黒夜行

>>2016年05月

「MdN 2015年4月号 乃木坂46 乃木坂46 歌と魂を視覚化する物語」を読んで

『エンターテイメント界のど真ん中にいるコンテンツでありながら、あんなに作家性を出してもOKなのは、いい意味で狂ってると思うんですよ。それなりに予算があって、前向きなキャストがそろっていて、自由なモノが撮れる…。クリエイターが育ちやすい環境なんです』

『普通は稟議を重ねていく内に上で潰されちゃうもんでしょ。でも、ここには秋元さんっていう人がいる。だから、秋元さんの周りのクリエイティブの世界って狂気に満ちてるけど、刺激的なんですよね』

乃木坂46を好きになってまだ1年弱。歌や踊りなどの部分よりも、彼女たちの言葉や価値観に関心を持ってきた僕は、乃木坂46関連の制作物全般については疎い。乃木坂46にハマったきっかけになった「悲しみの忘れ方」こそ、ドキュメンタリー映画という制作物だったが、それ以降は雑誌記事・書籍・ネットの記事・個人ブログなどをチェックしながら乃木坂46を追いかけてきた僕は、乃木坂46のクリエイティブの部分はよく知らないままだった。

しかしどうも、乃木坂46というのは、クリエイティブという観点から見た時、驚くべき異端さを有しているようだ。

『結果的にカメラマンの色に染まっていますし、僕はそれでいいと思っているんです』

『やっぱり今、クリエイティブの現場がシステマチックになっている。以前は、テレビ、映画、音楽、出版、いろんな世界に良くも悪くも狂気に満ちた情熱とこだわりを持った異常な制作マンがいっぱいいたんです。時代の流れもあってだんだん、チームで合議制でとなるとサラリーマン化されてくる。制作担当者のやってる主な仕事が、制作ではなく制作進行になってしまうことが多くなってる。そうじゃないだろと。やっぱり制作マンは制作の中心にいないとものは絶対作れないはずなんです』

乃木坂46のクリエイティブは自由度が高い。だからこそ新しい才能が育つ、と指摘する声もある。

『これから乃木坂46のMVや個人PVで育っていくクリエイターはもっと出てくると思いますよ』

『有名な監督もとても素敵な作品を作っていただきますけど、乃木坂が最初だったよねっていうクリエイターがいっぱいいるのはとても誇らしい』

何故このような自由なクリエイションが可能なのか。そこには、AKBとは違い専用劇場を持たないアイドルであるという点、秋元康というプロデューサーの存在、AKBとの差別化が至上命題であるという点など様々な要素があるが、乃木坂46がすべて同じ事務所で一体としてマネジメントを行っている強さもあるという。

『どうしてもこの人数でやってくれとか指定されるとデザインの幅がかなり狭まるので、クリエイティブに対しての信頼が厚いのはありがたいことです。また、通常、ジャケット制作する際には、マネジメントとレーベルの意見で板挟みになることがあるのですが、乃木坂46の場合、今野さんがマネジメントと絵作りを兼務しているので、意見が一本化されている点も非常にやりやすかったですね』

『アイドルの場合、クオリティの高い写真を撮るのは大前提でやらなきゃいけないこと。それに加えて、乃木坂46の強みとして、マネジメントとレーベルが一体になっているという点があります。なので、ジャケットもメンバー全員が同じ日、同じ場所に集まって一発撮りができる。写真にこだわっているのも、この利点を活かしてAKB48と差別化できるからという側面も大きいです』

『(「透明な色」のメンバーを連れたロケハン写真のキャプション)メンバーをロケハンに呼べるということに驚くが、そこに運営サイドと川本さんの本気度がうかがえる』

乃木坂46は、容姿の整った女の子が集まっているアイドルグループ。ただそんな風に見られがちだろう。確かに、彼女たちの個々のポテンシャルは乃木坂46というグループにとって大きな要素ではある。しかし、乃木坂46を外部から支える、ある意味で「乃木坂46」というブランドを作り出してきたデザインもまた、乃木坂46の大きな一部と言える。様々な要因が揃っても、なおやり続けるのが困難なアイドル育成に、彼らは日々挑んでいる。シングル発売ごとに、全メンバーの個人PVを撮影する。可愛く撮られることを重視したいはずのアイドルのジャケット撮影で、一枚絵にこだわる。水中での撮影やセルフタイマーでの撮影など、完成度やスケジュールの関係で困難な撮影でも強行する。乃木坂46だからこそ可能なやり方で、メンバーとクリエイターは、ともに「乃木坂46」という世界を作り出していく。

乃木坂46のメンバーは、シングル制作期間、「製作中なんです」と言うという。そしてこれは、他のアイドルでは聞かれない表現であるようだ。

『―シングルを作っている期間、乃木坂46のみなさんは「製作中なんです」と言うんですけど、他のグループでそういった言葉を聞かないんですよ。メンバーとして積極的に参加している意識があるのかなと。
橋本:めっちゃみんな気にしてます。次はどんな曲なのか、いつ振りVがくるのか、次はどんなMVだろうって。11枚目のMV衣装に関しては2パターン提案されて、当初はAでいこうと考えられていたみたいなんですけど、私たちは曲やダンスの感じで明らかにBのほうがよかったので、そのことを伝えたら監督も「Bにしましょう」と言ってくれたんです』

『―シングルの制作期間、乃木坂46のメンバーからは「制作してます」と聞くことが多いのですが、他のアイドルさんからはそういう言葉を聞かないんです。だから、CDにしろMVにしろ、ひとつの作品に対して積極的に参加している意識を持っているのかなと思って。
西野:(長い沈黙)…はい。みんなそういう意識を持ってると思います。おかしいと思ったことはみんなで話して、スタッフさんに提案することもけっこうあるので。それぞれのメンバーがこだわりを持って取り組んでます』

いくらクリエイターが気合を入れていても、撮られる彼女たちが同じ熱を持っていなければ良いクリエイションにはならない。他のアイドルが口にしない「制作中です」という意識が、乃木坂46の中でどう生み出されたのか分からないけど、瞬間瞬間を劇場で見せるスタイルを取れない彼女たちだからこそ、瞬間ではない時間の連なりが生むなにかを重視する形に落ち着いたのかもしれない、と思う。

『乃木坂46の特集を行った理由は、彼女たちが「いま人気のアイドルグループ」だからではなく、そういった前提の向こう側で、そのグラフィックデザインや、映像作品や、衣装や、振り付けが純粋に素晴らしいと思えたからだ。が、素晴らしいから特集をした、といった単純なものでもない。いま例に上げた乃木坂46の視覚表現全般が、彼女たちの存在と不可分にファンに愛され、語られ、魅力の求心力として働いているからというのが非常に大きい。もし彼女たちのCDジャケットが、映像作品が、衣装が、振り付けがこのようなものでなかったら、どれだけ乃木坂46がいまとは違った存在に見えていたか。そして、この魅力はファン以外の人にも絶対に気づかれるべきものだ。この特集は、乃木坂46が視覚表現面のクリエイションを軸に、さらに多くの人に語られるきっかけになると思う』

この特集の巻頭に書かれている文章だ。「そして、この魅力はファン以外の人にも絶対に気づかれるべきものだ。」というのは、僕もそう感じる。乃木坂46のファンになる前、僕は特別「アイドル」というものに偏見は持っていなかったと思うが、しかしそれでも、自分の日常には関係のないものだ、と思っていた。乃木坂46のクリエイションは、「アイドル」という枠の中に押し込められているものではない。乃木坂46という「アイドル」の形に関心が持てなかったとしても、乃木坂46のクリエイションに関心を持つことは出来るのではないか、と僕は感じる。それは、有名無名様々なクリエイターが乃木坂46のクリエイションに参加し、そこから名が知られるようになるクリエイターを次々に生み出していることからも分かるだろう。

乃木坂46のクリエイションは、予定調和を吹き飛ばそう、というような意識で作られている。

『2ndの時ぐらいから秋元(康)先生に散々言われ続けたのが、「見た人をざわざわさせたい。それだけ話題になるものにしたい」と。』

『夏休みになった瞬間の開放感というコンセプトで葉山で撮影したら、秋元先生に「こういう絵はみんな見飽きたのでは」と言われ、再撮影しなきゃいけなくなった。もうみんなぼうぜんとなりました』

『(セルフタイマーでの撮影について)正直、うまく撮れる気が全くしなくて、「しーらない!また再撮影だよ」って思っていて。そうしたら、本人たちのポテンシャルがすごくて、想像以上の動きと表情をしてくれて、結果的に大成功。』

『(セルフタイマーでの撮影について)僕の方でメンバーの顔がきれいに映った写真も選んだのですが、結果的に顔や姿が見切れている、より偶然性の高い写真が採用に。その方が面白いし、それを選んだ運営サイドもすごいなと』

橋本も、こんな風に語っている。

『橋本:でも、何も印象に残らない作品よりは、今でも「あのシーンはなんだったんだ」と議論される作品のほうが、アイドルのMVとしては成功だったんじゃないかと思います』

『橋本:100人中100人が賛になることはないと思うんです。何をやっても少なからず否はあるわけだから、映像作品として評価されるMVを作っていくことが乃木坂の評価にもつながるんじゃないかな。そういう意識はメンバーみんなにあると思います』

『橋本:かわいく明るく撮ることを優先しているアイドルグループは多いと思うんですけど、乃木坂の場合、メンバーは「かわいく撮ってもらいたい」とはもちろん思うんですけど、求められるのはそこじゃなくて作品としての完成度が優先されるというか』

こんな風に、予定調和を吹き飛ばすやり方で、それでも「乃木坂46」というイメージがある範囲内に統一されるのには、作り手側の『ジャケットで一つの世界観』という考え方がある。

『「PVのシチュエーションを借りてジャケットを作ればいいじゃないか」という意見もあるんですが、今野さんも僕らもそれはあまりやりたくない。ジャケットはジャケットで一つの世界観でやりたいという想いがあるんです』

『(インタビュアーの質問の引用)通常のジャケット制作では、楽曲からイメージを膨らませて考えると思うんですが、乃木坂46の場合、グループのイメージにぶら下がって作るのが個性的だと思います』

そして、こういう作り方を支えるのが、やはり乃木坂46のメンバー一人一人の個性・ポテンシャルだ。乃木坂46運営委員長である今野氏はこう語る。

『例えば最近であればサブカル的な仕掛けなどでプロデュースされるものも多いと思うんですけど、乃木坂の場合はメンバーにないものをこちらが持ってくるのではなくて、メンバーの中にあるものをどうやったら引き出せるかなと考えます。積み重ねていった時にたぶん、その方が無理がこない』

『そうではなくて、メンバーが魅力的であるからこそ、どうやったらその子たちを輝かせられるか、その子たち自身の中にあるものを引き出せるかっていうことを考える』

これは、メンバーも同様のことを感じているようだ。

『―他のアイドルやアーティストのジャケ写と比べた時、乃木坂46のジャケ写はここが違うんじゃないか、というのはありますか?
白石:あぁ。けっこう自然な感じで撮ってもらうことは多いかなとは思います』

『生駒:乃木坂の制作物は、私たちの自然体の姿というか、作ったかわいさじゃなくて、持っている素材を良く見せようという考えが強いんじゃないかと思いますね。自分自身が作品になるという意識ですよね。』

メンバーの魅力を見出し、その魅力をどうクリエイションとして形にしていくのか。その裏側は、実に刺激的だった。「狂気」と称されるクリエイションだからこそ、見るものに届くデザインを生み出すことが出来る。アイドルグループの背景にそんな「狂気」が潜んでいることを知らなかった僕は、非常に新鮮な気持ちでこの特集を読んだ。

最後に、乃木坂46運営委員長の今野氏が、乃木坂46というグループをどんな風に作り上げていったのかに言及している部分を引用しよう。

『―38934人から100人に絞るまでは今野さんの仕事だったんですね
今野:先生に「よくぞこの人材を集めたな」って言わせないと僕の負けだった。そこはもう、命がけでやりました』

『―今野さんの中で、選ぶ基準もはっきり固まっていた?
今野:もちろん。まず、プロっぽい子は駄目だな、と。あとは単純に、そのパーソナルな人間性に惚れるかどうかですよね。この子に何かあるぞ、と感じるかどうか。それとビジュアル的なことで言うと、洋服が絶対似合うなっていう子にこだわりましたね。
―洋服が似合う、というと?
今野:洋服を綺麗に着られる子です。だから実は、骨格なんですよ。うちの子たちが全員ズラッと並んだ時にある程度統一した美しさが出るのは、全員脚が綺麗だからです
―いわゆる「アイドルらしさ」のような基準ではないんですね』
今野:このこがアイドルだったらちょっとびっくりするっていうのが基準だったりするんですよね。橋本奈々未とかは今でもそういう空気感がある。なんでこの子がアイドルをやってるんだろうって。そこが面白さなんですよね

『―そのメジャー感が乃木坂46できちんと出せるのはなぜでしょう?
今野:たぶん、ベースとしてうちのメンバーに共通しているのは「月」の魅力じゃないかな。乃木坂には実は、「太陽」の子は少ない。でも、「月」の魅力って実は日本人にとってはメジャーなんですよね。(中略)そういう意味では彼女たちの存在感って、決してニッチなものでもなんでもない。彼女たちは男の人からも女の人からも憧れられる理想像に近いところにいる。全体像としてメジャー感が消えないのはそういうことだと思いますね』

『自分の中で、これをやってみたいとか、こんなのが好きだよなというだけでやってても、結局自分のキャパシティでしかないわけで。それだったらネタに詰まっちゃうんですよね。でもメンバー自身がアイデアの源になっていれば、実はネタに枯れることはないんですよ。そのかわり、彼女たちをずっと見てなきゃいけない。たまに見に行って、この子こうだよな、ではとてもじゃないけど無理です。毎日毎日、彼女たちのちょっとした変化も見逃さないようにウォッチし続けてる中で生まれるクリエイティブのはずなんで。秋元先生からもよく言われるんですけど、「24時間乃木坂のことを考えないと」って。秋元先生なんかまさにそうだと思う。本当に寝てないですからね。頭全開で考えて、見続けないと生まれてこないんですよね』

そんな風に今野氏が生み出してきた乃木坂46を、生駒里奈はこう評している。それを引用して終わろうと思う。

『乃木坂って「永遠のお試し期間」なんじゃないかと。私もそれでいいと思ってます。今まで乃木坂をどう紹介したらいいのか迷っていたんですけど、ファーストアルバムの「透明な色」というタイトルに「これだ!」と思って。乃木坂はいろんな色に染まることができるし、これからもいろんな可能性を試していきたいんです。でも、このメンバーだからこそ「透明な色」になっているから、乃木坂46は本当に奇跡の集まりなんですよ』

「MdN 2015年4月号 乃木坂46 乃木坂46 歌と魂を視覚化する物語」を読んで


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「海よりもまだ深く」を観に行ってきました

昨日久々に、弟と電話をした。
基本的に僕から連絡することはない。弟の方から時々、近況を尋ねるようにして連絡が来る。
お互いの近況をひとしきり話すと、大体親の話になる。
詳しくは書かないが、僕は親とは色々あって、比較的今でも苦手意識がある。昔に比べれば、大分変わったと思うけども。

弟からよく、「親に連絡してやれ。喜ぶから」と言われる。
こういうことを言うような奴になったんだなぁ、と僕はいつも感じる。

兄弟三人の中で、子供の頃、一番親に迷惑を掛けたのが弟だろう。割と、どうしようもない奴だったと思う。反対に僕は、外面だけはとても良い子だった。割と、模範的な優等生に近いタイプに見えていただろうな、と思う。

今では、弟は結婚し子供をもうけ、実家の近くに家を建てた。兄弟三人で一番の孝行者だろう。僕はと言えば、だらだらと生きている。今となっては一番親に迷惑を掛けていると言えるかもしれない。

だから、弟に親のことを突っ込まれると、僕は何も言い返せなくなる。別に責めるような口調で言われるわけでもないのだけど、僕の歯切れは一気に悪くなる。

普段は、そういうやり取りをして終わるのだけど、昨日は少し違った。弟から初めて、こんな話を聞いた。

「それまで親のことは嫌いだったけど、自分が親になってみて初めて、育ててもらったっていう感謝が生まれた」
「親はいつか死ぬんだし、生きてる間に何かしないと後悔すると思ったから変わったんだ」

ほぉ、と思った。そんな殊勝なことを考えているとはなぁ。

「だから生きてる内になんかしとけよ」

まあ、そんな風に言われるわけだ。

『いなくなってからいくら想ったって駄目よ。目の前にいる時にきちんとアレしないと』

樹木希林も、そんな風に言っていた。

家族、というものが僕にはイマイチよくわからない。家族というものに憧れを持ったこともなければ、良いなと感じることもない。めんどくさいな、と感じる対象でしかない。

今でも親のことは苦手だけど、その苦手は、昔とは結構変わった。今では、親に対する苦手は、他のほとんどすべての他人に対する苦手とほぼ同じだ。昔は、自分の親だから特別に苦手なんだと思っていた。でも今では、僕は基本的に他人というものが全般的に苦手なんだな、という風に感じている。

ただ僕は、求められたように、あるいは、こんな風に求められているのだろうなと勝手に感じたように振る舞う能力がとても高い。自分の意志ではなく、他人の意志で動くのが得意だし、楽だなと感じる。ただ、ずっとその他人の意志の中に押し込められるのは嫌だな、と思う。自分で書いてても、めんどくさい性格だなと思う。

そういう意味で、親と関わるのは嫌だな、と感じる部分がある。

今僕が親に対して何かアクションを起こすとすれば、それは、「こうすれば親が喜ぶんだろうな」という考えからでしかない。まあ、普通そういうものなのかもしれないけど。で、そういう自分に、自分自身を押し込めたくないな、と思う。一旦そういう風に振る舞い始めれば、そういう自分から抜け出すのは難しくなる。それはこれまでの色んな経験から分かっている。僕にとって一歩踏み出すことは、後戻り出来ない可能性を常に孕んでいる。それが、めんどくさいなぁ、と思うのだ。

うん、まあ、こういうのは、ただの言い訳だ。実際は、ただめんどくさいだけだ。

『誰かの過去になる勇気を持つのが、大人の男ってもんだよ』

僕は、いつでも誰かの過去になる準備がある。だから周りも、そんな風に扱ってくれたらいいのにな、と思う。


良多(阿部寛)は15年前に文学賞を取ったきりの自称小説家。今は探偵事務所に務めているが、それも「小説の取材だ」と周囲に言い訳している。小説を書いているわけでもないのに、作家である自分のアイデンティティを捨てきれないでいる。
小説を書くでもなく、ギャンブルに金を注ぎ込む良多に愛想をつかして離婚した元妻・響子(真木よう子)は、今では一人息子である真悟と二人暮らし。響子には新しく男が出来つつあり、未だに響子に未練がある良多は、探偵であることを活かして響子の行動を常に監視している。
月に一度、真悟と会えることになっているが、養育費をまともに払わない良多に響子はうんざりしている。良多は良多で、真悟にグローブやスパイクを買ってやりたいが、金の工面に四苦八苦している。母である淑子(樹木希林)の元に時折顔を出しては、金目のものを物色するがなかなか見つからない。それでいて、淑子には心配を掛けまいとお小遣いを渡したりする。そのくせ、姉の千奈津(小林聡美)の元に金の無心にやってきては呆れられている。
月に一度真悟に会える日。日本に巨大な台風がやってくる予報だった。真悟を母の元へと連れてきた良多は、迎えにやってきた響子も含め、久々に一晩一緒に過ごすことになり…。

というような話です。
凄く好きな映画でした。あんまり日本の映画を見る気になれないんだけど、これは見て良かったな、と。

とにかく、映画全体の雰囲気が好きです。

『50年も一緒にあれしたんだからさぁ』
『グローブでもあれしてやろうかと思って』
『女が仕事を持つとかえってあれだね』
『ほら、宇宙飛行士のなんちゃらさんとかにしなさいよー』

家族の会話は、基本的にこんな感じで展開される。「あれ」だの「なんちゃら」だのと、はっきり言わない。言わなくても相手に通じることがちゃんと分かっている。家族だという関係性を、こういう会話のやり取りで実にうまく切り取っていく。

特に樹木希林は絶妙だ。あぁ母親ってこういう感じだよなぁ、という雰囲気をとてもよく滲ませる。一人一人母親像は違っても、この映画の中の樹木希林を見ると、母親ってこういう生き物だよなぁ、と多くの人が感じるだろう。そういう絶妙な演技をする。

この会話の切替で、主人公である良多の見え方が変わっていくのも面白い。
母親である樹木希林と話す時、元妻である真木よう子と話す時、息子と話す時、探偵事務所の所長や後輩と話す時などで、良多は様々な顔を見せる。見栄っ張りだったり、かっこつけたがったり、女々しかったり、威張りたかったり、セコかったり。良多という人間の良い部分も悪い部分も様々な関係性の中で滲み出ていて、それが会話によって引き出されているという点が非常に面白い。

この映画の中で会話というのは、物語を展開させる装置ではない。物語は、会話ではほとんど展開しない。会話は、テーブルや自転車といった、背景を構成する小道具みたいな扱われ方をしている。だから、会話の中身にはほとんど意味がなくて、その会話を誰がしているのか、どんなトーンでしているのかという、小道具としての側面が強く映画全体の中で意味を持つ、という形式が非常に面白いと思う。

『「僕のはヤキモチじゃありませんよ」
「じゃあ何なんですか?」
「責任感ですよ」
「未練でしょ」』

『「別れたんだからさぁ」
「でも、終わってないだろ」』

良多にとって、息子の真悟に会うことが人生の大きな目的となっていて、そのためには何でもするつもりでいる。そして、あわよくば響子とまたやり直したいと思っている。その気持ちが、良多を支えていると言えるだろう。
しかしだからこそ、響子から突きつけられるこの言葉がずしりと重い。

『月に1度の父親ごっこで、よくそんなこと言うわね。そんなに一生懸命父親やろうとするなら、なんで一緒にいる時もう少しさぁ』

母親には、こんな風に言われるのだ。

『なんで男は今を愛せないのかねぇ』

僕は、演技を云々言えるほど詳しくないけど、この映画の俳優の演技はみんな好きだった。肩の力が抜けているというか、腹から声が出ていないというか。そういう、日常のどこかにいるだろうこういう人、という「普通感」が最初から最後まで滲み出ていて凄く良かった。

その中でも、真木よう子は良かったなぁ。
この映画の中で真木よう子が醸し出す独特な雰囲気は、とても素敵だと思う。
うまく説明できないのだけど、打算的に生きたいし生きるべきだと思うけど、そうではない生き方を否定しきれない部分がある、というような複雑な感じをうまく出しているように思う。

響子は基本的に、シングルマザーとしてきっちりしたいと思っている。仕事もちゃんとするし、子供も真っ当に育てたい。それに、養育費を払いもしないくせに、約束だからという律儀さで息子を良多に会わせる。年収1500万円だという新しい彼氏の存在は、『愛だけじゃ生きていけないから』と良多に言った通り、打算的に生きようという意志の表れだろう。

しかし響子は、それだけの女ではない。そうでなければ、そもそも良多と結婚したりしなかっただろう。良多との離婚があったからこそ、打算的になろうという意識が芽生えたのかもしれない、とさえ思う。

だから映画の中で描かれる響子の姿は、ほとんどが「響子らしくない」のではないか、と僕は勝手に感じた。

そして、「本来の響子らしさ」みたいなものが、良多といる時に時々現れるのではないか、と思う。基本的に響子は、良多に対して冷たい態度を取ろうとする。それは、返事はそっけなく、感情を込めないように話そうとする。確かに良多に苛立ちを感じている部分はあるだろう。しかしそれ以上に、良多の存在が昔の自分を引きずりだしてくるのを恐れて、敢えて冷たくしているのではないか、とも感じた。

それを一番強く感じたのは、台風の真夜中、公園の滑り台でのシーンだ。それまでの響子の描かれ方であれば、ここは良多に対して怒る場面だと思う。しかし響子はそうしない。どの程度なのかは分からないけど、基本的に響子は良多のことを悪く思えないのではないか。僕にはそう感じられた。

僕の見方が芯を捉えているかどうかはともかくとして、真木よう子の演技は、響子という役が持つ不安定で複雑なあり方を実にうまく描き出しているように思う。響子も、誰と話しているかによって顔が変わり、そして、そのどれもが本当の姿ではないような不思議な雰囲気を醸し出す。

『もう決めたんだから。前に進ませてよ』

こういうセリフを、力を込めずにポロッと言う。響子という不可思議な魅力を持つ役を、見事に演じきったなと感じた。

池松壮亮が演じていた、探偵事務所の後輩である町田も実に良かった。こちらは響子違って、良多と何かと関わり合いを持つ。町田は良多に何か恩があるようなことを言っていたけど、基本的に良多のような人間が好きなのだろう。嫌々ながらも競輪に掛けるお金を貸してあげたり、響子の彼氏の見張りに付き合ったりしている。良多と町田が勤める探偵事務所は、ちょっとアコギな商売をしてるんだけど(その所長であるリリー・フランキーがまたいい味を出すんだなぁ)、崩れていそうでギリギリ崩れていない、みたいな絶妙な立ち位置を上手く演じていたと思う。良多とのコンビネーションがばっちりだったなぁ。魅力的なキャラクターだったなと思います。

『そんなに簡単になりたい大人になれると思ったら大間違いだぞ』

『本当にそう。こんなはずじゃなかった』

僕は、過去の自分の行動や選択を後悔したことがない。こうすれば良かった、ああすれば良かった、と思うことがない。普通そんなことはありえないと思う。僕は、未来に期待しないようにしているから、そんな風にいられるのだ。昔から、大人になってなりたいものもなかったし(そもそも大人になりたくなかったけど)、夢や目標みたいなものもなかった。

『海よりも深い恋なんてさぁ、あたしはこれまで経験したことがなかったけど。それでも、毎日楽しく生きてるんだよ。ううん、だからこそ、楽しく生きられるのかもしれないねぇ』

それとは別の考え方で、「思い通りなんて面白くないな」とも思っている。自分が予期しないように物事が進んでいく方が面白い。思い通りの人生を歩んでいる人って、本当に幸せなのかなって、時々そんなことを思うことがある。

『幸せってのはね、何かを諦めないと手に出来ないものなのよ』

ですって。

「海よりもまだ深く」を観に行ってきました

「ルーム」を観に行ってきました

宇宙の外側には何があるのか、という問いがある。
現在の物理学では、この問いに明確な答えを返すことは出来ない。

『“へや”の外は宇宙空間。TVの惑星がある』

様々な仮説を唱える人はいる。しかし、現時点ではそれらはすべて仮説に過ぎない。どれかの仮説が正しいと証明される日は、来ないかもしれない。
何故なら「宇宙の外側」は、定義出来ないからだ。

『壁の向こうって?』

宇宙というものがどう定義されているのか、正確には知らないが、しかし一つ言えることはある。
それは、僕らに“見える”範囲だけが宇宙なのだ、ということだ。

『リスと犬はTVの中にしかいない』

“見える”というのは、人間の目でなくても良い。電磁波でも赤外線でもなんでも、とにかく人間が何かを“見る”ためには、光などの電波的なものが何かにぶつかり、それが反射したものを捉えなければならない。
その限界が、宇宙の限界だ。

『TVに入りきらない』

人間が見ることが出来るなら、それは宇宙の外側ではない(見える、のだから、それは僕らが把握できる宇宙だ)。そして、人間が見ることが出来ないのなら、それは存在しないのと同じだ。

『“世界”なんて嫌いだ。僕信じない』

この時、「宇宙の外側」というのは、一体何を指すのか。それは、存在すると言えるのか。存在するとして、僕らにそれは影響するのか。

『TVの中のものは本物なの。
本物みたいな物はすべて本当にあるのよ』

生まれた時からずっと“へや”にいた少年。
この“へや”こそが世界のすべてで、壁の向こうは宇宙空間であると教わった少年。
TVに映るものはすべてニセモノで、この“へや”の中のものだけが本物だと教わって育った少年。
彼にとっての「壁の向こう」を理解しようと、「宇宙の外側」のことを考えてみたのだけど、やはり僕には想像出来ない。

『ロウソクはないの?
本物の誕生日ケーキにはロウソクがあるのに』

『裏庭って何?』

『“世界”はTVの惑星にそっくりだ』

彼には、僕らが生きているこの“世界”が、どう見えているだろうか?

『どのドアにも内側があって、外側もあるんだ』


“へや”の中で暮らす母・ジョイと子・ジャック。四方は壁に囲まれ、窓は天窓のみ。入り口のドアには暗証番号で開くロックキー。風呂に入りながら服を洗濯し、狭い“へや”の中で運動をし、時々やってくる“オールド・ニック”の登場に怯えつつ、“オールド・ニック”からの“日曜日の差し入れ”で彼らは生活している。
ジャックは毎朝、部屋の中の友達に挨拶をし、料理を手伝い、“オールド・ニック”に買ってもらったラジコンで遊ぶ。誕生日ケーキにロウソクがなかったり、“オールド・ニック”が来る夜はクローゼットから出ちゃ駄目だったり、色々不満はあるけど、それでもジャックは、この“へや”での生活が当たり前で、ジャックなりに快適に暮らしていた。
一つのきっかけは、罰として部屋の電気を止められたことだった。ジャックが5歳の誕生日を迎えたことも大きい。ジョイはジャックが、物事を理解できる年齢になったと判断した。
ママは17歳の時、誘拐されたの。
ここは納屋で、私たちはずっとここに監禁されているの。
ママの話を、ジャックは理解できなかった。聞きたくなかった。壁の向こうは、宇宙空間のはずだった。TVの惑星は全部ニセモノのはずだった。ジャックには、“世界”のことは理解できなかった。
『ママのことを助けて』
でも、そうママに言われたから、ジャックは理解しようと努力した。そして、ママが立てた作戦を実行する勇気を振り絞った。
『ドアのそばで待つだけじゃ何も起こらない 「不思議の国のアリス」』
ジョイは、“へや”の外の世界に“脱出”した。
しかしそれは、ジャックにとっては、未知の惑星との“直面”でしかなかった…。

というような話です。
素晴らしい映画でした。絶賛されるのも納得の作品でした。

この映画では、「ジョイにとっての脱出」と「ジャックにとっての直面」を同時に描いている、という点が素晴らしい。まったく同じ行為をしていながら、ジョイとジャックではまるで違う意味合いになる。

ジョイにとって“へや”での生活は、制約でしかない。17歳で誘拐され、7年に渡り監禁され続けている。外の世界を知っているジョイにとっては、“部屋”は狭く臭い場所でしかない。彼女には、この上京をどうすることも出来ない。だから、諦めとともにどうにかここで生きていくしかない。しかしジョイは、いつでも外の世界を希求しているし、現状の生活に終わりのない不満を抱えている。

ジャックにとって“へや”での生活は、日常だ。彼には、「壁の向こう」の世界など存在しない。世界には、自分とママだけがいて、その他ささやかに部屋の中に存在するもの以外、この世には何も存在しないと思っている。普段食べているものは、“オールド・ニック”がTVの中から魔法を使って取り出しているのだ、と解釈している。ジャックは、母親の説明を頼りに、自分なりに世界のあり方を構築している。
そんな彼にとって“へや”での生活は、そう悪いものではない。何せ、生まれた時からここにいるのだ。“へや”以外での生活を知らないから、比較にしようがない。TVの惑星のことは、存在しないものだと思っているので、比較対象にはならないのだ。

ジョイは、“へや”からどうにか脱出したいと思っている。しかしジャックにとって、「壁の向こう」に出ることは恐ろしいことでしかない。彼にとってそこは、何も存在しない宇宙空間なのだ。彼にとって「壁の向こう」は、異世界でしかない。

この二人の価値観の差は、“へや”から抜けだした後も彼らを縛り付けることになる。

『私変よ。ハッピーなはずなのに』

7年ぶりに元の世界に戻ってきたジョイ。自分は幸運であり、家族とまた再会し、何でもある広い世界で暮らせることを幸せに感じている。“へや”での悪夢のような生活から逃れられたことに感謝している。

しかし、ジョイの心は落ち着かない。脱出出来たことの喜びを噛み締め、穏やかな日常が戻ってくると、ジョイは次第に荒んでいく。
「どうして自分がこんな目に…」という気持ちが大きくなっていったのだろう。
外の世界を知っていたが故に、失われた7年間のことを虚しく思い出してしまう。何故自分だけがという気持ちが他者にも向いてしまう。

『(たくさんのおもちゃを指して)子供が喜ぶものよ。少しは触って。(レゴを持って)こうやってくっつけるのよ。やって』

『私がいなくても楽しくやってたくせに!』

『ママが人に優しくっていうから、あいつの犬を助けようとしたのよ!』

失われた7年間をなかったことにするために、一刻も早く“普通”を取り戻すために、ジョイは心の平穏を失っていく。

『あのベッドがいい。“へや”の』

ジャックにとっては、“世界”の方が不安でたまらなかった。TVの中のニセモノだと思っていた人間が“世界”にはたくさんいて、色んな人が話しかけてくる。色んな音がする。光が眩しい。TVの惑星の食べ物が出てきて、怖くて食べられない…。

『「いつまでここにいるの?」
「ずっと住むのよ」』

“世界”に出てきてからのジャックは、極端に口数が少なくなる。何を考えているのか、分からない場面の方が多い。恐らく、誰にも理解できないだろう。それはまさに、僕らが「宇宙の外側」について考える時と同じくらいのわけのわからなさだ。しかもジャックは、存在するはずのない「宇宙の外側」に足を踏み入れた少年なのだ。彼が世界をどう捉え直し、何を感じ、どうしたいのか。誰にも理解できるはずがない。

『時々帰りたい。
いつもママがいた』

ジャックにとって“へや”は、いつでも至近距離にママがいる場所でもあった。“世界”に出てきてからは、そうじゃない。ママ以外の人間がたくさんいるし、ママとずっと一緒にいられるわけでもない。“へや”ではママを独り占め出来たのに、“世界”ではそうじゃない。「囚われている」という自覚のなかったジャックにとって、“へや”の方が快適だった、というのは分かる気もします。

『“へや”に帰ろうよ。ちょっとだけ』

映画を観ながら、刷り込み効果のことを考えていた。鳥が、生まれてから初めて見た動くものを親だと思ってしまう現象のことだ。生物には、与えられた環境で生きていくための、行動を決定づけるスイッチが様々な形で用意されているのだろう。

ジャックにとって“へや”は、生きていくのに当たり前の空間だった。“へや”での常識がジャックの常識になり、“へや”での生活スタイルがジャックの生活の基盤となった。それが生物学上の親でなかろうと動くものを親だと思ってしまう鳥のように、それが正しい世界認識でなかろうとも自分が生まれ育った場所を普通と捉えてしまうことは当然だろう。本当にあったことかどうか真偽は知らないが、昔「オオカミに育てられた少女」という話が広く知られていた。本当にそんなことがあったとすれば、ごく一般的に育った場合とはかけ離れた価値観になるのも当然だろう。

『ドアが開いてると“へや”じゃない』

ジャックは、生まれてから5年間過ごした“へや”を見て、すっかり変わってしまった様子を確認する。「縮んだ?」と母親に確認するほどだ。

『ママも“へや”にさよならして』

生まれた時からあった“へや”。“世界”に恐怖して時々戻りたくなってしまう“へや”。それがもう既に存在していない。ジャックがそれをきちんと認識した時、ジャックの新たな人生は始まったと言えるかもしれない。

この映画は、脱出するまでの監禁されている生活の悲惨さ(しかしジャックにとっては必ずしも悲惨ではない)と、脱出した後の戸惑いや不安などを描く部分が実に秀逸だが、物語全体で言えば、彼らが脱出を企てそれを成功させるまでの部分が一番ハラハラさせられた。ストーリー展開上、この脱出計画は成功するに違いないと確信していたのだけど、それでもどうなってしまうんだろうか、とドキドキしながら見た。この物語は、実話からインスピレーションを得て作られたフィクションが原作のはずだ。実話を元にした話は、重厚感やテーマ性などに優れているが、ストーリー性という意味では弱いことが多い(貶しているわけではなく、実話を元にしている以上それは仕方ないことだ、と思って見ている)。しかしこの映画は、実話をベースにしつつ、脚色も加えたフィクションが元になっているので、ストーリー性も十分にある。その分、映画としての完成度も高いように感じられた。

『でもそれが彼にとって、最良の方法だった?』

この問いに、世の母親はどう答えるだろうか?

「ルーム」を観に行ってきました

砕け散るところを見せてあげる(竹宮ゆゆこ)

前の職場にいた女の子のことを思い出した。

生きることが辛そうな女の子だった。

初め、そのことは全然分からなかった。誰とでも、いつでも楽しそうに喋っていたし、輪の中心になれるタイプの女の子だとずっと思っていた。働いている時間帯の関係もあって、当初はほとんど関わりがなかったのだけど、ちょっとしたきっかけから仕事上よく話すようになり、そういう話をする中で、彼女のパーソナリティが少しずつ分かってきた。

外的な要因が何かあったわけではない。少なくとも、僕が話を聞いている限りでは。いじめられているとか、暴力を振るわれているとか、そういうことはない。一つだけ、ちょっと厄介な人間関係を抱えてはいたけれども、ごく一般的な基準で考えれば、それ一つだけをとって、生きることが辛くなるようなものではないように思えた。純粋に、彼女の気持ちの問題だ。

でも、外的な要因があるかどうかは、実は関係ない。僕自身も、他人には理解できないような理由で大学を辞め、他人には理解できないような理由で死にたいと思ったことがあった。だから、僕には彼女が何に苦しんでいるのか、正確なところは掴めきれなかったけど、でも、生きるのが辛いという彼女の訴えを疑ったことはなかった。

人と関わるのが辛い、と彼女は言っていた。

初めは、何を言っているのか理解できなかった。あんなに誰とでも楽しそうに話しているじゃないか、と。でも、しばらく話す内に、僕と近いタイプの人間なのかもしれない、と思えてきた。攻撃は最大の防御。自ら積極的に喋ることで、他者との関わりをある一定水準のところで留めている。そんな風に見えてくるようになった。

遺書を書いたことがある、と彼女は言った。僕も遺書を書いたことがあったので、ひとしきりその話で盛り上がった。
毎日死にたいと思っている、と彼女は言った。僕にもそういう時期があったという話をした。そして、出来れば死なないでくれると嬉しい、という話をした。

僕がしたことは、彼女の話を聞くことぐらいだ。他には、別に何もしなかった。彼女のいう「他者」には、間違いなく僕も含まれているはずだった。近い感覚を持っていたから、他の人には話さないようなことも僕に話してくれていたと思うのだけど、それでもきっと、僕も「他者」の一人だったと思う。あるいは、それは僕の言い訳だったかもしれないが。自分が何もしないための言い訳。

『そう開き直りつつ、実はうっすらと、俺はまさに飢えシマウマに「肉っしょ!」をやらかしているんじゃないか―彼女の生き方の領域を侵犯しているんじゃないか、と思うこともある。』

他者と出来るだけ関わりたくない、と思っている彼女にとって最も理想的な状態は、誰とも関わらずに一人でいることだろう。僕の存在は、「彼女の話を聞いてあげている」という自己満足に覆われた、厄介な邪魔者に過ぎないのではないか。そう感じてしまうこともあった。彼女が、他の人と楽しそうに話している姿を思い出すと、怖くなった。僕は、その姿がフェイクだと知っている。だったら、自分に向けられたこの姿がフェイクではないと、どうして言えるだろうか?
僕は、彼女のことを考えているフリをしながら、やっぱり自分のことを考えていた。彼女に拒絶されるのは、怖かった。

『飢えたシマウマに、俺は肉を差し出したのだ。
シマウマは肉を食べないのに。たとえ飢えて死んだって、肉なんかいらないのに。草だよ、と騙して肉を食わせるような真似を、俺はした。
俺のことを信じているのを利用して。玻璃のためになにかしたいという、俺の都合を満たすために。そして玻璃は、そんな俺の傲慢な素顔に気が付いたのだろう』

僕の、話すことで楽になってくれたらいいな、という気持ちは本物だった。嘘偽りなく本物だった。でも、安全な場所から良い人を演じようとしているだけなのではないか、という疑念は、自分の中にずっとあった。僕は、本当に、彼女のためになることをしているのだろうか?

『玻璃があのトイレの用具入れから手を伸ばして、俺に鍵を渡してくれた時。あの時おそらく玻璃は、暗くて冷たい孤独の穴から自ら這い出そうと決めた。俺を信じて、それまでの孤独の重みを預けてくれた。少なくとも俺にはそう思えた。』

彼女にもし何かがあったら、僕は何をするだろう、と考える。何が出来るか、ではなく、何をするか、だ。僕は、何もしないような気がする。彼女がこちらに寄りかかってきそうになったら、逃げるような気がする。それ以上は無理だと思うかもしれない。分からない。分からないけど、逃げる自分のイメージは容易く浮かぶ。踏みとどまる自分は、あまりイメージできない。安全な場所、というのはそういう意味だ。何かあった時、手を伸ばしても届かなかったと言い訳出来るぐらいの距離にしか、彼女に近づかなかったような気がする。そういう自分の臆病さを、悟られているんじゃないか、という怖さも、ずっとあった。

印象的だった出来事がある。
彼女の環境が変化し、連絡が取れなくなった時期があった。その時期僕は、彼女のためになったらいいなと思って、あることをした。なんてことはない、些細なことだ。しかし、久々に連絡が取れた彼女から、お願いだからそれは止めて欲しい、と言われた。

その時僕は、ちょっと安心した。彼女は僕に、止めて欲しいと拒絶することが出来るということが分かった。であれば、それまで拒絶されてこなかったことにも意味が出てくる。これまで彼女の話を聞いていたことは、プラスかどうかはともかく、マイナスではなかったのだろう、と思えた。

お互いに既に前の職場から離れている。物理的な距離も離れてしまった。今でも時々、僕が連絡をしたり、彼女から連絡が来たりする。連絡が取れる度に僕は、まだ死んでなくて良かった、と思う。

ヒーローになることは、なかなか難しい。


これは、濱田清澄と蔵元玻璃の物語だ。
高校3年生、受験直前である濱田は、今では仲の良いクラスメートもいて、高校生活を楽しく過ごしている。ある日、ちょっとした偶然から、全校集会中にいじめられている1年女子を見かける。濱田自身かつて、暗い孤独を味わった経験がある。彼女のことを、見捨てることは出来なかった。いじめている側に「やめろ」と短く言って、とりあえず収まりはした。
問題は、その後だ。
丸めた紙を投げつけられていた女子が、自分の周りに散らばった紙を拾い集めていたのを見てしまう。濱田は、その姿を無視出来なかった。近づいていって、彼女の背中にぽんと触れた。
その瞬間。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
彼女は奇声を発し、濱田を睨みつけた。さっき助けたのが濱田だとは認識できていないのかもしれないが、それにしてもこの反応はなんだ。意味が分からない。
これが、蔵元玻璃との出会いだった。
濱田は、そんなことがあってからも、玻璃のことが気になっていた。わざわざ1年の教室まで様子を見に行ったり、毎日放課後にあちこちに捨てられている玻璃の靴を探しだしては下駄箱に戻していた。
そして、決定的な出来事が起こる。
大げさではなく、死に瀕していた玻璃を濱田が助けたのだった。
「人には決して言うなよ。俺がヒーローだということを」
濱田は玻璃を守ることに決めた。学校で酷いいじめに遭っている。まともに助けを求めることも出来ない女の子を、濱田は守ることに決めた。
しかし、すぐさま玻璃の言葉に唖然とさせられる。
「UFOを、撃ち落とします」
玻璃の敵は、クラスメートではなく、UFOらしい…。

濱田と玻璃の物語は、とても良かった。全体のストーリー展開、キャラクターなど、読ませる力がある。会話や全体のノリが軽すぎるきらいがあって、その点だけはちょっと受け入れがたいと感じたのだけど、レーベルのカラーや、著者がラノベ出身であるという点で仕方ない部分だろうとは思う。読者層を広げるためには、こういうノリの方がいいのかもしれないし。

ヒーローになろうとした濱田に自分を重ねながら読んでいた。僕はヒーローではないし、ヒーローになろうとしたわけでもない。でも、濱田と同じ境遇にいたら、自分はどうしただろうとどうしても考えてしまった。恐らく、濱田のようには行動出来なかっただろう。

濱田も、僕と似たような葛藤をしながらも、ヒーローであろうとした。玻璃のすべてを引き受け、守ろうとした。自分に出来ることを真剣に考え、実行に移した。濱田は、それでもなおヒーローには足りていないと悩むのだが、僕からすれば濱田は十分にヒーローだ。

『俺は、好きな女の子に、光の中を生きてほしい。幸せそうに笑っていてほしい。その傍に俺がいなくてもいい。そうして新しい孤独を知ったとしても、それを新しい宝だと俺は思える。彼女の世界から俺が消えてもいい。彼女の目には俺が見えなくなってもいい。彼女が笑ってくれるなら、すべてが宝だと思える。きっと大切にできる』

出会ってからの期間が短い割に、そういう極端な価値観にすぐに行き着いたものだな、と思わなくもないが、しかし、玻璃の描写を読むと、その気持ちも分からないでもない。

『自由を失くして捕えられ、息を詰めて耐えることだけが玻璃には普通で、玻璃はいつしかそんな自分に慣れてしまった』

玻璃が抱えていたものの大きさを知れば知るほど、玻璃の凄さが伝わってくる。何も知らなければ、奇行としか思えない彼女の言動が理解でき、ギリギリのところでこの世界に踏みとどまっているのだなということが分かる。玻璃は、とっくに限界を超えていただろう。諦めることが日常になり、良いも悪いも考えることなく、ただ義務のようにして毎日をこなしていく。玻璃にとって人生とは既に、そういうものになっていたはずだ。

そこに濱田が光を差し込んだ。長らく光を浴びていなかった玻璃は、急速に輝き出す。玻璃の本来さを取り戻す。最初の出会いと比べた時のギャップも相当なものだろう。濱田が玻璃に惚れ込んでしまうのは、分かるような気がする。

『孤独になるのが怖かった、と玻璃は言った』

濱田の決意と玻璃の決意がすれ違うようにして物語が進んでいく。玻璃の抱えているものの大きさを濱田は見誤り、濱田を救うために玻璃は自らを犠牲にしようとする。二人は共に、お互いを助けようと力を振り絞る。

『ヒーローは、決して自分のために戦ってはならない』

お互いが、それぞれの存在を強くした。玻璃は、濱田という光を浴びて、暗く辛い地の底のような場所から這い出ようと決意した。そして濱田は、ちっぽけな自分という存在が誰かにとっての光になれるのだという自信を持った。

『今の俺にとって、孤独だった頃は、正直あまり思い出したくない手痛い過去ではある。でも同時に大切な宝物で、財産でもある。捨て去ることなど決してできない。
孤独であるということと、いじめを混同してはいけない。誰にも話しかけられないことと、上履きを後ろから投げつけられることは違う。自分の無価値さに直面して泣くことと、しね、と書かれたゴミを投げつけられるのも違う。孤独は一人で抱えていればやがて宝になるものだが、いじめはそうじゃない。いじめは、痛みと傷しか残さない。叩き潰されれば未来を失う。それに耐える意味などない』

共に孤独を経験したからこそ、一人ではないことに価値を見出すことが出来る。孤独だった時間があったからこそ、隣に誰かいることの心強さを一層実感できる。濱田が経験した孤独と、玻璃が恐れた孤独は、少し違う。でも、濱田も玻璃も、似たような時間を過ごした。だから、聞こえない声が聞こえ、見えないものが見え、差し出せないはずの手を差し出すことが出来た。

『それでいい、って思ってたんです。いつの間にか、私は全部、それでいいってことにしてました。いじめられるのも、他のこともです。いろんなこと全部です。私の思い通りにならないことは全部。目に見えないし、手も届かない、あるって言っても誰も絶対信じてくれない、私の空のUFOのせい。だから私にはなんにもできない。どうしようもない。諦めるしかない。…なのに、先輩は、私のUFOを見つけてくれた』

彼らは、運命と、現実と、そしてUFOと戦う。

『UFOは、空にいます。きっとまた、色々あります。私はきっと今日もいじめられます。でも、見てろ、って思います。その宇宙から見てろ。私は変わるから。せいぜい見てリ、と。…そう思えるのは、先輩がここにいるからです』

一つ大きな不満がある。
物語のラストが、とても分かりにくいと僕は感じた。
正直、色んな場所を何度か読み返さないと、物語全体の整理をつけられなかった。何がどうなっているのか、イマイチ分からなかった。こんな分かりにくい構成にしなければ成り立たない作品だろうか、と思ってしまった。もう少しすっきりさせて、ラストを分かりやすくした方が、濱田と玻璃の物語がちゃんと際立つような気がした。その点が不満だ。惜しいな、と思った。

竹宮ゆゆこ「砕け散るところを見せてあげる」


めぐり逢ふまで 蔵前片想い小町日記(浮穴みみ)

内容に入ろうと思います。
蔵前の差札の一家の長女であるおまきは、23歳にもなってまだ結婚できていない。妹のおあやが、『おまきちゃんは媚びない。すなわち、無駄に笑わない。要するに愛嬌がない』と評するように、おまき自身の性格の問題でもあるのだが、しかしそれだけではないおまきが結婚できないのには、ある噂が付きまとっているからなのだ。

蔵前小町は祟られている

蔵前小町と呼ばれるほどの器量良しでありながらおまきが結婚できないのは、結婚相手と決まった男が立て続けに亡くなったという事実がある。それで男たちは、おまきとの縁談を怖がってるのだ。
一方おまきはと言えば、結婚したいと思っているわけではない。食べることが何よりも好きで、今の生活に不満がないということもあるが、もう一つ決定的な理由がある。

7歳の時に出会った、“光る君”の存在である。

7歳の時、暴民が蜂起したことで始まった騒動の最中、おまきは拐かされそうになったのだ。それを救ってくれたのが“光る君”である。光源氏の如くであり、名も知らぬその男の姿をおまきは忘れられないでいる。結婚しないでいれば、いつか“光る君”に再会出来る日が来るのではないか…。おまきは、そんな妄想を捨てられないのだ。

この物語の中で、おまきは、お見合いをさせられたり、たまたま出会った男に恋をしたりする。なんとかおまきを結婚させたいと願う両親と、結婚はともかく、“光る君”かそれと同等の素晴らしい男と出会って恋がしたいと切実に願うおまきの日常は、妹のおあやの周囲を唖然とさせたある行動によって大きく動き、おまきの人生を揺さぶっていく…。

というような話です。
まあまあ面白かった、という感じです。時代小説はそんなに読まないので、時代小説の中でどうなのか、というのはイマイチよく分からないのだけど、時代小説を普段読まない僕でもするっと読める作品ではありました。舞台が昔だというだけで、言葉遣いや人間の描き方みたいなものが現代風なので、読みやすいとは思いました。

本書で面白いのは、この時代における、結婚や恋というものの捉え方を物語にうまく反映している点だ。

『夫婦になるって、こんなことなのかしら。今日初めてお目にかかった友次郎さん、あの方を見ても、わたし、なんとも思わなかった。前のときは、もっと…。
こんなことで、この先二人で手を携えて、苦楽を共にできるのかしら。好きでもない人と…』

『恋をしてなくても、夫婦になれる。
それじゃ、恋って何だろう?
一瞬の中に永遠を閉じ込めるようなたった一度の恋をして、添い遂げる。そんなこと、やっぱり夢なのかしら。恋なんて、やっぱり幻なのかしら。出会ったあの日に、この世の中でたった一人の人だと確信した光る君。あの方に抱いたわたしの幼い恋も、やっぱり幻だったのかしら』

おまきは、“光る君”に出会ってしまったがために、恋というものを捨てきれない。あの時抱いたあの感覚こそが本物であり、本物を知ってしまっているが故に目の前の現実に失望する。もし“光る君”に出会っていなければ、本物の恋というものを知らなければ、いくら「祟られてる」と言われようが、おまきの結婚はもっと早い段階で決まっていたことだろう。本人にその気がないのでどうしようもない。

一方、妹のおあやは現実的だ。

『商売をやるなら、夫婦は、惚れた腫れたの前に、相棒でなくちゃならない』

『夫婦なんて、それでいい。
それなのに、おまきちゃんたら二十二にもなって、いつまでも 寝惚けたことを言っている。
恋した人と添いたいなんて。
恋は幻。そんな頼りないものに一生を託すなんて、恐ろしくて、わたしにはとても出来ない。』

おあやは、身内に見せる顔とは別に、周囲に笑顔を振りまき、男に媚を売る。そうやって自分の価値を最大限に活かして、良縁を手に入れようと日々努力している。おまきとは対称的だ。

どっちがいいわけでもないし、どの時代の判断基準で捉えるかのよっても全然違う。ただ、僕個人の好みを言えば、おまきのような感じはとても好きだ。別に、“光る君”に恋をしている部分を指して良いと言っているのではなくて、物事を自分の価値判断で捉え、周囲に媚びず、良い悪いをはっきり主張し、自分の力で生きていこうとしている感じがとてもいいなと思います。

後半はなかなか凄い展開になりますけど、おまきはおまきなりに、おあやはおあやなりに、それまで抱き続けてきた価値観が揺さぶられ、運命が変転していく感じはまあ面白かったかなという感じです。

この物語で描かれる時代と現代とでは、結婚や恋愛、男女のあり方などの価値観がまるで違うので、おまきやおあやの生き方を現代の文脈で捉えることは難しいけど、まったく位同じではないにせよ、現代には現代なりの、結婚を取り巻く(特に女性側の)難しさがあるわけで、そういうなかなか一筋縄ではいかない状況に置かれている、という意味で共感できるのかもしれません。

浮穴みみ「めぐり逢ふまで 蔵前片想い小町日記」


おしまいの日(新井素子)

内容に入ろうと思います。
坂井三津子は、日々日記を書いている。日記に書いている内容は、なんとか我が家の飼い猫にしようとしている野良猫「にゃおん」のことか、あるいは、
夫・忠春のこと。
夫は、仕事から全然帰ってこない。日付が変わる前に帰ってくればいい方。会社って、9時から5時までのはずなのに、どうして忠春さんとちゃんと会って話が出来る日がこんなに少ないのだろう。
三津子は、何時に帰ってくるかわからない夫の帰りをいつも待って、夫が帰ってきてからちゃんと夕飯も食べる。夫の睡眠時間を奪わないよう、夫がどうにか過労死しないよう、気を張っている。夫が健康でありさえすれば、給料が下がろうが出世しなかろうがどうでもいい、と思っている。
時々忠春さんにも、そういう話をしてみる。なんでそんなに忙しいのか?と。しかし夫は、仕方がないことだし、仕事が好きだからいいのだ、という風である。
三津子は少しずつ、追いつめられていく。
というような話です。

個人的には、ちょっとうーん、という感じの作品でした。
テーマやモチーフは非常に面白いと思いました。この作品では、読者は最初、三津子は狂気に冒されているのだ、と感じながら読むことでしょう。しかし、その判断が本当に正しいのか、読み進めるに連れて自信を失っていく。おかしいのは誰なのか、何なのか。そういう問いを突きつけつつ、ある意味で社会のあり方を批判するような全体のテーマは面白いと思いました。

著者があとがきでも書いてましたが、この作品が描かれた時代と現代とでは、働く者の状況というのはまた違っています。本書で描かれた通りの事柄に、そのまま共感できる人は、現代ではそう多くはないかもしれません。

とはいえ、仕事と個人の関係、という観点から見れば、それは常に何らかの問題を孕んでいる、と言えます。本書で描かれている通りではないとはいえ、現代も仕事をしている個々人は、社会の枠組みや経済の常識などに押し流されながら、そうせざるを得ないような生き方を強いられている人も多いだろう。そういう中で、三津子の存在が問いかける、「本当におかしいのは何なの?」という疑問は、切実なものとして読者の心に届くかもしれません。

そういう、テーマや社会の切り取り方みたいなものは面白いなと思うのですけど、全体的な文章力・描写力みたいなものがちょっと辛いな、と感じました。

まず、日記の文章が冗長だなぁ、と。確かに、三津子のような女性が、夫の帰りを待つ間の膨大な時間を使って書いた日記、という設定なので、冗長でもダラダラしてても、それはそれである意味でリアルなのかもしれません。ただ僕は、もう少しそのダラダラ感みたいなものはなくして欲しかったなぁ、と感じてしまいました。

また、会話も、ちょっと上滑りしてるというか、こんな会話しないよなぁ、というように感じてしまう、リアルさに欠ける印象でした。どうリアルさに欠けるのか、というのはうまく説明できないけど、こんな会話します?と思ってしまうんです。

あと、人物の描写についても、今ひとつ、という感じです。三津子という女性は、少なくとも僕の感覚からすれば、夫にべったりすぎて気持ち悪い。もちろん、三津子という女性はそういう女性として描かれているし、三津子には自分の意見がなかった、みたいな、どうして夫にべったりになってしまったのか、というような背景的な描写もあるのだけど、それでも、描写がうまくないんだろうなぁ、三津子は気持ち悪いな、と思ってしまいました。たぶんうまい作家が書けば、もう少し三津子という存在をきっちりと描けるんだと思うんです。気持ち悪いけどでもリアルな存在だな、と思わせられるところまで言っていないなぁと。

その他の登場人物についても、割とのっぺらぼうというか、必要な役割をこなすために存在している、という風にしか見えなかったです。

繰り返しますが、テーマ的には面白いと思うんです。上手く描けば、三津子の狂気はもっと狂気らしく描けるだろうし、その三津子の狂気が、後半にいくに連れてひっくり返されるカタルシスも、より強く印象づけることが出来るのだろうと思いました。三津子が最後の最後の決断に至る過程で見せる思考は、僕自身も共感できる部分があって、ある意味で僕は三津子と同類だと思ってもいいと思うんです。それなのに三津子の思考や価値観や決断にさほど心が動かされないのは、文章や描写が弱いんだろうなぁ、と感じてしまいました。もう少しブラッシュアップ出来る作品じゃないかな、と感じます。

新井素子「おしまいの日」


「リリーのすべて」を観に行ってきました

『私はやっと本当の自分になれた』

昔の僕は、本当の自分、というものについてよく考えていた。
何かに違和感を覚えていた。自分の存在に。何か違うと。でも、どうしてそう感じるのかは、全然理解できなかった。

『毎朝、今日こそ一日中アイナーでいようと誓う』

誰か他人といる時、僕は僕ではないような気がした。一人でいる時、僕はそんな気分になることはなかった。他人の存在が、僕に違和感をもたらした。

『時々アイナーを殺したくなる。
でもできない。リリーを殺すことだから』

初めは、他人にその原因を求めようとした。他人の何かが、僕をざわつかせるのだ、と。他人といる時だけそう感じるのだから、僕はずっとそんな風に勘違いしていた。

『僕は自分を隠している』

何がきっかけで考え方が変わったのか、僕は覚えていない。しかし次第に僕は、その原因を、自分の内側に求めるようになった。これは僕の問題なのだ、と。

『君のせいだ。彼女を刺激したから』

他人といると、僕の中で<僕>が生まれる。Aさんといる時は<僕A>が、Bさんといる時は<僕B>が、AさんとBさんといる時は<僕AB>が生まれる。<僕A>と<僕B>と<僕AB>は、確かに<僕>ではあるのだけど、少しずつ違う。

『君が姿を与えたけれど、リリーはずっといた』

そしてさらに、<僕>と僕も少し違う。本当の自分である僕と。いや、少しかどうかは、もう覚えていない。大分違ったのかもしれない。とにかく、他人といる度に、僕とは違う<僕>が常に生まれていく。僕と<僕>のズレに違和感を覚えるのだと、次第に理解できるようになっていった。

『君はアイナーを愛している。
僕は彼を殺しに行く』

だから僕は決めた。僕を殺せばいいのだな、と。
他人と関わる度に<僕>を生み出す生き方をずっと続けていた。だから、その習慣を変えるのは難しいと思った。僕と<僕>のズレに違和感を覚えていて、<僕>が生み出されることを変えられないのなら、出来ることはただ一つ。僕を消せばいい。言葉でそうと認識していたわけではないけど、僕は次第にそう考えるようになり、それを実行した。

『アイナーは死んだのよ。受け入れないと』

今、自分の中には、僕がいない。もちろん、完全にいないわけではない。時々、自分の奥深くから僕を引っ張りだしてこないといけない時がある。だから、消したというよりも、隠したという言い方が近いだろう。日常的には、僕は現れない。本当の自分である僕は。

『私は私の人生を生きる』

僕は<僕>の人生を生きることに決めた。色んな<僕>がいて、少しずつ違う。<僕>が生まれる度、僕はその<僕>を生きる。演じる。もう、そういう生き方しか出来なくなった。

『「彼女はどこから?」
「僕の中から」』

アイナーは、間違った自分を殺して、本当の自分になった。
僕は、本当の自分を殺して、「間違った自分」という概念が存在しないようにした。

『もうリリーは現れないほうがいいわ』


1926年。コペンハーゲン。
アイナー・ヴェイナーとその妻ゲルダは、共に画家として活動していた。アイナーは、その実力が高く評価されながらも、パーティ嫌いでなかなか表に顔を出さない。デンマーク最高の画家とは言わないまでも、最高の一人とは言える、というほどの評価を受けている。
ゲルダの方は、画商に絵を持って行ってもまだ扱ってもらえない。ゲルダは人物がを好んで描くが、画商からは、人物がではない方が一流の画家になれるのではないか、と暗にほのめかされる。しかしゲルダは、それに従うつもりがない。
アイナーとゲルダは、夫婦としてはうまくやっていた。なかなか子供に恵まれなかったが、結婚6年目でもセックスはしているし、お互いを信頼し必要な存在だと確認しあっている。
“リリー”が初めてこの世に現れたのは、アイナーがゲルダに、脚のモデルを頼まれた瞬間だ。バレリーナの友人が来られなくなり、急遽バレリーナのようにタイツを履いてモデルを務めることになったのだ。アイナーが務めたそのモデルは、遅れてやってきたバレリーナに、“リリー”と名付けられた。
リリーの存在が急激に大きくなったきっかけを作ったのは、妻のゲルダだった。パーティ嫌いのアイナーを表に引っ張り出すために、違う自分で、つまり女装してパーティに出ることを提案する。乗り気になったアイナーと二人で、完璧な女装が出来るよう準備を重ねていく。
そのパーティが終わった後から、アイナーはどんどんとおかしくなっていき…。

というような話です。

映画を最後まで見て初めて知ったのだけど、この作品は実話だそうです。どの程度実話に忠実に描かれているかは知りませんが、アイナーが記した日記を元に出版された「男から女へ」という作品が元になっているようです。

この作品の一番の肝は、もちろん、アイナーが苦しむことになる性同一性障害です。当時はまだそんな名称はなかったでしょう。映画の中でアイナーは、肉体を女性に変える手術を受けますが、アイナーに対して行われた手術が世界で初だそうです。アイナーは、多くの医者から「精神分裂」「性的倒錯」など、本人の意に染まない診断を受け続ける。当時はまだ、性同一性障害という名前どころか、そういう症状が実在することさえ、ほとんど受け入れられていなかった。そういう中で、自分の内側に“リリー”が存在し、リリーこそが本当の自分であり、アイナーは殺すべきなのだ、という決断に至るまでのアイナーの葛藤が、丁寧に描かれていく。

『どんな服を着ていても、眠りの中で見る夢は、リリーが見る夢よ』

リリーは、最初からアイナーの中にいた。しかし、アイナーは常にリリーを抑えこもうとしていた。「毎朝、今日こそ一日中アイナーでいようと誓う」というのは、アイナーの子供の頃の話だ。ずっと昔からアイナーは、内側に存在するリリーを感じ続けていた。

しかし、それをゲルダが助長させたことで、アイナーの内側のリリーは歯止めが利かなくなる。今まで抑えこんでいたリリーが、アイナーの内側で大きくなっていく。
今までは、アイナーとして夜夢を見ていただろう。少なくともアイナー自身はそういう意識でいられた。しかし、リリーを解放したことで、アイナーは思考や価値観がリリーに塗り替えられていくのを感じる。

『君が望むことを、僕は与えられない』

妻であるゲルダにそう語るアイナーの姿は、とても辛そうだ。

この物語の肝がアイナーの性同一性障害であることはその通りなのだけど、しかし、物語の中で最も重要な役割を握るのは、妻のゲルダだと僕は思う。

ゲルダは、最愛の夫を失うのだ。

『僕は君を愛している』

アイナーは繰り返しそうゲルダに語りかける。この言葉がアイナーの本心であるのかどうか、確かなことは何もいえない。しかし、アイナーが男としてゲルダを愛しているかどうかはともかくとして、アイナーが人としてゲルダを愛していることは間違いないだろう。彼らの間からは、それだけの強い信頼関係を感じることが出来る。

しかし、ゲルダは、そんな相手を失うことになる。

『私はあなたの妻よ。何でも知ってるわ』

アイナーとの強い絆を信じて疑わなかったゲルダ。しかしやがてその絆は解かれていく。

『「私たちは夫婦よ」
「あなたとアイナーはね」』

ゲルダは、「最愛のアイナー」を失いはした。しかし、「アイナーだった人」を失ったわけではない。この葛藤が、見ていて一番苦しいと感じた。アイナーは、もちろん苦しんだだろう。アイナーの苦しみは、生まれてこの方ずっとなわけで、単純に比較は出来ない。出来ないけれど、しかし、かつて愛した人がそこにいるのに、でも絶望的にそこにはいない、という辛さも、相当なものだろう。

『アイナーに会いたい。私には、夫が必要なの。夫と話したり抱きしめたりしたい。彼を呼んで。せめて努力をして』

ゲルダは、どんな風に折り合いをつけていけばいいのか。「何でも知ってるわ」と思っていた最愛の夫が、別人になっていく。今までそこに存在していたはずの、目に見えるものも目に見えないものもすべて、変わってしまった。その現実を、どう受け入れていけばいいのか。

「私もそう思います」

映画の終盤。ゲルダは迷いなくそう断言する。ここに行き着くまでのゲルダの心情に、一番心を掴まされた。自分がリリーを目覚めさせてしまったのかもしれない、という罪悪感と、アイナーに戻ってきてほしいという切実な願いが交じり合って、ゲルダは自分自身を制御しにくくなっていく。

リリーを解放して以降のアイナーは、僕にはわがままであるように見えた。
アイナーが、本当の自分を追い求めることは当然だ。その姿勢を否定したいわけではない。しかし、それまで妻だった女性、本心はともかく、深い信頼と絆で結ばれていると思わせていた女性の扱いが、酷く映った。ただ、ゲルダのことをちゃんと顧みることが出来ないほど、アイナーの内側はかき乱されていたのだろうとも思う。症例は存在したかもしれないが、少なくとも世間では受け入れられていない状態に今自分自身は陥っている。そういう中で、自分がどういう決断をすべきか。どういう振る舞いをするべきか。アイナーは悩み続けていただろう。そしてそれ故に、周りを見る余裕がなかったのだろう。しかしそうだとしても、ゲルダにはもう少しきちんと接するべきだったと、僕は感じてしまった。ゲルダに感情移入していたのだろう。

現代でさえ、LGBTと称される性の問題は、まだまだ社会の中で広く受け入れられているとは言えない。そういう中にあって、性同一性障害という症状自体まだ存在をほとんど知られていなかった時代のアイナーの決断は、LGBTに限らず、自らのアイデンティティに苦しむ多くの人に、勇気を与えることだろう。

「リリーのすべて」を観に行ってきました

花舞う里(古内一絵)

生まれ、というものを、特別考えたことはなかった。

僕は、関東に割と近い県の、都会でも田舎でもない町で生まれた。自分の部屋がないような小さな町営住宅に住んでいて、大学進学と同時に東京に出た。それから大学を辞め、ふらふらとフリーターを続けて、今故郷とはまるで関係のない地方に住んでいる。

金持ちの家に生まれたらとか、もっと教養のある親だったらとか、東京で生まれていたらとか、そういうことを一切考えたことがない。もちろんそれは、ある種恵まれた環境だったということなのだろう。両親は時折喧嘩をしていたが、子供に手を上げるような人ではなかった。金持ちではなかったが、私立の大学に行かせてもらった。僕の中に特に、東京に対する憧れはそもそもなかった。自分の出自は、どんな形であれ劣等感とは結びついていないし、どんな形であれ後悔を生み出しもしない。僕の考え方がそうさせる部分ももちろんあるだろうけど、概ね悪く無い環境で育ったということなのだろう。

けど、本書を読んで、考えたことがある。

『レベル分けされた競争は、一見公平を装いつつ、その実、生徒の体力の優劣を白日の下にさらけだす。自分が優良可のどこに位置しているのかを如実に可視化される体育祭を、潤はずっと不得手に感じていた。
けれど、勉強にしろ、体育にしろ、澄川小学校では元々の人数が少なすぎて、端から競争が成り立たない。東京の学校であれば絶対にあり得ない、ばらばらな人選のお遊びのような競技は、いっそ新鮮でもあった。』

『二人とも、東京のクラスではついぞ会ったことのないタイプだ。
それとも、葵を見るときにたびたび思うように、彼らのような個性は、大勢の生徒たちの中では発露しにくいものなのかもしれない。
人数が増えれば増えるほど、人は多面的にはとらえられない。どうしても、正面だけで判断される。初めて周に会ったとき、潤が「うざい」と感じたように、それだけが基準になって、側面的なものはないものとされていく。
偏見は一番楽なものの見方だから簡単に罷り通ってしまうが、その実、一番物事をつまらなくさせている。
見るべきものなどなにもないと思っていた澄川で、潤は随分新しい発見や体験をしている自分に気づくようになっていた。』

潤は、とある事情から東京の中学を離れ、母親の故郷である名古屋の奥三河の集落に引っ越してきた。そこで潤は、東京での生活と比較して、様々な違いを発見していくことになる。引っ越した当初こそ、悪い印象を与える違いばかりが目につくが、次第に潤は、東京では気づけなかった物事の新しい見方を獲得し、それに面白さを感じるようになっていく。

潤が澄川という集落に馴染んでいく過程で、こういう新たな視点というのは度々出てくるのだけど、それを読んで僕は、もし澄川に生まれたとしたら、と想像した。

それは怖いな、と。

何故なら、澄川で生まれ育つということは、澄川での「普通」が当たり前になっていく、ということだ。
潤は、東京での生活の経験がある。だから、その経験と比較することで、澄川の良い点を見つけることが出来る。しかしそれが出来るのは、別の場所での生活の経験があるからだ。

澄川の「普通」を悪く捉えたいわけではない。ただ、澄川での「普通」しか経験がないという人生は、怖いと思えてしまったのだ。

もちろん、東京の「普通」だって、ある意味では特殊だ。東京でしか通用しないものだろう。それでも、東京の「普通」は、日本の「普通」から極端に外れはしないだろう。だから、ある種の基準として東京の「普通」を使うことは出来る。

澄川の「普通」はそうはいかない。何故ならこの土地は、長い長い伝統を持ち、日本全国でも特殊と呼ばれる形態の祭りを現代まで受け継いでいる集落だからだ。そのため、この集落でしか通用しない「普通」が山程存在する。潤は引っ越してきてしばらく、それらの「普通」を拒絶し続ける。潤の側にも事情はあった。しかし、澄川での「普通」が、あまりにも東京での「普通」とかけ離れていた衝撃が、潤を躊躇させた部分もあるだろう。

『大事なのは舞を残すことであって、個々の舞手の気持ちではないんだよ。きっと』

若くして、地域ごとに違う花祭りをすべて踊り分けられる唯一の人物である蒼汰が、潤にそう語る場面がある。
あぁ怖い、と僕は感じた。これは蒼汰個人の意見ではあるが、しかしそこには、集落全体の総意を感じる。そこで生まれ育ち、一旦外に出たかどうかに限らず、今もこの地にとどまり続けている者たち。彼らの中で凝縮し、連綿と受け継がれてきた考え。この地で生まれ、この地で育つということは、この考え方を受け入れるということだ。個人の生活や人生よりも高いところに、祭りや舞の保存がくる。そういう土地の「普通」が、僕は怖いと思った。

潤は、事情を抱えてこの地にやってきた。この地で生まれたわけではないが、祭りとの関わりでこの地と繋がっている。余所者だが、余所者ではない。そんな潤にとって、この澄川の「普通」に順応していく過程は、自分の身に降り掛かった“邪悪”の輪郭をはっきりさせ、向き合い、受け入れていく過程でもあった。心に空白を抱えた潤だったからこそ、澄川の「普通」を内側に取り込んでいくことに意味があった。

澄川に生まれた者にとって、澄川の「普通」を生きることは、どんな意味を持つのだろうか?

『どうして人間には、(菌類のような)そうした明白な役割が与えられていないのだろう』

「ときとして、同じ菌糸が山を丸ごと覆い尽くすこともある」と、潤はとある老人から教わる。もし澄川に生まれ育つことが、集落全体で一つの菌糸であるかのように振る舞うことであったとしたら…

あぁ怖い、と僕は思ってしまうのだ。そして、そういう生まれでなかったことにホッとしてしまうのだ。


杉本潤は、母・多恵子と共に電車に揺られている。一つしかない線路で上下線の鉄道がすれ違うために、頻繁に駅で停車する電車。祖母である千沙が心配だからという取ってつけたような嘘をついて、潤を故郷へと連れて行く。
小学校と併設の澄川中学は、潤を含めて生徒は四人。大柄でムチムチした馴れ馴れしい岡崎周。小柄で常に首にタオルを巻いているが潤の面倒をよく見てくれる相川康男。そして、ショートカットで常に表情が硬い紅一点の神谷葵。彼らは、転校生である潤に殊更関心を抱くでもなく、ごく自然に潤を受け入れた。しかし潤の方は、他人を素直に受け入れる余裕はなく、特別彼らに馴染もうとするでもなく、基本的に一人でいた。完全に無関心ではないものの、一人でいる潤が浮いてしまうでもないこの雰囲気は、正直ありがたかった。
周たちは毎日放課後何かしているようだったが、潤はその誘いを無視して家に帰った。家に帰ったところで、携帯のゲームをやるか勉強するかぐらいしかやることがない。自分とどう接していいのか測りかねているような母や、久しぶりすぎてまだ馴染めていない祖母と話す気にもなれない。
バスに乗ると、出戻った母とその息子を噂する声がうんざりで、潤は山道を歩いて帰ることにした。その途中、久しぶりに過呼吸の発作に襲われる。まずい、と思った時、身体をぬくもりが包み込む。
見たことのない女の子が、「大丈夫」と言いながら潤を抱きしめているのだった…。

花祭りという、実在するらしい伝統祭と、その文化を日常の延長の中で存続させている集落を中心に、傷ついた少年が自分自身を取り戻していく物語だ。

こんな風に要約出来てしまうくらい、物語の骨組みは単純である。花祭りというモチーフは珍しいだろうけど、物語全体はありきたりと言ってしまってもいい。

しかし、古内一絵は、些細な変化に意味を持たせるのが巧い。大げさな装置や展開を物語の中に組み込まなくても、自立する強い物語を生み出すことが出来る。「どれだけ繰り返しても埒のあかない自問」に囚われ続けた少年の成長を、様々な人との出会い、そして祭りとの関わりの中で描き出していくだけなのに、そこに確かな何かを感じさせる。

『悲しみのない人はどこにもいない。
その絶望を、怒りを。寄る辺なさを、切なさを。踏みしめて踏みしめて。
どうしようもなく沸き起こる暗い思いを、抑えながら生きていく。』

自分の内側の中に留めておくしかなかった想いを、しかし自分の内側に留めておくにはあまりにも重たい想いを、潤は手放す勇気を手にする。忘れるわけではない。捨てるわけでもない。ただ、手元から放す。視界の端に留めながら、それでも常に見続けはしない。そういう場所まで辿りつくことが出来る。

『「この世には、個人の力ではどうにもできない痛ましい出来事が起きる。
(中略)
だがわしは、この年になって思うことがある。この世界には、どうにもできない悲しみを、なんとかして修復していこうとする、もうひとつの力があるのではないかと」
寄せては返す荒波のように、破綻と修復の力が拮抗しているのが、この世のひとつの有り様ではないのかと。
そして、なんとかしてすべてを修復しようと沸き起こる不可視の活力を、人は古から神と呼び、尊んできたのではないかと。』

動的平衡、という言葉を思い出した。人間の身体を構成する細胞は常に、死滅と再生を繰り返している。何年かすればすべての細胞が入れ替わるほど、そのサイクルは頻繁に行われている。そしてその、死滅と再生の動的な平衡状態こそ、「生きている」という状態を定義する本質なのではないかと、福岡伸一の著作の中で読んだ記憶がある。

その動的な平衡状態を保たせる“何か”を可視化させるものとして、花祭りとい神事が存在するのだろう。そんな儀式に、潤は次第に取り込まれていく。半分は自らの意志で、そしてもう半分は澄川という集落の意志で。

「どれだけ繰り返しても埒のあかない自問」は潤にとって、死滅のサイクルを早めるものだった。

『この世のすべてに意味などない。
神も鬼も、大嘘だ。』

潤は花祭りに関わることで、死滅と再生のバランスを取り戻していく。

『神も鬼も大嘘だ。
そう思ったことがあるのは、決して自分だけではなかった。』

潤は東京でバランスを失った。いや、もしかしたら、あの出来事がある前から、潤はバランスを失っていたのかもしれない。東京という土地が、それを可視化させなかっただけで。澄川の地で潤は、バランスを取り戻した。それは、澄川という土地に土着する過程で取り戻したものだ。潤のバランスには既に、澄川という土地の存在も組み込まれている。少なくとも潤はそのことを自覚している。

『確かなのは、自分の眼の前にある今だけだ。
そしてそれこそが、残された自分が本当に負うべきものだ。
将来のことまではわからない。でも、今は、自分のやれることをやるしかない。』

潤はとある老人から、花祭りの本質をこう聞かされる。

『神事を通し、一度は鬼とともに地獄に落ち、再び赤子として生まれ変わるのがはなというものだに』

過去を忘れるわけではない。後悔が消えるわけでもない。でも潤は、それらを捨て去りはしないままで生まれ変われる場所に行き着いた。次の世代に受け継ぐことに、どんな意味があるのかはっきりとはわからない神事に関わることで、潤は、一人の個人であることから緩く解放される。土地に根付き、個人の輪郭が薄まることで、喜びも悲しみも個人のものではなくなっていく。

『あのとき、潤にはちゃんと根っこがあるんだなって思ったよ』

多くの人と出会い、自分だけではない多くの葛藤に触れ、いくつかの偶然が後押しして潤は今いる場所に行き着いた。その過程は、ささやかな奇跡と呼んでもいいのかもしれないと思う。

澄川中学に通う者たちは皆、何らかの葛藤を抱えている。過疎が進んだ集落では、変化を受け入れなくてはならない。人も土地も、すべてが同じままではいられない。少しずつ変化していく。潤の転校という出来事以外に、大きな変化がもたらされない土地のささやかな変化を切り取りながら、一人の少年がきちんと地に足をつけるまでの過程を丁寧に描き出していく。じんわりと、染み入るような物語だった。

古内一絵「花舞う里」


ミナトホテルの裏庭には(寺地はるな)

本書を読むちょっと前から僕は、自分の長所の源泉について考えていた。

僕は、具体的にはズバッと言えないのだけど、「誰かの話を聞くこと」に関係する事柄に適性が高い、と思っている。どういう時にそう感じるかというと、「この人、他の人にはたぶんこういう話をしないんだろうな」と思う時だ。誰かと喋ってて、そんな風に感じることが時々ある。時々かよ、と思われるかもしれないけど。

僕は、「こいつには喋ってもなんか大丈夫なんだろう」という雰囲気を感じさせるのがうまいのかなぁ、と受け取っている。僕は、聞いた話を無闇に人に話さないし(まったく離さないわけではないけど)、相手が喋りたくなさそうな雰囲気を出したものは突っ込んで聞きはしない。相手が喋りたいんだろうなぁと僕が想像することを喋りやすくするように、合いの手を打ったり質問したりしている。こういうのはまあ、僕は得意というか、自然に出来ているような気がするなぁ、と自分で思ったりはする。

で、そういう認識は昔からあったのだけど、最近、その源泉がもしかしたらここにあるのではないか、という思考をした。それは、僕の短所の源泉と同じだ。

「他人に程よく興味がない」
これが僕の、長所と短所の源泉ではないかと思っている。

『良い意味で冷淡』
『他人はどこまでも他人だって、ちゃんとわかっている』

主人公の芯(木山芯輔)は、そんな風に評される。だから、他人の悩み事や愚痴なんかを、程よく受け流せるのだ、と。

僕にもそういう部分がある。僕の場合、「固定された関係性がない」という条件が必須なのだけど(つまり相手が、家族や恋人や妻や先輩・後輩ではない、という意味)、固定された関係性がない相手であれば、相手の悩み事や愚痴を程よく受け流せる。相手に、さほど強い関心がないからだ。相手の悩み事や愚痴に自分の心がダメージを負わないから、相手が言いたいことを喋りやすいように誘導できるし、適度に関心がないから、ここは喋りたくないんだろうなという部分は無闇には触れないようにできる。

ちょうど昨日、僕はある人から、「こんな時に話せる相手って◯◯さん(僕のこと)しかいない」みたいなことを言われた。内心驚きはしたけど、なるほど確かに、僕みたいな振る舞いの出来る人間は多くないのかもしれないなぁ、と一方では思いもした。

『うん。逃げ場が必要だって。世界には』

そう、僕は誰かにとっての逃げ場になれる存在なのかもしれないなぁ、と本書を読んで思った。逃げ場、というのは、普段は意識されない。日常が正常に機能していれば、逃げ場のことなんか頭に浮かびもしないだろう。日常に何か違和感や不快さが現れると、逃げ場のことが思い浮かぶ。

つまり逃げ場というのは、普段は存在しないで欲しいし、緊急事態の時には存在していて欲しいのだ。僕は、適度に相手に無関心であるが故に、「普段は存在しないで欲しい」という条件を割とクリア出来るし、相手の悩み事や愚痴にダメージを受けないので、「緊急事態の時には存在していて欲しい」という条件もクリア出来てしまう。比較的、逃げ場候補としては優秀なのではないか、と思っている。

『誰かの助けになるとか守るとか、そんなものは一緒に倒れる覚悟がある相手にしか、ほんとうは言ってはいけないことなのだとも。』

僕は、人から相談を受けたり、あるいは自分の意志で誰かのトラブルに関わる人間が、相手に対して言う無責任であることに無自覚な言葉が好きではない。そりゃ他人事だから、言うだけなら何でも言える。でもそれは、相手を追い詰める結果にしかならないことの方が多いだろう。

僕は、自分が誰かを助けたり守ったりなんてことが出来ないなんてことは分かっている。これは能力の問題ではなくて、意志の問題だ。誰かを助けたり、守ったりしようという意志がない。もちろんそれは、自分にそういう能力がない、自信がないから、そういう意志を持たないようにしている、ということもあるが、まあ順番はどうでもいい。僕には、誰かを助けたり守ったりする意志がない。一緒に倒れる覚悟はない。

だから僕は、何か言う時は、無責任であることが伝わるような言い方を意識する。それが正解かどうかは分からない。でも、それを正解だと感じてくれる人はまあいるんじゃないかな、という気はする。

『大切な人には、頼ってほしいものなんです。わがままを、言ってほしいんです。大切な人からあなたには関係ないって言われるのが、いちばん堪えるんです』

まあ、そうかもしれない。僕の内側にも、そういう気持ちはあるかもしれない。けど、もっと関わりの薄い、真剣味の薄い、遠い場所にいる存在というのも、同じくらい大事なんじゃないかな、と僕は思う。少なくとも、僕には必要だ。

『もうこれは限界、って思った時に行く場所がある時とない時では、気の持ちようがずいぶん違うでしょう?』

ミナトホテルは、カウンセリングをしてくれるわけでも、身体に良い食事を出してくれるわけでもない。基本的には宿泊客に対して、何もしない。それでも、ミナトホテルの存在は、誰かにとって救いになる。

僕は、どちらかと言えば、そういう人間になりたい。

内容に入ろうと思います。

芯は、祖父の命に従っていたら、骨折した男を病院に連れて行く羽目になった。
鍵を探すのだ、と祖父は言う。陽子さんの一周忌が近いからな、と。謎の「互助会」のメンバーが、亡くなってしまったメンバーである陽子さんの一周忌のイベントを盛大にやるのだ、という。そのために、ミナトホテルの裏庭の鍵が必要だから探してくるのだ、と芯に言う。
そんなわけで、かつて塾で働いていた時の先輩である湊篤彦が、亡き母である陽子さんから受け継いだ「ミナトホテル」に足を運んだところ、骨折した湊を発見したのだった。
それから芯は、なし崩し的にミナトホテルと深く関わることになる。骨折した湊の代わりに受付に座り、逃げ出した愛猫である平田カラメルを探す手伝いをし、さらに、部屋の片付けが驚異的に下手だった陽子さんの部屋から鍵を探しだすミッションを同時に行う。
親しくしていたものの唐突に求職し連絡が取れなくなった初瀬のことを思い出したり、ミナトホテルに長期滞在し、湊が好意を寄せていることが明らかな一児の母である桐子さん、そして芯のいる会社の派遣社員であり、たまたま泣き姿を目撃してしまったがために時折関わることになった花岡さんなどが、ミナトホテルを中心に関わり合いを持ち、ささやかな日常とささやかなトラブルの狭間を揺れ動きながら進んでいく風景を描き出していく。

この作家、デビュー作も読みましたけど、好きなんだよなぁ。デビュー作も本作も、正直、ストーリーはなんてことはないんです。ホントに、要約したらなんだそりゃ?と思うようなストーリーなんです。ただ、登場人物の描き方とか、色んな描写の切り取り方が実に絶妙で、本当に大したことないストーリーなんだけど、実に読ませるんだよなぁ。この作家、本当に上手いなって思います。

ただ、この作品の「登場人物の描き方」を、ここで魅力的に伝えるのはなかなか難しいんです。
「登場人物の描き方」が面白いというのは大抵、登場人物が個々にキャラが立っている、ということが多いです。個人個人が個性的なキャラクターを持っているので、こうやって感想を書く時も、どこが面白いのかを書くことが出来る場合が多いです。

ただこの作家の場合、ここの人物がそれぞれに個性的なのか、というと、それはちょっと違うような気がするんです。確かに、ちょっとずつズレてはいると思うんだけど、でも特筆すべきほどではない。
この作家の場合、「登場人物の描き方」で秀でているのは、関係性の中にある。一人一人はそこまでずば抜けて際立っていないのに、それぞれが誰かと関係性を持った時に、そこに際立った何かが生まれる。その描き方が巧いんだよなぁ、と思う。

主人公は、何かに秀でているわけでも、野心があるわけでも、やる気があるわけでもない。

『向上心とか、野心とか、そういったものが欠けている人間だ、という自覚がある。このままではいけないという焦りもないが、「これが俺だ」と開き直るほどの確固たるものもまた、芯の心にはない』

芯は、芯という個人で見れば、本当にどこにでもいるような普通の男だ。けれど、彼は様々な人間と関わる中で、少しずつ違った姿を見せる。その中には、芯自身でさえ、おやっ、と思う自分もいただろう。そこが面白い。個人個人の中に特異なものがあるのではなく、関係性の中に、本人ですら自覚出来ていないような特異さが現れる。その描き方がとても巧い。

著者の作品を読むと、著者の他者に対する眼差しが想像できるような気がする。人間というものを普段から多面的に捉える習慣がないと、こういう絶妙な描写は出来ないような気がする。

そしてもう一つ。デビュー作も本作もそうだけど、皆が集まる「場」が、実に魅力的に描かれていく。
本書の場合、それはミナトホテルなのだけど、普通のホテルじゃない。色んな、ちょっとわけありの人が泊まりに来る。さらにそこに、色んな形で繋がることになった多くの人が関わることになる。ミナトホテルというホテルは、ただそこに寝る場所があるだけだ。それでも、そこが磁力を持っているかのように、多くの人を引き寄せる。人と人との関係性の中に特異な何かが生まれる背景には、そういう磁力を持った場が存在する。それらが渾然となって、作品全体としての魅力を醸し出すことになるのだ。

文章をつらつらと書きながら、どうにかして作中の具体的なエピソードなりなんなりをこの感想の中に組み込めないかなと考えているのだけど、やっぱり難しい。それは、どのエピソードも、繋がりの中で意味を持つものだからだ。それだけひょいっとつまみ上げても、輝かない。少しずつズレた人たちがいて、複層的な関係性が存在し、その背景にミナトホテルという場が存在するからこそ、それぞれのエピソードが映える。日常の些細な事柄を、こんな風にすることで魅力的に描き出すことが出来るのか、という驚きがある。

僕の感想を読んでも、どんな物語なのかさっぱり分からないだろう。しかし、ストーリーそのものに強い何かがあるわけではないし、魅力的な人間の関係性は、それだけを取り出して見せることが出来ない。本当に、読んでみてもらうしか魅力が伝わりにくい作品で、欠点があるとすればそこだなぁ、という感じがする。

決して良い人ばかりではないし、良い話ばかりでもない。それでも、心の中に何かを残す、印象的な物語だなぁと思う。

寺地はるな「ミナトホテルの裏庭には」


2045年問題 コンピュータが人類を超える日(松田卓也)

『コンピュータの能力が全人類の知能を超えてしまう』

そんな未来が、あと30年でやってくると信じられるでしょうか?
本書は、そんな話が現実のものであると指摘し、我々の未来がどうなっていくのか垣間見せてくれる作品だ。

先に一つ断っておく。
本書の発行は2013年だ。本書の冒頭で著者はこんな風に書いている。

『2045年問題について述べている人は、日本では私以外にほぼ皆無といってよいでしょう。たとえばいまグーグルで検索してみても、専門家のページでヒットするのは、私のブログだけです。日本の知識人の多くは、この問題をほとんど認識していないか、知っていてもオカルトサイエンスやSFの類いのひとつだとして、真剣に考察していない節があります。』

一方現代では、「人工知能」「AI」と言った単語が、新聞や雑誌やテレビに頻繁に登場します。見ない日はない、と言ったら嘘になるかもしれませんが、それに近いぐらいかなり注目されている話です。

何故か。

それは、技術の進歩により、この「2045年問題」がよりリアルに感じられるようになったからでしょう。

本書は、「2045年問題」が、少なくとも日本ではリアルに捉えられていなかった時期に出版された本だ。そういう意味で、現時点の最新の知見が載っているわけではない。だから古い作品ではあるのだけど、しかし冒頭で引用した『コンピュータの能力が全人類の知能を超えてしまう』ということがまったく想像できないし嘘だと思う方は、まず本書から読んだ方がいいでしょう。まさに本書は、「日本中ほぼ誰も2045年問題に注目していなかった時期に書かれた作品」なわけで、そういう人向けに書かれています。最近出版されている本にも入門書的な作品は色々あるでしょうが、どの程度の知識を前提としているのかは作品によるでしょう。本書は、書かれていることは古いと思うのだけど、入門書としては適切ではないか、と僕は感じます。

未来のある時点でコンピュータ技術が爆発的に発展し、それより先はコンピュータの行く末を人間が予測できなくなる、という仮説が欧米を中心に真剣に検討されているようです。そして、そうなる時点のことを「技術的特異点」あるいは「シンギュラリティ」という呼び名の方が有名かもしれませんが、そんな風に呼びます。

そして、そのシンギュラリティが、2045年頃に起こるのではないか、と言われてるのです。なのでこの問題は「2045年問題」と総称されています。

コンピュータが人間のように認知、思考する能力を身につけるなんていうことが、本当に起こりうるでしょうか?
記憶に新しいのは、グーグルが開発した碁の人工知能「アルファ碁」です。アルファ碁は、韓国のトップ棋士、そしてそれはつまり、世界最強の棋士ということでもあるのですけど、そのトップ棋士を打ち破ってしまったのです。

これは、あと10年は不可能だと言われていたことでした。将棋と比べて碁は、打ち手の数が天文学的な数で、従来の方式では人間に勝つ機械を生み出すことはまだまだ不可能だと思われていたのです。
しかしそれを実現させてしまった。
グーグルが用いたのは「ディープラーニング」という、人間が経験や思考を蓄積していく過程を模したプログラムだそうですが、この詳細は僕は知りません。ただ、この「ディープラーニング」という手法は、人工知能の業界を驚嘆させ、一変させる力を持った凄い技術だったという認識はしています。このような技術革新がどんどん起これば…。

僕自身は、2045年より前なのか後なのか、それは分からないけど、いずれコンピュータが人類の知能を超えるだろうと思っています。もちろんそれは、様々な人の意見を真に受けているわけで、自分で考えた結論ではありませんが、しかしそれは避けられないだろうなと感じます。人間の脳だって、基本的には電気的な信号でやり取りしているわけです。脳の仕組みを解明する、あるいはそこまでいかなくても、結果的に脳の仕組みを真似出来るようなシステムを組み上げることが出来てしまえば、あとはメモリやCPUなどのスペックの問題でしょうし、そういうスペックは明らかにコンピュータの方が高いでしょう。

『さらに、この究極の未来では、人類が神になるとカーツワイルは述べています。全宇宙がコンピュータ化した未来では、コンピュータが世界そのものなのですから、そのコンピュータをつくった人類は創造神とみなされるというわけです』

本書にこんな記述がありますが、これを読んで僕はこんな妄想をしました。僕らも、僕らが「造物主」や「神」と呼んでいる「前時代の知的生物」によって作られた「人工知能」なのではないのか、と。我々を作り出した「造物主」「神」は、我々より優れていたわけではなく、結果的に自分たちよりも能力の高い存在を生み出してしまったが故に駆逐されてしまった「前時代」の知能の持ち主なのではないか、と。まあそんなことはないでしょうが、そうだったら面白いなと思ったりします。

本書では、コンピュータが進化し続けた未来で一体どんなことが起こりうるのか(しかも遠い未来ではなく、ここ30年、もっと遠くてもここ100年近くでどんなことが起こるか)を様々にイメージさせてくれます。興味深い話もそうでない話も様々にありますが、僕が面白いと思ったのは以下の四点です。

◯ コンピュータが意識を持つことについて
◯ 学習による価値観の習得
◯ 「人口知性戦争」について
◯ 衰退と技術革新のバランス

「コンピュータが意識を持つことについて」というのは、様々な物語で触れられる機会もあるからイメージはしやすいでしょう。ただ、僕はあまり意識していなかったのは、「欧米人ほど、コンピュータが意識を持つかどうか気にする」という点です。少なくとも、著者はそう主張します。

『ところが、多くの研究者は、コンピュータが意識をもてるか否かという点を盛んに気にしています。これはきっと、欧米のキリスト教文化が影響いていると思います。
キリスト教徒にとってじゃ、「自由意志」という概念が大変重要です。神が「信じなさい」と命じるのではなくて、「私の自由意志で信じます」という形です。そのため、コンピュータに意識という自由意志が宿るかどうかは、彼らにとって大問題になるのです』

そしてその後で、日本では殿様のためとか国のためという価値観が支配的だったから、自由意志を尊重する価値観がない、だから日本の研究者はそこにあまり関心を持たないのだ、と続けます。

本当に日本人が、コンピュータに意識が宿るかどうかに欧米人と比べて無関心なのかは分からないけど、そうだとすれば、キリスト教的価値観によるのだという指摘はその通りだろうし、面白い見方だなと思いました。ただ日本でも、ドラえもんや鉄腕アトムみたいな、人工知能と呼んでいいだろう存在が自然に受け入れられているので、徐々に、コンピュータに意識が宿るのかを気にする日本人が増えていてもおかしくないのかなという気はしました。

そして「学習による価値観の習得」は、まさにこの「価値観」という部分が重要になってきます。

『もし強い人工知能ができて意識をもったとすれば、なんらかの価値観を備えます。その価値観は、4章で述べた通り、だれに育てられるかによって左右されます。欧米人に育てられれば、欧米のキリスト教的価値観が、中国人に育てられれば中華思想的価値観が自ずと育まれることでしょう。』

なるほど、こういう観点で人工知能を捉えたことはなかったな、と考えさせられました。

確かに、自分で思考出来る人工知能が誕生したとしても、それは赤ん坊のような存在です。そこから何をどう学んでいくかによって、人格のようなものが形成されていき、固有の価値観を持つようになるわけです。

その過程を誰が担うのか。これは非常に大きな問題です。何故なら、恐らくですが、最初にそういう人工知能を開発した国や組織が、地球全体のシェアを握ってしまうように思うからです。一番乗りしたところが、世界の覇権を握ってもおかしくないと思うわけです。

日本人が開発して日本の価値観によって育てられた人工知能が地球を覆い尽くすならいいですが、そうではないとしたらどうでしょう?僕らは、日本に住んでいながら、日本固有の価値観に沿って生きていくことが出来なくなるかもしれません。

これは嫌だな、と思いました。僕は、人工知能が人間を超えるのはまあその通りだろうと思っているし、ある程度人工知能に支配される未来は受け入れるしかないと思っている人間だけど、それでも、日本とは違う価値観によって教育された人工知能に支配されるとしたら、それはもの凄く嫌だなと感じました。

「「人口知性戦争」について」も考えたことがなかった発想なので興味深いと思いました。

『デ・ガリスは、人類が危機にさらされるとしても神となる人工知能をつくろうという人々を「宇宙主義者」、それに反対する、人間が大事だという人々を「地球主義者」と呼びます。そして、21世紀後半、両者の間で大戦争が起きるというのが、デ・ガリスの未来予測です。彼はその戦争を「人口知性戦争」と呼び、数十億人が死ぬことになるだろうといいます。デ・ガリスのこの説は、欧米の一部では大論争を呼んでいます』

これも、ありうる未来だな、と思いました。確かに、「コンピュータが人類を超える」という認識を受け入れたとしても、そこから人間の反応は二つに分かれます。その流れに乗る派(宇宙主義者)と、それでもその流れに反対する派(地球主義者)です。現代でも、例えば著名な物理学者であるホーキング博士は、人工知能を進化させることに対して警告を発しているし、テスラモーターズやSpaceXの創業者であるイーロン・マスクも同じように人工知能に対して懸念を示しています。

人工知能の進化は、このままにしておけば、いずれ人類の知能を超えるところまで行くでしょう。しかしそれを人間の理性が阻止する、という可能性は確かにまだ残っています。技術的には可能でも人類が遺伝子操作によって「試験管ベイビー」を生み出していないように、これ以上人工知能を進化させることに危機感を抱いてその進化をストップさせる、という未来がありうるのかもしれない、という気もします。それを食い止めるために争いが起こるのだとしたら、それは無意味だと感じるけれども。

人間の好奇心を食い止めるのは、相当に困難でしょう。しかし、近い将来、コンピュータの進化の過程で、人間がコンピュータの進化に対して強い嫌悪感を抱くような出来事が起こるかもしれません。ロボットやCGアニメの世界で有名な「不気味の谷」という現象があります。これは、ロボットやCGアニメでの人間の顔が、人間にある一定以上近づき過ぎると、逆に不気味に感じられてしまう、というものです。コンピュータの進化が進むことで、ある瞬間から「不気味の谷」のような現象が起こり、人工知能の進化の手を緩めるような働きが加わるかもしれません。

さらに、人工知能の開発を停滞させるかもしれないものがあります。それが「衰退と技術革新のバランス」で描かれるのだけど、要は、技術革新を生み出すためのお金がないかもしれない、ということです。

これは盛んに言われていますが、人工知能の進化によって、人類の仕事がどんどん奪われていくようになります。そうなると、仕事のない人間が増え、消費が増えず、経済が回らないために、地球全体の富が減少する、というような未来がやってくると予測されています。

そうなった時、人工知能を進化させるだけの金銭的な余裕がない、という未来だって十分に考えられると著者は指摘します。確かにありえない話ではありません。地球全体の富を消費し尽くすのが先か、意識を持った人工知能が開発され、人類の生活が新しいステージへと進んでいくのが先か。これからは、そういう競争でもあるのだな、と認識しました。

未来がどうなるのか、確実なことは誰にも分かりません。しかし、一つはっきり言えることがあります。それは、今現在の価値観に寄りかかっていたら、10数年後には生き残れない、ということです。技術革新の驚異的なサイクルは、僕らの社会全体の変化をも加速させ、それによって生きていくのに必要とされる知識や技能がどんどんと変わっていくことでしょう。今の価値観は、10年後には駆逐されている。そういう前提で、自分の頭で何が必要なのかを考えて、自らを教育し続けなくてはいけない時代になるのだろうな、と感じました。

人工知能の進化によって、どういう未来がやってくるのかという具体的な話も面白かったけど、どちらかと言えば、人工知能の進化が人類の生活にどんな悪影響を及ぼしうるのかという話の方が面白かったな、という印象があります。最近僕は職場で、この人工知能絡みの話をよくしますが、ある人が、「人工知能の進化によって、人類が滅亡するまさにその瞬間に立ち会えるかもしれないんだからテンション上がる」と言っていて、確かにそれは面白いかもしれない、と感じました。そんな瞬間、なかなか見れないですからね。人工知能とその進化が引き起こす未来について誰かと喋ってみると、人がどんな価値観を抱いているか透けて見えるから面白いと思います。

松田卓也「2045年問題 コンピュータが人類を超える日」


展覧会いまだ準備中(山本幸久)

子供の頃、何になりたかったか、全然覚えていない。
覚えているのは、「何にもなりたくない」と思い始めてからのことばっかりだ。

僕は、いつの頃からだっただろう、何にもなりたくない、と思うようになった。
もっと具体的に言えば、社会に出たくないなぁ、とずっと思っていた。
今でも社会は怖いけど、でも子供の頃はもっと怖かった。社会に出る自分、というものが全然想像出来なかった。中学生の頃に、サラリーマンは絶対に無理だ、と思った。どうしてそう思ったのか記憶はないが、その思いは今も継続して抱いている。サラリーマン以外で社会に出るイメージは出来なかった。スポーツや歌に秀でていたわけではないし、何か芸が出来るわけでも、英語が喋れるわけでもなかった。自分が、何らかの能力を使って社会を渡り歩いているイメージが出来なかった。

周りにいる大人を見ても、「こんな大人になりたい!」と思えるような人はいなかった。別に、ロクでもない大人ばっかりだった、なんて言うつもりはない。けど、尊敬できるような、こんな生き方を真似してみたいと思えるような、そんな大人には出会うことがなかった。

だから僕には、自分が社会に出て何かやっている想像が、一切出来なかった。

まあ、大抵の人はそうなのかもしれない。大学生になって、就活が始まる頃に、そうか何か考えないといけないんだな、と思ってようやく将来のことを考え始める人だっていることだろう。子供の頃、自分が社会に出ているイメージが出来なくても、それは大したことではなかったかもしれない。

僕に何か、やりたいこと、のめり込んでいることがあれば、それでも良かったかもしれない。マンガでもゲームでも、盆栽でも剣道でも、虫の観察でも女装でも、まあ別に何だっていい。とにかく、これをやっている時は楽しい、生きている実感が溢れる、どれだけ止めようと思っても気持ちがそっちに移ってしまう。そういうものがあれば良かったかもしれない。実現可能性はともかく、その対象の延長線上に自分の未来があると、ぼんやりと妄想することが出来たかもしれないから。

でも、そういうものもなかった。特別やりたいことは何もなかった。「ギターにはさほど興味ないけど、ギターが弾けたらモテるから始めた」みたいな動機も僕にはなかった。正直、何もしたくなかった。

僕は本当に、勉強ばかりしていた。結果的に、勉強は楽しかった。けど、勉強をずっと続けていたのは、ただの逃避でしかない。やりたくてやりたくて仕方なかったことではない。日常を埋めるために、やりたいことが別に何もない退屈な日常をどうにか埋めるために、勉強をし続けていたに過ぎない。

大学に入って、大学を辞めて、バイトをいくつかバックれて、社会と断絶して、そうやって紆余曲折を経ながら、どうにか今もなんとか社会の中で生きている。昔ほどしんどさを感じなくはなったけど、やりたいことがない、なりたいものがない、という状況は、今もさほど変わらない。

夢や希望を持つことは、ある意味では苦しいことでもある。誰もが夢や希望を叶えられるわけではないし、夢や希望を叶えた人だって、望んだ通りの生き方が出来るとも限らない。僕は僕なりに、夢も希望も持たずに、目の前の状況に適応しながらフラフラと生きてきた自分の人生を、割と肯定している。自分が望んだ未来がやってくる、あるいは掴みとることよりも、目の前に立ち現われた現実の中でどう楽しむかを考える方が性に合っていたのだろう。

しかし、叶うかどうかはともかくとして、夢や希望を持ち続けられる人が羨ましく思えることもある。大人になってからは特に。
子供の頃は、ある程度無邪気に夢は希望を持つことが出来る。でも大人になれば、ある程度現実を受け入れていくしかない。その現実に抗しきれずに、夢や希望を手放してしまう人もいるだろう。
しかしそれでも、自分のやりたいことをきっちりと見定めて、叶うかどうか、いやそもそも、追いかけられるかどうかさえ分からないまま、自分の内側に夢や希望を持ち続けることが出来るというのは、ある意味でそれは一つの才能ではないかと僕は感じる。

よく言われることだが、夢が終わるのは、その夢を諦めた瞬間だ。諦めなければ叶うわけではないが、しかし諦めたら絶対に叶わない。叶うかどうか、追えるかどうかに関わらず、夢を手放さないこと。そんな風に生きていけたらいいな、と思う自分も、どこかにはいる。

内容に入ろうと思います。
大学時代応援部に所属しており、今は野猿美術館という小規模な美術館の新米学芸員である今田弾吉。美術館の学芸員という、とても狭き門を潜り抜け、ある意味で「夢を叶えた」弾吉だが、しかし現実は思うようにはいかない。新米だから仕方ないとはいえ、学芸員になって3年、弾吉は未だに雑用のような仕事をやっている。美術館の運営のためにそれらの仕事が大事なこともわかっているし、応援部時代の辛さを考えれば屁でもないが、しかし、出しても出しても通らない企画書のことを考えると、ため息をつきたくもなる。

美術館には、市役所から来ている名ばかりの館長であるジャクチュー、美術館を実質的に取り仕切っている窪内、窪内と常にバトっている筧、企画展の準備に熱中するあまりぶっ倒れてしまう八木橋など、なかなか個性的な面々が揃っている。
八木橋が企画したとある企画でバトルが勃発したり、それを弾吉がおさめたり、美術専門の運送会社の19歳の美人・サクラと弾吉がいい感じだったり、とある少年の情熱に弾吉が怖気づいたりと色んなことが日々起こるが、弾吉にとって一つ転機になるような出会いもある。
それは、応援部の先輩である韮山が持ちかけてきた話だ。

祖母の遺品を整理していたら絵が出てきたから見てくれないか、という。羊の絵で、とぼけたような雰囲気が見るものを思わず笑顔にさせてしまう力がある。乾福助という人物の手によるものだと判明するのだが、この絵と出会ったことで弾吉の人生は、緩やかに動き始めていく…。

というような話です。

山本幸久はやっぱりいい話を書くなぁ、という感じです。テーマが斬新とか、驚くような展開がある、みたいな分かりやすいアピールポイントがない作風なので、どうしても今ひとつ飛び抜けない印象があるのだけど、どの作品も、読めばみんな、じんわりしたりほこりしたりやる気が出たりするような、とにかく良い話を書くんです。

この作品も、美術館の学芸員という、なかなか馴染みのない舞台を描きながら、「夢を追うとはどういうことなのか」というのを様々に描き出す内容になっていて、非常に面白い。

作中には、様々な形で夢と関わる人物が出てくる。

応援部時代の先輩である白柳は、なりたいものがなんなのか、やりたいことがなんなのか分からないまま、大人になったという理由で会社で働き始め、今に至っている。

『おまえはいいよなぁ。てめえのなりたい職業に就いて、てめえのやりたいことやって、しかもお金もらっているじゃねぇかよぉ』

夢がないまま大人になったという意味で、僕は白柳に近い。白柳が抱えているだろう空白については、なんとなく分かる気がする。

一方で、そう言われた弾吉も、心の中でこう思う。

『たしかになりたい職業には就いた。しかしやりたいことをやってはいない。毎日、雑多な仕事をひたすらこなしているだけで精一杯だ。これまでに展示会の企画書を百はだしているが、どれもボツをくらっている。』

先程も書いたが、学芸員というのは狭き門だ。だから、その狭き門をくぐり抜けた、というだけで、ある意味で一つ夢を叶えていると言える。しかし、そこからさらに先がある。学芸員になれたからといって、自分が理想とする働き方が出来るわけじゃない。この点について、作中のある人物が非常に的確な表現をしていた。

『夢が叶った、好きな仕事に就けた、やりたいことができた。それ自体、素晴らしいことだ。でも問題はそこから先だったんだ。やりたいことをやりつづけて生きていけるかどうか』

東大に入るために受験勉強をし続けてきて、いざ東大に合格したが、東大に入ってから何をしたいのかという目標が何もなかった、というようなのに近いだろう。夢も東大も同じだ。その門を潜っただけでは意味がない。そこが、スタート地点なのだ。

『いまは長い道のりのスタート地点に立ったばかりだ。成果を挙げることができるかどうか怪しいし、評価されることもないかもしれない。でもそれを言ったら世の中の大半はそんなものだ。報われない努力を積み重ねつづけたところで、だれも褒めてくれないどころか、ときには非難されてしまうことだってある。だけどやるんだよ。やらなくちゃ駄目なんだ』

サクラは、とても美人なのに、ボクシングをやっている。実際に試合に出て、顔にドデカイ絆創膏を貼るようなこともある。なんでそんなことを?と問われてサクラはこう返す。

『でもあたし、ボクシングをやってるときだけ、あたし、生きてるって実感があるんです』

羊の絵の所有者である韮山氏の息子であるマサヒコは、周りの同級生とまるで価値観が合わなくても、自分の内側から湧き上がる欲求を追い続けるし、それを実に楽しそうに語る。そんなマサヒコを見て弾吉はこんな風に感じる。

『そんな彼を見ていて、さきほどとおなじにおもしろがることが弾吉にはできなくなっていた。それどころか、苛立ちさえ感じる。
好きなものを好きだと言え、そんな自らを疑うことなく、それについて熱心に語れるマサヒコに対してか。あるいはマサヒコをこれほど熱中させる展示会とその作り手達にか。
きっと、どちらにもだ。そのどちらにも、俺はなれないんだとあきらめている自分にも苛立っているのだ。情けない』

彼らは、何故自分がそれに囚われるのか、説明しない。説明する必要を感じないのだ。彼らにとってそれは、自分を引きずり込んで当然のものとしてそこにある。他人に対して、何故それにハマっているのかわざわざ説明する必要もないし、それにのめり込んでいる自分を客観視する必要もない。

それは、将来に向かった夢や希望とは直接的には繋がっていないかもしれない。特にサクラからはそう感じる。サクラはボクシングの延長線上に自分の未来を見ていないように感じる。
それでも、自分を捉えて離さないものの存在は、いつか見つかるかもしれない夢や希望との接続を容易にするだろうし、自分の思いも寄らない形で夢や希望と関係してくるかもしれない。

他にも、新天地へと向かうことを決めた者、成り行き任せで生きる者を窘める者、夢を追う者を応援する者など、同時並行で進んでいく様々なエピソードが、「夢」というキーワードでまとめられていく。これから社会に出て行くことを迷っている者は、社会の中でもがいている者に、押し付けがましくない形で何らかの示唆を与えるような物語ではないかと思う。

弾吉の、応援部だった、という設定が、作中の様々な場面で登場するのも面白い。宴会の余興程度のことから、物語を大きく動かすような原動力としてまで、弾吉の応援は様々な形で描かれる。
とある人物から弾吉が言われた言葉が、なかなか面白い。

『きみは大学四年間、散々、ひとにがんばれがんばれって、応援してきたくせして、自分自身がここイチバンってとき、がんばらないんだから。しっかりしてよ。』

確かに弾吉は、そう言いたくなるようなキャラではある。『言われたことはなんでもこなそうとは思うが、さすがに天気ばかりはどうにもならない』と思っているような、ガチガチの体育会系で、先輩からの命令は絶対だという生き方をしているのだけど、それ故なのか、自分の意志が表に出ることが少ない。割と何でも器用にこなすのに、ちょっとばかり情熱に掛ける。弾吉が色んな場面で悩み、立ち止まる姿は、ちょっと自分を見ているようだった。まあ、僕は応援部ではなかったし、体育会系のあの感じはちょっと無理なんだけど。

登場人物もなかなかに個性的で、魅力的だ。芸術系の仕事に就いている人がみんなそうということはないだろうけど、『人生ブキッチョなひとばっかなんだから』というように、芸術で生きていこうという人は、ちょっと変わった人が多いイメージがある。こういう言い方は正しくないかもしれないが、社会から外れるぐらいの意志がないと、芸術と関わって生きていこうなんていう考えは出来ないかもしれない。

マンガに出てくるような、具体的にどうズレているのかがはっきり指摘できるようなキャラクターではなく、だからこそリアルな感じもする。みんなちょっとずつおかしいんだけど、みんなおかしいからそのおかしさが目立たなくなっている、という可能性もある。とにかく、一緒に仕事をする相手としてどうかはちょっとなんとも言えないけど(悪いとは思わないけど)、一緒にいて楽しい人たちだろうということは伝わってくる。

物語が実に中途半端なところで終わっている、と指摘している人がいて、確かにそれは分からないではない。僕も、ここで終わりなんだ、と思った。けど、まあそこまで気にはしなかった。なんでそう思ったんだろうと考えてみるんだけど、たぶん、物語の筋よりも、作品の雰囲気が好きだったからかな、という気がする。物語も面白いと思うんだけど、全体の雰囲気が心地よい感じで、小説はここで終わるけど、この作品の世界はこれからも続いていくんだな、そうだったらいいな、という風に思えたのかもしれない。まあとはいえ、そう思えない人がいるというのもまた理解できる終わり方ではあった。

手軽に読むのに良い作品だと思います。

山本幸久「展覧会いまだ準備中」


カエルの楽園(百田尚樹)

未来に対する選択肢が複数あり、どれか一つを選んだら、残りの選択肢はもう選べない。そういう状況の中で、選択肢の正しさを判断する基準というのは一体どこにあるのか、と僕はいつも考えている。

例えば就職活動をし、A社とB社に受かったとする。A社とB社はまったく違う職種で、かつ、A社とB社両方を選ぶということは不可能だ。しかしこの場合は、選択肢の良し悪しを判断できる場合もある。例えばA社を選んだとして、後々B社が倒産したとすれば、やっぱりA社を選んで良かった、と判断できるだろう。この場合、ある個人で見れば選択肢は一種類しか選びようがないが、全体で捉えればA社を選ぶ者もB社を選ぶ者もおり、それぞれの行く末によって結果的に選択肢の良し悪しを判断できる、ということになる。

もちろん先の例の場合、倒産などはっきりとした現象がない場合、選択肢同士の比較は難しくなる。激務だが給料の多いA社と、暇だが給料の低いB社、というような具合に。しかし、いずれにせよ、比較可能な対象が同時並行で存在しうるならば、後は自分自身の中に何らかの基準を設けて、それぞれの選択肢の良し悪しを判断すればいい。

じゃあ、一つの国の未来を考える場合、複数ある選択肢の中からどれを選ぶべきかをどう判断するべきだろうか?

国の方向性というのは、基本的に一つしか選べない。国民の60%はA案で、国民の40%はB案を選びとる、などということは出来ない。100%A案を取るか、100%B案を取るかの二択しかない。

その場合、選ばなかった方の選択肢が良かった/悪かったと判断できるような状況を、想像出来るだろうか?

60%がA案、40%がB案、というようなことが出来るなら、比較はそう難しくはない。何らかの差が生まれるだろうから、後は先程のように、自分の内側に何らかの基準を設けて判断するだけだ。A案が良かったのか、B案が良かったのか。

しかし、100%どちらかの選択肢を選びとった場合、選ばなかった方の未来は絶対にやってこない。それは、こうなるだろう、こうなったはずだという空想・妄想でしかない。100%A案を選びとった場合、国民は、「A案を選んだことで起こった現実」と「B案をもし選んでいた場合に起こっていたかもしれない空想」を比較してA案とB案の良し悪しを判断するしかない。

いや、それは無理だ。不可能だ。

空想というのは、いかようにでも良し悪しを調整出来る。悪い部分を強調することも、良い部分を強調することも出来る。それと、目の前の現実を比較するというのは、どう考えてもまともな議論にならない。

だから僕はそういう、構成員全員が一方の選択肢を100%選び取らなければならないような命題については、どの選択肢も正解で、どの選択肢も不正解なのだ、と思っている。

これもある種の思考停止だろう。それは認識している。

ただ僕は、どっちも正解でどっちも不正解だから、議論を先延ばしにしようとか、結論を出さないでおこう、なんて考えているわけではない。

どっちも正解で不正解なんだから、さっさとどっちかに決めちゃえばいい、と考えている。

僕が重要視するのは、どちらの選択肢を選ぶか、ではなく、その結論にどのように至るか、ということだと思う。

今までの議論を覆すようなことを言うが、仮に「正しい選択肢」というものが存在するとしよう。しかしその「正しい選択肢」を選びとるまでに、多くの人間が争い、お互いを罵倒し、両陣営が修復不可能になりながら数の論理だけで結論を出す、そんなやり方をしたら、仮に「正しい選択肢」を選んだとしても、それは良い未来にならないと思う。一方で、どっちも正解で不正解な状況である場合、国民全員が可能な限り争わず、友好的な形で何らかの選択肢を選べば、選んだ選択肢は良い未来をもたらすのではないか、と思う。

もちろん僕の言っていることは理想だが、しかし今のような、争いが常態化しているような状態で何らかの選択をしても、最終的に良い選択は出来ないだろう。「争いを避けるべきだ」なんて、本書に出てくるナバージュの住民のようなことを言っていると思われるかもしれないが、そうではない。ナバージュの住民は、「争わないことで不幸がもたらされてもそれでも争ってはいけない」という思考停止に陥っていたが、僕の意見は、「争わないことで良い選択が出来るようになるはずだ」という前向きな提言である。

僕は、世の中の頭の良い人たちが、「どちらの選択肢を選ぶべきか」にどの頭脳を集中させている状況はもったいないしおかしいと思っている。争いが表面化している状態では、どんな選択肢を選ぼうとも、「選ばなかった方だったらこんなに良かった」という空想をいくらでも繰り出せるので争いは一向に終わらない。だったら、世の中の頭の良い人たちには、「どのように選択肢を選びとるか」という方にその頭脳を使って欲しいものだ、と思う。

内容に入ろうと思います。
アマガエルであるソクラテスは、生まれ育った国を離れ、楽園を目指して旅を続けている。
祖国は、ダルマガエルの群れに蹂躙されている。逃げても、シマヘビに食われる。ソクラテスを始めとする60匹ほどは、祖国を離れ、旅を続けながら安住の地を探すことにしました。
しかし旅の途中、仲間のほとんどは死にました。どこにも、アマガエルが安らかに暮らせる土地はありません。ソクラテスと、最後まで残ったロベルトの二人は、もうほとんど諦めかけていました。
そんな中彼らは、偶然、ナバージュという国にたどり着きました。そこは、まさに楽園のような土地でした。ツチガエルの国であるナバージュでは、カエルは誰からも食われることなく、みなが平和に暮らしていました。余所者であるソクラテスとロベルトにもとても優しい。なんて素晴らしい国なんだと二匹は思いました。
この国の平和にはどんな秘密があるのか。二匹はそれを調べ始めますが、ほどなく彼らは、ナバージュの面々が「三戒」と呼んでいるあるルールの存在を知ります。

「カエルを信じろ」
「カエルと争うな」
「争うための力を持つな」

この「三戒」を意識しているからこそ、ナバージュは平和なのだと、皆が口々に語っています。
ロベルトは次第に、この国の、そして「三戒」の素晴らしさに魅せられていきます。しかしソクラテスは、どうにも腑に落ちません。「三戒」があるから平和が保たれている、というのは、どうにもおかしいような気がするのだけど…。

というような話です。

読めば誰でも分かると思いますが、本書は、日本のまさに今の現状を寓話として描き出しています。作中には、日本国憲法・自衛隊・アメリカなどをモチーフにしたものが登場し、カエルの物語を通じて、現在の日本の置かれている状況を描き出していきます。

確かにこの作品を読むと、日本が、「憲法九条を手放さないために争いをしない」という状況のおかしさみたいなものを実感させられることでしょう。

『「プロメテウスは一番大事なことを忘れている。われわれには何よりも大切な三戒があるのだ。これを侵すことは許されん。三戒はなんとしても守らねばならぬのだ!」
「三戒のためにナバージュのカエルの命が危うくなってもですか?三戒のせいで国が危うくなっても、三戒を守るのですか?」
「それは詭弁だ!そんなごまかしの言葉で三戒の矛盾を衝こうとしても、わしは騙されんぞ。ナバージュが今日まで平和でいられたのは、三戒のお陰なのだ。三戒を失えば、ナバージュの平和もなくなる」』

こんなやり取りがかなり頻繁に繰り返されます。そしてこれを読んだ人間は、「そこまでして三戒を守ろうとするのはおかしいな、このカエルたち」という風に感じられて行くことでしょう。

僕は、右翼と左翼の違いもちゃんとは分からないし(右翼が天皇や日本という国を崇拝している、ぐらいのイメージしかない)、百田尚樹の政治信条も知らないんだけど、でも本書を読めば、百田尚樹が、「憲法九条を捨てて、日本は争いのための力を持つべきだ」と考えていることは分かる。本書は、その選択肢を取らなかった場合にどれほど悲惨な未来が待っているのかを描き出すものだからだ。

本書を読めば、読者はそういう風に誘導されるだろう。そういう意味で、実によく出来た物語だとは思う。「三戒は何が何でも守らなければならないんだ!」と主張している人がとてもアホに映るように描かれているし、争いのための力を持つべきだという主張が実に理路整然と当然のものに映るように描かれている。

ただ、僕は先程も書いたように、この問題についてはもう正解というのは存在しないと思う。存在するどんな選択肢を選びとっても、まともな未来はやってこないだろう。何故なら、どの選択肢に落ち着くにせよ、そこに至るまでの過程で争いが起こり、禍根が残り、多くの人が不本意のままその選択を受入ざるを得なくなるからだ。

「憲法九条を捨てて争いのための力を持つべき」という選択肢であろうと、「憲法九条を守って争いは避けるべき」という選択肢であろうと、良い面・悪い面は当然ある。この物語では、前者の良い面と、後者の悪い面がクローズアップされて描かれている、と考えるべきだろう。当然、前者の悪い面と、後者の良い面をクローズアップした物語だって存在しうる。著者は自説に自信があって、国民が自分の意見に同調するべきだ、という強い信念があるのだろうけど、僕自身は、こういう風に、ある選択肢へと多くの人を誘導していくような物語は、ちょっと好きになれないな、と思う。

先程も書いたが、僕は既に、「どの選択肢を選ぶか」という議論には意味がない、と思っている。頭の良い人たちには、その議論の無意味さに早く気付いて欲しいと思う。そして、「どのように選択肢を選びとるか」について真剣に議論してほしいと思う。

本書は、客観的な視点を失わずに読めるのであれば、現在の日本が置かれている状況を実にシンプルに分かりやすく解説しているという点で、読んでみる価値はあるなと思いました。

百田尚樹「カエルの楽園」


「乃木坂工事中 #54 160501「恋愛ゲームアプリ『乃木恋』リリース記念!理想の彼氏に求める条件ベスト5をメンバーが大発表!」」を見て

「乃木恋」という恋愛ゲームアプリがリリースされた記念で、乃木坂46のメンバーが理想の彼氏に求める条件を5つ挙げる、という企画です。

まず見てて思ったのは、ホントに人間の好みってのは多種多様で面白いな、ということ。見た目や考え方や趣味趣向など、そんなところを見るんだ、と思わせるような条件がいっぱいありました。

もちろん、すべての条件を満たすような人間はいない(万が一いても出会えるかはわからない)。だから人は、その条件すべてが満たされていなければダメ、という判断はしない。ある程度の理想条件を満たした人を好きになって、その人の様々な面を後から受け入れていくことになるわけで、その条件がすべてではないのは分かる。けど、その特定の誰かというのがいない段階での理想条件の幅広さには、やっぱり驚かされるなぁ、と思います。

こういう話、日常的にする人はするんだろうけど、僕はあんまり聞いたり自分でしたりなんていうことをしないので、改めて複数の人たちが自分の理想条件を挙げているのを見て、ほぉーと思ったのでした。

さて、僕は齋藤飛鳥が好きなので、齋藤飛鳥が挙げた5つの条件を書いてみます。

◯うすっぺらい体(ガリガリは嫌だけど、筋肉質はちょっと苦手)
◯ボソボソ喋る人
◯さりげない人
◯家計の管理が出来るひと
◯大人なのにスキップ

この中で、「さりげない人」の話の中で出てきた、「サプライズが好きじゃない」という話が僕は一番いいなと思いました。

この「サプライズが好きじゃない」という意見、別の人が発言していたことがあります。新垣結衣です。

確か「情熱大陸」だったはずだけど、その番組の中でガッキーが、「サプライズが好きじゃない」という話をしていて、その瞬間、ガッキーっていいな、と思いました。「サプライズが好きじゃない」理由は、「うまく驚ける自信がないから」。すげー分かるなぁ、と思いました。

僕もサプライズが得意じゃありません。理由は、ガッキーとまったく同じ理由です。
サプライズって、仕掛ける側が「相手はこれぐらい驚いて、喜んでくれるだろう」という想定をして色々準備をしてくれているはずです。でも僕は、間違いなく、その想定に達しないぐらいの反応しか返せません。人生の中でそんなにサプライズをしてもらったことがない気がするから、実際に反応が返せなかった、という経験がたくさんあるわけじゃないけど、自分が、まあこれぐらいの反応はした方がいいよな、と自分でさえ思うレベルの反応をしているイメージが出来ません。

また、なんというのか、自分なんかにそんなことしてもらうのは悪いなぁ、という気持ちもあります。この「自分なんかに」というのには、「うまく反応を返せないのに」という理由もありますが、それだけじゃなく、「別に大した存在でもないのに」「別に何かしたわけでもないのに」みたいな感じがあります。基本的に自己評価が低いので、他者からの評価が過剰に感じられてしまうことが多いです。いや、そんなことしてもらうのには値しない人間っす、みたいな思いがどうしても湧き出てしまうんですよね。

齋藤飛鳥がどんな理由で「サプライズが好きじゃない」のかは語られなかったから不明ですが、恐らく似たような理由ではないかと思います。同じく「さりげない人」の話の中で語っていた、「記念日とかじゃない時に、買い物に行ってなんか良いのあったから買ってきた」みたいなさりげない感じでモノを渡して欲しい、みたいに言ってたのも、わかるわー、という感じでした。

あと齋藤飛鳥については、「食べ物とかモノをくれるとチョロいので」って言ってたのが面白かったです。確かに以前、乃木坂工事中で「しくじり先生」風の企画をやってた時に、齋藤飛鳥は、「初期のころ、いちごミルクをくれるとすぐ懐く」というキャラで行こうと思ってたという話をしてたから、「モノをもらうと嬉しい」という感覚はあるんだろうと思います。でもたぶん、この「モノ」っていうのが曲者なんだろうと思っています。たぶん、何でもいいわけじゃないと思うんですよね。自分のストライクゾーンに入ってくる「モノ」をくれたらチョロい、っていう話だと思うんで、実際にはたぶん、全然チョロくないんだろうな、という気がしました。

他に面白かったのは、高山一実です。「バカか天才」っていう条件を挙げていました。とにかく普通は嫌で、動物園に行ったら、「あれってゴリラなの?サルなの?」というレベルのバカか、あるいは、「あのサルは今日本に何頭ぐらいいてね…」って何でも説明してくれる天才かがいいらしいです。僕も普通は嫌なので、感覚的には分かるんですけど、でもやっぱり「ゴリラなの?サルなの?」っていうバカはちょっと嫌だなぁ、と思いました。

橋本奈々未の「冷たそうな目」っていうのも分かるなと思いました。「鋭く情熱的な感じで見られること」が苦手だそうで、「何を考えているんだか分からないような目」がいいと言っていました。その方が自分も、相手のことにずっと興味を持っていられるだろうから、と。

そう、この理由の部分の方に僕は共感したのでした。僕は、他人への興味があんまり持続しない人間だという自覚があります。だから、いくら喋っても底が見えない、相手の価値観がイマイチ掴めない、何を考えているのか分からないような人だといいなと思います。僕は、人との関係において、相手を理解しきりたい、という気持ちは薄いです。相手のことは理解したいけど、でも永遠に理解しきれないままでいたい、という感覚がとても強い。そうじゃないと、その人に興味を持ち続けられないからです。そう思うからこそ、僕自身も、なるべく他人から理解されきらないように振る舞おう、という意識があったりします。

橋本奈々未が同じことを言っているのか、はっきりとは分からないけど、僕はそう受け取ったし、共感できるポイントでした。

やっぱり僕はこう、メンバーの価値観が浮き彫りになるようなこういう企画は面白いな、と思います。

「乃木坂工事中 #54 160501「恋愛ゲームアプリ『乃木恋』リリース記念!理想の彼氏に求める条件ベスト5をメンバーが大発表!」」を見て

これからの世界をつくる仲間たちへ(落合陽一)

本書をこれから読もうという人に、本書を読む際の注意をまず書いておこうと思う。

本書を読んで、著者の提示する「目指すべき生き方」を辿れる人間は、ほとんどいないだろう。
しかし勘違いしないで欲しいのは、だからと言って本書を読む価値がない、というわけではないということだ。むしろ、本書を読んで著者の提示する「目指すべき生き方」を盲目的に突き進むのは、少し怖いようにも思う。

本書を読む価値はどこにあるのか。
それは、「諦めがつくこと」と「少なくとも間違った方向に行かないで済むこと」の二点にあると思う。

「諦めがつく」というのは、文字通り、未来の展望を諦める、ということだ。本書では、近い将来社会はこうなっていくだろう、という著者なりの予測が描かれる。そしてそれは、一言で言えば、「人間がコンピュータに使わる社会」だ。著者は「共存」という言葉を使うし、そういう社会が当然の世の中になれば「共存」という表現が適切になっていくだろうが、まだそうなっていない僕らの世代からすれば、それは「使われる」という表現で間違っていないと思う。

『そのためこれからは、人間が「人工知能のインターフェイス」として働くことが多くなるでしょう』

人間は、コンピュータが調べたり考えたりすることを、最終的にアウトプットするためのインターフェイスに過ぎなくなる。著者はそう予測します。恐らくそうなるんだろう、という想像が、僕も出来るように思います。

本書で「これからの世界をつくる仲間たちへ」向けられたメッセージというのは、そういうコンピュータに使われる人材から逃れて、「クリエイティブ・クラス」を目指そう、というものです。どうしたらそうなれるのか、という著者なりの提言が書かれていますが、しかし、この「クリエイティブ・クラス」になれる人間は、本当に限られた人たちだけになるでしょう。恐らく、世の中のほとんどの人間は、その「クリエイティブ・クラス」に属せないまま、コンピュータに使われる存在として生きることになるでしょう。

僕は本書は、「クリエイティブ・クラス」を目指すための指南書であると同時に、コンピュータに使われる生き方を受け入れるという未来をソフトランディングに受け入れる処方箋でもあると感じました。多くの人にとっては、こちらの効用の方が大きいのではないか。僕はそんな風に感じました。

もう一点の「少なくとも間違った方向に行かないで済むこと」というのは、「クリエイティブ・クラス」にはなれないまでも、自分の人生をより悪化させるような方向を避けるための思考を手に入れられるのではないか、ということです。

『正直、いまの中学生や高校生には、とりあえず「意識高い系にだけはなるな」と言いたいぐらいです』

「意識高い系」をわざわざ定義することはしませんが、大体イメージできると思います。著者は、そういう意識高い系こそ、これからの社会で真っ先に淘汰されていくのだ、と書きます。僕も、それはその通りだな、と思います。

『ですから若い世代は、いま自分がどんな時代に生きているのかを過去と比較して知ることも大事です。昔は何ができなくて、いまは何ができるのかを知らなければ、解決すべき問題を発見することも、そこに文脈をつけることもできません。生まれたときからパソコンもインターネットもスマートフォンもあると、「昔は何ができなかったのか」を直観的には理解しにくいものですが、それがわからないと、20年後、30年後にまた別の時代が訪れることも想像できないのです』

未来がどうなるかばかり考えていると、視野が狭くなる。特に、著者が指摘するように、いわゆるデジタルネイティブ世代は、インターネットがなかった時代のことが分からない。分からないから比較が出来ない。そこにどれだけの激変があったのか、僕は直観的に分かるし、だからこそ、未来にもさらなる激変がやってくるのだろうと推測出来るけど、デジタルネイティブ世代はそれが出来ない可能性が高い。だからこそ、未来のことばかり考えるのではなく、過去を知ることで、まずは間違った方向に進まないようにする。

著者の様々なメッセージは、一方では読者をとても熱くする。まるで魔法に掛けられたかのように、自分にも世界が変えられるのではないか、自分に出来る範囲で何か世界と関われるのではないか。そんな風に思わされる。
しかし一方では、著者が提示する未来の社会像があまりにもハード過ぎて(そして、そういう未来がやってくるのだろうと僕は信じられるので)、そういう世界で自分が「クリエイティブ・クラス」として残れる気がしない、という気持ちにもさせられる。

まず「諦め」、そして「間違った方向に進まない」ために本書を読む。そういう態度も有効ではないかと思う。そしてその「諦め」と「間違った方向に進まない」をとりあえず一旦受け入れた後で、「クリエイティブ・クラス」を目指すために自分に何が出来るのかを妄想する。そういう本であると捉えておかないと、この本は、多くの人にとって遠い存在になってしまうようにも思う。特に、未来に希望を抱かせてくれるような大きな物語が共有しえなくなってしまった今の時代には。

著者のように、そして著者が提示する「クリエイティブ・クラス」のように生きられなくてもいい。そういう生き方が出来なかったら失敗なわけじゃない。まずそういう大前提を自分の内側にきちんと用意した上で本書を読んだ方がいいのではないか、と僕は感じる。


本書は主に、「現代」「未来」「能力」という三つの観点から人間社会を切り取っていく。

「現代」とは、現代の人間社会がどうなっているのか、という現状確認。「未来」は、コンピュータとインターネットが生み出す人類の未来がどうなっていくのか、という提示。そして「能力」とは、そんな未来の人間社会の中で「クリエイティブ・クラス」として生き残るために必要な能力とその身につけ方の提示だ。

『21世紀が来て16年、今世紀のすでに6分の1を消費したいま、僕はやっと「ほんとうの21世紀」がやってきたような気がしています。ここで「ほんとうの21世紀」という言葉を使った意味は、前世紀の人類を支配していたパラダイム、映像によって育まれてきた共通の幻想を基軸としたパラダイムがようやく抜け落ちてきた、または変化してきたなという実感があるからです』

著者は、映像という文化が統一的な考え方、モノの見方を布教することで、これまでの人間社会が動いてきたと指摘し、それがインターネットの登場によってどんどん切り崩されている現状を確認する。

『イデオロギー単位の大きな戦いから、一人一人が作り上げていく「個別の文脈」にあらゆることが分化していく。その中で唯一全体を保持する共通概念、コンピュータテクノロジー』

統一的な考え方が解体され、人間の思考や価値観はどこまでも分化する。分化し続けるだけでは「社会」という単位ではまとまれないが、それを「社会」という形に繋ぎ止めるものが、それまではただのツールでしかなかったコンピュータ。今では、コンピュータは単なるツールではなく、人間には不可能な形で分裂した価値観を繋ぎ止める、「社会」というものの構成になくてはならない存在となった。

『コンピュータという大きなものの文化的性質を知らずに生きていくことは、貧困の側に回り、それが再生産されていく温床になりかねません』

『ところが、彼らに将来の指針を与える立場にある親の世代が、いまコンピュータやインターネットのもたらす技術的変化や文化的変化によって具体的に何が起こるのか、それがどういう意味を持つのかを理解していません。そのため多くの親が、子供に見当違いの教育を与えているような気がします』

さて、コンピュータはどんな未来を生み出していくのか。本書の中には、ホワイトカラーの仕事をすべて奪うとか、著者自身の具体的な研究がどういう未来を生むかなど、具体的な話も色々出てきますが、それらを一々挙げていてはキリがないので、非常に大きな捉え方をしている部分を抜き出しましょう。

『そこを鍛えなければ、どんなに英語を学んでも、プログラミングを学んでも、シンギュラリティやマルチラリティ以降の世界に通用する人間にはなれないでしょう。それは、「コンピュータと人間が相互に補完しあってそれ以前の人類を超えていく時代」だからです』

『コンピュータは電化製品ではなく、我々の第二の身体であり、脳であり、そして知的処理を行うもの、たんぱく質の遺伝子を持たない集合型の生物です』

著者は人間とコンピュータの関係を、人間とミトコンドリアの関係に喩えます。進化の過程でミトコンドリアという他の生命体を取り入れ共存している人類。人間がコンピュータという“ミトコンドリア”を取り込んで共存するのか、あるいは、コンピュータが人間という“ミトコンドリア”を取り込んで共存するのか、著者の中ではまだ答えは出ていないそうですが、いずれそういう関係になるのは間違いない、と著者は言います。

さて、そんな風に「現代」と「未来」を確認した上で、ではどんな「能力」を身につけ、どんな生き方を目指すべきなのか、という点が本書のメインになっていきます。

ここでは様々なことが触れられていきますが、著者がざっくりまとめた部分があるのでまずそれを引用します。

『重要なのは、「言語化する能力」「論理力」「思考体力」「世界70億人を相手にすること」「経済感覚」「世界は人間が回しているという意識」、そして「専門性」です。これらの武器を身につければ、「自分」という個人に価値が生まれるので、どこでも活躍の場を見つけることができます』

この中で、僕の琴線に引っかかった「言語化する能力&思考体力」と「専門性」について書こうと思う。

『また、ネットで知った知識をそのまま人に話しているようではダメ。思考体力の基本は「解釈力」です。知識を他の知識とひたすら結びつけておくこと。
したがって大事なのは、検索で知った答えを自分なりに解釈して、そこに書かれていない深いストーリーを語ることができるかどうか。自分の生きてきた人生とその答えはどうやって接続されていくのか。それを考えることで思考が深まり、形式知が暗黙知になっていくのです。
そういう能力は、考えたことの意味を「言葉で説明する」努力をすることで養われます。僕の東京大学大学院時代の指導教官である暦本純一先生(スマホなどで使われているマルチタッチのアイディアを世界で最初に作った人です)も「言語化は最高の思考ツールだ」と言っていました』

これは、僕にはとても理解できる話だ。
何故なら、このブログで僕がずっとやり続けていることだからだ。

僕は、どんな本の感想を、どんなテンションで書くかによっても大分左右されるが、このブログは、「考えるために文章を書く、という目的のために続けている」という意識がずっとある。

僕がこのブログに、「思考した事柄を文章として出力している」のではない。僕は、「文章を書くという作業をしながら思考を深めている」のだ。だから、文章を書く前に、今から書こうとしている文章の構成を考えることはない。とりあえず、書き始める。何でもいいから、キーボードを叩いて文章を出力してみる。キーボードを打ちながら思考し、同時にそれを出力していく。初めからそんなことが出来たわけではないのだけど、毎日毎日、ブログ用の文章を書くための時間に制限がある中で(毎日仕事をして、本を読んで、感想を書くというサイクルを続けていると、感想を書くのにそこまで時間を割けない)、いつの間にか、「思考しながら文章を出力する」「文章を出力しながら思考する」というスタイルが出来上がっていった。

僕は、頭の中だけで思考を深めるのが苦手だ。何も書かず、どんな出力もしないまま、ただ頭の中だけで思考をこねくり回していても、どうもその思考を深めることが出来ない。それが得意な人もいるだろうけど、僕には無理だ。僕は、頭の中にあるモヤモヤした何かを、とりあえず無理やりにでも文字化、文章化してみることでしか思考を深められない。人と話しながらでも出来なくはないのだけど、そもそも会話というのは、文章を出力する以上の早さが求められるし、さらに、口調や敬語や話を聞いているよというアピールなど、思考そのもの以外の部分に対してもリソースを持っていかれるので、効率がいいわけではない。適切に議論を深められる、話し方に気を使わなくても平気な相手となら、文章を出力する以上の思考のやり取りを期待できるのだけど、大抵そう上手くはいかない。

僕は、決して頻繁にではないのだけど、無理やり文章を出力することで、「あぁそうか、俺ってこんなことを考えていたんだ」と気づく瞬間がある。これは、非常に面白い。僕が、「思考したことを出力する」ということをやっていたとしたら、こういう瞬間は絶対に訪れない。文章を出力しながら同時に考えるというスタイルだからこそ起こりうる瞬間なのだ。

『これからの時代、コミュニケーションで大事なのは、語学的な正しさではなく、「ロジックの正しさ」です』

『したがって外国人との会話も、まずはその内容を自分の母語できちんとロジカルに話せることが大事です』

言語化や思考体力と密接に関わってくるのがロジックで、本書でもその重要さは繰り返し語られる。この点においても、ブログで文章を書くというのは大いに役立っていると思う。一応人に見せる前提の文章を書いている、という自覚があるので、読んだ人間に一応伝わるような論理性のある文章を書こうという意識はある。これが、FacebookやLINEなど限定的な人しか見ない場で書くとか、あるいは誰にも見せないでノートなどに文章を書く場合との違いで、他者の目を意識し続けることで、ある程度以上論理力は磨かれるのではないか、と僕は考えています。

僕は、気のせいかもしれませんが、ブログで文章を書くようになって以来、自分のコミュニケーション能力が上がった、という自覚があります。対面でのやり取りではなく、ただひたすら人に見られる前提の文章を書き続けることが何故コミュニケーション能力の向上に繋がるのか。僕なりの解釈では、僕の「書きながら思考する」というスタイルは、まさに喋る時と同じだから、ということではないかと思っています。常に考え、常に出力する。その経験が、実際の対面のやり取りの経験が少なくても、コミュニケーション能力を向上させてくれたのではないか、と思います。

さて、一方の「専門性」という意味では、僕はとても弱い。

『だから、いまの小中学生が将来「コンピュータに駆逐されない自律的な仕事」をできるようになるのは、何でも水準以上にこなせるジェネラリストではなく、専門性を持つスペシャリストになることが必要です』

『「知識資本主義」の社会では知識が資本になるわけですが、それはどんな知識でもいいというわけではありません。誰もが共有できるマニュアルのような「形式知」は、勝つためのリソースにはならない。誰も盗むことのできない知識、すなわち「暗黙知」を持つ者が、それを自らの資本として戦うことができるのです』

『一般教養と違って、テクニカルな専門性というのはインターネットをクリックするだけで学習できるようなものではありません。みんながアクセスする知識に、専門性はないのです』

僕は、どちらかと言えば割となんでも出来るジェネラリストです。何をやらせても、割と平均以上のパフォーマンスを出しますが、突出した何かはない。人にはまあ真似できないだろう何かを持っている可能性があるとすれば、それはまさにこのブログ、つまり、どんな本を読んでも数千字の感想を毎回書き、それを十数年も続けている、ということぐらいでしょうか。それにしたって、確かに突出した才能である可能性はあるけど、特に何にも活かせないような能力(本書では、「土器を作れる能力」みたいに呼んでいます)だろうから、「専門性」と主張できるようなものではないだろう。

「専門性」を語る上で、そしてコンピュータに駆逐されない仕事をするために重要なキーワードが「モチベーション」です。

『コンピュータには「これがやりたい」という動機がありません。目的を与えれば人間には太刀打ちできないスピードと精度でそれを処理しますが、それは「やりたくてやっている」わけではないでしょう。今のところ、人間社会をどうしたいか、何を実現したいかといったようなモチベーションは、常に人間の側にある。だから、それさえしっかり持っていれば、いまはコンピュータを「使う」側にいられるのです』

著者はそういう人間の究極を「秀才」でも「天才」でもなく「変態」と呼ぶ。そしてこれからの社会は、こういう「変態」こそが変えていくのだ、と。著者も自分自身のことを「天才」ではなく「変態」と称しています。

僕はこういう「変態」的な部分がない。基本的に、仕事や趣味に関係なく、特にやりたいことがない。自分の内側から、これがやりたい!と熱くなれるようなものがない。やる気が出ないから手を出してみない、という人間ではなく、僕はなんとなく色々チャレンジしてみるし、人から勧められたこともとりあえず手を出してみる人間だ。それでも、自分を強く惹きつけて離さないものに出会ったことはほとんどない。だから、その点についてはもう割と諦めている。これからもきっと、そういう対象に出会うことはないだろう。

「能力」に関して重要なのは、「その能力の価値」を考えることだ。

『しかし大事なのは、成功したクリエイティブ・クラスをそのまま目標にすることではなく、その人が「なぜ、いまの時代に価値を持っているのか」を考えることです』

『それについて僕がよく学生たちに言うのは、「その新しい価値がいまの世界にある価値を変えていく理由に、文脈がつくか」どうかが大切だということです』

この「能力」に関する話は、正直、著者より上の年齢(著者は今29歳)の人にはなかなか厳しい話だろう。著者も、本書は中高生向けに伝えたいメッセージがあって書いた、と書いている。ただ、前述したように、デジタルネイティブ世代には、それ以前の世界を直観的に理解できない、という欠点がある。そういう意味で言えば、コンピュータ以前の世界を知っている者が、努力によって本書に挙げられている「能力」を身につけることで、デジタルネイティブ世代と戦える可能性はゼロではないかもしれない。

あるいは著者は、チームで問題解決を目指す重要さも説く。チームを前提にすれば、コンピュータ以前の世界を知る世代が問題を発見し、デジタルネイティブ世代が解決策を模索する、そんな「共存」も可能だろう。生まれながらにコンピュータが存在しなかった世代だからといって、まだ諦めるべきではないかもしれない。

未来がどうなっていくのか。確実に予測出来る人間はいないだろう。これまで以上に難しい世の中になっていくことは間違いない。しかし、これまでのパラダイムの中で生きづらかった人たちが喜びを見いだせる世の中になるかもしれないし、逆に、これまでのパラダイムの中で人生を謳歌していた世代が脱落していく世の中になるかもしれない。本書は、そういう未来の姿を垣間見せてくれる。

著者は8歳の時に、祖父にねだって40万円もするコンピュータを買ってもらって遊び倒したそうだ。ある意味でそれは著者にとって、計り知れない「教育」となった。今では、40万円も出さなくても、著者が与えられたのと近い環境を用意することが出来る時代になっている。そういう世の中で、子供にどんな教育を与えるべきか。親世代にとってそんなリアルな問いに対する答えを模索する一つの指針として、本書は読まれてもいいのかもしれないと思う。

これからどんどん、親世代のパラダイムが子供世代には通用しない社会がやってくる。僕達自身がどう生きるのか、そして子供をどう生き延びさせるのか。ちゃんと考え始める時期が来ているのだろうと思う。

落合陽一「これからの世界をつくる仲間たちへ」


リペア RE*PAIR(吉永南央)

僕には、未来も過去もない。ないのとほとんど同じ、という意味だ。

未来。
僕は、半年以上先の未来のことを考えないようにしている。実際的には、一ヶ月以上先のことはほとんど考えていない。将来的な展望とか野心とか目標とか、そういうものは一切ない。持たないようにしている。

そういうものに縛られるのが億劫だからだ。億劫なだけならまだいいが、時にそれらは僕を苦しめる。
望んだ未来がやってこないことは、ただただ心を荒ませる。それが大それた未来じゃなくても、些細な望みであっても、実現しない時は実現しない。そして、実現したところで、思った通りの未来がやってくるだけだ。そんなの、面白いだろうか?

未来を、自らの手で引き寄せるだけの意志と行動力を持った人を、時々見かける。いつでも僕は、そういう人に対して、凄いな、という感覚を抱く。能力や意志の強さに感心している部分もある。しかし、なんというのか、その盲目さに驚いている部分もある。望んだ未来が必ず手に入ると確信しているかのような、それを疑いもしていないような生き方に、僕は不思議な気分になる。そして、僕には、能力という点以上に、その盲目さを手にできないという意味で、そういう生き方を選択することは出来ないな、といつも感じる。

過去。
僕は過去のことを考えることがほとんどない。
過去が僕の今の人生を形作っているのだ、という意識はきちんとある。しかし、その認識を、それ以上のものとは捉えないようにしている。それは、過去に何があったとしても、後悔もしないし、殊更に感謝もしないという態度を導く。

僕は、過去の記憶が本当にない。小中高の記憶は、ほとんどまっさらだと言っていいほどだ。友人や教師の名前も、どんな出来事があったのかも。その当時流行っていた歌やマンガも、友人同士の間にあった空気感も。何もかも、既に僕の記憶には残っていない。大学時代のことはまだ朧気に記憶がある。しかし、その後10年以上働いた職場でのことは、直近のものを除けばもうほとんど記憶がない。

「今」は、瞬間的に「過去」へと変わっていく。僕は常に「今」の中にいて、一瞬前まで「今」だった過去のことには、もう関心が向かない。過去を覚えていないのは、その過去が「今」だった時点で、特別関心がないからだ。「今」が瞬間的に「過去」に変わっていくことを知っているから、だったら覚えておくこともないかと、常に「今」を受け流しながら生きているからだ。

『時が過ぎるのをじっと待ち、仕事に打ち込んでも、こうやってまた過去が追いかけてくる』

だから、こういう感覚を抱くことはない。

それはある意味で、幸運だったのだろうという感覚もある。僕を捉えて離さないような強烈な過去は、なかったということだ。受け流そうとしても出来ないような、強い過去は。

あるいはそうではないかもしれない。

僕は子どもの頃から、逃げることばかり考えてきた。何か新しいことを始める時は、新しい環境に飛び込むことは、逃げ道を用意してから進んだ。ドミノを並べる時のストッパーのようなものだ。何があっても、最悪ここまで崩れるだけでなんとか自分を守れる。取り戻せる。そういう逃げ道を、ちゃんと意識して作って世の中と関わってきた。

『あきらめることが上手になりすぎて、ほしがり方すら忘れてしまったように見える』

逃げることばかり上手になりすぎて、世の中との関わり方すら忘れてしまった。そういう生き方をずっとしてきた。

だから、未来も過去も、僕を捕まえることが出来ない。僕を押しとどめることが出来ない。

未来に何か期待することもなければ、過去を後悔することもない。「今」という瞬間の中に常にいて、未来とか過去は、人生の中で時折僕の前に顔を出すだけ。ある意味ではそれは、生きていないみたいなものだ。コマ撮りの写真がずっと並んでいるだけで、動いていない。瞬間瞬間しか存在しない。

そういう生き方を、積極的に目指してきた。未来に期待せず、過去を後悔しないような生き方を。人生から、時間の流れとか、未来や過去と言ったものを除いていくような生き方を。未来に期待しないように始める前から何でも諦め、過去を後悔しないように目の前の現実は基本的に受け入れる。

『ねえ、ケイ。あなたは思うことない?選べなかったもう一つの時間をたどって、生きている自分について』

未来への期待が、人を弱くする。過去への後悔が、人を怠惰にする。

「今」という瞬間を受け入れること。

十年間、苦しみながら、ただその境地を目指して「他人の大切なもの」と向き合ってきた、そんな女性が主人公だ。


保井透子は、亡き父から受け継いだ革製品専門の修理店「アトリエシン」を一人で切り盛りしている。
十年前。透子の時計は止まった。婚約から八ヶ月後、予想だにしなかった理由で、婚約破棄となった。婚約者の堂場敬史(ケイ)は、寧ろ被害者だ。あの事件で、多くの人が傷つき、多くの人が肩身の狭い思いをし、多くの人が様々な形で傷を負った。
あれから十年。未だに捜査を継続している丹羽という刑事が時折顔を見せるが、このつきの市も、ようやく新しい人が移住してきて、事件はようやく過去のものになりつつある。
そんなある日のこと。思いがけない出来事が起こる。
ケイが、アトリエシンの対岸にある賃貸マンションに引っ越してきたのだ。妻と子供を連れて。
ケイの登場は、透子の日常に変化をもたらさないはずだった。あの事件以来連絡は取っていなかったし、引っ越してきたケイと関わりを持つつもりもなかった。透子は、ちょっと厄介な修理依頼を抱えてやってくるお客さんの相手をしながら、変化するはずのない日常を生きるつもりでいた。
しかし。ケイが引っ越してきたことがきっかけだったのか。透子の身辺で、十年前の出来事に絡んだ動きが少しずつ起こる。ケイとも、結果的に隣人として関わりを持つことになってしまう。
やがて。音もなくゆっくりとパンドラの箱が開いたかのように、十年前の亡霊が、透子の日常を狂わせていく…。


時間の流れ方、幸せの定義、家族との関わり方…。これらは人それぞれですべて違う。世の中の大きな勢力(国や大企業など)は、これらがある程度似通っている方が便利だから、さかんに、これらはみんな共通だという幻想を刷り込もうとする。こうだったら幸せですよ、家族とはこんな風に関わるべきです…。でも、そういう言説に世に溢れているという事実そのものが、これらが人々の間で共通認識ではないということを露呈することになっている。

透子にとっての時間の流れ方、幸せの定義、家族との関わり方は、他の人とは大きく異なっている。透子にとって時間はずっと止まったままだし、家族との関わり方は難しいものがあったし、自分にとっての幸せを考える余裕さえ既に失われているような状態だ。

この性質は恐らく、後天的なものだ。十年前の、あの出来事以来だろう。十年前の事件以前の透子の描写はほとんどと言っていいほど存在しないので、比較は出来ない。しかし、人並みに結婚して平凡に暮らしていくことを幸せと考えていた、ごく一般的な女性だったのだろうとは思う。

十年前の事件が、そんな透子を奪った。十年前、新たに生まれた透子は、自分の存在を、まさに名前の通り「透明」にしたのだろう。

『幾つ直したって、自分の名前を刻むわけじゃない。誰一人そばにいてくれなくても、人が大切にするものを直し続けるでしょうね』

透子をそう評する様は醜いが、しかし正鵠を射ているとも言える。修理を専門にする職人が皆そうでなければならないということはないが、透子は自らの存在を消し、『機械も身体の一部』、というよりも、自分の身体を機械の一部にするようにして、自分ではないどこかの誰かが作って、自分ではない誰かの大切な何かを修理する。繰り返すが、十年前の事件以前の透子がどんな性格だったのかは不明だ。しかし、十年前の事件によって、この自らの存在を消す透子が生まれたのだと僕は思う。そして、結果的にそういう性質を身につけたが故に、父を無くした工房を一人で切り盛りすることも出来るのだろうと僕は思う。

透子にとって流れていく時間というものは、一体どういう存在だっただろうか?

透子は、あの事件があった同じ町に住み続けている。そこには、大なり小なり、透子へ厳しい視線を向ける住人が残っている。年月と共に、他者からのそういう視線は薄れはするだろうが、しかし、透子が自分自身に課してしまっただろう痛みは、薄れていないのではないかと思う。そして透子は、自分に届く痛みはそのままに、その痛みに感覚を鈍麻させる術を、長い時間を掛けて自分の身体に刷り込んでいったのだろう。痛みを消すことは出来ない。しかし、その痛みを受け続けたままでは日常をやり過ごせない。透子から感じるストイックさの背景には、そういう時間の過ごし方、重ね方を感じる。

母親のように逃げるでもなく、ケイのように妥協するでもなく、透子は現実を現実のまま受け入れようとする。それは苦難の連続だっただろうが、恐らくその日々をなんとか乗り切れたのは、革製品の修理という日常があったお陰だろう。

透子の元にやってくる依頼人には、時折、普通ではない人がいる。革製品の修理から、依頼人の人生が透けて見えることがある。

『修理が、私の仕事。余分なことはしないわ』

そう言う透子だが、しかし誰かから誰かへの強い想いが、革製品そのものや、革製品を修理を依頼する背景に溶け込んでいる時、それらの想いに触れ、自分がどう行動すべきか思いを巡らす度、透子の心は軽くなったのではないか。人間が抱く、良し悪し多様な想いに触れる度、自分の過去を薄めることに繋がったのではないか。

『革は記憶するのさ』

父のその教えを目の当たりにする度、あの事件の時に様々に渦巻いた様々な人間の想いも、革製品が記憶した様々な想いの中に紛れ込ませることが出来たのではないか。黙々とミシンに向かいながら革製品と対峙する時間が、ほとんど動かない時間に囚われてしまった透子の日常を、どうにか押し流していったのではないかと思う。

十年前の事件は、様々な場所に後悔の欠片を落としていった。

『母が取り憑かれたように結婚と孫をせがんだのは、透子とよりを戻させないための策だとわかっていたが、気持ちが安定するならと従った。実際、幼い圭を抱き上げる母を見るたびに、これでよかったのだと思った。なのに、このざまだ。だが、どうしたらよかったんだ。十年前に、透子を選べばよかったのか。大切なものを、自分だけが手放さなければよかったのか。火に油を注ぎ、母を打ちのめすとわかっていながら?』

男は、過去を後悔し続ける。変更不可能な未来を抱え、身動きが取れなくなっている男は、過去を悔やみ、仕方がなかったのだと思い込むことでしか、自らの立脚する場所を保つことが出来ない。

『どちらかが背負わなければならない重荷なら、ケイには背負わせたくない』

女は、未来を確定させようとする。はっきりさせないで生きていくことも出来る。そうすることが、透子自身の生活の安泰に繋がるはずだということも当然わかっている。それでも透子は、未来を曖昧なままに留めない決意をする。十年間の優柔不断をすべて吹っ切るかのように、十年前の事件に決着をつけるために、未来を掴みに行く。自分が掴んだものが、自分の手をズタズタに引き裂くのだろうと、強く予感出来ていたとしても。

『苦しみの中に、透子を一人残してきた』

男は、過去に取り残されている。

『もう私たちは一緒にいられない。』

女は、未来を分かつ分岐点を作ろうとしている。

覚悟を決めた女は強い。解説氏が、「静かなハードボイルドの風味も感じた」と書いているのも分かる。

変えられない過去を共有した二人。一人は、変えられない未来に縛られている。一人は、変わらない日常を解放しようとする。二人の過去や未来に対する葛藤や、ちょっとしたことで揺れ動く気持ちが、さざなみのように二人を、周囲の人間を震わせ、十年という時間の輪郭を濃くしていく。失われたものは取り戻せない。ただその事実を確認するためだけに振り回される人々を描く、静かで厳かな物語だ。

吉永南央「リペア RE*PAIR」



ヘルたん ヘルパー探偵誕生(愛川晶)

内容に入ろうと思います。
父親の事業が倒産し、両親が失踪。一家離散の身となってしまった神原淳は、遠い親戚のツテで、成瀬秀二郎という老人を紹介される。その家に離れがあるから、そこに住まわせてもらえるのではないか。そんな目論見を持って、淳は成瀬宅を訪れたのだった。
何の仕事をしていたのか謎だが、頭脳明晰で深い見識を持つ成瀬氏。初対面の際、無くしたと思っていた履歴書の在り処を推測してみせたのも凄かった。成瀬氏の愛猫であるコハルの助け(?)もあって、なんとか住居を確保出来た淳は、そこで驚愕の事実を知ることになる。成瀬宅にやってくる介護ヘルパーの女性が、淳の高校時代の先輩、しかも憧れの先輩だったのだ。
バレー部のエースで長身で美しかった中本葉月先輩と、中学時代からずっといじめられ続けてきた淳に接点などあるはずなかったのだが、とある偶然から葉月先輩と関わるようになった。さらに、人に言えないあの日のことも…。
葉月先輩は成瀬宅でヘルパーとして忙しく立ち振る舞っている。どうしても手が足りないとなって、なんだか淳まで駆り出されることになってしまう。
そうやって葉月先輩との接点が復活した。
やがて葉月先輩を見習ってヘルパーの道を目指すことになった淳。ヘルパーとしての訪問先や、ヘルパーになるための講義で出会った女性から色々話を聞き、謎めいた出来事を成瀬氏に話していたのだが…。
というような話です。

設定は面白いなぁ、と思うんですけど、作品全体としては、ちょっとなぁ、という感じがしてしまいました。

著者が60歳前後ぐらいの方、というのもあるんでしょう。お年寄りの描写は結構活き活きしているんですけど、若者の描写がやっぱりちょっと苦しいです。年配の人が若者をイメージして書くとこんな感じなんだろうなぁ、と思わせる描写でした。やっぱりちょっとそこがなぁ、なかなか受け入れにくかったかな、という感じがします。ただそれは、年配の人が読めば違和感がない、ということでもあるだろうから、著者と同年代の人が本書を読む分には普通に受け入れられるのかな、という感じもします。

設定はなかなか面白いと思うんです。大分最初の方で明かされるからネタバレにはならないと思うけど、成瀬氏は元名探偵という設定で、でもボケが始まってきてしまっている。記憶を保持するのが困難で、メモに頼ってどうにかしのいではいるが、昔のようにはいかない、という感じ。本来探偵役であるべき人物がボケでその役割を果たせず、じゃあどうやって事件が解決されていくのか、という部分はなかなか面白いです。ヘルたんという作品全体のモチーフと、名探偵のボケというのも、合っていますし。

また、ストーリー全体を貫く核となる話もなかなか良い。それは中本葉月と関係する物語なのだけど、葉月がどんな秘密を隠しているのか、何を目論んでいるのか、みたいな縦軸として機能していきます。訪問介護の現場などでいくつかの謎が提示され、それが解決されていくという形で話が進んでいくのだけど、その過程のあちこちで、葉月が抱える秘密や葉月の意図が少しずつ分かるようになっていく。個々の話の出来は、まあほどほどという感じがするのだけど、個々の話を縦糸と絡めて描き出すことで、作品全体とはほどよくまとまっているのかな、という感じがしました。

あとは、作品のあちこちで、介護の現実や現場の苦労みたいなものを知ることが出来ます。僕自身はそういう部分にさほど関心はありませんが、こういう部分を面白く読む人もいるだろうなと思います。

扱っているテーマ的にも、若者の描写という点でも、若い世代にはオススメしません。年配の方が読む分には面白く読めるのかな、という感じはします。

愛川晶「ヘルたん ヘルパー探偵誕生」


北海道警察 日本で一番悪い奴ら(織川隆)

『署の近くにナンバー××のレガシィがとまっている。乗っている奴がシャブ(覚醒剤)を持っている』

すべては、この一本の電話から始まった。
それは奇妙な逮捕劇だった。
レガシィに乗って、実際に覚醒剤を所持していたのは、渡邉司という、盗難車の密輸や覚醒剤の密売などの「裏ビジネス」を行っていた男であり、さらに彼は、北海道警察の「S(捜査協力者)」でもあった。
そして、冒頭の通報をした人物もまた、渡邉司本人だった。

この奇妙な通報と逮捕劇は、渡邉が考えに考え抜いた、最後の手段だった。普通に警察に駆け込んだのでは、もみ消されてしまう。彼は警察では一切取り調べには応じず、札幌地裁ですべてを話した。札幌地裁という別の機関にきちんと記録を取ってもらうためである。

『自ら逮捕され、勾留質問の席で稲葉の悪行を暴露するという渡邉の行動を、関係者たちは「自爆テロ」と呼んだ。渡邉は道警という巨大権力のなかに身一つで突入し、後に命を落としてしまった。愛する家族との「約束」を守ることのないままに』

彼の標的は北海道警察、さらにその中の稲葉圭昭警部だったのだ。

『二〇〇二(平成十四)年七月、一人の警察官が逮捕された。階級は警部。幹部警察官が現職のまま逮捕されるのは、きわめて異例である』

『それは北海道警察を舞台にした、過去に類例を見ない大規模な不祥事であった。』

『その結果、稲葉をめぐる事件は、道警史上最悪、日本の警察史上でも類例をみない大スキャンダルになったのである』

本書で、この事件の異例さは、こんな風に表現されている。

『逮捕容疑は覚醒剤使用だった。その後、覚醒剤密売、拳銃不法所持まで明かされ、逮捕は三度を数えた』

表面的にこの事件を捉えれば、稲葉という警部が、アンダーグラウンドな世界と結びつき、密売や密輸などに手を染めていた、というものになる。しかしこの事件は、そんな単純なものではない。

『では「稲葉事件」とは、単なる一警察官の転落物語だったのか。答えは、否、だ。無論、ある側面から見れば転落物語であるのは間違いないが、それは決して個人的犯罪ではない。稲葉事件は、道警という組織そのものが引き起こした組織的犯罪にほかならないのだ』

『この期間、道警は稲葉の犯罪行為を見逃し、黙秘してきた。さらにその後、神奈川県警、埼玉県警、新潟県警と大きな不祥事が全国で相次いだが、道警の幹部たちは、自らの出世、実績のためにいなばを放置しつづけたのだ。』

稲葉は、「拳銃の摘発」という、署全体の利益になる成果のために、「ヤラセ捜査」を繰り返した。例えばそれは、どこかから自分で手に入れた拳銃をコインロッカーに放置して見つける、というようなものだ。稲葉は、驚異的な“成果”を挙げた。それは誰もが、違法な捜査によってもたらされたことを知っていたが、組織全体の利益になるが故に誰もそれを止めなかった。そして、止められなかったことをいいことに、稲葉は暴走してしまうのだ。

『道警自ら進んで稲葉を逮捕することはありえませんでした。稲葉は上司を巻き込んで違法捜査を行っており、アンタッチャブルな存在だった。稲葉を逮捕することは、パンドラの箱を開けるようなものだった』

『道警としては、いつ破裂するかわからない“爆弾”を抱えているようなものである。しかし、必要なときに拳銃を摘発することができる稲葉は、組織の一因として欠かせない。そのため、稲葉の犯罪行為を見逃し、隠蔽してきた。それにより、道警と稲葉の間には奇妙な力関係が生まれる。稲葉の犯罪は本来、稲葉の弱みとなるはずである。しかし道警が隠すことによって、それは道警の弱みとなり、稲葉をさらに増長させる要因となった』

稲葉に非がなかったわけではない。しかし明らかに、北海道警察にも非があった。

『「稲葉という化けものは道警が作った」
「稲葉は組織腐敗の象徴だ」
事件発覚後、道警内部ではこんな声が多く聞かれた』

しかし、北海道警察は「稲葉事件」を、稲葉個人の犯罪であるとすることで、トカゲの尻尾きりを目論んだ。それは、ほとんどうまく行っていた…はずだった。

『「わかりました。道警には迷惑はかけません」
稲葉は泣き崩れた。これこそ、道警が求めていたセリフだった』

稲葉は、自分が手がけた様々な犯罪は、道警とは無関係だったという、道警が描いたシナリオに乗るつもりでいた。

しかし物事は、道警が思い描いた通りには展開しなかった。結局稲葉は、道警のシナリオを無視した供述を始めたのだ(そうでなければ、本書のようなノンフィクションは世に出ていないだろう)。そしてさらに、この「稲葉事件」が、道警の(ひいては日本全国の警察の)新たな「膿」を出す結果にも繋がっていく。渡邉司が引き金を引き、稲葉圭昭を葬り去った銃弾が、その勢いのまま別の闇を貫く。この事件は、連鎖的に悪事を表にさらけ出したという意味でも特異だと言えるだろう。

『取材を続けながら、私は組織と人間というテーマについて考え続けていた』

稲葉がもし、警察という職を選んでいなければどうだっただろうか?

『そのころの稲葉は、金銭面や生活など、目立って派手なところはなかった』

『仕事に対しては、非常に厳しい人だった。拳銃と覚醒剤、特に拳銃のことが頭から離れないようだった』

『稲葉は完全な仕事人間だ。女房や子どもを顧みず、仕事にのめりこんでいった。日浦も、自分がそうだったから気持ちはよくわかった。その稲葉が、なぜ覚醒剤を使用するようになるところまで堕ちなければならなかったのか。それを裁判で明らかにすることが、稲葉を真に弁護することだ―日浦はそう考えていた』

本書では、稲葉の悪い面ばかりが描かれているわけではない。これほどの不祥事を起こしたという先入観で見てしまうので、どうしても極悪人に思えてしまう。しかし、近くにいた人の証言からは、そうではない側面も見えてくる。稲葉は、どこまで真実か分からないものの、期待された成果を出し続けるには、何らかの形で交際費を捻出し続ける以外になかった、というような趣旨の発言をしていた(あるいはそれは著者の推測だったかもしれない。その記述がどこにあったのか失念してしまった)。最終的に欲望にまみれてそこで溺れてしまったにせよ、最初は、道警からの期待に応えたいという気持ちが先行していたのかもしれない、とも思わせる。そしてそれを維持し続ける手段は、彼には犯罪に手を染めるという方法しかなかった、ということだ。

組織のあり方が是正されない限り、道警から不正はなくならないだろう。第二第三の稲葉が出てきてもおかしくはない。そうなった時、道警はその人物を止めることが出来るのだろうか?

僕は別に、警察というものに対して、無条件の信頼をしているわけではない。あれだけデカイ組織で、しかも営利を目的とするわけではない集団だ。ロクでもない人間だってたくさんいるだろうし、一般社会とは違った論理で様々な決断がなされてもしかたないとは思う(納得はしないが、そういう現状があるだろうという事実は諦めて受け入れている)。

だから、警察が、ミスや縄張り争いで犯人を捕らえられないみたいなことに対して憤るつもりはない。

ただ、せめて、積極的に悪や犯罪を生み出さないという、当たり前すぎるところは死守して欲しい。「稲葉事件」とは、現職の警部が密輸や強盗などを企て実行し、それを知っていたはずの警察が黙認していたという事件だ。こんな風に、警察という組織が悪を生み出したり、悪そのものになったりするというのでは、もうやってられないという感じがしてしまう。

『いずれにせよ、稲葉のおかげで出世し、権力の座にのぼりつめた幹部たちは、その後も何食わぬ顔で居座り続けたのだ』

期待してはいないが、今では北海道警察も、そして日本全国の警察も、もっとマシな組織になっていると思いたい。

織川隆「日本で一番悪い奴ら」


「レヴェナント 蘇りし者」を観に行ってきました

この映画は、どう見るかで評価は大きく変わるように思う。

僕は、見て良かったと思った。特に、映画館で見て良かったと思った。けれど、ストーリーだけ取り出した時、面白いとは思えない。さらに、この映画の撮影のバックグラウンドを知っているか否かで、見え方も変わってくる。恐らく、賛否両論出てくる映画だろう。

個人的に、あまり良くないと感じた部分から先に書こう。
ついさっき少し触れたが、それはストーリーだ。

映画は、「息子を殺された男が、復讐のために死の淵から這い上がる」と要約出来る。これ以外にも枝葉のストーリーはある。娘のポアカを探すアリカラ族の話や、それ以外のインディアンの物語だ。しかしそれらは、本当に枝葉に過ぎない。物語の舞台設定をよりリアルに見せるための要素とでも言おうか。メインの物語は、基本的には主人公の復讐譚である。

ストーリーそのものに、何かあるわけではない。純粋にストーリーだけ取り出して、別の設定、別の舞台で映画を取ったら、映画全体として大したものにはならないだろう。平凡、と表現するわけにはいかないが、核となるストーリーに魅力は感じなかった。

しかし、ストーリーに関しては二点、押さえておかなければならない点がある。

一つは、これは実話だ、ということだ。
映画を見れば分かるが、これが実話だとはとてもじゃないけど信じられないような話だ。ストーリー自体はそこまで大したことはないのだけど、しかしそれはフィクションだと捉えるからだ。これが現実に起こったことなのだ、と思うと、また違った見方が出来るだろう。しかし、現実だと分かっていても、やはり映画になるストーリーとしては、あまりにもストレート過ぎるので(実話だから当然なのだけど)、ちょっと見劣りするという印象を持ってしまった。

もう一つは、この物語は、アメリカ人の多くが知っている、有名な話だということだ。この点はきちんと踏まえておかなければいけないだろう。
何故なら、これを見るアメリカ人は、ストーリーそのものを観に行っているわけではないからだ。

彼らにとっては、繰り返し読んでもらった絵本のような物語なのではないだろうか。別に、ストーリーそのものは知っている。だから、そこに不満はない。知っているストーリーをどんな風に描いているのか。この映画の基本的な観客であるアメリカ人はそう見るはずだ。

また、アメリカ人にとってはよく知られたストーリーであるが故に、説明的な描写を入れ込む必要もあまりなかったはずだ。そしてそれは、外国人から見た場合には、物語の舞台設定や展開が分かりにくいものになってしまう、ということになる。実際僕は、誰と誰が戦っているのか、いつの時代の話なのか、舞台はアメリカの中のどの辺りなのかということは、映画を見ているだけでは全然分からなかった。

そういう意味で、外国人がこの映画を見る場合には、少しハンデがあると言えるだろう。外国人にとっては、この映画のストーリーは、馴染みのあるものではない。だからこそ、映画全体として捉える場合、ストーリーも評価に含めたくなってしまう。そこが、この映画をアメリカ人が観る場合と外国人が観る場合の大きな違いだろう。ストーリーそのものを魅力的にしなくても、少なくともアメリカ人に対しては大丈夫。そういう判断がきっとあっただろうし、だからこういう映画になったのだろうと思う。

そういうわけで、ストーリーそのものにはさほど魅力を感じなかった。

ネットで調べた情報も含めながら内容紹介をざっと書いてみる。

19世紀前半。白人のハンター達は山に入り込み、毛皮を獲って大儲けを企む。しかしその山は、いくつもあるインディアン部族達の土地でもあった。彼らは、生活の糧となる動物を殺す白人に怒りを抱き、敵対的な関係にある。
白人ハンター達をインディアンから守り、無事砦まで送り届けるガイドの役目をするのは、白人でありながら原住民族と結婚し、白人と原住民族の言葉の両方が話せ、地理にも明るいヒュー・グラス。彼らは、彼らに娘をさらわれたと思い込んでいるアリカラ族の襲撃に遭い、船を捨て山に分け入って砦を目指すことにした。
しかしそこでグラスは、グリズリーに襲われ瀕死の重傷を負う。
グラスを恩人だと考えている隊長は、グラスを運びつつ砦を目指すが、これ以上グラスを連れて行くと自分たちまで危ういと判断。初めはグラスを死なせようと思っていた隊長だが、隊のメンバーに、グラスの死を看取り埋葬した後隊に追いつけと命ずる。
しかし、グラスは死なない。
グラスの死を看取る役を買って出たフィッツジェラルドは、父・グラスを殺そうとするフィッツジェラルドに抵抗した息子・ホークを殺害し、さらにもう一人の付き添いである若者を騙し、瀕死のグラスを置き去りにしてしまう。

『俺には息子がすべてだった』

そう思っているグラスは、息子を殺したフィッツジェラルドを許さない。足が動かず、這うようにして進むしかない身体でありながら、復讐のため、フィッツジェラルドを追う。

この映画の凄さは、その特殊な撮影手法にある。

まずこの映画は、自然光のみで撮られているという。照明は一切使わなかったようだ。基本的に逆光で、画面のどこかに常に太陽が映っている。夜のシーンでは、焚き火の光だけで撮影されている。

この自然光のみで撮影するという手法が、映像全体をとても美しくする。撮影は、実際に事件が起こったのと同じ場所で行われているらしいが(しかし、撮影期間が延びたために雪がなくなり、チリで撮った部分もあるらしい)、雪と川と木しかないような荒涼とした土地を、実に美しく切り取っていく。この映像美が圧巻だと思う。自然が持つ美しさ、そしてそれが与える冷たさと強さ。そういうものが、映画であるということを忘れさせるようなレベルで迫ってくる。

この映像美を観るだけでも十分価値があるような気がする。

この自然光による映像美を生み出すために、撮影はなんと一日一時間、光が最良のタイミングだけを使って行われたようだ。そのこだわりも凄まじい。

撮影手法で言えばもう一つ、映画を観ながらずっと思っていたのは、このシーンは一体どうやって撮ったんだ?ということだ。
そう思わせる場面が多すぎる。

最初に驚いたのは、冒頭でグラスがグリズリーに襲われるシーンだ。
このシーンは、圧巻としか言いようがない。

後で調べたところ、CGらしいのだけど、CGだとしてもちょっと凄い。よくもまああんなリアルな感じに出来るものだなと感心させられた。さすがに本物の熊だとは思わなかったものの(本物と思いたくなるほどのリアルさだったけど、さすがにそんなわけないと思った)、じゃあどうやってるんだろう?と不思議だった。繰り返すけど、CGだとしても凄まじすぎる。

他にも、不思議なシーンは山程あった。銃で撃たれた馬が倒れるシーン、グラスが乗せたまま馬が崖から落ちるシーン、雪崩のシーン、大量の何かの動物の群れのシーン。すべてCGだと言われればそうなのかもしれないけど、ネットで調べると、出来るだけCGは使っていないというようなことが書いてある(この点に関しては記述は色々で、CGや特殊撮影は一切使っていないと書いてあるものと、一部CGなど使っていると書いてあるものがある。いずれにせよ、スタントは使っていないらしい)。可能なかぎりCGを使わないで撮影されたのだとすれば、僕が気になったこれらのシーンは一体どんな風に撮影されたのか。映画を観ながら僕はそんなことがとても気になってしまった。

それだけ、映像に圧倒された、ということだ。どの程度CGを使っているのか僕には分からないとはいえ、出来るかぎりCGを使わずにこんな映像が撮れるのだ、という驚きがあった。

ここまで書いてきたことを総合すると、この映画単体で評価する場合、映像美が素晴らしく、ストーリーはさほどでもない。ただ、撮影手法や撮影の裏話なんかも含めて映画全体を評価すると、その凄さに圧倒させられる、という感じだ。この惹きこまれるような圧巻の映像に触れるだけでも、この映画を観る価値はあるのではないかと思う。

「レヴェナント 蘇りし者」を観に行ってきました

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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)