黒夜行

>>2016年03月

齋藤飛鳥のことば 公式ブログのタイトルから

【ふと思う事があって、でも誰かに言うほどでもなくって。だからといって誰かから言ってくる事もなさそうで。じゃあ誰とも共有しないの?って考えたら、車がとまった。信号待ち。国によって違う信号。今のところは台湾の信号がすき。ヒトガタが走るの。】

2016年3月26日付の齋藤飛鳥の公式ブログのタイトルの一部です。これでタイトルの一部?と思うでしょうが、齋藤飛鳥のブログのタイトルは毎回異常に長いことで有名です。

タイトルの冒頭の部分だけ切り取ってみたんですけど、この文章、良くないですか?

ただ僕がこの文章を好きってだけの話かもしれないけど、センスいいなって思います。小説を読む若者が好きなくなっているだろうこの現代において、17歳で安部公房を読んでいるという齋藤飛鳥は、内的世界が豊かだろうと僕は思っています。

内的世界を豊かにするものは、決して言葉だけではないでしょう。音楽を取り込んで音楽で表現してもいいし、絵画や数学や写真など、なんでもいい、外部から何かを取り込んで内的世界を豊かにし、そこから生み出されるものがある、そんな人が僕は好きです。

齋藤飛鳥は、言葉を、物語を貪欲に取り込んで、内的世界を豊かにしている人だろうと思います。暗くてモヤモヤする作品が好きなようで、容姿やアイドルをやってるっていう属性とはかけ離れているところがいいなと思っています。

僕は、乃木坂46が載ってる雑誌を最近結構買うんだけど、「どんな企画をやってほしいですか?」というアンケートに常に、「齋藤飛鳥に小説を書かせて欲しい」と書いています。もちろん、17歳の今、アイドルとして普通の人がなかなか経験出来ないことを経験しているとはいえ、きちんとまとまった作品を書くのは無理だろうと思います。でも、言葉のセンスはあると思うし、書き続ければいずれ良い物になっていくと思うんだよなぁ。だから、雑誌で練習する場を与えて欲しいな、と。「齋藤飛鳥が書いた小説」という売り出し方で一定数の売上は見込めるわけだから、最初は作品の質が低かったとしてもビジネスとしては形になると思うし、実際に書いて実際に世の中に出してみて色んな人に読んでもらってっていうフィードバックを続けられる環境にあるんだから、チャレンジしてみてほしいなといつも思っています。

小説が無理なら、とりあえずエッセイでもいいなぁ。なんの雑誌でもいいんだけど、毎号齋藤飛鳥のエッセイが載ってたら買っちゃうな、たぶん。他の人と同じものを見ていても、ひねくれた性格と、内側に溜め込んだ言葉とで、他の人とは違った風に物事を見て、違った風にそれを表現できるんじゃないかな、と思っています。


冒頭の文章は、「じゃあ誰とも共有しないの?って考えたら」からの「車がとまった」の展開が一番好きです。それまで思考の世界に囚われていて、周りの風景なんて視界に入らなかったのに、車が止まったことをきっかけに思考が途切れ、代わりに景色が視界に飛び込んでくる。その一瞬の変化をすごくうまく切り取っているなと思います。

そしてさらに、信号という、目に飛び込んできた情景から思考が展開していく。読み取りすぎかもしれないけど、齋藤飛鳥は常に、目の前の情景よりも思考に傾倒してしまう人なのかもしれない、なんていう想像もしました。もしそうだとして、それが出来るのは、言葉による内的世界が豊かだからだろう、と。思考の素になるのは言葉だから、言葉が豊かじゃない人に思考を深めることは出来ない。ナチュラルに思考に囚われてしまうとすれば、それは、意識せずとも内側から言葉が生み出され、言葉によって自然と世界を捉えようとしてしまう性質があるんだろうな、と勝手に想像しました。


僕が乃木坂46に惹かれるのは、言葉が豊かな人が多いと思うからです。様々な形で辛い経験をしてきた人たちが集まる乃木坂46。マイナスの経験や思考は、言葉を多く消費します。その経験が、自分の考えや価値観を言葉で表現できる個性に繋がっているのだと思います。そしてそんな乃木坂46の中でも、齋藤飛鳥は一番言葉による内的世界が豊かな可能性があると思っているので、どうしても注目してしまいます。齋藤飛鳥、小説かエッセイか、書いてくんねぇかなぁ。

「齋藤飛鳥のことば 公式ブログのタイトルから」

ダブ(エ)ストン街道(浅暮三文)

これほど奇想天外で類似する作品を探すのが困難な作品もないだろう。

物語は、日本人考古学者であるケンが、恋人であるタニヤを探す、というものだ。一言で表現すれば、本作はただそれだけの物語だと言っていい。
ケンは、いつでもタニヤを探していた。タニヤはモデルで、スタイル抜群の美女なのだが、一つどうにもならない欠点があった。夢遊病である。タニヤは、気づくとどこかに行ってしまっていた。しかしこれまでは、どうにかタニヤを見つけ出すことが出来ていた。
今回は相当難しそうだ。
ある日タニヤから手紙が届いた。その手紙には、タニヤがダブストンだがダブエストンだかという場所にいると書かれていた。ケンは世界中の文献を漁り、ごく僅かな記述を拾い集めた。
その結果、いくつかのことが分かった。ダブ(エ)ストンは、「世界最後の謎の大地」であり、誰も行き着くことの出来ない伝説の地域だと言われ、赤道の南のどこかにあるらしい。さらに、ダブ(エ)ストンから唯一帰還したと言われるポール・カーライルが記した「赤道大全」という書物が存在するが、しかしそこにも、ダブ(エ)ストンへの行き方は書かれていなかった。
しかしケンは、放浪の末、どうにかダブ(エ)ストンらしき場所に辿り着いた。彼はそこで、郵便配達人や半魚人、蝶ネクタイをした熊などと遭遇し、幽霊船の船長や移動し続ける王などが同じく迷い続けるこのダブ(エ)ストンで、タニヤを追い求めて放浪を続ける…。
というような話です。

大昔に一度読んだことがあって、今回色々あって久々に読み返してみました。本作は、メフィスト賞受賞作です。メフィスト賞というのは、異様な作家を多々輩出してきたかなり異端の新人賞なのだけど、その受賞作の中でもトップクラスに奇妙で変わった世界観が描かれているでしょう。

解説で石田衣良も書いているけど、奇妙な世界で人探しをする、というだけの要素で小説を書くのは相当勇気がいることだろうと思います。ストーリーは、本当に、ただひたすら主人公が彷徨い歩いているだけです。もちろん、想像力を駆使して描かれるこの奇妙な世界の描写は面白いし、伏線を回収するような展開も存在します。しかしそれでも、物語を構成するのは、基本的に主人公の彷徨です。それで、長編一作を構成してしまうのだから、凄まじいなと思います。

ダブ(エ)ストンという地域は、無茶苦茶に描かれているようで、世界観に統一感がある。ダブ(エ)ストンは、常に霧と雲に覆われ、ほんの少し先の景色しかみえない。何年かに一度陽が射すことがあり、その時に「赤道祭」というお祭りが開かれる。それぐらい見通しが利かないのが日常なので、人々は常に迷い続けている。ポストを探すのに、生き別れた兄弟・家族を探すのに、街へと向かうのに、人々は常に迷い続ける。

そういう世界がもしあったとしたらどうなるのか、ということをきちんと想像して物語のそこかしこに要素として散りばめているのが面白いと思う。家がどうなっているか、新聞社がどうなっているか、ケンが作ったある物が何故人気を博するのか。また、何故カーライルがダブ(エ)ストンから脱出出来たのか、その理由が明かされる部分も面白いと思った。

『なにかを見つけた時も、そりゃ悪くないが、俺にはなにかを探してる時の方が楽しくて仕方ない』

本書は、ただ奇妙な世界観を楽しむ小説をして読むので十分だと思うのだけど、深読みしようと思えば、人生とはケンのように、迷い続けることなのだ、というようなメッセージとしても読める。僕らは、常にどこかに向かいながら人生を歩んでいると思っているけど、結局未来はわからないし、自分の選択や決断が自分の人生にどれほどの影響を与えているのかもはっきりとは分からない。それはケンが、ほんの僅か先も見通せない、しかも出会う人皆が迷っているダブ(エ)ストンを彷徨い歩いているのと、大差ないのではないかと思う。

読者は、ダブ(エ)ストンの描写を奇妙だと感じることだろう。しかし、僕らの人生も、突き詰めて考えてみれば、ダブ(エ)ストンを歩いているようなものなのかもしれない。僕らは、人間がこんな風に生きていくそのあり方にただ慣れてしまっているだけで、人間の生き方に慣れていない他の生命体から見たら、ケンがダブ(エ)ストンを彷徨っているような奇妙な光景に映るのではないかと思う。

ケンは、タニヤを探し続ける。それは、目的地に辿り着けないようなものだろう。しかしケンは、それでもタニヤを探す旅を続ける。

『タニヤだけだ。それが私のもっとも望むものだ。しかしタニヤを目的にしてはならない。タニヤを探す旅こそが目的なのだ』

誰もが望んだ人生が送れるとは限らない。どころか、ほとんどの人が、自分が望んだ通りに生きることは出来ないだろう。しかしそれでも、望んだ生き方を目指して進み続けること、それ自体が人生の望みになっていく。望んだ場所に辿り着けないことを絶望と捉えるのではなく、望んだ場所を目指し続けられることを幸運だと捉える。それこそが人生なのではないか。深読みすれば、そんな風にも読めるのではないかと思います。

不条理が折り重なりながらも、ごく僅かな論理によってバラバラにならず繋ぎ止められているダブ(エ)ストンという「世界最後の謎の大地」での冒険の軌跡を、是非楽しんでください。

浅暮三文「ダブ(エ)ストン街道」



ひきこもれ ひとりの時間をもつということ(吉本隆明)

『「ひきこもり」はよくない。ひきこもっている奴は、何とかして社会に引っ張り出したほうがいい。―そうした考えに、ぼくは到底賛同することができません。
ぼくだったら「ひきこもり、いいじゃないか」と言います。世の中に出張っていくことがそんなにいいこととは、どうしても思えない』

子供の頃、こういうことを言ってくれる大人に出会いたかったな、と思う。
子供の頃僕は、ちゃんとしなきゃいけないって思ってたし、周囲から大きくはみ出さないようにうまく立ち回りながら生きていた。自分が社交的なタイプではないな、という自覚はあったのだけど、社交的でなければいけないんだろうなという先入観があって、自分なりに努力してそれなりの社交性を発揮してどうにか毎日生きていた。

あの頃の僕は、一人になったり孤独に陥ったりすることは怖かった。そうならないように、必死であれこれやっていたような記憶がある。今となっては、一人になることも孤独に陥ることも全然怖くなくなったけど、大学時代ぐらいまではちょっと無理だったなぁ。

そんな頃に、吉本隆明みたいなことを言ってくれる大人がいたら、救われただろうな。

『家に一人でこもって誰とも顔を合わせずに長い時間を過ごす。まわりからは一見無駄に見えるでしょうが、「分断されない、ひとまとまりの時間」をもつことが、どんな職業にもかならず必要なのだとぼくは思います』

『ぼくには子どもが二人いますが、子育ての時に気をつけていたのは、ほとんどひとつだけと言っていい。それは「子どもの時間を分断しないようにする」ということです』

僕が引きこもったのは、大学三年に上がろうとするまさにその春だ。大学二年までは、ほぼすべての授業に出席し、成績も相当良かった僕は、大学三年から大学の講義に一度も出なかった。講義に出なかったどころか、人と会わなくなった。心配して部屋まで来てくれる友人を無視し、ケータイに届くメールや電話も無視し、コンビニの店員以外の人とほとんど関わることなく、ひたすら部屋に居続ける生活を一年ぐらい続けた。

その時ひきこもっていた経験が、今の自分の人生に直接的に何か役立っているかと聞かれれば、答えに窮する。でも、一つ思うことは、あの経験があったお陰で、誰ともコミュニケーションを取らない孤独な時間を体験することが出来、自分自身のことに深く考えることが出来た。それは、社会に出てしまえばそう簡単に手に入る時間ではないと思うので、そういう意味で、得難い経験だったと思うし、間接的に僕の人生に役立っているのではないかと思える。

『他人とコミュニケートするための言葉ではなく、自分が発して自分自身に価値をもたらすような言葉。感覚を刺激するのではなく、内蔵に響いてくるような言葉―。ひきこもることによって、そんな言葉をもつことができるのではないか、という話です』

この感覚は、分かるような気がします。他人とコミュニケーションする必要がない、ということは、他人に伝わる言葉を使う必要がない、という意味でもあります。他人に伝わる言葉を使わなくなった時、人はどうなるのか?独り言が多い人は、なんとなくですけど、他人に伝わる言葉を独りで発している印象があります。僕は、たぶんだけど、ほとんど独り言を言っていないと思います。それは、独りでいる時は、自分の内臓に届く言葉を持てているから、口から言葉を発する必要がないのかもしれない、と本書を読んで少し感じました。

『自分の時間をこま切れにされていたら、人は何ものにもなることができません』

『ひきこもって、何かを考えて、そこで得たものというのは、「価値」という概念にぴたりと当てはまります。価値というものは、そこでしか増殖しません』

今の時代、コミュニケーション能力の重要さが叫ばれます。しかし僕は、コミュニケーション能力について取りざたされる場合、いつも感じてしまうことがあります。それは、

「一体何をコミュニケートするんだろう?」

ということです。

コミュニケーション能力というのは、あくまでも何かを伝えるための手段でしかありません。コミュニケーション能力というのは、それ単体で価値があるのではありません。伝えるべき、共有すべき何かを持っている人が、コミュニケーション能力という伝達能力を持つからこそ価値があるのです。

しかし今の時代は、伝えるべき、共有すべき何かを持っていなくても、ただコミュニケーション能力が高い、ということだけが取りざたされます。僕にはそれは、寒々しい光景に思えてなりません。英語は喋れるけど、日本の文化や歴史や政治や国際問題について語れない日本のビジネスパーソンの話を耳にすることがあるけど、それに似た印象です。伝達手段だけあっても、意味がないのです。

そして吉本隆明は、伝えるべき、共有すべき何かこそ、ひきこもることによって手に入れられるのだ、と語るのです。

『価値を生み出すためには、絶対にひきこもらなくてはならないし、ひきこもる時間が多い人は、より多くの価値を増殖させていると言えます』

現代は、ひきこもり易い時代であるとも言えるし、ひきこもり難い時代だとも言えます。

ひきこもり易い時代であることの説明は、吉本隆明自身がしてくれています。

『昔の親は、とにかく「食べさせている」ということで、誇りとか驕りとかがあったから、「お前はこうしろ」みたいなことが言えたわけです。しかし、食べていけない状況がほとんどない世の中になって、どう子どもを扱ったらいいのか、親もわからなくなってきている。
子どもにしたって、せっぱ詰まった状況にいないわけですから、自分にとって一番価値があると思えることをやっていたいし、それができてしまうわけです』

働かないで家にずっといても、親がどうにか出来てしまう状況がある。ひきこもる環境が整っている、と言えるでしょう。

一方で、ひきこもり難い世の中でもある。本書は2002年の発行なので、現代のようなソーシャルメディアが隆盛を誇る時代はなかなか予見できなかったでしょう。
現代は、あらゆるソーシャルメディアを通じて、個人が常時繋がった状態でいられるという稀有な環境が整いつつある。いくつかのソーシャルメディアは、ある種のインフラとして機能しつつあるので、日常生活をそれなりに全うするにはそれらソーシャルメディアを使わないわけにはいかない、という状況さえ生まれている。そういう中で、誰とも繋がらずに一人の時間を持つことはとても難しいと言える。物理的に部屋にひきこもっている人だって、ネット上で直接的には面識のない他人と関わりを持っていることでしょう。そういう意味で、物理的にひきこもっていても一人の時間を持てるわけではないという、吉本隆明には想定し得なかった状況がやってきたと言っていいでしょう。

僕自身は、引っ越しを機に、それまで唯一やっていたツイッターを止めた。FacebookやLINEはほぼ使っていない。ここでこうしてブログを書いてるけど、ブログ上で誰かとやり取りが発生することもごく稀だ。そういう意味で僕は、物理的にはひきこもってないけど、ネット上にほとんど存在しないが故に、一般的な人よりは一人の時間を確保できているのではないか、と思っている。

吉本隆明というとなんとなく難しい文章を書く作家というイメージがあったが、本書は、語りを文章に起こしていることもあってか、非常に読みやすい。中学生ぐらいの子どもでも十分読める作品ではないかと思う。学校や世の中に違和感を覚えて、窮屈に感じている子供は、どんな時代にもそれなりにいるだろう。そういう子供たちに届いて欲しい本だなと思う。また、自分が子供だった頃のことを忘れて、子供を縛り付けようとしてしまう親や教師にも是非読んで欲しい。不登校になった子供への対処や、いじめについての考え方など、子供の頃だったらきっと分かっていたはずのことを優しく諭してくれる。

『いまの学校制度は確かによくないけれども、その制度の中にいて、自分の中の違和感を大事にしていくほうがいいと思います』

これは、ひきこもりの人を集めて何かさせたり、フリースクールに入れたりするような風潮を指して意見している部分だ。これも僕は凄く分かる。「自分は今この場で外れている」という違和感をきちんと捉え理解することで見えてくるものはある。僕はそういう違和感を大事にするようにしている。その違和感を自分なりの言葉で捉えたり、違和感のその源流を把握することで物事を多面的に見れたりしていると思っている。自分が共感できてしまう場では、そういうことは出来ない。それは、自分の内側の言葉や、物事の捉え方を深めるチャンスを逃すということでもある。だから、違和感のある場というのは、それが絶望するほど居心地の悪い空間でないなら、居続ける方が良いのではないかと僕も思う。

人と繋がることが当たり前の世の中だからこそ、もう一度、一人でいること、孤独を感じることの大事さを捉え直してみるのがいいかもしれません。平易な言葉でその大事さに気づかせてくれる作品です。

吉本隆明「ひきこもれ ひとりの時間をもつということ」


「エヴェレスト 神々の山嶺」を観に行ってきました

1924年6月8日。ジョージ・マロリーとアンドリュー・アーヴィンは、エヴェレストの8740メートル地点にいた。しかし当日12:50、彼らは消息を経った。彼らの失踪が、登頂前だったのか登頂後だったのか、未だに分かっていない。
エヴェレスト初登頂は、公式には、1953年5月29日、エドモンド・ヒラリーとテンジン・ノルゲイによって成し遂げられた。しかしマロリーとアンドリューが1924年にエヴェレスト登頂を成功させていたとしたら、歴史が変わる。

1993年、山岳カメラマンである深町誠は、カトマンズの古物商で一台のカメラを見つける。
ヴェスト・ポケット・コダック モデルB
それは、エヴェレストの初登頂に成功していたかもしれないあのマロリーが使っていたカメラと同じものだった。
もしそのカメラに、初登頂を記録するフィルムが残っていたら…。
契約する出版社と交渉し、再度カトマンズを訪れてそのカメラを手に入れた深町だったが、しかしすぐさまそのカメラを手放すことになる。その古物商に、盗品を引き渡せと乗り込んできたネパール人がいたのだ。金を払った後だったが、深町は仕方なくカメラを返す。
しかしそこで深町は、意外な人物と出会う。
羽生丈二だ。
冬の鬼スラを初めて成功させたことで名を挙げ、その後も次々と難関を攻略していく。ライバルと言われた長谷渉と競い合い、争い合い、彼らは日本の山岳史を作り上げていった。
しかし羽生は、もう死んだと思われていた。
元々、山屋からの評判は悪かった。相手の気持ちを考えない無謀な男。そのままだと二人共死ぬが、ザイルを切れば一人は助かる状況でどうする?と問われた時、羽生は迷わず「切る」と答えて、山屋から忌み嫌われた。山屋としては完璧だった、でも人間としては最低だったと、かつてザイルパートナーとして羽生と組んだ男は語った。
その羽生が、ピサル・サルパと名を変えて、ネパール人と一緒にいた。
マロリーのカメラ、そして羽生丈二…。深町は、山岳史を覆す可能性と、羽生丈二の未知の挑戦に惹かれ、羽生を追いかける決断をするが…。
というような話です。

何故かこの映画、僕には合いませんでした。見ながら理由を考えていたんですけど、どうもうまく捉えきれません。
映画を見ながら、台詞が上滑りしてる、予定調和に収まりすぎている、と感じていました。羽生丈二、深町誠、そして羽生丈二のかつての恋人である岸涼子の三人がメインで登場するのだけど、どうにも彼らの台詞がうまく物語の中に馴染んでいない印象を受けてしまいました。エヴェレストでの撮影を敢行したようで、高所での演技で苦労したという側面はあるでしょうが、日本のシーンでの台詞にもどうも違和感を覚えてしまいました。これは、ちょっと分からないけど、普段から日本のドラマは見ず、ここ最近洋画ばっかり見てた影響だったりするのかな、と自分で考えたりしました。日本人の役者の演技の感じにあまりにも遠ざかってたからなのかな、と。

予定調和に収まりすぎているというのは、この作品としてはちょっとしんどいなと思いました。この映画で孤高のクライマーとして描かれる羽生丈二には、実在のモデルがいると言われています。ネットで調べたところ、映画の中で語られる羽生丈二のエピソードは、かなりそのモデルの人物の実際の言動であるようです。そういう意味で本書は、相当ノンフィクション要素が盛り込まれている物語だといえるでしょう(マロリーのカメラにしても、1999年にマロリーの遺体が発見された際、実際彼が使っていたはずのカメラは発見されなかったとのことです)。

なのだけど、この映画では、こうなるのだろうな、という予定調和の中に物語が収まってしまっていて、ノンフィクション的な、これからどうなるんだという要素を感じられなかったなと思います。もちろん、予定調和に感じたからと言ってそれが即悪い評価に繋がるわけではないけど、この映画の場合、実話を相当盛り込んでいて、また、エヴェレストで撮影するなどリアルな映像を追求しているのだから、予定調和に感じられてしまった部分が残念に感じたのではないかと思います。
僕の推測ですが、この予定調和は恐らく、原作の分量に要因があるように思います。僕は原作は読んでいませんが、上下巻のかなりボリュームのある作品です。これを映画にするためには、相当内容を削らなければならなかったでしょう。そのために、映画は予定調和的になってしまったのではないかと勝手に想像しました。

あと、これも仕方ないと分かってるのだけど、映画の後半、深町誠と羽生丈二の独白が多くなってくるのがどうにも受け入れがたかったです。登攀のシーンでは、猛吹雪で音がうるさいし、そもそも喋る体力がない。だから、心理描写が独白で処理されてしまうのは仕方ないと分かってはいます。でも、小説では違和感のないだろうそのやり方が、映画で多用されるとちょっと辛いなぁ、と感じてしまいました。

ここまで僕が書いたことは、あの分量の原作を、しかも極地での撮影を必須とする物語を映画化する上で、ある程度妥協せざるを得なかった部分なんだろうな、と思いました。ただやっぱり、純粋に作品として捉えた場合、そういう妥協せざるを得なかった部分が欠点に見えてしまうなぁ、と思うのです。

個人的には、もう少し羽生丈二個人にスポットライトが当たるといいな、と思いました。
実際作品の中で、羽生丈二はメインで描かれています。でもそれは、初めて鬼スラを成功させたとか、人間業じゃないと言わしめた奇跡の生還を果たしたというような「羽生丈二の記録」です。そうではなくて、羽生丈二が何を考え何を見ているのか、そういう部分を知りたいという気がしました。ノンフィクションであれば、そういう部分は永遠に分かりません。しかし、これは物語なのだから、もっと羽生丈二の内面に迫れるんじゃないか、と思いました。まあもちろん、原作でも迫っていないのかもしれませんが。

『一番目じゃなきゃ意味がない。誰かの後なんて我慢できない』
『俺がここにいるから山に登るんだ』

羽生の内面に迫る描写は、ないわけではありません。ただ、もっとそういう部分に力点が置かれた物語だったら良かったのに、と思ってしまいました。

羽生丈二の描かれ方で最もいいなと思ったのは、先ほど少し書いたザイルを切る切らないの話です。岸丈太郎と言う若者が絡んでくる物語なのだけど、この話は物語の最後の方まで関係してくる。羽生の人間性を決定づけた出来事が、羽生の人間性を更新させる要素ともなる。『お前を助けたのは俺じゃない』という羽生の台詞は、凄くいいなと思いました。

僕の中ではちょっと残念だったなという感じの映画でした。ある程度は仕方なかったのだろうとは思うのだけど、もう少し違った感じで映画化出来たりしなかったかなぁと思ってしまいました。

「エヴェレスト 神々の山嶺」を観に行ってきました



エスケープジャーニー(おげれつたなか)

『俺と太一は、恋愛を挟むとうまくいかない2人だった』

この作品が僕にドンピシャだったのは、僕が直人とまったく同じことを考えているからだ。

『太一とは恋人になれない。友達以上には進むべきじゃない。一緒にいて楽しいし笑える。それだけでいい。それだけでいいはずなのに』

僕はある時から、恋愛はもう無理だな、と思うようになった。恋愛は向いてないな、と。一応書いておくけど、男との恋愛じゃなくて、女性との恋愛だ。

直人が言うように、「恋愛を挟むとうまくいかない」のだ。

どうしてなのか、自分なりに色々考えることはある。近すぎる人間関係だと関係性が濃すぎてその濃い感じを長続きさせられないのかとか(僕は、恋人だけではなく、家族も無理な人間なので)、恋人になってしまうと相手の理想に合わせなきゃいけない気がして窮屈に感じるのか、いつでも繋がってるような感覚が苦手なのか(僕はFacebookとかLINEで人と繋がり過ぎることもしんどく感じられる人間です)、その辺りの理由はイマイチよく分からない。でも、理由はともかく、僕はもう、恋愛という関係は無理なんだろうなと思う。

こういう話をすると、「まだ本当の恋と出会ってないんだね」みたいなことを言われるんだけど、どうなんだろうなぁ。今までの僕の恋愛は、全部自分から告白して、全部自分から振ってる。自分が告白して付き合い始めの頃は、僕の感覚ではすげぇ好きなんです。その感覚が「本当の恋」じゃないとしたら、どういうのが「本当の恋」なんだろうなぁ、と思ってしまう。

でも、半年もすると、もう無理になる。

『男同士で、普通じゃなくても、今まで通り楽しくやっていけると思ってたから。でも、だんだん太一と一緒にいることが楽しいとは思えなくなっていった』

太一と恋愛関係に陥った直人と同じ感覚に、僕も囚われてしまう。「飽きた」と言われればまあそれまでなのかもしれないけど、僕の感覚では「飽きた」というのではなく、「あぁもう一緒にいられない」「一緒にいるのがしんどい」という感じになるのだ。

だから今僕は、女性との関係を恋愛にはしないということを、メチャクチャ強く意識している。

『と…ともだちになりたいの』

僕は何故か女子会に呼ばれる男だった。女子会という名目ではないかもしれないけど、お例外全員女子(女子の人数は1人から5~6人と様々だけど)みたいな場にばっかりいた。男同士でいることはほとんどない。男といるのは苦手なのだ。
ちょっと前に引っ越したのだけど、「そっちに行ったら泊めて」と言ってくる女性は何人かいるし(まだ実現はしてないけど)、僕が上京した時に泊めてくれると言ってる女性もいる。そんな風に、女性から男として扱われない感じが、僕は凄く楽で楽しい。

だから女性とは、どうにか友達になりたいなぁ、といつも思っている。よく言う、「友達以上恋人未満」というのが理想だ。恋愛はもういい、なんていうと、時代的に草食男子だと見られるだろうけど、僕は、積極的に「友達以上恋人未満」を目指しているという点で、草食男子とはちょっと違うんじゃないかと思ってるけど、どうだろう?

『俺たちは恋人とか友達とか、名前のつく関係にはなれない。どんな名前の関係でも結局はうまくいかない。俺と太一は何にもなれなかった』

とはいえ、女性とそういう関係になるのは、かなり難しいし時間が掛かる。直人がいう「名前のつかない関係」というのは、名前がつかないが故に安定させにくい。男女の友情が成立するかという話がよくあって、答えはどっちでもいいんだけど、「男女の友情」という関係にきちんとした名前が存在しないせいで、その関係性が不安定であることは間違いない。名前のつく関係性の引力というのはとても強いから、どうしたって「恋人」とか「元カレ」とか「友達」とか、そういう名前のつく関係性に否応なしに着地してしまうことが多いだろう。「友達以上恋人未満」だろうが「男女の友情」だろうがなんでもいいのだけど、その関係性は、どちらか一方、あるいは両方のかなり強い意志がなければ継続しえないというのは確かだろうと思う。

恋愛はもう止めて女性とは友達になろう、と決めて以降、僕はちゃんと自分の気持ちをコントロール出来ていると思う。危ないな、と感じる時ももちろんあるけど、そういう時は、かつての後悔を思い出すようにしている。

『太一とは、「恋人」じゃダメだった。なら「友達」に戻れば、またうまくいくのだろうか』

僕はよく考える。かつて付き合った女性たちは、友達のままだったら本当に良い関係を継続出来たと思う。友達のままなら、これほど相性が良い人はいないだろうと思えるような人たちだった。けど、一度恋愛にしてしまったせいで、特に男女の関係の場合、「普通の友達」に戻るのは難しい(この作品のように同性同士であれば、その関係性は基本的に周囲に伏せているだろうし、本人同士の気持ちさえ整えば、形としては友達に戻れなくはないと思う。男女の恋愛でも、周囲に伏せていれば同様だけど、完全には伏せないことが多いと思うので)。恋愛にしなきゃ、今でもいい関係でいられたんだろうなぁ、という強い後悔があるから、自分の気持ちが揺れ動いた時は、その後悔のことを思い出すようにしている。

『こえーんだよ。なんか…なんでもいい。名前がつかないと。友達とか恋人とか…家族とかさ。
先に進めないのは怖い。ずっと立ち止まったままいるみたいで』

直人と僕が違うのはこの点だ。僕はもう、名前がつかない関係でいることに恐怖はない。むしろ、名前がつかない関係になりたいとさえ思っている。安定しないことにこそ良さを感じている。
でも、直人の恐怖も当然だろうと理解は出来るつもりだ。

『女の子は、友達、恋人、それから結婚して家族になる。でも俺と太一は、恋人がゴールで最後だった。友達以上にはなれても恋人以上には絶対なれない。元々恋人の俺達にはこれから進む先の道なんかなくて、戻る道しかない』

僕には、「家族がゴールで、それが当たり前」という価値観は怖いなって思うけど、世の中がそうなってるんだから、それに囚われてしまうのは仕方ないことだとも思う。好きだから恋人、家族をゴールにしなきゃいけないなんていう思い込みから解放されれば、もっと人間関係が多様になって面白いと思うんだけどな。


高校時代、直人と太一は付き合っていた。コミュ障気味で他人とうまく喋れなかった太一を見かねて、誰とでも喋れるチャラい直人が構ってあげてたのがきっかけで、友達としては最高の関係だった。でも、恋愛になった途端、うまくいかなくなった。些細なことで喧嘩ばかりして、一緒にいることが楽しくなくなった。

そして、最悪な形で別れることになった。直人と太一は、友達以下になった。

大学で、直人と太一は再会する。コミュ力の高さを活かして色んな人に声を掛けまくっていた直人は、その内の一人に紹介された友人の中に直人がいることを発見する。
直人は、最悪な別れ方をして、それから会ってない太一との再会に動揺したが、太一の方はなんだか普通に接してきて調子が狂う。

『要は好きにならなきゃいいんだよ。簡単な話じゃん。なんだよ、よゆーよゆー』

そう思ってた直人は、しかし、もう一度太一を求めてしまう。

『俺はもう知っている、友達以上を。知っているから止まれない』


僕自身のあり方とリンクしすぎてしまう部分が強かったからでしょうか、直人にもの凄く共感して読んでしまいました。直人と同じ道を、僕も歩いたことがある、という感覚にずっと囚われていました。恐らくハッピーエンドだろうな、と予想してたから、途中で直人と僕の選択は枝分かれするはずだとわかっていました。でも、同じ場所から同じ道を通って、途中まで同じ景色を見ていた仲間として直人のことを見ていました。

この関係性は、まさにBLでなければ描けないでしょう。

僕は割と、機会があれば周囲の人間に、恋愛はもういいんですよー、という話をする。するんだけど、やっぱりなかなか分かってもらうことは難しい。ここに書いたようなことを圧縮して話すんだけど、伝わらない。まあそうだろうな、とも思うんです。好きだったら恋愛にするのが当たり前、という世の中だし、昔以上により恋愛至上というか、恋愛をすることが良いことだみたいな風潮を感じる世の中でもあります。恋愛をしていることは幸せだし楽しいことで、恋愛をしていないことは不幸でつまらないことだ、と本気で信じている人は世の中にたくさんいることでしょう。そういう中で、恋愛はいいっす、女性とは友達がいいっす、みたいなことを言ったって、はぁ?となるだろうなと思っています。

ただこの話、男同士に置き換えたら、途端に分かりやすい話になるんですよね。

『女の子は、友達、恋人、それから結婚して家族になる。でも俺と太一は、恋人がゴールで最後だった。友達以上にはなれても恋人以上には絶対なれない。元々恋人の俺達にはこれから進む先の道なんかなくて、戻る道しかない』

同じ引用を繰り返したけど、まさに男同士の関係は、捉え方によっては「戻る道しかない」ことになる。それがすんなりと伝わる。男女の関係で「戻る道しかない」と感じさせる作品を描くには、相当色んな設定を継ぎ足していかないと不可能だと思うけど、BLでならそれが出来る。BLという枠組みだからこそ描き得る関係性に焦点を当てて深く掘り下げている感じが凄くいいなと思いました。

この作品には、BLでありながら女性もたくさん出てくる。BLの中で女性を登場させることの難しさは別のところでも書いたから繰り返さないけど、チャラ男で女性にいくらでも声を掛けられる直人と、自分に思いを寄せてくれる女子がいる太一という、女性もきちんと存在する世界の中でお互いへの気持ちが描かれていく。女性の存在が物語の中で重要な役割を占めるし、そういう意味でも男同士だけで完結してしまうBLよりもよりリアルだなと感じられました。

『特に大事なことって、ただ思ってるだけじゃダメなんだよ』

作品全体としては、直人やミカっていう女性の、うわー俺たぶん友達になれないわー、っていう感じの描写が凄く良い雰囲気出てたと思うし、ふみちゃんって女の子の感じも良かったな、と思います。ホントは、ストレートすぎるハッピーエンドはあんまり好きじゃない方なんだけど、この作品では、ちゃんと落ち着くところに落ち着いてくれて良かった、という感じになりました。

おげれつたなかの作品は、前に「恋愛ルビの正しいふりかた」という作品をなんとなく読んでみて、あーこれは俺が読んじゃいけないタイプのBLだったー、と後悔しました。表紙の感じとタイトルのインパクトで選んだんですけど、やっぱりダメですね。人から勧めてもらわなかったら二度とおげれつたなかを読まなかったと思うので、とてもいい機会だったなと思います。

おげれつたなか「エスケープジャーニー」


「乃木坂46の「の」 20160313 伊藤万理華・齋藤飛鳥」を聞いて

ネットで、齋藤飛鳥が出てる回の「乃木坂46の「の」」を聞いてみました。齋藤飛鳥は、1年以上ぶりの登場だったようです。ブログにも、マネージャーにも、ラジオに出たいってアピールしてたのに全然読んでもらえなかったから、これは本格的に嫌われたんだな、って冒頭で言ってて、齋藤飛鳥のこのキャラはやっぱりいいなと思いました。

僕が乃木坂46のメンバーを見るのは、主に「乃木坂工事中」って番組だけなんだけど、齋藤飛鳥はここ一年ぐらいで選抜入りしたメンバーなので、選抜メンバーを中心に構成される「乃木坂工事中」ではまだそこまでフィーチャーされることがありません。また、「乃木坂工事中」って番組は、基本的に大人数でやってるので、齋藤飛鳥がフィーチャーされるとしてもやはり一部という感じになります。

今回のラジオは、伊藤万理華と齋藤飛鳥が二人で話す、というスタイルだったので、齋藤飛鳥を存分に堪能することが出来て良かったなと思います。

テレビで見る以上にラジオを聞いて感じたのは、齋藤飛鳥は「力の抜け具合」がいいな、ということです。これは、テレビを橋本奈々未を見て感じることでもあります。

アイドルって、僕のイメージでは、結構全力で頑張る、みたいなところがある気がします。笑顔も全力、手を振るのも全力、何事も全力。そういうアイドルが、ファンからも支持され、人気になっていくようなイメージがあります。それがすべてではないにしても、そういう風潮がある以上、アイドル側も、自分の本来のキャラクターがどうであれ、全力投球する感じで見せていく意識になっていくように思います。

ただ齋藤飛鳥から、そういう雰囲気を感じません。
これは、齋藤飛鳥が全力でやっていない、ということを言いたいわけではありません。齋藤飛鳥が自分の意識の中で、自分の努力をどう評価しているのか分からないけど(僕のイメージでは、自分は全然努力なんて出来てない、みたいな自己評価なんじゃないかと思いますが)、努力しないでここまで人気が出ることはないわけで、自分がどう感じているかに関わらず、齋藤飛鳥は齋藤飛鳥なりに全力でやっているだろうと思います。

でもそれが、あまり外側から滲み出ない。なんとなく、肩の力を抜いてやっているような雰囲気を感じる。そこがいいなぁ、と思うんです。

それを可能にしてるのが、齋藤飛鳥が自分で認識している自身の特殊性なんだろうな、と勝手に思っています。

齋藤飛鳥は、このラジオの中でも言ってたけど、「めんどくさい性格なんですよ」という発言を頻繁にしている。齋藤飛鳥の性格そのものを僕が捉えきれているとは全然思ってないけど、齋藤飛鳥が自身のことを、周りとは違うと感じていることは分かります。例えば先ほどの「めんどくさい性格なんですよ」という発言も、周囲を「普通」と認識し、その周囲の普通のとの差異を「めんどくさい性格」と捉えている、ということでしょう。

齋藤飛鳥の特殊性が、先天的なものなのか後天的なものなのか、それは僕には分かりません。僕は、変人には二種類あると思ってて(僕は齋藤飛鳥が変人だから好きなのです)、本人的には「普通」にしているのに周りとズレてしまう先天的な変人と、周囲と交じり合わないために敢えて変人らしく振る舞おうとしている後天的な変人です(ちなみに僕は、後天的な変人であろうと日々努力しています)。

齋藤飛鳥がどっちの変人でも別にいいんですけど、ここで大事なことは、齋藤飛鳥が自身の特殊性をきちんと認識している、ということです。周りと差がある、と認識しているだけではなく、恐らく、どの程度周りからズレているのかという部分もそこそこ認識できているのではないかと思います。

だからこそ齋藤飛鳥は、「そのままの自分」を「自然」に出すことで周囲と差別化出来るのだと認識しているのではないかと思うのです。だからこそ、全力でやるアイドルという形を自分の中で作らなくてもオリジナルな立ち位置を獲得できているのではないかと思うのです。まあ、どこまで戦略的だったのか、それは分かりませんけど。自分の「自然」を出してみたら、案外受け入れられたから、じゃこれで行こう、みたいに思う経験があったのかもしれません。

「そのままの自分」「自然」とカッコで括ったのは、僕は齋藤飛鳥から、「「自然体」という演技をしている」という雰囲気を感じるからです。何故そう感じるのかと言えば、齋藤飛鳥の本当の自然体は、きっと、アイドルとしてテレビに出たり人前で歌ったりする感じではないだろうからです。

「乃木坂工事中」の「5年目を迎える今だからこそミンナに伝えたい授業」の回で齋藤飛鳥は、「いちごミルクが好きというキャラで行こうと思ってた」という話をしていました。まあそれはうまく行かなかったらしいけど、アイドル的な可愛い感じの路線がいいだろう、と初期の頃考えていたみたいです。

それは齋藤飛鳥にとって、「「いちごミルクが好きなキャラ」という演技をしている」という状態だったでしょう。

そこから今の、物事をナナメから見るようなアイドルらしくない方向に進んで行きます。もちろんどのアイドルだって、本来の自分とアイドルと見せている自分にズレはあるでしょう。アイドルに限らず、テレビに出ている人はきっとそうでしょう。

ごく一般的な芸能人の場合、さっきの「いちごミルクが好きなキャラ」のような、何らかの自分とは違うキャラを身にまとっている感じがします。でも、齋藤飛鳥に対して感じるのは少し違います。齋藤飛鳥は、「本来ならテレビに出るような感じではない私の自然体が、もし本当にテレビに出たらどう振る舞うだろうか」という思考を一回挟んで、それを自分の「自然体」として見せている、そんな印象があります。本来的な自分の自然体が絶対にやらないことを、もしやるとしたらどうなるだろう、というifの自分を想像して演じている、そんな感じがします。そういう部分も、齋藤飛鳥が自分のことを「めんどくさい性格」と評する部分なのかなと感じたりもします。

だから齋藤飛鳥がアイドルとして見せている姿は、決して嘘ではないけど本当でもないという、絶妙な雰囲気を漂わせているのではないかと思うのです。そういう部分が気になるんだろうなぁ、と思っています。


こういうことを書き始めるとなんだか書きすぎてしまうので、ちょっとはラジオの話も書きましょう。

一番興味深かったのは、ファッションの話です。

伊藤万理華が、モデルになる以前の齋藤飛鳥の服装のダサさについて語っていました。齋藤飛鳥は初期の頃、お兄ちゃんのお下がりの、白と紺のラインのカーディガンをよく着ていたそうで、伊藤万理華がそれを凄くダサかった、と語っていました。

齋藤飛鳥はどこかで、自分の顔が別にそんなに好きでもないし、容姿なんて年齢と共に崩れるんだから、みたいな発言をしていました。お兄ちゃんのカーディガンを着てた話と合わせても、昔は自分を着飾ることに関心がなかったのでしょう。

けど、モデルをやるようになって、ファッションに対する姿勢が変わったようです。伊藤万理華は、乃木坂46の中でもセンスが抜群だと知られていますが、その伊藤万理華が、最近対等にファッションの話が出来るようになってきた、と言っていました。齋藤飛鳥も、乃木坂46イチのセンスの持ち主である伊藤万理華に褒められるのが一番嬉しい、と語っていました。

伊藤万理華は、齋藤飛鳥の昔と今の違いを問われて、「性格が全部違う」と答えていました。色んな要素はあるでしょうけど、モデルとして活動し、ファッションに関心を持つようになったことも大きな要因の一つでしょう。女性誌のことはよく分かりませんが、「CUTiE」というより若い世代のファッション誌の休刊に伴って、「Sweet」というちょっと大人な雑誌のモデルとして活動していますが、齋藤飛鳥は、「CUTiEさんとは違ってSweetさんでは、大人っぽく見せることを、子供っぽい部分を出さないことを意識してる」と言っていました。伊藤万理華は、クリエーター的な人と関わることが多いのだけど、その経験から、「Sweetみたいな大人っぽい雑誌でモデルをやるようになってから飛鳥が大人びてきた」と言っていたし、齋藤飛鳥自身も「影響されてる」と語っていました。

クリエーターとモデルという、違う業界で活躍している話をしている中で齋藤飛鳥は、「この業界は興味本位で顔を広くするのはちょっとアレだけど、でも必要な時もあるんじゃないですか」みたいな発言をして伊藤万理華を驚かせる。伊藤万理華からすれば、齋藤飛鳥からそんな積極的な発言が出てくることが驚きだったようだ。「性格全部が違う」という評価は、そういう部分も込みでの発言なのだろう。乃木坂46TVでのラジオ体操の話の流れから、「知らないことがあるって恥ずかしいと思ってる」という発言をしていて、そういう部分でも積極性を感じさせる。まあそのすぐ後に、「そんな面倒くさいことしないよ」と、齋藤飛鳥らしいことも言っているのだけど。

「今楽しい?」と聞かれて「それなりに…」と答えたり、「一年振りに出て、最後に言い残したことは?」と聞かれて「いや、ないよ」と答えたりする齋藤飛鳥はやっぱり面白いなと思います。もしかしたら齋藤飛鳥って、「まだ17歳で若いのにこういう雰囲気で面白い」みたいな受け方をしているのかもしれないけど、齋藤飛鳥みたいな子が、自然体でも「自然体」でもどっちでもいいけど、年齢を重ねてもああいう感じで生存出来るといいなぁ、と思っています。

「乃木坂46の「の」 20160313 伊藤万理華・齋藤飛鳥」を聞いて

ミッドナイトジャーナル(本城雅人)

マスコミ、というものに、あまり良い印象を抱いていない。
その理由は二種類ある。

一つは、報道する価値があるとは思えない事柄がニュースとして取り上げられることが多い、ということだ。この文章を書いているタイミングでは、芸能人やその周辺の人たちの不倫報道が凄まじい。確かに、ある程度影響力の高い公人がある程度の倫理観を求められるのは当然かもしれないが、しかしだからといって、他人の不倫の話をあそこまで大きく取り上げる必要があるのかといつも感じてしまう。

しかしこういうものは、基本的には受け手側にも責任がある。受け手側がそういう情報を好んでしまうが故に、上流から流れてくる情報自体がそういうものになってしまうのだ。一概にはマスコミだけの責任には出来ない。

また、報道されるべき価値のある情報が様々な理由により報道出来ず(スポンサーの関係や政府の圧力などなど)、結果的に報道する価値があるとは思えない情報に偏ってしまう、という側面もあるだろう。マスコミも企業として存続させなければならない以上、ある程度の判断は必要だろうし、この点も理解できないわけではない。

さてもう一つ。こちらは、実に個人的な話である。

僕はかつて、二つのテレビ番組から取材を受けた経験がある。詳しいことは書かないけど、取材クルーが当時働いていた店や、当時住んでいた家に来た。

その時に、あまり良くない経験をした。

一方のテレビ番組の方は、あらかじめ質問事項が送られてきていて、それに対して僕がカメラの前で答える、というスタイルだったので特に不満はなかった。しかしもう一方が、「撮りたい画」のイメージの中に僕をはめ込もうとする人たちだったのだ。

ディレクターの中にもう完成形のイメージがあった。その完成形のイメージは、僕の存在を無視して作られている。だから、ディレクターが望んだ画を撮るためには、僕を都合よく動かすしかないのだ。

僕は、嫌だなぁと思いながら従った。後々思い返して、従わなければよかったなと後悔している。

新聞の取材を受けた経験もある。共同通信社で、僕のことを取材した記事が配信されたのかどうか知らない。その時にも、ちょっとした違和感を覚える出来事があった。

それまで雑誌系の取材を受けたことはあったので、事前に原稿は見せてもらえるものだと思っていた。だから、雑誌系の取材の時と同じように、事前に原稿を見せてもらえるんですよね?みたいなことを確認した時に、「新聞は首相を取材した時だって事前には見せない」みたいなことを言われたのだ。

まあ、社会面とか政治面の記事だったら分かる。でも僕が載った(あるいは載らなかったのかもしれないけど)記事は、文化面とかそういうページだろう。そういうページにまで、社会面とか政治面の理屈を通用させてしまうんだなぁ、と感じた記憶がある。

そんなわけで、マスコミというものにあまり良い印象を持っていない。

とはいえ、これまた当たり前の話ではあるのだけど、「マスコミ」という形で、大きな存在を一括りで捉えることも良くない。例えば僕はノンフィクションが好きだけど、ノンフィクション作家の多くが、現役の記者だったり、元記者だったりする。東日本大震災を始め、様々な災害などでマスコミが果たした役割というのも大きいのではないかと思う。

『昔とは違うんだ。今の新聞なんて無力だ。官僚だってそう思ってるさ。週刊誌に知られたらまずいが、新聞ならなんとでもなるって』

新聞を取ったことはほぼない。読む習慣がない。僕は就活をしなかったけど、僕らの世代では、就活してた時は読んでた、みたいな人が結構多いのではないだろうか。若い世代になればなるほど、ニュースはネットで見ればいい、と感じるだろう。僕もそう感じてしまう。もちろん、新聞社の取材がなければネットのニュースは存在し得ないということは分かっている。分かっていて、そう感じてしまうのだ。

『そもそも今の時代、どこよりも早く報じることは意味はあるのか』

その場にいた一般人が撮った写真や動画がいちはやくネットにアップされてしまう時代、新聞が早く報じることにどれほどの意味があるのか。新聞記者自身がその問いを胸に抱えながら、それでも日々事件を追いかけていく。

新聞は決して事件を解決するわけではない。報じるだけだ。だけ、ではないが、しかし報じることが責務だ。そして、報じるという行為がどれほど権力に対して力を持ち、そのことでどんな化学反応が生み出されるのか、本書を通じて実感できたように思う。

内容に入ろうと思います。
7年前彼らは、世紀の大誤報を打ってしまった。
「被害女児死亡」
そう報じた直後、女児の生存が確認されたのだ。
中島聖哉という青年が、少女を誘拐し殺害した事件。中央新聞は、世紀の大誤報のお詫びを行ったが、しかし中央新聞が訂正しなかった事柄がある。中島に、共犯者がいた、というものだ。しかし結局、中島は単独犯と断定され、死刑判決が下った。
当時中島の事件を取材していた関口豪太郎、藤瀬郁美、松本博史の三人は、それぞれの道に進んだ。誤報の責任と取らされ支局に飛ばされた豪太郎は、今はさいたま支局にいる。藤瀬は東京本社で社会部にいる。そして松本は、自ら望んで整理部員となった。
ある日、さいたまで女児の連れ去り未遂事件が発生する。豪太郎は、7年前の事件との関連を疑う。あの時捕まらなかったもう一人が、また事件を起こしているんじゃないか?と。東京本社では、何かと鬱陶しい豪太郎の行動に辟易しつつも、あちこちからネタを引っ張ってくる力は認めていて、扱いにくい男だと感じている。7年前との関連性を口にする豪太郎を、7年前の誤報で痛手を被った者たちは抑えこもうとし、かつて豪太郎の元についていた藤瀬を埼玉に送りこむ。整理部員となった松本は、かつての事件との関連を想起しながらも、自分はもう社会部の記者ではないのだと自分を抑えこむ。
今起こっているこの事件は、中央新聞に大打撃を与え、豪太郎らの人生を大きく狂わせた、あの誘拐殺害事件と、関連があるのだろうか?
というような話です。

実に面白い作品でした。物語の展開のさせ方や臨場感、人間の造形のリアルさなど、さすが元新聞記者ならではの作品という感じがして、お見事という感じでした。

僕が一番凄いなと感じた点は、物語の全体を通して、事件らしい事件が起こらない、ということです。
こう書くと語弊があるかもしれない。事件らしい事件が起こらない、というのは、「新聞社を舞台にした小説で扱われるだろう規模の事件と比べて大した事件ではない」という意味です。
大体新聞社を舞台にした小説では、冒頭で大事件が起こると思います。そしてそこを起点として、新聞社がどう動くのか、どこでどんな軋轢が生まれていくのかなど、様々に物語が展開されていくわけです。

しかし本書の場合、後半に入らないと事件らしい事件が起きません。連れ去り未遂は発生する。これは、被害を受けた側からすれば恐ろしい恐怖だろうけど、やはり、新聞社を舞台にした小説を成り立たせるのには弱い事件だと感じてしまう。

しかし本書は、このほとんど事件らしい事件が起こらない中で、物語を成立させてしまう。その手腕が凄まじいと感じました。

そこで効いてくるのが、7年前の中島の事件です。本書では、この7年前の事件が最初から最後まで亡霊のように付きまとってくる。

先に挙げた豪太郎、藤瀬、松本にしても、あの7年前の事件で様々の身の振り方をしているし、また社会部長までのし上がった外山は、かつてその大誤報となった記事にゴーサインを出した人物であり、出世争いから一時落ちてしまった。様々な人間があの大誤報によって人生に変転を迎えている。

埼玉で起こった女児連れ去り未遂は、その7年前の事件の存在がなければ、恐らくここまで彼らの関心を引くことはなかっただろう。特に豪太郎は、どこにどんな自信があったのか、7年前の事件との関連性を誰も思い出しもしなかった時から、しつこいくらいに関連を疑い続けるのだった。

そこには、豪太郎なりの想いがある。

『だけど万が一、間違ったとしても、それを警察だけに押し付けるのはどうかと思う。俺たちだって取材してたんだ。犯人を捕まえるのは警察の権限だからマスコミは関係ないなんて、そんな無責任なことは俺は言いたくない』

豪太郎は、恐らく誰よりも、中島の事件のことを悔いている。「女児死亡」の大誤報もそうだが、二人組だったという証言が多少あったにも関わらず、その時突っ込んで取材をしなかったことこそをより強く後悔しているように感じる。豪太郎の、女児連れ去り未遂が7年前の事件と関係するという主張は、さすがに勇み足に過ぎると感じる部分もあるのだけど、しかし、それだけ強い思いを持たなければ真実を明るみに出すことは出来ないのだという信念の現れでもあるのだろうと思う。

『真実は真夜中に出てくるというのが親父の持論だったんだ』

『真実というのは常に闇の中にある』

豪太郎は、真実に人生を捧げるかのように、記者という仕事に没頭する。豪太郎は、あらゆる人間から鬱陶しがられているのだが、その気持ちはとても良くわかる。無茶苦茶な指示を出すし、人使いは荒いし、上司の言うことは聞かないし、どんな状況でも自分が正しいのだという気持ちを隠さない。近くにいたら真っ先に嫌ってしまうタイプだろう。しかし、新聞記者として、真実に人生を捧げている生き方には尊敬してしまう。

『新聞記者に武器があるとしたらそれは書くことだ』

豪太郎が傲慢で傍若無人なのは、真実に対して誠実だからだ。豪太郎にとっては、真実がもっとも大事であり、そこに辿り着くためならなんだって利用する。なんだってする。その気迫が伝わってくるから、豪太郎という厄介な人間を憎めないのだろう。

『だが、新聞記者が出世を考え始めたらおしまいだ』

豪太郎の言葉ではないが、豪太郎も近いことを考えているだろう。豪太郎は、本社に戻りたがっている。ある意味それは、出世だろう。しかし豪太郎は、出世したいわけではない。真実を掴み、真実を掴む技量で認められることで、結果的に出世がしたいのだ。豪太郎が出世のためだけに真実を追っていたら、それこそ誰もついていかないだろう。真実に対して人生を捧げているというその本気を知るからこそ、傲慢な豪太郎と関わろうとするし、無茶な要望にも答えようとする。

取材の現場は、まさに豪太郎に振り回されていると言っていいだろう。しかし本書で描かれるのは、取材の現場だけではない。

例えば外山を中心とした、本社にいて紙面に対して最終的な権限を持つ者たちの話。東京本社にはトップクラスの記者が揃っているはずなのに、豪太郎のいるさいたま支局にやられてしまっている現状とか、暴走していると感じられる豪太郎を抑えこもうとする手段など、紙面を作るという最終局面での争いが非常に面白い。

『新聞記者は、紙面をとってなんぼだ。他紙もよその部署もひれ伏すしかないインパクトのある記事で圧倒する。紙面という陣地の奪い合いが、ひいてはポストの取り合いへと繋がっていく』

社会部と政治部の対立や、色濃く残る7年前の誤報の余波など、紙面作りの局面にもドラマは山程生まれる。さらにそこに、整理部員として、かつて社会部の記者だった松本がいるのだ。

また、二階堂という、かつて大手紙の記者だった、現中央新聞の記者である男の存在も非常に面白い。

一番印象深かったのは、二階堂が警察と警視庁記者に絶妙な形で情報を流し、自らの思う方向に向かせようとする場面だ。二階堂は、手練手管を使って二人の人間にうまく情報を流し、相手の行動をコントロールしようとする。その手腕が絶妙なのだ。老練としか言いようのないやり口で、こんな風に人を動かすのだと感心した。その後も二階堂は、絶妙な場面で登場し、作品全体にいい味を出してくる。

本書では、記者とは、新聞とは何なのか、という問いが常に提示される。ある人にとってそれは、出世への階段であり、生活の糧である。それを否定するつもりはない。記者だけでは新聞社は回らない。豪太郎もそのことは理解している。しかし豪太郎は、記者という存在であることに使命感を抱いている。

『とはいえ、十二年、記者をやっていると、入社前に描いていた理想と現実が大きくかけ離れていることも痛感している。とくに社会部にいると、今起きている事件を追いかけるのに必死で、自分に与えられた使命などを考える余裕はない』

これは藤瀬の言葉だ。豪太郎は、藤瀬が失いかけていると言っている使命を忘れない。自らの役割を、そして責任をきちんと理解し、その上で出来うる限りのことをして真実の尻尾を掴もうとする。

『父は気概がなければ本当のジャーナルは貫けないと考えていたのだろう。だから取材相手に屈することもなければ、妥協することもなかった。魂の消えた記者の書いた記事など、読者がいち早く感づいてしまう』

ただ事実を追うだけではない。時にそこに解釈や想像を加えながら、なんとか真実の一端を掴まなければならない。その豪太郎の想いは、本書のラスト、豪太郎が山之内という新人記者の教育をしている場面からも良く分かる。取材をするとはどういうことか、真実を掴むとはどういうことなのか。そして、取材をし真実を掴むことが何故大事なのか。警察だけではなく、何故新聞という存在が必要なのか、そのことが実によく伝わる設定と描写で最後まで読ませる、骨太の社会派ミステリだと感じました。

本城雅人「ミッドナイトジャーナル」


セブン 秋葉原から消えた少女(浅暮三文)

時々、無性にこんな風に思う時がある。

多数派に馴染める人間だったら良かったな、と。

僕はどうしても、世の中の多数派に馴染めない。テレビや雑誌の情報に一喜一憂し、みんなで群れて騒いだりすることが楽しいと信じていて、そういう楽しさが全人類共通だと信じているような、そういう多数派に。

そういう多数派の集団の中にいても、それなりに振る舞うことは出来る。子供の頃から、多数派に馴染めない感覚を抱きながら、多数派の中で生きていく努力をしてきたからだ。その辺はお手の物である。ただ、多数派の中で多数派のフリをしていると、心が削られていく。

多数派に馴染めないと、生きていくのに余計な力を使う。あぁめんどくせぇなと思うことが多い。そういう時に、多数派に馴染まなくても生きていくための無駄な労力なんて使いたくないな、ナチュラルに多数派に馴染めれば良かったのにな、と思う。

今の僕の価値観では、多数派として生きていくことは怖気を振るうほど気持ち悪いことだけど、最初から多数派の感覚のまま生きているなら、そんな風に感じることもないだろう。自分が多数派であるということさえ特別意識することなく、多数派向けにデザインされたこの世の中で楽しく生きていけたことだろう。

まあとはいえ、僕はこの多数派に馴染めない感覚は、決して嫌いではない。その感覚のお陰で、自分を差別化し、自分をどう見せるかをコントロールすることも出来るということにも気づいている。その感覚んぽお陰で、多数派として生きていたら見えなかったり気づかなかったりすることにも意識を向けられるのだと思える。悪いことばっかりじゃない。とはいえ、やっぱり時々、あぁめんどくさいなと思うのだ。

内容に入ろうと思います。
秋葉原にほど近い湯島のホテルで、女子高生が殺害されているのが発見された。湯島を管轄するM署の刑事である如月七、通称セブンは、かつて25歳の若さで本庁の捜査一課に刑事として配属された際刑事としてのイロハを叩き込んでくれた土橋源造と組んでこの事件の捜査に当たることになった。
しかし、担当は被害者周辺の捜査。被疑者を追う捜査の本流からは外されている。
それは、セブンに理由の一端がある。M署の署長である若きキャリア・友部は、優秀な成績でありまた美貌も兼ね備えたセブンの引き受けを打診されて受けた。女刑事を上手く扱えることを示せればポイントが稼げると判断したのだ。しかしセブンは、厄介な女だった。恐ろしく優秀だが、組織の駒としては不適格。捜査はチーム戦だということが理解できていないのだ。そのため友部とセブンは衝突し、友部はセブンを捜査の傍流に押しやったのだ。
捜査線上にすぐ、容疑者が浮かび上がった。防犯カメラに映っていた、被害者の女子高生と同じ部屋に入った男である。しかし、その詳細はなかなか分からない。さらにセブンと土橋は、防犯カメラの男の行動に違和感を覚える。犯行が計画的であることは明らかなのに、何故この男は防犯カメラにその姿をさらしているのだろうか?
二人は被害者側から捜査を進めていく中で、被害者の少女が秋葉原で特殊なアルバイトをしていたことを突き止めるのだが…。
というような話です。

なかなか面白い作品でした。僕の中で浅暮三文という作家は、相当奇妙奇天烈な作品を書く作家だという認識だったので、本書のような真っ当な警察小説を書いたというのが意外でした。浅暮三文らしい、あのぶっ飛んだ奇妙奇天烈さを求めて本書を読むとするならばその期待は外れるでしょうけど、警察小説としては普通に面白い、よく出来た作品だと思いました。

ストーリーそのものにはあまり深く触れられませんけど、事件が起きて捜査が始まり、傍流の捜査から興味深い事実が見つかり、また事態が進展し、意外な真犯人に行き着く、という感じで、王道の警察小説という感じです。事件自体も、こんな言い方をすると誤解されそうですけど、特別奇妙なものではなく、現実に起こりそうな範囲の殺人事件という感じです。事件の背景に、秋葉原や学校を舞台とした非常に現代的な問題が横たわっていて、そのこともより、現実に起こりそうな雰囲気を感じさせました。

事件の本質的な部分にあるのは、居場所の問題だと言えるでしょう。誰もが簡単に繋がれる世の中になり、より多くの人と繋がれていることが価値を持つ世の中にあっては、関係性ごとに自分自身のキャラクターを変質させるというのはある種自然な行為だ。そういう世の中では、自分自身の肉体が所属する居場所、そして自分自身の心が所属する居場所が常に問題になってくる。居場所がほとんど限られている者、自分らしくいられる居場所にしがみつく者、望んでも辿り着けない居場所を憧れる者。居場所を求めるが故の行動が交錯して殺人事件という帰結を生み出してしまう。その切なさが巧く切り取られていると思います。

本書のちょっと特殊な点は、主人公であるセブンの存在にあるでしょう。セブンは、人の心がうまく理解できない。幼い頃の出来事がきっかけで、感情が湧き上がるべき場所が凍りついてしまったままなのだ。そんなセブンが、刑事として、事件に関わる人間に話を聞き、その心の動きを想像しようとする。事実を追うだけでは見えてこない景色を、心を想像することで覗き込もうとする。土橋というガイドに寄り添いつつ、心を感じ取れない主人公が人心を理解しようとする過程も面白い。

派手な展開はありません。事件が起こり、淡々と捜査が進んでいく作品です。ちょっと退屈に感じられる部分ももしかしたらあるかもしれないけど、現代的な背景と若者の心の奥底にある闇色の何かをうまく融合させながら、キリッとした雰囲気で描かれる警察小説です。

浅暮三文「セブン 秋葉原から消えた少女」


「ヤクザと憲法」を観に行ってきました

もの凄く面白い映画だった。凄かった。僕は見たことないのだけど、森達也の「A」に近いタイプのドキュメンタリーではないかと思った。外からは窺い知れない世界に飛び込んでいって、その日常を切り取る。外からのイメージを覆す姿を映し出し、世に問う。実に考えさせられる映画だった。



僕が抱いている大前提が一つある。
それは、「“悪”はなくすことが出来ない」ということだ。
この“悪”というのは別に、ヤクザとか暴力団とかそういう狭い範囲のものを指しているわけではない。もっと概念的な話で、人間という種が存在する限り(人間以外の種に“悪”という概念があるのかはなんとも言えないが)、人間の社会から“悪”という概念がなくなることはないと思っている。
この点に異論がある人もいるだろう。しかし僕は、この前提の元で自分の意見を書く。

例えば、窃盗や殺人などが起こると、基本的にはその行為者が罪に問われ、罰を受ける。この仕組みは、仕方ない。人間という社会をうまく機能させる上で、行為者を罰することなしに実現させることは困難だろう。
しかし、行為者にも、その行為に至った理由がある。それは裁判などで、情状酌量などと言った形で考慮されはするが、しかし基本的には法律も社会もすべて、行為者という個人に責任を負わせる形で納得させようとしている。

でも僕は、世の中に存在する“悪”の多くは、社会そのものが生んでいるのだと考えている。確かに、最終的にその行為に及んだ人物は悪い。しかし、人間が生きていく限り“悪”は存在し続ける。その“悪”は、基本的に低いところに留まっている。そして、何らかの理由でその低い場所に落ちてしまった人間がその“悪”に感染し、行為者として犯罪を犯す。僕はこんなイメージを持っている。

だから僕は常に、犯罪報道などで、犯罪の責任を行為者やその家族に押し付けるばかりのものは、あまり好きになれない。僕は、どんな人でも“悪”に感染する可能性があると思ってるし、“悪”に感染して自力で逃れることが出来る人はほとんどいないだろうと思っている。

僕自身も、基本的には善良な人間だと思っている。でも、人生の様々な場面で“悪”に感染する可能性はあったし、自分が自覚している以上にあったはずだし、実際に程度の差こそあれ悪事を働いたことだってある。

だからこそ僕は、その“悪”を引き受ける機能がどんな時代にも存在したはずだと思っている。
自発的に“悪”を引き受けているわけではない例はすぐに思いつく。黒人を奴隷に使ったり、部落差別が存在したりというのは、そういう“悪”を無理やり押し付けて機能させようとした結果だろうと思う。その時々の権力者は、“悪”の引受先がなければ社会がうまく機能しない、と考えていたのだろう(一応書いておくが、ここでの僕の文章は、奴隷制度や部落差別を容認するものではない。ただ、そういう時代が存在し、それらが“悪”の引き受けてとして機能していたはずだ、という考えを述べているだけだ)。

さて、これをヤクザや暴力団と呼ばれる人たちに当てはめてみる。僕の認識では彼らは、自発的に“悪”を引き受けようとしている集団である。

社会は成熟し、人々は豊かになった。だから社会に存在する“悪”に目を向ける余裕が出てきた。人々は、自分たちがより成熟し、豊かになるために、“悪”を根絶すべきだと考える。そして、暴力団を排除しようとする。

しかし、僕の大前提である「“悪”はなくすことが出来ない」が正しいとすれば、“悪”の引き受け手である暴力団を排除したところで、社会から“悪”そのものが消えるわけではない。“悪”そのものは消えないのだから、結局別の何かがそれを引き受けることになる。

じゃあ、何がそれを引き受けるのか?

特定の集団がそれを引き受けないのだとすれば、“悪”は薄く広く社会に蔓延るようになるかもしれない。あるいは、暴力団とはまた違う引き受け手が現れるかもしれない。あるいは、生活保護者や障害者のような社会的弱者が結果的に“悪”を引き受けさせられる世の中になるのかもしれない。

ここで一旦まとめよう。僕は、人間の社会から“悪”がなくなることはないと考え、暴力団はその“悪”の引き受け手であると考えている。しかも、自ら手を挙げて“悪”を引き受けようとしている集団である、と思っている。

『お互いに気に入らない相手でも、お互いの存在を認めて社会に存在する。それが良い社会だと思う。学校のクラスでも、ちょっと外れた人間はすぐにいじめられて排除される。でも、異質なものの存在を認め合うことが、良い社会なのではないか』

映画の中での発言はあまりにも的を射なかったので僕なりに解釈した文章を書いたが、21歳の暴力団部屋住みの青年がそんな風に語る場面がある。異質だから、というだけの理由で価値観の合わない存在を排除していたら社会は成熟しない。僕はそれは正しい考え方だと思う。暴力団は、確かに僕らの普通の世界の価値観からすれば異質な世界だ。でも、異質だというだけの理由で排除してしまうのは、どうなのだろうか?

もちろん、こういう意見が出てくるだろうと思う。暴力団の抗争や覚醒剤の密売などで実害を被っている人間がいる。そんな危険な存在なのだから排除して然るべきではないのか、と。

細かく議論していきたい。

まず覚醒剤の密売などについて。密売をシノギとして扱っている暴力団もあるだろう。そして、覚醒剤が社会に蔓延することで社会が悪くなっていくというのもその通りだと思う。
しかしそれは、暴力団だから悪いわけではない。覚醒剤を密売しているから悪いのだ。

暴力団だけが専売的に覚醒剤を扱っている、というなら話は別だ。しかし、かつてはどうだったか知らないけど、今はそういう世の中ではないはずだ。いわゆる反社会的勢力ではないごく一般の人間でも、覚醒剤を売る側に回ってしまう世の中になっている。暴力団とは無関係の外国人たちも多く関わっているだろう。
覚醒剤を密売することは悪い。しかし、覚醒剤を密売するのが暴力団だけではない以上、覚醒剤を密売しているから暴力団は悪い、という意見は乱暴に過ぎる。どんな存在であっても覚醒剤を密売するのは悪いことであり、それは暴力団であるかどうかには関係がない。

暴力団同士の抗争のように、暴力団がなければ存在し得ない問題もある。まさに今、山口組と神戸山口組の抗争により、一般市民が巻き添えを食らう事態に発展している。
しかしこれも、暴力団だから、と言いきっていいのだろうか?
例えば、A会社がシェアを伸ばしたために、同業であるB会社が倒産したとする。解雇された従業員が自殺し、その家族が路頭に迷った場合、A会社やB会社の責任を問う声はどれほど上がるだろうか?あまりに飛躍しすぎていると感じるかもしれないけど、「二つの組織の争いにより死者が出る」という状況は、決して暴力団同士の抗争だけで発生するわけではない。僕らが生きている社会でも起こりうることだ。それなのに暴力団同士の抗争だけを非難したい気持ちになるのは、暴力団は悪い、不要な存在だという前提を皆が持っているからだろう。

『何で怖いの?あんたおもろいこと言うなぁ。そんなん怖がってたら生きてられへんで、新世界で。
元気にしてるかぁって声掛けてくれるし、守ってくれる。あんた、警察が守ってくれるん?』

大阪市西成区の大衆食堂のおばちゃんが、指定暴力団・二代目清勇会の会長である川口和秀がやってきた際に言った言葉だ。カメラマンから「怖くないんですか?」と問われた時の言葉。暴力団が地域住民とどういう形で共存しているのか、それについては詳しく描かれているわけではない。しかし、暴力団は怖い、という先入観を持たない人たちからすると、暴力団という存在は警察よりも頼りになると思っているのだ。

先ほどから僕は、暴力団の存在を擁護することばかり書いているが、すべての暴力団を擁護しているつもりはない。悪質な暴力団も存在するだろうし、犯罪を犯せば罪に問われて罰せられるべきだ。しかし、「犯罪を犯せば罪に問われて罰せられるべき」というのは、別に暴力団に限らない。人間として生きている以上、当然の話だ。先のおばちゃんのように、暴力団の存在を受け入れ、信頼している人も世の中には存在している。否応なしに存在する“悪”を引き受けて処理してくれる存在というのは、社会にとって重宝するだろう。

すべて真っ白、一切罪を犯したことはない、という人間はそうそう存在しないだろう。それと同じように、まったく罪を犯さない暴力団というのも存在しないだろう。しかしその存在が、罪を犯すことで発生するデメリットを遥かに上回るのであれば、暴力団というのは存在する価値がある。“悪”の引き受け手として。

暴力団対策法や暴力団排除条例など、暴力団を一律で排除するような法律が生み出され、社会の後押しもあって、暴力団というのは相当にやりにくくなっている。この映画でも、川口和秀氏が様々な組員から集めた事例が紹介される。銀行口座を作れない、ローンを組めない、幼稚園を断られた、などなど。心情としては分かる。暴力団“だから”という理由で何もかも排除してしまいたくなる気持ちはわからないでもない。でも、そういう世の中は怖い。

『人間としての基本的な権利を無視するような圧力が存在する世の中は、怖い社会だと思います』

この映画に登場するある弁護士はそう語る。

日本国憲法は、法の下の平等を掲げている。人種や性別や信条などによって差別されてはならない、としている。罪を犯した人間は当然罰せられるべきだ。しかし、罪を犯したわけでもないのに、ただ怖いというだけの理由でその存在を排除しようとする風潮は、僕も怖いと思う。

『ヤクザのこと、認めん言うことやろ。
本当に認めんのやったら、みんななくしたらいい。選挙権もなくしたらいい。』


この映画で描かれるのは、主に三箇所である。

◯ 大阪市堺市 指定暴力団二代目清勇会事務所
◯ 大阪市西成区 指定暴力団二代目東組本家
◯ 大坂市北区 山之内法律事務所

主に映されるのは、清勇会の事務所。東組は清勇会の本家だ。また、山之内法律事務所は、山口組の顧問弁護士を務めている山之内幸夫氏が代表を務めている。

◯ 謝礼金は払わない
◯ 事前にテープのチェックをさせない
◯ モザイクは原則なし

これが、東海テレビが出した条件であり、暴力団側はその条件を飲んでカメラを受け入れた。

もちろん、カメラに写ったらまずい部分ではカメラを切らせる。また、カメラがあることで、普段はしているが自粛していることだって当然あるだろう。だから、完全に暴力団の日常を切り取っているかというと、そんなことはないだろう。何をシノギ(金を集める手段)にしているのかもはっきりとは分からず、何らかの形で犯罪行為に手を染めているのかもしれないけど、さすがにそれはちゃんとは描かれない。毒気が抜かれたものを見せられている可能性は十分にある。

とはいえ、そうだったとしても、こういう形で暴力団の日常を垣間見る機会はない。

中心的に扱われるのは三名。清勇会の会長である川口和秀氏(61)、20歳になってすぐ清勇会に入った部屋住みの松山尚人氏(21)。組員の一人である河野裕之氏(49)。

川口氏は、そこまで登場しないが、存在感がある。とても61歳には思えない若々しい姿だ。驚いたのが、川口氏の後ろについて、カメラが飛田新地に入っていったこと。もちろん、女の子は写されないが、写真や映像の撮影が一切許されない飛田新地で撮影が出来たということは、清勇会あるいは東組のシノギの一つが飛田新地の元締めなのだろう。

殺人を教唆したとして22年刑務所に入っていたことがあるという。川口氏が逮捕されるきっかけとなった、通称キャッツアイ事件は、暴力団対策法制定のきっかけになった事件とも言われているらしい。

部屋住みの松山氏は、とにかく雑用をしている。徹底的に掃除をする理由は、「組事務所は聖域だと思っているから」だ。食事を作ったり、舎弟(会長の弟という意味で、組内における立場はとても高い)にお茶を出したりと、やれることは何でもやる。時にめっぽう怒られるが、舎弟は松山氏に対して「親のような気持ちで接してる」と語る。

松山氏は、宮崎学のファンだそうで、清勇会の事務所に来るにあたって唯一自宅から持ってきたものが、宮崎学著「突破者」という文庫本だけだったという。宮崎学が雑誌で対談していた相手が川口和秀氏であり、それで清勇会の門を叩いたという。

『これぐらいの年の頃は遊びたい盛りだろうに、なんでこんなところにいるんだか。気がしれませんわ』

舎弟はそんな風に言う。

河野氏は、部屋にカメラマンを呼ぶ。結婚していた頃の写真を見せたり、暴力団に入るに至った経緯などを語る。

『(暴力団に入ることに抵抗はなかったですか?という問いに対して)
なかったですね。世の中って、褒めてくれたり助けてくれたりしないでしょ?(世の中が)助けてくれます?』

極貧の子供時代を送り、きちんと働こうとしても取引先が倒産したりなどうまくいかない日々。そんな時、食事や家や風呂の世話をしてくれたのが今の兄貴だったのだと言う。世の中は自分を助けてくれないけど、暴力団は助けてくれた。だから、世の中にどう思われたって構わない。そう語る河野氏を説得する言葉を持つ人間は、いるだろうか?

暴力団側の描写は、日常を切り取ったものの他に、葬儀や警察によるガサ入れもある。特に警察によるガサ入れには考えさせられた。ある人物が詐欺未遂で逮捕されるのだが、逮捕される前にその人物の話を聞く限り、“横暴”という言葉が浮かんでしまう。暴力団排除の流れがあまりにも過剰だということを如実に切り取っていると感じた。

『「だったらヤクザを辞めればいい、って話が絶対に出てくると思うんですが」
「どこで受け入れてくれるん?」』

暴力団は、元々ほとんど存在しなかったはずの“悪”の増幅装置なのか、あるいは、これ以上“悪”を増やさないための抑止力なのか。暴力団というものをどう捉えるかで、考え方は様々に存在するだろう。僕の意見が絶対に正しいとは思わないが、僕はこの映画を見て一層、暴力団というのは抑止力として機能しているのではないか、と感じた。


山之内幸夫氏は、五代目山口組の若頭・宅見勝氏と出会ったことで運命が変わる。宅見氏から、顧問弁護士を引き受けてもらえないかと打診されたのだ。

『一ヶ月ぐらい悩みましたよね。
一番は、人がどう見るか。悪い弁護士だという風に見るんだろうな、と。僕はいいんですけど、家族が、妻と子供が辛い思いをするんじゃないかと。そこが一番悩みました』

それでも、ヤクザの世界への興味に負けたという山之内氏。暴力団の顧問弁護士ならお金いっぱいもらえるんじゃないですか?という問いに、事務所のスタッフは、暴力団は今お金ないからねー、と語る。顧問料は、月10万円だそうだ。一時5人いたスタッフは、給料を払えなくなり、今では1人だ。

『「笑顔で帰ってこれるようにね」
「いやー、無理でしょう」』

この映画の中で山之内氏の人生がどんな決着を迎えるのか、その過程は書かないでおこう。「ヒットマン」という単語を日本に定着させ、「ミナミの帝王」の法律監修をしているという山之内氏は、『社会から消えろと言われてる気がしますね』と笑いながら語っていた。


分かり合えない者同士が、それでも同じ社会の中に存在している。それが良い社会なのではないかと、21歳の松山氏は語っていた。本当にその通りだと思う。“悪”の存在を許容せず、“悪”をひたすら排除しようとする行為は、僕は無意味だと思う。もし暴力団という“悪”を排除することに成功したとしても、その歪は社会全体のどこかに必ず現れる。この映画は、作り手側の具体的なメッセージが色濃いわけではない。基本的には、目の前の事実を淡々と記録している観察者に徹している。もちろん、バイアスもあるし、隠されている部分もあるだろうが、普段知ることのない世界の断片を見て、もう一度、“悪”との関わり方について考えてみるのは大事ではないかと思う

「ヤクザと憲法」を観に行ってきました

離婚男子(中場利一)

内容に入ろうと思います。
長距離トラックの運転手である健二は、ある日帰宅すると、驚愕の光景を目にすることになる。なんと、マンションの部屋中の家財道具がすべてなくなっているのだ!蛍光灯の器具さえ外してもっていくという念の入れよう。
香織か…。
虚言癖があり浪費家で見栄っ張り、尻が軽くて浮気症、そのうえ口まで軽いし計画性ゼロの妻・香織とは、よく喧嘩をしていた。そういえば数日前、それなら全部持ってこの部屋から出て行け、と怒鳴った気がする…。しかし、まさか本当にやるとは。
香織が残したのは、娘の詩織(シーちゃん)だけだ。
トラックに乗ってばかりで、家のことは全部香織に任せっぱなしになっていた男が、突如、2歳半の娘の子育てを始め、生活全般を一手に引き受けなければならなかった!
長距離トラックの仕事を回してくれるのは父・秀二で、実家も近くにある。秀二はよく詩織の面倒を見ていた。母・美智子が入院したばかりでばたばたしているが、とりあえずは実家に預かってもらうしかない。
でも、その後はどうしたら…。
唐突な喪失感により香織の存在の大切さを思い知らされた健二は、香織の捜索・詩織の子育て、トラック運転手の仕事の三つをなんとか両立させながら、徐々に、自分自身がいかにダメだったかを知り、香織にどれだけ負担を掛けていたを知り、娘がいかに可愛いのかをさらに思い知らされることになる…。
というような話です。

これはなかなか面白い作品でした。
全体的には、荒唐無稽な部分もある作品で、だからリアリティを楽しむみたいな作品ではありません。ドタバタコメディのような雰囲気を楽しみつつ、ちょっとほっこりしたりほろりとしたりするような作品です。

本書ではとにかく、詩織(シーちゃん)が可愛い。本書の最大の魅力と言ってもいいでしょう。シーちゃんは、父親である健二は仕事でほとんど家に帰ってこない、母親の香織は、正直母親の自覚に欠ける女で、様々な形でシーちゃんに寂しい思いをさせている。
だからシーちゃんは、大人の間をうまく取り持つような発言をしたり、シーちゃん自身が大人であるかのような発言をしたりする。

「おさかなをたべなしゃい!けんかしたらシーちゃんエンエンするよ!」
「おじいちゃん、コレ今月ぶんのです。おとうしゃんが、ごめいわくをかけてます」
「あそこの中にね、ペタンするのが入ってるの。それをシーちゃんのお背中に貼ったらいいんだよ」
「今日はたいきゃくだ」
「だいじとだいじは、どっちもだいじだもんな」

本書から抜き出してきたシーちゃんの言葉だ。どんな場面での発言なのかわからないものもあるだろうから上手く意味が取れないものもあるだろうが、2歳半の子供とは思えないような言葉じゃないだろうか。

シーちゃんがいなければ、正直物語はどうでもいいと言えばどうでもいい。酷い振る舞いから妻に逃げられた男と、事情があったとはいえ娘を捨てて逃げた妻、そしてふざけているように会話やどつきあいをする健二の家族の物語は、コントや漫才みたいで面白いのだけど、でも小説としては割とどうでもいいと感じるような気がする。でも、そこにシーちゃんという要素がポンと放り込まれることで、一気に物語としての厚みが増す。大人が自己責任で困る分にはどうでもいいが、でもシーちゃんは、自分では選べなかった親に翻弄される無力な存在である。そんなシーちゃんをどうして行くのか、どう接して行くのかなどの部分は、切なさややるせなさみたいなものが入り混じってくる。全体的にはおちゃらけた、コントのようなやり取りが続くのに、シーちゃんの存在によってキュッと引き締まる部分を作り出すことが出来る。この作品において、シーちゃんの存在は非常に重要だ。

『でもね、なんていうか、家の外で働く者は、一日中家に居る人のことを、ヒマって思ってしまうのよね…』

本書はまた、夫婦や家族のあり方を考えさせる作品でもあります。この物語は、健二の視点で進んでいく。健二は、自分が金を稼ぎ家族を支えているんだ、という自負を持っている。そしてこの自負が、あらゆる物事への免罪符として働くはずだ、という傲慢さを持っている。しかし健二自身は、その傲慢さに気づいていない。自分は、当然のことをしている、と感じている。

しかし、香織が逃げ出したことで健二は少しずつ変わっていく。初めこそ怒り狂っていた健二だが、シーちゃんの世話や、あるいは香織の捜索の過程で知った様々な価値観が、健二を徐々に変えていく。それまで、何にも出来ない計画性のない女(ただし美人)だとしか思っていなかった香織のことを、少しずつ違った形で見るようになっていく。

この物語で示唆されていること、つまり「相手の立場に立って物事を捉えること」というのは、あらゆる関係性において大事だろうと思う。健二が徐々に気づいていったように、読者も、自分の言動の一つ一つを捉え直して、自分が健二のようになってはいないな、と考えなおしてしまうのではないかと思います。

最初から最後まで、コントのような漫才のようなおちゃらけた雰囲気で物語が進んでいきます。けど、物語全体を通して、日常の中で見失いがちなこと、つまり、当然のように近くにいる存在は決して当然ではないということ、子育ては思っている以上に大変だということ、失って初めて大切さに気づくこと、などを思い起こさせてくれる作品です。そして繰り返しますが、何よりもシーちゃんがべらぼうに可愛い。僕は子供とか好きじゃないけど、シーちゃんならちょっと育ててみたい気もします。

中場利一「離婚男子」


薫りの継承(中村明日美子)

抗えないものに抗うことは、とても難しい。

『いつからだろう。このむせかえるような甘い薫りに酔ってまみれて、俺の気が狂ってしまったのは』

僕は時々、自分の思考にやられる。起こらないだろう最悪の未来を考えて落ち込み、どこにも辿り着かない思考をぐるぐるさせて持て余す。始まる前から想像だけですべてを諦め、出来ない言い訳を用意しないとと焦る。そういう自分はいつも愚かだと思う。意味のない、無駄な思考に囚われていると感じてはいる。

でも、自力ではなかなか、そこから抜け出すことが出来ない。

こういう思考は、子供の頃からずっとだ。僕はずっと、こういう思考とどう向き合えばいいのか全然わからないままだった。だから、そういう思考に追いつかれないように努力した。いつだって逃げ道を用意してからじゃないと前に進めなかった。恐怖を感じる遥か以前の時点で逃げた。そういう思考に囚われてしまってからでは、遅いのだ。抜け出せなくなる。以前の自分を取り戻すことが出来なくなる。自分の輪郭を見失ってしまう。

結局僕は、そういう思考を手懐けることが出来ないまま大人になってしまった。自分の内側に、巨大な穴が空いたままなのを放置して、ずっと生きてきてしまった。その穴に落ちてしまったら戻れなくなることは知っている。だから、落ちないようにする技術ばかり身についた。今では、あまりその穴の存在を意識しないで過ごすことが出来るようになっている。でも、時々やはり、視界にちらちらと見え隠れする。その存在を“ない”ことには出来ない。僕はずっと、その穴に囚われ続けたままだ。

僕と同じく、“思考”に囚われている人というのは、そう多くはないだろうと思う。でも誰しも、抗うことが出来ないと感じている、囚われてしまったら抜け出せなくなるような“何か”を内側に抱えているんじゃないだろうか。

『兄はいつも、冷たく汚物のように俺を見下し、深い嫌悪と憎悪に満ちた目で俺を射殺していた。毎日毎時毎秒。俺は兄に殺され続けていた』

その“何か”とどう付き合っていくのか。それは人それぞれ様々だろう。その“何か”を捨てる決断をするかもしれない。囚われても抜け出す魔法を身につけるかもしれない。囚われたままの自分の存在を諦めて受け入れるかもしれない。

『でもまたやるよ。兄さんの悪口を言うやつがいたら僕は。何度だって』

抗う以外の選択肢を持たなかった者が、抗う以外の選択肢を手にしてしまった瞬間。その瞬間から世界は壊れ始める。存在するはずのなかった選択肢を、望んでも手にすることなど出来ないはずの選択肢を手にしてしまった者が、“それまでの現実”と“それからの現実”の狭間でどう悩み、どう苦しみ、どう生きたのか。禁断の愛を描くこの作品は、それを対から強く描き出していく。

『気づいていたよ。気づいてて、なかったことにしたんだ』



比良木竹蔵は忍にとって、再婚相手の子だ。子供の頃“義理の兄弟”になった二人は大人になって、真逆の生き方をする。

『お前のそのぐずぐずした泣き顔は見飽きた。今すぐ私の目の前から消えろ!』

父の事業を副社長として手伝う忍は、美しい妻を持ち、要という子をもうけている。常に自信があり、冷徹な雰囲気を漂わせ、そして義理の弟である竹蔵に厳しく当たる。

『にいさんが…僕のことと嫌いなのは…血がつながってないから?』

レストランを経営する竹蔵は、しかし忍から経営の才覚がないとなじられる。義理の兄である忍に何度も金を借りに来ており、忍に怒鳴られる度に落ち込み涙を流す。

竹蔵と忍の関係性が変わったきっかけを作り出したのは、忍の子・要だ。

『叔父さんがパパにしたいことしたいようにさせてあげる』

竹蔵の忍に対する恋心を見抜いていた要は、退屈しのぎに計略を実行に移し、叔父である竹蔵と父である忍が交わるところを観察していた。

『もうとうに狂っていたのだ。俺たちは狂ってしまっていたのだ。この薫りに』

“義理の兄弟”になった瞬間から蔑まれ、冷たい扱いを受けていた“それまでの現実”と、要が引き金を引いたために押し寄せてくることになった“それからの現実”を巧みに織り交ぜながら、“抗えないもの”との苦悩の関係性を描き出す物語。

先に書いておこう。
僕は、ラストが好きじゃない。いや、好きじゃないという強い意見ではなくて、そうではない選択肢の方がより良かった気がしてしまう。
最後の手紙が、僕には不要に思えてならなかった。もしあの手紙が存在しなかったら、この作品は、強烈な不安定さを保ったまま物語を閉じることが出来たと思う。その不安定さは、この作品全体に通底する冷徹な雰囲気と、よく合うと思うのだ。

あの手紙がなければ、彼の行動の意味ははっきりとはわからないままだっただろう。でも、その不安定さを残す形で物語を閉じる方が、より美しかった気がする。彼らにとって、体の交わりにはどんな意味があったのか。“それからの現実”に入り込んだ彼らが何を考えていたのか。そういう部分が明らかにされない方が、一般受けはしないのかもしれないけど、より鮮烈なイメージをこの世界観の中に閉じ込めることが出来たように思う。言い過ぎかもしれないけど、最後のあの手紙が、この作品の世界観をちょっと突き破ってしまっているような感じがして、僕はない方がいいと思った。

何度も書くが、僕にとってBLというのは「絶望を日常に持ち込む装置」である。ノンケとゲイの間の壮絶な断絶が、普通の物語では描き出せない葛藤や苦悩を浮き彫りにする、と思っている。

しかし本書は、ノンケとゲイの物語ではない…、と断言していいのかよくわからないけど、とにかく彼らは、早い段階で体の関係を持つ。僕の中では、ノンケとゲイがいかに体の関係を持つに至るか、というのがBLの読みどころの一つなので、そういう意味では僕が好ましく感じるBLのタイプではない。

でもこの作品は、“義理の兄弟”という形で深い断絶を用意している。さらにその上で、彼らにとって体の関係が“不安定なもの”であるという点が良いのだと思う。

僕が先に挙げたようなノンケとゲイの恋では、体の関係を持つことは一つのゴールである。体の関係を持てば、その二人の関係は安定する。そんな風に表現してもいいだろう。

しかしこの作品では、体の関係を持つことで二人の関係は一層不安定さを増す。それまでも安定していたとは言えない関係が、体の関係を持つことで一層揺れ動く。この作品の中ではBLという要素が、「元々存在していた関係性を(さらに)不安定にさせる装置」として描かれている。そこがこの作品の魅力の一つなのではないかと思う。

“義理の兄弟”との体の関係であるという禁忌、そして妻を持つ男が男と体の関係を持っているという禁忌。否応なしに“それからの現実”に引きずり込まれてしまった彼らが、禁忌にまみれた目の前の現実とどう関わりあっていくのか。その葛藤が、クールなやり取りの中で鋭く描き出されていく。

『「銀河鉄道の夜」にありましたよね。
みんなの…みんなの幸のためならば、僕のからだなんか百ぺん灼いても構わない…。
そんな…気持ちにとてもなれないな…僕は』

この作品では、忍の息子である要の存在が印象的だった。竹蔵と忍の関係性を“それまでの現実”と“それからの現実”にはっきりと区別させた張本人であるが、彼らの関係性を駆動させるためだけに存在するわけではない。その後も作品の中に時折登場し、謎の存在感を残していく。
竹蔵と忍の関係性を駆動させてしまったまさに張本人である要は、彼らの間の結末をどう受け取っただろうか。そこで生まれた感情が、最後の最後で描かれる要の行動へと結びついてくのだろうか。物語の最後の最後、要の描写をどう受け取るべきなのかいまいちきちんとした輪郭を持てないのだけど、ある種の贖罪の気持ちが要を動かしているのだろうか、と感じている。



『姑息な言い訳を用意して何度でも何度でも交わる。我々は卑怯だ。そして孤独だ』

抗えないものには抗えないのだ。

中村明日美子「薫りの継承」




「イミテーションゲーム」を観ました

ここ最近見た映画の中でずば抜けて良かったし、これまで見た全映画と比較してもトップクラスの作品だった。



『時として、誰も想像しないような人物が、想像も出来ないような偉業を成し遂げる』

僕は今この文章を、パソコンで書いている。コンピューターは、僕らの生活と密接に結びついている。もう切り離すことが出来ないほど密接に。
じゃあ、そのコンピューターを生み出したすべての始まりはどこにあるのか、ご存知だろうか?

『マシンは人間のように考えられますか?』

コンピューターを生み出したのは、スティーブ・ジョブズでもスティーブ・ウォズニアックでもビル・ゲイツでもない。彼らは、コンピューターを個人でも使えるように様々な機器を生み出し、コンピューターによって成り立つ現代を作り上げたかもしれない。しかし、コンピューターを生み出したのは、彼らではない。

『あなたが普通じゃないから、世界はこんなに素晴らしい』

アラン・チューリング。コンピューターを生み出したのは、アラン・チューリングという一人の天才数学者である。
アラン・チューリングは、コンピューターの父と呼ばれ、まだコンピューターなどという概念が世界中のどこにも存在しない時に、思考する機械のアイデアを生み出した。電気的頭脳、デジタル計算機。

『どんな暗号文も解読する機械を作り、一瞬で解くつもりだ』

チューリングの名前は、近年話題に上ることが多くなってきた人工知能の世界でも残っている。先日も、グーグルが作り上げた囲碁のプログラムが、韓国のトップ棋士を打ち破ったばかりだ。
チューリング・テスト。それは、人工知能のレベルを判定するテストだ。

『“対象”と“審判”がいる。質問をし、審判が、どちらが人間なのか判断する』

今でも、人工知能を評価する際には使われているはずだ。姿が見えないようにして、人間と人工知能に同じ質問を繰り返す。その返答を聞いて、どちらがより人間らしいか判断する。その結果、人工知能の方が人間らしいと判断されれば、人工知能は“人間のように思考している”と見なされうる。

『マシンは人間のように考えはしない。マシンは人間とは違う風に考える。
しかし面白い問いだな。人間のように考えていないとしたら、それは考えていることになるのか?』

“機械が思考する”など、誰が聞いても“狂ってる”と判断するだろう時代に、チューリングは確信を持って思考する機械の存在を提唱した。
チューリングがいなくても、別の誰かが思考する機械のことを思いついたかもしれない。しかし、もしチューリングが存在しなければ、コンピューターがここまで世界を変えるのに、もっと時間が掛かったことだろう。僕らが生きている2016年、その恩恵を受け取ることは不可能だったかもしれない。

しかし、アラン・チューリングが世の中に対して成した功績は、そんなものではない。

『時として、誰も想像しないような人物が、想像も出来ないような偉業を成し遂げる』

彼は、1400万人以上の人間を救ったとされる。世紀の英雄であり、2013年、エリザベス女王はチューリングのその前例のない功績に対して、異例の恩赦を与えた。

『今朝私は、消滅したかもしれない街で電車に乗ったわ。
あなたが救った街よ』

チューリングは、暗号を解読したのだ。解読不可能と呼ばれた「エニグマ」を。

『クロスワードパズルで、ナチスを打ち破ったぞ!』

しかしその功績は、50年以上機密扱いとされ、チューリングの果たしたその偉大な役割は、世に知られることがなかった。
そしてそのために、チューリングは、不遇の死を遂げることになる。

『治療を受けなければ、奴らが彼を取り上げてしまう。そんなことはさせないでくれ!独りにさせないでくれ!』

天才数学者は、「エニグマ」を解読した瞬間から“神”になった。

『神も、我々ほどの力はない』
『日々、生きる者と死ぬ者を決めた』

しかしチューリングは、自分が“神”ではないことを知っていた。

『私は神だったのか?違う。戦争に勝ったのは神ではなく、我々だ』

彼は、戦争終結を数年早めたと評価される。
しかしそれは、辛い日々だった。

『戦争はさらに2年続いた。孤独な2年だった』

極秘プロジェクトだった。誰にも話せなかった。その日々を、そしてその後の人生を、チューリングはどう感じていただろうか?

『「じゃあ刑事さん、判定を頼もう。
私は何だ?
マシンか?人間か?戦争の英雄か?犯罪人か?」
「私には判定できない」
「なら、君は私の助けにならない」』

もしチューリングがもし存在していなかったら、あるいは、チューリングがあの時代あの場所で「エニグマ」の解読に携わっていなければ、世界はどうなっていただろうか?戦争は長引き、より多くの人が死に、世界はより混乱に陥っていたかもしれない。ドイツ軍が世界の覇権を握っていたかもしれない。そして、コンピューターは存在しなかったかもしれない。

そんな“英雄”を、我々は“偏見”によって死に至らしめた。僕たちは、同じ轍を踏むべきではない。どんな世の中にも常に“偏見”は存在する。そしてその“偏見”は、人知れず誰かを死に至らしめているかもしれない。チューリングらが人知れず、連合軍を勝利に導いたのと同じように。


主な舞台は三つある。一つは1939年のロンドンで始まり、一つは1951年のマンチェスターで始まり、一つは1928年のシャーボーンスクールで起こる。

1939年、チューリングはブレッチリー無線機器研究所の面接に向かった。極秘任務のために有能な人間を集めているのだ。27歳だったチューリングは、24歳で画期的な論文を発表した数学の天才。しかし、デニストン中佐には、チューリングが価値のある人間には思えなかった。必要なのは、暗号を解ける人間。言語学者や暗号学者。ドイツ語など一切出来ないチューリングは、しかし、自分の存在意義を確信している。

『あなたには私が必要だし、私は問題を解くのが好きです』

チェスチャンピオンであるヒューなど、様々な経歴を持つ人間が極秘に集められ、「エニグマ」解読の研究を始めるが、チューリングは周囲と調和が取れない人間で、孤立する。他のメンバーとアプローチがあまりにも違いすぎて理解されず、しまいには同僚たちが上層部にチューリングへの不満を提出する始末だ。10万ポンドも掛かる“玩具”作りのための資金提供も断られてしまう。しかしチューリングは、自分の正しさを信じている。

『エニグマは、史上最高の暗号機です。人間の力では打ち破れません。マシンを打ち破るのはマシンの力ではないでしょうか?』

成果は出ないのに金ばかり掛かり、しかも周囲と上手く行っていないチューリングは、常に「エニグマ」解読器の製作計画で危機を迎える。しかし、クロスワードパズルの早解きをクリアしたミス・クラークの加入や、周囲と上手くやっていく協調性を少しずつ発揮するようになったことで、ついに彼は、不可能と言われた「エニグマ」の解読に成功する。

1951年、マンチェスター警察は、ある空き巣事件を捜査していた。被害者は、数学者でケンブリッジ大学の教授であるアラン・チューリング。しかしチューリング邸に向かった彼らは、何も盗られてなどいない、と主張するチューリングに追い返されてしまう。

何か臭う…。そう直感した刑事は、チューリングの経歴を調べる。チューリングはかつて軍と関係があったとされるが、なんと軍にはチューリングの記録は存在しなかった。極秘扱いではなく、存在しないのだ。

チューリングはソ連のスパイなのではないか…。刑事たちはそう疑い、捜査を続ける。

1928年。シャーボーンスクールで優秀な生徒だったチューリングは、優秀であることと、協調性が持てないせいでいじめられていた。そんなチューリングを助けてくれたのが、同じく成績優秀であり、チューリングの唯一の親友であるクリストファーだ。
彼はそこで、二つのものと出会う。暗号と、そしてもう一つ。人を好きになることだ。


この映画の核である、エニグマ解読の部分に触れよう。

エニグマ解読はどれほど困難なミッションだったのか。
エニグマによって暗号化された通信は、AM受信機があれば誰でも受信できる代物だ。しかしそれは、暗号化されていて理解できない。英国軍は、ポーランド軍が入手したエニグマを一台所有しているが、受信した暗号をエニグマに戻すだけでは暗号は理解できない。エニグマには設定があり、その設定を知らなければ暗号は解けないのだ。
しかし、この設定を知ることは困難だった。
エニグマに存在しうる設定の数は、159×10の18乗。1分で1つの設定を試し、24時間365日チェックし続けたとしても2000万年掛かる計算だ。しかもドイツ軍は、この設定を毎日変える。深夜0時にエニグマの設定が変わり、英国軍がエニグマの受信をする18時までの18時間の間に、その日の設定を知らなければならないのだ。

ヒューらチューリング以外のメンバーは、従来の暗号解読の手法でエニグマに対峙しようとした。構文を解析したりパターンを見つけたりと言ったやり方で、ヒューらはチューリングよりも成果を出していると主張していた。しかし、チューリングには分かっていた。エニグマは、世界一難しいパズルだ、と。そんなやり方では解けないのだ、と。

しかし、チューリングに見えていた世界は、チューリング以外の誰にも見えていなかった。当然だ。チューリングが何をしているのか、誰も理解できなかったのだから。チューリングはただ、モーターやギアを組み合わせ配線で繋いだ、10万ポンドもする不格好な“玩具”を作り上げただけだ。

『私のマシンはエニグマに勝つ』

チューリングには恐らく、未来がきちんと見えていたのだろう。その天才的な頭脳は、このやり方以外でエニグマ解読にアプローチする方法はないと理解していた。しかし、他人にそれを理解させることは不可能だった。彼には子供の頃から協調性がなかったし、他者の協力が必要だと思っていなかったからだ。

『あなたには、決して理解できない。私が創ろうとするものの重要性を』

しかしその態度が、彼の計画を危機に陥らせる。

『本物の兵士たちが、本物の戦闘を戦っている。僕たちは、なんの結果も出せないでいる。
あなたのせいだ』

エニグマの解読成功には、クラークの存在は大きかった。チューリング自身も8分掛かるクロスワードパズルを6分で解けと指示された候補者の中で、5分34秒という驚異的なスピードで解き終えてしまったクラークは、チューリングの良き話し相手であり、良き理解者であり、メンバーと強調しない一匹狼だったチューリングを変えた人物だった。

『普通とは違うけど、普通はつまらない』

女性だという理由で、男以上に「普通」の枠に押し込められ続けてきたクラークが、ようやく手にした環境。そこでクラークは、チューリングという異端人とうまく関わり合いながら、ばらばらだったチームを機能させていく。

『あなたがどんなに優秀でも、エニグマはその上を行く。
仲間の協力が必要よ』

チューリングがエニグマ攻略の最後のピースを見つけられたのも、言ってみればクラークがいたからこそだろう。チューリングが仲間と協調し、他人と関わるようになったからこそ得られたピースは、値千金だった。

『ドイツ軍は、愛で戦争に負けたぞ!』

しかし、この物語が凄いのは、「エニグマを解読する」というただそれだけでは終わらないことだ。そしてそのことにも、ただ一人、チューリングだけが気づいていた。

『「神じゃないのに、生死の決定はできないはずだ」
「それでもやる。他の誰にもできないからだ」』

彼らのミッションは、確かに「エニグマを解読すること」だった。しかしそれは、「戦争を集結させるため」だった。チューリングは、戦争を集結させるため、困難だが唯一の道を進み続ける。チューリングが“正しく”決断したからこそ、1400万人もの人間を救うことが出来た。しかし、救えなかった命もある。“救えなかった”という表現ではこぼれ落ちてしまう“死”も、そこにはあった。それは辛い決断だったはずだ。しかし、やるしかなかった。

『あなたはモンスターよ』

1954年6月7日。アラン・チューリングは41歳の若さでこの世を去った。自殺だった。これほどまでに世界を変えた人間は有史以来存在しないのではないかと思えるほどの功績を残しながら、最後は“偏見”に殺された男の人生。彼がこの時代、様々なことに苦しみながらも、それでもエニグマを解読してくれたお陰で、現代の僕らの生活がある。しかし同時に僕はこうも考えてしまう。

もし現代にアラン・チューリングが生きていたら、彼はどんな未来を“創造”するだろうか、と。

『時として、誰も想像しないような人物が、想像も出来ないような偉業を成し遂げる』

映画の中でも三度登場したこの台詞を三度引用したところで、この感想を閉じようと思う。

「イミテーションゲーム」を観ました



九月の恋と出会うまで(松尾由美)

内容に入ろうと思います。
北村志織はある日、奇妙な声を聞くことになる。
北村志織がその物件に引っ越してきたのは、ちょっとしたきっかけがあったからだ。写真を趣味にして、現像までする彼女は、賃貸物件で現像していて、薬品臭いと隣人に注意されたのだ。些細なきっかけではあったけど、志織は動いた。
物件探しは難航したかに思えたが、それは不動産屋さんの計算だったようだ。特殊な条件を満たした者しか入居させないというちょっと変わったオーナーが所有する物件に、格安で入居できることになった。表向きその物件は、何らかの形で芸術的なものと関わっている、ということが必要らしい。志織も、趣味程度のカメラが認められたようだ。
そして、声である。エアコン用の穴からふいに聞こえるようになったその声は、隣人の平野であり、さらになんと平野は、志織の1年先の未来に住んでいると主張する。
どう考えても怪しいその声のことを、信じざるを得なくなった志織は、隣人の平野と区別をつけやすいように自ら“シラノ”と名乗ったその男が言う奇妙な依頼を遂行することにした。
隣人の平野を尾行して欲しい、というのだ。
定休が水曜である志織は、シラノから、水曜だけでいいからどうか平野を尾行してもらえないか、と頼まれる。理由は、まるで教えてもらえない。どう考えても怪しい依頼だったが、しかしシラノの口調は、その行為が人助けになると思わせるものだった。また、シラノは、平野の一年後の姿なのであって、本人が尾行していいと言っているのだから何の問題もない、と説得される。
そうして志織は、定休である水曜日に、隣人の平野を尾行することになるのだが…。
というような話です。

まあまあ、と言った感じでしょうか。前半から中盤に掛けてはちょっと退屈、で、ラストに至る過程がちょっと良かったから、全体で平均するとまあまあという感じのする作品でした。

前半から中盤に掛けては、なかなか退屈でした。基本的にこの物語は、「未来の声は何なのか?」と「未来の声は一体誰なのか?」の二つの謎で出来ている作品ですが、中盤頃までは、その謎の提示と、未来の声が聞こえるようになったことで起こる主人公の日常の変化を描き出すことになる。ただその過程が、基本的に盛り上がりに欠けるので、読んでいて退屈に感じられてしまう。確かに、提示された謎はなかなか魅力的なのだけど、その謎以外に魅力的な部分が薄いので、前半は引きが弱い。登場人物のキャラクターとか、誰かとの関係性とか、メインの謎以外の謎とか、なんでもいいんだけど、そういう部分で物語を駆動させてくれたらよかったな、と感じました。

中盤を少し過ぎると、「未来の声は何なのか?」の謎が明かされることになります。ここで少し面白さが増す。ちょっと予感はあったけど、なるほどそういう展開なのか、ということになる。でそこから「未来の声は誰なのか?」の謎に向かって物語が収束していく、という形になる。まあこの後半の展開はそれなりに面白かったなと思います。

全体的にはほどほどな作品だったかなと思います。

松尾由美「九月の恋と出会うまで」


乃木坂工事中「14thシングル選抜メンバー大発表」を見て思ったこと

「乃木坂工事中」が放送されない地域に引っ越してしまったのと、ネット環境が貧弱なのとで、ネットでちまちま「乃木坂工事中」を見ているのだけど、やっと「14thシングル選抜メンバー大発表」を見た。それを見て思ったことを書いてみようと思う。

まず齋藤飛鳥から。
【前から選抜にいる人とか、お姉さんメンバーが色んな活動で頑張っているのに、私は何も出来ていない】
そう言って齋藤飛鳥は泣く。

乃木坂46メンバーの中で、2015年最も飛躍したのは齋藤飛鳥だ、という記述はよく見かける。主にモデルとして、女性誌やファッションブランドの専属として、齋藤飛鳥の露出は爆発的に増えたと言っていいだろう。「次世代を担う」という表現もよくされる。

しかし齋藤飛鳥は、そんな自分自身を「何も出来ていない」と語る。

自己評価が低い人間というのはいる。僕自身もそうだ。齋藤飛鳥も、きっとそうだろう。何があったのかは知らないが、小学生のある時から性格が一気に暗くなったらしく、人生に期待しない生き方が身についたという。

齋藤飛鳥は、「どうして自分が?」と思っているのだろう。
以前の職場にいた、とても可愛く、仕事もちゃんと出来る女の子が、「自分が良いと思っていない部分を褒められても嬉しくない」と言っていたことを思い出す。齋藤飛鳥は、もの凄く可愛い容姿を持っていると思うのだけど、恐らく本人はそう思っていないのだろう。自分の容姿が嫌いなのか、それはよく分からないけど、少なくとも、周囲から評価されるほどのものではないと思っているのだろう。それは自分の感じ方だから、他人がとやかく言うことでもない。「自分が良いと思っていない部分」を褒められている感覚なのだろう。

それは結構怖いと思うのだ。

自己評価の低さは、評価されることへの怖さに繋がる。齋藤飛鳥が、自分の容姿に自信を持てないと感じているとすれば、容姿で評価されることへの怖さは常に付きまとうだろう。自信があれば、それを磨くことにも躊躇がなくなるし、内面の意識が外面にも影響を与えるかもしれない。でも、その自信がなければ、周囲からの評価は刃のようなものだろう。

齋藤飛鳥にも、これで評価されたいというものがあるだろう。今は、モデルとして、つまり容姿が評価されている。それで表に出られていることには感謝しているだろう。しかしそれは、自分自身では納得の出来ない評価のされ方なのだろう。しかし、そうやって表に出続ければ、いずれ、自分が評価されたいと思うフィールドで評価されるようになるだろう。頑張って欲しいものだなと思う。


次は、齋藤飛鳥と同じく「次世代を担う」と言われる星野みなみ。
【私には、他のメンバーのように強みがないのに、どうして選ばれてるんだろうっていつも思います】

詳しくは知らないけど、確かに星野みなみは、乃木坂46全体としての活動以外に、あまりこれと言った露出はないように思う。そういう意味で、自身を「強みがない」と評するのは、きっとそう間違ってはいないのだろう。

司会のバナナマンは、「かわいい、でいいんじゃない?」とフォローするが、「もう18歳ですよ」と、かわいいだけではやっていけないという自覚があるようだ。

僕は、「強み」というのは、意識して作るものではないような気がしている。もちろん、戦略的に自ら「強み」を生み出して打って出ることが出来る人もいるだろう。しかし、それが出来るのは一部の天才的な人だけだ。「強み」とは僕は、他者から見つけてもらうものだという風に思っている。自分が「強み」だと思っていないことが評価されることもあるだろう。

そういう意味で、「強みがないのに選んでもらえている」というのも、一つの強みだろう。もちろん、どうして選ばれているのか分からないという不安はつきまとうが、「強み」というのが他者から認められるものである以上、そこは受け入れるしかないだろう。

星野みなみは、握手会などでファンから、「ずっと選抜に選んでもらってラッキーだね」みたいなことを言われることがあると言う。それに対してバナナマンは、「そんなことを言ってる人間はクソだから気にすることはない」と返す。確かに、僕もそう思う。


次は、生田絵梨花。
【私は、強くプレッシャーを感じたり、考え過ぎたりするとダメになって何も出来なくなるから、感じすぎないようにのびのびやりたい】

バナナマンも驚いていたが、僕も生田絵梨花にはそんなイメージはなかったので驚いた。生田絵梨花は、どんな場面でもプレッシャーを感じず、自信満々で振る舞えるものだと思っていた。

生田絵梨花は、意識的に「感じないバリア」を作って、自分をコントロールしているようだ。なんとなく、一気に生田絵梨花に親近感が湧いた。なんでも出来てしまう天才だと思っていたのだけど、自分をコントロールする術に長けていたのだと知って、なんだか安心した気分だ。

しかし、こんな風にきちんと自分のことを自分の言葉で表現できるのはやっぱり素晴らしい。まだ二十歳前だということを考えると、凄いことだなと思う。


次は西野七瀬。
【しばらくずっと1列目に選んでもらっているけど、未だになんで自分が選ばれるのかと悩むこともある。でも、そんな自分を見て、頑張れます、勇気が出ますと言ってくれる人が増えたので嬉しい】

西野七瀬も、悩みながらアイドルをやっているという感じのする女の子だ。人見知りで積極的になれない自分を隠すことなくそのまま出して、そのままの形で受け入れられている。アイドルとしてはなかなか稀有なキャラクターだと思う。西野七瀬のような人間がアイドルとしてやれているということが、乃木坂46というグループの懐の深さみたいなものを発露しているように思えて面白いと思う。


最後は、初めてセンターに選ばれた深川麻衣。
【どういう理由で選んでもらったにしろ、みんなの足を引っ張らないように頑張りたいと思います】

深川麻衣は、この14枚目のシングルをもって乃木坂46の卒業を表明している。「どういう理由で選んでもらったにしろ」というのは、そのことを指している。

僕は、「卒業だからセンターに選んでもらった」と表現しなかったのは良かったなと思う。「どういう理由で選んでもらったにしろ」というのは、「卒業だからセンターに選んでもらった」ということを表現しているものなのだけど、それを直接的に言わなかったのは、「その責任を引き受ける」という表明だと思う。言い訳はしない、という決意なのだろう。センターに選んでもらったのは嬉しいけど、今は怖いという気持ちが強いです。深川麻衣はそう言葉を紡ぐ。バナナマンはそれに対し、これだけのメンバーが後ろに控えてるんだから、心強いでしょうと語る。

全体的に、「個人の力を乃木坂に返す」と主張するメンバーが多いことと、バナナマンの対応力が高かったことが印象的だった。2016年、乃木坂46はどんな活躍を見せてくれるだろうか。

乃木坂工事中「14thシングル選抜メンバー大発表」を見て思ったこと

あきない世傅 金と銀 源流篇(髙田郁)

内容に入ろうと思います。
摂津の津門村で学者の娘として生を受けた幸。父親が寺子屋を開き、男女とも学問を学ばせるという、当時としては先進的なあり方だったが、母親はそれに不満を抱いていた。女は、学問なんかせずに、きちんと仕事をこなしていればいいのだ、と。しかし幸は、幼い頃から書物を読むことが好きで、そんな学問熱心な有り様を兄から認められてもいた。
兄が突如死に、さらに父が命を落としたことで、幸の運命は大きく変わっていく。
大飢饉を経験したこともあって、幸は、大坂の呉服商「五鈴屋」に奉公に出されることになった。母と妹との別離。また、それまで辛うじて携わることが出来ていた学問からも大きく遠ざかってしまう
それでも幸は、与えられた環境の中で精一杯奮闘しながら、それでも「知恵」を追い求めるようにして知識を増やしていく…・
というような話です。

なかなか面白い作品でした。時代小説は基本的に読まないんですけど、なかなか面白く読める作品でした。

ストーリー的には、時間的な経過は結構ありますが、まだまだ序盤という感じでしょう。何巻続く作品になるのかわからないけど、本書では幸はまだ、商いそのものとは関わらないです。女衆として、「五鈴屋」の裏方を一手にやらされている幸には、商いの基本を学ぶ機会はそうありません。

そもそも幸は、父親から、こんな風に言われているのです。

『ひとびとの暮らしの基(もとい)は、農にある。政の基も、本来は農にあるべきなのだ。自らは何も生み出さず、汗をかくこともせず、誰かの汗の滲んだものを右から左へ動かすだけで金銀を得るような、そんな腐った生き方をするのが商人だ。商いとは、即ち詐(いつわり)なのだ』

幼い頃からそう教わっていた幸にとって、商人というのは、詐を行うものでしかなかった。そんな自分が、父の死をきっかけにして「五鈴屋」を去り、商いの道へと進んでいく。学問を学ぶチャンスをほとんど失った幸だったけど、その飽くなき探究心は、見る者が見ればちゃんと分かっている。

『物を知ることは生きる力になるんだす』

幸は、女であるが故に、家督も継げず、また「五鈴屋」でも最下層の下っ端として扱われる。時に幸の内に秘めたる才能を見抜き、お前が男だったら…と声を掛けてくれる者はいるが、しかしそれがすぐに幸の人生を好転させるわけではない。幸は、ただ女であるというだけの理由で望んだものを手に入れられず、押し殺したような毎日を過ごすことになる。

『しかし、一方で、そんな思いを抱くなど赦されるはずはない、と悟ってもいた。津門の女に求められるのは、学や知恵ではない。身体が丈夫でよく働くこと、早く嫁いで丈夫な子を産むことこそが、何より大事なのだ』

この巻ではとにかく、幸が苦労して大きくなっていったのだということが描写される。兄のようには学問に打ち込めなかった子供時代、死別や飢饉を経験して奉公に出されることになり、さらに慣れない環境でどうにかやっていかなくてはいけない幸の姿を描いていく。商いとは無縁のまま一生を送りそうな女衆の立場から、幸がどんな風に商いに関わっていくのか、気になる作品です。

シリーズの最初の巻なので、舞台となる「五鈴屋」に嫁いでくることを除けば、そこまで大きな変化が起こるわけではない作品です。でも、津門村でのやり取りや、「五鈴屋」の中の人との様々な関わり合いの中で、幸という人物がグッと浮かび上がってくる作品でもあります。

髙田郁「あきない世傅 金と銀 源流篇」


紋切型社会 言葉で固まる現代を解きほぐす(武田砂鉄)

僕が今、ネット的なものから離れているのは、言葉の自由度を保ちたかったからだろうと思う。

半年ぐらい前に、ずっと続けていたツイッターを止めた。投稿だけではなく、タイムラインを追うことも止めた。他のSNSは、LINEやFacebookを含めて一切やっていない。僕がネットに関わるのは、このブログを通じてのみだ。このブログも、コメントが来ることはほとんどない。双方向的なやり取りは、ブログを初めて十数年、ほとんどないと言っていいほどない。

自分自身をネットに接続させて、「つながり」や「いいね!」なんかに染まっていると、段々、自分の言葉を奪われていくような感覚がある。僕は、そこまでRT数やファボ数にこだわらなかった人間だと思っているが、しかし、ツイッターをやっている時、「どうせならウケることを書こう」と考えてしまいがちになる。他者からの反応がダイレクトに返ってくる場所であればあるほど、他者からの反応を想定した言葉を発してしまうものだ。

またネット的なものには基本的に、「承認」か「炎上」しかない。人が多く集まれば集まるほど、ネット的なものに放たれる言説は「承認」か「炎上」の両極端のどちらかに収斂していく。

僕は正直、そのどちらにも興味がない。

『意見の相違が生じた人といかに対話を施していくか、というメソッドを企業じゃそもそも考えてないし、学生に求めない。感受性など要らない。だからこそ、最低条件は認め合える人間であり、それをコミュニケーションと規定する。しかし、コミュニケーションにおいて本当に必要なのは、そのコミュニケーションの「保有」より、舞台全体をハックする「視野」と、異なる意見を受け止める「態度」じゃないのか。』

僕が他者との関わりの中で最も求めているのは、「承認」でも「炎上」でもなく「議論」である。
「承認」は、言ったことすべてを無条件に受け入れる。そして「炎上」は、言ったことすべてを無条件で否定する。「議論」とは、承認出来ることは承認し、意見が対立している部分があれば、自分の価値観を述べることでその対立を明確にする、という行為だ。

これが、ネット上ではとてもやりにくい。

「僕たちは二項対立の場には興味がありません」という態度を示すのがさとり世代だと本書で触れられているが、彼らにとって「対立」とは「非承認」を意味してしまうようだ。「対立」というのはただの状態であって、他者への評価ではない。意見が対立しようとも、人間としては分かり合える。人間には、こういう機能が備わっているはずなのに、現代人はもはやその機能を失っているかのように僕には思える。「対立」とは「非承認」であり、つまり「敵」である、というほとんど直感的な思い込みが、ネット的なものを覆っているように僕には感じられる。

またネットでは、言葉以外のコミュニケーションが制限されている、ということも大きい。対面での会話であれば、表情や声の調子などで、「発している言葉」は対立しているが、「言葉以外のメッセージ」は承認している、ということを伝えることが可能だ。しかしネットでは、ほとんどのコミュニケーションは言葉だけで行われる(ニコ生やYoutubeなどは言葉以外のやり取りを双方向的に出来るわけではない。双方向的なコミュニケーションが出来るのは、テレビ電話ぐらいだろうか)。言葉しか使えなければ、言葉で対立していればそれは発信者全体が対立者である、という判断になりがちだろう。これでは、なかなか「対立」に持ち込むことは難しい

『知らない人に何を言われようともそれを受け入れようとしない、これほど貧相なこともない。徒党を組んだ発信者が「合う・合わない」ではなく「会う・会わない」という価値尺度で決めてしまう』

価値観の合う人間とすぐに繋がり、会うことが出来るようになってしまった。実際に直接的に会わなくても、対面したのと同等の関係性に持ち込むことが出来るようになってしまった。そういう「仲間」同士で「内向き」のやり取りを重ねることで、「仲間」の外側にいる人間の価値観を受け入れなくなる、という流れも生まれる。「議論」とは、お互いの意見や価値観をフラットに眺めることが出来なければならないが、ネット上では、「仲間の意見」か「それ以外」で括られてしまって、客観性の欠片もなくなってしまう。

僕自身に、上記のようなことがあったわけではない。でも、ネット上で言葉を書き続ける中で、そういう社会の存在を強く意識してしまった。僕に見える範囲にはそれは可視化されなかったが、僕の見えていない部分ではそれはもう隅々にまではびこってしまっているのだろうという予感を抱いてしまった。ただの妄想かもしれない。でも、自分の言葉ががんじがらめにされた時、もう離れられないほどネットにどっぷり浸かっている状態は嫌だなと思った。まだ大丈夫な内に離れておくのもいいかな、と。

『本書全体に通底するテーマでもあるけれど、どこまでも自由であるべき言葉を紋切型で拘束する害毒は、正しい・正しくないを越えて駆除すべきだと思っている。つまり、あらゆる“こうでなければならない”から、言葉は颯爽と逃れていかなければならないと思う』

僕自身の話をするためにネットの話から始めたが、本書は決して、ネットだけをターゲットに据えた作品ではない。「全米が泣いた」「なるほど。わかりやすいです」「うちの会社としては」「誤解を恐れずに言えば」「逆にこちらが励まされました」など、ある場面で必ず登場する「紋切型の言葉」を様々に取り上げながら、その背後に見える人間性、社会構造、時代背景などを鋭くあぶり出し、批評していく。

『対象への近さが批評の深度につながっていると信じている人も多い』

当然著者は違う。テレビ、雑誌、書籍、新聞などの媒体から、芸能、スポーツ、時事問題などにおける様々な言説を抜き出す著者は、どんな対象からも距離を取っているように見える。世の中のあらゆる事柄を、一旦ひねくれた目線から透かし見て、そこから何かが炙りだされてくるのを待っている。著者は、社会を観察対象に据えた研究者のようなものかもしれない。

著者の見識の広さを、話題を転換させる時の角度は凄い。例えば、伊集院光と中川家の礼二の話から、ネットにおける検索の話に繋げ、週刊朝日の編集長の話やネットメディアの自主規制の話をして、最後は「あひるなんちゃら」という劇団の演劇の話で締める。この間、テーマは一貫していて、同一のテーマ内でこれほどまでに示唆に飛んだ具体性を持ちだして来れるものなのかと驚いた。新聞や書籍からだけではなく、スポーツ雑誌やネットメディアに載った記事からも引用するなど、常時相当量のインプットをし、それを頭の中で整理しているのだということが分かる。マグロの解体ショーでも見るかのように、頭を使わずに放たれた言説や、世の中をコントロールするために放たれた頭の良い人たちによる言説を、著者の鋭い言葉で解体していく。そこには常に、僕自身が無意識の内に寄りかかっていた前提に疑問符がつけられ、言葉で僕を殴り起こして行く。比較的、無思考の言説に寄りかかりすぎてはいないはずの僕でもハッとさせられるのだ。紋切型の言葉を使うことに抵抗のない人間には、グサグサと突き刺さる…だろうか?

『知的な探究心を小馬鹿にし、自分が信奉する考え以外を意識的に諦める「反知性主義」と呼ばれる動きが広がっている』

恐らく本書に書かれていることは、無思考の言説に無意識に寄りかかっている人間には響かないだろう。彼らには、本書に書かれているような批評は届かない。まさにその事実を、本書はテーマにし掘り下げているのに、その事実に最も気づくべき人たちには決して届くことがない、というのが、著者が切り取ろうとする問題の一番本質的で厄介な部分かもしれないと思う。

読みながら、凄く面白い本なのだけど、この本の感想はうまく書けないだろうな、と思っていたのだが、やはりその通りだった。理由はいくつかある。まず、僕の理解力が及んでいない、ということ。本書は、著者の切れ味鋭い言葉で満たされているのだけど、鋭いが故に受け止めきれない部分も多い。元々国語が得意ではない、という苦手意識があることも、理解力が及ばないことに拍車を掛ける。さらに、本書のテーマが、人間が存在するすべての場所に関係しうる「言語」、もっと言えば「生活言語(そんな言葉があるかは知らないけど)」に関係するものであり、裾野があまりにも拾い、ということ。本書は、一つのテーマ内においては一貫した流れを持つが、それが20並ぶと、「生活言語」という言葉でしか括れない非常に概念の幅の広いテーマが浮かぶ。「言葉は自由であるべきだ」という全体を貫く大きな主張は、様々な個別具体的の羅列によってしか問題を現出させられないほど、世間はそれを“問題”と捉えていない。そういう、意識しなければ見えてこない、日常の中では隠されている事柄同士に繋がりを見つけ、自分の感想として再構築するのは難しいなと思っていたのだ。

本書への評価には到底なりえないだろうが、一つ言えることは、僕は、著者のように「言葉に敏感な人」は信頼している、ということだ。テレビや雑誌や占い師の言葉を無条件に鵜呑みに出来る人にも、仲間内だけでもはや言葉ではない“スタンプ”をやりあうことでコミュニケーションをしていると思い込んでいる人にも、僕は関心が持てないし、なんなら軽蔑している。それなら、不器用でもいいから自分なりの言葉で自分の考えを説明しようとする人がいいし、それをとても高いレベルでやりこなしている著者のような人には憧れる。僕も日々このブログで、自分が何をどう考えているのかを言葉にしようと思っているのだけど、著者のレベルには到底及ばない。物事を観察する視線、対象を切り取る枠組みの提示の仕方、異質なものの共通点を見出して繋いで見せる手法。著者の言説そのものに賛同出来ない場合があったとしても、文章に行き着くまでのこれらの過程みたいなものに強く共感できるし、こういう人と議論をしたいなという感覚になった。

もう少し内容に触れながら感想を書きたかったけれど、僕の力不足でそれは出来ませんでした。当たり前のように無意識に使ってしまっている言葉を掬いあげ、それらの言葉を起点として社会を切り取ってみせる著者の“社会批評”を是非堪能してください。久々に脳がフル回転して文章を理解しようと食らいつくような読書が出来て凄く楽しかったです。

武田砂鉄「紋切型社会 言葉で固まる現代を解きほぐす」


安楽探偵(小林泰三)

内容に入ろうと思います。
本書は、街いちばんの“名探偵”と、その“助手”であり記録係でもあるわたしが、奇妙な依頼人の謎を、事務所にいながらにして解決するという、安楽椅子探偵モノです。6編の短編が収録された連作短編集ですが、色々あって最後の一編の内容紹介は控えます。

「アイドルストーカー」
かつてアイドルだったが、ここしばらく露出のなかった富士唯香が事務所にやってくる。彼女は、狂気のストーカーについて相談する。封筒の表書きにびっしりと読めないような小さな字で恨みつらみが書かれており、さらに封筒の中には、雑誌に載った唯香の服装を真似ようとしたおっさんの写真が写っている。恐ろしくなってマネージャーに相談するが、マネージャーはこれぐらいでは警察は動いてくれないと難色を示す。
その後、恐怖が募り逃げるようにアイドルとしての活動を放棄し、自宅に閉じこもる生活を続けることになったのだが…。

「消去法」
中村瞳子は、自分には超能力があるようなのだ、と語り始めた。「消えろ」と口に出して他人に言うと、その人物の存在が最初からなかったことになってしまうのだ、と。
そのことに気づいたのは、会社でリストラの話が持ち上がった頃のことだった。首を切られるくらいなら誰かを辞めさせようと結託した何人かが、瞳子に嫌がらせを始めたのだという。すべき連絡事項を知らされていなかったりと、業務に差し障りの出る嫌がらせだった。それに耐えかねて、首謀者と思しき女に「消えろ」と言ったことがすべての始まりだった。その瞬間から、その女の存在は、初めからなかったものとされたのだ…。

「ダイエット」
戸山弾美は、何者かに太る薬を盛られている、と訴える。ダイエットをするために会社まで辞め、一ヶ月ほとんど何も食べていないのに、ずっと太り続けるのだ、と。水道水に、太る薬が混じっているのではないか…。妄想のようなことを語り続ける依頼人の話を丹念に聞きながら、名探偵は、ある可能性に思い至る…。

「食材」
大雨の中、ある夫婦が事務所に飛び込んできた。娘がいないのだ、と。
その日は家族でレストランで食事の予定だった。その店は、持ち込んだ食材を調理してくれる、というのは売りの店だったようだが、あいにく彼らはそのことを知らなかった。テーブルの横の台の上に載せておければ自動的に“食材”と見なされて厨房へと運ばれるようで、ワニやカタツムリなど、多彩な食材を持ち込んでいるようだった。
そういえば、と、彼らは娘の不在に気づく。トイレにでも行っているのだろう、と。しかし、さすがに遅くはないか…。

「命の軽さ」
伊達杏太郎は、詐欺に遭ったかもしれない、と訴える。彼はNPOに給料の三か月分という大金を寄付したのだが、そこから、そのNPOがどんな金の使いかたをしているのか徹底的に調査した。帳簿のコピーを取り会計士に見せる、NPOの代表を一ヶ月尾行する、そのNPOが支援した国へと向かい現地でも書類をチェックするなど、仕事を辞めてまで執拗な調査を続けた。
しかしわたしには、彼が一体何を名探偵に依頼したがっているのか、イマイチ理解できない…。

「モリアーティ」
省略。

というような話です。
思っていた以上に面白い作品でした。これはなかなか良く出来ています。

まず、「奇妙なのは、謎そのものではなく、謎を持ち込む依頼人」という点が非常に面白い。どの話も、依頼人がひたすら独白し、名探偵とわたしが時折口を挟む、という形で話が進んでいくのだけど、その依頼人の独白が、なかなか狂ってる。最初の「アイドルストーカー」はさほどでもないのだけど、二話目の「消去法」以降、基本的に全員、依頼人はちょっとイカれてしまっている。

しかし、イカれていても、そこにはイカれた人間なりの論理が存在する。ただイカれているわけではなく、真っ直ぐな一本の線上で彼らはイカれているのだ。彼らの独白をひたすら聞きながら、ラストの方でようやくその論理を知ることができ、カタルシスを得ることが出来る。

謎自体や、名探偵の推理は、依頼人の奇妙さに比べたら何ほどのものでもない、と言っていいでしょう。もちろん、謎も変わってるし、名探偵の解決も読ませるんだけど、何よりも本書は、依頼人の奇妙さを堪能するミステリだ、と言えるのではないかと思います。

また、このイカれた依頼人の話と関係するが、「名探偵は、依頼人の論理に沿って謎を解決しようとする」という点も面白いと思う。

本書における名探偵の立ち位置は、推理をする者というよりもむしろカウンセラーに近い。依頼人の“妄想”を否定せず、あくまでその“妄想”を肯定し、その“妄想”を成り立たせている論理を否定することなく、その論理に沿って依頼人の謎を解決しようとする。これが、普通の謎解きとは違っていて面白い。

何故そういう物語になるのか。それは、本書における“謎”というのは、ほとんど場合依頼人自身にしか認識出来ない謎だからだ。つまり“妄想”というわけなのだけど、それに対し、「そんな謎はそもそも存在しないのですよ」と言ったところで相手には通じないし納得しない。依頼人には、その謎は間違いなく存在するのだから。だから名探偵は、その謎が間違いなく存在するのだということをまず肯定し、その上でその謎を解こうとする。だから、その“妄想”の論理に沿って謎解きをするしかないのだ。

この、なかなか他のミステリ作品ではお目にかかれないよう謎・依頼人・解決の関係性が、本書の特色であり、面白い部分である。

そしてさらに本書には、全体を貫く大きな物語が存在する。これについては深入りすることができず、そのせいもあって第六話の内容紹介を避けたのだけど、これが、作品全体の景色を一変させるような効果があって、見事だと思う。最後まで読むと、本書のタイトルが何故「安楽“椅子”探偵」ではなく「安楽探偵」であるのか、そして本書の英題が何故「Lazy Detective」なのか理解できることだろう。安楽椅子探偵モノにつきまとうある種の欠点を逆手に取った見事な切り返しが実に巧くハマっています。第六話がなくても作品としては成立しますが、第六話の存在がこの作品をより良い形で際立たせていると思いました。

個人的に好きな話は「ダイエット」です。これは巧いなぁ、と思いました。“依頼人の奇妙さ”という、本書に通底する要素を巧く利用した作品で、よく出来ていると思いました。

名探偵とわたしのペダンティック(言葉の使いかたが合ってるか自信ないけど)な会話も、ひねくれ者の僕には面白く感じられました。特に「命の軽さ」の冒頭でのやり取りは、なるほどなぁ、と感じさせられました。ほとんど揚げ足取りみたいな会話ですが、生きていく中でお互いが前提としている事柄が言葉によって巧く炙りだされていく過程が面白いと思いました。

小林泰三「安楽探偵」


「ザ・ブリザード」を観に行ってきました

こういう事実が、殊更に賞賛されることに、怖さを感じる部分はどうしてもある。

『これは沿岸警備隊史上、最高の救助と称されている』

無謀さが、常に成功を引き寄せるわけではない。これまで世の中には、数多くの無謀が存在し、そして恐らく、そのほとんどが不運な結末を招いたことだろう。この事実が賞賛されるのは、それがごく僅かの、稀な成功事例であるからだ。

『成功したんだ。戻りたいか?見捨てないぞ、僕がいる限り』

しかし、とはいえやはり、こういう無謀さと紙一重の勇気を持つ者たちの物語には、胸が熱くなる。不可能を可能にするのは、決して運ではない。しかし、平時から力を蓄え、綿密に準備し、可能な限りの力を出し切った後、それでももう祈るしかない、という時の運は、許容したい。賭けではなく、実力と知識に裏打ちされた努力に満ち溢れた物語であったことが、僕の胸を熱くするのだろう。

1952年、冬。それは起こった。
マサチューセッツ州ウェルフリートにある沿岸警備隊チャタム支局。バーニーはそこの沿岸警備隊だ。真面目な男で、規則を遵守する。“結婚は所長の許可を得なければならない”という形式的な規則も守ろうとするほどだ。バーニーは、ミリアムという電話交換手と結婚する予定だ。
酷い嵐の日だった。波は大荒れ、風も強く、雪も降りしきっていた。一隻のタンカーの船体が真っ二つに割れたという情報が入ってきたが、チャタム支局から外海までは、チャタム砂州という難所を通らなければならない。こんな大嵐の日に、砂州越えは不可能だ。誰もが口を揃えてそう言う。(着任して間もないのか)所長のクラフはその辺りの知識が乏しい。結局は周囲の意見を受け入れて、少し時間は掛かることになるが、別の支局から救助艇を出してもらうことになった。
そんな時、住民から、船の汽笛を聞いた、という通報が入る。間違いない、私は見たんだ、と。クラフ所長は決断する。バーニーに行かせる、と。バーニーは、他に三人の乗組員を募り、大嵐の中、通信も出来ないからどこにいるかも不明な難破船を探しに行くことになった。
仲間がバーニーに忠告する。砂州越えをしようと思ったが無理だったと言って戻ってこい、と。こんな嵐の中、砂州越えは無茶だ。
しかしバーニーにも、引けない理由がある。
一年前。遭難したランドリー号の救助に向かったバーニーだったが、砂州越えが出来ず救助出来なかった。同じ轍を踏むわけにはいかない。バーニーは、やるつもりだった。
遭難場所不明、遭難人数不明、魔の砂州越えをしなければ外海には出られない。そんな条件の元、定員12名の小型救助艇で、バーニーらはブリザードの中を行く…。
というような話です。

とにかく、迫力が凄まじい映画でした。ストーリーも良いですが、とにかく映像の迫力が凄い。僕は正直、何度か笑ってしまいました。いやいや、そんなの無理でしょ、と。バーニーが操縦する救助艇が荒波に揉まれまくるんだけど、どう見ても水没してるでしょ、という状態の中突き進んでいきます。一方のタンカーの方の映像も迫力満点で、その映像の強さに圧倒されっぱなしの映画でした。

内容紹介ではバーニーの話だけに絞りましたけど、この映画は三つの軸で成り立っています。一つが、救助に向かうバーニーの話。一つが、遭難したタンカーの話。そして最後に、バーニーの婚約者であるミリアムの話です。

バーニーの物語は、とにかく無謀さへの挑戦です。誰もが不可能だと言う救助作戦に、それでも向かうバーニー。もちろん実力はあるが、しかし実力だけでどうにかなるレベルの嵐ではない。さらにバーニーには、婚約者もいる。死ぬわけにはいかない。そんな中で“規則を遵守する”バーニーは、無茶な決断をいくつもして生還します。この救助活動の立役者であり、ヒーローであるバーニーの無謀さを楽しむパートです。

物語的に最も面白いのは、遭難したタンカーの話でしょう。
バーニーが救助に向かうペンドルトン号は、真っ二つになっていた。つまりこの日は、二隻のタンカーが真っ二つになるという悪夢ような日だった。片割れは既に沈没。機関室の溶接部から浸水したこともあり、操縦は不能。海水がなだれ込んでおり、この海水が、エンジンパイプに入り込んだら発電機が停止しジエンド。最も船に知悉しているシーバートは、4~5時間後に水没するだろうと判断する。

ここで船内では対立が起こる。救助艇を出すべきという一派と、救助艇を出すべきではないという一派だ。救助艇を出すべきと主張する側は、他に選択肢がないし、このまま船と一緒に沈むのは真っ平だから一か八かに賭けると言う。救助艇を出すべきではないと主張する側は、救助艇を出したところで一瞬で砕け飛ぶだけだと言うが、しかし代案を出せる者はいない。

そんな中、救助艇を出すべきではない派であるシーバートが、驚くべき提案をする。これが凄い。どれぐらい凄いことなのかは、当時の操船技術についての知識がないからちゃんとは分からないけど、しかしよくもまあそんなことやろうと思ったな、という決断をする。

それは、船乗りからすれば、無理に決まってる!と言いたくなるようなアイデアだった。だから、救助艇を出すべき派を抑えこむことは出来ない。

しかしそこで、シーバートがまたも驚くべき行動を取るのだ。これもカッコ良かった。船内ではリーダーシップを取るような人物ではなかったのだが、その行動以降シーバートは“大将”と呼ばれるようになり、今後の船の運命を一身に背負うことになる。

シーバートのいくつかの決断がなければ、恐らく全員死んでいただろう。シーバートの作戦がうまく行ったのは、相当に運の要素もあったとはいえ、シーバートは賭けに勝った。救助艇を出すという、一か八かでさえない賭けではなく、知力と体力を振り絞り、可能性の限界まで追求した賭けだった。

しかしそれでも、最終的に彼らに出来ることは、救助を待つことだけだ。無線は使えない、発電機が死に明かりも消えた。辺りはもう夜。そういう状態で彼らは待つしかない。でも、出来ることはすべてやった。あとは、待つだけだ。

待つことしか出来ないのは、ミリアムも同じだった。
ミリアムは、嫌な予感を覚えて、チャタム支局までやってきてしまう。バーニーがこの嵐の中任務に向かったことを知るや、ミリアムはミリアムが信じるやり方でバーニーを救おうとする。もはや、祈ることしか出来ない。

ミリアムは、何を考えただろうか?

思考のほとんどは、バーニーの無事を願うものだっただろう。しかしその中に、結婚した後の生活のことも過ぎったのではないかと思う。バーニーが救助に出る度に、私はこんな気持ちにならなければならないのだ、と思ったのではないか。

『バーニーの仕事です』

ミリアムのこの台詞を聞いて、僕は、ミリアムがその想いを払拭したのだ、と感じ取った。バーニーを待ち続けるこの不安と共に、バーニーと生きていこう。そういう決意を、この出来事をきっかけにミリアムは得たのではないかと思う。

『4/16の約束は、まだ有効?』

だからこそ、そう問われた時、ミリアムは躊躇なく返事をすることが出来たのだろう。

生きるために、救うために全力を尽くす彼らの奮闘ぶりを見ながら、僕は同時にこう思った。もし僕が所長なら、「戻ってこい」と命じることが出来る人間であろう、と。救える命は救うべきだ。しかし、誰かの命を犠牲にしてまで救うべき命があるのかと言えば、それは間違っていると僕は思いたい。それは、福島第一原発事故を、自らの命を賭して収束させた吉田所長を描いたノンフィクションを読んだ時にも思った。人が人を救う物語は素晴らしい。しかし、あらゆる要素を検討し、救わないという決断をした者も、同じぐらい賞賛されてもいいはずだ。僕は、そんなことを考えていた。

「ザ・ブリザード」を観に行ってきました



齋藤飛鳥に読んで欲しい本

本を読むことが好きだという齋藤飛鳥に、僕が勝手なイメージから合いそうかなと思う作品をリストアップした記事。
齋藤飛鳥は、人間の悪意が発露するような、ドロドロとした小説が好きだという。齋藤飛鳥が好きなタイプの作品とイメージがどこまで一致するか分からないけど、自分が読んできた中からそれらしい作品を選んでみた。
さらに、自己評価が低く、さらに、恐らく社会への馴染めなさみたいなものを感じているだろう齋藤飛鳥に、そういう人に読んで欲しい作品も挙げてみた。

全然期待してないけど、齋藤飛鳥本人が見てくれるといいな。



”どろどろした悪意”が好きな齋藤飛鳥へ

小説

手紙(東野圭吾)
犯罪者を家族に持ってしまったら…。自分自身のものではない“罪”を社会はどう扱い、自分がどうそれを受け止めるのか。

白夜行(東野圭吾) 
人間の悪意を、ここまで見事に物語に昇華させた作品はそうそうないだろう。内面描写の一切ない二人の物語は、恐怖でも嫌悪でもない感情を読者にもたらす。

ジェリー・フィッシュ(雛倉さりえ)  
ある一定の平凡さを身にまといながら、緩やかに孤立する少女たちの物語。自分の空白に気づきながら、それでも日常の中に混じって生きなければならない少女たちの一瞬の箱庭を切り取った作品だ

灰色のダイエットコカコーラ(佐藤友哉) 
“普通”を嫌悪し、“肉のカタマリ”以外の自分になれないことに絶望する少年。何者かになれるはずだと信じつつ何も行動せず、底の浅さを周囲に悟られる痛々しい主人公のあり方が清々しいほど滑稽で、でも切ない痛みも伴う。

私を知らないで(白河三兎) 
恐ろしいほどの美貌を持ちながら、クラスのカーストは最下位であるキヨコ。他者の存在を否定し孤高を保つキヨコと、転校を繰り返すことで人間関係の見極めがうまくなった黒田。どちらも中学生とは思えない極端で絶望的な価値観を持つ二人が出会うことで開く世界。

オーダーメイド殺人クラブ(辻村深月) 
周りの人間のセンスのなさにイライラしながら生きるアン。同じクラスの徳川には、私のこの気持ちが分かるかもしれない。だから言ってみた。「私を殺してくれない?」

アシンメトリー(飛鳥井千砂) 
『普通』であることに自分を馴染ませられる人と、『普通』であることに違和感を覚えてしまう人の関わりを描き出す。女の醜い部分が如実に現れる。

消失グラデーション(長澤樹) 
ミステリとしても高く評価されるが、高校生の鬱屈の描写が見事だ。高校という狭い空間の中に、様々な鬱屈や支配が隅々にまで散らばっている。椎名と樋口という異質なコンビのあり方が見事だ。

月と蟹(道尾秀介) 
頼る者もなく、日々灰色のようだった毎日の中で、遊びとして生み出してしまった『ヤドマキ様』という神様。分かりたくもないのに分かってしまうことが自分らしさを奪い、それでも分からないことがまだまだたくさんあるのだろうという不快感に襲われる彼らの、それぞれの感情の瞬間みたいなものを綺麗に描きとっていく

ヒトリコ(額賀澪) 
金魚のせいで孤立したヒトリコ。他者に心を開かなくなったヒトリコと、その日以来壊れてしまった親友関係。取り戻せない時間と人間関係に囚われたままの彼らの止まってしまった世界を描き出す。

わたしを離さないで(カズオ・イシグロ) 
ここで描かれる世界の存在そのものが、既に絶望でしかない。その絶望が、生まれた時から“日常”であった者たちの成長を描く物語。

ふがいない僕は空を見た(窪美澄) 
晴天の迷いクジラ(窪美澄)
窪美澄の作品を読むと、必死で生きていた頃のことを思い出す。あの頃、哺乳類なのに魚のフリをして、必死で息継ぎしていた自分のことを思い出す。

凍りのくじら(辻村深月) 
逃げ続けて生きてきた僕の心に、ぐさぐさと突き刺さる内面描写に溢れた物語。主人公の理帆子は、多くの人の共感を得るタイプの人間ではないかもしれないが、僕はそのあり方に共感する。

増大派に告ぐ(小田雅久仁) 
この狂気の物語を読んで、齋藤飛鳥がどう感じるのか聞いてみたい。

ケモノの城(誉田哲也) 
「北九州・連続監禁殺人事件」として知られる、日本中を震撼させたとある凶悪事件をベースにした物語。家族を監禁し、恐怖を煽りお互いを殺しあわせた、人間の所業とは思えない残忍な物語。

好き好き大好き超愛してる。(舞城王太郎) 
内容はまるで覚えてないが、齋藤飛鳥がどこかで、舞城王太郎が好きと書いていた記憶があるので載せてみる。

連続殺人鬼カエル男(中山七里) 
悪意、とは違うかもしれないけど、こんなサイコな物語は好きなんじゃないかと思って。

ハサミ男(殊能将之) 
こういう狂った物語、齋藤飛鳥は好きなんじゃないかなぁ、と思っているのだけど。

永遠の仔(天童荒太)
虐待などにより心に闇を抱えた者たち。負の連鎖を断ち切ることの難しさを感じさせる物語。

夏と冬の奏鳴曲(麻耶雄嵩)
かなりぶっ飛んだ作品を書く麻耶雄嵩の作品の中でも、トップクラスに意味不明な作品。この意味不明さが好きだったりするんだけど、どうだろう。



小説以外

私を 見て、ぎゅっと 愛して(七井翔子) 
恋愛に依存する七井翔子という女性の、心の奥深くに巣食うどす黒いカタマリが、日記という形で吐露される。現実にあった出来事とは思えないほどの衝撃的な日常を描き出す。

どん底 部落差別自作自演事件(高山文彦) 
人が人を差別する理由。それはどんな時代にも、どんな場所にも存在しうる。この話は、決して被差別部落だけに関わる問題ではない。

ある奴隷少女に起こった出来事(ハリエット・アン・ジェイコブズ) 
アメリカでかつて奴隷であった少女が記した、奴隷としての生活を綴ったノンフィクション・ノベル。壮絶、という言葉では足りない日常の重みに打たれる。

ドアの向こうのカルト 9歳から35歳まで過ごしたエホバの証人の記録(佐藤典雅) 
宗教の洗脳にさらされ、しかしその洗脳から自力で脱出した壮絶な経験を綴った作品。

凶悪 ある死刑囚の告発(「新潮45」編集部編) 
死刑囚が雑誌記者に、シャバに残ったまま捕まっていない犯罪者を告発するという衝撃的な内容。人間はここまで邪悪になることが出来るのだ、と感じさせる。

消された一家 北九州・連続監禁殺人事件(豊田正義) 
先ほど挙げた、誉田哲也「ケモノの城」の元になった事件を描いたノンフィクション。正直この作品は、高校生の女の子に勧める本じゃない。相当エグいし、同じ人間とは思えないほどの残忍さに溢れているからだ。読む時は相当な覚悟を持って読んで下さい。

粘膜黙示録(飴村行) 
マンガ家になるべく東京歯科大学を中退し、そのまま蟹工船のような派遣労働生活に突入した後、作家としてデビューした著者の経験を描いたエッセイ。割と酷い内容なのだけど、案外笑えてしまう。




悩みながら生きる齋藤飛鳥へ

羊と鋼の森(宮下奈都) 
壁にぶつかり、もう前に進めないと思っている人に。悩みながら、悩みながら、それでも前に進みたいと思っている人に読んで欲しい。人生の羅針盤になりうる一冊。

円卓(西加奈子) 
小学3年生のこっこ。周囲の“頭の悪い”人間に常にイライラしながら、普通を、当たり前を嫌悪する、大人より大人びた少女の格闘の物語

セーラー服の歌人 鳥居 拾った新聞で字を覚えたホームレス少女の物語(岩岡千景) 
衰弱し死に至る母の姿を眺め、住む場所がなく学校の掃除用具入れに隠れ、施設で壮絶ないじめに遭いながら、短歌という生きる支えを見つけた少女の人生を追った作品。その壮絶な人生に絶句する。

自殺(末井昭) 
「自殺したいと思う人間は優しい人だ」「自殺のことをもっと気軽に話せる社会になってほしい」そんな思いを込めて綴った、ダイナマイト自殺をした母を持つ著者のエッセイ。

負ける技術(カレー沢薫) 
敢えて底辺に近いところで生きることで、「これ以上負けることはない」という安心感と共に生きる著者の、笑える壮絶な人生を綴るエッセイ。

底辺女子高生(豊島ミホ) 
劣等感に支配されていた自身の高校時代を描いたエッセイ。

孤独と不安のレッスン よりよい人生を送るために(鴻上尚史) 
孤独はなくすことは出来ない。だから、どう付き合っていくべきなのかを教えてくれる。

自由をつくる 自在に生きる(森博嗣) 
「自由」であることは、実は苦しい生き方なのだ。大抵の人は、不自由に囚われたまま生きたいのだ。「自由」とは何なのかを、日常感覚に根ざしつつ、ありきたりではない考え方を提示する作品

非属の才能(山田玲司) 
周りから外れて生きることは悪いことじゃない。むしろその感覚は大切にすべきものだ。万人に読ませたい作品ではないが、必要とすべき人はたくさんいるだろう作品。

女子をこじらせて(雨宮まみ) 
コンプレックスに囚われ、こじらせたまま生きてきてしまった女性が、自身の人生を振り返る作品。

人間仮免中(卯月妙子) 
統合失調症と闘いながら日常を必死に生きながら、理由なく唐突に歩道橋から飛び降りて顔面ぐちゃぐちゃになってしまった女性の、壮絶な人生を描き出すコミックエッセイ。

 | ホーム |  »

プロフィール

通りすがり

Author:通りすがり
災害エバノ(災害時に役立ちそうな情報をまとめたサイト)

サイト全体の索引
--------------------------
著者名で記事を分けています

あ行
か行
さ行
た行
な行
は行
ま行
や行~わ行

乃木坂46関係の記事をまとめました
(「Nogizaka Journal」様に記事を掲載させていただいています)

本の感想以外の文章の索引(映画の感想もここにあります)

この本は、こんな人に読んで欲しい!!part1
この本は、こんな人に読んで欲しい!!part2

BL作品の感想をまとめました

管理人自身が選ぶ良記事リスト

アクセス数ランキングトップ50

TOEICの勉強を一切せずに、7ヶ月で485点から710点に上げた勉強法

一年間の勉強で、宅建・簿記2級を含む8つの資格に合格する勉強法

国語の授業が嫌いで仕方なかった僕が考える、「本の読み方・本屋の使い方」

2014の短歌まとめ



------------------------

本をたくさん読みます。
映画もたまに見ます。
短歌をやってた時期もあります。
資格を取りまくったこともあります。
英語を勉強してます。













下のバナーをクリックしていただけると、ブログのランキングが上がるっぽいです。気が向いた方、ご協力お願いします。
にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村

アフィリエイトです

アクセスランキング

[ジャンルランキング]
本・雑誌
15位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
和書
13位
アクセスランキングを見る>>

アフィリエイトです

サイト内検索 作家名・作品名等を入れてみてくださいな

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

月別アーカイブ

Powered By FC2ブログ

今すぐブログを作ろう!

Powered By FC2ブログ

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

カウンター

2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)