黒夜行

>>2017年02月

楽園(花房観音)

「◯◯であること」に対して、必須となる要素が何なのか、それはものによって大きく変わってくる。

「親であること」であれば「子どもへの愛情」が、「日本人であること」であれば「日本語や日本の文化や国籍」が、「ヒーローであること」であれば「正義感」など、それぞれ違ってくる。

では、「女であること」に対しては、どんな要素が当てはまるだろうか?ここにどうしても「性」が絡んでくるような気がしてしまうのは、僕が男だからだろうか。「

いや、そうではない。まさに本書は、「女であること」と「性」の分かちがたい結びつきを描き出す本なのだから。

「男として見られる」と「女として見られる」というのは、「男」と「女」を入れ替えただけの文章だが、その意味は大きく変わる。「男として見られる」というのは、もちろん様々な捉え方が出来るが、「男らしさを感じる」というような、やや広いニュアンスを感じ取ることが出来ると僕は思う。しかし、「女として見られる」という文章になると一転、これは何故か「セックスの対象として見られる」という意味が強くなる、と僕には感じられる。

あなたはどう感じるだろうか?

僕の感じ方を前提に話を進めていくと、「女として見られる」という文章が「セックスの対象として見られる」という要素を大部分含むというこの事実が、「女であること」の要素が「性」であることをうまく示す例ではないかと思うのだ。

何故そういうことになるのだろう?

これは僕が男だからかもしれないが、「男であること」にはあまり「性」の要素が絡まないように感じる。大分薄れたとはいえ、男の社会的な役割が「働くこと」「家族を養うこと」にあるという昔からの共通認識が、「男であること」に「性」の要素を感じさせないのだろう。

しかし「女であること」の場合には、社会がどんな風に変わろうとも、「子どもを生む」という要素が切り離されることはない。「子どもを生む」ためには「セックス」が必要であり、その結果、「女であること」には「性」の要素が分かちがたく含まれてしまうことになる。

女たちは様々な形で、「女であること」の悦びや不条理を胸に抱く。

『セックスは生殖や欲望のためだけのものではない。孤独を知る人間が、人肌の温かさを手に入れ、生きていることを思い出すためのものでもある』

『女に生まれて、女でよかったと、自分を愛することができる。
男たちを愛することで、私は私は愛するようになれた。』

「セックス」によって「女であること」を確認できた女は、年齢に関わらず、そこに悦びを見る。それは、どれだけ料理を褒められようが、どれだけ子育てを褒められようが満たされない。「妻であること」でも「母であること」でもなく、「女であること」を確認するためには、「性」に触れる以外ないのだ。

『このまま自分は、男と寝ることなく死んでいく。
それでいいはずだったのに、何故こんなに胸が苦しくなるのだろう。』

『不公平だ。自分より年上の夫は、まだセックスを楽しんでいるようなのに、自分はどうして「女として終わった」と思い込もうとしているのだろう。』

『ひとりで死ぬことがこわいと考えるたび、性欲が強まっていくのは、きっと寂しいからだ。何も残さず、誰とも人生を分かち合えず、死んでこの世からいなくなり忘れ去られるなんて、生まれてきた価値がないに等しいじゃないか。』

『いつまで自分は「女という商品」でいられるのだろうかと、ふと楽園を歩きながら考えた。もう夫にすら触れられなくなった女でも、商品になるのだろうか、と。』

「女であること」を確かめることが出来ないでいる女たちは、一様に不安定になる。それは、「明らかに綺麗になった隣人」の存在故だ。自分と同じぐらいの年齢の、しかもつい先日夫を亡くしたばかりの中年女が、恐るべき美しさを手にしている。明らかに、「女であること」を確かめることが出来る環境がそうさせている。田中みつ子というその女が、女たちの心をざわつかせる。

『朝乃は、みつ子の変貌を目の当たりにする度に感じる不安の正体をはじめて理解した。
楽しそうなみつ子を見ていると、自分自身が信じている「幸せ」が揺らぐのだ。』

何故田中みつ子にそれが出来て、自分たちには出来ないのか。いや、そもそもそういうことではない。自分たちの年齢であれば、もう「女であること」に囚われずに生きていられてもおかしくはないのに、何故ここまで振り回されるのか。

『どんなに逃げても年をとることは避けられないこと、大きな波に逆らうように手足をばたつかせる姿が無様であることぐらい、わかっています。けれどもそうせざるをえなかったんです。途中で、「女を降りる」ことが怖くてできませんでした。』

女は、いつまでもは女ではいられない。明確な理由はないが、女たちはそのことを理解している。
ならば、いつまでなら女でいられるのか。何故女でいることに固執してしまうのか。女であることを諦めることは駄目なのか。女であることを諦めきれない場合どうすべきなのか。

女たちは、かつても今も、「楽園」という名で呼ばれる場所で、おのおのの葛藤に身悶えする。

内容に入ろうと思います。
本書は、序章と最終章を除けば6編の短編が収録された連作短編集です。
まず大枠の設定から書きましょう。

京都の鴨川のほとりに、かつて「お茶屋」があった。そこは、男が女を買う、特殊な地域だった。高級料亭と見間違えるような建物の中で、少し年齢を重ねた女性たちが、寂しさ故にやってくる男たちを癒やし、女たちもまた癒やされていた。ここはかつて、「楽園」と呼ばれていた。
3年ほど前、「楽園」は閉鎖され、その跡地に「楽園ハイツ」という名の2階建てのアパートが建てられた。その建物に住む6人の女性が、本書の語り部たちだ。

「温井朝乃 47歳」
同じアパートに住む田中みつ子が、明らかに綺麗になった。そのことに、朝乃は心がざわつく。自分はもう、長いことセックスをしていない。夫は外で風俗に行っているようだ。自分には「妻」という居場所しかないのだから、この居場所を手放さないように文句も言えない。近くで「楽園」という喫茶店を営む、鏡林吾という偽名のような名前の男も、妖しい雰囲気を醸し出す。端的に、セックスの匂いがするのだ。
このままセックスをしないで死んでいく。それは当たり前だと思っていたのに、何故心がざわつくのだろう。

「唐沢マキ 38歳」
世の夫婦は、セックスレスが当たり前のようだけど、女はそれで耐えられるのだろうか?世の中の夫たちは、妻の性欲に無頓着過ぎる。
当時大学生だった小早川鉄矢と出会い、体の関係になってもうそれなりの時間が断つ。いつもマキの部屋にやってきてセックスをして、時々お金をせびってくる。返ってきたことはない。田中みつ子が素人投稿雑誌に載っていると教えてくれたのも鉄矢だ。
自分は性欲が強いのだろうか。お金で鉄矢とのセックスを買っているのだろうか。

「寺嶋蘭子 42歳」
蘭子は、誰からも美しいと言われる容姿を持っている。けれど、セックスが怖い。かつての夫に「セックスが下手だ」と言われたことが、未だに心に傷として残っている。
セックスに対する怯えを誰かに消し去って欲しい。自分から男を求めることなどできないから、求められたい。そう思っているのに、自分が望んだようにはいかない。蘭子の孤独は、セックスを恐れていることから生まれているはずだ。それさえなければ、もっと幸せな生き方が出来るはずなのに…。

「和田伊佐子 44歳」
伊佐子はかつて4年ほど、「楽園」で働いていたことがあった。あれほど喜ばれる仕事をしたことは、これまでに一度もない。蔑まれる職業であることは知っているが、哀れまれるのは違う、と感じた。伊佐子にとって「楽園」での日々は、楽しかった。
いつの間にか保証人になっていたことで背負わされた借金を返すために飛び込んだ「楽園」は、借金返済の目処が立ったことと、恋人が出来たことをきっかけに去った。その後、妻子ある男性と付き合い、略奪する形で結婚し、穏やかな日々を過ごしていたが、夫が退職を迫られ、生活は大きく変わった。今日も夫は、ハローワークにも行かず、家でゴロゴロしている。

「田中芽以奈 17歳」
父親が死んだばかりだというのに、誰かに依存していなければ生きていけない母親は、媚びる男を見つけ出してきては自分を着飾っている。醜悪だ。自分の年令を受け入れられない姿ほど醜いものはないということを、本当に分かっていないのだろうか?
芽以奈は30歳までに死にたい、と思っている。若さを失った女が生きていくには、日本という国はあまりにも生きづらいことを理解してしまっているからだ。芽以奈は今、元カレの斡旋で売春をしている。父親が死に、母親が自分のことしか考えていない現状、自分でなんとか稼いで生きていくしかない。

「田中みつ子 45歳」
この内容は紹介しないことにします。

というような話です。

非常に面白い作品でした。僕が男である以上、ここで書かれていることを安易に「分かる」というわけにはいかないが、女たちの葛藤が凄くリアルだと感じた。何よりもこの作品で描かれる葛藤は、普通表に出てこないものだ。女性同士でさえ、本書に登場する女性たちが持つ悩みや葛藤を打ち明けるようなことはほとんどないだろう。自分の内側に秘めたまま、どうにもしようのないモヤモヤを抱えたまま自分がとりあえず納得できる仮の答えにしがみついておくしかない。

若い時には、自分が「女であること」など考える必要もないほど当たり前のことだろう。しかし年を重ねるにつれて、それが当たり前ではないのだという現実が、徐々に忍び寄ってくる。「女であること」が少しずつ遠ざかっていく音が聞こえていく中で、それを為す術無く見守るしかない現実が、足音を響かせながらやってくる。

そうなった時、どうするか。彼女たちの振る舞いは様々だ。「女であること」に固執し、自分の年齢でも「セックス」が受け入れられる場を追い求める者。「女であること」を手放さざるを得ないことを理解しながら諦めきれずに思い悩む者。「女であること」を容赦なく突きつけてくる環境にいた過去を持つことで、その葛藤にあまり囚われずにいられる者。同じアパートに住む彼女たちが、かつて「楽園」だった場所で、「女であること」の自覚に揺れながら過ごす様を描き出す、という設定が、とても面白い。

この作品では、男が女を買う場所を、女にとっても癒やしの場なのだ、という風に描き出していく。

『こういう場所を非難する人たちや、私たちを侮蔑したり、逆に見当違いの同情をよせる人たちがたくさんいることはもちろん知っている。
どれもこれも、違うのだ。法律とか理屈とか常識とか、そういうもので判断されるのではなく、ただ溢れる欲望を抱く人間が生きていくために、この場所が男には必要で、そこでしか生きられない女たちもいる、それだけの話だ。』

体を売ることで、女は「女であること」を確認することが出来る。そして、「女であること」が男を癒すことが出来ることを知り、自分の存在価値を知ることが出来る。そういう形でしか自分の存在価値を認められない女もいるし、そういう人にとってこういう場はなくてはならない。決して男だけのためのものではないのだ、という視点は、この作品全体を貫く一つの思想みたいなもので、それに貫かれているところがこの作品の潔さだと感じられる。

こんな文章も印象的だった。

『煙草もだめ、売春もだめ、不倫もだめ、あれもこれもだめ、何もかもだめばっかりの世の中だけど、それで実際に綺麗になるんだろうか、人も、世界も。欲望を受け止めるものをどんどん禁じていったら、人間が歪んでしまうってことをわかってないやつらが多すぎて、うんざりする』

つい先日見たテレビで、水族館の珊瑚の水槽を綺麗にしているものは珊瑚の死骸だ、という事実を知った。水槽の水を、珊瑚の死骸を入れたプールと循環させることで、常に水を綺麗に保ち続けることが出来るという。珊瑚だけでは、水は濁る。

僕たちは、あらゆる「汚いもの」に「だめ」と言うことで、水を綺麗にしてくれるはずの「珊瑚の死骸」を排除してしまっているのかもしれない。綺麗にしようと思ってした行為が、逆に水を濁らせている結果を引き寄せてしまっているのかもしれない。

女たちの葛藤は「珊瑚」だろうか。あるいは「珊瑚の死骸」だろうか。「女であること」の葛藤を描ききった一冊だ。

花房観音「楽園」

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「The NET 網に囚われた男」を観に行ってきました

正しいこと、というのはいつだって難しい。
というのは、皆が「正しい」と思って行動しても、最終的に良い結果が得られない、ということは良くあることだからだ。

この話はよく、ゲーム理論で登場する。ゲーム理論の最も簡単な話は、二人の囚人が登場するものだ。お互い別の部屋に入れられ、やり取りができない。2人の囚人にはそれぞれ、2通りの選択肢が与えられ、全体で4通りの可能性がある。お互いがベストな行動を取れれば両方にとってメリットがあるのだが、疑心暗鬼もあり、自分なりに「正しい」と思う行動をし、結果的に二人共デメリットを被ってしまう、というものだ。

「正しさ」には、常に評価軸が必要だ。何に対して正しいのか、という軸を意識しなくては、「正しさ」が判断できない。そして、その評価軸が対立する場合、両者の「正しさ」も対立することになってしまうのだ。

船の故障で、北朝鮮から期せずして韓国にやってきてしまった男。
独裁国家である北朝鮮から一人でも多くの人を「救う」ことが使命の韓国の組織。

両者の「正しさ」が、真っ向から対立する。

北朝鮮の男は、祖国に家族を残している。祖国ももちろん大事だが、何よりも家族が大事だ。男はスパイ扱いされ、尋問される。あるいは、独裁国家から「救う」ためとして、韓国への亡命を勧められる。男は北朝鮮に帰るのだと、強硬に主張する。しかし、スパイかもしれないと扱いの中、北朝鮮に帰れる見込みは薄い。

組織にいる多くの人は、北朝鮮に住む人間を「可哀想」だと考えている。独裁国家で自由がなく、資本主義ではないために豊かでもない。しかも、洗脳されているが故に、物事の「良し悪し」も判断できなくなっている。そんなところに住む人間は、同じ韓半島民として「救う」必要がある。北朝鮮から来た男も、あの手この手で「救う」手立てを講じるが、男は韓国への亡命を認めない。

この場合、どちらもきっと間違っているわけではない。北朝鮮の男は、祖国に帰ることが正しいと信じており、家族がおり祖国を裏切ることは出来ないというその理由は、少なくとも彼のこれまで生きてきた理屈の中では正しいだろう。一方で、北朝鮮を「可哀想」な国とみなし、そこから一人でも多くの人を「救う」という姿勢も、決して間違ってはいないはずだ。少なくとも、外側から北朝鮮を見ている者からすれば、北朝鮮に住んでいる者を「救う」という発想は、自然だといえるだろう。

この映画では、その「正しさ」の対立を描きながら、さらに難しい要素を加えていく。

北朝鮮の男は、韓国の街を歩く。資本主義によって成長した、きらびやかな街だ。そこには、北朝鮮に存在しないありとあらゆるモノが存在する。しかし男は、また別の側面を見る。まだ食べられる食べ物やまだ使えるモノが街に捨てられている。また、豊かなはずの街で、金を得るために身体を売らなければならない女にも出会う。

男は問う。「この豊かな国で、なぜそんな苦労を?」と。
それに対して、組織に属するある男は、「自由が幸せとは限らない」と返す。

一方で、北朝鮮に対してもまた、ある視点が挿入される。これは物語のラストに直結してくるのでここでは詳しく書かないが、祖国に戻る、と強硬に主張し続けた男の信念を揺るがせるような描写があり、問題の難しさをさらに押し広げることになる。

世の中が複雑になりすぎて、何が正しいのか分からない出来事が頻繁に起こるようになった。その度毎に、それぞれの側の「正しさ」が声高に主張される。もし、選択的に一方の「正しさ」しか見なければ、あなたはその「正しさ」を信じることになるだろう。トランプ大統領が誕生した背景にも、そういう一方の「正しさ」しか見ないという、現代的な情報の受け取り方があったのだろうと考えている。

「正しさ」は複数存在し、お互い正しいままで対立する。そのことを常に意識しておかないと、僕たちは物事を見誤ることになるだろう。そんなことを改めて実感させてくれる映画だった。

内容に入ろうと思います。
北朝鮮で妻と娘と穏やかな暮らしを営んでいたナム・チョルは、漁師として日々川に船を出していた。韓国との国境付近であるその川岸には国境警備の兵士がおり、常に許可を得て漁に出る。ある日チョルは兵士から、これは仮定の話だが、もし船が故障して国境を越えそうになったら、お前は船を捨てるか?と問われる。男は、船は全財産なので、と答えをはぐらかす。
まさにその日、兵士が言った通りのことが起こった。スクリューに網が絡まったままエンジンを掛けたために船が故障。男はそのまま国境を越えてしまった。国境警備兵が、脱北なのか船の故障なのか判断つきかねている間の出来事だった。
韓国警察に移送されたチョルは、そこでスパイ容疑を掛けられ、尋問されることになる。尋問を担当する男は、朝鮮戦争で家族を失った怒りをぶつけるかのように、スパイ容疑を掛けられた北朝鮮の者たちに容赦なく当たる。明らかに過剰な、暴力を伴った尋問を行うが、それでもチョルは、スパイであるとは言わないし、亡命にも首を縦に振らない。
チョルの警護役についたオ・ジムは、チョルがスパイではないと直感する。尋問担当の男とことある毎に対立し、もしチョルがスパイだったら警察を辞めるとまで啖呵を切る。チョルが厳しい状況に置かれていることに心を痛め、出来る範囲で力になろうとするが、しかし組織の人間であるが故に意に染まない命令に従わざるを得ないこともある。
尋問は繰り返され、また亡命や転向をするようにと説得される。亡命を受け入れさせるために、あくまでも韓国の街を見ないと外にいる間ずっと目を瞑ったままだったチョルを韓国の街中に放置することまでやった。
不屈の精神で北朝鮮に戻ることを訴え続けるチョルは、一体どうなるのか…。
というような話です。

良い映画でした。ストーリーは実にシンプルですが、北朝鮮と韓国という南北の分断が、いかに人々の心を引き裂いていくのか、そして、北朝鮮と韓国という国家同士のいがみ合いの後ろ側で、そこに生きる個人同士は手を取り合うことが出来る可能性があるのか、ということを、全編で強く訴えかけてくる映画だと感じました。

メインどころの頂上人物たちの立ち位置が実にはっきりしているので、物語が非常に分かりやすいし、誰が何で対立しているのかということもよく分かる。

チョルが北朝鮮に帰りたいと強く訴えているということは書いたが、韓国警察内部の面々もそれぞれに立場が違う。

尋問担当の男は、疑わしきは罰するという精神で、とにかくあらゆる手を使ってチョルをスパイだと断定しようとする。イ・サンテク事件の後遺症、という表現がよく出てくるが、どうやら警察を酷く手こずらせたスパイが過去にいたらしい。それもあって、僅かでも疑いがあれば苛烈な取り調べが始まる。

警護担当のジムは逆に、チョルを信頼する。スパイではないと確信し、チョルに寄り添おうとする。しかしその一方で、ジムはチョルを北朝鮮に帰すべきだ、という考えを持っている。本人の意志が尊重されるべきだ、と。しかし韓国警察の使命は、独裁国家から一人でも多くの人を「救う」ことだ。彼はこの点で上司と対立する。

そして彼らの上司は、一番韓国警察らしさを体現する。尋問担当の男を、無理矢理スパイに仕立て上げるなと諌める。そしてジムには、韓国警察の使命を思い出させようとする。

それぞれの人間がそれぞれの立場で「正しい」行動を取ろうとする。それらが、ことある毎に対立してしまう。チョルはスパイであるのかどうなのか、そしてチョルがスパイであるかどうかに関わらずチョルの処遇をどうするか。最後の最後まで、彼らの折り合いはつかない。

そういう物語の進展や対立も面白いが、チョルとジムの関わり合いも物語の中で非常に重要な要素になる。厳しく辛い要素が多いこの映画の中で、二人の関係性は清涼剤のような印象を与える。

もちろん、そこにも葛藤はある。ジムには尋問の領域は関知できないし、組織の一員として辛い命令にも従わなければならない。それでも、チョルを信頼することに組織の一員として特にメリットのないジムは、チョルに出来る限りのことをする。二人の信頼関係がどのように生み出されていくかという過程も見どころだ。

北と南、あまりにも違う価値観によって成り立っている国同士が、お互いの尊厳を掛けていがみ合う。チョルはジムにある場面で、「朝鮮に帰ったら、統一後に会おう」と言う。僕にはそれは、二度と再会できない者同士の挨拶に聞こえた。南北が統一する日は来るのだろうか。この映画を見る限り、その日はまだまだ遠いと考えざるを得ない。

「The NET 網に囚われた男」を観に行ってきました

「ヒッチコック/トリュフォー」を観に行ってきました

眠ってしまった。
面白そうだなと思って見たんだけど、睡魔に勝てませんでした。

映画は、サスペンスの巨匠と呼ばれるヒッチコックを様々な角度から追うものです。デビット・フィンチャーやマーティン・スコセッシなど著名な映画監督が多数登場し、ヒッチコックについて語ります。

また、映画のタイトルにもなっているトリュフォーという映画監督も出てきます。彼は、ヒッチコックの映画を分析し、映画監督にとってのバイブルと呼ばれる「ヒッチコック/トリュフォー」という本を執筆しました。1週間、毎日7・8時間ヒッチコックと話をした録音テープも映画の中で使われています。

ヒッチコックの映画の映像も使いながら、ヒッチコックの映画監督としての姿を切り取っていく、というような映画です。

断片的に寝てしまったので、うまく評価できませんが、ヒッチコックの映画を見たことがあったり、ヒッチコックについてちょっとは知っている方が楽しめるのかもしれない、と思いました。僕は、ヒッチコックの映画も見たことがないし、ヒッチコックについてもよく知らないで観に行ったので。



しつけ屋美月の事件手帖 ~その飼い主、取扱い注意!?~(相戸結衣)

少し前、国が騒音に関する指針を発表した中に「風鈴」という項目が入っていたというニュースを見かけた。日本では今、風鈴の音が騒音だと捉えられてしまうらしい。世知辛い世の中だと思う。

生活環境をどこまで自分にとって快適なものに保つか、というのは多くの人にとって重大な問題だろう。しかし、ちょっと度が過ぎる、と感じることは多い。他人が住む街中で暮らしている以上、多少の不都合は仕方ない。そういうことをすべて排除したいなら、山奥にでも住むしかない。

とはいえ、当然だが、限度もある。その辺りの線引が難しいのだけど、ペットが多大な迷惑を掛けるということも当然あるだろう。だからこそ、ペットの躾は大事だなと、本書を読んで改めて感じた。

僕自身はペットという存在には興味がない。犬にも猫にも特に関心はない。だからペットに思い入れを持つ人の気持ちはよく分からないが、社会の中でペットと人間が共生出来るように奮闘する人々には、頑張ってほしいと思う。

内容に入ろうと思います。
本書は、4編の短編が収録された連作短編集です。
天野美月は、「愛犬しつけ教室STELLA」で、飼い犬を躾ける訓練を行っている。オーナーの須寺は著名な動物行動学の専門家であり、老後の道楽的なスタンスで経営を続けている。美月は、幼馴染であり獣医でもある糸川宙と共に、日夜地域のペット問題に関わり合っている。

「第一章」
二階堂という高齢夫婦が勝っているゴールデン・レトリバーが薬を誤飲し、糸川が働く「スバル動物病院」に運び込まれてきた。大事には至らなかったが、問題はその体重だ。オスの標準体重が35キロ程度であるのに、そのゴールデン・レトリバーは50キロもあったという。飼い主への教育が必要かもしれない、とのことで、美月に話が回ってきた。
しかし二階堂氏は、自分が正しいと信じて疑わない人物。少しでも否定するようなことを言えばすぐに関係が途絶えてしまうだろう。金も時間もある彼らは、飼い犬のことも大事に思っているので、餌をあげすぎてしまう、というのがどうにも解せないのだが…

「第二章」
通勤途中、愛犬であるスピカに挨拶をしていく眼鏡屋の少年から、美月はある日手紙を受け取った。夜8時、北瀬川沿いのドッグランまで来てもらえないか、と書かれていた。行ってみるとそこには、三条文哉と名乗る眼鏡屋の店主と、一匹の迷子犬らしいチワワがいた。店の前に捨てられていたのだ、という事情を聞いた美月は、飼い主を探し出す手はずを整えつつ、その間三条家でそのチワワを預かってもらう態勢を整えた。
しかし、おかしい。少年も店主も、何故かチワワを飼うつもりでいる。飼い主が見つかったら手放さなければならないのに。それに少年は、あの日ドッグランにはやってこなかった。何がどうなっているのか…

「第三章」
美月の高校時代の友人である美少女・一ノ瀬ミラは、重大な問題に直面していた。12年連れ添ってきた柴犬の北斗を取るか、彼氏と結婚するか、だ。彼氏は、犬が苦手なのだという。一緒に住むのはどうしても難しい。そう言われているらしい。相談を受けた美月は、難しい問題だと思いながらも、なんとか打開策を見出すが…。

「第四章」
きっかけは、五島陽華とその友人のケンタが「STELLA」にやってきたことだった。陽華が飼っている「ソラ」というトイプードルが連れ去られた、というのだ。陽華の友人である八木沼ユキナの母親が大の犬嫌いで、テレビにも出る代議士の妻であるその母親の扇動で、町内の犬規制を強めようという動きがここ最近活発になっている。ソラがいなくなった事件は、その流れをさらに加速させる結果となり…。

というような話です。

なかなか面白い作品でした。美月は犬の訓練士として働くが、犬を訓練するというのは同時に、飼い主を訓練するということでもある。必然的にカウンセラーみたいなこともする立ち位置になり、そこからトラブル解決という流れになっていく。

犬に限らず、ペットに愛情を注ぐ人の中には、怖いなと感じるほどの愛情を見せる人もいる。本書のプロローグで登場するドーベルマンの飼い主などはその典型だろう。自分の飼い犬さえ良ければいい、悪いのはすべて周り、というような歪んだ発想を持たれると、怖いなと感じてしまう。

美月は普段から、そういうタイプの人とも関わっていくわけで、対人対処能力は高いだろう。相手の立場に立ってどうすべきか、ということを常に考えている。本書は、犬を取り巻く物語ではあるが、飼い主とも対処する美月の存在が、ただそれだけの物語にはしない。

僕自身は犬にはさほど興味は持てないが、そんな人間でも犬の習性やふるまいの意味などに多少は関心が持てるように描写がされている。物語が小粒でちょっと派手さに欠ける部分がアピールのしにくさに繋がってしまうが、読みやすくてほどよく面白いという意味では手に取りやすい小説だ。

幼馴染である美月と糸川の関係もなかなか面白いのだけど、個人的にはこの二人の関係性の話がもう少しあってもいいような気がした。四話目の最後の方の美月のセリフはなかなか良かったけど、それまでの二人に何か進展なり変化なり軋轢なりがないので、ちょっと唐突だなぁ、という感じもしてしまった。

使命感を持って働く面々と、犬との様々な接し方を見せる者たちが関わり合う中で、犬を含めた家族との関わり方を問いかけていく物語だ。

相戸結衣「しつけ屋美月の事件手帖 ~その飼い主、取扱い注意!?~」

桜のような僕の恋人(宇山佳佑)

論文を書く話だったか、歌詞を作る話だったか、「予想外の価値観は3割程度に抑えろ」というような記述を何かの本で読んだことがある。7割は世間一般の価値観を、そして残りの3割の部分に想定外を入れ込む。そうすると全体のバランスが良くなる、というような話だったと思う。

物語も同じだろう。割合が7:3なのかどうかは作品ごとにもちろん違うだろうが、一般的に受け入れられる価値観を多目にして、そこにどれだけ「えっ!」と思わせられる感覚を入れ込んでいくのか。そういうバランスを調整しながら物語を作っていくんじゃないかと思う。

そういう意味で言うと本書は、10:0で一般的な価値観のみで書かれた作品だな、と感じられる。

その状況で主人公がどう反応するのか、そこからどう物語が展開していくのか。基本的に大筋でほぼ予想出来てしまう。想定外がほぼない。たぶんこうなるだろうなと思っていたことが展開されていく。個人的にはそれは面白くないなと感じる。

映画監督のヒッチコックは、例えば何か怖がらせるような場面の前に、「今から怖いことが起こりますよ」ということを暗示させる映像を組み込んでよりその恐怖心を高めた、というようなことを本で読んだ記憶がある。これは、演出効果を狙ってのものだ。しかしこの作品の場合、「たぶんこうなるんだろうな」という展開を予想させようとしているわけではない。それでも、先の展開が分かってしまう。そういう意味でこれは演出とは呼べないだろうなと感じる。

とはいえ、こう感じることもある。今の若い世代の人たちは、「物語がどう展開するのか読める」ことに価値を置いているのかもしれない、と。僕はとても驚いたが、以前の職場に「小説のラストを先に読んで、自分にとって嫌な終わり方ではないことを確認してから小説を読み始める」という人がいた。その時にそういう価値観を初めて知ったが、その後ネットなどでも同じような価値観を見かけることがあった。

水戸黄門なら理解できる。予定調和な展開は、見ているお年寄り層にとっては安心できるだろう。しかし、刺激を求める気持ちが強いだろう若い世代に予定調和が受け入れられているとすれば、僕にはそれは驚きだ。

僕の仮説が正しいとすれば、この物語は、そういう若い世代には受け入れられる可能性はある、と思う。

内容に入ろうと思います。
朝倉晴人は、美容師の有明美咲に恋をした。月に一度髪を切ってもらいにいくが、まともに話し掛ける勇気すら出せない。しかしある日、ちょっとした手違いで美咲に耳たぶを切られてしまった晴人は、その場の勢いを借りて美咲にデートを申し込む。こんなタイミングでデートを申し込むなんて卑怯だ、と感じる美咲だったが、次第に晴人の優しさに惹かれていき、やがて二人は付き合うようになる。
美咲にカメラマンだと嘘をついていた晴人は、美咲に押される形でまたカメラマンの夢を追うことにした。カメラマンと美容師。二人は共に、自分の夢を追いかけていた。
そんなある日、美咲は信じられない事実を知らされることになる。なんと美咲は、他の人よりも数十倍のスピードで老化してしまう「早老症」に冒されているというのだ…。
というような話です。

先程も書いたように、基本的に誰がどういう状況でどう感じるのかが予想できてしまうので、個人的には面白い作品とは思えなかった。あと、「早老症」という超特殊な病気を持ち出すなら、もう少しリアリティがほしいと思う。僕が気になったのは、「早老症」だと診断される部分。体調が優れない、という理由で病院に行っただけなのに、世界でもほんのわずかな症例しか報告されていない「早老症」だと診断出来るものなのか?それに、たまたま受診した病院に「早老症」の権威が勤めていた、というのも厳しいと思う。こういう部分は作品のメインではないから目くじらを立てるようなものではないのかもしれないけど、「早老症」という特殊な病気を持ち出す以上、そこにリアリティを与えるのは作家の責任じゃないかなぁ、と僕は感じてしまう。

宇山佳佑「桜のような僕の恋人」

圏外同士(富士本由紀)

昔の僕は、自分が世界のどこかにいられないことを苦しく思っていたと思う。自分の居場所がない、という事実が、とても哀しいことだと思っていたと思う。
その気持ちは、結局今でもそこまで変わらないのかもしれない。ただ、人生の時間を少しずつ消費してく中で、理解できたことがある。それは、たとえ居場所があっても苦しくて哀しい、ということだ。

居場所があるというのは、なんとなく認められたような気持ちになれる。安心感がある。そこにいていいんだと許されたような気持ちになれる。でも、結局そういうのは錯覚だ。そんな気分になれる、というだけのことにすぎない。別に認められていないし、そこにいていいと許されたわけでもない。自分が勝手に思うだけだ。

だから、何かがちょっとずれただけで、その居場所は居場所でなくなる。そのずれは、本当に僅かなものかもしれない。他の人はそのずれに気づかないし、自分でも大したことないはずだと思うようなものだ。でもそんなずれが、あなたの居場所を居場所でないものに変えてしまう。

そういう時僕らは、居場所というのが錯覚だったのだと気づく。

それを気付かされる方が、居場所がないことより辛いかもしれない。居場所がないというのは、色んなことを諦められる。自分が何も持っていないこと、自分が何も出来ないこと、そういうことをまざまざと見せつけてくる。それは辛いけど、でも後からそういうことを思い知らされるより、マシかもしれない。

この物語をもの凄く簡単に説明しようとすれば、こうなるだろう。
「居場所があると思っていた男がないことに気づき、居場所がないと思っていた女があることに気づく物語」

内容に入ろうと思います。
これは、蕪木秀一郎と夏日乃絵の物語だ。
秀一郎は、一人娘を育て上げ、妻と二人暮らし。しかし「同居人」と言っていいほど干渉がない。
鶴目食品という食品メーカーの本社から、社員たった20名ほどの子会社の社長に3年前の55歳のこと。本社勤務時代、上司の言うことをひたすら聞く完璧な忍従によってのみ出世した男だ。現在の勤務先である「鶴目セントラル・サービス」は、本社や工場の業務に必要なあらゆる物品を手配する会社だが、そこで秀一郎がすることはほとんどない。秀一郎は、お気に入りの社員には楽な仕事を、嫌いな社員にはキツイ仕事をさせており、しかし自分はきちんとした有能な管理職だと思っている。陰で散々こき下ろされていることも知らずに。
乃絵は、服飾デザインの専門学校を卒業し、名の通った国内のファッションブランドに就職した。順風満帆だと思った。しかしそこでは、先輩たちの雑用をやらされたり、トップデザイナーであり社長の修正により原型を留めないデザインに変更させられたりと、思うような仕事は出来なかった。
専門学校時代の同期と偶然再会した乃絵は、彼と“Tip Top”というブランドを始めることにした。会社を辞めて独立した乃絵は、服作りに励み、ショーにも参加しと努力を続けたがなかなかうまくいかない。そんな時、ニューヨークで一旗揚げようと決心し赴くも、そこで乃絵自身予想もしなかった事態となり、結局デザイナーという夢を諦めて日本に戻ってきた。以来まともに仕事をしていない。
二人は、ビアバーでたまたま会った。いや、会ったのは秀一郎の方だけ、と言うべきだろうか。秀一郎は店内で乃絵に目を止めたが、乃絵は秀一郎の視線には気づかなかった。ファッション誌から抜け出してきたような容姿に打たれた秀一郎は、その日乃絵を尾行し、自宅の場所を知った。その後、偶然乃絵を見かけた秀一郎は、偶然を装って話しかけ食事に誘い、仕事をしていないという彼女を「自分が社長を務める会社」に誘った。色んな事情があり、乃絵はその誘いを受け入れた。
秀一郎と乃絵の人生は、こうして交錯した。しかし、すぐにまた離れて行ってしまう…。
というような話です。

なかなか面白い作品でした。
「圏外同士」というタイトルがなかなか作品に合っていていいです。色んな捉え方が出来るだろうけど、自分が今いる場所が色んなものが届かない「圏外」であるという風にも読めるし、秀一郎と乃絵の世界がうまく混じり合わない様子を「圏外」と表現しているのかもしれない。

秀一郎と乃絵はそれぞれ違った形で世界とうまく接続できていない。
秀一郎は、自分がただの腰巾着でありながら、年長者であり社長であるのだからもっと敬意を払われたい、と考えている。それが、言動ににじみ出てしまう。本人は、威厳のある、社長らしい振る舞いをしているつもりなのだけど、周囲からはどうしようもないおっさんだと思われている。その認識のギャップが、秀一郎の世界と接続できていない様だ。秀一郎自身は、自分はきちんと世界と接続できている、という思いこみがあるから、秀一郎は自分にきちんと「居場所」があると考えている。あるいは、仮にないとしてもいつでもそんなものは作り出せる、と考えている。しかし物語が進んでいくにつれて、端から自分には「居場所」なんてものはなかったし、いつでも作り出せるという考えもただの思いこみだったことに気づかされる。その哀れな様が非常に滑稽で面白い。

乃絵は、自分が世界ときちんと接続できていないという自覚がある。若気の至りで仕事を辞めて独立するもうまく行かず、今は精神科に通う無職。デザイナーになるという夢はあるが、しかし何から手をつけていいのかわからないぐらい、そんな華やかな世界からは遠ざかってしまっている。生きていくのが精一杯だ。夢を追う、というような積極的な気持ちが失われ、昔だったら絶対に拒絶していたような環境に順応していく中で、徐々に乃絵の中で新しい感情が芽生えていくことになる。それが、「このままでいいんだろうか」という気持ちだ。特に、成り行きで秀一郎から「与えられた」環境は、徐々に酷くなっていく。あまりの忙しさに、精神科に通わなければならないような症状は吹き飛んだのだけど、今のままでいいはずがないという思いはどんどん膨らんでいく。それが、彼女を新しい世界へと押し上げていくことになる。

二人は、ビアバーで出会うまではまったくの他人だったし、秀一郎の会社に乃絵が就職した後、色々あって二人の関わりは極端に減ってしまうことなるので、秀一郎と乃絵がきちんと関わりを持っていた時間というのはほとんどない。他人から一瞬知り合いになって、それからまた他人になる。二人の関係はそんな風に表現できる。しかし結局、二人はお互いと出会ったことで運命が変転していく。秀一郎は、乃絵を会社に引き入れたことで、日常のあらゆることがうまく回らなくなっていく。そして乃絵は、秀一郎の口利きを受け入れたことで、結果的に人生が好転していくことになる。結局ほとんど他人の関係のまま、お互いの人生に影響を与えていく、という構成が実に面白いと思った。

しかしそれにしても、秀一郎の造型は見事なまでに醜い。こういうオジサンに出会ったことはあまりないのだけど、世の中にはたくさんいるのだろうと思わされる。自尊心が高く、自分の好みで人を動かし、自分が敬意を持って使われることを当然と考え、そうしない人間に怒りを覚えて報復するというような、典型的な古いタイプのオジサンだ。

ある場面(これもなかなか急展開というか、そんな展開が待ってますか!というような場面なんだけど)で、秀一郎の妻がこんなことを言う。

『あなたって、本当にご自分のことばっかりねえ。古いのね。本当に古いっていうのは、ご自分の考え以外は、もう何一つ受け入れることの出来ない頭のことだと思いますわ』

そして、こう言われた秀一郎は頭の中でこう思う。

『まともな自分と、まともでない妻がいた』

まさに妻の言う通り、「ご自分の考え以外は、もう何一つ受け入れることの出来ない頭」なのだなと思う。

そんな秀一郎が乃絵に対してする言動は、本当に醜いなと思う。秀一郎は乃絵との駆け引きを楽しんでいるつもりだが、そもそも乃絵は秀一郎と同じ土俵に上がっているという意識がない。この認識の差が、哀しいすれ違いを引き起こす(というか、そのすれ違いは秀一郎のただの妄想なのだけど)。秀一郎の側が本気だ、というのが滑稽だしとても惨めさを感じさせる。

乃絵にとっては、結果的には良かったと言える。秀一郎の会社で働くことで、兎にも角にも収入が得られるようになったし、また「こんなところにはいたくないと思わせる最低の環境」を経験できたことで、未来へと目と手足を向ける意識が生まれた。秀一郎の誘いに乗らないままだったら、この変化は生まれなかっただろう。案ずるより産むが易し、というところだろうか。

まさに「圏外同士」というタイトルに相応しい、「居場所」を巡る物語だ。ネット上での関係性が増えたことで、「居場所」だと思っていた場所がある日あっさり消えていた、なんていうことだって起こりうる時代だろう。いつだって誰だって、自分が「圏外」にいると気付かされてしまうかもしれない。「居場所」は、あった方がいいかもしれないがなくてもいい。そんな風に思える作品ではないかと思う。

富士本由紀「圏外同士」

「サバイバルファミリー」を観に行ってきました

面白い映画だったなぁ。
純粋に物語としても面白かったんだけど、色々考えさせられる映画だった。

僕は「依存する」という行為が好きではない。好きではない、というか、ほとんど恐怖に近い感覚を持っている。
もちろん、僕らの生活は今様々なものに依存していることは分かっている。電気・ガス・水道、インターネットなどのインフラはもちろん、どんどん便利になる電化製品、スマホであらゆる事が完結できてしまうような環境などが、当たり前のように僕らの生活を支えている。

この変化を悪いと感じているわけではない。

昔は、「生活する」ということだけで毎日が終わっていたのだろう。火を熾し、薪を割り、洗濯物を手洗いし、農作物を収穫する。生活だけで日常が終わってしまった世の中よりは、現代の方がずっと良い。そういう感覚は当然僕の中にもある。「生活する」ということの不自由さが様々な形で解消され、それによって浮き上がった時間を僕らは様々なことに使っている。それらの活動が、新たな発見を生み、新たな技術を生み、人間は益々大きな存在になっていく。そんな風にして出来た環境を丸ごと否定したいわけではない。

けれど、それでいいんだろうかと、僕はふと立ち止まりたくなる瞬間がある。そうやって、便利さを突き進む方向に向かっていって、本当にいいんだろうかという感覚は、僕の中にずっとあるのだ。

確かに、「生活する」ことを便利にする様々なツールは、僕らの生活を豊かにしてきた。ここで言う「豊か」とは、生活に割く時間を別の活動に当てることで、考えたり、学んだり、身体を動かしたりと言った「自分を前進させる活動」にエネルギーと時間を向けることを指している。つまり、人類の便利さの希求は、ある時期までは「生活する時間」を「自分を前進させる時間」に変換するという機能を持っていたはずだと思う。

しかし、生活の便利さは、もうほとんど解消されてしまっただろうと思う。それでも人類は、便利さへの希求を止めない。今僕らが突き進んでいる道は、これまでの「生活する時間から自分を前進させる時間への変換」とは違う。僕の感覚では今は、「自分を前進させる時間」を節約し「怠ける時間」を増やそうとしている。そんな風に思えて仕方がないのだ。

もちろん、「怠ける」という言葉はちょっと強すぎるし、すべての人に当てはまるわけではない。けれど、感覚的には分かってもらえるのではないかと思う。僕が言いたいことは、学んだり考えたりする時間を削って娯楽のための時間を生み出す、そのために様々な便利さが消費されているのではないか、ということだ。

もちろん、娯楽のための時間を生み出すことを豊かさの一つの指標と見ることだって出来る。別に、娯楽を否定するわけでもない。ただ、便利さの希求が向かう先が変わっているのではないか、という意識を持つことは大事ではないかと思うのだ。

「便利だから」という理由で様々なことが受け入れられる世の中だが、結局その便利さは人間の能力を奪っているだけではないのか?様々なテクノロジーのお陰で、僕らは「自分を前進させる時間」を殊更に持たなくてもある一定の知識の保有や思考が出来るようになった。けれども結局それらは、自分の内側にあるのではなくテクノロジーの内側にある。そのことに、怖さを感じないか?

それが何のための便利さで、その便利さに手を伸ばすことで自分の中から何が失われるのか。僕はそのことをいつも考えてしまう。この映画を見て、やはり強くそう思った。

結局人間は、最後には自分の内側にあるものを頼りにして生きていくしかないのだ、と。

自分の内側にあるものというのは、知識や経験と言ったようなものだ。それらは、自分の外側の様々なものが失われても奪われることはない。誰もあなたの頭や手足から、知識や経験を奪うことは出来ないのだ。

便利さは、確実にあなたから何かを奪っている。便利さに奪われても困らないものもある。しかし、便利さに寄りかかることで取り返すことが出来ないものを失うこともある。

生まれた時から圧倒的な便利さの中で暮らしていた世代は、失ったという感覚もないまま出来ないことが増えていく。もちろん、それまでには出来なかったこともたくさん出来るようになるのだが、便利であればあるほど、その「出来ること」は便利さに依存しなければ発揮できなくなる。

便利さが未来永劫失われないなら、何の問題もない。でも、本当にそう信じていいのだろうか?

物語は、実に単純だ。三行でまとめるとこうなる。

突然、電池も含めたあらゆる電気が使えなくなる
当たり前の日常が崩壊し、生存が危ぶまれる。
東京から実家のある鹿児島まで自転車で向かう。

しかしこの単純な物語の中に、様々なことを考えさせる要素が詰め込まれている。

一家は、どこにでもいる普通の家族だ。父親はサラリーマンで、会社ではちょっと偉ぶっていて、家では何もしない。母は、実家の父から送られてきた魚が捌けず、また無農薬の野菜についている虫を嫌悪する。娘は一日中スマホを触って生きている。息子は爆音で音楽を聞きながら、パソコンで色んなことをしている。
ある朝起きると、停電になっていた。会社のビルの自動ドアが開かないから割って入る。電車も動いておらず、会社にも学校にも辿り着けない者が多数。マンションのエレベーターも使えないから、ゴミ出しのついでに買い物を、と思って財布を忘れてきたことに気づいてため息をつく。
原因は一切不明。一週間経っても状況に変化はなし。電気が一切使えないから、ちょっと先の情報さえまるで入ってこない。食料も水もろうそくも尽きかけている。
家族は決断した。鹿児島まで行く、と。羽田空港まで自転車で行けば、きっと飛行機は飛んでる。
その予想は、辛くも打ち砕かれた。
一家は、自転車で鹿児島を目指すという非情な決断をし、道中様々な苦難を乗り越えながら鹿児島を目指すが…。
というような話です。

凄く面白い作品でした。正直そこまで期待しないで観に行ったんですけど、観て良かったなぁ。

まず、「電気が使えなくなった世界」での様々なシミュレーションが面白い。

最初の方は、割と想定できるようなことが描かれる。ガスも水道もダメ。スーパーはほとんど商品がない。信号が消え、車は放置され、ゴミが散乱する。そういう、まあそうだよねぇ、と思うようなところから入っていって、段々、おーなるほど確かにそうなるかもなぁ、と感心させられるような描写が現れてくる。

これから観る人の興を削がないように具体的に書きすぎないようにするけど、僕が感心したのは「トンネル」と「大阪での海産物の炊き出し」だ。

この両者は、「電気が使えなくなった世界」では確かに起こりうると思う展開なんだけど、僕の頭の中にはまったく存在しないものでした。特に「トンネル」の方は、「電気が使えなくなることで、こんなことが商売になるのか」と凄く感心させられました。大規模停電が起こった時の想定というのは国や地方自治体や研究者がやってるんだろうけど、そういうのは基本的なインフラとかがメインになっていくような印象があります。この映画で描かれているのはそういうものではなくて、もっと個人目線のものです。恐らく観る人によっては、なるほどこんな想定したことない!という場面が様々に変わるでしょう。このリアルなシミュレーションが非常に魅力的な作品だと思います。

しかし、撮影大変だっただろうなぁ。電気が使えないという設定だから、画面に電気的なものが映り込んではいけないし、「街中にゴミが散乱してる」とか「高速道路を人が歩いたり自転車が走ったりしてる」という状況を作り出さないといけないわけです。かなり後半で、家族が野犬に襲われるんだけど、そんな一家を結果的に救う形になったある存在も、撮影のために引っ張り出してくるのはなかなか難しかったんじゃないかと思わせるものでした。

そして映画を観ながら、冒頭で書いたようなことをあれこれと考えさせられました。この映画では「電気がなかったら」を描き出していますが、決して電気に限りません。僕らの生活は、ありとあらゆる「あって当たり前のもの」に支えられていて、僕らは普段そのことをあまり意識しない。例えば、「電気」ではなく「インターネット」がなくなっただけでも、世界中は大混乱に陥るでしょう。「文字」「お金」「法律や道徳」「太陽」など、僕らの生活を成り立たせている「あって当たり前のもの」は様々です。これらがなくなったら…、と想像してみるのは、非常に面白いなと思いました。

また、これはこの映画に限らず色んなところで描かれるでしょうが、危機においてはやっぱり女性の方が強いだろうな、と思いました。父親は、「俺についてくれば大丈夫だ」と威勢の良いことは言いますが、結局何が出来るわけでもない。一方で母親は、様々な場面で状況を進展させたり後退させないようにする行動を取る。もちろん、すべての男女がそうではないだろう。実際にこの映画でも、「停電になっていることを楽しむ一家」というのが登場する。その雰囲気は、両親が共に作り上げているものだ。主人公一家とは大違いで、その対比も面白い。

「◯◯がもしなくなったら…」なんていうことは、普段あまり考えずに生きていられる。けれど、自分の生活がどんな「あって当たり前のもの」に支えられているのかは、考えてみた方がいいかもしれない。この映画のような、原因が分からないまま電気が使えなくなる、という状況はまあまず起こらないでしょう。しかし、様々な自然災害によって近い状況が生み出される可能性は常にあるし、今後日本が戦争に巻き込まれないとも限らない。そうなった時に、自分がどんなものを失ってきたのか分かるのでは遅いかもしれない。自分が今どんな便利さの中にいて、その便利さが何を奪っているのか。それを把握することは、人生を強固にする上で大事なことかもしれません。

「サバイバルファミリー」を観に行ってきました

完全版 下山事件 最後の証言(柴田哲孝)

読むのは二度目だ。一度目は、単行本で読んだ(感想はこちら→「下山事件(柴田哲孝)」)。単行本で読んだ時の記憶がちゃんとあるわけではないけど、文庫化で中身は結構変わっているような印象だ。著者は冒頭で、こんな風に書いている。

『2005年7月―。
私は「下山事件 最後の証言」を発表し、事件の真相に迫った。
その反響は予想を遥かに越えるものだった。あえて「最後の~」としたのは事件から56年を経過し、生の証言を得られるのはこれが最後だと考えたからだ。だが、私の予想はいい意味で外れることになった』

単行本発売後の反響も含め、「完全版」として出したということだろう。

さて、ここでは、下山事件の詳細については踏み込まない。ざっくりとした概要は、前回の感想で書いたし、ネットで調べればいくらでも出てくるだろう。そして、本書で「真相」とされていることは、とても短く説明できるようなものではない。下山事件は、国鉄総裁だった下山定則氏が列車に轢かれて死亡しているのが発見された、という事件だ。警察はなんと、自殺か他殺かも判明しない、として捜査を打ち切った。その後様々な仮説が生み出されたが、決定打となるものはなかなか出ない。本書が決定打になるのか、それは僕には判断が出来ない。

下山事件は、一人の男が殺された、という単純な見方が出来る事件ではない。法医学者が自殺か他殺かの見解を闘わせ、警察が証言を捏造したと思しき矛盾があり、GHQや時の政権やアンダーグラウンドな勢力までもが一斉に関わった、まさに昭和史のごった煮のような事件だ。下山事件を掘り下げることで、占領下における日本の状況が、そして現在まで続くアメリカによる日本の支配が、まざまざと浮かび上がるのだ。

とある理由(後述する。まさにこの点が本書の肝なのだ)により、著者は「亜細亜産業」という会社が下山事件に関わっていることを知る。そして著者は、「亜細亜産業」の総帥だった矢板玄に会うことが出来た。彼らは下山事件だけではなく様々な話をするが、矢板玄が下山事件に関して著者にこんな風に言う場面がある。


『(―それならやはり、アメリカの謀略ですか?)
そうは言っていない。ウィロビーは事件を利用しただけだ。ドッジ・ラインとは何だったのか。ハリー・カーンは何をやろうとしていたのか。それを考えるんだ。アメリカは日本の同盟国だ。東西が対立する世界情勢の中で、日本は常にアメリカと同じ側に立っている。過去も、現在も、これからもだ。もしアメリカじゃなくてソビエトに占領されていたら、どうなっていたと思う。日本は東ドイツや北朝鮮のようになっていたかもしれないんだぞ。それをくい止めたのが、マッカーサーやおれたちなんだ。日米安保条約は何のためにある。アメリカの不利になるようなことは言うべきではない』

繰り返すが、これが、下山事件について問われた矢板玄の回答だ。国鉄総裁が殺されたという事件が、「ドッジ・ライン」や「世界情勢」と関わりを持っている。そう、それぐらい壮大な話なのだ。正直僕は、本書の「真相」をきちんと理解できたとはいえない。誰と誰が対立していて、誰にどんな利益があり、どの情報が捏造で、どの情報に信憑性があり、誰が何のために動いていたのか。そういうことを把握することは、とても困難だ。途中で、戦時中に細菌兵器などの開発をしていた731部隊に所属していたという人物の証言も登場する。下山事件という、昭和最大の謎とも呼ばれる事件の闇の深さが窺える。

というように、下山事件という底なしの沼のような事件を把握するのはとても難しいので、下山事件の話はここで終わりにする。

さて、ここまで書かずにいたが、本書は、「何故著者が下山事件を追っているのか?」という動機が、明確過ぎるほど明確に存在する。

それは、「敬愛する祖父が下山事件に関わっていたかもしれない」という理由だ。

発端は、祖父・柴田宏の23回忌に当たる法要だった。その席には、祖父の妹であり、著者にとっては大叔母である飯島寿恵子もいた。そして寿恵子が、こんなことを言ったのだ。

『あの事件(=下山事件)をやったのはね、もしかしたら、兄さんかもしれない…』

この瞬間から、著者の長きに渡る下山事件の取材がスタートした。その対象は、まず大叔母の寿恵子と、母の菱子だった。彼女らは、共に同じ会社で働いていた。それが、先程の「亜細亜産業」だ。祖父ももちろん、同じ会社にいた。寿恵子と菱子は、亜細亜産業に出入りしていた人間や取引先の会社などを克明に覚えていた。著者はそれらの話を拾い集めながら、それまでとはまったく違う下山事件の仮説を追い始める。これまで亜細亜産業に着目した仮説はない。著者は、祖父が亜細亜産業に関わっていたからこそそこに辿り着けたのだ。そして調べれば調べるほど、下山事件に繋がる様々な要素が浮かび上がってくる。

もちろん、下山事件の真相が少しずつ明らかになっていく過程もスリリングだ。身内から聞いた事実と、取材によって知り得た事実が様々な形で結びつき、線となっていく。身内の何気ない記憶が、重要な鍵を握る場面もある。亜細亜産業に関わる身内がいたという、まさに著者の境遇だからこそ実現できた取材により、まったく新しい方向から下山事件に光が当てられていく様は、物語であるかのようにスリリングだ。

しかし、僕が一番気にかかったのは、著者の内面だ。それはほとんど描かれることはない。ただ、時折こんな文章が出てくる。

『以後、私は急速に下山事件の謎に没頭していった。といっても、その興味の対象が事件そのものに集約されていたわけではなかった。むしろ私を駆り立てたのは、祖父柴田宏に対する愛着と好奇心だったような気がする』

著者は祖父のことを、『あの頃の私にとって、祖父は自分の世界の大半を占める大きな存在だった』と表現する。ただ身内であるというだけではなく、著者にとってはかけがえのない存在だと言っていいほどの人物だったのだ。著者は、下山事件の取材をすることで、そんな祖父に「下山事件の首謀者」というレッテルを貼ることになるかもしれない。その葛藤が、時折見え隠れするのだ。

『私は、祖父を信じたかった。その一方で、下山事件の謎を解くことに使命感を燃やす自分がいる。それは、もしかしたら、尊敬する祖父の秘密を暴くことにもなりかねないと予感しながら。』

また一方で著者は、母親に対してもこんな感情を抱く。

『だが、いずれにしても、私の行為は少なからず年老いた母を傷つけることになる。
ある日、下山事件の話をした後で、母が泣いている姿を見た。ただ黙って俯きながら、涙をこぼしていた。』

著者は、寿恵子や菱子から話を聞くことで、彼女らを追い詰めることになる。著者以上に「身内の恥」という感覚が強い世代だ。祖父の行為が明らかになればなるほど、彼女らを辛い立場に追い詰めることになる。
しかし著者は、真実を追うことを諦めることが出来なかった。

『膝の上で組む手の上に、涙が落ちた。それを見た時、心の中で何かが切れたような気がした。
もうやめた。下山事件なんかどうでもいい。いまさら犯人をつきとめたって、何になるというのだ。
だが、できなかった。私にはどうしても、心の衝動を抑えることができない。気が付くとまた私は下山事件の資料を開き、その迷宮に足を踏み入れていた』

本書は、基本的には下山事件の本だ。下山事件をいかに掘り下げていくかという本だ。しかしその一方で、本書は「柴田家の本」であることから逃れられない。少なくとも著者はそれまで、柴田家に「不穏な歴史」が眠っているなどとは想像もしなかった。しかし、平穏でしかない、ごくありきたりな家族だと思っていた自分に連なる歴史に、昭和史の謎を解き明かす秘密が眠っていた。その衝撃と興奮、そして掘り下げることで迷惑を掛けることへの悔恨。それらが入り交じった著者の筆致は、普通のノンフィクションでは醸し出せないものだ。ノンフィクションを書く人にはそれぞれ、そのテーマを選び取った理由があるだろう。それらはそれぞれの著者にとっては、何物にも代えがたい衝動なのだろうと思う。しかし、どれだけの衝動があろうと、本書の著者の衝動に敵う者はそうそういないだろう。「祖父が実行犯かもしれない」というのは、それほどの状況なのだ。

寿恵子はある時、著者にこんなことを言う。

『あんた、これをどこかに書くつもりなんだろう。それ、まずいのよ。亜細亜産業は、絶対に身内からしか事務員を雇わなかったのよ。わかるでしょう?私も入る時、業務内容に関しては他言しないって念書入れてるの。あの会社は下山さんだけじゃない。他にも殺されたとか、消されたとか、そんな噂はいくらでもあった。私、怖いのよ…』

個人史と昭和史の交差点で苦悩する人がいる。また、その交差点で真実を探し出そうとする人がいる。そして、そこに歴史が生まれる。

本書を読んで強く感じたことがある。それは、事実が歴史を作るのではなく、誰かが信じたことが歴史になる、ということだ。つまりそれは、あなたが歴史だと思っていることは、事実であるとは限らない、ということも意味する。

いずれ、僕らが生きている現実も、歴史と呼ばれるようになる。その時僕らは、きちんとした歴史の証言者になれるだろうか?そのためには何が必要か、本書を読んで感じ取って欲しいと思う。

柴田哲孝「完全版 下山事件 最後の証言<再読>」

「虐殺器官」を観に行ってきました

「無関心」の物語だ。
この作品はそれを、「社会」と「人間の機能」の両面から描き出す。

『人間は、見たいものしか見ない』

これはこの作品の中で、繰り返し語られる。自分の関心の範囲しか見ようとしない。見たくないものは見ない。そういう社会が明確に構築されている。

それは、僕らが生きているこの現代社会でも、程度はともかくとして既に存在する。

作品で描かれる世界では、それがより誇張される。9.11のテロによって、人々のテロに対する意識は大きく変容した。人々は、プライバシーをある程度以上捨てることを受け入れることで、テロによる脅威を排除する選択をした。そういう社会が舞台だ。

そういう社会では、人々は様々なデバイスと接続している。それは、紙幣を排除するような便利さを生み出しもするが、同時に、どこで誰と何をしているのかを常に監視される生活でもある。人々は、監視されていることが当たり前である世の中を生きる。社会インフラが、既にそのように整備されているのだ。

そしてそんな社会の中で人々は、便利さを徹底的に享受する。レジでお金を出したり、外国語を勉強したりしなくても済む社会の中で、人々はその便利さによって浮き上がった時間を“有意義”に過ごす。アメフトを見ながらピザを食べ、爆音の中でダンスをする。

それが当たり前だからだ。

人々にとって便利さは、水道の水のようなものだ。ひねれば、出てくる。あって当たり前。水道の水がどれほどの手間を掛けて家庭まで届くのかを想像する必要などまったくなく、いつでも安全な水を手に入れることが出来る。人々の、便利さに対する欲求はいつの世も変わらない。僕らの社会も、より便利さを追求する方向に突き進んでいる。

そして、便利になればなるほど、その便利さがどう生み出されているのかという関心が失われていく。

どれだけ科学技術が発達しようとも、最終的にその便利さを生み出しているのは人間だ。Amazonが最速で荷物を届けることが出来るのは、配送業者の努力のお陰だ。様々な製品が安価で手に入るのは、低賃金で働かされている発展途上国の人たちの労働のお陰だ。光り輝くダイヤモンドも、それが高貴な人の手に収まるまでに大量の血が流れているのだ。

僕らに、その現実は見えない。何故なら、見たくないものは見なくて済むように社会が出来ているからだ。僕らが「便利さ」と呼ぶものの中には、そういう都合の良さも組み込まれている。

新聞やテレビは、何らかの形で収益を上げなければならない。その一番の方法は、受け手の関心の高い情報を届けることだ。受け手は、自分たちの生活がどんな苦労の上に成り立っているのかなど知りたくない。だから、新聞もテレビもあまりそれらを報じない。

ネットがあるじゃないか、と思うだろう。その通り。ネットには素晴らしいくらい様々な情報がある。しかし、じゃあどうやってその情報にたどり着くのか?結局それは、あなたの「関心」からスタートするしかない。あなたが関心を持たなければ、その情報はあなたの元には届かない。情報の拡散のされ方も、結局は人々の関心の総和次第だ。

僕らは便利さを目指す中で、もしかしたら無意識の内に罪悪感を抱いているのかもしれない。自分が享受している便利さは、世界中すべての人が得られるものではないことは分かっている。この便利さが、どこにでも当たり前に存在するものではないことを知っている。それはある種の罪悪感となって自分の内側に溜まる。無意識の内に、便利さを支える構造を知りたくないと感じる。その、僕ら自身には感知出来ない無意識の衝動が積もりに積もって、この無関心な社会が生まれているのかもしれない。

この作品には、そんな社会の無関心さをある意味で逆手に取った男が登場する。物語のキーパーソンだ。彼は研究によって、ある発見をした。人間の脳には、ある機能が備わっていることを発見し、その機能を発露させる方法を見いだしたのだ。

その機能は、人間を無関心にするわけではない。しかし、無関心にするという機能を内包しなければ成立しないだろう、とも感じる。人間が生まれながらに持つとされるその機能が、人間社会全体の無関心さと結びつくことで、社会全体がどんな状態に陥るのか。この作品は、その可能性を描き出している。

人間は、自由や便利さや快楽を追い求めるためにどこまで残虐になることが出来るのか。ある意味でそれが問われる作品だ。人間の残虐性は、様々な発露を取る。しかし、もしかしたら人間の最大の残虐性は、「無関心」という形で発露されるのではないか。そして、「便利さ」と「無関心」は否応なしに対を成すが故に、僕らが今生きている社会も、そしてこれから目指すことになる社会も、この作品が示唆するような残虐性を発露するようになるのではないか。そんな風に思わされた。

物語のメインの舞台は、2020年のグルジアから始まる。アメリカ情報軍特殊検索軍i分遣隊に所属するクラヴィス・シェパードは、ある暗殺ミッションのために派遣された。グルジアでの内戦を指揮したとされる首相と、その日会う予定になっていたアメリカ人。アメリカ軍の目的はその人物だった。ジョン・ポール。彼は結局その場に現れず、それどこころか、PTSDを発症しないようにと調整されたプログラムが齟齬を起こし、仲間の一人がPTSDを発症。緊急避難的にクラヴィスは、仲間を撃ち殺すことになった。通常彼らは暗殺の際、「感覚適応調整」や「痛覚マスキング」などを施されることで、戦闘に適した心理状態を維持したり、状況に応じた的確な判断が出来るようになっている。いわば「戦闘マシーン」とでも言うような状態で、彼らは心を乱されることなく、仕事として戦闘に従事する。
暗殺ミッションに失敗した彼らには、ジョン・ポールについての情報が知らされる。元々はMITで学んだ言語学者だったが、その後、国家などをクライアントとしてイメージ戦略を提案するインターメディアグループに入社し頭角を表す。担当する国で様々な成果を生み出し、国家の補佐官に就任するも、彼が関わった国では常に内戦や虐殺が発生するという事態が浮上した。国防総省とも仕事をしていたジョンの存在はアメリカ政府にとっても悩みの種であり、一刻も早く拘束する必要があったのだが、CIAがその任務に失敗したためにクラヴィスらに回ってきたのだ。
彼らは、ジョンが最後に目撃されたというプラハで潜入捜査を開始する。そこには、ルツィア・スクロープバという、チェコ語を外国人に教えることで生計を立てている女性が暮らしている。ジョンが最後に目撃されたのは、そのルツィアの部屋だ。5年前、サラエボで起こった手製の核爆弾によるテロ。ジョンはそのテロで妻子を失ったが、その時ジョンはルツィアと不倫の真っ最中だった。
クラヴィスはルツィアと接触し、ジョンに繋がる情報を得ようとするが、その過程で彼はルツィアに心惹かれるようになり…。
というような話です。

面白かったし、カッコ良かった。
僕は正直、原作を読んだ時は、ストーリーそのものが理解できないくらい、全然読めなかった。とにかく、難しかったという記憶しかない。SF的な世界観を理解することがそもそもとても苦手だった、ということも要因として間違いなくあるのだけど、作品が持つ思索的な部分に、恐らくまったくついていけなかったのだと思う。その後も伊藤計劃の作品は読むが、本は難しくて歯が立たない、という印象をずっと抱いていた。

この映画は、原作がまるでお手上げだったそんな僕でも十分に理解出来、楽しめるような作品だった。

基本的には、戦争の物語なのだ。クラヴィスは様々な戦場に派遣されては、治安維持のために戦闘を繰り返す。普段はアメリカで便利さを享受する身だが、仕事となれば内戦や虐殺の頻発する途上国で危険な任務につく。慎重に感情が調整されるので、戦争に従事しているという事実は、クラヴィス自身には深刻な影響を及ぼさない。アメリカで便利さを享受するクラヴィスと、途上国で戦争に従事するクラヴィスは、基本的に切り離されている。

戦争が葛藤を生み出さない、という意味で、戦争を扱った作品とは一線を画すだろう。この作品の中では、「戦争」というのは、ある種の背景でしかない。クラヴィスらにとっては、「職場」と表現してもよいものだ。「戦争」が舞台でありながら、「戦争」そのものは背景でしかないという構造は、それそのものが「無関心」を浮き彫りにする枠組みである。

クラヴィスが葛藤にさいなまれるのは結局のところ、自らの無関心が何を引き起こしているのか、その現実を認識することによってだ。結果として耐え難い現実が引き起こされている。それがどういう理屈でどのようにして生み出されたのも理解した。しかし、結局のところその土壌となっているのは、自らの無関心なのだ。恐らくクラヴィスの葛藤は、こういう部分に端を発している。

『君たちは心に覆いをすることで無感覚になることを許容する。それは、子供を殺すことそのものより残虐だ』

ポールがクラヴィスにそう言う場面がある。これこそが、この作品の底に流れる本質的な部分であり、クラヴィスが自らが属する社会に疑問を抱くきっかけとなった部分なのだろうと思う。

なにせクラヴィスらは、テロを撲滅するのに必要だからという理由で、暗殺などに従事しているのだ。しかし、その自分たちが享受している便利さ、そしてそれが生み出す無関心こそが遠因となってテロが引き起こされているのだ、と知ることは衝撃だろう。クラヴィスはジョンを非難したい。しかしジョンと喋れば喋るほど、自分たちがしていることとジョンがしていることの境目が分からなくなっていく。やり方が違うだけで、結局同じことをしているのではないか?クラヴィスの葛藤は、観客にもそういう問いを突きつけることになる。

ジョンがあることに全精力を傾けている動機は、まさに今(というのは、トランプ大統領が就任した直後の混乱した社会の中で生きている今、ということ)、全世界的に声が上がるようになった発想と非常に近いものがあるだろう。彼らの過激な発言は、どう見るかによって見え方がだいぶ変わる。良い風に見ようとする人が多いからこそトランプ大統領が誕生したのだろう。そう考えると、ジョンの動機に賛同する人は、思いの外多いのかもしれないとも感じる。

ジョンの動機が許容される世界は、僕は受け入れたくない。これは生理的な理由だ、としか言いようがない。正しい正しくないの議論は成立しないだろう。「愛する人を守るためなんだ」という、その動機の背景にある思いは、人の心を強く揺さぶるからだ。

それでも、僕は生理的に、ジョンの動機を拒絶する。

一方で、ジョンに対する嫌悪感は、思った以上にはない。それは恐らく、ジョンが自覚的だからだ。自らの「残虐性」を、きちんと自覚した上で行動しているからだ。

無自覚なまま「残虐性」を発揮される方が怖い。そしてそういう人は、世界中に存在する。僕も、片足を突っ込んでいるのかもしれない。それも怖い。自分の行動が、どんな悲劇を生み出しているのか、それがわからないことが怖い。

『仕事だから仕方ない。その言葉がこれまで、凡庸な人間からどれだけ残虐さを引き出してきたか』

僕たちは、とても便利な世の中に生きている。その便利さが何によって生み出されているのかなどまるで考えることなく、その便利さを手軽に享受することが出来る世の中に生きている。しかしその便利さは、必ず誰かの犠牲の上に成り立っている。そしてその歪みは、様々な形で現れる。しかし僕らは、便利さの膜に包まれているが故に、その歪みの発露を目にせずに済む。この作品が描き出す現実はそういうものだし、まさにそれは僕らが生きている現実に連なる世界だ。

トランプ大統領が生み出した、自分たちさえ良ければいいという風潮は、決して世界を豊かにしない。そう分かっていても、一度手にした便利さを手放すことも出来ない。僕らは、ただ生きているだけで、遠くのどこかにいる誰かを苦しめている。せめてそれぐらいの事実は意識して生きていきたいと思う。

「虐殺器官」を観に行ってきました

隙間を埋める“パテアイドル”としての秋元真夏の真骨頂

秋元真夏には、さほど関心を持っていなかった。乃木坂46には控えめでマイナス思考のメンバーが多く、僕はそういうメンバーに興味を惹かれることが多い。元気で明るいキャラクターを全面に押し出していた彼女は、正直に言って僕の興味からは外れていた。

秋元真夏に引っかかりを覚えたのは、確かこのインタビューを目にした時からだったと思う。少し長いが引用する。

【完全に過去のトラウマからきていると思うんですけど…ちょっと暗い話になっちゃいますけど、小3のときにいじめられていて、周りのひとを疑うようになってしまったんですね。そのときに相談した先生も信用できなくて、大人も同世代もみんな疑うところから始まったから、ひとを信用するのにすごく時間がかかってしまって。だからとりあえずはバリアを張って、徐々に信用できるところを探していくのがいいのかなって。そういう結論に行き着いたんです。ただ、その癖が本当に直らないんですよ。大人になれば直ると思っていたんですけど、この年齢になってくるとそういう自分をだんだん認められるようになってきて。昔は友達がたくさんいないとダメだって思っていたんですけど、いまは本当に信頼できるひとがひとりかふたりいれば十分ぐらいの気持ちになりました。バリアを張りつつも、大丈夫なところを探していくって感じですかね】「BUBUKA 2016年11月号」

このインタビューを読んで、僕はとても意外に感じた。「周りの人を疑う」「ひとを信用するのにすごく時間がかかって」「バリアを張って」「信頼できるひとがひとりかふたりいれば十分」と言ったような言葉は、僕が勝手に抱いていた秋元真夏のイメージとはかけ離れていたからだ。あの元気でパワフルで何事にも前のめりで進んでいくような在り方からはちょっとイメージ出来ない内面だと感じたのだ。

たぶんその時からだろう。秋元真夏にちょっと興味が湧きはじめた。マイナス思考で暗いところがあるから、というわけではなく、アイドルとしての秋元真夏の在り方がどんな風に生み出されているのか、という部分に関心を持ったのだ。秋元真夏の主張するメンタリティから、あのテレビで見るような「THE秋元真夏」みたいなアイドル像がどうして生まれるのだろう?という部分に引っかかった。

そうして、過去のインタビューなどを見てみると、秋元真夏のスタンスが見えてきたような気がした。それは、こんな発言に現れている。

【(生駒里奈がAKB48と兼任することが発表された時のこと)私は、そういうビックリすることとか、大きい出来事があったときって、自分の感情よりも「今、どうしなきゃいけないんだろう?」っていうのが頭に最初に浮かぶんです。正直、どうしたらいいかわからなかったけど、「とりあえず生駒ちゃんのそばにいなきゃ!」っていうのが、一番最初にありました】「乃木坂46物語」

【でも、ちょっとは無邪気になりたい。福神のメンバーはアクションを起こす子が少ないので、バランスを見て私がふざけてみたりするし、(永島)聖羅みたいにワーッ!と勢いあるメンバーがいるときはツッコミに廻ったりと、出たり引いたりのバランスを毎回考えちゃう。前に出ようと意識してしまうと、ひとり悪目立ちしてしまうので、キャラを出していいタイミングは常に見極めています】「アイドルspecial2015」

「THE秋元真夏」を作り出しているのは、「隙間を埋める」というスタンスだ。

昔テレビで聞いて、とても印象的だった関根勤のフレーズがある。関根勤は自身の芸人としてのスタンスを「パテ芸人」と評したのだ。誰が司会で誰がひな壇にいようが関係なく、自分はその場における隙間をどんどん埋めていくパテ(接着剤みたいなもの)だ、と。ちょっと途切れそうになった間とか、誰も拾わなかったボケとか、そういうものを拾いながら、その場その場の隙間を埋めていくんだ、と。非常に印象的なフレーズだった。芸人はグイグイ出ていくイメージがあるけど、そうではない闘い方もあるのだなぁ、と感心した。

そのフレーズを借りて、僕は秋元真夏を「パテアイドル」と評したい。

秋元真夏も、乃木坂46というグループ全体の隙間を常に埋める意識でアイドルをしているのだと思う。それは先程の発言にも滲み出ている。自分がどう思うか、どうしたいか、ということよりも、「どうしなければならないか」が先に浮かぶ。周りの雰囲気を見ながら、自分がどういう行動を取るべきか考える。それは、アイドルだとか芸能人だとか関係なく、誰もがある程度生活の中でやっていることだとは思うのだけど、関根勤や秋元真夏ほど自覚的に徹底的に実践していくと、それは一つの武器になっていく。

僕は秋元真夏を「元気で明るい女の子」と見ていたが、これも乃木坂46にそういうキャラクターが少ないと感じていたから自覚的にそう見せているのだ、ということなのだろう。足りない部分を探り、そこを埋めるために自分を変質させもする。ここに秋元真夏の凄さがあるのだ、と理解できるようになった。

【私はアイドルというものを職業として捉えているので、そんなふうに聞こえちゃっているのかもしれません。アイドルとは程遠かった自分をどうにかアイドルに近づけようとして日々活動していて。今の見せ方が間違っているんじゃないかと思って不安になることもあります】「ENTAME 2016年9月号」

不安になるのも当然だ。例えば西野七瀬は、【私は「求められていること」が分かってないので、自分が思うようにずっとやってきたという感じなんです】「EX大衆 2017年1月号」という発言をしている。当然、自分で決める怖さはあるが、何か間違っていても自分の責任だと思える。しかし秋元真夏の場合は、自分の周りにどんな隙間があるのか、そしてその隙間を埋めるために自分がどんな振る舞いが出来るのか、という思考が「THE秋元真夏」を成り立たせている。「自分の周りの隙間」は、メンバーの関係性や世間からの見られ方などで絶えず変化するし、それを捉え間違えれば自分自身の振る舞いも外れることになってしまう。その怖さを感じながら、秋元真夏は日々「THE秋元真夏」というアイドル像を作り出している。

【私自身は「乃木坂っぽい」と言われる雰囲気に、あえて溶け込まないようにしようと思っています。だからといって浮いた存在になるわけではなくて、溶け込んだら自分を甘やかしてしまって挑戦する心を忘れてしまいそうなんですよね。だからあえてみんながやらないことをしよう、驚かせるようなことを考えよう!って思っています】「ENTAME 2016年9月号」

「乃木坂らしさ」は大事だという考えは、メンバー皆が共有しているだろう。しかし同時に、「乃木坂らしさ」だけに囚われることは衰退でしかない、という考えも共有しているはずだ。「乃木坂らしさ」を保ちながら「乃木坂らしさ」から外れていく。アイドルという、競争相手が膨大に存在する闘いの中で勝ち抜くために、そんな矛盾した前進を彼女たちはしなければならない。

そんな時、意識的に「乃木坂らしさ」から外れることが出来る人間の存在は大きい。

「乃木坂らしさ」は、乃木坂46メンバーが自然と醸し出してきた雰囲気が定着したものだろう。意識して生み出すのは難しいのかもしれないけど、メンバーが自然にしていれば出てしまうものでもあると言える。しかし、「乃木坂らしさ」から外れるには力がいる。しかも、ただ外れるだけ、というわけにはいかない。それは乃木坂46全体にとっては意味があるかもしれないけど、外れた個人の評価は下がるかもしれない。その辺りのバランスを、秋元真夏は絶妙に取る。「乃木坂らしさ」からうまく外れながら、同時に乃木坂46のファンから愛される。そんな離れ業を日常的にやっているのだ。

【でも、グループ全体のことは基本的にはプロデュースしてくださるスタッフさんや秋元先生にお任せしています。どんなものにもなれるようにしておくことが私たちの役目だと思うので】「ENTAME 2016年9月号」

この覚悟が、素晴らしいではないか。

秋元真夏がこういうスタンスを取るようになったのは、もちろん冒頭で挙げたようなメンタリティも背景にあるだろう。バリアを張って人と関わるのなら、相手に合わせて自分を組み替えて、その仮面でその人と関わっていく、というやり方が楽だったという部分もあるだろう。

しかし、それ以上に影響を与えたのは、やはり加入後すぐに活動休止、その後電撃的な福神入りという、秋元真夏のデビューの仕方にあっただろう。彼女は乃木坂46の1期生でありながら他のメンバーと同じスタートラインに立てなかった。さらに、秋元真夏はサプライズ復帰で福神に選ばれ、メンバーとの間にギクシャクした関係が残った。彼女自身のせいではないとはいえ、結果的にかなりのハンデキャップを背負いながら活動を始めることになってしまった。その中で自分の居場所を確保していくためには、隙間を狙っていくしかなかっただろう。彼女自身も、【はじめからすんなり活動を始めていなかったからこそ、今の私があるとも思っていて。】「ENTAME 2016年9月号」と発言している。

しかし秋元真夏は、ただ「隙間」に甘んじているつもりはないようだ。

【私は乃木坂46の“大黒柱”のような人になるのが目標です。グループとして外に出ていく時に、みんなから「真夏にいてほしい」って信頼してもらえるような存在になりたくて。それは、私が後から復帰したということもあって、乃木坂46に恩返しをしたいという気持ちが根本にあるので。その目標を叶えられたらいいなと思っています】「別冊カドカワ 乃木坂46 Vol.2」

隙間を少しずつ埋めていきながら、いずれは大黒柱を目指す。いや違うか。彼女は「“大黒柱”のような人」と言っている。「大黒柱」は、一本の太い柱だが、そういう支え方を狙っているわけではないだろう。色んな隙間をちょっとずつ埋めていくことで、「大黒柱」のような太い柱がないまま全体を固定しようとする。秋元真夏が狙っているのはそういう支え方だろう。それは太い柱のようには気づかれにくいが、同じように全体をしっかりと安定させていく。

そういう「大黒柱」になら、彼女はもうなっているのかもしれない。

「隙間を埋める“パテアイドル”としての秋元真夏の真骨頂」

齋藤飛鳥写真集『潮騒』 勝手にキャプションを考える

先日、乃木坂46の齋藤飛鳥さんの1st写真集『潮騒』が発売になりました。
それで、勝手ながら、この写真集に載っているすべての写真にキャプションを考えてみました。
お手元に『潮騒』をご用意いただいてこの記事をご覧いただければと思います。


読み方:
◯ 一つの【】内が一つの写真に対応します
◯ どの写真のキャプションなのか見失うと思うので、時々言葉で説明しやすい写真を()で書き加えます




(表紙の写真)
【この先に、私の知らない私がいるのかな…】

【見えてるものがすべてとは限らない】

【分かってはいるんだけど、それでも見たくなる】

【だから、ぐるぐる廻る】

【時々、自分が何を考えているのか分からなくなる】

【ここが月なら、この右足は“第一歩”とか呼ばれるのかな。
…あ、まただ。リセットしなきゃ】

【私は私を再インストール中】

(「Shiosai Asuka Saito」という文字)

【私の視線の先に齋藤飛鳥はいない】

【宇宙の果てにも齋藤飛鳥はいない】

【二人目の齋藤飛鳥はいない】

【ねぇ、それってホントなのかな?】

【さっと振り向けば見つかるんじゃない?もう一人の齋藤飛鳥】

【もう一人ぐらいいてくれたら、ちょっとは楽なんだけどなぁ】

【でも、祈るのはとっくにやめたんだ】

【誰も私の願いを叶えてくれない】

【私も私の願いを叶えてあげられない】

【あなたもどうせ叶えてくれないんでしょう?】

(セグウェイの写真)
【ウソウソ!ゴメン!いじわるしちゃった(笑)】

【他人には期待なんてしてないから大丈夫】

【ちゃんと自分の足で歩いていくから心配しないで】

【何かを覚えておくのは難しい】

【いつも時間が飛んでる気がする】

【お前の時間は止まったんだな。羨ましいぞ!】

【今だって、メロンを食べていたのに】

【いつの間にか魚に変わってる。笑えない】

【心に鍵を掛けると笑いやすくなる】

【でもそうすると、夢の世界が私を侵食する】

【ほら、またいつもの夢】

【あの角を曲がったら引き返そうっていつも思うのに】

【いつまで経ってもどこにも戻れない】

【そんな夢から】

【覚めたって、どうせ現実が待ってるだけだ】

(熊の写真)
【現実は、私が見ないようにしてるものをいつだって見せたがるんだ】

【見た?あれが私の本当の姿だよ】

【だから鬼にも捕まる】

【あなたも私から離れたくなったでしょう?】

【目を合わせるのは苦手】

【だからすぐに反らしちゃう】

【可愛い、って言ってもらえる度、私は私を見失う】

【そんな私、どこにいるんだろう?】

【神様?信じてないよ。だって私には優しくないから】

【神様になら何されてもいいってずっと思ってるのに】

【何かしてくれたことなんて一度もない】

(星空の写真)
【夜空を見上げなくなったのはいつの頃からだろう?星ってなんか、ウソっぽいでしょ?】

【太陽はなんか信じてみてもいいかもって思えるんだけど】

【だってあいつ、いつも一人で頑張ってるからさ】

【私は一人で立つぐらいがやっとだけど】

【けど今日は、そんな“齋藤飛鳥”を脱いでみる日】

【そんなに見ないで欲しいんだけどな】

【とりあえず笑ってみる】

【やっぱりちょっと恥ずかしいかも】

【でも、私なんかが後悔するのはダメだと思うんです】

【偉そうなこと言っちゃいましたかね?】

【わざとだぞー。わざと偉そうなこと言ったんだぞー】

【すいません】

【私、笑ってる時は大体なにか隠してるんです】

【全部ウソってわけじゃないですけど】

【“ぜんぶってどこからどこまで?”って子供の頃よく聞いてたみたいです。覚えてないけど】

(水を浴びてる写真)
【子供の頃はもっと無邪気だったはずなんだけどなぁ】

【今は自分のことも他人のこともよくわからないんです】

【わかり合うって、何を?】

【あなたが正しいかどうかなんて、私興味ないよ】

【あなたが行きたいと思う場所に行けばいいんじゃない?】

【自分の力だけでは行けない場所がある】

【それを知りたくて本を読むんですけど】

【答えだけ書いてあっても困るんだよね】

【何言ってるか分かんないでしょ?(笑)】

【バーカ】

【何かを吸うとさ】

【私は“齋藤飛鳥プラス”になれるんだけどね】

【何かを吐くと】

【“齋藤飛鳥マイナス”になる】

(椅子に体育座り)
【今日は私を全部吐き出した。プラスでもマイナスでもない、ゼロだ】

【心がなくてもちゃんとカメラに写るのかな?】

【夢で五年後の自分を見た】

【なんか自分じゃないみたいだったなぁ】

【未来なんか想像もつかない】

【五年前の自分を思い出してた。何も変わってない気がする】

【目指してる場所?私にもあったよ、たぶんね。忘れちゃったけど】

【私がいる場所が現実だっていうのが、そもそもなんか嘘くさいしさ】

【このまま壊れていっちゃうのかもね。別にそれでもいいんだけど】

【まあ、ちょっとは楽しもうかな】

【とか言って、いつまで経っても】

【足元を見て歩く方が好き】

【何度も同じことを繰り返したくなる】

【無駄だってことぐらい分かってるんだけど】

【“焦らなくていい” そう言われる度、わけもなく焦る】

(脚)
【ジタバタしたくなる】

【“にんげん”なんですよね、私も】

【いつだってそのことを忘れちゃう】

【練習すればうまくなるって思ってる?】

【それ、ウソなんだよ】

【いくら人間のフリがうまくなっても】

【誰も認めてくれないんだから】

【ほら、またあいつが見てる】

【ちゃんと人間の動きが出来るかチェックされてる】

【正直でいるってどういうこと?】

【色んなものを吐き出せってことかな?】

【そういうの、好きじゃないんだけどな】

【人間って難しいけど】

【私はちゃんと人間に近づけてるのかな?】

(奥付の写真)
【そもそも私は、人間になりたいのかな?】

(裏表紙の写真)
【ねぇ、どう思います?】

(カバー外した写真)
【コイツには仲間だって思われてますけど】

「齋藤飛鳥写真集『潮騒』 勝手にキャプションを考える」

爆走社長の天国と地獄 大分トリニータVS溝畑宏(木村元彦)

溝畑宏とは何者か?

『溝畑宏が行ったのはビルド・アンド・スクラップであった。グラウンドもクラブハウスも選手もいないところからチームを立ち上げ、高級官僚の座を投げ捨て、社長に就任。15年で日本一(2008年ナビスコカップ優勝)に導いた。』

凄い男である。
しかしそんな溝畑宏は、世間からこんな風に見られているのだという。

『自らの放漫経営で、チームが6億円もの借金(公式試合安定開催基金)をJリーグから借り受ける事態に追い込み、Jリーグ全体に多大なる迷惑をかけ、某サッカー誌によれば「選手や職員の生活をメチャクチャにしながら、自分はさっさと社長職を辞めて観光庁の長官に大栄転した男」』

とんでもない言われようである。本書には、こんな記述もある。

『現在もトリニータサポーターにおける溝畑の評判は最悪のようだ。流言飛語が飛び交い、中には「前の社長がカネを私的に使い込んだのでクラブがつぶれた」と信じている方もいる』

溝畑宏は、特に大分県ではもの凄く評判が悪い。
しかし溝畑宏の近くにいた人間の見方は大分違う。溝畑が大分トリニータの社長を「解任」させられたことを知った当時の監督は選手に向かって、『いいか、社長を絶対に戻すぞ!』と言ったという。大分の経済界の長老は、『私に言わせれば、一番かわいそうなんは溝畑なんや。「俺がおまえの親なら泣くぞ」って、ようあれに言ったもんや』と発言している。

溝畑宏とは何者か?


人を評価することは、とても難しい。そして、人から評価されることも、とても難しい。

世の中には、様々な人間がいる。その中には、「やっているように見せるのが上手い人間」というのもいる。特に何もしていないのに、功績だけかっさらって威張っているような人間。

僕はこういう人間が嫌いだ。好きだ、という人は多くないだろう。しかし、特に現代は、こういう人間がどんどん表に出てきて、どんどん階段を駆け上がっていく。SNSなどにより、個人による発信力が格段に高まったこと、そして話題性のある情報が拡散されるスピードが驚異的に早くなったことによって、「見せ方」さえ整えてしまえば名前を売ることが出来てしまう世の中になってしまった。

もちろんそういう人間も、中身が伴わなければ長続きはしない。そこは、昔と変わらないだろう。しかし、そういう「見せ方」の上手い人間による情報戦略に反射で反応してしまう世の中にあっては、本当に汗をかき、実直に物事を進めている人間に、光が当たりにくくなっている、ということもまた事実だろう。

そんな世の中だから、軽薄で、賞味期限が短そうなものばかり表に出てきて、長く価値を見いだせそうな事柄がうまく軌道に載せられなくなっていく。短い期間で少ない労力で成功しているような事例を日々目にすることで、長い期間に多大な労力を掛けて成し遂げる事柄への興味が益々薄れていく。

それでいいのだろうか、と立ち止まる隙さえ与えずに、ただ闇雲に前に進んでいく世の中に対して、強く違和感を覚えることは多い。

文化も伝統も教養も知見も、長い年月の積み重ねによって洗練され、その土台の上に新たな発見を見出すことが出来るようなものだ。それらは必然的に、長い期間と多大な労力を必要とする。しかし、時代がそれを評価しなくなった。評価できなくなった、というべきなのかもしれない。それは必然的に、それらに携わる人間を評価しなくなることでもあり、結果的に文化も伝統も教養も知見も廃れさせる。結局残るものは、明日なくなってしまっても誰も困らないような、単純で分かりやすく脊髄反射的なものばかりだ。

それでいいとは思えない。

その状況をどうにかするには、「評価者」を育てなければならない。

『この10年、行政によって作られた政治的なトリニータをウォッチし続けて、ブレなくその公益性を指摘したのは、皮肉なことに県庁にとっては天敵であったオンブズマンの永井であった。政治から離れて屹立していた人物のみが、そのあり方をしっかりと相対化できたのではないだろうか。教員不正採用事件やキャノンの工場誘致問題で徹底的に県政に切り込んだ永井が「トリニータには公的支援をすべきだ」と、発言することは極めて興味深い』

溝畑宏にとっての最大の不幸は、彼の行動を適切に評価してくれる有力者がいなかったことだろう。大分の発展のためにゼロからクラブチームを作り上げた男は、しかし大分の政財界やサポーターから嫌われ続けた。彼らも、本書に書かれていることを知れば、恐らく考えを改めることだろう。溝畑宏という人間を、正しく評価できるに違いない。しかし、溝畑の性格や様々な組織の軋轢など、様々な要因が絡まりあって、結局溝畑は正しく評価されないまま、不本意に大分トリニータを去ることになってしまった。

どれだけ凄いことをやってのけても、それを正しく評価できる人間がいなければ物事は回っていかないし、歴史が歪んで伝わってしまう。僕は、常に問いかけるようにしている。人や物事を、他人の意見だけで判断してしまっていないか、と。人や物事に対する自分の評価は、自分の内側にある考えによって構成されたものなのか、と。他人がどう言っていても、自分が直接見たり聞いたりするまでは判断を保留にしろよ、と自戒している。

それぐらい意識しなければ、正しく判断することは出来ないと思っているのだ。

内容に入ろうと思います。
本書は先述した通り、W杯を大分県に誘致するためにゼロからクラブチームを作り上げ、スポンサー探しに奔走しながら、県リーグから出発してチャンピオンに導くというJリーグ史上初の快挙を成し遂げながらも、間違った現状認識によって失墜させられた「暴走社長」である溝畑宏を描いた作品だ。

著者は自身のスタンスをこんな風に書いている。

『ことわっておくが溝畑の擁護をする気はさらさらない。私はむしろ長い間、アンチ溝畑の書き手であった』

著者は雑誌上などで、アンチ溝畑の論調の記事を書いていたという。しかし、大分トリニータの内情を調べていく中で、どうも溝畑宏という人物像が違って見えてきた。監督や選手から信頼され、常にお金に苦労しながら給料の遅配は一度もなく、スポンサーを速攻で口説き落とすほどの夢を語り、その夢を現実のものとし、私費を投じ離婚までして大分トリニータに人生を捧げてきた男。溝畑宏という男のイメージが変わっていった。

本書では、溝畑宏が自治省に入省した頃の話からスタートする。官僚とは思えない型破りな存在感を放ち続けていた男は、著名な数学者である父の一言がきっかけでサッカーにのめり込むことになる。大分トリニータというクラブチームを、作り上げた溝畑宏の視点から、そして溝畑宏を支え続けた者たちの視点から、そして県庁を含む大分県の視点から描き分け、「大分トリニータを壊した男」という溝畑宏のイメージがどのように作り上げられていったのかを丹念に追っていく。サッカーのクラブチームの話ではあるのだが、話はむしろ会社経営の話であり、地方政治の話である。サッカーに詳しくなくても(僕は全然詳しくない)、面白く読めるだろう。

溝畑宏の存在感は圧倒的だ。夢を語る力、その夢を実現に導く力、一緒に夢を見る相手を見つけ出し口説き落とす力、官僚でありながらプライドの欠片も持たずに奉仕できる力、現状を認識して必要なものを差配し、特には非情な決断を下して必要ないものを排除する力。それらすべての力が圧倒していた。その手腕は、J2という下部リーグにいたチームが、大分とは無関係の企業から何度も大金を引っ張ってくる、という事実だけ見ても理解できるだろう。民意によって生まれたわけではなく、地元政財界もまったく協力的でなかったクラブチームを何年も存続させ、さらに優勝にまで導くのは、並大抵の努力ではなしえない。

『溝畑のファイン・プレーは本人が講演で語る「ゼロから日本一のチームをつくった」ことではなく、叩かれても嫌われても全部自分でのみ込んだ愚直な献身にあった』

著者は本書の最後で、溝畑をそんな風に評している。『努力して、究極の努力をしてできないなら私は納得します』とは溝畑自身の言葉だが、その言葉に見合った、常軌を逸した努力をし続けた溝畑という男の凄さは、本書を読んで何度も実感することだろうと思う。

そんな溝畑を支援し続けた者たちもまた魅力的だ。トリニータの初期を支えた、朝日ソーラーの創業者である林は、大分から全国へと快進撃を続ける精鋭の営業部隊を育て、あのトヨタと対等のパートナーシップ契約をした男だ。中興の祖であるペイントハウスの創業者である星野も、中卒でありながらリフォーム業界を16兆円規模の市場に引き上げた。パチンコチェーンの「マルハン」の創業者である林は、朝鮮人でありながら日本国籍を持ち、パチンコチェーンのイメージ回復のために、どんな超優良企業よりも透明度の高い経営をすると決心して、パチンコ業界のイメージ回復に貢献した傑物だ。彼らは皆、溝畑が語る夢に共鳴して、広告の宣伝効果という意味合いを超えたところで大分トリニータに大金を投じた者たちだ。他にも、スポンサーや溝畑の周りの人間など、溝畑の夢を支え伴走した者たちの奮闘があって初めて溝畑の無謀な挑戦は形になった。溝畑の、人を巻き込み、金を引っ張り、結果を出し続けるという手腕を認め、評価し、頼りにしていた者たちの数多くの証言から、巷間知られているのとは違う溝畑像がジワジワと浮かび上がってくる過程は読みどころ満載だ(とはいえ僕は、そもそも溝畑宏という男を本書を読むまで知らなかったのだけど)。

そして、最後の最後まで溝畑とは敵対的な位置を占めていた大分の政財界の様子も、非常に興味深い。本書はサッカーのクラブチームの経営の物語だが、ここで描かれていることは、地方がなんらかのブランディングをする際に非常に重要な事柄が描かれていると感じた。ブランディングの仕方によって、地方同士にも多大な格差が生まれ始め、自分が住む地をどうアピールしていくのかを常に問われ続けている現状に対して問いを投げかける作品でもあるのだ。

著者は取材を続けていく中で、「溝畑憎し」の感情の源泉にたどり着く。そしてそれは、溝畑宏という男の問題ではなく、地方政治の問題であったのだ。大分の政財界が何故溝畑に非協力的だったのか。その原因を明らかにせずに、溝畑一人にすべての責任を被せて知らん顔を決め込んでいる面々に、著者は厳しく迫る。

また、大分トリニータの、民意によるものではないという成立過程の不幸さは、地方が地方主導で何らかのブランディングをする際には確実につきまとってくる問題だろう。大分トリニータは、他のクラブチームとは違い、地元民が望んで出来たチームではなかった。W杯のために必要だったから作ったわけで、大分にクラブチームが存在していることが重要だった。それは特殊なことではなく、地方行政が何かを始めようとする際、同じようなケースはそこかしこに存在するだろう。その場合、どうやって民意を取り込んでいくのか。

『2000年に大分市内で乗ったタクシー運転手にトリニータの話題を振ると、初老のドライバーは「あれは知事と県の官僚がやっているだけですよ」と首を振った』

民意が盛り上がらない状況を打破するために溝畑がしたのは、勝つことだ。勝てるチームを作ることだ。溝畑のその方向性は、正しかっただろう。実際に大分トリニータは強くなった。溝畑がトリニータを解任される直前などは、『Jリーグで一番いいサッカーをしているのは大分です』と評されるほどのチームだった。大分のサポーターもどんどん増え、盛り上がりを見せていた。
しかし結局、溝畑に不備がなかったとはもちろん言わないが、地方行政の不手際と判断ミスにより、民意をうまく取り込むことができなかった。本書を読み込むことで、ブランディングの際に地方行政が必要とされる役割が何であるのかが捉えられるのではないかと思う。

溝畑宏というとんでもない存在感を放ち続けた毀誉褒貶の男と、Jリーグ最高と言われたチームを擁しながら生かしきれなかった地方行政という二つの柱を描き出す作品で、サッカーという枠組みを超えて読まれてよい作品だと思う。

木村元彦「爆走社長の天国と地獄 大分トリニータVS溝畑宏」

ルポ虐待 大阪二児置き去り死事件(杉山春)

『だが、大人たちの厳しい意見の前で、自己主張ができなくなるのが、自尊感情が弱まっている若者の特徴だ』

昔の僕もそうだった。だから僕は、自分の経験としてこう言いたい。

助けを求めることは、とても難しいのだ、と。

本書で、二児を置き去りにして死なせた母親として登場する「芽衣さん(仮名)」と僕とでは境遇はまるで違う。正直芽衣さんと比べれば、僕が置かれた状況など大したことはない。だから単純に比較は出来ないにせよ、自分ではどうにも出来ないと感じている現実が目の前にあったこと、自分ではどうにも出来ないと思っていながら助けを求めることが出来なかったこと、自分ではそんなこと全然望んでいないのにそうする以外に仕方なく酷い状況が現出してしまったこと。そういうことは僕も同じだった。

芽衣さんと僕の差は、もしかしたらほとんどなかったかもしれない。昔の僕が芽衣さんと同じ立場に立たされていたら、かなり近い行動をしてしまっていたかもしれない。まったく同じ状況にはきっとならなかっただろうが、芽衣さんの行動を否定できない自分がいる。

自分がそういう状況に置かれると、まともな思考が働かなくなる。僕もそうだった。一日中テレビを見ながら、頭の中がひたすらグルグルしていた。自分では何か意味のあることを考えているつもりでいるのだが、それはただどこにもたどり着かない袋小路でウロウロしているだけだ。そういうことにすら気づかないし、自分が何を考えればいいのか、何をすべきなのかなども、ちゃんとは分からなくなっていく。

だから、そういう人間が助けを求めることが出来なかったとしても、それは仕方がないことなのだと僕は感じてしまう。

だからと言って僕は、周りの人間がもっと気づいてあげるべきだ、などと言いたいわけでもない。それも無理だ。確かに、何かおかしくなっているという兆候は見えることがあるかもしれない。でも、はっきりと分かることは少ないだろう。僕も、自分の頭がどれだけグルグルしていても、外側にはそれなりに真っ当な自分を見せていたような記憶がある。

『良い奥さんだと見られることが大事だった。困難で惨めな自分の姿を認めることができない』

どれだけ自分がダメになっていても、そのダメな感じを知られたくない、という気持ちは残る。だから、他人に自分の状況を悟らせないように行動してしまう。だから、周囲が気づかなくても仕方ない。確かに、明らかな兆候が見えるなら、何か出来ることがあるかもしれないと思って欲しい気持ちもある。けど、大抵の場合、困っている人間の困窮度を周りの人間が推し量ることは困難だろう。

『芽衣さんは、離婚の話し合いの場で、「私は一人では子どもは育てられない」と伝えることができれば、子どもたちは無残に死なずにすんだ。その後も、あらゆる場所で、私は一人では子育てができないと語る力があれば、つまり、彼女が信じる「母なるもの」から降りることができれば、子どもたちは死なずにすんだのではないか。そう、問うのは酷だろうか。だが、子どもの幸せを考える時、母親が子育てから降りられるということもまた、大切だ。少なくとも、母親だけが子育ての責任を負わなくていいということが当たり前になれば、大勢の子どもたちが幸せになる』

今の僕は、降りることに成功した。だから、昔の僕とは違って、今ならたぶん他人に助けを求めることが出来るような気がする。ダメな自分を見せることが出来るのではないかという気がする。僕も、「ちゃんとした自分」というものに囚われていて、そこから降りることが凄く難しかった。そこから降りられなかったことが、色んなことの原因だったのだなと、後から振りかえってそう思えるようになった。

今では、降りることが出来たから気が楽だ。でも現代社会には、降りられなくなっている人が山ほどいるのではないかと思う。

『母親になることを願った芽衣さんは、妻の地位を失った時、アイデンティティの基盤を失う。就労を可能にする教育を受けられなかった者として、自尊心をつなぎ止めるのは「男性に選ばれる私」しかいない。「男性と関係がある私」という商品となる。
SNSはいわばそんな芽衣さんのショーウィンドウだ』

『本当に子育てをしているかが重要ではなく、「メディア」を通じてみせること。それが現実となる』

『他者から拒否され、嫌われることへの怯え。人が「選別されるべき存在」となった現代社会で、社会の一員になり切れないと感じる若者たちが当たり前に抱える感情を芽衣さんもまた深く抱えていた』

芽衣さんについて書かれたこれらの文章が当てはまる人は、現代社会にはとても多いのではなだろうか。他者から認められることが重要であるという価値観があり、他者から認められなければ自分の存在を肯定できない。そして、その肯定を得られなかったが故に行き着いてしまったのが、この事件の結末なのだ。

だから、この事件は、決して他人事ではない。確かに芽衣さんは、解離性の人格障害を抱えていたらしい(裁判では認められなかったようだが)。それ故に、通常以上に酷い結果を引き寄せてしまったという部分もあるだろう。でも、程度の大小はともかくとして、芽衣さんのような状況に陥る人は、僕も含めてだったけど、決して少ないわけではないはずだ。

『本当に大切だった。命よりも大切だった。それなのに亡くしてしまった』

二人の子どもを最後まで愛していたと主張する芽衣さんは、殺意を否定する。しかし裁判では殺意が認定され、児童虐待死事件としては異例の懲役30年を言い渡される。しかし、事件の推移や芽衣さんを取り巻く環境などを踏まえて考えると、芽衣さんにすべての罪を着せて事件を終結させるのは間違っているという感覚を得るのではないかと思う。

芽衣さんは現実ときちんと向き合う心の強さを持てない人ではあったが、少なくとも子どもに対して最も責任を感じ、その責任を果たそうと意志を持っていた人間だった、と言うことは出来る。母親なんだから当たり前じゃないか、という人間がいればそれはちょっと古すぎる考え方だし、だからと言って芽衣さんの行為は許されるものではないと言う人間がいれば、芽衣さんの周りの人間の無関心さを知らない。芽衣さんの両親も、芽衣さんの元夫も、元夫の両親も、誰も芽衣さんとその二人の子どものことを真剣に考えようとしなかった。突き放したり、無関心だったりという態度を取る。それでいて、裁判では、元夫やその両親が、「遺族」として芽衣さんに厳しい処罰を望む発言をしている。正直、彼らには芽衣さんを糾弾する資格はないように思える。あなた方は、芽衣さんにもっと手を差し伸べるべき人だったのではないか、という思いは拭えない。

『子どもたちが安全に、守られて暮らすためには、どれほど母親の安全と安心が必要か』

母親の安全と安心がどんどんと奪われている現代社会。その中で僕たちはきっと、知らず知らずの内にそれらを奪い去ることに加担しているに違いない。加担する側にも、そして奪い去られる側にもならないように、本書を読んで現実をきちんと認識しておくことは大事かもしれない。

内容に入ろうと思います。
2010年7月30日、大阪ミナミの繁華街近くにあるワンルームマンションの一室で、三歳の女の子と一歳八ヶ月の男の子が変わり果てた姿で見つかった。子どもたちはクーラーのついていない部屋に閉じ込められた。外からガムテープで塞ぎ、南京錠を掛けて部屋の外に出られないようにしていた。引っ越し以来一度も捨てられなかったという堆積されたゴミの中で、服を脱ぎ折り重なるようにして亡くなっていた。内蔵の一部は蒸発し、身体は腐敗し、一部は白骨化していたという。
母親である芽衣(仮名)さんは、50日間も子どもを放置して男と遊んでいた。その様子をSNSに投稿していた。それでも彼女は、子どもを愛していたし、どうしてこんなことになってしまったのか分からない、と語っている。

著者は、そんな芽衣さんの言動を理解しようとして、芽衣さんの周囲の人間に取材を続ける。そして、「自分勝手で子どもに愛情を持たない母親が身勝手にわが子を放置し死に至らしめた」という事件の見方を変えさせた。僕は本書を読んで、確かに芽衣さんのしたことは許されることではないが、芽衣さんこそ一番の被害者だったのではないか、と感じられてならない。そして、誰しもが芽衣さんと同じ場所に立つ可能性があるのだ、と。

僕はそもそも子どもに興味がないし、結婚にも関心がないから、結婚も子育ても恐らくはすることはないだろう。そしてその判断には、自分が子どもを育てたら、どこかで必ず子どもに不幸を与えるようなことをするはずだ、という自分の感覚がある。それが暴力なのか、無視なのか、金銭面でのことなのか、それは分からないけど、ただ僕が子育てをすると子どもは不幸だ、という感覚が僕の中にはある。ただの思いこみだと言われるかもしれないし、実際その通りだと言われればそうなのだけど、僕はこの点において自分を信じることが出来ない。

『芽衣さんは自分を守る力を持っていたのかどうか。周囲の期待を敢えて無視すること。それは、時にはわが子を守ることでもある』

僕は自分が芽衣さん側の人間だという自覚がある。この自覚は、とても大事だと思う。結婚や子育ての良い部分だけを夢見て憧れて結婚する人は多いだろうが、その結果、離婚や虐待は増えている。そもそも結婚に向かない人、そもそも子育てに向かない人というのは絶対にいると思うし、そういう自覚をどこかで受け入れることが大事ではないかと思う。しかしきっと多くの人は、そういう自分の存在に気づくことなく結婚や出産を経験する。その結果、痛ましい事件が起こる。

もちろん、結婚や子育てを通じてしか分からないこともある。最初から諦める姿勢を気に食わないと感じる人もいるだろう。しかし、大人がきちんと考えずに行動するせいで、何の罪もない子どもが苦労するというのは、僕は嫌だなと感じる。

本書を読むと、本当に様々なところに、「ちゃんとしていないことを糾弾される場面」が見え隠れすることが分かる。僕たちは、どんな場でも完璧を求められるような、とても窮屈な世の中に生きている。世の中の風潮が、もっと「失敗した人間」「間違った人間」に寛容であれば、みんなもう少し生きやすくなるだろう。しかし、世の中はどんどん、「失敗した人間」「間違った人間」に厳しくなっていく。そのせいで、社会にうまく馴染むことが出来ない人たちが無用の苦労をさせられることになる。

『価値がないものとして扱われている自分自身を受け入れることは、この上もなく困難なことだ』

この本は、芽衣さんという、傍目に見れば残虐な行為をした極悪非道の人間を追った作品であるように思えるだろう。しかし実際はそうではないと僕は思う。本書は、芽衣さんという一人の人間の人生を追うことで、社会全体を、そして本書を読んでいる僕ら一人ひとりに刃を突き立てる作品なのだ。

『精一杯の勇気が届かない。芽衣さんは社会への信頼をもはや持てない』

僕は、社会全体がもう少し寛容であってほしい、と思っている。先程も書いたが、社会が窮屈だからこそ、社会からはみ出してしまう人間の行き場がなくなり、SOSが届かなくなるのだ。そんな風に思っているから、僕自身は、出来るだけ、他人に寛容であろうという意識は持っている。少しのミスで怒ったりイライラしたり、そういうことをしないように意識している。そういう意識が、最後には自分のところにきちんと返ってくる。僕はそんな風に考えている。

『子どもの幸せを考える時、母親が子育てから降りられるということもまた、大切だ。少なくとも、母親だけが子育ての責任を負わなくていいということが当たり前になれば、大勢の子どもたちが幸せになる』

こういう世の中を実現できるように、僕ら一人ひとりの行動を変えていくべきだと僕は思う。 

杉山春「ルポ虐待 大阪二児置き去り死事件」

神様の裏の顔(藤崎翔)

これは面白い作品だなぁ。
いつものように考えたことをあーだこーだ書くような感想にはならないんだけど、物語として本当によく出来ている小説だと思います。

内容に入ろうと思います。
物語はすべて、ある人物の葬儀で完結する。
その人物とは、神様のような清廉潔白な教師・坪井誠造だ。死の直前はもう教師を退職し、貧困家庭や不登校の子どもを支援するNPOに参加していたが、それ以前は中学校の校長をしていた。校長室を開放し、不登校気味の生徒を気軽に通わせる試みが話題を呼び、見学者も相次いだ。どんな人からも慕われ、こんなに素晴らしい教師は他にいない、と絶賛されるような、人間の鑑のような人物だった。
その坪井先生が亡くなった。
葬儀には、多くの参列者が集まった。葬儀社員はこの光景を異様なものと見た。普通参列者の多い葬儀は、個人にゆかりのない人間も動員が掛けられていることが多い、泣いている人間の割合は多くない。しかしこの葬儀は、参列者の8割方が泣いている。しかも、子どもも多い。子どもたちも号泣している。こんな葬儀見たことないと感じるほどの光景だった。
その葬儀の場で出会った面々がいる。彼らは生前何らかの形で坪井先生と関わっており、その死を悼んで葬儀にやってきたのだ。
坪井誠造の娘で、父の背中を追って小学校の教師になった晴美。そして、晴美の妹で、売れない女優の友美。坪井先生の教え子で、晴美と同級生だった斎木直光。坪井先生の元同僚で、厳しい指導で生徒から嫌われまくっていた体育教師の根岸義法。坪井家の隣に住む、認知症を患った夫の介護に奔走していた主婦の香村広子。坪井先生の教え子であり、また坪井誠造が大家である「メゾンモンブラン」の住人であるギャルの鮎川茉希。同じく「メゾンモンブラン」の住人で売れない芸人である寺島悠。
この面々が、ほんのちょっとした聞き間違いをきっかけに、葬儀の場で偶然に集まることになる。そしてそこで驚愕の展開が待ち受けているのだ。
…もしかしたら坪井先生は、極悪人だったのではないか。そんな疑惑が浮上したのだ…。
というような話です。

これは面白い作品だったなぁ。とにかく、最初から最後までよく出来ている。全体の構成や設定が見事なのはもちろんのこと、元芸人という著者の経歴からだろうか、登場人物のキャラクターが非常に面白く描かれている。葬儀が舞台になっているのに、クスッと笑わせにくるような描写や展開があちこちに待ち構えていて、読んでて楽しい。色んな人物の語りに入れ替わっていく多視点の物語で、そういう視点の移動が苦手という人もいるかもしれないけど、たぶんこの作品は大丈夫だろう。それぞれが非常に個性的だし、それぞれにエピソードがしっかりとあるので、人物を混乱することもないし、視点の切り替えに違和感を抱くこともきっとないと思う。

登場人物の魅力については、ちょっと読んでもらわないと分からないのでここではあまり触れないので、別の話をしよう。
とにかく、よくこんな物語考えたもんだなぁ、と思います。
先程も書いたけど、とにかく全体の構成が見事です。基本的にはミステリなので、ネタを明かしすぎないようにあまり深入りはしないけど、幾つもの「疑惑」を並べて、それらが色んな人間と関わるように描き、さらにそれぞれの「疑惑」に対してそれ以降の展開を考える、というなかなかアクロバティックなことをやっているんです。もちろん、じっくり読めば細部に色々と無理があったりするのかもしれないけど、そんなこと気にならないぐらいよく出来ている。本書のようなスタイルのミステリを、他にパッと思いつかないなぁ。本書のような展開のさせ方をする「疑惑」をいくつも考えるのは相当難しいだろうし、それをややこしくないように、誰でも理解できるように書くのもまた技術が必要でしょう。さらにそれらの「疑惑」が、登場人物たちの人生の過去を様々な形であぶり出していくことにもなるわけで、いやホントに、よく出来てるとしか言いようがない作品です。

タイトルから、ストーリーがどんな風に展開していくのか、その大きな流れはたぶん分かると思います。でも、その展開のさせ方までは想像出来ないでしょう。僕も、それぞれの「疑惑」が、ここからどうなるんだろうなぁ、と思いながら読んでました。ホント、うまいことやるんですよね。しかもそれで終わらない、というのがこの物語の凄いところで、どこまで「裏」があるんだって思っちゃいました。

それぞれの登場人物のエピソードもそれぞれ面白いんだけど、どうしても「疑惑」とか物語の大事な部分に関わっちゃう感じがするんで、あまり書けないんだよなぁ。それに、何も知らないで読むほうが絶対に面白いと思います。

個人的には、彼らが集まって議論をするきっかけになった「聞き間違い」が凄くよく出来ていると思いました。あの「聞き間違い」さえなければあの議論にならなかったのか、と思うと凄く重要な場面です。そんなバカな!というようなところから話が芋づる式に展開していって、ついには「疑惑」大会が開かれちゃうという流れは、これもやはり元芸人の成せる技というんでしょうかね、見事だと思いました。

ほとんど物語に触れられないのでこんなモヤモヤした書き方しか出来ないのだけど、様々な伏線を綺麗に回収し、テンポよく物語を進め、登場人物を魅力的に描き出し、物語を実にうまく展開させる、見事な小説だと感じました。

藤崎翔「神様の裏の顔」

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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)