黒夜行

>>2017年02月14日

完全版 下山事件 最後の証言(柴田哲孝)



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読むのは二度目だ。一度目は、単行本で読んだ(感想はこちら→「下山事件(柴田哲孝)」)。単行本で読んだ時の記憶がちゃんとあるわけではないけど、文庫化で中身は結構変わっているような印象だ。著者は冒頭で、こんな風に書いている。

『2005年7月―。
私は「下山事件 最後の証言」を発表し、事件の真相に迫った。
その反響は予想を遥かに越えるものだった。あえて「最後の~」としたのは事件から56年を経過し、生の証言を得られるのはこれが最後だと考えたからだ。だが、私の予想はいい意味で外れることになった』

単行本発売後の反響も含め、「完全版」として出したということだろう。

さて、ここでは、下山事件の詳細については踏み込まない。ざっくりとした概要は、前回の感想で書いたし、ネットで調べればいくらでも出てくるだろう。そして、本書で「真相」とされていることは、とても短く説明できるようなものではない。下山事件は、国鉄総裁だった下山定則氏が列車に轢かれて死亡しているのが発見された、という事件だ。警察はなんと、自殺か他殺かも判明しない、として捜査を打ち切った。その後様々な仮説が生み出されたが、決定打となるものはなかなか出ない。本書が決定打になるのか、それは僕には判断が出来ない。

下山事件は、一人の男が殺された、という単純な見方が出来る事件ではない。法医学者が自殺か他殺かの見解を闘わせ、警察が証言を捏造したと思しき矛盾があり、GHQや時の政権やアンダーグラウンドな勢力までもが一斉に関わった、まさに昭和史のごった煮のような事件だ。下山事件を掘り下げることで、占領下における日本の状況が、そして現在まで続くアメリカによる日本の支配が、まざまざと浮かび上がるのだ。

とある理由(後述する。まさにこの点が本書の肝なのだ)により、著者は「亜細亜産業」という会社が下山事件に関わっていることを知る。そして著者は、「亜細亜産業」の総帥だった矢板玄に会うことが出来た。彼らは下山事件だけではなく様々な話をするが、矢板玄が下山事件に関して著者にこんな風に言う場面がある。


『(―それならやはり、アメリカの謀略ですか?)
そうは言っていない。ウィロビーは事件を利用しただけだ。ドッジ・ラインとは何だったのか。ハリー・カーンは何をやろうとしていたのか。それを考えるんだ。アメリカは日本の同盟国だ。東西が対立する世界情勢の中で、日本は常にアメリカと同じ側に立っている。過去も、現在も、これからもだ。もしアメリカじゃなくてソビエトに占領されていたら、どうなっていたと思う。日本は東ドイツや北朝鮮のようになっていたかもしれないんだぞ。それをくい止めたのが、マッカーサーやおれたちなんだ。日米安保条約は何のためにある。アメリカの不利になるようなことは言うべきではない』

繰り返すが、これが、下山事件について問われた矢板玄の回答だ。国鉄総裁が殺されたという事件が、「ドッジ・ライン」や「世界情勢」と関わりを持っている。そう、それぐらい壮大な話なのだ。正直僕は、本書の「真相」をきちんと理解できたとはいえない。誰と誰が対立していて、誰にどんな利益があり、どの情報が捏造で、どの情報に信憑性があり、誰が何のために動いていたのか。そういうことを把握することは、とても困難だ。途中で、戦時中に細菌兵器などの開発をしていた731部隊に所属していたという人物の証言も登場する。下山事件という、昭和最大の謎とも呼ばれる事件の闇の深さが窺える。

というように、下山事件という底なしの沼のような事件を把握するのはとても難しいので、下山事件の話はここで終わりにする。

さて、ここまで書かずにいたが、本書は、「何故著者が下山事件を追っているのか?」という動機が、明確過ぎるほど明確に存在する。

それは、「敬愛する祖父が下山事件に関わっていたかもしれない」という理由だ。

発端は、祖父・柴田宏の23回忌に当たる法要だった。その席には、祖父の妹であり、著者にとっては大叔母である飯島寿恵子もいた。そして寿恵子が、こんなことを言ったのだ。

『あの事件(=下山事件)をやったのはね、もしかしたら、兄さんかもしれない…』

この瞬間から、著者の長きに渡る下山事件の取材がスタートした。その対象は、まず大叔母の寿恵子と、母の菱子だった。彼女らは、共に同じ会社で働いていた。それが、先程の「亜細亜産業」だ。祖父ももちろん、同じ会社にいた。寿恵子と菱子は、亜細亜産業に出入りしていた人間や取引先の会社などを克明に覚えていた。著者はそれらの話を拾い集めながら、それまでとはまったく違う下山事件の仮説を追い始める。これまで亜細亜産業に着目した仮説はない。著者は、祖父が亜細亜産業に関わっていたからこそそこに辿り着けたのだ。そして調べれば調べるほど、下山事件に繋がる様々な要素が浮かび上がってくる。

もちろん、下山事件の真相が少しずつ明らかになっていく過程もスリリングだ。身内から聞いた事実と、取材によって知り得た事実が様々な形で結びつき、線となっていく。身内の何気ない記憶が、重要な鍵を握る場面もある。亜細亜産業に関わる身内がいたという、まさに著者の境遇だからこそ実現できた取材により、まったく新しい方向から下山事件に光が当てられていく様は、物語であるかのようにスリリングだ。

しかし、僕が一番気にかかったのは、著者の内面だ。それはほとんど描かれることはない。ただ、時折こんな文章が出てくる。

『以後、私は急速に下山事件の謎に没頭していった。といっても、その興味の対象が事件そのものに集約されていたわけではなかった。むしろ私を駆り立てたのは、祖父柴田宏に対する愛着と好奇心だったような気がする』

著者は祖父のことを、『あの頃の私にとって、祖父は自分の世界の大半を占める大きな存在だった』と表現する。ただ身内であるというだけではなく、著者にとってはかけがえのない存在だと言っていいほどの人物だったのだ。著者は、下山事件の取材をすることで、そんな祖父に「下山事件の首謀者」というレッテルを貼ることになるかもしれない。その葛藤が、時折見え隠れするのだ。

『私は、祖父を信じたかった。その一方で、下山事件の謎を解くことに使命感を燃やす自分がいる。それは、もしかしたら、尊敬する祖父の秘密を暴くことにもなりかねないと予感しながら。』

また一方で著者は、母親に対してもこんな感情を抱く。

『だが、いずれにしても、私の行為は少なからず年老いた母を傷つけることになる。
ある日、下山事件の話をした後で、母が泣いている姿を見た。ただ黙って俯きながら、涙をこぼしていた。』

著者は、寿恵子や菱子から話を聞くことで、彼女らを追い詰めることになる。著者以上に「身内の恥」という感覚が強い世代だ。祖父の行為が明らかになればなるほど、彼女らを辛い立場に追い詰めることになる。
しかし著者は、真実を追うことを諦めることが出来なかった。

『膝の上で組む手の上に、涙が落ちた。それを見た時、心の中で何かが切れたような気がした。
もうやめた。下山事件なんかどうでもいい。いまさら犯人をつきとめたって、何になるというのだ。
だが、できなかった。私にはどうしても、心の衝動を抑えることができない。気が付くとまた私は下山事件の資料を開き、その迷宮に足を踏み入れていた』

本書は、基本的には下山事件の本だ。下山事件をいかに掘り下げていくかという本だ。しかしその一方で、本書は「柴田家の本」であることから逃れられない。少なくとも著者はそれまで、柴田家に「不穏な歴史」が眠っているなどとは想像もしなかった。しかし、平穏でしかない、ごくありきたりな家族だと思っていた自分に連なる歴史に、昭和史の謎を解き明かす秘密が眠っていた。その衝撃と興奮、そして掘り下げることで迷惑を掛けることへの悔恨。それらが入り交じった著者の筆致は、普通のノンフィクションでは醸し出せないものだ。ノンフィクションを書く人にはそれぞれ、そのテーマを選び取った理由があるだろう。それらはそれぞれの著者にとっては、何物にも代えがたい衝動なのだろうと思う。しかし、どれだけの衝動があろうと、本書の著者の衝動に敵う者はそうそういないだろう。「祖父が実行犯かもしれない」というのは、それほどの状況なのだ。

寿恵子はある時、著者にこんなことを言う。

『あんた、これをどこかに書くつもりなんだろう。それ、まずいのよ。亜細亜産業は、絶対に身内からしか事務員を雇わなかったのよ。わかるでしょう?私も入る時、業務内容に関しては他言しないって念書入れてるの。あの会社は下山さんだけじゃない。他にも殺されたとか、消されたとか、そんな噂はいくらでもあった。私、怖いのよ…』

個人史と昭和史の交差点で苦悩する人がいる。また、その交差点で真実を探し出そうとする人がいる。そして、そこに歴史が生まれる。

本書を読んで強く感じたことがある。それは、事実が歴史を作るのではなく、誰かが信じたことが歴史になる、ということだ。つまりそれは、あなたが歴史だと思っていることは、事実であるとは限らない、ということも意味する。

いずれ、僕らが生きている現実も、歴史と呼ばれるようになる。その時僕らは、きちんとした歴史の証言者になれるだろうか?そのためには何が必要か、本書を読んで感じ取って欲しいと思う。

柴田哲孝「完全版 下山事件 最後の証言<再読>」

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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)