もえない(森博嗣)
森博嗣の小説は、何だか小説らしくないという印象を受ける。
これは決して悪い評価ではない。むしろいい評価であると言える。その辺りのことをちょっと説明してみたいと思うのだ。
小説というのは、まあ様々なジャンルがあるものだけど、何だかんだと言ってストーリーを伝えるための器だと僕は思っているのだ。小説の中には、人間もいれば自然もある。感情もあれば論理もある。そういった様々なものが含まれて小説と呼ばれるようになるのだけど、しかし常に求められることは、それがストーリーを伝えているということだと僕は思う。それが、小説の本質とは言えないかもしれないけど、少なくとも骨格にはなりえる。
もともと小説というのは、いつの間にか小説として存在していた、それを発表してみた、というような形態だったはずだと僕は思うのだ。もっと昔、まだ小説家なんていう存在が全然なかったような頃を想像してみると、どこかに発表したりそれでお金を儲けたりといったような意思なく小説が生み出され、それが人に読まれたりするようなのが始まりだったのではないかと思うのだ。始まりという言い方はおかしいけど。
だからこそ、まず小説という器があって、そこにストーリーを盛るという流れで小説というものを生み出せたのだと思う。少なくとも、ちょっと前まではそうだったはず。
しかし最近は違うように思える。最近では、とにかく小説というのは一つの道具になった。表現ではなく道具だ。書きたいことがあるから小説を書くのではなく、作家になりたいから小説を書いたり、あるいは小説を書き続けなくてはいけないから小説を書いたりといったような状況になっている。
そんな状況の中では、まずストーリーが優先されるのだ。ストーリーがあり、その後で器である小説の形にする。そんな小説が多いような気がする。
さてその場合小説というのはどうなるかと言えば、ありとあらゆる要素がそのストーリーのために存在するようになってしまうのだ。僕が言っていることが分かるだろうか?
イメージとしては、中心がある、ということになる。円みたいなイメージだ。人間も自然も感情も論理も、小説の中に含まれるありとあらゆる要素が、ストーリーという中心に向かって注ぎ込まれていく。もっと言えば、ストーリーに関係のある要素だけが残され、ストーリーに無関係な要素はどんどんと殺ぎ落とされていく。そんな感じである。
だから最近の小説というのはすごくすっきりしている。分かりやすい。それは当然で、ストーリーに関係のない余分なものは省かれてしまっているからだ。まさにそれはデザインそのものであり、車になんとなく近い。昔の車は、余分なものが多くすっきりとしていなく効率なんかも悪かったけど、しかしそれがいいという人もいる。最近の車は余分なものはないしすっきりしているし効率もいい。それがいいという人もいる。まさに小説も、車のようなデザインのされ方をしているように思える。
ただ、そういう小説の難点は、やはりどうしても現実からは遊離するということだ。ぼんやりと小説を読んでいる時は気づかないのだが、ストーリーに余分なものを削っている分、小説の中にノイズがなくなってくる。僕らは普段生きている中で、まさにノイズとしか呼べないような行動や感情を有している。理由もなく行動したり、理不尽な感情を抱いたりといったような積み重ねで日常というものが成り立っていく。そのことはあまり意識されないので、ノイズを取り払った小説を読んでも違和感を感じなくなっているのだけど、よくよく考えてみると、そのノイズのなさが小説を現実から遊離させているように思えてくる。
森博嗣の小説には、最近省かれてしまっているノイズが意識的に残されているように僕には思う。ストーリー全体からしたら余分で、まるで不要なピースの紛れ込んだジグソーパズルでもしているような感じなのだけど、それが逆に現実っぽさをかもし出しているように思う。特に会話にそれが現れているように思う。小説の中の会話は、読者に情報を伝達する手段として存在することが多い。特にミステリではそうだ。しかし僕らが日常にする会話のほとんどは伝達を意図したものではない。お互いの隙間を埋めるような、そんな目的で喋っていることが多い。そういう雰囲気を、森博嗣の小説を読むと感じることが出来るのだ。
ノイズが多い小説は、中心を生み出しにくい。それは小説全体の分かり難さを高めるということにもなるだろうと思う。誰だって、パッと見で名前を思いつけないような複雑な図形より、円とか平行四辺形みたいな単純な図形を見たいものだろう。
それは、本を読むということがどんどん受身になってきたその歴史を物語ってるのだと思う。たぶん昔は、本を読むという行為はもっと能動的なものだったはずだ。既に僕には、能動的な読書というのがどういうものかイメージできないのだけど、そんな気がする。だからこそ、名前のつけようもない複雑な図形を見せられても大丈夫だったのだ。
僕らは、本を読むという行為に受動性を求めているために、目の前に現れるものがより単純で美しくあればいい、と考えてしまう。恐らく忙しすぎるのだろうと思うのだけど、じっくりと一冊の本を読むような余裕がないのだろう。だからこそ、円や平行四辺形みたいな雰囲気の小説ばかり求めるし、読者がそれを求めるから、作家もなるべくノイズのない作品を書こうとする。そうして今のような状況になったのだろうなと漠然と想像する。
別にノイズがあればいいというわけでもないだろう。僕だって、やはりどちらかと言えばノイズのない小説の方が読みやすいと感じてしまうだろう。しかし、時々こうしてノイズの残っている作品を読むと新鮮に感じられていい。そんなことを思った。
そろそろ内容に入ろうと思います。
特に親しかったわけでもないクラスメートの杉山が死んだ。なんとなく葬儀にも出た。退屈だった。皆出るものだと思ったけど、葬儀に参加したのは僕を含めて数人だった。
親友の姫野と話している内に、去年だったか杉山からもらった手紙のことを思い出した。封を開けた記憶がなかった。家に帰って探してみると、やはり未開封のままで見つかった。そこには、なんとも奇妙なことが書かれていた。
「友人の姫野に、山岸小夜子という女と関わらないように伝えてほしい」
結局杉山は死んでしまったわけで、その真意は分からない。
学校に杉山の父親がやってきた。僕の名前が掘り込まれたプレートを持っていた。棺に何冊か本を入れていたのだけど、恐らくそこに挟まっていたのだろう、とその父親は言った。僕にはまったく見覚えはなかった。結局そのプレートはもらうことになった。
それから、なんだかぼんやりと日々を過ごした。杉山のことが気になっているのかというと、そうではない気がする。何だか分からない。分からないけど、何かがどうしても気になるのだ…。
というような話です。
まあ全体的には普通ぐらいの作品ですね。森博嗣の作品は新刊が出るたびすぐ買って読むんですけど、最近そこまで当たりと感じられる作品には出会わないですね。ここ最近では、「ZOKUDAM」は傑作だったなと感じたのだけど。
本作のような雰囲気は結構好きですね。森博嗣の作品らしい、静謐というかクールというか、そんな感じの雰囲気の作品です。「記憶と殺人をめぐるビルドゥングスロマン」と書いてあって、ビルドゥングスロマンってのが何かさっぱり分からないのだけど。
タイトルは恐らく、「萌えない」と「燃えない」を掛けてるんだろうな、と思います。「萌えない」の方は「萌え~」とかの萌えるじゃなくて、植物が生えるという意味の萌えるです。森博嗣はタイトルを考えるのに半年以上掛かるという話を日記に書いていますけど、確かに森博嗣の小説のタイトルはかなりセンスのいいものばかりだなと思います。
まあ、オススメするほどの作品ではないけど、読んで損することもないだろうと思います。まあそんな感じの作品です。
PS:この感想を書いている途中で、もう後から考えれば考えるほど面白いような出来事があって、さすがにブログに書いたらまずそうなんで書かないですけど、いやぁ、年の瀬に大いに笑わせてもらいました。
森博嗣「もえない」
これは決して悪い評価ではない。むしろいい評価であると言える。その辺りのことをちょっと説明してみたいと思うのだ。
小説というのは、まあ様々なジャンルがあるものだけど、何だかんだと言ってストーリーを伝えるための器だと僕は思っているのだ。小説の中には、人間もいれば自然もある。感情もあれば論理もある。そういった様々なものが含まれて小説と呼ばれるようになるのだけど、しかし常に求められることは、それがストーリーを伝えているということだと僕は思う。それが、小説の本質とは言えないかもしれないけど、少なくとも骨格にはなりえる。
もともと小説というのは、いつの間にか小説として存在していた、それを発表してみた、というような形態だったはずだと僕は思うのだ。もっと昔、まだ小説家なんていう存在が全然なかったような頃を想像してみると、どこかに発表したりそれでお金を儲けたりといったような意思なく小説が生み出され、それが人に読まれたりするようなのが始まりだったのではないかと思うのだ。始まりという言い方はおかしいけど。
だからこそ、まず小説という器があって、そこにストーリーを盛るという流れで小説というものを生み出せたのだと思う。少なくとも、ちょっと前まではそうだったはず。
しかし最近は違うように思える。最近では、とにかく小説というのは一つの道具になった。表現ではなく道具だ。書きたいことがあるから小説を書くのではなく、作家になりたいから小説を書いたり、あるいは小説を書き続けなくてはいけないから小説を書いたりといったような状況になっている。
そんな状況の中では、まずストーリーが優先されるのだ。ストーリーがあり、その後で器である小説の形にする。そんな小説が多いような気がする。
さてその場合小説というのはどうなるかと言えば、ありとあらゆる要素がそのストーリーのために存在するようになってしまうのだ。僕が言っていることが分かるだろうか?
イメージとしては、中心がある、ということになる。円みたいなイメージだ。人間も自然も感情も論理も、小説の中に含まれるありとあらゆる要素が、ストーリーという中心に向かって注ぎ込まれていく。もっと言えば、ストーリーに関係のある要素だけが残され、ストーリーに無関係な要素はどんどんと殺ぎ落とされていく。そんな感じである。
だから最近の小説というのはすごくすっきりしている。分かりやすい。それは当然で、ストーリーに関係のない余分なものは省かれてしまっているからだ。まさにそれはデザインそのものであり、車になんとなく近い。昔の車は、余分なものが多くすっきりとしていなく効率なんかも悪かったけど、しかしそれがいいという人もいる。最近の車は余分なものはないしすっきりしているし効率もいい。それがいいという人もいる。まさに小説も、車のようなデザインのされ方をしているように思える。
ただ、そういう小説の難点は、やはりどうしても現実からは遊離するということだ。ぼんやりと小説を読んでいる時は気づかないのだが、ストーリーに余分なものを削っている分、小説の中にノイズがなくなってくる。僕らは普段生きている中で、まさにノイズとしか呼べないような行動や感情を有している。理由もなく行動したり、理不尽な感情を抱いたりといったような積み重ねで日常というものが成り立っていく。そのことはあまり意識されないので、ノイズを取り払った小説を読んでも違和感を感じなくなっているのだけど、よくよく考えてみると、そのノイズのなさが小説を現実から遊離させているように思えてくる。
森博嗣の小説には、最近省かれてしまっているノイズが意識的に残されているように僕には思う。ストーリー全体からしたら余分で、まるで不要なピースの紛れ込んだジグソーパズルでもしているような感じなのだけど、それが逆に現実っぽさをかもし出しているように思う。特に会話にそれが現れているように思う。小説の中の会話は、読者に情報を伝達する手段として存在することが多い。特にミステリではそうだ。しかし僕らが日常にする会話のほとんどは伝達を意図したものではない。お互いの隙間を埋めるような、そんな目的で喋っていることが多い。そういう雰囲気を、森博嗣の小説を読むと感じることが出来るのだ。
ノイズが多い小説は、中心を生み出しにくい。それは小説全体の分かり難さを高めるということにもなるだろうと思う。誰だって、パッと見で名前を思いつけないような複雑な図形より、円とか平行四辺形みたいな単純な図形を見たいものだろう。
それは、本を読むということがどんどん受身になってきたその歴史を物語ってるのだと思う。たぶん昔は、本を読むという行為はもっと能動的なものだったはずだ。既に僕には、能動的な読書というのがどういうものかイメージできないのだけど、そんな気がする。だからこそ、名前のつけようもない複雑な図形を見せられても大丈夫だったのだ。
僕らは、本を読むという行為に受動性を求めているために、目の前に現れるものがより単純で美しくあればいい、と考えてしまう。恐らく忙しすぎるのだろうと思うのだけど、じっくりと一冊の本を読むような余裕がないのだろう。だからこそ、円や平行四辺形みたいな雰囲気の小説ばかり求めるし、読者がそれを求めるから、作家もなるべくノイズのない作品を書こうとする。そうして今のような状況になったのだろうなと漠然と想像する。
別にノイズがあればいいというわけでもないだろう。僕だって、やはりどちらかと言えばノイズのない小説の方が読みやすいと感じてしまうだろう。しかし、時々こうしてノイズの残っている作品を読むと新鮮に感じられていい。そんなことを思った。
そろそろ内容に入ろうと思います。
特に親しかったわけでもないクラスメートの杉山が死んだ。なんとなく葬儀にも出た。退屈だった。皆出るものだと思ったけど、葬儀に参加したのは僕を含めて数人だった。
親友の姫野と話している内に、去年だったか杉山からもらった手紙のことを思い出した。封を開けた記憶がなかった。家に帰って探してみると、やはり未開封のままで見つかった。そこには、なんとも奇妙なことが書かれていた。
「友人の姫野に、山岸小夜子という女と関わらないように伝えてほしい」
結局杉山は死んでしまったわけで、その真意は分からない。
学校に杉山の父親がやってきた。僕の名前が掘り込まれたプレートを持っていた。棺に何冊か本を入れていたのだけど、恐らくそこに挟まっていたのだろう、とその父親は言った。僕にはまったく見覚えはなかった。結局そのプレートはもらうことになった。
それから、なんだかぼんやりと日々を過ごした。杉山のことが気になっているのかというと、そうではない気がする。何だか分からない。分からないけど、何かがどうしても気になるのだ…。
というような話です。
まあ全体的には普通ぐらいの作品ですね。森博嗣の作品は新刊が出るたびすぐ買って読むんですけど、最近そこまで当たりと感じられる作品には出会わないですね。ここ最近では、「ZOKUDAM」は傑作だったなと感じたのだけど。
本作のような雰囲気は結構好きですね。森博嗣の作品らしい、静謐というかクールというか、そんな感じの雰囲気の作品です。「記憶と殺人をめぐるビルドゥングスロマン」と書いてあって、ビルドゥングスロマンってのが何かさっぱり分からないのだけど。
タイトルは恐らく、「萌えない」と「燃えない」を掛けてるんだろうな、と思います。「萌えない」の方は「萌え~」とかの萌えるじゃなくて、植物が生えるという意味の萌えるです。森博嗣はタイトルを考えるのに半年以上掛かるという話を日記に書いていますけど、確かに森博嗣の小説のタイトルはかなりセンスのいいものばかりだなと思います。
まあ、オススメするほどの作品ではないけど、読んで損することもないだろうと思います。まあそんな感じの作品です。
PS:この感想を書いている途中で、もう後から考えれば考えるほど面白いような出来事があって、さすがにブログに書いたらまずそうなんで書かないですけど、いやぁ、年の瀬に大いに笑わせてもらいました。
森博嗣「もえない」
Comment
[2485]
[2486]
えぇ、嫉妬してくださいな(笑)
ありがとうございますね。
小説は…、期待しないでください。たぶん、相当酷いものになると思います。
ZOKUDAMはアホらしくていいですよね。
思わず笑ってしまいます。
まあ来年もそれなりに読みましょう。
良いお年を。
年の瀬の大笑いは…、いやもしかしたら面白い話じゃないかもだからなぁ。
まあ何にしても、ブログに書いたらあんまりよろしくなさそうだからね。
ありがとうございますね。
小説は…、期待しないでください。たぶん、相当酷いものになると思います。
ZOKUDAMはアホらしくていいですよね。
思わず笑ってしまいます。
まあ来年もそれなりに読みましょう。
良いお年を。
年の瀬の大笑いは…、いやもしかしたら面白い話じゃないかもだからなぁ。
まあ何にしても、ブログに書いたらあんまりよろしくなさそうだからね。
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心からお祝い申し上げたいですが、若干、嫉妬が含まれますのでご容赦を。(笑
それにしても、凄いですね。もう数の前に圧倒されます。
そして新年の抱負(?)の小説を書くというスガさんの試みもとても楽しみです。
ZOKUDAMは読了しました。いやぁ、楽しかったです。(笑)
ロミ・品川が本当に笑わせてくれました。
今はP・エルディッシュの天才性をしみじみと味わっています。
数学者って本当に良いですよね。
今年は恐らく、100冊程度(春に40、夏に40、普段で20くらい)でしたが、比較的自分の中では読めた年でした。それもこれもスガさんのおかげであります。感謝
来年もまた、よろしくお願いします。
良いお年を。
P.S.年の瀬の大笑いが気になります。なにがあったのですか?