黒夜行

>>2015年07月

2014の短歌まとめ

一年間、短歌を作り続けました。ちゃんと数えてはないですけど、700首~1000首ぐらいは作ったんじゃないかなと思います。その中から、評価してもらえた歌、自分が気に入っている歌なんかを、コメント付きでだらだらと書いてみます。


この年、僕が大変お世話になったサイトが「うたの日」です。誰でも参加できる短歌投稿サイトです。カレンダーの日付の部分をクリックすると、歌会に参加できます。


追記)
穂村弘「短歌ください 君の抜け殻篇」の感想も読んでみてください。

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痛みの道標(古内一絵)

内容に入ろうと思います。
就職した一流企業が、実はかなりのブラック企業であり、その社内での立ち回りに失敗し、多額の借金と犯罪者としての汚名を背負うことになった達希は、現実のあまりの理不尽さに嫌気が差し、雑居ビルの屋上から飛び降りた…。
はずだった。いや、飛び降りたのだが、何故か達希は公園で目を覚ました。瞬間、自分がどこで何をしていたのか見失う。どこかから聞き覚えのある声が達希の情けなさを詰る。
祖父の声だ。ありえない。祖父は確か、15年前に死んだはずでは…。
達希が理解した状況は、まったく不可解なものだった。祖父・勉は、雑居ビルから飛び降りた達希を救い、今も達希にしか見えない姿で達希にまとわりついている。達希の現状を知るや、隠し財産と交換条件に、人探しをしないかと話を持ちかけられる。
そんな謎めいた事情を抱えて達希は、なんとボルネオを目指すことになる。祖父が探している人物はボルネオにいるらしいのだが、勝手のわからない達希は、外国の地に慣れるだけでも精一杯だ。どんな道中に、何故か祖父の姿を見る事ができる高校生の美少女が加わり、達希らは、戦時中祖父が辿った道をなぞりながら、祖父の知られざる秘密に近づいていく…。
というような物語です。現実に存在し、ボルネオでは今も語り継がれているというとある事件をモチーフに描かれる物語。日本ではほとんど知られることがなく、公的な資料もほとんど存在していない事件なんだそうです。
古内さんの物語はどれもそうだけど、舞台設定が非常にうまい。この物語では、「ブラック企業」と「戦時中の軍」をうまくオーバーラップさせることで、戦争の物語を現代に通じる世界として描き出すことに成功しているように感じる。正直僕には、戦争は遠いものに感じられてしまうし、現代を生きる多くの人にとってもそれは同じではないかと思う。今また、戦争に突入するのではないかという風潮があって、僕は結構その風潮を恐れてはいるのだけど、しかし現実に日本が戦争になると考えている人はほとんどいないのではないか。戦争は遠い存在。そういうものとしか捉えられなくなっている。
しかしそれを、現代のブラック企業と重ねると、実に多くの事柄が当てはまるようにも思う。成果のために他者を犠牲にすることを厭わないところや、他者の成果を平気で奪うところ、下っ端を容赦なく切り捨てるところ。戦時
中の軍隊と現代のブラック企業を同列に比較するのは当然無理があるんだけど、それでも、戦争の物語を少しでも身近なものとして感じられる可能性があるのであれば、この工夫はなかなか良く出来ていると思う。
「祖父の幽霊」という非現実的な設定も、特に高校生の美少女である雪音が物語に加わってからは、物語を駆動させるのに良いエンジンとなっていく。雪音はその特殊能力のせいで多くの人から疎まれ、ボルネオの奥地に身を隠すようにして生きていなければならない存在だ。ブラック企業から逃げてきた達希と共に、人生をうまく渡りきれなかった者たちだ。そして祖父の勉にしても、破天荒で豪放磊落に生きてきたはずだったのだけど、ボルネオの道中で知った祖父の様々な真実を知るにつけ、達希は、『勉はずっと、自分だけの位ジャングルを、己の胸のうちに棲まわせてきたのだろう』と感じるようになる。誰もが、その圧倒的な現実の理不尽さに傷つき、それぞれなりのやり方で戦っている最中なのだ。そんな傷ついた面々が、祖父の依頼から始まった謎めいた道中を突き進むことで、勉だけではなく、達希・雪音の問題も解決していくように見えるという全体の構造が、とてもうまいと思う。

『黙れ!そんなことはこの国の偉い人間たちが、昔からやってきたことだ。つまらん理屈をこねている暇があったら、自分をはめた上司を相手取ることを考えろ。認めるのは自分のやったことだけでいい。それ以外のことを背負い込むな。やったことの責任だけ認めたら、それ以外のことは、きっぱり忘れろ!』

『他人が認めるんじゃない。まずは、自分が認めるんだ』

悲惨な戦場を生き延びた祖父の言葉は重い。実際、祖父からすれば、達希が置かれている状況など何ほどのこともないように見えるだろう。しかし、そういう風に見るのは軽率だと思う。それがどんな時代でも、どんな組織でも、その時代なりの、その組織なりの辛さがある。祖父が達希に伝える言葉は正しいと思うが、正しい言葉が常に誰かを救うわけではない。祖父の言葉は、簡単には達希には届かない。達希にとっては、時間を掛けて、多くの人と出会って、今まで自分が拘っていた世界を自力で出て行くしかなかったのだ。
祖父の場合、それは自力ではなかった。祖父が、祖父の世界から出られたのは、終戦という圧倒的な現実のお陰だ。

『あの頃俺が信じていたものは、ほとんどが嘘ばかりよ。お前は世間が認めなければ、ッジ分の意味はないと言うが、世間なんて、案外いい加減なものだぞ』

祖父は、ある後悔を抱えて、この旅路に達希を付き合わせている。そしてその後悔は、まさにこの点、「信じていたものは嘘ばかりだ」という点にあるのだ。祖父は、その時信じていることが嘘であると、自力で気づけたわけではない。気づくチャンスはあったのだが、祖父自らそれを放棄したのだ。これも、仕方のない話だ。そういう時代だったのだというしかないし、何よりもまず、当時まだ祖父は20歳にさえなっていなかったのだ。
祖父の達希に対する言葉は、時に厳しい。しかし僕にはそれは、祖父自身が、かつての自分にも同時に言っているように感じられるのだ。恐らく達希も、祖父の物語を知る中で、そのことを理解していったのではないかと思う。達希自身、自分の現状を遥かに超えるような、現代では考えられないような現実を知り、自分の問題以上に、そのことに囚われていく。

『終わってない―。
まだなにも、終わっていない。
ふいに、そんな思いが達希の胸の中に湧いた』

物語は、達希がボルネオを訪れ、尋ね人の居所を探しだした後で、戦時中の勉の物語へと移っていく。このパートこそが、勉の後悔の源泉であり、日本人はほとんど知らないがボルネオでは今も語り継がれている史実を元にしている部分だ。
この物語では、「戦争」という言葉からイメージするような情景・描写は、ほとんどないと言っていい。爆撃も戦闘も、ほとんど出てこない。

『自分はなんのためにこの島にやってきたのかと考えた。(略)
けれど、それがこの島の人たちに、果たしてなにを与えただろう。』

勉は、同い年の室田と共に、このボルネオの地で、糧食を担うことになる。つまり、農作業だ。現地人から接収した土地で、現地人を使い、軍のための糧食を用意する。元々ボルネオには、石油確保のために軍は乗り込むのだが、何故だか数合わせに詰め込まれた勉らは、当然石油絡みの仕事をさせられるでもなく、故郷にいたのと大差ない農作業に従事することになる。

『軍隊は、どんな出自の少年をも、一時に「神兵」にしてくれる魔法の機関だった。(略)国のために兵隊に志願することは、力のない少年たちが最も簡潔に存在価値を立証してみせることでもあった』

故郷の親兄弟はみな、勉がボルネオで農作業をしているとはまさか思わないだろう。勉は、やる気のない上官の存在や、農作業に従事するしかない自分自身、家族の期待を裏切っているような気持ちから、投げやりな気分になることもあった。現地人は自分たちの言うことはまるで聞かないし、室田と二人では作業も一向に進まない。勉でなくても、自分たちは一体何をしてるんだろう、と思うことだろう。
しかも勉はそこで、素晴らしいとしか言いようがない人物に出会うことになる。

『根上らが平気で「土民」呼ばわりしている現地人たちには、自分たちの知らない深い歴史と、田舎育ちの己など足元にも及ばない、豊かな教養が息づいている』

上官は勉らに「土民どもには関わるな」と言うが、しかしどう考えても、自分の上官である人たちよりも、農作業を通じて関わる現地の人々の方が素晴らしい。戦争という環境の中にいなければまず会うことのなかった人ではあるが、しかし、恐らく勉は、戦争という環境以外の場で彼らに出会いたいと思ったことだろう。

『「神兵」ともてはやされれば、ちっぽけな自分を忘れることができる。「お国のため」と唱えれば、高揚感に胸が湧きもする。
だが今、アララン草の中でサイチョウのように羽ばたいている人たちが崇めているものが、自分や根上のような上官がいる軍隊の中にあるとは到底思えない』

物語は基本的に、彼らとの交流をメインに描かれていく。彼らについては具体的には書かないけど、読めば読むほど、その素晴らしい人間性に惹かれることだろう。それは、ボルネオに駐在している軍人たちの振る舞いを背景にすることで、よりはっきりと伝わってくる。
時代、と言われればそれまでだが、こういう形でしか出会えなかったことが本当に残念だ。時代は残酷で、多くの人たちに残酷な決断を強いた。正しくはないと分かっている道に進ませていった。失われずに済んだはずの命が失われた。「戦闘」でも「爆撃」でもなく人が死んでいく、理不尽と言えばあまりにも理不尽に過ぎるその現実に、少年兵だった勉は為す術もない。
そして、その理不尽さは、常に僕らの目の前に現れる可能性がある。

『果たして今の自分たちに、それを戦争時代の狂気だと決め付けることが、本当にできるだろうか。
熾烈な環境や競争の中では、人は自分の先行きばかりに血道をあげ、他人の痛みなど、簡単に覚えなくなっていく』

いつの時代にも、「後から考えればどう考えても間違っていたのに、皆がそれに向かって突き進んでいた」時代がある。戦争もそうだし、バブルもそうだ。規模に制限を加えなければ、様々な例を挙げることが出来るだろう。日本人だけなのかと言えば、きっとそういうわけでもないはずだ。日本人には、そうなる傾向が強くあるだろうと思うけど。

『いいか、八重樫。軍隊にとって、一番大切なものは規律だ。規律を失えばもう軍隊ではない。規律を守れない兵隊に、祖国を守ることなどできるものか!』

もちろん、規律は大切だ。しかし、この上官は恐らく、「自分で考えることを放棄し、規律に従え」と言っている。そういう考え方が、僕は怖い。軍隊だけではない。例えば、体育会系の人たちの、先輩には絶対、みたいな考え方が僕は怖いし嫌いだ。あるいは、「原発は安全だ」と言い続けた国の考えが怖いし嫌いだ。規律を失えば軍隊ではないかもしれないが、自分で考えることを放棄すればもはや人間ではないだろう。人間ではないもので構成された軍隊になど、どれだけの力と価値があるというのだろうか?

『なんだ、これは-。
この少年たちは、一体なんのために、わざわざ南洋まで送られてきたのだ。
精糧士?笑わせるな。
あんなに苦労した開梱した土地では、作物を採るどころか、作付さえできなかった。
軍艦も戦車も航空隊も残っていない島に、なぜこんな少年たちを、何百人も送ってよこしたのか。この少年たちは、ひたすら死ぬためだけにやってきたようなものだ。
こんなものが戦争であってたまるものか。
これは戦いじゃない。一方的な殺戮だ』

人間は愚かだ。集団になればなるほど、より愚かになっていく。地位を得れば得るほど、より愚かになっていく。だからこそ、時代の風潮に流されず、守るべきものがありながら戦いを止めなかった人たちの、その高潔な生き様に、胸を打たれる。何を失おうとも正しいことを主張し、曲がったことはしなかった人たち。そして、彼らに対して、どう考えても言い訳のできないことをした日本軍。

『インドネシア人が、今でも日本人に怒りを抱いていると思うなら、それは誤解です。大切なのは、歴史を学び、新たな関係を築いていくことです』

人間としての生き方で言えば、戦時中も、現代も、日本人は一方的に敗北していると言えるだろう。慰霊祭に招かれた達希らは、歓迎を受ける。わだかまりがないわけではないだろうが、それらを乗り越えたところに新しい世界が広がっているのだと、現地の人は示してくれている。
戦争には様々な側面があり、簡単に切り取ることは出来ない。この物語にしても、公的な資料が存在しない出来事をモチーフにしているわけで、何が真実であるかを見極めることは非常に難しいだろう。それでもこの作品は、戦争の一側面を見事に切り取っている。無力で、無謀で、無残であったあの戦争の、情けなく恥ずかしい部分が切り取られていく。この物語は、ただ戦争を背景にしているだけではなく、現代を生きる僕らに、生き様を問うてくる物語だと思う。

『誰かに用意してもらった居場所にしがみつくのでも、無闇にそれを探し回るのでもなく、今いる自分の場所をしっかりと踏みしめて前を向く、本物の脚力をつけるのだ』

僕らにはきっと、それが出来るはずだ。そういう希望を紡いでくれる物語だ。

古内一絵「痛みの道標」


「マッドマックス 怒りのデス・ロード」を観てきました

初めから見ようと思っていた映画ではありませんでしたが、色々話を聞いている内に、やっぱりこれは見るべきなんじゃないかと思って観に行きました。
今日も、映画が始まる前、隣の席の二人組の女子がこんな会話をしていました。

「マッドマックスって、人気なわけ?」
「うーん、人気だと思うんだけど、もしかしたら私のTLでだけかもしれない」

昨日も、マッドマックスの話をしたら、ある女性がこんなことを言っていました。

「TLだけ見てると、日本人の98%ぐらいはこの映画見てそうだよね」

またある時、こんなことを言っている女性がいました。

「絶対見るべきですよ!全人類必見です。私は一回見て、二回目をいつ行こうか考えてるところです」

ある女性は、マッドマックスの内容について、こんな風に表現していました。

「最初の2分と、最後の5分以外は、全部クライマックス」

公開から結構日にちが経ってると思いますが、今日僕が見た会は満員で、僕は前から二列目の席になってしまいました。見上げるような角度で見てたので、首がメッチャ痛いです。

というわけで、どんな話なのか書いていきましょう。

とは言うものの、ストーリーらしいストーリーはほぼない、と言っていいでしょう(読んでもらえればわかると思いますが、これはディスってるわけではありません)。冒頭の5分ぐらいで、物語の設定と登場人物のざっとした紹介的な流れが出てきて、それからはひたすらカーアクション!!!という感じの映画です。
しかも、カーアクションと言っても、普通のカーアクションではありません。舞台は砂漠。様々に対立する面々が、バイクやら車やらトレーラーやらでぶっ飛ばして、目的とする敵を殲滅する、というようなシーンの連続なわけです。

すげぇ映画だなと思いました。とにかく、ほぼ全編アクションで、しかも、まあ物語にありがちですけど、その内の一方は戦力や状況的に圧倒的に不利な状況に置かれます。しかし、まあこれもお約束ですが、色々あって(色々あって!!)その不利な方が踏ん張って乗り越えてどうにかなる、という話なわけです。

この徹底したアクションが圧巻です。岩と砂しかない砂漠で、止まったらほぼ死あるのみみたいな環境で戦い続ける。前門の虎、後門の狼みたいな感じで、逃げてもしんどいし戦ってもしんどい、みたいな状況の中で、彼らは悲壮な覚悟を持って戦い抜くわけです。

みたいに文章で書いてても、これは全然伝わりませんね。もうひたすら続くアクションこそがこの映画のメインであって、だからこそ映画館で見るとメチャクチャ迫力があるわけなんですけど、そのアクションの素晴らしさを文章で伝えるのはかなり困難です。凄いんだけど、文章だと「凄い」しか言えないなぁ。こういう映画は、どうやっても、実際に見る以外に「体験する」ことが出来ないから、それでこんなに流行ってるのかなって思いました。

僕が感じた非常に面白いなと思った点は、アクションの中に、シリアスさとユーモアさを絶妙に織り交ぜているところです。
基本的にはアクションはシリアスです。映画も延々とトップスピードで展開されるし、アクションは圧巻です。しかし、そのシリアスな世界観を壊すことなく、ギャグっぽい要素を入れていくんですね。これが絶妙で、緊迫感だけではなくて、ちゃんと弛緩もさせてくれるんで、緊張しっぱなしっていう感じにならなくて余裕を持って見れたような気がします。

例えば、追って側の車に何故か、ギターを弾いてるやつがいます。こいつは、物語的にもアクション的にも、特に要る必要がありません。他にも、何故か太鼓を叩いてるやつがいたりします。この太鼓野郎も、別に全体的に全然関係ありません。恐らく舞台の中で、「盛り上げ役」みたいな立ち位置なんだろうなぁ、と思わせるような存在です。みんながハイテンションで戦ってる最中、戦闘にはまるで無関係なやつがヘッドバンギングでギターを弾いてるとか、マジ無意味すぎて物凄くシュールだなと思いました。そしてそのシュールさが、世界観を壊していないところがとても良いです。あの、「マッドマックス!!!!」っていう世界観の中で、見事に隙間を縫うようにしてシュールさもぶち込んでくるんで、すごくセンスがいいなぁと感じたのでした。

そんなわけで、これ以上アクションについて文章を続けられないんで、一応舞台設定とか物語の主軸みたいなものも書いておきます。

舞台は、イモータン・ジョーという為政者が支配するとある地域です。ジョーは、砂漠地帯において絶対の力を持つ「水」を管理することで王政を敷き、絶対君主として君臨しています。「ウォー・ボーイズ」と呼ばれるならず者たちを抱え、彼らに対し、「イモータン・ジョーは絶対である」という洗脳を施すことで、彼の絶対は保たれています。ウォー・ボーイズたちは、ジョーのために死ぬことを恐れておらず、むしろそうすることで、清い魂としてこれまでの英雄たちと同列に扱ってもらえる、という信仰があるようです。
そんなある日、一大事が起こります。ジョーが「子産み女」として囲っていた美女軍団が脱走したのです。脱走を手引したのは、フュリオサという女戦士。彼女は女たちを「緑の地」へと連れて行くとして、数多の追手を振り切りながら東へと進んでいきます。
さて、主人公の「マックス」はどこに出てくるのか。何を言っているのかわからないと思うけど、映画の前半では、マックスは「輸血袋」として出てきます。「輸血袋」です。というわけで、この映画の前半では、マックスはまったく主人公らしくなく、「輸血袋」として拘束されています。
大体こういう設定があり、また、「何故世界がこんな風になってしまったのか」「マックスが囚われている幻覚は一体何なのか」みたいな描写も多少挟みこまれるんですけど、でも全体としてはさほど関係ありません。とはいえ、この映画、シリーズ作だそうで(この映画単体で見ても大丈夫です)、そういう部分は、30年前に公開されたという前作までの部分で描かれているのかもしれないので、その辺は良く分かりません。

「水やガソリンが厳しく管理され、人々に自由がない環境」という人為的な閉鎖空間と、「岩と砂以外なにも存在しない砂漠」という自然環境的な開放空間を実にうまく使って、「閉塞」と「脱走」をうまく描いているし、そんなこととは関係なく、アクションが圧巻なので、飽きずに見れてしまいます。ストーリーはほとんどなし、舞台は砂漠だから砂と岩ばっかり、基本的に男ばっかり出てくる(美女は数人)という、それだけ書くと全然盛り上がらなそうな要素しかありませんが、よくもまあこの条件で、あんなに面白い映画を撮ったもんだな、と思います。何も残らないけど(笑)、とにかくスカッとする映画です。是非見てください!

「マッドマックス 怒りのデス・ロード」を観てきました

「バケモノの子」を観に行ってきました

両親が離婚。母親に引き取られるも、交通事故でその母親を失う。そして、本家の跡取りとしてまったく知らない人間に育てられるところであった蓮、9歳は、その場から逃げ出し、渋谷の街をうろつく。

『お前も一人なのか。俺も、一人ぼっちだよ』

チコと名づけた謎の生物を頭に載せ、渋谷でうずくまっていた蓮。そこに、恐ろしいバケモノが通りかかる。

『お前、俺と一緒に来るか?』

成り行き上、そのバケモノの後を追いかけることになった蓮は、まったく見知らぬ、バケモノたちが暮らす街に迷い込んでしまう。
「澁天街」
そう名付けられたその街では、今まさに時代交代の時であった。澁天街を束ねる宗師を長く務めた者が引退することになり、宗師の跡目を決めることになっていた。一人は、強く人望もあり、二人の子の親としても慕われている猪王山(いおうぜん)。そしてmぽう一人が、滅法強いが、傲岸不遜で手前勝手、息子も弟子もいないという熊徹だった。
ひょんな成り行きから、熊徹の弟子となった蓮。そこでは蓮は熊徹から、キュータという名前を付けられる。そもそも人間が澁天街にやってくることなどない中で、さらに熊徹という、粗暴で師匠らしくもないい男に剣術を習う蓮は、弟子らしくなく熊徹に歯向かい続ける。

『師匠の言うことを聞け!』『嫌だ!バカが移る!』

これまでことごとく弟子が逃げ出してきた、師匠の器のない熊徹と、人間であるが故にバケモノの世界にも居場所がなく、子供ながらに反抗しつつも自分の道をどうにか自分で切り開いていかなくちゃいけないキュータ。二人は、紆余曲折を経て、師匠・弟子らしくなっていくのだが…。

というような話です。
細田守映画は、どれを見ても好きだな―って思いますけど、今回もメチャクチャ良かったです。
物語は、王道中の王道だな、という感じです。『何かトラブルがある』→『異世界に行く』→『対立』→『対立を超えて成長』→『大きな問題が立ちはだかる』→『ピンチ!』→『でも、さらに成長』→『解決』みたいな感じです。最近久しぶりにテレビで見ましたけど、「サマーウォーズ」と同じような、家族の物語あり、大きな戦いあり、恋あり、成長ありというような、ド王道の物語になっています。しかしまあやっぱり、王道の物語というのは強いです。人類のDNAに組み込まれてるのかなんなのか知らないけど、やっぱり随所で泣いてしまいました。
前半は基本的に、熊徹とキュータの成長物語です。
二人は、全然師弟という感じがしません。熊徹は、メチャクチャ強いのだけど、キュータにうまく伝えられないし、キュータはキュータで現代っ子らしく、理解できない物事に対して無思考に飛び込むみたいなことをしないので、わけのわからないことばかりいう熊徹の言うことを聞きやしません。熊徹には熊徹なりに弟子を育てたい気持ちがあり、キュータにはキュータなりの強くなりたい気持ちがあるのだけど、両者が全然噛み合いません。
そんなキュータの気持ちを変えさせた言葉があります。

『お前、もう帰れ。修行なんて、5年10年掛かるのなんてざらだ。こんな修行で、まともに出来るようになるわけないだろ。ここにお前の居場所はない。さっさと自分から消えろ』

9歳の子供なので仕方ありませんが、キュータはそれまで、”自分で生きていくんだ”という覚悟がありませんでした。母親の死後、親代わりを買って出てくれた本家の人間に対して『一人で生きていく!』と啖呵を切ったキュータは、しかし、”一人で生きていく”ということの意味が分かっていませんでした。
しかし、その言葉でキュータは、まだ何をしたらいいかは分からないけど、今の自分の有り様が、一人で生きていくに足るものではない、と気づくのです。
そこからキュータは、大きく変わっていきます。
この物語の面白い点は、師弟の境界が徐々に曖昧になっていく、その過程です。
もちろん、最初から”師弟”なんて呼べるほどの関係でもなく、師匠は師匠らしくなく、弟子は弟子らしくなかったわけですが、しかし弟子であるキュータの考え方が変わったお陰で、釣られるようにして師匠である熊徹の考え方も変わっていきます。それは、ある意味では「キュータが熊徹の師匠になった」ということでもあります。

『お主でも分からんか。より成長しているのは、熊徹の方じゃ』

二人は、通常の”師弟”という関係を飛び越えた関係になっていきます。どちらも欠けているものがあり、どちらも相手に与えられるものを持っている。足りないものをお互いで補い合い、言葉では足りない部分を実践で補いながら、彼らは、とても良い関係性へと突き進んでいくわけです。
まずこの過程が、とても良い。本来的には家族ではなかった者同士が、家族でもあり、ライバルでもあり、師弟でもあるという、実に深い関係へと展開していく過程を、熊徹の不器用さとキュータの熱心さをうまく織り交ぜることで描き出していきます。お互い、言葉には出さないのだけど、お互いのことを一人の存在として強く想っている感じが随所に伝わってくるし、スタートや過程やきっかけはどうあれ、想いがある者同士は分かり合えるのだ、と信じたくなるような力強いメッセージがあると感じました。

『意味なんててめぇで見つけろ』

僕は、勝手にだけど、熊徹のような師匠を描き出すことで、現代の”教育”について警鐘を鳴らしているのだと感じました。
これは僕が勝手にそう感じるだけなので、社会全体がそう感じているのか分からないけど、現代の若者たちは、以前よりも、「指示を待つ」「教えてくれるまで動かない」「学ぼうという姿勢を見せない」「正解だけを知ろうとする」という傾向にあるような気がします。学びというのは、自分が望まなくてもどこからともなく降ってくるものだし、また、正解に関係ない物事は非効率的だから邪魔だ、という風に考えているような気がします。
僕の中で「何かを学ぶ」というのは、「自分の頭で考えること」だし、「回り道も経験になる」し、「自然と与えられるものではない」と思っています。そして本来的に”学び”というものはそういうものだったような気がします。「師匠の技を盗む」「師匠に教えてもらえるように振る舞う」「やれと言われたら無駄だと感じることもやる」 もちろん、状況によっても違うので、そういう”無駄の多い学び”の方がどんな場合でも良い、とは言いませんが、そういうかつて通用していただろう”学び”の作法が、現代ではほとんど通用しなくなってしまったことは、あまり良い傾向だとは感じていません。
そういう意味で、熊徹の存在は、”学び”が”教育”になってしまったことで失われてしまった様々なものを現代人にもう一度呼び覚ますような、そんな目的を感じたりもしました。
この”学び”というのはこの映画に底流するテーマの一つで、後半でも大きく物語を動かす原動力となっていきます。
後半では逆に、熊徹との関わりは徐々に薄くなっていき、澁天街でのキュータと渋谷での蓮を行き来することになります。
そこで蓮は、楓と名乗る一人の少女と出会う。

『(師匠とは)怒鳴り合ってばっかりだよ』『羨ましい』『えっ?』『私、親と喧嘩したことないんだ。小さな頃から、親の希望を叶えるためだけにひたすら勉強勉強。でもね、誰も私の気持ちなんて知らないんだ』

そして蓮は、秀才である楓から、文字の読み方から始まって様々なことを学ぶ。
後半で描かれる”学び”の本質的な部分は、「好奇心」なのだと思う。「知りたい!」という気持ちが、”学び”を発動させるエネルギーになる。

『知らないこと、もっと知りたくない?』

ここにも、現代の”教育”への批判を感じることが出来る。知識を詰め込み、補充するような教育ではなく、まず好奇心を育てなくてはならない。そして、現代における”教育”には、その観点が実に薄い。だから、まず何かを好きになること、興味を持つこと。そこから”学び”は始まるんだ。そんなメッセージを感じる。
熊徹と楓。キュータ(蓮)は、まったくタイプの違う二人の師を持つことになる。そして、現実の世界で学び続ける蓮は、それまで自分に残っているとは思っていなかった、もう一つの人生の可能性を知ってしまう。

『俺も普通になれるのかな。普通に働いて普通にご飯を食べて普通に寝る。そんな人生が俺にもあるのかな』

人生の選択肢が潰えたが故に飛び込んだ澁天街の外に、まだ自分が生きていける可能性が残されていた。楓とあって、そのことを知り、そして何よりも、その人生の楽しさを知ってしまった蓮は、人生の岐路に立たされることになる。

『やり直すって何を?今までのこと、辛いなんて決め付けるなよ!』

蓮の心は揺れる。

『行くな!』

熊徹の心も揺れる。

『あんなやつでも、今まで、キュータの親代わりだったんだよ』

彼らを支える面々は、成り行きを見守るしかない。
そんな、自分では踏ん切りをつけることが出来ないキュータ(蓮)の前に、想像もしなかったような出来事が立ちはだかることになる。
キュータ(蓮)は、これを乗り越えることでさらにまた一歩大きく成長していくことになるのだけど、この最後の戦いもとても良かった。この映画は、別にミステリというわけではないのだけど、このラストの戦いの場面で、それまでに出てきた様々な描写が伏線として実に見事に機能していく。

『彼は自分の足を奪った鯨と戦っているんだけど、でも実は、自分と戦ってるんだと思うの』

まさかメルヴィルの「白鯨」が物語に深く絡んでくるとは思わなかった。

『教えてくれ。俺って人間なのかな、バケモノなのかな』
『私も時々どうしようもなくなる時がある。何かが溢れだすことがある。みんなそう。だから、大丈夫』
『楓と会えて良かった。ありがとうって、言いたくて』
『私たち、いつだってたった一人で戦ってるんじゃないんだよ』

蓮は、バケモノの世界からはみ出たバケモノと対峙するのだけど、しかし、それは単純に敵なのではない。蓮自身も、そうなるかもしれなかった状態であり、蓮がそうならなかったのは、自分を育ててくれた様々な人たちのお陰だと分かっている。蓮は、そうなるかもしれなかった自分の姿との戦いに挑むことで、自分という存在の価値や自分を支えてくれた人たちへの感謝を想起し、進むべき道を決することになる。

『俺は半端モンのバカヤローでしかねぇ。でも、あいつのことは、俺が助けてやるんだ!それが半端モンに出来る、たった一つのことなんだ!』

熊徹、カッコイイぞ!!

家族・成長・恋の物語を巧みに織り交ぜながら、”学び”を強く意識させ、”学ぶこと”で人生が変わっていく過程を力強く描いていく。生まれもった何かではなく、後天的な努力で掴んでいったもので生きていくことのカッコよさに溢れているし、”弱さ”を誰もが等しく持っているものなのだと何度も繰り返し伝えてくれるので、勇気づけられる。世の中で「何者か」になれないと嘆いている人は多いかもしれないけど、そんな人でも誰かにとっての「何者か」にはなれる。それは小さな幸せかもしれないけど、とても大事なものなんだ。そんな風に思わせてくれる映画だと思いました。是非観てみて下さい!

「バケモノの子」を観に行ってきました

「リアル鬼ごっこ」(園子温)を観てきました





なんとなく、園子温の映画は観に行こうと思っているので、「リアル鬼ごっこ」を観てきました。

先に、二つほど書いておくことがあります。

①原作とは、1ミリも関係ありません
②とにかくぶっ飛んでます

これから見ようという方は、この二点にご注意ください。

①について書いておきましょう。これは映画を観に行く前にたまたま見た記事で知りましたが、園子温は原作を一切読まずに脚本を書いたそうです。

園子温「トリンドルさんのイメージは破壊される」映画『リアル鬼ごっこ』 http://ddnavi.com/news/239281/

原作を読まずに映画化、ということに対する是非には特に興味がないので何も書きませんが、とにかく、原作とは一切関係のない、まったく別の作品なので、「原作を読んで良かったから観に行こう」という人はちょっと注意した方がいいかもしれません。これは、映画が良くないと言っているのではなくて、とにかく、原作とはまるで違う別の作品です。原作を読んだのはもう大分昔なので細かいことは覚えていませんが、細かいことを覚えていなくても「まったく別物!」と言い切れるぐらい、まったく関係ありません。

あと、これも作品自体とは関係ない話なのですが、若干納得がいかないことがあるので書いてみます。僕は時々映画を観ますが、どこかで「リアル鬼ごっこ」の予告も観たことがあります。その予告編の冒頭で、こんなアナウンスが流れます。

「全国のJKのみなさん、あなたたちはちょっとふてぶてしいので、数を減らすことにします」

でもこのアナウンス、本編には出てきません。僕は正直、結構びっくりしました。予告編を観ずに本編を観る人もたくさんいるでしょうから、この予告編の存在を本編の評価に含めるのはアンフェアだと思っていて、だから出来る限りこのことは考えないようにするんですけど、でも、それはちょっとないんじゃないの?と思ったりはしました。このアナウンスからイメージされるストーリーとはまったく違っていて、まあそれはそれで”驚き”と言えないこともないのかもしれないけど、個人的には”うーむ”という感じの方が強かったです。この予告編を観ている方は、その点もご注意ください。

ストーリーは、冒頭からぶっ飛んだ始まり方をする。

ミツコ(トリンドル玲奈)は、修学旅行に向かうバスの中にいる。女子校らしく、車内は女子高生だけ。突然枕投げが始まって、大騒ぎする。
そこで、何かが起こる。
その瞬間から、ミツコは走り続け、逃げ続け、逃げ続けた先で、不可解な状況に取り込まれる。一体ミツコを取り巻く世界はどうなってしまったのか…。
ぐらいのことしか内容には触れられませんけど、とにかくひたすら”ミツコ”は逃げ続けます。

この映画をどういう映画だと思って観るかによって評価は変わりそうですけど、アクションとかスプラッタとか、そういう派手派手しい物語として見れば、なかなか楽しめると思います。途中穏やかなパートもあるけど、基本的には常時緊迫感溢れる展開が続くし、容赦なくバンバン死んでいくので(まあこりゃあR-15にもなるわな、って感じです)、そういうスペクタクルな感じが大好きな人は面白く観れるのではないかと思います。

ストーリー的な部分を楽しみにしていた人的には、うーんどうでしょうか、という感じかもしれません。原作のことはほぼ覚えていないんだけど、ストーリーだけ見たら、原作の方がまだストーリー性があったかも、という感じもします。映画の方のストーリーは、正直、なるほどそんな風にまとめちゃうのか、という感じでした。まあ、あの展開の物語をどこかに着地させようとしたらそれしかないか、という気もしなくはないんですけど、だったら、物語を着地させようとしないで最後までぶっ飛んだまま終わっても良かったかな、という気もしなくはありません。園子温だったら、そういう映画を撮っても許されるような気がするし。
冒頭の方で、伏線というか、ストーリー的に意味ありげなところをちょくちょく出してくるので、最後にうまくまとまるのかもしれない、みたいな期待を抱かせる部分はあります。でも、園子温だしなぁ、という疑いもあったりで、そういう意味でどう物語が決着するのか分からないまま観れた、というのはあります。

映画は、ほぼ女性しか出てきません。教師も、バスの運転手も女性です。映画を観ている時には思いつかなかったけど、今こうして感想を書いてる中で、そうかああいう設定だったから登場人物のほとんどが女性だったのかもしれない、と思ったりしました(まあ、その設定は、一応ネタバレになるので書きませんが)。

とにかく、シュールな映画でした。基本的に物語は破綻していて、展開もハチャメチャです。物語を楽しみたいという方には、ちょっとオススメしません。園子温という監督がメチャクチャであるということを知っている・受け入れられる人は観てもいいと思います。グロい映画が好きな人も楽しめるかもしれません。あと、ストリートとはまるで関係ありませんが、何故か女子高生のパンツが随所で見えまくるので、そこを期待して観るのもいいかもしれません。

「リアル鬼ごっこ」(園子温)を観てきました

「悲しみの忘れ方 Documentary of 乃木坂46」を観に行ってきました





タイトルの通り、乃木坂46のドキュメンタリー映画です。

まず、何故僕が乃木坂46のドキュメンタリー映画を観に行ったのか、から始めたいと思います。

僕は正直、乃木坂46のファン、という感じではありません。「凄いファンの人と比べると自分なんて全然…」みたいな話ではなくて、本当に、乃木坂46のことをよく知りません。
僕が乃木坂46のことを知るようになったのは、日曜の深夜にやっている「乃木坂ってどこ?(今は「乃木坂工事中」という名前になっています)」という番組からでした。何故この番組を見始めたのか、正直よく覚えていないんですけど、半年ぐらい前から、基本的に毎週日曜日には、この番組を見る習慣が出来ました。
とはいえ、ずっと見ているんですけど、特別誰が好き、ということがありません。個々のメンバーも、苗字は知ってる、ぐらいのレベルで、顔では判別できますけど、名前は基本的によく分かりません(今日映画を観て、ようやく名前が判別できるようになりました)。最近出たファーストアルバムは買ってよく聞いているんですけど、どの歌を誰歌っているのかみたいなこともよく知りません。ライブや握手会に行ったこともないし、乃木坂46が出てる他のテレビ番組を見ることもありません。本当に僕が乃木坂46に触れるのは、「乃木坂工事中」と「ファーストアルバム」だけと言っていいです。
まあファンと言えなくもないかもしれないけど、でもまあそこまでは行かないレベルじゃないかな、と自分では思っています。
それでも、なんだか乃木坂46というのは、僕にとって気になる存在なわけです。動いている姿を見るのは「乃木坂工事中」という番組でしかないので、恐らくこの30分番組を見ながら、乃木坂46という存在が徐々に気になっていったのだと思うのだけど、自分ではどうしてなのかよく分かりませんでした。
そういう状態で、ドキュメンタリー映画が公開される、ということになりました。僕はたぶん、自分が何故乃木坂46が気になっているのか、その答えが見つかるんじゃないかと思って観に行ったような気がします。

答えは、見つかったような気がします。

『乃木坂って、みんな変わってますからね。ネガティブだし、目立つことが嫌いで、さみしがりや。でも、案外自分を持ってる。そんな子が多い。内気で、弱いんだけど、でも、そういうマイナスな部分を、常に「変えよう」って思ってる子がたくさんいる』

これは、乃木坂46のリーダーの桜井(リーダーが桜井だってことも知りませんでしたけど)の言葉です。
なんとなくこれ、分かる気がします。そして僕はたぶん、そういうところに惹かれているような気がします。

この映画では、様々な人物が出てくるのだけど、メインで描かれるのは五人。生駒里奈・西野七瀬・白石麻衣・橋本奈々未・生田絵梨花。乃木坂46の中心的な存在であるこの五人が、大体皆、ネガティブな過去を抱えています。

生駒里奈:
『中学の頃は、カーストの最底辺でした。三角形の、ホントこの辺、みたいな。可愛くするのが嫌いで。目立たなければいじめられることもないって思ってました』
『小学校時代には、いい思い出が1ミリもない。ずっと、いじめられていました』
『高校に行きたくないって思って、オーディション受けてみるのもいいかなって思った』

西野七瀬:
『(親に入るように言われた)女子バスを辞めたいって思いました。女子が面倒で。二学期には、もう辞めました』
『(母)乃木坂46のオーディションの募集の話をすると、七瀬は、見向きもせずに頷きました。取り返しのつかないことをしてしまった。』
『(オーディションに受かって)全然、真剣に考えてなかった』

白石麻衣:
『(母)麻衣は中二から不登校になりました。ある日突然、部屋から出なくなりました。それから麻衣は、部屋にこもり続けました。それから麻衣は、私に対して感情の壁を作るようになりました。何を考えているのか、何を感じているのか、まったく見えませんでした』
『過去の自分は、好きじゃない』
『(オーディションに受かって)落ちたかった。こんなところに、いちゃいけないって思っていた』

橋本奈々未:
『凄くお金のない家で。でもどうしても、東京に出たかったから、全部自分でやるって言って出てきました。奨学金を全部学費に充てて、バイトを掛け持ちしてたんですけど、ホント生活が苦しくて。ある時、コンビニで買ったおにぎりを、バーンって投げちゃったことがあって。』
『東京で生きてくためにどうしたらいいか。そこでふと思ったんです。芸能人になれたら、ロケ弁がもらえるって。』
『(オーディションに受かって)「終わった」と思いました。私には、出来ないって。怖かった』

生田絵梨花:
『ピアノの練習は、義務感しかなかったです。周りの子達はみんな遊んでるのに、どうして私だけ、おんなじ箇所を、ずっと練習してなきゃいけないんだろうって』
『(母)絵梨花は、中学受験に失敗しました。まだ小学生でしたけど、「こんな紙切れで一生を決められるのは嫌」と、はっきり言っていました』
『(母 オーディションに受かって)心の底から喜んでいる感じではありませんでした』

程度の差こそあれ、皆、何かしらネガティブな感情を抱えている。もちろんそんなに、誰に聞いたって一つや二つ、当然あるものなのかもしれない。だから、「ネガティブさを抱えていること」そのものに惹かれたというだけではきっとない。たぶん彼女たちは、そんな自分の弱さを、基本的に隠そうとしていない感じがして、たぶんそこがいいのだと思う。
週に一回の、たった30分の番組を見ているだけで分かることなんてほとんどないだろうけど、でも僕はきっと、彼女たちの「そのままの弱さを肯定している姿」を見続けていたのだと思う。キャラクターとして弱さを武器にするわけでもなく、弱い部分を無理に隠すでもなく、あるいは弱さを個性と開き直るわけでもなく、「弱さ」をそのまま出している。人前に出る仕事をしながら、「弱さをさらけ出すこと」は、怖いことなんじゃないかと思う。どうしても隠したくなったり、無理をしたり、諦めたり、そういう部分が出てしまうような気がする。しかし、なんとなく、乃木坂46のメンバーは、そういう感じがしない。「弱い」ことが、当然の一つの性質であるように、自然と、無理なく表に出ているような、そんな感じがする。

乃木坂46というグループが、僕が感じる通り「弱さが自然に表向きになってるグループ」だとして、どうしてそうなったのか、僕なりに考えたことが二つある。
一つは、メンバーにそういう人間が多かった、という理由だ。これは、元々そういうグループを作ろうとして集めたのか、たまたまそうなったのかわからないけど、結果的には彼女たちにとって、とても良かったのではないかと思う。「弱さ」を出せる場がある、というのは、一つの救いではないかと思う。初めから、そういうメンバーが多かったので、自然と全体的にそういう雰囲気になっていったのではないか。
そしてもう一つ。これは、このドキュメンタリー映画を見ながらずっと考えていたことなのだけど、「AKB48の公式ライバル」という立ち位置だ。

生駒里奈:
『(AKB48との合同ライブで)私達には、超えなければならない目標があります。それは、AKB48”さん”です』

誰のセリフか忘れた:
『”ライバル”なんて、自分たちの口からはとても言えない』

白石麻衣:
『AKB48の公式ライバルという肩書きを取りたい』

僕は、アイドル全般に詳しくないのだけど、「妹分」みたいな立ち位置はこれまでもあったかもしれないけど、アイドル同士で「公式ライバル」なんていう関係になることは、なかなかないのではないかと思う。
「妹分」みたいな立ち位置であれば、そこまで気負うことも多くはないだろう。しかし、「公式ライバル」というのは、重い。乃木坂46が結成された時点で(恐らく)AKB48はもうかなりの人気を博していただろう。一方で、乃木坂46は、結成されたばかりの、本人たちの言葉を借りれば『素人の』集団だ。それなのに、結成した当初から、AKB48という、果てしのない(ように見える)存在を突きつけられる。
これは、乃木坂46というグループ全体のアイデンティティに、かなり大きな影響を与えたはずだと思う。それは、「強烈な劣等感からスタートする」ということだ。普通のアイドルであれば、結成してすぐ「AKB48」をライバルだと思う必要はない。しかし、乃木坂46は、結成した瞬間から「AKB48」という巨大な存在を意識させられる。乃木坂46として活動し、アイドルというものがどういうものなのか分かれば分かるほど、AKB48という存在の大きさも益々分かるようになっていく。しかも、グループのアイデンティティとして、無視できない存在なのだ。僕自身、物凄くネガティブなので分かるのだけど、そういう巨大な存在に直面すると、猛烈な劣等感に囚われる。恐らく、乃木坂46のメンバーもそうだったのではないかと思う。

この2点が、乃木坂46というグループ全体や、あるいは個々のメンバーのアイデンティティに大きな影響を与えたのではないか。映画を見ながら、僕はそんなことを考えていた。そして、AKB48という存在がいる限り、一生拭えないかもしれない強烈な劣等感にさらされながら、自分のネガティブな感情が焼き千切れそうになりながら、それでもどうにか踏ん張って前に進んでいこうとするその気持ちのありようを、僕は勝手に「乃木坂工事中」という番組から感じたのかもしれない。

生駒里奈:
『(あるメンバーに向かって)何もできることがなかったら、ここにはいないでしょ』
『センターに選ばれなかった時、初めて「悔しい」って思いました』
『真のプロになるか、終わるか、どっちかだと思うんです』

西野七瀬:
『それまでは、気付かなかったんですよ。でも、帰って来たばかりの真夏と交代させられて、初めて自分が負けず嫌いなんだって気づきました』
『今までは、失敗するのが怖いっていうか、挑戦を諦めちゃってたけど、今は、挑戦した結果、良い時も悪い時もあるけど、結果が出るのがいいなって思えるようになった』
『私は、人見知りだし、よく泣くけど、そんな私のことを応援してくれる家族とか友達のために、精一杯頑張ります』

橋本奈々未:
『ずっと、一般人に戻りたいって思ってました。ひと目を気にしないで友達と遊ぶとか、結婚とか子供とか。でも、こういう仕事をしてると、自分に投資することが多いんです。もっと綺麗になりたいとか、もっと上手くなりたいとか。ずっと上を見てる。そういうお仕事をさせてもらってて、これ以上楽しい仕事ってちょっとないんじゃないかって、そんな風に思っちゃったんです』

アイドルというのは、身も蓋もない言い方をすれば”ビジネス”である。お金を払う価値のあるものを提供し、お金を払ってもらう。そんな風にして成り立っている。アイドルを「お金を払う価値のあるもの」にまとめ上げるのも大人なら、お金を払うのも大人だ(まあ子供もいるかもしれないけど)。
その過程で、大人は、まだ若い少女たちに、過酷なものを背負わせる。
いつから”アイドル”というのは、こんなに窮屈なものになってしまったのだろうか、と思う。この映画を観て、彼女たちの努力には胸を打たれたし、自分もちゃんと頑張ろうという気持ちも強く感じた。しかしその一方で、本当に、こんなにしんどくなきゃいけないのか、という想いもずっとあった。ここまでやらなければ、もう僕たちは”感動”出来なくなっているのか?と。それを、”感動”という言葉で切り取るには、あまりにも彼女たちが背負わされているものが大きすぎないか、と。高校野球にどうしても感じてしまうような理不尽さが、もう”アイドル”という存在には内包されてしまって、そんな時代にアイドルであり続けることの大変さを、少し感じられたような気がした。
勝者には光が当たる。光が当たれば、それまでの苦労も、オセロのように一瞬に明るく輝く。しかし当然、敗者もいる。普通の努力さえしなかった敗者もいるだろうが、どれだけ努力を重ねても、様々な要因で敗者に留まるしかなかった者もいることだろう。当然ではあるが、そういうメンバーのことまでは映画の中で取り上げられることはない。この映画は、とても良かったのだけど、僕ら大人が無意識の内に貸してしまっている枷や重荷みたいなものまで見えてしまったようで、そこはまだうまく消化しきれていない。

映画は、2011年の乃木坂46のオーディションから現在までの様々な場面を繋ぎながら進んでいく。それまでの記録だけではなく、主要メンバーが地元に帰ったり、インタビューを受けたりする映像も挟み込まれる。オーディションやレッスン、コンサートの様子などアイドルらしい部分から、舞台裏での喧嘩や、メンバーのスキャンダルまで描き出していく。記憶に新しい、松村のスキャンダルもかなり時間を割いて描かれ、メンバーが素直に『怒ってない人なんていなかったと思いますよ』と言っていたりする。僕は本当に、乃木坂46というグループの来歴みたいなことを全然知らなかったんだけど、この映画を見ると、その基本的な情報も分かります(まあ僕みたいに、乃木坂46をよく知らないで映画を観に行く人間はほとんどいないでしょうけど)

映画全体の構成で、一つ印象的だったことがある。それは、ナレーションを務めるのが、各メンバーの母親である、ということだ(訂正:言葉は各母親が考えたものですが、ナレーションはプロの方がやっているようです)。これは、前例があるやり方なのかもしれないけど、非常に印象的だったし、面白いと思った。ある程度の修正はあるのかもしれないけど、恐らくどれも、母親自身の言葉で語られているのだろうと感じさせるものだった。西野七瀬の母親が、『私は娘を、私がいなければ何も出来ない子に育ててきたつもりだ』『子離れはまだ出来ていない』と語れば、白石麻衣の母親が、『弱みや本音を見せない麻衣が何を考えているのか、まるで分からない』と語る。ナレーションなど経験がないだろうに、どの母親のナレーションも違和感を感じさせないもので、映画全体の質を落としてしまうようなものでもなかった。母親が、「アイドルの母親」としてではなく、「娘の母親」として素直に言葉を紡いでいるような感触を凄く感じて、この演出も、このドキュメンタリーのリアルさをより強めていると僕には感じられました。

映画を観て、僕が強く惹かれたのが、生駒里奈と西野七瀬です。特に生駒里奈は、このドキュメンタリーの主役と言ってもいいくらい、全編に関わっていて、その有り様に強く惹かれました。

まず、西野七瀬の方から書きましょう。西野七瀬については、母が語った、非常に印象的な言葉があります。

『(母が「楽しいの?」と聞くと)仕事が出来たら、それでいい。休みで家にいても不安が募るばかりだし、大阪に帰っても居場所はない。私には、ここしかない』

東京に友達はいない。人見知りで、臆病だ。それでも、母親の反対を押し切って、それまで大阪から東京まで通っていたのを寮暮らしに変え、さらに東京で一人暮らしを始めた。母曰く、一度も辞めたいと言ったことがないのだという。

「休みで家にいても不安が募るばかり」というのは、可哀想だなと思う。でも、きっと僕も、同じ境遇に立たされれば、同じことを思うだろうと思う。あらゆる恐怖と闘いながら、それでも笑い続けなくてはいけない。いや、西野七瀬はよく泣いてるらしいが、それでも、泣き続けるわけにはいかない。いや、「泣き続けるわけにはいかない」というのを押し付けているのは、大人だ。「笑わなくてはいけない場」ではなく、「自然と笑える場」が日常の中にきちんとあってほしいな、と思う。

生駒里奈は、凄い。凄いと思う。正直、アイドルとしては、スタイルが良いわけでも、顔が可愛いわけでもないと思う。それでも生駒は、ファーストシングルから6回連続(訂正:5回だそうです)でセンターに選ばれた。この映画を見ると、その理由が分かるような気がする。
生駒里奈の描写のハイライトは、恐らく、松村とのやり取りのシーンだろう。長回しでずっと続く、松村との喧嘩のようなやり取りは、生駒里奈という一人の少女が内に秘めるものの熱さを感じさせるのに十分だと思う。

『自分で頑張ったから、ここにいるんだよ』

当時生駒は、全開の自信を持って自己肯定できるような状態ではなかった。自身もまた、圧倒的な劣等感にさらされながら、それでもどうにか踏ん張って立っていた。自分には、何もできることがない。ネガティブなメンバーが多い乃木坂46の中でも、生駒の中のその劣等感は相当強かったことだろう。それは、ずっとセンターを務めてきたということとも関係してくる。
だから、劣等感に負けてほしくなかったのだろうと思う。劣等感は、はねのけなければならない。劣等感に潰されてはいけない。生駒はたぶん、毎日毎日そんな風に思っていたのではないか。だから、ここまで一緒に頑張ってきた仲間が、劣等感に潰されてしまうのが嫌だった。アイドルとしえ恵まれたものを持っていない生駒だからこそ、その小さな体から放たれた慟哭が、ぐさりと突き刺さる。
しかし、そのシーン以上に僕にとって印象的だったシーンがある。

『私は、乃木坂46のオーディションから今日までずっと、”運”だけでここまで来てしまいました。だから、自分をアピールできるようなことは、何もありません』

このシーンは、本当に大好きだ。
もちろん、生駒が努力をしなかったなんてことはないだろう。でも、生駒はきっと、「努力では決して埋められないもの」を知ってしまったのではないかと思う。世の中には、どうやったって努力で乗り越えることが出来ないものがある。それは、気合とかテクニックの問題じゃなくて、無理なのだ。その先に行くには、才能しかないというような、圧倒的な断絶が、世の中にはある。恐らく生駒は、その断絶に気づいてしまったのだろう。
生駒が”運”と言ったのは、そういう意味だと思う。過去の自分の努力を否定する言葉ではもちろんなくて、自分は何も持っていないんだと気づいたのだと思う。それは生駒にとって、スタートラインとなった。それまで、どこがスタートなのかも分からないままウロウロしていた生駒は、自分に何もないと気づくことで、やっとスタートラインに立った。だからこそ、運だけでここまで来てしまったと、まるで自分の努力を否定するようなことも言えるのだ。自分の欠落を認めたからこそ、そう言えるのだ。
僕も、生駒と同じことをずっと考えている。運だけでここまできてしまった、と。生駒と比べるのはおこがましいほどレベルは違うのだけど、僕も、自分の実力とは程遠い世界に新しく足を踏み入れることになった。今は恐怖心しかないし、自分に何もなくて、運だけでここまで来てしまった自分のことを強く自覚しているので、不安でしかない。でも、映画で生駒の姿を観て、勇気づけられた。何もない自分を肯定した生駒が、スタートラインに着いたその姿を見て、内側から湧き上がるものがあった。これは、僕自身がまさに環境が変わるタイミングであったということも大きく影響しているだろう。生駒に限らないのだけど、特に生駒は、アイドルとして与えられた何かがあるわけではないからこそ、その圧倒的な努力が胸を打つ。本当に努力し続けた人間だからこその言葉が、僕のような劣等感にまみれた人間の心に響くのだ。しゃべる時のあの、純朴そうな田舎娘な感じも、努力を表に出さないような雰囲気でなんだか愛着がある。生駒里奈、凄い存在だと感じました。

誰もがみな、自分の言葉を持っている。もちろん、”アイドル”としての立ち位置を完全に忘れることはないだろうが、しかしそれでも”一人の少女”としての素直な言葉が紡ぎだされているように思う。様々な失敗や努力の過程で積み上げてきた、借り物ではない言葉が、僕は好きだ。自分を隠すためではなく、自分を出すための言葉が好きだ。なんとなく乃木坂46という存在が気になりだして、特になんということもなく映画を観に行ったのだけど、見て良かった。陳腐な言葉だけど、これから頑張れるような気がした。自分も、もっと頑張らないとと思った。映画のDVDが出たら、買うかもしれない。辛くなった時に、また見て、自分の心の支えになるかもしれない。

「悲しみの忘れ方 Documentary of 乃木坂46」を観に行きました


「悲しみの忘れ方 Documentary of 乃木坂46」を観に行ってきました(二度目)

映画「ラブ&ピース」(園子温)を観てきました

鈴木良一は、平凡以下の男である。
会社では、他の社員たちからロクでもない扱いを受け、好意を寄せている同僚の寺島裕子ともまともに話せないでいる。自動ドアが開かなかったり、エレベーターの重量ブザーが鳴ったりと、常に不運に見舞われる男でもある。良一自身も、常に周囲の人間からあざ笑われているのではないかという妄想を抱き続けている。
しかしその一方で、良一はビッグな野望を抱いている男でもある。家ではギターを弾き、2020年の東京オリンピックに向けて建設が進んでいる日本スタジアムでコンサートを開くまでの道程を妄想していたりもする。自分は氷山であり、見えているのはほんの一部、自分の大部分は海の下に隠れているだけなのだ!という思いを抱いている。
ある日良一は、デパートの屋上で売られていた小さな亀を買う。良一はその亀に「ピカドン」という名前をつけ、唯一の友達として可愛がった。自分の夢や日常の出来事を語り続け、そうやって良一は現実の辛さから逃避し続けていた。
しかしある日良一は、とあるきっかけからその亀を手放してしまい…。
というような物語です。

ぶっ飛んだ映画だったなぁ。「園子温の映画を観ているんだ」という前提がなければ、ついていけなかったかもしれません(笑) 園子温の映画、そこまでたくさん観たわけじゃないけど、何をしてもおかしくない監督だと思うんで、そういう意味では許容範囲内ということは出来ます。
僕が先に書いた内容紹介、正直映画全体の内容の1%も書いていません。亀を手放してからの展開は、なんというか、論理的な物語の流れを完全に無視してる感じがします。風が吹けば桶屋が儲かるレベルで、物語がどんどんわけわからん方向に進んでいくんで、「そういう映画なんだなー」と思えれば楽しく観れると思います。
さて、この映画は、大雑把に言って二つのパートに分かれていて、一つが鈴木良一のパート、そしてもう一つまったく別の世界の話が展開されます。このもう一つのパートの方は、詳しく書きません。映画を観ながら展開のぶっ飛び度を感じて欲しいので。設定はとにかくメチャクチャなんだけど、その設定さえ受け入れれば、そのもう一つのパートは、なかなか示唆に富んだセリフや物語に溢れているように思います。そのもう一つのパートは、最後ある人物の変身みたいな感じでひと通りの物語が閉じるんだけど、その閉じ方も僕は結構好きでした。設定はこっちのパートの方がメチャクチャなんだけど、物語の展開だけみればこちらの方がまっとうで、ハートウォーミングでもあります。

『どうせ来年も、あんたが配った夢がここに戻ってくるんだ』

さて、そんなもう一つのパートと関係性を保ちながら、鈴木良一のパートが進んでいくわけなんだけど、こちらのパートは、設定はともかく展開はハチャメチャです。僕が書いた内容紹介からなんとなく想像はつくと思うんで書いちゃいますけど、鈴木良一はなんと、日本スタジアムでライブを開きます。そこまでのスターダムに至る展開を物語にしてるわけなんですけど、もうハチャメチャで、なんだそりゃっていう展開が目白押しです。もう一つのパートがハートウォーミングであるのに対して、鈴木良一のパートは完全にコメディと言っていいでしょう。小さな会社の使えない社員から、数年で日本スタジアムでのライブまで辿り着くわけだから、その展開はメチャクチャ早くてあっという間に物語が進みます。会社の同僚だった寺島も最後まで物語に関わり続けるんだけど、二人の間の距離が物凄い勢いで離れていきます。鈴木良一を取り巻く環境があっという間に変化するなか、寺島裕子の存在だけがほぼ変化せずに描かれることが、物語全体をただのコメディにしていない要素なのかな、という感じがしました。

あーだこーだ考えなくても楽しく観れる映画だと思うんだけど、この映画から何か教訓的なものを勝手に引き出すとすれば、「結局、夢を叶えるのは自分自身だ」ってことになるかもしれません。鈴木良一が夢を叶えていくのには理由があり、そこだけを取り出せば「他人の力によって夢を叶える物語」に見えるんだけど、でも結局のところ、「鈴木良一が夢を持たなければその夢が叶うことはなかった」と言うことも出来ます。当たり前の話なんだけど、でも結局、自分の未来を、どこまでバカみたいに信じるか、みたいな思いの強さが運命を切り開くのかもしれない、ということかもしれません。
それは、もう一つのパートからも感じます。もう一つのパートに出てくるみんなは、共通した夢を持っている。そしてその夢は、結局、その夢を持っているという理由、その夢を強く願っているという理由で叶うことになる。
そして同時にこの物語は、「夢は、一人の力では叶うことはない」というメッセージもあるのかなぁ、と思いました。
こう、僕が勝手に感じたメッセージだけ書くと、「愛!勇気!友情!」みたいな物語に思えるかもしれないけど、まあそんなことは全然ありません。愛も勇気も友情も、ほとんどないかもしれません(見方によると思いますけど)。そういう、愛も勇気も友情も使わないで「夢を叶えること」を描く、という部分がなかなか面白いのかな、と感じたりしました。

さて、この映画の中で鈴木良一は、”反核ソングを歌った”ということになります(意味がわからないかもしれませんが、それは映画を見て下さい)。そして、たぶんそれを意識してでしょう、エンディングの曲が忌野清志郎だったのが興味深かったです(あんまり詳しくしりませんけど、忌野清志郎は反核とは反戦の歌を歌っていたというイメージがあります)。僕は気づかなかったけど、他にも何か読み取れるような小道具とか要素があったりするかもしれません。あと、作中で鈴木良一が歌ってる歌が3曲あるんだけど、それは園子温の作詞作曲のようです。

正直、「面白いから観て!」と人に薦められる映画かと言うとちょっと難しい部分がありますが(基本的には、設定も展開もムチャクチャな映画なので、それを面白いと思えないと辛いと思います)、園子温らしくない穏やかな映画だし(僕のイメージでは、園子温は結構血みどろで残虐な映画を撮る人です)、設定や展開を受け入れてしまえばコメディタッチかつハートフルに進んでいく映画なので、気になる人は観てみて下さい。


映画「ラブ&ピース」(園子温)を観てきました

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(「Nogizaka Journal」様に記事を掲載させていただいています)

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この本は、こんな人に読んで欲しい!!part1
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2014の短歌まとめ



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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)