黒夜行

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ドキュメント 深海の超巨大イカを追え!(NHKスペシャル深海プロジェクト取材班+坂元志歩)

どんな分野にも、「聖杯」と呼ばれるものが存在するだろう。
数学の世界であれば、今なら恐らく「リーマン予想」だろう。難易度・知名度・そして証明された場合の数学界への影響度など、どれをとっても一級の「リーマン予想」はまさに数学者にとっての聖杯である。
物理学だと、「統一理論」だろうか。宇宙に存在する4つの力をすべて統合できるはずだという希望のもと、物理学者は「統一理論」という聖杯を目掛けて、あらゆる方面から突進していく。
ダイオウイカというのは、欧米人にとっては「聖杯」のようなものらしい。

『彼らにとってダイオウイカとは、たとえるなら聖杯伝説にも似た特別なもののようだ。現実として存在すると期待されながらも、伝説の生きものとして、大きな憧れと畏怖の念をかき立てられる存在であることを、岩崎は実感した』

これは、2004年、ダイオウイカの静止画の画像を撮った際に一層露わになった。

『「日本の窪寺がついにやりとげた!」
窪寺を称賛する数々の文字が躍った。
欧米の新聞社やテレビ局が窪寺からインタビューを取ろうと、こぞって国立科学博物館に電話をかけてきていた。フランス、イギリス、ドイツ、アメリカ…各国から記者が押し寄せてきた。はじめは新聞、テレビ、その後に雑誌という具合に、少しずつ時期をずらしながら1ヶ月あまりメディア取材に対応せざるを得なかった。
その騒ぎを見て、小山と河野は驚きを隠せなかった。
「静止画でこれほどの騒ぎになるのか」』

日本人にはあまり、ダイオウイカが「聖杯」というイメージがない。大昔から航海に長けてきた欧米人たちは、先祖代々海上で目撃したダイオウイカの伝説を受け継いできたのかもしれない。本書では、欧米人にとっての「ダイオウイカ」は、日本人にとっての「龍」のようなものかもしれない、と書いている。しかし、龍は実在しないが、ダイオウイカは実在する。

『これが、人類が初めて深海の生きたダイオウイカと対面した瞬間だ。
ダイオウイカが現れた時間は、わずか23分。誰も成し得なかったことを、やりとげてしまった23分間。この物語は、その23分間のために10年の歳月と情熱を捧げた人々を追ったものだ』

僕は、NHKスペシャルのダイオウイカの特集を見れなかった。見たいと思っていたのだけど、予定が合わなかった。ウチには録画機能がない。後日知人から、ダイオウイカの特集を録画したDVDをもらったのだが、何故か再生できず、未だに見ていない。だから僕は、ダイオウイカについてほとんど知らないまま本書を読んだ。
僕は漠然と、このプロジェクトはこういうものなんじゃないかと思っていた。どこかの国立科学博物館がダイオウイカの大規模な調査に乗り出すことにした。そこで、NHKに声を掛け、どうですか?撮影しませんか?と誘ったのではないか、と。つまり、元々の主導権はどこかの研究所や博物館が持っているものだとばかりずっと思っていた。
本書を読んで、その認識が誤りだったことを知る。なんとこのプロジェクトは、NHKが企画したものだったのだ。
10年!その途方も無い長さに驚かされるばかりだ。民間放送ではないとはいえ、ここまでの長期のプロジェクトはNHKといえどもそうはないだろう。そもそも、ダイオウイカの企画は、非常にリスキーなものだ。

『企画を採択する側から見ると、ダイオウイカという題材はリスクにあふれていた。欧米のテレビ局がこぞって狙っているというのに、撮影できていない。つまり、撮影できる可能性は限りなくゼロに近く、そこにかかる労力はただならぬものがあることが予想される。
幻の、文字通りとらようのないイカであること。この点は、自然番組を長年つくっている人々なら、みな知っていた。
さらに致命的だったのは、日本のなかでのダイオウイカの知名度の低さだった。欧米では、誰もがロマンをかきたてられる伝説の怪物だが、日本ではその魅力が伝わらず、リスクを冒してまで撮影しようという雰囲気ではなかったのだ』

企画がまだきちんと動き出す前、今から10年ほど前の状況そうだったのだ。そしてその環境は、深海プロジェクトがダイオウイカを実際に撮影するその時まで継続してそうだったはずだ。
何度かの危機を既に経ていたこのプロジェクトのプロデューサーである岩崎は、大胆な行動に出た。日本で企画が採用されないならと、世界の放送局を巻き込んだプロジェクトにすることを思いつく。そして実際に、ディスカバリーとの共同制作で進められることになったのだ。
しかしそうなっても、このプロジェクトは山ほどの暗礁に乗り上げ続ける。

『じつは2009年9月の時点で、岩崎は、上層部から引き返す地点をつくろうという話をもちかけられていた。それは、2009~10年で、ダイオウイカが全く撮影できなければ、企画そのものを白紙に戻すというものだった。何に一番費用がかかるかといえば、やはり潜水艇なのだ。その前に引き返すことができれば、痛手とはいえ、致命傷を避けることができる。』

『そして、2010年の春、岩崎は一つの決断をする。全く成果の出ないプロジェクトに危機感を抱いて、部長職を辞し、プロデューサーとして現場に戻る決意を固めたのだ』

『未曾有の震災の後も、番組を継続するのか。本当にできるのか。大震災、原発事故と震災の余波は収まることはない。優先されるべきは緊急報道だ。予定されていた番組編成は大幅に変更になり、緊急性の低いものは延期、休止されていった。』

『月日を重ねるごとに、小山と河野は追い込まれていった。3年という長期のプロジェクト期間をもらって撮影できなければ、2人のNHKでの立場は微妙になるかもしれない。深海以上の暗黒世界が、2人の背後に口を開けて待ち構えていた。焦燥感の募る、厳しい労働。それがイカ工船だ。』

それら山ほどの苦難を乗り越えて、岩崎・小山・河野という、このプロジェクトに当初から関わっていたNHKの三人は、ついにダイオウイカという聖杯を掴み取る。

『岩崎も、小山も、河野も口を揃えて言う。
世界で初めてのダイオウイカの撮影という偉業を成し得た理由は…奇跡だった、と。それは、仲間たちに支えられ、諦めずに挑戦し続けたからこそ成し得た奇跡だった、とも』

『このプロジェクトに参加したのは、ほんの少しの夢と情熱を持ち続けた普通の人々だ。地道に研究を重ねてきた科学者、休むことなく撮影に挑んできたカメラマン、苦労をいとわなかったディレクター、現場に戻り陣頭指揮を取ることを選んだプロデューサー…。
成功など、全く約束されていない。日々孤独感に苛まれ、苦しむことはわかっていても、誰も挑戦を辞めなかった。』

NHKスペシャル放映後、こんな反応があったという。

『ダイオウイカの映像が放送された後、「世界で初めてダイオウイカを撮影して何の意味があるのですか?」と誰かがテレビで話していた。その通りかもしれない。でも、10年の物語は―変わらぬ夢を持ち続け、逆境を跳ね返し、時にはばかばかしいほど熱くなる物語―そこに意味があるということを、きっと教えてくれる』

意味なんて、なくたっていいのだ。意味のあることだけ追い求めていたら、未だにロケットは飛んでいないし、未だにテレビは開発されていなかっただろう。同時代の判断基準だけであらゆる物事は判断されるとしたら、これほどつまらないことはない。このダイオウイカの撮影は、今は無意味かもしれない。未来永劫無意味な可能性だってゼロではないかもしれない。ただ、遠い将来恐ろしい価値を持つかもしれないし、何よりも、このプロジェクトに感銘を受けた人間が、海洋生物学者を目指すかもしれない。それでいい。それでいいと、僕は思う。
ダイオウイカ撮影に至るまでには、様々な発見と決断とブレイクスルーが存在した。漁師の協力の元、ダイオウイカが集まりやすい季節を判定すること、イカの視界を想像し赤色方向の光で撮影をすること、光量が少ない環境でも撮影可能なカメラをNHKが開発したこと、撮影クルーの反対を押し切ってカメラをもう一台設置する決断をしたこと。これらすべてが絶妙に絡まりあい、奇跡の23分間が生み出された。努力だけでは奇跡は起こせない。しかし、努力し続けなくては絶対に奇跡は起きない。そんなことを思わされた。
プロジェクトそのものに関わらない細部や脱線も色々と面白かったんだけど、個人的に、なるほどさすがテレビマン、と感じたエピソードがあるので、それを紹介して終わろうと思う。
ディレクターの小山は、ひたすら小笠原で、船酔いに耐えながら撮影を続けていた。縦縄と呼ばれる、深海まで届く非常に長い縄の先にカメラを備え付ける方法だ。陸に上がってから小山は、撮影したテープを回し続けるのだが、画面はひたすら黒いばかり、眠気を誘うものでしかなかった、という話が出てくる。
その時小山は、毎回必ず自分の後ろにカメラをセットし、映像チェックをしている自分を映し続けたという。何故か?それは、ダイオウイカが写ったテープに行き着いた時の自分の反応を、カメラで撮り漏らさないためだ、という。さすがテレビマン、という感じでした。
ダイオウイカを撮影できるかできないかは、本当に紙一重の差だったでしょう。正直、「こんだけ頑張ってるんだから、しゃーないな」という神様の粋な計らいだったのかも、と思うほど(別に神様を信じているわけではないんですけど)。日本の放送局が世界に発信する大快挙。その舞台裏を、是非堪能してみてください。

NHKスペシャル深海プロジェクト取材班+坂元志歩「ドキュメント 深海の超巨大イカを追え!」


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3位 浅野いにお「うみべの女の子
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5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
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18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
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1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
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4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
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6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

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3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
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