2008年に書いたショートショート集 No.99~No.123
99.「偉大なる発明家」
タノヤマは、天才であった。とにかく天才であった。何に秀でていたかと言えば、発明であった。タノヤマに作れないものはない、とまで言われたほどだった。
しかしタノヤマは同時に、とんでもないめんどくさがり屋であった。人類の至宝と呼んでもいいくらいの頭脳を持ちながら、それを世のために使おう、などと考える男ではなかった。事実、タノヤマが天才であったことを世の人間が知ることが出来たのは、タノヤマの死後100年以上が経ってからのことであった。生前タノヤマはその才能を、すべて自分のために使っていました。タノヤマの死後、彼が完成させた様々な発明品が見つかるようになり、ようやく陽の目を見るようになったのです。その発明品群は、今日の科学技術の進歩に大いに貢献するものでしたが、同時にタノヤマ個人にしかメリットのない発明品も多く、タノヤマの評価は綺麗に二分する形になっています。
矛盾することを言うようですが、実はタノヤマはまだ死んではいません。いやこの説明も正しいとは言えないのかもしれないのですが、この微妙な点については後々分かるでしょう。タノヤマには、便宜上死んだ日というのが与えられていて、そこから死後という呼び方をしているわけです。
というわけで、タノヤマの生前の様子を覗いて見ることにしましょう。タノヤマには家族もなく、また友人づきあいもほとんどしなかったために、その死後タノヤマの生活について知る手掛かりは一切なかったと言っていいです。その発明品群から、ぐーたらな生活を送っていたのだろう、と推測はされていますが、細かな部分は何も分かっていません。ですが、まあこれは小説なので、その誰も知るはずのないタノヤマの生活を神の視点から見てみることにしましょう。
タノヤマは、人里離れた、というか山奥も山奥、一体こんなところで生活をして、どこで発明するための部品を手に入れるのだろう、と誰もが不思議に思うような、そんなところに住んでいました。住居は古びていて、まるで小屋かあばら屋と言った雰囲気でしたが、しかし使い勝手だけはかなりいい家でした。もちろんそのすべてはタノヤマの発明によるものです。衛星と勝手に繋いで世界中どこの風景でも見ることの出来るテレビとか、世界中どこの放送局のラジオも自由に聞ける(しかも翻訳もしてくれる)ラジオとか、食べたいものを紙に書いて入れると完成した料理が出てくる電子レンジとか、そんな普通ではありえないような代物が部屋中を埋め尽くしていました。
(あぁ、めんどくさ)
これあタノヤマの口癖です。タノヤマはとにかく日々めんどくさくてめんどくさくて仕方がありません。掃除をするのがめんどくさくて、指定した場所(床や壁や家具など)だけ指定した分だけ時間を遡ることが出来る擬似タイムマシンを開発したり、雨がうっとうしくて、天候を自在に制御することの出来る装置を開発したりして、とにかく煩わしいことから逃れようと日々頑張っていました。
(あぁ、めんどくさ)
それでも彼には、ありとあらゆることがめんどくさくて仕方ありませんでした。
というわけでタノヤマは、これでもかというぐらい発明をすることになります。
(まず歩くのがめんどくさいな)
そう思えば、歩かなくてもいいような装置を開発します。
(自分が必要だと思う時以外は耳を閉じていたいなぁ)
そう思うと、「耳用まぶた」とでも呼ぶべきものを作りあげます。
さらに彼の発想はどんどんとおかしくなっていきます。
(まばたきするのがめんどくさい)
(呼吸をするのがめんどくさい)
(何か食べるのがめんどくさい)
(トイレに行くのがめんどくさい)
そうやってタノヤマは、どんどんとめんどくささを解消する発明を生み出していきます。
その内にこんな風に思うようになりました。
(考えるのがめんどくさいな)
そこでタノヤマは、自分の代わりに自分のことについて考えてくれる機械を開発しました。これで、タノヤマ自身は何一つ考え事をしなくても、何かを考えていられるようになりました。以後生み出される発明品は、すべてこの機械が思考することになります。
さて、彼はどんどんめんどくささから解放されていきます。そしてある時タノヤマは(というかタノヤマの思考を代行する機械は)思います。
(生きてるのがめんどくさいな)
そこでタノヤマは、タノヤマ自身が生きていようが死んでいようが関係なく、タノヤマの代わりに生きてくれる機械を開発しました。
後世の人間は、タノヤマがこの機械を使った日を、便宜上タノヤマの死亡日としています。
タノヤマの身体は、今もとある研究室にあります。生きているのか死んでいるのかと聞かれると困りますが、少なくともタノヤマの代わりに生きることを代行する機械は未だに作動しています。もちろん、タノヤマの代わりに思考を代行する機械も作動しています。しかし哀しいかな、タノヤマはずっと一人で生活をしていたために、自分が考えたことを誰かに伝える機械をついに作ることはしませんでした。よって、タノヤマが現在生きていようが死んでいようが、コミュニケーションがまったく取れないので、死んでいるのとほとんど変わらないということになります。
発明家としては、千年に一人出るかどうかと言われた天才だと言われますが、しかしタノヤマの全体的な評価は、あいつはバカだ、というものに落ち着いているようです。
100.「切腹サムライ」
新聞記事1
「9日未明、○○県北部にある山林で、女性のバラバラ死体が発見されました。頭部や右手首、内臓の一部などが見つかっておらず、捜索が続けられています。現在のところまだ身元は判明しておらず、20代から30代の女性だということです。
今年に入り、同様のバラバラ殺人事件が相次いで起こっています。本件ですでに14件目ということになります。被害者に共通点はなく、性別や職種などまちまちですが、一つだけ明確な共通点があります。それは、必ず体の一部が発見されない、ということです。見つからない部位には共通点は特にないようです。また同じく共通していることが、腹部を切り裂かれ、内臓を持ち去られているという点です。初めの二件の被害者が女性であり、かつ子宮が持ち去られていたために、結婚や妊娠に動機を持つ者の犯行ではないか、と思われましたが、三件目の被害者が男性であったため、違うと判断されました。警察では、被害者同士の共通点を探ると同時に、未発見の部位に加害者の痕跡が残されていることを期待し、その発見に全力を注ぐ、としています」
新聞記事2
「最近巷を騒がせている『切腹サムライ』をご存知でしょうか?東京、横浜、千葉辺りでよく目撃され、動画投稿サイトなどでも話題になっているようです。
切腹サムライは、テレビのコントで着るような侍の格好をして、『切腹サムライ参上!』と叫んで現れます。最近ではその声を聞くや、周囲から人々が集まってくるそうです。
切腹サムライはその場に座り込むと、懐から短剣を取り出します。そしておもむろにその短剣を腹部に突き刺すわけです。右手に持った短剣を左のわき腹に刺し、そこから一息に短剣を右のわき腹へと引きます。すると切腹サムライの腹部は真一文字に引き裂かれ、真っ赤な血が流れ出ます。しばらくすると腸が飛び出してきます。どう見ても、本当に腹を切ったとしか思えない有り様です。
さてそうして内臓が飛び出すまで時間が経つと、どこからともなく介錯人がやってきて、切腹サムライの首を斬りおとす真似をします。それを合図に切腹サムライは突っ伏し、このショーはお仕舞となります。
もちろん切腹サムライはこの後むくりと起き上がり、周りの聴衆に向けて感謝を述べます。まるで先ほどの切腹などなかったかのようです。内臓は飛び出たままだし、血もそのままで続けているのですけど、何故か切腹サムライは平気な顔です。それから大急ぎで内臓をかき集め、出来るところまで血を拭きとって、切腹サムライは立ち去って行きます。
聴衆からは絶大な人気を誇るこの切腹サムライですが、警察では最近警戒を強めているそうです。真似事とは言え公衆の面前ですることではないし、また間違って子どもが真似して本当にお腹を切ってしまうこともあるかもしれません。また、もし短剣が本物であれば、銃刀法違反でもあります。最近では切腹サムライの方も警察にマークされていることを意識しているようで、立ち去るスピードが速くなっているといいます。
真のエンターテイナーなのか、あるいは狂気の伝道者なのか。そのどちらとも言いがたいですが、これからも切腹サムライは話題を提供してくれることでしょう」
ある刑事の日記
「どうやら俺はとんでもないことに気づいたようだ。しかし、一介の警官に何が出来るだろう。刑事の連中にそれとなく教えるか?はん。彼らが交番の警官の意見なんか聞くわけがない。しかし、この事実は恐らく誰も気づいていないのではなかろうか。
世間を揺るがせているバラバラ殺人事件と、巷を賑わせている切腹サムライ。恐らくこの二つは関係がある。
根拠は明白だ。俺は切腹サムライを取り締まるために、切腹サムライがこれまでいつどこに出没したのかをきっちりと調べることにした。すると、切腹サムライがどこかに現れるのは、バラバラ殺人が行われたと思われる日の翌日なのだ。切腹サムライ本人が殺人を犯しているかどうかそれは分からないが、少なくとも無関係ということはないだろう。
恐らく、どんな仕掛けになっているか知らないが、切腹サムライのショーをするために本物の人間の内臓が必要なのだろう。しかし狂った人間がいるものだ。切腹のショーをするために殺人とは。
さてどうしたものか。匿名で捜査本部にでも投書を出すか」
告白書「切腹サムライは私が作った」の著者のインタビュー
「切腹サムライが連続バラバラ殺人の犯人だって知ってたかだって?そんなこと知るわけなかろう。わしゃ手術をしただけだ。ホント、依頼を受けた時はこいつは頭がおかしいんじゃないかと思ったよ。
わしのした手術は、要するにやつの腹部に空間を作る、ということだった。20センチ×20センチ×8センチぐらいの大きさじゃな。それだけのスペースを無理矢理作るために、胃やら腸やらを一部切り取ったり、肋骨を二本切り取ったりと、かなり無茶なことをしたわい。
それでやつはショーの前に、その腹部に作ったスペースに他人の内臓を入れてまた腹を閉じたわけだ。特殊メイクの知識をかじったとかで、腹部の傷はうまく隠しておったみたいじゃな。ショーの時間に合わせて効くように腹部に麻酔を掛けて、これで準備万端というところじゃな。そうやって奴は、切腹サムライのショーを続けておったんじゃ。
何でやつがそんなことをしたかだって?んなこと知らんよ。本人に聞いてくれ」
101.「織姫と彦星的穴掘り」
僕は、手を動かす一個の機械になっていた。
いつからそうだったのか、僕にはもはや記憶がない。随分昔だったような気もするし、あるいはつい最近だったかもしれない。そもそも既に僕には、時間というものが存在していないのだ。いや、その表現には些か間違いがある。僕は、ある一日を目指している。つまり僕にある時間は、その目指すべき一日とそれ以外の二種類、ということになる。
僕は今、それ以外の時間の中をゆっくりと進んでいる。もちろん、ひたすらに手を動かしながら。僕はまだ身体機能的に不足はないが、しかし既に手以外はほとんど無意味だと言って言い過ぎではない。僕には何も見えないし、何も聞こえない。食べるものもなければ、匂いの元もない。ただ僕はひたすらに手を、正確に言えば手に持ったスコップを動かしながら、この世界の中で、名前のついていない時間をひたすらに進んでいく。
僕は穴を掘っている。ずっと穴を掘り続けている。僕が地中に潜りこんで穴を掘り始めてからどれくらいの時間が経ったのかわからない。僕が穴を掘り始めたのは、25歳の時だった。それはまさに神との対話であった。少なくとも僕はそれを信じた。どこからともなく聞こえて来た声が、僕に告げたのだ。掘れよ、と。
それから僕は、まずスコップを買った。必要なものはそれだけに思えた。掘る場所は直感に従った。神社の裏手にある山の一角。そこから僕の新しい人生が始まったのだ。
それから僕は穴を掘り続けている。スコップを自分の前方の壁に突き刺す。土を抉り取る。その土を、自分の後方に積み上げる。僕はそうやって、僕がほんの僅か存在できるスペースだけを残して、少しずつ地中を進んでいるのだ。
初めの内は、自分が何をしているのか、と考え続けた。穴を掘ることは正しい、と分かっていた。しかし、どう正しいのかが分からなかった。僕はそれを知りたいと思い、ひたすらに穴を掘り続けることにした。
しかししばらくすると、僕は人間的な要素を少しずつ失っていった。それは仕方のないことだった。地中は暗いから、僕の目には真っ暗闇しかない。目を明けていても閉じていても何の変化もない。地中では、何の音なのか分からない、ある一定の規則正しい音だけが聞こえてきた。それはやがて僕の耳に意識されなくなり、しばらくすると完全に聞こえなくなってしまった。食べ物も飲み物もなく、しかしそれでも僕は穴を掘り続けた。
そうやって感覚を失っていくと同時に、僕は思考も失っていった。最後に僕がまともに考えたことはこんなことだった。なるほど、刺激こそが思考を促すのだ、と。
それから僕は、ただ手を動かすだけの機械になった。何故自分が穴を掘っているのか、その理由を考えることもなくなった。善悪や正義について考えることもなくなった。ただ僕は穴を掘る。それで十分だった。
ある時、そんな僕の穴掘り生活に変化がやってきた。
僕がいつものように穴を掘っていると、右の方向から何か音が聞こえて来た。まだ僕の耳は死んでいなかったようだ。それまで僕は、前後の方向にしか意識を向けていなかったから、久しぶりに左右の方向を意識することになって戸惑った。僕はしばらく穴を掘ることを止めて、その場に留まってみた。
音はどんどんと近づいて来て、やがて右手に大きな穴が空いた。
「あなたも、穴掘り人なの?」
それは女性の声だった。真っ暗で姿かたちは分からないけど、紛れもなくそれは女性の声だった。
「そうだと思う」
まだ僕の口は死んでいなかったようだ。
「何だか偶然ね。こんなところで会うなんて」
「君は僕を探していたのかい?」
「まさか。私はただ穴を掘っていただけよ」
なるほど、確かにそれはすごい偶然だ、と僕も思った。
「あなたはこれからどこへ行くの?」
まさかそんなことを誰かに聞かれるとは思わなかったから、僕は答えに窮した。
「特に行き先はないんだ。僕にとっての前方に進むだけだよ」
「なら、ちょっと約束しない?」
「約束?」
「そう。それともこんな地中では約束は相応しくないかしら」
相応しいかどうか。なるほど、そう言われれば確かに相応しくないかもしれない。しかしそんなことを言えば、僕らがこうして穴を掘ってることだって相応しいのか怪しいものだ。
「いや、そんなことはない。約束、いいねそれ」
「来年の今日、またどこかで会いましょう」
「分かった。来年の今日、どこかで」
それは約束という言葉の定義に当てはまるとは思えないほど厳密さを欠いた約束だった。それはあるいは、希望だとか夢だとかという風に呼ばれるべきものであるように思われた。しかし、まあいいさ、と僕は思った。僕らはこうして二人だけで地中にいるわけだし、既に地上の世界とはおさらばしてるんだ。わざわざ地上の定義に従わなくちゃいけないなんてこともないさ。
「じゃあまた会いましょう。きっとよ」
「分かった。来年の今日、どこかで」
そうして僕らは別々の方向にまた穴を掘り始めた。
既にそれがどのくらい前のことだったのか、僕には思い出せない。まだ一年経っていないのか、あるいはもう何年も経ってしまったのか。しかし、僕は約束を破っているわけではない。何故なら、僕らがもう一度出会う日こそが、『来年の今日』なのだから。僕は、その『来年の今日』を目指して、今日もひたすら穴を掘り続ける。
102.「ヴァンパイア氏とヴァンパイアハンター氏」
―ヴァンパイアハンターの話―
朝、目が覚める。今日も一日が始まった。布団から出て、支度をする。今日も、吸血鬼狩りをしなくてはいけない。
住んでいるアパートを出る。俺はヴァンパイアハンターだが、姿かたちは人間と大差ない。街を歩いていても、奇異に思う人間はいないはずだ。
吸血鬼は普段日中は行動しない。日の光を浴びることが出来ないからだ。ヴァンパイアハンターとしては活動し難い時間だと言われているけど、俺はそうは思わない。どっかで寝ている吸血鬼を見つけ出してそのまま狩り出してしまう方が楽に決まっている。そういうわけで俺は、朝早くからこうして出かけるのだ。
俺には、どうにも不満がある。それは、自分のすぐ近くにいるはずの吸血鬼を一向に狩り出すことが出来ない、ということだ。
ヴァンパイアハンターには独特の嗅覚があり、それによって吸血鬼を識別することが出来る。俺は、そうやって幾人もの吸血鬼を狩り出してきたが、しかしある吸血鬼だけは一向に姿を見せないのだ。その吸血鬼は大胆にも、俺のすぐ傍まで近寄っているようなのだ。それは、その吸血鬼の匂いが強いことからも分かる。他の吸血鬼の姿を追いながら、俺はずっとその吸血鬼を探しているのだが、一向に見つかる気配がないのだ。自分のハンターとしての腕に自信を持っているが故に、今の状況には満足できないのである。
吸血鬼がいそうな暗がりを重点的に回りながら、同時に生け贄を探している。俺はヴァンパイアハンターであると同時に、殺人鬼でもあるのだ。特に、むしゃくしゃした時人間を殺したくなる。一匹の吸血鬼も見つけられないような時だ。そういう時は、人間を殺すことで自分を落ち着かせている。
今日もそんな日だった。どうにもむしゃくしゃして、つい人間を殺してしまった。とりあえず身体をバラバラにして部屋まで持って帰ることにする。
とりあえず冷蔵庫に腕だけ入れる。基本的にあまり使わないので、うちにある冷蔵庫は小さいのだ。腕ぐらいしか入らない。仕方ないから他の部位は自分で食べることにする。ヴァンパイアハンターは元々吸血鬼であることが多い。俺もそんな輩の一人だ。
追い続けている吸血鬼はどうにも見つけることが出来ない。常にその不満を抱えたまま、仕方なく俺は眠りにつく。
―ヴァンパイアの話―
僕の一日は、日没と共に始まる。
もちろん、僕が吸血鬼で、日光を浴びることが出来ないからだ。何とも不便な身体だ…、なんて思うことは特にない。生まれた時から僕はずっと吸血鬼だったのだし、これからも吸血鬼であり続けるのだろうから。
布団から這い出し、洗面所で顔を洗う。当然鏡はない。トイレで用を足し、人工血液(現代に生きる吸血鬼の主食だ。さすがに人間の血ばかり吸っているわけにはいかない。しかしこの人工血液、マズイのだ)を飲みながらテレビを見る。
僕ら吸血鬼の生活は、人間と大して変わらない。ちゃんとしたアパートに住み、それなりに近所の住人と接触を持ちながら、目立たないように生きている。住みにくい世の中になったものだ、と思う。僕はもう長いこと生きているわけだけど、例えば戦国時代なんかどれだけ生きやすかったことか。吸血鬼も歩けば瀕死の人間に当たる、と言った具合で、食料には事欠かなかったのだから。逆に言えば明治時代なんかはかなりきつかったな。何故なら人工血液なんてものがまだ開発されていなかったからだ。そういう意味では、現代はまだ生きやすいと言える。
テレビでは、お笑い番組をやっている。もう人間のように生きて久しい。人間と同じポイントで笑えるようになってきたものだ。
テレビを見ながら僕は、ぼんやりと考える。ずっと感じていることだが、僕の周りにはヴァンパイアハンターがいるようなのだ。決して姿を見せることはないし、何故か僕を狩り出すこともないのだが、そのヴァンパイアハンターは僕の周囲に付きまとっているようなのだ。そいつが何を考えて僕を狩り出さないのか、僕にはさっぱりわからない。しかし、恐らくそうできない理由があるのだろう、と僕は高を括っていて、それでそんなヴァンパイアハンターの存在を無視し続けている。
そういえば、と思いついて冷蔵庫を開ける。期待通りそこには、人間の腕が入っている。ラッキー、と思いながら、僕はその腕に齧りつく。
不思議なことではあるが、こういうことが時々ある。自分で入れた記憶はまったくないのだ。どういう経緯でこの冷蔵庫の中に入ってきたのか不明だが、人工血液に飽きた僕には格好のごちそうになる。やっぱり人間の血はうまい。
さて今日も一日平和だった。特にすることもないし、寝るか。
103.「変人二十面相」
「佐藤さん、お久しぶりです」
営業のためにとあるスーパーを回っている時、顔見知りの他社の営業マンに声を掛けられた。
「おぉ、久しぶりだね。最近どう?」
「相変わらずダメですね。佐藤さんの方はどうですか?」
佐藤雅兼。これが僕の本名であり、普通に仕事をしている時に使っている名前だ。
「こっちも同じだよ。参ったね。あれでしょ、おたくも石油のせいでしょ?」
「そうですね。アレの値上げがキツくって。まあどこも一緒なんでしょうけど」
スーパーの担当者が捕まらなかったりする時、営業マン同士でこうした他愛もない雑談をする。特に中身のある話ではなく、天気の話とさして変わらない。
佐藤雅兼としての僕は、どこにでもいる平凡な営業マンで、可もなく不可もなく。喋りがうまいわけでも押し出しが強いわけでもなく、かといって契約が取れないわけでもない、それなりの男である。
「吉岡さん、ちょっと忙しくて無理そうですね。じゃあ僕は他を回ることにします」
そういって佐藤雅兼はスーパーを後にした。まあどうせ僕はそこそこの営業マンだ。そんなに頑張ることはないさ。
車に乗り込もうとした時、携帯電話が鳴った。
「もしもし、吉田さんですか?」
吉田友成。僕のペンネームの一つである。
「明後日締め切りのやつが一本あるんですけど、ダメっすかね?」
吉田友成としての僕は、フリーのライターをしている。署名記事を書くわけではない。大抵どこかの週刊誌の、あってもなくてもさして変わりのないような、スペースを埋めるための記事を書いている。まあそれでも、それなりにお金にはなるから悪くはない。
「明後日ですか。まあ大丈夫だと思いますよ。今出先なんですけど、メールで送っといてもらえば後で見ますよ」
「助かります」
吉田友成は、締め切りを常に守る男だ。それだけが取り得だと言っていい。しかし出版業界でそこそこ仕事をもらうには、それだけで十分だとも言える。文章の上手い下手はさほど関係ないのだ。
さて、明後日までか。早めに予定を切り上げて家に帰らないといけないな。とりあえず、昼飯でも食うか。
普段よく行く定食屋へと向かう。味はそこそこだが、早くて安いと評判の店である。
「市川先生じゃないですかぁ」
店に入るなり、客の一人からそう声を掛けられた。
市川忠雄。これも僕のペンネームの一つである。
「ちょうどよかった。田中先生が病気で倒れちゃって、どうしようかと思ってたんですよ」
市川忠雄としての僕は、ちょっとしたイラストを描いている。新聞連載の小説や雑誌の片隅に載るような挿絵で、あってもなくてもさほど影響はないようなものだが、それでも仕事の依頼はそこそこにある。悪くない仕事だ。
「明日締め切りなんですけど、ダメでしょうか?」
田中というイラストレーターの代わりに、動物の絵を何点か描いて欲しい、ということだった。明日まで、という締め切りはなかなかハードだが、まあやってやれないことはないだろう。
「ありがとうございます!助かりましたよ、ホント」
さて、いよいよ忙しくなってきたぞ、と思ってきた。急いで昼飯を平らげ(彼が奢ると言い張ったが、それは断った)、すぐ車に戻ろうとした時、後ろから誰かに呼び止められた。
「立岡さんじゃないですか?」
立岡…、そんなペンネームを持っていただろうか。
「連絡が取れなくて困ってたんですよ。今日の18時締め切りのコピー、忘れてないですよね?」
ある飲料メーカーが次に行う大きなキャンペーンのメイン広告のキャッチコピーを考える仕事を立岡某は受けたのだ、という。人違いではないのか、と一瞬考えはしたが、そういえば立岡という名前を使ったような気がしないでもない。なるほど、今日締め切りだったか。それは危ないところだった。とにかく時間はないが、急いで考えなくては。
「頼みましたよ。立岡さんは締め切りを破らない人だから大丈夫でしょうけど」
さて、とにかく急いで営業に回らないと。運転席に乗り込むと、またしても電話がなった。
「稲垣さんですか?」
稲垣…、そんなペンネームもあっただろうか。
「お願いしていた試薬の検査、あれ今日の朝締め切りだったはずですよね?どうしちゃったんですか?このままだとプレゼンに間に合わないんですけど!」
どこかの研究所が家庭用洗剤として開発したものの安全検査を稲垣某に外注した、というのだ。試薬の安全検査?僕はそもそもそんな仕事が出来たのだろうか?学生時代の化学の成績はあまり褒められたものではなかったと思うのだけど。しかし、稲垣という名前も、使ったような気がしないでもないな。仕方ない。引き受けてしまった仕事はやるしかない。申し訳ないが、後数時間待って欲しい、と告げる。
「ホント頼みますよ!明日プレゼンなんですから!」
電話を切った僕は、何だか疲れてしまっていた。そういえば本当の自分の名前はなんだっただろうか…。
あぁ、あの人ですか。この辺じゃ有名な人なんですよ。どんな名前で呼んでも返事をしてくれる人だって。それにかこつけて、依頼してもいない仕事を無理矢理押し付けたりする人が結構いるみたいですね。奇特な人ですよね。僕らは、「変人二十面相」って呼んでますよ。
104.「電車鳩」
恐らくご存知の方は多くはないだろう。日本が戦時中に開発したある特殊兵器のことを。
この特殊兵器は、理由は定かではないが、詳細が歴史の闇に埋もれてしまったものである。開発者は終戦直後謎の死を遂げ、それに伴い研究はストップ、戦後のゴタゴタで資料も散逸し、そのためその存在を知る者はいなくなってしまったのである。
じゃあ、そんな誰も知らないはずの特殊兵器の話をこうやってしているのは一体誰なのか。まあそれは追々ということで。
その特殊兵器は、『電車鳩』と呼ばれていた。
どんな兵器なのかと言えば、まさに呼び名の通りである、と言える。つまり、線路の上を飛ぶように訓練された鳩、なのである。
いや、訓練された、という言い方は実は正確ではない。これは当時でも極秘の技術であったのだが、遺伝子操作により、線路を飛ぶ性質を遺伝によって受け継ぐことを可能にした種、だったのである。つまり、電車鳩いうのは既に新しい種の一つであり、電車鳩同士での交配により必ず電車場とが生まれるように設計された種だったのである。
この電車鳩、一体どのように使われていたのだろうか。
残酷な話ではあるが、この電車鳩、やはり爆弾として使用されていたのである。
鉄道というのは国家のライフラインの一つとも言えるものであり、鉄道や駅を中心に街は発展していく。即ち、鉄道に沿って爆弾を仕掛けることは効率よく他国を壊滅させられるということになる。
電車鳩は、その体に爆弾を括り付けられ、そして放たれた。向かってくる電車を爆破してもいいし、途中の駅を爆破してもいい。そういう形で試用された生物兵器だったのである。
もちろん、この電車鳩は研究がメインであり、実地で使用されたことはあまりない。鉄道というものがまだそこまで普及していなかったということもある。当時としても、将来使える技術として研究を続けていたようである。戦時中とは言え、なかなか余裕がある研究所だったのだろう。
研究がメインとは言え、電車鳩はどんどん生み出されていった。そして研究者の死により研究がストップすると、電車鳩は解放され、他の鳩と同じように生きていくことになった。
しかし、電車鳩は生きていくのにあまりにも不幸な種であった。
基本的に電車鳩は、線路の上を飛ぶことしか出来ない。元々兵器として開発されたためそうなっているのだが、しかしこれは生物としては致命的過ぎた。いかんせん、食料を確保することが困難であった。線路上を飛ぶだけでは、種に行き渡るほど十分な食料を得ることは出来ない。
また、近代化により鉄道がどんどんと発達すると、必然的に電車鳩の危険性が増して行った。即ち、走行中の車両と衝突する事故が多くなったのだ。
この二つの要因により、電車鳩はその数をどんどんと減らして言った。もともとその存在さえ正式には認識されていなかった種ではあるのだが、しかし電車鳩はどんどんと絶滅の危機に瀕したのである。
そしてついに電車鳩は、最後の一匹になってしまった。そして何を隠そう、僕がその最後の一匹なのである。
僕が生き延びることが出来た理由は二つある。
一つは餌のとり方だ。僕は川の多い地域を中心に住んでいるのだけど、橋の下で餌をとる事にしたのだ。他の仲間は、線路の上しか走ることが出来ない、と思い込んでしまったために、橋の下に行くということに思い至らなかったのだ。僕だけが唯一、電車鳩の観念を破って川から餌をとることにしたので、他の個体よりは生存の確率が上がったのである。
そしてもう一つは、電車のやり過ごし方である。
真正面から電車がやってきた時、他の個体は慌てて高く飛ぼうとする。しかしこれは危険だ。何故なら線路の上には送電線があるからだ。これに引っかかったり、パンタグラフにやられたりという輩が多い。
だから僕は考えたのだ。車両を避けるのではなく、車両の上に乗っかってしまえばいいのだ、と。それは多少技術を要したが、しかし僕はそれを習得し、迫り来る車両の危機から逃れることが出来るようになった。
なので、お出かけの際は近くを走っている電車の屋根を見てみて欲しい。もしそこに鳩が乗っていたら、それは僕かもしれません。
105.「手術中」
「それでは手術を始めます。メス」
「今日はこれで何件目?」
「三件目。ホント疲れた」
「昨日は?」
「お察しの通り新人の歓迎会。まあ二日酔いってほどでもないけど」
「新人、嫌いだもんねぇ」
「そんなことはないさ。ただ未熟な人間が嫌いなだけだ」
「それって同じだと思うけど」
「そういえばそれで思い出した。昨日院長の息子が入院したとか言ってたな」
「何呑気なこと言ってるの。今あなたが切ってるお腹が、その息子よ」
「へぇ、そうなんだ。全然知らなかった」
「あなたもいい加減、院内の事情に疎いわよね。さっきだって医局が丸々ピリピリしてたじゃないの」
「あぁ、そうだっけ?気づかなかったなぁ。だったら院長自ら執刀すればいいのに。確かこれ、専門じゃなかった?」
「院内の冬眠ゼミって噂は本当だったのね。ホント何にも知らないんだから」
「冬眠ゼミなんて呼ばれてるのか、俺」
「院長はもっぱら研究で上がった人だからね。実技はほぼ無理。まあそれでも院長になれるっていうんだから、大学病院ってホント謎だけどさ」
「まあまさか自分の息子が発症するとも思わなかっただろうしねぇ」
「でも院長、奥さんに詰られてるらしいわよ。自分の息子なのに、あんたは何もしないのか、って」
「ねぇ君、何でそんなことまで知ってるんだい?」
「あなたは冬眠ゼミだから言っても大丈夫かしらね。でも人に言っちゃダメよ。実は私、院長と付き合ってるの」
「ええっっっーーー」
「ほらほら、周りに気づかれるでしょ。それにペアン、落ちそうよ」
「いやだって、そんな驚かすようなこと言うから」
「もう二年ぐらいになるのかな。まあ院長と付き合ってて損はないしさ、案外アッチの方も健在だしね」
「でも、奥さんにバレたりしないの?」
「院長はバレてないって思ってるみたいだけどね」
「じゃあバレてるんだ」
「っていうかまあ、あたしが教えてあげたっていうか」
「は?」
「だからね、奥さんに、『わたし院長と付き合ってますけど、家庭を壊すつもりはありませんのでご心配なく』って」
「なんていうか、君のことがどんどんわからなくなってきたよ」
「実はね、陶芸教室で一緒だったのよ」
「へぇ、陶芸なんてやってるんだ」
「まあその時は院長の奥さんだなんて知らなかったんだけど、何だかウマが合ってね。時々お茶したり買い物したりなんていう仲になってたんだけど」
「うん、それで?」
「まだ私が院長と付き合う前のことよ。ある時奥さんがね、『もう疲れたわ』なんてことを言うのよ」
「なんか嫌な予感がするね」
「奥さんはね、旦那と息子に辟易していたそうよ。院長になるために家庭を顧みなかった夫、医者になるために勉強ばっかりしてる息子。なんか息が詰まるんだってさ」
「なるほどね。それなら夫を奪われても気にならないってか」
「そう。わたしもそう思ったからね、ちゃんと教えておいてあげたの。そしたら、ありがとう、これで少しは自由になれるわ、って感謝されちゃった」
「でもさっき、『自分の息子なのに何もしないのか』って奥さんは院長を詰ったとか言ってなかったっけ?まあさすがに息子にはまだちゃんと愛情があるってことかな」
「あぁ、それはたぶん演技なんじゃないかな。奥さんの方からもうすぐ離婚を突きつけるつもりらしから」
「どういうこと?」
「つまりね、自分で息子の養育権を得れば、養育費と称してたんまりお金をせしめられるでしょう?そのための準備なんだと思うわ。それに、自分で引き取れば、勉強ばっかりしてる子どもから変えられるかもしれない、って思ってもいるみたいね」
「はぁ。女って怖いね」
「わたしも早いとこ院長からトンズラしないと。奥さんが離婚を切り出す時まで付き合ってたりすると、結婚してくれとか言われかねないしね」
「はぁ。女って怖いね、ホント」
「あの、すいません、全部聞こえてるんですけど…」
「…メス」
106.「絶対舌感」
これは、僕が彼女と別れるまでの話である。
『グルメ界仰天!神の舌を持つ男!』
これはある有名な雑誌に書かれた、僕に関する記事の見出しだ。僕は少し前からこうして、メディアと呼ばれるものに露出するようになってきた。
もともとはただ食べるのが好きなだけの人間だった。食べることが好きで好きで、美味しいと称されるものは何でも食べたかった。美味しいものを求めて日本全国、いや世界中を飛び回ったと言っても決して言い過ぎではないだろう。実家が多少裕福だったことも僕には幸いだった。そうでなければとてもお金が続かなかっただろう。
そうやって僕はずっと食べるために人生を捧げてきた。他のことはほとんど二の次、仕事も趣味も恋愛もまったく無視して生きてきたのだ。
訪れるお店で、店のご主人と話すような機会が時々あった。そこで僕は、これは隠し味に何々を使っていますねだの、さしでがましいようですがこの料理には、どこどこ産の魚よりもどこどこ産の魚の方が合っているように思うんですが、というような話をしたのだった。もちろん、これは純水に僕の興味からであった。旨いものを作る人達と話をしたい、何かを共有したい、あるいはもっと旨いものを作る手助けをしたい。純粋なそうした欲求から、僕は思いついたことを料理人に伝えていたのだ。
そんなことをしていく内に、僕の名前は勝手に広まっていったようだ。すごい舌を持つ男がいる、と料理人の間で評判になっていった。それはとりもなおさず、僕が口にしたことが料理人に受け入れられたということであるから、僕としては嬉しいことだった。そしてそれと同時に、マスコミにも注目をされるようになったのだ。
僕は雑誌に連載を持つことになり、またグルメ番組にも時々顔を出すようになった。バラエティ番組で、料理を一口食べてそれに使われている材料をすべて答える、というようなこともやったことがある。テレビや雑誌の世界は華やかで、僕は依頼があればどんどんと引き受け、やがていっぱしの料理評論家として認識されるようになったのだった。
桃子と出会ったのは、僕が料理評論家として認識され始めた頃のことだったと思う。僕はいつものようにテレビ番組の収録に参加していた。その番組は、料理人や主婦らと共に、ハンバーグやオムライスなどの定番料理の進化版を作ろう、という主旨の番組で、僕はアドバイザーの一人として参加していたのだ。
その日はカレーの回であり、出来上がった試作品を僕が食べる、という段階に来ていた。そこで事件は起きたのだ。
カレーを口に入れた瞬間、違和感を感じた。口の中に異物が入っているのだ。それは指輪だった。
「あの、カレーの中に指輪が入っていたんですけど」
そう言うとスタッフが飛んできて、申し訳ありません、と大仰に頭を下げた。
「いや、僕は全然気にしてないよ。でも、この持ち主に伝えて欲しいことがあるんだ。もしかしたら余計なお世話かもしれないけど、このダイヤたぶんニセモノですよ」
「宝石の鑑定も出来るんですか?」
「いや違うんだ。味がちょっとおかしいなと思って。もしこれが本物のダイヤだったら、こんなおかしな味はしないような気がするから」
この出来事は、僕の人生をささやかに変えてくれた。しかも二つの意味で。
一つは、僕はさらにいろんな番組に取り上げられるようになった、ということだ。僕は、ただ料理の味が分かるというだけの料理評論家ではなく、まさしく何でも見分けることの出来る舌を持つ男として知られるようになっていった。実際僕は舌に載せれば、食べ物でなくてもその物の構成要素が大体分かる。だから、再生紙を使っていると謳っているのに使われていない紙も判別出来るし、割り箸に使われている木がどんな種類のものなのかも分かる。まさに奇跡の舌だ、としてさらにもてはやされることになった。
そしてもう一つは、桃子と出会ったことである。
カレーの中に指輪を落としたのが、その日収録にやってきていたOLの桃子で、ブログで自身の料理日記を載せていて一部では有名な女性だった。桃子には当時付き合っている彼氏がいたのだけど、ダイヤがニセモノであるということを知ったために別れてしまい、そして僕と付き合うことになったのだった。
それまで僕には彼女がいたことがなかった。ずっと美味しいものだけを求めて生きてきたし、マスコミに注目されるようになってからはなかなか時間がなかったということもある。だから、僕は非常に奥手だった。手を繋ぐのにひと月も掛かったくらいだ。でも桃子は、そんな僕を優しく見守ってくれていた。二人とも、慌てずにゆっくり行こう、と思っていたのだ。
付き合いは順調で、僕は忙しい合間を縫って無理矢理にでも彼女と会う時間を見つけた。桃子は優しくて綺麗で、一緒にいると和んだ雰囲気になったものだ。僕はこのまま桃子と順調に進んでいくものだと思っていた。
だが僕は、あの日を迎えてしまう。彼女と別れることになった日だ。それは同時に、僕が彼女と初めてキスした日でもあるのだ。
夜暗い公園で二人で座っている時、僕は勇気を出して彼女にキスをしてみた。彼女は驚いた様子もなく、恐らく内心ではやっとしてくれたのね、なんて思っていたことだろう。僕にとっては初めてのキスで勝手が分からなかったが、しかし戸惑っている僕を襲ったのは信じられない衝撃だった。
キスをし終えた僕は混乱した。どうしたらいいのだろうか。その時僕は、もう彼女との付き合いを続けることが出来ない、と確信をしていた。しかし、桃子のことを嫌いになったわけではない。けどどう考えても、彼女を傷つけずに伝えることは不可能だった。
「…ゴメン、桃子とはもう付き合いを続けていけないと思う」
桃子は目に涙を浮かべながら、しかし同時に納得したという風な表情を浮かべた。
「やっぱり分かってしまうのね。いつかこんな日が来るかもしれないとは思っていたのよ」
「本当にゴメン。でもやっぱり僕には、男性と付き合うことは出来ない」
「いいのよ。仕方がないもの。あなたが奥手だったお陰で、楽しい時間が長く過ごすことが出来たわ。ありがとう。じゃあね」
桃子は、男性だった。キスをした瞬間に僕にはそれが分かってしまった。桃子は人間としては素晴らしいと思う。でもやっぱり、異性として見ることは僕には出来ない。
神の舌を持つことを恨んだのは、後にも先にもこの時限りだった。
107.「ドラショッピング」
ネットサーフィンをしていた僕は、とあるサイトを見つけた。そこは、インターネット上のショッピングサイトであるようなのだが、そのサイトで扱っているものが大分変わっていた。
(ドラえもんの秘密道具?)
『ドラショッピング』と名付けられたそのサイトは、その名の通り、ドラえもんの秘密道具を販売していたのである。
(いやいや、まさかね)
まさか本当にドラえもんの秘密道具が買えるわけがないだろう。そこまで技術が進歩しているわけもないし、というかそもそもドラえもんの道具というのは技術の進歩だけではいかんともしがたいものばかりである。恐らく未来永劫実現不可能なものばかりで、そんなものが売られるわけがないのである。
(しかしサイトのどこにも、なんの注意書きもないなぁ)
あらかじめジョークとしてやっているならいいのだが、しかしこのサイトを真に受けてしまう人もいないとは限らないだろう。特に子どもなんか、本当かもと思うかもしれない。
(まあでも物は試しだ。買うフリでもしてみようかな)
というわけで僕は、そのドラショッピング内をうろうろすることにしたのだ。
(とりあえずタケコプターは欲しいでしょ。空飛びたいしね。これは買い)
(もちろんタイムマシンも、っと)
(四次元ポケット…ってのはさすがにないのかな。まあそうだろうね。それがあったら全部揃っちゃうもんね)
(そうそう、忘れちゃいけないどこでもドア…、ってあれ?どこでもドアはないのかなぁ。あれあったら便利なんだけどなぁ。まあいいか、他のを捜そう)
(あぁ、これはいいよね、もしもボックス。ちょっと大きいのが難点だけどなぁ…)
(逆時計…へぇ、時間を逆戻りさせられるんだ。でも、まあこれはタイムマシンがあれば十分か)
(エアコンボールね。その周りの温度を調節してくれる、と。これはいいなぁ。買うか)
こんな感じで僕はカートにどんどん商品を放り込んでいったわけです。ふと気づけば、合計金額は50万円に達しようとしています。
(まあこれぐらいでいいか。どうせ買えるわけないしな)
僕はカートをクリックし、清算の画面にします。
(名前と電話番号とメールアドレスを入力して、と。住所は書かなくていいのかな)
そして次の画面に進むと、なんとクレジットカードの番号入力のフォームが出てきました。
(まさか、ホントに買えるのか?)
そんなわけがないだろう、と思って、僕は画面の隅々まで見てみることにしました。すると下の方に小さくこんなことが書いてあります。
『商品の発送はいたしませんので、お客様ご自身で受け取りに来ていただくようお願いいたします。当社ははくちょう座の惑星X58695にあり、お越しの際はどこでもドアをご利用いただくのがよいかと存じ上げます。』
なんというか、イタズラなのか新手の詐欺なのか、イマイチよくわからないサイトである。
108.「ラクガキ」
―公務員・滝本一郎の話―
滝本一郎は、市役所庁舎から外に出ると、思わずため息をもらした。
(まったく、役人ってのはアホばっかりやな)
毎日そう思う。上司も部下もアホばっかりだ。滝本自身も分かってはいるのだ。そういうアホどもも、人間としては決して悪くはない、と。しかし、役所という組織の中にあっては、よほど強い意志がない限りだらけてしまうのだ。アホを養成することにかけては役所というのはプロだな、と改めて思う。
(いい加減辞めるべきだろうか)
何だか日々イライラする。熟睡出来なくなったような気がするし、疲れも取れ難くなった。それもこれも、アホな部下とくそったれな上司のせいだ、と思うとまたイライラしてきてしまう。
昼休みということもあって、周辺は市職員やサラリーマンで賑わっている。滝本も、普段行くことにしているデパートに入る。そこに入っているパン屋で昼食を買うことが多い。
しかし滝本はそのままパン屋に向かうのではなく、デパート内のトイレに向かった。そのまま個室に向かう。これはここ最近の習慣と言ってよかった。
中間管理職になってストレスにさらされるようになって、滝本はどこかに逃げ場を見つけなくては、と思った。喫茶店や公園などいくつか試してみたが、このデパートのトイレが一番落ち着くのだった。今では、昼休みの内の15分近くをここで過ごす。本を読んだり音楽を聞いたりしながら、ただぼんやりと過ごすのである。これが、リフレッシュには最適である、と分かったのだ。昼休みでなくても、適当に外出の理由を作ってここに来ることも多い。
4階の奥の個室が指定席だ。大抵いつも空いている。タイミングがいいのか使用率が低いのか分からないが、滝本にとっては喜ばしいことである。
とりあえず用を足そうと便器に座ると、ドアの内側の悪戯書きが目に入った。よくあることで、携帯電話の番号が書かれていたり、こんな人物を見かけたら連絡くださいなんていうのもあったりする。まあ他愛もないものである。
しかし今日の悪戯書きはなかなか珍しかった。なんと数学の問題である。
問題のレベルは、中学生程度のものだろうか。図形が書かれていて、面積を求めるものと角度を求めるものと二問用意されている。幾何はあんまり得意じゃなかったなぁ、と思いながら滝本はその問題を頭の中で考えていた。
巧い具合に補助線を引けば解ける問題であると分かり、実際胸ポケットに挿していたペンで大まかな回答を作ってみた。懐かしいものだ。学生時代は数学は決して嫌いではなかったけど、自分から積極的に問題を解こうなんて考えたことはなかっただろう。それが今では、ストレス解消のための暇つぶしとして数学の問題を解いている。
用を足したこともあるだろうが、それ以上の充足感が得られたような気がした。なるほど、たまにはこうして頭を使ってみるのも悪くないかもしれないな。またこんな悪戯書きがあったらいいな、と不謹慎なことを考えてしまう滝本であった。
―中学生・中村太一の話―
この世で嫌いなものをいくつか挙げろと言われれば結構いろんなものを挙げることが出来る。ピーマンは嫌いだし、カエルもダメだ。お母さんのキツすぎる香水とか、ヤスト君の嫌がらせとかも嫌だ。
でも、それよりも何よりも嫌なのが、数学の授業だ。何で数学なんてのがこの世に存在するんだろう。計算機があれば計算は出来るし、方程式なんて絶対日常生活で使わない。図形の面積が求められなくても、√2のゴロ合わせを知らなくても、絶対に困らないと思う。なのに、何で数学なんてやらないといけないんだろう…。
今も、まさにその数学の授業中なのだ。
僕は、先生が黒板に書いていることを、意味も分からずただ写している。その内飽きてくると、ノートに悪戯書きが増えてくる。しばらくすると先生の声が遠くなり、眠気が襲ってくるのだ。これはもうどうしようもないのだ。
「中村。この問題、前に来てやりなさい」
だからこうやって指されると、僕の心臓はバクバクしちゃうんだ。どうせ、解けるわけがない。先生だってそれぐらい分かってるはずなのに、嫌がらせなんだろうか。
とりあえず黒板に向かう。図形が書かれていて、面積を求めなさいとか、角度を求めなさい、とか書いてある。分かるかよ、と思うけど、もちろん口には出さない。
あぁ、トイレに行きたくなってきた。嫌なことがあるとそうなる。でも、ウンコしたいですなんて授業中に言えるわけがないし、そもそも学校でウンコなんか出来ない。我慢するしかない。
チョークを手に持つんだけど、もちろん手は動かない。何から考えればいいのかさっぱり分からないのだ。じぃーっと黒板を見つめる。まるでそこに答えでも書いてあるかのように。もちろんそんなことはないのだけど。
すると、僕の手が勝手に動き出した。図形の中に一本線を引いているようだ。「ほぉ」という先生の声が聞こえるから、たぶん正しい方向に進んでいるのだろう。確か補助線、とか言うやつだったと思う。しかし、どうして自分がその補助線を引けたのかが分からない。
それからも僕の手は勝手に動き続けた。自分ではさっぱり理解できない記号やらアルファベットやらを、スラスラと黒板に書いている。しばらくすると手が止まり、それで解答を書き終わったのだと分かった。
「中村、やるじゃないか。正解だ。この補助線を引くというのがポイントでなかなか難しいと思ったんだが、よくできたな」
僕はさっきの出来事がさっぱり理解できなくて困惑していたけど、とりあえず先生に褒められて嬉しかった。もしかしたら自分には数学の才能が眠っているのかもしれない。まだその実力が出ていないだけなのかもしれない。その僕のどこかにある数学の実力が、あまりに数学の出来ない僕を見かねてとりあえず顔を出してくれたのかもしれない。そう思うと、ちょっとは数学を頑張って見てもいいかもしれないな、と思えたりするから不思議だ。
不思議だと言えばもう一つ。あんなにウンコをしたかったのに、いつのまにかスッキリしていた。漏らしたんじゃないよな、と何度も確認したけど、大丈夫そうだった。何だかよく分からない不思議なことが続くもんだなぁ、と思った。
109.「立て篭もり」
「高橋じゃないか?久しぶりだな」
仕事を終え、家に戻る途中だった。関わっていた事件が、被疑者死亡のまま書類送検され、事実上捜査が終了した直後のことだった。幸いなことにまだ大きな事件も起きていない。久しぶりに早めの帰宅となったのだ。
「もしかして山下か?ホント久しぶりだ」
高橋は正直、嫌な奴に出会ったな、と思った。山下とは大学時代の友人で、そしてテレビ局に入った。今でも恐らくそこで働いているだろう。大学時代はそれなりに付き合いもあったが、卒業後はまったく連絡を取り合うこともなかった。実に十数年ぶりと言える再会だった。
山下は一度、世間をあっと驚かせるようなことをやってのけた。そのため、刑事である高橋にとっては苦々しい思い出と結びつく存在なのだった。
それは3年前のこと。山下はあるドラマの撮影で天才的な手腕を発揮し、それにより業界では伝説としてささやかれている、と聞く。一方で警察としては、まんまとしてやられたという立場であり、未だに山下への苛立ちを露にする人間も多い。
山下は、本物の刑事と機動隊を動因させた立て篭もりシーンの撮影をやってのけたのだった。
初めはコンビニからの通報で、銃を持った二人組の男が金を寄越せとやってきたが、結局お金を取ることなく逃げた、というものだった。その後犯人が近くにある市民体育館に逃げ込んだとの情報があり、まもなく立て篭もり事件と判断された。
人質は、当時体育館を使用していたバスケットリームのメンバーというところまでは分かったが、しかし受付時に虚偽の記載をしたようで、人質がどこの誰なのかは分からなかった。
刑事と機動隊が市民体育館を包囲し、しばらく緊迫した状況が続いた。しかししばらくすると、上層部から撤退の命令が下された。テレビ局からの連絡があり、これがドラマの撮影であることが告げられたのだった。
警察は、ドラマの撮影のために駆り出されたと知って憤ったが、しかし彼らを罪に問うことは困難だった。テレビ局側はその市民体育館を撮影のためということで一日借り受けていたし、犯人と人質も皆エキストラと俳優であった。武器はすべて模造であり、表向き問題はないと言えた。問うことが出来たのは、公務執行妨害ぐらいなもので、初めに通報したコンビニの店長も元々計画を知っていたということで、強盗未遂という線での立件も見送られた。警察としては未だに記憶に残る苦々しい事件だった。
その首謀者が山下であり、だからこそ高橋は山下にいい印象を持っていないのだ。
どちらからともなく飲みに行くかという話になり、近くの居酒屋へ向かった。
「最近は大人しくしてるのか?」
山下は苦笑し、
「まああん時のことは許してくれ。お陰でいいのが撮れたよ」
と悪びれない。まあ直接関わっていたわけではないからいいけどな、といい、そこでつい先ほどまで関わっていた事件を思い出した。
「廃工場の立て篭もり事件、知ってるか?」
「あぁ、ちょっと前までニュースでやってたな」
「つい最近その事件が決着してな。お前の顔を見ると何だか立て篭もりのことしか浮かばないな」
そういうと、またしても山下は苦笑した。
廃工場での立て篭もり事件が起きたのは、今からひと月ほど前のこと。犯人の男が、当時たまたま廃工場にいた大学生数人を人質に取り立て篭もった事件で、犯人の目的は今になっても不明。持っていた銃で人質の一人を殺し、刑事の一人を重症に陥れ、最後には特殊班の人間に射殺されたのだった。
「しかしあの事件も不自然なところが多すぎるよね」
山下がそう言ったのを、高橋は怪訝に思った。どこがおかしいというのだろうか。
「まずなぜ廃工場にそもそも人がいたのか。彼らは、自分達は廃墟マニアで、だからそこにいたのだと主張したようだけど、僕にはどうにも不自然に感じられるんだ。あの日たまたまあそこに人質となる人間がいたというのが」
言われてみればそうかもしれないが、しかしたまたま人質がいたから事件が起きたのだ、ということでしかないだろうと思う。そんなに大したことではないだろう、と高橋は言った。
「それに犯人もおかしい。僕も中継を見てたけど、犯人は初めの内はずっと沈黙していたけど、人質の一人を殺してから急に饒舌になった。しきりに、自分は違うんだ、というようなことを言っていなかったか。まあその直後、銃を持ったまま刑事の方に向かって行ったから射殺されてしまったんだけど。その行動も、おかしいだろう」
それについては確かに捜査本部内でも意見があったが、しかし被疑者がが犯行を行っていたことは間違いないし、既に被疑者は死亡しているので仕方ない、と判断されたのだ。
「お前は何が言いたいんだ」
「要するに、真相は別にあるってこと」
「お前なら分かるっていうのか」
「まあね。分かるっていうか、知っているって感じだけど」
高橋は山下を見つめる。まさか、という思いが過ぎる。あさかそんなことがありえるだろうか。
「まさか、お前が首謀者だ、なんて言うんじゃないだろうな」
「案外冴えてるじゃないか。そう、俺があいつをそそのかしたんだよ。どうやったかは簡単さ。俺なら、また立て篭もりの撮影をやるんだ、と言いさえすれば信用される。銃は偽物だと言って本物を渡せばいいし、後は勝手にやってくれるってわけさ」
「…なんでそんなことをした」
「まあ、暇つぶしかな」
高橋は目の前にいる男を見つめた。既に事件は終わっている。被疑者死亡ということでカタがついているのだ。既に終わった事件を再捜査することは難しい。しかも、証拠もないだろう。結局こいつを逮捕することは困難だ。高橋は、この厄介な友人を殴りたくなった。
110.「殺人事件」
日曜日。天気のいい日は公園で過ごすことにしている。住宅街にある、申し訳程度に遊具が設置されているだけの寂れた公園だが、そのせいか昼間でも人気がなく、それで気に入っている。休日はアクティブに過ごしたい、という人もたくさんいるんだろうけど、僕はそんなタイプじゃなくて、時間を後ろから追いかけるくらいのんびりと過ごしたいと思っている。公園での読書は、僕にとって最高の休日の過ごし方と言える。
僕はいつものように本とペットボトル飲料を持って公園にやってきた。日差しがきついが、風があるので過ごしにくいということはない。
ペンキの剥げたベンチに座って本を読んでいると、公園に人が入ってくる気配があった。顔を上げると、そこにはよく見かけるホームレスがいた。ボロボロの服にボロボロのずた袋のようなものを持ってその辺をウロウロしている。この公園を根城にしているようで、見かけることも多い。
特に関心があるわけでもないのでまた読書に戻る。しばらくは何事もなく、ゆっくりと時間が過ぎて行った。読んでいる小説がなかなか面白く、次第に僕はのめり込んで行った。
悲鳴が聞こえたのは、ホームレスがやってきてから1時間ぐらい経った頃だっただろうか。
悲鳴のする方を見ると、一人の男が血まみれのナイフを持って立っていた。その前には、胸元を真っ赤に染めたホームレスが横たわっている。まだ生きているようであるが、男はとどめを差すつもりなのか、またナイフを突き出そうとしている。
「何してるんだ!」
僕はそうやって大声を上げながらそちらに向かって行った。自分でもなかなか勇気のある行動だと思う。何せ相手はナイフを持ってまさに殺人を終えた男なのだ。
男は僕の静止の声に一瞬気を取られたものの、すぐにホームレスに向き直りナイフを突き立てた。ホームレスは横たわったまま動かなくなってしまった。
僕はとりあえず救急車を呼ぶことにした。電話を掛けるが、しかし男はゆっくりとその場を立ち去ろうとしている。このままでは逃げられてしまう。電話が繋がると僕は、「○○公園で男性が刺されて血塗れです!」とだけ叫んで電話を切り、すぐに男を追いかけた。
「待て!逃げるんじゃない?」
男は振り向くと、何を言ってるんだ、という顔をした。
「逃げる?俺は別に逃げようなんて思っちゃいないさ。ただ家に帰るだけだ」
「何言ってるんだ!人を殺したくせに、このまま帰れるわけがないじゃないか!」
男は、さも不思議なことを聞いた、というような表情を浮かべて言った。
「君は一体何を言ってるんだね。人を殺すことの、どこが一体悪いというんだ」
その言葉に僕は唖然としてしまった。人を殺したことを悪いと思っていない。こいつはダメだ。話して通じる相手じゃない。僕はとりあえず男の足を蹴り払って地面に倒し、背中から馬乗りになって腕をねじ上げ、男からナイフを奪った。
「何をするんだ、お前は!」
男は執拗に逃れようとしたが、僕も必死でそれに対抗した。僕はなんとか警察に電話を掛け、「殺人犯を捕まえたんで一刻も早く○○公園に来てください!」とだけ叫び電話を切った。とてもじゃないが、電話をしながら男を押さえるのが困難だったのだ。
しばらくするとサイレン音が聞こえてきた。どうやら救急車がやってきたようだ。
救急隊員が僕に向かってやってきた。何だか複雑な表情をしているが、その意味は僕にはわからない。
「怪我人はどこに?」
「あっちです。血まみれで倒れているはずです」
救急隊員は手際よくホームレスを救急車に収容した。それから僕の方へと戻ってきた。
「君、そんなことをしてると警察に捕まるよ」
初め何を言われたのかよく分からなかったが、僕が殺人犯の男の上に乗っかっていることを言っているらしかった。
「でも、この男が人を刺したんですよ。逃すわけには行きません」
救急隊員は、こいつは何を言ってるんだ、という顔をしたが、しかしすぐに救急車を出さなければいけないからだろう。それ以上追及することなく去って行った。
それからすぐに警察がやってきた。
「おまわりさん、この男がホームレスを刺したんです。早く逮捕してください!」
男を拘束し続けるのもそろそろ限界だった。警察がきてくれて助かった、と思った。これで解放される。
警官は僕らをしばらく眺めていた。早く捕まえてくれよ、と僕は思った。
やがて警官は手錠を取り出すと、僕らの方へと向かってきた。
「14時36分、現行犯逮捕」
逮捕されたのは、何故か僕の方だった。
僕は手錠を掛けられ、そして殺人犯の男は解放された。警官と殺人犯の男は少しだけ会話を交わし、恐らく殺人犯の男の住所と名前をメモしたようだ。それだけで帰してしまった。
「おまわりさん!あの男は殺人を犯したんですよ!何であの男が帰れて、僕が逮捕されないといけないんですか!」
警官は、僕が何を言っているのかさっぱり理解できない、という顔をした。
「まあ、詳しいことは署で聞くから」
そう言って僕は警察署に連れて行かれることになった。僕はあまりのわけのわからなさに茫然とするだけだった。
取調室に連れて行かれた僕は、強面の刑事から話を聞かれることになった。
「君は、自分が何故逮捕されたのか理解出来ているよね?」
「いえ、まったく分かりません」
正直なところ、まったく理解できなかった。何故殺人をおかした人間が解放され、その男を善意から捕まえた僕が逮捕されなくてはいけないのだろうか。
「君は男性に対して暴行をしていた。暴行とまでいかなくても、拘束していたことは間違いないね。逮捕の理由はそれで十分だと思うが」
もしかしたら、僕が捕まえていたのが殺人犯だったというのが伝わっていないのかもしれない、と僕は思った。
「相手は殺人犯だったんですよ?その男を捕まえるために多少荒っぽいことをしても仕方ないじゃないですか!」
そう説明すると、刑事は妙なことを聞いたという顔をするのだった。僕は何だか得体の知れない不安に襲われた。
「じゃあ聞くが、どうしてホームレスを殺すことが悪いことなんだね?」
僕は唖然として、開いた口が塞がらなかった。
「あなたは、ホームレスだから殺してもいいって言うんですか!刑事のあなたがそんなんでいいんですか!」
そういうと刑事は苦笑し、
「あぁ、ごめんごめん。言い方がまずかったかな。要するに私はね、何で人を殺すのが悪いことなんだろう、って聞きたかったんだ」
「…」
僕には意味が分からなかった。人を殺すことはどう考えても悪いことだし、法律にもそう明記されているはずではないか。
「君はそう言うけど、じゃあきちんと法律を読んだことがあるのかね?人を殺すことが法律上いけないことだという文章を読んだことがあるのかね?」
そう言われれば、ないと答えるしかない。でも、普通に考えて、人を殺すことは悪いに決まってるじゃないか!
「君が、どうして人を殺すことが悪いと主張するのか、私には理解できなくて申し訳ないが、法律にはそんな記載はない。つまり、悪くもない人間の自由を奪っていた君こそが、本当の犯罪者だ、ということなんだ」
信じられなかった。いつからこの国は人を殺してもいい国になったのだろうか。そう言えば、殺人犯を捕まえてから僕が受けた視線は、すべて困惑を含んでいた。本当に僕は間違っているのだろうか?
もうよくわからなくなってきた。ただ、もし人を殺すことが罪にならないのなら、今目の前にいるこの刑事を殺して逃げたらどうなるだろう、と僕は思った。
111.「イタズラを振り返る」
地元に戻るのは、実に20年ぶりになる。忙しいということももちろんあったが、それだけじゃない。やはり、地元に置いてきた様々なものと距離を置きたかったのだろうと思う。家族や友達や思い出と言ったものたちと。後悔はない。正しいと思ったこともないけれども。
父親が入院したとのことで、いい加減顔を出せ、と母親に言われての帰郷だった。正直乗り気ではない。ただ、病気を持ち出されると弱い。両親に会うなんて今さらだと僕は思うけれども、しかしまあ、仕方ない。
電車に揺られながら、僕は地元に住んでいた頃のことを思い出していた。既に大分昔の話だ。どんどんと忘れてしまっている。しかし、その中でもかなり印象に残っている出来事がある。
僕は子供の頃、イタズラばかりして遊んでいた。あちこちに落とし穴を仕掛ける、なんていうのは常習で、他にも賽銭箱にカエルを百匹詰め込んだり、狛犬を壊して代わりに本物の犬を接着剤で固定したりと、無茶苦茶なことばっかりやっていた。僕のイタズラに引っかかる人はたくさんいて、その度僕と僕の両親は怒られることになった。それでも僕はイタズラを止めなかった。楽しくて仕方なかったからだ。
そんなある日のこと。いつものように僕はイタズラに励んでいると、一人のおじさんが近づいてきたのだった。見たことのない顔だった。田舎っていうのは、大抵の人と面識がある。それでも知らないっていうことは、他所から来た人なのか、あるいはこの辺に住んでいる人の遠縁か何かなんだろうな、とぼんやり思った。
「人を傷つけることになるからイタズラはもう止めろ」
知らないおじさんにまで言われるなんて、よほど僕は有名なんだな、なんて呑気に考えていた。
それからよく覚えていないが、僕はイタズラを止めた。どうしてだっただろうか。何かきっかけがあったようにも思うけど、どうも思い出せない。
実家の最寄り駅についた。最寄り駅と言っても駅からはかなり遠い。幸い父親が入院している病院はまだ駅に近いところにあるので、ブラブラと歩きながら行こう、と思った。
駅を出た僕は唖然とした。目の前の光景が、20年前に実家を出た時とまったく同じだったからだ。いくらなんでももっと変化してるはずだろう。まさかこの町は時間が止まっているんだろうか。
病院の方へと向かう途中も同じことを思った。この町はあまりに変わらなさ過ぎる。おかしい。何が起こっているんだろう。
病院への近道となる公園に差し掛かった。懐かしい場所だった。よくここに落とし穴を作ったものだ。多くの人が落ちてくれた。それを見るのが楽しくて仕方なかった。
懐かしさもあって、自分が落とし穴をよく作った辺りを歩いてみることにした。
えっ。
足元が崩れ、体が地面の下に落下した。まさか、と思ったが、自分が落とし穴に落ちていることは間違いないようだ。20年以上前に自分が作ったものがまだ残っていたなんてことはありえないだろう。となれば、この町には今、落とし穴を継承する人間がいるということだろう。
しかし、僕のその仮説はあっさりと打ち崩れた。何故なら落とし穴の中に、それを作ったのが僕だという証拠が残っていたからだ。それは落とし穴の壁にはめ込まれた一枚の板切れだった。僕は当時イタズラを作り上げると、そこに自分の痕跡を残すことにしていた。その板切れには、僕の名前と作った日がかかれている。
(まさか僕が作って以来ずっと残ってるんじゃないだろうんぁ)
そこで僕は思い出したのだった。何故僕がイタズラを止めたのだったか、を。
友達の一人に大怪我をさせてしまったのだ。彼女は僕の作った落とし穴に落ちて、運悪く半身不随になった。それから僕は地元にいづらくなったのだった。そして逃げるようにして、東京にやってきた…。
そうだったのだ。僕がこれほどまでに地元を忌避しているのには、そんな理由もあったのだった。もうすっかり忘れてしまっていた。まさかこんな場所で思い出すなんて、思ってもみなかった。
とりあえず腑に落ちないことは多いけど、病院にまた向かうことにした。しかしその途中で僕は信じられない人に出会うことになる。
20数年前、イタズラに精を出していた頃の僕だった。
僕はそこようやく理解した。いや、ちゃんと理解できたわけではなかっただ、それしか考えようがなかった。つまり、僕は何故か過去へとやってきてしまったのであり、そして僕が子供の頃にあったことがあるおじさんというのは、自分自身だったっていうことを。
このまま落とし穴を作り続けていれば、いつか友達を怪我させてしまう。止めさせないと。
「人を傷つけることになるからイタズラはもう止めろ」
僕は僕に向かってそう言うと、その場を立ち去った。どうせ、あの当時の自分に何を言って聞かせたところで、イタズラを止めるとは思えない。結局何も変えることが出来ないのだろう。
病院に行ったら父親は入院しているだろうか?あるいは、実家で20数年前の姿で生きているのだろうか?どっちとも判断がつかず、とりあえず病院に行くか、と決めた僕でした。
112.「Google」
出掛けに見た番組で、戸籍のない女性が子供を生む、というニュースを報道していた。
その女性は、母親が離婚後300日以内に出産してしまい、そのため戸籍が得られなかったらしい。以後戸籍のないままでの生活を続けていたわけだが、その女性が子供を生むのだという。
女性は生まれてくる子供の戸籍がどうなるのか問い合わせたところ、戸籍のない親からの出生届を受理することは出来ない、という回答だったようだ。女性は、自分と同じ運命を背負わせたくない、と語っているようで、今国としても対応を検討中なのだそうだ。
このニュースを見た時、世の中にはそんな女性もいるのか、と思った。まさか日本に生まれたのに戸籍のない人がいるなんて、と思った。離婚後300日問題というのは、お腹の子供の父親が正確に確定できないことから生まれた法律のようだけど、今ならDNA検査だってあるし、もはや意味のない法律なんじゃないかなぁ、とか思ったのだけど、でもだからと言って特に気になるニュースというわけではなかった。いつものようにただ何となく耳に入れている、たくさんある内の一つでしかなかった。
しかし、その日一日を終えた僕は、嫌でもこのニュースのことを思い返さないではいられなかった。
家を出て、まず会社に向かう。今日から一人での営業が始まるのだ。これまでは、先輩社員について行って、営業の流れを学ぶ時期だった。これからは、自分で新しい営業先を開拓していかなくてはいけない。自分に出来るだろうか、という不安はあるが、しかし同時にやってやろうじゃないの、という気概も感じていた。
会社で事務的な事項の確認と、必要な書類を集め終わると、僕は早速営業へと向かうことになった。
「すみません。○○の者なんですけど、店長の方はどちらでしょうか?」
やはりなかなか緊張する。初めは、契約を取る事はできないだろう。そこまで期待できるほど、自分に自信があるわけではない。でも、なるべく一刻も早く慣れなくては、と思う。
「初めまして。わたくし○○の営業の田中と申します」
そう言って、名刺を差し出す。先輩に付き添っていた時ももちろん名刺を渡したが、こうして一人で営業を始めることになって初めての名刺交換だ。なんだか自分がすごいことをしているようなそんな気もしてくる。
「あぁ、ちょっと待ってていただけますか」
そういうと店長は店の奥へと引っ込んでいった。
これは先輩と回っていた時も同じだった。どこに行っても、担当者は名刺を受け取ると、一旦店の奥に引っ込む。何をしているのか分からないけど、しばらくすると、お待たせしました、と言って戻ってきて、営業の話になるのだ。
「お待たせしました」
そう言って店長は戻ってきた。
「申し訳ありませんが、お引取り願えませんか?」
「えっ?」
僕は頓狂な声を上げてしまった。営業をしてそれで断られるなら分かるが、営業をし始める前から門前払いである。
「お話だけでも聞いていただけないでしょうか?」
「いえ、申し訳ないですけど、お引取りください」
店長の口調はにべもなかった。それでなくとも僕はまだ営業の駆け出しだ。ここで強く出るべきなのか引くべきなのかもうまく判断できない。しかし、生来の気の弱さが出て、そのまますごすごと引き下がってしまった。
「はぁ、初っ端からこれじゃあ、先が思いやられるなぁ」
しかしへこんでばかりもいられない。僕は気を取り直して、別の店に当たることにした。
しかし、である。
それから、まわる店まわる店、すべて同じように門前払いだったのだ。流れはすべて同じで、名刺交換をすると責任者は店の奥へと引っ込む。そしてしばらくして戻ってくると、お引取りいただけませんか、と言って完全に拒絶するのだ。
10数件まわったところで、僕はもう気力を失いかけていた。誰も話すら聞いてくれない。何がマズイんだろうか。見た目の清潔感にはかなり気をつけたはずだし、完璧ではないかもしれないが敬語だってそこまで悪くないはずだ。やはり、名刺を持って奥に引っ込む、あれが何か関係しているというんだろうか。
何とか自分を奮い立たせて次の店に入った。やはり同じく名刺交換の後門前払いであった。このままでは事態は動かない、と思った僕は、思い切って聞くことにした。
「これまでまわったお店でも、すべて同じ対応でした。僕に悪いところがあるなら直します。ですので、どうしてお話を聞いていただけないのか教えてはもらえないでしょうか?」
店長は少し悩んだ風に見えたが、やがて口を開いてくれた。
「Googleでね、君の名前を検索したんだ。ほら、名刺をもらうでしょう?でもね、君についての情報が何一つ出てこないんだ。何一つだよ。だからさ」
僕には意味が分からなかった。Googleの検索で情報が出てこないからと行って、だから何なんだろうか。
「それと営業と、何か関係があるんでしょうか?」
「他の店の人がどうかは知らないよ。でもね、僕は人を判断する時にGoogleを使うことにしてるんだ。大抵はね、何か情報が出てくるものだよ。個人のブログ、写真、何かの大会での受賞歴、そう言ったものだよ。もちろんいい情報も悪い情報も出てくる。でもそれを見て、一応どんな人間化分かる。自分の中で、あらかじめイメージを持って相手と対峙できるんだ。でもね、君の場合、なんにも出てこなかった。いいかい、なんにも、だよ。このネット社会に生きている人間で、名前を検索しても何も情報が出てこない人間がどれだけいると思う?正直言って、そういう人は私はあんまり信用出来ないんだよ」
確かに僕は、僕らの世代としてはかなり稀だけど、ほとんどインターネットと関わらずに生きてきた。普段自分でも使わないし、僕の情報が載っていなくても別におかしくはないかもしれない。
でも、今の世の中ではそれではダメなのだ、と僕は思った。この社会では、ネットに自分の情報が存在するかどうかで、まず人間性が判断されてしまうようになってしまったのだ。
なるほど、僕はネット上に戸籍がないのと同じなのだな、と僕は悲しい事実を理解した。
113.「偶然の朝」
始まりは唐突だった。その日は、前日と変わりなく始まったように思えた。特別な予兆も、嫌な予感も、一切ないまま、僕は突然その日の前にやってきたのだった。
会社に行こうと家を出て、駅まで向かう。駅までは10分程度の道のりだ。音楽を聞くでもなく、僕はいつもぼんやりと歩いている。
違和感を感じて視線を上げると、空中に人影があった。道の片側がマンションになっていて、その壁面に沿って女性が落ちているのだ。僕は一歩を踏み出すことが出来なかった。いや、もちろん僕が努力すれば間に合ったというようなことはなかっただろう。どのみちあの女性はそのまま地面に叩きつけられていたに違いない。しかしそれでも、咄嗟の事態に何もすることが出来なかった自分を僕は嫌悪した。
時間にして一呼吸。彼女が地面に落ちてしまってから、ようやく僕の足は動いた。まだ生きているかもしれない。走りながら携帯電話で救急車を呼ぶ。
落ちた女性の下に駆け寄る。僕は、絶望することはないかもしれない、と思った。助かるか助からないか、かなり際どいのではないか、と思った。とにかく救急車が来るまで、女性に声を掛け続けた。あとは何をしていいのかわからなかった。
救急車が来ると、なりゆきで一緒に乗ることになった。救急隊員の人も、なんとか助かるかもしれません、というようなことを言ってくれた。気休めだったのかもしれないけど、若干罪悪感を持っていた僕としては、気休め程度でも安心できた。
病院に着いた時点で、さすがにこれ以上関わるのも変だと思い、立ち去ることにした。会社に連絡を入れ、今日はそのまま現場に向かうことを告げる。滅多にないかもしれないが、まあこんな日もあるかもしれない。そんな風に考えていた。
翌朝。いつもの時間にまた家を出て駅に向かう。昨日のマンション近くに差し掛かると、昨日の朝のドタバタが思い出されて、そういえばあの女性は結局どうなったのだろうか、と思考が掠めた。
空中に人影があった。
まさか、と僕は思った。昨日の彼女が、また命を断とうと飛び降り自殺をしているのだろうか。僕はまたしても動くことが出来なかった。一呼吸置いて走り出し、落下地点へと向かった。
小学生の男の子がそこに横たわっていた。まだ息はある。昨日と同じく声掛けを続けながら救急車を待つ。しかしこれは偶然なのだろうか。
それからこれは毎朝続くことになった。僕がそのマンションを通りかかる瞬間を見計らっているかのように、そのマンションから人が飛び降りるのだった。飛び降りるのは、常に違う人だった。ありとあらゆる人々が飛び降り自殺を図っていた。まるで僕に何かを訴え掛けようとでもするかのように。最近では僕は、救急車を呼ぶだけ呼んで、自分はそのまま会社に行くことにした。毎朝飛び降り自殺をする人の介抱をするから遅刻しているなんて言い訳は利かないし、毎朝そんなことに関わっている余裕もないからだ。
これは偶然なのだろうか。
114.「天神城」
『天神記』によれば、現在東京タワーがある辺りに、天神城と呼ばれる城があった、とされる。この天神城についてはあまりにも資料が乏しいため、実在を疑っている歴史学者も多い。資料が乏しいというのは、数が少ないというのではなく、内容の信憑性に乏しいのである。天神城はこれまで多くの書物に書かれてきたが、しかしそのあまりの突飛な記述に、これは何らかの意図をもって書かれた偽りなのではないか、と言われることが多い。実際、天神城について書かれた書物は偽物だ、とさえ言われていた時期があるほどである。
この天神城、いつからあったのか定かではないが、少なくとも書物に描かれる限り、かつて一度も落城したことのない城のようである。名のある武将がことごとく敗走し、また名のある武将の多くが、天神城だけには手を出すな、と言ったとされている。実際、天神城は攻め入る価値のあるような城でなかったということもあるだろう。天神城という城はただそこにあるだけの城であり、それ以上の価値はまるでなかった。要塞であったわけでも、天下統一の支障になるわけでも、なんでもない。攻め入る者は二度と戻ってこなかったとされているので、天神城に人がいたのかさえ分かっていないほどだ。一時、天神城を落とせば名が上がるとして、この落とす価値のない城に多くの武将が集ったことがあったが、そのあまりの難攻不落ぶりに、次第に禁忌のような扱いをされるようになったと言う。
現在でも歴史学者は、この天神城が一体どんな存在であったのか、あるいはそもそも本当に存在したのか、ある程度まとまった意見さえ提示できないでいる。しかしそれは無理もないのだ。この天神城は、他の多くの城とは一線を画す存在であったのだから。
ここからは、歴史書にも書かれていない、私しか知らない事実も織り込みながら話を進めることとしよう。
天神城が姿を現したのは1542年のことであった。周りに住んでいた人々は、まるで突然城が現れたかのようだった、と証言をしている。城が出来た場所は、それまでは田畑でも何でもない、ただの草むらであったという。
突然現れた天神城の威容に人々は恐れながらも、基本的にはその城を無視するようにして生活を続けた。百姓にとっては城があろうがなかろうがどうでもいいことであるし、武将達にとっても取るに足らない城などに構っているような余裕はまったくなかったのである。
そんな状況を一変させたある事件が起こる。物語の主役は宇部上仲達という男であり、その土地を治める豪農の一人であった。
仲達は近在の住民に、あの城(その当時まだ名前はなかったものと思われる。何故天神城という名になったのかも不明だ)に入ってみよう、と声を掛けたのだ。真実は分からないが、要するに暇だったのだろう。同じく暇つぶしにいいか、と思って多くの人々がその話に乗ったという。出来てからしばらくしても、その中に人がいる気配がまったくしなかったことも、彼らを後押しさせたのであろう。
『天神記』には、この時城を訪れた人間が何人で、城の内部でどんなことがあったのか、ということについて触れられていない。それは当然だ。何しろ、仲達以下、城を訪れたすべての人間が帰ってこなかったのだから。
その噂は諸国に流れた。この間に、どこかで天神城という呼称に決まったものと思われる。人を飲み込む城がある、と伝えられたその噂は、全国各地の武将達を奮い立たせ、この地に赴かせることとなった。
しかし、そのすべての来襲を、天神城はものともしなかった。これについてももちろん詳しい記述が残っているわけでは決してないが、一万の兵が大挙してやってきた時も、そのすべてを飲み込んでしまったのだ、という。さらに天神城の名は諸国に知られるようになり、同時に手を出してはいけない禁忌であるという認識も広まっていったのである。
その天神城は、いつしかその姿を消していた。正確に言えば、1766年のことであった。この時も近くに住むものは、いつの間にか消えていた、と証言をしている。結局人々にとってこの天神城というのは謎の存在のままであったのだ。
一体天神城とは何だったのか。その答えは、恐らく私以外には知る由もなかろう。
天神城は、生物であったのだ。城の姿を借りた生き物である。つまり天神城は、まさにその言葉通りに、人々を飲み込んで食料にしていたのである。そうだとすれば、何故消えたのかの説明も簡単だ。つまり、寿命である。
天神城は、地球での言葉で言えば宇宙人のような存在であった。とある目的のために宇宙から遣わされたのであり、当時最も馴染みやすい形として、城が選ばれたに過ぎない。もしさらに古代に地球に遣わされるとしたら、古墳などが選ばれただろうか。
天神城は、ある目的を果たすべくそこに居座り続け、そして結局目的を達することが出来ずにその天寿を全うした。
では、その目的とは何であったのか。
それは、口にすることが出来ないのである。何故なら、私がその任務を現在負っており、まさに遂行中であるからだ。
私は現在東京タワーに姿を借りている。さしずめ、天神城の二代目と言ったところだろうか。天神城の情報については、歴史の授業で習った。我が星の者なら誰でも知っている話である。
私は、天神城のように野蛮ではない。東京タワーにも日々山ほどの人が押し寄せるが、しかしそれをとって喰おうなどと思うことはない。私の願いは、私に課せられた目的を達成することだけであり、むしろそのためには東京タワーにやってくる人々の存在は都合がいいとも言える。
しかし、私の命もあと僅か。新東京タワーの建設が決まり、私の存在が不必要となるのである。結局私も目的を果たすことは出来なかった。後継である新東京タワーに、今後のことは譲るとしよう。
115.「量子論的僕の部屋」
僕はマンションに住んでいる。それは、どの街にでもある、どんな場所にでもある、普通のマンションを思い浮かべていただければいい。階数や部屋番号を特定する必要はないのだが、6階の618号室である。
外廊下の端から端までドアがずらりと並び、当然のことながらその内の一つが僕の部屋のドアとなる。
さて、今僕は自分の部屋のドアの前に立っているわけだ。
もしドアノブを握り、それを手前に引くなら、普段僕が見慣れた部屋がそこに展開されることだろう。入ったところに小さな沓脱ぎがあり、フローリングの廊下が続く。右手にトイレと風呂と洗面台があり、左手に小さなキッチンがある。そして奥に一部屋あるだけのワンルームマンションである。
片付けの出来ていない汚い部屋だ。床にはゴミが散乱し、テレビのリモコンやら敷きっぱなしの布団やらがある。冷蔵庫やパソコンやオーディオやテレビや扇風機やギターや本なんかが部屋中にあって、見た目よりかなり狭く見える。窓に掛かっているカーテンだけが何故か高級そうで、部屋全体から浮いてしまっている。
ドアを開ければ、そんな部屋を目にすることになるのは明白だ。これまでこのドアを何度開いてきたというのだろうか。その度に、僕はまったく同じ部屋を見てきたのだ。そこに、違う部屋が展開しているなどということはもちろんありえない。
しかし、じゃあ、今こうしてドアが閉まっている時、部屋の内部はどうなっているのだろうか。本当に、僕がドアを開けた時に見る部屋の光景と同じ姿であり続けているのだろうか。それとも、僕が見ている部屋の光景は僕が見ている時だけに存在するのであって、僕が見ていない時はまったく別の姿になっていたりするのではないだろうか。
物理の世界には、量子論というかなり変わった分野がある。詳しいことはもちろん僕も知らないけど、その量子論の世界では奇妙な現象が次々に起こるのだという。
その中に、状態の収縮と呼ばれるものがある。
量子論では、例えば電子などの粒子は、位置を正確に確定することが出来ない、としている。それは、確率的にどこにあると主張できるだけである、と。
しかし、もしその粒子を観測した場合、僕らはその粒子が空間上のある一点を占めていることを知る。観測する前は確率的にしか知ることの出来なかった粒子の位置が、観測することによって一点に決まるのである。
これが状態の収縮と言われる。
僕の部屋も、こうではないという根拠はどこにもないのではないか。僕がドアを開ければ、部屋の姿は僕が普段見ている状態に収縮する。しかし、僕が見ていない時は、様々な姿に移り変わっているのではないか。少なくとも、そうではないと否定することは出来ない。何故なら、僕が『見る』ことで状態の収縮が起こるのだから、僕にはいつも見ている姿しか見ることが出来ないはずだ。
でも例えばこう考えたらどうなるだろう。僕の部屋に泥棒が侵入したとする。泥棒が入ったという痕跡を一切残すことなく(つまり何も盗むことも残すこともなく)立ち去ったとしよう。これは要するに、僕が泥棒に入られたと確信出来る根拠はない、即ち泥棒が僕の部屋を『見た』と確信できないということである。
その時、その泥棒は一体どんな部屋の姿を見るのだろうか。状態の収縮は、個人によって差があるのだろうか。もし僕が永遠に気づかない形で誰か別の人が僕の部屋を『見た』時、それが僕が普段見ているのと同じ姿であると確信出来る理由は一つもない。泥棒は僕が普段見ている部屋とはほんの僅か違った部屋、あるいはまったく違ってしまった部屋を見ているかもしれない。
あるいは、こういう風に考えることは出来ないだろうか。
僕の部屋には、僕が見ていない時だけ存在している住人がいるかもしれない、という発想だ。つまり僕らは、こうしてドアを挟んで向き合っているなんていう可能性だってあるかもしれない。
僕が観測するまで部屋の姿が確定ではないのなら、その僕が普段見ている部屋ではない部屋に住む住人を仮定しても一向におかしくはないかもしれない。その住人は、僕の分身と考えることは可能なのだろうか?あるいは僕とはまったく無関係な存在なのだろうか。ただ一つ言えることは、その存在とは永遠に友達になることは出来ないということだ。僕が観測することで状態の収縮が起こり、その結果その存在は消えてしまうのだから。
しかし、ならばこうも考えることが出来る。部屋の向こうに、僕が永遠に接触することの出来ない住人の存在(Aと名付けることにしよう)を仮定するのなら、その住人からしてみれば状態の収縮によって消えるのは僕の方だ。
つまり、Aの視点から見てみよう。Aは僕が部屋を観測していない時だけ僕の部屋に住んでいる。僕が部屋のドアを開けると、Aの視点からではどうなるだろうか。結局、Aの視点からすれば、Aのいる世界は消えることなくそのまま続いて行くのだろう。そうでなければ整合性が取れない。即ち、Aの視点から考えた時に消えるのは僕の方なのだ。
だとすれば、僕の存在というのは一体どうなるのだろうか。僕は、僕の観測できる世界ではきちんと存在している。それだけは間違いない。しかし一方で僕の存在していない世界が無限にあって、当然のことながらその世界に僕は関わることは出来ない。これは一体何を意味するのだろうか。
いずれにしても、僕は部屋に入るためにドアを開けないわけにはいかない。そして開ければそこに見慣れた部屋の姿を確かに見ることになるだろう。重要な問題は、そこに何か不都合があるだろうか、ということで、観測されない世界についてあれこれ考える必要は、日常生活の中ではないのかもしれない。
116.「あげるわ」
久しぶりに見つけた。
「君には、私の助けが必要みたいだね」
相手は、私に気づくと、そして私の姿を目にすると、声にならない悲鳴を上げて逃げていった。
(君のこと助けてあげられたのにね)
私は、逃げられることには慣れている。もう傷つくようなことはない。それでも、助けてあげられる誰かを救うことが出来ないことに対して、鋭い痛みを感じる。
(逃げなくてもよかったのにね)
その思いは同時に、かつての自分への姿を呼び覚ますことになる。
私は生まれつき耳の機能に障害を持っていた。赤ん坊の頃は周囲の大人も気づかなかったそうだ。耳の機能というのは確かに、外から見てあまり分かるものでもない。私がちゃんと障害を持っていると分かったのは、4歳ぐらいのことだったそうだ。
生まれつき耳が聞こえづらいという障害だった。まったく聞こえないというのでもないのだが、水の中での話し声を聞くみたいにくぐもって聞こえた。耳が聞こえないことが不自由だったのかどうか、私にはよくわからなかった。生まれついてからずっとそうだったから、何かと比較することが出来なかったのだ。
幸い両親は、障害を持った子どもでも十分に愛情を注いでくれた。内心はどうだったのかわからない。それでも、ちゃんとした子どもとして育ててくれた両親には感謝をしている。
だから、今の姿は両親には見せることが出来ない。私にとってこの姿は神聖なものだけど、それを両親に理解してもらうのか難しいだろう。
私が心の中で師と呼ぶようになったあの人と出会ったのは、私が18歳になるかならないかという頃だったと思う。
その時の状況を、私はどうしても正確に思い出すことが出来ない。夢だったのではないか、というのは確信を持って否定できるが、しかしそのあまりの頼りなさは夢だと言われても信じてしまいそうになるほどだった。
周りを木に取り囲まれた場所だった、と思う。何故自分がそんな場所にいたのか、そこにどうやって辿り着いたのか、そこで何をしていたのか。私には一向に分からない。風に揺られる木の葉と不愉快に響く葉ずりの音が、辺りを一層不気味に演出していた。
そこで私は、あの人と対面しているのだった。
「俺の姿を見ても逃げないんだね」
あの人は一番初めにそう言った。いや、正確に言うなら、私が覚えているあの人の第一声がそれだったのだ。その言葉は、何故か私の耳に鮮明に届いた。耳の機能が回復したのかとも思ったけどそうでもないようだった。あの人の声だけが、私の耳に馴染むのだ。
あの人は、確かに恐ろしい姿をしていた。右足と左手がなく、また体中に手術跡のような傷があった。そして何よりも不気味だったのが顔だった。目と鼻がなく、歯もほとんど存在していなかった。頭髪もなく、その頭蓋には痛ましいほどの傷がついていたのだった。
それでも、怖いとは思わなかった。あの人の声がそうさせたのかもしれない。不思議と、私の心は平静だった。
「怖くはないわ。私も不思議だけれど」
あの人は笑ったようだった。口の動きだけではそうと断言することは難しいけど、確かに笑ったように私には見えた。
「君のことを助けてあげるよ」
あの人はそう言うと、自分の両耳を引きちぎった。両手に耳を持ったまま、私の方に近づいてくる。
「君は耳が聞こえないんだろう。僕の耳をあげるよ」
そう言うとあの人は、私の耳を引きちぎり、代わりに自分の耳をつけた。その瞬間、まるで何かのスイッチを入れたかのように、私は音を感じた。まるで嘘みたいだった。世界が音に満ちていることも初めて知った。こんなにも騒がしいだなんて思ってもみなかった。私は完全に耳の機能を取り戻したのだった。
「ありがとう」
私はあの人にそう言った。しかし、どうしてかあの人の声だけもう聞くことが出来なくなっていた。あの人は、何やら口を動かして私に何かを伝えようとしていたけれども、その声は私の耳にはどうしても届かないのだった。
そして次に気づいた時には、私は自分の部屋のベッドに横になっていた。すべては夢なのだろうか、と思った。しかし、私の耳の機能は完璧にだった。あの人から耳をもらったからに違いない。私は両親にこのことを告げた。両親は大いに喜んでくれたのだった。
それから私はずっと、普通の女性として生きてきた。
34歳になった私は、癌を宣告された。突然のことだった。手術でも回復の見込みは薄いと言われ、私はある一つのことを決心した。
夜私は病院を抜け出し、そのまま二度と戻らなかった。
何をすればいいかは分かっていた。自分にその能力があるのかどうか自信はなかったけど、それでも、正しいことをしていれば大丈夫だ、と言い聞かせた。
目の見えない少女を見つけた。私は彼女に近寄って行き、
「君を助けてあげる」
と言った。自分の目を彼女にあげた。彼女は目が見えるようになったようだった。
それから私は、命の続く限り自分の体の一部を人に与え続けている。私の姿はどんどん醜くなっていき、それにつれて私を見て逃げる人も多くなっていった。しかし私はめげることはなかった。私の心の師であるあの人のようになりたい、と願っているのだ。
私は、まだ両耳を残している。この両耳を手放すのは最後にしたい、と思っている。
117.「クロウ、さようなら」
クロウはだだっ広い平原に立っている。彼は、時間さえあればいつでもここに来る。そして、周りに人を寄せ付けない、神聖とも言える雰囲気を漂わせながら、長いことそこに立ち続けているのだ。時々何かを期待するように空を見上げる以外、身じろぎもしない。
そして私は、そんなクロウを遠目に見ている。私も、なるべくここに来て、クロウのことを見るようにしている。私は、クロウが何をしたいのか知っている。何故立ち続けているのか知っている。そして、私はクロウを裏切っている。その事実のために、私はクロウにあまり近づくことが出来ないでいる。
私たちは、二つの種に分けることが出来る。それは、空を飛ぶ種と飛べない種である。この世界には、その二種類の人間がいる。
これはすべて、先天的なものに依存する、と言われている。生まれつき、飛べる者は飛べるし、飛べない者は飛べない。もちろん、例外がないとは言わない。生まれつき飛べなかったものが、何かのきっかけで飛べるようになった、という報告は確かに存在する。しかし一方で科学者は、それは先天的な能力が眠っていただけである、と指摘する。すなわちこの飛ぶ能力は、決して後天的に身につけることは出来ない、ということだ。まだその議論に決着がついているわけではないが、私も概ねその意見が正しいのだろう、と思っている。
クロウと私が住んでいる国は、風の国、とも呼ばれている。これには二つの意味があるとされている。
一つは、その名の通り、吹き付ける風が強いことに由来している。一年中、どこかしらから強く数が吹くこの国は、まさに風の国という名が相応しい国である。
そしてもう一つは、飛ぶ人間の出生率が世界中で最も高い、ということに由来する。理由は定かではないが、この国に生まれた人間が飛ぶ能力を持っている割合はかなり高い。一般に、飛ぶ者と飛べない物の割合は五分五分であるといわれている。しかし私たちの国では、その比は8:2ほどにもなる。この異常とも思える飛ぶ能力を持つ者の出生率のために、風の国と称されている。
そんな国であるから、飛ぶ能力を持つ者の力が強い。飛ぶ能力を持たないものが肩身の狭い思いをすることも度々である。国民の8割が飛ぶ能力を持つものであるから、この状況を社会問題だと認識する人間も少ない。飛ぶ能力を持たない者は、この国では生きづらいのだ。
そして、クロウは不幸にも、飛ぶ能力を持たずに生まれてきてしまった一人だった。
クロウは、そんな自分を認めることが出来ないでいる。幼馴染みである私にはそのことは手にとるように分かる。どうして飛ぶ能力を持って生まれなかったのか、両親と喧嘩したという話も聞いたことがある。この国で、飛ぶ能力を持たない者は確かに少数派であるが、その中でもクロウは、切実に飛ぶ能力を求めている男なのである。
だから彼は、こうして平原で佇んでいる。数少ない、後天的に飛ぶ能力を獲得した物の多くが、広い空間で飛びたいと願った時に飛ぶことが出来た、と証言しているのだ。私は正直、そんな証言を信じるのは止めた方がいいと思っている。でも、そんなことクロウには言えない。愛するクロウを絶望させるようなことは、私にはどうしても言えない。それなら、たとえそれが望みのないものであっても、希望を持って生きていく方が幸せなのではないかと思う。
クロウは、当然今日も飛ぶことは出来なかった。そのとぼとぼとした後ろ姿を見るのは辛い。クロウも、私には見られたくないだろうから、声を掛けたりはしない。
かつてクロウに聞かれたことがある。
「お前は飛べない自分のことを悔しいと思ったことはないのか?」
私は、そう口にしたクロウの目を見ることが出来ない。私は真剣に見つめているだろうクロウの視線を巧みに避けながら答える。
「ないわ。クロウだって、飛べなくたってどうってことないのよ。飛べるだけが能力じゃないんだから」
私はそうクロウに言葉を返す。
嘘だった。私はこうやってクロウに嘘をつき続けている。たぶんこれからもずっと。その罪悪感が私を苦しめる。
私は、空を飛ぶことが出来る。8割の方の人間なのだ。ただ、子どもの頃からクロウが空を飛べないことで悩んでいることを知っていた。そして、私は彼のことが好きだった。だから嘘をついた。子どもの時は、些細な嘘だと思った。私も飛べないの。一緒だね。ただクロウに近づきたかっただけだ。仲間だと思ってもらえたら、それでよかったのだ。そのせいで、まさか未来の自分がこんなに苦労するなんて思いもしなかった。
クロウはとぼとぼと歩きながら家を目指す。自転車や車に乗ることも出来るが、それらは飛べない者であるという烙印そのものだった。飛べるものは、移動するのも空を飛ぶからだ。彼は人から飛べない者と思われるのが悔しくて、自転車や車を使うことはないのだった。
クロウが切り立った崖沿いの道を歩いている時だった。突然、地をつんざくような轟音と共に、地面が激しく揺れ出したのだ。
(地震!)
私は咄嗟にクロウの方に目をやった。すると、山側から巨大な岩が転がり落ちてくるのが目に入った。そのまま行けば、クロウが押しつぶされてしまうのは間違いなかった。私が空を飛んでいけば、まだクロウを救うことが出来る。でも、そんなことをすれば、私は永遠にクロウを失うことになるだろう。本当は空を飛べるのに、飛べないと嘘をついて自分のことをあざ笑っていたんだろうと思われるに違いない。でも、このままじゃあクロウは間違いなく死んでしまう。
私は決心した。空を飛び、クロウの元へと向かう。クロウの背中側から回ってクロウを抱き締め、そしてそのまま空へ飛び去って行く。
「お願い!振り向かないで!」
クロウは声で私だと分かったことだろう。そして、私がずっと嘘をつき続けてきたことも悟っただろう。これですべては終わってしまった。私は、クロウを抱き締めたまま、涙を流し続けた。
クロウ、さようなら。
118.「ロストビーフ」
科学技術の進歩は著しく、それは食品の世界においても同じことである。
アメリカのニューハンプシャー州で、「ロストビーフ」というファストフード店がオープンした。この店は開店するや大繁盛し、またたくまにアメリカ全土にチェーン展開することになった。
その秘密は、値段の異常な安さにあった。
ロストビーフのハンバーガーは、なんと一つ10セント、日本円にしておよそ10円程度という破格の値段だったのだ。この値段設定に子ども達が飛びついた。有名なハンバーガーチェーンのどこよりも安い。それにそこそこ美味しい。ファストフードをこよなく愛するアメリカの子ども達は、すぐさまロストビーフへと乗り換えた。
しかし、もちろん大人は不信感を抱く。どんな風にすれば、ハンバーガーをたったの10セントで販売することが出来るのだろうか。恐らく何かが間違っている。しかし彼らも、ロストビーフのハンバーガーは美味しいと感じていた。何が使われているのか分からない不安は確かにある。しかし安くて美味しいものを食べられるなら問題ないと、彼らも目をつぶってしまったのだった。
この驚異のハンバーガーを実現したのは、ドイツの科学者が開発したある食品にある。
それは、科学者の間では「食用粘土」と呼ばれるものであった。
ドイツの科学者グループは、粘土から食肉に近い食感と味をを生み出すことに成功したのだ。これに香料を加えることで、食肉とほぼ変わらない製品を作り出すことが出来るようになった。もちろん、ロストビーフ社はこの事実を巧みに隠している。ダミーの食肉工場を持っているし、偽りの報告書をいくつも書いてこれをごまかしている。消費者は、食肉と食用粘土の違いなど分かるわけがない。むしろ、細菌に汚染される心配が皆無なのでより安全であるとさえ言えるかもしれない。また、脂肪分も含まれていないので、肥満問題を解消することも出来るかもしれない。しかしもちろんロストビーフ社は、自分達が粘土を食わされていると知って喜ぶ消費者がいないということは分かっている。徹底的に隠すつもりだ。
ロストビーフ社は、第二のアイデアも持っている。それは、食用プラスティックからフライドポテトを作る計画で、既に実現に向けて動き出しているという。
119.「伊之助の不幸」
伝記によれば、江戸時代の解剖学者土井垣伊之助は、生涯で2000体を超える死体の解剖をした、とされている。しかしその生涯はちゃんとは分かっていない。彼は、その解剖の記録をまったく残さなかったようなのだ。学術的な探求から解剖を行っていたのだとすれば到底考えられない話である。
この話はその、伝記に載ることのなかった、一生を解剖に捧げたと言っても過言ではない男の、数奇な生涯の話である。
(あと一つだけなのに)
土井垣伊之助は、死体の腹を掻っ捌きながら、いつものようにそう思っていた。彼は焦っていた。どうしても見つけなくてはいけないのに、それがどうしても見つからないのだ。
彼は、腸を肝臓を子宮を膀胱を切り裂き、また肋骨を折っては肺や心臓まで切り開いて行った。後で臓器を標本にしたり、何か理屈を持って解剖に当たっているのではないことは明白だった。事実彼は生涯に一つも標本を作製しなかったし、散々切り刻んだ死体の始末は助手にやらせ興味がなかったのだ。人々は、彼が学術的な探求から死体の解剖をしているのだ、と思っていた。杉田玄白による「解体新書」が世に出始めていた頃でもあったし、死体を解剖するということについて世間の理解が若干得られているような時期だった。しかし、彼のごく近くにいた人々は彼を畏れていた。彼の近くにいたのは、医学者や解剖学者の卵であったが、彼らは一様に、伊之助の解剖についていぶかしんでいた。目的がまったく分からない中、彼らは伊之助は悪魔にとりつかれてしまったのではないか、と噂をしていた。
(早くしないと間に合わない)
伊之助は、ナイフを握る手に力を込めながら、人体の内部を引っ掻き回していた。まだメスなどない時代のことである。切れ味のいいナイフを使い、血まみれになりながら、真冬でも真夏でも解剖を続けた。真夏の解剖は地獄のようだった、と助手は証言している。あの臭いは、地獄でも嗅がせることはないだろう、と。そんな環境の中、伊之助は平然と解剖を続けるのであった。
伊之助は、死体さえ手に入ればいつどんな時でも解剖を続けたものだったが、しかし日に日に体は弱っていった。当時治療法が確立されていなかった重篤な病に冒されていたのだった。普通であれば、激しい運動や長時間の労働などは絶対にダメであった。しかし伊之助は、解剖をすることが自分の死期を早める可能性があると知った上で、それでもなお解剖を続けるのだった。
(これは生きている人間を襲うしかないのだろうか)
探せども探せども、あの一つがどうしても見つからない。6つまでは見つけたそのs戦利品は、床下に厳重に保管してある。あと一つ見つけさえすれば、自分の命は助かるはずだ。死んだ人間だけを相手に悠長に探しているわけにもいかない。もう自分の死はすぐそこまで迫っているのだ。これまで、生きている人間に手を出すのはダメだ、と思っていた。しかし、その考えを改める時期に来ているのかもしれない。
そんな野蛮な考えを抱いていた矢先の話だった。いつものように腸を漁り心臓を切り裂いていた伊之助は、肺を切り開いた時にようやくそれを見つけた。
(星が4つ。まさに四星球だ!これで7個すべて揃った!)
一部の人には説明が必要であろう。この「四星球」というのは、かの有名な漫画「ドラゴンボール」に出てくるもので、7つすべて揃えると願いが叶う、と言われているものである。7つ揃えると、神龍(シェンロン)という神様が出てきて、一つだけ願いを叶えてくれる。一星球から七星球まであり、それぞれにそれぞれの数字の分だけ星型のマークが入っている。
伊之助が探していたのはこれだった。彼はとあるきっかけで人体の解剖をした際、人間の体内から六星球を見つけたのだった。古い伝記や逸話などが好きだった彼は、後に「ドラゴンボール」という名前で有名になるこの球は、七つ集めると願いが叶うことを知っていた。そこで、解剖の度に気まぐれに探すことにしたのだ。当初は病を患っていなかったため急いで探してはいなかったのだが、病気が発覚してからは他のすべてのことを差し置いてこのドラゴンボール探しに熱中したのだった。
ようやく集め終わった伊之助は、早速神龍を呼ぶことにした。
「出でよ、神龍!」
すると巨大な龍が空を多い尽くした。神龍は言う。
「願いを一つ叶えてやろう」
伊之助は待ちに待ったこの瞬間、自分の病気を治して欲しい、と言おうと思い息を吸ったその瞬間だった。
「おなごのパンティが欲しい!」
町人の誰かがそう叫んだと伝えられている。どこにでもそういう輩はいるものである。
結局伊之助の願いは叶わず、そのショックもあったのだろう、伊之助はその直後火が消えるようにして死んだのだった。
120.「誰もいない」
日本に戻るのは実に七年ぶりだ。仕事が忙しかった、というわけでもないのだが、特に用事もないのにわざわざ帰国するのも億劫だったということもある。飛行機というのが苦手なのだ。滅多なことでは乗りたくないものだ。結局転勤でアメリカに移ることになってから丸々七年日本を留守にしてしまった。
両親や友人などとはそれなりに連絡を取ってはいたものの、やはりしばらくは変化についていくことは出来ないだろうな、と思う。僕の中では、日本は未だに七年前の姿で止まっている。どれだけの変化があったのか、楽しみというものだ。
苦手な飛行機を降り、空港内に足を踏み入れた時、最初の違和感に襲われた。
(人がいない?)
もちろん飛行機から降りてきた乗客はいるが、空港の職員らしき人がまったく見当たらないのだ。税関もすべて機械化されているようだし、カウンター内にも人の姿はない。他の乗客の中にもこの状況を戸惑っている人がチラホラ見られる。これは一体どうなっているのだろうか。
とりあえず訝りながらも、空港から出る。とりあえずさっさとタクシーでも拾ってホテルに向かおう、と思ったのだが、空港前の敷地にタクシーが一台も停まっていないのだ。その代わり、かなりの数の自動車が停まっている。また周りを見渡しても人の姿はやっぱりない。
(どうなってるんだ、ホント)
かつてタクシー乗り場だったと思しきスペースに、『貸し自動車』という看板があった。
(『貸し自動車』ってなんだ?)
説明を読んでみると字の如くで、要するに敷地内に停まっている自動車を自分で運転し、全国各地にある所定の場所にまた戻す、という仕組みらしい。
(こんなことをするよりタクシーの方が効率がいいんじゃないかな)
そうは思ったものの、移動手段がないのではどうしようもない。僕は貸し自動車に乗ることにした。奇妙なことに敷地内にある自動車の窓はすべて、外から中が覗けないようにシートが貼られているようだった。何の意味があるというのだろう。
自動車を走らせていても、歩道に人の姿はない。これはさすがに異常ではないか、と僕は思い始めていた。東京に、これだけ人がいないなんてことがありえるだろうか?
また不可思議なのは、街中にある店舗が軒並みシャッターを閉めていることだ。コンビニさえも閉まっているのだ。飲み物や煙草は自動販売機で買えるにしても、他のものはどうやって手に入れたらいいのだろうか。
ここに至って僕は恐ろしい想像をしてしまう。まさか、日本という国は滅んでしまったとでもいうのだろうか。
目的地であるホテルに辿り着いた。さすがにホテルは営業しているようだ。しかし相変わらずカウンターには従業員の姿はない。タッチパネル式の機械があり、それで部屋の予約をするようである。
部屋に入り落ち着いたところで、両親や友人の電話をしようと思った。日本の携帯電話は持っていないので、部屋の電話から掛けることにする。
しかし、掛ける番号すべて、『現在使われておりません』という案内が流れるのであった。そんなバカな。ついこの間まで普通に連絡をしていた相手なのに、どうして電話が繋がらないというのだろうか。僕はこの異常事態にどんどんと不安を増していった。
テレビをつけることにした。この時間なら夜のニュースをやっているだろう。
確かにニュースはやっていた。しかしそれは、酷く奇妙な番組だった。
アナウンサーがまったく出てこないのである。映像と声のみで、アナウンサーの姿が画面に映ることがまったくない。しかもその声も、機械で加工されたような変なもので、何かの冗談のような構成であった。しかしどの局でもそんな番組しか流していなかった。
そのニュースで、ようやく僕は状況を理解することが出来た。もちろんそれは、何が起こっているのかが分かったというだけのことであり、その理屈に納得できたわけではなかったのだけど。
機械で加工された声でニュースが読み上げられる。
『昨日から施行された個人保護法により、様々な影響が出ています。街中の店は閉じられ、電車やバスなどの交通機関はストップ、また国民すべての電話が不通になりました』
この状況は、昨日から施行された個人保護法という法律のせいらしい。
ニュースによればこの個人保護法は、かつて制定された個人情報保護法をさらに強化した内容になっているという。個人情報保護法では、個人に付帯する情報について保護されることになっていたが、今度の法律では個人そのものの情報が保護されるということのようだ。即ち、個人の顔や存在と言ったものまで保護の対象にしよう、というものだ。そのため、人前に姿を現すことが基本的に出来なくなってしまった、ということらしい。
僕は、もしやと思って、引き出しの中にある聖書を取り出してみた。予想通りだった。すべての個人名が黒塗りにされている。
(そりゃやりすぎじゃないか…)
とんでもない国に戻ってきてしまったものだ、と僕は思った。
121.「全国麺協会大会」
全国麺協会による全国大会、というものが開かれている。大会とは言うものの何か競技があるわけではなく、会議のようなものである。年に一度、全国の様々な麺が一同に介し、今後の麺の行く末について話し合ったり、あるいは解釈の違いなどを裁いたりする場である。
今年も全国各地から、1800種を越える麺たちが一同に介した。場所は、廃工場である。工場萌えの方々が、時々この会議を目撃してしまう。廃工場の一面に様々な麺が処狭しとひしめき合っている光景は、なかなか悪夢であるそうだ。
「第56回、全国麺協会大会を開始します」
麺界のドンであるさぬきうどんの開会宣言により、大会は始まる。
まずは、毎年恒例の議題からである。これを問い掛けるのは毎年へぎそばであるということも決まっている。
「そもそも麺とはなんぞや?」
そう、全国麺協会であっても、麺とは何かという明確な定義を未だ持っていないのである。全国麺協会はその発足当初から、希望者はすべて加盟する方針を取っていた。なので現在では、しらたきや糸コンニャクはもちろん、さしみのつま状の大根やベビスタラーメン、果ては素材が同じであるという理由で餃子なんかもこの麺協会に加盟していたりする。もはやグチャグチャである。当初からこの麺協会に加盟していた古参幹部は、麺とは何かを定義し、その定義にあった者のみを加盟者とすべく毎年働きかけていたのだが、政治的な理由からなかなかうまくいかない。当然今年もうまくいかないのであった。
次はサンマーメンからの指摘であった。
「吉田うどんが四万十川水系の水を使用して麺を打っている。これは違反ではないのか」
麺には土地に根ざしたものがかなりあり、さぬきうどんや長崎ちゃんぽんなどがその例である。吉田うどんもそうである。これら土地系の麺は、基本的にその土地の水を使って打つのがよい、という暗黙の了解がある。明文化されているわけでもないので違反とも言えないだろうが、しかし見過ごすことも出来ないというなかなか微妙な問題ではある。結局解決することなく次の話に。
今度はきしめんからの意見であった。
「抹茶小倉スパゲッティが可哀相で見ていられない。どうにかならないものか」
名古屋には、「抹茶小倉スパゲッティ」という珍妙な食べ物がある。うまいかまずいかは個人の判断であろうが、しかし麺からすれば、抹茶を練り込まれるのはよしとしても、小倉あんをかけられるのは屈辱に等しいものがある。これは麺同盟すべての者が同感ではあったが、しかしだからと言って何か出来るわけでもない。きしめんの心優しい提言は、しかし活かされることはないのであった。
その後もいくつかの話題が出ては議論になるが、しかしどれもこれも結論は出ない。それもそうで、人間で考えてみれば1800人を一同に集めて会議をしているようなものなので、会議になるわけがない。ことここに至って、麺の定義を明確にしてこなかったことが悔やまれるのであるが、しかしやはりそれはどうにもならない問題なのであった。
その内議論は出尽くし、というか長時間の会議のために皆カピカピに干からびてしまったために、散会となる。最後はやはり麺界のドンであるさぬきうどんによるありがたいお言葉である。
「麺類皆兄弟」
122.「プール」
僕の家の庭にはプールがある。友達にその話をすると豪邸だなんて言われることもあるんだけど、別にそういうわけじゃないと思う。建物よりもプールの存在の方が目立っているっていうだけの話だ。そのプールはそれなりに大きい。夏になると僕が掃除をして水を入れ替える。そうやって、僕の夏は始まる。
夏になると僕は、毎朝同じ時間にプールに飛び込む。水着に着替えて、防水の腕時計をつけ、軽くストレッチをしてから、プール際に立つ。腕時計を見ながらタイミングを図り、そして飛び込むのだ。
水中で目をつむったまま、僕は水の上の世界について考える。慌てないように意識しながら、僕はゆっくりと水面から顔を出す。
そしてそこは、やっぱりいつもと変わらない庭のプールなのである。
僕は今日もまた失敗したことを確認して、プールから上がった。もはや落胆さえ感じなくなり始めている。何せあの場所を目指して飛び込むようになってから、既に3年が経とうとしていたのだから。
3年前の夏のことだった。僕はいつものようにプールで泳いでいた。とても暑い日で、水の冷たさが心地よかった。体がふやけてしまうんではないかと思うくらい泳いでやろう、と僕は思っていた。
それは何度目かの飛び込むの時に起こった。僕はいつもと変わらないやり方でプールに飛び込んだ。4回に1回はお腹を打ってしまうのだけど、その時はちゃんと頭から飛び込むことが出来た。何もかも普通で順調だった。
水中でも、特に変わったところには気づかなかった。後から考えてみれば、ちょっと水が重かったかもしれない、と思いはしたけど、少なくともその時は何の疑問も持っていなかった。
何も考えずに泳ぎ出し、息継ぎをしようとしたその時のことだった。僕は視界に見慣れないようなものを見たような気がして泳ぎを止めた。プールの底に足をつけようと思って、でもそうすることは出来なかった。プールは、何故か深さを増していて、どうしても足が届かなかった。
その時、僕は自分がいるのはプールではないことにようやく気がついた。そこは海だった。どこを見渡してみても水平線しかない、紛れもない海であった。僕はあまりに混乱していて、何を考えたらいいのかもよく分からないままだった。
そこで見かけたのだ。僕が生涯忘れることが出来なくなる、イルカに乗った少女を。
遠くから何か動いているものが近づいてくるのは僕にも分かった。しかし、初めそれが何なのか分からなかった。大分近づいてきて始めて、それはイルカであり、そしてその上に少女が乗っているのだ、ということに気がついた。
少女は裸だった。そして、何よりも美しかった。彼女は僕の存在には気づいていないようだった。イルカに乗った少女は、そのまままたどこかへと行ってしまった。
僕に何が出来ただろうか。あのままイルカを追いかけて追いつけたとも思えない。声を掛けても聞こえたとは思えない。僕には、彼女を呼び止める術はなかったはずだ。それでも僕は、あの時自分が何も出来なかったことについて激しく後悔した。
気づくと僕はプールに戻っていた。あれはもしかしたら夢だったのかもしれない。それでも僕は、もう一度イルカに乗った少女に会いに行きたかった。今度は、ほんの少しでもいいから話をしてみたかった。
だから僕は、毎年あの時の状況を再現してプールに飛び込んでいる。未だに、あの時の海には辿り着けない。
123.「本の中で起きていること」
「重心に変化が見られます」
「よし、総員配置につけ。そろそろ来るぞ」
「高度30センチまで上昇。上昇速度は比較的ゆっくりです」
「一時停止。急降下」
「別のにするつもりか。それならまた一休み出来るってもんだけどな」
「どうでしょうね。最近の傾向から考えるとこれが一番可能性が高いかと」
「再浮上。やはり選択に相違ありません」
「よし、みんな準備はいいか」
「制御班OK」
「活字班OK」
「指令班OK」
「情報班OK」
「対策班OK」
「現在位置は?」
「地上から35センチ、テーブルから5センチのところで安定しています」
「そろそろ開くな」
「どっちからだと思う?」
「今までの傾向から考えますと、初めのページから順序良く読んでいくようですが」
「聞いたか情報班と活字班。初めのページから順番通りって線で準備を進めてくれ」
「ラジャー」
「内圧に変化あり。ページが開かれようとしています」
「緊急事態発生。どうやら解説から読もうとしているようです」
「何だと。情報班。至急解説の文章にアクセス。活字班。超特急で表示を頼む」
「解説のページが開かれるまであとおよそ0.2秒」
「間に合いそうか!」
「無理です!ひらがなはなんとか可能ですが、漢字が追いつきません!」
「仕方ない。対策班。緊急事態だ。エマージェンシー5発動」
「ラジャー」
「読者は本を落としました」
「エマージェンシー5は、てのひらの汗と反応してすべりやすくなる物質を出す、でしたな。まあ止む負えん措置だ」
「よし、時間は稼いだ。これでなんとかなりそうか」
「大丈夫です」
「解説ページ、オープン!」
「よし、文字の表示は大丈夫そうだな」
「こちら対策班。お伝えしたいことがあります」
「なんだ」
「今の解説ページ表示のために、活字班が1ページ目から3ページ目までの文章から活字をいくつか借りてきたようです。そうでもしないと間に合わなかったとか。つまり、この状況のまま初めのページを開かれれば、虫食いの状態です」
「活字班!何度言ったら分かるんだ!別のページから活字を借り出すのは止めろとあれだけ言ってきただろうが!」
「すみません。しかし、時間内に文章の表示を完成させるには仕方のない措置でして…」
「言い訳はいい!至急なんとかしろ!」
「対策は進んでおります。応急処置として、後の方のページから順繰りに文字を借り出す形を取ることにしました。しばらくは時間稼ぎが出来るかと」
「まあそれならいい。制御班、状況は?」
「読者は解説ページを読み終わろうとしています」
「よし、それで1ページ目の文章はもう準備は出来てるんだな」
「大丈夫です。任せてください」
「こちら制御班。おかしな兆候です。内圧の変化から判断するに、読者は1ページ目ではないページを開こうとしています」
「こちら情報班。状況が判断出来ました。解説の文章に、『P168にある挿絵を見れば、誰しもが主人公に恋をしてしまうだろう』とあります。恐らく読者は、まずこの挿絵を見るつもりなのでは?」
「まずい!挿絵があったか。活字班で対応出来るか?」
「出来ません!既に手一杯ですし、しかも挿絵は管轄外で誰も出来ません!」
「情報班は?」
「すみません!挿絵のデータ量を考えるに、ウチでは扱えないと判断されます」
「まったくどいつもこいつも。制御班、読者が挿絵を見るまでの予想時間は?」
「推定1.4秒後です」
「仕方ない。ランディを呼んで来い」
「ランディ…、ですか。しかし…」
「つべこべ言うな。この状況で挿絵を表示できる男はランディぐらいしかいないだろうが!」
「わかりました」
「はいよ、ランディ。んで、どうしたって?」
「P168の挿絵の表示を0.8秒以内に頼む」
「見返りは?」
「何がお望みだ」
「次は俺に仕切らせろ。あんたには活字班の補佐をしてもらう、ってのでどうだ」
「…分かった、飲もう。じゃあ頼んだぞ」
「あいよ。こんなんちょろいっつーの」
「こちら制御班。あと0.2秒」
「うっせーよ。はい、これで完了」
「間に合いました。挿絵の表示完了」
「ふーっ、疲れるぜ。まあ後は大丈夫だろうな」
「読者はようやく1ページ目に入りました」
「制御班はそのまま監視を続行。活字班は全体の文章の調整と修復、くれぐれも省エネには気をつけてくれよ。表示は読者の目に入る0.1秒前。この鉄則は忘れないように!以上!」
タノヤマは、天才であった。とにかく天才であった。何に秀でていたかと言えば、発明であった。タノヤマに作れないものはない、とまで言われたほどだった。
しかしタノヤマは同時に、とんでもないめんどくさがり屋であった。人類の至宝と呼んでもいいくらいの頭脳を持ちながら、それを世のために使おう、などと考える男ではなかった。事実、タノヤマが天才であったことを世の人間が知ることが出来たのは、タノヤマの死後100年以上が経ってからのことであった。生前タノヤマはその才能を、すべて自分のために使っていました。タノヤマの死後、彼が完成させた様々な発明品が見つかるようになり、ようやく陽の目を見るようになったのです。その発明品群は、今日の科学技術の進歩に大いに貢献するものでしたが、同時にタノヤマ個人にしかメリットのない発明品も多く、タノヤマの評価は綺麗に二分する形になっています。
矛盾することを言うようですが、実はタノヤマはまだ死んではいません。いやこの説明も正しいとは言えないのかもしれないのですが、この微妙な点については後々分かるでしょう。タノヤマには、便宜上死んだ日というのが与えられていて、そこから死後という呼び方をしているわけです。
というわけで、タノヤマの生前の様子を覗いて見ることにしましょう。タノヤマには家族もなく、また友人づきあいもほとんどしなかったために、その死後タノヤマの生活について知る手掛かりは一切なかったと言っていいです。その発明品群から、ぐーたらな生活を送っていたのだろう、と推測はされていますが、細かな部分は何も分かっていません。ですが、まあこれは小説なので、その誰も知るはずのないタノヤマの生活を神の視点から見てみることにしましょう。
タノヤマは、人里離れた、というか山奥も山奥、一体こんなところで生活をして、どこで発明するための部品を手に入れるのだろう、と誰もが不思議に思うような、そんなところに住んでいました。住居は古びていて、まるで小屋かあばら屋と言った雰囲気でしたが、しかし使い勝手だけはかなりいい家でした。もちろんそのすべてはタノヤマの発明によるものです。衛星と勝手に繋いで世界中どこの風景でも見ることの出来るテレビとか、世界中どこの放送局のラジオも自由に聞ける(しかも翻訳もしてくれる)ラジオとか、食べたいものを紙に書いて入れると完成した料理が出てくる電子レンジとか、そんな普通ではありえないような代物が部屋中を埋め尽くしていました。
(あぁ、めんどくさ)
これあタノヤマの口癖です。タノヤマはとにかく日々めんどくさくてめんどくさくて仕方がありません。掃除をするのがめんどくさくて、指定した場所(床や壁や家具など)だけ指定した分だけ時間を遡ることが出来る擬似タイムマシンを開発したり、雨がうっとうしくて、天候を自在に制御することの出来る装置を開発したりして、とにかく煩わしいことから逃れようと日々頑張っていました。
(あぁ、めんどくさ)
それでも彼には、ありとあらゆることがめんどくさくて仕方ありませんでした。
というわけでタノヤマは、これでもかというぐらい発明をすることになります。
(まず歩くのがめんどくさいな)
そう思えば、歩かなくてもいいような装置を開発します。
(自分が必要だと思う時以外は耳を閉じていたいなぁ)
そう思うと、「耳用まぶた」とでも呼ぶべきものを作りあげます。
さらに彼の発想はどんどんとおかしくなっていきます。
(まばたきするのがめんどくさい)
(呼吸をするのがめんどくさい)
(何か食べるのがめんどくさい)
(トイレに行くのがめんどくさい)
そうやってタノヤマは、どんどんとめんどくささを解消する発明を生み出していきます。
その内にこんな風に思うようになりました。
(考えるのがめんどくさいな)
そこでタノヤマは、自分の代わりに自分のことについて考えてくれる機械を開発しました。これで、タノヤマ自身は何一つ考え事をしなくても、何かを考えていられるようになりました。以後生み出される発明品は、すべてこの機械が思考することになります。
さて、彼はどんどんめんどくささから解放されていきます。そしてある時タノヤマは(というかタノヤマの思考を代行する機械は)思います。
(生きてるのがめんどくさいな)
そこでタノヤマは、タノヤマ自身が生きていようが死んでいようが関係なく、タノヤマの代わりに生きてくれる機械を開発しました。
後世の人間は、タノヤマがこの機械を使った日を、便宜上タノヤマの死亡日としています。
タノヤマの身体は、今もとある研究室にあります。生きているのか死んでいるのかと聞かれると困りますが、少なくともタノヤマの代わりに生きることを代行する機械は未だに作動しています。もちろん、タノヤマの代わりに思考を代行する機械も作動しています。しかし哀しいかな、タノヤマはずっと一人で生活をしていたために、自分が考えたことを誰かに伝える機械をついに作ることはしませんでした。よって、タノヤマが現在生きていようが死んでいようが、コミュニケーションがまったく取れないので、死んでいるのとほとんど変わらないということになります。
発明家としては、千年に一人出るかどうかと言われた天才だと言われますが、しかしタノヤマの全体的な評価は、あいつはバカだ、というものに落ち着いているようです。
100.「切腹サムライ」
新聞記事1
「9日未明、○○県北部にある山林で、女性のバラバラ死体が発見されました。頭部や右手首、内臓の一部などが見つかっておらず、捜索が続けられています。現在のところまだ身元は判明しておらず、20代から30代の女性だということです。
今年に入り、同様のバラバラ殺人事件が相次いで起こっています。本件ですでに14件目ということになります。被害者に共通点はなく、性別や職種などまちまちですが、一つだけ明確な共通点があります。それは、必ず体の一部が発見されない、ということです。見つからない部位には共通点は特にないようです。また同じく共通していることが、腹部を切り裂かれ、内臓を持ち去られているという点です。初めの二件の被害者が女性であり、かつ子宮が持ち去られていたために、結婚や妊娠に動機を持つ者の犯行ではないか、と思われましたが、三件目の被害者が男性であったため、違うと判断されました。警察では、被害者同士の共通点を探ると同時に、未発見の部位に加害者の痕跡が残されていることを期待し、その発見に全力を注ぐ、としています」
新聞記事2
「最近巷を騒がせている『切腹サムライ』をご存知でしょうか?東京、横浜、千葉辺りでよく目撃され、動画投稿サイトなどでも話題になっているようです。
切腹サムライは、テレビのコントで着るような侍の格好をして、『切腹サムライ参上!』と叫んで現れます。最近ではその声を聞くや、周囲から人々が集まってくるそうです。
切腹サムライはその場に座り込むと、懐から短剣を取り出します。そしておもむろにその短剣を腹部に突き刺すわけです。右手に持った短剣を左のわき腹に刺し、そこから一息に短剣を右のわき腹へと引きます。すると切腹サムライの腹部は真一文字に引き裂かれ、真っ赤な血が流れ出ます。しばらくすると腸が飛び出してきます。どう見ても、本当に腹を切ったとしか思えない有り様です。
さてそうして内臓が飛び出すまで時間が経つと、どこからともなく介錯人がやってきて、切腹サムライの首を斬りおとす真似をします。それを合図に切腹サムライは突っ伏し、このショーはお仕舞となります。
もちろん切腹サムライはこの後むくりと起き上がり、周りの聴衆に向けて感謝を述べます。まるで先ほどの切腹などなかったかのようです。内臓は飛び出たままだし、血もそのままで続けているのですけど、何故か切腹サムライは平気な顔です。それから大急ぎで内臓をかき集め、出来るところまで血を拭きとって、切腹サムライは立ち去って行きます。
聴衆からは絶大な人気を誇るこの切腹サムライですが、警察では最近警戒を強めているそうです。真似事とは言え公衆の面前ですることではないし、また間違って子どもが真似して本当にお腹を切ってしまうこともあるかもしれません。また、もし短剣が本物であれば、銃刀法違反でもあります。最近では切腹サムライの方も警察にマークされていることを意識しているようで、立ち去るスピードが速くなっているといいます。
真のエンターテイナーなのか、あるいは狂気の伝道者なのか。そのどちらとも言いがたいですが、これからも切腹サムライは話題を提供してくれることでしょう」
ある刑事の日記
「どうやら俺はとんでもないことに気づいたようだ。しかし、一介の警官に何が出来るだろう。刑事の連中にそれとなく教えるか?はん。彼らが交番の警官の意見なんか聞くわけがない。しかし、この事実は恐らく誰も気づいていないのではなかろうか。
世間を揺るがせているバラバラ殺人事件と、巷を賑わせている切腹サムライ。恐らくこの二つは関係がある。
根拠は明白だ。俺は切腹サムライを取り締まるために、切腹サムライがこれまでいつどこに出没したのかをきっちりと調べることにした。すると、切腹サムライがどこかに現れるのは、バラバラ殺人が行われたと思われる日の翌日なのだ。切腹サムライ本人が殺人を犯しているかどうかそれは分からないが、少なくとも無関係ということはないだろう。
恐らく、どんな仕掛けになっているか知らないが、切腹サムライのショーをするために本物の人間の内臓が必要なのだろう。しかし狂った人間がいるものだ。切腹のショーをするために殺人とは。
さてどうしたものか。匿名で捜査本部にでも投書を出すか」
告白書「切腹サムライは私が作った」の著者のインタビュー
「切腹サムライが連続バラバラ殺人の犯人だって知ってたかだって?そんなこと知るわけなかろう。わしゃ手術をしただけだ。ホント、依頼を受けた時はこいつは頭がおかしいんじゃないかと思ったよ。
わしのした手術は、要するにやつの腹部に空間を作る、ということだった。20センチ×20センチ×8センチぐらいの大きさじゃな。それだけのスペースを無理矢理作るために、胃やら腸やらを一部切り取ったり、肋骨を二本切り取ったりと、かなり無茶なことをしたわい。
それでやつはショーの前に、その腹部に作ったスペースに他人の内臓を入れてまた腹を閉じたわけだ。特殊メイクの知識をかじったとかで、腹部の傷はうまく隠しておったみたいじゃな。ショーの時間に合わせて効くように腹部に麻酔を掛けて、これで準備万端というところじゃな。そうやって奴は、切腹サムライのショーを続けておったんじゃ。
何でやつがそんなことをしたかだって?んなこと知らんよ。本人に聞いてくれ」
101.「織姫と彦星的穴掘り」
僕は、手を動かす一個の機械になっていた。
いつからそうだったのか、僕にはもはや記憶がない。随分昔だったような気もするし、あるいはつい最近だったかもしれない。そもそも既に僕には、時間というものが存在していないのだ。いや、その表現には些か間違いがある。僕は、ある一日を目指している。つまり僕にある時間は、その目指すべき一日とそれ以外の二種類、ということになる。
僕は今、それ以外の時間の中をゆっくりと進んでいる。もちろん、ひたすらに手を動かしながら。僕はまだ身体機能的に不足はないが、しかし既に手以外はほとんど無意味だと言って言い過ぎではない。僕には何も見えないし、何も聞こえない。食べるものもなければ、匂いの元もない。ただ僕はひたすらに手を、正確に言えば手に持ったスコップを動かしながら、この世界の中で、名前のついていない時間をひたすらに進んでいく。
僕は穴を掘っている。ずっと穴を掘り続けている。僕が地中に潜りこんで穴を掘り始めてからどれくらいの時間が経ったのかわからない。僕が穴を掘り始めたのは、25歳の時だった。それはまさに神との対話であった。少なくとも僕はそれを信じた。どこからともなく聞こえて来た声が、僕に告げたのだ。掘れよ、と。
それから僕は、まずスコップを買った。必要なものはそれだけに思えた。掘る場所は直感に従った。神社の裏手にある山の一角。そこから僕の新しい人生が始まったのだ。
それから僕は穴を掘り続けている。スコップを自分の前方の壁に突き刺す。土を抉り取る。その土を、自分の後方に積み上げる。僕はそうやって、僕がほんの僅か存在できるスペースだけを残して、少しずつ地中を進んでいるのだ。
初めの内は、自分が何をしているのか、と考え続けた。穴を掘ることは正しい、と分かっていた。しかし、どう正しいのかが分からなかった。僕はそれを知りたいと思い、ひたすらに穴を掘り続けることにした。
しかししばらくすると、僕は人間的な要素を少しずつ失っていった。それは仕方のないことだった。地中は暗いから、僕の目には真っ暗闇しかない。目を明けていても閉じていても何の変化もない。地中では、何の音なのか分からない、ある一定の規則正しい音だけが聞こえてきた。それはやがて僕の耳に意識されなくなり、しばらくすると完全に聞こえなくなってしまった。食べ物も飲み物もなく、しかしそれでも僕は穴を掘り続けた。
そうやって感覚を失っていくと同時に、僕は思考も失っていった。最後に僕がまともに考えたことはこんなことだった。なるほど、刺激こそが思考を促すのだ、と。
それから僕は、ただ手を動かすだけの機械になった。何故自分が穴を掘っているのか、その理由を考えることもなくなった。善悪や正義について考えることもなくなった。ただ僕は穴を掘る。それで十分だった。
ある時、そんな僕の穴掘り生活に変化がやってきた。
僕がいつものように穴を掘っていると、右の方向から何か音が聞こえて来た。まだ僕の耳は死んでいなかったようだ。それまで僕は、前後の方向にしか意識を向けていなかったから、久しぶりに左右の方向を意識することになって戸惑った。僕はしばらく穴を掘ることを止めて、その場に留まってみた。
音はどんどんと近づいて来て、やがて右手に大きな穴が空いた。
「あなたも、穴掘り人なの?」
それは女性の声だった。真っ暗で姿かたちは分からないけど、紛れもなくそれは女性の声だった。
「そうだと思う」
まだ僕の口は死んでいなかったようだ。
「何だか偶然ね。こんなところで会うなんて」
「君は僕を探していたのかい?」
「まさか。私はただ穴を掘っていただけよ」
なるほど、確かにそれはすごい偶然だ、と僕も思った。
「あなたはこれからどこへ行くの?」
まさかそんなことを誰かに聞かれるとは思わなかったから、僕は答えに窮した。
「特に行き先はないんだ。僕にとっての前方に進むだけだよ」
「なら、ちょっと約束しない?」
「約束?」
「そう。それともこんな地中では約束は相応しくないかしら」
相応しいかどうか。なるほど、そう言われれば確かに相応しくないかもしれない。しかしそんなことを言えば、僕らがこうして穴を掘ってることだって相応しいのか怪しいものだ。
「いや、そんなことはない。約束、いいねそれ」
「来年の今日、またどこかで会いましょう」
「分かった。来年の今日、どこかで」
それは約束という言葉の定義に当てはまるとは思えないほど厳密さを欠いた約束だった。それはあるいは、希望だとか夢だとかという風に呼ばれるべきものであるように思われた。しかし、まあいいさ、と僕は思った。僕らはこうして二人だけで地中にいるわけだし、既に地上の世界とはおさらばしてるんだ。わざわざ地上の定義に従わなくちゃいけないなんてこともないさ。
「じゃあまた会いましょう。きっとよ」
「分かった。来年の今日、どこかで」
そうして僕らは別々の方向にまた穴を掘り始めた。
既にそれがどのくらい前のことだったのか、僕には思い出せない。まだ一年経っていないのか、あるいはもう何年も経ってしまったのか。しかし、僕は約束を破っているわけではない。何故なら、僕らがもう一度出会う日こそが、『来年の今日』なのだから。僕は、その『来年の今日』を目指して、今日もひたすら穴を掘り続ける。
102.「ヴァンパイア氏とヴァンパイアハンター氏」
―ヴァンパイアハンターの話―
朝、目が覚める。今日も一日が始まった。布団から出て、支度をする。今日も、吸血鬼狩りをしなくてはいけない。
住んでいるアパートを出る。俺はヴァンパイアハンターだが、姿かたちは人間と大差ない。街を歩いていても、奇異に思う人間はいないはずだ。
吸血鬼は普段日中は行動しない。日の光を浴びることが出来ないからだ。ヴァンパイアハンターとしては活動し難い時間だと言われているけど、俺はそうは思わない。どっかで寝ている吸血鬼を見つけ出してそのまま狩り出してしまう方が楽に決まっている。そういうわけで俺は、朝早くからこうして出かけるのだ。
俺には、どうにも不満がある。それは、自分のすぐ近くにいるはずの吸血鬼を一向に狩り出すことが出来ない、ということだ。
ヴァンパイアハンターには独特の嗅覚があり、それによって吸血鬼を識別することが出来る。俺は、そうやって幾人もの吸血鬼を狩り出してきたが、しかしある吸血鬼だけは一向に姿を見せないのだ。その吸血鬼は大胆にも、俺のすぐ傍まで近寄っているようなのだ。それは、その吸血鬼の匂いが強いことからも分かる。他の吸血鬼の姿を追いながら、俺はずっとその吸血鬼を探しているのだが、一向に見つかる気配がないのだ。自分のハンターとしての腕に自信を持っているが故に、今の状況には満足できないのである。
吸血鬼がいそうな暗がりを重点的に回りながら、同時に生け贄を探している。俺はヴァンパイアハンターであると同時に、殺人鬼でもあるのだ。特に、むしゃくしゃした時人間を殺したくなる。一匹の吸血鬼も見つけられないような時だ。そういう時は、人間を殺すことで自分を落ち着かせている。
今日もそんな日だった。どうにもむしゃくしゃして、つい人間を殺してしまった。とりあえず身体をバラバラにして部屋まで持って帰ることにする。
とりあえず冷蔵庫に腕だけ入れる。基本的にあまり使わないので、うちにある冷蔵庫は小さいのだ。腕ぐらいしか入らない。仕方ないから他の部位は自分で食べることにする。ヴァンパイアハンターは元々吸血鬼であることが多い。俺もそんな輩の一人だ。
追い続けている吸血鬼はどうにも見つけることが出来ない。常にその不満を抱えたまま、仕方なく俺は眠りにつく。
―ヴァンパイアの話―
僕の一日は、日没と共に始まる。
もちろん、僕が吸血鬼で、日光を浴びることが出来ないからだ。何とも不便な身体だ…、なんて思うことは特にない。生まれた時から僕はずっと吸血鬼だったのだし、これからも吸血鬼であり続けるのだろうから。
布団から這い出し、洗面所で顔を洗う。当然鏡はない。トイレで用を足し、人工血液(現代に生きる吸血鬼の主食だ。さすがに人間の血ばかり吸っているわけにはいかない。しかしこの人工血液、マズイのだ)を飲みながらテレビを見る。
僕ら吸血鬼の生活は、人間と大して変わらない。ちゃんとしたアパートに住み、それなりに近所の住人と接触を持ちながら、目立たないように生きている。住みにくい世の中になったものだ、と思う。僕はもう長いこと生きているわけだけど、例えば戦国時代なんかどれだけ生きやすかったことか。吸血鬼も歩けば瀕死の人間に当たる、と言った具合で、食料には事欠かなかったのだから。逆に言えば明治時代なんかはかなりきつかったな。何故なら人工血液なんてものがまだ開発されていなかったからだ。そういう意味では、現代はまだ生きやすいと言える。
テレビでは、お笑い番組をやっている。もう人間のように生きて久しい。人間と同じポイントで笑えるようになってきたものだ。
テレビを見ながら僕は、ぼんやりと考える。ずっと感じていることだが、僕の周りにはヴァンパイアハンターがいるようなのだ。決して姿を見せることはないし、何故か僕を狩り出すこともないのだが、そのヴァンパイアハンターは僕の周囲に付きまとっているようなのだ。そいつが何を考えて僕を狩り出さないのか、僕にはさっぱりわからない。しかし、恐らくそうできない理由があるのだろう、と僕は高を括っていて、それでそんなヴァンパイアハンターの存在を無視し続けている。
そういえば、と思いついて冷蔵庫を開ける。期待通りそこには、人間の腕が入っている。ラッキー、と思いながら、僕はその腕に齧りつく。
不思議なことではあるが、こういうことが時々ある。自分で入れた記憶はまったくないのだ。どういう経緯でこの冷蔵庫の中に入ってきたのか不明だが、人工血液に飽きた僕には格好のごちそうになる。やっぱり人間の血はうまい。
さて今日も一日平和だった。特にすることもないし、寝るか。
103.「変人二十面相」
「佐藤さん、お久しぶりです」
営業のためにとあるスーパーを回っている時、顔見知りの他社の営業マンに声を掛けられた。
「おぉ、久しぶりだね。最近どう?」
「相変わらずダメですね。佐藤さんの方はどうですか?」
佐藤雅兼。これが僕の本名であり、普通に仕事をしている時に使っている名前だ。
「こっちも同じだよ。参ったね。あれでしょ、おたくも石油のせいでしょ?」
「そうですね。アレの値上げがキツくって。まあどこも一緒なんでしょうけど」
スーパーの担当者が捕まらなかったりする時、営業マン同士でこうした他愛もない雑談をする。特に中身のある話ではなく、天気の話とさして変わらない。
佐藤雅兼としての僕は、どこにでもいる平凡な営業マンで、可もなく不可もなく。喋りがうまいわけでも押し出しが強いわけでもなく、かといって契約が取れないわけでもない、それなりの男である。
「吉岡さん、ちょっと忙しくて無理そうですね。じゃあ僕は他を回ることにします」
そういって佐藤雅兼はスーパーを後にした。まあどうせ僕はそこそこの営業マンだ。そんなに頑張ることはないさ。
車に乗り込もうとした時、携帯電話が鳴った。
「もしもし、吉田さんですか?」
吉田友成。僕のペンネームの一つである。
「明後日締め切りのやつが一本あるんですけど、ダメっすかね?」
吉田友成としての僕は、フリーのライターをしている。署名記事を書くわけではない。大抵どこかの週刊誌の、あってもなくてもさして変わりのないような、スペースを埋めるための記事を書いている。まあそれでも、それなりにお金にはなるから悪くはない。
「明後日ですか。まあ大丈夫だと思いますよ。今出先なんですけど、メールで送っといてもらえば後で見ますよ」
「助かります」
吉田友成は、締め切りを常に守る男だ。それだけが取り得だと言っていい。しかし出版業界でそこそこ仕事をもらうには、それだけで十分だとも言える。文章の上手い下手はさほど関係ないのだ。
さて、明後日までか。早めに予定を切り上げて家に帰らないといけないな。とりあえず、昼飯でも食うか。
普段よく行く定食屋へと向かう。味はそこそこだが、早くて安いと評判の店である。
「市川先生じゃないですかぁ」
店に入るなり、客の一人からそう声を掛けられた。
市川忠雄。これも僕のペンネームの一つである。
「ちょうどよかった。田中先生が病気で倒れちゃって、どうしようかと思ってたんですよ」
市川忠雄としての僕は、ちょっとしたイラストを描いている。新聞連載の小説や雑誌の片隅に載るような挿絵で、あってもなくてもさほど影響はないようなものだが、それでも仕事の依頼はそこそこにある。悪くない仕事だ。
「明日締め切りなんですけど、ダメでしょうか?」
田中というイラストレーターの代わりに、動物の絵を何点か描いて欲しい、ということだった。明日まで、という締め切りはなかなかハードだが、まあやってやれないことはないだろう。
「ありがとうございます!助かりましたよ、ホント」
さて、いよいよ忙しくなってきたぞ、と思ってきた。急いで昼飯を平らげ(彼が奢ると言い張ったが、それは断った)、すぐ車に戻ろうとした時、後ろから誰かに呼び止められた。
「立岡さんじゃないですか?」
立岡…、そんなペンネームを持っていただろうか。
「連絡が取れなくて困ってたんですよ。今日の18時締め切りのコピー、忘れてないですよね?」
ある飲料メーカーが次に行う大きなキャンペーンのメイン広告のキャッチコピーを考える仕事を立岡某は受けたのだ、という。人違いではないのか、と一瞬考えはしたが、そういえば立岡という名前を使ったような気がしないでもない。なるほど、今日締め切りだったか。それは危ないところだった。とにかく時間はないが、急いで考えなくては。
「頼みましたよ。立岡さんは締め切りを破らない人だから大丈夫でしょうけど」
さて、とにかく急いで営業に回らないと。運転席に乗り込むと、またしても電話がなった。
「稲垣さんですか?」
稲垣…、そんなペンネームもあっただろうか。
「お願いしていた試薬の検査、あれ今日の朝締め切りだったはずですよね?どうしちゃったんですか?このままだとプレゼンに間に合わないんですけど!」
どこかの研究所が家庭用洗剤として開発したものの安全検査を稲垣某に外注した、というのだ。試薬の安全検査?僕はそもそもそんな仕事が出来たのだろうか?学生時代の化学の成績はあまり褒められたものではなかったと思うのだけど。しかし、稲垣という名前も、使ったような気がしないでもないな。仕方ない。引き受けてしまった仕事はやるしかない。申し訳ないが、後数時間待って欲しい、と告げる。
「ホント頼みますよ!明日プレゼンなんですから!」
電話を切った僕は、何だか疲れてしまっていた。そういえば本当の自分の名前はなんだっただろうか…。
あぁ、あの人ですか。この辺じゃ有名な人なんですよ。どんな名前で呼んでも返事をしてくれる人だって。それにかこつけて、依頼してもいない仕事を無理矢理押し付けたりする人が結構いるみたいですね。奇特な人ですよね。僕らは、「変人二十面相」って呼んでますよ。
104.「電車鳩」
恐らくご存知の方は多くはないだろう。日本が戦時中に開発したある特殊兵器のことを。
この特殊兵器は、理由は定かではないが、詳細が歴史の闇に埋もれてしまったものである。開発者は終戦直後謎の死を遂げ、それに伴い研究はストップ、戦後のゴタゴタで資料も散逸し、そのためその存在を知る者はいなくなってしまったのである。
じゃあ、そんな誰も知らないはずの特殊兵器の話をこうやってしているのは一体誰なのか。まあそれは追々ということで。
その特殊兵器は、『電車鳩』と呼ばれていた。
どんな兵器なのかと言えば、まさに呼び名の通りである、と言える。つまり、線路の上を飛ぶように訓練された鳩、なのである。
いや、訓練された、という言い方は実は正確ではない。これは当時でも極秘の技術であったのだが、遺伝子操作により、線路を飛ぶ性質を遺伝によって受け継ぐことを可能にした種、だったのである。つまり、電車鳩いうのは既に新しい種の一つであり、電車鳩同士での交配により必ず電車場とが生まれるように設計された種だったのである。
この電車鳩、一体どのように使われていたのだろうか。
残酷な話ではあるが、この電車鳩、やはり爆弾として使用されていたのである。
鉄道というのは国家のライフラインの一つとも言えるものであり、鉄道や駅を中心に街は発展していく。即ち、鉄道に沿って爆弾を仕掛けることは効率よく他国を壊滅させられるということになる。
電車鳩は、その体に爆弾を括り付けられ、そして放たれた。向かってくる電車を爆破してもいいし、途中の駅を爆破してもいい。そういう形で試用された生物兵器だったのである。
もちろん、この電車鳩は研究がメインであり、実地で使用されたことはあまりない。鉄道というものがまだそこまで普及していなかったということもある。当時としても、将来使える技術として研究を続けていたようである。戦時中とは言え、なかなか余裕がある研究所だったのだろう。
研究がメインとは言え、電車鳩はどんどん生み出されていった。そして研究者の死により研究がストップすると、電車鳩は解放され、他の鳩と同じように生きていくことになった。
しかし、電車鳩は生きていくのにあまりにも不幸な種であった。
基本的に電車鳩は、線路の上を飛ぶことしか出来ない。元々兵器として開発されたためそうなっているのだが、しかしこれは生物としては致命的過ぎた。いかんせん、食料を確保することが困難であった。線路上を飛ぶだけでは、種に行き渡るほど十分な食料を得ることは出来ない。
また、近代化により鉄道がどんどんと発達すると、必然的に電車鳩の危険性が増して行った。即ち、走行中の車両と衝突する事故が多くなったのだ。
この二つの要因により、電車鳩はその数をどんどんと減らして言った。もともとその存在さえ正式には認識されていなかった種ではあるのだが、しかし電車鳩はどんどんと絶滅の危機に瀕したのである。
そしてついに電車鳩は、最後の一匹になってしまった。そして何を隠そう、僕がその最後の一匹なのである。
僕が生き延びることが出来た理由は二つある。
一つは餌のとり方だ。僕は川の多い地域を中心に住んでいるのだけど、橋の下で餌をとる事にしたのだ。他の仲間は、線路の上しか走ることが出来ない、と思い込んでしまったために、橋の下に行くということに思い至らなかったのだ。僕だけが唯一、電車鳩の観念を破って川から餌をとることにしたので、他の個体よりは生存の確率が上がったのである。
そしてもう一つは、電車のやり過ごし方である。
真正面から電車がやってきた時、他の個体は慌てて高く飛ぼうとする。しかしこれは危険だ。何故なら線路の上には送電線があるからだ。これに引っかかったり、パンタグラフにやられたりという輩が多い。
だから僕は考えたのだ。車両を避けるのではなく、車両の上に乗っかってしまえばいいのだ、と。それは多少技術を要したが、しかし僕はそれを習得し、迫り来る車両の危機から逃れることが出来るようになった。
なので、お出かけの際は近くを走っている電車の屋根を見てみて欲しい。もしそこに鳩が乗っていたら、それは僕かもしれません。
105.「手術中」
「それでは手術を始めます。メス」
「今日はこれで何件目?」
「三件目。ホント疲れた」
「昨日は?」
「お察しの通り新人の歓迎会。まあ二日酔いってほどでもないけど」
「新人、嫌いだもんねぇ」
「そんなことはないさ。ただ未熟な人間が嫌いなだけだ」
「それって同じだと思うけど」
「そういえばそれで思い出した。昨日院長の息子が入院したとか言ってたな」
「何呑気なこと言ってるの。今あなたが切ってるお腹が、その息子よ」
「へぇ、そうなんだ。全然知らなかった」
「あなたもいい加減、院内の事情に疎いわよね。さっきだって医局が丸々ピリピリしてたじゃないの」
「あぁ、そうだっけ?気づかなかったなぁ。だったら院長自ら執刀すればいいのに。確かこれ、専門じゃなかった?」
「院内の冬眠ゼミって噂は本当だったのね。ホント何にも知らないんだから」
「冬眠ゼミなんて呼ばれてるのか、俺」
「院長はもっぱら研究で上がった人だからね。実技はほぼ無理。まあそれでも院長になれるっていうんだから、大学病院ってホント謎だけどさ」
「まあまさか自分の息子が発症するとも思わなかっただろうしねぇ」
「でも院長、奥さんに詰られてるらしいわよ。自分の息子なのに、あんたは何もしないのか、って」
「ねぇ君、何でそんなことまで知ってるんだい?」
「あなたは冬眠ゼミだから言っても大丈夫かしらね。でも人に言っちゃダメよ。実は私、院長と付き合ってるの」
「ええっっっーーー」
「ほらほら、周りに気づかれるでしょ。それにペアン、落ちそうよ」
「いやだって、そんな驚かすようなこと言うから」
「もう二年ぐらいになるのかな。まあ院長と付き合ってて損はないしさ、案外アッチの方も健在だしね」
「でも、奥さんにバレたりしないの?」
「院長はバレてないって思ってるみたいだけどね」
「じゃあバレてるんだ」
「っていうかまあ、あたしが教えてあげたっていうか」
「は?」
「だからね、奥さんに、『わたし院長と付き合ってますけど、家庭を壊すつもりはありませんのでご心配なく』って」
「なんていうか、君のことがどんどんわからなくなってきたよ」
「実はね、陶芸教室で一緒だったのよ」
「へぇ、陶芸なんてやってるんだ」
「まあその時は院長の奥さんだなんて知らなかったんだけど、何だかウマが合ってね。時々お茶したり買い物したりなんていう仲になってたんだけど」
「うん、それで?」
「まだ私が院長と付き合う前のことよ。ある時奥さんがね、『もう疲れたわ』なんてことを言うのよ」
「なんか嫌な予感がするね」
「奥さんはね、旦那と息子に辟易していたそうよ。院長になるために家庭を顧みなかった夫、医者になるために勉強ばっかりしてる息子。なんか息が詰まるんだってさ」
「なるほどね。それなら夫を奪われても気にならないってか」
「そう。わたしもそう思ったからね、ちゃんと教えておいてあげたの。そしたら、ありがとう、これで少しは自由になれるわ、って感謝されちゃった」
「でもさっき、『自分の息子なのに何もしないのか』って奥さんは院長を詰ったとか言ってなかったっけ?まあさすがに息子にはまだちゃんと愛情があるってことかな」
「あぁ、それはたぶん演技なんじゃないかな。奥さんの方からもうすぐ離婚を突きつけるつもりらしから」
「どういうこと?」
「つまりね、自分で息子の養育権を得れば、養育費と称してたんまりお金をせしめられるでしょう?そのための準備なんだと思うわ。それに、自分で引き取れば、勉強ばっかりしてる子どもから変えられるかもしれない、って思ってもいるみたいね」
「はぁ。女って怖いね」
「わたしも早いとこ院長からトンズラしないと。奥さんが離婚を切り出す時まで付き合ってたりすると、結婚してくれとか言われかねないしね」
「はぁ。女って怖いね、ホント」
「あの、すいません、全部聞こえてるんですけど…」
「…メス」
106.「絶対舌感」
これは、僕が彼女と別れるまでの話である。
『グルメ界仰天!神の舌を持つ男!』
これはある有名な雑誌に書かれた、僕に関する記事の見出しだ。僕は少し前からこうして、メディアと呼ばれるものに露出するようになってきた。
もともとはただ食べるのが好きなだけの人間だった。食べることが好きで好きで、美味しいと称されるものは何でも食べたかった。美味しいものを求めて日本全国、いや世界中を飛び回ったと言っても決して言い過ぎではないだろう。実家が多少裕福だったことも僕には幸いだった。そうでなければとてもお金が続かなかっただろう。
そうやって僕はずっと食べるために人生を捧げてきた。他のことはほとんど二の次、仕事も趣味も恋愛もまったく無視して生きてきたのだ。
訪れるお店で、店のご主人と話すような機会が時々あった。そこで僕は、これは隠し味に何々を使っていますねだの、さしでがましいようですがこの料理には、どこどこ産の魚よりもどこどこ産の魚の方が合っているように思うんですが、というような話をしたのだった。もちろん、これは純水に僕の興味からであった。旨いものを作る人達と話をしたい、何かを共有したい、あるいはもっと旨いものを作る手助けをしたい。純粋なそうした欲求から、僕は思いついたことを料理人に伝えていたのだ。
そんなことをしていく内に、僕の名前は勝手に広まっていったようだ。すごい舌を持つ男がいる、と料理人の間で評判になっていった。それはとりもなおさず、僕が口にしたことが料理人に受け入れられたということであるから、僕としては嬉しいことだった。そしてそれと同時に、マスコミにも注目をされるようになったのだ。
僕は雑誌に連載を持つことになり、またグルメ番組にも時々顔を出すようになった。バラエティ番組で、料理を一口食べてそれに使われている材料をすべて答える、というようなこともやったことがある。テレビや雑誌の世界は華やかで、僕は依頼があればどんどんと引き受け、やがていっぱしの料理評論家として認識されるようになったのだった。
桃子と出会ったのは、僕が料理評論家として認識され始めた頃のことだったと思う。僕はいつものようにテレビ番組の収録に参加していた。その番組は、料理人や主婦らと共に、ハンバーグやオムライスなどの定番料理の進化版を作ろう、という主旨の番組で、僕はアドバイザーの一人として参加していたのだ。
その日はカレーの回であり、出来上がった試作品を僕が食べる、という段階に来ていた。そこで事件は起きたのだ。
カレーを口に入れた瞬間、違和感を感じた。口の中に異物が入っているのだ。それは指輪だった。
「あの、カレーの中に指輪が入っていたんですけど」
そう言うとスタッフが飛んできて、申し訳ありません、と大仰に頭を下げた。
「いや、僕は全然気にしてないよ。でも、この持ち主に伝えて欲しいことがあるんだ。もしかしたら余計なお世話かもしれないけど、このダイヤたぶんニセモノですよ」
「宝石の鑑定も出来るんですか?」
「いや違うんだ。味がちょっとおかしいなと思って。もしこれが本物のダイヤだったら、こんなおかしな味はしないような気がするから」
この出来事は、僕の人生をささやかに変えてくれた。しかも二つの意味で。
一つは、僕はさらにいろんな番組に取り上げられるようになった、ということだ。僕は、ただ料理の味が分かるというだけの料理評論家ではなく、まさしく何でも見分けることの出来る舌を持つ男として知られるようになっていった。実際僕は舌に載せれば、食べ物でなくてもその物の構成要素が大体分かる。だから、再生紙を使っていると謳っているのに使われていない紙も判別出来るし、割り箸に使われている木がどんな種類のものなのかも分かる。まさに奇跡の舌だ、としてさらにもてはやされることになった。
そしてもう一つは、桃子と出会ったことである。
カレーの中に指輪を落としたのが、その日収録にやってきていたOLの桃子で、ブログで自身の料理日記を載せていて一部では有名な女性だった。桃子には当時付き合っている彼氏がいたのだけど、ダイヤがニセモノであるということを知ったために別れてしまい、そして僕と付き合うことになったのだった。
それまで僕には彼女がいたことがなかった。ずっと美味しいものだけを求めて生きてきたし、マスコミに注目されるようになってからはなかなか時間がなかったということもある。だから、僕は非常に奥手だった。手を繋ぐのにひと月も掛かったくらいだ。でも桃子は、そんな僕を優しく見守ってくれていた。二人とも、慌てずにゆっくり行こう、と思っていたのだ。
付き合いは順調で、僕は忙しい合間を縫って無理矢理にでも彼女と会う時間を見つけた。桃子は優しくて綺麗で、一緒にいると和んだ雰囲気になったものだ。僕はこのまま桃子と順調に進んでいくものだと思っていた。
だが僕は、あの日を迎えてしまう。彼女と別れることになった日だ。それは同時に、僕が彼女と初めてキスした日でもあるのだ。
夜暗い公園で二人で座っている時、僕は勇気を出して彼女にキスをしてみた。彼女は驚いた様子もなく、恐らく内心ではやっとしてくれたのね、なんて思っていたことだろう。僕にとっては初めてのキスで勝手が分からなかったが、しかし戸惑っている僕を襲ったのは信じられない衝撃だった。
キスをし終えた僕は混乱した。どうしたらいいのだろうか。その時僕は、もう彼女との付き合いを続けることが出来ない、と確信をしていた。しかし、桃子のことを嫌いになったわけではない。けどどう考えても、彼女を傷つけずに伝えることは不可能だった。
「…ゴメン、桃子とはもう付き合いを続けていけないと思う」
桃子は目に涙を浮かべながら、しかし同時に納得したという風な表情を浮かべた。
「やっぱり分かってしまうのね。いつかこんな日が来るかもしれないとは思っていたのよ」
「本当にゴメン。でもやっぱり僕には、男性と付き合うことは出来ない」
「いいのよ。仕方がないもの。あなたが奥手だったお陰で、楽しい時間が長く過ごすことが出来たわ。ありがとう。じゃあね」
桃子は、男性だった。キスをした瞬間に僕にはそれが分かってしまった。桃子は人間としては素晴らしいと思う。でもやっぱり、異性として見ることは僕には出来ない。
神の舌を持つことを恨んだのは、後にも先にもこの時限りだった。
107.「ドラショッピング」
ネットサーフィンをしていた僕は、とあるサイトを見つけた。そこは、インターネット上のショッピングサイトであるようなのだが、そのサイトで扱っているものが大分変わっていた。
(ドラえもんの秘密道具?)
『ドラショッピング』と名付けられたそのサイトは、その名の通り、ドラえもんの秘密道具を販売していたのである。
(いやいや、まさかね)
まさか本当にドラえもんの秘密道具が買えるわけがないだろう。そこまで技術が進歩しているわけもないし、というかそもそもドラえもんの道具というのは技術の進歩だけではいかんともしがたいものばかりである。恐らく未来永劫実現不可能なものばかりで、そんなものが売られるわけがないのである。
(しかしサイトのどこにも、なんの注意書きもないなぁ)
あらかじめジョークとしてやっているならいいのだが、しかしこのサイトを真に受けてしまう人もいないとは限らないだろう。特に子どもなんか、本当かもと思うかもしれない。
(まあでも物は試しだ。買うフリでもしてみようかな)
というわけで僕は、そのドラショッピング内をうろうろすることにしたのだ。
(とりあえずタケコプターは欲しいでしょ。空飛びたいしね。これは買い)
(もちろんタイムマシンも、っと)
(四次元ポケット…ってのはさすがにないのかな。まあそうだろうね。それがあったら全部揃っちゃうもんね)
(そうそう、忘れちゃいけないどこでもドア…、ってあれ?どこでもドアはないのかなぁ。あれあったら便利なんだけどなぁ。まあいいか、他のを捜そう)
(あぁ、これはいいよね、もしもボックス。ちょっと大きいのが難点だけどなぁ…)
(逆時計…へぇ、時間を逆戻りさせられるんだ。でも、まあこれはタイムマシンがあれば十分か)
(エアコンボールね。その周りの温度を調節してくれる、と。これはいいなぁ。買うか)
こんな感じで僕はカートにどんどん商品を放り込んでいったわけです。ふと気づけば、合計金額は50万円に達しようとしています。
(まあこれぐらいでいいか。どうせ買えるわけないしな)
僕はカートをクリックし、清算の画面にします。
(名前と電話番号とメールアドレスを入力して、と。住所は書かなくていいのかな)
そして次の画面に進むと、なんとクレジットカードの番号入力のフォームが出てきました。
(まさか、ホントに買えるのか?)
そんなわけがないだろう、と思って、僕は画面の隅々まで見てみることにしました。すると下の方に小さくこんなことが書いてあります。
『商品の発送はいたしませんので、お客様ご自身で受け取りに来ていただくようお願いいたします。当社ははくちょう座の惑星X58695にあり、お越しの際はどこでもドアをご利用いただくのがよいかと存じ上げます。』
なんというか、イタズラなのか新手の詐欺なのか、イマイチよくわからないサイトである。
108.「ラクガキ」
―公務員・滝本一郎の話―
滝本一郎は、市役所庁舎から外に出ると、思わずため息をもらした。
(まったく、役人ってのはアホばっかりやな)
毎日そう思う。上司も部下もアホばっかりだ。滝本自身も分かってはいるのだ。そういうアホどもも、人間としては決して悪くはない、と。しかし、役所という組織の中にあっては、よほど強い意志がない限りだらけてしまうのだ。アホを養成することにかけては役所というのはプロだな、と改めて思う。
(いい加減辞めるべきだろうか)
何だか日々イライラする。熟睡出来なくなったような気がするし、疲れも取れ難くなった。それもこれも、アホな部下とくそったれな上司のせいだ、と思うとまたイライラしてきてしまう。
昼休みということもあって、周辺は市職員やサラリーマンで賑わっている。滝本も、普段行くことにしているデパートに入る。そこに入っているパン屋で昼食を買うことが多い。
しかし滝本はそのままパン屋に向かうのではなく、デパート内のトイレに向かった。そのまま個室に向かう。これはここ最近の習慣と言ってよかった。
中間管理職になってストレスにさらされるようになって、滝本はどこかに逃げ場を見つけなくては、と思った。喫茶店や公園などいくつか試してみたが、このデパートのトイレが一番落ち着くのだった。今では、昼休みの内の15分近くをここで過ごす。本を読んだり音楽を聞いたりしながら、ただぼんやりと過ごすのである。これが、リフレッシュには最適である、と分かったのだ。昼休みでなくても、適当に外出の理由を作ってここに来ることも多い。
4階の奥の個室が指定席だ。大抵いつも空いている。タイミングがいいのか使用率が低いのか分からないが、滝本にとっては喜ばしいことである。
とりあえず用を足そうと便器に座ると、ドアの内側の悪戯書きが目に入った。よくあることで、携帯電話の番号が書かれていたり、こんな人物を見かけたら連絡くださいなんていうのもあったりする。まあ他愛もないものである。
しかし今日の悪戯書きはなかなか珍しかった。なんと数学の問題である。
問題のレベルは、中学生程度のものだろうか。図形が書かれていて、面積を求めるものと角度を求めるものと二問用意されている。幾何はあんまり得意じゃなかったなぁ、と思いながら滝本はその問題を頭の中で考えていた。
巧い具合に補助線を引けば解ける問題であると分かり、実際胸ポケットに挿していたペンで大まかな回答を作ってみた。懐かしいものだ。学生時代は数学は決して嫌いではなかったけど、自分から積極的に問題を解こうなんて考えたことはなかっただろう。それが今では、ストレス解消のための暇つぶしとして数学の問題を解いている。
用を足したこともあるだろうが、それ以上の充足感が得られたような気がした。なるほど、たまにはこうして頭を使ってみるのも悪くないかもしれないな。またこんな悪戯書きがあったらいいな、と不謹慎なことを考えてしまう滝本であった。
―中学生・中村太一の話―
この世で嫌いなものをいくつか挙げろと言われれば結構いろんなものを挙げることが出来る。ピーマンは嫌いだし、カエルもダメだ。お母さんのキツすぎる香水とか、ヤスト君の嫌がらせとかも嫌だ。
でも、それよりも何よりも嫌なのが、数学の授業だ。何で数学なんてのがこの世に存在するんだろう。計算機があれば計算は出来るし、方程式なんて絶対日常生活で使わない。図形の面積が求められなくても、√2のゴロ合わせを知らなくても、絶対に困らないと思う。なのに、何で数学なんてやらないといけないんだろう…。
今も、まさにその数学の授業中なのだ。
僕は、先生が黒板に書いていることを、意味も分からずただ写している。その内飽きてくると、ノートに悪戯書きが増えてくる。しばらくすると先生の声が遠くなり、眠気が襲ってくるのだ。これはもうどうしようもないのだ。
「中村。この問題、前に来てやりなさい」
だからこうやって指されると、僕の心臓はバクバクしちゃうんだ。どうせ、解けるわけがない。先生だってそれぐらい分かってるはずなのに、嫌がらせなんだろうか。
とりあえず黒板に向かう。図形が書かれていて、面積を求めなさいとか、角度を求めなさい、とか書いてある。分かるかよ、と思うけど、もちろん口には出さない。
あぁ、トイレに行きたくなってきた。嫌なことがあるとそうなる。でも、ウンコしたいですなんて授業中に言えるわけがないし、そもそも学校でウンコなんか出来ない。我慢するしかない。
チョークを手に持つんだけど、もちろん手は動かない。何から考えればいいのかさっぱり分からないのだ。じぃーっと黒板を見つめる。まるでそこに答えでも書いてあるかのように。もちろんそんなことはないのだけど。
すると、僕の手が勝手に動き出した。図形の中に一本線を引いているようだ。「ほぉ」という先生の声が聞こえるから、たぶん正しい方向に進んでいるのだろう。確か補助線、とか言うやつだったと思う。しかし、どうして自分がその補助線を引けたのかが分からない。
それからも僕の手は勝手に動き続けた。自分ではさっぱり理解できない記号やらアルファベットやらを、スラスラと黒板に書いている。しばらくすると手が止まり、それで解答を書き終わったのだと分かった。
「中村、やるじゃないか。正解だ。この補助線を引くというのがポイントでなかなか難しいと思ったんだが、よくできたな」
僕はさっきの出来事がさっぱり理解できなくて困惑していたけど、とりあえず先生に褒められて嬉しかった。もしかしたら自分には数学の才能が眠っているのかもしれない。まだその実力が出ていないだけなのかもしれない。その僕のどこかにある数学の実力が、あまりに数学の出来ない僕を見かねてとりあえず顔を出してくれたのかもしれない。そう思うと、ちょっとは数学を頑張って見てもいいかもしれないな、と思えたりするから不思議だ。
不思議だと言えばもう一つ。あんなにウンコをしたかったのに、いつのまにかスッキリしていた。漏らしたんじゃないよな、と何度も確認したけど、大丈夫そうだった。何だかよく分からない不思議なことが続くもんだなぁ、と思った。
109.「立て篭もり」
「高橋じゃないか?久しぶりだな」
仕事を終え、家に戻る途中だった。関わっていた事件が、被疑者死亡のまま書類送検され、事実上捜査が終了した直後のことだった。幸いなことにまだ大きな事件も起きていない。久しぶりに早めの帰宅となったのだ。
「もしかして山下か?ホント久しぶりだ」
高橋は正直、嫌な奴に出会ったな、と思った。山下とは大学時代の友人で、そしてテレビ局に入った。今でも恐らくそこで働いているだろう。大学時代はそれなりに付き合いもあったが、卒業後はまったく連絡を取り合うこともなかった。実に十数年ぶりと言える再会だった。
山下は一度、世間をあっと驚かせるようなことをやってのけた。そのため、刑事である高橋にとっては苦々しい思い出と結びつく存在なのだった。
それは3年前のこと。山下はあるドラマの撮影で天才的な手腕を発揮し、それにより業界では伝説としてささやかれている、と聞く。一方で警察としては、まんまとしてやられたという立場であり、未だに山下への苛立ちを露にする人間も多い。
山下は、本物の刑事と機動隊を動因させた立て篭もりシーンの撮影をやってのけたのだった。
初めはコンビニからの通報で、銃を持った二人組の男が金を寄越せとやってきたが、結局お金を取ることなく逃げた、というものだった。その後犯人が近くにある市民体育館に逃げ込んだとの情報があり、まもなく立て篭もり事件と判断された。
人質は、当時体育館を使用していたバスケットリームのメンバーというところまでは分かったが、しかし受付時に虚偽の記載をしたようで、人質がどこの誰なのかは分からなかった。
刑事と機動隊が市民体育館を包囲し、しばらく緊迫した状況が続いた。しかししばらくすると、上層部から撤退の命令が下された。テレビ局からの連絡があり、これがドラマの撮影であることが告げられたのだった。
警察は、ドラマの撮影のために駆り出されたと知って憤ったが、しかし彼らを罪に問うことは困難だった。テレビ局側はその市民体育館を撮影のためということで一日借り受けていたし、犯人と人質も皆エキストラと俳優であった。武器はすべて模造であり、表向き問題はないと言えた。問うことが出来たのは、公務執行妨害ぐらいなもので、初めに通報したコンビニの店長も元々計画を知っていたということで、強盗未遂という線での立件も見送られた。警察としては未だに記憶に残る苦々しい事件だった。
その首謀者が山下であり、だからこそ高橋は山下にいい印象を持っていないのだ。
どちらからともなく飲みに行くかという話になり、近くの居酒屋へ向かった。
「最近は大人しくしてるのか?」
山下は苦笑し、
「まああん時のことは許してくれ。お陰でいいのが撮れたよ」
と悪びれない。まあ直接関わっていたわけではないからいいけどな、といい、そこでつい先ほどまで関わっていた事件を思い出した。
「廃工場の立て篭もり事件、知ってるか?」
「あぁ、ちょっと前までニュースでやってたな」
「つい最近その事件が決着してな。お前の顔を見ると何だか立て篭もりのことしか浮かばないな」
そういうと、またしても山下は苦笑した。
廃工場での立て篭もり事件が起きたのは、今からひと月ほど前のこと。犯人の男が、当時たまたま廃工場にいた大学生数人を人質に取り立て篭もった事件で、犯人の目的は今になっても不明。持っていた銃で人質の一人を殺し、刑事の一人を重症に陥れ、最後には特殊班の人間に射殺されたのだった。
「しかしあの事件も不自然なところが多すぎるよね」
山下がそう言ったのを、高橋は怪訝に思った。どこがおかしいというのだろうか。
「まずなぜ廃工場にそもそも人がいたのか。彼らは、自分達は廃墟マニアで、だからそこにいたのだと主張したようだけど、僕にはどうにも不自然に感じられるんだ。あの日たまたまあそこに人質となる人間がいたというのが」
言われてみればそうかもしれないが、しかしたまたま人質がいたから事件が起きたのだ、ということでしかないだろうと思う。そんなに大したことではないだろう、と高橋は言った。
「それに犯人もおかしい。僕も中継を見てたけど、犯人は初めの内はずっと沈黙していたけど、人質の一人を殺してから急に饒舌になった。しきりに、自分は違うんだ、というようなことを言っていなかったか。まあその直後、銃を持ったまま刑事の方に向かって行ったから射殺されてしまったんだけど。その行動も、おかしいだろう」
それについては確かに捜査本部内でも意見があったが、しかし被疑者がが犯行を行っていたことは間違いないし、既に被疑者は死亡しているので仕方ない、と判断されたのだ。
「お前は何が言いたいんだ」
「要するに、真相は別にあるってこと」
「お前なら分かるっていうのか」
「まあね。分かるっていうか、知っているって感じだけど」
高橋は山下を見つめる。まさか、という思いが過ぎる。あさかそんなことがありえるだろうか。
「まさか、お前が首謀者だ、なんて言うんじゃないだろうな」
「案外冴えてるじゃないか。そう、俺があいつをそそのかしたんだよ。どうやったかは簡単さ。俺なら、また立て篭もりの撮影をやるんだ、と言いさえすれば信用される。銃は偽物だと言って本物を渡せばいいし、後は勝手にやってくれるってわけさ」
「…なんでそんなことをした」
「まあ、暇つぶしかな」
高橋は目の前にいる男を見つめた。既に事件は終わっている。被疑者死亡ということでカタがついているのだ。既に終わった事件を再捜査することは難しい。しかも、証拠もないだろう。結局こいつを逮捕することは困難だ。高橋は、この厄介な友人を殴りたくなった。
110.「殺人事件」
日曜日。天気のいい日は公園で過ごすことにしている。住宅街にある、申し訳程度に遊具が設置されているだけの寂れた公園だが、そのせいか昼間でも人気がなく、それで気に入っている。休日はアクティブに過ごしたい、という人もたくさんいるんだろうけど、僕はそんなタイプじゃなくて、時間を後ろから追いかけるくらいのんびりと過ごしたいと思っている。公園での読書は、僕にとって最高の休日の過ごし方と言える。
僕はいつものように本とペットボトル飲料を持って公園にやってきた。日差しがきついが、風があるので過ごしにくいということはない。
ペンキの剥げたベンチに座って本を読んでいると、公園に人が入ってくる気配があった。顔を上げると、そこにはよく見かけるホームレスがいた。ボロボロの服にボロボロのずた袋のようなものを持ってその辺をウロウロしている。この公園を根城にしているようで、見かけることも多い。
特に関心があるわけでもないのでまた読書に戻る。しばらくは何事もなく、ゆっくりと時間が過ぎて行った。読んでいる小説がなかなか面白く、次第に僕はのめり込んで行った。
悲鳴が聞こえたのは、ホームレスがやってきてから1時間ぐらい経った頃だっただろうか。
悲鳴のする方を見ると、一人の男が血まみれのナイフを持って立っていた。その前には、胸元を真っ赤に染めたホームレスが横たわっている。まだ生きているようであるが、男はとどめを差すつもりなのか、またナイフを突き出そうとしている。
「何してるんだ!」
僕はそうやって大声を上げながらそちらに向かって行った。自分でもなかなか勇気のある行動だと思う。何せ相手はナイフを持ってまさに殺人を終えた男なのだ。
男は僕の静止の声に一瞬気を取られたものの、すぐにホームレスに向き直りナイフを突き立てた。ホームレスは横たわったまま動かなくなってしまった。
僕はとりあえず救急車を呼ぶことにした。電話を掛けるが、しかし男はゆっくりとその場を立ち去ろうとしている。このままでは逃げられてしまう。電話が繋がると僕は、「○○公園で男性が刺されて血塗れです!」とだけ叫んで電話を切り、すぐに男を追いかけた。
「待て!逃げるんじゃない?」
男は振り向くと、何を言ってるんだ、という顔をした。
「逃げる?俺は別に逃げようなんて思っちゃいないさ。ただ家に帰るだけだ」
「何言ってるんだ!人を殺したくせに、このまま帰れるわけがないじゃないか!」
男は、さも不思議なことを聞いた、というような表情を浮かべて言った。
「君は一体何を言ってるんだね。人を殺すことの、どこが一体悪いというんだ」
その言葉に僕は唖然としてしまった。人を殺したことを悪いと思っていない。こいつはダメだ。話して通じる相手じゃない。僕はとりあえず男の足を蹴り払って地面に倒し、背中から馬乗りになって腕をねじ上げ、男からナイフを奪った。
「何をするんだ、お前は!」
男は執拗に逃れようとしたが、僕も必死でそれに対抗した。僕はなんとか警察に電話を掛け、「殺人犯を捕まえたんで一刻も早く○○公園に来てください!」とだけ叫び電話を切った。とてもじゃないが、電話をしながら男を押さえるのが困難だったのだ。
しばらくするとサイレン音が聞こえてきた。どうやら救急車がやってきたようだ。
救急隊員が僕に向かってやってきた。何だか複雑な表情をしているが、その意味は僕にはわからない。
「怪我人はどこに?」
「あっちです。血まみれで倒れているはずです」
救急隊員は手際よくホームレスを救急車に収容した。それから僕の方へと戻ってきた。
「君、そんなことをしてると警察に捕まるよ」
初め何を言われたのかよく分からなかったが、僕が殺人犯の男の上に乗っかっていることを言っているらしかった。
「でも、この男が人を刺したんですよ。逃すわけには行きません」
救急隊員は、こいつは何を言ってるんだ、という顔をしたが、しかしすぐに救急車を出さなければいけないからだろう。それ以上追及することなく去って行った。
それからすぐに警察がやってきた。
「おまわりさん、この男がホームレスを刺したんです。早く逮捕してください!」
男を拘束し続けるのもそろそろ限界だった。警察がきてくれて助かった、と思った。これで解放される。
警官は僕らをしばらく眺めていた。早く捕まえてくれよ、と僕は思った。
やがて警官は手錠を取り出すと、僕らの方へと向かってきた。
「14時36分、現行犯逮捕」
逮捕されたのは、何故か僕の方だった。
僕は手錠を掛けられ、そして殺人犯の男は解放された。警官と殺人犯の男は少しだけ会話を交わし、恐らく殺人犯の男の住所と名前をメモしたようだ。それだけで帰してしまった。
「おまわりさん!あの男は殺人を犯したんですよ!何であの男が帰れて、僕が逮捕されないといけないんですか!」
警官は、僕が何を言っているのかさっぱり理解できない、という顔をした。
「まあ、詳しいことは署で聞くから」
そう言って僕は警察署に連れて行かれることになった。僕はあまりのわけのわからなさに茫然とするだけだった。
取調室に連れて行かれた僕は、強面の刑事から話を聞かれることになった。
「君は、自分が何故逮捕されたのか理解出来ているよね?」
「いえ、まったく分かりません」
正直なところ、まったく理解できなかった。何故殺人をおかした人間が解放され、その男を善意から捕まえた僕が逮捕されなくてはいけないのだろうか。
「君は男性に対して暴行をしていた。暴行とまでいかなくても、拘束していたことは間違いないね。逮捕の理由はそれで十分だと思うが」
もしかしたら、僕が捕まえていたのが殺人犯だったというのが伝わっていないのかもしれない、と僕は思った。
「相手は殺人犯だったんですよ?その男を捕まえるために多少荒っぽいことをしても仕方ないじゃないですか!」
そう説明すると、刑事は妙なことを聞いたという顔をするのだった。僕は何だか得体の知れない不安に襲われた。
「じゃあ聞くが、どうしてホームレスを殺すことが悪いことなんだね?」
僕は唖然として、開いた口が塞がらなかった。
「あなたは、ホームレスだから殺してもいいって言うんですか!刑事のあなたがそんなんでいいんですか!」
そういうと刑事は苦笑し、
「あぁ、ごめんごめん。言い方がまずかったかな。要するに私はね、何で人を殺すのが悪いことなんだろう、って聞きたかったんだ」
「…」
僕には意味が分からなかった。人を殺すことはどう考えても悪いことだし、法律にもそう明記されているはずではないか。
「君はそう言うけど、じゃあきちんと法律を読んだことがあるのかね?人を殺すことが法律上いけないことだという文章を読んだことがあるのかね?」
そう言われれば、ないと答えるしかない。でも、普通に考えて、人を殺すことは悪いに決まってるじゃないか!
「君が、どうして人を殺すことが悪いと主張するのか、私には理解できなくて申し訳ないが、法律にはそんな記載はない。つまり、悪くもない人間の自由を奪っていた君こそが、本当の犯罪者だ、ということなんだ」
信じられなかった。いつからこの国は人を殺してもいい国になったのだろうか。そう言えば、殺人犯を捕まえてから僕が受けた視線は、すべて困惑を含んでいた。本当に僕は間違っているのだろうか?
もうよくわからなくなってきた。ただ、もし人を殺すことが罪にならないのなら、今目の前にいるこの刑事を殺して逃げたらどうなるだろう、と僕は思った。
111.「イタズラを振り返る」
地元に戻るのは、実に20年ぶりになる。忙しいということももちろんあったが、それだけじゃない。やはり、地元に置いてきた様々なものと距離を置きたかったのだろうと思う。家族や友達や思い出と言ったものたちと。後悔はない。正しいと思ったこともないけれども。
父親が入院したとのことで、いい加減顔を出せ、と母親に言われての帰郷だった。正直乗り気ではない。ただ、病気を持ち出されると弱い。両親に会うなんて今さらだと僕は思うけれども、しかしまあ、仕方ない。
電車に揺られながら、僕は地元に住んでいた頃のことを思い出していた。既に大分昔の話だ。どんどんと忘れてしまっている。しかし、その中でもかなり印象に残っている出来事がある。
僕は子供の頃、イタズラばかりして遊んでいた。あちこちに落とし穴を仕掛ける、なんていうのは常習で、他にも賽銭箱にカエルを百匹詰め込んだり、狛犬を壊して代わりに本物の犬を接着剤で固定したりと、無茶苦茶なことばっかりやっていた。僕のイタズラに引っかかる人はたくさんいて、その度僕と僕の両親は怒られることになった。それでも僕はイタズラを止めなかった。楽しくて仕方なかったからだ。
そんなある日のこと。いつものように僕はイタズラに励んでいると、一人のおじさんが近づいてきたのだった。見たことのない顔だった。田舎っていうのは、大抵の人と面識がある。それでも知らないっていうことは、他所から来た人なのか、あるいはこの辺に住んでいる人の遠縁か何かなんだろうな、とぼんやり思った。
「人を傷つけることになるからイタズラはもう止めろ」
知らないおじさんにまで言われるなんて、よほど僕は有名なんだな、なんて呑気に考えていた。
それからよく覚えていないが、僕はイタズラを止めた。どうしてだっただろうか。何かきっかけがあったようにも思うけど、どうも思い出せない。
実家の最寄り駅についた。最寄り駅と言っても駅からはかなり遠い。幸い父親が入院している病院はまだ駅に近いところにあるので、ブラブラと歩きながら行こう、と思った。
駅を出た僕は唖然とした。目の前の光景が、20年前に実家を出た時とまったく同じだったからだ。いくらなんでももっと変化してるはずだろう。まさかこの町は時間が止まっているんだろうか。
病院の方へと向かう途中も同じことを思った。この町はあまりに変わらなさ過ぎる。おかしい。何が起こっているんだろう。
病院への近道となる公園に差し掛かった。懐かしい場所だった。よくここに落とし穴を作ったものだ。多くの人が落ちてくれた。それを見るのが楽しくて仕方なかった。
懐かしさもあって、自分が落とし穴をよく作った辺りを歩いてみることにした。
えっ。
足元が崩れ、体が地面の下に落下した。まさか、と思ったが、自分が落とし穴に落ちていることは間違いないようだ。20年以上前に自分が作ったものがまだ残っていたなんてことはありえないだろう。となれば、この町には今、落とし穴を継承する人間がいるということだろう。
しかし、僕のその仮説はあっさりと打ち崩れた。何故なら落とし穴の中に、それを作ったのが僕だという証拠が残っていたからだ。それは落とし穴の壁にはめ込まれた一枚の板切れだった。僕は当時イタズラを作り上げると、そこに自分の痕跡を残すことにしていた。その板切れには、僕の名前と作った日がかかれている。
(まさか僕が作って以来ずっと残ってるんじゃないだろうんぁ)
そこで僕は思い出したのだった。何故僕がイタズラを止めたのだったか、を。
友達の一人に大怪我をさせてしまったのだ。彼女は僕の作った落とし穴に落ちて、運悪く半身不随になった。それから僕は地元にいづらくなったのだった。そして逃げるようにして、東京にやってきた…。
そうだったのだ。僕がこれほどまでに地元を忌避しているのには、そんな理由もあったのだった。もうすっかり忘れてしまっていた。まさかこんな場所で思い出すなんて、思ってもみなかった。
とりあえず腑に落ちないことは多いけど、病院にまた向かうことにした。しかしその途中で僕は信じられない人に出会うことになる。
20数年前、イタズラに精を出していた頃の僕だった。
僕はそこようやく理解した。いや、ちゃんと理解できたわけではなかっただ、それしか考えようがなかった。つまり、僕は何故か過去へとやってきてしまったのであり、そして僕が子供の頃にあったことがあるおじさんというのは、自分自身だったっていうことを。
このまま落とし穴を作り続けていれば、いつか友達を怪我させてしまう。止めさせないと。
「人を傷つけることになるからイタズラはもう止めろ」
僕は僕に向かってそう言うと、その場を立ち去った。どうせ、あの当時の自分に何を言って聞かせたところで、イタズラを止めるとは思えない。結局何も変えることが出来ないのだろう。
病院に行ったら父親は入院しているだろうか?あるいは、実家で20数年前の姿で生きているのだろうか?どっちとも判断がつかず、とりあえず病院に行くか、と決めた僕でした。
112.「Google」
出掛けに見た番組で、戸籍のない女性が子供を生む、というニュースを報道していた。
その女性は、母親が離婚後300日以内に出産してしまい、そのため戸籍が得られなかったらしい。以後戸籍のないままでの生活を続けていたわけだが、その女性が子供を生むのだという。
女性は生まれてくる子供の戸籍がどうなるのか問い合わせたところ、戸籍のない親からの出生届を受理することは出来ない、という回答だったようだ。女性は、自分と同じ運命を背負わせたくない、と語っているようで、今国としても対応を検討中なのだそうだ。
このニュースを見た時、世の中にはそんな女性もいるのか、と思った。まさか日本に生まれたのに戸籍のない人がいるなんて、と思った。離婚後300日問題というのは、お腹の子供の父親が正確に確定できないことから生まれた法律のようだけど、今ならDNA検査だってあるし、もはや意味のない法律なんじゃないかなぁ、とか思ったのだけど、でもだからと言って特に気になるニュースというわけではなかった。いつものようにただ何となく耳に入れている、たくさんある内の一つでしかなかった。
しかし、その日一日を終えた僕は、嫌でもこのニュースのことを思い返さないではいられなかった。
家を出て、まず会社に向かう。今日から一人での営業が始まるのだ。これまでは、先輩社員について行って、営業の流れを学ぶ時期だった。これからは、自分で新しい営業先を開拓していかなくてはいけない。自分に出来るだろうか、という不安はあるが、しかし同時にやってやろうじゃないの、という気概も感じていた。
会社で事務的な事項の確認と、必要な書類を集め終わると、僕は早速営業へと向かうことになった。
「すみません。○○の者なんですけど、店長の方はどちらでしょうか?」
やはりなかなか緊張する。初めは、契約を取る事はできないだろう。そこまで期待できるほど、自分に自信があるわけではない。でも、なるべく一刻も早く慣れなくては、と思う。
「初めまして。わたくし○○の営業の田中と申します」
そう言って、名刺を差し出す。先輩に付き添っていた時ももちろん名刺を渡したが、こうして一人で営業を始めることになって初めての名刺交換だ。なんだか自分がすごいことをしているようなそんな気もしてくる。
「あぁ、ちょっと待ってていただけますか」
そういうと店長は店の奥へと引っ込んでいった。
これは先輩と回っていた時も同じだった。どこに行っても、担当者は名刺を受け取ると、一旦店の奥に引っ込む。何をしているのか分からないけど、しばらくすると、お待たせしました、と言って戻ってきて、営業の話になるのだ。
「お待たせしました」
そう言って店長は戻ってきた。
「申し訳ありませんが、お引取り願えませんか?」
「えっ?」
僕は頓狂な声を上げてしまった。営業をしてそれで断られるなら分かるが、営業をし始める前から門前払いである。
「お話だけでも聞いていただけないでしょうか?」
「いえ、申し訳ないですけど、お引取りください」
店長の口調はにべもなかった。それでなくとも僕はまだ営業の駆け出しだ。ここで強く出るべきなのか引くべきなのかもうまく判断できない。しかし、生来の気の弱さが出て、そのまますごすごと引き下がってしまった。
「はぁ、初っ端からこれじゃあ、先が思いやられるなぁ」
しかしへこんでばかりもいられない。僕は気を取り直して、別の店に当たることにした。
しかし、である。
それから、まわる店まわる店、すべて同じように門前払いだったのだ。流れはすべて同じで、名刺交換をすると責任者は店の奥へと引っ込む。そしてしばらくして戻ってくると、お引取りいただけませんか、と言って完全に拒絶するのだ。
10数件まわったところで、僕はもう気力を失いかけていた。誰も話すら聞いてくれない。何がマズイんだろうか。見た目の清潔感にはかなり気をつけたはずだし、完璧ではないかもしれないが敬語だってそこまで悪くないはずだ。やはり、名刺を持って奥に引っ込む、あれが何か関係しているというんだろうか。
何とか自分を奮い立たせて次の店に入った。やはり同じく名刺交換の後門前払いであった。このままでは事態は動かない、と思った僕は、思い切って聞くことにした。
「これまでまわったお店でも、すべて同じ対応でした。僕に悪いところがあるなら直します。ですので、どうしてお話を聞いていただけないのか教えてはもらえないでしょうか?」
店長は少し悩んだ風に見えたが、やがて口を開いてくれた。
「Googleでね、君の名前を検索したんだ。ほら、名刺をもらうでしょう?でもね、君についての情報が何一つ出てこないんだ。何一つだよ。だからさ」
僕には意味が分からなかった。Googleの検索で情報が出てこないからと行って、だから何なんだろうか。
「それと営業と、何か関係があるんでしょうか?」
「他の店の人がどうかは知らないよ。でもね、僕は人を判断する時にGoogleを使うことにしてるんだ。大抵はね、何か情報が出てくるものだよ。個人のブログ、写真、何かの大会での受賞歴、そう言ったものだよ。もちろんいい情報も悪い情報も出てくる。でもそれを見て、一応どんな人間化分かる。自分の中で、あらかじめイメージを持って相手と対峙できるんだ。でもね、君の場合、なんにも出てこなかった。いいかい、なんにも、だよ。このネット社会に生きている人間で、名前を検索しても何も情報が出てこない人間がどれだけいると思う?正直言って、そういう人は私はあんまり信用出来ないんだよ」
確かに僕は、僕らの世代としてはかなり稀だけど、ほとんどインターネットと関わらずに生きてきた。普段自分でも使わないし、僕の情報が載っていなくても別におかしくはないかもしれない。
でも、今の世の中ではそれではダメなのだ、と僕は思った。この社会では、ネットに自分の情報が存在するかどうかで、まず人間性が判断されてしまうようになってしまったのだ。
なるほど、僕はネット上に戸籍がないのと同じなのだな、と僕は悲しい事実を理解した。
113.「偶然の朝」
始まりは唐突だった。その日は、前日と変わりなく始まったように思えた。特別な予兆も、嫌な予感も、一切ないまま、僕は突然その日の前にやってきたのだった。
会社に行こうと家を出て、駅まで向かう。駅までは10分程度の道のりだ。音楽を聞くでもなく、僕はいつもぼんやりと歩いている。
違和感を感じて視線を上げると、空中に人影があった。道の片側がマンションになっていて、その壁面に沿って女性が落ちているのだ。僕は一歩を踏み出すことが出来なかった。いや、もちろん僕が努力すれば間に合ったというようなことはなかっただろう。どのみちあの女性はそのまま地面に叩きつけられていたに違いない。しかしそれでも、咄嗟の事態に何もすることが出来なかった自分を僕は嫌悪した。
時間にして一呼吸。彼女が地面に落ちてしまってから、ようやく僕の足は動いた。まだ生きているかもしれない。走りながら携帯電話で救急車を呼ぶ。
落ちた女性の下に駆け寄る。僕は、絶望することはないかもしれない、と思った。助かるか助からないか、かなり際どいのではないか、と思った。とにかく救急車が来るまで、女性に声を掛け続けた。あとは何をしていいのかわからなかった。
救急車が来ると、なりゆきで一緒に乗ることになった。救急隊員の人も、なんとか助かるかもしれません、というようなことを言ってくれた。気休めだったのかもしれないけど、若干罪悪感を持っていた僕としては、気休め程度でも安心できた。
病院に着いた時点で、さすがにこれ以上関わるのも変だと思い、立ち去ることにした。会社に連絡を入れ、今日はそのまま現場に向かうことを告げる。滅多にないかもしれないが、まあこんな日もあるかもしれない。そんな風に考えていた。
翌朝。いつもの時間にまた家を出て駅に向かう。昨日のマンション近くに差し掛かると、昨日の朝のドタバタが思い出されて、そういえばあの女性は結局どうなったのだろうか、と思考が掠めた。
空中に人影があった。
まさか、と僕は思った。昨日の彼女が、また命を断とうと飛び降り自殺をしているのだろうか。僕はまたしても動くことが出来なかった。一呼吸置いて走り出し、落下地点へと向かった。
小学生の男の子がそこに横たわっていた。まだ息はある。昨日と同じく声掛けを続けながら救急車を待つ。しかしこれは偶然なのだろうか。
それからこれは毎朝続くことになった。僕がそのマンションを通りかかる瞬間を見計らっているかのように、そのマンションから人が飛び降りるのだった。飛び降りるのは、常に違う人だった。ありとあらゆる人々が飛び降り自殺を図っていた。まるで僕に何かを訴え掛けようとでもするかのように。最近では僕は、救急車を呼ぶだけ呼んで、自分はそのまま会社に行くことにした。毎朝飛び降り自殺をする人の介抱をするから遅刻しているなんて言い訳は利かないし、毎朝そんなことに関わっている余裕もないからだ。
これは偶然なのだろうか。
114.「天神城」
『天神記』によれば、現在東京タワーがある辺りに、天神城と呼ばれる城があった、とされる。この天神城についてはあまりにも資料が乏しいため、実在を疑っている歴史学者も多い。資料が乏しいというのは、数が少ないというのではなく、内容の信憑性に乏しいのである。天神城はこれまで多くの書物に書かれてきたが、しかしそのあまりの突飛な記述に、これは何らかの意図をもって書かれた偽りなのではないか、と言われることが多い。実際、天神城について書かれた書物は偽物だ、とさえ言われていた時期があるほどである。
この天神城、いつからあったのか定かではないが、少なくとも書物に描かれる限り、かつて一度も落城したことのない城のようである。名のある武将がことごとく敗走し、また名のある武将の多くが、天神城だけには手を出すな、と言ったとされている。実際、天神城は攻め入る価値のあるような城でなかったということもあるだろう。天神城という城はただそこにあるだけの城であり、それ以上の価値はまるでなかった。要塞であったわけでも、天下統一の支障になるわけでも、なんでもない。攻め入る者は二度と戻ってこなかったとされているので、天神城に人がいたのかさえ分かっていないほどだ。一時、天神城を落とせば名が上がるとして、この落とす価値のない城に多くの武将が集ったことがあったが、そのあまりの難攻不落ぶりに、次第に禁忌のような扱いをされるようになったと言う。
現在でも歴史学者は、この天神城が一体どんな存在であったのか、あるいはそもそも本当に存在したのか、ある程度まとまった意見さえ提示できないでいる。しかしそれは無理もないのだ。この天神城は、他の多くの城とは一線を画す存在であったのだから。
ここからは、歴史書にも書かれていない、私しか知らない事実も織り込みながら話を進めることとしよう。
天神城が姿を現したのは1542年のことであった。周りに住んでいた人々は、まるで突然城が現れたかのようだった、と証言をしている。城が出来た場所は、それまでは田畑でも何でもない、ただの草むらであったという。
突然現れた天神城の威容に人々は恐れながらも、基本的にはその城を無視するようにして生活を続けた。百姓にとっては城があろうがなかろうがどうでもいいことであるし、武将達にとっても取るに足らない城などに構っているような余裕はまったくなかったのである。
そんな状況を一変させたある事件が起こる。物語の主役は宇部上仲達という男であり、その土地を治める豪農の一人であった。
仲達は近在の住民に、あの城(その当時まだ名前はなかったものと思われる。何故天神城という名になったのかも不明だ)に入ってみよう、と声を掛けたのだ。真実は分からないが、要するに暇だったのだろう。同じく暇つぶしにいいか、と思って多くの人々がその話に乗ったという。出来てからしばらくしても、その中に人がいる気配がまったくしなかったことも、彼らを後押しさせたのであろう。
『天神記』には、この時城を訪れた人間が何人で、城の内部でどんなことがあったのか、ということについて触れられていない。それは当然だ。何しろ、仲達以下、城を訪れたすべての人間が帰ってこなかったのだから。
その噂は諸国に流れた。この間に、どこかで天神城という呼称に決まったものと思われる。人を飲み込む城がある、と伝えられたその噂は、全国各地の武将達を奮い立たせ、この地に赴かせることとなった。
しかし、そのすべての来襲を、天神城はものともしなかった。これについてももちろん詳しい記述が残っているわけでは決してないが、一万の兵が大挙してやってきた時も、そのすべてを飲み込んでしまったのだ、という。さらに天神城の名は諸国に知られるようになり、同時に手を出してはいけない禁忌であるという認識も広まっていったのである。
その天神城は、いつしかその姿を消していた。正確に言えば、1766年のことであった。この時も近くに住むものは、いつの間にか消えていた、と証言をしている。結局人々にとってこの天神城というのは謎の存在のままであったのだ。
一体天神城とは何だったのか。その答えは、恐らく私以外には知る由もなかろう。
天神城は、生物であったのだ。城の姿を借りた生き物である。つまり天神城は、まさにその言葉通りに、人々を飲み込んで食料にしていたのである。そうだとすれば、何故消えたのかの説明も簡単だ。つまり、寿命である。
天神城は、地球での言葉で言えば宇宙人のような存在であった。とある目的のために宇宙から遣わされたのであり、当時最も馴染みやすい形として、城が選ばれたに過ぎない。もしさらに古代に地球に遣わされるとしたら、古墳などが選ばれただろうか。
天神城は、ある目的を果たすべくそこに居座り続け、そして結局目的を達することが出来ずにその天寿を全うした。
では、その目的とは何であったのか。
それは、口にすることが出来ないのである。何故なら、私がその任務を現在負っており、まさに遂行中であるからだ。
私は現在東京タワーに姿を借りている。さしずめ、天神城の二代目と言ったところだろうか。天神城の情報については、歴史の授業で習った。我が星の者なら誰でも知っている話である。
私は、天神城のように野蛮ではない。東京タワーにも日々山ほどの人が押し寄せるが、しかしそれをとって喰おうなどと思うことはない。私の願いは、私に課せられた目的を達成することだけであり、むしろそのためには東京タワーにやってくる人々の存在は都合がいいとも言える。
しかし、私の命もあと僅か。新東京タワーの建設が決まり、私の存在が不必要となるのである。結局私も目的を果たすことは出来なかった。後継である新東京タワーに、今後のことは譲るとしよう。
115.「量子論的僕の部屋」
僕はマンションに住んでいる。それは、どの街にでもある、どんな場所にでもある、普通のマンションを思い浮かべていただければいい。階数や部屋番号を特定する必要はないのだが、6階の618号室である。
外廊下の端から端までドアがずらりと並び、当然のことながらその内の一つが僕の部屋のドアとなる。
さて、今僕は自分の部屋のドアの前に立っているわけだ。
もしドアノブを握り、それを手前に引くなら、普段僕が見慣れた部屋がそこに展開されることだろう。入ったところに小さな沓脱ぎがあり、フローリングの廊下が続く。右手にトイレと風呂と洗面台があり、左手に小さなキッチンがある。そして奥に一部屋あるだけのワンルームマンションである。
片付けの出来ていない汚い部屋だ。床にはゴミが散乱し、テレビのリモコンやら敷きっぱなしの布団やらがある。冷蔵庫やパソコンやオーディオやテレビや扇風機やギターや本なんかが部屋中にあって、見た目よりかなり狭く見える。窓に掛かっているカーテンだけが何故か高級そうで、部屋全体から浮いてしまっている。
ドアを開ければ、そんな部屋を目にすることになるのは明白だ。これまでこのドアを何度開いてきたというのだろうか。その度に、僕はまったく同じ部屋を見てきたのだ。そこに、違う部屋が展開しているなどということはもちろんありえない。
しかし、じゃあ、今こうしてドアが閉まっている時、部屋の内部はどうなっているのだろうか。本当に、僕がドアを開けた時に見る部屋の光景と同じ姿であり続けているのだろうか。それとも、僕が見ている部屋の光景は僕が見ている時だけに存在するのであって、僕が見ていない時はまったく別の姿になっていたりするのではないだろうか。
物理の世界には、量子論というかなり変わった分野がある。詳しいことはもちろん僕も知らないけど、その量子論の世界では奇妙な現象が次々に起こるのだという。
その中に、状態の収縮と呼ばれるものがある。
量子論では、例えば電子などの粒子は、位置を正確に確定することが出来ない、としている。それは、確率的にどこにあると主張できるだけである、と。
しかし、もしその粒子を観測した場合、僕らはその粒子が空間上のある一点を占めていることを知る。観測する前は確率的にしか知ることの出来なかった粒子の位置が、観測することによって一点に決まるのである。
これが状態の収縮と言われる。
僕の部屋も、こうではないという根拠はどこにもないのではないか。僕がドアを開ければ、部屋の姿は僕が普段見ている状態に収縮する。しかし、僕が見ていない時は、様々な姿に移り変わっているのではないか。少なくとも、そうではないと否定することは出来ない。何故なら、僕が『見る』ことで状態の収縮が起こるのだから、僕にはいつも見ている姿しか見ることが出来ないはずだ。
でも例えばこう考えたらどうなるだろう。僕の部屋に泥棒が侵入したとする。泥棒が入ったという痕跡を一切残すことなく(つまり何も盗むことも残すこともなく)立ち去ったとしよう。これは要するに、僕が泥棒に入られたと確信出来る根拠はない、即ち泥棒が僕の部屋を『見た』と確信できないということである。
その時、その泥棒は一体どんな部屋の姿を見るのだろうか。状態の収縮は、個人によって差があるのだろうか。もし僕が永遠に気づかない形で誰か別の人が僕の部屋を『見た』時、それが僕が普段見ているのと同じ姿であると確信出来る理由は一つもない。泥棒は僕が普段見ている部屋とはほんの僅か違った部屋、あるいはまったく違ってしまった部屋を見ているかもしれない。
あるいは、こういう風に考えることは出来ないだろうか。
僕の部屋には、僕が見ていない時だけ存在している住人がいるかもしれない、という発想だ。つまり僕らは、こうしてドアを挟んで向き合っているなんていう可能性だってあるかもしれない。
僕が観測するまで部屋の姿が確定ではないのなら、その僕が普段見ている部屋ではない部屋に住む住人を仮定しても一向におかしくはないかもしれない。その住人は、僕の分身と考えることは可能なのだろうか?あるいは僕とはまったく無関係な存在なのだろうか。ただ一つ言えることは、その存在とは永遠に友達になることは出来ないということだ。僕が観測することで状態の収縮が起こり、その結果その存在は消えてしまうのだから。
しかし、ならばこうも考えることが出来る。部屋の向こうに、僕が永遠に接触することの出来ない住人の存在(Aと名付けることにしよう)を仮定するのなら、その住人からしてみれば状態の収縮によって消えるのは僕の方だ。
つまり、Aの視点から見てみよう。Aは僕が部屋を観測していない時だけ僕の部屋に住んでいる。僕が部屋のドアを開けると、Aの視点からではどうなるだろうか。結局、Aの視点からすれば、Aのいる世界は消えることなくそのまま続いて行くのだろう。そうでなければ整合性が取れない。即ち、Aの視点から考えた時に消えるのは僕の方なのだ。
だとすれば、僕の存在というのは一体どうなるのだろうか。僕は、僕の観測できる世界ではきちんと存在している。それだけは間違いない。しかし一方で僕の存在していない世界が無限にあって、当然のことながらその世界に僕は関わることは出来ない。これは一体何を意味するのだろうか。
いずれにしても、僕は部屋に入るためにドアを開けないわけにはいかない。そして開ければそこに見慣れた部屋の姿を確かに見ることになるだろう。重要な問題は、そこに何か不都合があるだろうか、ということで、観測されない世界についてあれこれ考える必要は、日常生活の中ではないのかもしれない。
116.「あげるわ」
久しぶりに見つけた。
「君には、私の助けが必要みたいだね」
相手は、私に気づくと、そして私の姿を目にすると、声にならない悲鳴を上げて逃げていった。
(君のこと助けてあげられたのにね)
私は、逃げられることには慣れている。もう傷つくようなことはない。それでも、助けてあげられる誰かを救うことが出来ないことに対して、鋭い痛みを感じる。
(逃げなくてもよかったのにね)
その思いは同時に、かつての自分への姿を呼び覚ますことになる。
私は生まれつき耳の機能に障害を持っていた。赤ん坊の頃は周囲の大人も気づかなかったそうだ。耳の機能というのは確かに、外から見てあまり分かるものでもない。私がちゃんと障害を持っていると分かったのは、4歳ぐらいのことだったそうだ。
生まれつき耳が聞こえづらいという障害だった。まったく聞こえないというのでもないのだが、水の中での話し声を聞くみたいにくぐもって聞こえた。耳が聞こえないことが不自由だったのかどうか、私にはよくわからなかった。生まれついてからずっとそうだったから、何かと比較することが出来なかったのだ。
幸い両親は、障害を持った子どもでも十分に愛情を注いでくれた。内心はどうだったのかわからない。それでも、ちゃんとした子どもとして育ててくれた両親には感謝をしている。
だから、今の姿は両親には見せることが出来ない。私にとってこの姿は神聖なものだけど、それを両親に理解してもらうのか難しいだろう。
私が心の中で師と呼ぶようになったあの人と出会ったのは、私が18歳になるかならないかという頃だったと思う。
その時の状況を、私はどうしても正確に思い出すことが出来ない。夢だったのではないか、というのは確信を持って否定できるが、しかしそのあまりの頼りなさは夢だと言われても信じてしまいそうになるほどだった。
周りを木に取り囲まれた場所だった、と思う。何故自分がそんな場所にいたのか、そこにどうやって辿り着いたのか、そこで何をしていたのか。私には一向に分からない。風に揺られる木の葉と不愉快に響く葉ずりの音が、辺りを一層不気味に演出していた。
そこで私は、あの人と対面しているのだった。
「俺の姿を見ても逃げないんだね」
あの人は一番初めにそう言った。いや、正確に言うなら、私が覚えているあの人の第一声がそれだったのだ。その言葉は、何故か私の耳に鮮明に届いた。耳の機能が回復したのかとも思ったけどそうでもないようだった。あの人の声だけが、私の耳に馴染むのだ。
あの人は、確かに恐ろしい姿をしていた。右足と左手がなく、また体中に手術跡のような傷があった。そして何よりも不気味だったのが顔だった。目と鼻がなく、歯もほとんど存在していなかった。頭髪もなく、その頭蓋には痛ましいほどの傷がついていたのだった。
それでも、怖いとは思わなかった。あの人の声がそうさせたのかもしれない。不思議と、私の心は平静だった。
「怖くはないわ。私も不思議だけれど」
あの人は笑ったようだった。口の動きだけではそうと断言することは難しいけど、確かに笑ったように私には見えた。
「君のことを助けてあげるよ」
あの人はそう言うと、自分の両耳を引きちぎった。両手に耳を持ったまま、私の方に近づいてくる。
「君は耳が聞こえないんだろう。僕の耳をあげるよ」
そう言うとあの人は、私の耳を引きちぎり、代わりに自分の耳をつけた。その瞬間、まるで何かのスイッチを入れたかのように、私は音を感じた。まるで嘘みたいだった。世界が音に満ちていることも初めて知った。こんなにも騒がしいだなんて思ってもみなかった。私は完全に耳の機能を取り戻したのだった。
「ありがとう」
私はあの人にそう言った。しかし、どうしてかあの人の声だけもう聞くことが出来なくなっていた。あの人は、何やら口を動かして私に何かを伝えようとしていたけれども、その声は私の耳にはどうしても届かないのだった。
そして次に気づいた時には、私は自分の部屋のベッドに横になっていた。すべては夢なのだろうか、と思った。しかし、私の耳の機能は完璧にだった。あの人から耳をもらったからに違いない。私は両親にこのことを告げた。両親は大いに喜んでくれたのだった。
それから私はずっと、普通の女性として生きてきた。
34歳になった私は、癌を宣告された。突然のことだった。手術でも回復の見込みは薄いと言われ、私はある一つのことを決心した。
夜私は病院を抜け出し、そのまま二度と戻らなかった。
何をすればいいかは分かっていた。自分にその能力があるのかどうか自信はなかったけど、それでも、正しいことをしていれば大丈夫だ、と言い聞かせた。
目の見えない少女を見つけた。私は彼女に近寄って行き、
「君を助けてあげる」
と言った。自分の目を彼女にあげた。彼女は目が見えるようになったようだった。
それから私は、命の続く限り自分の体の一部を人に与え続けている。私の姿はどんどん醜くなっていき、それにつれて私を見て逃げる人も多くなっていった。しかし私はめげることはなかった。私の心の師であるあの人のようになりたい、と願っているのだ。
私は、まだ両耳を残している。この両耳を手放すのは最後にしたい、と思っている。
117.「クロウ、さようなら」
クロウはだだっ広い平原に立っている。彼は、時間さえあればいつでもここに来る。そして、周りに人を寄せ付けない、神聖とも言える雰囲気を漂わせながら、長いことそこに立ち続けているのだ。時々何かを期待するように空を見上げる以外、身じろぎもしない。
そして私は、そんなクロウを遠目に見ている。私も、なるべくここに来て、クロウのことを見るようにしている。私は、クロウが何をしたいのか知っている。何故立ち続けているのか知っている。そして、私はクロウを裏切っている。その事実のために、私はクロウにあまり近づくことが出来ないでいる。
私たちは、二つの種に分けることが出来る。それは、空を飛ぶ種と飛べない種である。この世界には、その二種類の人間がいる。
これはすべて、先天的なものに依存する、と言われている。生まれつき、飛べる者は飛べるし、飛べない者は飛べない。もちろん、例外がないとは言わない。生まれつき飛べなかったものが、何かのきっかけで飛べるようになった、という報告は確かに存在する。しかし一方で科学者は、それは先天的な能力が眠っていただけである、と指摘する。すなわちこの飛ぶ能力は、決して後天的に身につけることは出来ない、ということだ。まだその議論に決着がついているわけではないが、私も概ねその意見が正しいのだろう、と思っている。
クロウと私が住んでいる国は、風の国、とも呼ばれている。これには二つの意味があるとされている。
一つは、その名の通り、吹き付ける風が強いことに由来している。一年中、どこかしらから強く数が吹くこの国は、まさに風の国という名が相応しい国である。
そしてもう一つは、飛ぶ人間の出生率が世界中で最も高い、ということに由来する。理由は定かではないが、この国に生まれた人間が飛ぶ能力を持っている割合はかなり高い。一般に、飛ぶ者と飛べない物の割合は五分五分であるといわれている。しかし私たちの国では、その比は8:2ほどにもなる。この異常とも思える飛ぶ能力を持つ者の出生率のために、風の国と称されている。
そんな国であるから、飛ぶ能力を持つ者の力が強い。飛ぶ能力を持たないものが肩身の狭い思いをすることも度々である。国民の8割が飛ぶ能力を持つものであるから、この状況を社会問題だと認識する人間も少ない。飛ぶ能力を持たない者は、この国では生きづらいのだ。
そして、クロウは不幸にも、飛ぶ能力を持たずに生まれてきてしまった一人だった。
クロウは、そんな自分を認めることが出来ないでいる。幼馴染みである私にはそのことは手にとるように分かる。どうして飛ぶ能力を持って生まれなかったのか、両親と喧嘩したという話も聞いたことがある。この国で、飛ぶ能力を持たない者は確かに少数派であるが、その中でもクロウは、切実に飛ぶ能力を求めている男なのである。
だから彼は、こうして平原で佇んでいる。数少ない、後天的に飛ぶ能力を獲得した物の多くが、広い空間で飛びたいと願った時に飛ぶことが出来た、と証言しているのだ。私は正直、そんな証言を信じるのは止めた方がいいと思っている。でも、そんなことクロウには言えない。愛するクロウを絶望させるようなことは、私にはどうしても言えない。それなら、たとえそれが望みのないものであっても、希望を持って生きていく方が幸せなのではないかと思う。
クロウは、当然今日も飛ぶことは出来なかった。そのとぼとぼとした後ろ姿を見るのは辛い。クロウも、私には見られたくないだろうから、声を掛けたりはしない。
かつてクロウに聞かれたことがある。
「お前は飛べない自分のことを悔しいと思ったことはないのか?」
私は、そう口にしたクロウの目を見ることが出来ない。私は真剣に見つめているだろうクロウの視線を巧みに避けながら答える。
「ないわ。クロウだって、飛べなくたってどうってことないのよ。飛べるだけが能力じゃないんだから」
私はそうクロウに言葉を返す。
嘘だった。私はこうやってクロウに嘘をつき続けている。たぶんこれからもずっと。その罪悪感が私を苦しめる。
私は、空を飛ぶことが出来る。8割の方の人間なのだ。ただ、子どもの頃からクロウが空を飛べないことで悩んでいることを知っていた。そして、私は彼のことが好きだった。だから嘘をついた。子どもの時は、些細な嘘だと思った。私も飛べないの。一緒だね。ただクロウに近づきたかっただけだ。仲間だと思ってもらえたら、それでよかったのだ。そのせいで、まさか未来の自分がこんなに苦労するなんて思いもしなかった。
クロウはとぼとぼと歩きながら家を目指す。自転車や車に乗ることも出来るが、それらは飛べない者であるという烙印そのものだった。飛べるものは、移動するのも空を飛ぶからだ。彼は人から飛べない者と思われるのが悔しくて、自転車や車を使うことはないのだった。
クロウが切り立った崖沿いの道を歩いている時だった。突然、地をつんざくような轟音と共に、地面が激しく揺れ出したのだ。
(地震!)
私は咄嗟にクロウの方に目をやった。すると、山側から巨大な岩が転がり落ちてくるのが目に入った。そのまま行けば、クロウが押しつぶされてしまうのは間違いなかった。私が空を飛んでいけば、まだクロウを救うことが出来る。でも、そんなことをすれば、私は永遠にクロウを失うことになるだろう。本当は空を飛べるのに、飛べないと嘘をついて自分のことをあざ笑っていたんだろうと思われるに違いない。でも、このままじゃあクロウは間違いなく死んでしまう。
私は決心した。空を飛び、クロウの元へと向かう。クロウの背中側から回ってクロウを抱き締め、そしてそのまま空へ飛び去って行く。
「お願い!振り向かないで!」
クロウは声で私だと分かったことだろう。そして、私がずっと嘘をつき続けてきたことも悟っただろう。これですべては終わってしまった。私は、クロウを抱き締めたまま、涙を流し続けた。
クロウ、さようなら。
118.「ロストビーフ」
科学技術の進歩は著しく、それは食品の世界においても同じことである。
アメリカのニューハンプシャー州で、「ロストビーフ」というファストフード店がオープンした。この店は開店するや大繁盛し、またたくまにアメリカ全土にチェーン展開することになった。
その秘密は、値段の異常な安さにあった。
ロストビーフのハンバーガーは、なんと一つ10セント、日本円にしておよそ10円程度という破格の値段だったのだ。この値段設定に子ども達が飛びついた。有名なハンバーガーチェーンのどこよりも安い。それにそこそこ美味しい。ファストフードをこよなく愛するアメリカの子ども達は、すぐさまロストビーフへと乗り換えた。
しかし、もちろん大人は不信感を抱く。どんな風にすれば、ハンバーガーをたったの10セントで販売することが出来るのだろうか。恐らく何かが間違っている。しかし彼らも、ロストビーフのハンバーガーは美味しいと感じていた。何が使われているのか分からない不安は確かにある。しかし安くて美味しいものを食べられるなら問題ないと、彼らも目をつぶってしまったのだった。
この驚異のハンバーガーを実現したのは、ドイツの科学者が開発したある食品にある。
それは、科学者の間では「食用粘土」と呼ばれるものであった。
ドイツの科学者グループは、粘土から食肉に近い食感と味をを生み出すことに成功したのだ。これに香料を加えることで、食肉とほぼ変わらない製品を作り出すことが出来るようになった。もちろん、ロストビーフ社はこの事実を巧みに隠している。ダミーの食肉工場を持っているし、偽りの報告書をいくつも書いてこれをごまかしている。消費者は、食肉と食用粘土の違いなど分かるわけがない。むしろ、細菌に汚染される心配が皆無なのでより安全であるとさえ言えるかもしれない。また、脂肪分も含まれていないので、肥満問題を解消することも出来るかもしれない。しかしもちろんロストビーフ社は、自分達が粘土を食わされていると知って喜ぶ消費者がいないということは分かっている。徹底的に隠すつもりだ。
ロストビーフ社は、第二のアイデアも持っている。それは、食用プラスティックからフライドポテトを作る計画で、既に実現に向けて動き出しているという。
119.「伊之助の不幸」
伝記によれば、江戸時代の解剖学者土井垣伊之助は、生涯で2000体を超える死体の解剖をした、とされている。しかしその生涯はちゃんとは分かっていない。彼は、その解剖の記録をまったく残さなかったようなのだ。学術的な探求から解剖を行っていたのだとすれば到底考えられない話である。
この話はその、伝記に載ることのなかった、一生を解剖に捧げたと言っても過言ではない男の、数奇な生涯の話である。
(あと一つだけなのに)
土井垣伊之助は、死体の腹を掻っ捌きながら、いつものようにそう思っていた。彼は焦っていた。どうしても見つけなくてはいけないのに、それがどうしても見つからないのだ。
彼は、腸を肝臓を子宮を膀胱を切り裂き、また肋骨を折っては肺や心臓まで切り開いて行った。後で臓器を標本にしたり、何か理屈を持って解剖に当たっているのではないことは明白だった。事実彼は生涯に一つも標本を作製しなかったし、散々切り刻んだ死体の始末は助手にやらせ興味がなかったのだ。人々は、彼が学術的な探求から死体の解剖をしているのだ、と思っていた。杉田玄白による「解体新書」が世に出始めていた頃でもあったし、死体を解剖するということについて世間の理解が若干得られているような時期だった。しかし、彼のごく近くにいた人々は彼を畏れていた。彼の近くにいたのは、医学者や解剖学者の卵であったが、彼らは一様に、伊之助の解剖についていぶかしんでいた。目的がまったく分からない中、彼らは伊之助は悪魔にとりつかれてしまったのではないか、と噂をしていた。
(早くしないと間に合わない)
伊之助は、ナイフを握る手に力を込めながら、人体の内部を引っ掻き回していた。まだメスなどない時代のことである。切れ味のいいナイフを使い、血まみれになりながら、真冬でも真夏でも解剖を続けた。真夏の解剖は地獄のようだった、と助手は証言している。あの臭いは、地獄でも嗅がせることはないだろう、と。そんな環境の中、伊之助は平然と解剖を続けるのであった。
伊之助は、死体さえ手に入ればいつどんな時でも解剖を続けたものだったが、しかし日に日に体は弱っていった。当時治療法が確立されていなかった重篤な病に冒されていたのだった。普通であれば、激しい運動や長時間の労働などは絶対にダメであった。しかし伊之助は、解剖をすることが自分の死期を早める可能性があると知った上で、それでもなお解剖を続けるのだった。
(これは生きている人間を襲うしかないのだろうか)
探せども探せども、あの一つがどうしても見つからない。6つまでは見つけたそのs戦利品は、床下に厳重に保管してある。あと一つ見つけさえすれば、自分の命は助かるはずだ。死んだ人間だけを相手に悠長に探しているわけにもいかない。もう自分の死はすぐそこまで迫っているのだ。これまで、生きている人間に手を出すのはダメだ、と思っていた。しかし、その考えを改める時期に来ているのかもしれない。
そんな野蛮な考えを抱いていた矢先の話だった。いつものように腸を漁り心臓を切り裂いていた伊之助は、肺を切り開いた時にようやくそれを見つけた。
(星が4つ。まさに四星球だ!これで7個すべて揃った!)
一部の人には説明が必要であろう。この「四星球」というのは、かの有名な漫画「ドラゴンボール」に出てくるもので、7つすべて揃えると願いが叶う、と言われているものである。7つ揃えると、神龍(シェンロン)という神様が出てきて、一つだけ願いを叶えてくれる。一星球から七星球まであり、それぞれにそれぞれの数字の分だけ星型のマークが入っている。
伊之助が探していたのはこれだった。彼はとあるきっかけで人体の解剖をした際、人間の体内から六星球を見つけたのだった。古い伝記や逸話などが好きだった彼は、後に「ドラゴンボール」という名前で有名になるこの球は、七つ集めると願いが叶うことを知っていた。そこで、解剖の度に気まぐれに探すことにしたのだ。当初は病を患っていなかったため急いで探してはいなかったのだが、病気が発覚してからは他のすべてのことを差し置いてこのドラゴンボール探しに熱中したのだった。
ようやく集め終わった伊之助は、早速神龍を呼ぶことにした。
「出でよ、神龍!」
すると巨大な龍が空を多い尽くした。神龍は言う。
「願いを一つ叶えてやろう」
伊之助は待ちに待ったこの瞬間、自分の病気を治して欲しい、と言おうと思い息を吸ったその瞬間だった。
「おなごのパンティが欲しい!」
町人の誰かがそう叫んだと伝えられている。どこにでもそういう輩はいるものである。
結局伊之助の願いは叶わず、そのショックもあったのだろう、伊之助はその直後火が消えるようにして死んだのだった。
120.「誰もいない」
日本に戻るのは実に七年ぶりだ。仕事が忙しかった、というわけでもないのだが、特に用事もないのにわざわざ帰国するのも億劫だったということもある。飛行機というのが苦手なのだ。滅多なことでは乗りたくないものだ。結局転勤でアメリカに移ることになってから丸々七年日本を留守にしてしまった。
両親や友人などとはそれなりに連絡を取ってはいたものの、やはりしばらくは変化についていくことは出来ないだろうな、と思う。僕の中では、日本は未だに七年前の姿で止まっている。どれだけの変化があったのか、楽しみというものだ。
苦手な飛行機を降り、空港内に足を踏み入れた時、最初の違和感に襲われた。
(人がいない?)
もちろん飛行機から降りてきた乗客はいるが、空港の職員らしき人がまったく見当たらないのだ。税関もすべて機械化されているようだし、カウンター内にも人の姿はない。他の乗客の中にもこの状況を戸惑っている人がチラホラ見られる。これは一体どうなっているのだろうか。
とりあえず訝りながらも、空港から出る。とりあえずさっさとタクシーでも拾ってホテルに向かおう、と思ったのだが、空港前の敷地にタクシーが一台も停まっていないのだ。その代わり、かなりの数の自動車が停まっている。また周りを見渡しても人の姿はやっぱりない。
(どうなってるんだ、ホント)
かつてタクシー乗り場だったと思しきスペースに、『貸し自動車』という看板があった。
(『貸し自動車』ってなんだ?)
説明を読んでみると字の如くで、要するに敷地内に停まっている自動車を自分で運転し、全国各地にある所定の場所にまた戻す、という仕組みらしい。
(こんなことをするよりタクシーの方が効率がいいんじゃないかな)
そうは思ったものの、移動手段がないのではどうしようもない。僕は貸し自動車に乗ることにした。奇妙なことに敷地内にある自動車の窓はすべて、外から中が覗けないようにシートが貼られているようだった。何の意味があるというのだろう。
自動車を走らせていても、歩道に人の姿はない。これはさすがに異常ではないか、と僕は思い始めていた。東京に、これだけ人がいないなんてことがありえるだろうか?
また不可思議なのは、街中にある店舗が軒並みシャッターを閉めていることだ。コンビニさえも閉まっているのだ。飲み物や煙草は自動販売機で買えるにしても、他のものはどうやって手に入れたらいいのだろうか。
ここに至って僕は恐ろしい想像をしてしまう。まさか、日本という国は滅んでしまったとでもいうのだろうか。
目的地であるホテルに辿り着いた。さすがにホテルは営業しているようだ。しかし相変わらずカウンターには従業員の姿はない。タッチパネル式の機械があり、それで部屋の予約をするようである。
部屋に入り落ち着いたところで、両親や友人の電話をしようと思った。日本の携帯電話は持っていないので、部屋の電話から掛けることにする。
しかし、掛ける番号すべて、『現在使われておりません』という案内が流れるのであった。そんなバカな。ついこの間まで普通に連絡をしていた相手なのに、どうして電話が繋がらないというのだろうか。僕はこの異常事態にどんどんと不安を増していった。
テレビをつけることにした。この時間なら夜のニュースをやっているだろう。
確かにニュースはやっていた。しかしそれは、酷く奇妙な番組だった。
アナウンサーがまったく出てこないのである。映像と声のみで、アナウンサーの姿が画面に映ることがまったくない。しかもその声も、機械で加工されたような変なもので、何かの冗談のような構成であった。しかしどの局でもそんな番組しか流していなかった。
そのニュースで、ようやく僕は状況を理解することが出来た。もちろんそれは、何が起こっているのかが分かったというだけのことであり、その理屈に納得できたわけではなかったのだけど。
機械で加工された声でニュースが読み上げられる。
『昨日から施行された個人保護法により、様々な影響が出ています。街中の店は閉じられ、電車やバスなどの交通機関はストップ、また国民すべての電話が不通になりました』
この状況は、昨日から施行された個人保護法という法律のせいらしい。
ニュースによればこの個人保護法は、かつて制定された個人情報保護法をさらに強化した内容になっているという。個人情報保護法では、個人に付帯する情報について保護されることになっていたが、今度の法律では個人そのものの情報が保護されるということのようだ。即ち、個人の顔や存在と言ったものまで保護の対象にしよう、というものだ。そのため、人前に姿を現すことが基本的に出来なくなってしまった、ということらしい。
僕は、もしやと思って、引き出しの中にある聖書を取り出してみた。予想通りだった。すべての個人名が黒塗りにされている。
(そりゃやりすぎじゃないか…)
とんでもない国に戻ってきてしまったものだ、と僕は思った。
121.「全国麺協会大会」
全国麺協会による全国大会、というものが開かれている。大会とは言うものの何か競技があるわけではなく、会議のようなものである。年に一度、全国の様々な麺が一同に介し、今後の麺の行く末について話し合ったり、あるいは解釈の違いなどを裁いたりする場である。
今年も全国各地から、1800種を越える麺たちが一同に介した。場所は、廃工場である。工場萌えの方々が、時々この会議を目撃してしまう。廃工場の一面に様々な麺が処狭しとひしめき合っている光景は、なかなか悪夢であるそうだ。
「第56回、全国麺協会大会を開始します」
麺界のドンであるさぬきうどんの開会宣言により、大会は始まる。
まずは、毎年恒例の議題からである。これを問い掛けるのは毎年へぎそばであるということも決まっている。
「そもそも麺とはなんぞや?」
そう、全国麺協会であっても、麺とは何かという明確な定義を未だ持っていないのである。全国麺協会はその発足当初から、希望者はすべて加盟する方針を取っていた。なので現在では、しらたきや糸コンニャクはもちろん、さしみのつま状の大根やベビスタラーメン、果ては素材が同じであるという理由で餃子なんかもこの麺協会に加盟していたりする。もはやグチャグチャである。当初からこの麺協会に加盟していた古参幹部は、麺とは何かを定義し、その定義にあった者のみを加盟者とすべく毎年働きかけていたのだが、政治的な理由からなかなかうまくいかない。当然今年もうまくいかないのであった。
次はサンマーメンからの指摘であった。
「吉田うどんが四万十川水系の水を使用して麺を打っている。これは違反ではないのか」
麺には土地に根ざしたものがかなりあり、さぬきうどんや長崎ちゃんぽんなどがその例である。吉田うどんもそうである。これら土地系の麺は、基本的にその土地の水を使って打つのがよい、という暗黙の了解がある。明文化されているわけでもないので違反とも言えないだろうが、しかし見過ごすことも出来ないというなかなか微妙な問題ではある。結局解決することなく次の話に。
今度はきしめんからの意見であった。
「抹茶小倉スパゲッティが可哀相で見ていられない。どうにかならないものか」
名古屋には、「抹茶小倉スパゲッティ」という珍妙な食べ物がある。うまいかまずいかは個人の判断であろうが、しかし麺からすれば、抹茶を練り込まれるのはよしとしても、小倉あんをかけられるのは屈辱に等しいものがある。これは麺同盟すべての者が同感ではあったが、しかしだからと言って何か出来るわけでもない。きしめんの心優しい提言は、しかし活かされることはないのであった。
その後もいくつかの話題が出ては議論になるが、しかしどれもこれも結論は出ない。それもそうで、人間で考えてみれば1800人を一同に集めて会議をしているようなものなので、会議になるわけがない。ことここに至って、麺の定義を明確にしてこなかったことが悔やまれるのであるが、しかしやはりそれはどうにもならない問題なのであった。
その内議論は出尽くし、というか長時間の会議のために皆カピカピに干からびてしまったために、散会となる。最後はやはり麺界のドンであるさぬきうどんによるありがたいお言葉である。
「麺類皆兄弟」
122.「プール」
僕の家の庭にはプールがある。友達にその話をすると豪邸だなんて言われることもあるんだけど、別にそういうわけじゃないと思う。建物よりもプールの存在の方が目立っているっていうだけの話だ。そのプールはそれなりに大きい。夏になると僕が掃除をして水を入れ替える。そうやって、僕の夏は始まる。
夏になると僕は、毎朝同じ時間にプールに飛び込む。水着に着替えて、防水の腕時計をつけ、軽くストレッチをしてから、プール際に立つ。腕時計を見ながらタイミングを図り、そして飛び込むのだ。
水中で目をつむったまま、僕は水の上の世界について考える。慌てないように意識しながら、僕はゆっくりと水面から顔を出す。
そしてそこは、やっぱりいつもと変わらない庭のプールなのである。
僕は今日もまた失敗したことを確認して、プールから上がった。もはや落胆さえ感じなくなり始めている。何せあの場所を目指して飛び込むようになってから、既に3年が経とうとしていたのだから。
3年前の夏のことだった。僕はいつものようにプールで泳いでいた。とても暑い日で、水の冷たさが心地よかった。体がふやけてしまうんではないかと思うくらい泳いでやろう、と僕は思っていた。
それは何度目かの飛び込むの時に起こった。僕はいつもと変わらないやり方でプールに飛び込んだ。4回に1回はお腹を打ってしまうのだけど、その時はちゃんと頭から飛び込むことが出来た。何もかも普通で順調だった。
水中でも、特に変わったところには気づかなかった。後から考えてみれば、ちょっと水が重かったかもしれない、と思いはしたけど、少なくともその時は何の疑問も持っていなかった。
何も考えずに泳ぎ出し、息継ぎをしようとしたその時のことだった。僕は視界に見慣れないようなものを見たような気がして泳ぎを止めた。プールの底に足をつけようと思って、でもそうすることは出来なかった。プールは、何故か深さを増していて、どうしても足が届かなかった。
その時、僕は自分がいるのはプールではないことにようやく気がついた。そこは海だった。どこを見渡してみても水平線しかない、紛れもない海であった。僕はあまりに混乱していて、何を考えたらいいのかもよく分からないままだった。
そこで見かけたのだ。僕が生涯忘れることが出来なくなる、イルカに乗った少女を。
遠くから何か動いているものが近づいてくるのは僕にも分かった。しかし、初めそれが何なのか分からなかった。大分近づいてきて始めて、それはイルカであり、そしてその上に少女が乗っているのだ、ということに気がついた。
少女は裸だった。そして、何よりも美しかった。彼女は僕の存在には気づいていないようだった。イルカに乗った少女は、そのまままたどこかへと行ってしまった。
僕に何が出来ただろうか。あのままイルカを追いかけて追いつけたとも思えない。声を掛けても聞こえたとは思えない。僕には、彼女を呼び止める術はなかったはずだ。それでも僕は、あの時自分が何も出来なかったことについて激しく後悔した。
気づくと僕はプールに戻っていた。あれはもしかしたら夢だったのかもしれない。それでも僕は、もう一度イルカに乗った少女に会いに行きたかった。今度は、ほんの少しでもいいから話をしてみたかった。
だから僕は、毎年あの時の状況を再現してプールに飛び込んでいる。未だに、あの時の海には辿り着けない。
123.「本の中で起きていること」
「重心に変化が見られます」
「よし、総員配置につけ。そろそろ来るぞ」
「高度30センチまで上昇。上昇速度は比較的ゆっくりです」
「一時停止。急降下」
「別のにするつもりか。それならまた一休み出来るってもんだけどな」
「どうでしょうね。最近の傾向から考えるとこれが一番可能性が高いかと」
「再浮上。やはり選択に相違ありません」
「よし、みんな準備はいいか」
「制御班OK」
「活字班OK」
「指令班OK」
「情報班OK」
「対策班OK」
「現在位置は?」
「地上から35センチ、テーブルから5センチのところで安定しています」
「そろそろ開くな」
「どっちからだと思う?」
「今までの傾向から考えますと、初めのページから順序良く読んでいくようですが」
「聞いたか情報班と活字班。初めのページから順番通りって線で準備を進めてくれ」
「ラジャー」
「内圧に変化あり。ページが開かれようとしています」
「緊急事態発生。どうやら解説から読もうとしているようです」
「何だと。情報班。至急解説の文章にアクセス。活字班。超特急で表示を頼む」
「解説のページが開かれるまであとおよそ0.2秒」
「間に合いそうか!」
「無理です!ひらがなはなんとか可能ですが、漢字が追いつきません!」
「仕方ない。対策班。緊急事態だ。エマージェンシー5発動」
「ラジャー」
「読者は本を落としました」
「エマージェンシー5は、てのひらの汗と反応してすべりやすくなる物質を出す、でしたな。まあ止む負えん措置だ」
「よし、時間は稼いだ。これでなんとかなりそうか」
「大丈夫です」
「解説ページ、オープン!」
「よし、文字の表示は大丈夫そうだな」
「こちら対策班。お伝えしたいことがあります」
「なんだ」
「今の解説ページ表示のために、活字班が1ページ目から3ページ目までの文章から活字をいくつか借りてきたようです。そうでもしないと間に合わなかったとか。つまり、この状況のまま初めのページを開かれれば、虫食いの状態です」
「活字班!何度言ったら分かるんだ!別のページから活字を借り出すのは止めろとあれだけ言ってきただろうが!」
「すみません。しかし、時間内に文章の表示を完成させるには仕方のない措置でして…」
「言い訳はいい!至急なんとかしろ!」
「対策は進んでおります。応急処置として、後の方のページから順繰りに文字を借り出す形を取ることにしました。しばらくは時間稼ぎが出来るかと」
「まあそれならいい。制御班、状況は?」
「読者は解説ページを読み終わろうとしています」
「よし、それで1ページ目の文章はもう準備は出来てるんだな」
「大丈夫です。任せてください」
「こちら制御班。おかしな兆候です。内圧の変化から判断するに、読者は1ページ目ではないページを開こうとしています」
「こちら情報班。状況が判断出来ました。解説の文章に、『P168にある挿絵を見れば、誰しもが主人公に恋をしてしまうだろう』とあります。恐らく読者は、まずこの挿絵を見るつもりなのでは?」
「まずい!挿絵があったか。活字班で対応出来るか?」
「出来ません!既に手一杯ですし、しかも挿絵は管轄外で誰も出来ません!」
「情報班は?」
「すみません!挿絵のデータ量を考えるに、ウチでは扱えないと判断されます」
「まったくどいつもこいつも。制御班、読者が挿絵を見るまでの予想時間は?」
「推定1.4秒後です」
「仕方ない。ランディを呼んで来い」
「ランディ…、ですか。しかし…」
「つべこべ言うな。この状況で挿絵を表示できる男はランディぐらいしかいないだろうが!」
「わかりました」
「はいよ、ランディ。んで、どうしたって?」
「P168の挿絵の表示を0.8秒以内に頼む」
「見返りは?」
「何がお望みだ」
「次は俺に仕切らせろ。あんたには活字班の補佐をしてもらう、ってのでどうだ」
「…分かった、飲もう。じゃあ頼んだぞ」
「あいよ。こんなんちょろいっつーの」
「こちら制御班。あと0.2秒」
「うっせーよ。はい、これで完了」
「間に合いました。挿絵の表示完了」
「ふーっ、疲れるぜ。まあ後は大丈夫だろうな」
「読者はようやく1ページ目に入りました」
「制御班はそのまま監視を続行。活字班は全体の文章の調整と修復、くれぐれも省エネには気をつけてくれよ。表示は読者の目に入る0.1秒前。この鉄則は忘れないように!以上!」
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