黒夜行

>>2016年02月

この本は、こんな人に読んで欲しい!!part2





自分が読んできた本の中から、これはオススメだというものを、なんとなくゆるーくジャンル分けしてみました。こんな人に読んでもらいたい、こんな作品です、というのがなんとなくわかるんじゃないかなと思います。参考になれば幸いです。

以下のようなジャンルが存在します。

警察小説が読みたいあなたへ
壮大なスケールの物語を読みたいあなたへ
驚きの事実・斬新な物語
仕事への意欲が湧き出る作品
仕事がデキる人になりたいあなたへ
この社会で生きていくための武器・知識が欲しいあなたへ
凄すぎるヤツの人生に触れたいあなたへ
旅。冒険に憧れるあなたへ
“現実”を知りたいあなたへ
知的好奇心を満たしたいあなたへ
ちょっとだけ理系の香りを感じたいあなたへ
文系だけどちょっとレベルの高い理系の世界に触れたいあなたへ
ガッツリ理系の知識を味わいたいあなたへ


もう一方のページには以下のようなジャンルがあります)
勇気・希望をもらえる作品
“あの頃”を懐かしみたいあなたへ
家族や親しい人たちとの関わりを描く物語
仲間たちとの信頼を描く物語
人生にちょっと疲れちゃったあなたへ
生きていく強さが欲しいあなたへ
日常の手触りを大事にしたいあなたへ
日常からちょっとはみ出した作品
日常から大きくはみ出した作品
雰囲気の良い小説を読みたいあなたへ
スリリングな展開の作品
ザ・エンタメという作品を求めているあなたへ
恋愛に憧れるあなたへ
夢を追いかけているあなたへ
謎解きの香りに惹かれるあなたへ
奇妙な話を読みたいあなたへ


注意)
1 このブログを書き始める以前に読んでいた本(つまり、ブログに感想が載っていない本)には当然、リンクは貼られていません
2 随時更新することにしましたが、めんどくさいので著者名順に並べるのはやめます
3 小説・ノンフィクション・エッセイ・コミックなどを区別せずに羅列しています
4 読み終わった後、「思ってたのと違う物語だった!」と思っても、苦情を言わないでいただけると幸いです。あくまでも、参考程度に
5 現在手に入るかどうかは考慮していません


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「完全なるチェックメイト」を観に行ってきました

『「医者に見せるべきじゃないか?」
「偉大な才能が薬で破壊されてしまう」』

天才と狂気は、紙一重だ。

『チェスは、4手進めば4000億の選択肢を考えなければならない。だから精神状態は、限界を越える』

ボビー・フィッシャーは、天才だった。間違いなく天才だった。
《ブルックリンのダ・ヴィンチ》
《500年に一度の天才》
ボビーは、そう称された。

『モーフィーは、米国市場最高のチェスプレーヤーだった。ボビーが現れるまでは。』

モーフィーは、21歳にして欧州のすべてのプレーヤーを破る驚異的な強さを誇っていた。しかし心を病んだ。毒殺されると思い込んでいた。そして、26歳の時に自殺した。

『毎週弟から手紙が届くの。内容が異常なの』

妄執に囚われたボビー。自分の乗った飛行機が爆破されると思い込み、部屋中のものを壊して盗聴器を探した。ボビーの姉は、ボビーを精神科医に見せたがっていた。しかし、ボビーのエージェントである弁護士のポールは姉を説得する。『狂気が生む、美しい世界』を見るためだ、と。

米国人として初めて、世界選手権の決勝に進出したボビー。相手は、ソ連の絶対王者・スパスキーだ。24局の対戦で、世界一を決める。

『グランドマスターたちも困惑している。誰も彼の意図を読めない』

その第六局。ボビーは、誰も見たことがないチェスを指した。初手から。入念な準備をしていたスパスキーは翻弄される。局面がどう動くのか、誰にも理解できない。そして、負けを知ったスパスキーは、対戦相手には普通しない拍手をボビーに対して贈った。

『第六局は、今でも史上最高の対局と言われている』

将棋のスーパースターである羽生善治氏の発言を思い出した。ある時から彼は、勝敗にこだわらなくなったという。もちろん、負けるために指すわけではない。しかし、勝ち負けではない新しいステージに、羽生善治氏は進もうとしていた。

誰も見たことのない局面を見たい。
知らなかった新たな局面に出会いたい。

羽生氏の関心は、そういう方向へとシフトしていったという。

ボビーに同じような気持ちがあったのか、僕には分からない。

『対局しなくても、僕が一番だ』

ボビーの関心は常に、勝利と金に向けられていた。金は何に使うでもなかったのだろうが、彼は金を「敬意」と捉えていたようだ。そのことでポールと何度も揉める。

『ドローは大嫌いなの』

子どもの頃からボビーは、勝つことだけを考えていた。

『相手のエゴを粉砕することだ』
『負けを悟って心が崩壊する瞬間だ』

「最大の喜びを感じる瞬間」を問われて、ボビーはそう返す。彼にとって勝つことは、ただ1ポイント手に入るだけのことではない。相手の気持ちを粉々にすることなのだ。

だからだろうか?
史上最高の対局と呼ばれた第六局、スパスキーが、そして会場にいたすべての人間がボビーに惜しみない拍手を贈る中、ボビーだけ一人困惑した表情を浮かべていた。
スパスキーの心が粉砕されなかったことへの戸惑いだろうか?今文章を書きながら、僕はそう思った。お前は負けて悔しくないのか?という困惑だったかもしれない。

負けて悔しい、という感情さえ吹き飛んでしまうほど、それは凄まじい対局だったのだろう。スパスキーが全面的に、ボビーに敵わないことを悟った瞬間なのだろう。スパスキーにとってそれは、いっそ清々しい瞬間だったかもしれない。あまりの実力差に、悔しがる隙間さえなかったのかもしれない。そして、スパスキーのそんな手放しの賞賛を、ボビーはきっと理解出来なかったのだろう。

『先月まで無名だったブルックリンの若者は、今や世界中で有名人になった』

スパスキーとの対局以前も、ボビーはその名を知られていたはずだ。しかし、スパスキーとの対局で初めての1勝を上げた後、ボビーは国の英雄のような扱われ方をする。「愛してるわ、ボビー」「国の誇りよ。米国のために勝って」アメリカ国民はテレビ越しにそう叫ぶ。

何故これほどまでにボビーは人気を得ることになったのか。
そこには、時代背景が関係している。

『これは戦争だ。イメージの戦争だ』

そう、ボビーとスパスキーの対局は、ある種の代理戦争だったのだ。

ボビーは、初めての世界選手権で、チェス界で圧倒的な強さを誇っていたソ連に抗議する。ソ連はチェスに、国の威信をかけている。だからどんなことがあってもアメリカに負けるわけにはいかない。だから彼らは、積極的にドローを狙って僕を潰そうとしているんだ、と。フェアじゃないから、棄権する。

表向き世界選手権は「友好の架け橋」として行われていた。しかし、当時は冷戦下だ。「友好の架け橋」は聞こえの良い言葉に過ぎず、実際は、特にソ連は、チェスでの勝利に国家の威信が掛かっていた。

『中国を失い、ベトナムも失いつつある。これは、勝たなくては』

ボビーのエージェントとして奔走しつつ、アメリカの上層部とも密に連絡を取っているらしいポールはそう呟く。

『ブルックリンの貧しい青年が、ソ連を打ち負かす。完璧な物語だ』

ボビーの存在は、一面では政治的に利用された。スパスキーとの対局を見るために、ニクソンは執務室にテレビを持ち込み、対局を拒否しようとしているボビーと話すために三度も電話を掛けてきた。時代が、ボビーの活躍を求めていた。ボビーは、ただ闘うだけだ。でもその勝利には、ボビーとは無関係な様々なものが乗っかっていたのだ。

もしボビーが、冷戦を脱したアメリカに生まれていたら?
もしかしたら、スパスキーとの対局は実現しなかったかもしれない。

ボビーは、狂気に囚われていた。公平でないと感じれば、世界選手権でさえ放棄してしまう。機内での料理は目の前で作らせろ。報酬を30%に引き上げろ。カメラの作動音や観客の咳がうるさくて気が散るから卓球場で対局をさせろ。ボビーは、ソ連を敵対してた。ソ連が自分を狙っているという妄執に囚われていた。自分が“不利”であるのは、ソ連側の策略なのだと常に思い込んでいた。ボビーは本当に、条件が満たされなければ対局を拒否した。

彼を対局のテーブルにつかせるのに奔走したのは、ボビーのエージェントである弁護士のポールと、かつて強豪のチェスプレーヤーで今は神父であるロンバーディの二人だ。この二人の尽力がなければ、特にポールの奮闘がなければスパスキーとの対局はまず実現しなかっただろう。

ポールはボビーのエージェント役を、無料で引き受けた。

『善い行いにより、成功者になれる』

ポールの強い動機は、冷戦下でなければ生まれ得なかったかもしれない。ボビーをスパスキーに勝たせることは、ただチェスの試合で勝利するだけでなかった。ボビーの勝利は、アメリカの勝利であり、アメリカを勝利させた男としての名声を、ポールは手に入れようとしたのだ。

もちろん、冷戦下ではないためにポールが動かなかったとしても、チェス愛好家が奮闘してスパスキーとの対局を実現させたかもしれない。それは分からない。しかし、その場合、ボビーはきっと、ここまでの伝説にはならなかっただろう。もちろん、冷戦下であるが故にソ連からの盗聴を警戒していたのだということも併せて考えれば、ボビーにとって冷戦下に生まれたことが良かったことなのか分からないけど。

しかし、ボビーが死んでも、スパスキーが死んでも、第六局の対局は残る。永遠に。チェスという盤面に、新しい世界を創造した者として、ボビーは永遠に記憶される。

そのことはボビーにとって、少しは意味のあることだっただろうか?僕にはよく分からない。

ボビーは、スパスキーとの対局後、数百万ドルのオファーを拒否し、タイトルさえも放棄して失踪した。放浪罪で逮捕されたり、アイスランドに亡命したりと、不遇の人生を送りながら死を迎えた。

『チェスは真実を探求するゲームだ。だから私は、真実を追い求めている』

ボビーの生き様は僕に、数学者のペレルマンをも連想させる。「ポアンカレ予想」という、数学上の超難問を解き明かし、歴史に名を刻んだ数学者だ。しかし、1億円の賞金を拒否し、数学者にとっての最高の栄誉である賞も拒否し、現在行方が分からない。冷戦下のソ連に生まれ、冷戦によって翻弄されたという点も、ボビーと似ている。また同じ問いをくり返してしまう。彼らは、もし冷戦下以外に生まれたとしたら、果たして歴史に名を刻むことが出来ただろうか?と。

映画を観ながら思っていたことがある。
ボビーは、子どもの頃から音に敏感だった。あらゆる場面で、その傾向が描かれる。それは、スパスキーとの対局で見せる行動を理解させるためのものだ。
ボビーはスパスキーとの対局中、カメラの作動音や観客の咳がうるさいと文句を言い、(そのせいで)集中力を欠いたために初戦を落としてしまう。それで彼は、建物の中で唯一静かな卓球場で、観客なしという条件でなければ対局をしないと言う。

『まともに闘えば、私に潰されると分かっている。それを避けるために、狂気を利用しているんだ』

スパスキーはボビーのことをこう見る。負けるのが怖くて難癖をつけているのだ、と。恐らく観客も(そういう描写は一切なかったが)、ボビーの行動は過剰だと感じていたのではないか。

しかし、例えば日本での将棋の対局を見れば、トップクラスの対局であればあるほど、対局者と少数の立会人以外、会場には誰もいないのが普通だ。観客は別室で、モニター越しに対局を観戦する。日本以外の国にそういう文化がないのか、あるいは日本も含めてそういう配慮がなされるようになったのが最近なのか。僕にははっきりしたことは分からないのだけど、ボビーの、静かな場所で対局させてくれ、という要求は、至極真っ当なものだろうな、と感じていました。

僕は、狂気にも天才にも惹かれる。『勝利を最前線で見たい』からと、ボビーのエージェントを引き受けるポールとは違って、僕はボビーの近くにはいたくないけど、僕が少しでもチェスの魅力に取り憑かれていたら、ボビーの近くにいることを選択するかもしれない。どれほどの面倒があっても、その先に、想像を超えた美しい世界が待っている。そう信じることが出来る人間になど、そうそう出会えないだろうから。

「完全なるチェックメイト」を観に行ってきました

「乃木坂の46のMV集を観て感じた、生駒がセンターだった理由」

乃木坂46のMV(ミュージックビデオ)が収録されたDVDを、ちょっとだけ観ました。まだ全部観れてないですが、なんとなく、何故デビュー当時生駒里奈がセンターを任されていたのかについて、感じる部分があったので書いてみます。

僕は、去年の7月に公開された「悲しみの忘れ方」を観て乃木坂46のファンになったので、それ以前のことについて詳しくは知りません。というか、それ以降のこともそんなに知らないんですけど、自分なりに目にした雑誌の記事やネット上のインタビューなんかから得た知識をふまえつつ書いてみます。

生駒里奈は、正直なところ、もの凄く美少女というわけではないと思います。オーラを感じるような女の子でもないと思います。そして、MVを観てて感じたことですが、正直なところ、意志の強さみたいなものも感じなかったのです。もちろんこれは、容姿と直結する部分もあるだろうし、僕の個人的な主観なのでファジーではあるんですけど、でも、どことなく他のメンバーからは、「なんとかやってやるぞ」というような意志の強さが、表情や振る舞いに現れている感じがしましたが、生駒里奈からはそういう雰囲気を感じませんでした。そこにいる、そこに佇んでいる、もっと言えば、そこに置き去りにされている。そういう弱々しい印象が常にあるように思います。まあこれも、生駒里奈の性格的な部分を知ってしまった上でMVを観てるからそう感じられるだけかもしれないんですけど。

まあともかく、ずば抜けた容姿や、強い意志みたいなものは生駒里奈には感じられない。で、結局はこの点こそが、生駒里奈がセンターに選ばれた理由なのだろう、という感じを強く抱きました。

以前何かの雑誌で、生駒里奈と生田絵梨花がインタビューに答えている記事がありました。そこで生駒が、「私はセンターに向いてない。生田絵梨花の方がセンターに合ってる」というような発言をしたのを受けて、生田絵梨花がこんな趣旨のことを言っている箇所がありました。

「センターは、成長を見守りたい女の子がなるのがいいんだと思う。だから私より、生駒里奈の方がセンターに向いてると思った」

その雑誌を読んだ時は、まあそういうものか、という感じで読んでいましたけど、MVを観て、なるほどという感覚になれました。

応援したくなるような気持ち、成長を見守りたくなるような気持ち。確かに、そうさせるような要素が生駒里奈から感じられました。生駒里奈はある場面で、「私はここまで、運だけで来てしまいました」と発言したことがあります。自分は何も持っていない、という自覚が生駒里奈の内側には常にあったのでしょう。そんな自分を自覚しているからこそ、生駒里奈は、とにかく必死でやるしかなかった。容姿がずば抜けていないから、自信もないから、センターに立ち続けるためには、それこそ必死で走り続けるしかなかった。

その必死さは、凄く伝わるような気がするんです。

勝手なイメージで、乃木坂46のデビュー当時に、生駒里奈以外のメンバーがセンターだったらと考えてみましょう。生田絵梨花は、なんでもするっとやってのけてしまいそうで、必死さは出せなそう。西野七瀬は、自分のその時の達成度に限らず(つまり満足いくものが出せようが出せなかろうが)感情を表に出せないだろうから必死さはきっと滲まない。橋本奈々未と白石麻衣は、「わたし必死です」という感じが似合う容姿ではない感じがする。星野みなみは、笑いながら器用に必死さから逃れそうだ。
他のメンバーを思い浮かべて見ても、生駒里奈以上に、必死さの似合うメンバーというのはいないような気がする。

もちろんそれは、結果論だとも思う。別の誰かがセンターの立場を任せられても、必死さとは違ったベクトルで乃木坂46をまとめたかもしれないし、あるいは、生駒里奈以上に「成長を見守りたい」「応援してあげたい」と思わせるセンター像を作り上げられたかもしれない。でも、MVの生駒里奈を観て、生駒里奈だからこそ、多くの人を惹きつけるグループとして乃木坂46をまとめられたのだろうな、という感覚を一層強く持った。

僕は生駒里奈に対しては、好きという感情にはならない。生駒里奈に対しては、尊敬という気持ちになる。

たぶんそれは、「悲しみの忘れ方」で観たあるシーンの印象が強烈だからだろうと思う。デビューから5曲連続でセンターに選ばれた生駒里奈が、6曲目で初めてセンターから外れた時。その発表を聞いた瞬間に後ろに倒れた。そしてその後、駐車場のような場所を跳びはねる生駒里奈の映像が続く。「やっと解放された」というようなことを言いながらはしゃぐ生駒里奈を観て、生駒里奈の凄さを感じ取ってしまった。

学校でいじめられ、ほとんど人と関わらず、唯一出来た親友と高校では離れ離れになってしまうと分かって高校に行くことを止めた生駒里奈は、オーディション会場に猫背でやってきたと言う。自信なんてまったくなく、母親の料理が食べられないストレスで口内炎がびっしり出来たという生駒里奈が、何も分からない世界でセンターという重責を負う。当然、その時点でセンター経験者は周りに誰もいない。自分で考え、自分で決断し、前に進んでいくしかない。それは恐ろしく不安な道のりだっただろうが、生駒里奈はどうにかやりきった。乃木坂46というものの精神的支柱となり、現在の大躍進に至る礎を築いた。そういう重責を乗り越えていったことに対する尊敬がある。

生駒里奈は、ずば抜けた容姿は持っていないと思うんだけど、見れば見るほど味が出る感じがして、そういう意味でも気になる存在だ。女性として大きく変化していく時期に、乃木坂46のメインの顔として撮られていった経験が、外見にも大きく作用しているのかもしれないとも思う。経験によって得た何かが確実に積み重なっている、そんな後天的な要素が強く影響している容姿という印象があって、興味深い。

「乃木坂の46のMV集を観て感じた、生駒がセンターだった理由」

「セッション」を観ました

「自分を削って完璧な部品を目指す」か、「自分の形のままいられる場所を探す」か。
何かを目指す時、その問いから逃れられる人は多くはないだろう。

生まれつき、圧倒的な才能を有している人間だけは、この問いから逃れられる。自分の形のままいるだけで、自分を完璧な部品として扱うような環境が周囲に整えられる。それは、誰もが憧れる理想だろう。

しかし、世の中そう簡単ではない。

「自分を削って完璧な部品を目指す」生き方は、誰かの理想に賭ける生き方だ。自分以外の誰か、素晴らしい才能を持っている人間のチームとなり、その人物の理想とする形に自らを磨き上げていく。自らを表現するために打ち込むのではない(もちろん、その人物の理想と自分の理想が完璧に一致するなら素晴らしいが)。その自分の理想を表現するために打ち込む。
それは、ある意味では自分を殺すことではあるが、ある意味では生かす。普通にしていれば辿り着けない世界に、その人物が連れて行ってくれるかもしれない。それは、チャンスが広がるということ。多くの人目につくということ。その中で、自分の理想を完璧に生かしてくれる誰かと出会えるかもしれない。そのために、自分を殺す。

「自分の形のままいられる場所を探す」生き方は、成功すれば最高だが、努力では超えられない壁がある。そういう場所を見つけられるかどうかは、ほとんど運次第だ。また、完璧に、ほんの僅かの違いもなく自分の理想と一致する場所など、世界中どこを探してもないだろう。しかしそれでも、自分を殺すことなく、自分を表現するために打ち込むことが出来る。

大昔であれば、ほとんどの者が前者の生き方を選択せざるを得なかったはずだ。何故なら、自分の理想のままでいられる場所を探すための手段が、彼らにはほとんどなかったはずだからだ。それは、本当に運次第。そういう運を掴みとり、成功していった者ももちろんいるだろう。しかしそれは、ほとんど起こりえない幸運だったはずだ。

しかし、現代は少し事情が違う。
世界中、どこにいても、自らの才能を発信することが出来るようになった。誰でも、世界中の才能に触れられる環境を手に入れることが出来るようになった。これまでだったら埋もれていただろう様々な才能を、ネット上で見つけることが出来る可能性が、大昔とは比べ物にならないほど広がった。もちろん、ネット上で見つけてもらえることも、相当な幸運がなければ難しいだろう。それでも、大昔とは可能性のレベルは比較できないほどの差だろう。才能が埋もれずに済む世の中になったのだ。

そんな世の中にあって、それでも前者のような環境が存在する意義は、一体どこにあるだろうか?

『英語でもっとも危険な言葉は、この二語だ。「上出来(Good job)」』

この映画の中で、若き生徒たちを指導する指揮者は、そう口にする。そこに、彼の信念が宿っている。

『皆を期待以上のところまで引き上げたかったんだ』
『私は、どんな教師でも出来ないほど必死の努力をした。それを謝るつもりはない』

彼は、限界まで追いつめられる経験が、人を成長させると信じている。もう無理だ、というところを超えたところにしか、本物は存在し得ないのだと。
彼は、チャーリー・パーカーを例に出す。チャーリーは、ある演奏でミスをし、シンバルを投げつけられた。その夜、彼はベッドの上で泣いた。そして翌日、どうしたか。練習した。そうやって彼は“バード(チャーリーのニックネーム)”になった。シンバルを投げつけられなければ、そこで奮起して練習しなければ、“バード”は生まれなかった。「Good job」と言われていたら、“バード”は生まれなかった。

『「でも、次のチャーリーを挫折させたのでは?」
「どんなことがあっても、次のチャーリーは挫折しない」』

問題は、誰が次のチャーリーか、誰にも分からないということだ。
目の前にいる相手が、間違いなく次のチャーリーであるなら、追い詰める環境はもってこいだ。それによって、指導者は“バード”を生み出し、生徒は“バード”になれる。

しかし、相手が次のチャーリーである保証は、どこにもない。

前者のような環境は、「そのほとんどの才能を潰したとしても、たった一人の次のチャーリーを見つけることが出来れば良い」という考え方を下敷きにしなければ、成立しえない。そして、この前提を持った指導者にとって、前者のような環境は当然過ぎるほどに当然の環境なのだ。“バード”を育てたいと思っている指導者なら、なおさら。『それを謝る気はない』と断言する理由は、そこにある。彼にとって、次のチャーリー以外の存在など、どうでもいいのだ。

生徒には、残酷な場だ。次のチャーリーではない人間にとって、そこは地獄と同義でしかない。次のチャーリーを見つけることしか考えていない指導者の下につくとはそういうことだ。しかし彼らには当然、「自分こそが次のチャーリーだ」という思いもある。そういう思いがなければ、到底続けられない環境だ。

前者のような環境は、指導者の思惑と、生徒の希望で成り立っている。その現実をリアルに描き切ったのがこの映画だ。

アンドリュー・ニーマンは、アメリカ最高峰の音楽院・シェイファー音楽院に通う19歳の青年。日々ドラムの練習を続けている。
シェイファー音楽院には、フレッチャー教授という指導者がいる。彼が率いる「スタジオ・バンド」は、学内最高のバンドとされており、フレッチャーは常時学内を歩きまわっては、有望なメンバーを探している。
そしてある時、ニーマンはフレッチャーの目に留まる。バンドメンバーの中で最年少だ。
「スタジオ・バンド」の練習は、過酷を極める。ほんの僅かでもフレッチャーの“理想”から外れるとやり直しさせられる。直るまで、永遠と。スティックを握る両手から血が滴り落ちてもなお。
すべてはフレッチャーの理想のための部品であり、フレッチャーの理想を構成できないメンバーは、即座に辞めさせられる。
ニーマンは、フレッチャーの“指導”に必死でついていく。しかし、いくらやってもフレッチャーにどやされる。ボロクソに言われる。殴られる。貶められる。
それでも皆、ついていく。フレッチャーが、自分にとってのチャンスだと信じて。ここで食らいつくことが、成功への道筋なのだと。ニーマンも、血だらけになった手を氷水に浸けながら、延々と練習を続ける。
フレッチャーの“理想”を体現するために。

フレッチャーの、次のチャーリーを見つけたい、“バード”を育てたい、という気持ちは理解する。しかし僕は、フレッチャーのやり方は許容出来ない。

確かに、一人では、限界のその先まで行くことは難しい。怒りや後悔、絶望、そうした強い感情がなければ、自らを限界の奥の奥まで追い込むことは難しい。それは分かる。しかしそれでも僕は、フレッチャーのやり方を許容したくない。

しかし、そんな単純な結論が正義であるなら、この作品はそこまで多くの人の心を打たないだろう。

他の人がこの映画を、そしてフレッチャーをどう見るのかちゃんとは分からないが、フレッチャーのやり方を否定する人間も多くいるはずだ。しかし、フレッチャーのやり方を否定する人間の心の中にも、ほんの僅かかもしれないが、フレッチャーの存在を認めざるを得ない気持ちが隠れているのだと思う。フレッチャーになりたくはないし、フレッチャーに教わりたくもない。フレッチャーを許容したくもない。しかし、フレッチャーがいるから“バード”が生まれるのではないか。ほんの僅か、そういう気持ちを捨てきれないのだと思う。

だから映画を見ながらモヤモヤする。フレッチャーのやり方は否定したい。間違っていると糾弾したい。自分だったらそうはしないと断言したい。しかしそれでも、どこかにそうしきれない自分がいる。

それに僕たちも、フレッチャーが与えるような環境を、意識せずに作り上げている。

例えば、マンガの世界。ごく僅かな人間が雑誌連載を勝ち取り、そしてそのごく僅かな成功者も、大衆のアンケートによって消える。残るのは、死屍累々の世界を乗り越えた本当にごくごく僅かな人間だけだ。

僕らが面白いマンガを読むことが出来るその背景には、山程の“死者”が存在する。雑誌連載を目指して成し遂げられなかった“死者”、そして雑誌連載を勝ち取っても続けられなかった“死者”。僕らの目からはほとんど見ることが出来ないそういう“死者”によって、極上のマンガを享受出来る環境は生み出されている。

そして、その環境を生み出しているのは、まさに僕たち読者だ。僕らは“死者”の存在など気にすることなく、簡単にマンガの面白さを評価し、作り手はその評価をチェックする。僕らがそこまで気負ってやっていない“マンガの面白さを評価する”という行為が、死屍累々を生み出す環境を作り出しているのだ。

僕らは普段そのことに無自覚だ。しかし、この映画は、僕らがフレッチャー側でもあるのだということを思い起こさせる。無意識の内に、僕らはフレッチャーと同じことをしている。無自覚であるが故に、この映画がそのことを想起させることに、どことない落ち着きのなさを感じる。フレッチャーを否定しきれないのは、自分を否定しきれないのと同じことでもあるのだ。

もし、マンガの世界に雑誌が存在せず、生み出されたすべてのマンガは同列でインターネット上にアップされるとしたら、僕らは「スラムダンク」や「ドラゴンボール」を読むことが出来ただろうか?もちろん、面白いマンガはたくさん生み出されただろう。しかし、時代を揺るがすような圧倒的なマンガは、果たして登場しただろうか?

それは誰にも分からない。分からないが、しかし、観るものは心のどこかで、フレッチャー的環境がなければ真に素晴らしいものは生み出されないかもしれないという気持ちを否定しきれない。フレッチャーの存在を、否定しきれない。

才能は、初めから存在するのか、あるいは作り上げられるのか。どちらもあるだろう。難しいのは、誰が原石を持っているのか分からないということだ。誰が次のチャーリーか分からないということだ。原石を見つければ、ただ磨くだけで良い。しかし、どれが原石か分からないから、可能性のある岩をことごとく削りだしていくしかない。答えの出ない問いを繰り返し問い続けるしかない。フレッチャーは、本当に“悪”なのかと。

物語のラストが、実に印象的だった。詳しく書くことは控えるが、ニーマンが壁を乗り越えた瞬間からの活き活きとした描写が実に見事だし、ニーマンとフレッチャーの、言葉では絶対に届かない高みでのやり取りが魅力的だ。ラスト、あの場面で、フレッチャーは何を思っただろう。「自分がやってきたことは正しかった」と思っただろうか?あの表情は、ニーマンの中に何を見たから生まれたのだろうか?余韻を残す、非常に印象的なラストだったと思う。

次のフレッチャーは、“バード”にならなければ世界を豊かに出来ないか?“バード”まで達しなければ、価値を生み出せないか?次のチャーリーのままでは、存在価値はないのか?考えることが尽きない物語だ。

「セッション」を観ました

オーブランの少女(深緑野分)

内容に入ろうと思います。
本書は、5編の短編が収録された短編集です。

「オーブランの少女」
美しい庭園を持つオーブランの屋敷には、鉄条網で囲われた一角がある。老女二人が住むその屋敷には噂があり、どれもその鉄条網で囲われた一角に関するものだった。
そしてある日、驚愕するほどやせ衰えた悪鬼が老女の内の一人を殺害する、という事件が起こる。
事実関係はまったく分からないままで終わるかと思われたが、老女と仲の良かった少女が手渡された手記から、かつてそこで何があったのか分かった。

両親から引き離され、オーブランの屋敷に連れてこられた少女。ここで少女は、マルグリットという名をつけられる。他の少女たちも皆、花の名をつけられ、そしてマルグリットと同じく、どこかしらに障害を抱えていた。
初めは近寄りがたかったミオゾティスという少女と仲良くなったマルグリットは、両親に棄てられたのかもしれない、という疑念を抱きながら、マダム・キャロが運営するこの施設について考えていた。病弱な少女たちを集めて、一体ここでは何をしているのだろうか?

「仮面」
ウォルター・アトキンソン医師は、ベツィ夫人の往診にやってきた。そしてその夜、事故に見せかけてベツィ夫人を殺害した。

アトキンソンは、結婚もせず、読書以外も愉しみを持たぬまま、静かに暮らしていた。しかし、ベツィ夫人の夫で、「ルナール・ブルー」というキャバレーを経営しているドミニクに、ショーに誘われた。気が乗らないまま観に行ったアトキンソンは、そこでリリューシカという恐ろしく美しい踊り子を見つけ、心を奪われてしまう。姉のアミラは、ベツィ夫人の世話をしている醜い女だった。アトキンソンはリリューシカと関わるようになり、やがて姉妹から助けてくれと頼まれるようになる…

「大雨とトマト」
特別美味い料理を出すわけでもない料理屋を続けている店主は、ある大雨の日、10年来通っている常連客を眺めていた。特別美味いわけでもないこの店に何故通い続けているのか、それもこんな大雨の日に。店主は自分の店ながら不思議だった。
同じ日。一人の少女が店にやってきて、トマトを食べたいという。メニューにはない簡単なサラダを出してやったのだが、店主はどことなくその少女に見覚えがあるような気がした。
「…父親を、さがしてるんです」
そう少女が言った時、店主は、16年前にたった一度だけ浮気をしてしまった時のことを思い出した。まさか、あの時出来た子どもだとでも言うのか…。

「片想い」
岩本薫子は、ガタイのいい体つきをして、およそ可憐とは程遠い容姿をしていた。一方の水野環は、長野県の資産家の娘であり、成績も優秀、可憐な容姿も相まって、少女たちから日々手紙が絶えない。しかし環は、“エス”になって欲しい、という願いをすべて断っていた。薫子は、環を守るためなら大木にでもなろう、と決意していた。
ある日、薫子と環が住む寄宿舎に、長野からやってきたという環の女中頭が現れた。ちょうど環は不在だったのだが、女中頭と反りが合わなかったと環が言っていたことを思い出し、薫子は機転を利かせた。その後帰ってきた環は、女中頭がやってきたことを知るや慌てふためき、自室に篭ってしまう。
…やがて薫子は、真相に気づいてしまう…。

「氷の皇国」
夏になると太陽が沈まない、そんなユヌースクのとある小さな村に、ある日死体が流れ着いた。その死体は首がなく、また相当の年月が経過したと考えられるものだった。死体が流れ着いた湖の上流には、ユヌースクの廃城があり、かつて蛮行で有名だった皇帝が治めていた。皇帝がかつて処刑した死体のどれかだろう、と酒場で噂をし合った。
そこにいた白髪の吟遊詩人が、その死体にまつわる歴史を語る。それは、皇女であるケーキリア、皇子であるウルリク、かつて皇女の近衛兵していたヘイザルと、その娘エルダの、複雑な感情と関係性が入り混じった哀しい物語だ…。

というような話です。

時代や地域など、まるでバラバラな様々な物語を収録している作品です。一冊の本としてのまとまりはありませんが、多様な物語が混在する作品は、どことなく不可思議な雰囲気を醸し出しているような感じがします。

本書は、基本的にはミステリの範疇に入る物語でしょう。とはいえ、ミステリ作品の多くが、どうしてもトリック重視で物語が出来上がってしまうのに対して、この作品は舞台設定にかなり力を割いている、という印象があります。特に最後の「氷の皇国」なんかは、中編程度の長さがあるのですが、その中に、架空の国の歴史を入れ込みながら物語をつくり上げています。冒頭の「オーブランの少女」も、設定がなかなか印象的な物語でした。

読みながら僕は、なかなか良く出来た物語だな、と思いつつ、ちょっと弱いなとも感じていました。たぶんその原因は、「謎が何であるのか明確にされないまま物語が進んでいくこと」にあるように僕には感じられました。

例えば冒頭の「オーブランの少女」では、確かに冒頭で、悪鬼が老女を殺している。しかし、厳密に言えば、この殺人事件の謎は解けていない。手記を頼りにした回想シーンに入っていくのだけど、冒頭からしばらくは、何が謎なのかイマイチよく分からない。最終的な物語の閉じ方をミステリでやってしまっているから、物語の初めの方で謎が明確になっていないとミステリとしては辛いと思いました。

これは、他のどの短編でも同じようなことが言えると思います。最終的な物語の閉じ方には文句があるわけではない。伏線もきちんと張られているし、それらをうまく回収している。しかし、しばらく読まないと、そもそも何が問題なのか、何が謎として存在しているのかが分からない。物語の設定や登場人物の描写なんかはいいのだけど、ミステリでありながら謎の登場がちょっと遅い。どうにかその辺りのことを改善して、読みはじめから謎がちゃんと提示されるような構成だとより良くなるように感じました。

深緑野分「オーブランの少女」


寄生虫なき病(モイセズ・ベラスケス=マノフ)

本書は、花粉症やアトピー性皮膚炎や多発性硬化症といった自己免疫性疾患だけでなく、自閉症やがん、うつ病、肥満、心臓疾患など、様々な病気を治すことが出来るかもしれない可能性について書かれている。

しかし、僕の感想と、そして本書を読む前に、注意して置かなければならないことがある。それは、「本書では、なんの結論も出していない」ということだ。

よくある健康本では、「◯◯をすれば××が治る」というようなことが書かれているが、個人的にはそういう本は胡散臭く感じられる。それが科学であればあるほど、断言を避ける傾向にあるからだ。「科学に絶対はない」というのが、科学に関わる人間の恐らく共通した意識だ。

本書では、古今東西さまざまな研究者が行ってきた実験が描かれる。ラットなどでの動物実験の結果や、あるいは観察を中心とした人間を対象とした調査など、本書で描かれるとある主張が「おそらく正しいだろう」というような結果が出ている。あるいは、医学的にはまだ効果が実証されていないある治療法がアンダーグラウンドで広がっており、その治療法によって、治療法が存在しないと思われていた病気が寛解した事例も様々に載せられている。しかし、本書の立場はこうだ。『ヒトに関する決定的な証拠はまだない』。アンダーグラウンドで広まっている治療法にしても、効果が出る人がいる一方で、効果の出ない人もいる。

本書は、「様々な事実が羅列されている本だ」と捉えるべきだ。古今東西さまざまな実験結果は本書に載っている。それらの実験によって、「◯◯が××になった」という事実は明確に存在する。しかし、「何故◯◯が××になったのか」という説明の部分は、まだまだ研究途上だと言っていい。だから、本書には、明確なアドバイスもほとんどない。

『だが、私(注:著者自身)が最も憂慮しているのは、アリエッティ(彼は完全に善意の人だと思われるが)や彼のような人の行動を助長することになるのではという点である。彼らの提供する治療法はすでにある程度の注目を得ているが、それが今以上に注目されるべきなのかどうか、私には確信がない。』

『本職の科学者たちとしては、なかなか結果の見えない実験を続けるしかない。寄生虫治療が本当に効くかどうか知るためには、そうするしかない。行政当局としては、危険かもしれない未証明の薬の販売を禁止するしかない。そうしなければ、社会が混乱してしまう。そして、治療法の分からない病気に苦しむ人たちとしては、助けを求めるしかない。たとえそれが、問題のある業者から手に入れた寄生虫であっても。三者とも、まっとうに自分の利益を追究しているのだが、そうすることで否応なく軋轢が生まれてしまう』

本書は、未来の希望を見せてくれる作品だ。しかし、現時点では、確実なものではない。あらかじめそのことを頭に入れて読むべきである。


さて本書は、次のような疑問に答える作品である。

【なぜ自己免疫性疾患やアトピーなどの病気は、発展途上国ではほとんど見られず、先進国でここ最近急増しているのか?】
【なぜ兄弟がいる子は、長男よりも喘息やアトピーになりにくいのか?】
【花粉症にかかる人間はなぜ、先進国の富裕層の人間からだったのか?】
【これまでもアメリカ人はコーラや肉を摂取してきたのに、肥満が最近になって問題になってきたのは何故か?】
【人類がアフリカで誕生して以来、結核菌は常に人類と共に存在していたのに、何故19世紀に突如結核が大流行したのか?】
【世界の人口の1/3の人間が未だに寄生虫に感染しているのに、症状が出ることはほとんどない。寄生虫は一体人間の体内で何をしているのか?】
【抗生物質を使いはじめるようになってから免疫関連疾患が増大したのは何故か?】

これらすべてを包括的に説明する、従来の学説とは矛盾するある考え方が、ここ最近真面目に研究され始めているのだそうです。それをざっくりと要約すると以下のようになります。

《人間は、寄生虫や腸内微生物を失ったがために、免疫関連疾患に冒されるようになった》

本書は、この仮説を裏付ける様々な実験を紹介しながら、何故寄生虫や微生物が様々な病気の発現を防ぐのか、人類とそれら「腸内細菌叢」との関わり方はどんな感じなのかについて深く考察している。

まず、様々な現状を確認しておこう。

『近年、自己免疫性疾患もアレルギー疾患も、科学者たちが「これは明らかに異常事態だ」と感じるレベルにまで有病率が上昇している。特に喘息の有病率の上昇を表現するのに、科学者たちは「流行病(エピデミック)」という語を多用している』

『アメリカ国立衛生研究所の推定によれば、一千四百七十万~二千三百五十万のアメリカ人(アメリカ国民の五~八%)が自己免疫性疾患を抱えているという。アメリカ自己免疫関連疾患境界の見積もりでは、患者数はその二倍以上の五千万人に上っている。アメリカでは、自己免疫性疾患は女性の死因トップ点にランクインしている。』

『二十一世紀初頭の現在、このような数字は他の先進諸国にも当てはまる。しかし、免疫関連疾患はいつの時代にも流行していたわけではない。免疫関連疾患の症例は十九世紀末からわずかに見られるものの、アレルギー疾患や喘息の流行が始まったのは一九六〇年代のことである。その後、この流れは一九八〇年代に加速し、二〇〇〇年代前半までにピークに達して以来そのままの状態が続いている。先進国の喘息・アレルギー患者数は、(統計や国によってまちまちではあるが)この四十年間に二~三倍に増加している』

『気がかりなのは、七十年前にカナーが初めて症例を報告して以来、自閉症の症例が急激に増加していることである。一九七〇年代には、自閉症と診断される子どもは一万人に三人だった。二〇〇〇年代初めまでに、その割合は百五十人に一人になった。そして二〇〇九年前半現在、その数字は再び改められ、八十八人に一人となった。』

様々な統計や調査が、ここ最近様々な病気の有病率が増加していることを示している。そしてそこには、ある奇妙な相関関係が存在する。

『バックがこのように明確に示して見せた関係―感染症が減少するにつれて、免疫関連疾患が増加する―は、同時期の国別・地域別の比較でも歴然としている』

感染症というのは主に、寄生虫や微生物への感染によって引き起こされる。人類は、1817年に世界中を震撼させたコレラの大流行をきっかけに、衛生改革に乗り出すことになる。たとえば19世紀のロンドンは、『常に、自らの排泄物に浸かっていた』と評されるような状態だったが、公衆衛生を改善し、飲水を綺麗にし、寄生虫の撲滅に奔走し、そうやって人類は、人類史上かつてないほど「綺麗な」環境で生活することになった。この衛生改革によって、人類は感染症の脅威からかなりの程度逃れることが出来るようになったのだ。

しかし、感染症から逃れられるようになった人類は、何故か免疫関連疾患に悩まされることになる。

『文明社会との接触がないアマゾン先住民にアレルギー疾患や他の現代病が見られないことは、他の研究者らによる調査からも明らかになっている。アマゾン先住民にはこうした病気に対する免疫が遺伝的に備わっているのだろうか。その可能性は否定できないが、おそらくそうではないだろう。これと同様の現象は、ヨーロッパやアフリカやアジアでも繰り返し観察されてきた。それは、不潔な環境で生活している人たちのほうがアレルギー疾患や自己免疫性疾患のリスクが低いという現象である。』

こういう現象をマスコミは、「現代の生活は清潔すぎてかえって健康を損なっている」として「衛生仮説」と名づけている。

さて、どうしてこのような、清潔さと免疫関連疾患が関係性を持つようなことになっているのだろうか?本書の中でそれは繰り返しこう説明されている。

『つまり、チマネ族は微生物や寄生虫がうようよいる環境で暮らしている。だからどうなんだって?数々の証拠がこうした環境が自己免疫性疾患やアレルギー疾患を防ぐことを示唆している。理由は簡単である。免疫系は本来こうした環境に立ち向かうために進化してきたのだからである。そして、本来立ち向かうはずだった、刺激に満ちた環境に出会えないと、免疫系は混乱してしまうのである』

『つまり、我々の免疫系は、まさに寄生生物という問題を処理するために発達したのである。寄生生物こそが、人類が発達した環境のおもな特徴だったのである』

『つまり、外部からの刺激によって免疫系は寛容を学習するということである。外部からの刺激がないと、免疫系は異常を起こしてしまう』

当初、免疫関連疾患は、何らかの原因となる物質が存在すると考えられていた。しかし今は違う。

『免疫異常を引き起こすためには、人体に新しい物質が入ってくる必要はない。実際には、免疫系からある重要な構成要素を取り除くだけで充分なのである』

これは納得しやすい説明である。人間の体内には元々、寄生虫や微生物がうようよいて、それらに対処するために人間の免疫系は発達した。しかし現代は、人類史上初めてのことが起こっている。

『イギリスとアメリカのこうした集団の中で、生物学的に前例のない事態が起こっていた。人体からある種の微生物と寄生虫がいなくなるという、おそらくは人類進化史上初の出来事が起きたのである。人体がそれまでと同じやり方で機能することが不可能になってしまったのだ。』

『二十一世紀の困った状況がここに要約されている。つまり、アレルゲンは豊富なままだが、アレルギーを防いでくれていた微生物がいなくなってしまったのである』

このことによって、免疫に異常を来たす疾患が急増した。非常に納得しやすい説明である。

先ほど引用した『我々の免疫系は、まさに寄生生物という問題を処理するために発達した』という表現は、寄生生物と戦うために進化した、というような印象を与えるかもしれない。しかし実際は、寄生生物とはまるで違う関わり方をしているかもしれないという。

『腸内細菌叢にはかなりの可塑性がある。食生活や微生物への暴露、個人の体質や年齢によって、腸内細菌叢は変化する。この可塑性こそ、「そもそもいったいなぜ腸内細菌叢が存在するのか」という問いに対する答えの一つかもしれない。微生物の生態系は、固定的なヒトのゲノムよりも素早く進化・変化することができる。この可変性のおかげで、我々は、自分のゲノムだけに依存するよりも柔軟性(たとえば、より広い範囲のものを食べて消化することができるようになるための)を獲得することができる』

これは非常に面白い。生物は常に、外的な環境の変化にさらされる。それまで食べていた食べ物が突然食べられなくなり、今まで食べたことのなかった食物を食べなければならなくなるかもしれない。そうなった時、腸内細菌叢がいなければ、人類は自らのゲノムを改変してその新しい食物を受け入れられるようにしなければならないかもしれない。しかしそれには、もの凄く長い時間がかかり、その新しい食物に適応する前に絶滅してしまうかもしれない。しかし、可変性のある腸内細菌叢を取り込むことで、外的な変化を、腸内細菌叢の変化によって対応できるようになるかもしれない。

『つまり、我々の免疫系は特定の共生細菌に特定の機能を割り当てているらしい、ということである』

僕たちは、それが“盾”と“鉾”であることに気づかないまま、戦うための武具を捨ててしまったのかもしれない。寄生虫や微生物を“害悪”と勘違いして、駆逐してしまったのかもしれない。

であれば、意図的に寄生虫に感染して病気を治そう、とする人々が現れるのも当然である。本書の著者はまさにそれを考えた一人だ。重篤な免疫関連疾患を抱え、治る見込みのない著者は、アンダーグラウンドで行われている寄生虫治療に手を出すことにする。本書は、そんな冒頭から始まる作品だ。結果は後半に書かれている。本書を読む限り、安全で確実な手法は未だに確立されていないが、寄生虫や微生物を取り込むことで腸内細菌叢を改善させる。そのことによって、これまで治療法がほとんど存在しなかった疾患に対しても、「寛解」まで持っていく(この状態に辿り着けるのは、ほとんどの人にとって奇跡的なことである)ことが可能であるように思える。しかし、まだ必須となる情報や機能の解明が足りないように思う。科学が徐々に、それを明らかにしていくことだろう。

冒頭で数字を上げた現状は、アメリカやイギリスのものだった。日本の現状がどうなのか、詳しいことは知らないが、もし日本でまだそこまで免疫関連疾患が広まっていなくても、油断はしてはいけない。何故なら本書にこういう記述があるからだ。

『注目すべきは、日本や韓国で寄生虫駆除がおこなわれるようになったのはアメリカよりも数十年遅いということである(日本では第二次世界大戦後、韓国では朝鮮戦争後)。』

だから、日本は今後、アメリカやイギリスのような状況に見舞われるかもしれない。現状からだけで判断してはいけない。

寄生虫駆除が行われる、あるいは社会が都市化し「綺麗に」なる【以前の人々】と【以後の人々】では、腸内細菌叢はまるで違う、と思った方がいい。そのことを踏まえた上で、本書ではこんな指摘がなされている。

『さらに恐ろしいのは、お粗末な教育しか受けていない免疫系を持ち、子どもの頃から明らかに免疫制御異常傾向のある次世代は現在の長寿者のようには長生きできないだろうということである。この懸念には正当な理由がある。アメリカでは、肥満(炎症疾患の一つ)の蔓延ぶりから、「現世代の平均寿命は、十九世紀の衛生改革以来初めて、親の世代のそれを下回ることになるかもしれない」と憂慮されている』

寄生虫や微生物に感染している子どもは、乳幼児期に死亡する可能性が高まるが、そこを抜け出せば長生きする傾向にある、という調査結果があるようだ。現代は、その真逆である。寄生虫や微生物に触れる機会がない現代人は、乳幼児期に感染症で死亡する確率は大分減らすことが出来た。しかしその代償として、免疫関連疾患のために長生きできなくなるのではないか…。

さて、ではどうすればいいのか、についても少し触れておこう。
まず最も重要なポイントを引用しておく。次の引用は、本書の中で、表現を変えながら、うるさいぐらい登場する。

『つまり、多様性そのものに予防効果があることが分かったのである』

この寄生虫がいれば、この微生物がいれば安心、というわけではない。そうではなく、多様性が確保された腸内細菌叢を体内に保持することが最も重要なのだ。そのためにどうすればいいのか、という具体的な方法はまだ分かっていない。きっと科学が今後解明してくれるだろう。しかし、特定の寄生虫・微生物にこだわるのではなく、腸内細菌叢全体の多様性を追い求めるべきだということははっきりしている。

その他、本書の中で“有効”だとされている事柄をいくつか引用しておこう。

『二〇〇〇年、アリゾナ大学のマルティネスの研究グループは、「幼年期に保育所に通うことがアレルギー疾患の予防につながる」ことを明確に示す調査結果を発表した』

『人類学者のトマス・マクデードとクリストファー・クザワは、さまざまな集団を比較した結果、乳幼児期に微生物に曝露することが生涯にわたって利益をもたらすことを証明した』

『農業に従事すること、殺菌されていない牛乳を飲むこと、保育所に通うことには、アトピー性皮膚炎を予防する効果がある』

『母親が妊娠中に世話をした家畜の数が多いほど、子どもがアトピー性皮膚炎を発症するリスクは低くなる』

『現時点で確実にお勧めできる唯一のことは、食生活の改善である。(有用最近の餌となる)果実や野菜、抗炎症作用のあるオメガ3脂肪酸の摂取を増やし、ジャンクフードや加工食品の摂取を避けるべきである。このような食生活は、害にならない(特に妊娠中は、これは大事なことである)ことは確実だし、多分有益だろう。しかし、誤解してはいけない。すでに喘息を発症している人が地中海式ダイエットを実行しても、おそらくそれだけで喘息が治ることはないだろう』

人類は、かつてない状態に陥っている。目にはなかなか見えないが、過去数万年の歴史の中で、人類が経験したことのない状態が、体内を襲っているのである。そして、様々な疾患が、そのことを原因として起こっている。この現実は、頭に入れておいた方がいいかもしれない。僕らは、得たものと引き換えに何を失ったのか。果たしてそれは、“幸せな選択”だったと言えるのか。非常に考えさせられる一冊だ。

モイセズ・ベラスケス=マノフ「寄生虫なき病」


セーラー服の歌人 鳥居 拾った新聞で字を覚えたホームレス少女の物語(岩岡千景)

僕は、“ことば”と“ことばが生まれる場所”に、とても興味がある。他人に惹かれる時、もちろん様々な要素があるが、僕の中で一番ウェイトを占めているのが“ことば”だと思う。

僕がここで言う“ことば”というのは、情報伝達のためのことばではない。

人間は恐らく、他者に何かを伝えるためにことばを獲得し、進化させてきたはずだ。何らかの情報を伝える手段として、ことばが生まれた。そういう意味で、動物の鳴き声なども、情報伝達のことばと捉えてもいいかもしれない。

しかし人間は、そうやって獲得したことばを、思考のためにも使った。目では見えないもの、自分の内側にはない感情、自然を動かす原理。そうしたものを言葉で思考して捉えていった。

僕がここで言う“ことば”は、そういう思考のための“ことば”である。

『私が“言葉には人を殺す力すらある”と、言葉の力を信じるようになったのは、母の自殺には、この漫画の影響もあったと思うからです。言葉や音楽には、人を死なせるほどの力がある―でも私は、言葉で人を死なせるのではなく、生かしたい。そのためには、1回、死の淵へ行って、そこからもどってこないといけない。それで初めて、本当に人を生かす言葉がつむげるのではないか―そう思うようになったのは、母の自殺がきっかけです』

僕は、絶望が生む言葉に、どうしてか惹かれてしまう。僕自身も、絶望と名付けるほどの過去ではないのだけど、僕なりの絶望に囚われた時期があったからかもしれない。僕が人生で、最も意識的に言葉を使った時期だったかもしれない。自分のせいだとがいえ、社会との関わりがほぼ断ち切ってしまった状態にあった頃、僕に出来ることは、頭の中で、“ことば”を駆使して、頭の中がぐちゃぐちゃになるぐらい考え続けることぐらいしかなかった。

『でも、どれも全部自分でも考えていたことばかりで、「将来どうするか」をいちばん不安に思っているのも自分でした。
「将来どうするのか、仕事にも就けず、社会でもやっていけないのなら、死ぬしかないのかな」と考えたことも、何度もありました。
未来は真っ暗で、何の夢も希望もないように思えていました。
このため諭されるたびに、「心が引き裂かれるようでつらかった」といいます』

僕にも、程度はまったく違うが、ほとんど同じようなことを考えていた時期がある。たとえそれが“砂製の楼閣”であろうとも、“ことば”を駆使して自分自身の輪郭をどうにか保たないとどうにもならない時期というのがあった。たぶんその時、僕の内側にちゃんと“ことば”が宿ったのだろう、という気がする。

『「なぜ、生きなければいけないのか?」という問いへの答えとは?』
『「なんで生きないといけないのかの答えは、今もわからない」
と鳥居はいいます』

前の職場に、よく「死にたい」と言う女の子がいた。その子は、外側だけ見ていれば、「死にたい」なんていう言葉とは無縁の子に思えた。アイドルグループの中にいてもおかしくないぐらいの容姿で、誰とでも明るく喋れる。しかしその子と、時間を掛けて深く話をしてみると、奥底に常に「死にたい」という言葉が隠れているということを知った。

僕には結局、彼女がどうして「死にたい」と思うのか、理解できなかった。でもだからと言って、彼女の「死にたい」がリアルではないかというとそんなことはない。僕も「死にたい」と思ったことがある人間だが、その時の僕の内側を話しても、きっと理解されないだろう。だから彼女の「死にたい」も、僕は無条件で信じた。だから、冗談っぽく言いながら、ちょっとは真剣さが伝わるように、「最悪死んじゃってもしょうがないけど、死なれたら俺は哀しい」という話を時々していた。鳥居の話を読んで、彼女のことを強く思い出した。

『嫌がらせをつづけたりすれば、人は人を案外かんたんに、死にたい気持ちにさせることができるんだと思う。だけど”死ぬ”と決めてしまった人を、そこから連れもどすことは難しい。心が枯れ、疲れ果て、未来を描けない人を前に、物やお金がどこまで価値を持てるのか?ただ、「すてきな夏服をもらったから夏まで生きてみよう」とか、ふと見た夕焼けがじんわり心にしみたりして「この美しい、いとおしい世界を見られなくなるのなら死ぬのは惜しいな」とか思って、死を踏みとどまる人もいる。歌を詠んだり、絵を見たりするのは、そうしたささいな美しさやいとおしさに目をとめること。だからもっと、文学や芸術が愛される社会にしたい』

『そして、そうした「境界を越える力」を持つほかの多くの芸術のように、自分が作る歌にも、人を惹きつけて、異なる世界を行き来できるような力を宿したいといいます。
なぜなら、「亡くなった母や友達、またかつての自分のように“自殺したういと思ってしまった人”を踏みとどまらせるには、力づくで生の側へ引きもどそうとするのではなく、その人を取り巻いている「死の世界」とでもいうべき場所にまで潜って行って、一緒にもどってくるという手つづきを踏まえなければならないと思うから」です』

鳥居は、自らが経験してきた絶望が、自分がそれまで知らなかった世界で評価される“ことば”を生むものだということに気づく。短歌との出会いは彼女にとって僥倖だった。

『それらの短歌と出会って以来、鳥居にとって、短歌は“目の前の「生きづらい現実」を異なる視点でとらえ直すもの”になりました。
自分を否定しなくて済む「居場所」となったのです。
「人が生きていくには、現実以外の場所が必要。だからみんな、映画を見たり、ディズニーランドやユニバーサルスタジオに行ったりするんだと思うんです。私にとって生きていくのに必要な別の場所は、短歌や本の中にありました」』

『心動かされる“短歌”と出会ってから、鳥居はその世界や技法を学ぶことに、少しずつのめりこんでいくことになります。
そしてその“学びたいという欲求”こそが、次第に、長らく暗闇にいた鳥居を導くかすかな光、生き抜いていくためのよすがとなっていくのです』

『芸術は、私にとっては贅沢品でも嗜好品でもなく、生きるために必要なもので―食費を削っても…実際、3日に食で暮らしていた時でも、私は美術館や図書館に行くほうを選びました』

現代は、どんどん“ことば”から離れていっているように感じる。情報伝達の手段としてのことばは、人間という種が生きている限りなくなることはないだろう。しかし、YouTubeやマンガを取り入れ、LINEのスタンプやInstagramに写真をアップするような形で発信することがスタンダードになっている今、“ことば”はどんどん失われていると感じる。

そしてそういう、“ことば”を介しないでコミュニケーションが成立する世の中では、“ことば”を持つ人間はどんどんとマイノリティになっていく。これは、逆かもしれない。マイノリティになるからこそ、“ことば”を獲得するのかもしれない。鳥居はまさにそうだった。拾った新聞で覚えたことばから、“ことば”を生み出していったのだ。

だから、鳥居の言葉は強い。

『燃やされた戦地の人を知る刹那フライドチキンは肉の味する』
『これからも生きる予定のある人が三か月後の定期券買う』
『ご遺族に会わないように大雪を選んで向かう友だちの墓』
『揃えられ
主人の帰り待っている
飛び降りたこと知らぬ革靴』

『眠るとは死ぬことだから心臓を押さえて白い薬飲み干す』

『便箋に似ている手首
あたたかく燃やせば
誰かのかがり火になる』

(注 本作に掲載された鳥居の短歌は、敢えて推敲前のものを載せているそうです。それを作ったその時々の鳥居の内面をきちんと見せるために)

これらの“ことば”は、“ことば”を持たない者には響かないのだろうか?

『それでも、短歌に限らず、芸術がもっと広まったらいいのに、とその時も思ったんです。世界を美しく切り取った芸術に出会えて感動できたら、うつの人も、人生に面白みを感じて生きていけるんじゃないか。生きていると、つらいことばっかりだから…感動がなかったら、とてもやっていけない。そして、つらい思いが勝ったら、死のほうに心の針が振り切れてしまう。だから、人を感動させて、生かす、芸術家には尊敬の念と感謝の気持ちを抱いています。たった1枚の絵が、何十年、何百年にわたって人を生かすとしたら―すごいな、と思うんです。
短歌も、そうやって長く人を感動させられるものだ、と思いました。八方ふさがりで、死ぬしかないと思った時に、人を救うのが、芸術だと思うんです。その魅力を知らない人が多いのはもったいない。だから、私にできることはすごく小さいかもしれないけど、芸術を知ってもらうために何かできたら、という気持ちをいつも持っています』

鳥居にとって、創作とは、恐ろしいものだ。

『「複雑性PTSD」という障害がある鳥居にとって、人と接すことはただでさえ怖いのですが、短歌を発表するということは、心の奥底をさらし、無防備に人の批判にさらされる危険と隣り合わせです
このため、創作を始めてからは怖さとの戦いの連続でもありました』

それでも鳥居が創作を続けるのは、芸術を支えにしか生きられない、自分のような人が、この世の中で震えていると知っているからです。

『鳥居が生み出そうとしているものもまた、現代では忘れられがちな「弱い者の味方」としての芸術』ではないでしょうか。
鳥居はいいます。
「シンデレラのような『希望の人』にはなりたくないんです。私はずっと、絶望する人の側にいたい。同じ場所で、弱い人たちに寄りそえたら…」』

「絶望する人の側にいたい」と、そこまで強く僕は思えないのだけど、僕の気持ちも近い。僕も、絶望する人の近くにいる人でありたい。それは、哀れみとか同情とかではなく、そこが自分の居場所に近いと思えるからだ。僕も、誰かに向けているわけでもない文章を日々書いているけど、僕の文章が、誰かを救うとはいわないまでも、絶望を抱えた人間にとって、何かプラスになる存在であれたらいいなと思う。

『私は凡人だから、誰よりも努力しないとほんものになれない』

完璧主義で、うつ病でずっと臥せっているのに、家族の食事は栄養バランスを考えたものをはいつくばってでも作り続けたという鳥居の母。そんな母の一部を受け継いだかのような考え方が、僕は少し怖い。ここで「ほんもの」という言葉を使うのか、という衝撃もあった。本当は、「ほんもの」以外の言葉でも表現できたはずだ。でも、そうしなかった鳥居の、自然に染み付いてしまった絶望を実感させられた気がする。

“ことば”を生む場所としての鳥居。僕はその強さに惹かれる。鳥居の絶望は、それがあまりにも暗いものであるが故に、他の誰かの“明るさ”を際立たせる。ほんの僅かしか輝けない人でも、鳥居の絶望的なまでに暗さにホッとするかもしれない。あるいは、同じだけの暗さを持つ者に出会えて安心するかもしれない。いや、暗さだけを際立たされるのは、鳥居としても本意ではないだろう。何よりも、鳥居の短歌が芸術として、弱き者を救うためには、鳥居の作った短歌がそれ単体で自立している必要があるだろう。そして、鳥居にならそれが出来そうだと思う。それだけの強さを、鳥居は内包しているに違いない。

『同賞の選者である作家の星野智幸さんは、鳥居の作品の最後の一文を「凄絶な言葉」だとコメントしました。
また、「鳥居さんが生き延びているのは、この美しく強い言葉を持っているから」「言葉だけを命綱として生き、言葉だけを武器として独り、世界と対峙しようと腹をくくった、凄みのある作品」とも評しました』


本書の16ページに、鳥居の人生が短くまとまっている部分があるので、それを引用しよう。

『鳥居の良心は、彼女が2歳の時に離婚しました。鳥居に当時の父の記憶はありません。2人きりで暮らしていた母も、小学5年生の時に亡くなりました。自殺でした。
その後、親のいない子などが暮らす自動養護施設に預けられましたが、施設での暮らしは殺伐としていて、ひどい虐待やいじめもあったといいます。
高熱が出た時に「ほかの人にうつったらよくない」と倉庫に閉じ込められて何日間も食事ももらえずに忘れられたり、自分より大きい男の子からあざができるほどなぐられ、先輩の女の子からは熱湯をかけられたり。
「おまえなんか、ごみ以下だ」とののしられ、精神的な嫌がらせを受けたこともありました。
そうした生活から、心が枯れきって学校に行けなくなってしまい、不登校に。
このため鳥居は、いまだに義務教育をきちんと受けられていません。

大人になった今でもセーラー服を着ているのは、「小学校や中学校の勉強をやり直す場を確保したい」という気持ちを表現するためです。
いじめや貧困などさまざまな理由で、自分と同じように学校に生きたくても行けない子はほかにもいます。「そうした子たちがいることを知ってほしい」という願いも込めています
(中略)
不登校だった中学を形の上でだけ卒業すると、鳥居は、祖母とほんの短期間暮らした後、16歳からアルバイトをして働き、一人で暮らしてきました。
しかし、その後も、ある親類からひどい嫌がらせを受けてDVシェルター(家庭内暴力などにあっている人の避難所)に入ったり、里親(他人の子を預かって自分の家庭に迎え入れて育ててくれる人)から追い出されてホームレスとなったり…。
それは過酷な経験を繰り返してきました。

「鳥居」というペンネームを使い、本名も年齢も明かさず活動しているのは、性別や年齢の枠を越え、生と死、現実と異次元などの境界さえも越えて歌を届けたいという思いからです』

これだけ壮絶な人生を歩んできながら、鳥居という女性は、実にまっとうな感情・価値観を持って育ってきた。僕はこれは凄いことだなと感じる。

『私は自分が入っていた施設や、そこにいた先生、子供たちを誰ひとり恨んではいません。なぜなら、暴力やいじめをする子にも、そうした行動をとる何らかの理由があったんだろうと思うし、先生も朝の忙しい時間に一人で何十人もの子を世話しなきゃいけなかったりして、「虐待は子どもも大人も追いつめられていた結果」だと思うからです。人知れずそうした状況があり、今も苦しんでいる子がいるであろうことを、一人でも多くの人に知ってほしいと思います』

『メディアでは、私の過去のつらいエピソードばかりもとめられがちですが、そこで話すことはほんの一面にすぎなくて、私のお母さんはとてもいいお母さんでした。本を読んでくれたり、お菓子をたくさん買ってきてくれたり。よく「今までたいへんだったね、これからは幸せになるよ」といわれるのですが、私は自分の人生が不幸だったとは思わないんです。母や、祖父母から―たくさん、かけがえのない良い思い出を与えてもらいましたから』

鳥居はきっと本当にそう思っているのだろうな、と本書を読むと感じる。しかし、ちょっとそれは信じられないなという気もする。本書に描かれていることだけであっても、相当しんどいことをたくさん経験している。

『「救急車を呼んだら怒られる」
と思い、電話はできませんでした。
ほかにどうすればいいのかわからず、相談できる大人の顔も思い浮かばないまま―鳥居は目の前で血の気を失いながら死に向かっていく昏睡状態のお母さんと、何日かを過ごしたといいます。』

ここに書いていないことなど、山程あるだろう。
しかし鳥居は、「良いものに目を向けよう」と努力してきたのだろうと思う。普通にしていれば、絶望に引きずり込まれてしまう。死にたくなってしまう。自分を今につなぎ留めておくには、目の前の現実から、良い部分を見ようとするしかなかったのではないか。勝手な想像だけど、もしそうだとすれば、鳥居のこのポジティブさも、少し哀しいものに思えてくる。

『彼女と、自殺してしまった母との違いは、何なのでしょうか?
「それは、愛だと思います。周りの人からの愛を受けられたか、どうか。それが私と母との違いだと思うんです」
と、鳥居は私に話したことがあります』

だから鳥居も、短歌を通じて、愛を与えようとする。手をつなぐことで、愛を伝えようとする。

『また、幼くして悪夢にうなされたり、不眠症気味だった鳥居を安心させるために、眠る時にはいつも母が手をつないでくれたといいます。そのため、今でも鳥居にとって「手をつなぐ」ことは、相手を安心させる大切な愛情表現になっているのです』

強さとは、自分の弱さを知ることから生まれる。死と、ほとんど隣り合わせで生きてきた鳥居だからこそ見えるものがあり、感じられるものがある。いつ死んでもおかしくはなかった。生きていなきゃいけない理由も、まだ良くわかっていない。就業することが医者からドクターストップが掛かるほど、鳥居のPTSDは重症だ。それでも、それでも鳥居は生きる。生きて言葉を紡ぐ。紡いだ言葉を誰かに届ける。紡がれた言葉が誰かに届くように働きかける。

『そして、全国短歌大会で自作の短歌が入選した2012年の暮れ。鳥居は大阪・梅田の駅に立っていました。
手にしていたのは、ダンボール箱の切れはしに、「生きづらいなら短歌をよもう」と書いたプラカード。
それを掲げて「短歌、面白いですよ」と道ゆく人に話しかけました。引きこもりがちで人が苦手な鳥居にとって、それは「短歌を広めたい」一心でした必死の行動でした。
道行く人から見れば、突飛に思えたかもしれません。でも、それが鳥居が思いついた精一杯の行動でした。』

未だにスーパーの「2割引」「10%オフ」の意味が分からないという鳥居。義務教育を受け直したくても、小学校レベルからのやり直しをさせてくれる場所がないという現実。今でも、一日一食しか食事を摂らないのが日常。『お前がやってることは全部、むだなんだよ。稼いでいるやつのほうがえらいんだ』と、心ない言葉を浴びせる大人。

『理由なく殴られている龍なくトイレの床は硬く冷たい』

“ことば”が鳥居を支えている。そしてそんな鳥居から“ことば”が生み出されていく。『目の前の「生きづらい現実」を異なる視点でとらえ直すもの』である短歌と出会い、これまでの人生を振り絞るようにして“ことば”を、そして生きる気力を生み出している鳥居。絶望が生む“ことば”の強さに、美しさに僕は打たれる。そして、鳥居には、長く生きていて欲しいと、無責任にそう思う。

『その時の私はつらすぎる現実に耐え切れず、母が“さみしくて、心配してほしくて”死んだふりをしているんだろう、そうだったらいいな、と思うようにしていました。そして、お母さんは私が見ていなければのり弁を食べるんじゃないか、水を飲むんじゃないか、と思い、のり弁と水だけ置いて、他の部屋へ行って数時間後に見に来たりするのをくり返していました。
そして、眠る時には、“明日目が覚めたら何もかも元通りになっていて、お母さんが元気になっていますように”と祈りながら眠りました。眠りから覚めた吐息も、しばらく目を閉じたままでいて、“何事もない、すべてがいつも通りの日常にもどっていて、お母さんが「朝ごはん、できたよー」って呼びにきてくれる”よう祈っていました。目を開けて、昏睡状態の母と、その現実に向き合うのが怖かったんです』

『冷房をいちばん強くかけ母の体はすでに死体へ移る』

岩岡千景「セーラー服の歌人 鳥居 拾った新聞で字を覚えたホームレス少女の物語」


アースワークス(ライアル・ワトソン)

科学と非科学とを分ける要素は二つある。「再現性」と「反証可能性」である。科学とは、「再現性」と「反証可能性」を併せ持つもののみ取り扱う、と定義されていると考えてもいい。

「再現性」というのは、ある現象が、それを発見した人物以外の手によっても再現できる、あるいはそれを発見した人物以外の観察によっても見つけることが出来る、ということを意味する。ある人物が、10mの高さから生卵を落としても割れない方法を発見したとしても、その方法を別の人がやってもうまくいかなければそれは科学ではない。黄色いカラスを発見したとしても、厳密には、別の人物によっても観察されるか、あるいは写真でもない限り、なかなかその発見は科学の俎上には載せることが出来ない。

「反証可能性」というのは、どうだったらその仮説が間違っているということになるのか、という点を提示出来るということだ。「50度で水は沸騰する」という仮説を提唱した場合、それは、「50度で水が沸騰しなければその理論は間違っている」ということになる。一方、超能力者が、「私は超能力を使えるが、私の超能力を僅かでも疑う者がこの部屋にいる場合、私は超能力を発動できない」と主張したとする。この場合、この超能力者は、超能力を発動できなかったとしても、「この部屋に、私の超能力を疑う者がいたからだ」と主張するだろう。つまり、「私は超能力を使える」という仮説に対して、それがどうだったら間違いであるのかということを提示出来ない。これは、科学ではない。

「再現性」と「反証可能性」の二つを意識すると、科学であるか科学でないか、比較的容易に判断することが出来る。もちろん、「再現性がなくても、反証可能性を提示できなくても、世の中には超能力は間違いなく存在する」という主張をすることは可能だ。ただ、「再現性」と「反証可能性」がない場合、科学の俎上に載せられない、ということである。科学という枠組みの中でその謎を解明していくことは出来ませんよ、ということだ。だから、科学の範疇に含まれないからと言って、それがすぐさまウソであるとか世の中に存在しないものであることを示すわけではない。わけではないが、しかし、限りなくそうである可能性は高いだろう。

さて、そこで本書である。本書は、『科学の周辺にある淡い縁』が描かれている。科学の俎上に載せられるか載せられないかギリギリのライン、そういう対象が扱われている。一斉に羽ばたく鳥は思考転移をしているのではないか。植物は人間の感情を読み取っているのではないか。人類は一旦水中で生活することを経て今のようなスタイルに進化したのではないか。いずれも、「科学」という枠組みの中ではうまく捉えにくい対象で、実際に本書で描かれていることを熱心に研究している研究者はごく僅かなのだろう。どことなく胡散臭さを感じさせる話もあって、胡散臭さの濃淡はあくまでも様々だが、手放しで受け入れるには難しい話も多く載っている。

しかし本書に描かれている様々な事柄は、現実に研究者が実験をし、論文として発表されたものをベースにしている。扱っている題材が題材なので、追試などが数多く行われているわけではないだろう。そういう弱さがあるが、しかし本書の記述を読む限りにおいては、どの話も、「再現性」と「反証可能性」をそれなりに備えているように感じられる。つまり、「科学」の俎上に載せても問題なさそうに感じられる。

何故そこで戸惑うのかというのは、人間の先入観という部分も大きいだろう。例えば本書には、植物にも長期的記憶が存在し、行動生物であるように振る舞う研究が紹介されている。しかしそれが現代の「科学」でなかなか受け入れられないのは、

『動物には容易に認めてしまうさまざまな特性を、植物に対して当てはめるのをためらう、いってみれば対植物的先入観のようなものが、われわれの思考を毒しているらしい』

という理由付けを著者はしている。「再現性」と「反証可能性」を備えていても、「なんとなく信じがたい」という先入観によって、「科学」の俎上に載せたがらないのだ、と。

本書で紹介されている様々な話の真偽は、僕には当然分からない。分からないが、しかし、それぞれがもし本当に「再現性」と「反証可能性」を有しているのではあれば、それは「科学」の一角を占めることが出来るし、「科学」の一角を占めることが出来るのであれば、それを否定するためには、やはり「科学」の手続きに則るべきだろう。つまり、「再現性」や「反証可能性」がやはり存在しなかったとして「科学」の分野から追い出すか、あるいは、提示されている仮説より現実をよく記述する別の仮説を証明するかである。それがなされていないのであれば、それがどんなに胡散臭いものであるとしても、「科学」の手続きに則って否定されない限り、仮説として許容しなければならない、というのが僕の立場である。

繰り返すが、「再現性」と「反証可能性」を有していないものは、僕の中では「科学」ではない。上記の「胡散臭さ」というのは、「再現性」や「反証可能性」を有していないが故の「胡散臭さ」ではなく、「再現性」や「反証可能性」を有していながらなお残る「胡散臭さ」のことである。ここを混同してはいけない。

内容に入ろうと思います。
本書は、動物行動学・植物学・心理学など10を超える学位を持ち、超常現象に科学的根拠を与えようとしている著者による、地球上で起こる様々な「不思議なこと」と「科学」とを繋ぐ科学エッセイである。前述の通り、「科学」に含めるにはどうしても抵抗感のあるような、ちょっと胡散臭い研究が数多く紹介されているのだが、記述されている現象や実験そのものは真実なのだろう。その現象や実験に対してどんな説明を与えるのか、という点には様々な考え方があるだろうが、それが起こったということを否定することは出来ない現象や実験そのものだけでも十分に驚異的だと感じさせる話ばかりである。

例えば、まったく別々の原因から15名の合唱団員が遅刻したその日、練習場になっていた教会で爆発が起こり、15名全員が無事だったという出来事。偶然として片づけることも出来るが、「共時性(シンクロニシティ)」という解釈を与える者もいる。また、手術を終えたばかりの少年の病室に、彼が飼っていた鳩がやってきた。その鳩は、少年の後をつけてきたわけでも、かつてその病院にきたことがあるわけでもない。少年が住んでいた家から112キロも離れた場所に病院があり、一度も来たことがないはずの場所にいる飼い主の元にどうやって飛んでこれたのか、という謎を提示している。また、嵐に見舞われたある船に積まれていたグリセリンが結晶化した、という出来事が起こった後、世界中に存在するグリセリンが「容易に」結晶化するようになった、という事例が紹介されている。これは、最初に結晶化したグリセリンから、「グリセリンは結晶化できる」という「精神の種子」みたいなものが波及し、それによって世界中のグリセリンが結晶化しやすくなったのだ、と解釈する者がいる。

また、谷川俊太郎が関わったある面白い実験も紹介されている。
これは、「累積記憶」の存在を証明するために行われた実験だ。「累積記憶」とは、世代によって受け継がれる、過去の世代の経験や記憶の累積のことである。マウスによる実験で、ある訓練を施したマウスをどんどん繁殖させ、下の世代にも同じ訓練を施すと、前の世代より明らかに覚えが早い、というのだ。これを、親世代の経験や記憶が子世代に受け継がれているのではないか、と考える者がいる。

シェルドレイクという研究者が谷川俊太郎にある依頼をした。谷川俊太郎はその依頼を受けて、三つのまったく違う文章をシェルドレイクに送った。その三つの文章は、同じ音韻構造を持つ。
一つ目は、音をただ繋げただけの、日本人が読んでも意味不明な文章だ。二つ目は、谷川俊太郎によるまったくの新作。そして三つ目が、日本人が昔から口に出してきた童謡である。シェルドレイクにも、どの文章がどういう性質のものか知らされていない。

この三つの文章を、イギリス人に記憶させることにした。すると、他の二編と比べて明らかに、ある一編だけ記憶するスピードが早かったのだ。それは、日本人の子供が親しんできた童謡だった。つまりこれは、日本人が長く親しんできた童謡が、人類にとっての「累積記憶」に当たるために、外国語であっても容易に記憶出来たのではないか、と考えられているのだ。

現象や実験を説明するための仮説に対しては、僕自身信頼を置けないと感じるものもあった。しかし、繰り返すが、現象や実験そのものは実に驚異的だ。それらに対してきちんとした説明がまだ確立していないとはいえ、そういう現象が事実起こったことは確かなのだ。その不思議さを全編で味わうことが出来る。よくもこれだけ『科学の周辺にある淡い縁』を収集したものだ、と思う。著者自身はそういう、現在の科学ではうまく手懐けることが出来ない様々な事柄に対して親しみを感じているようだ。僕自身は、現象自体は信じるが、やはり先入観があるのか、今の「科学」の枠組みではうまく捉えきれないだけに、ちょっとした不安定さを感じもする。なかなか不思議な余韻を残す作品である。

僕が、説明自体も納得できる話ももちろんあった。「人類は人類になる以前水中で過ごしていた」という話や、「人体の構造的には人間は両利き手のはずなのに、何故右手が聞き手である方に異様に偏っているのか」などの話は、提示されている仮説に納得感がある。また、納得出来ない仮説であっても、「もしこれが本当であると証明されれば凄い」という話はたくさんある。そういう意味で、非常に夢や可能性を秘めた内容だなと感じました。

「科学」は決して万能ではない。いずれ、「科学」では拾うことが出来ない現象などを研究する、新たな学術的な分野が確立される日が来るかもしれないし、あるいは、分析技術や機械技術などの進歩により、現在では「科学」の範疇に含めることが困難な現象も、いずれ「科学」に組み込むことが出来るようになるかもしれない。いずれにせよ、研究者たちの、「この世界の成り立ちを理解したい」という欲求は、これからも続いていくことだろう。それを原動力にして、少しずつでも、世界を記述する新しい文法が発見されて欲しいものだと僕は思う。

ライアル・ワトソン「アースワークス」


あー、困った。これ以上齋藤飛鳥を好きになりたくない

乃木坂46に、齋藤飛鳥というメンバーがいる。僕は日増しに、齋藤飛鳥のことが気になっている。齋藤飛鳥のことがどう好きなのか、何故好きなのかは、ここで書く文章の本質ではないから割愛する。

最近、齋藤飛鳥のことがどんどん好きになっている自分に、少し困っている。何故なら、今まで、こういう経験がないからだ。

こういう経験というのは、「面識のない人間を好きになること」だ。僕は記憶している限り、これまでその経験がない。

子供の頃から今まで、芸能人や歌手やアイドルやスポーツ選手や、あるいはマンガのキャラとか小説の登場人物とか、誰でもいいんだけど、そういう、「直接の面識がない人」を好きになったことがないと思う。覚えてないだけかもしれないけど(僕ならその可能性はありえる)。

ああいいな、ぐらいの気持ちを抱く対象は、その時々でいたと思う。具体的には覚えていないけど、例えば、雑誌を見ながらどの芸能人が好きだとか、そういう話に出せる名前は、その時々で誰かしらいただろう。

けど僕の中で、齋藤飛鳥を好きなレベルは、ちょっと今までと違うんだよなぁ。

そもそも僕は、あまり他人に興味を持つことがない。他人への興味が、あまり持続しないという自覚がある。面識のあるなしに関わらずだ。

ただ、それについては、こういう自覚もある。敢えて深入りしないように意識している、という感覚だ。

僕はずっと、「いずれ失われるかもしれないものは欲しくない」と思ってきた。いずれ失われるかもしれないが自分の中で大事なものになってしまった場合、それが本当に失われた時、自分が耐えられる気がしなかったからだ。自分の弱さを自覚しているので、喪失の悲しみから先回りで遠ざかっておこう、という意識があるのだ。

他人は、存在そのものが失われることはそう多くはないが、関係性が変化したり物理的な距離が変化したりして、失ったと同じ状態になることがある。だから、他人を大事なものと捉えないように気をつけている。

それなのに、何故か齋藤飛鳥は、僕の内側に入り込んでくる。いや、もちろん、自分から情報収集をしてるわけで、勝手に入り込んでくるわけじゃない。でも、そもそも、自分から情報収集をする、なんていうのが僕にとっては異例だ。なんでこうなったんだろうか。


冒頭で書いたが、僕はこれまで「面識のない人を好きになった経験」がないから、この齋藤飛鳥が好きだなっていう気持ちをどうしたらいいのか、よくわからなくて困ってる。普通の人は、大人になるまでのどこかの段階でそういう経験をするのだろうし、そういう経験を繰り返すことで対処法を学ぶのだろう。でも、この年になって初めてこんな気持ちに囚われた僕は、どうしたらいいかわからなくて、ちょっとホントに最近困っている。

僕は、外見にまるで興味はないとは言わないけど、外見だけで他人に興味を持つことはほとんどない。だから、一目惚れの経験もたぶんない。近くにいて、その中身を徐々に知って、「この人のことをもっと知りたい」と思うようになって、ようやくその人のことが好きになる。そういう意味で僕は、相手の言葉に惹かれる傾向が強いのだと思っている。

齋藤飛鳥の言葉は、僕にとってはかなり強い。齋藤飛鳥は、美形が多いと言われる乃木坂46の中でもトップクラスの可愛さ・美しさだろうし、女性誌などで数多くモデルも務めている。そういう外見ももちろん素敵だが、それ以上に、齋藤飛鳥の言葉が、僕にはとても強い。だから僕はつい、齋藤飛鳥の言葉を探してしまう。そして齋藤飛鳥の言葉に触れる度に、齋藤飛鳥の言葉にもっと触れたいと思ってしまう。

でも結局、一ファンとして、断片的な言葉を追い求めているだけでは、いつまで経っても満足できないだろうな、という感覚もある。深いところまで、お互いの様々な価値観を語り尽くしたいという気持ちになってしまうんだけど、まあそんなことは望むべくもない。でも本当に、齋藤飛鳥は、僕にとって珍しくそういう、語り尽くしたいと思える対象だ。面識のある人間に対してもほとんどこんな気持ちになることはないのになぁ。グラビアを見てればそこそこ満足出来る、みたいな人間だったらこんなに困ってないような気がするのだけど。

そんなことを考えていると、あーもうめんどくさいからこれ以上齋藤飛鳥のことは好きなりたくねぇな、とも思えてきてしまうのだ。参った参った。

「ブラックスキャンダル」を観に行ってきました

1975年。FBI捜査官のジョンが、生まれ故郷の南ボストンに配属された。すべてはそこから始まる。
南ボストンには、子供の頃からの友人がいる。ジミーとビリーという兄弟だ。
弟のジミーは、南ボストンをシマにするチンピラ集団・ウィンターヒルのトップ。殺人などの悪事にも手を染めるが、基本的に町の人間から愛されている。妻と息子を愛する、良きパパでもある。
兄のビリーは上院議員だ。南ボストンを地盤として、上り詰めた。
ジョンらFBI捜査官の最重要任務は、南ボストンのイタリアマフィア・アンジェロファミリーを壊滅させることだ。しかし、町の情報屋を手懐け、あらゆる捜査をしても、アンジェロファミリーの尻尾を掴むことが出来ない。FBIは、アンジェロファミリーの根城に盗聴器を仕掛けたいが、その情報すら手に入らない。
ジョンは上司を説得し、ジミーを情報屋として使うことに決める。イカれた犯罪者であるジミーを情報屋として使うことに難色を示す上司に対し、ジョンは、幼なじみだから大丈夫だ、と請け負う。しかしジョンは、ジミーに対し便宜を図るために“情報屋”という隠れ蓑を与えたに過ぎない。紙に書かれた法律よりも、幼い頃からの仲間の忠誠心の方が大事。ジョンは、アンジェロファミリーを壊滅させるためにジミーを野放しにし、FBIの“協力”を受けたジミーは、南ボストンを中心としたちゃちな組織だったはずが、たちまち規模を拡大していく。
ジョンは、次々に現れる「ジョンとジミーの密約を壊すかもしれない事態」に対処し、ジミーは、ジョンと交わした「殺人だけは止めろ」という忠告を無視して勢力を拡大させる。やがてジミーの存在がジョンの手に負えなくなり、ジョンはジミーの兄であるビリーに助けを求めるが…。
というような話です。

全体的な評価で言えば、まあまあだったかな、という感じです。面白くなかったわけではないけど、凄く良かったわけでもない、という感じでした。

ここ最近、実話を元にした映画ばっかり見てるのだけど、受け取り方は大別すると二つに分かれると思う。

一つは、「事実じゃなかったらあまりにも嘘くさい」と感じる場合だ。描かれている事柄があまりにもぶっ飛びすぎていて、フィクションの枠の中でやろうとするとリアリティを出すのが困難なタイプの物語だ。

もう一つは、「事実なのだなと思うから見れる」と感じる場合だ。これは逆に、フィクションで描いた場合は地味過ぎる、と感じるもので、事実なのだという前提があるからこそ見続けられるタイプの物語だ。

映画の良し悪しはともかく、観ていて面白いのは前者のような映画だ。フィクションを超えるような現実を描き出す、そのスケール感が僕は好きだ。

この映画は、後者のようなタイプだった。なるほど、これが事実なのだな、という風に見続けるタイプの映画。事実をベースにしているのだから、「物語的な起伏」がなくても仕方ない、ということは、常に理解している。だから、後者のような起伏の少ない映画であっても、そのことを取り上げてつまらないと評価するつもりはないが、やはり前者のような映画を見てしまうと、見劣りする感はある。

映画を観ていて意外だった点が二つある。

一つは、ジョンが大っぴらにジミーと手を組んでいた、ということだ。大っぴらに、というのは、上司に打診し、許可を取り付けてから、正式な“情報屋”として関わる、ということだ。僕の映画を見る前の勝手なイメージでは、彼ら3人は、もっと陰でこそこそと手を組んでいるイメージを持っていた。だから僕は、ジョンの神経がちょっと信じられない。だって、絶対いつかバレるでしょう。ジミーとの繋がりを周囲に対してオープンにしておくことは危険だ、ということぐらい理解できるはずだ。何なら上司に、「幼なじみだから大丈夫だ」とまで言うのだ。「えっ?」と思ってしまった。

だからこそ、ジョンは本当にジミーのことを信頼していたのだろう、と感じる。子供の頃からの付き合いで、俺達の間には忠誠心という法律よりも強い繋がりがある。だから、ジミーは大丈夫だ。ジョンは、本当にそう思っていたんだろうな、と思う。

それにしても、ジョンには、もっとこっそりとやる方法もあったはずだ。明らかにジョンは、ジミーに強大な自由を与えることが主目的で、ジミーを“情報屋”に仕立てている。自分のしていることが悪事だという認識もあっただろう。その上で、ジミーとの繋がりを最初からオープンにしておくことが得策だったとは僕には思えないのだが、どうなんだろう。

もう一つは、ジミーの兄で上院議員であるビリーが、ほとんど関係なかったことだ。悪事のほとんどは、ジョンとジミーの間の協定だ。ビリーは、黙認はしたかもしれないが、加担したことはない。FBIの捜査官と町のチンピラだけでなく、上院議員まで絡んでくるとすれば、物語はもっとスケールの大きなものになるだろう、というイメージを持っていたので、ビリーがほとんど関わっていなかったというのはちょっと意外だった。

しかしビリーは、本当に不幸だった。ビリーは、ジョンとジミーの関係に引きずり込まれそうになりながら、それを拒絶したのだ。しかし、最終的には、ジミーのせいで地位を失うことになる。ただ弟がジミーだった、というだけで。ジミーとビリーの兄弟関係がどうだったのか、その部分はあまり描かれなかったが、まるで違う人生を歩むことになった二人の生き方や関係性には、ちょっと興味が湧いた。

ジョニー・デップの、優しさを醸し出す時と狂気を醸し出す時でスイッチを切り替えない感じの演技が怖い感じをうまく引き出していてよかったなと思います。

「ブラックスキャンダル」を観に行ってきました

サンキュータツオ×春日太一「俺たちのBL論」

さて、まずこの著書名を見て、「BLなんて興味ないし、俺はいいや」と思った男性諸君。本書のある一節を抜き出しますので、その引用を読んでから是非判断してください。BLは純粋に娯楽であり、最高の知的遊戯だけれども、BL的な視点や知識があれば、ビジネスで優位に立てる、ということに触れている一節があります。

『たしかに、ヒットするドラマとしないドラマ。「同じイケメン使ってても、なぜだ?」というときに、BL的な要素、無視できないものがあります。あるいは売れているもの、ヒットする商品、あるいはCMに起用される人、人気のあるコンビ、全てBL要素に支えられています。仕掛け手がこのことについて知らなすぎる。BLってものをもっと情報としてだけでも入れてほしい!そして感覚で理解している人を制作サイドにつけてごらんなさい!
言っとくけど、テレビ局の人、映画製作者、出版社の人、みんなBLに対する理解がなさすぎる。愚かです、これ。いや、もう一度言いますよ。「週刊少年ジャンプ」買ってるの誰ですか。女性ですよ。オードリーの人気は誰が支えていますか。腐女子です。ラーメンズのDVD買ってるの誰だ。腐女子です。今、お金を出すのはオタクなんです。なかでも腐女子。行動力だってあるすごい人たちなんです。その存在を無視してマーケティングだなんだと、ふざけたことを言ってるんです』

閑話休題。

僕は、これまでに、そこそこBLを読んできた。ごく一般的な男としては多いと言えるぐらいにはきっと読んでいるだろう。これまで読んだ作品をざっと書き出してみる。このブログに感想を書いた作品はリンクも貼っています。

水城せとな「窮鼠はチーズの夢を見る/俎上の鯉は二度跳ねる
ヨネダコウ「どうしても触れたくない/それでも、やさしい恋をする」「囀る鳥は羽ばたかない 1~3巻
尾上与一「蒼穹のローレライ
木原音瀬「箱の中
朝丘戻。「あめの帰るところ
海野幸「理系の恋文教室
おげれつたなか「恋愛ルビの正しいふりかた
咎井淳「IN THESE WORDS 1・2巻」
草間さかえ「マッチ売り」「やぎさん郵便」

この中で、心底心を抉られ、感動に打ち震えた作品は、水城せとなの「窮鼠はチーズの夢を見る/俎上の鯉は二度跳ねる」のシリーズだ。これは、本書「俺たちのBL論」でも、やはり絶賛されている。春日太一は『もう完全に純文学です』と評し、サンキュータツオは『だから、この作品は男の人に勧めやすいんですよ』と書く。うわぁ、BLかよ…みたいな反応をする人でも、とりあえずこの2作は読んでみて欲しい。

この作品のどこが良かったのか、詳しいことはリンク先の感想を読んで欲しいところだが、そこでも書いている、僕がBLを基本的にどう読んでいるのか、という話を書こう。先に触れておくと、僕の読み方は、本書「俺たちのBL論」で論じられている読み方とはまったく違っていて、そして、僕の読み方の方が圧倒的に浅い。

僕はBLを、「日常の中に絶望を持ち込む装置」と捉えている。男女の恋愛の場合、日常的な設定の中に「絶望」を組み込むのは難しい。物語的な抑揚を生み出したり、恋愛に障壁となるようなものがある方が作品全体がより面白くなるだろうが、こと日常を舞台にする以上、男女の恋愛ではなかなか「絶望」は描けない。だから、非日常的な、「難病に冒された」「身分差がある」とような設定を持ち込んで、物語的な効果を高めることになる。

しかし、BLという装置を使えば、その状況は一挙に解決する。
と書くためには、一つ大きな前提が必要だ。

僕はBL作品を読むが、どんなBLをでも読めるわけではない。僕が読めるタイプのBLというのが存在する。それは、「性描写が極力少ないもの」だ。本書「俺たちのBL論」の中でも、『多くの男が入りにくいのは、「男同士が交わる絵」に対する男の中での生理的な嫌悪感があるからなんですよ。そこを突破するかどうかってすごく大きい』と書かれている。僕はBLを読むが、別に同性愛者というわけではないので、やはり「男同士が交わる絵」には未だに抵抗がある。だから、腐女子の知り合いに頼んで(前の職場は腐女子だらけだったし、腐女子からよくBL的な話を聞いていたので、BLというものに元々抵抗はなかった)、「僕でも読めそうな性描写が多くない作品」を選んでもらって読むようにしている。

で、「性描写が極力少ない」という制限を加えると、必然的にあるパターンに収束されていく。それは、「ノンケとゲイの恋」である。「ノンケ」とは、同性愛者ではない、女性のことを好きな男のことを指す。「性描写が極力少ない作品」は、「つき合うまでの過程に重きを置く」ことになり、「つき合うまで過程」をメインで描くためには、「ゲイがノンケに恋をする」という設定がやりやすいのだ、と僕は理解している。

というわけで、僕が読む、そして僕が好きなタイプのBLというのは基本的に、「ゲイがノンケに恋をする」というタイプのBLである。

ここで、BLという設定が「絶望」を持ち込むための装置としてうまく機能する。ゲイの側はノンケに対して恋心を抱くが、ノンケ側からすればそのゲイが友人の一人である。ゲイ側は男同士であるから、「仲の良い友人関係」まで持っていくことはさほど難しくはない。しかしそこからは相当困難だ。自分がゲイであり、しかもあなたに恋しているのだ、と告げることは、比較的一般的な感覚で言えば成功率は低いだろうし、さらに、失敗した上で、今の良好な友人関係さえも壊す結果になる。その葛藤を乗り越えて男同士が結ばれていく過程。これは、「日常」を舞台にした場合、男女の恋愛ではまず描くことが出来ない「絶望」だと僕は思うのだ。

だから僕はBLを、純粋に「物語」として楽しんでいる。「男同士の恋」という設定が、日常に「絶望」を持ち込む機能を果たし、男女の恋愛では描けない物語を読むことが出来る。これが僕がBL作品を読む理由である。

しかし、本書を読んで、腐女子と呼ばれる方々の日々の営みは、そんなものではまったくない、ということを知る。いや、確かに僕は知っていたとは思う。前の職場にいた腐女子たちから、散々色んな話を聞いていたからだ。

しかしやはり僕には、全然理解できていなかった。というか、僕が全然理解できていなかったからこそ、前の職場の腐女子たちは僕にBLの話をしたのだろう。本書の中でBLの営みは「宗教戦争」に喩えられている。聖書なりコーランなりの原典をいかに解釈していくかという点に紛争がある。腐女子同士だと、下手に語ると戦争が起こるらしい。だから彼女たちは、安心して、無知な僕にBLの話をし続けたのかな、と思う。

本書でBLの営みがどんな風に捉えられているか。それが簡潔に伝わる文章を抜き出してみよう。

『「腐」とは、いろんな人間関係を、ひとまず「恋愛」と解釈してみること』

『それで、女性が男性同士の友情が「なんなのか分からない関係」を全て「恋愛という関係」に置き換える作業が「腐る」という知的遊戯なんだと考えました。「友情、ライバル、一目置いてる、気持ち悪い、気になる、憧れ、かわいい後輩」みたいな、このへんの意識っていうものが、異性同士だt、もう早くも恋愛の何らかの段階に入っちゃうんです。ですけど、同性同士だとそうじゃない。そうしたら、BLを愛する人からしたら、「これ恋愛って解釈したほうが分かりやすくね?」みたいな話になる』

『このBLとかやおいといわれているものの根本にあるものっていうのは、「余白と補完」なんだと思うんですよね。
これは本当に「わびさび」とかを愛するすごく日本人的な発想だなとも思うんです。たとえば今まで語ってきたように、二つのものとそれに関して分かってる限られた情報の中から―たとえば表情一つ変わったところに―何があったのかを、つまり、まず余白を見つけますよね。で、それに対して自分なりの解釈で補完をするんですよね。その作業のおもしろさなんですよ』

ここで大事なことは、「BL」と「エロ」を直結で結びつける発想は正しくない、ということだ。本書でも、『やっぱり一般の人はさらに、「萌え=エロなんでしょ」「萌えキャラって、結局その子といやらしいことをしたいんでしょ」っていう偏見や思い込みがある』と書いている。もちろん、エロはまったく無関係なわけではない。実際サンキュータツオ氏も、『ただね、本当に行間を読み取っていただきたいんですけど、「必ずしも」というというこの4文字、大事なんですよね。じゃあ「ぺろぺろしたくないのか」っていったら、ま、ぺろぺろしたいところもあるんですよ、それはオタクはみんな認めなきゃいけない』と正直に書いている。しかし、決して「エロ」は前面には来ないのだ。

『すぐ「性」にいきたくないですよね』

『「腐」は、すぐには性にいきつかない。「性行為」はむしろご褒美であり、おまけであり、クライマックス』

春日太一は、BLを読んでいく中で、「男のつまらなさ」を実感していく。『それで、同時に男でいることのつまらなさをすごく実感するんですよ。男ってすぐ「口説く、口説かない」の話になるじゃないですか。「じゃあ口説いちゃいなよ」「やっちゃいなよ」みたいな。ホントつまんねえなって。突きつめると「勃つか勃たないか」「出すか出さないか」、そういうゲスな二元しかないわけですよ』 そんな風に語る。

僕も、その風潮への違和感には賛成する。僕も、男同士のそういう話は苦手だし、つまらないと思う。男の中で恋愛というのは、「セックスできるか否か」という単一の価値観にのみ支えられているように見える。それは、男の文化の中でのある種の共通理解であり、それで満足できるのであればなんの問題もないのだが、女性はそんなことでは満足出来ず、恋愛というもっと広く捉え、BLという知的遊戯にたどり着くのだ。

確かにBLには性描写はある。あるというか、ほぼそれメインみたいな作品もある。だから「エロじゃない」とは言えない。言えないが、しかしただ「エロ」のためにBLを読んでいるわけではない。これはパチンコや賭け麻雀をやる男の心理に近いものがあるかもしれない(僕自身はどちらもやらないのであくまでも想像だが)。パチンコも賭け麻雀も、どちらも「金を手に入れるかどうか」というのが最終的な出口として存在するが、しかしただ金が欲しいだけならパチンコや賭け麻雀じゃなくても他に色々ある。それでもパチンコや賭け麻雀をやる理由は、「金を手に入れる過程」に何かうずうずしたり心がざわつくからだろう。入れ込みすぎると、「金が手に入るかどうか」さえどうでもよくなる人もいるかもしれない。女性にとってのBLも、これに近いのではないか。金は欲しい(セックスは見たい)が、しかしそれが目的なわけではない。金を手に入れる(セックスに至る)過程こそが目的であり、金(セックス)はあくまでもご褒美、おまけである、と。そういう捉え方をすると、「BL」と「エロ」をうまく切り離せるのではないか、と思う。

さて、そうやって「BL」から「エロ」を外してしまうと、恐らく大抵の男には、腐女子が一体何をしているのか分からなくなるだろう。エロを求めているのでないとしたら、一体腐女子というのは何をしているんだ?と。その答えに迫り、BLの文法を丁寧に解説することで、BL世界に男を引きずり込もうとするのが本書である。

本書の体裁を先に説明しておこう。本書の中では、サンキュータツオ氏が「講師」で、春日太一氏が「生徒」である。腐男子として、独力でBLの世界を泳ぎ切り、ついには腐女子の方々から「サンキュータツオは腐女子だ」と認定してもらえるまでになった男が、一般読者代表である春日太一氏に、BLとは何か、どう読めばいいのか、腐女子が日々行っている知的遊戯とは一体何なのかについて説明しつつ、実際にBL作品を読ませ、余白の発見と補完まで辿り着かせようとするプロジェクトである。

先ほど、BLとは何かを表す引用を三箇所から行ったが、僕なりにそれをまとめるとこうなる。

「BLとは、関係性の想像と創造の営みである」

ここで、「想像」が「余白の発見」、「創造」が「余白の補完」に対応している。

本書の表紙は、「消しゴム」と「鉛筆」が写った写真なのだが、これにはきちんと意味がある。冒頭で、こんな問いがサンキュータツオ氏から春日太一氏になされるのだ。

『鉛筆は消しゴムのことをどう思っていますか?』

究極的なことを言えば、この問いに答えることが<BLという営み>そのものである(本書に沿って正確に言えば、これは「やおい」という営みであり、「BL」という営みとは別物だが、この感想ではその辺は詳しく突っ込まないことにする)。しかし、初心者にはなかなかこの問いだけで答えを導き出すのは難しい(何を問われているかが分からない、という方もとりあえず読み進めてみてください)

さて、中盤で、再度こんな問いがなされる。

『2Bの鉛筆と、HBの鉛筆と、シャープペンがあります。2Bの鉛筆は、消しゴムのことをどう思っていますか?』

BL回路がない人でも、これだったら答えが浮かぶ、という人はいるかもしれません。春日太一氏の答えは、『いつもごめんね』です。僕もそう思いました。何故でしょうか?それは、2BはHBより濃いので、消しゴムにより負担を掛けている、と考えることが出来るからです。

「消しゴムにより負担を掛けている」と考えるのが「余白を見つける行為」であり、それに対して「2Bの鉛筆は、いつもごめんねって思ってる」と考えるのが「余白を補完する行為」なのだ。こう考えると、BLがエロと直結するわけではないということが感覚的に理解できるだろう。BL回路で行われているのは、この「余白の発見」と「余白の補完」なのだ。それを何に対して行うかという違いがあるだけだ。春日太一氏はこの思考を、『これって、「ととのいました」に近いことなんですね』と評している。BLの営みというのは、実にクリエイティブなものなのである。

本書の中には、BL的営みを、俳句や宮中の歌会にダブらせる表現もある。どちらも、「わびさび」の世界である。

『で、この余白の見つけ方とか、その補完の仕方、行間の産め方って、たとえば俳句の味わいとかに似ているとも思うんです』

『想像天下一武道会ですよ。これもう昔の宮中での歌会と同じようなもんです。みんなで同じ自然の風景や人間関係に触れて、それをどう出力するのかの仲間内での発表会。伝統的にこういう文化が根付く土壌があったんじゃないかとすら思えてくるわけです』

BLの凄さは、二つの「何か」の間に関係性を見出す知的遊戯だから、『地球上の全てが原作』であるということ。先ほどの「鉛筆」と「消しゴム」の例でもそうだけど、何か二つ対象となるものが存在し、その両者に何らかの関係性を想像することが出来る情報があれば、そこから「余白の発見」と「余白の補完」というBL知的遊戯を展開することが出来る。だからこそBLという営みは、あらゆる領域に拡張可能であり、あらゆる関係性の全段階に忍び寄ることが出来る、とも言えるでしょう。

二次元であれ三次元であれ、その「余白の発見」と「余白の補完」を人間に対して行うと、どうしても「性」の問題に行き着く(もちろん、BLの上級者になると、イヤホン(棒)とイヤホンジャック(穴)で性的な妄想も出来るらしいのだけど、とりあえずそれは置いておこう)。そして、やはりどうしても問題となるのは、「BLは何故男同士の恋愛を取り上げるのか」ということだ。関係性の妄想が主なのであれば、別に男同士である必要はないじゃないか、と考える人もいるだろう。

しかし、まさにこの点が、僕が本書で最も納得した点だ。「関係性の妄想」というのは、かつての職場の腐女子との会話でなんとなくイメージは出来ていた。しかし、何故男同士なのかという部分については、本書を読む前の僕はある一面の理解しかしていなかった。それは、本書の中では、『自分とは関係ない世界がいいんです!』と表現されている。

どういうことか。例えば少女マンガを女性が読むとする。そうするとやはり、マンガの仲のヒロインに感情移入して読むことになる。けど、読者である自分は、ヒロインほど可愛くないし、王子様みたいな男の子に好かれてもいないし…という、現実の自分と比較してしまって、恋愛を純粋に楽しめない。だから、自分とは無関係な、つまり、自分が感情移入してしまう「女性」という存在を排除した形で、「恋愛」を存分に味わいつくしたいのだ、というのが、女性がBLを読む動機として僕が理解していたことでした。

しかし本書には、決してそれだけではない様々な理由付けがなされていました。そしてそれらは、「何故BLは男同士の恋愛が描かれるのか」という問いに、新しい視界を開かせてくれたと僕には感じられました。そしてそれらの理由の多くは、BLという営みが「関係性の想像と創造」である、という基盤を前提にしているのです。

一番重要な点は、「男女の関係性には、妄想のバリエーションが少ない」という点が挙げられます。

『まず男性と女性では受け入れるほうが確定してしまうので関係性のバリエーションが狭い』

『少女マンガを女性が読む場合、自分と同じ性の人間が主人公として出てくるわけですよね、ほとんど。自分と近かろうが遠かろうが、自分と同性の人がいて、で、彼女が結局「受け入れる」側に回るという結論はもう出てるわけです。てなると、もう、すごく最大公約数的にいうと、同じ「女」の目線から見るんです』

男女の恋愛の場合、「女性が受け入れること」が既定路線だから、そこから外れた妄想はしにくい。「関係性の想像と創造」はやりにくい。しかしこれが男同士だと話は違ってくる。BLの用語で「攻め(キャラクター的に押している方、という意味もあれば、セックスで挿入する側という意味もある)」と「受け(キャラクター的に押される側、という意味もあれば、セックスで挿入される側という意味もある)」というのがあるが、男同士の場合、どちらが攻めでどちらが受けかという点でまず広がる(腐女子的には、「どのキャラが好きか」より、「どっちが攻めでどっちが受けなのか」が重要、という人もいる)。さらに、「誘い受け」「総攻め」「鬼畜攻め」(それぞれの意味はちゃんとは分からなくてもいいです)など、様々な属性を付けることが出来る。同性同士であるが故に、男女の場合のような非対称性が存在せず、様々な要素が交換可能であるので、妄想のバリエーションが無限に存在しうるのだ。

では、何故「百合」(女性同士の恋愛)ではなくBLなのか。本書はこれに対しても明解に答えを提示する。それは、『「男は大丈夫だから安心」理論』である。

『男なら精神的にも肉体的にもかわいそうではない。これが結構大きい。だから、攻め受けの両方が成り立つ』

男同士だから、殴りあったり罵り合ったり傷つけ合ったりしても「大丈夫」という安心感がある。これが女性同士だと、「殴ったりしたら壊れちゃうから可哀想」みたいな余計な思考が挟まって、妄想がスムーズに進まない。男同士であれば、どんな妄想を展開しても、「男は大丈夫だから安心」だと思える。どこまでも想像の羽根を広げることが出来る。

この、「同性同士だと属性に非対称性が存在せず妄想しやすい」「同性同士でもさらに男同士だと、何やっても大丈夫って思えるから妄想しやすい」という二つの話は、「何故BLは男同士の恋愛を描くのか」を実に見事に説明している、と感じました。どちらも、「BLとは、関係性の想像と創造を基礎とした知的遊戯である」という前提を成り立たせるための要素として重要なもので、もちろんBLという文化を作り上げた先人はそんなことを言語化して意識していたわけではないだろうが、僕には非常に納得感のある話だと感じられました。

また本書は、「何故女性がBLという知的遊戯を発展させたのか」という説明もしている。それは、「男同士の関係性は、女性同士には存在しないもののように見える」という点が大きく関わってくる。

『そうすると、そういうメガネ(※BL回路を獲得することを、BLメガネを掛ける、みたいな表現をしている箇所があった)を手に入れた女性からすると、「男性的」ともいえる関係性のある社会っていうのは憧れの、まさにファンタジーの対象になりうる…と。「友情って言われても、私たちの感情にないから、そんなの」となる。それでは、代わりに「なんだろう」って言われたら、「付き合ってる」って思えば理解出来る、というか楽しめる…みたいな。』

『それで、女性が男性同士の友情が「なんなのか分からない関係」を全て「恋愛という関係」に置き換える作業が「腐る」という知的遊戯なんだと考えました。「友情、ライバル、一目置いてる、気持ち悪い、気になる、憧れ、かわいい後輩」みたいな、このへんの意識っていうものが、異性同士だと、もう早くも恋愛の何らかの段階に入っちゃうんです。ですけど、同性同士だとそうじゃない。そうしたら、BLを愛する人からしたら、「これ恋愛って解釈したほうが分かりやすくね?」みたいな話になる』

僕は男ですが、男同士の関係というのはどうも苦手なので(男同士で固まってるより、女性と一緒にいる方が楽)、男同士の関係性みたいなものの中にあんまりいないのだけど、けど、性格的に僕は男同士の輪から少し離れたところにいて、外側から眺めているような意識があるので、男同士の関係性が女性同士の関係性と違う、という感じはなんとなく分かる。女性同士の関係性って、「うちら」と「うちら以外」に二分されている印象があって、さらにその「うちら」が絶えず入れ替わり揺れ動くという印象を持っている。「うちら」と「うちら以外」の境界は非常に厳密なのに、その「うちら」が常時変動するという不安定さを兼ね備えている。女性同士の場合、「うちら」は常に「厳密に境界を持つ」か「崩壊するか」の二択しかない。

しかし男同士の関係の場合、確かに「うちら」は存在するが、しかし女性同士ほど「うちら」と「うちら以外」との境界は厳密ではないように思う。男同士の関係というのは、「うちら」という感覚を持ちつつ、「うちら」だけで閉じることはない。様々な「うちら」の中に属し、色んな「うちら」を行き来する間も、どの「うちら」の境界も崩壊されることはない。常に様々な「うちら」の中にいる、という感じだろうか。

厳密な境界を持つ「うちら」の中に囚われた人間関係を持つ女性からすると、男同士の、「(女性にとっては厳密なはずの)うちらの境界」をあっさり飛び越えている(ように見える)関係は不思議に映るのだろう。それは、女性同士の人間関係の表現には存在しない形態だ。だから、その関係性を理解しようとして、女性は「恋愛」という枠組みをはめ込む。男が、「(女性の場合容易には超えられない)うちらの境界」を簡単に超えている(ように見える)のは、あの二人が付き合っているからだ!と。

そういう意味でも、男は女性に負けているなぁ、と感じた。男からしても当然、女性同士の人間関係はなかなか理解不能なのだけど、しかし男はそれを、「女ってよくわかんねぇよなぁ」という形で一蹴してしまう。女性が、男同士の関係性を理解しようとしてBLという知的遊戯を構築したのとは雲泥の差である。

また本書では、『女性コミュニティから抜け出したいという人もBLややおい志向が強い。要するに、いつも似た者同士だけだと同調圧力がある。でも、あくまで作品を読むときだけはそういう世界から抜け出したいという人が、やおいを読んだりするということらしいです』と書かれている。これは、前の職場にいた腐女子を見ていて、実感として感じる部分がある。女性同士の「うちら」のコミュニティから抜けだして、BLという「擬似男子コミュニティ」に逃避することで安定を保っているような人は確かにいた。勝手なイメージだけど、女性同士のコミュニティで不満なく生きていける人は、さほどBLにハマらないのかもしれない、と思う。もちろん、人それぞれだろうけど。

女性同士の特有の関係性が、男同士の関係性とは違うが故にBLという文化が生まれ、さらに、女性同士の特有の関係性に対する窮屈さが、BLを消費する層を生み出していくという構造は、なんだか凄くひねくれているようで面白いなと感じました。

他に何故BLは男同士なのかの説明として、あぁなるほどと思ったのは、春日太一氏による、水城せとな「窮鼠はチーズの夢を見る/俎上の鯉は二度跳ねる」評の中にある。

『もう一つ言えるのは、「同性である意味」も分かりました。同性だから感覚的な壁なくお互いが分かり合えるんですよね。どうしても異性、男と女の物語だと最終的に「男と女は分かり合えない」というところに帰結してしまう。ところが、男と男だから、こいつら分かり合えちゃうんですよ。そして、分かり合えるからこそ内面の地獄に入り込んじゃう。お互いがお互いの痛みを理解し合っている状態で、互いにまた傷つけ合ってくってういう、この内面地獄。』

これも、なるほど!と思いました。確かにその通りです。異性同士の場合、やっぱり相手のことって分からないし、というところで行き詰まってしまう。でも、同性だからこそ、相手が何を考えているか分かる。だからこそ、内面をより深く深く描いていくことが出来る。水城せとなの上記の作品というのはまさにそこを実にうまく描き出した作品で、なるほど確かに、同性だから「分かり合えてしまうんだな!」というのは一つ大きな発見でした。

さて、こんな風に、「余白の発見」と「余白の補完」という形でBLを捉えると、「ルールもちゃんと分かっていないのにサッカーや野球を観戦する女性」や、「山手線を擬人化して萌える女性」を理解する文脈を手に入れることが出来る。それらはすべて、「関係性の想像と創造」の営みであり、腐女子は日々その訓練を積んでいると言っていい。『腐女子はどんな本でも1冊を無人島に持って行ったら一生楽しめる』と言うのも、あながち言い過ぎではないのだろう。

『で、「野球の何がそんなにおもしろいの」って言ったら、「やってることは同じなのに、昨日とちょっと違うんです」って言うんですよね。たとえば、昨日のピッチャーには一塁手は同じシチュエーションで駆け寄らなかったのに、今日のこの同じシチュエーションでなんか駆け寄ったぞ。これ、何があったんだと。
そういう細かいディテールとか。昨日はバットの端っこ持ってたのに、なんで今日はちょっと短めに持ってるんだろうとか、なんでキャッチャーは昨日はこういう指示出してたのに、同じシチュエーションで、とか。
これって興味のない人にはそんな小さな違いって思われるかもしれないんですけど、興味のある人にとっては…。
違いに大きいも小さいもない、「違う」っていうことがもう大きいんですよ。そこに何があったのかっていう余白ですよね。だから実はルーティーンの中のほうが余白が見えやすい、違いが見えやすいっていう。
だから俺それ聞いたときにもうガッテン、そういうことかと!ちっちゃな違いを見つけることが、そこに何があったのかという想像する余白をつくる。で、余白ができればあとは補完という作業なんで、やっぱ観察なんだなって。』

『だから、日常の見方も違う。たとえば、男って、女の人が髪の毛切ったとか変わったおかって気づかないじゃないですか。
だけど女性は、そういうところに気づける人が多いわけですよ。それは「ディテールに意味がある」ということがよく分かってるから。で、そのディテールが違うっていうことが何を意味するのかって余白を見つけて、そこを補完する作業をしている』

『萌えっていうのは「観察」にその醍醐味がある。「萌えとは無作為の覗き見である」と僕は定義している。誰にも見られてない、カメラもないなかで彼が本当にどういうことをしているのか、彼女がどんな行動をしてるのかっていうね、それを人物として介入するんじゃなくて、定点カメラで観察することが、実は「萌え」なんです』

『なぜこういうのに萌えるのか。現実世界では半信半疑なものも、神の視点が可能な二次元世界では、彼らの確固たる信頼が確認できる。つまりですね、相手が「AくんがBくんのことをどう思っているか」とか、日常世界では、「あの人が私のことをどう思っているか」って正確なとこ分かんないですよね、言葉で言われても嘘かもしんないし、自分が見ていないところではほかの女と遊んでいるかもしれないし。これ男女とも言えることですけど、常に不安を抱えてる。ただ、彼らを観察している守護霊の目線に立てばですね、確実なことが分かるわけです!目に見えない信頼、口に出さなくても信頼がそこにあるというのは、マンガを読めば描かれているわけですよね。』

こんな感じの捉え方で、腐女子の方々が一体どういう思考でBLと接しているのか、なんとなく捉えることが出来るのではないかと思う。そして、「俺たちのBL論」と銘打つ本書は、さらにその先も目指す。つまり、「男はどうやったらBLの世界に入っていけるか」である。

『男が入って行くときの二重、三重の障壁があるっていうね、それを突破するための処方箋をこの本はいろいろと言っているはずなので、たぶん女性の書いたBL論とはちょっと違うのはそこだろうと。男が入っていくときにどうしても障壁がある。でも、その障壁を突破した先にはすごく輝かしい世界があるよっていう、そこは最低限、俺も見させてもらったとこだから。そこがこのテーマだと思っています』

男がいかにBLに入っていくか、それを一言で説明するのは無理だが、本書にはこんなヒントが書かれている。

『BLってファンタジーなんです。ガンダムが動く。ロボットが動く。あるいは宇宙人がいる。男同士が愛し合ってる。全て、同じファンタジーなんです。って理解するとわりと割りきって読めるじゃないですか』

僕自身は、確かに「男同士が交わる絵」に多少の抵抗はあったものの、BLというものに対する障壁はさほどなかった。だから、特に読み方に葛藤することもなかったし、だから自分なりの勝手な読み方をしてしまったのだろう。僕の、「BLを、日常に絶望を組み込む装置として読む」という読み方も、まあ悪くはないと思うんだけど、でも腐女子の方々がしている「関係性の想像と創造」の方が遥かに面白いだろうな、と思う。僕自身は、そもそもオタクですらないので(マンガもゲームもアニメも、ごく一般的なものさえほとんど通過していない人間です)、腐女子の文法の前にまず、オタクの文法が血肉化されていない。前の職場の腐女子たちは当然オタクでもあるので、オタク的な考え方や行動原理も、知識としては分かっているつもりだけど、自分の実感としてそれが内側から湧き上がることはない。そういう人間だから、「関係性の想像と創造」という読み方はもの凄くハードルが高いなと思うのだけど、本書を読んで、その読み方確かに面白いだろうな、と思えたので、頭の片隅に、その実践をいずれ目指そうという意識を留めておこうと思います。

まだまだ書こうと思えば色々書けそうな気がするんだけど、さすがに長くなりすぎたのでそろそろ終わりにしようと思います。

『「壁ドン」と同じく「BL」は近い将来、知る必要のない人間たちに消費されていく言葉となる。無理解に消費され、「これがお前の好きなBLってやつだろ?」的ないじられ方をされていくし、もしかしたらあなたがそっち側に立つかもしれない。そこで、そういういじり方はいけませんよ、そしてもしそういういじり方をされたらこの本をその人に読んでもらってください、という意味で、この本は編まれた』

『BL、ボーイズラブというものを語る前に、まず言っておきたいことは、私自身、今思い切りBL作品やBL的に世界を見る愉しみを満喫していますが、おそらく完全には理解しきれていないし、またBL的体験は、誰の話を聞いても非常に個人的な話になっていき、一般化しにくいものでもある、ということです。そしておそらく、この世界のことを完璧に理解している人も、またいないということです』

BLというのは、「消費」でもありながら、同時に「生産」でもあり、また「評論」でもある。様々な要素が詰め込まれた、実にレベルの高い営みであって、その奥深さには驚かされる。BLを低俗と捉える人は、その奥行の広さを知って圧倒された方がいいかもしれない。とは言え本書では、『この本を読んで腐女子に対する接し方をもう少し変えてもらいたいなと思いますね。いちばんは「そっとしていく」ことだと思います』と書かれている。理解できないという人は、そのままこの世界から離れましょう。無闇に攻撃する意味はありません。理解できる可能性を感じた人は、勇気を出して一歩踏み出してみましょう。障壁があっても乗り越える努力をしてみましょう。僕の場合は、「今まで気づいていなかった障壁にやっと気づいた」という状態で、BL的世界をまったく探求出来ていませんが、その面白さの予感は本書を読んで強く感じることが出来ました。BLという「枠組み」の強さは、この世に存在するすべてのものの捉え方を再提示させるかもしれないと思えるほどです。その広がりを、本書を読んで是非感じてみてください。

サンキュータツオ×春日太一「俺たちのBL論」

幸せ戦争(青木祐子)

人生は、さっさと諦めた方が幸せだと、僕は本気で思っている。
僕にとって、世間の人が考える“恵まれた生活”は、高層ビルの間に渡されたロープの上を綱渡りしているような感じがしてしまう。みんなが自分のことを見上げてくれて、自分は下にいる人間を見下ろすことが出来る、というのは、まあ場合によっては気持ちいいのかもしれないけど、でもその生活は、「いつか落ちるかも」という恐怖と隣合わせだ。
怖くないのだろうか、といつも思ってしまう。
金持ちになれば、大金を騙し取られたり、無知ゆえにお金を失ったり、お金目当てで集まってくる人間の相手をしなくてはいけなくなるかもしれない。良い会社に入れば、永遠に成果を求められ、一度でも脱落すれば地に落ち、別に嫌いでもない同僚を蹴落としていかなくてはいけなくなるかもしれない。家を買えば、地震や火事などにそれまで以上に怯えなくてはならなくなるし、隣近所との関係に悩むことになるかもしれない。
僕は基本的にマイナス思考の人間なので、必ずこういうことを考えてしまう。それがどれだけ羨ましがられる立場であっても、いや、それが羨ましがられる立場であればあるほど、それを失った時のダメージは大きい。しかも、それが羨ましがられるほど普通には手に入らない幸せであればあるほど、それを狙う者が多く、それゆえに蹴落とされてその幸せを奪われてしまう可能性は高くなるだろう。
僕は割と本気でこんなことを考えている。だから昔から金持ちになりたいと思ったことはないし、会社で出世するような人生は自分には無理だろうなと思っていた。
今でもその考えは変わらない。
僕が何に対して幸せを感じるのか、それはイマイチまだはっきりと捉えきれていないのだけど、少し前に、なるほどと思えるフレーズに出会ったことを思い出す。中島らもの奥さんが書いたエッセイの中に、「中島らもは、頭の中が自由であればあとはなんでも良かったのだと思う」みたいなことが書かれていた。
確かに、「頭の中が自由である」というのは、僕にとっての幸せに近いものがあるように感じられた。
中島らもの奥さんと同じ意味でその言葉を捉えられているのか、それは定かではないけど、僕は、世の中の常識とか価値観とか当たり前みたいなものから切り離されたところで色んな物事を考えられたらいいなと思うし、さらにいえば、それに基づいて行動できるとよりいいなと思う。
地位・お金・モノなんかに本当にあんまり執着がないので、自分でもイマイチ何を幸せだと感じるのかよく分からないけど、「頭の中が自由」というのは確かに一つの理想だなと思う。
僕は、そういう僕で良かったな、と思うのだ。
結婚したいとか、子どもが欲しいとか、家や車が欲しいとか、出世したいとか、有名になりたいとか、そういう気持ちがほとんどない。僕も、まったくないとは言わない。瞬間的に、何かそういうものに対する欲が立ち現れることも、あるとは思う。でもそれは、あまり継続しない。思いついた瞬間から、「いやでも、それ、手に入っちゃったらめんどくせぇ」と思ってしまうのだ。
こういう考え方で生きていると、他人とあまり比べないでいられるので、楽である。僕は、住んでる家とか、給料とか、容姿とか、服とか、そういうもろもろは、基本的に羨ましがられるような感じではない。前に住んでた部屋なんて、「私はここには絶対住めない」と、100人いたら99人はそう言うだろうところだった。それでも僕は全然平気で、劣等感を抱くようなことはほとんどない。
僕が劣等感を抱くのは、頭の良さかな。僕自身も、決して頭は悪くはないんだけど、そこそこ頭が良いせいで、周りにいる“とんでもなく頭の良い人”の頭の良さが分かってしまう。そういう時には、あれぐらい頭良かったらいいなぁ、と感じる。そういう意味では、天才になりたい、という欲はあるな。天才だけは、「天才になったらめんどくさい」と、これまでと同様に感じはするのだけど、それを補ってあまりあるプラスの可能性を感じるのである。
幸せを測る尺度は、自分で作るしかない。他人の尺度で自分の幸せを測っていたら、いつまでたっても幸せになんてなれるはずがない。でも、残念ながら、そのことに気づいていない人が世の中には多くいるように思える。
本書も、そんな「他人の尺度で自分の幸せを測ってしまう人々」の物語である。

連作短編集なのだけど、長編のように内容紹介をする方がやりやすいので、一編一編の短編ごとに内容を紹介するやり方はしない。

ある資産家の娘が、所有していた土地を手放した。地主として自らもそこに住むのだが、土地を四区分して、残り三つを分譲することにした。四軒の建物は、前庭を共有する、ちょっと変わった造りになった。
地主であるのは、覆面作家であると言われている陽平を夫に持つ、資産家の娘である仁木多佳美。そして、陽平の古くからの友人である能生美和も家族で同じ敷地内に住んでいる。高井戸想子はインテリの共働き夫婦。そして、最後に引っ越してきたのが、中古物件を買った氷見朝子の一家である。
氷見家だけ中古物件を買ってやってきたのは、以前に住んでいた堤一家が引っ越したからだった。新築で家を建ててすぐ、まだローンが残っている家を売って堤一家は引っ越して行ったらしい。
昔から夫の“ファン”であり、夫の生活を支えてあげたいと思っている、ちょっと浮世離れした多佳美。親の保険金のお陰で家を買うことが出来た、生活は基本的に庶民的な美和。近所付き合いは最低限にして、美味しい料理を作り、それを美味しいと言って食べてくれる家族という平凡な幸せに満足している想子。そして、自分を可哀想だと思うことが得意で、近所付き合いをうまくやって仲良くなりたいと思っている朝子。同じ敷地内に住み始めたことで起こる日常の様々な出来事。誰もが、「幸せになろう」と思って家を買いながら、彼女たちの理想は、何故かどんどん遠ざかっていってしまう…
というような話です。

なかなか面白い作品でした。基本的にライトノベルを書いている作家だという印象で、今まで読んだことのない作家でしたけど、現代の日常を舞台にした作品を非常によく描き出していると思います。

物語の中では、ほとんど大したことは起こりません。バーベキューをしたり、クリスマスの飾り付けをしたり、お隣さんと会話をしたり。基本的には、そういうなんていうことのないことが描かれていきます。

でも、登場人物が、ちょっとずつみんな個性的で、“幸せ”というものに対する価値観が様々に違う。ある者にとって“幸せ”というのは、自分より恵まれた人間が近くに存在すると手に入らないものだし、ある者にとっては平凡で当たり障りのない日常の継続であるし、ある者にとっては秩序を乱す者を排除する爽快感であるし、ある者にとっては絶え間のない献身である。
この“幸せ”に対する価値観の相違が、僅かずつこの関係性にヒビを入れ、最後には引き裂いてしまうことになる。本書は、その過程を実に丁寧に描き出していく。

彼女たちはほとんど皆、「家を買えば幸せになれるはず」という思い込みを持っていた。これは彼女たちの共通項だ。それぞれ、ただ無邪気に、「家=幸せ」だと思っていたわけではない。家を持っていなかった時に存在していたある問題が、家を買うことで解決されるはずだと、具体的に考えていたのである。そういう意味では彼女たちは、他人の尺度で幸せを捉えていたわけではないと言える。全員ではないが、家を買う前は、自分の尺度で幸せを捉えることが出来ていた者もいた。

しかし、引っ越して近しい距離の中で過ごすことで、徐々に変化が訪れる。他人の存在を、自分の幸せの尺度に組み込むようになっていくのだ。元々そういう性格だった者もいるし、そう変わってしまった者もいる。
その変化を引き起こすものは、大したものではない。それこそ、バーベキューやクリスマスのライトアップなどだ。そういう日常の小さなことの積み重ねの中で、人々が変化していく。

ただ見栄を張って自滅していく、というだけなら、ざまぁみろ、というぐらいの感情しか抱かないかもしれない。しかしこの四人は、そういうわけでもない。特にそれを感じるのは、インテリ夫婦である高井戸想子である。想子は、『家事や育児を率先して手伝うことはないかわり、想子の方針に文句は言わない。体が丈夫でよく働き、なんでもおいしそうに食べる。夫という生き物に、これ以上求めるものがあるだろうか』というような形で夫のことを評価している。想子は料理が得意であり、周囲にも手料理を振る舞うことがある。そんな料理を美味しそうに食べてくれる夫がいる、という事実で幸せを感じられるのである。他人からどう思われていようが気にならず、ただ、きちんとした家と、まっとうな家族がいて、平凡だけど穏やかな生活を送ることが出来るというのが幸せという人間だ。
しかし想子は、バーベキューなどで他の家族と関わることで、夫が実は味音痴で、何を食べても美味しいと感じる人間なのではないか、ということに気付かされることになるのだ。これは、“幸せ”というものに多くを求めない想子にとっては、なかなか大きな問題だ。これは、ご近所付き合いをきちんと避けることが出来ていれば、気付かずに済んだことである。想子は、忌み嫌っていたご近所付き合いのせいで、幸せにヒビが入ってしまう。

仁木多佳美は、見栄を張って自滅する、という形に一番近いかもしれないのだけど、仁木家の場合は、夫の陽平の存在がなかなかに複雑なのである。陽平と多佳美は、お互いの都合のために相手の存在を必要としている。多佳美にとって整って若く見える陽平は、「幸せな結婚生活であることを示すアイコン」であり、陽平にとって資産家の娘である多佳美は、「自身の生活を保証してくれる存在」である。この二人の関係性と、二人が持つ秘密は、この四家族になかなか大きな影響を与える、混沌の原因の一つなのである。
陽平にしても多佳美にしても、ちょっとした嘘で目先の幸せを手に入れようとしてしまったがために、本当の幸せを取りこぼす羽目になっている。

能生美和は、他人の言動に敏感で、裏の意図や相手の目的なんかをすぐに見破ってしまう。だから、先回りしてあれこれ仕掛けたり妨害したりすることで、ご近所付き合いの関係性を自在に操っている。それ自体歪んだ考え方でなかなか不愉快な存在だなと思うのだけど、途中で美和が思う、『もしかしたら、何も見えないほうが幸せではないのかと』という考え方には、ちょっと共感してしまう。
もっと鈍感だったら、もっと察する能力が低ければ、こんなに悩んだりウダウダしたりすることもないのではないか。そう思ったことは何度もある。美和のやり方には賛同は出来ないのだけど、僕と同じく空虚で空っぽな人間であるが故の行動なのであれば、少し同情してしまう部分もある。

しかし何よりも、本書の中で僕に最も強いインパクトを残したのは、氷見朝子である。
朝子は、超ウザイ。もし自分の親が朝子みたいだったら、きっと僕は発狂するだろう。
自分は可愛がられるのが当然で、何か大変なことが起きたら大丈夫でも大変だと言う。仲間はずれや抜け駆けが怖くて人の輪からこぼれ落ちないように必死になってる姿が丸見えで、自分の考え方や価値観がズレているなどとは夢にも思わない。朝子の鬱陶しさを短く描写するのはなかなか難しいのだけど、とにかく僕は朝子のような人間とは出来るだけ関わりたくないと思ってしまう。

彼女たちはみな、自分なりの価値観に沿って、幸せになろうと努力している。しかし、何を幸せだと感じるかという考え方がまるで違う四人が集まってしまったがために、些細なことですれ違い、それぞれの思惑に反して物事がうまく進んでいかない。そして何よりも窮屈なことは、「自分の理想が叶えられなければ不幸だ」と短絡的に考えてしまう、その思考の狭さだ。理想に届かなければ不幸、という考え方は、幸せのハードルを相当上げることだろう。

幸せを他人の基準で測っていると、永遠に幸せは手に入らない。何故なら、いつどこにだって、自分より良い生活をしている人は存在するからだ。世の中のほとんどの人は誰かに負けているのだし、僕らから見て「勝っている人」だってきっと、誰かに負けていると感じているものだろう。
だから、幸せは自分で決める。自分の尺度で掴む。そうしなければこうなってしまうぞ、という警告を与えてくれる作品だと思います。

青木祐子「幸せ戦争」


君と時計と塔の雨(綾崎隼)

内容に入ろうと思います。
本書は、「君の時計と嘘の塔」の続編で、シリーズ第二巻になります。
全体の設定をおさらいしておきましょう。
杵城綜士は小学生の頃、クラスメートで隣人である織原芹愛のことを傷つけ、以後二人の関係は断絶した。しかし、綜士はやがて、芹愛への憎悪が恋愛感情に変わっていたことに気づき、一生叶うことのないだろう恋心を秘めたまま、孤立した学生生活を送っている。
芹愛と同じ高校に通うようになった綜士は、ある時不可思議な現象に巻き込まれることになる。彼らはそれを、タイムリープと呼んでいる。
高校の学園祭である白陵祭の日に、とある出来事が起こり、それがきっかけで時間を巻き戻ってしまうのだ。そしてその度に、自分の大切な人が一人消えてしまう。
同じくタイムリーパーであることが判明した同学年の鈴鹿雛美と、事情があって高校を留年し、時計塔の一角にある部屋に陣取って何事かを研究しているタイムリーパーではない草薙千歳の三人で、タイムリープを食い止めるべくあらゆる手を尽くす…。
というのが大体一巻のおさらい。さて、続きです。

タイムリープを阻止することに失敗した綜士は、再び巻き戻った世界を生き直すことになる。しかし今度は、真っ直ぐに千歳先輩の元へと向かう。タイムリープのことなどまるで知らない千歳先輩は、しかし綜士の話を信じ、真相解明の協力をしてくれることになる。しかし千歳先輩は、雛美にはまだ接触するな、という。前の世界では、雛美は明らかに嘘をついていた。嘘がばれた後も、頑なにその嘘を認めようとしなかった。そんな雛美のことを、千歳先輩は全面的には信用しないつもりでいるのだ。
やがて、白陵祭の夜を迎える。打てる手はすべて打った。雛美が想いを寄せる相手も恐らく死ぬことはないし、ある強引な手段で、芹愛の命が失われないように策を打った。すべては完璧だった…。
はずなのに…。
というような話です。

内容になかなか深く触れられないのは、この巻で様々なことが明かされていくからです。全4巻ということなので、まだ全体の中盤なわけですが、一巻で謎のまま残されていた多くのことが、この巻で明らかになっていきます。だから、なかなか内容にズバッと触れられない。難しいところです。

一巻は概ね、設定の紹介と言った趣の内容でした。本書は、ただ時間を遡って、遡った時間を生き直す、というだけではない、様々なルールが存在しています。タイムリープが発生する条件、発生したらどうなるのかというルール、そしてまだ明らかにはなっていませんが、何故彼らにタイムリープという現象が発生したのかという部分にも、恐らくルールが存在することでしょう。状況はまったく違うけど、「ライアーゲーム」や「カイジ」なんかを彷彿とさせるような設定の緻密さがあって、違うのは、「ライアーゲーム」や「カイジ」は描かれる世界でのルールが人間によって作られたものだけど、本シリーズでは(恐らく)タイムリープのルールは自然に近いものとして存在するという点だと思います。

この設定の複雑さは、両側面を持っています。片面は、面白さを引き出します。タイムリープという謎めいた現象に巻き込まれた者たちが、様々な観察や論理的な思考によっていくつも仮説を組み立て、それで圧倒的な現象に立ち向かおうとしている。何故こんなルールが存在するのか、という点まで最終的に明らかになるのか、それは分からないのだけど、これだけの複雑なルールが存在することで、本書は、タイムリープというSF的な物語でありながら、ミステリ的な展開を見せます。普通ミステリでは、人間が犯した犯罪や日常的な謎が解き明かされるのだけど、本書では、タイムリープという「自然現象(だと思うんだけど)」を解き明かす物語になっていて、普通のミステリとはまた違った面白さを感じられるのではないかと思います。

しかし一方で、この設定の複雑さは、読者を混乱させもするだろうなと思います。僕も、現時点で提示されているすべてのルールをきちんと把握できているかと聞かれると、ちょっと怪しいかもしれません。大まかには理解できているし、べらぼうに難しいわけではないけど、「タイムリープが存在する世界を、読者として外から見ている」というのは、なかなか捉えにくいものです。特に僕は、誰がどこまでの記憶を持っているのか、ということを把握するのがなかなか難しいです。千歳先輩は、タイムリープが発生する度にすべての記憶がリセットされると考えていいから難しくないけど、綜士がタイムリープして雛美がしなかった場合はどうか、逆はどうか、また綜士と雛美が同時にタイムリープしたらどうなるのかなど、考えだすと混乱してきます。なかなか入り組んだ設定の物語を描いている割には、読みやすく分かりやすくなっているので、その辺りは著者の力量なのだろうと思うのだけど、この設定の緻密さに諦めてしまう人もいるかもしれないなと感じはします。

一巻は設定の紹介のような巻、と先ほど書きましたけど、この巻では人間的な部分の物語がかなり進んでいきます。一巻では、設定を理解させるためのエピソードが多かったような印象があるのに対して、この巻では、タイムリープが存在する世界観ならではの人間関係が一気に開花するような感じがあって、特にラスト付近では、謎めいていたいくつかの部分に決着がついて、なるほどそういうことなのか!という展開になっていくので面白い。これも、詳しく書けないのがもどかしい限りである。

人間的な部分の物語がかなり進んだお陰で、人間関係の絡まり具合が凄まじいことになっています。あちらを立てればこちらが立たず、というような状況が複数連立していて、この絡まりを一体どうほぐしていくのかが気になる。

そして、彼らには、もう一段高いレベルの目標もある。彼らの当面の目標は、タイムリープを止めることであり、タイムリープが発生する条件がわかっているのだから、それを防げばいい(とはいえこの巻で、そう単純にもいかないということが分かってしまうのだけど)。とりあえず、成すべきことはわかっている。しかし、彼らにはもう一つ、タイムリープの度に消えてしまった人を取り戻すという大きなミッションを抱えてもいる。これに関しては、手がかりがほとんどない。この巻で、僅かな可能性が示唆されはするのだけど、それでも答えにはまだまだほど遠い。物語的に、この部分が解決しないとは思えないので、何らかの解決に至るのだろうとは思うのだけど、これがどう解決するのか、まったく想像も出来ない。

とにかく、この巻では、人間ドラマがより深く進展する。タイムリープという現象に巻き込まれさえしなければ一生知ることもなかったかもしれない様々な感情や事実を、彼らは知ることになる。嘘をついたり隠し事をしたりするのは、知られたくない相手にそれを知られたくないからだ。しかし、すべての状況が整理されることで、それらがすべて(ではないかもしれないけど)明るみに出る。
ようやく彼らは、スタートラインに立てるのかもしれない。
様々な隠匿や行き違いから、それまではどうやっても袋小路に行き着くしかなかった。しかし、状況が整理され明らかになったことで、方程式が出揃い、解を導き出せるようになった。
…なんて油断していると、また新しい状況が現れて、物語はまた混沌としてくるのかもしれないけど(笑)

痛みや切実さを抱えた少年少女たちが、青春をタイムリープに奪われる。しかし、今後の物語の展開次第では、タイムリープは“元から失われていただけの青春を取り戻すシステム”として働くのかもしれない、という期待も抱かせる。いずれにせよ、どう物語が転がっていくのか、非常に楽しみだ。

綾崎隼「君の時計と塔の雨」


窮鼠はチーズの夢を見る/俎上の鯉は二度跳ねる(水城せとな)



僕はこの物語が怖い。それは、“恭一”が、僕の中にもいるかもしれない、と思うからだ。

『貴方は自分から人を想ったりしない。そのくせ誰からも愛されたがって言いなりになったフリをするんだ。被害者ヅラして、「もっと自分を愛してくれる相手がいるはずだ」ってキリなく期待して』

『あんたって相手から好意を示されると絶対拒めないんだもん。そういう主体性のない付き合いって、自分も相手も不幸にするよ。わかってる?』

恭一自身も、こんな風に考える。

『人生で一番大切なことはなんだろう。
人によって様々だろうけど、俺にとっては、「自分が確実に受け入れられている」という保証のもとに生きられることが、一番重要なことらしいと悟りつつある。』

そんな恭一は今、「ゲイの後輩・今ヶ瀬に押しかけられている状態」だ。

『あれが女なら、俺って結構幸せな立場じゃないかとも思う』

『やばい…。楽だ。押し掛けゲイに居座られて世話を焼かれる生活は存外に楽だ』

恭一自身は同性愛者ではない。これまでずっと女性とばかり付き合ってきたし、今ヶ瀬に押し掛けられた今でも、男が好きになったわけではない。ただ、恭一の弱みを握る、という形で始まった関係を、今ヶ瀬が絶妙にコントロールする。大学時代、恭一のことばかり見続け、恭一の恋愛観を知り尽くした今ヶ瀬が、全精力を傾けて、「恭一にとって不快ではない環境」を作り上げる。
そんな“日常”が、恭一を力強く押し流していく。

僕はこれまで、恋愛関係に至る前に、「相手から好意を示される」ことも、「自分が確実に受け入れられている」と感じることもなかった。だから、恭一のように力強い流れに流されたり、あちこちにフラフラするような経験をすることはなかった。でももし僕が恭一のように、恋愛関係に至る前に女性を惹きつけてしまうような容姿や振る舞いを持っている人間だったとしたら、

僕はまさに恭一のようになっていたかもしれない、と感じるのだ。
だからこそこの物語は、僕をその内側に引きずり込んでいく。
「今ヶ瀬のような奴がもし現れたら、お前はどうするんだ?」と。

『貴方は愛されることを何よりも望む人だけど、その実、他人の愛情を全く信用していない。だからフラフラ彷徨って、自分に近付く相手の気持ちを次々に嗅ぎまわる。何故だか俺には分かります。貴方が自分のことをつまらない男だと思っているからだ』

ああ、僕もそうだ、と思った。僕も「他人の愛情を全く信用していない」し、「自分のことをつまらない男だと思っている」。恭一は僕自身かもしれないという気持ちが、さらに補強されてしまう。


『正直、俺には都合が良すぎて心地良すぎて、これが愛なのかどうか判別がつかないんだ』

この物語で重要な点は、恭一は最後の最後まで、同性愛に目覚めることはない、ということだ。BLの世界で、同性愛者ではないことを「ノンケ」と呼ぶが、恭一は最後の最後までノンケであり続ける。そのことも、余計に物語をリアルに感じさせる。知らなかった世界に触れて、自分の中の新しいスイッチが入る可能性ももちろんあるかもしれないが、少なくともそうなってはいない今、どんな経験をしようが、自分が「同性愛」という方向に目覚めるイメージは出来ない。もし恭一が「同性愛」に目覚めたのだとすれば、僕はここまで恭一に引きずり込まれることはなかっただろう。しかし、恭一にとっての問いは最後まで、「恋人にも妻にもなるわけではない、男であるコイツと一緒にいられるか?」というものだった。僕には、その問いはリアルに感じられるのだ。

『こんな関係、俺が「欲しい」と言うのをやめたら、今すぐ終わってしまうのに…』

今ヶ瀬は、恭一自身が「恋人にも妻にもなるわけではない、男であるコイツと一緒にいられるか?」という問いにたどり着くはるか以前から、恭一にとって自分が「選択肢」に入るはるか以前から、この関係の脆さなんてきちんと分かっていた。

『ヤバイ。期待してしまいそうになる。わきまえろ俺。どんなに優しくしてくれたって、あの人はほんとは月みたいに遠い人なんだ』

今ヶ瀬の、恭一への愛は、本物だ。

『貴方が女からもらったものなんか、本気で欲しかったわけないじゃないですか。あの頃、貴方を好きだなって言えるはずもなかった俺は、ただ…ただそれを口実に、貴方の指に触りたかっただけなんです』

学生時代、同性愛者であることも、恭一が好きであることも言えるはずがなかった今ヶ瀬は、自分の心を傷つけると分かってていても、普通にしてては望めない“接触”を求めた。

僕には想像することしか出来ないが、同性愛者がノンケと恋愛関係になることは相当難しいだろう。僕は、だからこそBLは“強さ”を持つのだと考えている。僕はBLを、「日常の中に深い絶望を持ち込む装置」と捉えている。男同士、しかも一方がノンケであるという状況は、非日常的な一切の設定を排して、その物語に「絶望」を組み込むことが出来る。この物語は、まさにそれを究極的に突き詰めていると僕は感じる。

『俺、これでも結構いっぱいいっぱいなんですよ。キツイ思い何度もして、ノンケのあの人相手にやっとここまで漕ぎつけたんです』

今ヶ瀬は、この恋にゴールがないことをきちんと理解している。そして、恭一がゴールのことなんて考えずにフラフラしてしまう人間であることも理解している。だから、この恋はいつか終わる。そもそも恋ですらないのかもしれないが、少なくとも今ヶ瀬側からは確実に恋だ。今ヶ瀬にとっては人生最大の恋だ。でも、それは、終わることが確定している。
だからこそ、今ヶ瀬は予防線を張る。ブレーキをかけ続ける。

『あんまり難しく考えないでくださいよ。俺は別に貴方にゲイになってもらおうとか、一生付きまとってやろうとか思ってるわけじゃありませんから。貴方はいつか本当の恋をしますよ。他人にじゃなく、自分の内側から溢れてくる感情にどうしようもなく流される思いをする時がくる。そういう「運命の人」が現れたら、俺はスンナリ貴方の前から消えますよ。だからそれまで、俺と遊んでください』

もちろんこれは、半分は策略だ。ノンケである恭一を、同性愛の俎上に載せるのは難しい。出来るだけハードルを低く、低くして、相手に越えてもいいかなと思わせるハードルにする。その目的もある。しかし同時にこれは、今ヶ瀬の本心だ。今ヶ瀬が、自分の心が壊れないように設けたストッパーだ。

『あんなにうちにいついていたのに、その荷物は驚くほどコンパクトで、どんなに一緒にいてもいずれこうなることを考えて根を張らないようにしていたのだと思い知らされた。そういえば今ヶ瀬は、最後まで自分の部屋を引き払わなかった。「家賃が勿体ないよ」と俺が遠回しに同棲を促しても、笑って受け流すいていた今ヶ瀬は、どんな未来を予想していたのか、今はよく分かる』

僕がこの物語の中で、一番好きな台詞がある。

『貴方はいずれは女の人のものになる人だ。だからこそ俺は、貴方の中でたった一人の男になれる。…それだけが俺の心を守る縁なんです。どうぞ貴方は女と幸せになることだけ考えていてください。何ももらえなくたった俺は勝手に貴方に尽くすし、邪魔になればちゃんと空気を読んで消えます。迷惑はかけません』

「だからこそ俺は、貴方の中でたった一人の男になれる。…それだけが俺の心を守る縁なんです。」という台詞には、グッと心を掴まされた。恭一との関係は、今ヶ瀬にとって人生史上最大の恋だ。しかし、恭一という男を知り尽くしているだけに、それなりの関係までには持ち込めても、そこに未来はない。ゴールはない。終わりしかない。「こんな関係、俺が「欲しい」と言うのをやめたら、今すぐ終わってしまうのに」という絶望と不安定さを常に抱えたまま、学生時代には想像さえ出来なかった望外の状況に素直に反応してしまう心と身体を必死でコントロールしながら恭一と関わっていくのだ。

『わかんないかな。潮時だって言ってるんですよ。貴方は本当に俺によくしてくれた。望んだことはすべて叶えてもらいました。もう十分です。来れるところまで来れた。…でも、もうここまでです。これ以上先、貴方と行ける場所なんてどこにもない。行き止まりまで来たんですよ…』

物語の始まりは、恭一と今ヶ瀬の温度差は相当なものがあった。当然だ。恭一はノンケで、今ヶ瀬はゲイだ。今ヶ瀬は、脅迫めいたことで無理やり恭一を支配する。支配しようとする。そうでもしなければ、恭一との間にある高すぎる壁は乗り越えられないのだ。

しかし、様々な経験を経ることで、恭一の中に徐々に変化がやってくる。それは「恋」ではなく「情」だ。今ヶ瀬にも、そんなことは分かっている。しかし少しずつ、恭一が今ヶ瀬の温度に近づいてくる。
いや、恭一はただ、見栄えのいいその場しのぎを繰り返しているだけなのだけど、それが今ヶ瀬を期待させる。

『貴方のせいで俺はほかの全部を失った。いくらでもほかの道があったのに、貴方のせいで!…貴方は、いくらでも貴方を押し流してくれるものがそこらじゅうにあって、でも俺にはほかに何もない!何もなかったんですよ!貴方以外、俺を押し流してくれる人なんて…!』

今ヶ瀬は、本当に本当に、この恋は終わると考えていただろう。しかし、恭一の、恭一らしい優しさが、今ヶ瀬を狂わせる。期待しそうになる。もしかしてと思ってしまう。「俺、これでも結構いっぱいいっぱいなんですよ」と、恭一の元カノに牽制してしまうくらいにしんどい。もしかして、と、そんなバカな、の間を常に行き来する。そんな不安定に耐えられなくなって、自分から嫌われるようなことを言ってしまう。

『…よく…そんなことがいえますね…。美化できるような想い出なんてひとつもくれなかったくせに。貴方がどれだけ俺の気持ちをわかってるっていうんです』

『そんなに簡単にいくと思わないでください。貴方が今いるところから俺がいるところまで来るのはとても大変なことなんですよ…。目を瞑っていれば俺がどこまでも貴方の手を引いてくとでも思ってるんですか?』

僕には、今ヶ瀬の恐怖も理解できる。今ヶ瀬と重ねられる部分もある。
今ヶ瀬は、恭一との恋は終わると思っている。そしていつか自分の周辺から失われてしまうものに傾倒することへの本能的な恐怖を感じている。
僕も同じだ。決して、今ヶ瀬と同じ状況にいるわけではない。ただ僕は、未来に対して極端に期待していないが故に、自分の周囲のものはすべて失われる、消えてしまう、と思ってしまうだけだ。自分の心が弱いことを知っているから、自分と深く繋がった何かが、自分の周囲からなくなってしまうことに耐えられないだろうという予感がある。
だから僕は本能的に、「それがなければ生きていけない」という存在を作らないようにしている。これは人に限らない。モノや概念に対しても、真っ先にそのことが頭に浮かぶ。自分の周りを、「いつ失われても大丈夫なもの」だけで固めておきたいと思ってしまう。

だからこそ僕は、今ヶ瀬の気持ちが理解できてしまうのだろう。僕の中には、“今ヶ瀬”もいる。だからこそ、この物語は僕にとって怖い。

自分の傍からいつか必ず消えてしまうものをどれだけの力で掴めばいいか。その逡巡に囚われ続けた今ヶ瀬。そしてその逡巡は、ある意味では恭一と同じものなのだ。「恋人にも妻にもなるわけではない、男であるコイツと一緒にいられるか?」という問いを考え始めた恭一にとっても今ヶ瀬というのは、自分の傍からいつか必ず消えてしまう存在だ。妻や恋人という重しで捕まえておくことが出来ない。今ヶ瀬にとって恭一は、「去られてしまうかもしれない存在」。今ヶ瀬の思考には、自分が去るという選択肢は恐らくない。しかし、恭一の方は違う。恭一は何度か、今ヶ瀬が去るという経験をした。恭一の家に根を張らないようにしてきたのも知っている。今ヶ瀬が去るのは、ある意味で当然で、ある意味で恭一が悪い。だからその事実に対してどうこうということではないはずだ。それでも、恭一の中には、「今ヶ瀬は自分から去る可能性のある存在だ」という感覚は残る。

さらに恭一は、「自分が今ヶ瀬から去る」という選択肢も考えなければならない。恭一には、今ヶ瀬と違って、女性と生きていく道も当然ある。そちらの方が恭一にとっては自然なのだ。だから、今ヶ瀬と一緒になったところで、自分の気持ちがいつどう変わるか信じ切れない、という気持ちもある。

恭一が「恋人にも妻にもなるわけではない、男であるコイツと一緒にいられるか?」という問いを考え始めるまでは、今ヶ瀬の方が圧倒的に深い悩みの中にいた。しかし、恭一がその問いを真剣に考えるようになってからは、より深く悩んだのは恭一の方だっただろう。

『あいつは十分誓ってくれた。信じるには十分すぎた。俺は、自分の聞きたい言葉をさんざん言わせて、気持ちいいと思いだけさんざん味わって、結局あいつを自分のものにしてあらなかった。だめじゃないって俺が言ってやらなきゃいけないんだって心のどこかでわかっていたのにしなかった。意気地がなかった』

恭一がどんな決断を下すのか。さらにその決断を、どんな過程を経て下すのか。恭一は、それまで通り生きていれば囚われるはずもなかった問いに向き合わざるを得なくなった。それは、BLなんてと思っている人からすれば、非日常にしか思えないかもしれない。しかし僕にはこの物語は、男と男の物語だからこそ問うことが出来る、人間としての根幹を問う物語ではないかと思うのだ。恭一が、今ヶ瀬が、僕自身の内側にいることを感じる。この物語を読むと、僕たちは“たまたま”恭一や今ヶ瀬のようになっていないだけなのだ、と感じる。運良く、恭一や今ヶ瀬を追い詰める「究極の問い」を突きつけられずに済んでいるのだ、と思う。もし同じ状況に陥ったとして、恭一や今ヶ瀬のように振る舞えるだろうか?どんな決断を出すのか、ということではなく、決断に至る過程で、人間として自分自身を見損なわない生き方を選択できるだろうか?そんな風に僕は考えてしまう。

『ああ、遠くに来たな。戻れるところはもう、失ったよ』

僕は、絶対数は少ないが、多少BLを読んでいる。その少ない絶対数をサンプルにして話す話なのだけど、本書には他のBLとは明らかに一線を画す点がある。

それは、「恋愛対象としての女性が作中に登場する」ということだ。

普通BLというのは、男しか出てこない。妹とかショップの店員など、何らかの形で女性が出てくることはあるが、「恋愛対象としての女性」というのは基本的には出てこない。

まあそれはそうだ。全員ではないだろうが、BLを読む女性の心理には、「自分自身を投影せずに、純粋に恋愛物語に没入できること」というのがあると聞いたことがある。男女の恋愛物語の場合、どうしてもヒロインの女性と自分を重ねてしまう。そうなると、ヒロインとの差ばかりが意識されて物語に没入できない人もいるらしい。BLには、「恋愛対象としての女性」は出てこないので、自分と比較することなく安心して読むことが出来る。自分という存在がまるで入り込む余地のない「男同士の恋愛」によって、純粋に恋愛物語を楽しむことが出来る、という側面があるようだ。

しかしこの物語には、「恋愛対象としての女性」が何人も登場する。恭一の浮気相手だったり、元カノだったり、新たに出会った恋人だったりするが、どんな形であれ、「恋愛対象としての女性」が登場するというのがBLとしては異質だ。

それはつまり、今ヶ瀬が「女性」と同等の存在として描かれているということである。

BLには、「攻め・受け」や「タチ・ネコ」など、同性愛上の役割は頻繁に描かれる。ゲイとノンケの物語ではそこまで過剰ではないが、しかしノンケにとってのゲイが、女性と同等レベルの存在として描かれることはほぼないだろうと思う。

それはたぶん理由が二つあって、「純粋にBLを突き詰めたい」というのと、「恋愛対象としての女性が出てきた場合にリアリティを保つことが不可能だから」ということではないかと思う。
世の中のほとんどのBLは前者のタイプだと思っている。難しいことは考えずに、ただ男同士がセックスをしているのをエンターテイメントとして楽しむ、というものだ。まあとりあえずこういう作品のことはおいておこう。
そして、時々、男同士の恋愛をリアルに描き切ろうとするタイプのBLが存在する。僕が読めるのはこういうタイプのBLだ。主に、ノンケとゲイの恋が描かれていると勝手にイメージしている。ただこういうタイプのBLの場合、「恋愛対象としての女性を登場させながら、作品全体のリアリティを担保するのは相当に難しい」だろうと思う。なにせ相手はノンケだ。普通に女性と争って勝たせるのは難しい。だから、後者のようなタイプのBLが、どれだけ日常を舞台にしていても、それは「恋愛対象としての女性」が排除された作られた日常なのだ。

しかしこの物語では、その困難なハードルに果敢にチャレンジしている。「恋愛対象としての女性」を何人も登場させ、そしてその中の一人として今ヶ瀬を描き、恭一に選択させるのだ。だからこそこの物語は、僕には、完全にリアルで起こりうる物語として受け止めることが出来るのだ。この圧倒的なリアリティを担保する、「恋愛対象としての女性」を登場させるという設定を採用し、見事描き切った著者の力量は見事だと思う。

男はもちろん、女性であっても、「BLなんて…」と思う人は多くいるだろう。しかし、そういう人にこそ是非読んでみて欲しい1冊だ。本書のような物語はBL界にはそう多くはないだろうが、確実に存在する。男同士の物語だからこそ描くことが出来る、人間の生き様と根幹の物語を、是非堪能してください。

水城せとな「窮鼠はチーズの夢を見る/俎上の鯉は二度跳ねる」




記者たちは海に向かった 津波と放射能と福島民友新聞(門田隆将)

『紙齢をつなぐ― 一般には全く馴染みのないこの言葉の意味をご存知の方がいるだろうか?』

僕は本書を読んで初めて知った。

『「紙齢」とは、新聞が創刊号以来、出しつづけている通算の号数を表すものである。「紙齢」は、毎日の新聞の題字の周辺に必ず出ている。
読者はほとんど目に留めていないが、これを「つなぐ」ことは、新聞人の使命とも言うべきものである。』

冒頭でそう書かれていて、僕は大げさだ、と感じた。確かに新聞というのは、人によっては当たり前に存在するものなのだろうけど、それでも、「紙齢をつなぐ」ことが使命、というのは違和感があった。

しかし作中で、福島民友新聞の面々は様々な形でこれを繰り返し主張する。

『「紙齢が途切れるというか、新聞を出さないということは読者の信頼を失うことですから、これが新聞社にとって一番あってはならないことなのです」
仮に明日、ライバル紙の福島民報は出たのに福島民友が出ないとすれば、「会社の存亡」にかかわる問題だった。当然、地元紙は、避難所にいる被災者にも新聞を届けるべきだろう。そんな時に新聞そのものが「発行できない」などという事態は、そのまま会社の「死」を意味するといっても過言ではなかった』

『紙齢をつなぐというのが、われわれにとっての責務ですからね。これは、読者に対する責任です。大震災の状況を読者に届けるというのが新聞の使命だと思っていますので、なんとしても新聞を届けたいという思いがありました。当時、われわれには、二十万読者がいましたからね。その責任を果たせて、ほっとしました』

『ああ、こんな大震災の時に新聞が出なかったら、会社自体が潰れるかもしれない、と思いました』

何度繰り返し書かれても、僕にはうまく捉えきれなかった。もちろん、平時であればそうだろう。記者や会社側や工場のなんらかのミスで新聞が発行されない状況になったのだとすれば、それは会社の存亡にも関わるだろう。しかし、ここで語られているのは、あの未曾有の災害であった東日本大震災なのだ。確かに、被災地の地元紙にしか不可能な取材もあるだろう。それが読者に伝えられるとすれば、それは素晴らしいことだ。しかし、あの大震災の最中、新聞が発行されなかったからと言って、一体誰がそれを責めるのか。読者は、裏切られたと感じるのだろうか?なんであの被災状況を地元紙は伝えないんだと憤るのだろうか?
僕には、イマイチ想像が出来なかった。

それでも、ある価値観が社全体できちんと共有されている、というのは、素晴らしいことだと感じた。紙齢をつなぐことの重要さは、僕にはイマイチ理解できなかったが、紙齢をつながなくては、という気持ちが、伝える側にいる人間の使命、この現実を記録しなければという想い、そういったものをより強く引きずり出しているように思えた。

『それでも、請戸に言ったのは、たぶん“僕は撮らないと、誰も伝えられない”という想いがあったからだと思います』

『あの三月十一日、十二日の二日間、僕は純粋に、新聞記者として動いたと思うんですよ。あの時、会社と連絡がとれなくなっていました。ということは、会社の仕事としてではなく、記録として、誰かが、この震災の被害を書き残さなければいけなかった。それは、会社に記事として送ることができるとか、できないとか、そんなことではなく、ただ純粋な気持ちだけでやったことを、思い出します。誌面に反映されるかどうかではなく、純粋に“記録社”として動いた二日間だったんじゃないか、と思うんです。会社というものも超えて、あの二日間、記録者として特化して、あそこにいたのではないか、と。そして、自分には、それしかできなかったのではないかと思います』

三月十一日、震災の日、一人の若き記者が命を落とした。

『だが、この若者には、ほかの犠牲者とは異なる点がひとつだけあった。それは、彼の死が「取材中」にもたらされたということである』

熊田由貴生、二十四歳。福島民友新聞の記者二年目の若者だった。

『あの人が死んだのか。彼の記事は、切り抜いて今も手帳に挟んで持っている。温かい記事を書いてくれる記者だった』

『(こいつは、将来、社を背負っていく人間になるかもしれない)』

誰からも愛され、記者としても頭角を現しつつあった若者の死。本書は、その死を中心に置きながら、記者たちがどこで被災し、何を取材し、何を経験してきたのか、紙齢をつなげないかもしれない危機をどう脱したのか、それらを丹念に描き出していく物語である。

『私が、この作品を書くために取材を始めた時、福島民友新聞は困惑し、ある意味、狼狽した。
取材に応じていいものかどうか、見方によっては、恥ともいうべき事柄も含め、世の中にそれが明らかにされて、果たしていいものかどうか。
おそらく、そんな迷いと逡巡があったからだろうと思う』

福島民友新聞に関わる多くの者が、あの時ああしていたら、という後悔に囚われている。もっと出来ることがあったのではないか。何故あそこでああしてしまったのか。
そうした後悔にもっとも囚われているのが、福島民友新聞の浪江支局長である木口拓哉だ。

『なぜカメラなんかに手を伸ばそうとしたんだ。おまえは、なんで助けなかったんだ…。
津波から逃げながら、木口の頭の中を、そんな言葉がぐるぐるとまわっていた。
おまえは何だ!おまえはなぜ人を助けないのか!おまえは記者である前に「人間」ではないのか!
死の恐怖にがたがた震えながら、木口はアクセルを踏みつづけた。助けられなかった命の重さが、運転席にいる木口の全身に覆いかぶさっていた』

熊田が遺体となって発見された後、熊田は人助けをして逃げ遅れた、という話が漏れ聞こえてくる。実際に、熊田に助けられたという大工が後に福島民友新聞に電話を掛けてくれたりもした。それを知ってさらに、木口の後悔は深まる。

『熊田は人を助けて、俺は助けられなかった―』
『僕は卑怯なんです。そこから、僕は逃げたんです。僕が逡巡していなければ、二人は助かったと思っています。僕は請戸漁港でも、警官に出るように言われて、命を拾っています。そして、ここでも、人を助けられずに生き残ったんです。一度ならず、二度も命を拾っている。僕は、卑怯な人間なんです』

本社に戻るため、木口が車を運転した時のこと。検問で警官に止められた。南相馬経由で福島市に向かうと話すと、警官から、「あんた、原発が爆発したのを知らねえのか?」と言われた。

『その時、警官は、こう言った。
「死にますよ、あんた」
「…」
木口は、警官の言っていることは本当なのか、と思った。まさか…と、それを打ち消しながら、そこを通してもらった。いくら警官に脅されても、心の中では、「原発が爆発した」などということを、信じようとしていなかったのである。』

福島で原発を担当していた木口だからこそ、余計に、原発の爆発が信じられなかったのだ。安全だと信じていたからだ。記者でさえ、爆発したという事実を信じることが出来なかった。原発の爆発というのは、それほどの出来事だったのだ。

東京電力の常務である小森明生が記者に向かって会見を行った。小森は、福島第一原発の元所長であり、浜通りに長く住み、福島を第二の故郷だと感じていた人間だ。一方、福島民友新聞の記者である橋本は、福島県庁の道を隔てた西側に建つ「福島県自治会館」内に置かれた災害対策本部の担当を命じられ、泊まり込みで取材を続けていた。元所長であった小森とはよく知る中である。
100を超す記者から「吊るしあげられた」小森がようやく解放され、エレベーターの方角に向かって歩いていた時のことだ。

『「これから、地元はどうなるんでしょうか」
小森に、そう声をかけてきた記者がいた。
橋本だった。
(あっ、橋本さんだ)
小森は、声のする方に目を向けた瞬間、橋本だと気づいた。顔も知らない全国紙やテレビの記者たちと長時間のやりとりをしていた小森は、そこに知り合いの記者がいたことに驚いた。
そして、その瞬間に、涙が溢れ出してしまった』

そして、橋本も一緒に泣き始めてしまう。

『橋本の方を向いた小森は、何も答えず、そのまま声を押し殺して泣き始めた。それを見た橋本の目からも涙が溢れ出てきた。
記者が取材対象者と一緒に「泣く」ことなど、あってはならない。そんなことはわかっている。だが、橋本も、涙を抑えられなかった』

記者たちは、あの日のことを赤裸々に語る。それは、あの日のことをきちんと語ることで、熊田という記者がどんな人間であったのか、そして、熊田が所属していた新聞社がどんな場所であったのかを、残しておきたいという気持ちだったのかもしれないと思う。

福島民友新聞の相双支社長である菅野は、棺に入った熊田の胸に、三月十二日の新聞を置きながら、こう呟いた。

『熊ちゃん、こんな風になったんだよ』

近くにいた國分はこう語る。

『熊田は、その新聞を見ることができなかったわけじゃないですか。しかし、まさにこの新聞のために、熊田は取材に行ったんです。こんな風になったんだよ、という菅野さんの言葉は、熊田にあの津波のことを伝えていたんだと思います。岩手、宮城、福島の浜通りと、あれほどの被害を出した津波のことを、熊田は知らないわけですから、菅野さんはそれを熊田に伝えようとしたんだと思います。本当にあの時は、つらかったです…』

誰もが、震災の直後から、“記者”として動き始めた。

『写真を撮らねば―。
新聞記者としての本能が、そう告げていた。記者だけでなく、カメラマンとしての役割を要求される地方紙の記者は、「とにかく、まず写真を」ということが頭に浮かぶのである』

そして、みな同じことを考える。

『そうだ、津波だ、津波を撮らねば』
『海に行かなければ…』

生き残った記者が生き残れたのは、幸運でしかない。熊田以外の誰が死んでいてもおかしくなかったし、熊田が生き残っていてもおかしくなかった。地方紙の記者としての本能を共有していた彼らは、熊田の死が他人事には思えないのだろう。自分が熊田のように死んでいても、おかしくはなかったと、誰もがそう実感したのだろう。

『自分が生きていることが無性に申し訳なかった』

記者としての使命と、人間としての生き様。その二つが絶望的に切り離された“地獄絵図”の中に否応なしに放り込まれ、そして記者であるが故に逃げるという選択をしなかった者たちがあの場に存在していた。自らも被災者でありながら、同時に“記録者”であろうとし、美しささえ時折垣間見せる残酷さを切り取り、その残酷さの隙間に潜む救いをかき分けてでも見つけ出す。新聞という、形あるものを生み出す仕事に誇りを持ち、また、連綿と続く歴史を継承する一員であるという意識を共有する者たちの奮闘は、新聞を作る、という作業を超えた何かを生み出しているようで、その有り様に圧倒される。同じく被災者でありながら、新聞の配達をした人々もおり、また工場の被災により、三工場分の新聞をある印刷所で刷らなければならなくなった中でやりくりをした人もおり、新聞というものにかける想いの強さを感じる。僕自身は新聞を取っていないが、本書を読むと、新聞が「ただ紙に文字が印刷されたもの」以上の存在であるように感じられる。作り手の意識や想いが、震災という非常時の奮闘を通じて知ることが出来て、新鮮な想いがした。

『あの大震災は、福島県内において、日本の新聞史上、これまで誰も経験したことがない大事態を惹起している。
それは、「新聞エリアの欠落」である。
(中略)
つまり、福島の浜通りの一部では、「読者」も、「新聞記者」も、「販売店」も、すべてが被災者となりそのエリアから「去らざるを得ない事態」に陥ったのだ。
福島第一原発から半径二十キロ以内の避難区域の中にあった福島民友新聞の「二つの支局」と「十二の販売店」は避難を余儀なくされ、完全なる「空白区域」となった。』

だからこそ彼らにとって、震災翌日の三月十二日に、紙齢をつなぐ新聞を出すことが出来たことは誇りなのだ。

『福島民友の読者の中には、放射能による避難から半年経って「一時帰宅」した際に、三月十二日付の福島民友新聞を新聞ポストに見つけて感動した人間が少くなかった。読む人が避難した主なき家に、それでも新聞は「配られていた」のである』

本書を読み終わって今でも僕は、自身が被災しながら新聞を「出さなければならない」理由はよく理解できない。しかし、自身が被災しながら、それでも新聞を「出したいと思う」気持ちは、分かるような気がした。そういう時だからこそ、新聞の役割を遺憾なく発揮出来る。こういう時のために、自分たちは普段から人間関係を築いているのだ。そういう、新聞人としての矜持が一つ。そしてもう一つ、目の前で展開されているこの惨劇を、誰かが記録しなければ失われてしまう、そしてそれは自分たち記者しかいないだろうという記録者であることの矜持。正解の存在しない状況と問いに常時取り囲まれている異常事態の中で、記者は、そして人間はどう振る舞うべきなのか。自分に置き換えて、考えさせる物語だ。

門田隆将「記者たちは海に向かった 津波と放射能と福島民友新聞」


また、同じ夢を見ていた(住野よる)

僕にとって「幸せ」というのはたぶん、幸せじゃなくなった時に気づくものなんだと思う。
普段の僕は、「幸せだ」と感じることは、ほとんどない。自分の性格と、自分が歩まなければならない人生を考えて、「世の中のことに興味を持たない方が生きやすいな」と判断した子供の頃の僕は、勉強や読書などを“暇つぶし”として、そしてそれ以外のことには“やってみるけど特にハマることはないもの”として接してきた。自分の人生を振り返っても、テンションが上がった経験というのはほとんどないし、「幸せだ」と思い返せるような思いでも別にない。
だから、僕には「幸せ」というのは、正直よく分からない。でも、幸せじゃなくなった時、それまでの生活や日常に「幸せ」を感じる、ということはあるかもしれないと思う。
僕は20歳くらいの頃、通っていた大学に唐突に行かなくなり、誰とも会わず、部屋でひたすらテレビを見て過ごしていた時期があった。その時期のことを、ちゃんと覚えているわけではないけど、しんどかった記憶はある。自分の手で、未来の自分の人生をぶっ壊す手段としての引きこもりだったと、今なら説明が出来る。本書の登場人物の一人が、ある行動に対して、『なんでもいいから、この連続する日常を終わらせたかった』と語る場面があるのだけど、僕にはその気持ちがなんだか凄くよく分かるように思う。
自分の中の止むに止まれぬ衝動に引っ張られて、世の中との接点を断った僕は、思いの外追い詰められていたように思う。それまで、自分が持っていると思っていたものをすべて捨ててリセットしようとする日々は、結局、何もしないで無為を過ごすことに他ならなかった。連続していた時間が、ぶつ切りになったりループしたりするような生活は、少しずつ僕を蝕んでいった。
たぶんその時僕は、引きこもる前の自分の生活を「幸せだ」と感じていたのではないかと思う。たぶん僕は、そんな風な形でしか「幸せ」というものを捉えることが出来ない。
そう考えると、結局僕にとっての「幸せ」というのは、昨日と同じ今日がやってきて、そして今日と同じ明日がやってくること、ということになるのかもしれない。それは、その時間の流れにいる限り、「幸せ」であることを実感しにくい。昨日と違う今日がやってきて初めて、その「幸せ」に気づくことが出来るのだ。
人の数だけ、「幸せ」の形がある。誰かの「幸せ」が、僕を「幸せ」にするとは限らない。それを忘れてしまうときっと、永遠に「幸せ」にはたどり着けなくなってしまうだろう。そうならないためにも、自分にとっての「幸せ」を、一度立ち止まって考えてみることはいいかもしれない。

内容に入ろうと思います。
小学生の小柳菜ノ花は、自分の頭で考えるという、実にステキな性格をしている。本をたくさん読んでいるからというのもあるだろう、言葉に対して敏感で、概念や価値観について自分なりに深く思索をすることが出来る。そしてその分、菜ノ花には子供らしさが欠けている。それもあって、クラスでは浮いた存在だ。いじめられているというのとは違う。話しかければ反応は返ってくる。でもみんな、積極的に関わろうとはしない。
菜ノ花は学校には友達はいない。だから彼女は放課後、家に帰らなくちゃいけない18時までの間、色んな所に友達に会いに行く。
まずは、会話は成立しないけど、しっぽのちぎれた猫。彼女とは、一緒に友達のところを周る友人です。

アバズレさん。アバズレさんは、血だらけだった猫を助けてくれた人。それからよく遊びに行くようになった。「春を売る」という、カッコいい響きの仕事をしているアバズレさんは、菜ノ花の知らないことをたくさん教えてくれるし、大好きだ。

おばあちゃん。木の家に住んでいて、アバズレさんと同じように菜ノ花に色んなことを教えてくれる。長く生きたから魔法が使えるらしくて、自分では到底作れるとは思えないほど美味しいお菓子を作って出してくれる。

南さん。アバズレさんもおばあちゃんもいない日に、偶然出会った高校生。手首を切っているところを目撃してしまってびっくりしたけど、菜ノ花には書けない物語を書いている凄い人。

菜ノ花は毎日、誰かのところに遊びに行きながら、学校での出来事を話し、自分が考えたことや感じたことを説明する。菜ノ花には理解できないことが、菜ノ花には受け入れられないことが、誰かの説明でキュッと形を変えたりする。
桐生くんの話をした時も、そうだった。菜ノ花には分からなかったたくさんのことを、みんなが教えてくれた。
というような話です。

この作品で一番面白い点は、なんと言っても菜ノ花の思考だ。
菜ノ花は、自分のことを、頭が良いと思っている。実際に、それは正しい。菜ノ花は、自分の頭で考える知性がある。言葉を深く突き詰めて考えたり、相手の言ったことを瞬時に理解して自分なりの考えを返したり。菜ノ花の思考は、当たり前の価値観をただ受け入れたり、周りに流されたりするだけの同級生のものとは明らかに違う。

しかし、未熟なのだ。この未熟さが、菜ノ花を苦しめることになる。
菜ノ花は、言葉に対する感度は鋭敏だ。相手の言葉の矛盾を指摘したり、自分が発した言葉と矛盾しないように行動しようとしたりと、言葉に関して言えば菜ノ花の思考力は素晴らしい。
しかし、人間の思考や価値観は、決して言葉だけによって成り立っているわけではない。

菜ノ花に最も足りないことは、有り体に言えば「経験」だ。菜ノ花は、本を読むことで、様々な世界を知り、様々な価値観を知っている。しかし、「知っている」ということと「経験する」ということは、まるで別のことだ。菜ノ花の言葉には、身体感覚が決定的に欠如しているのだ。

だから、菜ノ花の思考は直線的だ。言葉には一種類の意味しかないように捉えていたり、論理の展開の仕方もどんな場合でも同じだと考えていたりする。それを象徴するようなセリフがこれだ。

『悲しくないのに泣くなんて変だもの』

菜ノ花はまだ、泣く=悲しい、という捉え方しか出来ていない。これは、経験が伴っていないからだろう。経験が伴わないくせに、言葉だけは豊富だから、直線的な捉え方をしてしまう。

だから菜ノ花は、言葉の上では「正しい」けれども、実際には「正しくない」ことを様々にやってしまう。
子供同士のことだから、で済めばいい。問題は、菜ノ花の場合、そういう問題では片付けられないということだ。子供同士のことだから、というのは、何も分かっていないでやっているんだから、というニュアンスがある。しかし菜ノ花は、実際には間違っているのだけど菜ノ花自身が正しいと信じ込んでいる行動原理に従って動いている。菜ノ花は決して、「何も分かっていない」わけではないのだ。

菜ノ花は、自分の正しさを過信している。周りにいる同級生たちの言動に触れ、その幼稚さを嘆き、相手にするのも無駄だと感じる、その感覚は決して間違いではないのだけど、やはり菜ノ花には経験が足りていない。問題は、言葉で物事を突き詰めて考えることが出来てしまうが故に、意味がないと感じる行動に踏み出さないことだ。そんなことを続けていけば、菜ノ花は必要な経験をいつまで経っても得ることが出来ず、未熟なままの菜ノ花として大きくなっていってしまうだろう。

そんな菜ノ花を軌道修正する存在が、アバズレさんやおばあちゃんや南さんだ。彼女たちは、菜ノ花の話を聞き、菜ノ花の知性や行動を認めた上で、菜ノ花に間違いを諭す。菜ノ花は、自分の正しさを過信しているから、いくら仲の良い友達である彼女たちがいうことでも、自分が納得出来ないことは受け入れない。そういう強情さが菜ノ花にはある。そんな菜ノ花と辛抱強く関わり続ける彼女たち。その交流がじっくりと描かれていく。

菜ノ花は学校の授業で「幸せとは何か」という宿題を出されて、それについてずっと考えている。もちろん、放課後の友達にも色々聞いて回る。みんな、自分なりの答えをくれたり、あるいはヒントをくれたりする。
読者は徐々に、彼女たちがどういう思いで菜ノ花にアドバイスをするのか、察するようになっていく。菜ノ花からの相談や菜ノ花の抱える問題は、彼女たちにとっても切実なものなのだ。一緒に考えることで、彼女たちの価値観にも影響が出るようになる。その過程がじんわりとくる。

さらに本書のもうひとつの軸は、桐生くんとの物語だ。桐生くんと菜ノ花がどう関わっていくのか、それについては具体的には触れないけど、桐生くんとの関わりの中で、菜ノ花は新しい価値観を知っていくことになる。それまで菜ノ花は、自分が正しいと思ったことを相手が認めないと、相手がバカなのだと考えるようにしてきた。それは菜ノ花にとっては、至極当然なことだったのだ。しかし、桐生くんと関わることによって、菜ノ花は、自分には受け入れられなくても正しい考え方があるのだ、ということを知るようになる。これは、菜ノ花にとっては衝撃的なことだっただろう。聡明に過ぎた菜ノ花は、その知性故に、自分には受け入れられない正しさという真理に気づけない可能性もあった。放課後の友人たち、そして桐生くんとの出会いは、菜ノ花にとって非常に大きなものだっただろう。

アインシュタインは、「常識とは、18歳までに身につけた偏見のコレクションである」という言葉を残したという。けだし名言だと思う。常識ほど、怖いものはない。僕らは、疑いもせず信じていることと食い違う正しさが存在するという事実を、しっかり受け入れなくてはならない。

「人生とは…」というのが、菜ノ花の口癖だ。例えば、「人生とは和風の朝ごはんみたいなものなのよ」という風に。これは、「知る必要のないことなんてないの」と続くのだけど、みなさん意味は分かるだろうか。相手が「味噌汁か」と呟いても、僕には初め意味が分かりませんでした。つまり、「汁必要のないことなんてないの」ということなんですね。和風の朝ごはんですから。

そんなわけで僕も、「人生とは…」で終わりにしてみようと思います。

人生とは、校長先生の朝礼みたいなものよ。退屈に慣れるための儀式みたいなものなの。

住野よる「また、同じ夢をみていた」


「オデッセイ」を観に行ってきました

これ以上の救出劇は、現実でも、そしてフィクションでも、描ききることは出来ないのではないか。それほどの、壮大な物語だ。

火星のアキダリア平原で調査を続ける、アレス3の乗組員たち。6名の乗組員が、各々の専門分野で力を発揮させながら、火星に長期滞在し調査を続けている。
そんな時、異常を知らせる警告が。当初の予想よりも遥かに強大な嵐が、アキダリア平原に迫っているという。計画では、7500ニュートンを超える力が加わる場合、ミッションは中止とされるが、現時点での予測ではその嵐は8600ニュートンもの力をもたらすという。誤差を含んだ予測だから様子を見るべきだと主張するマーク・ワトニーに対し、船長はミッションの中止を決断。嵐の中に出ていき、火星脱出用のロケットに乗船し、帰還を目指すことに決める。

まったく視界が利かない中、彼らは嵐の中ロケットを目指す。しかし、何らかの物体が嵐によって飛んできて、マークに直撃。宇宙服の破損を知らせる警告が届き、マークとは通信が不可能になった。視界ゼロの中、マークを探そうとする船長。しかし、ロケットは倒壊寸前まで傾いている。宇宙服が破損すれば、1分も保たない。マークは死んだ。誰もがそう思い、火星を後にした。

NASAも、マークの死をマスコミに伝えた。壮大な葬儀が行われ、マークの死を無駄にしないためにも、NASAは今後も宇宙探査に力を入れていくと、NASAの長官はスピーチする。

しかし長官は、火星プロジェクトの統括責任者に、衛星の使用を許可しない。統括責任者はマークの死を確かめ報告すべきと衛星の使用を主張するが、長官は、すべてに対して報告義務がある以上、マークの死体が映る可能性のある衛星の使用は認めないという立場だった。しかし統括責任者は長官を説得、担当者に、アレス3のメンバーがいた火星居住用のセル周辺をチェックするよう伝える。

そこで担当者は、ありえない映像を見る。セル周辺の人工物が移動しているのだ。まさか、まさかマークは生きているのか。しかし、宇宙服が破損して生きていられるはずがない。それでもNASAは、考えられないことだがマークは生存していると判断。救助計画を立案すると共に、マークと何らかの形で通信を試みようとする。

一方のマークは、次の有人機がやってくるのは4年後、セルは31日の居住用、そして何よりも食料が確実に尽きるという現実に打ちのめされていた。しかも、ただ生きのびるだけではダメだ。NASAと通信が出来ない以上、マークが助かるためには、4年後にアレス4が着陸する予定地点に辿り着かなければいけない。それは、マークが今いる場所から3500キロも離れているのだ。

何もかもが絶望的だ。しかし、マークは諦めない。『科学を武器に生き残る』。彼はそう決断し、目の前の問題を一つ一つ解決していく…。

という物語です。

凄かったです。メチャクチャ凄い映画でした。フィクションなのは分かっているんだけど、この映画に登場するものすべてが、現代の科学技術の範囲内で描かれているので、この映画が与える現実感はとてつもないレベルだ。本当にあった出来事なのではないかと錯覚してしまうほどのリアリティがある。

状況を整理すれば、絶望的としか表現しようがない。今あるものだけでは、彼は確実に生きのびることが出来ない。だから、生きて地球に帰るためには、ここにあるものを使って新たな何かを生み出さなければならない。

まずは食料だ。常備されている食料は、大半がパックされた宇宙食だっただろうが、「感謝祭用」に持ち込んだじゃがいもがあった。そしてマークは、植物学者だ。彼は持てるすべての知識を駆使して、火星でじゃがいもの栽培に挑む。

さらに必要なのは水。生活に必要な水は、水再生機が故障さえしなえればある程度なんとかなるかもしれないが、じゃがいもを栽培するためには莫大な水が要る。彼は、火星の土に排泄物を混ぜて126㎡の畑を作った。しかしこの畑を維持するためには、1㎥につき40リットルの水が必要だ。彼は、化学の知識と船内に残っていたイリジウム、そしてクルーの一人が残していった木製の十字架を使って、大量の水を作り出す。

そうやって、最低限生きていくだけの環境は整えた。しかし、それだけではダメだ。彼が生き残ろうとすれば、NASAとどうにか通信をする必要がある。しかし、どうやって?
この手法についてはここでは具体的なことは書かないが、これは本当に凄いと思った。普通に考えれば不可能だ。セルには、NASAと通信出来るような装置はない。装置を自作することも不可能だ。しかし彼は、その不可能を可能にする。この、通信手段を確立する過程は、僕の中で前半部分のハイライトだったかなと思う。

こうやって彼は、自分が生きていることや、どうやって生き延びているのか、どれぐらいまでなら耐えられそうかなどをNASAに伝えることが出来た。そうなれば次は、NASAが彼をどうにか救助する方法を考える番だ。

しかしこれは、困難を極める。火星と地球の絶望的な距離の遠さが、この救出ミッションを困難にしている。可能な案は多くはない。とりあえず無理でもなんでも、可能性を追う日々が続く。

『NASAの継続は、一人の命より重大だ』

救出ミッションの困難さに直面する長官は、ある場面でそう吐露する。確かに、そう言いたくなる気持ちは分かる。可能性はゼロではないが、マークを救える可能性はほとんどゼロに近い。そのために、膨大な資金をつぎ込み、火星探査計画を延期してまで注力するべきなのか?組織の長としては、そういう問いを検討することは仕方ないだろう。

何よりも、NASAが立案した救出ミッションは、失敗する。限られた時間の中で、膨大な人間の不眠不休の努力があってようやく漕ぎ着けたミッションが、一瞬で崩れるのだ。長官でなくても、そう言いたくもなるだろう。そこからマークの救出作戦がどんな紆余曲折を経るのか。物語的に非常に鬼気迫るものがある部分である。

さらに驚いたのは、この救出ミッションの再検討の過程で、哲学の議論として非常に有名なある状況が出現する、ということだ。僕はこの議論を、マイケル・サンデルの著書の中で知ったが、人間の生命や死の確率をどう捉え正しい決断をしていくのかという非常に難しい問いが突きつけられることになる。

最終的なマイクの救出ミッションは、もう息詰まるとしかいいようがない展開を見せる。一観客としては、映画なのだから、マークは確実に救出されると分かっている。しかし、あらゆる場面で、もう無理だろ、と思わされるのだ。そんなこと、出来るはずがない。すべての幸運が味方しないと成功しない。そういう状況の中で、あらゆる人間が死力を尽くしてマークを救助しようとする。待ったなしの救助作戦中に発生する様々なトラブルに対して、リスクを恐れない決断をする勇気が随所に描かれる。

『僕が死ぬのは大切なことのため。偉大なもののため。僕は喜んで命を捧げる。そう伝えてくれ』

あるトラブルにより、地球に帰還できない可能性を強く感じたマークは、地球に帰還中の母船にいる船長に向かって、自分が死んだら親に会いに行ってくれないか、と頼む。酷なお願いだから、船長に頼みたいのだ、と。
マークは、絶望的な環境に置かれても、取り乱したり我を忘れたりしない。かつて僕は、「宇宙飛行士選抜試験」という本を読んだことがある。日本のJAXAで行われている、宇宙飛行士を選抜するための試験を取材したNHKの番組を書籍化したものだ。その中では様々な特性を調べるための試験が行われるが、どんな状況であっても平常心でいられるか、というのが、宇宙飛行士の重要な特性として描かれる。誰もが諦めそうになるような状況でも、気力を失わないでいられるか。それが宇宙飛行士に求められる。

『“もう終わりだ”と君たちは思うだろう。それを受け入れるのか闘うのか。それが肝心だ』

帰還したマークは、将来の宇宙飛行士になるかもしれない若者たちに向けて、そう講義する。マークは闘うことを決めた。だからこそ、彼は心を折らずに、火星単位で561日にも及ぶ生活をやり遂げることが出来た。人類史上、誰も経験したことがない無茶な要求を突きつけられた時も、「“史上最速の男”っていう称号に目が眩むだろうって思われてるのさ」とうそぶく余裕を見せることが出来たのだ。

しかしそんな彼が、たった一度だけ感情を荒げるシーンがある。彼がNASAとの交信を成功させ、ある問いを投げかけた時のことだ。

『アレス3のメンバーはどう言っている?』

あの嵐の日から4ヶ月経ったその時点でNASAは、マークを残し地球へ帰還することを決めた残り5人の乗組員たちに、マークの生存を伝えていなかった。動揺し、自分たちが置き去りにしたと後悔させることで、任務の継続を危うくさせたくなかったのだ。マークはその事実に、激しく憤る。彼が気持ちを荒立たせたのは、この一度だけだ。

エンドロールを見ながら、ふと気づいたことがある。その事実は、僕には意外だった。

マークの家族の物語が、一切なかったのだ。

特にハリウッド映画では、主人公の家族との関わり方は、比較的どんな映画でも描かれる。この映画でも、地球に残した妻でも妹でも父母でもいいが、そういう近しい人たちとのやり取りを入れ、マークに何があっても地球の戻るのだと思わせる、という要素を入れ込むことは可能だったはずだ。映画の方程式に従えば、間違いなくそうなるだろう。実際に、そこまで強くは描かれないが、マーク以外の5人の乗組員の家族との話は、多少登場する。しかし、マークに関しては一切なかった。

僕はこの設定を、非常に良く感じました。何故なら、家族の物語を排除することで、マークの「生き延びるために生き延びるのだ」という力強さが非常に強調されるからです。マークは、家族のためでも、火星探査の未来のためでもなく、生き延びたいからこそ生き延びようとする。火星という、他の人類も、過去に人類がいた痕跡も一切ない茫漠とした空間において、「それでも生き延びるのだ」という力強さが自然と立ち上がる。その生命力みたいなものが、映画全体に行き渡っているのだろうと感じた。家族の物語を介在させないからこそ描き出せる力強さに満ちている。映画を最後まで見てから、マークの家族の物語がないことに気づいた時、よりこの映画の良さが理解できたような気がしました。

この救出ミッションは、“信頼”がなければ絶対に成し遂げられなかった。そもそもNASAが、マークの行動の意味に気づいて動き出さなければ、マークとの通信手段を確保することは出来なかったし、最後の救出ミッションは、自分の命をすべて預ける覚悟がなければ一歩を踏み出すことも出来ないほど無茶苦茶なものだった。それを成し遂げ、地球に帰還したマークの物語は僕らに、自分を、そして他人を信じることの強さを教えてくれるだろう。

「オデッセイ」を観に行ってきました

蒼穹のローレライ(尾上与一)

終戦から18年後。病死した城戸勝平の息子を名乗る男が、三上徹雄を訪れた。勝平の遺言があるのだという。くれぐれも詫びてくれと言われているのだと言う。
城戸とは、ラバウルでの戦友だ。城戸は通信科の通信長であり、三上は飛行班の整備員だった。
城戸と知り合ったきっかけは、ローレライだった。ラバウルに向かう途中で空戦に巻き込まれた三上らは、味方の零戦に助けられた。その零戦が、旋回する度に奇妙な音を立てる。あんな音がするなんて、普通には考えられない。同乗者によれば、あの零戦は「ローレライ」と呼ばれており、連合軍の間では、あの音が聞こえたらローレライに沈められると言われているらしい。
三上は整備員としてあの音を無視することは出来なかった。もしかしたら搭乗員が気づいていないかもしれない。そこで、ラバウル島に打電で伝えたのだが、それが三上に予期せぬ事態を引き起こそうとは想像もしていなかった。とはいえ、そんな理由で三上は城戸と知り合った。

ラバウルに着くなり、揉め事に出くわす。搭乗員同士の言い争いのようだが、一方の声がしゃがれすぎていて相手に聞こえていないようだ。三上は、ほとんど歯が抜けて家族の誰も聞き取れなかった祖父の言葉を唯一聞き取れた。それと比べれば、その搭乗員の言葉など聞き取りやすい方だ。三上は、意志の疎通が出来ないためにより険悪になりそうな両者の間に割って入っていって、そのしゃがれ声の青年の通訳を買って出ることにした。

それが、浅群塁との出会いである。そして彼と別れてすぐに、彼が「ローレライ」であることを知る。

チームプレーを理解せず、一機でも多く撃ち落として自分の手柄にしようとする。整備員の忠告をまるで受け付けず、死なないのが不思議なほどの整備をさせて乗りこなす。しゃがれ声で意思の疎通が出来ない上に、何故か彼の目は青かった。そういう様々な要因が絡まって、浅群はどこに行っても周囲と馴染めず、また暴力にさらされる日々だった。とはいえ、その空戦技術は他を圧倒するものであり、それゆえ浅群のワンマンには誰もが目をつぶっている。

浅群の言葉を聞き取れる、というだけの理由で、三上は浅群の専属整備員に指名された。通常搭乗員は、空いている機体に乗るものだが、浅群は極端な整備をさせるために、結果的に浅群専用機のようになってしまっている。三上は浅群の機体を見た瞬間に、あの音の正体を知る。本来機体についているはずもないU字型の部品がついているのだ。聞けば浅群が整備員につけさせるのだと言う。わざわざ音を立てて自分の居場所を敵機に知らせるなんて、自殺行為でしかない。だから三上は、そのU字の部品を取り去る。浅群は、別の整備員につけさせる。三上はまた取る。その繰り返しだった。

やがて三上は、浅群が背負ったとてつもない過去を知るようになるのだが…。

というような話です。

これはなかなかいい作品でした。思ってた以上でした。

『戦争なんてどうでもいい。勝てばよりよいだけだ。俺はここに名誉の戦死をしに来た。敵機を墜として墜として墜としまくって』

浅群はそう三上に語る。U字の部品を外さないと死ぬぞと諭した時だ。

『この機体なら、あの成績がはずだ。度を外れた急降下、急加速、戦闘のあと生きて帰還することを捨てて、機体の限界を越えた一瞬の性能をたたき出す。よくこれで今まで死なずに戻ってこられたものだ。運がいいにもほどがあった』

初めて浅群の機体を目にした三上はそう強く実感する。

航空隊では、搭乗者こそが殿様だ。搭乗者以外のすべての者は、搭乗者をトップに据えたヒエラルキーの元にある。だから基本的に、搭乗者に逆らうことは出来ない。そういう不文律があるからこそ、浅群の機体に対すること無茶苦茶な整備が成り立つのだ。浅群がやれと言えば、断れる整備士はいない。しかし三上は、三上の整備士魂に掛けて浅群の改造は許容できなかったし、死へと向かうその思想は受け入れられなかった。だから徹底的に浅群とやりあう。

それは浅群にとっても新鮮な体験だった。

浅群は、とある事情から喉が潰れ、まともに声が出せなくなっている。今までは、喧嘩をしたり意志の疎通をしたりしようにも、相手に自分の言葉が届かない。そういう経験を何度も繰り返すことで、浅群は、誰かと関わること、自分の気持ちを表に出すこと、そういうことを基本的に諦めてしまった。

しかし三上は、他の誰もが聞き取れない浅群の言葉を、無理なく聞き取れる。浅群の庇護者を自負している城戸は、唇の動きを読み取るのは得意だが、三上のように音だけでは理解できない。三上は、音だけで浅群の言葉を理解するから、自然浅群は三上と話すようになっていく。

戦場という殺伐とした場所で、誰かと気持ちを通わせる手段を奪われたままでいた浅群は、三上の登場によって、その凍りついた心を少しずつ溶かしていく。

しかし、浅群の絶望は手強い。浅群の口から、浅群のこれまでの人生を聞くことになった三上は、そのあまりの酷さに声を失う。
浅群の喉を潰したのは、塩酸だ。
青い目を持って生まれ、喉を潰された浅群は、浅群家の名誉を挽回するために必死に敵機を撃ち落としている。無念の内に死んだであろう父と母。そして、奪われ続けだった自らの人生。それらすべてを精算し、ひっくり返すために、浅群はしゃにむに発進する。

人生をひっくり返す手段としての「死」に囚われた男と、唯一コミュニケーションが取れる存在であるが故に浅群に傾倒し始めている三上。どちらもお互いの信念の中で全力を出して戦っており、信念を曲げない。頑固者同士の戦いが、ずっと展開されていく。

これまで自分と関わろうとする人間などほとんどいなかった浅群。関わろうとしてくる人間は、ほぼ全員何らかの形で敵だった。自分に危害を加える存在。三上と出会うことで、浅群は、自分の心の内側を勝手に決めつけられもせず、自分の意志を伝えようという意志を持つことが出来るようになった。その浅群の変化が丁寧に描かれていく。

さて僕はここまで、本書に関するある事実を伏せたまま文章を書いてきました。それは、本書がBLである、ということです。

でも僕は本書を、BLを全面に押すような形で紹介したくありませんでした。確かに、最後の方まで読めば、BL的描写はあります。ただ、作品の約2/3ほどは、BLだと言われても信じられないような、ごく普通の小説に思えます。BLを書いている以上著者は女性なんでしょうが、三上の整備士としての仕事ぶりも実に良く書いてます。

『「暖機が不十分ですが、飛行中に温まると思います。十分以内に戦闘に入るときは、念のためあまり高度を上げないよう、気をつけてください」
慌ただしく塁のハーネスの留め具を確かめ、安全帯を確認しながら三上が言う。
「前の調整に比べて、ブーストが少しだけ控えめです。その代わり長めに使えますから、早めに使いはじめて逃げきれるまで使ってください。四十秒以上はたっぷり利くはずです。それから、機銃のスイッチの遊びを少し減らしています。反応はいいはずですが、少し硬めに感じるかもしれないので空に上ったら一回空打ちして確認してください。それから―」』

出撃前の浅群に、どう整備したのか伝える場面だ。僕は、ここに書かれている文章の意味が分からないぐらい、こういう方面の知識はありませんが、恐らくそう的外れなことは書いていないのでしょう。作品全体を通してこのように、軍関係の描写が非常に緻密だ。もちろん、どこまでリアルを切り取っているのか分からないが、戦争を直接経験したことのない世代が増えている今、戦争を体験していない中でこれだけの世界観を構築出来るというのは相当な力量があるのだと僕は感じました。

僕にはBLを評価する評価軸が二つあります。
一つは、「日常を舞台にしているか否か」であり、
もう一つが、「最終的には結ばれる二人の関係性の展開は自然か」です。

前者について。
僕はBLを、「日常の中に絶望を持ち込む装置」と捉えている。普通、人間の深い感情を描こうとしたら、何らかの非日常を舞台の中に持ち込む必要がある。難病や死や大災害などなんでもいいのだが、そういう非日常を描き出すことによって、極限状況下での人間の有り様を描くことが出来る。特に恋愛などはそういう傾向があって、その物語から人間的な深い何かを引き出そうとする時、やはり何らかの非日常を持ち込むことになるだろう。

しかしBLという舞台は、日常を舞台にしても絶望を描くことが出来る装置として働く。
現代社会では、まだまだ同性愛に対する視線は辛いものがある。そういう現実の是非はとりあえず脇に置くとして、だからこそ、同性愛を描くBLという物語は、その設定だけで物語に絶望を組み込むことが出来ると言える。特に、お互いが同性愛者という設定ではなく、一方が同性愛者で、そいつが、同性愛者ではない者(ノンケ)に対する恋心を展開していく、という物語は、日常を舞台にするからこそ映えると思う。男女の恋愛の場合、日常を舞台にしてはまず描けないだろう絶望を、BLという作品は与えうることが出来るのだ。

本書は、戦時中のラバウルという、とても日常とは呼べない舞台での物語だ。だから本来であれば、僕はこの点ではBLとして本書を評価できないはずだった。しかし、戦時中のラバウルという、当時はともかく、現代からすればとんでもなく非日常な舞台を設定することで、本書は、普通のBLではそうそう成立し得ないだろうある条件を兼ね備える物語となった。

それは、お互いにノンケ、ということである。

男同士の恋というのは、普通は、少なくともどちらか一方が同性愛者であり(お互い同性愛者の場合もあるだろう)、同性愛者の側がアプローチしなければまず進展しない。男女の恋愛以上に、放っておいて関係が進むようなことにはまずなりえないのだ。だから、ノンケ同士が同性愛的な展開になることは、普通は考えられない。

しかし本書の場合、戦時中のラバウルという超非日常を設定したことで、「ノンケの男同士による恋愛」という、ちょっと考えられないBLを成り立たせてしまった。そういう意味で、本書の舞台設定は驚異的だと思う。そこまでBLをたくさん読んでいるわけではないが、まさかこんな風に「ノンケの男同士による恋愛」が作品として成立するとは思わなかった。

さて、後者の話に移ろう。
BLを読んでいると、「男同士が結びつく過程」に重点が置かれている作品と、「男同士が結びついた後の展開」に重点が置かれている作品に大別出来ることに気がつく。後者の、「結びついた後の展開」に重点が置かれる場合、概ねそのBLは性描写一色になる。結びつくまでの過程は結構どうでも良くて(正直、なんでこいつらがくっつくことになったのか理解出来ない作品も読んだことがある)、結びついた後のイチャイチャした展開をひたすら届けるような作品はやはり、女ではなく、同性愛者でもない僕にはしんどいものがある。

だから僕は前者の、「結びつく過程」に重点が置かれている作品を評価する。これは、僕が読んだ範囲内では、「同性愛者がノンケを好きになってアプローチする」という展開の物語に多い。男同士だから、友達まではすぐなれる。しかし、そこから恋愛の関係に持ち込むには、この友達という関係を壊す覚悟で進んでいかなければならない。その同性愛者側の葛藤と、相手の気持ちを初めて知った時のノンケ側の混乱や受容の過程など、やはり「結びつく過程」に重点が置かれている方が読み応えがある。

本書の場合は、まさに「結びつく過程」に重点が置かれている作品だと言えるだろう。しかも、先程も書いたように「ノンケの男同士による恋愛」だ。作品として成立させるのは相当難しかっただろう。しかし僕は本書を読んで、浅群と三上が結ばれていく過程は、実にナチュラルであるように感じられた。お互いがお互いを補うかのような存在であり、浅群にとっては喉を潰されて以来ほとんど初めてまともにコミュニケーション出来る相手である。普通は、急速に関係性が進んでもいい。しかし、人生を常に絶望の淵に立って過ごしてきた浅群が抱える深い闇と、生と死を巡ってまるで相容れない二人の価値観が、二人を容易には近づけさせない。しかしそれでも、二人の間には、簡単には言葉にしにくい深い関係性が徐々に築かれていく。その過程がとても良い。

僕は、「BLにしか描けない世界がある」と考えていて、「日常の中に絶望を持ち込む」というのもその一面だ。本書は、BLという形を取らなくても作品を成立させることは出来るだろうが、BLであるからこそ描き出せている価値観もふんだんに描かれていると思う。徒に性描写で埋め尽くすのではない、BLにしか描き出せない世界に触れている。なかなか見事な作品だと思った。

確かに本書にも、同性愛者というわけではない男が読むにはちょっとしんどいなぁ、という性描写的な部分はある。しかし、その部分はかなり少ないし、そこを除けば、この作品がBLであると気づく要素はほとんどないと言っていいかもしれない。BLというフォーマットを使うことで、戦時中の男の極限状況と、絶望的な過去を背負って生きて来た男の有り様を見事に映し出している、そんな印象を受けました。

尾上与一「蒼穹のローレライ」


「重力波」の発見にテンションが上がったので文章を書いてみた

「重力波が発見された」というニュースを、朝のニュース番組でチラッと見ました。
メチャクチャ驚きました。
重力波の検出している研究者がいる、ということは知っていましたが、それは「ほとんど不可能なことをやっている研究者」というような扱われ方だった記憶があります。恐らく重力波が発見される以前から、物理学者たちは、重力波は存在するはずだ、と考えていたと思いますが、しかし同時に、検出するのはほとんど不可能なのではないか、と考えている研究者が大半だったのではないかという気もします。
重力波というものに、そういう印象を持っていたので、僕はこの「重力波が発見された」というニュースにとても驚きました。

以下で僕は、「重力波の発見が何故重要なのか」ということについて、僕なりの理解を書いてみようと思います。ただ、僕は今この文章を書いている時点で、「重力波が発見された」という朝の3分ぐらいのニュースしか見ていません。さらに、一応理系だったし、物理は個人的に好きで色々本を読んできましたけど、専門家でもなければ、そもそも大学も中退しているようなレベルなので、恐らく間違いだらけだと思います。

なので、僕がここで書く文章を鵜呑みにしないでください。
そして、詳しい方がもしこの文章を読んでくれた場合、間違いを指摘してくれると助かります(ただ、指摘するのもアホらしくなるぐらい間違いだらけだったら、そっと無視しておいてください)。



<ニュートンは凄い人だったけど、間違っていた>
ニュートンという、凄い物理学者がいました。「重力波」の話をするには、ニュートンまで遡るのが良いだろうと思います。

ニュートンは、有名なあのリンゴのエピソードから(まあ、捏造だと言われていますが)、重力に関する理論をひらめきました。彼の重力理論は、それはもう素晴らしいものでした。日常生活の中で起こる様々な物理的な現象を、見事に説明してくれるものだったのです。

だから、物理学者は、ニュートンの重力理論を、その後300年間信じ続けました。疑う理由がありません。だって、ニュートンの理論を使えば、なんでも説明出来てしまうのですから。

しかし、そんな状況をひっくり返した人物がいました。それが、あのアインシュタインです。実はアインシュタインは、ニュートンの誤りを指摘したのでした。

<アインシュタインは凄い人だった>
ニュートンも凄い人でしたけど、アインシュタインも凄い人でした。何よりも、それまで300年間信じられていたニュートンの重力理論をひっくり返したのですが、それだけではなく、それはもう山程のエピソードを持つ人物です。史上これほど様々な逸話を持つ物理学者はいないのではないでしょうか。

ニュートンのリンゴと同じく、アインシュタインにも理論を思いつくきっかけとなったエピソードがあります。それは、

「もし鏡に自分の顔を写したまま光速で飛行したら、鏡には何が映るだろうか?」

僕の記憶では、これをアインシュタインは子供の頃に発想したのだったはずですが、記憶違いかもしれません。

<アインシュタインの重力理論(相対性理論)とニュートンの重力理論の関係>
ニュートンの重力理論は“間違っていた”わけですが、“間違っていた”という表現は正確ではないかもしれません。何しろ、アインシュタインの理論だって、これからひっくり返される可能性だってあるわけですから。だから、“正しくなかった”と表現するのが正しいでしょうか。

ニュートンの理論は、僕らの日常生活レベルでは完璧に使えます。今でも、日常レベルの現象の計算には、ニュートンの重力理論が使われているはずです。しかしニュートンの重力理論は、宇宙やあるいは量子など、日常とはかけ離れた現象が起こる環境では役に立ちません。

ニュートンの重力理論は、アインシュタインの重力理論(相対性理論)の近似値みたいなものだと思えばいいでしょう。円周率は3.1415926535…ですが、日常生活レベルでは3.14で計算しても問題ないでしょう。ニュートンの重力理論は、その3.14のようなものだと思えばいいでしょう。

<アインシュタインとニュートンの理論はどこが違うのか?>
僕には、それぞれの理論を詳しく説明できるほどの知識はありませんが、この二つの理論には、ベースとなる大前提に大きな違いがあります。

ニュートンが自らの理論を組み立てるのに用いた大前提は、「絶対空間」と呼ばれるものです。これは、数学の勉強で使う座標軸のようなイメージで良いでしょう。地球を例にとってもいいです。地球上のすべての地点は、「緯度」と「経度」という二つの数字を指定すれば、どんな場所でも正確に指定できるでしょう。こういう空間を「絶対空間」と呼ぶ、と捉えればいいと思います。

ニュートンは、この「絶対空間」を大前提として理論を組み上げました。この背景には、「神が作ったこの世界は完璧だ」というような宗教的な背景があった、みたいな記述を読んだ記憶があります。

しかし、アインシュタインはこの「絶対空間」というものを否定しました。空間は絶対的なものではなく、相対的なものである、つまり、座標軸や緯度・経度などによって指定できるようなものではない、ということです。

アインシュタインは、「空間は歪む」と主張しました。この大前提をベースにして組み上げたのが相対性理論です。そして、この空間を歪ませるものこそ「重力」であり、そして空間を歪ませるその効果のことを、恐らく「重力波」と呼んでいるのではないかと思います。

<「空間が歪む」とはどういうことか>
よく使われる比喩を僕も採用してみることにします。

頭の中に、一枚の大きな布をイメージしてください。真四角なその布を、二人の人間でピンと張って持っている、という状態をイメージしてください。この布を「宇宙」と捉えてみましょう。

ただ布をピンと張っただけのものであれば、何の変化もありません。しかしこの布の上に、例えばサッカーボールを置いてみてください。このサッカーボールこそが地球や太陽などの「天体」のイメージです。どれだけピンと張っていても、サッカーボールを乗せれば布は下に少したわみます。このたわみが、空間の歪みです。

実際の宇宙空間でも、これと同じことが起こっているそうです。三次元だとイメージしにくいですが、空間の中に重量を持った天体が存在することで、その天体による重力によって空間が歪むのです。

実際の宇宙空間は、その布の上に様々な重さのボールが存在し、しかも絶えずそのボールが動き続けている、という状況です。布は、一瞬前とはまるで違った形をしていることでしょう。僕らの肉眼では確認出来ませんが、空間は絶えずその形を変え続けている。アインシュタインは、僕らが生きているこの「空間」というものを、そういう存在として捉えたのです。

この布のイメージを敷衍して考えると、ニュートン、空間を鋼鉄の板みたいなものと捉えている、と考えるといいと思います。ボールをいくら載せても歪まず、同じ状態を保っている、ということです。

<相対性理論はその正しさはどのように証明されたのか>
相対性理論は、僕らの日常生活レベルの物理現象には関係のない理論と言っていいです。では、そんな理論が正しいと証明されたのは、一体どんな経緯からでしょうか?文字だけで詳しく説明することは難しいのですが、少しチャレンジしてみます(自信はないので読み飛ばしてくれても大丈夫です)。

ピンと張った布の上に、もの凄く大きなボール(大玉転がしの大玉ぐらいをイメージしましょう)を載せるとします。布は大きくたわみます。その布の端にテニスボールを置いてみたらどうなるでしょうか?テニスボールは、下方に歪んだ空間に沿って、まるで大玉に吸い寄せられるようにして近づいていくでしょう。そして大玉に接したら、後は大玉に沿って動くでしょう。

さて、光は空間に沿って進みます。「光は直進する」と習いますが、それは「光が通ったルートを直線と定義する」という意味に近いです。例えば光は、先ほどのテニスボールと同じようなルートを通って、大玉の近くを通ります。

さてここで、ある天体Xのことを考えてみます。その天体Xは、地球と太陽を直線で結んだその先にあります。つまり、いつもは見えません。
では、日食の時はどうなるでしょうか?日食は、地球と太陽の間に月があり、その月が太陽を隠すことで起こります。その時、太陽からの光は遮られるので、普段は太陽の光で隠れている天体も見えることになります。しかしそれでも、天体Xは普通に考えれば見えません。何故なら、その天体Xは太陽の後ろにあるわけで、いくら日食で太陽が隠されていても地球から見えるはずがないのです。

しかし、太陽の莫大な重力によって、太陽の周辺の空間は歪んでいます。先ほどの大玉を太陽と考えてみてください。ならば、天体Xから出た光が太陽に近づいた時、太陽の重力で歪んだ空間に沿って、その光は太陽を回りこんで地球に届くのではないか?

アインシュタインはこう考え、自らの理論を実証出来る予測をしました。日食の日、太陽の陰にあるために見えるはずのない天体Xの光が見えるはずだ、と予測したのです。そして実際に観測隊がこの現象を観測し、アインシュタインの理論はその正しさが証明されたのです。この現象は、「重力レンズ効果」と呼ばれています。

<相対性理論の正しさは証明されたけど…>
重力レンズ効果の観測によって、相対性理論は正しい理論であることが証明されました。
しかし、それは“間接的に”証明されたにすぎない、とも言えるでしょう。実際に「空間の歪み」それ自体を観測したわけではないのです。だからこそ、「空間の歪み」を直接的に観測しよう、という機運が生まれたのでしょう。とはいえ僕には知識がないので、「重力波」の検出にどういう困難さがあるのか、「重力波」の発見が何に利用できるのか、よく分かりません。





…とここまで書いてから「重力波」についてちょっと調べてみましたが、「重力波」というのは、宇宙を構成する物質の振動だそうで、僕が書いてる「空間の歪みを直接観測する」って話とは全然違うかも、と思ったりしました。うーん、どうなんだろう。

とはいえ、「重力波」の発見は、恐らくノーベル賞クラスでしょうし、「重力波」の発見によってまた物理学上で様々な変革が起こることでしょう。ヒッグス粒子の発見と同じく、また様々な話題を提供してくれるでしょう。

「The WALK」を観に行ってきました

人間の限界は、人間の想像力が乗り越えてきた。

僕らの日常は、<当たり前>に包まれている。それは、常識とか倫理とか空気とか、そういう様々な名前で呼ばれているけれども、一つ重要な特徴がある。

それは、<当たり前>は、意識しなければ見えない、ということだ。

カラスが黒いことにも、太陽が東から上ることにも、インターネットが繋がることも、僕らは普段まるで意識しない。「カラスが黒いなんて凄い!」「太陽がまさか東から上るなんて!」「わぁお、インターネットが繋がりやがったぜ!」なんて反応をする人はいない。それは<当たり前>だからだ。<当たり前>だから、ごく普通の人間には見えない。僕らは、数多くの<当たり前>に取り囲まれた窮屈な存在であるのに、そのことに気づかないで生きていける。

しかし時々、その<当たり前>を軽々と飛び越えてしまう人間がいる。ある意味で人間の限界を規定するその<当たり前>を、一息で乗り越えてしまう。

その狂気こそが、人間を新しいフィールドへと引き入れる。

「ワールドトレードセンタービルの間にワイヤーを張って、その上を綱渡りする」

どうやったらそんなこと思いつくのだろう。

『僕は、ロープを掛ける最適な場所をいつも探していた』

8歳の時に見たサーカスでの綱渡り。それに心を奪われたフィリップは、木の間にロープを張り渡し、お手製の綱の上を、これまたお手製の長い棒を持って綱渡りの練習をした。彼は、8歳の時に見たサーカス団の団長・パパルディに拾ってもらい、綱渡りの指導を受け始めるが、気が合わずに喧嘩別れ。それまで同様パリで、無許可の路上大道芸をしながらなんとか生きていく毎日だった。

その記事を見つけたのは、偶然だった。たまたま入った歯科医にあった雑誌に載っていたのだ。

<NYにツインタワー建設>

その完成予想図は、フィリップの心を踊らせた。パリの街中を歩きながら、常にロープを掛ける場所を探していたフィリップは、このツインタワーを綱渡りすることを生涯の夢にする。

ノートルダム寺院での綱渡りを成功させたフィリップだったが、不満もあった。各国の新聞がフィリップを讃える記事を掲載する中、フランスだけは犯罪者扱いだった。芸術の街が、自分の芸術をまるで理解しない。
しかし、フランスの新聞も捨てたものではなかった。同じ誌面に、ツインタワーが完成間近であることを伝える記事が載っていたのだ。

『この世のものじゃない。諦めよう。終わりだ。この怪物を見ろ』

外観はほぼ完成したツインタワーを、恋人であるアニーと共に偵察に行ったフィリップは、そのあまりの巨大さに慄く。自分が抱き続けた夢は、これほどまでにとんでもないものだったのか。

『無理だ。完全に不可能だ。
それでもやる』

1974年8月6日。決行日を決めた。パリから連れてきた共犯者と、NYで見つけた共犯者。彼らの手を借り、フィリップの一世一代の大芸術の計画が動き出す。

というような話です。

実話を元にした映画を見る度に毎回同じことを書くのだけど、この映画も、真実でなければ物語としてあまりにも嘘くさい、それほどまでに現実離れした話だと感じました。普通の人間は、まずこの計画を思いつかない。思いついたとしても、実現は不可能だと思って足を止めるだろう。ごく稀に、実現可能性を探るべく調査を進める者もいるかもしれない。しかしやはりどこかで歯止めが掛かるはずだ。出来るはずがない、と。

それは、「地上110mを綱渡りする」ということの不可能さだけではないのだ。そもそも、建設中のツインタワーに忍び込んで、ツインタワーの間にワイヤーを張らなくてはいけない。この無謀さは、ちょっと考えただけで理解できるだろう。

どうやって屋上まで忍びこむか、屋上まで物資をどう上げるか、警備員の巡回をやり過ごせるか、ワイヤーを行き来させる方法はあるか、補助ワイヤーはどう固定するか、そもそもツインタワーの間の正確な距離さえ知らない…。

それでも彼らは計画を進め、そして実現に漕ぎ着けてしまう。

観客は、映画になっているくらいだから、この計画は最後まで成功するのだろう、とどこかで思いながら見ているだろう。それでも、何度も、ここでこの計画も終わりか、と感じさせる場面があった。決行日には、とにかくトラブルが続出した。もしかしたら映画用にエピソードを水増ししているのかもしれない、とも思ったけど、エンドロールを見ていたら、著者自身の自伝が映画の原作になっているみたいだったから、現実を大きく歪めるような誇張はきっとないだろう、と判断した。だとすると、よくもまあこれだけトラブルが続発するものだ、と思わされる様々な出来事が起こる。

そもそも当初の計画では、深夜0時にはワイヤーは張り終わっていなければならなかった。そこには、綱渡りの師匠であるパパルディの、絶対に曲げてはならないアドバイスが背景にあった。

『ロープが張れているかは、絶対に自分の耳と尻で確認しろ。確認するまでは絶対に乗るな』

フィリップ自身は一方のタワーでワイヤー張りをしているわけだが、確実にワイヤーが張れているかを確かめるには、反対側のタワーに上ってそちら側も確認しなければならない。

しかし実際にワイヤーが張り終わったのはなんと、決行予定時間の6時さえも越えた朝7時頃だった。当然、ワイヤーのチェックは不可能だ。それでも、フィリップはその一歩を踏み出す。

『想像してしまうんだ。虚空に踏み出したら、一歩を踏み出すことは出来るのかって』

決行日前夜、フィリップはアニーにそう打ち明ける。『君が力をくれないと、こんな綱渡りなんか出来ない』と不安を吐露する。

そのフィリップが、ツインタワーに張り渡されたロプの上に両足を置いた瞬間からの彼の振る舞いは、息を飲むような美しさがある。それはまさに“舞い”とでも表現すべきもので、このワイヤーの上こそ彼が生きる場所なのだと主張するかのようなその軽やかな足取りは、確かに芸術と呼んでもいいかもしれない。

「名探偵コナン」の中で、恐らく古今東西何かの探偵小説で使われた言葉であるはずだが、怪盗キッドがコナンにこんなことを言う場面がある。

「犯罪者は芸術家だが、探偵はそんな芸術家の後を追うだけの、ただの評論家だ」

綱渡りを成功させたフィリップは、地上で拍手喝采に見舞われる。これほど大勢から拍手喝采で迎えられた犯罪者も、そう多くはないだろう。彼を逮捕した警察も、『大した度胸だ。よくやった(Good Job)』と言っていた。判事による判決は、セントラルパークで子供向けに綱渡りを見せることであるし、さらに彼は、ツインタワーの展望台の特別パスをもらいもした。僕は、これが日本だったらどうだっただろう、と考えてしまった。警察は彼を賞賛せず、裁判官は彼に執行猶予付きの刑罰を与え、特別パスも発行されないだろう。彼のしたことは確かに犯罪だが(約100の条例に違反していたそうだ)、しかし多くの人を感動させ、NYに新しい価値観をもたらした。

面白いと思ったのはこの点だ。
フィリップは、NYで共犯者を探している時に、ツインタワーの評判を耳にした。

『どうしてあのビルなんだ?評判悪いぞ。でかい書類箱みたいだって』

しかし、フィリップが綱渡りを成し遂げたことで、恐らくニューヨーカーのツインタワーの見方は変わった。アニーはそんな市民の雰囲気を感じ取って、フィリップにこんな風に語りかける。

『きっと吹き込んだのね。タワーに命を』

実話を元にしている割に、物語性にも富んでいる(もちろん、ある程度の脚色はあるだろうが)。

パパルディは、サーカス団について回ってパパルディの教えを請うているフィリップが練習中に足を踏み外した時、『綱渡り師が落ちるのは、残り3歩のところでだ。着いたと思って気が緩む』と語る。これは、ツインタワーの綱渡りでも絡んでくる。

また、パパルディが命綱なしでこんな綱渡りをするなんて俺は許せない、と激昂した時。フィリップは、かつてパパルディから教わった大事な教えだと言って、その時の自分の気持ちをパパルディに伝える。

『ステージではウソはつけない。観客に心の中を見られてしまう』

これは、見てくれた観客に対して感謝の気持ちを表現するよう、パパルディがフィリップに口を酸っぱくして言っていた時のことを指している。まだ若かったフィリップは、『命を掛けているのは俺だぞ』と言って、観客に対する感謝の気持ちを理解できず、パパルディと仲違いしてしまう。この場面も、ツインタワーの綱渡りである美しい形で結実するものがある。

フィリップの気持ちを知ったパパルディは、フィリップにこう返す。

『お前の綱渡りは、俺には理解できない。でも、きっと意味がある』

そして直接は語られなかったが、このツインタワーが9.11で倒壊したことに対する哀悼の意を示したのだろうと受け取った場面がある。
先ほど、展望台への特別パスをもらったという話を書いた。普通のパスには、有効期限が書かれているのだという。しかし、彼が受け取った特別パスは、有効期限の欄が消されており、そこに

『永遠』

と記されていた、とフィリップ自身が語る場面がある。「永遠は終わってしまった。」フィリップのそんな哀しい気持ちが表現されている場面のように、僕には感じられた。

『俺たちは証明したんだ。何事も可能だと』

フィリップの仲間の一人の叫びが、観客の胸にも自然と湧き上がってくる、そんな映画だと感じました。狂気は時に、人間を新たなフィールドへと導く。それを成し遂げた一人の男のイカれた芸術作品、その目で見てみたかったなと思った。

「The WALK」を観に行ってきました

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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)