黒夜行

>>2016年01月

【本讀乙女 乃木坂46 齋藤飛鳥 | [ booklista ]】の記事について





最近更新された「本讀乙女」に齋藤飛鳥の読書に関しての記事を見つけました。非常に興味深い内容だったので、この記事について文章を書いてみたいと思います。
元記事はこちら

『読み終わった後にモヤモヤする感じの作品が好きです
現実ってスッキリすることがあんまりないなと思っているから』

僕のイメージの中で齋藤飛鳥というのは、全体的にネガティブである乃木坂46というグループの中でもトップクラスにネガティブなメンバーだ。僕が乃木坂46に関して触れたことがあるのは、「ドキュメンタリー映画」「乃木坂46物語という書籍」「乃木坂工事中という番組」「公式ブログ」「いくつかの雑誌」くらいしかないく、正直その中で齋藤飛鳥に関しての記述や発言は多くない。とはいえ、断片的な情報から僕はそういう印象を受ける。

「現実ってスッキリすることがあんまりないなと思っているから」という考え方は、その一つの現れだろうな、と感じる。同じ経験をしても、それぞれに対する人間の考え方・感じ方は全然違う。齋藤飛鳥は、現実の様々な出来事に対して、低い目線で接しているのだろう。僕も基本的に同じような感覚で生きているので、その感覚はとても良くわかる。
そのことがさらに如実に浮き出ている発言がある。

『なんか、人間って期待していたものから裏切られた時にストレスが結構かかるらしいんですよ。そんなことは絶対に嫌だし、もともと17年間生きてきた中で、あんまり世の中に期待しないっていう生き方が身に付いていて(笑)。』

僕は齋藤飛鳥のこういうところがとても好きだ。
僕も、基本的には、人生にはまるで期待していない。自分には常に悪いことが起こると思っているし、何か良いことがあってもそれをすぐには信じられない。それは、齋藤飛鳥が言うように、期待した後裏切られた場合の落差に、自分が耐えられないと思っているからだ。
僕は中学生の頃だったと思うのだけど、「世界中の人間から嫌われている」と思うことに決めた。たぶん当時の僕は、「あの人には好かれてるだろうか?あの人からは嫌われているかもしれない」と、周囲との人間関係にビクビクしていたのだろうと思う。その状態が、僕は嫌だった。だったらいっそ、世界中のすべての人間から嫌われていると思っておけば、そんな悩みからは解放されるだろうな、と思ったのだ。実際に今も、自分のことを誰かが好きになるわけはないだろう、と思っているし、そういう状況があった場合には猜疑心が働いてしまう。んなわけねぇだろ、と。自分をそういう状態、つまり「世界中の人間から嫌われているはずの自分」というものを維持するために、周囲から受け入れられないような価値観をまとって生きていこう、という歪んだ考え方も出てくる。自分でも狂ってるなと思うのだけど、僕自身はそういう生き方の方が楽だと思っているから始末が悪い。

『でも、その方がいっぱい幸せを見つけやすいので、私としてはその生き方でいいんですけど。あんまり万人受けしないっていうのは分かってます(笑)。』

少し違う話をするが、以前知人と、「バカな舌を持ってて得だ」という話をしたことがある。僕もその知人も、「普通の味の食べ物」と「美味い食べ物」と「もの凄く美味い食べ物」の区別がつけられない人間だった。でもそういう場合、何を食べても美味しいって思えるから得だ、と二人で話していた。齋藤飛鳥や僕の生き方も、その感覚に近い。悪い状態を想定している方が、結果的に日常の中に良いものが増えていく可能性が高い。些細な日常であっても、基本的な想定がとても低いので、その中で普通の人には捉えられない良さを感じられる可能性がある。恐らく齋藤飛鳥も、そういう意味で「その方がいっぱい幸せを見つけやすい」と言っているのだろうと思う。

しかしそれにしても、齋藤飛鳥は凄いなと思う。考え方としては齋藤飛鳥と僕の考え方は近いと思う。しかし齋藤飛鳥は、僕とはまるで違う背景を持った女の子だ。本人の自覚はどうかは知らないけど、齋藤飛鳥は凄く可愛い女の子だと思う。それは、数多くの女性誌のモデルに起用されている、という客観的な事実からも判断できる。しかも、AKB48さえも追い越そうとしている、今一番勢いのあるアイドルグループである乃木坂46に所属し、その中でも最近ぐんぐん実力と人気を獲得してきている。さらに齋藤飛鳥は、まだ17歳という若さなのだ。これだけの背景の中で、これだけのネガティブな価値観を維持できているというのは、僕からすれば驚異的だと思う。容姿やアイドルであることを除いたとしても、17歳という年齢に驚く。僕は17歳の頃、まださすがにここまで自分を客観視出来ていなかったはずだ。僕が今のような自分の価値観を、きちんと言葉にすることが出来るようになったのは、たぶん25歳以降じゃないかな。それまでは、色んなことに馴染めずに、でもどうしてそうなのか自分でもイマイチ把握できないまま、うだうだもがいていたような気がする。何故17歳という若さで、これほどの諦念を身につけて、さらに外的な要因に揺さぶられないでいられるのか、しかもそれを自らの言葉で語ることが出来るのか。それを支える齋藤飛鳥という人間の背骨の部分に非常に興味がある。

読書に向かう時にも、この考え方は強く影響を与える。

『自分に何かいいことがあったら、
それ相応のダークさの本を読むようにしています』
『良いことがあると悪いことがあるじゃないですか、必ず。だから、自分にすごい良いことがあった時に怖くなっちゃうんですよ。次はどんな悪いことがあるんだろうって。だからダークなものを読んで、精神のバランスを保つんです(笑)。』

本を読む人間には、様々な動機がある。僕の場合は、本を読むことそのものよりは、読んだものに対して何か考えること、そして考えたことを文章にすることに関心がある。だから正直僕の場合、本でなければならない理由はない。映画でもスポーツでもなんでもいいのだけど、考え文章を書くというのに最も適しているのは読書だと思うので、今日までずっと続いているのだろう。

齋藤飛鳥の場合、本を読むという行為には、「精神のバランスを保つ」という目的がある。良いことがあった時、浮ついた自分を停留させる錨のような役割を求めている部分があるのだろう。そういう意味で齋藤飛鳥の人生と読書は、強く結びついている。別に読書に限らないが、自分の人生と深いところで繋がっていて、切り離すことが出来ないものを持っている者がどれほどいるだろうか?特に若い世代は、スマホやゲームなどに多くの時間を割いている。それらが、「自分の人生と深いところで繋がっていて切り離せない」と感じて続けていることなら、それがどんなものでも人生に強い意味をもたらす活動になるだろうが、若い世代でそれを説明できる者はほとんどいないだろう。結局、他者の存在がなければ自分の言動を評価することが出来ないのであれば、それがどんなものであっても人生と深く結びつくことはほとんどないだろうと思う。

『伊坂さんの作品って、クズみたいな人間が結構出てくるじゃないですか(笑)。でも、そういう人たちをちゃんと懲らしめてくれるので、そこが結構好きです。』
『私、小学校3、4年生の時にすごい性格が変わったんですよ。すごく暗くなっていったんですけど、そしたら読む本も暗くなっていって(笑)。そしたら読み切れるようになったので、“ああ私はこっちなんだ”と思って、それからはずっと暗くて重い本ばっかり読んでました。』

暗くて重い本ばかり読み、クズみたいな人間の存在も理解している齋藤飛鳥は、結果的に他者の悪意にとても強いと思う。価値観の合う仲間内だけのコミュニケーションで完結している人というのは、人間の悪意の広がりについて無自覚であり無知に近い可能性がある。だからこそ、普段自分が関わっているのとは違う、悪意寄りの価値観に遭遇した時に、思考が止まってしまうのではないかと僕は想像している。齋藤飛鳥は、人間がどこまで悪くなれるか、現実がどこまで悪を内包しているのかについて、物語を通じて深く理解しているだろう。だから、「そんな悪意が、物語の枠を飛び越えて自分の生活圏に飛び込んできた」という事実には強いショックを受けるだろうが、「そういう悪意が世の中に存在しているという事実」そのものには恐らく落胆することはないだろう。

齋藤飛鳥は恐らく、自分は弱い人間だ、と考えていると勝手に想像している。現実に立ち向かう勇気も、悪意を許容する器もないし、自分には何も出来ない、と思うタイプの人間ではないかと思う。しかしそれは、人間が持つ悪意の深さを、その広がりを、物語を通じて知ってしまっているが故の反応だ。それを知らなければ、人は自信満々でいられる。だから僕は、自信満々な人間をそこまで信用していない。それは、ただの無知から生み出されていることが多いはずだと思うからだ。僕自身も、自分自身を弱い人間だと考えている。しかし、それでいいのだとも思っている。その弱さは、ある種の武器だ。「無知からくる自信」とは、また違った形の強さを生み出す源泉かもしれないと、多少前向きなことを考えている。

僕は、人間に対して興味が持てないことが多い。齋藤飛鳥も「あんまり万人受けしないっていうのは分かってます(笑)。」と言っているように、僕も自分の価値観が基本的に他者から受け入れられないことを知っている。世の中の大多数の人間と、僕らのような考え方の人間には、決定的な断絶があるのだ。どちらが悪いわけではないし、僕らの生き方が矯正されなければならないということももちろんない。しかし、この決定的な断絶は、僕に、他者との関わりを躊躇させる。僕は、他者と分かり得ないことは当然と考えているが(恐らく齋藤飛鳥もそうだろうと思う)、世の中の大多数の人間は、人は話せばわかりあえるときっと考えているはずで、だからこそ自分では理解の届かない価値観を否定したり拒絶したりする。相手にそういう状態を強いるのは、僕としてもめんどくさいし、だったら強く他者と関わることもないか、と思ってしまうのだ。

しかし、本当にごく稀に、ああこの人は僕と似たような方向性の価値観を持った人だな、と感じる人が現れる。それは、本当にごく僅かで、僕はこれまでの人生でそういう人間に出会ったのは5人以下だ。僕の中で齋藤飛鳥というのは、そういう一人になった。直接会ったことがない人でこういう感覚を抱いたのは、初めてかもしれない。直接会ったことがないから、僕の頭の中の齋藤飛鳥と現実の齋藤飛鳥はまるで違う可能性もある。まあそれならそれでもいい。ホントに、同志として語り合える機会があったらなぁ、と願わずにはいられない。先ほども書いたけど、17歳でこれだけの考え方を持っているというその背骨部分を、掘り下げたいなと思う。
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「空き家」が蝕む日本(長嶋修)

内容に入ろうと思います。
本書は、日本の空き家問題を真ん中に据えながら、不動産業界の実態や騙しの横行、国の住宅政策やその展望、外国の住宅事情など様々な事実をベースにしながら、住処の問題に切り込んでいく内容です。今住宅を持っている人にだけ関わる内容なのか、というとそうではなく、本書は、これから家を買おうと思っている人も絶対に読んだ方がいい内容になっています。

平成20年の調査によれば、日本全国の空き家は410万戸、実に18.9%に上るといいます。これは決して地方だけの問題ではなく、たとえば賃貸アパートに限れば、千代田区が36%とダントツのトップだそうです。空き家が増えれば、治安が悪化したり、景観が悪くなっていったりと住環境に影響を及ぼし、また解体費用などで行政の負担も増します(最近徐々に、空き家を解体する個人に補助金を出す条例が制定されてきています)。

では何故これほどまでに空き家が増えているのか。それは単純で、新築住宅を作りすぎているからです。現在年間で90~100万戸ペースで新築住宅を建設し続けているのですが、日本は明らかな人口減社会に突入していくので、需要と供給が見合わない、という状態になっています。大量に作るが、しかし需要が増える見込みはない。そうであれば、人が住まない住宅が増えるのは自明の理です。

では何故新築住宅の建設数は減らないのか。これにはいくつかの理由があります。
最大の理由は、日本では住宅建設は、最大の経済波及効果をもたらす施策として常に捉えられ続けてきたという点にあります。住宅建設の経済波及効果は2.11倍あるとされ、これは輸出の2.22倍に次ぐ大きさです。これほど経済波及効果があると考えられている経済活動は他にありません。だから政府は、少しでも景気が悪くなると、新築住宅が売れるような優遇策を採ります(面白いのは、本書の中で、住宅建設の経済波及効果を算定した人物の言葉が載っています。彼いわく、その2.11倍という数字は、相当色んな要素を積み増しした結果であり、反省している、とのことでした)。

僕はファイナンシャル・プランニング技能士という資格を過去に取ったのですけど、その中で住宅に関する内容もありました。そこには、確かに新築住宅を買う人への様々な優遇策が載っていました。僕はそのファイナンシャル・プランニング技能士の勉強をしている時に、なるほど国は、とにかくなんでもいいから新築住宅を買わせたいと考えているんだな、と強く感じました。本書を読んで、その考えがさらに補強された感じです。

実際に日本の住宅予算は、その過半が「新築持ち家」に向けられています。日本の住宅政策における賃貸住宅というのは、あくまでも持ち家を持つためのステップという位置づけであり、新築持ち家を買ってもらうことが前提となっている制度設計になっています。このような政策を採っているのは、先進国では日本だけだそうです。日本の賃貸住宅は恐ろしく貧弱で、キッチンやユニットバスなどに、持ち家と異なるグレードを下げた「賃貸仕様」が存在するのも日本だけですし、賃貸住宅に対して国からの家賃補助がないのも日本だけだそうです。
こういう、新築持ち家を購入させる政策に国全体が傾倒しているという点が、一つ新築住宅の建設を押し上げることになっています。

またもう一つ、中古住宅市場が成熟していない、という点があります。ここにも一面では、国の思惑が見え隠れします。たとえば、新築住宅の購入であれば、その全額がGDPに算入される。しかし、たとえば個人間の中古住宅の売買は、基本的にGDPに含まれないので、いくら中古住宅が活発に売買されようと、日本という国の経済的な成績には関係がない。だから国は中古住宅の市場にさほど関心がない。

また、不動産業としても、中古住宅の売買よりは新築住宅の売買の方がより多くの手数料が入る(新築住宅の金額の方が大きいことが普通なので、当然でしょう)。不動産業は、一つの取引における手数料の受け取りについて、かなり厳密に決まったルールが存在します(この中身については、本書ではさほど詳しく触れていませんが、僕は宅建も取ったことがあって、その勉強の過程でこの手数料のルールについても知っていました)。この手数料の問題は、不動産業界の騙しの横行の温床でもあるのですが、またそれは後ほど触れます。

欧米諸国はと言えば、中古住宅市場は成熟しています。本書には日本・アメリカ・イギリス・フランスの新築住宅着工数と中古住宅取引数を比較した棒グラフが載っているのですが、日本が新築住宅の建設100に対して中古住宅の取引が大体10未満ぐらいであるのに大して、他の三国では、新築住宅の着工100に対して、中古住宅の取引が2倍から8倍ほどあります。明らかに、中古住宅の取引の方が住宅販売のメインを占めているわけです。また本書には、過去にした住宅投資の累計額と、現在の住宅資産の総計を比較したグラフも載っていますが、アメリカでは過去の闘志の累計額以上に住宅資産が積み上がっているのに対し(つまり、過去に作った住宅の資産価値がきちんと残っている、ということ)、日本では毎年19兆円ほどの住宅投資を続けながら、住宅資産は19990年頃からほぼ横ばい、一向に増えていません。過去に作った住宅の資産価値の減少分が、新築住宅の建設で積み増される分を遥かに上回っている、ということです。

まあ、それは当然と言えるでしょう。日本では住宅は、新築の時が最も高く、人が住んだ瞬間に2割減、10年で半値、そして25年で資産価値ゼロ、という査定をすることになっているのです。欧米諸国では、リフォームなどをすることで住宅の価値が維持されたり、あるいは逆に新築時よりも増したりすることもあるのですが、日本ではそのようなことはありません。

何故そんなことになっているのか。それは、住宅の査定をする人間が、基本的に住宅のことを何も知らないからです。

僕ら一般人は、不動産業の誰かが、家の状況や立地などあらゆる条件を考えあわせて、家の値段というのがきちんと決められている、と考えるでしょう。しかし、それは幻想です。不動産業にいる人は基本的に不動産の価値を査定できるほど知識を持っている人はいません。それはその通りです。何故なら、先程も書いたように僕は宅建を取ったことがあるのですが、その宅建の試験では、住宅の資産価値を判断できるような勉強項目は一切ありません。本書を読む限り、不動産業に就職しても、それを先輩などから教わることはないようです。

では彼らはどんな風に値付けをしているのか。まず、築年数などから大雑把な数字を出し、また周辺地域の住宅の値段を調べる。そして会議で何人かで、まあこれぐらいじゃない?みたいな話し合いをして値段が決まるのです。著者いわく、不動産の値段は実にいい加減に決っているそうです。

しかし銀行が金を貸すではないか、と考える人もいるでしょう。銀行は、家の資産価値を判断して、それに見合った融資をするのではないか、と。何故なら銀行は、住宅融資の際に家を担保にするからです。取りはぐれた時に家の資産価値で借金を帳消しに出来るように、融資前に不動産の資産価値を判断しなければならないではないか、と。

しかしそれも違います。銀行は、不動産に対してお金を貸すのではなく、あくまでも人にお金を貸します。人の属性、つまり公務員なのか自営業なのか、そういう部分で判断されます。だから、不動産の資産価値を判断する必要などないのです。事実銀行の融資部門は、不動産の査定などしないそうです。

欧米では、住宅ローンは家を手放せばゼロになるそうです。これは日本とは違い、家の資産価値を見極め、それに見合った融資をしているからです。借りた本人が借金を返せなくなっても、適正な査定をした不動産を銀行が引き受ければ損は出ない、そういう仕組になっているのです。欧米諸国では、不動産エージェントという職業が存在し、弁護士や医者並の社会的地位があるそうです。不動産の価値を正しく見極める彼らの存在が、欧米諸国の中古市場を成り立たせているのです。欧米では、10年で半値などという雑な値付けはしないのです。

このように、新築住宅建設に傾倒しすぎた国の政策と、中古市場の未成熟によって、新たに新築住宅が建設され続け、同時に、一度作られた住宅がやがて資産価値を失い放置される、という状況を生み出しています。これで空き家が増えないわけがない、というのが多くの人の実感ではないでしょうか。起こるべくして起こった状況なわけです。しかしそれでも、国は長期的なビジョンを持たず、不動産業界も現状を変えず、このままの状態が続いていくことでしょう。空き家問題の根本の原因は、解消されそうにありません。

本書では、不動産業界の実態についても触れられています。著者は、不動産業界の行き過ぎた有り様に嫌気がさして、新しい形で不動産と関わるべく自ら会社を立ち上げた人です。だからこそ、現状の日本の不動産業界の実態について指摘することが出来ます。

先ほど触れた手数料の問題が大きく関わってきます。不動産取引の手数料には、片手と両手というものがあります。片手は売り主から(あるいは買い主から)のみ手数料をもらうこと、両手とは売り主と買い主両方から手数料をもらうことです。不動産取引には様々なルールが存在し、その中で、片手の手数料になる場合、両手の手数料になる場合というのが決められています。正直業界的には、片手の手数料では経営的にやっていけない、というのが大手であっても本音なんだそうです。だからこそ業界はみな、両手の手数料を狙う。そのために彼らがやっているのが、物件情報の囲い込みです。

売り主から依頼があれば、不動産業者は原則的に、不動産業者全体が見ることの出来るデータベースに依頼のあった不動産情報を載せなくてはいけない決まりになっています。こうすることで、売り主がより早く買い主を見つけられる仕組みになっているのです。しかし、データベースに情報を載せるということは、同業他社が買い主を見つける可能性があるということであり、そうなると片手の手数料しか入らなくなります。だから不動産業者は、意図的に物件情報をデータベースに登録しないというやり方が横行しています。これは明らかなルール違反ですが、しかし不正とまでは言えないという微妙な部分らしいのですが、透明性を担保し、不動産取引をよりスムーズに行うという理想状態を阻害する大きな要因になっているのです。業界全体のこのあり方のせいで、売り主も買い主も適切な情報を与えられないまま不動産売買をせざるを得ない状況に陥っているのです。本書には、それを回避するための方法も載っていますので、是非読んでみてください。

本書は、欧米諸国と比べるまでもなく、日本の住宅事情がいかに貧弱で、短期的な短絡だけで進められているということが実によく理解できる内容になっています。不動産の売買が、人生で一番大きな買い物だという方は多くいるでしょう。また、地方の衰退や空き家の増加による治安などへの影響に感心がある方もいるでしょう。そういう人たちに基本的な情報を提供してくれる内容になっていると思います。何らかの形で不動産と関わっている方は、是非読んでみてください。

長嶋修「「空き家」が蝕む日本」


怒り(吉田修一)

内容に入ろうと思います。

八王子で、ある殺人事件が起こる。被害者は尾木という夫婦で、犯人は犯行後六時間も現場に留まった。その間ほぼずっと全裸で過ごしていたと考えられている。貴重品は盗まれておらず、また冷蔵庫の中の食料が食べられていた。浴室には、被害者の血を使って「怒」という字が書かれていた。犯人は日付が変わった午前1時過ぎに尾木邸を後にした。その後すぐ、無灯火運転で検問中の巡査に呼び止められ、逃走。以後行方は知れない。
男の名を、山神一也と言う。
房総の漁港にある漁協で働く槇洋平は、歌舞伎町のソープランドで働いていた娘の愛子を引き取りに行った帰りだ。四ヶ月前ふらりと姿を消して以来だ。こんなことが、もう何度もある。洋平は、愛子を不憫だと感じている。幼稚園の頃、少しだけ知恵遅れ気味だと言われたことがある。愛子は、連れ戻されてからは大人しくしている。
二ヶ月ほど前、この漁港にふらりとやってきて、仕事がないか訪ねてきた男がいる。訳ありだろうと思ったが、前に働いていたというペンションのオーナーの紹介状を持っており、また人もちょうど足りなかったところで、漁協で働くようになった。黙々と働く男で、特に変わった様子もない。しかし次第に、戻ってきた愛子と仲良くなっているようだ。
男の名を、田代哲也という。
藤田優馬は、頻繁にパーティに出向く。都会の片隅やビーチの砂浜でそれは行われている。若い男たちばかりの集まりで、気が合いそうな者をみな物色している。優馬は、自分がゲイであることを、真剣には隠してはいない。比較的、オープンにしている方だ。窮屈だと感じたことは、あまりない。いつでも、仲間とつるみながら、一瞬の欲望を謳歌している。
ある日新宿の発展場で、一人の男と出会った。何が気にかかったのか、優馬にも分からない。レイプのようなセックスをして、それから優馬はその男を家に呼んだ。それから、一緒に住むようになった。そいつと出会ってから優馬は、派手に遊ぶことが減り、そいつとの時間を大事にするようになった。兄夫婦や、入院中の母にも会わせた。優馬には未だに、そいつがどんな存在なのかよく分からない。
男の名を、大西直人という。
小宮山泉は、母とともに、沖縄の離島である波照間島までやってきた。ほとんど、夜逃げみたいなものだ。ちょっとだらしない母がしくじってしまったせいで、名古屋にいられなくなってしまったのだ。母は、「波照間の波」というペンションで働かせてもらい、泉は波照間高等学校に転校した。
同学年の知念辰哉という少年に誘われて、波照間島からボートで行ける星島という無人島に行った。着いた途端寝転がってしまった辰哉を置いて、泉は島を散策する。廃墟みたいな建物から、薄汚い男が現れて驚いた。その男は、そこに住んでいるのだという。自分がここにいることは出来るだけ内緒にして欲しいと泉は頼まれた。何故か泉は律儀にその約束を守る。
その男の名を、田中信吾という。
八王子署の巡査部長である北見壮介は、八王子夫婦殺害事件の担当だ。テレビ番組の公開捜査でインパクトのある手配写真を公開して以来、情報提供の電話が鳴りっぱなしだ。捜査は完全に行き詰まっていた。これからは、この電話の情報を一つ一つ潰していくのが捜査のメインとなる。
山神の足取りは、ほとんど掴めていない。
というような話です。

なかなか凄い物語でした。しかし、この物語の凄さは、なかなか伝えにくい。凄い作品なのだけど、ある程度読み進めないとその凄さが伝わらない作品だと思う。正直僕は、上巻を読んでいる間は、この作品の良さがイマイチよく分からなかった。刑事のパートを除くとして、三つのまったく無関係の物語がただ断片的に描写されているだけのように思えて仕方がなかったのだ。それぞれ、田代哲也・大西直人・田中信吾という、経歴不詳の謎の男が登場し、読者は、この三人の誰かが山神一也なのだろう、と考えながら読んでいくことになる。しかし、逆に言えば、それしかこの三つの物語を繋ぐものはない。上巻の間は、その三人が特に目立った動きをするわけでもない。実にじれったい物語だと感じた。

しかし、読み進めていく中で徐々に、この物語が持つ破壊的なパワーに気付かされた。
読みはじめは皆、本書を、三人の内誰が真犯人なのか、という視点で読み進めるだろう。しかし読んでいく中で次第に、この三人は主人公ではない、ということに気づくはずだ。確かに、物語の大きな枠組の中で見れば、田代哲也・大西直人・田中信吾の誰が山神一也であるのか、という命題が作品に底流している。しかし、個々の物語を個別に見ていけば、彼ら三人は主人公ではない。
何故なら、彼ら三人が直接的に誰かに影響を及ぼすわけではないからだ。端的に言ってしまえば、この三人は、ただそこにいるだけなのだ。

では、個々の物語では一体何が起こるのか。それは、彼ら三人がそれぞれいる場所での、幸福の崩壊である。そして繰り返すが、この三人は、その幸福の崩壊に、直接的には関わらないのだ。
この構成は、凄いと思った。

それぞれの物語の中で、三人は基本的には余所者であり、物語の中核を担うのは、そこでそれぞれ人間関係を築き上げている人たちだ。彼らはそれぞれに、些細と言えば些細だが本人的には重大な様々な問題を抱えている。しかしその問題は、ある種の膠着状態を見せていて、そこにいる者たちに、積極的にどうにかしなきゃいけないと思わせるほどの強さはない。

しかし、それぞれの場に、三人の余所者がやってくる。彼らは余所者らしく、それぞれの地域の邪魔にならない程度にひっそりといる。次第に彼らは、それぞれのコミュニティに馴染んでいくのだけど、しかしそれでも、その地域の生活を脅かすような不穏さを醸し出すわけでは当然ない。
しかしそれぞれの場所で、そのまま続いてもおかしくないはずだった幸福が崩壊していく。

確かにきっかけは、三人の登場にある。この三人が、それぞれの場所に顔を出さなければ、その幸福の崩壊は決して起こらなかっただろう。しかし、彼らはあくまでもきっかけであって、原因ではない。原因は、元々そこに生きていた者の内側にある。
人を信じる、ということの困難さが、根本にある。

三人の登場がきっかけとなって、一部の人たちが拭い取ることの出来ない疑惑を抱き続けることになる。その背景にはもちろん、やってきたのが経歴不詳の人物である、という点にあるが、それだけでなく、様々な要因が複雑に絡み合っていく。一度囚われた思考から自力では抜け出せず、しかし容易に他人に話せるような内容でもない。目の前のこの男は、一体何者なのか。どんな過去を持っていて、何故今ここにいるのか。災厄をもたらすようなことはないのか。
ほとんど妄想でしかない考えに囚われ、取り憑かれてしまう。そうかもしれない、という思考が四六時中頭から離れず、しかし同時に、そんなはずがないという思いも加わって、思考が散り散りになる。

人間とは、過去の積み重ねの産物なのだと、改めて感じさせる。目の前にいる人物から直接的に過去が見えるわけではない。決して、五感で捉えられるようなものではない。しかし人間は、現在の姿以上に、誰かの過去を気にする。よく働き、問題も起こさず、人当たりもいい人物が目の前にいても、その人物の過去が知れない、過去を隠しているというだけで、何故か信じられなくなっていく。何故なのか。結局人間というのは、過去を積み重ねることでしか人生というものを形作れないのだろうと思う。目に見えなくても、耳で聞けなくても、過去というものは人間の存在を鋭く規定していて、人はそれを無視出来ないということなのだろう。
そこに、誤解の生まれる余地がある。

一つの誤解が、別の疑惑を呼び、いくつもの疑惑が集まって、不審へと変わっていく。信じたいという気持ちと、もしかしたらという気持ちがないまぜになって、自分の内側がぐるぐるしてくる。余所者の登場によって気持ちをぐちゃぐちゃにされた人たちの直面した現実は、確かに特殊ではある。僕らの人生に、直接的に関係してくるようなものではない。

しかしこの作品は、読者に鋭い疑問を投げかけてくる。
「お前は、周りにいる人間の、一体何を知っているというのだ?」という問いを。

僕らは、親や教師や友達や同僚や趣味仲間と、喋ったり遊んだり議論したり喧嘩したりする中で、様々な価値観を交換する。生い立ちや物の考え方や行動原理を開陳する。その中で、相手がどんな人物であるのか見極める。見極めているつもりになる。

しかし、それらがすべて幻想であると分かる瞬間が来るかもしれない。本書はそう突きつけてくるのだ。お前は本当に、あいつのことを知っているのか?何を知っていれば、一人の人間を“知っている”と言えるのか?あいつのことを、知っているから受け入れているのか、それとも、受け入れているから知っているつもりになっているのか、どっちなのだと問いかけてくるのだ。

作品に内包されるこの問いが、読者を揺さぶっていく。読者は、三人の内の誰かが山神一也であることを知っている。三人とも、凶悪な殺人を犯したとは思えないような日常を送っている。それでも読者は、この作品が要求する通り、この三人を常に疑いの目で見る。だからこそ、ちょっとした違和感でさえも過剰に反応する。読者は、この三人の誰かが山神一也であることを知っているからこそ、彼らの振る舞いに騙されることはない。
しかし、登場人物たちには、彼らを疑う理由がない。余所者だからというだけでは、彼らに疑いの目を向ける強い理由にはならない。彼らは、読者が殺人犯であると疑っている人物を知り、受け入れる。あるいは受け入れ、知っていく。そういう中で彼らはやがて、疑問を抱くようになる。「お前は、一体誰なんだ?」と。

読者と登場人物の明らかな立場の差が、読者を不安定にする。登場人物たちは、読者が信じるべきではないと感じている人物と深く関わっていくことになる。止めておけ、と読者は思う。しかし同時に読者は、止めておけと言える根拠がないことにも気づく。読者にしても、三人の内の誰かが殺人犯であるということしか知らない。残りの二人は、恐らく殺人犯ではないだろう。この残り二人と関わることを止める理由もない。また、たとえ殺人犯であっても、そんな素振りをまるで見せない人物との関わりを止める真っ当な理由も思いつかない。

ずっとこびりついたまま拭い去ることが出来ない違和感と並走するようにして、読者は読み進めていくことになる。これは、新鮮な読書体験だった。今まで真剣に考えることのなかった、「誰かを知っている」ということの境界線のようなものを、読んでいる間意識させられ続けた。SNSなどが広がることで、様々な“自分”を生み出し、発信することが出来るようになった世の中にあっては、その「誰かを知っているとはどういうことか?」という問いはより深い意味を持つことだろう。

「誰かを知っているとはどういうことか?」という問いを自らに突きつけ続け、問いかけすぎて自分が何をしているのか分からなくなった頃自滅していく。そうやって、幸福は崩壊していく。田代哲也・大西直人・田中信吾の三人は、主人公かと思われた三人は、やはりどこまでも余所者で、余所者程度の影響力しか持たない。結局は、人間の弱さの物語なのだ。誰かを信じることが出来ない未熟さの物語なのだ。余所者の登場は、最初のきっかけを作ったに過ぎない。あくまで僕の中ではだが、読み進める中で主人公が入れ替わっていくような感覚があって、斬新だと感じられた。

三つの物語は、最後の最後まで無関係のまま終わる。この構成も凄まじい。三つの物語はそれぞれ、ほんの僅かなかすりさえ見せないまま、個別に終わっていく。三つの物語を繋ぐものは、読者の中にしかない。山神一也かもしれない、という読者だからこそ知っている知識の中にしかない。それにどの物語でも、三人の内面は一切描かれることはない。彼らは主人公ではないが、ある種主人公的な立ち位置に置かれてはいる。それなのに、一切内面描写がなされない。僕は、東野圭吾の「白夜行」を連想した。主人公二人の一切の内面描写を排除し、彼らと関わった人物の側からの描写だけですべてを描き切った「白夜行」と同じく、本書は、主人公的な立ち位置の三人を、周りにいる人間の描写を通じて描き出していく。三つの物語を一切関係させない構成、そして三人の内面描写を一切しない描き方、それで一つの物語としてまとめ上げた本作は、小説の技量と言う意味でももの凄いものがあるという風に感じた。

「殺人犯“かもしれない”」という現実を提示することで、人間の弱さを炙り出す。「自分も巻き込まれる“かもしれない”」という不安に囚われた者を描写することで、社会の不寛容を描く。無関心と濃密さがまだら模様のように交じり合う現代社会の中で、隙間を見つけて身を潜める者と、余所者の存在を受け入れようとする者とが織りなす日常は、やがて崩壊の音を響かせることになる。その奇妙な予感を抱きながら読み進める読者に、この物語が一体何を残すのか。あなた自身で読んで、体感して欲しい。

吉田修一「怒り」





スクールウォーズ 落ちこぼれ軍団の奇跡(馬場信浩)

内容に入ろうと思います。
本書は、ドラマ化され人気を博した同名ドラマの原作となった作品です。本書はノンフィクションであり、京都市立伏見工業高等学校という、荒れくれ者しかいなかった高校のラグビー部を、たった6年で全国優勝に導いた闘将がメインに描かれる物語です。

山口良治は、突然京都市立伏見工業高等学校に赴任することになった。それまで京都市役所の職員だったのだが、子どもにラグビーを教える良治の姿をみた伏見工業高校の校長が、担当者に音を上げさせて無理やり引っ張ってきた男だ。
良治は、日本有数のラガーマンであり、引退後のビジョンも持っていた。社会人チームから監督の要請が来ており、給料も市役所の職員とは比べ物にならない条件だった。しかし、伏見工業高校の校長に強引に体育教師にさせられたのだ。

『行けというなら地獄へでも行く。だが、誰が好きこのんで伏見工業高校なんかに赴任するもんか。ケンカ、傷害、バイク事故。どれをとっても伏見工業高校の生徒が顔を出さぬものはない。そこの体育教師だなんて、いくら体があっても足りんのじゃないか』

良治のそんな予感は当たる。グラウンドを見ると、ラグビーポールは四本ともすべて折れており、部室に入ると、ラグビー部の主将だという男が横柄な口調と態度で良治に突っかかってきた。授業中に麻雀をやったり、死人が出てもおかしくないようなルール無用のラグビーをやっている連中を見ながら、良治は、最初はコーチのような立場として、そしてやがて監督としてチームに関わるようになっていく。
荒れた生活、作りこまれていない身体、まだ芽生えもしない信頼関係。良治には、良いと思えるような要素はほとんど見当たらなかった。それでも誰もが、とりあえず練習には出てきた。良治のキツイ特訓に耐えてきた。その努力はやがて実を結び、地区代表、そして全国大会へと駒を進めていく…。
というような話です。

全体的にはなかなか面白い作品だと思いましたけど、ちょっと足りないんだよなぁ、という感覚もあります。ブラッシュアップしたらもう少し良い作品になりそうな気がします。

個人的に一番気になったポイントは、伏見工業高校がどれだけ悪い高校だったのか、イマイチよく分からない、ということです。この当時の高校の様子を知っている世代の人には、説明なしで通じる部分なのでしょう。また、著者自身は、ラグビーの部分をメインに描きたかっただろうから、敢えてそこは削るという判断をしたのかもしれません。それでも、山口良治という男の凄さを読者に伝えようとしたら、伏見工業高校がどれだけ酷かったのかという話をしないと、ちょっと弱い気はしました。本書には、伏見工業高校全般の話については、ケンカやバイク事故などがあるという風に書くのだけど、ラグビー部員についてのそういうエピソードはない。まあ、個人の話であるから書きにくいという側面があるなら、もう少し他のやり方でもいい。どうにかしてもう少し、立て直す前の伏見工業高校の酷さについて書いて欲しかったなという感じはする。

あと、これは僕自身の問題ではあるのだけど、正直ラグビーのことがまったく分からないので、試合の描写やポジションの説明なんかは基本的に理解できなかった。これは、難しいポイントだ。ラグビーをある程度知っている人には、細々説明するのはスピード感を殺すことになるし、とはいえ何も説明しなければ初心者が理解できない。そのバランスをどうするのかは著者や編集者の決断だろうし、そこに彼らなりの理由があれば責めるべきポイントではないと思っている。ただ、初心者である僕は、本書の記述では、ほとんどラグビーについては理解できなかったなぁ、と思う。試合はスピーディに描写する方がいいだろうからいいにしても、ポジションの説明ぐらいはどこかでまとめてしてくれても良かったかな、と思う。「CTB」とか「ロック」とか「フッカー」とか書かれても、どこの何をするポジションなのか、全然分からない。

立て直す前の伏見工業高校の悪さが分からなかったという点を除けば、良治がもたらした変化というのは凄いと思いました。悪かったかどうかはともかく、伏見工業高校のラグビーは弱かった。良治が監督に就任した年、地区で最強の強さを誇る花園高校に、112対0という大敗を喫したことがある。完封である。良治はそこから、5年で全国優勝を果たしている。かつてまったく歯が立たなかった花園高校をあっさり蹴散らして全国に進んでいく姿は見ものである。

良治には、教師というものの姿に、ちょっとした理想を抱いている。それは、「生徒を信じる」ということだと僕は感じた。

『(母親の何気ない一言で傷ついた経験から)たった一言がどれほど心を傷つけ、希望を打ち砕くかと良治は身をもって知らされた。この想い出が、子供と接するときの良治の姿勢に色濃く反映されている。』

良治は、生徒を殴る。今ではこういう教師は許されないだろう。しかし、外側からそれをどう判断するかはともかく、殴る側も殴られる側もお互いそれが必要であると了解している。無闇に殴っているのではないと殴られる側は知っており、殴るからには責任があると殴る側は考えている。お互いが殴る・殴れるという関係性の中でコミュニケーションが出来ている。かつていた、生徒を殴る教師には、一定数良治のような教師もいたことだろう。
良治は生徒を殴るが、しかし生徒を見捨てないし、疑わない。一度だけ例外があるが、良治は、信頼こそが大事だと考えており、その信頼の構築を常に重視していた。まあ、愛情を込めて、「あんなに殴ったのに信頼も何もないよ」と言った生徒もいたのだが。

『でも今の俺は教師ではない。これは言える。なぜなら生徒が自分を必要としていないからだ。
ではこの学校にとって俺は必要な存在なのだろうか。それも今はノーだ。しかし、教師が必要なのは、こんな学校こそではないのだろうか。問題生徒のいない学校には教師など要らない。そこには教え屋がいればいいのだ。俺は体育教師だ。体育教師が生徒にぶっつけられるものは、熱情だ、闘志だ、力だ、そして信頼だ。たとえ、ラグビーと切りはなされても…』

こういう教師像は、かつては流行ったかもしれないが、今の若者には受け入れられないだろう。まあ、それは時代だからしかたがない。ただ、時代がどうあれ、良治があらゆるものを犠牲にしてまで伏見工業高校のラグビー部と向き合い、全力を尽くし、最後には結果を出したそのことには、やはり凄さを感じるし、称賛に値すると思う。

『山口監督は私のラグビーというものに対する考え方を根本から変えさせました。ラグビーは男のスポーツだ、なんて格好よさだけに惹かれて、苦しい練習はいや、恐いタックルはいや、そんなふうにチンタラやっとたんです。その私の消極的な性格に、凄いカツを送り込んでくれはったんです。それは勝つという喜びでした。勝つ喜びを味わうためには自分を鍛えなおさんならん。これは苦しいですが、自分は今何かに取り組んでいるという充実感でふくれ上がっていきました』

山口良治の教え子の一人はそう語る。自分の人生を犠牲にしてまで教育をすることの是非はあるだろうし、先程も言ったけど鉄拳制裁の是非もある。しかし、そういう部分をすっ飛ばして、本質的な部分だけを見ると、教育というものが現在失ってしまった何かが、山口良治が実践した教育には溢れんばかりに存在したのだろうな、という感じがする。

『結果の責任は全部、監督に山口良治にある。いいか、後へ引くな。一歩でも早くボールに追いつけ、前へ出ろ。それだけや』

全国大会出場を掛けた花園高校との決勝戦の前に、良治が言った言葉だ。ここまで言えるほど良治にはやってきたぞという思いがあり、また、こんなことを監督に言われたら生徒だって奮起しないわけにはいかないだろう。

本書はラグビーの話ではある。今再度ラグビーがブームになってはいるが、しかしそれでも、ラグビーの話か…と興味を持てない人もいるだろう。確かに、ラグビーを知らない人には、試合のシーンなんかはなかなか辛いかもしれない。けど、本書には、教育とはどうであるべきなのか、という荒削りな理想が描かれているように思います。殴ることを肯定したいのではありません。ただ、山口良治が採用した大きな枠組み、つまり、相手を信じ、お互いの信頼を築き、嘘をつかない、そういうあり方はやはり教育においてもっと大事にされるべきだろうと思いました。そういう、当たり前だけど見失いがちがことを再確認させてくれる物語だと思います。

馬場信浩「スクールウォーズ 落ちこぼれ軍団の奇跡」


コミュニケイションのレッスン(鴻上尚史)

僕は、「世間」とのコミュニケイションが苦手だ。
…と書いても、意味不明だろう。まずこの辺りを理解してもらえるように文章を書いていこうと思う。

本書はタイトルの通り、コミュニケイションのレッスンのための本だ。「人とうまく話すことが出来ない」「自分ではちゃんと話しているつもりなのに相手が全然理解してくれない」「誰かと対立した立場で交渉事を行うのが苦手」というような人に対して、どうしたらその状態を解消出来るのか、そのアドバイスをしてくれる作品です。

『けれど、30年以上演劇の演出家を続けてきて、一つだけ分かったことがあります。それは、「コミュニケイションは技術だ」ということです。技術ですから、やり方次第でどんどん上達するんだ、ということです。
コミュニケイションは、まさにスポーツと同じようにやればやるだけ上達します。間違いありません。コミュニケイションは純粋に技術の問題なのです』

『コミュニケイションが下手なことは、あなたの人格とはなんの関係もありません』

『決して焦らないように。
コミュニケイションの上達は、スポーツの上達と同じなのです。
焦ったり、変わらないことをくさったり、早急に結果を求めては、却ってマイナスになるのです。
なかなか変わらないこと、ゆっくりとしか結果が出ないことをどうか楽しんで下さい。
それが、コミュニケイションの技術を上達させる一番の近道なのです』

これが、本書のスタンスです。このスタンスから分かるように、小手先の会話のテクニックなんかを紹介して終わり、というような本ではありません。コミュニケイションの上達には時間が掛かると言い、小手先のテクニックを知るだけでは結果的にはどうにもならないのだ、ということをまず理解した方がいいでしょう。その上で、何をどう意識して練習を繰り返せばいいのか、そういうことを学んでいきましょう。

さて、本書で最も重要な概念を登場させましょう。それが、「世間」と「社会」です。著者は、日本には(世界的に見ても日本にだけ)「世間」と「社会」(さらに、「世間」が流動化した存在としての「空気」)という層が存在して、その層毎にコミュニケイションのやり方がまったく異なるのだ、ということを指摘します。

それぞれ、定義してみましょう。

『「世間」とは、あなたと利害・人間関係があるか、将来、利害・人間関係が生まれる可能性が高い人達のことです。
「社会」とは、今現在、あなたと何の関係もなく、将来も関係が生まれる可能性が低い人達のことです。』

要するに、「世間」というのは会社の同僚とか、クラスメートとか、子育て中の母親の公園仲間などです。そして「社会」というのは、同じ電車にただ乗ってるだけの人とか、全然関わりのない人などです。

欧米には「社会」しか存在しないそうです。だから欧米人は、状況や誰と会話をするかによってコミュニケイションのあり方を変えることはない。しかし日本には、「世間」と「社会」という別々の層があって、それぞれで通用する話し方や言葉が異なるということが、コミュニケイションを難しくしていると指摘するのです。

さらに著者は、日本における「世間」は今、中途半端に壊れている、と指摘します。中途半端に壊れているからこそ、コミュニケイションに支障を来たす場面が様々に存在するのだ、という話を著者は自分の考えや様々な実例を挙げて展開していきます。

それを踏まえて、もう一度僕の冒頭の話に戻りましょう。

僕は、「世間」とのコミュニケイションが苦手だ。
僕は、外から見ただけではまず分からないだろうコミュニケイション障害(自分でそう自覚してるだけで、診断されたりしたわけではない)を抱えている。
それは、初対面の人間や関係性の薄い人間とはいくらでも話せるけど、関係性が近くなるに連れてどんどん話せなくなっていく、というものだ。

恐らく、世の中の多くの人は真逆だろう。初対面ではぎこちなくて、でも仲良くなっていくに連れて話しやすくなっていくだろう。
僕にはその感覚は、あんまりない。

僕はたぶん、子どもの頃から、「世間」とのコミュニケイションに違和感を覚えていたと思う。家族と話す時も、クラスメートと話す時も、なんか違うな、という感覚をずっと捨てきれないでいた。

大人になって振り返ってみると、その「なんか違う」という感覚は、「仲間内でしか通じない言葉や価値観」に対する違和感だったように思う。
この、「仲間内でしか通じない言葉や価値観」の圧力みたいなものは、どんどん強くなっているように思う。普段そういう状況の中にずっぽりはまっていて、違和感を覚えることがない人にはまったく理解出来ない感覚だと思うのだけど、LINEのスタンプや略語や顔文字など、仲間内で特定の意味を持たせた“言語”でやり取りすることの気持ち悪さみたいなものが、僕にはずっとある。みんなが同じものを評価して、毎回同じような展開の話で笑うような会話の流れに違和感を覚える。僕はそれよりも、お互いがどういう前提の元に立っていて、お互いの違いを理解して、その上で相手がどんな考えを持っているのか聞いたり、自分がどんな価値観を持っているのかを話す、という方が好きだ。僕がまた話したいと思う人は、「どんな話をしても共感してくれる人」ではなく、「基本的に違うことを理解しつつ、違うことを尊重できる人」だ。

「仲間内でしか通じない言葉や価値観」が多用されるのが、「世間」という場所だろう。僕が好きな、「お互いの違い」を出発点に話をするのは、「社会」という場所だろう。

ただ僕は大人になるまで、「世間」でのコミュニケイションに苦手だ、という事実に気づかなかった。それはそうだ。子どもの頃というのは正直、「社会」に触れることがほぼないからだ。色んな理由で「社会」に触れる子どももいるだろうけど、学校と家の往復で勉強ばっかりしてた子ども時代の僕には、周りに「世間」しかなかったのだ。
だから僕は、「世間」でのコミュニケイションではなくて、コミュニケイション全般が苦手なんだとずっと思っていた。しかし、徐々に「社会」と関わるようになる中で、少しずつ僕は、「社会」での方がコミュニケイションがうまく行くような気がする、という自分を発見していくことになった。

僕が得意なコミュニケイションというのは、「スキマを埋める」である。以前関根勤がテレビで、「自分はパテ芸人だ」と言っていたことがある。パテのように、その場の状況や会話の間を埋めるのが自分の役割だ、みたいなことを言っていて、凄く共感したことがある。僕も、同じような部分がある。その場にいる人間のポジションや、全体の雰囲気なんかを考えて、その場に足りない役割を自動的に選びとってしまう。又吉直樹は、「周りが喋れば自分は喋らないし、周りが喋らないなら自分が喋る」みたいなことを言っていたことがあるけど、僕もまったく同じである。

ただこれは、「世間」でのコミュニケイションでやるとめんどくさい。その場に足りない役割を、ずっと押し付けられるような格好になってしまうことが多いように思う。その点「社会」でのコミュニケイションなら、自分のポジションが固着することは少ない。その時と同じメンバーが揃うということはないだろうし、であれば僕のその場その場での役割もどんどん変わる。そういう部分で気が楽なのかなと思っている。

徐々にそういう自分を自覚していった僕は、今ではSNSの類はほぼ止め(ツイッターだけはアクティブに使ってた時期があったけど、もう使ってない)、「世間」に取り込まれないように気をつけている。また、周りの人と異なった振る舞いを意識的にやるようにもしている。「世間」というのは、同じような価値観を持っている人同士で作り出されるだろうから、自分自身に異質な振る舞いを課すことで、これも同じく「世間」に取り込まれないようにしているのだ。

そして僕自身も、そういう「世間から意識的に外れようとしている人」、あるいは「普通に生きているつもりなのに何故か世間から外れてしまう人」に興味を抱くことが多い。一言で言えば、「世間」をなるべく避けている人だ。むしろ、そういう人じゃないとなかなか関心が持てない。

もちろん僕も、完全に「世間」でのコミュニケイションを拒絶したいわけではないし、「社会」でのどんなコミュニケイションも得意なわけではない。とはいえ、全体的には、「世間」でのコミュニケイションは苦手で、「社会」でのコミュニケイションは得意だ。本書は、あくまでも「世間」と「社会」を区別して考えろ、と書いているだけで、どちらか一方におけるコミュニケイションについてしか書かれていないわけではない。けど、ざっくり言うと、「社会」でのコミュニケイションの方法の方に比重が置かれているように思う。そういう意味で、僕にとってとても有益な本というわけではない。しかし、「世間」と「社会」を区別して、それぞれに合わせたコミュニケイションを採るべきであるという考え方そのものに凄く関心したし、コミュニケイションに悩んでいる(特に「社会」でのコミュニケイションに悩んでいる)人に勧めたい、という気持ちになるという意味で本書は実にオススメだ。

「世間」と「社会」の違いについては、その区分が本当にくっきりするようになってきた。「世間」の人とは、LINEやFacebookで繋がって濃密にやり取りする。そして、そうではない人はすべて「社会」であって、「社会」に属する人とは基本的に関わらない。そんな人間関係が、むしろ当たり前になりつつあるように思う。
僕は、この状況はとても恐ろしいと、何度もこのブログで書いたことがある。

かつてインターネットなどというものが存在しなかった頃は、住んでいる場所が近い、というだけの理由で学校に集められて、まるで価値観の合わない人とそれでも友達になるしかなかった。近くにいる人以外と友達になる手段が、極端に限られていたからだ。
だから、異質な人とも、無理やりにでも関わる必要があり、そういう中で他者とのコミュニケイションのやり方を学んでいったはずだ。

しかし今は、「近くにいる価値観の合わない人」を無視して、「遠くにいる価値観の合う人」と友達になれる時代になった。「価値観の合わない人」と僅かであっても関わるのは無駄で、そんな暇があれば「価値観の合う人」と濃密な時間を過ごしたい。そういう価値観がどんどん増していると思う。そのためのツールも、次々に現れ、大勢が使うことによって、そのツールの使用を許容するだけではなく、「「価値観の合う人」と濃密に過ごすことは良いことだ」という価値観を肯定する雰囲気が作られている。

そんな時代に生きる僕らが、コミュニケイションに障害を抱えるのは、ある種当然のことなのである。異質な人と関わらずに、仲間内だけで喋れば喋るほど、どんどん言葉を費やす必要がなくなってくる。前提や価値観を共有していない人に話す時には10の言葉を費やさなければ伝わらないことでも、仲間内なら2ぐらいの言葉で伝わってしまう。それは楽だし、濃密だけど、しかしはっきり言ってそれは、コミュニケイションではない。正確に言えば、「世間」のコミュニケイションではあるのだけど、「社会」のコミュニケイションではない。「社会」のコミュニケイションの経験が圧倒的に不足しているのだから、コミュニケイションが下手になるのも当然だ。

『「人間は分かり合えないのが普通の状態だ」と思うからこそ、分かり合えた時はとても嬉しいのです』

これはまさにその通りだと思うのだけど、「価値観の合う人」と話すのが日常になっていると、「人間は分かり合える」という感覚が根付いてしまうだろう。だから、自分の価値観が通じない、「社会」に属する人と出会うと、すぐに遮断してしまう。

『あなたとわたしがどう違い、けれど、どう歩み寄れるかを知るために、コミュニケイションのスキルを獲得するのです』

まずこの大前提を理解しましょう。この大前提が理解できなければ、あなたはコミュニケイションのスタートラインに立てません。
日本と欧米のコミュニケイション本を比べた時、明らかに一点、決定的に違う点があると著者は書きます。
それは、日本のコミュニケイション本にはほぼ間違いなく、「分かり合えないことを前提にしましょう」と書いてある、というのです。
欧米のコミュニケイション本には何故その記述がないのか。それはつまり、彼らにとってそれは確認するまでもない、当たり前のことだからです。大前提だからです。人間なら話せば分かる、と思っているのは、もしかしたら日本人だけなのかもしれません。

「どんなに言葉を費やしても分かり合えないかもしれないなら、コミュニケイションなんて無力だ」 そんな風に感じる人もいるかもしれません。僕には正直、その気持ちはよく分かりません。共感できることよりも、自分とは違う(そして大多数の人とも違う)価値観を持った人間と出会えることの方がよっぽど楽しいと思います。元々僕みたいな考え方を持っている人間にとっては、「社会」でのコミュニケイションは特に苦痛ではありません。むしろ、同質化を強要されているように感じてしまう「世間」でのコミュニケイションはしんどさを感じます。

本書には、コミュニケイションに際して具体的にどうすればいいのか、という話もたくさん書かれています。「常に笑顔である必要はない」「まず挨拶をすること」「共感しながら聞くこと」「面白い話をする必要はない」「丹田に力を入れること」など、書いてあることは割とどんな本にでも出てきそうなものばかりです。そういう、具体的な手法の部分で、特に目新しいような部分はありません。ただ本書は、「世間」と「社会」をきっちりと定義し、この二つが存在することでコミュニケイションに支障を来しており、またそのことに気づいていないから改善が難しいのだ、という気付きを与えてくれる作品です。その気付きを得た上で、どんな本でも当たり前に語られる色んな手法を試すことで、理解や定着が早いだろうな、という感じがします。本書は、ただのテクニック本ではない、という点で、非常に価値がある作品だと思いました。

コミュニケイションに自信がなかったり不安を感じている人は、もちろん読んだ方がいいでしょう。でも僕は、誰よりも、コミュニケイションに自信があったり不安を感じていない人が読むべき本かもしれない、と感じました。「世間」で凄く良くコミュニケイション出来ているから、自分にコミュニケイション障害があることに気づいていない人というのは、結構いるのではないかと思います。そういう人は、本当に読んだ方がいいと思います。僕自身は、「社会」でのコミュニケイションはそこそこ出来るので、「世間」でのコミュニケイションの特訓をしなくちゃいけないんだろうと思うんだけど、「世間」というものが持つ特徴にどうにも違和感を覚えてしまいやる気が起こりません。困ったものです。

鴻上尚史「コミュニケイションのレッスン」


「白鯨との闘い」を観に行ってきました

物語は、メルヴィルがある一人の男を尋ねるところから始まる。後に「白鯨」とい小説を世に発表する、あのメルヴィルである。
メルヴィルが尋ねたのは、エセックス号最後の生き残りであるトム・ニカーソンだ。メルヴィルはニカーソンに手紙を何度も送り、エセックス号の話を聞かせてくれるよう頼むが埒が明かず、押しかけるようにしてやってきた。全財産を持って。
メルヴィルが聞きたかったのは、エセックス号の沈没の謎である。ただの座礁だと伝わっているエセックス号の沈没だが、なんらかの理由によりメルヴィルはそれは嘘だと確信している。しかし、いくら押してもニカーソンは話そうとしない。帰ろうとするメルヴィルをニカーソンの妻が押し留め、夫の話を聞いて彼を救ってやってほしい、と頼んだ。妻の口添えもあって、ニカーソンは重い口を開く。
ニカーソンが語る捕鯨船・エセックス号の物語は、船長であるジョージ・ポラードと、一等航海士であるオーウェン・チェイスの物語である。
前回の捕鯨で、鯨油を1000樽持ち帰ったチェイスは、船主から次こそは船長に指名されるはずだった。しかし、エセックス号への乗船を求められたチェイスに与えられたのは、一等航海士。またも約束を反故にされた。立ち去ろうとするチェイスを、次こそは船長にするという約束を書面で交わし、納得させた。
船長に指名されたのは、捕鯨の町・ナンタケットで、捕鯨の歴史を切り拓いた一家の後継者である。船乗りとしての経験はチェイスの方が遥かに上だが、家柄だけの理由でポラードが船長に選ばれた。
出航後すぐにやってきたトラブルをチェイスは見事にやり過ごし、乗員たちをうまく指揮して船を掌握していく。一方のポラードは、船長であるという気位だけは高いが、チェイスほどの手捌き・口捌きを見せることは出来ずにいる。二人の関係性は、出航直後から暗雲立ち込めていた。
そして、決定的な事態が引き起こされる。やってきた嵐を避けるべきだと主張したチェイスに対し、船長は船が予定より遅れていることを指摘して、嵐にそのまま突っ込めと指示したのだ。
結果、船は沈没こそ免れたものの、大破してしまう。さらにポラードは、その責任をチェイスに押し付ける。それでも、鯨油を持ち帰らなければという二人の目的な合致しており、彼らはクジラを求めて、ダメージを負った船と、ギクシャクした関係性を載せたまま航海を続けるのだが…。
というような話です。

詳しくは知らないけど、メルヴィルが実際に「白鯨」を書く際に参考にした史実を元にした映画だという認識を僕は持っています(もしかしたら史実ではないかもですけど)。映画自体も、「物語」という感じではなく「ドキュメンタリー」という感じに近いです。

僕がそう感じた一番の理由は、船員同士の感情的なぶつかり合いがほとんど描かれていない、ということにあります。

もちろん僕は、船乗りや捕鯨船の人たちが普段どうであるのか知識はありません。船の上で乗組員同士で無益な争いを続けていれば航海に支障を来たすという理由で、昔から暗黙の了解として、船の上では争わない、というような知恵が継承しているのかもしれません。船長や一等航海士の権限があまりにも強く、一乗組員が口出し出来るような雰囲気でない、という可能性もあるでしょう。だから、以下の僕の指摘は的外れなものかもしれません。

映画の中では、船長のポラードは明らかに無能で、一等航海士のチェイスは明らかに有能です。乗組員とすれば、鯨油という成果を確実に持ち帰るために、そして何よりも自らが生きて帰るために、船長ではなく一等航海士の指示を聞きたいと思うでしょう。しかも船長は一度、嵐への対処で失態を犯しています。尚の事、一等航海士の指示に重きを置きたくなるでしょう。
しかし、映画を見ている限り、船長の指示は絶対です。一等航海士のチェイスでさえ、船長の指示には逆らえないようです。であれば、表立って不満を言い募るのは無理でも、乗組員同士陰でとか、あるいはチェイスにだけは愚痴を零すとか、そういうことがあってもおかしくないでしょう。船乗りには、逃亡犯のような荒くれ者も混じっているようなので、なおさらそういう不満の噴出や暴動みたいなことがあってもおかしくないと思います。

実際にそういう動きがあったのかなかったのか、それはともかくとして、この映画ではそういうシーンはほとんど描かれていません。船長のポラードと一等航海士のチェイスのいざこざでさえ、映画の冒頭で描かれて以降ほとんど描かれません。この映画を「物語」として描こうとしたら、そういう人間の醜い争いみたいなものは間違いなく組み込んでくるでしょう。人間の愚かさを描き出すことが出来るし、展開に緩急をつけることができるからです。しかし、この映画ではそうはしません。実際に暴動などがあったとしても、そこを削って、事実の細密さを取った。僕にはそんな風に思えました。それが僕がこの映画を、「物語」ではなく「ドキュメンタリー」だと感じた理由です。

そういう観点に立つと、この映画は、物語的な展開という点では弱いと思います。ストーリーだけ取り出した場合、観客を惹きつける要素というのはほぼないと言っていいでしょう。ニカーソンがメルヴィルに対して真実を語っているという体裁を取っているわけで、全員ではないにせよ、乗組員の何人かは最後には助かるのだ、ということもあらかじめ分かっています。だから、「物語」として捉えた場合には、この映画はそこまで響かないかもしれません。

しかし、「ドキュメンタリー」として見れば、圧巻だと感じました。もちろん、本当のドキュメンタリーではないので、現実そのものが持つ強さではありません。鯨の群れや嵐の中でもみくちゃにされる船など、映画の中で凄さを感じさせる部分の多くはCGでしょう。だから僕も、実際には「ドキュメンタリー」ではないということはちゃんと分かって観ています。

それでも、「ドキュメンタリー」であるかのような圧倒的な強さを感じる。たぶんそれは、先ほど触れた、物語性を排除したことも大きく関係するだろうと思います。物語性を極力減らし、事実(だとされるもの)の羅列に徹することで、この映画は、フィクションでありながらドキュメンタリーが持つような力強さを獲得したのではないかと思うのです。

実際に、映像の迫力は凄いです。嵐の中で翻弄される船、鯨の群れに取り囲まれる船、鯨を仕留めるための奮闘、そうした場面すべてが、まるで本当に捕鯨船に乗り込んでその場で体感しているかのような感覚を与えてくれます。

その中で僕は、人類の凄さを感じました。

捕鯨船がどのように鯨を仕留めるのか、僕は知りませんでした。映画を見て、ちょっと驚きました。彼らは、母船であるエセックス号から小舟を出し、それをオールで漕ぎながら鯨を追います。そして、数百メートルもある長いロープの先につけた銛を鯨に突き刺し、逃げる鯨が引くロープが伸びきる直前まで待ち、鯨が逃げるのを諦めたところを仕留めるのです。
それを見て、よくもまあ人間は、鯨を獲ろうなんて考えたものだなと感心してしまいました。
鯨は、小舟と同じくらいの大きさはあるでしょうか。鯨に襲われれば、小舟はひとたまりもないでしょう。そんな中、体の大きさがあれほども違う生物を仕留めようと考えた人間の神経を僕は正直疑いました。そして、あんなデカイ生き物でも、人間の知恵と勇気を結集すれば仕留めることが出来るのだ、という事実が、人間を過信させたのだろうな、とも感じました。
結果その過信が、「白鯨」との出会いを招いたと言えなくもないでしょう。

思っていた以上に、「白鯨」との邂逅もシンプルに描かれていました。僕はこの映画は勝手に、白鯨と人間との闘いがメインになっていると思っていたので、そういう意味では少し肩透かしをくらいました。とはいえ、白鯨との闘いもシンプルに描かれるからこそ、ドキュメンタリーが持つ強さを醸し出すことが出来たのだろうと思うし、不満というわけではありません。

ある場面で、船上で乗組員がくじ引きをする場面があります。なんのためのくじ引きをしているのかは書きませんが、この場面での彼らの葛藤が非常に印象的でした。何度も同じことを書きますが、この映画はドキュメンタリーであろうとする意識がきっとあっただろうから、極限状況における人間の有り様についても、決して過剰には描かれません。映画とは思えないくらい、淡々と展開されていきます。しかしそれでも、あのくじ引きのシーンは、分かりやすく写し取られている感情はほとんどないのだけれども、その場にいた人間の葛藤や後悔がにじみ出るようにして描かれているなと感じて、凄みさえ覚えました。

似たようなことを感じた場面に、ある別れのシーンがあります。旅立つと決めた者と、残ると決めた者の別れの場面です。ここでも過剰さは排除されますが、去る側も残る側も、口や表情には出せない感情が渦巻いているのだろうということが感じられて、圧倒されました。映画の最後で、ある男が約束を守ったのだということを知って、ホッとしたのと同時に、自分に同じことが出来るだろうかとも考えてしまいました。

観ながら、メルヴィルの「白鯨」に興味が湧きました。ニカーソンの話を聞いたメルヴィルが、どんな風に彼の話を物語に仕立てたのか、知りたくなりました。たぶん僕は、実際には「白鯨」は読まないでしょう。興味はあるけど、古典作品を読むのが苦手なことと、仕事との兼ね合いで読んでいる時間がないからです。いずれ読もう、という気持ちは持ち続けようと思います。

物語性を求めると、もしかしたら退屈に感じられる映画かもしれません。事実の圧力を体感しに行く映画だと思いました。

「白鯨との闘い」を観に行ってきました

2時間でおさらいできる日本史 近・現代史篇(石黒拡親)

内容に入ろうと思います。
本書は、「2時間でおさらいできる日本史」の続編で、近現代史に絞った内容になっています。具体的には、幕末のペリーがやってきた辺りから東日本大震災まで描かれています。
僕としては、前作の「2時間でおさらいできる日本史」は、正直頭に入ってこなかったです。元々歴史が異様に苦手だということもありますが、縄文時代から現代までの歴史を圧縮しすぎているので、断片の連続という感じで、一つの繋がった物語として捉えることが出来なかったからでしょう。個々に面白い部分はありましたけど、全体的には前作はちょっと辛かったな、と。
でも本書は、歴史の流れを頭の中で構築しながら読めたように思います。幕末以降に絞っている分、断片と断片を繋ぐ間の部分も充実した記述になっているように思うし、単純な時系列ではなくて、それぞれの話題のまとまり毎に話が進んでいくので、そういう意味でも読みやすい。前作同様、「◯◯だから△△になった」という流れは非常に分かりやすくて助かります。僕の印象では、歴史の教科書って「何が起こったのか」を記述し続けているだけっていう印象があったんだけど(嫌いな授業だったから碌に教科書も読んでないわけで、ただのイメージでしかないかもしれないけど)、本書の場合、「何が起こったのか」はもちろん書かれているのだけど、それと同時に「何故それが起こったのか」も出来るだけ描こうとしてくれるので、面白いと思いました。

しかし、日本が辿ってきた歴史というのは、ほんのちょっとした要因でそうなったのだなと思うしかないものもたくさんあるのだな、と思う。諸外国の思惑や動き、支配層と民衆の立場や考え方の違い、事件や時代の空気などを背景にした新たな考え方や日本人の国民性など、そういったものがごたまぜになって歴史というものが作られているのだということが伝わってくる。まあもちろんそれは、日本の歴史だけではなくどんな歴史だって同じなわけで、ちょっとした違いで歴史は全然違ったものになってしまうのだろうな、と感じました。

僕は歴史が苦手なので、本書を2時間では読めませんが、歴史を学生時代にちゃんと学んでいて、そのおさらいをしたいということであれば2時間で読めるのかもしれません。僕は機会があれば、またこの本を読み返してみたいと思います。歴史をまったく知らないというのが、ちょっとした劣等感っぽくなっているので、本書を何回か繰り返し読んだら、少なくとも近現代史についてはそれなりに学べるんじゃないかと期待して、いずれ読み返してみたいなと思います。

石黒拡親「2時間でおさらいできる日本史 近・現代史篇」


おこりんぼさびしんぼ 若山富三郎・勝新太郎 無頼控(山城新伍)


内容に入ろうと思います。
本書は、若山富三郎を「おやっさん」として生涯慕い続け、若山富三郎の弟である勝新太郎とも交流があった山城新伍が描く、若山富三郎・勝新太郎の兄弟俳優の話を主軸にした、かつての俳優の世界を描き出す回想録です。

『ぼくは、この二人の影響以外、誰の影響も受けていない。
影響とは、影が形に従い、響きが音に応じることだという。
あの兄弟たちは人にその本当の影響を与えることができた、最後の役者だったということ。そのほんの一場面を、今やっと客観的に記すことができるかもしれない』

山城新伍は冒頭でそんな風に書く。
俳優の緒形拳は、若山富三郎の死に際し、こんなことを言った。

『緒形拳さんがおやっさんの葬式の時にぼくに言った。
「こういう人は、もう出ないね」
たまさか出てきたとしても、テレビのコマーシャルやバラエティー番組に出てくるタレントだけが幅をきかせるような時代には、活躍できる場がないかもしれない』

津川雅彦も、こんなことを言っていた。

『新伍ちゃん、ぼくらはこれから、誰が褒めてくれるのを楽しみに役者をやってったらええんや』

僕は、若山富三郎という俳優を知らなかったが、ここまで言われる存在である。実際本書を読むと、弟・勝新太郎に負けずとも劣らない破天荒なエピソードの持ち主で、周りに大迷惑を掛けながらも憎めない、そんな魅力的な人物であることが伝わってくる。

もの凄く面白い作品だった。解説で吉田豪が、水道橋博士のこんな言葉を紹介している。

『浅草キッド・水道橋博士も、「今まで読んできた全タレント本の中でベスト」なのに、「現在絶版であり文庫化の予定も無く、入手は困難」だから、「このタレント本の金字塔を、世の中から“チョメチョメ”、つまり紛失させない」ために長文の書評を書いたと熱く語っていた』

僕はそこまでタレント本を読んでいるわけではないので、他のタレント本との比較は出来ないのだけど、確かに本書はべらぼうに面白い。「俺 勝新太郎」という、勝新太郎自身が書いた本もあるのだが、それよりも本書の方がよほど面白い。

やはりそれは、山城新伍という他者からの愛が良く伝わる作品だからだと思う。
本書を読めば誰もが理解すると思うけど、山城新伍は若山富三郎に惚れ込んでいる。ごく僅かの親しい人にだけ「おにいちゃん」と呼ばせていた若山富三郎を、役の中でアドリブで「おにいちゃん」と呼んだことがきっかけで、生涯に渡る関係が始まったこと。何故かいつも金がない(誰もその理由を知らなかったらしい)若山富三郎は、よく巡業に出かけるのだけど、山城新伍は、自身が映画で役をもらえそうな時でも、若山富三郎の巡業についていった。若山富三郎が病に伏し、余命わずかという中で、おやっさんを励ますために山城新伍がつく嘘は、実にいい。おやっさんの性格を実によく知り抜いているからこそのハッタリで、おやっさんを元気にさせるのだ。

どこを読んでも、山城新伍からのおやっさんへの愛が感じられる。勝新太郎にしても、若山富三郎の弟というだけでなく、尊敬できる人物として描かれている。この愛と尊敬が、本書を面白くしている。自分がこれほどに惚れ込んだ若山富三郎という人物のことを、もっと良くみんなに知ってほしい。そういう情熱に溢れている。それがベースにあるからこそ、本書のどんな描写も温かい気持ちで読むことが出来る。

山城新伍のベースに、おやっさんへの愛があるからこそ、山城新伍は時に厳しいことを言う。
たとえば、映画関係者に対して。

『かつての名優たちが老けこんで、彼(キムタク)の脇を通り過ぎるだけのドラマを見るのは、正直悔しくてたまらない。
アメリカでは、ジーン・ハックマンもショーン・コネリーも、みんな晩年になってもそれ相応の主役、ヒーローを演じ、人々の楽しまれているというのに…。
それはそうだろう。人生には、年相応のドラマがある。七〇代には七〇代の、八〇代には八〇代のヒーローがいてもいいんじゃないか。若い年代のドラマや映画ばかりでは、おかしいということだろう。
それに比べて日本はどうだ?
死んでから「追悼番組」なんてアホくさい持ち上げはやめてほし。
役者の価値をわかっている作り手が、今の日本にどれくらいいるだろう?』

『三船敏郎さんが亡くなった時も、ぼくはその動かない空気を感じた。
国民葬とか騒ぐ前に、彼の晩年に国際的男優の彼にふさわしい仕事を考えてやったプロデューサーが、監督がいたかを考えた方がいいのではないだろうか。「ボケてるんじゃないか」みたいな言われ方をされて、彼はどんないう淋しかったことだろう。
(中略)
死んでから「大変偉大な人でした」と報じるだけのこの国の冷たさが、風になることもなく、ぼくらの周りに停滞しているのだ』

本書で山城新伍は、役者とは徒弟制度だったのだ、と書いている。かつては、そういうものだった。誰かを親分と定め、弟子入りするようにして演技を磨いていく。しかし今では、タイムカードを押すようにして役者をやっている人間が多い。俳優というものの存在が大きく変わってしまった。それまでの俳優の世界にいた山城新伍にとって、その変化は耐え難いものであったようだ。その変化の一つの象徴として、若山富三郎と勝新太郎の死が描かれているようにも思う。

『みんなスポンサーの言いなりで、若いスタッフとうまくやっていける人ばかりがタレントを名乗っている』

仕方ないと言えば仕方ないのだろう。かつて東映には、ヤクザを辞めて俳優になったようなものも多かったというし、興行は地元ヤクザが仕切るのが当然の世界だった。現代では、そんなあり方は受け入れられないだろう。だから、山城新伍の郷愁が、全面的に正解ということもありえない。けど、本書を読むと、若山富三郎と勝新太郎を失った映画界が本当に失ってしまったものの大きさみたいなものを感じることが出来る。

また、マスコミに対しても矛先を向ける。

『(マリファナの騒動で拘置所から出てきた勝新太郎を取材するために、記者らが自宅に張り込んでいたが、実際は田中春男氏の葬式にいた、という話の中で)
実は田中春男さんが、勝新太郎が芸能界に入る時に尽力した人だったのだ。
勝さんは折にふれ、その話をしていたから、昔からの勝さんを知っている芸能記者なら、必ず葬式に出席するだろうことは、予想がつくはずだ。追いかけるなら、そのくらいの歴史を知っているべきだし、知っていたら簡単にわかることだと思うのだが』

『(おやっさんが一度週刊誌に撮られた時、その編集長を拉致してきたという話のあと、たけしがフライデーを襲撃した話になる)
ある写真週刊誌が創刊された時、その売り文句として“現代の忍者”という表現を使っていた。
ぼくには“忍者”という表現がとても興味深かった。
(忍者は死んでも所属がばれないように顔を剥いだりして死んだ、そのぐらいの覚悟を持って週刊誌をやっているのだろう、という話)
仮にたけし軍団が「フライデー」編集部を襲撃死、
「俺は腹に据えかねてやったんだ」
とインタビューでたけしさんが言ったとしても、
「いや、そんな事実はありませんよ」
ぐらい言って欲しかった。
それをお互いのことにおさめず、警察に訴えてしまう。それはもう忍者ではない。刑事事件なのだから、という反論はもちろんあるだろう。しかし、“現代の忍者”だと思い込んでいたぼくは、あの事件の時、とても落胆したことを覚えている。写真週刊誌の存在が悪いと言っているのではない。ずっと同じスタンスでやっていくならば、文句はない。場合に応じて変わる仕事への姿勢を言っているのだ』

後者については、僕も全面的に賛同するつもりはないのだけど、前者についてはその通りだなと思う。もちろん、自分が記者だったとして、そんなところに頭が回るかと言われたら、たぶん僕は回らないと思うのだけど、しかし、大勢記者がいて、誰一人として田中春男氏の葬式に思い至らなかったというのは、やはり敬意の欠如みたいなものを感じてしまう。芸能人や事件の加害者を「視聴者・読者を喜ばせるネタ・ゴシップを提供してくれる人」という風にしか見ていないから、そんなことになってしまうのだろう。若山富三郎も勝新太郎も、破天荒で周りに迷惑を掛けまくった男だが、一方で他者への敬意を忘れない男だった。若山富三郎は常に金欠でありながら、毎年「1000円」と手書きしたお年玉を様々な人に配っていたし、勝新太郎は端役を演じている役者もきっちり見ては、「次あの役者に台詞をあげてもいいかも」と言った話を切り出す。山城新伍が指摘するマスコミの話は、他者への敬意を忘れた者が良い仕事など出来るはずがない、という教訓であろうと思う。

山城新伍は、ある映画賞の司会をしている中で黒澤明監督批判をしたりと、おやっさんや勝新太郎が貶められたと感じた時には何らかの反撃をしている。それによって、自分の立場が危うくなるかもしれないことであっても、おやっさんへの忠義のために臆することなく彼は反撃する。これほどに愛された若山富三郎という人間にも、これだけ忠義を尽くせる相手と出会えた山城新伍にも羨ましさを感じるし、二人の関係性の深さにはいいなぁと感じることが多くあった。

本書にはべらぼうに面白いエピソードが山程あるので、面白いと思ったものを何でも紹介してたらキリがないので、一つだけ絞ってみます。僕が本書の中で最も驚いたエピソード。

若山富三郎は、理由は定かではないけどとにかく常に金欠で、常時数千万円単位の借金があったようだと山城新伍は言う。「千両役者」というのは、千両稼ぐ役者ではなく、千両使う役者だという意味らしいが、若山富三郎はその例えでいくと、千両稼いで三千両使ってしまうような人だったらしい。
それでも、時折やってくる最大のピンチを、おやっさんは幾度も乗り越えてきた。その度に、このお金を使ってくれと申し出てくれる月光仮面が現れるのだと言う。
さてある日。もう今回こそは本当に無理、どこからも金は湧いて出てこない、けど借金は返さないといけない、という日があった。もうボーッとテレビを見ているぐらいのことしか出来ない。テレビでは、日本興行協会の会長で、ロック座という小屋を日本中に何十箇所も持っている、もの凄い立身出世した女性の話をやっていた。
さてその数日後、山城新伍はおやっさんから、今すぐ来いという電話をもらう。なんだと思って行くと、5000万円から一億円ぐらいの札束が積まれている。それらは、借金取りへの返済で瞬時に消えてしまったが、山城新伍としては、おやっさんがどこからそんな金を工面して来たのかが最大の疑問だった。そこでおやっさんは、驚くべき回答をする。
あのテレビで見た、日本興行協会の会長に借りたというのだ。もちろん、一面識もない。ただ、テレビを観ながら、この人だったら大金を貸してくれるのではないか、と思いついたらしい。それで連絡を取り、実際に金を借りてしまうのだから、凄いものだと思う。

古き良き時代の俳優たちの世界。今よりもルールが緩やかであり、それ故に現代では絶対に許されないようなことが様々にまかり通り、だからこそ人間味溢れる人間関係を持続させることが出来た、そんな時代の雰囲気を、山城新伍は絶妙に活写する。どちらの時代が良い悪いという話ではない。ただ、山城新伍が描き出すこの雰囲気が現代ではもう持続不可能であるという事実に、そして、若山富三郎や勝新太郎のような、誰かの人生を絡めとるほどの魅力と力強さを発する人物が、少なくとも芸能界からはもう現れないだろうという事実に、残念な気分にさせられる。魅力的な人物が、魅力的な人物の存在を許容する時代背景の中で、溢れんばかりの人間味を醸し出す、そんな見事な調和が奇跡的に成り立っていた頃の話を、是非堪能して下さい。

山城新伍「おこりんぼさびしんぼ 若山富三郎・勝新太郎 無頼控」


俺 勝新太郎(勝新太郎)

内容に入ろうと思います。
本書は、あの勝新太郎が、自らの生い立ちや俳優論、マリファナで逮捕された時の話、中村玉緒との馴れ初めなど、自身について語った作品です。
花柳街で生まれ、父は花柳界の長唄の師匠であった。そんな生まれだったから、幼い頃から芸事に触れ、また女性との関わりも様々にあった。歌舞伎などを見てはその凄さを体感し、子どもの頃に同じ女性とセックスをしたことで、兄・若山富三郎と兄弟になったりもした。子どもの頃から枠にはまる人間ではなく、赤ん坊の頃から人に手を貸されるのが嫌だったというが、赤ん坊の頃のことをそこまでちゃんと覚えていられるものだろうか、とちょっと疑問。
映画に出るようになってから出会った、しま子という芸者との恋を情熱的に語り、妻となった中村玉緒とのやり取りを語る。俳優としてどんな風に生きてきたのか、どんな風に映画を作ってきたのかなど、俳優としての独自の考え方も語っていく。

正直に言うと、文章は読みにくい気がする。解説の吉田豪は、『文章で最も大事なのはリズムなので、勝新は「芸事で大事なのは、間なんだよ」というモットーの持ち主だけあって、長唄仕込みのリズミカルな文体もやたらと心地いいし、フレーズの切れの良さもエピソードの面白さも、さすがだった』と書いている。けど僕は、勝新太郎が、暗黙の前提を置いて文章を書いている感じがして、説明不足だなぁと思ってしまった。誰が喋っているのか、その場で何がどうなって話が進んだのか、イマイチよく分からない部分もある。確かにリズムはいいのかもしれないけど、文章はもうちょっと頑張って欲しかった気がする。まあ、そういう部分も含めて勝新太郎なんだ、言われるかもしれないし、そういう評価が許されてしまうような人間だという感じはするのだけど。

そういう時代だったんだ、というような感じで済ませてしまえる部分も半分ぐらいはきっとあるだろう。勝新太郎と同じぐらい破天荒な人間がいたとして、今の世の中では勝新太郎ほど暴れられないような気がする。社会が、勝新太郎のような破天荒さを許容しないような窮屈さを持ってしまっている。勝新太郎は、良い時代に生まれたと言えるだろう。

まあとはいえ、勝新太郎という一人の人間も、やはりとんでもないものだ。僕は座頭市すら見たことはないのだけど、なんとなく勝新太郎に関する色んな伝説を耳にしたような記憶があって、勝新太郎という人物への破天荒なイメージはどこかにずっとある(解説で吉田豪が、本書にはこういう話もこういう話も載ってないじゃないか!と嘆いている部分で羅列してある話だけでも、なかなか凄い)。子どもの頃からそうだったようで、それもまた環境の凄さを感じる。子どもの頃から、勝新太郎のような破天荒さが、ある程度のレベルまで許容されていた、というのは、驚異的なことに思える。子どもの頃(何歳ぐらいなのか分からないけど、結構子どもだと思う)にセックスをして淋病を移されるとか、喧嘩で勝っちゃったから学校に行けなくなったとか、凄い話が色々出てくる。

勝新太郎の周りにいる人間の話もそれぞれ面白い。色んな人間にイタズラを仕掛けた話とか、盗聴器で盗み聞きしてたなんて話も出てくる。自宅が火事になった時、父親が「消すな消すな」って言ってた話も印象的だ。勝新太郎は周りに振り回されることはほとんどないが、唯一頭が上がらなそうな中村玉緒とのエピソードもなかなか楽しい。ひたすらに周りを振り回し続けて、それでも愛され続けた男の様々なエピソードがある。

しかし僕にとってやっぱり一番面白かったのは、役者とか演じるとかについての話だ。

『俺は台本どおり演じることのできない人間だ』

勝新太郎は自身をそう評す。

『台本を読んで覚えたセリフを言う「勝新太郎」なんか、誰もおもしろがらないだろう』

そうも書いている。

じゃあ、どんな風に作品を作っていくのかというと、台本もコンテもないまま演技をしていくのだという。実際に、そういう緊張感の中で撮影をすることはあったようだ。それは、周りに対してもそのスタイルを強要した稀なケースだったようだけど、勝新太郎は常に、定められた台詞というものから自由な場所にいたのだろう。よくそれで作品が成り立って、撮影が進むものだ、と思うのだけど、そういう点では勝新太郎は相当迷惑を掛けたようだ。しかしそれでも、ある時から、勝新太郎が出る映画は次から次へと当たるんだから、使わないわけにはいかない。凄いものだ。

『俳優にとっての、最大、唯一の観客とは、自分自身である。
自分という観客が、認め、よしとするものは誰が何と言おうと、最大の価値なのである』

勝新太郎がどれだけ凄い俳優だったのか、恐らく映画を見ても僕にはイマイチ判断できないだろうけど、何事にも自分なりの考えをもって臨むことが出来る生き方というのは素晴らしいなと思う。

『だから、ひたすら、千里の道を歩き、見つけたものを発酵させ、発表していくほかはない。たとえ、世間すべてに、そっぽをむかれ、うぬぼれ者としてそしられようと、自分自身に恥じない商品価値であり、それを身につけた俳優は本物である』

『役者は影を持っていなくてはいけない。影のない役者は光のない役者だ。
俺は新しい影をつくることから始める。
勝の人生は年がら年中、切羽つまっている。人生の落伍者にいつなるかと楽しみながら、心配して歩いてきた』

生き方がメチャクチャだろうが、破天荒だろうがなんだろうが、自分がこうと決めたカタチがあり、それをひたすらに貫いていれば、そこに道が出来、他の誰かも通るようになる。

『心ある、本当の道をめざす人間は、自分だけの道を歩かなければならない。
あえて、今まで、誰もが歩かなかった道を歩かなければならない』

そういう生き方を、実践することが出来た、という意味で、勝新太郎というのは凄い人物だなと僕は感じる。

勝新太郎についての本は多くあるだろうけど、勝新太郎自身が書いた本というのはそう多くはないんじゃないかという感じがする。文章からでも伝わってくる、勝新太郎という男の凄まじさを体感してみてください。

勝新太郎「俺 勝新太郎」


バッドカンパニー(深町秋生)

内容に入ろうと思います。
本書は、「NAS」―ノミヤ・オールウェイズ・セキュリティという、元自衛官や元警官などを扱う警備会社を舞台にした連作短編集です。警備の仕事も当然するが、実体は民間軍事会社のようなもので、警備から拉致まで、合法非合法に関わらず、金さえ払ってもらえればなんでもやる、という集団だ。女社長で金とスリルに狂ってる野宮綾子を筆頭に、元自衛官で戦闘要員である有道、元刑事で諜報要員である柴の二人をメインに描かれていく。

「レット・イット・ブリード」
有道は、もう死ぬしかないという状況に追い詰められたところを野宮に助けられた。野宮に対して莫大な借金があり、その返済が終わるまでは、野宮が与える無茶苦茶な仕事をこなさなくてはいけない。
古室組は手広く事業を展開する老舗団体だが、このところ賭博場からの売上を盗まれる事案が多発していた。そこで古室組はNASに警備を依頼。有道が派遣されることになった。現金輸送車に乗り襲撃を受けた有道らだったが…。

「デッド・オア・アライブ」
柴は、どういう理由でかは不明だが、野宮に忠誠を誓っている。野宮からの無茶な仕事も、淡々とこなす。
アフムド・イブラヒムというエジプト人実業家から、日本に潜伏しているらしい国際テロリスト、クロード・アムダニを捕獲して欲しい、という依頼があった。かつてクロードらによるテロ行為で妻を亡くし、自身も重症を負った。日本にいると耳にして気が気じゃなくなったのだ。しかし、国際的に手配されているテロリストを民間会社が捕まえるなんて、相変わらず社長は無茶な仕事を受ける…。

「チープスリル」
NASが所有する射撃場で、千石真由という真面目な女子大生相手に、銃の撃ち方や護身術を一通り仕込むこと。これが今回の有道の仕事だ。ここのところしんどい仕事ばっかりだったから、今回は楽でいい。しかし有道は、なぜ千石がこんなことをしているのか、という疑問を拭えない。アメリカに留学するから護身術を、と聞いてはいるが、それにしてもここまでやるのは異常だ。何かあるはずだ…。

「ファミリーアフェア」
石熊哲治の葬儀に、NASの面々は出席している。NASの社員だった男だ。戦闘能力はすば抜けていて、世界的にも傭兵としての評価は高い。葬儀には、様々な人種の人達が、石熊の死を悼んで集まっている。
石熊は、何者かに殺された。あの石熊を仕留められる者となるとよほどのプロか。柴は、社長からの命令で、警察よりも先に石熊を殺した者を見つけるように言われているが…。

「ダメージ・インク」
関東の広域暴力団である印旛会の主流派に属する二次団体の若頭補佐で、裏社会を牛耳る顔役の一人である赤蔵から依頼があり、有道が派遣された。そして有道は、赤蔵のボディガードたちと戦わされている。有道の実力を知りたいという。赤蔵は西海警備保障と事を構えるつもりだと聞いて有道はのけぞった。最凶の武闘派として知られる西海警備保障を敵に回して、生きて帰れるのだろうか…。

「イーヴル・ウーマン」
国会議員である朝比奈から、妹の美桜を調査してくれと依頼がある。良からぬところで美桜を見た者がいるという情報を聞きつけたからだ。選挙に向けて、不安材料は排除しておきたい。柴は1ヶ月にも渡り美桜を監視するが、何も出てこない。しかしある日…。

「ランブリン・ギャンブリン・マン」
有道は久瀬に連れられて、渋谷にある超巨大カジノに足を踏み入れた。誰もこんなところにあるとは想像も出来ないような場所にある。久瀬はカジノを運営する琢真会に所属する男だが、NASにカジノ殲滅の協力依頼をしてきた。有道は、田舎の坊っちゃんという役回りでカジノに潜入するが…。

というような話です。
なかなか面白い話でした。難しいことを考えないで読めるし、基本的に物語はスピーディなのでスイスイ読める。アクション的な展開をする物語だけど、ドンパチの場面があってもそこまで多くはないし、人が死ぬような場面も怖い感じで描かれないので、そういうのが苦手な人でも割と面白く読めるんじゃないかと思います。

物語の構造として、「悪VS悪」となっているところも面白いと思います。NASを率いる野宮は、基本的には悪側の人間でしょう。女でありながら、様々なヤクザや暴力団と敵対しては殲滅するということを繰り返していて、裏社会を牛耳ろうとしているとも言われている。そんな野宮がやっているNASだから、物語も普通の着地をしない。金とスリルを何よりも愛する女は、危険だろうがありえなかろうが、そこに金とスリルがあれば飛び込んでいく。そしてその中で、野宮やNASに都合の良い勝ちを拾っていく。有道や柴はあくまでも駒であって、野宮の考えすべてを教えられるわけではない。有道や柴さえも驚愕するラストを迎えることがあり、野宮という女の底しれなさみたいなものが、話を読み進めるに連れてどんどんと浮き彫りになっていく。

物語の中で、メインで活躍するのは有道や柴なのに、物語全体で強烈なインパクトを残すのはやはり野宮だ。出ずっぱりなわけではない野宮という女キャラクターをここまで強烈なものにしたことが、この作品をうまく立たせているのだなと感じます。

有道や柴は、実際には「ややこしい諜報活動」や「緊迫感のある状況」に身を置いているんだろうけど、ライトな感じのタッチで物語が描かれていくので、あまりそういうことを感じさせない。この点には良し悪しあるだろうけど、読みやすさという点では成功していると思う。もっと緊迫感や重厚さのある物語を読みたいと感じる人もいるだろうけど、恐らくそれはこの作品で著者が狙っていることではないんだろうと思います。

個人的には、有道のパートの方が好きです。野宮は、野宮に対して多額の借金を抱えている有道を本当にこき使います。扱いも結構酷い。そんなわけで野宮は、何か依頼をこなす時に、有道という駒をどう動かすか、という思考で戦略を練ることがよくある。依頼の全体像を伝えず、こうすれば有道はこう動くだろう、みたいな形で手のひらの上で転がされる有道が哀れで、読んでいて面白いです。

さくっと読むにはうってつけの作品だと思います。

深町秋生「バッドカンパニー」


エチュード春一番 第一曲 小犬のプレリュード(荻原規子)

内容に入ろうと思います。
度会美綾は、大学に入学した。同じタイミングで家族が渡英する予定となっていて、美綾は実家にいながら一人暮らしをすることになってしまった。大丈夫だろうか?
ある日美綾は、家の前でパピヨンを発見した。恐らく迷子犬なのだろうと思って、地域のペットに詳しそうな動物病院にも話を聞きに行くが飼い主は分からず。とりあえず飼い主が見つかるまでは美綾が飼ってみることにした。
モノクロ、と名付けたその犬が、突然喋りだした。
正確に言えば、その声は美綾にしか聞こえていないらしい。モノクロは、自分は八百万の神であると言い、人間界について学びに来た、という。今はパピヨンの姿を借りているが、いずれ人間として物質界で過ごしてみるつもりなのだという。そもそも物質界に降りてくる神というのが珍しいらしく、さらにその中で、人間になってみようとする神などほぼ絶無らしい。美綾は、そんなちょっと変わった神と話しているらしい。
状況がイマイチ理解できないまま、モノクロの存在を受け入れてしまった美綾。犬が喋る、ということを除けばそれなりに平穏な毎日を過ごしていたが、大学で再会した小学校時代の同級生からちょっと変わった話を聞いて、美綾は揺れ動く。
有吉智佳というその友人は、同じく大学で再会した小学校時代の同級生である澤谷光秋の背後に幽霊が見える、というのだ。小学校時代、同級生の一人である香住健二が事故で亡くなった。智佳はその幽霊が見えるというのだ。
あの時の事故の背後に何かあるのかもしれない、一緒に調べよう、という智佳の言葉に釣られるように、美綾も調べ始めるが…。
というような話です。

うーん、なんというか、久々に評価不能な作品を読んだな、という感じでした。ちょっとこれは、なかなか厳しい。なるべく僕のスタンスでは、作品が面白くなくても、良い点も見つけようと思って感想を書いてるんだけど、久々にちょっと良い点を見つけるのが厳しい作品に出会った、というのが正直な感想です。

まず何よりも、会話が辛い。この作品の時代設定がいつなのか分からないのだけど、同時代を舞台にしてるならさすがにちょっと現実から離れすぎている。もっと昔の時代を描いているのであれば、まあ許せる範囲と感じられるのかもだけど、でも作中に、そう感じさせるような描写はない。普通に、現代を舞台にしてると思うしかないんだよなぁ。

『有吉さんのこと、美綾から聞いてます。小学生では美綾、みゃあって呼ばれてたんですって?』
『忘れてた。ちーちゃん、病院みたいな場所は苦手だったのでは』

こういう語尾の感じって、登場人物のキャラと合致してるならまあいいんだと思います。実際、「呼ばれてたんですって?」とか「苦手だったのでは」みたいな感じの喋り方をする現代のアニメやマンガなんかもあると思います。でもそれは、そういう喋り方をするちょっと変わった子、という性格と一緒に描かれているはずです。本書の場合、これがデフォルトというか、みんなこんな感じの調子で喋ります。朝井リョウのレベルまで現代感を描写してほしい、とまではさすがに言わないけど、ちょっとこの作品は古すぎる気がします。

会話以外の地の文も、こちらはうまく説明できないんだけど、読んでて凄く違和感がある。たぶん、舞台装置が一切ない芝居を見てるような感じがするからかも、と思います。舞台装置が一切ない芝居だと、自分が何を持っているのか、自分がどこに向かっているのか、いちいち口に出さないとお客さんに伝わらないと思います。そういう感じで、本書の場合、なんというか、なんでも説明しちゃう、という感じがします。
また、主人公である美綾の内面が希薄というか、ぐらぐらというか、なんというかこれもうまく説明できないけど、落ち着きがない。振れ幅が大きいというのか、なんというのか、とにかく、美綾というキャラクターのあり方にどうも受け入れがたい点がある。

そして、ストーリー自体も、うーん、と唸ってしまうようなものだった。パピヨンが喋る、という事実を受け入れるところは、まあいい。けど、幽霊話を発端に昔のことを調べ始める、ってのはちょっと辛くはないか?で、その幽霊話に付き合って、最後の最後の方までその幽霊話始まりの昔の事故の話を引っ張っておいて、結局「幽霊が見えてたのなんてウソ」っていう展開になる(あまりに驚いたのでネタバレしてしまう)。なんだそりゃ?と思ってしまった。幽霊話を発端にしたあれこれの展開の随所に、色々ちょっとそれは無理あるなぁと思わせるような描写があって、さらに最後に、結局幽霊は見えてなかったってオチで、それまで違和感を覚えながら読んできた部分全部ばっさり意味ないものにしちゃう、みたいな感じがあって、ちょっとこれはどうなんだ?って気に凄くなった。

みたいなことを書いてても、ちょっと僕が抱いた違和感はうまく伝わっていないように思う。ここまで、「ちょっとさすがになぁ」という感じを抱いた小説は、本当に久しぶりだと思う。読みながら、昔自分が書いた小説がこんな感じだったような気がするな、って思いだした。つまり、下手ってことである。

唯一僕が面白いと思ったのは、神様だというパピヨンの反応だ。神と人間とは、考え方や感じ方がまるで違うから、神が人間界をどう捉えているのかという話は、まあまあ面白いと思った。

この作品を読んで、良いと思う人もいるのかもしれないけど、ちょっと僕には受け入れがたい作品でした。

荻原規子「エチュード春一番 第一曲 小犬のプレリュード」


「シーズンズ 2万年の地球紀行」を観に行ってきました。

2万年前まで、地球は氷河期だった。氷河期を生き抜いた生物は、ジャコウウシやトナカイなどごく一部。人類も、どうにかこうにかその氷河期を乗り切った。
1万年前、太陽を回る地球の軌道が変わり、氷河期が終わりを迎えた。地球は段々と暖かくなり、氷河期を乗り切った生物たちは、寒い環境を求めて大移動する。
そして地球は、森に覆われるようになる。生物にとって、春の時代だ。
四季折々、様々な生物が様々な姿を見せる。森という豊かな環境に支えられながら、草食動物は草を食べ、肉食動物は他の動物を喰らい、おこぼれに与ろうとする者や、冬でも実をつけるナナカマドで乗り切ろうとする者もいる。生命が誕生し、どうにかアピールして親から餌をもらい、通過儀礼を経て大人になる。群れの掟に従い、また、一人で狩りをし、厳しい冬を乗り越えて、また春を迎える。
人間も、まだ自然の一部であり、森の中で他の動植物と一緒に暮らしていた。
しかし、徐々に人間が他の動物と違う生き方をするようになる。文明を発達させ、森を切り開いて農業を始め、やがて鉄を生み出して戦争を始める。生物にとって冬の時代である。
この生命の2万年の営みを、動物たちの豊かな表情を捉えながら、大自然の中で生きる者たちの姿を映し続ける映画だ。

僕はこの映画に対して謝らなければいけないことがある。

映画を観ながら僕は、こんなことを考えていた。

(凄い映像満載の映画だな。よくもまあ、これだけ迫力のある映像を集められたものだな。これは凄い…って、あれ?今の映像、どう考えてもCGなしじゃ無理だよな。あれ、こっちの映像もそうだ。どう考えたって、これはCGでしょう。普通に考えても、こんなシーン、撮れるわけないんだから。そうかぁ、全部実写なのかと思ってたけど、やっぱCGもあるんだな。
でも、仕方ないか。これだけの映像、全部実写で集められるはずないしな。きっとこの映画は、世界中のあらゆる人が撮影していた映像を集めまくって、その中からストーリーとして使えそうな映像を組み合わせて一つの物語にしたんだろう。そうする中で、どうしてもこれは必要な映像なんだけど、そんな映像ないんだよなぁ、ってものも出てくるだろうし、それならCGで作るしかないもんなぁ。
でも、たとえ一部でもCGがあると、他のCGに思えない映像も、もしかしたらこれもCGなのかも、ってちょっと思っちゃうな。ちょっとそこが残念だ。実写だけで貫いて欲しかったなぁ)

で、映画を観終わった後、すぐネットで調べてみました。
そうしたら、この映画、全部実写だって言うんです。
マジかよ!って思いました。ありえないだろ、と。

例えば、僕が一番最初に「これは実写じゃ無理だ」と思った映像は、こんな感じです。
イノシシがオオカミに追われて猛ダッシュをしている。両者とも、狩られるのを避けるため、獲物にありつくため、全力ダッシュだ。その映像を、真横から並走するように撮影している。映画やドラマなんかで、馬が疾走するのを横から撮ってるみたいな映像だ。
普通に考えて、この映像を撮るためには、地面にレール上のものを設置してカメラマンを載せて、イノシシやオオカミの動きに合わせてそのレール上を移動しないと撮れないはずだ。しかし、野生動物に演技指導して撮ってるわけがないので、「どこでイノシシとオオカミのダッシュが起こるか」なんて誰にも分からない。たまたまレールを設置した場所に、たまたまイノシシとオオカミがやってきて、たまたまその映像を撮れた、なんてことは起こりえないでしょう。だから僕は、これはCGだと判断したのでした。
でも、CGじゃないんだそうです。ホントに?

僕が勘違いしていたことは、実はもう一つありました。
僕はこの映画を、「脚本よりも前に先に映像の素材が存在していて、その映像の素材の中から全体のストーリーを作れそうな映像を選んで脚本を書き、この映画を作った」と考えていました。
しかし、ネットで調べたところによると、実際は真逆だそうです。この映画は、まず最初に詳細な脚本が存在し、どんな映像が必要であるかをすべてリストアップしてから、その必要な映像を撮りに撮影に向かった、というのです。

考えられますか?そんなこと。

ただ、そう考えれば、先ほどのイノシシとオオカミの追いかけっこの映像は、一応納得できます。あらかじめあの映像を撮るつもりでいたのなら、レールを設置して準備していたことに違和感はありません。恐らく生き物の専門家らと、この森のどこにイノシシがやってきそうか、どのルートでオオカミが追いそうかなどを事前に徹底的に調べ尽くして、ベストだと思われる場所にレールを設置したのでしょう。確かにそう考えれば、一応筋は通ります。

とはいえ、そうやって求めている映像を撮るのには、膨大な時間が必要でしょう。狙った通りの場所にイノシシとオオカミがやってくることなんか、ほとんどないのではないかと思います。それでも、そういうやり方で彼らは、必要な映像を押さえていったのです。

この映画には、オオカミの群れが馬の群れを追いかけ狩りをしようとしている映像が出てきます。ネットで読んだところによると、これまでオオカミが馬の群れを追うことは知られていたけど、映像で撮られたことはなかったのだそうです。そう考えると、この映画の制作陣は本当に頭が狂ってるなと思うのです。何故なら、今まで映像で撮られたことがない「オオカミが馬を追う場面」を、映像を撮影する以前、脚本の段階から既に撮ると決めていたことになるからです。妥協しない映画製作人の気概が伝わってくる感じです。

そんなわけで、CGじゃなきゃありえないだろ、と思ってしまうほど、映像は凄いです。撮るのが不可能だ、と感じられる映像ではなくても、ほとんどの映像が動物を至近距離で撮っています。もちろん、遠くからでもズームで撮れるでしょうが、ズームすればするほど、動物の動きに対応することが難しくなります(ズームで撮れば撮るほど、カメラを僅かに動かしただけで画面が大きく動いてしまうから)。撮影する側の心理としては、動物たちがどんな動きをするか分からないのだから、なるべく近づいて撮ろうと考えるのではないかと思います。どこまで近づいて撮っていたのか、それは分からないけど、とにかく至近距離で動物を撮影した映像はもの凄い迫力で、圧巻です。ヒグマ同士がメスを巡って戦ってる映像など、とんでもない迫力で、ちょっと怖いぐらいでした。

ナレーションでストーリーを伝えるのですけど、ただ動物の生態を紹介するに留まらず、それぞれの生物が森という環境の中でどのような役割を果たしているのかという説明もされます。群れを作る生き物、単独で生きる生き物、狩りをする生き物、狩られる生き物。様々な生物の論理が映像で、そして語りで描かれていき、自然というものの壮大さを演出してくれます。

ただ、僕はちょっと疑問に感じてしまう部分もあります。これは、映画に対してではなく、動物学についてです。
たとえばナレーションで、「イノシシが水たまりで泥を全身に塗るのは、ダニやノミを落とすためです」みたいなことを説明されます。でも、僕は、ホントかよ?って思ってしまうんです。誰がそれを確かめたんだ、と。動物がその行動の意図を自ら説明してくれるなら分かるんだけど、もちろんそんなわけはない。じゃあ、イノシシがダニやノミを落とすために泥を塗ってると判断したその根拠はなんなんだ?と思ってしまうんです。ただ遊んでるだけって可能性もあるでしょうよ。
他にも、「オオカミの遠吠えは、仲間とのつながりを確かめるためのものです」みたいな説明がされるんだけど、これもホントか?と思ってしまいます。そんなの、オオカミが喋れない限り、確認のしようがないと思うんだけどなぁ。「オオカミが遠吠えをする」というのはもちろん事実だけど、「オオカミは仲間との繋がりを確かめるために遠吠えをする」というのは事実かどうか怪しいと思ってしまうのです。まあ、そう説明されている以上、なんらかの根拠があるんだろうとは思うんですけどね。

映画には、本当に時々、人間も登場します。初めは、他の生物と同じ自然の一部として、しかし道具を使い始める頃から次第に人間は自然とは離れていき、やがてオオカミを家畜化して、人類の最良の友と呼ばれる犬を生み出したりもする。人間はどんどん、自然を追いやり、破壊する存在になっていく。映画の最後では、その現状に警鐘を鳴らすようにして幕が下ろされます。人間というのがいかに異質な存在であるのかということが、非常に伝わってきました。

映画の最後に、「この映画では、動物に一切危害を加えていません」という表示が出ます。これは、ラスト付近で登場する、人間が家畜を襲うオオカミを銃殺するシーンが出てくることへの対処なのだろうと思います。しかし、CDを使ってなくて、動物に危害を加えてないとしたら、あの走ってるオオカミを銃撃して倒れさせるみたいな映像は一体どうやって撮ったんだろう?とまた疑問が過ぎるのでした。

とにかく、映像の凄さは圧巻です。CGかもと思っても、CGではないそうです。自然の営みを間近で観察しているかのような錯覚に陥る素晴らしい映像を、是非堪能してください。

「シーズンズ 2万年の地球紀行」を観に行ってきました。

料理の基礎の基礎コツのコツ(小林カツ代)

内容に入ろうと思います。
本書は、料理研究家である小林カツ代が書いた、まさにタイトル通りの「基礎の基礎」「コツのコツ」の本です。
本書は、料理をあまりしない人、自己流で料理をやってきた人なんかに向いていると思います。
本書は、「基礎の基礎」「コツのコツ」というだけあって、誰かに聞くのはちょっと恥ずかしく感じられるような、料理をしている人からすれば当たり前のことも盛り込まれています。
たとえば、「強火・中火・弱火」「水にさらす」「キツネ色」「ひたひたの水」「火を通す」と言った、すごく基本的な用語について、どういう状態を指すのかなどを丁寧に説明してくれます。超初心者には非常に助かるでしょう。本書には、「中まで火を入れる」というのを若い人が聞いて、中華料理のように鍋の中で火が立つようにして炒めること、と連想した人がいたというエピソードが載っている。知っているつもりでも、案外覚え間違っていることもあるかもしれない。
他にも、切り方をどう使い分けるのか、道具をどう選ぶのかなど、料理の技術以前の知識について多く触れられているので、本当に入門の入門という感じのする本だ。
とはいえ、そういう話ばかりでもない。もちろん、料理をする人は普通に知っていることだったりするのだろうけど、ほんのちょっとした違いで味が大きく変わる一工夫についても触れられている。例えば、ほうれん草を茹でる時は葉の方から入れるとか、パスタの茹で汁は少し取っておくと絡まったパスタをほぐしやすくなるとか、梅干しがしょっぱい時は前の日にほうじ茶に漬けておくと良いなど、ちょっとしたことで味が大きく変わる話が色々載っている。料理が得意な人でも、すべて知っているということはないだろう。参考になるのではないかと思う。
本書には、料理の知識とは関係ないのだけど、著者のちょっとした発見とか疑問なんかが載っていて、そういう部分は読み物としても面白い。腐りやすいことを「足が早い」と言うが、腐ってしまったものに対して「足が早かった」とは言わないのは不思議だとか、ポン酢という名前はポンカンから来てるのだと思い込んでたのだけど、実はポンスというのがオランダ語で柑橘類を指すのだというような、へぇと思うような話が載っている。料理と長いこと関わっているからこその気づくという感じもあって、こういう部分もなかなか面白い。

料理が得意な人には、知っている話が多くて退屈かもしれない。料理はするけど自己流でやってきてしまったからちゃんと教わったことがない人とか、包丁ぐらいは握ったことはあるけどほとんど料理はしたことないという人にオススメです。ほんの些細なことで味が変わってくるらしいので、料理の奥深さみたいなものを感じさせてくれます。

さて、ついでなので、僕の料理に対する考え方みたいなものをざっと書いてみようと思う。
本書のような本を読んでおいてなんだけど、僕は基本的に、食べることにあまり興味がない。あればなんでも食べるし、なければ食べないでも別に大丈夫。あまり興味のないものにお金を使いたくないので、一応自炊はしてるんだけど、料理と呼べるほどのものは作ってない。とりあえず、自分の腹に入るものを作ればいいので、とにかく適当にやっている。
だから、本書にあるような、こうしたらより美味しくなるよ、みたいな話は、やっぱり興味なかったなぁ。
僕が、料理に関することで今もっとも関心があるのは、「じゃがいも・にんじん・たまねぎ・だいこん+調味料(たまご・豆腐・小麦粉ぐらいはOK)」のみで作れるレシピ本である。
自炊をするようになって、料理の本もいろいろ買って読んでみているのだけど、料理初心者にとってハードルが高いのは、「食材をきちんと用意すること」だと思う。正確に言えば、「腐らせないで食材をきちんと用意すること」だ。どの料理をいつ作って、どれぐらいの材料を使うから、じゃあこれぐらい食材がいるな、みたいなことを考えるのって、結構凄いことなんじゃないかと思う。家庭で料理を作ってるすべての人は凄いと思う。
そこで僕が考えた作戦は、「じゃがいも・にんじん・たまねぎ・だいこん」だけしか買わない、というものだ。じゃがいもとたまねぎは、保存が楽だから常備して起きやすいし、にんじんやだいこんのような根菜は、葉物よりは長持ちする印象がある。適当な量買って家に置いておけば、腐るかどうか心配するみたいなことはなくて便利だと思うのだ。
だから僕は、「じゃがいも・にんじん・たまねぎ・だいこん+調味料」だけで作れるレシピ本が欲しい。料理初心者には、そういうレシピ本ってそれなりに需要があってもおかしくないんじゃないかなぁ、と思うんだけど、そうでもないだろうか。

小林カツ代「料理の基礎の基礎コツのコツ」


さくらだもん 警視庁窓際捜査班(加藤実秋)

内容に入ろうと思います。
本書は、警視庁の「業務管理課」という、主に雑用を請け負う部署にいる久米川さくらが、何故か難事件を解決してしまう、というちょっと変わった警察小説です。上司である正丸、同僚で年齢不詳の美魔女である秋津の三人しかいない課で、同期入社で東大出のキャリアである元加治から捜査の話を聞く中で、さくらは真相を見抜いてしまう、という流れです。

「密室だよ さくらちゃん」
八坂弘弥というひきこもりの男性が死亡した。毒物による死であり、他殺が疑われたが、現場は密室。家族は出払っており、最近変わったばかりというお手伝いさんは弘弥の顔を見たこともないという。彼を毒殺したのは一体だれなのか…。

「不祥事発生! さくらちゃん」
鉢田警察署の署長が謝罪会見を行っている。被疑者が自殺したのだ。小川晴喜は、前夜起こった小競り合いによって男性が一人死亡した事件の犯人だと名乗りでたが、小川は街金に借金があり、その街金のバックに暴力団がいた。警察は、暴力団の組長が真犯人で、小川は生け贄に差し出されただけ、として捜査を続けようとした矢先、小川が自殺したのだ。しかし不思議なことがある。小川は一体、どのタイミングで、自分が真犯人ではないと警察が気づいた事実を知ったのだろうか…。

「極秘任務だよ さくらちゃん」
署内に「マイカップ泥棒」が出没している。給湯室にそれぞれ置かれている個人のコップが、時折紛失するのだ。それだけなら大した事件ではないが、ある時様々な偶然が重なって、人間国宝が作った湯飲みが「マイカップ泥棒」によって盗まれてしまう事案が発生した。さくらは極秘にその湯飲みを探すことになるが…。

「無差別殺人 さくらちゃん」
仲間が企画した結婚パーティで、ピザに盛られた毒で殺されてしまった武蔵一彰氏。そのピザはみなが食べていたにも関わらず、被害者が食べたピースにだけ毒が盛られていたという。これは無差別殺人なのか。武蔵氏を狙った犯行だとすれば、どうやって毒を盛ったのか…。

「容疑者がいっぱい さくらちゃん」
バーのママが殺害された。強盗の仕業かと思われたが、殺された浦山口は周囲の人間に、未公開株の詐欺を持ちかけていたようで、被害に遭った人間が多くいるという。その詐欺の被害者かアリバイのある者などを除いて、10名ほどに絞られたのだが…。

「時間がないぞ さくらちゃん」
硝酸カリウムなど、爆弾の材料が大量に盗まれ、警察は爆弾事件に注意していた。そんな折、さくらが署内で見つけた小さな箱に、窃盗犯からの犯行予告が記されていたことが分かった。今日の5時にどこかで爆弾を爆発させるという。さくらは、業務管理課の仕事をしながら、ふと真相に気づく。まずい、そこには…。

というような話です。

さらっと読む分には面白い作品だと思います。警察小説らしからぬ軽さで、あまり小説を読み慣れない人でもサクサク読めるんじゃないかなと思います。基本的なパターンが踏襲されているので、一話完結型のドラマを見ているような感じで読めるんじゃないかなと。

業務管理課という、刑事部ではない部署を舞台にした作品というのはなかなか珍しいです。横山秀夫が、刑事部以外を舞台に警察小説を書いて、警察小説に革命を起こしましたが、広く捉えればその系統と言っていいでしょう。横山秀夫では、写真を撮るところとか、出納係とか、もう少し具体的な役割がきちんとある部署が描かれていましたが、本書の場合は、ショムニみたいな、とにかく何でも屋、雑用係という感じです。作中でさくらたちがやっているのは、お茶くみとか、応募ハガキの仕分けとか、蛍光灯の交換とか、パトカーの洗車などです。本当に、事務員という感じですね。

普通警察小説では、刑事同士の手柄争いとか、強烈な出世志向みたいなものが、物語を盛り上げる要素として付け加えられるものですが、本書の場合そういうものとは無縁です。さくらは、出世欲はゼロだし、基本的に常に定時に帰ることを目標にしています(だから、元加治から事件について聞いてから、その日の定時までには事件を解決するという、なかなかのスピード探偵です)。自分たちの部署が「離れ小島」のようであることは理解しつつも、その現状を特段嘆いているわけでもありません。それは、正丸、秋津という他の署員についても同じで、警察とは思えない、非常に牧歌的な雰囲気の中で彼らは仕事をしています。

本書の構成的に面白いなと思うのは、各短編で、元加治から持ち込まれる事件だけでなく、業務管理課の誰かが個人的な問題を抱えている、ということです。ある時はさくらが、住んでる部屋の更新に際して家賃が上がる問題と格闘しているし、ある時は正丸が、家族でハワイに行くのだと娘が友達に嘘の自慢話をしてしまった問題について思い悩んでいます。元加治から持ち込まれた事件と、業務管理課の個人的な事件がいい具合に影響して、どちらかがもう一方を解決するためのヒントになるみたいな展開が繰り広げられます。

元加治から持ち込まれる事件の解決も、業務管理課の面々が抱える個人的な問題も、まあ大したことはないのだけど、とにかく警察小説らしからぬゆるい雰囲気の中で、ドジっ子で基本的にやる気のない女の子が事件を解決しちゃう、という設定がそれなりに愉しめる作品です。話としては、最後の爆弾魔のやつが良かったかな。

加藤実秋「さくらだもん 警視庁窓際捜査班」


桃ノ木坂互助会(川瀬七緒)

何かに執着を持つ、ということが苦手だ。モノでもヒトでもいいのだけど、「どうしても手放したくない」とか「離れたくない」とか「どうしても手に入れたい」みたいな感情が、僕にはほとんどない。
だから、何かに執着を持っている人間のことが理解できないし、そして同時に、そういう人を羨ましく感じる。
そのエネルギーみたいなものは、一体どこからやってくるのだろう?僕は、ちょっと欲しいかもと思っても、それにそれなりのエネルギーを費やさないと手に入らないと思ったら、まあいいかと思って諦めてしまう。諦められてしまう。僕もそういう、出会った瞬間からギュンと掴まれてしまうような対象に、ただ出会えていないだけだろうか。
熱を込めて何かを語るとか、周囲のことが視界に入らないくらい没頭してしまう、みたいな経験をしてみたいものだと思う。僕は、それとは真逆の人間だ。誰かが熱く語る話を、それがどんなものであっても興味深く聞き、どんな場にいても常に自分や周囲のことを客観視してしまう。そんな自分のことを嫌いなわけではないのだけど、執着出来る人間のあの熱い感じを羨ましく思うことはある。
執着することは、ある意味で僕にとっては恐怖と結びつく。どうしても、その対象が無くなってしまった時のことを考えてしまうのだ。執着していたレベルの分だけ、ダメージも大きくなる。無意識の内にそう考えて、物事に深入りしないでおこうとしている自分自身の在り方を、時々感じることはある。
執着は、方向を間違えなければ、とてつもないエネルギーとなる。しかし、一度方向を見失ってしまえば、暴走や狂気となることもあるだろう。集団による執着は、なおのこと恐ろしい。

内容に入ろうと思います。
舞台は、神奈川県の東横線沿線の桃ノ木坂町。古くからの住人と新しい住人とが混在する町だ。古くからの商店がまだ頑張って営業している一方で、高層ビルがガンガン立ち並んでもいる。
熊谷光太郎は、そんな桃ノ木坂町の互助会の会長である。「桃ノ木坂互助会」は、60歳以上であり、桃ノ木坂に20年以上住んでいる者にしか加入資格はない。イベントごとや交通整理の当番などを回し、地域と共に生きることで、桃ノ木坂町に積極的に関わろうとする、そんな集団である。警察などの公的機関ともうまく連絡をし、地域の問題を解決する手助けをしもする。
しかし、桃ノ木坂互助会には、裏の顔がある。互助会のメンバーから選りすぐった9名で構成される、通称「特務会」である。特務会の存在は、一般の住人には完全に伏せられている。
彼らの任務は、町に害悪をもたらす“よそ者”を排除することだ。不動産屋やビデオ屋など、住民の情報収集には困らない職業についている者ばかり。彼らは、法律を破ってでも、様々な手を使ってよそ者を排除する。これまでに23名を追放し、19名を改心させた実績を持つ。彼らは、まったくの正義感から、特務会の任務を遂行しているのである。
彼らの新たなターゲットは決まった。驚異的なずぼらで、周囲に迷惑をかけ続けている男だ…。
一方、DV被害に遭った女性のカウンセリングで、ある女性から話しかけられた城内響子。元カレが恐ろしいDV男で、完全にリセットしてやり直したいと思っている響子に、三矢沙月と名乗る女性がアプローチしてきた。「幽霊代行コンサルタント」という仕事をしているらしい沙月は、響子を苦しめたDV男を、2000万円をマックスとして、金額に応じて適切に追い詰めてくれる、という。
沙月は響子からの依頼を受け、武藤遼という響子の元カレを追い詰めることにしたが…。
というような話です。

思っていた以上に面白い作品でした。読みはじめはしばらく、どんな風に物語が展開していくのか、さっぱり読めません。読んでいると、ただ老人たちが町を守るためにちょっと無茶する自警団を作っているだけ、そんな物語に思えてきます。
しかし、読み進めていく内に、その印象はどんどん変わっていきます。

やはり、沙月が登場してくる辺りから、物語はより混沌としていくように感じます。
沙月は、光太郎らの特務会と似たようなことをしているのだけど、目的がまるで違う。沙月の場合、とにかく金だ。金で仕事を請け負って、そしてその仕事をきっちりこなす。相手の精神を追い詰めて、社会的あるいは肉体的に人間を崩壊させる。

双方の状況は、交じり合いそうで交じり合わない。特務会は特務会なりのやり方で沙月は沙月なりのやり方で、必要な任務を遂行していこうとする。

まず前半のこの、人間にいかに嫌がらせを仕掛けていくのか、という過程の部分がなかなか面白い。特務会のメンバーは、自分たちが老人であるということをフルに利用してあらゆる嫌がらせを仕掛けていくし、沙月は、医師免許を持っており、心理学や精神衛生学の知識をフル活用しながら、証拠を残さずに相手を追い詰めていく。

特務会と沙月は、まったく違う背景を持ってこの嫌がらせを遂行している。特務会は、良かったあの頃の桃ノ木坂町を取り戻すという正義のために、そして沙月は、徹頭徹尾金のために嫌がらせを続ける。そして、特務会が“正義”を背景に嫌がらせをし続けている、という点が作中で少しずつねじれていく。
特務会が新たに見つけたターゲットが、特務会の在り方を変質させていくのだ。
彼らには、「町を守る」という正義は絶対である。誰もそれを揺るがせに出来ないほど、強固で否定しようのない正義だ。彼らには、そんな正義を持っているという自負があるし、その自負があるからこそ、面倒で苦労の多い継続的な嫌がらせを続けることが出来る。
しかし、だからこそ脆くもある。特務会にとって史上最強となる今回のターゲットは、特務会に一線を超えさせるのだ。彼らは、絶対的な“正義”を背景に、自らの行動を正当化しようとする。しかし彼らは、“正義”という御旗を振りかざす狂気の集団へと変質して行ってしまう。その過程がごく自然に描かれていくので巧い。

沙月はその点、完全にビジネスであるので、その辺りの捻れはない。ただ、依頼をまっとうするために嫌がらせをする。善も悪もなく、正義も大義名分もない。自分がそんなろくでもない裏稼業に従事しているのだという事実を冷徹に見つめ、それでもなお自分を見失わない強さが、沙月にはある。観察力や洞察力に優れ、医学的知識も豊富であるが故に、27歳とは思えないほどの雰囲気を漂わせる。

そんな完璧な鉄面皮のような沙月にも、ウィークポイントがある。姉の優月の存在だ。
沙月は、優月の存在故に、こんな裏稼業に足を突っ込んでいる。優月がいなければ、沙月の人生はまるで違ったものになっていただろう。優月のいない世界が、沙月にとって幸せなものであるのかどうか、それはきっと本人にも分からないだろう。沙月と優月の関係は、その捻じれ方が異様で、他者が入り込む隙がない。

純粋な正義を盾に狂気へと突き進んでいく特務会と、最初から自身が狂気の只中にいることを明確に自覚しながら冷徹にターゲットを追い詰めていく沙月。両者の対照的な在り方が冒頭から中盤に掛けての物語をうねりと共に盛り上げていくことになる。

そしてある瞬間から、この両者の人生が交わることになる。普通にしていれば決して交わるはずのなかったこの両者が邂逅することで、桃ノ木坂を舞台にした物語はまた違ったステージへと入り込んでいく。暴走し始めた特務会を昔からまとめあげてきた光太郎と、ほぼすべてを一人で背負いながら年齢に似合わない雰囲気で戦い続ける沙月は、お互いの存在を認めながらも、様々な理由から引くことが出来ない状況にいる。まさに雁字搦めの状態だ。沙月は職業犯罪者であるからともかくとして、特務会というのは本当に、正義を体現する集まりだった。その彼らが、どんな流れを経てこんな複雑怪奇な状況に巻き込まれてしまったのか。本当に些細な行動や食い違いから転落や暴走が始まってしまう、集団というものの恐ろしさを感じさせる物語でもある。

特務会と沙月は、執着という意味で正反対の性質を持つだろう。特務会は、自分が生まれ育ってきた愛すべき町に執着している。そして同時に、過去という時間軸にも執着していると言っていいだろう。より正確に言えば、過去の記憶に。かつてああだった、という皆の記憶を維持したい、どんな手を使ってでも町をよそ者の蹂躙から守りたい。そういう強い執着が、彼らの行動の原動力になっている。
しかし沙月は、執着とは無縁の女だ。化粧もせず、服装にもこだわらず、普通の女性の幸せ全般を手放しているように見える。そしてそのことを、特別に悔いている様子もない。姉・優月のことはきちんと見ているが、きちんと見なければ死んでしまうという理由が強いだろう。執着とは違うように思う。
執着という意味でいえば、武藤遼もまた執着の強い男である。ストーカーをした過去があり、粘着的で諦めが悪い。女性を殴ってでも従わせようとするDV男であり、ファッションに金を掛けすぎて金回りが悪い男でもある。

武藤の執着は、すぐさま悪へと直結すると分かるものだけど、特務会の執着の行き着く先は、なかなか予想外で面白い。そして、確かにそうなりうるなと思わせるだけの説得力がある。一方、何事にも執着しない沙月と、僕は似ているなと感じる。優月のような、すべてを諦めさせる存在は僕にはいないのだけど、沙月の在り方には共感できる。

本書では、割とナチュラルに、悪い人間は排除して良い、という価値観を提示する。特務会にしても沙月にしても、警察に言ってもどうにもならない事案である。警察は、犯罪を犯していない者には手出しが出来ないし、法律の範囲内でしか対応が出来ない。明らかに犯罪を犯すだろう人物や、法律を超えたところでしか対処出来ない人物への対応は、警察を超えた存在がやらなければならない。冒頭から、そういう考え方が、疑いを挟むことなく登場してくる。
特務会はお年寄りばかりの集まりだが、この、悪い人間は警察に頼らず排除してよい、というのは、非常に現代的な価値観だ。ネットで炎上した一般人の個情報が簡単に検索され、晒されてしまう世の中だ。“私刑”と呼ばれるこうした行為は、特務会や沙月の行動と前提となる考え方は近いものがあるだろう。その現代的な価値観を、ネットというツールを使わずに、町内会というより具体性のある存在に移し替えて描き出したという点がユニークな点だと思う。こういう構成にすることで、このような価値観をお年寄りも持ちうるのだ、決して若者だけのものではない、という実感が持てるようになる。

悪い人間を私刑によって排除する。この考え方に、僕は半分ぐらい賛同する。警察や法律の範疇で裁くことが出来ない事柄というのは、どうしても社会の中で出てくるものだと思う。しかし、どんな場合でも私刑が容認されるべきと考えているかというと、決してそういうわけでもない。結局現代では、面白半分で私刑が行われている。もちろん、憂さ晴らし以外の動機は存在しないだろうから、それで仕方ないのだけど、個人的な憂さ晴らしが背景にある以上、私刑という行為の妥当性は薄まってしまうように思う。そういう意味で、沙月のスタンスは好ましい。沙月は、自身の憂さ晴らしのためにではなく、基本的には金銭のため、そして間接的には姉・優月との関係のためにこの嫌がらせを続けている。それぐらいのドライさが欲しい、と思う。

難しいことを考えなくても読めるエンタメ小説であるが、正義とは何か、許容するとはどういうことかなど、深く掘り下げていこうと思えば掘り下げられる現代的な難しい問いも潜んでいる物語だ。あなたはこの物語の、誰に共感するだろうか?

川瀬七緒「桃ノ木坂互助会」


RPGスクール(早坂吝)

内容に入ろうと思います。
超能力が、科学的に認められ、その能力の開発が進められている世界。その世界で、超能力開発に最も邁進しているのが、人類最強とも言われる超能力者である時野イマワだ。イマワは、超能力が実在し、それが有益であると認めさせた人物で、大臣を父に持つ協力者と共に超能力研究所を設立し、超能力の普及に励んでいる。超能力が発言しやすい学生たちを啓蒙するために学校を廻るのもその一つだ。
剣先尚也は、どんよりとした青春時代を過ごしていた。剣道でかなりの成績を残しながら、同級生だった少女を守れなかったことを悔やみ、以降、剣道とは一切関わらず、また楽しいと感じることからも遠ざかるような生活を続けてきた。
時野イマワ率いる研究所の面々が、剣先のいる松江さくら高校にやってくることになった。芸能人並の人気を誇るイマワの登場に、学校中が沸き立つ。講堂で挨拶をした後、各クラスを廻ることになっていたのだが、しかし悲劇が起こる。
時野イマワが、校庭のど真ん中で死体となって発見されたのだ。スプリンクラーで水を撒いたばかりの校庭には、イマワの足跡すら存在しなかった。密室殺人ということになるだろうか。
さらに、松江さくら高校はとんでもない事態に呑み込まれる。学校の外側の世界が黒く塗りつぶされ、見える景色がポリゴンのようにカクカクしたものに変わった。そこに、魔王を名乗る人物からの放送が入る。俺を倒せれば、この世界からは抜け出せるぞ、と。なんと剣先らは、RPGゲームのような世界に放り込まれてしまったようなのだ。
状況が理解できないまま、モンスターと戦い、ヒントだというジグソーパズルのピースを集める彼ら。ゲーム内で死んでも、このゲームから抜け出せればみな生き返るというが、しかしどうやらイマワの死だけは違うようだ。
RPGの世界から脱出し、さらに時野イマワの死の真相を暴く。彼らはそんな不可思議な「状況に巻き込まれてしまい…。
というような話です。

かなりぶっ飛んだ設定の物語でしたけど、本格ミステリとしてはなかなかしっかり作られている印象の作品でした。RPGゲームの世界を間に挟みつつ、RPGゲーム内ではない現実の世界で起こった殺人事件と関わることになるのだけど、RPGゲーム内での様々な設定や制約が、時野イマワ殺人事件の真相を解き明かす手がかりになっていく、という構成は、なかなか複雑ながらも、よくもまあ最後までまとめたなという印象でした。

正直に言うと、RPGゲームの世界に放り込まれた部分の話は、さほど大したことはないと思いました。一応この世界でも、普通に考えたら理解できない、謎めいた現象が起こり、それが解き明かされる部分はなかなか面白いと思いましたけど、それ以外の部分は、そこまでは興味が持てませんでした。僕がゲームを全然やらない人間だからかもしれません。RPGゲームの描写は、作品全体の立ち位置としては、後の謎解きの絞り込みの時に使える情報を提示する、という役割があって、作品全体を構成する要素としては不可欠なのだけど、そこだけ取り出した時はそこまで面白くないような気はしました。

RPGゲーム中に提示される謎というのは、「魔王の存在を無視して彼らは何をしているのか」ということです。RPGゲーム内では、魔王を倒すことが最優先であり、そのために皆どうするべきか考えています。しかし、RPGゲーム内に二人、魔王のことは放っておいてただ参加者をひたすらに殺し続けている者、そして参加者をなるべく殺さないようにし続けている者という、ちょっと変わった動きをする人物が二人登場します。魔王を叩き潰そうと思っている剣先には、彼ら(金と銀のお面をしているので、誰なのかは分からない)が何をしたいのかさっぱり理解できないのです。
しかし、彼らと対峙する中で剣先は、彼らの行動原理を知ることになる。これは、なかなかに面白い。山口雅也の「生ける屍の死」という作品をちょっと連想させた。「生ける屍の死」は、死んだ人間が生き返る世界で起こる殺人事件が扱われていて、「殺しても生き返るのに何故殺すのか」という命題が大きな謎として漂っています。本書も、RPGゲーム内で奇妙な挙動をしている二人の人物の意外な行動原理が面白いと思います。

そして彼らはやがて、RPGの世界から抜け出すのですが、さらにそこから、時野イマワ殺人事件の真相を暴かなくてはいけません。この真相を暴く論理は、なかなかに緻密で面白いです。さらに、その論理は、「超能力」と「RPGゲーム内のルール」という、僕らが生きている現実には存在しない前提の上に成り立っていきます。現実に軸足を置いた論理ではないので、置き去りにされている感じを抱く人もいるでしょうけど、西澤保彦のように、ぶっ飛んだ設定を用意し、そのぶっ飛んだ設定の中の厳密なルールに沿って謎解きをしていくという流れは、面白いと感じられる人は感じられるのではないかと思います。

ラストのラストは、サラッと読むには向かない、なかなかの論理展開が繰り広げられますが、全体的にはサラッと読める作品ではないかと思います。

早坂吝「RPGスクール」


スタンフォードの自分を変える教室(ケリー・マクゴニガル)

本書のテーマは、「いかにして意志の力を高めるか」である。怠け癖があったり、止めたいと思っているのに止められないとか、意志の弱さのせいで困難さを感じている人にとって、非常に有益な本である。
しかし、読んでおいてなんだが、僕はかなり意志の力の高い人間で、そういう意味で言うと本書は、僕にはあまり役に立つ本ではない(知的好奇心を満たす、という意味では非常に面白い)。
さて、僕は自分のどんな行動から、自分を意志の力が高いと考えているのか。一例を羅列してみる。

○学生時代、夏休みの宿題は夏休みが始まる前にすべて終わらせていた(その上でさらに、夏休み中勉強していた)
○週6日(1日の拘束時間10時間)で働いていた頃、週に40時間以上(平日は毎日4時間以上、土日で20時間以上)の勉強を一年半続けた
○2003年から、本を読んだ後ブログに感想を書き続けている。年間約250冊程度読み、1冊辺り3000字以上の感想を書くというのを、もう12年以上続けている。
○去年の9月に引っ越したのを期に、ツイッターをすぱっとやめた(フェイスブックは元々やっていない。LINEはごく一部の人間と個人的なやり取りのために使っているのみ)
○雪国に引っ越してきたのだけど、現時点でまだ、一度も暖房を使っていない(一冬暖房なしで生活出来ないかな、というチャレンジ中である)
○一人暮らしを始めて以来、欠かさず家計簿をつけている(食費・雑費・交際費に分けて毎日使った金額をキャンパスノートに記録して、1ヶ月単位で合計しているだけだけど)
○引っ越しする以前は、「米を炊く」「麺を茹でる」「麺を炒める」以外のことはほぼしなかったのだけど、引っ越し後は毎日、何かしら野菜を使った食べ物を作っている
○引っ越し後、毎朝起きてすぐ筋トレをしている(まだ始めたばかりなので、必ず毎日やる必要はないという緩い縛りでやっているので、毎日ではない)
○夜寝る前にラーメンを食べ、さらにチューハイを飲んで寝る、という習慣を10年近く続けていたが、それをある日を境にスパっと止めた。
○引っ越し後、朝起きる時間を3時間早めた
○ほぼ毎日ショートショートを書き続けた年と、毎日短歌を作り続けた年がある

まだあるかもしれないけど、とりあえずこんな感じか。僕は、自分一人でやることに関しては、「続けられない」と思ったり「止められない」と思ったことはほとんどない。どんな無茶苦茶なことも、とりあえずやってみるかと思えば続けられるし、長いこと続けた習慣でも、なんとなく止めるかと思えば止められる。意志の力の弱さで悩んだことはほとんどない。
もちろん、自分一人で出来ないことに関しては、たぶん色々あっただろうと思う。自分の意志では行動をコントロール出来なかったり、止めたいと思っても止められないみたいな状況もあっただろう。しかし、自分一人で出来ることであれば、かなり自分の意志で自分自身をコントロール出来ていると思う。

僕自身、自分のこういう性格を、かなり以前から分析をしていたことがあって、こういう結論に達している。それは、

「自分自身をまったく信じていないから」

である。特に、未来の自分のことはなおのこと信じていない。

僕は、未来の自分は、今の自分よりもろくでなしだろう、と思っている。全体的に僕はマイナス思考の人間なので、そういう発想に自然となる。だから、例えば夏休みの宿題を、未来の自分に託すことは出来ない。未来の自分は絶対に、今の自分よりもろくでなしなのだ。だから、先送りして未来の自分にやらせるよりは、先回りして今の自分がやった方がいい。

何か新しいことを始める時も、未来の自分を信じていない今の自分の危機感が背景にあるのだと思う。このまま何もしなければ、レールに乗って順当に、僕はろくでもない未来の自分のところまでたどり着いてしまうだろう。なんとかそれは阻止したい。別に、凄い人間になりたいわけではないのだけど、せめて今の自分ぐらいのレベルは維持したい。何もしなければ僕は、今の自分が想像する、ろくでもない未来の自分に一直線にたどり着いてしまうだけなので、それになんとか抵抗しようとして、新しいことを始めてみようか、という気になるのだろうと思う。

また、一度始めたことをずっと続けていくのも、同じような理由からだ。ここで、ずっとやり続けてきたことを手放すことは、ろくでもない未来の自分に直結する行為に思えてしまうのだ。僕には常に、始めたことを止めることへの恐怖がある。なんらかの外的な要因によって、長く続けてきたことを止めるという経験はあるのだけど、自分の判断だけで、長く続けてきたことを止めるのは、なかなか難しいと思う。そういう気持ちも、ろくでもない未来の自分を怖れるが故だと思う。

この、「未来の自分を信じていない」という考え方は、僕の中にずっとあったのだけど、本書にも似たような話が出てくる。本書では、「多くの人は、未来の自分を過信している」という話として登場するのだけど。

『未来のあなたはつねに現在のあなたより時間もエネルギーもあって、意志力が強いことになっています。少なくとも、私たちが未来の自分を想像するときはそんな感じです。未来のあなたには不安もなく、現在のあなたより痛みにも耐えることができます。』

割と多くの人は、未来の自分に対してこんな風に考えているようです。なるほど、そんな風に考えてれば、やらなきゃいけないことだって当然先送りするし、誘惑にも当然負けちゃうだろうな、と思います。みんな、大変だなぁ。僕には、そんな優秀な「未来の自分像」は存在しないので安心です。

僕自身は昔から、どうやったら「流されないで生きていく」ことが出来るだろうか、と考えてきたような気がします。周囲の人間や、内なる欲望に、どうやったら負けずにいられるか、ということを考えていました。何故そんなことを考えていたのか。そこには、「依存することの恐怖」があります。

僕は、子どもの頃から今でもずっと、「それがなければ生きていけないというモノ」はもちたくない、と思ってきました。何がきっかけでそういう感覚を抱くようになったのかわかりませんが、僕の根底にはそういう感覚が常にあります。それは、ペットでも、エアコンでも、宗教でもなんでも構いません。とにかく、「それがなければ生きていけないモノ」からはなるべく遠ざかるようにしていました。それに頼れば“今”は便利かもしれないけど、もしそれがなくなった場合、“未来”の自分はダメージを感じるでしょう。僕は、かなり意識的に、“今の便利さ”よりも、“将来のダメージ”を高く評価してきました。

心理学や行動経済学の世界で有名な、こんな実験があります。例えば、今120ドルをもらうのと、一ヶ月後に450ドルをもらうのだったらどっちがいいか、という問いに答えさせるのです。多くの人は、今の120ドルを取るそうです。僕は多分、一ヶ月後の450ドルを取りだろうな、と思ってしまいます。たぶん、世の中の多数派の人とは、物事の捉え方が違うんだろうな、と思います。

そんなわけで、僕自身にはあまり参考にならないわけですが、本書は、世の中の様々な研究結果から、意志力に関して体や脳がどう判断するのかを紹介し、それを実践できるプログラムに落とし込んでいこうという、スタンフォード大学の超人気講座の講師が綴った作品です。著者はまえがきで、こんなことを書いています。

『私は科学者になるための教育を受けましたが、そのなかで最初に学んだことのひとつは、理論がいくら優れていようと事実(データ)に勝るものではないということでした』

『本書を読み進めながらも、私の言葉をうのみにはしないでください。まず、私がポイントを説明し、それに対する根拠を述べますので、みなさんはそれを生活のなかで試してみてください。そのような実験に結果を見ながら、自分にはどの方法が適しており、どれが効果的なのかを発見してください』

『どうか、どの戦略に対しても偏見をもたないようにしてください。たとえ直観的に好きになれないものがあっても(たくさんあるはず)です。どの方法も講座の受講生によってテスト済みであり、すべての戦略が必ずしも全員に効果があったわけではないにしても、多くの受講生が効果が高いと認めた戦略ばかりです』

世の中には、「このやり方をやれば絶対に成功する!」という方法を望んでいたり、そういう究極の方法を提示してくれる人を信頼したくなる人もいるかもしれませんが、僕は本書の著者のような、自分にあったやり方は自分で見つけてください、それを見つける手助けを私はします、というスタンスの方が信頼できます。すべての人間に共通して通用する方法なんて、ほとんどの場合存在しないでしょう。本書は、「やり方」を教えてくれる本ではなく、「自分にあったやり方を発見する方法」を教えてくれる本です。そこを意識して読んで欲しいと思います。

本書には、非常に興味深い話が色々と載っているのですが、一番惹かれたのは、マクドナルドのサラダメニューの話です。

『これはニューヨーク市立大学バルーク校のマーケティング研究者たちが行った数々の研究から得られた結論です。マクドナルドのメニューにヘルシーな品物を加えたとたん、ビッグマックの売上が驚異的に伸びたというレポートに、研究者たちは興味をそそられました』

意味がわかりますか?マクドナルドのメニューに、サラダなどのヘルシーなメニューが載った途端、ビッグマックの売上が急増したというのです。普通は、こんな現象理解できませんよね?しかし、人間の脳内で何が起こっているのかを調べ、研究者たちはこんな結論に達します。

『人は目標にふさわしい行動を取る機会が訪れただけでいい気分になってしまい、実際に目標を達成したような満足感を覚えてしまうのです。そうしてヘルシーなものを選ぶという決心はどこかへ吹き飛び、まだ満たされていない欲求―目先の楽しみ―が最優先になってしまいます』

わかりますか?つまり、ダイエットをしていたり、カロリーを抑えようと思っている人がヘルシーなメニューを見て注文しようかと“思った”だけで、自分が良いことをしたような気になってしまうのです。それで、そのごほうびに、自分を甘やかしてもいいや、という行動に出てしまいます。

こんな例も載っています。

『ある研究では、被験者にふたつのうちどちらのボランティアをやってみたいかをたずねました。ホームレス支援私設で子どもたちに勉強を教えるか、あるいは環境改善活動に参加するかです。
すると、実際に参加申し込みをしたわけでもなく、ただどちらの活動をしようかと考えただけで、被験者はなぜか自分へのごほうびにデザイナージーンズでも買いたい気分になってしまいました』

他にも、エコバッグを持っている人ほど余計なものを買ってしまったり、何らかのペナルティとして罰金を払っている人ほどそのペナルティをさらに繰り返してしまう、という行動を人間は取るようです。良いことをしている(しようと考えただけなのだけど)という気持ちから自分を甘やかしたり、罰金を払っているだけなのに、お金で権利を買ったかのような錯覚に陥ったりしてしまうのです。人間のこういう性質を理解して、理解した上でコントロールする術を身につけておくことは非常に有益でしょう。ダイエットしようと思っているのに、ビッグマックを食べてたら話になりませんからね。

僕はこの話を読んで、自分が東日本大震災の時に寄付をしないという決断をしたことを思い出しました。
東日本大震災の直後、多くの人が寄付をしたことだろうと思います。周りでもそういう話をしている人はいたし、テレビやインターネットでもさかんに寄付についての話が出ていました。僕は、基本的に、寄付をした人は素晴らしいと思うし、その行為を非難するつもりはまったくありません。
しかしそんな中で僕は、寄付はしないという決断をしました。何故か。
それは、ここで寄付をしてしまったら、自分の中で東日本大震災が一区切りついてしまう、と感じたからです。
僕が孫さんのように100億円も寄付出来る立場の人間なら話は別です。けど、当時の僕には、どれだけ出せても5万~10万寄付するのが限界だったでしょう(実際寄付するとしたら、3万円以下だっただろうと思います)。その僅かな金額で、僕は、自分が何を手放すことになるだろうか、と考えてみました。そして、「東日本大震災に対して良いことをした」という気持ちが、東日本大震災に対する後ろめたさみたいなものを消してしまうだろうな、と感じたのです。
もちろん、寄付をした後でも、東日本大震災に対して関心を持ち続けることが出来る人もたくさんいるでしょう。でも、僕は、自分の性格を考えて、きっとそういうタイプの人間ではないだろうな、と思ったのです。だから、ここで後ろめたさみたいなものを手放さずに、罪悪感として残しておく方が、後々それが何かの形になるのではないか、と思ったのでした。
実際、何かの形になっているのかはともかく、未だに「東日本大震災の時に寄付をしなかった」という後ろめたさが自分の中にあるので、自分の目論見は成功したと言えるのではないかと思います。方向性はかなり逆ですけど、僕のこの行動と、マクドナルドでの奇妙な出来事は、根底を共有しているのではないかと思います。

また、有名な「シロクマのことだけは考えないでください」という実験の話も載っています。学生に、「今から5分間、何のことについて考えても構いませんが、シロクマのことだけは絶対に考えないでください」と言うと、学生は皆シロクマのことで頭がいっぱいになってしまう、というものです。これは、やってはいけない、考えてはいけない、という状況であればあるほど、それが自分の思考を絡めとっていくということになるわけです。ダイエットをしようと思っている人が、炭水化物を食べてはいけない、と考えることで、逆に炭水化物のことが頭から離れなくなってしまうのです。

他にも、死のことを考えると誘惑に弱くなる(著者は、悲惨なニュースの後にCMを入れる企業が存在することに疑問を持ったことがあったようですが、それはこういう背景があるからだと後に知ったようです)、肥満や不安は感染する、タバコによる害をパッケージに写真で載せると、そのストレスを解消するためにさらにタバコを吸うようになる、などなど、非常に興味深い話が載っています。僕は行動経済学というのが結構好きで、その方面の本をそれなりに読んだことがあります。行動経済学も、人間が実に不合理な判断で動いていることを明らかにする学問で、本書に載っている話のいくつかは、行動経済学の話として知っていましたけど、確かにそういう人間の行動に関する研究は、意志の力を高めるために使えるのだよな、と本書を読んで改めて感じました。

本書では、あまり具体的な手段というのは登場しないのですが(方向性だけを与えて、後は自分に合ったやり方を見つけて欲しいというスタンスなので)、科学的にお墨付きを与えられた、やる気を出させたり意志の力をコントロールできたりする方法があります。それは、非常に当たり前というか、目新しさがあるわけではないもので、運動・睡眠・呼吸・瞑想などです。特に、瞑想はなかなか良いようです(どう良いのかは本書を読んでください)。瞑想は、前々から日常に組み込みたいと思っていたことなので、どうにか始めてみたいと思っています(でも、本当に時間がないので、もう少し生活を見直さないと時間を作れない)。

新しいことを始めたいと思っているのに続かない人、やらなければいけないことをどうしても先送りしてしまう人、止めたいと思っていることをどうしても止められない人。そういう人は、一度本書を読んでみると良いでしょう。本書には、『ダイエットは体重を落とすよりも「増やす」効果のほうが大きいほどです』なんて恐ろしいことが書いてあったりします。自分が正しいと思い込んでいることが、実は正しくないかもしれません。人間の本能や反射をきちんと理解して、それと対抗出来るように訓練を積めば、誰でも意志の強い人間になれるのではないか。そんな風に思わせてくれる一冊です。

ケリー・マクゴニガル「スタンフォードの自分を変える教室」


逆島断雄と進駐官養成高校の決闘(石田衣良)

内容に入ろうと思います。
舞台は、日乃元皇国の最優秀の生徒が集まる、東進進駐官養成高校。100万人を超える進駐軍を指揮する立場である進駐官を養成する高校だ。世界は今、氾帝国、エウロペ連合、アメリア民主国の三大列強による寡占化が進み、日乃元皇国はその中で劣勢に立たされている。
逆島断雄(タツオ)は逆島家の次男で、東進進駐官養成高校の新入生だ。逆島家は、皇室を守護する近衛四家の一角を占める名家だったが、断雄の優秀だった父が、ウルルク王国の首都攻防戦でウルルク王国側に寝返り、隊を全滅させたことにより没落した。父の行為を裏切りとされ、タツオは、幼なじみであり、子どもの頃は兄弟のようにして育って、同じく近衛四家の一角を占める東園寺家の長男である華山(カザン)との関係を悪化させた。カザンの双子の妹である彩子(サイコ)とは今でもいい関係であるので、東園寺家との関わり方は難しい。
東進進駐官養成高校では、四人一班の単位で行動する。入学時に割り振られるその班単位で成績や懲罰が決定されていく。タツオと同じ班になったのは、入学試験の成績が1位であり、エウロペ連合の元軍人を父に持つハーフである菱川浄児(ジョージ)、柔道の達人であり超がつくほどの硬派な頑固者である谷照貞(テル)、誰とでも仲良くすることが出来、常に軟派でありながら、ここぞという時は引き締める鳥居国芳(クニ)。新入生は皆、東進進駐官養成高校の毎日の厳しい訓練や勉強に音を上げそうになりながらも、必死で食らいついていく。進駐官は、卒業時の成績ですべてが判断される。成績が悪ければ、激戦区である戦闘地域に配属されることもある。卒業時の成績が悪ければ死に直結する。そういう環境下で彼らは勉学と訓練に励むのだ。
しかし、タツオの周囲で、徐々にきな臭い出来事が起こるようになってくる。タツオを含む、3組1班のメンバーが、あらゆる場面で襲撃を受けるようになったのだ。ことあるごとにタツオに突っかかってくるカザンの仕業かとも思われたが、次第に彼らは、この東進進駐官養成高校を舞台に、とんでもない事態が展開されていることを知ることになる。
進駐軍、そして日乃元皇国すべてを巻き込んだ争いの中心に、期せずして巻き込まれることになったタツオ。クラスメートの死、謎の組織からの接触、そして幼なじみとの因縁の対決…。進駐官養成学校の生徒とは言え、たかだか一年生でしかない彼らを巡って、国を巻き込んだ大きな陰謀が渦巻いていく…。
というような話です。なかなかスケールの大きな話なので、物語の全体をうまくかいつまんで紹介するということがなかなか出来ません。

全体的には、なかなか面白い作品だったと思います。500ページを超えるなかなかのボリュームですけど、割とスムーズに読めたかなと思います。中身としては、一風変わった学園小説、という感じではありますが、日本をモデルにした「日乃元皇国」という架空の国を舞台にして、「戦争」が「経済成長の手段」として正当化されてしまった世界における人間のありようを描き出していく、という面白さもあります。主人公のタツオに限らず、あらゆる面で天才的なジョージ、タツオの幼なじみであり美貌のサイコ、同じく幼なじみであり、サイコの双子の兄であり、タツオをライバル視しているカザンといった面々もなかなか魅力的だし、そういうメイン級のキャラクターじゃなくても、それぞれに個性があって、ただの脇役ではない感じが面白いと思います。特に、物語のラストに置かれている異種格闘技戦では、脇役的な人間が思いもかけない戦いを繰り広げる様はなかなか面白いと思います。

僕的に辛かったのは、戦闘シーンです。基本的に僕は、文章を読んでいて映像が浮かんでくる人間ではないので、本書に限らずどんな小説を読んでても映像は浮かばないんだけど、その中でもスポーツ(特に球技)と格闘技の描写は苦手です。文章を読んでても、何がどうなってるのかまるで理解できません。本書では、結構戦ってるシーンが出てくるんだけど、僕には基本的に何がどうなってるのか分からないので、そういう場面が多い小説はちょっと辛いなと思います。ラストの異種格闘技戦の描写も、だいぶ流しながら読みました。

本書の評価をする上で難しいなと思うのは、本書がこれで終わりなのか、話がまだ続くのかということです。それを判断する情報が本書のどこにもないのでどちらとも言えませんが、もし本書で終わりだとすれば、色んな伏線を投げっぱなしだな、と感じます。はっきりしていないことが山程残されているように思う。回収されていない伏線のことを無視したとしても、ラストをこの展開で終わらせるのはちょっと尻窄みに感じてしまう。まだ物語が続くのであれば、そういう投げっぱなしとか尻窄みみたいな感想は抱かずに済む。さて、どちらだろうか?

小説を読んでいる感覚としては、30巻以上あるコミックを読んでいるみたいな感覚だ。設定やキャラクターは、よく作りこまれたマンガのようだし、分量的にもかなりの巻数のあるコミックという感じを抱かせる。戦闘シーンなどのことを考えると、マンガの方がより伝わりやすくなるかもしれない、という風には思う。ジョージやサイコなども、マンガの方が映えるだろうし、他にも視覚的にキャラクター化された方が面白そうな登場人物はたくさんいる。

物語の中にはかなり色んな要素が詰め込まれていく。タツオを中心に展開される襲撃事件が主軸ではあるのだけど、エウロペ連合の父を持つハーフであるジョージの孤独、近衛四家に生まれたものの宿命、天才揃いの学校で凡人が生きていうこと、逆島家の復興、東園寺家との対立、巨大な陰謀とそれを出し抜く少年、などなど、東進進駐官養成高校を舞台に様々な軸が同時並行で展開されていく。それら一つ一つを要素にしながらも、日乃元皇国を巻き込むある陰謀が浮き彫りになっていく過程はなかなか読ませる。

個人的に興味深いと思ったのは、この物語全体で描かれる世界の設定である。すでに、戦争以外の手段で経済成長が望めなくなっている世界は、自らが成長するために他から奪うという在り方が正当化されてしまっている。タツオもジョージも、そんな世の中のあり方に疑問を抱くのだが、しかしそういう思想を持つことは国家に反逆していると見なされてしまう。平和を希求する気持ちは、軍を不要と考える価値観に通じ、国家としては容認出来ないのだ。

『エウロペ連合も、アメリア民主国も、氾帝国も、ついでにいえば日乃元皇国も、どこも同じだ。技術的にはもう完全にいき詰って、新しいものなんて生まれない。同じものの大量複製だ。経済だってゼロサムだ。どこかが伸びれば、その分ほかの国が落ちる。天然資源と市場を求めて、植民地をぶんどりあうのが、今の世界の在り方だろう。戦わない国は、ただ奪われ没落していく』

『成長がなくなれば、地球経済はゼロサムゲームだった。誰かが特をするには、別な誰かが損をしなければならない。先進国は経済成長を続けるために、よその先進国がもつ領土・植民地を力で奪うしかなくなったのである。戦争は株式市場や新しいテクノロジーと同じように、経済成長に欠かせない日常的な道具となっている。今日の地球では、戦争があらゆる先進国間であたりまえの成長手段であり、経済対策だった』

『果てしない侵略戦争と植民との争奪戦が続く今の世界秩序は、持続可能ではないだろう。だが、より豊かな生活を望む庶民と先進国の基幹産業になっている軍需企業の後押しのせいで、戦争を止めることもできない。世界中で戦争を終わらせるのは、同時の経済成長を諦めるのと同じ意味だからね。人は明日は今日より豊かで降伏な生活が遅れるという信念で、なんとか目の前の不幸に耐えていけるものだ』

もう一つ。ラルク公国を訪問中の日乃元皇国の皇女が襲撃されたことを受け、国内で外国人に対する襲撃事件が続発したことを受け、エウロペ連合とのハーフであるジョージがこんなことを語る場面がある。

『日乃元の人間が、なんだかぼくは怖いんだ。普段は優しくて善良で思いやりも気配りもある。この国の接客やサービス業のレベルが世界でもトップレベルなのは有名な話だ。でも、一度大切なものを傷つけられると、てのひらを返したように徹底して逆上する。証拠もなく襲撃して、迷いもせずに殺害するんだ。』

どちらも、現実の世界・日本をベースにして誇張した描写になっていると思う。世界的に、「テロに立ち向かう」という建前で戦争の機運が高まっているように感じるし、日本人のてのひらを返したような豹変ぶりも様々な場面で目にするものだ。架空の設定で、誇張された描写によって、僕らの生きている現実の世界の異様さが引き伸ばされるようにして迫ってくる感じがあって、そう思わせるのも物語の力なのだろうと感じました。

物語がまだ続くのかどうかで結構評価が変わるので、なんとも言えない作品ではあるのだけど、まだ物語は続くのだという前提に立つことにして、なかなかスケールの大きな物語であり、展開やキャラクターの造形なんかも面白い、なかなか読ませる作品だと思います。

石田衣良「逆島断雄と進駐官養成高校の決闘」


江ノ島西浦写真館(三上延)

内容に入ろうと思います。
本書は、江ノ島で100年続いた写真館を舞台に展開される物語です。
桂木繭は、祖母であり、江ノ島の西浦写真館の最後の館主であった西浦富士子の死をきっかけに、西浦写真館の整理をすることになった。母であり作家の奈々未も一緒に片付けを手伝うはずだったのだが、忘れていた締め切りを思い出したとかで急遽来られなくなってしまった。
一人で遺品の整理をするのは憂鬱だ。何よりも、そこが写真館だからだ。かつて、それで食べていこうと思うほど入れ込み、そしてあることをきっかけに完全に関わりを断ったカメラの世界。写真館に行けば、忘れたはずのその世界とまた向き合わなければならない。
営業を終えた写真館には、祖母から頼まれたという管理人が今住んでいるらしい。猫の出入りのために常に細く開けられた裏口から、繭は写真館に足を踏み入れる。

「第一話」
写真館を整理していると、「未渡し写真」と記載された写真を発見した。どうやら、写真の現像はしたものの、お客様の手元に渡らなかった写真であるようだ。その内の一組を手に取ると、まさにそこに写っているのとまったく同じ顔の人物が、写真館に入ってきた。
真鳥秋孝と名乗ったその男性は、四枚で一組のその写真に写っているわけではなく、写っているのは彼の祖父であるらしい。四枚の内、もっとも古い写真に写っている人物に、秋孝は記憶がないというのだが…。

「第二話」
未渡し写真の中に、永野琉衣の写真を見つけてしまった。そんな、ありえない。写真館の整理を手伝ってくれることになった秋孝からその写真を見せられた時、繭は動揺した。写真についての詳しい知識を持ちながら、今は一切写真の世界から遠ざかっている繭に対して秋孝は、「四年前何があったのか」と直接的に問いかけをした。
四年前、繭は写真のせいで、ある人物の人生を台無しにしてしまった。子どもの頃からの友人であり、芸能人でもあった永野琉衣のことを。
四年前、決定的な出来事には、繭以外の第三者の介在があったはずだ。繭は、秋孝に後押しされる形で、四年前の出来事を改めて調べなおそうとする…。

「第三話」
江ノ島で長く続いている、親が経営していた土産物屋を継いだ立川研司。一目惚れして猛アタックした妻と、子どもに囲まれて、幸せな生活を送っている研司だが、彼には一つだけ気がかりなことがあった。
かつて叔父に金を借りようとした時の話だ。早急に結婚指輪を作らなくてはならなくなって、その金を工面するために叔父のことを訪れたのだ。しかし叔父にも金がない。そこで、最後の手段として叔父が取った行動が、ハチャメチャなものだった。館主である富士子が不在の間に西浦写真館に忍び込んだ二人。かつておの写真館で働いていたという叔父は、引き出しを開けるとひょいっと銀塊を取り出した。ゴミみたいなもんだ、と叔父は言うのだが、こんなのは窃盗じゃないか。固辞する研司に叔父は、すべての責任は俺が取るからと言って、研司を納得させるためだけに、銀塊の代わりに借用書を置いて、その銀塊を持ちだしてしまった。
写真館の整理に来ている繭が、もしあの借用書を見つけてしまったら…。

「第四話」
ようやくあらかた整理も終わりに近づいてきたところで、繭は、名前のない未渡し写真を発見してしまう。そんなものはこれまで一度もなく、しかもそこに写っていたのはなんと秋孝だったのだ。用事があって島外に出ている秋孝に連絡しても仕方がないと、繭は江ノ島に別荘を持つ真鳥家を直接尋ねることにした。
しかしそこで繭は、奇妙な違和感を覚える。秋孝の父の振る舞いが、どことなくおかしいのだ。この父親は、何かを隠している。研司が秋孝に対して抱いた違和感も合わせて考えると、繭は驚くべき真実に行き着いてしまうが…。

というような話です。

なかなか良い作品でした。どの話も概ね、祖母の残した未渡し写真を発端にしており、しかも写真館ならではというモチーフをうまく使って、謎や謎解きを構築している。謎自体も、些細なものではあるのだけど、写真という、どことなく重みを感じさせるモチーフをうまく配することで、謎に深みが出ているような印象がある。江ノ島という舞台設定も、決して田舎ではないのだけど、田舎であるかのような穏やかさをまとった雰囲気があって、作品全体のトーンをうまく決めているように思う。

やはり、話として一番面白いと感じたのは、第二話の、繭が何故写真から遠ざかったのかという理由が明かされる物語だ。繭と琉衣をめぐる物語は、それだけで一編の長編になりそうな奥行きを感じる。特に、琉衣というのはなかなか魅力的なキャラクターだ。詳しくは書かないけど、なかなか複雑な生い立ちをしていて、その生い立ちが後々まで様々な形で影響を与える。繭は繭で、現在とはまったく違うキャラクターで、そんな繭がどうして現在のような繭になってしまったのか、そこに一体どんな出来事が介在していたのか、そういう部分をなかなかな面白く読ませる。

いずれ著者に機会があるなら、永野琉衣の物語というのは読んでみたいような気がする。これまでの著者の、ミステリーを軸にした小説ではなく、一人の人間の生い立ちを追いかけるような構成の物語を書いたらどうなるか、ちょっと興味がある。

第三話の銀塊の正体もなるほどという感じだし、一枚の写真からとんでもない“事件”の存在を掘り起こし、それを解決してしまう第四話もなかなかの物語だ。基本的に悪人が出てこないので、その分物語が弱くなってしまうきらいはあるにせよ、江ノ島という穏やかな舞台で、優しい人間が繰り広げる物語にほっとした感じを覚える人は結構いるんじゃないかなと思う。

最後の最後、良い予感を抱かせるラストも、なかなかいいんじゃないかなと思いました。

三上延「江ノ島西浦写真館」


東京大学超人気講義録 遺伝子が明かす脳と心のからくり(石浦章一)

内容に入ろうと思います。
本書は、東大で文系学生向けに行っている生命科学の講義を書籍化した作品です。
元々は、ヒトの心を分子レベルで解明しようとする研究を続けており、「分子認知科学」という新しい学問を生み出した人だ。しかし研究を続けていく中で、著者はこんな風に考えるようになった。

『しかし、やらなければいけないのは、正しい生命科学のメカニズムを解明することだけではなく、それをどう正確に一般に伝えるか、ということだということに気付き、それを実践する場として大学の講義を選んだ。』

そんなわけで著者は、理系学問を専攻していない文系の学生に、現代の生命科学で分かっている範囲内のことがらを、可能な限り専門用語を使わずに、様々な発見の歴史的な流れや、それぞれがどのような現象であるのかという説明をしていく。

僕は理系だったけど、生物とか生命科学とかはまったく無知です。数学と物理が好きで、化学と生物が嫌いだったので、本書に書かれている内容はどれも新鮮でした。心理学方面の本で読んだことがあるようなことがらも書かれていますけど、本書は基本的に、「ヒトの心が分子レベルでどう解明されてきたのか」ということがベースにあるので、心理学とはまた違っています。一つの遺伝子、一つの物質、一つの器官が、どのような振る舞いをすることで、ヒトの感情や行動や記憶が生み出されているのか。それを解説していきます。知的好奇心が満たされる、興味深い作品でした。

僕が一番面白いと感じたのは、この「分子認知科学」の分野が、薬の研究から進んでいったということです。どういうことでしょうか?
脳の中というのは、基本的に観察することが出来ません。脳内の血流を調べても、それは脳を観察したことにはなりません。脳内の血管を流れる血液の組成と、髄液などの内側の組成は違うからです。だから、脳で何が起こっているのかを、直接知ることは長い間不可能でした。

しかし、色んな病気や障害を治すために、様々な薬が生み出される。そのほとんどは、偶然の発見によって見つかるわけですが、ある薬を投与することで、ある現象や症状がなくなる。
例えば、ある薬に「イライラした気持ちを鎮める効果」があると分かったとする。その後、その薬が脳内でどう働いているのかを調べる。すると、何かの遺伝子や物質や器官が、その薬の働きによって影響を受け、イライラした気持ちを鎮めているのだと分かる。それからようやく、では人間をイライラした気持ちにさせるのは、その遺伝子や物質や器官が関係しているのだろう、と推察出来るという流れを取るのです。本書で描かれているほとんどの発見が、そういう経緯を経て見つかっていくのです。

この、「なんだか分からないけどこの薬が上手く効いた」というところを出発点にしないと、脳内で起こっていることを理解することが出来ない(今はMRIとかあるから違うかもだけど、昔は出来なかった)という事実が、非常に面白いと思いました。薬という存在を媒介にして、肉眼で見たり何らかの形で測定することが難しい脳の機能を、ちょっとずつ明らかにしていく。しかも、その端緒となる薬は、ほとんどが偶然によって発見されるのだ。非常に面白い。

例えば、アンフェタミンという覚醒剤は、最初ぜんそく薬として発見されました。それまでは、エフェドリンという薬を使うことで気管支を広げ、ぜんそくの症状を緩和していたのですが、このエフェドリンには人間の気分を高ぶらせるという副作用があった。そのために他の薬がないかとあれこれ調べて見つかったのがアンフェタミンでした。結局アンフェタミンにも、気分を高ぶらせる副作用があり、しかも合成が非常に容易だということで、今では覚醒剤として広まっています。

自殺しようとして大量に服薬した人のお陰で、優秀な薬だと判明したものもあります。ジアゼパムという睡眠導入薬で、大量に服用しても、二日間まるまる眠っただけで副作用がまったく出なかったことから、安全な薬だと判明したのです。

遺伝要因のある病気とない病気の違い、記憶のメカニズム、人間の性質を先天的に決定づける遺伝子、知能とは何かなど、分子レベルでヒトの心を研究するというスタート地点から、様々な方向にベクトルを伸ばしていきます。「タバコを吸うと、吸っていない時の知能が低下する」「バファリンを3等分して毎日飲むと長寿になれる(かもしれない)」など、日常的な話題もかなり出てきます。平易な内容だと言うつもりはまったくありませんが、文系の方でも頑張れば読み通せるレベルの内容だと思うので、是非チャレンジして欲しいと思います。

最後の方で、生命倫理の話が出てきます。これは、最近出来た新しい学問なわけですが、要するに、「遺伝子検査などによって引き起こされる問題にどう対処するか」という話です。
例えば、子どもが劣性遺伝病を発病する可能性があるかどうか知りたい夫婦がいました。クリニックでは遺伝子検査をしたのですが、その結果、その子どもは依頼人の夫の子ではない、ということが判明してしまいました。この場合、クリニックは真実を告げるべきか、告げないべきか…。遺伝子検査に関係したこのような様々な問題が世界中で起こり、それらについて議論することで、生命倫理というのは形作られています。本書では、その生命倫理の一端にも触れます。

生命倫理の基本原則は、「患者がリスクを負うなら干渉しない」というものです。たとえば、宗教上の理由から輸血したくない、という患者がいる場合、生命倫理の観点から言えば、医者はこの患者に勝手に輸血することは許されません。本人がリスクを負う以上、その決断には干渉しない、という基本原則に則って、様々な問題への対応が議論されていきます。まだ若い学問なのでこれから様々に変化しうるでしょうけど、遺伝子検査というのが日常に入り込む世の中になっている以上、僕たちもこの生命倫理の考え方は知っておくべきではないかと思いました。

分子でヒトの心を理解するという試みは、味気ないものがあるかもしれません。その内、遺伝子を解析することで自分の知能がどれぐらいまで伸びるのか、どれぐらい運動機能が成長するか、どんな病気になるか、受精卵さえ出来る前から子どもがどんな性格になるのか、そういうことが分かる世の中が来るかもしれません。それが良いことなのかどうかはともかくとして、そういうことを知ることが出来る世の中になってしまったら、それを知るという誘惑に多くの人は負けてしまうでしょう。そういう意味では、今後の僕らの生活を大きく変えてしまう可能性を持つ学問だと思います。まだまだ分からないことだらけというのが現状だけど、今後どんなことが判明していくのか楽しみな学問でもあります。文系向けに行われた講義の内容を知って、この学問の最先端に触れてみましょう。

石浦章一「東京大学超人気講義録 遺伝子が明かす脳と心のからくり」


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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)