「スパイの妻」を観に行ってきました
香港のデモの映像を見た時にも、感じたことがある。
デモを取り締まる側の警察官や軍隊の人たちは、一体どういう気持ちなんだろう、と。
世の中には、正解がわかりにくい問題も多々ある。そういう、正解がわかりにくい問題に対する対立に対しては、個々人がそれぞれの価値観で様々な判断をすべきで、その対立の仲裁をする立場の人間に思いを馳せることはあまりない。
しかし。例えば香港の一国二制度の改正や、アメリカの黒人差別、あるいは独裁政権への反対など、「その時点での世界的な”当たり前”の基準に照らして、明らかにデモ側に正義があると感じられる対立」の場合には、考えさせられてしまう。その仲裁を”せざるを得ない人”たちは、実際のところどう考えているんだろうなぁ、と。
別に、その人達を責めたいわけではない。僕自身、自分が警察官や軍隊に所属していて、決められた通りの任務を果たさなければ自分がそこに所属し続けられないし、つまり生活が困難になる、という状況であれば、決められた通りの任務を果たすかもしれない(果たさないかもしれないが)。僕が知りたいのは、取るべき行動についてではなく、デモを仲裁する行動を取っている時、彼らは何を考えているのか、ということだ。
心理学的に、人間は、「一貫性の法則」があると言います。これは、自分の発言・行動・態度・信念などを一貫したものにしたい、というものです。ビジネスの話で有名な話で言えば、「相手にYESと言わせたかったら、相手が100%YESと返す質問を先にいくつも繰り出せ」というのがある。「今日は暑いですね」など、YESとしか返答しようがない質問を先にいくつもしておくことで、自分が本当にYESと言ってほしい質問に対してもYESという返答がもらいやすくなる、というもの。あるいは、心理学の本でこんな話も読んだことがある。誰かに好きになってもらいたかったら、その人に仕事を頼め、というものだ。なんとも思ってなかった相手に対しても、その人のためになるようなことを何かしていると、「この人のために行動しているということは、私はこの人のことが好きに違いない」と、自分の行動と感情を一致させようとする気持ちが働くのだ、と。まあどちらの話も、ホントかどうか分かりませんけど、どんな人もそうであると断じるには乱暴ですが、大まかに人間にはそういう性質がある、ということは認めてもいい気がします。
さて、こういう「一貫性の法則」があったとして、デモを仲裁する人間の心理がどうなのか、と考えてみると、やはり自分のしている行動に引きずられてしまうのだろう、と思う。つまり、「自分は今、デモを仲裁する行動を取っている。ということは、自分は、このデモには反対なのだ」という風に思考が展開してもおかしくはない、ということだ。
こういうことについて考える時、僕は、ルールと個人の難しさを実感させられる。
僕自身は、人間は何にも所属せず(この所属というのは、国も含む)たった一人の個人として生きることは不可能なのだから、好むと好まざるとにかかわらず自分が所属していることになっている国なり組織なりのルールは守らなければならない、と基本的には考えている。しかし、ルールは常に間違いうる。時代が変化しているのに、ルールが変化しない理由はない。しかし時に、時代の変化にルールが追いつけなかったり、あるいはその逆のことが起こったりする。その場合は、ルールを破ってでも闘う必要がある、と思う。
とはいえ、「ルールに従う」という行動は、自分の価値観を変えてしまいうる。初めは、仕方なく、本意ではないがルールに従っているという状態であったものが、「一貫性の法則」に絡め取られて、いつの間にかそのルールに沿った価値観を獲得してしまいうる。それはあまりにも自然に進んでいくから、自身の変化に気づけない。最初から、そのルールの内側にいて、そのルールに対して疑問を抱いたことなどないかのように変わってしまいうるのだ。
誰もが、今問われれば、「戦争など反対だ」と言うだろう(戦争を望む者もいるだろうが、少なくとも今の日本では少数派だと思う)。しかし、僕を含め、そう主張する誰もが、未来には戦争を賛美している可能性がある。自分の変転に、気づかないままで。
怖いな、と思う。だから僕は、なるべく、「ルールに反抗する自分」を、いつだって自分の中に飼っておこうと思っている。
内容に入ろうと思います。
1940年、神戸。戦争を背景に、国内の外国人が敵国出身というだけで逮捕されるような時代、福原優作は福原物産という貿易会社を経営している。妻の聡子と共に瀟洒な洋館に住み、舶来物で日常を埋め尽くしている。国内では「国民服令」が出ているが、優作はどこ吹く風、そんなルールに従うつもりなど毛頭ない。聡子の幼い頃からの友人で、今は神戸憲兵分隊本部の分隊長となった津森は、優作や聡子に対し、「外国人との付き合いを考え直した方がいい」「あなたがたの普通が、この国では批判や攻撃と受け取られかねません」と忠告するが、聞くつもりがない。
不自由のない生活をする二人だったが、優作が、甥の竹下文雄と共に満州に行ってから、状況が変わってしまう。まず、福原物産に勤めていた文雄が、会社を辞めて小説を書くと旅館に閉じこもる。さらに津森から、その旅館の女中が亡くなったこと、そしてその女中は優作が満州から連れて帰ったことを聞き、夫が何をしているのか信じられなくなっていく。優作を問い詰めるが、「問わないでくれ」と言うばかり。埒が明かないと、旅館に籠もる文雄を訪ねたことで、聡子の人生は一変することになる…。
というような話です。
特にこれと言ったイメージを持ってたつもりはないのだけど、良い意味でイメージと違う作品で、非常に面白かった。どうして「スパイの妻」というタイトルなのか、冒頭からしばらくの間は理解できなかったのだけど、なるほど、たしかにこれは「スパイの”妻”」と、妻が強調される作品だと感じた。
物語の核心的な部分には触れるつもりがないので、ぼやっとした感想になるが、この映画の中でもっとも響いたのは「不正義の上に成り立つ幸福でいいのか?」というものだ。確かに、僕の価値観の底にも、この感覚はあるなぁ、と思う。
確かに、幸福な人生を目指したい。人それぞれ「幸福の形」はそれぞれだから、具体的な話はしないけど、自分が思う幸福を目指せる人生でありたい。しかし、その実現のために「不正義」があってほしくない。これは、「自分が正義に反することを行う」というだけではない。「不正義を見て見ぬ振りする」ということも含まれる。例えばよく言われることだが、チョコレートの原料であるカカオや、コーヒー、ダイヤモンドなどは、発展途上国の人々の犠牲の上に成り立っている。安い賃金で働かせて搾取されていたり、ダイヤモンドを巡って血みどろの戦闘が行われていたりする。世界的大企業の工場でも、劣悪な労働環境だったり、時に死者が出たりする。もちろん、その企業の製品を買っている。実際のところ、僕はこうした現実を知った上で、見て見ぬ振りをしている。だから、時々後ろめたい気持ちになる。
もし僕が、世に知られていないそういう不正義をたまたま知る立場になってしまったら。僕がそれを伝えなければ、世の中の誰もそれを知らないままかもしれない、という立場に立たされることになったら。僕はそういう時、その不正義を告発する側の人間でいたいと思う。
もちろん、実際にそういう行動が取れるかは分からない。自信があるわけではない。けど、その状況においてさえ、自分が見て見ぬ振りを続けるとしたら、自分に対して失望するしかないし、その失望の上に成り立つ幸福などありえないと考えてしまうように思う。
ルールと同様、正義や真実と言ったものも、時代とともにどんどん変遷する。自分が直面しているまさにその瞬間に、何が正義で何が真実であるのか、明確に捉えることは難しい。だから、決断するしかない。「これが正義/真実だ」という決断が、正義/真実を決するのだと信じるしかない。
そういう決断を迫られることになった市井の人の姿を魅力的に描き出す作品だ。
「スパイの妻」を観に行ってきました
デモを取り締まる側の警察官や軍隊の人たちは、一体どういう気持ちなんだろう、と。
世の中には、正解がわかりにくい問題も多々ある。そういう、正解がわかりにくい問題に対する対立に対しては、個々人がそれぞれの価値観で様々な判断をすべきで、その対立の仲裁をする立場の人間に思いを馳せることはあまりない。
しかし。例えば香港の一国二制度の改正や、アメリカの黒人差別、あるいは独裁政権への反対など、「その時点での世界的な”当たり前”の基準に照らして、明らかにデモ側に正義があると感じられる対立」の場合には、考えさせられてしまう。その仲裁を”せざるを得ない人”たちは、実際のところどう考えているんだろうなぁ、と。
別に、その人達を責めたいわけではない。僕自身、自分が警察官や軍隊に所属していて、決められた通りの任務を果たさなければ自分がそこに所属し続けられないし、つまり生活が困難になる、という状況であれば、決められた通りの任務を果たすかもしれない(果たさないかもしれないが)。僕が知りたいのは、取るべき行動についてではなく、デモを仲裁する行動を取っている時、彼らは何を考えているのか、ということだ。
心理学的に、人間は、「一貫性の法則」があると言います。これは、自分の発言・行動・態度・信念などを一貫したものにしたい、というものです。ビジネスの話で有名な話で言えば、「相手にYESと言わせたかったら、相手が100%YESと返す質問を先にいくつも繰り出せ」というのがある。「今日は暑いですね」など、YESとしか返答しようがない質問を先にいくつもしておくことで、自分が本当にYESと言ってほしい質問に対してもYESという返答がもらいやすくなる、というもの。あるいは、心理学の本でこんな話も読んだことがある。誰かに好きになってもらいたかったら、その人に仕事を頼め、というものだ。なんとも思ってなかった相手に対しても、その人のためになるようなことを何かしていると、「この人のために行動しているということは、私はこの人のことが好きに違いない」と、自分の行動と感情を一致させようとする気持ちが働くのだ、と。まあどちらの話も、ホントかどうか分かりませんけど、どんな人もそうであると断じるには乱暴ですが、大まかに人間にはそういう性質がある、ということは認めてもいい気がします。
さて、こういう「一貫性の法則」があったとして、デモを仲裁する人間の心理がどうなのか、と考えてみると、やはり自分のしている行動に引きずられてしまうのだろう、と思う。つまり、「自分は今、デモを仲裁する行動を取っている。ということは、自分は、このデモには反対なのだ」という風に思考が展開してもおかしくはない、ということだ。
こういうことについて考える時、僕は、ルールと個人の難しさを実感させられる。
僕自身は、人間は何にも所属せず(この所属というのは、国も含む)たった一人の個人として生きることは不可能なのだから、好むと好まざるとにかかわらず自分が所属していることになっている国なり組織なりのルールは守らなければならない、と基本的には考えている。しかし、ルールは常に間違いうる。時代が変化しているのに、ルールが変化しない理由はない。しかし時に、時代の変化にルールが追いつけなかったり、あるいはその逆のことが起こったりする。その場合は、ルールを破ってでも闘う必要がある、と思う。
とはいえ、「ルールに従う」という行動は、自分の価値観を変えてしまいうる。初めは、仕方なく、本意ではないがルールに従っているという状態であったものが、「一貫性の法則」に絡め取られて、いつの間にかそのルールに沿った価値観を獲得してしまいうる。それはあまりにも自然に進んでいくから、自身の変化に気づけない。最初から、そのルールの内側にいて、そのルールに対して疑問を抱いたことなどないかのように変わってしまいうるのだ。
誰もが、今問われれば、「戦争など反対だ」と言うだろう(戦争を望む者もいるだろうが、少なくとも今の日本では少数派だと思う)。しかし、僕を含め、そう主張する誰もが、未来には戦争を賛美している可能性がある。自分の変転に、気づかないままで。
怖いな、と思う。だから僕は、なるべく、「ルールに反抗する自分」を、いつだって自分の中に飼っておこうと思っている。
内容に入ろうと思います。
1940年、神戸。戦争を背景に、国内の外国人が敵国出身というだけで逮捕されるような時代、福原優作は福原物産という貿易会社を経営している。妻の聡子と共に瀟洒な洋館に住み、舶来物で日常を埋め尽くしている。国内では「国民服令」が出ているが、優作はどこ吹く風、そんなルールに従うつもりなど毛頭ない。聡子の幼い頃からの友人で、今は神戸憲兵分隊本部の分隊長となった津森は、優作や聡子に対し、「外国人との付き合いを考え直した方がいい」「あなたがたの普通が、この国では批判や攻撃と受け取られかねません」と忠告するが、聞くつもりがない。
不自由のない生活をする二人だったが、優作が、甥の竹下文雄と共に満州に行ってから、状況が変わってしまう。まず、福原物産に勤めていた文雄が、会社を辞めて小説を書くと旅館に閉じこもる。さらに津森から、その旅館の女中が亡くなったこと、そしてその女中は優作が満州から連れて帰ったことを聞き、夫が何をしているのか信じられなくなっていく。優作を問い詰めるが、「問わないでくれ」と言うばかり。埒が明かないと、旅館に籠もる文雄を訪ねたことで、聡子の人生は一変することになる…。
というような話です。
特にこれと言ったイメージを持ってたつもりはないのだけど、良い意味でイメージと違う作品で、非常に面白かった。どうして「スパイの妻」というタイトルなのか、冒頭からしばらくの間は理解できなかったのだけど、なるほど、たしかにこれは「スパイの”妻”」と、妻が強調される作品だと感じた。
物語の核心的な部分には触れるつもりがないので、ぼやっとした感想になるが、この映画の中でもっとも響いたのは「不正義の上に成り立つ幸福でいいのか?」というものだ。確かに、僕の価値観の底にも、この感覚はあるなぁ、と思う。
確かに、幸福な人生を目指したい。人それぞれ「幸福の形」はそれぞれだから、具体的な話はしないけど、自分が思う幸福を目指せる人生でありたい。しかし、その実現のために「不正義」があってほしくない。これは、「自分が正義に反することを行う」というだけではない。「不正義を見て見ぬ振りする」ということも含まれる。例えばよく言われることだが、チョコレートの原料であるカカオや、コーヒー、ダイヤモンドなどは、発展途上国の人々の犠牲の上に成り立っている。安い賃金で働かせて搾取されていたり、ダイヤモンドを巡って血みどろの戦闘が行われていたりする。世界的大企業の工場でも、劣悪な労働環境だったり、時に死者が出たりする。もちろん、その企業の製品を買っている。実際のところ、僕はこうした現実を知った上で、見て見ぬ振りをしている。だから、時々後ろめたい気持ちになる。
もし僕が、世に知られていないそういう不正義をたまたま知る立場になってしまったら。僕がそれを伝えなければ、世の中の誰もそれを知らないままかもしれない、という立場に立たされることになったら。僕はそういう時、その不正義を告発する側の人間でいたいと思う。
もちろん、実際にそういう行動が取れるかは分からない。自信があるわけではない。けど、その状況においてさえ、自分が見て見ぬ振りを続けるとしたら、自分に対して失望するしかないし、その失望の上に成り立つ幸福などありえないと考えてしまうように思う。
ルールと同様、正義や真実と言ったものも、時代とともにどんどん変遷する。自分が直面しているまさにその瞬間に、何が正義で何が真実であるのか、明確に捉えることは難しい。だから、決断するしかない。「これが正義/真実だ」という決断が、正義/真実を決するのだと信じるしかない。
そういう決断を迫られることになった市井の人の姿を魅力的に描き出す作品だ。
「スパイの妻」を観に行ってきました