆっくりした。その時、その休憩所に看板が掛かっているのに気がついた。
『大人の階段休憩所』
なるほど、この階段は『大人の階段』だったのか、と思った。早く昇りきって大人にならないと、と思う一方で、大人に見える人でもまだまだ大人じゃない人ってたくさんいるんだなぁ、とも思った。



155.「ある意味桃源郷」
鉱山で鉱物を採取するのを仕事にしている男がいた。鉱物というのは、研究用や学術用にそれなりに需要がある。また、希少価値の高いものを掘り当てれば一発当てることだって出来る。安定しているとは決して言いがたい仕事ではあるが、彼はやりがいを感じていたし、四十に届きそうな年齢になり、体力的に厳しくなっても、まだまだ続けたいと思っていたのだった。
そんなある日のこと。彼がいつものように鉱山で鉱物を掘っていると、突然地面が崩れてしまった。彼は、驚く間もなくそのまま落下してしまったのだった。
どれくらい落ちたのかも分からず、落ちてからどのくらい時間が経ったのかも分からなかったが、とにかく彼は無事のようだった。身体のあちこちが痛むが、骨折をしたりしているところはなさそうだし、内臓も痛んではいないように思う。とりあえず助かった、と思いながら彼は目を開いた。
その時彼の目に飛び込んで来たものは驚くべきものだった。
彼は初め、花畑にいるのだと思った。辺り一面様々な色に彩られた花が所狭しと咲き乱れているのだと思ったのだ。
しかし、よく見てみるとそれは花ではなかった。それは鉱物だったのだ。様々な鉱物が組み合わさって、花のように見えたのだった。
彼はそれに気づき、再度驚かされることになった。そこには、希少価値の高い鉱物までもが普通に咲き乱れていたからだ。これを持ち帰って売れば大儲けできるぞ、と彼はほくそえんだのだった。
しかし、彼ははたと気づいた。彼が今いるところはひどく明るいのだ。見上げてみれば、太陽らしきものがある。しかし、どう考えても彼は地上にいるとは思えないのだ。確か鉱山の地面が崩れて落ちたはず。その落ちた先の空間に太陽みたいなものがあるわけがないじゃないか。
そこで彼はようやく思い至った。まさか、ここはいわゆる地底世界なのではないか、と。もしそうだとするなら、ここから何とか地上に戻らなくてはすべて意味がない。しかし本当にここから帰ることは出来るのだろうか。
僕は、希少な鉱物を見つけた興奮も忘れて、どうしたら地上に戻ることが出来るだろうか、と頭をフル回転させることになった。



156.「ブラック・ジャック」
将来の夢、という題で作文を書くことになった。作文は苦手だ。でも、将来の夢、という題でなら書くことはある。
僕は将来、「ブラック・ジャック」になりたいのだ。僕は作文に、何故ブラック・ジャックになりたいのか、ブラック・ジャックのどこが素晴らしいのか、というようなことをひたすら書き続けていった。
先生に提出してしばらくして、その作文は返ってきた。作文には赤ペンで、先生からの感想が書かれていた。僕の作文には、
『先生はブラック・ジャックのことをあまりよくは知りませんが、すごくかっこいい人なんでしょうね。でも、マサル君はマサル君なんであって、ブラック・ジャックではないのです。マサル君がブラック・ジャックになるのはちょっと難しいんじゃないかな、って先生は思います。ブラック・ジャックじゃなくて、お医者さんになりたい、という方がいいと思います。』
ブラック・ジャックになんかなれるわけがない、と言われているのだな、と思った。何でだろうか。そう考えて分かった。そうか、ブラック・ジャックはもうこの世の中に既に一人存在してしまっているんだ。ということは、本物のブラック・ジャックを殺さないと、僕はブラック・ジャックになれないということか。うーむ、これは困ったな。憧れのブラック・ジャックを殺してしまうのは残念だけど、でもブラック・ジャックを殺さないと僕がブラック・ジャックになれないというなら仕方ない。
夢を叶えるというのは大変なんだな、と僕は心底思ったのだった。



157.「絶対音感」
今僕がいるところは、とある大学の研究室の一角だ。研究室と言っても、フラスコやビーカーがあるわけでもない。分厚い難しそうな本とパソコンが所狭しと並んでいるようなところだった。
僕がここに呼ばれた理由は分かっている。それは僕に『絶対音感』があるからだ。
僕は自分の能力を『絶対音感』って読んでるけど、それは辞書に載ってるような意味じゃない。普通絶対音感っていえば、音を聞くだけでそれがドなのかソなのかわかる、というようなことを指すんだろうけど、僕の絶対音感は違う。僕は、何か音を聞くだけで、それが何の音なのか完璧にわかってしまうのである。その能力を研究したいということで、僕がここに連れてこられたのだった。
「どうもこんにちわ」
教授らしき人が研究室に入ってくる。白髪をしたおじいさんだ。
「君が、神足真君だね。噂は聞いているよ」
そう言いながら教授は手の動きだけで助手らしき人に指示を出している。と言っても、いくつかの音源とその再生機械らしきものをセットしただけなんだけど。
「さっそくだけどいくつか実験をさせてくれないか。まあ何度もやられていることだろうが、いくつか音を聞いて、その音が何の音なのか当ててくれるだけでいい」
そう言って教授は音源を再生し始めた。
「これは?」
「トイレットペーパーを3と5/8回転させた時の音です」
「これは?」
「雪の上に柊の枯葉が落ちた時の音です」
「これは?」
「真下武夫が自分で作った野菜炒めを三角コーナーに捨てている音です」
「ほぉ、人名まで分かるのか。そりゃあすごいもんだな。じゃあこれは?」
「アントニオ猪木がビンタをした時の音と、シャネルの香水瓶をフローリングの床に落として割ってしまった時の音を合成したものです」
「素晴らしい。本当に君の能力は素晴らしいよ」
教授は満足そうだった。まあこれぐらいは朝飯前である。ずっと昔から普通に出来ていたことなのだ。今さらどうこう言われたところで何ともない。
「そんな君に、是非聞いてもらい音があるのだよ」
教授はそういうと、それまでとは違った形状の音源テープを持ち出してきて、セットした。
「これなんだが、分かるかね?つい一週間ほど前、日本の人工衛星がキャッチした音なのだが、誰もこれが何の音なのか分からないのだ。君ならもしかしたら分かるのではないかな、と思ってな」
その音を聞いた瞬間、あぁなるほど、と思った。もう終わりなのか。
「これは、神様の時限爆弾です」
「神様の時限爆弾?」
「まあちゃんとした用語がそもそもないのでそう表現するしかありませんが、イメージとしてはビッグバンの逆だと思ってもらえればいいと思います。
宇宙は46億年前にビッグバンによって誕生したと言われています。それを起こしたのが神様かどうかは分かりませんが、そういう存在がいたとして、神様はその時、宇宙を終わらせる仕組みも宇宙に組み込んだわけです。
それが、今僕が神様の時限爆弾と呼んだものです。ビッグバンとは真逆の性質を持っていて、それが起こるとすべてのものが一点に収束する、そんなものだと思っていただければいいと思います。今聞こえているその音は、そのカウントダウンです」
「そ、それで、その神様の時限爆弾はいつ発動するのかね」
「申し上げ難いんですけど…どうやら後5秒後のようですね」
「な、なんだとー」
5秒後、神様の時限爆弾は発動し、世界は消滅した。



158.「お見合い」
何度やってもお見合いというのは慣れないものだ。いつも母親が話を持ってきて、お義理でそれに付き合わされることになるのだけど、めんどくさいったらありゃしない。せめてもう少しまともなやり方は出来ないものかねぇ、なんて思ったりしてしまうのだ。
何がめんどくさいって、アホみたいに相手にダラダラと質問をぶつけてくることだ。これはどうにかならないものだろうか。
「晶子さんは、趣味はなんですか?」
「お裁縫とクラシック音楽を聞くことです」(ホントはゲーセンとパチンコだけど)
「いい趣味をお持ちですね。僕もクラシック音楽はよく聞くんですけど、何が好きですか?」
「曲が好きなだけで、作曲者とか演奏者とかあんまり詳しくないんですよね」(まあ聞いたこともないしね)
「そうなんですか。僕の知り合いにオーケストラでホルンをやっているやつがいるんで、今度チケットを取ってもらいますよ。一緒に行きましょう」
「えぇ、楽しみですね」(楽しみなわけないだろうが)
「料理とかされます?」
「得意ですよ~」(ホントは全然しないけど)
「いいですね。得意料理はありますか?」
「肉じゃが…っていうのも普通すぎるんで、ミネストローネが得意ですね」(ミネストローネなんて食べたこともないけどね)
「食べてみたいですね。料理が得意な女性はいいと思います」
「やっぱりそれぐらいは出来ないといけないですよね」(全然そんなこと思ってないけど)
(中略)
「なんだかすごくピッタリな人に出会えたような気がするな。晶子さんみたいな人に出会えてホントによかったと思いますよ」
「私も、大吉さんみたいな人に出会えるなんて、生きててよかったです」(いや、ホントは私、死んでるんだけどね)



159.「電子ブック」
「ついに完成した」
ボサボサ頭の博士はそう呟くと、どかっと椅子に座り込み、大分前に淹れてあったコーヒーを一口啜った。
博士は、周りからそう呼ばれているというだけであって、実態はただの素人発明家である。その彼が、長い年月を掛けて研究し続けてきたシステムが、今日ようやく完成したのだった。
それは、本に革命をもたらす技術であった。
博士が完成させたのは、いわゆる電子ブックであるが、しかしディスプレーに文字が表示されるだけのような代物ではない。
博士はまさに、紙の本を読むかのようにして読むことが出来る電子ブックを作り上げたのだった。
見た目は、まさしく普通の本である。文庫サイズや新書サイズなどいろんなサイズを作ることは出来るが、とりあえず博士が完成させたのは四六版と呼ばれる大きさのものだ。素材は紙ではないが、紙のような手触りを実現したカバーであり、中身も紙で出来ているように見える。まさに見ただけでは本物の本なのである。
この電子ブックは、電源を入れない状態では中は白紙の紙のままである。しかし、電源を入れ読みたい本を選択すると、白紙だったはずの紙に文字が浮かびあがるのである。
内臓のハードディスクには約100冊分を収める容量があり、またSDカードなどを入れることも出来る。
これがあれば、買った本が家に溜まっていくということもなくなるし、また電子ブックの最大の難点であった、紙の本を読むというあり方を失うこともないわけで、印刷技術の発明以来の本革命と言えるような発明であった。
「やっとこれで僕の夢が叶う」
博士は安堵のため息をつくのだった。

50年後。
博士の発明した電子ブックは、未だに普及していなかった。いや、その表現は正しくない。正確に言えば、まだ世の中に出ていなかったのである。
「博士は、どうして自らの発明品に法外な契約金を設定しているのでしょうか?」
マスコミの取材である。50年前、革命的な電子ブックを発明し特許を取った時にも、マスコミによる取材を受けた。しかしその時に、すべては50年後に話しますよ、と言ったのだった。まさか覚えている人間がいるとは思わなかったが、しかしこれだけのマスコミが集まっているとなると、自分の発明もなかなかのものだったのだな、と思える。
「僕はね、本屋っていうのが大好きなんですよ」
僕は特許を取った電子ブックに、使用料として莫大な金額を設定した。そのライセンス料を払って採算を取ることはまず不可能なほどの天文学的な金額だった。出版業界からは、常軌を逸している、と何度も言われた。そんな値段で交渉する出版社などあるわけがない、と。各種機器メーカーも同様の見解だった。
僕の望んだ通りだった。
「僕の発明した電子ブックがもし実用化されてしまうと、本屋ってなくなっちゃうでしょ?データでいくらでも本が買えるようになっちゃうんだからね。でもそういうのって僕は好きじゃないんですよ。やっぱり本屋で本を選ぶっていうのが好きなんです」
「じゃあ博士は、どうして電子ブックの開発をしたんですか?」
「簡単じゃないか。もし僕以外の誰かがあれを発明したら、今頃それが世間に広まっていたことだろう。僕はそれを阻止したかったんだ。電子ブックを世の中に広めないために、先に自分で特許を取っておいたんだよ」
そう、僕の夢は叶ったのである。



160.「大学受験」
「中道武信さん、どうぞ」
「あぁ、先生、よろしくお願いします」
「中道さんは今日が初めてでしたよね。どうされました」
「いやね、昔っから身体が丈夫なことだけが取り得だったんだけどもね。どうも最近、腹の辺りが痛くってしょうがないんだよ」
「どんな風に痛いんですか?」
「いやな、この辺がさ、ズキズキって感じで痛むわけだよね。痛み自体はそんなでもないんだけど、鈍痛っていうのかねぇ、ずっと痛いんだよねぇ」
「なるほど。ちょっと口を開けてもらえますか…。はい、じゃあ服をちょっと上げて…。」
「先生、年なんか取りたくないもんだやね。まったく、今の時期は大変なんだから、体調なんか崩してられないってんだよね」
「そうですよねぇ。えーと、恐らく風邪でしょうね。お薬出しておきますので、しばらくしてもよくならなかったらまた来てみてください」
「その薬、すぐ効きますかね。再来週試験があるもんで、なるべく早く治さなくっちゃいけないんですよ」
「まあ効き目は人それぞれでしょうけどね。割合効く薬だと思いますよ。それで、試験って何の試験なんですか?」
「あぁ、センター試験ですよ」
「なるほど。お孫さんが受験なんですね。それで移しては悪いっていう…」
「いやいや、センター試験はわたしが受けるんですよ。今も試験勉強の真っ最中でしてね。追い込みで大変ですよ」
「素晴らしいですね。そのお年でまた大学に再チャレンジなんて。なかなか真似できるものではありませんよ」
「再チャレンジっていうかねぇ…。いやね、正直に言っちまいましょう。違うんですよ、先生。わたしはね、浪人なんですよ。浪人」
「浪人…ですか?」
「そうなんですよ。今56浪目でしてね。あれ、55浪目だたかな?こんなことも覚えてられないようじゃまた試験は危ないかもしれませんね。ハハハ。毎年東大を受けてるんですけどね、やっぱりなかなか受からないものですよね。来年こそは、来年こそはって毎年思い続けている内に、いつの間にかこんな年齢になってしまいましたよ。やっぱり東大の壁は厚いですなぁ。とりあえず将来どうしたいのかっていうのか、東大に入ってから考えようって思ってるんですけどね。まずはほら、やっぱり東大に受からないことにはどうにもならないですよね。頑張らないと。まずはセンターで足切りにならないようにしないと…」
「…」



161.「両親に御挨拶」
二人の男女が、出会い系を通じて知り合います。
「初めまして」
「初めまして」(うわっ、メチャクチャ可愛いじゃん。ラッキー)
「こういうのって初めてだからよくわかんないですけど」
「僕も初めてだけど、とりあえずどっか遊びに行こうか」(こりゃ何とかして今日中にホテルまで行きたいもんだぜ)
「…マコトさんは、結婚前提で私とお付き合いしてくれますか?」
「もちろん」(もう結婚の話か。ちょっと早いけど、こんな美人と結婚出来るならいいかな)
「じゃあ、ちょっと急なんですけど、ウチの両親に会ってくれません?そんな深い意味はないんですけど、付き合い始めたら絶対に紹介しろってうるさくて」
「両親とかぁ。ちょっと緊張するけど、いいよ」(マジかよ。まあいいか。なんとかなるだろ)
「それでね、ちょっと私の実家遠いんですけど、大丈夫ですか?」
「遠いって北海道とか?」(まさか外国ってことはないよな)
「まあもうちょっと遠いんですけどね」
「まあでも大丈夫だよ」(ここは物分りのいいところを見せておかないとな)
「よかった。じゃあちょっと目をつむってもらえます?」
「いいよ」(おぉ、キスでもしてくれるのか!)
「はい、開けていいですよ」
「うぎぐぐぐぐぐぐぐ…、ぐ、ぐるじい」
「やっぱりあなたもダメですかぁ。地球の方を月に連れてくると皆こうなってしまうのよね。はぁ、お父さんに地球人の旦那を連れてくるって啖呵切っちゃったしなぁ。なんとか頑張らないと…」



162.「未来日記」
3月8日
明日はユウヤ君がプレステを持ってウチに遊びにきてくれるはずだ。やりたかったゲームを手に入れたって言ってたからそろそろのはず。

3月9日
明日は家族で外食に行けると思う。出来ればラーメンがいいな。近くに行列の出来るラーメン屋がある。そこに行きたい。

3月10日
明日は僕の誕生日だから、プレゼントをもらえると思う。何をくれるかな。めちゃイケのDVDが欲しいんだけど。

3月11日
明日は自動販売機でジュースを買ったら当たりそうな気がする。道を歩いていたらお金を拾えそうな気がする。宝くじを買ったら当たりそうな気がする。

「何読んでるんだ?」
「あぁ、これはあれだよ。ちょっと前の…」
「ナカタ君のやつか?」
「そう。彼が書いてた日記だよ」
「未来日記ってわけか」
「次の日のことを考えてないとやってられなかったんだろうな」
「学校でのいじめに家庭内暴力、万引きなんかも強要されてたらしいし、お金も大分盗られてたらしいからな。両親の喧嘩も絶えずとくりゃあ、そりゃあ死にたくもなるかもな」
「彼の未来日記はさ、ほとんど実現しなかっただろうけど、一つだけ現実になってるんだよ。ほらここ」

『3月29日
明日僕はきっと自殺しているだろう』



163.「神様の手帳」
僕は道を歩いている時、ある手帳を拾った。中を見てみると、僕にはまったく理解することの出来ない数式で埋まっていた。こんなもん要らないな、と思って捨てようとしたのだけど、ふと思いとどまった。そういえば、息子が数学が得意だったな。見せたら何か分かるかもしれない。

神様は道を歩いている時、ふと気づいた。
(やっば、落としたわ)
手荷物を検めても、どこからも出てこない。
(まずいな、あの手帳はなくすわけにはいかないんだが)
それは、ありとあらゆる数学に関しての真理が載っている手帳なのだった。あれがもし数学の分かる人間の手に渡ってしまえば、数学という学問はすべて達成されてしまうことだろう。そうなれば、地上から数学という学問が消えてしまうことだって考えられる。
(あぁ、まずいまずい。でも神様が警察に行くわけにもいかないしなぁ)
神様はどうしたらいいのか悩んでいるのだった。



164.「障害」
白いご飯をモグモグと食べる。僕の周囲には、白いご飯以外何もない。味噌汁もおかずも一切。
「ねぇ、よくご飯だけで食べれるね」
妻はよく僕にそう言う。
いや、妻だってもちろん分かってて言っているのだ。何せ長い付き合いだ。僕の障害についてはちゃんと理解してくれている。それでも、時々こうしてつい口に出てしまうのだ。やはり普通の感覚では、ご飯しか食べないというのはよほどおかしなことなのだろう。
そういえば、学生時代は辛かったよな、と思い出す。
中学までは給食だった。僕はあの給食というやつが何よりも辛かったんだ。僕が子どもの頃は、給食を残すなんて許されなかった時代だから、僕も初めの内は無理矢理食べさせられたものだ。人生の中で、あれほど苦痛だったことはない、と今でも断言できる。今だって、僕の障害についてはわからないことが多すぎるのだ。当時、周囲に僕の障害を理解してくれた人がいたとは思えないし、それは仕方ないことだったと今では僕もきちんとわかっている。
給食を食べることがあまりにも苦痛であるということが周囲に段々理解されるようになっていった。僕の場合、食べ物が口に入った瞬間嘔吐感がやってきて、口に入ったものがまだ胃に到達する前に吐いていたのだ。それが毎日だった。その内僕は特例でお弁当持参が許可されるようになった。当然僕の食事は、白いご飯だけである。周りの友達には、よくご飯だけで食えるよなぁ、飽きないのかよぉ、と散々言われたものだった。
「まあしょうがないよね。舌が過敏すぎるんだから」
僕を診断してくれた医者は、妻を同席させた場で、分かりやすく花粉症に喩えて説明してくれた。花粉症は、免疫機能が過敏に反応することによって引き起こされる。僕の障害も同じで、味覚に関して異常なほどの反応をするのだ。通常の人間の一万倍味覚が敏感だ、と診断された。
そのせいで僕は、基本的に味のある食べ物は食べられなくなってしまった。この「味のある食べ物」というのは普通の人にとってって意味で、僕はありとあらゆるものに味を感じてしまう。普通の缶入りのジュースを飲んだだけで舌が溶けそうなくらい甘ったるく感じるし、チョコレートなんて食べたらヤバイ。どんな料理を食べても塩辛く感じてしまうし、醤油なんか口に入れたら舌がもげるんじゃないかという気がする。口にちょっとでも海水が入るととんでもないことになるので、海で泳げないくらいだ。
僕にとって安全な食べ物というのは、お米や食パン寒天と言ったようなものである。そういう、普通の人にはそこまで明確に味を感じられないような食べもので、僕は様々な味覚を楽しむことが出来るのだ。ご飯だけで飽きないのかとよく聞かれるけど、とんでもない!ご飯に含まれる味覚をすべて堪能するにはまだまだ食べたりないくらいなのだ。
「まあ、凝った料理を作らなくていいから主婦としては楽チンだけどね」
一つ妻には内緒にしていることがある。ちょっと前に我が家では無洗米を買うことにした。僕がそうするようにお願いしたのだ。妻としては、お米を洗う手間が省けると言って喜んでいた。
僕が気になったのは、前食べていたお米から男の臭いを感じたのだ。恐らく男に触れた手でお米を研いだからだろう。たぶん妻は浮気をしているのだろう。しかし、それはいいのだ。大事なことは、僕が美味しいお米を食べられるかどうか、ということ。無洗米に変えてから不快な臭いは消えたので助かったのだ。



165.「倉庫」
僕はもう、どのくらいここに閉じ込められているんだろう。
暗くて、何も見えないところだ。遠くに足音や人の声なんかが聞こえてくることはあるけど、誰も僕には気づかないみたい。僕がここにいる意味ってあるんだろうか。そもそもどうして僕はここにいるんだろうか。
昔はいろんなところを旅したものだった。作業服を着たおじさんに抱えられながら、あるいはトラックの後ろで大人しくしながら、いろんな場所へ連れて行ってもらったものだ。その度毎に、最終的にここに戻ってきたことだけは覚えている。作業服を着たおじさんは時々、可哀相だななんてことを僕に言ったりした。たぶんそれは、いつもここに戻ってきてしまうことに対してそう言っていたのだろうけど、僕にはよくわからなかった。何となくだけど、この場所が好きだったんだ。
昔は、仲間だってたくさんいた。僕と同じ顔をした仲間が一杯いて、全然淋しくなかった。どこかに行く時もまとまっていく時が多かったし、ここに返ってくる時だってそれは同じだった。
でもある日のことだった。突然仲間が全員いなくなってしまったんだ。おじさんは僕に、「サイダンされたんだ」なんて言ったけど、僕にはその意味はよくわからなかった。もういなくなってしまって、二度と戻ってこないんだろう、ってことだけは分かった。
おじさんは、何故か僕だけは「サイダン」しなかったらしい。「お前は特別だよ」と言って、僕を今いるこの暗い場所に閉じ込めてしまったのだ。
それから僕はずっとここにいる。あれ以来誰も僕の様子を見に来ることはなくなった。ずっとずっとここにいて、ただぼんやりとしているだけだ。
いつものようにそんなことをつらつら考えている時のことだった。こっちに向かってくる足音が聞こえたかと思うと、扉が開くような音がして、ここに誰かが入ってきたのが分かった。その誰かは、耳に当てた小さな機械で誰かと喋っているみたいだ。
「ちょっと待ってくださいね。ここだったらもしかしたらあるかもしれません」
そんなことを言いながらその人は辺りをひっくり返していく。
そして僕の目の前にやってきたんだ。その人は僕に手を伸ばすと、すっと抱え上げて、そして悲鳴のような声を上げた。
「ありましたよ!そうです、お探しの『水とやすらぎは天空に』です!よかった。じゃあすぐそっちに向かいますんで」
その人は僕を抱えたままどこかに行こうとしているみたいだ。そういえば、久々に僕の名前も呼ばれたような気がする。あまりに長いこと呼ばれてなかったから、自分の名前だっていう感じがあんまりしなくなっちゃったんだけどね。
僕を抱えている人の手から、何だか興奮しているような熱気を感じて、僕は何だか、初めて自分の使命を果たせるんじゃないかって、そんな気分になれたんだ。
関連記事
スポンサーサイト

Comment

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

Trackback

http://blacknightgo.blog.fc2.com/tb.php/2846-4e6996de

 | ホーム | 

プロフィール

通りすがり

Author:通りすがり
災害エバノ(災害時に役立ちそうな情報をまとめたサイト)

サイト全体の索引
--------------------------
著者名で記事を分けています

あ行
か行
さ行
た行
な行
は行
ま行
や行~わ行

乃木坂46関係の記事をまとめました
(「Nogizaka Journal」様に記事を掲載させていただいています)

本の感想以外の文章の索引(映画の感想もここにあります)

この本は、こんな人に読んで欲しい!!part1
この本は、こんな人に読んで欲しい!!part2

BL作品の感想をまとめました

管理人自身が選ぶ良記事リスト

アクセス数ランキングトップ50

TOEICの勉強を一切せずに、7ヶ月で485点から710点に上げた勉強法

一年間の勉強で、宅建・簿記2級を含む8つの資格に合格する勉強法

国語の授業が嫌いで仕方なかった僕が考える、「本の読み方・本屋の使い方」

2014の短歌まとめ



------------------------

本をたくさん読みます。
映画もたまに見ます。
短歌をやってた時期もあります。
資格を取りまくったこともあります。
英語を勉強してます。













下のバナーをクリックしていただけると、ブログのランキングが上がるっぽいです。気が向いた方、ご協力お願いします。
にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村

アフィリエイトです

アクセスランキング

[ジャンルランキング]
本・雑誌
11位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
和書
9位
アクセスランキングを見る>>

アフィリエイトです

サイト内検索 作家名・作品名等を入れてみてくださいな

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

月別アーカイブ

Powered By FC2ブログ

今すぐブログを作ろう!

Powered By FC2ブログ

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

カウンター

2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)