黒夜行

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たった独りの引き揚げ隊 10歳の少年、満州1000キロを征く(石村博子)

内容に入ろうと思います。
本書は、「サンボ」という、柔道やレスリングに似た競技で、41連戦すべて一本勝ちという驚異的な記録を残し、ソ連から自由主義国の人間として初めて「ソ連邦功労スポーツマスター」の称号を与えられた伝説の男・ビクトル古賀の物語です。
でも、サンボの話ではない。この作品は、ビクトル古賀が10歳、かつて満州だった地に住んでいた頃の話だ。
ビクトルは、満州の北西にあり、ソ連国境から陸路で約200キロのち点に位置する、北満最大の軍都であったハイラルで生まれた。
父は柳川の藩主の流れを汲む家系に生まれた日本人であったが、母親がコサックの血を引く女であった。
「コサック」と言えば、「コサックダンス」ぐらいしか思い浮かばないだろうけど、半農半兵の形態を取り、必要とあらば常に出兵できるように組織化された、馬術に秀でた集団で、ビクトルの祖父・フョードルは、アタマンと呼ばれるリーダー的な存在であったりもした。古賀家にとっても長男であったビクトル(正一)だったが、フョードルに、ビクトルはコサックとして育てると言われ、ビクトルはサムライとコサックの血を引く少年として鍛えられることになる。
1945年8月9日。その日ビクトルはいつものように、コーリャを始めとする仲間たちと、草原で馬を駆っていた。しかし、街の方から不穏な音がする。演習だろうと思って静観していたものの、とりあえず戻ってみると、街は大混乱に陥っていた。
ソ連軍が満州に攻め込んできたのだった。
ビクトルは、母・クセーニアの姿を探してハイラルの街を駆け回ったものの、まったく見つけることが出来なかった。
彼には、悲壮感はなかった。元来好奇心旺盛で楽天的であり、また祖父からコサックとしての様々な知恵を叩きこまれていたビクトルは、本物の戦争を見てみたいという興奮に包まれもして、悲壮感はない。しかし結局その日から、7年ほどビクトルは母親と再会することが出来ない。
ビクトルは、自身の愛馬を失っていたが、街を彷徨っている時に見つけた馬に乗って、北満のパリと呼ばれるハルビンまで自力で向かった。そこには、クセーニアが仲良くしていた女性が住んでおり、そこを尋ねると、父親の親戚が大勢避難していた。
ハルビンでの生活は、非常に楽しかった。
家でじっとしていろ、と叔母に言われるも、毎日外に飛び出していったビクトルは、毎日好奇心に導かれるように、あらゆることをやった。仲間が盗んできたものをソ連人に売り払ったり、迫撃砲の弾を失敬して魚を大量に獲ったり、中国有数の大河であるスンガリーを渡ったところにある島で遊びほうけたりと、やりたいことをやりまくった。生死の境を彷徨うこともあったけど、ビクトルは子どもとは思えない気力でそれを乗り切る。
次第にビクトルは、日本に帰りたいと思うようになる。父とは再開できていたが、小うるさい父は面倒だ。母の消息は未だしれない。そこで、父に方方頼んでもらって、どうにかある引き揚げ隊に混ぜてもらえることになり、ビクトルは電車に乗ってさえいれば日本に辿り着けることになった。
はずだった。
現実は、そう甘くなかった。コサックとのハーフであるビクトルは、「ロスケの面倒なんか見れるか」と、入れてもらえたはずの引き揚げ隊から取り残されてしまったのだ。
第二松花江から、引揚港がある錦州まで、鉄路の距離で652キロ。鉄路から離れて移動したビクトルは、この何倍かの距離を歩いたことだろう。
たった一人で2ヶ月徒歩の道程を生き抜く、ビクトルの旅路が始まった。
というような話です。
世の中にはやっぱりとんでもない人間がいるものだな、と思います。
正直、サンボで41連続1本勝ち、ってだけでも凄すぎるじゃないですか。でもビクトルは、著者の石村さんに、「自分の人生が最も輝いていたのは10歳の頃だ」と繰り返し語る。ビクトルはそれまで、この時の話をほとんど人に話したことがないという。こういう話が埋もれてしまう前に知ることができて本当によかったなと思う。
解説で佐野眞一は、満州を扱った話は暗い話が多い、みたいなことを書いている。僕は満州を扱った本をそこまで読んだことがあるわけじゃないからなんともいえないけど、確かにイメージとしてはそうかもしれない。
でも本書は、帯に佐野眞一が書いているように「後味が爽やか」だ。というか、後味に限らず、全編にわたって、非常に爽快なテイストである。
これは、ビクトル古賀という特異なキャラクターあってのことだなぁ、と思う。
ビクトルは、悲壮感を漂わせることがない。もちろん、大昔の話を語っているのだ。意識的に忘れたこともあるかもしれないし、言わなかったこともあるかもしれない。実際は物凄く不安に駆られた瞬間もあったかもしれないし、諦めかけたことだってあるかもしれない。
でも本書を読むと、ビクトル古賀なら確かに、へいちゃらで乗り越えちゃうかもしれないなぁ、と思わせるだけのしなやかな強さを感じられるのだ。
それが凄くいいと思う。ビクトルにとって、一人で2ヶ月歩き通した日々は、生きるか死ぬかの闘いだったはずだろうけど、でも本書の描かれ方を読むと、それよりも、ハイラルで馬を駆っていた日々の方が、あるいはハルビンで仲間とつるんでいた日々の方が、ビクトルにとって強く印象に残っているのではないか、という風に感じられもした。暗く辛い話を読みたくないわけではない。でも本書のように、絶望的な環境の中で楽観的にいられる人、今を全力で駆け抜けられる人、未来を諦めない人。そういう絶対的な明るさを持っている人の話を読むっていうのもまたいいなぁ、と思ったのでした。
しかし本当に、凄い人生だなぁ。
まず、コサックっていうのが素敵だ。コサックについては、まだまだ謎めいた部分が多くあるみたいで、本書でも詳しく描かれているというわけではないんだと思うんだけど、ロシアの革命政権により徹底的に弾圧を受け満州に逃げ込み、それを日本軍が対ソ連の諜報活動に利用するために迎え入れるというなかなか複雑な立場にいたコサック。誇り高き男たちという感じで、コサックの精神がまず素敵だなと思う。馬を操るとか、カッコイイしね。
本書の第二章の章題が「コサック最後の少年」で、これはビクトルのことを指してるんだろうけど、まあおそらく最後の世代なのだろう。巻末に、プーチン大統領がコサックの復権を推し進めているという話が載っていて、だからまたロシア内でコサックの勢力が増し、伝統も継続されていくのかもしれないけど、ビクトルがハイラルにいた当時は、コサックがコサックとしての暮らしを営むことが出来る場所は、世界中で三河(ハイラルの北にある地域のこと)だけだったという。そして戦後、中華人民共和国が成立する過程の中で、コサックは世界中に散り散りとなり、一旦消滅してしまう。
そういう意味でビクトルは、コサック最後の世代の少年だっただろう。
ビクトルがコサックの教えを受けていなければ、恐らく1000キロの道を踏破することは出来なかっただろう。
ビクトルはこんな風に語っている。

『もし、引揚隊と一緒に行動していたらどうなっていたかな?死んでいたかもしれないな』

日本人に対しては、こんな印象を抱く。

『日本人ってとても弱い民俗ですよ。打たれ弱い、独りに弱い。誰かが助けてくれるのを待っていて、そのあげく気落ちしてパニックになる』

ビクトルは、引き揚げ隊に置き去りにされても絶望はしなかった。祖父から教わったありとあらゆる知識と、それまで経験した様々な事柄をフル動員して、生き残っていくための様々な決断と行動をしていく。今ネットで1000キロってどれぐらいだろうって調べてみたら、東京から下関ぐらいまで、あるいは東京から札幌ぐらいまでが1000キロだそうです。鉄路の周辺には物盗りがいて、食料もわずかしかなく、整備された道もない。そんな1000キロを、たった10歳の少年が、自らの才覚だけで乗り越えていく。凄い男がいたものだなと思います。
日本にたどり着いてから、レスリングや柔道、そしてサンボと出会い、偉業を成し遂げる過程もさらっとではあるけど描かれる。その自由な生き方には憧れてしまう。自分というものがしっかりとあって、自らの生き方を自らで選び取っていく。周囲に流されることなく、自分が正しいと思える決断を気負いもなくできる。そうやって、41連勝すべて1本勝ちも成し遂げていく。
戦争の話というと、なんとなく暗くて辛い感じがしてしまうだろうけど、この作品はどこまでも明るい。ビクトル古賀という男の印象は本当に、ピーカンに晴れた青空みたいな感じだ。突き抜けるような青空のように曇りがなくて、暖かい。戦争というのは、様々な物語(と呼んでしまうのて適切ではないかもだけど)を生んだことだろう。ビクトル古賀の物語も、著者の石村さんがふとした思いつきでビクトル古賀のことを思い出すことがなければ、こうして世に出ることもなかった。凄い男がいたもんだと思う。是非読んでみて下さい。

石村博子「たった独りの引き揚げ隊 10歳の少年、満州1000キロを征く」



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