黒夜行

>>2015年11月

タスキメシ(額賀澪)

内容に入ろうと思います。
眞家兄弟。高校で同じ陸上部にいて、どちらも走りが速くて、でも二人の人生は大きく違ってしまった。
弟・春馬は、順調にタイムを伸ばし、ぐいぐいと力をつけている。順調そのものだ。チーム一早いキャプテンの助川のタイムを抜くかもしれない。春馬は強い。速い。
しかしそんな春馬が、『走ってる時の兄は最強だった』と語るほど、兄・早馬も速かった。常に誰よりも先頭を走り、振り向きざまに笑みを零すのでムカつかれることもあった。綺麗なフォームで走る、速い男だった。
しかし早馬は、怪我をした。膝の剥離骨折。ちゃんとリハビリをすれば、1年後の大会には出られるかもしれない。しかし、その頃にはもう、ほとんど卒業だ。
早馬の担任の教師である稔は、学校の敷地内に自分の畑を持っている。稔が勝手に作ったのだ。稔はそこで野菜を作り、暇そうにしている早馬にも手伝わせる。
それがきっかけで、井坂都と出会う。
都は、学内のたった一人の料理研究部部員だ。調理実習室でいつも料理をしている。稔は都に野菜を届け、都が作った料理を食べて帰る。野菜を持っていく役を命じられた早馬は、流れで料理を手伝わされることになった。
都の料理は、美味い。喋らなければ楚々とした雰囲気なのに、がさつで無神経な物言いをする女が作る料理とは思えないほど美味い。
早馬は、ふと考える。偏食家の弟のことをだ。野菜嫌い、魚嫌い、豆も茸も嫌い。和風の味付けもあまり好まない。嫌いなものを食べるくらいなら、食べないでいた方がマシと考えるような、弟のことを。
俺が料理を作って食わせてやればいいんじゃないか。
その日から早馬は、リハビリにも行かずに都の元へと通い、料理を習うことになる。
最強だったはずの兄は、一体どうしちゃったのだろうか?あいつは本当に陸上から身を引くつもりなのか?周囲の様々な人間が、早馬のことを考える。あいつが陸上から離れていくのは、嫌だと。
というような話です。

こんな風に内容紹介をすると、「偏食家な弟のために料理を習う兄の物語」という風にしか思えないかもしれませんが、まったくそんなことはありません。それはあくまでも舞台設定であって、早馬を中心として、弟の春馬、キャプテンの助川、料理研究部部員の都らとの、深く絡みあった人間関係が描かれていく。その人間関係には、様々なベクトルが存在し、一筋縄ではいかない。怪我をして陸上を辞めようとしている早馬の葛藤はまだ分かりやすいが(それでも、そんなに単純というわけでもないのだけど)、都が抱える屈折したねじれとか、助川が抱く言葉にならない奥底にしまわれた想いなど、物語が進むにつれてそういう分かりにくい葛藤も浮上してくる。思った以上に広がりのある物語で、料理を作って弟に夢を託す兄、みたいなありがちな物語ではないことに驚かされた。

怪我のために陸上から離れようとしている早馬の葛藤は、一見分かりやすい。まったく回復の見込みがないわけではなく、きちんとリハビリをすればまだ戦えるかもしれない、という状態であるが故に、早馬の周囲の人間は、何故いま辞めようとしているのか、と思いたがっている。確かに、そういう風に強く立ち続けることが出来る人間も、世の中にはいるだろう。怪我を克服して活躍したスポーツ選手の話とか、障害をものともせずに物凄いことにチャレンジする人たちの物語を、多かれ少なかれ僕達は知っている。

しかしやはり、そんな人間ばっかりじゃない。
僕は、早馬が陸上から離れようとしている気持ちが、最初から共感できていたような気がする。むしろ、春馬や助川が、直接的には言わないにせよ、早馬に戻ってきて欲しいという雰囲気を出す方が、凄いなと思っていた。

戦い続ければ負けではない、という気持ちは、わかるつもりだ。戦いのステージから降りなければ、少なくとも負けたことにはならない。勝つ人間というのは、そういう強い気持ちを常に持ち続けられるのだろう。しかし、負けではないからと言って戦い続けることは、苦しい。負けだと確定することになっても、何かをすっぱり諦めること。それは時として、別の扉を開くきっかけにもなるはずだ。

とはいえ、春馬も、辞めるという決心を、自分自身で下すことはなかなか出来ない。この気持ちも、分からないではない。特に早馬は、それまでずっと勝ってきた男だ。怪我をきっかけに気持ちが切れてしまったにしても、勝ち続けてきた人間が辞める決断をそう簡単に下すことは出来ない。
だから、たぶん早馬は、周りから固めようとしたのだろう。弟のために料理をしているのだ、という事実を、周囲の人間にも、そして自分自身にも植え付けることで、既成事実を作ろうとした。「陸上を辞めるかどうか」という後ろ向きな決断を、「陸上ではない新たな何かを始める」という前向きな決断にすり替えることで塗り込めようとする。
あー、そういう早馬の気持ちが、凄くよく分かるなぁ、と思ってしまうのだ。

しかし、早馬は、決して怪我のせいだけで陸上から離れようとしているのではない。究極的に言えば、怪我は一つのきっかけだったに過ぎない。もっと言えば、早馬は、辞めるきっかけを探していたと言っても、そこまで言い過ぎではないのかもしれない。そこにどんな葛藤があったのか、それは是非本書を読んで欲しいのだけど、早馬の内側に秘められたその想いを知った後で、改めて早馬の様々な言動を振り返ってみると、早馬の揺れ動く心がより明確に見て取れるように思う。

その、早馬の内側に秘められた想いを早馬の内側から引きずりだしたのが、都である。

『空っぽになった場所を、料理をすることで埋めた気になってるだけじゃないのか』

怪我の後、早馬の周りの人間は、早馬がいる前で陸上の話をするのをやめた。それは早馬を複雑な気持ちにさせる。しかし都は、そんな気遣いをする女ではない。ガラの悪い口調で、ズケズケと厳しいことを言う。たぶんそういう都に、早馬は安堵を感じていたのだろう。その気持ちは、分かるような気がする。腫れ物に触るように関わられるぐらいなら、いっそ腫れ物に触れてほしいと、僕も思ってしまうだろう。

『井坂は、今は誰かと料理をした方がいい』

料理研究部の顧問でもある稔は、早馬に対してそう語る。都自身も、問題を抱えている。都が早馬だけでなく誰に対しても無遠慮に関わるのには、理由がある。

『私が、たいして親しくもない他人から、可哀想可哀想って心配なんかされたくない』

都は、そう力強く叫ぶ場面がある。都は、可哀想だと思われる視線に、敏感すぎた。それがたとえ、心底の善意であっても、自分を可哀想だと見る見方を感じれば、都はそれを不愉快に感じた。都自身、そう思うことを止められなかった。
だから、都の無神経さは、自らの経験の裏返しだ。自分がされたくないことを、他人にもしないと決意している者のあり方だ。同じような経験をしてきた早馬には、きっとそれが理解できたのだろう。だから、都と早馬は、急速に親しくなっていく。

『だから私は早馬を受け入れたのだろうか』

都もまた、早馬と関わることで変化していく。振り払おうとしても永遠についてくる“孤独”という悪魔と共存することに決めた都は、一人でいることに違和感を抱かない。家でも学校でも、一人だ。誰と一緒にいても、都は一人。誰の存在も寄せ付けない。受け入れない。自らをさらけ出さない。ガラの悪い口調は、ある種の鎧だ。そうやって振る舞う生き方が、痛々しく見えなくなるまで、都はどれほどの苦労を重ねただろうか。早馬が出会った頃の都は、無理して無神経に振る舞う必要はないほどその自分にもう馴染んでいただろう。しかし、初めからそうだったとは思えない。きっと少しずつ塗り重ねていくようにして、自分のあり方を変えていったはずだ。

だから都は、筋金入りの孤独者だと思うのだ。料理だって、一人で出来る。顧問の稔は、都が作った料理を食べることで、少しでも都に関わろうと、都の孤独に関わろうとする。稔の距離感の取り方は実にスマートだが、しかしやはり年の離れた教師には限界がある。怪我によって長年続けてきた陸上を諦めようとしていて、また弟のためという大きな理由を持って料理をするから熱心に学ぼうとする早馬の存在は、孤独者になるために都がそぎ落としていったものを少しずつ取り戻すきっかけになったかもしれないと思う。

『逃げたっていいと思う』

都のこの言葉が、僕は好きだ。

弟の春馬と、キャプテンの助川もそれぞれ、複雑な想いを抱えたまま、日々の練習を続けていく。春馬は、兄の怪我に対して責任を感じている。自分のせいで兄は怪我をしたのだ、と。小さい頃から、自分の中の最強だった兄の姿を、春馬はずっと追いかけていたかった。兄がいたから、自分もここまでこれた。それなのに、兄だけが離脱してしまうことが、どうにも受け入れられないのだ。

早馬が弟の体調を考えて料理を作るのと同じように、春馬も兄のことを考えて色んなことをする。しかし、早馬は、弟の「強く速く怪我をしない選手になる」という願いを叶えるために行動しているのに対して、春馬は「兄ちゃんに陸上を辞めてほしくない」という自分の気持ち優先で行動してしまう。だから、春馬の言動は、兄に対して空回りしてしまう。

『だから、自分は兄の作る料理を残すことができないのだろう』
『できれば、兄貴の飯が食いたかったな』

まるで早馬が弟の料理に、特別な何かを入れたかのように、料理を通じて春馬は兄の気持ちを知り、兄の決断を受け入れようとする。弟の偏食を治すための食事は、春馬の兄に対する強張った気持ちをほぐすという別の役割を担いもしたのだ。

助川もまた、早馬に陸上から離れてほしくないと思っている。しかし助川は、春馬ほどその気持ちを表に出さない。普段クールに振舞っている彼には、そういうことが出来ないのだとも捉えられるけど、そもそも助川が自分の気持ちを捉えきれていなかったという側面もある。

ここでも、そんな助川の気持ちを引きずり出すのは、都なのだ。
助川と都は幼なじみであり、色々あって難しい関係にあった。高校に入ってからは、昔のわだかまりなんかを感じさせないで接することが出来るようになったけど、そんな過去があるからこそ、助川は都に対して、春馬が都に対して抱く以上に様々な感情を抱えている。

都と助川の関係も、なかなか一筋縄ではいかない。都がずっと抱えてきた想いをラストで吐露する場面でも、その印象は一層深まる。幼なじみ、という言葉ではたくさんの何かがはみ出してしまう、そんな二人の関係も繊細で読み応えがある。

『四年間も自分に嘘をついて、裏切り続けるなんて、なかなか大変だよ』

人間は、自分のことだってちゃんと分かるわけじゃない。正しいこと、本当の気持ち、そんなものはちょっとしたことですぐ揺れ動く。既存の言葉では置き換えが出来ないようなものだって、人間はその内側に溜め込むことが出来る。
人生は、決断の連続で出来ている。一つ一つの決断が、その後の人生を左右する。後悔しない人間なんていないのだろう。であれば、後悔しないために決断しない、という生き方ではなく、後悔するだろうけど決断して前に進む、と決めてしまう生き方の方が潔いのだろうなと、一点でまごついて彷徨っている少年少女たちの葛藤を読んでいて感じました。

人間が人間を想う気持ちを、走りや料理に託して絶妙に描き出し、人間が変節していく様を丁寧に描き出した作品です。額賀澪は、やっぱり巧い。

額賀澪「タスキメシ」


スポンサーサイト

触法少女(ヒキタクニオ)

内容に入ろうと思います。
深津九子は、施設で暮らす13歳の少女だ。親から育児放棄を受け、虐待などもあり、母親の失踪と共に施設に預けられることになったのだ。
九子は、学校内に何人かの下僕を従えている。
優等生でありながら物凄い美貌を持つ九子は、自分の持っている武器のことをよく理解していた。担任の教師に対しては、その美しさを最大の武器にして弱みにつけこみ、良いように動かせる駒にした。同じクラスの西野は、九子への好意をうまく利用され、九子に従わざるを得ない状況にさせられた。
そして九子には、崇拝者もいる。同じくクラスメートの里見だ。平凡な容姿をしている里実は、綺麗で勉強もできて、どんなことでも臆することなくやってのける九子を実によく慕っている。九子は、自身が施設で暮らしていることも、最大限利用して人心を操る。
ある日九子は、いなくなった人間の探し方を、西野の部屋のパソコンで調べる。そこで得た知識と、これまで身につけてきた立ち回りのうまさを使って、九子はあっけなく母親の現住所にたどり着いてしまう。里見と共に母親に会いに行った九子は、あまりにもあっけらかんと九子と再会し、昔とほとんど変わらないままの姿を見せる母親を、殺してもいいんじゃないだろうか、という気持ちを捉えることになる。
やってみよう。
九子は、インターネットを使って殺人の方法を調べ始める。施設のパソコンは当然使えない。西野の家にも行きにくくなった。九子は、知恵と工夫と忍耐を駆使して、徐々に母親の殺害計画を練り上げていく…。
というような話です。

これはかなりよく出来た作品だと思いました。非常に面白い。かなり際どいテーマに全力でぶつかっていき、細部に徹底的にこだわることで、九子という「触法少女」が実にリアルな存在として立ち上がっていく。淡々と九子の計画が進んでいくだけに思えた物語が、終幕に至るにつれて様々なノイズを拾い、最終的に思いもかけない構図が描かれることになる。その驚愕のラストに至る流れが、実に見事だと思う。

まずタイトルの説明から行こう。「触法少女」という単語は、恐らく存在しない。法律的には、男であっても女であっても「触法少年」と称されるようだ。
「触法少年」というのは、14歳未満で刑法法令に触れる行為をした少年を指す。九子は13歳。ここで、たとえ殺人をおかしても、警察や検察は一切手出しが出来ず、児童相談所経由で家庭裁判所扱いの審理となる。だから、犯罪を犯した時点で13歳であるのか、あるいは14歳であるのか、この点は実に大きな差なのである。

そしてこの物語は、この「触法少女」の扱いが一つ大きなテーマになっている。詳しく書くことは避けるが、実に見事だ。この「触法少女」の考えは、九子の計画にも練りこまれていくのだが、そこからどんな紆余曲折を経るのか、そしてさらにラストでどういう展開を迎えるのか。それは是非読んで体験して欲しい。「触法少女」というタイトルがまさにぴったりだと感じられるほど、これは本書の中で非常に重要な要素となっていく。

酒鬼薔薇聖斗の事件を始めとして、幼い子供によるセンセーショナルな事件というのは、時代時代でそれぞれ人々の記憶に刻まれていることだろう。しかし、センセーショナルな報道の記憶こそあれ、現実に、そういう幼い子供による犯罪がどのように扱われ、どう物事が展開していくのか、きちんと知っている者は多くはないだろう。本書は、「触法少女」が警察機構の中でどう扱われ、事件がどう推移していくのか、つぶさに描き出していく。これは、親にも関係してくる話だ。本書の冒頭で、17歳の少女が覚せい剤の所持で逮捕される話が出てくる。その母親が、「うちの子に限って…」「この子はいい子なんです」と口にするのだが、生活安全課の刑事はそれを、どの親も決まってそういうと切り捨てる。親の目から見てきちんとしているようでも、子供が何を考えているかそんなことは分からない。特に現代は、インターネットを通じてありとあらゆる情報を簡単に手に入れることが出来てしまう。昔だったら、子供には絶対出来なかっただろうことが、今では、才覚と知恵と度胸さえあればなんとか出来てしまうのだ。そういう世の中で子供を育てるということは、100%完璧な安心などありえない、という自覚が求められるのだろうと思う。考えたくないことだろうが、こういう現実のことに触れておくことも大事かもしれない。

本書では、九子の犯罪計画がどう進んでいくのかというパートと、警察の捜査がどんな風に進んでいくのかというパートが入り混じって描かれていく。

九子の犯罪計画を描くパートは、実にリアルに展開していく。九子は、施設で育っているが故に完全にプライベートな部屋はなく、パソコンも施設のみんなと共有、携帯電話は持っていない中学生の少女だ。この少女が、下僕や崇拝者を駆使するとは言え、バレないと思われる完全犯罪の計画を練るのは、非常に困難なことだろう。しかし、九子はこの困難な環境の中で、持てる才覚をフルに使って計画立案に乗り出す。それは、下僕と崇拝者を従えた13歳の少女ならギリギリどうにか頑張れるだろう、というレベルに見事に抑えられている。もちろん、運が良い部分もある。そりゃあ、なきゃ困る。なかったら、ごく普通の13歳の少女でも、人を殺せる計画を立てられることになってしまう。本書がその示唆をすることになってしまう。本書は、実際に13歳の少年少女が同じことをしてもやりきれないだろうなという犯罪計画を、九子になら可能だったという絶妙な設定を用意して、物語を進めていく。これは実に巧いと思う。元々成績優秀で、しかも母親の機嫌を損ねないことを第一に考える生活から、他人の気持ちを推し量る類まれな能力を身に着けている。そんな少女は、この犯罪計画を、一種のゲームのように進めていく。もちろん、復讐という気持ちがベースにはあるのだけど、力試しをしたい、自分の知恵でどこまで大人に対抗できるのか試したい、そういう気持ちも強くあるように感じる。人を殺すということの現実感をリアルには捉えきれていない、ということもあるだろう。虐待の経験によって、痛みには敏感であるはずの九子だが、人を殺すとなるとまた話は違う。しかも、殺害方法が激痛を与えるようなものではないと九子は信じているだろうから、人を殺すということを痛みという観点で捉えきれていないのかもしれない。いずれにせよ九子にとって、この犯罪計画はある種のゲームのようなものであって、下僕や崇拝者を自分の思い通りに動かす全能感を味わい、さらにそれによって殺人という困難で障害の多い計画を成功に導きたいという気持ちが根底にあるように思える。

だからこそ、時折九子は揺れる。

『何か良いとこみせてよ…お母さん、どこか心の隅で、瑠美子を殺さないでいいと思えることを探している自分がいた』

九子は元々、母親に対して強い憎しみを抱いていたわけではない。一緒に暮らしていた頃は、母親のことが好きだった記憶さえある。自分が酷い環境に置かれているということを認識出来ていなかったのだ。施設での天国のような生活の後、かつての生活を振り返ってみると、それは異常であるのだということが理解出来るのだけど、そこから九子の憎しみが立ち上がったというようなことはなかったようだ。もう関係ない世界の関係ない場所にいる人のことで気持ちを煩わされたくない、という感じだったかもしれない。
しかし、またこれもゲームのようにして母親の居場所を突き止めてしまった九子は、母親と再会することで複雑な感情に囚われるようになる。なんのわだかまりもないかのように昔のように接する母親に、苛立ったり期待したり、名前の由来を聞こうとしたりする。里実の母親に接することで自身の母親と比べてしまったりもする。殺意が増すこともあれば、留まってもいいのではないかと思う瞬間もきっとあっただろう。どれだけ強がって見せても、どれだけ辛い経験をしていても、やはり13歳の少女であることには変わりはない。その九子の揺れの描き出し方も良い。

そんな時、九子の支えになるのが、同じ施設で生活をしている華蓮だ。華蓮は九子の犯罪計画を応援していて、相談すればなんでも的確な答えを返してくれる。弱気になった時も、九子は華蓮に相談する。そうやって、華蓮を心の支えとしながら、九子は犯罪計画を進めていく。

警察の動きも興味深い。本件は、発生当初から特A級の緘口令が敷かれた厳重な管理の元“調査”がスタートする。触法少女に対する“捜査”には大きな制約があり、九子の顔写真一枚さえ手に入れるには苦労するほどだ。非常に難しい問題を孕んでいて、警察組織としても様々な意見が存在する。『私が言えるのは、全体を見て選択をするのが、警察機構の上層部の正しい考え方なのだということだ』という意見さえ出させてしまう。

「触法少女」というのは、何が正しくて、何が正義で、何が偽りなのかを歪ませていく。警察機構さえ同じであって、彼らの様々な制約を課せられたまま調べを進めなければならないもどかしさみたいなものは、普通の警察小説では味わえない部分だ。

クレバーで冷静な少女、優しい母親の存在を希求する少女、追いつめられて崩れていく少女。いくつもの顔を見せながら、少女は未知の世界へとどんどん足を踏み入れていく。己の才覚だけで生きてきた自信から自分自身を過信し、なんでも出来るはずと気持ちが大きくなっていく中で、母親に対する複雑な感情を溜め込んでいく少女の、その奥に隠された脆さみたいなものが露わになっていく過程が見事な作品だ。現実の世界の九子が、今日も誰かを殺す算段を練っているかもしれない。そんな想像をリアルに呼び起こす物語です。

ヒキタクニオ「触法少女」


武曲(藤沢周)

内容に入ろうと思います。
羽田融は、陸上部を辞めて今は帰宅部だ。ラップに目覚め、リリックを紡ぐために、様々な言葉を日々広い集めている。iPodには、百人一首も入っている。
ある日駅で、同じ高校の剣道部の集団を見かける。そこで融は、竹刀を蹴った蹴らないの揉め事に巻き込まれ、盗られたiPodを取り返すために、何故か剣道の試合をさせられることになった。やったことなんてないってのに。
そこで融が見せた竹刀捌きは、剣道を普通にやっている者には、ただ粗雑で乱暴なだけに見えただろう。しかし、ここ鎌倉学院高校の剣道部のコーチをしている矢田部は、融という少年の竹刀捌きに、父の幻影を見るような思いでいた。融は、剣道のルールなどどうでもよくて、ただ相手に致命的なダメージを与えるために竹刀を振りさばいている。もし彼の竹刀が真剣であれば、融と竹刀を交えた部員二人は、間違いなく死んでいるだろう。
それは、殺人剣と呼ばれた父を彷彿とさせるものだった。
剣道界にその名を轟かす父・将造の息子である矢田部は、子供の頃から父の猛特訓を受けていた。相手を殺しにかかるような剣道をすることで畏れられた父との特訓は壮絶なもので、その終結として矢田部はやがて、もう取り戻すことの出来ない父子関係に行き着いてしまうことになる。
アルコール中毒を克服した矢田部は、今は警備員の仕事をしながら剣道部のコーチをしている。来る日も来る日も変わらない日常。父親の存在が常に、矢田部に重くのしかかってくる。
ある日同窓会に顔を出してみるも、いたたまれなさが増すばかりで、矢田部はつい、ずっと我慢していた酒に手を伸ばしてしまう…。
というような話です。
この内容紹介から、どんな風に話が展開するのか、たぶん全然分からないと思うんだけど、色々あって融と矢田部が一種のライバル関係になっていきます。ラップにハマっているだけのただの高校生と、凄腕の剣道家だがアル中という中年男がどうやったらライバルになるんだ、という感じだけど、そこは実に物語の展開の妙がある。否応なしに剣道の世界に引きずり込まれた少年と、父の幻影に囚われた中年男の軌跡が、つかず離れずのいち関係をのまま絶妙に絡み合うのだ。

正直言って、読み始める前のイメージとは全然違う物語だった。
読み始める前、僕は、誉田哲也の「武士道シックスティーン」のシリーズのようなイメージをしていた。「武士道シックスティーン」は、高校生の女子二人が剣道に打ち込む部活を中心とした物語だ。本書は、女子の物語でないことはわかっていたけど、剣道部を中心にした青春小説みたいなものなんだろう、と読む前は思っていた。
そう思った最大の理由は表紙にある。本書の表紙は、イヤホンをつけた少年が剣道の道着を着ているイラストだ。だから、もっとポップで軽快な部活の話だと思ったのだ。

しかし、予想とは裏腹に、本書は、実に濃密で絡みつくような物語だった。表現は純文学的と言っていいような気がする。高校の剣道部というのは舞台の一つではあるのだけど、メインステージというわけではない。僕の理解では、矢田部が長年抱えてきた鬱屈が先にあり、それに様々な形で巻き込まれ刺激された融が剣道に開花していく、という物語だ。つまり、融は本書の主人公ではあるのだけど、実際に物語の重心を担っているのは、アル中の中年男である矢田部の方なのだ。これは非常に予想外だった。

矢田部の物語であるが故に、しばらくの間僕はこの物語に入り込むことが難しかった。本書は、矢田部と融が交互に視点人物となる構成である。融のパートは、高校生らしく軽快でノリがよく読み進めやすい。融は融で、他の高校生とは違った特殊な部分があるのだけど、しかしそれ自体は融や融の物語を理解する障害にはならないし、逆に物語を面白くうねらせる要素にもなっている。

しかし矢田部のパートは、重苦しくねっとりしていて、悔恨と弱さにまみれている。しかも、矢田部のパートはさらにややこしい要素がある。矢田部はアル中を再発してしまうがために、妄想や幻覚が混じるのだ。ただでさえ陰鬱とした後悔や懺悔で溢れている中に、さらに妄想や幻覚が入り混じる。だから、なかなか読み進められない。

そんなわけで、読み始めてからかなり長い間、この物語をうまく捉えきれなかった。

その理由は、まだ他にもある。
本書は、ベースとなる物語が剣道なのだけど、序盤から、特に説明もないまま、かなり高度な剣道のやり合いが展開される。特に剣道特有の用語が説明されないまま使われたりもするので、剣道に馴染みのない僕には正直、何をやっているのかよくわからないことが多かった。ラストの方、融が開眼して一気にレベルを上げてからのわからなさは、まだ受け入れられる。それは、融と矢田部が、剣を交える前から感覚の世界で戦っているからで、現実には想像しにくい表現で描写されるのは、仕方ない。しかし前半の、剣道がなんなのかも分からないままいきなりレベルの高い戦いを見せられるというのは、さすがに少し不親切に感じた。もちろん確かに、初心者向けの描写が入り込む余地のないような、緊張感のある物語ではある。でもなぁ、と思ってしまうのだ。

そんなわけで僕は、途中まで結構ぶつくさ思いながら読んでいた。わかんないなぁと思いながらページをめくっていたし、矢田部は鬱陶しいなぁと思いながら読み進めていた。

けど、ほとんどラストというような箇所に来て、僕の中でようやく物語のテンションが上がった。それまでは、融は矢田部のことを、ただ倒したいだけの敵と見なしていただけだし、矢田部の方は融がどうこう言うよりも自分のことで一杯一杯みたいな感じだった。二人の日常は、様々な形で交錯するのだけど、僕には、二人はお互い相手のことをきちんと見ていないように思えてしまった。

しかし、ラスト付近で突然、二人は正面から向き合うようになったと感じられるようになった。融にとって矢田部はただの敵ではなく、矢田部にとって融は無視出来ない存在になった。そうなってからは、物語が俄然面白くなった。少なくとも僕の中で、ラストまでが長い前フリで、ラスト付近から一気にラストスパートを掛けてきたみたいな印象だった。

だから、最終的な本書に対する印象は、結構良い。ただやはり、冒頭からかなりの間、読み進めるのに苦戦したということは覚えておきたいと思う。

解説で中村文則氏は、本書は父子の物語だと言う。僕は正直、小説を読んだりする時に、あまりそういうことを考えないで読む。ただ確かに、言われてみればその通りだと思う。
矢田部の頭の中のかなりの割合を占めているのが父とのことで、この父子関係が一番強い。さらに、矢田部と師匠的存在である光邑、また矢田部と融、この二組の擬似父子関係が、様々な場面で入り組み捻じれ歪曲していく中で物語が生み出されていく。

特に、矢田部と融の関係性はなかなかに捻れている。二人は基本的には折り合わない。あらゆる場面で争い、こじれていく。憎しみをたぎらせて、殺意を解放することさえある。しかし、剣道の腕前で言っても、年齢で言っても、やはり矢田部が父で融が子になるはずだろう。
しかし、矢田部は同時に、融の姿に父を見ている。殺人剣と呼ばれた父の、暴力的で衝動的な、剣道と呼んでいいのか悩むほどの感情の奔流を見てとる。そこで、彼らの父子関係は瞬間的に逆転してしまうのだ。なかなかに捻れている。アル中でいかれている矢田部は、時に弱さをさらけだし、時にその弱さを隠したり守ったりするために凶暴になる。そういう点でも、矢田部と融の父子関係の逆転を垣間見ることが出来る。

そして、父子関係を描く上で避けて通れないのが、父殺し。本書では、この父殺しというモチーフも、様々な形で登場する。特に、矢田部を憂鬱に追い込むその最たる理由が、この父殺しと関わってくる。矢田部にとって、父の存在とは何であるのか。その問いかけを止められない、矢田部の地獄の流転が、まさに“業”という名前で呼ぶのに相応しいように感じられる。

本書の中で、僕が最も面白いと感じたのは、融の言葉に対する感覚だ。

まず、融のパートは、そもそも言語表現が面白い。言葉に惹かれて百人一首をiPodに入れてしまう融の感覚を著者はうまく掴んだのだろう。一つ一つの身体・内面の表現から、可能な限り自分の体感と一致するように言葉をセレクトしようとしているという気持ちを感じる。

そんな融の価値観を非常に色濃く映し出しているセリフがある。

『本気のラッパーというのは言葉に対して厳密なんだよ。正確でありたいんだよ、自分の気持ちに…』

融が何に悩んでいるのかというと、一級審査で課されるという筆記試験だ。剣道の級位認定に筆記試験があるというのは驚きだった。実際融は、その筆記試験を受けずに済むのだが、しかし受けなくてはならないと思い込んでいた融には、それは非常な難問だったのだ。

それは、剣道をやる者が持つべき理念についての問いだった。

基本的には模範解答が用意されていて、普通はみなその模範解答を疑うことなく書く。書けば級位が認定されるのだから当然だ。しかし、融は、その模範解答に引っかかる。自分の価値観とはあまりにも違う言葉が並んでいるために承服しかねるのだ。その違和感を口に出しても、周りには理解されない。覚えてちょっと変えて書いたらいいんだよ、とつれない。

『白川に限らず、北学の同じクラスの仲間達も、ほとんどが要領のいい奴らばかりだと融は思う。納得しなくても流していれば、その時間は過ぎる。スルーさせておけば、後で好きなことができるじゃん。それくらい我慢できなくてどうすんだよ、という具合に。別にそれを否定するほど自分は熱くはないと思っているが、自身に関わるものについては簡単に素通りさえるわけにはいかない』

『その心理を表す言葉を何度も何度も咀嚼して、体の細胞すべてが納得しないと駄目だ。さらに言葉を突き詰めて、言葉以前の所までいかないと相手には対処できない』

こういう感覚は、僕も凄くわかる。僕も、言葉に対しては几帳面な方だと思う。自分の口から出た言葉が、「正しくない」ならまだ許容出来るが、「嘘」というのは許容できない。みんながどうでもいいと思っているようなところにもこだわって、気になってしまう。その違いがくっきりしたところで実利的に何も得るものはないのに、細部の差を突き詰めたくなってしまう。そういう感覚が、僕の中にもある。そういう面もあって、融のパートには強く惹かれるのかもしれない。

言葉が豊かであるということは、それだけ現実を仔細に観察できるということでもある。それを端的に表現した言葉がある。

『「起こり」という言葉を知らなかったら、「起こり」を見分けることはできない』

これはまさに、ソシュールの言語論のようなものだ。人間は、ただモノに名前をつけているわけではない。区別を必要とするモノに名前をつけている。だから、様々な名前、すなわち様々な概念を知れば知るほど、僕らは物事を見る時の階層がより深くなり、物事の違いに敏感になれる。融が剣道の世界で急激な成長を遂げることが出来たのも、もしかしたら言葉の力があったのかもしれない。

『俺はラップの言葉でほんものの世界を表現する』

そう言っていた、剣道を始める前の融は、最後にはこんな風に言うようになる。

『ラップ命になって、たえず言葉をコレクションしてはリリックを紡いできたつもりだけど、剣道から教わる言葉は、さらにアグレッシブだ。』

融は、言葉によって世界を掴もうとしてきた。言葉を吸い集め、それらの違いを意識し、世界を細分化することで、普通にしていたら見えない細部まで世界を覗き込もうとしてきた。しかし融は、そのやり方では、“ほんものの世界”を掴むことができなかった。やがて、事故みたいにして剣道と出会い、矢田部や光邑との濃密で深淵なやり取りを経ることで、融は“ほんものの世界”に触れるチャンネルを手に入れた。融にとってそれは、言葉ではなく剣道だった。いや、言葉じゃなかったというのは正確ではないかもしれない。言葉を研ぎ澄ましていたことが、剣道を通じて“ほんものの世界”に触れる大きな要素であったかもしれない。ともかく融は、言葉で切り取ろうとするだけでは決して触れられなかったであろう新しい世界に触れた。融にとっては、それが一番大事なことだった。言葉を集めていたのは、それが武器になるからだ。リリックを生み出すための武器。そして、世界と接続するための武器。しかし、あくまでも手段でしかない。融は、新しい手段を手にし、それによって世界の扉をこじ開けた。言葉にこだわっていたら、もしかしたらずっと開かなかったかもしれない扉。その時の融の歓喜を、僕は想像することが出来ない。似たような経験をしたことがないからだ。それが残念でならない。そう感じさせるほど、物語全体から、融の歓喜が伝わってくるのだ。

原罪の如き重しを背負い、ふらつきながら人生を歩む一人の中年男の哀切と、無縁だと思っていた剣道を通じて世界の深遠を覗き込もうとしている少年の興奮を、一つの作品の中に同居させている。二人の関わりは奇妙で、否応なしに絡まり合っていく。いつしかライバルのような関係になっていく二人の、人生を変転させた時間の流れを堪能してください。

藤沢周「武曲」


酒気帯び車椅子(中島らも)

内容に入ろうと思います。
主人公の小泉は、モーレツ社員でありながら家族想いでもある、ちょっと良いパパという感じの平凡なサラリーマンだ。中堅の商社に勤めていて、価値のないと思われているものに新たな価値を提示して儲ける仕事にやりがいを感じている。
今小泉は、ゴルフ場を霊園に変えるプロジェクトを手がけている。小泉自身の発案だ。用地の買収や墓地の設計、協力してくれる寺社などすべて手配しており、計画の6割ぐらいが固まっている。様々にトラブルも発生し、その度に気苦労が絶えない仕事ではあるのだけど、この醍醐味はやめられない。
しかしある日、極秘であるはずの彼の霊園プロジェクトについて話があるという謎の不動産からの連絡があった。向かってみると、それはどう見てもヤクザ絡みの不動産会社だった。東大卒だという切れ者が、小泉が手がけている霊園プロジェクトの土地にカジノを建設する計画を立てているのだ。ヤクザらは、小泉の買収金額よりも多い金額を提示し、土地を売れと迫る。しかし小泉はその提案を蹴る。暴力や脅しにも一切屈せずに、その後も普段通りの生活を続ける小泉だったが…。
というような話です。

読み始めからしばらくはそんな雰囲気をほとんど感じませんが、巻末に『バイオレンス小説』と書かれているように、途中からかなりのバイオレンス具合になっていきます。ほのぼのとした家族小説のテンションから一転バイオレンスに変わるので、その落差に驚く人もいるかもしれません。

ストーリーは、さすが中島らもという感じで、一気に進んでいきます。余計な小細工なんかなく、中島らもは、スタート地点からゴールまで、とにかく直進で物語を進めていきます。普通そういう小説というのは、単調だったり工夫に欠けていたりで、面白くなかったりするものです。しかし中島らもは、何故か読ませる小説を書き上げます。読みながら、単調な展開だな、と感じはするんです。中盤で物語のテンションが一気に変質する場面以外では、ほとんど物語が曲がりくねったりしません。そう展開するだろうなというような想像の範囲内の展開をします。それでも、勢いなのかなんなのか、中島らもは読ませる小説に仕上げてくるんですね。なんだかそこが不思議な気がします。

物語は本当に、前半と後半で別物ではないかというぐらいテンションが違います。前半で面白いのは、小泉と、小泉の周りにいる人間との関係性でしょうか。社長、副社長、事務の女の子、妻、娘、飲み友達。小泉は様々な人間と関わるのだけど、その関わり方が面白い。僕が中島らものエッセイを読んでるからかもしれないけど、小泉のあり方が、中島らもその人であるように思えて、中島らもがこんな風に人と接しているのかもな、と思うことで面白さを感じているのかもしれません。

個人的に好きなのは、事務の女の子とのやり取りと、娘とのやり取りでしょうか。会社の部下と、あるいは自分の娘と、こんな感じに接することが出来るなら面白いだろうなぁ、と感じさせるようなやり取りをします。社長や副社長との関わりも、小泉に対する全幅の信頼ありきのもので頼もしいし、飲み友達との関わりも、世間とズレている世界を垣間見ることが出来て面白いです。

後半はとにかく、小泉自身の執念の凄まじさみたいなものに打たれます。それはもちろん、美しいものであるはずがないし、徹底的に醜いものです。でもその醜さが、不快という感じではない。小泉に降りかかった災厄を考えれば仕方ない、そう感じる人の方が多いのではないかと思います。
小泉は、その昏い執念を絶やすことなく、また自らを襲った状況に絶望して諦めることもなく、前だと信じる方向へ突き進んでいく。実際に同じ行動を取るかどうかは別として、小泉の気持ちが理解できるという人は結構いるのではないかと思います。しかしそのために、とんでもない“兵器”を完成させるという展開は、さすが中島らもの奇想だなと感じたのでした。

タイトルの「酒気帯び車椅子」という言葉も、とてもいいですよね。奥さんが解説を書いているんですけど、奥さんによれば、中島らもはこの「酒気帯び車椅子」というフレーズを思いついてしまったがために、本書を書いたのだそうです。確かに、それぐらい強いインパクトのあるフレーズだなと思います。元々広告屋みたいなところからキャリアをスタートさせた中島らもらしいなと感じました。

メチャクチャな小説ではあります。特に後半は凄いです。中盤に、とんでもなく悲惨でしんどいシーンが出てきます。そういうのが苦手な方は、手を出さない方がいいかもしれません。とはいえ、想いの強さや決意の固さみたいなものを猛烈に感じ取ることが出来る一冊です。

中島らも「酒気帯び車椅子」


運命は、嘘をつく(水生大海)

内容に入ろうと思います。
本作は、連続殺人事件を物語のベースに置いた、4編の連作短編集です。けど、4編それぞれの内容を紹介するやり方は、ちょっとうまくないような気がするので、全体の設定と登場人物について書くことにします。

小夜と月子は、飲料メーカーで働いている。部署内で20代の女性は二人だけで、割と正反対の性格ながら、二人はいつでも一緒にいる。今日も、予知夢を見たという月子の話を、適当に聞き流しながら小夜は一緒に御飯を食べている。
ここのところ、若い綺麗な女性を狙ったと思しき殺人が続いている。
小夜の彼氏は刑事になりたての筋肉バカで、その事件の担当になったために忙しくて連絡もほとんど取れなくなっている。また、社内で選抜されるあるプロジェクトに、てっきり自分が選ばれると思っていたのに月子が選ばれたのもむしゃくしゃしていた理由の一つだ。だから小夜は、月子にちょっとした仕返しのようなことをしてしまう。
予知夢で見たという月子の理想の相手。そのモンタージュをパソコンで適当に作っていたら、月子が「そっくり!」という顔に見覚えがあった。学生時代からの友人だ。小夜は月子を、その彼に引きあわせてみることにした。
思えばこれが、すべての始まりだったのかもしれない。
というような話です。
どうも肝心なところをボカしながらの内容紹介になってしまうので、物語がどう展開していくのかまったく分からない感じになってしまいましたけど、ご容赦ください。

全体的な評価は、もう少し何かあると思ってたんだけど、という感じだ。悪くもないけど、別に良くもない、というのが正直な感想。

どんどんボタンが掛け違っていく感じは、なかなか面白いと思う。発端が予知夢っていうのは、ちょっとどうかなと思ってしまうけど、ほとんど悪意が介在しないまま、状況が一気に悪くなってしまう展開は面白い。些細な選択と、人間の底しれなさみたいなものが相まって、悪い方悪い方に出来事がどんどん進んでいってしまう。そういう部分は、結構面白い。

リアリティという点では、ちょっと難しい部分があるかなぁ、という感じ。警察が一般人にべらべら捜査情報を話しちゃう感じとか、殺人事件に対して素人が首を突っ込んで捜査の真似事をしてみる感じとか。もちろん、捜査情報を流す刑事も、一般人なのに犯人探しをしちゃう感じも小説には時々出てくるんだろうけど、巧い小説はその辺りのことをうまくごまかす。本作は、ちょっとその編の違和感みたいなものが残ってしまっている感じがしました。

キャラクターは、ちょっと軽めな感じ。作風全体がそうなんだけど、全体的に軽い感じで描かれていく。短い作品の中で物語を展開させていくためにそんな感じになったのかもしれないけど、もう少しステレオタイプ的な部分から抜け出たキャラクターが動いて欲しかったようなもします。

解説が、これまで見たことのない感じでした。初野晴が解説を書いてるんだけど、一遍の短編のような内容になっている。初野晴の「ハルチカシリーズ」の登場人物と、本書の登場人物が対談する、というような設定になっていて、相変わらず初野晴の、どこから引っ張ってくるんだかわからない知識もふんだんに登場する。解説の中で、本書をある方向から見てみるんだど、それによって本書に対する新しい感じを提示出来るようになる感じはさすがだなと思う。

ライトな感じで、ささっと読むには良いかもしれない作品です。

水生大海「運命は、嘘をつく」


「ハーモニー」を観に行ってきました

アリの法則の話が、僕は好きだ。
アリの集団を用意する。するとその集団は、2:6:2のグループに分かれるのだという。よく働く2割のグループ、ほとんど働かない2割のグループ、そしてそのどちらでもない6割のグループに。
面白いのはここからだ。そのグループから、よく働く2割のグループだけを取り出し、新たな集団を作る。すると、そのアリの集団は、やはり2:6:2に分かれてしまうのだという。分離させる前のグループでは、全員が働き者だったはずの集団を、それだけで集団を構成させてみると、やはり同じような構成比率になってしまうのだという。

善悪も、これと同じであると、僕は考えている。
対象は、なんでも構わない。無作為にある集団を用意した時、その集団には善と悪がある程度の割合で散らばっていることだろう。その集団から、善だけを取り出す。そうすると、たぶん、同じ割合でまた善と悪が生まれる。

『善って何だと思う?それはね、ある何かの価値観を持続させるためのシステムなんだよ』

悪はきっと、余剰でも退廃でもない。恐らくそれは、善の副産物だ。光のあるところに陰が出来るように、善のあるところには悪が生まれる。悪だけを取り除くことは、きっとできない。恐らくそれは、善を取り除くことでしか実現し得ないだろう。しかし、悪を取り除くために善も一緒に取り除くというのは、本末転倒に過ぎる。

『目の前で人が死ぬなんて起こらないと思っていた。嫌なことは一生見ないで生きていけると思い込んでいた』

人類は、科学や技術の名の元に、様々な新しい価値観を生み出し続けてきた。
かつては宗教が、人々の思考を縛り、価値観をコントロールしてきた。神という、存在証明不可能な存在を持ち出し、自然や人間の論理を超越した存在にあらゆることをおっかぶせることによって、人類は自縛し、制御された。

『昔から人は、色んなものに縛られてきた。宗教、家族、社会、お金。お金って昔は、紙で出来てたんだよ。そんなお金のために、人間は殺しあった。
でも、ウォッチミーは、もっと厄介。お金よりもっと深いところで、私達を縛っている。』

人間は、科学という武器で、神の領域に迫っていく。遺伝子や脳という、人間の存在の根幹に関わる部位に科学のメスを差し込むことで、自らを規定するシステムの存在を明らかにしようとしてきた。

『人間の魂をいじる。魅力的な研究だよ』

人類は、遺伝子に人為を加えることによって、人類が脳内で生み出した幻想たる“神”の作業に手を染める。今はまだ、遺伝子の改変が、僕らの生活に巨大な変化をもたらすまでに至ってはいない。しかし、iPS細胞のような、人類の常識を覆す発見と、その発見を技術に転移する工夫が、今後も様々に生み出されていくことだろう。

『元気じゃない人間など、今の時代ほとんどいないだろう』

やがて、「ハーモニー」のような世界を人類が目指すのは、必然であるように思われる。

『世界はどんどんと、健全で健康で平和で幸せな社会になっていく』

しかし、果たしてそれは、人類の勝利と呼べるのだろうか?人為によって悪を駆逐する試みは、人類になにをもたらすのか?それは、悪などないと人々が盲信するだけの、新たな宗教を手にしたということに、過ぎないのではないだろうか?

『私は、永遠だと人々が思い込んでいるものに不意打ちを与えたい』

悪はきっと、消えるわけではない。見えなくなるだけだ。あるいは、人類が見なくなるだけだ。

『痛みでさえ、意志によって選択される。
事故に遭って手首から先がなくなっても、痛みを感じない。そういう話、聞いたことあるでしょう?脳がそのとき別の価値観に囚われていれば、その痛みは選択されない』

脳は、報酬系によって支配されている。
脳内では、会議のように、様々な欲求があちこちから提示されている。そういう、混沌とした状態にある。しかし人間は、その中から何らかの決断をすることが出来る。そこに、報酬系が関わっている。脳にとって、最大の報酬が与えられる欲求に、軍配が上がるのだ。そのシステムのことを、人間は“意志”と呼んでいる。

『「今1万クレジットあげると言われるのと、1年後に2万クレジットあげると言われるのとでは、人はどちらを選ぶと思う?」
「普通、前者でしょうね」
「そう。脳は目の前にあるものを過大に評価する。それは決して人間だけではない。あらゆる生き物に同じ機能が備わっている。将来的な報酬を期待してじっと待っている個体は、生き残れないのよ」』

ならば、その報酬系を制御できれば、人間の意志を制御することが出来るのではないか?当然人類は、そういう発想にたどり着く。

『天国のまがい物のような世界を憎んだ』

人類の歴史は、何に支配されるかを選びとってきた歴史だと言ってもいい。昔から人類は、自らの手の届かない何かの存在に支配され、そう意識することなく支配された状態に安心する歴史をずっと歩んできた。大災害のような自然に、人類が生み出した神という妄想に、安泰と恐怖を与える統治者に、科学という合理性に。
そしてその行き着く先は、科学と人間による支配だ。科学的技術を独占した一部の人間が、他のすべての人間を支配する。科学技術は僕らを、間違いなくそういう世界に連れて行く。

この映画では、その行き着いた世界が、その世界の成熟した姿が描かれていく。

『誰もかれもが、他人と同じであることに安心を求める世の中だ。』
『日本は鏡の国に紛れ込んだみたいに誰もが同じだ』

生まれた時、ウォッチミーと呼ばれるシステムを体内に埋め込まれ、大人になると自動的に作動する。ウォッチミーは、生体情報をすべてモニタリングし、健全で健康であるように人体を制御する。健康を害するような行動や、自らを傷つけるような行動は取れなくなり、誰もが優しさを発動して、思いやりにあふれた世の中になる。

『私ね、今週に3回はボランティアに行ってるんだ。今度一緒にいかない?』

それは、幸せな世の中だろうか?善しかない、善しかないと思い込まされている、天国のまがい物のような世の中は、幸せだろうか?

『今の世の中でも、幸せを感じている人もいるのよ』

支配されることを甘受出来る人間には、幸せな世の中かもしれない。彼らにとって生きることとは、支配に隷属することであり、何に隷属するかは問題ではない。支配に隷属されることで安心を得、自らが支配されているのだということを意識に上らせないまま生きていける人たち。彼らにとっては、紛れもなくユートピアだ。

『こんな世界にいたら、手首を切るか誰かを切るかしてしまう』

しかし、やはり善だけでは世界は成り立たない。成り立たないはずだ。むしろ、善が濃くなればなるほど、同じようにして悪も濃くなっていく。悪を排除しようとすればするほど、悪は凝縮されていく。善の副産物としての悪。その存在を、人類は、科学は、消滅させることは出来ない。成功した社会は、そう見えているだけの社会に過ぎない。

『ウォッチミーを義務付けてから、子供の自殺が増えたってこと、知ってるだろう?みな、逃げたがってるんだ』

大人になることで取り込まれる世界。取り込まれてしまってからはもはや悪の存在が見えなくなってしまう世界。外からそんな社会を眺める子供たちは、その世界への潜在的な恐怖を感じ取る。生理的に、忌避したくなる。

『死っていうのはその権力の限界で、そんな権力から逃れることができる瞬間。死は存在のもっとも秘密な点。もっともプライベートな点』

子供たちは本能的に、死の持つ機能を理解する。健康で健全であることを目指した人類の闘争が、敗北であったことを知り、しかしその敗北をもはや理解できなくなってしまった人々が生み出す権力から逃れる唯一の手段が死であることを、彼らは知る。人類が“社会的な存在”になったことの愚かさを観察し、個を取り戻すために、個を奪われないために、死という自由を選択する。

『自分の体がそのまま自分の体であると感じられる世界』

そんな、僕らが当たり前だと思っていること、僕らが永遠だと感じていることが、もしかしたら奪われてしまう世の中が、僕らを覆う日が来るかもしれない。それは、悪意からではなく、完全に、善意によって進められていく。あるいは、恐怖によって。生存本能という名のシステムによって。だからこそ、人類は、その流れを止めることが出来ない。

『向こうにいたら、銃に殺される。こちらにいたら、優しさに殺される。』

人間とは何か。原作を紡ぐ伊藤計劃は、どの作品においてもそのテーマを根底に置く。人間とは、遺伝子によって構成され、脳によって動かされている存在だ。人間は、そのどちらにも人為を加えようと長い戦いを繰り広げ、現在でさえ様々な領域で小さな勝利を獲得してきている。時間は科学者に、そして間接的に僕ら一般人にも、より多くの技術を与えることだろう。それは、人間を制御する手段を様々に獲得することを意味している。

『私たちは大人にならないって、宣言するの』

人間は、対抗できるだろうか?人間は、人間を制御するシステムを手に入れ、恐らく最終的に、すべての人間がそのシステムに飲み込まれる。それは、使えば人類が滅びてしまう核兵器が地球上に大量に存在する今の世の中を見れば、避けようがないと思える。人間は、自らを滅ぼすとわかっているものでも、一度は、手にしてみなければ気が済まないのだ。

『この戦場が、私が見つけた唯一の逃げ場だった。』

しかし、逃げ場はないことを、彼女は知る。大人になることを受け入れたフリをして、システムを騙して彼女は天国のまがい物がら逃げ出したが、しかしどこまで行ってもシステムの外部に出られないことを、彼女は知ってしまう。

『皆さんはすでに、私達の人質です』

僕らもある日、そんな言葉を突きつけられる日を迎えるのかもしれない。

『「若きウェルテルの悩み」 この本は、何人もの人間を殺した。フィクションには、本には、言葉には、人を殺す力が宿っているのよ』
『文字は残るから。永遠に近いところまで。
人は、永遠に取り憑かれていたのよ。』
『日本は昔、こうやって死体を焼いたんだって。
これは私の火葬。私に力をくれたもの(本)は、私が連れて行く』


ウォッチミーという、生体をモニタリングするシステムを体内に埋め込まれ、あらゆる生体情報が一元的に管理される社会。病気はなくなり、人は死ななくなり、健全で平和に包まれた社会に、人々は暮らしている。善意や優しさで構成された、キレイな世界に。
トゥアンはそんな社会を拒絶した。学生時代、ミァハの思想に染まり、死を以って抵抗しようとしたが、トゥアンは失敗した。それで彼女は、螺旋監察官となり、戦場にやってきた。WHOを直轄とする螺旋監察官は、生命主義の拡大解釈により、遺伝子操作などの違法行為の監視だけではなく、警察機構をとり込んだり、紛争の調停にまで手を伸ばすようになっていたのだ。ウォッチミーとメディケアのシステムを欺いて、トゥアンはそこで、健康や健全とは無縁の生活を続けている。
しかしある日彼女は、謹慎を命じられることになる。あれほど嫌悪し、憎悪した日本に、強制的に帰還させられることになってしまう。
学生時代、共にミァハの思想にどっぷりハマったキアンと久々に再開し、一緒に食事をする。かつて、世界に引っかき傷をつけようと一緒に死のうとした友人は、健全な人生を歩んでいた。
キアンとの食事中、世界を揺るがす大事件が発生する。生命主義を冒涜する、それはテロと呼ぶべき行為だった。
ありえないはずのことが起こった背景を知ろうと、トゥアンは調査を開始する。そこには、かつて自分が崇拝した少女と、かつて自分の前から姿を消した父の痕跡が見え隠れする。

人間とはどんな存在なのか。人類とはどうあるべきなのか。そう力強く問いかけてくる。圧倒的な想像力で、科学の、人間の価値観の、人類の歩みの行き着く先を、饒舌に描き出す。僕らはこの物語を、SFだと捉えることは出来ない。僕らは、歴史を学ぶことで人類の愚かさを知り、現実を目撃することで人類の欲望の底しれなさを知る。人類が積み上げてきたものの軌跡が、僕らに、この物語のリアルさを保証する。人類の愚かさが、底知れない欲望が、僕ら人類をこの世界まで連れて行くことを、僕らは理解する。今は、幸運にもまだ、技術が追いついていないだけだ。技術さえ整えば、人類はいくらでも一線を踏み越える。そうやって、人間の歴史は作られてきたのだから。

この物語は、そんな人類の暴走に対する警告である。“善”というものが持つ機能の成れの果てを知らしめる物語だ。人類はたぶん、この物語の通りの歴史は歩まないだろう。この物語とまったく同じ未来にたどり着くことは、きっとないはずだ。しかし人間は、どこかで、この世界と同じだけの狂気の世界にたどり着く。そのことだけは、僕は確信できる。そう、結局僕らは、がん細胞のように、自らのいる場所を、人間という存在そのものを、破壊するまでその歩みを止めることが出来ないのだ。

人類という種は、恐らく存続するだろう。地球そのものが消滅したり、生命が存在できなくなるほど破壊されない限り、人類という種が消えてなくなってしまうことはないかもしれない。しかし、それがきちんと、僕らが“人間”と呼ぶ存在であるかどうかは、怪しいかもしれない。
だからこそ、“人間とは何か”という問いが、重要になってくるのだ。僕らが“人間らしさ”を失いそうになった時に、“人間”というものの輪郭をきちんと捉えておけるようにすることが大事なのだ。

遺伝子や脳に人為を加えることは、“人間”という存在を解明する鍵をもたらすかもしれないが、それは同時に、“人間性”を奪う技術を生み出しもするだろう。核兵器よりも危険なその技術を、たぶん人間は制御することは出来ない。

人類は、どこかで踏みとどまれるのか。それとも、一線を踏み越えて“人間性”の喪失に突き進んでしまうのか。恐らく、僕が生きている間にその答えを知ることはないだろう。人類が行き着く先をこの目で観察することが出来ない、という意味で、人間に備わった“死”という機能を疎んじたくなる。

2時間とは思えないほど濃密な体験だった。

「ハーモニー」を観に行ってきました

お父さんのバックドロップ(中島らも)

内容に入ろうと思います。
本書は、あとがきで著者が書いているように、『「子供より子供っぽい」お父さんを、四人集めて書いてみ』た作品です。

「お父さんのバックドロップ」
ある日タケルは、友人の父がプロレスラーであることを知る。しかし、悪役ばかりやっている父のことを、友人は全然尊敬できないと思っている。息子のそんな言葉を聞いたその悪役レスラーは、“熊殺し”の異名を持つ黒人の空手家に対戦を申し込むことに…。

「お父さんのカッパ落語」
落語かでもある芸人でもあるお父さんは、一ヶ月の20日ぐらいは仕事がなくて、だから仁はそんな暇なお父さんから、いつもくだらない“シャレ”をされている。どうでもいいイタズラにせっせと励んでいるのだ。お父さんの師匠もくだらないことが大好きで、二人して変なことばかりしている。しかしある日、師匠とお父さんが真面目な話をしているのを聞いてしまって…。

「お父さんのペット戦争」
田中セミ丸は、鈴木馬之助とペットで争っている。セミ丸は、ペットを飼っていることで自慢してくる馬之助に対抗してチワワを買ってもらったが、馬之助は土佐犬を連れてきた。セミ丸は魚屋の父親に相談する。父同士も友人であるという二人は、息子の代理戦争のような形でくだらない戦いに突入していく…。

「お父さんのロックンロール」
小筆は悩んでいる。お父さんのことでだ。
お父さんは、本当にどうでもいいようなイタズラを仕掛けてくる。これまで11年間、それでどれだけ苦労させられてきたか。小筆がキャベツから生まれたのだということを信じさせるために、小筆が生まれた時から写真を仕込んでおくようなお父さんだ。そんなお父さんが、家庭訪問の日に家にいると言う。大変なことになった…。

というような話です。

ページ数が少なくて、また文字が大きいので、とにかくサクサク読めます。軽いと言えば軽いし、読み込もうと思えば深くも読めるでしょう。子供のような父親とそれに振り回される子供という構成でありながら、それぞれ個性的な父親像を提示しているのはさすがだなという感じがします。

あとがきで著者が、早く大人になりたかった、という話を書いている。子供時代は不自由だ、と。その気持ちは、なんか凄くわかる。誰かと喋っていると、「子供の頃に戻りたい」なんていう人がいるけど、僕には理解できない。あんなに不自由で窮屈な場所になんか戻りたくないよなぁ、と僕はいつも思ってしまう。
著者は、結局大人になっても、そんなに自由なわけじゃないということに、大人になってから気づいた、というようなことも書いています。それでも僕は、大人でいる方がまだ自由があって、生きやすいなと思うのです。家族にしても、子供は親に捨てられたら生きていけないだろうけど、親は子供に捨てられても(高齢でなければ)生きていけます。これだけでも、自由度は格段に高いよなと思ってしまいます。

本書で登場する“父”は、なんというか自由です。みんな割と、やりたいようにやっている。しかし、全部が全部やりたいように出来るわけではない。そこは、“大人であること”、そして“父親であること”の責任みたいなものがどうしてもぶら下がってくる。子供でいる時には、そういうことはよく分からない。でも、分からないなりに、それを感じさせる瞬間に出会うこともある。「お父さんのバックドロップ」の下田くんとか、「お父さんのカッパ落語」の仁なんかは、まさにそれを感じ取ったことだろう。何もかも完全に振りきれるわけではない、という、大人なりの窮屈さみたいなものを、子供の視点から巧く描いているなという印象でした。

一番好きなのは、「お父さんのロックンロール」に出てくるお父さんかなぁ。とにかく人をからかうことに全精力を費やしている感じで、あらゆる場面でそういうチャンスを見つけては、全力を尽くす。それに、意味はない。その意味なんてないことのために小筆は振り回されるわけで、ホント大変だなぁ、でも後から振り返ったらいい笑い話になりそうだなぁ、と思いながら読んでいました。

大人になることで捨ててしまいがちな子供の部分を思い出させてくれる作品だと思います。

中島らも「お父さんのバックドロップ」


勇者たちへの伝言 いつの日か来た道(増山実)

内容に入ろうと思います。
50歳を超えてなお放送作家を続けている工藤正秋。腕があるわけではなく、他の仕事などやりようがないからただしがみついているだけだ。ワイドショー用に新聞に赤字を引いたり、ミニコーナー用の下調べなど、誰でも出来そうな仕事を引き受けてなんとか糊口をしのいでいる。
ある日、取材先に向かうために阪急神戸線に乗った正秋は、「次は…いつか来た道」という謎のアナウンスを耳にした。そうではなかった。次の駅は、「西宮北口」だった。
かつてこの駅には、西宮球場があった。阪急ブレーブスの本拠地だ。
正秋は、かつて一度だけ父に西宮球場に連れて来てもらったことを思い出し、衝動的に西宮北口駅で降りる。
父は、野球とは無縁の人だった。クリーニング店を営んでいた父は、アイロン台に向かいながら、ずっとラジオを聞いていた。しかし父は、野球放送が流れると常にチャンネルを変えた。幼き記憶に、そんな父の姿が残っている。
そんな父が、正秋が頼んだからだとはいえ、西宮球場に連れて来てくれた。近所のおっちゃんに言われたことがきっかけで阪急ブレーブスのファンになった正秋。その後も、阪急ブレーブスのことはつぶさに見てきて、球団が身売りされ、球場が取り壊されてしまうまで応援し続けた。
球場の跡地には、ショッピングセンターが出来ていた。ふらりと立ち寄ってみた正秋。ここは二塁だったところかな。そんなことを考えながら歩いていると、正秋は不思議な体験をすることになる。
あの、父に連れられて西宮球場にやってきた、あの日に戻っていたのだ。50歳の正秋の記憶を保ったままで…。
というような話です。

内容紹介をここで止めると、よくあるタイムトラベルものなのか、という感じがしてしまうでしょうけど、そういう話ではありません。正秋は、すぐにまた現実の世界に戻ってきます。そして、この不可思議な時空の移動をきっかけとして、それまで知ることのなかった父の歴史を、知ることになったのです。
それは、長く切ない、恋と呼んでいい物語です。

父が語る歴史には、北朝鮮が関係してくる。しかし、この辺りまで深く踏み込むと、内容のほとんどを明かすような感じになってしまうので止めておきましょう。でもそうすると、書けることが少なすぎて、感想を書く方としてはなかなか苦しいのですけど。

全編を通じて、野球が一つの大きな要素として関わってくる。しかし、それはほとんどが“記憶”だ。それぞれの時間軸の中で、リアルタイムに野球をしている人間はほぼ登場しない。登場人物たちは、過去に野球をしていた記憶を語ったり、過去に野球を見た記憶を語ったり、過去に野球をしていた人物との関わりを語ったりする。そしてその中心に、阪急ブレーブスという球団が、そして西宮球場という球場が存在する。

僕は正直、阪急ブレーブスのことはほとんど知らない。というか、野球全般のことをほとんど知らない。本書には何人か、阪急ブレーブスの選手が登場するのだけど、巻末の謝辞を読む限り、彼らは実在するらしい。その内の一人である高井保弘は、代打において数々の記録を打ち立てている選手だ。恐らく、少し野球に詳しい人間なら知っているのだろう。また本書には、阪急ブレーブスの応援団長だった人物まで実名で登場する。恐らく、野球に関係する描写は、事実をベースにしているのだろう。阪急ブレーブスの前身となった球団の話や、日本のプロ野球創設のエピソードなど、阪急ブレーブスを中心にして、野球の話が結構広がっていく。僕は、野球のことは何も知らないなりに、野球を軸にした日本現代史を読んでいるような気分になって、なかなか面白いと感じた。

しかし、その野球の話は、あくまでもメインではない。本書の様々な場面で野球は大きな要素として立ち現われてくるのだけど、しかしあくまでも野球はサブである。物語の中心には、正秋の父と、父が恋した少女の物語が深く横たわっている。

この二人の物語には、その時代が内包する亀裂みたいなものが大きく関わっていく。恐らくその時代でなければ起こり得なかっただろうことが、二人を引き裂いていくことになる。正秋の父は、彼女を引き止めることが出来なかったことを後悔し、少女の方は、自分がした決断を生涯悔いることになる。

もう一生交わることがないだろうと思われた二人の人生。しかしそれらは、正秋という存在を媒介することで、時間も空間も越えて、微かに交わる。膨大な時の流れと、両者が辿ったまったく違った人生。本来であれば知るはずのなかったお互いの人生を、ちょっとした奇跡から知ることになった正秋は、西宮球場を起点とする、名も無き人たちの人生を想い、行動する。人を思いやる気持ちが、決して交わるはずのなかった時間を引き寄せ、大きなうねりとなって正秋を飲み込んでいく。不可思議な流れから運命が流転していく展開は、現実でもファンタジーでもないような、不可思議な質感を持って読者の元に届くことだろう。

時間的にも空間的にも恐ろしく隔たった人生が再び交差するためには、様々な偶然が必要だ。この物語には、いくつもの偶然が登場する。恐らく、普通の物語であれば、ご都合主義的だと思われてしまうように思う。さすがに、そんなに上手くはいかないだろうよ、と。しかし僕は、本書を読んでいて、ご都合主義的だと感じることがなかった。それはなんでだろうと考えた時に、正秋が50歳の記憶のまま過去に遡ったあの場面の存在が大きいのかもしれないと思った。不自然と言えば、この描写が一番不自然だ。しかし、物語全体の不自然さすべてを、この場面がすべて吸い取ってしまったと感じることも出来る。幾重にも奇跡を重ねなければ成り立ち得ない物語なので、狙ってやったのかは分からないけど、一つ大きなファンタジーを物語に組み込んだことは、良かったのではないかと思う。

人の一生を支えるものは何なのか、と考えさせられる。
誰かが自分の存在を覚えていてくれること。誰かが自分のことを思い出してくれること。ただそれだけのことが、誰かの人生を支えるということがあるのだな、と思わされる。僕は、そう実感するほど人生を真剣に生きたことがあるわけではない。だから僕には、正直分からない。けど、分からないなりに、その想いの強さに打たれる。
遠く離れた場所で、誰かが自分の幸せを願っているかもしれない。もしかしたらその人は、一度も会ったことがない人かもしれない。真剣に生きた瞬間を持っている人ほど、そうである可能性が強くなる。

そういう意味で言うと、大したことをしているわけではない、工藤正秋という主人公の造形はなかなか見事だ。若い頃は、時代が良かったお陰で食っていけた。今は、他に出来ることもないという惰性で、放送作家を続けている。正秋にはもしかしたら、人生を真剣に生きた瞬間というのはなかったのかもしれない。

そんな主人公が、父の本気を偶然知る。時代に翻弄され、悲惨な人生を歩まされた女性の一生を偶然知る。想いの強さが誰かを支えることがあるということを、そして時に強い想いは時空を超えるのだということを知る。それは、正秋を叱咤するような出来事だったに違いない。真剣でなくても生きていけてしまう世の中に正秋は生きている。多くの人間が、未来に絶望し、現実を忌避し、どこでもないバーチャルな世界に逃避する現代にあって、真剣に生きるというのはある種の困難さを伴う。真剣でなければ生きていけなかった時代と単純に比較は出来ない。それでも正秋は、50歳になってようやく、真剣に生きるということについて考えを巡らせるきっかけを得たことだろう。

『人は人生によくわからない部分を、適当に、何かそのときに都合のいい、意味のある言葉で埋め合わせ、なんとか脈絡をつけながら、毎日をつなぎあわせて生きているのだ。』

そんな人生に、正秋はきっとピリオドを打つことだろう。

『ぼくは決して忘れずにいようと思います。自ら選んだその道で、懸命に生きたすべての人々が、人生の「勇者」であったことを。』

物語のメインの部分に出来るだけ触れずに感想を書いたので、どうしても奥歯にものが挟まったような文章になってしまった。本書の帯は又吉なのだけど、又吉はこう書いている。

『あまり小説を読まない方にも、いろんな小説を読み慣れた方にも自信を持って薦められる。
物語の中にいろんな仕掛けがあってそれぞれリンクしていて、そうした技術的な構成も見事やと思います』

不可思議な奇跡をきっかけにして、知るはずのなかった人生を深く知ることなる。過去の些細な記憶が、誰かの強い思いが、一人の人間の生きる気力を生み出しうる。そう実感させてくれる、強い物語だと思いました。

増山実「勇者たちへの伝言 いつの日か来た道」


君と時計と嘘の塔 1巻(綾崎隼)

僕は、過去のことを後悔したことがない。過去の自分の決断にも、過去の様々な状況にも。もちろん、何かの決断が悪い結果を産んだことも多々あっただろう。他人からすれば、なんでそんなことを?と思われるような行動を取っていることもあるだろう。
それでも僕は、過去を後悔しない。
たぶんそれには、いくつか理由がある。

まず僕は、後々自分が後悔しそうな行動をそもそも取らないだけ、というのが一番大きい。ヤバそうな話には乗らない。危険を感じたら逃げる。そんな風にして生きてきたので、そもそも後悔のしようがない。それは、スリリングな決断のない味気ない人生かもしれない。だから、過去を悔やむ人というのはきっと、チャレンジしている人なんだろうと思う。

また、そもそもあらゆる結果に対して、さほど興味がない、ということもある。いくつか選択肢がある中のどれを選んでも、そこまで大きな差を感じない、という状況は多い。普通の人からすれば、いくつかある選択肢のどれを選ぶかによって何かが大きく変わる、というような状況であっても、僕自身はそこに大した差を感じていないのだろう。世の中の物事の多くにさほど関心がないので、どういう結果でもいいやという気持ちが割と強くあるんだと思う。

そして僕には、「結局起こったことは起こったこと」と考える自分がいる。元々理系で、合理的な考え方をするのが好きな人間だ。「結局過去は変えられない」と思っている。
もし過去を変える手段があるならば、僕はむしろ悩むだろう。何か決断をしてしまった後で、その決断を取り消す行動を取るべきかどうか、きっと僕は悩むだろうと思う。しかし、少なくとも現代の科学では、過去は変えられないということになっている。であれば、決断した後で悩んだり後悔したりするのは無駄だ。何も生み出さないし、状況を変えられるわけでもない。だったら、後悔なんてしたって意味がない。たぶん僕はそんな風に考えているのだろうと思う。

『世界中の誰よりも多くの時間を後悔に費やしてきた。そんな自意識過剰な思い込みを迷いなく抱く程度には、自身に失望しながら生きてきたように思う』

本書の書き出しだ。確かに、主人公・杵城綜士の後悔は理解できなくもないが、たぶん僕なら、綜士が後悔に至ったような行動はきっと取らないだろう。それは、後々後悔するかもしれない可能性が高い行動だからだ。小学生の綜士にそこまでのものを求めるのは酷かもしれないが。

過去になんて戻れない方がいい。恐らく、後悔する人間は、どんな選択肢を選んでも、きっと後悔すると思う。それこそ、可能なすべての選択肢を試した後で本当の最後の決断を下す、ぐらいのことをしない限り。僕は、過去に戻れる可能性なんてまるで欲しくない。一度した決断は変えられない。どんな行動も消去出来ない。そういう方が潔いし、少なくとも僕はその方が後悔しないで済む。

僕自身を作り上げているものは、過去にしたすべての決断・行動の集積だと思っている。そのたった一つでも変えてしまうことが、どんな意味を持つか。カオス理論じゃないけど、その決断・行動の一つを変えた時、それによる結果はとんでもなく甚大なものになるかもしれない。バタフライ効果のように、自分のたった一つの決断・行動を変えたせいで、世界の歴史が変わってもおかしくないと僕は本気で思う。

そんなわけで、僕は過去なんて変えたくないのだけど、こういう話をしている時、「時間というものの実在性」を無条件に前提にしているな、と感じることがある。僕らは、時間を“見る”ことも“触れる”ことも出来ない。時計という存在が、時間の存在を“表現”してくれているけれども、しかしあくまでもそれは“表現”であって、絵の中のリンゴが本物でないのと同じように、時計の秒針が刻むものは時間そのものではない。こういうことを考える時、「時間」というものの不可思議さについては気になる。そういう意味で、草薙千歳の執着は、理解できるような気がするのだ。

内容に入ろうと思います。
小学生の頃、綜士はクラスの人気者だった。勉強も運動も誰よりも出来、常に注目を浴びるポジションにいた。しかしある日、そんな綜士の存在を脅かす者が突如として現れた。
幼馴染の織原芹愛だ。幼馴染とは言え、家が真向いというだけで、ほとんど関わりはないのだけど。
体育の時間に、走り高跳びで学校の新記録を塗り替えた芹愛は、その日から注目の的になった。綜士にはそれが面白くなかった。
それで綜士は、最悪の行動を取ってしまう。
その結果綜士は、芹愛に顔向け出来ないほどの痛みを与えてしまう。そして、ずっと憎しみの対象だったはずの芹愛を、いつしか綜士は好きになっていることに気付く。
芹愛とほとんど関わることなく、綜士は高校生になった。無茶な詰込みをして、どうにか芹愛と同じ高校に入学できることになった。
そこで綜士は、海堂一騎と出会う。やがて二人は親友になる。小学校のその出来事以来、人と関わることがほとんどなかった綜士にとっては、久々に出来た友達だった。
しかし、ある日を境に、一騎は姿を消してしまう。それどことか、誰の記憶からも一騎は消えてしまっているらしい。そんなバカな。昨日まで同じクラスにいたのに、誰の記憶にも残ってないなんてことがあるはずないだろ…。
そんな折、綜士はふとしたきっかけから、時計部という奇妙な部活を作り、医学部に入学できるほどの学力を持ちながら何故か二年間も留年し高校に留まっている草薙千歳という男と出会う。一騎の失踪に並々ならぬ関心を抱いている草薙は、5年前、綜士が花火を横から撮影するために潜り込んだまさにこの高校で体感した地震についてある仮説を披歴する…。
というような話です。

4部作の1巻目で、まだまだ導入という感じの物語ではあります。とはいえ、設定や展開には凄く引き付けられます。
これを知らないまま読む方が面白いような気もするけど、帯に書いてあるから書いてしまいます(僕はちょっとした理由で、それを知らずに読めました)。本書は、いわゆる“タイムリープもの”の作品で、綜士は同じ時間を繰り返すという謎の現象に囚われてしまいます。

しばらくの間綜士が感じる様々な違和感は、この“タイムリープ”という現象で説明ができてしまうんだけど、これを知らないで読むと、一体これはどうなってるんだろう?という謎がしばらく続くことになります。一騎の失踪もそうだけど、他にも綜士は、いつもとは違う違和感を覚える。それらが、ある理由から“タイムリープ”によるものだと判明し、氷解する、という流れになっていきます。

本書はおおまかに三つのパートに分けられるでしょう。
一つ目が、綜士と芹愛の関係が破たんしたきっかけの出来事について。
二つ目が、その出来事の後、一騎が失踪して状況が理解できなくなるまでについて。
そして最後が、事態が“タイムリープ”によるものだと判明し、明確な目標の元で3人が力を合わせて対処するという感じになります。3人目というのが、校内でも変人として知られている鈴鹿雛美で、この3人が謎めいた“タイムリープ”に立ち向かってく。

“タイムリープ”に関わる部分は、ネタバレになる部分もあるし、そしてさらに、そもそも1巻目なのでストーリーに決着がついていないこともあって、あまり触れないことにします。“タイムリープ”に関するいくつかのルールが提示され、そのルールの範囲内で予測される未来を阻止しようと様々な方策を練って対処する、という感じになります。この巻のラストは、これからどうなるんだろう?と思わせる終わり方になっていて、続きが気になるところです。

ここでは、3人のキャラクターについて主に触れていくことにします。

主人公の綜士は、小学校時代の致命的な行動から、人気者の座から落ち、根暗で人付き合いの悪い男になっていく。自分でも不思議に感じながらも、叶うはずのない芹愛への愛を一人募らせていく。友人はほとんどいなく、唯一出来た親友の一騎はいなくなってしまう。

『俺には将来の夢がない。やってみたい仕事も、叶えてみたい目標もない。
芹愛に赦して欲しい。そしてその幸福を見届けたい。心にある願いは、その二つだけだ。』

ここまで他人に心を閉ざしてるところや、一人の人間にこれほどまでに思い入れを持続させているという点は僕とは違うんだけど、でも綜士の思考や行動には近しいものを感じることがある。恐らく僕も、過去を後悔するようなことがあれば綜士のように思いつめた感じになりそうだし、人をあまるい信用しきらないところとか、行動になかなか移せないようなところもなんだかわかる。綜士は、草薙と雛美に引きずられるようにして様々な行動をすることになる。本当に、二人がいて良かったという感じだ。

草薙千歳は、僕が理想とする人物にちょっと近いかもしれない。それがどんな対象であろうとも全力の情熱を傾け、自分の考えに自信を持ち、常に論理的・合理的に思考する。先入観を排除して物事を理解しようと努め、自分に出来ることはすぐさま行動に移し、理由があれば他人に対して厳しくなれる。確かに草薙は、傍目には変人にしか見えないと思うのだけど、彼の行動原理を理解しようとすれば、納得できるかどうかはともかく、筋が通っていることには気づくだろう。そこが良い。草薙の、この件に対する情熱のほとばしり方にはイマイチ共感できないのだけど、草薙という人物には憧れに似た気持ちを抱いている。

自分の正しさを信じきったり、他人を先入観なく受け入れようとするのは、本当に難しいことだ。どちらかなら出来るという人はいるかもしれないけど、なかなか両立させることは難しい。草薙は、変人であるというレッテルを引き換えにはしているのだけど、その二つを見事両立させている。見事だ。また草薙は、まったく無関係ながら、他人に対して全力で力を貸している。好奇心を満たすためと嘯いているけれども、それだけではないだろう。本当に、草薙というのはなかなかに魅力的な人物である。

雛美もまた、違った意味で興味深い存在だ。性質としては、草薙と真逆だと思って良い。知性はそこまでないし、他人に対する思いやりや熱心さや真剣さみたいなものはちょっと欠けている。雛美は、まだちょっと底が見えないような人物として描かれているので、これからどんな風になっていくのは、それは分からない。けれど、とりあえずこの巻だけの印象で言えば、良い印象という感じではない。

しかしそれでも、決して憎めないキャラであるのも事実だ。それは恐らく、彼女が置かれた状況に対する同情もあるだろうと思う。どうしても僕には、雛美の言動が表面だけのものに見えてしまう。お気楽で、何も考えていなさそうで、傍若無人な感じは、すべてフェイクなような気がしてしまう。たとえそういう部分を差っ引いたとしても、要所要所で雛美は、主人公を励まし、暗くなりがちな雰囲気を明るく保つ。ストーリー上のキーパーソンであることも事実で、これから雛美がどんな風に物語に関わっていくのか注目だ。

4部作の1巻目なので、この巻だけで作品全体を判断するのは難しい。とはいえ、導入としては、物語もキャラクターも、読む者を惹きつける作品に仕上がっていると思う。悲壮な覚悟を持つ少年が、不条理な現象に立ち向かっていく。今後の展開が楽しみな作品です。

綾崎隼「君の時計と嘘の塔」


らも 中島らもとの三十五年(中島美代子)





『ね、だから、わりとうまいこと逝けたんじゃない?らも。将来に絶望しかなかったらもが、やりたいことを見つけ、やりたいことをやって、たくさんの人に愛され、仕事が成功して。いい人生だったよね。ほんとうによかった。その中に私が加われたことが、誇りです』

コピーライター、歌手、作家など、様々な分野で活躍し、若くして亡くなった中島らもの奥さんが、中島らもとの出会いから別れまでを綴った作品です。

この二人の生活はちょっと普通じゃない。

『その頃、リビングにはまだ大テーブルはなく、炬燵が置いてあった。その周りで、どこの誰だか知らない人が、寝ている、なんてことが、当たり前のようになる』

『入れ替わりやってきては数日泊まっていく人もいれば、どっぷり一ヶ月以上居候している人、東京の若いカップルやオーストラリアからの留学生、万引き常習犯の京大卒の男…合わせて住人ほどが居候していたこともあった』

『子供たちは誰がパパなのかわからなくなっていた。
「パパ早く買ってきてね」
晶穂はいろんな人にそう言っていた。
「あなたのご主人、どの人かわからないわ」
近所の人に言われたこともあった』

『あの頃、らもも私も何人の人と寝たのだろう。
らもは他の女の子とやりたかったんだろう。でも、私は他の人と寝たかったわけではない。ただ、ラリっていたし、そういう雰囲気だったし、何より、私はらもに「彼としいや」と言われるので、少々嫌いな相手とでもやった。』

『子供たちには、お父さんはお母さんを泣かせるだけの存在だった』

『私も、ふっこを通さなければ、らもと直接話すこともできない時期が長かった』

二人は紛れもなく夫婦で、著者はらもの死を安らかに見送っている。とても普通ではない、ハチャメチャと言っていい夫婦関係で、著者は相当な、普通背負う必要のない苦労を背負わされたはずなのに、それでも、らもとの人生を振り返って、満足気なのだ。

『先生の言葉から事態は深刻だということは理解できたのだが、そのときの私は、まさか、らもが死ぬとは思いもしなかった。これまでも、らもは何度も死の淵から生還してきた。らもが死ぬはずはない。先生が何を言おうが、私にはらもと死とを結びつけることなどとてもできなかった』

『待合室のようなところで、みんな、普通に話しながら手術が終わるのを待っていた。不思議なことに、そこに悲壮感は漂っていなかった』

『「僕はお酒飲んでるから、そんなに長生きしない。覚悟しといて」
ことあるごとにそう聞かされていたから、今こうして彼がベッドに横たわっていることは、ある意味、私にとって練習問題を繰り返して臨んだテストのようなものだった』

著者は、らもに対する絶対的な信頼感がある。本書を読めば、どこをどうすればらもに対してそれほど強い信頼を抱けるのか、首を傾げる人も多いだろう。らもは、確かに生真面目で誠実な面もあるが、それを補って余りあるくらい不誠実な面もあった。夫婦として、家族として考えるとき、「裏切り」と呼んでやりたいことも著者は多く経験している。

それでも彼らは、人間的に繋がっているのだと感じられた。

愛があれば恋人でい続けることが出来る。同じように、絆があれば家族でい続けることが出来るのだろう。彼らの関係は、絆で結ばれていた。出会った頃の圧倒的に濃密な二人の時間が、ずっとずっと凝縮されたまま著者の内側にとどまり続けている。だからこそ、らもがどんな行動を取ろうとも、著者はそれを受け入れ、らもの存在を丸ごと信じることが出来た。

『「延命はしないでください」
私は、らもの最後の願いを叶えるために、先生に告げた。』

二人はジャズ喫茶で出会った。著者は、広いお屋敷に住むお嬢様だった。家の敷地内に教会があり、また、遠足で行った公園が自宅の敷地内だったことに驚いたこともある。野山を駆けまわるおてんばな娘で、とにかく、自由だった。
らもは灘高に通っていたが、著者が出会った頃のらもは既に勉強なんてほとんどしていないようだった。二人共ジャズ喫茶に入り浸り、喋るとうるさいと怒られるので筆談でコミュニケーションを取った。
らもからの熱烈なアプローチで付き合うことになったが、それはらもの友人らを驚かせたという。

『らもが私とつきあいだしたとき、友人たちは心底驚いたようだ。高校時代、授業をボイコットし、シンナーを吸い、睡眠薬を飲み、酒を飲み、音楽と活字に耽溺して毎日をようやく生きのびていたらもは、誰から見ても将来に何の希望も抱いていないのは明らかだった。心の中に大きな虚無が巣くっていたらもは、不安と、怒りと絶望の塊だった。
「あの中島が恋をした!生きようとしている!」
らもは、恋をしてはじめて明日を信じたのだ』

まったく違った環境で育った二人は、それなりに色んなことを乗り越えて結婚に至る。妊娠、らもの退職、家を建て、その家はたまり場と化す。子供が生まれ、らもはコピーライターとして注目を集め、やがて売れっ子になっていく。

この辺りから、二人の関係は歪んだものになっていく。大きなきっかけを作ったのが、「ふっこ」ことわかぎゑふだ。
ふっことらもは良い関係になり、演劇をやりたいというふっこのためにらもは劇団を作る。家に帰ってこなくなり、ふっこがらものマネージャーのような存在になると、連絡すら取れなくなっていく。それでも著者は、らもを受け入れるという姿勢を崩さない。

『私の前で、よく長電話できるもんだとは思ったが、だからといって私にできることは何もなかった。だって、人が人を好きになることは誰にも止められない。それに私も、ふっこはいい子だと思っていたから。』

『おかしなことになってしまっているな。なんか悪いなぁ、私が先にらもと出会ったばかりに、まだ十九歳の女の子を苦しめることになるなんて、私はどうしたらいいんだろうか』

ふっこは、らもの体調を気にせず、らもの好きなように酒を飲ませることをなじり、体調管理などを買って出ていたようだ。しかし、らもがそれを嫌がるだろうことを、著者は知っていた。

『「ミーさんに任しといたら、おっちゃんが死んでしまう」
ふっこはそう言うが、らもが人にかまわれたり、行動を制限されたりするのが何より嫌いな人間だということを、私は知っている』

ふっこはらもを著者から引き離し、自分のものにしようとした。しかし、そんなことは出来ないと著者は知っている。

『人は人を独り占めすることなんてできないよ』
『私とらもは夫婦だし、家族だ。でも、らもにはらもの世界があり、私には私の世界がある。二人は一人だけれど、一人は一人だからね。らもは私ではないし、私もらもではない』

著者も、決して辛くなかったわけではない。強い孤独を感じていたし、また演劇をやっている最中のらもは豹変するので、ただ恐ろしい時間が早く終わって欲しいと恐怖するだけということもあったようだ。『これから、お互い、セックスは外でやろう』と宣言してしまうみたいに、らもは見境なく女性と関係を持っていくし、著者には子供を育てるという役目もある。うつ状態に陥ったこともあるし、らもには散々苦労を掛けさせられた。

『私たちは結婚して、恋人から家族になった。らもとは慈しみ合い、協力しあって子供を育てていけばそれでいいと思っていた。それ以外のことはすべて仕事のようなものだった。家に押しかけてくる人の世話をするのも、セックスするのも、酒を飲むのもコーヒーを飲むのも、みんな一緒のこと。友達に「自信過剰や」と言われたことがあるが、らもと私を結ぶものが切れるはずはないと信じていた。でも、今、考えてみると、私の深層心理には、いろんな女の人と手当たりしだいセックスしている、らもに対する反発と怒りがあったと思う』

『ふにゃふにゃになっているらもを見て、一瞬ものすごく腹が立った。このボケが!だけど、その頃のらもは、もう、みんなのものだった。これもファンの集いだと思えばどうってことはない。私は、商売、商売と思って気を鎮め、ニコニコヘラヘラして、何も感じていないふりをした』

『周りはいろいろと心配してくれていたけれど、もうこの頃の私は、らもの不在をどこか達観するようなところがあった。私は、らもがいろんな人に囲まれて楽しそうにしているなら、それでももういいやと思うようになっていた』

どれほど深い愛だったのかと、本書のページをめくる度に思う。この二人の愛を賞賛することは、女性を押し込め、男が好き勝手することに賛同しているように取られるかもしれないと思う。それでも、僕はこの二人の愛を素晴らしいものだと思いたい。なにせ、本人同士が満足しているのだ(中島らもが満足しているのか、本書だけからは分からないけど、まああれだけ自由にやってて、満足していないはずもないだろう)。著者も、様々な苦労を背負っただろうが、最終的には良かったと思っているだろうし、辛い目に遭っていた時でさえ、らもへの想いを絶やすことはなかったのだろうと思う。

現代というのは、「こうであれば幸せ」「こうでなければ幸せではない」という様々なイメージが値札と共にあちこち散らばっている印象だけど、そんなもの糞くらえと思うような作品でした。値段のつけられたそんなイメージにすがるんじゃなくて、「自分は一体何を幸せだと感じるのか」ということを、自分自身に問いかけるようにして見つめなおす方がいいと僕は思う。どれだけ他人と違ったって、そこに自分なりの幸せがあれば満足出来る。

著者にとってそれは、らもという存在そのものだった。著者にとっては、らもという生身の人間が家にいなくても、いや、らもという生身の人間がこの世の中からいなくなってさえも、らもと出会った頃に与えられた様々なものを思い出し、その時に生み出された絆を頼りにらもの存在を常に感じることが出来る。そのことこそが、著者にとっては幸せの源泉なのだ。自分が求めるものの大きさや形をきちんと理解できていたからこそ、著者は何事にも大きく動じず、幸せに生きていくことが出来た。

そんな二人の関係性は、羨ましいと思う。

中島美代子「らも 中島らもとの三十五年」


転生(鏑木蓮)

内容に入ろうと思います。
京都府警捜査一課の女性準キャリアの大橋砂生は、とある女性の殺人事件の捜査に携わることになる。当初身元さえわからなかったが、しばらくして染織作家の由良美津子と判明する。美しい女性でファンも多く、何らかのトラブルから殺されたのではないかと目されていた。
しかしそんな折九州で、別の殺人事件で指名手配されていた佐伯という男が逮捕されるという出来事が起こる。この佐伯の逮捕をきっかけに、捜査の方向性は変わっていく。
佐伯は20年前から婦女暴行を重ねており、そして美津子も佐伯の被害者であることが判明したのだ。捜査本部は、佐伯の犯行であることも視野に入れ捜査を進めていくが…。
というような話です。

扱われている個々のテーマには興味深いものを感じはするんだけど、全体的にはちょっとなぁ、という感じのする作品に思えました。

レイプが作品の中で大きなテーマの一つになっていて、その部分に関して言えば興味深い作品だったと思います。レイプされた人がどれほど苦しむのか、レイプされた人にどんな風にアプローチするのか、どんな支援組織が存在して、どんな風に生きているのか。美津子を中心にして、レイプという悲惨な犯罪に巻き込まれてしまった女性たちの悲痛な人生が浮かび上がるような内容になっていて、重苦しいけれども興味深い内容でした。男にはその苦しみは決して分からないだろうし、女性であってもきちんと理解できるようなものではないのだろうけど、こんな風に生きている女性がいるのだという事実は認識しておこうと思いました。

とはいえ、ストーリー全体は、なんとなくあんまり引き込まれなかったです。事件の捜査は、不要な遠回りをしているような気がするし(現実の事件はそういうもんなんだろうけど、これは小説だしなぁ、と。それに結局、佐伯が何故最初からある点について主張していなかったのかの説明がされない。それを佐伯が最初から言ってれば、そんな遠回りすることもなかったはずなのに)、捜査の過程そのものも別に面白いわけではない。会話もなんだか持って回った言い方に思えるし、読者に対して会話で情報を提示しようとして失敗しているような印象を受けました。

主人公である砂生が、冒頭から妊娠しているという感じで物語が始まって、作品のところどころで、自分が妊娠しているから色んなことの感じ方が変わるのだろうか?みたいな描写が結構あるんだけど、それもくどいというか、全体のストーリーの中で特に必要な設定に感じられませんでした。もちろん、妊娠しているからこその感じ方、というものを表現したかったのだろうけど、正直、あまり成功しているようには思えませんでした。

女性刑事が男ばかりの警察組織の中で苦労している、ということも盛り込みたかったのではないかと思うのだけど、砂生は基本的に、同性である横井聖と組んで行動しているし、間接的に男社会の中で不遇の扱いをされている描写はあるものの、これもとってつけたような設定で、不要に感じられました。

もちろん、様々な登場人物が、自らのマイノリティ的な立ち位置を辛く感じている、という描き方をしたかったのだろうということは分かります。詳しく書けない部分もあるけど、本書では主要な登場人物のほとんどが、何らかの形でマイノリティ的ハンディを背負っています。そういう生き方を重ねあわせて描くことで何らかのメッセージを出したかったのだろうけど、これも個人的にはあまりうまく行っているようには思えませんでした。

ちょっと僕には、上手く評価しにくい作品だなと感じました。

鏑木蓮「転生」


任侠書房(「とせい」改題)(今野敏)

小学生の頃、図工の時間に、木のパズルを作ったことがある。何を作っても良かったはずだけど、なんとなく思いついたのだろう、木片を組み合わせてぴったり嵌めるようなパズルを電鋸を使って作った。
今から考えると、当時の僕は多少絵が描けたのだろう。そのパズルは、自分で言うのもなんだけど、ちょっと凝っていた。パズルの外枠は、ゾウの形である。そして、そのゾウの内側を色んな木片に切り分けていくわけだけど、それも動物の形にした。シロクマ・コウモリ・イヌと言ったような色んな動物の形を、外枠であるゾウの形の中にどうにか押し込めて、なかなかのものを作った記憶がある。
ただ、内側を切り分けた木片のうち一匹だけ、なんだかわからないやつが出来てしまった。一応、他の木片も動物の形をしているので、動物だろうということは伝わる感じはあった。でも、それがなんの動物なのかちゃんと分かるほどの形には出来なかった。まあ正直、ゾウの内側をさらに色んな動物の形に切り分けるというプランがそもそも困難なミッションだったのだと思う。一匹ぐらい、よくわからないやつがいてもまあ仕方ない。そういう感じだったんだろうと思う。

本書を読んで僕は、その時のパズルのことを思い出した。

世の中は、僕が作ったパズルみたいなものかもしれない。外枠の形は、何らか決まっている。そしてその内側を、色んな人間が、それぞれの形を主張して陣取り合戦をする。みなそれぞれ理想とする形があって、常にせめぎ合っている。全体を上手いこと分割しようなんていう神のような存在も、もちろん存在しない。

だからこそ、僕が作ったパズルみたいに、よく分からない形が生まれてしまう。
それは、避けようがない存在だ。たぶん、どんな風に上手いこと分割しようとしても、どうしても上手くいかない形が生まれてしまうのだろうと思う。

だから歴史は、そういうよく分からない形を、その時代その時代ごとに、様々な人間に振り分けた。国を持たずあちこちの国に散らばるしかなかったユダヤ人は、不浄と呼ばれたお金を扱う仕事に就くしかなかった。奴隷制度や穢多非人など、最下層の立場の人間に、上手くいかなかった形を押し付けてきた。

それはある意味で必要悪だ。世界をどんな風に分割しようとしても、そこに人間の欲望がある限り、歪な形は生まれてしまう。その歪な形も世界の構成要素の一つなのだから、誰かがそれを引き受けなくてはいけないのだ。

ある時期までの日本では、それを“ヤクザ”と呼ばれる人たちが引き受けてきた。

『昔からヤクザというのは地域の人々に信用されてこそ、稼業が成り立つのだ。地域の人といざこざを起こしているようでは半人前だ。素人衆に信用されてこそ、一人前の親分なのだ。それが、阿岐本の持論だ。
信用があるから素人衆は相談事を持ち込む。ヤクザの仕事の大半は揉め事の調停だ。金で片をつけさせて、その上前をいただくわけだ。』

『昔はそういう地域が多かった。日本中で博徒や神農さんが地域と共存していた。もちろん、社会のはみ出し者であることは日村も自覚している。』

ヤクザと暴力団の区別もついていない僕には、新鮮な話だった。

『地域が博徒や新農を追い出そうとする。すると、シノギがなくなったそれらの人々が手っ取り早く設けられる商売に手をだす。その中には悪行も含まれる。
組織が大きくなると、末端ではさらに歯止めがきかなくなり、やがて暴力団と呼ばれるようになる。』

暴対法が成立した時も、暴力団が地下に潜ってさらに闇が深くなるだけだ、という意見をテレビで見た気がする。その真偽のほどは僕には判断できないけど、そういうことはありうると感じる。

結局、誰かが引き受けなくてはならないのだ。覚せい剤を売りさばくと言ったような、自ら悪を生み出すような所業はともかくとして、カタギの世界で生まれてしまった悪にどうにか落とし所を見つける存在は、どんな世の中にあっても必要とされる。その存在は必要悪であり、同時に、社会から排除することの出来ない、社会の構成要素の一つなのだ。

『素人衆を泣かすようなまねしちゃ、阿岐本組は終わりだ』

親分である阿岐本雄蔵は、部下たちにそう言い渡す。こんなヤクザなら、近所に欲しいと思ってしまった。

内容に入ろうと思います。
阿岐本組は、親分を入れても6人しかいない小所帯だ。親分は、小さい組の組長ながら、他の多くの組の組長らと兄弟の盃を交わしており、ヤクザの世界でも一目置かれている存在だ。しかし、考えている風で実は何も考えておらず、文化人に密かに憧れている親分の思いつきに振り回されるのは、代貸である日村だ。日村は、どんな無茶な要望でも親分の言うことは絶対であるとして行動する。しかし、そんな男だからこそ、余計な厄介事を背負い込んでしまうことになる。
親分が、出版社を経営することになった。
別の組の組長が債権の整理のシノギの中で手にした「梅之木書房」という出版社を経営したいと言い出した。親分の言うことは絶対である。とにかく、出版社に出向いてなんとかやってみるしかない。出版について何も知らないくせに、日村も役員としてその出版社の経営に関わることになった。
また、借金の追い込みを頼まれた工場を追い詰めないで済むように、どうにか再建するプランを提示したり、他のシマで、親分の道楽とは言えシノギを始めてしまったことを、そのシマを管轄としている組に話を通しに行ったりと、休まる暇がない。
そんな中、阿岐本と日村があれこれ手を出してみた出版社の再生プランがほどよく機動に乗り…。
というような話です。

なかなか面白い作品でした。出版社を再建する部分は、ちょっと絵空事かなという印象を受けました。さすがに、こんなにトントン拍子にうまくはいかないでしょう。とはいえエンタメ作品だからそれがマイナスになるということは特にありません。楽しく読める小説という意味ではこれぐらいの感じがいいように思います。

梅之木書房の経営に携わることになった阿岐本組は、もちろんヤクザだ。普段は、一般市民の揉め事を解決することで上前をはねている。もちろん、暴力や脅しを使うこともあり、穏やかな世界ではない。実際本書には、そういう穏やかではない描写も多少ある。

しかし本書が面白いのは、彼らは、梅之木書房と関わる時だけはカタギのように振る舞う、ということだ。いや、普段から地域住民とは丁寧に接しているわけだけど、でも、“仕事”となればカタギのように振る舞うだけではどうにもならないことが多いだろう。しかし、梅之木書房は、完全に社長の道楽である。そりゃあ、再建できるに越したことはないだろうけど、とはいえどっちでもいい話である。暴力や脅しみたいな手段を取る理由もないし、まっとうな会社なんだからそういう振る舞いはよくない。だから彼らも、カタギのように振る舞う。

阿岐本組の面々が、ヤクザである場面とカタギのように振る舞おうとする場面。そのギャップみたいなものが非常に新鮮だったのだろうなと感じます。

しかし僕はやっぱり、冒頭で書いたような、“ヤクザとしての矜持”みたいなものが描かれている部分が凄くいいなと思いました。これを描くことが出来たのも、出版社というカタギの企業を経営するという物語の筋あってのことでしょう。ヤクザ同士が関わる時も、体面だの顔だのといった、ヤクザの世界独特の価値観が間に挟まって、ある種の誇りみたいなものが見え隠れはする。しかしそうではなくて、カタギの人間と関わることで垣間見える“ヤクザとしての矜持”みたいなものがいいなと思いました。

『「我慢だ。何事もじっと我慢するのが本当のヤクザってもんだ。ここで、腹立ち紛れに嫌がらせでもしたら、それこそ暴力団と呼ばれている連中と同じになっちまうじゃないか」
「でも、どうで素人から見たら、俺たちだって暴力団なんですよ」
「誇りだ」
日村は言った。「いいか?他人様がどう思おうとかまわない。自分が自分のことをどう思っているかが問題なんだ。他人がどうせ暴力団だと思っているからそれでいいなんて思ったときから、てめえは暴力団になってしまうんだ。俺たちはヤクザだ。誇りをなくしたら終わりなんだよ」』

阿岐本組の面々は、どれだけ善いことを行っても、ヤクザであるという理由で排除され、疎まれる。

『いいか。それがヤクザだ。他人様のことを思って動いても、迷惑がられる。そういうもんなんだ』

彼らは、素人衆に迷惑を掛けてはいけないという親分の言いつけを守り、何かを丸く収めたり前進させたりすることによって稼ごうとする。それは、誰かを傷つけたり貶めたりするような行為ではない。でも、ヤクザであるという理由で、受け入れられない。地域の中に、どんどん彼らの居場所はなくなっていく。

僕も本書を読むまで、ヤクザと暴力団の区別が出来ていなかった。世の中の多くの人間はそうだろうし、そもそも今の世の中、阿岐本組のようなヤクザなんてほとんど存在しないだろう。しかし、少なくともこの作品の中で、阿岐本組は存在している。悪事に手を染めはするが、素人衆は泣かせないと固く誓っている阿岐本組が存在している。彼らのような存在に居場所が与えられない世の中は、どこか歪なように感じてしまう。

『世の中住みにくくなっている。
ヤクザが住みにくいということは、一般の人も住みにくいはずだと、日村は思う』

一般人は、ヤクザや暴力団を遠ざけようとする。排除し、一片の曇りもないクリーンな社会にしようとしている。しかし、あくまでもそんな社会は理想郷に過ぎないし、実現するはずもない。これまでは、揉め事の最終的な行き場は決まっていたし、そこには揉め事を解決するプロがいた。僕らは、そんなプロを排除することで、揉め事の最終的な行き場をも失ってしまうのだ。だから、世の中のあらゆる揉め事は、薄く広く広がっていく。世の中のあちこちに、ちょっとずつ揉め事の種が残り続ける。それらが何らかの拍子に弾け、誰かが怪我をする。それは僕らが、揉め事が最終的に行き着く場所を無くそうと無駄な努力をしているからだ。

僕達は、そのことに気付こうとしない。世の中が少しずつ世知辛くなってくのは、社会の中の何かがおかしいからだと思っている。おかしいのは、悪いのは、自分ではないと思っている。そんな風にして、社会は住みにくくなり、壊れていく。

阿岐本のような筋の通った組長、日村のような実直で責任感の強い代貸。この二人の存在があってこそ、阿岐本組は成立する。彼らが出版社を舞台に悪戦苦闘する部分ももちろん面白いが、昔ながらのヤクザがこの現代にあってどう生き抜くべきかという部分が、個人的には非常に興味深く、面白く読ませる部分だと思った。

本書は、出版業界という、なかなか一筋縄ではいかない業界を端的に表現する様々な言葉が出てくる。

『どんな本が売れるかなんて、それこそ神様にしかわからない』
『売れた小説はすべていい小説だ。しかし、すべてのいい小説が売れるわけではない』
『「どんな小説がいい小説なんですか?」
「私の好きな小説です」』

本書で阿岐本も言うが、出版というのは本当に博打みたいなものだ。何が売れるんだか、本当に分からない。何故これが売れない?と感じる本も山程あれば、なぜこれが売れてる?と感じる本も山程ある。そういう意味では、ヤクザのシノギとして、出版というのは悪くないのかもしれない。著者の目の付け所はなかなか面白い。

全体的には、ドタバタと物語が展開していく、決して重苦しい感じではないヤクザ小説です。道楽で出版社の経営を始めちゃう親分を筆頭に、ヤクザらしくない面々があらゆる場面で奮闘し、最終的には一矢報いるというような展開は非常に面白いです。ヤクザが坊主にしてるのは、喧嘩の時に髪を掴まれないようにするためと言った、ヤクザの豆知識みたいなものも各所にふんだんに盛り込まれていて、へぇーと感じる場面も多くあります。ヤクザ、という部分に引かずに手にとってみてください。

今野敏「任侠書房(「とせい」改題)」


「心が叫びたがってるんだ。」を観に行ってきました(二回目)

誰の心の内側にも、成瀬がいる。

成瀬は、喋れなくなった女の子だ。声は出る。でも、喋るとお腹が痛くなってしまう。幼い頃、自分のお喋りが原因でとんでもない事態を引き起こしてしまった。その時にやってきた“玉子”に呪いを掛けられて、成瀬は喋れなくなってしまうのだ。

成瀬は、確かに極端に描かれる。成瀬ほどに自分を追い詰める人は、そう多くはないだろう。しかし、程度の差こそあれ、誰もが“成瀬らしさ”みたいなものを抱えて生きているんじゃないかと思う。これはちょっと言っちゃいけないな。言わない方がいいな。ちょっと黙っておこう。場面場面でそういう選択をする人は、たくさんいるはずだ。
エンディング曲である乃木坂46の歌の歌詞に、こういうフレーズがある。

『何も欲しいと言わなければ、傷つかなくて済む』

まさにそういうやり方で、面倒なこと、嫌なこと、悲しいこと、辛いことをやり過ごそうとする人。そういう人は、きっとたくさんいるだろうと思う。

僕は、成瀬とは真逆の道を歩んだ。

成瀬は喋らない。しかし、成瀬には、伝えたいことがある。成瀬の内側に、ずっとそれがあったのかどうか、それは分からない。しかし成瀬は、ある瞬間から確実に、伝えたいことが心の内側に生まれる。

しかし成瀬は、伝える手段であるはずの言葉を封じられてしまっている。成瀬はそこで苦労することになるのだ。

しかし、僕は違う。僕は喋る。どこに行っても、誰とでも、いくらでも喋れる。でも、僕には、伝えたいことはない。

僕が口に出していることは、「その場でこういう言葉が求められてるんだろうなと感じる言葉」だ。こう言ったら嬉しいんだろうな、こう言ったら場がうまく収まるんだろうな、こう言ったら相手は満足するんだろうな。僕の口から出る言葉は、基本的にそういう発想で生まれた言葉ばかりだ。僕自身が伝えたいことではない。僕にとっての言葉は、“伝えたいことを伝えるための道具”ではなく、“その場に現れるべき感情や価値観を具現化するための道具”でしかない。それらは、僕が言う必要があるわけではない。誰が言ってもいい言葉だ。でも僕は、それを率先して口に出す。

それが、僕なりの防御なのだ。

“その場に現れるべき感情や価値観を具現化する装置”として、僕は生きてきた。そういう立ち位置が、集団の中で重宝されることを知っているからだ。僕は、自分自身に何か価値があると思えない。面白いことが言えるわけでも、リーダー気質があるわけでも、何かの能力に秀でているわけでもない。そんな人間が、ある程度まとまった集団の中で居場所を確保するための積極的な方法として、僕は“その場に現れるべき感情や価値観を具現化する装置”になろうと意識してきた。その場の空気を読み、適切な言葉を選び口から出す。当たり障りないことも言うが、その場をざわつかせるようなことも言う。それは、なんとなく全体の雰囲気を感じ取って、ざわつかせてでも言った方が良さそうだと判断したことを言っている。そんな風にして、僕はずっと生きてきた。

これは、成瀬とは真逆の方向だ。成瀬は、正直だ。成瀬は、自分の気持ちに嘘をつかないために、口を閉ざした。

『言葉は誰かを傷つけるんだから』
『言葉は取り戻せないんだから』

成瀬は、伝えたいことを伝えたことで誰かを傷つけてしまった経験を引きずっている。だから、喋らない。しかしそれは、「伝えることを諦めた」というだけのことであって、「想うこと」は諦めていない。成瀬は、想う。自分の心の内側に溢れる想いから、目を背けない。伝えるための手段である“言葉”は、成瀬は失っている。しかし“歌”なら…。成瀬の新しい挑戦は、そんな風にして始まっていく。
そう、成瀬は、自分の気持ちに嘘をつかないのである。

僕も、自分の気持ちに、嘘はつきたくない。成瀬もきっと、それが辛いことだと知っている。自分の気持ちに嘘をついて喋るくらいなら、自分の気持ちに嘘をつかずに喋らないことを選んだのだ。

僕も、それが辛いことを知っている。でも僕は、喋ることを選んだ。成瀬は、喋らないことで自分の心を守ったが、同時に、集団の中でやっていくことを諦めた。僕は逆だ。僕は、集団の中でどうにかやっていくために、自分の心を捨てた。

僕は、自分の中から“ホントウ”を捨てた。

自分の気持ちに嘘をつかないでいるためには、どうするべきか。集団の中でうまくやっていくために、“その場に現れるべき感情や価値観を具現化する装置”としてやっていくことを決めた僕が、自分の気持ちに嘘をつかないでいるためには、どんな手段があるだろう。その答えを、僕はきっとどこかの段階で掴んだ。
それが、自分の中から“ホントウ”を捨てる、ということだった。

「自分の気持ちに嘘をつく」というのは、自分の内側に“ホントウ”があるからこそ生じる。自分の内側に“ホントウ”があって、でも口から出す言葉がそれと異なるから「嘘をつく」ことになってしまう。だったら、自分の内側から“ホントウ”を捨ててしまえば、「嘘をつく」ことを回避できるのではないか。

だから僕は、可能な限り“ホントウ”を持たなくなった。そんなことが出来たのは、元からそういう性質があったからだろう。子供の頃から、執着するものもなく、やりたいこともなく、好きなものも食べたいものもほとんどなかった。いや、もしかしたらその時点で、“ホントウ”を捨て始めていたからかもしれない。その辺のことはもう思い出せないけど、とにかく僕は、“ホントウ”を捨てていったし、そして同時に、心の内側に“ホントウ”が居座らないように注意した。

何かを求めたり、好きになったり、やりたくなったり、欲しがったり、そういう感情がなるべく生まれないように気をつけた。

もちろん、完全にとはいかない。でも、“ホントウ”が心の内側に居座りそうになると、心が乱れたり、不安定になったり、まともに思考が出来なくなったりした。多くの人はそういう状態を、「熱中」とか「没頭」とか「恋」とか、そういう名前をつけて呼んでいるんだろうけど、僕はそういうものを怖く感じるようになっていった。

だから少しずつ、“ホントウ”が居座りにくくなっている。居座りそうになったら、心がアラームを発して、自分を押しとどめるようになった。それ以上近づくと、ヤバイぞ、と。

これは、臆病な生き方だ。傷つくのを恐れて、ただ逃げているだけだ。自覚はある。でも、長いことこの自分でやってきてしまった。今さら心の内側に“ホントウ”を入れるのは、怖いのだ。

そういう意味で、僕と成瀬は、性質は真逆だが、置かれている状況は似ている。成瀬も、ずっとそういう自分でやってきてしまった。

『玉子がいなかったら、なんのせいにすればいいのかわかんないよ』

成瀬はそう叫ぶ。喋らないことで、成瀬はきっと多くのものを失ってきた。多くの感情を、多くの関係を、多くの価値観を失ってきた。しかしそれでも、成瀬は喋らないことを貫いた。玉子の呪いのせいにして、喋らないことを貫いた。今さら玉子なんていないって言われても、成瀬は困る。ずっとそういう自分でやってきてしまったからだ。

しかし成瀬は、まるで玉子の殻を破るようにして、今いる自分の場所から抜け出すことが出来るようになった。

『成瀬にも伝えたいことがあるなら、歌ってみたらいいんじゃないかな』
『お前の言葉で、嬉しくなったから』
『成瀬さんは明るいやつです。そりゃ、喋らないけど、心のなかでは一杯喋ってるんです。今日だって、友達のために無茶したからこんなことになったっていうか…。成瀬は、いつも頑張ってるんです』

成瀬のことを理解しようとしてくれる仲間がいる。成瀬のやりたいことを一緒になって実現させようとしてくれる仲間がいる。成瀬の心の叫びをしっかりと聞いてくれる仲間がいる。

成瀬は、そんな仲間と一緒に、短くも充実した期間を過ごすことで、自分の殻から這い出ることが出来た。

僕にも、同じことが出来るだろうか?ちょっとイメージは出来ない。僕には、言葉はある。いくらでも、言葉は出てくる。でもそれは、僕の“ホントウ”と繋がったものではない。僕の心には、“ホントウ”はないからだ。僕はもう、“ホントウ”を持つことが怖くなっている。“ホントウ”のない自分と、ずっと一緒にやってきてしまったから、“ホントウ”を持った自分になるのが怖い。“ホントウ”と繋がった言葉を、自分の口から出すのが怖い。

『言いたいことがあるなら、はっきり言えばいいのに』

“ホントウ”と繋がった言葉を持つ人のことを、僕は羨ましく思う。そういう言葉は、やっぱり強いからだ。僕の言葉は、装飾は派手かもしれないし、耳障りもいいかもしれないけど、でも弱い。“ホントウ”と繋がっていない言葉であると自覚しているから、どうしても弱くなる。

成瀬の言葉は、強い。そういう意味で僕は、成瀬のことが羨ましい。

内容に入ろうと思います。
毎年学年で一クラスだけ、「ふれあい交流会」という行事を担当させられる。地域の人を招待して、演劇や朗読などを披露するのだ。
成瀬順、坂上拓美、田崎大樹、仁藤菜月。この四人は、音楽教師である担任から、勝手に「ふれあい交流会」の委員に任命されてしまう。
成瀬は、幼少の頃の経験から、喋れなくなってしまっている女の子。クラスメートも、成瀬の声は一度も聞いたことがない。
坂上は、文化部系の、何事にもほどほどという感じの少年。覇気はないけどそこそこ責任感はあるから、面倒事は押し付けられてしまう。
田崎は、野球部のエースだったが、肘を故障してしまった。練習は出来ないが、放課後の部活に毎日出ては檄を飛ばしているが、実は自分が周りから疎まれていることを知ってしまう。
仁藤はクラスの優等生で、チアリーダーの部長でもある。田崎とは中学時代、ちょっとした関係がある。
四人は、当然やる気の出ない「ふれあい交流会」の実行委員など降りたいと思っていたが、色んな要因が様々に折り重なって、結局、成瀬が原案を考えたミュージカルをやることになる…。
というような話です。

“本当の気持ち”と“伝えるということ”を様々な形で表現した素晴らしいアニメだと思いました。
もちろん、物語の中心にいるのは成瀬です。成瀬は、“本当の気持ち”“伝えるということ”の一番分かりやすいアイコンとして、とても極端な存在として描かれていく。喋ると腹痛になり、他人と会話する時はメール越し。卑屈でマイナス思考で、自分の気持ちを常に抑圧している。
成瀬が様々な人間とどう関わり、それが成瀬自身にどんな影響を及ぼしていくのか、という点が一番の見どころで、惹かれる部分ではある。自分の“本当の気持ち”に気づき、でもそれを“伝えるこということ”には臆病になる。“伝えるということ”が出来ないなら“本当の気持ち”を抑える。きっと今まではずっとそうやってきたのだろう。しかし成瀬は、恐らく初めて、抑えきれない“本当の気持ち”に出会う。しかし、だからと言って“伝えるということ”がすぐに出来るようになるわけではない。その苦悩を、歌という新たな方向性を突破口にして、今まで進んだことのない道を、恐る恐る、でも着実にしっかりと力強く進み始める成瀬の成長の物語は、坂上が作中で『あいつのこと見てると応援したくなるんだ』と言うように、観客もみな応援したい気持ちになるだろうと思う。

しかし、決してそれだけの物語ではない。“本当の気持ち”と“伝えるということ”は、坂上、田崎、仁藤それぞれの物語にもしっかりと根を下ろし、物語全体を脇から支えていく。

『思ったこと言うのとか、言われて言い返すとか、誰かにぶつかったりするのも面倒だって思うようになっちゃった』
『本音とか思ったこととか、言わないのがクセになってた。そのうち俺には、伝えたいことなんてないんじゃないかって思ってた。』

坂上は、“本当の気持ち”にも“伝えるということ”にも曖昧なままで生きてきた。詳しくは描かれないのだけど、坂上は中学時代「何か」があった。その経験から、伝えても伝えようとしても無駄だし、本当の気持ちなんて持つのかったるい、みたいな人間になっていったのだろう。坂上は、登場してからしばらくの間は気怠げな声で話す。何事にも流されているように、そこに意志がないかのように、ゆらゆらと生きている。ただなんとなくぼんやりと、まるでクラゲのように、坂上は漂っている。
しかし坂上は、成瀬と出会い、成瀬のことを知る内に、自分の内側に変化が訪れていることを知る。成瀬は、喋れないくせに、その内側には芳醇な言葉が一杯詰まっている。少なくとも、坂上にはそう見える。伝えないことで心を壊死させていた少年は、心を壊死させないために伝えないことを選んだ少女と同じ時間を過ごすことで、少しずつ、潤いを取り戻していく。次第に坂上の言葉からは、気怠さが消えていく。

田崎は、“本当の気持ち”は痛苦しいほど持っていた。怪我した自分の不甲斐なさもあって、その“本当の気持ち”は、実体以上に膨れ上がっていく。しかし、それを“伝えるということ”には幼稚に過ぎた。田崎は、“本当の気持ち”がそこにあれば、“伝えるということ”をサボっても伝わるはずだ、という傲慢さを持っていた。自分の“本当の気持ち”は、“伝えるということ”をどんな風にやったって、そりゃあ伝わるだろう、と。なんってったって、こんなに痛苦しい“本当の気持ち”なんだから、と。
しかし田崎はある瞬間から、そうではないことを自覚させられてしまう。田崎は、“伝えるということ”をサボっていた自分をつきつけられる。

『でもこのままじゃ俺、全部が中途半端なんだ。だから、仕切り直させてくれないか』

“伝えるということ”の重要さを認識した田崎は、強い。なにせ、“本当の気持ち”はしっかりと持っている男だ。伝え方に頭が回れば、伝わらないはずがない。
田崎もまた、喋れないくせに“伝えるということ”を決して諦めようとしない成瀬の姿に心を打たれる。そして、喋らなくても伝わることがあるということも、成瀬と接することで知るようになるのだ。

『坂上くんが一番大変な時に、何もしてあげられなくて』

仁藤もまた、“本当の気持ち”を抱えている。しかし仁藤は、それを“伝えるということ”を諦めている。それは、怖かったからだ。

『言葉にしちゃえば、本当に終わりになっちゃうって思って』

仁藤は、“伝えるということ”から逃げることで、どっちつかずな立ち位置を望んだのだ。中途半端な場所にいれば、“本当の気持ち”を手放さないで済む。仁藤は、内側に抱えている“本当の気持ち”の脆さに自覚的だった。その脆さに蓋をするために、仁藤は“伝えるということ”を止めたのだ。

『わたし、はっきりさせるの、避けてた。でも、もう止める』

仁藤は、成瀬・坂上の関係に否応なしに組み込まれることによって、自分の弱さを自覚する。そして、成瀬が坂上を変化させたことで、間接的に仁藤も変化させられたのだ。

成瀬は、多くの仲間の存在によって、自分自身の呪いから解き放たれ、新しい道を進んでいくことが出来るようになった。しかし同時に、坂上・田崎・仁藤の三人も、成瀬と関わることで、自分の未熟さを、弱さを、不甲斐なさを自覚し、そこをスタート地点として、新しい自分を進み始めることが出来たのだ。

『思ってることは、ちゃんと口にしないとわかんないんだ』

そんな当たり前のことを確認するために、彼らは大きく遠回りする。大人は恥ずかしがって、過去の自分のそんな時期のことを、“青春”という名前で呼んだりするのだ。

“本当の気持ち”を自覚すること。そして“伝えるということ”の大切さを認識すること。“言葉”や“歌”はあくまでも手段に過ぎず、大事なことは、「伝えたいことがあるのか」「どうやって伝えるのか」なのだ。成瀬という極端な少女が世界に足をつけていく物語が、“本当の気持ち”や“伝えるということ”をおざなりにしている僕らの心に染みこんでいく。素晴らしい物語だと思います。

「心が叫びたがってるんだ。」を観に行ってきました(二度目)

「心が叫びたがってるんだ。」を観に行ってきました

史上最強の哲学入門(飲茶)

内容に入ろうと思います。
本書は、主に西洋哲学について、古代から近代に至るまでの様々な思想を、「真理・国家・神・存在」の4つに分け、それぞれについて、誰がどんなことを主張したのか、そう主張するに至った対立的な概念は何か、その思想が受け入れられる歴史的な背景はどんなものだったのか、などについて恐ろしく分かりやすく、かつ恐ろしく面白く綴った作品です。

いやー、驚きました。もう、ハチャメチャに面白かったです!僕はこれまでも、哲学の本ってそれなりに読んできましたけど、その中でももうダントツに面白いです。とにかく、4つの分類の中で流れがしっかりしてるから、「どうしてそういう考え方が生まれたのか」という点が本当に分かりやすいし、それに、難しい哲学用語は使っていないか、使っていても、用語を簡単に説明するだけという感じで、概念の説明のために難しい言葉を使うことがないので、そういう点でも非常に分かりやすい。それぞれの哲学者の有名な著書は、おそらく普通に読めばまったく歯がたたないほど難解なんだと思うんだけど、著者の手に掛かれば、ものすごく分かったような気になれます。

もちろん、どんな学問でもそうですが、とくに哲学というのは、「知識そのもの」が大事なわけではありません。誰がどんなことを言ったのか、どうしてそう考えたのか、ということを知識として持っていても、それは哲学にはなりません。哲学というのは、思考するプロセスそのもののことを指しているのだと僕は考えているし、哲学というものにきちんと触れようとすれば、自分自身で考えて徹底的に追究することが必要なんだと思います。

とはいえ、まったくの徒手空拳ではなかなか難しいものがあります。先人が積み上げてきた歴史は、存分に利用するべきです。本書で描かれる多くの哲学者たちも、それよりも前に受け入れられたある考え方に対抗する形で自分の論を進めていきます。そういう意味でまた、知識が不必要ということにもなりません。本書は、「哲学する」という入口に入るための基礎的な知識を与えてくれると言っていいでしょう。

でも、そんな難しいことを考えなくても構いません。本書は、ただの読み物としてもべらぼうに面白いです。別に今後「哲学する予定」なんてのが全然ない人でも大丈夫。娯楽として読むだけでも、本書は十分に面白いのです。

なんでこんなに面白いのか考えてみると、それは「言っていることを理解できるから」だと僕は思うんです。

例えば、どんなに面白い話でも、それが英語で話されていたら、英語を理解できない人間にはその面白さがまるで分かりません。そういう時に、同時通訳してくれる人がいれば、その面白さに触れることが出来るでしょう。

本書の著者は、まさにその同時通訳者の役割を果たしていると言っていいと思います。

哲学者という、メチャクチャ難解で、凡人には何を言っているんだかわからないようなことを考えている人がいる。それは、英語の出来ない人が英語の講義を聞いているようなものでしょう。しかしそこに、その難解さをほぐして分かりやすくしてくれる同時通訳者がいると、一気に相手の話が理解できて面白さを感じられる。どんな学問でもそうだけど、それに対して面白さを感じられるようになるまでが一番難しい。一旦「面白い!」とさえ思ってしまえば、どんな学問でもすいすい吸収出来るものだけど、「難しい」とか「退屈」という感覚が邪魔をして「面白い!」は遠ざけられてしまう。本書は、「哲学って難しいんでしょ…」という先入観を容易く打ち破り、僕らが理解できる言葉で、理解できる価値観で、先人たちの思想に触れることが出来るのだ。人類が長い時間を掛けて考えて議論して練り上げてきたものなのだ。正直、面白くないはずがない。ただ、それを理解するには「難解さ」というハードルがあった、というだけのことだ。本書の著者は、その「難解さ」を楽に超えさせる魔法を掛けた。だからこんなにも面白いのである。

「哲学本」というのは、大きく分けて二種類ある。一つは、読者と一緒になって、「死とはなにか?」「存在するとはどういうことか?」というようなことを考えさせるような本だ。そしてもう一冊が、本書のような、先人の哲学者たちはこんなことを言っていますよ、ということを紹介する本である。

正直、後者のような哲学紹介本は、面白くない本になる確率が高い。まあそれはそうだろう。誰がいつどんなことを言いました、みたいなことを羅列するだけの本が面白くなるはずもない。
そこに本書の凄まじさがある。本書は、後者に分類されるような、いわゆる哲学紹介本だ。それなのに、滅法面白い。哲学紹介本なのに、時々クスっと笑ってしまうことさえあった。そんな哲学紹介本、本当にありえない。著者は、哲学や科学など敷居の高いジャンルの知識を分かりやすく解説するブログで人気になった、まあ要は一般人らしいのだけど、凄い才能だなぁ、と思うのだ。

さて、そんな風に、内容をこれっぽっちも紹介しないで絶賛の言葉ばかり並べてても仕方ないので、内容にちゃんと触れよう。でも、書き始めると内容全部書いちゃいたくなるぐらい素晴らしいので、ここではとりあえず、第一章の「真理」について、どんな風に書かれているのかがわかるような文章を書いてみようと思う。

古代の人は、多くのことを“神話”によって理解・納得していた。「よくわからないけど、神様がやったんだ」という捉え方である。しかし、農耕が発達することによって次第に都市が生まれ、やがて都市間の交流というものが生まれていく。
すると人々は驚くことになる。違う都市では、違う“神話”が信じられているのだ。「神様がやったんだ」っていうのが“神話”のはずなのに、都市間で違うなら“神話”って全部嘘なんじゃ…。そんな風にして人類は、「真理は人や時代によって変わる、相対的なものだ」という、相対主義という考えを持つようになる。

そんな相対主義の代表者がプロタゴラスである。彼は、「人間は万物の尺度である」と唱え、あらゆるものは、人間がおのおのの尺度で判断するものであり、絶対的なものはない、ということだ。
プロタゴラスを中心とした相対主義は、“最強の議論テクニック”として重宝される。何故なら、どんな主張であっても、相対的な価値観を持ち出すことで、黒を白に、白を黒に変えることが出来たからだ。当時の政治家たちにとって、相対主義を学ぶことは重要なことだった。

相対主義を学んだ政治家によって運営される国家は、民衆に聞こえのいいことばかり言い、真面目に政治をしない衆愚政治に陥ってしまう。それはそうだ。真面目に政治のことを語っても民衆の人気は得られないのだし、美辞麗句を繰り出すことで選ばれるなら、誰も真面目に政治なんてやろうとしない。

そんな時代に現れたのが、最強の論客・ソクラテスである。ソクラテスは、「○○ってなんですか?」と質問し続け、相手がボロを出したら反論しまくるという方法で、あらゆる政治家をバッタバッタとなぎ倒していくのである。
ソクラテスは、相対主義をよしとせず、「絶対的な真理」を追求していくべきだという考えを持っていた。そんな彼の考え方で有名なのが“無知の知”である。これは、無知である人間が賢い、という意味で捉えるべきではなく、ソクラテスは、無知であることを自覚することこそ、真理への情熱を呼び起こすものだと信じていたということなのだ。

そんなソクラテスは、民衆から圧倒的な支持を得るが、こてんぱんにされた政治家は面白いはずもなく、若者を堕落させた罪で死刑に処されてしまう。しかし、ソクラテスは、死刑に処されることによって、「この世界には、命を賭けるに値する真理が存在し、人間はその真理を追究するために人生を投げ出す、強い生き方ができるのだ」ということをまさに自らの生き方(死に方)を以って示した。この行動は弟子たちを奮起させた。その中に、プラトンもいた。プラトンは、現在の大学の前身となる教育機関を作り、人生を掛けて学ぶという系譜を生み出したのである。

しかし、学問を続けても、なかなか絶対的な真理は見つからない。そうこうしている内に西洋は、キリスト教が支配する中世時代に突入し、「人間は理性だけでは真理に到達できません。到達するためには神への信仰が必要です」という方向に傾いてしまう。しかしやがて、ルネサンスや宗教改革が起こり、科学や数学が発展し、近代へと突入していく。

そんな時代に現れたのが、「我思う、ゆえに我あり」でお馴染みのデカルトだ。デカルトは、哲学というものを再構築しようとした。それまでの哲学は、いろんな人間が「俺はこう思う」と言っているだけで、統一的な学問としては成立していなかった。それをデカルトは変えようとした。
数学というのは、絶対に正しい基本的な命題から出発し、論理的な手続きで定理を導き出していく学問だ。絶対に正しい数少ない前提を置き、そこから導き出されるものだけを採用していくのだ。
デカルトも同じことをしようとした。そのためにデカルトは、絶対に正しいこと、すなわち第一原理を見つけなくてはいけなかったのだ。それが、有名な「我思う、ゆえに我あり」である。
デカルトは、あらゆるものを疑って、どうしても疑いきれないものが残ったら、それこそが真に正しいものだと考えた。デカルトは必死に考えて、ようやく、「こんな風にあらゆることを疑ったりしている自分自身の存在だけは疑えない」と気付き、これを第一原理に据えたのだ。

デカルトは、第一原理を導き出すまでは物凄かった。しかしそこからの論の進め方はどうも雑だった。他の哲学者からもその雑な部分を指摘され、結局、哲学の統一を目指したはずなのに、デカルトへの批判からさらに様々な哲学が生まれることになる。
そんな批判の一つに、イギリス経験論というものがある。これは、「人間の中に浮かぶ知識や観念は、すべて経験から来たものにすぎない」という考え方だそうだ。そして、このイギリス経験論を完成させたと言われているのが、ヒュームである。

ヒュームは、デカルトが疑えないと判断した「私という存在」は、結局のところ「経験(私という継続した感覚を生み出している痛みなどの知覚体験)」にすぎないと反論。ヒュームは、神の存在や科学でさえも疑い、世の中のあらゆるものは結局人間の経験に過ぎず、それが世界の本当の姿と関係があるかどうかは分からない、と主張した。ヒュームの考えは説得力があったが、しかしヒュームは、あらゆるものを疑った先の「疑いきれない何か」を見つけることが出来なかった。彼は、あらゆるものを疑い続け、疑い続けたまま終わってしまったのだ。

そのヒュームが成し得なかったことを真正面から受け止めて、乗り越える真理を見つけ出したのがカントである。カントは、ヒュームが主張するように、人間が経験から知識を得ていると認める。しかし、その知識の受け取り方には、“人間固有の形式”があって、その形式は、人間の経験に依らない先天的なものだ、と主張した。
同時にカントは、その真理は人間固有のものだ、とも主張した。人間には、人間固有の受け取り方の形式があり、だから人間には共通すると言える真理が存在する。しかしそれは、イソギンチャクの真理とはまた別のものだ、と。カントが提唱したこの考え方によって、人間は、人智を超えた真理を追い求めることから、人間にとっての真理を追い求める形へと変わっていった。

しかしカントは、人間にとっての真理があることは明らかにしたが、どうやってそこにたどり着けるのかを示しはしなかった。それを示したのがヘーゲルである。ヘーゲルは、弁証法という、「対立する考えをぶつけ合わせ、闘争させることによって、物事を発展させていくやり方」を提唱した。これを繰り返していけば、いつか人間にとっての真理に到達出来るだろう。フランス革命直後の民衆にこの考え方はすぐに受け入れられたのだった。

しかし、そんなヘーゲルに待ったを掛けたのがキルケゴールである。キルケゴールはヘーゲルの哲学を、「今、ここに生きている私という個人を無視した人間味のない哲学だ」と一刀両断にする。ヘーゲルの弁証法を続ければ、確かに“いつか”人間にとっての真理に到達できるかもしれないけど、しかし、そんな“いつか”手に入る真理なんて、今を生きる俺たちにはまるで関係ないじゃねぇか、というのである。キルケゴールは、「今日真理が得られるなら明日はいらない」という、ヘーゲルとは真逆な人間だったのだ。

そんなヘーゲルとキルケゴールの対立を解消する考え方を持ちだした男がいる。サルトルである。サルトルは、「だったらいっそ、究極の真理を求める歴史の進展を、僕達自身の手で進めてみようじゃないか!そのために、人生を賭けてみようじゃないか!」と若者たちに呼びかけたのだ。この言葉は、資本主義が成功して豊かになったが、何をして人生を過ごせば良いかわからなかった若者の心にズバズバ刺さった。サルトルの時代は、資本主義が成功していた。しかし、資本主義が永遠に続くとは限らない。じゃあ、よりよい社会システムってなんだろう?当時それはマルクスの共産主義だと考えられていて、人々は反社会的な活動に身を投じていくようになる。

しかし、そんなサルトルの哲学に待ったを掛けた人物がいた。元々サルトルとは旧知の仲だったレヴィ=ストロースである。
レヴィ=ストロースは、元々哲学者だったわけではない。彼は、異国に自ら赴き、現地の人と生活しながら文化を調べる人類学者だった。

この当時、西洋人は、こんな風に考えていた。人類の歴史には、たった一つのゴールがある。西洋人はその最先端を走っていて、ジャングルの奥地にいる野蛮人は超遅れている。でもやつらだって、時間を重ねれば、いつかは俺たちみたいに機械を作ったりする文明に追いつくだろう。西洋人はなかなか傲慢なことを考えていた。
しかしレヴィ=ストロースは、そんな西洋人の考え方を思い込みに過ぎないと断じる。自らのフィールドワークの経験から、西洋人の文化が特別優れているわけでも、西洋人が未開人と読んだ人たちの文化が特別劣っているわけでもないのだ。レヴィ=ストロースは、サルトルのいう「人類が目指すべき歴史」の存在に疑問符を投げかけたのだった。

そんな風に近代哲学は進んでいったが、しかしこの「理性によって真実に到達しようとする近代哲学」は、徐々に支持を失っていく。何故なら、醜い戦争や核兵器の保有など、人類にはまともな理性が存在しないことを証明するかのような様々な出来事が起こったからだ。そうやって、実用性に重きを置いた現代哲学が生まれて来る。

そんな中、プラグマティズム(実用主義)という哲学が生まれる。これは、「その効果は何か?」という実用的なことだけ問いかけよう、という身も蓋もない考え方だ。その代表者がデューイであり、彼は自らの思想を道具主義と読んだ。それが実用的であれば真理だと考えても良い、というのは、「真理」を熱く求めるところから始まった哲学の旅の流れとしては奇妙でもある。

また、デリダは、ポスト構造主義と呼ばれる哲学を展開する。これは、「答えの出ないことはいくら考えたってわかんないんだから、受け取り手が自由に解釈すればいいし、それを真理ってことにすればいいじゃない」という考え方だ。これも、「真理」を求める哲学の旅のとりあえずの執着としては、なんだかなぁ、という感じである。

また現代哲学には、他者論と呼ばれるものもある。レヴィナスがその代表だ。「他者」とは、「私とは無関係にそこに存在し、かつ決して理解できない不愉快な何か」全般を指す言葉で、現代の学問のありとあらゆる場面にこの「他者」が現れる。現代哲学にとっての唯一の真理は、「どんな真理を持ちだしても、それを否定する他者が現れること」だと言える。しかし、「他者」の存在があるからこそ、僕達は「どうして?」「なんで?」と問いかけることが出来るのである。

さて、長々と第一章の流れを書いてみたけど、どうでしょうか?思想の細かな部分には当然触れられてないけど、思想が展開される流れみたいなものはざっくり見て取れるんじゃないかと思います。第二章以降も、こんな感じで、どうしてその思想が生み出されたのか、そしてどうしてそれが受け入れられたのかということを踏まえつつ、個々の思想について分かりやすくかつ面白く解説していて、本当に読ませる。凄い作品だと思う。

一回読めば分かった気になれる。そして、十回読めば超理解出来る作品だと思います。また本書で描かれる哲学的思想は、世界史の変遷を理解する上でも重要になってくるように思います。歴史上、民衆がどんな考えを受け入れた結果、どんな出来事が起こったのか。その背景を知るのにも役立つ一冊だと思います。

飲茶「史上最強の哲学入門」


21世紀サバイバル・バイブル(柘植久慶)

内容に入ろうと思います。
本書は、作家であり、かつてフランス外人部隊で傭兵として従事していたという経験を持つ著者が、21世紀の様々な危機に対してどう対処すべきかについてまとめた作品です。
どんな危機についての対処が書かれているのか、ざっくり一例を挙げてみます。

土砂崩れ
地震

雪崩

毒ヘビ
イノシシ
結核
火事
飛行機
新幹線
自動車
泥棒・強盗
ストーカー
詐欺
医療ミス
日本が戦争に巻き込まれた場合

かなり広範囲の事柄について書かれている作品だ。とりあげている危機の広範囲さを考えれば、”バイブル”という名前の付け方はそこまで大げさではないかもしれない。

それぞれについて著者なりの対策が書かれているわけなんだけど、正直、全部やるのはしんどい。著者はかなり危機意識の高い人のようで、実際に様々なサバイバルグッズを常に携帯しているようだし、日常生活の中でも危機を未然に防ぐ行動がかなり身についているようだ。しかし、それは強靱な意志と緊張感が要求される。確かに、著者がやっているようにやれば危機に直面した時に対処が出来たり、そもそも危機に遭わないように出来るだろう。ただ、危機を避けるための行動に日常生活の少なくない時間を取られすぎるように思う。それに、お金だって恐ろしく掛かる。そういう意味で、著者が提唱していることをそのまま実行するのはまず不可能だと思っていいと思います。

とはいえ、著者のこんな文章には、ドキリとさせられてしまうのだ。

『半世紀以上も平和が続くと、安全はタダという認識になってしまうようである』

確かにそういう意識はある。著者も指摘しているが、日本人は、何か危機に陥った時、自分がそのために準備をしてこなかったことを棚に上げて、救助体制がなってないというようなクレームをつける。本書で著者は、何か危機に陥った時、警察や行政を当てにするようではダメだ。自力で対処出来るように日々準備をしておくべきだ、という。著者の主張もまた極端過ぎると思うのだけど、意識として持っておくことは大事だろうと思う。

物質的な準備については、お金や維持管理の手間など様々な要因があるので、本書の通り実行することは難しいが、知識の準備に関しては、知っておいて損することはない話がたくさんあると思う。水害に遭った際に自力で脱出可能な水深の深さとか、拳銃・散弾銃・ライフルそれぞれの場合にどう逃げるか、強盗が押し入った時重い灰皿を強盗のどこに投げるけるべきか。こういう知識は、持っていて損はない。あらゆる危機というのは、当然のことながら突然やってくる。その時の瞬時の判断や行動が、生死を分けることになる。正直、本書に載っている対処が正しいのか、それは分からない。分からないけど、「こういう時にはこう行動する」と意識しておかないと、突発的な状況で何もできなくなってしまうだろう。そういう意味で、とりあえず本書に載っている行動を指針にすると決める、というのはいいかもしれないと思う。

しかし本書は、なんというかあまりにも極端で、かつ主観的な主張も多いので、イマイチ情報を信用しきれない部分もある。そういう箇所をいくつか抜き出してみよう。

『つまり自分で立ち上がる努力をしない連中や、おんぶにだっこという連中には、生存する資格がないのである』

『このとき必要なのは必ず止めをさすことだろう』

『(銃撃戦に巻き込まれたら)死体があったらその腰から大腿部にかけて、頭を位置させればまず貫通しない。どうせ短機関銃を持っていても、拳銃弾と同じ九ミリ口径の弾丸だからその程度の遮蔽物で十分である』

『ところが成り上がり者の息子とか、貸しモーターボートを借りている者に、乱暴な操縦をする連中がいる。彼らには、マシンを大切にしようとの常識と感覚が欠如しており、しかも莫迦者である確率が高いから、それこそ始末に負えない。何しろ乱暴なのである』

『いったん抵抗し始めたら、過剰防衛も糞もない。優勢になったからといって手を抜き、一体どれほどの人が逆襲に遭って殺されただろうか。相手の殺意を感じたらそのような法律など一切念頭に置かず、呼吸の根を止めるまで攻撃を続行するのが正解だ』

『幼児誘拐は、親に全面的な責任がある、と考えてよい。親がパチンコに熱中していて、子供が連れ去られたのに気づかないなどのケースは、保護義務の明らかな違反だと言えるだろう。つまり親も犯人と同罪、くらいに考えても差し支えあるまい』


いかがだろうか。ちょっとなぁ…と感じる描写もあったことでしょう。また著者は、「偏見ではなく、自分が経験したことだから絶対の自信を持って言える」と何度か書いているのだけど、著者一人の経験を背景に、どうして「絶対の自信」が持てるのか不思議だなぁ、と思ったりもした。同じ境遇だった人間に色々話を聞いた結果、とか言うのであればまだ分かるのだけど。

まあそんなわけで、なんだかなぁと思う部分もあります。極端で真似できないと感じる部分も多々あります。ただ、確かに著者が言うように、日本人は危機に対して鈍感であるというのもまた事実でしょう。つまり本書を、自分なりに新しく調べたり考えたりするきっかけにする、という風にも出来るのではないかと思います。発売されたのがちょっと前なので、例えば振り込め詐欺のような最近の犯罪については書かれていませんが、それでも、多方面に渡って注意喚起を促す作品だと思います。

柘植久慶「21世紀サバイバル・バイブル」


ハナシがちがう! 笑酔亭梅寿謎解噺(田中啓文)

内容に入ろうと思います。
星祭竜二は、両親のない、素行不良な少年だった。先生が見かねて、先生の“師匠”に弟子入りさせることにした。
それが、笑酔亭梅寿、上方落語の大看板である。
竜二は落語なんぞに興味はなかったが、逃げられない状況に追い込まれ、しぶしぶ修行をする羽目になる。
しかし、師匠は始終飲んでは問題を起こすし、何かあればぶん殴られるし、稽古はつけてくれないし、そもそも落語に興味はないしで、やってられるかという感じである。
それでも、前座としての修行をこなし、落語の勉強をし、様々な会に足を運び、梅寿のお守りをした。
そんな中で彼は時々、事件に巻き込まれてしまう。それらを、落語からの発想で竜二が解き明かしていくのだが…。

「たちきり線香」
寄席で三味線の弦が三本同時に切れた。何か鋭利なものでスパっと切ったような切れ口だ。しかしその時その三味線は、舞台上でまさに弾かれている最中だった。その三味線弾きの死んだ姉の呪いではないかと思われたが…。

「らくだ」
東京から、吸血亭ブラッドという外国人の噺家がやってきて、事務所の企画でイベントが行われることになった。”らくだ”という渾名を持つブラッドは、人をこき使い、誰かれ構わず罵り、さらに大食漢で絶倫だという噂。楽屋でも酷い態度だったが…。

「時うどん」
いたし・まっせ師匠のいたし師匠からいびられる竜二。若手をボロカスにけなし、よその前座をあごで使う。しかっし、彼らの漫才はどうもキレがない。ツッコミが遅いのだ。いたし師匠の弟であるというまっせ師匠は、楽屋では一切喋らない。テレビ局がいたし・まっせ師匠を『伝説の漫才師』として売りだそうとしているのだが、いたし師匠はそれを頑なに拒む…。

「平林」
竜二の初舞台が決まった。しかし相変わらず梅寿は一切稽古をつけてくれない。兄弟子の梅春に稽古をつけてもらう日々だ。噺を覚えるので必死で、その気はないのに無銭飲食をしようとしてしまった竜二。その肉屋の親父が竜二の初舞台当日…。

「住吉駕籠」
梅毒という兄弟子から、新作をやらないかと声を掛けられた竜二。古典落語のつまらなさにうんざりしていた時だったのでやりたいと思ったが、梅寿から許可が下りない。こっそり新作落語を作って練習する日々。梅毒は、病院長の未亡人をたぶらかし、博打で作った借金で病院がかたに取られたという噂を持つ男で、粗暴なスタイルを売りにしていた。梅毒主催のイベント当日、なかなかやってこない梅毒に皆が痺れを切らしていたが…。

「子は鎹」
梅寿から破門を言い渡されてしまった竜二は、昔の仲間の家を転々とする生活を送る。行き場のない竜二は、ピン芸人としてやっていくことを決めネタを作り始めるが、舞台に上がる機会はやはりそうそうはない。そんなある日、たまたま出会った梅寿の奥さんから、梅寿の孫が誘拐されたと聞き…。

「千両みかん」
「M-1」の落語版「O-1」の開催を記念して開かれたパーティー。それは、巨匠と呼ばれる映画監督が撮った映画の完成披露パーティーと抱合せだった。その場でプロデューサーと喧嘩した梅寿は、竜二と共に散々暴れまわってその場を後にした。その映画監督は完璧主義者で、あるものがないことで映画会社存亡の危機に立たされているらしいのだが…。

というような話です。

面白い作品でした。読みながら、なんか一回読んだ記憶があるような気がするな、と思いながら読んでいましたけど。

まずとにかく読みやすいです。落語をモチーフにしているので、知らない世界の話だし、落語にも興味ないしと敬遠する人もいるだろうけど、その心配はないでしょう。全編、ドタバタコメディのようなタッチで話が進んでいきます。リアリティは多少犠牲にして、読みやすく面白い作品を書いたという感じです。ただこの場合のリアリティは、落語以外の部分についてです。僕は落語には詳しくないけど、解説の桂文珍によれば、落語の描写はかなり正確なようです。また著者自身も、様々な書籍における上方落語の記述が間違っていることに憤りを感じてこの作品を書いた、みたいなことを言っているようなので、落語の部分のリアリティはきちんとしているんだと思います。落語以外の部分だと、人が死んでてこの反応は軽すぎるやろとか、そんなに殴られたら人は死ぬでしょとか、そういう部分のリアルさは結構捨ててる感じがします。面白ければよし、という感じでしょうか。

どの物語も比較的、落語と関わりがあります。どの章題も落語の噺の名前で、その落語が作品全体と関わってくる感じになります。落語との関わりで言えば、特に「千両みかん」が秀逸だったかな。「千両みかん」は、とある事情から恐ろしく高いみかんを買うことになった者の話。その話が、映画会社が必死で探しているものと関わりがあって、なるほどなかなか面白いなと思いました。

読んでいると、本書でやられている落語を聞いてみたくなります。特に、梅寿がやっているのを。竜二はもともと落語なんかになんの興味もなかったのに、梅寿の古典落語を聞いて衝撃を受ける。しかも、ほぼ毎回である。古典落語ということは、ストーリーも笑わせどころもオチも全部知っているわけだ。それでも、梅寿の落語は圧倒的に面白いらしい。普段は、酔っ払ってゲロ吐いて、借金取りに追われまくってるクソジジイなんだけど、落語となると天才的だそうだ。どんな感じなのか、実に気になる。

他にも、新作落語が面白い梅毒、とある事情から能力を発揮できていないいたし・まっせ師匠、新しいお笑いを目指すチカコ、なかなか壁を突破できない梅春など、どんな落語をするんだろうなぁ、と聞いてみたく思わせる人物がたくさん登場する。著者が落語を本当に好きだからこそこういう描写が出来るのだろう。

また、竜二が徐々に落語家として成長していく様がサイドストーリーとして用意されているのも良い。完膚なきまでに興味がなかったところから、稽古を続け、自ら試行錯誤し、様々に舞台を経験し、落語の世界に惹きつけられていく過程はなかなか面白い。古典落語は古いからつまらないと思いたい竜二と、でも梅寿があれだけ面白いのはなんでなんだ?と考えたい竜二がせめぎ合う場面があったり、いつしかどっぷりと落語の世界にハマっている竜二の姿はなかなか愛らしいです。

謎解きの部分で言えば、本書はなかなか珍しく、主人公が探偵役です。普通は、主人公がワトソン役で、探偵役は別にいることが多いけど、本書の場合は竜二が探偵をやります。竜二にそういう素質がどうしてあるのか、的な描写は特になりから、そういう設定なんだなと思うけど、落語絡みで事件が解決していくことを考えると、竜二以外の人間の方が適役だった気もしなくはありません。でも別に誰が探偵役だろうが、物語の面白さが変化するとは思えないので、大した問題ではないでしょう。

サラッと読むにはなかなか面白い作品だと思います。いずれ落語の世界は知りたいと思ってるんだけど、やっぱり奥が深そうだなぁと思いました。

田中啓文「ハナシがちがう! 笑酔亭梅寿謎解噺」


「私たちのハァハァ」を観に行ってきました

教室で、女子高生四人が撮影をしようとしている。カメラのレンズを取り忘れていて、しばらく真っ暗な画面のまま、声しか聞こえない。

「そんなわけで、行きまーす」

クリープハイプの大ファンである彼女たちは、ライブを見て感動し、「東京にも是非来てください」と言っていたのを真に受けることにして、東京を目指すことにした。
自転車で。
一之瀬が親と喧嘩したタイミングで、じゃあ今から行っちゃう?と決行することになった。知恵袋で聞いたら、北九州から東京まで行ったって人がコメントくれてた、案外余裕だったって。じゃー、行きましょうー。みたいなノリで。
自転車を漕ぎ、海岸でふざけ、公園で野宿し、旅の経過をツイッターにアップし、アホみたいな話をし、体力が尽き、金も尽き、それでもどうにかして東京を目指す。
クリープハイプのライブを観るために。
というような話です。

メチャクチャ面白かった。初めは、なんということはない作品だと思って見始めたんだけど、徐々に惹きこまれていきました。

これは、リアルと虚構の物語だ。

まず、撮影手法が、分かりやすくそのことを明確にする。
この映画は、四人の女子高生の誰かが常に持っている手持ちのカメラの映像と、四人を外側から撮るメインのカメラの映像とが混じりあう。
手持ちカメラの映像は、如実に”リアル”が意識される。彼女たちが旅の途中、ふざけながら撮っている映像で、彼女たち自身が旅の記録をするためのものでもある。僕には全編、セリフなんてほとんど用意されていない、その場のアドリブみたいなやり方で撮ったように見えたけど、手持ちカメラの映像はよりその印象を後押しする。本当に、そこら辺どこにでもいる女子高生が、行き当たりばったりではしゃいでいるような映像にしか見えない。監督の指示や、脚本に書かれたセリフなんかの存在を一切感じさせない映像は、強く”リアル”を思わせるのだ。
しかし一方で、四人の引きの映像も当然に存在する。そのシーンになると、なんとなく”リアル”から”虚構”にステージが移ったかのような印象になる。本当はどちらも虚構にすぎないのだけど、手持ちカメラとメインカメラの映像を切り替えることで、”リアル”と”虚構”が瞬時に入れ替わるような印象になる。それは、なんだかとても不思議な感覚だった。

また、女子高生とクリープハイプという取り合わせも、”リアル”と”虚構”の図式を持ち込む。女子高生らにとって、クリープハイプというのは、雲の上の存在、とまで言うと大げさかもしれないけど、とにかく向こう側の人だ。つまり”虚構”だ。彼女たちは、そんな”虚構”に向かって、旅を開始する。女子高生たちの馬鹿馬鹿しい旅の道中は、圧倒的に”リアル”で、だから僕には、彼女たちの旅の目的であるクリープハイプが、ずっと”虚構”に見えていたし、彼女たちにしてもそうだったはずだ。
しかし、東京に近づくに連れて、感覚が少しずつ変わっていく。実際に変わっていくのは四人の内の一人なのだけど、彼女の変化が如実になっていく。物理的な距離が縮まることで、まるで”リアル”と”虚構”の境目を飛び越えることが出来るかのような錯覚をもたらしたのだろう。その一人の少女の中で、クリープハイプが”虚構”から”リアル”に変わっていく過程も、おちゃらけた会話の中で巧く描かれていく。

『クリープハイプとうちら、全然違うってこと、わかってる?』

そう仲間に言われてしまうほど、彼女の中で”リアル”なクリープハイプが育ってしまうのだ。

先ほどの発言は、女子高生四人の仲間割れのシーンで飛び出す。”リアル”と”虚構”の裂け目は、ここにも顔を覗かせる。
女子高生四人は、基本的に「楽しい!!」だけで繋がっている。うちら、楽しいよね。最高だよね。パネェよね。そんな、前向きなノリで繋がっている。それが、彼女たちにとっての”リアル”だ。
しかし、綻びが表面化することによって、その”リアル”が”虚構”を内包していることに気付かされてしまう。「楽しい!」のレベルも、旅の目的も、人生に対するテンションも、やっぱりみんなそれぞれ違う。その違いを無視して”リアル”を共有しているつもりで、仲間になれたような気になっていた。でも、その違いが一度表面化すると、彼女たちをつなぎとめているものは別に何もないのだ、ということに気づいてしまう。だから、彼女たちの関係は、脆い。それは、非常に現代的な関係性を見事に描写しているように感じられて、新鮮だった。

彼女たちの人生の捉え方にも、”リアル”と”虚構”は顔を覗かせる。ある晩、公園で野宿している時のことだ。この旅の楽しさを噛み締め、やる気がみなぎっていると語る彼女たち。彼女たちにとって、唐突に始まったこの旅は、紛れも無く”リアル”なのだ。
しかし同時に彼女たちは、その先も分かっている。この”リアル”はずっとは続かない。クリープハイプのライブが終われば、また福岡に戻らなくちゃいけないし、学校や家族との今かで通りの生活が始まる。彼女たちは、その生活こそが”リアル”なのだと、口には出さないけどちゃんと分かっている。分かっていて、それでもなお、この”虚構”にまみれた旅を”リアル”だと思い込みたいのだ。

ツイッターやLINE、2ちゃんねるなどのモチーフが登場するのも、”リアル”と”虚構”の線引を強調する。もちろん、どれも現代的なモチーフであり、”リアル”と”虚構”がなんだなんてことが関係なくても、普通に採り入れられるものだろう。女子高生にとって身近なものだというだけのことである。しかし、これらネット上のツールを組み込むことで、旅を続ける彼女たちという”リアル”と、彼女たちの発信やその発信の拡散によって生み出される女子高生四人組という”虚構”が、時間の経過と共に徐々に乖離し始め、”虚構”が”リアル”を侵食する展開になる。

そして終盤。彼女たちはライブ会場にたどり着き、そして予想もしなかった展開が待ち受けている。それも、まさに”リアル”と”虚構”を明示する。同じステージ上に、”リアル”と”虚構”が存在する。どちらが”リアル”で、どちらが”虚構”なのか、もはやそれはさっぱり分からないくらいで、混沌としたままその瞬間の邂逅は終了する。

様々な形でこの映画は、”リアル”と”虚構”を行き来する。それが可能だったのは、撮影手法や、脚本があるように思えないやり取りもそうだが、何よりも、女優の知名度も大きいだろう。僕が無知なだけかもしれないけど、少なくとも僕は四人の女子高生役の誰一人として知らなかった。僕は映画を見始めてからしばらくの間は、もしかしたらこれはドキュメンタリーなんじゃないか、と思ったほどだ。あらゆる要素がうまく絡み合って、”リアル”と”虚構”の対立や融和を見事に演出している。

『これ切ったら、終わりになる気がして嫌じゃない?』

クリープハイプのライブ後、もう旅の記録をする必要がないのにカメラを回している一人がそう答える場面がある。こんな発言一つからも、”リアル”と”虚構”を感じさせる。彼女たちがこの旅を”リアル”だと感じているなら、カメラを切るかどうかで感じ方は変わらないだろう。彼女たちは、結局この旅を”虚構”だと思っている。だから、その”虚構”を成り立たせる小道具であるカメラを切ってしまったら、旅が終わってしまうように感じるのだ。

たぶんこの”リアル”と”虚構”という考え方は、今の若い世代に共通してしまいこまれている感覚なのだと思う。ネット上の自分はリアルなのか?学校にいる私は?家族の前の私は?自己表現の手段が多様化し、あらゆる”私”を様々な場所で生み出すことが出来るようになったからこそのこの感覚が、映画全体を支配しているように感じられた。

カメラで撮影するみたいに、あらゆる自分の感覚が、様々に創りだされた”私”を通して生み出されていく。もはや今の若い世代の人には、”私”が統一した存在じゃなきゃいけないなんて感覚も薄れているのかもしれない。彼女たちの旅路は、僕にそんなことを思わせた。

”リアル”と”虚構”の境界の存在を、一方では強調し、一方では曖昧にする。自身の感覚に従ってその調整を自在に行う少女たちの刹那の旅路が、映画という”虚構”を飛び越えてまるで”リアル”を現出させるかのような感覚をもたらすのが、新鮮な映画体験でした。

「私たちのハァハァ」を観に行ってきました

お坊さんとお茶を 弧月寺茶寮はじめての客(真堂樹)

内容に入ろうと思います。
舞台は弧月寺という小さなお寺。そこには、空円という住職代理と、覚悟という水商売風の僧侶がいる。
三久は、漫画喫茶から出てきてフラフラしていた。4日間も何も食べていない。職を失い、なけなしのお金も人に貸してしまい、にっちもさっちもいかなくなってしまったのだ。子供の頃からお人好しで、要領が悪く、大体いつも貧乏クジを引いてばかりだ。
ふらつく三久が辿り着いたのは、弧月寺。覚悟から手ぬぐい泥棒に間違えられひっ捕らえたれたのを最後に意識を失った。
その日から、行き場のない三久は、成り行きで弧月寺で修行見習いとして過ごすことになる。

「弧月寺茶寮はじめての客」
数少ない檀家の一人である和菓子屋の笹山がちょっとした事件を持ち込んできた。どうやら、三久が疑われているらしい。
笹山の知りあいの骨董屋の主人が、50万円という大金を何者かに奪われたのだという。妻の一周忌を盛大に行うために人から借りたお金だ。骨董屋の主人から話を聞くが、どうもおかしい。後ろから殴られたらしいのだけど、主人は、人の影さえ見なかったという…。

「カタテノオト」
見習いとして修行をする三久の大きな仕事の一つが、掃除だ。墓地の掃除を命じられた三久は、そこで美しい女性と小さな子供を見かける。女性は石材屋の娘で、こどもは墓地の掃除の大先輩だそうだ。子供が好きな三久は、カイトと仲良く遊ぶようになるのだけど、謎めいたルーズリーフのごみと、不審者の影がちらつくようになり…。

「お寺ごはん」
三久の見習い生活も長くなっては来たけれど、未だに空円さんには慣れない。これほど生真面目に修行をしている僧侶も珍しいと言われるほどの堅物で、またその恐ろしいまでの美貌が凛とした雰囲気を一層高めている。破戒僧だと自分でいう覚悟がいる時はいいのだけど、空円さんと二人はいけない。しかしある時、覚悟が一泊の予定で外出と聞き、三久はなんとなく不安になる…。

というような話です。
軽くさらっと読める作品です。ストーリー的には正直大したことはありませんが、空円を始めとしたキャラクターの造形と、あと時折挟みこまれる仏教や禅的な教えは面白いと思いました。

空円はかなり真面目な僧侶で、僧侶になるための修行の時と同じ熱心さで未だに修行を続けている。しかしその一方で、布教は苦手で、末寺の懐事情は苦しい。だから、覚悟が夜の仕事をしてなんとか寺を成り立たせている、というのが実情だ。修行だけに熱心で、浮世離れしていると言える。

空円が語る話はなかなかに高尚で、三久を始め多くの人はちんぷんかんぷんだったりする。坊さんはもう少し、市井の人々の悩み相談みたいなのもやった方がいいと思うんだけど、檀家の一人が檀家としての相談ついでに家の愚痴を話すと、「朝四時半にいらっしゃい。座禅を組んで心を安らかにしましょう」みたいなことを言う。そういうことじゃないんだよなぁ、と誰もが思うわけだけど、空円もふざけているわけではないし真剣なので、なんとも言えない。浮世離れしているのだ。

見習いとして過ごす三久も大変だ。

『掃除は、おのれの心を清めることに通じます。ひと掃きひと掃き、迷いを取り除くつもりで手を動かしなさい。作務とは、すなわち修行。修行とはすなわち、仏道に生きること』

『草一本、小石一つを取り除くたびに、胸の迷いも除くのです。この草、この石と比べて、自分はどれほどのものかと、おのれに問わなければ意味がない』

『ただお腹がすいたから食べる、というのではいけません。我々が修行に励むために供養されたお米であり、水であり、大根であり、大豆です。米が実るまでの自然の恵みと、作り手の苦労を思わなければいけません。地中から湧き出した水が我々の口に入るまでの道のりを思うのです』

大変だ、こりゃ。

禅の公案の話も、作中で結構重要なモチーフとして登場する。昔、京極夏彦の「鉄鼠の檻」という作品で禅や公案の話は読んだことがあって、難しかったけど面白かったことを覚えている。本書でも、扱いはライトではあるけど、しかしやはり禅の公案は難しい。「片手の音」の一つの解決策は、なかなか面白かった。

本書は恐らく、BLとして人気なんだろうなぁ、という感じがする。メチャクチャ美貌なんだけど、酒も肉も女も遠ざけている空円。僧侶なのに剃髪をせず、たぶんホスト仕事で金を稼いでくる覚悟。そして、頼りなくてドジでおどおどしっぱなしの三久。たぶん、BL的な妄想をするにはなかなか面白い取り合わせのキャラクターが揃っているだろう。特に、僕の勝手な予想では、空円と三久の取り合わせがいいんじゃないかな。空円は、女は遠ざけてるけど実は…とか、三久は昼はおどおどしてるけど夜は実は…、みたいな妄想の余地があるんじゃないかなぁ、と勝手に思っております。

真堂樹「お坊さんとお茶を 弧月寺茶寮はじめての客」


臨3311に乗れ(城山三郎)

たぶん、「就職活動」という言葉がなかった時代があったのだろうと思う。
僕らはもう、「就職活動」という言葉がある時代に生きているし、ほとんどの人が「就職活動」を通じて職を得るだろう。履歴書を書き、面接を受け、自己アピールをし、そんな風にして会社を選び、会社を選んでいく。「就職活動」以外の就職の仕方ももちろん世の中には様々あるだろうけど、世間の第一選択肢は「就職活動」を通じてのものになるだろう。
昔は、どんな風に仕事に就いていたんだろう。
下働きが認められて仕事を任せられるようになるとか、学校の先生の紹介とか、縁故採用とか、そういう現代のような「就職活動」とはまた違った形で職を得ていたのだろうと思う。就職というのが、システムとして確立されていなくて、誰もがそれぞれのやり方で職を見つけ、社会に飛び出していく。
本書で描かれる、近畿日本ツーリストの前身会社である「日本ツーリスト」にも、同じような雰囲気を感じる。
結果的に面接を通じて会社に入るのだけど、「就職活動」という感じではない。半年無休でもいいからと懇願して入れてもらった者もいる。面接に来たその日に、修学旅行の添乗をやらされた者もいる。転職組の中には、退職金で営業所の備品を買った者もいる。

『社員たちは、会社に使われている感じがしなかった。
給料や経費は相変わらず現地調達に近い形だったので、しぜん、自分たちで契約をとって来なければ食えない、という気持になる。』

創業したてで、まだ何者でもない頃から壮大なビジョンを掲げ、情熱だけで突き進んで支援者を増やしていく。それは、辛く苦しい毎日でもあろうが、やりがいや興奮という意味では計り知れないものがあるだろう。
そういう場所には、「就職活動」で紛れ込むことは出来ない。特に「日本ツーリスト」では、選ばれるのを待っているような人間は選ばれない。

『共通していえることは、職にあぶれて、というより、適合しなくて自らはみ出したような男たち、ということである。つまり、ただの浪人ではなく、やはり、生来の野武士といった感じの男が多い。』

『待ったなしの中で育ってきたせいか、わが社は実に気が早い。絶対待ってくれない。待ってくれというと、能力がないようにいわれる。』

『きみは、今日から静岡営業所長だ。すぐ営業所を開け。そして、静岡に腰をすえるんだ』

創業から何年たってもその熱狂は続き、様々な人間を巻き込んで膨れ上がっていく。莫大な夢に向かって爆走する野武士たちが、日本の”旅行”を作り出していったのである。

内容に入ろうと思います。
本書は、近畿日本ツーリストの前身である「日本ツーリスト」の創業から、創業者である馬場の死までを描く作品です。本書は、馬場の依頼で、近畿日本ツーリストの社史のような形で書かれた作品だそうです。

朝鮮銀行に勤務していた馬場は、暴動やソ連軍の進駐などを機に日本に戻る。日本の銀行に就職するも、どうも雰囲気が合わない。さっさと辞めてしまって、何か事業を起こそうと考える。
そんな折、知人から耳寄りな話が飛び込んでくる。
鉄道などの交通を管理する交通公社に、団体旅行などの相談に来る客が増えてきた。しかし交通公社では、輸送力の関係などから団体扱いを停止しており、手に負えなかった。公社に勤めるその知人は別会社を作ってそこに客を回すようにしたが、手が回らなくなってきたから会社ごと引き取ってくれないか、という。
馬場は、旅行代理店という仕事に面白さを感じた。何より、在庫をもたず、しかも前払いで現金が手に入るのが良い。客引きの経験などなかったが、仲間を集めて5人で「日本ツーリスト」を創業した。
しかし、話はそう上手くない。結局交通公社は、団体客を自前で捌くようになり、だから馬場らはゼロからすべてを始めなくてはいけなかった。
当初はとにかく、修学旅行の斡旋をひたすらやった。学校にセールスに行き、地獄のような添乗を何度も行う。彼らは、未経験であるが故に無茶を無茶とも思わない行動を取り、国鉄で土日しか動いていなかった「臨3311」という車両を平日に動かさせ、それに修学旅行生を押し込んで大成功を収めたりもする。
彼らは八面六臂の活躍をした。金が入る度に、支払いを遅らせてでも営業所をどんどん開かせた。備品も給料も、すべて営業所に自前で調達させるやり方だ。営業所は、注文を取ってこないと生活が出来ない。だから必死になって頑張る。新たな修学旅行プランを考え、旅行中は甲斐甲斐しくお世話をし、逆転の発想で難所を切り抜けていく。

日本のトーマス・クック社を目指そう。

僅か5人で創業した時からそんな大それた野望を抱き、馬場は、その時々の会社の規模に関係なしに常に未来への理想を大真面目に語った。常に拡大路線を取り、前しか見ないで突っ走った。妻を旅館に押し込んで女中見習いをさせて旅館の経営を学ばせたり、面接に来たばかりの者に即座に添乗をやらせ、先輩社員があまりにも忙しすぎるから新入社員は時刻表と地図で独学するしかないという環境を作り上げた。ムチャクチャだったけど、誰もが理想に燃えていた。

『野武士たちの熱気を買って、こうした支持者が、各地に少しずつふえて行った』

常に資金繰りに苦しめられた馬場は、安定した資金源を求めて、近鉄交通社の社長・佐伯と出会い、合併。ついに「近畿日本ツーリスト」が誕生し、安定した資金と絶大な信用を得た彼らは、さらなる発展のために驀進していく…。
というような話です。

滅茶苦茶面白い作品でした。城山三郎の作品はほとんど読んだことがないけど、抑制された筆致なのに関わった者たちの興奮や熱意を実に見事に描きだすなぁ、と感じました。城山三郎の書き方は、事実をポンと投げ出しているような感じがする。料理で例えるなら、素材をポンと出されているような感じだ。しかしそれなのに、きちんと”調理”されている感じがする。味わい深く、作った人間の熱意を感じられる。城山三郎の文章からは、そんな雰囲気を感じる。

本書は、とにかく難しいことは考えなくても、出てくるエピソードにいちいち爆笑していくだけでも十分に楽しめる。作品の冒頭は、高島という男が面接にやってくるところから始まるのだけど、その高島がまさに、面接に来たら添乗をやらされたパターンである。しかも、その高島が乗らされたのが、彼ら「日本ツーリスト」の面々が粘り強い交渉をして修学旅行生ように走らせることになった「臨3311」である。「臨3311に乗れ」というタイトルは、高島が言われた言葉そのままである。

他にも、営業所なんてものが存在しないのに所長を命じられ、営業所の建物探しからやらされること。本社から給料が届けられるわけではなく、営業所単位の独立採算であること。そのため、転職者が退職金でオートバイを買ったり、自宅を事務所にして高校回りをしたりと苦労させられる者が出てくる。新婚旅行中に様々な旅館を見学に行って来い、と命じられた者もいる。構内に営業所があると箔がつくから、というだけの理由で、上野駅と新橋駅の薄暗い倉庫みたいなところに営業所を出したり(当然お客は寄り付かない)、妻に無休で船ガイドをさせたり、営業回りの最中口にするものは、大きなおにぎりと川の水だけなんてこともある。とにかく、会社として成立しているのかどうか怪しいぐらいハチャメチャな状態であり、企画力と行動力があったからと言って、よくもまあ「日本ツーリスト」に仕事を依頼しようというところがたくさんあったものだと思う。

修学旅行の話が多く登場するのだけど、当時の修学旅行の凄まじさたるや、半端ではない。普通に鉄道で旅行すると、東京から京都まで20時間も掛かるという。「臨3311」はその時間を大幅に短縮したことで活況を呈することになる。また、いろは坂がまだ整備されていなかった箱根は、車や電車では越えられず、ケーブルカーに分乗して超えていたという。交通公社が見込みで客を取りまくるために、当日まで生徒用の席がきちんと確保されているのか分からない。取れていない時は添乗員があらゆる方策を考えて走り回らなければならない。さらに、同じ宿に別の高校が宿泊する場合、喧嘩が勃発しないように宿を見まわりするなんていうようなことが、旅行代理店の仕事だったりするのである。しかも、修学旅行のシーズンは集中している。だから添乗員は、毎日のようにそんな殺人的な添乗を繰り返さなければならない羽目になる。

現代より交通事情が悪く、また生徒の数が圧倒的に多かっただろうとは言え、とても信じられないような話ばっかりだ。とはいえ、修学旅行生というかなり大きな団体をまとめて輸送出来るということは、会社の実力を示すことにもなるし、なによりも社員たちの成長のいい機会にもなる。「日本ツーリスト」は、修学旅行によって鍛えられたと言ってもいいだろう。

創業者がみな、旅行業界に無知だったということも、彼らの成功を語る上で大きな要素だろう。そもそも日本の交通は、交通公社や国鉄が圧倒的な力を持っていたのであり、そことどう関わるかで話が大きく変わってくる。多くの旅行会社は、交通公社の向こうを張ってもムリだろうと、恐らく最初から諦めていたことだろう。しかし無知な彼らは、そんなことおかまいなしに、とにかく情熱で押し切っていく。創業間もない、まだなんだかよく分からない状態の「日本ツーリスト」が、「臨3311」を開放させたのは、だから快挙なのである。

資金繰りもムチャクチャである。営業所単位の独立採算というのもハチャメチャだが、それだけじゃない。彼らは旅館などに、現金ではなくクーポンで支払いをしていた。旅館が、クーポンをいつ現金化してくれるのかと「日本ツーリスト」側に詰め寄ると、彼らは、「それはそれとして、別にお金を貸してくれないか?」と聞いたという。どれだけ厚顔無恥ならそんな真似が出来るのだろうか、と思うのだけど、彼らには「日本のトーマス・クック社になる」という目標がある。道の進み方はともかく、たどり着く先は素晴らしい場所であるという確信があったからこそ、彼らは手段を選ばなかったのだろうなと思う。彼らには、ここだという、明確なたどり着きたい場所があった。その場所に行き着くためなら何でもやってやる、と思っていたことだろう。

だから、近鉄交通社との合併、という選択もした。
彼らとしては本当は、「日本ツーリスト」だけでやりきりたかっただろう。しかし、日本全国に営業所を展開するにはどうしても金が要るし、どれだけ営業を掛けて注文を取りまくっても、常に金はない状態だった(後年、近鉄交通社と合併した際、近鉄交通社側から派遣された経理担当者が「日本ツーリスト」の経理のザルさを知り唖然としたという)。彼らは、目指すべき場所に行き着くために、名を捨てた。肩書きさえ別になくなったっていい、と思っていたが、近鉄側の佐伯がその辺りのことはうまく収めた。

本書では、近鉄交通社側の創業ストーリーも描かれる。こちらもなかなか面白い。優秀なアイデアマンが、電鉄会社が旅行会社も兼務するという発想を推し進め、さらに様々なアイデアを出しまくって軌道に乗せていく。親会社があるが故に、手数料をさほど取らないというやり方で成長しており、「日本ツーリスト」の定価があってないようなやり方はカルチャーショックだった。

社風もまるで違い、野武士のように突っ走る「日本ツーリスト」に対して、近鉄交通社側は慎重で丁寧。この二社が合併するというのだから、それはそれは大きな混乱が待ち受けているのだけど、その辺りの話も非常に面白い。

馬場には、ビジョンがある。ただ、金持ちになりたいとか、有名になりたいとか、そういうことでビジネスをやっているのではない。馬場は、修学旅行をより良いものにするために、教育委員会の人間と膝を突き合わせ、修学旅行の研究会を設立し、また、教師を啓蒙するために研修旅行を企画したりする。「一日に四度飯を食え」が口癖で、三食に加えて書物という食事を摂れ、という意味である。大口の注文を受ければ日本中どこへでも駆けつけ、苦しい時に受けた恩は決して忘れなかった。信用などゼロだった「日本ツーリスト」がここまで成長できたのも、彼らの情熱を面白がり、しかしそこに真剣な眼差しも感じ、彼らに感化されるようにして支援を申し出た数多くの人々の支えがあってこそだ。情熱は人を動かすという好例を見せつけられた思いだ。

情熱以外、何も持たなかった男たちの突進劇である。無茶を無茶と思わず、無理を無理と感じない野武士たちが、平原のように何もないところから、新しい”旅行”の形を次々に生み出していった。日本人が、国内はおろか世界各国に旅行する習慣が持てているのも、「日本ツーリスト」が先鞭をつけ、それまで日本にはなかった形の”旅行”を定着させてくれたからかもしれない、とさえ思えてくる。素晴らしい男たちの物語に、強く心を動かされた。

城山三郎「臨3311に乗れ」


 | ホーム | 

プロフィール

通りすがり

Author:通りすがり
災害エバノ(災害時に役立ちそうな情報をまとめたサイト)

サイト全体の索引
--------------------------
著者名で記事を分けています

あ行
か行
さ行
た行
な行
は行
ま行
や行~わ行

乃木坂46関係の記事をまとめました
(「Nogizaka Journal」様に記事を掲載させていただいています)

本の感想以外の文章の索引(映画の感想もここにあります)

この本は、こんな人に読んで欲しい!!part1
この本は、こんな人に読んで欲しい!!part2

BL作品の感想をまとめました

管理人自身が選ぶ良記事リスト

アクセス数ランキングトップ50

TOEICの勉強を一切せずに、7ヶ月で485点から710点に上げた勉強法

一年間の勉強で、宅建・簿記2級を含む8つの資格に合格する勉強法

国語の授業が嫌いで仕方なかった僕が考える、「本の読み方・本屋の使い方」

2014の短歌まとめ



------------------------

本をたくさん読みます。
映画もたまに見ます。
短歌をやってた時期もあります。
資格を取りまくったこともあります。
英語を勉強してます。













下のバナーをクリックしていただけると、ブログのランキングが上がるっぽいです。気が向いた方、ご協力お願いします。
にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村

アフィリエイトです

アクセスランキング

[ジャンルランキング]
本・雑誌
13位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
和書
11位
アクセスランキングを見る>>

アフィリエイトです

サイト内検索 作家名・作品名等を入れてみてくださいな

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

月別アーカイブ

Powered By FC2ブログ

今すぐブログを作ろう!

Powered By FC2ブログ

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

カウンター

2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)