黒夜行

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その峰の彼方(笹本稜平)

内容に入ろうと思います。
津田悟は、日本の山岳界の狭さに嫌気が差し、日本を飛び出してアラスカへ向かった。
日本では無名だが、欧米では世界的クライマーと認められている津田悟は、ヒマヤラへの遠征という自らの目的を実現すべく、その当時既に衰退していた大学山岳部に所属した。大学の名前を借りて、OBを動かそうという腹だ。
その目論見は成功し、津田は世界の山に挑戦するチャンスを掴んだが、しかし同時にそれは、日本の山岳界という狭くて堅苦しい世界の洗礼を受けるということでもあった。
心を許せる山岳仲間である吉沢を含むチームで参加したあるミッションで、悟は批難を浴び、それをきっかけとして彼はアラスカへと向かった。
アラスカには、北米最高峰のマッキンリーがそびえ立つ。
植村直己や山田昇という世界的クライマーが命を断ったのもマッキンリーだ。標高こそヒマヤラには及ばないが、様々な地形的条件がクライマーを阻む、ある意味でヒマヤラ以上の山だ。悟はそんなマッキンリーに魅せられ、アラスカ在住の日本人女性・祥子と結婚、アメリカに帰化し、山岳ガイドとしても随一の評判を誇る、まさに順風満帆と言える人生を送っていた。
悟遭難の一報を受けた吉沢は、悟と共にマッキンリーの冬季登攀に挑んだ際の悟の言葉を思い出した。

『取り憑かれるんだよ。地獄の底まで付き合いたい気分になっちまう』
『一人で登ると、いつも帰るのにものすごい意志の力が必要になる。なんて言うのかな。要するに帰りたくなくなるんだよ』
『帰ってくることに意味なんかあるのか』
『そうじゃない。おれは生きているふりをしているのが嫌なだけなんだ』

正直吉沢にはその時、悟の言っていることが理解できなかった。それほどまでにマッキンリーという山に魅せられているのだ、というのを強調して表現しただけなのだ、という風に解釈したが、もしかして違ったのかもしれない。
悟。お前は知っていたはずだ。山岳ガイドとしての評判は随一で、アラスカを本拠地とするインディアンとの繋がりは非常に深い。インディアンの長老には目を掛けてもらっている。祥子さんは念願だった子供を授かった。それに、俺は知らなかったが、お前はとんでもない野心を抱えていたそうじゃないか。
それなのに、悟、お前はどうして、冬季単独登攀なんていう、世界の誰も成し遂げていない無謀な挑戦に駆り立てられてしまったんだ?

というような話です。
相変わらず笹本稜平の山岳小説は凄まじい。「天空への回廊」も素晴らしかったが、本書もまた違った意味でとてつもない山岳小説だと思う。
最大の違いは何か。それは、ストーリーの主軸にある。
天空への回廊」は、「山を舞台にした国際謀略小説」と言えると思います。単純化して言えば、あくまでも山は、「人が近づくことが恐ろしく困難な舞台装置」として登場し、物語の主軸はストーリーそのものにある、と言っていいでしょう。こちらの作品はそのストーリーの凄まじさに圧倒される作品と言えるでしょう。
本書はまるで違います。
本書のストーリーの主軸は、「遭難した津田悟を様々な人間が支援して救助する」というものです。もちろん、枝葉は様々に用意されている。けれども、ストーリーは、その「救助」という単純な一点だけに集約されていると思います。
これは凄いと僕は感じました。色々と小説を読んできて感じることは、「物語を展開させるのは難しい」ということだ。だから、ストーリーに様々な要素を付け加えて、読者を惹きつけようとする。それが悪いという話をしたいんじゃない。普通そうでなければ、なかなか読む者を引っ張り続けることは難しい、ということだ。
しかし本書は、「救助」という主軸を決して見失うことなく、最後の最後まで物語の核はそれ一本で通した。そこに凄まじさを感じる。もちろん、人を救うという要素は、物語になる。しかしそれだけで500ページ近い長編を保たせるのは相当に至難の業ではないだろうか。
そして本書では、山がただの舞台装置としてではなく、あたかも一人の登場人物であるかのように扱われている。人間なんかのレベルではその真意を探ることなどまるで出来ないような高次の存在として、山というものが描かれているように僕には感じられる。
様々な人間が様々な形で関わることになるマッキンリーという山の懐は、あたかも「神様の掌」みたいだと思う。その中に入ることを許された人間は、しかし慈悲深い神によってほんの僅かの間滞在を許されただけ。神様がほんの少し掌を返しただけで、その上に載っている人間はひとたまりもない。しかもその掌の上にいる限り、神様が何をどう考えているのか、知りようもない。
マッキンリーと関わりが深ければ深いほど、山にある種の人格を見る。山を一個の人格として扱い、自分たちがその懐をちょっとかき回しているだけのちっぽけな存在であるということを意識している。マッキンリーは天候の変化が急激で、冬ならなおさらだ。一旦吹雪けば、一週間も二週間もその場から動けないことさえある。悟はある場面で、こんな韜晦を抱く。

『クライマーの思い上がった行動に、マッキンリーが要求する対価は死でしかない。自分もけっきょく実力において並みのクライマーに過ぎなかったのだ。そもそも冬のマッキンリーのような困難な山では、実力の優劣などなんの意味もない。そこで生死を分かつのは偶然以外のなにものでもない。
もしそれがアルピニズムの本質だとしたら、人に威張れる行為でも賞賛される行為でもない。それならあらゆるギャンブルが崇高な行為と見なされるべきだろう』

世界屈指のクライマーがそう述懐してしまうほどの驚異を、マッキンリーはクライマーに与える。その存在感は圧倒的だ。ストーリー上の主人公は津田悟だが、本書の真の主役はマッキンリーだと言って言い過ぎではないだろう。

『あの山はおれの原点だ。山に登るということの本当の意味を教えてくれたのがマッキンリーだった。ヒマヤラにも南米にも、もっと高い山はいくらでもあるけど、登っていて魂が共振するような感覚を与えてくれたのはマッキンリーだけだった。こんなことを言うのは縁起が悪いけど、自分がいちばん安らかに死ねる場所があるとしたら、ここしかないとそのとき感じたんだ』

また、マッキンリーという山は、一個の人格であると同時に、「言葉を引き出す場」としても機能している。
本書に登場するありとあらゆる人物が、平時では恐らく口にしないだろう様々な発言をする。普段から自身の内側にあったかもしれないが、わざわざ口に出すほどでもないこと。アメリカ人であればもしかしたらそういうことは常々口から出てくるものなのかもしれないけど、少なくとも日本人はそうではないだろう。
そんな言葉が、本書ではありとあらゆる場面で引き出される。それはもちろん、「悟の遭難」という一大事が引き起こしたことだ。賞賛・不安・韜晦など、様々な感情が口からこぼれ落ちるが、それらはすべて、悟が遭難しなければ出てこなかった言葉だろうと思う。
しかし究極的にはそれは、マッキンリーという山が引き出した言葉なのだと僕は感じた。もっと言えば、悟が全身全霊を掛けて愛したマッキンリーが、だ。遭難したのが悟でなければ、ここまでの言葉は出てこなかっただろう。しかし同時に、悟がこれほどまでにマッキンリーに入れ込んでいなければ、やはりそれらの言葉は表に出てこなかっただろう。

『サトルはなんでも知っている。自分がなにをなすべきかをね。たとえ本人が気づいていなくても、人の行動にはすべて奥深い意味があるんだよ。いまこの時期にデナリへ向かったことにも、きっと我々には計り知れない意味がある。だから私はサトルを信じている。それは私にとって、神を信じることと同じ意味なんだよ』

『我々のヒーローを無事に下山させることは、おれたちにとっても誇るべき義務だ』

『彼は私たちに幸福をもたらそうと尽力してくれた。もしそれが夢に終わったとしても、我々はなにも失うわけじゃない。夢を与えてくれた彼に感謝こそすれ、恨む道理はなにもない』

『これじゃ軍人としてというよりは人間として、大きな借金をすることになりかねません』

『いまサトルは深い深い夢のなかをさまよっているのかもしれないけど、決して不幸だとは感じていないと思うの。じゃあ幸せかといえば単純にそうとも答えられないけど、彼があの山で生き抜いた時間そのものが、彼が求めたものであり、その答えでもあるような気がするわ。彼には言いたいことがいっぱいあるけど、もしそこに一点の悔いも感じていないとしたら、私は許すことができると思うの』

『私がしてやれることがなにもないなら、せめて信じてあげたいんです。彼はどんな運命にも負けない強い人だと』

『彼は希望を背負って生きるのが似合う人間だよ』

悟は結果的に、これほどの賛辞に包まれることになる。日本ではまったく評価されず、今もってまったく知られていない悟が、追い出されるようにして日本を出、新天地と定めたアラスカで、アラスカ人の誇りとして皆から信望を集める。なんとなく、誰かのことをあまりにも持ち上げすぎる風潮には嫌だなぁという感覚を持ってしまうことが多い僕だけど、本書の場合、悟が置かれた絶望的な環境と、残された面々の不安を払拭したいという気持ちが見事に相まり、悟への無上の手放しの賛辞がまったく嫌にならない。誰しもが悟について語り、その度に悟の新たな一面が垣間見え、それがさらに悟への賛辞に大きな意味を持たせる。日本での悟とはまる違った一面を、悟がそこまで慕われているとはそれまで知らずにいた吉沢目線で描くことで、吉沢の中での悟との対比が強調されるという構造もとても良いと思う。
だからこそ、だからこそ吉沢は、悟の決断を理解することが出来ない。何故悟は、吉沢が羨んでしまうほどの環境にありながら、そのすべてを放棄するかもしれない、多くの人にとって無謀と映る挑戦に、身を投じてしまったのか。
そしてそれは、吉沢にとっても、悟にとっても、「生きる」ということを考えさせる、クライマーとしての自分の存在を改めて問い直すものだった。

『自分にとって山とはなんなのかと顧みる。少なくともそれは苦行の場ではなかった。努力してなにかを勝ちとるというよりも、そこで戯れることそのものが山に向かう唯一の目的だった。
(中略)もしそれが努力目標だとしたら、果たして誰が挑んだだろうか。誰が成し遂げただろうか。
それは目的ではなく結果であって、当人にとっては全身全霊で山と戯れた副産物に過ぎないのではないか。逆説的な言い方をすれば、それは愉しめない限り耐えることもできないよな過酷で危険な行為だとも言えるだろう』

『得することはなにもない。たとえマッキンリーのいちばん厄介なバリエーションルートを厳冬期に単独で登ったとしても、世間はそんなことには注目してくれません。それがどんなに困難なことか、理解できるのは世界中でもほんの一握りの変人たちだけです。
やり遂げたからって世の中がよくなるわけじゃないし、誰かが幸せになるわけでもない。でも人間というのは、本当はそういうことのために生きているんだって気がしませんか』

マッキンリーに限らないだろうが、少なくとも悟にとっては、自分が愛したマッキンリーを登ることには、「ただ山に登る」こと以上の意味があった。それを悟自身も、うまく掴みきれない。そしてそれは、親友である吉沢にも、理解できるものではなかった。
本書で、悟の考え方について、実に印象的なエピソードが語られる。詳細には触れないけど、「雪崩が起きたのはおれたちのせいじゃない」という一言に、悟のクライマーとしてのあり方が集約されているだろう。この、かなり冒頭で出てくるエピソードだけを読めば、読者は悟のことを、冷たい非人道的な人間だと捉えるかもしれない。しかしそこから読み進めていくに連れて、次第に、悟という人間の懐の深さ、本質をつかみ出す判断力を知ることになるだろう。

『自分の記録のために山に登ることも、他人のために努力を惜しまないことも、サトルのなかではたぶんなんの区別もないんだよ。一見エゴイスティックな登攀活動と、兵器で事故を犠牲にするような行動のあいだを自由自在に行き来する。そういうところは、だれも真似できない、サトルならではの個性じゃないのか』

この作品は、読む人間にも「生きること」を強く問いかける。いや、そういう言い方は正確ではないかもしれない。悟は、マッキンリーと関わることで、「生きるとは何か?」という切実な問いを、自らの内に見出し、それを手放すことなく育て続けた。そして、その問いの答えを見出すために、行動した。この作品は読む者に、悟が見つけ出したような「切実な問い」を、あなたも内に抱えているか?と問うのだ。それがどんな問いでも構わない。自分にとって切実であれば、生きることでなくてもまったく構わない。その問いを見出し、手放すことなく育て、その答えを見出すために行動しているか?津田悟という強靭な男の生き様は、その背中で僕らにそう訴えかける。背中で語る男は、遭難してもなお、多くの人に語り続ける。その場にいないはずの悟は、しかし様々な人の内側に色んな断片として収まっていて、少しずつそれがつなぎ合わされることで、その場にいないはずの悟の姿がそこに現れ、その背中が周囲の人々に語りかける。それだけの存在感を、悟本人を登場させないまま描き出す著者の力量は、見事という他ない。
たった一人の人間を救助するだけという、普通に物語れば単調にしかならないだろうモチーフで500ページ近い長編を紡ぎ上げた点は素晴らしいし、その物語の主軸たる幹に連なる枝葉がまた読ませる。「生きること」という深遠な問いを発しながらも哲学的な問答に終始するわけでもなく、様々な人間が自らの内に抱える「悟の断片」が、悟本人を多面的に描き出していく。どう着地するのかまったく読めない救助の過程と、救助後の様々な人たちの決断が、物語をさらに深いものにしていると思います。素晴らしい作品でした。是非読んでみてください。

笹本稜平「その峰の彼方」



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Comment

[7478]

こんばんは。お久しぶりです(笑)。

今日、この本を手にしました。
なかなか分厚い本で最後まで読めるかな?
と心配しましたが、読み始めたら内容に惹かれ
スイスイでした。
我が家は読売新聞ですが、偶然今日の朝刊に
書評が載っていました。
登山は危険、という想いが強いので、
なぜこんな大変なことに挑戦するのだろう? と
ずっと思っていましたが、クライマーと呼ばれる人にも
明快な答えはないのですね。『明快」という言い方は
少し軽い感じで、もっと切羽詰まったもの、つまり生き方
の問題、生きる意味についての問題なのでしょうね。

吉沢をはじめとする救援隊や軍の力を借りて、津田の救出が
できましたが、自分の命を投げ出す覚悟で親友を救おうとする
人々の姿に感動しました。また、奥さん(祥子さん)も素敵ですよね。

それから最後の部分は、やはり!と思いました。
津田にとって、薬で無理やり2時間だけ覚醒するという手段は、NO!
だったのですね。祥子さんが想像した通りに。
できれば、自力で目覚めた姿を描いてほしかったと思いますが
私のような読者は嫌われ者ですよね(笑)。

今年になって本の更新が途絶え、通りすがりさんのファンとしては
お話しする場がなくなってしまい、寂しいです。
また何かの本にかこつけて、投稿しまので、どうぞ宜しく!!

インフルエンザやノロウィルスが流行っています。
お気を付けくださいね。

[7479]

お久しぶりでございます!僕が更新してるかどうかに関わらず、じゃんじゃんコメントしてくださいね~。

周りでマラソンをやっている人間が何人かいるんですけど、マラソンも似たようなところありますよね。どうしてそんな苦しいことをするんだろう、みたいな。マラソンと比べたら、まだ登山の方が理解できるかも(笑)そこに行かないと見れない景色があるとか、やっぱりご褒美って感じしますからね。

とはいえ、津田の登山に対する思い入れは、やはり「わかる」なんて風には言えませんけどね。どう考えてもそんな危険な状態の山になんか登ってる場合じゃないだろ、と思えるような時に、それでも登ってしまう心境は、やはり突き詰めた人間にしか到達出来ない感覚何だろうなぁ、と思います。

ほぼ最初から最後まで救助だけで物語が展開されていくというのが、さすがという感じがしました。もちろん挿入される物語は色々とあるわけですけど、救助だけでここまで引っぱって、読ませる作品に仕上げるのは普通は難しいだろうなと思います。

ラストは、確かに津田のそれまでの描かれ方からすると、「なるほど」っていう感じですよね。あのラストは、自分だったらどんな決断をするだろうなぁ、って思っちゃいましたね。津田ほど、強い決断は出来ないかもしれないなぁ。

僕のブログは、ストックが死ぬほどありますから(笑)、また何か読んだら(っていうか読まなくても 笑)、是非是非コメントしてくださいな。僕の想定では、6月ぐらいからこのブログは、短歌ブログになる予定です(笑)

今、2014年一年間でどれぐらい資格を取ることが出来るか、という意味不明なチャレンジをしてるんですけど(気象予報士よりは全然簡単な試験ばっかりだと思いますけど)、なかなかヘビーな毎日を過ごしています。今は、同時並行で3つの試験勉強をしてます(笑) 

ドラさんも、雪が降るほど寒い気候にも負けず、健康にお過ごしください!

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8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
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