黒夜行

左脇のプロフィールにある「サイト全体の索引」から読みたい記事を探して下さい。

2008年に書いたショートショート集 No.27~No.50

27.「きみにしか聞こえない」
クリスマスイブだっていうのに、何の予定もない。
まあいつもそうだ。今年だけじゃない。今さら何を期待したって始まるもんでもないさ。
そんなことを考えながら信二はコンビニに向かっている。夕飯でも買いに行こうと思ったのだ。普段自炊派の信二であるが、今日はクリスマスイブだし、ケーキだのチキンだの、そういう普通のものも食べてみようと毎年考えるのだ。クリスマスイブなんて自分には関係ないと思いつつも、どうも世間の流れに流されてしまう。
予報では夜から雪になるかもしれない、と言っていた。もう暗くて空の様子はイマイチ分からないが、降りそうな雰囲気はある。ホワイトクリスマスなんていう、さらに輪をかけて自分とは関係ないお膳立てになるのが、なんとも腹立たしく思う。
どことなくクリスマス気分に浮かれたような町を歩く。さりげないというよりは陳腐なと表現した方がいいような飾りが町のそこかしこを彩っているが、寂れた町をより寂れた印象にしているだけにしか見えない。努力は必ず報われるわけではない。
どこを歩いていても耳につくクリスマスソングを聞き流しながら、コンビニまでブラブラ歩く。こんな寂れた町ではクリスマスを過ごせないということか、あるいはもう既にお店やらホテルやらにいるのか、町中にカップルらしき姿をあまり見かけない。いるのは老人やおばさんや子どもや、まあそういった類の人間ばかりである。
コンビニについたら何を買おうか漠然と考えながら歩いていると、突然声を掛けられた。
「いい音楽ですね」
初めは、自分に話し掛けられているのだとは思わなかった。目の前には、20代後半か30代前半に見える女性がいた。てのひらに載せたら溶けてしまいそうなふんわりとした笑顔だった。黒い髪を真っ直ぐ下ろし、白いコートを着ていた女性が、一瞬だけ雪女に見えてしまった。彼女が今日この町に雪をもたらすとでもいうのだろうか。
信二は後ろを振り返る。自分の後ろにいる誰かに話し掛けたのだろうと思ったのだ。第一、音楽というのが何のことか分からない。町にダラダラ流れているクリスマスソングを褒める意味はどこにもないし、それ以外に音楽らしい音楽はどこにもない。そんなどこにもない音楽のことで、信二が話し掛けられるのはもっと意味が分からない。
振り返っても後ろに誰もいないことを確認し、目の前にいる女性が相変わらず信二の方を向いているのを確認して、ようやく信二は口を開く。
「音楽ですか?このクリスマスソングが?」
「あなたがさっきまで演奏していた音楽ですよ」
彼女は笑みをたたえたままでそう言った。
これは何なんだ、と信二は思った。どう考えて見ても、信二が音楽を演奏していたはずはない。信二がしていたことと言えば、コンビニで何を買おうかと考えながらブラブラ歩いていただけだ。無意識の内に口笛を吹いていたなんてこともない。そもそも口笛は吹けないのだ。鼻歌も歌っていないが、万が一そうだったとしてもあの距離で彼女にそれが届くとは思えない。
困惑したままで信二は彼女の顔をじっと見つめる。
「あの、俺、鼻歌でも歌ってました?やだなぁ、そんな遠くまで聞こえちゃってたのかぁ」
可能性としては、信二が無意識の内にバカでかい鼻歌を歌っていたか、あるいはこの目の前の女性の頭がおかしいかのどっちかだ。どっちにしても、あまり嬉しい状況ではない。
「聞いたこともないような音楽でした。もう聞こえなくなってしまって残念ですけど」
相変わらず信二の話を聞いてるとは思えない返答だ。しかも、これは要するに信二の歌が下手だったと言いたいのだろうか。何にしても、この女性とは会話が噛み合わなそうだ。いい加減お腹も空いてきたし、もう無視してコンビニに行くしかないだろう。
話を勝手に切り上げて、歩き出す。信二が歩き出すと彼女の顔はパッと輝いてさらに笑顔が増した。僕が立ち去るのがそんなに嬉しいのだろうか。
しかし、彼女は歩く僕の後ろをついてくる。これ以上何がしたいのだろう。何だかムカついて、走り出す。彼女も追いかけてくる。音楽だとかなんとか言って、ホントは新手のストーカーなのか?
立ち止まり、振り向いた信二は、彼女に目を向ける。
「いい加減にしてもらえませんか!何でついてくるんですか?」
そう怒鳴り声を上げた信二に怯むことなく、彼女は口を開く。
「ねぇ、お願いがあるのですけど。踊ってくださらない?」
音楽の次は踊りか。やっぱりもう関わらない方が身のためか。
彼女と会話を続けることを再度諦め、信二は歩き出す。その時、パラパラと雪が降り始めた。予報は当たったな、と信二が思った瞬間だった。
頭の中に、音が響き渡った。
「えっ?」
驚いて立ち止まる。すると音は聞こえなくなった。
「何だったんだ今のは?」
再び足を踏み出す。するとまた音が聞こえる。歩き続けると、それは一つの音楽となって信二の頭に響き渡るようになった。
「歩くと音楽が聞こえるのか…」
音楽は、明らかに僕の歩調に合わせて響いてきた。まるで自分が、巨大なピアノの鍵盤の上を歩いているかのようだった。いつからこんなことになっていたのだろう。そして、何故彼女だけがこの音楽を聞くことが出来たのだろう。
自分の頭の中に響き渡る音楽を聞きながら、次第に信二は頭の芯が痺れてくるような感覚を味わうようになった。それまでは、信二の歩行が音楽を奏でていたように感じられていたが、次第に、頭の中で響き渡る音楽が信二の歩行を決定しているような、そんな感覚に変化していった。
そして気づくと信二は、降りしきる雪の中、たった一人の観客のために、名前のついていない踊りを踊り続けていたのだった。



28.「本になった女」
朝起きると私は本になっていた。
初めは何が起こっているのか気づかなかった。陽が当たっていることは自覚できた。しかし、目が覚めたという感覚はない。動かそうと思っても身体が動かない。それでもまだ、金縛りか何かかなと思ったぐらいだった。
動かすべき手足がないことに気づいたのはもう少し後のことだ。きっかけがあったわけではない。唐突に、自分には手も足もなくなってしまったことに気づき、そして同じく唐突に、自分は本になってしまったのだと気づいたのだ。
「参ったね、こりゃ」
と呟いたつもりなのだけど、もちろん声にはならない。こういう呟きはもしかしたら、本のどこかに刻まれるのかもしれない。そもそも、私は何の本に変わったのだろう。小説だろうか、コミックだろうか、あるいは地図だったりするだろうか。あるいはただの日記帳かもしれない。これは重要だぞ、と自分で思う。コミックや地図だとしたら、私が本になった意味はほとんどないかもしれない。
昨日までのことを思い出す。
私は昔から本が好きで、好きが高じて本屋で働くようになった。日本一の書店チェーン店に入社し、その中の一店舗で働くようになったのだ。
予想していた以上に本屋の仕事は面白かった。初めの内は勝手がわからず困ったが、慣れてくると、自分のオススメの本を売り場に並べてみたり、フェアを企画してみたり、飾り付けを頑張ってみたりと、本を売るという一つのことに向かってやれることがたくさんあることに驚いたものだ。私はどんどん本屋の仕事にのめり込んでいった。
それと共に、もう一つ別の対象にものめりこんでいった。
同じ店舗で文芸書の担当をしている彼だ。同じ社員同士接する機会も多く、次第に彼に惹かれていく自分に気づいていった。物静かで、でも本への情熱は本物で、彼の作る文芸所の売り場は本当にお客さんにも好評だった。新人作家だろうがベテラン作家だろうが関係なく、自分がいいと思ったものを丁寧に紹介していくようなそんな彼のやり方は、まさに書店員だという感じがした。
「一度もページを開かれない本って、哀しいと思わないか」
彼としたある会話が、私の耳に今も残っている。
「本屋に入ってくる本のすべてがページをめくられるわけじゃないんだ。一度もお客さんに手に取られない本もあるかもしれないし、そもそも平積みの下の方にある本はそうだろう?僕は、そういうのが本に対して申し訳ないなって思うんだ。お客さんがその本を買っていくかどうか、それは別としてさ、どんな本でも一度は手に取ってページを捲ってもらえるように、僕はそれを考えて仕事をしてるだけなんだ」
淡々とそう語る彼の姿は、とても格好良かった。私がそれについて褒めると、彼は照れたような顔をしてこう言った。
「いや、そんな大したことじゃないんだ。僕なんか書店員として失格だよ。普通は、本を通じてお客さんと会話をしてこそ書店員というものだろう?でも僕は、正直お客さんの方はあんまり見てないんだ。ただ、本と会話が出来さえすれば、それで満足なんだよ」
お客さんから絶大な信頼を置かれている文芸書の売り場を作っている人間のセリフとは思えないが、しかし彼は恐らく正直なことを言っているのだろうなと思った。何しろ、私自身がそれを強く実感していたからだ。
本と会話できさえすればいい。
まさに彼は、その言葉通りの人間だった。彼の作る売り場はお客さんから支持されていたし、またその丁寧で堅実な仕事っぷりは店内のホカノスタッフからも一目置かれ、人望も篤かったのだが、しかし彼はそんな状況にはとんと関心がないようだった。彼の関心は本だけに向いていて、そこには自分自身への関心さえないようだった。ただ本と会話をし、それを出来る限り丁寧にきちんと扱おうとしているその姿が、お客さんやスタッフからの評価に繋がっているだけなのである。
それは私にしても同じだった。私は、彼を振り向かせようといろんな努力をしたつもりだった。彼の読んでいるのと同じ本をたくさん読んでみたり、休日に彼を誘って一緒に本屋に行ったりと、彼と接点が持てるようなことならなんでもやった。しかし、その努力から私が知ることが出来たのは、彼は私なんかよりも本に関心がある、ということだった。同じ本を読んだ私や、一緒に本を選ぶ私のことなどまったく見ることなく、彼の眼差しは唯一本だけに向いていたのだ。
本当はここで手を引けばよかったのだろう。しかし私はこれまで、恋愛において自分の思い通りにならなかったことなどなかったのだ。どうにもならない時でさえ、最後の最後まで諦めずに頑張ったとだけは言える。だから、彼の関心が本にしかないと分かっても、めげずに彼につきまとった。しかしやはりそれがいけなかったのだろう。彼ははっきりとは表に出さないが、私は次第に疎まれるようになった。
そして昨日。私はようやく辿り着いたのだった。彼に関心をもってもらうには、自分が本になるしかないのだろうなぁ、と。それって、もう絶望的だってことじゃん、と思って私は静かに泣いた。
そして今日、起きたら本になっていたのだった。
このままだと無断欠勤ということになるだろう。何度か電話が来てから、スタッフの誰かが部屋に来るという感じになるはずだ。そこで彼がきてくれれば、そして本になった私を見つけてくれれば、私は一生彼に大切にされることだろう。
そういう幸せもいいかもしれない、と私は思った。



29.「探し物は意外と近くに」
「ねぇ、まだそんなことやってるわけ?」
街中にある普通のポストの鍵穴に鍵を差し込もうとしている僕を見て、隆子が僕をたしなめる。
「もう癖なんだよ。」
「まったく。鍵穴なんか山ほどあるんだからもう無理だって」
「まあそうなんだけどさ」
ポストの鍵穴には入らないことを確認した僕は、隆子と一緒にまた歩き始めた。隆子もあんなことを言っているけど、もう僕のこの癖については諦めているはずだ。怒っているというのとも違う、なんだか悪戯をたしなめるような言い方をする。
僕はいつも、ある鍵を持ち歩いている。その鍵は、キーホルダーがついているわけでも、何か特徴的な部分があるわけでもない、ただの鍵だ。僕はそれを、日々肌身離さず持ち歩いている。落とさないようにキーチェーンに繋いで、財布にくっつけているのだ。
この鍵は、形見のようなものだ。4年前癌で母親が死んだ時、母親の荷物を整理していた時に見つけたのだった。それは、僕の母子手帳や僕が小学校の時に100点を取ったテストなど、母親にとって大切だったものを入れておく箱に入っていたもので、何だろうと思って父親に聞いてみた。父親もそれについては何も知らず、よくはわからないがそのままその鍵は僕がもらい受けることにした。
それから、鍵穴を見つける度に気になってその鍵を差し込んでしまうようになった。とにかく、目につく範囲の鍵穴という鍵穴は試してみた。押入れの奥に隠されていた金庫や家にある自転車や車、父親の部屋にある机の引き出しやがらくたに混じっていた南京錠も試した。その内家の外にあるものにまで範囲は及び、コインロッカーや知らない人の家や路上駐車している車まで、とにかく何でも試してみた。公共施設の裏口のドアや、バイト先のレジ、あるいは隆子の家のいろんな鍵穴なんかでも試してみた。銀行の貸し金庫も試してみたいと思っているのだけど、さすがに中までは入れなくて断念した。
目に付くところはあらかた試してみたつもりだが、今日もこうして隆子と初めて訪れた町でデートなんかをする日には、どうしてもあちこちの鍵穴に試してみたくなってしまうのだ。今では、結局どこのなんの鍵なのか、もう分かることはないだろう、と諦めてはいる。しかし、どこに可能性があるか分からない。半分は惰性だとは気づいていながらも、なかなか止めることが出来ないのだ。
「鍵って不思議じゃない?」
突然隆子がそんなことを言う。
「だってさ、世の中にはさ鍵が必要なところってすごくたくさんあるでしょ?でもさ、鍵の形ってさ、やっぱり限界があると思わない?同じになっちゃうことってないのかな?」
「昔テレビで見たことあるよ。ちゃんとは覚えてないけどさ、アメリカだかどこかの駐車場が無茶苦茶広いスーパーがあってね、そこに似たような車が近くに停まってたんだって。どっちかの車の持ち主が自分の車と勘違いしてその似た方の車の方に鍵を入れたんだけど、その鍵で開いちゃったんだってさ。やっぱ鍵の形には限界があるんだなって思うよ」
「へぇ、そうなんだ。じゃあその鍵も、いつかやってれば何かの拍子に開いちゃうかもね」
「問題はさ、それが僕が探しているものなのか、あるいはたまたま同じ鍵だったってだけなのか、僕には判断のしようがないってことだよなぁ」
また鍵穴を見つけた。図書館の裏口だ。最近ではなるべく民家や車の鍵は試さないようにしているのだけど、こういう公共施設ならいいかな、と思ってしまう。鍵穴に鍵を入れる。やっぱり、合わない。まあ、気長にやるさ。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

伸一とのデートを終え、隆子は家に戻ってきた。着替えを終え、冷蔵庫からビールを取り出すと、隆子は大きくため息をついた。
「はぁ、今日もダメだったかぁ」
隆子はバッグを引き寄せ、その中から小さな箱を取り出した。
それは、父親の形見のようなものだった。癌で父親が死んだ時、遺品を整理していた時に出てきたのだ。かまぼこのような形で、見た目はオルゴールに近い。綺麗な装飾が施されていて、見た目が華やかだ。初めはお母さんの持ち物かとも思ったのだけど、お母さんは知らないという。お母さんにこれが欲しいと言ってもらってきたのだった。
しかし、その箱には鍵穴があるのだが、肝心の鍵が見当たらなかったのだ。中身は気になるが、しかし壊してしまうわけにもいかない。それで隆子は、置物としてその箱をずっと持っていたのだった。
伸一が、自分の持っている鍵をいろんな鍵穴に差しているというのは、付き合う前から知っていた。けど、もちろん自分と関係あるなんて全然思ったことはなかった。
伸一との仲が進み、お互いの部屋を行き来するようになった頃だった。伸一がトイレに行っている隙に、テーブルの上に置きっぱなしにされた財布についている鍵を試してみたことがあった。
自分でもまさか入るわけないだろう、と思っていたのだけど、その鍵は箱の鍵穴に抵抗なく入っていった。嘘、と小さな声で呟いて、でも何とか落ち着いて鍵を回そうとした。でもその瞬間、伸一がトイレから出てくる気配がして、慌てて鍵を元に戻したのだった。だから結局中に何が入っているのか確認できなかった。
それ以来、その箱を常にバッグに入れて持ち歩くようにした。伸一は隆子の部屋に来るようになって、隆子の部屋にある様々な鍵穴に鍵を差し込むようになったから、というのも理由の一つだが、もう一つ、自分から伸一に言ってみたいという風にも思ったのだ。この箱の鍵穴に、伸一の持ってる鍵は合うよ、と。
でも、同時に怖くもあった。うちの家族と伸一の家族が何らかの交流があったという話は聞いたことがない。それなのに、一方が箱を持ち、もう一方がその箱の鍵穴に合う鍵を持っているというのはやっぱりおかしい。それに、中から何が出てくるのかも分かったものではない。
いつか言おういつか言おうと思って持ち歩いているのだが、結局言い出せずにいる。鍵をあちこち差し続ける伸一を強くたしなめることが出来ないのも、自分が真実を知っていて隠しているという負い目があるからに他ならない。
一体何が入っているのだろう。隆子は、今度こそは、と心に誓いながら、その箱をまたバッグに戻した。



30.「IF(意味不明)な会話」
「もしもし、充。HD(ヒマだから電話する)」
「あぁ、万城目さんか。ホントON(おぼえずらい名前)だよね」
「まだそんなこと言ってるわけ。ホントIW(意味わかんない)」
「まあ許して。どうせ俺なんかBMW(バカ丸出しの若者)だからさ」
「いいけどさ。それよりGBST(ごぶさた)じゃない?最近会ってくれないし」
「別にウチらってDSY(大親友)ってだけでしょ?」
「3M(マジでもう無理)。それ本気で言ってるわけ?」
「BIU(僕の言うことにウソはない)だよ」
「はぁ、それなら今日GMM(偶然街で会った元カレ)と遊びに行けばよかった」
「MMK(モテてモテてこまっちゃう)んだから、恋愛なんていくらでも出来るっしょ」
「何その言い方。ND(人間としてどうよ)」
「ねぇ、KS(熊本好きか)?」
「何そのWH(話題変更)」
「この前行ったのよ、熊本に。そしたらさ、SKK(空ってこんなにキレイだったのか)ってね。」
「ホントHT(話ついていけない)わ。なんでいきなり熊本の話何だか。もうご飯食べた?」
「食べたよ。PTA(パンとアイスコーヒー)だけど」
「何それ。ちゃんとYTD(野菜も食べなきゃダメ)だよ」
「まあHR(ひとりランチ)なんてそんなもんよ」
「あぁ、あたしIT(アイス食べたい)!」
「今冬だよ。それよりNP(鍋パーティー)の方がよくない?」
「それいいね。そういえばさODD(お前大学どうする)?」
「SS(正直しんどい)。勉強が忙しすぎて大学のことまで考えられないわ」
「何それ!QBT(急にボールが飛んできて)か!」
「でも、リアルにSNK(すべての気力がなくなった)だわ。」
「なんで?充ってそんなにOBM(臆病者)だっけ?」
「そうじゃなくてさぁ。JK(女子高生)の妹がさ…」
「あぁ、あのDF(どんまいフェイス)の妹がどうかしたの?」
「なんかKD(高校デビュー)したのはいいんだけどさ…」
「CB(超ビミョウ)だね。それで?」
「最近妹の噂が高校で広まっててさ。なんか初体験の時にBPB(ブラとパンツが別々)だったみたいでさ…」
「あちゃー、それはTD(テンションダウン)だねぇ」
「なんかその話聞いたらさMHS(マジで本当に死んでしまいたい)って感じでさ」
「何それ?JK(常識的に考えて)で意味不明だわ」
「DID(だってイヤだったんだもん)」
「まあPK(パンツ食い込む)よりはマシってもんじゃない?」
「まあ俺もPSI(パンツにシャツイン)だから人のこと言えないんだけどさ」
「言えてる。それかなりDSI(ダサい)っていつも言ってるじゃん」
「分かってるよ。ちゃんとJK(自主規制)するって」
「ねえ、KI(カラオケ行かない)?」
「KY(今日はやめて)。明日ならいいよ」
「分かった。じゃあAM(あとでまた)」



31.「一つ屋根の下で」
「ねぇ、何度言ったら分かるわけ!そうやってプカプカ浮かないでっていつも言ってるでしょ!」
私は、完全に横になった姿勢のまま空中に浮いている男に向かって声を掛けた。彼はいつも床に布団を敷き、私はベッドで寝ているのだが、朝目を覚ますと、時々彼が私の上に浮かんでいて驚かされる。そんなことがもう何度もあるのだ。
「あぁ、すまんすまん。どうも寝てる時は自分を制御するのが難しくてなぁ」
男はのんびりとした口調でそう言ったかと思うと、スーッという感じでまた布団に戻った。
相変わらずらしくないな、と私は思う。確かにこうして身体が浮き上がっているのを目にするのだし、他にもちょっと普通では説明できないような光景を度々目にするのだが、それでも目の前にいることの男が神様だとはどうしても信じられないでいるのだ。
中肉中背だがお腹はぽっこりと出ていて、ビール腹という感じ。口の周りに無精ひげを生やし、妙にまつげは長い癖に頭の毛はちょっと薄くなり始めている、見たところ30代後半のおっさんである。服装も神様っぽいわけではなく、部屋ではパジャマを着ている。せめて作務衣でも着てくれればそれらしいのに、と思うのだが、神様は見た目は一向に気にならないらしいのだ。
「まったくもう」
神様はまた寝入ってしまったのだけど、相変わらずまた身体が浮いている。何度注意してもこれだ。グースカと高いびきを掻いている神様を眺めながら、一体何でこんなことになってしまったんだろうな、と私は思うのだった。
神様と出会ったのは病院でのことだった。私は県立の総合病院で心療内科医として働く医者である。軽い神経症や不眠を訴える患者を相手にカウンセリングをしたり薬を処方したりしている。
神様は当初患者としてやってきたのだった。体型は今とさほど変わらなかったが、どことなくげっそりという印象を携えて、彼は診療室に入ってきた。
「どうかされましたか」
私はいつも通り初診の患者への対応を始めた。
「最近どうも眠れなくって…」
確かに事前に書いてもらった問診表でも、不眠を訴えていた。
しかし、その問診表で最も目を引く部分は別にあった。問診表の一番上には患者自身の名前を書いてもらう欄があるのだが、そこに「神様」と書かれていたのだ。
「眠れなくなったのはいつ頃からですか?」
私はいつも通り質問を続けながらも、これはどうしたものだろうか、と思っていた。患者はどう見てもただのおっさんであり、神様であるはずがない。とすれば、何らかの精神疾患を疑うべきなのかもしれない。そうだとすれば、私には対処しかねる。どうすればいいだろうか、と質問を繰り出しながら私は考える。
患者への質問が一通り終わってから、私は意を決して聞いてみることにした。
「問診表には『神様』と書かれていますが、これは本名ですか?」
患者さんにはその質問の意味がよく伝わらなかったようで、私は別の言い方でもう一度質問をすることにした。
「あなたは神様なのですか?」
「えぇ、まあそうですけど。私は神様ですよ」
「神様である、というのはどういうことですか?」
「それは、『2』という数字はどういう数字ですか、と聞かれるのと同じぐらい答えようのない質問なんですが…」
神様と名乗る男は困惑したような表情を浮かべながら私の質問に答えていた。その姿は、とてもじゃないけど神様だとは思えないものだった。
その時は、これ以上その点について問いつめてもどうしようもないと判断し、睡眠薬を処方して診察を終了したのだった。
それが、紆余曲折を経て一緒に暮らすことになってしまうとは。
私は彼と一緒にいることで、彼が神様だと信じざる終えない様々な出来事に出くわすことになった。今では、他の誰が信じなくても、私だけは彼が神様であるということを信じている。
見た目は30代だが、彼はもう私たちが想像もつかないほど遥か昔から生きているのだし、そもそもこの世界を創ったのも彼なのだ。何故そんな神様が、こんな街の片隅で、しかも一時不眠症にまでなっているのか私にはさっぱり理解できないのだけど、要するに神様にだって思い通りにいかないことはたくさんあるのだろうな、と何だか嬉しくなったものである。
神様と一緒に暮しているからと言って、別段何が起こるわけではない。外から見れば、ただおっさんと一緒に生活をしている風にしか見えないし、事実私だってそんな風にしか感じることが出来ない。
「アゥムニャムニャドルゥ…」
神様が意味の分からないことを呟きながら寝返りを打つ。そして盛大におならをする。こんなどうしようもない神様だけど、世界を創ってくれたのはこのおっさんなんだよなぁと思うと、やっぱり何だか愛しくて仕方ないのである。



32.「終わりなき旅」
僕は今、√2の上を歩いている。
√2に足を踏み入れるのは初めてだ。そしてきっとそれは最後になるはずなのだ。誰しもが、√2を二回経験することは出来ないといわれている。「終わりなき旅」と呼ばれるのも、そのためだ。
√2は非常にすっきりとした、真っ直ぐな直線としてこの世界では存在する。僕は今その直線の上をゆっくりと歩いているわけだが、このシンプルさには驚かされるばかりだ。√2の上からは、他の数学的構造物の姿を見ることも出来る。近くには、『2』や『1.4』も存在するのだけど、『2』はグルグルと回る螺旋階段状の構造物として表現されているし、『1.4』はいくつもの鎖の繋がったような形状の構造物として表現されている。その中にあって、√2は、ひたすら真っ直ぐな直線という、これ以上ありえないくらいシンプルな構造をしているのである。これはやはり、√2には何か神秘なるものが隠されているのだという傍証になるのかもしれない。
僕のいるこの世界は、数学的仮想空間、と呼ばれている。『仮想空間』などという名前だと、コンピュータグラフィックによる仮想空間を想像される向きもあるかもしれないが、そう言ったものとは一線を画す。この数学的仮想空間というのは、現実に実際に存在する世界である。
22××年、今からもう100年も昔のことであるが、イギリスのある物理学者が、世界は5.5次元である、と発表して話題を呼んだ。「0.5次元」というものが何を指すのか、その物理学者の理論を読んで理解できたのは世界で3人しかいないと言われたほど難解な理論であったが、それは理論としては整合性の保たれたものだったらしい。
それとほぼ時を同じくして、13年前に失踪したある数学者が生還したというニュースが伝えられた。この数学者は記者会見の場で、「私は新しい世界を発見した」と説明し、そこには「数学そのものが形として存在していた」と語った。
大抵の人間はこの数学者の話を与太だと受け取って信じなかったが、一部の数学者と物理学者が共同で研究を重ね、ついにその世界を発見するに至ったのである。それが、今では数学的仮想空間と呼ばれている世界である。
詳しい説明は省くが、その世界に入るためには、自分自身を数学的構造物に似た何かに変換をする、という手続きを経ることでこの世界に辿り着くことが出来る。誰にでも簡単に可能な手続きであり、時々小学校の修学旅行の行き先の一つとして、この数学的仮想空間が選ばれることもあるという。
この世界には、数学的に記述が可能なありとあらゆるものが形となって存在している。それぞれの数学的記述と数学的構造物の形状にどういった関連性があるのか、それは未だに誰にも分かっていないことだ。なぜ『1+1』はガラス板のような形状なのか、なぜ『π』は階段状の構造物なのか。そこに何か意味があるのか、あるいは意味はないのか、そもそもこの数学的仮想空間は人間の幻想なのか、あるいは確固たる空間として存在しているのか、そうしたことは未だに何も分かっていない。
ただ、まだ噂の段階ではあるが、この数学的仮想空間について憶測されていることが一つだけある。
それが、今僕が歩いている√2についてである。
何故この√2という数学的構造物に「終わりなき旅」という名前がついているかと言えば、√2に足を踏み入れた人間がかつて戻ってきたことはないことに由来している。正確なデータを取り始めたのがまだここ5年くらいなので、それ以前のことは分からないのだが、少なくともデータを取り始めてからは一度も帰還したものがいない。
これには、二つの説が唱えられている。
一つは、√2というのは無理数であり、永遠に確定しない数字であるために、√2という構造物には終わりがないのだろう、という説。つまり、√2に足を踏み入れたら最後、どこまでも終わらない道を真っ直ぐに進まざる終えないのだ、ということだ。しかしこれにはもちろん反論があり、例えば『π』も無理数だが、『π』の数学的構造物では同様のことは起こらない、というものだ。これに対してこの説を唱える人々は、√2というのは、正方形という美しい形状を持つ図形の斜辺の長さとして存在する。この一見完璧に思える正方形という図形に現れる数だからこそ特別なのだ、と主張するのだが、それは円という完璧に思える図形に『π』が出てくるというのと大差はなく、あまり説得力はない。
もう一つは、√2に足を踏み入れた人間は、そこから出たくなくなるのではないか、という説だ。これも出たくなくなる理由にはいくつか説があって、√2の最深部には数学の秘密が隠されているのだとか、大昔に√2の最深部に辿り着いていた偉大な数学者がいて、その数学者と共に数学を議論しているのだ、という説もある。いずれにせよ、この√2からの帰還者がいないという事実には明確な理由が存在しないのが現状だ。
だからこそ僕は、√2に足を踏み入れることを決意したのだ。恐らくもう二度とここから出ることは出来ないのだろう。それがどんな理由によるものなのか、外の人間に伝えることは出来なくなるのだろう。これまでの仮説がすべて間違っていて、√2の奥には何か怪物でもいるのかもしれない。
それでも僕は真実を知りたい。真っ直ぐ整えられたこの√2という数学的構造物の最深部に何があるのか、自分の目で確かめてみたい。
永遠に続くかのような、あるいはもしかしたら永遠に続いているのかもしれないが、そんな真っ直ぐな道をただひたすら歩きながら、僕は√2の奥に想いを馳せる。



33.「明日閉店する本屋」
街を歩くのが好きだ。情緒溢れる街並みや、あるいはゴタゴタした看板がひしめき合っているような街並みもいいが、どこにでもある住宅街や、なんでもない商店街なんていうのも好きだ。そこに街があって、人が生活をしていうる。その存在そのものを感じ取ることが好きなのだと思う。
今日は、電車で3駅ほど離れた街を歩いている。昔ながらの商店街があり、一方で高層マンションがあったりするような街である。この街は何度も来たことがあるが、大抵駅前をぐるりとするだけで終わってしまっていた。今日はもう少し深いところまで潜ってみようと思うのだ。
街というのは、意識的に見ようとしなければ視界から通り過ぎていってしまうものばかりで占められている。自分の住んでいる街でさえ、見ようと意識するのとしないのとでは見え方がまったく違う。日々新たな発見があるものだ。まして通ったことのない道など、何が見つかるか楽しみで仕方がない。まんじゅう屋で試食をし、八百屋で何故かレモンを買い、おもちゃ屋で懐かしいプラモデルを眺めたりした。
そうやっていつものように街歩きをしている時に、僕はその本屋を見つけたのだった。
「明日閉店します」
表には、ひっそりとそんな張り紙が貼られていた。
コンビニをちょっと小さくしたくらいの大きさのその本屋は、明日閉店するという事情からだろうか、外側からはどうも精気が感じられなかった。周囲に住宅が点在するなか、パン屋と隣り合って存在するその本屋は、まさに風前の灯火という雰囲気を漂わせていた。
どうせ明日閉店してしまうなら、と思い中に入ってみることにした。そもそも街歩きの際は、見つけた本屋には大抵入ってしまう。
中に入ると、やはりこれも明日閉店するという事情からだろう、売り場はガランとした印象を漂わせていた。お客さんの姿は僕以外にはなく、そもそも商品が少ない。ところどころ穴の開いたようにスペースが目立っている。うまくすればこれだけの在庫でもボリューム感を出すことは加納だと思うのだが、店主は既にその努力を放棄しているようだ。
そう広くもない店内をウロウロと回ってみる。売り場を見てみると、やはりこの店はもう死んでいるのだな、と僕は思う。普通の本屋を見ていても、この感覚に襲われることがある。並んでいる本やその並べ方などから、いくら店が賑わっていても、その店は死んでいると僕は感じることがある。大抵そういう本屋は、そう遠くない内に潰れてしまう。この店も、潰れるべくして潰れる運命にあった店なのだろう、と思った。
「恐らくあなたが最後のお客さんでしょうねぇ」
後ろからそんな声が聞こえて振り返ると、そこにこの店の店主と思しき初老の男性がいた。エプロンをしていること、そして他に店員がが店内に見当たらないことからその男性を店主と判断したのだが、そうでなかったらとても店員とは思えない年齢に僕には思えた。
「明日で閉店みたいですね」
「もう閉めてしまってもいいんですけどねぇ。正直ここ3日間、あなた以外のお客さんは来てないんですよ」
何だかそれもすごい話だ。閉店するとなれば、その話を聞きつけた常連客が来てもいいのではないかと思う。よほど住民に愛されなかった本屋なのだろうか、と思う。
「どうでしょう。お代はいただきませんので、記念だと思って何か一冊持っていってはもらえませんか?」
「いいんですか?」
「せめて最後のお客様にはよくしてさしあげたいじゃないですか」
そう言われたので遠慮なく僕は本を物色することにした。そうして、自分でお金を出して買うことはしないが、タダというならいいかなと思える写真集を一冊もらうことにした。
「これからどうするんですか?」
なんとなく聞いてみた。
「そうですねぇ。どうしましょうかねぇ」
何だかのんびりしているな、と思った。
ふと思いついて、
「レモンを置いて行ってもいいですか?」
と尋ねてみる。
「梶井基次郎ですか。若い頃読みましたよ。懐かしいですね。えぇ、もちろん置いてくださって構いませんよ」
そうして僕はその本屋を後にした。
翌日、昨日もらったはずの写真集がなくなっているのに気づいて、3つ上の姉に聞いてみることにした。
「それ、どこで買ったわけ」
「買ったわけじゃなくてもらったんだけど、○○町の××って本屋だけど」
「あぁ、あんたもアレに捕まったわけか」
そんな風に姉は意味深なことを言う。
「結構噂ではあるのよ。そこって『明日閉店します』なんて張り紙があったりしたでしょ?」
「よくわかるね。でも、何が噂になってるわけ?」
「まあ幽霊本屋ってとこよね。あの辺に住んでる人に聞いてみれば一発だけど、あの辺りにもともと本屋なんてないのよ。でも、時々『明日閉店します』って張り紙をした本屋が現れるって噂があるの。まあだからって別に害があるわけじゃないからどうってことはないんだけどね」
そう言われて僕が思ったのは、あの店に置いてきたレモンは一体どうなったのだろうか、ということだった。



34.「トラウマの残らない犯罪」
目が覚める。
今が朝だと知らせてくれるのは、部屋の中に置いてある小さな置時計だけ。部屋には窓はなくて、外の様子は全然わからない。壁に掛かっているカレンダーの今日の日付のところに丸をつける。今日でこの部屋で生活を始めて8日目だ。そろそろ飽きてきた。
部屋は教室の半分の半分ぐらいの大きさかな。そんなに広くない。真っ白なシーツに包まれたベッドがある以外、置いてあるものは少ない。ちょっと古くってあんまり読む気になれないコミックの入った本棚と、ちょっと前に流行ったカードゲームの置いてある小さなテーブルしかない。テレビぐらい欲しいと思ったけど、この病室には置けないのだそうだ。
ここは普通の病室じゃないみたい。ちゃんとした名前は忘れちゃったけど、要するに誰も入っちゃいけないんだって。カクリ、とか言ってたかな。どんな漢字だかわかんないけど。キアツの差を利用してガイカイと完全にダンゼツしている部屋、とかなんとか。難しくてよくわかんないんだけど、そのせいで僕はお母さんともお父さんとも会えないんだってさ。どうなの、それ、とか思うけどさ。
僕は何だか気づいた時にはもうこの部屋にいたんだ。どうしてこの部屋に来ることになったのかイマイチ覚えていない。車に乗ったような記憶とか、何かにすっぽり包まれたような感触とかそういうことはなんとなく覚えてるんだけど、よくわからない。僕のお世話をしてくれる看護婦さんは、僕がある特殊なカンセンショウっていうのにかかったみたいなことを言っていた。よく意味は分からなかったけど、とにかく僕が外にいると、それだけで周りの人に僕の病気が移っちゃうみたい。それはマズイな、と僕は思ったし、何よりお母さんとお父さんに移しちゃいけないなと思ったから、会えないのにも我慢してるんだ。本当は泣きたいくらい寂しいんだけど、僕が泣いてダダをこねてお母さんとかお父さんがここに来なきゃいけなくなったら、二人にも移っちゃうかもしれないよ、と言われてだから今も頑張ってるんだ。看護婦さんは、その内良くなるって言ってる。いつになるかわかんないけど、お母さんにもお父さんにもまた会えるからって。だから全然面白くない部屋だけど、頑張って毎日過ごしてるんだ。
でもどうしても納得がいかないのは、僕のお世話をしてくれる看護婦さんはどうして僕と同じ病気に掛からないんだろう、ってこと。看護婦さんは、マスクはしてるけどそれだけだし、だったら同じことなんじゃないかなって。それは前にも聞いたことがあるんだけど、看護婦さんは、自分は昔僕と同じ病気になったことがあるからもうコウタイがあって大丈夫なんだよ、みたいなことを言っていた。やっぱりよくわからない。
起きても特にすることがない。テレビゲームも出来ないし、誰かと連絡を取って話したりすることも出来ない。だから、面白くはないけど本棚にあるコミックをパラパラめくって、あとはお母さんとお父さんにあったらここでの生活をどんな風に話そうかってことをいつも考えてるんだ。
そんな風に過ごしてると、看護婦さんが朝ごはんを持ってきてくれた。
「どう?体調は悪くない?」
「うん、大丈夫だよ。あとどれぐらいで外に出れる?」
「まだちょっと難しいかも。ウイルスの力がもっと弱くなってからじゃないと無理かな。だからそのウイルスの力を弱くするために、注射を打ちましょう」
僕はこの注射が嫌いだ。注射自体は別に怖くもないし平気なんだけど、この看護婦さんがどうも下手っぴなのだ。だから普通の注射より余計に痛い気がするし、何だかイライラしてくる。この注射をすると身体がダルくなってくるのも嫌な理由の一つだ。まあ仕方ない。これもお母さんとお父さんに早く会うための我慢だ。
相変わらず下手っぴな注射を終えて、ようやく朝ごはんにありつく。看護婦さんは何故か僕の病室で一緒にご飯を食べる。仕事はないのかなぁ、と思っているのだけど、前にそれを聞いたらこれが仕事なんだって言われた。病気の子どもと一緒にご飯を食べるだけで仕事になるなら僕にも出来るなぁ、と思ったのだった。
看護婦さんが朝ごはんを下げて、また退屈な時間がやってきた。しかも今度は身体がダルい。さっき以上に何もする気が起きない。ただ、僕がベッドで横になっていると、看護婦さんがちょくちょくやってきて雑談をしていく。これも仕事なのかなぁとぼんやりと思う。仕事だとか何とか言って、ただサボってるだけなんじゃないかな、とか実は思ってたりする。まあ口に出したことはないんだけど。
普通ならこのまま昼食を食べて、またダラダラ過ごして夕飯を食べて、それからすぐ寝る感じなんだけど、今日は夕飯を食べることが出来なかった。
普段あんまり部屋の外の音って聞こえないんだけど、今日は何だか騒がしくて、ピーポー言ってる音が聞こえてきた。救急車の音なんだろうな、とぼんやり思った。まあここは病院だし、別に普通だよな。でもここ8日間一回もこのピーポーを聞いてないんだから、僕の住んでる街は事故が少ないのかもなぁ、とぼんやり考えていた。
しかし、段々外が五月蝿い感じになってきた。ドアをガンガン叩いているような音が聞こえてくる。看護婦さんらしき人の悲鳴も聞こえてくる。何が起こっているのか全然分からない。ただ僕はいつものように、ダラダラとベッドに横になっていただけだ。
そのうち、僕のいる部屋のドアが開いた。入ってきたのは紺色の制服を来た警察官だった。真っ白な病室に警察官の制服の色は合わないなぁ、なんてぼんやり思い浮かぶ。
「大丈夫か!」
警察官の人がそう僕に声を掛けてきて、ようやく僕は思い出す。
「来ちゃダメ!病気移っちゃうよ!」
僕はちゃんと忠告してあげたんだけど、警察官の人は構わずこっちに近寄ってくる。なんか悪いことしたかな、僕。病気移しちゃったらゴメンなさい、警察の人。
警察官の手が僕に触れた瞬間、僕の視界にお母さんとお父さんの姿が目に入った。うーんどうなってるんだろう。二人は僕の名前を叫びながら、泣きながら病室に入ってきた。どうもおかしいぞ。
「あなたは誘拐されていたのよ」
僕を抱き締めたままお母さんが言う。誘拐ってあの誘拐かな?僕は入院してたんじゃなかったのかな。
あとで詳しい話を聞くとこういうことだったみたい。僕は僕が看護婦さんだと思っていた女の人に誘拐されて監禁されていたのだった。僕には全然そんな実感はなかった。ただ入院しているとばかり思っていたのだった。
なかなかやるじゃん、と僕は思ったのでした。



35.「時間の泉」
もう大分昔の話になるんだろうけどさ、俺だって随分昔の本で読んだだけなんだけどさ、ほら「ツチノコ」なんてのがいただろ。覚えてる?蛇の一種なんかなぁ、あれは。UMAっていうんだな。未確認動物ってやつ?ホントに見たって言う人がいるのか怪しいもんだけどさ、でも懸賞金とか掛かってみんな結構探してたんだろうなぁ。今ではどうなってるんだろう。
いやなんでいきなりツチノコの話かっていうとさ、ほらやっぱり俺の探してるものもさそれに近いんだろうなとかって思ってさ。だって、誰も見たことないし、そもそもあるかどうかも分かんない。存在するとしても、それが人間の確認できる形をしてるのかどうかもわからない。まあそんなものをさ、もう10年以上も探してるんだよね。自分でも思うけど、よくまあ続いてるよな、って感じ。ライフワークってやつかな。
自分では、「時間の泉」って呼んでるんだな。
俺は昔さ、物理学者だったんだな、こう見えても。今では妖しげな探検家だけどね。で、何で俺が怪しげな探検家に転身したかって、それがやっぱりこの「時間の泉」のせいなんだな。
知ってるかどうかわかんないけどさ、15年くらい前にさ、量子論と相対性理論を統合した統一理論が出来たわけ。名前も単純で相対性量子論って名前なんだけど、とにかくその理論がようやく完成したってわけ。さっそく論文を手に入れて読んでみたんだけど、いやはやこれが一読してもちんぷんかんぷん。アインシュタインが相対性理論を発表した時、世界でその理論を理解できたのは3人しかいなかったなんて話があったりするけどさ、あの相対性量子理論もまさにそんな理論だったかもしれないな。新しいパラダイムが生まれる時ってのは大抵そうなんだ。
まあでもとにかくその相対性量子論が発表された時はさ、とにかくそれが大ブームだったわけだ。だから俺も必死で論文を読んで理解してさ、他の研究者とディスカッションをしまくって、なんとか頑張ってついていったってわけ。
で、その相対性量子論ってのには、大元となるある基本式があるんだけど、その式をある特定の条件で解いてみたのよ。そしたらなんと、「時間は偏在した局所から湧き出てくる」って答えが出てきたんだよね。もっと正確に言えばさ、時間に関してある地点における値が無限大になる、そういう地点が必ず存在するっていう解が導き出されたってわけ。
これが、俺が理論上見つけた「時間の泉」ってわけ。「時間の泉」なんてなかなか悪くないネーミングだろ。まさにさ、泉みたいに時間が湧き出てくる場所ってのがどっかにあるはずなんだよな。
最大の問題はさ、その「時間の泉」が地球上にあるのかどうか、っていうことだったんだよね。理屈の上では、宇宙のどこかに存在してればいいわけでさ、必ずしも地球上にあるわけじゃないんだな。でも、考えてみればさ、時間なんて概念が必要なのはさ俺らみたいな高等生物ぐらいなものでさ、この広い宇宙に地球のような惑星がたくさんあるとしてもさ、それでもとにかく知的生命体のいる惑星のどこかにあるということは信じてみてもいいかもしれないな、って思ったんだな。だから、まあここからはただの賭けなんだけどさ、地球上にその「時間の泉」があると信じて、俺は物理学者から探検家になったってわけ。
しかしさ、予想以上にきつかったね、これが。だってさ、そもそも「時間の泉」がどんなものなのか分かんないんだからね。そこだけ時空が歪んでるのかもしれないし、本当に泉のように何かが湧き出ているのかもしれないし、あるいは見た目には何の変化もないのかもしれない。そこで時間が生まれる場所、というのがどういうものなのかイマイチ想像できなかったからさ、自分が正確に何を探しているのかもわからないみたいな状態だったな。よくさ、海に落とした針を探すようなものだ、みたいな表現があるじゃん?でもさ俺の場合さ、海に落としたかもしれない何かを探すようなものだ、みたいな感じでさ、それこそ雲を掴むみたいな話だったね。
でも俺は諦めなかったね。何せ、恐らく検出することは不可能だろうって言われてた「重力波」だって、4年前にその存在が確認されたくらいだからね。諦めちゃいかんなって思ったよ。
でまあさ、結論から言えば、見つけたよ、「時間の泉」。見つけた時はさ、あれこれかなって感じで。で、いろいろと確かめてさ、あぁこれで間違いないって思ってさ、やっと自分の理論の正しさを証明できるってそれがもう嬉しくてさ、喜んだよなぁ。
結局「時間の泉」がどんなものなのかっていうのは、なかなか文字にするのは難しいんだな。見てもらうしかないっていうかさ。あえて言うなら、断続的に流れる滝を平行移動と対称移動を繰り返して出来た構造、みたいな感じなんだけど、イメージできるかなぁ。
「時間の泉」も見つけたことだし、さてこれからどうしようかななんて思ってたんだけどさ、いやホントうっかりしてて。
「時間の泉」って、さっきも言ったけど、ある地点である値が無限大になるっていう場所なんだけど、だからさその中に一歩足を踏み入れちゃうとさ、「時間の泉」から出られなくなっちゃったんだよね。ブラックホールに吸い込まれるみたいなイメージをしてくれればいいんだけどさ、「時間の泉」の内部に入ることで、僕自身の時間が無限大に引き延ばされて、結果僕自身の時間が止まっちゃうみたいなさ、そんな感じなんだよね。別に死んじゃったわけじゃないし、僕自身の時間も流れてはいるんだけど、でもそれが無限大に引き伸ばされているために止まっているように見えるみたいなね。
参っちゃったよね。折角長い時間掛けて「時間の泉」を見つけたっていうのにさ、その内部に取り込まれちゃって身動きできないなんて。学界に発表したらかなり話題になったはずなのに。
あぁそうそう、今君が読んでるこの文章って、俺の思考そのものなんだけどさ、これが読めるっていうことはきっとあなたも僕と同じ土俵にいるってことなんだよね。つまり、あなたの時間も無限大に引き延ばされて止まってるように見えるってわけ。あれ?そんなことないって顔してるかな?よく確かめてみた方がいいよ。



36.「タイムカプセル」
皆で泥だらけになりながら土を掘って埋めてから10年。ようやく私たちはタイムカプセルを開ける時を迎えた。
なんて言うと大げさに聞こえるかもしれない。私だって実際、タイムカプセルを開けてみるまでは何も考えてはいなかったのだ。どうせ小学生の頃に埋めたものなのだ。自分でもどんなものを埋めたのか碌に覚えていなかったが、それがどんなものであれ大したものであるはずがない。まして、10年前に埋めたタイムカプセルが、まさか今の私たちの運命に大きく関わっていたなんて、どうしたら想像できるだろう。
そもそも私は、タイムカプセルのことなんかすっかり忘れていたのだ。友人からも、昔のことを覚えていなさすぎ、と言われるくらい、私は昔のことに頓着しない。だからタイムカプセルの話を友人から聞いた時も、あぁそんなこともあったなと言ったぐらいのことしか思わなかった。
タイムカプセルのことを聞いたのは、同じく小学校時代からの友人だったKの葬式の場であった。警察官として地元の交番に勤務をしていた彼は、元々人から親しまれる性格もあって、街のおまわりさんとして住民から頼りにされていた。しかし先日、通りでKの死体が見つかったのだ。刃物で刺されたらしく、他殺として捜査が進んでいるようであるが、未だに犯人は捕まっていない。
そのKの葬式の場でタイムカプセルの話になったのだ。
「10年まであとちょっとだったのにね」
「10年って何が?」
「覚えてないの?小学校の頃タイムカプセル埋めたじゃん。10年後に開けようねって約束したじゃん。それがほら、あと1ヵ月後だったのにね」
そう言われて思い出したことがあった。当時一緒にタイムカプセルを埋めたのは、私とKとタイムカプセルの話を思い出させてくれたYと、そしてもう一人Tという男の子がいた。そのTのことについて思い出したのだった。
Tはタイムカプセルを埋める直前に両親を亡くしていたのだった。Tが家に帰ると、血まみれの両親が倒れていたのだという。警察は、強盗や怨恨の可能性を辿って今でも細々と捜査を続けているようなことをKが言っていたが、しかしこちらもまだ犯人が捕まっていない。タイムカプセルの記憶は私にとって、両親を殺された友人という記憶も一緒に引き連れてきたのだった。
そうしてタイムカプセルを開ける日を迎えたのだった。
K以外は皆まだ大学生だったので、私たちはいつでもヒマだった。3人になってしまったけど、私たちは揃ってタイムカプセルを埋めた場所に集まった。
「どの辺りだったっけ?」
「ちゃんと覚えないなぁ。なんか目印にしたんだっけ?」
「俺は埋めた後で猫のウンコを載せといたけど」
「バカ。そんなん目印になるわけないでしょ」
そんな風にアホややり取りを繰り返しながら、私たちはダラダラとタイムカプセルを探し続けたのだった。
漸く見つけたそれは、なかなかに酷い有り様だった。私たちは何も考えず、上等なお菓子の入っているような四角い空き缶にいろいろ詰めて埋めたのだけど、10年という歳月はやはり厳しかった。空き缶は錆びてボロボロだったし、中に水が入り込んで、10年前の私たちはもちろん防水のことなんか全然考えなかったから、空き缶の中身ももうぐちゃぐちゃだったのだ。
「まあこんなもんか」
「まあそんなもんだろうね」
「順当って感じだね」
私たちはそれでも、中に入っているものを一応取り出して眺めてみた。クマのぬいぐるみみたいなのはYが入れたんだろう。ブルースリーらしき写真はきっとKだ。私はというと絵を入れたみたいだ。その絵を見て私の記憶はすぐさま蘇ってくる。そういえば、当時好きだった男の子の絵を書いてタイムカプセルに入れたのだっけ。恥ずかしい。たぶんYもTもその事を知らないだろうから、うまく隠しておくことにしよう。
Tは何を入れたんだろう、と漁ってみる、すると中から一通の手紙が出てきた。見てもいいものだろうか、と思ってTに視線を向ける。Tは私と一瞬視線を合わせるも、すぐにYの方を向き話を始めてしまった。しかしその一瞬に垣間見えた表情からは、何とも言えない諦めのようなものが滲み出ているように思われた。
私は少しだけ逡巡し、意を決して中を見てみることにした。それは、やはり水にやられて読みにくかったのだが、冒頭の文章だけははっきりと残っていた。
「ぼくはおとうさんとおかあさんを殺しました。」
思わずTの方を向く。Tは相変わらずYと呑気に会話を交わしている。自分が何を書いたのか忘れてしまったのだろうか。あるいは、冗談で書いたのだから気にしていないということなのだろうか。しかし、冗談でもこんなことを書くとは思えない。続く文章にも、何故自分が両親を殺すに至ったのかが書かれているようである。まさか本当にTは両親を殺したのだろうか。
そこまで考えた私は、ふととんでもない考えに行き着く。まさか。
まさかKを殺したのはTなのではないか。Kは警察官になっていた。殺人の時効は15年で、もしTga両親を殺していたとしたらまだ時効は成立していないことになる。この文章をもしKが見たとしたら、それだけで彼が逮捕されるということにはならないだろうが、細々とながら続けられている捜査の方針が変わるということはありうるかもしれない。
しかし、ならばどうして私が手紙を見ることは止めなかったのだろう。そんな風に考えている時にふとTと目があった。Tはそこで、薄っすらと笑みを浮かべた。その笑顔は、私の脊髄を痺れさせ、私を恐怖させるに十分な何かを孕んでいた。



37.「いつも隣にいる女」
目を開ける前から気配には気づいていたのだ。またか、と正直思った。どうしてこんなことになってしまうのだろう、とも思った。誰にぶつけたらいいのか分からない怒りが体の内側から沸き起こる。
じんわりと伝わる体温。皮膚とシーツとが微妙にこすれる音。時々聞こえる寝息。そうしたありとあらゆるものが、一郎の神経をイライラさせる。
目を開ける。ベッドにはやはり自分以外の存在があった。裸の女。胸をギリギリ隠すようにしてシーツを引っ掛けているだけの無防備な姿。くるんと体を丸めるようにして眠っている。
何でだろう。酔っ払っているなんてことはありえない。もちろん幻覚を見ているわけでもないのだ。ここには間違いなく裸の女が寝ている。僕にはそれがどうしても信じられない。何がどうなっているのかさっぱり分からないのだ。
とりあえず気
持ちを落ち着けるために顔を洗い、インスタントのコーヒーを飲む。ぼんやりした頭が徐々に覚醒してくる。そうしながらも必死で考えているのだ。どういうことなんだ一体?頭の中で何度もその疑問を繰り返す。
「うぃ~ん」
女がそんな妙な声を出してベッドから体を起こす。シーツが落ちて胸がはだけているが、特に気にしている風はない。
「おはよ~」
なんでそんな呑気な声が出せるのか分からない。そもそももう声が出せなくなっているはずなのに、と一郎は思う。
「ねぇ、今日は何日か分かる?」
とりあえず事態を整理するためにそんなことを聞いてみる。これは一郎の毎回のおきまりだ。
「えーと、19日かな。火曜日だと思うよ~」
相変わらず女は何も考えていないような声を出す。それがまた一郎をイライラさせる。
「そうだよな。今日が19日で、昨日が18日だったもんな。一昨日はちゃんと17日で、日曜日だった」
「何行ってるの。そんなの当たり前じゃない」
そう言って女は口を開けて笑う。そりゃそうだ。一郎にだってそんなことは十分分かっているのだ。分かっていても、どうしても確認しないと仕方がないのだ。
「ねぇ、体はなんともないわけ?」
「体?何で?あたしの体になんかしちゃったの~」
ニヤニヤ笑いながら女が聞いてくる。一郎はそれには答えず考える。いつもそうなのだ。何故か女は何ともないのだ。体のどこかに傷を負っているわけでも、どこかに痛みを訴えるわけでもない。自分がしたことを考えれば当然理解できない。
「コーヒーでも飲むか」
「紅茶がいいな~」
まあ仕方ない、と一郎は諦める。何が起こっているのかさっぱり分からないが、とにかく受け入れるしかないのだ。この女の存在を。
昨日のことを思い出してみる。もちろん、記憶はすべて鮮明だ。覚えていないことなど何もない。ただ問題なのは、その過去と現在がどうしても繋がらないということだけなのだ。
仕事を終えて帰って来たのが22時ぐらいだった。上司とのみに出かけたが、案外早く帰ってくることが出来た。鞄の中に入っているものを早く妻に渡してあげなくては。
「おかえりなさい」
妻はいつもと変わらない感じだった。どこにでもいる専業主婦。家にいても最低限の化粧は怠らず、編物と俳句が趣味というのがちょっと変わってるが、それ以外は特にこれと言った不満もなく、寧ろ快適な生活を与えてくれる存在だった。
「話があるんだ」
一郎はそう妻に切り出した。何そんなに改まって~、なんて軽口を叩いていた妻も、一郎の固い表情を見て真面目な話だと悟ったらしい。
「離婚して欲しいんだ」
そういって、自分の欄だけは記入済みの離婚届を妻に差し出した。
妻に不満があるわけではなかった。他に女がいるわけでもない。ただ、結婚生活というものにどうしても慣れることが出来なかった。誰かと一緒に生きていくより、一人でゆったりと生きていたい、そんな風に強く思ったのだ。
もちろんそうやって真面目に説明したつもりだった。しかし、まあ予想していたことではあるが、やはり妻は一郎に他に女がいるのだと疑った。あるいは自分に悪いところがあるなら直すと懇願しもした。一郎の言っている理由は全然納得できないとも言われた。一郎も確かにそうだろうと思った。思ったが、自分の決断がもう動くことはないのだということもまた歴然とした事実だった。
粘り強い話し合いを続けたが、互いの意見は平行線のまま、妻は泣き喚き暴れ大声を上げ、絶対に一郎とは別れないと言い切った。
気づいたら、妻を殴り殺していた。いや、気づいたらという言い方は間違っている。一郎は、はっきりとした殺意を持って妻を灰皿で殴ったのだ。自分がまさかそんなことの出来る人間だとは思っていなかったので、一瞬茫然としてしまったのだ。
その日は妻との話し合いでもう疲れていた。流れ出る血だけ拭い、死体を余っているシーツで包み、台所の床に寝かせて置いた。
そして今日、起きたら裸の妻が隣に寝ていた。
これがもう一週間も続いている。一郎は、毎日妻を殺している。しかし次の日の朝、妻は必ず妻が裸のままで一郎の隣に寝ているのだった。もう妻を殺すのが嫌で、ありとあらゆる方法で妻と別れようと努力をしているのだけど、結局最後には妻を殺してしまうことになるのだ。
妻は屈託のない笑顔を浮かべて紅茶を飲んでいる。今日もこの女を殺してしまうのかと思うと、一郎の気分は朝から滅入った。



38.「僕の電車」
景色が闇の底に沈むと、僕は車掌になる。
運転席に座り、スイッチの入っていない計器類をチェックする。まだ乗客はいない。車内からは、闇に沈んだ街並みが見て取れる。アスファルトの道路、明りの灯った住宅、遠くに見えるビル群。そうしたもろもろが、既に輪郭の薄れたまま闇の中で浮かんでいる。東京とは言え、都心というほどでもないこの地域は、やはり夜になると真っ暗になる。この闇に包まれて、僕の電車は動き出すのだ。
電車の中に住み始めて1年近くになるだろうか。僕の住んでいる家は二階建てであるが、その内一階部分は、電車の車両を丸々一両使ったものになっている。つまり、電車の車両を基礎に固定し、その上にさらに二階を組み上げたのだった。
これはずっと昔からの夢だった。きっかけはやはり、子どもの頃にみたあるテレビ番組だっただろう。その番組では風変わりな家に住んでいる人々を特集したものだったが、その中の一つに、電車の車両そのものに住んでいる人が出てきた。土地を借り、そこに廃車になった車両を運び、上下水道や電源などを確保し、立派に住居として成り立っているのだった。昔から確かに電車は好きだったが、しかし電車の中に住むなんて発想はまったく思いつきもしなかった。まさにそのテレビ番組が天啓のように僕の元へと飛び込んで来たのだ。以来僕は、将来必ず電車の車両の住むことを決意し、同時に建築家を目指すことに決めたのだった。
建築家を目指した理由は単純だった。つまり、車両に住んでいる人はもういるのだから、自分はもっとその先を行きたい。であれば、車両を住居に組み込んだものを造るしかない。ならば自分の手で設計したいではないか。
そうやって僕は今建築家として仕事をしているわけだが、それでもこの車両付きの住宅を造るまでには相当の紆余曲折があった。まず廃線になった車両を手に入れなくてはいけないし、運搬などに関わるもろもろの手続きがあった。何よりも面倒だったのが、車両を運搬するために道路の許可を取らねばならず、その申請に時間が掛かったのだ。
しかし困難と言えば、家自体の設計も難関だった。車両だけに住むのであれば、基礎と固定する必要もなくただ置くだけでいいのだが、僕の目指すところはそれに二階部分をつけることだった。そのために、従来の基礎工事ではなかなかうまくいかないことがわかり、独自に基礎工事のやり方を生み出したり、また構造計算などで散々苦労したのだ。何せ、まだ車両が手に入る前から設計をしているわけで、そもそも車両の強度が分からない。またそれが分かったとしても、過去車両を建築に使ったデータがないのだから、どんな構造がベストであるのかも分からない。とにかくそんな状態からスタートし、何とか完成まで漕ぎつけたのだ。だからこの家にはひとかたならぬ思い入れがある。家にやってきた友人らはこの異様な建物を見て「狂気の沙汰だな」と笑って言ったものだが、それさえ賞賛に聞こえるくらい僕は嬉しかった。
運良く1両目の車両が手に入ったのも僕の興奮を押し上げた。つまり、運転席がついているのである。もちろん計器類は使えないように処理されているし、そもそも動くわけもないのだが、鉄道好きなら誰でも憧れるだろう運転席にいつでも座れるようになったのは嬉しかった。運転席から見える景色を最優先にしようと、途中まで出来上がっていた設計計画を一度白紙に戻したくらいだ。
そして今僕はその運転席に座っている。
時刻はもうすぐ深夜12時。そろそろ出発の時間だ。この瞬間が、一日の内で最も気分が高まるのだった。
この車両付き住居が完成してから半年ほど経ったある日のことだった。いつものように運転席に座ってぼんやりとした後で、寝室に戻って寝た後のことだ。ふと振動を感じて飛び上がった。地震だと思ったのだ。
しかし、振動は緩やかなものだった。むしろ心地よいリズムを刻んでいるようにも思える。ちょうど電車に座っている時に感じるような…。
そこまで考えた時ハッとし、しかしまさかなと思った。まさかこの車両が動いているというわけでもあるまい、と。
しかし、カーテンを開けてみると、そのまさかが現実のものとなっていた。車両はアスファルトの道路をゆったりとしたスピードで走っている。両側に並ぶ住居が、ゆっくりと通り過ぎていく。僕は急いで運転席へと走った。
そこには小さな男の子が座っていた。座っているだけではなく運転していたのだった。動かないはずの計器類もまるで電源が入っているかのようだった。男の子は僕の姿に気づくと、にっこりと笑って「よお」となんだかおっさんみたいな掛け声を上げた。
僕は何も声を出すことが出来なかった。男の子はまた前へと向き直った。後ろ姿しか見えないが、しかし男の子は楽しそうに運転をしているように見えた。
しばらくして車両が停まった。そして後ろから賑やかな声が聞こえてくる。子ども達が車両の中に入ってきたのだ。小学生ぐらいから高校生ぐらいまで幅広い世代の子ども達がぞろぞろと乗ってくる。またしばらくして車両は動き始めた。
それから停車と発車を何度か繰り返した。男の子の運転は見事なものだった。そうして僕と子ども達を乗せたまま車両はふわりと浮き上がった。そうして僕たちは、「タマナの黄泉」へと向かったのだった。
「タマナの黄泉」がどんな場所なのか、それは詳しくは言えない。ただ、そこは子ども達にとっての救済の場所であり、そしてまた、そこへはある特定の資格をもった乗り物でしか行けないのだった。光栄にも僕の住居に使われている車両は、その資格を有していたのだった。
それからしばらくの間男の子から車両の運転を教わり、また「タマナの黄泉」へ行く際の注意点などを教えてもらった。そうして今では僕は、「タマナの黄泉」行き車両専用の車掌として、毎晩子ども達を送り届けている。
時計の針が12時を指した。さて、今日も出発だ。レバーの手を掛ける。僕は自分の後ろ姿が、初めてあの男の子を見た時のように楽しそうに見えればいいな、と願いながらレバーを手前に引いた。



39.「ハル」
世界は私を祝福しているのかしら。
すーっと広がる青空には、食べてしまいたいくらい形のいい雲がふんわりとのっかっている。
その空から聞こえる鳥たちの囁き声は、まるで天上の音楽のよう。
目の前を流れる川は、心地のいい音を立ててゆったりと流れている。
少し先には泉があって、スイレンの葉が水面を覆っている。まるで人魚でも出てきそうなシチュエーション。
遠くの山は真っ赤な紅葉で埋め尽くされている。まるで燃えているよう。
通り抜ける風が心地よい。さらさらと肌を撫でていくような感触。
陽の光が、私を安らかな気分にしてくれる。
この世界にあるありとあらゆるものが、私のためにある。私の存在と共にある。その美しさは私だけのものだ。
私は嬉しくて仕方がない。笑顔が絶えることがない。美しいものを見るとどうしても笑みを浮かべてしまう。
私はこの美しすぎる世界をゆっくりと歩く。歩きながら地面からの賞賛を感じ、草木の囁き声を聞き、天からの贈り物を受け取る。
私は選ばれた人間だ。世界のすべてが、私のためにある。
たった一人、私はこの美しい世界を、私だけのためにいつまでも感じていたい。そして、私にはいつでもそれが出来るのだ。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

世界にはあと何人の人が残っているのだろうか。
僕も運良く残れている一人ではある。半年前に発行が途絶えた最後の新聞には、その時点で世界ではおそらく60人ぐらいの人が残っているだろう、と記事にしていた。どうやって調べたのか分からない。既に、ありとあらゆる情報が無意味なものとなりつつある。これだけ人口が少なくなってようやくわかった。情報というのは、共有する人間がどれくらいいるかで価値が変わるのだ、と。世界に60人しか残っていないなら、ほとんどの情報に価値はなくなる。
僕は未だに日本に留まっている。一般的には最も危険だと言われる地域である。推定だが、恐らく世界でも日本に残っているのは僕ぐらいなものだろう。僕としては、灯台下暗しを狙っているつもりだ。逆に、案外日本は安全なのではないか、と思うのだ。
辺りの景色は、もう無残なものである。
川はヘドロにまみれ、空は灰色の雲で覆われ、草木は枯れ、空気は濁って呼吸が苦しくなることもある。食料を手に入れるのも一苦労で、魚や野菜は汚染されているし、かと言ってもう誰もカップラーメンを製造する者はいない。鳥や犬の死骸を見つけては、その生肉を食するような日々だ。火を熾すと見つかる可能性があるから出来ない。道端には、足の踏み場を見つけるのに苦労するほどの人間の死体が転がっている。いつか食料が手に入らなくなったら、人肉を食するしかなくなるのだろうな、と覚悟している。
世界を崩壊へと導いたのは、一人の女である。本名は知られていないが、「ハル」と呼ばれることが多い。かつて世紀末にやってくると信じられていた「ハルマゲドン」に由来するとも、その女が暴れ始めたのが「春」だとする説も、女の本名に由来するのだとも言われるが、正確なことは誰も知らない。
「ハル」の目的は誰も知らない。ある日突然「ハル」は世界をぶっ壊し始めたのだった。それはもはや破壊とさえ呼べないようなもので、消滅と言った方が近い。触れるものすべてを消滅させていった彼女を止めることは誰にも出来なかった。もちろん自衛隊も出動したし、世界最強と謳われるアメリカ軍も加勢したのであるが、最新鋭の戦闘機や戦車もものともせず消滅させていったのだった。国連で、核兵器の使用も検討されたというが、真偽のほどは定かではない。
とにかくそうやって、たった一人の女が世界を完膚なきまでにぶっ壊したのだった。
僕は鳥の生肉を口にいれながら考える。「ハル」は一体何を考えて生きているのだろう、と。
「ハル」にまつわる都市伝説は多々ある。何故それがすべて都市伝説であると言えるのかと言えば、「ハル」を見たものは例外なく殺されてしまうからだ。僕は、テレビで一瞬その姿を見たことはあるが(残念ながらそのカメラマンも一瞬後に殺されてしまった)、直接みたことはない。
そんな「ハル」の都市伝説の一つに、「ハル」はいつも笑っているというのがある。確かに、一瞬だけ見た彼女の顔は笑顔に見えなくもなかったと思い返す。
「ハル」はこの壊れきった世界の中で、何を見て笑っているのだろう。「ハル」にはこの世界がどんな風に見えているのだろう。もし素晴らしい世界に見えているのだったら、僕だってそんな風に狂ってしまいたいと切に思う。



40.「ガーデニング」
部屋の中で静かにしている真紀を見ていると、どうしても履歴書のことを思い出してしまう。
真紀を育て始めてからずっと仕事を変えたことはないので、結局履歴書を書く機会はなかった。しかし、もし万が一履歴書を書くことがあったら悩んでいただろうなと、真紀の姿を見るといつもぼんやりとそう思うのだった。
まあ、ガーデニング、っていうのが妥当なところかな。
履歴書には趣味なんかを書く欄があるが、あれが悩みの種なのだ。別に何を書いたところで問題はないような、まったく重要ではない部分ではあるのだろうが、何だか気になる。実際履歴書を書く機会があれば、「読書」だとか「音楽鑑賞」というようなありきたりの事を書くかもしれないが、純粋に自分の趣味は何なんだろうと考えるのは少し楽しい。
「やっぱりガーデニングなんて呼ぶのは間違ってるかなぁ」
真紀の体を撫でながら話し掛ける。真紀はとても大人しく、表情を変えることもあまりない。それでも僕はこうして直接触れるコミュニケーションが好きだ。いっそクールと言ってもいいくらい、真紀は僕に関心を示そうとはしてくれないが、それでも真紀に心底惚れている僕としては、彼女のことを構いたくなってしまうのだ。
どちらかと言えば真紀は、窓から差し込む朝日の方に関心があるようだ。真紀の体を優しく撫でさする僕には見向きもせずに、彼女は朝日を全身で受け止めようとするかのように大きく体を開いている。まあ、陽の光が好きなのだから仕方ない、と僕も諦めてはいる。いつも部屋の中ばっかりであまり外に連れ出してあげられない僕としては、文句は言えないのである。
真紀は陽の光を浴びると喉が渇くということを知っているので、僕は台所へと向かいコップに水を汲んでくる。
真紀と一緒にいる時間は、僕にとってはなにものにも変えがたい素晴らしいものだ。朝こうして仕事前に真紀と過ごしている時間も僕にとっては幸せそのもので、仕事なんかに行きたくなくなってしまう。真紀を一人部屋に残して仕事に行くのが本当に不安になってくるのだ。だから、仕事が終わってもまっすぐ家に帰ってくる。最近付き合いが悪くなったと同僚や友人に言われるが、そんなことも気にならないぐらい真紀を愛しているのだ。
喉の渇きの癒えたらしい真紀は、ついさっきよりも一層美しくなったように見えた。思わず彼女の細い体を抱きしめてしまう。彼女の柔らかい雰囲気が直に僕にも伝わってくる。
「そろそろ仕事に行かなきゃ。帰ってくるまで大人しく待っててね」
僕はそう言って急いで支度を始めた。
真紀がうちにやってきたのは半年くらい前のことだった。友人に紹介されたのだが、初めは彼の話をまったく信じなかった。とりあえず試しにやってみろよ、絶対後悔はしないから、という彼の言葉を真に受けたわけでは決してないが、まあ騙されてたとしても特に害はないだろうと思って半信半疑で試してみることにしたのだ。
彼女たちは「ポットガール」と呼ばれ、インターネット上で売買されている。携帯電話よりも遥かに簡単に買うことが出来るのだ。僕も購入までに5分と掛からなかった。
それからポットガールがうちに届いた。初めは本当に小さくって、女性としての姿かたちはまだどこにもなかった。それは、植木蜂に双葉がちんまりと芽吹いているだけの代物だったのだ。友人によれば、これを育てれば、その内「女性」が生えてくるというのだが、僕はそれでもまだ信じることが出来なかった。
今では彼女のことを真紀と名前をつけて読んでいるが、そんな双葉の状態では名前をつけることも出来ず、ただ枯らさないように水を掛けたり日当たりのいい場所に置いたりして、にわかガーデニングを続けたのだった。
それから二ヶ月ほど経ったある日、それまではただ葉っぱの連なりだったものが、突然女性の形にまとまり始めたのだ。まだ、確かに人間っぽく見える、というぐらいの段階ではあったが、ようやく確信が持てるようになった僕は、それからはさらに慎重に成育を続けた。日増しに女性らしい形を取るようになり、ようやくこの段階で僕は彼女に真紀という名前をつけたのだった。
今ではすっかり大きくなって、20代前半ぐらいの女性の姿になっている。真紀とは喋ったりすることは出来ないが、それでも女性としての温もりを感じることが出来るし、何よりも真紀が近くにいると妙に心が安らぐのだった。
後ろ髪を引かれるようにして今日も会社へと向かう。会社へ向かいながら、いつも僕は同じことをぐるぐると考えてしまう。
真紀は、人間の女性のような姿をしているが、どうしたって植物に過ぎない。恐らく僕よりも早く枯れて死んでしまうことだろう。そうしたら僕はどうしたらいいのだろう。そう思えばこそ、余計に真紀との時間が大切に思えるのだった。



41.「パンドラの箱」
年末大掃除の時期になると、普段掃除など手伝わない僕ももちろん駆り出される。別に掃除は嫌いではないからいいのだが、年末の大掃除というのは、とにかく厄介なものが次々と出てくるわけで、それがどうも苦手だ。
その厄介なものというのは要するに、捨てていいものかどうしたものか判断のつかないものたちだ。自分の小学校時代のアルバムやら子ども達が学校の課題で作った工作物であるとか先祖代々残しているのではないかと思われるくらい古いものであるとかである。これらは、毎年一旦は押入れから出されはする。しかし、毎年それらのものには「保留」の張り紙を貼ってまた押入れに戻してしまう。結局そうやっていつまでも残ってきたものたちである。妻と相談しようとしたことも何度かあるのだが、妻は妻で大掃除に忙しく、それぐらい自分で考えて、とにべもない。かと言って勝手に捨てたりすれば後で怒られたりもするわけで、つくづく女という生き物は分からないなと思ったりする。
そんな「保留」の張り紙を貼られるものに、大きな箱がある。この箱、もうどのくらい前から残っているものなのか定かではないが、少なくとも曽祖父の代からあることは間違いないものだ。箱というよりは、舌切り雀の話に出てくるつづらと言った雰囲気を持つ代物である。
さらにこの箱には、先祖代々伝わる約束事がある。それは、まあ物語にはよくありがちな文言ではあるのだが、「この箱開けるべからず」というやつである。しかし、物語に出てくる箱と一味違う点は、この箱は既にもう開いているということである。これは、少なくとも祖父の代から開いたままであったようだ。僕も子供の頃にこの箱を見た記憶があるが、やはり蓋は開いていた。蓋が開いているというよりは、蓋がそもそもない。そんな箱が押入れの奥にずっと眠っているのだ。
これが一番厄介な代物で、一応先祖代々大切にされてきたもののようなので、このまま大切に持ち続けなくてはいけないのかもしれないという風にも思う。しかし一方で、特に何か入っているわけでもなく、蓋もないのだから使い道もなく、祖父にしても父にしても既にこの箱が何のために残っているのか分からない状態なわけで、だったらもう捨ててもいいのではないかとも思う。恐らく骨董品的な価値もないだろうし、箱自体大人が体育座りをしてすっぽりと入ってしまえるくらい大きなものなので、邪魔で仕方ないのだ。一応既に所有者は僕ということになっているので、これをどうしようが僕の勝手のはずだが、しかしやはりどうにも捨てるという決断が出来ない。自分でも優柔不断だなと思うのだった。
「ねぇ、そっちはもう終わった?」
妻の声が聞こえて大いに僕は慌てふためいた。というのもその時僕は、その箱の中で体育座りをしていたからだ。何となくこの中にいると休まるのだ。わざわざ押入れから出して中に入ろうとまでは思わないが、大掃除のついでに入るぐらいならと毎年こうして箱の中に入っているのだ。
「もう、全然片付いてないじゃない」
ギリギリで箱の中から出たので、妻にはバレなかった。危ない危ない。大丈夫、ちゃんとやってるって、と応えを返すと、どこが大丈夫なのよ、とたしなめられた。
「まったく、オモチャ箱でもひっくり返したような散らかりぐあいじゃないの。ほら、まだお風呂掃除も残ってるんだから急いでね」
そう言って妻は台所へと戻った。
僕は、今の妻の言葉に微妙な引っかかりを感じた。手を動かさずに考えて、なるほどと気づいた。僕は早速箱をひっくり返してみることにした。
すると底には、何だかキレイな模様が描かれているのだった。そこでようやく僕は気がついた。違ったのだ。この箱は、「蓋のない箱」ではなかったのだ。「底のない箱」で、今まで底だと思っていた部分は実は蓋だったのだ。今まで誰もこのことに気づかなかったのだろうか。確かにうちの家系の男は亭主関白のところがあったから大掃除など手伝わなかったのかもしれない。箱の存在は知っていても、それをひっくり返すような機会はなかったのだろう。なるほど、これでようやくあの、「この箱開けるべからず」という言葉が意味を持つというわけか。
僕はもちろんそんな言葉に何か意味を見出すことはなかった。そもそもこの箱は底が抜けていたわけで、中に何も入っていないことは確認済みだ。今さら箱の蓋を開けたところでどうなるということもないだろう。
早速蓋に手をかけてみる。ちょっと抵抗はあるが、そのまま引き上げる。あっさりと蓋は開いた。もちろん中には何もない。あっさりしたものだった。
まあこんなもんだよな、と思い蓋を元に戻そうと思った時だった。猛烈な違和感を感じ、そしてようやくあの警句の意味が僕にも理解できた。
蓋が手のひらから離れなくなった。ぴったりとくっついてしまったのだった。箱の中身に何かあるのではなく、箱自体に注意すべき点があったのだ。まったく、そうならそうとちゃんと言ってくれればいいのに、と僕はご先祖様を恨んだ。



42.「101回目の寿退社」
「乾杯~!」
幹事の田中が音頭を取って、私の送別会は始まった。みんなでグラスを合わせ、やはり主賓扱いということだろうか、私のところには遠くに座っている人も乾杯にやってきてくれる。私も笑顔で返し、ようやく落ち着いた頃を見計らってビールに口をつける。
「吉田さん、結婚おめでとうございます!」
後輩の美香がそういって嬌声を上げる。そう、私は寿退社ということになっている。退職というのは何度も経験したが、やはり寿退社というのが一番通りがいい。面倒なこともない。多少うまく情報を操作しないと厄介なことになりかねないが、その辺ももう慣れたものだ。
「ありがとう。でも式には呼べなくてごめんね」
「ニューヨークで挙式ですもんね。ホントは行きたいんですけどね」
これもいつも使う手だ。寿退社ということになると、会社の人を式に呼ばないといけなくなる。しかし、実際結婚するわけではないので招待するわけにはいかない。だから、結婚相手が海外で仕事をしている、という設定を使う。こうすれば、日常の中でデートなどの予定がないことも不審に思われないし、結婚後外国に行くのだと思わせることで多少の目くらましにもなる。私はこうして何度も寿退社をしているのである。
「でも24歳で結婚なんて早いですよね。もっと遊びたかったなぁ、とか思いませんでした?」
これは後輩の沙耶だ。結婚相手を見つけるためにこの会社に入ったと言い切る彼女は、今は隣の課の2つ上の男と付き合いながら、同時に合コンで知り合った男とも付き合っているという。遊びたい盛りなのだろう。結婚というものがどういうものなのかというのも知りたくてたまらないのだろうと思う。
「そうね。でも結婚ってやっぱりタイミングだって思うから。まだ遊びたいかなって思って機会を逃しちゃうのって、やっぱりもったいないでしょ」
結婚なんて一度もしたこともないくせにこんなことを言ってみる。やはりそれらしいことを言わないと格好がつかないからだ。
「それで、結婚相手ってどんな人なの?」
これは以前同じ課だった同僚の美保だ。別々の課になってから話す機会も少なくなったため、まだ私の結婚話についてもよく知らないのだ。私はボロの出ないように周到に考えてきた作り話をいつものように繰り返した。
ビールを飲み、食事をつまみ、周りと楽しそうに喋りながら、私は心の中でそっとため息をついた。いつの間にか周りの話題は年齢の話になっている。
「吉田さんてホント若いですよね。まだ10代って言っても通用するんじゃないですか」
「ホントホント。肌もすっごいキレイだし、何か特別なパックとかしてるんですか?」
「枝毛とかもないし、同い年とは思えないわ、ホント」
当人としては褒め言葉のつもりで投げかけているのだろうこういう言葉に、私は心底うんざりするのだ。聞き飽きた、というような問題ではない。そこに、私の人生の問題のすべてが詰まっていると言ってもいい。
私は、人間関係を5年しか持続することが出来ない。どんなに長くても5年が限界だ。それを過ぎると、さすがに周りの人間は怪しむようになる。
だから私は、5年ごとに寿退社と偽って会社を辞め、それまでの人間関係と重ならない別の地域へと移り住み、またそこで新しい人間関係を築くのだ。今回の寿退社も、この会社に入ってから5年が経ってしまったためにやむ終えずという感じだ。働きやすい会社で気に入っていたのに、結局いつまでもそこにいることは出来ない。また会社を探すところから始めなくてはいけないと気が重い。
「そんなことないよ。別に特別なものを使ってるわけでもないし、普通普通。美香だって沙耶だってまだまだ若いんだし、年上のオバサンを捕まえてそんなこと言ってもダメだって」
私はそうやって笑って返すことにしている。仕方ないのだ。年を取らない人間の苦労が普通の人間に分かるわけがない。私がどれだけ苦労して人生を歩んできたのか、誰にもわかるはずがない。
私は、実年齢で言えばもう150歳を超えている。しかし、見た目は20代前半のままで完全に止まってしまっているのだ。年を重ねても見た目が変わらない人間など不気味で仕方ない。若い子なんかは、私が年を取らないことを知ったら羨ましがるかもしれない。しかし、この生き方は想像以上にキツいものがある。
確かに、年を取らないことでいいこともある。身体の手入れにお金や手間を掛けなくてもいいし、男性とお付き合いをするのだって有利だ。
しかし、年を取らないことはむしろ悪いことばかりである。自分が年を取らないことは誰にも打ち明けることが出来ないので、誰とも人間関係を持続させることが出来ない。男性と付き合っていても5年で別れなくてはいけないし、もちろん結婚など出来ない。かつての友人と会うこともできないし、5年ごとに住む場所から何からすべて変えなくてはいけない。また、時代によって女性の顔というのも変わって来る。ここ最近ようやく顔の整形というのがオープンになってきたお陰でこの問題はクリアされつつあるが、昭和の中ごろに明治時代の顔で過ごさなくてはならなかったのは本当に大変だった。
今こうして私を囲んでくれる人たちとももう二度と会うことは出来ない。彼女らは、年を取ることを憂え、結婚の心配をし、老後の不安もそのうち考えることだろう。しかし、私には永遠にその機会はやってこない。私はいつまでも若いまま、寿命で死ぬこともなくずっと生き続けることになる。
年なんて取りたくないよねぇ、寝たきりとか絶対ありえない、なんて言っている後輩達に教えてあげたい。年を取らない生き方がどれほど残酷であるかを。



43.「幸せがやってくる財布」
今じゃこの辺もマンションやらコンビニやらがボコボコできちまってすっかり変わっちまったが、昔は東京の下町って感じでねぇ。そりゃあいいとこだったよ。昔ながらの学生アパートだの銭湯だのってのがまだちゃんと残っててな。商店街なんてのも、今じゃすっかり寂れちまったが、昔は活気があってよかったもんだけどねぇ。なんてこんな風に昔のことばっかり懐かしんでるのはダメだね。年寄りの悪い癖だよ。
でもさ、昔ってのはホント大らかな時代でさ、今だったらちょっと大騒ぎになってもおかしくないようなことでも、のんびりしてたんだろうね、さらりと流されちゃったりしてさ。そりゃ、普段から不思議なことやら大変なことやらいろいろ起こったもんだけどさ、いちいちそんなことに構ってられなかったってぇのもあるんだろうさ。のんびりしてるように見えたってさ、結構あの頃は生きて行くのに必死だったりしたもんだしな。
そう、それであの話だよ。あの話を聞きにきたんだったんなあんたは。すまんすまん。話してるとどんどん脱線しちまうんだよな。また話がずれそうになったら言ってくれな。
当時まだ20そこそこの若造でね、派出所…なんて言っても今の人はわからんかな。あぁ、知ってる?そうそう、交番だよ。なるほどね、「こち亀」かぁ。ありゃワシも読んだことがあるわい。あんな毎日だったら身体が保たんね、なんてよく思ったもんだけどな。
あれは確かようやく暖かくなり始めて来た頃だっただろうな。春が近づくにつれて、なんとなく周りが浮ついてくる時期っていうのかな。変な輩も結構出てくるからさ、まあ街のおまわりさんとしてはちょっとは忙しい時期ってことになるかな。
そうそう、この話を先にしておかないといけないな。そのさっき言った商店街に、今でいう雑貨屋みたいな店があったんだな。今みたいなこじゃれた感じじゃなくてな、手袋だの手提げだのといったものが雑に並んでるだけの店だったけどな、まあそういう店は他になかったもんだからそれなりに繁盛してたはずだな。
でその雑貨屋が、そのちょっと前にある財布を売り出したんだな。その財布がちょっと怪しげなもんでな。「幸せがやってくる財布」なんて言って売り出してるわけだ。よく覚えちゃいないが、有名な寺で清めてもらったとかなんとか、そんなことが書いてあったような気がしたな。今だったら、ほら偽装だなんだってうるさいだろ、だからそんな財布もちょっと問題だったかもしれないけどな、やっぱ昔ってのは何事も許容範囲が広かったんだろうな。
ワシなんかは、何が幸せがやってくるだ、なんて思ってたんだけどな、先輩の奥さんなんかが興味を持ってるだの、サラリーマンをしてる署長の息子が買っただの、割と周囲では評判になってたみたいだな。幸せになりたいなら一生懸命働いたらいいだろう、とまあ若造だったワシは思ったもんだよ。
さてそれからしばらくしてだ。妙なことが続くようになったんだな。お金を拾いましたって派出所にやってくる輩がドッと増えたわけだ。
今じゃ落ちてるお金を交番に届けるなんてこと、ほとんどないんだろうなぁ。昔はそれでもちょっとはあったさ。近所の子どもなんかが1円札や財布を丸ごととかをさ派出所に持ってきてさ、拾ったよー、なんて言ってくるわけだ。はいはいいい子だねぇ、なんていってやるとさ、嬉しそうな顔をするんだな。
んでそうそう、お金の落し物が増えたって話だったな。お金の落し物なんか、まあ多くたって月に2、3回あるかないかぐらいだっただろうよ。そう滅多にあるもんじゃないさ。でもなある時期から、まあそれが「幸せがやってくる財布」が売り出されてからすぐだってことはまあ後で知ったんだけど、とにかく一日に3回みたいな頻度でやってくるわけだよ。初めの内は、まあ珍しいこともあるもんだなぁ、なんて思ってたもんだけどさ、そんな状態が一週間も続くとさ、さすがにこりゃあおかしいぞ、なんてなるわけだよ。
でもよぉ、じゃあ何が出来るって何も出来んわな。だって、犯罪の臭いがするわけじゃないんだ。ただお金の落し物が増えたってだけのことだ。まあちょっと不思議だったのが、財布の落し物っていうのが全然なかったってことだな。みんな、1万円札だとか5千円札だとか、そういうお金単体で持ってくるんだな。まあもちろん何が起こってるかなんてさっぱり分からんかったよ。
でも、ある日すっかり謎が解けちまってね。
いつものように派出所を空にして、警邏に出かけた時のことだよ。まあ自転車で町をぐるぐる回るだけだし、大抵特にこれと言ったことも起こらないわけで、だから散歩のつもりでゆったりと自転車を流してたんだけどな、そんなある日それを目撃したってわけだ。
道の正面から、近くの缶詰工場で働いてる男が歩いてきたんだ。顔は知ってるけどちょっと名前は出てこない、ぐらいの相手でね、まあ別に声を掛けることもなくそのまま通り過ぎるつもりだったんだけどね、その男がふと立ち止まってポケットから財布を取り出したんだ。なんとなく変な予感がして、ちょっと通り過ぎてから自転車を停めて男の方を見てたんだ。
するとその男はさ、自分の財布から何か紙幣を取り出すとさ、それを地面に置いたんだ。それからその紙幣を地面に置きっぱなしにしたまま数歩歩き、そこで振り向いて地面を見るわけだ。そして、さっき自分が置いた紙幣をまた手に取る。その男はそんなことをしてたんだ。
初めは何かの儀式かな、って思ったさ。でもな、もしやと思いついてそのまま男の後を追ったわけよ。何せその男はさ、拾った紙幣を自分の財布にしまわないわけだ。もしかして派出所に届けるつもりなんじゃないか、って直感したね。
ワシの予想はすっかり当たって、やっぱりその男は派出所にやってきたんだな。無人の派出所の前でどうしようかと考えている男に、どうかしましたか、って後ろから声を掛けたよ。
「いやぁ、お金を拾っちゃったもんで届けに来たんです」
結局それからもお金の落し物だって言って派出所にやってくるってのがひと月は続いたかな。そういう連中にはさ、言っても分かんないんだ。ワシが目撃したさっき言った男にもさ、そのお金はあんたが自分の財布から出したもんだ、ってちゃんと言ってやったさ。けど聞かないんだな。これは絶対拾ったお金だから受け取ってもらえないと困る、なんて言いやがるんだ。まったく参ったよ。それからも何度かそういう問答を繰り広げたもんだけどさ、相手は一向に引かないもんだからさ、結局こっちが折れるしかないってわけだった。
しかしそれも、結局何がきっかけだったんだか今でもわからんが、ある時を境にぴたっとなくなったなぁ。結局雑貨屋でも、「幸せがやってくる財布」を売り出すのも止めちまったみたいだしな。
その当時はわからなかったけど、たぶんこういうことだったんだろうな。要するにさ、どんな魔法を使ったのかは知らんけどさ、「落としたお金を拾って派出所に届けるという善行をすればいいことがやってくる」っていうことだったんだろうな。その財布ってのは、落ちているわけでもないお金をさも落ちているように錯覚させて派出所に届けさせることでいいことを呼び込もうとしたんだろうな、って。まあ普通に考えたらありえない話だけどさ。でもそうとでも解釈するしかないんだよな。
まあこんな話だよ。面白かったかい。またいつでも来なよ。そういえばあんた、あん時ワシが見かけた、工場に勤めてる男になんとなく似てるなぁ。



44.「初めて会った自分」
「ねぇねぇ、JanJam見たよ~。すごいじゃん、モデルなんて!」
朝、いつものように会社に出勤すると、同僚の友美にいきなりそんなことを言われた。
「モデルやってるなら言ってくれればいいのに。隠すことでもないでしょ」
「モデルってなんの話?」
「やだぁ。まだトボけるつもりなわけ。ちゃんと雑誌に載ってたじゃない。春物のグラビア撮ったんでしょ?」
そう言われても玲子にはよく分からない。雑誌?グラビア?私が?
「何かの勘違いじゃないの?だってJanJamってあのJanJamでしょ?あんな有名な雑誌に私が載るわけないじゃない」
「だからこっちは驚いてるんだってば。ちゃんと玲子の名前だって載ってたし、いい加減認めないと怒るよ、ホント」
JanJamという雑誌は、20代半ばから後半までの女性に圧倒的に支持されている女性誌だ。何かで見たニュースによれば、女性誌の中で広告料はトップらしい。ただ、玲子はそもそも女性誌というものをあまり読まない。時折好きなタレントのインタビューが載っていたりする時に立ち読みするくらいで縁がない。友美だってそれは分かっているはずだ。そんな玲子が雑誌のグラビアをやるわけがないではないか。友美は冗談で怒っている風を装っているが、玲子は何だか本当にイライラしてきた。
「私知らない。たぶん他人の空似じゃない」
そう言って仕事に戻る。何だかモヤモヤする。私が雑誌なんかに載ってるわけないじゃない。これまでだって極々普通のOLをやってきたんだし、学生時代だって目立つようなことは何一つしてこなかった。雑誌のグラビアなんて、時計の針が逆に進んだってやらないだろう。
しかし、そう言われるとJanJamが気になる。帰りにちょっと立ち読みをしてみようか。偶然私に似ていて、偶然私と似たような名前の人なのかもしれない。って、まあありえないでしょう、そんなこと。
モヤモヤした気分を引きずったまま昼休みを迎える。冬は特に外に出るのが億劫で、いつも社員食堂を利用するこtにしている。
「読んだよ、日程ウーマンのコラム。面白かったわ。でもあそこまで書いちゃって大丈夫なの?俺のことは書かないでおいてね」
そう言ってきたのは、別の部の先輩である。仕事上の関わりはほとんどないのだけど、何かのきっかけがあって時々社員食堂で一緒にご飯を食べるような仲だった。
「コラム?ねぇ、それなんの話?」
「何言ってるの。玲子ちゃん実名でコラム書いてるじゃない。しかも、ぼかしてるけどさ、中の人間が読んだら会社のことだって一発で分かるよ。まあそんなにヤバいことは書いてないみたいだから大丈夫だろうけどね」
「私コラムなんて書いてません。皆さんで私のことをからかってるんですか?」
友美のJanJamと言い、この日程ウーマンといい、私が何かの雑誌に関わっているなんてことがありえるわけがない。だとすれば、私に嫌がらせをしているとしか思えない。
しかしそう言うと彼は、それまでの笑顔を引っ込めた。そして真剣な口調で言う。
「ホントに書いてないの?でも、名前は玲子ちゃんのものだったし、書いてある話も玲子ちゃんの周りの出来事だと思うんだけどなぁ。誰かが玲子ちゃんの名前を騙ってコラムを書いてるとか?」
その口調から、嘘をついているようには思えなかった。
私はわけがわからなくなった。一体何が起こっているというのだろう。
「なんか怖いです。朝も同僚からJanJamのグラビアを見たって言われたばかりで。私全然そんなことした覚えないんですけど」
そういうと、うーんなんか変な話だね。でもあんまり気にしない方がいいかもね、と言って話題は変わった。彼との会話中私は上の空で、ずっとこのことを考えていた。
それから仕事に戻ったのだけど、その後も何度もこういう話をされることになった。
「小説現実で小説の連載してない?プロフィールを読むとどうも玲子としか思えないんだけど」
「パソコンについて詳しいんだね。NET WORK BIBLEで記事書いてるでしょ」
「玲子が東京生活でレポートしてたイタリアンレストラン、ちょっと今度行こうよ」
「ちょっとあの実感実話の写真はヤバくないか。モロ出しじゃん。目線入ってるけど、見る人が見たらお前だってバレバレだって」
「映画時評で…」
その度に私は、知りません、私じゃないです、人違いだと思うんですけど、何ですかそれ、これって何ですか嫌がらせですか、と言い続けなくてはいけなかった。最後の方にはもうはっきりと怒っていたし、誰かの悪意を感じたし、何か話し掛けられるだけでイライラした。みんなで馬鹿にして、と何か物を投げつけたくなった。
しかし、帰りがけ、一応確認のためと思って寄った本屋で、玲子は打ちのめされる。
確かに、言われた雑誌すべてに玲子が載っていたのである。写真も名前も文章の感じも、全部まさに玲子そのものだった。他の誰でもありえない。紛れもなく自分がそこに存在していた。
しかし、ありえない。ありえないのだ。玲子には、グルメレポートをした記憶も、全裸の写真を撮られた記憶も、コラムを書いた記憶もまったくないのだ。
ねぇ、あなたは一体誰ですか?
どう見ても私にしか見えないあなたは、本当は誰なんですか?



45.「性質転換」
「おはよう」
「おはようございます」
いつものように挨拶を交わしながらフロアに入る。何だかいつもと違う風に見えるのは、やっぱり今日が最後の出勤だからということなのだろうか。なんとなく雰囲気が違う。僕の気のせいかもしれないのだけど。
「宮部くん、今日で最後なんだよね」
課長の佐々木さんに声を掛けられる。僕の直属の上司でもあって、これまでも可愛がってもらった。この会社に入って、一番お世話になった人だと言ってもいい。
「今まで本当にありがとうございました」
「まあそんな大したことをしたつもりはないけどさ。で、明日が手術だって?」
「そうなんです。なんか緊張しますよね」
今では盲腸並のありきたりな手術になってしまったが、しかしやはり多少不安を感じるのは否めない。
「まあ大丈夫よ。あたしの妹も受けたみたいだけど、大したことなかったって言ってたしね」
「そうだといいんですけどね」
「まあしかし、宮部くんまで寿退社となると、いよいよ女ばっかりになっちゃうのか」
僕は一ヵ月後に結婚式を控えている。手術のこともあるし、式の手配のこともある。仕事のキリもよかったので、この時期に寿退社ということになったのだった。
時代は大きく変わった。
話で知っているだけであるが、かつては会社員と言えばほとんど男のことを指していたような時代があったようだ。男女雇用機会均等法という、今では存在を忘れかけられている法律が制定されたお陰で女性も雇用されるようになっていき、平等とまではいかないまでも男女が比較的同じ割合で仕事をしていたようである。
今ではその状況は大きく変わってしまった。
今では会社員と言えば女性のことを指すのが一般的になってしまった。会社の上役はほぼ女性で占められているし、社員の9割以上が女性という会社が普通になってきている。この会社も、僕が最後の男性社員であり、僕が抜けると社員すべてが女性という状況になる。
女性が社会に進出するようになってからこういう状況に少しずつシフトしていったのだろうけど、しかしそれでも大きな制約が残っていた。
それが出産である。
どれほど女性の地位が向上しても、どれだけ社会福祉が充実しても、子どもを産むのが女性であることには変わりない。その期間仕事を離れなくてはいけなくなるわけで、やはり女性としてはそれが大きな制約となっていた。
しかしそれも、ある技術革新によって解消されるようになった。
発想としては単純だ。要するに、出産の機能を男性側に移植してあげればいいのだ、というものだった。これは今では「性質転換」と呼ばれている。明日僕が受ける手術もこれだ。
妻から子宮を摘出し、それを夫に移植する。この技術が開発された当初は社会でも大きな問題として取り上げられたが、しかし非合法であってもこの手術を受ける女性が後を断たなかった。国も世論に押し流されるようにして、この手術をなし崩し的に認めることになったのだった。
もちろん子宮を移植するだけでは十分ではない。例えば男性側の射精の機能を変えなくてはいけない。つまり、外に向かって射精するのではなく内側、自分の腹部に入った子宮側に射精するような仕組みに機能を変えるのだ。これは妊娠のために必要な措置ではあったが、しかし思いがけず女性に好評だった。何故ならば浮気が出来なくなるからだ。男性はセックスをして射精すると、それが直接自らの子宮に届いてしまう。安易に浮気をするわけにはいかないのだ。同時にオナニーも制限されるようになった男性側からの不満の声は大きい。避妊の方法はあるが、多少お金が掛かる。多少面倒ではある。
また、女性ホルモンを使わずに母乳が出る機能も開発された。男性でも、出産から一定期間の間母乳が出るので、女性が育児休暇を取る必要がなくなったのである。
また法整備も急ピッチで進められた。この新しい手術により様々な法案が作られることになった。例えば、夫婦が離婚する際、男性の腹部にある子宮はどうするのか、ということなどだ。もちろん、その子宮は女性の側に戻さなくてはいけない。ではその手術台はどちらが負担するのか。そういう細々としたことも決めなくてはいけなかった。
こうしたごたごたはもう昔の話で、今ではこの「性質転換」に伴う変化というのは定着した。結婚した夫婦の実に9割5分がこの「性質転換」を受けるという統計があるし、「性質転換」は一種のビジネスとして大いに成功している。どうしても子宮が男性の身体で拒否反応を起こしてしまったため「子宮離婚」に至ったり、離婚時男性が妊娠していたため子宮の移植が出来ず、またその妊娠が男性自身によるオナニーの結果としての妊娠であることが立証されたために、子宮を「貸している」間の損害賠償を求める裁判が起こされるなど、細かいトラブルは未だにあるが、女性が外で働き男が家を守るというスタイルは違和感なく成立している。欧米各国から「日本はクレイジーだ」などという批判を浴びることはあるが、それが僕らの生活に影響することは特にない。
明日からまるで違った生活に入るのだと思うと、何だか不思議な気分がする。最後の出勤日なので、仕事も特にない。どちらかと言えば、お世話になった人を回って挨拶をする方がメインである。ほとんど片付いたデスクに座りながら、僕は細々とした仕事を片付けていた。
この「性質転換」がもたらしたのは、女性の社会進出だけに留まらない。僕はその恩恵に預かって、幸せな未来を描くことが出来るのだ。
昼休みに京子から電話が掛かってくる。
「明日はどこに行けばいいんだっけ?」
「直接○○総合医院に来てくれれば、そのまま手術って流れになるよ」
「わかった。ちょっとそれだけ確認したくて。じゃあまた明日」
それから僕は婚約者の猛に電話を掛ける。
「やぁ」
「明日はいよいよ手術だね」
「ちょっと不安なんだけどね。明日は来てくれる?」
「もちろんい行くさ。大丈夫だって。俺がついてる」
「ありがと」
僕の婚約者は男。男同士の結婚は未だに法律では認められていないけど、しかし「性質転換」のお陰で、男同士の結婚でも子供を持つことが出来るようになった。今ではお金のために子宮を売る女性は結構いる。お金は掛かるが、しかし彼との子どもを持てるなら、大したことではない。
会社の人には、普通に女性と結婚するのだと伝えている。そうやって嘘をついたままここを去らなくてはいけないのが、唯一の心残りだ。



46.「ボールの来し方」
河川敷なんかに来たのいつぶりだろう。子どもの頃はよくここで缶蹴りや鬼ごっこをしていた。野球部にいた頃は、ここで自主トレをやっていたこともある。それ以来10年以上、傍を通ることはあっても、河川敷に来ることなんかなかった、と思う。
「久しぶり」
だからその言葉も、河川敷に向けて言ったように聞こえたかもしれない。半年ぶりぐらいだろうか。久しぶりに会えない、と呼び出されたのだった。どうもまだぎこちなさが残る。目を見て話せない。
彼女は変わっていなかった。半年で人間がそうも変わるわけはないだろうが、髪型や着ているものの雰囲気は前と変わらない。それとも、敢えて付き合っていた頃と同じ格好をわざわざしてきたのだろうか。ありえないことではない。
「久しぶりね。元気だった?」
ちょっとかすれたようなハスキーな声。そういえば僕はこの声に惹かれて彼女を気にするようになったんだったよな、などと思い出した。
「どうしたの、今日は」
「突然でごめんね。ちょっとね」
そう言って彼女は、持っていたグローブとボールを掲げてみせる。
そう、今日は彼女から、キャッチボールでもしない、と誘われたのだった。半年ぶりの再会で、しかもあんなきまずい別れ方をした後で、何故キャッチボールなのか僕には全然分からない。付き合っている頃も一度だってキャッチボールなんてしたことがなかったのだ。それがどうしてこのタイミングでキャッチボールなのか。
電話では、やはりお互い微妙な気まずさもあって、深く突っ込めなかった。幸い、少し小さいが昔使っていたグローブはまだ手元にある。ボールは彼女が用意してくれるという。場所も近くの河川敷だ。特に断る理由もなかった。
「キャッチボールなんて懐かしいね」
ホントは、何で今キャッチボールなんだ、と聞いてみたいのだけど、なかなかうまくはいかない。
「まあいいじゃない。とりあえずやらない」
そう言って彼女は、少しずつ後ろに下がって行く。僕もそろそろと後じさりする。まあこのくらいかという距離になったところで、いくよー、と声を掛けて彼女がボールを投げてくる。
案外彼女はうまかった。正確に、僕の胸辺りにボールを投げてくる。昔ソフトボールでもやっていたのかもしれない。
彼女にボールを投げ返そうとしたところで、ふと違和感を覚えた。ボールの感触が何だかおかしい。よく見ると、明らかに既成のボールでないことが分かる。縫い目はもちろんなく、全体的にツルンとしている。プラスチックのボールみたいだがそれなりの重さがあり、それに表面が多少ざらついている。何で出来ているのかイマイチよく分からない。こんなボール、どこから持ってきたのだろう。
それでもまあ僕はボールを返した。細かいことはどうでもいい。彼女はキャッチボールをやりたがっている。彼女が望んでいる通りにすればいい。
昔から僕にはそういうところがあった。自分の希望や不満を訴えるよりは、相手の意思に合わせて行動した方が楽なのだ。何かしたいとか、何をしてほしくないみたいなことはあまりない。まさに優柔不断であり、何も決められない男である。そんな僕に愛想が尽きたのも当然と言えるだろう。ましてあんな別れ方だったのだから、自分のことながら酷いものだと思う。
キャッチボールというのは、やってみると案外いいものだ。ある程度距離があるから、大きな声を出さないと会話が成立しない。自然、黙々とボールをやり取りすることに終始する。しかしそれが気まずいかと言えばそんなことはない。会話がなくても間が保つ。今の僕にとっては、ありがたいとさえ言える時間だった。
太陽はこれでもかとばかり日差しを照り付けるが、しかし風があるので多少過ごしやすい。河川敷に広がる緑もまぶしくて、何だか野球を一生懸命やっていた時代のことをぼんやり思い出してきた。
「ねぇ、怜のこと覚えてる?」
彼女がボールを投げ返しながら叫ぶようにして声を出す。やっぱりその話なのか、と僕は思った。出来れば避けて通りたかった。しかし、嫌なことはさっさと終わらせるに限る。これも僕の信条だ。
僕はボールを投げ返さず、彼女の方に近づいて行く。
「あの時はホントごめん。僕もどうしたらいいかわからなかったんだ」
口だけなら何とでも言えるよね。そんなことを言われることを覚悟していた。
「ううん、いいの。もう気にしてないよ。怜もちゃんと私の傍にいつもいてくれるしね」
やっぱり産んだのか。僕は頭を抱えてしゃがみたくなった。やっぱり産んだのか。彼女は、一人で子どもを産んだのか。
半年前、妊娠してるのと彼女に告げられた僕は、大事なものをすっかり落としてしまったかのような恐怖に襲われたのだった。彼女のことは好きだったし、もしかしたらいつか結婚するかもしれないとも思っていた。子どもが出来たら、女の子だったら怜、男の子だったら真人がいいね、そんな話もしていたのだ。でもあの時はまだそんな覚悟はまるでなかった。僕はもうどうしていいのかわからず、ただ出来れば堕ろして欲しいということだけは必死で伝えた。そんな僕を彼女が見限るのは当然だった。彼女の方から別れを切り出された。それから今日まで一度も会っていない。彼女がどうしていたのかも知ろうとしなかった。だから昨日彼女から電話が来た時から、僕は何を言われるのかビクビクしていたのだ。
「子どもは今日はどうしたの?お母さんとかに預かってもらってるとか?」
もう何を言ったらいいか分からず、そんなどうでもいいことを聞いてしまう。彼女はそれには直接答えず、
「あなたにも怜を会わせたくって」
と言った。
どういうことだろう。今ここに子どもを連れてきているとは思えない。彼女は身一つでやってきたのだ。ならばこれから彼女の家に来いということなんだろうか。出来れば行きたくないが、拒否できる雰囲気でもない。僕は一層憂鬱になった。
彼女はグローブを構える。ボールをくれ、ということだ。僕は下手でボールを投げ、彼女に渡す。
「今日もこうして三人で遊べたしね」
三人で遊べた?
何を言っているのだろう。この場には僕ら以外誰もいない。僕らはただ二人でキャッチボールをしていただけだ。
「お父さんにも抱いてもらってよかったね、怜」
彼女はボールに話し掛けている。
その瞬間、僕は悟った。そういうことなのか。あのボールはまさか、胎児の頭蓋骨なのではないか。
それに気づいた瞬間、僕は瞬時に背筋が凍りついた。彼女は相変わらずボールに向かって何か話し掛けている。もう僕の耳には届かない。逃げなくちゃと思うのだが、体が地面に固定されたようにまったく動かない。
彼女が僕の方を向く。その顔には、無邪気と言って違和感のない笑みがこぼれていた。



47.「ロボットと息子」
休日の朝というのは素晴らしい。何よりも早起きしなくてもいい。目が覚める。時計を見る。寝る。目が覚める。この繰り返した。二度寝や寝溜めは身体に良くないという声はよく聞くが、そんな言葉さえ耳に入らないほど気持ちがいいものだ。小鳥が鳴く声や暖かな朝日に包まれて、ゆるゆるとした朝を過ごす。素晴らしいではないか。
というのがスミレが描いていた休日だったのだけど、世の中やはりそう甘くはないようだ。
一応一軒家で、さほど広くもないが庭もついている。ガーデニングでも出来たらいいかな、ぐらいに思っていた庭であるが、今はそこを一人の少年が、スミレにはガラクタにしか見えないもので一杯にしている。
ジジジ。
ガンガンガン。
ギコギコ。
ズジャー。
そんな音が庭から聞こえてきて、おちおち寝てもいられない。あぁ、小鳥のさえずりとポカポカな朝日に包まれた休日の朝は一体どこへ行ってしまったのか。
さすがに慣れつつあるとは言え、さすがに寝てもいられないので、休日の朝なのに早起きすることになる。ここが、ドをつけてもおかしくないぐらいの田舎でよかった。これが都会だったら、一日で苦情の嵐がやってくるだろう。
マコト用にもココアを淹れて、庭まで運んで行く。
「またやってるのね」
「母さん、起こしちゃった?ごめんね、いつも」
と言いはするのだが、その視線は自分が手にしているものに注がれている。本当に申し訳ないと思っているのやら。まあいつものこと。これぐらいのことでイライラしていたらこの子の母親は務まらない。
しかしそれにしてもすごい状況だ。スミレには何が置いてあるのやらさっぱり想像もつかないが、大きさの違うネジだの金槌やらスパナなどの工具類が山ほど。接着剤や塗料も置かれていて、さらにテレビだのパソコンだのの壊れたものが散乱している。相変わらず発明家気取りで何か作っているようだ。
「今は何を作ってるの?」
「あぁ、これ?今度はさ、ネコにチャレンジしてみようと思って」
確かに、そう思ってみようと思えば、マコトが手にしているものはネコに見えなくもない。今はシルバーの骨格の隙間から様々な廃線が剥き出しになっているものだけで、四本足と尻尾があるにすぎないから、ネコでなくても四足歩行の哺乳類系の動物にならなんだって見える。まあマコトがネコだというならネコなのだろう。
マコトにはある目標があるのだ。それは、自分の手でロボットを作り出したい、というものだった。
きっかけは単純で、とある自動車メーカーが開発した、人間のようなスムーズな歩行が可能なロボットをテレビで見たからだった。そのロボットはCMにも登場し、人間のような動きをすることで大きく話題になったのだ。それからマコトは、絶対に自分でロボットを作るのだ、と言ってにわか発明家になってしまったのである。
しかしロボットを作ると言ったって、マコトは小学五年生だったし、特別理科が得意というわけでもなかった。しかも自分の力で、人間のように歩き、人間のように会話の出来るロボットを作りだそうというのだから、その道は果てしなく思えた。
それにスミレには、マコトには危なっかしいことをして欲しくない、という思いが強かった。夫はとある研究所で研究員をしていたのだが、研究中の事故で命を落とした。それで、実験だの研究だのというのは危険なものだという思い込みがあった。しかも、何よりもマコトに怪我をさせるわけにはいかなかったのだ。マコトが何か大きな怪我を負うようなことがあれば、スミレは生きていけなくなってしまうだろう。
だからこそスミレは反対した。しかしもちろんマコトは聞かなかった。そこはやはり父親の血が流れていたのだろうと思う。図書館で関係ありそうな本を片っ端から借りてきては読み耽り、また自動車修理工場や大工の人と仲良くなっては、工具を譲ってもらったりしていた。スミレに隠れて部屋で研究をしていた折何かの拍子でボヤを起こしたことをきっかけに、スミレもやむ終えずロボット研究を認めるしかなかった。
それ以来マコトは、庭は自分の縄張りだとでも言わんばかりに使い、自分のやり方で研究を進めていった。マコトは、いきなり人間型のロボットを作ることは不可能と判断。まず昆虫や爬虫類と言った小さな生き物のロボットを作り、それを成功させていた。どこで覚えたのか、プログラミングまで自分でしているようだった。わが息子のことながら恐ろしいものだと思う。
そしてようやく、もう少し大きくて複雑な動きをするロボットに着手することにしたらしい。それがマコトの言うネコであり、今その試作機を作っているのだろう。
「ねぇ、マコトは人型ロボットを作ったらどうするんだっけ?」
「またその質問かよ。これで何回目?」
スミレはマコトに何度となくこれと同じことを聞いている。その度ごとに答えが変わることもあったし、何回聞いても同じだったりもした。しかし、スミレの恐れている答えをマコトが口にしたことはない。その度ごとにスミレはホッとするのだった。
「そうだなぁ、じゃあお母さんの肩揉みをするようにプログラミングしてあげるよ」
マコトは時々こんなことも言う。スミレとしてはそのこと自体も嬉しいが、やはり自分の恐れる返答でないことにホッとするのだった。
「じゃあまあ頑張ってね。応援はしてないけど」
これもいつもの文句。何だよブー、というのもいつもの返し言葉だ。
スミレは部屋に戻り、リビングに置いてある夫の仏壇の前へと座った。いつもはここで、今日もマコトは気づいていないみたいです、と心の中で報告をするだけなのだが、今日は久しぶりにアレを取り出してみようかなと思った。
仏壇の中にある夫の遺影。その額縁の裏を開け、それを取り出す。
一枚の設計図だった。
これは、夫の研究の一つの大きな成果であった。世間的には発表されていない。これは、夫とスミレしか知ることのない秘密なのだ。
それは、人型ロボットの設計図であった。夫は、研究所での研究で得られた結果を最大限応用し、この設計図を書き上げたのだ。そして、誰にも頼らず自らの力でその人型ロボットを組み立てたのだった。
それが、私の息子マコトだ。
夫はマコトを小学五年生ぐらいの子どもとして設計した。以前夫とスミレの間にはちゃんと子どもがいたのだが、小学五年生の時交通事故で死亡し、またその後スミレに子宮ガンが見つかり、子宮の全摘出をしてしまったのだった。養子を取ることも考えた。しかし夫が、息子と同じロボットを作ると言って聞かなかった。正直ロボットを愛することが出来るのか不安だったが、今ではマコトのことを心の底から愛している。
一番辛いのは、一年に一回マコトの記憶をリセットしなくてはいけないことだ。マコトは人型ロボットの宿命として、永遠に成長することがない。そのままの人格を保持すれば、人格は成長するのに身体は成長しないという矛盾が生じる。だからこそ毎年マコトの記憶をリセットして、毎年小学五年生として生きるのだ。辛いことではあるが、しかし慣れつつある。マコトとずっと一緒にいられるのなら、どんなことでもする。
「あなた」
スミレは心の中で夫に話し掛ける。
「マコトが今日も、『僕は仲間が欲しいんだよ』と答えなくてよかったわ」



48.「一家団欒」
「ねぇ、お母さん。ご飯は?」
「はいはい、ちょっと待ってね。直ちゃんもまだお腹空くのね」
「どうせ食い意地張ってますよーだ」
いつもと変わらない夕方。私は制服のままリビングに座ってテレビを見ている。芸能人が料理を食べてコメントをしたり、これから始まるドラマの宣伝をしたり、いつものように大して中身のない番組をダラダラと見続けた。
お母さんはキッチンで料理を続けている。今日はカレーみたいだ。お母さんは料理が得意な方ではないけど、お母さんが作るカレーは世界で一番美味しいと思っている。野菜やお肉を炒めている音を聞きながら、私は少しだけ幸せな気分になった。
「なぁ、トイレットペーパーってどこにあるんだっけ?」
これはお父さん。普段仕事が忙しくって、帰ってくるのが夜中になることも多いのに、夕方に家にいるなんてホント珍しい。たぶんこれからもずっとお父さんと一緒にいられるだろう。それは嬉しいし、お母さんだって嬉しいに違いない。でも、もう少し早くそうなってくれたらな、と思わないでもない。
「もう、お父さんったら全然家のこと知らないんだから」
ついお母さんの口調を真似てそんな言い方をしてしまう。お母さんが二人いるみたいだ、なんてお父さんには言われるけど、私は密かにそう言われるのが嬉しかったりする。
お父さんのためにトイレの横にある物入れからトイレットペーパーを持っていってあげる。お父さんにありがとうと言われて、私はまたちょっとだけ幸せに思う。
「直ちゃん、ご飯出来たわよ。お父さん呼んできて。ついでにあの人も呼んできてくれる?」
お父さんにご飯だよと声を掛けてから、私はお風呂場に向かった。あの人は何故だか、ずっとお風呂場から出てこないのだ。正直あんまり話したくないんだけど、でもしょうがない。何だかんだ言って、同じ家の中にいるんだから。
「ねぇ、ご飯みたいですよ。食べませんか?」
その男の人はだらしなく髭を生やして、ざっくりと着たトレーナーにジーンズという格好でお風呂場に座っていた。何を考えているのか分からない目で見られ、私は少し怯む。しかし、彼がもう私たちに何かすることは出来ないのだ、と自分に言い聞かせ、私は彼から目を逸らさなかった。
「ありがとう。行くよ」
そう言われて私はホッとした。なんとなくさっきよりは穏やかな感じになっているような気がした。
「いただきます」
四人で声を揃えてそう言うと、腹ペコだった私は夢中でカレーをかき込んだ。お母さんのカレーはやっぱり美味しい。付け合せのサラダには見向きもせずに食べていると、野菜も食べなきゃダメでしょ、とお母さんに言われた。そういうところは、やっぱり厳しい。
皆が食べるのに一段落した頃、お母さんが口を開いた。
「これから私たち、どうしたらいいのかしらね」
それはここにいる誰もが感じていることだった。それに、私たち家族三人に、見知らぬ男の人がいるというのもやはりどうしても慣れなかった。いつまでこうした生活を続ければいいのかよく分からない。
「まあ、早く見つけてもらうしかないんだろうけど」
お父さんがそう言って二階に視線を向ける。思わずと言った感じで、私たちも二階へ目を向けてしまった。
「俺なんかのせいで、ホントすいません。今さらこんなこと言ったって仕方ないんだろうけど」
名前も知らない男の人がそう続ける。初めて彼を見た時、そのあまりの無表情さに心が凍りつきそうになったけど、今は憔悴しているという表現がぴったりくる表情をしていた。彼もまさかこんな展開になるとは思ってもいなかっただろう。
「そうなのよね。何だか不思議なんだけど、どうしてもあなたのことを憎いとかって思えないのよね」
お母さんがそういうと、私も頷いた。お父さんもそう感じているようだった。
私たちがこうなってしまったすべての原因はこの男の人にある。それは間違いないんだけど、どうしても憎いという感じにはならないのだった。それはもうすべてが終わってしまっているからなのか、もう取り返しがつかないからなのか、あるいは結局彼も同じ境遇になってしまったという親近感みたいなものが生まれつつあるのか、私にはイマイチ説明が出来なかった。
「まあとにかく、一度しっかり確認してみないか。もしかしたら、何か勘違いしてるだけなのかもしれないし」
お父さんだってそんなこと全然信じていないはずだけど、でももう一回確かめてみるというのは悪くない気がした。正直二階に行くのは気が進まないのだけれど。
お父さんを先頭にして、私たちは二階へ向かう階段を昇った。二階には私の部屋と両親の寝室とお父さんの書斎があって、お父さんは迷わず私の部屋のドアを開けた。
そこには、私が血まみれになって倒れていた。
それを見て、やっぱり私は間違いなく死んでるんだって確認出来た。フローリングの床の上には、まだ固まりきっていない血が鮮やかに広がっていた。私はうつぶせになっているからその表情は分からない。どうせいろんな人に見られるんだから、口紅ぐらいは塗っておきたかったなぁ、妙なことを考えたりもした。
「やっぱり、そうだよな」
お父さんは私の死体を確認して、力なくそう呟いた。それから私たちは、両親の寝室に向かった。
そこには、両親と男の人がやはり血まみれになって倒れていた。男の人の胸にナイフが刺さっていた。それは、私と両親を死に至らしめたナイフでもあった。
「一番初めに気づくのは誰かな」
「そろそろ実家から宅配便が届くはずですけど、配達の方もすぐには気づかないでしょうね」
「やっぱり学校の先生か、お父さんの会社の人なんだろうね」
私は、自分がや両親が死んでしまったのを見てどうして哀しくならないのか不思議でたまらなかった。



49.「保管室」
「大切なものを、預かっていただけると聞いてきたんですけど」
定休日の翌日に当たる水曜日は、世間でいう月曜日のようなものだ。僕はサラリーマンではないからそこまでではないが、しかしやっぱり休みの次の日というのはどうも普段と比べて仕事への意欲が欠けているように思える。
やってきたのは、60代ぐらいだと思われる初老の女性だった。小柄であるのに、少し折り曲がった腰のために余計に小さく見える、そんな女性だ。
「えぇ、何でもお預かりさせていただいています」
僕は『保管室』を経営している。『保管室』などという、まさにそのままの名前をつけたのは、ただでさえ分かり難い僕の仕事を、少しでも分かりやすくしよう、という配慮からである。
仕事は単純である。お客様が大切に思っているものをきちんと保管する、そういう仕事だ。有人のトランクルームみたいなもの、と言えなくもないが、トランクルームとはいささか趣は異なる。
トランクルームの場合は、形ある物しか保管できないし、物によっては取り扱えないものもある。しかし僕の『保管室』の場合、文字通り何でも構わない。北極の雪だろうが、雀の涙だろうが、記憶と言ったようなものまで、何でも保管する。どうやって保管しているかは企業秘密だ。また『保管室』には人間もいる。法律的にどうなっているのか、という質問にはお答えできない。
過去どんな依頼も断ったことがない、というのが僕の自慢でもあり、『保管室』の信頼でもある。仕事を始めて15年近くなるが、ようやく固定客もつき、信頼も得られ、安定した経営を維持することが出来るようになった。
「何をお預かりいたしましょうか」
そうご婦人に尋ねるが、しかしすぐには返事は返ってこない。
「あの、まだそれはわたくしの手元にはないのです。近い将来必ず手に入ることは分かっているのですが、今はまだお預け出来ないのです」
妙な依頼だなと思った。別にこちらとしては保管物をいつ受け取ろうが構わない。しかしならば、その保管物が手に入ってからくればいいのではないか、と思える。それでもビジネスチャンスを逃すようなことはもちろんしない。
「えぇ、もちろん結構です。手に入り次第お持ちいただければ結構ですよ」
そういうとご婦人はホッとしたような表情を浮かべた。
「先にいくつかお聞きしてもいいでしょうか」
「はい、何でも聞いてください」
「一度預けたものは二度と外には出られないのですか?」
これも変な質問だ、と思った。大切なものを預けるのだから、もちろん取り出すことはいつでも可能だ。そうでなければ預ける意味がない。中には、元恋人との思い出の品をどうしても捨てられずにここに預けるというような依頼人もいることはいるのだが。
「基本的に依頼人ご本人様の要望がございましたらいつでも取り出すことは可能です。また依頼人様から間違いなく委託されたということが証明できれば、依頼人ご本人様以外の方でも取り出すことは可能です」
「いつまで預かっていただけるのでしょう?」
「基本的に半永久とお考えください。お預かりするものに物理的な寿命がある場合を除き、いつまでもお預かりさせていただきます」
「あの、その申し上げ難いのですけど、もしも管理人であるあなた様がいなくなられたような場合にはどうなるのでしょうか?」
これも時々受ける質問だ。とにかくかなり長期的に預けたいと考える人は、僕が死んだりした場合のことを気にしたがる。
「『保管室』の管理人には、常にサブが二人つくことになっています。もし管理人、今はわたくしですが、わたくしに何かあった場合でも、すぐさまその管理人の権限がサブに委譲することになっておりますので、ご心配なさることはないと思いますよ」
そこまで説明すると、ご婦人は納得されたようだった。
「わかりました。思った通りのところのようです。安心しました。それで、大変不躾ではありますが、もう一つお願いを聞いて頂きたいのですが」
「はい、なんなりと」
「わたくしの話を聞いてはいただけないでしょうか?」
そうして僕は、事情はよく分からないがそのご婦人の話とやらを聞くことになった。僕としては、ある一つの事柄に関することを聞くだけなのだろうと思っていたのだけど、そうではなかった。ご婦人は、毎週きっかり水曜日にやってきては、雑談としかいいようのないとりとめのない話をして帰っていくのである。
それは、戦争の話であったり、学校の話であったり、亡くなった旦那さんとの馴れ初めであったり、初めて聞いた音楽の話であったり、娘や孫の話であったりと、脈絡のない捉えどころのない話であった。しかし、ご婦人の語り口がなかなか巧いのと、定休日明けの水曜日でなかなか仕事をする気にならないというのとがあって、僕は割合面白くご婦人の話を聞いていたのだった。
その中で、僕の心を揺さぶる話が一つあった。
「息子は、ひき逃げで亡くなったんです」
それを聞いて僕は、かつての自分を思い出していた。僕は昔、人を轢いてしまったことがあるのだ。怖くなってそのまま逃げた。運良く、警察に見つかることはなかった。しかしそれからしばらく、あの時の青年は死んだだろうか、すぐに連絡すれば助かったあろうか、と悩む日が続いた。
ご婦人は話し終わると必ず、今日話したこと、是非覚えていてくださいね、と付け加えて帰っていった。『保管室』なんていう仕事をやっているせいか、人より記憶力はいい。言われなくても、ご婦人の話はすべて覚えていた。
ご婦人と出会ってから3ヶ月ほどが過ぎた頃のこと。水曜日にやってきたご婦人は、
「ようやくお預けするものが揃いました」
とそう告げたのだった。
「それはよかったです。何をお預かりすればよろしいでしょうか」
するとご婦人は、真っ直ぐに僕を指差したのだった。
「私の大切な記憶をたくさん持っているあなたを、保管して頂きたいのですが」
その瞬間、僕は分かったような気がした。たぶん、いや絶対、あのご婦人は僕がひき逃げした青年の母親なのだろう。どうやって見つけたかは知らないが、僕がその犯人であることを突き止めたのだ。
「この『保管室』は、依頼を一度も断ったことがないという評判を聞いております。まさかお断りにはならないですよね」



50.「バベルの塔」
僕んちの家の天井は畳が敷かれている。
けどこれは全然珍しいことじゃない。僕が住んでいるこの街オムランでは、極々普通のことだ。メイナスの家だって畳だ。ただやっぱり一般的にはフローリングというのが普通だ。オムランでも日本は大人気で、僕とメイナスの家は無理して日本から畳を取り寄せているのだ。あんまり居心地はよくないのだけど。
「ねぇねぇ、いつだっけ?今日?」
「そう、今日だよ。だから外に出ちゃダメ」
「じゃあその前にちょっとだけ買い物!」
「ちょっと待って!まったくもぉ」
母親のそんな声を背中に聞きながら、僕は玄関を飛び出す。まあ大丈夫。アレが来るのが分かってさえいれば、いつ家に戻らなきゃいけないかなんて分かってる。もう子どもじゃないんだから。
オムランの街は、すべてのものが上下対称に作られている。こんな街は世界中探したって他にはないだろう。独特の景観美だと言って写真家が時折やって来たりもするんだけど、生まれてからずっとここに住んでる僕からすれば、どこが美しいのか分からない。そもそも、他の街は写真でしか見たことがないのだから、この街のおかしさみたいなものも実はちゃんとは分かっていなかったりするのだけど。
立ち並ぶ家には屋根というものはなく、すべて平に作られている。郵便ポストはただの四角い箱だし、信号機はポールのちょうど真ん中で三色の光を放っている。鉄塔だって、砂時計みたいな形をしているのだ。この街で車を持っている人はいない。持っていても、なかなか管理するのが難しい。屋根にもタイヤをつけようと試みた人もいるらしいけど、やはりうまくいかなかったらしい。
「あっ、リョーマスじゃんかよ。お前家にいなくていいのかよ」
「お前だって同じだろ」
「俺は買い物を頼まれたんだよ。ほら、ウチ子どもが生まれただろ。ちょっと危ないからってさ、一応ロープみたいなの買って来いって言われてさ」
同じ学校に通うナナムズだ。全校生徒86人という中学校では仲が悪くなりようがないが、しかしこのナナムズとは特に一緒にいることが多い。そういえば自分も何か買おうかと思っていたのを思い出して、ナナムズと一緒にスーパーに行くことにする。
「なぁ、アレって何で起こるんだろうな」と僕はナナムズに聞いてみる。
「まだそんなこと言ってんのかよ。そんなん今時小学生でも聞かねぇぞ」
「でもさ、不思議だと思わない?何のためにそんなことが起こるわけ?しかもこの町だけさ」
「知るかよ、んなこと。」
そうしてまた僕らはとりとめのない話をする。
「バベルの塔ってあるだろ」
ナナムズが突然そんなことを言い出す。
「あぁ、知ってる知ってる。天まで届く塔って話でしょ」
「そうそう。俺思うんだけどさ、そのバベルの塔って昔オムランにあったんじゃないかって」
「何で?」
「いやだからさ、昔天まで行きたいと願った人がいるわけだろ。その時は神様は怒ったんだけどさ、よくよく考えたらまあ分からんでもないかなって心変わりしてさ。だからこうしてさ、地面と空を入れ替えたりしてるのかな、ってね」
僕らの住んでいる町オムランは、年に一回天と地がひっくり返る。
まさにそのままの意味であり、それ以上の意味はない。ある瞬間この町はすべての物質と人が浮き上がり、それがいつのまにか降下に転換し、空だったはずのところが地面になる。毎年それを繰り返すものだから、町にあるすべてのものは上下対称に作っておかないと、この転換の際にうまくシフトできないのである。
「なるほどね、バベルの塔か。面白いこと考えるね」
「だろ。他にもさ、人間もその内上下対称になるんじゃねぇかって考えたりね」
「うげっ、なんか気持ちわる」
「肩からさ足が余分に生えてきて、股の間から頭と腕が生えてくればさ、まあ上下対称だわな。いつかオムロンに住む人がみんなそんな人間になってたりしてな」
学者の中には、天と地の転換を住民の錯覚だとする意見もある。僕たちが集団催眠に掛かって、天と地が入れ替わっているように錯覚しているだけなのだ、と。根拠はもちろんあって、オムロンだけしか天と地が転換しないという事実もそうであるが、それ以上に、僕らが空にいるはずの時期にもオムロンの街は外界と繋がっているという事実が挙げられる。天と地の転換が毎年起こっているのなら、空にいるはずの間オムロンの町には誰も近づけないはずである。しかし、決してそうはならない。確かにそう言われると、僕らもおかしいなと思わないでもない。しかし一方で、空にいる時期のオムロンの気圧や酸素濃度は周囲の町と比べて著しく違うという報告もある。結局、どうなっているのか僕らには分からない。分かるのは、僕らは一年に一回ふわっと浮き上がり、しばらくすると昨日まで天上だった場所に座っているという事実だけである。
「やべっ、そろそろ帰らないと。始まっちゃうぜ」
買い物を終えた僕らは帰り道を急ぐ。今日もまた、その意義がまったく理解できない天と地の転換が、僕らの生活に何ほどの影響も与えることなく実行されるのだ。
関連記事
スポンサーサイト

Comment

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

Trackback

http://blacknightgo.blog.fc2.com/tb.php/2842-77955d04

 | ホーム | 

プロフィール

通りすがり

Author:通りすがり
災害エバノ(災害時に役立ちそうな情報をまとめたサイト)

サイト全体の索引
--------------------------
著者名で記事を分けています

あ行
か行
さ行
た行
な行
は行
ま行
や行~わ行

乃木坂46関係の記事をまとめました
(「Nogizaka Journal」様に記事を掲載させていただいています)

本の感想以外の文章の索引(映画の感想もここにあります)

この本は、こんな人に読んで欲しい!!part1
この本は、こんな人に読んで欲しい!!part2

BL作品の感想をまとめました

管理人自身が選ぶ良記事リスト

アクセス数ランキングトップ50

TOEICの勉強を一切せずに、7ヶ月で485点から710点に上げた勉強法

一年間の勉強で、宅建・簿記2級を含む8つの資格に合格する勉強法

国語の授業が嫌いで仕方なかった僕が考える、「本の読み方・本屋の使い方」

2014の短歌まとめ



------------------------

本をたくさん読みます。
映画もたまに見ます。
短歌をやってた時期もあります。
資格を取りまくったこともあります。
英語を勉強してます。













下のバナーをクリックしていただけると、ブログのランキングが上がるっぽいです。気が向いた方、ご協力お願いします。
にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村

アフィリエイトです

アクセスランキング

[ジャンルランキング]
本・雑誌
14位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
和書
11位
アクセスランキングを見る>>

アフィリエイトです

サイト内検索 作家名・作品名等を入れてみてくださいな

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

月別アーカイブ

Powered By FC2ブログ

今すぐブログを作ろう!

Powered By FC2ブログ

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

カウンター

2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)