黒夜行

>>2016年12月

「OVERTURE No.009 齋藤飛鳥のインタビュー」を読んで

齋藤飛鳥は、「自分」という存在を手放しているように感じられる。

世の中の多くの人は、「自分」という存在に縛られているのではないかと感じることが多い。自分は長男だから、B型だから、専業主婦だから、もう年だから、外国には行ったことがないから…。そういう色んな「自分」に囚われたまま、不自由さを感じているように思う。やりたいことがあってもセーブしたり、やりたくないことがあっても断れなかったり。

人によっては、自分でそういう「自分」に囚われたがっていると感じる人もいる。占い本や宗教などに走ってしまう人の中には、自分を囚えてくれる大きな存在を求めて、その不自由さの中で生きていたいと思う人もいるのではないかと思っている。

齋藤飛鳥からは、そういう印象をまったく受けない。

齋藤飛鳥は、「自分」がどうであるか、という要素に影響を受けていないように思う。

『(コンプレックスは)ほぼ全部です。顔が小さいと言われても、嫌だと思わないけど、得なこともないので。だいたい、よく見たら小さくないですから』

齋藤飛鳥は、小顔であるという、女性にとっては武器になるだろう要素を手放す。小顔であるということが、齋藤飛鳥という人間には影響を与えない。与えていないぞ、という風に捉えている。小顔については、自分が努力して得たわけではない、というような感覚も、それを自分のものであると捉えられない理由なのかもしれないと僕は勝手に考えている。

「努力」については、こんな発言がある。

『明石家さんまさんの「努力は逃げ言葉」も「そうだよな」と思って書き留めました。私も自分からは努力という言葉は使っていないはずです。もし、「努力していますか?」と聞かれたら、「してないです」と答えます』

齋藤飛鳥は、努力している自分も手放す。努力しているから結果は伴わなくてもいい、と思ってしまわないようにという戒めの発言なのだけど、こうも潔く努力している自分を手放すことが出来るものかと思う。

ライバルについて聞かれて齋藤飛鳥はこう答える。

『ないですね。3年前くらいまでは、メンバーに対していい意味でライバル心があったんです。負けちゃいけないなって。プライドが高かったんですよ。今はいい意味で力が抜けたし、自分のことがやっと理解できるようになったんです』

齋藤飛鳥は、対抗心さえ手放す。もちろん、ライバル心がなくなった理由には、センターを経験したという事実も影響しているだろうと思う。苦労を重ねた末にセンターという形で評価されたという経験が、彼女から力を抜くいいきっかけになったのではないか。とはいえ、だからといって対抗心を簡単に手放すことが出来るわけでもないはずだ。一度センターになったと言っても、戦いは常にあるのだから。これも、齋藤飛鳥の「自分」を手放す在り方故だろう。

「戦い」についてはこんなことを言っている。

『(飛鳥さんが今、戦ってることはありますか?)
いや、ないです。基本的には勝負を仕掛けないタイプなので。納得できなくてもいいというか、そもそも納得しようと思ってないんです』

齋藤飛鳥は、納得する自分さえ手放す。この発言の論理は少し飛躍していると感じるが、おそらくそれは編集の問題だろう。勝手な想像だと、この質問の前に「納得できないことはありますか?」というような趣旨の質問があったのではないかと思う。その流れで、「その納得できないことに戦ってますか?」と聞かれたのではないかと思う。
「自分」というものをはっきり持ってしまうと、その「自分」が納得できるかどうかは比較的大きな問題になる。しかし齋藤飛鳥は、「自分」を手放しているので、納得するかどうかということが大した問題ではなくなる。『流れに身を任せています』とも発言している。「自分」がどうしたいかが人生や生活を動かす大きな原動力にはならないのだ。

こういう生き方は、非常に柔軟で楽だ。僕自身がそういう人間だからよく分かる。僕も、「自分」というものがほとんどない。これがしたい、あれが食べたい、あそこに行きたい…というようなことを思うことがほとんどない。基本的に僕の日常は、ルーティーンと他者からの誘いで成り立っている。日常はルーティーンを出来るだけ守ってこなしていき、後は他者から誘われたものは基本的に受けるというスタンスで生きている。僕自身は、こういう生き方がとても楽だ。

この生き方を楽だと感じられるのは、正しさの判断をしなくていい、というところにある。だから、マイナス思考の人間にはよく合っていると感じる。

「自分」というものを持っている場合、その「自分」の言動が正しいのかどうかを自分自身で判断しなければならない。何かやりたいことがある場合、それをやっていいと判断するのは基本的には自分だ。色んな要素を考え合わせて、その判断を下さなければいけない。

しかし、マイナス思考の人間には、これがなかなか難しい。

『洋服を買う時、今年の頭くらいまではお母さんと伊藤万理華の指示に従っていました。買い物中にいちいち写真を撮って、2人に送って確認をとっていたんです。万理華にはコートとか大きい買い物の時だけなんですけど』

自分で服を買うというのは、その服が自分に合うかどうか自分で判断しなくちゃいけない、ということだ。当たり前じゃないか、と思われるかもしれないけど、マイナス思考で自信がない人間にはこれが難しい。僕自身は、着るものなんかなんだっていいと思っているから、服を買うということには悩まないけど、齋藤飛鳥はそうはいかないのだろう。自分の内側から出てくる正しさを信じられないが故に、他者の正しさに乗っかるしかないのだ。

服を買う、という程度のことであれば人生にさほど大きな影響はないが、「自分がこうしたい」という思いを持つということは、その時その時で正しさの判断が求められるが故に、マイナス思考の人間には辛いことなのだ。

だから「自分」を手放してしまう。「自分」を手放して、その時々で相手の、あるいはその場の正しさに身を任せる方が、こういうタイプは安心できるのだ。

『(友達について聞かれて)いないことはわかりきってるじゃないですか、聞かないでくださいよ(笑)。メンバー以外では2人くらい…といっても、「友達は多くなくてもいい」というのは深い仲の友達がいる場合じゃないですか。私の2人は深くなくて、一緒にご飯を食べたことがあるくらいで互いの秘密を知ってるわけでもない。ひとりが好きだから寂しいと思わないけど、希に寂しいと思ったら女性マネージャーさんに連絡します(笑)』

「自分」を持ってしまう場合、一番大変なのが人間関係だろう。他者と関わる時は、様々な場面で正しさの判断を突きつけられるからだ。齋藤飛鳥は、友達を持たないことで、その判断から逃れている。「ひとりが好き」というのは本心だろうが、それは「他者といる時に正しさの判断を迫られるのが辛いから、それよりはひとりの方が好き」という意味だろう、と僕は考えている。

『中学デビューしたかったんですけど、まわりにビビってできなくて。でも、ついていくためにイケイケ風な女子を演じていました。途中から女の子特有の面倒くささを感じるようになりました。いまでは無理して自分を作っていたことを後悔しています。イケイケ風な女子も乃木坂初期のいちごみるくキャラも本当の自分じゃなかったんです』

イケイケ風な女子もいちごみるくキャラも、本来の自分ではないだろうが、「自分はこうだ」という決めつけであることは間違いない。そういう決めつけを持ってしまったが故に失敗した経験を何度も経てきたことで、齋藤飛鳥は今のようなスタンスを獲得していったのかもしれない。

「自分」を捨てた齋藤飛鳥は、同時に、自分が何らかの枠にはめられないように、という意識も常に持っている。

『(18歳という年齢についてはどう考えていますか?)
いろいろ得がある年齢だなって。大人ではないので大人がやらなきゃいけないことは免除されるし、子どもじゃないから子どもっぽいことをしなくてもいい。17、18歳は一番難しい年齢と言われているじゃないですか。だから、それを理由にできるのが得だなって思います(笑)』

齋藤飛鳥は、「18歳という枠」をひらりとかわす。世間の「18歳」に対するイメージを逆手にとって、自分の輪郭をぼやかそうとする。ある枠組みで捉えられてしまうと、その枠の内側が正しいと思わされてしまい、その内側でしか動けなくなる。それは、「自分」を持っているのと大差なくなる。齋藤飛鳥はインタビューというものを、もしかしたらファンや読者が自分を見る際の枠組みを取り払うための手段と捉えているのかもしれない。「齋藤飛鳥はこうだから」という枠組みを壊すために言葉を紡いでいるのかもしれない。

『うーん、でも私はどんな意見も受け入れるというか、あえて自分のことを調べたりはしないけど、批判的な意見にも「参考になります」と思えるタイプなんです』

「自分」を手放すと、批判は届かなくなる。それは同時に、称賛も届かなくなることを意味するが。批判も称賛も、届くべき先の「自分」というものがないから客観的に捉えることができるのだろう。マイナス思考で自信がなくてもなんとかアイドルとしてやっていけるのは、この客観性のお陰もあるだろう。

齋藤飛鳥は「自分」を手放しているが、思考や価値観まで手放しているわけではない。齋藤飛鳥が「自分」を手放すのは、他者となんらかの関わりがある事柄について正しさの判断をする自信がないからだ。自分にしか関係のないことであれば、齋藤飛鳥は自分なりの考えや価値観を持てる。そこがまた、齋藤飛鳥という人間を面白くしている要因なのだと思う。

「OVERTURE No.009 齋藤飛鳥のインタビュー」を読んで

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あなたを変える52の心理ルール

内容に入ろうと思います。
本書は、メンタリストのDaiGoが、日常生活の中で出来るちょっとした「実践」について書いたものです。日常の中の様々な場面で、人に好かれたり、伝えたい感情がきちんと伝えられたり、何かをした際の成果をより大きくしたりというテクニックについて書かれている作品です。

本書の特徴を、DaiGoはまえがきでこんな風に書いています。

『そこで本書では、「分かりやすさ」ではなく、「実践しやすさ」にフォーカスしました。
分かりやすいだけの本では、ただ知識を得るだけで満足し、実践につながりません。
むしろ分かりやすいがゆえに、実践しないで満足してしまう危険があります。
そこで本書では、実践しやすくするために52のすべての項目を、「AすればBになる」の形式でまとめました。さっと一読していただければ、もう本文を読み返さずとも、目次を見るだけで実践できます』

これは非常に面白いと思いました。確かに、一読した今なら、目次を読み返すだけで実践できる感じはします。

DaiGoはこんな風にも書いています。

『ぜひ、目次を切り取るか、コピーして持ち歩いてください、携帯やスマートフォンで目次を撮影して、待ち受けなどにしておいてもいいでしょう。』

52の項目の中にも度々書かれていましたが、人間の脳は、何度も触れたものを大事と判断する傾向があるということです。「単純接触効果」という名前がついているようです。本書には、「願いごとを紙に書いて持ち歩くと、本当に願いが叶う」という項目もあります。こちらは、「無意識」を働かせる方法として紹介されています。

個別の項目を実践する前に、まずは目次を毎日短い時間でもいいから眺めるというのを続ければ、脳が「これはやらなければならないことだ」と判断して、実践しやすくなるでしょう。まずはそこから初めて見るのはいいと思います。

ただ、本書に書いてあることをただ実践してもダメでしょう。
DaiGo自身も、こんな風に書いています。

『このように、私はよく自分で実験をしています。心理学で学んだことが本当に成り立つのかどうか、自分の目で確かめたいという気持ちがあるからです。裏返して言うと、私は心理学で言われていることが100%成り立つとは思っていません』

ここに書かれていることは、あくまでも「基本」です。実践をしていく中で、そのままやってもうまくいかないケースも当然出てくるでしょう。ある実践に対して、すべての人間が同じ反応をするわけがないのですから。だから、返って来た反応を見ながらフィードバックしていく必要があるだろうと思います。その意識はとても大事だろうなと思います。これは、本書に限らず、世のハウツー本に広く言えることでしょう。

僕は、本書で扱われていることは、実践していることもあれば、なんとなく実践してることもあるし、まったく実践していないこともあります。僕は普段から、自分なりの考えを持って他人と接していますが、自分のこれまでの経験や、相手の反応などによって、誰にどういう風に接するかは結構変えています。それでいて、全体としては一貫性のある感じに見られるように、自分の中で意識しているつもりです。それも、僕なりのフィードバックの結果です。

ハウツー本に手を出して失敗する人は、このフィードバックが出来ないのでしょう。フィードバックに必要なのは、相手の反応を観察して、仮説を立て、その仮説が正しいことを証明できるような振る舞いをしてみることです。僕は、そんな一連の流れを意識しているわけではありませんが、昔からずっとそういう意識で人と関わってきたので、もう自然と身についているんだろうと思います。お陰で僕は、どんな場にでも潜り込める、適応力の高い人間になることが出来ました。

本書は、実践しやすさに重点を置いているという点で、他のハウツー本とはちょっと違ったタイプだと思います。そしてその上で、常にフィードバックを欠かさずに、自分の実践を適宜修正していく、という意識でやってもらえたらいいのかなと思います。

DaiGo「あなたを変える52の心理ルール」

死刑のための殺人 土浦連続通り魔事件・死刑囚の記録(読売新聞水戸支局取材班)

まず、少し長いが、僕がここで書きたいことと関係あるので、引用から始めようと思う。

『私には彼が感じただろう、つまらなさが実感として分かる。それは、私と同世代か下の世代が感じる、独特の閉塞感だ。成熟しきった日本で、多くのことはやり尽くされている。それでも、先進国の地位を維持し続けるには成長しなければならない。他国や他人に取り残されないように、どんどん価値を上げ、多くのことを同時にこなし、競争を勝ち抜かなければならない。現状維持は後退を意味する社会だ。「もう、成長はこの辺でいいだろう」という考え方は許されない。でも、そんな社会に適応できる若者ばかりではないし、皆、成長は頭打ちだと、うすうす感じている。
成長しない日本を生きる。そんな閉塞感の中で、彼は現実に希望が見いだせず、早々に降りる道を選んだのだろう。もちろん、自殺願望を募らせ、最終的に殺人という手段を選んだのは許されないことだ。弁護するつもりは全くない。
でも、彼が感じたつまらなさに共感できる人は、世の中にたくさんいると思う。彼のつまらなさの根源は、日本の社会を覆う閉塞感にある。何不自由のない生活を送っていても、心は満たされない。希望が見いだせない社会だ。
「何を甘いことを言っている」。そう批判する人も多いかもしれない。でも、私は希望が見いだせない若者たちを単純に批判できない。何不自由のない生活は幸せとイコールではない。なぜ、豊かな国であるはずの日本で、毎年3万人前後の人が自ら命を絶つのか。そして、なぜ若年世代の自殺率が上昇傾向にあるのか。私は、その現実は希望を見いだしにくい日本の社会のあり方と無縁ではないと思う。飽和状態にある、と分かっていながら成長を求められるのは、若者にとってつらいことだ。たまたま職を得た人も、一度脱落したら敗者復活はできない、という恐怖と戦いながら毎日生活している。そんな社会で希望を持てるのはよほど才能があるか、運のいい人たちだけだろう』

僕も、共感できてしまう側の人間だ。

この「土浦連続通り魔事件」の犯人である金川真大に対する僕の感覚をまず書こう。

彼が考えていること、感じていることは、かなり分かってしまう。僕は、大きな括りで言えば金川真大と同じ種類の人間だろう。本書の中にも、取材班の一人の実感として、こんな記述がある。

『「もしどこかでつまずいていれば、自分も同じようになっていたかもしれない」。そんな思いさえ抱くようになった。それは私だけの特別な感情ではなく、同僚記者も同じだった』

僕もそう思う。僕も、どこかで踏み外していたら、金川真大のようになっていた。そういう入り口(人を殺そうとする入り口ではなく、周囲と相容れない思想を持つようになる入り口)に、僕は何度か足を踏み入れたと思う。僕が引きずり込まれなかったのは、ただ運が良かっただけだ。僕と金川真大は、ある意味で等価交換可能な存在だ。金川真大は人を殺し、僕は殺していない。それだけの差しかないように、僕には感じられる。

ただ先に書いておく。金川真大が「確実に死ぬために死刑を選択した」という行動は、頭が悪いと思う。「他人に迷惑を掛けて死のうとするな」とか「痛みを伴わない自殺の方法は探せばあるだろう」とか、色んな突っ込み方があるが、僕は単に頭が悪いなと感じる。
まず死刑というのは、死ぬ時期が完全に他者に委ねられている。「死ぬ」と決めて死ぬことの最大の自由は、自分が死ぬ時期を決められることにあるのではないか、と僕は感じる。自殺の最大の自由は、いつ死ぬかを自分で選択できることにある。死刑による死は、この自由を完全に手放してしまっている。事実、金川真大は逮捕されてから死刑が執行されるまで3年ほど掛かっている(これでも十分早い方だが)。僕には、その3年間はアホくさくてやってられないだろうと思う。

また金川真大は、「確実に死ぬために死刑を選択した」と発言している。しかし、死刑が宣告されれば確実に死ねるが、死刑が宣告されるかは確実ではない。彼は、2人を殺し、7人に重傷を負わせた。普通に考えれば死刑だ。しかし裁判では、「死刑を望む者に死刑判決を下していいのか」という議論が起こる。当然だ。結果的に金川真大は死刑を宣告されたが、死刑を宣告されない可能性だって僅かながらあっただろう。だから、金川真大が考えるような確実さは死刑には存在しない。

金川真大の頭が悪いと考える理由は、この辺りにある。彼は、死刑のことを碌に調べもしないで、死刑というイメージだけに寄りかかって犯行を起こした。ちょっと知識があれば、「確実に死ぬために死刑を選択した」という判断のおかしさに気づけただろう。

色んな理由を含めた上で、僕は、金川真大の「確実に死ぬために死刑を選択した」という判断は頭がおかしいと思う。僕の内側からそういう考えが外に出ていくことはまずないだろう。しかし、それ以外の部分では、金川真大の考え方は理解できてしまう部分が結構ある。

僕は、このブログで何度も書いてきたが、人が死んで哀しいと感じたことが一度もない。祖父は二人共死に、大学時代の先輩も二人死んだ。葬式に出る度に、別に哀しいと思っていない自分に気づく。

また、社会に出ることが出来ないと悲観して、就活から逃げるために大学を辞めた。未だに後悔したことがないばかりか、あの時辞めておいて本当に良かった、とさえ思っている。

『青年は20歳の頃から、自分の人生に見切りをつけていた。進学も、就職もしたくなかったから、しなかった。でも、自室にいても、何の濰坊もなく、つまらない日々が過ぎていった。テレビゲームで毎日を埋めていたが、もう限界だった。「死のう」。自殺を考えた、でもよく考えると、自殺はうまくいかないかもしれない。確実に死ねる方法は何だろう?思いついたのが死刑だった。
綿密に計画を立て、2人を殺し、7人を負傷させて死刑判決を受け、ここまで来た。なぜこんなに時間のかかる方法を選んだんだろう。何度も後悔した。確実に安楽死の制度があるなら、迷わずそれを選んだだろう』

僕は、就活が嫌で大学を辞め、大学時代のアルバイトはすべて3ヶ月でバックれた。誰とも会わずに引きこもっていた時期もある。今僕は悪くない環境にいるが、一年前今いる場所に来るまでは、僕の人生はかなり詰んでいたことだろう。そこから抜け出せたのは、本当に、運が良かったにすぎない。

そういう意味で本書が描いているのは、「特異な人間が起こした例外的な事件」ではないのだと僕は感じる。本書は、「第二の金川真大がどんな家庭からでも生まれうる」という現実を活写している。確かに本書を読めば、一見、金川真大の両親に問題があると思うだろう。そして、こんな両親だから金川真大みたいなモンスターが生まれたのだ。ウチは大丈夫と思いたいことだろう。

しかし、本書をきちんと読めば、両親も両親なりの考え方によって、子供を愛していたのだろうということが分かる。結果として金川家は、ちょっと歪で狂った家庭環境だ。しかしそれは、決して悪意からではなく、両親なりの子供を思う気持ちの積み重ねによって生み出されてしまった。両親との関わり方を読むと、僕がしてきた振る舞いと重なる部分もある。やはり僕は、金川真大と等価交換可能な存在なのだろうなと改めて思う。

本書は、あまりにも異質で特異で信じがたい事件が描かれる作品だ。しかし、だからと言って目を背けていいわけではない。自分とは関係ない事件だと見ないふりをしていいわけではない。多くの若年世代が、金川真大のような閉塞感を抱えて生きている。僕もそうだし、本書を執筆した記者自身もそうだ。その閉塞感とどう付き合っていくのか。誰もが様々な経験をしながら、それらと折り合いをつけていく。しかし中には、金川真大のような折り合いの付け方を選択してしまう者も出てくるだろう。それが自分の子供ではないとは、誰にも断言できないはずだ。

そういう意識で、本書を読んで欲しいと僕は思う。

内容に入ろうと思います。
本書は、「確実に死ぬために死刑になる」ことだけを目指して通り魔事件を引き起こした金川真大という男に迫ろうとする作品だ。
2008年3月19日。金川真大は茨城県土浦市で男性を一人刺殺する。その四日後の3月23日、荒川沖駅で金川真大は無差別にその場にいる人間を殺傷し、逮捕された。
逮捕された金川真大は、独自の「思想」を繰り返す。「人を殺すことは悪ではない」「世の中の人間は常識に毒されている」「人を殺すのは蚊を殺すようなもの」「死刑になるために殺人を犯した」「いくら人を殺しても死刑にならなければ、殺人は犯さなかった」などなど…。
これまで、「死刑になっても構わない」という動機を持つ無差別殺人は存在した。しかし、「死刑になるために人を殺した」というのは前代未聞だった。金川真大は一貫して、人を殺したかったわけでもないし、社会に恨みがあったわけでもないと語る。ただ、出来るだけ多く人を殺さないと死刑にならないから殺人を犯したのだ、と語る。

『「申し訳ないことをした」
言葉でなくてもいい。そんな気持ちが彼の心に生まれることを本気で願い、行動を起こした。それはもう、取材を超えていた』

『私にできるのは、金川に贖罪の心を芽生えさせることではないか。そんな思いが日増しに強くなっていった』

記者は、被害者から白い目で見られることを覚悟しながら、憑かれたように金川真大との面会を続ける。金川真大は強固な思想を語る。それは一般の常識からすれば異常とも言うべきものだ。その思想を、少しでも揺るがせることが出来ないか。たとえ死刑になるとしても、真っ当な心を取り戻してから刑を受けさせることは出来ないか。

『死刑囚のまま、友人を得て、恋をして…。死にたくない。そう一瞬でも思ってから執行されて欲しかった』

金川真大の死刑が執行された後、同僚記者が感じたこの思いこそが、記者たちを取材へと駆り立てた原動力だった。
金川真大は何故犯行に及んだのか。それを支える思想はどんなものか。何故その思想が生み出されたのか。金川真大を改心させることは出来ないのか…。葛藤を抱えながら続けた取材の記録です。

正直に言って僕は、金川真大に対してそこまで関心を持てない。冒頭で書いたように、僕は金川真大が抱えていただろう感覚が、少しは理解できる。そしてその上で、「何故死ぬために死刑という手段を選んだのか」という問いには、「金川真大の頭が悪かったからだ」という結論が僕の中では出ている。「死ぬために死刑という手段を選ぶ」という、僕からすれば不合理な判断ではなく、抱え続けてきた葛藤や閉塞感から生み出されるもっと合理的な判断によって何か行動を起こしていたとしたら、金川真大にもう少し興味を持てたかもしれない。ただ、頭の悪い人間には、さほど興味が持てない。

本書を読んで僕が気になったのは、金川真大と関わる、あるいは関わらざるを得なかった人々の話だ。記者を始め、遺族・弁護士・裁判官・家族・精神科医など、金川真大と何らかの形で関わる者たちの困惑や葛藤の記録として、僕は本書を読んだ。

本書を執筆した記者の物語として、本書は興味深い。記者自身が、「それはもう、取材を超えていた」と書いているように、彼がしていることは「世間に対して報じる者」としての立場を超越している。同じ人間として、金川真大という存在を許容できないが故に、どうにか自分が理解できる存在にまで金川真大という男を引き下げようと奮闘する。また、死刑制度の根幹を成す「死を恐れる」という感覚を無くしてしまっている(ように見える)金川真大に対し、死刑という刑罰が何らかの意味を持つように、死を恐れたり死ぬことを後悔したりする感覚を植え付けようと努力する。それは、記者自身の内側から「これをせねば」と湧き上がってきた想いだ。自分の行動の意味を振りかえったり、遺族の方の思いを逆なでしているだろうと思ったりと、取材とは言い難い行動を続ける自分自身に対して、それでもこれはやらなければならないんだ、という意志を持って金川真大と関わり続ける記者の奮闘の記録として、本書は興味深い。

そして、金川真大と関わる者の話としては、金川真大の家族の話が一番強烈だ。

たとえば、金川真大には他に3人の兄弟がいるが、彼らの金川真大や家族に対する発言を読むと、ゾワゾワとさせられる。

上の妹「母親のことが嫌い。一生、自分の声を聞かせたくないから、筆談で会話している」
下の妹「家族にも、合う、合わないがある。きょうだいとは、縁を切りたい」
弟「家族の誰かが死んでも、さみしいとはおもわない。今、付き合っている彼女が死んだら、さみしいかもしれない」

金川家に捜査に入った捜査員は、「家族同士で携帯電話の番号も知らない。他人がたまたま同居しているようだ」という、強烈な違和感を抱いたという。

一方で、そんな兄弟を、両親はどう思っていたのか。

母「きょうだい仲は、悪くないと思っていた。子ども同士、仲良くさせるのに、苦労することはなかった。子どもは母である自分のことを分かってくれているし、自分も子どものことを分かっている、と思っていた。」
父「(事件までに、家族が抱えていた一番大きな問題は何だと考えていましたか?と問われ)
特に深刻な問題があるとは思っていませんでした」

子と親で、ここまで認識に差が出るものなのか、と感じた。

僕自身も、今はともかく、親との関係では色々あった。子どもの頃は両親が、特に母親が嫌いだった。しかし僕はそのことを、一切表に出さなかった。僕が初めてそれを両親に伝えたのは、大学進学のために実家を出て二年後、大学三年になる春のことだったと思う。小学校の高学年ぐらいからもう親が嫌いだった記憶があるから、10年近くもそのことを親は知らなかった。

親からしてみれば、青天の霹靂だっただろう。僕は優等生で通っていたから、まさかそんな風に感じているとは想像もしなかっただろうと思う。そういう意味では金川真大の両親の反応は驚くことではないかもしれない、とも思う。僕が両親にそのことを告げる前に、両親が何かインタビューに答える機会があったとしたら、「長男には特に問題はない」ときっと答えていたことだろう。

とはいえ、金川家の場合、はっきりと目に見える兆候が出ていた。上の妹は、母親と筆談でしか話さない。上の妹と下の妹は、ある時から一切会話をしなくなった。その他、両親や兄弟のことを語る子どもたちの話は、はっきりとした殺伐とした関係性が表れている。

ここに怖さがある、と僕は感じた。

子どもからすれば明らかなサインであっても、親にそれは伝わっていない、ということがあるのだと、本書は明確に示している。本書を読むと、父親はちょっと他者への共感力が低い人間に思えるので、一旦除外しよう。しかし、そこまで記述は多くはないが、母親の描写を読めば、母親は子どものことを考え、大事に育てていこうと考えている善良な人間だと思える。その母親は、家族内の「明らかな問題」を、自分なりに納得できる理由をつけて問題視していなかった。家族の問題を認識できていれば金川真大が殺人という手段を取らなかったかと聞かれればそれは分からないが、可能性はあっただろう。

僕らは、金川真大を生み出した家族、という目で金川家を見るので、そういう先入観によって彼らが極悪非道に思えてしまう部分もあるだろう。しかし、事件の前に金川家について知ることが出来れば、印象は違ったかもしれない。金川家は、結果的にモンスターを生み出してしまっただけで、どこにでもある家庭なのかもしれない、と。

そんなことはない、と思いたいだろう。ウチは筆談なんかで会話はしない、と。しかし、母親の認識を思い出して欲しい。多分に願望もあっただろうが、母親は家族の問題を認識していなかった。これを母親だけの問題だと捉えるのは、問題を矮小化しすぎていると言えるだろう。正しくは、明らかなサインがあっても親には問題の兆候が分からないことがある。金川家の事例は、そんな風に捉えるべきなのではないかと僕は思うのだ。社会が夢や希望を内包することが出来なくなってしまった時代に、子どもをどう育てていくのか。本書だけからその答えが得られるわけでは決してないが、そのことに問題意識を向け、考えるきっかけにはなるのではないかと思う。

司法や医学が金川真大をどう捉えるのかも非常に興味深かった。弁護士も検察官も精神科医も、金川真大という存在を持て余す。司法や医学で扱うためには、金川真大を何かしらの枠組みに入れなくてはならない。しかし、金川真大を入れられるような枠組みがどこにもないのだ。最終的に金川真大に対しては、死刑を与えるべきか、という議論になる。弁護士の一人は、「死刑を求めて殺人を犯した者に死刑を宣告するのは、金欲しさに犯罪を犯した者に金を渡すようなものかもしれない」という発言をしている。確かに一理ある。しかし同時に、たとえ本人が死刑を望んでいるのだとしても、遺族感情としてはやはり極刑を望んでしまう。法の整合性の観点から言っても、死刑以外の選択肢はない。

しかし…。

『本当に彼の思い通り、死刑にしていいのか。何とか生きる苦しみを味わわせることはできないのか。そんな思いが次第に強くなっていった』

罪を犯した人間は裁きを受けるべきだ。そんな当たり前の、人間として生きていく限り大前提となるような根幹を成す考え方を揺るがせた金川真大。金川真大は、死刑判決を受けてから3年後に死刑が執行されたという。通常死刑の執行には6年ほど掛かるという。死刑を望んでいた者を、通常よりも早い期間で死刑執行する。それにどんな意味があったのか分からないが、死刑制度の意味そのものを問いかける男だったことは間違いないだろう。

何が正しくて何が間違っているのか、どんどん分かりにくい世の中になっている。彼がその一生を通じて投げかけた様々な問いに向き合うことは、この複雑な社会を生きざるを得ない僕たちに課せられたある種の義務であるのかもしれない。

読売新聞水戸支局取材班「死刑のための殺人 土浦連続通り魔事件・死刑囚の記録」

雪の鉄樹(遠田潤子)

人生には正解しかない、と僕は思っている。
何故なら、どんな人であれ、選択肢の中から一つしか選ぶことが出来ないからだ。

選ばなかった無数の選択肢、それらをもし選んでいたらどうなっていたのかは、永遠に分からない。どれだけ考えても、どれだけ悩んでも、選ばなかった人生がどうなるか分かるはずもない。「もしあの時ああしていたら…」という想像は、少なくとも現実にはまったく影響を及ぼさない。現実に影響を与えるのは、自分が選び取った選択肢だけだ。

そんな風に考えているからだろうか。僕は過去の決断や判断を後悔したことがない。「あの時ああしていれば…」と過去を振り返ることがほとんどない。別に、成功ばかりの人生というわけではない。思い出したくなくて忘れたものも含めれば、失敗ばかりの人生だった。もう少しうまく立ち回ればする必要のなかった苦労や失敗もたくさんあるかもしれない。

でも、結局僕は今の人生を自分の決断や判断の積み重ねによって選び取った。それしか正解は存在し得ないのだから、過去を悔やんでもしかたない。

ただ一方で、僕はこうも考える。結局僕は、目の前に存在しうる選択肢の中から巧みに、後々後悔しそうな選択肢を排除しているのではないか、と。その行為自体は、別に僕は問題だとは思わない。ただ僕は、「後悔しない人間」なわけではなくて、「後悔しなくてもいいような選択をしてきただけの人間」なのかもしれない、ということだ。

結局、色んな苦労や失敗をしてきたけど、僕の苦労や失敗は、僕がその気になれば取り返せるようなものばかりだ。親との関係で色々あったけど、別に今からでも修復させられるだろう。大学も辞めたけど、入り直すことは可能だ。引きこもって一度人間関係がリセットされかけた時もなんとか関係を戻せたし、後から挽回できないような取り返しの付かない行動はしていない。

取り返しの付かない行動を取った場合、僕がそれでもなお後悔しないかどうかは、僕には分からない。

例えば、自分が他人を死なせたとする。絶対に取り返しの付かない行動だ。その場合、僕は過去の自分の行動を悔やむだろうか。それとも、結局過去は変えられないのだから後悔しても仕方ないと考えるだろうか。

分からない。

一つだけ言えることは、僕はきっと逃げるだろう、ということだ。取り返しの付かない行動を取った時、僕は徹底的に逃げるだろう。物理的に逃亡する、というような意味ではなくて、現実から逃避するだろうと思う。そういう想像なら、容易にすることが出来る。これまで僕は、嫌になったら逃げて逃げて逃げまくってきた。そうやって、なんとか今ここにいる。謝罪や償いみたいなものから、目を背け続けるだろう。そうしなければ、自分を保つことが出来ないから。

そういう自分のことを理解しているから、僕は自分が取り返しの付かない行動をしないようにとなるべく思っている。しかし、僕自身がそういう行動を取らなくても、誰かのそういう行為の結果が自分に降り掛かってくる、ということもあるだろう。
なるべく、そんな状況に陥らないように生きていたい。わざわざ自分の最低さを再確認するような状況には、なるべく遭遇したくない。

内容に入ろうと思います。
祖父の代から続く「曽我庭園」で庭師として働く雅雪。子どもの頃から親方である祖父の仕事の手伝いをしており、父親よりも筋がいいと早くから認められていた。雅雪自身も庭師の仕事が好きで、庭仕事の古典作品を読みふけったり、高校を卒業したら京都に修行に行くと決めていたり、庭師として生きる決意をもう大分以前から固めていた。
そんな雅雪は、32歳の今、未だに祖父を親方とする「曽我庭園」で働きながら、13年間に渡って両親のいない少年・遼平の面倒を見てきた。遼平の祖母である島本文枝に奴隷のような扱いをされながら、雅雪はそれを黙って受け入れ、子一人祖母一人の生活を外から支えている。
20歳のあの日から13年間。雅雪はある日をずっと待ちわびていた。その日のためにこの
13年間苦しい状況を我慢してきたと言っていい。しかしそれは同時に、遼平のことを裏切ることになる日でもある。雅雪はいつ遼平に話すべきか様子を窺うが、なかなか決心はつかない。
遼平との関係も、以前のままというわけにはいかなくなった。何故雅雪が遼平の面倒を見ているのか、何故遼平の祖母は雅雪に対して屈辱的な扱いをしているのか、その理由を知ってしまった遼平は、自分が雅雪に対してどういう振る舞いをするべきなのか分からなくなって混乱する。
壊れた家族に生まれた不幸、そして壊れたものを再生させる手段を知らない者の不幸。そして何よりも、壊れていることに気づかない不幸。不幸の連鎖の中でもがく雅雪は、その連鎖を断ち切ることが出来るだろうか…。

というような話です。
凄い作品だったなぁ。最初から最後まで緊迫感があって、重苦しさがあって、それでも読まされてしまう。結構分量もあるので、いつもより読むのに時間が掛かる想定でいたのに、想定より早く読み終わってしまった。この物語がどう展開し、どう決着するのかを知りたい、という気持ちに強く駆られたのだろうと思う。

この作品の特異さは、雅雪という人物が生み出している。雅雪が、恐ろしく善人である、という点が、この作品を異様なものにしているのだ。

通常、僕は善人には興味がない。面白くないからだ。しかし、雅雪は、普通の善人とは少し違う。
彼の場合、13年前のあの出来事がなければ、彼の「善的な部分」は表に出なかったのではないかと思う。元々の彼は、善人とは程遠い人物だった。そして、13年前のあの出来事以降も、雅雪自身は自分のことを善人だとは思っていない。しかし傍から見れば、彼は異様なまでに善人なのだ。

彼の場合、「徹底的に善人でなければならない」という異様な執念みたいなものを貫き通しているという印象がある。彼の善的な部分は、そうしようと踏ん張っているからこそ生まれ、継続されているものなのだ。そういう意味で、彼は本来的な善人ではない。そもそも曽我家の家庭環境からまともな善人が育つことを期待する方が間違っている。

雅雪はある軛によって、善人であることを自らに義務付けている。遼平の祖母は、それに付け込んでいるし、遼平はそのことに気づかずに雅雪を本物の善人だと思っている。そして彼らを取り巻く周囲の人間は、また違った形で雅雪のことを捉えている。

雅雪が何に囚われているのかは、作中でも中盤以降に登場するので、ここでは明かさない。しかし、本来的に彼は、一般的に「償い」と呼ばれる行為をする必然性のない人物だ。そこにこの物語の核がある。雅雪が「償い」をすればするほど、彼を中心とした現実の磁場が歪み、その磁場の範囲内にいる人間を狂わせていくことになる。

この物語は、雅雪自身がその歪みに気づくまでの、長い長い13年間の終わりの物語だと言っていいだろう。

『これが償いの結果だ。つまらない浅知恵で、かえってみなに迷惑を掛けた。俺のやってきたことは償いでもなんでもなく、ただ遼平を苦しめるためだけのものだったのか』

雅雪の行動を評価することは、とても難しい。彼は、自分の行動が、純粋に相手のためになると思って「償い」を続けている。そこに偽りはない。しかし彼もまた、不幸な生い立ちを背負った人間だ。不幸すぎる、と言ってもいいくらいだ。だからこそ彼は、一般的な人間が一般的に何を望むのか、何を望まないのかを捉え誤る。自分の言動が他人にどういう風に見られるのかを捉え誤る。そこにすれ違いが生まれ、それらがさらに何らかの出来事によって増幅して、取り返しのつかない状況が引き起こされることになる。

そしてさらに、雅雪の行動には加わる要素がある。これは具体的には書けないが、『原田は勘違いしている。俺は好きなように生きてきた』という部分を引用しておこう。この言葉の真意は、本書のラスト付近で理解できる。彼の行動は、「償い」の気持ちから生まれたものだ。それは嘘偽りない。しかしそれは同時に、「好きなように生きる」という選択によるものでもあった。彼が遼平の面倒を見ることは、彼の「好きなように生きる」という生き方に合致するものでもあった。しかし、それはとても哀しい理由だ。雅雪の家庭環境が違ったものであったら、そういう感想は出てこなかっただろう。結局のところ雅雪は、家族の不幸の連鎖の被害者であり続けているということなのだ。

『雅雪。私には情というものが理解できない。だから、おまえの話を聞いても気の毒だと思うことすらできない』

これは雅雪の祖父の言葉だ。僕はたぶん、この祖父の側の人間だろうなという自覚がある。子どもの頃から、「家族」という括りや単位に疑問しか感じなかった。きちんと言語化出来ていたわけではないけど、何故年齢も生い立ちも趣味趣向もバラバラな人間が「血が繋がっている」というだけの理由で一緒にいなければならないのか分からなかったし、今もよく分からない。僕は、この祖父ほど酷くはないだろうが、同じベクトルの感覚を持っているだろうなと思う。

じゃあ何故そんな人間が子を持つに至ったのか、と疑問を抱くかもしれないが、その辺りも実にうまく説明されている。曽我家の面々はむかしから「たらしの家系」と呼ばれていて、祖父と父は常に女をとっかえひっかえしているのだ。そんな家庭環境に雅雪はずっと嫌悪感を抱き続けてきた。この家族は完全に壊れているが、あまりにも壊れすぎているために雅雪は、そこで育ってきた自分が壊れていることにずっと気づかないでいたのだ。

『別に舞子が嫌いだったわけじゃない。関心がなかっただけだ』

こちらも、壊れた家族の話だ。この一家の話は物語の中盤以降でメインで登場するので、詳しく書くことは避けよう。いずれにしても、この作品には、完全に崩壊した家庭が2つ登場する。遼平の家族も含めれば3つか。家族の不幸の連鎖が途切れることなく続いてしまい、さらにその不幸が他の不幸と混じり合っていくことで、考えうる限り最悪の状況が引き起こされ、関わった者たちをさらに不幸にしていく。その過程を描き出す描写と展開力が実に見事だなと感じる。

本書はまた、才能の物語でもある。

『努力にはなんの意味もない』

庭師の親方である祖父の言葉だ。あまりにも容赦がないが、分からないわけでもない。凄い人間は最初から凄いんであって、努力でどうなるもんでもない。まあ、そりゃあそうですね。才能のあるなしは、ほとんど生まれた時に決まっているのだろう。

本人の努力ではどうにもならないのが才能というものだ。本書では、才能がないという事実を思い知らされ、それに絶望した者が2人登場する。雅雪を取り巻く状況は、その2人が生み出したと言ってもいい。

才能などなくても、別に生きていける。世の中に大多数は凡人なのだ。自分が凡人であることを受け入れて生きていければ、こんなことにはならなかった。
しかし、どうしてもそうは思えない人間もいる。

『あれはきつかったな。あいつらはただ生えてるだけなのに…。あんなにも人を感動させるんだ』

自分には特別な才能があるはずだ、人を感動させるだけの力があるはずだ。そう信じ続け、圧倒的な努力を重ねた男は、現実を思い知らされる。それまで、人生のすべてをそれに捧げてきた。しかしその努力には、一片の意味もなかった。

『そこまで言うのなら、こっちもはっきり言わせてもらうね。私は最初から無理やと思ってた。あなたにはそこまでの才能はない。才能のある子は全然違うの。』

子供の時に教えてくれた先生からそんな風に言われた男。何かに真剣に打ち込んだ経験のない僕にはその挫折は理解できないし、理解できたとしても彼がした行動を許容できるわけでもない。でも、こうも考えてしまう。もし彼が、ほんの少しだけ違う人生を歩んでいたら、彼も彼の周りの人間もまったく違った生き方をしていただろうな、と。冒頭で、「人生には正解しかない」と書いたけど、選んだ選択肢以外の人生が容易に想像できる場合(そしてそちらの方がトータルでは幸せだっただろうと思える場合)、やりきれなさを感じる。

この作品には、本当に悪い人間はごく僅かしか登場しない。雅雪が何らかの形で関わる面々のほとんどは、基本的には善良な人間だろう。しかし、ほんのささいなきっかけやちょっとしたすれ違いが、彼らをただの善人のままではいさせなかった。そして、雅雪のズレ方があまりにも歪であった。そして不幸なことに、雅雪のズレ方は、曽我家の中では問題にならないほど「普通」だった。彼は自分が歪んでいるという事実に気づかないまま、その歪さによって周囲を振り回していく。

『あんたが人殺しやったらよかったのに』

この作品は、雅雪という異様な人間をリアリティを持って存在させたことによって成立している。普通雅雪のような行動を取る人間は、「もしかしたらこういう人いるかも」と思わせられるようなリアリティを持てないだろう。しかし著者は、雅雪という人物を、いてもおかしくない存在としてリアルに描き出した。彼はこれからも歪なまま生きていくだろう。しかしそうだとしても、「再生」と呼びたくなるような希望の持てるラストで、雅雪の今後を想像したくなる終わり方だった。

遠田潤子「雪の鉄樹」

日本人のための怒りかた講座(パオロ・マッツァリーノ)

僕はあまり人に怒らない。イライラすることはあっても、怒るという行為をすることはない。
何故なら、人間に興味がないからだ。

『ささいなことでは怒らない人が、必ずしも人間的にすぐれているとはかぎらないのです。怒らない人は他人や世の中のことに無関心な、心の冷たい人なのかもしれません。怒らないからやさしい人だと考えるのもまちがいです。やさしい人だからこそ、不正や不条理に対して人一倍腹を立てるんです』

この部分を読んで、そうだなぁ、と思った。前から思っていたけど、改めてそう思った。僕はあまり他人に関心が持てない。だから、イライラすることがあっても、どうでもいいやと思ってしまうことが多い。わざわざ自分の労力を割いてまで、相手の行動を変えようとするほどその人に関心が持てない。

もう一つ、怒らない理由がある。それは、相手の価値観を受け入れるスタンスでずっと生きてきてしまっているからだ。

僕は基本的に、自分とは違う価値観であっても、「まあそういう人もいるわなー」と受け入れてしまうことが多い。これは、生きやすくするために後天的に身に着けた技術だと自分では思っている。自分の中に絶対的な価値基準をなるべく持たないようにする。そうすることで、他人の価値観を受け入れやすくする。そうやって摩擦が起こらないように生きてきた。

けど、自分の中に絶対的な価値基準を持たないが故に、何か状況が目の前にあった時に、それに対して自分なりの価値判断をすることが難しい。別に、空気を読んで周囲の人間に合わせようという意識を持っているわけではない。単純に、基準がないから判断できないのだ。例えば、「高血圧」という判断をするには、「血圧がいくつ以上が高血圧だ」という基準がなければ判断できないだろう。そういう判断基準が一切ない中で、「高血圧」という判断を下すことは出来ない。それと同じように、自分の中に価値基準がないせいで、物ごとの良し悪しを自分の中の基準に沿って判断する、ということがそもそも出来ないのだ。

僕はこういう自分の生き方は気に入っているし、特に不満はない。僕の中にも、価値基準云々ではなく、そもそも生理的に無理、というような事柄や状況もあるので一概には言えないが、ムカついたり怒りを感じたりするようなことはあまり多くはないと思う。

だから、怒りを我慢しているという感覚もさほどない。

『私が他人に注意する際に目的とするのは、不快な行為を相手にやめてもらうこと。それだけです。それ以外はなにも求めないし、求めてはいけないのです』

『正義のためではないというなら、じゃあ、私はなんのために他人やよその子に注意したり叱ったりするのでしょう?
答は簡単です。自分が気にくわないから。自分が不快に感じたから』

『正しさの基準はつねに“自分”しかないんです。自分がどう思うか。自分が不快かどうか。それだけが基準です。自分が不快に感じたら自分の責任で、迷惑行為をしている人にやめるよう申し入れる。自分が不快でなければ放っておけばいい』

今引用した3箇所だけ読むと、なんて自分勝手で傲慢な人なんだろう、と思う人もいるかもしれません。ただ、本書全体を読めば、著者の真意はきちんと理解できるでしょう。

僕は、本書全体を読んだ上で、著者のこれらの感覚にすごく共感できます。そしてだからこそ、僕は別に怒らなくてもいいな、と思ったのです。何故なら、僕は自分が不快だと思う状況があまりないからです。普通の人が不快に感じることでも、僕は割と平気だったりすることが多いです。まあ、普通の人がまったく平気なのに僕はどうにも我慢できない、なんていうことももちろん色々ありますけどね。まあでも、自分の中に「不快だ」という気持ちがないなら無理に怒る必要はない、という著者の主張は明快だし受け入れやすいなと思います(とはいえ、迷惑行為を行っている人物に注意することが仕事である場合にはまた話は別なのだけど)。

本書は「怒り方」の本です。「日本人のための」とついていて、読むと確かに日本人のための本だなぁ、と思います(ちなみに書いておくと、著者はたぶん日本人です)。

おそらくそんな誤解はされないだろうけど、一応先に書いておきます。著者は別に、「怒れ!もっと怒れ!」とみんなを煽っているわけではありません。そうではなくて、「怒り」を我慢しても誰も評価してくれないし、現実は何も変わっていかないんだから、それだったら適切な形で「怒り」を相手に伝えましょう、ということを言っているわけです。

「怒ること」に対する著者の考え方が凝縮されているだろう箇所を抜き出してみます。

『本書で私はしつこく繰り返しますが、他人に怒ったり注意したりする行為は、コミュニケーションなのです』

『怒る、叱る、注意する、と考えるからハードルが高くなるんです。相手に逆襲されたらケンカになる、と身構えるから、なかなかいえないんです。
自分がこうしてほしい、と考えてることを相手にやってもらえないかと交渉する、と考えたほうが気は楽です。交渉なのだから、相手が反論してくることも当然ありえるし、決裂する可能性もあります。怒ったのに受け入れられないと、ケンカに負けたようで屈辱ですが、交渉したけど決裂した、と考えれば、精神的ダメージは軽いはずです』

本書で著者が主張したいことを極限まで凝縮すれば、この二箇所の引用で説明できるのではないかと思います。怒ることは「コミュニケーション」であり「交渉」である。まずこんな風に発想を転換してみましょう、ということです。そしてこの発想の転換をスムーズに出来るように、著者は自らの経験や資料からのデータなどを駆使します。そしてその上で、じゃあその「コミュニケーション」や「交渉」をどうやったら上手く出来るのかという具体的な方法についても書いている、という作品です。

具体的な方法についても、凝縮して表現されている箇所があります。

『私の経験では、よその子に注意するときのコツ参加上“すぐに”“具体的に”“マジメな顔で”を守れば、「バカモン!」「コラ!」と声を荒らげずとも、こちらの注意を受け入れてくれる確率はかなり上がります』

本書では、「すぐに」「具体的に」「マジメな顔で」について、それぞれさらに深く掘り下げていく形になります。

この内、「すぐに」について少し書いてみましょう。なんとなく分かってはいたことだけど、改めて「なるほどな」と感じさせられました。

著者は、『私はむしろ、ささいやことで怒るようにしなさい、とみなさんに勧めたいのです』と書きます。これが「すぐに」の意味です。
何故か?
著者はその後で、その真意をこう書いています。『激怒するのを防ぐために、ささいな段階で注意してしまう』

僕は、深い人間関係が不得意なのだけど、その理由の一つがこの話と少し近いなと感じます。僕は、関係性が深くなり始めると、相手の行動に対して、「今は全然不愉快ではないけど、これを未来永劫ずっとされたら嫌だな」と感じることがあります。で、僕はこれを割とスルーしてしまうんです。何しろ、今は全然不愉快ではないわけです。とりあえず、様子を見よう、と思ってしまう。でも、やっぱり予想通り、相手のその行動が段々嫌になって来る。でも、最初の段階で嫌だと言わなかった手前、今更言いにくい…。
みたいな感じになって、その人との関係性がめんどくさくなってしまう、というパターンを結構繰り返してきました。

本当は、「今は全然不愉快ではないけど」という段階で、それを止めてくれるように言うのがベストなんでしょう。なかなか難しいですけど、本書を読んで改めてそのことを再認識しました。僕の場合、「主張しないことで怒りを溜め込んでいる」というわけではないのだけど(最初は決して不愉快ではないから)、本書を読んでとにかく、「怒りを溜め込むことはよくないぞ」と自分にも他人にも言いたいなと感じました。

本書はまた、「昔は良かった」的な言説のウソを暴き出す、という側面も持っています。道徳的な面で、明治・昭和の人々は現代人より素晴らしかった、という言説はウソだと著者は切り捨てます。著者は、昔の雑誌などをひっくり返すようにして読み漁って、当時の社会風俗全般について調べます。現代で起こっている様々なマナー違反は、明治時代にも昭和時代にもあった。マナー違反が今になって増えたわけでも、昔の人の方がデリカシーがあったわけでもない。そういうことを、きちんと雑誌などの資料を根拠に主張しているのもとても面白い。

全編を通じて、著者の発言の仕方にはとても誠実さを感じる。リテラシーのない人は、読者を小馬鹿にするような書き方にイラッとくる人もいるのかもしれないけど、著者は根拠のない主張はしないという意味でとても誠実だ。著者の根拠というのは、自分の経験と、雑誌などの資料だ。自分の経験に基づいて発言する場合は、「あくまで私の場合はこうだ」という主張をする。自分の価値観を空いてにむやみに押し付けることもしないし、相手をむやみに貶すわけでもない。著者の目的は、「間違った認識を持った人間の考えを正す」というもので、それが徹頭徹尾貫かれているところがとても良い。僕らは様々な発言を、特に根拠を持たないままする。人から聞いた噂話とか、ネットの書き込みとか、そういうエビデンスのない情報を悪意なく広めてしまう。僕らのそういう軽々しい行為によって、イメージや雰囲気みたいなものは醸成されていく。それらに根拠がないこと、そして何らかの根拠に立脚すれば真実はこちらであることを提示する著者のやり方は、僕は好きだなと思う。

本書からは、怒り方の具体的な手法やスタンスを学べるだけではなく、何らかの情報や価値観に接した時、その真偽をどう判断し、どう担保するのかという在り方まで学ぶことが出来るように思う。後者のような生き方は、ネット社会であればあるほど必要とされるのだろうと僕は思う。

パオロ・マッツァリーノ「日本人のための怒りかた講座」

「blt graph. Vol.14 齋藤飛鳥のインタビューを読んで」

齋藤飛鳥は、何人かで喋ると、普通の女の子という感じがする。
雑誌でのインタビューの話だ。
何人かで話す場合、そこまで多く喋りはしないし、喋っても突っ込んだ意見を発することは少ないように思う。

やはり齋藤飛鳥には、一人で語らせるのがいい。
本書の中のインタビューは1ページしかないが、それでも、僕が齋藤飛鳥に惹かれる理由が詰まったやり取りだった。

『(もっと人を信じてもいいかな、と思いましたか?)
「うーん、人を信じるということには直接的にはつながっていないけど…なんていうか、「人間っていいな」って思うことは増えました」』

齋藤飛鳥は頻繁に、「他人を信じていない」という発言をしている。もう少し正確に書くと、「他人から優しくされることを疑ってしまう」のだという。
しかしこのインタビューを読んで、齋藤飛鳥が一番信じていないのは自分自身なんだろう、と感じた。

『もうちょっと自分の気持ちとか欲を抑えながら生きていたいです』
『今まで抑えながら生きてきたので、それを外したときに自分がどうなるのかわからないですけど、たぶん自分が嫌いなタイプの人間になりそう(笑)』

この感覚には、凄く共感できる。

僕の、凄く些細な話を書こう。
僕は小説をそれなりに読む人間だが、既に5巻以上の長いシリーズになっている作品にはなるべく手を出さないようにしている。
何故か。それは、ハマってしまったら困るからだ。
もしもその作品が面白くて面白くてたまらなければ、出ているシリーズ作品すべて読みたくなってしまうだろう。でも、それをするための時間的・金銭的余裕に恵まれているわけではない。だから、手を出してハマってしまったら困るのだ。だから手を出さない。

僕はあまりやりたいことを持っていない。食べたいもの、行きたい場所、欲しいモノ。そういうものがほとんどない。日常生きている限りにおいて、僕が自分の生き方を「気持ちや欲を抑えている」と思うことは少ないけど、傍から見ればそう見えるだろう。そんな生き方をしている根本的な部分には、ハマってしまったら困る、という感覚がある。

先程のシリーズ物の小説を読む、という話は、「欲望をオープンにしたら嫌な人間になる」というものではないのでエピソードとして伝わりにくいかもしれない。もっと分かりやすい例を出せば薬物だろうか。僕は、大麻などの薬物に手をだすつもりはない。ハマってしまったら困るからだ。そしてハマってしまった場合、確実に「自分が嫌いなタイプの人間」になる。

薬物に対してであれば、この感覚が理解できるという人はいるのではないか。そして齋藤飛鳥も僕も、そういう感覚を、他のことにも当てはめて生きている。

何故か。それは、自分自身を信じていないからだ。

薬物に手を出す人間は、「一回ぐらいなら大丈夫」「依存症なんかになりっこない」と考えるのではないだろうか。それはつまり、自分を信じているということだろう。だから薬物に手を出せる。僕は、自分を信じていないから、薬物には手を出さない。

『前までは、べつに自分の存在がグループにとってそこまで大きいものではないので、自分のことを「乃木坂46として認めてない」っていう見方だったんです。「私はまだ認めてないからな」って』

自分を信じていない齋藤飛鳥は、だからこそ「乃木坂46の齋藤飛鳥」という存在をも信じない。乃木坂46という名前は、今の自分にその資格がないのにたまたまくっついてしまっているだけ。

『乃木坂46に入ってから2,3年くらいは「自分が乃木坂46にいる」という感覚があまりなかったんです。当時は中学生だったこともあり、物ごとを真剣に考えていなくて。活動に対して意欲がないとかそういうわけではなく、自分なりに一生懸命取り組んでいたつもりだったけど、いま振りかえってみると、自分のすべてが薄っぺらだったかなと感じるんです』

他のメンバーのインタビューなどを読むと、他のメンバーは乃木坂46に選ばれて喜びや不安を感じたというようなことを言っているように思う。それはつまり、乃木坂46として他社から認められたこと、乃木坂46という名前が自分自身につくこと、そういうことを純粋に喜び、また認められたが故の怖さみたいなものも感じたということだろう。認められたという事実を、喜びや不安という形で一旦受け止め、その上で、どう頑張ったらいいか分からない、どうすれば選抜として認められるか分からない、というような挫折や悩みに至るのだろう。

恐らく齋藤飛鳥は違ったのだろう。齋藤飛鳥にとっては、他人から認められることが何よりも大事なことなのではない。そもそも齋藤飛鳥は他人のことを信じていないのだ。他人からの評価に寄りかかるはずもない。齋藤飛鳥にとっては、自分が認められるかどうかが何よりも大事だった。自分が自分自身のことを、乃木坂46のメンバーであると認めることが出来るかどうか。齋藤飛鳥の関心は常にその一点にあったのだろう。

齋藤飛鳥も、その時々で挫折を感じていたはずだ。齋藤飛鳥がよく発言する印象的なエピソードに、カーテンを閉めるというものがある。「走れ!Bicycle」の演出でカーテンを閉めるというのがあった。選抜組は着飾った衣装でステージ上にいる。そして選抜ではない自分はジャージを着てそのカーテンを閉める役をやらされた。凄く悔しかった、というようなものだ。
これも見方によっては、自分が周りから認められていない、認められ方が分からない、という葛藤に映るだろう。しかし恐らく、齋藤飛鳥の感覚は違ったのだろう。齋藤飛鳥は、ジャージでカーテンを閉めているような自分を、乃木坂46の一員としては認められないぞ、という、あくまでも自分の判断にあったのだろうと思う。

自分が自分自身を認められるかどうかが常に最重要課題である齋藤飛鳥。しかし彼女は同時に、誰よりも自分自身のことを信じていない。もちろん、自分の判断も信じていないだろう。だからこそ齋藤飛鳥は、いつまで経っても自分自身を認めることが出来ない。齋藤飛鳥はずっと、そういうスパイラルの中にい続けているのだろうと感じる。

「EX大衆 2017年1月号」の中で、卒業する橋本奈々未について伊藤純奈・齋藤飛鳥・川後陽菜の三人が話すページがある。その中で齋藤飛鳥は、橋本奈々未からずっと言われ続けている言葉があると語る。

『飛鳥にはもっと気楽に生きる方法を覚えてほしい』

そりゃあ橋本奈々未も言いたくなるだろう。最も信じていない自分自身が自分のことを認めてあげられなければダメ、というハードルは、アイドルであるかどうかに関係なく、人間として生きていくのにしんどいだろうと思う。

『それがやっとここ2年くらいで人間味が出てきたのかな?と思っていたんですけど、それも気のせいで。今年になってやっと人間らしくなったかな…と感じたんです』

自分自身のことを最も信じていない齋藤飛鳥に人間味がなかったというのは、ある意味で当然かもしれない。何故ならそれは、自分の内側に存在するものすべてを信じていない、ということなのだから。このインタビューの中では、こうも発言している。

『いえ、感情を出す、出さないというよりは、それまでは感情というものがあまりなかったんだと思います』

これは、僕の解釈では、「感情がなかった」というよりも、「自分の内側から出てくる感情を信じていなかった」ということだろうと思う。

「POP OF THE WORLD」という齋藤飛鳥がMCの一人を務めるラジオを聴いていて思うことだけど、齋藤飛鳥は自分の感情で一旦立ち止まっているように思う。自分は今楽しいのか、辛いのか、嬉しいのか、哀しいのか…。ラジオの中でそこまで大きく感情が揺さぶられることもないだろうが、時々そういう場面に出くわすと、齋藤飛鳥は立ち止まって、自分が今どう感じているのかをきちんと捉えようとしているように思う。

そういう振る舞いは、僕も分かるような気がする。

僕は年齢を重ねていく過程で、自分が今どんな反応をすればいいのかというチューニングがかなり合ってきたと感じられるようになった。だから今は、その場その場の状況で「適切な」反応を瞬時に出せていると思う。でも、外側にどう見せるかはともかく、僕自身の内側では、いつも考えている。今自分は楽しいのか、辛いのか、嬉しいのか、哀しいのか…。常にではないが、自分の内側にある感情は、きちんと一旦立ち止まって頭できちんと捉えようとしないと分からないことが多い。

他人を見ていて、「嬉しい時にはすぐに嬉しいって分かるんだな」「怒りをすぐに怒りだと認識出来るんだな」と思うことがある。多くの人は、そこにタイムラグがないように見える。僕は、これって嬉しいんだよな、これって怒ってるんだよな、と確かめないと、自分の感情が分からない時がある。そういう他人との比較をすることで、「自分には感情がないんだな」と感じることは結構頻繁にある。僕自身も、内側に感情がないわけではないのだろうが、それを認める方法を知らないために、感情がないと感じてしまうのだろう。そして、齋藤飛鳥も似たような感じではないかと思うのだ。

齋藤飛鳥は、今年やっと人間らしくなった、と書いている。まさにこれはセンターを経験したことによるものが大きいだろう。

『だから、今年に入ってから「感情を素直に出せるようになった」というわけではないんです。意識的に人間味を出そうと思っていたわけではないので、出てしまったのは自分としては本意ではありませんでした』

センターを経験することで、それまで自分の内側から生まれたことのなかった様々な「何か」が溢れるようにして噴出したことだろう。齋藤飛鳥は、それらに対処しなければならなかった。普段であれば、その「何か」が外側に溢れ出る前に、思考で止めることが出来る。自分が今何を感じたのか、という思考を挟むことで、感情に引きずられることなく生きていられた。

しかし、センターを経験したことによって溢れ出た「何か」は、そんな普段の対処では追いつかないほど膨大だったのだろう。結果的にそれは、齋藤飛鳥から人間味が滲み出るという流れに繋がっていった。

『どんなに身近な人や親しい関係でも、べつに見せなくてもいい部分はあるじゃないですか。だから、感情をそのまま出す必要はないのかなと思います。「もっと本音を見せてほしい」と言われていたし、もちろんそういう気持ちも理解していたけど、でもやる必要性をあまり感じていなくて。単純に頑固っていうだけなのかもしれないけど』

齋藤飛鳥はこれからも、自分の内側から湧き上がる「何か」に立ち止まりながら、それらを思考で押さえようとするだろう。しかし、センターを経験したことで、感情が外側に流れ出す「通路」みたいなものが出来てしまった。齋藤飛鳥はそれを『人間味を出す方法を身につけた』と、あくまでも自分でコントロール出来るものだと捉えたいようだ。しかしどうだろう。齋藤飛鳥は、センターを経験したという以上の大きな変化をしばらく受けることはないかもしれない。しかしそれでも、一度出来てしまった「通路」をすり抜けていく感情はあるのではないか。別に齋藤飛鳥の人間味が表に出なくても僕は齋藤飛鳥のことが好きだろうが、「人間・齋藤飛鳥」が表に出てくることがあるならば、それを楽しみに待ってしまう自分もいる。

最後に、齋藤飛鳥のことの言葉を引用して終わろう。

『誤解されるのが嫌だったので「この人誤解しているな」と思ったら弁解していたけど、それでさらにややこしくなってしまうことも多くて。だから、今も誤解されるのはもちろん嫌だけど、別に誤解している人だって四六時中私のことを考えているわけではないので、まぁ別にいいかなと思えるようになりました』

齋藤飛鳥が僕のブログを見ているなんてまったく想像もしていないけど、齋藤飛鳥について書いた一連の記事を読んで齋藤飛鳥がどんな風に感じるのかは、死ぬまでに聞く機会があったらいいなと思う。

「blt graph. Vol.14 齋藤飛鳥のインタビューを読んで」

「海賊とよばれた男」を観に行ってきました

生きることは、闘うことだ。
誰もが、それぞれの戦場で闘っている。
それを僕らは、生きる、と呼んでいる。

『店主の戦争が、ようやっと終わったんかもしれんなぁ』

けれど、「なんのために闘うのか」が、どんどん見えにくくなっているように思う。
そういう時代に、僕らは生きているのだと思う。

誰もがこう言うだろう。
生きるために闘っているのだ、と。
しかし、じゃあ何故生きるのか?と問われて答えられる人間は多くはないだろう。
僕も答えられない。
この問いに答えられないからこそ、多くの人が迷っているのだろう。

戦争は、明らかに悪だ。
肯定するつもりなど、さらさらない。
しかし、戦時下では、闘う理由ははっきりしている。
国のためだ。
自分が闘うことがどう国のためになるのか、明確に説明しろと言われたら困るだろうが、
誰もが国のためと思ってそれぞれの戦場で闘っていた。
国のために個人が闘うことが、良いことなのかどうか、その是非はここでは問わない。
とにかく、このために自分は闘っているのだ、という大きな存在を見つけ出せる環境は、ただその点だけを抜き出してみれば、現代よりも恵まれていると言えるかもしれない。

『忘れたのか。俺たちの店主は、企業家の皮を被った海賊やぞ』

国岡鐡造という男は、その「大きな存在」としてあり続けた。
一企業家でありながら、多くの人間にとっての「闘う理由」として存在し続けた。

『俺わぁ、店主の言ったことはやりとげたいんだよ』

国岡商店の面々は、誰もがこういう想いを抱いていた。店主がやれと言うなら、店主が行けと言うなら、店主が続けろというなら…。どれだけ困難な状況でも、不可能と思える現場でも、理不尽に怒り震える時でも、彼らは「店主のため」という想いだけで、それらを乗り越えることが出来たのだ。

これだけの男が、今世界に何人いるだろうか?

『それでもダメやったら、みんなで乞食をしよう』

国岡は、店員たちのことを「家族」と呼んだ。終戦によって60歳の国岡はすべてを失った。生き残った大勢の店員たち、そしてこれから復員してくる1000人単位の店員たち。彼らを養えるだけの蓄えも仕事も何もなかった。しかし国岡は、ただの一人も店員の首を切らないと決めた。それは、国岡を取り巻く幹部たちには、到底不可能に思える決断だった。しかし国岡は、その無茶を貫き通す。

日本の石油すべてを統制する石統に嫌われた国岡商店は、戦後石油を扱う商売をしばらくすることが出来なかった。ようやく許可を得ても、外油メジャーたちが国岡商店を潰そうとあらゆる手を使ってくる。国岡商店は、ずっとずっと苦しい闘いを強いられてきた。

しかし、それを乗り越えることが出来たのも、あの時首を切らなかった店員たちの獅子奮迅の努力のお陰だ。

『士魂商才。サムライの心で商売をする。それがどうなるのか見てみたかった。それだけだ』

意味のない慣習や圧力にさらされながらも、ルールを破るような商売の仕方は決してしなかった国岡商店。その心意気が、多くの人間を巻き込み、国岡の元へと集まっていく。

それが、国岡鐡造という男が持つ力であり、魅力である。

多くの人間にとっての「闘う理由」であった国岡鐡造。では、彼は何のために闘っていたのか。

国のためだ。もっと言えば、国の未来のためだ。

『このままだと、日本に石油が入ってこんのだ』

GHQは、石油の輸入を解禁して欲しいという石統の要望を蹴った。理由は、全国の海軍施設にあるタンクの底を浚えばまだ石油はあるじゃないか、という嫌がらせのようなものだった。タンクの底の石油は、戦時中、どうしても石油を必要としていた海軍でさえ浚うのを諦めたほどのいわくつきのものだ。そのあまりの過酷な仕事を引き受けるものなど誰もいない。
しかし石統のトップは、これまた嫌がらせのようにその仕事を国岡商店に回す。タンクの底の石油ならいくらでも売っていいぞ、と。現場の人間たちは、その作業のあまりの過酷さに音を上げた。撤退を進言した現場責任者に、国岡は続けてくれと言ったのだ。

国岡は知っていた。石統が嫌がらせでこの仕事を国岡商店に回しているということを。それを飲み込んで、国岡はこの仕事を引き受けた。何故か。

そうしなければ、日本の石油が入ってこないからだ。日本の復興にとって欠かせない石油が、ただの一滴も入ってこないからだ。

『石油は国の血液やろが!そのすべてを外油メジャーに押さえられるのは、絶対に避けねばならん!』

国内の石油会社が次々と外油メジャーと提携(という形を取った買収)をされている中、唯一の民族系石油会社として国岡商店は孤軍奮闘していた。しかし、元石統のトップは分かっていた。メジャーと闘っても勝てるわけがない、と。外油メジャーは、石統を解散させるほどの強大な力を持っている。国岡商店などひとたまりもない、と。

しかし、そう言われた国岡は、それでも買収など受け入れないと強硬姿勢を崩さない。何故か。この買収を受け入れてしまえば、日本が扱うすべての石油が外油メジャーに乗っ取られてしまうからだ。それでは、経済的に独立しているとは言えない。

『これが一流と言われる奴らのやり方ですか?恥ずかしくないんですか?』

国岡商店は外油メジャーとは長く闘いを続けてきている。満州でもそうだ。彼らは満鉄に対して、マイナス20度でも凍結しない油を開発して売り込んだ。しかし満鉄は、国岡商店との取引を蹴る。その裏で、外油メジャーが動いていたのだ。

士魂商才。まっとうな商売をし続ける決意をしていた国岡には、彼らのやり方がどうしても許せなかっただろう。国岡にとっては、彼らに乗っ取られる形で国岡商店を経営するつもりなど、まるでなかった。

国岡は、常に未来の日本を見据えていた。未来の日本が、未来の日本人が、誇りを持って生きていけるよう、国岡は信念を持って闘い続けた。その闘いを間近で見ているからこそ、国岡商店の面々は、店主に人生のすべてを捧げることが出来たのだろう。

国岡が夢を託した未来に、今僕らは生きている。僕は、この映画の原作小説を読んだ時にこう感じた。今でも覚えている。

僕たちは、国岡が望んだ未来をきちんと生きているだろうか。

国岡が、今の日本を見てどう思うのか。
最後の最後まで心休まる時のないままに突っ走り続け、未来へとそのすべてを託した国岡は、僕らを見て、微笑んでくれるだろうか。


1945年8月。物語は終戦直後から始まる。
60歳だった国岡は、大打撃を受けた国岡商店をどうするか、決断に迫られていた。一人の首も切らない、と国岡は決めていた。しかし、石油はないし、あっても扱えないし、仕事もない。国岡は、やれることはなんでもやった。GHQから頼まれたラヂオの修理も請け負った。とにかく、必死だった。
思えばこれまでも、ずっと必死だった。1912年、国岡鐡造27歳の頃。個人的な繋がりで石油の納入業者が決まっていて新規参入が困難と言われた中、国岡は後に“海賊”と呼ばれることになるあるやり方で、油を売りまくった。国岡らの真っ当な商売は、様々な場面で軋轢や対立を引き起こしたが、国岡は一步も引かず、国岡が正しいと思えるやり方を貫き通した。
国岡のそんなやり方に惹かれて人も増え、また苦しい状況もなんとか乗り切ってきた。
しかし、さすがに八方塞がりだ、という状況がやってくる。
日承丸という2万トン級のタンカーを製造した国岡商店は、これで世界中どこの石油会社とも取引が出来るようになったが、そんな国岡商店を牽制するように、外油メジャーの息が掛かった製油所から次々に取引停止の連絡が届く。ついに国岡商店は、石油の仕入先をすべて失った。
残る手は一つしかない。外油メジャーの支配下にはない製油所と取引することだ…。
というような話です。

原作は言わずもがなの傑作ですが、映画も実に良かったです。よくあれだけの分量の原作を映画一本分の長さにまとめたな、と感心しました。

映画は、原作の中から特に印象的なエピソードを抜き出して、それらを実にうまく繋ぎで作った、という印象です。原作では国岡商店についてもっと様々なエピソードが登場するが、それらを刈り込んで刈り込んで映画は作られている。出来るだけエピソードを盛り込むことよりも、一つのエピソードを丁寧に描き出していく、という作り方をしたのだろう。そしてそれはとても成功しているように感じられた。

物語の展開も時系列順ではなく(原作も確かに、冒頭こそ終戦直後からのスタートだったが、それ以降は時系列順で展開していたような記憶がある)、現代と過去を行ったり来たりさせる構成で、その構成が良く出来ていたなと感じる。現代における苦しい状況の際に、それと関わり合う過去の回想を挟み込むことで、短い時間の中で国岡商店や国岡鐡造の来歴がよく伝わるような構成になっていたと思う。

石統や外油メジャーと対する時の国岡鐡造と、店員と対する時の国岡鐡造の落差が大きく出るような演技や演出で、国岡鐡造という人物の輪郭がとても見えやすかったのも良かったなと思う。その差をはっきりと見せることで、国岡鐡造という人物が一体何を大事にしているのかということがとてもよく分かる。

印象的だったのは、国岡鐡造が常に現場に足を運んでいる、という点だ。国岡は、タンクの底を浚う現場にも自ら足を運び、還暦を超えているというのに自ら作業をしようとした。国岡には、店員たちに辛い思いをさせているという忸怩たる思いが常にある。現場まで足を運んで彼らを激励しなければ気が済まないのだ。

国岡は店員たちを前にして何度か話をする場面があるが、そこでも、店員たちの心を惹きつけ、この人のためにまた頑張ろう、と思えるような言葉を紡いでいく。それが多くの店員にとって本心だと感じられるからこそ、彼らもまた頑張れるのだろう。

映画を見た人は是非、原作も読んで欲しいなと思う。映画にするに当たって相当エピソードが削られているから、原作を読んで国岡という男の凄さを知ってほしいなと思う。

あと凄いなと思ったのはCGだ。確か、「三丁目の夕日」と同じところが「海賊とよばれた男」も作っているはずだ。「三丁目の夕日」もCGが絶賛されたはずだが(僕は見ていない)、こちらでも圧巻だった。正直、どの場エンがCGで出来ているのか全然分からなかったくらいだ。冒頭の戦闘機による先頭のシーンなんかは、明らかにCGなんだろうけど、それでも迫力満点でCGとは全然思えなかった。その後も、CGでしかこの映像は作れないだろうけど、CGだとしても凄いと感じるような場面が多々あって、驚かされた。

何故闘うのか、そして何故生きるのか。そういう真っ当さに裏打ちされた国岡鐡造という男の生涯を描き出す作品だ。実際にこんな人間がかつていたということ、そして彼が未来の日本に何かを託したこと、そして託されたのはまさに僕らであること。そういうことを実感してほしいなと思う

「海賊とよばれた男」を観に行ってきました

ジェリーフィッシュは凍らない(市川憂人)

いやはや、べらぼうに面白い作品でした。
これが新人のデビュー作とは。
おみそれしましたと言いたくなる一冊だ。

舞台は、近過去。とはいえ、僕らが辿ってきた過去ではない。並行世界とでも呼ぼうか。
一番の違いは、新型気嚢式浮遊艇<ジェリーフィッシュ>が発明された、という点だ。これは、飛行艇の水素を入れてた部分を真空にすることで大幅に小型化に成功した、「航空機の歴史を変えた」とまで評される大発明だった。1937年に大型旅客船の爆発事故のせいで、気嚢を用いた飛行船の社会的信用が失墜したが、その35年後の1972年に「真空気嚢」という新技術がフィリップ・ファイファー教授らによって開発され、現在では民間向けの小型気嚢式浮遊艇<ジェリーフィッシュ>が富裕層を中心に販売されている。
1983年2月。航空業界最大手であるUFA社の気嚢式飛行艇部門技術開発部所属の面々は、新型<ジェリーフィッシュ>の航行試験の真っ只中にいた。ある時から酒浸りになったフィリップ教授を始めとした6名が、様々な役割を交代でこなしながら、4日間の航行試験をスタートさせていた。
一方、A州F署刑事課の九条漣は、上司であるマリア・ソールズベリーを毎朝の如くに叩き起こしながら、彼女と共に現場へと急行した。それはH山系の中腹で、「ジェリーフィッシュが燃えている」という通報が入ったのだという。恐ろしいほど雪深いその山の麓には、燃え尽きて残骸となったジェリーフィッシュと6体の遺体があった。何故か軍がジェリーフィッシュの残骸を持ち去ってしまう。最初からきな臭い案件だ。当初はただの墜落事故だと思われていたが(とはいえ、そうだとすればジェリーフィッシュの最初の墜落事故のケースだ)、6体の遺体の中に、明らかな他殺体があるということで、警察が捜査することになった。
しかし、捜査する過程で様々な情報が明らかになるも、真相に近づいている感じはまるでない。調べれば調べるほど不可解な事件なのだ。死亡した6人の内の誰かが犯人であると考えても矛盾が出て、6人以外の外部犯が存在したとしても矛盾が出る。後者であるとすれば、熟練したクライマーでも現場から山を下りるまでに一週間から十日は掛かる、それもよほど運が良ければ、という状況であり、マリアたちは様々な仮説を検討するも、ことごとく跳ね返されてしまう。
捜査の過程で、レベッカという女性が事件に関係しているらしい、ということは分かってきた。レベッカは、<ジェリーフィッシュ>発明に大きな疑義を投げかける、技術開発部の面々にとっては爆弾のような存在であり…。
というような話です。

凄い作品だったなぁ。
繰り返すけど、新人のデビュー作とは思えない、見事な作品でした。
正直読むまでは、まったく期待してませんでした。「ジェリーフィッシュは凍らない」というタイトルから、なんとなく青春小説っぽい雰囲気を感じていたし、どこかに「新人のデビュー作だしなぁ」という感覚もありました。しかし一読して、それらの先入観をすべて吹き飛ばすほどのとんでもない作品だということが分かりました。

まず、物語全体の構図が見事だ。時代背景、人間関係、<ジェリーフィッシュ>開発の経緯、警察側の推理とそれらの瓦解、次々に溢れかえる謎、それらを見事に説明し切る華麗な結末。それぞれが見事に絡み合って一つの作品を成していて、全体の調和が素晴らしいと思う。

特に、<ジェリーフィッシュ>という小道具を作品の中で非常に有効に使っているのが良い。正直に言えば、この作品は、<ジェリーフィッシュ>などという架空の乗り物を設定しなければ成立しないというものではないと思う。しかし、<ジェリーフィッシュ>という架空の乗り物を設定したことで、作品の根幹を成すトリックの設定やストーリー上の細かな制約の解消などが非常に成立させやすくなっていると思う。同時に、<ジェリーフィッシュ>という発明品そのものに対する描写も抜からない。素人が読めば、非常にそれっぽく感じられるほど、<ジェリーフィッシュ>という乗り物がリアルに感じられるようにうまく設定されている。<ジェリーフィッシュ>の存在はこの作品の根幹では決してないが、しかしこの<ジェリーフィッシュ>を登場させたことで、作品世界が並行世界であるということがはっきりし、さらに様々な場面で物語を巧みに成立させる小道具としても自立しているわけで、凄いものを考えついたものだなぁ、と思います。

そしてトリック。僕は、アガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった」は読んでいないのだけど、本書は「二十一世紀の『そして誰もいなくなった』」という風に喧伝されている。読んでいない僕でも、そのあまりに有名な状況設定ぐらいは知っているけど(トリックは知らない)、まさに本書も、閉鎖状況で一人ずつ死者が出ていって…という展開が描かれていく。読んでいると、どう考えてもあり得ない状況が出現しているんですよね、この現場には。合理的に考えうる様々な仮説をひねり出してきても、全然状況を説明できない。これ、どんな風に決着をつけるんだろうなぁ、と思ってたんだけど、ズバッとやってくれました。合理的な解決など不可能と思える状況を決着させるアイデアはなかなかのものだなと感じました。

そして僕が凄いと思ったのが、捜査する漣とマリアの描写だ。
正直、乗員6名が死亡という状況で、<ジェリーフィッシュ>内で何が起こったのかを調べるのは無理だろう、と思ってました。事故・事件当時のことを証言できる人物が誰もいない中で、遺留品や死亡した面々に関する調査を執拗に繰り返すことによって彼らは真相へと辿り着く。この過程がきちんと無理なく描かれているのは素晴らしいと思いました。

構成も実に見事。本書は、技術開発部による航行試験のパートと、漣とマリアによる捜査の過程が交互に描かれ、合間合間に誰かの回想が挟み込まれる、という構成になっている。こういう構成の場合、あっちにいったりこっちにいったりで読みにくかったり、交互に描写するという制約を守るために不要と思える描写が増えたりするものだけど、本書は違う。技術開発部のパートのラストの展開が捜査のパートと繋がり、また捜査のパートのラストの展開が技術開発部のパートへと繋がるというように、それぞれが有機的に繋がっている。両パートが絶妙に絡まり合うことで、謎が積み上がり、驚愕が引き出される。とても上手いなと思う。

トリックだけ、キャラクターだけ、舞台設定だけ。そういう「だけ」に頼ってしまう作品が、特に新人作家の作品によく見られる印象を持っているが、この作品は、小説に必要とされる様々な細部に気を配りつつ、大胆な仕掛けと緊迫感を演出する構成を駆使して、一つの作品世界を作り上げている。非常にレベルの高い作品だと思うし、作者の次回作にも多大なる期待をしてしまう。

市川憂人「ジェリーフィッシュは凍らない」

青が破れる(町家良平)

自分の外側にあるものに、自分の内側にあるものが乱されることがあまり好きではない。良いことも、悪いことも。
悪いことはともかくとして、良いことであっても、それは長く続かないという意味で好きではない。安定しない。いずれ落ちていく。上昇する時は楽しいが、下降する時は辛い。だったら、上がらなくてもいいのではないか。

乃木坂46の齋藤飛鳥は、雑誌のインタビューなどでこんなことをよく言う。

「良いことが起こったら、その後必ず悪いことが起こるじゃないですか。だから、気分が悪くなるような小説を先に読んでバランスを取るんです」

わかるなー、と思う。上向いた軌道は、自然な状態のままでも下降へと向かう。しかし、自然に任せたままだと、どこまで下降するかコントロール出来ない。なら、自分で下降させる、というのはどうか。うまくすれば、安定する平常的な場所までソフトランディング出来る、かもしれない。

「ボクサーのひと」とも呼ばれる主人公にも、少し近いものを感じた。

『他人に関心があるひとのかなしみを、他人に関心がないひとのかなしみを、秋吉さんはどっちもわからない』

彼は友人にそう言われる。

平常であろうとすればするほど、他人に関心を持ちすぎることも、他人に関心を持たなさすぎることも無意識の内に避けるようになっていく。どちらも、自分の内側を乱す要因になるからだ。だから彼は、ダンボール紙の断面みたいな起伏の狭いギザギザ程度の揺れに収まるような、凪いだ感情だけを内包させながら、そこからはみ出す部分はスパッと切り取るようにして毎日を生きている。

『なるほど、すきな女の子の前でこんなにキラキラしつづけなきゃならないなんて。すこしハルオに同情した』

彼は、自分のことを好きではないと彼自身気づいている彼女と、突然池に飛び込むような不可解さを持つ友人と、健康という希望と呪縛から同時に解放された友人の彼女となんとなく関わっていく。彼に主体性はない。他者との関わりにおいては、主体性を端から放棄しているように見える。そうすることで、自分自身が侵食されないというまじないをかけているのかもしれない。

そういう感覚は、僕の中にもある。僕も、他者との関わりにおいて主体性を捨てることで、自分の中の何かを守っている、という自覚がある。

『おれは、一瞬で少年に戻って、傷つけたことを傷ついたことにすり替える速度だけすばやい子どものようになって、たちすくんでいた』

彼の、主体性を捨てることで、自分の中の何かを守る術みたいなものはなかなか卓越している。友人の彼女に言われるがまま添い寝をし、相手が自分のことを好きではないと実感しながら彼女から連絡があるとすぐに出向いてしまう。死を間近に控えた人間を前にしてもさほど動揺しないのは、彼が傷つかないための方法をよく理解しているからだろう、と感じる。

『だれしも嘘はいやがるのに、ほんとうのことを伝えないことはやさしいことだとおもっている』

これはきっと、自分のことも含めてそう言っているのだろうと思う。

他者との関わりとのバランスを取るかのように、彼はボクシングにはストイックだ。いや、ボクシングに、というわけではないかもしれない。ボクシングはあくまでも、ただの手段だ。彼は、自分の努力によって、自分の内側を高めることにストイックだ、と言えるかもしれない。

『だけどほんとうにこわいのは、そんなことを思考してしまうおれ自身だ。きっとおれはいざというとき、おれに還ってしまう。相手のパンチを避けて自分の拳をうちつける一瞬に、ボクシングと一体になって、おれという人格を捨ててボクサーに成りきれなければ、きっと勝てない。おれはおれを捨てないと。
思考は敵だ。』

ここには、はっきりとした主体性がある。他者との真っ当な対話は拒絶する一方で、自らの内側との対話には真剣に取り組んでいく。こう書くと歪に思えるが、現代人の多くはこういう状態に陥っているかもしれない。他者との対話は、「共感」という通貨を抜き取るためだけの手段であって、あとはひたすら内向きに対話を続ける現代人と。

『こんな瞬間の連続で生きているとしたら、おれはおれが心配になった』

「主体性のなさ」と「自由」は等号で結ぶことが出来るのか。彼の生き方から僕は、そんな問いを拾い出した。

内容に入ろうと思います。
本書は、1編の中編と、2編の短編が収録された作品です。

「青が破れる」
ボクサーも目指す秋吉は、友人のハルオに連れられて、ハルオの彼女であるとう子の見舞いに行く。ナンビョーだという。健康であることを諦めたとう子の投げやりな感じを、秋吉はそのまま受け入れる。
付き合っている夏澄さんは、秋吉のことが好きではない。そのことが、秋吉には分かる。けれど秋吉は、呼ばれれば夏澄さんのところへすっ飛んでいってしまう。バランスの悪い関係。
ジムでは梅生とスパーをする。正直、梅生とのスパーは好きではないが、梅生は秋吉とのスパーを好んでいるようだ。梅生が絡んでくるのに任せて、秋吉は梅生とボクシングの練習をする。
それぞれが、少しずつ折り重なるようにして関わっていき、そして唐突に3人が死ぬ。

「脱皮ボーイ」
ホームから転落し、間一髪のところで電車に轢かれずに済んだ男。彼をたぶん突き飛ばしてしまったと言って見舞いにやってきた女。二人は付き合うことになる。男としては、全体的にはラッキーな出来事だった。女は、男と初めてセックスをした日、彼が脱皮することを知った。

「読書」
電車内の男と女は、膝がぶつかった。女は男の方を見なかったが、男は彼女がかつて手ひどく振った女だということに気づいた。女は読書をしていた。正確に言えば、女の上半身は読書に耽っていた。膝から下は、男の存在を感知していた。男は、悩んでいた。このままここに座っていたら、女に気づかれるのではないか…。

というような話です。

いわゆる「文学作品」というのをあまり読まないので、この作品が文学としてどうか、ということはイマイチよく分からない。物語が面白いかどうかと聞かれれば、決して面白いわけではないと思うけど、ただ文章は好きだなと思う。物事をどう捉え、それをどんな言葉で切り取るのか、という感覚がとてもいいなと感じる。

たとえば、こんな描写。

『おれはハルオの、滑稽でなければひとといっしょにいられないとでもおもっているような性癖が、とてもいやだった』

『声を失い、とう子さんもじっと黙ったので、場はしずまった。ふしぎなことだが、季節の変わり目をおれは感じとった。ドアをあけた瞬間、「もう秋なんだな」とおもった。風の温度より、明確な感触の差が、空気ちゅうに満ち満ちていた。人間は、季節のち外を気温なんかでは認識してないんだ、とおれはとつぜんにおもった。』

『ばかじゃないから、わかるけどさ、あたらしいままはままと違うんでしょ?でも、やさしいのよ。ほんとに違うのは、わからないのよ』

こんな感じの描写が、作中に結構あって、僕はそういう切り取り方や表現の仕方が結構好きだなと思う。秋吉がボクシングに向かっている時の思考も、なかなか面白い。物語自体は短いけど、重厚で濃密な感じがするのは、この文章のテイストのお陰だろうと感じる。

物語的には3編とも、僕はなかなかうまく読み取れなかった。まあこれは、国語が大嫌いだった理系人間だからだろうと思う。「青が破れる」の登場人物たちは全般的に変わってて好きなんだけど、彼らが秋吉を真ん中に置きながら関わりあった末に何がどう変化して何がどう変わらなかったのか、というようなことはうまく掴めなかった。そういうことがうまく掴めると、もう少し面白く読めるんだろうなと思う。

「青が破れる」の中で気になったことがある。おそらくこれは作者の意図ではないと思うのだけど、漢字をひらがなに開いたために、多義的な解釈が出来る文章が複数あるな、と感じた。

『だって、ハルくんはかえるでしょ?許せないの。死ぬこととか、病気に選ばれたこととかは、わりに許せるけど、許せるっていうか、許せる許せないのレベルじゃないし、「はぁー、まじか」って感じだけど、ハルくんがきたらかえっちゃうってことだけは、どうしても許せない』

僕は最初、「ハルくんはかえるでしょ?」の「かえる」が漢字に変換できなかった。「変える」なのか「買える」なのか「帰る」なのか。実際は「帰る」である。

『雨の日でも構わずロードワークにはいくが、きょうはきが進まなかった』

ここは、「今日は気が進まなかった」だとすぐ分かったが、最初読んだ時は「今日覇気が進まなかった」って読んでしまって、「???」ってなった。

『目の前にはなすべき他者があらわれると、まったくおれがおれでないくらい、考えることがかわってしまう』

ここも最初、「目の前には成すべき他者が」と読んでしまった。「目の前に話すべき他者」だとすぐにわかったのだけど。

『おれはみ放さない。梅生の感情を、当面、み放さない』

これは最初、意味が取れなかった。「見放さない」だと分かるのにちょっと時間が掛かった。

恐らく、漢字をひらがなに開くことで、一つの文に複数の意味を重ねる、というような意図はないと思う。純粋に、漢字を開く方が読みやすいと判断したのだろうと思う。とはいえ、こんな風にして違和感を覚えて立ち止まる、ということを何度か繰り返すというのは、僕みたいになんとなくすーっと文章を読んでしまう人間にはちょっと面白いかも、とは思った。もちろん、読みにくいな、とも思ったのだけど。

「脱皮ボーイ」では、『その男の子が微かに動くまで、わたしは人殺しだった』という一文が一番好きだ。僕がもし小説を書くとしたら、この文章を冒頭に持ってきちゃうだろうなぁ、なんて思った。まあ、この一文から始めると、物語が文学寄りに進まないような雰囲気を醸し出すのかもしれないけど。

全体的には、物語にではなく文章に惹かれた、というような感じでした。

町家良平「青が破れる」

ひかりの魔女(山本甲士)

内容に入ろうと思います。
真崎光一は、大学入試に落ちて今は浪人中。近くのスーパーでパートをしている母・奈津美(オーナーに不満がある)、地元の電気設備会社で働く父・要次郎(決して給料は良くない)、最近反抗期である妹・光来(夜遅く帰って来たりと素行が悪い)という4人家族で、それなりに問題を抱えながらもなんとか日々生活をしていた。
そこに、光一のばあちゃん(父・要次郎の母親)の真崎ひかりが越してくることになった。要次郎の父である栄一郎が急死し、元々ばあちゃん名義だったこの家に戻ってくることになったのだ。かあちゃんは、明らかに迷惑そうな雰囲気を漂わせながら、それでも家の名義がばあちゃんだから仕方ないという風に諦めているようだった。
基本的にばあちゃんのことは、自宅浪人中の光一が見ることになった。ボケたり歩けなくなってたりすると怖いと思っていたが、久々に会うばあちゃんは、背筋もピンとしてるし、スタスタ歩くし、ボケてる感じもない。これなら大丈夫そうだな、と光一は思った。
ばあちゃんは、今でも賀状のやり取りをしていて、栄一郎の葬儀に香典をくれたというかつての教え子たち(ばあちゃんは書道の先生をしていた)に会いに行くことにした。ばあちゃんが外に出る時はついていくようにと言われていた光一は、そこでばあちゃんの凄さを様々に目の当たりにすることになる。特に、かつての教え子からの慕われぶりは尋常ではない。何者なんだ、ばあちゃん。
それから真崎家には、狙いすましたかのように様々な問題が降り掛かっていくことになるのだが…。
というような話です。

これは面白い小説だったなぁ。どこにでもありそうな、年老いた祖母を引き取る、というところを入口にして、よくありがちな日常を描きながらよくここまでほっこりさせる物語に仕立てたなぁ、という感じ。こういう表現はあまり好きではないのだけど、読むとじんわり暖かくなっていくような、そんな小説だ。

とにかく、ばあちゃんの造形が見事だ。この作品が、ばあちゃんの造形その一点に掛かっていると言っていい。読めば誰もが、このばあちゃんに惹かれてしまうんじゃないかと思う。

ばあちゃんは、傍目に見れば何もしていないように見える。ただ、かつての教え子に会いに行き、釜でご飯を炊き、時々道端から食べられる草を摘み、母親の代わりに風呂掃除などをする。ただそれだけに見える。

しかし、光一の目には違うものが見えている。ばあちゃんが動くことで、目の前にあったはずの様々な問題が解決していくのだ。しかも、問題の解決にばあちゃんが関わっているという確証を掴ませないようにして、である。タイトルに「魔女」と入っているが、なんだかよく分からないけど問題を解決してしまっている、という意味で、まさにばあちゃんは「魔女」と言えるだろう。

ばあちゃんの魔法の秘密は、「優しい嘘」にある。
ばあちゃんはこの「優しい嘘」を絶妙に使いこなすことで、状況を劇的に変えていくのだ。

僕は嘘をつくのがあまり好きではない。嘘というのは、それが良い嘘であろうが悪い嘘であろうが、嘘をつくがわに「嘘をつき続ける」という責任が発生するような気がしてしまう。悪い嘘の場合は、まあ嘘をつき続けなくてもいいのかもしれないけど(その方がより大きなダメージを与えられるという状況もあるだろう)、良い嘘の場合は、それが嘘であることが相手に伝わらないように嘘をつく側が意識しなくてはいけない。なんとなく僕は、それが苦手なのだ。

ばあちゃんが凄いのは、ただ「優しい嘘」をつけるというだけではなくて、その嘘をつき続ける覚悟まできちんと持っている、ということだ。常に相手のためになる嘘をつくことで、相手の苦しい状況や辛い感情を変えていく、そういうことをばあちゃんはずっとやり続けてきた。ばあちゃんに救われた人間がどれぐらいいるのか、想像もつかない。

「人脈」という言葉は好きではないけど、ばあちゃんのこの関係性こそまさに「人脈」だろうと思う。よくビジネス書にあるような「人脈」は、結局「ただ知っているだけ」「名刺をもらっただけ」「SNSで繋がっているだけ」だろう。ばあちゃんは、いつどんな時でも相手に与えて与えて与え続けるからこそ、ばあちゃんが困った時に進んで助けたいと思う人間が現れる。こういう関係は素晴らしいなと思う。

ばあちゃんは常に、自分以外の誰かを輝かせる力を持っている。ばあちゃん自身は、目立たないし分かりやすいような評価も受けない。でも、分かる人は分かってくれている。これも、評価のされ方としてちょっと理想的だなと感じてしまう。現代人は、いかに自分が目立つかということばかりに汲々としてしまう。私が、僕が、という合唱が、様々な場面で聞こえてくるように思う。でも、決してそういう生き方だけではない。誰かを輝かせる方に特性を持つ人間だって確実にいるし、そういう、関わった人からは絶大な信頼を集める、というような評価のされ方がもっと広まってもいいのではないかと思えた。

本書に登場する誰もが、「自分こそがばあちゃんに一番可愛がられている」と感じている。みんなにそう思わせるばあちゃんのテクニックは、キャバ嬢や営業職でも活かせるだろうし、そういう実用的な読み方もきっと出来るだろう。もちろん本書は物語だから、都合よく話が展開する部分も多々あるのだけど、だからと言ってばあちゃんの本質の評価が低くなるわけでもない。ばあちゃんの振る舞いは、いつ何時でも、誰でも出来るというものではないかもしれないけど、ばあちゃんのような意識で生きていくことは、小手先のテクニックで人間関係を構築しようとするよりは遥かに有意義な関係性を築けるだろうなと思う、

説教するでもなく、感情的になるでもなく、ただ生き様を見せるだけで誰かの何かを根底から変えてしまうような大人に、自分もなってみたいものだ、と感じた。

山本甲士「ひかりの魔女」

世界の終わりの壁際で(吉田エン)

個人的には、いつ死ぬのかはっきりと知りたい、という気持ちがある。
その上で生きていたい。
それがたとえ「明日」であっても、別に構わない。明日死ぬんだな、と思うだけだ。もちろん僕は、死に直面した経験はない。「死ぬ」ということに対して、イメージだけでしか話が出来ない。とはいえ、今の自分はそう思うのだから仕方ない。死を間近で感じるような経験をすれば、何か変わるだろうか。

昔何かの小説で(森博嗣の作品だったと思う)、こんな感じの記述を見た。
「生きている状態の方が不自然だ」
死んでいる状態の方が、エントロピーやエネルギー的には安定しているわけで、むしろ生きている状態の方が自然に対して無理矢理抵抗しているおかしな状態なのだ、という意味だ。なるほどと思った記憶がある。だからと言って生きている状態に執着しないようにしよう、などと言うつもりもないし、そんな風に思ってもらいたいわけでもないが、僕にはなんとなく、多くの人が死ぬことを過剰に恐れているように感じることがある。

『問題は「いつ死ぬか」じゃない。「死ぬまでに何をしたか」だよ』

そうだよなぁ、と思う。長生きしたいという人は、自分がどんな状態であれとにかく生きている状態を保ちたいようだが、僕にはイマイチその感覚は理解できない。自分の中で意味のあること、生きていると感じられることが出来なくなった状態で生きていたいとはまるで思わない。

スティーブ・ジョブズは、「明日死ぬとしたら、今からやろうと思っていることをするかどうか」と朝自らに問いかけてから毎日を生きていたという。そこまでのことを考えているわけではないが、僕も「いつ死んでも後悔しないように生きる」という意識は常に持っている。僕の場合、ただただ未来に対して特に何も希望していないからいつ死んでもいいと思っているに過ぎないが、それでも、「いつ死んでもいい」と思える感覚は自分の中で大切にしていきたいと思う。

内容に入ろうと思います。
大規模な災害の到来が予言されている近未来の東京。そこは、<シティ>と<市外>という両極端な環境に分け隔てられていた。巨大な<壁>によって隔てられた<シティ>には、<方舟の切符>を持った人間しか入れないが、どうやったらそれが手に入るのかわからない。<シティ>に入れない者は、猥雑で暴力的で貧しい<市外>で、大災害の到来を待つしか無い。
そんな<市外>に住む片桐音也は、<フラグメンツ>という格闘ゲームでのしあがっている男だ。<シティ>ではありとあらゆる機器が手に入り、さらに反応速度を高めるために健康な腕などを切り落として機械のパーツを組み込む<オルター>と呼ばれる人種さえいて、ロクな機器も手に入れられない<市外>で彼らに挑むのは無謀だ。しかし片桐はあらゆる努力をして<シティ>の人間に立ち向かい、ゲームで勝つことで小銭を巻き上げる。そうやって<シティ>への道を切り拓こうと努力しているのだ。
ある夜。悪友から誘われてある自動車を盗むことにした片桐は、その時ひょんなことに謎めいた人工知能を手に入れてしまう。片桐が普段使っている<クリエ>という人工知能とはまるで違う。<コーボ>と名乗ったその人工知能を手に入れたことから、片桐の運命は流転していく。
<コーボ>を手に入れる過程で知り合った、白髪・赤瞳の少女・佐伯雪子はアルビノであり目が見えない。しかし驚異的な聴力を持っており、片桐は<コーボ>と雪子の組み合わせによって、<フラグメンツ>で勝ち進んでいくようになる。しかし、<コーボ>の存在を察知され追われる身となった二人は、<コーボ>と協力して<シティ>の謎に迫ろうとするが…。
というような話です。

なかなか面白い作品でした。正直、<フラグメンツ>のゲームや、片桐が使いこなす様々な機器、プログラミングをベースにしているだろう様々な記述にはついていけない部分もあったのだけど、全体的なストーリーはよく出来ているんじゃないかなと思いました。僕自身はそもそもSF的な設定が得意ではないのですけど、若い世代なら、この作品で描かれているゲームや世界観の設定などは割とすんなり頭に入ってくると思うので、面白く読めるんじゃないかなと思います。

限られた人間だけを優遇するために城壁で隔離した空間を作る、という設定は決して目新しいものではないけど(僕は池上永一「シャングリ・ラ」を連想した)、巨大な壁を隔てることで情報が遮断され、生活を管理される、そのことによって生き方ががらりと変貌してしまう、という部分を作品の根幹に置いて、「生きるとは何か」と問いかけてくるような物語に仕上がっているのでなかなかいいんじゃないかと思いました。

『じゃあ、その恐れるべき死から逃れられたら、どうなる?
きっと片桐も彼らと同じように、するべきことを見失い、ただただ、おまけの人生を送ることになったろう。そう、片桐も彼らを責められない』

<シティ>の内部は、快楽しかないような世界観で描かれていく。生活に不自由せず、楽しいことは山ほどある。辛い現実は、<シティ>を取り巻く壁が見えなくしてくれている。そういう環境で人はどうなるのか、という問いは、そのまま僕たち自身にも向けられているはずだ。

僕らが生きている現実は決して、楽しいことばかりではない。辛いことも山ほどある。しかし、辛い現実から目を背けてもなんとか生活出来てしまうような社会が、今奇跡的に現出している。親世代がある程度裕福であること、インターネットにより様々なコストが下がり、そして様々な楽しみが現れたこと。そういう世の中では、仮想的に期限付きの「楽園」を生み出し、そこで生きることが出来てしまう。そこまで極端ではなくても、自分の見たい情報だけ見て、見たくない情報を排除できてしまうこのネット社会では、多くの人が自然と、彼らと似たような環境に生きる結果を引き寄せてしまうだろう。

『「だから?外でたくさんの人が死にそうなのを無視して、こんな、綺麗すぎる、贅沢すぎる街で、目と耳を塞いで生き残れって言うの?そんなの、絶対、間違ってる!」
絶対、間違ってる。
そう、そうだ。絶対、間違ってる』

<シティ>を日本、<市外>を発展途上国と捉えても面白い。世界の様々な紛争や貧困(それらは、先進国に住む僕らにも原因の一端がある)を無視して、ある程度裕福に暮らせる日本でのほほんと生きていてもいいのか。目を瞑ったまま知らん振りしててもいいのか。そういう問いかけとしても読むことが出来るだろう。

設定や状況を理解するのに苦労する部分もあるが、深読みしようと思えばいくらでも出来るし、エンタメとして読んでも十分に面白い、なかなか読ませる作品だと思います。

吉田エン「世界の終わりの壁際で」

「この世界の片隅で」を観に行ってきました

「幸せ」は、与えられるものではない。決められるものでもない。
決めるものだ。
僕はいつもそんな風に思っている。

この映画の良さは、すずが「目の前には存在しない幸せ」を追い求めないことにある。

『お前だけはこの世界で、普通でまともであってくれ』

「普通」の連続を、僕たちは「日常」と呼んでいた。
呼んでいたはずだった。
「日常」が退屈に思えるのは、当たり前のことだ。
だってそれは「普通」がただ連続しているだけなのだから。
人間はずっと、そういうことを当たり前だと思って生きてきたはずだ。

どこかでそれが、少しずつ変わってきてしまったのだろう。
僕たちは、「日常」って退屈だ!と、声高に主張するようになってしまった。
それは、カラスって黒い、と言っているぐらい、当たり前のことなのに。
なんでそんな風に思うようになってしまったんだろう。

『ワシはいつの間にか、人間の当たり前から外れてしまったんじゃのぉ』

昨日と今日と明日が同じであることに、少しずつ人間は耐えられなくなってきている。
10年前と今と10年後が変わっていないことが、不幸だと感じるようになってしまっている。
「普通」の連続が「日常」であり、それ故に「日常」が退屈であることを、何故僕たちは忘れてしまったのだろう。

「幸せ」が与えられるものでも決められるものでもなく、決めるものであるというのは、「幸せ」というのが、「日常」の中から何を見つけ出すかという、その人の意志の積み重ねによってしか生まれないものだからだ。

『しみじみニヤニヤしとるんじゃ』

すずの強さは、そこにある。

『うちも強うなりたいよ。優しくしぶとうなりたいよ』

すずは、生活に対して強い。毎日毎日絶えることのない雑用をこなしながら、少しでも生活を良くするための工夫をこしらえる。生活の合間合間で、絵を描いたり何かを観察したりしながら、ちょっとした楽しいことを拾っていく。

『何でも使うて暮らし続けるのがうちらの闘いですけえ』

すずを取り巻く環境は、決して楽ではない。日本国民全員が等しく苦しい状況に置かれている時代だったからこそ、ふてくされずに前を向けたのかもしれない。そういう意味で、現代とは環境は全然違うだろう。
しかし、自らの意志によってある程度の生活は保障されている現代と比べれば、すずの生きた時代の方が遥かに厳しかっただろうと思う。

戦争は最悪だ。戦争を経験したことはないが、出来るだけ経験せずに死にたいと思う。しかし、戦争だから不幸だった、というのはやはり違うように思う。すずは、たまたま戦争の時代に生きた。しかし、すずのような心持ちを持つことが出来れば、どんな時代環境であっても、そこでの生活に何らかの幸せを見つけ出すことは出来るだろう。

僕たちはどうだろうか?
「幸せ」は、今自分がいるこの場所以外のどこかにあって、私はまだそれに出合えていないだけだ、と考えてしまいがちな僕らは、別の時代で生きることは出来るだろうか?

この映画は、そういう問いを投げかけているのだと僕は感じる。

『ぼーっとしたうちのままで死にたかったなぁ』

すずは、「幸せ」であるために、かつての自分を捨てた。すずは少しずつ理解していったのだ。「幸せ」は自分で決めることなのだ、と。そして、この苦しい環境から「幸せ」を取り出すために、ぼーっとしているわけにはいかないと気づいたのだ。

『お前はホンマに普通やのぉ』

それでも、すずの強さの芯は、「普通であること」にある。
当時、そういう「すず」が、日本中にいたことだろう。そういう「すず」が体現する「普通」が、戦時下の生活を成り立たせていたのだろう。
そういうことこそ、僕らは憶えておかなければいけないのだと思う。


広島市で海苔の養殖を営む一家に生まれたすずは、絵を描くのが大好きな女の子。ぼーっとしてるしおっちょこちょいだけど、ちびた鉛筆でも持たせればなんだって描いた。
決して裕福な暮らしではないけど、身近な人との関わりと日常の中のちょっとした変化を楽しみにしながら、すずもその家族も幸せに暮らしていた。
やがてすずに縁談の話が舞い込む。呉に住む北條家だ。お相手の男性の周作さんとはかつてどこかで会ったような気もするけど、ぼんやりしているすずはうまく思い出せない。
年老いた義父と足を患った義母の代わりに、北條家ですずは懸命に働く。周作さんの姉・径子さんとちょっとうまくいかなかったり、その子どもである晴美さんと仲良くなったりしながら、すずは少しずつ北條家に馴染んでいく。
自分から望んだ縁談ではないけれど、どんな風に生きていくのか、どんな風に生きていきたいのか何も考えないで大人になったすずは、ここ呉で生きていくんだという想いを、様々な経験を経ながら少しずつ固めていく。
やがて呉では、空襲が頻発するようになっていく。


例えば僕らは、現代の戦争のことをニュースで知る。
軍人が大挙し、砲弾が降り、瓦礫が山となり、片脚のない子供が地面を這う。僕たちはそういう映像を見る。
そういう映像しか、見ることが出来ない。

例えば僕らは、過去の戦争のことを教科書で知る。
「◯◯年に××」「△△年に□□」 僕たちは、そういう記述を読む。
そういう記述でしか、知ることが出来ない。

共通しているのは、その時最もインパクトがあった出来事だけが末端まで伝わる、ということだ。
現代の戦争でも過去の戦争でも、そこに何らかの形で記録者がいる。記録者は、自らの意志で目の前の戦争のどこを見てもいい。しかしその記録者は、ただそこにいるわけではない。恐らく報じるためにそこにいる。それ故、報じる価値があるもの、報じる価値があると大勢の人が信じているものを見ようとする。報じる価値がないと判断されたものは、記録者の視界に入っても、末端まで届くことはない。

ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する ジャーナリズムの現場で私が考えたこと」という作品を読んで、遠い他国の現実がどのように報じられるのかを知った。僕たちの日常ではない現実が、どんなフィルターを通って僕らの元に届くのかを知った。

メディアというフィルターを通った情報には、「生活」の匂いはない。

この映画は、メディアというフィルターを通ったらすぐに取り除かれてしまうものだけで出来ている。
「生活」の物語だ。

『すぐやってくるか思うた戦争じゃけど、今はどこでどうしとるんじゃろ』

「生活」から見た場合、戦争というのはほとんど見えない存在だ。見えるのは戦艦だったり、演習だったり、出兵する若者でしかない。それらは、戦争というものを取り巻くもので、戦争そのものではない。

戦争そのもののが見えない中で、うっすらと戦争の気配を感じるだけの日常。そこにははっきりした覚悟や明確な意志が求められる場面は少ない。軍港である呉に住みながら、すずのようなぼーっとした女の子であっても何とか生きていけてしまう、そんな日常だ。

とはいえもちろん、「生活」には大きな影響がやってくる。配給が少なくなる、砂糖の値段が高くなる、食べられる草は摘む、交換できる服は売る、少ないお米の分量を増やす工夫をする。戦争の陰で生活する者たちは、何かが「ない」状況を嘆く余裕を与えられないままに、厳しい生活を迎え入れざるを得なくなる。

しかし、彼女たちの毎日は、何故だか楽しそうだ。

『空襲もう飽きた』

彼女たち自身の目には見えない戦争は、なかなか意識されない。それよりは、モノが少ない中でどう工夫するかという前向きさがそこにはある。ないものはない。みんなない。嘆いたところで何かが変わるわけでもない。誰もがそういう気持ちを共有していたからこそ、厳しい状況でもみんなで前を向くことが出来たのだろう。

その日常を、僕らが「不幸だ」と決めつけることは出来ない。冒頭で書いたように、「幸せ」とは決めつけられるものではないからだ。

『みんなが笑ろうて暮らせりゃええのにねぇ』

もちろん辛いこともある。哀しいこともある。やりきれないこともある。でもそれは、いつのどんな時代にもある。

『あっけのう人はおらんようになる。姿が見えんようになれば、言葉は届けん』

しかしだからこそ、大事に出来るものもある。いつ失われるか分からない、いつ消えてしまうか分からない。だからこそ、未来ではなく今を大事にする。そういう生き方を自然と選択できる。

それはある意味で幸せなことだろう。

僕たちはもう、「生活」に対してあまり不安を感じずに生きられるようになった。それは、とても素晴らしいことだ。「生活」に対して不安を感じるような時代に戻りたいとは思わない。
しかし、「生活」に対して不安を感じないからこそ、人は別のことに不安を求める。おかしなことだが、何故か人間はそういうものらしい。SNSやスマホを手放せない人を見ると、僕はいつもそんな風に感じてしまう。彼らは、SNSやスマホがなくなると何を失うと考えているのだろうか?

人間は、どれだけ満たされていてもそこに不安を見つけ出すことが出来る。そういう生き物だ。だからこそ、もの凄く逆説的なことだが、「生活」に対して不安を感じるほどに、人は「生活」を大切に感じられるのではないかと思う。

衣食住が満たされた現代の僕らの不安は、大体「未来」の中にある。だから「未来」を大切にしたがる。でも「未来」はどうなるか分からない。どうなるか分からないものを不安がって、それに対処しようとする。そんな生き方をしてしまうから、なかなか「生活」から「幸せ」を取り出すことが出来ない。

改めて書くけど、決して戦争時代を良かったと言うつもりはない。そうではなくてこの映画は、どんな「生活」からでも「幸せ」を取り出すことが出来るのだ、というメッセージを感じる。僕らが生きる現実も、戦争ほどではないが、決して素晴らしいと絶賛出来るほどではない。しかしそんな人生でも、そんな人生なりの「幸せ」を手に入れることが出来る。

それを描き出すために、この作品は「戦争」を舞台にしているのだと思う。そういう意味でこの映画は、「戦争映画」では全然ない。

この映画は「居場所」の物語でもある。

『誰でもこの世界で、そうそう居場所はなくなりゃせんのよ』

すずは、慣れ親しんだ広島を離れ、呉へと嫁ぐ。知り合いもいない中、懸命に「生活」することで、少しずつ馴染んでいく。元来ぼーっとしているすずには、どこかに馴染んでいくことはさほど難しいことであるわけではない。

しかし、やはり「戦争」という環境が、すずを振り回していく。
すずは何度か、呉で生きていくことを悩む場面に遭遇する。久々に実家に帰った後で、かつての旧友が北條家まですずを訪ねて来た後で、そして右手を失った後で。
私は、ここにいていいんだろうか、と。

すずにとっての本来の居場所は、やはり生まれ育ったあの広島の家だ。ずっとそこに対する郷愁の念がある。普段意識することはない。しかし、消えることもない。北條家の人間になったつもりでいても、ふとした瞬間に「ここは自分のいる場所ではないのかもしれない」という意識が忍び寄る。

しかし、すずが「居場所」だと思っていた場所は、原爆投下により「居場所」ではなくなってしまう。

『やっぱりここへ置いてもらえますか?』

すずがそう言ったタイミングに、僕は救われた。すずにとってそれは、ギリギリのタイミングだった。もう少し遅ければ、すずは永遠に「居場所」を失っていたかもしれない。あの場面は、とてもホッとした。良かったと思った。

『呉は私が選んだ場所ですけぇ』

すずは流れるように、流されるようにずっと生きてきた。自分の意志でこうしたいと動いたことはほとんどない。それでも、戦争という厳しい環境をくぐり抜けることで、すずはこれまでの人生をひっくるめて、自分で選んできた道だ、と思えるようになった。それを「成長」と呼ぶのは少し違うのかもしれないけど、その変化が物語をグッと締めているように感じた。

『この先うちはずっと笑顔の入れ物なんです。晴美さんはいつでも笑っていたので、笑って思い出してあげようと思います』

そしてすずは、誰かの「居場所」になってあげようという決意をするようになっていく。これは「成長」と呼んでみても、いいのかもしれない。

「この世界の片隅で」を観に行ってきました

よるのばけもの(住野よる)

こういう時だけ思いだす。
いや、こういう時にしか思い出さない。
僕も小学生の頃は、いじめに加担する側だったんだな、と。

小学生の頃、クラスにいた女の子を「汚いもの」として扱って、彼女が触れたものに触ると菌が移る、という設定で「ふざけて」いた。
それ以外にどんなことをしていたか、全然記憶にない。直接的な暴力とか、水を掛けるとか、そういうことはしていなかったように思う。仲間として扱わなかった、という感じだっただろうと思うが、よく覚えていない。僕が積極的に加担していたのか、消極的だったのかも、よく覚えていない。
そう、よく覚えていないのだ。

そもそも僕は、子どもの頃の記憶がほとんどない。昔から、周りの物事に関心がなかったのだろう。先生の名前も、同級生の名前も、当時流行ってた音楽も、見ていたテレビも、どんな行事があったのかも、なーんにも覚えていない。大学時代はかろうじて覚えているが、小中高時代のことは、搾りかすみたいな記憶がところどころにあるだけだ。

だから、いじめに加担していたことや、どんな風に彼女を扱っていたのかを忘れていることも、仕方ないのかもしれない、と思いたい部分もある。

しかし、本当にそれでいいのだろうか、と思う気持ちもある。

僕が考えたいことは、いじめに加担していたまさにその時、僕の中に「罪悪感」はあったのか、ということだ。

いじめている側が、どんな気持ちでいじめようが、いじめられる側には関係ないだろう。それは十分承知した上で、「罪悪感」を抱きながら仕方なくいじめをしていたのだとしたら、今の僕は昔の僕をまだマシだと思えるかもしれないと思う。

ただ、「罪悪感」があったのだとしたら、もう少し覚えているものではないか、とも思う。

これも小学生の頃だったと思うが、CDを万引きして店主に捕まったことがある。幸い警察には通報されなかったのだが、母親にはもの凄く泣かれた記憶がある。どんな理由で万引きをしたのかまったく覚えていないが、母親に悪いことをしたな、という気持ちがあるからこそ、その万引きの記憶は他の記憶よりは多少は鮮明だ。

「罪悪感」を抱きながらいじめていたとしたら、もう少し覚えているはずだろう。だから僕は、その当時、自分が悪いことをしているという自覚がなかったのではないか、という気がするのだ。

そのことが、僕はとても怖い。

今の僕はむしろ、周囲の輪からどうしても外れてしまうような人ばかりに興味が向く。少し間違えれば学生時代いじめられていただろう人(あるいは、実際にいじめられていたという人もいたが)ばかりに関心が向く。というか、そういう人でないと、あまり興味が持てない。今の僕は、周りと違うからというだけの理由で、周囲に馴染んでいないからというだけの理由で、個人を排除する人間ではない。

しかし、僕の推測が確かなら、僕は小学生の頃、悪いという自覚なく、クラスメートの女の子を仲間から排除し、傷つけるようなことをしていたのだ。

その子のことを思い出したのは、本当に久しぶりだと思う。これまでも、ニュースや小説などでいじめの話は目にしてきた。でも、たぶんそういう時には思い出さなかったのではないかと思う。思い出した、という記憶がない。それは僕に、「いじめに加担していた」という意識がまったくないからだろう。この文章を書いているまさに今も、僕は、理性では「かつていじめをしていたんだ」と認識出来るのだけど、自分の感情や感覚のレベルでは、自分自身のことを「いじめに加担した人間」と思えないところがある。

この作品を読んでその女の子のことを思い出したのは、やっていることが似ているからだろう。この作品で描かれるいじめは、身体的な暴力ではないものがほとんどだ。存在しないものとして扱う、仲間ではないものと見なす。そういういじめだ。そういう小説を読みながら僕は、そうか、小学生の時のあの時の僕はいじめをしていたんだ、と思ったのだ。

いじめのニュースを見ながら、なんでいじめなんてするんだろう、と思っていた。違和感なく、そう思っていたのだ。僕は、自分がきちんと出来ていないことを他人に押し付けることはあまち得意ではない。だから、小学生の頃いじめをしていたのだという意識があれば、ニュースを見る時に現れる「なんでいじめなんてするんだろう」という感覚は、僕にはありえないことなのだ。

いじめられた側は一生そのことを忘れないが、いじめた側はすぐに忘れる、と言われる。本当にその通りだろう。悪い、という認識が出来ていないのだから、その行動を止める理由もないし、後々思いだす理由もないのだ。

『難し、いことはい、い。生き延び、なさい。大人にな、ったらちょっとは自由になれ、る』

登場人物の一人が、先生から掛けられた言葉を復唱している場面だ。このセリフは、見方によっては教師失格となるだろうが、しかし真理をついてもいるだろう。いじめを根絶することは難しい。いじめている側の意識がこうなのだから。

僕は想像してみる。もし今の感覚、価値観のまま、小学校のあのクラスに戻ったとしたら、僕はどんな振る舞いをするだろうか、と。彼女はいじめられている。クラス全体で、いや、僕の記憶では学年全体で彼女は「汚いもの」として扱われていたような記憶があるのだが、とにかく多くの人から彼女は排除されていた。そういう中に、今33歳の意識のままの僕がいるとして、僕はどう振る舞うだろうか。

…難しい問いだ。いじめには、加担しないような気がする。でも、彼女を助けることもしないような気がする。それが許されるような立ち位置を絶妙なバランス感覚で探し出すのではないかと思う。少なくとも、そういう立ち位置を目指して行動するのではないかと思う。

結局僕は、今の意識のままでも、大した人間ではないのである。


『夜になると、僕は化け物になる』

この一文から、物語は始まる。
主人公は、中学生である安達。彼はある時から突然、夜は化け物に変身するようになってしまった。裂けた口と八つの目、六つの足、四本の尻尾を持ち、体全体の大きさを変えたり、瞬時に変形したり出来る、そんな化け物だ。彼は化け物になるようになってから、夜は化け物の姿のままあちこち歩き回っている。姿をさらして人を驚かせてみたり、その途轍もない移動スピードを利用して遠出してみたり。しかし、そういうのにも、もう飽きた。
ある夜。彼は学校に宿題を忘れたことを思い出し、化け物の姿のまま中学校へと向かう。首尾よく宿題を取り出…せるはずだったが、思いもよらないことが起こった。
校舎内に、誰かいるのだ。それは、矢野さつきだった。区切れのおかしな話し方をする、クラスの中で排除されている女の子だ。夜の校舎で、一体何をしているのか。
しかし、そんなことよりもさらなる衝撃が安達を襲う。矢野は、化け物の姿の彼を見て、「あーちゃん?」と、これまで矢野から一度も呼ばれたことのないあだ名で話しかけられたのだ。何故認識出来たのか、まるで分からない。分からないが、矢野はこの化け物を迷うことなく「安達」だと判断したようだ。
それから、安達と矢野の奇妙な「夜休み」の日々がスタートする。矢野は、昼間は学校ではのんびり休めないから、夜の学校で休んでいるのだ、と意味の分からないことを言う。安達は安達で、矢野に正体をバラされるかもしれない、という恐怖もあって、矢野と過ごす夜を無視出来ないでいる。
夜に密かに会って話すようになったとは言え、昼間は安達と矢野に関わりはない。安達は、クラスの人気者である笠井を中心としたグループの中に紛れ込み、周りからズレないように、はみ出さないようにと日々慎重に生活をしている。矢野は相変わらず、誰からも返事が返ってこないと分かっている挨拶を毎日して、何か嫌がらせをされる度に奇妙な笑顔を浮かべてみんなに気味悪がられている。

『人にはそれぞれ、役割や立ち位置っていうのがあるもんだ。お互いにそれを理解しなくちゃいけない。
それを、あいつは分かってない』

二人の奇妙な「夜休み」は、やがて危機を迎えることになるのだが…。

僕は昔から、こんな想像をすることがある。
「僕らが生きているこの“宇宙”が一個の細胞であるような生物は存在するだろうか?」
これはつまり、こういう問いと同じでもある。
「人間の細胞一個の中に、“宇宙”が存在する可能性はあるか?」

何故こんなことを書いたかと言えば、本書を読んで僕は、“教室”というのは、クラスメート一人一人が一個の細胞であるような生物みたいだな、と感じたからだ。

『人にはそれぞれ、役割や立ち位置っていうのがあるもんだ』という安達の心情は、こういう捉え方をするとしっくりくる。クラスメート一人一人が、生物を構成するための様々な役割を担っており、その全体として“教室”という一つの大きな生物が成り立つ。彼らの理屈からすれば、矢野さつきの存在はさながらウイルスや病原菌のようなものであり、“教室”という生物を構成するのに不必要なものだから排除されなければならない、と判断されているかのようだ。

安達は、こういう意識を常に持ちながら日々の学校生活を送っている。

『教室でミスをしないよう、皆からずれないよう、今日から一週間、また注意を払って生活しなければならない』

安達の中には常に、こういう意識がある。『ずれないよう』というのが、安達の至上命題なのだ。
“教室”という生物も、風邪を引いたり、体温が高かったり、逆にエネルギーが有り余っていたりと、日々状況が変わる。状況が変われば、各細胞に求められる役割も自ずと変わってくる。しかし、“教室”という生物の場合、脳からやるべきことの指令が届くのではなく、細胞一個一個がやるべきことを自ら判断しなければならない。安達は、その状況に疲弊している。

疲弊しているからこそ、彼は「化け物」になってしまったのだろうと思う。

クラスメート一人一人を細胞とする生物、という発想は、本書の設定からの連想もあっただろう。安達は夜になると化け物に変身するが、その化け物は、黒い粒子が集合して出来上がっている。だから自在に形が変わるし、体の大きさも変えることが出来る。その黒い粒子とは何なのか、何故安達だけが化け物になったのか、何故化け物になると睡眠が不要になるのか…その辺りのことは、本書を最後まで読んでも解決しない。設定として与えられることはない。だからこそ、想像の余地がある。いかようにでも解釈出来る。

僕は、その黒い粒子は、“教室”という生物の老廃物ではないかと思う。“教室”が生きていく中で不要になったもの。それらが、安達の元に集まった。何故安達だったのか。それは、物語のラストの安達の行動に理由があるのではないか。つまり、そういう行動を最終的に取ることが出来ると判断されたからこそ、それら老廃物は安達の元に集まったのではないか。

まあ、一つの解釈だ。

矢野は、必死でずれないように毎日を過ごしている安達とは対照的だ。クラスの中での矢野の振る舞いは、「矢野はおかしな人間だ」という色眼鏡を外して見ても、やはり奇妙に映るかもしれない。矢野が実際に目の前にいるわけではないから想像するしかないが、確かに矢野の振る舞いは、近くにいる者をざわつかせるのかもしれない。

様々な要因があるとはいえ、周囲とうまくやっていけない振る舞いを日常的にしてしまうが故に排除されてしまう矢野。その学校生活は、想像するだに苦しいが…。

しかし、安達と矢野と、どちらが自由であろうか?

『人間の時の僕は、壁や天井じゃなく、人の正義感や悪意や仲間意識に閉じ込められている』

安達は、夜の学校で、そんなことを思う。安達の日常は、安全だが窮屈だ。

『私もあっちー、くん、もその子、達それぞれも違、うよ。違うことは当た、り前だよ』

長く苦しいいじめを経験しながら、周りと同調しない自分を肯定する矢野。矢野の日常は、危険だが自由だと言っていいかもしれない。

『僕は彼女を、自分達の想像もつかない思考回路で動く、おかしな人間だと思って生活してきた。無視されても話し掛けるのをやめず、いじめられてもにんまりと笑い、毎日を楽しそうに過ごす。朝登校していきなり、クラスメイトに暴力を振るう。
極端な考え方を持った、頭のおかしな奴。
そんな奴だから、彼女のおかれている状況をしょうがないと思えた。
でもひょっとしたら彼女が、必死に自分なりに考えて行動し、生きているんだとしたら、どうだ』

矢野の生き方には、敬意を評したい。僕なら、同じようには振る舞えないだろう。逃げるか、屈するか。僕に出来るのはそれぐらいだ。矢野は、逃げもせず、屈しもしない。受け止め、耐える。彼女の中には、はっきりとした哲学があり、倫理がある。彼女は、自分の哲学や倫理を崩さず、かつ現実をどうにか生き延びるための最適解を、常に模索しているのだ。僕にはそう見える。安達にも、そう見えるようになってしまったのだろう。

違いに目がいく、ということは、ほとんど同じなのだ。ほとんど同じだからこそ、僅かな差に目が行ってしまう。ほとんど違うとすれば、逆に同じ部分に目がいくだろう。
違いに目が行くからこそ、いじめや排除は起こる。しかし、それ故に、両者はほとんど同じだということが証明できるのではないか。本書を読んでそんな風にも感じた。

あなたが矢野ではないとして、あなたならこの“教室”の、どこに自分を置くだろうか。

住野よる「よるのばけもの」

小説王(早見和真)

僕の中には、「書きたいもの」はない。

僕はいつも、自分の外側にある何かに触発されて文章を書く。本、映画、アイドルなど、それがどんなものであれ、それに触れた衝動や感動みたいなものを文章にする、ということを続けてきた。
だから、外側の何から刺激を受けて文章を書く、というのは、割と得意だと思う。

ただ、自分の内側にある何かが、僕に文章を書かせることはない。そういう衝動は、僕にはない。

『「紙の本がどうなるかとかはわからないけど、物語は存在し続けるに決まってる」
「なんでそう断言できるの?」
「物語がここまで人間を生き延びさせてくれたから」』

物語を生み出す、というのは、僕には想像出来ない。かつて僕も、小説らしきものを書いたことがある。しかし、書いている間、僕の中には「書きたい」という衝動は特になかった。なんとなくストーリーを考えて、なんとなく人物を考えて、なんとなく文字にしてみただけだ。

『君、書くことを舐めてるだろ?』

僕には、物語が立ち現れる瞬間みたいなものは、イメージ出来ない。自分の内側から、それが出てくる想像が出来ない。常日頃、他人が書いた物語についてあーだこーだ書いているが、しかしどう考えても「物語を書ける」というだけで、僕にはない力を持っている。凄いなと思う。

『ご存じかもしれませんけど、こう見えて僕は物語に救われてきた側の人間なんです。』

人間と他の生物の違い、みたいなものが取りざたされることがある。道具を使うだの、言語を獲得しただの様々な要素があるだろうが、物語というのも一つ大きな要素なのかもしれない。確かめようはないが、他の生物には、物語と呼べるようなものは存在しないのではないか。物語の有無が、人間という種をここまで大きくさせたのではないか。

『「小説って何なの?誰が読んでるの?」
「どういう意味だ?それって…」
「いや、違うよ。べつに批判してるつもりはない。でもさ、お父さんたちがどれだけ必死になってたとしても、学校じゃ誰も小説なんて読んでないよ。電車に乗ってたって普通の人はみんな携帯を眺めてる。じゃあ、お父さんたちは誰を相手にしてるのかなって。何を目指して本を作ってるのかなって。もちろん本好きっていう人はいるんだろうけど、それだけなのかなって」』

小説だけが物語なのではない。これからも物語は様々な形に姿を変えて残っていくことだろう。その時、小説という形態が果たして残っているか。小説が果たすべき役割はまだきちんと残っているか。その問いと、それに対する希望と絶望が、この作品には詰まっている。

内容に入ろうと思います。
神楽社で文芸の編集者をしている小柳俊太郎は、「KG」と呼ばれている、凄腕だがドギツイ榊田玄という編集長の下で、赤字を垂れ流す文芸部門でなんとか踏ん張っている。俊太郎にはある野望があり、その野望を叶えるために一度中退した大学に入り直して出版社を受けた。神楽社に入ったもののすぐにチャンスが巡ってくるわけでもなく、俊太郎は様々な「作家センセイ」の無茶振りに振り回される日々を送っていた。
30代半ばになってなおファミレスでアルバイトをしている吉田豊隆。彼はかつて大学時代に、「空白のメソッド」という作品で新人賞を受賞し作家デビューした。そのデビュー作はとんとん拍子に映画化まで決定し、「空白のメソッド」はベストセラーとなった。しかしその後はヒットする作品を書くことが出来ず、そのままずるずるとフリーター生活を続けている。今も小説は書いているが、自分が本当に書きたいものを書けているのだろうかという自問や、作家としてどうしていくべきなのかという憂慮などに囚われている日々だった。
二人の物語は、突然動き出した。小学校時代の幼馴染だった二人は、長いこと離れていた後でまた再会した。豊隆の「空白のメソッド」を読み返したことが、俊太郎を編集者にし、豊隆といつか絶対に仕事をするという決意へと変わっていったのだ。
長いことくすぶっている小説家と、ヒットメイカーなわけではない編集者。彼らが小説の世界に壮大な喧嘩を仕掛ける…。
というような話です。

これは面白かったなぁ。エンタメでありながら、小説に限らず何かを生み出そうとする衝動を持った人達の心を熱くするような言葉に溢れた作品だと感じました。

まず、物語としてとても面白い。そこは作者としても相当必死にやっただろう。何故なら、「面白い小説を作れよ!」と全力で訴えかけている当のその小説が面白くなかったら元も子もないからだ。
主人公である俊太郎と豊隆を主軸として、様々な人間のドラマが描かれていく。俊太郎の妻である美咲、俊太郎の息子の悠、豊隆と付き合うことになる晴子、俊太郎が担当している二人の作家、内山光紀と野々宮博、俊太郎が面接を担当した就活生である青島修一、「空白のメソッド」の主演女優である綾乃。こう言った面々が、決して脇役なわけではなく、それぞれの物語を持っている。俊太郎と豊隆の無謀ででも熱すぎる挑戦に何らかの形で巻き込まれた彼らは、その熱で自分の内側の何かが変形でもしたかのように、生き方や価値観が変わっていく。

そう、この小説は、まさに「物語」によって人生を動かしたり動かされたりする人達の物語なのだ。その芯が最初から最後まで貫かれているのが良い。

豊隆がかつて生み出した「空白のメソッド」という傑作、そして今まさに豊隆が書いている「エピローグ」という作品。この二つの小説が、様々な人生を変え、巻き込んでいく。小説の中で、「小説にはまだまだ人生を変える力があるんだ」という展開を描き出すというのはある意味で危険で、ある種のリスクを伴うようにも感じるのだけど、そのハードルを著者は超えているように感じる。

『これだけみんなが夢中になるものがつまらないはずないですから。結局は熱ですもんね。本に込められるのは作家の思いだけじゃなく、かかわったみんなの熱でもあると思うんです。』

「エピローグ」という小説が、多くの人を巻き込んでいく後半の展開にはワクワクさせられる。それは、作家と編集者という、非常に孤独で小さなところからスタートしていく前半の展開とはまさに対照的だ。作家という孤独な作業をずっと続け、それに慣れていた豊隆が、ある場面でこんな心境に至るのがとても印象的だった。

『でも豊隆は頭を上げることができなかった。もっと謝っていたかった。そうして頭を垂れ続けて、自分がどうして賞を欲しがっていたかを理解した。
みんなに喜んでもらいたかったからだ。喜びを共有してほしかった。(中略)
小説家が、こんなふうに多くの人と喜びを共有できる機会はそうはない。』

それにしても「編集者」というのは不思議な職業だと思う。

『小説家を本気にさせることだけがお前らの仕事だろうが』

小説以外の業界でも、「編集者」と呼べるような職業というのはあるだろうか?僕の中では、ジブリの鈴木敏夫は、宮崎駿の「編集者」と呼んでもいいかもしれない、と思う。しかし、他にはパッとは思いつかない。助監督やマネージャーやパトロンなどとは違う役割を持つ「編集者」という存在がいるからこそ、小説というのは「物語」の中でも特異な立ち位置を占めていると言えるのかもしれないと思う。

『自分の担当作を「俺の本」とか口にしてしまう編集者は信用できません。でも、心の中では常にそう思っていてほしいです。一緒に仕事している間だけでいいんですよ。この作品のためなら死ねますよって、せめてウソをついてほしいんです』

豊隆がこんな風に語る場面がある。本書を読むと、「編集者」というのは本当に、「もう一人の作者」と呼んでもいいくらい作品に深く関わっている。作家一人では辿り着けない場所まで、「編集者」が一緒にいるからこそ行ける。「編集者」は、物語を生み出すわけでも、文章を書くわけでもない。しかしそれでも、「編集者」がいるからこそ物語が生まれる。作家と編集者というのは、他の何とも比べられないような、特殊で濃密な関係性なのだなということが本書を読むとよく理解できる(もちろん実際には、様々なタイプの作家が、様々なタイプの編集者がいるだろうけど)。

しかし本書は、本に関わる人間にズバズバ刺さるようなセリフに溢れている。出版という現実を如実に表すそれらのセリフには、読み取り方によって様々な真理が隠されていると思う。

『いいか、小柳。二度は言わねぇぞ。名前だけで売れる作家の作品以外は、一行で読者に「おもしろそう」と思わせられなきゃ売れねぇんだよ』

『作家が書きたいものを書くなら売れっ子になるしかねぇんだ。編集者が載せたいものを載せるならヒット作を連発しろよ。話はそれからだ、クソガキが』

これらは、そんなムチャクチャな、と感じさせるエピソードだが、しかしかなり真実を衝いていると僕は感じる。特に前者については、本を売る現場にいる人間としてよく感じることでもある。映画などのコンテンツ産業はどれも同じだろうけど、「面白いかどうか」より「面白く見えるかどうか」が大事だ。そして、大多数のお客さんが「面白い」と感じるものは、その時々で変化していく。それもあって、余計に本を売るのは難しいなと感じる。

後者については具体的なことを知っているわけではないけど、そうなのだろうなと思わされた。書きたいものと売れるものがマッチすればいいが、必ずしもそうはいかない。しかし、売れるものだけが残ればいいのかというとそれも違うように思えてしまう。こういうジレンマは、まさに最前線である編集者自身が感じていることだろう。

作家という人種についても非常に興味深いセリフがあった。次に引用するのは、同じ作家の発現だ。

『そんなこと知るか!テメーが家族といることで少しでも俺の小説が良くなるのかよ!』

『今回のことだけじゃねぇぞ。若い作家を蔑ろにするようなところでは俺は二度と書かないって言ってるんだよ!』

この内山光紀という作家は、作品の重要な場面で度々登場しては、物語を動かしていく存在だ。傍若無人だが良い作品を書くし、その作品は売れる。業界内でも影響力はあり、ムチャクチャなことを言っているようで芯が通っている部分もある。あまり関わりたくないけど、憎めない存在である。

書店についてはこんな描写がある。

『書店だって慈善事業ではないと頭では理解しながら、時間と神経を注いだ自著が軽く扱われているようで胸が痛む』

書店員として、本を売ることに力を注ぎたいけど、しかし公平にとはどうしてもいかない。売れているもの、売れそうなもの、そういうものに優先的に力が注がれることになる。力を注ぐことが出来ない作家の側からすれば、そんな風に見えるだろう。難しい。

俊太郎や豊隆を始めとした面々が、身を削り、全力を出し切った先で振り絞る言葉は、小説だけではなく、何かを生み出している人に響くのではないかと思う。たとえ本以外の世界に「編集者」がいなくても、彼らの関係や衝突に似た何かは、どこかしらで発露することだろう。死力を尽くすことでしか生まれない何かが、人を感動させ、一気に広まっていく。そう信じなければ突き進むことなど出来ない世界を、ひりつくような熱と共に描き出す作品だ。

早見和真「小説王」

「永い言い訳」を観に行ってきました

『自分の遺伝子が怖いって、思ったことない?』

ある。
僕にはある。
自分の遺伝子が残っていく怖さ、みたいなものが。

『こんなサイテーな人間が受け継がれてくなんて』

そう。
そういう怖さが僕にもある。
自分みたいな人間が、この世界に増えることの怖さ、みたいなものが。

『そうしないと、僕みたいになるよ』

彼の後悔は、映画の中ではほぼ一点しか描かれない。
妻が死んだ時、愛人とセックスをしていた、ということだ。
しかしもちろん彼にも、それだけではない、人生の中で堆積された後悔が山ほどある。
あるはずだ。

『僕みたいに、愛していいはずの人が誰もいない人生になる』

彼の述懐は、後悔ではない。彼はきっと、後悔はしていない。恐らく、人生をやり直せるチャンスがあったとしても、彼はきっとまた同じ生き方をするだろう。
他人を受け入れず、世の中を斜めに見て、僻みを抱えてその場に留まるような、そんな人生を。

だから、遺伝子が怖いのだ。
自分で変えることが出来ないと分かっているから、怖いのだ。

『先生、私のこと抱いてるんじゃない。誰のことも抱いたことないんですよ』

彼は、妻の死の報を聞いた時、何を喪ったのか理解できていなかった。彼は、妻が死んでも、まるで哀しくなかった。妻の存在の喪失は、彼にとっての喪失ではなかった。少なくとも、妻の死の報を聞いた時には。

彼には、妻の死がもたらしたものを、うまく捉えることが出来なかった。もしかしたら、愛人に「私を抱いてるんじゃない」と言われた時、少しだけ喪失の形が見えたかもしれない。でも、たぶん少しだけだ。

彼は、喪ったものが何なのか分からないまま、日々を過ごしていく。妻を喪って哀しいわけでもなく、むしろ新たな家族との関わりを得て、以前より充実した生活を過ごすようになっていく。

しかし、その家族との関わりの中で、彼は気づく。自分が喪ったものを。

僕は、彼が喪ったのは「現実」なんだと思う。

妻が死んだ後の彼の日常は、「現実」ではなかった。葬式で、心にもない弔事を読み上げ、妻を亡くした作家を追うドキュメンタリー番組で意味のない手を合わせる。編集者からは落ちぶれた作家という扱いをされ、妻の死後まともに小説を書けているわけでもない。
そして最もファンタジックなのが、子守をすることになった兄妹との関わりだ。彼自身に子どもはいないし、恐らく子どもが好きなわけでもないが、彼は目の前に立ち現れた仕方のない事情に救いの手を差し伸べる、という体で、これまで自分の人生ではありえなかった「家族」との触れ合いを手にする。
しかしそれは、ファンタジーでしかない。

『子育てって免罪符ですよね、男にとって。自分がサイテーのバカだってこと全部忘れて、何もかも帳消しに出来る』

彼にとって、兄妹との関わりは、新たな「現実」だった。自分が生きるべき「現実」だと考えていた。しかし、その「現実」の脆さをある時彼は知る。知ってしまう。
その時彼は気づいたのではないだろうか。自分が何を喪ったのかを。妻がいたからこそ、自分の「現実」は成立していたのだ、と。

そのことに気づくまで、彼は永い永い言い訳を続ける。自分が「現実」から逃避していたこと、そして今では逃避すべき「現実」すら喪ってしまっていたこと。そういうことを彼は、言い訳をし続けることで見ないようにしていたのではないだろうか。

『自分の幸せの尺度だけでものを言わないでよ』

彼はもう、そう言うので精いっぱいだったのだ。それぐらいしか、自分を守る方法がなかったのだ。

喪ったものの大きさは、喪ってからでないと分からない。人によっては、喪ってからもしばらくは分からない。もしかしたら、一生分からないかもしれない。
それは、哀しいことだろうか?

内容に入ろうと思います。
作家の津村啓こと衣笠幸夫はその日、妻の夏子に髪を切ってもらっていた。冷え切った夫婦の会話をしながら。切り終わってすぐ夏子は高校時代の親友と旅行に出かけた。一方の幸夫は、妻の旅行にかこつけて愛人を自宅に呼びセックスをする。
翌日、警察からの電話で、夏子がバス事故で亡くなったことを知る。
悲しみの欠片もないが、カメラの前では「妻を亡くした傷心の作家」を演じる幸夫。そんな彼の元に、夏子の親友であり、夏子と一緒に死亡したゆきの夫である大宮陽一と出会う。陽一は幸夫とは対照的に、「妻を返せよ!」とバス会社の社員に怒鳴るような男で、そんな陽一のことを幸夫は、ちょっと違う人種だと思いながら見ている。
ある日、ゆきや夏子のことを話せる相手がいない、ということで陽一から連絡をもらい、陽一の二人の子供と一緒に食事に出かけることにした幸夫。その食事の席でちょっとしたトラブルがあり、長男の真平を家まで連れて帰らなければならなくなった幸夫は、真平の苦境を知る。父である陽一は長距離トラックの運転手で、母も亡くしたために、妹の灯の面倒を見なければならず、優秀でありながら勉強がまともに出来ないでいる真平は、塾も辞め受験もしない覚悟を決めていた。そんな真平を見た幸夫は、真平が塾に行く日だけ灯の面倒を見る、ということで大宮家にやってくることになったのだ。
自分ではついぞ得ることになかった暖かい家族。自分の遺伝子が関わっている子ではない、という意識もきっと後押ししたことだろう。幸夫は、妻の死によって何を喪ったのか理解しないまま、大宮家にどっぷりと馴染んでいく…
というような話です。

原作も良かったけど、映画も良かった。これはまさに、原作と監督が同じだからだろう、と思う。原作のことはあまりちゃんとは覚えていないけど、映画とは結構違う部分もあったように思う。西川美和が、小説に向くエピソードや描写、映画に向くエピソードや描写をきちんと理解しているからだろう。また、原作も映画も「物足りない」と感じさせることがなかった。これも、原作と監督が同じであるが故だろうという感じがした。乾ききった冷たい人間の生活が、家族との触れ合いで溶け出す…などと書くとありきたりの物語に聞こえるが、そういう要約ではうまく拾いきれない何かが詰まっている映画だと思う。

主人公の衣笠幸夫には共感できる部分がとても多い。僕は、外面的には衣笠幸夫ほど酷い人間ではないと思うが、内面は遠くはないはずだ。映画を見ながらそのことをひしひしと実感した。

僕が印象的だなと感じたのは、幸夫が兄妹(特に兄の真平の方)に語りかける言葉だ。幸夫は大宮家と関わっていく中で、真平が置かれている厳しい状況に対して、常に何らかの言葉を掛けていく。

しかし、僕はそれらの言葉は、自分自身に、あるいはかつての自分自身に発した言葉であるように感じられた。幸夫は、真平に様々な心情を伝えることで、ある意味で自分の人生をやり直そうとしているのではないか、と感じた。幸夫は、自分自身のことをサイテーの人間だと考えている。そしてそれは、遺伝子に刻まれた、逃れようのないものだ、とも感じている。しかしもしも、言葉によって、幸夫自身が発する言葉によって真平が変わることが出来たとすれば、人間は遺伝子ではない何かによって変わることが出来ると信じられる。幸夫の内側には、そんな衝動が見え隠れするように思える。

そしてその衝動は、別の意味でも真平に向けられることがぴったりだったのだ、と僕は感じた。

本書のもう一人の主人公は、僕は真平だと思う。これは原作小説では感じなかったことだ。

真平は様々な場面で父への不信感を露わにする。

『泣いたってお父さんに言わないで』
『僕はお葬式の時に泣かなかった。そしたら言われたんだ。お前平気なのかって』

そしてその不信感は、父親である陽一も僅かながら察している。

『今日初めて会ったくせに、幸夫くんにはそんなこと言うんすね』

この関係性は、映画の冒頭からしばらくの間は感じられないが、徐々に明らかになっていく。
そして、そういう不信感が漂う大宮家に、幸夫がやってくるのだ。
父親という遺伝子の存在を否定したい真平。それはまるで、自らの遺伝子の呪縛に囚われている幸夫のようだ。幸夫は、そんな真平に対して言葉を掛けることで、自分にも変わる可能性があったのだ、という幻想を持ちたいと願う。そしてさらに、真平に対して擬似的な父親として振る舞うことで、「妻を返してくれ」と絶叫できる、自分にはない感覚を持った陽一のことを否定したい、という気持ちも持っているのではないかと思う。

そういう思いを抱きながら大宮家に通っていたから、あの灯の誕生日の場面に結びつくのだ。擬似的な父親でいられる環境を手放さなければならない状況で、無様な姿をさらしてしまうのだ。

『(死ぬのが)お父さんの方がましだったって思ったの』

そう心情を吐露する真平。この映画は、衣笠幸夫という男の物語であると同時に、大宮真平という少年の物語でもある。父親という、自分の力ではいかんともしがたい存在に対するやりきれない気持ちに振り回されながらも、目の前の現実でどうにかふんばろうとする少年の物語だ。

家族に正解はない、といつも思う。結果的に、どんな家族も正解なんだと思うしかない。何故なら、どれだけ「不正解」な家族の中にいても、特に子供はそこから自力では抜け出せないからだ。そこから逃れられないのなら、そこが正解だと信じるしかない。恐らく真平は、その覚悟を持つことが出来たはずだ。
幸夫はどうだろう。その覚悟を持たずにこの年まで生きてきてしまった幸夫は、正解かどうかを判断する対象である「現実」そのものを既に喪ってしまった。彼の人生がこの先どんな風に続いていくのか、気になるところだ。

「永い言い訳」を観に行ってきました

桜子は帰ってきたか(麗羅)

内容に入ろうと思います。

満州で暮らしていた朝鮮人のクレは、17歳ながらある重要な使命を帯びることになった。
恩人である安東真琴の妻である桜子さんを、なんとか日本まで送り届ける、というものだ。
スパイ容疑で捕まったロシア人を処刑しようとする日本軍に楯突いて殺されてしまった安東は、クレに桜子を託した。クレは、徒歩だけで大陸を縦断し、無謀とも言える逃避行をやり遂げるつもりでいた。体力がさほどあるわけでもない、身体もそこまで強くない桜子をいたわりつつ、クレは知恵と勇気を振り絞って日本を目指す。
日本で安東と桜子の帰りを待ちわびていたのは、桜子の父である久能耕作だ。彼は、引揚船がやってくると聞けば飛んでいき、その度に落胆した。引揚船が終了し、安東と桜子の死を覚悟した後も、当時の二人の様子を聞こうと、新聞広告を打つなどしていた。
耕作の子どもとして育てられた、安東と桜子の息子である真人は、父であり祖父である耕作の死後、とある人物に出会う。彼は、真人の両親のことを知っているようだ。クレと名乗ったその人物から、母である桜子を連れて逃げた壮絶な話を聞いた。クレは、何故桜子が日本に戻っていないのかを調べているという。クレは間違いなく、桜子を日本行きの船に載せたという。しかし真人は、母である桜子の姿を目にしてはいない…。
というような話です。

なかなかスケールの大きな作品でした。
本書は、クレという人物の想いで出来上がっている、と言ってもいいくらい、クレという人物が輝いている。彼は朝鮮人でありながら、戦時中に日本人である安東と桜子から受けた恩を忘れずに、30年以上もの時を経て苦労して日本へとやってきた。確実に日本に戻っているはずだと思っていた桜子が帰国していないと知るや、不法入国者であるという不利な立場であるにも関わらず、自分に出来る調査を続けている。ある事実が明らかになって以降、クレの静かな怒りは消えることがない。

クレの執念が、ひたすら物語を動かしていく。その凄まじさには打たれます。

とはいえ、これは個人的な話になってしまうのだけど、僕はイマイチ、過去にこだわることが出来ない。それが良いことであっても悪いことであっても、起こってしまったことに対して感情を動かすことがなかなか難しい。
だから、復讐、という感覚が、僕にはうまく理解できない。

もちろん、僕自身の身に信じられないほど酷い出来事が起これば、自然と復讐心が湧き上がるのかもしれない、とも思う。でも僕はどうしても、過去にこだわり、過去を精算するために行動しても、現在や未来は大して変わらない、と感じてしまう。

そういう人間だからだろうか。クレの行動原理に凄さを感じても、イマイチ共感することが出来ない。僕がクレと同じ境遇に置かれた時、クレのように行動するかと聞かれたら、まずしないだろう。もう一度書くが、クレは凄いなと思う。思うが、僕の感覚からすると、クレの存在はちょっとファンタジーにも思えてしまう。僕が冷たい人間だからだろう。

僕はかつて、「あの戦争から遠く離れて」や「たった独りの引き揚げ隊 10歳の少年、満州1000キロを征く」と言った本を読んだことがある。どちらも、終戦後の中国からなんとか日本へと帰還した者たちの実話だ。物語も人の胸を打つ。しかしやはり、事実が持つ力に勝てないことも多くある。この作品は、前半は特にクレと桜子の逃避行にページが割かれているが、やはりその部分は、かつて読んだ事実と比べてしまうと弱さを感じてしまう。

ミステリとして読んだ時には、なかなか面白いと思う。人の命が奪われた出来事が非常に多く、謎や問題点を整理しながら読むのがなかなか難しいが、満州からの脱出と、無関係に思える多くの人が亡くなった出来事を結びつけ、一本の線として提示して見せる部分はなかなか良くできているように思う。真人とクレが出会いお互いの情報を共有しなければ辿り着けなかった真実というのがたくさんあり、それが、長い間真相が明るみに出なかった理由にもなっていると思う。えっ、と思わせるような展開もあり、なかなか面白い。

クレという人物の行動原理には、僕はどうにも共感しにくいのだけど、読みながらずっと、クレの願望が叶って欲しい、と思いながら読んだ。クレの奮闘と努力が報われて欲しい、と思いながら読んだ。クレのような生き方には、それに見合う何かが必要だ。クレがその何かを手にすることが出来たのか、それは読者一人一人の想像次第だが、クレは満足しているのではないかと、僕は思いたい。

麗羅「桜子は帰ってきたか」

i<アイ>(西加奈子)

時々、弟から電話が来る。
僕は大抵、弟に説教される。親ともう少し連絡を取ってやれ、と。たまには実家に帰ってこい、と。
弟が僕にそう言うことは至極真っ当なことなので、僕は弟の話をそれなりにちゃんと聞いている。

先日弟から「プライドが高いから」と言われた。これは、こういう意味だ。
昔、僕は親との関係であーだこーだあったあった。そして、その時の関係のまま今も来てしまっている。プライドが高いから僕の方から関係改善に動いたり出来ないんだろうけど、もういいじゃないか、ちょっとは大人になれよ、みたいな感じ。
でも、弟から見る僕のその感じに、僕は違和感を覚えてしまう。

今の僕にとって、親というのは「特に関心がない人」でしかない。好きでも嫌いでもない。僕の中にはもうわだかまり的なものはない。けど、じゃあ親だから特別なのかというと全然そんなことはなくて、世の中のその他大勢の人と同じように、僕にとっては等しく興味がない人。僕は親というのをそんな風にしか捉えることが出来ない。

弟から、プライドが高いから自分から関係改善に動けない、と言われて違和感を覚えるのはそのためだ。そうじゃねぇんだけどな、と思う。ただ、関心が湧かないだけだ。もちろん頭では、親子だし何らかのアクションが必要なんだろう、と思ったりはする。でも、自分の気持ちの内側から、そういう気持ちが湧き上がることはない。

嫌いじゃない、ただ興味がないだけだ、ということを伝えるのは難しいと思う。

内容に入ろうと思います。
ワイルド曽田アイは、アメリカ人の父と日本人の母の引き取られた養子だ。シリア生まれだというが、アイは本当の両親のことも、故郷のシリアのことも知らない。
養父母は、とても優しかったし、アイを一人の人間として尊重してくれた。でも、養子であるということも両親から明かされて育ってきたアイは、養父母の素晴らしい愛情に包まれながらも、どこか無理をしていた。養父母がこうして欲しいのだろう、と望む自分を生きている、そんな感覚がずっとつきまとっていた。そういう自分で、いなければならない、と。
アイにはずっと、私は免れた、という感覚がつきまとった。養父母に引き取られずにシリアにいたら、混乱の続くシリアで死んでいたかもしれない。自分は、たまたまそういう境遇から免れた。もしかしたら、他の誰かの幸せを奪って、今私はここにいるのかもしれない。
そういう思いを拭い去ることが出来なかった。
高校生になって、アイは、ミナと出会った。ミナはアイの最高の親友となった。
免れた、という思いを拭い去れないまま、アイは成長していく。世界では、様々な不幸な出来事が起こっている。そこの場に自分がいなかった、という事実が、アイを複雑な気持ちにさせた。
やがてアイは、恋に落ちる…。
というような話です。

良い作品だとは思うのだけど、僕にはあまり響かなかった。
アイの葛藤の半分が、僕にはどうしてもうまく理解できないからだ。

僕は、養子ではない(と思う)。だから、養子であることが分かった状態で成長してきた人の気持ちは分からない。ただ、少なくとも今の自分は、自分が養子だったとしてもどうでもいい。実の両親にも興味はないだろうし、血の繋がりの中にいられる感覚みたいなものに囚われることもないだろう。自分が養子であると、子どもの時に知ったとしても、あまり変わらなかったように思う。

そんな風に思ってしまうので、アイの葛藤がイマイチよく分からない。

アイが抱えるもう一つの葛藤は、ちょっと分かるような気がする。
「免れてきた」という感覚だ。
これも、僕の中に「免れてきた」という感覚が丸々あるわけではない。僕の場合は、良いことが起こった時に、「運が良かったな」と思う、その感覚が近いように思う。

自分の身に何か良いことが起こった時、これは自分じゃなくても良かったはずだな、と感じる。宝くじのように、本当に運の要素しかないものもそうだが、自分がある程度以上の努力をして掴み取ったものに対しても同じように感じる。これまでも同じようなことをした人はいるだろうし、僕がやらなかったとしても誰かが同じようなことをしただろう。でも、今回はたまたまそれが自分のところにやってきたのだ、と。

僕の場合、良いことが起こった時に感じることだからまだいい。アイの場合、何か悪いことが起こった時に、それが自分を回避してくれた、と感じる。これは辛いだろう。自分に良いことが起こる、というのはそうそうあるものではないが、自分以外の誰かに悪いことが起こる、というのは日常茶飯事だからだ。アイは、アイの視界に入るそういう悪いことすべてに対して罪悪感を抱いてしまう。

『ずっと、誰かの幸せを不当に奪ったような気がしていて』

養子であるという自分の境遇と、シリアという内政が混乱状態にある国にルーツがあるという事実。この二つがアイの中で複雑な反応をし、様々な経験をすることによって、「悪いことをたまたま回避してきた」「誰かの幸せを奪った」という感覚に囚われ続けることになる。自らのアイデンティティと、世界で起こっている様々な悲しい出来事を違和感なく結びつけている作品で、非常に上手い。

アイが囚われている感覚は、大人になってからのあるきっかけによってさらに悪化し、アイは自分で自分を追い詰めるような結果になってしまう。外側から見れば明らかに「幸せ」であるアイの人生は、内側から突き上げられるような葛藤との闘いの日々だった。常に、抑えきれない何かを押さえ込もうとするような日々を、アイがどう乗り越え前に進んでいくのか。その過程が実に丁寧に描かれている作品だ。

西加奈子「i<アイ>」

ニルヤの島(柴田勝家)

死んだ後のことは、どうでもいいと思ってしまう。
だから、「死後の世界」があるかどうか、というのは、僕にとってはとてもどうでもいい話だ。

人が、死んだ後のことを気にしてしまうのは何故なんだろう。
例えば「死後の世界」を信じている人にとっての「死」というのは、「僕らが生きているこの世界から離れなくてはいけない」ということでしかないのだろう。だって、「死後の世界」では彼らは「生きている」のだから。「死後の世界」を信じる人にとっては、「死」というのは、生きる場所の変化ということでしかない。

それはおかしいだろ、と僕は思ってしまう。だったら、「死」なんて区切りは要らないんじゃないか、と。生きる場所が変わるだけで、結局死んだ後も別の場所で生きているのだとしたら、わざわざ「死」なんて区切りを設ける必要はない。

僕はそんな風に考えてしまう。

僕にとっての「死」というのは、「そこですべて終わり」というものだ。生きる場所が変わるのではなく、「死」というもの境にして、僕という存在のすべてが終了する。「死」というのは、そういうものであって欲しい。だから僕は「死後の世界」など考えもしない。

ある人が、「私のことを憶えていてくれる人がいる限り、私は死んでいない」という考えを持っている、という話をしていた。なるほど、と思う。その発想は、本質的な部分でこの作品と通じるものがある。「死後の世界」の存在を否定し、死者の記録にいつでもアクセス出来る世界では、人間は永遠に死なない、と言っていいかもしれない。

しかし僕は、そういう世の中は嫌だなと思う。

内容に入ろうと思います。
とはいえ、本書は内容紹介が実に難しい。

舞台となるのは、南洋諸島のミクロネシア。そこは、「大環橋」という東西2000キロに及ぶ巨大な橋と人工島によって繋がれ、ECM(ミクロネシア経済連合体)と呼ばれる国家をなしている。この島を舞台にして物語は展開していく。
世界は今、「死後の世界」を否定している。バチカンすらそう表明したのだ。生体受像という技術によって人々は生きている間常にログが記録に取られている。そしてそのログによって、死後であっても本人の意識を復元することが出来る。そういう技術が開発されたために、人々が死を悲観したり、死後の世界を思い描いたりすることがなくなってしまった。しかしこのECMには、「世界最後の宗教」と呼ばれるモデカイトが存在し、その教義によれば、人は死んだら「ニルヤの島」に行くのだという。
日本国籍を持つ文化人類学者であるイリアス・ノヴァクは、ECMにやってきた。彼の目当ては、ボートを作り続けているという一人の老人だ。かつて読んでリジェクトした論文の祖父に興味があって、論文を書いた孫であるヒロヤをガイドに雇ってECMを廻っている。
スウェーデン人模倣子行動学者であるヨハンナ・マルムクヴィストは、トリーという現地ガイドを雇ってECM内を廻っている。ECMに棲みついているサルについて考察したり、モデカイトの儀式に参加したり…。
ポンペイ島でひたすらアコーマンというゲームを続けるベータ・ハイドリという老人。彼は、遺伝子やミームの考察から、来るべき未来を予測する。
タヤと呼ばれる男は、橋上島で働く労働者たちのリーダーである。


本書を読んで連想した作家は、伊藤計劃・円城塔・宮内悠介である。この三人の作品を読んだことがある人は、本書の雰囲気もなんとなく想像がつくだろう。この三人と同様、本書の著者である柴田勝家氏も、デビュー作とは思えない重厚で深淵な作品を送り出した。

正直に言って、この作品の全体像は僕にはうまく掴みきれない。これもまた、先に挙げた三人の作品と同じだ。断片的に理解できる部分もあるし、分かった気になっている部分もあるだろう。とにかく今は、4つが同時並行で進んでいくそれぞれの物語が、結局どう繋がったのかはイマイチ理解していない。また、ここの描写で言えば、全然理解できない部分が山ほどある。

とはいえ、凄い作品だということはとても良くわかる。民俗学の知見をベースにして、遺伝子などの生物学、プログラミングや社会科学的な分野、チェスに似た知的遊戯、宗教や伝統などなど、様々な知識を織り交ぜながら、「生きるとは」「死ぬとは」「人間とは」「遺伝子とは」「ミームとは」という問いかけをし続ける。「死後の世界」があろうがなかろうが、僕にとってはどうでもいい。しかし本書は、「科学が「死後の世界」を追い払った」という話であり、全体の設定が非常に面白いと思った。そして、4つの物語を並行で読みながら、ECMという国家の成り立ちや行ってきたことなどが明らかにされるにつれて、思っても見なかった世界観が立ち現れる過程はなかなか見事なものだなと思う。

正直、僕のお粗末な理解力では、作品全体を評価できるほど内容についての理解が及ばないのだけど、先に挙げた伊藤計劃・円城塔・宮内悠介が好きな人は間違いなく好きだろうと思うし、土着の文化と最先端のテクノロジーを融合させながら哲学的な思考をする、という知的な作品としても面白いと感じられる人はいるだろう。僕としても、こういう作品を理解できる人間になりたいものだと思わせてくれる作品だった。

柴田勝家「ニルヤの島」

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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)