黒夜行

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こっちへお入り(平安寿子)

内容に入ろうと思います。
主人公の吉田江利は、33独身のOL。会社では、ムカつく取引先と使えない新入社員に振り回され、プライベートでは、腐れ縁としか言いようのない付かず離れずの関係である旬と時々ご飯を食べに行くぐらいで、ここ最近恋愛らしい恋愛もしていない。特別趣味があるわけでもなく、ただ毎日を漫然と過ごしていた。
大学時代の友人で病院付きのケースワーカーというシリアスな仕事をしている友美が、無料の市民講座で落語を習っていてその発表会があるから聞きに来てくれと言われて、特に期待もせずに行ってみた。思った通り、友美の噺は大したことはなかったけど、何人かこの人はちょっと巧いかもという人がいた。
最後に聞いたのが、市民講座の先生でありアマチュア落語家である楽笑だ。この楽笑の噺を聞いた江利は、ちょっと落語に惹かれ、打ち上げに参加したことをきっかけに、その市民講座を受講することに決めた。
初めの課題として『寿限無』を渡され、また楽笑から落語のCDを借りて聞いているうちに、すぐに落語にどっぷりはまってしまった。暇さえあればポケットに忍ばせた落語の台本に目を通し、外界の音をシャットアウト出来るイヤホンを耳にさして落語のCDを聞く。時折会う旬にも落語の話をし、次々に色んなCDを聞いては、落語の世界に笑ったり、あるいは疑問を抱いたりする。
と同時に、30代の江利にはそれなりにままならない状況が降り掛かってくる。江利を落語の世界に引き入れた友美の状況や、あるいは、便りがないのは無事の知らせとばかりに連絡を取らないでいた実家でもゴタゴタが起こっているようで…。
というような話です。
これはなかなか面白い話でした。僕は、本当にほんの少しだけ落語に興味を持っている人間で、でもほんのちょっとなんでほとんどCDとか聞いたことがないです。ちょっと縁があって、一回だけ落語を聞きに行ったことがあって、それは凄く感動したけど、本当にそれぐらいの経験しかないですね。落語絡みの本は多少読んだことがあって、立川談春の「赤めだか」とか立川志らくの「雨ン中の、らくだ」とか小島政二郎の「円朝」とか、まあいくつか読んでたりするんですけど、ホントそれぐらいだったりします。
まあそんな、ちょっと関心がある程度の人間で、知識もまるで何もなかったりするんですけど、でもやっぱり落語絡みの本を読むと、落語っていいよなぁ、って思っちゃいます。週刊で出てた落語のCDとかDVD付きの雑誌も2冊ぐらい買ったんですけど、全然聞く時間がなくてほったらかしにしてるんだけど、ちょっとそれを聞きたくなりました。
落語絡みの小説では、佐藤多佳子の「しゃべれどもしゃべれども」とか立川談四楼の「ファイティング寿限無」とか読みましたけど、落語が小説の中で活きるのって、落語というのが人間の弱さとかどうしようもなさとか、そういう綺麗ではない部分を扱っているからなんだろうなぁ、と思います。
本書でも、主人公の江利は、現実の世界で色々悩ましい状況にある。というか、江利自身はそれをそこまで自覚はしていなかったのだけど(恋愛に縁がない、ぐらいの悩ましさしか自覚していなかった)、落語に触れることで、自分の身の周りの現実の見え方が変わってくる、というようなそんな感じがします。それまで、自分の楽しさだけを追求してのほほんと生きていたのだけど、落語に触れることで、自分の周りにのほほんとしていられない状況の存在を知り、さらにその状況を落語に触れたことで自分の中でうまく消化していくことが出来る、そういう筋立てになっていて、凄く巧いなと思いました。
特に主人公は、30代女子。僕は女ではないけど、なかなか30代の女性というのは、30代の男よりも余計に色々と背負っているものがあるのだろうなぁ、という勝手な予想があります。作中で主人公はこんな風に言います。

『頑張って大人の女ぶったって、しょうがないじゃない。わたしゃ、相変わらずバカです。子供です。大人のふりなんか、もう、しません。できないもん。できないことは、しないんだ。時間の無駄だ。そう居直れたとき、成長したと感じた。三十代いいじゃん、と安心した。』

『それに引き替え、江利は何の犠牲も払っていない。ただ、自分のためにだけ、ノホホンと生きている。それが、引け目につながっている。』

こういうのって、まあ女性だけじゃないだろうけど、でも社会のあり方的に、女性の方がよけいいろいろなしがらみとかありそうな気がします。もちろん江利もそういうものを日常の生活の中で積み重ねていっていて、そういう中で、ちょっと窮屈さを感じている。まずそういう状況が、殊更深刻な感じで描かれないところが、エンタメ作品として面白いですね。
そういう、ちょっとままならない状況を、落語がどうにかしてくれる。もちろん、落語を聞くことで、あるいは落語を演ることで、現実の状況に変化があるわけじゃない。そんなものはもちろん変わらない。でも、落語を聞く者の、落語を演る者の気持ちが変わる。落語で描かれる人たちは、今の僕たちよりも全然辛い時代を生きている。そういう中で見せる人情や矜持や維持や誇り。落語のそういう部分に触れることで、自分の中で何かが変わっていく。凝り固まっていた考え方が少し溶けたり、分かり合えないと思っていた相手を受け入れようと思えたり、辛い状況を笑い飛ばせる気持ちになれたりする。そういう力が落語にはある。
凄くいいセリフがある。江利が、自分のままならない状況を何故か楽笑に話してしまった後で、楽笑が江利に言う言葉だ。

『思い通りに行く人生なんて、ない。誰もが、自分のバカさ加減に泣かされるんです。その繰り返しが人生じゃないですか。だから、噺の世界ではバカが立役者なんです。バカな考え、バカな行い、それゆえの泣き笑い。それがね、僕らがやっている落語ってものなんですよ』

本書では、落語の中身についても語られる。それぞれの落語がどういう噺で、それぞれについてどの主人公がどういう感想を抱いているのか。そういう話も結構よく出てくる。僕は『粗忽長屋』とか『芝浜』ぐらいはなんとなく知ってるんだけど(でも、それらについてもほとんど名前ぐらいかな、知ってるのは)、本書では結構たくさんの落語の中身が紹介される。江利はそれぞれについて、どういうところに共感できるのか、あるいはどういう部分に納得がいかないのか、ということを考え続ける。
江利は、自分には納得できない話について、楽笑に教えを乞う。ここは、主人公が女性で、その落語教室も基本的に女性向けに開かれている、という作品の設定が非常に面白く活きる。落語というのは、基本的に男の目線から、男によって語られてきた世界だ。だから、女性の側からすると許容できない、納得がいかない部分というのも出てくる。江利も、そういう部分でつっかかってしまう。しかし楽笑から、考え続ければ見えてくるものがある、と諭す。長い間落語の世界で大切に語られてきたある噺。それにどうしても納得出来なかった江利だったが、自分の現実のゴタゴタと関わっている内に見えてくるものがある。落語を知ることで現実の見え方が変わり、また、現実と真剣に取り組むことで、落語の見え方が変わっていく。
僕は落語については全然知識はないけど、その奥深さの一端に触れられたような気がした。ただ笑えるだけの噺では、ただ泣けるだけの噺ではない。それがこれほどまでに長く語られ、残り続けてきたその理由はきちんとあって、表面だけ物語を追っているだけでは見えないものがたくさん隠されている。そういう奥深さが、人の心を動かし、人の人生を変えていくことになる。本書では色んな落語の話がされるけど、個人的に凄く気になるのは、「文七元結」と「芝浜」。特に「文七元結」に納得できないでいた江利が、様々な経験を経て、これはこういう物語だったのですね、と悟るその解釈がなるほどと思わされました。どこからどう見るかで物事ががらりと入れ替わってしまう、その妙もあるなぁ、と。
落語の主人公は、頭もよくないし、怠けてるし、時には暴力を振るうような男も出てくる。基本的に駄目男の話なのだ。それでも、ただ駄目なだけではない話がそこにはある。僕たちは、何者かにならないといけないみたいな強迫観念が若干なりともあると思うし、夢を追わなくてはいけないなんていう強制を感じることもあるんじゃないかと思う。でも、誰もが何者かになれるわけでも、夢を実現できるわけでもない。そういうことをなんとなく圧力として感じてしまう世の中に窮屈さを覚えることって、結構あったりする。でも、落語の世界に触れると、それでいいんだよ、と言われているような気になるのではないかと思う。そのままでいいんだよ、と。なんかそうやって、肩の力を抜きやすくしてくれるのも、落語の良さだったりするのかもしれないなぁ、とか思ったりします。
作品自体も凄くいいんですけど、やっぱりこういう落語小説を読むと、落語を読みたくなってしまいますね。本書は特に、女性として社会の中で生きることに何か疲れとかモヤモヤとかを抱いている人が読むと、凄く面白いんじゃないかなと思います。落語に出会い、人生を知る、という感じの作品です。是非読んでみてください。

平安寿子「こっちへお入り」



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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)