黒夜行

>>2016年10月

「トランボ ハリウッドに最も嫌われた男」を観に行ってきました

理不尽には出来るだけ抵抗したい、といつも考えている。
それが自分を不利にする行為であっても、自分の価値観を脅かすような理不尽とは闘い続けたい、といつも考えている。

理不尽に抵抗することは、無益で労力が掛かる。
理不尽に呑み込まれてしまった方が、圧倒的に楽なはずだ。

しかし、「理不尽に呑み込まれたことがある」という事実を、自分の人生に含めたくない。
自分が、それが正しいと思ってやったことであれば、どれだけ世間から批判されようが、それを貫きたい、と思ってしまう。

しかし、実際にはなかなか難しいだろう。
身の回りの、狭い範囲の話だって困難を伴うのだ。
親、学校の先生、会社の上司、隣人。様々な人間が、それぞれの価値観に従って、何かしらの理不尽を要求する可能性を秘めている。そして僕らは、そんな小さな世界の理不尽にさえ、時として抵抗しきれずに呑み込まれてしまう。

それが、もっと大きな世界の話だったら、なおのこと難しいだろう。
この映画は、その恐ろしいほどの困難を成し遂げ、理不尽と闘い続けた男の物語だ。

ダルトン・トランボ。ハリウッドで最も高額な脚本家であり、つまりそれは世界で最も高額な脚本家であるということでもある。そして彼は、共産党員だった。
ハリウッドにも、共産党員を排除する動きが迫ってくる。「アメリカの理想を守るための映画同盟」という団体が、アメリカという国を共産主義から守るために、映画業界から共産党員を排斥しようと動き続けているのだ。
ダルトン・トランボを始め19名の映画関係者がワシントンへの召喚状を受け取り、内10名が聴聞会に足を運んだ。トランボを始めとする共産党員はその聴聞会において、議会侮辱罪で訴追されることとなった。
上訴すれば勝てる見込みが彼らにはあったが、しかし情勢の変化により、彼らは刑務所暮らしを余儀なくされる。出所後トランボは、ハリウッドのブラックリストを撲滅するために、「不可能だと思われていることをする」と、ハリウッドに奇策で反撃を仕掛けるが…。
というような話です。

非常に面白い映画でした。
ダルトン・トランボの凄さは、「ローマの休日」の脚本家である、という事実だけでも証明できるのではないだろうか。しかし彼は「ローマの休日」を別人の名前で出すしかなかった。「ローマの休日」はオスカー賞を受賞するが、生前彼は「ローマの休日」のオスカー像を手にすることはなく、彼の死後20年ほどして妻が受け取った。

それもこれも皆、時代のせいだ。

僕は冷戦当時の時代の雰囲気を知らない。だから、共産主義が危険視されていた理由も、イマイチよく分からない。映画関係者はことある毎に、「共産主義は身近な脅威だ」と語る。また時々登場人物たちが、「アメリカは偉大な国だ」という。アメリカの偉大さと共産主義の台頭がどう関係するのか僕にはよく分からないけど、時代の空気としては、偉大なアメリカを維持するのは共産主義は排除しなければならない、ということだったようだ。

しかし、トランボの口から語られる共産主義は、非常に平和的だ。

『お前は勝者として手を差し伸べろ。彼らにも稼がせてやれ』
『作るのは君たちだ。儲けは彼らが吸い取っている』

トランボは、正当に仕事をした者を正当に評価しろ、と主張しているだけだ。実に真っ当だと思う。また、娘に「私は共産主義者?」と聞かれたトランボは、こんな風に返している。

『じゃあちょっとテストをしよう。好物が入っている弁当を学校に持っていく。すると、弁当を忘れた子がいる。君はどうする?(シェアするわ)働けとは言わない?利率6%で金を貸さない?おぉ、ちっちゃな共産主義者だなぁ』

こういう考えが、当時は危険とされていたようだ。
もちろん、共産主義を危険視する人も、そういう意見を入り口をして、より過激な思想を持つことを恐れたのだろう。それぐらいは分かるが、しかしだからといって、共産主義的な考えを持つ人間すべてを排除しようとするのには理解に苦しむ。

『皆間違える権利はある』
『君たちは思考を罪とみなしているようだが、そんな権利はない』

トランボは、考え表現することの自由を脅かされていることそのものに怒っているのであって、その感覚は、少なくとも現代の視点からすると当たり前のことだ。しかしそんなトランボらは、共産主義を排除しようとする者から、『私たちが築き上げた映画業界を、彼らが汚しているのよ』などと表現されてしまうのだ。

時代が悪かった、というしかない。そして、そういう時代の空気みたいなものは、どんな時代にも存在する。現代に生きる僕らには、共産主義を殊更に排除しようとする風潮はおかしく見えるが、しかし当時の人にとってそれは比較的自然な価値観だっただろう。映画館から出てきたトランボに、問答無用でジュースを引っ掛けるような奴がいるのだから。しかし、そういう時代が囚われてる価値観というのは、僕らが生きていることの時代にも間違いなく存在する。そしてそれらは、多数派に属していればいるほど見えにくくなる。トランボがいた時代の空気に加担した者たちを非難するのは簡単だ。しかし僕らも今、何らかの空気の醸造に加担しているということを忘れてはならないだろう。

本書は、闘い方を教えてくれる作品だ。この点が一番面白かったと僕は感じる。

共産主義者として映画業界から排除されようとしているトランボだが、彼は偽名で脚本を書きまくるという闘い方を決断する。三流映画会社のクソみたいな映画の脚本を、仲間と一緒に書きまくったのだ。一日18時間、週に7日働くという、とんでもないスケジュールを、トランボはこなしていた。

仲間の一人はトランボに、やってられない、と訴える。悪いのは相手なのだから、裁判で闘おう、と主張する。しかしトランボは、その意見に耳を傾けない。トランボは、負け戦はしない。裁判をすれば、金が掛かりまくった上に、確実に負けることが、トランボには分かっていた。仲間の一人は、それでも正義のために闘うのならばいい、と主張して出ていってしまうが、トランボはトランボなりの闘い方でハリウッドを見返そうとする。

正義を貫くために正面突破したくなる気持ちも分かる。僕の中にも、そういう部分はある。正しいことなのだから、この主張が通らないのがおかしい、と主張し続けるために疲弊することも厭わないような精神が、僕の中にも少しは存在している。

しかし、そういう闘い方は、良い結果を生まないことが多いだろう。正義が必ず勝つというのは、それこそ映画の中の話だ。それがたとえ正義であろうとも、時代の大きな流れに逆らってその正義を通すことは容易ではない。

トランボは、書くことで闘った。トランボが偽名で脚本を書きまくったのは、チャンスを窺うためだ。それがどんなクソみたいな脚本でも、もしかしたら大当たりするかもしれない。今書いている脚本が大当たりしなくても、書き続けていればいつか大作を引き当てるかもしれない。一つ大作を引き当てれば、依頼は次々に舞い込んでくるだろう。

そうなれば、トランボの勝ちだ。

結局、素晴らしい作品に人は勝つことが出来ない。どんな思想も、どんな価値観も、どんな対立も、素晴らしい作品の前では無価値だ。トランボは、そのことをよく理解していた。書きまくってチャンスを窺い、ついにトランボは、「ローマの休日」に続いて再度オスカー賞を受賞することになる。「私の闘い方なら、奴らを倒せる」と言ったトランボの言葉は、現実のものとなったのだ。

トランボが、脚本協会賞みたいなものを受賞した時のスピーチは、最初から最後までとても良かった。特に好きな箇所を挙げてみる。

『ここでは、あの時代の英雄や悪者を探し出すつもりはない。英雄も悪者もいなかった。いたのはただ被害者だけだ』

『今ここに立っているのは、誰かを傷つけるためではない。傷を癒やすためなのです』

理不尽な圧力を受け、ハリウッドから追放されながらも、自らの才覚で這い上がったトランボ。彼はそれを、「私たちは名前を取り戻しだ」と表現したが、そんなしんどい人生を歩まされながらも、彼は誰かを非難したり貶めたりしない。これも、まさに共産主義的な考え方と言えるのではないか。誰もが同じで、仲間であると。お互いに痛みを分け合った者として、これからきちんとやっていこう。彼のスピーチからは、彼のこれまでの人生を貫く考え方が滲み出ているような感じがした。

トランボと家族の関わりも、とても良い。
トランボは、刑務所に入る前は穏やかで家族想いだったが、刑務所から戻ってくると、四六時中仕事に追われ、家族を怒鳴り散らし、家族にも無理やり仕事を強要するようになった。彼は、失われたものを取り戻すための闘いに挑んでいたが、しかしそのために、家族というもっと大切なものを失うところだった。

先のスピーチの中でトランボは、妻が家族をつなぎとめてくれた、と妻の苦労をねぎらった。まさにその通りで、妻の献身がなければ、トランボはとっくに家族を失っていただろう。妻がトランボに対し優しく苦言を呈すシーンと、その後に続く娘を迎えに行ったシーンは、非常に良かった。

映画のエンドロールで、実際のトランボがインタビューを受けている映像が流れていた。そこで彼が語っていた話も、家族との関わり合いを示すとてもいいものだった。
「ローマの休日」のオスカー像をもし手にしたらどうするか?と聞かれて、トランボはこう答える。

『私には13歳の娘がいる。3歳の頃に私がブラックリストをした。彼女は私が書いたすべての脚本のタイトルを知っている。しかし、今まで一つも口外しなかった。戦士だ。お父さんは何をしてるの?彼女はそう聞かれる度に危機に陥っていた。3歳の頃からだ。もし私が「ローマの休日」のオスカー像を受け取ったなら、彼女にあげるだろう』

時代の空気に背き、自らの信念を貫き通した一人の男が、仲間や家族と共にいかに闘い、名誉を取り戻していったのか。ドラマチックな人生に隠された様々な悲喜こもごもを描き出す、実に良い映画である。

「トランボ ハリウッドに最も嫌われた男」を観に行ってきました



「オーバーフェンス」を観に行ってきました

日常は、退屈の連続だ。

『食ってくのって、めんどくさいことだと思いません?』

何が起こるわけでもない毎日を、ただダラダラと過ごしていく。何かあるようなフリをして、楽しいことがあるかのように笑って、未来のことは考えないで目の前の今に寄り添って生きる。仕方ないんだ、なんてことさえ思わなくていいようにバカなことばっかりして毎日を埋めていって、そうやってますます毎日は退屈になっていく。

『今の内にたくさん笑っといた方がいいよ。その内楽しいことなんて何にもなくなってくるから。すぐだよ、すぐ。ただ働いて、飯食って、死んでいくだけ』

どれだけ幸せそうに見えても、どれだけ普通そうに見えても、人は人生の中に退屈を見つけ出す。キュビズムのように、あらゆる角度から自分の人生を見つめて、一枚の絵の中に、折り合わないはずの様々な視点を盛り込んでは、そこに退屈を見つけだす。

退屈に慣れてしまう人もいる。退屈と真っ向勝負を挑む人もいる。退屈に取り込まれる人もいれば、退屈に嫌われる人もいる。人生は何らかの形で、退屈との関わり合いの結果だ。

『今日から自分が変われるかもって思ってたのに。もう死んだみたいに生きなくてもいいって思ったのに』

退屈に支配された日常は、変化を求める。その変化が、退屈を取り去ってくれると信じて。自分の人生の色が少しは明るくなるんだと信じて。

そういう希望にすがるしか、僕たちは生きていくことが出来ない。

舞台は函館。東京を離れ、故郷である函館に戻ってきた白岩は、職業訓練校で大工になるための訓練を受けている。函館に戻ってきて三ヶ月。離婚し、子どもと離れ離れになっている。
職業訓練校に自転車で通い、帰りがけに弁当とビール2本を買って帰る毎日。何があるわけでもない。休日は、教官に言われた通り道具の手入れをする。
ある日、同じ科にいる代島に誘われて夜の店へ。そこで出会ったのが、聡だった。弁当屋の前でダチョウの求愛を全身で表現していた、あの女。白岩は聡と関わるようになっていくが、情緒が安定しない聡との関わり合いは、白岩には掴みどころがない。夜の遊園地で飼育されている動物のことを陽気に話していたかと思えば、情事の後で奥さんとのことについて詰問される。
自分のことを普通だと思っていた男と、必死で何かを掴もうとする女。壊す者と壊れた者が、生きていくためにもがいていく。

これは好きな映画だった。物語はほとんどないと言っていい映画なので、感想として書けることは多くはないが、ずしりと来る良い映画だったと思う。

映画が終わった瞬間、「ここで終わるんだ」と思った。これには、二つの意味がある。一つは、物語がここで閉じたとは感じられなかった、という意味。悪い意味ではない。先程も書いたが、この映画には物語らしい物語はほとんどない。人間の関係性が、「そこにある」というような形で描かれていく。人間の関係性が物語のためのパーツとしてではなく、「そこにある」というようなものとして描かれていく。始まりも終わりもない。ただ、映画である以上、どこかで区切らなければならない。そんなことを意識して見ていたわけではないのだけど、映画が終わった瞬間、なるほどここで終わるのか、と思った、

もう一つは、2時間経ったと感じられなかった、という意味だ。映画が終わった時、物語的にではなく、時間の感覚としてまだ映画は続いていくと思っていた。映画が終わった時、既に2時間経っていた、ということがとても意外だったのだ。同じ2時間の映画でも、長く感じるものもある。この映画は、とても短く感じた。まだまだ全然観ていられる、と感じた。

不思議な映画だ。映画は、実にゆったりと作られている。映画の中に、パリッとして動く人間はほとんど出てこない。大体みんな、ダラっとしている。映画の中の時間も同じようにダラっとしている。濁った水は少し重たそうに見えるものだけど、そんな風に、映画の中に流れている時間も重たくダラっとしているように感じた。時間そのものが、濁っているような雰囲気を漂わせていた。

物語の展開が早く、あっという間に2時間経った、というのとは全然違う。むしろ真逆で、時間は実にゆったりと流れているのに、時間の経過をあまり感じさせない映画なのだ。不思議な感覚だなと思う。

時間まで濁っているような世界の中で、鯉のように鮮やかに見えるのが聡だ。夜の店でドレスを来た聡は美しく、動物の行動を真似する動きは人を惹きつける。しかし聡は聡でまた、濁った部分を持っている。遊園地でジャージのような格好で働く聡からは、色彩は感じられない。

『これやらないと、身体が腐る気がして』

何かに蝕まれているかのように陽と陰を明滅させる聡。一方で、何もかもが丸く収まるようにそつなく行動してしまう白岩。二人の関係は、言葉を超えた部分で成り立ち、相手の何がどう自分を惹きつけるのかはっきりと分からないまま、お互いの存在が人生に入り込んでくる。

『お前はさ、自分のことぶっ壊れてるって言ってたけど、俺は壊す方だからさ。余計質が悪いよな』

人生に聡が入り込んでくることで、白岩は、他人と関わることの怖さを少しずつ手放していくように見える。

一皮めくれば、どす黒いもので満たされている。そんな予感を感じさせる日常を実に見事に描き出しながら、そんな日常の中でどうにか息をし続ける人たちを切り取っていく。特別に辛いことも、特別に良いこともないまま、僅かな揺らぎを観る者が勝手に増幅させるようにして物語が閉じていく。他のものでも代替可能な意味のないセリフで構成される日常から放たれる湿ったような臭いと、生と死を内側に取り込んで腐らせているような甘ったるい匂いが交じり合う世界が突然ぶつりと途切れるラストは、なかなか得られない感覚を与えてくれる。

「オーバーフェンス」を観に行ってきました



平成紀(青山繁晴)

解説で、「週刊文春」の元編集長が、女子高生からもらった手紙の話を書いている。

『今、新聞が連日、陛下の病状のことをこと細かに報じている。実は二ヶ月ほど前に亡くなった自分の母も陛下と同じ病気だったが、本人には本当の病名は告知せずに隠していた。母だけに隠していたことが自分には辛かった。
ところがこのところ、毎日、新聞が陛下の病状を報じている。同じ病気で療養中の母が新聞を読んだら、自分が陛下と同じ病気だということを知ってしまう。
日本全国にはきっと同じ病気で治療中の人がたくさんいるであろう。陛下の病状を新聞はここまで詳しく報道する必要があるのだろうか。』

なるほど、と思わせる手紙である。実際にこの手紙は匿名で「週刊文春」に掲載され、大きな反響を呼んだという。

報道、というものが、イマイチよくわからなくなることがある。その感覚は、報じる側の人間も抱いているようだ。

『天皇陛下も、われわれと同じくいつかは来るべき時を迎えられます。その自然なことが、それほどまでに大ニュースなんですか』

昭和天皇が亡くなる日を「Xデー」と呼び、各社が報道合戦を繰り広げようとしている。まさにその最中にいる、ある記者の言葉だ。それに対して上司はこんな風に答える。

『しかし、あの天皇だからね。第二次世界大戦、戦後日本の復興いずれを考えても、この国だけじゃなく世界にとって存在感が違う。これほどニュースバリューのある人は他にないだろう』

そうやって、「Xデー」についての報道が加熱していく。

日本では、通信社2社に所属する新米の政治記者が交代で「総理番」をする習慣があるという。朝から晩まで、ただひたすら総理のあとをついていって、その様子を各社マスコミに報告するのだ。その役割について、先と同じ人物がこんな風に話す場面がある。

『総理大臣が、どんな個性かということが、われわれの祖国と国民の運命に関係があるから聞いてるんだ。
その個性は、どうやって判断するんですか。寝起きから始まって、公私にわたる生活をなるべく広く深く、申し訳ないけど、記者がチェックして、国民の判断の材料にする以外に方法がありますか。チェックを政府機関がやるのでは意味がない。われわれがやるしかない』

なるほど、そういう理屈もあり得るのかと思った。同じ記者が同じ理屈を、新元号の制定の過程を知りたいと訴える際にも語っていた。

恐らく報道側には、それを報じる理屈みたいなものがどんなものに対しても用意されているのだろう。それがどれだけ無理のある理屈でも、報じる側はそういうスタンスで取材に臨む他ない。

しかし、どんな報道にも、報じるべきではないという倫理観も同時に存在する。

事件報道は、身近な例の中ではその両者がくっきりと表れている例だろう。

殺人や傷害などの事件は、「どういう事件が起こったのか伝える」「犯人は逮捕されたのか知らせる」「同じような事件を繰り返さないために何が出来るのか考える」というような意味において重要なものだと思う。加害者に一定以上の社会的制裁を与える、という意味でも重要だろうか。誘拐などのリアルタイムの犯罪でなければ、事件を報道する必然性というのはあると僕は思う。

しかし、現代の事件報道は行き過ぎる。被害者や被害者遺族のプライバシーを徒に掘り返したり、模倣犯が出てもおかしくない手口をあっさりと報じたりと際限がない。事件報道が担うべき役割をあっさりと踏み越え、報じる必然性があるのかどうかがまともに判断されないまま、入手した情報が話題になるかどうかで報じられてしまう。

もちろん報道というのは、知りたい人間がいるからこそ成り立つものだ。報じる側も、その情報を知りたいと思う人間がいなければ、どんな情報であれ報じることはないだろう。そういう意味で、報じる側の暴走の責任の一端は受け取る我々の問題だ、と言うことは出来る。

鶏が先か卵が先か、という問題になってくると議論が進まなくなる。しかし僕は、やはり報じる側にもう少し考えの転換が必要なのではないかと思ってしまう。公式発表の9分前に事実を知って速報を打ち、それが歴史的特ダネだ、などと言っている感覚は、僕にはイマイチ理解できないのである。

内容に入ろうと思います。
今はアメリカの投資会社の東京支社で働いている楠陽は、かつて通信社の記者として、天皇崩御の取材に携わったことがあった。ふとしたきっかけから、天皇崩御取材の際の取材ノートを読み返してみた楠は、あの当時社会がまとっていた異様な空気感を思い出す。
楠が天皇崩御の可能性に行き当たったのは、総理番として張り付いていた中曽根首相のとある講演でのことだった。中曽根首相は講演の中で、話の脈絡から外れる形で「天皇陛下は天空に燦然と輝く太陽のごとき存在であります」と発言した。楠はこの発言から、天皇に何かあったのでは?と感づくのだ。
総理番として、時期総理の動向などに振り回される日々の中で、楠は突如天皇崩御の「Xデー」の取材に組み込まれることになった。彼に与えられたミッションは四つ。「天皇の容態を完全に把握すること」「天皇崩御を発表前にどの社よりも早く報じること」「昭和に変わる元号が何で、誰が考案したのか」「内閣が準備している、天皇崩御に関わるマニュアルを入手すること」である。楠は、「赤錆」と呼ばれている、口の固い政府高官の元へ日参することにした。
マスコミ業界の古い体質や、「Xデー」の報道に関する時代の空気なども切り取っていきながら、天皇崩御はいかに報じられたのか、そして「平成」という元号制定の背景には何があったのかを、かつて楠陽と同じ立場にいた著者が自らの経験を元に書き上げた小説。
というような話です。

なかなか面白い作品でした。新聞記者が主人公の小説というのはさまざまにありますが、天皇崩御を主軸に持ってくる作品というのはなかなかないのではないかと思います。本書は、「Xデー」報道の中心にいた記者自身が書いている作品だ。そのリアリティは相当なものだ。

政治家や政府高官らに対する取材は、相手の微妙な機微を読んで対応しなければならないのだろう。経験はないが、本書を読むとそういう印象を受ける。そして天皇崩御というのは、政府としても出来るだけ隠したい、というか公にしたくないことだろうから、通常の取材よりもさらに困難になると言えるでしょう。実際に、楠が赤錆を攻略していく過程は、とにかく時間の積み重ねの勝利、という感じで、一筋縄ではいかないです。

読みながら、冒頭で書いたような、報道することの役割、みたいなものを強く感じさせられました。天皇崩御の報道にどういう価値や意味があるのか。報じることによるプラスは、報じることによるマイナスを上回るのか。そのプラスとマイナスは、誰のためが基準になるのか。そういうことをはっきりと考えないまま、注目される話題だから、という理由で報道が加熱する。主人公の楠はその状況に対する違和感を覚えている。

しかし主人公は一方で、国民が国のあり方を正しく判断するために情報を伝えるべきだ、報道はその役割を担っているのだ、とことある毎に繰り返す。その信念に偽りはないだろう。そのために、一日中総理のあとを付け回し、新元号の考案者だろう人物の取材を続ける。確かに、報じる人間がいなくなれば、僕らには政治や国のことは何も見えなくなってしまう。何が起こっているのかをきちんと知り、その上で判断するという土壌を作るために報道は存在する、そういう信念を持って取材を続けている主人公には好感が持てる。

情報が僕らのところに届くまでに、取材した人間の気持ちなどは削ぎ落とされてしまう。話題になるからと言って取材した人間の記事も、国民が知るべきだと思って取材した人間の記事も、同じように僕らの元に届く。だから、受け取る側の僕らも、何が必要な情報で何が不必要な情報なのかを、もう少し広い視野で考えられるようにならなければならないだろう、とそんなことを考えた。

物語は、比較的淡々と進んでいく。総理番をしていても、新総理の動きはイマイチつかめない。赤錆の元に日参しても、あまり喋ってはもらえない。楠が手がける取材は、遅々として進まない。そういう中で、報道という業界のモラルの低さが露呈する出来事がいくつか散りばめられる。正義を追及したり、真実を追い求めたりする立場にある報道側のモラルの低さもまた、この作品を通じて著者が伝えたかったことかもしれない。

淡々と進む物語のラストに、「平成」という元号に隠された秘密が明らかにされる。これが本書のクライマックスだろう。それまで描かれてきたいくつかの事柄が一気に繋がっていく。「平成」という元号はどんな背景を持って生まれ、その元号を巡ってどんな動きがあったのか。本書で書かれていることは恐らく、著者自身の推測なのだろうが、自信を持っているからこうして小説の中で書いたのだろう。しかし、完全な確証はなかったからこそ、ノンフィクションには出来なかった。この作品は、そういう理由から小説として出版されたのかな、と思う。

昭和が去る瞬間、まだ6才だった僕は、当時を取り巻く雰囲気を覚えてはいけない。覚えている人が読めば、より濃い形で本書を楽しめるかもしれない。天皇の生前退位が話題になっている今、改めて昭和天皇の崩御について知るのも良いのかもしれない。

青山繁晴「平成紀」

警視庁心理捜査官(黒崎視音)

内容に入ろうと思います。
捜査一課に所属する吉村爽子は、新設された「心理応用特別捜査官」という立場にある。いわゆるプロファイリングをする役割で、FBIでの研究を元にして、特に異常犯罪者の犯人推定を行う。
しかしプロファイリングによる捜査を、捜査一課の刑事たちは信用していない。一匹狼で上昇志向が強い彼らは、そういう志向を持つからこそ犯人検挙が出来るのだが、しかしそれゆえに物事を見る視野が狭くなることもある。彼らにとって殺人の動機は痴情・怨恨・男女関係のもつれのどれかであり、殺人を快楽として犯す者が存在することを、まるで理解していない。
台東区蔵前の狭い路地で、異様な死体が発見される。うつ伏せの状態で奇妙な格好をさせられている女性の死体。爽子も現場に臨場し、性的殺人という見立てをしている。爽子は、幼い頃、知らない男の悪意に晒された経験があった。爽子が刑事になったのは、特にそういう性的殺人に対峙したいと考えたからだ。
捜査本部に心理捜査官として組み込まれた爽子だったが、27歳ながら小柄で童顔な女性であることも相まって、爽子の心理捜査官としての発言は蔑ろにされてしまう。所轄の巡査長である藤島直人と組むことになった爽子は、痴情や怨恨などに傾く捜査本部の方針に逆らうようにして犯人を追おうとするが…。
というような話です。

思ってたより遥かに面白い作品でした。なんとなく、「異常犯罪者vs警察」みたいな話なんだと思ってて、それはそれでまったく興味がないわけではないんだけど、別にいいかと思っていた本でした。でも実際は本書は、「警察組織vs個人」だったり、あるいは「警察腐敗vs正義」だったりと、より普遍的な対立が描かれているという感じがして、ただ「異常犯罪者vs警察」の話よりは遥かに面白い作品だと思いました。

爽子の造形がまず面白い。ありがちではあるけど、男社会の中で、しかも超童顔というだけでも十分苦労するだろうに、さらに彼女は心理捜査官という立場で捜査本部に入っている。足で稼ぐ捜査に重点を置く現場の刑事や、出世のため失態を犯さないことだけに執心するようなキャリアは、心理捜査官である爽子の意見を軽んじるのだ。爽子にしても、心理捜査官としての実戦らしい実戦は今回の事件が初めてなのだ。爽子にとっては、相当ハードルの高い環境だ。設立間もない頃に、爽子ではない心理捜査官が大きなミスをしたようで、そのことも捜査一課からの心理捜査官への不信へと繋がっている。

そういう、超アウェーな環境にいる爽子はしかし、少ないながらも信頼できる仲間を少しずつ見つけて、自分の考えの正しさを証明し、周囲に認めさせていく。男たちが、保身や見栄や組織の理屈で見当違いなことを言っている中で、真っ当な方針を立てて犯人を追い詰めようとする爽子。捜査本部は次第に、爽子の意見を受け入れざるを得なくなっていくのだけど、マイナスからのスタートだった爽子がいかにして、警察というガチガチな組織の中で戦っていくのかというのは読みどころの一つだ。

さらにその過程で、周りからどんなバックアップを受けるのか、というのも面白い。特に、爽子の上司である柳原明日香の活躍っぷりは凄い。この作品で描かれる事件は異常犯罪者によるものなのだけど、話の流れの中で、日本の国家機密級のとんでもない話が飛び出してきて、捜査本部でも扱いに難処する、という場面がやってくる。柳原は、その辺りのゴタゴタの中で絶妙な駆け引きを行い、事件の背後に潜む闇を掴んだり、状況を一変させるような手を打ったりする。爽子は爽子で、様々な場面でかなり危ない橋を渡るのだけど、柳原も見えないところで人知れずかなり危ない橋を渡るのだ。それが、部下を思う気持ちから生まれている、というのもとても良い。

この作品は、異常犯罪者に対処出来ない古い捜査本部と、それに対抗しようとする幾人かの個人の物語だ、と言っていいだろう。従来の捜査方法が通用しない異常犯罪者を相手にして、歴戦の強者が集う捜査本部は苦戦を強いられる。しかし、メンツとプライドはピカイチである彼らは、自前では捜査方針の変更や組織の論理からはみ出した行動を取ることが出来ない。そんな硬直した状況を、そもそも心理捜査官という別の立場で参加している爽子だからこそ、組織の論理を超えた形で関わることが出来るし、そんな爽子のあり方を見て信頼していく人たちもまた、爽子と共闘していくようになる。警察組織vs個人、みたいな作品は他にもあるが、本書はそれがかなり色濃く現れていると感じる。

組織側の人間も、もちろん犯人逮捕に全力を尽くす。その動機が功名心であろうがなかろうが、犯人が逮捕されれば良いと僕は思う。しかし組織側の人間は同時に、保身にも走る。組織を守るための行動も取るのだ。先程も触れたが、この作品では、捜査本部でどう扱うべきか判断の難しい案件が絡んでくる。犯人逮捕を最優先にしながら、彼ら組織側の人間は、扱いにくい案件をうまく使い切れない。つついて問題が起こるよりも、そこをつつかずに捜査を続け、それで犯人逮捕が出来なければ仕方ない、という論理を組み立てようとする。その案件は、警察の腐敗と関係するものだが、そういう積極的に腐りにいく者だけではなく、腐っているものに蓋をしようとするものもまた腐っていると言える。そういう二つの意味で、本書では警察腐敗が描かれる。

巨大な組織を前にして、個人はあまりに無力だ。抵抗し、奮闘し続けることは、無意味な結果しか生まない、ということも多いだろう。しかしそれでも、その状況で闘い続ける者もいる。そういう人を応援したくなる気持ちになるものだし、本書の場合も、巨大組織の中で塵芥のように翻弄される爽子に肩入れしたくなるだろう。本書は、心理捜査官が異常犯罪者と立ち向かう物語としてだけではなく、組織の中の個人が超巨大組織に立ち向かう物語として読んでも面白いのだ。

親本が2000年、文庫が2004年の発売なので、描写が古い箇所もある。携帯電話などはまだまともに普及していない頃の話だ。もちろんテクノロジーだけではなく、組織の中における女性の扱いなどの価値観も、今と比べてかなり古い時代の話だ。多少違和感はあるかもしれないが、ストーリーを読ませる力に溢れているので、そういう古さを特別気にせずに読むことが出来る。

ラスト、爽子がするある決断についてはどうにも理解し難くて、ちょっと無理があるなぁと思ってしまった。著者なりの理屈はあるのだろうが、僕には、物語を盛り上げるために主人公にそういう行動をさせた、という風に思えてしまった。個人的にはその点が少し残念ではあった。しかし、全体としては、これだけのページ数の作品を一気読みさせる、非常に面白い作品だと思いました。

黒崎視音「警視庁心理捜査官」



君はレフティ(額賀澪)

僕は、人が死んで悲しいと思ったことが一度もない。
僕は、子どもを見て可愛いと思ったことが一度もない。
僕は、基本的に人間に対して興味を持つことが出来ない。
僕は、…。

そういう自分に気づく度、僕は人知れず動揺してきた。
一番怖い、と感じたのは、人が死んでも悲しいと思えない自分を発見した時だ。始めてそのことに気づいた時は、自分は頭がおかしいんじゃないか、と思った。人間として、大事な何かが欠けているんじゃないか、と思った。怖かった。
小説を読んでもドラマを見ても、知っている人間が死ねば、悲しいというのに近い何らかの感情が生まれるのだ、ということは知識として知っていた。身近な人間が死ぬまでは、きっと自分にもそういう感情がやってくるんだろう、と思っていた。いや、思っていた、なんていう能動的なものではない。「人が死んでも、自分には悲しいという感情が浮かんでこないかもしれない」なんて想像する余地もないほど、それは当たり前のことだと思っていた。

その後も、周りで人が死ぬ話をちらほら耳にする。日常的に会っていた人が死んだ、ということは今までないから、ただ距離感の問題である可能性もまだゼロではないだろうけど、僕は、人が死んでも悲しいと思えない自分を、少しずつ受け入れていった。

昔から僕は、周りの人間と感覚を合わせるのが難しかった。
周りにいる人が「面白い」と感じることを、どうも面白いと思えなかった。そして、僕が「面白い」と感じることを面白がる人は、周りにはいなかった。別に意識して周りから外れようとしていたわけではない。子どもの頃は今と違って、輪の中からはみ出すことを極端に恐れる人間だったので、出来れば周りの人と感覚が合えばいいのに、と思っていた。

自分の内側にあるものと、周囲の人の内側にあるだろうものの乖離は、時間とともにどんどん激しくなっていくような気がした。僕は少しずつ怖くなっていった。このまま、周りにいる人間と同じようなフリをして大人になっていったら、いずれ息苦しくて死んじゃうんじゃないか、と。周りにいる人が海を目指していて、僕も一緒になって海を目指しているとする。周りにいる人はウミガメだから、陸地も海も大丈夫。でも僕だけ実はリクガメで、そのことに気づいていないから、このままみんなと一緒に海に突っ込んだら、僕だけ溺れるんじゃないか…。

みたいなことを言葉で考えていたわけではないけど、感覚的にはそういうのに近いことを僕は思っていたのだと思う。だから、ウミガメの集団から脱落することにした。みんなが海を目指している中、海を目指さない生き方をすることに決めた。自分がリクガメなのか、ウミガメなのか、はっきりと分かっていない状態でその決断をするのは、ちょっとは怖かったと思う。でも、結果的には正解だったと、今の自分は思う。

そんな風にして僕は、「普通」から離脱した。
基本的に僕は「普通」という言葉は好きではない。ただ、「普通」という言葉でしかニュアンスの掬い取ることが出来ない感覚というのが僕の中であって、そういう時だけ意識して「普通」という言葉を使う。

「普通」の中にいる方が楽なこともある。「普通」というのは大抵、多数派だ。「普通」の価値観を持っていればいるほど、同じ価値観の人が多い。それは、希望するモノや環境が整いやすかったり、何かやる時の協力者が見つかりやすかったりと、生きていく上で都合がいい状況を得やすい、ということでもある。それは、生きていく上での負担を軽減させる。その一点のみにおいて、「普通」を羨ましく感じることはある。

ただ、「普通」であることの怖さというのを僕はよく感じる。「普通」であるということは、同じ価値観を持つ人間が多いが故に、自分がその価値観を何故持っているのか?という部分に思考が向かなくなる。みんながそうなんだから、それでいいじゃん、という感覚で自分の価値観を捉えてしまいがちになる。
思考を経ない価値観が、自分の人生のベースとなる、という状況が、僕には恐ろしい。

僕は、自分で考えて、自分なりにきちんと構築した価値観をベースにして、自分の人生を組み上げたい。自分で構築した価値観であれば、どこが脆弱で、どこが強固で、どういう場合にどういう修繕をすればいいのか理解しやすい。自分で設計した家なら修繕がしやすい、というようなことを同じイメージだ。

しかし、思考を経ない価値観をベースに自分の人生を組み上げてしまうと、何かあった時に脆い。自分の人生のベースとなる価値観の脆弱な部分も強固な部分も知らないまま、どこかに大穴が空いた時の修繕方法も知らないままで生きていく怖さを、僕は感じてしまう。

意識的にせよ無意識的にせよ、「普通」から外れた人間というのは、このベースとなる価値観の構造を把握している人が多い印象がある。だから個性が生まれるし、(僕から見て)人間的な魅力が生まれるのだと思う。そういう意味で僕は、「普通」から外れた人間が好きだ。価値観が合うかどうかは、問題ではない。価値観そのものは、合わなくてもいい。意識して自分の人生のベースとなる価値観を構築しているかどうか。それが、僕が人間を見る時の一つの指標となっている。

「普通」から外れた自分に気づく瞬間というのは恐ろしい。今となってはどうということはないが、以前はいちいち不安を感じていた。しかしそれは、自分を支える価値観の構造を把握する第一歩なのだ。「普通」に馴染めないでいる人には、そのことをチャンスだと捉える見方もあるのだと言いたい。

そういう意味で僕は、記憶をなくした人間とも、それなりに上手いことやっていけるんじゃないかと、本書を読みながら思っていた。

内容に入ろうと思います。
夏休み中の八月十一日。沖浦という大きな湖に掛かる橋を自転車で渡っている時、古谷野真樹は湖に転落した。その事故のせいで彼は、全生活史健忘という、経験は忘れているが知識は覚えているという記憶障害を負うことになった。
夏休み明け、クラスメイトのほとんどを記憶していない古谷野は、しかし、学校が始まる前に会った二人だけは認識できた。生駒桂佑と春日まどか。部員三人だけの写真部のメンバーであり、この三人は古谷野が記憶を失う以前、よく一緒にいたのだという。彼らとどんな関係だったのか、どんな会話を交わしたのかなど、とにかく何も覚えていない真樹だったが、記憶を失った古谷野に、恐らく記憶を失う前と変わらないような接し方をしてくれているだろう二人に支えられながら、二学期の高校生活をスタートさせることになった。
学校は、十月上旬に行われる雄翔祭という学園祭の準備に突入する頃だった。古谷野がいる二年五組は教室内で縁日を再現することになっていて、さらに写真部は写真部で展示の準備があり、皆大忙しだ。
そんな中、不可思議な事件が起こる。事件とも呼べないようなものだが、校内で「7.6」(あるいは「7・6」)という数字が頻繁に現れるようになったのだ。体育館の壁にチョークで書かれたものやクラスの黒板に書かれたものなど、様々な形で「7.6」は現れた。
誰が何の目的でやっていることなのかまるで分からなかったが、次第に古谷野はこの「7.6」を自分に向けられたメッセージなのではないか、と考えるようになっていく。
過去をまったく覚えていない古谷野は、様々な人間と関わる中で「忘れてしまったこと」を取り戻していく。そうした中で古谷野は、「記憶を失う以前の古谷野」に様々な形で出会い、そして今の自分と比較してしまう。自分は本当はどんな人間だったのだろうか?生駒も春日も、自分のことをどんな風に見ているのだろう?「7.6」の落書き事件を考える過程で、記憶を失った自分自身について思いを馳せる機会が多くなった古谷野は、やがて「7.6」の落書き事件の犯人を指摘するに至るが…。
というような話です。

非常によく出来た物語だな、と感じました。
全体の設定の話で言えば、主人公が記憶を失っているという点が、物語の中で非常に重要な要素として再度立ち現れる、という構成が非常に巧い。記憶を失った、という事実は、古谷野にとっては一つの「結果」でしかなかった。古谷野にとっての問題は、記憶を失ったという「結果」をどう受け入れていくか、ということであり、もちろんこれは作中で繰り返し問われることになる。

しかし、記憶を失ったという事実は、ただそれだけのものではない。それは、「きっかけ」でもあった。誰にとってのどんな「きっかけ」なのかは書かないが、古谷野が記憶を失った、という事実が、これほど波紋を広げることになるとは、古谷野は想像も出来なかっただろう。

ここで示唆しているのは、本書の最も核心的な部分なので、あまり多くを語ることが出来ない。しかし、古谷野が記憶を失ったという事実は、古谷野にとっては「結果」であり、誰かにとっては「きっかけ」であり、さらにその事実が、結果的に(という表現はおかしいが)この作品をミステリという枠組みに収まるような働きをしているという点が、僕は非常に面白いと思った。古谷野が記憶を失った、というのは、単なる設定ではない。本書の物語を支える屋台骨とも、物語を推し進める原動力とも密接に結びついた要素なのだ。それがこの物語を魅力的にしている。

この物語は最後、『でもこれは、俺の誇りなんだと思うことにする』というセリフに収束していく。これに連なる古谷野のセリフは、とても良い。絡まり合って解けないように見える混沌を脱することが出来るような希望が籠もったセリフで、物語の終盤をパッと明るくさせるような力を持っていると僕は感じた。

誰かが誰かを思う気持ちが様々なグラデーションを伴って重なり合い、絶妙なすれ違いを繰り返しながら元いた場所に戻っていく。足踏みと遠回りによって、失ったものもある。しかし同時に、得たものもある。全体としては、ほんの少し前進した、と言っていいかもしれない。

彼らは、どちらが良かったと感じているだろうか。古谷野が記憶を失う前と、記憶を失ってからあらゆる決着がついた後とでは。どちらにも苦しさがあり、温かさがある。個人的には、決着がついた後を好ましく感じていて欲しい。みんなで苦いものを飲み込んだからこそ生まれる関係性あるとすれば、それは、決着がついた後の方がより強固だろう。彼らなら、そこに希望を見出してくれるのではないか、と思う。

個人的な好みで不満を言うとすれば、物語の中にほとんど「悪意」がなかった、という点がある。「悪意」を必要とする物語ではないことは理解できる。しかし、個人的な趣味でいえば、「悪意」が少しでも発露されている物語が好きだし、記憶を失って復帰した同級生に対して何らかの悪意が発露される箇所がある方がよりリアルに感じられたかもしれない、とも思う。繰り返すが、もちろん、「悪意」を必要とする物語ではない、ということは理解している。

この文章を読んでも、どんな物語なのかうまく想像出来ないだろう。出来ないように書いているからいいのだが、本書の魅力もうまく伝わっていないとしたら残念だ。核心の部分に触れないとすればこういう書き方をするしかないのだが、書いていて自分でももどかしい。
自分の内側から溢れ出そうになっている気持ちを抑え込まなければならない。そういう経験を持っている人なら、この物語はきっと響くに違いない。

額賀澪「君はレフティ」

「セトウツミ」を観に行ってきました

非常に斬新な映画である。
ほとんど、喋るだけで終わる映画だ。
そして、メチャクチャ面白かった。

先に内容をざっと書いておこう。内容と言うか、書けるのは設定ぐらいなものだが。

セトというちょっとダラけた男と、ウツミという秀才、二人の高校生が、ひたすら川辺でダベっているだけの物語だ。特に何か起こるわけでもない。場面が移ることもほとんどない。ただひたすら、絶妙な距離を保ったまま座り、時にマックを食べながら、時に川をぼーっと眺めながら、ただただ二人で喋っている。喋っている内容も、中身があるわけではない。その場で思いついたような、本当にただの雑談を、ひたすら繰り広げているだけ。

そんな映画が物凄く面白かった。

そもそも僕は、何かするだけの物語、あるいは何も起こらない物語、というのが好きだ。もちろんそういう物語にもつまらないものはある。ただ、中にはとても面白いものもある。そして、同じことをしているだけ、あるいは何も起こらないのにこんなに面白いのか!という衝撃が加わる分、より面白く感じられるのだ。

「セトウツミ」は、喋っているだけだし、何も起こらない。二人の空気感をただ感じるだけの物語だ。それが、とてもいい。そこにある何かを描く、というのではなく、ドーナツの穴のように、そこにない何かに意味を持たせるような物語で、物語全体の雰囲気がとても好きだと思った。

二人の会話を扇動するのは主にセトの方だ。セトがひたすら、くだらないことを言い続ける。ウツミは、そんなセトの話に何かを返す。その返しに、セトがまた反応する。ただそれだけなのだが、そのやり取りの妙が見事だと思う。

この演技は難しかっただろうなぁ、と勝手に思う。
演技について詳しくはないが、この映画では体の動きはほとんどない。セトの方は表情や感情などが顕わになることもあるが、ウツミにはそれもほとんどない。本当に、会話だけで物語を成立させなければならないのだ。
どんな役者もそうしているだろうが、この映画では特に、相手のセリフを聞いたからこそ自分がこれから言うセリフが思いついた、という風に思わせなければならない。そうでなければ、二人の関係性がリアルに見えないのだ。セリフと、やり取りによって生まれる関係性こそがこの映画の核となるのだから、そこは徹底的に追求しなければならないし、少しも疎かに出来ない。そして主演の二人は、その高いハードルをきちんと乗り越えて、本当にただ思いつきで喋っているかのような雰囲気を見事に醸し出しているように感じられた。役者の高い演技力が、この作品を根底から支えているのだ、と感じた。

物語について触れると、この映画は、物語の隙間だけで出来ている、と言えるかもしれない。
普通物語というのは、スタートとゴールが直線で結ばれたようなものを指す。スタートがなかったり、あるいはゴールがなかったり、あるいは直線ではなく曲線だったりと様々なバリエーションはあるが、物語というのはそういう、始まりと終わりが何かで結ばれているようなものと考えるのが一般的だろう。

しかしこの映画には、始まりも終わりもないし、だからこそ始まりと終わりを繋ぐ何かも存在しない。
じゃあこの物語は何なのかと言うと、物語からあぶれたもので出来ているのだと思う。

スタートとゴールを結ぶ、と先ほど書いたが、その結ぶための線は点線のイメージだ。主人公やその周囲の人の人生すべてを物語で描くわけではない。場面場面を切り取って描き出していく。だから始まりと終わりを繋ぐものは、それが直線であれ曲線であれ点線になる。

そして「セトウツミ」は、その点線の隙間だけで構築されている、と思うのだ。
どんな物語においても、それぞれの場面や描写には、全体における役割があると思う。この場面は主人公とライバルの微妙な関係性を映し出すところ、この描写は主人公と家族との関わりを切り取るところなど、どんな些細な部分にも著者や監督の意図する役割が与えられていると思う。

物語の主人公にだって、ただ何も考えずにぼーっとしている瞬間とか、時間を潰すために本を読んでいるみたいな時間はあるはずだ。しかしそれらは、物語全体の中で必要な役割がないと判断されれば描かれることはない。物語の登場人物は、必要な、意味のある時間しか映し出されない。

しかし「セトウツミ」は、そういう普通の物語が切り捨てる部分を物語のメインに持ってきた。そこが、とても斬新だ。川辺でダベっている場面は、なんの意味も持たない。何も始まらないし、何も終わらせない。

しかし、だからこそ僕らはそれに共感するのだと思う。

僕らは、自分が物語の主人公になれないことを知っている。いや、主人公でなくてもいい。自分が何か物語の中にいるような実感を得られる機会というのは、そう多くはない。多くの人間は、何か起こるわけではない、起こったとしても誰もが経験していて物語として取り上げられることのない日常の中で生を全うしている。そういう僕らにとって、この「セトウツミ」は、自分のことのように感じられるのではないか。別に川辺でダベった経験がなくてもいい。そうではなくて、物語の点線に絡むことが出来ない存在としての共感、みたいなものを誰もが感じ取れるのではないかと思っている。

スタートもゴールもない、あるとすればそれは生と死だけ、という日常の中にも、誰がどう切り取るかで物語が生まれうるのだ、ということをこの映画は示しているし、であればそれを切り取りのは自分自身でもいいはずだ、という風に捉えることも出来るだろう。物語、というものの可能性を感じさせる映画だった。

さて、この映画の主演の一人は菅田将暉だ。
僕はどこかで、菅田将暉のことを書きたいと思っていた。今回がちょうどいい機会な気がするので、菅田将暉という俳優についてあれこれ書いてみたいと思う。

菅田将暉という俳優には、いつも凄さを感じる。

僕は、映画を頻繁に見るようになったのは割と最近のことだ。ドラマも、ここ10年ぐらいはほとんど見ていない。だから、どんな俳優がいて、どんな作品にどういう役で出ていて、どの俳優がどんな評価をされているのか、ということについてほとんど知識がない。だから、菅田将暉という俳優のことを、俳優全体という大きな枠組みの中で捉えられているわけではない。このエクスキューズはしておかなくてはならないだろう。

その上で僕は、いつも菅田将暉という俳優に凄さを感じてしまう。

彼の凄さの本質を、僕は「色のなさ」だと感じる。あるいはそれは「形のなさ」と言ってもいい。
菅田将暉は、「俳優・菅田将暉」という形で捉えることが難しい。常に、その作品の中の役の人物として認識してしまう。

ここでこの名前を出すのは喩えとして適切ではないかもしれないが、例えば木村拓哉は、どんな作品に出ていてもキムタクだ、と認識されてしまう。木村拓哉は極端な例だとしても、他の俳優も似たような部分はあるだろう。何らかの印象的な役や、その俳優がそもそも持つ雰囲気、また俳優としてではない姿などによって、僕らはそれぞれの俳優を何らかの色や形をつけて見ている。「暗い役をやらせたら抜群だな」「あの時のあの役のイメージがどうしても消えない」「バラエティに出てる時のイメージがダブる」などなど、作品の中にいる俳優を、その作品の外側のイメージに引きつけて見る、ということを僕らは無意識のようにやってしまう。

しかし、菅田将暉という俳優に対して、僕はそれを一切感じない。僕には、「俳優・菅田将暉」というものに対する色や形はまったくなく、どんな作品に出ていても常にその作品の中の登場人物として認識してしまう。

これは凄いことではないか、といつも思うのだ。

これはただ、色んな役柄を経験してきた、というだけでは生まれない雰囲気だろうと思う。また、役に憑依すると言われるタイプの俳優がいるが、ただそれだけで生まれる雰囲気でもない。僕の感覚では、菅田将暉を見る時に、「色んな役柄を経験してるしな」とか「憑依するタイプの俳優だしな」ということすら浮かばないのだ。そういう、「俳優・菅田将暉」として捉える見方は一切消えて、純粋に作品の中の人物として見てしまう。

名脇役と呼ばれる俳優の中には、そういうタイプの人もいるだろう。どんな作品の中にあっても、個性を出しすぎずその作品に馴染んでいくようなタイプの俳優は。しかし菅田将暉は、主役や主役級の役柄も経験している。名脇役と呼ばれる俳優とは違って、作品ごとに自分なりの存在感を出すことが求められるはずだ。それでも、その存在感は作品内だけに留まり、作品の外側である「俳優・菅田将暉」というものへのイメージには寄与しない。少なくとも僕にはそう感じられる。

そこに僕は、菅田将暉という俳優の凄さを感じるのだ。

以前、たまたま見ていた「情熱大陸」で、菅田将暉が取り上げられている回があった。その時の菅田将暉の扱われ方は確か、「個性がない菅田将暉に個性を与えよう」というものだったと思う。作品ではあれだけ強い個性と存在感を発揮しながら、個人としての菅田将暉には特筆すべきものが何もないという。事前のインタビューでも、撮影すべきものが何も出てこないために、菅田将暉が個性を身につけるために色んなことにチャレンジする、みたいな密着取材をしていた記憶がある。

単純にそのことを、僕が菅田将暉に感じる凄みと結びつけるのは短絡的だろうが、しかし、個人としての菅田将暉に何もないからこそ、つまり、個人としての菅田将暉はただの空っぽの器であるが故に、そこにどんなものでも入れることが出来るということなのではないか、という解釈をすることは出来る。菅田将暉は作品毎にまるで別人に思えるような演技をするが、それは、器でしかない個人に役という中身をそっくりそのまま注ぎ込んでいるからなのかもしれない。個人としての個性がない、ということは、僕のイメージでは俳優としてはマイナスに働くと思っていたが、菅田将暉はそれをプラスに変えることに成功した稀有な俳優なのかもしれない、と思う。

そんな菅田将暉の凄みは、この映画の中でも発揮されている。やはり僕には、セトは菅田将暉に見えないのである。

「セトウツミ」を観に行ってきました



「七人の侍」を観に行ってきました

映画のことは詳しくないので、「七人の侍」がいつ頃の映画なのかも分からないし、その当時の映画表現の標準がどんなものだったのかも知らない。
今回、映画館で「七人の侍」を観て僕は、現代の映画みたいだな、と感じた。僕のささやかな知識では、黒澤明は他の多くの映画監督に影響を与えた人物であるようだ。とすると、「七人の侍」を現代の映画と同じように感じたということは、つまり、「七人の侍」が現代の映画の枠組みの多くを作り出したということではないか、と僕は解釈している。

大学の講義の中で、「戦艦ポチョムキン」という映画を観たことがある。どんな映画だったのかや、何故この映画が映画史に残っているのかなどは全部忘れてしまったが、少し調べると「戦艦ポチョムキン」というのは、モンタージュ理論を実践した映画として有名であるらしい。

モンタージュ理論というのは、複数の異なるカットを組み合わせることで映像的な意味を見出すというような技法のことであり、現代では映像表現の中に当たり前に使われているものだ。モンタージュ理論には二種類あるようで、「戦艦ポチョムキン」は、別撮りしたカットを組み込むことで意味を持たせるようなモンタージュ理論の技法が使われているという。

一方で「七人の侍」ではもう一方のモンタージュ理論が使われている。こちらは、何台ものカメラを同時に置き、一つのシーンを複数のカメラで押さえることで臨場感を生み出す技法だそうである。ネットによると、こちらの技法は撮影費用が掛かりすぎるという理由で敬遠されていたが、「七人の侍」のもの凄い臨場感を観た多くの映画監督が影響され、アメリカでの映画のスタンダードになったのだという。

確かに、戦闘シーンの臨場感は凄かった。あの場面がもし、カット割られずにワンシーンのような形で撮られていたら、全然違う作品になっただろう。現代ではごく一般的に使われている技法だろうが、「七人の侍」からこの映像表現が広まったというなら、その凄さが改めて理解できる。

とりあえず先に内容をざっと書いておこう。

相次ぐ戦乱により野武士がはびこり、村を襲っては暴虐を尽くすことが頻発していた時代。ある山村も野武士に目をつけられた。たまたま野武士たちの計画を耳にした村の男はそれを村に伝え、麦の刈り入れ後にやってくるはずの野武士に対してどう対処するか村で議論が繰り広げられる。
長老の決断は、侍を雇って戦う、というものだった。
そこで村の男4人が町へ出て、村を守る役目を引き受けてくれる侍を探しに行くことになった。しかし気位の高い侍は、ただ飯がいっぱい食えるというだけのことではなかなか引き受けてはもらえない。
そんなある日、子どもを人質に立て籠もった強盗を、見事に押さえ込んでひっ捕らえた侍を見かけた。村の者は、島田勘兵衛と名乗るその男に頼み込み、難しいと渋る男の首を縦に振らせた。しかし、少なくともあと6人は侍がいないと無理だという。苦労して侍を見つけ出して彼らは村へと戻り…。
というような話です。

まず驚いたことは、3時間40分という上映時間の長さ。現代では考えられないだろう。これだけ長ければ、物語をじっくり描けるだろうな、と思った。実際に映画では、一つのシーンが実に贅沢に描かれている。合戦のシーンは非常にスピーディーだが、それ以外の場面ではじっくりと描かれる。現代の映画であればどんどんカットが変わってしまうだろうなという場面でも、ゆったりと描かれていく。ストーリーとしては、村を守るために寄せ集めの7人と村人が奮闘する、というただそれだけの話なのだけど、トータルの上映時間の長さとワンシーンワンシーンでの贅沢な時間の使い方が、物語を重厚に見せていると感じました。

観ていてちょっとしんどかったのか、声が聞き取りづらかったこと。これは、元からそうなのか、デジタルに変換したことで変わってしまったのか、その辺りのことは全然分からないのだけど、全体の1/3ぐらいのセリフが全然聞き取れませんでした。音が割れちゃってるという感じ。当時の録音技術の問題なんだろうか。そういう中でも、声が聞き取りやすい役者というのもいて、役者の発声の問題なんだろうか、と思ったりもしました。

メインの物語の合間合間に様々な事柄が挟み込まれていって、それもなかなか面白かった。その筆頭が、七人の中のムードメーカーの侍です。度々問題行動を起こす男なのだけど、結果的にいい働きになったりもする。熱い男で真っ直ぐで、こうと決めたことに対する情熱が誰よりも強い。途中で彼が百姓出身であることが判明する場面があるのだけど、そういうバックグラウンドを持った上での行動に納得させられることもある。

一番年下の侍の恋の話もある。村の女と恋に落ちるのだけど、これはこれで色んな波乱を引き起こすことになる。「侍の家に生まれたかった」という村の娘の呟きが、この村の、そしてその当時の日本の様々な村の百姓の言葉を代弁しているんだろうと感じました。

そして、これは印象的なラストとも関わる話だけど、侍と百姓の違いみたいなものも、随所で描かれていると感じました。ラストシーン以外で一番それを感じさせるのは、百姓が隠し持っていた鎧や槍が出てきた時のことでしょう。侍と百姓の関係が一瞬険悪になりながら、ムードメーカーの侍の持つ芯がその場を収めることになった。まるで違う生き方をしている両者が交わることはなかなか難しい。ラスト、島田勘兵衛が「また負け戦だったな」と呟く場面は、多くが語られるわけではないが、百姓の強かさと侍の弱さみたいなものをうまく対比させていると感じました。

戦闘シーンで凄いなと思ったのが、馬です。本当の戦闘ならともかく、撮影なのだから、馬を傷つけることは絶対に出来なかったんじゃないかと思うんです。その中で、あれだけ竹槍と刀が入り乱れている中で、馬がよくもまあちゃんと動くものだと思うし、馬を傷つけないで撮影が出来るものだなと感じました。

映画自体の長さを除けば、現代の映画とさほど違いを感じない作品で、それはつまり、現代の映画の枠組みを作った作品だからということなんだろうと思います。迫力のある映画だったなと思います。

「七人の侍」を観に行ってきました



消失!(中西智明)

本書は、これまで読んだことがない、超ド級のトリックが詰め込まれた、とんでもないミステリの快作だ。

内容に入ろうと思います。
犯罪が頻発するという福×県高塔市で、奇妙な死体消失現象が複数認識される。
マリーは、二ヶ月ほど前から「ZERO-ZERO」のバンド練習に顔を出すようになった。それまでバンドの紅一点でありアイドル的存在だったユカが過労で入院している隙に、バンドメンバーの関心は一気にマリーに向いたようだった。ギターのBBのことが好きなユカは、どうやら同じくマリーに関心があるらしいBBの興味を惹こうとするが、どうにもつれない。
バンド練習をする建物内に、何やら奇妙な気配を感じる。そしてその後、隣の部屋でマリーの死体が発見される!驚きのあまり卒倒するユカ。そんなユカを救急車に乗せ、メンバーが戻ってくると、なんとマリーの死体が跡形もなく消えていたのだ!
高塔市の資産家一家にそうとは知らずに嫁ぐことになった同道堂裕子は、生まれる前から「裕二」と名付けていた息子を流産し、その後夫を交通事故で失った。しかしその後、神様は裕子に息子を授けてくれた。裕子は改めて「裕二」と名付け、その子を溺愛した。しかしその裕二が、日が暮れても戻ってこない。事故にでもあったに違いないと半狂乱になりながら裕二を探す裕子は、空き地で裕二の死体を発見してしまう。その空き地にいた、黒尽くめの不審な男を追いかけ、袋小路に追い詰めたと思った裕子だったが、袋小路であるはずの小学校の駐車場でその男は忽然と姿を消してしまう。そして、空き地に戻った裕子は、裕二の死体が消えているのを発見する。
純は、雷津ビルの一階にあるブティック「ランディ」のマスコット・ガールであり、同じビルに入っている探偵事務所「新寺仁探偵事務所」の所長である新寺仁の妹留衣と仲良くしている。新寺仁は、弱冠25歳にして世間が注目する名探偵だ。大学で現代都市現象の構造分析を研究した彼は、知能犯罪学に最も力を入れ、三本の論文を発表した。それらは評判を呼び、後に「都市と探偵」という書籍として出版されたが、なんと言っても驚きだったのは二つの迷宮入り事件の真相暴露だった。彼は見事な論証で完全犯罪を看破し、一躍スターとなったのだ。
そんな新寺は、時に雷津ビルのオーナーの息子である龍蔵を助手として使いながら探偵業をスタートさせるが、色んな事情があって純の失踪事件を手がけることになった。
マリー・裕二の死体消失と純の失踪。これらの事件の関係は…?
というような話です。

これは凄い小説だったなぁ。こんな驚天動地のトリック、なかなかお目にかかれないと思います。

先に書いておきましょう。この作品は、文章はあまりうまくないし、キャラクターの造形も薄いです。小説として総合的に評価しようとしたら、厳しい評価をつけざるを得ないかもしれません。

しかし、それらすべてを帳消しにして余るあるほどに、本作の中で用いられているトリックが衝撃的です。僕はそれなりにミステリを読んでいますが(ただ、ミステリ専門で読んでいるわけではないので、それなりには押さえている、ぐらいのレベルです)、こんなトリック読んだことがありません。解説でも、『本作には、ちょっと前例のない仕掛けがある』と書かれています。

このトリックを成立させるには、相当の状況設定と手腕が要求されるでしょう。僕はミステリを隅から隅まで読み尽くすようなタイプではないので、本作がフェアなのかアンフェアなのかその辺りのことは判断できないけど、一読した限りにおいては相当フェアに作られていると感じました。細かく見れば不自然な部分もあるでしょうが、この無茶苦茶なトリックを成立させるためにある程度は仕方ないでしょう。よくもまあこれだけの状況設定をし、その中で綱渡りのような描写を続けて作品を成立させたものだな、と感じました。

ラストに畳み掛けるようにして現れるいくつものトリックにはまるで触れられないし、かといって文章や登場人物の造形が巧いわけではないので、正直この感想の中で書けることはほとんどありません。現在ではなかなか手に入りにくい作品ですが、読む機会があれば手にとって見て損はないかなと思います。Amazonのレビューに、「ミッシングリンクの一つの到達点」という評価があったけど、確かにその通りかもしれないと思います。非常に鮮やかで、あとがきで著者自身がそう書いているように、本書はネタバレをしてくれるマジックみたいな感じだなと思いました。よく思いついて作品として書き上げたな、と感心してしまう作品です。

中西智明「消失!」

渚にて(ネヴィル・シュート)

死に方を選べる状況、というのは、僕には好ましい状況に感じられてしまう。
だからこの作品の世界観を一概に拒絶することが、僕には出来ない。

『人はみな遅かれ早かれいずれは死ななければならない。ただ問題は、心の準備をしてそのときを向けるというわけには決していかないこと。なぜなら、いつそのときがくるかわからないから。ところが今このときにかぎっては、およそいつ死ぬかをだれもがわかっていて、しかもその運命をどうすることもできない。そういう状況を、わたしはある意味で気に入っています。』

長生きしたい、と多くの人がいう。僕にはイマイチその感覚が理解できない。もちろん、健康でお金もあって、仕事なり趣味なりがきちんとあって、毎日が充実している生活を送れるのであれば、僕だって長生きするのに吝かではない。しかし、必ずしもそうなるとは限らないし、というかそうならない可能性の方が明らかに高い。多くの人は、その現実を受け入れずに長生きしたいと言っているのか。それとも、その現実を受け入れてなお長生きしたいと言っているのか。僕にはイマイチ判断が出来ないが、どちらにせよ、僕には理解できない感覚だ。

長く生きることよりも、人としての尊厳を持ってきちんと生きていたいと思う。
これは何も、認知症などの病気のことだけを指しているわけではない。たとえば戦争が起こった時、世界の経済情勢が一気に悪化した時、食糧難になった時、石油が枯渇した時…などなど、未来にはどんなことが起こってもおかしくない。そういうそれぞれの状況下で、自分なりの価値観を貫いて、きちっと生きていく。自分なりの価値観を曲げてでも長生きしたい、などと思うことはまるでなくて、自分なりの尊厳を守った上で、生きれる範囲で生きていきたい。僕はそんな風に思う。

世界が終末を迎える、という時、どう生きるのか。本書では、ある特殊な状況下における人々の生活を丹念に描き出すことで、そういう問いを突きつけてくる。すべてが終わるからと言ってあらゆるルールを無視して生きるのか。あるいは、それでもなお自分の中の良心に従ってきちっと生きていくのか。死に方を選べる、ということはすなわち、生き方を選ぶということだ。僕らは、いつどこで死ぬか分からないからこそ、人間関係を大事にし、将来のことを考えて計画し、出来る準備はしておきたいと考える。
誰もがいつどこで死ぬのか大体分かっている、という状態に置かれた時、それでも人間はそれまでの人間らしさを維持して生きていくのか。
この物語は、絶望的な世界を舞台にする作品だが、しかしそこには明らかな希望がある。人間が人間の尊厳をどこまで維持することが出来るのか、という可能性を、徹底的に突き詰めている。僕らにはきっとそういう品性が備わっているはずだ、と思うだけで、これからの生き方が少し変わっていくのではないか。そんな予感を抱かせる作品でもある。

内容に入ろうと思います。
ソ連と中国の間で勃発した第三次世界大戦の最中、4700発とも言われる核兵器が投下され、北半球は壊滅した。どうにか被害を免れた、アメリカ合衆国の原子力潜水艦であるスコーピオンは、汚染帯や機雷原をどうにかかい潜り、オーストラリアに到達した。放射能で人の住めない地域となった北半球とは違って、オーストラリアはまだ放射能の影響がなく無事だった。スコーピオンの艦長であるタワーズ大佐は、スコーピオンの連絡士官に指名されたホームズ少佐の助けを借りながら、オーストラリアでの生活をスタートさせる。ホームズ家と親交の深い、牧場主の娘であるモイラと親しくなったタワーズは、アメリカで既に命を落としているだろう妻や子どもに想いを馳せつつ、モイラとの時間を楽しむ。ホームズは、妻と生まれたばかりの赤ちゃんと共に暮らしながら、日々を過ごしている。
放射能は、確実に南半球にも近づいている。オーストラリアがダメになるのも、そう遠い未来ではない。死の影は、確実に近づいてきている。
そんな状況において、アメリカ合衆国から断片的なモールス信号が届く。ほとんど解読できない謎めいた文面ではあるのだが、まさか放射能に完全に汚染されたはずのアメリカにまだ生存者がいるのだろうか?と議論が巻き起こる。スコーピオンは、一縷の望みを掛けて、汚染帯と機雷原を慎重に抜けながら、モールス信号の発信源まで向かうが…。
というような話です。

とても素晴らしい作品でした。外国人作家はあまり得意ではないし、分量も多いのですけど、じんわりと染み込んでいくような読まされてしまう作品でした。1957年に発表された作品の新訳版だそうで、文章も非常に読みやすいです。

そして何よりも、核戦争後のオーストラリア、という設定は、現代の日本人にとって無視出来ないものだと思います。
何故なら、僕らは3.11を経験しているからです。

僕は、東日本大震災からしばらく経ってから福島に3度ほど言ったことがあります。その際バスで飯舘村を通りました。その時点では、一切外に出てはいけないとされている地域でした。見た目には、何も壊れていないし普通の町です。ただ、人がいない。住んでいる人も歩いている人もいなくて、ただ車だけが通っている。そんな光景がしばらく続きました。

『街にも、村にも、田畑にも、生きてる人間が一人もいなくて、ただなにもないところが広がってるありさまをよ。わたしにはとても想像できないわ』

あんな光景を見る機会は、そうあるものではありません。ちょっと比喩的な表現をすれば、立っている家々がまるで墓石であるようにも感じられました。ただひたすらそこにあるだけの存在で、死を内包している。そういう雰囲気を、町全体から感じました。

この新訳版は2009年に発売されましたが、その解説でこんな風に書かれています。

『「私たちは何もしていないのに、なぜ、こんなふうに死ななければならないのか?」というようなことを登場人物の一人が悲鳴のように語る部分があるが、核戦争にあっては傍観者は存在しないというのが、この作品のメッセージだった。
今では、このメッセージは風化してしまっているように思う。現実には何も変わっていないのだが、このメッセージがリアリティを持たなくなっているように思うのだ』

この本の出版から二年後、東日本大震災が起こり、この作品は再度リアリティを持つようになった。核戦争によってではないが、僕らは本書と同じような状況を経験している。結果的に(そう、結果的にだ)、本書で描かれるオーストラリアのようには、僕らが住む日本は壊滅することはなかった。しかし、それはあり得た現実だと僕は思う。ほんの少し何かが違えば、本書のオーストラリアのようになった可能性は十分にあるのだ。世界は終わらないにしても、日本が終わる可能性は十分にあったのだ。
東日本大震災から5年が経過して、こういうことが少しずつ忘れられるようになってきている。この作品は、あり得ない(と思いたい)未来の描写によって、僕らに再度そういうことを思い出させてくれる作品だ。

冒頭でも少し触れたが、この作品は人間の生きる上での尊厳が描かれていると僕は思う。確実に死が忍び寄っている中でいかに生きるのか。作中の様々な人物が、自分なりの生き方を、そして死に方を模索する。趣味に没頭する者、思考停止してそれまでの日常を継続させようとする者、残ったワインを飲み干そうとする者…。
そういう中で僕は、滅亡が確実である状況の中でさえ規律やルールを守ろうとする態度に惹かれる。

『放射能にやられるまで走らせ続けるよ。やられたとわかったら、そのときは電車を車庫に仕舞って家に帰るさ。結局は家が本当の生活の場だからね。三十七年間、雨の日も晴れの日も走らせてきたんだ、こんなことじゃまだやめられないね』

多くの人が仕事を放棄していく中で、乗客が少なくなってなお電車を走らせ続ける運転手のセリフだ。これは、思考停止による日常の継続とは違う。崩壊するという未来を現実のこととして受け入れた上で自分なりの選択をしているのだ。こういう態度はとても好きだ。

あるいは、スコーピオンの艦長であるタワーズも、同じようなタイプの人間だ。

『「禁を破るのは好まんね」とタワーズは真顔でいった。「母国でならどうするかわからんが、しかしこうしてよその国に世話になっているとき規則を侵すのはまずいな」』

『ただ、やるべきことはちゃんとやりたいというだけのことさ。規則には必ず従う―そういう訓練を受けてきているのが軍人だ。こういうときだからといって、それを変えたくはない』

タワーズのスタイルは、いささか頑固にも思える。ルールというのは、それが成立するだけの環境があって初めて効力を持つ、と考えてもいいと思うし、世界が滅亡するというのは、それが成立しない環境であると考える人が出て来ることはある程度自然なことだと思う。しかしタワーズはそういう中でも、自分だけはルールを守ろうとする。そういう生き方は、僕は好きだ。ルールを守ったからと言って、誰かが幸せになるわけでも利益が得られるわけでもない。自己満足だと言われればそれまでだ。しかしそれでもいいじゃないかと思う。自分の信念を貫くことでたどり着ける心境もまた、得難いものだろう。
どうにもならない絶望的な環境で、それでも何かを選択しなければならないという場合に、タワーズのようなあり方は一つの希望だし理想だと、僕は感じる。

物語としては、起伏に欠けるだろう。驚くような展開があるとか、衝撃的な結末が用意されているような物語ではない。ある意味で、とても地味な物語だ。しかし、この長い物語を読み進めることで、今自分がどう生きるべきなのかを問うきっかけにもなるだろう。生きる上での尊厳は、何も終末にだけ発揮されるようなものではない。殊更に「正しく生きること」を求められるわけではない現代において、自らの生き方を見つめ直すことは、死というものに近づいていく時に非常に大事になってくるのではないか、と思う。そういう意味でこの作品は、もっと広く読まれる作品だと思う。

ネヴィル・シュート「渚にて」

ランボー怒りの改新(前野ひろみち)

京都というのは僕にとって魔窟である。
そのイメージを作ったのは、森見登美彦と万城目学である。

なんだかよく分からないが、魑魅魍魎や魑魅魍魎ではないものが跋扈し、ろくでなしたちが饗宴を繰り広げ、神に愛されるがごとく物語が展開する、それが京都である。そういうイメージを、森見登美彦と万城目学が作り上げたのである。

そして、奈良もまた魔窟である。
そのイメージを作り上げたのは、本書の著者、前野ひろみちである。

奈良では、ランボーが大暴れしたり、鹿や猿が人間だったり、山奥に美少女が住んでいたりする。事実である。何故なら、前野ひろみちがそう書いているからである。奈良は魔窟である。そのことに間違いはない。

内容に入ろうと思います。
本書は、4編の短編が収録された短編集です。

「佐伯さんと男子たち1993」
入江君と大井戸君は、そろってアホになってしまった。
揃いも揃って、佐伯さんのことを好きになってしまったのだ。
放課後の「マクドナルド会議」は、恋バナをする場に変わってしまった。嘆かわしい。アホのように告白しては玉砕する友人二人を見ながら、僕はあることに気づいてしまった。
「佐伯さんの姿が見えないという状況」があるということに。今まで気づくことのなかったその状況に気づいた僕は、僕もアホになってしまったことに気がついた。
そして彼らは、白い鹿を見る。

「ランボー怒りの改新」
推古天皇の御代、トンキン湾事件をきっかけにして蘇我馬子が火蓋を切ったベトナム戦争は泥沼化していた。ときの大王は蘇我蝦夷に、空爆の一時停止と北ベトナムとの和平交渉を命じたが、蘇我蝦夷の息子である入鹿が独断で北ベトナムへの空爆を再開、和平交渉を頓挫させてしまう。政治の実権を掌握してきた蘇我氏は、大王の権威すら無視してベトナム戦争を継続するつもりでいた。
ランボーはその状況に憤っていた。ベトナム戦争の戦地から奇跡のように生き延びたこの傭兵は、自分がどんな使命を帯びているのかも分からないまま、飛鳥の地で目の前に現れる敵を殲滅し続けた。
一方で、中大兄皇子と中臣鎌足は、蘇我入鹿暗殺を目論んで入念な準備を重ねるが…。

「ナラビアン・ナイト 奈良漬け商人と鬼との物語」
80歳を超えた老人の元に、一人の乙女がやってきた。老人の息子が見つけてきた才女である。イスラーム哲学を学ぶ大学院生であるが、「千夜一夜物語」をすべて諳んじることが出来、さらにそれらを即興であらゆる形に変形して語ることが出来るという特技を持っていた。
老人の前で彼女が話したのは、奈良漬け屋の主人を襲った鬼と、その主人を結果的に救うことになった三人の老人(と動物)の物語である。

「満月と近鉄」
畳屋の長男に生まれた主人公は、父から畳屋を継ぐことが当然だと思われていた。しかし彼には家業に対する思い入れは一切存在しなかった。クラスメートである長脛君が読書家であったことから彼も本を読み始め、そして書き始めた。長脛君にその小説を褒められたことで調子にのった彼は、大学受験に失敗した後、畳屋は継がない、と父親に宣言し、紆余曲折あって生駒山の麓で一人暮らしをすることになった。
部屋に籠もって小説を書き続けるがうまくいかない日々。運動も兼ねて、いつものように生駒山の中腹にある宝山寺に足を運んだ主人公にカラスが襲いかかった。その時、彼を助けてくれた女性がいた。
彼は彼女に一目惚れし、少しずつ話しをするようになったのだが…。

というような話です。

とんでもない作家が現れたものだな、と感じた。

正直に言うと、作品全体として面白いのかどうか、うまく判断できない。
しかし、一つだけ言えることは、この作品には物凄く惹きこまれるということだ。引き込まれるのに面白いのかどうかうまく判断できないというのもおかしな話だが、僕の感覚としてはそれで間違ってない。不思議な小説である。

全編、奈良を舞台にしているのだが、奈良の特性、それはすなわち鹿ということだが、この鹿をとても効果的に登場させていると思う。鹿が重要な要素として登場する作品もあれば、ほとんど登場しない作品もあるが、奈良=鹿というイメージの喚起に留まらず、鹿という、奈良県民以外にはそこまで馴染みがあるわけではないだろう動物の不可思議さと神秘さみたいなものが、作品に異様な雰囲気を与えている。こういっちゃあなんだが、鹿が登場すれば丸く収まる、みたいな、鹿を水戸黄門の印籠のように登場させているというか、いやそこまで露骨ではないのだけど、あぁなんと言ったらいいのかよくわからない。

作品のタイプも、まあ全然違う。

本書の中で最もインパクトが強い作品は、表題作でもある「ランボー怒りの改新」だろう。これは、着想が天才的だ。正直僕は、歴史について無知なので、ストーリーについてはイマイチ飲み込めなかった。ベトナム戦争から帰還したランボーが、大化の改新の現場に乱入することになるという物語で、まったく意味不明なのだけど、その異様な作風から目が離せなくなる。明らかにおかしな設定だし、というかおかしくない部分など一箇所もないのだけど、物語としては成立してしまっている。水と油は混じり合わないというが、適切なやり方をすれば水と油であろうがきちんと混じり合うのだろうということを証明して見せた格好だ。面白い作品なのかどうかうまく判断できないが、とにかくとんでもなく凄い作品であることは分かる。

「佐伯さんと男子たち1993」も不思議な作品だ。青春小説と呼べばいいのだろうが、なんか違う。他の作品と比べてアクロバティックさはないのだけど、鹿を多用することで独特の雰囲気を生み出している。中学生三人が一人の少女を好きになって玉砕する、というだけの話なのだが、何故か不思議な余韻の残る作品で、ただの青春小説ではない。変な小説である。

「ナラビアン・ナイト 奈良漬け商人と鬼との物語」がこの中で一番好きな作品かもしれない。鬼が出てきたり、元人間の鹿や猿が出て来るというわけわからん小説なのだけど、いくつかの物語がカチッとハマっていく感覚はとても面白いし、まったくあり得ない話なのにちょっとしんみりさせるような内容で、とても良い。いや、もしかしたらあり得ない話でもないのかもしれない、と思わせるところが巧いんだよなぁ。

「満月と近鉄」は、著者自身を主人公にした物語だ。恐らくウソなんだと思うんだが、読んでいると本当であるかのように思えてきてしまう。どこまで本当なんだろう?一切合切ウソなんだろうか?まあこういうことを考えている時点で著者の術中にハマっていると判断すべきだろう。

仁木英之氏による解説も面白い。こちらも、どこまで本当なのかまるで分からない。でも、前野ひろみちならあり得るのではないか、と思わされるリアリティに満ちあふれているとも言える。作家の存在そのものを物語にしているという意味でも興味深い。

つくづく、不思議な作品・作家である。

前野ひろみち「ランボー怒りの改新」

「BUBUKA 2016年11月号」を読んで

秋元真夏には、あまり関心を持っていなかった。

齋藤飛鳥は自分で、「THEアイドルを目指していない」とインタビューなどでよく語っている。同じ言葉を使えば、秋元真夏は「THEアイドルそのもの」という風にしか見ていなかった。秋元真夏は、乃木坂46というグループの中では異質な存在だが、アイドル全体で見れば、秋元真夏のような振る舞いは一般的ではないかと思う。可愛く見られる振る舞いをする、ファンが喜んでくれそうな発言をする、いつどんな時も笑顔でいる。秋元真夏はそういう意味でアイドルの王道を進もうとしているのだが、そういう秋元真夏にはさほど関心が持てないでいた。

しかし、「BUBUKA 2016年11月号」の中の、齋藤飛鳥とのインタビューを読んで、こう思うようになった。
齋藤飛鳥と秋元真夏は、発露の仕方が違うだけで、同じ根っこを持っているのではないか、と。

自分を隠す方法には、色んなやり方がある。
齋藤飛鳥は、自分を隠すために、「見せない」というやり方を選択した。

『もともと私はネガティブだから不安やプレッシャーはずっと抱えた状態ではあったんですけど、でも誰かに言うほどではなかったし、言うのもダサいから自分のなかに留めていたんです』

齋藤飛鳥は、平静を装いながら、辛い部分は全部内側に押し込んで外に出さない。そういう発言はこれまでも目にしてきたし、齋藤飛鳥はそんな風にうまく自分を隠すやり方を身に着けてきたのだと思う。

秋元真夏もまた、自分を隠している。そのやり方は、「違う自分を見せる」というものだ。

『でも真夏も根性があるタイプなんですよ。見た目や雰囲気は女の子らしいし、出て来る言葉も女の子だなって思うことが多いんですけど、すごく我慢強いところがあって、さっき自分でも言っていたように真夏も溜め込むタイプで誰かに相談したりしないし、あくまで「秋元真夏」でいようとしているんですよ』

秋元真夏が、「秋元真夏」というアイドル像を意識的に見せている、ということは知っていた。しかし僕はそれを、「仕事と割り切っている」というぐらいの捉え方しかしていなかった。乃木坂46という、アイドルとして王道を行くメンバーが少ないちょっと特異なグループに、他の一期生から遅れて加入した秋元真夏。その中で自分のポジションを確保するために、敢えて乃木坂46らしくない「THEアイドル」というポジションを確保する。そういう目的なのだとずっと思っていた。

もちろん、そういう理由もあるだろう。しかしどうもそれだけではないようだ。秋元真夏が「秋元真夏」のような違う自分を作り出していくのは、自分の人生を生き抜くためのある種の戦術として身についているものであるらしい。

『ちょっと暗い話になっちゃいますけど、小3のときにいじめられていて、周りのひとを疑うようになってしまったんですよ。それからずっとですね。そのときに相談した先生も信用できなくて、大人も同世代もみんな疑うところから始まったから、ひとを信用するのにすごく時間がかかってしまって。だからとりあえずバリアを張って、徐々に信用できるところを探していくのがいいのかなって。そういう結論に行き着いたんです』

この発言を読んで、なるほど、秋元真夏は齋藤飛鳥と同じ根っこを持っているのか、と感じたのだった。

『そこで話を聴いてもらったときに「あ、真夏には言えるな」と思って。それから真夏にだけ話したりとか、言わなくてもなにかあったら目が合ったりとか(笑)』

ここ最近買う、乃木坂46の特集がある雑誌には、「齋藤飛鳥は秋元真夏に支えられた」というような趣旨の文章や発言が結構見つかる。今回のツアーを通じて、齋藤飛鳥と秋元真夏は接近したようだ。

『もとから真夏のことは大好きだったんですけど、たぶんどこかで胡散臭さを感じていたんですよ(笑)でも、今回のツアーでそれは消えました。本当にいいひとなんだなって(笑)』

メンバーに対してだけではなく、家族や友達にもほとんど悩みを言わないという齋藤飛鳥。そんな齋藤飛鳥が、秋元真夏にだけは話せるという感触を掴む。そこには色んな要因があるだろうが、齋藤飛鳥が秋元真夏のことを同根だと認識したということなのではないか、という風にも捉えることが出来る。

『ただ、飛鳥にならウザいって思われてもまあいいかなって』

『あのときの飛鳥を見てからは、自分がどう思われてもいいからとりあえず飛鳥の近くにいてあげたいなって』

秋元真夏のこのスタンスも、齋藤飛鳥にとってはいい距離感だったのだろう。たとえば僕の話をすると、おおっぴらに心配されたり、悩みを大げさに捉えられたりするのは得意じゃないし、困る。そんな反応をするだろうな、という人には、ちょっと何も言えなくなる。むしろ、どれだけ深刻な話でも「へぇ」ぐらいに受け取ってくれると気が楽だし、そんな話をした後も特に態度が変わらないとなお素敵だ、と思う。齋藤飛鳥もきっと、似たような感覚を持っているような気がする。そんな齋藤飛鳥の感覚に、秋元真夏のスタンスがマッチしたのだろう。

『でも、真夏は自分からいろいろと動くからお節介って言ってるんだと思うんですけど、傍からするとぜんぜんお節介な感じはしなくて。別に押し付けもしないし、逆にいい距離感だと思います。話やすくする空気をつくってくれるのが上手なんですよね。そう、上手なお節介。』

秋元真夏も、他人に対してバリアを張っていると言っているように、距離感を大事にする人なのだろう。だから、齋藤飛鳥が必要とする距離感が分かる。しかし、それだけでは、齋藤飛鳥を支えるのは難しい。何故なら、齋藤飛鳥が必要とする距離感は、手を差し伸べて支えるには遠すぎるからだ。

だから、秋元真夏の「おせっかい」というスタンスが生きてくる。秋元真夏は、齋藤飛鳥が必要とする距離感を理解した上で、「私っておせっかいだからエヘヘ」というスタンスで、その距離をちょっと縮める。齋藤飛鳥も、「鬱陶しいなぁ」と思いつつも、「おせっかいだからしょうがないか」という諦めでその距離の詰め方を少しずつ許容する。そういう関係性をベースとして築いていたからこそ、齋藤飛鳥がセンターになって一杯一杯になっているまさにこのタイミングで、齋藤飛鳥は秋元真夏に手を伸ばしたし、秋元真夏は齋藤飛鳥が伸ばした手を掴める場所にいられたのだろう。

少し前に買った「AKB新聞2016年9月号」の齋藤飛鳥と秋元真夏のインタビューの中でも、秋元真夏はこんな風に言っている。

『いや、違うんです。今までは、誰かが初めてセンターになった時も、自分のことだけで精いっぱいだったんですけど、ようやく周りにも気を配れるようになってきていて。そんな中での飛鳥のセンターだったので、みんなでサポートして、飛鳥らしく自由にやれるようにしたいな、と思っていたんです。でも結局、できなかった。あれだけ泣いて爆発しちゃうくらいに抱えていたのを知って、すごく反省しました』

「すごく反省しました」と言える秋元真夏が凄いと思う。他のメンバーに目を向けて実際に行動に移せるメンバーとしては、生駒里奈や松村沙友理が浮かぶが、秋元真夏もその一人だと言える。秋元真夏は、自分自身も「THEアイドル」を演じて輝きながら、同時に、グループ内の触媒としての役割を果たしている。「THEアイドル」としての秋元真夏には今後も興味が持てないような気がするが、僕らファンの視界にはほとんど映らない、陰で暗躍(?)しているだろう秋元真夏には、今回のインタビューを通じてと強く関心を抱いた。

『私はあまりひとに興味がないからみんなのことをよく理解できていなかったんですけど、』

こういう発言が出来る齋藤飛鳥が、僕は好きだ。僕も少し前から、「ひとに興味がない」と言えるようになったけど、昔はそんなことを言ったら人間関係やっていけない、と思っていた。齋藤飛鳥は18歳にして、しかもアイドルという多くの人に好かれなければならない立場でありながら、こういうことをさらっと言ってのける。その強さに惹かれる。

秋元真夏はそれとは真逆の方向を向いている。

『あとはもう人間力。真夏だからこそ、こういうキャラでいられるというのはあると思います。私は誰からも好かれたいとは思ってないんですけど、でも真夏みたいにこれだけ周りから愛されているひとを見ると、そういう人生もアリなのかなってすごい思います』

基本的には興味のないタイプのはずの秋元真夏に関心を持つに至ったのは、秋元真夏が幾重もの思考を重ねた末に今のスタイルにたどり着いたからなのだろう。その試行錯誤の一端を今回のインタビューで垣間見ることが出来た気がした。

初めこそ僕は乃木坂46を箱推ししていたが、すぐに齋藤飛鳥を好きになって、それからは基本的に齋藤飛鳥にしか目がいっていなかった。齋藤飛鳥をきっかけとして、色んな雑誌などのインタビューを読むにつれて、橋本奈々未、松村沙友理、そして今回の秋元真夏と、関心の幅が広がっていく。自分の言葉で思考し、自分の言葉で語れるメンバーが、乃木坂46には多いように思う。自分自身で考えて組み上げた価値観によって、自分の人生を進んでいるメンバーが、多いように思う。秋元真夏はこのインタビューの中で、『でも中身が!顔から入っても全然構わないから、ちゃんと中身まで辿り着いてくれ!』という風に、齋藤飛鳥の中身の深さを賞賛している。僕も同じように、顔から乃木坂46を好きになっていいから、こういうメンバーの中身にまで辿り着いて欲しいな、と思って、こんな風に乃木坂46の文章を書いているつもりだ。

最後に。このインタビューの中で一番好きなのが、齋藤飛鳥のこの言葉だ。

『(今回、センターを務め上げたことで齋藤さんが得た最大の収穫はなんだと思いますか?)
なんだろう…「人間になれたこと」がいちばんの収穫ですね』

今の齋藤飛鳥が、人間らしさまで身につけたら、最強なんじゃないかと僕は思う。

「BUBUKA 2016年11月号」を読んで

モーツァルトは子守唄を歌わない(森雅裕)

昔、「高砂コンビニ奮闘記 悪衣悪食を恥じず」という本を読んだことがある。これが森雅裕という作家との出会いだった。

大分昔に読んだので記憶は定かではないが、とても面白かった記憶がある。江戸川乱歩賞という、小説家の登竜門的な新人賞を受賞して作家デビューしながら、50代にして無職という著者が、人生初のコンビニアルバイトをする。その体験を描いたエッセイだ。

その作品の中で著者は、作家として編集者に干されたのだ、という趣旨のことを書いていた。実際のところはどうか知らない。ただ、色んな形でトラブルがあったようだ。どちらが悪いのかというのはよく分からないが、そんな結果著者は、実力がありながら今ではもう作家としてはほとんど名前が残っていない。

そんな著者の、江戸川乱歩賞を受賞したデビュー作が本書である。デビュー作とは思えないほどレベルの高い作品だ。

舞台は、モーツァルトの死後18年経ったウィーン。トレークという名の楽譜屋が、「モーツァルトの子守唄」という、モーツァルト作だという小品を売り出したことがすべてのきっかけだった。
トレークと親交のあったベートーヴェンは、店先で一人の女性がトレークと揉めている姿を目撃する。シレーネというその女性は、この楽譜はモーツァルト作ではなく、自分の父の作だと主張している。楽譜屋は、無名の作曲家の楽譜なんか売れないんだから仕方ないだろう、となだめようとしている。シレーネは、モーツァルトの不倫相手の子だという噂がある。
ベートーヴェンは、「モーツァルトの子守唄」の楽譜に、二三おかしな点を見つけるが、その時はそこまで気に留めることはなかった。
モーツァルトは、同じくウィーン宮廷の楽長であったサリエリに暗殺された、という噂がある。宮廷での地位はサリエリの方が上だが、音楽的才能では圧倒的に敵わず、嫉妬のあまり毒殺した、というのだ。
「モーツァルトの子守唄」が世に出てから、おかしなことが立て続けに起こる。楽譜屋のトレークが劇場の貴賓席で焼死体で発見され、また、モーツァルトの「魔笛」の演出で知られるシカネーダーが急病で表に出てこれないのだという。「モーツァルトの子守唄」が出てから起こった不吉な出来事。それらはベートーヴェンの周囲で起こり、積極的に関わる意志があったわけではないベートーヴェンは、次第にモーツァルトの死の謎を取り巻くあれこれに巻き込まれていくことになる。
「モーツァルトの子守唄」にはどんな秘密が隠されているのか?モーツァルトの死の真相は?そしてその背後にある陰謀とは?音楽の聖地であるウィーンを舞台にして起こる、音楽家たちの争いはどう決着するか?
というような話です。

レベルの高い作品だな、と感じました。
30年近く前に発売された作品で、新人のデビュー作、舞台はベートーヴェンがいた時代のウィーンという、どうしたって手が伸びなそうな作品なのだけど、読んでみるとこれが意外にすいすい読めてしまう。登場人物もそれなりに多いし、外国人の名前や外国の地名はなかなかすんなり頭に入ってこない方なんだけど、結構読めてしまった。この読みやすさにまず驚いた。新人の作品はただでさえ読みにくいことがあるのに、さらに時代や舞台が現代の日本とはかけ離れているという設定だ。これだけスイスイ読ませる作品に仕上げるのは相当な手腕だろうと思う。

物語は、ベートーヴェンと弟子のチェルニーのコンビが動き回ることで展開されていくのだけど、このコンビもなかなか面白い。皮肉ばかり口にしてトラブルを引き寄せるベートーヴェンと、そんな師匠と互角のやり取りを見せるチェルニーという掛け合いの部分がとても面白いのだ。ベートーヴェンは別に正義感があるわけでもないし、親切なわけでもない。ベートーヴェンは、ただなんとなく、興味の赴くままにモーツァルトの死の謎に首を突っ込んでいる。そのせいで命を落としそうになるのだけど、それでもケロッとしている。なかなか豪胆だ。そして、そんな師匠と対等に付き合えているチェルニーのキャラクターも非常に魅力的だ。

本書をミステリと捉えれば、ベートーヴェンが探偵役ということになるのだろうけど、探偵という言葉からイメージされる積極性はない。悪い人間ではないのだけど、目的のためには手段を選ばない部分もあるし、嘘をついたり相手の裏をかいたりして、様々な形で情報を集めたり相手を罠にはめようとする。ベートーヴェンが実際にどんな人間だったのか知らないが、本書で描かれるベートーヴェンは、一人の人間としてなかなか魅力的で、本書はそういう意味である種のキャラクター小説と言ってもいいのかもしれない。なにせ、表紙の絵がパタリロの魔夜峰央である。表紙の二頭身のベートーヴェンはなかなか可愛い。

ストーリーは恐らく、かなり史実に基づいているのだろうと思わされる。正直僕には、どこまでが史実でどこまでが創作なのかまるで分からないが、例えば本書の冒頭に載っている「モーツァルトの子守唄」の楽譜は、どうも本物の楽譜のようだ。その「モーツァルトの子守唄」という楽譜を使って暗号を作ってしまうんだから凄いものだと思う。暗号そのもののレベルはそこまで高くはないが、分かる限りの史実は捻じ曲げずにそこにフィクションを挿入する、という形は非常に難しいだろうし、よくその設定で物語を創れるものだと感心した。

モーツァルトの死の謎にしても、ただのミステリ小説として捉えればさほど大したことではないように感じられるが、描かれている様々な要素がほぼ事実だとすれば、それらの事実の隙間に、こんな感じのありえそうな創作を組み込むことが出来るのか、という驚きがあった。

謎が随時現れては程よく解かれていく展開や、ベートーヴェンら一行が無茶をしたり窮地に陥ったりと、物語の起伏も様々にあって、なかなか読まされてしまう。その当時の日本を舞台にしていないから、30年前の作品であっても古さはまったく感じないし、先程も書いたけど文章もとても読みやすい。もう既に絶版だけど、今でも通用する作品なんじゃないかなぁ、と思います。

森雅裕「モーツァルトは子守唄を歌わない」

「怒り」を観に行ってきました

人を信じることは、とても難しい。

僕は人と関わる時、「裏切られてもいいや」と思って接している。
人を信じることは、とても難しい。でも、人を信じないまま生きていくこともまた、とても難しい。人は生きていく中で、様々な形でこの葛藤を乗り越えるのだろう。無邪気に人を信じれる人、どうしても信じられない人、ある程度距離が縮まったら信じる人、本当に親しい人しか信じない人。
僕は、信じてもいないが疑ってもいない、というスタンスを取ることにしている。

人を信じることが難しいのは、裏切られることを恐れるからだ。自分が信じた相手が、自分をどう見て、どう思って、どう判断しているのか、基本的には分からない。いつか裏切られるかもしれない、あるいは、もう既に裏切られているのかもしれない。そう思うことは、とても大変だ。だから、信じることに慎重になる。

裏切られることさえ恐れなければ、人間関係は楽になるな、と考えるようになったのは、いつ頃からだっただろうか。全然覚えていない。どんな人と関わる時でも、相手のことを信じていない。信じていないが、疑ってもいない。どちらでもない。そういう風に自分を持っていくと、裏切られることがどうでもよくなる。まあもちろんこの態度も、信じることを恐れる態度の延長線上にあるだろう。

『本気って、目に見えないからなぁ』

信じる、というのも、なかなか目に見えない。信じていると口に出しても、信じているという態度で振る舞っても、それで相手に「信じている」ということが伝わるかどうかはまた別の問題だ。

『まあ、お前がどう答えたって、それをどう受け取るかは俺次第なんだろうけどなぁ』

だから、人間同士の関係は難しい。とても難しい。
誰かを信じたことで人生を棒に振った人間もいる。
誰かを信じられなかったことで人生を棒に振った人間もいる。
それでも僕たちは、常に何かを決断して進んでいくしかない。

人を信じきれなくて後悔するのと、
人を信じて裏切られるのとでは、どちらがマシだろうか?
映画を観ながら、ずっとそんなことを考えていた。

僕は、人を信じて裏切られる方がマシだ、と考えているのだろう、きっと。

人を信じて裏切られるのは、まだ自分を責めずに済みそうな気がする。結果的に未来への希望を失ったが、俺は相手のことを信じたのだ、という部分が、自分の傷口を癒やすように思う。

しかし、人を信じきれなくて後悔する場合、何かキラキラした未来を失うのと同時に、俺はあいつのことを信じてやれなかった、という塊が、自分の内側にずっと残りそうだ。その塊を手放すことがずっと出来なそうな気がして、そういう選択を選びたくないと思うような気がする。

信じていたのに裏切られた者。
信じようとして信じきれなかった者。
この映画では、人を信じる、ということの難しさが、様々な人間の人生を壊していく。

八王子夫婦殺人事件から1年。容疑者である山神一也の行方は、杳として知れない。警察は、未解決事件の情報をテレビを通じて集めることにし、山神の変装姿や整形後の姿などを想像して写真を公開した。
同じ頃。千葉・東京・沖縄の3箇所にそれぞれ、謎の男が現れた。
槇は、失踪した娘・愛子を歌舞伎町の風俗店で見つけ、連れて帰る。愛子がいなかった間に、田代という男が漁港にきて仕事を始めていた。前歴はよく分からないしあまり喋らないが、よく働く男だ。槇も、アルバイトではなく正社員で雇おうと考えている。そんな田代のことを、愛子は好きになっていく。毎日手作りした弁当を田代と食べる日々…。
優馬は、ゲイが集まるパーティーに繰り出しては男漁りをしていた。ある日出会った男・直人が、住む場所を転々しているという。うちに泊まればと声を掛けて、一緒に住むようになった。直人と一緒に住むようになって、優馬はよく家にいるようになった。ホスピスにいる母親の元にも連れていき…。
東京から母親と一緒に沖縄に逃げるようにやってきた泉は、同級生の辰哉と一緒に無人島に行く。そこで泉は、田中と名乗るバックパッカーと出会う。しばらくこの島に住んでいるという。泉は田中の雰囲気に惹かれ、度々島までやってくる。辰哉と共に那覇に行った泉は、そこでばったり田中と会い飲みに行くのだが…。
田代、直人、田中。誰かが、八王子夫婦殺人事件の犯人だ。
というような話です。

原作小説と映画の比較で、感想を書いていこうと思う。
個人的な意見では、原作小説の方が好きだ。
これは、物語の構造上、ある程度仕方ないと僕は感じる。

この物語は、ストーリーそのものに核があるわけではない。核は、人間関係の中にある。

田代、直人、田中。この三人は、千葉、東京、沖縄というまったく関係のない地に現れ、それぞれの物語は最後まで交わることなく物語が閉じる。この三人を繋ぐものは、「八王子夫婦殺人事件の犯人かもしれない」という、読者や観客だけが持っているメタ的な視点のみだ。

田代、直人、田中の三人は、それぞれの場所で人と関わっていく。田代は愛子と、直人は優馬と、田中は泉と。素性の知れない三人は、ごく狭い範囲でしか人と関わらない。そういう風に、世の中の隙間に隠れるようにして生きている。

彼ら三人の、その狭い狭い関係性が濃密に濃密に描かれるほど、この物語は力を持つ。この物語は、小説でも映画でもそうだが、「誰が犯人か?」というような興味で引っ張る作品ではない。物語を追いながら、誰もが恐らく、「誰も犯人でなければいいのに」と思うのではないか。誰も犯人であって欲しくない、そう思えば思うほど、ラスト物語が閉じた後の余韻が強く残る。誰だったのか、が問題なのではない。この三人の中に犯人がいるのだ、という失望みたいなものが、読む者・観る者を捉える。

そして、そういう視点で見た場合、小説の方がそれをやりやすい。映画は2時間半近くあり、映画の中では長い方だと思う。しかし、物語の分量に制約のない小説の方が、より描きこむことが出来る。「誰も犯人でなければいいのに」と思わせるだけの描写を、より一層詰め込むことが出来る。だから僕は、この物語は特に小説の方が合う、と感じる。

映画の方は、「言葉では表すことの出来ないモノ」によって組み上げられているという印象が強く、その点がとても良かった。愛子が漂わせる不幸せなオーラ、ある出来事があった後の泉の心情、直人をどう受け入れていいか戸惑う優馬の仕草。そして、愛子、泉、優馬の号泣。これらはどれも、文字では立体的に描き出すことがとても難しいだろう。この物語には、どうにも割り切れない様々な感情や想いが漂っている。それらを文字で描く場合には、なんらかの割り切りをしなければ言葉に落とし込むことは出来ない。しかし、表情や声や仕草であれば、それらを割り切らないまま表現することが出来る。なんだか分からない割り切れないものが全編に漂うこの雰囲気は、映画だからこそという感じがした。

3つの物語ではそれぞれ、何らかの形で「諦め」が描かれている。「諦め」という言葉で、どうにもならない現実を受け入れてしまっている人々が描かれている。とても大きな何かを諦めながら、それでも生きていく。それは決断ではなく、受容だ。受容に慣れ、慣れていきながら、淡々と毎日を過ごしていく。

その中で最も惹かれるのが、愛子の物語だ。

『愛子が幸せになれるはずないって思ってない?』

槇は娘の愛子を可愛がってはいるが、しかし同時に哀れんでもいる。愛子は、ちょっと普通ではない。それは、この辺の人なら誰でも知っている。愛子自身でさえ、わかっているのだ。

『私なんかが普通の人と幸せになれるわけないの』

そういう諦めを、槇も愛子もずっと抱えながら生きてきた。恐らく二人とも、その状況が将来的に変わる可能性があるとは、想像もしていなかっただろう。

そこに、田代という要素が代入された。
田代は時間の経過と共に、様々に形を変える。田代自身が変わるのではない。田代を見る槇と愛子の見方が変わるのだ。そしてそれぞれの形ごとに、田代の知らないところで槇と愛子を揺さぶっていく。

自分の娘の幸せを願いながら、同時に諦めている父親。そして、幸せになれないんじゃないかという思いを抱えながら、幸せへの可能性に手を伸ばそうとする娘。二人が掴み、手放したものは何なのか。愛子の号泣が、人を信じることの難しさを雄弁に物語る。

この映画で描かれていることは、どこかで起こっていることかもしれない。そして、僕たちの近くで起こっていることかもしれない。そうであっても、決しておかしくはない。

「怒り」を観に行ってきました



別冊カドカワ 総力特集 乃木坂46 Vol.3

「別冊カドカワ 総力特集 乃木坂46」の感想では毎回、齋藤飛鳥のエッセイについてあれこれ書いているが、今回は、齋藤飛鳥と同じテーマで文章を書くことにする。
齋藤飛鳥はエッセイのテーマを<人>と書いているが、今回のエッセイのテーマは<やさしさ>だ。

『昔、本で読んだ事がある。
人にやさしくできるのは自分を愛しているからだ。
(中略)
しかしどうだろう。
今の世の中、自分のことを愛している人はわんさかいる!ちょっとSNSなんかを覗けばすぐに見つかる!
だけど、やさしいと感じる人は滅多にいない』

そういう書き出しで始まるこのエッセイは、「やさしさを疑う自分」と「他人にやさしくしない自分」について書いている。

そこで僕も今回は、<やさしさ>について文章を書き、齋藤飛鳥のエッセイに対するアンサーエッセイみたいな立ち位置を目指せればいい、と思っている。

まず、言葉の定義をしたい。
僕は、<やさしさ>というのは大雑把に分けて二種類あると思っている。それを、「やさしさ」と「優しさ」という二種類の表記で書き分ける。

「やさしさ」:その場で伝わるやさしさ
「優しさ」:その場では伝わらないやさしさ

こう言葉を定義した時、齋藤飛鳥はこのエッセイの中で「やさしさ」について書いているのだ、ということはすぐに分かるだろう。

『自慢だが、私の母はやさしい。
家族のことや家族の親しい人に対してはもちろん、赤の他人にまでやさしい。これに関しては自信を持って言える。
困っている人がいたら誰であろうと必ず助けるし、
何の躊躇もなく自分の物を人にあげる。』

齋藤飛鳥は母親のことをこう評す。これはまさに「やさしさ」だろう。その言動が伝わった瞬間に、やさしさも伝わる。母親はそういうタイプであるようだ。そしてそんな母親を引き合いに出して、齋藤飛鳥は、自分が受けるやさしさについて分析していく。

このエッセイを一読して僕は、この文章には「優しさ」の要素が欠けている、と感じた。そしてその理由は、齋藤飛鳥が「優しさ」の体現者だからではないか、と僕は想像した。

やさしさというのは、時に厳しく、時に辛い。怒られたり、無理な挑戦をさせられたり、厳しいことを言われたりすることが、結果的に自分の人生のためになる、ということはよくあることだ。それらは、その言動を受けた瞬間にはやさしく見えない。しかし、時間が経つことで、あれはやさしさだったのだ、と過去を振り返ることが出来るようになる。それが「優しさ」だ。

齋藤飛鳥は決して、「やさしく」振る舞うことが出来なくて悩んでいるわけではない。エッセイの中ではこう書いている。

『私はやさしくありたいと思うが、やさしくなりたいとは思わない』

色んな解釈が可能な文章だが、「自分のスタイルを保ちながらやさしいと受け取られるならそれでいいが、自分を曲げてまでやさしく振る舞おうとは思わない」という風に僕は読んだ。この受け取り方で正しいとすれば、僕も同感だし、そのままの齋藤飛鳥でいて欲しいと思う。

しかし単純に僕は、齋藤飛鳥は「優しさ」に言及していないな、と感じるのだ。

もちろん、それは当然のことでもある。齋藤飛鳥はこのエッセイの中で、「やさしく振る舞うこと」ではなく、「やさしさを受け取ること」について言及しているのだ。やさしく振る舞われても、その通りには受け取れずに疑ってしまう自分自身について書いている。

齋藤飛鳥は、「やさしく」されたら疑うのだろう。『この人なんでやさしいんだろう…。どうして私なんぞにやさしくしてくれるんだろう…。何が欲しいのかな…』と書いているように、「やさしく」されるという状態をすんなり受け入れられない自分について書いている。

一方で「優しく」された場合には、きっと疑わないのだろう。何故ならそれは、その場ではやさしい言動には見えないからだ。齋藤飛鳥の中で、引っかかる部分はたぶんない。疑い深い彼女にすれば、「優しく」振る舞われる方が自然で安心できるのだろう。だからこのエッセイの中では「優しさ」について触れられていない。

ただ、齋藤飛鳥がこのエッセイの中で「優しさ」に触れなかった理由はもう一つあると僕は感じている。それが先程も書いたことだが、齋藤飛鳥が「優しさ」の体現者だからなのではないかということだ。

これに関しては、具体的に提示できるような傍証はない。あくまでも、僕の勝手なイメージの話だ。

齋藤飛鳥には、「やさしく」振る舞っているイメージはあまりない。他人にそこまで関心がないということもあるだろうし、後で触れるつもりだが、エッセイの中でも「やさしく」振る舞いたくない理由が書かれている。
しかしそれら以上に大きな要素は、「やさしい」振る舞いに良くないイメージを抱いているからではないか、と僕は想像するのだ。

「BUBUKA 2016年11月号」の中のインタビューの中で、齋藤飛鳥が秋元真夏に対してこんな風に語っている箇所がある。

『もとから真夏のことは大好きだったんですけど、たぶんどこかで胡散臭さを感じていたんですよ(笑)。でも今回のツアーでそれは消えました。本当にいいひとなんだなって(笑)。』

このインタビューの中で齋藤飛鳥は、秋元真夏の「やさしさ」に触れた経験を様々に語っている。齋藤飛鳥が言う「いいひと」というのは「やさしいひと」という捉え方でそこまで間違ってはいないだろう。

「やさしいひと」を胡散臭いと感じてしまう感覚が齋藤飛鳥の中にあるのだろう。それは、「やさしく」振る舞われた時に相手の言動を疑ってしまうという齋藤飛鳥自身の言葉からも読み取ることが出来る。母親の「やさしさ」を賞賛する彼女だが、それは、ずっと一緒にいて母親のことをきちんと理解しているから、胡散臭いと感じる余地がない、ということだろう。同じことが、秋元真夏に対しても起こったのだろう。

「やさしいひと」を胡散臭く感じる感覚が齋藤飛鳥の中にあるとすれば、自分でも「やさしい」振る舞いを制限することになってしまうだろう。これが齋藤飛鳥に「やさしい」振る舞いをしているイメージがない理由だと僕は考えている。

しかし、齋藤飛鳥がやさしくないわけではない、とも思う。齋藤飛鳥は「優しい」振る舞いをしているということなのだろうと僕は感じるのだ。

別に怒ったり厳しいことを言ったりするような「優しさ」ではないだろう。恐らく、そっとしておいたり、バランスのよい距離を取ったり、辛さの絶頂を外して声を掛けたりというような形で「優しさ」を発揮しているのではないか。完全に僕の妄想だが、僕は齋藤飛鳥に対してはそういう「優しさ」を発揮しているというイメージがある。

そして、自分がそういう風に振る舞っているからこそ、意識的にか無意識的にかは分からないが、このエッセイの中で「優しさ」について触れられていないのではないか、と僕は感じるのだ。

「やさしさ」と「優しさ」は別物で、基本的に両方発揮することは難しいと僕は感じている。僕は、今は「やさしいひと」と思われたいとは思わなくなった。何故なら、「やさしいひと」と思われると「優しい」振る舞いがしにくくなると思うからだ。「やさしい」振る舞いと「優しい」振る舞いなら、出来れば「優しい」振る舞いの出来る人になりたいと僕は思う。いずれにせよ、「やさしさ」を求める人もいれば「優しさ」を求める人もいる。どちらかだけが優れているわけではない。

ここまで書きながら気づいたことがある。齋藤飛鳥はこのエッセイの中で、「やさしさ」と「優しさ」を混同している箇所がある、と。基本的には「やさしさ」についての話だが、「優しさ」について書いている部分があるのではないか、と気づいた。

それが、先程も引用した『私はやさしくありたいと思うが、やさしくなりたいとは思わない』という一文だ。この文章は以下のように続いていく。

『何故か。
薄っぺらい人間だからだ。
これはあくまでも私の考えだが、私みたいな奴にやさしくされても皆は嬉しく無いと思う。
私のような薄っぺらい人間にやさしくされても
ありがとう。なんて言いたく無いと思う。』

齋藤飛鳥はここまでの部分で、母親の「やさしさ」や、自分が受ける「やさしさ」への疑いなどについて書いてきた。しかし、この「私みたいな薄っぺらい人間にやさしくされても嬉しくない」という話は、「優しさ」についての話ではないかと考えた。

今回のエッセイを読んで一番に感じたことは、この「私みたいな薄っぺらい人間にやさしくされても嬉しくない」という部分をもっと掘り下げて欲しい、ということだった。一読した時、この部分は弱い、と感じたのだ。

何故なら、薄っぺらさとやさしさには関係がないと思うからだ。あくまで僕の感覚だが、「やさしく」振る舞うことは、ある種の挨拶みたいなものだ。挨拶は、薄っぺらであるかどうかに関係なくする。潤滑油みたいなものだ。「やさしく」振る舞うことは、挨拶ほどは容易くはないが、しかしこちらもある種の潤滑油みたいなものであって、薄っぺらかどうかとは関係ないと僕は思う。薄っぺらな人間からされた挨拶でも不快にはならないように、薄っぺらな人間から受けた「やさしさ」に対して特に不快に思うことはないのではないか。

今文章を書いていて、なるほど、齋藤飛鳥がここで指摘していることが「優しさ」についてだとすれば話が通る、と感じた。確かに、こちらも僕の感覚にすぎないが、薄っぺらな人間から「優しく」振る舞われることは、ちょっと不愉快かもしれない。薄っぺらな人間というものを齋藤飛鳥がどう捉えているかにもよるが、「優しく」振る舞う人には、何らかの深い考えがあって欲しい、と感じることは自然かもしれない。

齋藤飛鳥が、自分が受けるやさしさは「やさしさ」、自分が与えるやさしさは「優しさ」と書き分けていたとは思わない。混同しているのだろう。あくまでも僕の解釈が正しければだが。

僕は、齋藤飛鳥は文章を書ける人だと感じているが、まだまだ文章を書くという経験の絶対量が足りない。絶対量が足りない中で人に読んでもらう文章を書かなければならない状況、というのもなかなか大変だろう。しかし、以前にも書いたが、この「別冊カドカワ」の場でどんどん書き、鍛錬を積んで欲しいと思う。このまま文章を書き続ければ、齋藤飛鳥は、人間や社会を独自の目線で鋭く切り取るエッセイストになれるだろうと思う。そういう齋藤飛鳥を楽しみに待ちながら、これからも齋藤飛鳥のエッセイを読みたいと思う。

今回の「別冊カドカワ 総力特集 乃木坂46 Vol.3」の感想は、齋藤飛鳥のエッセイについてだけ触れて終了である。個人的には、齋藤飛鳥のエッセイ以外に採り上げたいと思うものはなかった。面白くないわけでは決してないが、僕の関心とは重ならなかった、という感じだ。
「別冊カドカワ 総力特集 乃木坂46」自体はとても良い企画だ。毎回齋藤飛鳥のエッセイが読めるのは言うに及ばず、写真だけではなくインタビューなども多い点や、乃木坂46の歴史や周辺などについて知ることが出来る点も良い。普段は雑誌やテレビなどでそこまで露出がないメンバーが価値観や決意を語る場としても有用だろう。続けられる限り続けて欲しいと思う。

「別冊カドカワ 総力特集 乃木坂46 Vol.3」

「ハドソン川の奇跡」を観に行ってきました

「正しさ」というのは、何で決まるのだろうか?

僕は読んでいないが、「空気の研究」という本がある。第二次世界大戦の開戦は空気によって決まったとする研究を発表した本で、様々な場面で引用される機会がある本だ。誰かが決断したのではなく、様々な人間の色々な思惑がブレンドされた上での空気が、第二次世界大戦を決した。それはつまり、「正しさ」は空気で決まる、ということだろう。

2016年、ベッキーの不倫騒動が大きく話題になった。個人的には、あの騒動後、僕はベッキーに対する好感度が上がったのだが、それは置いておこう。
その時の報道で不思議だったのは、もう一方の川谷絵音に対するバッシングが目立たなかったことだ。ほとんどが、ベッキーを叩くようなものだった。理屈は分かる。ベッキーの方がネームバリューもあり、清純なイメージだったというベースもあり、大きく取り上げられ、より酷く叩かれるのも分かる。しかしやはり、マスコミを通じて報道された真実かどうか分からないざっくりした情報から判断する限り、ベッキーよりも川谷絵音の方が悪いのではないか、と僕は感じる。結婚していたのは川谷絵音だったのだから。ベッキーが悪くないと言うつもりはないが、単純な比較で言えば、ベッキーよりも川谷絵音の方がより叩かれていなければおかしいだろう、と僕は感じていた。
これもまた、空気によって「正しさ」が決まった例ではないかと思う。

現代は様々な形で、様々なレベルの空気が容易に生み出される時代になった。流行や時代を作り出していたのがマスコミや雑誌などのマスメディアだった時代とは違って、現代は、ちょっとした個人のアイデアや考え方が、様々な形で広まっていく。個人でも、様々なレベルの空気を生み出すことが出来る時代になっている。

そういう時代にあって、「正しさ」というのはどんな意味を持つのだろうか?

ルールにがんじがらめにされ、ルールに則ったものだけが「正しい」と判断される世の中はもちろん窮屈だ。しかし、ルールが曖昧で、不安定な要素の相乗効果によって「正しさ」が決まる世の中もまた窮屈ではないかと思う。自分の言動の「正しさ」が何によって決まるのか分からないまま、「間違っている」と突きつけられる可能性に常に怯えながら生きていくのは、しんどいのではないかと思う。

人によって「正しさ」が違うことは当然だし、それを否定するつもりはまったくない。しかし、社会全体で、「こういうことを正しいと考えよう」という土壌を、もっと積み上げていかなければならないのではないか、と感じることもある。テレビではよく、「100%の安全」を求める声が流れる。しかし、「100%の安全」など存在しないということを、社会はもっと共有すべきだと僕は思う。しかしもちろん、そう考えない人もいて、議論は噛み合わない。

この映画を観て僕が感じたことは、「コンピュターシミュレーションをそこまで信頼するなら、飛行機をコンピュターに運転させろ」ということだ。飛行機の運転を100%機械にやらせることは、まだ出来ないはずだ。だから、人間が機長や副機長として乗っている。だったら、その人たちの判断はもっと尊重されるべきだろう、と強く感じた。

内容に入ろうと思います。
2009年1月15日、エアバスA320に機長として搭乗していたサリーは、ある決断をした。
ハドソン川に不時着する。
それは危険を伴う判断ではあったが、サリーには自信があった。そして、それ以外には選択肢は存在しなかった。サリーは、そう判断した。
その結果サリーは、乗客乗員155名全員の命を救った。
鳥の大群がエンジンに突っ込み両エンジン停止という危機的状況を見事回避し、サリーは英雄となった。
しかし。
NTSB(国家運輸安全委員会)が、サリーと副機長の判断を疑問視する。
ラガーディア空港に引き返すことは出来たのではないか?と。
サリー自身も当初、ラガーディア空港に引き返すことを考えていた。しかし、様々な状況判断から空港までもたないと判断。ハドソン川への不時着を決断した。
しかしNTSBは、サリーがハドソン川へ不時着したことで、乗客を危険に晒し、機体を水没させたと判断しているようだった。
コンピュターによるシミュレーションや様々な専門からの解析を待つ間、サリーは考える。
『40数年間、多くの乗客を運んできたというのに、わずか208秒の決断ですべてが判断される』
果たして真実はどこにあるのだろうか?

少しだけネタバレになるかもしれないが、書きたいことがあるので物語の展開を少しだけ書く。サリーはあるきっかけから、シミュレーションの不備を認識し、それを指摘することで自身の判断の正しさを示す、という流れになる。

しかし、僕は思うのだ。仮に、仮にシミュレーションが間違っておらず、彼らがラガーディア空港まで引き返せる状況であったとしても、それでも僕はサリーの決断が尊重されるべきだと考える。

何故か。
それは、副機長のこの言葉で表すことが出来る。
『ビデオゲームではない。生死の問題です』

映画を観ながら僕が考えていたのは、アポロ13号の帰還のエピソードだ。
宇宙空間で為す術もなく漂うかに思えたアポロ13号だったが、アポロンの内に残された電力と装備をすべてリストアップし、それらをどんな手順で使えば地球へ帰還できるのか、地上のシミュレーションで散々繰り返した結果、帰還できる方法が見つかり、彼らは地球に戻ってくることが出来た。これはシミュレーションの勝利である。

しかしこの話は、サリーのケースにはまったく当てはまらない。
アポロ13号のケースは、シミュレーションが先にあった。完璧なシミュレーションが先に用意され、乗組員たちはそれに従って行動すれば良かった。

しかしサリーたちは違う。シミュレーションの方が後なのだ。サリーは、この危機的状況を回避するためのすべての決断を、自分たちでする以外に方法はなかった。離陸直後の事故であり、高度は恐ろしく低かった。眼下には高層ビル群。サリーは、ハドソン川への不時着を成功させた後も、操縦していた機体がビル群に突っ込む映像が頭にこびりついて離れなかった。決断の時間は、ほとんどない。仮に、サリーが操縦していた機体がラガーディア空港に帰還できたのだとしても、まさに今その飛行機を操縦している機長自身が、様々な状況を加味してそれは無理だと判断したのだ。後からシミュレーションで、ラガーディア空港に帰還できたはずだ、などと言ってもなんの意味もない。

繰り返すが、この映画を観て、シミュレーションが云々言ってるなら飛行機を自動操縦にしてパイロットを乗せるな、と思った。概ね自動操縦が出来るのだとしても、不測の自体にはコンピュターは対応できないはずだ。だから人間が乗っている。それならば、人間の判断を尊重するべきだろう。NTSBの面々が何故それを理解できないのかと、映画を観ながらずっとイライラしていた。

今回はサリー自身が、シミュレーションの不備を指摘できたから良かった。しかしもし、サリーにその指摘が出来なければ、本当にサリーは自身が予測したように、パイロットを馘首になり年金ももらえないような立場になっていたかもしれない。そう考えると、本当に恐ろしい。

NTSBの立場も、分からないではない。映画の中ではそこまで詳細に描かれてはいないが、飛行機一機をダメにしたのだから保険の話が絡んでくる。保険会社は、機体を損傷させずに乗客を救う手立てが存在したとすれば、保険料を支払わないと主張するかもしれない。あるいは、サリーは通常の手順を無視して、自身の経験と勘に従って危機的状況下の操縦をした。そういう前例を追及もなく見逃してしまえば、今後も規律を乱すパイロットが現れるかもしれない。NTSBはそういう可能性を考えて、サリーを追及している。その立場を理解できないとは言わない。

しかし、映画の中で描かれるNTSBは、明らかにサリーと対立している。事故の状況を明らかにする、というのが最終目標であれば、サリーとの対立構造などなくてもその究明は出来たはずだ。そこに、僕は悪意を感じる。真相の究明よりも、サリーを貶める意図があったのではないかと勘ぐりたくなる振る舞いを、映画の中のNTSBはしていた。その点が、とても不快だった。

映画のエンドロールでは、本物のサリーと、当時救助された本物の乗客だと思われる人々の映像が流れていた。サリーの潔白が公に証明されて、本当に良かったと思う。英雄が正しく評価される世の中を、僕らは作らなければならないし、守らなければならない。

「ハドソン川の奇跡」を観に行ってきました



「君の名を。」を観に行ってきました(二度目)

同じ映画を二度観ることは稀だ。
「君の名を。」は、一度目と二度目で、見方が大分変わる映画だった。

一度目は、ストーリーに注目して観ていた。
ネタバレはしないが、この映画は、そういうことだったのか、と思わせるような、ストーリー上の驚きがある。映画の前半と後半では雰囲気がガラリと変わる。前半は、ちょっとおかしな設定のあるラブコメという感じだが、ある部分からガラリと話が変わり、そしてその後、観客が驚くような展開が待っている。

一度目に観た時、一番僕を支配していた感覚は、「よくこんなストーリー考えたな」ということだった。絵もキレイだ。登場人物たちも良い。しかしそういう部分より何よりも、この映画のストーリーに惹き込まれた。

特殊な関係にある二人の男女が、未来を変えるために奮闘する、などと要約してしまえば陳腐にしか聞こえないが、手垢のついたような設定をいくつも組合せながら、これだけ芳醇な物語を生み出せるものなのかと、驚かされた。

二度目は、また違った見方をした。
二度目は、ストーリーは分かっている。彼らの物語がどう展開するのか知っている。
だから安心して、ストーリーを追うことを手放すことが出来た。
そうやって見えてきたのは、人間だ。登場人物たちだ。彼らのことが、一度目の時よりずっとくっきりと見えた。

僕は、映画の中でまだ何も起こっていない時から泣いていた。自分でも驚いた。僕は、彼らに起こることを知っている。この映画の前半、何も起こっていない時というのは、平和な時間だ。お互いが、どんな平和の中に生きているのか、それを確認する時間だ。

その時間が、平和な時間が、この先どうなるのか、僕は知っている。彼らを待ち受ける未来を知っているからこそ僕は、彼らを見て涙を流したのだと思う。

二度目故にストーリーを追わなくても安心して観れる僕は、一度目にはきちんと捉えきれていなかっただろう部分を熱心に見た。何も起こっていない時の様々な会話や発言が、一度目よりも深い意味を持って聞こえた。町長に向かっていく時の少女の顔に浮かんだ想いが、はっきりと見えたように思えた。時間の流れについての祖母の講釈が、映画全体を貫く背骨であるように感じられた。

そして、主人公の男女の決断と行動が、より強く胸に迫ってくるように感じられた。

多くの人の心を打つ物語は、何らかの普遍性を有しているのだろう。
この映画もまた、多くの人の心に何かを刻んでいる。
この映画は僕らに、どう生きるかを問いかけている。
人生に、正解はない。しかし、後から振り返った時に「正解だ」と思えるような生き方であればいいのだと思う。

彼らは、自分なりの正解を掴み取った。
これは、なかなか難しいことだ。何故なら、「正解である」と決めるのは、自分自身だからだ。誰かが決めてくれるわけではない。他ならぬ自分自身が、そう決断しなければいけないのだ。
「正解である」と決めるのには、覚悟がいる。彼らはその覚悟を、お互いを想う気持ちから振り絞った。そうやって二人は、困難な現実を乗り切り、不安定な未来を掴み取ったのだ。


久々に、文章を書くのに苦戦している。
映画館で自分が感じたことを、出来るだけ言葉にしたいと思うのに、いつものようには指が動いてくれない。
何を書いても、自分の感じたこととはズレてしまうような気がするからかもしれない。
あるいは、この映画には、まだ自分がうまく捉えきれていない部分が山ほど残っていると感じているからなのかもしれない。
自分自身のことも、映画のことも、もっとうまく捉えたいと思う。

「君の名を。」を観に行ってきました(二度目)





ひとさらいの夏(富士本由紀)

世界から他人という存在が一人もいなくなった時、自分が何をするか。それこそが、自分の本当にやりたいことなのではないか、と考えることがある。

誰もが他人の目を意識しながら生きている。誰にどう見られているか、誰にどんな風に評価されているか。そういうことが気になってしまう。周りに見せるための自分を生きるのに精一杯で、自分が本当にどうしたいのかを考える余裕もない。

自分の人生は、自分の選択によって構成されているはずだ。たぶん誰もがそう思っている。そう思いたいのだ。けれど、長い年月人生というものを生きてきて、人々は、こんなはずではなかった、という場所に辿り着く。多くの人が、何か違う、という思いを抱えながら毎日を過ごす羽目になる。

自分が最良と思う選択を積み重ねた先にある到達点は、自分が最良と思う未来には、どうやらならないようなのだ。

人間は、そういう到達点に立って始めて、自分の選択というものを疑うようになるのかもしれない。自分で選んだ道だ、というのは思い込みでしかなかったのかもしれない。自分の選択というのは、誰かの希望に裏打ちされているだけだったのかもしれない。たどり着けるはずだった場所にたどり着けないまま、倦んだ日常を生きざるを得ない人たちは、やり直すことが出来ない選択を後悔しながら、なんの希望もない未来が訪れるのをただ待っている。

この物語の背景になっているのは、そういう淀んだ日常だ。何もないだけの毎日をただ生きている人。酷い環境が当たり前になってしまった中で生きている人。前にも後ろにももう何もなく、上にも下にもいけないどん詰まり。そういう場所で、彼女たちは生きている。

そういう日常に射し込むのは、濁った光なのだろう。雲間から輝くような陽の光が射し込むようなことは、望めない。昏くベトベトした光が申し訳程度に見えるくらいなものだ。

それでも、光には違いない。そんな光でも、彼女たちの人生は瞬間明るくなる。そういう風にしか生きられないと悟っているからこそ、濁った光でもいいから手を伸ばしたくなる。

そんな人生が描かれた物語だ。

内容に入ろうと思います。
本書は、7編の短編が収録された短編集です。

「氷砂糖」
電車に乗ってあちこちのスーパーを回っている。今のお気に入りは武蔵小杉のイトーヨーカドーだ。雨が降り、雨宿りにと目に入ったのが、「アラスカ」という名の喫茶店だ。
そこに、あの人がいた。岩本洋司。かつて好きだった、そして付き合ってもいた男が、喫茶店のマスターに収まっていた。
洋司は、私のことを思い出さなかったようだ。あの日の「氷砂糖」を引っ張り出してきて、過去の記憶をまさぐる。

「ひとさらいの夏」
41歳の江美子は今、15歳の少年とバイクに乗って逃亡している。少年を追う大人たちから。
付き合っていた相手から、だまし討ちのようにして二千万円もの借金を背負わされた江美子は、その日降りしきる雨の中一人の少年を発見した。少年はそれから頻繁に江美子の元を訪れるようになり、やがて体の関係を持つようになる。少年は、大人に包囲されようとしている。そして江美子は、そんな少年の現実に巻き込まれた。いや、巻き込まれにいった。

「田螺と水面の月」
ヴェガという名の寂れたパチンコ屋に、野越弓子は日参している。26歳になる今も、親から月2万円ほどの小遣いをもらって何も働きもしない弓子は、ヴェガに入り浸って他人に悪意を撒き散らしている。どうせ愛想よくしたって好かれるわけでもない。弓子は経験でそれを悟っていた。
しかしある日、弓子と積極的に関わろうとする、容姿の整った男が現れる。その男は、弓子に好意を持っているとしか思えない振る舞いをする。意味が分からない。分からないが、不快ではないし、嬉しい。彼に気に入られたい。その気持ちが、弓子を変化させていく。

「僻む女」
頭だけは良かったけど地味でいじめられていた同級生が、病院長として華々しい生活を送っている。学生時代ヒエラルキーのトップにいた多可子は、今では東京の会社で人員整理に遭い、田舎に戻ってきて肩身の狭い生活をしている。病院長が病院経営で何か悪いことをしているはずだ…。そういう思い込みを持って病院を探り始める多可子だが…。

「亜種幻想」
水島は、常に上司である鞘木から怒られている。無茶な営業先とノルマを課せられて、出来るはずもないことで怒られる。そんなかわいそうな水島を見て、曜子は彼を愛しく感じる。水島がされている無茶を感じるためだけに、曜子は鞘木に抱かれている。

「蜘蛛」
杏子は、膠原病を患いほとんど身動きの取れなくなっている母親の介助のために設計事務所を辞め、自宅で出来る仕事を回してもらっている。出来上がった仕事を渡す日だけ、介護ボランティアの西田さんにお願いをして、杏子は高梨と会う。仕事を回してくれる男であり、独立して杏子と結婚しようとしている男である。しかしそのためには、杏子の母が邪魔なのだった。

「コンドル」
夫が人員整理に遭い職を失い二年半が経った。夫は働こうとしないばかりか、面接に行こうともしない。ただダラダラと日々を過ごしている。枝里はそんな夫を見限っているが、しかし離婚に踏み切ろうとするわけではない。自立出来るとは思っていないからだ。ある時から白人男性と付き合い始めた。彼は枝里に、何故夫と別れないのかと問う。

というような話です。

どの話も、絶望というほどの絶望ではないのだけど、とにかく行き詰まっている女性たちの人生が描かれている。ある程度年齢を重ね、自分の人生にこれ以上の広がりがないことを自覚している女性たち。辛い何かを引きずりながら淡々と、何かを塗りつぶすようにして時間を過ごしている彼女たちの日常に訪れた微かな光と、その光の昏さが描かれていく。

読むものをザワザワさせる雰囲気に溢れた短編だ。予定調和、という言葉からかけ離れていて、物語がどんな風に着地するのか、読んでいる間は想像が出来ない。読者を不安定な気分にさせる筆致が、どんな着地もありえるような雰囲気を醸し出す。

そんな雰囲気が最高潮に達するのが、「亜種幻想」ではないかと思う。この物語は、結構好きだ。この物語は、本当にどんな風に閉じるのか全然想像が出来ない。歪んだ欲望を持つ女性と、飄々としているように見える男。二人の、直接の関係が一切ない関係性が、奇妙な空間を作り上げている。結局何も判然としない唐突な終わり方が、僕は好きだ。全7編の短編中、最も物語らしくない短編で、他の短編が比較的物語らしく振る舞っている中にあるせいか、この短編が一番僕には引力があるように感じられた。

ありきたりな言い方をすれば、本書の主人公たちは、理想と現実の差に絶望しているといえる。しかし、より深刻なのは、彼女たちが理想を捉え残っているように見えることだ。捉え残った理想と現実を比べて、絶望している。現実を比べる対象がそもそも不正確なのだから、歪んだ定規で長さを測るみたいな無意味さを感じてしまう。

じゃあ、理想というのはどう捉えるべきなのか、と聞かれたら、答えに窮する。僕は、理想を持たないことが理想だと考えているのでなおさらだ。理想、というものを捉えてしまうから、現実との差、というものが生まれる。理想がなければ、現実との差、という厄介なものも消え去るのだ。僕は真面目にそんな風に考えている。

彼女たちは、大それた理想を掲げているわけでは決してない。金持ちを目指しているでも、イケメンとの恋を望んでいるでもない。ただ、ごくありきたりな、普通の人生を望んでいるのだ。

しかし、それがダメなのだと僕は思う。普通、というものは存在しない。普通、ありきたり、平凡、そんなものを望むからこそ、そこから外れてしまうのではないかと思う。それが僕なりの、理想を捉え損なった、に対する説明だ。

濁った光を見て、それを追いかけた彼女たちの人生は、唐突な場所でスパッと途切れる。そこからどんな風に彼女たちの人生が続いていくのか、読者には分からない。光のない世界にただ戻ることが出来るのなら、それはある意味で幸せだろう。きっとそうはならない。その後が気になるという意味でいえば、「コンドル」の枝里は、その後どうなっただろうか?とても気になる。

富士本由紀「ひとさらいの夏」

ある奴隷少女に起こった出来事<再読>(ハリエット・アン・ジェイコブズ)

『子どものそばに横になるとき、この子がご主人に殴りつけられるのを見るよりも、息を引き取るのを見るほうが、わたしにはどんなに耐えやすいかと思った。』

「常識」というものを怖いと感じることが、僕にはよくある。「正しいと思われていること」「多くの人がそうであると認めていること」が、「常識」と呼ばれるようになる過程を、怖いと感じることが、僕にはよくある。

『この女主人には七人の子がいたが、少女の母親にはたった一人しか子がなかった。そして、その子は永遠にまぶたを閉じようとしていたが、母親はそのとき、わが子をつらいこの世から連れて行ってくださる神に感謝しつづけていた。』

「常識」と一旦認められれば、今度はその「常識」を盾にして主張をし始めるものが現れる。益々、「常識」は広まり、多くの人がそれを正しいことだと思うようになる。
しかし、多くの人がそれを認めているからといって、「常識」が常に正しいわけではない。

『奴隷の母親にとって、(奴隷の雇入れ更新日である)新年は特別な悲しみでいっぱいの季節である。母親は、小屋の冷たい床に座りこみ、翌朝には取り上げられてしまうかもしれない子どもたちの顔を、じっと眺める。夜明けが来る前に、いっそ皆で死んでしまったほうがいい、と何度も考える。奴隷の母親は、制度のために人間の格を下げられ、子ども時代から虐待を受け、愚かにしか見えない生き物かもしれない。けれど、奴隷にも母親の本能があり、母親にしか感じられない苦しみを感じる能力はあるのだ。』

人間はこれまで、愚かなことをたくさんしてきた。その中の一つに、奴隷制度というものがある。かつてアメリカに存在した、黒人を奴隷として扱う制度だ。同じ人間でありながら、まるで所有物であるかのように扱うこの制度は、当時のアメリカでは「常識」だった。それが正しいことであることを疑うものは、黒人を奴隷にしていた地域では少数であったに違いない。

『子どもたち全員が連れ去られたあと、道で母親に出会った。そのときの狂ったような、ギラギラした目をした彼女の顔が、今でも目に浮かぶ。「いなくなった!子どもはみんないなくなった!なのに生きろと神はあたしに言うの?」女は、怒りに身を震わせて大声で叫んでいた。わたしにはかける言葉がなかった。こういう出来事は、毎日、いや、毎時間のように起きていた。』

こういう歴史を知る度に、僕は思う。昔の人間は愚かだったんだなぁ、なんていうことを思うのではない。もしかしたら、現代を生きる僕らも、おぞましい奴隷制度のような仕組みに、無意識の内に加担しているのではないか、と怖くなるのだ。今自分が「常識」だと思っていることが、そう遠くない将来正しくなかったとみなされるのではないか。そんな風に思ってしまうのだ。

『それまで何度も死を願ってきたが、そのときは赤ちゃんが一緒に死なない限り、死にたくなかった』

だから僕は、「常識」に寄りかかることが怖い。誰かが生み出し、多くの人が自然発生的に許容していった「常識」に寄りかかってしまえば、大きな間違いを犯すことになるかもしれない。世の中のすべての事柄について、全部自分で判断することは不可能だ。それでも、自分の言動や価値観に直結する事柄は、出来る限り自分の頭で考えて、自分なりの基準をきちんと持って判断したい。

『この仕打ちは相当わたしの身にこたえた。だが、ドクターを呼ぼうと言う周囲に、このまま死なせてほしいと頼んだ。ドクターがそばにいることほど、恐怖を感じるものはなかった。わたしは何とか回復し、子どもたちのためには、死なないでよかった、と思った。十九歳だったが、子どもとわたしを結びつける絆がなければ、死によって自由になれるほうが、わたしにはうれしかった』

本書は、実話だ。

『読者よ、わたしが語るこの物語は小説(フィクション)ではないことを、はっきりと言明いたします。わたしの人生に起きた非凡な出来事の中には、信じられないと思われても仕方がないものが存在することは理解しています。それでも、すべての出来事は完全な真実なのです』

本書の中で「リンダ」という名で登場する女性こそが、本書の著者、ハリエット・アン・ジェイコブズである。
彼女は、奴隷制度という悪法の中を生き抜き、後年、自らの経験を知的な文体で克明に記した。それが本書だ。本書は当初、「白人の知識人によって書かれたフィクション」だとみなされ長く忘れられていたが、出版から120年後、書かれていることが事実であると判明し、欧米を中心に大ベストセラーとなっている。
そんな「リンダ」は本書の中で、奴隷制度をこんな風に捉えている。

『わたしが経験し、この目で見たことから、わたしはこう証言できる。奴隷制は、黒人だけではなく、白人にとっても災いなのだ。それは白人の父親を残虐で好色にし、その息子を乱暴でみだらにし、それは娘を汚染し、妻をみじめにする。黒人に関しては、彼らの極度の苦しみ、人格破壊の深さについて表現するには、わたしの筆の力は弱すぎる。
しかし、この邪な制度に起因し、蔓延する道徳の破壊に気づいている奴隷所有者は、ほとんどいない。枯れ葉病にかかった綿花の話はするが-我が子の心をカラスものについては話すことはない』

『わたしは自分にこう言いきかせてみた。「人間にはわずかでも正義の心があるはずよ」。だが、そうつぶやいたあと、奴隷制がどのように、人間が持って生まれた心に反し、ひとに道を踏みはずさせてきたかを思い出して、嘆息した』

この「リンダ」の警鐘は、現代を生きる僕らにも無関係ではないはずだ。中絶、生活保護、特殊詐欺、薬物、延命治療、介護など、現代に深く根ざす様々な問題に対して、僕らは常に真っ当な立場を取ることが出来ていると言えるだろうか?表向きに存在する制度であれ、暗黙の了解であれ、社会の中には様々なルールが存在し、僕らはそのルールに思いのほか縛られて生きている。奴隷制は、現代の目から見れば“明らかな”悪法だと誰だって分かる。しかし奴隷制が存在した当時、それがよほど悪い制度であると持っていた人はどのくらいいただろうか?同じことは、現代を生きる僕らにも突きつけられるべきだろう。「僕らがそうと気づかずに従っている“明らかな”悪法に、僕らは従順に従っているのではないか?」という問いを自らに向けて突きつけるべきだろう。

『もしも、わたしの子どもが、アメリカでいちばん恵まれた奴隷に生まれるのならば、お腹を空かせたアイルランドの貧民に生まれるほうが、一万倍ましに違いない。』

『ヨーロッパの貧民がいかに虐げられているかという話を、わたしはそれまでさんざん聞かされてきた。わたしがそこで出会った人々の大半が、その中でも最も貧しい人々であった。だが、茅葺きの彼らの家を訪ねてみて感じたことは、最もみすぼらしく、無知な者の状況も、アメリカで最も優遇された奴隷よりもはるかに良い、ということだった』

僕らも、同じ時代を生きる誰かをこんな風に思わせるような“明らかな”悪法に加担しているのではないか?そんなはずはない、とあなたは思うだろう。僕も、そう思いたい。しかしそれは、ただ視界に入らないだけなのだ、と僕は思う。「そんなはずはない」と思える僕たちは幸せなのであって、絶望的な環境の中で、未来への希望どころか、明日の生活さえ覚束ないような日常を送っている人は、現代にもたくさんいるはずだ。

『だからと言って、幸せな読者のお嬢さん方、憐れで孤独な奴隷少女を、どうぞあまりきびしく判断しないでください。あなたは子ども時代から、ずっと純潔が庇護される環境に育ち、愛を向ける対象を自由に選べ、「家庭」というものが法に守られているのですから。もしも奴隷制がとっくに廃止されていたなら、こんなわたしだって好きな男性と結婚できただろう。法に守られた家庭を持っていただろう。そして、これから物語るような、つら告白をしなければならないこともなかっただろう』

『良識ある読者よ、わたしを憐れみ、許してください!あなたは奴隷がどんなものか、おわかりにならない。法律にも監修にもまったく守られることがなく、法律はあなたを家財のひとつにおとしめ、他人の意思でのみ動かすのだ。あなたは、罠から逃れるため、憎い暴君の魔の手から逃げるために、苦心しきったことはない。主人の足音におびえ、その声に震えたこともない。わたしは間違ったことをした。そのことをわたし以上に理解しているひとはいない。つらく、恥ずかしい記憶は、死を迎えるその日まで、いつまでもわたしから離れないだろう。けれど、人生に起こった出来事を冷静に振りかえってみると、奴隷の女はほかの女と同じ基準で判断されるべきではないと、やはり思うのだ』

「リンダ」が置かれた状況は、本書を読めば分かる。あまりにも壮絶だ。死んだ方がましだ、と思うような状況を幾度も乗り越えてきた。親しい人と二度と会えないことを覚悟し、道徳に背く行いを許容し、家族を手放し、絶えることのない恐怖に浸かっていた。6歳の時、自分が奴隷だと知った「リンダ」は、それから20年近くに渡って絶望的な闘いを繰り広げてきた。ついに自由を手にし、子ども二人と再会出来たことは、まさに奇跡と言っていい。

『まっすぐな生き方がわたしは好きで、言い訳に逃げることは、いつでも気がすすまない』

そんな奇跡を引き寄せたのが、「リンダ」の誠実さであろう。奴隷という身分でありながら、人間としての真っ当な権利を常に奪われ続けながら、それでも人間としての高潔さを失わなかった「リンダ」。「リンダ」の不道徳な行いは、奴隷制度に抵抗するという目的のためだけに成された。奴隷所有者である白人たちの不埒な行いに屈することなく、自分の正しさを貫き通した「リンダ」。「リンダ」と同じ状況に置かれた時、同じような高潔な生き方を貫き通すことが出来るだろうか、と考えると、「リンダ」の生き様がより輝いて見えるだろうと思う。

本書を読むのは二度目だ(一度目の感想はこちら)。詳しい内容紹介や、本書に光が当たった経緯などは、一度目の感想を読んで欲しい。ここでは割愛する。内容については、6歳で自らが奴隷であると知った少女が好色な老医師に売られ酷い扱いを受けるが、15歳の時にある決断をし、7年間の潜伏生活を経て自由を手にするまでの、一人の奴隷少女の半生を描いた作品だ、とだけ書いておく。

二度目の感想では、母と子に焦点を当てた。
僕には子どもはいないが、ごく一般的な親であれば、「子どもが自分より先に死ぬのを見ることほど辛いことはない」と考えるだろう。しかし「リンダ」は、自分自身や周囲の奴隷が、「子どもが死んでしまう方がまだましだ」と考えざるを得ない環境にいるのだ、ということを自覚していた。

それはなんと壮絶な環境だろうか。そう考える母親は、子どもを愛していないわけではない。むしろ、並以上の愛情を子どもに注いでいるのだ。そうあってなお、子どもの死を望んでしまう。それは、現代で生きる僕らには、少なくとも、この本を買って読むことが出来る僕らのようなごく普通の人には、想像も出来ないような環境だろう。

『フリント婦人は、奴隷に感情が持てるとは、一度も考えたことがなかった』

その時代を生きていなかった僕には、このことがどうしてもうまくイメージ出来ない。テレビで昔、こんなことを言っていた。害獣駆除をしている猟師は、猿だけは打つのに躊躇してしまうのだ、と。仕草がまさに人間のようで、打つのに忍びなくなってしまうのだ、と。

黒人は、「人間のよう」ではない。まさに人間なのだ。猿でさえ、打つのに躊躇してしまうのに、同じ人間を見て「感情が持てるとは、一度も考えたことがなかった」と思えるとは、僕にはどうしてもうまく想像が出来ない。

なんとか僕がイメージの助けを借りたのは、捕鯨の話だ。
日本人にとって捕鯨は、昔からの伝統だ。イワシやウシを食べるのと同じようにして、クジラを捕獲しては様々に活用していた。
しかし欧米ではその感覚は通用しないようだ。欧米ではクジラやイルカは、イワシはウシとはまるで違う知性のある存在と見なされているようで、そんな知性のあるクジラやイルカを捕まえている日本人は野蛮だ、という認識になっている。
正直僕にはこの感覚はイマイチ理解できない。多くの日本人がそうだろうと思う。しかし欧米人の、クジラやイルカを見る眼差しが、結局勝った。欧米人は、野蛮な日本人を懲らしめ、知性のある生き物を救うことが出来たことを誇っていることだろう。

僕ら日本人がクジラやイルカを見る視点が、もしかしたら、当時の白人が黒人を見ていた視点に近いのだろうか。そんな風に考えてみた。捉え方としては容易い。しかし、やはり分からない。人間とクジラは、形も大きさも言語もまるで違う。白人と黒人は、形も大きさも言語も同じ、ただ肌の色が違うだけだ。肌の色の違いだけで、同じ人間を「感情を持てない生き物」と見なすことが、本当に出来るのだろうか?僕にはうまく想像が出来ない。

『鞭で打たれる痛みには耐えられる。でも人間を鞭で叩くという考えには耐えられない』

本書は、多様な読み方を与えてくれる作品だ。
人間がいかに残虐になれるのかを教えてくれる。
人間がいかに高潔さを貫くことが出来るのかを教えてくれる。
人間が他人にどれほどの優しさを発揮することが出来るのかを教えてくれる。
正しい生き方がどれほどの人間の心を動かすのかを教えてくれる。
「常識」がいかにして間違うのかを教えてくれる。
人を想う気持ちの美しさを教えてくれる。
絶望的な環境の中で生きる希望を見つけ出す方法を教えてくれる。

辛いだけの物語なら強くは勧めない。
人として生きていく上で忘れてはならない、捨ててはならない、無視してはならないことが、この作品には詰まっているのだ。

ハリエット・アン・ジェイコブズ「ある奴隷少女に起こった出来事」

「SCOOP!」を観に行ってきました

「仕事だから」という言葉で物事を割り切ることが苦手だ。

仕事に貴賤はない、という言葉を受け入れたいという気持ちは常にある。僕は、他人がどんな仕事をしていても、それが「仕事」と呼べるものであれば特に非難するつもりはない。「仕事」と呼べるか否かは、そこに需要があるかどうかだと思っている。需要があれば人を殺すことも仕事と呼んでいいのか、と自分でも思うように、決して需要のあるなしだけでは判断できないとはいえ、その仕事が成立する以上、どこかに需要が存在する。そうである以上僕の意識は、その仕事をしている人よりも、その仕事を成り立たせている、需要を生み出している人々に向く。仕事をしている人よりも、需要を生み出す人々を嫌悪したいと、基本的には考えている。

ただ、「仕事に貴賤はない」という言葉は、自分が仕事をする、という場合にはうまく適応出来ないでいる。

仕事をしている中で、「こんなことをしていていいんだろうか」と思うことは度々ある。それは、「仕事だから」という言葉で割り切るしかないものなのだし、割り切れないで残ってしまった余りは自分の中でどうにか処理していくしかないものだ。それは分かっているし、なるべく割り切ろうと思うようにもしている。

それでも、自分の中にモヤモヤしたものが残り続ける。

僕の意識の中には、こんな思いがある。これが僕のモヤモヤの正体なのだろうと、今のところは見当をつけている。

それは、「仕事が需要を増幅させているのではないか」という思いだ。

それがすべてではないとは言え、需要から仕事が生み出される、という大きな流れは疑いようがない。しかしそこからの展開は様々なものがあり得る。そのいくつもある可能性の中にある、「ささやかな需要によって生み出された仕事が存在するために、元々なかった需要が増幅されているのではないか」という不安が、僕の内側に根を張っているのだ。

これは、「良い需要」(良い悪いの判断基準は特に示さない。僕の個人的な好き嫌いと重なると思ってもらって構わない)の場合にはとても良い循環を生む。ほんの僅かな需要から仕事が生まれ、その需要が増幅されることで広まっていく、という流れはとても素晴らしいものだ。

しかし、同じことが「悪い需要」にも当てはまる。ごく僅かしか存在しなかったそういう悪い需要が仕事を生み出し、仕事が生み出されたことでその悪い需要が広く喚起される結果になることだって当然あるはずだ。

僕はその後者の流れが好きではない。もちろん、好きだという人はそう多くないだろう。それでも「仕事だから」という言葉で割り切ってそれをやらなければいけない人たちがたくさんいることだって頭では理解しているつもりだ。

それでも僕は、「悪い需要」の増幅装置としての仕事を自分がやる時に、「仕事に貴賤はない」と断言することができなくなる。

例えば、写真週刊誌は、とても分かりやすい例だろう。

写真週刊誌というものが存在する前は、「いくら有名な人であっても、プライバシーを覗き見するようなことなど出来ない」とみんな思っていただろう。いや、この表現は、「他人のプライバシーを覗き見出来る可能性」を前提にしているからおかしい。正しくは、「芸能人のプライバシーを覗き見するなんて発想は一切なかった」と書くべきだろう。

もちろん、僅かな需要はあっただろう。当時そういう名前で呼ばれはしなかっただろうがストーカーみたいな人もいつの世にもいただろうし、雲の上の人たちのことを知りたいと熱望する人だってきっといただろう。

そういうちょっとした需要を満たすようにして芸能人のプライバシーを暴くような写真が撮られ始めたのだろうし、やがてそれだけで構成される雑誌が生まれるようになっていったのだろう。

他人のプライバシーを覗くことは良くないと僕は思うので、これを「悪い需要」とここでは書こう。この「悪い需要」は、芸能人がプライバシーを撮られるようになった頃はまだ需要としてはそこまで大きくはなかったはずだ。しかし、写真週刊誌という仕事が生み出されることで、芸能人のプライバシーを覗き見したいという「悪い需要」は増幅されることになった。芸能人のプライバシーなど覗けるはずがないと思っていた人たちも、芸能人のプライバシーを覗いてくれる仕事が存在するお陰で、芸能人のプライバシーを覗いてみたい、という欲求が生まれるようになっていく。

映画の中で、「SCOOP」という写真週刊誌の専属カメラマンとして働いている都城静は、『ウチラの仕事ってマジサイテーですね』と言った、担当させられることになった新人に対して、『でも、だったら何で多くの人間がこんなもん見るんだよ』と返している。見たいと思っている人間がいるんだから、求めに応じて撮ってやってるだけなんだよ、という主張だ。

僕はどうしてもこういう主張には反論したくなってしまう。「見たい」と思わせているのは写真週刊誌の存在によるところが大きいはずだ、と。だから、「見たいと思っている人の求めに応じて撮っているだけだ」という主張は難しいのではないかと僕は思ってしまう。

もちろん、この話の難しさは、「良い悪いの判断基準」が存在しない、ということだ。結局それは、先程も書いたが、個々人の好き嫌いでしかない。芸能人のプライバシーを暴くことが何故悪いことなのか、明確に示すことは難しい。芸能人自身が撮らないでくれと主張することには意味はあるだろうが、何ら関係のない人間が「芸能人のプライバシーを写真に撮ることは悪いことだ」と主張しても弱いし説得力がない。「良い悪いの判断基準」を示せないのであれば、結局「悪いから止めた方がいい」という主張も出来なくなって、何も言えなくなる。

自分が会社を起こすなりして誰かに仕事をしてもらう状況であれば、僕自身の好き嫌いを基準にして「良い悪いの判断基準」を作ってもいい。しかし、誰かの元で働いている以上、その誰かの判断基準に沿う以外に出来ることはない。そういう中で、「仕事に貴賤はない」とどんな境遇でも断言できるような人間になれるのであれば、もう少し生きていくのが楽だったんじゃないかな、という感じもする。

内容に入ろうと思います。

都城静は、かつては「SCOOP」という写真週刊誌に所属するスターカメラマンだった。芸能ネタにかぎらず、ありとあらゆるスクープを連発する敏腕カメラマン。しかし今では、芸能ネタだけを追うフリーのカメラマン。芸能人のケツを追っかけているだけの中年パパラッチだ。
静は、「言われたものは何でも撮る」「俺が撮った写真を一番高く買ってくれるところに売るだけ」「俺は誰とも組まねぇ」という一匹狼タイプのカメラマンだったが、かつての相棒であり、現在では「SCOOP」の副編集長にまで上り詰めた横川定子が静にあることを強引に認めさせる。それは、「SCOOP」の新人である行川野火を同行させること。現場のカメラマンにつかせて記者を育てたい、という定子の依頼を、金で渋々引き受けることになる。
「この仕事はなぁ、99%何も起こらねぇんだよ」「カタギが寝てる時間に転がってるんだ、俺たちの食い扶持は」と野火を叱咤しながら、写真週刊誌の現場の仕事を体当たりで覚えさせる静。最初こそ「マジでサイテーな仕事ですね」と言っていた野火も、静と一緒にハチャメチャな取材を繰り返すことでその面白さに気づくようになっていく。最悪の出会いからスタートしたコンビはやがて、4人の女性をレイプして殺害した犯人の顔写真を狙うことになるが…。
というような話です。

想像していたよりもずっと面白い作品でした。ガチガチのエンタメ作品だと思っていたし、実際に途中まではそんなテンションの作品だったのだけど、最後ガラッと雰囲気が変わって、ちょっと泣かされてしまいました。この映画で泣くとは予想していなかったのでびっくりしました。映画を観ながら、「これ確かにエンタメ映画として面白いけど、でもこの映画、どうやって終わらせるんだ?」と思ってたんですけど、なるほどそうなるか、という展開になって、ただのエンタメ映画じゃない形になったので良かったと思いました。

映画の冒頭からしばらくの間はずっと、この感想の冒頭で書いたような「仕事ってなんなんだろう」ということを考えながら観ていました。ガチガチのエンタメ映画ではあるのだけど、写真週刊誌のカメラマンと記者を描くことで、「なんのために仕事をするのか」「仕事をすることでどうなりたいのか」みたいなことを自然と問いかける内容になった、と感じます。都城静(福山雅治)の乱痴気騒ぎとでも表現したい無茶苦茶な仕事とプライベートを観ながら、それに振り回される行川野火(二階堂ふみ)を応援したくなったり、自分が写真週刊誌に配属されたらどうするか、カメラマンだったらどうするか、みたいなことを自然と考えながら観る格好になりました。

読者が思うような葛藤は、映画の中でも映画の登場人物同士の衝突という形で描かれていきます。その衝突は、同じ副編集長という立場である横川定子と馬場の二人の対立という形で描かれます。

静を「SCOOP」に復帰させて、芸能ネタのスクープを次々にものにして部数を伸ばす定子に対して、今の「SCOOP」はグラビアでもっているんだ、読者はみんなグラビアが見たいんだと主張する馬場。グラビア路線に切り替えたから部数が下がったのだという定子と、芸能ネタはともかく、事件ネタなんか誰が読みたいんだと主張する馬場の対立は、殺人犯・松永太一の顔写真を撮るかどうかという議論で一層激しくなる。

『いつの時代の話をしてんだよ!
雑誌が反体制とかジャーナリズム背負ってた時代は終わったんだよ!』

馬場は編集会議でそう力説する。馬場も定子も、部数を伸ばしたいという気持ちは一緒だ。しかし考え方の方向性が違う。結果的に、彼ら写真週刊誌の仕事の成否は、部数でしか判断できなくなる。二人の副編集長の対立、そして新人である野火の主張、静の哲学。そういうものが入り混じりながら、松永太一の写真を撮るミッションが進んでいく。仕事とは何かを考えさせられる。

そしてさらに、最後の衝撃的な展開を経て、部数ですら仕事の成否を判定できないようなとんでもない状況が出現してしまう。僕らの現実にはそうそう現れることはない、人間としての矜持や哲学が求められる局面を観ることで、改めて「仕事」ということの意味やあり方について突きつけられる。野火が泣きながら原稿を書いているシーンは実に印象的だ。

「正しいこと」だけで物事をすべて割り切ることが出来ればとても爽快だ。しかし世の中は残念ながらそうはなっていない。濃度の差はあれど、「正しくないこと」でも物事を割らなければならない。最後、静と野火がしたそれぞれの決断は「正しいこと」だったのか「正しくないこと」だったのか。それを第三者が判定することは永遠に出来ない。それぞれが自分の内側で、それをどちらかに振り分けていかなければならない。そういう選択を幾度も強いることで、「仕事」が「生き方」を規定してしまうのだろう。そんな風に感じさせる映画だった。

「SCOOP!」を観に行ってきました



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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)