黒夜行

>>2017年07月

天盆(王城夕紀)

恩田陸「蜜蜂と遠雷」という小説を読んだ時は驚いた。
何故か。
この小説は、言葉で表現するのは不可能なのではないかと思える「音楽(しかもクラシック音楽)」を、言葉だけの力で描ききっている作品だったからだ。
誰もが知っているわけではない曲を、言葉の力だけで「聴かせる」。このことがどれだけ大変なことか、想像することはなかなか難しい。しかも「聴かせる」だけではない。「蜜蜂と遠雷」はクラシックのコンクールの話だったが、言葉の力だけで読者を、そのコンクールの「観客」に仕立て上げるのだ。その場にいて、その場で音楽を聴いているかのような感覚に、読者を引きずり込んでいく。凄まじい小説だったのだ。

本書も、ちょっと違うのだが、「蜜蜂と遠雷」を読んだ時に近いような感覚を味わった。

タイトルにもなっている「天盆」というのは、蓋という国固有の盤戯、つまりボードゲームである。将棋のルールを知っている人が読めば、概ね将棋に近いルールなのだろう、と想像は付く。しかし本書の中では、明確には「天盆」のルールは説明されない。

つまり読者は、ルールのはっきり分からない「天盆」というゲームについての小説を読むことになるのだ。

もちろん、そこにはプラスの効果もある。将棋ではなく、将棋に似た「天盆」という架空のゲームを設定したことで、「ゲームのルールそのものを知らなくてもこの作品は読めますよ」というメッセージを発することが出来る。「天盆」のルールを明確に設定しなかったのも、そういう意図からだろうと思う。

しかし、いくら将棋に似ているからと言って、ルールのはっきり分からないゲームについて描写することはなかなか困難だろうと思う。将棋のルールを知っている人に向けて将棋の対局を描写するのだってそう簡単なことではないはずだ。ルールを明示しないゲームの対局を描写することはより困難だろう。

しかし著者は、デビュー作にしてその困難をさらりと乗り越えている。確かに「天盆」のルールは分からないし、彼らがどう駒を動かしたのか、そうすることで盤面がどうなったのかなどの状況は分からない。それでも、対局中の熱気や対局に賭ける想い、一手指す毎に変化する観客の様子や息遣いなんかを、実にうまく描き出していく。

ルールを明示しない架空の「天盆」というゲームを設定したことで、「将棋は知らないから…」と尻込みされる可能性を排除出来た。そして、ルールを明示しないゲームの描写を、その筆力によってきっちりと描き出すことで、「天盆」を設定したマイナス部分を見事に補って見せた。その力量に、僕は驚かされたのだ。

内容に入ろうと思います。
蓋の国には、「天盆」と呼ばれる盤戯が昔から親しまれている。国を興した者たちが興じていたことがきっかけだったらしいが、今では天盆の才のあるなしが立身に影響を与えるほど、蓋の国では重要なものとなっている。
蓋の東端に住む少勇は、大工ではあるがあまり仕事をせず、賭け天盆などで日銭を稼ぐ毎日。その妻・静が中心となって「百楽門食堂」を切り盛りして、なんとか生計を立てている。
彼らには、12人の子どもがいる。そしてまさに今日、一人子が増えた。12人の子は皆、12×12のマスで行う天盆にちなんで、1から12までの数字の含んだ名前となっている。しかし13は天盆にはないので、仕方なく「凡天」という名前をつけた。
様々な個性を持つ、5人の兄、7人の姉たちに囲まれながらすくすくと育った凡天。やがて天盆を習うようになるが、天盆とは相性が良かったのだろう、凡天はめきめきと強くなり、やがて「天盆士」を目指して塾に通っている二秀を除いて、兄弟の誰も凡天に勝てなくなってしまった。
夏街祭で行われる天盆の大会に凡天を出すことにしたが、そこで類稀な強さを見せつけたことで、凡天とその家族はちょっとした窮地に陥ることになる。食堂で使う食材を仕入れるのにも事欠くようになっていったが、家族総出で助け合いながらどうにか取り繕う。そんな中でも凡天は、何かに取り憑かれたかのように天盆をし続けるのだが…。
というような話です。

デビュー作とは思えないほどの力強さを持った作品で、冒頭でも書いたように、ルールを明示しない「天盆」をベースにしながら、一人の少年の奮闘を描ききった意欲作だと感じました。

まずはやはり、「天盆」に関する描写が素晴らしいですね。ルールこそ示されないのだけど、蓋の国において天盆がどんな存在であるのか、どんな歴史を持っているのか、天盆が強いとどうなるのか、強い天盆打ちたちがどんなことを考えているのか、というようなことまで深掘りされていきます。日本における「将棋」とは、ルールこそ近いですが、存在としては大分違っていて、蓋の国にとっての天盆は、かつての中国にあった「科挙」と呼ばれる試験のような、そこに才を見出されれば登用される可能性があるというような、そういう重要な存在として描かれていきます。

そういう存在として天盆を描き出すことで、電子デバイスが普及しているわけではないという設定や、民が政治に対してどう感じているかという内実など、実に多くのことを自然に物語の中に登場させている、と感じました。この設定が上手いなと感じました。

前半は、ただ天盆を異常に好きなだけの凡天を中心に描かれる作品ですが、後半になればなるほど、天盆を中心とした蓋の国の歪みみたいなものが浮き彫りになっていく展開になります。架空の国の輪郭を、天盆と呼ばれる架空の盤戯を通じて描き出すことで、蓋という国がリアルに立ち上がってくるような、そんな印象を受けました。

そして、凡天を含めた登場人物たちが実に活き活きと描かれているのも素晴らしい。それほど長くない物語ではあるのだけど、本書は登場人物がメチャクチャ多い。凡天の兄弟からして12人もいて、さらに町の人間、天盆を通じて関わる者、蓋の国を司る者たちなどなど、実に多くの人物が描かれていく。これだけの登場人物を描き分けるのは非常に困難なはずだが、著者は彼らを躍動感溢れる描き方で登場させる。

特に、少勇を中心とする一家の面々は魅力的だ。全員の名前を出すのは面倒なのでやらないが、12人それぞれが家族の中で役割を担い、支え合いながら生きている。天盆ばかりに興じている凡天と、未だに天盆士の夢を諦めずに凡天と共に天盆を指し続ける二秀が、一家の中で稼ぎをもたらさないある意味で穀潰しなのだ。しかし、色んなことが起こりながらも、そんな二人も家族として彼らは受け入れる。

本書は、天盆という盤戯から蓋という国の歴史を描き出す物語ではあるのだが、もう一つ、家族の物語という側面がある。本書は最初から最後まで、「家族とは何か?」と猛烈に問い続ける作品でもあるのだ。13人の兄弟にどんな過去があるのか、ということについてはこの感想の中では触れないが、「家族」であるために彼らがどう振る舞ってきたのか、「家族」というものをどう捉えることでまとまりを成してきたのか、などが随所に描かれていく。「家族」である、ということが決して当たり前ではない環境の中で、それでも「家族」だ、と力強く言う覚悟みたいなものを、兄弟たちがどう気づき身につけていくのか。少勇と静という二人の男女が、いかにして「家族」という輪郭を維持し続けてきたのか。そのことが、強烈に描かれていく作品だ。

「家族」について静が放った言葉には、ハッとさせられる者も多いだろう。

凡天は、ただ無心に、強くなりたい、勝ちたいという想いだけで天盆を指し続けるが、しかしそのことが彼ら家族を結果的に追い詰める場面が頻繁に出てくる。天盆が才あるものを登用するための入り口として用いられている蓋の国ならではだろう。そういう状況の中で、彼ら家族のあり方が問われていく。凡天は、確かに滅法強かった。10歳にして、誰も到達出来ないのではないかと思われるような圧倒的な高みに手を伸ばせる位置にいる。しかし、凡天がその力を最大限に発揮出来たのは、家族がいたお陰だ。凡天は、一人では決して闘えなかった。

本書の中で非常に印象的なセリフがある。

『誰かのために戦う奴に勝てるわけがない』

その通りだと僕も思う。しかし凡天は、さらにその上を行くと僕は思う。凡天は、自分のためでも他人のためでもなく戦う。純粋に、戦うことの高揚を、勝つことの喜びだけを追い求めて戦うのだ。それは、無心であるが故に、圧倒的に強いだろうと思う。

『この期に及んで、この童は、楽しいのか。
何の制約もない。
何の掟もない。
己のすべてを解き放って、ただ、駒を打つだけ』

そして凡天にそれを許容したのが、彼の家族たちだ。凡天は決して、家族のために戦わったわけではなかった。むしろ、家族と共に戦ったという方が正しいだろう。凡天という異能を受け入れ、のびのびと生きさせた。そのことで、奇跡を呼び起こしたのだ。

物語が終盤どう展開するのか、具体的には触れないが、凡天の戦いと同時並行でとある戦いが描かれ、両者が呼応していく。凡天の快進撃は、蓋の国に一つの伝説を打ち立てようとしている。蓋の国ではもう長い間、天盆の実力者にしかなることが出来ない「征陣者」が平民から出ていない。もし凡天が天盆陣で勝ち進めば、平民から「征陣者」が出るという奇跡が生まれることになるのだ。その予感を孕んだ空気が、人々を熱狂させる。そして、凡天と共に別の戦いを挑む者たちもまた、その熱狂の中にいる。

ここでは触れないが、本書の最後の一文は、まさにその熱狂の渦の中にいた者たちを描写したものだ。物語を閉じるのに、これほど素敵な一文はないだろうと思われるほど、この物語に相応しいラストだと思う。

物語全体は、勘の良い人間なら先の展開が読めてしまうかもしれないぐらい、まさに王道と呼べるようなものだ。王道を臆せずに真正面から堂々と描ききる筆力と物語力に溢れた一冊だ。

王城夕紀「天盆」

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改革者 蘇我入鹿(町井登志夫)

歴史は勝者の記録だ、というのはよく言われることだ。だから歴史が嫌いだ、などと言うつもりはない。僕は歴史が嫌いだが、嫌いな理由は勝者の記録だからではない。歴史の授業で、「これこれこういうことが起こった」と説明されることが腹立たしかっただけだ。実際にそれが起こったかどうか、分からないではないか。事実、歴史の教科書に乗っている「事実」はどんどん変わっている。歴史の授業で、「こういうことが起こった可能性がある」とか「歴史は物語のようなものだ」みたいに教えてくれたら、こんなに歴史を嫌いにならなかったかもしれない。

まあそれはともかくとして、僕が「歴史」というものを考えるとき、自分では確かめる手段はないが興味深いことがある。それは、「インターネット」というものが出現して以降の「歴史」というのは、どのように記述されるのか、ということだ。

インターネットが誕生してまだ数十年。それは、教科書に載るような過去の出来事ではない。しかし時が経てば、今僕たちが生きているこの時代も、やがて教科書に載るようになるのだろう。

その時、「歴史」はどう記述されるだろうか?

これまでは、「物理的に書き記された記録」だけが歴史を記述する際のほぼ唯一と言っていい物証だった。だからこそ、「歴史」を「勝者の記録」とすることが出来たのだ。

しかし、インターネットが出現して以降は、「電子的に書き記された記録」も登場する。というか、そちらの情報の方が圧倒的に多いだろう。誰が勝者なのかも分からないような戦いがあちこちで繰り広げられ、また敗者であっても電子的な記録を誰でも残せる時代。相反する様々な情報が乱れ飛ぶ中で、一体どれを「正史」として歴史の教科書に載せるのか。

それを、誰が決めるのか?

これまで歴史家と呼ばれる人たちは、発掘したり古文書や古い資料なんかを当たったりして、歴史を紐解こうとしてきた。それには専門的な知識が必要で、そういう一部の人たちが何らかの協議なり議論なりをして、いわゆる「正史」と呼ばれるものが作られてきたのだと思う。

しかしこれからはどうだろう。現実のフィールドでの作業がなくなることはないだろうが、電子データを隅々まで漁ることも、歴史家に要求されるようになるのではないか。そうなった時、「歴史家」と呼ばれるためには何が出来る必要があるのだろうか?

そんなことをつらつら考えながら読んでいた。

内容に入ろうと思います。
西暦645年、飛鳥京大極殿にて蘇我入鹿が殺された。中大兄皇子と中臣鎌足によるこの事件は、「大化の改新」として知られる、歴史に疎い僕でも知っている程有名な歴史的事実である。歴史に疎い僕はそれ以上のことを知らないが、どうやら蘇我入鹿は、「謀反者」として斬り殺されたようだ。そうだったのか。とにかく、勝者(中大兄皇子、中臣鎌足)による記録では、そうなっているようだ。
しかし著者は、そうではないのではないか、と異を唱える。謀反者として斬り殺された蘇我入鹿こそが、倭国の将来を憂え、民のために尽くした権力者だったのではないか―。それが本書の主題である。
大化の改新の17年前、西暦628年。推古天皇が崩御した。問題は後継者だ。推古天皇は、後継者に田村皇子を指名したとされている。しかし、遺言で次の天皇が決まったなどという先例はなく、また様々な条件から本来相応しいのは、あの聖徳太子の息子である山背大兄王だろうということで、揉めているというのだ。蘇我入鹿には下らない、どうでもいい争いにしか思えなかったが、それぐらい世の中が穏やかになっているということだ。かつては大陸の脅威を常に意識し、摂政・聖徳太子、大臣・蘇我馬子、そして推古天皇という三人が完璧な布陣を敷き、大陸への備えを欠かさなかったものだが、今は皆がだれきっている。
そんな中蘇我入鹿は、父の命により、大陸(唐)を見聞してくることとなった。隋はあっけなく滅びたが、唐はどうか、その目で確かめてこい、ということだ。大陸に足を踏み入れた蘇我入鹿は、唐という国の恐るべき底力を目の当たりにする。皇帝である李世民を筆頭に、皆で国を作るのだという若い熱意に満ちあふれている。その途上で出会った高表仁とは敵味方というような単純には割り切れないような関係をその後も続けていくことになる。
幾度も死地を脱しながら唐から戻ってきた蘇我入鹿は、唐の脅威をまざまざと見せつけられ、倭国としてどう振る舞うべきか考え始める。韓半島の三国が緩衝地帯となっており、特に高句麗が落ちなければ倭国は安全だと思うが、しかし…。
というような話です。

なかなか面白い作品でした。しかし、同著者の「爆撃聖徳太子」と比較すると、どうしても差を感じてしまう部分もありました。以降は、「爆撃聖徳太子」との比較の中で本書を捉えてみたいと思います。

本書も「爆撃聖徳太子」もどちらも、歴史をそれまでとは違った捉え方をするという意味では同系統の作品です。本書では、謀反者だとされていた蘇我入鹿が実は改革者だったのではないかと。そして「爆撃聖徳太子」では、聖徳太子が実は奇人変人(しかしきちんと国を憂えた行動をしている)だったのではないかと捉えています。そもそも歴史が得意ではない僕は、蘇我入鹿にしても聖徳太子にしても、本来どう描かれているのかということをほとんど知らないので、実は意外性を感じるのが難しいのですが、しかし「爆撃聖徳太子」という作品はその点をするりと乗り越えたのでした。

何故なら、「爆撃聖徳太子」で描かれる聖徳太子は、本当に「ヤバイ奴」だったからです。聖徳太子がどんなことをしたのか知らない人でも、聖徳太子は「凄い人」「偉い人」という印象は持っているでしょう。僕も同じです。しかしそのイメージを完全に覆す描き方をしていました。聖徳太子について詳しく知らない人でも、「爆撃聖徳太子」を読めば誰でもギャップを感じられる、そういう内容でした。

しかし本書の場合は違います。僕は、蘇我入鹿がそもそもどういう人なのかという歴史的な描かれ方を知らずに本書を読みましたけど、本書で描かれる蘇我入鹿のどの辺りまでが教科書通りで、どの辺りが教科書から外れているのか、ということが(作品のせいではなく完全に僕のせいではあるんですが)分かりませんでした。だからこそ、本書を読んだだけでは、蘇我入鹿に対してギャップを感じることが難しい、ということになってしまいます。その点が、この作品を楽しむ上で障害になったな、と感じました。

また、そういうギャップを感じるかどうかという点を仮に除いたとしても、「爆撃聖徳太子」で描かれる聖徳太子と、本書で描かれる蘇我入鹿は、キャラクターとしての魅力度が圧倒的に違います。「爆撃聖徳太子」で描かれる聖徳太子は、仮にそれが聖徳太子でなくても(という表現は変ですが)、その振る舞い全体で魅力を放つ奇人変人だと思います。しかし蘇我入鹿の方は、基本的には実に真面目な性格で、そういう部分も蘇我入鹿に魅力を感じにくい要因かなぁ、と思いました。

また、「爆撃聖徳太子」では、視点人物が小野妹子だった、という点も非常に重要だったと思います。聖徳太子目線ではなく、聖徳太子にパシリとして使われる小野妹子視点で物語が進むことで、聖徳太子の異常さや、小野妹子のパシラれっぷりが、小説としての魅力を引き立てていると感じました。しかし本書の場合は、視点人物は蘇我入鹿本人。振り回されるような人物がいるわけでもなく、しかも蘇我入鹿の実直で真面目。そこに、小説としての魅力を感じるのは難しかったなと思います。

もちろん、だから本書がダメだ、というわけではありません。「爆撃聖徳太子」という作品があまりにも面白すぎるために、本書が一段低く見えてしまうのです。読む順番が違っていたら感じ方もまた変わっていたかもしれません。

「爆撃聖徳太子」でもそうでしたが、本書も「日本書紀」や「三国史記」の記述をかなり正確に取り入れているようです。とはいえ、そのほとんどが著者の想像の産物でしょうが、1500年近く前の時代の話を、まるで見てきたかのように活き活きと描く様は本当に見事で、歴史にまったく興味のない僕でも惹きつけられるものがありました。特に、大陸に渡った蘇我入鹿が経験する様々な戦闘は、スケールの大きなものから小競り合いまで様々で、面白いと思いました。

大陸の若さと強さを見た蘇我入鹿は、ひとり大陸を脅威に感じるのに対して、倭国の中で小競り合いを繰り広げる輩はもう緩みきっていて、蘇我入鹿が感じている深刻さに共感できない。その気持ちの差が、言動の差に繋がり、結果として価値観の致命的な断絶に繋がっていく。その過程が実に丁寧に描かれる作品で、エンターテインメント小説としてはどうしても「爆撃聖徳太子」に劣るものの、読み物としてはなかなか読ませる作品だと感じました。

町井登志夫「改革者 蘇我入鹿」

「銀魂」を観に行ってきました

内容に入ろうと思います。
江戸末期、「天人(あまんと)」と呼ばれる宇宙人の侵略により衰退の一途を辿る町では、廃刀令の影響もあり侍の生きづらい世の中になった。かぶき町で「万事屋銀ちゃん」を営む坂田銀時は、志村新八と神楽と共に、泰平の世を穏やかに過ごしている。町の治安を取り締まる新撰組の面々も、将軍のペットであるカブトムシを探すのに駆り出されるほど平和な日々だ。
しかし最近、夜毎辻斬りが現れるという噂が立つ。そんな折、かつて銀時と共に最後まで「天人」に抵抗した攘夷志士である桂小太郎の行方がわからなくなる。同じタイミングで銀時は鍛冶屋から、紅桜という名の妖刀に関する依頼を受ける。その二つが、同じくかつての仲間である高杉晋助の挙兵と関わりがあると分かり…。
というような話です。

原作をまったく読んだことがないですけど、概ね面白く観れたかな、という感じはします。全体のストーリーはともかく、ちょいちょい挟まれるギャグっぽい感じの要素は、なかなかチャレンジングなものが多くて面白かったです。「新撰組に、お任せあ~れ」っていう、何かのCMをパクったようなやつとか、「CDTV」モロパクリのやつとか、大丈夫かな?っていうのもぶっこんできてて、チャレンジングだなと。一番凄いなと思ったのは、日本人なら誰もが知っているあのアニメを彷彿とさせるネタでしたけど。いや、チャレンジングだなぁ。

あと個人的には、菅田将暉がやっぱ凄いなと思いました。菅田将暉が出てる、っていう情報をあらかじめ聞いてたので、ホントだ菅田将暉だ、って思えましたけど、もし知らないで観てたら、冒頭の喫茶店のレジ打ちをしていたのが菅田将暉だって、まず気づかなかったでしょうね。菅田将暉については、何かの映画を観た時にひとしきり論じた記憶がありますけど、本当に溶け込むというか、「菅田将暉という存在感」を見事に消すな、と思います。木村拓哉が何の役をやっても木村拓哉にしか見えない、というのと真逆のパターンですね。何の役をやってても菅田将暉に見えない、という凄さが、菅田将暉にはあるなと感じます。それでいて、名脇役みたいな役者ではなくて、主役だって張れる人なわけで、そこが凄いと思います。なんであんなに、菅田将暉としての存在感を消せるんだろう。不思議。

原作ファン曰く、配役がイメージ通りらしく、きっと原作ファンにはもっと楽しめる要素が満載なんだろうなと思います。

「銀魂」を観に行ってきました

「ライフ」を観に行ってきました

確かにそういうこともあり得るよな、と思った。
地球外生命体とのコンタクトを扱ったSF作品はきっと多いだろう。僕自身はそこまでそういう小説を読んだり映画を見たりすることはないが、様々な物語がそういう題材を取り上げているはずだ。
そして、僕の勝手なイメージでは、そういう作品は、「いかにコンタクトを取るか」、つまり「いかにコミュニケーションを取るか」がメインで描かれているようなイメージがある。

ただこの作品は、そうではない。地球外生命体に意志やコミュニケーション能力などがあるかどうかに関わらず、それと相対する羽目になる者たちを描く。

確かに、それはあり得る話だと思う。

地球外生命体を「コミュニケーションを取ることが出来る相手だ」という前提を持って接することは、科学者の態度としては恐らくあり得ないだろうが、僕ら一般人の感覚としては十分にありえる。地球外生命体も、姿形は地球人と違うかもしれないが、そこまで大きくかけ離れた姿はしておらず(いわゆる「火星人」としてよくイメージで登場する姿も、全体としては「ヒト」の形に似ている)、言語体系もまるで違うだろうが何らかの形でコミュニケーションが取れるはずだ、と思いたくなってしまうだろう。

しかし、そうである保証はどこにもない。

それが「敵意」であるかどうかは別として、その地球外生命体が地球人とのコミュニケーションを拒絶する可能性は常にある。物凄く簡単に言えば、地球外生命体から見て地球人が「食料」に見えてしまえば、コミュニケーションなど成り立つはずはないだろう。

そうであった場合、地球人はどう行動すべきか。
この映画では、まさにその点が問われているのだ。

内容に入ろうと思います。
ISS(国際宇宙ステーション)を拠点に、火星ピルグリム7計画に従事する6人の宇宙飛行士は、宇宙ゴミの衝突というトラブルに直面しつつも、当初のミッションである<火星から物質を持ち帰る>というミッションを成功させた。
その中に、ミドリムシのような、顕微鏡でしか見られない大きさの生命体を発見した。当初死んでいると思われたが、ラボで環境の変化を与えることで蘇生、初の<地球外生命体>の発見となった。地球では大ニュースとして報じられ、やがて<カルビン>と名付けられたその生命体を、宇宙生物学者であるヒューは実に可愛がっていた。
やがて成長し、肉眼でも見られる大きさになったが、ヒューのミスによってラボの酸素濃度が低下、それがきっかけで<カルビン>は動かなくなってしまった。冬眠に入ったと仮説を立て、なんとか起こそうと手を尽くしたところ、電気ショックを与えることで動き出した。しかし、ラボにいるヒューの様子がおかしい。どうやら<カルビン>がヒューの手に巻き付き、さらに怖ろしい力で締め上げているようだ。助けに行こうとする航宙エンジニアであるローリーを、検疫官のミランダが止める。彼女の任務は「隔離」。最悪の事態を常に想定し、謎の地球外生命体を「隔離」する環境を維持することが仕事だ。状況の変化を見て取ったローリーがラボに入りヒューを救うが、逆にローリーが囚われ、命を落とすことになった。
そのままラボ内に隔離できるはずだったが、想定外の状況変化により<カルビン>はラボから脱出、船内のどこかに潜んでいる。船長のキャット、システムエンジニアのショウ、ISSに長期滞在している医師であるデビッドを含めた乗組員で、この未曾有の危機に対応しようとするが…。
というような話です。

いやはや、凄い話だったなぁ。とにかく途中から、ビクビクしっぱなしでした。そんなに怖いもの耐性がない人間ではないと思うんだけど、この映画はメチャクチャ怖かったです。あぁ、もうとにかく止めて、ってずっと思ってました。宇宙空間でも生存出来る最強の地球外生命体が、脱出不可能な船内にいる、という状況が、当事者じゃないのにメチャクチャ怖かったです。

こういう映画って、セオリーで考えれば、最終的に「何らかの倒す方法」があって、どうにか対処する、っていうのが多い気がするんだけど、この映画では最初から、<カルビン>の弱点みたいなものは描かれません。宇宙物理学者であるヒューでさえその生態が理解できないのだから、弱点もそもそも理解できていないだけという状況なのだけど、映画の文法で言えば、登場しない「弱点」を衝いて倒す、という流れはあり得ないわけで、だからこの映画は、<カルビン>を倒す方向には進んでいかないんだろう、と予想できました。

じゃあどうすべきなのか。これは、予告の段階である程度出ていたから書いてもいいと思うんだけど、「いかに地球に<カルビン>を連れて行かないか」ということが大きなミッションになっていきます。彼らはほぼ全員が、自分たちが助かることはないと理解しているだろうと思います。なにせ、何をやったって死なないのだし、状況から船内への侵入口をすべて封鎖することも出来ない。正直言って、為す術がないわけです(まったくないわけではなさそうだけど、殺せるわけではない)。ただ、<カルビン>を地球から引き離すことはまだ可能性が残っている。そのために何が出来るのかを全員が考える。

その状況がとにかく壮絶だなと思います。宇宙飛行士を志願している時点で当然、何らかの形で命を落とす可能性を覚悟しているはずだろうけど、しかしあまりにも予想外過ぎる危機でしょう。命を落とす覚悟を持っていたとしても、あの化物に殺されるのは嫌だよなぁと思います。

そしてラスト。はー、そうなりますかー、という感じで、衝撃的でした。あまり詳しく書けないのが残念ですが。

深く何かを示唆するような映画では全然ないのだけど、パニックモノの映画としては物凄く恐怖を駆り立てる、非常に印象的な映画でした。

「ライフ」を観に行ってきました

真夏の島に咲く花は(垣根涼介)

『楽園は、周りの人間と作り上げていくものだよ。場所なんかじゃない。そしてその人間関係がもたらす心の風景だ、と』

この文章はとても良いなぁ、と感じた。

本書を読むと、「幸せな人生って何だろう?」と考えさせられる。
僕は昔から、金持ちにはなりたくない、と思っていた。金持ちになることで自分が幸せになれるイメージがどうしても出来なかったのだ。
もちろん、お金があることで、日常生活に不自由はなくなるし、何か大きなトラブルが起こった時にも対処しやすくなるし、やりたいことが出来るようになるだろうし…と、色々良い点はあるはずだ。けれど僕には、マイナス面の方が大きいように感じられてしまう。

それは、失うことの恐怖だ。

もともと持っていなければ、失う恐怖を感じることはない。もちろん、どんな人生でも多少なりとも何かしら持っているだろうが、それが小さなものであればあるほど、失う恐怖も小さくて済む。

しかし、大金や大金に付随してまとわりついてくる様々なものは、とても大きなものだし、その大きなものを一度手にしてしまった時、それが失われる恐怖はとても大きなものに感じられてしまうだろうなぁ、と僕はずっとそんな風に感じている。

『何千キロ、何万キロも離れた南の島にやって来ても、仕事のことや、将来のことや、家族のことなどをついあれこれと考え、物思いに沈んでいる。そしてときおり憂鬱そうな表情を垣間見せる。せっかくすべてを忘れて楽しむためにこの島にやって来ているのに、母国に置いてきたはずの日常に引き摺られている。
見ているこちらが、寂しい気分になった。
彼らの心は、どんなところに行っても、常に今ある生活の心配から自由にはなれないのだろう。この島で生まれ育ったフィジー人よりもはるかに裕福で、いろんな物も持っているのに、チョネが生まれ育ったここの住人のようには無邪気に笑えない』

「今ある生活の心配」というのは、僕の言葉で言い直せば「失う恐怖」ということだろう。今自分が手にしているものを失わないために努力し続けなければならない。その努力が出来なくなれば、それはあっさりと自分の手からこぼれ落ちてしまう。そういう恐怖を、みんな抱いているのだろう。

そういう恐怖に自覚的だった僕は、お金に限らず出来るだけ「手放せない何か」を持ちたくない、と思ってこれまで生きてきた。そういう生き方は、ある意味で寂しいものではあるが、プラスの事柄よりもマイナスの事柄の方をより過大に評価してしまう僕には、そういう生き方が合っていると思った。

『勤勉であること。約束を守ること。お互いに助け合うこと。
それらの根底にある思想は、飢えへの恐怖だ。(中略)
つまり、これらの美徳は、植えの回避という要因から発した後天的なものに過ぎない。だが、働かなくても道を歩けば食べ物はいくらでも転がっている社会では、勤勉さや約束遵守の精神はそれほど求められない。』

それ以外の価値観を知らない状態で生きられるなら、そういう「働かなくても道を歩けば食べ物はいくらでも転がっている社会」で生きることが何よりも幸せに繋がるのだろう。そういう中で育むことが出来る人間関係の中にこそ、楽園は存在するのかもしれない。

内容に入ろうと思います。
物語は、南国の楽園であるフィジーが舞台だ。雑多な人種が暮らすフィジーでは、陽気でおしゃべり好きで働くことにはあまり向かないフィジー人を筆頭に、かつて奴隷として連れてこられたインド人を祖先に持つ者や、日本人・中国人などが暮らしている。
織田良昭(ヨシ)は、親から受け継いだ日本食レストラン「織田」のオーナーであり、フィジーに根ざして生活をしている。学生時代に同級生だったフィジー人のチョネとは、学力や性格の違いを越えて仲が良かったし、父親が観光客向けの土産物屋を営んでいるインド系のサティーとは今交際中だ。ガソリンスタンドで働くチョネには、就労ビザでフィジーに滞在している観光ガイドの塩田茜という彼女がいる。茜は、容姿も条件も良かったインド系のパイロットと付き合うのを蹴って、貧乏なフィジー人であるチョネと付き合っている。日本の文具会社を辞めフィジーにやってきた彼女は、フィジーという国が持つ、茜を惹きつけて止まない魅力が何であるのかを見極めたくて、フィジーに留まっている。
観光で成り立っているフィジーでの生活は、元々貨幣経済に組み込まれていなかったフィジー人にとってはなかなか厳しいが(時給2ドルの仕事ばかりする羽目になる)、勤勉で努力家なインド人や日本人にとっては、きちんとやっていればちゃんと成功できる国だ。ただ、かつて奴隷だったにも関わらず今は成功しているインド人と、フィジーは自分たちの国だという意識が強いフィジー人の間には、長いこと民族的な対立があり、両者がお互いに対して根強い嫌悪感を抱き続けている。
その対立が決定的な形で表に出てしまった。
ジョージ・スペイと名乗る先住民系武装グループが国会議事堂を占拠し、閣僚たちを監禁するという事件が発生した。首都スパで起こった事件は、ヨシやチョネたちが住む町には直接的な影響をもたらさないが、観光客の激減や、最悪な形で露わになった民族的対立が、徐々に彼らの生活に微細なヒビを入れ始め…。
というような話です。

一度読んだ記憶があるんだけどすっかり忘れてて読み直してみましたけど、なかなか面白い作品だと感じました。遠くフィジーを舞台にすることで、日本人にはちょっと遠い景色に見えてしまう可能性もあるのだけど、冒頭でも少し触れたように、フィジーを舞台にすることで、「幸せな人生」とは何か、という問いを追求しやすくなった、ということが出来ると思います。

物質的、金銭的に満たされることをどうしても追い求めてしまう風潮があるのだけど、でも僕は、そういうベクトルの先には幸せはないんじゃないかなぁ、と思ってしまいます。でも、生まれた時から資本主義が程よく成熟した社会に生きている僕らには、それに変わるシステムや努力の仕方というのがなかなかイメージ出来ません。しかし、フィジーという、本質的には働かなくても生きていける国を舞台にすることで、本当の幸せについて考えやすくなるように思います。

またそこに、民族的な対立というのが加わってきます。日本に生きていると、なかなかこういう対立について意識することはないですが、フィジーにおけるフィジー人とインド人の対立というのは、宗教や歴史を背景にしたものというよりは、「どう生きるか」というスタンスの差異から生まれているように僕には感じられました。その点が、お互いにあまりにも食い違っているために、同じ国で生活していながら、日常の中で相容れない部分が出てきてしまいます。フィジー人はそうする必要性をあまり感じないからあまり熱心には働かないし、インド人はそれが当然だと思うから勤勉に働く。その結果当然、フィジー人は貧乏だしインド人は裕福になるのだけど、フィジー人は自分たちの土地に後からやってきたのに裕福になるインド人に苛立ちを隠せないし、インド人は自分たちのお陰で経済が成り立っているのに不満ばかり言うフィジー人に苛立ちを募らせていく。その辺りの描写が実にうまいなと感じました。

そしてそんなフィジー人とインド人の間に、ヨシや茜のような日本人が絡んでいく。日本人としては、性格的には勤勉なインド人に近いが、フィジーまでやってきて働こうと思うような日本人からすれば、陽気でいつも楽しそうなフィジー人に好意を抱く部分もある。なかなか難しい立ち位置の中で、なんとか楽しく生きていくために日々を過ごしている。

貨幣経済だの民族的対立だの難しいことを書いてみたが、小説としてはそんな小難しさを感じる内容ではない。様々な人種の登場人物が、フィジーという国の論理をベースに生活をしている様が実に活き活きと描かれていく。彼らの日常を丁寧に描きながら、遠い首都で起こった出来事がじわりじわりと彼らの生活を侵していく様を上手く描いていく。「楽園というのは場所なんかじゃない」ということが、読み進めていく中で強く実感されるだろう。楽園は場所ではない。人間関係の中にある、というのも正しいが、結局は、そこを楽園にしようという個々人の努力の積み重ねでしかないのだろうと思う。

垣根涼介「真夏の島に咲く花は」

潔白(青木俊)

殺人犯はそこにいる」という作品がある。去年、「文庫X」として注目を集めた作品だ。この作品は、その「殺人犯はそこにいる」を下敷きにしている、と言っても良い作品だ。「殺人犯はそこにいる」で取り上げられたある事件の「その後」という「if」を描いている作品、という風に言える。

この点は、本書の利点でもあるし、欠点でもある。

本書では、「冤罪死刑」を取り上げた作品だ。死刑判決が下され、実際に死刑が執行されながら、それが冤罪である可能性について描く作品だ。本書のベースとなる事件は、実際に存在する。現実には、「冤罪死刑」を追及するような流れは生まれていない。再審の壁は、あまりにも高いからだ。本書では、そのあまりにも高い壁をもし乗り越えることが出来たとしたら、そこにどんな現実が展開する可能性があるのか、という予想を示している。

そして、「殺人犯はそこにいる」を読んだ者であれば、本書で提示された予想が、恐らくほぼ現実のものとなるだろうと感じることが出来るだろう。

『冤罪死刑が認められれば、日本の法曹界は、それこそ天地をひっくり返したような騒ぎになる。法務大臣、最高裁長官、検事総長らのクビが飛ぶ。死刑制度の見直しはもちろん、警察、検察の捜査のあり方、証拠の扱い、裁判の進め方、冤罪の防止策など、刑訴法の改正に話が進む。日本の硬直した司法制度に風穴が開く。その意味はあまりに大きい』

これは、弁護側の述懐だ。その通り。本書で描かれる冤罪死刑が認められれば、司法制度が大きく変わる。それは、普通の感覚で考えれば、とても良いことだ。正しいことが正しい形で通りにくかったこれまでの司法のあり方を変え、正しいことが正しいこととして認められるような、そんな道を進むことが出来るはずだ。

しかし、検察側はそうは考えない。

『いまの検察のあり方には、若手の検事を中心に疑問の声が強い。大阪地検の証拠改竄や裏金問題は、組織への不信として、いまも庁内に澱のように沈殿している。強引な国策捜査への批判は強いし、逆に首相側近の大臣や、東電、東芝といった大企業を不起訴にした姿勢にも、不満が燻っている。
そうした声には高瀬も共感する。しかし、だからといって、検察の威信が傷つき、力が失われてよしという訳では決してない。何といっても、検察庁はこの国の法治の要だ。
冤罪死刑を認めることは、検察を貶め、法治の危機を招来する。
自分も検察の一員なのだ。その権威と権限は、何を置いても守り抜かねばならない』

この感覚を、僕はとても怖いと感じる。

本書は小説だ。だから、上記のような考えを、一般の(あるいは一部の)検察官が実際に持っているのか、それは分からない。しかし、「殺人犯はそこにいる」というノンフィクションを読む限り、そう考えている検察官が多いのだろうという推察は合理的ではないかと思う。

そしてもしそうだとした場合、とても厄介だ。

僕はまだ、検察官が、個人の保身を目的に不正を働く方がマシだと思える。少なくともそれは、自分が悪いこと、間違ったことをしているという認識を持っているはずだからだ。しかし、先に引用したような、「検察という組織の権威を守るために不正を働かなければならない」という論理を違和感なく抱いているとすれば、自分が悪いこと、間違ったことをしているという感覚を持っていない可能性さえあると僕には感じられる。それは、とても怖ろしいことだと思う。

先に引用した内容は、一般的な感覚からすれば承服出来ないだろう。「検察庁はこの国の法治の要だ」という点には、恐らく多くの人が賛同するだろう。しかし、「だからこそ冤罪死刑を認めず、それによって権威を維持すべき」という価値観はおかしい。「だからこそ冤罪死刑を認め、誤りを浄化し、過ちが起きないように対策を取る」というのが正しいだろう。それが最終的に、組織を守るということに繋がるはずなのだ。しかし、どうもそういう発想は持てないようだ。

本書の中で検察は、冤罪死刑を認めさせないために、これでもかというほど汚い手を使う。権力を持つ人間が、その権力を最大限利用すれば、大抵のことはねじ伏せることが出来てしまう、ということをまざまざと見せつけられるような作品だ。そして、「殺人犯はそこにいる」を読んでいる者には、本書で描かれる検察の動きが、恐らくそうなるだろうと思わせるような振る舞いなのだ。司法というものへの深い絶望を抱かせるのに十分な作品だ。

さて、本書が「殺人犯はそこにいる」を下敷きにしているが故の欠点にも触れよう。それは、「殺人犯はそこにいる」を読んでいないと、この作品単体では不十分に感じられるだろう、という部分だ。

本書は、260ページぐらいの小説だ。長編小説としては短い部類に入るだろう。その中で、これまで日本で議論されたことのない「冤罪死刑」をリアルの遡上に載せようとする作品なのだ。そのことを考えると、ページ数があまりにも少なすぎると僕は感じる。恐らく意図的にそうしたのだろうと思うが、本書は、読者が「殺人犯はそこにいる」を読んでいるということをある程度以上前提に置いて作品を書いていると思う。そうでなければ、「足利事件」や「MCT118」や「再審請求」などについて、作中でもう少し詳しく触れるのではないかと思うのだ。また、検察や裁判所がどんな風に動くのかという具体性について、それをよりリアルに感じさせるような描写がもっと入ってくると思うのだ。

僕は「殺人犯はそこにいる」を読んでいるから、本書を読んで特に違和感を覚える部分はなかった。しかし読みながら、「殺人犯はそこにいる」を読んでいない人間が本書だけを読んだ時に、この物語にリアリティを感じることが出来るだろうか、と感じてしまった。それは、ちょっと難しいのではないかと思うのだ。それぐらい、本書で描かれている検察や裁判所の動きは、常識的には考えにくい、常軌を逸したものなのだ。

本書の欠点は、まさにこの点にある。「殺人犯はそこにいる」を読んでいない人間に対して親切ではないと僕は思う。本書だけでは、独立した作品と呼ぶことが、ちょっと難しいような気がしてしまうのだ。もちろん、僕はそういう本作りを、意図的なものだと思っている。そういう欠陥が生まれることを理解した上で、こういう造りにしたのだろうと考えている。そういう意味では、戦略とも言えるような欠陥であり、とやかく言うようなことではないのかもしれないが、やはりこの点は指摘しておくべきだろうかと思い書いてみた。

内容に入ろうと思います。
1989年7月に発生した「三村事件」と呼ばれる殺人事件がある。小樽市にあるスナック「美鈴」で経営者の野村鈴子と小学生の娘・優子が絞殺死体で発見された。捜査はなかなか進まなかったが、事件発生から一年八ヶ月後に、同市内で工務店を営む三村孝雄が逮捕された。様々な状況証拠があったのだが、最終的には「MCT118」と呼ばれる、当時の最先端技術を駆使したと喧伝されたDNA鑑定によってDNA型が一致、それにより死刑判決が下された。通常死刑が執行されるまでには判決から10年以上かかる。しかも三村は再審請求の準備を進めていた。再審請求者の処刑は見送られるのが慣例なのだが、三村の場合は何故間、判決からわずか2年での死刑執行となった。
その判決に、納得しない者がいた。三村の娘・ひかりだ。小学生だったひかりは、犯行があったその日の夜、ひかりの部屋で父と二人でずっと一緒にいた。だから、父が犯行を行えたはずがないのだ。そのことを、誰よりもひかりがよく知っている。しかし、身内の証言ということで聞き入れられることはなかった。
ひかりは、父に死刑判決が下って以降、父の冤罪を証明することに人生のすべてを捧げることにした。あらゆる手を尽くしたが、「開かずの扉」と呼ばれる再審への道を切り開くだけの有力な証拠を見つけることは出来ないでいた。
しかし、「足利事件」の冤罪が証明され、事態は少し前進した。「足利事件」でDNA型の鑑定が行われたのは、三村事件と同じ「MCT118」という手法だったのだ。その手法について詳しい、と評される弁護士事務所で森田と出会い、ひかりは一筋の光を求めて再審への道を進んでいくことになるが…。
というような話です。

冒頭でも書いたように、「殺人犯はそこにいる」というノンフィクションを大分下敷きにして書かれた作品です。本書で描かれる「三村事件」のモデルとなっているだろう事件は、福岡県で起こった「飯塚事件」だ。無実を訴えながら死刑判決が下され、2年で死刑執行された、という点が共通している。「殺人犯はそこにいる」では、「足利事件」を含む5件の連続幼女誘拐殺人事件の真犯人が、判明しているのに何故逮捕されないのかの理由として、「MCT118」という鑑定法が間違っていたと認定したくないからであり、では何故認定したくないかと言えば、「飯塚事件」でも同じ鑑定法を用いており、「MCT118」の真偽が揺らぐと「飯塚事件」において「冤罪死刑」の問題が取り沙汰されるからだ、と指摘している。

そしてまさに本書は、その「飯塚事件」(本書の中では「三村事件」)における「冤罪死刑」が議論の遡上に乗せられた時、検察や弁護側や世間はどう動くか、ということをリアルに描き出す作品なのだ。

読みながら、「検察や裁判所はこれぐらいのことはやるだろう」と思った。それは、最近読んだ「裁判所の正体」という作品の影響も大きい。元エリート裁判官である瀬木比呂志氏が、裁判所の実態を清水潔に語るような対談本である。「裁判所の正体」の場合、メインで描かれるのは裁判所であるが、ほとんど検察や権力と一体化している現実が描かれている。

『日本人は、裁判官と言えば、大岡越前や遠山の金さんをイメージするがね、大いなる誤解だな。ちなみに、アメリカとも大違いで、アメリカの裁判長は市民の代表、日本の裁判長は公務員、お上の手先…』

と本書「潔白」の中で書かれているが、まさにその通りなのだ。検察も同じだ。

『なるさ。三村事件の再審は、検察量が総がかりで潰すマターです。』

『多くの検事が“割る”ことが、被疑者更生の第一歩だと信じており、“割れる”検事が有能とみなされる。そして“割った”からには、たとえ証拠が完全でなくとも、果敢に“立てる”。』(割る=自白させる、立てる=起訴する)

『有罪率99.9%。
検察は、自分たちの主張が丸呑みされなかった判決を「問題判決」と呼び、猛烈に嫌う』

こういう世界なのだ。

本書は、小説だ。実際に「冤罪死刑」が俎上に載った際、どんな展開が待ち受けているのか、それは誰にも分からない。しかし、「殺人犯はそこにいる」や「裁判長の正体」を読んだ者にしてみれば、本書で描かれる検察・裁判所のあり方にはさほど驚かされないだろう。確かに、そういう振る舞いをするだろうな、と冷製に捉えることが出来るはずだ。それぐらい検察や裁判所は、荒唐無稽であり得ないことを平気でやってくるところなのだ。「法治の要」と言って組織を守る、まさにその組織こそが最も法治から遠い場所にあるという、皮肉な現実を如実に描き出す作品だ。

青木俊「潔白」

ひきこもりの弟だった

生きていたくないなぁと、昔はよく思っていた。今も、まったく思わないわけではないけど、昔よりは大分マシになった。

「俺は普通の人みたいに、普通のことができない」

あぁ、凄くよく分かる。僕もずっと、今でもそう思いながら生きている。

当たり前に出来ることだとされていることを、何の疑問もなく出来る人は、昔は羨ましかった。別に、大したことではない。誰かに良い事が起これば喜び、誰かに哀しいことがあれば哀しみ、家族や友だちを大切にする…みたいなことが、僕にはうまく出来なかった。いや、表向きは、たぶん出来ていたと思う。問題は、僕の心だ。心の中では、ずっと、違和感ばかり募っていた。周りのみんなが何の疑問も持たずにやっている多くのことが、僕には、なんでそんなことをしなきゃいけないのか全然理解できないようなものだった。

大人になる過程で、そういう当たり前から、ちょっとずつ抜け出してみることが出来るようになった。周りの人が当たり前にやっていることを、どうにかしてやらずに人間社会の中で溶け込めるように努力するようになった。そんな風にして、今の僕が出来上がった。昔の自分のことは結構嫌いだったけど、今の自分のことはそれほど嫌いではない。

どうしようもなく生きていることが辛い場合、僕たちはどうすればいいんだろう?
そういう感覚になったことがない人には、そのしんどさはなかなか理解できないだろう。ただ生きていることが辛い、ということが理解できないことだろう。しかし僕は分かる。ただ生きていることが辛いという感覚が。何か酷いことをされたとか、何か具体的に不安なことがあるとか、そういうこととは関係なく、ただ生きていることが辛いという感覚が。

そこから自力で抜け出すのは、本当に大変だ。何せ、生きていることが辛いというのは、具体的な原因があるわけではないからだ。原因があるなら、それを取り除けばいい。しかし、生きていることが辛い、ということの原因を敢えて探すとするなら、それは「生きていること」だ。それを取り除くためには、死ぬしかない。

だから、ひきこもりである兄の気持ちが、まったく分からないわけではない。もちろん、兄の振る舞いには様々な問題がある。そういうすべてを許容するつもりはない。しかし、生きていることが辛くてどうしようもない、という感覚は分かるし、それが絶望的なまでに他人と共有できない感覚だ、という絶望も理解できる。その状態で生きていかざるを得ない中で、言動がねじ曲がっていってしまうことは、ある程度は仕方ないと思う。とはいえ、そういう存在と対峙せざるを得ない人間にとっては、迷惑以外のなにものでもないのだが。

主人公である弟の方にも、理解できる部分が多々ある。

主人公は、ひょんなことから、絶対に無理だと思っていた結婚をすることになった。彼が、自分には結婚は無理だ、と考えていた理由の一部は、僕にも理解できる。例えばそれは、こんな文章から分かる。

『一生を一人でやり過ごすのはやるせない。でも“運命の人”なんか信じない。となると、誰かと一緒になるためには多くの場合、あなたを愛しています、という一定期間の実績なり演技なりが必要だ。』

そういうのがめんどくさい、という感覚は僕の中にもある。本書で主人公がする結婚に至る経緯は、ある意味で僕の理想にとても近い(別に僕は結婚願望はないが、万が一するとしたらこういう形がいいと思う)。まあ、実際にはこんな展開はあり得ないだろうから、そういう意味で僕の人生に結婚なんてものが関係してくることはあり得ないのだけど、もしそういうことが起こったら?という仮定の話は、少なくとも僕にとってはリアルなものに感じられた。

僕の感覚では、いわゆる「イマドキの若者」には、結婚というものに対する絶対的な価値観が薄れているのではないか、と思う。かつては結婚は、しなければおかしいと思われるようなものだった。しかし徐々に、結婚はしたければすればいいししなくてもいい、という風に、さらに、結婚なんかしたって良いことない、という風に変わってきているように感じられる。そういう中でこの物語はどんな風に受け取られ得るのか。

内容に入ろうと思います。
公園で行き倒れのように眠っていた掛橋啓太は、二人組の女性に起こされた。正確には、その内の一方の女性にだ。彼女は啓太に宇都宮のオススメの餃子店を質問した後で、唐突にこう切り出した。
「質問が三つあります」
その三つの質問に答えた啓太は、彼女と結婚することになっていた。妻の名は、大野千草と言う。
二人は、お互いのことなどほとんど知らないまま、お互いの両親にもまともに報告しないまま一緒に住み始めた。その生活は、非常に心地よかった。啓太は、自分が欲しいと望んでいた環境を、通過したくないと思っていた面倒な手続きを経ずに手に入れることが出来て、非常に満足していた。
そんな啓太は、子どもの頃から、ひきこもりの兄の存在に悩まされていた。
小学校の頃からすでに不登校だった兄のことを、まだ小さな頃はおかしいとは思っていなかった。しかし次第に周りから、何故兄は学校に行っていないのかと聞かれるようになり、啓太も疑問を持つようになった。母は完全に兄の味方だった。兄を甘やかすことは兄のためにはならない、と何度力説しても、まだ時期じゃない、と取り合わなかった。やがて啓太は、父親のいない、母と兄の三人での生活の中で、自分の居場所がなくなっていると感じられるようになっていった。
ひきこもりの兄に悩まされる弟として、そしてひょんなことから結婚した夫として、掛橋啓太は過去と現在と未来に思い悩まされる…。
というような話です。

なかなか面白い作品だったと思います。正直なところ、物語的には何が起こるというわけでもなく淡々と話が進んでいくんだけど、出て来る人物が曲者揃いで、現実にいそうな感じがする。こんな奴が周りにいたらしんどいだろうなぁ、と思ってしまうような人間が何人も登場し、主人公である啓太を苦しめていく。そのリアルさみたいなものが惹きつけるんだろうなぁ、という感じがします。

例えば、啓太の会社の同僚である坂巻という男は、本当にろくでなしだ。こんな人間が会社にいたら本当に最悪で仕方ないが、啓太自身でどうにか出来る問題でもない。同じ部署にいる限り関わらなければならないが、どう関わっても自分が損する、という相手は、どこかの会社にそのままいそうな人物だな、と思わせるリアリティがあるなと感じました。

啓太と千草の結婚に至る過程は、逆に非常にリアリティがない。しかしこのリアリティの無さは、現実に起こる可能性が低いというだけで、こうなったらいいなという願望を持つ者は、実は多いのではないかという気がする(さすがにそれは僕の世の中の捉え方が間違ってるでしょうか?)

最近若い人と喋っていると、(僕自身もそうだが)「恋愛」というところに行き着かない人が多い気がする。「出来ない」のではなく「しない」という選択をしている人が多いように思う。「しない」と考えている理由には様々あるだろうが、「他人にさほど興味がない」とか「人と一緒にいるのが苦痛」とか、色々と聞いたことがある。僕も今は恋愛を「しない」という選択をしているが、その理由は説明がめんどくさいし、共感してもらえる可能性は低いのでここでは書かない。

僕は恋愛の先に結婚があるべきだとは考えていないが、しかし多くの場合そういう流れを取る以上、恋愛に行き着かなければ結婚にもなかなか行き着かないということになるだろう。

だから本書で描かれる結婚の経緯は、実際に起こる可能性はほとんどないが、ある種の理想、ある種の願望として、多くの人が共有可能なものなのではないか。僕はそんな風に感じている。

だからこそ、彼ら夫婦がどんな生活をし、どんな展開を迎えるのかを読ませる本作は、ある意味で現代人の期待に応えたものになっているのではないか、という気がするのだ。

彼ら夫婦がどんな生活をし、どんな葛藤を抱え、どんな展開を迎えるのかは、ここでは詳しくは書かない。しかし、彼らは真剣なのだ、ということは、読みながら感じて欲しいように思う。彼らが、「きちんとした結婚」を忌避するのには理由があり、その理由に僕は共感できてしまう。彼らが恐れていることを、同じように恐れる気持ちを持っている。そんな彼らの恐怖を、理解できなかったとしても排除しないで欲しい。そういう苦しみや葛藤と共にしか、「家族」というものと関われない人間がいるのだ、ということを理解して欲しいなと思う。

彼らの様々な選択が正解だったのかどうか、それは読んだ人が決めることだ。分かりやすい正解などない、と認めることでしか、僕たちは現実と対峙することが出来ないのだ。

この本は、帯のコメントが秀逸だ。

『この本を読んで何も感じなかったとしたら、それはある意味で、とても幸せなことだと思う』

僕も、そう思う。

葦舟ナツ「ひきこもりの弟だった」

「弱さ」と「強さ」の絶妙なバランス・久保史緒里

乃木坂46に3期生が加入して10ヶ月。彼女たちは膨大な露出にさらされている。

僕は乃木坂46のファンだが、彼女たちのことは、テレビか雑誌でしか追っていない。握手会やライブ、イベントなどには行ったことがないので、そちらの方面でどういう露出がされているのかは、直接的には知らない。しかし、雑誌の対談などでその断片は分かるし、何よりも雑誌で取り上げられる頻度が非常に高い。

これを恵まれた環境だと捉える人もいるだろうが、僕には過酷に映る。例えば2期生は、乃木坂46に加入してから現在まで、一般的なルートでエベレスト登頂を目指しているとしてみよう。高所順応をしっかりし、自分の体力に合わせて自分のペースで登っていくというようなイメージだ。しかし3期生は、エベレストの9合目にいきなりヘリから下ろされて、そこから登れと言われているようなものだろうと思う。高所順応もせず、また少しずつ登って感触を掴んでいくような経験もしないまま、過酷な登山にさらされているのだ。よくやっていけるものだ、と感じる。

そして、やはりというべきか、そういう過酷な状況の中でも、突出するメンバーというのは出てくる。僕が見ている範囲では、久保史緒里と山下美月がずば抜けた個性を発揮していると感じる。雑誌の記述によれば、彼女たちの『3人のプリンシパル』は凄まじかったようで、共演した酒井敏也氏は、『あの2人は毎日変わっていきましたよね。』(OVERTURE 2017年7月号)と語っている。僕は『プリンシパル』は観ていないので分からないが、雑誌での彼女たちの発言を追っていくと、考え方や個性、覚悟の決め方や表現力などが、ちょっとずば抜けていると感じられる。

今回は、久保史緒里について書いていきたいと思う。

久保史緒里は、不思議な女の子だ。見た目は儚くて清楚なイメージで、「乃木坂らしい」と評されることも多いようだ。大きな声を出すイメージも、グイグイ前に出てくるイメージもないが、「NOGIBINGO!8」でのバドミントンをやりながらの自己紹介などを見て、スイッチが入った時の切り替わりに驚かされた。また、同じく「NOGIBINGO!8」での「妄想リクエスト」のコーナーでは、風紀委員役を驚くほど高いレベルで演技してみせた。『プリンシパル』で実力が高く評価された、という話は前々から雑誌で読んでいたが、これほどレベルが高いとは思ってもみなかった。

しかし、何よりも久保史緒里を特徴づけるのは、そのネガティブさだろう。

【初めて会うどんな方からも「この子はネガティブだな」と分かってしまうくらい隠しきれない(笑)。どんなことでもネガティブな方向に思考がいくようにルートが決まってて。】「EX大衆 2017年7月号」

乃木坂46にはネガティブなメンバーが多く、そのことが僕にとっての魅力になっている部分はある。齋藤飛鳥を始め、ネガティブな部分をさらけ出すメンバーは多い。その中でも僕の実感として、久保史緒里のネガティブさはかなり群を抜いているだろうと感じる。

【私は3期生とも上手に話せない…。
(与田祐希)え?え?3期生とも?それは初めて聞いた。
みんなに言ってない…。だって、言ったらみんなにもっと距離を置かれちゃうかもしれないから。なんかお悩み相談みたいになっちゃったね(笑)】「ENTAME 2017年6月号」

3期生とも上手く話せないというのには、【『お見立て会』の時期は、私がメンバーと何枚も壁を作っていたので】(BUBKA 2017年8月号)という発言もしている。年代こそバラバラだとは言え、「同じ学校にいる」よりも遥かに強い「乃木坂46の3期生」という関係性の中にいても、打ち解けるのに恐ろしく時間が掛かるのだという。【でも、最近は3期生のみんなに「ネガティブは面倒くさい」って言われるから、申し訳ないなと思い始めたんです】(EX大衆 2017年7月号)というほど、3期生も彼女のネガティブさを認識しているし、それが度を越えたものだと否応なしに分かっているようだ。

【私は、やっぱり自分のことがそんなに好きじゃないので。失礼だなとは思いつつも、相手がなにかを褒めてくださったことに対して、否定してしまうことがあります。それじゃダメだなとは思っているんですけど…。そもそも人見知りで、コミュニケーションが上手じゃないので、嫌われるような発言をしてしまったんじゃないか?とかいろいろ考えてしまいます】「BUBKA 2017年6月号」

僕自身もネガティブだから分かるが、ネガティブな人間は、考えても仕方ないことをつい考えてしまうことが多い。「嫌われるような発言をしてしまったのではないか」というのは、考えたところでそれが分かることは少ないし、そもそも関わる人全員に好かれる必要などないのだから気にしても仕方ない、という風に思えれば楽になれるのだけど、ネガティブな人間はなかなかそうは思えないものだ。とはいえ、【人と仲良くなるのにすごく時間がかかります。地元の友達でも「本当に仲良くなった」と思うまでに、短くて4年かかっていて】(BUBKA 2017年8月号)というのは、あまりにも物事をマイナスに捉えすぎではないかとは思うのだが。

こういう久保史緒里の考え方がどのように生まれたのか、その背景まで掘り下げるようなインタビューはまだないが、その一端を感じさせるような発言はある。

【でも、なんか…私の部屋はWiFiが繋がってなくて(笑)。だから、動画とか観られないんです。それをお母さんに伝えたら「ウチはそういう家系だからしょうがないよ」って言われて。何をやるにもツイてない、というか。
―久保家は代々そうなんですか?
とくに私がひどいかもしれないです。私が乗っていた電車が止まっちゃたり、そういうことがたくさんあります。この間も、ちょっと時間ができたので、行動派じゃないのに原宿にやっとの思いで行ったんです。すごく行きたかったピザ屋さんがあって、そしたら、私が行った3時間だけやってなくて。
―営業時間外だったんですね
あきらめて戻ろうと思ったら、電車の乗り換えがわからなくなっちゃって…。で、駅の地下を歩いて出ようとしたら「ここから出られないので入場料を払ってください」って言われて。それで入場料を払って、こんどは牛丼屋さんに行ったら、頼んだものが出てこなくて…。でも、人見知りで店員さんに言えなくて、そのままスルーして帰りました。
―「注文したものが来てないんですけど」って言わなかったんですか?
言えない…。基本的に私、そういう人間です。どっちかといえば空気に近いかも(笑)】「BUBUKA 2017年5月号」

彼女曰く、こういうことが日常で頻発するのだ、という。もちろんこれも、ニワトリが先か卵が先かという話に近いものがあって判断は難しい。こういう不運が日常の中で積み重なったからこそ、考え方がどんどんネガティブになっていったのだ、という捉え方ももちろん出来る。しかし、ネガティブだからこそ、身の回りで起こる些細な出来事を悪い方に、つまり「自分のせいだ」という風に解釈してしまう、という捉え方も出来るだろう。個人的には、彼女が何故これほどまでにネガティブな思考を持つようになったのかは非常に気になるところだ。

齋藤飛鳥もネガティブで、自分のネガティブの源流や、自分のネガティブさが自分にどういう影響を与えてきたのかについてよく語る。これは僕の持論だが、ネガティブな人間は、言葉で自分を捉える訓練をし続けなければならない。何故なら、ネガティブな思考で生きていくということは大抵、周囲との差異や周りの人間に対する違和感などをもたらすことになる。そういう中で生きていかなくてはならなくなる。久保史緒里も、

【たぶん普通ではないんですよね。まわりからも「普通じゃない」って言われ続けてきたので、自分でもそれはわかっているんですけど(笑)】「BUBUKA 2017年5月号」

と発言しているように、やはり周囲との差異の中で生き続けてきたのだと思う。そしてそういう中で生きていくためには、「自分が今何を感じているのか」「それが周囲とどういう差異をもたらすのか」などについて徹底的に自覚し、言語化し、時には他人に話が出来る状態に持っていく必要があるのだ。これは、僕自身の経験の話だが、ネガティブな人間にはそういう傾向があるはずだと思っている。

だからこそ僕は、ネガティブな彼女たちに惹かれるのだ。僕が雑誌で乃木坂46のメンバーを追いかけるのは、彼女たちの言葉を知りたいからだ。考え方や価値観を知りたいからだ。だから僕にとって、言語化出来る能力というのは、男女問わず人間に関心を持つ際の一番重要なポイントだ。ネガティブさは言語化力を生む。だから、ネガティブな人間に惹かれてしまう。

僕が久保史緒里の一番好きな部分は、「AKB新聞」の中でのこの発言だ。

【ライブのMCの台本を渡されたときに、桃ちゃん(大園桃子)のせりふとかを覚えています。私は人に頼るのは得意じゃないけど、人に頼られるのは好きなので、本番中に桃ちゃんが「何だっけ」という顔で私に頼ってくれるのがうれしくて】「AKB新聞 2017年6月号」

久保史緒里に強く関心を持ったのが、この発言に触れた瞬間だった。凄く良い子だな、と思ったのも確かだ。しかし、それだけではない。この発言は、ネガティブさと闘い続けてきた彼女が獲得した強みだと感じたのだ。

久保史緒里は、一人の方が好きだという発言を良くする。

【私も自分の好きなように生きています。みんなが「ねぇねぇ明日遊びに行かない?どこに行きたい?」みたいな話をしているなかには、あんまり自分から行きたいとは思わないです。
―みんなとエンジョイしたい!とは思わない?
ショッピングに行くくらいだったら、ひとりで森林に行きたいタイプなので(笑)】「BUBKA 2017年6月号」

何故そう感じるのか。それは次の発言から分かる。

【―ひとりのほうが楽ですか?
そうですね。誰かを誘うことによって、その人の時間が私の時間になっちゃうし。その人はもしかしたら、なにかほかに違うことをしたかったかもしれないのに、付き合わせてしまうのも申し訳ないです。誘った私も気を遣ってしまって、それで体力を…。それだったら、ひとりでいるのがいいかなと思ってしまいます】「BUBKA 2017年6月号」

久保史緒里は、誰か他人といることで、考えすぎてしまうのだ。何を考えるのかと言えば、「今ここで自分はどうあるべきか」ということだろう。この感覚は、僕の中にもずっとある。その場における自分の役割を考えすぎてしまうが故に、他人といることに疲れてしまうのだ。だから、一人でいたい。

こういう性格は、必要ではない場面でも考えすぎてしまうので疲れてしまう。しかし裏を返せば、必要な時には必要な形で適切な役割を担うことが出来る、という意味でもある。それが先程の、「桃ちゃんのせりふを覚える」という発言に繋がっていく。自分の役割を考える必要がない場面ではあまりに過剰に働きすぎてしまう彼女の性格が、自分の役割考える必要がある場面では強力な武器に変わるのだ。これはまさに、ネガティブさと常に向き合い、闘い続けてきた彼女だからこそ持ち得た力だろうと僕は感じるのだ。

そんな彼女も、乃木坂46に入り、少しずつ変わってきたようだ。

【私も「あぁ、無理かもな」と思うけど、「できなくてもやろう」という精神は持つようにしてます】「EX大衆 2017年7月号」

ただし、無理矢理自分を変えるようなことはしない。

【そうですね。最近はポジティブになるのも違うなと思ってます。もしポジティブになったら全然違う人間になってしまうので、いまはネガティブを減らしていけばいいかなって】「EX大衆 2017年7月号」

それでいいと僕も感じる。ネガティブさは、うまくコントロールすれば武器になる。敢えて手放す必要もない。うまくコントロール出来るようになるまでは周囲に迷惑を掛ける機会も多くあるかもしれないが、それも個性だと割り切って、自分らしくいて欲しいと思う。

何より久保史緒里は、少しずつネガティブさをコントロール出来るようになってきているようだ。

【―おふたりはライバル関係ではないかもしれませんが、3期生のなかで一番を目指したいという気持ちはありますか?
「一番になりたい」って考えたことなかったんです。むしろ、私が目指す場所は、3期生のなかでの一番じゃなくて、自分のなかでの一番。今の私ってダメダメなんです。「こうなりたい」と思い描いている理想の自分からは、ほど遠くて。今までと同じ生活をしていたら、今の場所からも今の自分からも抜け出せないいし、停滞していくだけだなと思います。だから、昨日の自分をつねに越えていくことが目標です。
―誰かと比較することもない?
以前までは、ちょっとの差だけですごく比較してたんですよ。なんであの子はできるのに、私はできないんだろう…って比較ばかりしていて。でも、今はしなくなりました。それがいことか悪いことはわからないけど、比較する相手が「昨日の自分」だっていうことに気づいたんです。自分を越えられない人間が、他人を越えられるわけがないので、まずは昨日の自分を越えていこう、っていう考え方に変わりました】「BUBKA 2017年8月号」

これまでずっと誰か他人と比較するのに向けられていたネガティブさが、昨日の自分に向けられるようになったという。素晴らしい方向転換だ。他人と比較しても、比較対象である他人の情報を正確には手に入れられないから、どうしても予想が入り交じる。しかし予想が混じる場合、ネガティブな人間には、どんどん悪い予想をすることになってしまう。結局これでは、まともな比較は出来ない。昨日の自分であれば、ほぼ正確に捉えることが出来て、予想が混じる余地もない。昨日の自分を乗り越えるために何が出来るのか。問いをそう捉え直すことで、彼女はより力をつけていくことだろうと思う。

そんな久保史緒里だが、最近発売された「BUBKA 2017年8月号」で、山下美月と対談をしている。僕は乃木坂46が取り上げられている雑誌をかなり買って読んでいるが、ここ最近読んだ中ではずば抜けて良い対談だったので、久保史緒里が山下美月との関係をどう捉えているのかという話に触れてこの記事を終えようと思う。

【あと、ふたりで一緒にいると「珍しいね」って言われるんですよ。だけど、全然仲悪くない】「BUBKA 2017年8月号」

【―今日こうやってお話を聞くまで、正直、おふたりはライバルのような関係だと思っていました
でも、そういう見られ方をされていると思います。
(山下美月) うん。『プリンシパル』以降バチバチ!みたいな(笑)
ね!ファンの方にも聞かれたことあるよ。「山下ちゃんとどういう関係なの?」って。だから「俺の嫁!」って答えたんですけど(笑)】「BUBKA 2017年8月号」

『プリンシパル』以降、彼女たちはそんな風に見られることが多かったという。こんな風に書かれると、『プリンシパル』でどういう争いが繰り広げられたのか、凄く気になるところだ。

「BRODY 2017年6月号」には、『3人のプリンシパル』での久保史緒里と山下美月の様子が活写されている。

【忘れてはならないメンバーが2人いる。今回の『3人のプリンシパル』を牽引したと言ってもいい2人、久保と山下だ。2人は初日から第二幕に選ばれ、千秋楽までの15公演中、久保が11公演、山下が10公演に出演。第一幕ではともにネガティブさを発揮してスタートした2人だが、演技審査になると一変し、堂々とした演技を見せ立候補した役を勝ち取っていった。しかも、彼女たちは演技初心者なのに、公演を重ねるごとに深く、細やかな演技を見せるまでに成長する。】「BRODY 2017年6月号」

こう評されながらも、彼女たちは自信がないまま闘い続けた。久保史緒里は、【もうダメです、今日は何をすればいいかわからないです】と嘆き、山下美月は、【次に出られなかったら死のう】というあまりに悲壮な覚悟で臨んだ日もあったという。

【久保の存在が山下に火をつけ、山下の存在が久保を支えた。乃木坂46に入っていなければ、おそらく出会うことはなかったであろう2人だが、気づけばお互いは唯一無二の存在になっていたのだ】「BRODY 2017年6月号」

いかに彼女たち二人が、お互いの存在を意識し、お互いを高め合いながら『プリンシパル』を乗り越えていったのかが、とてもよく分かる観戦記だった。

そんな二人だが、久保史緒里は山下美月のことをさらに高いレベルで捉えている。

【でも本当に不思議なんですけど、なぜかやましー(山下美月)とは全然そんなことなくて。最近気付いたんです。やましーの存在が特別であることに。】「BUBKA 2017年8月号」
【なんていうか…たぶん、やましーとは前世で会ってるんですよ】「BUBKA 2017年8月号」
【やましーは私のことを前から知っているんです。】「BUBKA 2017年8月号」

これらの発言に対して山下美月は、【え、やばくない?(笑)】【え?大丈夫?(笑)】と反応しており、この対談で初めて聞いたことが伺える。山下の反応にはお構いなく、久保史緒里は自分の考えをどんどんと喋っていき、周囲は恐らく「大丈夫かな…」という雰囲気になっていたように思うが(なんとなくそう感じる)、臆することなく主張する。ネガティブな人間とは思えないほどの前のめりぶりであり、その点が一層、久保が山下を非常に大事で気の許せる存在として見ているのだということが伝わってくる。

【…こんな出逢い、もう一生ないかもしれない!
(山下) 本当に?
ないよ!誓える!この出逢いはもう一生ない!】「BUBKA 2017年8月号」

久保史緒里にとって山下美月とは、ここまで言わしめる存在なのである。

山下美月もまた、久保史緒里の存在を非常に大事なものと捉えているが、さらにその上で、山下美月らしい客観的な捉え方もしている。

【でも、私たちの関係性を見ていて「面白い」って思うファンの方もいるんじゃないですか。乃木坂46というグループというか、エンターテインメントって、面白いことが第一だと思うんです。だから、このふたりがライバル関係っていうふうに見られているのも、私はすごくいいことだなと思っていて。そのストーリーを面白いって思ってほしいです
(中略)
でも、台本もないのに、こうやってストーリーができあがっていくのは、すごいことだと思う。
―『プリンシパル』がきっかけで自然と生まれたものですからね
(中略)
もし『プリンシパル』がなかったら、私たちもこんなに仲良くなっていないと思うし】

期せずしてライバルのような関係になり、一方でお互いを前世から会っていると感じるほどの親しさで捉えている二人。『3人のプリンシパル』を演出した徳尾氏が【この2人は今後の3期生を背負っていくであろう人間ですしね】(BRODY 2017年6月号)と語るほどの実力を持つ二人が今後どんな風に乃木坂46の中で活躍していくのか。今から非常に楽しみである。

「ハクソー・リッジ」を観に行ってきました

今まで観た戦争映画で、二番目に酷かった。
映画の出来ではなく、戦争の悲惨さの描き方が。

一番酷いと感じたのは、「野火」だ。「野火」では、日本兵は敵に撃たれて死ぬのではない。飢餓、自殺で死ぬ。そこには、戦場における圧倒的な「虚しさ」があった。戦場を描かずに、これほど戦争の悲惨さを描き出せるものなのかと驚嘆した。

「ハクソー・リッジ」では、第二次世界大戦で最も過酷な戦場の一つと言われた、沖縄の前田高地が舞台だ。米軍はここを「ハクソー・リッジ(のこぎり崖)」と呼んだ。
ここでの戦闘は、悲惨としか言いようがない。もちろん僕は、戦場を体験したことがない。「ハクソー・リッジ」での戦いがどれだけ悲惨だったのか、比較する対象を持っていない。けれど、これだけの接近戦で、敵味方が入り混じり、あっさりと人が死んでいく様は、あまりに悲惨としか言いようがない。

そんな酸鼻を極める戦場で、人は自らの信念をこうも貫けるものだろうか。

『でも、信念を曲げたら、僕は生きていけない』

その気持ちは、分かるような気がする。僕自身も、どちらかと言えば、自分が「No」と感じたことに対する態度は貫きたいと考える方だ。

例えば、経験はないし、この映画で描かれる現実と比較するのに相応しくない話なのだが、信念を貫くという意味で、僕は痴漢の冤罪を連想する。

自分が痴漢をしているのであれば、相応の罰を受けるのは当然で甘受するしかない。しかし、自分が痴漢をしていない場合、やはりそれを認めるわけにはいかない。しかし、現実はなかなか厳しい。仮に痴漢を行っていなかったとしても、それを現場あるいは警察署で証明できなければ、いくら無罪を主張してもほとんど裁判に掛けられる。そして裁判になれば、ほぼ有罪だ。判決が出る前から、会社をクビになったり、世間から非難されたりする。痴漢冤罪を立証する手立てはほぼない(まったくないわけではないが、怖ろしい手間と労力と期間が掛かるし、確実に立証できるわけでもない)。

一方で、痴漢をしていなくてもしたと認めれば、若干の罰金だけで解放される。前科が付くわけでもない(たぶん)だし、痴漢(の冤罪)で拘束されていたことを知られることもほとんどない(身元引受人を指定しなければいけないだろうから、まったく知られないということはないだろうが)。結果だけ見れば、痴漢をしていなくてもしたと認めてしまう方が、実害は少ない。

しかしそれでも僕は、自分が痴漢をしていないのであれば、してないと言い張りたいと思う。

繰り返すが、これはこの映画の現実と比較してあまりにも小さな話だが(痴漢冤罪で苦しんでいる人を貶める意図はない)、信念を貫くという意味では共通するものがある。これは、自分がどう生きるかという話であり、何を守るのかという話である。

『人の信念を変えることなど、戦争にだって出来やしない』

信念を貫くことは、困難だ。特にその信念が、時代の流れと大きく異なる場合には。それでも、不可能なわけではない。そして何よりも凄まじいことは、彼が信念を貫くことで、奇跡を成し遂げたということだ。

『痩せっぽっちの臆病者だと思ってた。でも、誰にも出来ないことをやってのけたな。人生最大の勘違いだった。俺を許して欲しい』

武器を持たずに戦場を駆け回った男が、武器を持って戦った男からこう声を掛けられる。それがどれほど凄まじいことか。

『お前なしでは戦えない』

武器を持たない彼なしでは戦えない。それだけの成果を、彼は成し得たのだ。

『でも、お前の信念は本物だと信じている』

信念を貫くことで、命を落としたり不遇の人生を歩んだ者も数多くいるだろう。そういう人間の話は、あまり表に出てこないかもしれない。だから、殊更に「信念を貫くこと」の凄さを訴えるだけではダメだろうという気持ちはある。しかし、たとえ信念を貫くことで何かを失ったとしても、信念を貫くことでしか成し得ないこともある。そう信じさせてくれる映画であることは間違いないと思う。

内容に入ろうと思います。
デズモンドは、信心深いキリスト教徒の家で育った。「第六戒 汝、殺すなかれ」というのが最も大事な戒律だと教え込まれた。デズモンドは、病院で知り合ったドロシーに惹かれ、付き合うようになるが、親の反対を押し切って入隊する決意を固めたデズモンドに対し、怒りを見せながらも、プロポーズしないつもり?と詰め寄った。
入隊したデズモンドは、早速訓練をすることになるが、銃を撃つ訓練で問題が起こった。デズモンドは、「銃を持つことが出来ないのです」と言って、上官の命令を断ったのだ。入隊時デズモンドは、銃を持つことが出来ないという話をし、「良心的兵役拒否者」とされていた。しかし上官は、「ここにいる限り俺の命令に従え」というスタンス。隊全体でも、規則としてデズモンドに無理やり銃を持たせることは出来ないが、しかしそれでは隊全体の規律が乱れるし、お互いの命にとっても危ないからと、デズモンドを除隊させようとする。しかしデズモンドは、人を殺すためではなく人を救うために自ら志願したのだ、という強い気持ちを捨てず、あらゆる状況に耐え続けた。
そして、様々な人間の尽力もあって、デズモンドは武器を持たずに衛生兵として戦場に行くことを認められたのだ。
ハクソー・リッジ。切り立った崖に設置されたロープを這い上がり、その上で死闘が繰り広げられる。武器を持たないまま、勇敢に戦場を駆け回るデズモンド。負傷者は次から次へと現れる。もう無理だ、という状況で米軍は撤退を余儀なくされるが…。
というような話です。

凄まじかった。今年観た映画では、「パッセンジャー」を超えるものはないと思っていたけど、匹敵する映画が現れた。正直、まったくタイプの違う映画で、単純には比較出来ないのだけど、とにかく凄まじかった。

まずは、やはりこれが実話であるということの衝撃がハンパではない。デズモンドの最も凄まじい功績は、内容紹介では触れなかった。この感想の中では、触れるつもりはない。映画を観て、その凄さを感じて欲しいからだ。

映画を観ながらずっと、「いや、ありえないだろ」と思い続けていた。そんなこと出来る人間がいるのか、と。

『「正気なら、武器を持って戦え」
「なら正気じゃなくていい」』

戦場である兵士と交わした会話だが、この言葉通り、デズモンドは明らかに正気ではない。武器を持たずに戦場を駆け回る、というだけでも常軌を逸しているのに、それどころの騒ぎではない。はっきり言って、「よく生きてたな」という感じなのだ。既に引用したが、『誰にも出来ないことをやってのけたな』という言葉は、まさに言葉通りだ。信じられない。

前半では、デズモンドが仲間の兵士や上官から散々な扱われ方をする場面が描かれていく。デズモンドの功績を仮に知らなかったとしても、彼らの行いはちょっと酷すぎる。とはいえ、彼らがデズモンドをどうにか除隊させようとした気持ちは、理解できなくもない。

軍隊にいた経験はないが、自分の命を仲間や上官に預けるようなことをしなければならないのだ。全員が同じルールの中で、信頼し合える関係を作らなければ、他人に命を預けることなど怖くて出来ない。上官もデズモンドに、ここにいる者たち全員の命の問題なのだ、と語りかける。確かにその通りだ。後にデズモンドが成し遂げた功績を知る前であれば、彼らの行いはともかく、彼らの判断が間違っていたとは思いにくい。

しかし、そんな風に扱っていた彼らが全員、最後の戦闘でデズモンドを待った。デズモンドの信念を本物だと認め、彼がそうしなければならないと信じることをするための時間を、全員が許容したのだ。素晴らしいシーンだった。

あと、詳しくは書かないが、デズモンドの父の行動も実に良かった。ダメな親父になっていたが、彼にも、貫くべき信念があり、それをデズモンドが引き出した、というところが見事だった。

映画の話で言えば、戦闘シーンが凄かった。もちろん僕は、本物の戦場なんて知らないのだけど、本当に自分がその場にいるかのような感覚を何度も味わわされた。絶対に自分に銃弾が飛んでこないことが分かっていても、怖すぎるのだ。そんな中、もちろん銃を持って戦っている者も凄いと思うが、銃も持たずに負傷兵を救い続けるデズモンドの勇気には、改めて感動させられる。

確かにこの映画は、戦争の悲惨さを見事に描き出す戦争映画だ。しかし、ただそれだけの作品として見るのはダメだ。ダメだ、という強い言葉を使ったが、ダメなのだ。そうではなく、どんな状況でも信念を貫き通すことの意味を教えてくれる作品なのだ。真の勇気とは何か、真の成果とは何か。そういうことを見失いがちな世の中を生きる僕たちを、忘れるな、と諭してくれる作品だ。

「ハクソー・リッジ」を観に行ってきました

夢を持たない齋藤飛鳥

夢を持つことは、可能性を狭めることだと、僕は思っている。

【ひとつだけ覚えています。
先生もクラスメイトの親もその子(※学校一の秀才と言われていた、将来医師になると決めていた小学校時代の同級生)に「将来に期待しかないね、若い頃から将来を考えるのは凄い、偉いね」って言うんです。
(中略)
ただ、あまりに皆が持ち上げるから、私には捩れて見えてしまうんです】「別冊カドカワ 乃木坂46 vol.4」

凄くよく分かる。齋藤飛鳥が言う「捩れて」がどういう意味なのか、正確に捉えられているかは分からないが、その状況に対する強烈な違和感は理解できる。

人間は生きている限り、様々な制約によって縛られる。生まれた環境、性格や体質、使える時間、お金などなど、あらゆる制約が存在する。そういう中で、自分が注ぎ込める可能性すべてを費やさないと届かないような、とてつもない夢というのも、もちろんあると思う。先の同級生の「医師」という夢も、もちろん一部の超天才であれば楽々と乗り越えられるものかもしれないが、一般的には自分のあらゆるリソースを注ぎ込まなければ到達することが出来ない夢だろう。そういう意味で、若い頃からそういう夢を見つけ、それに向かって邁進できることは、とても素晴らしいことだと思う。決して悪いことではない。

しかしそれは、「他の選択肢をほぼ諦めること」とイコールである、という認識を持った上でなければ、その夢が叶わなかった時の挫折感に耐えられないのではないか、とも感じてしまう。

子どもの頃は、夢を持つことは大事だ、素晴らしいことだと言われる。そうやって大人は子どもに、「夢の持ち方」だけは教えてくれる。しかし、大人になるにつれて、いい大人にもなって夢なんて見てるんじゃない、と言われる。おかしい。子どもの頃はあんなに夢を持つことを奨励されていたのに、いつからダメになったんだろう。子どもの頃は「夢の持ち方」を散々教えてくれるのに、大人になるまでの間に誰も「夢の諦め方」を教えてくれはしない。いつの間にか、夢を持ってはいけないことにされてしまう。

【勿論当時から難しい事ばかりを考えていた訳では無いとは思いますが、夢とか希望とか、そういう類のものに疑問を持ち始めたのはこの時期です(※先程の同級生への周囲の反応を見聞きしていた頃)。
そう、わたしは確かにここで違和感を感じました。
そして、夢を持たないという選択も、したはずなんです。全然覚えていないですけど】「別冊カドカワ 乃木坂46 vol.4」

僕も全然覚えていないけど、人生のどこかで「夢を持たないという選択」をしたはずだと思う。子どもの頃は、それでもまだ何か自分に何か可能性を持とうと思っていたような気もする。でも徐々に、そういう意識を手放していった。まだその頃は、「夢を持つことは可能性を狭めることだ」なんて明確に捉えられていたわけではないと思うけど、自分なりに、何か違うな、という感覚を持つようになったのだろう。

夢を持たないという選択をした齋藤飛鳥は、「実力」のない自分自身を嘆く。

【ほらわたし、今まで運だけでやってきてますから。実力なんてゼロですから。いつかバレてしまうんじゃないかと、ヒヤヒヤしてますから。】「別冊カドカワ 乃木坂46 vol.4」

ネガティブな齋藤飛鳥らしい自己認識だが、しかしこの「実力」の話を、夢を持たないことと組み合わせて考えると、ちょっと面白い捉え方が出来る。

夢に向かっている人にとっての「実力」というのは、非常にわかりやすい。例えば医師になるのが夢であれば、「医学部に入学するための知力」や「手術の手技」「論文を書く技量」などを総合して「実力」と捉えることが出来るし、それぞれに対してどんな風に「実力」を伸ばしていけばいいのかという方向性もなんとなく分かるだろう。

一方、夢を持たない人間にとっての「実力」というのは、一体何を指すのだろうか?これは、ちょっと難しい問題だ。夢がないということは、向かうべき方向がないということだ。そこにじっとしていてもいいし、どの方向に進んでいってもいい。たどり着くべき場所がないのだからスピードも問われないし、回り道するという発想さえない。そういう中で、「実力」というのは一体何を指すのだろうか?

【そのせいで、小さい頃の何も考えていない自分や実力をつけてこなかった自分に、腹を立てたことがあります。何度も。
誰かに必要とされる人間になるには何かしらの実力をつけなければならないと、躍起になった事もあります。】「別冊カドカワ 乃木坂46 vol.4」

そういう気持ちになってしまうことは、よく分かる。僕もそんな風に焦っていた時期があったなぁ、と思う。でもやっぱり、目指すべき場所がないのだから、「実力」をつけるために何をしたらいいのかは全然分からないのだ。

僕は、夢を持たない人間にとっての「実力」というのは、可変性なのだと思っている。目の前に何か状況がやってきた時、その状況に合わせてどれだけ変化できるか、ということだ。そして齋藤飛鳥は、意識的なのか無意識的なのかは分からないが、この可変性という「実力」を伸ばそうとしているように僕には感じられるのだ。

【私、「このジャンルに向いてるよね」って言われるのが好きじゃなくて。曲によっていろんな見え方ができたほうがいいかなと思っているので、それは意識していますね】「ENTAME 2017年5月号」

齋藤飛鳥は、自分自身が何らかの「枠」の中にはめ込まれることを嫌う。夢を追うことが、スペシャリストを目指すことだとすれば、齋藤飛鳥の意識はその対極にある。

【私、なんに対しても“こだわりを持つ”ってことが好きじゃなくて。もちろんいい方向に進む努力はしますけど、なるようになってくれればいいし、私は絶対にこうなりたいって夢は持ちたくない。自分にも、周りにも、あんまり期待はしたくないんです。そのほうが、ワタシ的にはいい意味で楽なんですよね】「Graduation 高校卒業2017」

齋藤飛鳥は、こだわりを持てば持つほど、可変性が失われることを直感的に理解しているのだと思う。進むべき道を決めてしまうことが、それ以外の道を諦めることと同じだと知っているからこそ、彼女は踏み込まない。

それはとても勇気の要る生き方だ。彼女が言う「実力」を身につける方が、分かりやすい安心を得られる生き方になるはずだ。自分に何らかの「実力」があり、それが発揮される場があるという生き方は、きっと心を安定させるに違いない。自分はこういう人間だ、という打ち出し方をする方が、楽に感じられることも多いだろう。しかし彼女はそうしない。夢を持たない彼女にとっては、どんな状況にでも対応できる可変性を持ち、自分自身の輪郭をはっきりさせない生き方の方がベストだと感じているからだろう。

【私はファンの皆さんが抱いている私のイメージをまるまる全部は認めてはいないんですけど、自分らしさは自分が決めるものだとも思っていないんです。だから、齋藤飛鳥として求められるものにきちんと応えていきたいと思っています】「アイドルspecial2017」

齋藤飛鳥は決して、自分の考えを持っていない人間ではない。むしろ、この若さで自分自身を支える独自の考え方を持っている凄さを常に感じさせられる。それでいて、他人からの期待やイメージを拒絶せず、それらを自分の考えと織り交ぜていきながら、新たな状況に適応していく。夢を持たずに生きてきた彼女の最大の強みは、この点にあると僕は感じる。

【そして次に、自分の夢に近しい人と仲良くなりましょう!
なんとなく理にかなっている気がしますがどうですか?
これはつまり、媚びるという事です!
媚びには需要があります!
媚びて媚びて、他人の力で夢を叶えてしまう!】「別冊カドカワ 乃木坂46 vol.4」

この文章を、言葉通りに受け取ってはいけない。これは、「手っ取り早く夢を叶える方法」として登場する文章で、その最初の提言は「夢のレベルを下げましょう!」だ。ある意味で逆説的なアドバイスを送っていると捉えるべきだろう。だからここで齋藤飛鳥が言いたいことは、「自分の夢のためなんかに媚びるな」ということではないかと思う(曲解かもしれないが)。

【―いまも「世の中そんなもん精神」はあるんですか?
はい。9枚目、10枚目くらいから思い始めたんですけど、その頃はまだスタッフさんに褒められたらそのまま鵜呑みにして、期待に胸をふくらませていたこともあったんです。でも、結果的に期待はずれになることも多いと分かったので、いまは「世の中そんなもん精神」がより強固になってます。
―「世の中そんなもん精神」は、ビートたけしさんの「人生に期待するな」という言葉にも通じるなと思うんです。その分、冒険ができるというか、モデルなりラジオなり新しいジャンルにも恐れず飛び込めるのかなかって。
そうですね。小さいことで「うれしい」と大きく感じることもできるようになりました。「世の中そんなもん精神」があるから何に対しても高望みしないので、うまくやれている部分もあるのかなと思ってます。】「EX大衆2016年5月号」

夢を持たず、可変性という「実力」を育ててきて彼女だからこそたどり着ける場所がある。どこも目指さないからこそ、どこまでも突き進むことが出来る。彼女の生き様は、「夢を持たないこと」の強さを実感させてくれる力強いものだと感じさせられた。

齋藤飛鳥の連載は、これで終了だと言う。他の多くの連載も終了とのことなので、「別冊カドカワ 乃木坂46」自体がvol.4を以って終了、ということなのかもしれない。残念だが仕方ない。最後に、やはり連載終了を哀しんでいるらしい齋藤飛鳥のこんな言葉を載せて終わろうと思う。

【仕方ないんです。だって、さみしーんだもん!
“終わりあるもの”は好きだけど…寂しいものは、寂しい。
なので、
久々に鉛筆削りを買おうと思います。手動の。
それでは、また。】「別冊カドカワ 乃木坂46 vol.4」

二千七百の夏と冬(荻原浩)

内容に入ろうと思います。
まさに、「荻原浩にしか書けないだろう」という作品です。
メインとなるのは、縄文時代。ピナイと呼ばれる谷の村に住むウルクという少年が主人公だ。
ピナイに住む者は、典型的な狩猟民族、後の分類では縄文人である。カンジェ・ツチィという長を中心に、男は狩りをし、女は編み物をしたり魚を取ったりする。川の下流の村と交流があり、時々婚姻関係を結んだり、年に一度来る「魚喰い」と彼らが呼ぶ、海の近くで漁をする者たちと交易をすることもある。しかし基本的には、山に入り、獲物を狙い、そうして撃った獲物を神からの贈り物として食べ、暮らしている。
ウルクは、長の娘であり幼馴染であるパナに惚れている。自分の存在をアピールしたいところだが、狩りでも重要な役割はさせてもらえず(それ故分け前も少ない)、またパナがまだ幼い故にウルクのアピールが通じないということもある。それでもウルクは、パナのいる前でははりきってしまう。
幼い頃に父を亡くし、その父を「臆病者」呼ばわりされながら生きてきたウルク。何故父が「臆病者」なのか分からないままだった。一方でウルクは、山に一人で入った時(小さな獲物なら一人で狩りに言ってもいいことになっている)、四つん這いの状態でウルクの背丈ほどもあるクムゥ(※クマのこと)を目撃するが、そんなクムゥいるはずがないと笑われてしまう。
そんな風に、ウルクを中心にして、二千七百年前の、僕ら日本人の祖先の日常を描き出していく。
その一方で、時折2011年の物語が挿入される。東日本大震災からまだそう日が浅くなく、震災に絡めた記事を求められる中で取材を続けなければならないジレンマと戦いながら日々取材に追われる地方支局の新聞記者である佐藤香椰は、ある日縄文人の人骨の発掘現場にいた。入社三年目、記者として満足の行く仕事が出来ているとは言い難い香椰は、なんでも震災に絡めなければ、と感じてしまう自分に嫌気が差していることもあって、この縄文人の発掘を記事に出来ないかと考えている。なかなか簡単には行かなそうだが、しかしやがて驚くべきことが判明する。縄文人男性の人骨の隣に、まるで手を繋いでいるかのように見える、弥生人女性の人骨があることが判明したのだ…。
というような話です。

まず、作品としては、さすが荻原浩、という感じでした。これはまさに、荻原浩にしか書けないだろう作品だと感じました。

僕が感じる、荻原浩の作家としての凄さは、「視点人物の感覚で世の中を捉える」ということです。例えば、子ども目線の時は、子どもの日常に溢れているモノや考え方で世界を切り取る。それを、お年寄り、サラリーマン、主婦などなど、どんな立ち位置の人でもやってのけてしまう、というのが、荻原浩の作家としての凄みだと僕は日々感じています。

そして、本書はまさにその荻原浩らしさが全開に発揮された作品だと僕は感じるのです。今回の視点は、「縄文人」。並大抵の想像力では描けないでしょう。しかし荻原浩はそれを成し遂げるわけです。

『ウルクは頭の中が春の日だまりになってしまい、』

『日から近いはずの山の上のほうが寒いのは、ピナイの知恵者たちも首をかしげる不思議のひとつだ。』

こういう表現はまさに、「縄文人」の視点から世の中を切り取るものだし、そういう表現が随所に存在する。縄文時代にも存在していてもおかしくない概念や価値観のみを使い、彼ら縄文人の思考をトレースするかのような描写を組み上げることで、作品を成り立たせている。縄文時代を舞台にした小説を書ける作家というのは存在するだろうと思う。しかし荻原浩ほど、縄文人の思考をトレースするかのようなやり方で縄文人を描ける作家というのは、まず存在しないだろうと思う。その点は素直に驚きだったし、作品として賞賛に値すると感じる。

とはいえ、だからと言って作品が面白いのかというと、ちょっとそこは違ったりする。これがなかなか難しいところだ。
縄文人の思考をトレースするかのような描写は驚きに満ちているが、しかし同時に、彼らのような物事の捉え方は、現代とはあまりにもかけ離れているために、すんなりと受け入れることが難しい。どうしても読みながら、つっかえてしまう。これは、僕がSF小説やファンタジー小説を読むのが苦手なのとちょっと似ている。物語全体の設定を読みながら頭の中で組み上げていかなければならないので、そういうタイプの小説が苦手な僕にはちょっと辛い部分があった。彼らの日常の物語をスイスイと読んでいくためには、彼らが世の中をどう見ているのかという視点を自分の頭の中にインストールするみたいな意識が必要で、やはり「本を読む」という行為の中ではちょっとレベルが上がる感じがする。難しい。

恐らく、僕が元々SF小説やファンタジー小説を好んで読むようなタイプであれば、この作品での描き方や世界観の作り込み方にもっと衝撃を受け、もっと感じることが多々あっただろうと思う。しかし、僕の好みの問題でそうはならなかった。そういう意味では、ちょっと残念だった。作品の問題というよりは、僕の個人的な趣味の問題なので、気になる方は是非読んでみてください。凄い作品であることは間違いありません。

荻原浩「二千七百の夏と冬」



「アンチポルノ」を観に行ってきました

園子温の映画はなるべく見ようと思っているので観た。
園子温の映画、全部好きというわけでもないし、むしろよく分からない作品の方が多いのだけど、なんとなく。

今回は、よく分からない方の映画だった。なんだこりゃ?という感じだった。狂気が永遠に連続していく映画で、その狂気の感じは嫌いじゃないんだけど、いかんせん物語の輪郭がまるで掴めなかった。歌詞には共感できるけど曲についていけない音楽、みたいな感じだろうか。

別に映画だかたと言って、主張やテーマや物語がなきゃダメだ、なんて思っているわけでは決してないんだけど、とにかくこの映画は、よくわからなかったとしか言いようがないなぁ。

「アンチポルノ」を観に行ってきました

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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)