黒夜行

>>2017年01月

はじめて考えるときのように(野矢茂樹)

「考える」というのを、僕らは割と当たり前にやっている。
やっているつもりだ。
でも、本当に「考える」ということをしているのか、どうやって確かめたらいいだろう?
そう聞かれると、とても困るのではないか。
何故なら、改めて考えてみると(「考える」を使っちゃった)、「考える」というのがどういうことなのか、ちゃんと考えたことがないからだ。

勉強をしている時は考えてるよ、と言うかもしれない。でも、暗記したり計算したりしている時、あなたは考えていると言えるだろうか?それは、「暗記する」「計算する」ということでしかなくて、「考える」というのとはまた違うのではないか。

企画のアイデアをいつも考えてるよ、と言うかもしれない。確かにそれは「考える」という行為かもしれない。でも、企画のアイデアを考えている時、あなたは一体何をしているだろう?「考える」ことをしてるんだよ、というかもしれない。でも、それがどういう状態なのか、どういう手順で行っていることなのか、誰かに説明できるだろうか?

そう考えてみると、「考える」というのは確かに捉えにくい。僕も、「考える」というのがどういうことなのか、「考える」ことをしている時自分が何をしているのか、うまく説明できない。

本書は、そういう事柄に説明を与えようとする作品だ。

なーんだ面白くなさそう、と思う人もいるかもしれない。しかし、こう考えて欲しい。本書は、あなたが「考える」ということをするのに必要なものを与えてくれる本なのだ、と。

「考える」ことが苦手、と感じている人がいるとしよう。ハウツー本を読んだり、ちょっと難しいことを考えてみたり色々やってみるんだけど、どうもうまく「考える」ことが出来ていないような気がする。そういう人は結構多いんじゃないだろうか。

一体何が問題なのだろう?(こういう問いかけも、まさに「考える」ことだ) それをスパッと理解することは難しい。でも、こんな例を間に挟んでみたらどうだろうか?

例えばあなたが料理をするとする。けれどあなたは、「包丁(に限らず、何かを切るための道具全般)」の存在を知らない、としよう。「包丁」の存在は知っているけど手近にない、のではない。「包丁」の存在を知らないのだ。

さて、野菜を切りたい。「包丁」を知らないあなたはどうするだろう?キャベツぐらいなら手でちぎれるかもしれない。でも、ジャガイモの皮はどう剥く?大根はどう切る?トマトをどうスライスする?あなたは、指や爪、しゃもじやお玉など、色んな道具を使って野菜と格闘するだろう。

そしてこう思う。

「あー、料理って難しい」

さて、この感想をどう思うだろうか?もちろん料理には色んな手順があるが、今あなたが苦労しているのは野菜を切る工程だ。そしてこの工程は、「包丁」さえあれば困難さはグンと減る。

あなたの料理の風景を、「包丁」の存在を知っている人が見れば、「包丁を使えばもっと楽なのに…」と思うだろう。

さて、「考える」に戻ろう。
「料理」にとって「包丁」が大事なように、「考える」にとって「◯◯」が大事だ。そして本書は、その「◯◯」を教えてくれる作品なのだ。「考える」ことが得意な人は、「考えるのって難しい」って思っている人を見て、「◯◯」があればもっと楽なのに、と思う。けど、「考えるのって難しい」と思ってる人は「◯◯」の存在を知らないから、いつまで経っても「考える」ことがうまくならない。

そして本書は、そんな「◯◯」を教えてくれる作品なのだ。

「◯◯」ってなんなんだよ、と思うかもしれない。けど、これは一言では表せないのだ。だから本書がある。「考える」ことに必要なものが「包丁」みたいに簡単に表現できるなら本書は要らない。本書を読むと、「◯◯」が何なのかはうまく説明できないけど、でも「◯◯」を手に入れることが出来る。そして、その「◯◯」を使って、あなたは「考える」ことをそれまでよりは楽に出来るようになるのだ。

なんとなく、本書がどんな本なのか分かってもらえただろうか?

「料理」は、自然にするようにはならない。誰かが料理をしているのを見たり、誰かから料理を教わったりしながら、徐々に出来るようになっていく。でも僕たちは、いつから出来るようになったのか覚えていないくらい、いつの間にか「考える」ということをしている。誰かが「考える」のを見たわけでも、誰かから「考える」ことを教わったわけでもなく、いつの間にか気づいたら「考える」ことをしていたという人がほとんどだろう。そういう、あまりにも当たり前の行為だから、逆に「考える」ということがイマイチ分からない。「料理」は、初めは分からないところからスタートする。やっていく内に徐々に分からないことが少なくなっていく。でも「考える」ことは、別に分からないことはない。「考える」ことを始めた時から、特に「考える」ことに対して疑問を感じない。こうやって、「考えるってどういうこと?」という問いかけをされて初めて、「考える」ことが分からないことだらけだということに気づく。

「考える」ことは自然に出来るようになっていたから、何が重要で、何に気をつけなくてはいけなくて、何を手放してはいけないのかも、実は分かっていない。本書は、そういうことを丁寧に説明し、また一緒に考えていきながら、「考える」ということに不可欠なもの(これを「◯◯」と呼んでいる)を読者に伝えようとする。

だから本書は、「考える」ことが苦手だという人にも、「考える」ことが得意だという人にも読んで欲しい。「考える」ことが苦手だという人は、「考える」ことそのものについて考え、その上で「◯◯」を手に入れて欲しい。「考える」ことが得意だという人は、本書を読んで、自分がちゃんと「◯◯」を持っているのか、確かめて欲しい。

内容に入ろうと思います。
が、本書がどんな本なのかは、ここまで書いたことで大体説明しちゃったんだよなぁ。「哲学」と書いてあるけど、「哲学の知識」の本ではない。哲学の考え方を使って、「考える」について分析して、「考える」に必要な「◯◯」を垣間見せてくれる作品、という感じです。

横書きだし、イラストもついているし、語り口調も難しくない。とてもとっつきやすい本だ。書いてある文章をさささっと読んでしまうことは出来る。でも、書かれていることをきちんと吟味しようとすると、本書の骨太さが実感できる。「考える」ことはみんなが当たり前にやっていることだから、それを言葉で説明したり、その不思議さを理解させたりすることは、なかなか難しい。でも著者は、平易な言葉で、出来るだけ出来るだけ簡単に、「考える」ということの本質を見せようとしてくれる。

本書の中で書かれていることの一部を切り取って見せることはとても難しいから、切り取って伝えやすい部分だけちょっと紹介してみよう。

『無知や無秩序から問題が生じるんじゃないということ。むしろまったく無知だったり無秩序だったりしたら問題は生まれようもない。いろんな知識をもち、いろんな理論を引き受けるからこそ、問題は生じる。だから、別に奇をてらった言い方ではなく、学べば学ぶほど、よりたくさんのことが鋭くより深く問えるようになる。そういうこと。』

無知だったら問題は生まれない、というのは、まさに「考える」に対しても同じだ。僕らは、「考える」ということに無知だ。だから、「考える」ということに疑問を感じない。

本書の中には、「惑星」のエピソードがある。「惑星」というのはその名の通り、「惑う星」だ。昔の人は「惑星」を「さまようもの」として捉えたのだ。
何故か。

『いまの惑星の場合だと、惑星が「さまよう星」として問題になったのは、「たいていの星は円運動をする」ということが認められたからだった。つまり、規格はずれのものごとが問題として姿を現すわけだけど、そのためにはまず規格がなければならない。だから、長い時間がかかる』

これはなるほどと思っていただける分かりやすい例だ。本書では、「考えることは、問題をきちんと捉えることだ」というようなことが繰り返し語られるのだけど、問題をきちんと捉えるためには、まずその背景にある規格を捉えなければならないのだ。

また問題については、こんなことも書かれている。

『問われて、それに答えるために何をすればいいのかわかっている問題は、答えるのに考える必要はない』

例えば、「この王冠の重さは?」と聞かれれば秤で重さを測ればいい。ここに「考える」ことは必要ない。けど、「この王冠の体積は?」と聞かれたらどうか?大学の研究室にあるような機械であれば測れるかもしれないが、そういうものがなければどうしたらいいだろう?(この王冠の話は、アルキメデスの有名なエピソードだ)

「この王冠の体積は?」という問題は、問われた時に何をすればいいか分からない。この問題を解決するには工夫がいる。こういう時に「考える」ことが必要になるのだ。

さらにこんな文章もある。

『試験などでも、教師は答えを知っているから、問題をうまく作れる。逆に、答えを知らず、答えの方向もわからない人には、うまく問題が立てられない。だけど問題がうまく立てられないと、うまく答えることもできない。
じゃあ、答えがわかる前に、どうやって問題を立てればいいのか』

これもなかなか難しい問いだ。

こんな風に、様々な問いかけや思考実験をすることで、「考える」ことがどういうことなのかを明らかにしていく。

引用が長くなるのでここでは詳しく紹介しないが、「R2D1」の話も非常に面白い。これは、人工知能につきまとう「フレーム問題」に関わる話だ。人間と同じことを人工知能にやらせようとすると、必ずこの「フレーム問題」がつきまとうことになる。こういう思考実験を知ると、人間がいかに奇妙なことを普段からしているのかということがよく分かる。

最後に、現代社会に痛打を与えるような文章を引用して終わろう。

『その意味では、共感よりも違和感や反感の方がだいじだ。
変なひとと出会う。変なものと出会う。そして、変な本と出会う。この本が、もしきみとって、ささやかでもそんな出会いのひとつになってくれたら、ぼくはすごくうれしいと思う』

僕も普段から、「共感からは何も生まれない」と思っているのだが、その考え方を補強してくれるような文章だった。
共感によって人とつながることが一番大事であるかのような風潮のある現代社会を一度見直してみることは大事なことではないかと僕は思うのだ。

野矢茂樹「はじめて考えるときのように」

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「弱さと強さの奇跡的なバランスが生み出す“西野七瀬”というアイドル」

西野七瀬を捉えることは、本当に難しい。そもそもあまり喋らない。僕は基本的にテレビと雑誌でしか乃木坂46を見ないが、テレビの中の西野七瀬は聞かれなければ自分からは発言しないし、雑誌のインタビューでも、発言の合間に「(ここで沈黙)」などと書かれるくらい、スムーズな受け答えにならないことが多い。次どんな発言をするのか、次どんな表情をするのか、全然読めない。言動のベースや核となっているものをうまく捉えきれない。

しかし、西野七瀬の振る舞いや発言に触れることで、僕の中で西野七瀬を切り取るキーワードが見えてきたように思う。

それが「弱さと強さの奇跡的なバランス」だ。

西野七瀬の「弱さ」は、様々な形で表に現れる。自信のなさやネガティブな感じは、言動に如実に現れ、それが西野七瀬のパッと見のイメージを作り出している。

【ステージでは、なるべく行ってない場所をなくそうと意識しています。同じところばかりに行くと、「またか」みたいな人もいると思うので…】「BRODY 2016年6月号」

【…正直、「私をセンターにして大丈夫なの?」「乃木坂46がとんでもないことになっちゃう」って思ってました。申し訳ないって気持ちが大きかったです。それに、私がセンターになることで、絶対にイヤがる人もいるわけじゃないですか。怖かったですね】「乃木坂46物語」

そういう在り方は、子どもの頃からだったらしい。というか、子どもの頃の方がさらに酷かったと言えるかもしれない。

【正直、中学時代、何をしていたか覚えていないくらいです。男子ともしゃべらないし、「話しかけないでください」っていうオーラを出してたと思います。話しかけられても、相手の顔を見れないんですよ。目が合っても、すぐにサッてなっちゃうタイプ。クラスに男女関係なく、誰とでも話せるコがいたんです。そのコは、…私とも仲良くしてくれてて、すごく憧れていました】「乃木坂46物語」

【それに私の中学校時代って、本当に何も楽しいことがなかったんですよ。】「乃木坂46物語」

乃木坂46は西野七瀬に限らず、自己評価の低いメンバーがとても多い。そういうメンバーが多くいるからこそ西野七瀬も受け入れられているし、乃木坂46だからこそ西野七瀬はトップアイドルになることが出来たと言えるだろう。人見知りで自己主張が苦手である彼女が、他のアイドルグループの中で人気を獲得できるイメージを掴むことはなかなか難しい。

西野七瀬に対しては「守りたくなるような雰囲気を感じる」という話をよく耳にする。これも、彼女の「弱さ」から醸し出されていると言っていいだろう。実際に僕も、西野七瀬が時折見せる表情から、このまま消えてしまうんじゃないだろうか、というような儚さを感じることがある。だから、自分が守ってあげなければ、という気持ちになることもよく分かるし、それが人気に繋がっているというのもとても良くわかる。

しかし当然ではあるが、ただ「弱い」というだけで人気が出るはずもない。西野七瀬の中には、「弱さ」以外の何かがある。しかし、それをきちんと捉えるのがとても難しかった。

西野七瀬が「弱さ」と共に兼ね備えているのが「強さ」だ。そしてこの「弱さ」と「強さ」が絶妙なバランスを保っていることで、西野七瀬のあの雰囲気が醸し出されるのだと感じる。

西野七瀬の「強さ」は、思考や妄想などに発揮される。

【私は「求められていること」が分かってないので、自分が思うようにずっとやってきたという感じなんです】「EX大衆 2017年1月号」

【誰かが「こうしたほうがいい」といってくれるわけじゃないので、全部自分で決めて、自分で「これがいい」と思ったやり方を選んでいって。どこかで否定されていたかもしれないけど、その声は私に届いていなかったから】「EX大衆 2017年1月号」

こういう発言は、「弱い」西野七瀬のイメージとはかけ離れている。控えめに言っているが、この発言から見えてくる西野七瀬は、とても「強い」。

西野七瀬が「弱い」側面しか持っていないとすれば、自分の言動や進むべき道について誰かに相談していてもおかしくない。しかし実際は、この発言から分かる範囲では西野七瀬は誰にも相談しないで決めているようだ。それは、「相談しない」のではなく「相談できない」のだという可能性もあるが、僕は「相談しない」のだと思う。僕の考えでは、まさにこういう場面でこそ西野七瀬は「強さ」を発揮できると考えているからだ。

また、こんな発言もしている。

【2,3年前にほかの仕事でも金魚を使っていたんですけど、いまでも「どうなったんだろう」と思い出すことがあるんです】「EX大衆 2016年9月号」

【ありえへんことを想像するのが好きなんです。たとえば、そこのビニール袋に光が反射している部分がいくつあるんだろうって数えるとするじゃないですか。そのうえで、いまの瞬間に同じことを考えているのは何人いるんだろうって。】「乃木坂派」

西野七瀬の思考は、とても自由だ。何にも制限されていないように思える。そして、この自由度は一つの「強さ」だと僕は感じる。
以前「アナザースカイ」に彼女が出ているのを見たことがある。景色のいい場所でイーゼルを立てて絵を描いていたから、てっきり風景を描いているもんだと思っていたら、ちょっと前に見たカメレオンの絵を描いていて驚かされたことがある。こうしなければならない、こうでなければならない、というような発想から解放されているように見える彼女は、「思考の自由度」という「強さ」を持っているのだと思う。

【「変わってる」と思ったことはなかったんですけど、「普通にできない」ことには悩んでました。まわりの女子と好きなモノが一緒じゃないとか、合わないとか、小中学生の時はよく思ってました。かといって、「クラスの端っこにいたい」というわけでもなくて。いま思うとしょーもないんですけど、中学生ってけっこう残酷じゃないですか】「EX大衆 2016年9月号」

この発言からは、自分の思考を大事にしてそれを手放さない「強さ」を感じる。他人と関わることを優先して自分の思考を周りに合わせるというやり方もあったはずだろう。しかし彼女はそうしなかった。そして最終的には、「普通にできない」ことを「強さ」に変えてしまった。

【はい。高校生の時の私のままで生きていたら、いまごろ苦労していたと思います。乃木坂46に入ったことでプラスに変えることができたんじゃないかな。「普通にできない」ことが個性になって、「そこがいい」と思ってくれる方もいるのはよかったですね】「EX大衆 2016年9月号」

西野七瀬には、外からは見えにくいが、確実に「強い」部分があるのだ。

それでは、この「弱さ」と「強さ」はいつどのように発揮されるのか。僕はこう考えている。

他人と関わらなければならない時に「弱さ」が発揮され、一人でいられる時に「強さ」が発揮されるのだ、と。

【メンバーも一緒ですね。仲良くしてもらっているけど、でも、乃木坂46以外の場所ですごく仲がいい存在の子がいるのを知っているので。そういうのをいろいろ気にして距離を置いてしまうというか…。でも、やっぱり私にはそこしかなくて。乃木坂46じゃないところを見ても、誰もいないんですよ】「BRODY 2016年6月号」

誰かと関わる時は、「弱く」なる。

【歌は、新垣結衣さんの「赤い糸」を歌いました。モニターに歌の歌詞が出るんですけど、最終審査の前にスタッフさんに「あまり歌詞を見ないほうがいいかもね」って言われたんで、「秋元さんの顔を見て歌おう」と思ったんです。そしたら、歌詞を間違いまくりました。でも、自分の中で歌詞を作って歌ってたんですよ。堂々と歌ってたから、誰にもバレてなかったと思います】「乃木坂46物語」

一人で出来ることには「強く」いられる(人前で歌うことは、厳密には一人で出来ることではないかもしれないが)。

こういう見方をすると、西野七瀬を少しは理解しやすくなる。

例えば西野七瀬がインタビューなどで沈黙する場面。見ている側は、「喋ることが思いつかないのだろう」と思う。しかし、そうではないのかもしれない。思考に「強さ」を発揮する彼女は、喋るべきことは思いついているのかもしれない。しかし、それを表に出すことは他人と関わることだから「弱く」なって躊躇してしまう。この発言をしてもいいのか悩んでしまう。そういうことではないか。

しかし、それは決して悪いことではない。西野七瀬が思考に「強さ」を発揮できるのは、他人とあまり関わりを持とうとしなかったお陰だろうと思うからだ。友達がいない、とよく発言する彼女は、頭の中で考えたことを外に出す機会がほとんどなかった。だからこそ、外側の影響を受けずに、思考の純粋性を守ることが出来たのではないかと思うのだ。

一方で、西野七瀬のアイドルとしての葛藤もまた、この点に凝縮されている。今まで他人に明かす機会のなかった思考を、アイドルとして表に出すことが求められるからだ。彼女にとってそれは「普通にできない」ことだった。しかし彼女はそのやり方を少しずつ身につけていったのだろう。それは、「笑顔」に関するこんな発言からも類推できる。

【私、最初の頃は全然笑えなくて。笑顔も1パターンしかなかったというか、自分の中での概念的に笑顔ってひとつだと思っていたので。でも、そうじゃないんだ、笑顔にはいろんな種類があるんだっていうことが乃木坂に入ってわかったんです。それがわかってからは、笑顔だけじゃなくて表情も豊かになったねと言われるようになりました。たぶん昔に比べたら、感情をそのまま表に出しやすくなったのかも。昔は活動の全てに緊張して、ただこわばって硬い表情になっていたけど、今はリラックスして撮影ができるようになったと思います】「別冊カドカワ 乃木坂46 Vol.3」

西野七瀬は、自身の「強み」である思考を少しずつ表に出すようになった。そうすることで、「弱さ」と「強さ」が程よいバランスで混じり合っていったのだろう。「人に見せなくてもいい部分は強い。でも、人に見せなくてはいけない部分は弱い」という在り方が、結果的に彼女の魅力に繋がっている。僕はそんな風に考えている。

以前僕は「乃木坂46 MVの中の西野七瀬」という記事を書いたことがある。その中で、「MVの中の西野七瀬は、黙っていても存在感に溢れている」というようなことを書いた。これも「弱さ」と「強さ」のバランスで説明できるかもしれない。

MVは、他人と関わるもの。だから当然、「弱さ」が出ることになる。しかし、MVの西野七瀬の役柄は、彼女自身と同じくどことなく孤独を感じさせる。だからこそ彼女はMVの中で、一人でいるという意識も持てるのではないか。一人でいるが故の「強さ」が滲み出てしまうのではないか。
僕が見ている限り、普通は西野七瀬の「弱さ」と「強さ」が同時に発揮されることはほとんどない。当然だ。「弱さ」は他人と関わる時、そして「強さ」は一人でいる時に発揮されるのだから相容れるはずがない。しかしMVにおいては、両者が奇跡的に同時に発揮されるのではないか。だからこそ、MVの中の西野七瀬にこれほど惹かれるのではないだろうか。

こんな風にして、西野七瀬をうまく捉えられた気になっているのだが、どうしても彼女の性質でうまく組み込めないものがある。それが「負けず嫌い」だ。

その最も有名な話が、秋元真夏とのエピソードだろう。

【…なんか、もう心がぐちゃぐちゃでした。スタッフさんに取り押さえられた後は、「頭を冷やせ!」って言われてずっと座らされてました。今思うと…福神から落ちちゃったけど、選抜には入ってたわけだし、「そんな簡単じゃないんだよ!贅沢だ」って思うんですけどね。そのときは心が完全にダークになっちゃってたんです。それから、真夏とは一切しゃべれなくなってしまって。ほかのメンバーが真夏と話していても、なんか…わだかまりがありましたね】「乃木坂46物語」

乃木坂46に加入するも、活動をする前から活動休止を余儀なくされた秋元真夏が、復帰直後に福神に選ばれた。同じタイミングで福神から落ちてしまった西野七瀬は、秋元真夏と長いことギクシャクした関係だったという、有名なエピソードだ。

【私、乃木坂46に入ってから、じぶんが負けず嫌いだってことを知ったんです。今でもですけど、基本、争い事は嫌いなんです。でも、負けると悔しいんですよ。悔しいから、それがイヤで、ずっと争いを避けていたのかもしれません】「乃木坂46物語」

僕の中でこの「負けず嫌い」という部分が、どうしてもうまく組み込めない。秋元真夏との関係がギクシャクしていたことについては、西野七瀬の「弱さ」の部分で説明できるだろうからいいのだけど、そもそも何故「負けず嫌い」という性質を持っているのか、という部分がうまく捉えきれないのだ。だから、ここまで長々と説明してきた「弱さ」と「強さ」のバランス説は間違っているのだろう。良い線いってるとは思うんだけどなぁ。


【いまは個人の仕事が増えてる分、グループへの想いが薄まっているんじゃないかと疑ってしまう時があるんです。乃木坂46が頑張る場所だと思っている自分にとって、その中身が薄くなるのは怖くて。そんなことを話すとスタッフさんからは「なーちゃんと生駒ちゃんはグループに対する想いが強いから大丈夫」と言われるんですよ】「EX大衆 2017年1月号」

これは、北野日奈子の発言だ。この発言からも滲み出ているが、西野七瀬はアイデンティティの核を「乃木坂46」に置いているメンバーだ。

【でも、最近、変わってきたっていうか、感じるようになったのは、ソロのお仕事が増えてきて、メンバーのみんなとちょっとでも会えなかったりすると寂しくて。久しぶりにただ話してるだけで楽しいんですよ】「乃木坂46×プレイボーイ2016」

【「乃木坂46は曲が良いね」って言っていただくことが多いんですけど、曲を良くしているのはメンバーだと思うんです。メンバーみんなが「乃木坂ってこういうことだ」って理解して行動してると思ってて。それは歌もダンスも、普段の態度も、舞台での動きも。頭で考えてないっていうか。身体で理解して、みんなが同じ方向を向いてるなって思います】「乃木坂46×プレイボーイ2016」

既に引用したが、【乃木坂46じゃないところを見ても、誰もいないんですよ】と語る彼女は、【うーん。基本的に将来には不安しかないんですよ。乃木坂46を卒業しても何をしていいのか分からないなぁってずっと悩んでいて】「EX大衆 2016年9月号」と不安を覗かせる。乃木坂46だからこそトップアイドルになれたという印象を与える彼女が、乃木坂46を離れる日が来たらどうなるのか。全然想像が出来ないが、その想像の出来なさもやはり彼女の魅力になってしまう。【私が表舞台からいなくなっても、どいやさんには頑張ってほしいんです】「日経エンタテインメント!2017年2月号」などと発言してしまう彼女だが、誰にも真似出来ないその特異な存在感で、乃木坂46を離れた後も活躍して欲しいと思う。

【未来…まったく想像できないです。でも、ずっと自分が嫌いで泣き虫だった、あの頃の自分みたいなコがいたら、乃木坂のオーディションを受けてほしいなって思います】「乃木坂46物語」

西野七瀬こそ、「君の名は希望」と言いたくなるような、物語を持ったアイドルだ。捉えきれない魅力をもった彼女がこれからどう変化していくのか。とても楽しみでならない。

「弱さと強さの奇跡的なバランスが生み出す“西野七瀬”というアイドル」

白い衝動(呉勝浩)

色んなことを考えた。

僕は昔からこんな疑問をいだき続けている。
「何故人は、夕日を美しいと感じるのか?」

調べたわけではないが、人間は誰しも夕日を見て美しいと感じるのではないかと思う。夕日を見て不快だと感じる人の話は聞いたことがないし、なんとも思わないという人も少ないのではないか。夕日を見ると、何故か人は美しいと感じるのだろうと僕は思っている。

何故だろう、と思うのだ。

物事に対する美醜というのは、バラツキが出るのが当然だと思う。人の顔でも、絵でも、服でもなんでも、誰しもが美しいと感じるものなどそうそうないと思う。しかし、夕日に限っていえば、夕日を美しくないと感じる人間を想像するのがちょっと難しいくらい、全人類的な感覚ではないかと僕は思う。そして、何故そんなことになっているのか、と思うのだ。

この感覚が後天的に身につくものだとはちょっと考えられない。生まれた時には誰もが夕日というものに対してフラットな感覚でいるのだけど、成長していく過程で夕日を美しいものだと認識するような流れは不自然だろう。そういう流れであれば、夕日を美しいとは思わない、という人間が一定数出てきてもおかしくないはずだ、と思えてしまう。

だから僕は、夕日を美しいと感じるこの感覚は、遺伝子レベルに刻まれた衝動なのだろう、と考えている。恐らく太古の昔から、何らかの理由があって、夕日を美しいと感じる人間が生き残ってきた、ということなのだろう。そういう感覚が、今も脈々と受け継がれているのだろうと思う。

だから僕は、「何らかの理由で生まれながらにセットされた抗いがたい衝動」の存在を許容することが出来る。



別の話をしよう。
僕は、恋愛が長続きしない。恋愛を始めてから数ヶ月で、とある衝動に襲われる。それは、「もう終わりにしたい」という衝動だ。どうしてもこの関係を続けていけないぞ、という強い衝動が湧き上がってくる。僕の中でこの衝動をどうにも抑えきれなくて、僕は恋愛というものを諦めることにした。

自分の中でこの衝動を何とかしようともがいていた時期がある。恋愛経験がそこまであるわけではないが、この衝動を押さえ込もうと、自分なりに出来る範囲で対策を取ろうとした。また、恋愛ではない人間関係を観察することで、恋愛と恋愛ではないのとで何が違うのかを見極めようとした。そういう試行錯誤を色々と繰り返すことで、僕は自分の内側から湧き出てくる「もう終わりにしたい」という強い衝動を、一応それなりに理屈で説明できるようにはなった。

どうにも抑えられない衝動、というのは存在するのだと思う。しかし、その衝動に何らかの説明がつけば、多少は落ち着く。僕の場合、その衝動は、「何かをしたい」というものではなく「何かを止めたい」というものだったから、単純に比較は難しい。「何かをしたい」という強い衝動が、何らかの理屈がつくだけで収まるのか、不明な部分は多い。それでも、誰かが説明をつけてあげることは大事なことなのだと思う。



今10万円もらうのと、1年後に11万円もらうのとではどちらがいいか、と問うような心理学の実験がある。多くの人が、今10万円欲しい、と答えるのだそうだ。

僕にはイマイチこのことが理解できない。僕は、1年後に11万円もらう方を選ぶ。もちろん、これは状況にもよる。借金まみれで返済に追われているとか、常に金欠だというような状況なら答えも変わるだろう。しかしこの質問は、「純粋に、今の10万円と1年後の11万円のどちらに価値を感じるか」という意図を持った問いなのだから、生活が逼迫するような財政状況を思い描く必要はないだろう。そういう、生活をすることは出来る、という状況でなら、僕は1年後の11万円を選ぶ。

アメリカでの話だが、プールと銃、どちらが危険かという問いがある。子供のいる家庭でなされた質問のようだ。多くの人は、銃だと答える。しかし、子供の死亡事故は、銃のある家よりプールのある家の方が圧倒的に多い。子供がプールに落ちて溺れてしまうからだ。しかしそれでも、人々は銃の方が怖いと感じてしまう。

飛行機の死亡事故と車の死亡事故を比較したら、圧倒的に車の死亡事故の方が多いだろう。しかし多くの人は恐らく、飛行機の方が危険な乗り物だ、と感じるだろう。飛行機事故の悲惨なイメージは、多くの人に鮮烈な印象を残すのだ。

何が言いたいのか。僕はこう問いたい。一度殺人を犯した者と、一度も殺人を犯していない者とではどちらが危険だろうか、と。

もちろん多くの人は、殺人者を危険だと考えるだろう。それは、当然の思考だと思う。先程の銃や飛行機と同じだ。さらに今回の例では、「殺人者」と「非殺人者」の違いは明白だ。「殺人者」は、既に一度殺人を行っている、という点が圧倒的に重い事実になる。この点が、銃や飛行機との明白な違いとなる。

しかし僕は、どちらが危険かという問いに、大差はないだろう、と答えたい。僕は、本当にそう思っている。何故なら、常に「非殺人者」の間からも「殺人者」が生まれているのだから、「非殺人者」を殊更に信頼する理由がない、と感じるからだ。

新たな殺人者は、常に「非殺人者」から生まれてくる。もちろん、かつての「殺人者」が再び殺人を犯すケースだってあるだろうが、殺人事件の大半は「非殺人者」が殺人を犯すケースだろう。恐らく厳密な調査をすれば、銃や飛行機の時と同じように、「殺人者」が再び殺人を犯すよりも「非殺人者」が殺人を犯す方が可能性が高い、という結論になるのではないかと僕は思っている。

けれど、人はやはり「殺人者」を拒絶する。
何故か。
それは、理解できないからだ。理解したくないからだ。

人が「非殺人者」を受け入れるのは、理解できるからだ。その人物が、これから殺人を犯すかもしれないのに、それでも受け入れられるのは、これまでに殺人を犯したことがないからだ。殺人という、普通受け入れられないような行動を起こしたことがない人間だからだ。「殺人者」を受け入れることが出来ないのは、今がどうあれ、過去に殺人という、絶対に許容できないような行為をしたためだ。

そんな風にして僕らは、「殺人者」を拒否していく。

僕は想像してみる。自分の近くに「殺人者」が住んでいる状況を。その人物が、過去に殺人を犯した人間だと知らなければ、知らないのだから平穏に過ごせるだろう。そしてそれを何らかの形で知った場合は、気をつけることが出来ると思う。想像力が貧困なだけかもしれないが、「殺人者」であることが分かっているなら、その人物と出来るだけ関わらないようにしたり、避けたり、誰かに注意したりということが出来る。

それは、ある日突然「非殺人者」が殺人を犯すという状況と比べたら、とても安全なのではないか、と思う。「非殺人者」が殺人を犯す場合、気をつけようがない。自分がいつ何時被害者になるか分からない。僕はそっちの方が怖いのではないか、と感じる。繰り返すが、僕の想像力が貧困な可能性はある。現実は、そうはいかないかもしれない。近くに「殺人者」が住んでいることが分かったら、僕も動揺するかもしれない。しかしその動揺は、「殺人者」がもたらすのではなく、「「殺人者」に動揺する周囲の人間」によってもたらされるのだ、と僕は信じたいのかもしれない。

今の10万円と1年後の11万円。銃とプール。飛行機と車。これらの問いは僕らに、僕らはイメージによって物事を判断しているに過ぎない、という現実を突きつける。実際の価値や危険ではなく、イメージの価値や危険に囚われているのだ、と。そういう視点で「殺人者」と「非殺人者」を捉えなおしてみる。ある物事に対して感じてしまう感覚を裏切ることは難しいが、そう感じてしまうという感覚を脇において物事を見る視点が求められる機会は多くあるだろう。自戒の念も込めて、僕はその重要性を伝えたいと感じる。

内容に入ろうと思います。
スクールカウンセラーの奥貫千早は、「人を殺したいという衝動を抑えられない」という高校生・野津秋成と出会う。
天錠学園は、私立でありながら、県が進める都市開発事業の一環として創設された学校であるという公的な性格を帯びているために、スクールカウンセラーが常駐しているという珍しい学校だ。千早は週に3日、敷地中央の森のなかにある「Cルーム」と呼ばれる場所で生徒を待っている。友人との関係がこじれてめんどくさいと悩み相談を持ちかける、中等部二年の桜木加奈を始め、ちょっとした相談から大きなものまで色んな話をしにやってくる。最近では、ゲンシロウという名の山羊の足の腱が鋭利な刃物で傷つけられるという事件があり、それと前後して「シロアタマ」というバットを振り回す怪物の噂も出回り始め、不安を感じた生徒がやってくることもある。
秋成は、ある日Cルームにやってきた。物腰は丁寧で、明瞭な物言いで、緊張もないように見えた。知性が高く、「正常と異常の定義」や「普通とは何か」という会話に対して的確な問いを挟んでくる。そしてしばらくして告白したのだ。人を殺したい衝動があるのだ、と。
どうしたものか千早は悩む。千早は「絶対悪」という概念を認めていない。「包摂」というのが彼女の研究の根底にあり、罪を犯した人間であっても社会は罪を償ったその人物を受け入れるべきだ、と考えている。そう考える以上、「絶対悪」という考えを認めるわけにはいかない。殺人にしても、純粋に殺人を犯したいのだという衝動の存在を認めない。殺人には、かならずそれ以外の理由がある、というのが千早の信念だ。だから秋成の主張を鵜呑みにすることは出来なかった。しかし、かと言って何もしないままでいいのか。千早は、もう一人いるスクールカウンセラーである大草登美子とも相談しながら、様子を見ることにした。
地元ラジオの局アナをしている夫の紀文が、ある情報を仕入れてくる。彼らが住んでいる箱坂町に、入壱要が住んでいるというのだ。16年前に、いわゆる「関東連続一家監禁事件」を犯した男だ。殺人は犯さなかったので出所も早く、親族の元に身を寄せているのだという。
やがて入壱の存在が、この町を混乱に陥れることになる…。
というような話です。

色々考えさせられる話でしたし、面白かった。物語の後半の展開や閉じ方には不満もあるのだけど、全編を通じて訴えかけてくる即答し難い問いかけに、自分だったらどんな答えを返すだろうか、と考えながら読んでいくのはとても楽しかった。

この物語は、犯罪者と社会、あるいは犯罪を犯すかもしれないと訴える個人の戦いなどが核となっていて、人によっては身近に感じることが出来ないテーマに思えるかもしれない。しかし決してそうではないと思う。

この物語は、究極的には、人間は人間を理解することが出来るのか、という問いかけだ。そしてその問いかけは、すべての人間が生きていく上で避けては通れないものだろう。

物語に、入壱要という男が登場する。かつて異常な事件を犯した男だ。人々は、彼のことを理解できないと強く訴え、排除しようとする。
気持ちは分かる。守るものがある人であればなおさら、そういう行動に出るだろう。

しかし僕は、一定の理解をしながらも同時に、怖さも感じた。人々は入壱要に対して「理解できない」と怒鳴る。しかし僕はその背後に「俺達は理解し合っている」という無垢な信頼が見えてしまう。その信頼が、僕には怖く感じられる。

他人のことを理解することなど出来ない。僕にとってそれは、生きていく上での大前提だ。理解できた、と思った時には、いつも立ち止まるようにしている。そして、そんなわけがない、と自分を落ち着かせる。

『自分の理解を超えた他人を信じることが、耐えられないのだよ。そもそも本質的に、理解できる他人などあり得ない。だからこそ我々は、まるで理解可能であるかのような振る舞いを日々積み重ねる必要がある。それを怠った者を、人は容易に受け入れない』

千早の学生時代の指導教授だった寺兼英輔は、人間が生きていく上で構築する人間関係の本質を、こうズバッと説明する。僕もその通りだと思う。そして多くの人は、「理解可能であるような振る舞い」を見て「理解可能だ」と思う。そう思いたいのだ。思いたい気持ちは分かる。分かるが、しかしそれはただの思いこみだ。

そういう思いこみを捨てられないからこそ、「理解できない」という理由で入壱要を排斥する動きが生まれる。「理解できない」他人などそこらじゅうにいるのに、その事実には目をつぶって、分かりやすく「理解できない」人間だけを排除しようとする。

僕は普段、意識的に「理解できない」行動を取るようにしている。そうすることで、「理解できる」という無言の圧力・囲い込みから脱することが出来ると信じているからだ。「こいつは理解できない、でも排除するほどでもない」という立ち位置をきちんと確保することが、僕が新しい集団に入り込む時の基本スタンスだ。この立ち位置をきちんと確保できないと、その後の人間関係が色々と厳しくなる。

「理解できる」と思われれば思われるほど、そこから外れる行動を取ることは難しくなる。僕はそれを肌感覚と言葉で分かっているから、「理解できる」病に囚われた人々と距離をおくことが出来る。「理解できる」病から脱することさえ出来れば、入壱要は問題ではなくなる。入壱要は、他の多くの他人と同じく、ただ「理解できない」人間だ、というだけに過ぎなくなるのだから。

僕にとって問題なのは、むしろ野津秋成の方だ。

野津秋成のことを考えると、僕は思考停止に陥るしかない。
僕が野津秋成と同じ立場だったら、一体どうするだろうか?いくら考えても、ある一定のところから先へと進めなくなってしまう。

野津秋成にも、そのことは理解できている。

彼は、自分の内側の「人を殺したいという衝動」を、どうしようもないものだと捉えている。それは、美味しいものを食べたい、とか、歌いたい、というようなものと同じくらい、本人には消しようのない衝動なのだ。もちろん彼は理性的な人間だから、殺人を犯したらどうなるのか理解している。家族に多大な迷惑を掛けてしまうことを、絶望的なこととして捉えている。しかしその理性は、殺人衝動を押しとどめる役には立たない。そのこともまた、彼は理解してしまっている。

彼は、まだ殺人を犯していない。そして、別に精神的に異常があるというわけでもない。秋成を診断する千早は、彼がどんな障害も有していないことが分かってしまう。至って正常だ。ただ、殺人衝動が抑えられないだけだ。

そんな人間はどうやって生きていけばいいのだろう?

これは決して殺人に限らないだろう。どうしても買い物が止められない、どうしてもパチンコが止められない、どうしてもゲームが止められない…。もちろんそれらは「依存症」という名前がつくだろうし、れっきとした病気だろう。秋成のケースと同列に比較は出来ないに違いない。しかし、物語を受け取る、という意味では、そこまで厳密になる必要はない。自分の中のどうしても消すことが出来ない衝動。それに囚われたまま生き続けなければならない人。そういう人には秋成の切実さは理解できてしまうだろう。

正直に言って僕には、そういう衝動はない。何もない。しかしそれでも、秋成が気になる。どうしようもない殺人衝動を抱えたまま生きていくという、自分ではどうにもならない十字架を背負った人間がどう生きていくのか。そのことを考えると、なんだかザワザワする。自分がもし秋成と同じ立場だったらどうしよう、という思考をふと続けてしまう。

この物語は、展開と共に様々な問いが放たれる。千早は様々な状況に直面することで揺れ動く。その葛藤と共に、即答できない問いが投げかけられる。「殺人者」を受け入れるという状況は、そうそうあるものじゃない。しかし、「理解できない(ように見える)」人を組織や社会の中に受け入れる、という状況なら日々起こりうるだろう。そういう時、自分がどういう態度を取るか。取っているか。取るべきか。

『入壱要や野津秋成のような人間と折り合いをつけられる社会を求めるのは、回り回って、それはあなたのためなんだ。あなたが、何かの拍子に人を殺してしまったり、心を病んでしまった時に、それでも幸福を諦めなくてもいいように』

祈りにも似た千早のこの想いが、少しでも広まればいいと、僕は思う。

呉勝浩「白い衝動」

「赤目四十八滝心中未遂」を観ました

意志を持たないように生きるようにしてきた。
昔から、こうしたい、ああなりたい、というような感覚があまりなかった。時々そう感情になると、なんだかうまくいかないことが多かった。別に、したいことがあっても、どうしてもしたいわけでもなかった。だから、そういう感情を持つのをやめるようになった。

そういう人生に、特に不満はない。ある程度、僕を押し流してくれる環境があるから、ということもある。僕にはあまり意志はないのだけど、僕をこういう方向に動かしたい、と思ってくれる人が、時々周りに現れる。そういう人に押し流されるようにしていきてきた。自分で意志を持つよりも楽だし、与えられたもの、求められたことを少しずつこなしていく生き方は、性に合っているのだと思う。

ただやっぱり時々、自分の意志を強く持って前に進める人を羨ましく感じることもある。そうやって、自分の足でしっかり地に立っている人を見ると、いいなと思う。僕にはそういう生き方は出来ないことが分かっているから、強く憧れるなんてことはもうないけど。

内容に入ろうと思います。
生島与一は、釜ヶ崎から流れて尼崎にやってきた。中退とは言え大学に行ったことがあるという経歴は、釜ヶ崎では特異な経歴で、尼崎で生島の世話を頼まれた勢子は彼に、焼き鳥の串刺しの仕事を与える。ボロアパートの一室で、生島は日々臓物を切り、串に刺していく。
そのアパートには、様々な人間が出入りする。娼婦、彫師、少年。彼らは余所者である生島と一定の距離感を保ちながら、余所者である彼に時折頼み事をする。生島はそれらを、特に問いただすことなく受け入れる。こうしたい、という意志を持たずに、生島の周辺を通っていく様々な人間に流されるようにして、尼崎での生島の日常は進んでいく。
尼崎を去る日はいずれくるのだろう、と思いながら。
というような話です。

不思議な映画だったな、というのが一番の印象です。
この映画は、詳細がほとんど描かれない。2時間40分という、普通の映画よりも長い印象なのだけど、舞台や人物の詳細がほとんど描かれない。何故生島が釜ヶ崎に、そして尼崎に流れ着いたのか、勢子は生島を何故受け入れたのか、彫眉が生島に預けたものにはどんな意味があったのか、ほんの僅か明らかにされる生島の過去の詳細はなんなのか、何故尼崎の多くの人が生島に「あんたはここでは生きていかれへん」と言うのか、何故生島はいずれ尼崎を去る日が来ると直感しているのか…。
そういった背景や詳細は、ほとんど描かれない。だから、生島についても、生島の周囲の人間についても、ほとんど謎しかない。

そういう状況の中で何が描かれるのか。それは、「意志を持たない生島」と、「意志を持たない生島を動かす周囲の人間」という関係性だ。この映画の核は、物語でもセリフでも映像美でもなく、その関係性ただ一つだと僕は感じた。

主人公であるはずの生島は、基本的にはただの傍観者だ。自分の生活をどうするかという関心や、自分の生活を動かしていくための行動をほとんどしない。彼は、自分の周囲で起こることに、積極的に関わる意志を持たないまま観察をしている。それが生島のスタンスだ。

そんな生島に、様々な人間が「動機」を与える。生島が行動するための動機だ。それらはどれも、微かに犯罪の香りを漂わせるのだけど、生島は殊更に疑問をぶつけるでもなく、それらの行動を実行する。何故周囲の人間が生島にそれをさせたいのか、そして生島が何故それを引き受けるのか。そういうことは一切描かれないまま、動かす周囲と動く生島の関係性だけが淡々と描かれていく。

特に物語らしい物語もないまま(背後で何かは起こっている気配は感じるのだけど、その詳細は観客には知らされない)、その関係性だけを描くことで映画は展開されていく。それが非常に奇妙だなと僕は感じた。普通はそんな映画は成り立たないと思う。何故それらが描かれているのか全然理解できないまま、頼む側の理由も頼まれる側の動機も分からないままで彼らの関係性だけを見せられるのは、苦痛だと感じられてもおかしくない。ただこの作品が映画として成立しているのは、人物の存在感にあるのだろうと感じた。生島はともかくとして、彼の周りにいる人間の存在感はとてつもなく濃い。喋らなくても、その佇まいで何かを発している。だからこそ、この奇妙な映画を観続けることが出来る。

半分以上過ぎてから、物語は大きく動き始める。とある事情で生島が尼崎を離れることになるのだ。どうしてそういう展開になるのかはここでは書かないが、結局生島は誰かの意志によって動かされ続けることになる。というか、生島がそういう人間だからこそ、生島は選ばれたのだろう。

その後の展開も、スッと受け取れるようなものではない。現実と妄想が入り組んだような場面が展開されたり、二人の行動原理をきちんと汲み取れなかったりと、なかなか捉え方が難しい。ただ、何らかの形で追い詰められた人間のもがきや葛藤みたいなものが随所に現れ出ている感じがした。追い詰められた人間の理屈に合わなさ、意味の分からなさみたいなものが切実に描かれているように感じられた。

個人的には、「新明解国語辞典」が出てきたのが面白かった。非常に個人的な理由で、なるほど、と思った。

「赤目四十八滝心中未遂」を観ました

「ドントプリーズ」を観に行ってきました

いやー、メチャクチャ怖かった!
映画館の座席の上で、何度飛び上がったことか!

セキュリティ会社勤務の父(もしかしたら経営者なのかもだけど正確には分からない)を持つアレックスは、想いを寄せているロッキーと、その彼氏であるマネーの三人で、強盗を繰り返している。アレックスが父の書斎から盗み出す鍵を使って安全に侵入し、事を成し遂げるのだ。
マネーは、盗品の売却相手から耳寄りな情報を聞く。陸軍の退役軍人が一人で住んでいる家があるのだが、そこに大金がある、というのだ。かつてその家の娘が交通事故で亡くなった。加害者が金持ちの娘だったために、示談金としてかなりの額をもらった、というのだ。調べてみると、確かに情報は正しいようだ。近隣の家は空き家。しかもその退役軍人は盲目だ。仕事は楽勝に思えた。
しかし…。
いくつもの鍵がつけられ、窓には鉄格子が嵌められた要塞のような屋敷には、凶暴さを見せる犬まで飼われていた。彼らはなんとか侵入に成功し、大金が入っていそうな金庫にたどり着く。マネーが銃を取り出したのを見てアレックスは自分は降りると宣言して帰ってしまう。その後、ロッキーとマネーは家主に見つかってしまう。
銃を奪われたマネーは、そのまま撃ち殺されてしまう。クローゼットに隠れたロッキーと、銃声を心配して戻ってきたアレックスは、盲目の老人相手に生死を掛けた大脱出劇を繰り広げることになる。
生きて出たければ、音を立てるな。
というような話です。

観ながら、「とにかく早く終わってくれ」とずっと思っていました。ホントに怖い。冒頭でも書いたけど、何度も座席の上で飛び上がりました。大げさではなく。隣の席の人にも気づかれてる気がして恥ずかしい…。

強盗二人と老人の闘いは、「まだ先があるのか!」と思うような壮絶な攻防です。詳しいことは書きませんが、ここで映画は終わったな、メチャクチャな映画だったな、と思った後も話が続くんです。もうこれで絶対死んだわ、と思うところで生き延びたり、あーこれでやっと生き延びたね!っていうところからどん底に突き落とされたりと、とにかく予想外の連続すぎて疲れました(笑)。ホントに、もういいから早く終わってくれ、ってずっと思ってました。

しかしこの映画はホント、設定が絶妙だったな、と思います。盲目の退役軍人と要塞のような屋敷、という取り合わせで、ここまでスリリングな展開を生み出せるのか、と感心しました。目は見えてないから、銃を持った老人と強盗が同じ空間にいる、という場面も多々あるわけです。この緊迫感は凄まじかったです。老人は、人を殺すことにはためらいはないので、音を立てたら絶体絶命です。しかも、目が見えないとはいえ、フィールドは長年住んでいる自宅。二人いて目が見えるとはいえ、今日内部構造を知ったばかりの強盗たちとはなかなかいい勝負です。

しかも、途中で物語に新たな要素が加わります。これについても言えませんが、この要素も彼らの闘いを描く上で非常に重要なパーツになっていきます。というのも、この新たな要素が加わることで、「強盗が大金を盗む」という単純な構図から逸れ、老人・強盗双方にいくつかの選択肢が生まれるからです。ただ金を奪って生き延びる、というだけではない要素が加わることで、生死を掛けた闘いの中で彼らが悩む場面が出てくる。それも、物語全体を盛り上げる上で非常に重要になってくる。一つ要素を加えるだけでガラッと状況が変わるので、うまく考えたなと思いました。

物語全体はとにかくスリリングで面白かったんだけど、とにかくアレックスが可哀想だったなぁ。アレックスは当初、この計画に乗り気じゃなかったわけです。それなのにやることになって、しかもこんなムチャクチャな状況に放り込まれて、あぁ憐れである。

「ドントプリーズ」を観に行ってきました

あなたの知らない脳 意識は傍観者である(ディヴィッド・イーグルマン)

人間はこれまで、「人間」や「自分という存在」を理解するために色んなことをしてきた。哲学を生み出したり、自分探しの旅に出たり、宗教を生み出したりした。

しかし、最も有効な手立ては恐らく、「脳」を知ることだろう。

当たり前ではないか、と思うかもしれない。しかし、そんな反応をする方は、是非本書を読んだ方がいい。「脳」を知る、ということがどういうことなのか、あなたの想像を超える現実に驚くことだろう。

また、こんな反応もあるかもしれない。哲学というのは思考のことであり、それは脳から生まれるのだから、哲学をすることは脳を知ることでもあるのではないか、と。しかし、それについてははっきりとNoと伝えておこう。本書で描かれている「脳」は、あなたがイメージしているものとはちょっと違うのだ。

本書の冒頭に、こんな文章がある。

『自分たちの回路を研究してまっさきに学ぶのは単純なことだ。すなわち、私たちがやること、考えること、そして感じることの大半は、私たちの意識の支配下にはない、ということである。ニューロンの広大なジャングルは、独自のプログラムを実行している。意識のあるあなた―朝目覚めたときにぱっと息づく私―は、あなたの脳内で生じているもののほんの小さなかけらにすぎない。人の内面は脳の機能に左右されるが、脳は独自に事を仕切っている。その営みの大部分に意識はアクセス権をもっていない。私は入る権利がないのだ』

本書は、「脳」というものを「意識」と「意識以外のもの」に分けて捉えている。「意識」というのは、僕たちがまさに「自分である」と感じているような、痛いとか楽しいとか朝だなとかお腹すいたとか、そういうことを考えるものだ。そして、本書が明確に明らかにすることは、「意識」は「脳」全体の中でもの凄くちっぽけな存在であり、「意識以外のもの」が何をしているのか、ほとんど知ることが出来ない、ということだ。

それは、ホテルと僕の関係に近いかもしれない。あるホテルに泊まるとする。僕は、ロビーやトイレや食堂などは使うことが出来る。しかし、自分の部屋以外の他のすべての部屋には入ることが出来ない。それらの部屋の内部で何が行われているのか、知る術はない。ホテルが「脳」全体であり、僕が「意識」だと捉えれば、「脳」の中で起こっていることがイメージしやすいかもしれない。

『二〇世紀半ばまでに思想家たちは、人は自分のことをほとんど知らないという正しい認識に到達した。私たちは自分自身の中心ではなく、銀河系のなかの地球や、宇宙の中の銀河系と同じように、遠いはずれのほうにいて、起こっていることをほとんど知らないのだ』

そんなバカな、と感じるかもしれない。私は、自分で飲みたいと思ってコーラを飲み、走りたいと思って走り、哀しいと思ったら泣いている。私は、自分の「意識」で自分の肉体を動かし司っているのであって、「意識以外のもの」なんかのことは知らん。
そんな風に思う人もいるかもしれない。

しかし、本書を読めば分かる。その認識が、間違っているということを。それは、例えばこんな例でもなんとなく捉えることが出来る。車を運転しているとして、目の前に突然子供が飛び出してきたら、あなたはブレーキを踏むだろう。その時あなたは、どう行動するだろうか?「子供が飛び出してきたぞ、危ない!」と「意識」が捉えてからブレーキを踏むだろうか?残念ながら、実際にはそれでは間に合わないだろう。あなたがブレーキをふもうと意識するよりも早くブレーキを踏んでいるはずだ。
そのブレーキを踏んだのは、一体「誰」だろう?

もっと身近な例を出そう。こんな実験がある。自分の選んだタイミングで指を上げるように被験者は指示される。被験者の脳に電極をつけて、指を動かそうという「衝動を感じた」瞬間の針の位置を報告するように指示する。
結果はこうだ。被験者は、実際に動く四分の一秒前に動こうという衝動を自覚する。しかし驚くべきはここからだ。彼らは被験者の脳波を同時に測定していた。そこから彼らは、動こうという衝動を感じる前に脳内活動が生じることを発見した。

つまりこういうことだ。本人が衝動を意識的に経験するよりかなり前に、脳の一部が意思決定をしていた。自分が「指を上げよう」と思う大分以前に、既に脳のどこかが「指を上げる」ことを決断しているというのだ。

信じられないだろうか?しかし、信じてもらうしかない。この実験が正しい場合(まあ正しいのだろうけど)、「指を上げる」と決断したのは一体「誰」だろう?少なくともそれは、「あなた」、つまり「あなたの意識」ではない。「あなたの意識」が「指を上げよう」と思う以前に指を上げることが決定しているのだから。その決断をしているのが「意識以外のもの」なのだ。

本書は、「脳」の中にある「意識以外のもの」がどんな風に働いているのか、「意識」は「脳」の中でどんな存在意義があるのか、「脳」と「意識」の関係を踏まえた上で人間はどう振る舞うべきか、などについて書かれている作品だ。

べらぼうに面白い。以前「錯覚の科学」という本を読んだことがある。人間が物事を認知する上でどんな間違いを犯すのかなどについて最近の研究を踏まえて書かれた作品だ。「錯覚の科学」を読んだ時にも、これはみんな読むべき本だ、と感じたのだけど、本書もまたみんな読むべき本だと感じる。哲学や思想は、人間や社会を捉える枠組みを与えてくれるという意味で重要だし好きなんだけど、本書は、人間が物事を捉える際にどんな大前提を持っているのか、どんな色眼鏡を掛けているのかを明らかにする、という点で非常に重要な作品だと思う。

僕らは普段「意識」しか意識できない(変な日本語だけど)。まあそれは当たり前のことだ。意識できるからこそ「意識」と呼ばれているのだろうし。しかし、「脳」の中には、「意識」では意識できない膨大な領域があるということが分かってきた。そして、その領域こそが、人間という存在にとって決定的に大事だということが明らかになってきたのだ。

『あなたの内面で起こることのほとんどがあなたの意識の支配下にはない。そして実際のところ、そのほうが良いのだ。意識は手柄をほしいままにできるが、脳のなかで始動する意思決定に関しては、大部分を防寒しているのがベストだ。わかっていない細かいことに意識が干渉すると、活動の効率が落ちる。ピアノの鍵盤のどこに指が跳ぼうとしているのか、じっくり考え始めると、曲をうまく弾けなくなってしまう』

『これらのプログラムにアクセスできないのは、それが重要ではないからではなく、きわめて重要だからである。意識が干渉しても何も良くならない』

本書の中に、人工知能の話が少し出てくる。人工知能が何故壁にぶつかったかと言えば、人間が意識しなくてもできるとても簡単なこと、たとえば「カフェテリアがどこにあるか思い出す」「小さな二つの足で丈のある体のバランスをとる」「友達を見分ける」と言ったようなことを実行することが極めて難しいことが分かってきたからだという。人間は意識しなくてもこれらのことを簡単に出来る。しかし何故簡単に出来るかといえば、「意識以外のもの」がそれらを自動的に行えるよう複雑なプログラムを組み上げてくれているからだ。「意識」はそのプログラムの詳細は知らない。知ろうとして「意識」すると、逆にうまくいかなくなる。自転車に乗るには最初かなり練習が必要だが、慣れれば自分がどんな風に身体を動かしているのか意識しなくても自転車に乗れる。それは、「意識以外のもの」が自転車に乗るという複雑なプログラムを自動化出来たということだ。

本書に載っている非常に興味深い例は、ヒヨコ雌雄鑑別士の訓練の話だ。ヒヨコの雌雄判別に関しては、日本人が「肛門鑑別法」という手法を開発し、世界中がその技法を学んだ。
しかし、とても奇妙なことだが、この「肛門鑑別法」を「教える」ことが出来る人はいないのだという。プロの雌雄鑑別士は、その手がかりが何なのか伝えられないという。その代わり、ヒヨコの肛門を見れば分かる、というのだ。

だから、教え方も特殊だ。コツを伝えられないのだから、実践でやるしかない。指導者は実習生の側に立ち、実習生に雌雄鑑別をやらせる。指導者が正解か不正解を判別する。この実習を何週間もやると、実習生は次第に雌雄の判別が出来るようになってくる、というのだ。

これは実に興味深い話だ。「意識」は、ヒヨコの雌雄をどこで見分けているのか伝えられない。伝えられないほど僅かな差なのだ。言葉でコツを伝えることが出来ないのだから、実習生は何がなんだか分からないまま雌雄の鑑別をすることになる。しかしそれでも、次第に雌雄が判別できるようになるらしいのだ。これはまさに「意識以外のもの」が学んでいるとしか考えられないだろう。

こんな風に本書は、様々な実例を提示して、「意識」がいかにちっぽけな存在で、「意識以外のもの」に僕らが制約されているのか、ということを提示していく。本書には様々に印象的なエピソードが登場するが、次に紹介するのはその中でもかなり奇妙でインパクトが強かった。

著者はG婦人という、脳のある箇所に損傷を負った女性を診ていた。G婦人に鏡の前に座ってもらい、両目を閉じるように指示する。G婦人は、片目を閉じ、もう一方は閉じなかった。以下は、それ以降の会話である。

『「両方の目を閉じていますか?」
「はい」
「ご自分が見えますか?」
「はい」
私は穏やかに言った。「両目を閉じている場合、鏡のなかの自分が見えると思いますか?」
沈黙。結論は出ない。
「あなたは片目を閉じているように見えますか、それとも両目を閉じているように見えますか?」
沈黙。結論は出ない。』

彼女の脳では、通常の人の脳内では機能するとある仲裁システムが働いていない。通常であれば、いくつかの矛盾する情報を脳内で処理し、なんらかの矛盾しない説明が選び取られる。しかしG婦人は、「両目を閉じている(と自分では思い込んでいる)」という事実と「鏡の中の自分が見える」という矛盾する事実を処理する仲裁システムが機能せず、沈黙してしまう。G婦人は決して嘘をついているわけではない。通常であれば「意識」ではない場所で働いているプログラムが正常に作動していない、というだけなのだ。こういう例をとっても、「意識以外のもの」がバックグラウンドでどれだけの仕事をしているのかということが分かる。

本書の大雑把な流れを書くと、まず「意識以外のもの」がどのように研究対象をして認識されるようになったのかという歴史認識が簡単に描かれ、そこから、通常の人でも起こる「錯視」や、あるいは脳機能に障害を負った様々な実例などを挙げながら、「意識」では意識することが出来ない「意識以外のもの」がどれだけの存在感を有しているのか、ということを明らかにしていく。

それから本書は、「犯罪者をどう扱うか」という、非常に実際的で議論百出だろう話に移る。ここに至るまでの話は「科学エッセイ」という感じで、読み物として非常に楽しく刺激的なものなのだけど、この犯罪者の扱い方に関するパートからは非常に社会派の雰囲気が漂うようになる。

様々な特異な犯罪の実例や、再犯率の調査や犯罪に関係する遺伝要因など様々な話を登場させ、「脳」という生体の変化によって人間の行動や欲求や決断は簡単に変わってしまうのだ、ということを示した上で、著者はこんな風に書く。

『私が言いたいのは、どんな場合も犯罪者は、ほかの行動をとることができなかったものとして扱われるべきである、ということだ。現在測定可能な問題を指摘できるかどうかに関係なく、犯罪行為そのものが脳の異常性の証拠と見なされるべきだ』

現在でも、「責任能力なし」として、犯罪行為があっても無罪になることがある。「現在測定可能な問題を指摘できるかどうか」というのは、そういうことについて指摘している。現在測定可能なレベルで「責任能力のあるなし」を判断しても、結局「測定可能なレベル」というのは時代のよってどんどん変化していくのだし、であれば、最終的に測定出来るかどうかに限らず、犯罪行為というのは何らかの脳の異常の結果だと捉えるべきではないか、と著者は言う。

『したがって、有責性を問うのはまちがっていると思われる。
正しい問いはこうだ。前に進んで、私たちは告訴された犯罪者をどうするのか?
裁判官席の前に引き出された脳には複雑きわまりない過去があるかsもしれないが、最終的に私たちが知りたいのは、人が将来どういう行動をとる可能性があるか、それだけだ』

観点は非常に面白い。著者の提言が実現するなら、犯罪と犯罪者をどう評価するか、という点についての新たなパラダイムとなるだろうと思う。もちろん、現実にはなかなか難しい部分もあるだろう。科学的な困難さも当然あるが、著者も指摘しているように、市民感情がどうなるかというのも難しいポイントだ。犯罪者に対しては報復感情が湧き上がってしまうのはある意味自然なことだ。しかし、結局犯罪者を隔離し罰を与えるだけでは問題は何も解決しない、それならば適切な形で矯正する方法を考えるべきではないか、という著者の提言は非常に面白いし、「脳科学」という学問を現実に影響させる非常に面白いアプローチだなとも感じました。

『生まれか育ちのことをいえば、重要なのは、私たちはどちらも選んでいないという点だ。私たちはそれぞれ遺伝子の青写真からつくられ、ある環境の世界に生まれてくるが、いちばん成長する年齢には環境を選択できない。遺伝子と環境が複雑に相互作用するということは、この社会に属する市民がもつ視点は多種多様で、性格は異なり、意思決定能力もさまざまであるということだ。これらは市民にとって自由意志の選択ではない。配られた持ち札なのだ』

「配られた持ち札なのだ」という著者の捉え方は、一面では哀しいだろう。僕らは「自由意志」によって行動を決めているのではなく、遺伝子や環境など様々な要因によって定まった「脳(特に、意識以外のもの)」が行動を決めているのだ、という考えを否定したい人も多いだろう。「配られた持ち札」なんとしたら、人生の逆転みたいなのはないんじゃないか、と哀しくもなるかもしれない。

しかし、本書を読むと、人間が「意識」の関わる領域を少なくし、「意識以外のもの」に行動や選択のほとんどを委ねるシステムにしたお陰で、人間が人間らしい営みを行うことが出来るのだ、と感じられるようになる。それに、自由意志があろうがなかろうが、「意識」以外のことには意識出来ないわけだから、それを自分の意志であると錯覚してもなんの差支えもない。

本書は「脳」という不可思議な生体が持つ不可思議な性質を明らかにすることで、人間をより深く理解すると同時に、人間をより謎めいた存在に拡散させもする作品だ。科学エッセイとして刺激的で面白く、また「脳科学」という切り口で社会システムに影響を与えようとする作品でもある。「人間とは何か?」という問いはこれまで哲学の領域のものだったはずだが、科学が進歩することによって科学が扱える問いになってきた。その最新の研究成果を知って、人間の奥深さを是非知ってほしい。べらぼうに面白い作品です。

ディヴィッド・イーグルマン「あなたの知らない脳 意識は傍観者である」

「沈黙」を観に行ってきました

僕に信仰心がないからだろうか。
僕には、日本のやっていることが正しく感じられる。

もちろん、人の命を奪ったり、拷問に掛けたりすることを是としているわけでは決してない。
それらの行為は、最低だと思うし、認めてはならないと思う。そこまで是としているわけではない。
ただ、日本側の「態度」という意味で言えば、圧倒的に正しいように見える。
それは、僕が宗教を信じておらず、かつ日本人だから、なのだろうか?

この作品の中で登場する「日本」は、「キリスト教」を決して否定しているわけではない。
キリスト教が存在することは許容しているし、ポルトガルでは正しい考え方だ、ときちんと認めている。
キリスト教を絶対的な悪とみなしているのではなく、日本にとっては危険だ、と断じているだけだ。

この態度は、とても真っ当だろうと僕は感じる。
僕は、実はこの映画でイメージを覆された。キリシタンを弾圧していた頃の日本は、キリスト教を絶対的な悪と捉えていたのだろう、と考えていた。キリスト教という宗教そのものを憎み、それを信じるものを人ではないものとして扱って弾圧していたのだろう、と。しかし、この作品を信じる限り、そうではなかったようだ。日本は、キリスト教をきちんと認め、尊重し、理解していた。その上で、ただ日本から排除しようとしていただけだ。

しかし、この作品の中で登場する「キリスト教」は、違うスタンスを持っている。彼らはキリスト教を、「絶対的に正しいもの」と捉えている。

「日本」が「キリスト教」に、「あなたがたの宗教は認めるが、しかし今の日本には合わないだけだ」と言う場面がある。そこで神父(パードレ)の一人は、こう反論する。

『我々は真理をもたらした。真理とは、普遍的なものだ。どの国でも、どの時代でも正しい。もしこの国で正しくないというのであれば、それは普遍ではない』

僕が強烈な違和感を抱き、この作品に登場するキリスト教を受け入れることが決定的に出来なくなったのは、まさにこのセリフを聞いてからだ。日本がキリスト教を排除しようとしたことも仕方ないと思える。

作中で、通訳と神父が仏教とキリスト教について議論する場面がある。通訳は、「日本にも仏教という宗教がある。キリスト教は仏陀を低くみているようだが、同じようなものだ」というような主張をする。しかしそれに対して神父は、「仏陀は人間だが神は創造主だ。全然違う」と受け入れない。

ここに、決定的な差を感じることが出来る。

日本は、いくつもの考え方を受け入れることが出来る。日本は、キリスト教の考え方を受け入れている。しかし、日本という国全体を考えた時、キリスト教の考えが広まることは危険だから排除する、という考え方だ。しかしキリスト教は、キリスト教こそが唯一の真理であり、それ以外はすべて間違っているのだから、皆キリスト教を信じるべきだ、という態度を見せる。

その考え方は間違っている、と僕は感じる。

『人の心に干渉してはならん』

その通りだと思う。もちろん、「キリスト教を棄教しろ」とキリシタンに迫る日本も、「人の心に干渉している」という点では同じだ。そういう非難は受け入れるしかない。しかし、日本がやろうとしていることの本質は、百姓たちの心を改宗させることではない。キリスト教を否定することでもない。キリスト教に絡む各国の日本における勢力を排除したいだけだ。

作中で、奉行が殿様と四人の側室の話をする場面がある。四人の側室は皆美しかったが、その四人は争いが絶えなかった。そこで殿様は、四人の側室全員を追い出してしまった。この話についてどう感じるか問われた神父は、「殿様は賢い」と答える。
そしてその上で奉行は、殿様が日本で、四人の側室がポルトガルを始めとするキリスト教の国なのだ、と語る。その四カ国が、日本を舞台に争っている。その影響を排除したい。日本の目的はそこにある。

日本が取る手段の是非はともかくとして、日本がやろうとしていることの本質は「人の心に干渉する」ことではないと分かるだろう。そういうスタンスを感じられるからこそ、僕は、日本がキリシタンを拷問したり殺したりするのを目にしても、日本の態度を許容したくなる。

キリスト教は違う。キリスト教は、自分たちが「唯一」正しいと信じていて、その唯一正しいことを信じていない者の心を変えようとする。それそのものが、彼らの目的なのだ。

そういう態度を、僕は許容することは出来ない。だから彼らに対して、違和感を覚える。

『我々の宗教は、この国には根付かない』

この言葉も、実に興味深い。日本には当時、キリスト教を信じるキリシタンが多く存在した。しかし作中のある人物は、彼らが信じているのは、我々が信じているキリスト教ではないのだ、と語る。神父自身も、日本にやってきて様々な場面でキリシタンの現実を見る中で、その違和感を掴み取っていたはずだ。信仰ではなく形あるものを求める態度や、天国の解釈などに、そういう違和感を覚えたはずだ。しかし彼は見ないふりをした。日本にはキリシタンがおり、そのキリシタンは自分たちと同じキリスト教を信じているのだと信じた。

しかしそうではない。奉行も断言する。『あなた方がこの国にもたらした宗教は、別のものに変わったのだ』と。

『彼らは自然の内側にしか神を見出さない』

違いを知り、それを認めることこそ、異文化を理解する上で最も大事なことだろう。日本はそういう態度を持っている。しかしキリスト教はそういう態度を持っていない。正しさは自分たちの側にある、と信じている。

僕には、理解が出来ない。

内容に入ろうと思います。
17世紀。ロドリゴとガルペは、宣教師の師であるフェレイラが、日本で棄教したという噂を耳にする。キリスト教弾圧下の長崎で、キリスト教を捨て、日本名を持ち暮らしている、と。高名な宣教師であった師匠の棄教を受け入れられない二人は、強く申し出て日本へ向かう許可をもらう。フェレイラを探し、師の魂を救うために。
マカオにただ一人いると教わった日本人、キチジローを案内役に選び、二人は日本へとたどり着いた。キチジローの案内で彼らは、トモギ村という隠れキリシタンの村へと案内される。二人はパードレ(神父)と呼ばれ、次々と断罪され不在となった神父を務め、隠れキリシタンから慕われた。しかし、弾圧下の日本での生活は厳しく、日中は山奥の小屋から一步も出られない生活を強いられた。フェレイラの行方も当然分からない。特にガルペに苛立ちは募っていく。
キチジローの案内で五島に向かうことになったロドリゴは、そこでも信仰の強さを知り、自分の存在価値を改めて認識する。しかし、トモギ村の「じいさま」が隠れキリシタンであるとして捕らえられた。そして結果的に、ロドリゴとガルペが村にやってきたことでお上に目をつけられた村人数人が、見世物的に処刑されることとなった。ロドリゴとガルペは別行動することを決断し、ロドリゴは五島へと戻るのだが…。
というような話です。

色々と考えさせられる重厚な作品だった。冒頭で書いたようなことに加えて、僕が映画を見ながらずっと感じていたことは、「祈る者が弱く見える」ということだ。

キリスト教の教えを、僕は知らない。「祈ること」にどんな意味や効果があると教わるのか、僕は知らない。けれどきっと、祈ることは、キリスト教(に限らず多くの宗教でそうなのだろうが)では非常に重要なことなのだろう。そして祈っている者は、祈ることで強くなれると信じているのではないかと感じる。

確かに、そういう側面はあるだろう。
世の中の多くのことは、祈ることで解決できるかもしれない。というのは、世の中の多くの事柄は、自分の気持ち一つで大きく変わるからだ。同じ状況を前にしていても、心を強く持っている者とそうでない者では、前者の方がよりその状況に対処出来るだろう。他人や状況を変えようとするよりも、自分が変わるほうが遥かに楽だし実現性は高い。祈るというのは結果的に、そういう効果をもたらすだろう。

しかし当然のことながら、祈ることでは解決できない事柄もある。そして、そういう事柄に対して「祈ること」は、一切無力だ。

そして、そういう状況に直面した時、祈る者は普通の人より弱く見えてしまうのだと思う。

祈ることで物事に対処してきた人間は、どんな場面でも祈れば解決すると考えがちだ。しかし、当然そんなことはない。祈るメンタリティのない人間は、自分の気持ち一つでは対処できない状況に直面すれば、実際的な行動に移そうという発想に至るだろう。しかし祈る者は、自分の気持ち一つでは対処出来ない状況に直面しても、祈れば解決すると考えて、それ以外の具体的な行動を取らない傾向が強いのではないか。

祈ることでは解決できないことに対して祈るのは、無意味だ。そして、そのことに気づかない、あるいは気付こうとしない姿が、客観的に見て弱さを感じさせるのではないか。僕は映画を見ながらそんなことを考えていた。

だから、キチジローは強いのだと、僕は感じてしまう。

キチジローは、8年前に踏み絵を踏んだ。他の家族は全員踏まずに殺された。トモギ村でも、マリア像に唾を吐けと言われて、キチジローだけがそうした。他の者は殺された。

祈ることでは解決出来ない状況に対して、実際的な行動を起こしたキチジローは、僕の価値判断からすれば強い。キチジローは、自分が弱い生き物だと悩み苦しむが、僕はそうは思わない(まあ、人を裏切る行動を取る、という行為の是非はまた別だけど)。彼は、状況に対応するための正しい行動を取っただけだ。

一方で、踏み絵を踏んだり唾を吐けなかった者は、そのまま殺された。彼らは強いと言えるのだろうか?信仰を守ったという強さを讃えたい人はいるだろう。しかし、状況に対処するための行動を取れずに祈ることしか出来なかった、という意味では、僕は弱いとしか感じられなかった。

『私も神に祈った。しかし役に立たん。神は沈黙するが、お前は?』

ロドリゴ神父はある場面でこう問われる。この問いこそ、まさに本質だと感じた。祈ることは、役に立つこともあれば立たないこともある。祈ることが役に立たない時、お前はどうするのだ?その問いに、ロドリゴは沈黙してしまう。

『これほど苦しむ彼らに、神の沈黙をどう説明する?』

ロドリゴ神父自身も、こういう問いを内在させた。しかし、そこから思考を進めることが出来なかった。僕には、そういう部分にキリスト教の弱さを感じてしまった。もちろん、世の中に完璧なものなどない。しかし、自らの不完全さをきちんと認識した上で進んでいくことは出来るはずだ。僕は宗教全般に詳しくないが、仏教なんかは割とそんな性格がありそうな気がする。キリスト教にも、宗派によってはあったりするのかもしれない。この映画の中のキリスト教には、なかったようだ。

この映画を日本人はどう見るのだろう?そして、キリスト教徒はどう見るのだろう?その点に非常に関心がある。宗教を信仰しているという意識のない日本人は、この映画を見て僕のような感じ方をするのではないかと思うがどうだろう。キリスト教徒はこの映画を見て何を感じるか。僕が感じたような違和感を理解するだろうか。あるいは、キリスト教の正しさを感じるだろうか。時代が全然違うから、この映画で描かれる問題が今自分が信じているキリスト教と関わると感じないだろうか。

何かを信じることの難しさについて考えさせてくれる作品だった。

「沈黙」を観に行ってきました

「ヒトラーの忘れもの」を観に行ってきました

戦争は、勝っても負けても虚しい。
戦争から学べることは、それだけだ。

戦争を始めることは、きっと容易い。
戦争は国同士の争いのはずだが、戦争のきっかけを作るだけならきっと、個人でも出来てしまうのだろう。
しかし、戦争を終らせることは容易ではない。

戦争の「終わり」は、何かの儀式が境になる。
戦争を終わらせましょう、という調印をするとか、なんちゃら会談で合意しました、みたいな。
でも、それは「歴史の教科書上」の区切りにしかならない。

人それぞれ、「戦争が終わった日」というのは違うのだろう。
日本人なら、玉音放送を聞いた日、満州から帰還した日、シベリアから帰還した日、南方から帰還した日、息子の死がはっきりと分かった日…。あらゆる日が、誰かにとっての「終戦日」となり得る。人によっては、まだ戦争は終わっていない、という人もいるだろう。

東日本大震災で、福島第一原発が大変なことになった。あの時、僕はこう感じた。制御できないものを保持するべきではない、と。
僕は「科学」というものを信じている。純粋に科学的な見地のみから判断すれば、原発というのは素晴らしいエネルギーである可能性もあるだろう。しかし、科学は科学単体では存在できない。必ず人間が介在する。そして、人間という要素が加わると、原発というのは制御できない代物に変わる。

戦争も同じだ。戦争には、必ず人間が介在する。そして戦争は、容易く始められるが終わらせるのは困難だ。人間が始めたことであっても、人間が終わらせることが出来ない。そういうものに、僕らは関わってはいけないのだと思う。

戦争は、ガンのようなものだ。人間という生き物の社会でしか存在し得ないのに、戦争は人間の社会を壊す。自身が属する社会を壊滅させながら巨大化し、いつか宿主そのものと共に滅びる。

戦争が起こるかもしれない。そんな予感を抱えている人は多いのではないだろうか。戦争は、誰も望んでいなくても始まる。そして始まってしまえば、個人で止められるようなものではない。

この虚しさをきちんと理解しておくこと。そういう態度を一人でも多くの人間が持つことでしか、「戦争が始まらない社会」を継続させることは出来ないのではないだろうか。

内容に入ろうと思います。
1945年5月、デンマーク。戦争に敗れたドイツ兵がデンマーク兵に追い立てられるようにして国外へと追いやられている。戦争は終わった。しかし、終わっていないものがある。
デンマークには海岸沿いに、220万個とも言われる莫大な地雷が埋められている。埋めたのは、ナチスドイツだ。周辺の欧米諸国の合計数よりも多いと言われるこの地雷を除去するために使われたのが、ドイツの少年兵だ。
ラスムスン軍曹が指揮するのは、11名の少年兵。彼らは、4万5千個の地雷を除去するように命じられた。終わったら国に帰れる。その希望だけを胸に、彼らは死と隣合わせの危険な任務をこなす。
祖国の罪を少年兵だけが一身に背負わなければならない理不尽。死を間近に感じざるを得ない環境。軍曹に対する怒りと諦め。そして、上官からの命令で意に染まぬ任務をやり遂げなくてはならない軍曹の苦悩…。
終わっているはずの戦争の後始末をさせられる少年兵と、彼らを監督する苦悩する軍曹の関係を描く物語だ。

戦争の物語に触れる度に感じることがある。
それは、「人として真っ当な生き方を貫きたい」という感覚だ。

あくまでもこれは、戦争を知らない世代のただの妄言だ。
現実はそんなに甘くないはずだ、と思っている。
けれど、こと戦争に限って言えば、起こらないことに対する祈りもこめて、理想を保持していたい気持ちもある。

戦争中だからと言って、人間としての真っ当さを失いたくない。
平時であれば出来るはずの判断や行動を、戦争だからという理由で手放したくない。

ラスムスン軍曹の苦悩は、まさにそこにある。

ラスムスン軍曹は、「酷い」人間として登場する。とはいえ、5年間も占領されたデンマークの兵士としては、それぐらいの怒りを感じても仕方ないだろう、とも感じる。だからこそラスムスンは、ドイツの少年兵に対しても厳しく当たる。

しかし、徐々に違う側面が出てくる。彼らを思いやるような言動を見せるのだ。
そして、「子供に処理させるとは聞いてなかった」というセリフから、彼が地雷除去の命令を受けた時から、一人苦悩していたのだろう、ということが伝わってくる。

ドイツは憎い。それに、地雷はどうしたって撤去してもらわなければ困る。しかし、こいつらは少年だ。未来もある。やらせたくはない。しかしこいつらを使わなければ任務は終わらせられない。
言葉でそういうことが語られる部分はないのだが、ラスムスンの言動の端々から、彼らをどう扱うべきか、そして任務遂行のために自分がどう振る舞うべきか、という苦悩が見え隠れする。

ラスムスンを見て、戦争は勝者も虚しい、と感じるのだ。戦争に「勝つ」というのは、「100:0」ということはほとんどないだろう。「70:30」だったり、あるいは「51:49」なんていうことだってあるかもしれない。結果として勝ってはいるが、犠牲がないわけではない。ラスムスンも、結局は犠牲を被った人間と言える。彼はあの後どうなっただろう。彼のような真っ当な人間がきちんと評価される世の中であり続けることが、社会の理想だろう。

今日テレビを見ていたら、アメリカ大統領に就任したドナルド・トランプの就任演説の話題を取り上げていた。アメリカ大統領史上最も名演説だったと言われるケネディを引き合いにだし、トランプの演説は歴史に残ることはない、と断言していた。

ケネディは、「国が自分のために何をしてくれるかではなく、自分が国のために何が出来るのかを問うて欲しい」と演説したという。一方でトランプは、その真逆の発言をしたという。「国家は、個人のために何が出来るかにその存在意義がある」と。

僕は、どちらも嫌だな、と感じる。結局、「国家」というのが「実体を持つ存在」であるかのように感じられるからこそ、戦争というものが起こりうる。普通、「日本」や「アメリカ」という時、そこに何らかの実体はない。「日本」の土地や、「アメリカ」の国民一人を指差して「日本」や「アメリカ」と呼ぶことは出来ない。国家には、指を指すことが出来るような実体は存在しない。

しかし、「戦争」というのは、「国家」同士に実体があると感じられなければ起こりようがないと思う。実体のないものを実体があるように思わせるからこそ歪みが生じる。

国家は、もっと影の薄い存在でいい。魚にとっての水のように、自分の周りに常にあるのだけど意識することがない。それぐらいの存在感が理想だ。

『忘れるなよ。ナチスの罪を』

ナチスには「ヒトラー」という実体があった。余計に、質が悪い。

戦争を始めた者の名前は残る。戦争を「終わり」と決めた者の名前も残る。しかし、戦争を終わらせたものの無数の者たちの名前は残らない。彼らにも、人生があり、物語がある。僕たちは、それを知ることで、歴史の上に未来を築き上げなければならないだろう。

「ヒトラーの忘れもの」を観に行ってきました

嘘つき女さくらちゃんの告白(青木祐子)

僕は嘘は好きではないけど、絶対にダメだとも思っていない。誰かを救う嘘だってあるし、誰かを守る嘘だってある。嘘だ、という理由ですべてを斬り捨てるつもりは、僕にはない。

けれど、嘘をつく者には、義務があるとも考えている。嘘をつき続けるという義務、その嘘を本当であるかのように成り立たせ続ける義務があると思っている。嘘をつくというのは、それがどれだけ相手を救い、守るにせよ、やはり良くない行為だと思う。だからこそ、嘘をつく側に、その嘘を突き通すという覚悟がなければならないと僕は感じる。

だから、すぐバレる嘘をつく人、雑に嘘をつく人のことが、僕は嫌いだ。

仮に誰かの嘘に気づくことがあったとしても、その嘘をついた本人が隠し通そうと努力しているのが分かれば、気づかなかったフリも出来る。内容や状況にもよるが、嘘をついてくれてありがたい、と思うこともあるだろう。自分で嘘をつく場合にも、これはいつも意識している。すぐバレる嘘は、誰も幸せにしない。ただ現実に、微妙な跡を残すだけだ。ささくれのように、時折かすかな痛みを与えるような、微妙な跡を。

雑な嘘をつく人の中には、「自分が嘘をついているという自覚」がない人がいる。僕にとっては、とても恐ろしい人種だ。身近にそういう人がいるのだが、本当に、何故そんな嘘をつくのか、全然理解できないことがある。次第に、これは本人が「嘘をついている自覚」がないのだな、と判断するようになった。

そういう人間は、理想と現実の捉え方が異なるのだ。普通の人間は、理想は理想として、目の前にある現実をきちんと捉える。理想は、目の前にある現実との差という形で意識される。しかし、嘘をついている自覚がない人は、自分の中にある理想を「現実」と捉えるのだ。当然その理想は、目の前の現実とは大きくかけ離れている。しかし、そういうタイプの人は、自分が「現実」だと捉えている理想に合わないものはどんどん斬り捨てていく。そして、あらゆる力を駆使して、自分が見ている「現実」こそが目の前にある現実なのだと周囲に錯覚させようとする。

見ていて、いつも凄いなと感じる。基本的には破綻しているのだけど、破綻しているように見えないように振る舞うのが上手い。ある意味で天才なんだなと感じるが、「現実」と目の前の現実のギャップを埋めざるを得ない者にとっては、迷惑な人だ。

理想に対する想いが、とても強いのだろう。本書の主役であるsacraも同じ人種だ。理想に対する憧れが強い。自分はこうなっているべきだ、という想いが先行し、あらゆる手段を使ってその理想を現実にしようとする。苦手なタイプだ。

しかし、sacraの話を読みながら、同時にこんなことも考えた。美人であることの苦悩についてだ。

本書でsacraは、恐ろしいほどの美少女として登場する。そして、美少女であるが故に、皆sacraの中身に関心を持とうとしない。

…と断言してしまうのも少し違うと思うので、この作品はなかなか難しいのだが、とりあえずそういうことにして話を進めよう。

圧倒的に外見が良いと、外側しか見られなくなる。もちろん外見は、興味を持ってもらう入り口として良い役割を果たすだろう。それに中身に関心を持ってもらうことに興味がなければ、外側だけ良ければ十分だ。しかし、すべての美人がそういうわけではない。外見はともかくとして中身を見てほしいのだ、と感じる人もいるだろう。

僕は昔からずっと、こういう部分に美人の苦悩はあるよな、と感じていた。

僕は変人が好きで、自分の変人センサーに引っかかる人と関わりを持とうとすることが多いのだけど、僕がこれまで関わってきた変人は、美人が多い。これには色んな要因があるだろう。僕が外見の良い人しか視界に入れないから、そもそも美人ではない変人がいても気づかないという可能性ももちろんあるだろう(僕はそうではないと思っているけど、それを納得してもらうことは難しい)。けど、とりあえずそういうことを措いて、仮に「変人には美人が多い」というのが正しいとすれば、それは美人であることの苦悩故なのではないか、と思っている。

自分の中身にまで到達して欲しいけれど、外見がもの凄く良い人がいるとして、その人は、いつも自分の外見ばかりに注目が集まることに不満がある。だから、外見以上に内側から出る「変さ」みたいなものを表に出していけば、とりあえず外見にだけ注目が集まる状況を変えられるのではないか…。みたいなことを無意識に感じていないだろうか。もちろん。「変さ」を内側から出しても大丈夫、と判断できるのは外見が良いからという側面もあるわけで、どのみち外見の良さという呪縛から逃れることは出来ないのだけど。

こういうことを、割と普段から僕は考えている。
では、sacraはどうだろうか?

sacraは、「外見ではなく中身を見てほしい」と単純に思っているタイプではない。完全に、外見の良さを一つの手段として使っている。しかしそれは、中学の頃からだ。sacraが物語の中できちんと描かれるようになるのは、中学の頃からなのだ。だからそれ以前に、「外見ではなく中身を見てほしい」と思った可能性はゼロではない。

…ゼロではないが、やはり違う気はする。sacraはとても捉えにくい。sacraが何故嘘ばかりつき続けたのか、何故虚構ではなく自分の内側から出てくるもので生きようとしなかったのか、イマイチ捉えきれない。その理由を、圧倒的な外見に求めて理解しようとするのだけど、それも上手くいかない。

ただ一つ言えることは、sacraが圧倒的な美少女でなければ、sacraのこの生き方は間違いなく成立しなかった、ということだ。sacraがもし美しくなく生まれていたら、sacraはどんな人生を歩んでいただろう。ただの凡人として生きるしかなかっただろうが、その状況に耐えられたのか。美しさを武器に出来なくても、何か手を打ったのか。そのことに、とても関心がある。

内容に入ろうと思います。

sacraという、美人イラストレーターが失踪した。テレビに出たり、個展が大盛況だったりと人気を集めていた彼女だったが、彼女には盗作・経歴詐称・結婚詐欺などの疑惑が次々と持ち上がっていた。
彼女は一体何者なのか?
sacraの中学時代の同級生であり、現在はフリーラーターである朝倉美羽は、失踪したsacraとこれまで何らかの形で関わりがあった人間に取材を試みていた。同級生、絵画教室の先生、漫画家、芸術家…。彼ら彼女らは、自分たちが見たそれぞれの「sacra」を語っていく。
あらゆる場面で、息を吸うようにして嘘をつき続けたsacra。他人の好意を利用し、他人のエピソードを拝借し、他人の作品を剽窃し、他人の成果でステップアップする。sacraは全身、他人から奪ったもので出来ていた。sacra自身に属するものは、その恐ろしいまでの容姿の美しさだけだ。
容姿と嘘以外何も持たぬまま徒手空拳で世間を渡り歩き、自分では一切何も生み出さないまま人気美人イラストレーターとしての地位を確立したsacra。彼女は一体何がしたいのか?何故失踪したのか?その素顔とは?
嘘だけで塗り固められたモンスターのような少女の軌跡を、大勢の人の証言によって追う物語。

これは面白い作品だったなぁ。メチャクチャ面白かった。

とにかく本書は、sacraという少女の造型が素晴らしい。このキャラクターを生み出し、血肉を与え、作品の中で自由自在に躍動させたことがこの作品の勝利だ。sacraは、どこかにいそうな気もするし、どこにもいなさそうな気もする。そのギリギリのラインにちょうど立っているような感じがするのだ。これ以上エキセントリックだとリアル感が失われるし、これより大人しいと魅力に欠ける。実際的な存在感を保ちながら、ギリギリのラインまでエキセントリックさを追求している点が素晴らしいと思う。

この作品を読まずに、ちらっと聞いた内容だけで判断した場合、「美人っていうんだから男ばっかり騙されてるんだろう」と思うだろう。しかしそうではない。もしそうだったとしたら、この作品はもっとつまらなくなっていただろう。sacraは、男女だけではなく、全年齢的に、様々な人間に嘘をつき、信頼させ、自分のために利用した(とはいえやはり、sacraの嘘に気づいて離れていくのは、女性の方が多いのだけど)。

『断ったら終わりだってことはわかってました。さくらは深追いはしませんから。
それをつまらなく感じてしまった。さくらを失いたくなかったんですね。
さくらといると、面白いんですよ。ジェットコースターに乗っているみたいなの。上がったり降りたり。次はどうなるんだろうってわくわくするんです』

少なくない人が、sacraのおかしさに気づいていた。特に女性はそうだ。sacraが嘘をついていて、その嘘を駆使して様々な状況を打破しているということに、結構気づいていた。読者も、そうだろうなと感じるだろう。何故ならsacraの嘘は、雑だから。隠そう、という意志はほとんどない。というか、冒頭でも触れたように、嘘をついているという意識がないのだ。自分が口から発していることが真実だと思い込めるからこそ、sacraは様々な発言や行動の整合性を取ろうとしない。その美貌と、様々な苦労を連想させる経歴(それらもほとんど嘘なのだが)のせいで、ちょっと違和感があっても気にしなかったり、逆に信じたいと思う者もいる(特に男に多い)。sacraは、個々の嘘に真実味を持たせるのではなく、「sacra」という存在に真実味を持たせることで、嘘をつくことで生じる様々なズレに目がいかないようにした。もちろんそれは、sacraの超越した美貌があってこそ成せる業ではあるのだけど、とはいえそれだけでは女性も騙されているという事実が説明出来ないだろう。天性の勘とセンスの良さで、「sacra」という存在の真実味を押し広げていったのだろう。

朝倉美羽からインタビューを受けているその時点においても、まだsacraのことを信じている者もいる。人は自分が信じたいと思うものを信じるのだ、というのは、作中にも出てきたし、巷間よく言われることでもあるのだけど、まさにその通りだなと感じた。皆、sacraのことを信じたがった。sacraといると楽しいからという者もいれば、sacraに嫌われたくないと思う者もいただろう。守ってあげたいのだ、飾りにしたいのだ、褒められたいのだ…。皆、様々な理由からsacraを信じたがった。

sacraは、皆のそういう気持ちを、実に見事に利用し続けた。それはもう、見事というべきものだ。sacraは本当に、自分では何も生み出さなかった。sacraが生み出したとされる様々なものは、どれも誰かのものだった。

『わたしが欲しいのは才能だよ、由香さん。わたしは自分を人に認められたいの。わたしは、誰かの奥さんとしてではなくて、自分の名前で生きていくの』

彼女は「才能」という言葉を、果たしてどんな意味で使っていたのだろうか。sacraには、間違いなく才能がある。それは、良いものを見抜く嗅覚と、人たらしの能力だ。そしてこれらを駆使すれば、プロデューサーやキュレーターという立場で、自分の名前で生きていくことは十分可能だっただろう。
何故彼女は、そういう生き方を選択できなかったのか。
sacraは最後まで、「自分で作品を生み出すこと」、もっと言えば、「自分で作品を生み出しているように見えること」にこだわり続けた。彼女にとって「才能」とは、何かを、sacraにとってそれは絵だったのだけど、とにかく何かを自分の内側から生み出す能力のことだけを指していたようだ。
何故なんだろう。何故彼女は、プロデューサーやキュレーターでは満足出来なかったのか。

その理由となり得る要素も、作中では描かれている。古くから活躍する著名な漫画家の存在や、中学生時代の美術教師とのエピソードなどだ。絵はsacraにとって、ある種の成功体験と言えるのだろう。それを再現したい、という気持ちが、大人になる過程で一向に衰えることがなかった、ということなのだろうと思う。

とにかくsacraという女性の描写は圧倒的だ。近くにいたら、僕も間違いなく騙されてしまうような気がする。たぶん、すぐに胡散臭さには気づくだろう。でも、気づいたとしても、「sacraといると楽しいから」という理由で、その嘘に気づかないフリをしてしまうかもしれない。だから、作中に登場する「sacraに騙された人達」のことを責められない。

「sacraに騙された人達」の話は、とても面白い。様々な人間が断片的なsacraの姿を語っていくのだけど、ある人物の語りの中で謎だった部分が、別の人間の語りの中で明らかになっていく。そういうエピソードがもの凄くたくさんあるのだ。インタビューをしている朝倉美羽と読者だけは、複数の人間の話を総合的に聞いているから、sacraの嘘の悪質さがより理解できる。しかし、自分が見たsacraの姿しか知らない面々は、自分が見聞きした情報だけでsacraを判断してしまうから、sacraを疑いきれないし、信じたくなる。

この点がこの作品の構成の非常に面白い部分だと思う。みんなの話を聞いてる俺たちだけはちゃんとsacraの嘘が分かってるんだぞ、という謎の優越感もあるし、思いもしなかったところで様々な人間の話が繋がっていく展開も非常に魅力的だ。複数の話を突き合わせてやっと分かるsacraの嘘の真意もあるし、すぐバレてもおかしくない嘘をつきながら圧倒的な対応力で現実をねじ伏せてしまうsacraの力強さも体感できる。sacraの魅力には到底及ばないものの、「sacraに騙された人達」もそれぞれに一癖も二癖もある人間たちで、彼らの考え方や価値観にも興味が持てる。全体的に魅力溢れる人物ばかり登場する小説という印象だった。

最後の最後までsacraらしさが炸裂する物語で、ラストの展開には読者も唖然とするだろう。結局最後まで、そうまでしてsacraが追い求めたものが何だったのかは、はっきりとは掴めない。このモヤモヤ感も、この作品らしくてとても良いと思うのだ。最後までsacraの謎めいた魅力に振り回され続ける作品だ。

青木祐子「嘘つき女さくらちゃんの告白」

「湯を沸かすほどの熱い愛」を観に行ってきました

メチャクチャいい映画だった。
こんなに泣きますかね、っていうぐらい泣きましたね。


死ぬ、ということが分かった時、「ああそう」とさらっと受け入れられたらいいな、と思っている。
もしかしたら人生の色んなことを、それ基準で選んでいるのかもしれない。
明日死を宣告されても、「ああそう」と言えるような生き方を、自然と選んでいるのかもしれないなぁ。
そういう自分のことを、別に寂しいなんて思うことはないんだけど。

昔飛び降りようとした時、友人のことが頭に浮かんだ。
やつらに会えなくなるんだなぁ、と思った。
たぶんそれで、僕は飛び降りることが出来なかったんだと思う。

だからきっと、死を宣告されたら、その時もきっと何かが頭に浮かぶだろう。
それが何かは、僕にはよく分からないし、何かが浮かんでしまうことを「嫌だな」と思う気持ちさえある。
けれど、結局なんだかんだ言ったところで、「死ぬのは嫌だな」と思ってしまうんだろう。
そういう自分は、嫌だなぁ。

僕の中で「死」というのは、もう少しさらっとしたものであって欲しいなという気持ちがある。
もっと気軽に普段の会話で出してもいいような、もっと軽々しい話題であって欲しいという気持ちがある。
特別なものだ、と思うからこそ、葬儀をしてお墓を建てて何周忌と言って集まる。それは決して悪いことじゃないんだろう。でももっと違う形だってあるんじゃないかと思いたい。特別なものだ、と思うことで、「死」を遠ざける結果になってはいないか。「死」を特別視することで、日常から「死」を排除出来てしまってはいないか。

僕はこの映画は全編好きだ。でも、一番素晴らしいと思ったのはラストだ。具体的には書かないが、この映画のラストは、まさに「死」を「日常」の中に組み込もうとする行為ではないかと思った。形式の中に「死」を閉じ込めるのではなく、自分たちが「日常」の中で「死」を感じられるようにする。そんな選択を彼らがしたのだと思って、僕は凄くいいなと思った。

僕も、この映画のラストのような選択(誰もが出来る選択ではないのだけど)をしてもらえるような生き方をしよう。なんか、凄くそう思った。

内容に入ろうと思います。
銭湯「幸の湯」は、1年前から休業状態。幸野双葉の夫である一浩が突然失踪したためだ。双葉はパートで生計を立て、持ち前のパワフルさで高校生の安澄を育てている。安澄は学校でいじめられているようだが、双葉は気弱な安澄に闘う勇気を持たせようと奮闘している。
ある日パート先で倒れた双葉は、ステージ4の末期がんであると診断されてしまう。余命は2ヶ月。しかし打ちひしがれてはいられない。双葉には死ぬ前にどうしてもやらなければならないことがある。
双葉は探偵に依頼して、一浩の行方を探してもらった。一浩と、その娘である小学生の鮎子と突然同居することになった安澄は驚く。双葉は、休業状態だった銭湯を再開すると宣言。全員に仕事を手伝ってもらうと言って聞かせた。
安澄の制服の紛失、鮎子の失踪など問題は山積。でも、立ち止まってはいられない。双葉は「ある目的」を持って、安澄と鮎子を連れた旅行に出かけるが…。
というような話です。

いやー、びっくりしました。
メチャクチャいい映画でした。
評判はなんとなく聞いてたけど、ここまでとは思ってなかったので驚きました。
さっきも書きましたけど、もう何回泣いたことか。
別に泣けたらいい映画だ、なんて思ってるわけじゃないんだけど。

正直なところ、内容にはあんまり触れられないんです。たぶん色んなことを知らないまま見た方がいいと思います。幸野家は、父親が失踪したということを除けば至って普通の家族に見える。しかし、実は色々ある。その一つ一つが、「家族ってなんだろうね」という問いかけを突きつけてくるものでした。

血が繋がってるのに家族になれない人もいれば、血が繋がってないのに家族になれる人もいる。その違いは色んなものが関係していて、一概には言えないんだろうけど、この映画の中にその答えの一端があるなぁ、と感じました。

幸野家は面白い。なんだか、双葉と関わる人間はみんな家族になってしまう、そんな印象がある。双葉は、外から見て分かりやすい「何か」があるわけじゃないんだけど、なんだか惹きつけられてしまう。そういう「何か」がある。それは、凄くありきたりな言葉で言ってしまえば「芯」ということになるんだろう。双葉には、「芯」がある。それは、正しいとか間違ってるとか、普通とか常識とかおかしいとか、そういう価値判断を寄せ付けないものだ。双葉の「芯」は、それ自体が基準という感じがする。分かりにくいたとえになるかもしれないけど、「光は直進する」と物理で習う。しかし実際は、「光が通った軌跡を直線と呼ぶ」が正しい。例えば、太陽など質量の大きい天体付近を通る光は、星の重力の影響を受けて「曲がる」。しかし、曲がっているように見えても、光が進んだその軌跡が「直線」と呼ばれるのだ。双葉の「芯」にも近いものを感じる。双葉の「芯」が基準となって、双葉を中心とした狭い世界のあらゆる物事は収まるところに収まっていく。

双葉ががんを患ったことは、一面では不幸なことだ。しかし、双葉のがんのお陰で家族が増えたとも言える。双葉ががんにならなくても幸野家と関わることになった人はいるだろう。しかし、双葉ががんにならなければ、探偵ともバックパッカーとも出会うことはなかっただろう。もちろん、これはフィクションだ。現実はそううまくいかない。いかないのだが、しかし誰かの死が良いことももたらしうる、という希望を抱くことは悪いことではない。そんな発想が広まれば、もっと「死」が身近なものとして語られるようになるかもしれないし。

この物語は全然ミステリではないのだけど、伏線が色んなところにあった。「ん?」と思うような箇所は、何らかの形で後から説明される。伏線という意味で一番グッときたのは、安澄が道で人助けをする場面だ。そのシーンの意味が理解できた時はボロボロ泣きましたね。

役者の演技も素晴らしかった。演技については全然詳しくないけど、特に良かったなと思うのが、二人の娘、安澄と鮎子の演技。安澄は、とにかく表情が良い。特に、哀しいのをこらえるような表情にはギュッとさせられる。これまでずっとこんな風に辛いことをやり過ごしてきたんだろうな、というようなそれまでの人生も透かし見えるような演技で、僕はとても好きだ。

鮎子は、失踪した翌日の朝食のシーンがヤバかった。あれはズルい。ここでもボロ泣きでした。こう言ってはなんだけど、なんとなく全身から「不幸そうなオーラ」を醸し出す子で、立っているだけでどことなく淋しげに見える。鮎子のシーンでもう一つ印象的だったのが、バックパッカーから「あの母親から生まれてきた君たちが羨ましい」と言われた時、顔を背ける場面。やはり、顔を背けるだけの演技なのに、もの凄く淋しげな雰囲気が伝わってきてとても良かった(しかもこの場面には別の意味もあって、それも素晴らしい)。

そして、何よりもラスト。この映画のラストは本当に素晴らしいなぁ。それまでの一連の様々な出来事があったからこそ、このラストを普通のこととして受け入れることが出来る。明白に間違っているんだけど、彼らの世界ではそれが唯一の正解であるように思えてしまうような、このラストを正常に見せるためにそれまでの物語が存在していたような、そんな感想を抱かせるような見事な終わらせ方だったなと感じました。

とにかく素晴らしい映画でした。是非見てほしいと思います。

「湯を沸かすほどの熱い愛」を観に行ってきました

ダメ人間・橋本奈々未

2017年2月20日、橋本奈々未は自身の誕生日を目処に、乃木坂46から卒業することを発表した。乃木坂46の初期からずっと第一線で活躍し続けてきた橋本奈々未が果たした役割はとても大きいだろう。さらに橋本奈々未自身も、その聡明さ、あるいは知性によって高く評価されてきた。「アイドルらしくない」と言われる佇まいを見せる橋本奈々未は、その特異な存在感で独自の地位を作り上げたと言っていいのではないかと思う。

しかし彼女は、自分の捉えられ方について困惑する機会が多かったという。

【勉強ができると思われているかもしれないけど、若いときからアイドルを始めた方たちは、仕事でなかなか高校に通えないけど、私は普通に授業に出られていただけ。クールと言われているけど、感情の起伏が激しくて、楽屋ではひとりですごい騒いでいますから。
一番抜け出したいのは「できて当たり前」「しっかり者」というイメージ。本当はダメ人間なんですよ】「アイドルspecial2015」

橋本奈々未を「ダメ人間」だと捉えている人間はいないだろう。あまりにも、橋本奈々未のイメージからかけ離れている。何でもこなし、自分なりの考え方を持ち、常に知性を感じさせる彼女には、あまりにも似つかわしくない。とはいえ、自己認識と見られ方に差があると感じているのなら、その差を埋める努力をしてあげたい、という気持ちもある。

【ただ私は、見た目と中身が、だいぶ違うんですよね。どうしても見た目先行で色々なことが進んじゃうんですけど、あまりイメージと直結させないでほしいなとは思います。クールって言われることが多いけど、中身は全くクールではないんですよ】「アイドルspecial2016」

橋本奈々未は、こんな風にも語っている。

【映画で一緒になったいくちゃん(生田絵梨花)と(秋元)真夏と「アイドルと女優の違い」を話したときに思ったんです。アイドルは自分の色を出して分かってもらうことが仕事。だけど、女優さんは色を付けないのが仕事で、役によって色を付けるから無色でいなきゃいけないんだろうなって。
アイドルの場合はグループの中でキャラができて、それがずっと継続されてしまう。乃木坂46の中にいる橋本奈々未としてはいいけど、それが私の本質だと思われるのはどうなんだろうなって】「アイドルspecial2015」

橋本奈々未は乃木坂46を卒業して、芸能界を離れた普通の社会で生きていく。今彼女は、「乃木坂46の中にいる橋本奈々未」として捉えられている。そして、乃木坂46の卒業と同時に芸能界を去る決断をした橋本奈々未は、「乃木坂46の中にいる橋本奈々未」という捉えられ方から脱する術をほとんど持たないと言っていいだろう。

僕の文章がその役を担えるとは到底思えないが、橋本奈々未を、自身がそう望むように「ダメ人間」というキーワードで切り取ってみたい。今回の記事はそんな動機で書かれている。


【「できて当たり前」みたいに見られても、私は特に何が秀でているわけでもないんですよ。むしろ、できてないことのほうが多いので、「損してるな」と思うときも正直あります。イメージから外れたことをすると「そういうことをするのはおかしい」と言われることもあるんです。何も考えずに書いたブログが深読みされることもあるし、自由が狭まっているのかなと感じることが増えました】「アイドルspecial2015」

繰り返すが、橋本奈々未は自己認識と見られ方の間にギャップを感じていた。僕自身も、冒頭で書いたように、橋本奈々未は何でも出来るし、知性を感じさせる人間だとずっと感じていた。僕は乃木坂46の中では齋藤飛鳥がダントツで好きだが、齋藤飛鳥のインタビュー目当てで買った雑誌の中に他のメンバーの記事があれば読む。その中で、価値観や考え方や言葉のセレクトに最も琴線が触れるのが橋本奈々未だ。だから僕自身も、橋本奈々未を「ダメ人間」だと思ったことなどなかった。

何故そこにギャップが生まれるのか。考えた僕は、こんな結論に達した。
「橋本奈々未は、鎧だと思って身につけたものを武器だと捉えられているのではないか」と。

橋本奈々未は自分自身を、こんな風に捉えている。

【私、もともと自分に自信がないタイプなんですね】「別冊カドカワ 乃木坂46 Vol.1」

【10代の頃は、人と目を合わせられなくてバイトの面接で落ちまくりました。強くなりましたね】「アイドルspecial2017」

【(とあるMVについてのコメントで)私もこのキャラもコミュ障なので通ずるものがありました】「乃木坂46映像の世界」

【私もだよ。めちゃくちゃズボラで気分屋だから、それを理解してもなおグイグイ来てくれる人や、私と同じズボラな人としか仲良くなれない】「乃木坂46×プレイボーイ2016」

乃木坂46にはこういう、自分を低く捉えるメンバーが多いが、橋本奈々未もそうであるようだ。スボラで自信がないコミュ障。そういう自分を指して「ダメ人間」だと評しているのだろう。

そして、そんな「ダメ人間」だからこそ身についただろう力がある。それが「観察力」だ。

「ダメ人間」であっても、何とか生きていかなければいけない。そういう時どうするかは、人それぞれ様々だろう。無理して「デキる人間」という仮面を被る者もいるかもしれないし、引きこもってしまう者もいるかもしれない。橋本奈々未は、「観察する」という方法で「ダメ人間」なりに生きていこうとした、というのが僕の仮説だ。根拠はないのだが、そう考えないと、「橋本奈々未が自身をダメ人間だと感じている」という事実と、「橋本奈々未が他者から圧倒的な知性を感じさせる」という事実が結びつかないと僕は感じる。

まず橋本奈々未は、自分自身を観察した。どんな時に自分はうまくいかないのか、どういう条件で自分は失敗するのか、何が原因で自分の悪い部分が表に出てしまうのか、逆に自分が良く出来るのはどういう時なのか…。きっと彼女は子供の頃から、こんな思考を繰り返していたのではないか。自分が「ダメ人間」であるという自覚があるからこそ、それでもなんとか生きていくために徹底的に自己分析する。自分のことを出来る限り理解することで、自分の弱い部分・ダメな部分を捉え、先回りしてそこを保護する。

そう、橋本奈々未にとって「観察力」は、ある種の鎧として機能していたと思うのだ。自分には良いところなど少ないと感じていた彼女は、高い観察力によって自分の弱さを見極めておく。

そしてその弱さをきちんと「言葉で捉える」ことによって、あらかじめその場所の防御を高めておく。言語化するというのはある意味で「近似する」というのと同じだ。多少のズレがあっても、その弱さをきちんと言葉で捉えることで近似し、分かりやすい形で保持しておく。「体調が悪い」だけでは対処の仕方は無限にあるが、「風邪」「インフルエンザ」「気管支炎」などの病名がつけば対処の仕方がはっきりするように、言語化によってよりシンプルに捉え、対処しやすくし、その場所の防御を高めやすくする。

そんな風にして彼女はなんとか生きてきたのではないか。

しかし、当然と言えば当然ではあるのだが、その高い「観察力」と鋭い「言語化」は、他者に向けられればもの凄く強い武器になる。

乃木坂46に入る以前の橋本奈々未がどんな人間だったのか、僕には知る由もないが、想像力を膨らませれば、乃木坂46に入ってからその武器が顕在化したと考えることも出来る。それまでは、他者に対して観察力が発揮されても、それを披瀝する場がなかった。普段のおしゃべりの中で話すようなことでもないし、コミュ障だと自分で言っている橋本奈々未は、そこまで交友関係が広かったわけでもないのだろう。しかしアイドルになり、しかも乃木坂46のメインとして一線で活躍する中で、橋本奈々未はそれまでの人生で問われることのなかった問いを投げかけられるようになった。それらに対して「観察力」と「言語化」を発揮することで、それらが始めて武器として認識されるようになったのではないか。

橋本奈々未の「メンバー評」は、とても面白い。

【いまの話(※松村沙友理が自身をKYだと語る話)を聞いて思うのは、きっとさゆりんは自分があるからそうなるんだろうなって。自分がおもしろいと思うことだったり、正しいことやまちがってることが自分の中でちゃんと整理がついてるんだよ。その基準で周りで起こることを見て、自分の基準で笑えたり怒れたりするから、結果的に「合わない」と思うことが多いのかもしれない】「BRODY 2016年10月号」

橋本奈々未は、他者の本質を捉え、それを別の人間でも理解できる言葉にまとめ上げる能力が卓越している。それは、「ダメ人間」であるが故に自分自身に向け続けてきた「観察力」が他者に発揮されることによって実現しているのだと思う。

西野七瀬についても、こんなことを書いている。

【西野は「許容範囲が広い」人ですね。人に何かされて「いいよ」っていう意味じゃなくて、例えばですけど、寒くなってきた秋口におじさんが半ソデで交通整理をしているとすると、私だったら「寒そうだな」くらいで終わるんですけど、西野の場合は「あのおじさん可愛い」って感じになるんですよ。「一生懸命、棒を振ってんねんで。可愛いなぁ」みたいな。実際にそういうことがあったわけじゃないんですけど。普通の人だったら、その物ごとに対して特別な感情を抱かなかったり、興味を持たないだろうなっていうことにも、わりと感情を持つというか…。そういう「許容範囲の広さ」が人気なんだと思います】「BUBUKA 2016年4月号」

西野七瀬を「許容範囲が広い人」と捉え、瞬時に例え話も作り出す能力は、やはり図抜けている。

その「観察力」は、何も人にだけ向けられているわけではない。

【でも、何も印象に残らない作品よりは、今でも「あのシーンはなんだったんだ」と議論される作品のほうが、アイドルのMVとしては成功だったんじゃないかと思います】「MdN 2015年4月号」

【私が苦手な部分は誰かの得意ジャンルだったりするので。集団の強みはそこだと思っています】「別冊カドカワ 乃木坂46 Vol.1」

引用したのは乃木坂46に対するものだけだが、橋本奈々未の「観察力」は、事象にも概念にも発揮される。どんな物事に対しても高い観察力を発揮し、それを的確に言語化していく力は、圧倒的な知性を感じさせる。多くの人が持つ橋本奈々未に対するイメージは、こんな風に作り上げられたのだろうと思う。

しかし、だからこそ橋本奈々未はギャップを感じることになる。彼女にとって「観察力」と「言語化」は、「ダメ人間」である自分を生きさせるための手段でしかなかった。しかしそれが結果的に、自分に知性というイメージをもたらすことになった。その違和感を、橋本奈々未は感じるようになっていったのだろう。

【私はもともと普通にパッと発言したことが、深読みされやすい立ち位置にいるらしいので、かなり発言には気をつけてきたんですけど】「乃木坂46×プレイボーイ2016」

【自分が思ってる自分が「自分じゃない」って言われることがあるんですよ。「ななみんってこうだよね」っていうイメージがひとり歩きしちゃうんです。あるひとつのことに周りから見た自分のイメージが付け加えられていって、自分が思った通りにやったことが「それはちょっとらしくない」って言われてしまったり。そうすると「あれ?私って本当はそうだったのかな?」って(笑)。どこからが本当の自分の意志でやっていて、どこまでが周りに求められてやっていることなのか、たまにその境界線がわからなくなることはありますね。その積み重ねによって自分が変わっていってしまうのかもしれないとは感じていて。自分の価値観は大切にしたいけど、それが知らずしらずのうちに外からの力で変わっていくこともあるのかもしれない…うーん、難しいです(笑)】「BRODY 2016年10月号」

こういう怖さは、少しは理解できる。僕も、当然橋本奈々未とは比べ物にはならないが、似たようなことを感じることがある。他者からの見られ方、評価のされ方に怖くなることがある。僕は意識的に、自分の評価を下げるような行動を取ってバランスを取ろうとする。しかし、今や国民的アイドルグループの一員であり、その中でも人気の高い彼女は、外からの自分の評価を自己認識に近づけるような行為を考えなしにすることは許されない。その窮屈さみたいなものも彼女を卒業へと向かわせたのではないか。インタビューの端々からそんなことを感じることがあった。


もう一つ、橋本奈々未を「ダメ人間」として捉える軸がある。それは彼女のこんな発言から読み取ることが出来る。

【これをサービス精神と言っていいかはわからないんですけど、少なくとも私は自分のためにはがんばれないんですよ】「BRODY 2016年10月号」

この発言も、「ダメ人間」というキーワードで捉えることが出来る。僕もそうだが、自己認識が低い場合、そんな自分に対して全力を出すことはとても難しい。「自分のためにはがんばれない」という認識を持っている橋本奈々未が自身のことを「ダメ人間」と捉えているということが如実に現れた発言だと僕は感じる。

【私、自分自身に自信がないので、「私のどこがいいんだろう?」とか「どうして私を応援してくれるんだろう?」って思ってしまうんです。でも、ファンの人やスタッフさんが褒めてくれたり、期待してくれることによって、「この人たちは裏切れないな」っていう思いで、なんとか踏ん張ってここまでやってこれました】「BUBUKA 2016年4月号」

アイドルとして優等生的な発言だと捉える向きもきっとあるのだろうが、本心なのだろうと僕は思う。結果的に彼女は、自分を「押し流してくれる環境」にいられた。乃木坂46のメンバーとして、第一線のアイドルでいるというのは、無数の期待の中にいるということだ。無数の「誰か」のために、という意識は、自身を「ズボラ」とも評する橋本奈々未をきちんと自立させる環境だっただろう。

しかし一方で橋本奈々未は、無数の「誰か」に対してこんな風にも感じていた。

【はい。私は昔から憧れって感情を抱いたことがなくて(笑)。だから羨ましいじゃないけど、自分が必死になれるということは、自分が役に立ってると感じられるということだと思っていて。さっきと同じような話になりますけど、自分がいちばん活き活きして必死になれるときって、自分になにかしてあげてるときじゃなくて、ひとの役に立っていたりひとに求められていることが目に見えてわかるときなんだろうなって思ってます。このお仕事をしていると、どうしてもそれが伝わりづらくて。求めてくれるひとに自分がしたことが与えている影響って、まったく自分があまり知らないところで起こっているわけじゃないですか。だから握手会で「こういうときにこういうことを言ってくれたからがんばれました」みたいに言われるのはすごくうれしいけど、自分の中でまったくリアリティが伴ってこないんですよね】「BRODY 2016年10月号」

無数の「誰か」による期待は、数だけは圧倒的だが、ひとつひとつをはっきり認識することはとても難しい。料理を作って誰かに食べさせる、みたいなことは、自分のした行為とその結果が直結する分かりやすい行動だ。しかしアイドルというのは、大昔と比べれば格段にファンとの距離は近づいたとはいえ、自分のした行為とその結果が強く結びついたと感じる機会が少ない。橋本奈々未はそんな風に捉えている。

【やっぱり私は、働いているべき性格というか「“働くこと”が生きていく上でのモチベーションにつながっていくタイプ」だと思っているんです。だから、お仕事が変わっても、「自分がやるべきことだ。どう貢献できるかな」と考えて、行動していくことが一番嬉しいことになっていくと思います】「乃木坂46×プレイボーイ2016」

僕はどこかで彼女が、「裏方さんのような縁の下の力持ち的な仕事が自分には合っていると思う」というような発言をしているのを目にした記憶もある。そんな彼女の意識は、「サヨナラの意味」のMV撮影の時にも発揮されていたようだ。

【ミュージックビデオの撮影で、初めてセンターの責任を感じました。台風が迫る中、雨に振られてみんながびしょ濡れになり寒い思いをしていたので、「このシーンは雨の中で撮る必要が本当にありますか?」とスタッフさんに聞きました。もしセンターでなければ、寒いけどガマンと思うくらいだったかもしれない。センターとはグループの代表として、周りのメンバーに対してこういう風に感じるんだなと思いました】「日経エンタテインメント!2017年2月号」

また、これは橋本奈々未に限らず乃木坂46のメンバーの多くが口にすることでもあるのだが、MVを始めとした乃木坂46のクリエイション全体に対しても、こんな意識を持っている。

【かわいく明るく撮ることを優先しているアイドルグループは多いと思うんですけど、乃木坂の場合、メンバーは「かわいく撮ってもらいたい」とはもちろん思うんですけど、求められるのはそこじゃなくて作品としての完成度が優先されるというか】「MdN 2015年4月号」

「ロケ弁が食べられると思って」アイドルになった橋本奈々未は、アイドルという「職業」に何か期待を持っていたわけではなかっただろう。そんな環境で「誰かのために」という意識で努力を続けた結果、彼女はトップアイドルになった。「ダメ人間」という意識が、自分で人生を切り開くのではなく、誰かによって求められた道を進むという意識を生んだのだろう。そしてそれを徹底したからこそ、彼女はトップアイドルになれたのではないかと思う。しかし、アイドルとしての階段を駆け上がれば上がるほど、彼女の「役に立っているという実感を得たい」という感覚からかけ離れてしまう。忸怩たる思いがあっただろう。求められる自分と本来の自分の差も激しくなり、自分がどうあるべきか分からなくなっていきもしただろう。

【今は夢も目標もない状態なんですよ。何かしたいことがあるかって聞かれても、何もしたいことがないんです。余計に、今目の前にあることをやるしかなくて。やっていくうちに何か見つかればいいなという感じです。】「アイドルspecial2016」

【色々なことを経験したし、様々な現実を知って、これは自分には難しいなとか、適正がないかなとか判断してきた結果、徐々に選べることが狭まってきた。その中で、自分がこれをやりたいというものに出合えれば、今頑張っている意味はあるのかなって思います。
かつての夢は何一つとしてかなっていない。でも、今もう一度そのときに戻ってやり直したいかというと、そこまでのこだわりもない。だからこの先、新しく何かやりたいということが、きっとまた見つかるはずだと思ってやっています。漠然と何もないところを走るのは、ゴールが見えない中をひたすら走るようなものなので、たまにしんどくなることもあります。それでも家族を支えなきゃいけないという思いがあるので、早く何か見つけたいですね】「アイドルspecial2016」

夢も目標もない、と語る橋本奈々未は、「何でも出来る」「知性的だ」という「乃木坂46の中の橋本奈々未」のイメージに応えるために努力した結果、求められることはなんでもやれてしまう人間になった。「乃木坂工事中」の放送作家の一人が、「橋本奈々未が恥ずかしいことになっているのを見た記憶がない」と語っていたが、本当にその通りだろう。しかし、器用に何でも出来てしまうが故に、「アイドル」という枠組みの中にいる限り夢も目標も見つけられない、と感じるようにもなっていったのだろう。

【めまぐるしい時間のなかで、目の前のことをやりきるのに精いっぱいになり、15年にインタビューでは「夢も目標もない」と言いました。自分自身の新たな夢や目標を持つために卒業する道を選んだのかもしれませんし、前向きに見つけていくつもりです。
漠然と「自分に正直にありたい」と思い続けて生きてきました。それが今の私にとって何よりの目標ですし、ずっと達成していきたい。それを実現するために自分の選択は間違ってなかったと思うし、今後もそれを実現できるよう、日々を過ごしていけたらいいなと思っています】「アイドルspecial2017」

卒業は橋本奈々未にとって、自分を見つめ直す一つの機会なのだろう。「ダメ人間」であるが故に「押し流してくれる環境」に心地よさを感じる彼女だが、しかしその環境に甘んじていては自分自身が失われてしまうとも感じている。「自分に正直にありたい」という目標を達成し、またやりたいことを見つけるためにも必要な手続きだったのだろう。一度離れてみて、結果的に彼女がやりたいことが芸能の仕事だとなれば、橋本奈々未ならいくらでも戻ってこれるだろう(まあ、その可能性は低いと思うが)。

【この5年間で私が乃木坂46でどんな役割を果たせたかは分かりません。メンバーやファンの方が寂しいと感じてくれたり、ぽっかりと穴が開いたと感じる部分があれば、そこが私の果たせたことなのかなと思います】「アイドルspecial2017」

卒業は橋本奈々未をどう変えるか。それを知る術はきっとないのだろうが、乃木坂46を離れてみて彼女が感じることをまた言葉で知りたいなと感じる。

くじ(シャーリイ・ジャクスン)

評価が高い作品だと知って読む場合、自分の感覚が揺らぐことがある。作品の良さをまったく理解できなかった場合、自分の読解力の無さを突きつけられ、どうしていいか分からないような気分になってしまう。

久々に、どこが面白いのか、素晴らしいのか、まるで理解できない作品だった。

22編の短編が収録された短編集なのだけど、読めども読めども面白くない。元々外国人作家の作品を読むのは苦手なのだけど、そういうことを抜きにしても、それぞれの短編の何がいいのか全然理解できない。

本書は、表題作である「くじ」が伝説的な作品である、という紹介のされ方をしているのだけど、その「くじ」も、別に良い作品だとは思えなかった。何故この作品が人々の衝撃を与え、伝説的な作品となっているのか、僕には理解できなかった。

こういう作品を読むと、自分の読解力の無さを感じるのだけど、ホントにこれは僕の読解力の無さが原因なんだろうか…と感じてしまうぐらい、良さがまったく理解できない作品だった。

シャーリイ・ジャクスン「くじ」

崖っぷち町役場(川崎草志)

僕は、田舎で生まれ、いっとき都会で過ごし、また別の田舎に住むことになった。今住んでいるのは、「田舎」というほど田舎ではないが、「大都市」ではない、地方の一都市だ。

本書の面白さは、「地方に生きる」という事象を、「日本全体における戦争の一地点」とみなしたという点だろう。

『「そりゃあやるさ。南予町が生きるか死ぬかのゲームの真っ最中だからね」
「生きるか死ぬ?なんだか大げさな言い方ですね」
「何が大げさなものか。首都も、大都市も、地方都市も、農村も、全部、互いの生存をかけた戦争に突入しているんだ」』

一応誤解がないように先に書いておくが、本書は、タイトルの響きや表紙の雰囲気から想像できるような、地方を舞台にしたライトミステリと言った感じの作品だ。堅苦しいなんてことはまったくないし、難しいことも何もない。ただ本書は、ベースとして、「地方の生き残り」を「戦争」だと捉えるような視点がある、ということだ。

少し長いが、南予町を、そして恐らく全国の過疎が進んだ自治体に共通するだろう問題がぎゅっとまとまった箇所があるので、引用してみたい。

『子どもを産もうとする。しかし、近くに産婦人科の病院はない。子どもが生まれる。子どもはしょっちゅう熱なんか出すが、近くに救急病院はない。さらに、子どもが進学する時にはまた問題が起こる。地元の学校に進学、そして、ここで就職というのなら別だが、大学に行こうとするとそれなりの進学校に入れる必要がある。だが、この町にそんなものはない。それで子供は、この町から出ていく。もし子供が大学に進学したら、その専門知識を生かせるような職場はここにはない。つまり、子供は帰ってこない。沢井さんは、老後は都会に戻るか、田舎で孤独に暮らすかの選択を迫られる。その時期には、再び、医療の問題が出る。衰えた体に病気が出始める。しかし、この町には大きな病院がない。重い病気になれば、八幡浜か宇和島の病院に頼らざるを得ない。さらに重い病気になった人は、松山まで搬送される。都市部に治療に通うとなると、莫大な費用がかかる。その時に収入は年金だけだ』

この発言をしているのは、本書で“名探偵役”を担う、町役場職員の一ツ木だ。彼は南予町とはまるで関係ない余所者でありながら、恩ある人物からの引きでこの町にやってきた。そして、その優秀過ぎる頭脳を生かして、日本中が巻き込まれている生き残り戦争に勝とうと奮闘している男だ。

本書の面白さは、まさにここにある。通常、「探偵役が謎を解く動機」は曖昧にされることが多い。謎を解くことが趣味だから、叔父さんが刑事だからなどなど、色んな設定が存在するものだが、「謎を解く動機」がはっきりしているケースは少ないように思う。

本書は、それが明快だ。一ツ木は、「南予町に人を残し、また人が入ってくるようにするため」に謎を解くのだ。そもそも謎解きなどという面倒なことには関心がない一ツ木は、その目的のために重い腰を上げる。

謎自体は複雑なものではないし、解決策も含めてライトな作品だ。しかし、「何故謎を解くのか」という理由が明快で、しかもその理由が「町を存続させるため」という、今日本中の自治体が直面している現実をベースにしている、というのが、ミステリを非常に現代的な切り口で描いたな、と感じた。

読めば分かるが、本書で登場する謎は、地味だし、解かれてしまえば大したものではないのだが、しかし、「元から住んでいるが故の思いこみ」や「新しく移住した人間だからこその身勝手さ」など、どの地方でも起こっているだろう些細な軋轢をベースにしているというのもとても上手いと思う。そしてだからこそ本書は、「地方に人を呼び、定住させるには何をしなくてはならないのか?」という問いの答えを拾うという読み方も出来ると思う。なかなか良くできたミステリだなと思う。

内容に入ろうと思います。
本書は、愛媛県南予町を舞台にした、7編の短編が収録された連作短編集です。
まずは全体の設定から。
松山の出身だが、祖母が昔から住んでいる南予町へと移り住み、南予町役場で働き始めて2年目を迎えようという沢井結衣は、今日も元気にスクーターで役場まで通勤している。何夜長は、三方を山に囲まれ、一方は海に面し、主な産業は農業・林業・漁業・公務員業という、典型的な過疎の町だ。
結衣は新年度から「推進課」に異動になる。町民から全幅の信頼を集めていた前町長が創設したものだが、突発的な心臓発作により亡くなってしまった。現町長の本倉市は、企業勤めから市長になった人で、町おこし案をひっさげて当選するも、的はずれなアイデアばかりで、役場の人間はうんざりし始めている。
「推進課」が何をする部署か分からないまま向かうと、あと数年で定年を迎える、推進課室長である北耕太郎と、変人と噂が先行する一ツ木幸士の二人が将棋を指していた。一ツ木に至っては、何語なのかも分からない難しい本を読みながら、盤面も見ずに将棋を指していた。
…大丈夫か、推進課…?

「見えない古道」
推進課に、「戦時中に山道を歩いてたどり着いた民家にお世話になったからその場所を探してほしい」というお爺ちゃんがやってきた。探しますよ、と安請け合いをする一ツ木。さらに町長が、「町おこしのために夜に知られていない古道を探せ」と命じてきた。これも安請け合いする一ツ木。しかし一ツ木は、天気予報を見るばかりで、家や古道を探しに行くどころか、推進課から出ようともしない…。

「雨中の自転車乗り」
採算が合わないということで民間バス会社が撤退したために、前市長の時代に町営バスを走らせた南予町。しかし現町長が、誰も乗っていないバスを見かけた、利用状況を調査せよ、と言ってきた。誰も乗っていないバスは、高校からの帰りで使われる路線でよく見られるらしい。高校に通う三人の内一人は、雨の中自転車を飛ばす姿を度々目撃されていて…。

「巫女が、四人」
旧住民と新々住民のトラブルが絶えない。新々住民というのは、現町長が呼び寄せた人たちのことだ。消防団協力費など払わないと言って消防団員と揉め、消防団員の一人が殴られたために訴えると息巻いているらしい。その殴られた消防団員が結衣の幼馴染の菊田君だった。結衣はもう少し待ってほしいと抑える。一方で消防団員は、室町時代から続く秋祭りの神楽で舞う巫女が、練習の時3人のはずなのに4人いた、と言って聞かない。状況が分からないなりにその謎も調べることになったが…。

「至る道」
認知症を患っている吉川のお爺ちゃんがまた行方不明だと放送で流れている。最近多いな。しかしここしばらく南予町には、徘徊している高齢者を見つけるといい事が、家まで連れて行くとさらに幸運が、という噂が流れているからすぐに見つかる。吉川のお爺ちゃんがよくじっと立っている場所は、一ツ木の友人がやっている会社の敷地内にあるのだが、一ツ木の推理で吉川のお爺ちゃんが何故ここにやってくるのかが明らかにされ、ある状況を利用して吉川のお爺ちゃんの徘徊を減らせるアイデアを実行に移す…

「南の雪女」
温暖な南予町に7センチの積雪の予報が。事態を予測し対処しろという町長だが、彼は市長に「自衛隊を要請するかもしれない」と連絡をしていて不興を買う。結衣は何故か雪にざわついた気持ちになる。特に、幼馴染の菊池君の敷地の付近を歩くと感じるのだ。南予町にはかつて、雪の降る日に失踪した女性の話が秘密裏に伝承されていて…。

「空き家の灯り」
植林のイベントを企画した一ツ木だが、このイベントは長く続けられないかも、という。移住促進策だと一ツ木は言うが、実際結衣も、何故植林が移住促進と結びつくのか分かっていない。町議会議員の山崎さんは、そんな植林を含めた移住促進策全般に不満を持っている。余所者が増えること自体を歓迎していないのだ。その狭量な考え方に鼻白む一ツ木。その一方で、空き家に灯りがついているのを不審に思ってその集落まで向かった結衣と一ツ木だったが…。

「夜、歩く者」
前町長が、町外の人に向けた貸し農園を整備したが、現町長がその利用規約を甘々に変えてしまったがためにトラブルが起こっている。敷地内に小屋を建ててはいけない、というルールを取り払ったために、小屋を建てて棲みついている者がいる。一ツ木は、住民票を移しているわけではない人間が住んでいる状況が許せないようだ。一方で、夜一人暮らしの老人が倒れ救急車で搬送されたが、誰が救急車を呼んだのかという謎が残り…。

というような話です。

短編ごとに出来不出来は感じましたが、全体的にはとてもうまくまとまった、よく出来た作品だと思いました。

個人的に好きなのは、「巫女が、四人」「至る道」「空き家の灯り」かな。

「巫女が、四人」は、物語の中心がどこにあるのかが、謎が解かれた後でないと分からない、という物語の構成がとても面白いと思いました。読み進めながら、この話の何が「謎」なのかは全然掴みきれませんでした。殴られた、というのは被害者も加害者も分かっている話だし、「巫女が四人いた」という話にしたって、ただそれだけなら大した話じゃないでしょう。普通なら「見間違い」で終わる話です。しかしやがて「地方に移住することの辛さや悲しみ」みたいなものが明らかになっていくという展開で、うまく出来てるなぁ、と感じました。

「至る道」は、問題の解決の仕方が面白い話でした。推進課は比較的、同時に二つの問題を抱え込むことが多くて、ほとんどの話では、その二つの問題が一つのことを根っこにして同時に解決される、という話なんだけど、この話は、片方の問題を上手く利用してもう一つの問題を解決する、という流れになっています。一方の問題を解決策として使うことで、両方の問題を解決するというなかなかアクロバティックなことをやっている話で
もちろんそうなるように物語の設定を組み立てたんだろうけど、上手いなと思いました。

「空き家の灯り」は、「地方で生きるために大事なこと」の核心の核心みたいなものを感じさせてくれる作品で、その核心を鮮明に描き出すための舞台設定がとても上手い作品だなと感じました。その核心こそまさに、「何故植林イベントをしているのか?」という問いに対する答えなわけなんだけど、結衣を含め多くの人間がその答えをなかなか想像出来ないでしょう。しかしこれこそまさに、「ずっと住んでいるから当たり前すぎて気づかないこと」であり、「移住してきたから気づけるけどその重要さを伝えられないこと」であるという意味で、地方における問題の本質を捉えている話なのかなと感じました。ある意味でこれは、余所者である一ツ木だからこそ捉えることが出来る核心であるとも言えるかもしれなくて、一ツ木が余所者であるという設定も上手く生かされた話なのかなと感じました。

愛媛県でもトップクラスに美人だろうと言われる秘書課の三崎紗奈が一ツ木のことを好きなんだけど、一ツ木があまりにも鈍感で人間に関心がないから全然進展しないとか、「北室長が言うならやりますよ」と従順に従う北室長と一ツ木の関係とか、謎の多い一ツ木の過去みたいな、全編を通じて散りばめられる人間模様もあって面白い。サラッと読める作品ではあるのだけど、考えさせられる作品でもあって、今読んでおいて損はない作品だという感じがします。

川崎草志「崖っぷち町役場」

夫のちんぽが入らない(こだま)

「夫のちんぽが入らない」
斬新すぎるタイトルである。
内容も、まさにタイトル通りだ。恋愛し結婚した男女が、ちんぽを挿入することが出来ない、という謎の状況に陥る。主人公である妻も、夫も、お互い以外が相手であれば普通にセックスは出来る。しかし、何故か夫のちんぽだけが入らない。
そういう、不可思議な小説である。

しかし読み進めていく内に、この「夫のちんぽが入らない」という設定は、実によく出来ている、と感じるようになった。

現実を切り取って何かを伝える時、現実をそのまま引き写しにすると生々しくなることはよくあるだろう。ノンフィクションであれば、ジャンルとしてそうすることが必要とされるが、フィクションであれば、その生々しさは時に、読む上での障害となる。自分や周囲の人間に類する人がいればなおさらだろう。

この「夫のちんぽが入らない」という設定は、その生々しさを絶妙に回避するために優れた手段だと感じるのだ。

世の中には、不妊や、あるいはガンで子宮を切除した方がいる。意志はあるのに、機能的に子どもを妊娠することが難しい人たちだ。「女性は子どもを産んで一人前」みたいな考え方は、一昔前にはあっただろうが、今はもう古いと思っている人は多いはずだ。しかし、そう思っている人が多いはずであるのに、まだ世の中にはそういう雰囲気がしつこく残っている。一人前、とまでは言わなくても、女性だったら子どもを産んで当然、みたいな雰囲気は、未だに様々な場面で見聞きするなと思う。

そして、そういう風潮に苦しめられている女性も、当然たくさんいるのだ。

『女として生まれ、ベルトコンベアに乗せられた私は、最後の最後の検品で「不可」の箱へ弾かれたような思いがした。絶望した。』

『私は失敗作としてこの世に生まれてきたのだと思った。』

本人の意志として、子どもが産みたくて産みたくて仕方ないのに妊娠できない、というのももちろん辛いだろう。しかし、本書で描かれているのはそういう部分ではない。主人公は、特に子どもを欲しいとは思っていない。しかしそれでも主人公は悩む。それは、女性として「不可」「失敗作」の烙印を押されたように感じるからなのだ。子どもを産むか産まないか、妊娠するかしないかによって、女性としてどうなのか、ということが判断されてしまう。

自分の努力で自分の見られ方をコントロール出来るようなことであればいい。自分があまり良い見られ方をしていなくても、自分の努力が足りなかったのだ、と思うことが出来る。しかし、妊娠はそうじゃない。努力云々の話ではないはずだ。自分の力でどうにか出来るようなことではない。

しかし妊娠に対しても、努力というものが問われてしまう。いや、そうではないか。自分に対して押されようとしている「不可」「失敗作」という烙印を心理的に回避するために、努力という言葉を持ち出すしかないのだろう。私は「不可」「失敗作」なんかじゃない。努力していなかったから妊娠出来なかっただけなのだ。努力さえすれば私だって妊娠出来た。だから私は「不可」「失敗作」なんかじゃない…。というように。

『自分が不完全ではないと証明したかったのかもしれない』

夫のちんぽが入らないというファンタジーを導入することで、主人公のような女性の葛藤を直視出来るような形で描き出すことが出来る。不妊や子宮がんを直接描けばどうしても重く生々しくなってしまうところを、どことなく滑稽さを残しながら描き出す本書は、見たくないものにどんどん蓋をする風潮が広がる現代において、苦しんでいる人がたくさんいる現実の見せ方として非常に優れているのではないか、と僕は感じる。

そして本書は、読み方を変えると、妊娠できない女性の問題とはまた違った風に読むことが出来る。

人間はどうしても一人で生きていくことは難しい。必ず誰か、あるいはどこかと繋がりを持ちながら生活をしている。そこには様々な関係性が生まれ、評価が生まれていくことになる。

そして人間が集団の中でどう評価されるのか。本書は、その現実の一つを丁寧に切り取って見せることで、どんな場であれ人が評価される上での理不尽さや不合理さみたいなものを滲ませているのだと思う。

どんな場であっても、本書の主人公が直面するような理不尽な捉えられ方や、本書の主人公が抱くような無用な劣等感は存在するだろう。決して、妊娠に悩む女性だけの問題ではない。そういう場で、どう振る舞い、どう生きるのか。本書は読者に、そういう問いかけもしているのではないかと感じる。

内容に入ろうと思います。

大学進学のためにど田舎の集落から出てきた主人公。夜はヤンキーや熊に支配され、そもそも常に母親の無神経な言動に怯えていた少女は、それらの呪縛から解放されたが、しかし他人と関わることが苦手であることには変わりはないままだった。双葉荘という名の安いアパートに住むことになった主人公は、そこで後に夫となる男と出会う。後の夫は、主人公が絶句して身動きが取れなくなるくらい急速に距離を詰め、しかしそれを不快に感じさせない男だった。兄妹のような関係を続けながら、二人はやがて結婚する。
お互いに一緒にいて居心地がいい相手であり、伴侶として申し分ないのだが、一つだけ彼らの関係に大きく横たわる問題があった。
夫のちんぽが入らない。
夫のちんぽが、何か壁にせき止められているかのようにまったく入っていかない。ローションなどを使い多少入るが、しかし血まみれと激痛という大惨事を引き起こす。
『私たちはこんな犠牲を払い、滑稽な真似までして、繋がらなければいけないのだろうか』
一緒に生きるということと、セックスをするということを切り離して生きざるを得ない夫婦の、葛藤の物語だ。

タイトルだけ見るとキワモノっぽく思えるが、中身は非常に真っ当な物語だ。他はすべてぴったりなのに、セックスだけが出来ない。些細な、と呼ぶことは出来ない事柄だけれども、しかしそれ以外がすべて順調であるのに、セックスが出来ないという一点が様々な状況を壊していく過程が丁寧に描かれていく。

冒頭では、女性としての評価の話に触れたが、決してそれだけではない。たとえば、直接的な関係があるわけではないにせよ、主人公は仕事で躓く。あくまでも勝手な予測でしかないが、もし夫のちんぽが入り、精神的に安定した状態を保つことが出来ていたら、仕事の方での関わり方、行動の仕方も変わったかもしれない。決してそれだけではないとはいえ、仕事でうまくいかなくなった原因の一端はそこにあると言っていいのではないか。

また、夫のちんぽが入らないことで、夫との関係も様々に変化していく。兄妹のようだ、と言われるような、起伏こそないが穏やかで静やかな関係性は、好きになってくれた人を好きになる、という形であまりいい恋愛をしてこなかった主人公にとってはとてもいいものだった。しかし、セックスだけがどうにも出来ない。それ以外の部分にはなんの不満もないが、セックスが出来ないことで、主人公は罪悪感を抱き、また主人公は知らなくていい夫の一面を知ることになってしまう。言いたくても言えないことが積もっていき、少しずつ関係性がおかしくなっていく。

『私たちは性交で繋がったり、子を産み育てたり、世の中の夫婦がふつうにできていることが叶わない。けれど、その産むという道を選択しなかったことによって、産むことに対して長いあいだ向き合わされている。果たしてこれでいいのか、間違っていないだろうかと、行ったり来たりしながら常に考えさせられている』

この一文が、この夫婦のあり方を見事に表現していると言えるだろう。選択しなかったことで向き合わされている。「ふつう」にできれば立ち止まったり悩んだりすることなく通り過ぎていっていくものと、彼らは向き合い続けている。夫婦のその足踏みを描くことで本書は、「ふつう」というのは一体何なのかを問いかけ続けるのである。

『私たちのあいだで「その件」以外のすべてが順調に進んでいた。まるで、ちんぽを人質にして願いを叶えてもらったかのようだ。残酷なことをする神様だと思う』

人は、自分が持っていないことの不幸に目を向けてしまう生き物だ、という話を聞いたことがある。そういう人は多いだろう。私にはあれがないから不幸だ、と。「その件」以外のすべてが順調だとしても、夫のちんぽが入らないことがすべてを凌駕するのか否か。当事者にしか判断は出来ないが、僕は状況が許す限り、持っているものに目を向ける生き方が出来ればと思う。

本書は、文学フリマで販売された同人誌(という表現で合ってるだろうか?)の書籍化らしい。デビュー作なのかどうかは知らないが、無名の新人、という表現をしてしまっていいだろう。しかし、文章がとても巧い。無名の新人とは思えない巧さである。

『私の新生活は、前の持ち主の暮らしをなぞるようにして始まるのだ』
『ただ寝るだけの、おしまいの時間でしかなかった夜がいま意味を持ってきらめいている』
『退職を決めてからは胸の上に積まれた石が一個ずつ取り除かれてゆくように呼吸がしやすくなった』

こういう繊細で物事をすーっと捉えるような表現が随所にあり、才能の高さを感じさせる。分量は多くない小説だが、濃密さを感じさせる佇まいだ。これからも書き続けて欲しいと思える作家である。

こだま「夫のちんぽが入らない」

キッドのもと(浅草キッド)

振りかえってみて、面白かったよなぁ、と思えるような人生を生きたい。
そんな風に、強く思っている。
でもそれは比較的、リアルタイムの目の前の現実はいつも厳しいという意味でもある。

最近ちょっとしたことがあって、自分の人生について聞かれる機会が増えてきた。ありがたいことだ。聞かれるままにペラペラ喋っているのだけど、人生を普通に順調に歩んできた人とはちょっと違うルートを辿ってここまで辿り着いている。どこにいても馴染めない感覚が拭えないまま、表面ばかり取り繕う術は身についた、大学は辞めた。就職活動も転職活動もしたことがない。社会に出て働けると思ってはいなかった。色んなことから逃げまくった。色んな人間に迷惑を掛けまくった。そんな人生だった。

振りかえってみて思うのは、今ではそういう来歴は、ネタとして面白おかしく喋れて得だ、ということだ。僕の辿ってきた人生にはいくつもの汚点が転がっているし、恥ずかしいことや思い出したくないことも色々あった。それでも、それらを通り抜けた今となっては、そういう自分の過去のことを懐かしくも思う。そして、そういう過去がなかったら、今の自分は間違いなく存在しないだろう、という確信がある。

しかし同時に、やっぱり僕は覚えている。苦しかった時の、苦しかった気持ちを。働くことが嫌でバイトを幾度もバックれて、その度に親に尻拭いしてもらったこと。引きこもって日がな一日テレビを見ながらうだうだと将来について悩んでいた時のこと。死のうと思って屋上の縁で片足立ちした時のこと。実家で生きていくことを諦めて、仕事も住む家もないままに東京に逃げた時のこと。その時々の気持ちを正確に思い出せるわけではないのだけど、今でも、あの時は辛かったな、と振り返ることができる、印象深い記憶たちだ。

過去を振りかえってみて思う。どうも僕は、楽しかった記憶はあまり覚えていないのだな、と。辛かったこと、大変だったこと、失敗したこと。そういうことばかり覚えている。そして、大人になることで、そういうしんどい記憶が、振り返った時には懐かしく印象的なものとして思い出されるのだと知った。もちろん、僕が辿ってきた人生が、あまりにも酷すぎるものではなかった、ということも大事だろう。その時その時の自分なりには辛い経験だったが、絶対評価をすればそこまで大したことではない。だからこそ、懐かしく思い出せるのだ。

『今振り返っても、フランス座に行かなきゃよかったとは微塵も思わない。
むしろ、あそこに行ってなかったら、ボクは、とうの昔に芸人を辞めていただろう』

『世の中の大半の人間は、金がたっぷりと張られた黄金の湯船に浸かってのぼせているような状況だった。
そんなお祭りのような空気が日本全土を覆い尽くしていた時に、オレと博士は、自ら望んで草木も生えてない浅草フランス座に行ったんだ』

浅草キッドは、僕なんかと比べるのは申し訳ないくらい凄絶な環境から這い上がってきた人たちだ。

『フランス座で得たものは、サバイバル感、嘘のような本当の“下層”現実、どん底の体験がすべてだった。
おかげで、「人生に期待しないこと」や、「どこへ行ったって、ここよりはマシ」と現実に足ることを知り、どんな境遇にも身を投じる覚悟、芸人の匂いが刷り込まれた』

特に水道橋博士は、『高校一年の時にダブリ、学校に馴染めず、うつらうつらと生きていても死んでいるような、ただただ寝て起きて時が過ぎていくだけの日常は、重く、息苦しい日々だった』と書くように、思春期の頃からどん底だった。そんな人生を支える背骨を、彼らはどう勝ち得て行ったのか。そしてその経験が、その後の人生にどんな影響を与えているのか。

そういったことが、彼らの口から語られるのだ。

本書は、浅草キッドの二人、水道橋博士と玉袋筋太郎が、
【「少年時代」のもと】
【「浅草キッド」のもと】
【「芸」のもと】
【「家族」のもと】
の4つに分けて、彼らの来歴や思考を交代で書き綴っていくエッセイだ。

なかなか面白い。特に、やはり文筆業にも力を入れている水道橋博士のパートは、僕はとても好きだ。

水道橋博士と玉袋筋太郎の文章には、明確な違いがある。水道橋博士は、思考を書く。そして玉袋筋太郎はあったことを書く。この違いだ。世の中の多くの人が「文章を書け」と言われた時、あったこと、つまり玉袋筋太郎のような文章を書く。インタビューなどでも基本的には同じだ。僕は、あまりそういう文章には惹かれない。水道橋博士は、思考を書く。もちろん、思考だけではなく、言動や起こったことも書く。しかし、思考を書ける人間は、言動や起こったことも、思考という側面から捉えて書くことが出来るのだ。その客観性と描写性が抜群だと僕は感じる。

水道橋博士は、内気でシャイで人見知りで、それでも「ビートたけしのオールナイトニッポン」に救われた。勇気を振り絞ってたけし軍団に入った彼は、そこから辛酸を舐め尽くすことになるが、結果的にその経験が「水道橋博士」という芸人を作り上げた。その過程を、冷静に客観的に慎重に描き出す水道橋博士の筆致は好きだ。

冗談みたいな人生を過ごす中で、誰にも奪い取ることが出来ない財産が備わった。その強さが、彼らを芸能界という世界で生かしている。彼らと同じ努力や生き方は出来ないだろうが、未来に繋がる意味のある努力(それがなんであるのかを見つけ出すのが困難ではあるのだが)こそが、人生を切り開く可能性なのだ、ということがよく伝わってくる。

玉袋筋太郎の文章は、とても軽妙だ。深い思索を感じ取れるような文章では決してないが、きちんとした芯を感じさせる。生き方の中に、真っすぐな軸がきちんとあり、そこから外れないでいることに忠実、という印象だ。その軸は、世間の人が持っている軸とは大分かけ離れているかもしれないが、間違っているわけではないし、常識だからと言って丸呑みしないその姿勢には共感する。

水道橋博士の話にも家族の話は出てくるし、家族を想う気持ちは当然あるのだが、どちらかと言えば玉袋筋太郎の方が家族の話が多い。自分が存在している、という事実は、親の存在によって成り立っているのだ、ということをナチュラルに思い口に出せる人だ。その衒いのなさみたいなものがかっこよく映ることもある。

二人が共通して書いている、こんな考え方がある。

『舞台の上だけは、何をやっても先輩から叱られることのない自由の場であり、どんなに非常識なことを口にしようと、客にウケれば「勝」の世界だ』

『日々の生活には自分たちの時間はないけど、舞台の上で漫才をやっている時だけは、誰にも絶対に邪魔されないオレたち二人だけの時間なんだ―ただひとつ、その想いがあっただけで、どんなに辛いことにも乗り切ることができた』

二人は、フランス座の壮絶な修行だけではなく、たけし軍団という超体育会系の集団の中で付き人もやっていた。先輩の命令には逆らえないという環境の中で、それでも寝る間を惜しんで漫才を作り続けた。「舞台の上だけは自由」という環境にいたからこそ、辛い環境でも芸を磨き続けることができたのだろう。

玉袋筋太郎がこんなことを書いている。

『こっちは寒くても、博士が暖かければ、それはそれで良かったなぁって思えるのが、オレの考えるコンビの意気なんだ。普通のコンビだったら、とっくに解散だよ』

コンビ芸人は仲が悪いというまことしやかな噂を耳にすることは多いし、実際にそうだと彼らは本書で書いている。それぞれピンで仕事をしている二人ではあるが、それでも「浅草キッド」というのが彼らの帰る場所なんだ、ということがしんみりと伝わってくる。そんな作品だ。

浅草キッド「キッドのもと」

骨を彩る(彩瀬まる)

どうにも、うまく掴めなかった。
こういう小説を読むと、やっぱり女性のことは全然理解できていないんだな、と感じる。
見ているもの、感じているもの、そういったものがまるで違うのだろう、と思う。

まったく分からないわけではない。けれど、どうも捉えきれない。彼女たちが何を求めているのかを。何を掴もうとしているのかを。何を手放そうとしているのかを。うまく捉えきれない。

女性と比べると、男は「1たす1が2」となるような分かりやすい世界で生きているように感じられる。女性の場合、同じ四則演算の記号を使っているのに、条件次第で違う規則が付け加わるような、ちょっと複雑な四則演算をしているような、そんな気持ちにもなる。

なんとなく、見えないけれど自分の人生を支配する「何か」を「骨」と呼んでいるのではないか。そんな印象だけは受けた。それぞれの短編には、何らかの形で「骨」と関わる記述がある。タイトルの「骨を彩る」というのは、板も壁も紙もないただの空間に色を乗せるような、虚しい響きを感じる。

何らかの形で欠損を抱えた女性たちは、その欠損を埋めようとして、その欠損から目を反らそうとして、その欠損を受け入れようとして、日常の中で些細な抵抗をする。

「指のたより」
妻の朝子は、10年前に大腸がんで死んだ。29歳の若さだった。津村は男手一つで娘の小春を育てている。夢に度々、朝子が出てくる。朝子が夢に出る度に、彼女の指が1本ずつ欠損していることに気づく。

「古生代のバームロール」
高校時代の恩師である柿崎先生が亡くなった。身寄りがないという先生の葬儀を、教え子が集まって執り行うことになった。かつての友人と、久しぶりの会話をする。
光恵が磯貝真紀子と再会したのは偶然だった。特別だと言われて赴いたサロンで、高宮リサという名前で登場したのだ。真紀子だと気づくと追い返された。光恵は真紀子に、柿崎先生が亡くなったこと、葬儀をみんなでやることを伝えた。真紀子は、柿崎先生のファンだった。

「ばらばら」
玲子は仙台に向かっている。夫が、たまには一人で気晴らしに旅行にでもどうだ、と言ったからだ。バスで隣り合った少女と何気ない会話を交わす。特に目的もない旅をしながら、玲子は昔のことを思い出す。苗字が頻繁に変わったこと、いじめられていたこと、新しい父親に対する拭えない違和感を覚えていたこと。
息子がいじめられているようだ。でも、その息子から、何よりもおかあさんが怖い、と言われてしまう。

「ハライソ」
不動産屋で働く浩太郎は、ネットゲームで知り合った女の子とは気兼ねなく話すことが出来る。毎週決まった時間に待ち合わせて、チャットをしながらゲームをする。付き合っている彼女がいる。凄く可愛い。でも、微妙な違和感が日々降り積もっていく。

「やわらかい骨」
小春は、転校生である葵の扱いに悩む。葵はご飯の時、お祈りをする。その瞬間、クラスの中での立ち位置は決まった。葵は小春と同じバスケ部に入る。もの凄く上手い。そんな葵と距離を縮めたくなる小春。しかし、お祈りの頑なさが、小春を躊躇させる…。

というような話です。

ストーリーだけ取り出せば、どうということのない物語だろうが、些細なことを切り取ることでハッとさせる描写を生み出す力は抜群だ、と思う。女性の小説だ、と思う。観察力の鋭い女性が、際立った表現力を持つ時、こういう小説が生まれる。

どの話にも、何らかの形で「不幸」や「悪」の影がちらつくものの、全体的には日常の範囲内にとどまっている物語だ。小さな違和感に焦点を当て、見ないようにすれば見ないで済んでしまうのかもしれない欠損に囚われる者たちの物語だ。深く入り込むことは難しかったものの、彼女たちがささやかに抵抗したりもがいたりする姿を切り取る目線がいいと思った。

著者が本書の中で描く男性には、どうしても違和感を覚えてしまう。男が見ていること、感じていることとは違う目線で描かれているように思えてしまう。女性と同じように男を描いている、という印象を受ける。こういう感覚はきっと、男性作家が描く女性に対して女性が感じることでもあるのだろうなと思う。

個人的にはうまく捉えきれなかった作品なのだけど、女性には受け入れやすい作品なのかもしれないとも思う。

彩瀬まる「骨を彩る」

Happy Box(伊坂幸太郎他)

内容に入ろうと思います。
本書は、著者名に「幸」という漢字が入る作家による、「幸せ」をテーマにしたアンソロジーです。

伊坂幸太郎「Weather」
大友は、学生時代からの友人で同僚でもある清水に振り回されてきた。清水はモテる男で、これまであちこちの女性と関わりを持ってきたが、それがバレないようにうまく辻褄を合わせる役割をずっと負わされてきたのだ。そんな清水が結婚するという。相沢明香里という女性で、なんと彼女は、大友の元カノでもある(清水には内緒だ)。二人は結婚式の準備中だが、清水の様子がおかしいという明香里に頼まれて、大友は清水のスパイをすることになるのだが…。

山本幸久「天使」
福子は77歳。この道66年になる掏摸師だ。日々鍛錬を怠らず、他人様の財布を掏っては生計を立てている。ある日、親子の同業者を見かけた福子は、逆にその男の財布を掏ってやった。浪川隆夫は気づいていないようだったが、息子だろうと思われる男の子が福子のところにやってきた。
師匠である一つ目金治に出会った頃の自分を思い出した。ガキの集団で、技術もないまま掏摸を続けていた頃のことを。情が湧いたのだろうか。男の子の姉の万引きがバレないように助けてやり…。

中山智幸「ふりだしにすすむ」
多喜田りりこはある日、60歳は越えているだろう老人から話しかけられた。僕はきみの生まれ変わりなんだ、と。頭がおかしい老人なんだと思ったが、子どもの頃に読んだ絵本の中のあるフレーズを叫ばれて、なんだか白旗をあげることになった。その老人は、あなたが大庭かおるという女性に会ってくれないと、わしら夫婦が再会出来なくてこまるのだ、という相変わらずよく分からないことを言ってりりこを動かそうとして…。

真梨幸子「ハッピーエンドの掟」
アイコの家に、カラーテレビがやってきた。クラスの子のほとんどがまだ持ってないはずだ。全自動の洗濯機があって、カルピスを濃く作っても怒られない。部屋はオンボロだし、ママとの二人暮らしだけど、アイコは十分満足している。ママはキャバレーで働いてるから夜は一人で留守番だけど、別に嫌ってほどでもない。けど学校の先生は、そんなアイコのことが心配みたいだ。お父さんがいないと不幸だ、っていうのが、よく分からなくって困る。
夏休みの自由研究で出した、人魚姫を下敷きにした絵本が、アイコの予想に反して全然評価されなくて、アイコは「幸せ」がなんなのかわからなくなる…。

小路幸也「幸せな死神」
ある日榎本帆奈は「死神」と知り合いになった。それは偶然が重なることで起こった奇跡なんだという。その「死神」は、こんな風に人間の姿で過ごすのは初めてだ、という。ちょっとずつ話す中で帆奈は、「死神」がどんな存在であるのかを知っていく。「死神」というのは、ただ死を看取る、死んでいることを確認するためだけに存在するのだという。基本的には「死」というものが存在する場所にしかいない。
ある日「死神」が辛そうなのを見かねて話を聞いてみると…。

というような話です。
なかなか面白い作品でした。「幸せ」というテーマの解釈に個性が出るのが面白いですね。

やっぱりというかなんというか、伊坂幸太郎の作品がダントツで面白いなと思います。こうやって他の作家と読み比べるアンソロジーだから余計に感じますけど、伊坂幸太郎が書く文章は、なんでこんなに「ウキウキ感」があるんだろうと思います。別に楽しいことばかり書いているわけではないのに、伊坂幸太郎の文章はなんとなくいつも弾んでいる気がする。そのテンポで、お話をスルッと読ませてしまうんですよね。

ストーリーも、分かる人は先が読めるのかもしれないけど、僕はなかなか良くできた話だなと思いました。この話、着地点だけ見れば全然意外な話ではないんですけど、キャラクターの設定や話の展開のさせ方によって、ありきたりに思えてしまうラストを意外性のある終わらせ方に見せているんです。面白いなと思いました。

真梨幸子の話も、なるほどという感じの切り口でした。真梨幸子と言えば「イヤミス」で、「幸せ」とは対極にありそうな作家ですが、「幸せって何だろう?」という問いかけを、ある女のコの視点から投げかけるというストーリーはなかなか面白いと思いました。「幸せ」というのは人の数だけ存在するのだ、というような当たり前の事実を逆説的に描いているという感じで、「幸せ」というテーマの捉え方がいいなと思いました。話の展開やオチだけを単独で捉えれば「幸せ」とはかけ離れているように思える作品なのに、作品全体としてはテーマに沿っているというような切り取り方が面白い作品でした。

小路幸也の作品も、発想は嫌いじゃないんですけど、もう少し掘り下げられるような気もしてしまいました。なんとなく、ここで描かれている話だけだと、想定内という感じに思えてしまいました。惜しい、という感じでしょうか。

山本幸久の作品は、主人公こそ掏摸師ですが、「幸せ」というテーマに直球で挑んだというような作品だと感じました。特に好きでも嫌いでもないですけど、良い話だなと思います。

中山智幸の作品は、正直ちょっとピンと来ませんでした。短編にしては、設定の部分でちょっと説明的な要素が多かったというのもあるんだけど、なんとなく感覚的にスッと受け入れられないような印象を持ちました。老人がやりたかったことはなんとなく分かるし、それが「幸せ」というテーマに合ってるんだろうということも分かるんだけど、なんでかなぁ、うまく受け取れない作品だなと感じちゃいました。

アンソロジー作品全体の趣向としては、なかなか面白くまとまっている作品だと思いました。

伊坂幸太郎他「Happy Box」

「BRODY 2 齋藤飛鳥のインタビュー」を読んで

「期待する」というのは、「道を決める」ということでもあると思う。そうすることで、自分が決めた道に、自分の力を集結させることが出来る。「こうなりたい」「こうしたい」と期待することで、その方向だけに注力することが可能になる。

ただそれは同時に、「他の道を捨てる」ということでもあると思っている。

『自然と何に対しても、期待をせずに生きていくっていう生き方が自分の中で一番合ってて。だから諦めっていうか、期待を持たないで生きてます』

齋藤飛鳥のこの生き方は、後ろ向きに捉えられることが多いのではないかと思う。こんな考えを持つ彼女に対して、「もっと自信を持って!」とか「強く願えばもっと先まで行けるのに!」と言った感情を持つ人も、いるのかもしれない。

しかし、僕はその捉え方は違うのではないかと思っている。齋藤飛鳥は「期待」を捨てることで、「期待」を持つ以上の強さを手に入れているのではないかと思うのだ。

「アイドルSpecial2017」の中で齋藤飛鳥はこんな風に語っている。

『私はファンの皆さんが抱いている私のイメージをまるまる全部は認めてはいないんですけど、自分らしさは自分が決めるものだとも思っていないんです。だから、齋藤飛鳥として求められるものにきちんと応えていきたいと思っています』

「別冊カドカワ 乃木坂 Vol.2」の中でもこう語る。

『だからといって、そういう武器がほしいかと言われると…必要な時もあるんですけど、でもそういうのって周りから付けていただくものだと思うので。自分からこれをやろう、あれをやろうみたいなことは考えてないです』

これが齋藤飛鳥の強さなのだと僕は思う。

齋藤飛鳥は、期待しないことで、道を決めることをしない。自分が進むべき方向はこうだ、自分がやるべきことはこうだ、という考えを持たない。何かを期待すれば、自ずとそういう考えが出てきてしまう。そして、自分が決めたことと周りの評価が合わなかったり、自分が決めた道でうまくいかなかったりすると、どうしていいか分からなくなって悩んでしまう。齋藤飛鳥は、期待を持たないが故に、進むべき方向性について悩む必要から解放される。そこに彼女の強さがある。

道を決めない齋藤飛鳥は、何にでもなることが出来る。武術における「構え」は、どの方向に対しても、どんな動きにでも対応できる立ち方をするのが理想だ、というような話を聞いたことがあるが、齋藤飛鳥の在り方はそれに近いのではないか。どんな状況がやってきても、それに対応するのだというしなやかさ。マイナス思考であるが故に、何に対しても「怖さ」を感じてしまうだろうが、それでも最終的には、そのしなやかさが「怖さ」に打ち勝つ。どんな方向にも、足を踏み出すことが出来る。「齋藤飛鳥」として求められることを全うできる。
彼女の期待しない生き方は、そんな強さの源泉なのだろうと思う。

『私がすごい弱っちい人間なので、期待を裏切られてショックをウケるのが怖いんです』

『(齋藤さんは「乃木坂46である自分を受け入れられない」という話をされていましたけど、なんで受け入れられないんですかね…)
受け入れられないというか、「認めてやんねーぞ」みたいな感じです。乃木坂46って名前を、今いろんな方に知っていただいて、私はその名前を使って生きてるくらいの気持ちなので。自分に対して価値があるとは全く思ってないんです』

こんな風に自分を卑下するのは、もちろん本心だろう。しかし心のどこかで、自分が持つ強さの源泉を理解しているのではないかと思う。何に対しても期待しないからこそ湧き上がる強さ、というものを認識しているからこそ、期待しない自分を貫くスタンスを崩さずにいられる、という可能性もあるのではないか。

『(それは本心ですか?それとも調子に乗って自分を見失わないためにあえて思っているんですか?)
本心ではありますけど、天狗にはなりたくないっていうのは、ずっと思ってることなので、それもあるかもしれないですね』

齋藤飛鳥も、最初から期待しない人間でいられたわけではない。

『デビューから3年くらい「THEアイドル」みたいな風になろうと思って、そこでいろんな痛い目を見たし、恥ずかしい思いをしたっていうのもあるし。自分はその役割じゃないかなっていうのも気づきました』

齋藤飛鳥がよく言うことだが、当初は「THEアイドル」を目指していた。それは彼女にとっての「理想のアイドル」でもある。その理想に近づけるようにという期待を持って、乃木坂46加入当初は努力していたという。しかし、それは齋藤飛鳥には合わなかった。「理想のアイドル」を目指す自分の在り方にもがいていただろう。

そのもがきの中から抜け出せた、というのが齋藤飛鳥の凄いところだろう。恐らく、痛い目、恥ずかしい経験の度に立ち止まって、自分の言動の何がこの状況を招いたのかを思考し続けたのではないかと思う。そうやって少しずつ言動を変化させていきながら、その結果をフィードバックしていく。そんな風にして作り上げられた「齋藤飛鳥」という特異なアイドル像は、ある意味で唯一無二というか、誰にも真似出来ない存在感を生み出しているのだと思う。

『今も全然、自分のことをアイドルだと思っていないので』

『世の中が優しいからちょっと受け入れてもらってるだけです』

度々書くが、僕は乃木坂46で初めてアイドルというものを好きになったので、アイドル全体のことは分からない。ただ齋藤飛鳥を見ていると、彼女が新しいアイドル像を切り拓いているのだ、と思いたくなる。「THEアイドル」とは対極にいるように感じられる「齋藤飛鳥」が、日増しに世間での人気を高めていることがその証左だろう。彼女はセンターに選ばれた理由を、『「本当は嫌だけど、仕方ないからこいつにするか!」っていう、妥協に妥協を重ねた結果だと思っています(笑)』と言っているが、もちろんそんなわけはない。彼女の、自分のスタイルに固執せず、それでいて独自の価値観は手放さず、同時に求められれば何にでもなることが出来る強さとしなやかさに、今の時代の人々は憧れ、追いかけたくなるのではないかと思う。

期待せず、道を決めない齋藤飛鳥の指針となっているのが、「乃木坂46」というグループの存在だ。「乃木坂46」という指針があるからこそ、「齋藤飛鳥」という存在が成り立つとも言える。齋藤飛鳥は、『乃木坂46に今いられているのもいろんなもののおかげでいられてるだけで、「自分の力じゃねーぞ」って思っちゃいます』と語っているが、僕の感覚で言えば、彼女は「乃木坂46に所属している」というよりは、「乃木坂46と同期している」のだと思う。「乃木坂46」という指針を手放した(乃木坂46を卒業した)齋藤飛鳥は、「齋藤飛鳥」とはまるで違う人間になるのではないか。そんな風に感じさせもするのだ。

『(乃木坂46を辞めて社会に出るとなってもすんなり出れる自信があるのは何故か、と問われて)
乃木坂46で人間を作って頂いたからです。前までの私は、たぶんそのまま生きていたら、はぐれ者になってしまう人間だったと思います。でも、そんな自分をこのグループで厚生してもらいました。それがなかったらこうはなっていない』

僕は齋藤飛鳥の、「社会にすんなり出れる」という自信を疑いたい。乃木坂46を離れるということは、「乃木坂46」という指針を失うということだ。もちろん100%失うことはないだろうが、今の「齋藤飛鳥」は、その指針と一体となっていると僕は感じる。乃木坂46を離れた場合、新たな指針を見つけ、それに馴染んでいくまでに、やはりまたそれなりの葛藤があるのではないかと思う。

とはいえ、アイドルや芸能界を辞めても生きていけるか、という問いであれば、齋藤飛鳥なら大丈夫だろう。

『礼儀とかはちゃんとしたいなって思ってます。チヤホヤされがちじゃないですか、アイドル。もう5年間もチヤホヤされ続けてきて、でもそのチヤホヤを真に受けず、それを疑って生きてこれたってことは、逆に社会に出ても普通に生きていけるんじゃないかなって思うんです』

インタビューアーは前回、齋藤飛鳥が放った『虹は過大評価されすぎだと思う』という発言が印象的だったと、インタビューの冒頭で話している。それに対して齋藤飛鳥はこう語る。

『単純に、「あ~、虹だ。きれいだな」と思ったことはありますし、一つの自然現象として不思議だなって気持ちはあるんだけど、虹がかかったからってみんながこぞって写真を撮り出すのが…。ちょっと評価されすぎじゃないかなって。それに雨がかわいそう』

齋藤飛鳥は、チヤホヤされる「虹」ではなく、「虹」を生み出す「雨」に視線を向けることが出来る人だ。それは人に対しても同じことが言える。チヤホヤされる「齋藤飛鳥」や「乃木坂46」ではなく、それらを支える者たちに目を向ける。

『私、スタッフさんがめちゃくちゃ好きなので、スタッフさんの影響は大きく受けていると思います。環境が一番ですね』

このインタビュー中、彼女はこの発言に最大の自信を覗かせる。自分自身ではないものに自分の存在の核を託せる強さが、この発言に表れていると言えるだろう。

『いやいや、やっぱりそんなきれいな言葉は私にはもったいないですよ(笑)』

「虹」である自覚から距離を置こうとする齋藤飛鳥だからこそ「虹」にも「雨」にもなることが出来るのだ。

「BRODY 2 齋藤飛鳥のインタビュー」を読んで

自分の考えを「5分でまとめ」「3分で伝える」技術(和田秀樹)

内容に入ろうと思います。
本書は、まあタイトル通り本であると、とりあえず言うことは出来ます。

本書では「まとめる力」という言葉が多用されます。長い文章や誰かとの会話、本や資料の内容などを要約して言葉にする、というような力のことを指しています。

日本人は、この「まとめる力」が身についていない人が多い、と著者は言います。その理由を、国語教育に求めます。

『ただ、日本の国語教育においては読解力というと、登場人物の心情を理解する「心情読解」のことと考えられていたので、それを身につけるのはとてもむずかしかったし、結果としてきちんと「まとめる力」のトレーニングを受けてこなかったことになります』

この指摘は、なるほどという感じがしました。僕も確かに、子供の頃は、あまりちゃんと文章が書けなかった記憶があります。このブログは2003年に始まりましたが、2003年頃の記事を読むと、今とは全然違って驚きます。今とは比べ物にならないくらい文章を書く力がなかったし、それはつまり「まとめる力」がなかったということだと思います。

欧米での国語教育についても触れています。

『一方、外国では、長い文章や論文を読んで「内容をまとめなさい」という教育になります。「まとめる力」をしっかり身につけさせようとします。そうしなければ「読解力」が育たないと考えられているからです』

まあ、どちらが良い悪いというのは難しい部分もあるでしょう。僕はそもそも日本の国語教育は嫌いですが、それは「主人公の心情」に正解があるように教えられるからです。試験をしなければいけないので仕方ないのですが、僕には納得が出来ません。ただ、「主人公の心情」を問うことそのものは悪くないと思っています。そういう問いかけをし、その問いかけに答える経験によって、豊かな情緒みたいなものが育まれる、ということだってあるでしょう。だから、一概に日本のやり方を否定するつもりはありません。

とはいえ、その一方で、「まとめる力」は絶対的に必要です。外国にように国語の授業で訓練できるなら別ですが、そうではないのだからなんとか身につける方法を考えなければいけません。その指針になる、と言ってもいい作品だとは思います。

ただ…僕が本書を読んで思うことは、「この作品はもっとまとめられなかったのか」ということです。全体を読んで、本書の内容なら1/3ぐらいに圧縮出来そうだな、と僕は感じました。

タイトルに「技術」と入っているのだから、「どうすれば「まとめる力」が身につくのか」ということが書かれていることを期待したいところですけど、実際の中身は少し違います。本書は、「あなたが別に原因があると捉えている問題は、実は「まとめる力」不足が原因なんですよ」という事例をたくさん載せている本、という感じです。口下手、話が面白くない、長い文章が書けない、的確な指示が出せない…。それ、全部「まとめる力」不足なんですよ!ということが書かれている本です。

「技術」ということで言えば、「メモを取る」「結論から話す」「話し方の型を持つ」「本はこう読む」みたいなことが、それぞれのページにそこそこ散りばめられている、という感じでしょうか。正直、本書を読むだけでは、「まとめる力」を身につけるためのトレーニングをスタートさせるのは難しそうな気がしてしまいました。

とはいえ、本書にも利点はあります。それは、「問題を問題と捉えることが出来る」という点です。

誰の言葉だったか忘れましたが、「問題は、それが問題であると認識した時点で7割解決している」というようなことを言った人がいたはずです。なるほど、確かにその通りだな、と思います。問題を抱えている人でも、自分ではそれを問題だと認識出来ていない人がいます。あるいは、問題だとは思っているのだけどその原因をまるで捉え間違っているという場合もあるでしょう。

そういう人が本書を読むと、著者が挙げた様々な事例に対して、「なるほど、これに当てはまっている自分は「まとめる力」不足なのだな」と認識出来るのではないか、という感じがします。これは、苦手克服の大きな一步と言えるでしょう。そういう意味で本書は役に立つと言えるかもしれません。

本書では色々書いていますが、僕は、「まとめる力」を身につけたければまとめてみるしかない、と思っています。僕はこのブログにひたすら文章を書き続けたことで、今ではすいすい文章が書けるようになりました。情報を取り込んで自分の頭の中でまとめて、それを文字にしてアウトプットするというのは結構出来る方だと思います。僕も、最初は文章なんて全然書けませんでした。それでも、無理矢理でもいいから書き続ければその内身につくと思います。

あるいは、自分で文章を書くのが苦手なら、誰かの文章を写してみるというのもいいんだろうと思います。「天声人語」を書き写す、みたいな話ってよくありますけど、あんなイメージです。前に何かで読みましたけど、「天声人語」をまず写して、それからその内容を半分の文字数で要約してみる、あるいは2倍の文字数に増やしてみる、という訓練をしたらいい、と書いている人がいました。「天声人語」に限らず、新聞記事(ネットでも拾えるでしょうし)で同じことをやってみればいい訓練になるのではないかと思います。

もっと日常的に出来るかもしれないことだと、メールやLINEで絵文字やスタンプを使わないことにしてみる、というのは面白いと思います。絵文字やスタンプに載せた気持ちや感情を、言葉だけで表現するとしたらどうするか。有名ブロガーであるちきりんは、「(笑)という表現さえ自分は使わない。(笑)で表現していることこそ、文字にしなければ表現力は鍛えられない」というような趣旨のことを書いていたように思います。

問題を認識する、という意味では役立つ本ではないかと思います。

和田秀樹「自分の考えを「5分でまとめ」「3分で伝える」技術」

「BRODY 2 松井玲奈のインタビュー」を読んで

齋藤飛鳥が載っている雑誌は基本的に買う、というスタンスで雑誌を買っているが、雑誌ごとに、写真がメインか文章がメイン可かというのは分かれる。「BRODY」は、写真も多いが、他の雑誌と比べてインタビューが圧倒的に長いので、僕はかなり好きな雑誌だ。どうしても、写真よりも中身に関心が行く人間なので。

普段は、齋藤飛鳥が載っている雑誌を買って、同じ雑誌に乃木坂46のメンバーのインタビューが載っていれば読むぐらい。他の記事は見ないことが多い。でも今回はなんとなく、松井玲奈のインタビューを読んでみた。

メチャクチャ面白かった。松井玲奈についてはこれまでまるで知らなかったけど、この子はとてもいいですね。

『生きていくのに向いてないなって思います』

先日飲み会の場で、「“死ぬ”とか“死にたい”とか思った経験がない人とは分かり合えない」と発言した人がいて、なるほどと共感した。松井玲奈は『破滅願望はないです』と書くが、生きづらさを感じているという意味で、同じ匂いを感じる人だと思った。

『はい。結局、芸能の仕事をやりたいと思ったのも、ふつうに働けない…って言っちゃうと頑張ってOLやってる方とかサラリーマンやってる全国の人にとても申し訳ない気持ちになるんですけど、同じ時間に会社に行って机の前に座って同じ時間に帰るみたいな、学校でそれができなかったから、私ダメだ、働けないと思って。毎日同じことができないから、芸能の仕事だったら、ふつうの人生では経験し得ない刺激的なことが待ってるって子供の頃に理解しちゃって。50歳までそういう刺激的なことをやってれば、90年生きたぐらい刺激的な人生だと思うんです』

すげぇ分かる、と思った。僕も、絶対に社会に出れないと学生時代に思っていたし、まともに働けないという感覚は今も持っている。勉強は好きだったから学校はちゃんと行けてたけど、アルバイトはどれも長続きしなかったし、就活が嫌で大学を辞めたし、就職活動も転職活動もしたことがないし、未だに「きちんとした企業」では働けないだろうと思っている。

インタビューアーである吉田豪は、『(アイドルは)ネガティブがマイナスにならない職業なんだろうなと思うんですよ。どう思います?』と松井玲奈に問いかけているが、それは齋藤飛鳥を見ているから僕も強く共感できる。松井玲奈も齋藤飛鳥も、もしアイドルじゃなかったらどうだったんだろう、と思わせるだけの不器用さを感じる。

『地元は好きですけど、ずっと地元にいたら部屋から出なかったと思うので。四角い部屋の四角いパソコンのなかだけが私の世界みたいな人に90パーぐらいなってたと思うと、ホントによかったなって。パソコンだけじゃない世界にいまいるからよかったなって思います』

乃木坂46を好きになる前、僕の人生には「アイドル」というものが入り込んでいなかったので、「アイドル」という存在に対して漠然と「華やかなもの」ぐらいのイメージしか持っていなかったのだけど、齋藤飛鳥や今回の松井玲奈のインタビューを読んで、「アイドル」というのは普通の社会に馴染めない人の受け皿としても機能しているのだなぁ、と確認させられた。

『ずっと初期装備でレベルを上げてるみたいな気持ちでやってます』
『(部杭を探しながら闘い続けて、自分の武器はなんだっていう結論に至ったんですか?)
ダンスも歌もできないから顔で踊る』

客観的に見て松井玲奈に武器がないのかどうかはともかく、松井玲奈自身は自分には武器がないと思っていたのだという。『周りの子のいほうがかわいいし、華やかさだったり、歌がうまい、ダンスができるとか、みんなが思ってるそれぞれの武器』がないと思っていた松井玲奈だが、それでも「アイドル」というステージで闘うことが出来た。

僕は松井玲奈が動いているところをほとんど見たことがないので、松井玲奈のアイドル時代のことも今の活動もほとんど知らない。けれど、AKB48グループの中でかなり人気メンバーだったことは知っている。僕が乃木坂46を好きになり始めた頃には既に終わっていたが、彼女は生駒里奈と交換する形で乃木坂46に在籍していたこともあった。そういう結果だけ見れば、松井玲奈には武器があったのだろう、という判断をしたくなるだろう。しかしこのインタビューを読むと、彼女は徒手空拳で「アイドル」として存在し続けたのだという。

それが出来たのは、彼女が持っている「考える力」と「努力し続ける力」だろうと思う。

『結局、アイドルだけじゃないけど、そのグループのなかにいてどう抜け出すかっていうのをひとりひとりが考えてないし、ダラダラ惰性でベトーッとした感じで終わっちゃうんだなってういうのは思いますね。みんなが一致団結して同じ方向を向いてれば飛び抜けてくる人たちもいるし、そうじゃなくてなんとなくグループっていう輪のなかにいることで満足しちゃってると、そこから小さな世界のなかで終わってしまうなってういうのは思います』

吉田豪は、『こんなにインタビューしやすい人も珍しいですよ』と発言している。実際に、インタビューという形で誌面になる時には、様々な形で手が入るだろうから実際のインタビュー現場の雰囲気まで推し量ることは難しいが、インタビューアーである吉田豪の実感のこもったこの言葉は、松井玲奈の思考力の高さを表しているのだと思う。インタビュー全体からも、やはりそれは感じ取ることが出来る。自分を含めた物事を常に俯瞰で捉えていて、全体の中の自分とか、「私松井玲奈」の意識の中の「アイドル松井玲奈」とか、そういう認識の仕方が抜群に上手い。その上で、そうやって認識した事柄を的確に瞬時に言葉に変換できる能力がある。これは、常に観察し、常に言語化していなければなかなか身につくものではない。

『アイドルだけじゃなく、自分たちがおもしろいと思うことは間違ってないって意識でまっすぐにやる人たちは抜けて出てくるんだなっていうのは思います。イロモノって言われたとしても、それでも自分たちが正しいと思って、「私のスタイルはこれ」ってやってれば、それは個性になって浮いて出てくるし、それが逆にカッコいい、みたいな』

齋藤飛鳥もそうだが、僕は松井玲奈のように、目の前の現実や状況を自分なりのやり方で切り取れる人が好きだ。捉え、思考し、発する。そのサイクルを息を吸うように出来る人は素敵だなと思う。

『昔から「ああダメだった」ってどん底まで落ち込んで、でもできなかったぶん、まだまだ伸びしろがあるんだって思えてたので、じゃあその伸びしろに向かってこの地べたからもう一回上がってやろう、見てろよみたいな気持ちはあって(笑)。いまでもあります』

松井玲奈のもう1つの強さである「努力し続ける力」は、「思考力」の高さとの組み合わせでより強力なる。ただがむしゃらに頑張るだけで、「アイドル」としてうまくいくはずもない。努力すべき方向を見定める「思考力」があって初めて、「努力し続ける力」が活かされる。

『でも、課題がちゃんと目に見えてることは安心感でもあるので。それをクリアすればもう1個上にいけるから。なんにもなく漠然と大きな課題を目の前に出されるよりは、自分は小さい目標をちょっとずつハードルを越えてって、結果的に大きな壁を乗り越えられるほうがうれしいタイプなので、目標が先にありすぎると気持ちが続かないなっていう』

こういう発言を読むと、本当に「努力の人」なのだなと感じる。どれだけ戦闘力の高い武器を持っていても努力出来なければ芸能の世界では残っていけないのだろうし、武器がないと思っている人でも努力によって上に行くことが出来る。何が評価されるのかまったく分からない世界にあって、それでも課題を見つけ、その課題をひとつひとつ潰し続けることが出来るというのは、ある意味で大きな武器と言ってもいいのだろうと思う。

『ボロボロになっていく自分が好きなんで、「あ、いますり減ってる。もっとすり減ろう」みたいな』

まあ、こういうメンタルも、プラスに働いたんだろうけども。

松井玲奈のインタビュー中で最も共感したのが次の発言だ。

『50年生きればもう十分じゃないですか?違います?したいことがなくて』

しかし、松井玲奈がこう発言するのは意外だった。

僕は、趣味らしい趣味も、ハマっていると言えるものも本当にない。齋藤飛鳥は好きだけど、何らかの形で僕の人生から齋藤飛鳥が取り上げられても、なんとなく諦められてしまう気がする。そういう態度について「そこまで好きじゃないってことじゃない?」と言われることはよくあるんだけど、自分の中ではそうではないと思っている。好きなんだけど、どうしても入り込めない自分がいるのだ。

松井玲奈も、こんな発言をしている。

『主観的になれてる方のほうが熱中してる感じがあっていいなと思えたりして。なんでも一步引いて見ちゃうんで、輪の中にうまく入れなかったりとかは昔からずっとそうだったんで、ある意味、別の自意識というか。自分というものを持って自分に夢中になれてる人はすごいうらやましいなって思ってましたね。自分に夢中になれなかったんで』

凄く分かる。僕もまったく同じことを普段から考えている。僕も、自分にもそうだけど、何事にも夢中になれない。なりふり構わず好きになるとか、そのことを考えると苦しくなってくる、みたいなことが人生でほとんどなかった。好きだけどハマりきれないし、一步引いて見てるから、いつだってそれが無くなった場合のことも想定してしまう。だから僕は、割といつ死んでもいいかなと思っているし、松井玲奈とまったく同じで、僕も50年ぐらい生きれば十分かなと思っている。

しかし、松井玲奈はそういうタイプではないと思っていた。

松井玲奈についてはよく知らなかったが、アイドルやマンガや鉄道など趣味が多彩だということは知っていた。だから僕は勝手に、死にたくない人だろうな、というイメージを持っていたのだと思う。やりたいことがありすぎて、可能な限り生きていたいと思う人なんじゃないか、と。でもそうではないようだ。

『(これをやれなかったら死ねないみたいなことってあります?)
それはあります。やりたい舞台の戯曲が何本かありますし、この方と仕事したいなとかもありますし、そういう欲はあるんですけど。それが必ずしも…なんか危ない人みたいですけど生きていたいっていう気持ちとつながらないから(笑)。』

面白い感覚だなぁ。吉田豪はその感覚を、『やる気にはなるけど未練にはならない』と一言で表現しているが、とても面白いと思う。

松井玲奈のこの発言から感じることは、彼女は「自分がどうだったら幸せなのか」をきちんと把握できている人なのだろう、ということだ。僕も長生きをしたくない人間だが、その理由は、身体や頭にガタ来て、今まで出来たはずのことが出来なくなってまで生きていても幸せは感じられない、と思っているからだ。松井玲奈も、そうは言っていないが、大筋では同じだろう。やりたいと思えることがやれれば幸せだ、でも50歳を越えてそれが出来るイメージが出来ないから、別に生きていなくてもいい。そういう考え方に近いのではないかなと思う。

生きづらさを覗かせる松井玲奈だが、「自分がどうだったら幸せなのか」をきちんと把握できているという事実は、生きていく上での指針となる。努力する方向性が見えやすいからだ。そして松井玲奈は、努力が出来る人だ。だから、その時その時では様々に辛い現実に直面するだろうが、松井玲奈はきちんと生きていける人だと思うし、自分なりの幸せをきちんと追求できる人だと思う。

『お芝居をしてたいっていうよりは生き残りたい!』

齋藤飛鳥にしても松井玲奈にしても、僕の中の「アイドル」という概念を覆してくれるので、とても面白いと思う。

「BRODY 2 松井玲奈のインタビュー」を読んで

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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)