黒夜行

>>2015年12月

海のイカロス(大門剛明)

内容に入ろうと思います。
3.11の震災以後、注目された発電方法がある。潮流発電だ。潮の流れでモーターを回し発電する方式で、アイデア自体は以前からあったものの、日本の電力政策は原子力一本槍だったために研究開発の予算もつかず、細々と研究が行われているに過ぎなかった。
しかし3.11の震災を機に流れが代わり、潮流発電が注目されるようになってきた。そこには、ずっと以前から潮流発電の研究を続けてきたチームの存在がある。
正岡周平は、現在そのチームを率いる研究者だ。
瀬戸内海にある馬島を拠点に、少ない予算をやりくりして研究を続けてきた馬越教授の研究を引き継ぎ、地元企業の社長である羽藤の協力もあって、ようやく実用化へ向けた一歩を踏み出せるまでになった。世界で初めての潮流発電実験が行われた来島海峡で、日本の技術を結集したテクノロジーが、世界に羽ばたこうとしている。
しかしある時正岡は、とある女性の死の真相を知ってしまう。新居田七海は、彼が手掛ける来島プロジェクトの原型を作った人物だ。瀬戸内海に愛され、瀬戸内海を愛した彼女は、誰よりも来島プロジェクトの実現を願っていたが、7年前、瀬戸内海に身を投じて亡くなった。その死の背景にある真実を知った正岡は、世界的注目を集める来島プロジェクトをぶち壊しにしてしまうかもしれないことは分かっていながら、ある人物の殺害計画を練り始めることになるが…。
というような話です。

なかなか評価の難しい作品です。専門性の高い分野を分かりやすく物語に落とし込んでいるところと、ラストの展開は良いと思いました。でも、事件が解決に至るその道筋は、ちょっと無理があると感じざるを得ませんでした。

本書は、潮流発電という、なかなか耳慣れない分野を扱う作品です。こういうモチーフを物語に組み込んでいくのは、なかなか難しいものです。専門用語も多くなりがちだし、ミステリの部分とあまり融和していなくてその部分だけ浮いてしまったりします。本書の場合は、潮流発電というのは物語のメインの舞台装置であって、ミステリ部分もこの舞台装置の中にうまく組み込まれているので、違和感はありません。ある意味で、「下町ロケット」的な、町工場のサクセスストーリー的な部分もあるので、潮流発電の進捗がどうなっていくのか、という興味で読み進めることも出来ると思います。

また、物語のラストは、なかなか意外でした。詳しくは書けないけど、こうなるだろうと思っていた着地点を見事にズラされたな、という印象です。本当に、完全犯罪になってもおかしくなかったという感覚を与えてくれます。どうも本書を読んでいても、主人公である正岡の秀才さがそこまで伝わらなくて(潮流発電の駆動部のアイデアは七海のものだと言っているし、作中で正岡自身が何か凄いことをやってのけるわけではないので)、この犯罪計画の見事さとあまり釣り合っていないように思えてしまうのだけど、正岡の犯罪計画の見事さはなかなかのものだなと感じました。

しかし、本書を読んでいて僕は、正岡を追い詰めるその過程が、ちょっと無理があるだろうと感じさせる展開で、そこはもう少しうまくやって欲しかったなぁ、と思ってしまいました。

正岡は、犯行時完璧なアリバイがあります。しかも、表向き、殺した相手に対する殺意は見当たりません。つまり、周囲の人間には動機が存在しないように見えるわけです。そして正岡は、事故と判断される状況を作り出した。警察も、事故と判断している。
正岡を追い詰める側の人間のスタート地点は、こういう状況になります。

この状況で、正岡を調べるべき強い理由がなければ、そもそも正岡について調べてみようとはならないでしょう。まず、ここが苦しい。正岡を追い詰めるのは、正岡に資金援助をしている企業の法務も請け負う弁護士である真壁明日菜である。明日菜が正岡を調べる気になったのは、被害者の小学六年生の娘が「殺されたはずだから調べてくれ」と泣いてお願いした、という理由しかない。それだけで正岡の調べに乗り出すには、あまりにも正岡は“犯人像”からかけ離れている。

確かにその後明日菜は、あるパーティーの場で、正岡に対して些細な違和感を抱く。その違和感も、明日菜を調査に乗り出すきっかけになったわけだけど、しかしどう考えても、それは“些細な違和感”でしかない。鉄壁のアリバイを持ち、動機を持たないように見える正岡の調査に乗り出してみようと思えるほど、強い違和感ではないのだ。

調査を開始した後も、ある偶然によって、明日菜が知らなかった正岡に関するある情報を知ることになる。この偶然も、ちょっとなぁと思うのだけど、それはともかくとしても、そこで仕入れた情報にしたところで、すぐさまそれが“正岡の怪しさ”に繋がるものではないようにしか僕には思えないのだ。明日菜が偶然得た情報は、正岡が殺人を犯しうるかもしれない動機に結びつくものなのだけど、しかし、最初に明日菜が得た情報だけから、それが正岡の動機に結びつく情報だとは、強く思えないと思うのだ。

正岡の計画は、警察も見逃してしまうほどの、完全犯罪に近いものだったから、突き崩す過程を描くのが難しいというのは分かる。それならそれで、明日菜に、正岡を追い詰める強い理由を与えて欲しかった。正岡と過去に因縁のある記者で、正岡を追い詰めたいという一心で、あり得ない可能性も漁ってしまう、みたいな設定でもあれば、まだ明日菜の行動を理解できたと思う。でも、本書で描かれている明日菜は、明日菜の雇い主が正岡に資金援助をしているという関係でしかなく、作中でも明日菜は正岡に、犯罪者であることを確信しつつも同情してしまうという複雑な感情を持っている。そんな正義と優しさを持っている人間が、わざわざ調査を開始しようと思うほど強い情報がない、というのが僕にはちょっと納得しにくかった部分だ。

正岡の犯行が追及されていく過程がもっと巧く描かれていたら、凄く良い作品になったと思う。でも、少なくとも僕にとっては、正岡の犯行が追求されていく過程は、随所に不自然さを感じさせる部分があって、なかなかすんなりと受け入れるのは難しいなぁと思ってしまいました。惜しいです。

大門剛明「海のイカロス」


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2時間でおさらいできる世界史(祝田秀全)

内容に入ろうと思います。
本書は、古代文明から現代までの世界史の流れを一気に概観してしまおう、という作品です。つい最近、「日本史」版を読みましたが、今度は世界史です。

「日本史」の方の感想でも書きましたけど、僕は歴史が大の苦手です。色々理由はありますが、覚えるのはかったるいし、ホントに起こったことなのかもわかんないし、基本的には興味が全然持てませんでした。

大人になってから、教養として歴史の知識を持っていることの重要性を実感するようになりましたが、子どもの時サボりまくってた身には、歴史の知識というのはなかなか難敵です。

僕には、本書でさえもちょっとレベルが高いかもしれないと感じました。

「日本史」の方は、まだ日本の話なので、感覚的に馴染みが持てる部分もあったのだろうと思います。用語も、漢字がベースになっているので、ある程度推測で、どんな意味を持つ用語なのか直感的に理解出来る場合もあります。

しかし世界史の場合は、国の成り立ちや宗教観、国境を接しているという地の利などに大きな差があって、僕には感覚的にスーッと入ってこない話が多かったです。もちろん「日本史」の方と同じく、出来事の繋がりをうまく説明してくれていると思います。だから、本の構成そのものに不満があるわけではありません。小説を読む時も、外国人作家の作品の場合、登場人物の名前や地名をすんなり覚えられないし、文化の違いなんかもスッとは入ってきません。それと同じ苦手さを、世界史からも感じられるのだろうと思います。

しかし本書を読んでいると、世界を騒がせる問題の多くが、歴史の禍根を背景にしているのだろうな、と感じます。特に、イスラム教やパレスチナの問題など、テロや紛争など様々な形で現代にも影響を与える問題の根っこが、かなり古い出来事にあるのだなと感じられて、日本とは時間のスケールが違うのだろうなと感じました。

あと驚くのが、アメリカですね。かなり現代に近づかないと、アメリカが世界史に登場することはありません。もちろん、アメリカにも先住民たちによる歴史があるでしょうが、本書のように2時間で読める範囲に世界史を圧縮した場合、アメリカの歴史というのは重要ではない、ということなのだろうと思います。世界史の流れを見てみると、その時々で中国・モンゴル・イギリス・スペインなどなど、様々な国が帝国を作ろうとする。その時代の覇権を握ろうとする。しかし、かつて帝国を目指した国は勢いを落とし、今は、世界史でほとんど登場しないアメリカが世界の覇権を握っている。歴史を一つの大きな流れでみた時に、そのめまぐるしい移り変わりみたいなものは興味深いなと感じました。

個別には色々と気になる話が出てきます。例えば、「都市」というのは農業の生産力向上によって生み出されたものなのだとか、オスマン帝国による第二次ウィーン包囲をきっかけに伝わったコーヒーがきっかけで革命が起こる下地が作られたとか、香辛料を求めてモルッカ諸島を目指したイギリスを撃退したアンボイナ事件がきっかけで、イギリスは木綿と出会い、世界経済を主導するきっかけを得たなどなど。副産物のような事柄が、次の時代の重大な起点となっていく。そういう流れを幾度も経ながら世界史というのはつくり上げられているのだなと思うと、やっぱりもう少し歴史はちゃんと勉強するんだった、と思いました。

世界史という学問そのものが僕自身と合わないために、すんなに読めない部分も多かったわけですが、世界史というものを一つの流れの中で読むことが出来る作品だと思います。

祝田秀全「2時間でおさらいできる世界史」


僕は何度でも、きみに初めての恋をする(沖田円)

内容に入ろうと思います。
高校一年生のセイは、家族の不和という問題を抱えて、毎日をうんざりした気持ちで過ごしている。視界に入るものすべてが醜く感じられる。なんだかもう消えてしまいたいんだ。
そんなある日セイは、学校帰りになんとなく、となり町の公園まで足を伸ばしてみる。そしてそこで、ハナに出会った。
ハナは、セイの写真を勝手に撮り、初対面とは思えないような人懐っこさで話しかけてくる。セイはそんなハナの態度にびっくりしながらも、美しいものを留めておくために写真を撮るんだ、というハナの真っ直ぐな言葉に惹かれる。セイは、毎日のようにハナのいる公園に行ってみることにした。
やがてセイは知ってしまう。ハナが、一日しか記憶のもたない障害に陥っていることを。
日々失われていく記憶と闘いながら、ハナはそれを苦にしないかのように明るく楽しげに振る舞っている。ハナのそんなあり方に、セイは勇気づけられ、励まされる。ハナといる時間はどんどん、セイにとって大事なものになっていって…。
というような話です。

一言で言うと、童話みたいな物語だな、と思いました。そういう意味で、ちょっと大人が読むには厳しいんじゃないかな、と。たまたま自分の周りの世界は薄汚れているけど、世界には、キレイなものだけで出来上がっている場所がある、と信じられるような、若い世代とか理想を捨てたくない人なんかには、グッと突き刺さる作品かもしれない、と思いました。

読みながらずっと思っていたことは、キレイ過ぎるんだよなぁ、ということ。モデルルームを見学しているみたい。確かに、家具もキレイだし、壁や床もピカピカだ。でも、そこには生活感というものがない。人が住んでいる気配がない。そんなモデルルームと同じように、この物語にも、生身の人間がいる気配がしない。天界で起こっている天使同士の物語だ、みたいに言われる方がまだ納得できるような感じだ。

こういう世界が、僕らの現実の世界に存在するというのなら、それは素晴らしいことだ。この物語や、物語の世界観を否定したいわけではない。けど僕にはどうしても、ここで描かれる世界が、僕らの現実と地続きになっているとは感じられないのだ。僕らが到達することの出来ない、どこか遠くの出来事に感じられるのだ。だから、ふとした瞬間に涙腺が緩むことはあるのだけど、基本的にどうもこの物語を受け入れられない気持ちの方が強くなってしまう。

セイとハナは、なんというか陰りがない。セイもハナも、マイナスの価値観や思考を持たないわけではないのだけど、それでも彼らには、陰りがなさすぎるように思う。お互いに、ある価値観・ある感情だけに支配されすぎていて、それ以外の面が浮き出てこない。短編ならともかく、これだけ長さのある作品なんだし、メインで登場する人間が二人しかいないんだから、もう少しこの二人を重層的に描くことは出来ると思う。もちろん、それは著者の書きたいものとは違うんだろうから、読者がとやかく言うことではないと思うけど、どうもモヤモヤしてしまう。メインの二人以外の登場人物も、とにかく「良い人」しかいなくて、なんか違うなと感じてしまうのだ。

人間の心の憶測に突き刺さるような感情を描き出そうとしていると思うし、表現なり文章なりでそれなりには成功していると思う。しかし、先ほどから書いているように、物語の舞台が、僕が住んでいる世界と地続きとは思えないので、どうも入り込めない感じがしてしまう。

とはいえ、こういう物語に惹かれる人も、きっといるのだろう。世知辛い世の中だし、ニュースなんか見てても碌でもない事件ばっかりだし、せめて物語の中だけはキレイであって欲しい、という人もいるのだろう。それ自体は否定しないけど、僕にはちょっと合わない作品だったかなという感じがしました。

沖田円「僕は何度でも、きみに初めての恋をする」


2時間でおさらいできる物理(左巻健男)

内容に入ろうと思います。
本書は、だいわ文庫の「2時間でおさらいできる」シリーズと(と呼ばれてるのかどうか知りませんが)の一冊で、物理をおさらいする内容になっています。

本書は、以下の5つのテーマに分けられています。
「物の運動と力の法則」
「仕事・熱・エネルギーの間にはどんな関係があるのか?」
「身近な波と音の性質について知ろう」
「電気の正体とはたらきを知ろう」
「エネルギーの種類とその利用」

僕は学生時代理系で、物理が好きだったので、復習のようなつもりで本書を読んでみました。元理系だった人間からすれば、物凄く基本的な部分を扱っているな、という印象でした。

まあそれもそのはずで、本書は、現在の高校で文系の生徒でもかなりの割合で学ぶことになった「物理基礎」という科目で教える内容をメインに書かれているようです。僕が学生だった頃に「物理基礎」なんて科目があったのか覚えていませんが、確かに本書に書かれている内容なら、文系の人でも生活の中で関わる可能性があるし、人生のどこかで役立つかもしれない知識かもしれないなと思いました。

僕が本書を読んで良かったなと思う部分は、物理独特の言葉の使いかたをきちんと知れた、ということです。正直、最も勉強していた高校時代でさえ、基本的な用語の正しい理解が出来ていなかったような気がします。

例えば、

「速さ」と「速度」はどう違うのか。
「作用・反作用」と「つり合い」はどう違うのか。
「仕事」とは、物理学ではどう定義されるのか。
「温度」と「熱」はどう違うのか。
「電流」と「電圧」と「電力」とはなんなのか。

こう言った事柄について、分かりやすく書いてくれています。

物理に限りませんが、主に理系の学問では、用語が厳密に定義され、まずそれをきちんと理解しておかなければ、書いてあることを正しく受け取れない、という状態に陥ります。しかし、物理や化学では特に、日常僕らが使う単語(「仕事」や「熱」や「速さ」など)も頻繁に登場します。そしてそれらが、僕らが日常的に使っている意味とは微妙に食い違うこともあるのです。例えば、日常生活の中では、「速度」も「速さ」も区別して使わないでしょうし、「質量」と「重さ」についても同じでしょう。しかし、物理の世界では、それぞれ区別して使われる別の意味合いを持つ単語なわけです。

こういう基本的な部分は、教科書には確かに書いてあるんですけど、試験対策で問題をガリガリ解いているような時にはもうあやふやになってしまったりします。問題が解けないことを、解く量が足りないのだと勘違いして、どんどん解けばいいと思っているようなところが僕にはあって、今考えると、学生時代の僕の勉強の仕方はまだまだ改善の余地があったな、と思います。今なら、本書で説明してくれているような基本的な用語をとにかく正確に捉えるところからやり直すでしょうか。

本書は、かなり易しい内容ではありますけど、数式が出てこないというわけではありません。数式を見るだけでイヤ、という人も世の中にはいるみたいですけど、数式にするというのは、単純化したり分かりやすくしたりするためのものだと僕は思うので、嫌がらないで欲しいなと思います。

本書は、本当に基本です。物理にまったく触れたことがない人が本書を読んでどう感じるのか、それは僕にはよく分からないけど、日常感覚からかけ離れたことが書かれているわけではないので読みやすいのではないかと思います(現代物理学はもはや、僕らの日常感覚を裏切るような事実がわんさか出てくるような領域に入っているので、大変です)。2時間でおさらい出来るかどうかはともかくとして、手軽にチャレンジしてみてください。

左巻健男「2時間でおさらいできる物理」


体育館の殺人(青崎有吾)

風ヶ丘高校の旧体育館で放課後、放送部の部長である朝島友樹がナイフで刺された状態で死体となって発見された。何故か緞帳が降りていたステージ上で、教壇に寄り掛かるようにして死んでいた。第一発見者は、現場にいた演劇部と卓球部の面々。下がっていた緞帳を上げたところ、死体発見となった。
犯行時刻と思われる時間の前後に旧体育館周辺にいた者は、卓球部の顧問の教師によって集められた。また、すぐに警察に連絡をとり、迅速に現場保存がなされた。
警察による捜査が開始されるが、生徒への聞き込みを続けていくと、実に奇妙なことが判明した。
この旧体育館は、事件当時“密室”だったというのである。
出入り口はいくつか存在するが、そのほぼすべてが、駆けつけた警官によって施錠されていたことが確認された。残る開口部は、旧体育館の入り口と、舞台下手側のトイレ付近のドアだ。入り口はその場にいた人間の目があったし、トイレ付近のドアの方は、演劇部が舞台装置を運ぶために持ち込んだリアカーで塞がっていて、誰も通ることが出来なかったのだ。
しかし犯人は、誰にもその姿を見られることなく、現場に現れ、そして現場から消えた。現場に残されていたものは、上手側のドア付近にあったリボンと、トイレに残されていた傘。
捜査が進む中、とある事情から、卓球部の袴田柚乃は、卓球部の部長であり、柚乃が“完璧超人”とアダ名している佐川先輩が疑われていることを知ってしまう。
柚乃は、佐川先輩を助けたい一心で、つい最近耳にしたある噂に頼ることにする。先日のテストで、全教科満点を取った、恐ろしく頭のキレる男が、何故か学校の敷地内に住んでいる、という噂だ。柚乃は、噂通りの場所に出向き、そこで、後にこの難解な事件を見事に解き明かして見せる裏染天馬と出会うことになるのだが…。
というような話です。

べらぼうに面白かったです!この著者の作品を読むのは二度目ですけど、凄い作家がいたものだな、と思います。バリバリの本格ミステリを読むのは久しぶりですけど、これほど「快刀乱麻」という単語が似合う作家はなかなかいないような気がします。

とにかく、謎解きの過程が見事です。ほんの僅かな現象・情報・事実から、可能な選択肢をすべて列挙し、合理的な推論を積み重ね、出来上がった仮説を根気よく検証していくことで、天馬はこの複雑な謎を解き明かしていきます。その過程が本当に見事です。

ネタバレをするわけにはいかないから、この謎解きの凄さを具体的に書けないのが辛いところです。読者は、天馬とまったく同じ情報を手にしています。材料はすべて揃っています。しかしそれでも、天馬のように思考を展開させられる人はそうそういないでしょう。天馬の説明を聞けば、あぁそれしか考えられない、と納得するしかありません。でも、自分では気づけない。そういういくつもの論理を絶妙に折り重ねながら、合理的に、論理的に謎が解き明かされていきます。

とはいえ、ただ論理を積み重ねていくだけの無味乾燥な謎解きというわけではありません。本書の場合、殺人事件は1度起こるだけですが、謎解きが展開される場面はいくつかあります。最後にすべての謎が解き明かされる、それまでは前段階ですよ、という構成にはなっていません。謎解きの場面が適宜挟み込まれるので、350ページ強の物語をだれさせないで読ませます。
とにかく、最初の謎解きである、「佐川先輩の無実を証明する」場面は、凄いとしか言いようがありません。この時点で天馬が持っていた情報は、読者よりも少ないかもしれません。しかし天馬は、たった一つの遺留品について徹底的にこだわりぬいて考えぬくことで、佐川先輩の無実をあっさりと証明してしまいます。
その遺留品というのが、トイレに置き忘れた傘です。
本書はとにかく、この傘の存在が非常に重要です。天馬は、この1本の、指紋や血痕がついていたわけでもない傘のみから、様々な推論を展開し、実に多くの仮説・事実を導きさしてみせます。物語のラストでも、この傘の存在が実に重要になっていきます。この傘が何を伝えてくれるのか、それがどんな思考によるものなのか、是非体感して見てください。

そうやって、謎解きの場面がところどころに配置される構成に加えて、天馬自身のキャラクターのぶっ飛び具合もまた、本書を飽きさせなくしていると思います。
本書には、文庫の袖のところに人物紹介表がついているのだけど、天馬のところには、「二年生。駄目人間」と書かれています。まさにその通りで、天馬は、超絶的に思考力が優れているという点を除けば、人間としては結構クソです。アニメ方面の趣味があることは全然構わないけど、周辺で起こる様々なものをそういうアニメ方面の事柄で説明しようとするし(天馬はあまりにもマニアック過ぎて、他の登場人物も理解できない、という設定なので、アニメに詳しくない方でも問題なく読めます。僕も全然分かりません。でも、わかるともっと楽しいかもしれません)、そもそも学校に無断で住み着いている時点でアウトでしょう。謎解きのために重い腰を上げたのも金のためだし、人を小馬鹿にしたり、傍若無人に振る舞ったりするようなところがあります。
と、天馬の悪いところをあげつらいましたけど、でも何ででしょう、どうも天馬のことは嫌いになれないんですよね。なかなか不思議なキャラクターです。別に、不愉快な存在ではないのです。頭の良さだけでカバー出来るほど、天馬のキャラクターは穏やかではないので、何かしら天馬には、人を惹きつけるような部分があるのでしょう。それがなんなのか、きちんと言葉では説明できませんが、ともかく天馬には、結果的に人を従わせてしまうような、天馬が言うなら仕方ないかと諦めさせてしまうような、そんな雰囲気があって、それが“探偵役”というキャラクターにぴったり合うのと、場を常に引っ掻き回して物語的に面白い“トラブル”を引き起こすという意味で、なんとなく憎めない存在だったりします。

正直、天馬以外のキャラクターはさほど特徴は感じさせないというか、割と無難にまとまっている感じがするので、人物の描き分けという意味ではまだまだなのかもしれないと思います。ただ、本書はデビュー作ですし、僕が本書よりも先に読んだ「アンデッドガール・マーダーファルス」では、魅力的なキャラクターをバンバン描き出していたので、作家として成長しているのだろうと思います。

本書にはラスト付近に、「読者への挑戦状」がついています。ここまでの情報で、読者のあなたにも論理的に犯人を導き出すことが可能ですよ、という宣言である。僕の勝手なイメージでは、こういう「読者への挑戦状」がつく本格ミステリというのは、読者にも犯人が導けるように様々な条件を物語に詰め込むために、細部にこだわりすぎるきらいがある、と感じることがありました。本書でも、確かに時間に関する証言だけは、ちょっとリアルさがないぐらい緻密だな、と感じはしました。3時3分頃に着いた、みたいな証言をするんですけど、さすがにそこまでちゃんと覚えていられる人はいなかろう、と。もちろん、描写でその辺をうまく処理しようとしていますが、若干無理している感はあるような気がしました。
しかし、その時間に関する証言を除けば、細かな部分をきちんと入れ込みながら、リアルさを損なうほど細部にこだわりすぎているように見せない描写をしていて、うまいなと思いました。簡単に説明すれば、パズル的ではなく、あくまでもきちんと物語として整っているな、と感じました。

たった一度の殺人事件だけで、350ページ強の物語を見事に保たせる力、強烈に魅力的な探偵を描く力、圧倒的に緻密な論理展開で犯人を追い詰める過程。そうした要素が実に見事に絡まり合って、バリバリの本格ミステリでありながら、学園モノとしても十分愉しめる、そんな作品に仕上がっていると思います。本格ミステリにあまり馴染みのない人でも、十分愉しめるのではないかと思います。

青崎有吾「体育館の殺人」


2時間でおさらいできる日本史(石黒拡親)

子供の頃から、ずっと歴史が大嫌いだった。歴史を学ぶ意味も、歴史を暗記しなくちゃいけない意味も、まったく分からなかったからだ。
僕はバリバリの理系で、数学とか物理が大好きだった。数学や物理は、一定の法則の元、答えが一つに決まる。数学はパズル的な知的遊戯としての面白さがあるし、物理は世の中の現象を理解するための、そして未来を予測するための道具としての強力さが好きだった。
しかし歴史は、何が面白いのかさっぱり分からなかったのだ。
その理由には、「暗記しなくてはいけない」という点も大きく影響していただろう。理系だった僕からすれば、歴史の授業なんて、とりあえず受けているようなものだった。歴史を学ばなくても、政経とか地理で受験はなんとかなる。じゃあ、なんのために人名だとか年号だとかを覚えなくちゃいけないのか?
今考えれば、歴史を純粋に物語として見ることが出来れば、面白いと感じられたかもしれない。しかし当時の僕にとって、歴史というのは、ただ暗記しなくちゃいけないものでしかなくて、まるで興味が持てなかったのだ。

また、歴史そのものに対する懐疑、というのも、僕は昔からずっと持っている。
例えば、南京大虐殺があったかなかったか、そんな議論が未だになされている。まだ100年も経っていないような出来事の真偽が、確定していないのだ。じゃあ、数百年、数千年前の歴史の正しさを担保してくれるものって、一体なんなのだろう?と僕は思ってしまうのだ。

それでも、「○○だと考えられています」という風に教えてくれれば、僕もまだ納得できただろう。しかし、歴史の教科書や授業では、「○○だった」というような、断言調で語られるのだ。そんな風に断言できるほどの真実性が、どこにあるのか?
物理も、常に理論は変化していく。それまで正しいと思われてきたものが次々と塗り替えられていく学問だ。それでも教科書や授業では、歴史と同じく「○○である」と断言される。
しかし歴史と違うのは、物理の方は、検証可能だ、ということだ。学生には難しいかもしれないが、しかし教科書に書かれていることはすべて、その真偽を誰でも確かめられるようになっている。歴史の場合は、タイムマシンでも開発されない限り、そんなことは不可能だ。永遠の水掛け論でしかない。

そんな風に僕は、ずっと歴史というものが嫌いで、本当にほとんど学ばないでここまで来てしまった。嘘ではなく、僕が知ってる年号は「1192年(いい国作ろう鎌倉幕府)」と「1600年(関ヶ原の戦い)」だけだ。1192年は異説が唱えられているとかで、となると関ヶ原の戦い年号しか知らない。坂本龍馬が何をした人なのか説明できないし、そもそも室町時代とか鎌倉時代なんかを正しい順番で言えない気がする。一時話題になった、高校での必修科目の未履修問題。それが社会問題になった時点で僕はすでに成人していたけど、僕も高校では、必修科目であったはずの世界史・日本史は結局学ばなかった。

さて、大人になって、社会の中でそこそこ生きてみて感じることは、
“子供の頃、歴史の勉強をもっとちゃんとやっとくんだったなぁ”
ということだ。これは本当に後悔している。僕はあまり過去の自分の言動を後悔しないのだけど、振り返ってやり直せるなら、歴史と古典の勉強をきちんとやり直したい。

歴史というのは、様々な現代の出来事を理解するのにも必須だし、社会人として持っておくべき教養でもあるし、また人間の思考や行動の枠組みの幅を取り込むことも出来るのだ。また純粋に、歴史をベースにした様々な娯楽(映画や本や漫画やゲームなど)が楽しくなる、ということもある。普段関わらない年配の人との会話のとっかかりにも使えるかもしれないし、国際化が叫ばれる世の中においては、自国の歴史をきちんと知り自分なりの意見を持っているというのは大事なことだとも思う。学生時代こそ、歴史なんて学んで何になるんだ、二番目にクソみたいな学問だな(僕にとっての一番は国語だった)と思っていたのだけど、後悔しきりである。

大人になってから、まったくの基礎知識なく歴史の勉強をやり直すのは実に困難だ。色々調べたけど、「少年少女まんが日本の歴史」みたいなやつをひたすら繰り返し読むというのがいいのだろうな、という結論に達してはいる。しかし、全20巻ぐらいの本を買うのもしんどいし、なかなか時間もない。

そんなわけで、とりあえずざっくり流れを知るために、本書を読んでみたのでした。

本書は、予備校講師である著者が、普段は生徒に暗記させるような固有名詞をなるべく排除して、歴史の大きな流れを掴むことが出来るように書いた歴史の本です。
まえがきに、こんな風に書かれている。

『(世界史の図鑑にはハマったが)ところが、その歴史の流れを説明する本を読むと、今一つ楽しめない。最後まで読み通すのも苦痛なくらいだ。一番大きな壁だったのは、まぎらわしいカタカナ名だった。ローマの歴史に出てくる「グラックス兄弟」と「将軍クラッスス」などは、別人と気づかないまま読み進めていた。
自分の記憶力のなさにうなだれるほかないが、じれったさもつのった。
「人名なんてどうでもいいから、人間の営みそのものが知りたい!」と。
ローマのあの高い文化水準が、その後なぜ衰えてしまったのか。そっちの方がずっと気になるのである。そうして思ったのは、普通の人が日本史の本に向かうときも、同じ感情を抱くのではないだろうか、ということだった』

そこで著者は、暗記や詳細な解説を目的とする本ではなく、あくまでも歴史全体を概観出来るようなそんな本を書こうと思ったようです。

本書のタイトルには「2時間で」とありましたけど、僕は2時間では読めませんでした(笑)
やっぱり、あまりにもベースとなる歴史の知識がなさすぎるのでしょう。でも、なかなか面白く読めました。

本書は、「これこれが起こった」だから「これこれがこうなった」という流れを結構重視して説明してくれる。これがわかりやすい。たとえば「武士」というのは、元々、所領を守るために武装した者だった。かつて土地は幕府のものだったが、力のある領主が「この土地を俺にくれ」と幕府に言うと、幕府はそれをOKしたのだ。土地を広くすることに領主が躍起になってくれれば、税収が増えるからだ。そうすると、土地を広げたいと考える領主は当然、他の領主とぶつかり合うこともある。そういう時のために武装したのが、「武士」の始まりだった、というのだ。

確かに、唐突に「よっしゃ、武装して戦おうぜ!」という、暴走族みたいな輩が現れたなんて風には考えにくいんだけど、とはいえ、「何故武士が生まれたのか?」なんていう疑問を持ったことのなかった僕には、なるほど!という感じでした。誰かが何かをした、その結果がある時の別の何かに影響を与えている。そういう風に歴史を複層的に描くことで、歴史を一つの繋がりのある存在として感じられるようにしてくれているのだと思います。

また、著者もそう書いているように、固有名詞を出来るだけ排除しているように感じられるので、読みやすいです。ところどころ固有名詞が出てこますが、重要そうなものは太字になっているので、これは最重要なのだなということが伝わるようになっています。

一回読んだだけでは頭に残らないでしょうけど、何回か読んで、歴史の流れを掴めたらいいなと思っています。

石黒拡親「2時間でおさらいできる日本史」


僕に踏まれた町と僕が踏まれた町(中島らも)

中島らもの本を読むと、なんとかなるような気がしてくるから不思議だ。
何がなんとかなる、なのかはあんまり具体的ではないのだけど、人生のあちこちでひっかかる様々なモヤモヤは、なんとなく通り抜けられるんじゃないか、というような感じにさせられる。生きていくことの自由というのは、これほどまでに広いのだな、と感じさせてくれる。

中島らもは、あの灘高出身だ。一学年140人から150人ぐらいいて、その内100人が東大へ、40人が京大へ行くという、バケモノみたいな高校だ。そんな高校で、最初の内は学年で8番という成績だった中島らも。しかし彼は、次第に成績を落とし、ダラダラとしたモラトリアム生活に突入していく。

『四回生の夏が過ぎて、まわりの学生たちの様子がやけにバタバタし始めたのに、他人事のようにそれをながめていたのである。学生たちは就職活動に走りまわり初めていたのに、僕にはそれが自分のこととしてピンと来なかったのである。自分が「働く」ということがうまく像を結ばなかった。かといってこの寝ぼけまなこなこの毎日が永遠に続くこともあり得ないとは感じていたのだが、だからといってどう動いいたらいいものなのかは皆目わからなかった。そしてまた、それはとりあえず今日ではなくてもいいような気もした。』

この気持ちは、凄く分かるような気がする。僕は、就活をする前に大学を辞めたので、著者のような感じを実際に持ったことはない。でも、もし僕が大学を辞めずにいたら、著者と同じようなことを考えていただろう。そして僕は、その時に自分が頭の中でグルグルと考える思考にやられ、気持ちが沈み込むだろうということは分かっていた。だから、先回りして大学を辞めたのだ。

どんな風に生きていくのか。そんなことを、子供の頃からちゃんと考えられる人間なんてほとんどいないだろう。僕も、著者とは比べ物にならないが、子供の頃は勉強が出来た。目の前にある課題を粛々とこなしていくことにかけては、今でも優秀だと思う。子供の頃は、だから先のことなんて何も考えずに、ただひたすら、僕が与えられている目の前の何かに没頭することにしていた。それが、現実逃避であるということは、随分前から気づいていた。今でもそうだが、子供の頃も、僕にはやりたいことなど何もなかった。何かやりたいような気がするものを思い浮かべることが出来たとしても、そこまでたどり着く自分のことが想像出来なかった。将来のことを考えるのは、怖かった。何もない自分を認めるのが怖かった。だから、勉強が出来るというだけの理由で名のある大学に進み、決断を先延ばしにした。そうして、もうこれ以上は先延ばしに出来ないような気がするというタイミングで、人生を諦めることに決めたのだ。

結果的に僕は、今なかなか面白い立ち位置にいる。20歳の頃の僕に今の僕の近況を伝えることが出来れば、彼はきっと驚くことだろう。ほぼ運だけで、ここまできてしまった。その自覚は、未だに手放せない。

『ただ、こうして生きてきてみるとわかるのだが、めったにはない、何十年に一回くらいしかないかもしれないが、「生きていてよかった」と思う夜がある。一度でもそういうことがあれば、その思いだけがあれば、あとはクズみたいな日々であっても生きていける。だから「あいつも生きてりゃよかったのに」と思う。生きていて、バカやって、アル中になって、醜く老いていって、それでも「まんざらでもない」瞬間を額に入れてときどき眺めたりして、そうやって生きていればよかったのに、と思う。あんまりあわてるから損をするんだ、わかったか、とそう思うのだ。』

浪人時代に自殺した友人について触れたエッセイの中の一節だ。
僕も、死のうと思ったことがある。将来のことを考えすぎたのだ。うんざりするような日々しか、想像出来なかったのだろう。その予想は、まあ半分ぐらいは当たってたけど、半分ぐらいは外れたかな。まあ、面白いこともあった。良かったこともあった。これからもあるかどうかは、分からない。あるといいなとは思う。ないまま続くのはしんどい。でも、先のことは考え過ぎない。
先のことを考えすぎてしまう夜は、中島らもの文章でも読もうかと思う。刹那を着るようにして生きた男の人生の軌跡は、僕の絡まった心を静かにほぐしてくれるような気がする。

本書は、朝日新聞社のサービス紙「A+1」というのに載ったエッセイのようだ。大体一つの話が文庫2ページぐらい。5話分で完結する長いストーリーもあったりするのだけど、基本的には短くまとまっている。概ね、著者が社会に出る以前の、灘高時代、大阪芸大時代の話が書かれている。

著者は、明確なきっかけもないままどんどん落ちぶれていって、ほとんど授業に出ないようになっていく。酒、タバコ、ジャズ喫茶などで生活は埋め尽くされて、同類項の者たちとくだらない日常を過ごしていく。次から次へと、よくもまあこれほどくだらないことを思いつけるものだというバカバカしいチャレンジや実験、普通の人間が触れることはないような社会の様々な隙間への逸脱などに彩られ、似たような刹那的な人間と、同じ時空で繋がっているとは思えない世界で生きていく。

高校生の時酒を飲み過ぎて二日酔いになった著者は、“反省し”、毎晩酒を飲んで自分を鍛えることにするというエピソード。金がないのに日々飲み歩く高校生だった著者は、安い酒を探し求める。仲間とそこへ行き、そして安い湯豆腐を食べるのだが、しかしそれには箸をつけない。それは“にらみ豆腐”と呼ばれ、その店にい続ける言い訳としてそこに残していくのだという話。大阪人は天ぷらうどんとご飯を一緒に食うけったいな人種だと言われた時、天丼と素うどんなら高いけど口の中に入ったら一緒だ、という合理性が大阪人にはある、と考える思考。そして、そういうバカバカしい話の合間合間に、時々真面目な話を差し込んでくるから侮れない。

『ただ、ここ何年か、春先になると必ずといっていいほど、大学の新入生歓迎コンパで死者が出る。急性アルコール中毒による死亡である。これは先輩なりにそうした場数を踏んだ人間がいて、むちゃ飲みを事前にやめさせるなり、指を突っ込んで吐かせるなり、温かくして寝かせるなりしていれば何割かは防げるものである。「教育上よろしい」育て方をしてやっと大学にまで上げた子供をそんなことで死なせてしまった親の気持ちを考えると暗然とする。「教育上よろしくない」ものがほんとうにチリひとつないまでに掃除消毒されてしまった教育を考えると恐ろしい気がする。そこから「検査済み」のハンコをおしてもらって出てくる人間というのも恐ろしい。話すことが何もない気がする。』

中島らものエッセイをそれなりに読んでいるが、エピソードにさほど重複がない気がする(まったくないわけではないが)。これだけのエッセイを書いていて、よくもまあネタがあるものだと感心する。経験したすべてのことをエッセイに書いているわけでは当然ないわけだから、中島らもの人生にはさらに色んなことが起こっているはずである。凄いものだな、と思う。もし僕にも、人生のこういう蓄積が、自身の歴史の地層として存在していたら、色んなことがまるで違っただろうな、と思う。と同時に、緩やかな自殺みたいな生活続けてこれたのも、中島らもに圧倒的な才能があったからだろう、とも思うのだ。凡人が、中島らもと同じ経験を経たところで、どうなるものでもないのだろうとも思ってしまう。羨ましいような羨ましくないような。中島らもに対してはそういう、割り切れない感情が浮かぶ。

『それ以来、人を信用するときは“だまされてもいいや”という気でやることにしている。』

こういうところは、激しく共感してしまうのである。破天荒なのか心配性なのかよく分からない。中島らもがそういう複雑な人格であるということも、僕が中島らもに惹かれてしまう理由の一つだろう。

本書じゃなくてもいい。何かひとつ、著者のエッセイを読んでみてください。あなたの人生の余白が、気持ち広がるかもしれません。

中島らも「僕に踏まれた町と僕が踏まれた町」


アンデッドガール・マーダーファルス 1巻(青崎有吾)


内容に入ろうと思います。
舞台となるのは、吸血鬼やケンタウロス、人造人間や切り裂き魔など、古今東西の様々な“物語”の中の存在が実在する世界だ。
19世紀末。既に世界では、化け物狩りが進んでいた。吸血鬼や人狼などは、人間に害をもたらす存在だとして迫害され、化け物ハンターたちがその命を狙い、その存在はかなり絶滅の危機に瀕していた。
そんな中ヨーロッパでは、人類親和派の吸血鬼が登場する。その一人であるジャン・ドゥーシュ・ゴダール卿は、<人間の生き血を吸わない>という宣誓書にサインをし、政府から人権を得た史上6人目の吸血鬼だ。彼の妻であるハンナは元人間であり、吸血鬼となった後、子供らと共に、ジーヴルの街の東側にある深い森林地帯の奥にある、ヴァーグ・ド・フォリ城-“波打つ狂気の城”で暮らしている。吸血鬼は、銀製品と、カトリック教会が1260年に開発した“聖水”のみが弱点であり、それ以外のどんな攻撃に対しても、すぐさま治癒したり回復したり再生したりする。日光がダメで夜しか活動出来ないが、力は人間では太刀打ちできないほど強い。ゴダール卿はちょっと資産家であり、ジーヴルの街に対して莫大な援助金を渡している。そんな風にして、人類とうまくやっていこうと考えているのである。
ある日、仕留めた鹿を携えて城まで戻ると、ハンナが杭のようなもので貫かれ、さらに聖水を撒かれた状態で死んでいるのは見つかった。鍵を掛けていたはずの倉庫に、数日前にハンターから奪った銀の杭を保管していたのだが、そこにべっとりと血が付着していた。
ゴダール卿は、悲しみに暮れたが、犯人を捕まえるべく、探偵を雇うことにした。それが、怪物専門という奇矯な探偵、通称“鳥籠使い”である。
彼らは、日本人の二人組、真打津軽と輪堂鴉夜である。彼らは、スペインで屍食鬼(グール)を飼っていた教団を壊滅させ、ノルウェーで人魚にかけられた殺人容疑を晴らすなど、人間が忌避する怪物絡みの事件を軒並み解決してきた。しかし、具体的にどう活躍したのかという情報はほとんど伝わらず、ただ「大変有能である」という評判だけが伝わっている、非常に謎めいた探偵なのだ。
やってきた“鳥籠使い”は、およそ信じられないような風体で現れ、そして颯爽と事件を解決していく…。
というような話です。

とにかく凄い物語でした!メチャクチャ面白いし、見事です。本格ミステリ作品で、まだこんなことがやれるんだ、と新鮮な驚きを与えてくれた作品です。

まず、設定に驚かされました。こういう、異形の者たちが実際に存在する世界を舞台にした作品、というのは実際のところ存在するでしょう。でも大抵の場合、その設定自体にさほど大きな意味はなかったりすると思います。
本書の場合、異形の者たちが存在する世界だからこそ起こりうる事件だし、また、異形の者たちが存在する世界だからこそ“ミステリ”として成立する物語なわけです。この点が見事だなと思いました。

たとえば、吸血鬼の事件のメイントリックは、恐らく本格ミステリをほどほどに読んだことがある人なら、一度は触れたことがあるような、古典的なトリックだと言ってしまっていいかもしれません。だから本書は、トリック自体の斬新さで勝負してくる作品ではない。本書は、使い古されたそのトリックを使って、どれだけ新鮮な驚きを与えることが出来るか、その点にこそ重点がある。

詳しく書きすぎるとネタバレに繋がるかもしれないから抑えるけど、このトリックは本作でしか成立しえないだろう。見事に整えられた舞台設定の中に、このトリックがピタッとハマるのだ。この使い古されたトリックが明るみに出ることによって、事件の根底が一気にひっくり返されてしまう。そのカタルシスたるや見事だと思いました。

また、異形の者が存在する世界という設定は、事件だけではなく、探偵たちとも密接に関わってくる。この点も素晴らしい。この物語には、何故かれらが探偵にならざるを得なかったのか、という問いに対する答えが、物語世界の構造そのものに内包されているのだ。

なかなかそんな探偵小説はないだろう。古今東西様々な探偵が生まれてきただろうけど、多くは、類まれなる推理力が元からあったからとか、係累の誰かが刑事で手伝いをする内になど、弱い形での“探偵になることを決めた物語”があるに過ぎない。しかし本書の場合は、真打津軽にも輪堂鴉夜にも、探偵としてヨーロッパ各国を飛び回らなければならない切実な理由があるのだ。これも実に巧いと思う。著者がこの物語をどこから着想したのか、それは僕には分からないけど、どこから着想したにせよ、物語の世界観と、事件のトリックと、探偵にならざるを得なかった理由が、一つの一貫した流れの中で生み出されているという構成が、作品をもの凄く力強く立たせていると感じる。本書は、ただノリだけで、異形の者たちが住む世界を舞台として選んでいるのではない。異形の者たちの存在が、あらゆる場面で世界に立ち現われてくる見事な構成なのだ。

19世紀を舞台にしているのは、実際にそれらの作品群が書かれた時代を舞台にしたからだと思うのだけど、この設定は、クローズドサークルを必然的に生み出しているという点でも非常に面白い。普通ミステリの中でクローズドサークルは、雪の山荘や絶海の孤島などで作られる。それは、“警察がやってこない”という状況を作り出すためだ。科学技術の進んだ警察がやってきては、物語的に面白くならない場合、そういうクローズドサークルが作られる。

しかし、クローズドサークルを作品に登場させる時、作品はどうしても不自然になってしまう。本格ミステリを読む場合の“お約束”のようなもので、本格ミステリ読みにはさほど気にならないのだろうけど、一つの作品として見た場合、やはりクローズドサークルが作られる状況というのは、大抵不自然に、作品に都合が良すぎるように感じてしまう。

しかし本書の場合、警察は登場したとしても、現代のような進んだ科学技術を持っていない。そういう意味で、緩くクローズドサークルが作られているのだ。そしてそれを、まったく作為的に感じさせない。実に魅力的な舞台を整えたものだなと関心しました。

僕は物語に関して、一つ敢えて触れていない部分がある。それにはフランケンシュタインが関わってくる(この一文は、後々僕がこの文章を読み返した時、内容を思い出すためのものだ)。多分知らないまま読む方が面白いだろう。フランケンシュタインが関わる部分も、実によく出来ている。このパートこそ、異形の者たちが存在する世界であるが故に成り立つ話で、その斬新さには驚かされることだろう。

さて、次にキャラクターの話をしよう。こちらについても、書かない方がいいだろうと思う部分が多いのであれこれは書けないのだけど、とにかく、真打津軽と輪堂鴉夜のキャラクターは素晴らしい。実に魅力的で、惹きつけられる存在である。

確かに、ライトノベルに登場してくるようなキャラクターに、一見すると思える。しかし、この二人には、話が進んでいくことで明らかにされていく、深い背景が存在する。彼らの存在そのもの、生きる理由、探偵を続ける理由などなど、彼らの背後には、読者の誰もが想像もしえないような広がりのある物語が横たわっている。その一つ一つの歴史を知る度に、ただ無邪気で破天荒なだけのキャクターなのではないということが伝わってくるのだ。

真打津軽と輪堂鴉夜についても、世界観の設定と同様、見た目の面白さだけでキャラクター設定をしたわけではない、世界観と密接に繋がった要素が存在する。特に輪堂鴉夜は、普通には存在し得ない存在だ。しかし、著者が生み出したこの特殊な世界の中で、輪堂鴉夜は“論理的に”存在しうる。その斬新さ。ノリや見た目のインパクトだけで設定されたような物語の登場人物が色々いる中で、あからさまな異形であるにも関わらず存在理由にこれほど違和感のないキャラクターも珍しいだろう。

また、真打津軽と輪堂鴉夜のやり取りがなかなか面白い。殺人現場にいるとは思えないほどの珍妙なやり取りや、脈絡なく上げる笑い声など、独特な世界観を持っている。それでいて、輪堂鴉夜が展開する推理の論理展開は見事としか言いようがない。メインの事件の解決だけでなく、輪堂鴉夜は細々とした推理をいくつも披露していくのだけど、その知性がなかなか魅力的である。

また、真打津軽は、輪堂鴉夜の弟子という立ち位置であるが、喋らせたら天下一品である。相手を煙に巻く手腕も、くだらないことを延々喋り続けるアホらしさも、芝居の前の口上のような軽妙さも、口から生まれたかのような振る舞いが面白い。二人は、ある意味で二人で一つであり、しかしその一つが異様にデカイという感じのペアだ。お互いがお互いの存在を必要としているという点でも、なかなか魅力的な関係性である。

輪堂鴉夜は、『人間の行動原理なんて考えるだけ無駄』と切り捨てる。著者は、平成のクイーンと呼ばれているらしい。僕は、エラリー・クイーンの作品をたぶんほぼ読んだことがないから分からないのだけど、恐らく、論理で詰めていくタイプのミステリなんだろうと思う。本書も同じで、輪堂鴉夜は、動機だの心理状態だのを基本的に考えない。あくまでも、目の前の状況を観察し、仮説を立て、それを検証していくというやり方で事件を解決していく。それはどうしても、冷たい印象を残す捜査になりがちだと思うのだけど、しかし本書の場合、常にふざけているような真打津軽が全体のバランスを取ることで、怜悧なだけの物語にはしていない。そこも良いなと思う。

この物語は、シリーズとして続いていきそうだ。「名探偵コナン」と同じく、事件は事件として横糸として存在するが、物語を縦に貫いていく縦糸もあって、それが本作ではまるで解消されない。そちらの展開もなかなか気になるところだ。

物語の筋だけ追えば、実に本格ミステリ的な作品だ。しかしそこに、過剰なまでの装飾を施すことで、本作をただの本格ミステリ作品に留めていない。また、ただの装飾に思えたことが、実は作品の根幹と密接に関わっていくという構成もまた見事だ。本格ミステリを読んで、こんなに清々しく、さっぱりとした気分になったのは、たぶん初めてだろう。

青崎有吾「アンデッドガール・マーダーファルス 1巻」


乃木坂46物語(篠本634)






7月10日。僕が乃木坂46を好きになった日だ。
その日僕は、映画を観に行っていた。「悲しみの忘れ方」という映画だ。乃木坂46の結成から現在までの軌跡を描いた。ドキュメンタリー映画だった(映画の感想は、こちらこちら)。
僕はその映画を見て、乃木坂46を好きになった。

それまで僕は、「乃木坂って、どこ?(現在は「乃木坂工事中」)」というテレビ番組でしか彼女たちのことを知らなかった。何故その番組を見ていたかというと、たまたまとしか言いようがない。特に理由はなかった。多少気になってはいたのだろう。だから、家にいる時は毎週見ていた。ただ、特別どうとも思っていなかった。可愛い子たちだし、面白い企画もやるけど、それは番組として興味を持っていたという感じに過ぎなかったと思う。

その番組の中で、ドキュメンタリー映画が公開されるという情報が流れた。見に行くか、と思った。相変わらず、理由は特にない。理由もないのにアイドルのドキュメンタリー映画なんて観に行くのか。まあ、僕はそういう人間だ。

そして映画を見た後、いや、見ている最中から、僕は乃木坂46が好きになった。

僕は、乃木坂46のライブに行ったこともないし、曲もアルバムを一つ買っただけだ。握手会などどんなイベントにも行ったことがない。僕と乃木坂46の接点は、「乃木坂って、どこ?」というテレビ番組しかなかった。当然、乃木坂46の歴史なんてまったく知らないし、そもそもメンバーの顔と名前さえほとんど一致していなかった。

だから僕は、何も知らない、まっさらな気持ちで映画を見ることが出来た。

そこでは、様々なことが描かれていた。オーディション時の映像から、舞台裏での衝突、スキャンダル、家族との関わり。メインメンバー5人を中心に、乃木坂46の歴史を僕は一気に取り込んでいった。
その、何に、僕は惹かれたのか?「乃木坂って、どこ?」というテレビ番組を見ているだけでは伝わらなかった何が、その映画にあったのか。

僕は、乃木坂46を語る上で重要なキーワードは二つあると思っている。それが、「AKB48のライバル」と「ネガティブ」である。

乃木坂46は、AKB48の公式ライバルとして誕生した。これは最初から、相当ハードルを上げられているということを意味している。オーディションを突破しただけの、つい最近まで無名の女の子だった彼女たちが、いきなり、絶頂の極みにいたAKB48の公式ライバルと見做されるのである。
この重圧が、乃木坂46というグループの骨組みを作ったのだ、と僕は感じた。無からのスタートではなく、ハンデを背負ってのスタート。もちろん、ハンデを背負う分、恵まれた部分もあるのだけど、しかし、まだ何者でもない彼女たちにとって、ハンデの方が一層強く感じられただろう。

そして、僕が彼女たちに最も強い関心を抱いた部分が、「ネガティブ」である。
全メンバーというわけではないだろうが、乃木坂46にはネガティブな子が多い。彼女たちが映画の中で語る言葉の後ろ向きっぷりには、驚かされることだろう。いじめられていて逃げたかった子、極度の人見知りで何も出来なかった子、オーディションに受かったことで恐怖を感じた子。その反応の仕方は様々だが、乃木坂46は結果的に、ネガティブな子たちで構成されるアイドルグループとなった。

それは、いくつか曲を聞いてみても理解できるだろう。アイドルとは思えない曲調や歌詞の歌が結構ある。そしてそれらの歌は、歌う彼女たち自身にとっても共感出来るものだったからこそ、多くの者に響くのだろう。

ネガティブな人間は、ネガティブであるが故に考えすぎ、悩み過ぎる。その度に、多くの言葉が頭に去来することだろう。その蓄積が、人間的魅力として結実するのだと僕はいつも考えている。僕がネガティブな人間に惹かれてしまうのは、そういう理由なのだろう。僕自身もネガティブで、ネガティブな人間の思考回路が分かるつもりだ。だから、彼女たちの言動に共感してしまう。

乃木坂46の面々の多くは、逃げ続けてきた人生を送ってきた。逃げて逃げて、逃げた先にようやくたどり着いたのが、乃木坂46だった。しかし、やはりそこも安住の地ではない。辿り着いた彼女たちを待ち受けていたのは、絶望という名のスポットライトだった。今まで逃げ続けてきた彼女たちからすれば、耐え切れないほどの試練。しかし彼女たちは、様々な理由から踏ん張り、耐え、過去の自分を払拭しようと努力していく。

そこに、物語が生まれる。
僕は正直、他のアイドルのことはまるで知らないので、他のアイドルグループにも物語を持つ人間は多くいるのかもしれない。しかし、日陰を生きてきて、逃げて逃げて逃げまくって、その結果アイドルとなって強くなっていく、そんな人間がたくさんいるグループなんて、そう多くはないだろう。

乃木坂46は、弱い人間が輝ける場所だ。彼女たちは、自分たちの弱さを、未熟さを、不甲斐なさを自覚する。絶望を糧にして前進する術を覚え、傷だらけになりながらも前へ前へと進んでいこうとする。
彼女たちは、そんな奮闘の末に、少しずつ輝きを増していくようになる。そして彼女たちは、その輝きで、弱い僕たちのことも照らしだしてくれるのだ。弱くてもいい、かっこ悪くてもいい、前に進む意志さえあればどこかには辿り着ける。人生に尻込みしていたはずの彼女たちが、予想もしなかったような“輝ける場”を与えられ、そこでもがき苦しむことで、間接的に僕らのことも明るく照らしだしてくれるのだ。僕はそういう気持ちで、彼女たちを見ている。

僕自身、つい最近、彼女たちとは比べ物にはならないレベルだが、“輝ける場”を与えられた人間だ。そういう自分の環境の変化も、乃木坂46に共鳴していく要因だっただろう。僕もネガティブで、与えられた“輝ける場”に尻込みしていた。けど、乃木坂46を見て、彼女たちの傷まみれの奮闘を見て、気合を入れられた。彼女たちと同じくらい努力が出来るかは、ちょっと分からない。けど、乃木坂46の面々に恥ずかしく思われない程度には頑張りたい。僕の内側に、そういう気持ちが生まれてきたのは事実だ。

そういう意味で、乃木坂46というのは僕の中で、一本の支柱のようになっている。寄りかかっているわけではないが、僕という存在を心から支えてくれるような、そんな存在な気がする。彼女たちの奮闘の軌跡を、映像や文字で時折触れ直すことで、頑張ろうという気持ちが湧いてくる。彼女たちに出会えて、本当に良かったと思う。

本書の内容に触れよう。
本書は、週刊プレイボーイで連載されたものをまとめた作品だ。時系列順に話が進むわけではなく、時間軸はあちこちに飛びつつ、乃木坂46というグループの歴史を描き出していく。

編集の仕方に差はあれど、ドキュメンタリー映画である「悲しみの忘れ方」と本書は、当然同じ素材をベースにしているわけで、描かれるエピソードなどにはかなり共通項がある。そういう意味で、あまり目新しさはない。しかしこれは、僕が「悲しみの忘れ方」を見ているからであって、そうではない人には、乃木坂46というグループの全体像を捉えやすいだろう。これまでにあった印象的なエピソード、どんな出来事を経て乃木坂46が強くなっていったのか、どんな思いでその時を乗り越えたのか。様々なメンバーへのインタビューを通じて、乃木坂46を作り上げてきた数多くの絶望や試練を、丁寧に描き出していく。

ドキュメンタリー映画と概ね同じ素材ではあるのだけど、大きく違う点が一つある。それは、「アンダーライブ」である。本書では、「アンダーライブ」について触れている部分がかなりあり、特にこの部分が印象に残った。一つのグループに存在する光と影のあり方を一変させてしまったアンダーライブの歴史には、時折ウルっと来てしまった。

アンダーライブというのは、選抜メンバー以外のアンダーメンバーだけで行うライブだ。

『メンバーに取材をしていると、多くの“アンダーメンバー”が口をそろえる。
「ファーストシングルからサードまでのアンダーは本当にキツかった」』

『ある意味…自分との戦いでもありましたね。ファーストとセカンドの時期って、アンダーは、ほぼ仕事がなかったんです。基本、「乃木坂って、どこ?」は、選抜しか出れなかったですし、雑誌やテレビへの出演も、MVの撮影の量も全然違うんですよ』

乃木坂46は、AKB48らのグループとは違って、ホームとなる劇場を持たない。ホームとなる劇場があれば、アンダーメンバーでも常にライブを行うチャンスがあるが、劇場のない乃木坂46の場合、選抜に選ばれない限り仕事はほとんどない、という状態になる。露出が少ないから、握手会でも並んでくれるお客さんは少ない。

『何が一番恐怖かって、ヒマなのがアンダーだけだってことなんです。同じグループの仲間なのに、自分がご飯を食べているときに、みんなは働いてるんですよ。みんながさまざまな経験をしているのに、自分たちは、ただご飯を食べてる。それが恐ろしかったんです』

そんなアンダーメンバーの状況を、一言で絶妙に表現したメンバーがいる。

『CMとか雑誌とかで、よく“乃木坂さん”を見るんですよ。…いいなぁ、って思うんですよね』

「乃木坂って、どこ?」の番組内で、川後陽菜が言ったのだ。スタジオは爆笑に包まれたというが、それはアンダーメンバーの共通の感覚だった。それほどまでに、アンダーメンバーには光が当たらなかったのだ。

『仕事がないなかで、地方とかのイベントにアンダーだけで行くこともあったんです。それが本当に楽しくて。「もっとライブがやりたいね」って、みんなで話していました。それはアンダーメンバーの“悲願”でした』

彼女たちは、「何もない」という絶望に落とされていた。乃木坂46という名前をもらいながら、何をするわけでもなく学校に行っている。テレビで“乃木坂さん”を見かける。全力でやっても選抜に選ばれない。もうどうしたらいいのか分からない。そんな抜け出すことの出来ない絶望に囚われていた。

それを変えたのが、アンダーライブだ。選抜とアンダーという区分を反転させるような成果を生み出すこのアンダーライブも、スタートは酷いものだった。

『昼間に行なったミニライブでは満員だった会場は、3分の1すらも埋まっていなかったのである』

アンダーライブに応募する条件が厳しかったこともあって、初回のお客さんの入りは壊滅的だった。

『がらがらでした。それが始まりです。落ち込みました。でも、それでも来てくれたことがうれしかったんです。もう「この人たちのために全力でやろう」って』

どれだけ酷い環境でも、彼女たちにとってアンダーライブは救いだった。彼女たちには、もうそこしかなかったのだ。何もやることがない、そんな絶望的な日々を過ごすのはごめんだった。彼女たちは、必死だった。

『「アンダーの概念をぶっ壊す」
「私たちは、“2軍”ではない」
そんな信念の詰まったそのライブは、光が当たらないアンダーメンバーだからこそつくり上げることができた“彼女たちだけの場所”である』

アンダーメンバーは、「選抜のできないことをやる」を合言葉に、ライブをつくり上げて行った。乃木坂46全体のライブは、演出家など様々な人間の手を借りて作られるが、アンダーライブは演出から何からすべてをアンダーメンバーが決めるライブだ。

『やっぱり、全員でやる大きなライブだと、できないことっていろいろあるんです。それをアンダーライブはどんどん挑戦していく。選抜メンバーから見ていても「こんなこともできるんだ!」っていう驚きと発見ばかりなんです。とにかく“熱くなれるライブ”でしたね』

彼女たちは、ありとあらゆることをやった。考えうるすべてのことを。踊りすぎてけが人が続出するほどだった。でも、テーピングを巻いて踊り続けた。やらなければならなかった。突っ走り続けるしかなかった。

『正直、アンダーライブに人が来なくなったら、すぐに終わるっていうのはわかっていましたから、「次へつなげなきゃ」って気持ちが大きくて。乃木坂46の半分はアンダー。もし次に選抜に入れたとしても、その次のシングルではまた戻ってくるかもしれない。そう考えるとアンダーライブはとても大事な場所だったんです』

『「一度でも、客が来なくなったら終わり」
そんな、常に崖っぷちな状態で、アンダーライブは幕を開けたのである』

結果、アンダーライブは驚異的な支持を得るようになる。

『「アンダーライブがすごいらしい」
「今、アンダーを見ておかないと、必ず後悔する」
「もしかしたら、選抜よりもすごいかもしれない」』

そんな噂がファンの間で広がるようになっていった。やがてアンダーライブは、チケットの取れないプレミアライブになっていく。そしてついに、東京ドームでアンダーライブが開催されることになった。ちょうど、僕がこの感想を書いている今日、東京ドームでアンダーライブが行われているようだ。

『まさに、「アンダーの概念」が壊されようとしていた。
「アンダーは、選抜の2軍ではない」
メンバーもファンも、心からそう感じていたことだろう』

ずっと影にいて、活動がないという絶望と葛藤しながら、その溜め込んだ絶望を一気に放出するようにして一気に光を呼び込んだアンダーメンバー。輝ける場所を、彼女たちは見つけたのではない。自らの手で作り出したのだ。影が光になる。乃木坂46というアイドルグループは、一つ大きな進化を遂げることとなった。

しかし、アンダーライブの成功は、乃木坂46というグループにとって、課題をもたらしもした。乃木坂46はあたかも、「選抜」と「アンダー」という二つのグループに分かれてしまったかもように、まったく別の存在になって言ったのだ。お互いに交流する機会は多くはない。アンダーの側には、パフォーマンスでは選抜には負けないという自負も生まれ始める。その違和感を乗り越え、乃木坂46はまた一つ大きくなっていくのだ。

ドキュメンタリー映画ではアンダーライブのことは一切触れられなかったので、アンダーライブについて読めただけでも本書を買った価値は十分にあると思った。「アンダーの概念をぶっ壊す」を目標にアンダーライブを次々に成功させ、選抜とアンダーの区別を一面では反転させるという強さを持った乃木坂46というアイドルグループの凄さを感じた。

全体の話では、「16人のプリンシパル」の話も印象的だった。これは、ドキュメンタリー映画でも描かれているのだけど、改めて文字で読むと、やはりこの「16人のプリンシパル」というミュージカルは過酷だったのだなと実感させられた。

『そこからの毎日は、正直…地獄でした』

高山一実を除く、ほぼすべてのメンバーが、似たような感想を持っているのだろうと思う。高山一実は、トーク力の高さで有名で、人前で臆することなく話せるので、乃木坂46の初期の頃からその類まれなトーク力で自己PRで圧勝していた。自己PRを元に観客から投票してもらい、その順位で配役が決まるというシステムで、誰がどこに選ばれても大丈夫なように、全メンバーが全セリフを覚えなくてはいけないという、それだけでも十分過酷な企画だった。

『努力して、報われないときが一番キツいんですよ。みんな「つらいね、逃げたいね」って言ってました。帰りのバスが超うれしかったのを覚えています。一刻も早く帰って家に閉じこもりたかったです』

しかし、選ばれるメンバーが楽かというと、そういうわけでもない。
生田絵梨花は、その圧倒的な歌唱力と演技力で、ほぼ全公演で1位という驚異的な結果を残していた。しかしその生田にも悩みがなかったわけではない。

『ほかのメンバーを慰めるのも違うし、自分のつらさを出したら「あなたは選ばれてるじゃん」ってなっちゃうから。』

乃木坂46はそもそも、オーディションの時点で「暫定選抜」を決められている。その後も、あらゆる場面で順位付けされるイベントを経験させられている。「AKB48が5年掛かった道を5ヶ月で進ませる」というのが乃木坂46を運営する上での秋元康氏の意気込みだったようだけど、まさにそれを体現するかのようなハードな試練の数々に、メンバーは疲弊していた。

『自分を絞り出して戦う。プリンシパルによって、それまでの乃木坂46とは大きく変わったと思います。悪い意味じゃなくて“戦っていく”っていう姿勢のコが増えたんじゃないかなって。自分を高めていって、刺激し合って、上に向かっていく関係性ができたことによって、シビアに鍛えられたと思うんですよ。』

『プリンシパルによって、それまでふわっとしていたメンバーたちが変わったっていうのはあります。人間の影の部分っていうか、人間の本質を引き出されたような感覚がありました。この経験によって、この後に歌うことになる乃木坂の楽曲に力を与えたんじゃないかなって思うんですよね』

そんな風に、乃木坂46という存在にとって厳しく、成長の糧となった「16人のプリンシパル」。目の前のことを必死でこなしていくしか出来なかった少女たちは、この経験を経て、“戦っていく”という姿勢を身につけることになった。

乃木坂46の中で、最も戦っていたのは、生駒里奈ではないだろうか。ドキュメンタリー映画を見ていても思ったけど、生駒里奈というのいは実に物語性のある少女だと思う。

『その中にひとり。
伏し目がちで、猫背の少女がいた。
秋田県から参加したその少女は、キラキラと輝く少女たちの中でひとり、ずっと床ばかり見ていた。
少女の名前は生駒里奈。
彼女も、この乃木坂の地に人生を帰るためにやって来たひとりだった』

学校でいじめられていて、高校に進学する気力もなくなってしまった少女は、「逃げるため」に乃木坂46のオーディションにやってきた。

『そして、地方組メンバーの全員が口をそろえるのが、「覚えているのは、生駒里奈(秋田県出身)がいつも泣いていたこと」だったという』

母と離れて暮らすのが初めてでホームシックになった少女は、コンビニの弁当が食べられず、さらに口の中が口内炎でびっしりになった。いつも自信がなく、何も出来ないと思っていた少女。その少女が、デビューシングルから5作連続でセンターを務めることになる。

『「アイドルって成長を見守りたいもの」って思っていたので、生駒ちゃんはセンターに合うだろうなって』

ドキュメンタリー映画でも、生駒里奈は常に乃木坂46の中心だった。踊る時の立ち位置の話ではなく、乃木坂46の精神的支柱とでも言おうか。いじめられ、まるで自信のなかった女の子が、未経験のままセンターを経験するというとてつもない重圧を課された。その葛藤。苦悩。絶望。それらをすべて受け止め、逃げることなく全うした生駒は、6曲目シングルでセンターから外れた時、安堵を感じる。

『だから…あのときのことは、いろいろ言われるんですけど、本当の気持ちとしては、6枚目でセンターじゃなくなったことで、苦しみが外れて。「また、新しい気持ちで行こうぜ!」っていう、前向きな気持ちだったんですよね』

その後も生駒は、AKB48との兼任を受けたりと、乃木坂46の中で常に中心的立ち位置であり続けている。「ネガティブは生駒里奈の武器」とまで言う少女は、ネガティブであるが故に涙を流し、ネガティブであるが故に決して満足せず、そしてネガティブであるが故に誰よりも物語性に満ちている。場が人を作る好例だろう。

場が人を作るもう一人の好例は、西野七瀬だろう。

『正直、中学時代、何をしていたか覚えていないくらいです。男子ともしゃべらないし、「話しかけないでください」ってオーラを出してたと思います。話しかけられても、相手の顔を見れないんですよ。目が合っても、すぐサッてなっちゃうタイプ。』

乃木坂46の顔の一人と言ってもいい西野七瀬の今の姿からはまったく想像がつかないだろう。ドキュメンタリー映画の方でも、西野七瀬のかつてのネガティブぶりはよく描き出されていた。
しかし西野は、乃木坂46に入ることで、自身の「負けず嫌い」を認識することになる。

『私、乃木坂46に入ってから、自分が負けず嫌いだってkじょとを知ったんです。今でもですけど、基本、争い事は嫌いなんです。でも、負けると悔しいんですよ。悔しいから、それがイヤで、ずっと争いを避けていたのかもしれません』

そんな彼女は、あることをきっかけに、心がぐちゃぐちゃになってしまう。「大阪に帰る」と言い、スタッフに引き止められる一幕もあった。
そのきっかけとは、秋元真夏の復帰である。

秋元真夏は、オーディションに合格し、暫定選抜で2番手に決まっていた、期待感を持たれていた少女だった。しかし、芸能活動が学校から許されず、活動をまだしていない内から、半年間の活動休止ということになった。

『その大事な半年間。自分は乃木坂46に参加できない。
「この半年を越えてしまったら…私のあのポジションはなくなっちゃう。戻れない…」
少女のアイドル人生はどん底から始まったのだった』

そんな秋元真夏は、衝撃的な形で乃木坂46に復帰することになる。
復帰直後、センターに選ばれる、という形で。
前回センターだった西野を押しのける形で。

『これまでの選抜発表と比べても段違いのショックを受けたメンバーたちは、大きく心を揺さぶられていた』

乃木坂46では、センターの選定で幾度も波乱を引き起こしている。6枚目生駒がセンターを外れた時には生駒は倒れてしまうし、AKB48との兼任を終えた直後の生駒がセンターに選ばれるということもあった。秋元真夏の復帰センターも、かなりの衝撃だった。

しかし、センターの選定で最も衝撃を与えたのは、堀未央奈だろう。2期生として加入したばかりで、活動もまだほとんどしていなかった堀未央奈が、いきなりセンターに選ばれたのだ。

『あれは…乃木坂46の歴史の中で、衝撃の強さでいったら、一番だったと思います。でもその中で未央奈が一番つらかったんです。先輩の目も冷たく感じたろうし、同期の目も怖かっただろうし。乃木坂46に入ってきて、いきなり未経験でセンターに立ったのは、私と未央奈しかいないんです。だから「全力で支えるから大丈夫だよ」って言いました。自分は絶対味方でいようって』

『でも、入ったばかりの2期生がセンターに立ったことで、“このコに超えられた”ってことが悔しかったんですよね。未央奈は悪く無いんです。でも…あれは、乃木坂46の入って3本の指に入るくらいに悔しい出来事でしたね』

話題作りも当然あるのだろうが、運営側は常に、メンバーに衝撃を与えるような形で物事を進めようとしているように感じられる。それも、AKB48の5年を5ヶ月で、という実践なのだろうけど。その様々な試練を乗り切った彼女たちの奮闘を讃えたいと思う。

話を元に戻そう。秋元真夏が西野七瀬を押しのけて、復帰後すぐにセンターという衝撃的な発表がされたことで、西野の心はぐちゃぐちゃにかき乱された。そしてその後、秋元真夏とずっと話せない時期が長く続いたのだという。

そんな二人のギクシャクした関係は、他のメンバーもファンも知るほどのものになっていたが、どうなるものでもなかった。そんな二人の関係が前進した日のことが、本書に書かれている。頭では真夏が悪いわけではなと分かっているのだけど、生来の性格から行動に移せない西野七瀬と、後から入ってきて西野を追い落とした罪悪感から積極的に西野と関わることが出来ないでいた秋元真夏の関係は、ライブでのある出来事をきっかけに解消されることになる。

『ずっと自分が嫌いで泣き虫だった、あの頃の自分みたいなコがいたら、乃木坂46のオーディションを受けてほしいなって思います』

西野七瀬は、乃木坂46の未来について問われて、そう答えている。

泣き虫、とは正反対なのが、“天才少女”と呼ばれた生田絵梨花だ。小さな頃から続けていたピアノは、音大に合格するほどのレベルだし、歌唱力、演技力もずば抜けている。バラエティ番組でも大きな笑いを起こす。なんでも努力によって完璧にこなしてしまう、まさに天才だった。

しかしその天才・生田絵梨花は、乃木坂46を辞めるかどうか悩んでいた。
音大に入りたいという理由だ。乃木坂46の活動と並行して音大の受験の準備が出来るほど、音大は甘くはない。やはり辞めるしかないのか…。しかし生田は、しばらく乃木坂46の活動を休業するという形で、この状況を乗り切ろうとする。音大の受験を決めた後、ミュージカル主演のオファーが来た。悩みに悩んだが、これも受けることに決める。天才少女は、何ひとつ諦めることなく、すべてをやり切る決意をしたのだ。

『一日中、食事の時間以外は、常にピアノを弾いた。何度も何度も繰り返す毎日だった。
睡眠時間は、一日平均3時間。舞台の稽古がある日以外は、ピアノ漬けだった』

天才が努力を怠らないことで、どれだけ高みを目指せるのかをまざまざと見せつける。生田絵梨花はそんな少女だと言えるだろう。線が細く、どことなく“へらり”と言った感じの佇まいをしている少女からは想像も出来ない一面だ。

乃木坂46は今年、紅白歌合戦出場を決めた。そこで、ライバルであるAKB48と同じ土俵で相まみえる。

『やっと同じ土俵に上がれたっていう意味でいうと、そこがスタートラインだなって思います。』

乃木坂46という存在は、どこまで大きくなっていくだろうか。選抜メンバーの卒業はまだなく、メンバーも2期生以降はまだ募集していないという、AKB48に関わるグループとしては珍しい形で進んでいく。アンダーライブによって、アンダーの概念を打ち破りもする。雑誌やドラマや舞台など、個々の活動はさらに広がっている。ネガティブを原動力にする彼女たちの快進撃は続くだろう。ネガティブだけど、彼女たちには負のオーラはない。彼女たちが生み出す優しい光が、やりきれない日常を抱えるすべての人をひっそりと照らす。乃木坂46には、そんな存在で居続けて欲しいものだと、僕は思う。

篠本634「乃木坂46物語」


連鎖<再読>(真保裕一)

内容に入ろうと思います。
東京検疫所に勤める羽川。彼は、輸出入される食品の安全を見張る番人として、日々業務をこなす役人だ。
彼の友人であり、雑誌記者である竹脇が、車ごと海に落ちた。
自殺の疑いようがない状況だったという。竹脇が自殺したのだとすれば、思い当たる理由は一つしかない。羽川が、竹脇の妻である枝里子と関係を持ったことが原因だろう。羽川と枝里子は、意識不明のまま入院を続ける竹脇を前に、重い時間を過ごしていた。
竹脇は、三角輸入によって、チェルノブイリ事故で汚染された食品が国内に入ってきている実態をスクープして、一躍時の人となった。共同で調査にあたった、輸入食品の検査機関の副所長である篠田もまた、注目を集めていた。
しかし、竹脇のスクープは、告発された大企業を揺さぶり、自殺者を出すほどの事態に発展していた。
ファミリーレストランチェーンの倉庫に保管されていた肉に農薬が撒かれた事件をきっかけにして、羽川は上司である高木から命じられて、検査で引っかかった食品を正しく処分せず流通させているのではないかという疑惑を追うことになる。その過程で羽川は、竹脇の取材の痕跡をそこここに発見する。衝撃的なスクープを放った竹脇は、どうもまた新たなネタを掴んでいたらしい。調査をすればするほど、竹脇が自殺をしたとは思えなくなり、警察が自殺と断定した死の真相も探ろうとするが…。
というような話です。

だいぶ昔に一度読んだことがある作品ですが、久々に読み返してみました。やっぱり、真保裕一の初期の作品はメチャクチャ面白いなと思います。小役人シリーズと呼ばれている、一般にはあまり馴染みのない役人を主人公に据えた一連の作品は、社会問題を鋭く切り取る切り取る手腕と、ミステリエンターテイメントとしての面白さが見事に融合した作品だと思います。

本書では、食品の輸出入や食の安全がストーリーの根幹を成す。食品Gメンだったこともある主人公の羽川は、不正な食品流通の痕跡を探ろうと、細かな調査を続けていく。それは、帳簿を確認するとか人に話を聞きに行くとか、あまり面白くなさそうな調査なのだけど、真保裕一はそれを読ませる物語に仕立てあげる。

食の安全が叫ばれて久しいが、どのようにして食品汚染が行われているのか、そのことに深く関心を持とうとする人は多くはないだろう。本書は、安い食品がいかにして生み出されているのか、その一端を知ることが出来る。安全はタダではない。知識や努力なしには、手に入れることが出来ないものになっている。

主人公の羽川は、食品Gメンを辞めた理由をこう吐露している。

『食品衛生監視員時代のことは、思い出したくないことばかりだった。仕事が辛かったのでも人間関係に悩まされたからでもない。そんなことは、どの職場にでもある些細なことだ。私には仕事をしている意味が分からなかったのだ。
食品は人の健康と密接に関係している。それだけに、まず安全性が優先されなければならない。食品衛生法を初めとする帰省は、そのためにある。私はそう思っていた。だが―。
違反は、想像以上に多かった。それだけではない。規制が緩やかだったり、時にはなかったりして、取り締まれないことが多過ぎた。』

もちろんこれは、小説の登場人物が言っていることに過ぎないわけだけど、しかし真保裕一は、緻密な取材をして小説を書くことに定評がある。本書の中で羽川に回想させたこの想いも、決して現実から遠いものではないだろう。

企業は、利益を確保していかなくてはいけない。もちろん、そのために何をやってもいいわけではない。しかし可能であるならば、より少ないコストでより大きな利益を得ようとする。本書で描かれている状況の一部も、まさにそういう葛藤の帰結だ。
もちろん、不正を働くのは企業が悪い。それは当然なのだけど、しかし我々消費者の側が、安いものを求めすぎていることも大きな要因の一つだろう。企業が悪い、と言うのは簡単だが、買う側の意識も変わらなければ、こうした不正がなくなることはきっとないのだろうと思わされた。

本書は、食品汚染の問題に端を発するのだけど、しかしこの物語の行き着く先は予想もしえなかったところになる。悪事を働く人間が、どんな抜け穴を使って、どんな企みを企てているのか。そして、羽川ら調査側の人間がどうやってその不正を見抜き追及していくのか。緊迫感溢れる展開が見事です。

さて本書は、食品汚染をベースに社会を切り取っていく物語なのだけど、著者自身は“社会派”というような呼ばれ方をするのは好きではないようだ。「現代を舞台に小説を書いているのだから、社会が出てくるのは当たり前」「このネタを使って面白いミステリを書いてやろう」 そんな気持ちだそうです。
そう、本書は、社会派的な部分を多分に持ちながら、ミステリとしても見事だと思います。羽川が調査に没入する前半から中盤に掛けてはそこまでミステリ感はありませんが、しかし読者を物語に引き込むような展開や伏線の張り方はさすがです。そして後半、物語の輪郭が明らかになっていくと、驚くべき事実が様々に明らかになっていきます。ちょっと羽川が、一介の役人にしてはスーパーマン過ぎる気もするけど(洞察力にしても体力にしても)、そんなことが気にならなくなるぐらいの怒涛の展開に圧倒されます。

また、正義と悪についても考えさせられます。本書では、食品汚染に端を発する不正に手を染めている人間は疑う余地もなく悪ですが、しかし羽川を初め、物語に出てくる多くの人間が、正義と悪の間を行ったり来たりします。

たとえば羽川にしても、竹脇の事故と食肉への農薬散布をきっかけに不正を暴く調査に入れ込みます。その姿だけ見れば強い正義ですが、しかし羽川のこの行動は罪悪感からでもあるわけです。羽川の妻と関係を持ってしまったために羽川を失いそうになっている現状、そして羽川が竹脇に対して持ち続けたとある嫉妬が、羽川の行動の裏に見え隠れします。他の登場人物にしても同じで、彼らはみな何かを抱えて、やるせない現実と対峙しているように思える。そこが、とても人間らしく映るのだろう。羽川を初め、登場人物たちが、正義感だけで動くのではない、という物語に通底するベースが、この作品をより浮き立たせているように思う。

本書の難点を一つ挙げるとすれば、1991年発行であるが故に、携帯電話など現代的なものがまったく登場しないということだ。24年も前の作品なのだから仕方なのだが、ところどころ若干の古さを感じる。しかし、四半世紀も前の作品なのに現代でもほぼ通用するような物語のクオリティを保っているというのは、凄いことでもあると思う。

ミステリであるので、どんな人物が出てくるのかや、物語がどう進んで行くのかにあまり触れないでおきます。そのせいで、うまく魅力を伝えにくい感想になっているかもしれないけど、骨太でありながらとっつきにくいわけではなく、自分の生活にも直結する可能性のある社会問題をベースにしつつ人間も深く描いていくという、新人のデビュー作とはとても思えないクオリティの作品です。是非読んでみてください。

真保裕一「連鎖」


負ける技術(カレー沢薫)

『だが、実は私がより重要視している「負ける技術」とは、「俺は負け組です」と表明して他者にナメられるという術ではなく、「俺は負け組なんだ」と自分を納得させる処世術のことである。
100点が99点になる日におびえて暮らすよりは、「俺の人生良くて30点」と割りきってしまったほうが良い。絶望が一転希望に変わることはまれだが、希望が一瞬で絶望に変わることはままある。ならば最初から、「ちょっと絶望」ぐらいの位置にいたほうが気が楽ではないか』

大いに共感である。自分が書いているんじゃないかと錯覚さえ出来るほどの共感ぶりである。
僕も、こんな生き方を実践してきた人間だ。このブログで何度も書いているから、あまり深くは書かないけど、二年終了時まで超優秀な成績のまま過ごしてきた大学を、三年の春から一切行かなくなり、そのまま中退したのも、「ここで脱落しておかないとマズイ」と思ったからだ。
このまま行けば、僕はもっといい点数のところまで行けるかもしれない。行けるか分からないけど、行くことが可能なレールに乗ることは出来る。でも、そうやってどんどん点数が上がって、まかりまちがって100点に近くなってしまうようなことになれば、困るのだ。まさに、「100点が99点になる日におびえて暮らす」ようになってしまうだろう。だから僕は、60点ぐらいの時に脱落して、一気に20点ぐらいの人生を歩むことにしたのだ。

金持ちになりたくない、というのも、同じ理屈だ。金持ちは、確かになんでも欲しいものは手に入り、やりたいことは何でも出来るのかもしれないけど、しかし、きちんと知識を身につけてお金を管理したり、人を掌握したり、世の中の流れを掴んでいないと、悪質な詐欺に騙されたり、思わぬ出費に泣いたりと、何かのきっかけにすぐお金がなくなってしまう危険がある。100億円持っていようが、「あぁ、この100億円を騙し取られたらどうしよう」なんていう不安も一緒についてくるなら、そんな大金はいらないのだ。

このように僕は、なるべく自分の人生の点数が上がり過ぎないように気をつけてきたつもりだ。とはいえ、今はさほどではないとは言え、僕にも「厄介な自意識」というものがやっぱりあって、人にいい風に見られたいと思って行動していた時期もある。こうなると、なかなか面倒である。人生の点数は上げたくないが、点数の高い人生を歩んでいるように見せたい、と思っているのだから。まあ、その欲求はさほど強かったわけではないから、そこまでドツボにはまらずに済んだと思う。人間とは、複雑な生き物である。

そんなわけで、僕はこんな風にネガティブな思考をこねくり回して生きてきたわけだが、僕が関心を抱く対象も、ネガティブな人ばっかりだったりする。しかも以前は、「なんでこんなキレイ・カワイイ人がこんなネガティブなんだ?」というような何人かの人と関わりがあって、非常に楽しかった。僕は最近、乃木坂46が好きなのだけど、彼女たちを好きになった決定的な理由は、彼女たちがとてもネガティブだったからだ。アイドルがこんなこと言ってていいのか?というぐらいネガティブな言動が多くて、惹かれずにはいられないのだ。

ネガティブな人間に何故惹かれてしまうのかを考えてみる。僕は、言葉の豊富さにあるのではないかと思っている。
僕自身もネガティブだからそうなのだけど、ネガティブな人間というのは、あらゆる状況で色んなことを考え過ぎる。人間関係だとか自分の将来とか、はたまた自分とは特に関係のない出来事・状況についてまで、なんだか色々考えてしまう。基本的に思考がマイナスなので、マイナスな思考によって不安などのマイナスな感情が引きずり出され、そのマイナスな感情がさらにマイナスな思考を引き連れてくるという悪循環をもたらすのである。

さて、ここで重要なのが、考えるためには言葉が必要だ、ということだ。世の中には、映像で思考が出来るという人間もいるらしいのだが(僕には何を言っているのかさっぱり理解が出来ない)、大抵は言葉でだろう。ネガティブな人間は、言葉を駆使して、自分の感情や相手の思考、未来の状況などについて延々と考えるのである。

だから、ネガティブな人間の方が圧倒的に言葉が豊富なのだと思う。
僕は、自分の頭で考え、自分の言葉で説明できる人が、男女とも好きなのだ。テレビや雑誌の情報を鵜呑みにし、流行っている言葉を抵抗もなく使い、ほとんど言葉を費やさなくてもコミュニケーションが取れてしまう仲間内の会話ばかりに興じている人間には、さほど興味が持てない。僕は、自分とは価値観がまるで噛み合わなくてもいいから、世間の誰がなんと言おうが自分の意見を曲げず、それがおかしなことだと分かっていても自分の思った通りに行動するような人が好きだ。ネガティブな人というのは、ネガティブであるが故に、人前であまり喋らなかったり、積極的に行動しなかったりするからわかりづらいが、ネガティブな人間にはそういう人が多いと僕は思っている。

本書の著者も、恐ろしくネガティブな人間だ。子供の頃から負け続けているようで、あらゆる発言が自虐的であり、ウソだとはまったく思わせないほどのドロドロしたものを内包しているのだ。

『コラムの連載を始めるにあたり、担当氏となにについて書くか話し合ったのだが、話し合えば合うほど、私には友達もいなければ趣味もなく、テレビや新聞をまったく見ないせいか話題のニュースも知らず、政治に関心がないのはもちろんのこと、抱かれたい芸能人の一人も思い浮かばないという、完全な生きる屍であることが判明するばかりであった』

『そんな私も来世スベスベマンジュウガニに生まれ変わることと引き換えに、漫画家デビューさせてもらえることとなり、表現の場がネットから誌面へと変わった。しかし誰が読んでいるかさっぱり分からないという点だけは今も変わっていない』

『なにせ高校3年間で男子と喋った回数は、私の記憶ではわずか2回である。男女比がほぼ半々の学校にも拘らず下手をすれば厳しめの刑務所にいるよりも異性との接触回数が少ない気がする。しかもうち1回はおぼろげであり、もしかしたら私の妄想かもしれないのだ。はっきりしているあと1回のほうにしても、「窓開けて」と言われただけでよく考えたら会話ですらない』

『しかし、そんな私も完全に一人になったことがある。
18の夏、一人BBQをしたのだ。家の庭などという生半可な場所ではなく、ちゃんとしたBBQ専用広場でだ。』

いかがだろうか。なかなか屈折しているというか、ネガティブに包み込まれているというか、素晴らしい逸材である。僕もどうせならこのぐらいまでネガティブをはっちゃけさせている方が、ちょっとぐらいネタになっただろう。自分の中途半端っぷりを恥じた次第である。

本書は「負ける技術」というタイトルではあるが、タイトルは後付で担当氏がつけたとのことで、内容と合致しているかは微妙だ。著者もそう思ったのだろう。まえがきでこんなことを書いている。

『「負ける技術」という名前から、本書を生きる術を学ぶ指南書だと思って手にとった方もいらっしゃるかもしれない。だが実はタイトル自体が担当編集による後付けなので、役に立つことはいっさい書かれていないのだ。
などと言いきってしまうと大半の人がレジまで持っていかないので、本書は現代社会に反乱している「そんなに頑張らなくていい、肩の力を抜け、ありのままの自分を愛せ、ゆるふわ」といった趣旨の自己啓発本であり、この本と一緒に練炭を買えば必ず人生が楽になると保証する、とでも言っておく』

その直後、著者の人生哲学を見事に要約したような見事な一文が登場する。

『現代社会において「勝利」は「敗北」の始まりだ』

どういうことか。著者は懇切丁寧に説明してくれる。

『日本人というのは、心の底から調子に載ってる奴が嫌いであり、そういう人間gふぁひとつボロを見せたばかりにハンバーグのタネになるまで叩かれる姿はもはやおなじみである。
たとえ買ってもひたすら謙虚、オリンピックで金メダルを獲ったとしても、「すべて支えてくれた家族と応援してくれた皆様のおかげで、自分は屁をこいて寝てただけです!」みたいな態度を貫かなければいけないのである。せっかく血のにじむような努力をして勝利をつかんだのに、全然威張れない。ならば勝利の意味とはいったいなんであろうか。
つまり、成功や勝利など、すくわれる足が増えたに過ぎないのである。そういったう意味ではj気分は完全に空中浮遊状態で、すくわれる余地はない』

もう一丁。

『日本人は異形を成し遂げた者をすごいすごいと持ち上げるのは好きなのだが、「俺はすごい」と当人が言うのは大嫌いだという“真理”がある。それを当人が言ったが最後、今まで褒めていた者が一斉に「あんたなんか全然すごくないんだからね!」と叩く側に周るという1億総逆ツンデレ状態なのだ。そのような事態を避けるために、あえて「負けてみせる技術」は現代日本を生き抜くために必要だと思う』

こういう状況は、ワイドショーを見ていれば次々に登場する。よくもまあ、それだけ叩くものを見つけてくるものだなと感心するほどだ。目立つということはイコール、いつか叩かれる権利を得ることを意味する世の中に、いつの間にかなってしまった。僕も著者と同じく別にすくわれる足もないのだけど、意識して目立たないようにしなければ何が起こるか分からないという怖さは、振り払っても常につきまとっているように思う。

著者は、子供の頃から安定して非リア充であり、安定してネガティブ街道を突き進んできた強者である。希望を持たないようにしてひっそりと生きてきたわけだが、しかし同時に、リア充に対する憎悪はずっと消えないままである。本書でも、制服カップルを見ると爆発しろと思うとか、クリスマスに行われたサイン会の前に美容院に寄ったらリア充どもしかいなかった、みたいな、リア充憎しの文章も多くある。自分の人生を諦観していることと、リア充を憎悪することは、著者の中では両立するのだ。リア充憎しの文章をこれでもかと書くが、それ以上に著者自身がイケてなさすぎるエピソードがてんこ盛りなので、どれだけ著者がリア充を貶そうとも、「うんうん、仕方ないよな」という気持ちになる。これもまた、著者が駆使する「負ける技術」の成果の一つかもしれない。

僕が一番爆笑した話は、パイ投げの話である。著者は、友達がいないというだけあって、様々な一人遊び・一人で過ごす方法に長けているのだけど、このパイ投げは、あまりの斬新さに吹き出してしまった。砂糖と塩を間違えて作ってしまった食べられないケーキを再利用するために一人パイ投げをした、って話なんだけど、ぶっ飛んでいるにもほどがあると思う。

オリンピックの冬季種目のマッドさ加減をアピールしてみたり、ブーツの底が剥がれても気にせず歩き通したり、「桐島、部活辞めるってよ」を読んで学生時代の身分社会を思い返し悶絶したり、「イケメンと付き合えたらすべてが解決する」という長年の自らの妄想を打ち砕く読者からのコメントなど、イケてない著者が全力でそのイケてない感を披瀝する作品である。勝ち組・リア充の人間からすれば、UMAの如く実在を疑いたくなるような性質の人間かもしれないけど、僕のようなネガティブな人間には、著者の思考回路はよく理解できる。著者と比べれば中途半端なネガティブである僕なんかとは比較にならないほどの年季入りようで、師匠と呼んで弟子入りした気持ちにさえなる。

勝ち組・リア充の人間は、恐らく読んでも楽しくないだろう。ネガティブをこじらせているような人間が読めば、実に共感できるだろうし、これほどの人間がどうにか生きているんだから、自分もまだやれるかも、という形で元気ももらえるかもしれない。ネガティブな人間の方が面白い。僕はその信念を、改めて実感することが出来た。

カレー沢薫「負ける技術」


「杉原千畝」を観に行ってきました

『「あなたは今でも、世界を変えたいと思っていますか?」
「常に思っている。
すべてを失うことになっても、ついてきてくれるか?」
「はい」』

杉原千畝は、モスクワへの赴任を切望していた。モスクワに行けば、世界を知ることが出来る。世界を知ることが出来れば、日本をもっと良くすることが出来る。

杉原千畝は、常に日本のことを考えていた。
だからこそ彼は、外交官として、満州を去ることにした。何がなんでもモスクワへ行こうと思っていた杉原千畝は、満州で成果を出してモスクワの最後の足がかりを固めるつもりだった。そのために、関東軍とも手を組んだ。しかし、それが誤算だった。

『満州国のために働いてきたのは、それが日本を良くすることだと信じてきたからです。私は、関東軍のために働くつもりはありません』

満州での出来事がきっかけで、ソ連に入国出来なくなってしまった杉原千畝は、リトアニア行きが決まる。領事館設立のために動くようにとのことだ。

諜報の天才である杉原千畝は、言葉の通じないリトアニアでも情報の収集を開始。異国に溶け込んでいく。
しかしそこで見たのは、大量のユダヤ人難民たちだった。
各国の領事からヴィザの発給を拒まれ、行き先のない彼ら。

『鳥でさえ帰る場所がある。
故郷と呼べる場所がある』

ヴィザの発給には様々な条件を満たすことが必要で、通常であれば彼らにヴィザの発給は不可能だ。日本政府に問い合わせても、やはり同じ。条件を満たさない者へのヴィザの発給は一切認めない。
彼らを助けるためにヴィザを発給すれば、外交官としての杉原千畝は終わる。
それでも彼は、ユダヤ人難民を助けるために、偉大な一歩を踏み出す。

映画の冒頭は、一人のユダヤ人が外務省を訪れるシーンから始まる。彼は、「センポ・スギハラ」を探していると担当官に問い合わせるが、「そんな人物は存在しません」と担当官は冷たく拒絶する。終戦後、杉原千畝は外務省を追われ、彼の功績は闇に葬られた。
杉原千畝は、1986年に亡くなった。日本政府が杉原千畝の功績を認めたのは、2000年のことだった。

戦争という異常な環境の中、世界中の人々はどう生きるべきかを問われたことだろう。そこには、数限りない数の状況があり、その中で人々は、自分が正しいと信じる道を選んだことだろう。

『それに彼らは、ユダヤ人です。助けなかったとしても他国から責められることはないでしょう』

ユダヤ人を助けたのは、杉原千畝だけの功績ではなかった。他にも、彼の想いを遠くで受け取り、彼の想いを繋げる役目を果たした者がいた。

『しかし、その中に、一人の少女がいました。私は自分の娘を見ているようでした』

杉原千畝がどうしてユダヤ人を助ける決断をしたのは、それはこの映画からははっきりとは分からない。領事館前に日に日に集うユダヤ人難民の姿を見続けるのはしんどかっただろう。街中でもユダヤ人たちが虐げられている状況を多く目にしただろう。満州で杉原千畝を助けてくれた女性の生き様に触れたこともあるだろう。しかし何よりも、彼の内側には、自分の夢を打ち砕いた一枚の紙のことがあったのではないかと思う。

杉原千畝自身も、たった一枚のヴィザが発給されなかったことで、あれほどまでに焦がれていたモスクワに行くことが出来なかった。その経験が、彼の背中を押したように、僕には思えた。

『あなたは日本政府に従うべきです』
『彼らには生き延びて欲しい。しかし、ヴィザを発給すれば、外交官としてのあなたは終わりです』

その場では正解の判断できない、難しい問いだ。しかし、現在を生きる僕らは、杉原千畝の決断の正しさを様々な形で判断できる。以前テレビで、杉原千畝のヴィザのお陰で命を得た者が、南米で最大の証券市場を立ち上げ大成功したというニュースを見た記憶がある。他にも、杉原千畝が救ったユダヤ人が大なり小なり何かを残しているだろう。
もちろん、何も残していなかったとしても、杉原千畝は、人の命を救ったのだ。責められる謂れはない。しかし、戦時中というのは難しい。もしかしたら、杉原千畝がユダヤ人にヴィザを発給しなければ、回り巡ってどこかで、杉原千畝が救ったユダヤ人の数よりも多くの人を救えたかもしれない。それは分からない。分からないけど、やはり僕は、杉原千畝の行動を賞賛したい。

『あなたは優秀な外交官だったのに。
ただのお人好しだったのね』

『あなたは最低の外交官だ。
でも、最高の友人だ』

『あなたがいなければ、“いい人”と呼ばれる喜びを知らなかったでしょう』

時代に翻弄されながらも、信念を貫いた杉原千畝。硬直した組織の中で、組織の駒ではなく、いかに人間として生きていくか。家族を抱えながらも、杉原千畝は常に突き進んでいく。実際の葛藤を推し量ることは難しい。彼はどんな思いでヴィザを発給し、外務省を追われた後の人生を過ごしただろうか。せめて亡くなる前に、日本政府がその功績を認めるべきだったと思う。

映画は、2時間半と割と長い尺だったが、「杉原千畝がユダヤ人難民に対してヴィザを発給した」という部分を描き出すだけでもかなり窮屈だったのではないかと思う。当時の世界情勢や家族との物語など、描いて欲しいと思う部分はたくさんあるのだけど、メインではない部分についてはどうしても断片的な描写になってしまうのは仕方ない。

それでも、無理だと分かっていてもどうしても思ってしまうのは、杉原千畝の諜報員としての技量の高さが分かる部分が欲しかったと思う。映画のラストで、杉原千畝の情報分析の正確さを物語エピソードが出てくるし、随時杉原千畝の能力の高さを示す描写はある。

『しかし私は知っている。君の推測はいつも正しいと』

どのようにしてそれを成し遂げたのかという部分が凄く気になった。もちろん、諜報活動の詳細などは記録に残っていないだろうし、そもそも描きようがないのかもしれないけど、「ヴィザを発給した」というだけではない杉原千畝の姿をもっと知りたいと思わせる映画だったなと思います。

『人のお世話にならぬよう
人のお世話をするよう
そして報いを求めぬよう』

杉原千畝が学んだ学校の自治三訣だ。彼は、自らの立場が危うくなることが分かっていながら、自分が正しいと思うことをし、報いを求めなかった。そんな生き方が出来る人間に、僕もなりたいものだなと思いました。

「杉原千畝」を観に行ってきました

世界城(小林泰三)

内容に入ろうと思います。
世界は、城の中にある。その城の全貌は誰も知るところがなく、あたかも無限の広がりがあるかのように思えた。迷宮のように入り組んでいる城内のそこここに村がある。あると言われている。ヴォルタ村も、そんな村の一つだ。細々と作物を作りながら、物々交換で日常を成り立たせている。「商人」は存在するが、どこから来てどこに行くのか、イマイチよく分からない。
ヴォルタ村のある一家の夕食に、一人の少女が飛び込んできた。その少女は、城の「外」に行くのだという。城に「外」なんてあるはずがない、と答える住民。彼らにとって、城内こそが世界のすべてなのだ。国王の娘だと名乗ったその少女は、赤ん坊を産み落として姿を消した。
その赤ん坊は、ジュチと名付けられ、ヴォルタ村のみんなで育てた。
ジュチが11歳になった時、村にある異変が起こる。城内は、風雨によって砂や泥水が移動する。土がなければ作物を育てられないので、城内では土の存在は重要だ。しかし今年は、泥が出て行くばっかりで、一向にこちらにやってこない。こんなことは初めてだ。隣村が何かをしたのかもしれない。偵察に行こう、ということになって白羽の矢が立ったのがジュチだ。ジュチは、村長の息子であるダグと共に、隣村であるオーム村へと足を運ぶことになるのだが…。
というような話です。

まあまあと言った感じの作品でしょうか。スイスイ読めます。恐らくシリーズとして続いていくんだろうな、と予感を抱かせる作品で、そういう意味で、世界観の導入という感じの位置づけでしょうか。

描かれる城の全貌が明らかになっていないので、これからわかっていくのでしょう。本書でいちばん気になるのは、この城に関してです。誰が何の目的でこの城を作ったのか。城に住んでいる人同士はどんな関係にあるのか。城における禁忌にはどんな意味があるのか。城の外側には何があるのか。シリーズとして続いていくのであれば、そういう部分が明らかになっていくのでしょう。そこは気になります。

本書では、僕らが当たり前だと思っている色んな概念が、当たり前のものではないものとして出てくるのが面白い。例えば地図。ジュチとダグは、城の地図を持って隣村まで向かう。そこでダグが、こんな疑問を持つ。その地図は、ヴォルタ村の領地とオーム村の領地が別の色で塗り分けられているのだけど、ダグは、実際僕らが歩いている通路に別に色がついているわけではない、この地図は嘘だ、と言う。ジュチは、地図は現実をそのまま写しとったものではない、とダグに言うが、しかし同時に、じゃあ地図が表しているものは一体なんなのか?という疑問を抱く。この問いはなかなか面白いと思いました。明確に答えられる人は多くはないのではないでしょうか?

恐らく本書で描かれる世界は、かつては文明と呼ばれるものが存在したのだろうけど、それが何らかの理由で一旦失われたのだろうと思います。その証拠に、かなり長生きしているヘカテ婆さん(彼女が地図を貸してくれた)は、この世界のあらましについてかなり深くまで知っている。普通の人が知らないような概念についても知っている。その当たりのことも、徐々に明らかにされていくでしょうか。

ジュチが、幼いながらに賢く描かれていて、その聡明さはなかなか素敵だ。自身を、村の厄介者だと捉えていて、それでもここで生きていくしかないと腹を括っている。自分をここまで育ててくれた村に恩返しをしたい気持ちを常に持っている。また、考える力がずば抜けていて、抽象的な概念をすぐに飲み込んだり、同じ条件を与えられながらジュチしか気づかないこともあったりする。ジュチが様々な窮地をどう乗り越えていくのかも読みどころだ。

さらっと読むにはいい本かもしれません。

小林泰三「世界城」


すばらしい新世界(オルダス・ハクスリー)

内容に入ろうと思います。
西暦2540年。人類は、それまでとはまったく違う生活をしている。
人間は、母親ではなく、人工子宮と繋がった瓶から生まれる。生まれる前から睡眠学習によって“条件付け”がなされており、どんなものを好むのか、どんなものを疎うのか、予めプログラムされている。生まれる前から階級が選別され、高い階級で生まれれば管理側に、低い階級で生まれれば労働者として生きていくことになる。しかし、どの階級の人間も、幸福を感じている。それは、生まれる前に行われる条件付けのお陰だ。下位の階級で生まれたものは、彼らがやらなければならないことになっている仕事に従事することが幸せである、という条件付けがなされているのだ。
父親・母親という概念は“恥ずかしい・卑猥な”ものとして捉えられ、家族という強い繋がりは存在しない。『誰もがみんなのもの』という条件付けがなされているために、フリーセックスが推奨されている。特定の誰かと長く付き合うという状態は、管理側の人間から目をつけられる行為なのだ。幼い頃から“桃色お遊戯”という名前でセックスが推奨されている。
人類は、不快なものをほとんど遠ざけることに成功した。彼らは、自分が満ち足りたと感じられる仕事をし、仕事以外の時間はこれまた快適だと感じられることだけをする。この世界では、書物や植物や芸術を好むことが禁じられている。条件付けによって、それらを不快に感じるようにさせられている。そこには色んな理由があるのだが、消費社会を継続していくこと、そして文明が脅かされる永続すること、この2点を重視して、様々なことが決められていく。
これほどまでに不快なものが遠ざけられている社会だが、しかしやはりまったく不快を感じないでいられるわけではない。そういう時は、“ソーマ”と呼ばれる薬物を摂取すればいい。これを飲みさえすれば、すべての嫌なことを忘れることが出来るのだ。
完璧に作りこまれた社会。しかしこの中に、この世の中を不快に感じる人間が僅かながらにいる。<中央ロンドン孵化・条件付けセンター>という、人類が生まれる場所の心理科で働くバーナードは、そんな一人だ。男女が誰彼かまわずセックスをしていることとか、バーナードには不愉快に感じられる遊戯に興じている姿を見て、社会に対する馴染めなさを感じている。しかし、そういう思想が知られるとマズイので、なんとかごまかしながら生きているのだ。
そしてバーナードは、この社会の統制の届かない“未開社会”で、ジョンという青年を見つける。研究材料としてジョンを<孵化・条件付けセンター>に連れて帰ったバーナードだったが…。
というような話です。

1932年に発売された古典作品です。僕が読んだのは、最近新たに翻訳された、いわゆる新版です。僕は古典を読むのが苦手なんですけど、この作品は、新訳だからでしょうか、かなり読みやすかったです。

思ってたよりもずっと面白くてびっくりしました。今から80年も前に、これほどまでに未来の可能性について言及できる作品を書けるものなんだな、と感心しました。

SF小説なんかで、未来の科学技術を予測するような、そういう作品は色々あることでしょう。しかし本書の場合、その部分が凄いわけではありません。本書は、人間の思想や思考がどんなところまで行き着いてしまうのかという、技術ではない部分の未来予測が凄いなと感じました。

2015年を生きる僕は、この作品で描かれる未来を、かなりリアルに捉えることが出来ます。瓶から生まれるとか、生まれる前から睡眠学習で条件付けを、というような技術的側面はとりあえず一旦措きます(さすがに何百年経っても、これらの技術は開発されないかもしれません)。そういう部分ではなくて、本書で描かれる人間の価値観の変化が、ありうると感じさせるのです。

極端な見方をすれば、ハクスリーがこの小説で描き出す社会は、もう現実の世界で実現されつつあると言ってもいいかもしれません。結婚をしない若者が増え、家族という強い関係性が失われつつある。恋愛さえしない若者が増え、その一方で、風俗や出会い系やその他様々な形で、恋愛以外の場でのセックスというのは広がっている。生まれながらに絶対的な格差があるわけではないけど、家の豊かさと教育環境はある程度比例することを考えると、生まれながらに存在する格差をひっくり返すことは困難だ。ソーマのような無害な麻薬は存在しないけど、でもパチンコや携帯ゲームなど、ある種の中毒性を持つ娯楽が広まっていて、それがある種の現実逃避になっている。

そういう人間の行動に関する部分だけではなく、思考的な部分についても感じる部分はある。ハクスリーは本書で、疑問を抱かない人々を描き出す。本書の場合それは、生まれる前から施される条件付け(つまり洗脳)によって成り立っている。あらかじめそういう人間として生まれてくるのだ。だから、ある程度避けようはない。
現代を生きる人々にも、疑問を抱かない人々がたくさん存在すると僕は感じる。それは、本書の解説でも触れられていたが、たとえば原発に関してだ。震災が起こる前で言えば、恐らく技術的にその危険性を認識できていた人もいたはずだろう。そういう人が、震災が起こる前から何らかの行動を起こした可能性もある。しかし、結果的に原発は危険なまま運用され続けた。それは、原発に直接的に関わる技術者や官僚、そして間接的に関わる国民全員が、疑問を抱かない人々だったからだ。人間は、見たくないものを見ないで過ごすことが出来る。原発事故は、まさにそれらが悪い方向に働いてしまった例だろう。

また、現代は、同じ価値観を持つ人間とすぐに繋がることが出来る世の中になった。インターネットというものが登場する以前であれば、同じ趣味嗜好の持ち主を見つけ出すことはかなり難しかっただろう。だからこそ、距離的に近くにいる、価値観の合わない人間と、どうにかうまいことやっていくしかなかった。しかし現代は、趣味嗜好の近い人間を簡単に探せるので、わざわざ価値観の遠い人間と関わる必要がなくなってしまった。
近い趣味嗜好の人間同士で関わって、共感だけで繋がっていく人間関係。まさにそれは、疑問を抱かない人々そのものではないのか、と僕は感じるのだ。

ハクスリーが描き出した社会は、技術レベルが高いので、まったく同じ社会が登場するのはまだまだ先になるだろう。しかし、技術を除いた部分を見てみれば、既にハクスリーが描き出した社会と似た部分を僕らは容易に見つけ出すことが出来る。
何よりも恐ろしいことは、僕らの社会には、ハクスリーが描く社会のような“管理者”は存在しないということだ。本書の場合、世界統制官と呼ばれるごく少数の人間が世界を統括し、文明が暴走しないように見張っている。様々な効率化や条件付けを武器として、人間という総体にダンスを躍らせるかのように統制する存在がいるのだ。しかし僕らの世界には、まだそれほどの権力を持った権威者は存在しない。それなのに、見方によってはすでにハクスリーが描き出した社会の近似値のような日常が広がっているのだ。

共通しているのは、ハクスリーが描く社会の住人も、現代社会における疑問を抱かない人々も、共に、自分が操られているということに気づいていない、ということだ。周りと同じであることに安心感を抱き、これが良いという声の大きな意見を無条件で信頼する。そして、そういう行動が正しいのだと、得なのだと、安心できるのだと信じる。そういう人が増えれば増えるほど、ハクスリーが描く世界は近づいてくるのではないかと思う。

僕は本書を、思想書のような感じで読んだ。小説として面白いのかどうかは、古典が得意ではない僕にはイマイチよく分からない。キャラクターやストーリー展開などが優れているのか、面白いのか、そういうことはあんまり分からない。しかし、本書で描かれる様々な思想・価値観は実に面白い。

ハクスリーが描き出す社会を、その中に生きる肯定派はどんな風に捉えているのか。

『みんなが幸せで、悲しんだり起こったりしていなくて、誰もがみんなのもので。何もかもが清潔で、ひどい匂いも汚れもない-寂しい思いをする人なんていない、みんないっしょに明るく愉しく暮らしているの。その愉しさが毎日続くのよ』

『今の世界は安定している。みんなは幸福だ。安全だ。病気にもならない。死を恐がらない。幸せなことに激しい感情も知らなければ老いも知らない。母親や父親という災いとも無縁だ。強い感情の対象となる妻も、子供も、恋人もいない。しっかりと条件付け教育されているから、望ましい行動以外の行動は事実上とれないようになっている。何か問題が起きたときにはソーマがある。』

聞きようによっては理想的だろう。しかし、本書を読めば、この世界が理想ではない、ということに気づくだろう。しかし難しいのは、この社会が理想的でないことに気づくためには、この社会の価値観の外に出なければならない。この社会を客観視しなければならない。しかし、住民にそれは不可能だ。それを不可能にすることで、社会を成り立たせていると言える。

しかし当然、犠牲も存在する。

『しかし安定性を得るためには代償を支払わなければならない。』
『「芸術に科学-あなたがたは幸福のためにかなり高い代償を支払ったようですね。ほかに何を犠牲にしたんです」
「もちろん宗教もだ」』

この社会では、文化的なものはまったく推奨されない。それは、人間に強い感情を引き起こすからだ。強い感情というのは、愛情だとか野心だとか鬱屈だとか、どんな種類のものでもいいのだけど、平均を大幅に逸脱するような感情だ。ハクスリーの社会では、それら強い感情は生じないようにコントロールされている。強い感情が生じるからトラブルが起き、社会が安定しないのだ、と。

『幸福か、かつて高度な芸術と呼ばれたものか、どちらかを選ばなければならないんだ』

強い感情を消すことは、不満を排除したり消費に対する欲求を組み込んだりしやすくなることを意味する。

『幸福な人生を送る秘訣なのだよ-自分がやらなければならないことを好むということが。条件付けの目的はそこにある。逃れられない社会的運命を好きになるよう仕向けることにね』

『判断し、欲求し、決意する心-それがこうした暗示の言葉から成り立っている。その暗示はわれわれが刷り込んだのだ!国家からの暗示なのだ』

『「あんなひどい仕事をやらされてても?」
「ひどい仕事?しかし彼らはそうは思っていないよ。逆に好んでやっている。楽だし、子供できる単純なものだ。頭脳にも筋肉にも負担が少ない。さほど疲れない作業を七時間半やれば、ソーマがもらえて、ゲームや、制約のない性交や、触感映画が愉しめる。これで何が不足なのかね」』

『人はなすべきことをするよう条件付けられている。そしてなすべきことというのは概して快適な行為だ』

本書において、最も重要で批判的で中心的なのは、この“条件付け”ではないかと僕は感じる。この技術が実現するかどうかはともかくとして、もし実現すれば、彼ら管理者側の主張に正面切って反論することは、かなり難しいだろう。管理者側は、生まれる時既にある条件付けがされていて、生まれた人間はその条件付け通りに感じたり考えたりするのだから幸福に決まっている、と主張する。それは、人間の自由意志や人間が成長する可能性みたいなものを根こそぎ奪い取り、予定調和的な人生になっていく。

果たしてこれを、“幸福”と呼ぶことは出来るのだろうか?

人類は既に似たような経験をしている。たとえば、「子供は何よりも大事」というような考え方は、日本では割とごく最近生まれたものであるらしい。それまで子供というのは、家庭における労働力だった。親は働き、働けない年齢の子供は放置される。これが昔は当たり前だったようだ。しかしそこから、子供に手を掛けて大切にする、ということが僕らの“当たり前”になった。これを当たり前だと感じている人は、人間の本能がそうさせるのだからおかしなことは何もない、と感じているだろう。しかし僕らは、そうではなかった時代を経て今に至っている。すなわちそれは、人間の本能がそうさせるのではない、ということを示している。
これは別に、どちらの考えが良いとか悪いとかの話ではない。しかし人間というのは、それまでとはまったく違う価値観を、さも当然であるかのように、前提であるかのように感じることが出来る性質を持っている。であれば、本書でハクスリーが描き出す条件付けという名の洗脳こそが、人間を幸せに導くのだ、という考え方を一概に否定することは難しくなるだろう。

僕はここにも、原発と同じ論理を当てはめてみたい。
原発の技術というのは、“問題さえ起きなければ”素晴らしい技術だ。発電効率が良くて、クリーンで、廃棄物さえ再利用出来る。しかし、問題が起こった時のリスクは恐ろしく高い。それは、先の原発事故の帰結を見れば明らかだ。

ハクスリーが描き出す、一見ユートピアに思える社会も、これと同じ問題を抱えているのだと僕は感じる。問題が起こりさえしなければ実に快適で素晴らしい社会だ。しかし、ひとたび問題が起これば、予想もし得ない帰結を迎える可能性がある。一瞬で社会が崩壊するほどの危険性を秘めている。ハクスリーが描くユートピアを肯定できない理由は、まさにその点にあるのだろうと思う。権威者は、まさにその点を注意深く隠すことで、社会の安定性を得ようとする。そこに科学技術と人類の知見を注ぎ込む。逆に言えば、そんな風にして抑えこまなければ実現しないほど、不自然で無謀な世の中だという言い方も出来るだろう。

さて、ハクスリーが描く社会が、それより以前の人間社会をどう描き出すのかについても書いておこう。

『そして家庭というものは物質的にだけでなく精神的にも汚いものである。精神的な兎の巣穴だ。糞だらけで、ぎゅう詰めの心どうしがこすれて熱を発し、感情の悪臭が漂う。家族という集団の構成員間のなんという息苦しい親密さ、なんという危険で常軌を逸した猥雑な関係!』

『憐れな前近代人が狂気と背徳と悲惨にまみれていたのも無理はない。彼らの世界はものごとを気楽に考え、正気を保ち、美徳と興奮を手にすることを許さなかった。母親や恋人というものがいて、禁止事項を守るよう条件付けられていなくて、誘惑や寂しい後悔、病気や孤独の苦しみ、不安や貧困がある-これでは激しい感情をもたざるをえない。激しい感情を持っていて(しかも個々人が絶望的に孤立して孤独を感じている中で激しい感情を持っていて)、どうして安定が得られるだろう』

僕らが、ハクスリーの描くユートピアに嫌悪感を抱くのとまったく同じ理由で、ハクスリーの社会に生きる人々は僕らの価値観に嫌悪感を抱く。どちらが正しい、ということはない。一方が正解ということはないのだ。どちらもある意味で正解であり、ある意味で不正解である。

結局僕らは、何が正しいのか、自分の力で見つけ出さなくてはいけない。本書にも、皆が信じている価値観の外に出ようと奮闘する人間が登場する。彼らは、今いる社会への違和感や不安を様々な形で表明する。

『僕は僕でいい。情けない僕のままがいい。どんなに明るくなれても、他人になるのは嫌だ』

『「きみは自由になりたくないか、レーニナ」
「言ってる意味がわからない。わたしは自由だもの。自由にすばらしい時間が過ごせるもの。今は誰もが幸せなのよ」』

『僕は情熱とはどういうものか知りたい。強烈な感情を持ちたい』

『きみたちは自由な、人間らしい人間になりたくないのか。人間らしさとはどういうものか、自由とは何かわからないのか』

当然、ハクスリーの社会を生きる多くの人に、彼らの言葉は届かない。意味をなさない。これらの言葉は、ハクスリーの社会の外に存在する価値観だ。存在しないものは理解できないし、存在しないものは見ないようにして生きていくことが出来る。彼らの会話は噛み合わない。その齟齬は、本書の面白い部分の一つだ。

ラスト付近で、世界統制官であるモンドとの議論が展開される。モンドは、世界統制官という立場であるが故に、旧社会の価値観についても理解している。そしてその上で、現在の社会の方が優れていると主張する。この議論は、非常に知的で楽しい。本書に登場するような技術が存在すると仮定した場合、どちらの意見の方が正しいのか、簡単に結論を出すことは難しいだろう。どちらも、前提の置き方によって正しくなる。その前提は、個々の価値観に依るだろうから、議論はいつまでも平行線なのだ。

『僕は不幸になる権利を要求しているんです』

自分の幸せは、自分で考えて自分で掴み取るしかない。僕は本書から、そんなメッセージを受け取った。

オルダス・ハクスリー「すばらしい新世界」


水鏡推理(松岡圭祐)

内容に入ろうと思います。
文科省の新人の一般職員である水鏡瑞希は、東日本大震災の被災地の仮設住宅に長期に派遣されていた。文科省の官僚に連れられて、同じく一般職である澤田は瑞希の元を訪れた。それは、ある被災者への謝罪を行うためだ。
被災地のとある仮設住宅に、一人だけずっと居座っている男がいる。彼は、日本中すべての原発を停止させないとここから動かないと主張する。どうにか彼に仮設住宅から出てもらえるよう、再三各省の官僚が出向くが、門前払い。女性の方が受けがいいだろうということで、瑞希に白羽の矢が立つ。
しかしそこで瑞希は、誰もが予想もしえなかった驚異的な結論を導き出してしまう。結果的にその男は仮設住宅から出ざるを得なくなったが、同時に、官僚や行政の論理に反した行動を取ったとして、瑞希と澤田は、同じく文科省ないにある、研究における不正行為・研究費の不正使用に関するタスクフォースという、助成金目当てで不正を行う研究者を追及する部署に配属されることになった。
驚異的な推理力を発揮する瑞希は、異動になってからも、一般職であるが故にほとんど情報が与えられていない状況でも、研究の不正を見事に見破っていく。しかしそんな瑞希の行動は、事なかれ主義であり、目立たないことこそ大事と考える同じチームの官僚に厄介に見られてしまう。総務省に父がいる南條朔也、女性官僚である牧瀬蒼唯、そして室長である檜木周蔵らを敵に回してでも、瑞希は研究の不正を暴こうとする。
そんな彼女の行動が次第に周りの人間を変えていき…。
というような話です。

松岡圭祐の作品を久しぶりに読みましたけど、相変わらずこの作家は面白い作品を書くなぁ、と思います。とにかく、エンタメ作品のお手本みたいな小説で、どれを読んでも面白いです。特に一貫して、魅力的な女性主人公を生み出し続けてきていて、本書でも、とにかく物語の中心は、水鏡瑞希という女性にあります。

瑞希は、幼いころ阪神大震災を経験し、貧しい暮らしを経験している。だから、被災地で親身になって働くし、また不正に国税を奪おうとする輩を許せないでいる。熱血、という感じでぐいぐい動くキャラクターでは決してないのだけど、ここぞというところでは決して引かない強さを持っている。瑞希は、圧倒的な正しさと正義感を常に持っているのだけど、しかし、言い方はおかしいけど、それが“圧倒的に”正しかったり正義だったりするが故に、周りから疎んじられたり、周りとうまく溶け込めなかったりする。見ていて、実にもどかしい存在だ。現実の世界で、自分の近くにこういう人がいたら、やっぱりもどかしいだろう。正しいのは間違いない。正義なのも間違いない。でも、やり方がスマートじゃないというか、ストレート過ぎるが故に、常に摩擦が起きてしまう。助けようにも、うまく関われない。そんな風に感じさせる女性だ。

だから本書の場合、澤田というキャラクターが実に重要になってくる。澤田は、瑞希に惚れていて、しかも彼女の能力に心の底から信頼を置いている。しかも瑞希と同じ一般職だ。瑞希がどれだけ辛い立場に立っていても、少なくとも気持ちだけは常に瑞希に寄り添っている。そのことが、瑞希にもちゃんと伝わっている。瑞希が数々の不正を見抜くことが出来たのも、澤田という影の存在あってのことだと言って言い過ぎではないだろうと思う。この二人の、なんだか不器用な関係性も、純情な感じでなかなか読ませるポイントだ。

僕が本書で巧いと感じたのは、舞台設定だ。本書は、物語の中身だけ取り出せば、ちょっとした謎解き程度の話だ。しかしそこに、官僚の論理、研究者の論理を組み込むことで、ちょっとした謎解き程度ではない物語に仕上げている。

官僚の論理とは、一言で言えば「事なかれ主義」である。特に加点がなくても失点がなければ出世できる官僚は、敢えて火中の栗を拾う真似をしたがらない。さらに、瑞希が配属されたタスクフォースには、皆が仕事に熱心にならない理由がある。このタスクフォースは文科省の直轄だが、文科省が絡んでいる研究プロジェクトも多くある。組織が独立して以降の問題発覚ではあったが、STAP細胞の研究も元々は文科省と関わりのあるプロジェクトだったようだ。色んなところに手を伸ばして、うっかり文科省が関わっている研究に横槍を入れるようなことになっては困る。室長である檜木のそんな考えもあって、このタスクフォースは実質的にはあまり機能していない。

『(ある事例が詐欺であると見抜いたことを攻められた瑞希と官僚とのやり取り)
「文科省が詐欺師を見逃したって、そしりを受けるかも」
「あとで弁護士か所轄署の耳にいれておくだけでいい。責任は回避される」』

『調査対象になっていなかった事例に、勝手に首を突っ込んだ。官僚なら好ましくないことだとわかるだろう』

瑞希は、自分とは合わないこういう論理の中で戦っていかなくてはいけない。謎解きに、この官僚たちの事なかれ主義という要素を放り込んで対立関係を作ることで、物語の厚みは増している。

さらに本書では、研究者の論理も様々に描かれていく。本書では、研究者というのは、国から金を騙し取る悪役として描かれている。彼らは、国から研究費を助成してもらうために、その研究がいかに素晴らしいか、価値があるかを、予算権限を持っている者に示さなくてはいけない。本書の場合、それは文科省になる。
しかし、研究というのは実に難しい側面を持っている。ここに、本書の中にさらに面白い構図を持ち込む秘密がある。

研究というのは、結果が分かった上で始めるわけではない。当然だ。何か分からない事柄があって、それを検証し白黒つけるために研究をするのだ。しかし、その白黒つけるためにもお金がかかる。研究費が必要になる。しかし、予算は限られている。であれば、その研究がお金を出してもらって当然である、ということを示さなくてはいけない。
しかし、ここに矛盾がある。同じことをもう一度書くが、研究というのは、結果が分からないからやるのだ。しかし、研究費を引っ張ってくるためには、さもその研究がどんな結果をもたらすのか分かっている風に見せなくてはいけないのだ。

これは実に困難だと言える。たとえばこれは、芸能人のスカウトマンに、将来確実に売れる子だけをスカウトしろ、というようなものではないかと思う。そんなこと、分かるわけない。けど、この子は絶対に売れますと言わないとお金にならないから、あの手この手で何か説明する。研究者が置かれている状況というのはこういうものではないかと思う。

さて、その上で本書ではどんな研究者の論理が描かれるのか。
もちろん、不正を働いて研究費を得ようとする研究者には、様々な動機があるだろう。実際に有望な研究なのだけど、現時点でその成果を示しづらいものの場合、パフォーマンスとして仕方なく嘘をつく、なんていう研究者も実際にはいるだろうと思う。しかし本書では、より悪い研究者が描かれる。
支給される前の審査にパスしさえすれば、行政からの助成金は、研究中だと主張し続ければずっと入ってくる。そこで、こんなことを考える研究者も出てくる。どうにかうまいことやって、国から助成金を引っ張ってくる。で、研究中だと嘘をついて研究は一切やらず、金だけ丸ごといただこう、というような。

研究者の側も辛いということは、僕はなんとなく分かるつもりだ。無茶なことを要求されているのだ。分からないから研究するのに、結果が分かっているかのように振る舞わなければお金が手に入らないというのは無茶だ。しかしそれでも、現行のシステムのままだと、悪徳研究者がはびこる余地が生まれてしまう。本書で描かれるタスクフォース、実際に文科省に最近設置されたようである。一般人からすればなかなか馴染みのない話ではあるのだけど、研究費として国税が投入されているのだから、それが正しい形で使われて欲しいと考えるのは当然だ。本書が、僕ら一般人の関心を引くきっかけになるならいいなと思う。

本書の中で瑞希が暴く様々なトリックは、種さえ分かってしまえば実にちゃちぃものだ。実際にマジックの現場で使われているトリックが応用されているようなものもきっとあるでしょう。割としょーもないトリックで乗り切ろうとする。
しかし、しょーもないトリックだからと言って、物語にケチをつけたいわけではない。本書の場合、しょーもないトリックを描くことで、こんな簡単なことで騙されてしまうのだと思わせることが出来るのだ(読者もきっと、その場にいたら騙されてしまうだろう)。また、しょーもないトリックだから盲点になる、という見方も出来る。なにせそのトリックを仕掛けているのは、マジシャンではなく研究者なのだ。研究者が、自らの研究のメリットを証明するために行っているわけで、いくらタスクフォースに回された案件だからと言っても、トリックを使っているなんて思わないだろう。やっているのが研究者であるというメリットを最大限活かして、大げさにしないことで、より見破られにくくしていると見ることも出来る。

しかし、トリック自体はしょーもないにせよ、本書で描かれる研究の中には、世の中にそんな研究があるんだな、と思わせるようなものも多くある。松岡圭祐の博識さが伺える。それぞれの研究に対して、どの部分にトリックを用い、さらにどういう発想から瑞希にそれを見破らせるのかというのを考えるには、それぞれの研究に対してそこそこの知識はないと難しいだろう。そういう部分のディテールというのは相変わらずさすがだなと感じました。

『あなたがいてくれてよかった。なんのために働いているのか思いだせたから』

本書は、日々の仕事や生活に倦んでいる人に力を与える作品でもあるだろう。ただ会社の歯車のように働いている人。理不尽な命令に従わざるを得ない人。変化のない日常に嫌気が差している人。そういう人に、自分にも何かやれることがあるのかもしれないと、ささやかに期待させる力があると思います。もちろん、誰もが瑞希のようにはなれないと思うけど、瑞希のように、逆境にも批判にもめげずに自分の信念を貫き通すことが出来る生き方に近づこうと動いてみることは出来るのかもしれないと思います。

『もし悩んだり行き詰まったりしたら、思いだせ。おまえは水鏡だ!真実を映し、人の規範となる水鏡だ。絶対まちがってない。人を正しくする使命があるんだ。鏡は曇るが、水鏡は曇らない。いつでも陽射しをまぶしく照りかえす』

そんな風に思ってくれる人の存在があるから、瑞希は戦える。色んな形で人間の優しさを感じ取ることが出来る作品でもあります。

松岡圭祐「水鏡推理」


「エベレスト3D」を観に行ってきました

内容に入ろうと思います。
1953年に初めてエベレスト登頂が成功して以来、多くの登山家がエベレストにアタックしてきた。彼らの4人に1人は、命を落とした。
やがて、エベレスト登頂をビジネスにする者が現れ始める。1996年、エベレストには20以上のパーティがひしめき合い、大混雑の様相を呈していた。
その一つが、AC社率いるパーティだ。ベテランガイド何人かで、顧客を登頂させる。雑誌記者のジョン・クラカワーも同じパーティに属し、登頂の様子を取材することになった。
エベレスト登頂には、長い準備が必要だ。ベースキャンプと、より上のキャンプとを往復することで高度に順応させ、それから決行の日を迎える。しかしその高度順応で思わぬ状況に見舞われる。あまりにもパーティが多く、登山路が渋滞するようになったのだ。AC社の隊長であるロブは、他のパーティと話し合い、登頂日をズラそうと話を持ちかけるが、話を聞く者はほとんどいなかった。唯一、あるパーティと協力して登頂を目指すことになった。
5月10日。その日がやってくる。エベレストは、14時までに頂上から下山しなければ危険だ。彼らは、アタックを始める…。
というような話です。

ジョン・クラカワーが同じパーティで登るという話が出てきた時、もしかしたらこれは実はなのかなと思いましたが、最後まで見てやっと実話だと判明しました。エンドロールは英語だったのでよくわかりませんでしたが、恐らく、ジョン・クラカワーのベストセラー「空へ エベレストの悲劇はなぜ起きたか」がベースとなっているのではないかと思います。

物語は、実に淡々と進んでいきます。どんな面々が登ろうとしているのか、ベースキャンプはどんなところなのか、高山病やその他もろもろの症状の怖さなどを描きながら、淡々とエベレスト登頂のための準備の場面を描いていきます。

最初の方で重きを置かれるのは、やはりメンバーの人となりの描き方でしょうか。過去2度エベレストにアタックして失敗した郵便局員、家族を残して挑戦する者、世界7大山(表現は間違ってるでしょうけど)の6つを制覇し、最後の一つであるエベレストに挑戦しようとしている難波康子、もうすぐ子供が生まれる身である隊長のロブ。主にこの4人を軸に、どんな背景を持った人間が登ろうとしているのかを描いていきます。

印象的だったのは、ジョン・クラカワーが問いかけた「何故山に登るのか」という問いとその答えだ。多くの者が、家族などを犠牲にし、多額のお金と恐ろしくしんどい思いをしながらエベレストを目指す。何故そこまでして登るのか、と。それに対して郵便局員であるダグは、「登れるからだ」と答える。登れるのに登らないのは罪だ、と。この答えはちょっと印象に残りました。

基本的に物語は、至極順調に進んでいきます。特段トラブルらしいトラブルもないまま、ベレスとの頂上へたどり着きます。しかし、トラブルの予感はそこかしこに感じさせます。まだ酷い状況にはないけど、これはちょっとマズイことになるぞ、という予感が。そして、登頂後、彼らは悲劇に見舞われることになります。

この映画を、どんな映画だと思って見に来たかによって評価は違うだろうけど、やはりどうしても前半は退屈ではあります。それは、この映画が3Dだったということとも、多少は関係するでしょう。わざわざ3Dにするぐらいだから、もっとスペクタクル的な映像なのではないか、という予感を抱いてくる人は多いのではないかと思います。この映画は正直、後半まで行ってもさほどスペクタクル的な映像はなく、なんでこれは3Dだったんだろう?と若干感じました。そういう意味で、特に前半はより退屈に感じられる人も多くいるかもしれません。
後半は、もちろん事実に沿った流れだろうから、物語的に見て強い展開があるわけではありません。とはいえ、事実が持つ重みみたいなものがじんわりと伝わってくる展開になっていきます。エベレストという極限の状況の中での、人々の極限の決断が描かれていく。フィクションではないので、人はあっさり死ぬし、ヒーロー的な行動を取れる者も多くはない。もちろん、打てる手はほとんどないという状況の中で出来ることを可能な限りやりきろうとする者もいる。エベレスト登頂をビジネスにしようとした者を嘲笑うかのように襲い掛かってくるエベレストという自然の脅威と、その中にあってはほんの僅かな存在でしかない人間の有り様が、現実の重さを感じさせる。

映画を見ながら僕は、どうやって撮ってるんだろうか、と感じる場面が実に多かった。実際に撮っているのか、CGなのか、それさえ僕には判断できないけど、どちらにしても凄いな、と。実際に撮ってるのだとすれば、空気が薄くてヘリコプターすら飛ばせない場所で、どうやってあんな全景の絵が撮れるのか。CGだとしたら、役者は一体どんなセットで演技をしているのか。そして、全然CGと思えない迫力ある映像をどう作ったのか。いずれにしても、普通には体感不可能な映像を見ているという興奮みたいなものは、映画を見ながら感じました。

自然の圧倒的な存在感を実感させられる映画です。

「エベレスト3D」を観に行ってきました

「ピエロがお前を嘲笑う」を観に行ってきました

一人のハッカーが、ユーロポールに出頭する。ベンヤミン。彼は、世界中を騒がせているハッカー集団<CLAY>の一員だと言う。
彼は、彼が<CLAY>に関わる前から、彼の物語を始める。
どこにいても“透明人間”だった少年。特技もなく、スーパーマンでもない。負け犬で、ただの変人だった。
14歳の時、コンピューターと出会う。一気にハマり、ハッキングに手を染めた。好きな女の子が単位を落としそうな試験問題を盗もうとした。
捕まり、50時間の社会奉仕活動を命じられる。そこで出会ったのがマックスだった。
マックスは、シュテファン・パウルという仲間と共に、何かをしていた。ベンヤミンは、マシン語の腕を試すように言われて、その実力を証明してみせた。彼らの、仲間になった。
<CLAY>-<ピエロがお前を嘲笑う> ピエロの仮面を被って社会を挑発した動画から、彼らはそう名乗るようになる。
彼らは、様々なハッキングをした。マックスは、MRXという、ハッキングのスーパーヒーローの目を振り向けさせたかった。しかし、MRXは、彼らを相手にしない。そこで彼らは、連邦情報局に侵入を試みることにした…。
ベンヤミンの話を聞いているのは、ユーロポールのリンドベルグ。ベンヤミンからのご指名だ。リンドベルグは、ベンヤミンの話をじっくりと聞き、彼の目的を推測する。
“奴の話には、大きな穴がある”
ベンヤミンの告白は、何をもたらそうとしているのか…。
というような話です。

まあまあ面白い作品だった、という感じでしょうか。正直、期待したほどではなかったかな、という感じはします。とはいえ、全体的にはなかなか良く出来た映画だとは思いました。

基本的には、ベンヤミンという男が語る、<CLAY>の歴史を追う物語です。それ自体、なかなか面白い物語です。個性的なハッカー集団、一筋縄ではいかない人間関係、引っ込み思案であるが故にままならない恋。そういう様々なスパイスを混ぜ込みながら、基本的にはハッキングが様々に展開されていきます。
彼ら<CLAY>は、3つの信条をベースに行動していきます。

1. 安全なシステムはない
2. 不可能に挑め
3. 仮想空間と現実空間を共に楽しめ

これは元々、ハッカー界のスーパースターであるMRXが言っていたもので、MRXに心酔しているマックスとベンヤミンが追従したものです。
この内、1の「安全なシステムはない」というのは、まさにその通りなんだな、と感じます。僕は、システムだのプログラムだのと言ったことには全然詳しくないから、彼らが何をしてるのかは分からないんだけど、でもハッキングというのは、そういうコンピューター上のことだけではありません。彼らが、かなりセキュリティの高い連邦情報局に侵入した時のやり方は、コンピューター上であれこれしただけでは不可能なものでした。

安全で完璧なシステムを無効にするのは、常に人間の存在です。システムの最大の脆弱性は、人間であると言っても言い過ぎではないでしょう。どれほど優れたシステムがあっても、それを使うのは人間です。すべての人間が優秀で完璧でない限り、どこかに穴はある。

『大胆にやれば、世界は平伏する』
『世間の連中は眠らされているんだ。安全なんてどこにもないんだ。でも、それさえわかれば、世界を手に入れたも同然だ』

卓越したハッキングの技術が存在することが大前提ではあるのだけど、でも確かに彼らの言っていることは正しいのだろうなと思います。どんな情報も、それがオンライン上にある時点で、盗まれたり書き換えられたりする可能性はある。だからと言って僕らはもう、インターネットのない生活には戻れない。安全なシステムなどどこにもないのだ、ということを自覚して生きていく以外、方法はないのでしょう。

さて、ハッキングはトリックだとベンヤミンは言います。確かにその通りで、人間を騙してシステムの入り口に入り込み、そこから奥深く探索する。これが、この物語の非常に重要なポイントの一つだ。この物語の、どこにトリックが仕掛けられているのか。

さて、詳しくは書けないのだけど、しかし僕は、このプランは、ちょっと厳しいのではないかという感じがしました。賭けだと言われればそれまでだし、『大胆にやれば、世界は平伏する』の実践なのかもしれないけど、狙い通りの結果を導くのはかなり運が必要なのではないかという気がしました。もちろん、僕がきちんと捉えきれていない部分に、成功の確率を高める要素があったのかもしれないけど、僕にはちょっと良くわかりませんでした。

エンタメとしてはほどよく楽しめる作品かなという感じです。

「ピエロがお前を嘲笑う」を観に行ってきました

変!!(中島らも)

内容に入ろうと思います。
本書は、コミック雑誌に連載を続けていた「変」に関するエッセイをまとめた作品です。

単行本あとがきで、著者はこんな風に書いている。

『「私って変なんですぅ」
というような女の子を見ると、僕はそのままダンボールに入れて国もとへ送り返し、「農家の嫁」にしてやりたくなる。もしその子がちょっとかわいくてセクシーな子であれば、半日くらいかかっていかにその子が「変じゃない」かをじゅんじゅんと説明し、ちゃんと納得させたうえで思いっきり「変なこと」をしてやりたいと思う。戸川純が好きでもベルベット・アンダーグラウンドが好きでも対人恐怖症でもレズビアンでもユイスマンスを読んでいても「月光」や「ALLAN」を読んでても、「丸」を購読してても、君は決して「変」ではない。「変」というのは、もっと「変」なのだ』

確かに、自分から変であると主張してくる人間には、あまり変な人はいないと僕も思っている。僕は、僕なりの世界の中で、変な人間を結構見てきた(中島らもとは比べ物にならないくらい、変度は低いと思うけど)。そして、僕が変だと感じた人間はことごとく、自分は普通だと思っていた。そう、まずここが変なのである。たとえ変な人であったとしても、その変さを自覚している時点で、ちょっとダメなのだ。変度が下がるのである。やはり変人は、自分の変さに気づいていないことが大事だ。

本書では、「人間が変!!」「言うことが変!!」「人種が変!!」「世の中が変!!」の4つの章に分けられている。それぞれについて、中島らもが出会った人、聞いたこと、知ったことなどをあれこれと書いている。

類は友を呼ぶと言うが、やはり中島らも自身が相当変だからだろう、彼の周りには変度の高い人間が集まってくる。そして、これも中島らも自身の性格がなせるわざなのだけど、中島らもは、何か変な状況があった時、それをより変な方向に進めてやろうという気持ちで行動してしまうのだ。だから、余計に場は混乱していく。ある意味でそんな風にネタを探して行ったのかもしれないけど。飲み仲間や演劇仲間や広告屋として関わった人間の中から変わった人間の話を出してくる。

また中島らもは、この連載と同時に、朝日新聞で「明るい悩み相談室」という連載を持っていた。一般の人からの質問に答えるコーナーである。そこに来た投書で、朝日新聞の方の連載では使わなかったものを使っていたりする。やはり家族の話というのは面白いもので、中島らもは、「明るい悩み相談室」の連載が人気な理由を、「みんな、家族が変わってるのは自分だけじゃないんだって思いたいんだよ」というような趣旨のことを書いていた。なるほど、確かに。

また、中島らもは、雑誌の広告や、新聞の投書欄をつぶさに見てしまうタイプの人間のようで、そこからも変わったものを見つけてくる。特に、新聞の投書欄の話はなかなか愉快だ。世の中本当に、いろんな人間がいるものだ。

ただ変なことを書いているだけの本というわけでもなくて、例えば「アホ」と「バカ」の違いについてはこんな考察をしている。

『この「アホ」に対する優しさというのは、大阪や神戸や京都が、大きいけれどまぎれもない地方都市であるという事実に起因している。
そこでは、人は地縁、血縁、共通の言葉などで結ばれていて、お互いに「油断」し合うことができる。
多少どうしようもないアホでも、なんとか食っていけるように工面してくれるし、それでもダメなら「吉本へ行け」ということになる』

また、演劇の脚本を書くために脳の構造に関する本を読んだらしく、脳に関する説明をつらつら綴っているような箇所もある。確か中島らもは、灘高だか出身だったはずで、基本的にとても優秀な頭をしているんである。アホなことばっかり書いていても、やっぱり基礎となるベースがきちんとあるから、全体として下品すぎない印象になる。その辺も中島らも巧いなぁ、と感じさせるところである。

気合を入れて読むような本ではない。たとえばトイレに置いておいて、少しずつ読むみたいなのでもいいだろう。気分が落ち込んでいる時に読めば、世の中アホばっかりやなと、少し気分が晴れるかもしれない。中島らもは、自分で自分を貶めるようなことをして、読者を優位に立たせてくれるようなところがあるから、なんだかんだ読後感もいい。くだらない話を書いていてもなんだか読ませられるのは、そういう側面もあるかもしれない。

中島らも「変!!」


95(早見和真)

僕は、”今を生きること”から全力で逃げてきたのだと思う。
現実から逃避するために学校の勉強をしたり、いつか役に立つかもしれないと資格を取ったり英語の勉強をしたりしている。いつ、どの時代のどんな瞬間を切り取っても、僕は、いつだって自分がいる”今”からの逃げ道を、まず確保してからでないと、その場所にいられないような人間だった。いつでも逃げられる、という安心感を確保してからでないと、”今”という場所にいられなかった。
”今”からは、ずっとずっと逃げ続けてきた。”未来”が”未来”のままでいてくれればいいのに、時間は無情にも進んでいく。”未来”が、少しずつ”今”に近づいてくると、それだけでもうしんどくなった。”未来”がずっと”未来”のまま変わらなければいいのにと、昔の僕はたぶん思っていたはずだ。まさに目の前にある”今”でさえ抱えきれないのに、その上”未来”までもどんどん”今”に変わっていくんだから、やってられない、と思っていた。
”今”を見たくなかったのは、”今”の自分は何も持っていないということに気づきたくなかったからだと思う。物質的にも、精神的にも、何も。熱中できるものがあるわけでもなく、特技があるわけでもなく、斬新な出生なわけでもなく、名前が特別なわけでもなく、無二の親友がいるわけでもない。僕にとって”今”というのは、「何も持っていない」ということを突きつけられる時間に他ならなかった。
だから、僕は”今”から逃げた。そして、不確定な”未来”に逃げた。”未来”の僕は、まだ確定していないが故に、何でも持っている可能性があった。”今”の自分が持っていない様々なものを、”未来”の僕は、少なくとも可能性の上では持っていてもおかしくはなかった。少なくとも、”今”の自分はまったく何も持っていないのだから、どう転んだって”未来”の僕の方が”今”よりは持っているはずだ。だから、“未来”の僕がもう少し良い物を持てるように、今は“未来”の僕のために頑張ろう。
きちんと言語化していたわけではないけど、たぶん僕はずっとそんな風にして生きてきたんじゃないかな、という気がする。
僕にはずっと、”やりたいこと”がない。
昨日テレビを見ていたら、モノマネ女王の清水ミチコが出ていた。天才ロボット学者と対談をしていたのだけど、その中で清水ミチコは、「誰かの真似をするのは楽なんだけど、自分がやりたいことは特にない」「人真似を見せることは全然平気なんだけど、自分自身を見せるのは恥ずかしくてしょうがない」みたいなことを言っていた。
なんか凄く分かるような気がした。
僕は、”今”から逃げるだけではなく、”自分”からも逃げていた。”自分”がどうしたいか、ということを考えるのが、億劫で仕方なかった。やりたいことも、食べたいものも、やりたくないことも特になかった。別に、何でも良かった。
だから僕は、”誰か”に合わせるのが楽だった。”場”に合わせるのが得意だった。
以前こんなことがあった。大学時代、サークル内であるトラブルが起こった。僕らの学年がその活動のトップだったのだけど、その活動のメインメンバーが、同じ学年の面々に散々非難に合う、という状況に陥ったことがあった。
その時、僕の学年の中心的な人たち(発言力のある人たち)は、ほぼ全員メインメンバーへの反対派に回ってしまった。僕は正直、どっちの立場でもなかった。いつものことだけど、僕には強く主張したいようなことが、その時もやっぱりなかった。
僕はそこで、その場にいる人間を見渡した。その結果、どう考えても、この場で何か発言できる人間がいるとすれば僕しかいない、という結論に達した。僕は、そこまで発言力のある存在ではなかったけど、でもその場には、メインメンバー・反対派に回った中心的な人たち・発言しなそうな人たち・そして僕しかいなかった。どう考えても、僕が発言する以外に、この場はどうにもならない。
だから、僕個人としてはどっちでもいいやと思っていたんだけど、その場をどうにか収めるために、僕は唯一、メインメンバーを擁護する側に回った。その結果、なんとかその場は収まったのだ。
その後僕は、メインメンバーの人たちから、あの時はお前がいなかったらどうにもならなかった、と褒められたのだけど、僕は別に英雄になろうとしてあんな行動をとったわけではない。あの時の僕の行動は、僕らしさのまさに極致という感じで、非常に僕の有り様を象徴するような行動だった。その場や、その場にいる人を観察し、最も足りない役割を補おうとしてしまう。そんな役回りを引き当てて後悔することもあるけど、大抵の場合、足りない役割を補おうと行動する方が、僕にとって楽なのだ。
一人でいる時ならともかく、”誰か”といる時に、”自分”がどうしたいかを考えるのはめんどくさい。それは、僕の役割ではない、と思ってしまう。僕は、”誰か”に合わせる方が楽だ。そんな風にして、”自分”からも逃げているのだ。

『”今”に悔いを残すなよ』

これが、彼らの三つのルールの内の一つだ。悔いを残すな。
もし子供の頃、近くに”渋谷”があったらどうだっただろう、と僕はずっと考えていた。彼らのように、”渋谷”という場所が、まるで庭のように、遊び場のように、日常の地続きにあったとしたら。
”渋谷”という存在に影響されなかったと、自信を持って言えるだろうか?
僕は、静岡県の中途半端な田舎町で育った。ど田舎ではないけど、栄えているわけではないという、中途半端な田舎。もちろん、近くに”渋谷”なんてないし、一番栄えている静岡市にも、電車で一時間ぐらい掛かったような気がする。
そういう環境では、劣等感を刺激されるようなものは視界に入らない。突出してオシャレなやつがいるわけでも、突出して文化的な香りを漂わせるやつがいるわけでもない。それぞれの文化的レベルには、田舎なりの差はあれど、都会に比べたら何ほどのものでもない。
でも、近くに”渋谷”があったら。
文化的レベルの差は、様々な要因で段違いになる。名門校に通っているか、家柄のいい家に生まれたか、金はあるか、ルックスはいいか、面白いか、度胸はあるか…。様々な要因が絡まり合って、人間同士の、特に若者同士の差を歴然としたものに変えていく。
そんな場所で生まれ育ったら、”渋谷”というものを無視して生きていくことは出来るだろうか?そこにのめり込まなかったとしても、逆の方向に触れすぎてしまうとか、そういう形で影響される可能性は十分にあっただろう。
だから僕は、彼らが『”今”に悔いを残すな』と確認しあうことを笑えはしない。
誰しもが、何かに抗おうとしていた。そんな時代だったと、登場人物の一人は語っている。きっとそうなのだろう。ランニングマシンの上では、走り続けなければ振り落とされてしまう。振り落とされて、困るわけではない。でも彼らは、振り落とされないことに決めた。そのランニングマシンが、たとえ誰かの掌の上なのだとしても、彼らはそこで、とにかく全速力を続けることに決めた。悔いを残さないために。それは、若者の社会への違和感さえも貪欲に飲み込み、さらにそれをエネルギーに変えてしまうような魔窟・”渋谷”が夢見る幻想だとしても、彼らは、その幻想を捕まえるために、とりあえず走り続ける。

内容に入ろうと思います。
SNSで高校生の少女から連絡をもらい、広重秋久は、「Q」と呼ばれていた高校時代に入り浸っていた渋谷に、久しぶりに足を運んだ。すっかり様変わりしているが、ところどころ面影がある。当時たまり場にしていたメケメケで彼女と会うことになった。
新村萌香と名乗った少女は、高校の卒業制作のために、星城学園のOBである秋久に、1995年のことについて教えて欲しいのだ、と話した。星城の卒業制作はちょっとした名物だ。
秋久は、1994年のことから話し始めた。そう、地下鉄サリン事件が起こり、秋久が”キレて”しまったあの日のことから。
その日秋久は、地下鉄サリン事件によって人生が一変することになる。直接被害を被ったわけではない。しかし、人生で初めて、人間は死ぬのだと実感したし、そんな日によくわからんオッサンと援助交際が出来る女子高生を目撃して、否応なしに憤ってしまう。いつもと対して変わらない反応をする両親にも、興ざめだった。
その日。クラスメートの丸山(すぐにマルコと呼ぶようになる)から電話があり、理由も分からないまま秋久は5人目のメンバーになった。元総理大臣を祖父に持つ翔を筆頭に、指定広域暴力団の組長の息子であるレオ、在日三世であるドヨンは、その日から仲間になった。秋久は、中学時代にごく少数の人間から呼ばれていた「Q」という名前で呼ばれるようになった。
彼らは、渋谷の街の有名人だった。Qは、どうして自分がこんなメンバーの一員の入れてもらえたのかよく分からなかった。しかも他の四人は、Qが主役だなどという。
なんだか分からなかったけど、とにかく毎日楽しかった。Qも渋谷ですぐに有名になった。出来ることが増えるに従って敵も増えていった。それでも、いつだって五人で笑い転げていた。
あの日が来るまでは。
というような話です。

かなり面白い作品でした。
正直初めの内は、この物語に馴染めるか自信はありませんでした。渋谷を根城にはしゃぎ回るキャラクターに、共感できるような気がしなかったからです。自分とは、住む世界が違う。しかも、住む世界だけじゃなくて、元総理大臣の孫だの暴力団の組長の息子だの、バックグラウンドも尋常ではない。そんな彼らがハチャメチャする話なんて面白いんだろうか、と思っていた。
予想に反して、読み進めるにつれて、どんどん彼らを好きになっていった。それは、次第に彼らが虚飾を脱ぎ捨てていったからだろうと思う。
渋谷という舞台、とんでもない出生。それらはある種、鎧のような存在に過ぎない。外界からの攻撃を防御し、体当たりすればダメージも与えられるような存在。しかしその中身は、似合わない鎧を着て苦しそうにしている少年に過ぎない。
彼らはきっと、”渋谷”が近くになければ、そして特殊な出生でなければ、ごく普通の少年だったはずだ。仲間を大切にして、ダサい大人にならないように誓い、法律は守り、道徳に悖る行為を嫌悪する。彼らの感覚は、比較的真っ当だ。

『こういう悲惨な出来事に直面したら、ちゃんと泣いていられる大人になってようぜ』

『っていうかさ、当たり前にがんばっている人たちが、当たり前に幸せになれないってことに対する気持ち悪さかな。何か価値のありそうなものに対してばかり金が集まって、一部の人間ばかりいい思いしてるわけじゃん。それって歪だと思わない?』

『これからたぶんすさまじく退屈なんだろうな。俺たちの人生。でもさ、Qちゃん。周りに絶対に退屈なところ見せない方がいいからね。高校時代は楽しかったとか、絶対に口にしちゃダメだよ。ウソでもいいから、今が一番幸せだって笑ってられる人間になってようぜ』

”渋谷”という、欲望の増幅装置が近くにあったが故に、彼らは、普通の高校生とはまったく違う日常を歩むことになった、というだけに過ぎない。どこにでもいる、と言うと少し言い過ぎだけど、特別な高校生ではない。
そんな中にあって、Qの変化は異常なほどだ。
ずっと優等生で過ごしていて、突然翔たちと不良をやってるわけだから、それだけでも十分な変化だが、翔たちの仲間になってからの変化も凄い。外見だけでなく、度胸や価値観までもが変わる。初めの内は、慣れない環境の中で右往左往するだけだったQは、やがてメンバー全員が制御出来ないほどの感情の昂ぶりを見せるまでになる。
その過程でQは、様々な感情に翻弄される。

『その僕がなぜか充たされた気持ちにさせられている。自分が欲していたことすら知らなかった何かを、僕は手に入れてしまったのだと思う。あの頃よりも心強い仲間がいる分、僕はたぶん繊細になった。失うもののあることの恐さを知ったのだ。』

『彼らと話していると、いい大学に行って、いい会社に就職してという父に叩き込まれてきたはずの真っ当な道がひとくつまらないものに思えた。
なのに一方では、少しでもいい大学へ進み、いい会社に入って、一日も早く力を持った大人になって奪う方の側に回らなければという焦りも生まれた』

『地下鉄サリン事件のあった日からずっとそうです。あの事件が起きた瞬間から、僕はずっと非日常を生きている気がします。(中略)だって俺、はじめて見ちゃったんですよ。あの地下鉄の事件で、はじめて人間は死ぬんだっていうことを直視させられたんです。自分もあれに乗っていたかもしれなかった、。明日いきなり命が消えてしまうかもしれない現実を突きつけられたし、そんな世界で生きているのなら、今日を保留しちゃいけないんだって思わされた。そうしたら、あいつらが手を差し伸べてくれた。あいつらが生きていることを感じさせてくれたんです』

僕も、何かきっかけさえあれば、Qのように今日を保留してはいけないという気持ちになれたかもしれない。9.11とか東日本大震災がそういうタイミングであってもおかしくなかったと思うけど、結局僕は、未だに、”今”から逃げ続けている有様だ。

物語はもう一人、セイラという少女が中心に存在する。Qの初恋の相手であり、物語全体の骨格に位置する登場人物であり、渋谷で打ち上げ花火をするという計画もセイラの存在あってのものだ。
珍しく、僕はセイラというキャラクターにはそこまで惹かれなかった。僕の好きな感じのタイプのキャラクターなのに。たぶんこれは、セイラに問題があるわけじゃなくて、男五人の関係性がなんだか羨ましく見えていたからだろうと思う。そっちに気を取られて、セイラにあまり目がいかなかったのだろう。それぐらい、Qたち五人の関係性は魅力的だ。自分がその中に入ってうまくやっていける自信はこれっぽっちもないけど、でも、なんかいいなと思うのだ。

ノストラダムスの大予言、地下鉄サリン事件、エヴァンゲリオン。”崩壊”をキーワードにした様々なものが世に溢れていた時代。渋谷も今とは違って、まだ雑然とした退廃を内包するゴミゴミした場所だったという。そんな1995年を、少年たちは駆け抜けていく。無謀さを、意地とプライドだと勘違いして、大人や未来を拒絶しながら、全力で”今”を疾走し続ける。意味なんかなくたっていい。理由なんて知らなくたっていい。仲間がいて、仲間を大切にする気持ちがあって、常に全力でいれば、それでいい。
そういう潔さみたいなものが、僕自身にはまったく欠如しているが故に、なんだか輝いて見えてしまうのでした。まあ、潔さと無謀さを、勘違いしているだけかもしれませんけどね。

仲間がいるということは、逆に言えば一人にはなれないということ。仲間に安堵するということは、一人が怖いということ。若い内は、”仲間”という単語の響きだけで、その事実に目を瞑ることが出来る。弱さを隠すことが出来る。『何かを証明するために』遊び続けるしかない彼らの弱さを、結局大人の掌の上で転がされているんだという彼らの諦念を、僕は愛おしみながらこの本を読んだ。

その輪に入りたいわけではないのに、彼らの関係性を羨ましく感じてしまう、そんな作品でした。大人になっても、そんな風にバカみたいに振る舞えるのって、いいなって思います。羨ましいな。

早見和真「95」


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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)