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白夜の大岩壁に挑む クライマー山野井夫妻(NHK取材班)

『かつて山野井泰史は、「世界最強」と呼ばれたクライマーだった』
『山野井泰史の登攀は、どれも世界の山岳史に残る”記録”であった』
『日本には山野井の影響を全く受けていないアルパインクライマーなどいない』

ある時山野井泰史は、両手足の指の大半を失った。

『泰史の両手には、薬指と小指がない。右手の中指の先も欠けている。
2002年、ヒマラヤ。ギャチュンカン(7952m)で下山中、雪崩に襲われた。
凍傷を負った指は根本から真っ黒に変色し、帰国後、手術で切断せざるを得なかった。さらに手だけではなく、右足のつま先も凍傷に冒されていた。右足はごほんの指全てを失ってしまった。』

泰史の妻で、同じく女性クライマーとして上を行くものはないと言われるほどのクライマーだった山野井妙子も、指を失っている。

『妙子は、泰史以上にハンデを背負っている。1991年のマカルー(8463m)、そして泰史と一緒に登ったギャチュンカン。二度にわたって凍傷を置い、18本の指を切断したのだ。とりわけ手の指は、ギャチュンカンのあと、ほとんど根本から切断してしまった。その手でクライミングに欠かせない細かい作業を行うのは、容易ではない』

事故の後、泰史はこう思ったと語る。

『こういう難しい登山、難しいものを求めるような登山はもういいだろうと、思ったね。もうできない、というより、もういいだろう、と思ったね。僕はそれまで、ものすごい数の難しいクライミングを行なってきたし、もしかしたら誰よりも追求してきたと思うんだ。だからかな…。山を嫌いになったわけでは、もちろんないよ。ただ、何かを追求していくような登山は、もういいかなと思ったんだ』

事故から五年後。トレーニングを積み重ね、泰史も妙子も、以前並とは行かないまでも、かなり難しいクライミングもこなせるようになってきた。そして彼らは、ある目標を定めることになる。
グリーンランド。
この地には、未踏のビッグウォールが山ほどある。泰史は、誰も手をつけていない、という点に惹かれる。標高差1300m、登頂までに三週間掛かると踏んだ、彼らにとって挑戦いがいのあるビッグウォールに、彼らは「オルカ」という名をつけた。
「世界最強のクライマー」の新たなる挑戦が、今始まる。
というような内容です。
山関係の本を時々読むので、山野井泰史という名前は知っていたのだけど、山野井泰史に関する本を読んだのは初めてなので、非常に新鮮でした。
そう、僕は、山野井泰史の「垂直の記憶」も、沢木耕太郎の「凍」も読まないままで、本書を読んでいたりします。
先に挙げた二作は、泰史・妙子が共に指の大半を失うことになった、ギャチュンカンの雪崩事故に関するノンフィクションです。それも読みたいと思っているんですけど、なかなか手が出ず、何故かこっちを先に読むということになってしまいました。「垂直の記憶」も「凍」も、いずれ読もうとは思います。
本書は、NHKのドキュメンタリーの書籍化であり、元々はドキュメンタリーとしてテレビで放送された。あとがきでディレクターが書いているが、そのドキュメンタリーは映像的には「雄大な自然をフューチャーしたもの」と捉えられがちだが、実際には山野井夫妻の人柄が全面に押し出される内容になっていたそうです。
そしてやはりそれは、本書も同じです。
本書では、泰史がグリーンランドに目を付け、実際に下身に行って「オルカ」を「発見」し、それから準備を重ねて登攀、最終的に登頂する過程が描かれます。
しかしあくまでもその「登山」に関する部分は、主軸の一つでしかありません。もう一つの主軸は、山野井夫妻という人間に焦点が当てられています。
例えば指を失ったことについて。泰史と妙子はそれぞれこんな風に言っている。

泰史『指がまっとうなとき、日本の岩場で練習してるときとか、「あ、山野井さんが登ってる」とか言われることもよくあったんだよ。それで登れなくて落ちることもしょっちゅうあるわけだよね、そうするとやっぱり恥ずかしくてさ。でも今は、落ちても言い訳ができる、というのがある。まあ自分の中では本当はそういうの、嫌なんだけど。でも恥ずかしくなくなったよね、人前で落ちることが。それが唯一いいことかな』

妙子『普通の人は、こういう動きであのホールドを持って、とか教わることができる。私の場合、それができないから、あの手この手を考えるんですよ。ああ駄目、手が入らない、とか、このホールドは使えない、とか文句を言いながら登るけど、自分なりの解決ができたときは、結構、満足感が大きい。自分だけの上り方、という感じで。それが気持ちいいかな』

また妙子は、泰史が指を失ったことについては、こんな風に語っている。

妙子『(泰史はそれまで、極端に困難な挑戦を続けてきた、という文章の後で)泰史が以前の状態で目標を高めていくってことは、無事に戻ってくる可能性が少なくなっていく、ということになったかもしれないから…(指を切ってしまったことは)もしかしたら、よかったのかもしれない』

もちろん、実際には様々な葛藤があったことだろう。それでも彼らは、指の大半を失うという絶望的な事態を、考え方一つで乗り越えていく。この強さ。泰史はある箇所で、クライマーに必要なのは、テクニックでも体力でもなく、絶対に登るんだという精神力だ、というようなことを言っていたけど、まさにそういう底力のようなものを、この指の切断の話からも感じた。
基本的に、

『泰史とも価値観は一緒じゃないかな。山に行くことに関してはお金をかけるけど、ほかのことはどうでもいいです。今のこの生活ですごい満足してるので、この満足してる状態を続けていくと思います』

と語るほど相性の良い二人だが、性格的には大分違う。

泰史『妙子と木本さんは全然緊張してないと思うけど、俺は緊張するな。もう緊張してるよ。20年以上こんなことをやってるんだけど、毎年毎年感じていた緊張と同じように俺は緊張してるなあ。うまく登りきれるかな、怪我せずに無事帰ってこれるかなとか、いろいろなことを考えている。僕のほうが、みんなより小心者ですから、緊張するんです』

妙子『いろいろ大変ではあるけど、今まで1の時間でできたことを10の時間でやればいい、と思ったから。周りの人は私ができないのを見てイライラするかもしれないけど、私はゆっくりやればいいと思ってるから、気にならないの』

妙子は特に凄いと思う。どんな場所にいても、自宅にいるのと同じだけのくつろぎ状態でいられるのだという。どんな場所にいても恐怖も緊張もほとんど感じないし、場合によっては痛みにさえ鈍感だという。一方で、常に死と隣り合わせのチャレンジを続けてきた泰史の方が、毎回緊張しているというのも、なんだか面白い話だなと思う。

泰史『今までたくさんの山を登ったけど、山頂で感動したことってあんまりないんだよね。大体、登ってるときが一番楽しいんであって、到達したときはそんなに楽しくないのが多いんだけど、今回に限っては「ああ抜けれた」「やった嬉しいな」って単純に思えた』

妙子『本当にてっぺんに来るとは思ってなかった。適当なところで終わり、ってなるんじゃないかと思ってたけど。本当にてっぺんだ…嬉しいな』

これもやっぱり、妙子の感想が際立っているように僕には感じられました。この力の抜け方。泰史の方も、「普段は感動しない」と言ってるから同じようなものかもしれないけど、やっぱり泰史の方が気を張っている感想に聞こえる。妙子の、なんの気負いもないこの感想は、ホント素敵だなぁ、って感じがします。
泰史の登山の哲学に触れている部分を抜き出しましょう。

『泰史は七大陸最高峰、8000メートル峰14座制覇、などにはあまり興味がない。自分をかき立てられるようなクライミングができるかどうかのほうに興味があるし、そのほうが面白いのだという。』

『登る前に僕はイメージをするんだよね。ああいうルートからああいうふうに登ってるんじゃないか、頂上直下でこういう動きで登ってるんじゃないかと。そのイメージに近づけたら「いい登山」、満足できる。だけど、そのイメージからかけ離れてどっかで妥協すると、いくら頂上に経っても僕の中で満足できない』

そんな泰史が、兼ねてから気にしつつも行けないでいたグリーンランド。解説で登山仲間の一人は、『ギャチュンカン以降の山野井の登山に、世界のトップレベルといえるものはない』と書く。凄いことを書くものだ。手足の指を大半失った人間に言う言葉とは思えない。このグリーンランドの登山も、世界の登山史からすれば大したものではないのだろう。しかし、山野井夫妻にとって、とてもとても価値のある登山だったのではないか。そういうことが、言葉の端々から伝わってくるような気がした。
解説氏は、山野井泰史の強さについてこう語る。

『山野井泰史を山野井泰史たらしめた一番に強みは、ブレない自分を常に持ち続けてきたことだ。山野井は誰よりも自分のことを深く考え、誰よりも深く理解し、その上で厳しく評価して、自分を律することができるのだ。』

凄い男の生き様を感じ取れる一冊だ。
さて、最後に。ちょっと厳しいことを書いておこう。
本書は、素材は完璧だ。十分すぎるほど素材は見事なものだ。グリーンランドの未踏のビッグウォールというテーマ、かつて「世界最強」と呼ばれた夫婦の事故後の大挑戦などなど、素材としての面白さは抜群だ。しかし、ノンフィクションとして評価した場合どうか。個人的には、「素材の面白さに寄りかかった、ノンフィクションとしてはさほど面白みのない作品」と感じた。
恐らく、元になったドキュメンタリーは面白かっただろう。著者はきっと映像畑の人だろうから、映像の扱いには長けていただろうと思われる。しかし、文章の扱いには、さほど長けていないのかな、と思わせる。個人的には、これだけの素材が揃っていれば、もっとよりよい調理が出来たはずでは、と感じてしまった。そこだけが、ちょっと残念かなと思う。
とはいえ、本書で描かれる山野井夫妻は、非常に魅力的です。日常は非常に淡々と、ストイックな生活を続け、時折自分たちが登りたいと感じる山にアタックする。そうした生活を二人は愛しているし、指がなくなろうとそれは変わらない。不思議な魅力を持つ二人の生きざま、是非読んでみて下さい。

NHK取材班「白夜の大岩壁に挑む クライマー山野井夫妻」


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1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
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2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
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1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
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9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
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14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
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16位 朝井リョウ「何者
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18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

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1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
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3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
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5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
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14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
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17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
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