黒夜行

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すべては一杯のコーヒから

志保はその日から、父親とは口を利かなくなった。その電話のことは、お母さんにはもちろん、父親にも一切話さなかった。それでも、父親は相手の女性から話を聞いていたのだろう、志保が父親と口を利かなくなった理由をなんとなく理解しているみたいだった。父親を嫌いになればなるほど、電話の向こうの女性の思う壺だということは理解出来ていたけれど、そうだとしても、志保の心が父親と喋ることを拒絶した。
 恐らくお母さんも気づいていたのではないかと思える出来事があった。その電話よりも前のことだ。
 その日中学校が学級閉鎖になり午前中で授業が終わった。志保は特に連絡をすることもなく真っ直ぐ家に帰った。母親のいる部屋の前を通り過ぎた時、中からすすり泣く声が聞こえてきた。突然帰ってきた志保に聞かせないようにするためだろう、必死で声を抑えようとしているのが伝わってくるのだけれど、時々嗚咽が漏れ出てきた。志保はこれまで、お母さんが泣いているのを見たことがなかった。聞いてはいけないものを聞いてしまったと思い、すぐに自分の部屋に駆け込んだ。今日お母さんは叔父さんの会社で仕事のはずじゃないか、ということに気づいたのはしばらく経ってからだった。

「失踪シャベル 6-10」

内容に入ろうと思います。
本書は、アメリカのシアトルで周辺で展開していたタリーズというスペシャリティコーヒーショップを、日本に根付かせた人が書いた、自身のこれまでの人生や経営について書いた本です。
まず経歴がなかなか面白い人です。
幼い頃、父親の転勤の都合でセネガルへ、そして一端日本に戻ってきた後、今度はアメリカへ、という生活で、ちゃんと日本で生活するようになったのは大学時代から。高校時代、日本食を友人に受け入れてもらえなかった経験から、日本食文化を世界に広めたい、という起業意識を持つ。就職の際、いろんな経営者に会って経営を学べるからということで銀行を選ぶが、初めに配属されたところが田舎の支店で大した仕事をさせてもらえず、しばらくすると同期と大きな差がついていた。ある時友人の結婚式でアメリカに向かった際、自身が住んでいた頃は一杯100円以下だったコーヒーが300円以上で売られ、しかも店に行列が出来ているのを見て、スペシャリティコーヒーに可能性を見出す。シアトル中のスペシャリティコーヒーショップを回った結果、タリーズという当時さほどメジャーではなかったコーヒーショップに狙いを定め、資金も経営の経験もないところからなんとか経営権を獲得する。経営権を獲得してからも紆余曲折大変だったのだけど…。
というような感じです。
とにかく本書を読んで感じるのは、松田氏の情熱です。情熱があればどんな目標でも叶う、と言い切るほど僕は情熱を信じていない冷めた人間なんだけど、それでも本書を読んでいると、情熱で突き進んでいけば大抵のことはどうにかなるのかもしれないな、と思います。
何せ、大資本がバックにない状態で、大手とは言えないけど既にアメリカでチェーン展開を成功させ、ちょうど日本へ進出しようとしているタリーズと交渉しなくちゃいけないわけで、まさにここは情熱だけで乗り切ったという感じです。
初めはタリーズに電話をして取り次いでもらおうとしたけど、もちろん通してはもらえない。そこで松田氏は、二ヶ月間、毎日タリーズ本社に自身の経営のスタンスや日本でのビジネスのあり方などについてメールを送り続けたらしいです。すると、初めの内はなしのつぶてだったのが、しばらくして副社長から簡単な返信が来るようになったわけです。
それから再度押しに掛かろうと、また面会の約束のために電話をすると、ちょうど社長が日本にいるという。そこで滞在しているホテルを聞き出すとすぐさま向かうという行動力を見せます。
しかもタリーズの社長は、日本進出のために日本へと気ていて、とある大手スーパーと交渉に入っているということでした。そのスーパーの店舗にタリーズの店を作れば一手に増えると考えている社長に、まだ経営の経験すらない松田氏は、「それは間違っている」とタリーズの社長に言うわけです。スペシャリティコーヒーというのは、味は一流だけど、何せ値段は高い。日本では格安のコーヒーが流行っているけれども、それに対抗するにはブランドイメージを確立しなくてはいけない。ハーゲンダッツが日本で成功したのは、東京・青山に第一号店を出してブランドイメージを確立したからだ。タリーズも、銀座などの場所に一号店を出し、ブランドイメージを確立してからでないと日本での成功はありえない。
そういうことを社長に直談判するわけです。たぶん普通に日本で産まれて普通に日本で育った人にはなかなかこういうことはできないでしょうね。やっぱりアメリカで育ったという背景があるからだろうなと思いました。
そうして最終的に松田氏がタリーズと契約出来ることになるんだけど、その際資金がないという状況を訴えたところ、契約金をゼロにしてくれたそうです。タリーズの社長が変わった人物だったということもあるけど、そういう部分も、結局松田氏という人間が買われたのだろうな、という感じがしました。ホントに、とにかく情熱がなければそもそも契約にさえたどりつけなかっただろうと思います。
さて、それからも大変です。まず、一号店を銀座にと考えていたけど、物件が全然出てこない。銀座などの場所は、やはり話が大手に流れてしまって、資本のバックのない松田氏の元にはそもそも話すら来ないという状況らしいです。それでもなんとか銀座に一号店をオープンするけど、認知されていないブランドにはなかなかお客さんが入ってこない。無休で朝から晩まで働き、店内で寝泊まりするような日々が続きます。
銀座店をオープンしてからも、とにかく出来ることは何でもやるという精神で、とにかく動き続けます。
面白いなと思ったのが、客を呼び込むある方法。近くに歌舞伎座があったようで、舞台が上がると店の前を人がたくさん通る。その人たちをなんとか引き入れられないかと考えていた時、ある法則に気づく。それは、あるグループが店に入ると、その近くにいたグループも引き寄せられる、という法則だ。だから松田氏は、舞台が終るちょっと前になると交差点付近にいて、歌舞伎座から出てくる流れの先頭に立つ。そしてタリーズの前で、なんだこんなところにコーヒーショップがあったのかという風情でふらりと店内に入るわけです。すると、その後ろにいた人たちもつられて店内に来てくれることが多くなったということでした。とにかくやれることはなんでもやるという松田氏の精神は素晴らしいなと思いました。
また、タリーズで働く人はやりがいがあるだろうな、という感じがしました。松田氏は、幹部だろうがアルバイトだろうがみんな同じだということで、従業員すべてをフェローという呼び方で統一しています。スタッフは下の名前で呼ぶようにし、とにかくお客さんと積極的に話すようにというスタンスです。スタッフに本当に成長して欲しいという思いで真剣に怒ったりするために、その想いが伝わるのでしょう。初めは人前で喋ったり笑顔を作ったり出来なかったスタッフも、次第に店の有力なスタッフの一人になっていくわけです。会社とはとにかく人だと考えていて、アルバイトでも、タリーズで働くことで何かを得て欲しいと考えている。こういう経営者の元で働くというのは幸せだろうなと思います。
また、松田氏がコーヒーにかける力は素晴らしいものがあります。他のチェーン店では、ボタンを押せば出てくる自動マシンを使っているのに対し、タリーズでは気温やその他の条件などによって設定を変えられる手動マシンを使っているとか、大金を投じてタリーズ本社から焙煎の権利を買い、他のチェーン店が未だに輸入に頼っている中、タリーズはとにかく手間暇を掛けて最高の豆を最高のやり方で焙煎しているようです。また銀座店をオープンさせた時は、メニューに載っているのはあくまでも目安で、お客様の好みをちゃんと言ってくださいという風にお客さんにアナウンスし続けたそうです。ホイップをちょっと多めにとか、コーヒーをちょっと濃いめにとか、そういうお客さんのちょっとした好みも反映出来るようにお客さん自身の意識も変えようとしたというのだから、素晴らしいなと思いました。
経営の話とは関係ないですけど、最後に面白いと思った話を一つ。ある場所に出店する際、保健所からは衛生上の問題があるから屋根をつけなさいと言われた。言われた通りにすると、今度は消防から、スプリンクラーがうまく働かないから屋根を取りなさい、と言われたのでした。消防に、保健所には屋根をつけなさいと言われたのですがというと、それは保健所の論理でしょ、消防としては屋根を取らないと許可は出来ません、と言われたとか。縦割り行政の弊害というのは凄まじいものがあるなと思いました。
まあそんなわけで、本書はかなり良い作品だと思います。ビジネスの話ばかりでもなく、経営者の自慢話ばかりでもなく、読み物として面白い作品に仕上がっています。一番初めの章で、タリーズとの契約の話を持ってきて、次の章から松田氏の生い立ちに触れるという構成も、読者の興味をひきつけるという点で実によかったと思います。また何よりも、青臭いかもしれないけど、やれば出来るというメッセージが強く伝わってくるし、経営者の価値観によって会社というのはこうも変わるのだなという感じもしました。タリーズには行ったことがないんだけど、ちょっと行ってみてもいいなと思ったりもしました。ビジネスに関する本ですけど、ビジネス書というほどでもなく、読み物として結構面白い作品だと思います。是非読んでみてください。

松田公太「すべては一杯のコーヒーから」



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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)