黒夜行

>>2017年05月

コードネーム・ヴェリティ(エリザベス・ウェイン)

内容に入ろうと思います。
第二次世界大戦中、イギリス特殊作戦執行部員の女性がスパイとしてナチスの捕虜になった。彼女は親衛隊大尉に、尋問をやめる代わりに、イギリスに関する情報を書くように強制される。そこには、親友である女性飛行士マディの戦場での日々が、まるで小説であるかのように綴られていた。彼女は一体、何故物語風に手記を書いたのか…。
というような話です。

この本は帯に、こう書いてあります。

【「謎」の第1部。
「驚愕」の第2部。
そして、「慟哭」の結末。】

この帯で面白そうだな、と思ったんですね。
でも、僕には何が「謎」で、何が「驚愕」で、何が「慟哭」なのか、よく分かりませんでした。なんか驚くような仕掛けがあるらしいんですけど、僕にはイマイチそれが何なのか分からないまま読み終えてしまいました。残念です。

僕的には、とにかく第一部の手記が、退屈に感じられました。読む人が読めば、戦時中における女性の友情の物語として面白く読めるんだろうけど、僕にはそういう部分への関心は薄かったし、第一部を「謎の前フリ」的な扱いでしか捉えていなかったので、面白くないなと思いながらもなんとか読んでいました。

けど、第二部に入っても、僕的には、何かが明らかになっていくような感じは全然しなかったんですね。結局、最後までよく分からないまま読み終えてしまいました。

個人的には、本書の何が「驚くようなこと」なのか、教えて欲しいなぁ、と思います。

エリザベス・ウェイン「コードネーム・ヴェリティ」

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さよなら、ムッシュ(片岡翔)

内容に入ろうと思います。
森星太郎は、ろば書林という小さな出版社で唯一の校正係だ。日々、文字と格闘しながら間違いを探していく。27年間生きてきて、恋愛の経験はない。父親は元々おらず、母親は7歳の時に死んだ。星太郎は今、ずっとムッシュと一緒に暮らしている。
ムッシュは、コアラのぬいぐるみだ。母親が作ってくれたぬいぐるみで、母親が死んだその日から喋るようになった。周囲には、ムッシュが喋れることはもちろんひた隠しにしている。あれから20年間、星太郎はムッシュと共に生きてきた。
ある日星太郎はしゃっくりが止まらなくなってしまった。ムッシュも会社の人も、みんなで星太郎のしゃっくりを止めようと色んなことをしてくれるが、なかなか止まらない。休みの日、病院に行った星太郎は医者から、膠芽腫と診断された。母と同じ病気だ。
余命半年。
星太郎は、ムッシュと一緒に、死ぬまでにやりたいことをリストアップして、少しずつそれをやっていく…。
というような話です。

実際に僕は、死を突きつけられたことがないし、死を突きつけられた時にどう反応するのかは人それぞれだろう。僕は星太郎のように、そこまで大きく取り乱すこともなく、淡々と日常を過ごしていく感じは好きだ。僕も、実際にそうできるかはともかく、そうありたいと思う。

ムッシュという存在が、星太郎が死を迎えるまでの日々を支えていく、という過程はなるほど、という感じがした。ムッシュがいなかったら、星太郎はもっとずっと違った死の迎え方をしたことだろう。お互いに支え合っている存在がいるからこそ、死を突きつけられた時にただ崩れ落ちるだけにならなかったのだろう。

個人的には、「物語である」と主張するにはちょっと弱さを感じる作品だった。実際に、物語的にはさほど何か起こるわけでもないのに面白い作品、というのは存在するが、そういう作品は、文章や描写や思考が鋭かったりする。この作品は、そういう下支えするような何かがないまま、物語らしい物語がないまま終わってしまう、そういう印象を受ける作品だった。著者は映画監督らしいが、確かに映像でなら成立するかもしれない。綺麗な描写や印象的なカットを散りばめれば、美しい世界観として成立するような印象はある。

片岡翔「さよなら、ムッシュ」

でんでら国(平谷美樹)

『でんでら国の爺婆たちは、生き生きと生き、そして生き生きと死んでいく』

これは理想的だな、と思う。
もう少し具体的に書けば、「死の直前まで、自分に役割がきちんとある」ということが、人生の理想ではないか、と思う。

金があって時間があれば楽しい、なんて思ったことは、たぶん一度もない。金があって時間があっても、退屈なだけだ。金があって時間があるというのは、なんでもやりたいことが出来るということだが、同時にそれは、やらなくてはならないことが何もない、ということでもある。

そんな人生、面白くないだろうなぁ、という感じがする。

いくら金と時間があっても、自分がそこにいる意味を感じられなければ、どれだけ外面的に豊かな生活をしていようが、たぶん退屈だと思う。

とはいえ、そんなことは豊かになったから言えることでもある。食べるものを作り出すので精一杯だったような時代には、そもそも「自分がそこにいる意味」が云々などという話はまるで意味をなさないだろう。そんなことを考えている余裕なんてない、というのが正解のはずだ。

だからこそ、「でんでら国」の存在が、より一層凄みをもって感じられるのだ。

「でんでら国」には、爺婆しかいない。しかし彼らには、「自分がそこにいる意味」がきちんと理解されている。全員ではないが、少なくとも一つの共同体として共通の考え方が共有されていて、それが隅々にまで浸透しているのだ。

だからこそ、「生き生きと生き、そして生き生きと死んでいく」などということが実現されるのだ。

人生の最後に、自分がどんな役割を担うことが出来るか、あるいは自分に担える役割などないのか、それは晩年になってみるまで普通は分からない。しかし、「でんでら国」を有する大平村では、60歳になれば必ず「でんでら国」へと行き、そこで大事な役割を担うことが決まっている。それは、人生に張りを与える素晴らしい仕組みだなと思う。

「でんでら国」は、お上を欺くためという、後ろ向きな動機から生まれたものであることは間違いない。しかし、そうやって出来た「でんでら国」は、ある意味で桃源郷、理想郷としての性格を備えることになった。どれほどの理想がそこにあるのか―、それは本書を最後まで読むと理解できる。ある男のまさかの行動が、「でんでら国」がいかに素晴らしい環境であるのかを十分に理解させるのだ。

現代日本は、世界に先駆けて、超高齢化社会への道を進み続けている。そういう社会にあって、この「でんでら国」のような共同体のあり方は、何か可能性を示唆するものとして捉えられるべきではないかと思った。

内容に入ろうと思います。
幕末の東北、陸奥国八戸藩と南部藩に挟まれた大平村には、60歳を迎えた者は皆、すべての役職を解かれ、御山参りをする習わしがあった。御山参りとは、山へと分け入っていって二度と郷へは戻ってきてはいけない、というものだ。大平村のこの慣習は、姥捨てだとして近隣の村から嫌われていた。親の面倒を見なければ罰せられるという法律があったこともあるが、しかし近隣の村では飢饉になると、子どもを殺すのだ。そういう時代である。
善兵衛は、60歳となり、<知恵者>としての役割も終え、御山参りへと向かうことに決めた。<知恵者>とは、「あっち」と呼ばれている「でんでら国」の問題を解決するための役職であり、善兵衛は若い頃から「でんでら国」の秘密を知っていた。大平村の者は、60歳を超えると山に入るが、姥捨てとはまったく違い、山奥にある「でんでら国」で新しい生活が始まるのだ。そこでは開墾された土地で米が作られており、飢饉の折には大平村を助けたりもしている。
一方、外館藩の別段廻役(犯罪人を捕らえる役人)である船越平太郎は、代官の田代から内密に頼みたいことがあると言われた。それが穏田探しだ。事情はこうだ。外館藩は南部藩から内々に御用金の調達を命じられた。しかし、そんな金はない。そこで穏田だ。申告せずに開梱した田んぼで米を作っていれば死罪、という時代だ。穏田を見つけ、税を取り立てて御用金に充てようというのだ。
しかし穏田があるという確信があるわけではない。しかし田代には、気になっていることがある。5年前の大飢饉の際の大平村の振る舞いだ。他の村が損耗を届け出たのに対し、大平村だけはすべてきっちりと支払っているのだ。いくら棄老しているとはいえ、それだけでは説明の付かない額だ。
大平村には穏田があるはずだ。それを探し出せ…。平太郎に課せられたのは、そんな任務だった。
穏田を隠し持つ大平村、そして「でんでら国」と、穏田を見つけ早急に金を作らねばならぬお上との知恵比べが始まる!
というような話です。

これは面白い話だったなぁ!全然期待しないで読んだんですけど、時代小説が苦手な僕でもスイスイ読めたし、最後まで話がどう展開していくのか分からないワクワク感みたいなものが続きました。

しかし、まずは設定が実によく出来ている作品だなと思いました。実際に「でんでら国」みたいな共同体があったのか、つまり、本書で描かれていることが史実を元にしているのかどうか、僕には分からないのだけど、こういうことがあってもおかしくはない、と思いました。棄老をしていると疎まれている村が、実はあらゆる工夫をして全員がいかに幸せに生き死んでいくかを考えている、という舞台設定は、実に魅力的です。冒頭でも書いたけど、恐らく当初は、村を健全に存続させるための苦肉の策だったのだろうと思うのだけど、それが結果的に理想郷を生み出すことになった、という流れも、よく出来ているなと思います。

普通にしていればその存在すら気づかれなかったはずの「でんでら国」が何故気づかれたのか。それが、郷を救うために「ちょっとやりすぎてしまった」から、というのも面白い。他の村が年貢を払いきれないのに、大平村だけは満額払う。棄老しているからだ、という説明で納得しなかった慧眼の持ち主によって見抜かれてしまった、という流れはいいですね。

そして何よりも、「でんでら国」の面々と別段廻役たちとのバトルは、素晴らしい!という感じでした。お互いが知恵比べのような形でやり合うんだけど、普通に考えればどう考えても農民側が不利です。この当時、農民の地位はとても低く、お上に楯突くなど持っての他という時代。お上の権力が圧倒的に強いために勝負にならないようにも思うのだけど、これがそうでもない。互角の勝負を繰り広げるんですね。このパワーバランスも実によく考えられていて良いと思います。どちらも、ギリギリのラインまで知恵や力を振り絞って、それで互角、というこの戦いぶりがとても良くできている。

権力ではお上の方が圧倒的に強いのだけど、「でんでら国」の強みは、「でんでら国」を長い間気づかれずに運営してきた歴史と知恵にある。あらゆる可能性をあらかじめ考えておいて、それぞれに対してきちんと準備をしている。だからこそ、不可能とも思える戦いに善戦することが出来るのだ。

また、「でんでら国」の面々は、自分たちのことを「一度死んだ人間」だと捉えている。彼らは60歳になって山に入った時点で死人となっているのだ。一度捨てた命なのだから、という感覚が、彼らの内側にずっとある。だから楽天的でいられるし、世間の常識を無視することも出来る。新しい「当たり前」の中で生きることが出来るのだ。

お上と農民の戦いは、時を経れば経るほど予想もつかない展開になっていき、最後はンなアホな!っていう流れになっていくんだけど、それが周到に準備された計画だったということが非常に面白いと思う。お上を敵に回す農民が使える武器は「知恵」しかない。その知恵を最大限振り絞ってやれるだけのことはやりきる、という姿勢が面白い。

冒頭でも書いたように、「でんでら国」に住む面々には、そこにいる意味がある。死の間際まで、その意味を感じながら暮らすことが出来る。金銭的な意味でも確かに豊かな共同体なのだけど、それ以上に、彼らが得た豊かさというのは、簡単には生み出すことが出来ない、歴史のいたずらが生み出したものなのだろうな、と思う。

平谷美樹「でんでら国」



「追憶」を観に行ってきました

内容に入ろうと思います。
25年前、3人の少年は、ある罪を犯した。大好きな人を助けるために、横暴な男を殺すことに決めたのだ。その結果、男は死に、大好きな人とは離れ離れになり、三人も散り散りになった。
刑事になった四方篤は、好きな男が出来ると息子を捨てて出奔してしまう老いた母から金の無心を受け、また自身は結婚がうまくいかず、離婚こそしていないものの一緒には暮らしていない。東京でガラス店を営む家に婿養子に入った川端悟は、なかなか経営がうまく行かず、金策のため地元である富山に向かう。古い友人に金を借りに行くのだ。その友人が、輪島市で父親の土建業を受け継いだ田所啓太だ。身重の妻がおり、また家を建てる土地を買うなど、順調な生活を送っている。
篤はある日ラーメン屋で悟と再会する。実に25年ぶりだ。明日啓太の元へ金策に行くという話はそこで聞いた。そして翌日、悟が死体となって発見された。
篤は悟の死体を目にしながら、知っている人間であると捜査会議で告げなかった。それどころか、捜査本部が金策の相手を探している中、啓太の存在も明かさなかった。
25年前のあの出来事が今、彼らを刑事・被害者・容疑者として結びつけていく…。
というような話です。

これは僕の好みの問題ですが、出て来る人間が基本まっすぐな人間が多くて、そういう意味で僕にはあまり合わなかったかなという感じがしました。僕は、歪んでいたりねじ曲がっていたりするような方向性の方が好きで、それとは正反対にある作品だという感じがしました。

ストーリー的にはさほどこれという部分がないような気がする作品でしたけど、役者の演技で色んな部分をかなり際立たせているような、そんな映画に感じました。役者の存在感で、ストーリーを成り立たせているような、そんな印象でした。

映画は100分弱と、普通の映画より少し短いように思いました。個人的には、全体の尺が長すぎるならともかく、まだ余裕があるので、まだ描こうと思えば描ける部分があったような気もしました。特に、四方篤の母や妻との話をもう少し膨らませて、篤の孤独をより切り取っていくとか、最後の真相に絡めた描写をもう少し入れ込むとか、なんか出来るような感じもしました。もちろん、そうしない方が作品としての完成度が高まる、という判断だったんでしょうから、僕があーだこーだ言うような話でもないんですけど。

安藤サクラが実に良い雰囲気を醸し出しているな、と思いました。

「追憶」を観に行ってきました

隷属なき道 AIとの競争に勝つベーシックインカムと一日三時間労働(ルトガー・ブレグマン)

『初めに少しばかり歴史の授業を。
そう、昔は、すべてが今より悪かった。
ほんのつい最近まで、ほとんどの人は貧しくて飢えており、不潔で、不安で、愚かで、病を抱え、醜かった、というのが世界の歴史の真実である』

そんな一文から本書は始まっている。本書には、様々なデータが載っており、過去と現在との比較によって、現在がいかに豊かになったのか、ということが明らかにされる。
しかし、そんな豊かな時代に、足りないものがある。

『ここでは、足りないものはただ一つ、朝ベッドから起き出す理由だ』

『わたしたちは有り余るほど豊かな時代に生きているが、それは何とつまらないことだろう。フクヤマの言葉を借りれば、そこには「芸術も哲学もない」。残っているのは、「歴史の遺物をただ管理し続けること」なのだ』

あぁ、分かる、と感じる人は多いだろう。様々な指標から、現代人は豊かだと示されている。しかし、まさにその世界に生きる僕ら現代人には、その計り知れない豊かさに感動を覚えない。GDPが増えているので景気は上向いています、と言われても、大半の国民がそれを実感できない、というのと同じような話だろうか。違うだろうか。
ともかくも、僕たちは、豊かではあるのだけど、幸せだという実感が持てないでいる。
ユートピアを思い描くことが、出来ないのだ。

『ユートピアがなければ、わたしたちは進むべき道を見失う。今の時代が悪いと言っているのではない。むしろその逆だ。けれども、より良い暮らしへの希望が持てない世界は、あまりにも寂しい』

『この時代の、そしてわたしたち世代の真の危機は、現状があまり良くないとか、先々暮らしぶりが悪くなるといったことではない。
それは、より良い暮らしを思い描けなくなっていることなのだ』

そこで本書では、豊かになりすぎた現代人に、僕らの未来にあるはずのユートピアを描き出す。それが本書の最大の目的だ。

『そもそも、このアイデアを世間に真剣に受け止めてもらうことからして非常に難しいのだ。わたし自身、それを痛感した。この三年間、わたしはユニバーサル・ベーシックインカム、労働時間の短縮、貧困の撲滅について訴えてきたが、幾度となく、非現実的だ、負担が大きすぎると批判され、あるいは露骨に無視された』

著者が提唱することは、確かに無謀に思える。現代に生きる僕たちには、無理なんじゃないか?と思えてしまうようなものだ。しかし、巻末の解説の文章が僕らに、著者の提案が現実のものになる可能性を与えてくれるのではないかと思う。

『「週十五時間労働、ベーシックインカム、そして国境のない世界」。いずれも、夢物語としか聞こえないという批判と無視と沈黙の中で、ブレグマンは言う。
奴隷制度の廃止、女性参政権、同性婚…。いずれも、当時主張する人々は狂人と見られていた、と。何度も、何度も失敗しながらも、偉大なアイデアは必ず社会を変えるのだ、と』

確かに、本書は、その可能性を与えてくれる一冊だ。
アイデアは、アイデアだけでは現実に影響を与えることはないし、何も変えはしない。アイデアに賛同する者がどれだけいて、さらにそのアイデアに沿った行動をする者がどれだけいるかが重要になってくる。そういう意味で、本書で描かれていることを「ユートピア」だと感じられる人にとっては、本書を読むことはその実現を加速させる一助になる、と言えるだろう。読んでその実現を信じることが、新しい世界の扉を開く鍵となるだろう。何よりもまず、荒唐無稽だと思わずに著者の主張に耳を傾けるべきである。

著者が主張していることは、大きく分けて三つある。

◯ユニバーサル・ベーシックインカム
◯労働時間の削減
◯国境の解放

そしてこれらに絡めて、他の話題も登場する。例えば、労働時間の削減は、積極的な施策としても有効だが、今まさにAIによって人間の仕事が奪われているという状況があり、外的要因からそうならざるを得ない、という状況でもあるのだという話。また、上記3つは人間生活に豊かさをもたらすのだ、ということが様々な実験などで証明されているのだが、じゃあそもそもその「豊かさ」とはどう図られるのか、GDPの正体は一体何なのだ、という話。あるいは、ベーシックインカムや労働時間の削減によって、人類は過剰な余暇を手にすることになる。その余暇にどう向き合うのかというのが、今後人間が向き合うべき最大の危機なのだ、という話。そういう様々な方向に話が繋がっていく。しかしここでは、この3つをメインで取り上げていこうと思う。

ユニバーサル・ベーシックインカムというのは、簡潔に言えば、「すべての人に一定の金額を直接渡す」というものだ。全国民に、例えばひと月に10万円なりを無条件で支給する、という仕組みだ。使い道を限定しないフリーマネーを、アルコール中毒の人やニートにもあげる、というものだ。

ベーシックインカムの議論は前からあるが、僕はその細かな内容を知らなかった。ベーシックインカム、と聞く度に、そんな膨大なお金がどこから生まれるのだろう?という疑問が先に生まれ、それ以上思考してみることがなかった。

しかし様々な実験によって、フリーマネーを与えることが貧困の撲滅にとても有効な手段であることが明らかになっていった。

『すでに研究によって、フリーマネーの支給が犯罪、小児死亡率、栄養失調、十代の妊娠、無断欠席の減少につながり、学校の成績の向上、経済成長、男女平等の改善をもたらすことがわかっている』

これは僕たちの直感に反する結論に思える。
これまで様々な社会実験が行われてきた。その多くは、貧困層を対象としたものだ。貧困層に、なんの目的で使ってもいいお金を渡したら、酒やギャンブルなんかに使ってしまうのではないか…。

『貧しい人々がフリーマネーで買わなかった一群の商品がある。それは、アルコールとタバコだ。実のところ、世界銀行が行った大規模な研究によると、アフリカ、南アメリカ、アジアで調査された全事例の82%で、アルコールとタバコの消費量は減少した。
さらに驚くべき結果が出た。リベリアで、最下層の人々に200ドルを与える実験が行われた。アルコール中毒者、麻薬中毒者、軽犯罪者がスラムから集められた。三年後、彼らはそのお金を何に使っていただろう?食料、衣服、内服薬、小規模ビジネスだ。「この男たちがフリーマネーを無駄に使わないのだとしたら」、研究者の一人は首をかしげた。「いったいだれが無駄に使うだろう?」』

僕たちの直感には、「貧しい人々は怠惰だ」という思い込みが横たわっている。日本でもよく起こる議論だ。ホームレスや生活保護受給者は怠けている、というような。当然、そういう人間もいるだろう。しかし、少なくとも、これまでに行われてきた様々な実験は、「貧しい人々は怠惰だ」という思い込みを覆す結果を導きだしてきた。

『貧しい人々は、フリーマネーを受け取ると、総じて以前より仕事に精を出すようになる』

他にもこのベーシックインカムには、様々な懐疑の目が向けられるのだが、過去繰り返されてきた実験からは、概ね良い傾向しか見られないようだ。

貧しい人々に対してはこれまで、教育や現物支給などという形で、膨大なお金を費やした様々な支援が行われてきた。しかし、それらがうまく効果を生み出さないのは、大きく二つの理由がある。

一つは、貧しい人々は、貧しいという理由でまともではいられない、という理由だ。

『貧困とは、基本的には現金がないことだ。愚かだから貧困になったわけではない』

『(他の様々な教育や施策が効力を持つためには)まずは、彼らが貧困線を越えなければならないのだ』

『では、具体的に、貧困はどのくらい人を愚かにするのだろう。
「その影響は、IQが13から14ポイント下がるのに相当した」とシャファーは言う。「これは、一晩眠れないことやアルコール依存症の影響に匹敵する」』

貧困であるが故に尽きない悩みに思考が取られ、長期的な視野が持てなくなってしまうことを「精神的バンドウィズ」と呼ぶようだ。貧しい人々にどんな教育を与えようが、まずはこの「精神的バンドウィズ」を越えなければどんな支援も意味をなさないということなのだ。

そしてもう一つは、もっとシンプルだ。

『「それに、実を言えば、貧しい人々が何を必要としているかが、ぼくにはよくわからなかった」。フェイは人々に魚を与えたわけではなく、魚の獲り方を教えたわけでもない。彼は、貧しい人々が何を必要としているかを本当に理解しているのは、貧しい人々自身だという信念のもと、彼らに現金を与えたのだ』

これを読んで、祖父母からのプレゼントを連想した。僕自身は、祖父母からどんなものをもらったのかという記憶はあまりないのだが、祖父母が孫に何かプレゼントをするという時に、相手側の需要を理解しきれずに結果的に不要なものを与える、という状況はよく起こるだろう。それよりは、お金をもらって好きなものを買った方がいい。まあ、プレゼントの場合は気持ちが大事だから、お金で、というのは身も蓋もないわけだが、支援なら、より効果のある方法を選択すべきだろう。

さてここまででベーシックインカムについてあれこれ書いてきた。しかし、おや?と思った方もいるだろう。今僕が書いてきたことは、貧困をベーシックインカムによって改善出来る、という話ではないか、と。ユニバーサル(すべての人への)ベーシックインカム、と言っておきながら、すべての人にどんな恩恵がもたらされるのか分からないじゃないか、と。

まあそれはその通り。しかしそれはある意味で仕方ないことだ。なぜなら、無条件ですべての人にベーシックインカムを与える、などという実験は、人類史上行われていないのだから、それを実現した時に何が起こるのかという話は、予想の域を出ない。

しかし、だからと言ってここまでの話が無駄になるわけではない。何故なら、研究によってこういうことが証明されているからだ。

『しかし、おそらく最も興味をそそられる発見はs,不平等が大きくなり過ぎると、裕福な人々さえ苦しむことになることだ。彼らも気分が塞いだり、疑い深くなったり、その他の無数の社会的問題を背負いやすくなるのだ』

『(オランダが行った、すべてのホームレスに家を無償で提供するという実験について)これは大成功を収めた。ほんの数年で、大都市の路上生活者の問題は65%解消した。薬物使用は半減した。恩恵を受けた人々の精神面と身体面の健康は著しく改善し、公園のベンチはついに空っぽになった。2008年10月1日までに、約6500人のホームレスが路上からいなくなった。そして、なによりも、(無償で家を与える施策を行い、これまで行ってきた路上生活者に対する様々な対策を講じる必要がなくなったことによって)社会が得た経済的利益は、投入した金額の2倍にのぼった』

僕たちは、自分たちが「貧しい人々」でなかったとしても、社会の中に「貧しい人々」がいることによって、何らかの形でマイナスの影響を受けている。直接的な影響もあるだろうし、間接的には、「貧しい人々」に何らかの対策をするための費用が税金から賄われている、という部分もある。様々な実験によって、「貧しい人々」に何らかの対策を施す費用よりも、直接お金を渡す方が、遥かに安上がりだ、ということが分かってきている。貧困を解消することは、貧困層にいない人にも良い影響を与えるのだ。

しかし、

『スティーンズランドに言わせれば、今日、すべてのアメリカ人へのベーシックインカムという考えは、「過去において、女性の参政権や人種的マイノリティの平等を求めるのが非常識とされたように」、到底考えられないことと見なされている』

らしい。これには、ニクソン大統領の影響も大きく関わっている。ニクソン大統領は1969年に、すべての貧困家庭に無条件に収入を保障する法律を成立させようとしていた。しかしその過程で、様々な行き違いがあり、結果ニクソン大統領の言動が、ベーシックインカムへの嫌悪感を植え付けることになったのだ。

この本を読めば、ベーシックインカムへの考え方が大きく変わるのではないかと思う。

さて次は、「働く」ということについて著者が何を言っているのかを見ていこう。このテーマに関しては、いかに労働時間を減らすか、労働時間を減らすと生産性が上がる、労働時間の減少による余暇の増大への対処など、様々な切り口があるのだが、僕が面白いと思ったのは、価値を生み出さない職業についての話だ。

『奇妙なことに、最も高額の給料を得ているのは、富を移転するだけで、有形の価値をほとんど生み出さない職業の人々だ。実に不思議で、逆説的な状況である。社会の繁栄を支えている教師や警察官や看護師が安月給に耐えているのに、社会にとって重要でも必要でもなく、破壊的ですらある富の移転者が富み栄えるというようなことが、なぜ起こり得るのだろう?』

『富の移転者』として著者が挙げているのは、ロビイスト・ソーシャルメディアのコンサルタント・テレマーケター・高頻度トレーダーなどである。銀行業務の一部も、富の移転でしかない、と著者は言う。

この「価値の創造」と「富の移転」の対照的な話として、ニューヨークのゴミ収集作業員とアイルランドの銀行員の話が出てくる。

ニューヨークのゴミ収集作業員は1968年に一斉にストライキを行った。ニューヨークの全市で、ゴミの回収がストップしたのだ。二日後、街はすでに膝の高さまでゴミに埋もれていた。ストライキから9日目、ついに市長は折れた。積み上がったゴミは10万トンにも上った。このストライキのお陰なのかどうか、本書でははっきりとは書かれていないが、現在ではニューヨークのゴミ収集作業員は人もうらやむ報酬をもらう、誰もがなりたがる職業になっているという。

一方、アイルランドの銀行員は1970年にストライキを行った。一夜にして、国内の支払準備金の85%が動かせなくなった。学者たちは、『アイルランドでの生活は行き詰まると予測した。まず現金の供給が枯渇し、商業が停滞し、ついには失業が爆発的に増える』という風に見ていた。しかし、結果的には、何も起こらなかった。銀行は半年間ストライキを続けたが、日々の生活にほとんど悪い影響はなかった、というのだ。

実に印象的なエピソードだと思った。

そして、こういう仕事の違いを踏まえた上で、著者はこんな風に問いかける。

『(高給だが富を移転するだけの職に就く)これらすべての才能が、富の移動ではなく、富の創造に投資されていたらどうだろう。わたしたちはとうの昔に、ジェットバック(背負ったジェット噴射で飛ぶ器具)を作り、海底都市を築き、がんを治療できていたかもしれない』

なるほど!と感じる指摘だった。確かにその通りかもしれない。有能な人材が、価値を生み出すのではなく、富を移転させるだけの仕事しかしていないから、思ったほど世の中は変わっていないのかもしれない。

『銀行が1ドル儲けるごとに経済の連鎖のどこかで60セントが失われている計算になる。しかし、研究者が1ドル儲けると、5ドルから、往々にしてそれを遥かに上回る額が、経済に還元されるのだ。(中略)
簡単に言えば、税金を高くすれば、有益な仕事をする人が増えるのだ』

有能な人間は、有能であるが故にどんな仕事にでも高い適性を示すだろう。であれば、より給料の高い職業に就くのが当然と言えば当然だ。しかし今の世の中では、「価値の創造」をする者より、「富の移転」をする者の方が給料が高い。であれば、有能な人材が「富の移転」に流れていくのは当然だといえるだろう。著者の、『税金を高くすれば、有益な仕事をする人が増えるのだ』というのは要するに、給料が高くてもその分税金も多く持って行かれるのだとすれば、「価値の創造」に流れる人が増えると期待できる、という意味だ。

著者は、教育にも目を向ける。現在の教育現場を著者こう見ている。

『すべての中心にあるのは、以下の疑問だ。―明日の求人市場、つまり2030年の市場で雇用されるために、今日の学生はどのような知識とスキルを身につけるべきか?
だが、それは、まさしく誤った問いなのだ。』

日本でも、産業界の要請によって、大学が職業訓練校のような立ち位置に成り下がっている、というような指摘がなされることがある。社会に出て即戦力となるような教育を産業界は大学側に求めているのだ。そして大学側も、就職率を高めるために、産業界からのそういう要請に応えようとする。
しかし、それはまさしく誤った考え方だと言えるだろう。

『そうならないために、わたしたちはまったく異なる問いを提示しなければならない。それは、2030年に、自分の子どもに備えていてほしい知識とスキルとは何か、というものだ。(中略)あれやこれやのくだらない仕事で生計を立てるために何をなすべきかではなく、どうやって生計を立てたいかを考えるのだ』

そして、その問いに答えることは、結局、どう生きるかを考える、ということなのだ。

『今世紀のうちに全ての人がより豊かになることを望むなら、すべての仕事に意味があるという信条を捨てるべきだ。合わせて、給料が高ければその仕事の社会的価値も高いという誤った考えを捨てようではないか』

この指摘は、自分の働き方を考えるきっかけになるのではないかと思う。

最後に、移民の問題について触れて終わろう。

トランプが大統領になって以降、自国ファースト、移民排斥の流れがより強くなったと感じられるようになった。移民を受け入れることは、自国民の仕事を奪うことに他ならないし、テロなどの無用なリスクも抱え込むことになる、という考え方がどんどんと広まっている。しかしこれに関しても様々な実験や検証が行われており、移民に対する様々なマイナスイメージは杞憂であり、移民を受け入れることで結果的に自国が豊かになる、ということが分かってきているのだという。

例えば、移民は仕事を奪うと思われているが、実際には雇用は増えるのだという。移民が増えることで消費も需要も増え、結果的に仕事の数が増えるからだ、と言う。移民により国内労働者の収入は微増するし、国境を開くことで移民は逆に母国へ帰還するようになるという。国境警備に大金を費やすより、積極的に移民を受け入れるべきだ、と著者は主張する。

『先進国全てがほんの3%多く移民を受け入れれば、世界の貧者が使えるお金は3050億ドル多くなると、世界銀行の科学者は予測する。その数字は、開発支援総額の3倍だ』

もちろん、良い事づくしというわけには行かないだろうが、どんな選択にもメリットとデメリットがある。移民を受け入れないという選択にも当然デメリットはあり、その比較によって判断されるべきだ。少なくとも本書は、移民受け入れのメリットと多少のデメリットを提示している。移民受け入れを反対する側は、同じようにして反論しなければ説得力を持たないだろう。

『誤解しないでいただきたい。豊穣の地の門を開いたのが資本主義であるのは確かだ。だが、資本主義だけでは、豊穣の地を維持することはできないのだ。進歩は経済的繁栄と同義になったが、21世紀に生きるわたしたちは、生活の質を上げる別の道を見つけなければならない。』

お金、労働、貧困、国境など、様々な問題に対して世界中の人間が考えなければならない問いを著者は突きつけ、著者なりの考え方を示した。あなたは著者が提示する問いに、どんな答えを頭に浮かべるだろうか?

ルトガー・ブレグマン「隷属なき道 AIとの競争に勝つベーシックインカムと一日三時間労働」

食堂のおばちゃん(山口恵以子)

内容に入ろうと思います。
本書は、5作の短編が収録された連作短編集です。
まずは全体の設定から。
佃の大通りに面した「はじめ食堂」は、昼は定食屋、夜は居酒屋を兼ねる、下町の店だ。今店を切り盛りするのは、この店を始めた一(にのまえ)孝蔵の妻である一子(いちこ)だ。創業当初は本格的な洋食屋だったが、孝蔵が亡くなったのを期に、彼らの息子である高と一子が家庭料理を出す店に切り換えた。高は商社で働いていたが辞め、定食屋のオヤジになったのだ。
そんな高と結婚したのが、デパートで衣料品のバイヤーとして頭角を表していた二三(ふみ)だ。最初は店主と客という関係だったのだが、家庭料理を出す店の雰囲気に惹かれた二三の方から嫁になると立候補したのだった。
その後、高が若くして亡くなり、それを期に二三は仕事を辞め、「はじめ食堂」で働くことになった。今では一子と二三の二人が店を切り盛りしている。

「三丁目のカレー」
佃は高層マンションが立つ土地柄でもあり、金持ちが多い。「はじめ食堂」の常連は、基本的にはこの土地に古くから住む者が多いが、高層マンションに住んでいるだろう住人も時々やってくる。
藤代誠一もそんな一人だ。IT企業のオーナーであり、何故か頻繁に「はじめ食堂」で食事をしていく。また、モデルだろうと思われる美人(火曜によく来るので「かよ子」と呼ばれている)が、落ち込んだような顔をしてやってくることもある…。

「おかあさんの白和え」
常連の後藤さんの姿がしばらく見えないと、ちょっとした騒動になる。後藤輝明は警察を定年退職した後、警備会社に再就職したが、去年奥さんを亡くした後で退職し、今は一人暮らし。出不精でほとんど家から出ないはずなのに、郵便受けに郵便物が溜まっているというのだ。もしかして家で倒れているんじゃ…。

「オヤジの焼き鳥」
「はじめ食堂」の近くにある、こちらも古くからやっている「鳥千」という焼き鳥屋は、ちょっとした問題を抱えている。息子の進一は、料理学校を卒業後海外で修行し、青山のイタリア料理店の料理長に就任した。しかし、オーナーが事業に失敗し閉店、父親が経営する焼き鳥屋に戻ってきたのだが、この店を小洒落たリストランテにしたい、と言っては親と揉めているらしい…。

「恋の冷やしナスうどん」
一子が怪我をし、常連客であり仕事が長続きしない赤目万里を雇ってみることにした。これが大正解で、居酒屋でのアルバイト経験があることもあって、なんでも器用にこなしていく。
一方で、少し前に店にやってきた大食い青年に、二三の娘である要が入れあげているという。二三は、かつて自分も同じ状態になったことを思い出し、要が入れあげている男への恋心が不毛であることを悟っているが…。

「幻のビーフシチュー」
かつて、孝蔵に大変世話になったと語る不動産会社の経営者である平大吉は、かつて食べた孝蔵のビーフシチューをもう一度食べたいと言ってやってきた。しかし、既に往時の店はなく、ビーフシチューも「はじめ食堂」のメニューからは無くなっている。それでも一子は、亡き夫のレシピを見ながら再現してみると誓うが…。

というような話です。

なかなか面白く読ませる作品でした。
ストーリーそのものはそこまで大したことはないんだけど、常連を含めた「はじめ食堂」の雰囲気みたいなものがなかなか良かったですね。料理が美味しそうなのかどうか、食に興味のない僕にはイマイチ判断が出来ないんだけど、細々とでも長く続けていくための細かな工夫は面白いなと思うし、何よりも、ご飯を食べさせることが好きなんだろうな、と感じさせる一子と二三の雰囲気もいいなと思いました。

高級なお店もいいけど、ミシュランで星がつくわけでも、行列が出来るわけでもないけど、そこで生活している人にとってなくてはならない場所である、ということは大事なことなんだろうな、と思いました。目立たないけど、大事な役割を果たしているんだな、と。

僕にはなかなかそういう場所がないけど、あったらいいなと思いました。

山口恵以子「食堂のおばちゃん」

「メッセージ」を観に行ってきました

僕が好きな話がある。
フランス語には、「蝶」と「蛾」を区別する言葉はない、というものだ。
どちらも同じ単語(「バタフライ」なのかな?)で表現されるのだと言う。

最近知った話もある。
数学には、「ユークリッド幾何学」と呼ばれるものがある。これは本来、紀元前の時代から、ただ「幾何学」とだけ呼ばれていた。「ユークリッド幾何学」という名前が付くようになったのは、ごく最近のことだ。
では何故そう呼ばれるようになったのか。
それは、「ユークリッド幾何学(幾何学)」が成り立たない、新たな幾何学が発見されたからだ。数学者はそれに、「非ユークリッド幾何学」という名前をつけた。それと同時に、「幾何学」も、「ユークリッド幾何学」と呼ばれるようになったのだ。

この話から何が分かるのか。
それは、「言語」が生まれる瞬間についてだ。

モノや概念があれば言語が生まれるのではない。
言語は、モノや概念同士を「区別する」必要に迫られた時に生まれるのだ。

僕はこのことを、かつて何かの本で読んだ。
ウィトゲンシュタインの言語ゲームの話やソシュール言語学の話の流れで読んだ記憶があるのだけど、ちゃんとは覚えていない。
フランスでは、「蝶」と「蛾」を区別する必要に迫られることはなかった。
だから両者は、同じ単語で呼ばれることになっているのだ。
逆に、外国語を学ぶと良く出て来る「男性名詞」「女性名詞」という区別には、日本語にはない。
名詞を男性・女性で区別する必要がなかった、ということなのだろう。

今ここに挙げた例だけから敷衍するのはちょっと無理があるのだが、
言語というのは思考や認識に影響を与える。
そのことについて触れた、「サピア・ウォーフの仮説」が、映画の中でちょっと登場する場面があった。

どんな言語体系を採用しているかで、モノの見え方や感じ方が変わるのだという。
例えば、日本人にはおなじみの「肩こり」という言葉が、アジア以外の国には「肩こり」という単語が存在しないようだ。
だからそういう国には、「肩こり」は存在しない。
しかし、「肩こり」という概念を彼らに教えると、途端に「肩こり」が発生する。

似たような話を思い出した。
UFOに連れ去られた、という記憶を思い出す人々のことだ(彼らには何か固有の名前がついているはずなのだけど、覚えていない)。
ある時から、UFOに連れ去られ人体実験をされた、という証言が世界中で現れ始めた。そうなると、そういう証言がますます大量に現れるようになってくる。これは、UFOを目撃した、という話でも同じだ。UFOという単語が登場したことで、UFOを目撃する人が大量に現れたのだ。

ちょっと前に、「虐殺器官」という映画を観た。この中でも、似たような話が扱われている。言語体系が内包するある文法と、脳内に存在するある器官が結びつくことで起こる未来を描く物語だ。言語体系がいかに人間の行動や思考を変えうるのかを、明確な形で示す作品だ。

言語がなければ、僕たちは現実を認識することは出来ない。例えば、目の前にリンゴがあれば、僕たちはそれを「リンゴ」という言葉で捉える。これは、分かりやすい。しかし、じゃあ人類はいつから「空気」というものを認識したのだろうか?僕たちは普段、空気を意識しない。目に見えないからだ。僕たちはもちろん、「空気」という言葉を知っているし意識すれば「空気」というものを捉えることが出来る。しかし、「空気」という言葉がまだ存在しなかった人には、空気は存在しないものだっただろう。

かつては「マイナスの数」というのは存在しなかった。「-1」のような数字は、存在しないものとして扱われていたのだ。今では、存在するかどうかはともかく、2乗して-1になるような「i」という数字さえ僕たちは認識することが出来る。しかしこれも、言葉がなければ認識することは出来ないのだ。

この映画で示されるとある結論は、僕にははっきりとイメージ出来たわけではなかった。しかし、言語が認識にどれだけ影響を与えているのか、という想像をしてみれば、あながちあり得ないことでもないのかもしれない、とも思うのだ。

内容に入ろうと思います。

言語学の第一人者であるバンクス博士は、ある日軍の招集を受けた。それは、数日前から地球上の12の地点に突如現れた謎の飛行体に関わるものだった。
アメリカ、ロシア、中国、日本など、全世界12の箇所に現れた、通称“殻”は、全長450メートルもある巨大な飛行体だ。出現目的は不明で、“殻”の出現により、世界中で暴動や株の暴落などが発生している。アメリカでは軍がただちに派遣され、“殻”の内部に入っていた。そこには、7本脚の謎の生命体が二体いた。鳴き声らしきものは採取出来たが、それが言葉なのかどうか、判然としない。
当初軍は、音声だけを聞かせてバンクス博士に解読させようとしたが、それは不可能だと断った。それにより、バンクス博士は“殻”のある現場まで招集されることになったのだ。
バンクス博士は、理論物理学者であるイアンと共に、後に“ヘプタポッド”と名付けられる謎の生命体とのコミュニケーションを図ろうとする。音声によるコミュニケーションはやはり意味不明だったが、バンクス博士が文字を見せたことで事態は展開する。「HUMAN」という文字を見せたことで、“ヘプタポッド”から文字らしき反応が返ってきたのだ。バンクス博士は、彼らに文字を教え込みながら意思の疎通を図ろうとする。
彼らは一体、なんのために地球にやってきたのか…。
というような話です。

なかなか面白い作品でした。正直、うまく捉えきれない部分もあって、全体像を把握するのはちょっと難しいと感じましたが、「未知の生命体との遭遇」という部分だけでも十分に面白い作品だと思います。

映画の中で軍の人間がバンクス博士に、「文字を教え込むなんて時間が掛かりすぎないか?」とか、最初に教え込む単語について「なんでこんな簡単な単語を?」などと問いかける場面があります。それに対するバンクス博士の回答を聞いて、なるほど、未知の言語を持つ存在とのコミュニケーションにはこういう問題があるのか、と感じました。

軍が最も聞きたい質問は、「何故地球にやってきたか?」です。そしてこの質問を問うためには、様々な前提を理解しなくてはならない、とバンクス博士は言います。例えば、この問いでは「目的」を聞いているのだから、まずは「目的」という概念があるのかを確認しなければならない。あるいは「意志」。もし彼らが、ただ本能に従っているだけであれば、「目的」を聞いても意味がない。そこに「意志」があるのかどうか確認しなければならない。また、「個の意識」があるのかどうか。“ヘプタポッド”は二体いるが、それぞれが個として識別される存在なのか、あるいは総体として一つの存在なのか。その辺りのことをきちんと理解してからでないと、「何故地球にやってきたか?」という問いを発して、その答えが返ってきたとしても、意味のある情報にならない、というのです。なるほど、確かにそれはその通りだなと思いました。

僕は理系なので、どうしても理系的には、未知の生命体とのコミュニケーションは「素数」や「フィボナッチ数列」などで知性があるのかどうかを確かめる、的な方向に言ってしまいます。実際に、そういう調査も同時に行われていたようです。“ヘプタポッド”は、代数学を理解できないのに複雑な数学を理解したと驚く場面がありました。

けれど、知性のあるなしもそうだけど、コミュニケーションを取っていくためには、まず相手がどんな前提に立っているのか、ということをきちんと理解しなければならない、というのは、なるほどなと感じました。

彼らが地球にやってきた目的については、正直、はっきりとは捉えきれませんでした。ここは、ちょっと難しいと思いました。ただ、言語と認識が密接に結びついているのだ、ということが大前提となっている話で、はっきりと想像することは難しいんだけど、方向性としてなんとなくのイメージは出来ないことはないかもしれない、と思いました。

いや、もしこの作品の中で示唆されていることが、言語によって本当に可能なんだとしたら、それは凄く面白いなと思います。もしそうであれば、僕たちの認識が言語に影響を与え、言語が僕たちの認識に影響を与えることで、どんな言語を使っていようが僕らが当然だと考えているとある大前提を覆すことが出来るかもしれない…。そういう可能性の話は、ちょっと考えてみると面白いなと思いました。

「メッセージ」を観に行ってきました

三つの悪夢と階段室の女王(増田忠則)

人はそれぞれ違うから面白い、と僕は思う。
自分が考えていること、思っていることが、誰かにそのまま伝わる、というのは、あまり面白くないと思ってしまう。
食い違いがあり、分かり合えず、共感できない部分がある。そういう他人がいるからこそ人生は面白いし、そういう多様性が社会を生み出している、と思っている。

多様性がきちんと社会の中で機能していた時代は、過去のものになってしまった、という風に最近思う。
今でも、多様性そのものは存在している。人間同士に差があり、おのおのが違いを持っていることは同じだ。しかし現代は、ネットのお陰で、より近い者同士が簡単に出会うことが出来るようになってしまった。人間同士に差があり、その差が多様性を生むはずなのだが、似たような人間が簡単に集まれるようになってしまったことで、小規模な集団の中での多様性は恐ろしいほど消えている、と僕は感じている。小規模な集団同士は、それぞれがほとんど孤立しているような状況で、関わり合いが薄い。社会全体で見れば多様性が存在しているはずなのに、似たような者同士が小規模な集団を作って固まっているが故に、多様性が社会の中できちんと機能しなくなってしまっていると思うのだ。

だからこそ、本書のような物語が成立し得るのだ、と僕は思う。

一昔前であれば、本書のような物語はそもそも成り立たなかっただろう。社会の中で多様性が機能しない、というのはつまり、人間同士にあって当然の差や違いが、許容されにくくなっている、ということを意味している。小規模な集団の中では差や違いが極端に平坦化されてしまっているが故に、自分たちとちょっとでも違う存在を許容する度合いが低くなってしまっているのだ。だからこそ、他人の行動を簡単に排除したり無関心でいたりすることが出来る。そういう前提が、この物語には横たわっているのだと僕には感じられる。

自分(そして自分と価値観を同じくする者たち)以外の人間はすべて異質なもの。異質だから無関係だし、どうでもいい。そういう力の強さを、きっと多くの人が感じ取りながら、時にそれを利用し、時にそれに呑み込まれながら日々を過ごしているのだと思う。そういう人たちには、もしかしたらこの物語の「怖さ」は、本当には理解されないのかもしれない、という風にも思う。

冒頭の「マグノリア通り、曇り」に登場する野次馬たち。彼らは、人が死ぬかもしれないという現実を目の前にして、自分(そして自分と価値観を同じくする者たち)には無関係だと思えるから、まるで虫でも殺すかのように無感情に暴言を吐く。それはとても恐ろしいことなのだ、という感覚が、もしかしたら通じない世の中になっているのかもしれない、という風にも思う。もしそうだとしたら、その現実の方こそが、この物語以上に恐ろしく感じられてしまう。

内容に入ろうと思います。
本書は、4編の短編を収録した短編集です。

「マグノリア通り、曇り」
斉木は、娘の理央が帰ってこないという妻から連絡の直後、知らない男からの電話を受け取った。間宮、と名乗ったその男は娘を預かったと言い、斉木をS駅前のマグノリア通りへと向かわせた。斉木は男からの電話で三ヶ月前の出来事を思い返していた。屋上から飛び降りようとしていた男と、その男に暴言を吐き続けた野次馬たち。そして、自分がした行動…。間宮と名乗る男は言った。少々恐怖を味わっていただきます、と…。

「夜にめざめて」

タカハシはパン工場の夜勤アルバイトをしている。弁護士を目指し大学受験をしたが失敗。浪人したが、無意味さを覚えて結局進学しなかった。ニートだった時期を経て、やっと一念発起し、アルバイトを始めた。そのタカハシの元に、刑事がやってきた。今市内で頻発している通り魔に関してだ。タカハシは、自分が疑われているのだ、と察した。
理由はなんとなく分かっている。同じ団地に住む、あの親子だ。些細なことが積み重なって、その親子からタカハシは嫌悪されている。タカハシは決して悪いことはしていないのだが、その親子が悪口を言いふらしているようだ。ニートだった時期がある、というのも、思った以上にマイナスであるようだ。何もしていないのだから気にすることはないのだが、今度は、通り魔事件をきっかけに生まれたという、市民による自警団からの監視も始まり…。

「復讐の花は枯れない」
バイクに載っていた沢井は、道に張られたロープに気づいて速度を落とした。沢井の首を狙っているかのような高さだ。息子の涼介に始まって、妻、そして自分と不審な出来事が続いている。沢井はここに至ってようやく、自分とその家族が狙われているのだ、と認識する。
沢井には心当たりがあった。あったが、しかしそれが現実のものとも思えない。25年前、高校生だった頃の話だ。まさか、という思いもある。しかし、あの時のあの男が、あの時言ったことをそのまま実行しているのだとしたら…。

「階段室の女王」
私は18階建てのマンションの12階から階段で下に降りている。レンタルショップに行くためだ。そして、8階と9階の間で、倒れている女性を発見した。救急車を呼ぶのはめんどくさい、と思った。なんとか見なかったことに出来ないか―。そうあれこれ画策している最中に、倒れている女性が誰なのか分かった。同じ階に住む女だ。その女は、いつも着飾っていて、野暮ったいダサい格好をいつもしている私を嫌っている。あの女か。じゃあなおさら救急車を呼ぶ必要はないか。
そう思いかけた時、階上から音が聞こえた。誰か来る。とりあえず、階段は使わなかった、という状況をうまく作り出すために私は動き始めるが…。

というような話です。

なかなか面白い作品でした。悪意全開、という感じの作品で、冒頭でもあれこれ書いたように、非常に現代的だなと感じました。悪意の発露のされ方が、ということです。もちろん、人間は昔からこんな風に悪意を表に出していたと思うけど、他人への無関心さ、みたいなものがより多大に入り混じっていくことで、一昔前だったら受け入れられなそうな物語が成立している、という風に感じました。

現代は、靴を踏まれたから、みたいな理由で人が殺されたりする時代でだ。行為者にはそれぞれの論理があるのだろうけど、その論理が共有できない、という感覚は、様々な形で日常的に感じている。この作品は、さすがに物語である以上、理解不能な行動原理、というところまで踏み込んで書くことは難しいのだろうけど、とはいえ、自分の内側にその感覚はない、と感じるような行動や価値観が出てくる場面も多いのではないかと思う。そういう違和感を与える行動や価値観を、なんとか上手いこと物語の中に落とし込んで読み物に仕上げている、という部分は、新人作家ながらなかなかの豪腕、という感じがしました。

とはいえ、個人的には不満もある。
この物語は、どの話も、物語が閉じた後にこそ、本当の物語があるように感じられてしまうということだ。つまり、僕の感覚としては、どの短編も「中途半端なところで終わっている」という感じがする。

もちろんそれは、著者が意図的にやったことなのかもしれないが、そこで物語が終わったような気がしない、というのはちょっともったいない気もする。物語はどれも、誰かが一線を越えてしまった直後に終わる、という感じだ。そこで物語を切るからこそ、後味の悪さみたいなものが倍加する、と考えることも出来るが、僕としては、長編小説の冒頭部分だけを読んだ、という感覚の方が強く出た。どの話も、物語としての本当の結末はもう少し先にあるのではないか、そういう物足りなさを拭えないままどの話も読み終えた。この物語の閉じ方が正解なのかどうかは、難しい判断ではないかなという気がする。

もう一つ。これは完全に僕の勘違いで、作品そのものに非があるわけではないのだが、タイトルから僕は一つの予想をしていた。本書のタイトルは「三つの悪夢と階段室の女王」だが、僕はこのタイトルから、最初の三つの話が、最後の「階段室の女王」という作品によって繋がる構成なのだ、と勝手に思ってしまった。前述した通り、どの短編も、僕の感覚では「中途半端なところで終わっている」と感じられたのも、その思いつきを補強した。最初の三つの短編は、物語としてはきっとまだ閉じていなくて、最後の「階段室の女王」で、三つの物語の繋がりが示唆され、本当に物語として閉じるのだろう、と。しかし、結果的にはそういう構成ではなかったので、勝手に予想をしていただけなので言いがかりなのだが、ちょっとがっかりした部分があった。

些細な悪意がちょっとしたすれ違いからどんどんと巨大になっていき、最終的に予想もしなかった帰結を導く、という話はよく出来ていると思ったし、ある種の読後感の悪さも、この作品の良さになっているのだと思う。

増田忠則「三つの悪夢と階段室の女王」

裁判所の正体 法服を着た役人たち(瀬木比呂志+清水潔)

あくまで僕の感覚の話だが、対談というのは通常、あまり面白い本にはならない。対談の場で聞いている分には、その場の雰囲気もあるので面白さも感じられるだろうが、よほど知性と経験を兼ね備え、かつ一般に伝わりやすい言葉を駆使する者同士の対談でないと、文章になったものを読んで面白い、ということはない。

そういう意味で本書は、なかなか稀な本だと思う。本書の場合、テーマ・話し手・聞き手のそれぞれが実に見事だと感じる。

本書のテーマは、「日本の司法全体」である。裁判所の話がメインになっていくが、そこから検察・弁護士の問題、権力との繋がり、憲法の話など、様々な方向へと進んでいく。
そして、やはりその中でもメインになっていくのが「裁判所」なわけだが、この裁判所というものを、僕を含めた一般の人というのはほとんど知らない。裁判を受けたことも裁判を傍聴したことも裁判員になったこともない、という人が圧倒的ではないだろうか。僕も、どれもない。裁判所に足を踏み入れた、という経験がない。

そして本書を読むと理解できるが、裁判所というのは基本的に、外界とほとんど接触を持たないようだ。

瀬木比呂志『要するに、外とのかかわりというのはほとんど全くなくて、官舎の中と裁判所ですべてが終わる、それが普通の裁判官の人生ですね。その意味ではとても狭い』

瀬木比呂志『日本の裁判官は、ソフトな精神的収容所にいて、外の世界のことはあまりわからないし、気にも留めないですからね。』

本書の中で指摘されていて、確かにそうだと感じたが、裁判が終わっても、基本的に「裁判官のコメント」というのはメディアに出てこない。明確なルールはないようだが、取材してはいけないという暗黙のルールのようなものがあるようだ。余計僕たちは、裁判や裁判所のことを知る機会がない。

本書は、まったく知らなかった世界ではあるが、僕たちの生活に実は直結していて、直結しているが故にまともに機能しているんだろうと思いたがっている部分があるのだが、実はそうじゃなかった!ということが分かる本であり、そういう意味でまず、テーマの選択が素晴らしい。

そして、話し手は、「絶望の裁判所」などの著作を持つ、元エリート裁判官だ。自身もかつては、裁判所という「ソフトな精神的収容所」の中で、思考停止状態にあったことを認めつつ、様々な違和感が積み重なって裁判官を辞めている。その後学者となり、それまで話すことのなかった多くの人と関わるようになっていく中で、いかに裁判所の組織や理屈や統制がおかしいのかということがようやく理解できるようになっていった。その上で、裁判所のかなり深いところまで知っており、また一般的な感覚や一般の人に通じる言葉も使える者として、知られざる裁判所の世界を出来る限り伝えようとこれまでも奮闘してきた者だ。外からは窺い知れない裁判所内部を知り尽くし、また学者として、諸外国との比較もしながら、客観的な目で裁判所というものを捉えているので、分析が明晰で分かりやすく、視野が広いという感じがする。話し手として非常に優秀だと感じる。

そして、僕が何よりも重要だと感じるのは、本書の聞き手である清水潔だ。その重要さについては、瀬木比呂志も巻末のあとがきでこんな風に書いている。

『清水さんの読者、ファンの方々は、本書における清水さんの発言部分が比較的少ないことに物足りなさを感じられるかもしれない。しかし、本書を映画にたとえるなら、監督及び編集者は清水さんであり、僕は、シナリオのうち比較的大きな部分を書いて出演を果たしたにすぎない。いわば、清水さんの手の平の上で、自由に、また時には清水さんの鋭い発言、質問にたじたじになりながら、踊らせてもらったにすぎないともいえるのだ』

僕自身はここまでのことを感じていたわけではないが、本書における清水潔の重要性は自分なりに理解している。というのは、清水潔は本書で、「高度な知識を持っているはずの無知な聞き手」という、なかなかない役回りを担っているからだ。

これは別に清水潔が殊更にそう演じようとしているわけではない。ここが、テーマの選択として非常に秀逸だったと感じるのだが、裁判所というテーマがあまりにも深く広く、また一般から隠されているが故に、ある程度知識を持っているはずの人間でも知らなかった事実の連続、というような事態になる、ということなのだ。

清水潔は作中で何度も、「それは知らなかった」「そんな事実、国民の誰も知らないと思いますよ」というような発言をする。この点が、本書における清水潔の最も重要な役割だ、と僕は感じる。

清水潔は、事件記者であり、その過程で裁判を傍聴することもあれば、検事や弁護士と関わることもある。冤罪を証明し、17年間刑務所に入れられていた人物を釈放に導いたことさえある。そんな人物でさえ、瀬木比呂志の語る裁判所の話は目からウロコなのだ。この清水潔の反応があることで、僕たちは、いかに裁判所の存在やあり方が世間一般から秘されているか、どれだけ僕たちが裁判所について無知なのか、ということがよく分かるのだ。清水潔が「高度な知識を持っているはずの無知な聞き手」という役割を自然に担っている、という点が、本書の最も重要なポイントだと僕は感じる。

そんなわけで本書は、対談でありながら高度な面白さを有することになった、なかなか稀有な本だと僕は感じる。

本書を読むと、かなりの人が絶望するだろう。若い世代であればあるほど、国や権力に対する失望というのをそもそも持っているだろうが、しかしそれでも、裁判所というものに対しては、なんとなく、ある一定の信頼というか、さすがに裁判所はちゃんとしてくれているでしょう、というような感覚があるのではないかと思う。それを二人は「お上」という言葉で表現する。

瀬木比呂志『多分どの国でもある程度座席の差というのはあると思うのですが、日本の場合にそれが目立ってしまうのは、やはり、日本の裁判官が、本質的に「お上」だからだという考え方によるのかと思うんです』

たとえばこれは、こういう事態を引き起こす。

瀬木比呂志『だから、冤罪の被害者が、「裁判所に行けば裁判官が絶対的に正しい裁判をしてくれると思っていた」という、そういう感じ方の基盤には、「裁判官は風雨の人と隔絶した神にも等しいような人だから、当然正しい再案をしてくれるはず」という思いがあるわけです』

本書では、司法の様々な問題が取り上げられる。この文章の中でそのすべてに触れることは出来ないが、本書を読めば、その酷さがよく理解できるだろうと思う。しかし、司法が悪い、とただ言っているだけでは問題は解決しない。僕たちも、司法や裁判というものを、きちんと捉え直さなければならないのだ。

瀬木比呂志『裁判に何でもかんでも求め、真実が必ずそこで明らかにされなければいけないし、被告に謝らせなければいけないし、背景が明らかにされ、動機も全部明らかにされなければいけないというような考え方は、近代的な裁判のとらえ方ではないということなのです。』

瀬木比呂志『だから、我々日本人は、裁判という制度の一定の「限界」を知るとともに、市民・国民の代表が行うべきものとして裁判をとらえ直す必要がある』


本書を読めば分かるが、恐らく、裁判所の体質が短期間で変わる可能性は、ほぼゼロだと言っていいだろう。それぐらい、裁判所が作り上げてきた統制のシステムは見事で、そんな統制があることを国民だけでなく、当の裁判官自身にさえ感じさせないような巧緻な仕組みが出来上がっている。その牙城を崩すのは、相当困難だろう。だから、まず裁判というものを捉える僕ら自身が変わった方がいいのではないかと思う。

それはとても難しいことだ。清水潔もこう言っている。

清水潔『私自身も甘かったかもしれません。多くの裁判を傍聴してきて、不条理もたくさんみましたが、それでも裁判官たちの心底には国民のためにという基本が備わっていると思っていました。菅家さん(※清水潔が冤罪を証明し、17年半ぶりに獄中から出た人物)もそう信じていたんですよ。大岡越前のような裁判官像です』

裁判をたくさん傍聴した清水潔でさえこうなのだ。だから僕たちは、より裁判というものを意識的に捉え直さなければならない。

本書では、実に様々なことが描かれているのだけど、ここではその中から主に、「裁判所による統制」と「権力との癒着」を取り上げようと思う。

裁判官というのは、何者にも冒されず、公平中立を保たなければならないはずなのだが、そんな裁判官を裁判所が統制する目に見えないシステムが作り上げられている。それらの多くは、本書の中で瀬木比呂志が詳細に説明することによって、やっとその輪郭がつかめるような話が多く、短い言葉で説明するのが難しいのだが、僕ら一般人にも分かりやすい部分もある。

まず、これはもしかしたら想像しやすい部分かもしれないが、どんな判決を出すか、と関わる部分だ。

瀬木比呂志『多くの場合には、やはり、無罪が多かったりすると、出世上、非常に不利になりやすい』

清水潔『たとえば政権、国に対して、国が望まないような判決を出した場合、裁判官の方は、どういうことが起こるという危険を感じるんでしょうか。』
瀬木比呂志『端的に言えば、都合が悪いというより、最高裁の意に沿わない判決をしたり、論文を書いたりすれば、「いつかどこかで必ず報復される」ということです』

そして、直近の例として、原発の再稼働に待ったを掛ける判決を下した、福井地裁の樋口裁判長が、あり得ない転勤をさせられる、というケースを挙げている。

瀬木比呂志曰く、こういうことはもう明白に起こっているようだ。だから、無罪判決や国に喧嘩を売るような判決は、普通は出せない。定年が近いなど、何らかの理由がない限り、そういう判決は出せない。

基本的に裁判というのは、やる前から判決がほぼ決まっているようなものなのだ。もちろん、日本の有罪率は99.9%と言われるわけで、そのこと自体は多くの人に知られた事実なのだろうが、しかし、じゃあ何故そうなっているのか、という部分まで踏み込むことはなかなかない。検察が、かならず有罪に出来る事件しか起訴していないからだ、というような受け取り方ももちろんあるだろうが、本書を読むとどうもそうではなさそうだ。それよりも、どんな裁判であろうと、もう最高裁の方針というものが大筋で決まっている事柄であれば、誰が何を言おうが結論は決まっている、というただそれだけのことなのだ。

だからこそ、こんなことも起こりうる。

瀬木比呂志『たとえば、判決が出る前から、記者クラブレベルでは情報が流れていることがあるという話は、聞いたことがあります。もちろん発表はしてはいけないわけですけど、すぐ記事が書けるように事前に結果が流れている。僕は民事系なので、これは聞いたというだけですけど』

また、そんな調子だから、冤罪も多数生まれる。

瀬木比呂志『そして、おそらくは冤罪もかなり多い。それが、日本の裁判のリアルな現実です』

瀬木比呂志『(40年の裁判生活の中で30件の無罪判決を出した裁判官がいた、という話の後で)ということは、多くの刑事裁判官は、本当は30くらいある無罪事件を有罪にしてしまっている可能性がきわめて高いということですよ。』

また裁判官には「再任」という制度があるという。10年ごとぐらいで、裁判官として適切なのかという判断をされ再任されるのだが、この仕組みが変わって状況が悪化したのだという。どう変化したのかは詳しく説明できないが、この変化によってこういう状況になったのだという。

瀬木比呂志『従業員が二千人台の会社(※裁判所のこと)で、毎年4,5名ずつ理由も告げられずにクビになっていたら、全体がすごく萎縮する』

かつてはほぼ無条件で再任されていたのが、制度の変更により、理由も分からず再任されない、というようなことが起こりはじめてきた。結局そういう状況で目立つことが出来る人は多くはないだろう。

最高裁の方針に逆らえない、逆らったら自分の身に何が起こるか分からない、という状況だからこそ、

瀬木比呂志『要するに、自分の頭で考えるような裁判官は上にいけないという形が、ここではっきりとできてしまった』

みたいなことになってしまったのだ。

これははっきりと、質という形で現れているようだ。

瀬木比呂志『若くて能力の乏しい裁判官を中心に、コピペ判決が増えている』

瀬木比呂志『僕が知っている後輩でも、「えっ、この人が裁判長!大丈夫なの?」と思うような人がやっています』

そしてそもそも、学生からいきなり裁判官になることで、『自己中心性、他者の不在、想像力の欠如』などの精神病理が裁判官の当たり前になってしまったという。そして、ソフトな精神的収容所にいる彼らは、外界と接しないために、自分たちがそういう病理に囚われてしまっていることにも気づかない。そういう閉鎖的な空間にいることも、裁判所による統制がより効果的に働く素地となっているのだろうと思う。

著者自身も、裁判官だった頃は、自分が「ソフトな精神的収容所」にいることも、最高裁の決定に疑問を抱かないことも、まったく気づいていなかったという。本書を読む限り瀬木比呂志は、冷静で客観的な人物に思えるので、そんな人物でも、統制の環境が非常に整った環境では強く影響されてしまうのだな、と感じた。

そして、もう一方の「権力との癒着」は、非常に問題だし、大きな意味で僕たちの生活に直結する問題でもある。

最高裁は、「統治と支配」にかかわる部分には絶対にさわらない。たとえば、夫婦別姓の問題はもろに「統治と支配」にかかわるから、最高裁は絶対に触れないのだという。先程挙げた原発再稼働にストップを掛けた樋口裁判長も、同じ理由で通常の出世ルートから外されます。詳しく触れられないと断りを入れた上で、親が裁判所に対して批判的な人物であるが故に任官されなかったのではないか、と感じ取れる例を知っているそうです。

本来裁判所というのは、権力に対する歯止めになるべき存在なのだけど、残念ながらそうなっていない。

瀬木比呂志『ところが、日本の裁判官は、まず権力、それから時の世論ということになるので、たとえば、日本という国がどんどん悪くなっていくような場合、日本の裁判官には、そういうものに対する歯止めとなる力がきわめて乏しく、それはごくごく一部の裁判官にしか期待できない、ということになるのです。』

瀬木比呂志『そうすると、結局、日本では、本来は市民・国民の代理人として権力を監視すべき裁判所も、ジャーナリズムも、どっちも権力の一部になってしまっている傾向が強くないかということですね。大きなところほど、「権力チェック機構」じゃなくて「権力補完機構」的になってしまっている』

本書を読んで、この点は本当に怖いなと思ったし、問題だと感じた。三権分立などと表向きでは言われているが、実際には全然違う。本書を読むと、三権分立って何なんだっけ?と思ってしまうだろう。それぐらい、権力と裁判所は結びついている。しかもその結びつきが表に出ないようになっている。

瀬木比呂志『ことに最高裁判所は、もはや、「権力の一部」という感じなんです。』

瀬木比呂志『(最高裁判所が)憲法の番人であるということは、これは万国共通ですが、権力が憲法違反のことをした場合に、あなた、そういうことをしてはいけませんよ、違憲ですよ、といって釘を刺すから「憲法の番人」なんです。ところが、日本の場合は、「統治と支配」の根幹にかかわる最高裁判決は、ほとんどが、「国のしていることはいいですよ、合憲ですよ。あるいはその問題に裁判所はふれませんよ」ということなので、むしろ「権力の番人」なんです』

そんな状態だからこそ、二人は今日本に対してこんな風に感じている。

清水潔『多少でも近代史を学んできた人なら、あるいは調べていけば、今、この国が進んでいる方向の危うさ、というのにすぐ気付くと思うんですけどね』

瀬木比呂志『僕は、今の世論の動き方を見ていると、太平洋戦争になだれ込んでいったときと同じような感じがするんですね。本当はだめなのに、大丈夫、大丈夫と言って、みんなで何となく空気で流れていってしまってね。』

この感覚は、僕も本当に感じる。近代史のことはあまり学んでいないし、具体的に今何がどうマズイのか指摘することも出来ないのだけど、今とてもマズイ状況にあるなということは感じる。国が、あらゆる法案を、しかも僕らの生活に直結する重要な法案を、十分に議論を尽くさないまま権力側に都合がいい形で通そうとする。それに対して、ある程度以上思考停止している人がたくさんいて、それこそ裁判所と同じように、「お上がやることなんだから正しいだろう」とか思っている。あるいは、単純に関心を持たないでいる。政治に関心があっても、「自分の生活が豊かになるのか」というような狭い範囲の思考しかしていない人が多かったりするのではないか、と思う。いや、そもそも僕は政治に関心を持っていないのだから、どんな理由であれ政治に関心を持っている方が良いと思うのだけど、ただ、国の方向性を決める大きな枠組みの議論がされている時に、個人の話でその流れを阻害する、みたいな流れがもしあるとしたら、それはちょっと違うなと思ってしまう。

また、日本の司法を取り巻く状況は、世界標準と比べてみてもかなり低く、というか世界の潮流にかなり逆行しているみたいです。

瀬木比呂志『その中で、日本の裁判所は、むしろ逆行している。日本の司法全体がそうですし、もう一ついえば、日本の社会、政治や権力、制度、メディアのあり方まで含めたそれが、全体が、世界の進んでいる方向とかなり逆行していないかと感じます。』

瀬木比呂志『だから、国連で、日本の刑事司法は「中世並み」と言われてしまった。その時、それを言われた日本の人権人道担当大使が、「日本は刑事司法の分野で最も先進的な国の一つだ」と反論して、みんながクスクス笑う。で、「笑うな。シャラップ!」と返して、たちまち世界中に報道されちゃった(笑)。解くに、マスメディアじゃなくて、インターネットで広がったんですね』

僕たちは、こういう国に生きているのだ、という自覚をまずは持たなければならないだろう。作中では何度も出てくるが、諸外国からの日本の司法に対する反応は、相当芳しくないというか、レベルの低いものではないか、誤っているのではないか、という風に見られているようです。民主主義を歴史の闘争の中から勝ち取ってきた欧米の人たちとは、やはり民主主義の成熟さが違うのだろう、という指摘も繰り返されていた。

最後に。日本の裁判所の問題が本書では具体的に挙げられていて、そのどれもが知らなかったような驚きの話ばっかりなんだけど、それらをひっくるめてこんな風に表現する場面がある。

清水潔『先程も出ましたが、日本人は何にもしないためにはどんなことでもするというわけですね』

これはもの凄く分かりやすい要約だ。国や権力の方を向き、そちらの方に波風を立てないためなら、どれだけ一般人を犠牲にしようが、どれだけ無理くりな理屈をつけようが、裁判所というのは何でもやってくる、ということだ。本書を読むと、本当にそんな風に感じられる。

個人に出来ることは多くはない。しかしまず何よりも、僕たち日本人が、どんな法環境の元で生きているのか、それは絶対に認識しておいた方がいいだろうと思う。

瀬木比呂志+清水潔「裁判所の正体 法服を着た役人たち」

かがみの孤城(辻村深月)

引きこもっている時期は、やっぱり辛かった。

今となっては、当時のことは正確には思い出せない。もう10年以上も前の話だ。何をしていたのか、何をしていなかったのか。どう感じていたのか。何を感じまいとしていたのか。ちゃんとは思い出せない。

けれど、キツかったなぁ、という漠然とした記憶だけは、今の自分の内側にざらっと残っている。

部屋から出ないわけではなかった。すぐ近くにあったコンビニには行っていたし、ちょっと部屋の外に出るぐらいのことはあった。けど、その時期の僕の日常に決定的になかったものは、誰かとの関わり合いだ。

親元を離れ一人暮らしをしている時だったし、酷いやり方で心配してやってきた家族を追い返したので、生活の中で誰かと関わることがなかった。コンビニで会計をする、ぐらいが唯一の関わりだったかもしれない。当然話す相手もいない。当時はまだSNSもそこまで普及していなかったはずだし、どんな形であれネット上で関わりを持つ人というのも存在しなかった。

ずっと一人だった。一日中テレビを見て、頭はグルグルしたままで、よく分からないタイミングで眠りについた。結局そんな時間を一年ぐらい過ごしていたのだと思う。

自分で選んだことだ。誰のせいでもない。引きこもって誰にも会わないと決めたのは僕自身で、誰が何をしたわけでもない。当時はたぶん、親のせいにしていたと思うけど、今ではそうではないことは分かっている。ただ、自分が弱いだけの話だ。

『だから、こころは学校に、行かない。
殺されて、しまうかもしれないから。』

僕も、社会に出なかった。
殺されて、しまうかもしれないから。
社会に出てサラリーマンになって働いたら、絶対に死ぬと、あの頃確信していた。
今でも、その確信は僕の中にくすぶったまま残っている。

みんなが当たり前に出来ることが出来ない。
そのことは、昔の僕を大いに苦しめた。
自分の内側にある、どうにもならない感情に突き動かされるようにして行動するしかないのだけど、しかしその行動が周りとあまりに違いすぎて浮き上がってしまう。
それをどうすればいいのか、僕にはよく分からなかった。

今では昔に比べれば格段にうまく対処できるようになった。
それでもそれは、色んな要素がうまい具合に絡まり合って、たまたまそうなっただけだ。
僕の人生には、そういう状況にうまく対処できない自分、という可能性もありえた。
だから、
居場所がないことに苦しんでいる人の物語に心を掴まれる。

内容に入ろうと思います。
安西こころは、中学に上がってすぐの4月にはもう、中学校に通えなくなってしまった。朝、母親のため息を聞き、昼に普段聞くことのない移動スーパーのアナウンスを聞き、カーテンを閉めた部屋で息を殺すように日々を過ごしている。母親が見つけてきた「心の教室」というフリースクールにも足が向かない。見学に行った時には、喜多嶋と名札にあった女性が凄く親切にしてくれたのに。
同じクラスの真田美織がすべての原因だ。彼女のせいで、こころは学校に行けなくなった。しかし、担任の伊田は、そのことを全然理解しない。真田のような明るくて自己主張が出来る子が、先生も好きだからだ。
同じクラスに、転校生がいた。東条萌というハーフのような整った顔立ちをした女の子で、家が近いからという理由でこころの隣の席になった。けれど、真田から何か言われたのだろう。こころは、東条さんから無視されるようになってしまった。
今も部屋の中で一人でいると、ポストに何か投函された音がする。東条さんが配布物なんかを届けてくれるのだ。けれど、チャイムを鳴らしてこころに会おうとすることはない。
ある日のこと。こころの部屋にある大きな姿見が光った。そしてそこに、可愛らしい服を着ているのに狼の被り物をした少女が映った。
そして、その少女(のちに“おおかみさま”と呼ばれていることを知る)に引きずり込まれるようにして、
こころは、城にやってきた。
そこには、こころの他にも6人の子どもたちが集められていた。そして“おおかみさま”から、この謎の城について説明を受ける。
この城は、3月30日まで使える。
朝9時から午後5時までこの城にいられる。
この城には“願いの鍵”があり、その鍵を見つけた者はどんな願いでも一つだけ叶えることが出来る。
願いを叶えることが出来るのは、一人だけ。
自己紹介をして全員中学生だということが分かった彼らは、薄々気づいていた。9時から5時までしか空いていない城にいつもやってこれるということは…。
ここにいるみんな、学校に通ってないんじゃないだろうか…。
というような話です。

久々に辻村深月の作品を読みましたけど、辻村深月らしい作品だなという感じがしました。周りの“当たり前”に馴染めないでいる感じとか、そういう世界との関わり方の“戸惑い”みたいなものが物語を動かしていく原動力になっていくようなところはさすがだなという感じがします。

ただ個人的には不満もある。これは、僕が持っている辻村深月に対するイメージの問題だからこの作品に付随する欠点では全然ないのだけど、やはり僕はどうしても辻村深月には“悪意”を期待してしまう。

辻村深月は、“悪意”の描き方が抜群だと感じる。本書の中にも、それがないわけではない。担任の伊田を見限るこころの思考や、物語の終わり付近で垣間見える、ある人物が抱く真田に対する感情など、断片的に“悪意”が散りばめられる。

しかし、その“悪意”が、物語の中心になることはない。あくまでも、物語を装飾するという役割がメインだ。そこにどうしても不満を感じてしまう。あの冴え渡るような“悪意”こそが、辻村深月の真骨頂だと思っている僕には、その点が少し物足りなかったかなとは思う。

とはいえ、居場所を無くした者たちの物語として、本書はとても良いと思う。

鏡を通して城にやってくることが出来る7人は、それぞれがそれぞれの事情を抱えている。派手な女子、アキ。イケメンなリオン。声優のような声をしたフウカ。ゲーム好きのマサムネ。「ハリー・ポッター」のロンに似たスバル。小太りのウレシノ。みんな最低限の情報だけを共有しながら、少しずつ仲良くなっていく。お互いに、きっと学校に行っていないのだろう、という思いを共有しているが故に、近づきやすいという側面もあった。自分がどこの誰で、というような情報で判断される場ではない、ということも良かった。彼らは、城の中では、一人の中学生として相対することが出来た。

そして次第に、城は彼らにとっての居場所になっていく。現実の世界で居場所を持てないが故に、城という場が大事な存在になっていくのだ。

しかし、ここでは書かないが、城にはいくつかのルールがあり、そのルールが彼らを悩ませることになる。城だからこそ生まれた関係性が、継続されないかもしれない…。その不安定な条件を理解しながら、それでも彼らは、居場所となった城から離れられないし、お互いの存在が大事に感じられるようになっていく。

傷ついた者同士が、城という特殊な環境であるが故に近づき、様々なものを共有することができる、そういう過程がうまく描かれていると思う。

またこの作品は、城という設定を中心にした物語もなかなか面白く出来ている。城にいる面々は、少しずつ違和感を覚えるようになっていく。その違和感は、本書の読みどころの一つだ。城がどんな理屈で成り立っているのか、ということが、現実での彼らの結びつきにも大きな影響を及ぼすことになり、さらにそれが、喜多嶋というフリースクールの先生を中心とした希望へと繋がっていくことになる。

なるべく興を削がないように曖昧にぼかしながら書いたが、特殊な設定が物語全体の希望を生んでいる、という意味で、全体の構成がよく出来ているなと思う。ただし、本書をミステリだと思って読むのは止めた方がいいと思う。城の謎は確かに一つの読みどころではあるのだけど、それが物語の中心というわけではない。あくまでも中心は、傷ついた者たちが恐る恐る人間関係を積み上げていく過程だ。城という非現実的な世界での経験が、現実の彼らをどう変えていくのか。そこをしっかりと読んで欲しいと思う。

辻村深月「かがみの孤城」

雪盲(ラグナル・ヨナソン)

内容に入ろうと思います。
アイスランドの首都・レイキャヴィークで、医学部を目指して勉強をしている恋人・クリスティンと一緒に暮らしているアリ=トウルは、神学の勉強をあきらめて警察学校に入学し直した変わり者だ。そんなアリ=トウルは、クリスティンに内緒でいくつか仕事先の応募をしており、その内の一つから電話が掛かってきた。
シグフィヨルズルという、アイスランドの最北の地にある警察署からだ。
アリ=トウルは、クリスティンに相談することもなく、その警察署への赴任を決めた。レイキャヴィークとの距離は400キロ。アリ=トウルと未来を作っているものだと思っていたクリスティンは気落ちし、赴任するアリ=トウルを冷たく見送った。
見知らぬ土地にやってきたアリ=トウルは、特に事件らしい事件も起こらないこの町で、少しずつ溶け込もうとしていた。しかし、誰も彼もが知り合い、という町で、アリ=トウルは浮いていた。誰も積極的には話しかけては来ないが、常に視線は感じる。そして、アリ=トウルのことを誰もが知っている。窮屈だとアリ=トウルは思った。
シグフィヨルズルの町には、フロルフュルという、アイスランドを代表する著名な作家が住んでおり、彼が主催する劇団がある。町の様々な人間がその劇団と関わり、演出家や脚本家、役者や大道具などを分担してこなしている。
彼らが新たな公演の準備を進め、いざ初演を迎えようという直前、それは起こった。舞台稽古の昼休み中に、稽古場でフロルフュルが死んでいたのだ。酒を飲んでいたから事故だろうと思われたが、アリ=トウルは違和感を覚え独自の捜査を開始する。
そしてその直後に、今度は劇団の主役の妻が、上半身裸のまま血を流して倒れているのが発見され…。
というような話です。

北欧のミステリのレベルが高い、という話は耳にしていて、僕自身も本書を含めて2~3作読んだことがあるのだけど、僕にはどうにも良さが理解できない。

本書も、ストーリーを取り出せば、どうということはないような気がしてしまうのだけど、違うんだろうか…。

ミステリという形式の最大の問題点は、謎がメインであるが故に、謎が解き明かされないとその作品の良さが分からない、ということだ。もちろん作家は様々に趣向を凝らし、謎が解き明かされるまでの物語も面白く読ませるようにするのだが、そうではない作品もある。僕には本書が、後者のような作品に思えてしまう。

この物語は、事件自体がそもそも地味だと思う。一つは、事故か自殺か分からない老作家の死。そしてもう一つが、ナイフで刺された意識不明の女性。「誰が犯人か」という以外に事件そのものに謎めいた部分はない。

そしてそれを解き明かすためにアリ=トウルが色々と捜査をするのだけど、その過程も特別面白くは感じられないのだよなぁ。確かに、シグフィヨルズルの町には「何かあるな」という雰囲気は漂ってくる。ただどうも、そこに特別な関心が抱けない。特別に魅力的な人物が出てくるわけでもないし、「えっ、どういうことなんだろう?」と思わせるような展開もない。「何かあるな」という予感だけは継続して発しながら、どうにも僕はそれに惹きつけられない。

そして事件の真相も、そんなもんかー、という風に感じてしまったんだよなぁ。

いや、これはこの作品に限らずで、僕が読んだことがある範囲の北欧ミステリからはなんか同じような感じの印象を受けるのだ。

北欧ミステリのどこが評価されているのか、僕にはうまく捉えきれないが、いつ止むとも知れない雪に覆われた陰鬱とした土地に雰囲気が良かったりするんだろうか。まあ、確かにそういう雰囲気はある。陰鬱だなぁ、という感じは、最初から最後までずっと付きまとう。そういう雰囲気が好きなら、好きになれるだろう。しかし、気候が人々に与えるその陰鬱さが、物語の展開や動機にそこまで反映されていないようにも感じられるから、ただ雰囲気が陰鬱だというだけの理由では評価できないと思うんだけどなぁ。

僕にはなかなか良さが捉えきれない作品だ。

ラグナル・ヨナソン「雪盲」

宇喜多の捨て嫁(木下昌輝)

人には役割というものがあるのだな、ということを、なんとなく少しずつ受け入れられるようになってきたような気がする。

すべての人間が「こう生きたい」を貫けるわけではない。いや、ほとんどの人間にとって、そんなこと不可能だろうと思う。自分が望む生き方を誰もが望みながら、少しずつ自分の生き方を修正していくことになる。

それでは、どう自分の人生を修正していくのか。

そこに「役割」というのが関わってくるのではないか。僕はそんな風に感じるようになってきた。

「役割」というのは、自分がいる場で何かを求められている、ということだ。自分が何を求められているのか、ということを理解し、それを実現するためにどう振る舞うかを考える。「こう生きたい」を貫けない状況に陥ってしまったら、そういう風にしか、自分の人生を修正していくことは出来ないのではないか。

その過程で、自分が望んでいないような見られ方をされるようになるかもしれない。悪評が広まることだってあるかもしれない。

とはいえ、すべてを手に入れることは出来ない。「こう生きたい」を貫けなくなった時点で、何かを諦めなければならないのだ。

何を諦めるのか。

「こう生きたい」から外れざるを得なくなった後、その点を非道に突き詰め、求められている役割を徹底的にやり遂げた異端児の物語である。

内容に入ろうと思います。
本書は、6編の短編が収録された連作短編集です。
(僕は基本的に歴史が得意ではないので、以下の内容紹介に間違いがあるかもしれませんが、大目に見てください)

「宇喜多の捨て嫁」
宇喜多家当主の直家の四女である於葉は、後藤家から婚姻の話が来ている。直家は、自分の娘さえも謀略に使うと悪評が立つ男であり、これまでも自分の娘を嫁がせた先を次々に仕物していった。だから、宇喜多の娘を嫁にもらうなど家の中で毒蛇を放つようなものだと言われ、また、直家の娘の扱いを、碁の「捨て石」になぞらえて「捨て嫁」と呼ぶ。
後藤家に嫁いだ於葉は、後藤家の嫁になろうとするが、宇喜多の名が邪魔をする…。

「無想の抜刀術」
八郎は、父である久蔵が逃げ着いた先である阿部善定宅に住むことになった。阿部善定の娘と久蔵が男女の仲であり、虎丸という子をもうけていたことを母は知らなかったようだ。阿部善定は、母と八郎を住まわせる代わりに、下女と同じような扱いをされることを受け入れた。母は八郎を、侍の子として育てようとするが、環境がなかなかそれを許さない。
その後浦上家に仕官を望んだ母子だったが、武功を挙げられなければ立場は弱い。そんな折、八郎が戦に出ることになったが…。

「貝あわせ」
宇喜多家に、島村家に当主がやってくる。直家の嫁を天神山城に登城させろ、というのだ。侍女として、というが、要は人質だ。妻の富は身重であり、承服できない提案だったが、聞けばのっぴきならない状況にあるという。もしかしたら富を登城させる方が安全やもしれぬ。しかし、富は城を離れようとしない。
やがて城を取り囲まれる事態に陥るが…。

「ぐひんの鼻」
浦上宗景は、幼い八郎が犯した罪を見ており、それ故、使える駒としてその成長を見守ってきた。幼きあの日、ぐひんの鼻先に立った八郎ならきっと、何かやるだろう、と。
その予想は、宗景の予想を大きく越えるものだった。今、浦上家が他と対抗出来るのは、八郎、すなわち宇喜多直家によるところが大きい。どんな策略を用いてでも勝ちを見出していくあり方は直家の祖父さえ凌駕している。しかしその力ゆえ、宗景には直家が邪魔に思えてしまう…。

「松之丞の一太刀」
浦上家の嫡男である松之丞は、剣や刀などを好まず、女の遊びである貝あわせに興じるような男だった。その松之丞、浦上家が宇喜多家を乗っ取る計略のために、宇喜多家の三女である小梅との結婚話が進んでいる。一筋縄ではいかない宇喜多家の計略、そしてお面を被るという謎の振る舞いをする小梅。直家とは正反対の性質を持つという松之丞は、やがてある一計を案じるが…。

「五逆の鼓」
江見河原家は浦上家の重臣の家系だが、源五郎の父は播磨以外にも名が知れる有名な鼓名人であり、武芸には秀でていない。その血を継いだのか、源五郎もまた武芸では劣る。しかし、父が早々と見切りを付けられたが故に、すべての期待が源五郎に降り注ぎ、鼓の筋は良いと父から言われながらも、鼓の稽古をする時間を取ることも出来ない。
長い時を経たある日、宇喜多家から使者がやってきて、密談をするのが、源五郎は断る。しかし、帰りを促そうと演奏した鼓の音を聞いた宇喜多家の使者からとある提案を受け…。

というような話です。

なかなか読み応えのある作品でした。

大前提として僕は歴史がとても苦手なので、普通は歴史モノは読まない。ただ、この作品は、読みやすかった。宇喜多家、というのが歴史上どの程度有名なのか僕は知らないが(僕は初めて聞いた)、なんとなくあまりメジャーではないように感じた。メジャーな武将を描く場合、読者の基礎知識がある程度高いと推察されるので、「これぐらいは知っているだろう」という部分は省略されがちなのではないか、と思う。もしそうだとすれば、それ故に僕は、そういう歴史小説を読むのが苦手だといえる。しかし、宇喜多家というのが歴史上そこまで有名でなければ、歴史の苦手な僕もそこそこ歴史に詳しい人も同じ程度の知識量と推察出来るので、だからこそ分かりやすい記述になるのではないか。本書が読みやすかった理由を、僕はそんな風に捉えている。

本書では、宇喜多直家(八郎)という人物を多角的に描き出している。冒頭で宇喜多直家は、極悪非道の人物として登場する。自分の娘を計略に用い、どんな卑怯な手も厭わずに使う男として、散々な描かれ方をする。冒頭の話だけで止まってしまえば、宇喜多直家は永遠に最低な卑怯者のままだろう。

しかし、読み進めていくにつれて、その印象が変わっていく。そこが本書の面白さのポイントだ。

特に「貝あわせ」は、宇喜多直家の変化が一番よく分かる話だろうと思う。元来、卑怯な戦法は取りたくない、と考えていた直家は、何故、どんな手を使ってでも勝ちを狙うような男になっていったのか。その根っこの部分が、ここで描かれていく。

また、直家に出自も非常に魅力的だ。ここには、二番目の短編のタイトルにもなっている「無想の抜刀術」というものが関わってくる。直家は、ごく稀にその力を持つ者が現れると言われるほど稀な「無想の抜刀術」を生まれながらにして持つ男だ。それ故、直家自身が望んでいない幾多の悲劇が巻き起こることになる。

ここに恐らく、「役割」が関わってくるのだと思う。

直家は、「無想の抜刀術」という力を持つが故に、「こう生きたい」から外れざるを得なかった。そして、「無想の抜刀術」を持つが故に、ある意味で鬼神のような生き方をせざるを得なかった。「無想の抜刀術」というものが本当に存在するのかどうか、それは僕には判断できないけど、宇喜多直家という男の生き様が、この「無想の抜刀術」をベースにして組み上げられていることが様々な場面から見て取ることが出来るという点が、非常に良く出来ていると感じる部分だった。

裏切り裏切られという戦国の世にあって、そうせざるを得なかった生き方に身を投じ、どんな風に見られようが己のあり方を貫いた宇喜多直家という男には、ある意味で生き方の美学がある、と感じられた。その生き方すべてに賛同できるわけではないが、世が世なら宇喜多直家は以上に好人物として生きられた可能性もある。乱世の世に生まれ、守るべきものをたくさん抱えていたからこその生き様に鬼気迫るものを感じ、うたれた。

この物語は基本的には宇喜多直家を描くものだが、脇を固める面々も実に多彩で面白い。宇喜多家に仕える者、宇喜多直家の家族、敵対する者、敵対しているはずの者などなど、様々な関係性が入り乱れるが、どれ一つとして安定しているものはない。裏切り裏切られることが当たり前の世にあっては、誰とどんな関係を築いていても、それがあっさりと崩れてしまうことはある。そういう儚さの中で、勝ち続けるしかない男たちの悲哀も浮き彫りにしているのかもしれない、とも思う。

やはり歴史モノということで、どうしてもどストライクとは行かなかったが、とはいえ非常に読ませる、ぎっしり身の詰まった作品だと感じた。

木下昌輝「宇喜多の捨て嫁」

「バーニング・オーシャン」を観に行ってきました

人の命が掛かっている時は、リスクは常に過大に捉えておかなければならない、と思う。そういうことを、僕たちは福島第一原発事故で学んだはずだ。

アメリカ人も、この最悪の石油事故から学んだだろうか。

人間のやることに絶対はないが、安全な状態が長いこと続いてしまうとどうしても、このまま何も起こらないのではないか、と思いたくなってしまう。その気持ちは分かる。しかし、結局そう思うことで、僕たちはリスクを見ないようにしているだけだ。

『俺のじいさんと同じだ。虫歯が見つかるのを恐れて歯医者に行かなかった』

リスクを過小評価すべきではない、と考える現場の人間が、上層部にそう突っかかる場面がある。上層部は、あるテストをやらない、と決めた。それを、問題が発覚するのを恐れているだけだ、と指摘したのだ。

『希望的観測はしない』

同じく、機械の不備を指摘する現場の人間も、上層部に現状についてどう思うかと問われて、そう答える。

そういう人間がいたにも関わらず、事故は起こってしまう。

常に最悪の事態を考慮しなければならない。
福島第一原発事故を経験した僕たちも、きっとそのことを忘れがちだ。
だから、こういう映画を見ると、気が引き締まる。

内容に入ろうと思います。
ルイジアナ南東部78キロの場所に位置する、半潜水海洋資源掘削装置「ディープウォーター・ホライゾン」は、石油の掘削場所まで移動可能な“船”であり、126名が勤務する、海に浮かぶ要塞のような施設だ。チーフ技師のマイクと全体の安全管理を請け負うジミーは、着いて早々問題が起こっていることを知る。BP社がセメントを150m注入したのだが、その安全性を確かめるセメント・テストの担当者を帰した、というのだ。上層部は、既に作業が43日も遅れている事実を指摘し、テストなしでの掘削を指示するが、ジミーは、最低でも負圧テストはやると主張。そしてその負圧テストの結果、何かおかしな状況を予感させる数値が出たが、上層部は「ブラダー・エフェクト」という、そのおかしな数値を説明する理屈を持ち出し、掘削を進めるよう要求。ジミーとマイクは、「ブラダー・エフェクト」の説明に理が通っていることを認めながらも、釈然としない想いを抱えていた。しかし、最終的にジミーは、上からの圧力に屈するような形でGOサインを出した。
結果的には、その判断は間違いだった。
掘削作業前に、パイプから余分な泥水を排出する作業中にそれは起こった。圧力異常を検知し、泥水の排出を停止したのだが、圧力は一向に下がらず、ついにパイプから泥水が噴出してしまった。警告音が鳴り響く中、さらに大爆発も起こり…。
というような話です。

2010年に実際に起こった出来事をベースにした映画です。

前半は、事故に至るまでの人間模様が描かれてきます。観ている側は、これから事故が起こることを知っているから、上層部の態度にイライラすることになりますが、とはいえ、なかなか難しい判断だったとは思います。何せ、スタッフの安全を何よりも第一に優先するジミーが、渋々ながらもGOサインを出したのですから。もちろんそれ以前に、セメント・テストが行われていなかったこと自体が問題であり、ジミーに非があるとは思っていませんが、与えられた条件の元で正確な判断をすることが難しかっただろう、と思われる状況でした。

『BPの坑井 BPの石油 俺たちは雇われ』

ジミーがそんな風に言う場面があります。負圧テストの結果に納得が行っていないけれども、スケジュールの遅れを指摘され掘削を続行しろと言われている場面でのことです。ジミーら現場の人間は雇われの身であり、この“船”や石油はBP社のものだ。だから上の指示に従わないわけにはいかない、ということなのだが、ジミーにとっても難しい判断だっただろう。

後半は、事故が起こってからの、言い方は悪いがスペクタクルな映像が展開される。誰が見ても手の施しようがない、というような大惨事だが、それでもどうにか、被害を最小限に食い止めようと、救命ボートに乗ろうとせずに奮闘する面々の姿も描かれていく。

『私は祈った。妻や娘に、最善を尽くしたのだと思われるように』

映画の最後に、恐らく実際にあの事故から生還したマイクの言葉として紹介されたものだ。なるほど、この言葉を聞くと、逃げずに船内で奮闘した者たちが何故そんな勇敢な行動をすることが出来たのか、ということが腑に落ちる。我先に逃げた人間を非難する意図はないが、でも確かに、もし自分が我先に逃げ出していたとしたら、生き残ったとしても大きな後悔に囚われるだろうと思う。死者が出ているのだからなおさらそうだ。残った面々は、職業的な使命感ももちろんあったろうが、今ここで出来ることをやらなければ、生き残ったとしても後悔すると思って、無謀な闘いに挑んだのではないかと感じた。

実際に起こった出来事なのだと思うと壮絶なのだが、映画として観た場合、物足りなさもある。いや、これはこの映画だけの問題ではなく、実話をベースにしている映画すべてに当てはまる問題ではある。実話ではあるが故に、フィクションのような展開にはならない。もちろん、それこそがリアルなのだが、どうしても、物語のような展開を求めてしまう自分もいる。実際に起こった出来事を、「これが実際に起こったことです」と提示する映画は潔いし必要だとも思うのだけど、そうであるが故の物足りなさみたいなものはどうしてもつきまとってしまう、とも思う。

「これが実際に起こったことです」を少しだけ越えて、「この時、ではどうすれば良かったのか?」を、観ている者一人一人が問いかけることが出来るような、そんな映画であればより良かった、と感じられる。

「バーニング・オーシャン」を観に行ってきました

アイドルとは、臆病な人間を変革させる装置である

今回、僕が書こうと思っていることは、

【アイドルとは、臆病なな人間を変革させる装置である】

ということだ。

もしかしたら、昔からそうだったのかもしれない、とは思う。

これまでも繰り返してきたように、僕が初めてちゃんと追いかけようと思ったアイドルが乃木坂46であり、乃木坂46以外のアイドルのことをほとんど知らない。僕は今回の記事で、「乃木坂46が、そういう装置としての役割を見出した」という趣旨の内容を書くつもりだが、乃木坂46以前からそういう役割をアイドルが担っていたかもしれないとも思う。知識のなさについては弁解するつもりはないので、的外れなことを書いている、と感じる方は指摘していただきたい。

乃木坂46には、マイナス思考な人間が多い。そのことが、僕にとって乃木坂46の魅力の一つである。例えば、僕が好きな齋藤飛鳥は、これまでもインタビューの中で頻繁に、一人でいることや周りと価値観が合わないことを語ってきたが、「EX大衆 2017年5月号」の中でも、こんな発言をしている。

【―普段もひとりでご飯を食べたり、買い物することってあります?
ひとりのほうが多いです。焼肉だった行くし、映画はひとりのほうがいいです】

【―楽屋では壁に向かっているそうですが。
最近は割と壁と向きあってることが多いですね。居心地がいいことに気がついたというか、自然と吸い寄せられていくんですよ】

【盛りあがってる場所から離れちゃうクセがあるんですよね。先生の近くでみんなが練習してるところからも離れ、メイキングのカメラにも見切れちゃいけないと思ってしまう(笑)】

彼女は「BUBKA 2017年6月号」の中で、

【―飛鳥さんは以前と比べると、後ろ向きな発言も減りましたし。
『裸足でSummer』のときにあまりマイナスなことを言わないようにしようという意識でやっていて、それがたぶん染み付いて、わりと当たり前になったのかな】「BUBKA 2017年6月号」

と発言している。確かに以前より、明らかなマイナス発言は減ったと僕も感じる。それは僕からすれば少し残念なことではあるのだが、発言に変化があっただけで、齋藤飛鳥の本質が変わったわけではないのだろうことは、「EX大衆」の中での発言からも分かる。

また乃木坂46は3期生を迎え入れた。徐々に3期生メンバーの情報が出てくるようになったが、その中でも久保史緒里が、乃木坂46らしいマイナスさを持ち合わせているメンバーだと感じられる。

【私は、やっぱり自分のことがそんなに好きじゃないので。失礼だなとは思いつつも、相手がなにかを褒めて言ってくださったことに対して、否定してしまうときがあります。それじゃダメだなとは思っているんですけど…。そもそも人見知りで、コミュニケーションが上手じゃないので、嫌われるような発言をしてしまったんじゃないか?とかいろいろ考えてしまいます。】「BUBKA 2017年6月号」

【今まで誰かに「好かれる」ということがなかったので…】「BUBKA 2017年6月号」

久保史緒里はそんな風に自分自身を捉えている。【小学校低学年の頃はリーダーとかそういうのをやりたいタイプだったんですけど、高学年ぐらいになると目立たないように、目立たないようにって生きてました。】「BRODY 2017年6月号」という発言は、齋藤飛鳥と似たものを感じさせもする。

【私は、3期生とも上手に話せない…。】「ENTAME 2017年6月号」

【―ひとりのほうが楽ですか?
そうですね。誰かを誘うことによって、その人の時間が私の時間になっちゃうし。その人はもしかしたら、なにかほかに違うことをしたかったかもしれないのに、付き合わせてしまうのも申し訳です(※)。誘った私も気を遣ってしまって、それで体力を…。それだったら、ひとりでいるのがいいかなと思ってしまいます。(※誤植だと思いますが、そのまま記載しました)】「BUBKA 2017年6月号」

そんな風に、他人と関わることに苦手意識を持っているようだ。久保史緒里のマイナス思考は、自分とは関係ないはずの他人にも及び、

【本当にそういうことばかりで…。私が電車に乗っていたら、隣の人が電車とホームの隙間にスマホを落としちゃって「あ、ヤバイ壊れた!」って言ってて…。たぶん私が乗ってたからです。】「BUBKA 2017年6月号」

という発言などは、さすがにそれは気にしすぎだろう…と思えるレベルである。

そんな、臆病なメンバーの多い印象のある乃木坂46だが、彼女たちはアイドルを続けていく中で少しずつ変化していく。

齋藤飛鳥は、自分の変化をこんな風に語っている。

【以前の私は、考えが浅かったなと思います。3年くらい前はくすぶっていたと思うんですけど、その時期は物事をあまり深く考えていませんでした。どんな存在が求められているのか、世間の動きはどうなのか、じゃあ自分はどう振る舞うべきなのか…。今はそういうところまで考えるようになったかな。】「FLAXHスペシャル グラビアBEST 2017年GW号」

生駒里奈も、乃木坂46に入ったことを「後悔している」と答えた後で、自身の変化についてこう語る。

【でも、それも乃木坂46に入って、ちょっとポジティブになれたから後悔するんでしょうね。今の性格で学校に行ってたら楽しかったんだろうな~(笑)。】「BRODY 2017年6月号」

先程挙げた久保史緒里も、まだ乃木坂46としての活動をスタートさせたばかりではあるのだが、こんな決意を語っている。

【本気で決意を固めたのは、やっぱり先輩たちとの対面のとき。これから乃木坂として、どんなことがあっても逃げないという意志が固まった瞬間はそこだなって思います】「BRODY 2017年6月号」

乃木坂46ではないが、乃木坂46の系譜にある欅坂46、その不動のセンターである平手友梨奈の変化について、最新シングル「不協和音」のMV撮影を取材したライターは、こんな風に書いている。

【もう1つは「欅坂46の平手友梨奈」という存在を受け入れたという点。以前平手はセンターとして脚光を浴びることで、周りへの遠慮の気持ちを少なからず持っていた。いや、今もその気持ちは持っているとは思う。ただ、そういった他者との関係による不安や戸惑いを、撮影現場では一切、表には出さなかった。欅坂46において、どこからどう見てもスペシャルな存在である自分から逃げることなく、その責任をまっとうする姿が印象的だった】「BRODY 2017年6月号」

平手友梨奈もまた、自信がなく、不安を募らせる人間だという。自分を変えるため、という理由で欅坂46に飛び込み、周囲からの大きすぎる期待に呑み込まれそうになりながらも走り続けてきた。そんな彼女も、アイドルであり続ける過程で強くなっていった。

元からアイドルというのは、そういう成長物語がある方が受け入れられる、という側面はあるだろう。自分のマイナスな部分を乗り越えて強くなっていった、というような背景が、そのアイドルの見え方をより魅力的にしていく。しかし僕のイメージでは、乃木坂46以前は、それはあくまでも偶然見出される物語だったのではないか、と思う。というのも、やはりアイドルというのはそれまで、アイドルになりたいという前向きな気持ちを持つ人間が集う集団だったはずだからだ。前向きな気持ちでアイドルを目指したが、アイドルの世界で厳しさを知り落ち込み、それでも這い上がった、というようなストーリーが一般的だったのではないか、と想像する。

しかし、乃木坂46以降は、「アイドルになりたい」という分かりやすい前向きさより、「マイナスな自分を克服したい」という理由でアイドルを目指す子が増えているのではないか。何故そう思うのかと言えば、乃木坂46が、マイナスな部分を隠さないまま世間に広く受け入れられていったアイドルである、と思うからだ。

僕は乃木坂46でさえ、最初から追いかけていたわけではないので、初期の頃は詳しく知らないが、僕の認識では、乃木坂46も初期の頃は、アイドルアイドルした、それまでのアイドルらしさを踏襲したグループとして売り出されていたはずだ、と思う。それは、初期の頃の楽曲からもそう感じる。いわゆるアイドルソングと呼ばれるような歌が多いのではないかと思う。

しかし徐々に乃木坂46は、独自色を打ち出していくようになる。「制服のマネキン」「命は美しい」などのアイドルらしくない楽曲を披露し、またアイドルらしさを前面に出していたメンバーも少しずつ、自分のマイナスな部分を表に出すようになっていった。僕が乃木坂46を好きになったきっかけである「悲しみの忘れ方」というドキュメンタリー映画などまさにそうであり、僕は、これほどにマイナスな部分を前面に出してくるアイドルなんてあり得るんだ、と感じて興味を抱くようになったのだ。

そういう意味で、アイドルという集団が「臆病な人間を変革させる装置」であるという認識を広めるきっかけになったのが乃木坂46ではないかと思っているのだ。そして、乃木坂46が受け入れられた、という事実を元に、乃木坂46の独自色をさらに突き詰めて生み出されたのが欅坂46なのではないか。僕はそんな認識を持っている。

とはいえ、本質的な部分まで変化を促すわけではない、とも思う。

【―自信はつきましたか?
いや、失っていきました。まわりと比べてしまったり、誌面に載った自分を見て、「ここはこういう写りじゃダメなんだよな」って思ってしまったりして。それでも、自信を持って撮っていただかないと成立しないので、“自信を持っているふう”に自分を見せることができるようになりました。自信はこれから先も持てないと思います。
―去年、センターを経験しても自信がついてこないんですか?
センターになっても、自信につながることはありませんでした。あの時期の経験は、まわりに助けてもらうことによって自分の至らなさを知ることにつながりました。それを反省して次に生かすっていう方向に持っていきたいですね】「FLAXHスペシャル グラビアBEST 2017年GW号」

齋藤飛鳥は、そんな風に語っている。乃木坂46というグループに勢いがあると言ってもらえることは多いが、【すごいグループだとは思うんですけど、いまいち自分がその一員だという実感が持てなくて。】「FLAXHスペシャル グラビアBEST 2017年GW号」と感じてしまうようだ。齋藤飛鳥の、「“自信を持っているふう”に自分を見せることができるようになりました」という発言は、僕が指摘したいと考えている、アイドルが持つ機能の本質を衝いているのかもしれないと思う。

また、生駒里奈のこんな発言も、変化というものを考える上で重要だと感じる。

【そこを犠牲にしたからこそ、こうやってポジティブに考えられる自分がいるので、代償は大きかったけど、その分だけ得たものはあるのかな。この世界に来たからこそ、うなさん(地元の親友)以外のお友達が出来たし。そういうことを考えるとやっぱり、自分が欲しいって思ったものと同じ価値のものを失わないと、それは手に入らないんだってことがわかりました。
―無傷で全てを手に入れられる人間なんていないですもんね。
いないいない。無傷で手に入れられてる人間は、その人の何かが欠落しているだけだと思う。きっとズルしてますよ(笑)】「BRODY 2017年6月号」

これまでもこんな風に、「アイドルになることで失うこともある」ということを、アイドル自身がはっきりと語ることが風潮として自然だったのかどうか、僕は知らないのだが、明るく前向きというイメージが長く続いていたはずのアイドルという存在の見え方を「大きく」変えた存在として、乃木坂46を位置づけることは出来るのではないかと思っている。

その生駒里奈は既に、乃木坂46の歴史的な位置づけを強く意識している。

【可愛いから良いとかそういうことじゃなくて、何かインパクトが強いものを残して、「この曲すごい好きなんです!」っていうのを、もっとメジャーにすることが乃木坂46が早くやらなきゃいけないことだと思っています。】「BRODY 2017年6月号」

【このままだと「この時代はAKB48の時代だったね」で終わるので。そこに乃木坂46の名前もあったら良いなぁってことです】「BRODY 2017年6月号」

そして、乃木坂46を歴史に残すという意識を強く持っている彼女が、このインタビューの中で初めて明かした決意がある。

【もう一度センターにいかなきゃなって思うんです】「BRODY 2017年6月号」

インタビューアーも、【生駒さんのセンター宣言って、デビューしてから今まで一度も聞いたことないので驚いています】という反応をしているが、確かにそうだ。これまで僕も、生駒里奈からは、「センターから解放されてホッとした」「今は他のメンバーのサポートに回りたい」という発言しか見た記憶がない。

生駒里奈はさらにこう続ける。

【私はいまの乃木坂46を取り巻く状況、乃木坂46の中で起きていること、全部じゃないかもしれないけど、理解しているつもりだし、いまの私がそこにいけない理由、センターになれない理由もわかっています。でも、いつかそこまでいくから待ってろよって言いたい。私が乃木坂46のメンバーである以上、センターに立つ資格はあると思うので。】「BRODY 2017年6月号」

彼女は同じインタビューの中の、3期生に言及する箇所で、【今の乃木坂46をどうしてもぶっ壊したいんだけど、私たち一期生にはもう乃木坂46は壊せないんですよ。なぜなら私たちが今の乃木坂46を作ったから】「BRODY 2017年6月号」と発言している。それを踏まえた質問に対して、こんな風に答えている。

【―先ほど生駒さんは今の乃木坂46は衝撃を与えることが大事って言っていましたけど、自分がセンターをやることで、その衝撃を世の中に与えられる自信ってあります?
もし、一回でもチャンスをもらえるのであれば、そのチャンスを逃さない自信が今はあります。だから一回でいいからセンターをやらせてほしい。今までは「前にいてごめんなさい」って気持ちがあったんだけど、今はやらなきゃって思うんですよ。今の乃木坂46なら絶対に、大きな衝撃を与えることができるはずだから。このままだと悔しいんですよ】「BRODY 2017年6月号」

アイドルである、もっと言えば、乃木坂46の一員である、という意識が、生駒里奈のこの強さを生み出した。生駒里奈は以前から、圧倒的な弱さと圧倒的な強さを同時に感じさせる存在だと思っていたのだが、今回のこのインタビューを通じて、強さの方が上回ったと僕は感じた。

アイドルを目指す人間の意識が変われば変わるほど、アイドルそのものも変わっていく。乃木坂46はその流れのきっかけを作り出したのではないか。アイドル全体に対する知識も持たないままこんな考察をしてみたが、いかがだっただろうか?



さすらいのマイナンバー(松宮宏)

読み終わった後、特別何か残るわけじゃないから、ここで書くことってあんまりないんだけど、でも読んでる間は面白いなぁって感じで読めちゃう本ってあって、この本もそういう感じ。面白く読まされちゃうんだよなぁ。この作家、上手いと思います。

内容に入ろうと思います。
本書は、3編の短編が収録された連作短編集です。神戸を舞台にしており、同著者の「まぼろしのお好み焼きソース」という作品とも繋がる作品です。

「小さな郵便局員」
郵便局員である山岡タケシは、今とても困っている。上司に「おごってやるよ」と言われて連れて行ってもらったキャバクラで大金を払わされることになり、安月給ではカツカツなのだ。そんな折、IT企業を立ち上げヤフーからも買収話があった有名学生起業家である兄からアルバイトを頼まれた。夕方、職場を抜け出してATMでお金を引き出してもらえればその度に1万円払う、というものだ。なんだかよく分からなかったが、タケシはその話に飛びついた。トイレに行くということにして職場を抜け出すのだが、上司である武藤の邪魔が入り、無駄な攻防に時間を取られる。また、謎めいた女からいつもキャッシュカードを受け取るのだが、毎回その名義が違うのだ。もちろん、怪しい、とは思っていた。しかし、お金は必要だ。あまり考えずに、タケシは兄からの依頼に応え続けた。
そしてついに、その日が来た。いつもキャッシュカードを渡す女から、いつもとは違うことを言われたのだ…。

「さすらうマイナンバー」
山岡タケシは、全国の郵便局員にとっての死活問題である、「マイナンバーの配送」という問題に、やはり苦しめられていた。マイナンバーは個人情報であるが故に、簡易書留、つまり本人に認印をもらわなければならないのだ。配送の途中でマイナンバーや受領書の紛失があったりなんかすると、もう上司が大慌てするような、そんな大変な事態を引き起こしているのだ。
何度配達しても不在、という家に苦しめられながらも、タケシはマイナンバーの配送を徐々にこなしていった。しかし、タケシには、自身の配送地域における「配送困難家庭トップ3」という最難関の壁が立ちはだかっていた。いくら呼んでも出てこない老婆、常に喧嘩が絶えない夫婦、そしてヤクザの事務所…。

「刑事部長の娘」
刑事部長の娘である珠緒は、非常に奇妙な成り行きから、由緒ある大学を退学させられるところだったのが、一転卒業生の総代に選ばれるというウルトラCを成し遂げた。その武勇伝は広く伝わり、珠緒の周囲は謎の盛り上がりを見せていた。
一方、郵便局員である桃子は、幼馴染であり、川本組の組員である福富良男からの誘いを受けた。何でも、先輩の割烹を借りて、良男自身が腕を振るうのだという。断ろうとしたが、成り行きで行く形になってしまった桃子だったが…。

というような話です。

面白い話を書くんだよなぁ、この著者。「まぼろしのお好み焼きソース」も実に面白かったけど、こちらも面白い。正直、ストーリー自体はしょうもないというか、大した話ではないんだけど、なんだか読まされてしまう。不思議な魅力のある小説だなと思います。

人物と町の設定がいいんだろうな、という気がします。

読んでいて感じるのは、「こち亀」の雰囲気です。下町を舞台に、色んな個性を持つ面々があーだこーだ繰り広げる、というのが「こち亀」の乱暴な要約だと思うんだけど、その乱暴な要約は本書にも当てはまる。どんな個性の人間も許容してしまう度量の深い町の設定と、その町の中で個性を引き伸ばしている人物とが実に上手く混じり合って、面白い物語を生み出しているなぁ、という風に思います。

「小さな郵便局員」の話は、たぶん誰が読んだって、早い段階で「振り込め詐欺の話だな」って分かると思うんだけど、それが分かっちゃっても、話の面白さが半減するっていうことは特にない。上司とのくだらない駆け引きとか、謎の女の存在とか、ある瞬間以降のネタバラシなどなど、短い話の中に色んな要素を詰め込んでいく。基本的にはしょーもない話なんだけど、面白いんだよなぁ。

「さすらうマイナンバー」も、よくマイナンバーなんかで短編を一つ書くな、と思うくらい、しょーもないんだけど面白い。マイナンバーの配送の苦労は本当の話なんだろうけど(「まぼろしのお好み焼きソース」に、郵便屋さんのモデルは実在する、と書いていたので、恐らく本書に出てくる山岡タケシに実在のモデルがいるということなんだと思います)、その大変さをこんな風に面白おかしい物語に仕立てるというのは、ある種の才能だなと思いました。

最後の「刑事部長の娘」も、3編の中で最もよく分からないというか、なんなんだこの話は、って感じなんだけど、不思議な魅力があるんだよなぁ。決してストーリーで読者を引っ張っているわけではないんだけど、じゃあ何に引っ張られているのかはイマイチよく分からないという、なんだか不思議な感じのする小説でした。

松宮宏「さすらいのマイナンバー」

「ムーンライト」を観に行ってきました

内容に入ろうと思います。
ヤクの売人が跋扈する“ヤバイ地区”で、同級生に追い回されていた少年を助けたフアン。彼は、この地区の売人を束ねるボスであり、何故だかその少年に手を差し伸べた。しかし少年は、昼飯をおごってもらっても、フアンの恋人に話しかけられても、何も答えない。やっと、シャロンという名であることは答えたが、家を教えず、その日はフアンの家に泊まることになった。
時折フアンはシャロンと関わることになるが、次第にシャロンの置かれている状況を理解するようになる。母親がヤク中で、ロクに愛情を注がない。とはいえ、自分が母親であるということに異様に執着心がある。シャロンは学校でいじめられている。オカマ、と呼ばれてからかわれているのだ。
成長し、高校に通うようになっても、その状況は変わらない。幼い頃からの親友であるケヴィンとは関わりが続いているが…。

というような話です。

うーん、正直僕には、良さの分からない映画だったなぁ。
小説で例えると、純文学、というタイプの作品だと感じました。
観る側が自分から作品の中に深く入っていかないと、良さを掴み取れないタイプの映画かな、と。

全編で、余白がとても多いので、その余白をどう埋めるのかで作品の評価が変わるのだろうと思います。
そしてそれは、もしかしたら、ちょっと日本人には難しいのかもしれません。

この作品は、ほぼ全編黒人の話です。アメリカにおける黒人の立場、低い立場に置かれているだろう黒人間でもいじめがあるという現実、底辺で生きるが故に犯罪と関わらなければなかなか生きていけない状況。そうしたものを、ある程度はリアルに捉えることが出来る人には、この作品の余白を埋めやすいんだろうと思います。ただ日本人には、なかなかこういう状況を想像することが難しい、という部分はあると思います。セリフも音楽も情景描写も非常に限られていて、そこを絞りに絞っている作品だからこそ、読み取る側がどう隙間を埋めていくかが重要になってくるな、と思いました。

しかし、シャロンの変貌ぶりには驚いた(笑)

「ムーンライト」を観に行ってきました

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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)