黒夜行

>>2015年10月

ライジング・ロード(高嶋哲夫)

内容に入ろうと思います。
野口陽子は、五ヶ月前までオリエント電気という日本を代表する大手電機メーカーで半導体を研究していた。しかし今は、東北科学大学という、宮城県三陸日之出町にあるお世辞にも偏差値が高いとは言えない大学の校門をくぐっている。
陽子の新しい職場だ。
陽子は、前の職場での理不尽な状況に我慢できず、勢いで仕事を辞めてしまう。陽子は研究者としては優秀だったが、きちんとした実績があったわけでもないので再就職にはかなり難航した。シングルマザーとして一人娘である加奈子を育てているのでなおさら辛い。どうにか紹介で、この東北科学大学の非常勤講師の口にたどり着いたのだ。
ここで陽子に与えられた課題は単純明快だ。ソーラーカーレースで勝つこと。予選を突破できれば講師に昇格。全国大会への出場権を手に出来れば准教授。さらに全国優勝すれば教授である。
陽子に与えられたものは、ソーラーパネルを何枚か買ったらなくなってしまう程度の200万円の研究費とハイスペックなパソコン、そして学内一アカデミックで偏屈な谷本という教授。学生が一人もいないので、まず学生を集めるところから始めなくてはならない。車を作った経験もなければ、プログラミングも出来ない。こんな状態で、どうやって三ヶ月後の予選に出場できるのか…。
しかし、やるしかない。娘ときちんと生活していくためにも、ここでなんとかやっていくしか…。
というような話です。

なかなか面白い作品でした。これまでよく、ロケットを作る話は結構読んだことがあるんですけど、ソーラーカーを作るっていうのはなかなかなかったんで、題材としてまず面白かったというのがあります。ソーラーカーのレースなんてのがあるのも知らなかったし、恐らく企業も(オリエント電気のような大手が参加しているかは分からないけど)参加しているんでしょう。そこで、決して知名度の高くない大学が参戦して健闘する、という物語は、大学生の青春物語としても、弱者が強者に挑む物語としても面白く読めました。

陽子の元に集まってきた面々が、なかなか魅力的なんです。偏差値の高くない大学だから、やっぱり学力の高い人間はほとんどいない。正直、やる気のある人間もほとんどいなかった。落としそうな単位を取れるようにしてあげるとか、必ず単位をくれると聞いたからとか、そんな理由で集まってきたような連中ばっかりだ。銀行に勤めていたが大学に入り直した大塚という年配者が唯一まともなぐらいで、後は使えそうにないような面々ばっかりだった。
しかし、ソーラーカーレースは、科学の知識があれば勝てるというものでもない。
そもそもからして彼らに大きなハンデとなっていたのは、研究費の少なさである。たった200万円でレースに勝てるソーラーカーを作れというのは無謀に等しい。とはいえ、大学としてもギリギリの額で、これ以上は望めない。だから彼らは、自分で金を作り出すことに決めるのだ。そのやり方は様々だが、メンバーが、それまでの経験や技術、またアイデアを駆使して、あらゆるやり方を試みて金を集める。
また、ソーラーカーレースで上位常連校の大学を見学させてもらう時があった。陽子ははっきりと、その大学から盗めるだけ様々な知見を盗もう、とみんなに発破を掛けた。絵の巧い者、分からない部分をしつこく質問する者、試乗させて欲しいと粘る者など、とにかく自分の出来る範囲のことを目一杯やることで、彼らは徐々に個性と存在感を示していく。
やがて彼らは、自分からどんどん動く、とても優秀な学生に変わっていく。誰もが、自分が持っている能力や、身につけようと思えば身につけられる技量なんかをフルに活用して、チームの一員として全体を盛り立てていく。インタビューの受け応えが上手い者、運転の上手い者、無謀な目標に臆せず突き進める者。

そして、そのチームを束ねるのが、陽子である。
確かに、ソーラーカーという素材そのものに、魅力があったことも確かだ。高度な技術力が必要なので町工場の人を巻き込んだり、高性能のソーラーパネルを手に入れたりと、周囲の協力を得られたのも、ソーラーカーという素材が持つ引力という側面も大きい。しかしやはりそれだけではなく、陽子の存在は非常に大きいのだ。

陽子としては、負ければ即プロジェクト終了という、常時背水の陣のような状態なので、無茶でもなんでもその無茶を通すしかない。しかし、チームの面々にはそんな事情を伝えていないから、学生からすれば、陽子はただただ熱い人間に思える。無謀なほど熱い人間に。学生たちは、そんな陽子の姿にどんどんと感化されていくのだ。

『とにかく優勝すること。この学生たちを頂点に立たせてやりたい。そして自分もそいの仲間でいたい、という気持ちのほうが大きくなっている』

始めこそ、自分の未来のために学生たちを駆り立てさせていた陽子だったが、次第に、本心から、このチームを愛するようになっていく。みな、陽子と同じかそれ以上にこのプロジェクトに思い入れを持っていて、時には陽子がストップを掛けて止めさせなければ危ないと思えるほど突っ走るようになる。

陽子を始め彼らチームには、何も無かったところからやり遂げた、という自負がある。大学側も、十分に支援してくれたとは言えず、それでいて成果だけ求めてくる姿に反発する力もそれにプラスされたかもしれない。陽子は、研究者だったとは言えソーラーカーにはド素人。他の学生は、学力的には酷いものだ。それでも、初出場にも関わらず、上位チームからライバル視されるだけのソーラーカーを作り上げた。そんなことを成し遂げた彼らが徐々に自信を持つようになる過程は面白い。

僕は大学時代に演劇をやっていた。小道具を作るセクションにいて、椅子だのテーブルだの馬車だのを作った。みんなで一つのものを作り上げる面白さとか喜びみたいなものは、経験として知っている。こういう物語を読むと、大学時代のことを思い出すから、余計に共感できるのかもしれない。

さて、この物語、宮城県が舞台になっていて、そして東日本大震災が関わってくる。ちょっとネタバレになってしまうけど、書いてしまおう。後半彼らは、レースを半年ぐらい後に控えたタイミングで、東日本大震災の被害を受けるのだ。多くの人を助け、高台に避難し、多くの人が亡くなり、瓦礫の山を掻き分け、寒い避難所で眠り、そんな中、彼らはソーラーカーのことを忘れない。大津波がくると言っているのにソーラーカーも避難させようとするし、被災者として不自由な生活を強いられているにも関わらず、ソーラーカーレースを棄権するつもりはない。彼らのソーラーカーは、地元では有名な存在になっていて、だから彼等がソーラーカーレースに出場することが、はっきりと目に見える形での”前進”を意味することなる、ということも大きかっただろう。彼らは、ただ自分たちのワガママを押し通してソーラーカーのプロジェクトを進めるのではなく、やはり周りの人の支援や協力の中で、復興のシンボルであるかのような形でプロジェクトを進めていくのだ。自分たちも被災していて大変な中で、多くの人がソーラーカープロジェクトに協力してくれる。彼らのソーラーカープロジェクトは、そこまで大きな存在になった。陽子はよそ者であり、チームの面々も三流校の大学生だ。そんな彼らのプロジェクトが、大きな存在になっていく。多少物語に都合のいい部分はあるけれども(特に、ソーラーパネルをあんな形で手に入れられるというのは、ちょっと都合良すぎる気がするけど)、とはいえ、あまりムリのない範囲で、無謀な挑戦が成功へと繋がるように物語が描かれていく。

学生がちょっとしたチャレンジをする青春小説として、シングルマザーの女性が生活をかけて奮闘する物語として、そして当たり前にあった日常があっさりと失われてしまう震災の物語として、なかなか読み応えのある作品だと思います。

高嶋哲夫「ライジング・ロード」


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任侠スタッフサービス(西村健)

内容に入ろうと思います。
この物語は、大きく前編と後編に分かれている。
前編は、連作短編集のような趣だ。7人の一般人が主人公となり、彼らがどのようにして”取り込まれていく”のかを描いていく。
たとえば、最初の”獲物”は、「いいだツアーズ」という小さな旅行会社を経営する飯田だ。社員は飯田を含めて三人だけ。しかも、飯田以外の二人は、やんごとなき理由によって退社してしまっていた。まあ一人でものんびりやるさ、と思っていた矢先、飯田は恐怖の電話を受けることになった。
『飯田さん。ウチよ、ウチ。今年も頼むけんねっ、いつもの通り』
忘れてた!「レディース・ケア」という会社の社員旅行のことを。要求が我儘なオバサンたちの相手に毎年疲弊するのだ。とても一人じゃムリだ。
そこで飯田は、臨時雇いを募集することに。すると、「倶利伽羅紋々サービス」という怪しげな名前の派遣会社から、恐るべき好条件で2名確保出来ることになった。
やってきた二人は、折り目正しい優秀な男たちだが、何故か真っ白い手袋をしているのが気になる…。
と、実はこの「倶利伽羅紋々サービス」という会社は、「馬場一家」という地元ヤクザのフロント企業だったのだ。何故か色々あって、飯田は「倶利伽羅紋々サービス」のメンバーの一人に組み込まれてしまったのだが…。
旅館の経営者、コンパニオン会社の女社長、長距離トラックの運転手など様々な一般人が、「倶利伽羅紋々サービス」と関わりを持つことになる。みな、相手がヤクザだと知り、興奮や恐怖など様々な感情を抱くが、一様に、「馬場一家」が一体何をしようとしているのか、そして自分たちが何をさせられようとしているのか、それに皆目見当がつかず、気味悪がっている。
後半は、そんな風にして「倶利伽羅紋々サービス」に取り込まれていった人たちの動向を中心に、「馬場一家」や警察の動きまでもが描かれ、福岡を舞台に何か大きなことが起ころうとしている…。
というような話です。

これは面白かったなぁ。読みやすいエンタメ作品で、ストーリーにも工夫がある。前編では、ヤクザがどうやって一般人を巻き込むのかという手練手管が見事だし、後半の一般人・ヤクザ・警察の三つ巴の展開もとても面白い。ヤクザ小説、警察小説というほど堅苦しくなく、それでいて、特にヤクザの描写はヤクザがどんな世界に生きているのかが伝わるような感じになっている。描かれるヤクザが、地元を中心とする小規模なヤクザである、という設定も活きているのだろう。ヤクザらしい激しい描写ももちろんありながら、ヤクザらしくない、人情とでもいうような描写も実に多い。魅力的な親分を筆頭に、きちんと組織された集団で、ヤクザなんだけど良い人たちだなぁ、という感想が浮かぶ人が多いだろうと思う。

前半では、様々な人間が「倶利伽羅紋々サービス」に取り込まれていく。読者には、「倶利伽羅紋々サービスが何らかの理由で一般人を集めているのだな」ということは分かるんだけど、まさにいま取り込まれている人たちには、なんでそんなことになっているのかよく分からない、という状態にある。非常に強い警戒心を持って接する人間もいるのだけど、それでも彼らに丸め込まれてしまう。目的を持って行動に移す時のヤクザの手腕の高さ、みたいなものがよく分かる。
とはいえ、ヤクザらしいムチャクチャなやり方もある。飯田の場合など、自分のところの若いのを飯田の旅行会社に派遣して、実際にそこで業務に当たらせる。何故かゲイの世界に引きずり込まれた人間もいる。何故か人が殺される瞬間を目撃しそうになった人間もいるし、本物の賭場を見ることが出来て興奮している者もいる。7人とも違った、個性的なストーリーが展開されていて、なかなか読み応えがある。

そして後半。「馬場一家」にとって必要な面々が揃ってからの話もまた良い。この後半のストーリーを具体的に書いてしまうわけにはいかないから、どうしてももどかしい感じの文章になるけど、三者三様の思惑が、最後ある一点に集中して、見事一番状況を読みきった者が勝利する、という流れになっている。読者の側も、何がどうなっていくのか、分からないだろうと思う。集められた一般人は、自分たちが何故集められたのかという推理合戦をするために集まったり情報収集したりする。ヤクザの面々は、彼らを集め終わると何故かあまり動かなくなってしまう。警察は、「馬場一家」に標的を絞り、彼らの壊滅を目指して作戦行動を遂行する。三者の思惑が同時並行で描かれていき、最後の最後ですべてが明るみに出る、という流れである。なかなかよく出来た物語だと思う。

本書がいい話だなと思うのは、「馬場一家」というヤクザたちが非常に良い感じで描かれているからだろう。一人、ちょっととんでもないのがいるのだけど(その人物にしても、まあ芯から悪人なわけではない)、大抵「馬場一家」の面々は良い人たちである。”ヤクザ”という稼業についている以上、それを理由に避けられる存在であることは仕方がないと思うのだけど、”ヤクザ”という見方を外して付き合えれば、気持ちの良い人たちだ。

しかし、当然ではあるけれども、やはり一般人の側はそうはいかない。”ヤクザ”というだけで緊張感を抱かざるをえない。何をされるのだろう、どうなってしまうのだろう。理屈ではない部分で動いているだろうから、「何がどうなってもおかしくない」という恐怖がこびりつくことだろう。なかなかそれを払拭することは出来ない。実際に、危険な目に遭うこともあるのだ。全体的に人間的には良い人たちなのだけど、”ヤクザ”であるということの緊張感は捨てきれない。そんな緊張感が、作品をだらけさせない。

しかしそれにしても、「馬場一家」の面々は素敵だ。彼らが普段なんのシノギで生きているのかよく分からないけど、あんな感じでちゃんとヤクザをやれているのか心配になるほどだ。しかし、あくまでもこの物語は、一般人視点で見たヤクザの話だ。「馬場一家」にしても、一般人から見えないところでは、それなりにヤクザとしてちゃんとやっているのだろう。本書は、そういう「一般人から見えない部分」についてはほとんど描かれないので、人によっては物足りなく感じるかもしれない。

いずれにしても、エンタメとして非常によく出来ていると思いました。とにかく読みやすいし、面白い。ヤクザの世界をほとんど知らなくても(もっと言えば、ヤクザの世界に興味がなくても)、全然楽しめます。博多弁の会話も、シリアスな会話をしているのになんでかユーモアな感じになってしまうようなところがあって、楽しく読めます。気楽に読める作品です。是非読んでみてください。

西村健「任侠スタッフサービス」


だれもが知ってる小さな国(有川浩)

今でこそ、かなりたくさんの本を読んでいるけど、子供の頃から本好きだったわけではない。本好きの子供が絶対に通るような鉄板的な本を全然読んでこなかった。星新一とか江戸川乱歩とか、児童文学一般とか。小学生の頃は、「ズッコケ三人組」しか読んだ記憶がない。
だから、「誰も知らない小さな国」という、コロボックルの物語も、一度も読んだことがない。
子供の頃から国語の授業が大嫌いで、マンガも読まず、ゲームもやらず、アニメを見るわけでもないという生活をしていたので、日常の中でファンタジー的な要素が入り込んでくることがほとんどなかったような気がする。空想をするようなこともなく、だから僕には、コロボックルという存在が魅力的であるということがうまく理解できないでいる。いや、実際にいて、自分の目で見ることができるなら、テンションが上がるだろう。でも、たぶんいないだろうと思ってしまうし、「いるかもしれない」という風に自分の気持ちが高まることはちょっとない。
本当は、そんな反応が出来る人を羨ましく思うこともある。空想的な存在を、リアルな質感で捉えることが出来る人はいいなと思う。本当は、そういう感覚がある方が、本書に限らず、本全般を楽しく読めるんだろう、という気はする。そういう意味で、自分はちょっとつまらない人間だなぁ、と思う。
コロボックルがもし存在するとして、「大人になるまで喋ってはいけない」という約束を守れるだろうか、と考える。友達になるために、そんな条件を課してくる奴はちょっと嫌だな、と思うかもしれない。そりゃあコロボックルの側も、人間に酷いことをされてきたんだろう。慎重になって当然なのかもしれないけど、なんだかなぁ、という気がしなくもない。どうもコロボックルに対して冷めた見方をしてしまうなぁ(笑)。別に敵視しているわけではないんだけど。
どうせ空想なら、技術の延長上の空想が好きだ。テレポーテーションは、原子レベルではもう実現化されているし、透明マントも実現するだけの理論的な素養が出来ている。ナノレベルの技術が、かつては考えられなかった様々な進歩を生み出しているし、理論上タイムトラベルも可能らしい。今は実現不可能だけど、未来には誰かが実現しているかもしれない。そういう空想の方が、僕は好きだなぁ、と思いました。

内容に入ろうと思います。
「はち屋」というのは、養蜂家のことだ。ヒコははち屋の息子で、季節ごとに様々な蜜を取るために、蜂と共に移動しながら生活している。当然、小学生のヒコは季節ごとに学校を転向することになる。はち屋の息子はタフネスなのだ。
東北での生活が終わり、毎年夏は北海道で過ごす。毎年同じ学校に転校するので、挨拶もあっさりしたものだ。しかし、今回はちょっと違った。まったく同じ時期に、女の子の転入生がやってきたのだ。名前はヒメ。ヒコと同じ、はち屋の娘だ。可愛いヒメは、すぐにクラスの人気者になった。ヒコもヒメと仲良くしたかったが、ドッジボールでボールをヒメの顔面にぶつけたことが気まずくて、それ以来うまく話せないでいた。
ある日ヒコは、小人と遭遇することになる。コロボックルのことを知らなかったヒコは驚いた。その後、急激に仲良くなったヒメから「誰も知らない小さな国」のことを聞き、夢中で読みふけってしまう。
はち屋の少年少女と、小さな小さな小人たちとの交流を描く物語。
有川浩はやっぱり物語を紡ぐのが巧いなと感じます。僕自身、冒頭で書いたように、コロボックル自体にはさほど興味がないんですけど、有川浩の物語はスイスイ読めてしまいます。コロボックルという存在ときちんと向き合い、それ故に社会の中で若干の苦労を強いられる人々の物語は、大きく盛り上がりを見せるわけでもないのだけど、面白く読めてしまいます。
はち屋、という設定がまず実に良いなと思います。職業の取り上げ方は、三浦しをん的だなと感じます。普通の人が描かなそうな職業の人にスポットを当てる。はち屋もそうで、僕は本書を読むまで、はち屋が季節毎に移動していることを知りませんでした(すべてのはち屋がそうなわけではありませんが)。そして、はち屋であるということが、物語上重要になるシーンもいくつかあって、そういう部分も良く出来てるなと感じます。しかしほんとに、季節ごとに転校しなきゃいけないとか、大変だろうなぁ。
主人公のヒコは、ごくごく普通の少年ですが、ヒメの方がなかなか魅力的な存在として描かれています。都会から来た可愛い女の子、の割に男子に混じっても臆することがないし、大人に対しても自分の意見をはっきりと伝えることが出来る。ヒコが、何が正しくて何が間違っているのか迷っているような場面でも、ヒメはすぐに自分の意見を伝えることが出来る。そういうところは素晴らしいですね。
作中でコロボックルが大ピンチに陥る場面があるのだけど、そういう場合でも、ヒメは自分が出来る範囲の中で精一杯努力して考えてやれることを探す。子供だから、という言い訳に逃げないで、何か出来ないかと奮闘する。子供の頃は女の子の方がしっかりしてるものだろうけど、それにしてもヒメはよく出来た女の子だなと思います。
物語の途中で、ミノルという青年と出会うのだけど、ヒコ・ヒメ・ミノルの三人の関わり方も実に良い。こういう人間関係は、なかなか大人になると難しくなってしまう。子供だからと言って必ず生み出せるわけでもない。ヒコとヒメが、とても気持ちの良い子供で、ミノルも実に気持ちの良い大人だったからこそ成り立ち得るのだろう。
基本的に、悪い人間がほとんど出てこない物語だ。それは、「誰も知らない小さな国」という、原案あっての物語だから、という理由もきっとあるだろう。原案を汚すような真似は出来ない、という配慮があるのではないかと思う。そういう意味で、若干の物足りなさを感じる部分はある。ある見方からすれば悪いことをしようとする大人は出てくるのだけど、しかし完全に悪いわけではない。善人しか出てこないために、物語の起伏がなだらかになっているという部分もあるだろう。とはいえ、ある程度は仕方ない部分だろう。
僕自身が、そもそもファンタジーというものにあまり関心がないために、そこまでテンションが上がる物語ではなかったのだけど、有川浩らしいよく出来た物語だなと感じました。

有川浩「だれもが知ってる小さな国」


仮縫(有吉佐和子)

内容に入ろうと思います。
戸田洋裁学院に通っていた清家隆子は、ある日、院長に呼ばれる。なんでも、松平ユキという女性が、隆子に会いたがっているというのだ。
松平ユキというのは、日本にただ一軒だけ存在する、オートクチュール専門の店を構えている女性だ。「オートクチュール・パルファン」という店のことを隆子は知らなかったが、自分の何かが誰かの目に止まったのだということは意識された。
そうやって隆子は、松平ユキの元で働くことになったのだ。
スカウトされたのだという期待を胸に「オートクチュール・パルファン」に出向くが、しかしそこで隆子は、自分が縫い子の一人であるという現実を知る。しかし、そこに在籍していた幾人かの縫い子の素晴らしい技量を見て、隆子は決心する。何でもやって、この人たちの技を盗もう、と。
オートクチュール・パルファンでは、仮縫を三度もする。仮縫とは、ざっと縫った状態のことだ。お客様に着せた状態で仮縫をし、形を調整していく。その間、いかに高級マダムたちを飽きさせないか。オートクチュール・パルファンでは、縫い子の技量だけではなく、的確な会話力や多方面に渡る知識が要求される。
松平ユキの弟だという信彦、松平ユキとどういう関係なのか判然としない相島。それまで隆子がいた世界にはいなかったタイプの男性と関わりを持ちながら、隆子は次第に、大きな野望を内に秘めるようになっていく…。

というような話です。
これは面白い作品でした。1963年、東京オリンピックに向けて日本中がまっしぐらに突っ走っていた時代に書かれた作品なのだけど、驚くべきことに、今読んでも古さをまったく感じない。作中に、明確に時代背景を表すような具体的な要素がないことも大きいかもしれない。銀座の街並みなんかは描かれるけど、それ以外はファッションの話が主だ。ファッションの、それもかなりセレブな人たちのファッションの流行の歴史を知っている人ならば、この作品から時代背景を読み取ることも出来るのかもしれないけど、そうでもなければ、本書の記述から具体的に何年頃の作品なのかを判断するのは難しいと思います。それぐらい、本書には時代をはっきりさせる要素がない。
それでいて、時代の雰囲気、と言ったようなものは感じさせるのだからお見事という他ない。僕は、読んでいる最中は、本書が1963年に書かれたことを知らなかったけど、有吉佐和子という作家が結構昔の作家だという知識はあったから、舞台設定が現代ではないということは知っていた。読みながら、日本が良い状態の頃の話なんだろうなぁ、というのはひしひしと感じるのだ。マダムたちが高いドレスを買い、銀座は浮足立つような雰囲気をたたえ、映画が時代の最先端として流行を発信する。そういう時代の力強さみたいなものは、読みながら強く感じさせるのだ。

『世の中では若い者ほど権利が主張できるのに、パルファンの縫製室には封建的な気分が濃厚だった』

こんな描写も、時代の面影を感じさせるだろう。現代が舞台であれば、よほどノーテンキな若者を描かない限り、こんな表現は出来ないだろう。
僕は、昔の作品を読むと、どうしても文章が頭に入ってこなくなってしまう傾向がある。古典と呼ばれるほど古い作品でなくとも、松本清張なんかでさえダメだ。文章が古く感じられてしまったり、時代背景をよく知らなかったりで、どうもきちんと読めない。しかし、本書ではそんなことはまったくなかった。オートクチュール・パルファンという、非常に狭く閉ざされた小さな世界が舞台になっているからかもしれない。外界が描かれるのは銀座や新宿での夜の描写ぐらいなもので、後はパルファンの裁縫室だのパルファンの店内だの、そういう閉ざされた空間での物語だ。また、著者が書く文章の若々しいこと。現代でも十分に通用するほど堅さの取れた文章で、非常に読みやすい作品でした。

本書では、隆子が非常に魅力的な人物として描かれていく。
初め隆子は、オートクチュール・パルファンでまったく勝手が分からないまま右往左往することになる。しかし、すぐに仕事に魅了されてしまう。それは、縫い子たちのレベルが高くて、同じレベルになりたいという実技面にモチベーションもあったわけだけど、同時に、野望という意味でのモチベーションもあった。
それに一役買っているのが、松平ユキの弟である信彦である。
信彦は、姉の成功に寄生してダラダラ生きているだけの男だったが、ある時隆子に、オートクチュール・パルファンの秘密を教えてくれた。何故オートクチュール・パルファンでは、貴婦人たちが大金を落としていくのか。信彦の説明を聞いて、隆子はそんな世界があるものかと新鮮な驚きで満たされることになる。そして、自分でもそんな世界を作ってみたい、と思うようになるのだ。
そんな折、オートクチュール・パルファンではちょっとした事件が起こるわけだけど、結果的にそれは隆子の出世を後押しすることになる。隆子は新入りながらも、松平ユキから目を掛けられ、トントン拍子で階段を駆け上がっていくことになる。
隆子はオートクチュール・パルファンで働くようになって、どんどんと変わっていく。かつては、洋裁学校に通う取り立てて何ということもない少女だったのが、目標や野心を持ち、裏表を使いこなし、先の先まで考える非常にしたたかな女性となっていく。時代の風潮も、それを後押ししたことだろう。当時、女性がどれだけ社会進出していたのか、僕には分からないけど、戦争の災禍が一段落つき、新しい時代に向かって国全体が突き進んでいく時代の中で、女性も活躍の場を広げていったことだろう。そういう流れにもうまく乗って、隆子は自分自身をより高くより遠くへと羽ばたかせようとする。女性の活躍が制限されている世の中では、隆子の想像の翼もそう遠くへは広がらなかっただろう。隆子は、技術と、時代の流れと、そして運を身にまとい、ファッション業界の荒波に立ち向かっていく。

隆子は非常にしたたかだが、それがいっそ清々しいくらいで、見ていて気持ちがいい。周りに厳しく当たったり、態度が大きくなったりもするのだけど、しかし隆子は、人一倍努力もしている。彼女の振る舞いが、その努力に裏打ちされていることを感じるからこそ、彼女に対する嫌悪感はほとんどない。むしろ、応援するような気持ちも芽生える。

『私はこの店が欲しい!』

こういう素直で真っ直ぐな気持ちが随所に現れていて、彼女の内面の躍動をかんじさせる。

『間もなく私はこの人にとって代るのだという意識がある』

この自信。本当に、いっそ清々しいのである。

オートクチュール・パルファンというのは、ある種の虚業だ。良い服を作る、という以上の虚飾によって成り立っている世界だ。この「虚飾である」というのは、ある意味本書を通底するテーマであると言ってもいいかもしれない。信彦という存在も、相島の仕事も、そして隆子の人生さえも、すべて「虚飾」であると言って言い過ぎではないかもしれない。特に、隆子の人生の「虚飾っぷり」については、凄まじいとしか言いようがない。もちろんそこには、松平ユキの存在が密接に関わってくるわけだけど、隆子は非常に不可思議で一筋縄ではいかない世界に飛び込んでしまったのだと、後々で気づくことになるのだ。

『一般に名が知れるのを有名というようだけれど、それは低くポピュラーになるだけでね』

まったく違う文脈で松平ユキの口から発せられたこの言葉が、隆子の未来を暗示していたかのようで、隆子が両足を突っ込んで突き進んでいくことに決めた世界の奇々怪々ぶりがわかろうというものだ。

また本書では、まさにタイトルにある「仮縫」が、様々な箇所で縦横無尽に使われる。本来は、正式な形にする前に一旦形を整えておくために仮に留めておく状態、ぐらいのことだと思うのだけど、それを、男あしらいを、店の経営を、そして人生そのものを描きだす比喩として使っている。

『つまり、”人生の仮縫”という考え方。私は仮縫をそんなふうに考えたことはなかったが、そういう考え方もあるのか、作家のものの味方はユニークだと改めて感じた。』

これは、解説を書いている森英恵の文章からの引である。森英恵は、生前の有吉佐和子と交流があったらしいが、有吉佐和子が本書を執筆した時にはまだ知り合っていなかったし、森英恵は本書を有吉佐和子の死後に読んだという。その世界の内側にいる人間として、様々に違和感を覚えもするけど、そうだとしても引っ張られて一気に読ませる力がある、と語っている。

『仮縫の間は、何度でも直しがききますからね』
『仮縫-それはなんという夢多い状態だろうか、と隆子は折に触れて思うのであった。仕立てあげてしまえば、それは隆子の手を離れ、パルファンを巣立ってお客様の洋服ダンスに納いこまれてしまうのだけれども、仮縫している間の、仕立て上がりを夢想しながら布の感触を楽しむ愉悦は、洋裁学校で自分のものを仕立てていた頃とは較べものにならないほどの胸がときめくほどの喜びがあった。』

仮縫は、未完成であり、まだどんな形にでも変えることが出来る可能性の詰まった状態である、という風に本書では繰り返し表現される。最後まで読むと、隆子の人生はこれからどうなるのだろうか、と思わずにはいられない。しかし、隆子は思う。まだまだ仮縫の時間だったのだ、と。そうやって隆子はまた前を向く。まだどんな形にでも変わる可能性がある仮縫状態の存在として、また隆子は一歩を踏み出していく。そんな力強さを感じさせる終わり方だ。

まばゆい世界でのし上がろうとする強い少女が、自らの才覚を信じて突き進んでいく物語。少女から女性へと成長していく中で、むくむくと成長していく野心抱き続け、大人の世界へ一気に駆け上がろうとする少女の奮闘が、読む者の気持ちさえも持ち上げていく。時代の雰囲気と相まって清々しく感じられる女性の成長記です。

有吉佐和子「仮縫」


「ボクは坊さん。」を観に行ってきました

幼稚園の頃、お寺に泊まる、みたいなイベントがあったと思う。幼稚園のすぐ裏手の斜面沿いの墓地があり、その上に寺がある。幼稚園の時、その墓地で肝試しをしたような記憶がある。
父方も母方も、共に祖父が亡くなった。父方の祖父の墓は、そのお寺にある。寺の名前は覚えていない。自分の家がそこの檀家なのかどうかも、自分の家が何宗なのかも知らない。葬式と、何回忌ってのと、あと墓参りに、たまに行った。
お寺と関わるのは、それぐらいしか記憶がない。

『お寺の仕事は、葬式だけではないんですよ』

主人公のお坊さんは、幼なじみにそう言うが、確かにそれ以外の印象はあまりない。
数ヶ月前、僕は青春18きっぷを使って主に西日本をうろうろする旅をした。その際、高野山に寄るプランも考えてはいた。一度行ってみたいような気はしていた。ただ、ルートを検討して、高野山は諦めた。その代わり、というのは違うが、伊勢神宮と出雲大社には行った。どちらもたぶん神社で、でも僕は、神社とお寺の違いもよく分からない。
これまで、寺の息子、という人間に何度か会ったことがある。高校時代の同級生、大学時代の後輩、バイト先の後輩。家を継いだ者も、どうしたのか分からない者もいる。また、高校の同級生で、寺に嫁いだ、という女性もいた。それがかなり大きなお寺で、僕も行ったことがあるところだったので驚いた。彼らは、日常の中に「お寺」というものが存在する生活をしている。それがどういうものなのか、興味はあるけど、なかなか知る機会はない。
かつて、「スリーピングブッダ」という小説を読んだことがある。お坊さんになるための修行を行う若者たちの物語で、実際どんな修行が行われるのかをリアルに描いている。また、「食う寝る坐る永平寺修行記」という本を読んだこともある。これは、坊さんになる修行を実際に行った人間が書いたノンフィクションだ。こちらも、リアルで面白かった。
そんな形で、少しずつ、寺というものと関わることはある。しかしそれは、ほんの瞬間すれ違うみたいな関わり方でしかなくて、ほとんど知らない。もっとお寺が身近にあるような生活をしている人もいるだろうけど、僕はそうではなかった。知らない世界のことを知ることには興味があって、そういう意味でお寺にも関心がある。

映画の舞台は、四国にある永福寺というお寺だ。お遍路で回る八十八のお寺の内、57番目のお寺である。主人公は、その永福寺に生まれた、現住職の孫である。高野山大学に学び、阿闍梨という位を得たが、今は地元の本屋で働いている。
現住職は、地元の多くの人に慕われているのだが、ある日倒れ、すい臓がんを言い渡される。それを機に、坊さんになるかどうか迷っていた主人公は、坊さん用に名前を変え、祖父の跡を継ぐが、坊さんの世界は知らないことの連続だ…。
というような話です。

映画として見た時に、ちょっと全体的に弱いな、と感じました。あまり知られていないお坊さんの日常を描く、というのは分かるんだけど、ちょっと内容にまとまりがないような気がしました。メインのストーリーとなるのは、幼なじみが関係する部分と、檀家の長老が関係する部分でしょうか。幼なじみのパートは、突発的な出来事により関係性が変わってしまう様を、そして檀家の長老のパートは、若くして住職になった主人公と、先代を慕う檀家たちの行き違いを描いている、という感じでしょうか。幼なじみパートは、ちょっとありがちなストーリー過ぎてちょっとなんとも言えなかったし、檀家の長老パートは、もう少し対立構造がはっきりするストーリーじゃないと入り込めないかなぁ、と思いました。
高野山大学時代の友人パートの話もあるんだけど、これは正直、なくてもストーリー全体には影響しないというか、なんでストーリーに組み込まれているのかイマイチよくわからない感じがしました。
そしてそれらの合間に、お坊さんの謎めいた日常的な話が組み込まれるんだけど、どうも中途半端な感じがしてしまいました。どうせなら、これらの「お坊さんあるある」をうまく発端にして全体のストーリーを組み上げられれば面白かったような気がするんだけど、これらの「お坊さんあるある」は、映画中で本当に挿入エピソード的な扱いなので、なるほどなぁと思いはするけど、映画の全体のストーリーの中で印象的な要素になれているわけではありません。
メインはやはり、幼なじみパートなんだけど、この幼なじみパートのせいで、「お坊さんという異世界に飛び込んだ主人公の葛藤」みたいなものが上書きされてしまっているような気がするのがもったいない気がしました。この映画は、僕の勝手なイメージでは、「突然お坊さんになってあたふたしている若い住職の奮闘」を描く部分に主眼があるような気がしたんだけど、幼なじみパートのエピソードがそれを全部かっさらって行ってしまっている気がします。お坊さんになったことへの葛藤よりも、ずっと仲良くしていた幼なじみへの心情が勝ってしまって、お坊さんになったことへの葛藤をうまく描ききれていないような印象を受けました。それでも、幼なじみパートが面白かったら別に問題はないんだけど、うーん、そうでもないと思うんだよなぁ。

なんとなく全体的に、もう少しやりようがあったような気がするので、ちょっともったいない気がしました。

「ボクは坊さん。」を観に行ってきました

さよならの余熱(加藤千恵)

何かを終わらせるのは難しい。他者が絡んでいるとなおさらだ。
「終わり」は、常に「点」なわけではない。ある瞬間を境に、「終わる前」と「終わった後」が区切られるわけではない。「終わり」は常にある幅を持っていて、「終わり」の予感をどことなく感じているものだ。
僕はその、本質的には終わっているんだけど形式的には終わっていない、みたいな時間が得意ではない。もちろん、得意な人はいないだろう。でも僕は、それを異様に嫌がる。
恋愛の話で言えば、僕はずっと、「終わりの予感」を相手に感じさせないタイミングで別れを切り出した。相手とすれば、青天の霹靂だっただろう。僕は、本質的に終わっている状況を、形式的に続けていくのがしんどいなと思ってしまう。けど、「終わり」というのはどうしても「点」にはならなくて、ある一定の幅がある以上、普通にしていると本質的な終わりと形式的な終わりは常に差が生まれることになる。
僕はそれが嫌で、強制的に本質的な終わりと形式的な終わりを一致させようとしてしまう。つまりそれは、本質的に終わる前に自らの手で終わらせる、ということだ。まだ続けられる、挽回も出来るかもしれない、という状態で、しかし先に終わらせてしまう。江戸時代、火事が発生したら、延焼を防ぐためにまだ燃えていない近くの家を壊してしまう、みたいなものかもしれない。
だから正直僕は、ちゃんと「恋愛の終わり」みたいなものを経験したことがないかもしれない。
本書は、様々な形で「恋愛の終わり」を描く短編集だ。一つ一つの話は独立しているが、時折登場人物が緩く重なることがあり、同じ世界観の中で起こっている出来事であることが分かる。
本書は、一遍は結構短い。20~30ページぐらいだ。それはちょうど、「終わりの幅」を描くのには合っているのかもしれない。終わりの予感を抱いている者も、終わりの予感をまったく予期していない者もいるが、みな、「終わりの幅」の中にいる。時間が経って、過去のことを振り返った時には「点」に見えてしまうかもしれないその時間は、まさに今それを経験しているという時には、十分な時間を持った「幅」である。感情が、ベターっと張り付いたような、べとべとした「幅」だ。

「つまらぬもの」
同棲しているササに、どうしても強く当たってしまう。頭の中では、そんな突っかかるようなことでもないとわかっているのに、どうしても。昔はそうじゃなかったはずなのに。私はササと、どうなりたいんだろう。

「特別な部屋で」
小竹原あおいは、大学時代からの友人で編集者である久実から頼まれて、脚本家である高瀬誠一を取材することになった。お互いに気が合い、飲みに行き、やがて仕事場で会うような関係になっていく。奥さんがいる人と。

「バンドエイド」
亜衣に誘われ、亜衣の彼氏の友人と四人で飲むことになった。すっごくいいやつだから、と言われているけど、どうにも彼氏を作ろうという気が私にはない。めんどくさいと思ってしまう。確かに、その友人は、良い人だった。亜衣の勢いに押されて連絡先を交換したが…

「タイミング」
結婚するという大学時代の友人と飲みに行く。教師になったというのが未だに信じられない。お前は?と聞かれて雅代のことを思う。雅代はどうしたいのだろうか?自分には、イマイチ雅代のことが分からない

「チョークを持つ手に」
地理の工藤先生に憧れている。憧れがバレないようには気をつけている。タイミングを見計らって職員室の前を通るけど、遭遇できるのは半々ってとこ。同学年の美少女・武本玲を見て、決断する。私も化粧をしようと。

「暮れていくだけ」
玲は12階の窓から外を見る。男に呼ばれて、抱かれて、朝2万円をもらう。援助交際してると噂されてるのは知ってる。実際、2万円もらってるわけだし。友達の家に泊まったといつも嘘をついている。ある日家に帰ると…

「彼氏さん」
美容院で髪をセットしてもらっている。美容師に聞かれ、あらかじめ用意しておいた、中学時代の同窓会があるのだ、という理由を告げる。本当は、今日、会いに行くのだ。終わりを納得させるために。

「電話をかける」
ルールはいくつか決めている。彼氏に対して無言電話を掛ける時のルールだ。自身の独占癖の強さを、いつだって持て余していた。相手が、何をしているのか、どう考えているのか、全部把握したくなってしまう。前の彼氏には、ウザいと言われた。

「解散の雨」
ハイポイという、好きだったバンドの解散ライブに来ている。彼氏とも、ハイポイの話題で盛り上がって付き合うに至ったのだ。私たちの間にはずっとハイポイがあった。最近あまりハイポイのアルバムを待ち遠しく思っていなかったけど、そうか、解散か。

というような話です。

加藤千恵は、雰囲気を実に巧く描きだすな、と感じました。
もう終わることが分かっていてそれを気取られないようにしている者、終わるのかどうか分からないけど終わり始めていることを悟っている者、終わらせるために敢えて辛い決断をする者、予期せぬ終わりを迎えたもの。様々な「終わりの幅」が描かれる物語なのだけど、淡々としながらも芯のある雰囲気を切り取っていく。一言では表現できない、というか主人公本人はうまく言葉に出来ないようなモヤモヤした感情を、自分も持っているかのような錯覚を読者に与える。主人公本人にも、なんだかわからない、どうしてだか分からないたくさんのことが、馴染み深いものであるように読者に感じさせる。これはかなり難しいことだと思う。言葉で直接的に表現すると、輪郭がくっきりしすぎて嘘くさい。かと言って、言葉にはっきり出来ないものは、読者にもうまく伝わらない。その狭間を実に巧く渡りきっているように感じました。
厳密に言えば、すべてが「終わりの物語」というわけではないんだけど、「終わりの幅」を基本的に描くという統一感は良かったし、それに「さよならの余熱」ってタイトルをつけるのも良いなと思いました。そう、「余熱」っていう表現は、なんかぴったり来る感じがしました。熱はもう加わってないんだけど、まだ熱は持っている。これも、「終わり」が「点」ではなくて「幅」であることを示す良い表現だと思いました。
恋愛の形には色んなものがあるけど、本書を読むと、恋愛の終わりの形も様々だなと感じます。もちろん、現実で起こるとしたらレアケースだなと感じるものもあるけど(無言電話をかけ続けるっていうのは、レアケースだと思う)、どれも割と、現実の世界で起こりそうな感じがしました。特に、これは個人的な趣味だと思うけど、唐突に終わってしまうパターンが好きでした。たぶん主人公も、「終わる」ということを認めたくないんだと思う。でも、終わらせなきゃいけないこともわかっている。そのせめぎあいの結果、脈絡がないかのように、唐突に終わる。「解散の雨」なんて、ホント秀逸という感じがしました。
西加奈子の解説も良い。

『彼女が描くのは、恋の始まりの淡い高揚や、小さくて、でも鋭角な痛み、終わりを知っているのに終わることの出来ない、ささやかな絶望であったりする。それは我々の、言葉に表すのは困難な、でも、確実に存在する感情なのだ』

『ぶっ飛んだ設定のSFやスペクタクルを描くのも作家の力量だが、確実にあるのに良いあ割らせないもどかしい感情を描くことこそ、作家の仕事だと思う。』

西加奈子の解説を読んでいると、適切だと感じる。加藤千恵の作品を、実に良く表現していると思う。
派手な展開はない。比較的淡々と、終わりなど起こらないかのように物語は展開していく。終わりの入口から出口までは案外長い。自分の感情の置き所がはっきりしないからなおさらだ。それでも、自分が進んでいる方向が”前”だと信じて、進んでいくしかない。きちんと、終わらせるしかない。「終わりの幅」を、彼女たちは、真っ直ぐに胸を張って歩いて行く。

加藤千恵「さよならの余熱」


聖域捜査(安東能明)

内容に入ろうと思います。本書は、一風変わった設定の警察小説です。
結城公一は、交番勤務だった頃のある経歴が原因でずっと刑事として配属されず、交通課と地域課を行ったり来たりする警察人生だった。それぞれの場所で真剣に仕事に取り組んだが、やはり捜査に関わることを夢見ていた。
そんなある日結城は、生活安全特捜隊、通称「生特隊」の主任となる。捜査一課などではなく落胆した。生特隊は、風俗や悪質な少年犯罪、商標権の侵害や密輸など、捜査一課で捜査する対象よりも見劣りする事件を担当する部署だった。いずれにせよ、念願だった捜査畑に配属された結城は、捜査未経験で主任という重圧を感じつつ、十五歳年上の部下である石井に捜査のイロハを教えてもらいながら、事件解決に邁進する。

「3年8組女子」
「3年8組女子」という名が、ネット上で知られるようになる。あちこちの出合い系サイトに出没しているという。売春は、生特隊の受け持ちだ。部内で「マユミ」という通称をつけて追っていたが、とある殺人事件の被害者が「3年8組女子」からメールを受け取っていたことを知る。生特隊の結城は、現場で彼らを邪険に扱った捜査一課を見返すために奮闘する。

「芥の家」
ゴミ屋敷への苦情が高まっている。市役所や保健所が、住人である母親の安否を気遣い何度も訪問するが、息子が応対し話が進まない。生特隊が、市役所や保健所の盾になって、強制的に中に入る、という話が進んでいる。結城には考えがあり、自分の部でそのゴミ屋敷を張り込ませていると、なんと息子が夜中に下着泥棒をしていることが分かるが…

「散骨」
とある住民の敷地に散骨が頻繁にされて困る、という苦情が生特隊に持ち込まれる。住人が許可を出しているので警察としては手出しが出来ないが、住人に、なるべく許可を出さないように頼んだ。その散骨場所で結城は、何故か年賀状の束を見つける。どうも、配送されないまま捨てられたもののように見えるが…。

「晩夏の果実」
休日、家族とショッピングセンターに買い物に着て、結城一人書店を見まわっていると、警察OBの警備員に話しかけられた。なんでも、万引き犯がごねているから警察手帳をちらっと見せてくれたらいい、というのだ。事務所まで行くと、万引き犯の女性は、車に母親が残っているから早く行かないと熱中症で死んでしまう、と嘘をついてこの場を去ろうとしているらしい。特に何をするでもなく立ち去った結城だったが…。

「贋幣」
結城の部下の一人である小西が、フェスでの見張り中、自分の財布から出した万札を眺めている。なんとその万札には、透かしがなかった。ハプニングバーで受け取ったものだ、と小西は白状し、偽札事件として捜査が始まった。偽札の捜査は捜査二課の領域で、生特隊は戦力と言えないような仕事をあてがわれているが、万札を手に入れてしまった小西は、自身の失態を取り戻すべく昼夜問わずひたすら捜査を続けている。
設定はなかなか面白いのだけど、物語の閉じ方があまり好きになれない作品でした。
すべての短編がそういう終わり方をするわけじゃないんだけど、どうも僕には、中途半端なところで物語が終わってしまう印象を受けました。特に、一番最初の「3年8組女子」は、「え?そんなところで終わるの?」と思うような話でした。連作短編集だということを知らないで読んでたので、この話はまだ続くもんだと思っていたら、次の話は全然違う状況なので驚きました。「3年8組女子」は、さすがにもう少し物語を続けた方が良かったような気がします。「芥の家」に対しても似たようなことを感じました。
逆に良かったのは「散骨」です。これは、本書のユニークな点を非常にうまく使いながら物語を展開させていると感じました。
本書では、捜査を担当するのが「捜査一課」などではなく、「生活安全特捜隊」という部署です。ここは、捜査一課などの花形部署から軽んじられていて、捜査の主導権も握られることが多い。副隊長が日和見の男で、生特隊の価値を下げてまで花形部署に頭を下げるのでなおさらである。
さらにユニークな点は、生特隊で一斑を預かる結城が、捜査の素人だということです。交番勤務の際、かたっぱしから様々な人間をしょっぴいた情熱こそあるものの、基本的に交通課と地域課を回って40歳になってしまったので、捜査のイロハが分からない。そこは、15歳年上の部下にそれとなく伝授してもらう、という形を取っているのです。

『問題はこれからだ。どう捜査を展開していけばよいのか。』
『困った。よりによって贋幣捜査。どこから手をつけてよいのか、さっぱりわからないではないか』

主人公がこんなことを言う警察小説は、そうそうはないでしょう。なかなか斬新だなと思います。
本書に収録されている五編はどれも、ちゃちぃ事件を発端にして、その背後にある大きな真相を暴き出す、という構造になっているのだけど、それが最も魅力的に発揮されている物語が「散骨」です。「散骨」では、冒頭で結城が、捨てられた年賀状を見つける。すべての発端はここからだった。そこから、いくつもの細い糸を辿りながら、結城は、誰も想像もしていなかったような事件に行き着き、それを解決する。さらにそれが、「散骨」ともうまく関わってくるわけだから、なかなか巧い。本書の中で、ダントツに巧い作品だなぁ、と感じました。
「晩夏の果実」も、発端と設定と着地点の妙が絶妙に絡み合って、良いと思いました。休日に見かけた万引き犯の話から、なかなか予想外の方向に話が進みます。ただこの「晩夏の果実」には、どう考えてもほったらかしのまま終わってる別の話があって、あれは一体なんだったんだろうなぁ、と思いもします。こっちの話もほどよく道筋をつけて終わりにしてくれないと、どうもしっくり来ないんだけどな、という感じがあって、モヤモヤする。
「贋幣」は、ちゃちぃ事件から驚くような真相を、というような形式とはまたちょっと違っていて、生特隊のメンツに掛けて、みたいな話でした。悪くはないけど、どうせならこれも、もう少し捻りを効かせて、物語全体の統一感みたいなものが出ると良かったかな、という感じがしました。
ある一定の枠組みが決まってしまっているような部分がある警察小説というジャンルに対して、独特の面白さを新たに持ち込んだ作品だという感じがします。派手な事件じゃなくても物語になるし、派手な事件ではないからこその展開もありうるのだ、ということを示したような格好です。ありきたりの警察小説とは違ったタイプの作品を読みたい方にオススメです。

安東能明「聖域捜査」


幸福な日々があります(朝倉かすみ)

『一緒にいたくなくなっただけだ』
ただそれだけの理由で、10年連れ添った夫との離婚を思い立ち、別居という行動を取ってしまった女性の物語だ。
大抵の人には、「は?」というような感じだろうと思う。『一緒にいたくなくなっただけだ』と感じることはあるかもしれないけど、それ以外離婚の理由がまったくない状態で、別居にまで踏み切ろうとする人は、さほど多くはないだろう。
僕はこの主人公に恐ろしいぐらい共感してしまった。『一緒にいたくなくなっただけだ』から、実際に別れる行動を取るのは、まさに僕とまったく同じパターンである。
僕は、それほどたくさんの人と付き合ったことはないけど、過去付き合ったすべての女性との別れは、同じパターンだ。最初は僕の方から好きになって、僕が行動を起こして付き合うことになる。けど、半年ぐらいすると、否応なしに一緒にいたくなくなるのだ。別に、人間として嫌いになったわけじゃない。ただ、その人の彼氏であることを止めたくなるのだ。
そうなると、もう僕は無理だ。だから、別れを切り出す。けど、当然相手は納得しない。そりゃあそうだ。僕の言っていることは、相手からすれば意味不明だからだ。僕は本当に、別に好きな人が出来たとか、相手に凄い嫌な部分があるとか、そういう理由で別れたいと思うのではない。ただ単純に、一緒にいたくなくなってしまうのだ。人間としては嫌いではないから、別れた後も結局会う機会はある。そこでは、(相手はどう思ってるか知らないけど)楽しく過ごすことが出来る。本当にただ、一緒にいたくなくなる、彼氏を止めたくなる、ということだけが理由なのだ。
これが、一般的には理解されない、ということは自覚している。だからこそ僕は、この小説を読んで驚いた。主人公の女性が、まさに僕と同じような思考で行動しているのだ。
この主人公には、他にも共感できる部分がある。

『わたしは好きなひとができると、ついそのひとの快さのつぼを探しだし、押してあげたくなるところがある。もともとそんなにやりたくないことでも、喜んでやる。でも、やっぱり少しずつ疲れて、おざなりになって、結局、関係がだめになった。』

僕も似たようなところがある。僕は、自分自身に「やりたいこと」がないので、基本的になんでも相手に合わせてしまう。相手がやりたいと思うことを、それがどれだけハチャメチャなことでも、なんでも楽しめる。廃墟に行ったり、山に登ったり、メイド喫茶に行ったりと、自分一人だったら絶対にやらないようなことでも、なんでも楽しめる。
でも、やっぱり少しずつ疲れるのだ。一回一回は楽しんでいるんだけど、「ずっとこういう自分でいるのかなぁ」と思うと嫌になってくる。廃墟に行くのも、山に登るのも、メイド喫茶に行くのも楽しいのだけど、でも、僕が楽しんでいるからという理由でまた廃墟に行ったり、山に登ったり、メイド喫茶に行ったりするのはなんか違うなぁ、と思ってしまうのだ。自分でも、おかしな話だと思うんだけど。

『とにかく、モーちゃんが生理的に気持よくなるように心がけた。わたしを手放したくなくなるようにした。でも、すごく尽くしてます、って感じにならないようにした。耳かきやある種の性技なんかの「オプション」は、三度に一度は頃割った。ささいなことだが、「相手の望むこと全部」をしてあげるのは危険なのだ。わたしのほうがもたなくなる』

僕には、これが出来ないんだよなぁ。一度OKしてしまったものを、次NOと言うのが苦手なのだ。最初の方は何をしてても楽しいから何でもOKしてしまうのだけど、やがて自分的になんとなくしんどくなる。でも、そこで僕はNOが言えないんだよなぁ。だから、微妙な違和感が自分の中に積み重なっていく。それが、やがて無視できない大きさになってしまって、自分から関係を壊したくなってしまうのだ。

『わたしには、とにかく、ひとりで、思い通りに、思い切り、気のすむまで、なにかをやりたいという欲がある。たぶん、ものすごく我が強いんだと思う。
ところがその「我」は、だれかとなにかをするときには、なりをひそめる。ひとりで思い通りに、思い切り、気のすむまでできないと分かれば、自然と諦めてしまうのだ。
「自然」だからストレスは感じない。だれかとなにかをするときに、だれかの指示に従ったり合わせたりするのはちっとも苦にならないし、意見もとくに出てこない。』

これも物凄くよく分かる。僕は別に、一人でいる時にだってやりたいことが強くあるわけじゃないんだけど、でも一人でいる時には、こうやってああやって、こんな手順でこれをやろう、みたいなことは結構考えてて、それ通りに物事が進むと嬉しい。でも、だれかと何かをする時は、そういう、自分が思った通りに物事が動いて欲しい、という欲求はまったく陰に隠れてしまう。どうでもよくなる。分かるなぁ、という感じが強くしました。

『わたしの理想は、夫婦それぞれの目で物事を見て、それぞれの頭で考えた意見が、期せずして一致する、という状態だ』

これも、本当にその通りだなぁ、と思います。僕は、様々なことについて自分で考えたい人間で、誰かに価値観を押し付けられたりするのは好きではない。同時に、誰かが自分の意見なり価値観なりを、躊躇なく丸ごと受け入れようとするのも苦手だ。相手が、自分の頭で何も考えてないような気がする。だから、相手が相手なりの価値観で自分の頭を使って考えた結論が、たまたま、僕のそれと一致する、という状態は確かに望ましいと思う。凄くよく分かる。
著者自身が本書の主人公のような性格なのか、あるいは誰か別にモデルがいるのか。ともかく、単なる想像で生み出したキャラクターが、ここまで僕の思考回路と似ているとはちょっと考えられません。それぐらい僕は、本書の主人公にとても近いものを感じました。小説を読んでいると時々、自分と恐ろしく似ているなと感じる人物に出会うことがあるけど、本当に久しぶりにそんな風に感じました。
自分と同じような思考をする人に出会うと、それがたとえ小説の中だとしても、やっぱり嬉しいものだなと思います。

内容に入ろうと思います。
本書は、守田森子が、夫の「モーちゃん」と結婚し一緒に暮らし始めた2001年と、その10年後、その年の元旦に森子が夫に唐突に別れを切り出してからの日々を描く2010年を行き来して描かれる。
モーちゃんと結婚した森子は、実に幸せだった。モーちゃんは大学教授で、真面目で習慣を大事にする人だ。考え方は合わないことはあるけど、森子には教養がないし、夫は学者なのだから知識や考え方は適うはずがないと思って折れることが多い。森子は、モーちゃんが家の中で快適にいられるように気を配り、また二人で、大きな子供みたいにして、生活の中でだらしなくいちゃいちゃしている。とても40代とは思えない振る舞いである。しかしそれは家の中でのこと。二人は、二人の時間を思いっきり緩んだ感じで過ごしていた。森子も、そして恐らくモーちゃんも、とても幸福だった。
10年後の元旦。何の前触れもなく、森子は唐突にモーちゃんに、別れたいと切り出した。夫は、森子が一時の気の迷いからそんなことを言い出したのだと、あるいは、何か夫婦以外のところに原因があってそんなことを言い出したのだと思いたがった。森子は、するっと口をついて出た言葉の癖に割と本気で、住む場所と仕事を見つけて家を出てしまった。形の上では、しばらく別居ということにして、一ヶ月に一度は話し合いをしよう、ということになったのだけど…。
というような話です。

冒頭で書いたように、僕はこの主人公に恐ろしいほどに共感できる人間です。かなり驚きました。自分と近い価値観を持つ人間がいるんだなぁ、と思ったものです。森子が女性からどれだけ共感してもらえるキャラクターなのかはよく分からないけど、もしかしたら、訳がわからない、と捉えられるかもしれません。どうなんだろう?女性の場合、こういう、『一緒にいたくなくなっただけ』という理由から別居に踏み切るというような価値観を結構持ってるものなんだろうか?その辺は僕では判断できないんですけど。
僕は主人公に共感できてしまうので、森子がどうなっていくのか、あるいは、森子が様々な場面でどんな価値観を持っているのか、という興味が最後までずっと持続したし、キャラクターとしてとても気になる存在でした。そういう意味でこの作品は、かなり面白い作品でした。
でも、森子を「ちょっとよく分からないキャラクターだなぁ」と捉えてしまう人の場合、この作品はどう捉えられるんだろう、とも思います。客観的に考えて、本書にはストーリーらしいストーリーはありません。物語の山場は、実は冒頭で終わってしまっていて、つまり「何の脈絡もなく森子が離婚を切り出す」という場面が最大の山場と言っていいでしょう。それ以降は、森子がどんな風に一人暮らしをしているのか、モーちゃんがどんなアプローチをしてくるのかなどが描かれますが、だらだら日常が描かれていくという感じです。2001年の結婚したての描写の方も、基本的には毎日この夫婦がどんな風に生活をしているのかを描いているだけで、随所で森子が思考する独特の価値観はなかなか面白いものの、ストーリーとして楽しめるのかはちょっと僕には判断できません。

読んでいて感じたことは、「一緒にいたくなくなった理由」は積み重なったものなのではないか、ということです。2010年、モーちゃんに別れを切り出した森子は、「一緒にいたくなくなった理由」をきちんと説明できません。ただ、一緒にいたくなくなっただけなんだと繰り返すばかりです。当然、モーちゃんには理解できません。
しかし、読者は、2001年の夫婦の様子も、森子側の視点で読むことが出来ます。
モーちゃんは、概ね良い人間として描かれています。それは当然で、モーちゃんのことが好きである森子視点でモーちゃんを描いているからです。しかし、読んでいくと、モーちゃんは案外に難しい存在であるぞということに気づいていくようになります。
モーちゃんと森子は、家の中では子供のようにふざけていて、そういう時モーちゃんは、大学教授でありながら森子との阿吽の呼吸でばかばかしい感じを一緒にやる。しかしそれは、モーちゃんにとってどうでもいいことだからこそモーちゃんは森子の価値観に乗ることが出来るわけで、モーちゃんにとって大事な事柄については、森子の意見を基本的に聞き入れない。どこに旅行に行くのか、何のDVDを借りるのか、結婚記念日に何を食べるのか。そういう、モーちゃんにとって大事な事柄については、森子がやんわりと自分の希望を述べても、モーちゃんは当たりの良い、しかし議論の余地のないような雰囲気で森子の意見を却下する。一つ一つは大した話ではないけど、それが積み重なっていけば大きな違和感に変わっていきもするだろう。森子は無意識の内に、いつの間にか積み重なっていたその違和感に気づいてしまったのではないだろうか。しかしそれは、一つ一つはあまりにも小さなものであるために、別れる理由としてはうまく機能しない。だから森子は、『一緒にいたくなくなっただけ』という、説明してるんだかどうか分からないような説明をするしかなかったのではないか、という感じがする。
森子は、自分がそういう違和感を内側に貯め続けてきたことを意識出来ないし、モーちゃんの方にしても自分が原因でそんな違和感が積み重なっているとは気づけない。根本的な原因をお互いに認識できていないから、いつまで経っても二人の行動は平行線のまま。明確に、モーちゃんの些細な振る舞いが森子の決断の後押しをした、なんていう記述があるわけじゃないんだけど、僕はそんな風に感じた。

もう一つ感じることは、森子とモーちゃんの夫婦関係は、イマイチ本気度が伺えない部分がある、ということだ。
先ほどから、二人の夫婦関係は大きな子供が遊んでいるようなものだ、みたいなことを書いているけど、これは森子がそう評しているのだ。大きな熊のぬいぐるみが二体じゃれている、みたいな表現もする。とても40代とは思えないような感じで、二人のやりとりは続いていく。出掛ける時にモーちゃんが掛け声を上げて玄関に向かい、旗を振り歌を歌って先導する振りを妻がする、といった風で、そんなやりとりを家にいる間中ずっと続けている。

本人同士が楽しければとやかく言う話ではないのだけど、ただやはり、そういうあり方は、夫婦というものの現実からお互いに目を背けていたという事実を表しているのではないかという気がする。本来であればどこかの段階でで「夫婦」という現実に目を向けなければならなかったのを、二人ともそれを怠った。怠ったまま40代後半を迎えてしまった。ずっと続けてきたことを今更止めるのも変。でも、このままそういう感じをずっと続けていくのもまた変。森子に、そういう気持ちが唐突に芽生えてきたのだとしても、それは不思議な話ではないかもしれないと思う。

森子の行動は、一見デタラメに見える。何をハチャメチャなことをと思うかもしれない。僕は、そのハチャメチャな状態のままで森子に共感できるのだけど、そういう人でなくても、森子とモーちゃんの関係性を知れば知るほど、この夫婦には無理があったのではないか、と感じられるのではないかと思う。夫婦の生活のどうでもいいような部分を丁寧に切り取ることによって、些細な違和感の源泉が実はたくさんあったのだということに気づかせるような物語運びは、個人的にはなかなか良く出来ているのではないかな、と感じました。

朝倉かすみ「幸福な日々があります」


絆(小杉健治)

嘘をつくのは好きじゃない。
別に、良い人を気取っているわけではない。ただめんどくさいだけだ。本当にバレないように嘘をつくためには、細心の注意を払って様々な辻褄を合わせていかなくてはいけない。たった一つの嘘を守るために、その後どれだけの嘘をつかなければいけないか。しかも、事実ではない形で辻褄を合わせた状況を、未来永劫ずっと覚えていなければいけないのだ。
そんなめんどくさいこと、僕には出来ないな、と思う。
世の中には、すぐバレる嘘をつく人もいる。僕にはその気持ちがまったく理解できない。もしかしたらバレないかも、バレなければ御の字、ぐらいの気持ちで嘘をつくんだろうけど、「こいつは日常的に嘘ばっかりつくんだな」という印象を持たれることは、何よりもマイナスだと思うのだけど、当人はそう感じないのだろうか?
僕が本当に嘘をつくなら、徹底して嘘をつく。嘘つくために綿密に準備を重ねる。そしてさらに、もしバレた時の対処まで考えておく。これぐらいしないと、僕は嘘がつけない。うっかり忘れてしまった、というレベルの嘘は僕もたくさんしてるだろうけど(これは、発言した時にはそういう気持ちがあったので、自分の分類では嘘ではない)、最初から嘘をつくつもりでつく嘘は、真剣に嘘をつく。まあ、なかなかそんな機会もないけれど。
嘘をつくことの困難さはもう一つある。それは、罪悪感がずっと消えない、ということだ。
どんな嘘をつくかにもよるが、隠し立てしなくてはいけない嘘というのは大抵、辛い状況を伴っているものだ。それを、ずっと自分の内側だけに留めておかなくてはいけない。その苦痛さを感じない人も世の中にはいるだろうけど、大抵はそうはいかない。罪悪感がずっと残り続けるという状況に自分がきちんと耐えられるのか否か。嘘をつく上ではそういうことも重要になってくる。
こういうことを考えると、嘘をつくことのメリットはほとんどないように僕には感じられてしまう。だから僕は、嘘をつかなければいけないような状況に陥らないように気をつけるようにしている。普段から一貫性のない行動を見せておくとか、ちょっとまともじゃない価値観を持っている風を装うとかしておくと、嘘をつくまでもなく、相手が勝手に誤解してくれる場合もある。そうやって、自分が嘘をつかなければならない状況を避ける、というのが良いのではないかと思っている。
しかし、避けられない状況というのも存在する。本書に登場するある人物が隠している嘘も、まさにそういう類のものだ。自分がどうこう出来るレベルの問題ではなく、降りかかってきてしまう状況。一生誰にも話せない嘘を抱えてしまった人間の辛さがどのぐらいのものなのか、正直想像もつかない。
嘘に絡め取られずに、生きていきたいものだと、心底思った。

内容に入ろうと思います。
弓丘奈緒子が今、裁判にかけられている。記者である主人公は、傍聴席で彼女の姿を見ている。幼い頃、憧れた女性だった。美しく、知恵遅れの弟を可愛がる、実に心根の優しい女性だった。報道で、弓丘奈緒子が夫を殺した容疑で逮捕されたことを知り、心底驚いた。
弓丘奈緒子は、夫殺しの起訴事実を、すべて認めている。自分の犯行であることを認めている。日々事件が量産され、人々の興味はあちらこちらにうつろう世の中だ。弓丘奈緒子の事件も、容疑者逮捕以降、他の事件と変わることなく報道はぱったり止んだ。
しかし、この事件は再び注目を集めることになる。
当初弓丘奈緒子の弁護は、水木邦夫が務める予定だった。しかし直前になって、原島保に変更された。
この原島保、とある裁判でミスを犯したために弁護士を辞めていた人物だった。また彼は、自分の妻子を車で轢き殺した相手が別の事件で裁判にかけられた時、その男の弁護を買って出たことがあることでも有名だ。原島の登場によって、何かが起こるのかもしれない、という予感が記者の間に走ったのだ。
果たしてそうだった。
検察の起訴事実をすべて認めた弓丘奈緒子に対し、弁護人の原島は、被告人の無罪を主張したのだった。
しかし、状況はすべて弓丘奈緒子が犯人であることを示している。それを証明する証拠も多数存在する。何よりも、弓丘奈緒子自身が自供しているのである。原島は一体何を考え、どうやってこの状況をひっくり返そうとしているのか…。
というような話です。

なかなかよく出来た物語でした。正直、作品の古さは否めません。1987年に出版された作品なので無理もないでしょう。言葉遣いや色んな状況設定からその古さを感じますが、僕が一番強く感じたのは、被告人の娘が証言する場面です。母である被告人を尾行したことがあるという娘は、母親が合っていた男のことを「労務者風の男」と証言します。若い娘が「労務者風」なんて言葉はまあ使わないでしょう。そういう違和感は随所にありますが、とはいえそれは作品がかなり以前に書かれているから仕方ありません。物語自体は圧巻と言っていいかもしれません。

冒頭から裁判が始まりますが、最初の内は、「検察が事件をどう捉えているのか」という状況を理解させるためのパートになります。もちろん検察は弓丘奈緒子が犯人だと考えていて、目撃者や関係者を証人として呼ぶことで、事件の概要を伝えていきます。この、状況説明を兼ねた冒頭の裁判シーンは多少退屈ではありますが、原島の反対尋問が多少のスパイスになります。原島は、後に何かを証明するために、先手を打つようにして様々な質問をっするわけですが、原島以外その意図するところを理解できる人間はいません。原島は一体何をしようとしているのか。その興味が、冒頭から持続する形になります。

読み進めながら、いくつか新しい事実が分かっていきます。事件に関係あるのか不明な人名が登場したり、ある形で考えられていた人間関係が偽りであると暴かれたりもします。しかしそれでも、弓丘奈緒子不利の状況は変わりそうにありません。原島は、明らかに何かをしようとしているが、それは一体なんなのか。そもそも何故、弁護人が直前で変更されたのか。もし原島が言うように弓丘奈緒子が無罪なのだとしたら、何故弓丘奈緒子は罪を被るような証言をしているのか。そういった疑問が次々と浮かんできます。
裁判は進んでいきますが、原島は次第に、現在審理されているのとは関係があるとは思えない、大昔のある事件について証人たちに詳細に質問をしていくことになります。それが最終的に、物語の終焉を引き寄せる形になるわけで、その構成がなかなか絶妙である。
この物語の肝は、「殺人犯という汚名を着ることになっても守りぬきたい秘密」をどんなものに設定するか、と点にある。中途半端な秘密では、「そんなものを守るために、殺人犯として刑務所に行く決断はしないだろう」と思われてしまうでしょう。
この作品は、その高いハードルを超えています。家族さえ驚愕するような真実がそこにはあり、そんなとんでもない秘密を、一人の女性が長い間ひたすら抱え続けてきたのです。裁判の場からほとんど場面転換せず、最初から最後までほぼ裁判のシーンだけで描ききる生粋のミステリが、これほどの”絆”を描き切っている。確かに本書は、ミステリという形でなければ描き得ない物語で、様々な状況設定を驚くべき結末に向けて収束させるために実にうまく機能させているなと感じました。

この作品の本来の主人公は弓丘奈緒子でしょうが(語りは、記者の男であり、便宜上の主人公ですが、物語全体を通してみると弓丘奈緒子が主人公でしょう)、弁護人の原島保もまた、もう一人の主人公と言って良い存在でしょう。
原島は、実に難しい立場に立たされている。被告人は、検察の主張を裏付ける供述をしている。事実はどうあれ、弓丘奈緒子は”殺人犯”になる覚悟がある。それほど守りたいものがあるということだ。
原島はまず、誰のために仕事をすべきなのか、という選択を迫られる。通常であれば被告人の利益のためだが、今回は、被告人は進んで罪を被ろうとしている。果たして、この被告人の望みを叶えることが、弁護人としての本来の役割なのだろうか?それとも、弓丘奈緒子が守りたいと思っている秘密を引きずり出してでも、真実を明らかにすべきか。
結局原島は後者を選択するわけですが、ここにはかなり難しい葛藤があったに違いありません。殺人犯の汚名を着てでも守りたい秘密を引きずり出す権利があるのか。悩みながらも原島は、困難な道を突き進む覚悟を決めます。被告人と弁護人がまったく違う道を進んでいるという奇妙な状況が、作品全体を変わった緊張で包み込んでいるように感じられました。

弓丘奈緒子が隠している秘密についてはここでは触れませんが、大事な人を守るための優しい嘘だった、ということは書いておきましょう。辛い人生を余儀なくされていた人を報いるために、自分が犠牲になってでも嘘をつく。そこに至る説得力が、様々な場面に散りばめられています。弓丘奈緒子の嘘は、誰かを守る嘘でありながら、当然それは、誰かを傷つける嘘でもあるわけです。誰かを傷つけてでもつく嘘。その重さを感じてください。

驚愕の真実へと行き着く過程が実によく練られ、綿密に組み上げられている作品だという感じがします。古さは随所に感じますが、ある程度目をつぶって読んで欲しいです。

小杉健治「絆」


きままな娘 わがままな母(藤堂志津子)

僕は、「一緒にいることが前提になっている関係」というのが得意ではない。家族とか、恋人とか、ずっと一緒に働いている同僚とかだ。むしろ、初対面の人といる方が楽である。
一緒にいることが前提の相手とは、どんな自分でいればいいのか、よく分からなくなる。
僕は割と、「自分」というものがなくて、その場の状況とか特定の誰かとかに合わせて自分のあり方を変えていくタイプの人間だ。どんな状況でも一貫して残っている性質ももちろんあるだろうけど、その場で求められているであろう「僕像」を勝手に察しして、それに合わせる、というやり方が、自分の生きかたに合う。
しかしこのやり方、長期的な関係性にはうまく合わないのだ。何故なら、ずっと相手に合わせ続けていると、どこかでしんどくなるからだ。
短期的には、どんな状況でも、どんな人にでもかなり合わせられるんだけど、そこから長期的な関係に移行し始めると、自分が決めたキャラクターに縛られすぎて疲れてしまう。端から、長期的な関係に向かない人物像を設定してるのだ。短距離を全力で走れはするけど、長距離をじっくり走るのは苦手なのだ(これは、人間関係の話で、実際に走る話では、僕は長距離を走る方が得意である)。
だから僕は、長期的な関係性が前提になっている関係というのは、本当にうまくいかないのだ。
それをふまえた時、”家族”というのは本当に不思議な存在だなと思う。
恋人だとか同僚だとかであれば、基本的には短期的な関係からスタートするはずだ。その相手と、かなり長い間一緒にいることになるかどうか、それは最初の段階では分からないから、お互い短期決戦の可能性も考えつつ人間関係を築いていくはずだ。
しかし、結婚して夫婦になるというのはともかく、自分が両親の子供として生まれて来た時は、本人の意思に関係なく、長期的な関係としてスタートするのだ。
また、関係性を基本的にキャンセル出来ない、というのも不思議だ。恋人や同僚は、何らかの行動を取れば、すぐに恋人は同僚という関係性は消える。しかし、”家族”の場合は、法律に則ったきちんとした手続きを踏まない限り、”家族”という関係性は消えはしない。
そんな関係性、”家族”以外にはなかなかないだろう。
僕は子供の頃ずっと、自分の両親に対して違和感を覚えていた。その当時の僕は、「自分の両親」という個人の問題だと思っていた。自分の両親が、人間的に僕という人間と相性の悪い性質を持っているからうまくいかないのだ。もし僕が、別の両親の元に生まれていれば、もしかしたらもっと良い関係を築けていたかもしれない。
具体的にそんな風に言語化していたわけではないけど、概ね僕はそんな風に考えていたのではないかと思う。
しかし大人になって僕は、”家族”という存在そのものに対して違和感を覚えていたのだろう、という結論に達するようになった。「自分の両親」の個人的な性質の問題ではなく(まあそれもゼロではないだろうけど)、僕は”家族”というものの距離感がダメで、誰の両親のところに生まれてきても、きっと僕はうまく関係性を築けないのだろう、と考えるようになった。
”家族”には、どんな人物が家族であるのかを決めたり拒絶したりする権利はないし、”家族”であるかどうかは、お互いの相性や性質に関係なく勝手に決まる。「血が繋がっている」「同じ釜の飯を食べた」というぐらいの共通項しかなく、年齢も性格も生き方も価値観も、基本的には全部違うのだ。そんな面々が、”家族”というだけの理由で一緒にいることになっていることへの強烈な違和感は、未だに僕の中に残り続けている。
そんな風に考えているから、僕は、”家族”間の相性が悪いことは当たり前だと思っている。血が繋がってて、同じ釜の飯を食べただけで、なぜ価値観まで同じになると考えられるのか、僕にはそれが不思議で仕方がない。「家族だから」という理由で、様々な法律や制度やルールが作られていると思うけど、僕は常に、「家族だからなんなんだ」と思っている。それより、学生時代入れ込んだ部活の仲間とか、起業して辛い時期を乗り切った仲間とか、そういう関係性の方が、”家族”なんかよりもより強い関係性になるんじゃないのかなぁ、と思ってしまう。
とはいえ、どんな人間であっても、親から生まれた以上、生まれて来た者はすべて”家族”を持っている(持っていた)という形を取ることが出来るのは、とても良い仕組みである、と感じる。部活に入れ込んだり、起業したりしなければ、人間同士の強い関係性が作れない世の中よりも、とりあえず性格や価値観の違いは無視して、ある一定のルールで”家族”という括りを作り、様々な制度やルールによって、”家族”こそが一番強い繋がりなのだ、という価値観を植え付けることで、生まれてきた大半の人が、生まれながらにして強い繋がりを手に入れることが出来る、というシステムは、なるほど良く出来ていると思うのだ。
そんなひねくれた考え方しか出来ない僕には、やはり、現代の”家族偏重”とでも言うべき価値観には馴染めないのだ。一昔前であれば、日本でも、死産は多く、また育てば育ったで労働力扱いという時代だった。「家族の繋がり」というような感覚は、どこかの時点で(なんとなく明治時代辺りな気がするけど)生まれてきたものだろう。別に”家族”を良いものと捉えることに反対はしないけど、結局性格や価値観の違う者どうしの集まりでしかないし、あまり期待しすぎても報われないのではないか、と思ってしまうのだ。

内容に入ろうと思います。
36歳の沙良は、母親の駒子と一緒に暮らしている。会社務めだが、思い切って退職し、実家を改築して事務所を作り独立したのだ。昔以上に、母親と過ごす時間は増えた。
母である駒子は63歳。数年前に夫を亡くしている。筋金入りの専業主婦であり、今ではパートをしてはいるものの、基本的にずっと家にいる。料理や編み物などを得意とし、沙良と二人分の料理はいつも駒子が作っている。
二人の関係は、共犯者的な側面もあり、また厄介者同士であることもある。
お互いに、相手の存在を”便利だ”と感じている。家事全般をしてくれるので沙良は手をわずらわせる必要はないし、あまり気を回す必要がない相手であるので、話半分で聞いていても大きく問題になることはない。ダラっとした格好のまま、部屋の中でボーッとしていても、生活は進んでいくし、誰かの目を気にする必要もない。そういう意味で沙良には快適な空間だった。
駒子にしても、娘がずっと傍にいてくれるのはありがたいことだ。いつまでも親として娘を甲斐甲斐しく世話することが出来るし、一人で暮らす寂しさも味わうことはない。そういう意味で駒子にとっても、沙良は”便利”な存在なのだ。
しかし同時に、お互いはお互いにとって厄介な存在でもある。
沙良にしてみれば、駒子は干渉の強い母親、ということになる。娘の生き方や考え方に意見したり、それらを無視して自分の意見を曲げなかったりして、そういう時の母親の頑なさを見るにつけ、沙良はうんざりさせられる。
駒子からしても、沙良は、自分の言う通りにしない娘、なのだ。駒子は駒子なりに沙良のことを考えて様々なことをしているのに、沙良にはそれが伝わらないことある。その苛立ちを感じさせる相手なのだ。
そんな、共犯者でもあり厄介者でもある二人の日常的な関係性を中心にした連作短編集です。

なかなか面白い作品でした。僕は男なので、正直”母娘”の関係というのは分かりません。本書では、沙良の口を借りることで、沙良が駒子に対して感じることは、世の同年代の女性が多く感じていることだ、と書いている。そうだとすれば、母娘の関係はなかなkに複雑だなと感じるのだけど、しかしちゃんとはイメージ出来ない。それでも、沙良と駒子の関係性は、些細な違和感を疎かにせずにじっくり描くことによって、男の僕にでもその微妙なニュアンスが伝わる感じで描かれていると感じました。

母親の発するめんどくささを感知出来るのは、どうも女性だけのようです。母親が、性別で自身の振る舞いを無意識で変えているのか、あるいは同じ振る舞いを見ているのに男には感知出来ないのか。このことを本書では、『しかしそれは、息子たちの感性のアンテナは素通りし、娘たちのアンテナにだけ引っかかるといった点もほぼ共通していた』と表現されている。僕は、母親とはちょっとあまり良い関係ではなかったから、男である僕が母親の振る舞いをスルーしていたのか、それはちょっと分からないのでなんとも言えないのだけど。

沙良が覚える違和感は、本当にささいなものなのだ。母親が、大したことでもないのに、過去の記憶を改ざんした思い出を話すこと。頼んでもいないことをさも当然のように推し進めようとすること。自分の願望を一方的に押し付けようとすること。確かにそれぞれ鬱陶しいんだけど、目くじらを立てるほどでもないと思えることも多い。しかし、長く一緒に暮らしているからだろう、些細な部分こそ余計目について鬱陶しく感じられてしまうのだろう。沙良は、自分が駒子との二人暮らしで恩恵を受けているという自覚もあるわけで、ある程度許容しようという意識もある。この辺りのバランスは非常に繊細で、長く一緒に暮らした者同士の阿吽の呼吸、みたいなところもあって、収まるところに収まるようになっているのもなかなか面白い。

現実には、沙良や駒子のような関係性が存在しても、お互いがお互いの芯の部分をつつくようなことはしないだろう。本書の面白さは、そこを超える点にある。つまり、沙良は、駒子の鬱陶しい部分を、時折クリティカルに指摘するのだ。
そしてさらに、その指摘に対する駒子の反応も斬新で良い。自分の非を認めずに頑固になるのではなく、自分の非を認めた上で開き直るのだ。

『自分が勝手なこと言ってるのは百も承知よ。でも、もしかして言ってみたら、それが実現することもあるかもしれないでしょう。だから、ばかにされたり軽蔑されるのは覚悟の上で、私はありのままの願いや望みを、こうして口にだしてみることにしたの』

『でもね、沙良ちゃん。人間って、ずっとそのくりかえしできたのじゃないかしら。親は自分のかなわなかった夢や生き方を子に託す。そして子供はそれに反発したり従ったり、親子喧嘩したり、ご自慢の子供になったりといったドラマが、いつの時代にもくりかえされてきた。私、そんな気がするの。六十歳をすぎてから、うまくことばでは言えないけど、そういう人間のシンプルな構図をなんとなく感じるのね』

ここまではっきり開き直ってくれると、いっそ清々しく感じる。余計な駆け引きをすることなく、「相手の価値観を受け入れるか、拒絶するか」のみを考えればいいので、ある意味では楽かもしれないなと思う。沙良にしても、なんて図々しい母親なんだ、という気持ちもありつつも、相手の望みがはっきりしているのはやりやすく感じているのが分かる。遠回しな言い方で、世間の常識に縛られた価値観に染めようとするよりはよほどましだろう。

ストーリーは、沙良の独立、お墓探し、沙良の恋愛、孫問題など、家族という関係性の中ではよく起こりうる、それでいて重要な転機ともなりうる事柄を扱っている。ごく一般的なイベント毎を中心に描き出しているので、その中における沙良と駒子の関係性のありがちな部分、異様な部分をすぐに見分けられるだろう。母娘の関係をリアルタイムで過ごしている人には特に、自分と比較して読むことが出来るだろう。私の母親が駒子みたいだったら、私の娘が沙良みたいだったらどうだろうか?という想像を容易に導く舞台設定は巧いなと感じます。

意固地になった母親をどう宥めるか。恋愛話を聞きたがる母親にどう対処するか。母の兄弟姉妹(沙良の叔父叔母)との関係をどうするか。母親が自分の希望を全開で主張してきた場合どう返事をするか。母親に気持よく料理を作ってもらうためにどう振る舞うか。沙良の視点で展開する物語は、駒子といかにして「一緒に暮らす良い環境を作っていくのか」という点に焦点が当てられていて、些細な違和感の度に母娘の関係がコロコロ変わっていくのが面白い。沙良というフィルターを通して見ているからか、沙良は真っ当で、駒子が時折ぶっ飛んでいるように感じられるのだけど、駒子がなかなかに魅力的に描かれるので、駒子の鬱陶しさを時折忘れてしまう。沙良もきっと同じような感覚だろう。やり方はともかく、常に沙良のことを一番に考えた思考によって、駒子なりの行動が組み立てられていく。もちろんそこには、駒子自身の願望も交じるわけだけど、本心から娘のことを肯定してくれている、認めてくれている、信頼してくれていると感じさせる駒子の有り様は、なんともたくましいし、沙良としても悪い気がしないのだ。

『親はね、子供の成長の節目ふしめをしっかり見とどけて、大きくなった、リッパになったって喜びたいのよ、それだけなのよ。学校の入学や卒業や就職、そして結婚とか出産といった節目にたちあって、そのうれしさをしっかり噛みしめたいの。そう願うのは身のほど知らずなこと?子供にとってはじゃまなこと?沙良ちゃん、私の言ってるのはまちがってる?』

そんな風に臆面もなく言えてしまう駒子の佇まいは、なかなか愛らしいのである。

沙良の弟である一郎、駒子の姉で駒子が一番慕っている早苗叔母、沙良が付き合う相手である五郎太など、沙良と駒子以外の面々も実に魅力的に描かれている。一癖も二癖もあるような面々であり、それでいて日本のどこかにはいそうなキャラクターをきっちり物語の中に登場させる、というのが巧いなと感じる。

晩婚化が進んでいたり、女性が社会進出して一人で生きるようになっていったりする中で、パラサイトシングルと呼ばれるような、沙良と駒子のような関係は、恐らく日本中にたくさん存在することでしょう。家族の数だけ家族の形があるはずなので、誰しもに沙良と駒子の関係性が当てはまるなんてことはありえないでしょう。それでも、家族というものの、そして母娘の関係の本質に近い部分はこの作品の中で巧く描かれているのではないかと感じます。あなたは、沙良と駒子、どちらに共感するでしょうか?

藤堂志津子「きままな娘 わがままな母」


「みんな!エスパーだよ!」を観に行ってきました

鴨川嘉郎はその夜、いつものようにオナニーをしていた。東三河で出会う様々な美しい女性を思い浮かべては、そのいやらしい姿を妄想して励んでいた。
その時、東三河に空から光が降り注いだ。その光が嘉郎を、ヒーローにすることになった。
翌日嘉郎は、他人の心の声が聴こえるようになっていることに気づく。エスパーか?書店でエスパーの本を買うと、そこには、エスパーは地球の平和を守るために戦うべし、と書かれている。そうか。平和のために戦わなくてはいけないのか!
やがて東三河の街に、超能力者が増えていることを知る。ある条件が揃った場合に、超能力者になるという。街は、その能力を悪用している人間によって混乱に陥っている。街中がエロで支配されているのだ!
というような話です。

しかしまあ、果てしなくくだらない話だったなぁ。園子温の映画は観ようと決めてるから、まあどんな映画でも別にいいんだけど、久々に、これはなかなか酷い映画だなぁ、と思いました。よくもまあこんな企画が通ったな、と思ってたんだけど、原作があったのか。なるほど、っていう感じでした。

とにかく、ひたすらエロくしよう、っていう感じの映画でした。意味ある場面でエロいのは、まあそういう映画だからいいとしても、まったく意味のないところでもエロいんですよね。常時女優の下着が見えてる感じ。特に意味もなく。
スリーサイズで役者を決めただろっていうぐらい、グラビアアイドルがガンガン出てくるんだけど、演技っていう意味ではやっぱり厳しかったよなぁ、と。学生レベル、とは言わないけど、商業レベルとはちょっと思えないくらいの演技のクオリティで、主人公の染谷将太他、何人かのちゃんとした役者の演技との差が歴然としすぎてて違和感が凄かったです。

ストーリーも、あるんだかないんだかよく分からない感じで、うーんと思ってしまいました。超能力を持ちはしたけど、超能力を持ったことがストーリーの中でほとんど活かされはしないし、嘉郎は運命の人と出会うために生まれた、みたいなことを繰り返し描くんだけど、それも結局よくわかんないまま終わっちゃうし。全体的に、「こんなんでいいのか???」と感じるような設定・展開・セットのオンパレードで、そういう意味でかなり驚かされる映画でした。

とはいえまあ、全体的にエロエロな感じで、しかもそれが超おバカな感じでエロエロなので、余計なことを考えずにエロいシーンを楽しめる、という意味では、男としては楽しいですけどね。うーんでもまあそれぐらいかなぁ。しかも俺は、胸のデカさにはさほど興味がないので(脚がキレイな方が好きです)、あんまりって感じだったかなぁ。

とにかく、特に書くことがなにもないぐらいの映画でした。観ている間、さすがにこれはなー、ってずっと思ってました。

以前、友人の自主制作映画の撮影を手伝ったことがあるんだけど、その時の主演女優がちょっとだけ出ててびっくりしました。

「みんな!エスパーだよ!」を観に行ってきました

道徳の時間(呉勝浩)

「道徳」を、正式な科目にする、という話があるらしい。詳しく知っているわけではないから、既に正式な科目になっているかもしれない。
小学生ぐらいの頃、道徳の授業はあったような気がする。ちゃんとは憶えてない。どんなことをしたのかもまるで憶えてない。でも、そういう時間があった気がする。そうか、あの授業は、学校ごとの裁量で行われていたのか、と思った。それが今度は、必ずやらなくてはならない授業に変わるのだな、と。
なんとなくこのニュースに嫌悪感を覚えるのは、きっと僕だけではないだろう。たぶんそれは、「道徳なんて、座学で教えられるようなものではない」という感覚があるからだと思う。
ルールは、覚えるしかない。交通ルール、刑法や民法、ルーティンとして決まっている仕事のやり方など、それらはルールとして明文化され(されていないこともあるだろうけど)、実際に手足を動かして身に付けるものではあるのだけど、しかしルールをルール単体として覚える、という作業をすることが出来る。
でも、道徳はそうではないような気がする。
道徳というのはそもそも、明文化されていない。道徳というのは、例えば「電車ではお年寄りに席を譲りましょう」というようなものだろう。これは、ルールではない。だから、必ずやらなければいけないわけではない。けど、道徳的に、やると良い行いとされる。道徳とはそういうものだ。
しかし、じゃあこの道徳を、「電車ではお年寄りに席を譲りましょうね」と教えるだけで、果たして道徳を学ぶことが出来るだろうか?例えばお年寄りの中には、席を譲られるのは不愉快だという人もいるだろう。また、お年寄りじゃなくても、席を譲るべき対象は存在する。道徳は、ルールではないが故に、様々な選択肢が存在しうるし、状況ごとに正解があると言っていい。
実際には、行動と共に身につけなければ、道徳というのは体得できないだろうと思う。実際に「席を譲る」という行為をすることによって、様々なケースを知り、道徳を理解できるようになる。
もちろん、子供が自ら、「そうか、お年寄りには席を譲ってあげた方がいいんだな」と気づけるわけではない。だから、そういう考え方があるのだということを、知識として教えるのは大事だろう。しかし結局、それを知識として教えるだけでは、何も身につかないのだ。
「道徳を教える」ということに対する違和感にはもう一つ、「道徳を実践している大人が実に少ない」ということが挙げられるだろう。これは、僕自身も人のことは言えない。僕も正直、道徳という観点から見れば不合格な生き方をしているだろう。
例えば大人が皆、率先してお年寄りに席を譲るのが当たり前の社会だったら、「席を譲りましょう」と教えるだけで子供は実践に移せるだろう。そうであれば、ただ知識として道徳を教えるだけで、子供に道徳を身につけさせることが可能になるかもしれない。しかし現実には、とてもじゃないけど大人が道徳的な行動を実践している社会であるとは言いがたい。そんな世の中にあって、知識としての道徳を教えることに、一体どんな意味があるのか、という疑問を持ってしまうのだろうと思う。
人間は様々な価値観を持っている。様々な価値観の存在を前提に、それでも皆が集団として気持よく生きていけるように「ルール」というものは生まれたのだろう。一方、「道徳」はどうだろう?少し考えてみたのだけど、もしかしたら順序は違うのかもしれない、と思った。
まず初めに、「道徳」が存在した。人間が一緒に生活すると言っても、その規模はまだ大きくない。そもそもそういう概念がなかったとはいえ、「ルール」的なものを作らなければならないほど、対立することもなかったかもしれない。しかし、皆がどうすれば穏やかで過ごしやすくいられるのか、その細かな要件みたいなものが少しずつ積み重なり、一般論として形を持ったのが「道徳」だ。
「道徳」は、先程も書いたけど、必ずしも守らなければならないわけではない。守ることが良いことと捉えられる、というものだ。しかし、「道徳」の中から次第に、これは皆で絶対に守らなければならないよ、というものの重要性が高まっていき、それが「ルール」という形に昇華したのかもしれない。
いずれにせよ、道徳を強要することは出来ない。きっと、教わるものでもないだろう。道徳が自然に身につくような社会を作る。それが、道徳を教える、一番良い方法だろうと思う。

内容に入ろうと思います。
伏見祐大はビデオジャーナリストだ。しかし、とある取材対象との関係性から仕事への気力を失い、自宅のある鳴川市で”気力を蓄えている”。鳴川市では最近、イタズラ事件が起こっており、それらの現場には、「生物の時間を始めます」「道徳の時間を始めます」というような落書きが見つかっている。ウサギを轢き殺したり、鉄棒に接着剤を塗って少女にケガをさせるというようなイタズラだったが、地元の名家の長男で、偏屈であるが故に生家から見放されている陶芸家の青柳の死体が見つかった自宅の壁からもイタズラ書きが発見され、町内会は犯人探しに躍起になる。
一方伏見は、自分の名を業界に知らしめる仕事を共にやったことのある田辺から、とある仕事を依頼される。越智冬菜という無名のジャーナリストが、鳴川市を震撼させた鳴川第二小事件のドキュメンタリーを撮るからカメラマンをやってくれ、というのだ。
13年前。鳴川第二小の講堂での講演会中、向晴人という青年が突如壇上へと向かい、公演をしていた正木という教育者を刺殺した。即座に逮捕されるも、向は容疑は認めはしたが、以降黙秘を貫き通した。300人の観衆の中での凶行であり、向の犯行であることは揺るぎなかったため裁判は進行したが、動機や事件の詳細などは一切不明なままだ。
越智は、現場で凶行を撮ったビデオを入手していた。向の犯行の決定的な瞬間は写っていなかった。越智は、本当に向は犯人なのか?という点からドキュメンタリーを撮ろうとしているようだが…。
というような話です。

かなり面白い作品でした。正直、物語のまとめ方に不満がないわけではないのだけど、緊張感を持って作品を読ませる力に溢れていると感じました。
まず非常に面白いなと思った点は、事件らしい事件は起こっていない、という点だ。確かに、向が起こした鳴川第二小事件は、全国ニュースになるレベルの話題性があった。しかしそれは13年も前の出来事であり、しかもその事件については、ドキュメンタリー映画を撮ろうとしているだけだ。リアルタイムで起こっている事件は、鳴川市のほうぼうで頻発するイタズラ事件であり、陶芸家が亡くなっているが、自殺である可能性が高いと判断されている。
被害者がいる事件なのでこういう表現は良くないだろうけど、鳴川市でのイタズラ事件は、正直大した事件ではない。住民は怒り心頭に発するという感じではあるが、身の危険を感じてというわけではなく、周囲に異分子がいることへの不快感という感じだろう。
過去の凶悪事件についてはドキュメンタリー的なアプローチをしているだけ、現在進行形の事件はスケールが小さい。本書では、題材としてなかなか物語を広げにくいものを扱っていると思う。
しかし、それらを読ませる物語に仕立てているのだ。一番巧いなと感じた点は、それぞれの事件が持つ違和感だ。イタズラ事件にしても、鳴川第二小事件にしても、目の前に揃っているパズルのピースが少しずつ条件に合わない。また、イタズラ事件はささやかであるが故に、そして鳴川第二小事件は13年前の事件であるが故に、前提となる状況にも判然としない部分が含まれる。前提が判然としないから、いくら事実や情報を集めて付き合わせようとしてもうまくいかない。だからどうしても、どんな理屈を組み上げてみても、ハマらないピースが残ってしまうことになる。
この違和感の設定の仕方が実に巧いと感じる。題材として扱っている事件の小ささを、この違和感でカバーしているという印象がある。様々な情報が落ち着きを失ったまま宙に浮き、それが事件の小ささを隠している。普通ミステリであれば、「解決すべき謎をはっきりさせること」に力を注ぐものだろうけど、本書の場合、「解決すべき謎がそもそも何であるか分からない」という謎が全体を覆っていて、ミステリの謎としてちょっと斬新な気がする。
それでいて、「何が謎なんだかわかんねーよ」と読者に思わせないのは、伏見が様々なことに巻き込まれていき、それが物語のエンジンとしてなかなか強力だからだろう。伏見は、ドキュメンタリーを取り、それに付随して向晴人のことを調べ、息子が関係するトラブルに関わり、ジャーナリストしての野次馬根性で鳴川市で起こっているイタズラ事件についても調べるという感じで、なかなか忙しい。謎めいた言葉や状況はどんどん増えていき、そしてそれが一体どの状況に属するものなのかも分からない、というような感じになっていく。しかしその中で、「向晴人は犯行を認めながら何故黙秘をしたのか?」「越智冬菜は一体何をしようとしているのか」という二点は、明確な謎として存在していて、伏見の行動力とともに、物語全体を引っ張る役割を果たしている。
イタズラ事件と鳴川第二小の事件を繋ぐものは、起こった場所と「道徳」という単語だ。伏見という男を間に挟みながら、いくつもの出来事が同時並行で進んでいき、どちらの状況も混沌としていく。中盤を過ぎても状況は整理されず、相変わらず疑問が拡散していく展開は、このまま何も解決しないのではないか、という不安さえ抱かせる。さっきも書いたけど、物語の着地点には若干の不満はあるのだけど、そうだとしても、ストーリーの展開のさせ方は巧いと感じた。
「向晴人は犯行を認めながら何故黙秘をしたのか?」「越智冬菜は一体何をしようとしているのか」という謎については、ドキュメンタリーを撮る、という手法と絡んで話が展開していくのも面白い。僕自身はドキュメンタリーをほとんど見たことはないのだけど、ノンフィクションを読むのが好きで、だから作中で彼らがしていた「A」と「ボーリング・フォー・コロンバイン」の議論はなんとなく分かる。
「A」も「ボーリング・フォー・コロンバイン」も、有名なドキュメンタリー映画だ。伏見は越智に問われて、どちらがドキュメンタリーとして優れているか考える。二人の価値観は全然違うのだけど、僕は、越智が語った理屈には納得させられてしまった。
その越智が、冷たい目で、何かをやろうとしている。詰将棋のように、とは伏見が使った表現だが、まるで必勝の一手を少しずつ指していくかのように、越智は明確な何かを目的としてドキュメンタリーを撮っていく。半年前、伏見がドキュメンタリーを撮り続けることに恐れを抱いたきっかけの出来事も思い起こされて、伏見は越智と何度も衝突することになる。
越智がドキュメンタリーを撮る目的は不明だが、表向きは「本当に向晴人は犯人なのか?」を検証する目的に見える。そのために越智は、事件の関係者を様々に呼び、いくつかの疑問を投げかけることによって、向晴人が犯人ではない可能性を生み出そうとしている。
その過程で、向晴人という犯罪者の特異性が浮かび上がる、という構成は良く出来ている。ドキュメンタリーの撮影の被写体として呼ばれた面々が様々なことを語ることによって、向晴人という人物が、より遠ざかっていく。そう、遠ざかっていくのだ。情報を集めれば集めるほど、向晴人という人物の掴みどころはなくなっていく。彼が何を考えているのか、何をしようとしていたのか、余計に分からなくなっていく。
そんな風にして、結末へ向けての展開のさせ方は凄く巧いと思う。著者は大学で映像科にいたらしいし、恐らく課題なのでドキュメンタリーを撮ったこともあるのだろう。映像も文章も、「構成する」という意味では同じなわけで、その構成力は映像を撮る中で身についたものなのかもしれない。
ジャーナリズムとモラルの問題を組み込んでいるのも、それを学んだ者らしいと感じる。越智の手法は、伏見からすれば許容しがたいものだ。越智は、誘導尋問のようなやり方で質問を繰り返し、それが伏見の目には、自分が望む答えを導き出そうとしているようにしか見えない。モラルというのも結局は「道徳」の問題であり、本書では様々な形で「道徳」の問題が出てくる。
結末は、それまでの違和感を説明するものだったし、決して悪いわけではないのだけど、本当にそんなことがあり得るだろうか?とちょっと思ってしまった。世の中には、事件を起こす様々な動機が存在しているのだけど、頭の中にハテナがたくさん浮かぶような動機は大抵、知能指数の高くなさそうな人間によって語られるイメージがある。もちろん、頭が良すぎて、高尚すぎて、その動機が理解できない、という意味での意味不明さもあると思うのだけど。
向晴人は、優秀であるという設定だ。であれば、本書の中での彼の行動は、とても理に叶ってるようには思えないんだよなぁ、と感じはする。それを目的とするのなら、もっと他の方法だってありえただろうに、と思わなくもない。
とはいえ、大きな瑕疵と感じるほどでもないし、全体的な構成力や展開力は見事なので、作品全体としては良く出来ていると感じました。

「矜持」という言葉を、どのタイミングでどんな風に使ってきたのか。その使い方で人生が様々に分かれた人たちの有り様をうまく切り取っているところも良いなと感じました。
様々な理由から、厳しい状況に置かれている人たち。彼らは、ちょっと踏み外すだけで人生から転落してしまうような、そういう危うさを抱えている。そんな中で、「矜持」を胸に、彼らはどうにか生き抜いていく。「矜持」という言葉をどこでどう使ってきたかで人生は様々な色を見せるのだけど、本人なりに筋を通し、自分自身に対して潔白であろうとする生き方は、その最終的な結果がどうであっても認められるべきだと感じました。

新人のデビュー作としてはかなりレベルの高い作品だと思います。筆力は非常に高いと感じました。

呉勝浩「道徳の時間」


ここで死神から残念なお知らせです(榎田ユウリ)

前の職場に、とても可愛い女の子がいた。
学校なら、クラスで1位か2位、学年でもトップクラスに位置するだろう。会話の受け答えはそつがないし、自虐的なネタで周りを笑わせることもある。周りに気配りが出来て、仕事もきちんとやる。そういう、傍目には物凄くちゃんとした女の子だ。
でもその女の子は、物凄くマイナス思考だった。
そういう部分は、外側からはほとんど分からない。その女の子と喋るようになって、色んな話を聞いていく内に、徐々にそういう部分が分かってきた。始めの内はどうにも信じられなかったけど、少しずつ、なるほど普段のちゃんとした感じは、どうにか世の中をやり過ごすための鎧なんだなと思うようになった。
自分に自信がなく、常に最悪の結果を予測し、その予測に縛られて感情が揺さぶられたり行動に移せなくなったりする。生活に関するほとんどのことが面倒なようで、確かメイクをほとんどしていないみたいな話をしていたし、食べるものはパンばっかり。初対面の人とはほとんど喋ることができず、服装にもあまり頓着しないようで、仕事以外で家から出ることもほとんどない。アニメやゲームや絵を描くことに自身のすべての力を注いで、それ以外のことは本当にどうでもいい、というような雰囲気を漂わせる女の子だった。
僕はそういう「訳の分からない感じ」にどうしても惹かれてしまうので、その女の子とはかなりコミュニケーションを取ってたし、割と深い話もしてたと思うんだけど、それでも定期的に連絡が取れなくなった。たぶん、ずかずか介入されるのは好きじゃないだろうと判断して、そういう時にあまりうるさくしないようにしていたけど、結構心配にはなったものだ。
その女の子が、「この主人公は私にそっくりです」と言って僕に貸してくれた本が本書だ。借りたのはずっと前だったんだけど、読むのは大分遅くなってしまったし、恐らくもうこの本は借りパクすることになるだろう。
本書の主人公は男だ。しかし、性別を別にすれば、確かにこの主人公とその女の子は似ている感じがする。というか、本人がそう言ってるんだから、似てるのだろう。孤独を愛し、生きていることがめんどくさく、ひたすら頭を低くしてアニメやゲームを心の支えにして生きている男。
僕自身も、どちらかと言えばマイナス思考で、悪い想像ばかりしてしまうし、色んなことをなかなか行動に移せない。生活の多くの面に無頓着で、生きていても別の楽しくはないと思ってた。しかし、この主人公もその女の子も、僕なんかよりも遥かにレベルが高い。本当に、生きていくのは大変だろうな、と感じる。本書の主人公はどうか分からないけど、その女の子は、絵の訓練をひたすら続けられるぐらい忍耐力と集中力が半端ないし、頼んだ仕事に対する責任感を強く持ってくれる。自身の弱さを知っているから他人に優しく出来るし、世間に迎合しない自分なりの考え方も持っている。ただ外面が良くて、根拠のない自信を持ってるだけの若者が多い印象があるのに、そういう中にあって、芯をしっかり持っている女の子だと思う。こういう子こそ、ちゃんと社会の中で認められるべきだと思うのだけど、本人のマイナス思考もあって、なかなかそれはうまくいかない。難しいものだ。
最近はそんなことはないけど、僕は昔、日常的に死にたいと思っていた時期があった。その女の子は僕より酷くて、今も定期的にそういう気持ちに襲われるそうだ。

『生きてて楽しくはないけど、だからって死ぬ理由もない』

主人公がそう呟く場面がある。すごく良く分かる。僕も昔は、ずっとそう思っていた。今でも、別に特別楽しいわけでもないし、いつ死んでもいいやとは思ってるのだけど。その女の子もきっと、同じような感じだろう。積極的に死ぬ理由はないから、まだどうにか生きている。僕もその子も、もし積極的に死ぬ理由を持っていたら、今頃は死んでいたかもしれない。そういう意味で、僕にもその子にも、そして本書の主人公にも、「死」というのはある意味で身近な存在だ。

内容に入ろうと思います。
主人公の梶真琴は、長いことひきこもり生活を続けている。父親からの仕送りだけでなんとかやりくりし、特に働きもせずにダラダラと生きている。自分はクリエーターであり、何をクリエイトするのかを探しているのだという言い訳で10年近くも過ごしてきた。人と会ったり喋ったりするのが憂鬱で、なるべく人と関わらないようにして生きている。孤独を愛する男だ。
彼は、生活するには、買い物などで多少は外に出なくてはいけないことを理解している。日常的に外に出ないと、外に出なければならない時のプレッシャーが物凄く高くなる、そのプレッシャーを分散させよう、ということで、一日一回外に出ることを自らに課している。朝、近くの喫茶店まで行き、モーニングを食べる。もう二年も通っているのに自分を常連扱いしないマスターが気に入っている。
その喫茶店で彼は、死神と出会う。
死神は後ろのテーブルで、お婆さんに向けて保険の勧誘をしているようだった。保険の勧誘員にしては端正な顔つきで、モデルのような顔をしている。その男はお婆さんに、「あなたはもう死んでるんですよー」と話しかけていて、これは詐欺だなと実感したのだった。
すったもんだあってその死神の助手をやらされることになった梶は、「死んでいるけど、死んだ自覚がなく身体が動いている死者」を正しく死なせる手伝いをする羽目になる…。

というような話です。
キャラクターの面白さで読ませる作品だなと感じました。とにかく、死神である「余見透」のキャラクターがぶっ飛んでいて面白い。死神が出てくる作品と言えば、伊坂幸太郎の「死神の精度」っていう作品が有名だろうけど、どちらも、外見は人間っぽくありながら、人間とはやっぱり価値観がズレている描写がふんだんにあって面白い。こっちの死神は、ハイテンションでマンガ好き、人間の気持ちの機微が分からずに梶の様々な行動にイライラすることが多い、という感じ。死神らしい(?)判断で、人間の常識的な価値観をぶった切っていく感じは時に痛快でさえある。あまりに非現実的なキャラクターなので(まあ、死神は非現実的な存在だから当然と言えば当然だけど)、この死神のキャラクターを受け入れられるかで、作品の受け取り方が変わるような感じがします。

対して梶の方と言えば、ひたすら死神に流されていく。ひきこもりには「断る」という選択肢のハードルが高くて、梶はついつい流されてしまう。僕は、タイプで言えば梶側の人間なので(レベルは全然低いけど)、梶の行動原理は結構共感できる。物事を悲観的に見てしまうところとか、なかなか行動に移せないところとか、自分の能力不足を認められなくて言い訳に勤しむところとか。梶のような妄想力は僕にはないので、そこは大きく違うんだけど。

この二人が、「死んでる人間をちゃんと死なす」というぶっ飛んだミッションをこなしていく。しかしこの、「実は死んでいるのだけどそのことに気づいていない」という設定はなかなか巧いなと思いました。確かに、そういうことは起こってもおかしくないかもしれない、と思う。本書で出てくる『崩壊』については、さすがにそういうことは起こらないと思うんだけど、死んじゃってるんだけど死んだことに気づいていないで身体は動く、というのは、場合によってはあるかもしれないなぁ、と。ありきたりな、「あなたを殺しにやってきました」というタイプの死神ではない死神の造形をしたという点がなかなか面白かったです。

ストーリーがどう展開するのか割と読めちゃったり、最後のオチはちょっとどうなんだろうなぁと思ったりと(そのまま終わらせる方が良かった気がするんだけどなぁ)、手放しで良い感想ではないのだけど、キャラクターと設定でパワフルにねじ込んでいく感じは嫌いじゃありません。

『だって人が死ぬのは自然の摂理なんだから。みなさんは生きてるつもりかもしれないけどね、擁するに、だんだん死んでるだけだから』

本書は、「死」を深く考えさせるような作品ではないのだけど、時折「死」について死神と主人公がやりとりをする。死神はドライで、自身が死なない(少なくとも人間の世界では死なないらしい)という部分もあるのだろうけど、人間が「死」に対して抱いている幻想や価値観をあまり理解しない。一方で、梶は梶で、「死」というものを強く恐れはしない。社会にいてもいなくても大差はない、という自分の立ち位置を理解しているし、人生に楽しいことなんてないと思っているわけで、別に死んでしまってもいいやと思っている。しかし梶は、人間との接触が少なすぎただけでそう感じているだけで、死神の手伝いを続け多くの人と関わる中で、「死」に対する様々な感じ方が生まれていく。世の中に対して別にどうでもいいと感じていても、いざ他者の死に直面すると、梶の心も揺さぶられる。そしてその時々の自分の感情を、ドライに処理しすぎる死神への文句という形で放出するのだ。

僕もずっと、「まあいつ死んでもいいか」と思って生きてきた。これには色んな見方が出来るけど、本当にどうでもいいやと思っているからなのか、あるいは、死を恐れるあまり直視したくないという気持ちがそうさせるのか、自分でも本当のところはよく分からない。
友人と「死」について話す機会も時々あった。ある友人は僕と同じような感じで、「死んだらモノだから自分自身の死体がどう扱われても構わない」と言う。また別の友人は、それは絶対に嫌だ、という。僕は、自分が死んだ後のことなんてどうでもいいと思ってるから、死体が乱暴に扱われるとか、きちんと埋葬されないみたいなことを、「本人が嫌がる」という感覚がイマイチ理解できない。普段なかなか「死」に対する考え方を聞く機会はないから、そういう話をすると他者の様々な価値観を知ることが出来て面白いと感じる。

死は誰にでも等しくやってくる。しかし、どうやって死を迎えるのか、それは人それぞれだ。「死んでいることに気づかない」という選択肢についてはこれまで考えたことはなかったけど、本書を読んで、なんか嫌だなと思った。いつも僕は思っているのだけど、死ぬなら即死がいい。「死ぬ」と認識してから実際に死ぬまでの時間が短ければ短いほどいいな、と思っている。

榎田ユウリ「ここで死神から残念なお知らせです」


わたし、型屋の社長になります(上野歩)

大学時代、馬車を作ったことがある。たった1枚の白黒の写真を渡されて、そこから手描きで設計、作業手順もすべて考えて、(人が乗っていなければ)ちゃんと動く馬車を作った。ちなみに、演劇の小道具である。
それまで、設計なんてしたこともなく、何かを作るというのも、学校の技術の授業の中でしたぐらい。さらにこの馬車、非常に苦労したことに、分解して組み立てられる仕様にしなくちゃいけなかった。演劇をやる会場まで運ぶのにトラックを使うのだけど、そのトラックに載せるために完成形のままだと都合が悪いのだ。どうやったら、強度を保ちながら分解できる仕組みにするか。そういうことを考えるのは凄く面白かった。
僕には絶対向かないけど、刀鍛冶なんかに憧れたこともある。刀鍛冶じゃなくてもいいのだけど、何かモノを作る職人はいいなと思う。理論ではなく、経験に裏打ちされた様々な技術によって、芸術的なモノを生み出す手腕には憧れるし、出来ることならそういう世界に飛び込んでみたいな、という気持ちはまだ自分の中に少しは残っている。
以前、日本の町工場の社長の本を読んで驚いたことがある。その社長は、ある非常に難しいモノを作れるのだけど、その作り方の特許を取っていないという。その理由は、「どうせ誰にも作れるわけがないから」なのだそうだ。その人(あるいはその工場)にしか作れないという自負はカッコイイなと思う。
僕が凄く好きな話がある。宇宙飛行士が宇宙船内でプルタブで手を切らない缶詰を作る、というプロジェクトに、日米の大学の研究者が大金を注ぎ込んで研究を続けていた。しかし、成果ははかばかしくない。しかしその難題を、日本の町工場の職人がひょいっと作り上げてしまったという。今ではその手法は、アメリカの技術者の教科書に載っているという。
日本はモノづくりに長けている、と言われる。それは確かにその通りだろう。しかし、その状況が、今後もずっと続くのかと言えば、それは怪しいだろう。何故なら、技術はあるが経営が不安定な町工場に、多くの若者が望んで就職するとは思えないからである。
多くの人が、メーカーを希望するだろう。しかし、そのメーカーの存在を支えているのは、町工場という中小企業だ。彼らの存在抜きに、モノづくりは難しいだろう。そういう僕自身も、じゃあ町工場に就職するかと問われれば言葉に窮するのだけれども。まったく興味はないとは言わないけど、実際に就職するとなると躊躇してしまう部分もある。
また最近は、3Dプリンタという新しい技術が登場しつつある。まだ量産に向くほど実用化されていないのが現実だろうが、もし3Dプリンタが量産に耐えうる性能を発揮するようになれば、町工場はただモノを作っているだけでは生き残れないかもしれない。3Dプリンタは、従来の方法では不可能な造形も可能にする。3Dプリンタには出来ないが技術力のある町工場なら生み出せるもの。そういうものを積極的に追い求めていかないと、厳しくなっていくかもしれない。

『アッコさんのつくってきたものは…そうだな、大衆に向けての情報だと思う。そうじゃなくて、俺の言うなにかって、人の手にしっかりと触れるもの。形があって、地味だけど生活の中で誰か一人のために役立つもののことさ』

僕も「情報」よりも、「質感のあるモノ」の方がいいなと感じるタイプだ。多くの人がどんどん「情報」に価値を置くようになっている現代だからこそ、「質感のあるモノ」を生み出す仕事の良さを改めて考えさせられた。

内容に入ろうと思います。
一流広告代理店「ダイ通」で働く花丘明希子は、これまでにも様々なプロジェクトに関わり、営業部副部長という地位にいる。新たな仕事は、スケールの大きなガイドブック作成の仕事だ。部下をリーダーに据えて基本的に一切を任せてみることにした。
そんな矢先のこと。父が脳出血で倒れたと母から連絡がある。父は一命を取り留めたが、仕事に復帰することは難しいと医師に宣告される。
明希子の父は、墨田区吾嬬町で金型の受注生産をする「花丘製作所」の社長だ。明希子は悩む。広告代理店の仕事を手放して会社を継ぐべきか否か。内情を知るにつけ、会社は相当厳しい状況にあると分かってきた。メインの受注を大手一社に頼ってきたつけが回ってきたとも言える。そんな状況の中明希子は、社長就任を決意する。
古い慣習のある業界の中で、ただでさえ金型については素人なのに、さらに若い女社長である。銀行を回っても融資を断られ、明希子を目の敵のように見る従業員もいて、先行きは不安定だ。
しかし明希子は、そんな状況の中でも決して諦めず、業界の常識に囚われない新しい発想を持ち込んで立て直しを図る…。
というような話です。

サラッと読むにはなかなか良い作品でした。ストーリーはお仕事小説の王道という感じで、なんとなくそれぞれの状況でどんな風に展開していくのか読めちゃうようなところはありますけど、肩の力を抜いて気軽に読める小説だと思います。
前半は、正直ちょっと、役者の芝居が下手な舞台を見ているような気分になりました。父が倒れた時の家族の反応とか、何かびっくりするような状況に出くわした時の主人公の反応とか、ちょっとそれは嘘くさいっしょ、と思ってしまうな、ある意味で「小説的」な反応で、このテンションでずっと続くなら厳しいなぁ、と思っていました。
しかし、明希子が社長に就任してからは、明希子というキャラクターが徐々に落ち着いてきて、人間らしく描かれているという感じがしました。出てくるキャラクターの多くが、よくありがちな”キャラクター”という印象を与えもしますけど、許容範囲かなという感じでした。
なんか悪い印象ばっかり書いてるけど、スイスイサクサク読める小説で、そういう部分を再優先にしてわかりやすいキャラクター設定にしているのであれば、それは成功しているだろうなと感じました。

著者は、生家ががプラスチックの成形加工所だったようで、それもあるのでしょう、町工場やそれを擁する吾嬬町という町の雰囲気、そして金型に関する詳細など、かなりリアリティがあって、読み応えがありました。特に後半、一時仕事が途絶えていた花丘製作所に仕事がやってくるチャンスを掴むと、そこで明希子は徹底的に技術力を注ぎこもうとします。相手の要求レベル以上の成果を出すために、技術者が無理だというような困難さを突き進んでいく。金型の素人で無知ゆえの暴走とも言えるけれども、その暴走が会社を救っている部分もある。
後半で登場する、斬新な金型の話は、正直読んでもよく分からないけど、著者がかなり金型に関して勉強して、さらに知識のある人間の知恵を借りているのだということが非常に伝わる感じがしました。作品の他の部分のリアリティと比較して、この金型の部分のリアリティが異様に突出しているので、若干不自然さがなくもないのだけど、この金型の部分のリアリティがあるからこそ「花丘製作所」の復活の予感を感じ取れもします。金型の技術的な部分の説明や会話はほとんど分からなかったけど、そういう、難題にチャレンジし、失敗を繰り返し、問題点を見つけ改善していくという過程は結構好きだったりするので、楽しそうだなと思いながら読んでいました。

『世界の30パーセントの金型は日本企業でつくられているんだからね』

精度が高いものであればあるほど日本企業が作る傾向が強いという。今や世の中のあらゆるものが金型から生み出されるわけで、そういう意味では日本企業の技術力が世界を支えていると言えるだろう。テレビでは、新国立競技場の設計などが注目を浴びるけれども、僕らが日常的に使っている様々なモノを生み出しているのが、日本の中小企業の技術力なのだという点は、もう少し知られてもいいのかもしれないと思う。

工場のシーンで興味深かったのは、生産管理に関するバトルだ。明希子は、生産管理のための人員を一人雇い入れたのだけど、この人物が工場長と幾度も対立する。生産管理責任者は、情報や仕事の進捗を全員で共有するシステムの重要さを説く。しかし、古い慣習に慣れきっている工場長は、その理屈を理解できない。
とはいえ、生産管理責任者が、花丘製作所では(そして日本のほとんどの町工場では)、80%以上の納期が守られていない、というデータを突きつけ、生産管理の重要性を説く。職人気質というのは嫌いじゃないし、システムや効率にそぐわない部分が存在するのもその通りだろう。しかし一方で、ただ単に慣れ親しんだやり方を手放したくないだけ、という場合だってあることだろう。明希子が社長になることによって新しい風が入り、旧態依然としたやり方が徐々に変わっていく。技術は守られるべきだが、伝統や慣習まで引き継ぐべきではない。恐らくどの町工場も抱える問題だろうから、うまく乗り越えて、日本のモノづくりがまだしばらく生き永らえるようになればいいなと感じました。
所謂「お仕事小説」で、池井戸潤の作品のような重厚さはないのだけど、お手軽に楽しめる作品です。

上野歩「わたし、型屋の社長になります」


映画「バクマン。」を観に行ってきました

高校二年の頃、パズルにハマったことがある。
その当時の僕にとって伝説的だった「パズラー」というパズル雑誌があった。今でも僕は、最高のパズル雑誌だと思っている。普通のパズル誌は、「ナンプレ」や「お絵かきロジック」など、基本的に一つのパズルだけを扱う。しかしパズラーは、様々なジャンルのパズルを載せているだけではなく、毎号パズル作家たちが新たなパズルを生み出し、それを載せ続けていた。恐ろしく難しいパズルに挑戦する企画、何号連続で正解し続けられるかと挑む企画、読者参加型で正解のないパズルをみんなで楽しむ企画など、様々な企画も用意されていた。それ以降、僕が見ている限り、同種の雑誌はほとんど発行されていないので、その当時も画期的なパズル誌だったのではないかなと思う。

毎号発売日にすぐに買い、授業中もひたすら解き続けていた。勉強もちゃんとやってたから、その辺のバランスはうまくとってたんだろうけど、僕の中ではずっとパズルばっかりやってた記憶しかない。チャレンジしがいのあるパズルにひたすら手をつけ、悩み、苦労しながらも、どうにか解けた時の喜びはなかなかのものだった。

さらにその雑誌には、読者から新作パズルを公募するコーナーもあった。僕はこれにもハマってしまった。新しいパズルのアイデアを考えては、ひたすら作り続ける。もちろん、作り方なんて誰かに教わるわけじゃないから、なんとなく勘で作っていく。一度本誌で採用されて2万円もらったことがある。いい思い出だ。

その雑誌は、ちょうどタイミングよく、高校3年生になるタイミングで休刊(事実上の廃刊)になってしまった。「ちょうどタイミングよく」と書いたのは、受験勉強が本格化するからだ。もし高校3年生の時もパズラーがまだ発行されていたら、僕の受験勉強に多大な影響を与えていただろうと思う。それぐらい、パズルばっかりやっていた。受験勉強に支障をきたさなかったのは幸運だったけど、しかし、休刊になってしまったのは本当に残念だった。

たぶん僕が、人生で何かにハマっていたのは、そのパズルにハマっていた一年だけではないかという気がする。

どうも僕は、何に対しても冷めている。熱くなることがない。大体のことにおいて、テンションが上がらない。不器用ではないので、やってみれば割となんでも出来る。どんなことも、そこそここなせてしまう。やればなんでも楽しいと思うし、人に誘われて断ることもない。メイド喫茶に行ったり、屋久島に登ったり、ダイビングをしたり。色んなことをしてるんだけど、全部人に誘われてやったことだ。誘われたことをきっかけに自分で始めてみようと思うこともないし、自分から何かをやってみようと思うこともほとんどない。

だからいつもぼくは、やりたいこと・好きなことを持っている人は羨ましいと思ってきた。

『今まで何にもやってこなかったからなぁ』

主人公の一人がそう呟くシーンがある。「君たちらしいマンガを描いてくれ」と編集者に言われた後の会話の中でだ。
その気持ちが僕にもとてもよく分かる。僕は、勉強しかしてこなかった。運動でも文化系でも、部活に入れ込んだこともなければ、趣味に全力を注いだこともない。虫を観察させたら負けないとか、ナンパだったら超得意とか、そんなものも別にない。こうやって、文章を書くことは、まあずっと続けてるし、本を読んだり映画を見たりした後で感想を書かないのは気持ち悪いと思っちゃうけど、だからって別に熱狂してるって感じでもない。

登場人物の一人で、主人公二人のライバルである高校生漫画家・新妻エイジは、6歳の頃からマンガを描いているという。ジャンプ編集部内でも、10年に一人の天才、と言われている。
6歳って、何してたかなぁ、っていうぐらいのレベルの記憶しかない。本はちょっと読んでた。勉強もまあまあしてた。友達と缶けりとかもしてただろう。でも、それぐらい。
もちろんそんな年代の頃から何か一つのことに熱中出来る子どもってのは多くないんだろうけど、でも僕は、ゲームにもマンガにもアニメにも熱中した記憶がない。これがないと生きていけない、みたいなものって特になかったし、今もない。

たぶん、運もあるのだろう。僕は将棋が好きで、多少勉強もしてみてるんだけど、将棋で強くなる人間って大体、祖父が将棋をやってたみたいな、子供の頃から将棋が身近にある人間だ。スポーツでも芸術でも、そういうことって往々にしてある。けど、ゲームやマンガは、いつの時代にも子供の近くにあるものだ。そういうものにも特にはまらなかったわけだから、やっぱり僕の資質の問題もあるかもしれない。

『生まれて初めて夢中になれた』

主人公の一人がそう呟く。そういうものに出会える人生ってのは、本当に羨ましい。金がなくても、学がなくても、友達がいなくても、そういう、これしかない!みたいなものに出会えてる人生っていうのは、もう、それだけで大きく満たされているんじゃないか。そういうものを持ってない僻みかもしれないけど、そんな風に思うことはある。

マンガ雑誌とマンガで、日本の出版物の36,5%を占めているという。本屋で働いている身としては、「マンガがなければ出版社も本屋もとっくに潰れてる」っていうのは、あながち言い過ぎじゃないよなと思っている。

その中にあって、ジャンプは絶対的な王者だ。
1968年創刊。マガジン、サンデーが既に人気を博している中の後発で、後発故に人気作家を揃えられなかったため、新人作家の育成に力を注ぐ。1970年代に200万部、1980年に300万部、1985年に400万部、1988年には500万部に達した。これは、全人口の20人に一人、小中学生の2人に1人はジャンプを読んでいた計算になる。最高部数は653万部で、未だにこれを超える出版物は、書籍全般で見ても存在しないという。

そんなジャンプに挑もうとする二人の高校生、高木と真城。高木は、絵は書けないが文才はあり、ストーリーを担当する。真城は高木に誘われてコンビを組むが、当初はコンビを組むことを断っていた。真城の叔父がジャンプで連載していた漫画家で、その姿を見ていたからだ。しかし、真城が昔からずっと好きで、勝手にその絵を描いていた亜豆というクラスメートとあれこれあって、真城は漫画家になることを決意する。

二人は、未経験ながら猛然とマンガを描き始め、ついにジャンプ編集部への持ち込みにこぎつけるが…。

というような話です。
全体的には面白い映画だと思います。ただ、尺の問題などもあるんだろうなと分かっていて書くんだけど、「マンガを描く」といいう部分のみに特化しすぎていて、物語全体の深さが損なわれている、という印象も受けました。

面白かったのは、まず、ジャンプの裏側を見ることが出来た、ということです。僕自身は、ジャンプを読んだことがない人間なんですけど、コミックは時々読みます。別にジャンプに限らず色々読むけど、ジャンプの作品はメジャーになる作品が多いので、結局ジャンプの作品を読んでいる、という感じになったりします。

ジャンプに毎週何本の連載が載っているのか知らないけど、相当限られた枠であることは間違いありません。それを、日本中のあらゆる漫画家になりたい人間が狙うわけです。高木は、真城を誘う時、「漫画家で生きていけるのは、全体の0.001%だ」みたいなことを言います。当たれば大きいけど、死屍累々の世界であるということです。

その連載を、いかにして決定しているのか。ジャンプ編集部で連載が決まるまでの流れを知ることが出来たのは面白いと思いました。3話分のネームを描かせて編集者と議論し、それから封筒に入れて編集部内の人間に回す。そして各編集者が封筒に感想を書く、というような描写は、実際にそんな風にやってるんだろうなぁ、と思わせるリアリティがありました。
ちなみに、僕の友人に、集英社で働いてる人間がいるんですけど(ジャンプの編集部員ではありません)、その人間いわく、「バクマン。」の撮影は実際に集英社で行われたらしいです。

『編集者は敵ではない。編集部と漫画家が対立した時、編集者は必ず漫画家の側に立つ』

高木と真城の担当編集は、そう彼らに伝えます。「漫画家は使い捨てなんだろう」と詰め寄られた時のことです。すべての漫画家が成功するわけじゃない。ジャンプの連載を勝ち取れても、そこからさらに闘いは続いていく。アンケートによる順位が、明確に、マンガの人気を序列化していく。どんな分野にいてもそうだろうけど、マンガは、連載という形で続ける以上、その序列からは逃れられない。「負ける」ことになれば、去るしかない。
編集者自身も、何が売れるのか分からない、と正直に言っている。そりゃあそうだ。それがわかれば苦労しない。編集者と漫画家の関わりの微妙なところも描かれていて面白いと思った。

ストーリー展開は、原作である「バクマン」がジャンプで連載されていたものであるのもあって、ジャンプのテーマである「友情・努力・勝利」を地で行くような感じです。作中でも登場人物が「友情・努力・勝利」と言う場面があります。起こるべきタイミングっで起こるべきことが起こる、という意味ではなかなか予定調和的なストーリー展開ではありますが、マンガを描くシーンを実際に漫画家同士がバトルするような演出で描いてみたり、男臭い画面が続く中で時々ヒロインが登場したりと、なかなかうまく緩急をつけていたなと感じました。

『マンガは誰かに読んでもらって初めてマンガになるんだ』

このセリフはいいなと思いました。このセリフは、近い場面で二度出てくるんだけど、二度目の、真城の叔父が言った時の方がより良いなと感じました。編集者はある場面で、『描きたいように描きたいなら、同人誌で描けばいい』と言います。描きたいものではなく、読者が読みたいものを。読まれてこそマンガなんだというのは、マンガに限らないだろうけど、その通りだなと感じました。

さて、個人的に気になった部分があります。それが、「マンガに関する描写以外が存在しないこと」です。これは、先程も書いたけど、映画の尺なんかもあって色々難しいんだろうと思います。原作を読んでないんで何巻出てるのかちゃんとしらないけど、そこそこの長さのあるマンガでしょう。それを圧縮して映画にするには、ある程度削らなければならないこともわかります。

しかしあまりにも、マンガ以外の描写が出てきません。例えば、親。高校生が、高校での生活をすべて捨ててマンガを描いている。その有り様に親が登場しないのは、さすがに不自然過ぎます。マンガやアニメでは許されるかもしれないけど、実写の映画ではちょっとそぐわない感じがします。特に、二人が最大のピンチを迎える場面。結局そこでも親は出てこない。もちろん、これだけ徹底的に登場しないので、意図的に排除したのだろうということぐらいは分かりますけど、やはり不自然さは感じました。

また、亜豆との関係性も、ちょっと中途半端過ぎないかと感じます。真城が漫画家になるためのきっかけを与えてくれるし、その後も重要な役回りとして登場するんだけど、亜豆との関係性もちょっと放置されたまま。週刊の連載をこなすために、高校ではほとんど寝ていたという二人だけど、高校での描写がほとんどないこともちょっと不自然に感じました。いくら彼らが学校の傍流的な立ち位置にいたとしても、ジャンプで連載しているとなればもっと話題になったり騒がれたりするでしょう。そういう描写もありません。

映画はあくまでも、マンガに関係する部分だけに特化していて、確かにそれは潔い判断だと思うんだけど、やっぱり一本の映画として見た時には、弱さもあるなと思ってしまいました。

作中に出てくるマンガは一体誰が描いてるんだろうと思ったけど、やっぱり小畑健でした。まあそうでしょうね。一流の作家は連載を持ってて忙しいだろうし、そこそこの作家に任せられることじゃない(なんせ、ジャンプで上位を争うマンガってことになってるわけだから)。「バクマン。」の作画を担当した小畑健が適任だよなぁ、と思いました。

エンドロールが凝ってて面白かったです。マンガの単行本の背表紙がずっと映しだされる部分があるんだけど、そこには「ヘアメイク探偵 1巻 ◯◯」みたいな感じに書かれてるわけです。そういう架空のコミックの背を大量に作って並べたわけで、面白いなと思いました。

主人公の二人が原作のイメージと合っているのか、原作のどういう部分が改変されているのか、そういうことは僕には分からないので、原作ファンがどう感じるのかは分からないけど、エンターテイメントとして見た場合面白く見れる映画じゃないかなと感じました。

映画「バクマン。」を観に行ってきました

鷲の驕り(服部真澄)<再読>

国益、というのは難しい。
かつて国益というのは、政治の世界の話だっただろうと思う。歴史には全然詳しくないから正確ではないことを書くと思うけど、冷戦や東西の対立など、国益を守ることはすなわち政治的な立場やイデオロギーを守ることと同義だったのではないかと思う。本書の登場人物の一人で、伝説的な女スパイである人物は、スパイが政治問題に関係していた時代は良かった、と言うような発言をしている。
現在では国益と言えば、概ね金である。金を生み出すものがなんであっても構わない。製品でも権利でも技術でも芸術でもなんでも構わない。とにかく、金を生み出す何かをいかに得て、それを守るか。国益というのは、そういうステージへと変わっている。
しかし、政治的な立場やイデオロギーは、国が持つことが出来るが、製品や技術は国が持っているわけではない。その国に存在する企業なり団体が持っているのだ。つまり国は、「国益を守る」という大義名分のもと、一企業に肩入れするという形を取らざるを得ない。
本書の中でもこの点は、繰り返し指摘される。先の女スパイが、「私はIBMやAT&Tのためにスパイをしているわけじゃない」という趣旨のことを言ったり、政府高官が会議の中で、民間に肩入れすることを指摘する場面もある。国益を守るためには、金を生み出す何か、そしてそれを保有する集団に働きかけなくてはいけない、というのは国のあり方として微妙な問題と言えるだろう。
しかし、そうせざるを得ない、という立場も分からなくもない。
本書では、ある技術に関して、その権利を巡って様々な勢力が奮闘を繰り広げることになる。
問題は、対象が「技術」である、という点だ。
作中に、こんな文章が出てくる。

『政府が、諜報活動や外交交渉などによって、つまり税金をつかって収集した情報を特定企業に提供することには、アメリカ国内でも、是非の議論がかまびすしい。
国際的な産業競争のなかで優位を得るための特定データを、政府がある企業に流せば、それはその企業にとって多きなメリットになってしまい、自由競争という建前に抵触する。しかし、そうかといって、重要な情報を放置しておけば、他国に機先を征されてしまう結果が待っている』

そもそも、「諜報活動などで収集した情報」というのは、要はドロボウしたってことなわけで、その行為そのものの是非を問われるべきなのだけど、まあそこは言っても仕方ない。日本も、建前上諜報活動はしていないということになっているらしいけど、まあやってないわけはないと思う。現代においては、なんにせよそういう形での諜報活動は必要なのだろう。その情報を、渡したら渡したで問題があり、無視したら無視したで問題がある。情報の入手の仕方はともかく、入手してしまった情報に対しての判断に迷うというのは、まあ確かにその通りだろうという気はする。
それら技術を保護するために、特許権というものが存在する。発明や技術に対して、それを一番最初に発見し申請した人間にインセンティブを与えよう、というものだ。本書では、この特許というものが一つ、非常に大きなテーマとなっている。
その背景には、米国の特殊な特許事情が存在する。
米国には、「サブマリン特許」と「秘密特許」と呼ばれっているものが存在する。
「サブマリン特許」は、大昔に申請された特許がある日突然許可されたものだ。例えば、30年前に特許の申請をし、その申請が30年後に受理され、特許を授与された、というような場合だ。
大抵の場合、このことは大きな問題を引き起こさないだろう。しかし、時折、申告な問題を引き起こす。
仮にその技術が、申請して以降30年間の間に、世界中で使用されるようになったとしよう。30年間は、問題ない。少なくとも、米国では特許がまだ許可されていないのだから。しかし、30年後に、その技術が突然米国で特許を取得する。特許を取得した者は、世界中の企業を相手取って、自分の発明の使用料を求めて提訴することが出来る、という寸法だ。おかしな話だと思うのだけど、米国のシステムとして定着しているのだからどうにもしようがない。
もう一つの「秘密特許」は、文字通り、申請された特許申請を秘密にする、というものだ。国防上などの理由で、他国に流出するとマズイ発明品については、その公開を禁じ、特許も下りず、その代価として申請者は、国から相応のお金を得ることが出来る。本書によれば、日本では同じことは出来ないそうだ。戦前は日本にも「秘密特許」はあったらしいのだが、敗戦によってすべて開示させられ、今ではすべてを公開している。今の米国は知らないけど、少なくとも本書の舞台である時代には、米国はまだ開示しないでおける特許というのは存在したようだ。
特許は、発明家の功績に見合う権利や報酬を約束してくれるだけではなく、国家間の重要なカードになっている。国益を守るために、いかにカードを切るかが大事になっていく。断片的に見るニュースの裏側に、本書の物語のような謀略が隠されているかもしれない…、と思わせるほどの物語でした。

内容に入ろうと思います。
ケビン・マクガイヤという天才ハッカーは、映画のモデルになるほど有名な男。かつて北米防空司令部のシステムに侵入したこともあり、ハッカー仲間からはヒーロー扱いされている。長年FBIに追われる身だが、しかしある瞬間から彼は自由になる。彼をリクルートしたいある組織の依頼を受けて、またネット上で力試しをすることになったのだ。
笹生勁史は、コンピューターセキュリティの専門家で、かつてケビンを逮捕に追い込んだことで一躍その名が知られるようになった。笹生の元にある日、日本の通産省の役人が現れ、大きなプロジェクトを彼に依頼する。
エリス・クレイソンは謎めいた人物だ。500に近い特許を持つ、現代のエジソンと言われている男だ。弁護士と組んで企業に特許訴訟を仕掛け、莫大な財産を築いている。しかしエリスは、取材は受けず、経歴もほとんど分からない、写真さえほとんど手に入らないという始末。様々な組織が、エリスの存在価値の重要さに気づき、この一個人発明家は、物語の中心になる。
イタリア・マフィアの流れを組む企業家であるロッコ・オラルファは、ネット上で様々な情報を収集しそれをお金に変える、サイバー・マフィアと呼ばれる新しいタイプの存在だ。彼は、大金を生み出すある”鉱脈”を発見し、それを駆使して荒稼ぎしてたが、ある情報に行き当たったことで、さらなる儲け話に首を突っ込むことが出来る可能性に気づく。
トマス・リッポルト卿は、世界を独占するダイヤモンド・シンジケート「DC」の総帥だ。DCは、世界中のダイヤの供給を管理することで、ダイヤの値崩れを抑え、ダイヤの価値を永遠に保つ役割を果たしている。DCに背けばダイヤを扱うことが出来ないことになっているが、その網目を抜けようとする者に、リッポルト卿は目を光らせている。
1995年、ケビンを監視している保護観察プログラムがクラッシュし、FBIがケビンの存在を見失った時から、物語は始まる。
というような話です。

大分以前に読んだことがある本で、色々あって読み直さなくちゃいけなくなったので再読したんですけど、本当に面白い作品だなと思います。
とにかく作品のスケールがとんでもなくデカイ。
日本のヤクザや裏組織を描く作品はたくさんあるし、物語によってはCIAだのFBIだの登場する物語もある。しかし本書は、米国の特許法の矛盾点に端を発し、複数の政府系組織の内紛、政府高官の思惑、米国の世界的大企業の野望、日本の企業群の反撃など、物語の枠組みがとにかくデカイ。本書には、様々な組織が入り乱れて登場するのだけど、それぞれの組織が異なる価値観で、エリス・クレイソンという発明家を追っていく。エリス・クレイソンは個人発明家でありながら、目鼻の利く様々な組織がその価値に気づき、覇権を狙おうと躍起になっている。その組織が、CIAだの世界的大企業だったりだのと、一般には使えないような様々な手腕を駆使出来る立場にあるわけで、その彼らが本気になって戦う物語は圧巻である。
相当数の登場人物が入り乱れ、様々な価値観で動いている組織が多く出てくる物語でありながら、本書は、読んでいて物語の筋を見失ってしまうということがない。これだけスケールがデカく、分量も多い物語なのに、非常に読みやすいのだ。これもまた著者の手腕だろう。章ごとに主人公が入れ替わり、さらに各組織が複雑な動きをしているにも関わらず、ごちゃごちゃしすぎて分からないと感じる場面がまったくなかった。CIAだの国家間の謀略だのと言った物語は、難しいと感じることが多いので苦手なのだけど、これは本当にすんなり読むことが出来て驚く。難しいと感じる小説と、何がどう違うのかは正直良くわからないのだけど、とにかく最後まで一気に読ませる筆力は見事なものだと思う。
描写の細かさにも驚かされる。著者は、ストーリーにあまり関係のない部分についても、徹底的に描写を積み重ねていく。誰がどんな服を着ているか、その土地はどんな歴史の土地なのか、車やコンピューターなど様々な技術的知識から、特許法を始めとした各種法律の深部まで、とにかくあらゆる描写に対して描写の程度が深い。知識的なことは調べればいいだろうけど、なんでそんな描写が出来るんだろうと感じるような、調べようがないような描写もあって、巧いなと感じた(どんな場面でそう感じるのか、具体例はちょっとパッと出てこないんだけど)。
それらの描写は、ストーリーに直結するわけではないが、物語内の世界観を一層広く見せるのに役立っている。実際読んでいると、ここに描かれていることが実際に起こったことなのではないかとさえ思えてくる。もちろん、コンピューター技術やスパイなど、その道の専門家が読めば色々粗はあるんだろうけど、エンターテイメントとして読む分には圧倒的なリーダビリティだと思う。
本書は、ただストーリーが面白いというだけではなくて、実際に起こってもおかしくはない(あるいは、もしかしたら僕らが知らない内に既に起こっているかもしれない)国家間の問題が提起されている。米国の法律の不備をつき、再び経済分野で世界の覇権を掴もうとする米国と、米国の特許法に被害者であり、”米国がやろうとしていること”をなんとか阻止しようとする日本の企業群の争いは、国益が政治的なものから経済的なものへとシフトしている現在においては、かなり重要な問題だろうと思われる。この物語では、米国でも日本でも、政府機関だけではなく企業が絡んでいるのだけど、政府が積極的に企業の権利を守らなければ無様に強奪されてしまうという世の中のあり方が描かれていく。その是非はともかく、そういう世の中になってしまっているんだな驚かされた。技術や権利が国際間の問題に発展する、そしてそれは積極的な防衛をしなくては簡単に強奪されてしまう、という世の中を描きだす物語は、個人はともかく、企業には大きく関係する話で、勤めている企業のジャンルによっては、かなり関心が高い物語ではないかと思う。
本書は、20年以上前に出版された、その当時の技術的知見を元に描かれている。現代から見れば、状況も技術的価値も変わってしまっているものも多くあるだろう。インターネットというものが普及し始め、データ管理に利用されるようになった頃の物語であり、現在はまた状況は違うのかもしれない。しかし、そういう技術的側面はともかく、技術や権利が莫大な富に変わり、しかしそれらは、法律とネットを駆使すればあっさりと奪われてしまうかもしれない、という状況に大きく変わりはないのではないかという気はする。僕はそこまで技術に明るい人間ではないので技術的側面についてはうまく判断できないけど、それ以外の部分で、物語に古さを感じる部分はほとんどなかった。現代でも十分通用する物語だと思う。
とにかく難しいことを考えずに、エンターテイメントとして存分に楽しんで欲しい。そういう小説です。設定や本の分厚さに躊躇せず、是非読んでみてください。

服部真澄「鷲の驕り」


誘拐(本田靖春)

『その一つの表れが、犯人逮捕を伝える際の見出しに用いられる「解決」の活字である。
なるほど何人が挙がれば、捜査本部は一件落着とばかり祝杯を上げて解散する。しかし、それは社会全般に通じる解決を意味しはしない。
私は十六年間の新聞社勤めの大半を社会部記者として過ごした。そして、その歳月は、犯罪の二文字で片付けられる多くが、社会の暗部に根ざした病理現象であり、犯罪者というのは、しばしば社会的弱者と同義語であることを私に教えてくれた。』

「文庫版のためのあとがき」で、著者はそう書いている。

事件が起こった時、僕らはその細部について知ることはほとんどない。
ワイドショーなどを見ていると、事件に関係する(場合によってはほとんど関係しない)「どうでもいい情報」は垂れ流される。子供の頃の文集の文章、近所の人の話、容疑者の特徴的な趣味。そういうものも確かに、事件の一側面を表すこともあるだろうが、しかし大抵は、ただの「ネタ」でしかない。
またワイドショーなどでは、被害者に関する情報は多く登場するが、容疑者に関する情報が少ないということがある。罪を犯した者の人権は法律で保護される一方、被害にあった者の人権は野ざらしにされる、というのは実に不思議な気がするのだけど、少なくとも日本の社会はそうなっている。
結局僕らは、ごく日常的に接する情報程度しか触れなければ、「犯罪を犯した奴は悪いやつだった」程度の認識しか得られない。

犯罪を犯すことは当然悪いことなのだけど、僕はその「悪い」は、幾通りの理由が混在して判断されていると思っている。
僕は、「犯罪を犯すことは悪い」という時の「悪い」は、「法律に違反しているから悪い」という意味で使っている。道徳的に、倫理的に、社会的にどうか、という判断は、個別属性的なものであって、「犯罪」という大きな括りには当てはまらないような気がしている。「法律に違反している」という点において、被疑者は一点の曇もなく「悪い」と断言できるのだけど、しかし、道徳的にどうか、倫理的にどうか、社会的にどうかという質問をされたら、僕の答えはその度ごとに変わるだろう。

この「悪い」を、感情的に発すると、始末に負えなくなっていく。もちろん、被害者やその周辺の人は、感情的であっていいでしょう。ただ、その事件とまったく関わりのない人が、ただニュースで聞きかじったというだけで、「あの犯人は、倫理的にアウト」と断言したりするのはよくないと僕は思う。良し悪しの問題というか、そんな判断をする資格がないと思うのだ。

『犯罪者というのは、しばしば社会的弱者と同義語であることを私に教えてくれた。』

生まれた環境、育ってきた時代などによって、人間は様々な背景を持っている。ニュースで見聞きしたような通り一遍の情報程度で、たとえそれが犯罪者であっても、勝手な判断や憶測をしてしまいたくないな、と思う。

本書で著者は、事件に関係ある事柄も、僅かしか関係のない事柄も、時にはほとんど関係ない事柄も徹底的に調べ尽くして、自分の目で見て耳で聞いたことだけを材料に、とある事件の発端から解決に至るまでの道程を丁寧に描き出していく。著者の取材は、被害者や加害者は言うに及ばず、捜査関係者や犯人に間違えられた者、さらには事件当日公園内にいたほぼすべての人物などなど、あらゆる情報を盛り込む。実際に取材で得た情報は、本書に盛り込まれたものの10倍以上はあるだろう。著者はこの取材と執筆に1年3ヶ月を費やしたそうだ。とはいえ、著者としては、短い期間だったという感想のようであるが。

『吉展ちゃん事件を警視庁担当記者として手掛けたかつての同僚が「あの事件を自分ほど知ってる人間はないと思い込んでいたが、実に知らないことだらけだったことを教えられた」と読後感を寄せてくれたのは、彼の立場がたちばなだけに、うれしい励ましであった。』

『これをもとにテレビ化された二時間番組が放映されたあと、担当のプロデューサーと監督が村越家に挨拶に出向いた際、遺族が「私たちは被害者の憎しみでしか事件を見てこなかったが、これで犯人の側にもかわいそうな事情があったことを理解できた」という趣旨の感想を述べられたと聞き、原作者としてたいへんありがたく、やっと救われた気持ちになった』

本書について、こんな感想を著者は受け取ったという。いずれも、激烈に高い評価だと捉えて良いだろう。

その時代時代で、時代を背景にした様々な事件が起こる。統計上、凶悪犯罪は年々減少しているようだが、凶悪な一つの事件が長期的に報道される傾向にあるので、残虐な事件が頻発しているように感じる。また一方で、動機の掴みづらい事件も多く起きている。しかし、著者の言を借りれば、そういう不気味な事件もまた、社会の歪や膿として生み出されているのだろう。犯罪を、ただ「恐ろしいもの」「残虐なもの」として遠ざけたり、あるいは好奇心だけで首を突っ込んでいては、本質は見えてこない。僕らのような一般人が、著者のような取材を続けることはほとんど不可能だが、しかし、ニュースやワイドショーの情報を鵜呑みにしない、という程度のことから行動してみるのも良いだろう。そうして、本書のような事件に関係するノンフィクションを読んでみるのも良い。繰り返すが、犯罪は「法律に違反している」という点で明らかに悪だ。しかし、道徳的にも倫理的にも社会的にも悪かどうかは、状況次第だろう。そういう意識で、これからも事件報道に耳を傾けたいと思う。

内容に入ろうと思います。
東京オリンピックを翌年に控えた1963年。その事件は起こった。後に「吉展ちゃん誘拐殺人事件」として知られるようになる幼児誘拐事件だ。
村越家の吉展ちゃんは、公園で行方が分からなくなってしまう。警察に通報し、両親は誘拐を疑うが、警察は誘拐とは考えない。そんな警察に業を煮やし、自宅の電話に録音装置を取り付けた父。そしてそのすぐ後に、身代金を要求する電話が掛かって来る。警察はようやく事件であることを認識するが、様々な場面で後手後手となり、結果的に身代金を犯人に奪われてしまう。
当時警察は、まだ誘拐事件への対応や捜査方針が固まっていない頃だった。何しろ、逆探知さえ、当時のルールでは認められていなかったのだ(この事件をきっかけに、逆探知の技術が導入されるようになる)。またそれ以外に、初歩的なミスを繰り返し、容疑者を取り逃がしてしまう。
警察は、身代金受け渡し現場での警察の失態の汚名を返上するために、161名という異例の数の捜査員を投入して捜査を続けるのだが…。
というような、実際の事件を元にしたノンフィクションです。

まず冒頭の描写は圧巻です。正直、退屈と言えば退屈なんですが、冒頭では、事件のあった日、舞台となった公園にいたすべての人間(身元が判明した人物のみ)のその当日の動向を丁寧に描き出していく。
この描写は正直、事件とはほぼ関係がない。被害者の村越家を除けば、後は書く必要のない情報であるとも言える。
しかし、恐らく著者は、この事件とは直接的には関係のない描写を冒頭に持ってくることで、この事件を報じる自らが、相当な取材を通ってきたのだぞ、ということを宣言しているのではないかと僕は感じた。
事件は、様々な側面から語られる。特に被疑者である小原保については、よくもまあこれほどに足取りを追うことが出来たなというくらいの描写がなされる。足に障害が残ることになった出来事、借金の詳細とその返済の様子、親しくしていた女性のこと、取調室での様子など、刻名に描かれていく。

僕は、「吉展ちゃん誘拐殺人事件」という事件の名前自体は聞いたことがあると思うんだけど、どんな事件なのかという詳細は特に知らないままだった。161名という大規模な捜査体制、身代金受け渡し場所での警察の失態、警視総監直々による放送。異例づくしの捜査だったと言えるだろう。
事件解決に至る道筋も、非常に興味深い。小原保は、何度も捜査線上に浮上しながらも、決定的な物証や証言がないこと、そして身体的ハンディやアリバイなどにより「小原保は白だ」とする勢力が警察内で多かったというような理由から、逮捕には至らない。結局、平塚という、様々な事件を解決に導いた凄腕の刑事の粘り強い捜査によって、事件解決に至る道筋は開けていく。

著者の、『犯罪者というのは、しばしば社会的弱者と同義語であることを私に教えてくれた。』という言葉について、読後考える。小原保は、時代の犠牲者と言ってもいいかもしれない。もちろん、小原保のような境遇の者は他にもたくさんいただろうし、小原保より辛い境遇の者だっていただろう。不遇の環境にいたからと言って、犯罪が単純に犯罪が肯定されるわけではない。しかし、もし彼が、もう少し陽の当たる人生を歩んでいたら。彼はこの事件を起こさなかっただろうか。金策に明け暮れるような日常を背負っていなければ、誘拐などという大それたことは考えなかっただろうか。
「国」や「時代」などという大きな単位で物事を括ろうとする時、確実に、そこからあぶれる者が出てくる。「国」や「時代」は、全体で見て良い方向に進んでいる時であっても、その構成要素すべてが順調なわけでもない。大胆な舵取りによって、余計犠牲を生み出すことだってありうるだろう。小原保も、そんな一人だったかもしれない。

誰が事件を引き起こしたにせよ、被害者の悲しみが減ることも消えることもない。そもそも、息子を失った、という悲しみだけに明け暮れていられるわけではない。膨大な迷惑電話、宗教への勧誘、模倣犯による脅迫電話、マスコミの報道など、あらゆるものが日常を剥ぎとっていく。心ない中傷も、数多く届く。インターネットがない時代でさえそうだったのか、という驚きを僕は感じた。傷口に塩を塗りこむような行為は、いつの時代にも存在するし、被害者が不特定多数の悪意にさらされるのも、現代と変わらないのだ。

東京オリンピックの前年という、日本が敗戦から立ち直り豊かになろうとする狭間で起きた事件。性急に豊かさを追い求めることが、社会全体を歪ませていた時期かもしれない。あるいは、そういう時期に起こった事件だったからこそ、人々の関心を呼び、現在まで人々の記憶に残っているのかもしれない。一つの事件の細部の細部まで掘り起こし、事実を列記することで幾重もの真実を覆いかぶせる著者の、渾身のノンフィクションです。

本田靖春「誘拐」


霧(桜木紫乃)

どんな生き方をしたいか、と問われても、僕には特に答えはないのだけど、どんな生き方をしたくないかと問われれば、何かしらは返せるだろう。
例えば、本書の登場人物のような生き方は、したくない。
役割が先行する生き方というのは、窮屈だと思う。それが、どんな役割でも構わない。父、息子、上司、部下、先生、などなど。人は誰しも、何らかの役割に収まるように生きているものかもしれないけど、人によっては、人格よりも役割が優位になっている人もいる。極端な例だと皇族などはまさにその典型だろうし、そこまで極端じゃなくても、一個人以上に、自分が収まっている役割を演じきることが求められる人生というのはありうる。僕は、そういう人生は御免だなと思ってしまう。
その窮屈さに耐えられるのは、どういう理由からなんだろうか、と思ってしまう。商売や政治的な繋がりを太くするために、家同士の都合で結婚させられる女。明らかに夫が浮気をしていながら、仕事上の夫の立場を貶めないためにその事実を指摘しない女。政界に乗り出そうとする夫の票集めのために町を束ねる女。もちろん、そういう時代だった、ということも出来る。かつて、女性は、そういう弱い立場に置かれていたのだろうと思う。しかし恐らく現代にだって、そういう役割が先行している生き方を強いられている人はきっとたくさんいることだろう。その生き方の先に一体何があるのか、と考えてしまう。
役割が人格を作る、ということももちろんある。そうなれば、窮屈さや忍耐を感じることもなくなるのだろう。役割に自身の人格を無理やり合わせるのではなく、自身の人格が役割と同化するのだから。変化し、かつての自分を忘れてしまえれば、それはそれである種の幸せと言えるのかもしれない。
人格に役割が付け加わるなら、それは良い。役割があるというのは、ありがたいことだとも思う。しかし、役割に人格が呑み込まれてしまえば、何のために生きているのかわからなくなりそうな気がして怖くなる。子供を持った母親が、「◯◯君のお母さん」と呼ばれるようになるという事実を、僕は怖く感じることがある。役割に呑み込まれないよう、どうにか踏ん張っていきたいと思う。

内容に入ろうと思います。
北海道の最東端である根室は、ロシアとの国境の町だ。根室の町を束ねている存在の一つが河之辺水産であり、その次女である珠生は、同じ町で芸者になった。河之辺という名前から逃れたい、という欲求からだった。
海峡で稼ぐ水産加工会社の社長である三浦という常連客がやってきた晩、三浦の部下である相羽重之を残して三浦は帰っていった。それまでにも町で見かけては、珠生は相羽と接触を試みて、会話を交わすようになっていた。事情を聞くと、明日警察に出頭するのだという。話を聞きながら珠生は、自分のせいで刑務所に行くことになった相羽のことを思う。そして夜中に、海峡を超えた相羽が辿り着いたという野付半島に向かう。
しばらく時が経って珠生は、相羽を偶然町中で見かけた。ヤクザのような風体をしていた。噂は少しずつ耳に入ってくる。相羽は、この町の汚れ仕事を一手に引き受けているそうだ。その働きぶりから、町を束ねる存在である大旗運輸の御曹司に気に入られたようだ。実はその御曹司に、珠生の姉が嫁ぐことになっている。捨てたはずの血縁が、妙な成り行きから近づいてくる。
根室という、否が応でも「敗戦」を意識させられる狭い町で、女には見えない線を挟んでやりあう男たちと、なんの因果か複雑な利害関係に放り込まれることになった河之辺家三姉妹を描く物語。

重低音のような低い振動で読者を揺さぶるような物語だと思いました。
主人公である珠生は、傍目に分かりやすく、様々なものを捨てた女だ。河之辺という名前を捨て、女としての真っ当な人生を捨て、貴重な若い人生を捨てた。姉の智鶴も、妹の早苗も、河之辺という家の中で、その範囲内で生きてきた。次女の珠生だけが、そのしがらみから抜け、好き勝手生きている。
はずだった。
そうではないのだ、ということが少しずつわかってくる。確かに、「色んなものを捨てました」と声高に宣言しているのは、珠生で間違いない。しかし、実質的により多くのものを捨てているのは、姉の智鶴だろう。
作中で描かれる智鶴のあり方は、なかなかに恐ろしい。正直、理屈で串刺しに出来るほど筋の通った行動はしていないはずだ。それこそ女性らしいではないか、という気もするのだけど、しかし智鶴はちょっと普通の女性とは印象が違う。母の期待を背負い、常に100点を取ることを自らに化した智鶴という存在の狂気が、中盤から後半に掛けての物語に大きな影響を与えていく。
この物語は、紛れも無く珠生の物語であるのだけど、様々な場面で姉の智鶴の存在を感じることになる。表に出てこないからこその存在感が強く漂っている。智鶴が一体何を考えているのか、珠生にはだんだん理解できなくなっていく。結婚して以来、大きく変貌を遂げている智鶴の動きは、珠生には謎めいている。智鶴という女がどれぐらい狂気を孕んでいるのか。その点は一つ読みどころになるのではないかと思う。

『この男の、娑婆になろう』

相羽と根付半島に行ってから、珠生はそうひっそりと呟く。寡黙で誠実そうな男を、塀の外で待とうと珠生は決心した。しかし、刑務所から出てきた相羽は、以前とは違った雰囲気を身にまとっている。結婚する前もしてからも、長く一緒にいられることはない。様々なことが相羽の一存で決められていくし、妻になったという喜びを感じる瞬間もほとんどない。
しかし珠生は、仕方ないのだと諦める。それは、芸者の出であるという負い目からかもしれないし、相羽を自分の手で格下げさせるわけにはいかないという意地の部分もあっただろ
珠生は、様々な場面で葛藤する。その度に、グルグルとした思考が、頭の中に満たされていく。しかし最終的には、相羽の傍にいるための最善の選択肢を選びとってしまう。

『相羽に惚れ込んでついてくる部下に、みっともないところは見せられない。珠生がここで泣いたりわめいたりなどすれば、たちまち相羽という男の「格」が下がるのだ』

なぜそれで相羽の格が下がるのか、僕にはイマイチよく理解できないのだけど、恋心から相羽を欲し妻となった珠生は、根室を陰で牛耳る男の「姐さん」として変化していき、その役割を見事に全うする。
その過程が、重苦しいまでに丁寧に描かれていく。

『この世には「幸福」などないのかもしれぬと思っていても、「幸福感」だけは在る気がしてくる』

日常に喜びを見いだせなくなった珠生は、自分らしからぬ振る舞いを率先することで、敢えて振れ幅大きく「相羽珠生」を演じてみせる。まさに、役割が人格を生み出すことになった。
そういう意味では、姉の智鶴も妹の早苗も、それぞれの役割に演じた変化を強いられる。しかし難しいのは智鶴の場合、他人からは「変化」に見える事柄が、ただ抑圧していた自分を解放しただけかもしれない、ということだ。町の様々な場面を自らの手で牛耳りながらも、かつてのような”姉”としてのあり方も捨てていない。女のしたたかさ、たくましさを見ることが出来る。

『男たちが義理だの恩義だのと言い始めるときりがないのあ、面倒なものに縛られなければまっとうに日々を送ることができないからだ』
『座敷でも座敷の外でも、男たちはいつも切迫した事態を好んで選びとっているように見えた』
『男の人にしか見えない線があるのよ、きっと』

女性らしい観点で、珠生はよく男のことを描写する。「男なんて…」というニュアンスが込められた表現には、女性が女性らしく生きていくことの難しさや、まだまだ社会は男が作っているのだという現実がにじみ出る。芸者出身、という出自も、物事の見え方に影響を与えていることだろう。表で町を動かすのは男だ。しかし、そのさらに背後で女性が蠢き、その女性の動きに男たちが気づいていないように思える時、珠生は言い知れぬ感覚に捕われる。あらゆるものを捨てて自由に生きてきた自分が、いつの間にか自由を奪われている。捨てたはずの様々なものに、また縛られている。
男と女の住む世界の大きな違いを感じ、両者の間の踏み越えてはいけない領域を巧みに避けながら男の世界に介入しようとする女の生きざまは見事だ。

土地の狭さも、人間関係の狭さもくっきりとした世界の中で、女たちは隙間を縫うようにして生きる。汚れ仕事を一手に引き受ける夫のあり方に沿うようにして、珠生は自らの気持ちを封じてでも、相羽と一緒に生活する道を選ぶ。目の前の困難を、珠生一人の心裡で処理し、気丈な女として感情を押し殺す珠生のあり方に感じ入る場面は多い。本当の意味での珠生の幸せは、一体どんな形をしていたのか。そんなことを考えさせられた

桜木紫乃「霧」


北壁の死闘(ボブ・ラングレー)

内容に入ろうと思います。
アイガー北壁で、ある山岳ガイドが、下半身の白骨化した死体を発見した。勲章には、「エーリッヒ・シュペングラー 1942年10月」と書かれていた。通報すると、スイス軍により尋問を受け、また死体は即座に回収され、この発見については口外しないよう口止めされた。
しかし、BBCの補助調査員がこの噂を聞きつけ、独自に取材を開始。そして彼の取材によって、その死体が、戦時中のある計画と、それに巻き込まれた人々の歴史を明らかにするものであることが分かった。
1944年.シュペングラーはドイツ軍のSSによって連れ去られ、唐突な配置換えを命じられる。唐突に、第五山岳歩兵師団の少尉に昇進すると言い渡され、登攀の訓練に放り込まれることになる。どんな任務につくのか知らないが、しかしシュペングラーは、ある時から登攀から足を洗っていた。過去の忌まわしい記憶が、未だにシュペングラーを苛むのだ。
シュペングラーと同様集められた者は他にもいた。中でも特異だったのが、スイス人でナチ党員である女医、ヘレーネ・レスラーだ。誰も任務を知らされないまま、過酷な訓練に従事させられる。
彼らは、敗走を続けるドイツ軍の劣勢を覆すことになるかもしれない、とある重要な使命を担うことになったのだが…。
というような話です。

全体的にはなかなか面白いのだけど、「外国人作家の作品であること」、そして「慣れないしイメージもしにくい登攀の描写がとても多い」という理由で、読むのに苦労した作品でもあります。
まず、これは作品とは関係ない話ですが、僕は外国人作家の作品を読むのがあまり得意ではありません。翻訳の問題もあるのかもだけど、翻訳の細かい違いなどはよく分からないので、たぶん言い回しとか描写の仕方とかがあんまり合わないんでしょう。外国人の名前を覚えるのも難しいし、未だに苦手意識が抜けません。
さらにその上で本書は、メインのテーマが「登攀」で、知らない用語やイメージしにくい描写なんかが大量に出てきて、そういう意味でも凄く苦労しました。正直、登攀をしているシーンの描写は、ほとんど何をしてるのか分かりませんでした。とりあえず上に登ってるんだろうなとか、誰かが落ちたんだなとか、そういうぐらいのこ、としか分かりませんでした。
作中のほとんどの場面の舞台が、訓練場所の山やアイガー北壁なので、この登攀の描写が分からないのとなかなか厳しいです。この登攀の感じを、文字だけで理解しようとするのは相当難しいだろうなぁ、と思いました。登攀の経験者であれば、恐らく、すんなり理解できるんでしょうけど。映像で見てみたいなぁ、という感じがしました。映像なら、相当迫力あるだろうなぁ、と

話的には、なかなか興味深い設定だと思いました。ドイツ軍は、ある奇策によって戦局をひっくり返そうとしている。しかしそれは、あまりにも無謀な作戦だった。何故登攀のプロフェッショナルが集められなければならないのか。そして、ヘレーネは糖尿病の専門医なのだけど、何故、糖尿病の専門医であるクライマーを探しだす必要があったのか。
そして、それが明らかになると今度は、両者(ドイツ軍ではない方の側は伏せておく)の戦いが繰り広げられる。しかもそれは、人間が到底生存不可能と思えるような、過酷な環境の中で繰り広げられる。絶体絶命、という状況を何度も経験し、敵も味方もなくなっていく面々の間に、奇妙な連帯意識が生まれ、誰がどんなミッションを有しているのか、誰のために働いているのか、そういうことが吹雪の中に溶けてしまっていく。生きている者など他にいないという環境の中で、生き延びるためにギリギリの選択をし続ける人々の、驚異と絶望が描き出されていく。

登攀ではないのだけど、いくつか登山家のノンフィクションを読んだことがある。彼らは、たった一人で、不可能と思えるようなことを成し遂げていく。もちろん、常に成功するわけではない。屈指のクライマーであったはずの植村直己も、冒険中に消息を断った。
僕には、彼らが何故、そういう場所に惹かれてしまうのか、ちゃんとは分からない。確かに、山に登るのは楽しいと思うし、やったことはないけどボルダリングも興味がある。でも、彼らがやっているのは、一歩間違えれば死んでしまうという極限の挑戦だ。そんな挑戦に彼らを駆り立てるものはなんなのか。

そういう意味では本書の場合、その動機はわかりやすい。当初は「命令されたから」であり、そしてアイガー北壁にたどり着いてからは「生き残るため」と理由が変わる。それがどんなに無謀な挑戦であっても、挑戦しなければ死あるのみ。そういう中で彼らは、唯一生に繋がる道を突き進み続ける。

アイガー北壁で孤立しているメンバーたちに芽生える独特の感情も丁寧に描かれていて面白い。地上にいたら、恐らく言わなかっただろう、やらなかっただろうことを、彼らはそれぞれやっていく。協力し合わなければ死あるのみという状況が生み出す人間関係のねじれみたいなものも読みどころです。

登攀の描写が多くて、用語や描写に慣れてない人はちょっと読むのに苦労するでしょう。内容的には、スリリングでもあり、人間模様の展開もあり、敵味方の境界が曖昧になっていく過程がなかなか面白いです。

ボブ・ラングレー「北壁の死闘」


「屍者の帝国」を観に行ってきました

魂の重さは、21グラム。
人間は死ぬと、21グラムほど体重が減ることが確認されている。それが、魂の重さだ。死んだ人間からは、魂が失われる。

1878年、ロンドン。ジョン・ワトソンは、友人であり共同研究者であったフライデーの墓を暴き、彼を蘇らせた。魂はないまま。
ヴィクター・フランケン博士が、最初の屍者である「ザ・ワン」を生み出してから100年。今では屍者技術は、世界経済の発展になくてはならない技術となっていた。
フランケン博士の時代には、屍者技術は感情的に受け入れられなかった。最初に屍者技術を受け入れたのは、女性だ。夫や息子の代わりに屍者が戦場に行けば、大切な人を失わずに済む。屍者の兵士利用という可能性に気づいた各国は研究開発を進め、今ではあらゆる労働力として屍者が使われ、生活に密着するまでになった。
屍者を蘇らせるには、擬似霊素をインストールする必要がある。擬似霊素を解析することは国家機密に違反する行為だが、ワトソンはそれを行い、違法ネクロウェアをインストールし、フライデーを蘇らせたのだ。間抜けな屍体マニア。友人を勝手に屍者化した狂気の科学者。ワトソンはそんな風に呼ばれる。
弱みを握られたワトソンは、ウォルシンガムの指令の元、バーナビーというお目付け役と、ニコライというロシア人と共に、アフガニスタンを目指すことになる。
そこには、ヴィクターの手記と被験者だった屍者と共に姿を消したカラマーゾフが潜んでいる。フライデーの魂を取り戻すためにヴィクターの手記をなんとしても手にしたいと願っているワトソン。しかしワトソンは、そのために、世界を危機に落とし入れることになる…。
というような話です。

伊藤計劃が原案と僅かな冒頭部分だけを残して逝去したのち、盟友である円城塔が書き繋いで完成させた「屍者の帝国」という作品。僕はこの原作小説を読んだ時、あまりにも難しくて全然理解できなかった。伊藤計劃の作品も僕には難解で、さらに円城塔の言い回しもなかなか一筋縄ではいかず、ほとんどどんな内容なのかも理解できないまま読み終えた記憶がある。SF小説がそもそもあまり得意ではない、という理由もあったと思う。
それでも映画を観に行ったのは、伊藤計劃と円城塔が作り上げた世界が、やはり気になったからだ。

どんな技術であっても、その有用さが知られれば、誰もがそれを使うようになる。
携帯電話を江戸時代に使えば、魔術だと思われることだろう。携帯電話が世の中に登場し始めた頃でさえ、そこに価値を見いだせない人はきっとたくさんいたことだろう。しかし既に僕らは、携帯電話がなくては成り立たない世界に生きている。
他人の心臓を移植する、という技術にしても、その技術が最初に行われた頃はきっと非難されたことだろう。しかし心臓移植は、もちろん今でも倫理的な議論は存在するだろうが、治療の選択肢の一つとして僕らの意識の中には定着している。
だから、屍者を労働力として使う、という技術も、もし本当にそんなことが可能なら、実現する日が来てもおかしくはないだろう。現代を生きる僕らは、当然それに忌避感を覚える。死んだ人間が労働力として働いている世界は、やはり生理的に気持ち悪いだろう。日本は特に、火葬する習慣があるからなおさらだろうと思う。しかし、災害現場での救助要員として、後継者のいない伝統技術の継承者として、高所作業など危険な作業を行う人員としいての有用性が認められれば、徐々に広がっていく可能性はある。とはいえ、屍者技術よりも先に、アンドロイドの技術が確立されるだろうから、現実的に僕らの世界で屍者が労働者として使われる世界がやってくることは、きっとないだろうと思うけれども。

もし屍者を蘇らすことが出来たら、あなたはどうするだろうか?大切な人が亡くなった時、その人を蘇らすことが出来ると言われたら、あなたはどんな選択をするだろうか。
この問いに答えることは難しい。何故なら、ワトソンを始め、世界中で使われている屍者技術では、屍者は言葉を持たず、感情を持たず、魂を持たないからだ。
「ザ・ワン」は違った。フランケン博士は、感情を持ち、言葉を操る屍者を生み出していたという。その秘密が、ヴィクターの手記に書かれている。なんとかしてフライデーの魂を取り戻したかったワトソンは、あらゆる手を使ってでもそれを成し遂げようとする。
肉体は動くが、意志はなく、会話もなく、魂もない屍者。だからこそ、労働力として最適であるとも言えるのだが、しかしそれでは、大切な人が亡くなった時に蘇らせようと思う人は少ないだろう。

『私がしていることは、君を苦しませるだけじゃないのか』

ワトソンがそう呟く場面があるが、そうなのかもしれない。魂の宿らないただの容れ物として”生かされている”よりは、命を失った者として安らかに眠る方がいいかもしれない。
しかし、フランケン博士が生み出した「ザ・ワン」の存在が、そしてヴィクターの手記の存在が、ワトソンの判断を狂わせていく。

『あなたが手記を求める理由は?』

そう問われたワトソンは、屍者技術の向上のため、と答える。しかし、『手記を求める理由は、彼なのですね』と見破られてしまう。

『手記の先の現実を受け入れる覚悟は?』

ワトソンには、この問いの意味が、問いかけられた時には分からなかった。分かったのは、ずっとずっと後のことだ。『目を背けたのはあんただ!』と強く迫ったワトソンは、自分が何も見ていなかったことを悟る。手記の先の現実は、地獄だった。

『誰かに思いを伝えることは、難しいですね』

この発言は、発言者の様々な後悔を含んでいるのだろう。かつて兄を実験台にした時の、そして共同研究者であった者の命を奪った時の自分のふがいなさに対して、そして今まさに手記を追おうとしている若者に気持ちが届かないことのもどかしさに対して。ワトソンは、彼の忠告を無視し、自らの欲望を全力で追いかけることによって、世界の破滅に加担する。

『お前は、お前の見たいものを見てるだけだ』
『これ以上、死んだ人間にこだわるのはやめろ』
『お前もヴィクターと同じ道を歩むのかね』

ワトソンは、ヴィクターの手記の秘密を知る。彼は、フランケン博士が何をしたのかを知る。それはあまりにも残酷で、あまりにも禁忌だった。しかし、それを知ってもなお、ワトソンは止まらなかった。止まれなかった。フランケン博士がたとえそうしたのだとしても、どこかに、どこかにきっと、魂を取り戻す方法があるのだと信じた。信じるしかなかった。約束したのだから。彼は、信じるしかなかった。

『思考は言葉に先行する』

ワトソンは、それを証明したかった。

『思考は言葉に先行する。言葉があるなら心があり、心があるなら魂がある』

その証明のために、ワトソンは突き進んだのだ。

『思考は言葉に先行する』
僕はそうは思わない。脳科学や言語学の世界で、何らかの成果が生まれているかもしれないし、僕はそれについて何も知らないけど、僕は「言葉は思考に先行する」と思っている。
そのためには、「思考」を定義しなくてはいけない。もっと具体的に言えば、「思考」と「本能」を区別しなければならない。
動物にはみな本能がある。蚊は人間の血を吸い、ライオンはシマウマを喰い、蜘蛛は糸で巣を張る。これらは、誰かに教わって行うものではない。予め、遺伝子やらDNAやらに刻まれていることなのだろう。
人間にしても同じだろう。明確な区別は難しいけど、動物を狩るために必要な道具を生み出すとか、様々な目的のために火を熾すというような行為は、本能に近いのではないかと思う。遺伝子やらDNAに刻まれているわけではないが、膨大な繰り返しの経験が、行動や動作によって伝わっているという意味で言えば、遺伝で伝わるものと同列に考えてもいいように思う。
しかし、例えば「人間は死んだらどうなるのか?」というような問いを生み出すこと、そしてその問いに答えを与えようとすること。これらはまさに「思考」だ。「本能」と「思考」を厳密に区別して定義は出来ないのだけど、そんなイメージを持っている。
その場合、「思考」よりも先に「言葉」があるのではないかと僕は感じている。
言葉があるからこそ、人間は「思考」を進めることが出来る。
人が動かなくなり、喋らなくなり、体温が失われることを「死」と名付ける。「死」と名付けるからこそ、「人間は死んだらどうなるのだろう」という問いが生まれる。僕には、こういう順番の方が自然に思える。

中国人の部屋、という有名な話がある。人工知能が知能を持っているのか、という論争で、誰かが提示した比喩だ。
人工知能は、人間と自然に会話をすることが出来れば、知能を持っていると言えるのではないか、という主張に対して、ある人物はこう反論する。例えば、ある部屋に中国人がいるとする。その中国人は、英語はまったく読めないが、部屋の中には英中辞書が存在する。その部屋には、外から様々な英語の文書が送り込まれる。中にいる中国人は、その文書を辞書で調べ、すべて中国語に変換して部屋の外に出力する。
この場合、この部屋の外にいる人間には、「この部屋の中の人物は、英語を理解する力があるのだな」と判断するだろう。しかし実際には、中の中国人は英語を理解できない。
人工知能でも同じことだ。人間と意志の疎通が出来ていても、ただそれはプログラムにしたがって言葉を出力しているだけで、それ自体が知性のあるなしを決めるわけではない。だから僕は、「言葉があるなら心がある」という部分も怪しいと感じる。

しかし屍者の場合は、この話は若干難しくなる。何故なら、屍者は生きている頃、言葉を持っていたからだ。何らかの操作によって、「失われたものを取り戻す」という可能性はあるだろう。あるいは、「失われていたように見えていただけで実は失われていなかった」ということだってありうる。しかしだからと言って、「言葉を取り戻すこと」が、そのまま「心を持つこと」と直結するとは思えない。

ワトソンは、「言葉があるなら心があり、心があるなら魂がある」と信じている。だから、フライデーに幾度も問いかけ、言葉を発させようとする。しかし、それはただの妄想に過ぎない。「言葉があるなら心があり、心があるなら魂がある」というのは、ただの、検証されていない仮説に過ぎない。

ある場面で、フライデーに魂が戻ったかに思わせる瞬間がある。あの描写が何だったのか、正直僕には理解できていない。もしあれが、偶然の挙動ではなく意志によるものであるとするならば、僕は魂の存在を信じてもいい。もちろん、失われた21グラムが魂の重さなのかどうかは、また別の問題だと思うけれど。
とはいえ、その場面の後もワトソンは、証明を果たしたような清々しさを見せない。もちろん、自分のせいで世界を混乱に陥れてしまった責任を感じていて、自身の喜びに浸れなかったという可能性もあるだろうが、しかしきっとそうではないだろう。ワトソンが、あの挙動をどう捉えているのか、それはよく分からないのだけど、何かを果たしたような気持ちになれていないことは確かだろう。

物語は終盤、そのスケールを増していく。ヴィクターの手記を狙う様々な者の内の一人が、壮大な計画を実行に移そうとする。

『全員が絶望を感じなくなることは、至福の一つの実現だ』

その思想に間違いはないのかもしれない。しかし、その実現手段があまりにも狂気に過ぎた。屍者を労働者として使役している世界においては、何が正しくて何が間違っているのか、そんな倫理観も歪んでしまうものなのかもしれない。
ワトソンはワトソンなりの答えを提示して、その計画を阻止しようとする。さらに新たな計画が発動し、屍者を取り巻く様々な思惑が世界を混沌に陥れることになる。争いのない世界を生み出すのだ、と宣言した狂人の思想はおかしいと思うが、しかし一方で、ワトソンも狂気の淵に立っていたことがある。誰が狂っていて誰が正しいのか。腕っ節の強さしかない男のあり方ぐらいが、一番気楽でいいのだろうと思う。

ハダリーという謎めいた女性の存在も、屍者で埋め尽くされた世界にあってまた違った問題を提示することになる。魂とは何か、心とは何か。言葉を持つ者にそれがあるのか、あるいはないのか。終わらない問いが渦巻く世界の中で、ワトソンは自分が正しいと信じる道を進んでいくことになる。

なかなか壮大な物語で、世界観すべてを理解できているわけではない。終盤に行けば行くほど、理解できないシーンは増えていった。それでも、様々な形で「生きているとは?」「人間とは?」と問いかけてくる深淵な物語が、自分の深いところにまで下りてくるのを感じた。踏み越えてはならない領域に足を踏み出していった者たち同士の相反する価値観がぶつかり合う中で、生と死を巡る物語を展開させるのはさすがだ。実在する著名人が多数登場し、その著名人の思想なんかももしかしたら作品に組み込まれていたりするのかもしれないけど、それは僕には分からない。深読みしようと思えばいくらでも出来そうな物語の壮大な輪郭は見事だと感じました。

「屍者の帝国」を観に行ってきました

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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)