黒夜行

>>2016年07月

ギャングエイジ(川端裕人)

内容に入ろうと思います。
日野晃道は、つい一週間前に千原津市の神無城小学校に赴任が決まった。非常に慌ただしく初日を迎えた教師一年目の日野は、ほとんどなんの準備も出来ないまま、よく状況を理解できないまま教師としての生活をスタートさせることになる。
3年2組を受け持つことになった日野だが、どうやら2年の時あるクラスの担任教師が失踪するという出来事が起こっていたらしい。その代わりに決まっていた人間が急遽辞めることになったので、この慌ただしい赴任となったようなのだ。
自分の子育てをしながら教師をする3年1組の誉田、生活指導主任である3年3組の川崎らと共に、去年の学級崩壊を乗り越えて新しい一年を進んでいこう、という気概に溢れる日野だったが、想いとは裏腹に、やはり新人教師、何もかもがうまくいかない。授業の進め方、様々な準備、子どもたちへの接し方…。どれをとっても他の教師と比べ物にならず、また子どもたち自身や保護者の言動から去年のトラブルが時折思い起こされ、さらに自身を失っていくのだ。
少しずつ崩壊の予兆を見つけては対処する日々だが、しかし日野には、根本的な原因に手が届いていないようなもどかしさがずっと付きまとう。
かつて自分が子どもだった頃、憧れだった先生がいた。その先生を目指して、日野は教師になった。しかし、教育の現場を取り巻く環境は様々に変化してしまっている。学校に求められる役割や保護者や地域の人たちの干渉などが大きく変化した中で、子どもに対する教育はどうあるべきなのか。
日野の教師としての成長とともに、現実の教育システムの問題点が炙りだされていく物語だ。

なかなか良い物語だったなぁ。ちょっと長くて手に取りづらいかもだけど、新人教師の奮闘と、去年学級崩壊を経験した生徒たちとのやり取りをメインに据えながら、教育現場の問題点を、そして地域の中の学校という立場についての問題提起など、現実の社会を反映させているようなテーマの切り取り方が非常にいいと思いました。

物語的には単純で、慌ただしく赴任した新人教師が、子どもたちや大人たちとすったもんだありながら一年を終え、共に成長していく、という物語なわけです。こんなざっくりした要約では特に読む気にならないでしょうが、まずはこの王道の物語がきっちりと作品を成り立たせている、という点がとても大きい。もちろん、実際の教師からすれば色々突っ込みたいところは出てくるだろうが、教育の現場を知らない人間からすれば、1年という流れの中でお互いが無理なく成長する様をうまく見せている物語だと思いました。

そしてその中で、去年の学級崩壊、という大きな謎が扱われていく。

ここに、教育現場における様々な問題点が集約されていく。保護者が学校に対して過大に求める現状、地域との関わり方、様々な事情を抱える子どもたちと関わること、事務仕事の多さ…。これらが絶妙に交じり合って、2年の学級崩壊という事態が引き起こされることになったのだ。

新人教師である日野には、すべてが初めての経験だから、何が正常で何が異常なのかを判断する術がない。毎日残業せざるを得ないほどやることがあり、常に何らかの通常業務に追いまくられるようにしながら、同時に、何か得体のしれないものに追いかけられているような感覚をずっと持ち続けることになる。それは、残業中に掛かってくる誰からか分からない電話とか、クラスの生徒から時々漏れる、学級崩壊したクラスの元担任教師の話とか、色んなことを煙に巻いているように思える校長の態度とか、そういう様々な部分から見え隠れすることになる。

特に日野にとって不審であったのは、去年何が起こったのか誰も話してくれないことだ。学級崩壊が起こった、という事実さえ、日野が知るのは大分後になる。何故担任が失踪し、何故学級崩壊が起こったのか。この辺りの事情は、非常に現代らしいというか、今でも全国色んな学校で起こっている問題ではないかと思う。日野が直面する問題は、現代の教育の制度疲労そのものなのだ。

最近僕は、「マイケル・ムーアの世界侵略のススメ」という映画を観た。これは、世界中の素晴らしい制度を母国アメリカに持ち帰ろう、というような企画の映画で、その中でフィンランドの例が紹介されていた。

フィンランドとアメリカはかつて同程度の学力だったが、その後フィンランドがある取り組みをしたことによって、フィンランドは学力世界一になった、という。その取り組みというのが、「宿題を無くすこと」だ。映画の中で教育者はみな、子どもは様々な遊びをしなければならない、と語っていて、机に向かって勉強する時間を極力減らすようにしている、という。

もちろん様々な意見はあるだろうが、フィンランドは事実学力世界トップクラスなわけだし、そこで行われていることは無視できない。僕自身、フィンランドのやり方には非常に賛成だ。何故なら、僕の持論として、「教育とは、学びたいという気持ちを起こさせることだ」と思うからだ。

僕は、勉強することが好きだったから一人で勝手に勉強してたけど、でもそれは、学んでいることに対する好奇心というよりも、誰かに勉強を教えるためとか、テストで良い点を取るためとか、そういうモチベーションの方が大きかった。いわゆる「お受験」の戦いに巻き込まれている子どもたちも似たような感じで、学んでいることそのものへの興味ではなく、「お受験」という戦いを勝ち抜くための手段として勉強をしているのだろうと思う。

それ自体悪いことだとは言わないけれど、しかし僕は、好奇心こそが学びの最大のモチベーションになる、と思っている。結局のところ、「知りたい!」「分かるようになりたい!」という気持ち以上に、勉強に対する意欲や継続のための努力をもたらすものはないと僕は思っている。

フィンランドのやり方は、まさにその好奇心を伸ばすやり方なのだろうと思う。まず「学びたい!」と思わせる。そしてそう思った子どもに対しては、学ぶためのやり方をきちんと教えてあげる。そう思わなかった子どもには、勉強以外のフィールドで「学びたい!」と思えるものが見つかるような手助けをしてあげる。フィンランドの教育はそういうことを実践しているのだと僕は感じた。

そして残念ながら、日本の教育はそうなってはいない。「学ぶのは当然のこと」とされ、それを大前提にした上で、学ぶやり方を押し付けられていく。そりゃあ、勉強が嫌いになる子どもも増えるわなぁ、と思うのだ。

そして、どうしてそういう方向になってしまうかと言えば、やはり保護者の存在がある。この保護者の存在は、本書でもとても重要だ。この作品の舞台である神無城小学校は、割と教育レベルが高いとされる。当然、子どもを預ける親たちもそれなりの教育を受けてきた。だから親たちは、学校に対して高いレベルの教育を求めてしまう。

もちろん小学校の話だから、勉強の方面であれこれ言うわけではない。けれど、日野に対して陰日向に、新人教師だから頼りない、というような発言をする。つまりそれは、「教える」という立場として高いレベルを求めているということだろう。

僕は最近、家庭教師の真似事を始めたのだけど、「教える」ということについて考えることがある。教えている子は、勉強がそもそも好きではなくて、学ぶべき内容も大分遅れている。しかし結局それは、家庭や学校が、学ぶことへの興味を育ててあげられなかった、ということなのだ。だから僕は、少しずつ進むように意識している。とにかく、「勉強が嫌だ」というイメージを少しずつ払拭させるところから始めようとしている。最終的には、自発的にスイスイと勉強してくれるように持っていくのが僕の目標だ。

そしてそれを目標にする以上、「解き方を教える」みたいな、通常「教える」という言葉からイメージするような行為というのは、二の次三の次になる。大人は、自分のことを棚に上げて、「子どもというのは、学び方さえ教えれば勝手に学ぶものだ」と思っているのかもしれないが、そんなわきゃない。むしろしなくちゃいけないのは「学びたいと思わせること」であり、そういう部分まで含めて「教育だろう」と思ってしまうのだ。

だから僕は、本書に登場する様々な保護者に対して、苛立ちを感じる場面が多くある。もちろん、僕は子どもがいるわけではないし、自分が親の立場になれば変わるのかもしれないとも思う。それでも、大人は一歩間違えれば、すぐに「教育」というものを踏み外してしまうのだろうなぁ、という風に感じた。

僕は、自分が勉強ばかりしてきたからかもしれないけど、勉強がすべてではないぞ、と強く主張したい。確かに、勉強は出来るに越したことはない。しかし、勉強が出来るだけの僕みたいな人間もまたどうしようもないのだ。学校というのは、世の中のあらゆる方向への好奇心を広げる場。そういう風に、大人たちの考えがシフトして行けばいいのになぁ、と強く思う。

一人の新人教師の、そして学級崩壊を経験した生徒たちの葛藤と成長を描きながら、現代の教育現場の問題に切り込んでいく作品だと思います。

川端裕人「ギャングエイジ」


大正箱娘 見習い記者と謎解き姫(紅玉いづき)

内容に入ろうと思います。
本書は、英田紺という新米新聞記者と、回向院うららという謎の屋敷に住む少女の物語。4編の短編が収録された連作短編集だ。

「箱娘」
時は大正。隆盛極める帝京新聞で、埋草のような三面記事を担当している英田紺は、上司の小布施から、神楽坂にある通称「箱屋敷」に住む「箱娘」を紹介される。
きっかけはN野への取材だった。旧家から呪いの箱が出たというので行ってみると、甲野スミという、美しいが幸薄そうな女性と、一家を束ねる大奥様と呼ばれる女性がいた。この地方では、刀が出てきたら男に触れさせるな、箱が出てきたら女に触れさせるな、という言い伝えがあり、夫をなくし女性ばかりになった家では、蔵から出てきた箱は扱いきれないのだ、という。その箱をどうにかするため、「箱娘」こと回向院うららの元を訪れるのだが…。

「今際女優」
銀座に新しく芝居小屋が出来ることとなり、そのこけら落としの公演を、今際女優と名前がつく出水エチカと、気鋭の脚本家である扶桑牧ヲがタッグを組んで行うという。しかし、その脚本家である牧ヲは死に、さらに、牧ヲが完成させたという最高傑作となるべき脚本が行方不明だという。公演自体は最終原稿でなくても進められるので支障はないが、牧ヲとしては無念だろう。
紺は劇団に関わりのある人間に様々に話を聞きながら、脚本がなくなった謎を(こちらが上司から取材しろと言われている方)、そして牧ヲの死の謎を(こちらは紺の個人的な興味)追い続ける。

「放蕩子爵」
怪人カシオペイアと名乗る謎の怪人が出没するようになった。怪人カシオペイアは、金を盗むではなく、悪事を暴き立てる。怪人カシオペイアは予告状を出し、そして予告が出されると必ず何か大きな悪事が暴き立てられることになる。
一方で、出水エチカがこけら落としの公演で演った「伊勢恋」が大反響で、その影響から心中をするカップルが増えている。紺は上司から、怪人カシオペイアと心中を結びつけ、不用意に死ぬと怪人カシオペイアに悪事を暴かれるぞ、という記事を書くように言われ、それに使えそうな「文通心中」として報道されているちょっと変わった心中事件を取材することになる。自殺した丸岡佳枝は、姉・潔子の婚約者である子爵を好きだったのだ、と潔子は語るが…。

「悪食警部」
ある日紺は、意外な人物から手紙を受け取る。呪いの箱の件で関わった甲野スミである。何か事情があるらしく、ついでを装って甲野家に足を運んでみるが、自分で呼び立てたにしてはスミの態度がイマイチ掴めない。再婚相手との間に子どもがいるようで、体調もあまり優れないようだ。紺は成り行きで一泊することになったのだが、その夜、蔵でスミが腹を差されているのを発見してしまう…。

というような話です。

雰囲気がとてもいい小説だ、と思いました。ストーリーだけ拾ってみたら、それぞれそこまで大した話ではないな、と思うんですけど、大正時代を舞台にした物語の背景がなかなかいいと思います。

ストーリーは、ちょっとした事件が起こり、それと「箱」というものを何らかしら絡めて回向院うららが介入する余地を作り、事件を解き明かす手助けをするというような感じ。大きなトリックがあるわけでも、不可思議な現象があるわけでもなく、ストーリーそのものは小粒というか、さほどどうこうというようなものもないな、と思うような物語でした。

ただ、大正時代を背景にした舞台設定はとても良いと思います。

帝都はもの凄いスピードで変化が押し寄せているけど、地方はまだまだ古い因習なんかに縛られたままであること。女性の地位がまだまだ低いこと。結婚が家の都合で行われることが多いこと。そういう時代背景を巧く生かして物語を生み出していく。

その中でも一番印象的で、この作品を支える背骨の役割を果たしているのが「女性として生きるということ」だ。詳しくは書かないが、女性として生まれた、というだけの理由で虐げられたり真っ当に扱われなかったりする世の中に対する憤りみたいなものが全編に通底している。

『わたしは、嫌なんです。女が、尊厳なく扱われることが』

男女の不平等はいつどんな時代にも存在したが、昔に遡れば遡るほど顕著に現れる。本書で描かれる大正時代も、現在と比べれば圧倒的に女性の生き方が制限されていた時代だろう。そういう中にあって、「女性である」ということを捨て去って社会に対峙していく者の矜持みたいなものがそこかしこで垣間見ることが出来て、それが作品の核となっている、という風に感じました。

ストーリー自体に力があるという風には思わなかったけど、舞台設定や物語の背景なんかは良く出来ている感じがして、雰囲気で読ませる作品だと思います。

紅玉いづき「大正箱娘 見習い記者と謎解き姫」


「帰ってきたヒトラー」を観に行ってきました

ストーリーというか設定は結構シンプルだ。アドルフ・ヒトラーが突然2014年に現れ、「モノマネが物凄く巧い芸人」だと思われながらも、色んな形で民衆を扇動していく、というような話だ。

突然公園に現れたヒトラー。まだ自分が2014年にやってきたとは知らない彼は、自分の記憶にあるドイツとまるで違う光景に驚く。やがて新聞販売店で西暦2014年であることを知ると、そこからは現在に至るまでの世の中の流れを知識として一気に習得していった。
実はヒトラーが現れた公園では、マイTVという放送局のフリーのディレクターが撮影をしていた。ザバッキーという名のそのディレクターは、局の方針で解雇され途方に暮れていたが、自身が撮影した映像の端っこに、恐ろしくヒトラーに似た人間が映っているのを発見して一発逆転を目論む。ヒトラーと共にドイツ中を旅し、今のドイツの問題などをドイツ国民と話させる、というドキュメンタリーを撮ることにしたのだ。
結果的にヒトラーは、「モノマネが物凄く巧い芸人」としてテレビで引っ張りだこの存在となる。様々な政党の党首と会談し、テレビに出て「自説」(多くの視聴者はそれをネタだと思っているが)を展開するヒトラー。やがて、ただの芸人とは思えないことのヒトラーを脅威に感じる者も出始め…。
というような話だ。

観ていてずっと思っていたことは、変な映画だなぁ、ということだ。
もちろん、ヒトラーが現代にやってくる、という設定自体もおかしいし、なかなかチャレンジングだとも思う。ドイツは、ヒトラーが過去に行ったことを学校教育の中できちんと教え、二度と同じことが起こらないようにと、強く意識している国だ。映画の中で触れられていたが、ドイツ国内ではヒトラーの本を入手することは難しいらしい。それぐらいドイツでは「悪しきもの」として扱われている。そのヒトラーを全面に登場させるのは、なかなかチャレンジングと言えるだろう。

しかし僕が変だなと感じたのは、映画全体が「半ドキュメンタリー」のように作られているように見える、という点だ。

もちろん、現代にヒトラーが現れることなんかありえないから、この映画はドキュメンタリーには成り得ないんだけど、でも「現代にヒトラーが現れた」という部分を無視してこの映画を見てみれば、とてもドキュメンタリー風に撮られているように見えてくる。手持ちカメラで撮ったような画質や、下手くそなズームもそう感じさせるが、何よりも一番印象的だったのが、画面の背景にいる人の何人かにモザイクが掛かっている場面があるということだ。この映画が実際にどんな風に撮られたのか僕は知らないが、「ゲリラ的に撮影した映像を繋いだドキュメンタリー」みたいに見えるように全体を構成しているのは間違いないのだろうな、と思う。

また、僕には本人かどうか確認のしようがないのだけど、この映画の中には、実際の(恐らく実際の)様々な政党の党首がヒトラーと会談する様子が収められている。これは、今の日本で言えば、民進党の岡田代表とか日本共産党の志位委員長などと、東条英機が会談している、みたいな場面ではないかと思う。これはどうやっても、アポ無しの突撃での撮影が出来るわけもないだろうから事前の打ち合わせがあっての撮影だろうけど、ただ映画だけを見ていれば、ヒトラーが色んな党首のところに乗り込んでいってどんどん会談を果たしていくような、ドキュメンタリータッチの撮り方をしているように感じる。

現代にヒトラーがやってきた、という部分は明らかにフィクションであり、だから映画全体はどんな手法で撮ろうともドキュメンタリーには成り得ないんだけど、でも撮影手法をドキュメンタリータッチにすることで(もちろん、映画のすべてがドキュメンタリータッチで描かれるわけでもない)、非常に奇妙な効果をもたらしているように思う。完全なフィクションの中に、ドキュメンタリーを思わせる要素が混じりこむことで、「かつて大衆を扇動したヒトラー」という怪物的な存在感をより際立たせているようにも思う。

ヒトラーは後半、テレビを通じて「自説」を展開するようになる。周りは彼のことを「お笑い芸人」だと思っているが、やり取りからすると、この「お笑い芸人」は自分のことを本当にヒトラーだと思っているぞ、と感じる(それが笑いになるのだが)。
ある番組の司会者が、今の自分のそんな状況(自分ではヒトラーだと思っているが、周りからはお笑い芸人としか扱われない状況)をどう感じているかを問われてこう返す場面がある。

『何の役でも良い。話を聞いてもらえなきゃ、人の心は掴めない』

この構造が、映画全体の構造とオーバーラップしないだろうか?

ヒトラー自身は、自分がどう思われようがまず話を聞いてもらおうと考える。相手がそれをネタだと感じようがなんだろうが、まず自説に耳を傾けてもらえなければ話が始まらない。実際にヒトラーは、テレビを通じた「自説」の展開により、少しずつ支持者を獲得していく。

それはこの映画の、映画全体は明らかにフィクションであるが、ドキュメンタリー的な手法を取り込むことで、ヒトラーの存在をリアルに見せていく、という構成と非常に近いように感じるのだ。

フィクションのような存在から少しずつリアルさを滲ませ、やがてリアルとフィクションをひっくり返していく。ヒトラーという異形の男の存在感を、この映画は佇まいから似せようとしている。僕にはそんな風に感じられた。

『1933年、民衆は扇動されたのではない。彼らは、計画を明示した者を指導者に選んだのだ。』

『なら、怪物を選んだ者を責めるんだな。私を選んだ者は、普通の者たちだ』

『なぜ人々が私に従うのか、考えたことはあるか?』

ヒトラーのこれらの言葉は、ヒトラーがこの2014年の現代においてやろうとしていることを明示しているように思う。彼はまた、民衆を扇動しようとしている(ヒトラーは、それは扇動ではない、と言うだろうが)。ヒトラーは、彼の死後現れた様々なテクノロジーを知る。テレビやコンピューターなど、何を見てもヒトラーはプロパガンダに最適だ、と理解する。まさにそうだろう。現代は、まさにヒトラーにぴったりのツールが山程ある。それらのツールを駆使すれば、ドイツだけではなく世界中を扇動することだって可能だろう。

この映画の意図は恐らくそこにある。ヒトラーという禁じ手を映画の中に持ち込むことで警鐘を鳴らそうとする、という意図が。確かに現代にはヒトラーはいない。しかし、第二第三のヒトラーはいつでも生まれうる。過去のヒトラーだけを知り、過去のヒトラーの行いだけに意識を向ければいいわけではない。この世の中では、ヒトラーはいつ何時にも生まれうるのだ。

僕らはそのことに意識を向けなければならないだろう。

ヒトラーはやはり、民衆を扇動する術に長けている。第二第三のヒトラーもそうだろう。それを補強するツールが現代には山程ある。そういう中では、僕らが扇動されないように振る舞う以外にない。

自分だけは大丈夫、と思う人は多いだろう。しかし世の中の様々な動きを見ていると、扇動されやすさは益々高まっているように思う。インターネットやSNSなどにより、近い価値観の人間がすぐに集まれるようになったから、それが特異な価値観であっても純粋培養が可能になる。「みんな」がやっているものが一瞬で拡散されるから、それ自体の善悪を「みんな」がやっているという事実が超越してしまう。僕らはそういう世の中に生きていることを自覚しなくてはいけない。

ヒトラーは確かに過去だ。過去ではあるが、ドイツ人はそれを過去にしない努力を続けている。しかしそれは、果たして、未来に第二第三のヒトラーを生まないための抑止力となっているのか?全体的にはおちゃらけた風のこの映画から、そんな真摯な問いが放たれているように僕には感じられた。

「帰ってきたヒトラー」を観に行ってきました



水晶萬年筆(吉田篤弘)

内容に入ろうと思います。
本書は、6編の短編が収録された短編集です。

「雨を聴いた家」
何故か映画の脚本を書くように頼まれた主人公。彼はその話を考える中で、かつて読んだ、<水読み>という職業の青年の物語を思い出す。一字違いの<水飲み>と呼ばれる青年に会い、町にある甘い水の話を聞く。主人公は、大家である「車掌」と、かつての住人である女性の物語を知る。

「水晶萬年筆」
オビタダは絵を描く人だ。絵を描いて生計を立てているが、仕事以外では何を描くべきなのかいつもよくわからなくなっている。おでんやで出会ったつみれさん。つみれさんの父もまた、絵を描く人だったようだ。

「ティファニーまで」
坂の上に、「洋食堂ティファニー」がある。研究室からそこまで、昼飯を食いに行こうとする私とサクラバシ君。彼らはいつもの昼飯を食べにティファニーを目指すのだが、寄り道だか道草だがに捕まって一向に辿り着かない。

「黒砂糖」
伊吹先生の跡をつぎ、月夜に種を蒔く人となった主人公。先生から譲り受けた「夜の上着」を着、黒砂糖を持ち、水を詰めたポリタンクを背負っている。夜に魅入られ、夜の話ばかりしていた先生は、やがて、活気を失った町中の森に水を蒔くことにするのだった。

「アシャとピストル」
買えないものを売ろうとする鴉射(アシャ)。往診医(オーシンイ)と出会い、買えないもの探しを続けていたアシャだが、しかしある時突然、ピストルを発見してしまう。そういうことではないのに。

「ルパンの片眼鏡」
ルパン、だと後に師匠は名乗った。かつては怪盗だったとも言った。出会いは、師匠が片目を落とした時。コンタクトをね、と言った師匠は、何かオーラを放つ存在だった。それから、何を教わっているのかも分からないまま僕はルパンの弟子になった。

というような話です。

吉田篤弘の作品は、雰囲気で読ませる作品がとても多い。ストーリー自体に力がある場合もあるのだけど、そういう作品はあまり多くないように思う。とにかく、ストーリー自体よりも、雰囲気に力がある作品が多い。

本書もまさにそういう作品だ。そしてそういう作品は、なかなか評価が難しい。

うまく説明できないけどドンピシャハマることもある。けど、うまく説明できないけどまったくハマらないこともある。その時の気分みたいな、作品とは関係のない外的な要因も関係してくることが多いから、余計に難しい。

吉田篤弘の作品は、日常からちょっとズレたような世界の中で、淡々と何かを描いていくような作品が多い。それがハマることもあるしハマらないこともある。今回の作品は僕としてはあまりハマらなかった。

吉田篤弘のスイスイ流れるような語り口はなかなか軽妙でいいなと思うんだけど、ストーリーで追えるような作品ではないから、どうしても物足りなさを感じてしまう部分がある。「ティファニー」や「ルパンの片眼鏡」なんかはなかなか面白かったなと思うんだけど、作品全体で見るとちょっとなあ、という感じに僕は受けとりました。

どれも短いし、雰囲気はとてもいいので、寝る前なんかにゆったりとした気分になりたいみたいな時に読むといいのかも。

吉田篤弘「水晶萬年筆」


「ディストラクション・ベイビーズ」を観に行ってきました

常識やルールから外れるのには、ちょっとした勇気がいる。自分が常識やルールを守らないということは、自分も誰かからの常識外・ルール外の行為を受けても文句が言えなくなる、と僕は思うからだ。

人間が社会というものを作って暮らすようになったのも、そういう理由が大きいのだと、社会契約論という考え方では説明している。人間は、お互いにルールを守ることで自分も安全に生きられるように誰かと契約しているのだ、というような考え方である社会契約論は、暴力などを個人から奪い、それを国家権力が管理する(現代社会でいえば、国家権力が行使できる暴力には、例えば警察などがある)という約束事に基づいている。この約束事をみんながなんとなく守っているのは、他人の常識やルールを冒さないことで、自分の常識やルールも冒されないと信じているからだ。

しかし、そういう常識やルールから外れる人間というのが時々いる。

僕らの社会は、先程書いたように、自分の安全を脅かされないために相手の安全も脅かさない、という約束事に基づいている。であれば、「自分の安全なんてどうでもいい」と思っている人間を止める手立てはほとんどない。

時折、死刑になりたいからと言って凶悪犯罪を犯したりする者がいる。あるいはヤクザの中には、刑務所に行く覚悟をして何か罪を犯す人間がいる。そういう人間を止める手立てはほとんどない。自分の人生や安全などに関心がないのだから、そこで踏みとどまる理由がない。

社会は、そういう人間の出現に対して無力だ。確かに逮捕して裁くことは出来る。しかし、犯してしまった犯罪に対して何か出来るだけであり、犯さないように教育をするだとか、二度と同じことをしないように矯正するだとか、そういうことは不可能だ。

僕らは、巻き込まれないように逃げるか、安全な場所から傍観することぐらいしか出来ない。


一人の人間が、松山の街を狂気に陥れる。

愛媛県松山市の小さな港町に住む芦原兄弟。両親はおらず、兄弟二人で暮らしている。兄・泰良は日々喧嘩に明け暮れている。誰も手がつけられない。弟・将太は、18歳になって姿を消してしまった兄のことを探し続けている。

兄・泰良は、松山市内にいた。

強そうなやつを見つけては喧嘩を仕掛け、やられてもやられてもやり返す泰良。その狂気は収まることがなく、誰かれ構わず喧嘩を仕掛けては、ボコボコにされたりボコボコにしたりしている。

泰良の狂気は、毎日暇そうに過ごしていた高校生・北原を刺激する。それまでは暴力には極力関わらずにいた北原。仲間が窮地に陥っていても助けないほどの臆病者だったが、泰良と出会ったことで北原は豹変。狂気に身をやつす暴走を繰り返すことになる。

警察に捕まる前に車を奪って四国中を巡業することに決めた北原は、たまたま奪った車に乗っていたキャバ嬢の那奈を乗せたまま、あてどなく車を走らせる。淡々と、特に変わらない様子で暴力を続ける泰良。何かが破裂したかのように狂気を漲らせる北原。そして彼らの狂気にただ巻き込まれただけの那奈。狂気の渦は、三人に何をもたらすのか…。

というような話です。

この映画から何か意味を読み取ろうとした場合、僕にはちょっとそれは難しいなと思います。ただ、全体の雰囲気は好きだな、と思いました。

映画の中では、「暴力」がひたすら無意味に描かれていく。これほど「暴力」そのものに意味が与えられない物語も珍しいのではないかと思う。国家権力に歯向かうため、仲間を救うため、自由を勝ち取るため…、様々な形で暴力というのは描かれるのだけど、この映画の中では「暴力」は一切固有の意味を持たない。

一見、「楽しいから」という理由で「暴力」が描かれているように見える。少なくとも、北原の暴力にはそういう意味が付加されているだろう。
しかし、泰良の暴力には、それさえないように見える。
いや、実際には泰良は、「面白ければなんでもいい」という発言をしている。だから泰良にとって、泰良が仕掛ける「暴力」は面白いのだろうし、そのためにやっているのだろうと思う。

しかし、少なくとも僕には、泰良が楽しみのために「暴力」を繰り返しているようには見えない。北原は明らかに楽しみのために「暴力」を繰り返すが、泰良からはそんな雰囲気を感じないのだ。

そう思わせるほどに泰良は、表情というものを持たないし、喋らない。

泰良は、映画が始まってから30分くらいひと言も喋らない(ほとんど出ずっぱりにも関わらずである)。映画全体を通して見ても、泰良のセリフは5行ぐらいしかないのではないか。とにかく喋らないし、表情も変えない。だから泰良が何を考えて「暴力」を繰り返しているのか、僕にはちゃんとは分からない。

抑えきれない衝動が吹き出したとか、自分にもやれるんだということを見せつけたいとか、とにかく北原の「暴力」に対する衝動は分かりやすい。しかし泰良は真逆で、泰良の「暴力」に対する考え方・感じ方みたいなものはほとんど分からない。それが観ている者をざわつかせるのだ。

さらにそこに、巻き込まれた那奈も絡んでくる。那奈の「暴力」はある種の生存本能ではあるが、しかしそれだけではない。ある意味では北原以上の何かを孕んでいる。那奈の「暴力」の発露は、かつて人類が暴力を手放したことが大いに正解だったのだと思わされるようにも思う。

三人がそれぞれの形で発揮する「暴力」の形が、松山の街を狂気に叩きこみ、さらに彼ら三人の関係を変質させていくことになる。それを狂気と共に描き出した映画だと思う。

正直、よく分からないと言えばよく分からない映画だった。しかし、それは受けとり方としてある意味で正しいのかもしれない。彼らの「暴力」がよく分からない形で描かれることで、僕らがいかによく分からないものの土台の上に社会を構築しているのかが炙りだされる、そういう受けとり方も出来るかもしれない。であれば、この映画を見てよく分からないという感想を抱くのは、一つの正解なのかもしれないとも思う。

「ディストラクション・ベイビーズ」を観に行ってきました



あおむけで走る馬(荒井千裕)

内容に入ろうと思います。
ケイは田舎で蛙を殺している。蛙を殺してアルファベットを書いたり、星の形をなぞったりする。母親は、ケイが蛙を殺しまくっていた道で死んだ。
弟は、「高さの軌跡」にしか興味がない。高い場所にずっといて、その高さの軌跡をノートにつけているのだ。彼らが住んでいた町では、彼らのことをよく知っている住人たちが、弟を民家の屋根に上がらせてくれていた。母親は、そして母親が死んでからはケイが、するすると伸びるハシゴを常に持ち運びながら、弟を色んな家の屋根に上げた。
町にはもう上がれる建物がなくなった頃、彼らは街へと引っ越した。街では民家には上がらせてもらえなかったが、しかしビルの屋上に出入り出来ることが分かった。街に出たことをきっかけに、ケイはホストクラブで働き始める。
心理テストで人気を博すようになるケイ。従業員を誘惑するホストクラブの女店長。客としてやってきた太った女。ビルの屋上に登り続ける弟。奇妙な関係を保ち続けながら訪れる、ケイのインポテンツ。それが、ケイの人生をちょっと違った方向に動かしていく。
というような話です。

まあまあかなぁ、という感じの作品でした。奇妙な登場人物というのは好きなので、ケイを始めとしてなかなか興味深い登場人物たちだなとは思うんだけど、物語的にはちょっとうーんという感じでした。

それは、作品内の前提というか理屈が、ちょっと唐突という感じがしたからかもしれません。もちろん、人間は色んな価値観を持っているから、不可思議な価値観を持っている人間が出てきてもいいし、それが許容できないというわけでは全然ないんだけど、でもあまりにもそれを許しすぎると、物語というのは何でもアリになってしまう。本書の場合、ケイの行動原理、弟の行動原理、そして太った女の行動原理がどれも唐突という感じがして、なんとなくまとまりがないなと感じてしまったのかもしれません。

まあでも、この辺は微妙な感覚なのでなんとも言えません。まとまりがないなと感じる行動原理の登場人物が出てきても、全体的に面白い、という作品もあるでしょうし。だから、物語にあまり入れなかったのは別の理由があるのかもしれません。

彼らの行動原理や前提がうまく掴みきれないものだったために、結局どこに向かえば物語が落着するのかも分かりにくい感じがします。そういう落着を目指さない物語も存在するでしょうけど、やはり読者としては何らかの形で物語というのは落ち着いて欲しい。確かに、ケイはインポテンツになるし、それはある形で解消されはするけど、しかしそれ自体がこの物語の重要な要素ではない。弟の問題にしても、太った女の問題にしても、そもそも問題が何であるのか捉えにくいし、でどうなったの?というのもうまく掴めない。独自の理屈で問題や前提情景を設定して、それを解決するために謎めいた行動をするような宗教団体みたいな印象を受けて、モヤモヤした感じを拭えないという印象でした。

自分にはよく理解できないものを「文学」という箱に突っ込むのは良い行いではないよなぁ、と思いつつも、まあ「文学」寄りの作品なんだろうし、こういう作品の核をうまく掴める人というのもいるのかもしれません。

荒井千裕「あおむけで走る馬」


花桃実桃(中島京子)

内容に入ろうと思います。
花村茜43歳は、亡き父から相続した古びたアパートにやってきた。「花桃館」と書かれた木片でかろうじてアパートの名前が分かる程度であって、墓地に面したなかなかの立地である。
本当はアパートの大家になんてなるつもりはなかったのだけど、事情が変わった。
会社でリストラに遭いそうなのである。
未だ独身、「花桃館」を管理する不動産屋の親父には「行かず後家」と言われる茜。食い扶持はなんとか自分で稼いでいくしかない。アパートの大家になって、家賃収入で生きていこう。茜はそんな風に決意する。
しかし。しかしである。この「花桃館」、父の意向だったのかなんなのか、どことなく変人ばかりが集うアパートであった。
父親の晩年を寄り添ったらしい愛人、家賃を一向に払わない自称ミュージシャン、どことなく存在感が薄くいることに気づけない老夫婦、陸・海・空という三兄弟を持つシングルファーザー…。
茜は、大家見習いとして彼らと接しながら、自分の年齢や来し方、父親との関わり方、かつての同級生との関わり方など、様々な部分で自らを見つめなおしていく。43歳。先行きが見通せるほど明るい未来が待っているわけではなさそうだが、何かに縛り付けられ身動きが取れない、なんていうことはない。変人たちとの関わりの中で、ささやかな変化を楽しめるようになっていった茜。それまでとは違った、穏やかながら変化に満ちた生活を描き出す一冊。

なかなか面白い作品でした。物語に起伏やドラマを求めてしまう人には向かないと思いますけど、淡々とした日常を楽しめる方にはかなり面白く読めるんじゃないかなという感じがします。

アパートの大家、というのは面白い立ち位置で、その立ち位置をこの作品ではうまく生かしているなと感じました。

アパートの大家というのも色んな種類がいるでしょうけど、茜は、自身も同じアパートに住むタイプの大家です。自然彼女は、店子の面々と日常的に関わることになります。家族ほど近くもないし、友達ほど気安くもないけど、それでも、生活の基盤となる「家」を介して繋がっている関係、というのは、家族や友達ともまた違った形で近さを感じさせる立ち位置だなと思います。

まさにそんな立ち位置として、茜は店子たちと関わっていきます。家賃を払わない店子の、別れた彼女に関する嘆きを延々と聞き、猫を飼っている住人の「飼っているわけではない」という謎の言い訳に耳を傾け、日本語が喋れない外国人からもらう英訳の百人一首を独自に解釈し、シングルファーザー一家の世話をなんとなく焼く。それは、「繋がり」と表現するほど深いものではないのだけど、「関わり」というくらいのやり取りを繰り返し繰り返し重ねることでどんどん線が太くなっていくみたいな、そういう味があるなと思う。ある意味では店子と大家というのは利害が対立する関係ではある。店子は出来れば家賃を払いたくないだろうし、大家は出来るだけ家賃を回収したい。しかし一方で、店子と大家は奇妙な共依存関係でもある。店子は住む場所が必要だし、大家も空き部屋よりも誰かに住んでいてもらえる方がいい。今ではこういう感じの店子・大家の関係は、昔ほどは多くないだろうけど、現代の日本にあって薄れがちな「繋がり」を、「関わり」で補えるような距離感を、店子・大家の関係で絶妙に描いているなぁ、という感じを受けました。

たまに駅前に出たり、時々かつての同級生がオープンさせたバーに足を運んだりもするのだけど、基本的には「花桃館」の敷地内で物語が展開されていく。別に特別な謎が仕込まれているわけでも、驚愕の展開が待っているわけでもなく、舞台もほとんど動かないのに、それでもなんとなくページをめくらされてしまう力があるように思う。だらだら、と表現するとちょっと語弊があるけど、ずるずるという感じの、どことなく切れ目を感じさせないトーンで文章が続いていて、なんとなくその流れに乗せられてページをめくってしまうのかもしれない。主人公の茜の、主体性があるんだかないんだかよく分からない言動も、突拍子もない発想もなんだか愉快で、本当に特別何か起こるわけでもないくせに面白く読めてしまうなぁ、という感じだった。

こういう「花桃館」みたいなアパート、あったらいいなぁ、と思う。なんというか、世の中には、マジョリティにはどうしても混じれない人種というのがいる。社会の余白みたいな場所でこそ輝ける人というのがいる。そして「花桃館」はまさにそんな場所だ。社会における常識と非常識の汽水域みたいな感じで、両者がほどよく入り交じる。常識だけの場所は息苦しいし、非常識だけの場所は疲れる。そのバランスがうまいこと取れているように見える「花桃館」は、そういう居場所が必要な人にとっては本当に得難い場所なんだろうな、と思う。

作品の魅力を巧く伝えるのがちょっと難しい作品ではあるんだけど、読んでみたらするするっと読めてしまう、夏のそうめんみたいな作品だと思います。そうめんって、それ自体にはさほど味ないけど、なんか夏食べたくなりますよね。そんな感じです。

中島京子「花桃実桃」


ロスト・ケア(葉真中顕)

人間の尊厳には、「死ぬ自由」が含まれているのだと、僕はそう思いたい。

『そして、人間ならば、守られるべき尊厳がある。生きながらえるだけで尊厳が損なわれる状態に陥っているなら死を与えるべきだと』

この考え方に、僕は全面的に賛成したい。

しかし、一方でこういう考え方もある。

『お前の言う通り、たとえ認知症になっても人間は人間だ。人間なら守られるべき尊厳があるのもその通りだろう。だからこそ、殺すことは間違っている!救いも尊厳も、生きていてこそのものだ。お前も、お前の父親も、死を望んだんじゃなく命を諦めたんだ!』

この考え方は、あまり好きになれない。「殺すことは間違っている」は、その通りかもしれない。でも、「救いも尊厳も、生きていてこそのものだ」というのは、本当だろうか?

僕には、「救いも尊厳も、生きていてこそのものだ」といい切るには、大前提が必要だと思っている。

それは、セーフティネットがきちんと存在していること。セーフティネットがきちんと存在しているならば、「救いも尊厳も、生きていてこそのものだ」と言い切ってもいい。

しかし、僕らが生きるこの社会にはもう、まともなセーフティネットは存在しない。

『だけど僕にはこれ異常、何をどう頑張ればいいのか分かりませんでした。
このとき、僕は思い知ったんです。この社会には穴が空いている、って。』

本書は、介護がメインで描かれる物語だ。しかし問題は介護だけに留まらない。子育て、学校教育、いじめ、リストラ、追い出し部屋…。世の中のあらゆる部分に穴が空いていて、もはや修復することも、簡易的に塞ぐことも出来ない。僕らに出来ることは、その穴から落ちてしまわないように祈ることぐらいだ。

『あなたがそう言えるのは、絶対穴に落ちない安全地帯にいると思っているからですよ。あの穴の底での絶望は、落ちてみないと分からない』

これは、誰にでも降りかかってくるものだ。降りかかってきたものに対処出来るのは、充分に金のある者だけだ。それ以外は、降りかかってきた状況の中でもがくしかない。

僕は、穴を塞げとは思わない。それは無理だろう。まっとうな制度を作ろうとすれば金が掛かるし、金がないならまっとうな制度は作れない。僕らはこの、穴ぼこだらけの社会の中でなんとかやっていくしかないのだ。

だからこそ僕は、「死ぬ自由」を与えて欲しいと思う。寿命や病死などに委ねるのではなく、はっきりと「死」を選択する、そういう自由を人間は持ってもいいのではないかと思うのだ。

もちろん、難しいことは分かっている。100%悪用されないように制度設計することはsかなり困難だろう。しかし日本には、死刑制度がある。死刑制度もまた、100%失敗が許されないものだ。人の生死が掛かっているのだから。しかし、確証があるわけではないが、しかし間違いなく、無実の罪で死刑に処されている人は実際に存在するはずだ。

そんな死刑制度を許容している国なのだから、人間が人間の尊厳の範囲内で死を選びとる自由だって、与えることは不可能ではないだろうと思うのだ。

僕は、誰かを絶望に叩き落としてまで生きたいとは思えない。それは、ごく一般的な人間なら普通に共有出来る感覚ではないだろうか。しかし現に、多くの人々が、認知症のせいで自覚のないまま他者を傷つけている。その犠牲になっている数多くの人が存在する。

僕にはそれが正しい世の中のあり方だとは、思えないのだ。

内容に入ろうと思います。

2011年。一人の男が裁判所で判決を待っている。<彼>は、延べ43人もの人間を殺害した。戦後最大の連続殺人事件だ。死刑が求刑されることは間違いない。あまりにも被害者が多く、起訴までに4年も掛かった異例の裁判だ。
そして時間は、2006年にまで遡る。
大友秀樹は、千葉地検松戸支部所属の検事だ。最近配属になった検察事務官の椎名と共に、日々膨大な仕事に追われている。
父親が要介護状態となった大友は、高校時代の旧友である佐久間功一郎に連絡を取った。総合介護企業である「フォレスト」の営業部長である彼に、老人ホームを勧めてもらった。入るのに大金が掛かる老人ホームだったが、金が掛けられるならきちんとしたホームの方がいいという佐久間の言葉を理解し、大友はそこに決めた。
佐久間は、成功者であることの全能感に酔いしれたいと思っていた。若くして営業部長の座につき、仕事もプライベーも順調である彼は、しかし暗雲が立ち込めている気配も感じている。大友にも指摘されたが、「フォレスト」が違反行為を行っていたとして勧告されているのだ。業界最大手であり、会長が現総理大臣と太いパイプを持っていることを売りにしているのでまさかとは思うが、用心するに越したことはない。
斯波宗典は、「フォレスト」の訪問入浴者で、介助付きの入浴サービスを行うヘルパーだ。斯波は「フォレスト」の社員だが、一緒に回るヘルパーはパートやアルバイトだ。長くヘルパーを務め、お年寄りに対する辛辣な意見を忌憚なく口にする者と、介護業界に使命感を持ってやってきて、お年寄りを揶揄するような言説に我慢ならない者の齟齬みたいなものも日常茶飯事になっている。
人柄のいい所長にも恵まれ、やりがいのある仕事に従事できていると感じる斯波。二交代制で重労働の仕事は大変だが、今社会に間違いなく必要とされている仕事だ。しかしそれも、「フォレスト」がマスコミのバッシングを受けるようになると風向きが変わってくる…。
羽田洋子は、シングルマザーとして一人息子の颯太を育てながらも、認知症になった母親の介護に追われる日々。母は時折洋子のことが分からなくなるようで、見知らぬ人を見るような目をされる。糞尿を食べようとしたり、徘徊しようとしたりするので、洋子が仕事に出る時はベッドに縛り付けることにしている。
親子であるという情みたいなものはるし、親の介護はきちんとやらねばという気持ちもある。それでも、母さえいなければ、母さえ認知症でなければ、と思ってしまう瞬間が幾度も襲ってくる。
というような話です。

びっくりするくらいレベルの高い作品でした。新人のデビュー作にしては、みたいな評価をするつもりはまったくありません。新人離れした作品の出来に誰もが驚くことでしょう。

本書は、冒頭で「これからどんな殺人事件が展開されるのか」を彷彿とさせる始まり方をする。はっきりと名言はされないが、「この43人を殺したという殺人犯は、介護の苦しみから介抱するために殺人を行っていたのだろう」と誰もが受け取れるだろう描かれ方になっている。そしてまさにその通りの展開になる。

しかしだからといって、ミステリ的に弱いというわけではない。本書は、きっちりとミステリである構成がなされていて、ミステリとしても読み応えがある。

しかし、それよりも何よりも本書の凄いのは、テーマとそのテーマの扱い方だ。

『家族介護こそ日本の呪いだ。』

『死んだ方が良いってことも、あるからねえ』

『介護の世界に身を置けば、誰でも実感する。この世には死が救いになるということは間違いなくある』

本書では、介護の現実がこれでもかと切り取られていく。過剰にセンセーショナルでもなく、かといって過小に楽観的なわけでもなく、今の日本のありのままの姿を切り取っているのではないかと思う。

介護保険が成立した過程、介護業界が陥っている悪循環、介護の現場での苦労、頼れる人や金がない中での壮絶な介護、介護ビジネスの論理、老人と犯罪との関係性などなど…。老人や介護を取り巻く環境は様々であり、誰がどんな立場にいるかによって見え方はまるで変わってくる。本書では、様々な立場の人間を登場させることで、それぞれから見た現実が切り取られていき、その描写が、本書をより現実に近づける働きをしているのだと思う。

僕には介護の経験はないから分からないが、色んな話を聞く限り、今の社会はおかしいと思う。言い方は悪いが、まだ未来が長く存在する人間が、あまり未来が長くない人間にこれほど疲弊させられるのは何か違うのではないかと思う。もちろん、未来が長くないから人間として雑に扱っていい、というわけではない。しかし、それと同じことは、未来が長い人間に対しても言えるはずだ。未来が長かろうが短かろうが、人間は雑に扱われてはいけない。しかしそういう中で、制度や仕組みではどうにもならない現実が広がり続けている。ならば何らかの形で区切ったり諦めたりする必要はあるはずだ、と僕は感じる。

社会がクリーンになればなるほど、クリーンでないものは脇へ追いやられていく。社会のクリーンな部分だけが強調され、クリーンでない部分は「存在するはずがない」という理由で何の対処も取られなかったりする。そういう歪さを、現代社会は抱えている。僕は、醜い部分、汚い部分を社会から切り離すのは不可能だと思うのだ。それらの存在を認めた上でじゃあどうするのか。そういう発想で僕らは社会と関わっていかなければいけないのだと思う。

僕は、本書で描かれる連続殺人犯は、ヒーローだと思えてしまう。これには様々な意見はあるだろうが、僕は、すべての原因は、「死の自由」を認めない仕組みや世の中の雰囲気にあると思う。世界では少しずつ、尊厳死が認められるようになってきている(まだまだ多くはないが)。尊厳死が存在し得ない社会にあって、<彼>のような連続殺人犯は、ある種必要悪と言ってしまってもいいのではないか。もちろんこれは極論だが、僕の考えはその極論に近い部分にあると思う。

これは、正解のある問いではない。しかし、実際に議論され、多くの人がどう感じているのかを共有すべき問題だろう。

繰り返すが、僕は、誰かを絶望に叩き落としてまで生きたいとは思えない。そんな風になってしまう前に殺して欲しい。そう願うことはまったく間違いなのか?否応なしに超高齢化社会に突入する日本には、そういう議論が必要とされているのではないかと思う。

『あなたたちがどんな判断を降そうとも、僕は正しいことをしました』

彼の犯罪を、そして罪を、僕らが生きている社会は、断罪することが出来ない。そんな欠陥を抱えた社会の中で、僕らはこれからも生きていくしかないのである。

葉真中顕「ロスト・ケア」


迫りくる自分(似鳥鶏)

内容に入ろうと思います。
コンビニチェーンの本社勤務である本田理司は、人望もあり、仕事でも評価されている男。今は、朴さんという部下を持ち、後輩の指導にも当たっている。ささやかな変化やゴタゴタはあるが、基本的に平穏な生活をしている。
ある日本田は船橋駅近くのバーで、自分とそっくりの顔をした男に出会った。少し前、総武線の並走車両で見かけた男に間違いなかった。声もまるきり同じで、本田はどことなく落ち着きを失う。
相手は次藤と名乗り、ライターをしていると言った。まったく同じ顔の男との会話は刺激的ではあったが、同時に本田は次藤を、育ちの悪い男だと捉えるようになっていく。言葉の端々から、「悪いことはバレなければいくらやってもいい」「人に迷惑を掛けることなどなんでもない」というような価値観が染み出てくるのだ。本田は居心地の悪さを感じながらも、次藤と結果的に長く話をすることになった。
それからだ。本田は、ストーカーめいた行為に悩まされることになる。公衆電話からの異常な回数の電話、自宅前で張ってたと思われるタバコの吸い殻、盗まれたゴミ袋…。心当たりはまるでない。気持ち悪いと思いながらも打てる手があるわけでもなく、着信履歴やタバコの吸殻など、後々証拠になりそうなものをきちんと記録として取っておくぐらいだった。
そしてその日がやってきた。
朴さんから、「警察が本田さんを訪ねて会社までやってきた」という電話が掛かってきた。もちろん心当たりなどない。ふと頭をかすめたのは、しばらく前から会社に来なくなった小牧さんのことで、状況から、どうやらなんらかの事件に巻き込まれたようだ、と判断していた。しかし、それがどう自分と繋がる?
朴さんは本田に、「警察はどうやら本田さんを逮捕しに来ているようだ」と言う。怖くなった本田は直帰する旨伝え、自宅に戻ったが、そこも刑事に抑えられていた。
警察から彼は、小牧さんの強姦未遂の容疑者と目されていることを知る。事ここに至って彼は、何か恐ろしいことに巻き込まれていることを知る。そしてそこに、次藤が絡んでいることも。
次藤にハメられたんだ、と説明しようとする本田。しかし、次藤からもらった名刺に書かれてる電話番号は使われていなかった。警察は、自分のことを間違いなく犯人だと思っている。捕まったら、終わりだ。
だから本田は、部屋の窓をぶち破って逃げた。
本田の、長い長い逃亡生活の始まりだ。
というような話です。

なかなか面白い作品でした。
僕はタイトルだけ見た時、なんとなくSFっぽい作品なのかなという想像をしていました。自分と同じ顔の人間がいて、そこに何らかのSF的な理由がある。顔が同じであることで何かゴタゴタが起こって…という話だと思っていました。でもそうではなく、「たまたま瓜二つだった男」という存在がいる、結構現実的な話でした。

もちろん、「たまたま瓜二つだった男」という存在は結構リアリティに欠ける気がしますが、最近はFacebookなどのSNSの発達により、本当に自分そっくりの人間に出会う、みたいなことがあるみたいです。そういう人間が実に近くに住んでいた、というのはちょっと物語的に出来過ぎているかもですが、あながち無理のある設定ではないのかもしれません。

物語は基本的にはとても単純で、最初いくつか必要な設定や展開が描かれた後は、基本的に本田がいかに逃げるかという話になります。ひたすら逃げる小説、という意味で僕がぱっと思い浮かぶのは、伊坂幸太郎の「ゴールデンスランバー」で、まあさすがに「ゴールデンスランバー」より面白い、ってことはないんですけど、なかなかうまく出来てるんじゃないかな、と。もちろん、物語的に都合のいい展開ってのはあるんだけど、でもそういうことでもないと、警察から逃げられないっしょ、という感じもするんで、そこは仕方ないでしょう。そんなに無茶苦茶な展開があったわけではないので、するっと読めると思います。

物語のラストの方で、本田が一発逆転を掛けた賭けに出るわけです。本田的には、警察に捕まっても最悪なんだけど、たとえ逃げ切れたとしてももう既に最悪なわけです。本田が強姦未遂の容疑者であることは既に報道されてしまっているし、このまま捕まらなくてももう「本田理司」としては生きられない。一生日陰の存在として生きていくしかないわけです。

本田は、どっちに進んでも最悪なその状況の中で、なんとか光明を見出すために賭けに出る。本田自身の人生に意味を持たせるためのその賭けがどんな顛末を迎えるのか、そういう部分も面白いのではないかと思う。

以前テレビでオードリーの若林が、こんな話をしていた。ある時から色んな人に、「若林が挨拶を返さなかった」と言われるようになった、と。若林にはもちろんそんな記憶はなく、不思議だと思っていたのだけど、ある日原因が分かったのだという。
それは、若林に恐ろしく似ている素人の存在である。
若林自身も認めるくらい似ているらしいその素人の人が、何かの番組に出るのにテレビ局にいたらしい。若林と面識のある芸能人は、その素人を若林本人だと思い挨拶するが、その素人は、テレビで見ているような人が自分に挨拶をするわけない、これは自分に向けられた挨拶ではないのだ、と思って挨拶を返さなかった、というのだ。それが、「若林に無視された」という噂に繋がったのだ。
若林は、「番組に出る時とかテレビ局にいる時は、もう自分が“若林”である風に振る舞って欲しい」と言っていた。

本書はまさにそのケースを、悪意を持ってやっているのと同じことだ。次藤は、悪意を持って本田を追い詰める。もし自分に起こったら…と思うと怖いなと思う。

似鳥鶏「迫りくる自分」


講義ライブ だから仏教は面白い!(魚川祐司)

いやー、メチャクチャ面白かった!
宗教なんて全般的に興味ない僕だけど、仏教って面白いんだなぁ、と思いました。
もちろん本書は、入門書の入門書だろうから、本当はもっと奥が深いんだろうけど、入り口の部分をかじるだけでもとても面白い。久々に、読んで良かった!と思える一冊でした。

仏教に限らず宗教というのは全般的に、「信じるための物語」だと思っているような部分がありました。例えばキリスト教であれば、聖書に書かれているような物語を信じる。イスラム教であれば、コーランに書かれているような物語(というかルールみたいなものなんだろうけど)を信じる。あるいは、新興宗教であれば「ハルマゲドンがやってくる」みたいな物語を信じる。宗教というのはそういうものなんだな、と思っていました。

しかし、仏教というのは、僕が抱いているそういう宗教に対するイメージとは大分違うようです。本書を読んで僕が仏教に対して感じたイメージは、まさに「哲学」そのものだな、ということでした。

仏教というのは「理論」と「実践」によって成り立っていて、本書では「理論」だけを知るだけでは仏教は理解できない、と注意されます。

『私が本講義で行っているのは、「理屈と筋道の話を聞いているだけでは駄目で、最終的には実践をしていただかないと、本当のところはわかりません」というところまでを、何とか理屈と筋道でお話しようとすることなんです』

なので、本書で描かれている「理論」(の入門)だけでは、仏教など到底理解できないことになります。しかし、仏教の「理論」は、精緻な論理によって組み上がっていて、それ単体でも非常に面白い。ゴータマ・ブッダがどのように世界や人間を捉え、どういう道筋を経ることで「悟り」に至ると考えたのか。その思考の道筋を著者が分かりやすく解説してくれるわけですが、実に刺激的な内容で面白かったです。

さて、まずは本書全体について注意しておくべきことを書きましょう。

『そこで、本書では主に「ゴータマ・ブッダの仏教」の根源的な思想構造と、その実践(瞑想)との関連に焦点を絞ってお話をしています』

冒頭でこんな風に書かれています。これはどういう意味かというと、「仏教には色んな種類があるけど、この本では、仏教をそもそも生み出したゴータマ・ブッダが言ったことを解説するよ」ということです。

本書の中には、「小乗仏教」と「大乗仏教」の違いについて、「大乗経典同人誌論」という考え方を引用しながら説明している箇所があります。これ自体も非常に面白いのですけど、ざっと書くと、ゴータマ・ブッダが生み出した仏教が「小乗仏教」と呼ばれ、その「小乗仏教」をベースに、「俺は仏教がこんなふうに在って欲しい!」と思った色んな人が作り上げたのが様々な「大乗仏教」だ、という説明です。そして本書では、仏教の始祖であるゴータマ・ブッダが言った、いわゆる「小乗仏教」と呼ばれている仏教について解説しますよ、ということです。

この点について巻末でもこんな注意書きがあります。

『そのような性質の著作ですから、本書は「これ一冊で仏教の全てがわかる」種類の入門書ではもちろんありません。右に述べたように、仏教に関しては様々な見方が存在しますから、本講義はあくまでもそのうちの一つを示したにすぎませんし、また基本的な知識であっても、本書の中ではふれることができなかったものも多くあります。
ただ、タイトルにある通り、本書を読むことで、「なるほど。たしかに仏教というのは、とにかく面白いものなんだな」ということを、読者の皆様に感じていただけるであろうことには、ひそかに自信をもっています』

さて、そんな本書では、仏教についてどんな風に描かれているのか。書いていきます。

著者は、仏教について、ひと言でこんな風にぶった斬ります。

『したがって、本来的には、ゴータマ・ブッダの仏教というのは、「社会の中で人間的に役に立つ」ための教えでは全くないわけです』

著者はこれを断言します。最後まで読むと、これがどういう意味なのか、徐々に分かってきますが、いきなりこう言われるとびっくりしますよね。なんとなく仏教というのは、「良い人になるため」「穏やかな人間になるため」にあるものに思えます。もちろん、仏教を実践した結果として「良い人」や「穏やかな人間」や「社会的に価値のある人間」になる可能性はありますが、しかしそもそもがゴータマ・ブッダはそんなことを目指して仏教を作ったわけではない、ということです。

ではゴータマ・ブッダは、仏教徒にどうなれと言ったのか。これはなかなか衝撃的です。

『現代風にわかりやすく、比喩的に言うとすれば、ゴータマ・ブッダは解脱を目指す自分の弟子たち、つまり出家者に対しては、「異性とは目も合わせないニートになれ!」と教えていたんです。』

いいですね、ゴータマ・ブッダ!仏教というのは、「異性とは目も合わせないニート」を目指す教えなわけで、そりゃあ著者も、『「社会の中で人間的に役に立つ」ための教えでは全くないわけです』って言いますよね、という感じです。

しかし、どうしてそんな「非人間的な教え」が2500年間も続いてきたのでしょうか?「異性とは目も合わせないニートになれ」というのは、現代に限らず、過去どの時代であっても「えっ?」と思われるような価値観なわけです。その中の価値観に逆光するような考え方なわけです。それでも仏教は存続し続けた。まさにその事実にこそ、我々が仏教を学ぶ価値があるのだと著者は言います。

『だとしたら、私たちが本当に仏教を「わかる」ためにやらなければならないことは、「異性とは目も合わせないニートになる」ことをゴータマ・ブッダが推奨していたという、文献から知られる事実を隠蔽することではなくて、そのように「非人間的」で「ヤバい」教えを言葉どおりに実践した先に、最終的に得られる価値は何であるのかということを、正面から考えてみることだと思うんです。』

著者はまた、こうも言います。

『そして、ここからわかることは、ゴータマ・ブッダの「非人間的でシンプルな教え」を実践して得られた先にあるものに、何かしらの価値があるいということ。あるいは少なくとも、そう考えた人たちがずっと存在し続けてきたということです』

確かにそれはその通りで、ゴータマ・ブッダの教えが何ら価値を生まないものであれば、仏教はこれほど存続していないわけです。インドやアジアだけではなく、元々仏教圏ではない欧米でも、現在仏教の考え方をベースにした瞑想センターが多く生まれ、そこで仏教の実践が行われています。そして仏教の実践は、実際に彼らに対してはっきりと自覚出来るだけの価値をもたらす。だからこそ仏教というのは2500年間も存続しているわけです。

ではその価値とは何なのか?引用するとこうです。

『「ただ在るだけでfulfilled」というエートス。言い換えれば、ただ存在するだけ、ただ、いま・ここに在って呼吸しているだけで、それだけで「充分に満たされている」という、この世界における居住まい方』

この文章だけではなんのことか分からないでしょう。本書は、仏教が与えてくれるこの価値が一体どんなもので、そして、仏教の実践がそれを得ることとどう関係してくるのかを明らかにしていくわけです。

さてここからは、僕なりの理解を中心に書いてみましょう。理解を間違えている部分もあるでしょうがご容赦ください。

まずゴータマ・ブッダは、ぼくらが生きるこの世界を「条件付けされている世界」と捉えている。これは、「こうすればこうなるという考え方で成り立っている世界」ということです。誰かを殴れば怪我をするし、野菜を放置すれば腐る。そういう、「こうすればこうなる」という理屈で成り立っている世界です。これを「有為」と言うけど、仏教ではその反対、「無為」を目指します。

「無為」とは、条件付けされていない世界であって、そこは「涅槃」と呼ばれています。つまり僕らは仏教の実践によって、「有為」から脱し、「無為」すなわち「涅槃」へと達することが出来るわけです。

ここで、「苦(ドゥッカ)」という概念が登場する。「苦」というのは「不満足」というような意味合いで、仏教において非常に重要な概念である。

僕らは「有為」において、欲望を充足する行為にあけくれている。美味しいものが食べたい、海外旅行に行きたい、みたいなことです。でも、どれだけ美味しいものを食べても、より美味しいものが食べたくなる。その欲望充足の行為には際限がありません。「苦」というのはまさに、この「欲望充足の行為には際限がない」「永遠に満足したという状態には辿りつけない」という状態を指すわけです。

インド圏において、これは非常に重要な問題となります。何故ならインド圏においては、「輪廻」つまり「生まれ変わり(だけではないのだけど分かりやすくそれに絞る)」は事実と捉えられているからです。一人の人間としての人生において「苦」に支配される程度のことなら問題ないが、インド圏の人にとって「輪廻」は事実なので、生まれ変わっても生まれ変わってもずっとこの「苦」のループから抜け出せないことになる。

それはしんどい。

だから仏教では、そんな無限ループから脱するために「解脱」を目指す。そういう考え方が産まれるわけです。

じゃあどうすればいいのか。

「苦」の根本原因は「渇愛(要するに欲望みたいなこと)」である。つまり「有為」においては、「渇愛」があるから「苦」が生まれる。ならば、その「渇愛」をなくすことさえ出来れば「苦」もなくなり、その結果、条件付けされていない「無為」に達することが出来るわけです。

ならば、どうやって「渇愛」をなくすことが出来るのか?

その話をする前に、「渇愛」について書こう。この「渇愛」は、本書では「おっぱい問題」として頻繁に登場する。

「おっぱい」というのは、欲望のない状態で見ることが出来ればそれは「ただの脂肪の塊」である。しかし僕らは「おっぱい」をそういうものとして見ない。どうしても「おっぱい」を見ると、ムラムラしたりしてしまう。これは「おっぱい」を、「ただの脂肪の塊」ではなく、「おっぱい」という観念で捉えている、というようなことだ。

この、「おっぱい」を欲望含みで捉えてしまう状態のことを「渇愛」と呼ぶのだ。

では、「渇愛」をなくすにはどうしなければならないのか?ここが、仏教の実践における一つの目的なのだが、修行をすることによってそもそもの認知を変える、そうすることによって「渇愛」をなくすのだ。

ゴータマ・ブッダは、僕ら凡夫(解脱していないパンピー)が見ている世界は、いわゆる「脳内世界」のようなものだ、と言う。ゴータマ・ブッダは、僕らが「おっぱい」を「ムラムラさせるもの」として見てしまっているように、対象をそのままの形で見ず、欲望を伴った認知で捉えている。ゴータマ・ブッダにとって凡夫の見ている「世界」とは、まさにそういうものだ。

そしてゴータマ・ブッダは、「世界」=「苦」であると捉える。つまり、物事すべてを欲望を伴った認知で捉えてしまうが故に、欲望充足は留まるところを知らず、凡夫は永遠に不満足から抜け出すことが出来ない。であれば、その「世界」を壊し、欲望を伴った認知そのものを転換するしかない。


そしてそのために、修行が必要なのだ。

頭の中でいくら「おっぱいは脂肪の塊だ」と理解していても、いざ目の前に「おっぱい」が現れれば僕らはそれを「脂肪の塊」ではないものとして捉えてしまう。そういう認知に囚われてしまっているからだ。だから仏教においては、知識だけでは不十分であり、仏教をきちんと理解するためには実践が不可欠なのだ。

というような流れなんだけど、たぶん僕の文章を読んでる人には全然伝わらないだろうなぁ。自分で書いてても、これじゃ伝わらないよな、と思います。使っている文字量が全然違うとはいえ、改めて本書の分かりやすさを実感しました。本書では、仏教というなかなか難しい(というか、難しいわけではないのだけど、僕らの生きてる日常世界の常識を逸脱するので捉えにくい)教えを、実に分かりやすく伝えてくれる。そして、仏教の理屈を知れば知るほど、その精緻に組み上げられた理屈の素晴らしさに感動させられます。

そして、本書を読みながら僕が考えていたのは、僕は本書に書かれている仏教の考え方を知る前から、仏教的な考えで行動していたのかもしれない、ということです。

僕の中にも常に、「欲望充足は終わりがなくて、不満足はなくならない」という感覚があります。だから僕は、「こうしたい」「ああでありたい」という望みが、基本的にありません。美味しいものを食べたいとか、出世したいとか、金持ちになりたいとか、そういう欲求が基本的にありません。本書の言葉で言えば、「渇愛」がなくなる方が楽だなぁ、という感覚は昔からあって、意識的にそういうものを追い求めないような生き方を選択してきているのだろうと思います。

また、ちょっと前に僕は恋愛はいいやと思うようになったので、それから、女性との関係を恋愛で捉えないようにしています。女性を見ても、「恋愛対象」という捉え方をせず、「女性」という捉え方をするようにしています。これも、まあごく一部ではあるけど、認知の転換の例かな、という感じがします。

我慢して女性を「恋愛対象」として見ない、という感じではなく、特に無理することなく女性を「恋愛対象」と思わない感じでいられています。本書の中にも、「前提となる認知を無視して、欲望が存在しないかのように我慢することは悟りではない」と書かれていたけど、まさにそれと同じで、僕も欲望がないかのように振舞っているのではなく、そもそも「恋愛対象」という認知が起こらない、という感じになっています。まあもちろん、修行を経てそうなったわけではないから、どんな場合でも絶対に、なんて言い方はするつもりはありませんけど、割と僕の普段の振る舞いは、仏教的な考え方に近いものがあるのかもしれないな、と思ったりしたのでした。

本書によれば、仏教に関して何らかの主張をする人の中には、ゴータマ・ブッダの仏教を根本的な部分で理解していなかったり、ゴータマ・ブッダの主張に拠らず、「こうであるはずだ」というような「はずだ論」を展開する人も多い、とのことです。本書の冒頭で書かれている、『本来的には、ゴータマ・ブッダの仏教というのは、「社会の中で人間的に役に立つ」ための教えでは全くない』というようなことが一切書かれていないような本も多いといいます。

著者自身は、どの主張が正しいのかをバトルする、というようなことにはまるで関心はありません。著者は純粋に、「ゴータマ・ブッダがどう考えて仏教を生み出したのか」に関心があり、経典やゴータマ・ブッダ自身の言葉なんかをひも解きながらそれを明らかにしている。自身は仏教徒ではないと語る著者は、かなりフラットな目線で仏教というものを捉えているのではないか、という感じがします。そういう意味でも、本書は入門書としてなかなか適しているのではないかな、という感じがします。

魚川祐司「講義ライブ だから仏教は面白い!」


「Fake(監督:森達也)」を観に行ってきました

ゴーストライター問題で一時世間を騒がせた佐村河内守。その佐村河内守を、ドキュメンタリー映画監督である森達也が密着した映画だ。

佐村河内守の報道に触れていた際、僕もそうだったが、世の中のほとんどの人はこう思ったことだろう。
「新垣隆は普通の人で、佐村河内守はモンスターなのだ」と。

この映画を観た今の僕の感想はこうだ。
「佐村河内守は普通の人で、新垣隆はモンスターなのかもしれない」


先に、森達也という映画監督について触れよう。
僕自身は、森達也の映画を見るのは初めてだ。しかし、森達也の著作はいくつか読んだことがある。
森達也の名を世に知らしめたのは、デビュー作である「A」というドキュメンタリー映画だ。僕はこの映画を観てはいないが、しかしどんな内容かは知っている。

オウム真理教の報道が加熱の一途を辿っていたまさにその時、オウム真理教を教団内部から撮影したとんでもない映画だったのだ。

映画公開後、森達也はあらゆる人から、「何故オウム真理教の内部からカメラを回すなんてことが出来たのか?」と聞かれまくったらしい。何故なら当時オウム真理教は、報道合戦が加熱しているために、あらゆる取材をシャットアウトしている時期だったからだ。

それに対する森達也の返答は、「手紙を書いてお願いしただけだ」というものだった。そうやって森達也は、オウム真理教内部に入って、教団の内側から「世間」を撮るという、とんでもない映画を完成させた。

森達也の作品(著作や映画)からは常に、「正しいとされていることへの違和感」を感じ取る。オウム真理教が叩かれている時期にオウム真理教を内部から撮り、麻原彰晃の裁判が正常に行われていないという問題提起をし、そして今回、佐村河内守側からゴースト問題(佐村河内守氏はこの表現を良しとしていなかったが、分かりやすいのでここではそう表記する)を撮った。

皆が同じ方向を向いている時に、敢えて逆を向く。そして、逆を向いている自分自身も含めて「作品」に仕立てあげる。だから森達也の作品には常に、一般的なノンフィクションやドキュメンタリーからは感じられない揺らぎや迷いみたいなものが滲み出る。

『僕のこと信じていますか?』

映画の終盤で森達也は、佐村河内守とその奥さんである香にそう問いかける。二人それぞれの回答が、佐村河内夫妻と森達也との、長い時間の共有を感じさせる。そしてまた、「Fake」と題されたこの映画の中で、「“真実”というのはそもそも何なのか?」という問いに揺らぎを与える結果になっていると思う。

この揺らぎは、マスメディアには存在しないものだ。

佐村河内守はこの映画の中で、「テレビや雑誌などの報道で嘘ばかり報じられた」という主張を色んな場面ですることになる。「嘘ばかり報じられた」かどうかは、とりあえず脇に置くとして、この発言の背景には、マスメディアのこんな性質がある。それは、

「マスメディアは、“真実”がこれだと提示する装置だ」

ということだ。

マスメディアは、それがたとえ疑惑の段階だとしても、それが“真実”であるように、“唯一の答え”であるように情報を提示する。“真実”だと、“唯一の答え”だと断言しなくても、様々な見せ方によって、ある見方を唯一のものであるかのように思わせる、そういう性質がある。

マスメディアのこういう性質の中には、森達也のドキュメンタリーの中にあるような揺らぎは存在しない。マスメディアは、唯一の何かを報じると決めれば、揺らがずにそれを提示する。仮にそれが間違いであると後から判明するようなことがあっても、訂正に多くの時間と手間を費やすようなことはしない。マスメディアとはそういうものだ。

森達也は、そういうマスメディアのあり方に常に疑問を抱いている。自身も、かつてはテレビ局で働いていた。テレビの世界で、どんな力学が働いて情報が伝えられるのか、理解していることだろう。その中で抱いた疑問が、常に森達也の映画のベースになっているのだろうと思う。

森達也は、「報じる」ということに本来つきまとうはずの揺らぎを、切り取らずに映画に組み込んでいく。佐村河内守を報じたテレビや、あるいはゴースト問題を最初に取り上げたフリーライターの神山典士など、「報じる」側の人間が敢えて無視している、あるいは無意識で見ないようにしている揺らぎを、森達也は取り除かないで見せていく。

そこに、森達也のドキュメンタリーの本質があるのだと僕は感じる。


映画は、森達也が佐村河内夫妻に密着し続ける形で進んでいく。
基本的にはマンション内での撮影だ。そこで、ご飯を食べていたり、新垣隆が出ているテレビを見ていたり、森達也の質問に答えたりする佐村河内守の姿が切り取られていく。時々、メディアの人間が取材にやってきたり、年始に親族が集まったり、あるいは人に会うために遠出する場面もある。森達也は、そういう場面にいて、観察者として佐村河内守の周辺を切り取っていく。

いわゆるゴースト問題には、二つの論点があったように思う。それは

①佐村河内守は本当に耳が聞こえないのか?
②佐村河内守は本当に“作曲”をしているのか?

である。

映画の中で森達也は、この二つに、直接的に、あるいは間接的に解答を与えることになる。

①の「佐村河内守は本当に耳が聞こえないのか?」という点について、僕は、佐村河内守の主張を基本的に信じる立場を取る。つまり、「音は届くが意味が理解できない」という「感音性難聴」というものだ。

何故これを信じるのか。それは、この映画の撮影手法にある。

森達也は、佐村河内守に密着している。映画の中で使われた映像はほんの僅かだろう。取材期間がどれぐらいで、何日ぐらい佐村河内夫妻のマンションにいたのかそれは分からないけど、恐らくあの映画を完成させるためには相当の時間カメラを回しているだろうと思う。

森達也のやり方は、時間を決めてインタビューをするようなものではなく、佐村河内守夫妻の生活の一部みたいな存在になって一緒にいるようなやり方だ。だからもし、佐村河内守が本当は耳が聞こえるのだとして、森達也が密着している期間、一切ボロを出さずにいるのは不可能だろうと思うのだ。

佐村河内守は、奥さんに手話で通訳をしてもらって色んな人との会話を成立させている。一応、ゆっくり喋ってもらえれば、口の形から相手の言っていることを理解できることもあるようだし、「音が出ている」ということは分かる場合もあるそうだが、基本的には奥さんの手話なしには会話は成立しない。だから、佐村河内守が本当は聞こえているのだとして、ボロを出さないで長期の密着に耐えるのは無理だろうと思うのだ。

だから僕は、森達也が共犯ではない、という条件付きだけど(そして、森達也が共犯になる理由がないのでそうは考えないけど)、佐村河内守の「耳は聞こえていない」という話を信じる。

だからこそ、冒頭で書いたように、新垣隆がモンスターに思えるのである。

映画の中でも、新垣隆のインタビューなどはテレビ越しに写されていたけど、そこで新垣隆は、「佐村河内守の耳が聞こえないと思ったことは一度もない」「聞こえることは黙っておくように言われた」という発言をしている。僕も、ゴースト問題の報道が加熱していた頃、そういう発言を耳にした記憶があるように思う。

しかし、佐村河内守の耳が聞こえていないとすれば、新垣隆が嘘をついていることになる。しかも、明らかな嘘をだ。

佐村河内守は、ある海外メディアのインタビューで、「新垣隆とどうコミュニケーションを取っていたのか?」と聞かれた。新垣隆は手話が出来ず、また共作していることは奥さんにも黙っていたので、打ち合わせの場に奥さんがいて通訳していたということもない。
佐村河内守はその問いについて、「新垣隆はほとんど喋らない人だった」「時計を見ながら早く帰りたいといつも言っていた」「かなり以前は、筆談もしてくれた」「新垣隆は、この通りやればいいんでしょ、というスタンスだった(だからコミュニケーションをさほど取る必要がなかった)」というような回答をしている。

もちろん、どちらが正しいかは分からない。しかしこの映画を見ると、新垣隆が明らかに嘘をついているように思えてくる。佐村河内守は、「何故彼がこんな嘘をつくのか、まるで分からない」というようなことを言っている。佐村河内守側からすれば、本当にその通りだろう。

マスメディアは、新垣隆の発言を“真実”として報道した。もちろん、それは分かりやすいストーリーだ。ゴーストを務めていた側が罪の意識から告発し、謝罪した。そんな彼が言っていることなら正しいだろう、嘘はつかないだろう、という見方は、とても分かりやすい。マスメディアも、分かりやすい見方の方が伝わりやすいと判断するし、分かりやすい見方の方が多くの人に受け入れられやすい。

こうして、分かりやすいストーリーが組み立てられていく。

佐村河内夫妻は、「本当に聞こえていないのに、聞こえているのに嘘をついているのかのような扱われ方をしていることが辛い」という発言をしている。記者会見でも、「感音性難聴」に関する資料は配っていたにも関わらず、その部分ではなく、資料の中から、あたかも「佐村河内守の聴力には問題ない」と思えるような部分だけを使って報道をする。そのことに対する憤りがある。

また佐村河内守は、自身に関する報道が多くの聴覚障害を持つ人間を傷つける結果になった、という発言もする。

『一連の報道によって、誰を一番傷つけたかって言うと、それは同じ聴覚の障害を持つ多くの人達です』

これは、自身も聴覚障害者であり、聴覚障害者への様々なトレーニングを行っているという前川修寛とのやり取りの中で出てきた発言だ。前川氏は、佐村河内守の記者会見時の神山典士の対応は聴覚障害者に喧嘩を売っている、と断言し、自身に関する報道で多くの聴覚障害者に迷惑を掛けたという佐村河内守に対して、「あの記者会見で守さんはもう充分詫びています。それ以上の謝罪はいらないと私は思いました」と発言している。

前川氏との話で非常に印象的だったことがある。森達也が前川氏に、こんな問いをするのだ。

『聴覚障害者にとって…、いや前川さんにとってでいいです、前川さんにとって音楽は意味がありますか?』

この問いに対して前川氏は「はい」と答える。そして、補聴器につけることでiPodなどの音楽を聞くことが出来るオプションを見せてくれた。流れてくる音楽のすべては聞き取れない(と思っている)が、しかしそれでも音楽を聞く。それが欠落した音楽であると分かっているけど、聞くのだ、と。音を口に出すことは出来ないけど、メロディは頭の中にあるのだ、という。これは、直接的に何かを証明するようなものではないが、ちょっと思ってもみなかった事実だったので非常に印象的だった。

②の「佐村河内守は本当に“作曲”をしているのか?」に移ろう。

この問いに対して森達也はこの映画の中で、恐らく誰もが予想しえなかっただろう形で解答を与えることになる。しかし、そこには触れないことにしよう。この部分は、この映画の中で一つにクライマックスと言えるので、ここでは書かない。

しかし、もちろん疑おうと思えばいくらでも疑う余地はあるだろうが、しかしあの場面を見れば、佐村河内守は作曲出来るのだ、と誰もが納得できるのではないかと感じる。

佐村河内守と“作曲”については、こんな問題があった。それは、

「佐村河内守がしていることは“作曲”と言えるのか?」

というものだ。

佐村河内守は、「指示書」と呼ばれる、全体のストーリーを文章にしたものや、構成などを図にしたものを新垣隆に渡す、という形で“作曲”をしていた、という主張している。佐村河内守は、「ゴースト問題」という表現を好まない。佐村河内守は、自身も“作曲”に大きく関わっているのであって、「共作を隠していた問題」と捉えている。そして、そのことに対しては罪悪感を抱いている。しかし、決してゴーストではない、新垣隆だけが作曲したのではない、という立場である。

これはなかなか難しい問題だ。特に、音楽の世界にいない素人には。

先にも挙げた海外メディアの記者は、佐村河内守に対してこんな風に詰め寄る。

『新垣隆さんが作曲できる証拠はいくらでもあります。でも、私はまだ佐村河内さんの音源をもらってもいないし、聞いてもいない。指示書や文章は見たけど、僕たちにはこれは読めない。このままだと多くの読者は、佐村河内さんが作曲の半分すら担っていないと思う可能性が高い』

佐村河内守は、この問いに対して、なかなかうまく答えることが出来ない。僕にはそれは、メディアの人たちに分かってもらうことを諦めてしまった佐村河内守の失望の表れのように見えた。

これは、“作曲”というものに対する認識の差だ。

例えば、小説やマンガであれば、共作というのは分かりやすい。小説やマンガの場合、「物語」と「文章」、あるいは「物語」と「絵」という分け方が容易に出来る。だから、「物語」を担当する側、「文章」や「絵」を担当する側という形で共作が成立するのだ、と納得しやすい。すべての小説や絵の共作がそのように行われていないとしても、そういう想像が容易なのだ。

しかし音楽の場合、「物語」と「曲」、「構成」と「テンポ」などの形で、作曲という行為を分けにくい。実際作曲をしている人がどう感じているかはともかく、一般の人から見て作曲という行為をそういう役割ごとに分けるイメージが出来ない。だから、仮に佐村河内守が作曲の重要な部分を担っていたのだとしても、実際に音を作っている新垣隆が“作曲”をしているのだ、という認識に流れてしまいがちだ。

映画の中では、佐村河内守側の弁護士も登場した。彼らは、佐村河内守が”作曲”をしたというエビデンスを持っているという。それは、新垣隆に送った、こんな感じの音でというのを楽器で弾いたり歌ったりしている音源のコピーだという(すべては残っていないそうだが、新垣隆がオリジナルを持っているはずだ、と彼らは言っていた)。

また、僕がうまく弁護士の発言を捉えきれなかった部分はあるのだが、弁護士は、「著作権が佐村河内側にあるということが問題になることはない」という趣旨の発言をしていたように思う。もちろんこれは、「二人の関係において、ゴーストである新垣隆の存在を隠蔽する行為」の証拠であるという風にも受け取れるが、「問題になることがない」という発言からは、「二人の間で、曲の重要な部分を作ったのは佐村河内守であるという認識がなされていた」という証拠として捉える方が自然であるようにも感じられる。

まあもちろん、指示書や文章などを“作曲”と捉えるか否かは、これはもう感じ方の問題でしかないので結論は存在しないと言っていい。マスメディアはそれを「作曲ではない」という印象を与える形で報じた。どう思うかは、それぞれの人の捉え方でしかない。

しかし、先程も触れたが、そんな議論をなぎ倒すようなクライマックスがこの映画では描かれる。この映画を最後まで見れば、佐村河内守という人物に対する印象は大きく変わるのではないか、と思う。


映画は、佐村河内守を撮り、ゴースト問題を捉え直すものだが、同時に、撮る側、撮られる側の三人の関係性をも映し出していく。

佐村河内守は森達也に、「私のことをすべて信じてくれますか?」と聞き、森達也は「信じなきゃ撮れない」と返す。さらに、「(守さんと)心中だからね」という発言をしている。

森達也は、共作であることが世間にバレる恐怖を18年館ずっと感じ続けてきたと語る佐村河内守に対して、「でも、世間より香さんを騙すことの方が辛かったんじゃないですか?」と問う。そして、離婚することになるだろうと覚悟しつつ騒動が大きくなる前に真実を話し、しかし「終わったことは仕方ない」と一緒にいることを選択した奥さんに対して、こんな風に言う。

『私がこの私で、相手が香じゃなかったら、今の私は絶対にない。本当にありがとう』

「いいシーンが撮れました」と、ある場面で森達也は言う。その理由の一つとして森達也は、「ここに奥さんがいたから」と言う。

『僕は二人を撮りたいんだと思う』

対象に入り込み、「撮影者:森達也」自身も画面に登場しながら、三人の関係性の中から“真実”を切り取ろうとする森達也。そんな森達也が描くこの映画は、実に不穏な形で終わる。まさに「Fake」というタイトルに相応しい、観る者を戸惑わせる終わらせ方は、“真実”はそう簡単に掴めるものではないのだということを改めて実感させる。

“真実”とは、絶対的に存在するものではなく、信じるものだ。選びとるものだ。つまりそれは、信じさせられる、選ばされる可能性を孕んでいるということだ。

あなたはこの映画から、どんな“真実”を選びとり、信じるだろうか?

「Fake(監督:森達也)」を観に行ってきました

極限トランク(木下半太)

内容に入ろうと思います。
耳原敏夫は、大手広告代理店で働く一児の父。妻の悦子は、40代にして未だ美貌を保ち、セレブ向けのファッション誌でモデルをすることもある。娘のきららは中学三年生。最近耳原が話しかけても答えてくれないのが寂しいが、しかし耳原は、仕事にも家族にも恵まれ、周りからは成功者だと見られているだろうと感じている。
しかし、実際どうだろうか?自分は幸せだろうか?
そんな思いが渦巻く中、仕事にも疲れ、家庭にも居場所がない耳原は、気晴らしにスポーツバーに足を向けた。恐ろしく美しい女と話をし、何度かのナンパに失敗した後で、耳原はある男に出会う。
海老沢と名乗ったその男は、「他人の人生のコーディネーター」をしていると言った。そして、非日常を体感しないかというその男の口車に乗せられる形で、耳原は、仕事を休んで名古屋に向かうことになった。
まさかそこで、目隠しをされ、両腕を後ろで縛られた状態で、車のトランクに閉じ込められることになるとは…。
手も足も出ない、まさに極限状況に放り込まれた耳原は、ごく僅かな情報から、この窮地を脱する策を模索するが…。
というような話です。

状況設定はマンガ的で、リアルさを感じられるような作品ではありませんが、物語の状況設定さえ受け入れることが出来れば、その設定の中でとてもうまく物語を転がしていく、なかなか面白い作品だったと思います。

帯に、【舞台は「車のトランク」だけ】と書かれている通り、回想シーンを除けば、現在進行形で展開される物語は基本的に「車のトランク」の中だけで完結します。しかもその中で、主人公の耳原は、手を縛られ目隠しをされ狭い何かに押し込められた、まったく身動きが取れない状態でいます。きちんと使える感覚器官は聴覚だけ。あとは、広告マンとして身につけた「相手の目線に立って考える力」「プレゼンで相手を圧倒する力」を元に、自分が置かれている窮地を脱しようとします。

もちろんそれは、困難を極めます。誰がこの状況を作り出したのか、それはさすがに海老沢だと耳原も気づきますが、海老沢がどんな意図でこの状況を作り出し、何を目的にしているのか、さっぱり分かりません。なにせ耳原からすれば、海老沢はスポーツバーで会っただけの他人なわけです。推測できるようなパーソナルな情報をまったく持ちあわせていない。それでも、状況が展開されていく中で、少しずつ耳原は、自身が置かれた状況を把握していくことになる。

しかしそれらの状況は、耳原をさらに混乱に陥れます。まさかと思うような展開が次々に現れて、その度に耳原は過去の自分を悔やんだり、自分のことしか見えていなかった日々のことを振り返ったりします。そしてその中で耳原は、自分に訪れる運命を受け入れ、そしてある一つの事柄だけは絶対にやり切ると心に誓います。

この物語は、基本的にエンタメ作品で、別に作中から深い何かを読み取る必要などないのですけど、この耳原の心の動きから僕は、「幸せ」な時はその「幸せ」に気づくことが出来ないのだろうな、と改めて感じました。

耳原は、この極限状況に陥ることで、自分にとっての大切なものの存在を改めて理解することが出来た。それまでも、殊更見失っていたわけではないのだけど、殊更意識するものでもない。耳原にとってこの極限状況は、最低最悪と言っていい、二度と体験したくないものだろうが、しかし、これだけは絶対に見失えないと強く認識させてくれたのもまたこの極限状況であるわけで、少なくともその点だけに限って言えば良かったのかもしれません。

極限状況に陥らなければ大切さに気づけないような人生は歩むまい、と思える一冊でもあります。

木下半太「極限トランク」


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ダリアの笑顔(椰月美智子)

内容に入ろうと思います。
本書は、四人家族のそれぞれが主人公になる4つの短編が収録された連作短編集です。

「ダリアの笑顔」
綿貫家の長女の真美は、学校ではメインのグループにはいられず、家では両親の顔色を伺ってしまうような女の子。3月25日生まれで、人にとよっては1年も生まれが違うクラスメートがいる環境じゃ、うまくやっていけないよと真美は思っている。だから真美は時々、4月10日生まれの「綿貫真美」を想像する。4月10日生まれの「綿貫真美」は、クラスのリーダー的存在である早紀ちゃんみたいになんでも出来るのだ。
両親の喧嘩が自分のせいだと気に病む真美。ある日真美は、母親がゴミに出そうとしていた、真美が生まれた頃に母親がつけていて育児日記を見つけて…。

「いいんじゃないの、40代」
綿貫家の母である春子は、高いアイスを買うかどうか悩んでいる。家を買うために必死で働いた日常や、なんだかうまくいかないようなモヤモヤを、アイスを食べて払拭したい。
春子は、生活の中で、唐突にかつての同級生と再会するようになる。みんな、なんか変わった。なんだかみんなで勢いで会ってみたりする。
息子が登校拒否みたいになったり、友人の不妊治療がうまくいかなかったりと、人生はどうにもうまくいかない。

「転校生」
綿貫家の息子である健介は、芸能界を目指しているクラスメート・綾瀬にコクられた。でも、よくわかんないから「わかんない」って言った。ちょっと気分は良かった。
ある日健介の学年に、双子の転校生がやってきた。健介のクラスに来たのは、女子。小泉里央だ。彼女は、転校初日からクラスをざわつかせる。
あることをきっかけに徐々に小泉は脚光を浴びるようになっていく。クラスの女子にも溶け込んだみたいだ。
健介はある日、捨て犬を見つけてしまう。犬を飼うことを断固として認めない母をなんとか説得しないと…。

「オタ繊 綿貫係長」
綿貫家の父である明弘は、「オタザワ繊維株式会社 総務部経理課係長」である。仕事はそれなりに真面目にやっているが、どうも、こんなもんだっただろうか、俺の人生、という想いが拭い切れない。
なんか、うつ、なんだろうか…。
体を動かすことでもはじめようと、明弘はインラインスケートに乗るようになる。大人のクラブみたいなものが公園で行われているのだ。主催者の女性に、妻との生活の中ではもう失われてしまったドキドキがあるが…。

というような話です。

なかなか良い作品でした。特別なことは何も起こらないけど、目の前の生活を、モヤモヤしながら大切にしている人たちの物語は、なかなか読ませます。

読んで思ったのは、家族になるには時間が掛かるんだなぁ、ということだ。
母・父・息子・娘というのは、あくまでも外枠みたいなもので、その外枠に自分自身がぴったりハマるかはまた別の問題だ。母親でありながら母親らしくいられない人もいるだろうし、良い娘らしくいようとして無理してしまう場合もあるだろう。外枠と自分自身がうまく合っていくのにはそれなりに時間が掛かる。そこに至るまでには、みんなちぐはぐなままでいるしかない。

さらに、家族というものにも外枠がある。家族の構成員の誰か一人だけが、自分の外枠と自分自身をぴったり合わせることが出来ても、他の構成員がまだちぐはぐのままだと、家族という外枠にはぴったりはまらない。

この物語は、家族の構成員それぞれが自分の外枠にぴったり合わせる過程を描くことで、家族という外枠に近づいていく、そんな物語に思えました。

家族、というものの難しさと穏やかさみたいなものを両方うまく描いているように感じました。

椰月美智子「ダリアの笑顔」


プレゼント(若竹七海)

内容に入ろうと思います。
本書は、8編の短編が収録された連作短編集です。連作、と言っても、短編毎に交互に主人公が変わります。一方が、様々な職を転々とするトラブルメイカーのフリーター・葉村晶。そしてもう一人が、娘から借りた子供用のピンクの自転車で現場に駆けつける小林警部補。彼らが事件に巻き込まれていく。

「海の底」
特殊掃除婦として、ホテルの部屋の血痕を消すよう依頼された葉村。その部屋に缶詰になっていた、最近話題になった覆面作家・赤月武市が失踪している。大男だったというその赤月が、どうやってホテルから消え失せたのか、誰も分からない。

「冬物語」
周囲に野生動物以外の姿が見えない山奥の家に、かつての親友・吉本惇を呼んだ男。彼は吉本を風呂場で溺死させ、死体を棄てた。しばらくして、小林警部補が捜査にやってくる。

「ロバの穴」
誰かの愚痴ばかり延々と聞き続ける、ちょっと特殊なコールセンターで働き始めた葉村。噂によると、ここで働いていた何人かが自殺しているようだ。

「殺人工作」
三杉若葉は、浴槽にある塩川春美の死体を必死で運び、片倉忠と心中したように見せかけた。捜査にやってきたのは、小林警部補。

「あんたのせいよ」
学生時代に友人だった南佳代子から、助けてくれと電話を受けた葉村。しかし葉村はその求めを無視する。翌日、殺人事件の捜査で刑事がやってきた。

「プレゼント」
佐伯里梨が死んだ一年前、彼女と何らかの形で関係があった者が集められた。そして、里梨の死の真相をもう一度推理しようという話になるのだが…。

「再生」
缶詰にされた作家は、編集者の目を盗んで部屋を抜け出すために、窓の外にビデオカメラを仕掛けておいた。後で見て部屋に居続けたことを証明するためだ。しかしそのビデオカメラに、殺人事件と関わりがありそうな映像が映っていて…。

「トラブルメイカー」
死体発見の報を受けて駆けつけた小林警部補は、その人物が生きていることを知る。そして、ポケットに入っていたクレジットカードから、その人物が、葉村晶という女性であることも知る…。

というような話です。

全体的にどの話も、短編の割に頂上人物が多めで、ストーリーもちょっと込み入っているかな、という感じがしました。刑事が謎を解くパートだけではなく、フリーターでアングラな仕事ばっかり転々としている葉村のパートが交互に登場するのはなかなか面白いかなと思いました。

若竹七海「プレゼント」


「マイケル・ムーアの世界侵略のススメ」を観に行ってきました

マイケル・ムーアの映画を観るのはこれが初めてです。僕のイメージでは、かなり過激なドキュメンタリー映画を撮る監督だという認識だったので、恐らくこの映画はマイケル・ムーア作品の中では穏やかな方なのだろうな、と思っています。

いやはや、メチャクチャ面白い映画でした!

この映画の基本的なコンセプトは、「世界中にある様々な国に侵略(※取材)に行き、そこからアメリカでも採用すべき素晴らしいアイデアを持ち帰る」というものです。冒頭で、「ペンタゴンに呼ばれ、第二次世界大戦以降アメリカが勝てない現状を嘆かれた。そしてアドバイスを求められたので、兵士に休暇を与え、代わりに自分を世界中に侵略に行かせてくれと頼んだ」という話が出てきますが、まあこれはきっと嘘でしょう。

さて、この映画の中では、どんな国のどんなアイデアが描かれていくのか。それをざっと書いてみましょう。基本的には「教育」と「労働」に関してです。

イタリア:毎年4~8週間にも及ぶ有給休暇。ランチタイムは2時間、皆家に帰って食べる

フランス:小学校の給食が三ツ星ホテル並。シェフが料理を運ぶ。税金はアメリカより少し高いが、その分様々なサービスが受けられる

フィンランド:学力が世界トップレベル。その秘密は、宿題を無くしたこと。

スロベニア:大学の授業料がタダ。外国からの留学生もタダ。しかも教育レベルはアメリカより高い

ドイツ:職場はストレスの温床と見なされ、リフレッシュするための様々なサービスが充実している。休暇中の社員に上司が連絡を取ることは違法

ポルトガル:ドラッグを合法化することで使用者の減少に成功。

ノルウェー:開放型の刑務所。個室が与えられ、囚人とは思えない環境が与えられている。再犯率も犯罪の発生件数も世界最低レベル。

チュニジア:政府出資の無料の中絶施設がある。イスラム国家でありながら、憲法に男女同権を盛り込んだ

アイスランド:世界初の民選女性大統領がいる。女性の能力を活用することで全体が良くなるという認識を皆が共有している。また、投資に失敗し国の経済を崩壊させた多くの銀行家を裁判にかけ有罪にした。

非常に面白い取組みばかりで、なるほどと思わされることばかりだった。

しかし、この映画を見て、早合点してはいけない、とも思う。やり方だけそっくりそのまま移植しても、絶対に同じ効果を上げることは出来ないからだ。そういう部分は、映画の様々な部分で描かれていた。

例えば、ポルトガルの「ドラッグの権威」は、「ただドラッグを非犯罪化するだけでは犯罪率は減らない。例えば、医療費を無料にするなどして治療を受けやすくする施策も取らなければ」と言う。一つの施策だけでうまく行くわけではなく、様々なものの組合せによって成り立っているのだ、と。

しかしそういう、施策上の問題に留まらない。最大の問題は、「国民の合意」「国民の価値観」みたいなものだと思う。

それを最も強く感じさせられた話が、ノルウェーの刑務所の例だ。映画の中で、54人を殺傷した大量殺人犯に息子を殺された親が登場した。マイケル・ムーアは彼に、様々な問いかけをするが、その答えがどれも素晴らしいのだ。

―息子が銃を持っていたら、と思う?
泳げたら良かったのに、とは思ったよ

―(殺人犯の裁判において)公平さを望む気持ちは?
強くある。公平に裁いて欲しい

―殺人犯を殺したいと思う?
まったく思わない。復讐をしたいとは思わない。

最後の問いでマイケル・ムーアは、さらに突っ込んでいく。息子の仇なんだぞ?と。それに対して彼は、こんな風に答える。

『じゃあ私に、犯人と同じレベルに落ちてこう言えというのか。「私には、お前を殺す権利がある」と。私には、そんな権利はない』

これは凄いと思う。ノルウェーの開放型の刑務所の話は、元々知っていた。しかし、この映画を見ている時もそうだったが、いつも気になることがある。それは、「こんな恵まれた環境を与えられる囚人に対して、被害者遺族はどう感じているのだろう?」と。マイケル・ムーアは、まさに僕のこの疑問に答えを与えてくれた。もちろん、映画に登場したノルウェー人が、ノルウェー人の中でも恐ろしく人徳者だった、という可能性は否定しきれないけど、そこまで疑っても仕方ない。実際にノルウェーであの開放型の刑務所が運用され、それが継続しているのだから、被害者遺族が映画の登場した人物と同じような気持ちを持っていると考えなければ成り立たないはずだ。

日本で同じような開放型の刑務所を実現させたらどうだろう?間違いなく、被害者感情がそれを許さないだろう。自分の大切な人を殺した人間が、そんな恵まれた生活をしているなんて許せない、という感情になるだろう。出来れば、自分の手で犯人を殺してやりたいという発想になるだろう。

感じ方としてどちらが正しいということはない。しかし現実として、罪を犯した人間を人間らしく扱い、きちんと社会復帰出来るプログラムを組むことで、信じられないほど低い再犯率を実現できている。そのやり方の方が、様々な意味で社会的価値が高い、と言える。それを認め、被害者としての感情を抑えられるか(ノルウェーは感情を抑えているわけではないだろうが)。それを考えると、日本では同じことは出来ないだろう。

イタリアの有給休暇の話にしても同じだ。イタリアの会社のCEOたちは、揃ってこういう発言をする。

『有給休暇は経営者の喜びだし、社員の当然の権利だ』

経営者側がこういう感覚を抱いているからこそ、僕らの感覚では信じられない有給休暇が実現しているのだ。
もちろん、ただ奉仕のためだけに有給休暇を与えているわけではない。きちんと休暇を与え、リフレッシュしてもらうことで、社員がより働いてくれる。事実イタリアは、生産性の高い国トップ15カ国に入っているそうだ。有給休暇を与えているからと言って、生産性が落ちているわけではない。

マイケル・ムーアが、「アメリカのような経営をすれば、あなた方はもっとお金持ちになれるのでは?」と聞いた時の回答が秀逸だった。

『金持ちになることにどんな価値があるの?』

彼らにとっては、従業員を大切にし、隣人を愛するように生き、そして何よりも自分が自分の人生を楽しむことが大事だと考えているのだ。この、「金持ちになることにどんな価値があるの?」という価値観も、日本には今は存在していないものだろう。ただ、若い世代を中心に、こういう考え方が浸透し始めている。もしかしたらいずれ日本もイタリアのように、有給休暇を大量に取れる国になるかもしれない。

フィンランドでは、「子どもは遊ばなきゃ」という価値観がとても大きい。だから、宿題は無くす。教師は学校を、「幸せになる方法を見つける場所」だと捉えている。勉強をするだけではなく、様々な遊びや様々な時間の過ごし方を経験することこそが大事だ、と考えられている。

これも、受験に明け暮れる日本ではなかなか根付きにくい価値観だろう。

宿題を無くし、授業時間を減らしたからと言って、勉強ができないわけではない。事実、学力は世界中でトップだし、取材を受けた大学生は何カ国語も喋ることが出来る。教師の一人は、「テストで点を取る教育は教育ではない」と語り、自分で問題意識を持ち自分で考える能力を鍛えさせようとする。

だからフィンランドには、統一テストがない。「じゃあ、どの学校がいいのかどうやって判断するのか?」とマイケル・ムーアが問うと、「フィンランドではすべての学校が同じレベルだから選ぶ必要がない」と答えが返ってくる。フィンランドでは、学校を設立し授業料を取ることは違法だそうだ。だから私立校がほとんど存在しない。裕福な家の人間も貧しい家の人間も同じ学校で学ぶから、将来上の立場に立つことになっても、相手を思いやる気持ちを持つことが出来るのだ、と。

詰め込み型の教育が一概に悪いとは思わないが、しかし確かに、受験勉強ばかりに明け暮れる学生は、いざ望みの学校に入った後、自分がやりたいことがないことに気づく、ということもある。勉強は出来るが、やりたいことや好奇心が薄い人も多いだろう。

日本でフィンランドと同じようにいきなり宿題や統一テストを無くしても、まったくいい結果は産まないだろう。やはり土壌を育てなければいけないのだ。

確かにこの映画では、システムをメインで描いていく。国ごとにどんなシステムが存在するのか、それをアイデアとして持ち帰ろう、というのだ。しかしこの映画で実際に描かれているのは、国民性なのだ。国の大多数の人間が「どのように生きたいか」「どのように学びたいか」「どのように働きたいか」「どのようにありたいのか」と考える、まさにその価値観が描かれていくのだ。恐らく多くの日本人にとって、この映画で描かれた様々な国に生きる人々が幸せそうに見えるだろう。翻って自分の生き方を考えた時、それに幻滅することだろう。そして同時に、日本という国が持つシステムを恨むだろう。

しかしさらにその背景には、国民の価値観がある。多くの国民があるシステムの登場を願えば、国を動かす者はその意見を無視できない。今のシステムは結局、今を生きる多くの人が、あるいは、今を生きる人達の中で自分の価値観を主張している多くの人が望んでいるシステムなのだ。

だから僕たちは、自分がどう生きたいのか、どんなシステムを望むのか、それをきちんと認識して、声に出していくしかないのだろうな、と思う。そうする以外、国のシステムはきっと変わらないのだろう。

「マイケル・ムーアの世界侵略のススメ」を観に行ってきました



小さな男*静かな声(吉田篤弘)

文庫本の巻末にある解説。あれは基本的に僕は好きじゃない。「解説」という存在そのものを嫌っているわけではない。「解説」として提示される文章に、あまり好ましいものがない、と思うことが多い、という意味だ。

僕がもっとも嫌いで、そして「解説」に最もありがちな文章というのがある。それは、「作品の外側にあるものまで含めて書く文章」だ。例えば、その本がどんな雑誌に連載されていたのか、著者がどんな経歴を辿ってきたのか、著者の他の作品はどうなのか…。こういうことについてグダグダ書いている文章は、僕は好きになれない。

もちろんこれは好みの問題だ。そういう文章が好きだ、という人もいるだろうし、そういう「解説」が多数を占めている以上、そういう文章が求められているのだ、と考えるのが自然である。

時々、いいな、と感じる「解説」に出会うことがある。それは大抵、その作品についてだけ語っている文章であることが多い。そしてさらに、その作品を読んだ読者(読む前の読者ではなく)に対して、新たな発見をもたらしてくれる文章だと、なお素敵だと思う。

本書の解説は僕にとって、とても好ましいタイプの「解説」だった。重松清氏が書く文章は、この作品についてだけ触れ、さらに、読み終えた僕に対して新たな発見をもたらしてくれるものだった。

『それぞれの物語はさらに、一人称で語られる挿話と三人称での挿話とに分かれるのだ』

これは、本当に驚いた。僕は、本書のこの構成に、まったく気づいていなかった。『それ以前に、読者は気ぜわしく目を移動させることで疲れてしまって、せっかくの物語を味わえなくなってしまうのではないか』と危惧していた重松氏も、こんな風に書いている。

『ところが、いざ読み進めてみると、視点の移動はまったく忙しくない。というより、一人称から三人称へ、三人称から一人称へと切り替わるところがじつになめらかで、それを意識することすらほとんどなかったのだ。驚いた。いやほんとに。』

この気持ちは、僕もまったく同じだ。全然気づかなかった。読みにくい、と感じた箇所なんて全然ない。以前、同じように一人称と三人称が混ざった作品を読んだことがあって、それも読みにくいなんてことはまるでなかったが、しかし混ざっていること自体には気がついた。今回は、それに気づきもしなかった。本当にびっくりした。

もうひとつ、解説の文章から引用しよう。

『だから、決して僕たちは物語の引力で頁をめくっているわけではない。作品の大半を占めているのは、二人の主人公が営む暮らしのディテールである。いわば、本作は<小さな男>と<静かな声>の長い長い自己紹介―もう少し僕の好む言い方をゆるしていただくなら、彼と彼女の「たたずまい」を描く小説なのである』

この文章は、まさに本作を的確に言い表している。付け足すことなど何もないほどに。

物語的な起伏はほぼないと言っていいだろう。ちょっと大げさに言えば、この小説の中では、物語的なことは何も起こらない、と言ってしまってもいいくらいだ。
それは、物語的な物語(変な日本語だが)に慣れ、そういう物語を好む人には、つまらなく感じられるかもしれない。正直、僕も読みながら、少し退屈を感じていた。それは否定しない。だから誰か他人に、「この本面白いから読んで」とは、なかなか言い難い作品だ。「どんな風に面白いの?」と聞かれて、何も答えられないからだ。ただ、本書を読むと、日常を見る際の網目みたいなものがより細かくなっていくような感じがして、それは、ただ物語を楽しむ、という以上の何かをもたらしてくれるのではないか、という気がするのだ。

この作品には、ちょっとした妄想や、日常生活における本当にささいな出来事がつらつらと描かれていく。ともすればそれらは、僕らの日常の中では意識されないほどの、どうでもいいくだらないものに見えてしまうかもしれない。しかし本書の中で妄想やささいな出来事がこれほどまでに丁寧に描かれているのを読むと、僕らは日常の中のとても面白い何かを見逃しているような気分になる。ゲームやテレビやSNSやYouTubeなど分かりやすい面白さに慣れてしまっている現代人が無意識の内に切り捨てている日常の余白に、気づきさえすれば、語りさえすれば、これほど面白くなる何かが眠っているのだ、という事実を、この作品は教えてくれる。

本書には、そういう価値があるのではないか、と僕は感じているのだ。

例えば、僕がとても印象に残った文章を引用してみよう。

『新聞というのは何故、読み終わった途端に「新聞紙」になってしまうのだろうか』

どうでもいい疑問である。しかし、確かに!と思わせるだけの発見がそこにある。『雑誌は読み終えても雑誌のままだし、本も本のままである。しかし、新聞だけは読み終えると新聞紙になってしまう』というのは、確かに素晴らしい発見だと僕は感じた。

僕なりの説明を付けるとすれば、新聞紙は有用だから、となるだろうか。雑誌や本は、読み終えた後、何らかの転用が出来るようなものではない。しかし新聞紙は、割れそうな物を包んで送るとか、新聞紙でガラスを拭くと綺麗になるとか、そういう「読む」以外の転用が可能なのだ。だから、「読む」ための「新聞」と、「使う」ための「新聞紙」に分かれるのだろうし、「新聞紙」があまりにも有用だからこそ、読み終わった瞬間に意識として「新聞紙」に変わるのだろうと思う。

しかし、こういうことを僕は人生の中で考えたことがない。本書の中にはこういう、些細な発見や気付きが詰まっている。人によってどこに引っかかるかは様々だろう。日常の隙間に転がっている、不思議と目を向けてこなかったもの。そういうもので溢れた作品なのだ。

また本書には、様々なモノが登場する。

「トマトの香りがついた消しゴム」「子供用の切れにくいカッター」「超精密ドライバー」「ブルース・リーの写真入りキーホルダー」「逆さになったコップから水がこぼれる瞬間の絵葉書」「アイオワで採集された謎の隕石の絵葉書」

こういったモノが様々に登場する(面倒になって一箇所から抜き出したが、作中の様々な場面でこういうモノが登場する)。

これらは、意識して思いつこうとしてもなかなか難しい、意識の隙間に落ち込んでいるようなモノたちではないか、と思う。そういうモノを著者は、スルリと登場させる。こういうなんだか分からないけど妙にリアリティがあるモノの登場のさせ方がうまいな、と感じる。こういうモノたちが要所要所で効果的に登場することで、この作品のなんとも言えない不可思議な雰囲気がより強くなるのではないかと思う。

先程から書いているように、本書にはほとんど物語らしい物語は存在しない。デパートの家具売り場で働く<小さな男>と、深夜のラジオに単独で抜擢されたばかりに<静かな声>の二人が、それぞれのささやかな日常を生きていく物語だ。それで、この作品の内容紹介は十分である。あとは読んでみて欲しい。

僕は、この作品が退屈ではない、とは言わない。どうにも退屈だな、と感じる部分もある。しかしだからと言ってこの作品がダメということではない。重松氏も書いているが、寝る前に少しずつ読む、そんな読み方をしてもいいかもしれない。

吉田篤弘「小さな男*静かな声」


おしょりん(藤岡陽子)

内容に入ろうと思います。
物語は、明治33年4月、福井県足羽郡の木田村一帯が大火事に見舞われたことから始まる。その火事は、麻生津の生野村の名士・増永家の五左衛門を打ちのめした。
五左衛門が興した羽二重工場。その取引先である織物業者が木田村に集中していた。その火事で木田村の織物業者は壊滅、それによって五左衛門の事業も頓挫を余儀なくされたのだった。
増永家のことだけ考えれば、興す必要のない事業だった。しかし村会議員に担ぎだされ、生野村の将来まで考えるようになった五左衛門は、羽二重の事業に乗り出すことにしたのだった。しかし、それももうおしまい。五左衛門は事業を畳む決断をする。
それから四年経ったある日。五左衛門の弟で、早くに家を出ていた幸八が実家に戻ってきた。五左衛門の妻・むめは、五左衛門と幸八のやり合う声を聞いてしまう。
幸八は五左衛門に、新たな事業の提案にやってきたのだった。
元々羽二重の事業を提案したのも幸八だった。あの火事によって増永家は、そして生野村は大きな打撃を受け、五左衛門は二度と事業は興すまいと決断していた。
幸八が持ってきたのは、めがね作りの話である。正確に言えば、めがねの枠を作る話である。
大阪を拠点に様々な仕事を転々とした幸八は、めがねの需要が伸びるはずだと力説する。この生野の地を、めがねの産地にしようと、兄・五左衛門を説得しようとする。しかし五左衛門は、めがねを掛けて歩いている人間など見たこともないし、そんなものが売れるとも思えない。第一、先の事業の失敗で、自分には経営能力がないことを思い知った。だから話はこれでおしまいだ。五左衛門はにべもない。
しかし、やがて五左衛門は重い腰を上げる。抜群の腕を持つ宮大工・末吉を職人として引きずりこみ、その他職人になってくれそうなものをどうにか探しだす。素人の彼らに技術を教える職人を高給で呼び寄せ指導を受ける。すぐに製品になるわけもなく、給金や材料・道具代などは出て行く一方。生野の村にいると、めがねの需要が高まっていくような予感も伺えない。
しかしそれでも彼らは、福井県の片田舎の村から東京へと続く一本の道を作り出そうとする。めがね作りに打ち込むことで、片田舎が大都会と繋がる道筋を作り出そうとする。
田んぼも畑も農道もすべて雪で覆われ、その雪が硬く凍りつき、決して割れない状態を、この地では「おしょりん」と呼ぶ。おしょりんの日は、どこに行くにも真っすぐ歩くことが出来る。彼らは、生野から東京までのおしょりんを生み出そうと奮闘する。
というような話です。

なかなか素敵な物語でした。
本書は、いくつかの視点で読むことができる。キーワードで括ると、「事業」「家族」「近代化」となるだろうか。

本書はまず、「大都市ではない場所にめがね産業を根付かせる」という「事業」の物語だ。純粋に、プロジェクトX的な視点で読んで十分に面白い作品だ。

『もちろんいまのところ食料には不自由していません。でも他の村では農家の娘があたりまえのように都市の工場へ出稼ぎにいってるんや。二十年ほど前から始まった北海道の屯田兵の募集でも、福井県からの移民は他県と比べても相当な数やったという話です。村に貨幣を稼ぐ力がなくなれば村を出るしかない』

若くして村を出た幸八には、故郷に対する強い思い入れがある。東京や大阪など都会での生活から、幸八は日本の激動を感じ取る。このままでは、故郷の生野はこの激動の波に呑み込まれてしまうだろう。ただ食うだけなら、農業を続けていれば食っていける。しかし、それだけではどうにもならない時代が必ずやってくる。
幸八はそんな想いを胸に、五左衛門にめがね作りを持ちかける。

しかし、生野から出ることのない五左衛門には、幸八の感覚は理解できない。幸八には先を読む力や人あしらいの巧さはあるが金はない。五左衛門には、先を読む力や人あしらいの巧さは欠片もないが、金はある。この二人がタッグを組まないとめがね事業は進まないが、まずその段階からして一苦労だ。

しかし、そこからも前途多難である。

『「めがね作りをしないか」と声をかける自分たちに対して、「そんなもんで食ってはいかれんざ」と初めのうちはほとんど話を聞いてもらえなかった。増永の兄弟が、またとんでもないことに手を染めようとしている。こんどはめがねだそうだ。なにを考えているのか、今度ばかりは関わってはいけない。そんな噂がこの村だけではなく主計郷七村に広まっていることを、五左衛門はシマから聞かされて知ったのだ』

一度事業を潰し、村に打撃を与えた五左衛門に対する当たりは決して優しくはない。ここも乗り越えねばならぬ関門だが、しかしもう一つ大きな関門があった。それは、まだ幸八に対して反対していた五左衛門自身が口にしている。

『めがねなんてもんを世の中の人が欲しがるとはわしはとても思えんのや』

都会にいる幸八には、めがねの需要が高まることが理解できている。しかし、都会を見ていない五左衛門には、そこが分からない。当然、他の村の連中も分からない。これは、人を集める際に予想以上に障害となっていく。

しかし、この点は、あることをきっかけにして、特に五左衛門の中で考え方が変わっていく。その経験を五左衛門は、こんな風に表現するのだ。

『めがねなんて売れんで―そんなふうに言われたとしても、自分はめがねひとつで人生が変わった瞬間を、この両目で見届けたことがあるのだ』

この経験があるお陰で、五左衛門は何度も奮い立つことが出来る。どれだけ酷い扱いを受けようとも、自分のやっていることが正しいと思える。非常に印象的な場面だった。
同じ瞬間のことを、宮大工だった末吉はこんな風に語っている。

『めがねはただの道具やないんや。めがねは人生を変えるかけがえのないもんやったんやわ。』

自分たちが作っているものが、誰かの人生を変えるものになる。そういう気概は職人の間に伝染し、彼らは辛い修行にも耐え、技術を凄まじい勢いで習得していくのである。

彼らのめがねに対する情熱は、遠く離れた大阪にいる人間さえも動かしていく。

『山上りや。あんたら見てたら、高い高い山を上ろうとしているように思えるわ。無謀ていう名の山や。夢いう名の山かもしれん。はじめは幸八やった。幸八がわたしのところに来て、自分の故郷でめがね作りをやりたい言い出しよった。なかばおもしろがって力貸すて言うたら、ほんまに五左衛門さん連れてきて、工場準備して―。損得、利益、金勘定。そういうもんを越えてなにかを目指そうという人間を応援しとうなるんは、これはやっぱり自分が根っからの証人やからなんやろうかなぁ』

誰もが無謀で無理だと思った、生野でのめがね作り。彼らは、様々な障害を一つずつ取り除き、時には博打のようなやり方で乗り越え、妥協せず前進し続けたことで、不可能が可能に変わった。もちろんこの事業は、金を出した五左衛門の名で知られることになるだろうが、五左衛門自身は、弟の幸八を高く評価する。

『「おまえはなんでいつもそんなふうなんや」
幸八の顔に見惚れている自分がいた。まだ暗闇にある未来を、手を伸ばせば届くことのように語れる男を、自分は弟以外に知らない。「おまえいう男は、なんでもかんでもに手を伸ばしてぎゅっと掴むんや。掴んだら離さん。必死で引っ張って自分の元に手繰り寄せる。なんでそんなふうに行きられるんかのう」』

大胆だが金はない弟。慎重だが金はある兄。この二人が両輪となって突き進んだからこそ、めがね事業は軌道に乗った。その過程を描く部分はなかなか読ませる。

本書は「家族」の物語でもある。

本書の中では、五左衛門・むめ・幸八の三人がちょっと変わった三角関係の様相を呈している。
そのきっかけは、むねが増永家に嫁ぐことに決まったことにある。

まだ夫となる人の顔を知らなかった日。増永家の者が家にやってきた。婚礼に際して渡すものを持ってきたというその男のことを、むめは夫になる人なのだと思った。むめは、その人に惹かれ、自分がなんて幸せな縁談に導かれているのかと嬉しくなった。
しかし初顔合わせの日。目の前にいたのは、あの日の彼ではなかった。むめの結婚相手は無愛想な五左衛門であり、あの日むめの家にやってきたのは、五左衛門の弟の幸八だったのだ。

むめは結婚後も長いこと幸八への想いを抱き続けてきた。幸八も、むめへの気持ちがある。そしてむめと幸八がお互いにそんな風に思っていることを、五左衛門はなんとなく察している。

『家同士が決めた結婚など、断ったらええざ。自分の好きな相手と添い遂げればええんや』

教育の重要性を語る場面で出た発言だが、これは、むめと幸八のことに気付いている五左衛門の本心だろう。『むめを思う時あいつも、その困惑顔が頭の中に浮かびあがるのだ』という五左衛門は、むめとの距離感をどうしたものなのか分からないでいる。

むめの方もそれは同じだ。

『だがどうしてだろう。五左衛門がそばにいない時のほうが心が軽い』

二人は、結婚はしたが、夫婦という形になりきれないでいた。五左衛門は地元の名士、そして事業の大将として、むめの方は娘たちの母親としてきちんと役割はまっとうしていたが、夫と妻という関係にはうまくなれないまま、ずっと一緒に暮らしてきた。

この二人の関係が、五左衛門が始めためがね事業の様々な変転と共に変わっていく。幸八を含めた三人の関係性が、劇的な出来事を経ることなく、自然に落ち着き着地していくその過程は、人同士の関係の難しさと温もりとを同時に見せてくれる感じがして良いと思う。

そして本書は、「教育」の物語でもある。

『だが五左衛門は自分が教団に立っていた間、教育こそが運命を切り拓く唯一の手段だと確信していた。ひと通りの学問を修めていれば、教養がないというだけで人から見下されることはなくなる』

明治時代と言えば、「ザンギリ頭を叩いてみれば文明開化の音がする」の文明開化がまさに進んでいた頃だろうが、しかしその中心地はやはり大都会だろう。地方までその波はまだ押し寄せていなかった。小学校が義務教育になっても、その状況はさほど変わらない。特に、手に職があれば教育なんて要らない、と考える大人がまだまだたくさんいた時代だった。

そんな時代にあって五左衛門は、教育の重要性をきっちりと自覚している男だった。

『学問を身につければ、自身の能力を形にする方法を見つけられる。そうすれば、力のある者にただ従うだけの生き方をしないですむはずだった』

『なんのためにわしがおまえらに学問させてるか、わかってんのか。言葉で伝え合うためやろ。学問やって、多くの知識が身についたら、いろんなことが理解できるんや。そのいろんなことの中には人も入ってるんや。人のことを理解するんが学問なんやざ』

教育というのは、いつの世も「やらされるもの」として扱われることが多い。しかし本来は、教育というのは権利なのだ。

そして、教育はまさに、めがねと関わってくるのだ。五左衛門の内側には、生野をなんとかしたいという気持ちがあり、それは、経済的になんとかやっていけるようにしたい、という想いと、めがねによって学問を受けられる者を増やしたいという二つの気持ちがあるだろうと思う。福井県は現在、教育レベルの高い県だ、という話をどこかで耳にした記憶があるが、もしかしたらめがね作りに情熱を注いだ男たちの熱が残り続けているということなのかもしれない。

様々な角度から読むことが出来る、読み応えのある作品だと感じました。

藤岡陽子「おしょりん」


百万畳ラビリンス(たかみち)

内容に入ろうと思います。
玖波島礼香はゲーム好き。それもただのゲーム好きではなく、ゲームのバグ(制作者が想定していない挙動を取ることになるような状況)を見つけるのが得意なのだ。制作者さえ予知できない未知の世界への扉であるバグに心奪われる、そんな19歳である。
そんな礼香はその特技を活かし、ゲームデバッカー(ゲームのバグを見つける仕事)のアルバイトで日々を楽しく過ごしていた。クラインソフトウェアという礼香が所属するゲーム会社が所有する社宅で、ルームメイトである庸子と一緒に暮らしている。
ある日。彼女らは突然、謎の建物に迷い込んだ。
間取りという概念が存在しないようなハチャメチャな造り。
ドアやふすまや畳を開ける度にまるで違う空間へと辿り着く異次元の構造。
空間が連続してまるで無限回廊のようになっている場所。
彼女たちは、何故こんな場所に自分たちがいるのか、どうすればここから出られるのか、そもそもこの空間は何なのか、そういうことが一切分からないまま、この異空間の探索を続ける。探索を続ける中で彼女たちは、次第にこの異空間のルールや構造を熟知していくようになる。
何よりもこの空間は、礼香が尊敬してやまないゲームクリエイター・多神大介が作った「ダンジョンテール」というゲームに酷似している。日常ステージにあるバグを見つけることで無限にルートを生み出すことが出来る画期的なゲームで、バグに惹かれる礼香がドハマリしたゲームでもある。
だからこそ礼香は、この異空間で、なんだか活き活きしている。庸子の方は、ちゃんとした世界に戻れるのか不安がる素振りを見せるのに、礼香はこの世界のあれこれにワクワクが止まらない。
『お前はゲーム以外の全てと関係を断ってきたダメ人間』
庸子にそう言わしめた礼香が八面六臂の活躍で、この謎めいた異空間の謎を解き明かす、知的冒険マンガ!

メチャクチャ面白いマンガでした。
物語は、一切の説明がないまま唐突に始まる。登場人物の説明も、世界観の説明も、何もかも説明されないまま、唐突に状況がスタートする。つまり、少なくともこの異世界について、登場人物と読者が持っている情報はまったく同じ、ということになる。

そこから彼女たちが、少しずつこの世界の謎を明らかにしていくんだけど、
この「謎」が実によく出来ている。

異世界だからと言って、どんなルールでも飛び出してきちゃうようなデタラメな世界だったら、「なんでもアリ」ということになって全然面白くなかっただろう。しかし本書では、この異世界は、限りなく少ない前提だけで構築されている、そういう印象を受けた。むやみやたらに設定を増やすのではなく、一つの設定を幾重にも使い回しながら世界を構築していくのだ。

その代表的なものが「ちゃぶ台」だろう。本書には、なかなか重要なアイテムとしてちゃぶ台が登場する。ちゃぶ台の秘密に気付いた礼香は、様々な実験をし、ちゃぶ台の有効な使いみちを発見する。
そのちゃぶ台のシステムは、この異世界に存在する他の様々な物質とも同じ性質を持っているし、その性質が彼らのピンチを脱するのに有効に使われることもある。具体的なことを書かずにぼやっと書いているから何の話をしているのか分からないと思うけど、ちゃぶ台を含むこの異世界に存在する物質のある特徴的な性質を繰り返し使って様々な場面を描き出す手腕はさすがだと思う。

また礼香は、この異世界に存在する物質がどのような原理で生み出されているのか、ということも見抜く。そしてその発見を、最後の最後、礼香がとんでもないウルトラCを決める際に華麗に使われるのだ。これは見事だと思った。

『与えられた選択肢が最善とは限らないもの』

これは礼香の言葉だ。礼香は、行動を制限されることに我慢がならない。最後の最後で礼香が決めたウルトラCも、元々は選択肢に存在するはずのないものだった。誰も想定していないウルトラCを実現することが出来たのは、礼香が常にゲームの中で、与えられた選択肢ではない「バグ」を追い求め、それを探しだすために幾多の実験を繰り返してきたからだろう。礼香のキャラクターと異世界の設定とラストの着地点が見事に融合した素晴らしい作品だと思う。

しかし、礼香はいいキャラしてるなぁ。こういう女の子は好きだなぁ、と思う。

礼香は、次の行動が予測できないほど、何をするか分からないし価値観が周りと合わない。周りに合わせようという意識もないし、自分がどう見られるかも気にしない。服を着たままシャワーを浴びるとか敷布団の下に寝るとか、果てしなくアホらしいことをチャレンジしてみないではいられない。

『別に。やれることを試しているだけだけど?』

『コイツはずっと自分が見た現実しか認めない奴だったんだ』

現実の社会に馴染めないでいた礼香は、ゲームの世界でだけは活き活きすることが出来た。この異世界に放り込まれてからも礼香は一切不安を見せることなく、時には現実の社会に戻りたくなさそうな仕草さえ見せた。

確かに礼香にとって現実とは相当辛い場所だろう。礼香の価値観を許容出来るような人間はほとんどいないに違いない。僕にしても、遠目で見ている分には礼香は最高に楽しいけど、近くにいたらしんどいと感じるだろうと思う。彼女にとってこの異世界は、自分が輝ける場所、活き活きとした姿でいられる場所なのだと思う。

そういうぶっ飛んだ存在である礼香がとてもいいなぁ、と感じられてしまう。僕だったら、こんな風に振る舞えないだろうし、たぶん庸子のようになっちゃうだろうから、礼香が羨ましいなぁ、と。

物語の大きな設定が後半で明らかになっていくんだけど、よくもまあこんなアホらしいことを考えたものだよ、という設定だ。しかし、そのアホらしい設定を全力で突き詰めているから本書はとても面白い。礼香と庸子の冒険部分が面白くなるように様々な設定が調整されているので、物語の大きな設定はいささか雑というか、んなアホなって話なんだけど、でも面白いしよく考えたものだなと思う。

謎が解き明かされていく過程が面白い作品だから、具体的なことが何も書けずにモヤモヤした感想になったけど、TVゲームをほぼやらない(RPGは一度もやったことがない)僕でもメチャクチャ楽しめる作品でした。上下巻で完結するそこまで長くない話なので、是非読んでみてください。

たかみち「百万畳ラビリンス」




あの日(小保方晴子)

『(検証実験中は)私語は基本的に禁止されていたが、ある立会人の立ち会い最終日、すべての実験が終わった後、「ありがとうございました」と告げると、「あなたがされていることは、公然のいじめと同じ。見ているのが辛かった。どうか体だけはこれ以上壊さないで」と、声をかけてくれた。』

僕自身は、「小保方氏が積極的に不正に関与したか否か」という点にはさほど関心はない。もちろん、著者の小保方氏の最大の関心はそこにあり、本書も、色んな意味を持つ作品ではあるが、基本的には自らの身の潔白(積極的に不正に関与した事実もないし、そもそも自分は巻き込まれた側なのだ)を示そうと様々な事実を記載している。本書に書かれていることがもし真実であるとすれば(小保方氏のその時々の動機や感情などは精査しようはないが、少なくとも、どんな発言をし、どんな行動をしていたのかはやろうと思えば確認できるだろう)、小保方氏は確かに積極的に不正に関与してもいないし、巻き込まれた側なのだろうと思う。

しかし、その証明はもはやほぼ不可能に近い。小保方氏にとっては残念な話だろうが、どんな手段を取ろうとも、小保方氏を「完全に真っ白」だと示してくれるような手段は存在しない。

僕は、このSTAP細胞を巡る騒動を一つの教訓と捉えるべきだと考えている。この問題は、仮に小保方氏が不正をしていたとしても、小保方氏の不正だけで成立するはずのないものだ、というのは、感覚的にみんな分かっていたはずだと思う。様々な力学や大人の都合が入り混じって成立している問題だということは、恐らく多くの人が分かっていたのではないかと思う。

しかしそれでも、結果的に小保方氏一人をスケープゴートにして、この問題は幕を下ろす形になった。

様々な個人や組織を守るため、小保方氏一人を切る以外の決断は存在し得なかった、というのであれば、その決断自体にとやかく言うつもりはない。しかし、実際には小保方氏一人の問題ではないと分かっている人たち(これは研究者やマスコミなど様々な立場の人間を含む)は、この騒動が再度引き起こされないために何をするべきなのか。

僕はそこにこそ、この問題を検証する価値がある、と考えている。

本書は、小保方氏からの視点で書かれた物語であり、もちろん全面的にその記述を信じるわけにはいかない(これは当然、マスコミの報道に対しても同じだ)。しかしそれでは話が進まないので、僕はここでは、「本書の記述はすべて正しい。しかしそれと同時に、小保方氏は積極的に不正に関与していた」という立場を取ることにする。実際僕は、小保方氏が積極的に不正に関与していたとは思っていないのだが、その立場で文章を書くと話が進んでいかないので、先述の立場を取る。「本書の記述はすべて正しい」と「小保方氏は積極的に不正に関与していた」という命題は基本的には矛盾するはずだが、そういう矛盾にはとりあえず目を瞑ろう。

その上で僕は、本書を読んで感じたことが三つある。以下にその三つを挙げる。

1.「報道の正義」とは何なのか?「世間」とは何なのか?
2.科学は政治に成り下がってはいけない
3.科学的真実を追い求められない科学は科学ではない

1から行こう。

僕は本書を読んで強く感じたことがある。それは、「小保方氏が積極的に不正に関与していたとして、だからと言ってあれだけボロクソに叩かれる必然性はあるのだろうか?」ということだ。

積極的に不正に関与していた、と言っても、別に人を殺したわけでもない。不正を働くことで直接的に誰かを傷つけたわけでもない(結果的に、多くの人を間接的に傷つけることにはなっただろうが)。元には戻らないような取り返しのつかない変化をもたらしたわけでも、人々の心を惑わしたり壊したりしようとしたわけでもない。言ってみれば「カンニングをした」みたいなもので、それによって直接的に危害を加えられた人はいない(カンニングを正当化しているわけでは決して無い)。

もちろん、不正に対して適切な罰は与えられるべきだと思う。そしてそれらは、法治国家においては法律で定められている。法律で定められる以上の罰が加えられることがあっても、そこにはある程度の節度があるべきだと思う。

しかし小保方氏は、ボロクソに叩かれた。

『みんなで決めた悪には、どんなひどいことを言ってもやっても許される社会の残酷さ。』

これはまさに現代を象徴する風潮だ。オリンピックのエンブレム然り、ベッキーの不倫然り。「みんなで決めた悪」に対する当たりの激しさは、ちょっと尋常ではない。

僕はそういう世の中は異常だ、と感じる。

僕自身は、そういう風潮に同調することはない。基本的に天邪鬼でいようと思っているので、世間の流れている方向とは逆に行くことに決めている。ベッキーの報道が加熱していた頃、僕の中でベッキーに対する好感度が上がっているのを感じた。エンブレム問題の時はそういう好感度の上昇は感じなかったが、似てる似てないの論争を、正直アホらしいなと思ってみていた。

STAP細胞の騒動の時の自分の感覚をもう覚えてはいないが、記憶に残っているのは「STAP細胞がないのは残念だ」という感情だ。たぶん小保方氏に対しては、特になんとも思っていなかったような気がする(覚えていないが)。覚えているのは、科学的発見の報道だったはずなのに、何故か割烹着姿が取り上げられていて、報道ってのは何をしてるんだ、と感じたことだ。

しかし僕自身も、報道を真に受けて「STAP細胞はないのだ」と納得していたし(本書を読む限り、報道されているのとは違うレベルではあるが、STAP現象と呼べるものは検証実験で確認されたらしい)、日々流れてくる報道を受けて、小保方氏に幻滅するようなこともあっただろう。きっと僕も、そこまで人のことは言えないのだろう。

僕は「報道」や「マスコミ」というものに、基本的に不信感がある。信用ならないな、と感じている。それは、僕が初めてテレビの取材を受けた時の経験が大きい。そうか、マスコミというのは、自分たちが決めたストーリーに合う情報を繋げる仕事なのか、と感じた経験があったのだ。

「ペンは剣よりも強し」という有名な言葉がある。どの時代の誰の言葉なのか僕は知らないが、少なくともこの言葉は、「剣」が強者であり「ペン」が弱者であったはずだ。弱者でもペンの力で強者を倒すことが出来る。そういう意味だったはずだ。

時代が進むに連れて、ペンを持つものが強者へと変わっていった。現代社会ではどの国でも、ペンを持つものは強者だろう。かつて強者を糾弾するための武器だったはずのペンが、今では、強者が「真実」という名の物語を作り出すための兵器に変わってしまっている。

『2015年になってもなお、週刊文春の記者から取材依頼の手紙が届いた。その中には「なぜ私たちが毎週のようにSTAP騒動を取り上げてきたか。理由ははっきりしており、読者の評判が良かったから。嫌らしい言い方をすれば、STAPを書けば部数が伸びました。アンケートも毎週取っていますが票数はずば抜けていい数字」と書かれ、「私は小保方さんをモンスターのような存在として書いてきました」とはっきり書かれていた』

『あとから目にした、お手紙(※小保方氏宛の遺書)の内容を伝える記事には、私に届けられたお手紙には書かれていない、マスコミの創作による文言が加えられていた』

基本的に僕は、マスコミというものを信用していない。

しかしこれは、マスコミだけの問題ではない。結局マスコミによるそういう報道を楽しんで見る「世間」の問題でもある。

実害がないなら黙ってろ、と僕は思ってしまう。

『私には連日、「お前がかわりに死ぬべきだった」「よく生きていられますね」「後追いを期待しています」という内容の匿名のメールや手紙が大量に届いた』

何らかの形で被害を被った人間が、その原因を作った人間に何らかのアクションをすることは、法律は認めないかもしれないが、ある程度は仕方ないことだと僕は感じる。しかし「世間」は違う。直接的にはなんの被害も受けていないのに、ただ面白がって「みんなで決めた悪」を叩きのめす。

時々、学校でのいじめが報道で取り上げられることがある。しかし、その度に僕は、いじめがなくなることはないな、と感じる。何故なら、冒頭で引用した文にあるように、大人が「公然のいじめ」を堂々と行っているからだ。子どもはたぶん、大人の真似をしているだけ。そんな社会で、いじめがなくなることはないだろう。

僕は思う。みんな怖くないのかな、と。
人を殺した人間が、実害を与えたわけではない人間からも糾弾されるのはまだ分かる。何故ならそこには、「そいつを野放しにしておいたら、自分が殺されるかもしれないという恐怖」があるからだ。
しかし小保方氏の場合は違う。そういう恐怖を持っているわけではないまったくの他人が、一斉攻撃を仕掛けてくるのだ。ショーンKの経歴詐称の問題の時に強く感じたが、なんでそんなことぐらいでボロクソに言われないといけないんだろう、と。

みんな怖くないんだろうか。小保方氏の不正、あるいはショーンK氏の経歴詐称。“その程度”のことで人生が閉ざされてしまう可能性がある、そんな世の中で生きている、という事実に対して恐怖を感じることはないのだろうか?

僕は、とても怖いな、と思う。僕は、それがどれほど大きな失敗であろうと、取り返しのつくものであれば、そこまで糾弾されるべきじゃない、と考えている。まして、ちょっとした失敗をいちいち大げさにあげつらわれるなんて最悪だと思う。僕らは、「世間」という大きなものを隠れ蓑にして不満のはけ口を探し続けることで、自分たちの生活する環境を悪化させていることに気がついていない。STAP騒動以降も様々な形で様々な人達が吊るしあげられている現状を見ると、マスコミも世間も、結局何も変わっていないということなのだろう。

2の「科学は政治に成り下がってはいけない」に移る。

STAP騒動は、日本の最先端の研究所である理化学研究所(理研)を舞台にして起こった。まさに日本の科学研究の先頭に立つ、偉大な業績と充実した研究施設を誇る研究所(のはずだ。詳しくは知らない)。

しかし、まさに科学の体現者たる理研が中心地でありながら、科学的な見地からではなく、政治的な見地で様々な判断がなされた、ということが伝わってくるような記述が様々にあり、非常に残念に感じた。もちろん、理研が中心地であるからと言って、騒動に関わったのが理研しかいなかったわけではない。理研自身も様々な事情を抱え、真っ当な対応が取れなかった、という事情もあるだろう。あまりにもマスコミの報道が加熱しすぎていて、普段から科学的業績をマスコミを通じて世間に伝えることの難しさを理研が熟知していたとしたら、マスコミを抑えこむ方向にすべての足並みを揃えるしかなかった、という事情もあるかもしれない。

それでもやはり、科学は政治に成り下がってはいけないと思うのだ。

『このようにして調査は世間を納得させるのが目的で行われるようになり、世間の論調が厳しくなるにつれて、明らかに調査も冷静さを欠いていったように思う。』

『(真実を知るにはこうすべきではないか、と提言すると)「若山先生が作ったキメラと同等のものができないと世間は納得しないよ」と言って受け入れてはもらえなかった』

もはやこれは、科学に携わる人間の姿勢ではない。

もちろん、こういう状況を作り出したのは、やはりマスコミであり世間であると言っていいだろう。本来であれば、マスコミや世間なんかにおもねらなくても研究が出来る環境が存在することが望ましいはずだ。しかし日本は、基礎研究など実用に直接結びつかない研究にも予算を組んでいた昔とは違い、今は、今すぐ大きな問題を解決するような研究、世間に対してインパクトを与えられるような研究ばかりに予算がつくような時代になってしまった。そういう世の中にあって、科学者は、マスコミと世間を敵に回すわけにはいかなくなってしまう。そういう状況も、彼らが科学的立場を貫くことが出来なかった遠因の一つだろうと思う。

僕は科学が好きだ。科学という宗教を信じていると言っていい。だからこそ科学には、常に真実を求める姿勢を貫いて欲しい、と思ってしまう。それが当たり前に出来る環境を生み出せるかどうか。日本のこれからの科学的土壌を考える上でも、このSTAP騒動は重要な意味を持つだろうと思う。

3の「科学的真実を追い求められない科学は科学ではない」に進む。

2と近い話だが、大きな違いがある。2では「科学者の姿勢」を取り上げたが、今回は「科学的真実」の話だ。もっと言えば、STAP細胞は本当に存在しないのか?という話である。

少し前、ドイツの研究チームがSTAP細胞の存在を確認した、というニュースを見かけた。その真偽について僕は判断できるだけの知識はないが、もし事実だとしたら…。
日本のSTAP騒動が、STAP細胞の発見を遅らせたことになる、と言えるだろう。

それは、科学的真実にとって非常に大きな損失だ、と感じる。あのSTAP騒動によって、少なくとも日本人研究者はSTAP細胞の研究に手をつけようとしなかっただろう。それは地雷みたいなものだ。予算だって下りるわけがない。あのSTAP騒動においては、STAP細胞は存在しない、という結論になっていた。本書を読むと、事情は大分違うようだが、事実はどうであれ、あれだけ大々的に「存在しない」と報道されたSTAP細胞の研究に、少なくとも日本人は手をつけるはずがない。

今回、事実だとすれば、ドイツの研究チームが「発見してくれた」わけだが、もしそうやってSTAP細胞の研究を続ける者がいなければ、この科学的真実は葬られたままだったかもしれない。

『僕はね、科学者は神の使徒だと思ってるんだ。科学の神様はね、ときどきしか見せてくれないんだけど、チラッと扉の向こうを見せてくれる瞬間があってね、そこを捉えられる人間は神様に選ばれているんだよ。だから真の科学者は神の使徒なんだ。その美しい神の世界を人間にわかる言葉にするのが科学者の仕事なんだよ。神に仕える身として日々を過ごすんだよ』

もっと直接的な意味での損失もある。

たとえばiPS細胞は、京都大学の山中教授が発見した。日本人が発見した、というだけでは世界の競争を勝ち抜けないだろうが、しかしそれでも先行者利益をある程度は期待できる。STAP細胞にしたって、あの騒動がなければ小保方さんという日本人の発見になり、その後の先行者利益を享受することが出来ていたかもしれない。

あの時、小保方氏一人を吊るしあげて、みんなで晒し者にして楽しんだことで、雑誌社やテレビは潤ったかもしれないが、それによって、将来的な莫大な利益を失っているかもしれないのだ。今後STAP細胞の研究や開発がどんな風に進んでいくのかそれは未知数だが、展開次第では、あのSTAP細胞を絶望的に悔やむ未来が来るかもしれないと思う。

繰り返すが、僕自身は、小保方氏個人にはさほど興味はない。興味はないというか、灰色の状態から抜け出すのは不可能だ、と考えているので、僕が小保方氏に対してどう感じようが、世間が小保方氏をどう見ようが、結果は大差ないから関心の持ちようがない、という言い方が正しいかもしれない。

しかし、STAP騒動の本質をどう捉え、似たようなこと(これは小保方氏の言動だけではなく、理研やマスコミの行動も含む)が再発しないためにどうすべきか考える、という点には強く関心を持っている。これは、色んなレベルの努力によって、結果が大きく変わると考えているからだ。現状のまま、これからも何度でも同じことを繰り返すのか。あるいは、マスコミや世間や科学を政治と捉えている人たちが、構造を変革し、行動を変えるのか。僕らは、様々なグラデーションが存在しうる選択肢を選ぶことが出来るのである。

社会と科学は、もっと成熟することが出来るはずだ。そんな風に信じることが出来なくなっている世の中は辛いな、と感じてしまう。

小保方晴子「あの日」


別冊カドカワ 総力特集 乃木坂46 Vol.2

『実際、今はセンターにいないわけだし。逆に“私がセンターになったら、本気で売れると思ってるんですか?”ってみんなに訊きたいです』

乃木坂46の15thシングルで初めてセンターに立つ齋藤飛鳥。その齋藤飛鳥の、センター決定前のインタビューが、本書の巻頭に掲載されている。THE齋藤飛鳥、とでも言うべきネガティブ思考が、相変わらず展開されている。

ちなみに僕は、今回、乃木坂46のシングルを初めて買うつもりだ。だから齋藤飛鳥の「私がセンターになったら、本気で売れると思ってるんですか?」という問いには、全力で「はい」と答えたいところである。

巻頭のロングインタビューでは、齋藤飛鳥の葛藤が切り取られていく。齋藤飛鳥は常に葛藤している印象があるが、今回はその葛藤がよりくっきりとしているように思う。センターに決まる前のインタビューとはいえ、雑誌のモデルから始まり、様々な雑誌への露出、ラジオ番組、福神入りなど、確実に環境が変化している齋藤飛鳥。それに伴って彼女の葛藤も、より輪郭がはっきりしてきたのではないか、という気がする。

僕はその葛藤に、「自覚」という名前を付けたい。「自身への自覚」と「他者への自覚」である。

『でも、モデルのお仕事を始めてからは、メイクや洋服によって自分であって自分じゃない姿になれることに気付いて、写真を撮られることが好きになったんです。その意識を変えてくれたのはファッション誌やモデルのお仕事のおかげ。』

写真を撮られることへの自覚、みたいなものは、これまでもインタビューの中で語ってきた。苦手だったもの、よくわからなかったものが、自分の中で違った意味付けを持つようになる。モデル、という仕事において、齋藤飛鳥は「自身への自覚」を積み重ねてきた。

そしてそれは、アイドルという仕事全般に及ぶようになっていく。

『こう言ったらファンの方には申し訳ないですけど、もともとはそんなに自分の人生のなかで乃木坂を大きく考えてなかったから。今ほどいろいろ深く考えて行動してなかったし、でも今はそういうわけにもいかないので。』

僕は、齋藤飛鳥が選抜入りするようになった頃から乃木坂46を好きになった。だから、齋藤飛鳥のアンダー時代のことはよく知らない。しかし、選抜後の齋藤飛鳥を見ていると、何故この子がアンダーだったんだろう?と感じる。様々な面でポテンシャルを秘めた存在だと僕は感じるのに、何故アンダーだったのだろう?と。しかし、「深く考えて行動してなかった」と自身が認めているように、意識の問題だったのだろう。どれほど強い武器を持っていようとも、それを意識的に見せていかなければ伝わらない。齋藤飛鳥は、様々な環境の変化と共に、アイドルとしての「自身への自覚」を徐々に身につけていった。そして、あくまでも結果論だが、それがセンターに繋がった。そういうことだろうと思う。

『それまでの私って、ただ流れに身を任せて生きていたので、別にやりたいこともなくて。昔はみんなと一緒にいるのが楽しいから、乃木坂にいるみたいな感じでした』

ちょっと話は脱線するが、少し前何かでこんな話を読んだ。「今の若い人は、学生の頃から将来のビジョンなんかを求められるから大変だ」と。昔はそういう時代ではなかったし、長いこと働いたり努力したりした結果そういうものって見えてくるものなんだ、という話だった。齋藤飛鳥のこの話も、まさにそうだろう。やりたいこともやる意志もなかったけど、環境に巻き込まれるようにして劇的な変化を遂げた。もちろん、齋藤飛鳥ほどの環境に身を置くのは困難だろうし、良い環境に身を置くために将来のビジョンを語らなければならないのだ、という事情もあるかもしれない。しかしそれでも、齋藤飛鳥のこの言葉は、働くこと、社会に出ることなどに悩んでいる若い人の希望になるのではないかと思う。

さて、「他者への自覚」の話をしよう。

『みんなといると実感するんですけど、私って薄いなって思うんです。特に選抜メンバーは個性が強い子ばかりですし、何をやっても恥ずかしいことにはならない。そういう何事もうまくやる子たちと一緒にいると、“私にはこれがあるから、ここにいられます”みたいな武器がないなって気付かされるんです』

僕は、齋藤飛鳥のこの言葉の中に「他者への自覚」を見る。これは「自身への自覚」に見えるかもしれないけど、そうではない。

僕には、「東京タワー理論」と呼んでいるものがある。

大学の友達と大学の近くを歩いていたら、ビルの間から東京タワーが見えた。なんだ近いんじゃん。ちょっと言ってみようか、というノリで、歩いて東京タワーを目指すことになった。

しかし、メチャクチャ遠いのである。

知識としては、東京タワーが333mだということは知っている。凄く高いのだということも知っている。でも、視界に入ると、あっ結構近いんだな、歩いて行けそうだなと思う。でも全然辿りつけないし、近づいたらあまりにデカくてびっくりする。

こういう感覚のことを僕は「東京タワー理論」と呼んでいる。

これは、人間に対してもまるで同じことが当てはまると思うのだ。

知識としては「凄い」と感じている人がいる。でも、視界に入ると(つまり、存在としてまだまだ遠いレベルにいる時は)、案外近いのかも、と思う。で、近づいてみるのだけど、全然追いつけないし、近づいたら(つまり、存在としての距離が狭まったら)、あまりにデカくてびっくりする。

齋藤飛鳥がここで語っている感覚は、まさにこの「東京タワー理論」だろうと僕は感じている。

『だって自分に自信ないですし。昔はたぶんあったんですけど、年々なくなっていて。単純に自分がいろいろ持っている人だったら、もうちょっと自己評価も高かったかもしれないけど、私のこの感じでどういう考えをしたら自己評価が高くなるんだろうな、っていう感じです』

「昔はたぶんあったんですけど、年々なくなっていて」という実感こそが、まさにその象徴だろう。昔自信があったのは、存在としての距離感がまだまだ遠かったからだ。だから、対象がそこまで離れているようには見えなかった。しかし、少しずつ近付くに連れて、対象の大きさが分かってくる。それにつれて、自信も失っていく。
(補足すると、ここで言う「対象」というのは、特定の誰かでもいいし、自分の中の理想でもいいし、誰かから与えられた目標でもいい)

主に本などで、様々なトップランナーの話を読むと、トップランナーほど謙虚で他者の才能を認めている、と感じることが多い。それは、ある面では、他を圧倒するだけの地位を築き上げた余裕から来るのかもしれないけど、ある面では「東京タワー理論」から来るだろうと思う。自分が対象に近づけば近付くほど、その対象の大きさが理解でき、その自覚を通じて、自身の立ち位置をより細密に理解することが出来るのだ。

これこそ「他者への自覚」だと僕は感じる。

齋藤飛鳥は様々な場面で、気弱な発言をする。容姿や自分の声に対する評価は、さすがにちょっと自己評価が低すぎると感じるが、そういう目に見える部分ではなく、アイドルとしての意識、番組収録での貪欲さ、センターに対する意欲などの内側に関係する部分について自信がなくなっているのは、悪いことではないと感じる。何故ならそれは、齋藤飛鳥が対象に向かって近づいていることに他ならないからだ。

『逆に自分にないものがいろいろと見え過ぎちゃってる、というのはあります』

自分にないものが見えるくらい、対象に近づけている齋藤飛鳥。対象に近づかなければ決して見えないものがある。見えれば見えるほど奮起する人もいれば、落ち込む人もいる。そういう、見えた時の反応は人それぞれ様々だろうが、他者との違いが自覚できるほど接近しているという事実に変わりはない。

齋藤飛鳥はまさに今その場所に立っていて、もがいている。しかし、齋藤飛鳥は結論を急がない。

『だからといって、そういう武器が欲しいかと言われると…必要な時もあるんですけど、でもそういうのって周りから付けていただくものだと思うので。自分からこれをやろう、あれをやろうみたいなことは考えてないです』

ここが齋藤飛鳥の強さだと感じる。今齋藤飛鳥がいる場所は、齋藤飛鳥の性格にとってはかなり厳しい場所だろう。チャレンジを楽しめるタイプならエネルギーが湧き上がってくる場所かもしれないが、基本的にネガティブな齋藤飛鳥には、答えのない問いが渦巻く辛い場所のはずだ。しかし齋藤飛鳥は、そこを積極的に脱しようとしない。

そこには、齋藤飛鳥のこんな考え方がある。

『でも結局、私自身そこまで納得しようと思ってないというか、納得する気がないので、誰かに相談してスッキリしたいとか、自分のなかでこれを解決したいとか考えたことがあまりないですね。だって“納得することってなくないですか、世の中って?”って考えになっちゃうんですよ』

齋藤飛鳥にとって「現実」とは、解釈するものではなく受け入れるものだ。解釈する方が、本当は楽なはずだ。答えの出ない問いに無理やり答えを出し、これが私の武器になるのだと言って様々なものに飛びつく。そういう生き方の方が、瞬間瞬間は楽なはずなのだ。しかし齋藤飛鳥はそうしない。現実を解釈しないで、そのまま受け入れる。それは当然、納得とは程遠いものになる。しかし齋藤飛鳥は、納得出来ないままのそのモヤモヤしたものを、そのまま受け入れる。齋藤飛鳥には、その度量がある。

齋藤飛鳥は恐ろしくネガティブだ。しかしその土台に、どんな現実も受け入れる強さがある。『たぶんね、何に対しても期待をしたくないんですよ』と語る齋藤飛鳥。もうすぐ18歳というその若さで、どんな経験をすればそんな価値観を持てるのか。外面を見ているだけでは決して分からない、内面の奥底に横たわる強さこそが、他のアイドルが持ち得ない齋藤飛鳥の強みだと感じるし、そういう部分に、僕は強く惹かれるのだ。

『でも、乃木坂に入ってなかったら本当にどうなってたんだろう?きっとヤバいヤツになってたでしょうね』

ヤバいヤツになってたかどうかはともかく(まあ、その可能性もあるかもしれない、と思わせる存在ではあるが)、今の齋藤飛鳥の立ち位置にとって、齋藤飛鳥が築き上げてきた価値観は適しているのかもしれない、とは感じる。現実を丸ごと受け入れ、他者との差を明確に意識し、答えのない問いに答えを出さないまま保持しておける。それは、常に誰かから見られ、万人受けしないと言いながらもより多くの人に好かれる振る舞いを模索し、大人数グループの中で常に差別化が求められる今の環境でその真価を発揮するのではないか。

『私は個人的に“飛鳥はこういうイメージだよね”って決められるのがあんまり好きじゃなくて。
だからこそ、いろんな方面の仕事をさせてもらえるようになって、自分のいろんな面を見せなきゃいけないなっていう意識はより強くなってます』

齋藤飛鳥は、ますます進化していくことだろう。アイドルとして、そして人間として、どんな変化を遂げるのか。益々楽しみである。


「いろんな面を見せなきゃいけない」と感じている齋藤飛鳥は、この「別冊カドカワ」の中で「齋藤飛鳥、書く。」という連載をスタートさせた。二回目である今回のテーマは「女の子」である。

正直に言うと、僕は今回の齋藤飛鳥のエッセイは、あまり好きではなかった。これには二つ理由があると僕は感じている。

一つは、テーマの問題だ。

今回齋藤飛鳥は、自身の握手会に女の子が来てくれることが多くなってきた、ということを思考のきっかけとして、女の子という存在そのものについて思考を巡らせている。そしてそういう中で、自分が女の子に対してどういう感情を抱いているのかを書いていく。

確かに齋藤飛鳥は、女の子というものに対する自分の感覚も書いている。しかし本書のほとんどは、女の子という存在そのものについて触れられている。

これはつまり、テーマが「齋藤飛鳥の外側」に存在していることになる。

前回のテーマは、「齋藤飛鳥について書いてみる。」だった。まさに、齋藤飛鳥自身のことについて触れた文章だった。テーマの良し悪しは、完全に僕の個人的な趣味なので齋藤飛鳥に罪はないのだけど、やはり僕は、齋藤飛鳥が齋藤飛鳥自身について掘り下げる文章の方がいいな、と感じる。他者の観察を通じて自分の内面を捉える、というやり方ももちろん出来るし、齋藤飛鳥にはその能力はあると思う。しかし、僕の印象では、齋藤飛鳥はまだ、他者の観察を通じて自分の内面を「言葉で表現する」ということにまだ長けていないのではないか、と感じた。

自分自身についてのことであれば、捉えかつ言葉で表現するということは、実際に文章を書くかどうかはともかくとして昔から続けてきただろうと思う。しかし、他者についてとなると、感覚的に捉えることはあっても、それをうまく文字化出来ていないのではないか、と感じる。

そして、だからこそ(で繋げるのはおかしいかもしれないが)、齋藤飛鳥には他者を捉える文章を書いていって欲しいと感じる。それはきっと、うまくいかないだろう。僕自身の感覚で言えば、今回のエッセイはあまりうまく行っていないと感じる。でも、人に見られる場で文章を書き続けることで、文章というのは変わっていく。この「別冊カドカワ 乃木坂46」は、一冊丸ごと乃木坂46の特集なわけで、ある意味ではホームと言える。そのホームで試行錯誤を重ねて欲しいな、と思う(齋藤飛鳥はきっと、うまくいっていない感じを他人に見せたくない人だろうから、そういう意識は許容出来なそうだけど)。

そして二つ目の理由は、文章の論理展開だ。これは純粋に、文章の技法というか、書き方の問題だ。

ところどころ僕は、文章の繋がりが理解できない部分があった。

ある箇所では、「こういう人が好き」という話を書いたあとで、逆説の接続詞がないまま、「そういう人の考え方はちょっとダメだよ」と書く。結局その箇所では、何が結論だったのかイマイチわからない。

ある箇所では、ある行動に対して「難しいよ!」と言ったあとで、そういう行動をする人を「可愛い!」と評す。それ自体はいいのだけど、「難しいよ!」から「可愛い!」への変化に一体何があったのか、もう少し書いて欲しいな、と感じる。ちょっと飛躍しすぎているように思えてしまう。自分でもきちんと理解しきれていないということは伝わるのだけど、その箇所が全体的に、出てくる価値観が突然、という感じがしてしまう。

ある箇所では、「女性の偽る力」の話をした後で、そのままの流れで「ライバル心」の話になる。「偽る力」から「ライバル心」へと移行する部分がちょっと飛躍しすぎてる気がするんだよなぁ。

もちろんこれらは、すべてわざとやっているという可能性もある。演出なのかもしれない。あるいはこれは無意識の行為であり、こういう理路整然としていない部分に齋藤飛鳥の文章の魅力が潜んでいるのかもしれない。文章は、当然論理だけではない。まったく論理的じゃないけど、なんか惹きつけられる文章、というのも存在する。齋藤飛鳥は、その境地に至る道半ばであって、この方向を突き進むことで齋藤飛鳥独自の文章が確立されていくのかもしれない。もしそうだとすれば、僕のこの意見は、齋藤飛鳥の才能を潰す方向にしか働かないだろう。

出版物には必ず編集者がいて、編集者の目を通る。編集者がこういう部分をスルーしたまま掲載しているということは、編集者はここにこそ齋藤飛鳥の魅力があると分かっているのかもしれない。こういう部分を指摘せず自由に書かせることで、齋藤飛鳥の文章を伸ばそうとしているのかもしれない。

いずれにしても、僕が今回齋藤飛鳥のエッセイを読んで感じたことは、「この「齋藤飛鳥、書く。」の場で、とにかくやれるだけのチャレンジをして欲しい」ということだ。結果的にそれが成功しなかったとしても、「別冊カドカワ 乃木坂46」というホームでしか出来ない実験があると僕は思う。人によるだろうが、圧倒的な才能を生まれながらに持っている人以外は、文章は書いて書いて書きまくることでしか上達しない、と僕は考えている。だから僕は、齋藤飛鳥には「齋藤飛鳥、書く。」で、それまでの自分の手数にはないもので戦って欲しいと感じる。それこそが、「アイドル齋藤飛鳥」ではなく「文筆家齋藤飛鳥」に至る最短距離だと僕は思う。


さてここからは、齋藤飛鳥以外の部分から、乃木坂46全体に関係する部分を抜き出しつつ、乃木坂46の現状と未来について書いてみたいと思う。

一番印象的だったのは、「乃木坂らしさ」についての話だ。

西野七瀬と桜井玲香の対談の中で、桜井がこんなことを言っている。

『でも、そういった子(※三期生に言及している)が入ってくることによって、今までの乃木坂のカラーが変わってしまうことはちょっと怖いので、そこは基盤を築き上げてきた1期生が3期生の勢いを保てるようにうまくやりつつ、従来の乃木坂のカラーを守っていくという役目があるんじゃないかなと思っています』

そしてそれに続けて、乃木坂のカラーを保つ役割は1期生2期生がやるから、3期生は自由にやってくれ、と続けている。

乃木坂46のメンバーは様々な場面でこの「乃木坂のカラー」「乃木坂らしさ」みたいなものに言及している。僕は他のアイドルのことはよく知らないが、知らないなりに捉えているイメージで言えば、乃木坂46というのは確かに他のアイドルグループとは違う印象を受ける。それは、同じ対談で西野が『厚かましくできない子のほうが多いからなのかな』と言っているように、そして同じようなことを様々な場でメンバーが言っているように、控えめで後ろ向きなメンバーが多かった、という点に大いに立脚しているだろうとも思う。そういう「乃木坂らしさ」みたいなものを気に入っているファンももちろん多いだろうし、それを自覚している彼女たちも、それを守るべきものとして捉えている。

しかし、総合プロデューサーである秋元康氏は、「乃木坂らしさ」に対してこんな風に感じている。

『去年の神宮球場で、ライブが終わった後に反省会みたいなのがあって、そこでやたらとメンバーが“乃木坂らしさが”“乃木坂らしさが”って言うわけ。“乃木坂らしさを出していきたい”って。いやそれは違うよと。』

秋元氏は、メンバーが“乃木坂らしさ”という、言ってしまえば実態のないものに囚われている現状に対して違和感を覚えているようだ。

その違和感を言い表すのに秋元氏は、アルゼンチンにあるカミニート通りの例を出す。

『港町なんだけど遠くから見ると、淡いピンクやグリーンでものすごくキレイ。ところが近づいて見ると、一戸一戸の家は濃い原色で、しかも半分だけピンクとか半分だけブルーとかなの。どういうことかと言うと、船の塗料が余るとそれを自分の家に塗ってるんだよね。その行き当たりばったりでバラバラな感じが、遠くから見るとすごく美しい色彩になる』

秋元氏は、メンバー自身が、全体の風景に言及するようではダメだ、と言っているのだ。個々のメンバーは、勝手に自分の色を出していくべきだ。そして、本来であれば統一感が失われるかもしれない中で、渾然一体とした美しさが生み出される時、それが「らしさ」と称されるものになっていくのだ、と言う。

これはもしかしたら、齋藤飛鳥の思考に近いものがあるのではないか、と僕は感じた。

齋藤飛鳥は、乃木坂46というメンバーの一人であるが、同時に、齋藤飛鳥という一人の人間でもある。秋元氏のこの話は、「乃木坂らしさ」というグループ全体の話にも当てはまるが、「齋藤飛鳥らしさ」という個人の話にも当てはまるだろう。

武器は周りから付けてもらうものだ、と考えている齋藤飛鳥。齋藤飛鳥の中にいる「様々な齋藤飛鳥」が「齋藤飛鳥らしさ」という大きなものを指向せずに、誰かから与えられた課題、誰かにもらった武器、そういうものをその時その時で組み合わせていきながら、ある種行き当たりばったりに「齋藤飛鳥らしさ」を組み上げていく。「“飛鳥はこういうイメージだよね”って決められるのがあんまり好きじゃない」と語る彼女は、内側にいる「様々な齋藤飛鳥」に自由に裁量を与えることで形ある「齋藤飛鳥らしさ」みたいなものから逃れ、同時に、カミニート通りのような不定形な「齋藤飛鳥らしさ」みたいなものを目指しているのではないか。秋元氏の話から、そんなことを連想した。

メンバーが「乃木坂らしさ」と言いたくなる気持ちは分かるような気がする。それまではがむしゃらにやってきて、どんな形になるのか分からないまま突っ走ってきた。これからもその気持ちは変わらないだろうが、しかしある程度形が出来てくると、逆にその形を手放すのが怖くなる。齋藤飛鳥はインタビューの中で、『今は…ファンの人が飽きないのかなって心配になることもあるんです』と言う。つまり、変えないことへの恐怖も同時に感じているのだろう。しかしそれでも、「乃木坂らしさ」という言葉を使うことで、今のままで行く自分たちの存在を肯定しようとする。

決してそれは悪いことではないと思う。恐らく多くのファンも、「乃木坂らしさ」(ファン一人一人捉えている部分は違うだろうが)みたいなものに惹かれ、変わってほしくないと感じているだろう。しかし、これまで様々なものを世に問い、時代を創り出してきた秋元氏は、メンバーに変革を求めているのだろうと思う。これから3期生も入ってくる。妹分の欅坂46も出来た。乃木坂46もそのままではいられないぞ。「乃木坂らしさ」みたいなものに安住するんじゃないぞ。秋元氏のそんな言葉が聞こえてくるような気もする。

「透明な色」ファーストアルバムのそのタイトルは、永遠に固着しない、どんな色にも変わり得る色、という意味でもあるのかもしれない。個々のメンバーの変化が、乃木坂46というグループをどう変えていくのか。益々楽しみである。


乃木坂46は、先程も触れたが、3期生の加入や欅坂46の登場など、様々な変化の渦中にいる。それらをメンバー自身はどう捉えているのか。

3期生の加入に対して、松村沙友理はこんな風に語っている。

『今気にしているのは、2期生のみんなのこと。欅坂46もできて、乃木坂3期生募集となると、そのはざまにいる2期生のことを心配してしまうんです。どうしてもこの子たちを知ってもらいたいと思っちゃう。うちにはもっとすごい子たちがいるんだぞって。』

桜井玲香はこんな風に語る。

『あと私が個人的に感じているのは、1期生は控えめな子が多かったこと。2期生は、向上心というか前を狙いにいく姿勢がはっきり見える子が、1期生に比べると多くて。それまでは狙いにいくという姿勢を取る環境じゃなかったというのもあったんですけど、今は違う。たぶん3期生が入ってきた時はそういうお手本にできるような先輩もいると思うから、もしかしたら入ってきてすぐに前に出てこられる子が増えるんじゃないかなっていう期待はあります』

捉え方は様々だが、3期生の加入で乃木坂46がどうなっていくのか、メンバー自身も様々に考えているのだろう。3期生の加入というのは乃木坂46にとっては内的な変化だ。それによって直接的に変わっていくメンバーも増えていくことだろう。秋元氏が語る「それぞれが自分勝手に色を出す」という起爆剤の一つになってくれたらいいと思う。

3期生の加入とは対称的な外的な変化が、欅坂46の登場だ。これについては西野七瀬がこんな風に言っている。

『でも欅のみんなは全てがすごいスピードで進んでいるから、それを喜ぶ余裕があるのかな、大丈夫かなって思うこともあります。そこも私たちの時とは全然違うかなって見てる感じです。追われてるというよりは違う道を進んでいるというか』

桜井玲香もこんな風に言っている。

『今のなぁちゃんの話じゃないですけど、こういうところに乃木坂のマイペースさが出ているのかなっていう気がします。そこまで「追われてる」とかって思うわけでもなく、でも普通に曲が良いからみんなも楽屋で歌ったり踊ったりしていて。(中略)そんな感じでいい距離感なのなかって思います』

先行者の余裕とも読めるし、乃木坂46のマイペースさの表れとも読める。外側から見ている限り、内部での競争みたいなものをほとんど感じさせない乃木坂46。張り合う、競い合う、闘う、と言ったような感情ではない部分で成立しているように見えるこのグループは、欅坂46に対しても競争心みたいなものが湧き出ないのかもしれない。そういう意味で改めて、「乃木坂らしさ」という言葉を使わせてもらうが、「乃木坂らしさ」の凄さ、みたいなものを感じた。

最後に、乃木坂46のメンバーの言葉ではないが、非常に印象的だった武井壮の言葉を引用して終わろうと思う。

『アイドルもタレントもアスリートも、その価値っていうのは頂き物だと思うんです。パフォーマンスのクオリティが上がったり、競技のレベルが上がったりするのは、あくまでもクオリティであって、=(イコール)バリューではないと僕は思うんです。観てくれる人が“楽しい”とか“うれしい”とか思ってくれて初めてひとつの価値になるんです』

これは、乃木坂46に限らずどのアイドルでもそうだろうが、何をするか、何が出来るかではなく、どう感じさせたか、そこにバリューがあるのだろう。乃木坂46は僕にとってバリューのある存在だが、より多くの人にとってバリューのある存在になってほしいと思いました。

別冊カドカワ 総力特集 乃木坂46 Vol.2


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12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)