黒夜行

>>2015年04月

けばけばしいベッドの上で”サトラレ”の彼女の”声”に萎えそうになる

Ⅰ 「題詠blog2014」(http://blog.goo.ne.jp/daieiblog2014)の100のお題から
  (結局エントリーはせず)


(お題:照)照れなくていいって誰も見てないよ(だってあなたは見てるじゃないの)



Ⅱ 「うたの日」(http://utanohi.exout.net/index.html)に投稿した作品


けばけばしいベッドの上で”サトラレ”の彼女の”声”に萎えそうになる
(8/14 意識 http://nono.php.xdomain.jp/page.php?id=136)



Ⅲ その他の自作短歌


(お題:電車)先生に叱られたって逃げるだけ電車が僕をヒーローにする



Ⅳ 「連歌の花道」(http://renga57577.bbs.fc2.com/)に投稿した作品


旅鳥と彼岸桜で待ち合わせ数学者さえ解けぬ速度で
http://renga57577.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6195082
(上の句:悠さん、下の句:黒夜行)
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会えばまだ昔のまんま呼べるけどテレビの君はうまく呼べない

Ⅰ 「題詠blog2014」(http://blog.goo.ne.jp/daieiblog2014)の100のお題から
  (結局エントリーはせず)


(お題:藍)藍色に染まった指で傘を差すあなたの真似をしてるんじゃない



Ⅱ 「うたの日」(http://utanohi.exout.net/index.html)に投稿した作品


会えばまだ昔のまんま呼べるけどテレビの君はうまく呼べない
(うたの人2 人気 
http://nono.php.xdomain.jp/hito/page.php?id=2)



Ⅲ その他の自作短歌


字余りは禁止ではなくあくまでも道路標識みたいなものです



Ⅳ 「連歌の花道」(http://renga57577.bbs.fc2.com/)に投稿した作品


的を射た慰めはもうウンザリで
http://renga57577.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6198613
(上の句:黒夜行)

飛び立つスキマの設計学(椿昇)

昔から、学校の先生のことは嫌いで仕方がなかった。
いや、「先生」という存在そのものが嫌いだったのではないかもしれない。僕が真に嫌っていたのは、「先生の言うことに唯々諾々と従う同級生たち」の方だったかもしれない。「同級生」を憎むことを意識的に避けるが故に、「同級生をそんな風にさせている先生」を憎んだのかもしれない。
先生の言っていることに、素直に従う子供ではなかった。トリッキーなことをやって女の先生にぶん殴られたこともあるし、一貫性のない主張をして振り回したりもした。とか言いつつ、学級委員をやったりする、まあ割と普通の「良い子」だったわけなんだけど、外側はそこそこ取り繕いつつ、「先生」という存在への否応なしの嫌悪感みたいなものは、結局高校を卒業するまで決して消えることがなかった。
学校では、何故か先生に従わなければならないのだけど、その理由が示されることはない。何故か子供は、「先生」という存在に従うことになっているのだ。僕は、そのことそのものを「変だ」と感じるような子供だった。そして、それほど変なことなのに、周りの同級生がそれを変だと思っていないことに対しても「変だ」と感じていた。
もちろん、先生に反抗するような生徒はどこにでもいた。でもそれは、僕のような思考を経た上での反抗ではなかったと思う。単に、「先生という大人な存在に反抗する俺」というプレートを手にするためだったのだろう。彼らはたぶん、「子供は先生に従うものだ」という大前提は受け入れていて(疑問には思っていなくて)、そこに根っこを下ろしたままの反抗だったのだろうと思う。
僕には「先生」という存在が、従うべき「何か」を持っている存在には思えなかった。もちろん、子供の頃の僕に、「何を持っていれば先生に従ったのか?」と問うても、恐らく答えられないだろう。今でも、スッと言語化することは出来ないような気がする。それでも、その「何か」が絶望的に欠けている、そんな人ばかりに僕には思えていた。もちろん、ある程度の年齢を重ねた今、大人になっても人間そんな対して変わらないことは知ってるし、子供の頃の僕が信じていた「教師はこういうものを持っているべき」という理想が高すぎることも理解している。
それでも、そうだとしてもやっぱり、「先生」には「何か」が足りなかったと僕は言い続けたい。
だからこそ僕は、インパクトの強い「先生」に出会ったことのある経験を、羨ましく感じるのだ。

『気まぐれな僕の学習態度を逆手に取って、「学問でひとつ、趣味でひとつのめり込むものがあればそれで人生は問題ない。自分でスキマを見つけて勝手に伸びればいい。俺は邪魔をしない」と言ってくれたことは大きかった』

『その授業は、教師が教壇から一方的に教えるのではなく、一人ひとりに現代文学の作家を選ばせ、生徒が交代交代に教師となって六〇分間の授業を他の学生に行うというもので、高校一年生がお互いに教育実習を行うようなものだった』

『高校に教育実習に行った時、朝礼中にウイスキーの水割りを飲んでいる美術教師がいました』

『すると、神父が自分の命よりも大事であろう旧約聖書を指さして、「こんな本に書いてあることより、遠藤君の方が正しい」と言ったんです。「いろんな本を読んだりして勉強している。遠藤君はその勢いで科学の世界で活躍してほしい」と。それから先生は、ひとつだけ付け加えていいました。「ただ僕もそうだけど、この本に救いを求めないと生きていけない人間が世の中には山ほどいるということも知っていてほしい」と。』

子供の頃、子供がちゃんと見ることが出来る大人というのは、割と親か先生かぐらいしかいない。その中で「ぶっ飛んだ大人」に出会えるかどうか。これは人生を大きく左右すると僕は思う。僕には、そういう経験はない。大人になってからの人間関係はかなり自己責任の割合が多くなるが、子供の頃の人間関係は運の要素も相当大きいだろう。変人に憧れる僕としては、やはり、子供の頃になんだかぶっ飛んだ大人に出会っておきたかったと思うのだ。

さて、この本は何の本だろうか?先にそれを少し書いておこう。
本書は、広く「教育」の本である、と言っていいだろう。

『究極的には、僕は”教師”はいずれ不要になると考えている。』

『ゆえに、新卒で教員採用などというのは 僕に言わせるとあるまじきことだ。社会人経験を積み、多彩な引き出しを準備した三十歳以上の経験豊かな人材が、国家試験なみに厳しくファシリテーションの訓練を経て現場に立つ。こうした教員採用試験の改革がまずありきではなかったかと思う』

しかし、正確に言うならば本書は、「NOT 教育」の本と言うべきかもしれない。

『未来が不透明と言われるなか、指導者に必要な論理は、豪雨を降らせる高度経済成長期の「教えねばならない」という強迫観念から逃れ、若芽を信じて密林にスキマを開け、自発性の成長を待つ「邪魔しないという勇気」なのではないだろうか』

著者は、長らく高校の美術教師を務め、そこからアートの世界で様々な活動を続ける芸術家である。高校教師だった頃の経験や、あるいは様々な場所でワークショップを設計したり、様々なプロジェクトに関わったりする中で見えてきたものを雑多に取り込みながら、「変人」をいかにして育てていくか。その低減を散りばめている。

『だから自分のなかの「変人」をなるべく早く見つけて、育てることが一番重要じゃないかな』

そして、そのために最も必要だと著者が主張しているのが「スキマ」という概念だ。本書の中では他に、「ゴミ箱」という表現をされもする。

僕は、勉強は好きだったのだけど、学校という場所はどうも好きではなかった。たぶんその頃から、「周りに合わせる」ということが鬱陶しく、めんどくさかったのだろう。とはいえ、「周りに合わせる」という能力は身につけておかないと、学校という場ではどうにも生きのびられないので、周りに合わせる能力がないというわけではない。しかしそれは外面的な行動を取り繕っているだけで、内面では、あーめんどくさ、と思っていることが多かったと思う。

『僕は「場」って、許容する寛容さとか、再チャレンジが何回もできるとか、「環境」だと思うんですよ』

日本の学校という「場」には、ほとんどこういう要素はない。「寛容さ」も「再チャレンジ」もない。あるのは「同調圧力」と「失敗を恐れる空気」だ。

『日本の教室って、「正しい答え」がわかっている人しか手を挙げませんよね』

そういう場では何も生まれない。子供の頃には、それが当たり前だったからなんとも思わなかったけど、大人になってみて、そのことは強く感じる。失敗を許容し、再チャレンジを促す。そういう環境がなければ、人間はどんどん萎縮していく。そんな環境で、「新しいもの」が生まれるはずがない。

『イタリアの有名な幼児教育システム「レッジョ・エミリア」では、小学校に行く前の段階から児童たちがその日何を学ぶのかを話し合いで決めている』

小学校に入る前からそんな「環境」が用意されていれば、正しい答えが分かっている人しか手を挙げないなどという状況が生まれることはありえないだろう。

『ゴミ箱を殻にしてはならないんだよね…』
『船越桂さんのアトリエみたいに、ものはわざと出しておく方がいい。みんな効率ということを間違っていて、かえって非効率になっているんじゃないかな』

この二つはたぶん、大体同じことを言っている。つまり、「余白を残しておけ」ということなのだ。
僕が大好きなある話がある。宇宙飛行士用のプルタブの発明の話だ。
宇宙飛行士が宇宙船内でジュースを開けるとき、プルタブで手を切らないように、鋭利にならないプルタブの開発を日米の大学が巨額の資金を投じて研究を続けていた。しかし、その研究は一向に身を結ばなかった。しかしある時、日本の町工場のオッチャンがそれをひょいと完成させてしまったのだ(その手法は、今ではアメリカの教科書に載っているという)。オッチャンがやったことは、「最終的に捨ててしまう部分に、加工途中である操作を加える」というものだった。最終的に製品の一部として残らない部分に、途中である加工をする。これは、余白のない人間にはなかなか発送出来ないことだろう。「どうせ捨てる部分なんだから、そんなところに加工を施す意味がない」という思考が頭の中に浮かぶことさえないまま、無意識の内にそれは選択肢として却下されているのだろう。

『ようやく状況が落ち着き始めると、高校で教員組織に馴染めないヤサグレの教師たちが美術教官室にたむろしだした。校長や教頭といった指揮系統から何も指示がない以上何もしなくても良いのだが、「組合が気持ち悪い」と逆らってたような音楽教師のMやS、英語教師で小説家のHなど数名が、箱入りインスタントラーメン(たぶんどん兵衛)をかき集めては、頼まれもしない高校の復興計画を練り始めたのだ。
とにかく組織で平時は役立たずの人間と思われている連中は、このような危機的状況が起こると創造性を爆発させる』

今世の中は、色んな部分が「キレイ」になりすぎていて、余白がどんどんなくなっている。日本人の潔癖な性質も、それに関係しているのだろう。ちょっとでも悪だったり変だったりすると、すぐさま排除されてしまう。そうやって、綺麗なものだけで世界を作ろうとする。
セゾングループの堤清二は、開発によって街を生み出す時にこんな風に言っていたという。
「都市というものは路地裏のような非合理的なものがないと人が寄り付かない」
堤清二氏は、綺麗なものだけでは居心地の良い環境は生み出せないことを知っていた。教育の現場も同じだろう。モンスターペアレントなどが話題になり、親からのクレームに過剰にさらされている現場では、これまで以上に余白は排除されているに違いない。「危険だから」という理由で公園から遊具が撤去され、野球が禁じられるような世の中で、誰が羽を伸ばしていきていけるというのか。

『サバイバルのための余地として、あるいは人生のアソビとしての正規やきれいな空間の
隙間のインフォーマルな領域・空間がもっと拡大すれば、生きやすくなる人々はたくさんいると思います』

著者は冒頭で、こんな風に書く。

『教育現場のストレスが多用な生き方を選択する可能性を閉ざし、クリエイティブな人間がどんどん世の中から消え、人々の対話がネガティブになり、誰もがアイデアを提案することの愉しさを忘れるような社会になってゆく未来を見たくはなかった(からこの本を書いた)。』

本書を読んで僕が強く感じるのは、著者からの「教育から逃げろ!教育から逃がせ!」というメッセージである。著者は、「教師はいなくていいが、教室は必要だ」と言うのだが、これはつまり、「学びとは対話なのであって、一方通行である現状はおかしい」ということなのだ。いかに「対話」を誘発する「場」や「スキマ」を生み出し、それを維持出来るか。著者は、「教育」というものへの闘争を、そんな観点から推し進めているのである。

「人間は、”考えない葦”になりたがっているのかもしれない」
そんな風に感じることがある。
何故僕がそう思うかと言うと、日本人が、日本語を手放そうとしているように思えるからだ。

『アンケートの結果、スマホに向かっている時間を合計すると最高で一日八時間。まったく携帯を持っていない学生もいたので平均すると一人六時間というとんでもない結果が出た。いかにAO入試でデッサン不要とは言え、一日に八時間もLINEをやっていたら本を読む時間も手を動かす(タイピングはしているが…)時間もないはずだ』

『「対話」する力が恐ろしく貧弱になっていることは明白で、ゆえに集団になった時に問題解決に向かって話し合うということができない。また、語彙の不足が原因で自分の不安や不満に遠因を論理的に探査できず、感情だけがネガティブに亢進して下向きのスパイラルに落ち込んでしまう。幼児は十分に自分の感情を表現できない時には、自己発散で泣き喚くなどの行動に出るが、これくらいの年齢になるとそのエネルギーを全部内向させるから始末が悪い』

他人の会話や、ネットの文章などを読んでいると、「コミュニケーション能力」がどうのこうの言う前に、そもそも「日本語を知らない」という状態の人が多いなと思えてならない。「料理の腕がないんです(=コミュニケーション能力がないんです)」と言っている人間が、砂糖も醤油も塩も使わないで料理を作ろうとしているようなものだ。上手く出来るわけがない。

『しかし我々の周囲で魅力的な仕事をしている人々を見ると、まずは日本語で考える力と文化的教養の深い人たちであることは疑う余地がない』

『LINEやTwitterで日々コミュニケーションを取っているうちに、短文しか必要としなkうなった脳が、長い文体を操作する能力を切り捨て初めているのではないかとの危惧がある』

若い世代の人たちは、「自分と同質の人たち」に対して、あるいは「自分の好きな話題」についてはコミュニケーションを取ることが出来る。そして、これが「現代」の特徴なのだけど、それだけのコミュニケーションで日常を埋め尽くすことが出来る。
インターネットが発達する以前は、学校近辺で出会う人としかコミュニケーションを取ることが出来なかった。当然、「ただ近いところに住んでいただけ」という集団でしかないので、合わない人間もたくさんいる(合わない人間の方が多いかもしれない)。でも、他に選択肢はないわけで、そういう合わない人たちともコミュニケーションを取るしかなかったはずだ。そうやって、「異質な人」との関わり方を学んでいったのだと思う。
でも現代は、インターネットを通じて、世界中のどんな人ともやりとりが出来る。自分の周囲にいる人間が「つまらない」と思えば、彼らとのコミュニケーションは諦めてしまえる。そして、自分が心地よいと感じる、話が合うと感じる相手とだけコミュニケーションをし続けることが出来るのだ。
これは、非常に不幸な環境だなと僕は感じる。僕は本気で、自分が学生の頃にLINEが存在しなくて救われたと思っているのだけど、もしそういう時代に生きていたら、僕自身もそういう、「同質の人」たちと「好きな話題の話」だけする人間になっていたかもしれない。そう考えると恐ろしい。
非常に難しいのは、今の若者に与えられているこの環境は、「自分にコミュニケーション能力が欠けていること」になかなか気づきにくい、という点だ。何故なら、「同質の人」たちと「好きな話題の話」をしている分には、いくらでも話が続けられるからだ。しかし、それは決して「コミュニケーション」と呼べるものではない。「コミュニケーション能力」というのは、異なる価値観・考え方を持った人間と、どう距離を縮めていけるかというその匙加減のことだろう。それを学ぶ機会も、それがないことに気づく機会も今の若者は奪われているのではないかと思う。

『(演劇をするというワークショップを学生にさせる話)課題をやっておきなさいというような生ぬるいものではなく、トッププロが夜中まで一緒に付き合うのだ。こうして意味もわからぬ不条理劇のセリフを覚えた後、彼らには実に不思議な現象が起こった。まともな文章を書けなかった学生たちが、驚くほど論理的で批判的な文章を急に書くようになったのっだ。明らかに対話の内容が変化し、プレゼンテーションの姿勢も変化した。いったいいままでの大学の講義は何だったのかと思う激変が起こったのだ。「丸暗記」というイノベーションとは正反対のような方法が、素材を厳選してプロが徹底して付き合うことで現代に有効な方法として蘇ったと実感する』

著者は芸術畑にいる人なのでこういうワークショップに関わる機会があったのだろうけど、なかなか普通には出会えなさそうなワークショップである。とはいえ、「文章を書く」「対話する」という能力が、一見それとは直接的には結びつかなそうな「(即興劇ではなく、台本を覚えるタイプの)演劇」によって引き上げられたというのは、非常に興味深い。もちろん、「演ずる」というアウトプットも込みのワークショップなので、ただ暗記するだけによる効果ではないだろうが、とはいえ、自分の内側から生み出したわけでもない文章によって、「書く力」「対話する力」は伸びるのだ。
そして、これとも少し関係するだろうが、本書の中で幾度か「型を覚えること」の効能が語られる。

『七歳までに論語とか、書とかずっと変わらないものを教える。山でどんぐり拾うとかも石器時代からやってるでしょ。それを仕込んで、しっかりとした人間の原型をつくっておけば、社会は命脈を保つ。』

『クリエイティブに手を動かすのは幼稚園や小学校から初めないと絶対ダメだと思っていて、(中略)、幼児期から小学校二年ぐらいまでの、生きていることが中傷である時期に、変なものと出会うことが一番重要だと思います』

『それこそイノベーションですよね。古典や型を学ぶ。そして圧倒的な量をこなすこと。それが一度抜け落ちてからじゃないとね』

最近、この「型を学ぶこと」の重要さを、僕はようやく理解しつつある。正直、つい最近まで、まったく理解できていなかった。
学生時代は完全に理系で、国語と歴史が大嫌いでした。国語は「読みたいように読ませろや」と思ってたし、歴史は「なんでこんなこと覚えなきゃいかんねん」と思って碌に勉強しませんでした。今考えると、「国語」「歴史」という学問の本質を見ることなく、その外形に対する不快感に任せて嫌っていただけなんだなと思っています。
僕がきちんと本を読み始めたのは大学二年からなのだけど、読めば読むほど、「あぁ、子供の頃にもっと本を、特に古典を読んでおけば良かった」と思います。今、古典を読もうと手を出してはみるんですけど、やっぱり難しい。読めない。現代的な本であればそこそこレベルのものなら読めるし、こうして文章も書けるのだけど、古典はまるで頭に入ってこない。すぐに眠くなる。でも、それを読んだことがあるのとないのとでは、知っているのと知らないのではまるで違うのだということを、少しずつ理解し始めている。
この型は、別に古典でなくてもいい。例えば空手や書道の型でもいいし、もっと違った何かでもいい。とにかく、「長い年月残り続けているもの」「出来るだけ不変であるもの」を、もっと子供の頃に身体にインストールしておくべきだったという後悔は強くある。もちろん、大人になってから挽回できないこともないと思うが、しかし、それが何なのかわからない家から(つまり頭で理解する以前に)、身体的に取り込むという経験は、やはり子供の頃にしか出来ないことだと思う。そうやって身体化した知識や感覚というものが、本来あるべき人間のベースを作っていくのではないかと思う。
さっきも書いたけど、僕は子供の頃には、こういう「身体的にインストールする」ことの価値をまったく理解できなかった。たぶん当時、その環境が与えられたとしても、自らそれを選びとることはないと思う。だから、親でも先生でも誰でもいい。無理やりでも何でもいいから、何かそういう型をインストールさせる行為を僕にやらせて欲しかった。

『この本の隅々に満ちているのは「手と時間」の優しさをあちらこちらにインストールすることで、もっと創造的になれるという思いである』

本書は、様々な異端研究者へのインタビューや、著者自身の来歴を絡めた教育への提言、著者自身が関わったプロジェクトからの考察など、様々な文章が盛り込まれた一冊だ。話はあちこちに分散するし、正直まとまりがないと感じるのだけど、非凡な世界を走り続けて来た非凡な才能の頭の中を見せられているようで、こういうごった煮な感じも面白いと思う。
本書は、「世界の切れ目」をいくつも見せてくれる一冊だ。僕らは油断すると、世界を切り取る方法を一通りしか知らない、という状況に陥りがちだ。しかし、世界は元々広いし、インターネットが世界中を繋いだことで、体感可能な広さはより広がった。世界の切れ目は、山ほど存在する。どう切り分けるかによって、世界はまったく違った姿を見せる。著者は、日本人が考える「ごく一般的な人生」をまるで進んでこなかった代わりに、普通の人間が意識しないと目にすることのない角度から世界を切り取り続けてきた。「こんな風に世界を切り取ることが出来る」という視点は、持っておいて損はない。
そして親は、「子供が生きる世界は、自分が生きてきた世界とまるで違う」ということを認識しておいた方がいいかもしれない。かつて成り立っていた価値観を子供に押し付けてしまうと、子供はサヴァイブ出来なくなるかもしれない。子供がどんな世界を生きていくことになるのか、その断面を「感じて」おくことは大事かもしれない。

『親が子供にできることは苦労させること。貧しさだって、教えられるものなら教えたほうがいい』

冒頭で、本書は「NOT 教育」の本だと書いた。最も良い教育は、教育をしないことかもしれない、という意味だ。

『◯◯さんはいま、何に脳がしびれていますか?』

脳をしびれさせる場を与えられるか。未来のイノベーターを生み出すキーワードは、そこにあるのかもしれない。

椿昇「飛び立つスキマの設計学」



あかねさすウルトラマンが帰るまで後ろ姿をずっと見ている

Ⅰ 「題詠blog2014」(http://blog.goo.ne.jp/daieiblog2014)の100のお題から
  (結局エントリーはせず)


(お題:岬)朝陽差す岬に停まる蟹工船僕が使える唯一の切り札



Ⅱ 「うたの日」(http://utanohi.exout.net/index.html)に投稿した作品


パパのウソにダマされているフリをする右手の王冠を握りしめる
(8/13 王 http://nono.php.xdomain.jp/page.php?id=135)



Ⅲ その他の自作短歌


あかねさすウルトラマンが帰るまで後ろ姿をずっと見ている



Ⅳ 「連歌の花道」(http://renga57577.bbs.fc2.com/)に投稿した作品


後ろから目かくしされて振りむけばまだ文読めぬ娘の筆跡
http://renga57577.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6195079
(上の句:白石フランソワ、下の句:黒夜行)

仰向けで空見上げれば点描画しずくを落とす絵筆を探す

Ⅰ 「題詠blog2014」(http://blog.goo.ne.jp/daieiblog2014)の100のお題から
  (結局エントリーはせず)


(お題:センター)覚えとらん!センター試験の点なんかそんな自慢しかない五十路よ



Ⅱ 「うたの日」(http://utanohi.exout.net/index.html)に投稿した作品


いつ知っただろう?中学に入るとランドセルを使わなくなるって
(8/12 いつ http://nono.php.xdomain.jp/page.php?id=134)



Ⅲ その他の自作短歌


仰向けで空見上げれば点描画しずくを落とす絵筆を探す



Ⅳ 「連歌の花道」(http://renga57577.bbs.fc2.com/)に投稿した作品


引き出しの第二ボタンが音をたてよみがえる彼の手首の匂い
http://renga57577.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6195076
(上の句:白猫喫茶店、下の句:黒夜行)

2008年に書いたショートショート集の索引

2008年に書いたショートショート集 No.1~No.26

2008年に書いたショートショート集 No.27~No.50

2008年に書いたショートショート集 No.51~No.73

2008年に書いたショートショート集 No.74~No.98

2008年に書いたショートショート集 No.99~No.123

2008年に書いたショートショート集 No.124~No.165

2008年に書いたショートショート集 No.166~No.214

2008年に書いたショートショート集 No.215~No.261

2008年に書いたショートショート集 No.215~No.261

215.「往来剣道」
剣道の防具を来た男が、寂れた商店街の外れにぽつんと立っている。半年前に大学に入学し、この辺に住み始めたけど、初めてそんな変な男を見かけた。そもそも、この寂れた商店街にやってくるような機会がこれまでにはなかったというだけのことだが。恐らくいつもあそこに立っているのだろう。
というのも、首から「1回100円」と書かれた箱をぶら下げているからだ。何が1回100円なのか正確には分からないが、傍らに防具袋と竹刀が置かれているのを見ると、恐らく試合1回ということなのだろう。
やってみてもいいかもしれないな、と僕は思った。
大学で剣道部に入ったものの名ばかりで、飲み会ばっかりやっている適当な部だった。それでも3ヶ月は我慢したが、さすがに辞めてしまった。町内に剣道教室のようなものがあるわけでもなく、ここのところずっと遠ざかっていたのだ。
こんな往来に立っていて商売になるのか分からなかったが、少なくとも今の俺にはもってこいと言えそうだ。
100円玉を財布から取り出し、箱に入れる。
「できるか」
「ええ、もちろん」男は答える。
俺は防具を着る。こんなところで試合をして怒られないのかと思うが、人通りはまったくない。車さえこなければ、何とでもなるだろう。
審判がいないことが問題ではないか、と思ったが、まあいい、一般人相手にそこまできちんとやっていないのかもしれない。相手の技量にもよるが、勝敗は審判がいなくてもはっきりすることだろう。
蹲踞の構えから、男が低く「開始」と声を上げる。
男は強かった。隙のない構えから繰り出される剣筋は、なんとか防ぐのが精一杯という感じ。こちらの剣はどうにも相手を捕らえきれない。それでも、必至で食らい付いた。こんなにやりがいのある相手と試合が出来るのは本当に久しぶりで嬉しかった。昔の勘を必至で取り戻し、相手が見せた一瞬の隙を見逃さず、すかさず面を打ち込んだ。
その瞬間、相手の男が面の内側からくぐもった声で「やったー」と叫んだ。その瞬間、何かがぞろりと俺の内側に入り込んできたような不快感が襲った。なんだこれは?
ん?今のはどう考えても俺の勝ちだったと思うが。気づかない内に小手でも取られていた…、なんてことはありえない。今のは俺の勝ちだ。どうしてお前が喜ぶんだ。
男は面を取ると、歓喜の表情を浮かべたまままくしたてた。
「いや、あんたの勝ちだ。強いよ、君は。いや、ホントに助かった。君みたいな人が来てくれるのを待ちわびていたんだ。長かったなぁ。2年以上は経ってるかな、きっと。やっとこれで解放された!やった、どこでも行けるぞ!」
俺には、男の喜びようがさっぱり理解できない。こいつは一体何を言っているのだろうか。
「というわけでさ、ここは君に譲るよ。っていうか、分かってるだろ?僕に勝った瞬間、何かが身体の内側に入り込んだような感覚があったんじゃないか?」
何でそれが分かるんだ?それでも俺は、憮然とした表情を崩すことなく男を見据えた。
「それはさ、まあなんていうかな、剣道の神様とも言えるし、ただの地縛霊とも言えるけどね。今まではずっと僕の中にいたんだけどさ、そいつ剣道が強いやつが好きみたいなんだよね。だから君に移ったんだ。だから君は僕の代わりにここに立って誰かと試合を続けることになるってわけだ。いやはや、ホント助かった」
今こいつは何て言った?俺がここでお前の代わりをするだと?そんなことするわけないじゃないか。大学に行って、俺は医者にならなくちゃいけないんだ。こんあところで油を売っている暇なんてない。
バカバカしくなって帰ろうとしたが、ちょっと歩くと何かに後ろから引っ張られているような感覚があった。前に進もうとしても全然ダメ。いろんな方向で試してみたけどダメ。どうやらある点を中心に半径5メートル以上は進めないようだ。
「だから無駄だって。こっからは抜けられないんだって。ちなみに先輩として教えておいてあげるけど、真夜中から早朝に掛けてはそっから抜け出せるよ。たぶん地縛霊…じゃなくて神様が寝てるんだろうね。でも時間になるとどう頑張ってもここに連れ戻されちゃうけどね。
君がここから逃れる方法はただ一つ。君より強い相手と戦って君が負けるしかない」
男は解放される喜びに浸っているようで、何だかその上ずったような声を聞いていると余計にイライラしてくる。しかし、誰かに負ければいいっていうなら簡単だ。適当に試合をして打ち込まれてしまえばいい。
「今君は、わざと負ければいい、なんて思っただろうね。もちろん僕だってそう思ったさ。でもね、それは無理だよ。この神様はさ、全力を出さないやつは嫌いなんだろうね。君が全力でやっていないと判断すると、とてつもない頭痛を引き起こすんだ。とてもじゃないけど、それには耐えられないと思うよ。だから、試合の度に全力を尽くすしかないってわけ。
まあそんなわけだからさ、申し訳ないけど頑張ってよ、ホント」
あの男の言葉通りだとすれば、俺は最悪な状況を手に入れてしまったということなんだろう。嬉しそうにどこかへと去っていく男を見ながら、俺は盛大にため息をついた。



216.「公園」
総資産500兆円。
よくもまあここまで増やしたものだ。しかしようやくあの計画が実行できるというものだ。
これを成し遂げるためにのし上がってきたようなものだからな。自分が生きている内に実行できてよかったものだ。
彼は二件電話を掛けた。

「やって欲しいことがあるんじゃが。土地を買って欲しい。まあとにかくどこでもいいぞ。出来るだけ人が住んでいるところを買い取るように。金はいくら使ってもらってもかまわんが、可能な限り広い面積の土地を確保するように。ワシの希望としては、最低でも日本全土の10%は確保したい。頼んだぞ」

「やって欲しいことがあるんじゃが。公園を作って欲しい。土地はこれから手に入れるんだが、手に入れた端からそこに公園を作ってくれ。日本中に公園を作りたいんだよ。理由?理由なんか特にないがな。まあ老いらくの狂気の沙汰とでも思ってくれ」



217.「毒殺」
「…前園佐知子さんは、有機リン酸系の農薬の摂取により死亡しました。自宅の冷蔵庫にあったオレンジジュースに混入されたとみられています。」
そのニュースを聞いて私はすっかり怖くなってしまった。冷蔵庫の中のものに毒が入っているかもしれない。可能性はものすごく低いだろうが、でも決してありえないわけではない。そう考えると、冷蔵庫の中にあるものを食べることが出来なくなってしまった。そのせいで、一時拒食症のようになってしまい、ノイローゼ気味になった。
そんな風に考えるようになったのには、夫の浮気がある。夫はまだ隠し通せていると思っているようだが、私はもう確信していた。最近の夫の素振りから、その浮気はかなり本気であり、私の存在を疎ましく感じている様が感じられる。もちろん、気のせいかもしれない。しかしそんなこともあって、もしかしたら夫が毒を仕込むかもしれない、という妄想に発展してしまうのだった。
その広告を見つけたのはそんなタイミングであり、私にとってはすごくタイミングのいい話だった。
友人宅に遊びに行った時のことだ。その友人はケーキを焼くのが趣味で、時々人を集めてお茶会のようなことをする。その集まりに呼ばれたのだ。
友人の旦那は薬品などを開発している会社に勤めていて、その関係もあってか自宅には普通の人が購読しないような雑誌が置かれていた。何気なく開いたその雑誌の広告に、ある程度の毒薬であれば判別可能な試薬が載っていたのだった。その試薬を一滴垂らすだけで、ある程度の種類の毒薬であれば混入しているかどうかは判別可能だという。しかもその試薬自体は口に入れても問題のないもので、食品に入れても問題ないということだった。
そこで私はさっそくそれを取り寄せ、日々食品に垂らすようになった。もちろん、気にしすぎだろう。しばらくして気が済んだら止めればいい。試薬を入れて毒薬の有無を確認すれば食事も普通に摂れるようになってきた。ノイローゼからも回復しつつあるようだし、私はまた前のような穏やかな生活を取り戻すことが出来るようになった。

男は帰宅すると、床の上に倒れている妻の姿を見つけた。
(まああっさりとしたものだな)
男は計画通りにことが進んだことに満足し、警察と救急車を呼んだ。
(これでやっとアイツと一緒になれる。長かったな)
男はテーブルの上にあった小瓶を手に取ると、中身をトイレに捨てた。
(まさか試薬の方に毒が入ってるとはこいつも思わなかっただろうな)



218.「俺たちはまだか」
「田村遅いなぁ」
大塚が、何度目かの呟きを漏らす。
住宅街の中ほどに、ポツンと取り残されたようにしてあるバーでのこと。隠れ家、と言ってもいいくらい目立たないその外観とは裏腹に、内装はいかにもバーという感じで、そのカウンターに男女4人が腰掛けている。
「まあ昔から田村はそういう奴だったけどな」
吉本は中学時代、田村と同じサッカー部だった。朝連にはいつだって遅刻してきてたよ、と吉本はいう。
「懐かしいわね。佐藤君は結局来なくて残念」
美保はサッカー部のマネージャーで、サッカー部のキャプテンだった佐藤のことが好きだったのは有名な話だ。その佐藤は同窓会にはこれまで来たことはない。
「佐藤君ならこの前あったわよ。医薬品の営業とか言ってたかな?接待とかで結構忙しいみたい」
恵はまだ20代と言っても通りそうな若々しさでそう言った。何故か恵だけまったく年を取らないように見える。
「なんか酔ってきたかも。ほら、何だか揺れてる気がしない?」
そう言って美保は床を見る。
「うん、確かに。俺も揺れてるなぁ。もう年かな。酒はまだまだいけると思ってたんだけど」
吉本はおかしいなぁなんて言いながら目をこすっている。
「っていうかさぁ」と大塚が言う。
「田村の話だったはずなんだけどなぁ。まあ佐藤でもいいけどさ」
「そうだな。佐藤はまだか」と吉本。
「佐藤は来ないのよ。田村はまだか」
「そうだ、田村はまだか」
彼らは、田村の到着を待っていた。
そんな折、大塚の携帯電話に着信があった。表示されたのは『田村』。
「おっ、噂をすれば何とやらってか」
そう言いながら大塚は電話に出る。
「お前道に迷ったのか?」
「田村は昔からそうだったからな」と吉本がまた続ける。
「は?俺らはちゃんと『ロンダム』にいるって」
「かみ合ってないわね。まあ田村が場所を間違えたってだけなわけね」
恵は、だったらちょっと抑えようかなと言って、注文しようとしていたエビスを取りやめた。
「そんなわけないだろ。店がないだって?俺らはちゃんと『ロンダム』にいるっつーの」
それでも大塚は何か不安になったようで、田村との電話を続けながら入口まで歩いて言った。
入口のドアを開けた大塚は絶句したが、しかし残りの三人はその気配に気づくことはなかった。
「…おい、どこだよここ」
電話口に小さく呟いたその声も、田村にしか聞こえなかった。
「亀がいるんだけどね」
その時唐突に、バーのマスターが口を開いた。それまでカウンターの向こう側で完全に気配を消すようにして座っていた。男にしては珍しく年齢がさっぱり分からない出で立ちで、30代にも見えたし、60代にも見える、そんな変なマスターだった。
「亀?何の話だよ」
吉本が何だか不機嫌そうに返す。
「ほとんどいつもは眠ってるんですけどねぇ。今日は起きちゃったみたいで。珍しいですよ。5年ぶりぐらいかな」
「だから何の話なんですか、亀って?」
美保は大した興味はないようで、枝豆をひょういひょい食べている。
「田村がさ、『ロンダム』がないっていうんだよ」
大塚がそう言うと、恵がマスターに聞いた。
「それが亀と関係あるんですか?」
「だからね、この店、亀の上に建ってるんですよ。それだもんで、亀が勝手に歩いてどっかに行ってしまうんですよね。まあ必ず元の場所に戻りますからね、特に問題はないんですけどね」
「いやいや、問題大アリでしょ?」
「そうそう、亀って何だよ亀って」
「いや、そうじゃなくて」
「そうそう、田村はまだか」
ってそれももう違うかなぁ。そう美保は呟く。
じゃあ、と言って吉本が後を継ぐ。
「俺たちはまだか」



219.「3Dテレビ」
3Dテレビがついに発売になった。日本のトップメーカーが世界で初めて製品化に漕ぎ着けたそのテレビを、世界中の人が待ち望んでいたのだった。世界に先駆けて日本での発売が決まり、僕はその一週間前から電気店の前に並んで待っていた。
そうやってやっと手に入れた3Dテレビだった。
このテレビのすごいのは、もちろん画像が3D(立体)に見えるという点であるが、それが通常のテレビ放送すべてにおいて適応されるということだ。
どういうことかと言うと、通常テレビ番組というのはカメラが撮っている空間しか映らない。カメラの裏側は映らない。しかし3Dテレビの場合、360度全方向見える、すなわち自分がテレビの中に入っているような感覚になる。そのためには、通常のテレビ番組の映像では素材が足りないことになる。
しかしこの3Dテレビは、そのないはずの映像を勝手に補完し組み込んでしまうというすごい機能を備えていた。例えばドラマを見ているとする。普通のテレビで見ると部屋の一角しか映っていないのに、3Dテレビでみるとその部屋の全方位きちんと映像として映し出されるのだ。それこそ、本当にその部屋の中にいるかのような体験が出来る。
さっそく僕は配線を終え、スイッチを押した。初めに映ったのはニュース番組だった。

『今日3Dテレビを発売したパナソニー社屋で、社員が何者かによって銃で撃たれて殺されているのが発見されました。発見時、部屋のドアや窓はすべて施錠されていたとの情報もあります。殺された社員は3Dテレビの広報担当部長であり、恐らくその発売を報じるニュースを3Dテレビで見ていたのではないかと言われています。ただDVDレコーダー内に任侠物の映画のDVDがあった模様で、映画の鑑賞をしていた可能性もあります』

すごい。まるでスタジオにいるかのようだ。目の前で美人キャスターが喋ってる。一応お約束でスカートの中を覗こうとしたけど、やっぱり何も見えなかった。
ニュースはとりあえずもういい。次はドラマだ。今日で最終回を迎える、ある人気テレビドラマだ。連続殺人犯を追い詰める刑事の物語であり、どうやら今クライマックスを迎えているようだ。
雨が降っている。刑事と連続殺人犯が道路を挟んで向かい合っている。横断歩道の信号は赤。刑事は後一歩のところで連続殺人犯を追い詰めることが出来ない。
業を煮やした刑事は拳銃を取り出し、連続殺人犯に向ける。まさか撃つはずはないと高を括っている連続殺人犯が逃げる素振りを見せた瞬間、刑事は銃を撃った。
「うっ」
弾は連続殺人犯には当たらなかった。声を上げたのは僕だ。
刑事が撃った弾が、僕に当たった。
そんなバカな!そんなわけがないだろ!頭の中はそう思っているのだけど、胸を押さえた手は血で真っ赤になっている。
意識を失う瞬間頭に浮かんだのは、つい先ほど見たニュースのことだった。



220.「消しゴム」
その悪魔がやってきたのは、番組スタッフから理解できない話を聞かされた日の夜だった。
一ヶ月ほど前、ある番組の企画で初恋の人と対面するというのがあり、その聞き取り調査をスタッフに受けた。僕は、もちろん迷うことなく梓ちゃんを挙げた。
中学時代となりのクラスにいた女の子だった。僕は彼女のことがずっと大好きで、でも積極的な性格じゃなかったから何も言えないでいた。でもある日、クラスメイトの女子に呼び出され体育館の裏に行ってみると、そこにはなんと梓ちゃんがいたのだった。そうして僕らは、別々の高校に行くまでの間ずっと付き合っていた。
梓ちゃんとのことは今でも思い出す。忙しくてなかなか同窓会なんかに顔を出したり出来ないのが残念だが、仕事に疲れた時なんかにふと思い出すようなことがあって、恥ずかしくて一人で苦笑いするようなことだって結構あるのだ。
しかしその日番組スタッフから、中村梓という女性はいない、と告げられたのだった。そんなはずはない、と粘った僕だったけど、スタッフが連絡を取った当時のクラスメイトの一人と電話をして納得せざるおえなかった。
そんなバカな!僕は家に帰るまでに何度胸の内でそれを繰り返したことだろう。梓ちゃんがいなかっただって。じゃあ僕のこの記憶はただの妄想だとでも言うのか!
その夜、僕の住むマンションに、悪魔がやってきたのだった。
「ちょうど20年経ったしね。ほら、約束だったでしょ、20年だけって?オッケーしたよね?」
その悪魔は何だかもの凄くフレンドリーに意味の分からないことを捲し立ててきた。
「約束って何の話だ?俺は今イライラしてるんだよ!さっさといなくなれ!」
僕は叫んだが、悪魔は動じもしない。
「なるほど、分かるよ、梓ちゃんのことだろ。いやだからさ、そのイライラを解消するためにもさ、ほら消しゴムがここにあるからさ」
もう何を言ってるんだかさっぱり分からない。消しゴムって何のことだ?
「ちゃんと消してあげるからさ、梓ちゃんの記憶。この消しゴムを頭にちょちょいってやったら消えるからさ。もう充分でしょ?」
そういうと悪魔はずいっと近寄ってきて、僕の頭を消しゴムで一撫でした。

20年前のこと。
その悪魔がやってきたのは、僕が同じクラスの女の子に振られた日のことだった。
それまで周りの女子にはそこまで興味が持てなかった。何人かの男子は女子と付き合っていたようだったし、その内の何人かはもう最後まで行ったなんて噂もあったけど、僕にはどうしてそんなことをしたがるのか全然分からなかった。
けど、僕のクラスに来た転校生の佳子ちゃんを見た時、僕は電撃を受けたようになってしまった。佳子ちゃんと喋りたい。手を繋ぎたい。ずっと一緒にいたい。そんな思いは日に日に募っていった。
僕は意を決して佳子ちゃんに告白したのだけど、あっさりフラれてしまった。
僕はもうどん底だった。
その夜、その悪魔が一本の鉛筆を持ってやってきたのだった。
「失恋?大変だねぇ。ねぇねぇ、いいのがあるよ。ほらこの鉛筆なんだけどさ、君の頭の中にさ好きな記憶を書き込めるんだよねぇ。どうどう?」
悪魔は異常に馴れ馴れしい態度でやってきて僕を苛立たせたけど、佳子ちゃんの失恋に沈んでいた僕は、藁にもすがる思いでその鉛筆を手に持った。
名前が同じだと辛いかもしれないから、梓ちゃんって名前にしようか。隣のクラスの女の子ってことにして、向こうが僕に告白したってことにして…。
僕は失恋の痛手を消そうとして、ありえない話をどんどん脳に刻み込んでいった。
「そうそう、ちょうど20年後にこの記憶消しにくるからさ。よろしく~」
相変わらず軽いノリで悪魔は話し掛けてくる。
「でもサービスで、鉛筆で記憶を埋め込んだっていう記憶だけは先に消しゴムで消しといてあげるからね。心配しないでね」



221.「聞き込み」
殺人事件の帳場が立って二日目。警視庁捜査一課八係館山班所属の箕輪武史と遠藤七草は敷鑑、つまり死体発見現場周辺の聞き込みを続けていた。
「しかしこう寒いとやる気が出ねぇなぁ」
「何言ってんすか、ミノさん。ちょっと前まで、もうちょい寒かったら俺の実力はもっと発揮されんのに、とか言ってたじゃないですか」
「ん?そうだったっけ?覚えてないなぁ」
二人は、死体発見現場から離れた区域を割り当てられていた。重要な情報があまり上がって来ないところである。まあぼちぼちやろう、そんな風に話していた。
既に結構回っている。留守宅も多いが、話はそれなりに聞けている。と言っても、大した収穫などないのだけど。まあ捜査の大半はこうした無駄なことの積み重ねだ。文句を言っている場合ではない。
「よし、じゃあ次はあそこか」
「えっ、ミノさん、あそこは…」
「は?何か問題でもあったか?」
「いえ、特には…」
「何言ってんだ。行くぞ」
『葛城』と表札にある家のチャイムを鳴らす。
「すいません、警察の者ですけども」
返事があって、しばらくして玄関のドアが開いた。主婦と思しき女性が出てきた。
「あそこの殺人事件の件で聞き込みをやってます。ちょっとだけお話を聞かせてください」
「…ええ、でももうお話はしたはずですけど」
「まあそうなんですけど、警察って同じ話でも何度も確認しないといけないとこでして」
「…はぁ、そうですか」
そうして二人は、家族構成から死亡推定時刻付近で何か気づいたことはないかなど、形式的でありきたりな質問をした。主に喋っていたのは箕輪の方で、遠藤は始終黙ったままだった。これまでは遠藤が主に聞き取りをしていたので箕輪は不審に思ったが、ここは頼みます、と言われたら仕方ない。
聞き取り相手の主婦も、何だかおましいなぁという風に首を傾げながら話をしている。何だかおかしいけど、そのおかしさは事件に関わるようなものではないような気がする。だったら何の違和感なのかと聞かれるとさっぱり分からない。遠藤といいこの主婦といい、一体何だと言うのだろうか。
聞き取りを終え、辞去した後、遠藤がおもむろに口を開いた。
「ミノさん、あそこの家何か気になったんですか?」
「いや、何も。何だ、お前何か気に掛かったのか?」
「そうじゃなくてですね、じゃあ何であの家に二回も聞き取りに言ったんですか?」
「は?何言ってんだ。さっきが一度目だろうが」
「…ミノさん、それ本気で言ってるんですか」
そう言われて箕輪はちょっと焦った。確かに聞き取りの際、遠藤も主婦もおかしかった。違和感を感じた。なるほど、それが二度目の聞き取りだったからというのであれば分からないではない。しかし、どうしてもあの主婦に一度聞き取りをしたという記憶がまったくない。
「…いや、聞き取りは一度目だと思うが」
「ミノさん、悪いことは言いません。病院に行きましょう。認知症は30代からだって始まるって言いますし。ちょっとそれは心配です」
俺が認知症か、と箕輪は思った。まだ38だぜ、俺。



222.「きのこ食堂」
従業員が毎日入れ替わる食堂がある。
周りを山に囲まれたただ広いだけの土地にポツンと建っている食堂だ。その食堂には名前はないみたいだ。地元の人は、「山の食堂」とか「きのこ食堂」とか呼んでいる。店の前に大きなきのこが生えているのだ。
僕は自然環境に関わるNPO法人に所属していて、特にこの地域の山の手入れに力を入れている。きのこ食堂のある山では、林業が盛んであったり、あるいは地元の猟師が現役で活動していたりと、自然の恩恵を多分に受けているのである。しかしこのところごみの不法投棄やゴルフ場の開発問題などがあり、キレイで恵豊かな山を維持し続けよう、と僕らは活動しているのだ。地元のお年寄りなんかも積極的に活動に協力をしてくれ、NPOの活動としては充分な成果を挙げているのではないかと思う。
その過程で山を訪れることが結構あるので、ついでにきのこ食堂に寄ってみるということが多い。ウチのNPOの人間はかなりお世話になっているはずだ。
しかし不思議なのは、こんな山奥にある食堂なのに、従業員が日々代わっているということである。別に毎日行くわけではないけど、近くを通った時にたまたま中が見えるような時もある。そういうケースも含めて、これまで同じ従業員を見たことが一度もないのである。
料理は滅法うまい。山で獲れるタヌキやイノシシの肉を使っているのだろう。獲れたての新鮮な肉と、同じく山で獲れる山菜やきのこなどを組み合わせた料理は素晴らしいのひと言に尽きる。三日と空けず通いたくなる店なのである。
ちょっと不思議な店ではあるけれども、何故かころころと従業員を代えながら、そこそこ繁盛している。こういう食堂が山の中にあると思うと、さらにこの山を守っていかなくてはいけないな、と僕は今日もNPOの活動に力を入れるのだった。

「今日は前から話していた通り、どうしたら人間さんに恩返しが出来るかという話し合いだ」
獣長であるタヌキのポンさんが、各獣代表を集めて会議を開いている。
「人間さんはこれまでにこの山を守るために様々なことをしてきてくれた。恐らくそれについては皆言わずとも分かっていることと思う。我々としても、猟師に撃たれることで多少の恩返しは出来ているかもしれないが、充分ではないだろう。さてどうしたらいいだろうか」
おのおの知恵を絞ろうとしているようだが、そこは獣のこと、ない知恵を絞るとはこのこと。なかなか名案は浮かばない。子供と遊んであげるとか歌を歌ってあげるなんてのもあれば、夜のお供をしてあげるなんてとんでもない意見もあった。
「食堂を作る、というのはどうでしょうか?」
イノシシが言った。
「山の中に食堂を作るんでさぁ。でそこで、ワシらの肉を使った料理を作って出すってわけだ。どうだ、これなら充分じゃないか」
なるほど、という声があちこちから聞こえる。悪くないかもしれないな。
「店にはつねに、調理係と接客係が一人ずつ。調理係はキツネ、お前がいいだろうな。キツネはどうも料理がうまい。接客係は人間様を席に案内したりおしぼりを出したりした後、その日の料理に使う肉になる。そこまで繁盛されたら回らないかもしれないが、大体こんな感じにすればなんとかなるだろうよ」
「なるほど、それは悪くないかもしれないな。早速皆準備に取り掛かって欲しい」
そうタヌキのポンがまとめた。

こうしてきのこ食堂は生まれた。



223.「父からもらった」
「お前が、人生に疲れたとか、もう無理だと思った時には、このボタンを押してくれ」
4年前、そのさらに1年前に脳梗塞で倒れた父が、そういいながら私にリモコンのようなものを差し出した。私は今、そのボタンを押そうかどうしようか迷っている。
5年前に倒れた父は、右半身が動かなくなり、そのまま寝たきりとなっている。一人娘で結婚もしていなかった私は、それから父の看病に明け暮れるようになった。
正直言って、もう介護に疲れてしまったのだった。
まだ私も28歳。やりたいことはないけれど、出来ることはたくさんあると思う。それなのに、父の看病だけで日々が過ぎていってしまうのは、何だか恐ろしいような気がする。だからと言って、じゃあどうしたらいいのかも分からない。そんな時に、父からもらったリモコンのようなものを思い出したのだ。
(押してみようかな)
押したらどうなるのかというのは父には聞いていない。きっと聞いても教えてはくれないだろう。しかし、こんなリモコン一つで一体何になるのだろうか。介護ロボットでも飛んでくるのか?まさかねぇ、なんて思いながら私はリモコンが気になって仕方がなかった。
(まあいいわ。押してみよう)
私は、もしもの時には押すようにと父から言われていたボタンをグイと押し込んだ。

「お前が、人生に疲れたとか、もう無理だと思った時には、このボタンを押してくれ」
そう言って俺は紀子にその装置を渡した。
倒れてから1年。紀子は本当によくやってくれている。かつてはあれほど反抗的で苛立たしかった娘が、まさかここまで懸命に看病してくれるとは思わなかった。その装置を渡したのは、私からのささやかなお礼だと言ってもいいかもしれない。
あれは、私の自殺装置だ。
元々は紀子を殺すために作ったんだったな、と俺は回想する。紀子が大学時代、それは紀子が最も荒れていた時期だったが、本当に手をつけられなかった。様々に問題を起こしてくれて、これはもう親として殺してあげるしかないだろう、と思ったのだった。紀子の食事にカプセルを混ぜ、後はボタンを押すだけ、というところまで言ったが、結局殺すことは出来なかった。そういえば紀子の体内にはまだあのカプセルがあることになるな。
ボタンを押すと、カプセルの中の成分が溶け出して心臓発作を誘発する。そういう仕組みである。解剖さえされなければ医者は病死だと判断するだろう。解剖されてもほとんど見分けられないだろう、とも思っている。自信作だった。
そのカプセルを俺も飲んだ。リモコンでは、設定を俺の方のカプセルに変えてある。後は紀子がボタンを押すだけで俺は死ぬことが出来るだろう。父親の看病から、娘を解放してあげなくてはならない。我慢することはない。すぐ押してくれていいんだよ。

ある日のこと。紀子の高校時代の友人が我が家に遊びに来たことがある。
その日は滅法寒くて、紀子は寒いのは割となんとかなるのだけど、友人はダメだった。友人は手近にあったリモコンを操作してエアコンの設定温度を上げようと思ったのだけど、しかしどうも作動しない。あちこちボタンを押してはみるものの、エアコンの設定は変わらない。イライラしているとちょうど紀子がやってきて、ちゃんとしたエアコンのリモコンを持ってきてくれた。
この時、友人があちこちボタンをいじくったせいで、リモコンの設定が父から紀子へと変わってしまったことは誰も知ることはなかった。



224.「弟子入り」
「お願いします!弟子にしてください!」
僕は目の前にいる師匠に大きく頭を下げて声を上げて叫ぶ。師匠、とは言っても、僕が勝手にそう思っているだけで、まだ弟子入り出来ているわけではない。でも、絶対に師匠の弟子になると決めているのだから、僕にとってはもう師匠なのである。
師匠はものすごく困った顔をしている。師匠は弟子を取りたがらないことで有名だ。これまでも何人もの人間が断られているそうだ。しかしそんなことでめげてはいけない。僕は何も言ってくれない師匠に向かってまた声を張り上げる。
「お願いします!僕を弟子にしてください!」
「いや、ちょっと待てよ。弟子って何だよ」
師匠の困惑はどんどんと広がっていく。恐らくこれまでも多くの人間にこうして弟子入りを志願されているだろうけども、その度に違和感を感じるのだろう。
「弟子は弟子です。何でもします。掃除・洗濯・食事の用意。お荷物も持ちますし、歌を歌ったりマッサージをしたりもします。何でもします。お願いします」
師匠は、やれやれ、っていう顔をしている。まあそうかもしれない。師匠は弟子を取る気なんて元々ないのだ。それでもこうして押しかけてこられたら、それは迷惑だろう。それは僕だって分かるのだけど、それでも師匠に弟子入りしたいのだから仕方ない。
「ほら、師匠のご自宅もその…年季の入っていることですし、直したり掃除をしたりと、何なら今からやりますよ」
「いい、いい。ってかご自宅って何だよ。ただ汚いだけの棲みかだよ」
「食事も、残ったものをうまく使って料理出来たりしますよ。こういう生活をしていると栄養が偏るでしょうから」
「まあそうなんだろうけどよぉ。でもお前、俺に弟子入りしてどうしたいわけ?」
「それはもちろん、師匠みたいになりたいんです!」
師匠はもう理解できないって顔をしている。そうかもしれない。確かに僕がしていることは馬鹿げたことかもしれない。
「一つ聞きたいんだけどさ、俺みたいなホームレスに弟子入りするのって、最近流行ってるのか?」



225.「古きよき時代」
僕は、今から50年以上前の平成の時代について調べている。平成史とでも言うべき著作の構想を何年も練っており、その取材のためである。
しかしこの取材は困難を極めている。何しろ、平成時代に刊行された書物や映像などは、ほぼすべてが特別な許可がなければ閲覧不可なのである。どんなジャンルにも闇ルートがあるものだが、僕はそうしたルートを通じて様々なものを手に入れている。
しかし、そうした書物や映像を見ると、とにかく驚かされる。つい先日手に入れた、当時の情報番組はこんな風である。

番組が始まると、司会者二人の顔がアップになる。お決まりの挨拶とタイトルコールの後、男性司会者がおもむろに、昨日収録があった別の番組について話を始める。その番組には人気アイドルグループが出演しているらしく、その裏話を語っている。どうも女性司会者はそのアイドルグループのファンのようで、しきりに羨ましがっている。
司会者二人がネームプレートのある席に移ると、ほどなくして次の企画が始まる。どこかの町の商店街で行われている安売り市の映像が出てきて、この番組を見たと言えばさらなるサービスが受けられるという主旨であることが分かる。商店街の中をカメラが自由に動き、もちろんモザイクなど一切かかっていない。
お次の企画は、ブックランキングのようだ。その週の文芸書の販売ランキングと、とある書評家(もちろんネームプレートあり)のオススメの書籍を紹介するというものだ。すべての書籍には著者名が載っていて、番組では触れられることはないが著者略歴なんかも本には載っているのだ。

番組はまだまだ続くが、しかしここまでだけでも充分その驚きを理解してもらえることだろう。現在僕らが生きている世界ではまずありえない番組である。
僕ら乱戻の時代は、個人情報が厳しく管理されるようになった。これは、個人の意思とは無関係に、自分を含めたすべての人間の個人情報をみだりに明かしてはいけない、というものだ。
だからもし僕らが先ほど紹介したような番組を作るとしたら、こんな風になるだろう。

番組が始まると、司会者二人の首からしたが映り、タイトルコールと挨拶が始まる。あるいは司会者が覆面をしているというのでもよい。司会者にはもちろんネームプレートなどなく、お互いを呼び合う際にもAさんだのBくんだのという風にする。
人気アイドルグループの話をするなどもっての他だ。何せ、自分の私生活だって許可なしには表に出してはいけないのだ。司会者は、天気や株の動きなど、個人の情報に関わらない世間話をすることになる。
彼らが席につき、企画が始まる。とある町の商店街で行われている安売り市の映像は、ほとんどモザイクが掛けられることになるだろう。レポーターは元より、一般人の顔など決して映してはいけないからだ。
本などは、すべて著者名が伏せられることになる。もちろん著者略歴など書かれるはずもない。読者は、誰の作品なのかを知ることなく、本を選ぶしかないのである。

平成の時代を取り戻すためにも、僕は自分の本を匿名ではなく自身の名前を記載して出版したいと思っている。恐らくその話に乗ってくれる出版社はないだろうから自費出版になるだろう。それでも、出す価値は充分にある。出版したことで、僕が逮捕されることになっても。



226.「スパイ」
二十歳の誕生日を迎えたその日、僕は父親に呼び出された。今まで、決して入ることを許されなかった父親の部屋だ。やっと二十歳になれた、と僕は思った。12年前、父親に言われた言葉を思い出す。
『何もかも捨てて生きていくんだ』
8歳の僕には、父親の言っていることは難しすぎた。
『今は何も説明できない。ただ、父さんの言うことを信じてくれ。これは、将来お前のためになることなんだ』
父親の目は真剣そのものだった。
『友達も家族も、喜びも悲しみも、形あるものも形ないものも、すべて捨てて生きて欲しい。父さんも、父さんの父さんにそう言われて生きてきた。我が家の長男に課せられた生き方だ』
そうして最後に父は付け加えた。
『二十歳になったら、すべて教えてあげよう』
それから僕は、父親の言いつけ通りに生きた。仲のよう友人を作らず、自分の本心を表に出さず、何も求めず、何も追わず、何も喜ばず、何も悲しまずに生きてきた。それは、初めは辛い生き方だった。こんな生き方を自分に強いた父親を恨みもした。しかし屈しなかった。父親に認められたかったこともある。しかし何よりも、自分にはこれくらい出来るはずだ、という妙な自信があったことは否定できない。
そして今日、ようやくその日がやってきたのだ。
「お前にとっては、辛い生き方だったかもしれない。少なくとも俺は辛かった。何故こんなことをしなくてはいけないのかと、俺は親父を恨んだよ。しかし、どうしようもないんだ。これが、我が家系に与えられた使命なのだ」
使命、という言葉が耳に障った。ここまでして犠牲を強いなくてはいけない使命とは一体何だろうか。
「俺はもう引退だ。すべてをお前に引き継ぐことになる。お前の代でも、連絡はこないかもしれない。しかし、その来ないかもしれない連絡を待ち続けなくてはいけない。それが使命だ」
僕の理解を待つかのように、沈黙がその場を支配した。
「俺はスパイだった。それも、スリーパーという種類のスパイだ。普段は特別何をするということもない。諜報活動も尾行も何もだ。ただある特殊な状況になった時にだけスパイとしての役割を果たすことになる」
スパイ、と言われて僕は何も想像することが出来なかった。自分の父親がスパイだと聞かされても、そうだったのか、という程度のものだ。しかし、父親の告白を受けて思い出したことがある。昔家族でスパイ映画を見ていた時のことだ。脈絡もなく父親は、『スパイはこんなに目立っちゃいけない。スパイは見えない存在なんだ』と言っていた。そう考えると、父親がスパイであったということもそこまで不自然ではないのかもしれない。
「いつ連絡が来るか、それはまったくわからない。しかし、その日のために準備を怠ってはならない。もちろん、子供を産み、スパイの任務の後継者を育てるということも重要な任務の一つだ」
なるほど、僕が生まれたのは任務のお陰だったのか、と皮肉なことを考えた。
「最後に。我々は、織田信長の下で働いていたスパイだ。織田信長の直系の子孫から、任務の連絡が来ることだろう。もう数百年も連絡はない。しかし、いつ連絡が来るかは分からない。決して気を抜くんじゃない」
そう言った時父親の顔を見ると、心なしかスパイであることから解放された喜びが滲み出ていたように思う。きっと父親だって思っていたはずだ。
連絡なんか来るはずがない、と。



227.「<自分>探しの旅」
僕はずっと<自分>を探している。きっといつまで経っても見つかることはないだろう。しかしその痕跡の欠片だけでも知ることが出来れば、僕は満足できるかもしれない。
きっかけは、大学時代の友人に聞いた話だった。僕は文系で、彼は理系だったが、何故か話が合った。その彼がある日、「量子力学」についての話をしてくれたのだ。
量子力学とは微小の世界についての理論であって、その理論によってエレクトロニクスや製薬業界で様々なものが開発された。即ち、非常に実用的で有用な理論であるらしい。しかし一方で、常識的に考えると奇妙な現象が様々に起こるようで、その中の一つが「波動関数の収縮」なのだそうだ。
詳しいことはやっぱり分からなかったが、波動関数の収縮というのは、量子力学において実に厄介なものであり、これまでにも様々な仮説が出されたが、満足なものはないという。
その仮説の一つに、「多世界解釈」がある。波動関数の収縮とは、確率でしか現せない現象が、何故人間の観測によって一つに収縮するのか、という問題らしいのだけど、それをありとあらゆる可能性に世界が分岐するという方法で説明するのが多世界解釈だ。つまり、<僕が試験に落ちた>世界と<僕が試験に受かった>世界とが同時に存在していて、世界は常に分岐している、ということだった。
僕はそれを聞いたとき、分岐した世界の<自分>に是非会ってみたい、と思ってしまったのだ。
友人は、別の世界の<自分>に会える可能性はまずない、と明言した。そんな可能性は、この先宇宙が無限回生まれ変わってもゼロだろう、と。しかし、もし別の世界の<自分>が存在するならば、たとえばこの世界の僕が死んでも、<僕が死ななかった>世界がきちんと分岐し、そこで僕はまた生き長らえることが出来る。この世界での僕は死ぬけど、でもそうなった瞬間、僕は別の世界の<自分>に融合できるのではないだろうか?今この世界に生きる僕とはまるで違った人生の世界に行くことが出来るのではないだろうか。
僕はそれが気になって仕方なかった。無理かもしれない。それでもやってみる価値はある。
僕はトラックが近づいてくるのを横目で見ながら、道路に飛び出した。



228.「食べるということ」
久しぶりに古典作品でも読もうかと思って、ライブラリーに行ってみた。そこで見つけたのが、「食堂かたつむり」という本だ。2008年発行となっているから、もう100年も昔の本なのだ。「食堂」と「かたつむり」という言葉が何なのかよく分からなかったけど、なんとなく面白そうだなと思った。僕はこういう漠然とした感覚を大事にする人間なのだ。
早速読み始めたのだけど、でも読んでて理解できない部分が多かった。「食堂」というのが何かの場所だというのはわかったけど、でも「食べる」っていうのは一体どういうことだろう?登場人物は、毎日何かを「食べる」らしい。それは趣味なんだろうか?あるいは仕事?何なのだろう?
どうしても気になったので、母に聞いてみることにした。
「あたしもねぇ、ホントのところはよく知らないのよ」
「お母さんも分かんないの?」
「そうなのよ。食べる、なんて言葉聞いたことないわよね。調べたら分かるのかもしれないけど、既に私達には失われてしまった文化なんだろうから、何かの説明を読んだりしても理解できないかもしれないわ」
「そっかぁ。でもお母さんも知らないんならいいや」

既に歴史を語ることの出来る人間はいなくなってしまった。確かに彼らが言っていたように、調べれば分かることだ。彼らにとっての図書館に当たるライブラリーにアクセスすれば、恐らく分かるだろう。しかし76年前何があったのかということまで調べきれる人間はいないだろう。
要約すると、こういうことになる。
76年前の世界で、「サイバー保存」というのが流行ったことがある。これは、冷凍保存の進化版だ。冷凍保存は、難病に冒された人間などが、将来の世界で治療法が開発されていることを期待して冷凍されることであるが、サイバー保存は、主に死などによって肉体が失われる前に、自分の意識だけをコンピュータ上に保存しておくというものだった。これにより、死後でも家族と会話を楽しむことが出来たし、また将来的に人工人間みたいなものが開発され、そこに自らの意識を移せばまた肉体を手に入れることが出来る、というようなことを期待してもいたようである。意識の保存には、当時最大級だったワークステーションが必要であり、そのため料金は割高で、ある程度裕福な人間でなくては利用することは出来なかった。
ある日のこと。いくつかのことか同時に起こった。
まず、地球に隕石が落ちてきた。当初予測では地球をそれると考えられていた隕石が、ありえない確率で別の隕石と衝突し軌道が変化、そのまま地球に向かってきたのである。隕石はインドの市街地に落下、全世界的な大惨事となり、恐竜が絶滅したシナリオの通りに進み、結局それから9ヵ月後、人類は滅亡した。
同時に、サーバー保存で使っているワークステーションがクラッシュした。これは、隕石の墜落が原因なのか、あるいは他に原因があったのか、正確には分かっていない。隕石の落下直後で、そんなことを調べている余裕はなかったのだ。ハッカーの仕業かもしれないという憶測もあった。
その日、サーバー保存に使われていたワークステーションでは、人間の塩基配列を利用した人工知能の実験が行われていた。サーバー保存に使われるワークステーションは、日本にも数台しかない超高性能なものなので、よく別の研究用途に貸し出されるのだ。
どんな偶然がそこで起こったのか、それは誰も知らない。しかし、サーバー保存されていた個人の意識と、人間の延期配列データと人工生命のプログラムが融合した。それにより、サーバー保存されていたただの意識だけだった存在が、塩基配列データと人工生命プログラムを使って進化を遂げたのだ。年を取り、死の概念を持ち、さらに生殖機能まで手に入れた彼らは、地球上から旧人類がいなくなった今、彼らが新人類として台頭することになった。
彼らに、「食べる」ということの概念がないのは、そういうことである。



229.「車内授業」
もう学校には行きたくない。
毎朝電車に乗っていると、そう思う。もう嫌だ。今日こそは休んでしまおう。今日くらい行かなくたって困りはしないだろう。そうだそうだ、休んでしまえ。
それでも僕はなかなか学校を休めない。根が小心者なのだ。先生に怒られるかもしれない。お母さんに怒られるかもしれない。そう思うと、辛くて辛くて仕方ないのだけど、それでも身体だけは学校に向かっている。
しかし、ついに限界がやってきた。
いつもは山手線の品川駅から電車に乗って原宿駅で降りるのだけど、その日はそのまま電車に乗り続けた。山手線の車内にずっとい続けたのだ。一周約一時間。朝から夕方までずっといたから、10周くらいしたかもしれない。
それから毎日同じことをした。学校からお母さんには連絡が行っているはずだけど、お母さんは僕には何も言わなかった。心配そうな顔もしなかった。僕は逆にそれで助かった。心配なんかされたら、どうしていいかわからなくなってしまう。
毎日朝からずっと山手線に乗り続けていた。何をするというわけでもない。時々ゲームをしたりマンガを読んだりするけど、後はずっと立っているか座っているかだった。
吉田くんが話し掛けてきたのは、そんな生活を始めて二週間くらい経ってからだったと思う。
「君も学校に行けないの?」
吉田くんのそう話し掛けられて、それから僕らは電車の中でよく話すようになった。
吉田くんも僕と同じで学校に行けなくなっちゃったみたいで、僕と同じようにずっと電車に乗っている。吉田くんは家でパソコンを使うみたいで、インターネットを通じて自分と同じような子供が結構いることを知っていたみたいだ。だから電車の中でそれらしい子供を探していた。たぶん僕はその一人だろうと思って声を掛けたようだ。
それを聞いて僕は思った。そんなにたくさん仲間がいるなら、声を掛けて集まっていけばいいんじゃないかって。
それから二人で頑張って、同じような仲間をどんどん増やしていった。しばらくすると噂を聞きつけた子が仲間に入れて欲しいと言ってくることもあって、どんどん数は増えていった。
もうその頃にはいろんな学校の先生とか駅員さんとかも僕らのことを知っていたようだ。いろんな学校の先生がよく電車に乗ってきて説得をしに来たけど、僕らは知らん顔して無視していた。ずっと電車に乗っているのは本当はいけないことなんだろうけど、駅員さんはみんな結構優しかった。まあいいよ、いたかったらいつだっていなさい、みたいな。なるべく一番前か後ろの車両に乗ってくれって言われたけど。そこだと乗客も少ないし、駅員さんの目も届くから安心なんだとか。
僕らは電車の中でいろんなことをしていた。ただ喋っていたり本を読んだり勉強したりしていた。なるべく他の乗客の迷惑にならないようにということだけは気をつけていた。学校で勉強するのは嫌だったけど、電車の中でなら楽しかった。
状況が大きく変わったのは、僕が電車にい続けるようになって四ヶ月ほど経った頃だったと思う。
僕が通っていた中学校の先生が僕らのいる車両にやってきたのだ。僕らは、また来たのかと思ってうんざりしたのだけど、先生は乗り込んで来るなりいきなりこう言ったのだ。
「先生も仲間に入れてくれない?」
もちろん僕らは初めは信じなかった。大人が僕らの仲間に入りたがるわけがない。僕らの仲間になったフリをして、何かやろうとしてるんだ、って。でも先生の話を聞いている内に信じてもいいんじゃないかって思うようになってきた。
先生は学校の中で嫌がらせのようなものを受けていたようだ。しかも他の先生達からである。生徒からは人気のある先生だったけど、そのせいで嫉まれたりとかしていたのかもしれない。先生は何だかそんな生活に疲れてしまって、それで僕らのことを思い出したのだという。
「数学と英語ぐらいだったら教えてあげられるわよ」
それで決まった。先生は僕らの仲間になった。
あれから三年経った。今では「車内授業」というのは日本全国数多くの路線で行われるようになった。主に学校に行けなくなってしまった不登校の生徒が中心であるが、一方で塾のような機能も果たしている。乗客のあまり多くない路線では、鉄道会社から車両一つ丸々提供してもらえるケースもあるようだ。
あれは僕が始めたんだ。誰にも口に出して言うことはないけど、僕はそれを少しだけ誇りに思っている。



230.「一発勝負」
ついにこの日がやってきてしまった。センター試験、当日だ。
会場についた僕は、周囲を見渡し、そしてほくそえんだ。周りの連中は焦っていやがる。ギリギリまで問題集を片手に必至で暗記だ。ご苦労なことだ。僕は全然問題ない。余裕であることをアピールしようと、鼻歌でも歌ってやろうかと思ったくらいだ。
ここ二週間ほどまったく勉強はしていない。
それでも、まったく問題ないのだ。僕は、参考書など一冊も入っていないバッグをポンと叩いた。この中に、二週間一度も開けていない筆箱がある。その中には、一本鉛筆が入っているはずだ。
ちょうど二週間前のこと。センター試験の勉強の追い込みでイライラしていた僕は、ちょっと気晴らしにと思い、真っ暗な中散歩に出かけることにした。空気も星空も綺麗で、寒ささえも清々しいような夜だったのに、僕の心は試験への不安に駆られて一向に落ち着かなかった。
そんな時だった。彼女に出会ったのは。
都会にはよくいるという話を聞くが、彼女は初め占い師のように見えた。街頭で、しかもこんな寒い中占い師をしているような人間はこの辺にはいないので、すごく違和感があった。
ただ占ってもらうってのもアリかな、と思った。財布は持ってきてなかったけど、いざとなれば逃げればいいし。
そこでもらったのが、今バッグに入っている鉛筆なのだ。
センター試験が近くて不安だ、僕は試験に受かるだろうか、そんな話をしたところ、彼女はひと言も喋ることなく一本の鉛筆を取り出した。
「何か問題を出しなさい」
「は?」意味がわからなくて、僕は聞き返した。
「何でもいいから問題を出しなさい」
何でもいいからって言われても困るけど、その時ちょうど勉強していた英語の問題を出してみた。
「選択肢は?ないの?選択肢のある問題にして」
なんだか注文が多いなぁ、と思いながら、今度は社会の問題を出した。
「じゃあ、いい、見てて」
彼女はそういうと、鉛筆を手から離した。六角の鉛筆はコロコロと転がり、しばらくするとある面を上にして止まった。そこには「2」と書かれていて、それは先ほど出した問題の答えの選択肢の番号と同じだった。
もちろん僕だって、初めは信じなかった。しかし、それから何度やってもその鉛筆は正解を導き出すのだった。
「これをあげるわ」彼女はそう言った。その時には、僕はもうすっかりその鉛筆の虜になっていた。
「ホントですか?」
「ええ。ただし注意が一つ。今から試験当日まで、決してこの鉛筆に触ったり目にしたりしないこと」
「わかりました。大丈夫です」
そう言って僕は彼女から、小さな筆箱に入れられた鉛筆をもらったのだった。
この鉛筆があれば試験はばっちりだぜ。何せ正解の番号を教えてくれるんだからな。満点でも取っちゃおうかなぁ。僕はそんな余裕しゃくしゃくなことを考えていた。
試験がもう始まるというタイミングで、僕はようやくその鉛筆を筆箱から取り出した。
何だこりゃ?
鉛筆の六角の面はすべて「1」と書かれていた。これじゃあどうしようもないじゃないか。いくら鉛筆を転がしても「1」以外出ない。
嵌められた…。どんなトリックを使ったのか分からないけど、あれは嘘だったんだ。この鉛筆にはなんの力もないんだ…。
どうしよう…。全然勉強してない。センターで酷い点数取るわけにはいかないのに…。
僕は絶望的な状況で、試験を始めた。

センター試験がすべて終わってすぐ、新聞にこんな記事が載った。
「センター試験。全科目、正解の選択肢すべて「1」。受験生不安に駆られ満点逃す」



231.「ロボット社会」
いまや地球上に住んでいるのはロボットだけになってしまった。
もともと彼らは、人間の補助ロボットとして開発された。家事や介護全般、あるいは力仕事複雑で精密な仕事など、様々なことを代理で行うために存在していたのだ。
しかし、とあるきっかけで人間が地球上から絶滅した。強力なウイルスが世界に蔓延したのだ。ウイルスの影響を受けないロボットだけが生き残ったということだ。
彼らは、仕える相手である存在がいなくなったので、そのまま機能を停止してもよかった。しかしやはりというべきか、そうはならなかった。彼らはロボットだけで社会を作り上げるようになった。元々人間にとって必要な仕事のほとんどは彼らロボットが代わりにやっていたのだ。ほんの僅かなきっかけさえあれば、社会が生み出されるのは必然だった。
ロボットだけで社会を作り始めてから数百年という年月が経った。
今ではロボットは、死の概念さえも取り入れている。これはある時点で意識的に導入されることになった。死のない社会は、停滞を引き起こすということを彼らは知ったのだ。もちろん、本当に死ぬわけではない。部品を交換すれば、ボディ自体はいくらでも長持ちする。しかし、ある一定期間で意識を一旦止め、リセットし、まったく新しい人生を一からやり直す、そういう仕組みが出来上がったのだ。
その仕組みが出来上がってからしばらくして、ロボットたちはようやく死の概念というものを受け入れた。というかその解釈は、生まれ変わりと同じだった。自分の存在が一旦終わり、また新たな存在として生まれ変わる。彼らの間では、それが死という概念の理解であった。
一つ誰にも分からなかったのが、生まれ変わる際の意識は何によって決定しているのか、ということだ。新しい意識は、統合組織委員会という名前の組織が提供するということになっていたが、しかしこの組織に所属しているロボット一体もいなかった。この組織は完全に自律的に成り立っており、委員会という名前を持った、ただの無人の工場だった。
ロボット達は、恐らくランダムに決定されているのだろう、と考えていた。生まれ変わる際の意識を委員会がランダムに決定し、それを提供しているだけだ、と。
彼らは決して知ることはなかったが、統合組織委員会は決してランダムに決定をしているわけではなかった。彼らはある一定の規則に則って、生まれ変わった後の意識のデータを決定していたのだ。
それは、機能停止までにそのロボットがどんな『検索』をしていたか、に依存する。ロボット社会では、『検索』こそが最大の情報収集法であり、かつ最大のコミュニケーションツールであった。どんな言葉で『検索』を行ったのかがすべて統合組織委員会に収集され、その検索語に依存して意識が決定されるのである。
そうとは知らないロボット達は、『検索』によって卑猥な画像を見、『検索』によって殺人犯の情報を集め、『検索』によって社会の秘密を暴こうとする。
検索語という遺伝子が、ロボット社会を席捲しつつあった。



232.「誘拐犯の不運」
中里徹の自宅に誘拐の電話が掛かって来た時、彼はまだ研究室にいた。使用人から緊急の連絡が入り、一人娘である可南子が誘拐されたことを知ったのだ。
中里徹は、世界的に有名な毒物学者だった。毒物に関する世界的権威である。トリカブトから、人体を一時的に仮死状態に出来る成分を検出したことで、2年前ノーベル賞も受賞している。生化学的に非常に重要な発見で、仮死状態における人体の性質を研究するのに大いに役立った。また余談ではあるが、中里が検出した成分こそが、南米でよく出没したといわれるゾンビの正体だろうということだ。一時的に仮死状態に陥らせる成分を飲ませ、蘇ったように思わせていたということだ。
製薬会社と終身契約をしている中里は、莫大な金を持っていた。専門的な学術誌で特集が組まれたり、ビジネス誌の表紙を飾ったりすることもある。科学者としては珍しく露出の多い男だった。恐らくそのために狙われたのだろう。
中里は、研究とは別に趣味で毒物を作り出すことに喜々としていた。飲んで一週間後に効くとか、血液と反応して毒物に変化するものなど、いつどうやって使うのかも分からないようなものを作っている。彼を良く知る人間は、彼のことを変人と呼ぶが、本人はそれを気にしている風もない。
娘が誘拐されたと聞いた中里は、特に慌てることもなく自宅に戻った。まあ大丈夫だろう、可南子なら。そうは思ったが、一応準備しておかなくてはいけないことがある。
要求は、現金で1億円。まあそれぐらいならくれてやる。どうせ使えないだろうけど。使用人が既に警察に連絡をしてしまったようで、自宅では逆探知機の設置などが急ピッチで行われていた。
中里は、自宅にある研究室にこもり、誘拐犯に渡す紙幣にある細工をした。まあこれも保険だけど。準備は整った。後はまあ、警察がやってくれるだろう。
二日後。可南子は戻ってきた。まあ予想通りだ。可南子から知らせを受けた警察は、誘拐犯のアジトに乗り込んだようだ。恐らくそこで死体を見つけていることだろう。
「何故誘拐犯は死んだのかね」
同じ日、刑事の一人にそう聞かれた。
「簡単なことです。誘拐犯に渡す紙幣に、唾液に反応して毒物に変化する液体を塗布したんです。お金を数える時に、指をなめてしまったんでしょうね」
「でも、犯人がお金を数える時指を舐めなかったらどうしてたんだね」
「いや、まあだから賭けだったんですよ。絶対うまく行くなんて思ってたわけじゃありません」
(まあ、ホントのことが言えるわけがないけどな)
中里は心の中でそう呟く。
(まさか遺伝子操作によって、可南子の唾液が毒物そのものだなんてことは、言えないわなぁ)



233.「知らない内に」
ここ最近の医療技術の進歩は目覚しい。それ自体はいいことだ。ブラボー。
でも、それに反比例するようにして、僕の仕事はどんどん楽しくなくなっていく。
やりがいがないとか?実感に欠けるとか?いや、そういう話じゃないんだな。とにかく、つまらないんだよ。
だってさ、身体にほんのちょっと穴開けてさ、そこからワイヤーをちょちょいって伸ばしてさ、ささっと手術なんか終わっちまうんだぜ。どうしょもねぇよ。何が楽しくて、そんなつまらん手術をせにゃならんのだ、っつーの。
とはいえ、仕事だから仕方ない。契約だから仕方ない。僕はそんな退屈な手術だって、もちろん手を抜くことなくちゃんとこなしている。
だから、久々に自分の<獲物>を前にして、僕は今興奮してるんだ。
「手術を開始します」
周りもみんな分かってるだろうな。ほら、看護婦長だって麻酔医だって、どうせやるんでしょ、みたいな顔してるし。ええ、やりますとも。やりますともさ。これだけが楽しくって仕事をしてるもんでね。もちろん文句を言うやつはいない。そういう契約だからだ。
交通事故に遭ったらしい。とにかく外見いろんなところがぐちゃぐちゃだった。顔も腹も手も足も。とりあえず開腹して、臓器をあっちこっち処置してやらなきゃいけない。
この腹を開くってのがさ、いいよね。楽しいよね。
僕は誰にも真似できないほどのスピードで次々と処置を終わらせていく。これだけの精度とスピードを兼ね備えた外科医なんて、日本に数えるほどしかいないだろう。だから、僕のわがままだって少しは通る。特権ってやつさ。
緊急の処置があらかた終わり、とりあえず一息ついた頃。僕はポケットから、滅菌フィルムに包まれた<それ>を取り出した。
患者の肋骨を探り当て、そこに<それ>を貼り付ける。
シール式の刺青だ。貼って剥がすと、刺青に見える模様が皮膚に残るっていうあれ。それを僕は、患者の骨に貼る。これが僕の趣味。別に貼ったところでどうなるものでもない。二度と見ることは出来ないだろうし、そもそも骨だって日々作り変わっているんだから、しばらく経ったら痕跡すら消えてしまうだろう。
でも、誰にもつけることの出来ない場所に刺青を残すことが出来る。それが快感なんだ。止められないね、こりゃ。
僕はウキウキした気分を抱えながら、残りの処置を続ける。これで君も、僕の印を抱えながら生きていくことになるんだよね。そう心の中で語りかけながら。って、あは、僕って気持ち悪い?



234.「深海」
僕の身体は、大きな音を立てて海面にぶつかり、そのままゆっくりと沈んでいった。
海面にぶつかった時、もう僕は死んでいた。何故か?それは重要な問題ではない。僕は死体として、深い海の底を目指してたゆたっていた。
何だか心地よかった。僕には、自分が既に死んでいるという意識はない。何だか気持ちがいい。息が出来ていないはずなのに苦しくもない。身体が軽くなったようで、まるで羽でも生えているかのようだ。だが、やはり身体は動かない。それは、ちょっとどこかがおかしくなってしまっているからだろう、と僕は思っていた。死んでる、なんて思う暇はなかった。
僕は随分長く水の中にいるような気がする。もう周囲は真っ暗で、真っ暗な中にいるということしかわからない。時折発光生物が目に入る。あれはイカだろうか?僕の方に向かってくる。かなり大きい。深海に住むというダイオウイカだろうか?
その生き物は、僕の身体目掛けて泳いできた。僕はぶつかる、と思った。僕の喉を目掛けて泳いでいるみたいだった。
でも、何故かぶつかることはなかった。まるで僕の身体を通り抜けたかのように、あるいは僕の身体がなくなってしまったかのように。
しばらくして、明るい部分に辿り着いた。何によって光が与えられているのかはイマイチ分からない。が、そこにあるものは明白だった。
人間の目だ。
人間の目だけが集まってとてつもなく大きな集団を形成している。ざっと数えただけでも10万個は超えているだろう。目玉一つを米粒として、全体がおにぎりのように見えた。そう思うと、黒目がゴマに見えてくる。
<ようこそ>
突然声が降って来た。それは頭の中に直接響いてくるような奇妙な声だった。
そしてその声を聞いて僕は理解したのだ。僕も目だけの存在になっているのだ、と。
<きみも、僕たちと一緒になろう。ここでは、それが正しいことなんだ>
僕もそんな気がしてきた。僕は目だけになりながら、その集団にフラフラと近づいて行き、生まれた時からやり方を習得していたかのように、彼らと一体化した。



235.「カヌー」
カヌーだけが唯一の趣味だ、と言ったら、贅沢なんだかつまらない男なんだかよくわからないよね、と言われた。
妻と出会った頃の話だ。
結婚して10年経った今でも、それは変わっていない。僕の趣味はカヌーだけで、今も週末になればカヌーを漕いでいる。近くにカヌーにぴったりの川がある。というよりも、そういう川を見つけてその近くに住んだ、という方が正しい。今では妻もカヌーをやるようになって、一緒に過ごす時間が長くなっている。
言ってしまえば、ただ川を下るだけのことだ。しかし、ゆったりとした流れの中で、自分の力だけでカヌーを動かす。これはいつまで経っても止められるものではない。
いつものように妻と二人で準備をし、カヌーに乗り込んだ。よく晴れた日で、川もいつものように穏やかだ。周りの見慣れた景色を楽しみながら、妻と二人で静かに語らう。
突然、カヌーが沈み始めた。いや、実はそうではなかった。突然、川が真っ二つに分かれたのだ。川の真ん中に道が出来ていくかのようだ。僕らはその道に向かってどんどんと沈み込んで行った。
そうやって僕らは、竜宮城に辿り着いたのだった。



236.「日本の医療」
連日ニュースを賑わせている話題がある。
医療事故だ。
ここひと月ほど、全国の医療機関で多数の医療事故が報告され続けている。ここひと月で報告された医療事故数は、ここ5年間で報告された医療事故数に匹敵する。突然医療事故が増えた、というわけではない。これまで隠されてきたものが表舞台に出てくるようになった、というだけのことだ。
それと時を同じくするようにして、インターネット上で大きく話題になっているホームページがあった。それは、死体の解剖写真が載っているものだった。
それだけでも充分問題だった。何せ死体の写真が載っているんだから。しかし、特に一部の人を驚かせたのはその部分ではない。そのサイトには、死亡診断書に記載されている死因と、実際解剖によって判明した死因が併記されているのだ。
つまりこういうことだ。現在日本の解剖率は2%台。ほとんどの死体は解剖されることなく、死体表面の所見によって死因が確定される。しかもそのほとんどが「心不全」「呼吸不全」だ。これは、「死因不明」と同義である。
サイトの運営者は、どういうやり方をしているのかは知らないが、解剖されることなく死因が確定した死体を入手し、それを独自に解剖しているようだ。恐らく葬儀業者と結託しているのだろうが、定かではない。
このサイトの存在は、厚生労働省としては大きな問題を孕んでいた。頻発する医療事故のニュースと相まって、日本の医療が崩壊しているということを世間に強く印象付けることになるからだ。警察もサイトの運営者を摘発すべく捜査を続けているが、未だ成果は上がっていない。
それは当然だ。黒幕は、もう死んでいるのだから。
今から20年前、一人の医師は日本の医療に絶望し、日本の医療を改革しようと誓った。まずはデータを集めた。葬儀業者を巻き込んで、火葬される前の死体を解剖し続け、写真と死因のデータを蓄積した。また同時に、全国の病院を回り協力者を集めた。彼らは20年後、時を見計らって同時期に医療事故を告発するという使命を帯びた。
医師は、蓄積した解剖データを基に運営されるホームページを作成した。足が付かないようにドイツにアパートを借り、そこに設置したパソコンから世界中のプロバイダを複雑に経由させた。また一日毎に解剖データがアップされるようにプログラムを組み、人の手を介すことなくサイト維持が出来るようにしておいた。
Xデーを決め、もうすぐその日が近いという時、その医師は事故に遭い死んでしまった。しかしその遺志は受け継がれ、医療制度を改革しようという人々によって計画は進められた。
半年後、厚生労働省が解体し、新たな医療系省庁を立ち上げることが新聞の一面に踊った。



237.「鏡の向こうの世界」
「なぁ、『鏡の国のアリス』って知ってるか?」
「いや」
「知らねぇのかよ。有名だぞ」
「何それ。映画とか?」
「バカ。本だよ。イギリスの有名な作家の」
「イギリスの本なんか知るかよ」
「まあいいや。でな、そんなかで、鏡の向こうの世界ってのが出てくるわけなんだな」
「なるほど」
「鏡の向こうの世界ってのは、こっちの世界とは何もかもあべこべなんだよ。例えば、こっちで晴れてれば、鏡の世界では雨、こっちで車が左側通行なら、鏡の世界では右側通行ってわけだ」
「ふぅん」
「でだ、もしそんな世界があったら、お前どうする?」
「どうするって、何がよ」
「いやだってさ、面白そうじゃんか。何もかもあべこべなんだぜ。例えばテストで酷い点数取ったとするだろ。でもさ、そんな時に鏡の世界に行ってみ。たぶんすごいいい点数取ってるぜ、俺。なんか、そういうの、いいじゃんか」
「ただの現実逃避だろ、それ。何がいいんだよ」
「まったく夢がないやつだな」
「それにさ、鏡の世界って、一度行ったら二度と戻ってこれないような気がするんだけど」
「何でだよ。また鏡を通ってこっちに戻ってくればいいじゃないか」
「考えてもみろよ。こっちは『鏡の世界に行ける鏡のある世界』なわけだろ。じゃあ鏡の世界では『鏡の世界に行ける鏡のない世界』ってことにならないか?」
「…うーん、そう言われると困るなぁ。確かにそうかもしれないけど、でももしそうなったらおかしくならないか?例えばこっちでは『鉛筆がある世界』なんだから、鏡の世界では『鉛筆のない世界』になっちゃうだろ」
「知らねぇよ。鏡の世界の話はお前が始めたんだろ。俺に文句言うなよ」
「まあそうだけどさ」
「なるほど、そう考えると、やっぱ俺は鏡の世界には絶対に行きたくないな」
「何でだよ」
「だって考えてもみろよ。こっちでは『自分が生きている世界』だけど、鏡の向こうでは『自分が死んでいる世界』ってことになるよな」
「…なんだかうまくいかねぇもんだなぁ」



238.「殺すということ」
僕はね、人を殺したくないわけなんだよ。
あ、何その顔。ってか笑っちゃってるし。まあそういう反応は慣れてるから別にいいんだけどさ。やっぱおかしいかな、これって。
僕ね、意外と真剣なんだよ、これ。真剣に言ってるわけ。
ねぇ、ヨシコちゃんだって本読むわけでしょ?読むよね。前に、厚保山武史が好きだって言ってたもんね。どんな話だった?サムライが出てきて、姫様が出てきて、カレーを食べて、横浜で暮らすと。まあよくわかんないけど、そういう話があるわけだよね。
でもさ、じゃあヨシコちゃんだって殺しちゃってるじゃん。
その、はぁ、っていう顔止めてくれない?わかんないかなぁ?
つまりさ、ヨシコちゃんは、一冊本を読み終える度、その本に出てくる登場人物を殺しちゃってるわけ。だってそうでしょ?その登場人物たちはさ、僕らが本を読み終えた瞬間に人生が終わってしまうんだよ。確かにね、作家によってはさ、続編を書いたりすることもあるかもしれないよ。それでもさ、永遠に終わらないシリーズなんてさ、未完のまま作家が死なない限りありえないよね?ってことはさ、いつか物語は終わっちゃうわけ。物語の終わりはさ、登場人物の死でさ、それはさ、僕らが引き起こしてるってわけよ。ほらね、立派に殺してるでしょ?
僕?僕はね、このことに中学生の頃に気づいたんだよ。本を読み終えてしまったら、殺しちゃうんだって。本に限らないよ。マンガだって映画だって、物語のあるものなら何だって同じ。
だから僕はね、物語を最後まで読まないようにしてるんだ。小説だったら、最後の数ページ残して止める。中学生の頃このことに気づいて以来、僕は本を最後まで読みきってしまったことってないんだ。
僕はホントにこんな風に思うんだよ。世の中に物語が存在できるのは僕のお陰なんじゃないかって。僕が物語を最後まで読まないでいるからこそ、その物語は存在出来るんじゃないかってね?誇大妄想すぎ?どうかな。僕が死んだら、世の中から本がなくなるなんてことだってさ、もしかしたらありえるかもしれないじゃん。



239.「無限」
「明日からキツいぞ。マジでげんなりするわ」
「何でですか?」
「そうか。お前は知らなかったんだっけ、無限マンションのこと」
「無限マンション?」
「そうだ。うちの営業部は、無限年に一度、無限マンションに営業に行くことになってるんだ。それが明日から始まる無限年続くんだよ。キツイぞ、これは。何しろ無限年掛けて無限マンションを回るんだからな」
「無限マンションって何ですか?」
「要するにだな、部屋数が無限にあるんだ。無限だぞ、無限。いつ終わるんだよ。まったく社長もアホなことを始めてくれたもんだよ」
「田中さんはこれまで無限マンションで営業をしたことってあるんですか?」
「あるわけないだろ。無限マンションの営業を始めたら、無限年営業を続けなくちゃいけないんだ。お前、どうしてうちの会社に社長の姿がないか、考えたことあるか?」
「そうなんですよね。僕も入社以来一度も社長の姿を見かけてないんです」
「そうだろ?何せ無限マンションでの営業を初めてやったのは社長だからな。未だに社長は無限ホテルでの営業を続けてるはずさ」
「なるほど。でもだったら、僕らが営業する必要なんてないじゃないですか?だって、社長がすべての部屋を一つずつ順番に回っていけば、すべての部屋を営業できることになるんでしょ?どうせ無限年の時間が掛かるわけだし」
「それがそうでもないんだな。無限マンションにはさ、部屋番号が1号2号3号って全部通し番号になってるわけだ。社長も、とにかく無限の部屋を営業に回るっていうのに不安だったんだろうな。だから社長はルールを決めたんだ」
「ルール?」
「あぁ。社長は自分で、部屋番号が1と素数であるすべての部屋を営業することに決めたんだ。これだけでももちろん無限の部屋数があるわけだけど、でも全部の部屋を回るよりはましだろ?で社長は残りの部屋をどうやって回るか、指示を残したんだ。次に営業に回る者は、残った部屋の内、部屋番号から2を引いた数が素数になる部屋を回る。その次は部屋番号から3を引いた数が素数になる部屋…、と続いていくんだ。これから俺らが営業に行く部屋はさ、部屋番号から43を引いた数が素数になる部屋だよ」
「…カントールって知ってますか?」
「誰だそれ。歌手の名前か?」
「違います。昔の有名な数学者です。無限について先駆的な研究をした人なんですけど、そのカントールは、整数の集合と素数の集合は同じだと証明しました」
「は?どういうことだ?」
「つまりですね、整数の数と素数の数は同じだっていうことなんです」
「そんなわけないだろ!整数より素数の方が少ないに決まってるじゃないか」
「僕に言われても困りますけど、そういうもんなんです。だから初めっから社長が順番通りに一つずつ営業をしてくれれば、僕らが後からこうやって営業に行く必要なんてなかったはずなんだけどなぁ…」



240.「ホテル・ニューナカジマ」
僕は「ホテル・ニューナカジマ」に泊まることを決意した。不退転の決意だった。もはや後戻りは出来ない。それぐらいの覚悟がなければ、「ホテル・ニューナカジマ」には泊まることは出来ない。
何人もの友人に相談した。彼らは皆、「止めておけ」と言った。「ホテル・ニューナカジマ」に関する噂は、大げさにならない程度に噂になっていた。もし世間の注目を強く引き付けるようになっていたら、そしてその噂がもし真実であれば、「ホテル・ニューナカジマ」は普通に存在することが出来なくなるだろう。
「ホテル・ニューナカジマ」は、正確な場所が分からないことでも有名だった。「ホテル・ニューナカジマ」へ続くドアは、都内のいくつかの場所にひっそりと存在しているらしい。しかし、その場所を知っている者は多くはない。僕は、ありとあらゆる伝手を使って、そのドアの一つを探り当てた。ホテルの建物自体も、恐らく地下にあるのだろう。そのことだけでも、世間に流布している噂を補強するのに充分だった。
僕は作家を目指していた。子どもの頃から、どうしても作家になりたかった。大学を出て、一時は平凡な営業マンとして働き始めたものの、作家への思いを断ち切れず退職。3年ほど作品を書き続けたが引っかからず、そこで「ホテル・ニューナカジマ」に籠ることを決意したのだ。
「ホテル・ニューナカジマ」出身の有名人は多い。彼らの存在が、「ホテル・ニューナカジマ」というホテルの存在を世間に強くアピールすることになった。年間興行収入1位を獲得した映画監督、世界的に有名になった陶芸家、タイトル七連続防衛のボクサー、そしてブッカー賞の候補になったこともある作家もいた。
彼らの成功に憧れて、「ホテル・ニューナカジマ」を目指そうとする者は多い。「ホテル・ニューナカジマ」についての噂が出てくるまではそうだった。今では、その数は大分落ち着いていることだろう。作家になるために「ホテル・ニューナカジマ」にカンヅメになろうと思っている僕のような人間が狂人だと思われる程度に、その噂は大きな影響を与えていた。
「ホテル・ニューナカジマ」は、宿泊費はタダ、ありとあらゆるサービスもすべて無料、という夢のようなホテルである。部屋はどれもスイートであり、一流の料理と一流のもてなしをすべて無料で提供するホテルだった。
しかし、もちろんいいことばかりではない。あくまで噂であるが、宿泊者は自らの身体を担保にさせられるようだ。つまり、何らかの形で成功することを求められ、それができなければ殺される、というのである。
「ホテル・ニューナカジマ」には、人を成功に導く何かがある。「ホテル・ニューナカジマ」出身者はそれが何であるのか明言はしないが、その存在は確かなようだ。しかしそれは、成功を確実に約束するものではないらしい。あくまでも成功するかどうかは、宿泊者個人の努力と運に掛かっている。
僕は、その噂を知ってなお、「ホテル・ニューナカジマ」に向かうことに決めた。どうせ作家になれないなら死んでやるさ。僕は、「ホテル・ニューナカジマ」に続くと言われるドアを静かに開けた。



241.「独立」
地球温暖化が原因だ、と言われることもある。突発的な地殻変動だ、という説明にもなっていないような説明もあった。宇宙人の仕業だという人もいれば、実は元からそうだったんだ、という安っぽいミステリのような説明をつける人もいた。
しかしとにもかくにも、それは起こってしまったわけだ。
静岡県と愛知県の県境をほぼまっすぐ北西に伸ばしたラインで、日本が真っ二つに分断されてしまったのだ。
日本という国は、地震大国である。プレートがいくつも折り重なった上にあるためだが、恐らくそのそれぞれのプレートが別々の方向に引っ張られたのだろう、と言われている。衛星からの観測により、マントル対流が異常なスピードで循環を始めているということが分かっている。これまでマントル対流は、地殻を年数センチ移動させる程度であったが、今ではそのスピードは年数メートルというスピードに変わっている。そして何故かその影響を受けているのは、日本列島だけなのである。
日本列島が真っ二つに分断された当初は、まだ感覚は数十センチだった。人々は即席の橋を掛けるなどして対処できた。しかしその感覚はどんどんと広がってしまい、今では青森県が北海道と接触し山が形成されつつあり、山口県と福岡県も同様のことが起こっている。
その流れの中で、大阪府が下日本の首都を宣言した。日本が二つに分断されて以降ももちろん首都機能はすべて東京にあったが、上日本と下日本に分かれて以降、うまく機能しなくなっていた。大阪府が首都宣言したことにより、日本という国家が明確に二つの国として分裂することになってしまった。
それから数百年が経つ。今では上日本と下日本は別々の国家として存在している。使われている言葉もまったく違う、近くて遠い国である。



242.「ドライブ」
テレビに、自由の女神が映っていた。ちゃんと聞いてなかったから何のニュースなのかは分からなかったけど。自由の女神。いいなぁ。一回ぐらい、ちゃんと見てみたいよね。
「今日はどうする?」
カクの声だ。今日は土曜日。私達のデートは、大体いつもドライブだ。カクは車が好きだし、私はドライブが好きだからちょうどよかった。
私は昨日深夜過ぎまで残業していたために疲れていたし眠かった。きっと頭の回線がどこかおかしかったのかもしれない。気づくと、ふと言っていた。
「アメリカに行きたいな」
「アメリカ?」
「うん、自由の女神」
「女神ねぇ」
「ウソウソ。間を取ってアメ横とかにしよっか」
結局どこに行くか特に決めないままで車に乗り込んだ。
いつものように車でなんてことのない話をした。景色を見て写真を撮ったり、時々車を停めて散歩したり。でもやっぱり疲れていたんだろう。私はいつの間にか寝ちゃったみたいだ。
目が覚めると、目の前に空があった。辺りは夕陽に染まってオレンジ色だった。私は相変わらず車の助手席に座っていた。
空の下に海が見えた時、私は自分の見ているものが信じられなくてカクの方を見た。カクは真剣そうな顔で慎重にハンドルを握っていた。
海の上を走っているのだった。
「起きた?」
「…どうして?」
「アメリカに行きたいって言ったろ?」
「そうだけど。でも何で車が海の上を走ってるわけ?」
「あぁ、これね。ある一定の速度をほとんど誤差なく維持し続けると、車って海の上でも走れるんだよね。でもその誤差ってのがさ、プラスマイナス0.05キロとかでさ。ものすごいテクニックを必要とするんだよね。だからみんなそんなことしないんだけど」
私は後ろを振り返ってみた。既に陸地の姿はまったく見えない。360度すべて海に囲まれていた。
「今まで海の上を走ったことってあるの?」
「いや、ないんだけどさ、やってみたら案外出来るもんだなって」
「でも、アメリカまでガソリンってもつの?」
「それは大丈夫。ちゃんとたくさん買っておいたから」
そういえばさっき後部座席にポリタンクがたくさんあった。どこまでも用意周到なのだ。
私はちょっと怖くなった。いつ沈むかもしれない不安定な車に乗っていることもそうだけど、私の冗談を本気に受け取ってしまったらしいカクにも。



243.「脱出」
「諸君はこれから、『カミカゼ特空隊』として、人類の存続を掛けた任務をこなしてもらうことになる」
目の前に立つ軍服姿の男は、厳かな声でそう始めた。周囲には様々な人種の人間が、同じ制服を着て並んでいる。皆、『カミカゼ特空隊』に志願した人間だ。
「地球は既に滅亡の危機に瀕している。最新の予測では、あと5年以内に人類は地球上に住めなくなるだろう、と言われている。かつて火星コロニーの建造が急ピッチで進められたことがある。しかしそれも、最終的には実現にはいたらず、打ち捨てられてしまった」
男の言う通り、地球はもはや壊滅的な状況に陥っている。温暖化の影響で、赤道から上下200キロ圏内には人は住めなくなり、また気候の変動が激しすぎるため、東南アジアの一部と日本からは既にほとんどの人間が脱出している。現在では主に、北アメリカ大陸とヨーロッパ大陸に人口のほとんどが集中している。食料不足や水不足など、他にも様々な問題に見舞われているのだ。
そんな状況の中で、2年前から『カミカゼ特空隊』の応募が開始されるようになった。恒星間移動は実現していないものの、宇宙空間への飛行は比較的容易になり、低予算での実現が可能になった。自分に出来ることがあるなら、と志願したのだ。
「諸君等はこれから、『宇宙の種』を持って宇宙空間へと飛び出してもらう。恐らく『宇宙の種』については知っていることだろう。諸君等が新たな宇宙を生み出してくれることを、我々は大いに期待している」
『宇宙の種』とはその名の通り、新たな宇宙を生み出すためのものだ。その種を持ち、僕らは宇宙空間へと向かう。生命の続く限り出来るだけ地球から遠ざかり、そこでその種を爆発させる(地球の近くでは、その爆発に地球が巻き込まれてしまう可能性があるのだ)。新たな宇宙を生み出すことが出来れば、地球の人類をその宇宙へと移すことが出来るかもしれない、と期待されている。
その爆発によって、搭乗員は死ぬ。かつて日本で行われていた『カミカゼ特攻隊』になぞらえた名前なのも、そのせいだ。
僕らは黙々と宇宙船に乗りこみ、静かに出発する。自分の持っている『宇宙の種』が綺麗に咲いてくれることを願いながら。

「『宇宙の種』開くといいですね」
この出発式に出席していたイタリアの首相だ。私は彼の方を向き、普段なら決して言わない事実を口にしてしまった。
「まあ気休めですよ」
「気休めなんですか?人類を救う最後の手立てだと聞いていましたが」
「そんなことはありえんよ。不確定性原理により、ほんの僅かな可能性があるというくらいで、『宇宙の種』が開くことはあるまいよ」
「じゃあ何故『カミカゼ』を?」
「地球の人口を減らしたいということもあるし、万が一の可能性に賭けているということもある。でもまあ一番の理由は、人々に対して、何かやっているんだというポーズを見せないわけにはいかない、ということかな」



244.「実験」
学会の会場というのは、どこも似たような雰囲気だ。毎回同じメンバーで集う、ほとんど会議と言った方が正しいようなものでも、学会と名前をつければそう見えるものだからなかなかのものだ。
今日は15年来の研究の成果が発表される場だ。人間の脳や成長の仕組みに何か近づけるヒントが提示されるかもしれない。この15年というもの、まったく成果を発表しなかったロードンにはまったく飽きれるが、しかし奴の秘密主義は今に始まったことではない。
メンバーが着々と席につく。ロードンの姿はまだない。いつも余裕を持ってやってくるやつにしては珍しいと思った。
と思っていると、見慣れない女性が会場に入ってきた。20過ぎに見える、まだ女の子と言ってもいいような女性だ。これまで男ばかりだった学会では異質な存在。周りのメンバーも、これは誰だと目で言い合っている。しかし、結局誰もそれについて口を開くことなく、学会は始まった。
進行役であるトマソンは、諸事情によりロードンが来られなくなったこと、そして代わりに先ほどの女性が結果を報告することが告げられた。とすると彼女は、ロードンの研究を手伝ったりしていたのだろうか。
「初めまして、クラリド・ローレントンです」
彼女はそう名乗って、そして間髪入れずに本題に入った。
「私は今日、ロードンの代理として、『リンゴの樹』計画の結果を報告いたします」
15年前に始まった『リンゴの樹』計画。それはあまりに非人道的であり、倫理的に許されないものだった。
生まれたばかりの赤ん坊を、パソコンが一台あるきりの部屋に隔離する。
簡単に言ってしまえばそれだけの実験だ。人間の脳がいかにして成長するのか、パソコンだけで言語の習得は可能なのか、環境によってどのような変化がもたらされるのか。これまで謎だった多くの疑問に、その結果が答えを出してくれるに違いない、と期待されている。
彼女は実験の設定や境界条件、年月による環境劣化やその対処などについて述べてから、被験者の成長段階を四つに分け、流暢に説明を始めていた。
彼女の説明は驚くほど微に入り細に入りという感じで、まるで見てきたかのように語るのだった。もちろん、ロードンの助手のような立場であったなら、被験者の様子を見ることもあったろう。しかし、彼女の年齢が20代前半とすれば、実験開始の段階ではまだ10歳にも届かない。まさかそんな頃から手伝っていたわけもなく、その淀みのない説明にただただ舌を巻かれる思いだった。
そういえばロードンは、被験者をどうやって確保したのだったろうか。15年前の会議では、金で幼子を買う、ということになっていたと思ったが。
そんな回想をしている内にどんどん話は進んでいたようだ。まあ聞き逃した部分は、後でレポートでも読めばいい。話は、被験者が第四段階、年齢にして15歳、つまりつい最近の話に移っていた。
「…被験者は、非言語コミュニケーション、すなわち身振り手振りなども習得しました。これはほとんど、映画やアニメによる効果だろうと推察されます。
しばらくして被験者は、自分が閉じ込められている空間そのものに疑問を抱くようになったようです。自分のいる環境と、映画やアニメの登場人物がいる環境との差異に、ようやく目を向けるようになりました」
相変わらず、彼女の説明は淀みない。そういえばロードンの諸事情というのはなんだろう。どうも今日はあちこち思考が飛んでよくない。
「自分が理不尽な環境にいると確信を持った被験者は、徐々に計画を練り始めます」
計画?何の話だそれは。
「まずはここから脱出しなくてはいけない。そこで被験者は食事の際使っていたフォークでロードンとメラミを刺し殺しました」
メラミはロードンの妻だ。ロードンとメラミを刺し殺した?一体何を言っているのだ。理解が追いつかない。
「その後被験者は、自らが実験台であったことを知り、その研究成果を貪るようにして読みました。過去の彼らの会話から判断し、彼らはより大きな組織に属し、その指示でこの実験を行った、と判断しました」
その組織とは恐らくここにいるメンバーのことだろう。周囲がざわめく。もしや。
「そこで被験者は、自らを15年間を閉じ込めた組織に復讐をすべく、学会に乗り込んだのでした」
見ると彼女の手には、拳銃が握られていた。



245.「犯罪と数学」
「なぁ、ヨシキ。また手伝ってくれよ」
トミオは、机に向かってなにやら難しい問題を解いているらしい弟に向かって言う。確か今は、リーマン仮説に挑んでいるとか言ってたっけ。リーマン仮説が何なのか知らないけどさ。
トミオは警視庁捜査一課の刑事だ。犯罪捜査の過程で、よく弟のヨシキに助言を求める。ヨシキはアマチュアの数学者だ。彼は、自分はフェルマーの生まれ変わりだ、とよく言っていて、アマチュア数学家だったフェルマーに敬意を表し、大学や研究機関、あるいは数学を使う企業などに所属することなく、公認会計士として働きながら趣味で数学をやっているという変わり者だ。
3年前のある事件で、捜査に行き詰まっていたトミオに助言してくれたのがヨシキだった。ヨシキは会計と数学以外の知識に関してはからしきだが、しかし数学が犯罪捜査において強力なツールであることを証明してみせた。しかしまさかトミオも、数学的帰納法によって犯人を挙げることが出来るとは思っていなかった。数学的帰納法と言えば、高校の数学の授業で習うものだ。ヨシキはそれをある強盗事件に適応したのだ。
その後も、フーリエ変換や楕円関数などを巧みに使い、ヨシキは犯罪捜査に関わり続けた。今では、非公認ながら捜査一課内でもアドバイザーのような立場になっている。
しかしヨシキの数学の力も完全ではない。これまでにも、ヨシキが解決できなかった事件は数多くある。常に数学が有効だというわけでもないのだ。それでもトミオは、ヨシキに助言を仰がずにはいられないのだが。
トミオは今、ある誘拐事件に関わっている。ヨシキが何か使えそうな数学理論を思いついてくれればいいのだけど。

僕は、流体力学とベイズ推定を使って、警察の刑事捜査を分析している。警察という組織が、いかにして犯罪を捜査していくのかということを、数学的に解析しているのだ。これまでにも、充分成果は上がっている。警察が想定する仮説への信頼度の重み判定、証拠に対する重要度のランク付け、事件規模に応じた初動捜査人数の推定、状況に応じた警察官のミスの発生確率などなど。これらの数字を日々着実に積み上げている。
僕の目標は、数学を使って完全犯罪を行うことだ。例えば、殺人事件を犯して捕まらない確率を80%以上にするにはどうすればいいか、というようなことを日々考えている。
実際、これらの情報を元に、いくつか細かな事件を起こしている。通行人にナイフで切りつけたり、スーパーからちょっと金を盗むと言ったようなことだが、やはり数学の威力は素晴らしい。これまで起こしたどの事件でも、警察は犯人、つまり僕に行き着くことは出来なかった。兄のトミオはそうした事件について助言を求めてきたが、もちろん手助けすることはなかった。
数学で完全犯罪を目指す。これほどスリリングなことはないだろう。



246.「子産め女」
「主文、被告を子産め女の刑に処す」
裁判官の宣告が下った瞬間、被告席に座っていた女性はワッと声を上げ、泣きに泣いた。今の日本において、<子産め女の刑>は死刑をも凌ぐ最悪の刑だ。被告が男である場合、親族の誰かが子産め女にさせられることになる。いずれにせよ、恐ろしい刑であることに変わりはない。
ことの発端は30年前に起こったとある騒動だった。それは、日本という国、いや世界をも仰天させ、未だに驚嘆させ続けている、歴史上初めての出来事だったのである。
予兆はあった。しかし、それに気づけというのは酷だっただろう。全国の動物園や水族館で、少しずつ飼育員が不足し始めた。大学の研究室にいた数多くの実験動物が謎の自殺を遂げるようになった。全国の酪農家から家畜が逃げ出す事件が相次いだ。しかし、もちろん誰も、これらの出来事を繋ぎ合わせることは出来なかった。あの出来事が起こってから、後から考えてみると、なるほどこんな前兆があったのか、と分かったというようなものである。日本政府、あるいは他のどんな機関であっても、その出来事を予測することは出来なかっただろう。
その日、<独立国家生命の国初代大統領代理>という人物から、日本政府に当てて独立宣言が送られてきた。それによれば、日本に住むありとあらゆる動物、特にこれまで家畜とされていた種は、以後この生命の国で独立に暮らす、とあった。つまり、有史以来初めて、動物による国家独立が宣言されたのだった。
もちろんその陰には、元飼育員や動物の専門家らによるグループがいた。主に行動を起こしたのはこのグループである。未だに、彼らの目的が何であったのか議論されることがある。本当に動物の独立を心の底から目指したのか、あるいは自身の独立を望んだだけであったのか…。
しかしいずれにせよ、長いときを経て、その独立は成就した。いや、せざる終えなかったと言える。何せ、独立が保障されるまでの間、ありとあらゆる生き物により日本は様々な攻撃にさらされることになったからだ。イノシシが集団で突進してくる、サルがスーパーを荒らす、鳥が狙いすましたかのように人間の頭に糞をする…。さすがに耐え切れなくなり、日本は独立を認めることになった。
しかし困ったのは日本だ。様々に問題を抱えてはいたが、しかし最大の問題は食糧不足だった。何せ、一切の家畜が日本からいなくなってしまったのだから。
そこで苦肉の策として、日本国は生命の国と取引をした。曰く、餌として生きた人間をそっちに引き渡す。だから、そっちの動物もこちらに分けてはもらえないだろうか。
以後日本には、子産め女という身分が出来た。これはすなわち、生命の国に送る人間を生み育てる女性のことだ。政府は、様々な理由をつけてこの子産め女を増やしていった。赤紙のようなものを送りつけ徴兵まがいのこともした。孤児院はすべて子産め女の養成所となった。あるいは先ほどのように、刑罰として子産め女にさせられることもある。
今ではこの制度は充分に定着した。国際的な非難はもちろん様々に残っているが、しかし国内的な問題は既にほとんどないと言っていい。もちろん、戦時中の慰安婦問題のように、後々問題として取り上げられることはあろう。しかしいずれにせよ、今の日本国が生き残るには、これしか方法がないのだ。
問題はほとんどない。一つ懸念があるとすれば、子産め女が独立を画策しているということぐらいだろうか…。



246.「予防治療」
おかしな時代がやってきたものだ。
私は病院へ向かいながら、いつものように考え事に耽っていた。今の日本の現状の奇妙さに、どれだけの人が気がついているのだろう。少なくとも、30代ぐらいまでの人には理解できないに違いない。そうでなかった時代のことを、まったく知らないのだから。
しかしまったく、すこぶる健康な私が、こうして病院に通わなくてはいけなくなるとはなぁ。
きっかけは何だっただろう。確かどこかの医学部の教授が発表したある研究成果だったかもしれない。
思い出してきた。その教授は、ある画期的な病気の予防策を開発したのだった。それは、従来あったものにさらに改良を加えあらゆる方面へと応用出来るようにしたものだったのだけど、そのあまりの効果に世界中が注目したのだった。
それは、基本的には予防接種と同じ考え方だった。あらかじめ体内に免疫を作り出すために、病気の元になるものを身体に入れる。その教授は、それをありとあらゆる病気、すなわち風邪・癌・盲腸・心臓病・脳卒中など、ありとあらゆる病気に応用出来るようにしたのだ。これで、骨折や切り傷など外傷以外の病気はほぼすべて予防できるようになった。多くの人がこの予防接種を受けに病院に行ったものだった。
しかししばらくすると、その弊害みたいなものが現れ出してきた。予防治療をされた人間が増えるにつれ、予防治療をしていない人間が病気に掛かりやすくなったのだ。統計上、明らかに有意なデータが現れ出した。専門家はこう判断した。つまり、予防治療を受けた人間の体内から、何らかの形で病気の原因となるものが予防治療を受けていない免疫のない人間に移るために起こっているのだと。つまり、予防治療を受けた人間のせいで、予防治療を受けていない人間の病気になる確率が高まったのだ。
それにより、それまで予防治療をしていなかった人間も仕方なく予防治療を受けざるおえなくなった。私もその一人。まったく、何が哀しくて予防治療なんぞ受けなくてはいけないんだろうか。しかし周りには、予防治療を受けていなかったために風邪で死んでしまった奴もいる。もはや風邪でさえ脅威なのだ。背に腹は変えられない。
しかし、と私は何度目かの嘆息をつく。一体医療は、どこに向かおうとしているのだろうか。



247.「大人になりたくない」
大人になんかなりたくないやい。
僕はいつもそう思う。今日先生に怒られた時もそう思った。理由は、僕にはよくわからなかった。わかったのは、僕が何かを改めないと先生が困るのだということだった。大人は結局自分のことしか考えていない。親もそうだし、塾の先生だって変わらない。コンビニの店員みたいな風にもなりたくないし、お父さんみたいにサラリーマンにもなりたくない。かといってじゃあやりたいことがあるかというとそうでもなくて、だからとにかく僕は大人になりたくなくて仕方がなかった。
そんな風に嫌なことばっかりの人生にも、たまにはいいことがある。明日は遠足なのだ。遠足のどこが楽しいのか、小学生の僕にはきちんと言葉に出来ないんだけど、でも何だかウキウキしてくるし、そんな時ふと隣のクラスのみっちゃんの顔が浮かんできて困ったりもする。てるてる坊主をいくつか作って、寝坊しないように今日は早く寝よう。
そんな風に浮き足立っている時だった。どこからやってきたのか、異様な外見の男が窓際に立っていた。いや、男なのかどうか、よく分からない。何しろ、他に例えようもないくらい、奇妙な外見をしていたのだから。
「俺は悪魔だ。何か願い事はないか?」
悪魔?確かに見た目は悪魔っぽいと言えば悪魔っぽいかもしれない。ただ、何で悪魔が願い事を聞きにくるんだろう?
「あるよ。僕、大人になりたくないんだ」
それでも、願い事を叶えてくれるっていうなら誰でもいい。僕は、ずっと前から願っていたことを悪魔に言った。
「なるほど承知。叶えてやろう」
そう言うと悪魔はどこかへ去って行ってしまった。
今のは何だったのだろう。もしかしたら、誰かのイタズラだったのかもしれない。何か変だったし、そういえば悪魔は魂を売り渡すのと引き換えに願いを叶えるという話も聞いたことがある。魂を取られた気はしないから、やっぱりイタズラだったのかもしれない。
まあいいや。そんなに気にすることはないさ。明日は遠足だしね。寝よう寝よう。僕は途中だった支度を手早く終わらせて、さっさと眠りに就いた。
翌朝、いつもなら楽しいことがあるととんでもない早い時間に目が覚めてしまうのだけど、今日は普段と同じぐらいの時間に起きた。自分でも変だなって思ったけど、まあ大したことじゃない。顔を洗ってから、朝ごはんを食べる。
おかしなことに、テーブルの上にお弁当がなかった。今日は遠足だから、お弁当作ってくれるように言っておいたのに。お母さん、忘れてたのかな?
「お母さん、お弁当は?」
「何言ってるの?今日は給食があるのでしょ?」
「ちょっと忘れたの?今日は遠足だよ」
「寝ぼけてるの?遠足は明日でしょ?」
そんなはずがない。昨日あんなに楽しみにしていたのだ。でも、携帯で確認したら、なんと日付は昨日のままだった。確かにお母さんの言う通り、遠足は明日なのだ。
そんなバカな。勘違いしてたんだろうか。いやいや、そんなはずがない。昨日も今日も同じ日付なのだ。もしかしたら、と思ってニュースを見ると、昨日やってたのと同じニュースが流れていた。
まさか。僕はすごく嫌なことを思いついてしまった。あの悪魔か?僕の大人になりたくないっていう願い事を、こんな風に叶えたのか?永遠に同じ日を繰り返す日常の中に閉じ込めることによって。
そうじゃないと思いたい。でもたぶん、それで間違っていないのだろう。僕は、永遠に遠足の前の日という人生を生きなくてはならないのだ。



248.「移住計画」
火星で穴を掘る仕事がある、と言われたのは半年ほど前のこと。それから、あれよあれよという間に、僕は火星に辿り着いていた。
今人類は壮大な計画を実行に移そうとしている。そのために、火星の穴掘りが必要なのだ。
地球はもはや壊滅的な状態に陥っている。人の住める惑星ではなくなっているのだ。しかし、技術の進歩はSF小説のようにはいかなかった。火星への有人飛行は20年前に成功していたものの、火星への移住計画はまったく見通しが立っておらず、そもそも大人数を火星に運ぶだけの手段もなかった。
そこで考えられたのが、「ドッキング計画」である。これはつまり、火星を吹っ飛ばして軌道を変え、地球とドッキングさせよう、という計画だ。火星を地球に接触させれば、移動の手段は問題なくなるし、また地球と同じ軌道を回ることで、人が住める環境を作りやすくもなるだろうと考えられている。
今こうして穴を掘っているのは、ここに特大の発射台を建設するためだ。惑星の軌道を変えてしまうほどの推進力を生み出すために必要なのだ。しかし、こんな星に人が住めるよぅになるんだろうか。僕はいつもそれが不思議で仕方ない。



249.「前世」
「いらっしゃい、どうぞ」
(また来た。ほんと日本人ってのはこういうのが好きなんだなか)
「手相を見ましょうか、それとも前世を見ましょうか」
(まあほんとは前世専門だけどね。手相だってまあ、適当なこと言っきゃなんとかなるしね)
「前世ですか。じゃあちょっと、お借りしたいものがあるんですけど。普段付けている指輪とかネックレスとか、常に肌に触れているものを何かお借りしたいんですけど」
(まあ別にこんなんなくても前世なんか見れるんだけどね。でもどうも、こういう手続きが信憑性を高めるらしいんだよなぁ)
「しばらく待っててくださいね。今前世を見させてもらいますので」
(しっかし、いつまでこんな生活をしたらいいんだろうか。っていうか浮気したぐらいで死刑にするか、普通。職権乱用だろが)
「なるほど、見えてきました。どうやらあなたは江戸を拠点に活躍する飛脚だったようですね」
(自分が審議官だからって、夫を厳しく裁きすぎだっつーの。あのまま天空に留まってたら死刑だっただろうからなぁ。逃げ出して正解だっただろうけど、それにしても地上ってのは生きにくい)
「飛脚をご存知ないですか?あれですよ、昔は車とかなかったわけじゃないですか。それで、郵便とか荷物みたいなものを人が運んでたわけなんですよ。そういう人を、飛脚っていうんですね」
(そもそも再生館所長だった俺を死刑にしたら、業務が滞りまくりだっつーの。まああんな仕事、死んだ人間の前の人生がどんなだったか評価して、ただ次の人生に送り出すぐらいだから誰でも出来るっちゃー出来るけどな。まあ俺もそのお陰で、前世占いなんてのが出来るわけだし)
「マラソンやってるんですか。しかもホノルルで3時間を切ったと。それはすごいですねぇ。やっぱり飛脚時代の経験が残っているんだと思いますよ」
(はやく天空に帰りたいなぁ。どうしたもんだろうか。アイツがもう怒ってなければいいんだけど)

「怒ってるわよ」
突然目の前にいる女の口調が変わった。へ?何を怒ってるって?
「相変わらず、適当なことやってるのね」
いやいや、まさか。まさかそんなバカな。
「さぁ、天空に帰りましょう」
妻はニコリと微笑んだ。笑顔がこんなに怖いものだということを、初めて知った。



250.「2000年間で最大の発明」
僕は、「2000年間で最大の発明は何か」という問いを、自分のサイトで提示した。それに対して、実に多くの回答が寄せられたものだ。一流の科学者から芸術家まで、あるいは労働者から子供まで。いろんな人が様々な答えを出してくれた。
しかし、誰も気づくことはなかっただろう。僕が、まだ誰も知ることのない、過去2000年間で間違いなく最大の発明であるものを所有しているということを。そしてまた、僕が何故そんな問いを発したのかということを。
僕はついにタイムマシンを完成させた。これこそ、人類がこれまで作り上げたものの中で最大の発明だと言えるだろう。
そして僕は考えた。タイムマシンを使って、何をしたやろうか。僕は、世界の王になりたかった。どうすれば、自分が世界の王になれるのか考えた。そのプロセスとして、2000年間で最大の発明を問うということを思いついたのだ。
過去に行き、多くの人々が挙げた「最大の発明」を全部ぶっ壊していくというのはどうだろう。あるいは逆に、その「最大の発明」の発明者としての栄誉をすべて自分が奪ってしまうというのもいい。いずれにせよ、僕が世界の王になる日はそう遠くないだろう。



251.「素数虫」
素数虫というのをご存知だろうか。
いや、知らなくても非常識ということはない。恐らく、数学や生物、あるいは暗号なんかに携わっている人で、最新情報にも詳しい人でなければなかなか知らないだろう。
1年ほど前、とある生物学者が素数虫を発見したと発表した。その生物学者は、元数学者というなかなか変わった経歴であり、だからこそそんな奇妙な発見をしたのだろうと思われる。
彼の発見はしかし、科学界ではほぼ無視された。何故ならば、彼が素数虫だと主張する虫はすべてすでに発見されているものであり、きちんと分類もされている。つまり、未発見の生物ではなかったのだ。
素数虫というが昆虫ではなく、実際はゾウリムシのような単細胞生物に近い。その生物学者は、例えばある種は数字の2に、ある種は数字の3に、という具合に、それぞれの種に応じて対応する素数が異なっている、と主張した。しかし、いくらそんな説明をされても、誰にも理解できなかったのだ。その素数虫とやらの背中に番号が振ってあるわけでもないし、その虫が数字の形をしているわけでもないのである。
そうして彼の発見は長らく無視されることになったのだが、しかしつい最近彼は驚くべき成果を公表したのだ。
なんと、RSA暗号を素数虫によって解読した、というのだ。
RSA暗号は、素因数分解をベースにした暗号システムで、非常に安全性が高い。非常に桁数の多い数字を因数分解することは、スーパーコンピューターを使ってもとんでもない年数が必要で、そのためRSA暗号は安全性が保証されているのである。
しかし彼は、そのRSA暗号をたった1ヶ月で破るアルゴリズムを開発したのだった。原理的にはこうだ。素数虫にはある特徴があり、同じ数字同士の種が交配した場合、生まれてくるのもその数字を持つが、別々の種が交配した場合、生まれるのはその素数同士を掛け合わせた種なのである。通常自然界では、異種同士の交配はされないが、彼はそれを実験室内で実現させた。その異種同士の交配をベースにして、RSA暗号を解読したのだった。
この発表により、素数虫という存在にもにわかに注目が集まるようになった。普通にやっては、RSA暗号は解けるはずがないのだ。となれば、彼はまったく新しい素因数分解の方式を開発したか、あるいは実際に素数虫が存在するかということになる。突然、素数虫の研究が、生物学と数学界において脚光を浴びることになる。
しかし多くの研究者は、すぐに素数虫の研究を諦めざるおえなくなる。何故なら、どうしたところで素数虫はただの単細胞生物にしか見えなかったのである。



252.「完全犯罪」
私は、溶剤の入った容器を手に、最後の瞬間を迎えることをためらっている。これを流し込んでしまえば、あの人は恐らく死ぬだろう。自分がそれを心の底から望んでいるのか、まだ整理がついていないような気もする。
思えばこの日のために浄水場で働くことを決めたと言ってもいいかもしれない。かつては、大手食品メーカーに勤めていた。そこで、立ち直れないほどの屈辱を受けた。あれから3年。ここまで来るのに、本当に長かったと思う。
容器に入っている溶剤は、食品メーカー時代偶然に見つけたある化合物を元に作ったものだ。基本的に無味無臭で、毒性は一切ない。これ単独では基本的に特にこれと言った役には立たない代物だ。
しかし、ある種の化合物と反応させると、とんでもない毒性が発揮される。亜ヒ酸にも匹敵する毒性で、ほんの少し経口摂取するだけで死に至る。今のところ私しか知らない反応のはずだ。このやり方で人が死んでも、死因は明確には特定出来ないだろうし、二種類の化合物による反応の結果毒性が生みだされるなんてことがわかるわけもない。
彼には、この溶剤と反応する化合物を既に渡してある。最近メタボ気味だと嘆いていたから、糖質が従来の十分の一で同じだけの甘味がある砂糖のようなものだ、と言って渡してある。コーヒーを飲む時に入れれば、それでアウトだ。
これこそ完全犯罪だわ。私は覚悟を決め、浄化水槽に溶剤を流し入れた。



253.「ガリレオの苦悩」
「お邪魔するよ」
「またお前か。研究室には勝手に来るなっていつも言ってるだろ」
「悪い悪い。ちょっと今日は急ぎでね」
「またなんか事件か?」
「そうだ。お前の知恵を借りたいと思ってな」
「お前が来る時はそればっかりだ。まあいい、詳しい話を聞こう」
「亡くなったのは、松本佳子さん。当時付き合っていた男の家で見つかった。死体に特に不審な点はない」
「それなら何が問題なんだ?」
「男の供述だ。男は、突然死体が目の前に現れた、と主張している。さっきまでなかったのに、突然出てきたんだと」
「ほぉ、それで?」
「死体を突然出現させるようなトリックがあるのかどうか、お前に聞きたい」
「おかしいな。警察では、その男が最有力容疑者だと思っているんだろう?」
「今はそれは問題ではない。どうしたら死体を目の前に突然現出させることが出来るか、それを考えて欲しい」
「お前らしくない。いつもだったら、その男が嘘をついている、と判断して終わりだろう。普通はそう考えるはずだ。それに、もし死体が目の前に突然現れるようなトリックがもし仮にあったとしても、事件自体の様相が変わるかけでもないだろう」
「…まあそうだな。その通りだ」
「どうしたんだ?何かあったのか?」
「今話した事件は、まだ警察は知らない?」
「警察は知らないって、お前は知ってるじゃないか」
「つまり、これは個人的な相談だ、ということだ」
「…お前が殺したのか?」
「…本当に、目の前に突然現れたんだ。死体になったあいつが。もしかしたら俺が殺したのかもしれない。ただ、俺にはその記憶はない。自分が殺したというのなら、もちろん潔く自首しよう。ただ、どうしても今の俺にはそう思えないんだ」
「分かった。確約は出来ないが、考えておこう。とりあえず、すぐに警察に連絡した方がいい」
「そうするよ」
帰っていく彼の背中を見て思った。十中八九、彼が殺したに違いない、と。



254.「新しいミステリ」
倒叙もののミステリが出てきた頃は、その発想の見事さに驚いたものだ。
倒叙ものというのは、犯人があらかじめ分かっていて、それを探偵がいかに追い詰めるかという形式のミステリ小説だ。どの作家が考え出したかは知らないが、倒叙ものというスタイルを世に広めた作品と言えば、「刑事コロンボ」だろう。日本でも絶大なファンが数多くいた。ミステリに、新しい形式が持ち込まれた瞬間だった。
しかし、倒叙ものももうありきたりになってしまった。それまで、犯人が誰なのかという興味で引っ張り続けてきたミステリ小説の、その犯人を先にばらしてしまうという革命的な方法も、既に新鮮味に欠ける。
ミステリ作家としてデビューしようと考えている僕は、どうしたら新たな革命的な形式をミステリ界に持ち込むことが出来るか、と日々考えているのだ。
そして、恐らくこれしかないだろう、という形式を考え出した。
探偵役が誰なのかを最後まで隠すのだ。
物語は、常に犯人視点で進む。犯行から、その後の警察とのやり取りなんかも含めて、すべて記述する。
しかし、読者には探偵役が誰なのか分からない。犯人は、様々な人間と話をし、様々な証言をする。その中の誰かが彼を追い詰めることになるのだけど、犯人はもちろん、読者もそれが誰なのか分からない。
よし、これはいいアイデアだ。すぐさまプロットを作り上げ、執筆に取り掛かった。
そうして原稿は完成した。
しかしこれは成功と言えるだろうか?この形式には、大きな問題があり、それを解消する術がわからない。
それは、とんでもなく長くなってしまうということだ。探偵役が誰か分からないようにするには、少なくとも5人以上の探偵役候補を書き分ける必要がある。しかもそれぞれの探偵役候補が犯人にいつも同じことを聞いてばかりいるので、話が冗長になってしまう。結局原稿用紙1500枚を越える作品になってしまった。これでは新人賞に応募できない。
名案だと思ったんだけどなぁ…。新しいものを生み出すというのは、やっぱり難しいや。



255.「呪われた絵」
その絵は呪われている、と長いこと噂されていた。
よくある話ではあるが、持ち主が次々に怪死していったのだ。ある者は、衆人環視の中で突然発火し焼け死んだ。ある者は、スカイダイビング中に身体がバラバラになった。ある者は、温水プールの中でまるで熱湯で茹でられたかのような状態で発見されたのだった。
まあ確かにその絵が呪われているように見える。実際のところは、まあ呪いと大差はないかもしれないが、しかし別の理由がある。
絵自体は普通の絵だ。しかしその絵にまつわる、とある出来事がこの怪死を生み出しているのだ。
元々その絵は、中世のある貴族が、お抱えの画家に描かせたものだった。しかしそれを飾っていた貴族は、どういう理由でか自殺を遂げることになる。その絵を見ていたら、自殺したくなってきたのだという。
その後その絵は人手に渡ることになるのだが、一緒に自殺をした貴族の幽霊まで連れて行くことになる。しかもその幽霊は、その絵の持ち主に憑くのだ。
するとその幽霊は、またしても自殺をしたくなる。初めの内こそよくある死に方をしていたのだが、何度死んでも成仏できないことを苦しんで、次第に過激な死に方を、それも普通では起こり得ない死に方を選ぶようになっていったのだった。
その貴族は、未だに成仏出来ていない。どうすれば成仏出来るのかも分かっていない。成仏出来ない貴族は考えている。もっと大勢の人間を巻き込むような死に方じゃないと、成仏できないのかもしれない、と。



256.「年賀状」
毎年楽しみに待っている年賀状がある。
トシオの年賀状だ。
トシオは東京大学数学科の院生であるのだが、数学者らしくやはり一風変わっている男である。中学生の頃、マジックペンを持ち歩いていて、何か思いつくと壁に数式を書き始める。さすがにマジックペンじゃまずいからと言って、鉛筆に代えさせたのを覚えている。
まあそんなトシオだが、年賀状も一風変わっている。いつも、暗号のようなものを送ってくるのだ。暗号のレベルは何だかマチマチで、見た瞬間に分かるものから、結局解けなかったものまである。何を考えているのかわからないけど、昔からずっとそうで、だから毎年、今年の年賀状はどうかなと期待しながら年始を迎えるのである。
しかし今年、トシオからの年賀状を見て驚いた。なんと白紙だったのだ。なんだこりゃ?しかしトシオのことだ、この白紙であるということが何か意味があるのかもしれない。あぶり出しではなさそうだけど、じゃあ他にどんな可能性があるかなぁ。
こうして僕はトシオの年賀状についてあーだこーだ考えることになる。結局その年の年賀状の意味は分からずじまいだったけど。

トシオは年賀状を書くのがめんどくさくなった。
「まあいいか。白紙で」



257.「コンビニ同時多発テロ」
とんでもない事件が起きた。コンビニ同時多発テロだ。
この名称は、いささか大げさにすぎる。マスコミが一斉にこの名称を使い始めたので定着しているが、被害はさほど大きくない。どの店舗も、おにぎりや弁当に爆竹が仕掛けられていたり、ゴミ箱から火が出たりと言った程度のものだ。
しかしこれがここまで大きなニュースになったのは、その範囲の広さにあった。
被害にあったコンビニは、日本最大のコンビニチェーン店に限られるのだが、しかしそのチェーン店のほぼすべての店舗、全国約1万2千店舗で同時刻に発生したのだ。被害の小ささの割に報道の扱いが大きかったのにも、そこに理由がある。
しかしこれは現実には考えられないことなのだ。仮に犯人が複数のグループであっても、爆竹などを仕掛けるのには一定の時間が掛かる。しかしコンビニでは、おにぎりや弁当は一定時間が来ると廃棄されてしまうのだ。調べたところ、全国すべてのチェーン店で同時に事を起こすには、犯行時刻の6時間以内にすべての設置を終わらせなくてはいけない、ということが分かった。しかしたった6時間で日本全国すべてのチェーン店に仕掛けるのに、一体何人必要なのだろうか。
警察としては、この事件をどう考えていいのか分からず捜査が難航していたが、報道が一段落した頃を見計らって、マスコミに犯人が名乗り出てきた。それを知り、警察としてもなるほどと思ったのである。

某大手コンビニチェーンのオーナーである吉本本吉さんは、日本全国すべての同チェーン店を回りながら、オーナーを口説いていた。自分達の訴えを人々に届かせるにはこれしかない、と。
吉本さんは、コンビニチェーンの本部に対して強い憤りを感じていた。ありとあらゆる仕組みが、店舗オーナーから搾り取れるだけ搾り取り、本部だけが丸々儲かるようになっているのだ。
しかも、このコンビニチェーンは、大手マスコミの主要広告主になっているために、悪事がマスコミで報道されることがない。自分達の窮状を訴えても、世論を動かすことが出来ないのだ。
そこで考えた。だったらマスコミが取り上げざるおえない事件を起こしてやろうじゃないか。
全国のチェーン店を回りながら、吉本さんは同志を増やしていった。同じ思いでいるオーナーは多く、最終的に2年の年月を費やして、すべてのオーナーの協力を取り付けることが出来た。
コンビニ同時多発テロと呼ばれるようになった事件を起こして正解だったと今でも思っている。あの事件から10年。結局そのコンビニチェーンは、世間の批判に耐え切れず、倒産した。



258.「幽霊のいる博物館」
幽霊が収められている博物館が開館した、という噂が僕の耳にも入ってきた。その博物館の開館は5日前。噂に疎い僕にしては早耳な方だ。
過去幽霊が展示された博物館はなかっただろう。そして恐らくこれからもないに違いない。その噂は、何かの間違いであることは明白だ。幽霊など、そもそも存在するはずがないし、存在しないものが展示されるはずがない。
もちろん僕は出かけていった。その博物館にだ。何でそんなでっちあげがまかり通るのか、確かめてやろうと思ったのだ。
幽霊がいるという一角は盛況だった。そしてそこから出てきたものは皆、まるで幽霊でも見てきたかのような顔をしていた。どうせお化け屋敷の類だろう。僕はそう高を括っていた。
長い順番待ちの後、ようやく中に入れた。その部屋は二重のドアによって隔てられているのだけど、その奥にあるのはただ真っ暗なだけの部屋だった。明かりはまったくない。広さもどれぐらいなのかさっぱり分からない。こんなに暗くては展示も何もないではないか。
しかしその部屋にしばらくいた後、不意に奇妙な感覚に囚われた。今のは何だ?うまく説明出来ない。映像が見えたわけでも、声が聞こえたわけでもないのだけど、3年前に死んだ母親のことが急に脳裏に浮かび上がったのだ。まるで、僕の身体の中を、死んだ母親の幽霊が通り抜けでもしたかのように…。
そんなバカな。しかし、説明のつかないことが起きたことは確かだ。インチキを暴いてやろうと思ったのに、まさかこんなことになるとは思ってもみなかった。
恐らく僕もその部屋から出る時は、まるで幽霊でも見たかのような顔をしていたことだろう。



259.「テキトーな時間論」
「時間っていうのはどこにあるんでしょうかね」
「時計を見れば分かるだろう。今は、21時ちょうどだ」
「時計ってのはなんか違うじゃないですか。時間そのものって感じがしません」
「感じがしないと言われても困るけど」
「四次元の軸が時間だっていうじゃないですか。でも四次元の軸って目に見えませんよね?」
「そんなこと言ったら、xyz軸だって別に目に見えないよ」
「でも座標として書けるじゃないですか。でもでも、時間の軸とかは書けないんですよ。どこにあるんですか?」
「まあそんなこと言われてもね」
「じゃあやっぱり時間って目には見えないんですか」
「目に見えて良い事があるのか、っていう点が重要だと思うけど」
「時間って真っ直ぐなんですかね?」
「真っ直ぐ?」
「つまり、アメリカのハイウェイみたいにずっと直線っていうか」
「アメリカのハイウェイも曲がってると思うけど」
「もう、例えですよぉ」
「時間が真っ直ぐでなければいけない理由はないだろうね」
「じゃあループしてたり?」
「可能性は否定できないだろうね」
「じゃあこのまま時間を進んでたら、いずれ過去に繋がってたりみたいな?」
「もしそうだとしても、過去に来たということに気づくことはないかもしれないけどね」
「そうなると、もしかしたら今も過去だったりするかもしれないかもかも?」
「かもかも?」
「そこは別にいいんです」
「将来見えるようになったらいいね」



260.「夜書いた手紙は朝読み返せ」
ラブレターなんていうのはもう古いのかもしれないけど、彼女に想いを伝えるにはラブレターしかない、と思った。
一目見た時から惚れ込んでしまった。彼女に対する溢れんばかりの言葉が、僕の内側で行き場を求めている。
そうとなればすぐさま行動しないではいられない。僕はさっそく文房具店に行き、便箋を買って来て書き始めた。
しかし、便箋に何枚書き続けても、溢れる言葉は一向に尽きる気配がない。もう8枚目に突入しているが、まだまだ書けそうな気がする。
そこで僕はまた文房具店に行き、大学ノートを買ってきた。とりあえず溢れ出る言葉をここに書き綴ろうと思ったのだ。もちろん書いた文章をすべて送っては迷惑だろうけど、自分の中にある言葉を全部とりあえず出し切ってしまわないと気持ちが悪いのだ。
とりあえず風呂に入り、夕食を食べた後でまた書き始めた。
ものすごいスピードで文章を書いているのだけど、手が止まることはまったくない。次から次へと言葉が溢れてくる。彼女のことを想うだけで何百何千という言葉が奔流となって飛び出してくるのだ。
僕は時間の感覚も忘れて書き続けた。空腹も覚えず、眠気も感じなかった。夢の中の世界にいるようにフワフワした感覚の中で、僕はとにかくひたすらに手を動かし続けていた。
ようやく書き終わった時には、もう朝になっていた。大学ノート二冊分がびっしりと埋まっていた。さすがに疲れを感じて伸びをし、新聞を取りに郵便受けを覗くことにした。
郵便受けを見て僕は驚いた。新聞がこれでもかというくらい溜まっていたのだ。初めは何かの悪戯ではないかと思った。一晩でこんなに新聞が溜まるはずがない。
しかし嫌な予感がして、部屋に戻って携帯を確認してみた。
時刻を確認しようとしたのだが、その前に山ほどのメールと着信があった。とりあえずそれは後で見ることにして、日付を確認してみた。
ラブレターを書き始めてから三ヶ月が経過していた。
僕は力なく笑った。自分が書いたラブレターを見返そうと、大学ノートを開いた。しかし、大学ノートは、真っ黒だった。僕が文章を何度も上から重ねて書いていたらしい。もはや何て書いてあるのか判読は不可能だった。
何をどう考えたらいいかも分からず、僕はただ茫然としていた。



261.「皆さんよいお年を」
「いつの間にか大晦日ですね」
「いや、ホント早いもんで」
「今年はこれが最後の感想になるよ」
「だからこんな、ショートショートなのか何なのか分からないような文章を書いてるんですね」
「まあそうだな。っていうかまあ、ショートショートを書くのがもうめんどくさいからなんだけどな」
「まあ何でもいいですよ。今年一年はどうでしたか?」
「今年は、どうもこれっていう本が少なかった気がするなぁ。もちろん面白い作品はたくさんあった。けど、ずば抜けているようなのはなかった印象だなぁ」
「そうなんですか」
「それと後は、小説以外の作品をかなり読んだ気がするかな。数学・物理系の本で非常に面白いものが多かった」
「なるほど。読む趣味も結構変わってきているみたいですしね」
「それは確かにあるな。外国人作家の作品も割と読むようになったし」
「時代小説はまだまだですけどね」
「あと落語ってのは今年の収穫かな。そんなに数としては読んでないけど、落語を扱った本が結構面白かった」
「昔はミステリばっかりだったのに、大分変わりましたね」
「まあそうだ。しかしいつも思うけど、このブログを読んでくれる人には感謝だね」
「ホントそうですね。今年は突然ショートショートなんてのを始めてね。つまんない作品ばっかり山ほど載せてね」
「それでも初めの方は結構頑張ってたんだぞ。三ヶ月もすると息切れしてきて、半年もすると適当になってきたけどな」
「ダメじゃないですか。でも何とか無理矢理ながら一年続いたんだから大したもんだと思いますけどね。来年はどうするんですか?」
「来年はもうショートショートはやりたくないからなぁ。今考えてるのは、本屋の仕事の話をいろいろ書こうかなとは思っているけどね。何が売れてるとか、こんなチャレンジをしてみたとか、後は本屋はよく使うけど本屋についてはよく知らないみたいな人に初級本屋講座みたいなのを適当に書いてみたりね」
「なるほど。まあそれはいいかもしれないですね」
「本屋の仕事だったらまあいろいろ書けるだろうから、何とか一年ぐらい持つんじゃないかな」
「まあ来年って言っても明日からですからね。まあ頑張ってくださいよ」
「言われなくても頑張るよ」
「ではではこの辺で終わりにしましょうかね」
「そうしようか。今年も一年、こんなつまらないブログを読んでくれてありがとうございました。来年もまた一つ、よろしくお願いいたします」

2008年に書いたショートショート集 No.166~No.214

166.「書店営業」
書店の前に立つと、未だに緊張する。もうこうして書店を訪問するようになってかなり経つのに、未だに慣れるということがない。でも僕は、そんな緊張感がたまらなく好きなのだ。この緊張感を味わいたくて、こうして書店を回っていると言っても言い過ぎではない。
意を決して店内に入る。店内で作業中のスタッフに声を掛け、文芸書の担当者を呼んできてもらう。この店に来るのは初めてだ。というか僕の場合、一書店を訪問するのは一回だけだ。常に、初めましての会話から初め、じゃあまた来ますと言って別れるけれども、その書店には二度と足を運ぶことはないのである。そうするしかないのだから仕方ないとは言え、ちょっと残念だなと思わないでもない。
「初めまして。一二三出版の竹中と申します」
名刺を出して渡すのはさすがに慣れてきた。こればっかりやっているのだ。
「あぁ、一二三出版の方ですか。営業の方が来たのって初めてかもしれないなぁ。そうじゃないですか?」
「えぇ、たぶんそうだと思いますね。ウチは営業を四人でやっていますんで、なかなか回りきれないところがありますよね」
「まあ仕方ないですよね。そういえばあれ売れてますよ、『緑の敷地にガナリアン』。ウチのスタッフが好きでね、趣味みたいなもんですけどね」
「ありがとうございます。あれを売っていただけている書店さんは他にあんまりないでしょうからねぇ。嬉しいです」
「文芸書は最近落ちてるからね。ちょっとでも活気のある話は嬉しいよね」
「そうですね。それでこんな本もあるんですけど、いかがですか?今吉田山書店で週売30冊を超えてるんですよ」
「へぇ、『マルコム仏陀』ですか。変なタイトルですねぇ。ノンフィクションですか?それなら今あの辺に似たようなのを置いてるからそこに混ぜてみようかなぁ」
「ありがとうございます。あと、こっちもなかなかいいんですよ。まだ数字は出てないんですけど、今編集がイチオシなんです。馬蝶書店の長柄さんにPOPを書いてもらおうなんて話もありまして」
「あの長柄さんにかぁ。それはいいですね。じゃあそれも置いてみますよ」
「ありがとうございます。じゃあ番線をお願いします」
こうやってスムーズに話が進んでいくと気持ちがいい。何のかんのと言って、やっぱり本屋が大好きなんだな、と思うのだ。
さて、次の書店でも回ろうか。『マルコム仏陀』なんて本は存在しないし、これからも発売されることはないだろう。僕も、出版社の営業の人間ではない。ただ趣味で書店営業のフリをして本屋を回っているだけだ。一度訪れた書店には二度と行けないし、その内この悪事が誰かに見つかってしまうことだろう。それでも、病み付きになってしまった。だったら本当に書店の営業になればいいんだろうけど…。
まあ人にはいろいろあるのだ。



167.「23人」
その日、我が家に友人が遊びに来た。特に何があったというわけではない。大学時代からの友人であるトモヒロは、よくこうやって僕の家にやってくるのだ。大抵、ゲームをするかテレビをみるか、あるいはお互い喋りもせずに雑誌やマンガや本を読んでいる、という過ごし方が多かった。
トモヒロがウチに来る理由の大半は、僕がそこそこ料理をするからだ。トモヒロは料理はからきしで、いつもコンビニの弁当を食べている。僕は割と料理を作るのが趣味だったりするので、それを見込んで遊びにやってくるのだった。
その日も適当に料理を終え、それからサッカーの試合を見ていた。僕はサッカーにはまったく詳しくないのだけど、トモヒロは大好きらしい。確かその日の試合は、日本代表と韓国代表の試合で、その試合の結果如何でワールドカップへの出場が決まるとかなんとか、確かそんな話だったような気がする。僕も興味はないのだけど、特別することもないため、トモヒロと一緒に試合を見ることにしたのだ。
22人の選手達がセンターで向き合い挨拶を交わす。それから試合が始まった。
何がどうなっているのかイマイチよく分からないが、トモヒロの独り言なのか僕に説明しようとしてくれているのかよく分からない言葉で何となく試合の流れが分かるようになってくる。日本は決定的なシーンでシュートを外し、観客が大げさに落胆していた。
ぼんやりと試合を見ていると、僕はあることに気が付いた。
「なぁ、23人いないか?」
「審判がいるだろ」
「そうじゃなくてさ。もちろん審判を除いての話だよ」
「そんなわけあるかよ。お前だって見てただろ。初め量チームとも11人ずつしかいなかったじゃないか」
「そうなんだけどさ、でも今絶対23人いるって」
僕はこうことに関しては得意だ。映像を写真のように記憶し、それを自分の好きなやり方で取り出すことが出来るのだ。漠然とした疑問を持った僕は、フィールドの全景が映ったシーンを記憶し、そのシーンにいる選手の数を数えてみたのだ。すると、やっぱり間違いなく選手の数は23人だった。こればっかりは間違いない。
「確かにお前がそういうなら間違ってないのかもしれないけどな。でも、普通に考えてそんなことありえないだろ」
「でもさ、案外わかんないんじゃない?ほら、トモだって気づかないわけだろ?審判だってテレビ局の人だってさ、フィールドにいる人数が何人かなんて気にしちゃいないよね。そりゃあどうやってフィールドに潜りこんだかっていう問題はあるけどさ」
「でもまあさ、審判だって気づいてないっていうならさ、そりゃ反則になりようがないわな。まあいいんじゃないか」
トモヒロはあんまり細かいことには頓着しない性格なのだ。
やがてハーフタイムになった。試合は0-0と動いていない。初歩的なミスが目立ちましたねぇと、現役を引退した解説者が語っていた。
「このグラウンドは思い出があるんですよ」
その解説者は実況のアナウンサーとそんな話をし始めた。
「もう6年になると思いますけどね。ここでの試合中に選手の一人が心臓発作で死んじゃったんですよね。今でも思い出しますよ、あの時のことは。その彼もね、当時日本代表だったですからね。今日の試合も観てるかもしれませんね」
それを聞いて、僕とトモヒロは顔を見合わせた。
「そういうことかな」
「そういうことだろうね」
何ともやりきれない話だった。



168.「ロボット」
僕はある時気づいてしまったのだ。自分が、実はロボットであったということに。
きっかけは些細なことだった。というか、それは普通の人のはきっかけと呼ぶには相応しいものではないだろう。あまりにも脈絡がなさすぎる。
僕は部屋で勉強をしていた。机に向かって、真面目にカリカリとシャープペンを動かしていた。その時、どうなったのかよく覚えていないけど、僕はシャープペンを落としてしまったのだ。いや、それは正確な言い方ではない。実際は落とさなかった。手から離れてしまったが、しかしそれが床に落ちる前に僕はシャープペンを掴みなおすことに成功したのだ。
その瞬間、僕は悟ったのだ。なるほど、僕は人間ではなくてロボットだったんだ、と。
そうなれば、いろいろと試してみたくなるのは当然だ。僕は、かなづちで自分の頭を殴ってみたり、母親が飲んでいる睡眠薬を大量に飲んでみたり、自分のお腹をカッターで引き裂いてみたりした。その結果はわかりやすく、すべて救急車を呼ばれる羽目になってしまった。かなづちによって頭蓋骨は陥没し、大量に飲んだ睡眠薬は胃洗浄によって取り除かれ、真一文字に切られた腹からはぬらぬらとした臓器がべちゃべちゃと流れ出るのだった。
両親は、僕が自殺をしようとしているのだと思い、カウンセラーに行かせたがった。しかし、僕はそんなつもりはないということを必死に説明しようとした。自殺をしたいわけでは決してない。ただ僕は確認したいだけなんだ。自分がロボットだっていうことはたぶん間違いない事実だ。後はそれを確かめるだけでいい。これまでの試みは全部失敗だったけど、今度はちゃんと失敗しない方法を考える。だから全然大丈夫だよ。
その結果どうなったか。僕は精神科に連れて行かれることになった。おかしい。ちゃんと自殺の意思がないことを伝えたのに。でもまあいい。もしかしたら精神科医だったら、僕がロボットであることを見抜いてくれるかもしれない。そうなれば、僕が余計な手間を掛けることはなくなるわけだ。まあいいだろう。精神科でも何でも行ってやろうじゃないか。



169.「セバス眼鏡」
「セバス、ちょっとこの眼鏡を掛けてみなさい」
「Y子さん、眼鏡萌えでしたっけ?」
「確かに眼鏡萌えでもあるけど、大事なとこはそこじゃないの!いいから掛けなさい」
「はいはい。ちょっと待ってくださいよ。歩きながらだと掛づらいです。荷物片方持ってもらえません?」
「まったく人使いの荒いセバスね!」
「って、えーっ、な、なんですかこれは?」
「ようやく掛けたのね。どう、私が発明した素晴らしい眼鏡の効果は。って、何で外してるのよ」
「いやいや、こんな眼鏡掛けてられないですって」
「どうして!世界中の女子の夢をあまねく叶える素晴らしい発明品なのに!」
「そもそも僕は男ですし、それにY子さんみたいな趣味を持ってる女性じゃないとダメですよね」
「何を言ってるの。すべての女性は多かれ少なかれそういう願望があるの!私は人よりちょっと多すぎるだけ!」
「…自覚はあるんですね。で、何なんですか、この眼鏡」
「見たものすべてを男に変えてしまう眼鏡よ。名づけてセバス眼鏡!電柱だって車だって、もちろん女性を見たって、すべて男に見えてしまうという優れもの。これさえあれば、日常的にBLの世界を堪能できるってわけ」
「…突っ込まないでいましたけど、もしかしてY子さんが今掛けてる眼鏡って、そのセバス眼鏡なんですか?」
「そうよ!今の私にはありとあらゆるものが男に見えているの!幸せすぎて鼻血が出そうよ!」
「まあそれはよかったですが、僕にはこれは必要ないですよ」
「何言ってるの。あたしといる時は常に掛けておきなさい。これは命令よ」
「えっ、だってそんなことしたら、Y子さんも男に見えちゃうじゃないですか」
「それがいいのよ。禁断の愛って感じでしょ。ほら、つべこべ言わないの!」
「…男になったY子さんも、案外いいかも」
「これであんたも立派に腐女子の仲間入りね!」
「それは違う!断じて違う!」



170.「中国人のジャンプ」
「なぁ、中国人が全員一斉にジャンプしたらどうなると思う」
「っていうか、あんた誰?」
「神様だよ、神様」
「嘘ばっかり。神様がこんなしけた飲み屋にいるかよ」
「実際いるんだから仕方なかろう」
「んで、何だっけ?中国人がどうしたって?」
「だから、中国人が全員一斉にジャンプしたらどうなるか、ってことよ」
「どうなるかも何も、そんなことありえんだろ」
「今誰と話してると思ってるんだ。俺は神様だぞ。そんなこと容易い容易い」
「へぇ、じゃあやってみてよ」
「いいのか?」
「どういうことだ?」
「よく言うじゃないか。中国人が全員一斉にジャンプしたら、地震と津波が起きて日本はヤバイ、って」
「んなアホな」
「だからそれを確かめようと思うんだけど、ホントにやってみてもいいかな」
「まあいいんじゃねぇの。俺だってそんな日本とかに興味ないしね」
「よしじゃあちょっとやってみるか」
ズゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ
「いかんいかん。ロシア人までジャンプさせてしもうた。日本はちと壊滅してしまったのぉ。まあ仕方ないか」



171.「未来の障害」
「最近、この辺もやっとバリアフリーになってきたよね」
「ホント、私たちみたいな人のことをようやく考えてくれるようになったのね」
「昔は酷かったもんなぁ。ウチの祖父ちゃんなんかがその時代だったらしいけど、ウチらみたいな人間なんて切り捨てられてたみたいだからね」
「あぁ、それウチのお祖母ちゃんも言ってたかも。そんな障害があるわけないだろ、って散々言われたって」
「まあでも、考えてみればそうかもね。俺らみたいな障害を持った人間がまだほんの僅かしかいなかった時代なら、そういう風に思われてても仕方ないかもね」
「でも、あちこちに階段はあったわけだし、それに店とか電車とかにも入れなかったわけでしょ?考えられないよね、ホント」
「そうだよなぁ。どうしてたんだろうね」
「自転車ドクターだっていなかったっていう話だしね」
「それはキツいなぁ。え、じゃあ昔は、自転車のメンテナンスとかどうしてたわけ?」
「さぁ、ちゃんと聞いたわけじゃないけど、同じ障害を持つ人どうしでメンテナンスの知識を共有してお互いにやったりとかしてたみたいだけどね」
「それに比べれば今は楽だよね。自転車に乗ったままメンテナンスしてくれるなんて、今じゃ当たり前だからね」
「っていうか、それがないと生きていけないって」
「でもさ、何で『自転車から降りられない』なんて障害が起こるんだろうね」
「さぁ。遺伝的な要素はないってこの前ニュースでやってたけどね」
「これ、ウチらみたいな人間には全然分かってもらえないけどさ、ホント自転車がお尻から生えてるような感じがするんだよね」
「分かる分かる。そうなんだよね、周りの人ってどうも理解しがたいらしいんだよね」
「まあしょうがないけどね」
「自転車からは降りられないけど、楽しく生きられるしね」



172.「長寿先生」
先生との出会いのきっかけは、いつものように本屋でブラブラしていたことから始まった。僕は見るともなく本を眺め、時折手に取ってはパラパラ捲るということを繰り返していた。
そんな時、一冊の本に僕は釘付けになった。その本が、先生の本だったのである。
内容紹介も帯の文句も至って普通で、著者の名前は聞いたことがなかった。しかし、その著者略歴を読んで僕は驚いたのだ。
『1867年生まれ』
そう書いてあったのだ。
その小説は、どこをとっても、今生きている作家が書いたとしか思えないものだった。内容紹介をざっと読んでも、100年以上前の人間に書けるものではない。となれば可能性は二つしかない。著者略歴に誤植があるか、あるいはとんでもない長生きの作家なのか。
それ以来僕はその作家のことが気になって、とにかく調べまくった。どうやって先生の元に辿り着いたのか、それは割愛しよう。とにかく、とんでもない労力の賜物であった。しかし僕は先生に辿り着いた。それだけで充分だ。
僕は時々先生を訪ね、話をし、そしてその内先生の弟子になった。弟子になったからと言って何かが変わるわけではなかった。そのはずだったのだ。
先生は、見た目は50歳くらいだった。著者略歴の年齢についてもちろん聞いてみたけど、その内分かるだろう、と言って教えてくれなかった。しかし、先生の言う通り、確かにその内唐突に理解することになる。
ある日、先生が病気で倒れた。たまたま僕が一緒にいる時で、僕は救急車を呼んだり、病院までついて行ったりと大忙しだった。
ようやく一段落つくと、先生は病院のベッドの上で、おもむろにこう言いだした。
「そろそろ私も引退のようだ。私の跡は、君が継ぎなさい。君が四代目だよ」
先生も25年ほど前、二代目によって作家の地位を引き継がれたのだという。なるほど、それで生年が1867年になっていたのか。長年の疑問が解けた嬉しさの反面、これから小説を書かなくてはいけないのかと想うと不安でたまらなくなった。



173.「イエスの宿敵」
イエスは、本屋をブラブラしている時に、ふとあるマンガ目に入ったのだ。
「聖☆おにいさん 1巻」
なんだこりゃ、と思ったイエスは、さっそく家に帰り、そのマンガを読んでみることにしたのだった。ちなみにイエスは一人暮らしである。
「な、なんじゃこりゃー」
イエスは一人咆哮することになりました。そこには、宿敵ブッダと自分が仲良く共同生活をしている様が滑稽に描かれているのでした。
「あやつのせいで、アジアにキリスト教を広めることが出来なかったんだ。許せん。マンガとはいえ、自分とブッダが共同生活をしているなんて、許せん!」
しかし、イエスはふと思いつきました。
「なるほど、このマンガのように実際ブッダと一緒に暮らしてみるというのはどうだろう。打倒ブッダを掲げて地上に降り立ったとは言っても、ブッダがどこにいるのかも見当がつかないし、いてもどうやって倒せばいいのか分からないぞ。一緒に生活をしていれば、宿敵を探す手間がそもそも省けるし、弱点なんかも見つけることが出来るかもしれないではないか」
なるほど、これは名案だと思ったイエスは、早速自分がアップしているブログにこんな文章を載せてみました。
『ブッダを探しています。
一緒に生活をしませんか?
連絡待ってます。』
ブッダから連絡が来たのかどうかは、またのお楽しみ…。



174.「エリミネーション」
「はい、次の人」
イエスは、自分の部屋の前に並んだ行列を一人で捌いていた。
何をしているかと言えば、同居人の選別である。
前回、「聖☆おにいさん」を読んだイエスは、宿敵であるブッダと共同生活をすることでブッダをやっつけよう、という計画を立てた。自身のブログに、ブッダに向けて一緒に住もうという文章を書いたところ、我こそはブッダであるという人間が山のように押し寄せてきたのである。
その数、推定1000人。そこでイエスは、夜を徹して本物のブッダ探しに没頭しているのである。
「あなた、そこでちょっと浮いてみてください」
審査はこれだけで充分。ほとんどの候補者は、これが出来ない。当然である。ただの人間なのだから。かつての宗教団体の教祖のようにぴょんぴょん飛び跳ねてみせる者もいるが、もちろん話にならない。
「はい、次の人」
そんなことをしている内にイエスはイライラしてきた。何で1000人もの人間をいちいちチェックせにゃならんのだ。あぁ、めんどくさ。っていうかホント、こんなことさっさと終わりにしないとなぁ。
そんなわけでイエスは、当初の目的をすっかり忘れてしまったのです。
「はい、次の人。はい、あなたで決定」
そんな風に、投げ遣りで同居人を決定してしまったのです。ブッダと共同生活をしなくてはいけないのに、ブッダでも何でもない人間とただ共同生活をするなんて本末転倒。しかし、もはやこの苦行から逃れたかったイエスは、肩の荷が下りたようにホッとしました。
しかし、それもつかの間でした。
「きみ、名前は?」
「ユダです」
よりにもよってイエスが同居人に選んだのは、裏切り者のユダでした。
「おいおい」
とイエスは呟いたそうです。
一方その頃ブッダはというと…。



175.「数学の限界」
「ペッチロード予想に関する重大な検証」
ある時、そう題された論文が、インターネット上にアップされた。投稿したのは、フィンランドの数学者、リッチャウス・ハミーロである。
ペッチロード予想は、今から200年前の数学者ペッチロードが提唱した予想である。五次元以上のすべての構造体は、それぞれある一つのペッチロード関数に対応する、というもので、この予想は恐らく正しいだろうと考えられているが、誰も証明に至ることのなかった難問の一つである。
そのペッチロード予想に関して論文が出されたのだ。数学者は皆、もしかすると証明されたのだろうか、と期待した。それは当然だろう。証明したか、あるいは反例を見つけたか、普通はそのどちらかしか考えられない。
しかし、ハミーロが提示したのは、もっと驚くべきことであった。彼の主張を簡約するとこうなる。
「ペッチロード予想なるものは存在しない」
普通、数学上のある予想に対しては、それが真であることを証明するか、あるいは偽であることを証明するか、あるいは反例を見つけるかのいずれかしかない。例外はある。ゲーデルが証明した不完全性定理というものがあり、大雑把に言えば、数学上の設問には真なのか儀なのか確定できないものが存在する、ということを証明したのだ。しかし、答えがなかろうが、その設問自体は存在することは自明だろう。しかしハミーロは、ペッチロード予想がそもそも存在しない、と主張しているのだ。
数学者はその論文を読み、ハミーロの主張に破綻がないことを理解した。ハミーロは、ペッチロード予想が存在しないことについて証明したが、しかしこれはもっと拡張されることだろう。つまり、ゲーデルの不完全性定理のように、ハミーロの非存在性定理とでも呼ぶべきものに。
数学という学問はこれまで、ありとあらゆる対象を扱って来た。現実には想像することさえ不可能な高次元の幾何や、どんな数なのか想像も出来ない「i」だって扱えるのだ。しかし、存在しないものはさすがに扱うことが出来ない。これでまた一つ、数学上の限界が示されたことになる。




176.「空から生えてきた木」
一番初めに見つけたのは、アマチュア天文家だった、と言われている。しかし恐らくそれは、大衆が見つけた中で一番、ということだろう。天文台やNASAなどが見逃していたはずがない。どうしたって隠すことは出来ないものだから、せめて発覚を遅らせようということで緘口令を敷いていた、というところだろう。
そのアマチュア天文家は、いつものように空を観察していると、見慣れないものを目にした。それは、どうも木にしか見えなかった。根の部分を上にして、木が逆さまに宙に浮かんでいるのだった。
彼は急いで仲間の天文家に連絡に連絡を取り、すぐに大騒ぎになった。木は、初めに見た時よりも一層成長しているようで、位置からするとこのまま行けば、関東近郊のどこかに突き刺さるのではないか、と憶測された。
やがてそのニュースは一般市民も知るところとなった。既に木は肉眼でも見えるくらいになっており、この段階でようやく政府が動き、木が突き刺さる可能性の高い地域への避難勧告が出されたのだった。
しかし、それは杞憂に終わった。木はものすごいスピードで成長を続けてはいたものの、地面から5mほどのところまで来た時にピタッとその成長を止めた。
すぐに自衛隊がやってきた。
政府は、この木に関して厳重な警戒態勢を取った。木の周囲に近づかせないようにし、さらにどのような飛行物体もその木の周囲に近づいてはならない、とされた。木の生えたところは、いくつかの空路と重なっていたのだが、各航空会社は空路の変更を余儀なくされることとなった。
メディアの規制も激しかった。テレビも新聞も、ありとありゃうるメディアでこの木は一切取り上げられなかった。政府が一体どんな手を使ったのか分からなかったが、しかしよほど触れられたくないのだな、と事態を見守っていた人は思った。
しかし、やはりインターネットまでは規制することが出来なかったようだ。あるブログに書かれた記事が、瞬間的に大きく話題になった。すぐにプロバイダ経由で削除されたようであるが、しかしそのブログを見た人がさらにいろんなところで書いて広めていったので、実質的にその噂を止めることはもう不可能だった。
それはこんな文章だった。

『政府が隠したいと思っていることを当ててみせよう。これだけ厳重に隠そうとしているのだ。何かとんでもない秘密が隠れていると皆思っているだろうし、実際それは正しい。
結論から言おう。我々が住んでいるのは、惑星の表面ではないのだ。我々は実は、地底に住んでいるのである。
これまでは、様々な巧妙な細工によって、我々が惑星の表面に住んでいるのだ、と思い込ませることに成功していた。しかしそれは、全世界規模の陰謀なのである。実際我々は、地底に住んでいる。
そう考えれば、あの木の存在についても説明がつくだろう。あの根が、我々が考えているような空に浮いていると考えるのは不自然だ。しかしあれが、地底の天上から下に生えているのだ、と考えれば自然だろう。
つまりそういうことだ。我々は騙されているのだ。騙されていたとしても、我々の生活は大して変わらないだろう。しかしやはり、自分達が地底人であるという事実は、なかなか受け入れがたい』



177.「罪と罰」
「世の中物騒になったわねぇ」
ワイドショーを見ながら、母親がそんなことを言っている。昨日起きた、連続放火魔のニュースをやっているのだ。
「通り魔だって続いてるし、酷いもんだわ」
誰に聞かせるというでもなく、独り言のように母親は呟く。
ここのところ世間を騒がせている大きな二つの事件だった。放火魔は、「水曜日の悪魔」とも呼ばれていて、毎週水曜日、都内近郊でかならず放火が起こる。その現場には、必ず同じ特徴がある、と報道されているけれども、その詳細については秘されている。
一方通り魔の方は、「韋駄天」という異名を取っていた。決まった間隔はなく、事件を起こす場所もまちまちだったが、とにかく逃げ足が速いことで有名だった。一回の犯行で死者が5名を割ったことはなく、こちらも世間を震え上がらせているのであった。
今日は日曜日で、僕はもちろん学校は休み、父親も二階で寝ている。いつものような、ダラダラとした休日の昼である。
そんな折、誰かがやってきた。応対に出た母は、しばらくして部屋に戻ってきたかと思うとそのまま二階へと向かった。二人で階段を下りてきて、僕に「ちょっと遅くなるかもしれないけど、夕飯は適当に食べて」と言い残して出かけていってしまった。僕は、あまり気にも留めずに、ゲームでもしようか、と考えていた。
事態が理解できたのは夕方だった。母親から電話があったのだ。
「お父さんが、水曜日の悪魔かもしれないって」
母親の声は驚くほど震えていた。それが、父親の犯行を認めたくないからなのか、あるいはこれから来る悲惨な生活を思ってのことなのかは分からなかったが、まあ平常ではいられないだろうな、と僕は冷静に思った。
それからの日々は、予想通り大変だった。マスコミが大挙してきた。学校で苛められるようになった。近所の人との付き合いがなくなった。母は次第に疲弊していき、ついには倒れてしまった。
僕はと言えば、そんな状況に何か感じることはなかった。めげなかった、というようなことでは全然ない。複雑な気持ちが渦巻いてはいたが、一番近いのは「不満だ」というものだったかもしれない。
(しかし、まさか父親が放火魔だったとはな)
父親を非難したいという気持ちは一切ない。そうではなくて、この騒ぎが父親によって引き起こされたことが不満だったのだ。
(まあまさか父親も母親も、僕が「韋駄天」だとは思いもよらないだろうけどね)
事実、マスコミに振り回されていた時期は、通り魔「韋駄天」は出没しなかったのである。



178.「スリ」
ひったくりをするなら、やっぱり夕方がいい。山岡翔太は、そんなことを思いながら、暗くなり始めた街を自転車で走っている。暗くなりかけであればまだ警戒心もそこまで強くはないし、それでいて微妙な暗闇が姿を隠してくれる。買い物に出ている人も多いだろうし、そうだとすれば財布の中身もそこそこ期待できる。翔太はいつものように獲物を物色しながら自転車を漕いでいた。
あれにするか。
目の前に一人のおばさんが歩いている。後ろ姿からではなんとも判断できないが、40代ぐらいだろう。片手にショルダーバックを持ち、もう片手にスーパーの買い物袋を下げている。ショルダーバックごと奪ってしまえばいいだろう。買い物後ということで財布の中身がどうかわからないが、しかし両手が塞がっているという条件はやっぱり捨てがたい。
何気なく近づいていき、いつものようにサッとショルダーバッグを奪い取った。すぐさま全力疾走で逃げる。このやり方で、今まで捕まったことはない。
川まで出たところで自転車のスピードを緩める。川岸まで下りれる道を探し、適当なところで自転車を停めた。
犯行後は出来る限り川まで来るのが翔太のやり方だった。現金だけを抜き取って、後は全部捨ててしまうのに、川はちょうどいいのだ。
財布から現金を抜き取る。3万円ぐらいはありそうだ。なかなか上出来。これでまあしばらく生活できるってもんだ。
川に財布を投げ捨てようとしたところで、ふと何かが気になった。たぶん、財布の中の免許証が見えたのだろう。山岡、というような字が見えたような気がする。ありふれた名前というわけでもないけど、そこまで多くはない。一応気になって見てみた。
やはり嫌な予感は当たった。免許証に書かれていた名前は山岡翔子。翔太の母親である。顔写真を見ても、間違いなかった。
まさか、あれが母親?
背格好は確かに記憶にある通りだったかもしれない。しかし、母親に最後に会ったのはもう5年以上も前のことだ。はっきりとは顔を思い出せなくなっている。しかし、ここに母親の免許証がある。間違いない。あれが、母親だったのだ。
まるで別人みたいだったな。
翔太はさっきのおばさんのことを思い出している。断片的母親にこんな生き方してるってばれたら哀しむだろうなぁ。
そんな風に、唐突に母親のことを思い出した。何だか急に、恥ずかしくなった。今さら母親に会いに行けるなんて思ってない。それでも、母親の財布を掏ってしまったことをきっかけにして、母親に恥ずかしくない生き方をしよう、と翔太は思った。

それはそれとして、さっき翔太に財布を掏られた女性はこんなことを思っていました。
「ムカツク。人の財布なんか取りやがって。でもまあいいさ。どうせその財布、ついさっき見知らぬ女から掏ったやつだからね」



179.「探している人」
「人を探しているんですが」
ドアを開けると、二人組みの男女が立っていた。外国人のようだった。男の方が英語でそう尋ねてきたのだった。
ここは市街から山を二つ越えたところにある小さな村。田んぼと畑だらけで、のんびりとした時間の漂う、まあド田舎だ。普段外国人の姿を見るような機会もまったくないような場所だったから、ドアを開けた僕はいきなり面食らってしまった。
「どんな人ですか?」
学生時代から英語だけは得意だった。ちょっとした会話ならなんとかこなすことが出来る。まさかこんなところで役に立つなんて思ってもみなかったけど。
「8年前に別れたきり会っていない妹を探しています。彼女は、ほとんど家出のように飛び出して言ってしまいました。親しい友人に、日本に行くと話していたそうです」
喋っているのは男の方だけだった。一緒にいる女性は無言で立ち尽くしている。彼女も兄弟の一人だろうか。
「この辺に来たというような情報でもあったんですか?」
「いえ。ただ彼女はこういう長閑なところが好きだとずっと言っていました。都会に住んでいるとは考えられません。手掛かりはほとんどないのですが、こういう場所なら外国人は目立つだろうと思って、しらみつぶしに回っているんです」
それはなんと気の遠くなるような話だろうか、と思った。そんな手掛かりのない状況で日本まで来てしまうなんて、普通出来ないだろう。
「残念ながらこの村で外国人の方を見かけたことはないですね」
「そうですか」
あまりにも落胆したその表情を見ていると、なんとかしてやりたい、と思うようになった。
「もしかしたらこれから見かける機会があるかもしれません。もしあれば、その方の写真でも見せてもらえませんか?」
そう言うと彼は、そういえばそうだったというような表情をしながらバッグを漁り始めた。
「これが妹です」
その写真を見て、僕は困惑するしかなかった。どういうことだろう。この男は、ちょっとおかしくなってしまっているのだろうか。
その写真に写った女性を、僕は見たことがあった。というか、今も目の前にいる。男の隣にいる女性こそ、その写真に映っている女性なのだ。それとも、双子だったりとかするのだろうか。
その時、初めて女性が口を開いた。
「彼には私のことが見えないみたいなんです」
いつも同じ説明をしているのだろう。困惑している顔をしながら、淀みなく言葉が出てくる。
「彼が探しているのは私です。突然私のことが見えなくなってしまったみたいで、それからずっと探しているんです。不安なのでこうしてついて行くんですけど、この旅はいつ終わるんでしょうね」
僕が何も言えないでいると、男の方が口を開いた。
「お時間を取らせて申し訳ありません。ありがとうございました」
そう言うと、二人は去っていった。
二人の旅は、一体いつ終わるのだろうか。



180.「UMA」
僕はある特殊な能力を持っていて、それでちょっと悪戯をしてやろうと思った。ホント、初めはただそれだけのつもりだったんだけど、今では何だかドツボに嵌まってしまったような気がする。
僕の能力っていうのは、何にでも変身出来るってことだ。世の中に存在する生物・無生物を問わず、また実在しない架空の存在にだって、それを明確に思い描きさえすれば擬態出来ちゃうんだ。
だから僕は、『ネッシー騒動』を起こしてやることにしたんだ。
まず学校の友達に、山底湖で怪獣を見たよ、と言いふらす。山底湖というのは、近くにある比較的大きな湖だが、今までそんな未確認生物がいたなんて話は聞いたことがないような場所である。
友達はもちろん信じないだろうけど、タイミングを合わせて僕が変身し、怪獣の姿を見せる。そうすれば、一時のネッシー騒動のような大事になるだろう。
僕の読みは、初めの内は当たっていた。友達はびっくりして大人を呼んで来たし、その大人はマスコミの人間を呼んで来た。マスコミの人間にももちろん姿を見せてあげたし、ばっちり映像にも撮られたから、僕は『テッシー』として有名になっていったのだった。
しかし、段々僕の予想外の出来事が起きるようになる。
発端は、学校であるクラスメイトが話したことである。彼は、山底湖で、テッシーとは別の変な生き物を見た、と言った。僕は山底湖をテッシーになって泳いでいるんだから知ってるけど、あの湖には未確認生物なんてまったくいない。そのクラスメイトは、テッシーで話題になっている今なら、別の未確認生物の話をでっちあげればまた話題になるんじゃないか、と思ったのかもしれない。
しかし、そうはいかなかった。そのクラスメイトは嘘つき呼ばわりされ、いじめにまで発展しそうになってしまったのだ。
仕方がないから、僕はそのクラスメイトが言っていた通りの生物に変身してまた姿を現すことにした。これでそのクラスメイトが言っていたことは嘘じゃないということになり、一件落着…のはずだった。
しかし、そのクラスメイトはそれから、様々な未確認生物を見たとことある毎に言いふらすようになったのだ。未確認生物の発見者があまりにももてはやされるので調子に乗ったのだろう。この前も、自分が言った通りの生物が出てきたんだから、また言ったら出てくるだろう、なんて安易に考えているに違いない。
結局僕は、そのクラスメイトが言うままに未確認生物への変身を続けていった。そうなるともう大変で、日本のちっぽけな町に尋常じゃない数の未確認生物がいると知れ渡って、マニアの人々が大挙してくるし、そうなると他にも未確認生物を見たという人が続々出てくる始末で、僕はもうてんてこまいだった。
今でも僕は、何とか時間をやりくりして無茶苦茶多種類の未確認生物に変身して姿を見せている。でもなぁ、ホントはこんなつもりじゃなかったんだけど…。



181.「1+1」
「先生、大変な発見をしてしまったかもしれません」
「どうした」
「間違っているかもしれないんですが…。1+1が2ではない空間を発見してしまいました」
「…もしそれを君以外の人間が言ったとしたなら一笑に付すんだがな」
「ええ、僕も初め見つけた時はとてもじゃないけど信じられませんでした。でも、何度考えても同じ結果になってしまうんです」
「どんな空間なんだ」
「基本的にはヒルベルト空間です。そこで、無限次元の複素数行列を定義しました。その複素数行列と楕円曲線との関係性を考えていたんですが、無限降下法によってとある命題を背理法によって証明しようとすると、どうしてもある一点で躓いてしまうんです。初めの内はどこで躓いてしまうのかさっぱりわからなかったんですが、その内わかりました。この空間―まだ名前はつけていないですが―では、1+1という演算が定義されないんです。1という数字も2という数字もきちんと定義できるし、+という演算子もちゃんと定義できます。しかも、1+1以外のすべての加算は通常通り成立するんです。ただ、1+1だけがどうしても定義できないんです」
「細かい検証は後回しにすることにしよう。しかし、大体の概略は分かった。確かに、君の言う通りになる可能性は否定できないな…。しかし驚いたな。ヒルベルト・プログラムの際、1+1=2の証明は厳密に成されていたと思っていたが…」
「恐らく、非ユークリッド空間に関する論証に穴があったのではないでしょうか。正確なところは分かりませんが…」
「あるいはゲーデルの不完全性定理の別バージョンとも言えるかもしれないな」
「僕はこんなことを考えているんです」
「何だ」
「1+1以外のすべての加算は正確に定義できるわけですから、通常の数学的空間と比べて、1+1に関して対称性が破れていると言えますよね」
「まあ、そうだな」
「もしかしたら、この対称性の破れが、宇宙の創造に何らかの関わりがあるんじゃないか、ってそんな風に思うんです」
「なるほど…。確かにこの空間をビッグバンの時点に適応することは可能かもしれないな。この空間なら、特異点を排除することが出来るかもしれない。なるほど、特異点を排除するために1+1の演算が定義できないことが必要だったということなんだろうか。これはすごい発見だぞ!」
「えぇ。これからさらに調べてみます。もしかしたら、他の演算が定義されない空間も見つけることが出来るかもしれません。でも先生、ホント数学って奥が深いですね」



182.「いじめられっ子の告白」
なぁ、ちょっとだけ俺の話聞いてくれるか。おっ、俺が口を利いたのが意外だって顔してるなぁ。まあ無理もないよね。いじめられっ子いじめっ子にこんな風に話すなんてね。ムカついてる?まあそうだよね。でもさ、ちょっとだけ我慢して欲しいんだ。もし制裁を加えたいんだったらさ、後からいくらでも受けるからさ。ちょっとだけ、ね。
トオル君はいじめられたことってあるかな?ない?ないよね、そりゃあ。勉強もスポーツも出来てかっこいい。女子からもモテる。羨ましいよ、ホント。まあそんなに恵まれた人間なのになんでいじめなんかしてるのかよくわかんないんだけどね。
うん、でね、やっぱりいじめられる人間の気持ちってわかんないだろうなって思うのよ。そうでしょ?じゃあ僕がどんな風に思ってるのか教えてあげるよ。
最初はねぇ、びっくりしてね。何で僕がいじめられるんだろう、って。でもそれからはね、ちょっと楽しくなっていったかな。別にマゾとかそういうことじゃないんだよ。いじめられればいじめられるほど、よりデカイ復讐が出来るな、ってね。
トオル君はタイムトラベルって信じてる?そうそう、未来とか過去に行くやつ。信じてないんだ。まあそうだよね。普通出来るわけないしね。でもあれって、この時代の物理学の知識でも、一応可能だっていうことにはなってるんだよ。まあ未来にしかいけないんだけどね。
何の話かわかんないって?まあそうだろうね。簡単に言っちゃうとね、僕は時間を移動することが出来るんだ。過去にも未来にもね。その顔は信じてないな。まあいいんだ、別に信じてもらおうなんて思ってないんだよ。
でも、一つ聞いていいかな。マツオ君って覚えてる?
覚えてないよね。たぶんこのクラスの誰に聞いても覚えてないと思う。担任だって覚えてないだろうね。マツオ君の親に聞いたって、きっと覚えてないはずなんだ。マツオ君のことを覚えてるのは僕だけ。何故って、僕が彼のことを消しちゃったからなんだ。
ほら、あそこ。教室の真ん中辺りの席。あそこって、何故か誰も座ってないだろ。誰もそれを変だなんて思ってないみたいだけど、普通に考えたらおかしいよね。空席はもっと端っこの一番後ろとかにすればいいんだもんね。
そうそう、あそこがさ、マツオ君のいた席なんだよね。2ヶ月前まではこのクラスにちゃんといたんだよ。でももういなくなっちゃった。マツオ君も、僕のことをいじめててくれたんだ。そのお礼ってとこだよね。
どうやって消したのかって?そんなの簡単じゃないか。過去にちょっと行って、ちっちゃい頃のマツオ君をさらっと殺してあげるだけだよ。この時代で殺しちゃうとさ大騒ぎになっちゃうけど、過去に戻って殺しちゃえばさ、今この時代で姿がなくなっても誰も気づかないからね。
俺のことも消すのかって?いやいや、あれ、今僕そんな話してたっけ?僕はただ、自分がタイムトラベルが出来るってことと、昔マツオ君ってクラスメイトがいたって話をしたかっただけなんだよ。これで僕の話はお終い。
あぁ、そうか。いじめられっ子が生意気にこんな話を始めたんだから制裁を受けないとね。えっ、いいの?トオル君、何だか変わったね。そっちの方が僕好きだな。んじゃ僕帰るね。トオル君は、マツオ君みたいに消えちゃったりしないよね。



183.「お祖母ちゃんの日記帳」
長いこと掃除をしていなかった物置を片付けていると、奥の方からノートが出てきた。大分古いノートで、表紙には子供の字で「にっきちょう」と書かれている。
名前を見て、なるほどお祖母ちゃんのか、と思った。
お祖母ちゃんは2年前、癌で亡くなった。最後まで決して病院に行こうとしなかった。一旦行けば戻ってこれないことが分かっていたのだろう。それに、私たちだってそう簡単に見舞いに行ったり出来ないのだ。ならば、住み慣れた家で親しい人と最後を過ごしたい、とそう願ったのだ。
悪くない人生だったはずだ。
ここに越して来たのはお祖母ちゃんたちだったそうだ。当時、周囲から猛反対を受けたという。それはそうだ。今でこそ、それなりに認知されているとは言え、こんなところに住もうと思う人などいないよ。私にはその言葉はよく理解できなかったけど、お祖母ちゃんはよくそう言っていた。
私はここが好きだった。ここ以外の生活を知らないだけだからかもしれない。それでも、私はここでの生活を気に入っているし、ここから出て行こうと思うこともない。
お祖母ちゃんは、昔の話をあまりしてくれなかった。今から思えば、知らなくていいことは知る必要はない、と思っていたのかもしれない。私はお祖母ちゃんに、ここから出て行くつもりはない、とずっと言っていた。ならば、ここ以外の生活を教えることもないだろう、とそんな風に思っていたのかもしれない。
だからこの日記を読めば、ここ以外の生活について少しは分かるかもしれない。そんな風に期待したのだ。

4がつ5にち
きょうは、でんしゃでとなりの町までいきました。でんしゃははやくて、でもぜんぜん怖くなかったです。となりの町ではお洋服を買いました。いろんなお洋服があって楽しかったです。

でんしゃってなんだろう。そういえばこの前見た映画に出てきたかも。運転手がいて、降りる時にブザーを押すあれ。たぶんそうだ。

4がつ6にち
きょうは、あやなちゃんといっしょに川にいきました。川でカメを見つけてびっくりしました。川についていったらどこまで行けるのかやってみたけど、あんまりにもどこまでもつづいてるので、こうりょく橋のてまえであきらめました。

川かぁ。何だろうな。どこまでも続いてるのか。それなら確かに、ついていってみたくなるだろうな。すっごい長い蛇とかかな?

お祖母ちゃんの日記を読んでも、私にはイマイチよくわからない言葉ばっかりで、よくわかりませんでした。こうして私達は、地上での生活をどんどん忘れてしまうのでしょうね。
空に浮かぶ島に住む、私達のような少数民族は。



184.「模倣犯」
「『くりぬき王子』がまた帰ってきました。今度は大宮にある餃子工場です。製造中の餃子の内65%に当たる80万個から中身だけがくりぬかれた模様です。既にその内55万個以上が出荷されているとのことで、製造元は特定の製造日の商品をすべて回収することを発表しました」
ワイドショーをぼんやりと見ているとそんなニュースが飛び込んで来た。何だか体調が優れなくて、会社を休んで横になっていたのだ。どうも身体が軽くなったような気がするのだが、しかし気分は重い。こんな体調は初めてだ。どうしたというのだろう。
「『くりぬき王子』は、一年ほど前までは頻繁に現れていました。関東近郊で窃盗を働いていたわけですが、その手段が奇妙奇天烈でした。なんと、どんなものでも中身だけくりぬいて盗んでしまうのです。これまでにも、コンビニの食品や六本木ヒルズのビルのコンクリート、はたまたとある富豪が所有していた金塊などが、中身だけくりぬかれた状態で発見されました。食料品はすぐに発覚しますが、森ビルの場合、建物の一部が倒壊して発覚、金塊についてもいつ盗られたのか定かではない、というような状況です。その『くりぬき王子』ですが、ここ一年ほどは新たな被害も報告されていませんでした。
今回は、かつてない程大規模なものです。一つの工場丸々ターゲットにするというのはこれまでのやり方とは多少違う気もします。『くりぬき王子』に、何か変化があったのでしょうか」
模倣犯だな、と僕は思った。マスコミが勝手につけた名前ではあるけれども、『くりぬき王子』というのは僕のことなのだ。しかし最近は『くりぬき王子』としての活動はしていない。もちろんその餃子工場の事件も僕の仕業ではない。自分以外にも同じ能力を持っている人間がいるのか、と親近感を持つものの、結局そいつがやらかしたことはすべて『くりぬき王子』の仕業にされてしまうわけだから始末に悪い。まあ僕が『くりぬき王子』であることが発覚するとは思えないから問題はないのだけど。あるいは、『くりぬき王子』の犯行も自分の仕業だと主張したいやつでもいるのだろうか。まあそれならありがたいことではあるけれども。
しかしこの体調の悪さは尋常ではない。身体に力が入らないのだ。それでいて身体は軽いときている。こんな矛盾する感覚も珍しい。今日一日寝れいればいいかと思ったが、やはり不安なので病院に行ってみることにした。
病院では、一通りの問診と簡単な診察を経て、一応レントゲンを撮ってみるということになった。医者が何を想定しているか分からないが、さっさと原因を突き止めて欲しいものだと思う。
しかし、撮影されたレントゲン写真を見て、医者は絶句した。真っ白なライトに照らされて浮かび上がるレントゲン写真を僕も見る。僕には医学の知識はさっぱりない。しかしそんな僕でさえ、この結果には充分驚くことが出来る。
「えーと、内臓がすべてないように見えますね、これは、はい」
医者はそんな風になんとも煮え切らない言い方をした。そうなのだ。僕だってレントゲン写真を見れば理解出来る。内臓はおろか、肋骨何かの骨さえ何一つ映っていないのだ。なるほど、身体が軽いわけである。
「もう一度レントゲンを撮り直しましょうか。機械のミスかもしれませんし。あるいはMRIを撮るという手もありますが」
「いえ、結構です。充分理解しました」
そういうと僕は勝手に診察室を出た。
状況は分かりすぎるほどに分かっている。誰だか知らないが、『くりぬき王子』の模倣犯が僕の内臓を奪っていったのだ。たまたま僕をという可能性はないではないが、しかし僕が『くりぬき王子』であることを知っての狼藉だと考える方が妥当だろう。なんともめんどくさいことをしてくれたものだ。
とりあえず生きている。内臓がなくなっても生きていける仕組みはよくわからないが、このまま放っておいても死ぬことはないような気がする。問題は、さっさと模倣犯を見つけ出さなくてはいけない、ということだ。さてどうしたものだろうか。



185.「最後の人類」
私は、ついに一人になってしまった。
正確な日付は分からないけど、ついこの間父が死んだ。凍てつく氷の上に、氷の塊りを積み重ねて作った住居の中で、父はその寿命を全うしたのだ。
「これでお前が、人類最後の一人だ」
死の間際、父は念押しするかのようにそう言い遺した。私達は、ずっと二人だけで住んでいた。私達はずっと、人類最後の二人だった。二人だけで、この世界の果てのような閉ざされた島に住み、アザラシを食べ、オーロラを見、長いこと語らいながら、もう絶滅することを宿命付けられた最後の人類としての時を過ごしてきたのだった。
しかし、それもついこの間までの話。父を亡くした今となっては、もう私は一人ぼっちになってしまったのである。生きていくノウハウは、父から教わったのでまるで問題はない。一人で生きていくことだって、これまで何度も父に言い聞かされて育ったから、覚悟は出来ているつもりだ。
しかしやはり、人類最後の一人であるということが、じんわりと重圧になってのしかかってくるのを感じる。別に努力してどうにかなることではない。子孫を残すことが出来るわけでも、意味のある記録を残すことが出来るわけでもない。その、最後だというのに何も出来ない自分に対して、苛立ちを隠すことが出来ない。
それでも、最後の人類として気丈に生きていこう。誰に見られているわけでもないけれども、最後の人類として恥ずかしくない生き方をしよう。陽が沈んでいく、見慣れてはいるが幻想的な光景を目にしながら、私はそう決意した。

その頃、別の場所では。

夕食の準備をしていると、郵便受けに何かが届いた音がした。何となく予感がして、料理の手を休めて取りに行く。
「そうか、もうあれから七年か」
届いたのは死亡通知書だった。七年前に旦那が失踪した。法律により、失踪から七年が経過すると死亡したと見なされるのだ。それを通知するものだった。
「結局戻って来なかったわね」
料理を再会しながら、あの頃のことを思い出す。
付き合っていた頃は、ごく普通の人だと思っていた。優しくて変わったことをよく言う人だった。工学系の大学にいたから、機械だのロボットだのっていう話が多かったけど、そういう話も面白かった。
自動車メーカーに就職が決まったのを機に、私達は結婚した。
結婚してからもしばらくは普通だったのだけど、しばらくすると困ったことが起きた。
彼は会社の中でロボットの研究をしていた。その会社は、世界的に有名なロボットを製作している会社でもあったのだ。彼はロボット作りが性に合っていたようで、次第に自宅で自らの設計によるロボットを研究するようになってしまったのだった。彼がそうなる少し前に妊娠が発覚した。彼がロボットにのめり込んでからだったら子どもは出来なかったかもしれないから、それだけが幸いといえた。
しばらくして私は娘を産み、そして彼はとあるロボットを完成させたようだ。
それから彼は失踪した。そのロボット共に。
最後に彼が言っていた言葉は印象的だった。
「僕は最後の人類になりたいんだ」
その夢は、叶いましたか?



186.「殺意」
まただ。どっちの方向なのか意識を集中させる。場所の特定にはもう慣れた。自分の能力に気づいた当初は、これが一番苦手だった。
遠前公園の近くだと分かる。護身用と称して常にバッグに入れているナイフを確認して、僕はすぐさま現場へと向かう。
僕がこんなことをやり始めたのは2年ほど前からだ。正直、もううんざりしている。やりたくてやっているわけではない。しかし、僕にしか出来ない、そう思うと止めるわけにはいかないと思うのだ。
僕には、ある特殊な能力がある。それに気づいたのが3年ほど前のことだった。僕は、人の『殺気』を感知することが出来るのだ。誰かが誰かを殺そうとしている、あるいは肉体的にかなり損傷を負わせようとしている。そういう気配のようなものを察知できるのである。
初めは、その感覚が何なのか全然理解できなかった。でもその内、新聞記事と自分の感覚とのシンクロに気づくようになり、その感覚がやってくるとその方向へ向かうということをやっていたら、理解出来るようになったのだ。
現場に向かいながら僕は考えている。殺す以外の道はないのだろうか、と。殺意を抑える、あるいは減らすという方向にシフトすることは出来ないのか、と。しかし、無理だろう。殺意とはそういうものだ。結局殺意なんてものは、誰かが死ぬまでなくなることはないのだ。
現場につくと、一人の男に目が行った。なるほど、この男が加害者か。とりあえず跡をつけて被害者が誰なのか把握することにしよう。
道の先に、電柱の近くに停めた自転車の傍で何かしている青年がいる。鍵を取り出そうとしえているのか、あるいは盗もうとしているのかわからないが、とにかくピンと来た。被害者はアイツだ。
僕はその青年の元に先回りし、そしてその青年を殺してしまった。
一足遅れてやってきた加害者になれなかった男は、僕の姿を驚いたように見つめていた。
「こいつが誰なのか、僕は知らない」
僕は彼にそう口を切った。
「ただ、お前が殺す必要はない。もうこいつは死んでいる。それでいいだろう」
そう言って僕は立ち去った。相変わらず人を殺しすぎだ。しかし、彼を犯罪者にすることは防げた。それでいいと僕は思う。



187.「方玄様」
仕事を終え、コンビニでカップラーメンを一つ買って家路につく。今日も疲れた。いい加減な上司の下で働くことの不毛さを改めて思い知らされる日々だった。何度辞めてやると思ったか知れない。もちろん、自分にそんな勇気がないこともちゃんと知っている。
ここを曲がれば自宅はすぐそこ、という曲がり角まで来た時、何だかざわめいている雰囲気があった。どうも自宅付近でのことのようだ。火事でもあったかと思ったが、そういう雰囲気でもない。大勢の人が小声で喋っているだけと言った雰囲気である。
怪訝に思いながら角を曲がって驚いた。なんと僕の自宅の前に、100人を超えるだろう人々が集まっていたのである。なんだこれは。家で何かあったというのだろうか。
彼らも僕の存在に気づいたようだ。すると彼らは突然、
「ホーゲン様」
と声を上げ始めた。ホーゲン?もちろん僕はそんな名前じゃない。何なんだ、こいつらは。
すぐそこに自宅があるというのに、そこまでの道のりがとんでもなく遠く感じられた。

「昨日、弥勒様よりお告げがありました」
講堂と呼んだ方がいいくらい広い空間の中に、一様な服装をした人々が大勢座っている。違うのは服の色ぐらいなものだ。彼らは、壇上で喋っている人物に視線を集中させている。
「近い内に、方玄様が下生なさるでしょう」
するとそこかしこで、「方玄様が」「ついに来てくださるのね」「どれだけ待ちにまったことか」という囁き声が聞こえてくる。
「初めての方もいらっしゃるでしょうから、方玄様について説明しておきましょうか。弥勒様が天界で修行されていたことがご存知ですよね?そのお師匠様に当たるのが方玄様です。法滅の世を救うべく、弥勒様の努力もあって、こちちらに来ていただけることになったのです」
会場から、割れんばかりの拍手が起こる。それが静まるのを待って、壇上の人物は話を続ける。
「方玄様は、ある人物の姿を借りて下生なされます。その人物は現在サラリーマンをしていますが、5日後の夜からは方玄様となるでしょう」

「おい、お前ら、どけ」
僕は、理由もよくわからないまま大勢の人間にまとわりつかれている。どうすればいいんだ、これ。みんな、「ホーゲン様」としか言わないし。気持ち悪い。そもそもここにいる連中は目が死んでないか?何かクスリでもやってるのか、あるいは変な宗教にでも嵌まってるのか。どっちにしてもヤバイぞ。ここは一旦逃げた方がいいかもしれない。ただ、自宅がすぐそこにあるのに逃げるなんてバカらしい。警察でも呼ぶか?
あー、しかしイライラする。何で俺がこんな目に遭わなきゃならんのだ。ムカツク。
「いい加減にしろ!」
そう言うと、一瞬静まり返った。おっ、これならいけるかもしれない、と思った矢先のことだった。
「お告げの通りだ!やっぱり方玄様だ」
そう言うと、先ほどより一層僕に近づこうとしてくるのだった。ホント、何なんだ、こいつらは。

「方玄様はあなた方に試練をお与えになります。その様子は、まるでその方が方玄様とは思えないような印象を与えるかもしれません」
人々はその言葉に不安になったようである。
「しかし安心してください。弥勒様は予言されています。方玄様は必ず、『いい加減にしろ』とおっしゃると。であれば、方玄様に間違いないわけです。皆さん、臆することなく、方玄様の教えを請うようにしましょう」



188.「絶対捕まらない犯罪?」
2008年9月6日 全国紙夕刊
『正午ごろ、葛飾区の高橋徹さん宅から、毛皮のコートなど800万円相当が盗み出されました。盗まれたものはすべて毛皮製品のみで、中にはワシントン条約締結前に取引された希少動物の毛皮も盗まれたとのことです。
警察では盗みの手口から、『怪盗毛皮団』の仕業ではないか、としています。『怪盗毛皮団』は半年ほど前から犯行を繰り返しているとされる集団で、盗むものは毛皮あるいは毛皮製品のみという徹底ぶりです。これまでの被害総額は2億円を超えるとみられ、警察では全力を挙げて捜査をしていくとのことです。』

2009年1月30日 地方紙朝刊
『埼玉県さいたま市のある住居に、獣などを数十匹飼っていてうるさいと市に苦情が殺到している模様です。近所の人の話によりますと、住民が飼っているのは、猫や犬などの普通のペットではなく、狐やワニや狸といった、ペットにしては一風変わった動物たちなのだそうです。騒音などの苦情の他に、何故そんな動物を飼っているのかという不安も相次いで寄せられているとのことです。市としては、何度か勧告する予定のようですが、取り締まる法律が明確にないために、頭の痛い話になりそうです。』

2008年3月5日 全国紙夕刊
『『怪盗毛皮団』名乗り出る!?
埼玉県さいたま市に住む男女がこの程、自分達が『怪盗毛皮団』であると本紙に名乗り出てきました。本紙から警察に通報したのですが、彼らは未だ逮捕されることもなく、自宅待機という形になっている模様です。
その最大の原因が、彼らが主張しているその内容です。彼らは、自宅に数十匹の動物を飼っているのですが、警察が盗んだ毛皮製品はどうしたのだと問い掛けると、その動物達を指し示したというのです。彼ら曰く、彼らには特殊な能力があり、毛皮製品を元の生き物に戻すことが出来る、ということでした。彼らは、毛皮にされてしまった動物たちがあまりにも可哀相で、この犯行を思い立った、と主張しています。
捜査員がざっと確認したところによれば、『怪盗毛皮団』に盗まれたとされる毛皮製品と、彼らが飼っている動物の種類が、数も含めてすべえ一致する、ということです。しかし、毛皮製品を動物に戻したなどという主張を受け入れるわけにもいかず、どうしていいか分からない状況のようです。
またこの件に関して、動物愛護団体が次のような声明を発表しています…。』

『怪盗毛皮団』の二人の会話
「絶対捕まらない犯罪をやってやろうぜ」
「どうするの?」
「まず毛皮製品を盗みまくるんだ。まあこれは、ただの窃盗ってやつだな。俺らの得意分野ってわけだ」
「オッケー。それで?」
「その毛皮を売りさばいて、今度はその毛皮製品の元だった動物を買うんだよ。んで、それをしばらく飼う」
「よくわかんないけど、それで?」
「後は簡単だ。俺らが『怪盗毛皮団』ですって名乗り出ればいい?」
「何でそれで捕まらないわけさ?」
「いいか。最も重要なのは、こう主張することなんだ。俺らは、毛皮を元の動物に戻す特殊な能力を持っている。盗んだ毛皮は、今ここにいる動物に変えてしまったんだよ、ってな」
「なるほど!それは面白いかもね!私乗った!」



189.「吸血鬼」
一週間で五件。まさに異常だ。
また、あの死体が見つかった。
今から一週間前神保町で見つかったのを皮切りに、池袋、品川、目黒、御茶ノ水というように都内のあちこちで同じような死体が見つかっている。異常な連続殺人。このハイペースでこれだけの猟奇殺人を繰り返す犯行はそうはない。マスコミにも大きく騒がれている。何とか早期の解決を目指さなくてはいけない。
全身の血が抜かれているのである。
マスコミでは、吸血鬼やチュパカブラの仕業ではないか、なんて煽っているところもあるようだけど、そんなわけがない。どの死体にも、きちんと注射針の痕が残っている。もちろん、人間の仕業だ。
当初捜査は楽観視された。現場に遺留品がやたら残っていたのである。これは犯人を捕まえるのにそう時間は掛からないだろう。そう誰もが思ったに違いない。
その認識は、今でも変わらない。恐らく我々は、少しずつ犯人に近づいているはずだ。もうそろそろ網に引っかかってもおかしくはないだろうと思う。
しかし犯人は、我々の予想を遥かに超えるスピードで犯行を繰り返した。まさか誰も、この異常な犯行が一週間で五件も続くとは思っていなかった。すぐに捕まえられるだろうという認識は、すぐに捕まえなくてはいけないという認識に改まった。
しかし、その動機については未だに見当もつかない。被害者の血液型がすべてO型で共通しているので、恐らくO型の血が必要だったのだろう。輸血に?それとも、何らかの儀式に?まあこれは、犯人を捕まえてから問いただせばいいだろう。

「で、何であんなことをしたんだ?」
マスコミに『吸血鬼殺人事件』と名づけられた事件の犯人がようやく捕まった。結局、3週間で14人もの人を殺した。過去類を見ない、大量殺人だった。
「O型になりたかったんです」
男は、そう弱々しく言った。
「O型の血を飲めば、O型に変われるんじゃないかって思って」
「…なんてバカなことをしてくれたんだ…」
刑事のその呟きは当然だった。
「君は自分の血液型をB型だと思っているかもしれないが、本当はO型なんだよ」
男がしていたことは、すべて無駄だった。それに気づいた男は、ようやく自分が何をしたのか自覚したかのように、大声で泣き始めた。



190.「メグネック」
「羨ましいよねホント」
「え、何が?」
「だって昔は、少子化だったわけでしょ?」
「まあそうだけどね」
「何人子供を産んでもよかったわけだ」
「まあ別にそう言われていたわけではないだろうけど、実質的にはそうだろうね」
「それに引き換えだよ」
「今は不自由だって?」
「だってそうじゃない?子供は一人しか産めないんだよ」
「私は、まあ一人でいいかなって思うけど」
「嫌だよぉ。出来ればたくさん子供産んでさ、わいわいがやがややりたいじゃん。ったくもぉ、何さ、一人っ子政策って」
「ちょっと声デカイ。先生に見つかっちゃうよ」
「分かってるって。でもさ、理不尽だわよね。何でそんなこと国に決められにゃならんのだろうね」
「まあしょうがないんじゃない。ほら、昔は中国だってそういうのあったって言うし」
「そういう問題じゃないよねぇ。中国がなんだってのさ。問題は、日本、ジャパン、あたし達なわけよ」
「まあでもそうがないって。嫌ならアメリカとかにでも行ったらいいよ」
「おお、何と冷たい。フレンドとは思えない言い方だなぁ」
「まったく、大げさなんだから」
「でもさ、メグネックって知ってる?」
「メグネック?何それ?」
「ホントに知らないの?あんた、女なんだからそれぐらい知ってなさいよ」
「知らないものはしょうがないじゃん」
「今、子供を産んだ女性の間で流行ってるのよ。知らないかなぁ。ほら、首にさ、目薬の容器みたいなの下げてる人見ない?」
「あぁ、いるかも。あれがそうなんだ。何あれ、ダサ、って思ってたけど」
「あれね、実は受精卵が入ってるって噂だよ」
「は?受精卵?何の?」
「人間のに決まってるでしょうに。っていうか、それをつけてる女性の受精卵だよ。出産の終わった女性には、排卵が止まる薬が渡されるっていうでしょ?でね、その薬を飲まなきゃいけなくなるまえに卵子を一個保存しとくの。で、旦那の精子と掛け合わせて、受精卵にするんだって。それを常温で保存する技術がちょっと前に開発されたとかで、みんなそれを目薬のケースに入れてるってわけ。それがメグネック」
「ふーん。ちょっと異常な感じするね。何でそんなことするわけ?」
「そりゃあ、一人っ子政策が解除されたらすぐ子供が欲しいから、とかじゃないかな。あとは、何となくお守りみたいなね」
「そもそもさ、何で目薬の容器に入ってるわけ?」
「それについてはさ、いろんな説があるらしんだけど、正確なところは誰も知らないらしいんだよね…」



191.「誘拐」
「お宅の娘を預かった。1億円を用意しろ」
その電話が掛かって来たのは、優子が誘拐されてから2時間後のことだった。
デパート内でのことだった。優子を連れておもちゃ売り場にいたが、ほんの数秒目を離した隙に、優子の姿は消えていた。それから自宅に戻り、ずっと連絡を待っていた。警察には連絡しなかった。連絡するはずがなかった。
(すべては順調に進んでいる。何も問題はない)
1億円用意する気はまったくなかった。そもそもそんな金があるはずもない。犯人からの連絡にはきちんと用意すると伝えたが、それは単なる時間稼ぎにすぎない。
(大丈夫だ。必要な手手はずはすべて整えた)
俺には自信があった。立てていた計画は、すべて順調に進んでいる。一番問題なのは、どれだけ時間稼ぎが出来るだろうか、という点だ。しかし、何とかなるだろう。1億円用意するのに時間が掛かることぐらい、犯人にだってわかるはずだ。
(さてそろそろこちらも動き出すか)
俺は公衆電話へと向かった。電話を掛けるべき相手は、俺からの連絡を今か今かと待ちわびていることだろう。その不安を煽ることも、計画の一部だった。
公衆電話で、相手の番号を押す。
「お宅の娘を預かった。1億円を用意しろ」
「優子は、優子は無事なの?」
母親らしき人物が金切り声を上げているが、無視して電話を切った。受け渡し方法などは、また連絡をすればいい。
俺の娘、レミが誘拐されるかもしれない、という情報を掴んだのは1週間前だった。それはまさに偶然だった。付き合いのあるバーのマスターが、店内でこんな話をしていた、と教えてくれたのだ。人目のあるところで誘拐の話などしているバカな誘拐犯で助かった。
それから俺は考えた。レミを完全に守りきることは不可能だ。だったら、別の娘をレミだと思わせて、誘拐させればいいのではないだろうか?
誘拐犯の動きを追うのは生半可なことではなかったが、どうにか決行日を知ることが出来た。それと同じ日に、レミに似た少女を自分で誘拐することに決めた。それが優子だ。デパートで優子を誘拐してすぐ、優子はまた別の誘拐犯に誘拐されることになった。
本来なら、優子の両親に身代金を要求する必要はない。しかし、行きがけの駄賃だ。しかも、優子がもし殺されるようなことがあっても、俺とは関係ない。計画は完璧だ。もし困ったら、身代金は諦めればいい。
俺は何よりも、レミを守れたことが何よりも誇らしかった。



192.「映画化」
担当している作家の作品に映画化の打診があり、今日はその打ち合わせだ。僕の隣には、「飛鶴」の作者である蓬田蓬莱。そして僕の前には、西宝の西条西太が座っている。
「はじめまして」
「どうもはじめまして。いや、こういうのは初めてでしてね。もう10年近く書いてますけどね、まさか自分の作品に映画化の話が来るとはね」
「先生の作品は、実はほとんど読んだことがなかったんです。お恥ずかしい限りですよ。しかしですねこの間、友人の一人が面白いって薦めてきましてね。そいつの趣味は僕と合うんですよ。それで初めて手に取ってみた次第でして。そしたらこれが面白いのなんのって。空き時間に公園で読み始めたんですけどね、文字が読みづらくなったなって思ったら、すっかり夕方でしたよ。慌てて仕事に戻りましたけどね」
「嬉しい限りですなぁ。最新作はまだ出たばっかりなのでね、読者からの反応というのがまだイマイチよくわからなかったりするわけなんです。だから、映画化がどうとかって話を抜きにしてもね、こうして一読者の感想を直に聞けたっていうだけでもう素晴らしいですよね」
「映像にするには完璧な作品だと思うんですよ。もう既に脚本家の目星もつけてましてね。ほら、『夏のベイブにおさらばヨ』ってドラマ知りません?あれの脚本を書いた松並松一なんですけどね」
「知ってますよ!ダブマツさんが書いてくれるんですか?それはすごい!」
「もう打診はしてましてね。映画化の話はまだ本決まりじゃないって伝えてはいるんですけどね、小説を読んだらこりゃあすげぇって言ってましたよ。ストーリーは多少いじくるかもしれないけど、こりゃあいい映画になるぞなんて言ってましてね」
「それは楽しみですね。ストーリーは、いくらでも変えてもらって結構ですよ。小説は小説、映画は映画ですからね」
「やっぱり主人公のキャラクターが柱になりますからね。どこにでもいそうな平凡な主婦でありながら、実はマフィアのボスっていうところをいかに活かすかっていうところですね」
「ほほぉ、なるほど。そういう風に持っていきますか。主人公は実はマフィアのボスだったという設定にするわけなんですね」
「いやいや、元々そういう設定じゃないですか。そこに、未来からタイムスリップしてきた、将来の自分の夫だという男がやってくる。彼が告げた衝撃の事実に、マフィアのボスは揺らいでいく…」
「なるほどなるほど、大胆ですな。タイムスリップまで組み込みますか。自分の原作からどういう映画が生まれるのか、これは楽しみですなぁ」
「あっ!」
と声を上げたのは僕だ。それまで二人のやり取りを聞いているだけだったが、ここでとんでもない思い違いに気づいたのだ。
西宝の西条からの電話を受けたのは、文芸部の上司である財部だ。彼から、「『飛鶴』に映画化の打診だよ」と言われたのだ。そこで早速打ち合わせのセッティングをしたのだった。
しかし、原作者とプロデューサーの会話はまったくかみ合っていない。それもそのはずである。恐らく財部が聞き間違えたのだ。映画化を打診されたのは、同じくウチの出版社が出している『トビジル』だったに違いない。プロデューサーの語る話を聞いていると、間違いないだろう。
さてこの場をどうするべきだろうか…。僕は背中に冷や汗をかいているのを感じていた。



193.「天才と呼ばれた医学生」
横溝哲一は、東南大学医学部で、天才と呼ばれていた。
(まさか俺が天才と呼ばれる日が来るとはな)
哲一は、毎年そう思っていた。
哲一は、昔から勉強のあまり出来ない子供だった。もちろん、天才などと言われたことはない。高校一年の時わけあって医者の道を目指すことになり、一念発起して必至の勉強に取り組んだものの、結局潜り込めたのは、新設五年目という県立大学の微妙な医学部だけだった。教養学部での二年間も、サボりにサボって麻雀に明け暮れていたのだ。
そんな哲一が天才と呼ばれる日が来るなどと、誰が予想できただろうか。
しかし、そう呼ばれても哲一には喜べるわけもない。結局はどうもならないことなのだ。自分が天才になってしまったのはある種の必然であり、そしてそこからは決して抜け出すことが出来ないのだ。
哲一は何をやらせても完璧だった。解剖の手さばきは、教授並にうまいと評されていたし、試験はほとんどどれも満点だった。教授らも哲一の秀才さには目を配っていて、自分の医局に引っ張ろうとする動きが盛んにある。
しかし、無駄なのだ。哲一は諦めきっていた。どうせ医者にはなれないのだ。
卒業試験を終え、医師国家試験にも合格し、卒業後の進路もとりあえず決まったその日。哲一にとっては忌まわしい日だった。この日を越えられさえすれば、後は素晴らしい人生が開けているはずだ。しかし、どうせ無理だろう。
午前11時32分。いつもの時間まであと1分。哲一は、この無限に続くループについて考えずにはいられなかった。
そして時間になった。
哲一は、自分がまた、大学一年に戻っていることに気づく。やっぱりかぁ。どうしてもこの無限ループから抜け出せない。
哲一は、あと少しで医者になれるというタイミングで過去に戻ってしまう。大学一年の時間まで遡ることになる。もうこのループを36回繰り返している。そりゃあ、天才にもなるというものだ。また一からやり直しか。まったく、どうやったらこのループから抜け出せるというのだろうか。



194.「9坪ハウス×5」
我が家の周囲を取り囲むようにして、5軒の家がほぼ同時に建った。見た目も大きさもほとんど同じ一軒家である。何がすごいって、その建坪がわずか9坪なのである。9坪なんて言われても全然想像つかないが、しかしとにかく狭いというのは確かである。
5軒同時に建ったのを境に、ほぼ同時に5組の家族が引越しの挨拶にやってきた。初めの内はただ適当に挨拶をしていただけだが、最後の一組の時、やはり気になって聞いてしまった。
「どうして同じような家が5軒も建ったんですか?」
「あぁ、あれはね、何かあった時にロボットになるんだ」
父親らしき男性は、真顔でそう言った。冗談を言っている風でもない。
「ロボットですが。それはすごいですね。でも、何かって何ですか?」
「少なくとも3年以内にハルマゲドンが起こるとアビダル様が仰ってるんです。そのための準備ですね」
激しく危なそうだ。つまり宗教ってことだろう。大丈夫かなぁ。
「そうなんですか。でもちょっと信じがたいですね」
「何なら今ちょっと合体してみましょうか?」
合体って…。何とか戦隊じゃないんだからさ。でも見せてくれるというなら見せてもらうことにした。
しかし、彼らが準備を進めている間ふと思った。5軒の家は私の家を取り囲むようにして建っている。もし本当にロボットに変身するとして、私の家は大丈夫だろうか?
そこのところを聞いてみると、
「えぇ、もちろんお宅の家は木っ端微塵になりますけど」
と平然と言われた。
私が中止を宣言したのは当然の判断である。



195.「視聴率」
今ならはっきりと断言することが出来る。あの頃の自分はどうかしていたのだ。悪魔に魂を売り飛ばしてしまった。そういう表現が正しかったのだろうと思う。血迷っていたし、正常な判断が出来なかった。ただ、長年の夢を叶えたい。ただそれだけのためにあんなことをしてしまったのだ。
私はワラテレビというテレビ局で、主にバラエティ番組のプロデューサーをしている。今でも一応プロデューサー業だが、しかし今ではもはやその価値はないと言っていいだろう。
私は、高視聴率番組をいくつも手掛けてきた。「鬼がトレントブッチャーマン」「回して廻して舞わして」「トラテラモラ」「遅いぞ鉄平!三段跳び」などは、多くの人が知ってくれているのではないかと思う。どれも、年間平均視聴率39%以上、最高視聴率46%以上というお化け番組である。
しかし、私は満足出来なかった。
もし私が、視聴率20%代のごく普通の番組ばかり手掛けていたら、そんな風には思わなかっただろう。しかし私は、手掛ける番組どれもが高視聴率だった。だから私は、もっと上を目指したい、もっと視聴率を取りたいという妄念に取り付かれていったのである。
そんな時だった。あの悪魔に出会ったのは。未だにあいつが何者だったのか、私にはわからない。しかし、本当に悪魔だったのではないか、と思うこともある。私は悪魔に魂を売り渡してしまったのである。
そいつは私にこう持ちかけてきた。
「ありえない視聴率を君に取らせてあげるよ」
私は、その言葉を信じた。ただ信じたかっただけだが、長年の夢を叶えてくれるという相手に出会って舞い上がってしまった。
そいつは、どんな計画を立てているのかまるで教えてくれなかった。細かな仕事や指示を出されるだけで、全体像が把握できなかった。恐らく、私以外にも数多くの助っ人を抱えていたのだろう。そういう人間に分業させることで、計画全体を進行させたに違いない。
だから初めそれが起こった時も、自分が関わっていることと関係があるなんてまるで思いもしなかった。
6年前の9月17日、日本にある、私がいたテレビ局を除くすべてのテレビ局が爆破された。惨劇は一瞬にして同時であり、ダイナマイトによるものだと後で判明した。
細かな情報が入ってくるようになり、そうやく私はあいつが考えていたことを理解することが出来た。確かに、テレビ局が一つしかなければ、視聴率はものすごく高くなることだろう。確かにあいつは嘘を言ってはいなかった。しかし、そんな風にして手に入れた視聴率にどんな意味があるというのだろうか。
私は、唯一残ったテレビ局で、今も番組を作っている。私の作る番組は、平均視聴率が85%を超える。しかし、仕事へのやりがいはほとんどなくなってしまった。



196.「船」
その船は、空も飛べたし、陸も走れたし、もちろん水の上も進むことが出来たという。地球上のどんな場所にだって行くことが出来た。
ただその船は、どうしても湖だけには入りたがらなかった。後に船はこう語った。一度入ったら出られなくなってしまうような気がするんだ、と。



197.「地図配り」
こうして街中で地図を配っていると、あの頃の記憶がまざまざと蘇ってくる。ちょうど30年前、僕はあの地図を受け取ったのだった。
大学受験がちょうど終わって、解放感に浸っていた時だった。まだ合格できるかわからないけど、これまでの自分にお疲れさまみたいな意味で、何か旨いものでも食べて帰ろうかなと思ってブラブラしていた時のことだった。
初めはそこまで意識しなかった。ただのティッシュ配りだと思ったのだ。もらうとももらわないとも決めずに、というか本当に特別意識なんてせずに、でもその男の方へと向かっていった。
そして差し出されたのが地図だったのだ。
それは、地図帳の1ページを強引に破いたもののようで、僕がもらったのは北海道全域の地図だった。
何だコリャ、と思った。地図なんか、それも遠く離れた北海道の地図なんかもらっても、嬉しくもないし使い道もない。ただ、その時は受験が終わって機嫌がよかったのと、行こうと思っていたファミレスがもうすぐそこだったのとで、深く考えることはしなかった。持っていたバッグにしまう直前、地図の端っこに「10950」って数字が書かれていたけど、それもそこまで気に止めなかった。
翌日、バッグの中でぐちゃぐちゃになっていた地図を取り出した。もはやゴミにしか見えなかったが、地図に書かれていた数字が「10949」になっていて僕は驚いた。昨日は「10950」じゃなかったっけ?カウントダウンしてる?でも一体何を?
そんなわけで、何となく気になった僕は、それからその地図をずっととっておくことにしたのだ。
それから30年後。
毎日地図上の数字は一つずつ減っていき、そして30年後ちょうど0になった。と同時に、地図上にあるマークと文章が浮かび上がったのだ。
『ここに宝がある』
もちろん僕だって信じたわけじゃない。けど、本当にちょうど絶妙なタイミングで北海道に行くことになっていた。結婚20周年の記念に、息子が旅行をプレゼントしてくれたのだ。予定では、地図に示された付近には行かないが、その辺の変更はなんとかなるだろう。どうせだからちょっと寄って見よう。別に何もなくたって損するわけでもないし。
旅行の途中、地図上の場所を訪れると、何か勘が働いて足が勝手に動き、それを見つけ出してしまった。電話ボックスを二つくっつけたような大きさの箱が、人目につかないように絶妙に隠してあったのだ。
内部には、一枚の紙切れと、そしてたくさんの地図。
『おめでとう。これはタイムマシンだ。君に贈呈しよう。しかし一つだけお願いがある。30年前に戻って、そこにある地図を配ってもらいたい。よろしく頼む』
だから僕は今地図を配っている。もしかしたら、30年前の自分に会えるのだろうか、と思いながら。これが終われば、後はタイムマシンは自由に使っていいのだろう。どこへ行こうか。何だって出来るじゃないか。しかしまずは、妻を引き入れないとな。あいつは信じてくれるだろうか。



198.「バスケットボール」
「面白いバスケ考えたんだ」
「何だよ、唐突に。面白いバスケ?」
「そうそう。名づけて『竹馬バスケ』」
「はぁ。何だそりゃ?」
「名前の通り、竹馬に乗ってバスケするんだよ」
「んじゃ手が塞がってるじゃんか」
「あぁ、そうか。いや、大丈夫大丈夫。ほら、下駄みたいなのを想像してよ。歯の部分がさ、異常に長いみたいな。それなら手も使えるでしょ」
「まあね。それで?」
「ゴールをね、無茶苦茶高くするわけ。3メートル以上は欲しいね」
「なるほど、それで竹馬だと」
「そうそう。竹馬ってさ、高ければ高いほど動き難くて不利でしょ?けどね、得点に秘密があるわけ?」
「ダンクシュートだと点が高いとか?」
「そう!まさにその通り!普通のシュートやスリーポイントシュートは同じだけど、ダンクシュートだけ得点が10点なんだ。これで、竹馬を高くしてダンクを狙うか、竹馬を低くして安定性を狙うかっていう戦略が生まれるわけだな」
「なるほどなぁ」
「しかも、床に足がついたら反則で点がどんどん減ってくんだよ」
「斬新だね。球技で減点方式なんて、これまでなかっただろうからね」
「だろ。結構面白そうだと思わないか?」
こうして、背の低い二人は、自分達には不利なスポーツであるバスケットボールをいかに楽しもうかと日々妄想しているのである。



199.「浮遊」
それは突然の出来事だった。
雨が降りそうな嫌な天気の中、僕は遅刻すまいと学校に向けて必至でペダルを漕いでいた。このまま行けば、ぎりぎり間に合うか間に合わないかという時間。とにかく飛ばすしかない。
そうやってめったやたらにペダルを漕いでいる時だった。身体がふっと軽くなる瞬間があって、それから僕の身体は自転車毎宙に浮いていたのである。
マジかよ!
ちょうどそのタイミングで雨が降ってきた。何だか知らないけど、宙に浮いてはいるけど、ペダルを漕げば前に進む。とにかく遅れないようにと必至だった。
ほとんど学校近くになると、よくわからないけど僕はまた地面に戻った。
もちろん僕はクラスメイトに自慢した。
「空飛ぶ自転車を手に入れたんだ!」
もちろん皆信じようとはしなかった。しかし僕を嘘つき呼ばわるする奴もいなかった。僕は普段真面目な人間なのだ。そんな僕が突然おかしなことを言い出したので、みんな戸惑っているように見える。
僕は嘘じゃないことを証明しようとした。外じゃあまだ雨は降ってるけど、そんなことは関係ない。僕は濡れるのも構わず外に飛び出して、自転車にまたがった。しかし、漕げども漕げども宙に浮く気配はない。
みんなは優しい言葉をかけてくれた。夢でも見てたんだって。ちょっと疲れてるんじゃないか。そんな風に言われる度に、僕は自分が嘘つきになってしまったみたいで悲しくなった。
どうして飛べないんだろう。っていうか、何であの時は飛べたんだろう。
次の日。僕は何だか自転車に乗る気になれなくて、ちょっと遠いけど歩いていくことにした。っていうか天気もいいし、ちょっと走っていこうかな。風を切って僕は走る。
すると僕の身体はふわりと浮かんだのだ。
僕はそれからもいろいろ考えて研究した。その上で友達を家に呼んでみることにしたのだ。
実験は扇風機の前で。自分の前髪を扇風機の風に当てる。
すると僕の身体はふわりと浮き上がったのだ。前髪が風でなびくと浮く。僕はそういう身体になっていたようである。



200.「99%探偵」
「99%探偵って知ってる?」
「何それ?ドラマとか?」
「じゃなくて。ホントにいる人みたいなんだけどね。的中率が99%を超えるんだって」
「的中率って何が?」
「だから、よくマンガとかであるでしょ?殺人事件とかが起きてさ、『犯人はこの中にいる!』ってやつ。現実にそういう探偵さんがいてね、しかもほとんど間違わないんだって」
「へぇ、すごいじゃん。じゃあその99%探偵がいれば、警察なんてもう全然いらないよね」
「そのはずなんだけどねぇ。でもさ、そんな探偵がホントにいたらさ、もっとニュースとかにバンバン出てきてもよくない?」
「何それ?じゃあホントはいないの?」
「わかんないんだってば。どうなんだろう。ホントにいるのかなぁ、99%探偵」

その頃、99%探偵は。

「犯人はこの中にいる」
99%探偵は声を張り上げた。
「犯人は、二人の人間を殺し、その後発見を遅らせる目的で密室状態を作りだし、またさらに3人を殺害しその死体をバラバラにした。どちらの犯行においても関係者全員にアリバイがなく決め手に欠けていたが…(中略)…、だから、犯人はお前だ!」
そう言って99%探偵は一人の男を指差す。
その男は、腰縄をつけ、裁判長の前に正対している。
被告人である。
そして、99%探偵は、その被告人の弁護人である。
99%探偵は、ミステリー小説が大好きだった。いつか自分も探偵になって、事件をバンバン解決したい、そんな風に思っていたのだ。
しかしもちろんそんな風になれるわけもなく、彼は弁護士になった。しかし彼は、自分の希望を満足させる方法を思いついたのだ。
それが、法廷で探偵ごっこをするということ。
法廷には被告人がいて、その被告人がほぼ間違いなく犯人である。だからこそ彼は、「犯人はこの中にいる」と宣言して探偵の真似事をするのだ。そりゃあほとんど当たるというものである。何せ、日本の有罪率は99%を超えるのだから。
彼は優秀な弁護士であり、この法廷での奇行を差し引いても依頼したいと思う人が多い。裁判所としても、さして重大な問題でもないから放っておいている。
今日も99%探偵は、ほぼ間違えようのない犯人指摘をし、満足したのであった。



201.「とある物理学者の告白」
「いつでも、僕にはそれが見えました」
ある一人の物理学者が、最晩年に残したあるインタビューである。その冒頭でその物理学者はそう語りだした。
「私は昔から視力に問題があった。私の両親は、私の視力が弱いのが原因だと思い、眼科に行ったり適切なメガネを求めたりと奔走してくれた。しかし、状況は一向に改善されなかった」
その物理学者は今、世界中から大いに注目を集めている。その特殊な視覚そのものにも注目が集まっているが、しかしそれ以上に、その視覚によって見えるものの方への関心の方が強いだろう。
「病院にも何度も通わされたけど、原因はまったく分からなかった。あらゆる検査をしたけど、機能的には何の問題もなかった。その内、精神的な問題かもしれないと両親は考えたのだろう。カウンセラーや精神科医と話す事も多くなっていきました」
その物理学者が見ている光景は、他の人間には決して見ることが出来ないものだ。彼が本当にそういう光景を見ているのかどうかも、ほとんど確かめようがない。それでも、彼が嘘をついているように見えないこと、そしてその理由がまったく見当たらないことを根拠に、多くの物理学者が彼の話を信じようとしている。
「私にも、初め何が起こっているのかまったくわかりませんでした。私には、何かが見えていた。しかしそれは、他の人が見ている光景ではないようだったし、何よりも日常生活に意味のある光景ではなかった。今でも私には、鉛筆や夕陽や人間と言ったものはまったく見えません。そういう意味で私は失明していると言っていいでしょう」
物理学は大いに期待しているのだ。これまで謎だった理論が、彼によって進んでいくのではないかと。
「その内物理学を学ぶようになり、私は自分が見ているものが何なのか分かるようになっていきました。要するに私の視覚は、顕微鏡のようなものだったわけです。倍率が極端に大きく、極限的に小さなものしか見えない。そういう眼だったのです。
私に見えていたのは、ひも状のものが振動している様子でした。それは、すべての粒子はひもの振動によって説明できるとするひも理論を目の当たりにしているということだと私は思いました。
ただ私は、このことをこれまで誰にも言いませんでした。言って信用されるとは思わなかったからです。私はもう老い先短い。今なら、私の発言がどう受け取られようと後悔はしないだろう。もしかすると、私の発言によって、理論に何か新たな展開があるかもしれない。そう期待したいと思う」
彼のインタビューから10年後、まさに彼の発言をきっかけとして研究が加速したことで、ひも理論は正しいものとして公に認められることになった。



202.「占い師の招待」
ある占い師の助言を受けて、Z県まで旅行に来た。一人旅なんて学生時代ぶりだろうか。失恋の痛手を癒したい、そう占い師に告げると、ここに来ればいいと言われてやってきたのだ。
そこは、旅行会社に行ってもパンフレットすら存在しないような、観光的にはまったく何もないところだった。周りは田んぼか畑かあるいは山。神社やお寺があるわけでもなく、海水浴や潮干狩りが楽しめるわけでも、紅葉狩りやハイキングが出来るわけでもなく、観光名所になるようなものもまったくないところだった。そもそも泊まれるような場所も限られていて、行ったところで何をするというわけでもなく時間を過ごすしかないような場所だった。
当然観光客の姿なんかないだろうと思っていたのだけど、しかしそれは大いに間違いだったと言わざるをえない。行く場所など何もないはずの土地を、観光客らしい人々がたくさん歩いているのだった。いつの間にここはそんなに有名な観光地になったのだろうと、私は不思議な気分になった。
まあいい。何もないところをブラブラ歩いているだけでも充分気が晴れるし、それに占い師がここが良いって言ってくれたんだから、たぶん間違ってはいないんだろう。あそこに田んぼで農作業をしているおばあさんがいる。飛び入りで手伝ったりしたら迷惑かな?

僕はZ県の役所で働いていたのだけど、どういうわけか今は東京にいる。何でこんなことになったんだろうか。
Z県の役所内にある観光課では、どうしたらこの県に観光客を呼べるかという議論をよくしていた。もちろんいい案が浮かぶわけもない。そもそもこの県には、観光の目玉に出来るようなものが何一つないのだ。
そこである職員が奇抜なことを考え出した。
「占い師に扮して、この県に人を呼んだらどうだろう」
何故かその案が採用されて、そして何でか知らないけど僕が東京に出て占い師の真似事をする羽目になった。
初めの内はふてくされていた。こんなの、役所の人間の仕事じゃないだろ、と。来てくれた人におざなりに相手をして、そして最後に、Z県に行くといいですよ、と付け加えるだけの適当なことをずっとやっていた。
しかし、何が幸いするのか分からない。いつしか僕の占いは評判になっていたのだ。よく当たる、なんて紹介されることが多いんだけど、みんなどんな勘違いをしてるんだろう?
今では僕は人気占い師として注目されている。一応義理でZ県への案内は続けているけど、別にもう止めてもいいかなって思ってる。占い師として食っていく方がお金になりそうだしね。



203.「コアiPS細胞」
自転車は昔、金属で出来ていたのだという。今となっては想像も出来ない。金属なんかで出来た自転車に乗って、何が出来たというのだろう。痛くなかったのだろうか。自転車と意思の疎通など出来なかったことだろう。改めて、技術の進歩というものは素晴らしいものだと思わされる。
iPS細胞という、どんな種類の細胞にでも出来る細胞が発見され、その実用化に様々なアイデアが考えられた。初めの内は主に移植に使われることになったが、ある時ドイツのある企業が、iPS細胞から発展させたコアiPS細胞というものを生み出した。これは特殊な方法で細胞に設計図を読み込ませることで、あらゆる機能や形態を付与させることが出来るという新しい技術だった。
さっそくこのコアiPS細胞は、工業製品に使われるようになった。一番初めに取り入れられたのはパソコンだった。これまでの、入力されたことしか出来ないものではなく、自分で考え判断を下す、人間の脳に近い形のパソコンを設計することが可能になったのだ。
それ以外にも様々な工業製品に応用されるようになった。より直感的に運転の出来る車や、常に最大効率を目指し、ロスを極力減らすように自ら作業効率を調整できる工業機械など、その応用範囲は広かった。
さらにコアiPS細胞は、スポーツの世界にも使われるようになっていった。選手の直感を反映するスパイクや、空気抵抗を自動的に最小限に抑えるユニフォームなどに使われた。
そして自転車競技にも取り入れられるようになったのだ。自転車そのものがコアiPS細胞によって設計されるようになった。これにより、マシンと選手がより一体となり、マシンがまるで身体の一部であるかのように扱えるようになっていったのだ。
しかしこのコアiPS細胞には、一つだけ大きな欠点があった。それは、コアiPS細胞が発見され、工業的に広く応用されるようになってから40年近く経ってからわかったことだ。
それは、コアiPS細胞によって設計された工業製品は、癌を発病するということだった。生体細胞を使用しているので確かにそうなる可能性を予見することは出来たかもしれないが、しかし世界中の科学者にとってはやはり予想外の出来事だった。
コアiPS細胞が使われたものすべてが発症するわけではもちろんない。その発生率は、一説には3%以下だと言われている。しかし、自分が使っているパソコンや車が癌になるというのは、やはり感覚的に理解するのに時間が掛かったものだ。
僕が乗っている自転車も、癌に掛かってしまった。今では、製品癌保険も充実しているし、その保険を使って新しいものを買い換えてしまえばいいのだ。しかし、どうにもそれが出来なかった。壊れてしまったのなら諦めもつくが、癌になったというだけのことだ。今ではこの自転車は、僕の身体の一部と言ってもいい。どうせなら闘ってみようか。僕は今そんな風に思っている。コイツと一緒に癌を乗り越えて、またレースで優勝するんだ。



204.「奇跡の落語」
「いやァ、驚いたなんてェもんじゃないよ。まさかあんな落語があるとはねェ。お前さんも聞きに行ったらどうだい」
芸事に関する批評眼ではここいらでは定評のある呉服屋の親爺が、そう言って触れ回っているのを私も聞いた。彼は、とある落語を聞きに行って、心底ほれ込んだというのだ。まだ二ツ目になったばかりの男で、それほど名もしられちゃァいないが、しかしどうしたッてその内騒がれることになるだろうさ、と言う。私もそれなりに落語を楽しむ方だ。そこまで言われちゃァ聞きに行かない法はない。というわけで早速私は、百遊亭百舌の寄席を聞きに行くことにしたのだった。
その日の真打ちは、当代一の名人と謳われたべん生で、さすがの人気にあと少しで客留めとなるほどの大入りであった。大勢の人が方を寄せ合って同じものを待っている。その感覚が私は好きだった。
前座のあと、百遊亭百舌が出てきた。どことなく優男風の頼りない容貌をしていて、落語家というよりは金持ちの坊ちゃんという感じだった。さてどんな落語を聞かせてくれるのだろうか、と期待して待っていた。
しかしこの百遊亭百舌は、席が始まってからというもの一向に喋りはしないのだ。視線をあちこち移したり、あるいは手を動かしたりしているのだけど、口はいっかな開かない。
しかし一方で、客席からちらほらと、「えっ」とか「なんだこりゃ」という声が上がっている。それは、喋り出さない落語家に対する避難という風ではなく、純粋な驚きから出るもののようだったのか。何が起こったというのだろう。相変わらず私には、喋らない落語家が目の前に座っているだけだ。
しかし、私もある瞬間に「えっ」という声を上げずにはいられなかった。
なんと、落語が聞こえてくるのだった。
目の前にいる百遊亭百舌は、口を開いていない。大道芸に腹話術というのがあるそうで、それは口を開かなくても喋ったりすることの出来る芸であるようだが、それともまず違う。何故なら、その落語は耳から聞こえてくる感じではなかったのだ。なんというか、頭の中に直接響いてくるような、そんな不思議な感覚だった。
どうなっているのかわからなかったが、確かにすごい落語だった。恐らくだが、彼の身振り手手振り、視線の動かし方、あるいはちょっとした表情の変化によって、脳の中のどこかが刺激されるのではないか。それによって、私の脳が勝手に物語を生み出しているのだ。となれば、客席にいる全員が違う落語を聞いている、ということになるのかもしれない。落語は出来るだけ言葉を削って客に想像させるのがよい、と聞くが、確かにこれはその究極の形だった。
後で聞いた話であるが、百遊亭百舌は喋ることの出来ないらしい。なるほど、聾唖の落語家か。すごい男が出てきたものだ。



205.「作家の苦悩」
「山平先生、ホントいつも原稿早くて助かります!」
喫茶店でいつものように打ちあわせを始める前のこと。担当編集者は、相変わらずいつものようにそう言って僕を喜ばせようとする。
僕も、喜んであげているフリをしてあげるのだ。
別に嬉しくなんかない。そう言ってあげてもいいのだが、まあこれも仕事だと思えばいい。
「まあ大したことじゃないですよ」
「いつも聞いてるような気がするんですけど、どうやってそんなに物語を思いつけるんですか?」
そんな聞かれても、答えようがない。だからまあ、いつものように適当に受け流す。
「いやいや、こんなの普通ですよ。全然大したことじゃないんですって」
こういう会話をいつもするのはめんどくさいけど、まあいいさ。これも仕事。こんなに楽な仕事をしてお金をもらっているんだから、少しぐらい我慢しないとバチが当たるってもんだよな。
「しかし先生、未だに不思議なんですけど、先生の著作って未だに出ないですよね。いや別に不満があるわけじゃないんですけど、こう雑誌に短編を発表するだけで、単行本になりませんね。おかしいんですよね。こんなに書いていただいているのに…」
嫌な方向に話が進んだので、無理矢理打ち合わせの方に話を持っていくことにする。
僕は、これまでに小説を一作しか書いたことがない。それは、まさに奇跡の一作と言っていい出来だった。あれ以上の小説なんて、僕にはもう生み出せるわけがない。
しかし、僕は未だに作家として生活を続けている。もう3年にもなる。たった一作の短編しか書いていないのにである。
なぜそんなことが可能だったのか。
僕には、ある特殊な能力がある。人の記憶を部分的に失わせる能力だ。
自分のこの能力に気づいたきっかけは、今となっては覚えていない。いつの間にか、自分にそういう能力があることに気づいた。そういう感じだった。
初めは、なんて意味のない能力だろうか、と思っていた。ちょっと恥ずかしいことをしてしまった時にその記憶を失わせたり、とそんな風な使い方しか思いつけなかった。
僕はある日、気まぐれに小説を書き、そしてそれが新人賞の選考委員に大絶賛を受けた。僕の元に編集者がやってきて、次の作品を書くように催促してきた。
僕は書けなかった。あの一作だけが僕に書けた唯一の小説だった。
そこで僕は考えた。あの小説を使いまわそう。みんなの記憶から、僕の小説のことを消してしまえばいい。そうすれば、同じ小説を提出すればいいじゃないか。
初めは一度だけにするつもりだった。同じ手を何度使ったところで、自分が虚しいだけだ。一度だけ、もう一度だけ絶賛されたい。ただそう思っていただけだった。
それが3年続いてしまった。
後悔している。こんなことをするべきではなかった。特に、他の作家が苦しみながら物語を紡いでいる姿を目にしてからは、後悔がどんどんと募った。
しかし一方で、どうしても止められないところまで来てしまった。僕は世間では流行作家と呼ばれるようになっていた。3年間、一度も単行本を出していない短編作家なのに、驚くほどのファンがいるのだ。出版社も、僕に次々に原稿を依頼してくる。原稿を出さないわけにはいかない。しかし、書けるわけがない。となれば、同じことをするしかない。
僕はきっと、これからも同じことをし続けることだろう。



206.「風が吹けば桶屋が儲かる」
ついこの間僕は、交通事故を起こしてしまった。最悪だ。非はほぼ僕の側にある。居眠り運転だったのだ。その日あまりにも疲れていたので、ついうとうとしてしまったのだった。
僕はこれまでにも何度もこうして失敗を繰り返してきたけど、これまではその度毎に落ち込んできた。しかし、ある本を読んで、「バタフライ効果」という現象を知った時、僕は自分の失敗をあまり悩まなくなりました。
「バタフライ効果」というのは、ほんの些細な出来事がものすごく大きな結果をもたらす、という現象です。名前の由来は、蝶々がアメリカ大陸の上空でその羽をほんの少し動かしたことがきっかけで、中国に台風が発生することもある、というような比喩からです。
僕が起こした交通事故だって、誰かがどこかでくしゃみをいた結果かもしれない。そう考えると、何だか失敗をしてもまったく落ち込まなくなって、自分にとって都合のいい人生を送れるようになりました。



207.「死後5万年」
ある日のこと。既に日本ではよく知られた場所である、東京渋谷にあるスクランブル交差点が、世界中で有名になる事件が起こった。
そこで死体が見つかったのだ。
しかしただの死体ではない。なんとその死体は、死後5万年以上は経っているというのだ。当初は何らかの測定のミスだろうと思われていたが、世界中のどの機関が追試を行っても結論は変わらなかった。昨日までなかったはずの場所に、突如として死後5万年経過した死体が見つかったのである。
世界中で論争が繰り広げられた。
「以後5万年以上経過した異星人の死体が何らかの形で地球にやってきたのだ」
「しかしあの死体はどう考えても地球で進化した人類そのものだぞ」
「発見当時来ていた服は、2006年から2007年にかけてユニクロで販売されていたものと判明しています」
「測定に問題があるのだ」
「その可能性はないと議論は尽くされているはずだ」
「あるいはタイムマシンではないか」
「その考えを導入したらどういうことになるのかね」
もちろん誰も結論を出すことは出来なかった。
真相を知るには、死体に喋ってもらう他なかろう。もちろん彼はもう死んでいるのだけど、まあこれは小説だ。真相解明のために少しだけ死んだまま働いてもらうことにしよう。
(まあそりゃあ分からんだろうよ)
彼は当然そう思った。
(あんたらの知識でこの謎が解明できたら、そらすごいわ)
彼は自分が死んだ瞬間のことを思い出していた。
(2008年10月6日。僕は車に撥ねられた。その瞬間、こりゃダメだな、と僕は思ったよ。咄嗟に僕はアレを発動してしまった。発動してどうなると思っていたわけでもないけどさ)
彼にはある特殊な能力があるのだ。
(時間を止められるんだよね。好きなだけさ。その時は、僕の時計だけが動いているんだ。僕以外の世界の時計はすべて止まっている。死ぬ寸前に時間静止を発動しちゃったから慌てたんだろうね。普段だったらどんなに長くても数年単位でしか時間を止めないのにさ、その時は5万年以上止めちゃったんだよね)
彼が死んでから5万年間、彼以外の時間は止まっていたのである。
まあこんな真相なんですけどね。



208.「魔法のメガネ」
今期の僕の通算打率は7割を超えた。公式な試合だけのカウントでそれなのだから、練習試合なんかを含めたらもっと高くなるだろう。いくら高校野球だからと言って、ちょっと尋常ではない数字だ。
僕は、バッターの素質としては大したことがないと自覚している。フォームも安定しないし、打撃力があるわけでもないし、テクニックがあるというわけでも決してない。素質だけ見れば僕よりうまい選手は山ほどいるのだけど、でも僕はヒットを量産することが出来るのだ。
その理由はメガネにある。
と言っても、メガネ自体はどこにでもある普通のメガネだ。でも、このメガネを掛けてから、僕の打率はうなぎ登りにアップした。
このメガネを書けると、どんなボールでも球筋が分かるのだ。ピッチャーが構えて投げようとしている時から、球種やスピードだけじゃなく、ホームベース上のどこにボールが飛んでくるのかも分かってしまうのだ。どこにボールが飛んでくるのか分かれば、打つのは簡単だ。
初めは、無意識の内に相手ピッチャーの癖を見抜いてるんだと思った。しかし、誰に聞いてもそんな癖はないというし、癖だけでどこにボールが来るかまで分かるなんてことはないだろう。確かめたことはないけど、きっとこのメガネのお陰なんだろうと僕は思っている。
その魔法のメガネが壊れてしまった。
修理すればなんとか使えそうな感じだったので、親に無理を言って修理してもらうことにした。何せ球筋が読めるメガネである。新しく買った方が安いといわれたけど、修理にこだわった。
修理の間、昔おじいちゃんが使っていたというメガネを代わりに掛けてみることにした。微妙に度があってないけど、なんとかなるだろう。
しかしそのメガネはとんでもないメガネだった。
なんと、女性の姿だけ裸に見えるのだ。そういえばおじいちゃんって、外に出るときいつもニヤニヤしてたっけ。あれって、そういうことだったのか。
というわけで僕はそのメガネがすごく気に入った。前のメガネの修理が終わったけど、結局そのメガネをまた掛けることはなかった。
球筋が見えないじゃないかって?それがどうした。



209.「弟子入り」
「弟子にしてください」
落語の世界で、100年に一度の天才と呼ばれる、馬葉家印蔵の元へ押しかけていって、無理矢理弟子入りさせてもらおうと思った。
僕は中学の頃に印蔵の落語のテープを聞いて衝撃を受けた。それから、お小遣いのほとんどを寄席につぎ込み、印蔵の落語を聞きまくった。両親に懇願され、高校にはとりあえず通っているが、周囲が受験勉強なんかをやり始めるのを横目で見ながら、印蔵への思いを募らせていった。
どうしても印蔵の弟子になりたかった僕は、両親に内緒で印蔵のところへ押しかけ、高校は辞めるつもりで印蔵の元へやってきたのだった。
「1年間、オレの言うことを何でも聞くか?」
「もちろんです!どんなことでも耐えてみせます」
「わかった」
晴れて僕は印蔵の弟子になった。
しかし、印蔵の修行は摩訶不思議なものだった。不思議なことに、印蔵の元には他の弟子はいないようだった。だから、これが印蔵の通常の修行なのかどうか分からない。しかし、どう考えたって普通じゃない。
印蔵は英語やら数学やら歴史やらの教科書を持ってきては、ここに書いてあることを全部暗記しろ、というのだ。何でこんなことをやらなくてはいけないのか、と思ったが、師匠の言うことは絶対だ。修行とは、理不尽に耐えることなのだ。やるしかない。
僕は必至で覚えた。これまできちんと勉強したことのない僕にはそれは大変な苦痛だったが、これも修行だと思えばこそ、何とかやりきることが出来た。
結局僕は半年で、与えられた教科書をすべて覚えてしまった。
すると師匠は、『受験票』と書かれた紙を持ってきて、地図の場所に行けという。そこで試験を受けてこい、と。これも修行の一環なのだ、と理解した僕は試験会場に行き、これまで教科書で覚えた知識をフル活用しながら問題を解いた。
僕は東京大学に受かったようだ。自分が受けたのが東京大学の試験だったということさえ知らなかった僕としてはどうでもいい話だったが。
しかし、東京大学合格の通知が来たその日、師匠はとんでもないことを言い出した。
「私は落語家ではありません。予備校の教師です」
何でも印蔵には、予備校教師である双子の弟がいるらしい。僕が弟子入りを願い出たその日、たまたま印蔵が家を空けていて、そしてそこには同じ顔をした彼がいたというわけだ。勘違いした僕は、予備校教師に弟子入りしてしまったというわけだ。
「1年間、オレの言うことを何でも聞くか?と聞いただけで、弟子にしてあげるなんて言ってないでしょ?」
この一年の苦労は何だったのだろうか…。しかし、いつの間にか東京大学に受かっていたのだ。大学に行ってみるってのも、アリなのかなぁ。



210.「不必要な連続殺人」
「44人目の死体が発見されました。この国は、一体どうなってしまったというのでしょうか」
今世間を騒がせている、なんていう表現では物足りないほどの事件をテレビのニュースが流している。1人目の死体が発見されてからまだ2ヶ月しか経っていない。この、「神奈川全県殺人事件」は、今国民の最大の関心を集めている。
吉本衛ちゃんの死体が見つかったのは約二ヶ月前。裸にされ、足につけられたロープで木に吊るされていた。口にはハンカチが詰められていた。もちろん、報道されていない特徴もあった。右手首にに赤い線で丸が三つ描かれており、また片目を潰されていた。
その翌日、まったく同じ格好の死体が見つかった。それから、ほぼ毎日、神奈川県のどこかで同じような死体が見つかっているのである。
警察は大々的な捜査を敷いているが、しかし今のところ何の情報も上がってこない。被害者に残された痕跡はどれも完璧に一致しているのに、犯行時刻や犯人の予想される行動形態がまったく統一されていないのだ。犯行は夜だったり昼だったり朝だったりし、また現場に残された状況から、慎重な性格だったり大雑把な性格だったり神経質な性格だったりと、まったく別々の特徴が現れるのだ。そのため、警察としても犯人像をまるで絞りきることが出来ず、どこから手をつけていいのかさっぱりわからなかった。
被害者同士にも特に繋がりがあるようには思えなかった。時々、学校の同級生だったり同じ塾に通っていたり、あるいは親同士が同じ職場で働いていたりと言った共通点が個々に見受けられることはあるが、しかし44人全員に共通する特徴は今のところ見つかっていない。
マスコミの報道も過熱し、警察の上層部としても一刻も早く事件解決をと発破を掛けてはいるのだが、しかしどうにもならない。ほぼ毎日子どもの死体が見つかっていく。誰にも止められないのではないか…。多くの人がそう思い始めていた。

竹本雅彦は学校が終わると、すぐにバスに乗った。とりあえず行き先はどこでもいい。ここから割と離れたところだったらどこでもいい。あんまりバスに乗ったことはないけど、なんとかなるだろう。
誰に声を掛けたらいいかな。まさかこんなことに選ばれるなんて思ってもみなかったから、ちょっと意外だった。でも、僕はやりきってみせる。昨日だって、きちんと殺せたんだし。今日だってもちろん大丈夫だ。
雅彦は、昨日のことを思い出す。あれはホントにびっくりした。まさかって思ったけど、でもやるしかなかった。何でそんな風に思ったのか分からないけど、でも自分のところで終わらせるなんてことは出来るわけがない。そんなことをしたら空気が読めないと思われてしまうだろう。それだけは嫌だ。だから僕は彼女を殺してあげたのだ。
大口好美と名乗ったその女の子は、突然僕の前にやってきて、そしてこう言った。
「ねぇ、お願いだから私を殺して」
驚いて声も出せない僕を見て、彼女は説明をしてくれた。
「今ニュースで騒いでる連続殺人あるでしょ?あれって、連続殺人じゃないんだよね。いい、よく聞いて。あなたは私を今から私が言う通りに殺すの。報道されてる特徴もあるから知ってるものもあるかもしれないけど、でもニュースになってないものもあるからちゃんと覚えてね。私を殺したら、今度はすぐにあなたは誰か殺してくれる人を探しに行くの。今の私みたいにね。私も、昨日殺したのよ。ほら、ニュースになってたでしょ、動物公園で見つかった子ども。あれ、わたしがやったの。
どう、分かった?そういうわけでね、わたしをちゃんと殺してね」
雅彦は、特に疑問に思うこともなくそれを受け入れた自分を不思議に思った。けれど、僕は正しいことをしているんだと信じることが出来た。だから彼女を殺すことが出来たし、今から自分のことを殺してくれる人を探しに行くことが出来るのだ。
さて、誰に声を掛けようかな。どうせ殺されるならキレイな女の子の方がいいんだけど…。



211.「猟師」
銃を持つ手が震えることはなくなった。
かつて初めて銃を手にした時は、どう扱ったらいいものか悩んだものだ。構えて撃つ。やることは単純だけど、簡単にはいかない。初めの内は、手が震えっぱなしだった。それがなくなったのは、ここ最近だろうか。今では落ち着いて銃を撃つことが出来るようになったものだ。
それにしてもや、つらは相変わらず山でたくさん見かける。
昔はやつらに襲われる仲間も多かったという。そんな時代のことを俺は知らないが、さぞ悔しかったことだろう。毛皮に包まれたその身体で、俺たちを執拗に追いまわすなんて、今では想像もつかない。
今では俺たちの方が圧倒的に優位に立っている。やつらを確実に仕留められるようになってきたからだ。しかしそのせいもあるのだろう、やつらがどんどん山から減っていってしまっているように思う。別の山に移っているのか、あるいは山を下りてそのまま山には戻ってこない奴も多いのかもしれない。まあわざわざやつらを狙わなくても、獲物は他にたくさんいるのだ。わざわざ銃を使う必要もなくなる。特に困るなんてことはないはずだ。
よし、今日の獲物を見つけたぞ。なかなかデカイ奴だな。まあ、俺が一発で仕留めてやるよ。

「今日午後2時頃、○○県△△山で男性の死体が発見されました。男性は発見された時まだ息はありましたが、搬送された病院で息を引き取ったとのことです。男性は、猟で使われる銃で撃たれているようで、ここ半年ほどの間相次いで猟師が撃たれている事件との関連も調べています。
男性を発見した猟師仲間によりますと、男性は意識を失う直前まで『熊に撃たれた』としきりに繰り返していたそうです」



212.「東都大学数学入試問題」
浪人生になって1年弱、猛勉強した。日本一の大学である東都大学に入学するために、それこそすべてを犠牲にして頑張ったのだ。高校時代に付き合っていた彼女とも別れたし、隠れて吸っていた煙草もやめた。睡眠時間は一日4時間程度で、起きている間はほとんど参考書を手放すことはなかった。
一番頑張ったと言えるのは数学だろう。去年の試験ではもう壊滅的だった。数学の穴は致命的だった。
それでなくても東都大学の数学の問題は難しいことで有名だ。常に度肝を抜くような問題ばかりだしてくる。文系志望ならさほど比重は高くないが、理系志望の場合「数学で落ちる」とよく言われるのだ。だからこそこの一年間、特に数学については死ぬほど頑張った。今では、かなり自信を持って試験に臨むことが出来るだけの実力があると思っている。
そして今日はその試験当日。つい先ほど英語が終わった。まずまずの結果だと言えるだろう。そしてこれから数学の試験だ。
通常4問から5問出題され、難易度にもよるが3問半解答できればほぼ合格は間違いなしと言われている。過去の試験問題を思い浮かべながら待っていると、試験が開始された。
問題を見て驚いた。
今年はなんと問題がたったの一問になっている。問題用紙が抜け落ちているのかとも思ったが、配点を見るとそうでもないようだ。
つまり、この問題を解けるかどうかで合否が決まるのだ。
そしてその問題がまたとんでもないものだった。

問1
以下の数学記号を一つずつ使い、f(x)=g(x)となるような関数f(x),g(x)を設定せよ

{e,π,i,∫,sin,cos,log,lim,!,∑}

なお、四則演算や階乗などの一般的な記号は自由にしようしてよい。また必要に応じて適当なアルファベットを定義し用いてもよい。もちろん、∞や複素数を含めたすべての数字はいくら使用しても構わない。

問2
問1で設定したf(x),g(x)が、f(x)=g(x)を満たすことを証明せよ

なるほど、東都大学らしい奇抜な問題だ…、なんて余裕なことを考えられたわけがない。僕の頭は一瞬で真っ白になった。



213.「罠」
最近山菜採りにはまって、出勤前の短い時間とか休日なんかによく山に入る。住んでいるアパートから歩いてすぐのところに森があって、あまり奥まで分け入らなくても豊富に山菜を採ることができるのだ。
まだ始めたばかりで、図鑑を片手に山の中を歩くことになる。ツクシやノビルなんかはもちろん分かるけど、ワラビやヤブカンゾウなどになるとまだイマイチ自信がない。図鑑に載ってる写真と見比べながら、たぶん大丈夫だろう、と確認していくのだ。
こうやって自分の手で食料を調達するなんてことはまずないので、とても新鮮で面白い。身体に毒でさえなければどんな葉っぱでも食べられるんじゃないか、と思ってはいるんだけど、やっぱりそこはそれ、図鑑に食べられると書かれているものしか手を出せない辺りは臆病者なんだけど。
いつものように目ぼしいところを一回りして、さて帰ろうかという時、左足が沈んだなと思ったら身体が傾き、そのまま倒れた。左足に何かが巻きついた感覚があって、罠に嵌まったんだと分かった。
山には、猟師たちが仕掛けている動物用の罠がある。どうやらその一つに引っかかってしまったようだ。普通罠は人間が引っかからないような場所に設置されているのが普通だが、しかし僕が歩いている場所が悪かったんだろう、運悪く掛かってしまったのだ。
さてどうしたものだろうか。携帯電話は部屋に置いていてしまったから連絡を取ることは出来そうにない。罠を自力で外そうと奮闘してもみたが、これもダメ。どうしても左足に巻きついたワイヤーを外すことが出来ないのだ。大声を上げれば誰か気づいてくれるかもしれないが、まあ仕方ない。とりあえずしばらく待つか、と決めた。ワナ猟をする猟師は、最低でも一日一回は罠の見回りをする。既にその見回りを終えた後だと翌日になってしまうのだが、たぶん大丈夫だろう、という方に賭けたのだった。
しかし、とふと頭に浮かんだ疑問を反芻する。何でこの罠は外せないのだろう。獣には人間のような手はないから外せないのは分かる。しかし人間の手でも外せないとなると、この罠を仕掛けた猟師にだって外すのは難しいということではないのだろうか…。
大したことではないのだろうと決め、やらなければならない仕事を思い浮かべたり、納期のスケジュールを思い出したり、あるいは進んでいないRPGの攻略法について考えたりしながら猟師が来るのをまった。
1時間ほどで猟師はやってきた。
「すいません。罠に引っかかってしまったみたいで」
「あぁ、いやいや、ちょうどいいですわ。いやホント素晴らしい」
何が素晴らしいというのか。何となくバカにされているような気がしてムッとしたが、猟師がナイフを手にしているのをみてホッとした。ワイヤーを切ってくれるのだろう。
猟師が近づくと、ナイフを持った手はしかし僕の心臓目掛けて飛んできた。その瞬間僕は悟った。
なるほど、これは人間用の罠だったのか。



214.「鳥籠の中の鳥」
フライパンで肉を焼きながら、僕は昔本で読んだある物理の問題を思い出していた。
あれは確か、鳥籠の中に鳥がいるんだった。その鳥籠は量りの上に載っている。
今量りの目盛りは500グラムを指しているとしよう。さてここで鳥籠の中で、その鳥が羽ばたき宙に浮いたとする。その場合、一体量りの目盛りはいくつを指すだろうか。
肉の焼ける匂いとジュウジュウという音にまみれて、僕は考える。考えるべき重要なことは他にもあるが、それを追いやるためにもこの問題を必至で考える。何だか気が遠くなって来たような気がするんだけど、気のせいだろうか…。
確か答えは、500グラムを指す、だったはずだ。より正確に言えば、鳥が羽ばたいた瞬間目盛りは500グラムを大幅に超え、その後500グラムに落ち着く、だったと思う。
確かそうだ、確かそうだ、と頭の中で繰り返す。ちょっと落ち着いてはきたものの、やっぱり体調がおかしい。僕はそんなにまでして肉が食べたいのだろうか。
何で飛んでいるのに量りの目盛りが変わらないのか。たぶん、500グラムの身体を羽ばたきによって持ち上げているので、その分の力が量りに掛かるのだろう。
何故この問題のことを思い出したのか。そんなことはもちろん簡単だ。今、まさにその僕が鳥籠の中にいる鳥だからだ。
まさかこれほどまでに辛いとは思わなかった。辛いとは確かに聞いていた。しかし、こんなに辛くていいのか?他のボクサーも、こんな辛い状況に毎回耐えているというのだろうか?
減量最終日。もう限界だ。今ここで、何か食べないと発狂してしまうかもしれない。でも、計量だけはどうしてもパスしなければならない。
だから、僕が鳥籠の鳥になったのは正解なのだ。
僕は、自分のフライパンに乗っている、わき腹から切り取った肉を皿に盛り付けた。わき腹からは血がとめどなく流れ出ている。これも減量の足しになるだろう。僕は、わき腹肉ステーキに、フォークを刺した。

2008年に書いたショートショート集 No.124~No.165

124.「人間動物園」
「家賃無料」
不動産屋の前を通りかかった時、その張り紙をたまたま見つけたのだった。その時僕は部屋を探していた。すぐにどうこう、というような状況ではなかったのだが、なんとなく引越しをしたいな、という思いに駆られていた時期だったのだ。時々そういう衝動に襲われる。引っ越したところで生活が一変するわけでもないしそんなことを期待しているわけでもないのだけど、一つの場所に腰を落ち着けるというのが性に合わないのだ。だから外に出て不動産屋を見かけると、つい張り紙に目がいってします。その時も、ただなんとなく張り紙を眺めていただけだったのだ。
「家賃無料?」
つい声に出して言ってしまう。そんなバカな、という思いがまず浮かぶが、しかし何か事情があるのだろう。住む場所に特別こだわりがあるわけではない。何か面白いことになるのなら、望むところだという感じである。
「表に貼ってある、無料の物件について聞きたいんですけど」
僕は不動産屋の中に入って詳しい話を聞くことにした。
「あぁ、あれね。あれについてはさ、私じゃうまく説明できないっていうか、そこの大家がね、誰かお客さんが来たら私に連絡して欲しいなんて言うもんだからね、ちょっと待っててもらえるかね」
なんとも分かり難い話し方をする人物であったが、要するに詳しい話の出来る人間を呼ぶからちょっと待ってて欲しい、ということだろう。
「分かりました」
しばらくすると、一人の女性がやってきた。
「三上洋子と申します」
そう言いながら僕に名刺をくれた。名刺なんてもらったことがなかったからどうしたらいいかわからなかったけど、賞状をもらう時みたいに両手で受け取ってみた。合ってただろうか?
名刺には名前以外何も書かれていなかった。既に相手の名前は知っているわけで、となるとこの名刺にはどんな価値があるのだろうか、と僕は一瞬不思議に思った。
「無料の物件に興味がおありですか?」
「まあそうですね。誰だって家賃が安い物件には興味を惹かれるのでは?」
「そうでしょうが、しかし無料というのはいささか怪しい、なんて思われませんでしたか?」
無料の物件を勧めたがっているのかどうなのかイマイチよく分からない話し方である。慎重にことを運ぼうと思っているだけかもしれないが。
「もちろん、何か条件があるのだろうな、と思ってはいます。ただ、面白ければ何でもいいかな、という風にも思っていまして」
「前面鏡張りです」
「は?」
「ですから、壁面すべてが鏡になっております」
なるほど、ちょっとそれは奇妙な部屋だと言わざるおえないだろう。ダンスの練習をするには最適かもしれないが。しかし、それだけで無料というのはよく分からない。
「それだけですか?」
「あと、一日毎に住人が一人ずつ増える予定です」
「言っている意味が分かりませんが」
「非常に広い建物でして、ある程度のプライバシーを確保しながら、最大で50人以上の人間が住めると考えています」
「それは一部屋なんですか?」
「そうです。50人以上が住むことが出来る一部屋の物件です」
それは創造するだに凄まじい物件だと言えるだろう。50人がある程度プライバシーを確保しながら生活できるとなると、東京ドームより広い空間が必要なのではないか。それが一部屋として確保されているというのだから尋常ではない。普通に部屋を区切って貸す方がいいに決まっている。そう出来ない理由でもあるのだろうか?
「また、どうしてそんなことを?」
「説明するのは非常に難しくなりますが、まあ一つのアートであるとお考えいただければ問題はないかと思います。アートの領域を広げるといいますか、アートの常識を破壊すると言いますか、つまりはそういう思想を体現するための場として考えているわけです」
何だか大きな考えがあるようだが、まあその辺は僕とは関係ないと言える。僕が考えなくてはいけないのは、壁面すべてが鏡張りで、かつ住人が一人ずつ増えて行くという超巨大な空間で生活するということと、家賃が無料であるということが釣り合うかどうか、ということだけだ。
「分かりました。そこに決めます」
「ありがとうございました。それでは細かい部分に関しましては不動産屋の方と詰めていただけますでしょうか?」

変な美術館がオープンする、という噂は、少し前から私の耳にも入ってきていた。それ以外、詳しい話はまったく伝わってこない。しかしどうも、この地域で一番の資産家である藤堂家が関わっているようだ、という噂もある。すべては噂であったが、しかしそこまで人々の関心を惹き付けたわけでもなかったから、この噂はそこまで拡散することもなく、狭い地域で留まり続けた。何せ、美術館である。大半の人は、生涯に一度美術館に足を運ぶかどうか、というところではないだろうか。
そしてその噂の美術館がオープンする、という話を聞いて、私は早速行ってみることにした。そこは、それ以外には他に何一つない山奥であり、こんなところにいつの間にこんな建物が作られたのだろう、と思えるような巨大な建物があった。なんとなく宇宙船を連想させる外観である。
それは奇妙な美術館だった。鑑賞者は、建物の中に入ることは出来ない。その建物の外から中を覗く、という趣向の美術館なのである。では中には何が展示されているのか、と言えば、それはまさしく人間なのであった。別に標本にされているとかそういうわけではない。生きた人間が生活をしている、まさにその光景そのものが展示されている、そういう美術館なのである。
美術館の入口(と言ってもそこは屋外であるが)には、パネルのようなものが設置されていて、そこには『一人』という表示がある。内部に一人しかいない、という意味だろう。となれば、この人数はこれから増減するということなのだろう。ありえないほど巨大な空間の中で、様々な人間が生活を営み、それを外から人間が観賞する。悪くないな、と私は思った。



125.「わらしべ長者」
昨日も今日も明日も変わりのない、ただ食って寝るだけのホームレスとしての生活。こんな生活が、これからも永遠に続くんだと思っていた。
ある日のこと、いつものように公園で昼寝をしていると、誰かが近づく気配を感じた。起き上がってみると、目の前にいたのはスーツを着たサラリーマンだった。
「羨ましくってさぁ」
その男は、私に話し掛けているのか独り言を呟いているのか分からないような口調でそう吐き出した。
「毎日毎日さぁ、暑い日も寒い日もさぁ、外を歩き回って営業してさ、そんな人生にもう疲れちゃったんだよねぇ」
私は何も答えなかった。答えるべきことがあるとも思えなかった。
「僕もあなたのようにさぁ、こうやって毎日ダラダラして生きていきたいものだよねぇ」
ホームレスになったばかりの頃は、こういうことを言って来る人間に腹が立った。こっちだって、好きでホームレスをやってるわけじゃないんだ、と。でも、もう慣れた。長いことこうして一人で生きていると、他人のことがどうでもよくなってくるものだ。
しかし、その後男が続けた言葉に私は驚かされた。
「ねぇ、僕と代わりませんか?」
「どういうことですか?」
私は初めて口を開いた。
「そのまんまの意味ですよぉ。あなたが僕の代わりに会社で仕事をして、僕があなたの代わりにここでホームレスとして生活するっていうことです」
この人は疲れすぎて頭がおかしくなってしまったんだな、と思った。関わっていられない、こんな男。
しかしそんな私の態度をどう受け取ったのか、彼は目の前でスーツを脱ぎ始めた。
「えーと、これが社員証で、会社の住所なんかは名刺に書いてあるからいいとして、スイカもまだしばらく使えるし、携帯もそのまま使ってくれていいですよ」
なんてことを言いながら僕の方に服やら荷物やらを寄越してくる。この人は本気なのか、と思いながら、成り行きに任せて僕も服を脱いでいった。
僕はよく分からないまま、サラリーマンとしての生活を手にすることになった。

「今日は無礼講だ。みんな思う存分飲んでくれ」
会社の忘年会である。社長自ら音頭を取り、宴会が始まっていく。
私はあのサラリーマンだった男と人生を交換した翌日、とりあえず会社に行ってみた。追い返されるだろう、と思っていた。しかし、彼の代役としてやってきたと告げると、おぉそうかそうか、などと言いながら僕は受け入れられてしまった。特に誰も疑問を抱くこともなくスムーズに入れ替えは進んだ。
仕事も難しいものはなく、時々周りの人に聞きながらではあったけど、なんとかこなして行く事は出来た。そうしてすっかり僕はサラリーマンとしての生活に溶け込んでしまっていた。
トイレへと向かうと、隣に社長がいた。何となくこういうシチュエーションは気まずい。
「どうだ、楽しんでるか」
「えぇ、もちろんです」それ以外にどう答えろと。
「私はもう楽しめないなぁ」
「そうなんですか?」
「社長っていうのは私には向かないんだ」
弱気なことを言うものだ、と思った。普段はこんな姿を見せることはまったくない。酒のせいだろうか。
「一つお願いを聞いてもらえないだろうか」
「えぇ、社長のお願いでしたら」
「私の代わりに社長をやってもらえないだろうか」
「は?」
聞き間違いだろうか?代わりに社長をやってもらいたい、と言われたような気がしたが。
「もう社長の仕事は飽きたんだ。役員会には後で伝えておくし、これが社長室のIDカード、あと明日にでも何社か回って社長交代を伝えないとだな」
よく分からないが、僕はいつの間にか社長になってしまったようだ。まったくどうなっているのだろう。

「こちらが原稿です。あと30分あります。原稿を見ながらでも構いませんが、出来る限り内容を覚えていただく方が印象はいいでしょう」
「わかった」
「原稿に書かれていないことを言うことは構いませんが、あまり具体的なことは言わない方がいいでしょう。なるべく輪郭をぼかしてください」
「わかった」
「ネクタイがまだ決まっていませんが、とりあえず5本用意してあります。あとでコーディネーターに選ばせます」
「わかった」
さっきから、わかった、としか口にしていない。もう大分飽きてきた。というか、取り巻きの連中が私とは住む世界が違う人間としか思えない。本当に、同じ言葉を話す同じ人間だろうか?
私は30分後に大勢の人の前で演説をしなくてはいけない。その模様はテレビでも流れる。今までこんな経験は一度だってない。人前で喋ることは苦手なはずだったのに、どうしてこんなことになってしまったのか。
手元にある原稿に目を落とす。そこには、『所信表明演説』と書かれている。
今の僕の職業は、総理大臣だ。もちろんこれも、前の総理大臣との交換で手に入れた地位である。



126.「殺された理由」
高校で殺人事件があった、と通報があった。生徒の一人が、別の生徒を刃物で刺した、と。被害者の死亡は既に確認されている。
現場に着くと、そこには異様な雰囲気が漂っていた。俺が一番乗りだったようで、制服警官以外刑事は見当たらない。
校庭に、そこだけぽっかりと空いた空間があった。その中心に、刃物を持った学ランを着た男の子が立っていた。その周囲を、生徒や教師が遠巻きに囲んでいる。
加害者と思しき男子生徒は、ナイフを持つ手をだらんとさせたままただ立っていた。俺の姿を目にすると、刑事だと分かったのだろうか、彼は俺の方へと近づいてきた。途中、自分がナイフを持ったままであることに気づいたようで、ナイフを地面に投げ捨てた。
目の前までやってくる。
「俺は逮捕されるんですか?」
不安がっている様子はない。授業中に分からないところを堂々と質問しているような雰囲気だ。
「君が何をしたかによる」
「人を殺しました」
「なら、逮捕だ」
俺は手錠を掛けるのは止め、そのまま彼をパトカーに乗せた。
「一つだけ聞いてみてもいいか」
「はい」
「何が原因だった?」
「何のですか?」
「だから、何で人を殺したんだ?」
「あぁ、足が折れてたからですよ」
「は?」
こりゃあ大変な事件かもしれないな、と俺はぼんやりそんなことを思った。

学は家に戻ると、まっさきに馬の元へと向かった。僕の家は、競走馬を調教し管理する仕事をやっている。自宅近くに厩舎があり、そこに馬が繋がれている。調教師と仲良くなっていた僕は、いつ行っても馬と遊べるようになっていたのである。
厩舎に着くと、一頭の馬が消えていた。僕のお気に入りだった馬だ。調教師のおじさんにどこに行ってしまったのか聞いてみる。
「足が折れちまったからなぁ、殺しちまうしかないんだわ」
その時僕は初めて、使い物にならなくなった馬を殺しているという事実を知った。
「それ、僕にやらせてくれない?」
調教師のおじさんは困った顔をしていたけど、それでも最後には折れてくれた。その馬を僕が可愛がっていたことを知っていてくれたからかもしれない。
僕が人を殺すのは、この日からちょうど5年後のことである。



127.「起きたらそこは」
目覚めると僕は、空の上にいた。
「は?」
どうなっているのかうまく飲み込めなかった。
僕は、何もない空間の上で横になっていたのだ。しかも生半可な高さではない。眼下には東京ドームらしき建物が見えるのだけど、それが米粒よりも小さくしか見えない。もし雲が出ていたら、僕はその雲よりも上にいるのだろう、と思えるほどの高さだった。
「ひぃぃぃぃ!」
そのあまりの高さに驚き、心を落ち着かせるのにしばらく時間が掛かった。高所恐怖症ではないけど、こんな高いところにいれば誰だって怖いだろう。しかも僕は、何の支えもないままに空中に横たわっているのだ。ちょうどマジシャンが人を浮かべるようなあんな格好だ。
シバラク身じろぎできなかった。動いてしまえばそのまま落ちてしまうのではないか、と思えたのだった。しばらくして緊張感が解けてくると、どうも自分が横たわっている背中の部分には何かあるのだ、という感覚が分かってきた。僕は浮いているわけではなくて、何かの上に横たわっているようである。僕の目には見えないのだけど、何かある。そんな感覚が僕を少し落ち着かせてくれた。
しかしどうしてこんなところにいるのだろう。昨日はちゃんとベッドに入って寝たはず。いつもと変わらなかったはずだ。しかしそんなことを考えても仕方ないだろう。とりあえず、どうしたらいいのかを考えなくては。
とりあえず僕は立ち上がってみることにした。自分が今まで横たわっていたところには、目には見えないけど何かある。ということは、手さぐりでそういう場所を探していけば、とりあえずどこかには歩いていけるんじゃないか、と思う。もしかしたら、地上へと続く目には見えない階段、なんてものが見つかるかもしれない。もし見つかったとしても、信じられない段数を降りなくてはいけないだろうけど。とにかく、出来ることはやってみよう、と僕は思うようになった。
四つんばいの状態で、今いる場所から歩いても大丈夫そうなところを手さぐりで探していく。どこかに切れ目があってそのまま落っこちてしまうことだって充分ありえる。僕は慎重に歩を進めながら、何だか別の違和感を感じ取っていた。
何となくだが、「知っている感じ」があるのだ。この空間が、自分と馴染み深いところであるような気がするのだ。しかしデジャヴというのとも違う。自分でもうまく説明が出来ない。思考の一端でそんなことを考えながら、僕は探索を続けた。
途中ドアがあり、窓があった。壁があり、階段もあった。しかしその階段は、僕が期待しているようなものではなく、すごく短いものであった。
段々と僕は、自分が感じている違和感の正体に気づきつつあった。しかし、それに確信を持つことが出来るようになったのは、どこかから声が聞こえて来た時だった。
「あんた、何やってんの?」
それは紛れもなく母親の声だった。
「四つんばいでうろうろして。コンタクトでも探してるわけ」
僕はコンタクトじゃないよ、と思いながら、そんなことが問題なんじゃない、と僕は思い直した。
まずそもそも、その声を出しているはずの母親の姿が僕にはまったく見えないのだ。どの辺りから声が聞こえるのかというのは漠然と分かるものの、姿が見えないというのは厄介だ。そして何よりも、何故ここに母親がいるのか、という疑問がある。
僕は何となく辺りをつけた方向を向きながら答えた。
「空しか見えないんだ。どうなってるんだ、これ」
母親がため息をついたのが分かった。
「だから言ったでしょうが!今度空の上に引っ越すからちゃんと話を聞いてなさいよって!」
そういえばそんなことを言っていたような気もする。空の上に引っ越すだなんて今日はエイプリールフールだっけか?と思って碌に話を聞いていなかったのだ。しかしそこで何か重要なことを言っていたようだ。
「引越し当日の夜は一日寝ないで起きていること。そうしないと新しい環境に順応できなくなるよって、引越し屋さんにも言われたでしょう!夜寝る前私だってちゃんと言ったわよ!」
引越し屋が何を言っていたのかは全然覚えていない。母親が、今日は徹夜するのよ、と言っていたのは覚えているけど、何で徹夜なんかしなきゃいけないんだ、って思って無視した。なるほど、そういうことだったのか。
「どうすればいい?」
「さぁ、知らないわよ!もう目が見えなくなったんだって思って諦めれば」
無茶苦茶な母親である。せめてその引越し屋に連絡をしてくれてもいいと思うのだけど。まあいい。父親が帰ってきたら聞くことにしよう。
しかし学校とかはどうすればいいというのだろう。この新しい生活に馴染むには時間が掛かりそうだ、と僕は思った。



128.「誰も幸せになれない計画」
アラブの王様は日本の女子高生が大層お好きなようでございます。アラブの王様たちの中では、日本の女子高生と付き合うことが何よりもステイタスであり、仲間内から羨ましがられるのだそうです。
そんなアラブの王様の中に、最近日本の女子高生とのお付き合いを始めた者がいました。彼は日本へ遊びに出かけた時にトウキョーで出会った女子高生に一目惚れ、とにかく金にものを言わせて、とりあえず自国まで連れて帰ってきてしまったわけです。
「ミキちゃん、君の欲しいものは何でも買ってあげよう。何が欲しい?純金製のプラダのバッグも、マライア・キャリーに君のためだけに歌わせるなんてことだって出来るよ。さて何がいい?」
ミキという名の女子高生はしばらく思案顔でしたが、何やら面白いことを思いついたようで、アラブの王様に頼んでみることにしました。
「私ね、今病気で寝たきりのおじいちゃんがいるんだけど」
「ふむふむ」
「おじいちゃんがね、死ぬ前にどうしても見たいものがあるって言うの」
「ふむふむ」
「おじいちゃんはね、若い頃にシズオカに旅行に行った時に、フジサンを見て感動したんだって。あのフジサンをもう死ぬ前にもう一度見たいっていうんだけど、おじいちゃん寝たきりなのね」
「ふむふむ」
「だからお願いなんだけど、ウチの庭までフジサン移してくれないかな?」
「ふむふむ。了解した」
とりあえず一つ言えることは、このアラブの王様、フジサンが何なのかさっぱり分かっていなかったということです。まさか日本で最も高い山だとは思ってもみなかったわけです。アラブの王様は側近を集め、至急指示を出しました。フジサンを、ミキちゃんの家の庭に移すように。お金はいくら掛かっても構わない。

当時のことを聞くと、皆揃って、「映画の撮影だと思った」という風に言います。現在では、富士山跡と名付けられた何もない空間を目にすると、些か物悲しくなってきます。
それは、大量の飛行機が静岡へとやってきたところから始まります。恐らく日本政府との話はついていたのでしょう(現在までも、日本政府は関与を否定していますが)。外国籍の飛行機が何艇もやってきました。
飛行機からレンジャー部隊のような人々が何人も降りてきて、富士山の麓へと集結しました。飛行機に部品を搭載していたのでしょう。工作用の重機をその場で組み立て始めたかと思うと、何やら作業を始めました。
恐らく多くの専門家の意見を聞き、あらかじめ綿密な計画を立てていたのでしょう。彼らのやり口はひと言で言えば、富士山をそっくりそのまま持ち上げて運ぼう、というものでした。アイスクリームを掬い取るようにして富士山を地面から引き剥がし、そのままの形で飛行機によって吊り上げ、移動しようとしていました。
作業は何日にも渡って続きました。初めこそ何をしているのかさっぱり理解できなかった住民も、しばらくすると彼らの意図がおぼろげながら読めてきて、周囲では反対運動が盛んに行われるようになりました。警察や自衛隊が出動されましたが、作業員たちを止める者は誰一人いませんでした。
そしてついに一ヵ月後、彼らは推定100艇近くの飛行機で富士山を吊り上げて移動させることに成功しました。恐らく有史以来、人工的な手段によって自然の山をそのままそっくり移動させたのはこれが始めてのことでしょう。
後日談があります。ミキちゃんのおじいちゃんのことです。結局おじいちゃんは、富士山を見ることなく死んでしまいました。原因は、富士山による圧死です。おじいちゃんも、富士山に潰されて死ぬことが出来て本望だったでしょうか。
富士山は今では東京の名物として定着しています。ちなみに富士山の移動をやってのけたアラブの王様は、資金を使いすぎたために破産してしまったようです。



129.「無眠大会」
ある世界大会が開かれることになり、日本でその予選会が行われることになった。何故か僕もその出場者の一人だった。自分で応募した記憶はないのだけど、既にエントリーされているのだから仕方ない。概ね母親か姉辺りが勝手に応募してしまったのだろう。はた迷惑な家族である。
何の大会なのかと言えば、無眠を競うのである。つまり、いかに寝ずにいられるか、という勝負なのである。何でこんなことをやろうと思ったのか不明だが、しかしそれは多くのスポーツにも同じことがいえる。槍を投げる競技なんて、誰が一体思いついたのだろう。
まず僕ら参加者は、保養所のような施設に集められた。ここで予選会が行われる日までの一週間、共同生活を行う、というのだ。大会当日までの生活習慣を一定にすることで、より公平な状態での試合を行おう、ということらしい。これは世界大会でも準拠されるルールであるようだ。
僕らは、毎朝7時に起こされ、ほんの僅かな自由時間を除いて管理された生活を送った。特に睡眠についてはかなり厳しく調整され、睡眠時間として定められた時間以外に眠ることはもちろん認められないばかりか、ただぼんやりしているような時間も厳しく制限された。ぼんやりしている状態は、寝ているのと近い状態であるらしく、公平さを欠くということのようだった。
そんな堅苦しい生活に嫌気がさして逃げ出す参加者も数人いたが、それはあまり問題にはならなかった。嫌なら出て行ってもらって構わない、という姿勢が如実に現れていたのだった。
そうして僕らは、予選会当日を迎えることになったのである。
予選会はだだっ広い講堂のような場所で行われた。会場を常に一定の環境に保てるように、様々な器機が設置されているようだった。温度や湿度などにも、世界基準があるようで、それを厳密に守って予選会も行われるようである。
参加者にはそれぞれ脳波を測定する装置がつけられ、それによって寝ているかどうかが判断される。また参加者一人につき審判が一人つき、ガムなどの刺激物を食べていないか、目薬などを差していないかなどが監視されることになる。
いよいよ競技が始まった。
無眠の大会とは、睡魔との戦いというよりは退屈との戦いと言った方が正しいだろう。誰も喋らず、目の前の景色も変わらない状態で、ただ眠らないことだけを意識しているのはなかなか厳しいものがある。僕は退屈しのぎに、頭の中で素数を1から数えることにした。これは僕が時々やる暇つぶしで、なかなか頭を使うのである。
周囲を見ていると、時間が経つに連れどんどんと失格者が出てくる。どれぐらいの時間が経過したのか参加者には知らされないので分からないが、感覚としては既に2日は経っているような気がする。自分が何のためにこんな辛い状況に耐えているのかもよくわからなくなってくる。食事や水分は定期的に出され、それだけが唯一の楽しみである。
そろそろ僕も耐えられなくなってきた。4日目に入っているのではないだろうか。見たところ参加者はもう5人ほどしか残っていない。頭がボーっとする。体が睡眠を欲しているのが分かる。とにかく、眠くて仕方がない。
もうダメだ。これ以上は起きていられない、と思った瞬間、僕は目が覚めた。鳥の声が聞こえ、いつものようにベッドの上で寝ていた。
無眠の夢を見ていたようだ。ずっと寝ていたのに眠気に襲われる夢を見ていたとは、なんて馬鹿馬鹿しいんだろう、と僕は思った。



130.「我輩は猫である」
「きゃー、可愛い!ほら、見て。子猫だよ。すごいすごい!」
そう言って佳子ちゃんは子猫の方へと走っていく。もちろん佳子ちゃんに悪いところは何もない。それはちゃんと分かっているんだけど、それでも哀しい気分になってしまう。
僕のことは見てくれないの?って。
「ほらほら、すごいよ。足とかこんなに小さいんだよ。可愛い~」
「…うん、そうだね。可愛いよ」
僕はおざなりな返事しか出来ない。でもそんな僕の態度に、佳子ちゃんは気づくことはない。佳子ちゃんは子猫に夢中だ。
佳子ちゃんに可愛がられている子猫を見ていると羨ましくなる。
僕は生まれてからずっと心と体の問題にずっと悩まされてきた。こうして佳子ちゃんと一緒にいる時、僕は幸せな気分になれる。でも、僕の本当の姿を佳子ちゃんは決して見てはくれない。僕がどれだけ佳子ちゃんのことが好きだろうとも、僕が本当の意味で佳子ちゃんに愛されることは決してないのだ。
どうしてこんな風に生まれてしまったんだろう。ちゃんと心と体が合った姿で産んでくれれば、僕ももっと生きやすかっただろう。今は、歩き方や食べる物も制限されているし、やりたいことも出来ない。僕が本当の自分を表に出してしまったら、周りの人間は僕を奇異な目で見ることだろう。親にだって迷惑が掛かる。僕のことを普通の子供だと思っている両親を酷く傷つけることになるだろう。
それでも、ずっとこのまま自分の心を偽って生きていくことは出来ないと思う。僕が乗り越えなければならないことは山のようにある。永遠に超えられない壁だってあるだろう。でも、少しずつでもいい。変えようと努力していかないと、僕の人生は窮屈なものになってしまうだろう。
僕は意を決して佳子ちゃんに近づいていった。
「みゃ~ご」
猫の鳴き声に、佳子ちゃんは僕の方を振り向いた。そこで不思議そうな顔をしている。それはそうだろう。猫の鳴き声が聞こえたのに、その方向には猫がいる気配がないのだから。
「みゃ~ご」
僕はもう一度そう口に出してみた。佳子ちゃんはようやく、猫の鳴き声を僕が出していることに気づいたようだった。
「猛君って、猫の鳴き真似うまいんだね!」
佳子ちゃんにそう言われた。いや、そうじゃないんだけどなぁ、と思いながら、まあとりあえずこれでいいや、と僕は思った。
僕は、体は人間だけど、心は猫だ。いつか体を猫に変えて、猫として暮したいと思っているんだけど、これはなかなか難しいだろうな、と思う。



131.「かぐや姫」
おばあさんの家の裏には、竹林が広がっていました。そこは一年中青々とした涼しげな場所で、おばあさんのお気に入りの場所でもありました。
ある日のこと。おばあさんがいつものように竹林をお散歩していた時のことでした。ふと、赤ちゃんの泣き声が聞こえてきたような気がしました。おばあさんは初め気のせいだ、と思いました。年を取って耳も遠くなってきたし、そもそもこんなところで赤ちゃんの泣き声が聞こえるわけがない、と思ったわけです。しかし、次第に気のせいではない、と思えるようになってきました。そしてその泣き声は、どうやら竹の中から聞こえてくるようなのです。
おばあさんはすぐにかぐや姫の話を思い出しました。竹の中で見つかった赤ちゃんが月へと帰っていく話です。おばあさんはもしかしたら、と思い、家から斧を持ち出しました。振り上げるのにちょっと力は要りますが、なんのその、おばあさんは慎重に竹を切ってみました。
するとどうでしょう。そこには可愛らしい赤ちゃんがいるではありませんか。まさにかぐや姫のお話通りです。おばあさんは、他の竹からも泣き声が聞こえることに気づいて、次々に竹を切っていきました。そのほとんどに赤ちゃんを見つけることになりました。
おばあさんはどうしたものかと考えました。おばあさんは、死んでしまった夫が遺してくれた莫大な遺産があり、子どもを100人育ててもまだありあまるだけのお金があります。これは私に育てろと神様が言っているに違いない、と思い、おばあさんは竹の中から見つかった子ども達を自分で育てることにしました。

~とある新聞記事~
○○県××市の児童相談所に、「赤ちゃんポスト」が設置されることになりました。日本では5例目ということになります。昨日設置されたばかりの赤ちゃんポストには、既に明け方には一人の赤ちゃんが入れられていたそうです。所長は、里親を探すところまで含めて最後まで責任を持つ、と明言しています。既に赤ちゃんポストが設置されているところでは大きな問題は起こっていないようですが、市の担当者は、微妙な問題も含んでいるので出来れば辞めて欲しい、と語っていました。

博士は、元々パンダの研究をしていました。パンダは何故竹だけを食べて生命を維持できるのか、という興味から研究は始まったわけですが、しかし次第に力点は竹の方に移って行きました。竹という植物の特異性に惹かれ、やがて竹をメインに研究をすることになりました。
博士はその過程で、ある発見をすることになります。博士は、竹から抽出可能な栄養素についての研究を行っていましたが、その過程で、竹を使った生命維持装置の開発に成功したわけです。人体をある特殊な方法で竹と接続することで、竹そのものから酸素や栄養を取り込むことが出来る装置です。
博士はちょっとした実験を思いつきました。
友人の児童相談所所長に協力を仰ぎ、赤ちゃんポストを設置させました。そうやって手に入れた赤ちゃんを竹林に連れて行き、博士が開発した生命維持装置を使って竹の中に入れました。
後日、「現代のかぐや姫」という見出しを新聞に見つけた博士は、今度は研究の興味を、人間を月で生活させる、ということに移したのだそうです。



132.「私これから結婚します」
あと数時間もすると、私はようやく待ちに待った念願の結婚をすることが出来る。私も40歳を超えようとしている。既に結婚対象としてはなかなか厳しい年齢になってしまった。でもいいのだ。私にはタロウがいるんだ。タロウと結婚出来るのなら、他にはもう何もいらない。
18年前のことを思い出す。
まだ若かったあの頃、私は一人の男性と付き合っていた。会社の同僚で、優しくていい男だった。ちょっと不器用で、ちょっと頼りなかったけど、あんまりそんなことは気にならなかった。
彼は犬を飼っていた。一人暮らしで、しかもペット可とは言えマンションで犬を飼うというのはなかなか大変みたいだったけど、彼はどうしても犬を飼いたかったのだという。犬と戯れている彼の姿はまるで子どものように無邪気で、そんな彼の姿を見ているのが楽しかった。私も餌をあげたりしつけを手伝ったりして可愛がった。ペットを飼ったことがなかったけど、ちょっとそういう生活もいいな、と思ったりした。
そんなある日、彼の犬が妊娠したことが分かった。どうやってそういうことになったのか分からなかったけど、とにかくそれからは大変で、動物病院に何度も連れて行ったり、何匹も生まれた子犬の引き取り先を探したりと大忙しだった。そして、最後に残った子犬を私が引き受けることにしたのだった。
思えばあの時、何であんなことをしたのだろう。初めは本当に悪戯のつもりだった。面白いことを思いついたぞ、という程度のことだったのだ。
子犬に名前をつけた時、人間みたいに戸籍も取れるんじゃないかな、と思ったのだった。ちょっとめんどくさかったけど必要な書類を適当にでっちあげて、見事子犬に人間の戸籍を与えることが出来たのだった。
彼にも、こんなことが出来たんだよ、という話をしたり、周りにいる友達にも面白おかしく言ったりして楽しんでいた。それ以上のことなんて全然考えていなかったのだ。
しばらくして、私たちは別れることになってしまった。彼とは結婚するかもしれないな、と思っていただけに残念だった。私は、子犬との新しい生活をスタートさせた。
どこからそうなったのか分からない。ただ、気づけば私は、自分の飼い犬を心の底から愛してしまっていたのだった。言葉が交わせるわけでもない、相手の考えていることがわかるわけでもないのに、私は一緒にいると心が締め付けられるようになってしまったのだった。
これは恋ではないのか。
自然と、結婚したいという発想が浮かんだ。初めは、そのことはすっかり忘れていたのだ。しかし突然、そういえばこいつには戸籍があるじゃないか、と思い出したのだ。戸籍があるなら、18歳を過ぎていれば結婚出来る。私はこの考えに興奮した。
タロウを飼い始めてから、何度か男性に告白されるようなこともあった。結婚を前提に、という話もないではなかった。しかし、私には全然興味がなかった。私の目には、もうタロウしか映っていなかったのだ。
そしてあと数時間で、タロウが18歳になる。結婚が可能な年齢になるのだ。既に婚姻届は書き終えている。証人はでっちあげた。なんとかごまかせるだろう。問題はない。ついに念願が叶うと思うと、私の心は弾んだ。
私たちの生活は、婚姻届一枚出したところで何も変わらないだろう。それに私は、周囲から結婚できない女性だと見られることだろう。しかしそれでもいい。私はタロウの奥さんになるのだし、立派な人妻なのだ。私の中だけの変化だけど、それでも私は、結婚出来ることの喜びに満たされている。



133.「水槽」
家に帰ると、まっさきにそれが目に入る。防音性にしておいてよかった、と僕は思う。
ガラスの向こうからの音は漏れ聞こえてはこないけれども、それでも耳の中で想像の音が聞こえてくる。
むぎゅむぎゅ。
そんな風に表現できる音だ。うごめいていて、すりよっていて、絶えず微動している。これを見ると僕は何だか心が安らいでくる。
これが何なのか説明するのは難しい。
まず、壁一面に沿ったどでかい水槽みたいなものを想像して欲しい。高さ2.5m、横幅3.5m、厚さ0.3mという代物である。この壁に合わせた特注品である。
その中に、猫が入っている。それもたくさん。少なく見積もって100匹はいるだろう。水槽を一杯に埋め尽くすだけの数だ。種類はいろいろで、アメリカンショートヘアーから三毛猫まで何でもアリだ。
彼ら猫は、彼らにとっては狭いその水槽の中で、お互いに体を摺り寄せながらうごめいている。水槽内は一定温度と一定酸素濃度が保たれるようにシステムを組んでいるので、窒息や熱によって猫が甚大な被害を被ることはないように出来ている。しかしもちろん、それで快適な生活が送れるというわけではない。爪に引っかかれて出血しているものは常に見かけるし、中には失明しているのだろう、というやつもいる。
一番楽しいのは食事の時だ。生肉とキャットフードを適度と思える量水槽内に無造作に放り込むのだが、この時の猫の動きは圧巻だ。水槽内にいるすべての猫が、餌のある一点を目指して動き出す。もちろん、すべての猫が餌まで辿り着けるわけではない。しかし餌はうまいこと下にも落ちていく。それを狙ってまた猫が動き出す。それは、指揮者の指示を無視して暴走し出したオーケストラのようで、見ていて爽快である。
また、マタタビを入れるのも面白い。どの猫も眠ったようにトロンとしてしまい、水槽の中には一転静寂が訪れる。まさに凪という感じだが、僕が好きなのはこれが突如破られる瞬間である。ある猫が覚醒すると、他の猫も一斉に覚醒し、水槽の中はまた動的になるのだ。この、何かが破られるような瞬間が楽しい。この水槽を作った甲斐があったというものだった。
時々、交尾をしている猫を見かける。これだけの密集地帯の中でよく出来るものだと感心するが、しかしこれはより面白い状況を生み出してくれることだろう。即ち、子猫が生まれればカオス度はまた一層上がるということである。
これを見ていると、僕は自分が神様になったような気分になれる。自分がすべての支配者なのだ、という感覚である。神様だって僕らをこんな風に見ているに違いない。地球という空間の中に60億人以上の人間を詰め込んで、そこで生きさせる。殺し合いもすればセックスもする。そんな様子を見ながら神様は、人間というのは楽しいもんだなぁ、なんて思っているのではないだろうか。
僕は次のステップについて思いを巡らせている。僕はこれと同じことを、人間でやりたいと思っているのだ。水槽の中でうごめく裸の人間達。決して死ぬことはない環境の中で、彼らがどんな痴態をさらしてくれるのか。考えるだけで今からワクワクしてしまうではないか。
準備は着々と進めている。人間用の水槽も既に発注したし、何よりも今僕の隣で眠っている少女は、人間水槽の第1号のお客様なのである。



134.「初めての行動経済学」
「俺さ、『経済は感情で動く』って本読んでるんだけどさ」
「何その本?面白いわけ?」
「これが面白いんだよねぇ」
「だってさ、そもそもタイトルがおかしいじゃん。経済は感情で動く?動かねぇっつーの。経済は経済でしょうが」
「それがさ、違うんだよなぁ。読んでるとさ、確かにそうだよなぁ、って思うことが多いんだよねぇ。そうそう、確かにそういう場合、そうなっちゃうなぁ、ってね」
「どうゆうことよ?意味わかんないんだけど」
「じゃあさ、ちょっとこの本に書いてある設問をちょっとやってみようぜ。そしたら分かるって」
「おぉ、いいよ」
「じゃあ行くぜ。こういう設問なんだよね。
『今日は土曜日で、大好きなオペラがある』」
「ちょっと待った。俺オペラとか知らないんだけど」
「そういう問題じゃないんだって。オペラが好きだとしたら、って考えてくれよ」
「そんなことできねぇよ。だって想像できねぇじゃん。お前だってさ、今目の前に、あなたの大好きなメキシコに多く生息する哺乳動物のマチョランデのステーキがあります、とか言われても、全然想像できんやろ」
「いやまあ、そらそうだけどさ、オペラぐらい分かるだろよ」
「いや、それは無理無理。別のにして」
「じゃあ何がいいわけ?」
「じゃあ、メロンチャイナのライブにして」
「メロンチャイナって、あのアイドルグループの?」
「そうそう。それだったらもう大好きって言えるね」
「オッケー。じゃあそれでいいや。じゃあもい一回行くよ。
『今日は土曜日で、大好きなメロンチャイナのライブがあります。あなたはうきうきとコンサート会場に出かける。入口に近づいた時、二万円もしたチケットをなくしてしまったことに気がつく。』」
「は?それありえん。それはありえん」
「何が?」
「いやだから、チケットなくすとかマジありえん。そんなアホなこと、俺がすると思うか?それもメロンチャイナのライブチケットでしょ?いやいやいや、ありえん。そんな仮定の話には答えられないわ」
「ええがな。そんなこと気にしてたら先進まんやろ」
「でも、メロンチャイナのチケットなんか無くすわけないんだって。家庭の話でも無理無理」
「じゃあ何ならいいわけ?」
「そうだなぁ。野球とかならいいよ。野球のチケットとかなら、まあそんな大事でもないからなくす可能性はあるよね」
「じゃあ野球で行くよ。
『今日は土曜日で、大好きな野球の試合がある』」
「いやいや、ちょっと待てって。だから、野球は別に大好きじゃないんだってばさ」
「分かった分かった。
『今日は土曜日で、野球の試合がある。あなたは野球場に出かける。入口に近づいた時、二万円もしたチケットをなくしてしまったことに気がつく。
さてどうしますか?チケットを買い直しますか?』」
「いやいや、買うわけないやろ」
「んじゃ次ね。
『さっきと同じ設定で、いまあなたは野球場の入口にいる。けれども今度はチケットをなくしてしまったのではない。チケットはまだ飼ってないのに、上着のポケットにあったはずの二万円が見当たらないのだ。
さてどうしますか?チケットを買い直しますか?』」
「いやいや、その質婚はおかしいやろ。二万円なくなったんだろ?そしたら、二万円探すに決まってるがな。野球の試合なんてどうでもええがな」
「だから、そういう話じゃないんだってばさ」
「その本やっぱおかしいんじゃないの?」
「いや、おかしいのはお前のほうだって」



135.「オススメ小男」
あの男に会ったのは、ラーメンでも買おうと、いつものようにコンビニに行った時のことだった。
「何かお探しですかぁ」
僕がカップラーメンを適当に見ている時、急に誰かに話し掛けられた。初めは話し掛けられたのが自分だとは気づかなかった。何せここはコンビニだ。店員が、「何かお探しですか?」なんて声を掛けてくるとは思えない。しかし声のする方を振り向いてみれば、そこには僕の方を見て首を斜めに傾けている小男がいるのだった。
「何かお探しですかぁ」
その小男はもう一度言った。僕はどう答えていいのかわからなかった。確かに僕はカップラーメンを探しているけど、何か特定のものを探しているわけでもない。なんとなくよさそうなものを選ぼうと思っているだけだ。それに何よりも、その小男はどう見ても店員ではなかった。店員に聞かれるならまだしも、何で店員でもない人間にそんなことを聞かれて答えなくちゃならないのだろうか。
「いえ、別に大丈夫です」
僕はとりあえずそうとだけ答えて、またカップラーメン選びに戻った。
しかし小男は引き下がらなかった。
「今オススメなのはこっちの焼豚エキススタミナとんこつラーメンなんですけどね、これはちょっと今の時間に食べるのは重いかもしれないですね。このニシン醤油ラーメンなんてのもかなりいいですけど、ニシンはどうですか?食べられませんか?結構いるんですよね、ニシンがダメだって言う人。あ、もしかしたら食べたことないですか?それならちょっと試してみるのもいいかもしれませんよ。あとこの、沖縄産の岩塩を使った塩ラーメンっていうのもオススメですねぇ」
小男は一人でそんな風なことを喋り続けている。うっとうしい。僕は、相手にすれば余計につけあがるだけだと思って、無視し続けることにした。
「あとこんなのもありますけどね。電子レンジでチンして出来るラーメン。最近はポットがないという方も多いですからね。水を入れて電子レンジにかけるだけでラーメンが出来るなんて、世の中すごいもんですねぇ」
僕はカップラーメンを一つ選び、レジへと向かった。
「なるほど、そのミソラーメンですか。定番中の定番を選ぶとはお目が高い。やはり定番というのは信頼の証ですからね」
相変わらず喋り続けている。無視無視。この会計さえ終わってしまえば、もうあの小男もいなくなることだろう。
会計を終え、店を出ようとすると、何故か小男が僕の後についてくる。店から出てもついてくる。そのまま歩き始めたのだが、それでもついてくるのだった。
「あそこにカレー屋がありますよね。あそこのカレー屋ではですね、チキンカレーを頼むのがいいですよ。あそこのチキンカレーほど旨いのを食べたことはないですね」
「あそこのパン屋さんでは、12時ちょうどに焼きあがる限定20個のフランスパンがもう絶品ですね。あれを食べないでフランスパンを語ることは出来ないですよ」
「あそこの靴屋、今セール中なんです。なかなかセンスのいい靴ばかりで、お買い得だと思いますよ」
小男は喋り続けている。周辺にある様々なお店について、あれがいいだのこれがいいだのとひたすらに言い続けているのだった。
「ついて来ないでください」
僕は何度かそう言っては見たものの効果はなかった。
「このアパートはですね、203号室が一番いいみたいですね。他の部屋よりも若干広めらしいです。それに日当たりも抜群ですしね」
結局僕の部屋までやってきた。追い出せばいいのだろうけど、どうしたらいいのか僕にはよくわからない。



136.「旅は道連れ」
私が旅を続けるきっかけになったのは、ある一枚の絵のせいだった。今でも、絵が私をどこかに連れて行ってくれる。どこに行くべきなのか、教えてくれる。
初めはカンボジアだった。大学の長い休みを利用して、一人旅に出かけたのだった。特に計画は立てなかった。期間も決めなかった。お金がなくなったら帰ろう。そんな風に思っていた。
遺跡を巡り、川沿いを歩き、動物達を見かけ、珍しいものを食べながら、私は次第に異国の空気に溶けていくように馴染んでいった。
そんなある日のことだった。私は一枚の絵に出会ったのだった。
それは道端に落ちていた。歩いている人は皆その絵の存在に気づかないのか、あるいは気づいていて無視しているのか分からないけど、何度も踏まれたような痕があり、かなりボロボロになっていた。
私はその絵を拾いあげた。それは風景画だった。絵の上手い下手は私にはわからない。でも、好きな絵だと思えた。しかし、初めてその絵を見た時の感想はそんなものではなかった。
それは、何の変哲もない草原に牛やら羊やらが描かれ、奥の方に高い山が描かれているだけの絵だった。しかし、私には分かったのだ、それがどこなのか。知っていたのではない。私はそこには一度も行ったことがない。それでも、その絵に描かれている場所がどこなのか、私には正確に分かってしまったのだった。
そして同時に、どうしてもそこへ行かなくてはならない、と思えてきたのだった。カンボジアにこのままい続けてはいけない、と私は直感したのだ。
だから私は、その絵に描かれている場所を目指して旅を続けることにした。
私はその旅の間中、ずっと写真を獲り続けていた。そして私は時々、撮った写真をそっと道端に置いていった。もしかしたら私のように、誰かの旅のきっかけになればいいな、と思いながら。
私は長い時間を掛けて、その絵に書かれていた場所に辿り着いた。そしてやはりそこには、また別の絵があったのだ。明らかに同じ人の絵だと分かった。そしてまた私には、そこがどこなのか明確に分かってしまったのだった。
そうやって私はずっと旅を続けている。絵が私をどこかへと連れ去って行ってくれる。私はそれを信じているだけでいい。
私の旅は、この絵がある限り終わることはないだろう。

僕が旅を続けるきっかけになったのは、ある一枚の写真のせいだった。今でも、写真が僕をどこかへ連れて行ってくれる。どこに行くべきなのか、教えてくれる。
会社勤めに疲れて、有給をありったけ使って無理矢理長い休みを取った。そして僕はエジプトに旅行に出かけることにしたのだ。エジプトにした理由は特にない。何となく、それまでの日常とはかけ離れたところに行きたい、と思ったのかもしれない。
エジプトでは、遺跡を巡り、暑い陽射しに焼かれ、珍しい料理を食べ、買い物をした。何の目的もない時間というのがこれほどまでに素晴らしいものだったのか、と僕は感動していた。
そんなある日のことだった。私は一枚の写真に出会ったのだった。
それは道端に落ちていた。歩いている人は皆その存在に気づかないのか、あるいは気づいていて無視しているのか分からないけど、何度も踏まれた痕があり、かなりボロボロになっていた。
僕はその写真を拾いあげた。それは風景を写したものだった。写真の上手い下手は僕にはわからない。でも、好きな絵だと思えた。しかし、初めてその絵を見た時の感想はそんなものではなかった。
それは、色とりどりの花に埋め尽くされた、まるで花の洪水とでも言うような場所だった。遠くの方に灯台がポツンと見える。ただそれだけの写真だった。しかし、僕には分かったのだ、それがどこなのか。知っていたのではない。僕はそこには一度も行ったことがない。それでも、その絵に描かれている場所がどこなのか、僕には正確に分かってしまったのだった。
そして同時に、どうしてもそこへ行かなくてはならない、と思えてきたのだった。エジプトにこのままい続けてはいけない、と僕は直感したのだ。
だから僕は、その写真に写っている場所を目指して旅を続けることにした。
その間中僕は、ずっと絵を描き続けた。気になった風景を見つけてはそれをさらさらと絵にして、そしてそれを道端に置いていった。もしかしたら僕のように、誰かの旅のきっかけになればいいな、と思いながら。
僕は長い時間を掛けて、その写真に写っていた場所に辿り着いた。そしてやはりそこには、また別の写真があったのだ。明らかに同じ人の写真だと分かった。そしてまた僕には、そこがどこなのか明確に分かってしまったのだった。
そうやって僕はずっと旅を続けている。写真が僕をどこかへと連れ去って行ってくれる。僕はそれを信じているだけでいい。
これまでも何枚も写真を拾った。そして僕はその度にそこを目指して旅を続けた。ある時、いつものように写真を拾った。その写真の裏にはこう書かれていた。
「ストーカーさん、こんにちわ」



137.「タイムマシン」
気まぐれに、『不確定世界の探偵物語』なんていうSF小説を読んでみることにしたのだけど、そのお陰で長年の謎が解決されたように思う。
『不確定世界の探偵物語』では、たった一台のタイムマシンをある大富豪が持っていることになっている。その大富豪がタイムマシンを使って、過去を自在に改変してしまうのだ。目の前にいる人が突然別の人に変わったり、街並みが突然変化したり、それまでなかった技術が突然現れたりするような世界になってしまったのだった。
なるほど、私のいる世界もこの小説の中の世界と同じなのかもしれない。どこかの大富豪がタイムマシンを持っているのだ。
例えばこういうことがある。ご飯を食べようと思ってテーブルに座っている。しかし次の瞬間、テーブルの上にあったはずのご飯がなくなってしまっている。家族の者に聞いても、さっき食べたでしょ、と言われる始末だ。私には食べた記憶などないのに、である。
しかしこれも、大富豪がタイムマシンで過去を改変していると考えれば謎ではなくなる。過去を改変したことで、私の目の前からご飯が消えてしまうのだ。
「おじいちゃん、独り言ならもっと静かにやって」
孫の声が聞こえる。
「それに、過去が改変されてるなんてことあるわけないじゃん。おじいちゃんはただボケてるだけ」
私はそこだけ聞こえなかったフリをした。



138.「似顔絵ゲーム」
「最も私に似た絵を描いた者に、すべての遺産を与えよう」
実業家であり経済評論家でもあった竹中一郎氏が、自身がコメンテーターを務めるテレビ番組の中でそう宣言したのは、今から一ヶ月前のことであった。
竹中氏は銀行員からベンチャー企業を興した変わり者で、しかも一代で巨万の富を築いた立身伝中の人物であった。一方でその豊富な知識から経済評論家としても活躍し、テレビで目にしない日はない、という人であった。
その竹中氏が、テレビを通じてこう宣言したのだ。
世間はこの宣言に狂喜した。何せ、親族でなくても絵さえ描けば莫大な遺産を手に入れることが出来るチャンスがあるのだ。世界中の人々が、世界中の芸術家にアプローチし、誰もがこの賭けに勝ってやろうと意気込んでいた。誰が遺産を手に入れるか賭けまで行われる始末で、そのあまりの熱狂振りに、他局でも特集番組が組まれる程であった。
さてそんなわけだったから、それなりに名の通った芸術系の大学にいる僕の周りも、この話でもちきりだった。もちろん絵の巧い奴がゴロゴロいるわけで、誰もが山師になった気分で、自分が遺産を手に入れて見せると意気込んでいるのだった。
かく言う僕もその一人であるのだが、僕には勝算があった。そもそも多くの人はこのゲームの本質を見極めていない、と僕は感じていた。重要なことは、絵の判断をするのは竹中氏本人である、ということだ。
僕は、あらゆる伝手を辿って、あらゆる人の手を介しながら、目標へと少しずつ迫っていった。それを手に入れることが出来るかどうかで、ほぼ勝敗が決すると言っても言い過ぎではないだろう。僕は自分では一切絵を描かなかったし、誰かに絵を依頼することもなかった。それでも、僕には間違いなく勝てるだろうという目算があった。
そして発表当日の日がやってきた。会場として指定された場所は、人で一杯だった。それもそのはずで、日本のみならず世界中からありとあらゆる人間が詰め掛けているのだった。
するべきことは単純だった。順番に竹中氏に絵を見せる。これだけ多くの人がいるのだから、見せる時間はほぼ一瞬と言っていい。そして最後まで絵を見終わった後、竹中氏が一枚の絵を選ぶのである。
審査が始まった。ほとんどの時間は待つしかない。退屈でもあり、同時に緊張もしていた。自分の賭けが当たるかどうかの分かれ目なのである。
長い時間を経て、ようやく僕の番がやってきた。僕の絵を見た竹中氏の表情が変化した。そして、これまでそんなことは一度もなかったのだが、竹中氏は付き人の一人と何やら話をし始めたのだった。
僕が見せたのは、竹中氏の一人娘が小学生の頃に描いた父親の顔である。多くの人を介してこれを手に入れることが出来た。どれだけ似た絵を描こうとも、竹中氏の心を掴むことが出来ないのでは仕方がない。
中断していた流れが再会される気配はない。しばらくすると僕のところに、先ほど竹中氏と話をしていた付き人がやってきた。
「恐れ入りますが、その絵をこちらにお渡しいただきたい」
僕は心の中でガッツポーズをした。これはつまり、僕が勝者となったということだろう。
「ありがとうございます」
「勘違いされては困ります。その絵は、竹中氏が小学生の頃に描かれた、お父上の絵です」
なるほど。僕はまったく違うものを掴まされたというわけか。心の中で一人苦笑し、賭けに負けたことを悟った。
「最近、竹中氏のお父上が殺されたというニュースをご存知でしょうか」
彼がそう言った瞬間、サイレンの音が聞こえてきた。まさか。
「警察もあなたにお話を聞きたい、とのことです」



139.「成功の法則」
僕は社長になりたくて仕方なかった。とにかく、なるなら社長だと子どもの頃からずっと思っていた。社長にならなければ意味がない、とまで思っていたほどだ。
そんなことを周りに吹聴していると、友人の一人が一冊の本を僕にくれた。「日本でいちばん大切にしたい会社」という本だった。
「この本何?」
「タイトル通りな、日本でいちばん大切にしたいと思える素晴らしい会社について載ってるんだ。お前がもしホントに社長になりたいんだったら、こういうような人の話を読んでおくのはためになるだろうと思ってさ」
そう言われたので、僕はありがたくその本を受け取り読んでみることにした。
その本には、主に五つの会社について書かれていた。

川崎市にある、従業員の七割が障害者である「日本理化化学工業株式会社」
斜陽産業である寒天を扱って、四十八年間増収増益を続けてきた「伊那食品工業株式会社」
日本一辺鄙な場所にあるが、そこで作っている義肢装具を求めて世界中から顧客がやってくる「中村ブレイス株式会社」
地元北海道で最も親しまれていて、新卒採用の競争率が100倍という「株式会社柳月」
大手スーパーが立ち退いたためさびれてしまった商店街で驚異の売上を誇る「杉山フルーツ」

この本を読んで、僕は成功の法則を見極めることが出来た、と思った。なんだ、会社を成功させるのはこんなに簡単なことだったのか、と僕は安堵したのである。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

フリーライターとして毎日忙しく働いている私のところにある話が舞い込んで来たのは、桜も散りかけた頃のことだった。
私は、自ら企画を立てて文章まで書き、そのパッケージすべてを出版社に売り込むという形で仕事をしているのだけど、ある時変な会社があるので取材に行ってもらえないか、と依頼がやってきた。自分で企画を立てない取材は久しぶりだったものの、依頼主から聞いたその会社の特徴を聞いて、何だか嫌な予感がしたのだった。これは自分で行って確かめるしかない。私はそう決意して、一路滋賀県まで行くことにしたのである。
その会社は、実に辺鄙な場所にあった。滋賀県の奥の奥、もはやここは森と呼ぶべきなのではないか、と思えるところに、突如その建物が現れるのである。しかも奇妙なのが、その建物は商店街の中にあるのである。そんな山奥に商店街があるわけもないので、その商店街も会社の所有ということなのだろう。わざわざさびれた雰囲気を醸し出す商店街の中に本社がある。
本社に入ると、驚くべきことに従業員のすべてが障害者なのだった。受付にいる人は話すことが出来ないようで、すべて筆談でのやり取りだった。エレベーターガールは車椅子に乗っているし、工場の方でも様々な障害を負った人々がそこかしこで働いているのである。
事前に聞いていた話によれば、この会社が扱っているのは寒天と義肢装具だとのこと。ここに至って私の嫌な予感は完璧に的中したと言っていいだろう。
社長への面会を求めると、既に話は通っていたようで、社長室に案内された。そこで私は、旧友と再会することになるのである。
「やっぱり、君だと思ったよ」
「あの時お前がくれたあの本に書かれていることをすべて実践してみたんだ。なかなか困難なものもあったけど、どうだろう、なかなかうまいこと実現したとは思えないだろうか。これで僕の成功も間違いなし、というところだろうね」
私はそれ以上取材を続ける気になれず、頑張ってくれ、応援していると言ったようなことをおざなりに言って帰ってきた。まさかあそこまで馬鹿だとは思わなかった。恐らくあの会社は近い内に潰れることだろう。そう思うと、あそこで働いている障害者の方々のことが思い出されて、何とも言えない罪悪感にさいなまれるのだった。



140.「エア格闘技」
いつものように仕事を終えて部屋に戻ると、郵便受けに一通の封筒が入っていた。表に『招待状』と大きく書かれている以外白紙の封筒で、差出人が誰かも分からない。後で気づいたのだけど、切手も貼っていなかった。明らかに怪しいのだけれども、その時は疲れていたこともあって見逃してしまったのだ。
なんとはなしに封筒を開けて見る。それは、ある大会の予選会への招待状であった。
『エア格闘技全国大会』
「エア格闘技」というのは聞いたことがないけど、要するに「エアギター」みたいなものなのだろう。そこまでは分かるが、しかしやはり実際に想像は出来ない。
僕は小学校の頃からずっと空手をやってきて、それなりの有段者である。空手には型というのがあって、対戦相手がいない状態でその型を披露するというのがある。要するに、それの応用版だと考えればいいだろうか。ありとあらゆる格闘技の攻撃スタイルを一同に介して審査する。その型の良し悪しで、勝敗を決める、というような。ある意味で総合格闘技と言えないこともないだろう。
実は後で気づいたのだが、その招待状の末尾にURLが記されていて、詳しい情報はここにアクセスするように、という注意書きがあったのだ。そこには、エア格闘技のなんたるかということがちゃんと説明されていたのだけど、僕はそのURLにまったく気づかなかったために、自分なりの解釈のみで参加を決めてしまったのだった。ずっと続けている空手の型なら、練習を怠りさえしなければそれなりのものを披露することは出来る。それで大会に臨んでみよう、とそんな風に思っていたのだ。
そして予選会当日の日がやってきた。
会場は、普段参加する空手の大会とはちょっと違った雰囲気を醸し出していた。僕はそれを、様々な格闘技の人間が集っているからだろう、と考えていたのだけど、大会の本当の姿を目の当たりにした時、その解釈が間違っていることを知った。しかし大会が始まるまでは呑気なのもで、どこかに知り合いでもいないかなぁと探す余裕さえあったほどだ。
そして大会が始まった。
会場には畳敷きのスペースやプロレスリングなど、ありとあらゆる格闘技で使用されるステージが組まれていた。そしてそのそれぞれに一人ずつ参加者が立ち、合図を待っている。
合図と共に、すべての参加者が同時に動き出した。それを見て、僕はようやくエア格闘技のなんたるかを知ることになった。
参加者は皆、一人で動き回っている。それぞれの格闘技の型を見せている者はいない。フットワークでパンチを避けている風だったり、寝技を掛けられている風だったりする動きをしている。凄い人なんかは、背負い投げを掛けられている様子を一人で演じている。
そう、エア格闘技とは、いかに相手に技を掛けられているかを演じる競技だったのだ。それに気づいた瞬間、僕はいかにこの場から一刻も早く立ち去るかということしか考えていなかった。



141.「竹石中目」
「竹石中目の本、ありませんか?」
ポカポカ、という表現がぴったりきそうな春の午後、古本屋でアルバイトをしている私は、いつものようにぼんやりとレジに突っ立っていた。平日の午後なんて、時々暇そうなおじいさんが来るぐらいでお客さんなんてほとんどいない。ちょっと前に棚の整理も終わらせて、ちょっと一息、なんて思っていた時のことだった。
お店に年配の女性がやってきて、そう尋ねてきたのだった。
「たけいしなかめ、ですか」
「結構昔の作家みたいなんですけどね。たぶんもうお亡くなりになっているぐらいの」
50代に届くかというその女性は、古びたこの店にはまったく似つかない上品さだった。
私は本好きが高じて古本屋で働くようになったくちだ。新刊書店で働いていないことからも分かるように、昔の文豪と呼ばれるような作家の作品が好きなのだ。夏目漱石や太宰治などはもちろん、泉鏡花や田山花袋、内田百聞なんかもちゃんと読んでいる。現代の作家には描き得ない何かが込められているように感じられて、読むたびに新しい発見がある。昔気まぐれに読んだ村上春樹の小説の登場人物の一人が、僕は既に死んでる作家の作品しか読まない、なんてことを言っていたけど、私もかなりそれに近いと思う。
それでも、竹石中目という作家には聞き覚えはなかった。もちろん私が知らないだけかもしれない。インターネットでも検索してみたのだけど、それらしい作家はどうも見当たらない。かなりマイナーな作家なのだろうか。地方の個人編纂の雑誌にほんの僅か投稿していただけ、というような。しかしそれにしても、インターネットでもまったく情報が出てこない、というのはちょっとおかしい。
お客さんにも、作家の名前が間違っていないか、他に何か分かることはないかと聞いてみたのだが進展せず。その内、あまりに時間を掛けすぎていることにお客さんが気を揉み始め、こちらは暇なので全然構わないのだが、一応何かわかったら連絡をするということで連絡先を書いてもらうことにしたのだ。
「でも、若いのにたくさん本を読んで偉いわねぇ」
本を読んでいるだけなのに褒められるというのもなんだか変な気分だけど、やっぱりちょっとは嬉しい。
お客さんが帰った後も調べてみたのだけど、やっぱりよく分からなかった。店長が戻ってきた後聞いてみたり、同業者の人に確認をしてもらったけど、やっぱり分からなかった。翌日私はそのお客さんに、そういう作家はちょっと分からなかったということを伝えました。
「竹石中目かぁ」
この件が終わっても、私はどうにも気になって仕方ありませんでした。お客さんが売りに持ってくる本の中にその名前を探してしまうこともあれば、個人的に立ち寄った古本屋さんでその名前をチェックしたりしてしまいます。
そんなある日のこと、自宅に一通の手紙が届きました。驚いたことにその宛名は、「竹石中目様」となっていたのです。
大慌てで中身を確認すると、そこにはさらに驚くべきことが書かれていました。

『竹石中目様
という呼び方をしても、恐らくピンと来ないのでしょうね。
石川香苗様とお呼びした方がいいでしょうか。
突然のお手紙、申し訳ありません。私は、時空警察第36方面本部所属の警部であります盛岡敬三と申します。
信じてはいただけないかもしれませんが、私は西暦2348年に生きる者です。要するに、未来人ということになりますね。
私どもの世界ではすでにタイムマシンが開発されていまして、過去や未来への行き来は制限付きで可能になっています。私ども時空警察は、違法な形での時空移動を取り締まる組織でして、日夜時空の安全確保に努めているわけです。
そんな組織から手紙が届いてさぞ驚かれたことでしょう。事情を説明させていただければと思います。
私どもは、ある誘拐事件を追っておりました。とある犯罪者が過去へと遡り、その時代に生きる人物を誘拐し、別の時代へと連れ去って行ってしまったのです。その誘拐犯こそ石川様のお父上でして、石川様こそが誘拐されたご本人ということになります。
石川様はまだ幼い頃に融解されてしまったため、その当時の記憶はお持ちではないでしょう。しかしこれは紛れもない事実であります。
石川様は、そのまま誘拐されずにいれば、竹石中目という名前で著名な作品を残す大作家になっていたはずの人物でした。しかし石川様が誘拐されてしまったために、歴史上竹石中目という人物が存在しないことになってしまいました。私どもはこの歴史をなんとか補正したいと考えています。そこで、無理なお願いと分かっておりますが、正しい時代にお戻りいただくことは出来ないでしょうか?
そういえば先日、我が時空警察の警部補の一人が石川様の職場にお邪魔したかと思います。そこで竹石中目の名前を出したのも、この手紙の信憑性が少しでも高くなってくれれば、と思ってのことです。
もちろんすぐに信じることは難しいでしょう。しばらく待ちますので、どうかお考えいただけないでしょうか?』

私は考えこんでしまった。歴史に名を残す文豪になれるというならそれは魅力的だ。しかし、今の私に小説なんて書けるだろうか。
確かに簡単には結論は出せないな。どうしたものだろうか。



142.「荒野」
『荒野に花を咲かせるんだ』
読んでいた本にそう書かれていた。だから僕は、荒野に種を蒔くことにした。
何もない、ただ広いだけの土地だった。建物も植物も、何かの気配さえ何もない、まさに荒野。砂漠とも違うし、原っぱというのとも違う、荒野としか呼びようのないその土地に、僕は少しずつ種を蒔いていくことにした。
地面は固く乾燥しており、植物が育つには満足いく環境ではないだろうと思った。それでも、なんとか穴を掘り、日々水をやり続け、そうして努力を重ねていたのだった。
一方で僕は、近くに住む人々からの悪意を感じ取っていた。種を蒔き、水をやっている僕の姿を遠巻きに見ては、恨みがましい視線を送ってくるのだった。僕はそれに気づかないフリをして、毎日の作業をこなしていった。僕にとって重要なことは、荒野に花を咲かせることだけだ。それ以外のことは、どうでもいい。
少しずつ、芽が出てきた。このささやかな芽が大きくなり、この地を埋め尽くすのにはまだまだ時間が掛かるだろう。それまで僕はここにいて、その時の流れを見守らなくてはならない。
周囲の人間からの不穏な視線を常に感じながら、僕は言葉に出来ない達成感を感じつつあった。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

その男がやってきたのは、伝説によれば、カウヤビ祭からそこまで日の経っていないある日のことだったらしい。カウヤビ祭というのはこの辺の伝統的な祭りで、森の精霊に感謝を捧げる祭りのことだ。この祭りも、一時期途絶えてしまったが、今でも続いておる。カウヤビ祭が終わって日も浅い時にやってきたこともあって、あの男は悪魔と呼ばれておるのだ。
今ではすっかり変わってしまったが、我々部族は元々森の中に住んでいたのだ。森と共に生きていたと言っても言い過ぎではなかった。木の上に家を立て、木の芽やキノコなどを採取し、動物を狩り、そうやってわしらの生活は成り立っていたのだ。
そんなある日のことだった。突然一人の男がやってきて、我々の住む森を破壊しおったのだ。
それはもう完全な破壊だったようだ。森を焼き、焼き払った後の炭をどこかに追いやり、我々の生活のすべてを完全に奪ったのだ。
そうしてそこには、まさに荒野としか呼びようのない土地が出来上がったのだ。誰もが、何故男がそんなことをしたのかさっぱり理解が出来なかった。その後の男の行動もまるで不可解だった。
男はその荒野に、種を蒔き始めたのだった。見る限り、そこに元々生えていた木や花の種であるようだった。つまり男は、そこにあった森を再生しようとしていたのだった。ならば何故、我々の生活を奪ってまで森を破壊してしまったのか、結局誰にも分からなかった。
その当時の人間はもう誰も生きていない。こうして、伝説として話が残っているだけだ。結局男が何をしたかったのかは分からなかった。森は長い時間を掛けて再生された。しかし、我々が失ったものは、あまりにも大きかったよ。



143.「出会い系」
出会い系サイトを使い始めて半年が過ぎた。初めは、友人の一人に勧められたのだ。一個下のその友人は、出会い系を始めてから三ヶ月で五人の男性と性的な関係を持ったらしい。ホントか?と半信半疑、どころか二信八疑ぐらいだったのだが、しかし何でもやってみるものである。私も、友人には劣るが、半年で四人の男性と性交渉をした。なんだ、まだまだいけるんだ、と大いに自信を持つことが出来た。結婚はしてるし、もちろん旦那と一緒に暮してはいるけど、子どもを送り出してからは話の種もなく、日々ぼんやりと過ごしているだけなのだ。若い男の子でも捕まえないとやってられないではないか。
そんな風に思いながら、今日もメールのチェックをした。毎日数十通のメールが来るのだ。それらを吟味し、これはと思える数人に返信をする。それが私の日常だ。今日も、良さそうな男がいないかチェックする。
これはいいかもしれない。
『初めまして、タケルです。年上の女性に憧れています。まずはメールから、仲良くなりましょう!』
こういうあっさりした文章の方がいいのだ。初めから自分を巧くアピールしようとする男や、何でも書けばいいと思って長々文章を書く男には結局外れが多い。そういう意味でなかなかいいと言える。
私が登録をしているのは、熟女系と呼ばれるサイトだ。基本的に、年下の男性が年上の女性を求める形でやり取りが行われていく。だからこのサイトに登録しているということは年上が好きだということは明白なのだけど、それをわざわざ書いている辺りもいいではないか。
早速返信を書くことにする。
『初めまして、ヨシミです。メールからでよければ仲良くなりましょう。タケルさんはどんな人ですか?』
『ヨシミさん、返信ありがとう!嬉しいです。僕は、中堅の食品メーカーでサラリーマンをやってて、20歳です。ヨシミさんは?』
『食品メーカーですか。私は小規模なPR会社でOLをしてます。もしかしたら取引のある会社同士だったりして(笑)。私は40歳です。ちょっとオバサン過ぎるかな…』
20歳も違うけど大丈夫だろうか。まあしかし、なんとかなるだろう。
『PR会社ですか。すごいんですね。40歳なんてまだまだじゃないですか。全然オッケーです!』
そんな風にして私達のメールは続き、やはり初めに思った通り会う運びになった。
さて、ここからが勝負だ、と私は思った。何せ40歳も年下の男の子とデートをするのだ。自分が60歳に見えないように特殊メイク並の気合でいかなくては、と思った。



144.「ゲーマー」
日々ゲームばかりして引きこもっている。一日十数時間もゲームをやっていると、なんだか現実感が浮遊し、どこか知らない世界へと入り込んでしまったかのような感覚に陥ることがある。
僕はとりあえずどんなゲームでもやる。RPGや格闘もの、ゲームやパズルの類、野球やレースといったものや、エロゲーなんかもやる。とにかく日々様々なものを集めてきては、とにかく時間の許す限りゲームをし続けているのである。
そんなある日のことだった。僕はその日格闘ゲームをやっていた。新発売のもので、さっそくやり込んでいる最中のことだった。
突然目の前が真っ暗になり、それからすぐまた視界が開けた。しかし目の前は、僕の見慣れた部屋の光景ではなかった。僕は自分がどこにいるのかイマイチよくわからないでいた。目がぼやけてしまったのだろうか、どうも周囲の光景がぼんやりとしか見えない。
目の前から、何だか鎧のようなものを着たとんでもなくデカイ男がやってきて、僕と相対した。その時気づいたが、頭上にはパワーゲージみたいなものがあって、つまり要するにここは、僕がついさっきまでやっていた格闘ゲームの中の世界だということだ。
どうしてこんなところに入り込んでしまったのだろうか。ゲームのやりすぎでへんな夢でも見ているのだろうか。それにしてもこれはあんまりではないだろうか。どう考えても僕は今から、このバカデカイ男と戦わなくてはいけないではないか。
どこからか、レディーゴー、という声がして、どうやら試合が始まったようである。僕は何かのキャラクターというわけではなく僕そのもので、だから必殺技みたいなものは何もないだろう。生身の体で戦わなくてはいけないのだ。それで、あんな鎧をつけた大男に勝てるわけがない。やはりここは逃げるしかなかろう、と思って僕は振り向き様に走り出した。
しかし、やはり画面より外には出られないということなのだろう。壁のようなものが僕の行く手を遮ったのだった。なるほど、戦うしかないというわけですか。
まあどうせ僕はここで死ぬのだろう。どうしてこんなことになってしまったのか分からないけど、それだけは確かだ。まあいい。大好きだったゲームの中で死ねるというなら、それも悪くないかもしれない。
僕は大男と戦って、見事敗れた。何だかものすごく痛かったけど、しかしもうこれで終わりだというならまあいいだろう。
しかし、どのぐらいの時間が経ったのか、僕はまた意識を取り戻した。今度は別の場所で、目の前にいる相手もまた別だった。
なるほど、このゲームのキャラクターの一人として取り入れられたということか。だから一回死んでも、何度でも生き返って戦わなくてはいけないのか。
しかしだとしたら、あの苦痛をずっと味わわなくてはいけないのだなと思うと、何だかげんなりするのだった。



145.「なんでも溶かせる薬」
『なんでも溶かせる薬開発!』
東スポにそんな文字を見つけた。記事ではなくて広告だったけど。
っておいおい。そんなんありえねぇだろ。これはよくクイズとかパズルで出される類のものなのだ。そもそも、何でも溶かせる薬を入れておける容器はあるんですか、ということだ。なんでも溶かせてしまうならば、その薬は地球の中心まであらゆるものを溶かしながら落下していくだけだろう。
だからそんな薬が実在するわけがないのだ。しかしこの広告は、東スポとは言え一応新聞に載っているのである。それがまるっきり嘘というのもさすがにないだろう。となれば、ほぼなんでも溶かすことが出来る薬が開発されたということだろうか?
もしそうだとしても特に使い道はないのだけど、ちょっと興味が湧いたのでその薬を注文してみることにした。
しばらく経ったある日、その薬が我が家に届いた。
何だかものすごく大きな梱包である。まさかこんなに大量の薬が送られてきたのだろうか、と思っていたらそうではなかった。中に入っていたのは、様々な種類のパンだった。薬はその片隅に入れられていて、化粧品っぽい入れ物の中に液体状のものが入っていた。
そもそも何でパンが送られてくるのだろうか、と疑問に思ったので説明書を読んでみることにした。それを読んで、なんだそら、と脱力してしまった。
要するにこの薬は、「ナンでも溶かせる薬」なんだそうだ。あのインドとかで食べてそうな、あのナンである。もう一度、あの時の新聞広告を見てみた。すると、「なんでも溶かせる薬開発!」と書かれていた小さな囲みを一つの広告だと思っていたのだけど、それはより大きな囲み広告の一部であったようで、それはパンの広告だった。パンの詰め合わせを誰かに贈りませんか、というやつだ。
なんだかよくわからないが、とりあえず美味しそうなパンがたくさん手に入ったのでよしとしよう。



146.「さてどうなる」
東都テレビ第七スタジオ。そこでは今、ドラマの撮影が行われている。
今日の撮影では、拳銃を撃つシーンが出てくる。その拳銃にまつわる話である。

小道具係の大谷は、撮影で使うモデルガンを持ってスタジオ内に入った。しかしそこで助監督に呼び止められ、その時モデルガンをその辺に置いてどこかへ行ってしまう。

中谷のマネージャーである小磯から拳銃を受け取った小道具係の大谷は、モデルガンを所定の位置にセットした。撮影はもうすぐ始まることだろう。

「ば~ん」
照明係の大森は、メイク係である中西に拳銃を向けられて驚いた。本物であるわけがないとは分かっているのだけど、やはりいい気持ちがしない。なるほど、これが仕返しというわけか。
そこに、ものすごい形相をした中谷がやってきた。拳銃を持っている中西に近づくと、中西を殴りつけて拳銃を奪った。大森も中西もポカンとするばかりだった。

メイク係である中西は、通路脇の台の上に拳銃が置かれているのを見つけた。今日の撮影で使うものだろう。そうだ、さっき大森さんにされた悪戯の仕返しをしてやろう。中西はちょっと借りるつもりでその拳銃を持っていった。

楽屋に戻った中谷は、自分のバッグがなくなっていることに気づいた。そんなバカな。あの中には拳銃が入ってるんだぞ。中谷は急いで楽屋を飛び出した。

出演者の一人である中谷は、同じく出演者の一人である松本に恨みがあった。今日は、中谷が松本を拳銃で撃つシーンが出てくる。このチャンスを逃すわけにはいかない。中谷は、局内になんとか拳銃を隠し持っていた。今それは、楽屋のバッグの中にある。

バッグを持ち出した中西は、通路脇の人目につかないところでバッグを漁った。何だかごちゃごちゃしている。目的のものは見つからなかったが、バッグの中には拳銃が入っていた。今日の撮影で使う小道具だろう。どうしてこんなところにあるのだろう。とりあえず小道具係の大谷のところに持っていってあげよう。

中谷は急いでスタジオ内にやってきたが、拳銃は既に所定の位置に置かれてしまっていた。さすがに衆人環視の中拳銃を摩り替えるのは難しい。仕方ない。松本を殺すのはまたの機会を待つことにしよう。

拳銃を撃つシーンの撮影が始まった。中谷は松本に向かって銃を構える。そして、引き金を引いた。



147.「理想」
僕は趣味で小説を書いている。新人賞に応募したりすることはない。代わりに、インターネット上のブログでその小説を発表している。自分ではまあまあと思える数のアクセスがあるし、時折コメントももらえるような、まあそんなささやかな趣味なのである。
ある日、ブログに載せているメールアドレスにメールが届いた。
『あなたのような人をずっと探していました。是非お会いしたいです』
正直に言って僕は、女性とはほとんど縁がない生活を送っている。彼女だって、これまで一人いただけで、それもすぐに別れてしまったのだ。どんな女性か分からないし、ネット上で知り合うというのも怖いと思ったのだけど、やはりその誘惑に勝つことは出来なかった。
そしてその当日。待ち合わせは僕が住んでいるところの駅前の喫茶店ということになった。お互いに会った時に分かるような目印を伝え合って今日を迎えたのだ。
彼女を見た時僕は一瞬で恋に落ちたと言っても言いすぎではないだろう。それぐらい可愛かった。その時だけ、僕は神様の存在を信じた。
しかし、ハッピーエンドというのはそう簡単ではないようだ。
「違う」
彼女は会うなり、僕に向かってそう言った。
「そんなダサい服を着ているわけがないし、背だってもっと高いはずだし、ブランド物の腕時計をはめていたし、眼鏡なんて掛けてなかった!」
そう言うと彼女は帰っていってしまった。
僕には何が起こったのかさっぱり理解が出来なかった。



148.「シャーロック・ホームズ村」
今自分がどこにいるのか、よくわからなかった。ここは一体どこだろうか。僕は何故こんなところにいるのだろうか。確か、どこか向かっていた場所があったような気がするのだけど、周囲の光景があまりにも様変わりしてしまっているために、イマイチそれを思い出すことが出来ない。
教会や石造りの建物なんかはたくさんあるのだけど、それ以上にやたら背の高い建物やゴテゴテした派手な看板なんかが周囲を埋め尽くしている。音も何だかすさまじい。走っている車のスピードも速すぎて怖いくらいである。
近くにあった喫茶店らしき店に入る。マスターらしき人に話し掛けることにした。
「お仕事中失礼。わたくしシャーロック・ホームズ…」
「あぁ、シャーロック・ホームズ村ね。そこに行きたいのかい?それともシャーロック・ホームズ博物館かな」
「シャーロック・ホームズ村…」
「なるほど。それでそんな格好をしてるってわけか」
「変な格好でしょうか?」
「ん?シャーロック・ホームズ村がどんなところか知らないのかい?」
「ええ、教えてもらえますか?」
「いいとも。ここから北に50キロほど行ったところにその村はあるんだ。変な村でな。そこに住む住人はある共通点があるんだ。戸籍上の名前がシャーロック・ホームズであること。もちろんそんな名前が本名のやつなんかそういないだろうから、みんな改名して行くんだけどな。俺の知り合いの知り合いも改名して、今そこに住んでるらしい。それ以外の条件は一切ない。まあそんなわけで、シャーロック・ホームズって名前のやつしか住んでない村なんだ。変だろう?一応みんな探偵を名乗っていて、だから依頼人として赴けばその村に入ることは出来るだろうよ」
なるほど、そんな村があるのか。偶然ではあるが、僕の名前もまさにシャーロック・ホームズなのだ。コセキがどうのと言っていたのがイマイチよく分からないが、しかしまあなんとかなるだろう。
僕はマスターにお礼を行ってそこを立ち去った。シャーロック・ホームズ村に行ってみよう。それからのことは着いてから考えようではないか。



149.「交換殺人」
「ニュースは見てもらえましたか?」
本当にやったんだ。僕はそう思った。パソコンの表示される文字が僕には思い。
「ええ、確かに死んだみたいですね」
僕はそう答える。チャットというのはメールよりもやり取りが速すぎて、時々ついて行けないような感覚を味わうことがある。
「分かっているとは思いますが、次はあなたの番ですよ」
確かに、言われなくても分かっている。僕らはある契約を交わした。そして、彼はそれを実行に移したのだ。次は、僕がやるしかない。
「そうですね。まだ聞いてなかったと思いますが、誰を殺せばいいんでしょう?」
交換殺人。分かりやすく言えばそういうことだ。彼とは、あるサイト上で知り合った。裏の世界の出会い系のようなもので、お互いに必要としている相手を探して繋ぐことの出来るサイトだ。僕と彼は共に殺したい相手がいた。その相手を交換して殺そう。僕らの話はまとまった。お互いに素性は明かしていない。
彼に殺してもらったのは、会社の同僚だった。不正の証拠を握られ、脅されていたのだった。その不正が今後も発覚する可能性はあるし、その同僚だけを殺せば済む話でもないのだろうが、それでも目先の安心を得たくて殺しを依頼することにしたのだ。
そしてそれは見事に達成された。今日のニュースで、その同僚が電車に轢かれて死亡した、というニュースが流れた。事故なのか自殺なのかあるいは殺人なのか、今のところ判断で来ていないようだが、間違いなくこれは彼の仕業だろう。
そして今度は僕の番だ。
「吉村保という男を殺していただきましょう」
そして、吉村保についての詳しい情報も告げられた。
まあやってやるさ。やらないわけにはいかないだろう。何としてでも成功させてみせる。

吉村保の跡をずっとつけ続けている。今日こそ決行しよう。長引かせてもいいことなんかない。
どうやって殺そうかと考えたのだけど、やはり絞殺にすることにした。返り血を浴びる心配がないというのが一番大きい。やっぱり、血は見たくない。
暗い公園に足を踏み入れた。チャンスだ。ここを逃したらもう機会はないかもしれない。僕は小走りに近づいて、吉村保の首にロープをかけた。お前には、何の恨みもないんだけど。
しかし、その瞬間だった。どこからともなく声が聞こえ、そしていつの間にか僕は組み伏せられていた。ぼんやりと、警察官の制服が見える。どういうことなんだ?
「殺人未遂罪で現行犯逮捕」
そして手錠を掛けられる。何が何だかさっぱり分からなかった。
「あばよ、ネーロン」
その瞬間、すべてを理解した。ネーロン、というのは僕のハンドルネームだ。つまり、僕がチャットでやり取りをしていた人物こそ、吉村保だったのだ。彼が僕にどんな恨みを持っていたのか知る由もないが、彼が僕を嵌めたのは事実だろう。なんてこった。きちんと計画されていたようだ。この分だと、交換殺人を訴えてもその主張はまったく通らないかもしれない。
俺の人生もこれで終わりか、とぼんやり思った。



150.「タクシー」
買い物でもしようかと、大通りをブラブラと歩いていた。特にすることもない休日。買い物と言っても、ただ見るだけのことが多いぐらいで、特に買いたいものがあるというわけでもない。
歩いている途中、何だかずっと肩の辺りに違和感があった。何だかよく分からない。まあ痛いわけでもないし、どうにもすることは出来ないだろうと放っておいたのだけど。
道の両脇のショーウィンドウを適当に眺めながら歩いていると、静かにタクシーが近寄ってきて、僕の横で停まった。なんと扉まで開いた。
近くに誰かタクシーを止めた人でもいるのかと思って見てみるけど誰もいない。誰かがここまで電話で呼んで、その誰かがまだ来ていないのかとも思ったけど、タクシーの運転手は僕を見ているのだった。
「乗らないの?」
運転席のウィンドウを下げて運転手が聞く。
乗らないのも何も、止めてはいないのだからの乗るわけがない。
そう伝えると、
「紛らわしいことしないでくださいよ」
と言って去っていった。何だそれ。どこが紛らわしいっていうんだか。
しかし同じことがその後も何度もあった。道をただぼんやろと歩いていると、横にタクシーが停まって、乗らないの?と聞かれるのだ。怒ったり不思議そうな顔をして運転手は去っていくのだけど、意味が分からないのはこっちの方である。
なので僕は、何度目かに止まったタクシーの運転手に聞いてみた。
「何で僕の横で停まるんですか?」
すると運転手は僕の肩の辺りを指して、
「ほらだってあなた、手を挙げてるじゃないですか」
というのだった。
何をバカなことを言っているのだろう。僕の両手はこうして体の脇にずっとある。手なんか挙げてるわけがないじゃないか。
すると運転手も何かに気づいたようで、素っ頓狂な声を上げて去っていった。運転手が最後に口にした言葉はこう聞こえた。
「う、腕が三本…!」
どういうことだろうか。僕は結局何が起こっているのか分からないまま、また大通りを歩き始めた。



151.「幽霊の見える薬」
「幽霊の見える薬」
ネットで売ってたので買ってみた。面白そうだな、と思ったのもあるけど、今日はお盆だ。お盆には、死者の魂が戻って来るという。去年死んだおばあちゃんとか、僕が生まれる前に死んだらしい兄とか、そういう人達の姿を見ることが出来たらいいな、と思ったのだった。
とりあえず薬を飲んでみる。飲んだ瞬間、目の前にうじゃうじゃ幽霊が見えたら厭だなと思ったけど、そんなことはなかった。お盆ということも関係しているのかもしれない。普段は僕らの周りにもいるのだけど、お盆だから儀式的に一旦幽霊達はどこかに集まっているということなのかもしれない。
その時、遠く空の向こうから、何かがやってくるのが見えてきた。黒いカラスの大群のような感じで、それは次第にそら全体を覆い始めたのだった。
その黒い塊りが近づいてくるに連れ、僕は恐怖に駆られた。それは間違いなく幽霊の集団だった。しかし、ただそれだけであるなら僕だってそこまで驚きはしない。幽霊を見ることの出来る薬を飲んだのだし、見えても不思議ではない。
恐ろしかったのは、やってきたのが人間の幽霊だけではない、ということだった。犬や猫と言ったペットはまだ理解できなくもない。しかし、牛や馬と言った家畜や、蛙やゴキブリや蝿と言った幽霊までもが大群で押し寄せてくるのだ。それがそらを覆い尽くして、僕の方へと向かってやってくる。おいおい、ちょっと待ってくれ。
僕は、幽霊が見える薬を飲んだことを後悔した。僕は、彼ら幽霊の集団がいなくなるまで目を閉じ続けていることにした。まったく、死んだおばあちゃんや兄に会おうと思っていたのに、台無しだ。



152.「服が透けるサングラス」
友人の発明家が、とんでもないものを完成させた、というので彼の研究室に行ってみた。
「これこそ世紀の発明である!」
彼はそう大口を叩いて僕にその発明品の説明をしてくれるのだった。
彼が作ったという発明品は、見た目はサングラスそのものだった。というか、どう見てもサングラスにしか見えない。
「サングラスにしか見えないとか思っただろ。それだからお前は甘いと言われるんだ。いいか、これはな、『服が透けて見えるサングラス』なのだ!」
おぉ!それがもし本当だとしたら、それはまさに世紀の発明に違いない。でも、この友人の発明品にはなかなか信頼のおけないものが多かったのだ。これまでも、空飛ぶ飛行機だの3日で理想の体重になれるダイエットマシンだの開発して、ことごとく失敗に終わっているのだった。
「どうせまた失敗作なんだろとか思っておるのか!これだからお主はいかんというのだ。ほれほれ、とりあえず掛けてみなさい」
そう言って無理矢理サングラスを掛けさせられた。
その瞬間、彼の裸が目の前に映ったのだった。うげぇ。男の裸なんか興味ねぇよ、とか思いながら、でもこれは本物だ、と僕は思ったのだった。
「原理を説明するのは難しいが、要するにそのサングラスは、生体反応を示すものだけを映し、生体反応のないものを透過する、という性質を持っているのだ。ほれ、だから今お主には、この部屋にあるテレビや椅子なんかは見えていないだろう」
確かにその通りだった。今見えているのは彼の裸ぐらいなもので…、っていや違うな。視界の端っこでちょろちょろ動いているやつもいるが…。
「あぁ、ネズミでもいるのかな。ゴキブリかもしらんが」
なるほど。まあそれぐらいの欠点ならまあいいというものだ。
それから僕は、早速そのサングラスを掛けていろんな女性の裸を見まくったのだった。とにかく誰も彼もが裸に見えるのだ。こんな素晴らしいことはない。難点は、視界の中に男がいた場合その裸も見えてしまうということと、あと車や建物がまったく映らないので、そのサングラスを掛けながら移動することはかなり困難だということぐらいである。しかし、それぐらいの困難はまあ許せるというものである。彼の友人でよかった、と僕は心底思ったものである。
僕は長いこと女性の裸を楽しんだ後、家に戻ることにした。もちろんサングラスは外して、である。これからのパラダイスの日々を思うと、どうも足取りが軽くなってしまう。
家につくと、中には彼女が待っていた。
「ただいま」
「おかえり」
同棲を初めて2年。ちょっとマンネリという感じになりつつある。そうだ。彼女がこの部屋で料理を作ったりトイレに行ったりしているのをサングラスで覗けば、いつもと違った感覚が得られるかもしれない。早速サングラスを掛けてみることにした。
しかしその瞬間、僕は驚きに声も出なくなってしまった。なんと、サングラスを掛けた状態では、彼女の姿は映らないのだ。つまりこれは、彼女が生体反応を持っていない、ということになる。まさか、彼女はロボットだとでもいうのだろうか。しかし、そうとでも考えないと説明はつかなくなってしまう…。
彼女がロボットであるかどうかきちんと確かめるにはどうしたらいいだろうか。僕はそんなことを考え初めていた。



153.「タイムマシン」
奇妙な事件が起こったということで、僕が呼び出されることになった。一応僕は、国立研究所に勤める科学者の一人である。専門は機械工学であるが、それよりも後から考えてみれば、SF小説が好きだというのが僕が呼ばれた理由ではないか、と思った。
発端は、島根県にあるとある研究所の敷地内で、不可思議な機械が発見されたことにある。機械だけが見つかったのならばそこまで騒がれることはなかたっただろうが、なんとその機械の内部から、男性二人の死体が見つかった、というのだった。警察により司法解剖は既に終わっていて、それによれば、死因は餓死であり、なんと死後少なくとも10年は経っているとのことだった。
その研究所では、敷地内に建物を増設する計画があり、そのため地面を掘り返しているところだった。その最中、その機械が見つかったのである。
その研究所に着いた僕は、早速その機械を見てみることにした。
その機械は、大雑把に言って長方形の外観をしており、電話ボックスのように見えた。中には様々なボタンやらハンドルやらがついていたが、結局何の目的で使われるものなのか、誰にも分からなかったようである。
僕はその機械を充分に調べてみた。その結果、確信は持てないし、公式の発表をすることも不可能なのだが、この機械は恐らくタイムマシンではないか、という結論を出したのだった。
「間違いない、とは言えませんが、おそらくこの機械はタイムマシンでしょう。どういう原理なのかわかりませんが、それ以外にはちょっと考えられません」
僕は、最終的にそういう報告を提示した。そしてそれからある一つの提案をしてみた。
「この機械がタイムマシンであることを確証するためには、実際に使ってみる以外にはありません」
上層部の人間は初め渋っていたが、確かにそれしかないと判断するに至ったようである。僕一人では検証としては不十分なので、僕以外にもう一人乗せて行くことにした。名乗りを挙げたのは当の研究所の若手研究員であり、僕らは二人でタイムマシンに乗ることにしたのである。
「とりあえず、五年前に行ってみることにします。何らかの形でタイムマシンの存在を証明できるよう努力します」
そう言って僕らはタイムマシンに乗り込んだのだった。

タイムマシンに乗り込み、発進ボタンを押してから、既に二日が経っている。小さな窓から外の光景が見えるが、青い光がうねうねしているような状態で、これがきっと時空を移動しているということなのだろう、と僕らは思った。
「嫌な予感がするんです」
一緒に乗り込んだ若手研究員がそう切り出した。僕もそろそろ口に出そうと思っていた頃だ。きっと同じことを考えているに違いない。
「もしかしたらこのタイムマシン、5年前に辿り着くのに5年掛かるんじゃないでしょうか?」
そう、まさに僕も同じことを考えていたのだった。タイムマシンを稼働させてから既に二日。今のところどこかに辿り着くような気配はない。しばらくしらら五年後の世界に辿り着いているのかもしれないが、その期待はあまり大きくはない。
「だとすればですよ、たぶんあそこで見つかった死体は…」
そうなのだ。嫌な予感の背景には、研究所で見つかった二人の死体の存在があるのだ。あの死体は、死後10年は経っているという。今僕らがこのタイムマシン内で死亡したとして、5年前に着くのに5年掛かるとしたら、さらに発見されるまでに5年掛かるのだから計算としては合っている。しかも、死因は餓死だとのことだった。このタイムマシン内には食料は一切ない。既に二日間飲まず食わずなのだ。このままでは、早晩餓死してしまうことは間違いないだろう。
しかし今さらどうにかなるというものでもないだろう。やはり、理想的なタイムマシンというのは机上の空論でしかないのだろうか、と僕は考えていた。



154.「長い長い階段」
何だか私は、ものすごく長い階段をずっと昇っているのだった。それに気づいた瞬間、あぁきっとこれは夢なんだろうな、と私は思った。たぶんきっと、これは夢だ。
ものすごく幅の広い階段で、端っこが全然見えない。高さもとんでもなくあって、上がどこまで続いているのか全然見えないのだった。
私は、何故かその階段を昇っている。理由は全然分からないけど、何故か昇らなくてはいけないような気分がしてくるのだった。まあいい。昇らなくてはいけないというのであれば昇ろうではないか。私は一歩一歩足を踏み出しながら、懸命に階段を昇り続けた。
周りで階段を昇っている人は様々だった。老若男女、老いも若きもいろいろだった。私は中学生ぐらいで、その年代の男女が一番多いような気もした。一体何の階段なんだろうな、と私は思った。
時々変な人もいる。例えば、階段なのにバイクで昇ろうとしている人や、気球を使ったりしてそもそも階段を昇るのをサボっているような人もいた。いいなぁ、私も自転車か何かで昇りたいなぁ、なんて思うのだけど、まあいいや真面目に歩いていこうじゃん、と思ったりもした。
しばらく歩いていくと、何だか休憩地点みたいなところが見えてきた。見ている限り、どうやらお茶なんかを出してくれるようだ。そろそろ喉も渇いてきたところだった。あそこまでなんとか辿り着こう。
休憩所に辿り着いた私は、冷たいお茶を頼んで、椅子に座ってゆっくりした。その時、その休憩所に看板が掛かっているのに気がついた。
『大人の階段休憩所』
なるほど、この階段は『大人の階段』だったのか、と思った。早く昇りきって大人にならないと、と思う一方で、大人に見える人でもまだまだ大人じゃない人ってたくさんいるんだなぁ、とも思った。



155.「ある意味桃源郷」
鉱山で鉱物を採取するのを仕事にしている男がいた。鉱物というのは、研究用や学術用にそれなりに需要がある。また、希少価値の高いものを掘り当てれば一発当てることだって出来る。安定しているとは決して言いがたい仕事ではあるが、彼はやりがいを感じていたし、四十に届きそうな年齢になり、体力的に厳しくなっても、まだまだ続けたいと思っていたのだった。
そんなある日のこと。彼がいつものように鉱山で鉱物を掘っていると、突然地面が崩れてしまった。彼は、驚く間もなくそのまま落下してしまったのだった。
どれくらい落ちたのかも分からず、落ちてからどのくらい時間が経ったのかも分からなかったが、とにかく彼は無事のようだった。身体のあちこちが痛むが、骨折をしたりしているところはなさそうだし、内臓も痛んではいないように思う。とりあえず助かった、と思いながら彼は目を開いた。
その時彼の目に飛び込んで来たものは驚くべきものだった。
彼は初め、花畑にいるのだと思った。辺り一面様々な色に彩られた花が所狭しと咲き乱れているのだと思ったのだ。
しかし、よく見てみるとそれは花ではなかった。それは鉱物だったのだ。様々な鉱物が組み合わさって、花のように見えたのだった。
彼はそれに気づき、再度驚かされることになった。そこには、希少価値の高い鉱物までもが普通に咲き乱れていたからだ。これを持ち帰って売れば大儲けできるぞ、と彼はほくそえんだのだった。
しかし、彼ははたと気づいた。彼が今いるところはひどく明るいのだ。見上げてみれば、太陽らしきものがある。しかし、どう考えても彼は地上にいるとは思えないのだ。確か鉱山の地面が崩れて落ちたはず。その落ちた先の空間に太陽みたいなものがあるわけがないじゃないか。
そこで彼はようやく思い至った。まさか、ここはいわゆる地底世界なのではないか、と。もしそうだとするなら、ここから何とか地上に戻らなくてはすべて意味がない。しかし本当にここから帰ることは出来るのだろうか。
僕は、希少な鉱物を見つけた興奮も忘れて、どうしたら地上に戻ることが出来るだろうか、と頭をフル回転させることになった。



156.「ブラック・ジャック」
将来の夢、という題で作文を書くことになった。作文は苦手だ。でも、将来の夢、という題でなら書くことはある。
僕は将来、「ブラック・ジャック」になりたいのだ。僕は作文に、何故ブラック・ジャックになりたいのか、ブラック・ジャックのどこが素晴らしいのか、というようなことをひたすら書き続けていった。
先生に提出してしばらくして、その作文は返ってきた。作文には赤ペンで、先生からの感想が書かれていた。僕の作文には、
『先生はブラック・ジャックのことをあまりよくは知りませんが、すごくかっこいい人なんでしょうね。でも、マサル君はマサル君なんであって、ブラック・ジャックではないのです。マサル君がブラック・ジャックになるのはちょっと難しいんじゃないかな、って先生は思います。ブラック・ジャックじゃなくて、お医者さんになりたい、という方がいいと思います。』
ブラック・ジャックになんかなれるわけがない、と言われているのだな、と思った。何でだろうか。そう考えて分かった。そうか、ブラック・ジャックはもうこの世の中に既に一人存在してしまっているんだ。ということは、本物のブラック・ジャックを殺さないと、僕はブラック・ジャックになれないということか。うーむ、これは困ったな。憧れのブラック・ジャックを殺してしまうのは残念だけど、でもブラック・ジャックを殺さないと僕がブラック・ジャックになれないというなら仕方ない。
夢を叶えるというのは大変なんだな、と僕は心底思ったのだった。



157.「絶対音感」
今僕がいるところは、とある大学の研究室の一角だ。研究室と言っても、フラスコやビーカーがあるわけでもない。分厚い難しそうな本とパソコンが所狭しと並んでいるようなところだった。
僕がここに呼ばれた理由は分かっている。それは僕に『絶対音感』があるからだ。
僕は自分の能力を『絶対音感』って読んでるけど、それは辞書に載ってるような意味じゃない。普通絶対音感っていえば、音を聞くだけでそれがドなのかソなのかわかる、というようなことを指すんだろうけど、僕の絶対音感は違う。僕は、何か音を聞くだけで、それが何の音なのか完璧にわかってしまうのである。その能力を研究したいということで、僕がここに連れてこられたのだった。
「どうもこんにちわ」
教授らしき人が研究室に入ってくる。白髪をしたおじいさんだ。
「君が、神足真君だね。噂は聞いているよ」
そう言いながら教授は手の動きだけで助手らしき人に指示を出している。と言っても、いくつかの音源とその再生機械らしきものをセットしただけなんだけど。
「さっそくだけどいくつか実験をさせてくれないか。まあ何度もやられていることだろうが、いくつか音を聞いて、その音が何の音なのか当ててくれるだけでいい」
そう言って教授は音源を再生し始めた。
「これは?」
「トイレットペーパーを3と5/8回転させた時の音です」
「これは?」
「雪の上に柊の枯葉が落ちた時の音です」
「これは?」
「真下武夫が自分で作った野菜炒めを三角コーナーに捨てている音です」
「ほぉ、人名まで分かるのか。そりゃあすごいもんだな。じゃあこれは?」
「アントニオ猪木がビンタをした時の音と、シャネルの香水瓶をフローリングの床に落として割ってしまった時の音を合成したものです」
「素晴らしい。本当に君の能力は素晴らしいよ」
教授は満足そうだった。まあこれぐらいは朝飯前である。ずっと昔から普通に出来ていたことなのだ。今さらどうこう言われたところで何ともない。
「そんな君に、是非聞いてもらい音があるのだよ」
教授はそういうと、それまでとは違った形状の音源テープを持ち出してきて、セットした。
「これなんだが、分かるかね?つい一週間ほど前、日本の人工衛星がキャッチした音なのだが、誰もこれが何の音なのか分からないのだ。君ならもしかしたら分かるのではないかな、と思ってな」
その音を聞いた瞬間、あぁなるほど、と思った。もう終わりなのか。
「これは、神様の時限爆弾です」
「神様の時限爆弾?」
「まあちゃんとした用語がそもそもないのでそう表現するしかありませんが、イメージとしてはビッグバンの逆だと思ってもらえればいいと思います。
宇宙は46億年前にビッグバンによって誕生したと言われています。それを起こしたのが神様かどうかは分かりませんが、そういう存在がいたとして、神様はその時、宇宙を終わらせる仕組みも宇宙に組み込んだわけです。
それが、今僕が神様の時限爆弾と呼んだものです。ビッグバンとは真逆の性質を持っていて、それが起こるとすべてのものが一点に収束する、そんなものだと思っていただければいいと思います。今聞こえているその音は、そのカウントダウンです」
「そ、それで、その神様の時限爆弾はいつ発動するのかね」
「申し上げ難いんですけど…どうやら後5秒後のようですね」
「な、なんだとー」
5秒後、神様の時限爆弾は発動し、世界は消滅した。



158.「お見合い」
何度やってもお見合いというのは慣れないものだ。いつも母親が話を持ってきて、お義理でそれに付き合わされることになるのだけど、めんどくさいったらありゃしない。せめてもう少しまともなやり方は出来ないものかねぇ、なんて思ったりしてしまうのだ。
何がめんどくさいって、アホみたいに相手にダラダラと質問をぶつけてくることだ。これはどうにかならないものだろうか。
「晶子さんは、趣味はなんですか?」
「お裁縫とクラシック音楽を聞くことです」(ホントはゲーセンとパチンコだけど)
「いい趣味をお持ちですね。僕もクラシック音楽はよく聞くんですけど、何が好きですか?」
「曲が好きなだけで、作曲者とか演奏者とかあんまり詳しくないんですよね」(まあ聞いたこともないしね)
「そうなんですか。僕の知り合いにオーケストラでホルンをやっているやつがいるんで、今度チケットを取ってもらいますよ。一緒に行きましょう」
「えぇ、楽しみですね」(楽しみなわけないだろうが)
「料理とかされます?」
「得意ですよ~」(ホントは全然しないけど)
「いいですね。得意料理はありますか?」
「肉じゃが…っていうのも普通すぎるんで、ミネストローネが得意ですね」(ミネストローネなんて食べたこともないけどね)
「食べてみたいですね。料理が得意な女性はいいと思います」
「やっぱりそれぐらいは出来ないといけないですよね」(全然そんなこと思ってないけど)
(中略)
「なんだかすごくピッタリな人に出会えたような気がするな。晶子さんみたいな人に出会えてホントによかったと思いますよ」
「私も、大吉さんみたいな人に出会えるなんて、生きててよかったです」(いや、ホントは私、死んでるんだけどね)



159.「電子ブック」
「ついに完成した」
ボサボサ頭の博士はそう呟くと、どかっと椅子に座り込み、大分前に淹れてあったコーヒーを一口啜った。
博士は、周りからそう呼ばれているというだけであって、実態はただの素人発明家である。その彼が、長い年月を掛けて研究し続けてきたシステムが、今日ようやく完成したのだった。
それは、本に革命をもたらす技術であった。
博士が完成させたのは、いわゆる電子ブックであるが、しかしディスプレーに文字が表示されるだけのような代物ではない。
博士はまさに、紙の本を読むかのようにして読むことが出来る電子ブックを作り上げたのだった。
見た目は、まさしく普通の本である。文庫サイズや新書サイズなどいろんなサイズを作ることは出来るが、とりあえず博士が完成させたのは四六版と呼ばれる大きさのものだ。素材は紙ではないが、紙のような手触りを実現したカバーであり、中身も紙で出来ているように見える。まさに見ただけでは本物の本なのである。
この電子ブックは、電源を入れない状態では中は白紙の紙のままである。しかし、電源を入れ読みたい本を選択すると、白紙だったはずの紙に文字が浮かびあがるのである。
内臓のハードディスクには約100冊分を収める容量があり、またSDカードなどを入れることも出来る。
これがあれば、買った本が家に溜まっていくということもなくなるし、また電子ブックの最大の難点であった、紙の本を読むというあり方を失うこともないわけで、印刷技術の発明以来の本革命と言えるような発明であった。
「やっとこれで僕の夢が叶う」
博士は安堵のため息をつくのだった。

50年後。
博士の発明した電子ブックは、未だに普及していなかった。いや、その表現は正しくない。正確に言えば、まだ世の中に出ていなかったのである。
「博士は、どうして自らの発明品に法外な契約金を設定しているのでしょうか?」
マスコミの取材である。50年前、革命的な電子ブックを発明し特許を取った時にも、マスコミによる取材を受けた。しかしその時に、すべては50年後に話しますよ、と言ったのだった。まさか覚えている人間がいるとは思わなかったが、しかしこれだけのマスコミが集まっているとなると、自分の発明もなかなかのものだったのだな、と思える。
「僕はね、本屋っていうのが大好きなんですよ」
僕は特許を取った電子ブックに、使用料として莫大な金額を設定した。そのライセンス料を払って採算を取ることはまず不可能なほどの天文学的な金額だった。出版業界からは、常軌を逸している、と何度も言われた。そんな値段で交渉する出版社などあるわけがない、と。各種機器メーカーも同様の見解だった。
僕の望んだ通りだった。
「僕の発明した電子ブックがもし実用化されてしまうと、本屋ってなくなっちゃうでしょ?データでいくらでも本が買えるようになっちゃうんだからね。でもそういうのって僕は好きじゃないんですよ。やっぱり本屋で本を選ぶっていうのが好きなんです」
「じゃあ博士は、どうして電子ブックの開発をしたんですか?」
「簡単じゃないか。もし僕以外の誰かがあれを発明したら、今頃それが世間に広まっていたことだろう。僕はそれを阻止したかったんだ。電子ブックを世の中に広めないために、先に自分で特許を取っておいたんだよ」
そう、僕の夢は叶ったのである。



160.「大学受験」
「中道武信さん、どうぞ」
「あぁ、先生、よろしくお願いします」
「中道さんは今日が初めてでしたよね。どうされました」
「いやね、昔っから身体が丈夫なことだけが取り得だったんだけどもね。どうも最近、腹の辺りが痛くってしょうがないんだよ」
「どんな風に痛いんですか?」
「いやな、この辺がさ、ズキズキって感じで痛むわけだよね。痛み自体はそんなでもないんだけど、鈍痛っていうのかねぇ、ずっと痛いんだよねぇ」
「なるほど。ちょっと口を開けてもらえますか…。はい、じゃあ服をちょっと上げて…。」
「先生、年なんか取りたくないもんだやね。まったく、今の時期は大変なんだから、体調なんか崩してられないってんだよね」
「そうですよねぇ。えーと、恐らく風邪でしょうね。お薬出しておきますので、しばらくしてもよくならなかったらまた来てみてください」
「その薬、すぐ効きますかね。再来週試験があるもんで、なるべく早く治さなくっちゃいけないんですよ」
「まあ効き目は人それぞれでしょうけどね。割合効く薬だと思いますよ。それで、試験って何の試験なんですか?」
「あぁ、センター試験ですよ」
「なるほど。お孫さんが受験なんですね。それで移しては悪いっていう…」
「いやいや、センター試験はわたしが受けるんですよ。今も試験勉強の真っ最中でしてね。追い込みで大変ですよ」
「素晴らしいですね。そのお年でまた大学に再チャレンジなんて。なかなか真似できるものではありませんよ」
「再チャレンジっていうかねぇ…。いやね、正直に言っちまいましょう。違うんですよ、先生。わたしはね、浪人なんですよ。浪人」
「浪人…ですか?」
「そうなんですよ。今56浪目でしてね。あれ、55浪目だたかな?こんなことも覚えてられないようじゃまた試験は危ないかもしれませんね。ハハハ。毎年東大を受けてるんですけどね、やっぱりなかなか受からないものですよね。来年こそは、来年こそはって毎年思い続けている内に、いつの間にかこんな年齢になってしまいましたよ。やっぱり東大の壁は厚いですなぁ。とりあえず将来どうしたいのかっていうのか、東大に入ってから考えようって思ってるんですけどね。まずはほら、やっぱり東大に受からないことにはどうにもならないですよね。頑張らないと。まずはセンターで足切りにならないようにしないと…」
「…」



161.「両親に御挨拶」
二人の男女が、出会い系を通じて知り合います。
「初めまして」
「初めまして」(うわっ、メチャクチャ可愛いじゃん。ラッキー)
「こういうのって初めてだからよくわかんないですけど」
「僕も初めてだけど、とりあえずどっか遊びに行こうか」(こりゃ何とかして今日中にホテルまで行きたいもんだぜ)
「…マコトさんは、結婚前提で私とお付き合いしてくれますか?」
「もちろん」(もう結婚の話か。ちょっと早いけど、こんな美人と結婚出来るならいいかな)
「じゃあ、ちょっと急なんですけど、ウチの両親に会ってくれません?そんな深い意味はないんですけど、付き合い始めたら絶対に紹介しろってうるさくて」
「両親とかぁ。ちょっと緊張するけど、いいよ」(マジかよ。まあいいか。なんとかなるだろ)
「それでね、ちょっと私の実家遠いんですけど、大丈夫ですか?」
「遠いって北海道とか?」(まさか外国ってことはないよな)
「まあもうちょっと遠いんですけどね」
「まあでも大丈夫だよ」(ここは物分りのいいところを見せておかないとな)
「よかった。じゃあちょっと目をつむってもらえます?」
「いいよ」(おぉ、キスでもしてくれるのか!)
「はい、開けていいですよ」
「うぎぐぐぐぐぐぐぐ…、ぐ、ぐるじい」
「やっぱりあなたもダメですかぁ。地球の方を月に連れてくると皆こうなってしまうのよね。はぁ、お父さんに地球人の旦那を連れてくるって啖呵切っちゃったしなぁ。なんとか頑張らないと…」



162.「未来日記」
3月8日
明日はユウヤ君がプレステを持ってウチに遊びにきてくれるはずだ。やりたかったゲームを手に入れたって言ってたからそろそろのはず。

3月9日
明日は家族で外食に行けると思う。出来ればラーメンがいいな。近くに行列の出来るラーメン屋がある。そこに行きたい。

3月10日
明日は僕の誕生日だから、プレゼントをもらえると思う。何をくれるかな。めちゃイケのDVDが欲しいんだけど。

3月11日
明日は自動販売機でジュースを買ったら当たりそうな気がする。道を歩いていたらお金を拾えそうな気がする。宝くじを買ったら当たりそうな気がする。

「何読んでるんだ?」
「あぁ、これはあれだよ。ちょっと前の…」
「ナカタ君のやつか?」
「そう。彼が書いてた日記だよ」
「未来日記ってわけか」
「次の日のことを考えてないとやってられなかったんだろうな」
「学校でのいじめに家庭内暴力、万引きなんかも強要されてたらしいし、お金も大分盗られてたらしいからな。両親の喧嘩も絶えずとくりゃあ、そりゃあ死にたくもなるかもな」
「彼の未来日記はさ、ほとんど実現しなかっただろうけど、一つだけ現実になってるんだよ。ほらここ」

『3月29日
明日僕はきっと自殺しているだろう』



163.「神様の手帳」
僕は道を歩いている時、ある手帳を拾った。中を見てみると、僕にはまったく理解することの出来ない数式で埋まっていた。こんなもん要らないな、と思って捨てようとしたのだけど、ふと思いとどまった。そういえば、息子が数学が得意だったな。見せたら何か分かるかもしれない。

神様は道を歩いている時、ふと気づいた。
(やっば、落としたわ)
手荷物を検めても、どこからも出てこない。
(まずいな、あの手帳はなくすわけにはいかないんだが)
それは、ありとあらゆる数学に関しての真理が載っている手帳なのだった。あれがもし数学の分かる人間の手に渡ってしまえば、数学という学問はすべて達成されてしまうことだろう。そうなれば、地上から数学という学問が消えてしまうことだって考えられる。
(あぁ、まずいまずい。でも神様が警察に行くわけにもいかないしなぁ)
神様はどうしたらいいのか悩んでいるのだった。



164.「障害」
白いご飯をモグモグと食べる。僕の周囲には、白いご飯以外何もない。味噌汁もおかずも一切。
「ねぇ、よくご飯だけで食べれるね」
妻はよく僕にそう言う。
いや、妻だってもちろん分かってて言っているのだ。何せ長い付き合いだ。僕の障害についてはちゃんと理解してくれている。それでも、時々こうしてつい口に出てしまうのだ。やはり普通の感覚では、ご飯しか食べないというのはよほどおかしなことなのだろう。
そういえば、学生時代は辛かったよな、と思い出す。
中学までは給食だった。僕はあの給食というやつが何よりも辛かったんだ。僕が子どもの頃は、給食を残すなんて許されなかった時代だから、僕も初めの内は無理矢理食べさせられたものだ。人生の中で、あれほど苦痛だったことはない、と今でも断言できる。今だって、僕の障害についてはわからないことが多すぎるのだ。当時、周囲に僕の障害を理解してくれた人がいたとは思えないし、それは仕方ないことだったと今では僕もきちんとわかっている。
給食を食べることがあまりにも苦痛であるということが周囲に段々理解されるようになっていった。僕の場合、食べ物が口に入った瞬間嘔吐感がやってきて、口に入ったものがまだ胃に到達する前に吐いていたのだ。それが毎日だった。その内僕は特例でお弁当持参が許可されるようになった。当然僕の食事は、白いご飯だけである。周りの友達には、よくご飯だけで食えるよなぁ、飽きないのかよぉ、と散々言われたものだった。
「まあしょうがないよね。舌が過敏すぎるんだから」
僕を診断してくれた医者は、妻を同席させた場で、分かりやすく花粉症に喩えて説明してくれた。花粉症は、免疫機能が過敏に反応することによって引き起こされる。僕の障害も同じで、味覚に関して異常なほどの反応をするのだ。通常の人間の一万倍味覚が敏感だ、と診断された。
そのせいで僕は、基本的に味のある食べ物は食べられなくなってしまった。この「味のある食べ物」というのは普通の人にとってって意味で、僕はありとあらゆるものに味を感じてしまう。普通の缶入りのジュースを飲んだだけで舌が溶けそうなくらい甘ったるく感じるし、チョコレートなんて食べたらヤバイ。どんな料理を食べても塩辛く感じてしまうし、醤油なんか口に入れたら舌がもげるんじゃないかという気がする。口にちょっとでも海水が入るととんでもないことになるので、海で泳げないくらいだ。
僕にとって安全な食べ物というのは、お米や食パン寒天と言ったようなものである。そういう、普通の人にはそこまで明確に味を感じられないような食べもので、僕は様々な味覚を楽しむことが出来るのだ。ご飯だけで飽きないのかとよく聞かれるけど、とんでもない!ご飯に含まれる味覚をすべて堪能するにはまだまだ食べたりないくらいなのだ。
「まあ、凝った料理を作らなくていいから主婦としては楽チンだけどね」
一つ妻には内緒にしていることがある。ちょっと前に我が家では無洗米を買うことにした。僕がそうするようにお願いしたのだ。妻としては、お米を洗う手間が省けると言って喜んでいた。
僕が気になったのは、前食べていたお米から男の臭いを感じたのだ。恐らく男に触れた手でお米を研いだからだろう。たぶん妻は浮気をしているのだろう。しかし、それはいいのだ。大事なことは、僕が美味しいお米を食べられるかどうか、ということ。無洗米に変えてから不快な臭いは消えたので助かったのだ。



165.「倉庫」
僕はもう、どのくらいここに閉じ込められているんだろう。
暗くて、何も見えないところだ。遠くに足音や人の声なんかが聞こえてくることはあるけど、誰も僕には気づかないみたい。僕がここにいる意味ってあるんだろうか。そもそもどうして僕はここにいるんだろうか。
昔はいろんなところを旅したものだった。作業服を着たおじさんに抱えられながら、あるいはトラックの後ろで大人しくしながら、いろんな場所へ連れて行ってもらったものだ。その度毎に、最終的にここに戻ってきたことだけは覚えている。作業服を着たおじさんは時々、可哀相だななんてことを僕に言ったりした。たぶんそれは、いつもここに戻ってきてしまうことに対してそう言っていたのだろうけど、僕にはよくわからなかった。何となくだけど、この場所が好きだったんだ。
昔は、仲間だってたくさんいた。僕と同じ顔をした仲間が一杯いて、全然淋しくなかった。どこかに行く時もまとまっていく時が多かったし、ここに返ってくる時だってそれは同じだった。
でもある日のことだった。突然仲間が全員いなくなってしまったんだ。おじさんは僕に、「サイダンされたんだ」なんて言ったけど、僕にはその意味はよくわからなかった。もういなくなってしまって、二度と戻ってこないんだろう、ってことだけは分かった。
おじさんは、何故か僕だけは「サイダン」しなかったらしい。「お前は特別だよ」と言って、僕を今いるこの暗い場所に閉じ込めてしまったのだ。
それから僕はずっとここにいる。あれ以来誰も僕の様子を見に来ることはなくなった。ずっとずっとここにいて、ただぼんやりとしているだけだ。
いつものようにそんなことをつらつら考えている時のことだった。こっちに向かってくる足音が聞こえたかと思うと、扉が開くような音がして、ここに誰かが入ってきたのが分かった。その誰かは、耳に当てた小さな機械で誰かと喋っているみたいだ。
「ちょっと待ってくださいね。ここだったらもしかしたらあるかもしれません」
そんなことを言いながらその人は辺りをひっくり返していく。
そして僕の目の前にやってきたんだ。その人は僕に手を伸ばすと、すっと抱え上げて、そして悲鳴のような声を上げた。
「ありましたよ!そうです、お探しの『水とやすらぎは天空に』です!よかった。じゃあすぐそっちに向かいますんで」
その人は僕を抱えたままどこかに行こうとしているみたいだ。そういえば、久々に僕の名前も呼ばれたような気がする。あまりに長いこと呼ばれてなかったから、自分の名前だっていう感じがあんまりしなくなっちゃったんだけどね。
僕を抱えている人の手から、何だか興奮しているような熱気を感じて、僕は何だか、初めて自分の使命を果たせるんじゃないかって、そんな気分になれたんだ。

2008年に書いたショートショート集 No.99~No.123

99.「偉大なる発明家」
タノヤマは、天才であった。とにかく天才であった。何に秀でていたかと言えば、発明であった。タノヤマに作れないものはない、とまで言われたほどだった。
しかしタノヤマは同時に、とんでもないめんどくさがり屋であった。人類の至宝と呼んでもいいくらいの頭脳を持ちながら、それを世のために使おう、などと考える男ではなかった。事実、タノヤマが天才であったことを世の人間が知ることが出来たのは、タノヤマの死後100年以上が経ってからのことであった。生前タノヤマはその才能を、すべて自分のために使っていました。タノヤマの死後、彼が完成させた様々な発明品が見つかるようになり、ようやく陽の目を見るようになったのです。その発明品群は、今日の科学技術の進歩に大いに貢献するものでしたが、同時にタノヤマ個人にしかメリットのない発明品も多く、タノヤマの評価は綺麗に二分する形になっています。
矛盾することを言うようですが、実はタノヤマはまだ死んではいません。いやこの説明も正しいとは言えないのかもしれないのですが、この微妙な点については後々分かるでしょう。タノヤマには、便宜上死んだ日というのが与えられていて、そこから死後という呼び方をしているわけです。
というわけで、タノヤマの生前の様子を覗いて見ることにしましょう。タノヤマには家族もなく、また友人づきあいもほとんどしなかったために、その死後タノヤマの生活について知る手掛かりは一切なかったと言っていいです。その発明品群から、ぐーたらな生活を送っていたのだろう、と推測はされていますが、細かな部分は何も分かっていません。ですが、まあこれは小説なので、その誰も知るはずのないタノヤマの生活を神の視点から見てみることにしましょう。

タノヤマは、人里離れた、というか山奥も山奥、一体こんなところで生活をして、どこで発明するための部品を手に入れるのだろう、と誰もが不思議に思うような、そんなところに住んでいました。住居は古びていて、まるで小屋かあばら屋と言った雰囲気でしたが、しかし使い勝手だけはかなりいい家でした。もちろんそのすべてはタノヤマの発明によるものです。衛星と勝手に繋いで世界中どこの風景でも見ることの出来るテレビとか、世界中どこの放送局のラジオも自由に聞ける(しかも翻訳もしてくれる)ラジオとか、食べたいものを紙に書いて入れると完成した料理が出てくる電子レンジとか、そんな普通ではありえないような代物が部屋中を埋め尽くしていました。
(あぁ、めんどくさ)
これあタノヤマの口癖です。タノヤマはとにかく日々めんどくさくてめんどくさくて仕方がありません。掃除をするのがめんどくさくて、指定した場所(床や壁や家具など)だけ指定した分だけ時間を遡ることが出来る擬似タイムマシンを開発したり、雨がうっとうしくて、天候を自在に制御することの出来る装置を開発したりして、とにかく煩わしいことから逃れようと日々頑張っていました。
(あぁ、めんどくさ)
それでも彼には、ありとあらゆることがめんどくさくて仕方ありませんでした。
というわけでタノヤマは、これでもかというぐらい発明をすることになります。
(まず歩くのがめんどくさいな)
そう思えば、歩かなくてもいいような装置を開発します。
(自分が必要だと思う時以外は耳を閉じていたいなぁ)
そう思うと、「耳用まぶた」とでも呼ぶべきものを作りあげます。
さらに彼の発想はどんどんとおかしくなっていきます。
(まばたきするのがめんどくさい)
(呼吸をするのがめんどくさい)
(何か食べるのがめんどくさい)
(トイレに行くのがめんどくさい)
そうやってタノヤマは、どんどんとめんどくささを解消する発明を生み出していきます。
その内にこんな風に思うようになりました。
(考えるのがめんどくさいな)
そこでタノヤマは、自分の代わりに自分のことについて考えてくれる機械を開発しました。これで、タノヤマ自身は何一つ考え事をしなくても、何かを考えていられるようになりました。以後生み出される発明品は、すべてこの機械が思考することになります。
さて、彼はどんどんめんどくささから解放されていきます。そしてある時タノヤマは(というかタノヤマの思考を代行する機械は)思います。
(生きてるのがめんどくさいな)
そこでタノヤマは、タノヤマ自身が生きていようが死んでいようが関係なく、タノヤマの代わりに生きてくれる機械を開発しました。
後世の人間は、タノヤマがこの機械を使った日を、便宜上タノヤマの死亡日としています。
タノヤマの身体は、今もとある研究室にあります。生きているのか死んでいるのかと聞かれると困りますが、少なくともタノヤマの代わりに生きることを代行する機械は未だに作動しています。もちろん、タノヤマの代わりに思考を代行する機械も作動しています。しかし哀しいかな、タノヤマはずっと一人で生活をしていたために、自分が考えたことを誰かに伝える機械をついに作ることはしませんでした。よって、タノヤマが現在生きていようが死んでいようが、コミュニケーションがまったく取れないので、死んでいるのとほとんど変わらないということになります。
発明家としては、千年に一人出るかどうかと言われた天才だと言われますが、しかしタノヤマの全体的な評価は、あいつはバカだ、というものに落ち着いているようです。



100.「切腹サムライ」
新聞記事1
「9日未明、○○県北部にある山林で、女性のバラバラ死体が発見されました。頭部や右手首、内臓の一部などが見つかっておらず、捜索が続けられています。現在のところまだ身元は判明しておらず、20代から30代の女性だということです。
今年に入り、同様のバラバラ殺人事件が相次いで起こっています。本件ですでに14件目ということになります。被害者に共通点はなく、性別や職種などまちまちですが、一つだけ明確な共通点があります。それは、必ず体の一部が発見されない、ということです。見つからない部位には共通点は特にないようです。また同じく共通していることが、腹部を切り裂かれ、内臓を持ち去られているという点です。初めの二件の被害者が女性であり、かつ子宮が持ち去られていたために、結婚や妊娠に動機を持つ者の犯行ではないか、と思われましたが、三件目の被害者が男性であったため、違うと判断されました。警察では、被害者同士の共通点を探ると同時に、未発見の部位に加害者の痕跡が残されていることを期待し、その発見に全力を注ぐ、としています」

新聞記事2
「最近巷を騒がせている『切腹サムライ』をご存知でしょうか?東京、横浜、千葉辺りでよく目撃され、動画投稿サイトなどでも話題になっているようです。
切腹サムライは、テレビのコントで着るような侍の格好をして、『切腹サムライ参上!』と叫んで現れます。最近ではその声を聞くや、周囲から人々が集まってくるそうです。
切腹サムライはその場に座り込むと、懐から短剣を取り出します。そしておもむろにその短剣を腹部に突き刺すわけです。右手に持った短剣を左のわき腹に刺し、そこから一息に短剣を右のわき腹へと引きます。すると切腹サムライの腹部は真一文字に引き裂かれ、真っ赤な血が流れ出ます。しばらくすると腸が飛び出してきます。どう見ても、本当に腹を切ったとしか思えない有り様です。
さてそうして内臓が飛び出すまで時間が経つと、どこからともなく介錯人がやってきて、切腹サムライの首を斬りおとす真似をします。それを合図に切腹サムライは突っ伏し、このショーはお仕舞となります。
もちろん切腹サムライはこの後むくりと起き上がり、周りの聴衆に向けて感謝を述べます。まるで先ほどの切腹などなかったかのようです。内臓は飛び出たままだし、血もそのままで続けているのですけど、何故か切腹サムライは平気な顔です。それから大急ぎで内臓をかき集め、出来るところまで血を拭きとって、切腹サムライは立ち去って行きます。
聴衆からは絶大な人気を誇るこの切腹サムライですが、警察では最近警戒を強めているそうです。真似事とは言え公衆の面前ですることではないし、また間違って子どもが真似して本当にお腹を切ってしまうこともあるかもしれません。また、もし短剣が本物であれば、銃刀法違反でもあります。最近では切腹サムライの方も警察にマークされていることを意識しているようで、立ち去るスピードが速くなっているといいます。
真のエンターテイナーなのか、あるいは狂気の伝道者なのか。そのどちらとも言いがたいですが、これからも切腹サムライは話題を提供してくれることでしょう」

ある刑事の日記
「どうやら俺はとんでもないことに気づいたようだ。しかし、一介の警官に何が出来るだろう。刑事の連中にそれとなく教えるか?はん。彼らが交番の警官の意見なんか聞くわけがない。しかし、この事実は恐らく誰も気づいていないのではなかろうか。
世間を揺るがせているバラバラ殺人事件と、巷を賑わせている切腹サムライ。恐らくこの二つは関係がある。
根拠は明白だ。俺は切腹サムライを取り締まるために、切腹サムライがこれまでいつどこに出没したのかをきっちりと調べることにした。すると、切腹サムライがどこかに現れるのは、バラバラ殺人が行われたと思われる日の翌日なのだ。切腹サムライ本人が殺人を犯しているかどうかそれは分からないが、少なくとも無関係ということはないだろう。
恐らく、どんな仕掛けになっているか知らないが、切腹サムライのショーをするために本物の人間の内臓が必要なのだろう。しかし狂った人間がいるものだ。切腹のショーをするために殺人とは。
さてどうしたものか。匿名で捜査本部にでも投書を出すか」

告白書「切腹サムライは私が作った」の著者のインタビュー
「切腹サムライが連続バラバラ殺人の犯人だって知ってたかだって?そんなこと知るわけなかろう。わしゃ手術をしただけだ。ホント、依頼を受けた時はこいつは頭がおかしいんじゃないかと思ったよ。
わしのした手術は、要するにやつの腹部に空間を作る、ということだった。20センチ×20センチ×8センチぐらいの大きさじゃな。それだけのスペースを無理矢理作るために、胃やら腸やらを一部切り取ったり、肋骨を二本切り取ったりと、かなり無茶なことをしたわい。
それでやつはショーの前に、その腹部に作ったスペースに他人の内臓を入れてまた腹を閉じたわけだ。特殊メイクの知識をかじったとかで、腹部の傷はうまく隠しておったみたいじゃな。ショーの時間に合わせて効くように腹部に麻酔を掛けて、これで準備万端というところじゃな。そうやって奴は、切腹サムライのショーを続けておったんじゃ。
何でやつがそんなことをしたかだって?んなこと知らんよ。本人に聞いてくれ」



101.「織姫と彦星的穴掘り」
僕は、手を動かす一個の機械になっていた。
いつからそうだったのか、僕にはもはや記憶がない。随分昔だったような気もするし、あるいはつい最近だったかもしれない。そもそも既に僕には、時間というものが存在していないのだ。いや、その表現には些か間違いがある。僕は、ある一日を目指している。つまり僕にある時間は、その目指すべき一日とそれ以外の二種類、ということになる。
僕は今、それ以外の時間の中をゆっくりと進んでいる。もちろん、ひたすらに手を動かしながら。僕はまだ身体機能的に不足はないが、しかし既に手以外はほとんど無意味だと言って言い過ぎではない。僕には何も見えないし、何も聞こえない。食べるものもなければ、匂いの元もない。ただ僕はひたすらに手を、正確に言えば手に持ったスコップを動かしながら、この世界の中で、名前のついていない時間をひたすらに進んでいく。
僕は穴を掘っている。ずっと穴を掘り続けている。僕が地中に潜りこんで穴を掘り始めてからどれくらいの時間が経ったのかわからない。僕が穴を掘り始めたのは、25歳の時だった。それはまさに神との対話であった。少なくとも僕はそれを信じた。どこからともなく聞こえて来た声が、僕に告げたのだ。掘れよ、と。
それから僕は、まずスコップを買った。必要なものはそれだけに思えた。掘る場所は直感に従った。神社の裏手にある山の一角。そこから僕の新しい人生が始まったのだ。
それから僕は穴を掘り続けている。スコップを自分の前方の壁に突き刺す。土を抉り取る。その土を、自分の後方に積み上げる。僕はそうやって、僕がほんの僅か存在できるスペースだけを残して、少しずつ地中を進んでいるのだ。
初めの内は、自分が何をしているのか、と考え続けた。穴を掘ることは正しい、と分かっていた。しかし、どう正しいのかが分からなかった。僕はそれを知りたいと思い、ひたすらに穴を掘り続けることにした。
しかししばらくすると、僕は人間的な要素を少しずつ失っていった。それは仕方のないことだった。地中は暗いから、僕の目には真っ暗闇しかない。目を明けていても閉じていても何の変化もない。地中では、何の音なのか分からない、ある一定の規則正しい音だけが聞こえてきた。それはやがて僕の耳に意識されなくなり、しばらくすると完全に聞こえなくなってしまった。食べ物も飲み物もなく、しかしそれでも僕は穴を掘り続けた。
そうやって感覚を失っていくと同時に、僕は思考も失っていった。最後に僕がまともに考えたことはこんなことだった。なるほど、刺激こそが思考を促すのだ、と。
それから僕は、ただ手を動かすだけの機械になった。何故自分が穴を掘っているのか、その理由を考えることもなくなった。善悪や正義について考えることもなくなった。ただ僕は穴を掘る。それで十分だった。
ある時、そんな僕の穴掘り生活に変化がやってきた。
僕がいつものように穴を掘っていると、右の方向から何か音が聞こえて来た。まだ僕の耳は死んでいなかったようだ。それまで僕は、前後の方向にしか意識を向けていなかったから、久しぶりに左右の方向を意識することになって戸惑った。僕はしばらく穴を掘ることを止めて、その場に留まってみた。
音はどんどんと近づいて来て、やがて右手に大きな穴が空いた。
「あなたも、穴掘り人なの?」
それは女性の声だった。真っ暗で姿かたちは分からないけど、紛れもなくそれは女性の声だった。
「そうだと思う」
まだ僕の口は死んでいなかったようだ。
「何だか偶然ね。こんなところで会うなんて」
「君は僕を探していたのかい?」
「まさか。私はただ穴を掘っていただけよ」
なるほど、確かにそれはすごい偶然だ、と僕も思った。
「あなたはこれからどこへ行くの?」
まさかそんなことを誰かに聞かれるとは思わなかったから、僕は答えに窮した。
「特に行き先はないんだ。僕にとっての前方に進むだけだよ」
「なら、ちょっと約束しない?」
「約束?」
「そう。それともこんな地中では約束は相応しくないかしら」
相応しいかどうか。なるほど、そう言われれば確かに相応しくないかもしれない。しかしそんなことを言えば、僕らがこうして穴を掘ってることだって相応しいのか怪しいものだ。
「いや、そんなことはない。約束、いいねそれ」
「来年の今日、またどこかで会いましょう」
「分かった。来年の今日、どこかで」
それは約束という言葉の定義に当てはまるとは思えないほど厳密さを欠いた約束だった。それはあるいは、希望だとか夢だとかという風に呼ばれるべきものであるように思われた。しかし、まあいいさ、と僕は思った。僕らはこうして二人だけで地中にいるわけだし、既に地上の世界とはおさらばしてるんだ。わざわざ地上の定義に従わなくちゃいけないなんてこともないさ。
「じゃあまた会いましょう。きっとよ」
「分かった。来年の今日、どこかで」
そうして僕らは別々の方向にまた穴を掘り始めた。
既にそれがどのくらい前のことだったのか、僕には思い出せない。まだ一年経っていないのか、あるいはもう何年も経ってしまったのか。しかし、僕は約束を破っているわけではない。何故なら、僕らがもう一度出会う日こそが、『来年の今日』なのだから。僕は、その『来年の今日』を目指して、今日もひたすら穴を掘り続ける。



102.「ヴァンパイア氏とヴァンパイアハンター氏」
―ヴァンパイアハンターの話―
朝、目が覚める。今日も一日が始まった。布団から出て、支度をする。今日も、吸血鬼狩りをしなくてはいけない。
住んでいるアパートを出る。俺はヴァンパイアハンターだが、姿かたちは人間と大差ない。街を歩いていても、奇異に思う人間はいないはずだ。
吸血鬼は普段日中は行動しない。日の光を浴びることが出来ないからだ。ヴァンパイアハンターとしては活動し難い時間だと言われているけど、俺はそうは思わない。どっかで寝ている吸血鬼を見つけ出してそのまま狩り出してしまう方が楽に決まっている。そういうわけで俺は、朝早くからこうして出かけるのだ。
俺には、どうにも不満がある。それは、自分のすぐ近くにいるはずの吸血鬼を一向に狩り出すことが出来ない、ということだ。
ヴァンパイアハンターには独特の嗅覚があり、それによって吸血鬼を識別することが出来る。俺は、そうやって幾人もの吸血鬼を狩り出してきたが、しかしある吸血鬼だけは一向に姿を見せないのだ。その吸血鬼は大胆にも、俺のすぐ傍まで近寄っているようなのだ。それは、その吸血鬼の匂いが強いことからも分かる。他の吸血鬼の姿を追いながら、俺はずっとその吸血鬼を探しているのだが、一向に見つかる気配がないのだ。自分のハンターとしての腕に自信を持っているが故に、今の状況には満足できないのである。
吸血鬼がいそうな暗がりを重点的に回りながら、同時に生け贄を探している。俺はヴァンパイアハンターであると同時に、殺人鬼でもあるのだ。特に、むしゃくしゃした時人間を殺したくなる。一匹の吸血鬼も見つけられないような時だ。そういう時は、人間を殺すことで自分を落ち着かせている。
今日もそんな日だった。どうにもむしゃくしゃして、つい人間を殺してしまった。とりあえず身体をバラバラにして部屋まで持って帰ることにする。
とりあえず冷蔵庫に腕だけ入れる。基本的にあまり使わないので、うちにある冷蔵庫は小さいのだ。腕ぐらいしか入らない。仕方ないから他の部位は自分で食べることにする。ヴァンパイアハンターは元々吸血鬼であることが多い。俺もそんな輩の一人だ。
追い続けている吸血鬼はどうにも見つけることが出来ない。常にその不満を抱えたまま、仕方なく俺は眠りにつく。

―ヴァンパイアの話―
僕の一日は、日没と共に始まる。
もちろん、僕が吸血鬼で、日光を浴びることが出来ないからだ。何とも不便な身体だ…、なんて思うことは特にない。生まれた時から僕はずっと吸血鬼だったのだし、これからも吸血鬼であり続けるのだろうから。
布団から這い出し、洗面所で顔を洗う。当然鏡はない。トイレで用を足し、人工血液(現代に生きる吸血鬼の主食だ。さすがに人間の血ばかり吸っているわけにはいかない。しかしこの人工血液、マズイのだ)を飲みながらテレビを見る。
僕ら吸血鬼の生活は、人間と大して変わらない。ちゃんとしたアパートに住み、それなりに近所の住人と接触を持ちながら、目立たないように生きている。住みにくい世の中になったものだ、と思う。僕はもう長いこと生きているわけだけど、例えば戦国時代なんかどれだけ生きやすかったことか。吸血鬼も歩けば瀕死の人間に当たる、と言った具合で、食料には事欠かなかったのだから。逆に言えば明治時代なんかはかなりきつかったな。何故なら人工血液なんてものがまだ開発されていなかったからだ。そういう意味では、現代はまだ生きやすいと言える。
テレビでは、お笑い番組をやっている。もう人間のように生きて久しい。人間と同じポイントで笑えるようになってきたものだ。
テレビを見ながら僕は、ぼんやりと考える。ずっと感じていることだが、僕の周りにはヴァンパイアハンターがいるようなのだ。決して姿を見せることはないし、何故か僕を狩り出すこともないのだが、そのヴァンパイアハンターは僕の周囲に付きまとっているようなのだ。そいつが何を考えて僕を狩り出さないのか、僕にはさっぱりわからない。しかし、恐らくそうできない理由があるのだろう、と僕は高を括っていて、それでそんなヴァンパイアハンターの存在を無視し続けている。
そういえば、と思いついて冷蔵庫を開ける。期待通りそこには、人間の腕が入っている。ラッキー、と思いながら、僕はその腕に齧りつく。
不思議なことではあるが、こういうことが時々ある。自分で入れた記憶はまったくないのだ。どういう経緯でこの冷蔵庫の中に入ってきたのか不明だが、人工血液に飽きた僕には格好のごちそうになる。やっぱり人間の血はうまい。
さて今日も一日平和だった。特にすることもないし、寝るか。



103.「変人二十面相」
「佐藤さん、お久しぶりです」
営業のためにとあるスーパーを回っている時、顔見知りの他社の営業マンに声を掛けられた。
「おぉ、久しぶりだね。最近どう?」
「相変わらずダメですね。佐藤さんの方はどうですか?」
佐藤雅兼。これが僕の本名であり、普通に仕事をしている時に使っている名前だ。
「こっちも同じだよ。参ったね。あれでしょ、おたくも石油のせいでしょ?」
「そうですね。アレの値上げがキツくって。まあどこも一緒なんでしょうけど」
スーパーの担当者が捕まらなかったりする時、営業マン同士でこうした他愛もない雑談をする。特に中身のある話ではなく、天気の話とさして変わらない。
佐藤雅兼としての僕は、どこにでもいる平凡な営業マンで、可もなく不可もなく。喋りがうまいわけでも押し出しが強いわけでもなく、かといって契約が取れないわけでもない、それなりの男である。
「吉岡さん、ちょっと忙しくて無理そうですね。じゃあ僕は他を回ることにします」
そういって佐藤雅兼はスーパーを後にした。まあどうせ僕はそこそこの営業マンだ。そんなに頑張ることはないさ。
車に乗り込もうとした時、携帯電話が鳴った。
「もしもし、吉田さんですか?」
吉田友成。僕のペンネームの一つである。
「明後日締め切りのやつが一本あるんですけど、ダメっすかね?」
吉田友成としての僕は、フリーのライターをしている。署名記事を書くわけではない。大抵どこかの週刊誌の、あってもなくてもさして変わりのないような、スペースを埋めるための記事を書いている。まあそれでも、それなりにお金にはなるから悪くはない。
「明後日ですか。まあ大丈夫だと思いますよ。今出先なんですけど、メールで送っといてもらえば後で見ますよ」
「助かります」
吉田友成は、締め切りを常に守る男だ。それだけが取り得だと言っていい。しかし出版業界でそこそこ仕事をもらうには、それだけで十分だとも言える。文章の上手い下手はさほど関係ないのだ。
さて、明後日までか。早めに予定を切り上げて家に帰らないといけないな。とりあえず、昼飯でも食うか。
普段よく行く定食屋へと向かう。味はそこそこだが、早くて安いと評判の店である。
「市川先生じゃないですかぁ」
店に入るなり、客の一人からそう声を掛けられた。
市川忠雄。これも僕のペンネームの一つである。
「ちょうどよかった。田中先生が病気で倒れちゃって、どうしようかと思ってたんですよ」
市川忠雄としての僕は、ちょっとしたイラストを描いている。新聞連載の小説や雑誌の片隅に載るような挿絵で、あってもなくてもさほど影響はないようなものだが、それでも仕事の依頼はそこそこにある。悪くない仕事だ。
「明日締め切りなんですけど、ダメでしょうか?」
田中というイラストレーターの代わりに、動物の絵を何点か描いて欲しい、ということだった。明日まで、という締め切りはなかなかハードだが、まあやってやれないことはないだろう。
「ありがとうございます!助かりましたよ、ホント」
さて、いよいよ忙しくなってきたぞ、と思ってきた。急いで昼飯を平らげ(彼が奢ると言い張ったが、それは断った)、すぐ車に戻ろうとした時、後ろから誰かに呼び止められた。
「立岡さんじゃないですか?」
立岡…、そんなペンネームを持っていただろうか。
「連絡が取れなくて困ってたんですよ。今日の18時締め切りのコピー、忘れてないですよね?」
ある飲料メーカーが次に行う大きなキャンペーンのメイン広告のキャッチコピーを考える仕事を立岡某は受けたのだ、という。人違いではないのか、と一瞬考えはしたが、そういえば立岡という名前を使ったような気がしないでもない。なるほど、今日締め切りだったか。それは危ないところだった。とにかく時間はないが、急いで考えなくては。
「頼みましたよ。立岡さんは締め切りを破らない人だから大丈夫でしょうけど」
さて、とにかく急いで営業に回らないと。運転席に乗り込むと、またしても電話がなった。
「稲垣さんですか?」
稲垣…、そんなペンネームもあっただろうか。
「お願いしていた試薬の検査、あれ今日の朝締め切りだったはずですよね?どうしちゃったんですか?このままだとプレゼンに間に合わないんですけど!」
どこかの研究所が家庭用洗剤として開発したものの安全検査を稲垣某に外注した、というのだ。試薬の安全検査?僕はそもそもそんな仕事が出来たのだろうか?学生時代の化学の成績はあまり褒められたものではなかったと思うのだけど。しかし、稲垣という名前も、使ったような気がしないでもないな。仕方ない。引き受けてしまった仕事はやるしかない。申し訳ないが、後数時間待って欲しい、と告げる。
「ホント頼みますよ!明日プレゼンなんですから!」
電話を切った僕は、何だか疲れてしまっていた。そういえば本当の自分の名前はなんだっただろうか…。

あぁ、あの人ですか。この辺じゃ有名な人なんですよ。どんな名前で呼んでも返事をしてくれる人だって。それにかこつけて、依頼してもいない仕事を無理矢理押し付けたりする人が結構いるみたいですね。奇特な人ですよね。僕らは、「変人二十面相」って呼んでますよ。



104.「電車鳩」
恐らくご存知の方は多くはないだろう。日本が戦時中に開発したある特殊兵器のことを。
この特殊兵器は、理由は定かではないが、詳細が歴史の闇に埋もれてしまったものである。開発者は終戦直後謎の死を遂げ、それに伴い研究はストップ、戦後のゴタゴタで資料も散逸し、そのためその存在を知る者はいなくなってしまったのである。
じゃあ、そんな誰も知らないはずの特殊兵器の話をこうやってしているのは一体誰なのか。まあそれは追々ということで。
その特殊兵器は、『電車鳩』と呼ばれていた。
どんな兵器なのかと言えば、まさに呼び名の通りである、と言える。つまり、線路の上を飛ぶように訓練された鳩、なのである。
いや、訓練された、という言い方は実は正確ではない。これは当時でも極秘の技術であったのだが、遺伝子操作により、線路を飛ぶ性質を遺伝によって受け継ぐことを可能にした種、だったのである。つまり、電車鳩いうのは既に新しい種の一つであり、電車鳩同士での交配により必ず電車場とが生まれるように設計された種だったのである。
この電車鳩、一体どのように使われていたのだろうか。
残酷な話ではあるが、この電車鳩、やはり爆弾として使用されていたのである。
鉄道というのは国家のライフラインの一つとも言えるものであり、鉄道や駅を中心に街は発展していく。即ち、鉄道に沿って爆弾を仕掛けることは効率よく他国を壊滅させられるということになる。
電車鳩は、その体に爆弾を括り付けられ、そして放たれた。向かってくる電車を爆破してもいいし、途中の駅を爆破してもいい。そういう形で試用された生物兵器だったのである。
もちろん、この電車鳩は研究がメインであり、実地で使用されたことはあまりない。鉄道というものがまだそこまで普及していなかったということもある。当時としても、将来使える技術として研究を続けていたようである。戦時中とは言え、なかなか余裕がある研究所だったのだろう。
研究がメインとは言え、電車鳩はどんどん生み出されていった。そして研究者の死により研究がストップすると、電車鳩は解放され、他の鳩と同じように生きていくことになった。
しかし、電車鳩は生きていくのにあまりにも不幸な種であった。
基本的に電車鳩は、線路の上を飛ぶことしか出来ない。元々兵器として開発されたためそうなっているのだが、しかしこれは生物としては致命的過ぎた。いかんせん、食料を確保することが困難であった。線路上を飛ぶだけでは、種に行き渡るほど十分な食料を得ることは出来ない。
また、近代化により鉄道がどんどんと発達すると、必然的に電車鳩の危険性が増して行った。即ち、走行中の車両と衝突する事故が多くなったのだ。
この二つの要因により、電車鳩はその数をどんどんと減らして言った。もともとその存在さえ正式には認識されていなかった種ではあるのだが、しかし電車鳩はどんどんと絶滅の危機に瀕したのである。
そしてついに電車鳩は、最後の一匹になってしまった。そして何を隠そう、僕がその最後の一匹なのである。
僕が生き延びることが出来た理由は二つある。
一つは餌のとり方だ。僕は川の多い地域を中心に住んでいるのだけど、橋の下で餌をとる事にしたのだ。他の仲間は、線路の上しか走ることが出来ない、と思い込んでしまったために、橋の下に行くということに思い至らなかったのだ。僕だけが唯一、電車鳩の観念を破って川から餌をとることにしたので、他の個体よりは生存の確率が上がったのである。
そしてもう一つは、電車のやり過ごし方である。
真正面から電車がやってきた時、他の個体は慌てて高く飛ぼうとする。しかしこれは危険だ。何故なら線路の上には送電線があるからだ。これに引っかかったり、パンタグラフにやられたりという輩が多い。
だから僕は考えたのだ。車両を避けるのではなく、車両の上に乗っかってしまえばいいのだ、と。それは多少技術を要したが、しかし僕はそれを習得し、迫り来る車両の危機から逃れることが出来るようになった。
なので、お出かけの際は近くを走っている電車の屋根を見てみて欲しい。もしそこに鳩が乗っていたら、それは僕かもしれません。



105.「手術中」
「それでは手術を始めます。メス」
「今日はこれで何件目?」
「三件目。ホント疲れた」
「昨日は?」
「お察しの通り新人の歓迎会。まあ二日酔いってほどでもないけど」
「新人、嫌いだもんねぇ」
「そんなことはないさ。ただ未熟な人間が嫌いなだけだ」
「それって同じだと思うけど」
「そういえばそれで思い出した。昨日院長の息子が入院したとか言ってたな」
「何呑気なこと言ってるの。今あなたが切ってるお腹が、その息子よ」
「へぇ、そうなんだ。全然知らなかった」
「あなたもいい加減、院内の事情に疎いわよね。さっきだって医局が丸々ピリピリしてたじゃないの」
「あぁ、そうだっけ?気づかなかったなぁ。だったら院長自ら執刀すればいいのに。確かこれ、専門じゃなかった?」
「院内の冬眠ゼミって噂は本当だったのね。ホント何にも知らないんだから」
「冬眠ゼミなんて呼ばれてるのか、俺」
「院長はもっぱら研究で上がった人だからね。実技はほぼ無理。まあそれでも院長になれるっていうんだから、大学病院ってホント謎だけどさ」
「まあまさか自分の息子が発症するとも思わなかっただろうしねぇ」
「でも院長、奥さんに詰られてるらしいわよ。自分の息子なのに、あんたは何もしないのか、って」
「ねぇ君、何でそんなことまで知ってるんだい?」
「あなたは冬眠ゼミだから言っても大丈夫かしらね。でも人に言っちゃダメよ。実は私、院長と付き合ってるの」
「ええっっっーーー」
「ほらほら、周りに気づかれるでしょ。それにペアン、落ちそうよ」
「いやだって、そんな驚かすようなこと言うから」
「もう二年ぐらいになるのかな。まあ院長と付き合ってて損はないしさ、案外アッチの方も健在だしね」
「でも、奥さんにバレたりしないの?」
「院長はバレてないって思ってるみたいだけどね」
「じゃあバレてるんだ」
「っていうかまあ、あたしが教えてあげたっていうか」
「は?」
「だからね、奥さんに、『わたし院長と付き合ってますけど、家庭を壊すつもりはありませんのでご心配なく』って」
「なんていうか、君のことがどんどんわからなくなってきたよ」
「実はね、陶芸教室で一緒だったのよ」
「へぇ、陶芸なんてやってるんだ」
「まあその時は院長の奥さんだなんて知らなかったんだけど、何だかウマが合ってね。時々お茶したり買い物したりなんていう仲になってたんだけど」
「うん、それで?」
「まだ私が院長と付き合う前のことよ。ある時奥さんがね、『もう疲れたわ』なんてことを言うのよ」
「なんか嫌な予感がするね」
「奥さんはね、旦那と息子に辟易していたそうよ。院長になるために家庭を顧みなかった夫、医者になるために勉強ばっかりしてる息子。なんか息が詰まるんだってさ」
「なるほどね。それなら夫を奪われても気にならないってか」
「そう。わたしもそう思ったからね、ちゃんと教えておいてあげたの。そしたら、ありがとう、これで少しは自由になれるわ、って感謝されちゃった」
「でもさっき、『自分の息子なのに何もしないのか』って奥さんは院長を詰ったとか言ってなかったっけ?まあさすがに息子にはまだちゃんと愛情があるってことかな」
「あぁ、それはたぶん演技なんじゃないかな。奥さんの方からもうすぐ離婚を突きつけるつもりらしから」
「どういうこと?」
「つまりね、自分で息子の養育権を得れば、養育費と称してたんまりお金をせしめられるでしょう?そのための準備なんだと思うわ。それに、自分で引き取れば、勉強ばっかりしてる子どもから変えられるかもしれない、って思ってもいるみたいね」
「はぁ。女って怖いね」
「わたしも早いとこ院長からトンズラしないと。奥さんが離婚を切り出す時まで付き合ってたりすると、結婚してくれとか言われかねないしね」
「はぁ。女って怖いね、ホント」

「あの、すいません、全部聞こえてるんですけど…」
「…メス」



106.「絶対舌感」
これは、僕が彼女と別れるまでの話である。

『グルメ界仰天!神の舌を持つ男!』
これはある有名な雑誌に書かれた、僕に関する記事の見出しだ。僕は少し前からこうして、メディアと呼ばれるものに露出するようになってきた。
もともとはただ食べるのが好きなだけの人間だった。食べることが好きで好きで、美味しいと称されるものは何でも食べたかった。美味しいものを求めて日本全国、いや世界中を飛び回ったと言っても決して言い過ぎではないだろう。実家が多少裕福だったことも僕には幸いだった。そうでなければとてもお金が続かなかっただろう。
そうやって僕はずっと食べるために人生を捧げてきた。他のことはほとんど二の次、仕事も趣味も恋愛もまったく無視して生きてきたのだ。
訪れるお店で、店のご主人と話すような機会が時々あった。そこで僕は、これは隠し味に何々を使っていますねだの、さしでがましいようですがこの料理には、どこどこ産の魚よりもどこどこ産の魚の方が合っているように思うんですが、というような話をしたのだった。もちろん、これは純水に僕の興味からであった。旨いものを作る人達と話をしたい、何かを共有したい、あるいはもっと旨いものを作る手助けをしたい。純粋なそうした欲求から、僕は思いついたことを料理人に伝えていたのだ。
そんなことをしていく内に、僕の名前は勝手に広まっていったようだ。すごい舌を持つ男がいる、と料理人の間で評判になっていった。それはとりもなおさず、僕が口にしたことが料理人に受け入れられたということであるから、僕としては嬉しいことだった。そしてそれと同時に、マスコミにも注目をされるようになったのだ。
僕は雑誌に連載を持つことになり、またグルメ番組にも時々顔を出すようになった。バラエティ番組で、料理を一口食べてそれに使われている材料をすべて答える、というようなこともやったことがある。テレビや雑誌の世界は華やかで、僕は依頼があればどんどんと引き受け、やがていっぱしの料理評論家として認識されるようになったのだった。
桃子と出会ったのは、僕が料理評論家として認識され始めた頃のことだったと思う。僕はいつものようにテレビ番組の収録に参加していた。その番組は、料理人や主婦らと共に、ハンバーグやオムライスなどの定番料理の進化版を作ろう、という主旨の番組で、僕はアドバイザーの一人として参加していたのだ。
その日はカレーの回であり、出来上がった試作品を僕が食べる、という段階に来ていた。そこで事件は起きたのだ。
カレーを口に入れた瞬間、違和感を感じた。口の中に異物が入っているのだ。それは指輪だった。
「あの、カレーの中に指輪が入っていたんですけど」
そう言うとスタッフが飛んできて、申し訳ありません、と大仰に頭を下げた。
「いや、僕は全然気にしてないよ。でも、この持ち主に伝えて欲しいことがあるんだ。もしかしたら余計なお世話かもしれないけど、このダイヤたぶんニセモノですよ」
「宝石の鑑定も出来るんですか?」
「いや違うんだ。味がちょっとおかしいなと思って。もしこれが本物のダイヤだったら、こんなおかしな味はしないような気がするから」
この出来事は、僕の人生をささやかに変えてくれた。しかも二つの意味で。
一つは、僕はさらにいろんな番組に取り上げられるようになった、ということだ。僕は、ただ料理の味が分かるというだけの料理評論家ではなく、まさしく何でも見分けることの出来る舌を持つ男として知られるようになっていった。実際僕は舌に載せれば、食べ物でなくてもその物の構成要素が大体分かる。だから、再生紙を使っていると謳っているのに使われていない紙も判別出来るし、割り箸に使われている木がどんな種類のものなのかも分かる。まさに奇跡の舌だ、としてさらにもてはやされることになった。
そしてもう一つは、桃子と出会ったことである。
カレーの中に指輪を落としたのが、その日収録にやってきていたOLの桃子で、ブログで自身の料理日記を載せていて一部では有名な女性だった。桃子には当時付き合っている彼氏がいたのだけど、ダイヤがニセモノであるということを知ったために別れてしまい、そして僕と付き合うことになったのだった。
それまで僕には彼女がいたことがなかった。ずっと美味しいものだけを求めて生きてきたし、マスコミに注目されるようになってからはなかなか時間がなかったということもある。だから、僕は非常に奥手だった。手を繋ぐのにひと月も掛かったくらいだ。でも桃子は、そんな僕を優しく見守ってくれていた。二人とも、慌てずにゆっくり行こう、と思っていたのだ。
付き合いは順調で、僕は忙しい合間を縫って無理矢理にでも彼女と会う時間を見つけた。桃子は優しくて綺麗で、一緒にいると和んだ雰囲気になったものだ。僕はこのまま桃子と順調に進んでいくものだと思っていた。
だが僕は、あの日を迎えてしまう。彼女と別れることになった日だ。それは同時に、僕が彼女と初めてキスした日でもあるのだ。
夜暗い公園で二人で座っている時、僕は勇気を出して彼女にキスをしてみた。彼女は驚いた様子もなく、恐らく内心ではやっとしてくれたのね、なんて思っていたことだろう。僕にとっては初めてのキスで勝手が分からなかったが、しかし戸惑っている僕を襲ったのは信じられない衝撃だった。
キスをし終えた僕は混乱した。どうしたらいいのだろうか。その時僕は、もう彼女との付き合いを続けることが出来ない、と確信をしていた。しかし、桃子のことを嫌いになったわけではない。けどどう考えても、彼女を傷つけずに伝えることは不可能だった。
「…ゴメン、桃子とはもう付き合いを続けていけないと思う」
桃子は目に涙を浮かべながら、しかし同時に納得したという風な表情を浮かべた。
「やっぱり分かってしまうのね。いつかこんな日が来るかもしれないとは思っていたのよ」
「本当にゴメン。でもやっぱり僕には、男性と付き合うことは出来ない」
「いいのよ。仕方がないもの。あなたが奥手だったお陰で、楽しい時間が長く過ごすことが出来たわ。ありがとう。じゃあね」
桃子は、男性だった。キスをした瞬間に僕にはそれが分かってしまった。桃子は人間としては素晴らしいと思う。でもやっぱり、異性として見ることは僕には出来ない。
神の舌を持つことを恨んだのは、後にも先にもこの時限りだった。



107.「ドラショッピング」
ネットサーフィンをしていた僕は、とあるサイトを見つけた。そこは、インターネット上のショッピングサイトであるようなのだが、そのサイトで扱っているものが大分変わっていた。
(ドラえもんの秘密道具?)
『ドラショッピング』と名付けられたそのサイトは、その名の通り、ドラえもんの秘密道具を販売していたのである。
(いやいや、まさかね)
まさか本当にドラえもんの秘密道具が買えるわけがないだろう。そこまで技術が進歩しているわけもないし、というかそもそもドラえもんの道具というのは技術の進歩だけではいかんともしがたいものばかりである。恐らく未来永劫実現不可能なものばかりで、そんなものが売られるわけがないのである。
(しかしサイトのどこにも、なんの注意書きもないなぁ)
あらかじめジョークとしてやっているならいいのだが、しかしこのサイトを真に受けてしまう人もいないとは限らないだろう。特に子どもなんか、本当かもと思うかもしれない。
(まあでも物は試しだ。買うフリでもしてみようかな)
というわけで僕は、そのドラショッピング内をうろうろすることにしたのだ。
(とりあえずタケコプターは欲しいでしょ。空飛びたいしね。これは買い)
(もちろんタイムマシンも、っと)
(四次元ポケット…ってのはさすがにないのかな。まあそうだろうね。それがあったら全部揃っちゃうもんね)
(そうそう、忘れちゃいけないどこでもドア…、ってあれ?どこでもドアはないのかなぁ。あれあったら便利なんだけどなぁ。まあいいか、他のを捜そう)
(あぁ、これはいいよね、もしもボックス。ちょっと大きいのが難点だけどなぁ…)
(逆時計…へぇ、時間を逆戻りさせられるんだ。でも、まあこれはタイムマシンがあれば十分か)
(エアコンボールね。その周りの温度を調節してくれる、と。これはいいなぁ。買うか)
こんな感じで僕はカートにどんどん商品を放り込んでいったわけです。ふと気づけば、合計金額は50万円に達しようとしています。
(まあこれぐらいでいいか。どうせ買えるわけないしな)
僕はカートをクリックし、清算の画面にします。
(名前と電話番号とメールアドレスを入力して、と。住所は書かなくていいのかな)
そして次の画面に進むと、なんとクレジットカードの番号入力のフォームが出てきました。
(まさか、ホントに買えるのか?)
そんなわけがないだろう、と思って、僕は画面の隅々まで見てみることにしました。すると下の方に小さくこんなことが書いてあります。
『商品の発送はいたしませんので、お客様ご自身で受け取りに来ていただくようお願いいたします。当社ははくちょう座の惑星X58695にあり、お越しの際はどこでもドアをご利用いただくのがよいかと存じ上げます。』
なんというか、イタズラなのか新手の詐欺なのか、イマイチよくわからないサイトである。



108.「ラクガキ」
―公務員・滝本一郎の話―
滝本一郎は、市役所庁舎から外に出ると、思わずため息をもらした。
(まったく、役人ってのはアホばっかりやな)
毎日そう思う。上司も部下もアホばっかりだ。滝本自身も分かってはいるのだ。そういうアホどもも、人間としては決して悪くはない、と。しかし、役所という組織の中にあっては、よほど強い意志がない限りだらけてしまうのだ。アホを養成することにかけては役所というのはプロだな、と改めて思う。
(いい加減辞めるべきだろうか)
何だか日々イライラする。熟睡出来なくなったような気がするし、疲れも取れ難くなった。それもこれも、アホな部下とくそったれな上司のせいだ、と思うとまたイライラしてきてしまう。
昼休みということもあって、周辺は市職員やサラリーマンで賑わっている。滝本も、普段行くことにしているデパートに入る。そこに入っているパン屋で昼食を買うことが多い。
しかし滝本はそのままパン屋に向かうのではなく、デパート内のトイレに向かった。そのまま個室に向かう。これはここ最近の習慣と言ってよかった。
中間管理職になってストレスにさらされるようになって、滝本はどこかに逃げ場を見つけなくては、と思った。喫茶店や公園などいくつか試してみたが、このデパートのトイレが一番落ち着くのだった。今では、昼休みの内の15分近くをここで過ごす。本を読んだり音楽を聞いたりしながら、ただぼんやりと過ごすのである。これが、リフレッシュには最適である、と分かったのだ。昼休みでなくても、適当に外出の理由を作ってここに来ることも多い。
4階の奥の個室が指定席だ。大抵いつも空いている。タイミングがいいのか使用率が低いのか分からないが、滝本にとっては喜ばしいことである。
とりあえず用を足そうと便器に座ると、ドアの内側の悪戯書きが目に入った。よくあることで、携帯電話の番号が書かれていたり、こんな人物を見かけたら連絡くださいなんていうのもあったりする。まあ他愛もないものである。
しかし今日の悪戯書きはなかなか珍しかった。なんと数学の問題である。
問題のレベルは、中学生程度のものだろうか。図形が書かれていて、面積を求めるものと角度を求めるものと二問用意されている。幾何はあんまり得意じゃなかったなぁ、と思いながら滝本はその問題を頭の中で考えていた。
巧い具合に補助線を引けば解ける問題であると分かり、実際胸ポケットに挿していたペンで大まかな回答を作ってみた。懐かしいものだ。学生時代は数学は決して嫌いではなかったけど、自分から積極的に問題を解こうなんて考えたことはなかっただろう。それが今では、ストレス解消のための暇つぶしとして数学の問題を解いている。
用を足したこともあるだろうが、それ以上の充足感が得られたような気がした。なるほど、たまにはこうして頭を使ってみるのも悪くないかもしれないな。またこんな悪戯書きがあったらいいな、と不謹慎なことを考えてしまう滝本であった。

―中学生・中村太一の話―
この世で嫌いなものをいくつか挙げろと言われれば結構いろんなものを挙げることが出来る。ピーマンは嫌いだし、カエルもダメだ。お母さんのキツすぎる香水とか、ヤスト君の嫌がらせとかも嫌だ。
でも、それよりも何よりも嫌なのが、数学の授業だ。何で数学なんてのがこの世に存在するんだろう。計算機があれば計算は出来るし、方程式なんて絶対日常生活で使わない。図形の面積が求められなくても、√2のゴロ合わせを知らなくても、絶対に困らないと思う。なのに、何で数学なんてやらないといけないんだろう…。
今も、まさにその数学の授業中なのだ。
僕は、先生が黒板に書いていることを、意味も分からずただ写している。その内飽きてくると、ノートに悪戯書きが増えてくる。しばらくすると先生の声が遠くなり、眠気が襲ってくるのだ。これはもうどうしようもないのだ。
「中村。この問題、前に来てやりなさい」
だからこうやって指されると、僕の心臓はバクバクしちゃうんだ。どうせ、解けるわけがない。先生だってそれぐらい分かってるはずなのに、嫌がらせなんだろうか。
とりあえず黒板に向かう。図形が書かれていて、面積を求めなさいとか、角度を求めなさい、とか書いてある。分かるかよ、と思うけど、もちろん口には出さない。
あぁ、トイレに行きたくなってきた。嫌なことがあるとそうなる。でも、ウンコしたいですなんて授業中に言えるわけがないし、そもそも学校でウンコなんか出来ない。我慢するしかない。
チョークを手に持つんだけど、もちろん手は動かない。何から考えればいいのかさっぱり分からないのだ。じぃーっと黒板を見つめる。まるでそこに答えでも書いてあるかのように。もちろんそんなことはないのだけど。
すると、僕の手が勝手に動き出した。図形の中に一本線を引いているようだ。「ほぉ」という先生の声が聞こえるから、たぶん正しい方向に進んでいるのだろう。確か補助線、とか言うやつだったと思う。しかし、どうして自分がその補助線を引けたのかが分からない。
それからも僕の手は勝手に動き続けた。自分ではさっぱり理解できない記号やらアルファベットやらを、スラスラと黒板に書いている。しばらくすると手が止まり、それで解答を書き終わったのだと分かった。
「中村、やるじゃないか。正解だ。この補助線を引くというのがポイントでなかなか難しいと思ったんだが、よくできたな」
僕はさっきの出来事がさっぱり理解できなくて困惑していたけど、とりあえず先生に褒められて嬉しかった。もしかしたら自分には数学の才能が眠っているのかもしれない。まだその実力が出ていないだけなのかもしれない。その僕のどこかにある数学の実力が、あまりに数学の出来ない僕を見かねてとりあえず顔を出してくれたのかもしれない。そう思うと、ちょっとは数学を頑張って見てもいいかもしれないな、と思えたりするから不思議だ。
不思議だと言えばもう一つ。あんなにウンコをしたかったのに、いつのまにかスッキリしていた。漏らしたんじゃないよな、と何度も確認したけど、大丈夫そうだった。何だかよく分からない不思議なことが続くもんだなぁ、と思った。



109.「立て篭もり」
「高橋じゃないか?久しぶりだな」
仕事を終え、家に戻る途中だった。関わっていた事件が、被疑者死亡のまま書類送検され、事実上捜査が終了した直後のことだった。幸いなことにまだ大きな事件も起きていない。久しぶりに早めの帰宅となったのだ。
「もしかして山下か?ホント久しぶりだ」
高橋は正直、嫌な奴に出会ったな、と思った。山下とは大学時代の友人で、そしてテレビ局に入った。今でも恐らくそこで働いているだろう。大学時代はそれなりに付き合いもあったが、卒業後はまったく連絡を取り合うこともなかった。実に十数年ぶりと言える再会だった。
山下は一度、世間をあっと驚かせるようなことをやってのけた。そのため、刑事である高橋にとっては苦々しい思い出と結びつく存在なのだった。
それは3年前のこと。山下はあるドラマの撮影で天才的な手腕を発揮し、それにより業界では伝説としてささやかれている、と聞く。一方で警察としては、まんまとしてやられたという立場であり、未だに山下への苛立ちを露にする人間も多い。
山下は、本物の刑事と機動隊を動因させた立て篭もりシーンの撮影をやってのけたのだった。
初めはコンビニからの通報で、銃を持った二人組の男が金を寄越せとやってきたが、結局お金を取ることなく逃げた、というものだった。その後犯人が近くにある市民体育館に逃げ込んだとの情報があり、まもなく立て篭もり事件と判断された。
人質は、当時体育館を使用していたバスケットリームのメンバーというところまでは分かったが、しかし受付時に虚偽の記載をしたようで、人質がどこの誰なのかは分からなかった。
刑事と機動隊が市民体育館を包囲し、しばらく緊迫した状況が続いた。しかししばらくすると、上層部から撤退の命令が下された。テレビ局からの連絡があり、これがドラマの撮影であることが告げられたのだった。
警察は、ドラマの撮影のために駆り出されたと知って憤ったが、しかし彼らを罪に問うことは困難だった。テレビ局側はその市民体育館を撮影のためということで一日借り受けていたし、犯人と人質も皆エキストラと俳優であった。武器はすべて模造であり、表向き問題はないと言えた。問うことが出来たのは、公務執行妨害ぐらいなもので、初めに通報したコンビニの店長も元々計画を知っていたということで、強盗未遂という線での立件も見送られた。警察としては未だに記憶に残る苦々しい事件だった。
その首謀者が山下であり、だからこそ高橋は山下にいい印象を持っていないのだ。
どちらからともなく飲みに行くかという話になり、近くの居酒屋へ向かった。
「最近は大人しくしてるのか?」
山下は苦笑し、
「まああん時のことは許してくれ。お陰でいいのが撮れたよ」
と悪びれない。まあ直接関わっていたわけではないからいいけどな、といい、そこでつい先ほどまで関わっていた事件を思い出した。
「廃工場の立て篭もり事件、知ってるか?」
「あぁ、ちょっと前までニュースでやってたな」
「つい最近その事件が決着してな。お前の顔を見ると何だか立て篭もりのことしか浮かばないな」
そういうと、またしても山下は苦笑した。
廃工場での立て篭もり事件が起きたのは、今からひと月ほど前のこと。犯人の男が、当時たまたま廃工場にいた大学生数人を人質に取り立て篭もった事件で、犯人の目的は今になっても不明。持っていた銃で人質の一人を殺し、刑事の一人を重症に陥れ、最後には特殊班の人間に射殺されたのだった。
「しかしあの事件も不自然なところが多すぎるよね」
山下がそう言ったのを、高橋は怪訝に思った。どこがおかしいというのだろうか。
「まずなぜ廃工場にそもそも人がいたのか。彼らは、自分達は廃墟マニアで、だからそこにいたのだと主張したようだけど、僕にはどうにも不自然に感じられるんだ。あの日たまたまあそこに人質となる人間がいたというのが」
言われてみればそうかもしれないが、しかしたまたま人質がいたから事件が起きたのだ、ということでしかないだろうと思う。そんなに大したことではないだろう、と高橋は言った。
「それに犯人もおかしい。僕も中継を見てたけど、犯人は初めの内はずっと沈黙していたけど、人質の一人を殺してから急に饒舌になった。しきりに、自分は違うんだ、というようなことを言っていなかったか。まあその直後、銃を持ったまま刑事の方に向かって行ったから射殺されてしまったんだけど。その行動も、おかしいだろう」
それについては確かに捜査本部内でも意見があったが、しかし被疑者がが犯行を行っていたことは間違いないし、既に被疑者は死亡しているので仕方ない、と判断されたのだ。
「お前は何が言いたいんだ」
「要するに、真相は別にあるってこと」
「お前なら分かるっていうのか」
「まあね。分かるっていうか、知っているって感じだけど」
高橋は山下を見つめる。まさか、という思いが過ぎる。あさかそんなことがありえるだろうか。
「まさか、お前が首謀者だ、なんて言うんじゃないだろうな」
「案外冴えてるじゃないか。そう、俺があいつをそそのかしたんだよ。どうやったかは簡単さ。俺なら、また立て篭もりの撮影をやるんだ、と言いさえすれば信用される。銃は偽物だと言って本物を渡せばいいし、後は勝手にやってくれるってわけさ」
「…なんでそんなことをした」
「まあ、暇つぶしかな」
高橋は目の前にいる男を見つめた。既に事件は終わっている。被疑者死亡ということでカタがついているのだ。既に終わった事件を再捜査することは難しい。しかも、証拠もないだろう。結局こいつを逮捕することは困難だ。高橋は、この厄介な友人を殴りたくなった。



110.「殺人事件」
日曜日。天気のいい日は公園で過ごすことにしている。住宅街にある、申し訳程度に遊具が設置されているだけの寂れた公園だが、そのせいか昼間でも人気がなく、それで気に入っている。休日はアクティブに過ごしたい、という人もたくさんいるんだろうけど、僕はそんなタイプじゃなくて、時間を後ろから追いかけるくらいのんびりと過ごしたいと思っている。公園での読書は、僕にとって最高の休日の過ごし方と言える。
僕はいつものように本とペットボトル飲料を持って公園にやってきた。日差しがきついが、風があるので過ごしにくいということはない。
ペンキの剥げたベンチに座って本を読んでいると、公園に人が入ってくる気配があった。顔を上げると、そこにはよく見かけるホームレスがいた。ボロボロの服にボロボロのずた袋のようなものを持ってその辺をウロウロしている。この公園を根城にしているようで、見かけることも多い。
特に関心があるわけでもないのでまた読書に戻る。しばらくは何事もなく、ゆっくりと時間が過ぎて行った。読んでいる小説がなかなか面白く、次第に僕はのめり込んで行った。
悲鳴が聞こえたのは、ホームレスがやってきてから1時間ぐらい経った頃だっただろうか。
悲鳴のする方を見ると、一人の男が血まみれのナイフを持って立っていた。その前には、胸元を真っ赤に染めたホームレスが横たわっている。まだ生きているようであるが、男はとどめを差すつもりなのか、またナイフを突き出そうとしている。
「何してるんだ!」
僕はそうやって大声を上げながらそちらに向かって行った。自分でもなかなか勇気のある行動だと思う。何せ相手はナイフを持ってまさに殺人を終えた男なのだ。
男は僕の静止の声に一瞬気を取られたものの、すぐにホームレスに向き直りナイフを突き立てた。ホームレスは横たわったまま動かなくなってしまった。
僕はとりあえず救急車を呼ぶことにした。電話を掛けるが、しかし男はゆっくりとその場を立ち去ろうとしている。このままでは逃げられてしまう。電話が繋がると僕は、「○○公園で男性が刺されて血塗れです!」とだけ叫んで電話を切り、すぐに男を追いかけた。
「待て!逃げるんじゃない?」
男は振り向くと、何を言ってるんだ、という顔をした。
「逃げる?俺は別に逃げようなんて思っちゃいないさ。ただ家に帰るだけだ」
「何言ってるんだ!人を殺したくせに、このまま帰れるわけがないじゃないか!」
男は、さも不思議なことを聞いた、というような表情を浮かべて言った。
「君は一体何を言ってるんだね。人を殺すことの、どこが一体悪いというんだ」
その言葉に僕は唖然としてしまった。人を殺したことを悪いと思っていない。こいつはダメだ。話して通じる相手じゃない。僕はとりあえず男の足を蹴り払って地面に倒し、背中から馬乗りになって腕をねじ上げ、男からナイフを奪った。
「何をするんだ、お前は!」
男は執拗に逃れようとしたが、僕も必死でそれに対抗した。僕はなんとか警察に電話を掛け、「殺人犯を捕まえたんで一刻も早く○○公園に来てください!」とだけ叫び電話を切った。とてもじゃないが、電話をしながら男を押さえるのが困難だったのだ。
しばらくするとサイレン音が聞こえてきた。どうやら救急車がやってきたようだ。
救急隊員が僕に向かってやってきた。何だか複雑な表情をしているが、その意味は僕にはわからない。
「怪我人はどこに?」
「あっちです。血まみれで倒れているはずです」
救急隊員は手際よくホームレスを救急車に収容した。それから僕の方へと戻ってきた。
「君、そんなことをしてると警察に捕まるよ」
初め何を言われたのかよく分からなかったが、僕が殺人犯の男の上に乗っかっていることを言っているらしかった。
「でも、この男が人を刺したんですよ。逃すわけには行きません」
救急隊員は、こいつは何を言ってるんだ、という顔をしたが、しかしすぐに救急車を出さなければいけないからだろう。それ以上追及することなく去って行った。
それからすぐに警察がやってきた。
「おまわりさん、この男がホームレスを刺したんです。早く逮捕してください!」
男を拘束し続けるのもそろそろ限界だった。警察がきてくれて助かった、と思った。これで解放される。
警官は僕らをしばらく眺めていた。早く捕まえてくれよ、と僕は思った。
やがて警官は手錠を取り出すと、僕らの方へと向かってきた。
「14時36分、現行犯逮捕」
逮捕されたのは、何故か僕の方だった。
僕は手錠を掛けられ、そして殺人犯の男は解放された。警官と殺人犯の男は少しだけ会話を交わし、恐らく殺人犯の男の住所と名前をメモしたようだ。それだけで帰してしまった。
「おまわりさん!あの男は殺人を犯したんですよ!何であの男が帰れて、僕が逮捕されないといけないんですか!」
警官は、僕が何を言っているのかさっぱり理解できない、という顔をした。
「まあ、詳しいことは署で聞くから」
そう言って僕は警察署に連れて行かれることになった。僕はあまりのわけのわからなさに茫然とするだけだった。
取調室に連れて行かれた僕は、強面の刑事から話を聞かれることになった。
「君は、自分が何故逮捕されたのか理解出来ているよね?」
「いえ、まったく分かりません」
正直なところ、まったく理解できなかった。何故殺人をおかした人間が解放され、その男を善意から捕まえた僕が逮捕されなくてはいけないのだろうか。
「君は男性に対して暴行をしていた。暴行とまでいかなくても、拘束していたことは間違いないね。逮捕の理由はそれで十分だと思うが」
もしかしたら、僕が捕まえていたのが殺人犯だったというのが伝わっていないのかもしれない、と僕は思った。
「相手は殺人犯だったんですよ?その男を捕まえるために多少荒っぽいことをしても仕方ないじゃないですか!」
そう説明すると、刑事は妙なことを聞いたという顔をするのだった。僕は何だか得体の知れない不安に襲われた。
「じゃあ聞くが、どうしてホームレスを殺すことが悪いことなんだね?」
僕は唖然として、開いた口が塞がらなかった。
「あなたは、ホームレスだから殺してもいいって言うんですか!刑事のあなたがそんなんでいいんですか!」
そういうと刑事は苦笑し、
「あぁ、ごめんごめん。言い方がまずかったかな。要するに私はね、何で人を殺すのが悪いことなんだろう、って聞きたかったんだ」
「…」
僕には意味が分からなかった。人を殺すことはどう考えても悪いことだし、法律にもそう明記されているはずではないか。
「君はそう言うけど、じゃあきちんと法律を読んだことがあるのかね?人を殺すことが法律上いけないことだという文章を読んだことがあるのかね?」
そう言われれば、ないと答えるしかない。でも、普通に考えて、人を殺すことは悪いに決まってるじゃないか!
「君が、どうして人を殺すことが悪いと主張するのか、私には理解できなくて申し訳ないが、法律にはそんな記載はない。つまり、悪くもない人間の自由を奪っていた君こそが、本当の犯罪者だ、ということなんだ」
信じられなかった。いつからこの国は人を殺してもいい国になったのだろうか。そう言えば、殺人犯を捕まえてから僕が受けた視線は、すべて困惑を含んでいた。本当に僕は間違っているのだろうか?
もうよくわからなくなってきた。ただ、もし人を殺すことが罪にならないのなら、今目の前にいるこの刑事を殺して逃げたらどうなるだろう、と僕は思った。



111.「イタズラを振り返る」
地元に戻るのは、実に20年ぶりになる。忙しいということももちろんあったが、それだけじゃない。やはり、地元に置いてきた様々なものと距離を置きたかったのだろうと思う。家族や友達や思い出と言ったものたちと。後悔はない。正しいと思ったこともないけれども。
父親が入院したとのことで、いい加減顔を出せ、と母親に言われての帰郷だった。正直乗り気ではない。ただ、病気を持ち出されると弱い。両親に会うなんて今さらだと僕は思うけれども、しかしまあ、仕方ない。
電車に揺られながら、僕は地元に住んでいた頃のことを思い出していた。既に大分昔の話だ。どんどんと忘れてしまっている。しかし、その中でもかなり印象に残っている出来事がある。
僕は子供の頃、イタズラばかりして遊んでいた。あちこちに落とし穴を仕掛ける、なんていうのは常習で、他にも賽銭箱にカエルを百匹詰め込んだり、狛犬を壊して代わりに本物の犬を接着剤で固定したりと、無茶苦茶なことばっかりやっていた。僕のイタズラに引っかかる人はたくさんいて、その度僕と僕の両親は怒られることになった。それでも僕はイタズラを止めなかった。楽しくて仕方なかったからだ。
そんなある日のこと。いつものように僕はイタズラに励んでいると、一人のおじさんが近づいてきたのだった。見たことのない顔だった。田舎っていうのは、大抵の人と面識がある。それでも知らないっていうことは、他所から来た人なのか、あるいはこの辺に住んでいる人の遠縁か何かなんだろうな、とぼんやり思った。
「人を傷つけることになるからイタズラはもう止めろ」
知らないおじさんにまで言われるなんて、よほど僕は有名なんだな、なんて呑気に考えていた。
それからよく覚えていないが、僕はイタズラを止めた。どうしてだっただろうか。何かきっかけがあったようにも思うけど、どうも思い出せない。
実家の最寄り駅についた。最寄り駅と言っても駅からはかなり遠い。幸い父親が入院している病院はまだ駅に近いところにあるので、ブラブラと歩きながら行こう、と思った。
駅を出た僕は唖然とした。目の前の光景が、20年前に実家を出た時とまったく同じだったからだ。いくらなんでももっと変化してるはずだろう。まさかこの町は時間が止まっているんだろうか。
病院の方へと向かう途中も同じことを思った。この町はあまりに変わらなさ過ぎる。おかしい。何が起こっているんだろう。
病院への近道となる公園に差し掛かった。懐かしい場所だった。よくここに落とし穴を作ったものだ。多くの人が落ちてくれた。それを見るのが楽しくて仕方なかった。
懐かしさもあって、自分が落とし穴をよく作った辺りを歩いてみることにした。
えっ。
足元が崩れ、体が地面の下に落下した。まさか、と思ったが、自分が落とし穴に落ちていることは間違いないようだ。20年以上前に自分が作ったものがまだ残っていたなんてことはありえないだろう。となれば、この町には今、落とし穴を継承する人間がいるということだろう。
しかし、僕のその仮説はあっさりと打ち崩れた。何故なら落とし穴の中に、それを作ったのが僕だという証拠が残っていたからだ。それは落とし穴の壁にはめ込まれた一枚の板切れだった。僕は当時イタズラを作り上げると、そこに自分の痕跡を残すことにしていた。その板切れには、僕の名前と作った日がかかれている。
(まさか僕が作って以来ずっと残ってるんじゃないだろうんぁ)
そこで僕は思い出したのだった。何故僕がイタズラを止めたのだったか、を。
友達の一人に大怪我をさせてしまったのだ。彼女は僕の作った落とし穴に落ちて、運悪く半身不随になった。それから僕は地元にいづらくなったのだった。そして逃げるようにして、東京にやってきた…。
そうだったのだ。僕がこれほどまでに地元を忌避しているのには、そんな理由もあったのだった。もうすっかり忘れてしまっていた。まさかこんな場所で思い出すなんて、思ってもみなかった。
とりあえず腑に落ちないことは多いけど、病院にまた向かうことにした。しかしその途中で僕は信じられない人に出会うことになる。
20数年前、イタズラに精を出していた頃の僕だった。
僕はそこようやく理解した。いや、ちゃんと理解できたわけではなかっただ、それしか考えようがなかった。つまり、僕は何故か過去へとやってきてしまったのであり、そして僕が子供の頃にあったことがあるおじさんというのは、自分自身だったっていうことを。
このまま落とし穴を作り続けていれば、いつか友達を怪我させてしまう。止めさせないと。
「人を傷つけることになるからイタズラはもう止めろ」
僕は僕に向かってそう言うと、その場を立ち去った。どうせ、あの当時の自分に何を言って聞かせたところで、イタズラを止めるとは思えない。結局何も変えることが出来ないのだろう。
病院に行ったら父親は入院しているだろうか?あるいは、実家で20数年前の姿で生きているのだろうか?どっちとも判断がつかず、とりあえず病院に行くか、と決めた僕でした。



112.「Google」
出掛けに見た番組で、戸籍のない女性が子供を生む、というニュースを報道していた。
その女性は、母親が離婚後300日以内に出産してしまい、そのため戸籍が得られなかったらしい。以後戸籍のないままでの生活を続けていたわけだが、その女性が子供を生むのだという。
女性は生まれてくる子供の戸籍がどうなるのか問い合わせたところ、戸籍のない親からの出生届を受理することは出来ない、という回答だったようだ。女性は、自分と同じ運命を背負わせたくない、と語っているようで、今国としても対応を検討中なのだそうだ。
このニュースを見た時、世の中にはそんな女性もいるのか、と思った。まさか日本に生まれたのに戸籍のない人がいるなんて、と思った。離婚後300日問題というのは、お腹の子供の父親が正確に確定できないことから生まれた法律のようだけど、今ならDNA検査だってあるし、もはや意味のない法律なんじゃないかなぁ、とか思ったのだけど、でもだからと言って特に気になるニュースというわけではなかった。いつものようにただ何となく耳に入れている、たくさんある内の一つでしかなかった。
しかし、その日一日を終えた僕は、嫌でもこのニュースのことを思い返さないではいられなかった。
家を出て、まず会社に向かう。今日から一人での営業が始まるのだ。これまでは、先輩社員について行って、営業の流れを学ぶ時期だった。これからは、自分で新しい営業先を開拓していかなくてはいけない。自分に出来るだろうか、という不安はあるが、しかし同時にやってやろうじゃないの、という気概も感じていた。
会社で事務的な事項の確認と、必要な書類を集め終わると、僕は早速営業へと向かうことになった。
「すみません。○○の者なんですけど、店長の方はどちらでしょうか?」
やはりなかなか緊張する。初めは、契約を取る事はできないだろう。そこまで期待できるほど、自分に自信があるわけではない。でも、なるべく一刻も早く慣れなくては、と思う。
「初めまして。わたくし○○の営業の田中と申します」
そう言って、名刺を差し出す。先輩に付き添っていた時ももちろん名刺を渡したが、こうして一人で営業を始めることになって初めての名刺交換だ。なんだか自分がすごいことをしているようなそんな気もしてくる。
「あぁ、ちょっと待ってていただけますか」
そういうと店長は店の奥へと引っ込んでいった。
これは先輩と回っていた時も同じだった。どこに行っても、担当者は名刺を受け取ると、一旦店の奥に引っ込む。何をしているのか分からないけど、しばらくすると、お待たせしました、と言って戻ってきて、営業の話になるのだ。
「お待たせしました」
そう言って店長は戻ってきた。
「申し訳ありませんが、お引取り願えませんか?」
「えっ?」
僕は頓狂な声を上げてしまった。営業をしてそれで断られるなら分かるが、営業をし始める前から門前払いである。
「お話だけでも聞いていただけないでしょうか?」
「いえ、申し訳ないですけど、お引取りください」
店長の口調はにべもなかった。それでなくとも僕はまだ営業の駆け出しだ。ここで強く出るべきなのか引くべきなのかもうまく判断できない。しかし、生来の気の弱さが出て、そのまますごすごと引き下がってしまった。
「はぁ、初っ端からこれじゃあ、先が思いやられるなぁ」
しかしへこんでばかりもいられない。僕は気を取り直して、別の店に当たることにした。
しかし、である。
それから、まわる店まわる店、すべて同じように門前払いだったのだ。流れはすべて同じで、名刺交換をすると責任者は店の奥へと引っ込む。そしてしばらくして戻ってくると、お引取りいただけませんか、と言って完全に拒絶するのだ。
10数件まわったところで、僕はもう気力を失いかけていた。誰も話すら聞いてくれない。何がマズイんだろうか。見た目の清潔感にはかなり気をつけたはずだし、完璧ではないかもしれないが敬語だってそこまで悪くないはずだ。やはり、名刺を持って奥に引っ込む、あれが何か関係しているというんだろうか。
何とか自分を奮い立たせて次の店に入った。やはり同じく名刺交換の後門前払いであった。このままでは事態は動かない、と思った僕は、思い切って聞くことにした。
「これまでまわったお店でも、すべて同じ対応でした。僕に悪いところがあるなら直します。ですので、どうしてお話を聞いていただけないのか教えてはもらえないでしょうか?」
店長は少し悩んだ風に見えたが、やがて口を開いてくれた。
「Googleでね、君の名前を検索したんだ。ほら、名刺をもらうでしょう?でもね、君についての情報が何一つ出てこないんだ。何一つだよ。だからさ」
僕には意味が分からなかった。Googleの検索で情報が出てこないからと行って、だから何なんだろうか。
「それと営業と、何か関係があるんでしょうか?」
「他の店の人がどうかは知らないよ。でもね、僕は人を判断する時にGoogleを使うことにしてるんだ。大抵はね、何か情報が出てくるものだよ。個人のブログ、写真、何かの大会での受賞歴、そう言ったものだよ。もちろんいい情報も悪い情報も出てくる。でもそれを見て、一応どんな人間化分かる。自分の中で、あらかじめイメージを持って相手と対峙できるんだ。でもね、君の場合、なんにも出てこなかった。いいかい、なんにも、だよ。このネット社会に生きている人間で、名前を検索しても何も情報が出てこない人間がどれだけいると思う?正直言って、そういう人は私はあんまり信用出来ないんだよ」
確かに僕は、僕らの世代としてはかなり稀だけど、ほとんどインターネットと関わらずに生きてきた。普段自分でも使わないし、僕の情報が載っていなくても別におかしくはないかもしれない。
でも、今の世の中ではそれではダメなのだ、と僕は思った。この社会では、ネットに自分の情報が存在するかどうかで、まず人間性が判断されてしまうようになってしまったのだ。
なるほど、僕はネット上に戸籍がないのと同じなのだな、と僕は悲しい事実を理解した。



113.「偶然の朝」
始まりは唐突だった。その日は、前日と変わりなく始まったように思えた。特別な予兆も、嫌な予感も、一切ないまま、僕は突然その日の前にやってきたのだった。
会社に行こうと家を出て、駅まで向かう。駅までは10分程度の道のりだ。音楽を聞くでもなく、僕はいつもぼんやりと歩いている。
違和感を感じて視線を上げると、空中に人影があった。道の片側がマンションになっていて、その壁面に沿って女性が落ちているのだ。僕は一歩を踏み出すことが出来なかった。いや、もちろん僕が努力すれば間に合ったというようなことはなかっただろう。どのみちあの女性はそのまま地面に叩きつけられていたに違いない。しかしそれでも、咄嗟の事態に何もすることが出来なかった自分を僕は嫌悪した。
時間にして一呼吸。彼女が地面に落ちてしまってから、ようやく僕の足は動いた。まだ生きているかもしれない。走りながら携帯電話で救急車を呼ぶ。
落ちた女性の下に駆け寄る。僕は、絶望することはないかもしれない、と思った。助かるか助からないか、かなり際どいのではないか、と思った。とにかく救急車が来るまで、女性に声を掛け続けた。あとは何をしていいのかわからなかった。
救急車が来ると、なりゆきで一緒に乗ることになった。救急隊員の人も、なんとか助かるかもしれません、というようなことを言ってくれた。気休めだったのかもしれないけど、若干罪悪感を持っていた僕としては、気休め程度でも安心できた。
病院に着いた時点で、さすがにこれ以上関わるのも変だと思い、立ち去ることにした。会社に連絡を入れ、今日はそのまま現場に向かうことを告げる。滅多にないかもしれないが、まあこんな日もあるかもしれない。そんな風に考えていた。
翌朝。いつもの時間にまた家を出て駅に向かう。昨日のマンション近くに差し掛かると、昨日の朝のドタバタが思い出されて、そういえばあの女性は結局どうなったのだろうか、と思考が掠めた。
空中に人影があった。
まさか、と僕は思った。昨日の彼女が、また命を断とうと飛び降り自殺をしているのだろうか。僕はまたしても動くことが出来なかった。一呼吸置いて走り出し、落下地点へと向かった。
小学生の男の子がそこに横たわっていた。まだ息はある。昨日と同じく声掛けを続けながら救急車を待つ。しかしこれは偶然なのだろうか。
それからこれは毎朝続くことになった。僕がそのマンションを通りかかる瞬間を見計らっているかのように、そのマンションから人が飛び降りるのだった。飛び降りるのは、常に違う人だった。ありとあらゆる人々が飛び降り自殺を図っていた。まるで僕に何かを訴え掛けようとでもするかのように。最近では僕は、救急車を呼ぶだけ呼んで、自分はそのまま会社に行くことにした。毎朝飛び降り自殺をする人の介抱をするから遅刻しているなんて言い訳は利かないし、毎朝そんなことに関わっている余裕もないからだ。
これは偶然なのだろうか。



114.「天神城」
『天神記』によれば、現在東京タワーがある辺りに、天神城と呼ばれる城があった、とされる。この天神城についてはあまりにも資料が乏しいため、実在を疑っている歴史学者も多い。資料が乏しいというのは、数が少ないというのではなく、内容の信憑性に乏しいのである。天神城はこれまで多くの書物に書かれてきたが、しかしそのあまりの突飛な記述に、これは何らかの意図をもって書かれた偽りなのではないか、と言われることが多い。実際、天神城について書かれた書物は偽物だ、とさえ言われていた時期があるほどである。
この天神城、いつからあったのか定かではないが、少なくとも書物に描かれる限り、かつて一度も落城したことのない城のようである。名のある武将がことごとく敗走し、また名のある武将の多くが、天神城だけには手を出すな、と言ったとされている。実際、天神城は攻め入る価値のあるような城でなかったということもあるだろう。天神城という城はただそこにあるだけの城であり、それ以上の価値はまるでなかった。要塞であったわけでも、天下統一の支障になるわけでも、なんでもない。攻め入る者は二度と戻ってこなかったとされているので、天神城に人がいたのかさえ分かっていないほどだ。一時、天神城を落とせば名が上がるとして、この落とす価値のない城に多くの武将が集ったことがあったが、そのあまりの難攻不落ぶりに、次第に禁忌のような扱いをされるようになったと言う。
現在でも歴史学者は、この天神城が一体どんな存在であったのか、あるいはそもそも本当に存在したのか、ある程度まとまった意見さえ提示できないでいる。しかしそれは無理もないのだ。この天神城は、他の多くの城とは一線を画す存在であったのだから。
ここからは、歴史書にも書かれていない、私しか知らない事実も織り込みながら話を進めることとしよう。
天神城が姿を現したのは1542年のことであった。周りに住んでいた人々は、まるで突然城が現れたかのようだった、と証言をしている。城が出来た場所は、それまでは田畑でも何でもない、ただの草むらであったという。
突然現れた天神城の威容に人々は恐れながらも、基本的にはその城を無視するようにして生活を続けた。百姓にとっては城があろうがなかろうがどうでもいいことであるし、武将達にとっても取るに足らない城などに構っているような余裕はまったくなかったのである。
そんな状況を一変させたある事件が起こる。物語の主役は宇部上仲達という男であり、その土地を治める豪農の一人であった。
仲達は近在の住民に、あの城(その当時まだ名前はなかったものと思われる。何故天神城という名になったのかも不明だ)に入ってみよう、と声を掛けたのだ。真実は分からないが、要するに暇だったのだろう。同じく暇つぶしにいいか、と思って多くの人々がその話に乗ったという。出来てからしばらくしても、その中に人がいる気配がまったくしなかったことも、彼らを後押しさせたのであろう。
『天神記』には、この時城を訪れた人間が何人で、城の内部でどんなことがあったのか、ということについて触れられていない。それは当然だ。何しろ、仲達以下、城を訪れたすべての人間が帰ってこなかったのだから。
その噂は諸国に流れた。この間に、どこかで天神城という呼称に決まったものと思われる。人を飲み込む城がある、と伝えられたその噂は、全国各地の武将達を奮い立たせ、この地に赴かせることとなった。
しかし、そのすべての来襲を、天神城はものともしなかった。これについてももちろん詳しい記述が残っているわけでは決してないが、一万の兵が大挙してやってきた時も、そのすべてを飲み込んでしまったのだ、という。さらに天神城の名は諸国に知られるようになり、同時に手を出してはいけない禁忌であるという認識も広まっていったのである。
その天神城は、いつしかその姿を消していた。正確に言えば、1766年のことであった。この時も近くに住むものは、いつの間にか消えていた、と証言をしている。結局人々にとってこの天神城というのは謎の存在のままであったのだ。
一体天神城とは何だったのか。その答えは、恐らく私以外には知る由もなかろう。
天神城は、生物であったのだ。城の姿を借りた生き物である。つまり天神城は、まさにその言葉通りに、人々を飲み込んで食料にしていたのである。そうだとすれば、何故消えたのかの説明も簡単だ。つまり、寿命である。
天神城は、地球での言葉で言えば宇宙人のような存在であった。とある目的のために宇宙から遣わされたのであり、当時最も馴染みやすい形として、城が選ばれたに過ぎない。もしさらに古代に地球に遣わされるとしたら、古墳などが選ばれただろうか。
天神城は、ある目的を果たすべくそこに居座り続け、そして結局目的を達することが出来ずにその天寿を全うした。
では、その目的とは何であったのか。
それは、口にすることが出来ないのである。何故なら、私がその任務を現在負っており、まさに遂行中であるからだ。
私は現在東京タワーに姿を借りている。さしずめ、天神城の二代目と言ったところだろうか。天神城の情報については、歴史の授業で習った。我が星の者なら誰でも知っている話である。
私は、天神城のように野蛮ではない。東京タワーにも日々山ほどの人が押し寄せるが、しかしそれをとって喰おうなどと思うことはない。私の願いは、私に課せられた目的を達成することだけであり、むしろそのためには東京タワーにやってくる人々の存在は都合がいいとも言える。
しかし、私の命もあと僅か。新東京タワーの建設が決まり、私の存在が不必要となるのである。結局私も目的を果たすことは出来なかった。後継である新東京タワーに、今後のことは譲るとしよう。



115.「量子論的僕の部屋」
僕はマンションに住んでいる。それは、どの街にでもある、どんな場所にでもある、普通のマンションを思い浮かべていただければいい。階数や部屋番号を特定する必要はないのだが、6階の618号室である。
外廊下の端から端までドアがずらりと並び、当然のことながらその内の一つが僕の部屋のドアとなる。
さて、今僕は自分の部屋のドアの前に立っているわけだ。
もしドアノブを握り、それを手前に引くなら、普段僕が見慣れた部屋がそこに展開されることだろう。入ったところに小さな沓脱ぎがあり、フローリングの廊下が続く。右手にトイレと風呂と洗面台があり、左手に小さなキッチンがある。そして奥に一部屋あるだけのワンルームマンションである。
片付けの出来ていない汚い部屋だ。床にはゴミが散乱し、テレビのリモコンやら敷きっぱなしの布団やらがある。冷蔵庫やパソコンやオーディオやテレビや扇風機やギターや本なんかが部屋中にあって、見た目よりかなり狭く見える。窓に掛かっているカーテンだけが何故か高級そうで、部屋全体から浮いてしまっている。
ドアを開ければ、そんな部屋を目にすることになるのは明白だ。これまでこのドアを何度開いてきたというのだろうか。その度に、僕はまったく同じ部屋を見てきたのだ。そこに、違う部屋が展開しているなどということはもちろんありえない。
しかし、じゃあ、今こうしてドアが閉まっている時、部屋の内部はどうなっているのだろうか。本当に、僕がドアを開けた時に見る部屋の光景と同じ姿であり続けているのだろうか。それとも、僕が見ている部屋の光景は僕が見ている時だけに存在するのであって、僕が見ていない時はまったく別の姿になっていたりするのではないだろうか。
物理の世界には、量子論というかなり変わった分野がある。詳しいことはもちろん僕も知らないけど、その量子論の世界では奇妙な現象が次々に起こるのだという。
その中に、状態の収縮と呼ばれるものがある。
量子論では、例えば電子などの粒子は、位置を正確に確定することが出来ない、としている。それは、確率的にどこにあると主張できるだけである、と。
しかし、もしその粒子を観測した場合、僕らはその粒子が空間上のある一点を占めていることを知る。観測する前は確率的にしか知ることの出来なかった粒子の位置が、観測することによって一点に決まるのである。
これが状態の収縮と言われる。
僕の部屋も、こうではないという根拠はどこにもないのではないか。僕がドアを開ければ、部屋の姿は僕が普段見ている状態に収縮する。しかし、僕が見ていない時は、様々な姿に移り変わっているのではないか。少なくとも、そうではないと否定することは出来ない。何故なら、僕が『見る』ことで状態の収縮が起こるのだから、僕にはいつも見ている姿しか見ることが出来ないはずだ。
でも例えばこう考えたらどうなるだろう。僕の部屋に泥棒が侵入したとする。泥棒が入ったという痕跡を一切残すことなく(つまり何も盗むことも残すこともなく)立ち去ったとしよう。これは要するに、僕が泥棒に入られたと確信出来る根拠はない、即ち泥棒が僕の部屋を『見た』と確信できないということである。
その時、その泥棒は一体どんな部屋の姿を見るのだろうか。状態の収縮は、個人によって差があるのだろうか。もし僕が永遠に気づかない形で誰か別の人が僕の部屋を『見た』時、それが僕が普段見ているのと同じ姿であると確信出来る理由は一つもない。泥棒は僕が普段見ている部屋とはほんの僅か違った部屋、あるいはまったく違ってしまった部屋を見ているかもしれない。
あるいは、こういう風に考えることは出来ないだろうか。
僕の部屋には、僕が見ていない時だけ存在している住人がいるかもしれない、という発想だ。つまり僕らは、こうしてドアを挟んで向き合っているなんていう可能性だってあるかもしれない。
僕が観測するまで部屋の姿が確定ではないのなら、その僕が普段見ている部屋ではない部屋に住む住人を仮定しても一向におかしくはないかもしれない。その住人は、僕の分身と考えることは可能なのだろうか?あるいは僕とはまったく無関係な存在なのだろうか。ただ一つ言えることは、その存在とは永遠に友達になることは出来ないということだ。僕が観測することで状態の収縮が起こり、その結果その存在は消えてしまうのだから。
しかし、ならばこうも考えることが出来る。部屋の向こうに、僕が永遠に接触することの出来ない住人の存在(Aと名付けることにしよう)を仮定するのなら、その住人からしてみれば状態の収縮によって消えるのは僕の方だ。
つまり、Aの視点から見てみよう。Aは僕が部屋を観測していない時だけ僕の部屋に住んでいる。僕が部屋のドアを開けると、Aの視点からではどうなるだろうか。結局、Aの視点からすれば、Aのいる世界は消えることなくそのまま続いて行くのだろう。そうでなければ整合性が取れない。即ち、Aの視点から考えた時に消えるのは僕の方なのだ。
だとすれば、僕の存在というのは一体どうなるのだろうか。僕は、僕の観測できる世界ではきちんと存在している。それだけは間違いない。しかし一方で僕の存在していない世界が無限にあって、当然のことながらその世界に僕は関わることは出来ない。これは一体何を意味するのだろうか。
いずれにしても、僕は部屋に入るためにドアを開けないわけにはいかない。そして開ければそこに見慣れた部屋の姿を確かに見ることになるだろう。重要な問題は、そこに何か不都合があるだろうか、ということで、観測されない世界についてあれこれ考える必要は、日常生活の中ではないのかもしれない。



116.「あげるわ」
久しぶりに見つけた。
「君には、私の助けが必要みたいだね」
相手は、私に気づくと、そして私の姿を目にすると、声にならない悲鳴を上げて逃げていった。
(君のこと助けてあげられたのにね)
私は、逃げられることには慣れている。もう傷つくようなことはない。それでも、助けてあげられる誰かを救うことが出来ないことに対して、鋭い痛みを感じる。
(逃げなくてもよかったのにね)
その思いは同時に、かつての自分への姿を呼び覚ますことになる。

私は生まれつき耳の機能に障害を持っていた。赤ん坊の頃は周囲の大人も気づかなかったそうだ。耳の機能というのは確かに、外から見てあまり分かるものでもない。私がちゃんと障害を持っていると分かったのは、4歳ぐらいのことだったそうだ。
生まれつき耳が聞こえづらいという障害だった。まったく聞こえないというのでもないのだが、水の中での話し声を聞くみたいにくぐもって聞こえた。耳が聞こえないことが不自由だったのかどうか、私にはよくわからなかった。生まれついてからずっとそうだったから、何かと比較することが出来なかったのだ。
幸い両親は、障害を持った子どもでも十分に愛情を注いでくれた。内心はどうだったのかわからない。それでも、ちゃんとした子どもとして育ててくれた両親には感謝をしている。
だから、今の姿は両親には見せることが出来ない。私にとってこの姿は神聖なものだけど、それを両親に理解してもらうのか難しいだろう。
私が心の中で師と呼ぶようになったあの人と出会ったのは、私が18歳になるかならないかという頃だったと思う。
その時の状況を、私はどうしても正確に思い出すことが出来ない。夢だったのではないか、というのは確信を持って否定できるが、しかしそのあまりの頼りなさは夢だと言われても信じてしまいそうになるほどだった。
周りを木に取り囲まれた場所だった、と思う。何故自分がそんな場所にいたのか、そこにどうやって辿り着いたのか、そこで何をしていたのか。私には一向に分からない。風に揺られる木の葉と不愉快に響く葉ずりの音が、辺りを一層不気味に演出していた。
そこで私は、あの人と対面しているのだった。
「俺の姿を見ても逃げないんだね」
あの人は一番初めにそう言った。いや、正確に言うなら、私が覚えているあの人の第一声がそれだったのだ。その言葉は、何故か私の耳に鮮明に届いた。耳の機能が回復したのかとも思ったけどそうでもないようだった。あの人の声だけが、私の耳に馴染むのだ。
あの人は、確かに恐ろしい姿をしていた。右足と左手がなく、また体中に手術跡のような傷があった。そして何よりも不気味だったのが顔だった。目と鼻がなく、歯もほとんど存在していなかった。頭髪もなく、その頭蓋には痛ましいほどの傷がついていたのだった。
それでも、怖いとは思わなかった。あの人の声がそうさせたのかもしれない。不思議と、私の心は平静だった。
「怖くはないわ。私も不思議だけれど」
あの人は笑ったようだった。口の動きだけではそうと断言することは難しいけど、確かに笑ったように私には見えた。
「君のことを助けてあげるよ」
あの人はそう言うと、自分の両耳を引きちぎった。両手に耳を持ったまま、私の方に近づいてくる。
「君は耳が聞こえないんだろう。僕の耳をあげるよ」
そう言うとあの人は、私の耳を引きちぎり、代わりに自分の耳をつけた。その瞬間、まるで何かのスイッチを入れたかのように、私は音を感じた。まるで嘘みたいだった。世界が音に満ちていることも初めて知った。こんなにも騒がしいだなんて思ってもみなかった。私は完全に耳の機能を取り戻したのだった。
「ありがとう」
私はあの人にそう言った。しかし、どうしてかあの人の声だけもう聞くことが出来なくなっていた。あの人は、何やら口を動かして私に何かを伝えようとしていたけれども、その声は私の耳にはどうしても届かないのだった。
そして次に気づいた時には、私は自分の部屋のベッドに横になっていた。すべては夢なのだろうか、と思った。しかし、私の耳の機能は完璧にだった。あの人から耳をもらったからに違いない。私は両親にこのことを告げた。両親は大いに喜んでくれたのだった。
それから私はずっと、普通の女性として生きてきた。
34歳になった私は、癌を宣告された。突然のことだった。手術でも回復の見込みは薄いと言われ、私はある一つのことを決心した。
夜私は病院を抜け出し、そのまま二度と戻らなかった。
何をすればいいかは分かっていた。自分にその能力があるのかどうか自信はなかったけど、それでも、正しいことをしていれば大丈夫だ、と言い聞かせた。
目の見えない少女を見つけた。私は彼女に近寄って行き、
「君を助けてあげる」
と言った。自分の目を彼女にあげた。彼女は目が見えるようになったようだった。
それから私は、命の続く限り自分の体の一部を人に与え続けている。私の姿はどんどん醜くなっていき、それにつれて私を見て逃げる人も多くなっていった。しかし私はめげることはなかった。私の心の師であるあの人のようになりたい、と願っているのだ。
私は、まだ両耳を残している。この両耳を手放すのは最後にしたい、と思っている。



117.「クロウ、さようなら」
クロウはだだっ広い平原に立っている。彼は、時間さえあればいつでもここに来る。そして、周りに人を寄せ付けない、神聖とも言える雰囲気を漂わせながら、長いことそこに立ち続けているのだ。時々何かを期待するように空を見上げる以外、身じろぎもしない。
そして私は、そんなクロウを遠目に見ている。私も、なるべくここに来て、クロウのことを見るようにしている。私は、クロウが何をしたいのか知っている。何故立ち続けているのか知っている。そして、私はクロウを裏切っている。その事実のために、私はクロウにあまり近づくことが出来ないでいる。
私たちは、二つの種に分けることが出来る。それは、空を飛ぶ種と飛べない種である。この世界には、その二種類の人間がいる。
これはすべて、先天的なものに依存する、と言われている。生まれつき、飛べる者は飛べるし、飛べない者は飛べない。もちろん、例外がないとは言わない。生まれつき飛べなかったものが、何かのきっかけで飛べるようになった、という報告は確かに存在する。しかし一方で科学者は、それは先天的な能力が眠っていただけである、と指摘する。すなわちこの飛ぶ能力は、決して後天的に身につけることは出来ない、ということだ。まだその議論に決着がついているわけではないが、私も概ねその意見が正しいのだろう、と思っている。
クロウと私が住んでいる国は、風の国、とも呼ばれている。これには二つの意味があるとされている。
一つは、その名の通り、吹き付ける風が強いことに由来している。一年中、どこかしらから強く数が吹くこの国は、まさに風の国という名が相応しい国である。
そしてもう一つは、飛ぶ人間の出生率が世界中で最も高い、ということに由来する。理由は定かではないが、この国に生まれた人間が飛ぶ能力を持っている割合はかなり高い。一般に、飛ぶ者と飛べない物の割合は五分五分であるといわれている。しかし私たちの国では、その比は8:2ほどにもなる。この異常とも思える飛ぶ能力を持つ者の出生率のために、風の国と称されている。
そんな国であるから、飛ぶ能力を持つ者の力が強い。飛ぶ能力を持たないものが肩身の狭い思いをすることも度々である。国民の8割が飛ぶ能力を持つものであるから、この状況を社会問題だと認識する人間も少ない。飛ぶ能力を持たない者は、この国では生きづらいのだ。
そして、クロウは不幸にも、飛ぶ能力を持たずに生まれてきてしまった一人だった。
クロウは、そんな自分を認めることが出来ないでいる。幼馴染みである私にはそのことは手にとるように分かる。どうして飛ぶ能力を持って生まれなかったのか、両親と喧嘩したという話も聞いたことがある。この国で、飛ぶ能力を持たない者は確かに少数派であるが、その中でもクロウは、切実に飛ぶ能力を求めている男なのである。
だから彼は、こうして平原で佇んでいる。数少ない、後天的に飛ぶ能力を獲得した物の多くが、広い空間で飛びたいと願った時に飛ぶことが出来た、と証言しているのだ。私は正直、そんな証言を信じるのは止めた方がいいと思っている。でも、そんなことクロウには言えない。愛するクロウを絶望させるようなことは、私にはどうしても言えない。それなら、たとえそれが望みのないものであっても、希望を持って生きていく方が幸せなのではないかと思う。
クロウは、当然今日も飛ぶことは出来なかった。そのとぼとぼとした後ろ姿を見るのは辛い。クロウも、私には見られたくないだろうから、声を掛けたりはしない。
かつてクロウに聞かれたことがある。
「お前は飛べない自分のことを悔しいと思ったことはないのか?」
私は、そう口にしたクロウの目を見ることが出来ない。私は真剣に見つめているだろうクロウの視線を巧みに避けながら答える。
「ないわ。クロウだって、飛べなくたってどうってことないのよ。飛べるだけが能力じゃないんだから」
私はそうクロウに言葉を返す。
嘘だった。私はこうやってクロウに嘘をつき続けている。たぶんこれからもずっと。その罪悪感が私を苦しめる。
私は、空を飛ぶことが出来る。8割の方の人間なのだ。ただ、子どもの頃からクロウが空を飛べないことで悩んでいることを知っていた。そして、私は彼のことが好きだった。だから嘘をついた。子どもの時は、些細な嘘だと思った。私も飛べないの。一緒だね。ただクロウに近づきたかっただけだ。仲間だと思ってもらえたら、それでよかったのだ。そのせいで、まさか未来の自分がこんなに苦労するなんて思いもしなかった。
クロウはとぼとぼと歩きながら家を目指す。自転車や車に乗ることも出来るが、それらは飛べない者であるという烙印そのものだった。飛べるものは、移動するのも空を飛ぶからだ。彼は人から飛べない者と思われるのが悔しくて、自転車や車を使うことはないのだった。
クロウが切り立った崖沿いの道を歩いている時だった。突然、地をつんざくような轟音と共に、地面が激しく揺れ出したのだ。
(地震!)
私は咄嗟にクロウの方に目をやった。すると、山側から巨大な岩が転がり落ちてくるのが目に入った。そのまま行けば、クロウが押しつぶされてしまうのは間違いなかった。私が空を飛んでいけば、まだクロウを救うことが出来る。でも、そんなことをすれば、私は永遠にクロウを失うことになるだろう。本当は空を飛べるのに、飛べないと嘘をついて自分のことをあざ笑っていたんだろうと思われるに違いない。でも、このままじゃあクロウは間違いなく死んでしまう。
私は決心した。空を飛び、クロウの元へと向かう。クロウの背中側から回ってクロウを抱き締め、そしてそのまま空へ飛び去って行く。
「お願い!振り向かないで!」
クロウは声で私だと分かったことだろう。そして、私がずっと嘘をつき続けてきたことも悟っただろう。これですべては終わってしまった。私は、クロウを抱き締めたまま、涙を流し続けた。
クロウ、さようなら。



118.「ロストビーフ」
科学技術の進歩は著しく、それは食品の世界においても同じことである。
アメリカのニューハンプシャー州で、「ロストビーフ」というファストフード店がオープンした。この店は開店するや大繁盛し、またたくまにアメリカ全土にチェーン展開することになった。
その秘密は、値段の異常な安さにあった。
ロストビーフのハンバーガーは、なんと一つ10セント、日本円にしておよそ10円程度という破格の値段だったのだ。この値段設定に子ども達が飛びついた。有名なハンバーガーチェーンのどこよりも安い。それにそこそこ美味しい。ファストフードをこよなく愛するアメリカの子ども達は、すぐさまロストビーフへと乗り換えた。
しかし、もちろん大人は不信感を抱く。どんな風にすれば、ハンバーガーをたったの10セントで販売することが出来るのだろうか。恐らく何かが間違っている。しかし彼らも、ロストビーフのハンバーガーは美味しいと感じていた。何が使われているのか分からない不安は確かにある。しかし安くて美味しいものを食べられるなら問題ないと、彼らも目をつぶってしまったのだった。
この驚異のハンバーガーを実現したのは、ドイツの科学者が開発したある食品にある。
それは、科学者の間では「食用粘土」と呼ばれるものであった。
ドイツの科学者グループは、粘土から食肉に近い食感と味をを生み出すことに成功したのだ。これに香料を加えることで、食肉とほぼ変わらない製品を作り出すことが出来るようになった。もちろん、ロストビーフ社はこの事実を巧みに隠している。ダミーの食肉工場を持っているし、偽りの報告書をいくつも書いてこれをごまかしている。消費者は、食肉と食用粘土の違いなど分かるわけがない。むしろ、細菌に汚染される心配が皆無なのでより安全であるとさえ言えるかもしれない。また、脂肪分も含まれていないので、肥満問題を解消することも出来るかもしれない。しかしもちろんロストビーフ社は、自分達が粘土を食わされていると知って喜ぶ消費者がいないということは分かっている。徹底的に隠すつもりだ。
ロストビーフ社は、第二のアイデアも持っている。それは、食用プラスティックからフライドポテトを作る計画で、既に実現に向けて動き出しているという。



119.「伊之助の不幸」
伝記によれば、江戸時代の解剖学者土井垣伊之助は、生涯で2000体を超える死体の解剖をした、とされている。しかしその生涯はちゃんとは分かっていない。彼は、その解剖の記録をまったく残さなかったようなのだ。学術的な探求から解剖を行っていたのだとすれば到底考えられない話である。
この話はその、伝記に載ることのなかった、一生を解剖に捧げたと言っても過言ではない男の、数奇な生涯の話である。

(あと一つだけなのに)
土井垣伊之助は、死体の腹を掻っ捌きながら、いつものようにそう思っていた。彼は焦っていた。どうしても見つけなくてはいけないのに、それがどうしても見つからないのだ。
彼は、腸を肝臓を子宮を膀胱を切り裂き、また肋骨を折っては肺や心臓まで切り開いて行った。後で臓器を標本にしたり、何か理屈を持って解剖に当たっているのではないことは明白だった。事実彼は生涯に一つも標本を作製しなかったし、散々切り刻んだ死体の始末は助手にやらせ興味がなかったのだ。人々は、彼が学術的な探求から死体の解剖をしているのだ、と思っていた。杉田玄白による「解体新書」が世に出始めていた頃でもあったし、死体を解剖するということについて世間の理解が若干得られているような時期だった。しかし、彼のごく近くにいた人々は彼を畏れていた。彼の近くにいたのは、医学者や解剖学者の卵であったが、彼らは一様に、伊之助の解剖についていぶかしんでいた。目的がまったく分からない中、彼らは伊之助は悪魔にとりつかれてしまったのではないか、と噂をしていた。
(早くしないと間に合わない)
伊之助は、ナイフを握る手に力を込めながら、人体の内部を引っ掻き回していた。まだメスなどない時代のことである。切れ味のいいナイフを使い、血まみれになりながら、真冬でも真夏でも解剖を続けた。真夏の解剖は地獄のようだった、と助手は証言している。あの臭いは、地獄でも嗅がせることはないだろう、と。そんな環境の中、伊之助は平然と解剖を続けるのであった。
伊之助は、死体さえ手に入ればいつどんな時でも解剖を続けたものだったが、しかし日に日に体は弱っていった。当時治療法が確立されていなかった重篤な病に冒されていたのだった。普通であれば、激しい運動や長時間の労働などは絶対にダメであった。しかし伊之助は、解剖をすることが自分の死期を早める可能性があると知った上で、それでもなお解剖を続けるのだった。
(これは生きている人間を襲うしかないのだろうか)
探せども探せども、あの一つがどうしても見つからない。6つまでは見つけたそのs戦利品は、床下に厳重に保管してある。あと一つ見つけさえすれば、自分の命は助かるはずだ。死んだ人間だけを相手に悠長に探しているわけにもいかない。もう自分の死はすぐそこまで迫っているのだ。これまで、生きている人間に手を出すのはダメだ、と思っていた。しかし、その考えを改める時期に来ているのかもしれない。
そんな野蛮な考えを抱いていた矢先の話だった。いつものように腸を漁り心臓を切り裂いていた伊之助は、肺を切り開いた時にようやくそれを見つけた。
(星が4つ。まさに四星球だ!これで7個すべて揃った!)
一部の人には説明が必要であろう。この「四星球」というのは、かの有名な漫画「ドラゴンボール」に出てくるもので、7つすべて揃えると願いが叶う、と言われているものである。7つ揃えると、神龍(シェンロン)という神様が出てきて、一つだけ願いを叶えてくれる。一星球から七星球まであり、それぞれにそれぞれの数字の分だけ星型のマークが入っている。
伊之助が探していたのはこれだった。彼はとあるきっかけで人体の解剖をした際、人間の体内から六星球を見つけたのだった。古い伝記や逸話などが好きだった彼は、後に「ドラゴンボール」という名前で有名になるこの球は、七つ集めると願いが叶うことを知っていた。そこで、解剖の度に気まぐれに探すことにしたのだ。当初は病を患っていなかったため急いで探してはいなかったのだが、病気が発覚してからは他のすべてのことを差し置いてこのドラゴンボール探しに熱中したのだった。
ようやく集め終わった伊之助は、早速神龍を呼ぶことにした。
「出でよ、神龍!」
すると巨大な龍が空を多い尽くした。神龍は言う。
「願いを一つ叶えてやろう」
伊之助は待ちに待ったこの瞬間、自分の病気を治して欲しい、と言おうと思い息を吸ったその瞬間だった。
「おなごのパンティが欲しい!」
町人の誰かがそう叫んだと伝えられている。どこにでもそういう輩はいるものである。
結局伊之助の願いは叶わず、そのショックもあったのだろう、伊之助はその直後火が消えるようにして死んだのだった。



120.「誰もいない」
日本に戻るのは実に七年ぶりだ。仕事が忙しかった、というわけでもないのだが、特に用事もないのにわざわざ帰国するのも億劫だったということもある。飛行機というのが苦手なのだ。滅多なことでは乗りたくないものだ。結局転勤でアメリカに移ることになってから丸々七年日本を留守にしてしまった。
両親や友人などとはそれなりに連絡を取ってはいたものの、やはりしばらくは変化についていくことは出来ないだろうな、と思う。僕の中では、日本は未だに七年前の姿で止まっている。どれだけの変化があったのか、楽しみというものだ。
苦手な飛行機を降り、空港内に足を踏み入れた時、最初の違和感に襲われた。
(人がいない?)
もちろん飛行機から降りてきた乗客はいるが、空港の職員らしき人がまったく見当たらないのだ。税関もすべて機械化されているようだし、カウンター内にも人の姿はない。他の乗客の中にもこの状況を戸惑っている人がチラホラ見られる。これは一体どうなっているのだろうか。
とりあえず訝りながらも、空港から出る。とりあえずさっさとタクシーでも拾ってホテルに向かおう、と思ったのだが、空港前の敷地にタクシーが一台も停まっていないのだ。その代わり、かなりの数の自動車が停まっている。また周りを見渡しても人の姿はやっぱりない。
(どうなってるんだ、ホント)
かつてタクシー乗り場だったと思しきスペースに、『貸し自動車』という看板があった。
(『貸し自動車』ってなんだ?)
説明を読んでみると字の如くで、要するに敷地内に停まっている自動車を自分で運転し、全国各地にある所定の場所にまた戻す、という仕組みらしい。
(こんなことをするよりタクシーの方が効率がいいんじゃないかな)
そうは思ったものの、移動手段がないのではどうしようもない。僕は貸し自動車に乗ることにした。奇妙なことに敷地内にある自動車の窓はすべて、外から中が覗けないようにシートが貼られているようだった。何の意味があるというのだろう。
自動車を走らせていても、歩道に人の姿はない。これはさすがに異常ではないか、と僕は思い始めていた。東京に、これだけ人がいないなんてことがありえるだろうか?
また不可思議なのは、街中にある店舗が軒並みシャッターを閉めていることだ。コンビニさえも閉まっているのだ。飲み物や煙草は自動販売機で買えるにしても、他のものはどうやって手に入れたらいいのだろうか。
ここに至って僕は恐ろしい想像をしてしまう。まさか、日本という国は滅んでしまったとでもいうのだろうか。
目的地であるホテルに辿り着いた。さすがにホテルは営業しているようだ。しかし相変わらずカウンターには従業員の姿はない。タッチパネル式の機械があり、それで部屋の予約をするようである。
部屋に入り落ち着いたところで、両親や友人の電話をしようと思った。日本の携帯電話は持っていないので、部屋の電話から掛けることにする。
しかし、掛ける番号すべて、『現在使われておりません』という案内が流れるのであった。そんなバカな。ついこの間まで普通に連絡をしていた相手なのに、どうして電話が繋がらないというのだろうか。僕はこの異常事態にどんどんと不安を増していった。
テレビをつけることにした。この時間なら夜のニュースをやっているだろう。
確かにニュースはやっていた。しかしそれは、酷く奇妙な番組だった。
アナウンサーがまったく出てこないのである。映像と声のみで、アナウンサーの姿が画面に映ることがまったくない。しかもその声も、機械で加工されたような変なもので、何かの冗談のような構成であった。しかしどの局でもそんな番組しか流していなかった。
そのニュースで、ようやく僕は状況を理解することが出来た。もちろんそれは、何が起こっているのかが分かったというだけのことであり、その理屈に納得できたわけではなかったのだけど。
機械で加工された声でニュースが読み上げられる。
『昨日から施行された個人保護法により、様々な影響が出ています。街中の店は閉じられ、電車やバスなどの交通機関はストップ、また国民すべての電話が不通になりました』
この状況は、昨日から施行された個人保護法という法律のせいらしい。
ニュースによればこの個人保護法は、かつて制定された個人情報保護法をさらに強化した内容になっているという。個人情報保護法では、個人に付帯する情報について保護されることになっていたが、今度の法律では個人そのものの情報が保護されるということのようだ。即ち、個人の顔や存在と言ったものまで保護の対象にしよう、というものだ。そのため、人前に姿を現すことが基本的に出来なくなってしまった、ということらしい。
僕は、もしやと思って、引き出しの中にある聖書を取り出してみた。予想通りだった。すべての個人名が黒塗りにされている。
(そりゃやりすぎじゃないか…)
とんでもない国に戻ってきてしまったものだ、と僕は思った。



121.「全国麺協会大会」
全国麺協会による全国大会、というものが開かれている。大会とは言うものの何か競技があるわけではなく、会議のようなものである。年に一度、全国の様々な麺が一同に介し、今後の麺の行く末について話し合ったり、あるいは解釈の違いなどを裁いたりする場である。
今年も全国各地から、1800種を越える麺たちが一同に介した。場所は、廃工場である。工場萌えの方々が、時々この会議を目撃してしまう。廃工場の一面に様々な麺が処狭しとひしめき合っている光景は、なかなか悪夢であるそうだ。
「第56回、全国麺協会大会を開始します」
麺界のドンであるさぬきうどんの開会宣言により、大会は始まる。
まずは、毎年恒例の議題からである。これを問い掛けるのは毎年へぎそばであるということも決まっている。
「そもそも麺とはなんぞや?」
そう、全国麺協会であっても、麺とは何かという明確な定義を未だ持っていないのである。全国麺協会はその発足当初から、希望者はすべて加盟する方針を取っていた。なので現在では、しらたきや糸コンニャクはもちろん、さしみのつま状の大根やベビスタラーメン、果ては素材が同じであるという理由で餃子なんかもこの麺協会に加盟していたりする。もはやグチャグチャである。当初からこの麺協会に加盟していた古参幹部は、麺とは何かを定義し、その定義にあった者のみを加盟者とすべく毎年働きかけていたのだが、政治的な理由からなかなかうまくいかない。当然今年もうまくいかないのであった。
次はサンマーメンからの指摘であった。
「吉田うどんが四万十川水系の水を使用して麺を打っている。これは違反ではないのか」
麺には土地に根ざしたものがかなりあり、さぬきうどんや長崎ちゃんぽんなどがその例である。吉田うどんもそうである。これら土地系の麺は、基本的にその土地の水を使って打つのがよい、という暗黙の了解がある。明文化されているわけでもないので違反とも言えないだろうが、しかし見過ごすことも出来ないというなかなか微妙な問題ではある。結局解決することなく次の話に。
今度はきしめんからの意見であった。
「抹茶小倉スパゲッティが可哀相で見ていられない。どうにかならないものか」
名古屋には、「抹茶小倉スパゲッティ」という珍妙な食べ物がある。うまいかまずいかは個人の判断であろうが、しかし麺からすれば、抹茶を練り込まれるのはよしとしても、小倉あんをかけられるのは屈辱に等しいものがある。これは麺同盟すべての者が同感ではあったが、しかしだからと言って何か出来るわけでもない。きしめんの心優しい提言は、しかし活かされることはないのであった。
その後もいくつかの話題が出ては議論になるが、しかしどれもこれも結論は出ない。それもそうで、人間で考えてみれば1800人を一同に集めて会議をしているようなものなので、会議になるわけがない。ことここに至って、麺の定義を明確にしてこなかったことが悔やまれるのであるが、しかしやはりそれはどうにもならない問題なのであった。
その内議論は出尽くし、というか長時間の会議のために皆カピカピに干からびてしまったために、散会となる。最後はやはり麺界のドンであるさぬきうどんによるありがたいお言葉である。
「麺類皆兄弟」



122.「プール」
僕の家の庭にはプールがある。友達にその話をすると豪邸だなんて言われることもあるんだけど、別にそういうわけじゃないと思う。建物よりもプールの存在の方が目立っているっていうだけの話だ。そのプールはそれなりに大きい。夏になると僕が掃除をして水を入れ替える。そうやって、僕の夏は始まる。
夏になると僕は、毎朝同じ時間にプールに飛び込む。水着に着替えて、防水の腕時計をつけ、軽くストレッチをしてから、プール際に立つ。腕時計を見ながらタイミングを図り、そして飛び込むのだ。
水中で目をつむったまま、僕は水の上の世界について考える。慌てないように意識しながら、僕はゆっくりと水面から顔を出す。
そしてそこは、やっぱりいつもと変わらない庭のプールなのである。
僕は今日もまた失敗したことを確認して、プールから上がった。もはや落胆さえ感じなくなり始めている。何せあの場所を目指して飛び込むようになってから、既に3年が経とうとしていたのだから。

3年前の夏のことだった。僕はいつものようにプールで泳いでいた。とても暑い日で、水の冷たさが心地よかった。体がふやけてしまうんではないかと思うくらい泳いでやろう、と僕は思っていた。
それは何度目かの飛び込むの時に起こった。僕はいつもと変わらないやり方でプールに飛び込んだ。4回に1回はお腹を打ってしまうのだけど、その時はちゃんと頭から飛び込むことが出来た。何もかも普通で順調だった。
水中でも、特に変わったところには気づかなかった。後から考えてみれば、ちょっと水が重かったかもしれない、と思いはしたけど、少なくともその時は何の疑問も持っていなかった。
何も考えずに泳ぎ出し、息継ぎをしようとしたその時のことだった。僕は視界に見慣れないようなものを見たような気がして泳ぎを止めた。プールの底に足をつけようと思って、でもそうすることは出来なかった。プールは、何故か深さを増していて、どうしても足が届かなかった。
その時、僕は自分がいるのはプールではないことにようやく気がついた。そこは海だった。どこを見渡してみても水平線しかない、紛れもない海であった。僕はあまりに混乱していて、何を考えたらいいのかもよく分からないままだった。
そこで見かけたのだ。僕が生涯忘れることが出来なくなる、イルカに乗った少女を。
遠くから何か動いているものが近づいてくるのは僕にも分かった。しかし、初めそれが何なのか分からなかった。大分近づいてきて始めて、それはイルカであり、そしてその上に少女が乗っているのだ、ということに気がついた。
少女は裸だった。そして、何よりも美しかった。彼女は僕の存在には気づいていないようだった。イルカに乗った少女は、そのまままたどこかへと行ってしまった。
僕に何が出来ただろうか。あのままイルカを追いかけて追いつけたとも思えない。声を掛けても聞こえたとは思えない。僕には、彼女を呼び止める術はなかったはずだ。それでも僕は、あの時自分が何も出来なかったことについて激しく後悔した。
気づくと僕はプールに戻っていた。あれはもしかしたら夢だったのかもしれない。それでも僕は、もう一度イルカに乗った少女に会いに行きたかった。今度は、ほんの少しでもいいから話をしてみたかった。
だから僕は、毎年あの時の状況を再現してプールに飛び込んでいる。未だに、あの時の海には辿り着けない。



123.「本の中で起きていること」
「重心に変化が見られます」
「よし、総員配置につけ。そろそろ来るぞ」
「高度30センチまで上昇。上昇速度は比較的ゆっくりです」
「一時停止。急降下」
「別のにするつもりか。それならまた一休み出来るってもんだけどな」
「どうでしょうね。最近の傾向から考えるとこれが一番可能性が高いかと」
「再浮上。やはり選択に相違ありません」
「よし、みんな準備はいいか」
「制御班OK」
「活字班OK」
「指令班OK」
「情報班OK」
「対策班OK」
「現在位置は?」
「地上から35センチ、テーブルから5センチのところで安定しています」
「そろそろ開くな」
「どっちからだと思う?」
「今までの傾向から考えますと、初めのページから順序良く読んでいくようですが」
「聞いたか情報班と活字班。初めのページから順番通りって線で準備を進めてくれ」
「ラジャー」
「内圧に変化あり。ページが開かれようとしています」
「緊急事態発生。どうやら解説から読もうとしているようです」
「何だと。情報班。至急解説の文章にアクセス。活字班。超特急で表示を頼む」
「解説のページが開かれるまであとおよそ0.2秒」
「間に合いそうか!」
「無理です!ひらがなはなんとか可能ですが、漢字が追いつきません!」
「仕方ない。対策班。緊急事態だ。エマージェンシー5発動」
「ラジャー」
「読者は本を落としました」
「エマージェンシー5は、てのひらの汗と反応してすべりやすくなる物質を出す、でしたな。まあ止む負えん措置だ」
「よし、時間は稼いだ。これでなんとかなりそうか」
「大丈夫です」
「解説ページ、オープン!」
「よし、文字の表示は大丈夫そうだな」
「こちら対策班。お伝えしたいことがあります」
「なんだ」
「今の解説ページ表示のために、活字班が1ページ目から3ページ目までの文章から活字をいくつか借りてきたようです。そうでもしないと間に合わなかったとか。つまり、この状況のまま初めのページを開かれれば、虫食いの状態です」
「活字班!何度言ったら分かるんだ!別のページから活字を借り出すのは止めろとあれだけ言ってきただろうが!」
「すみません。しかし、時間内に文章の表示を完成させるには仕方のない措置でして…」
「言い訳はいい!至急なんとかしろ!」
「対策は進んでおります。応急処置として、後の方のページから順繰りに文字を借り出す形を取ることにしました。しばらくは時間稼ぎが出来るかと」
「まあそれならいい。制御班、状況は?」
「読者は解説ページを読み終わろうとしています」
「よし、それで1ページ目の文章はもう準備は出来てるんだな」
「大丈夫です。任せてください」
「こちら制御班。おかしな兆候です。内圧の変化から判断するに、読者は1ページ目ではないページを開こうとしています」
「こちら情報班。状況が判断出来ました。解説の文章に、『P168にある挿絵を見れば、誰しもが主人公に恋をしてしまうだろう』とあります。恐らく読者は、まずこの挿絵を見るつもりなのでは?」
「まずい!挿絵があったか。活字班で対応出来るか?」
「出来ません!既に手一杯ですし、しかも挿絵は管轄外で誰も出来ません!」
「情報班は?」
「すみません!挿絵のデータ量を考えるに、ウチでは扱えないと判断されます」
「まったくどいつもこいつも。制御班、読者が挿絵を見るまでの予想時間は?」
「推定1.4秒後です」
「仕方ない。ランディを呼んで来い」
「ランディ…、ですか。しかし…」
「つべこべ言うな。この状況で挿絵を表示できる男はランディぐらいしかいないだろうが!」
「わかりました」
「はいよ、ランディ。んで、どうしたって?」
「P168の挿絵の表示を0.8秒以内に頼む」
「見返りは?」
「何がお望みだ」
「次は俺に仕切らせろ。あんたには活字班の補佐をしてもらう、ってのでどうだ」
「…分かった、飲もう。じゃあ頼んだぞ」
「あいよ。こんなんちょろいっつーの」
「こちら制御班。あと0.2秒」
「うっせーよ。はい、これで完了」
「間に合いました。挿絵の表示完了」
「ふーっ、疲れるぜ。まあ後は大丈夫だろうな」
「読者はようやく1ページ目に入りました」
「制御班はそのまま監視を続行。活字班は全体の文章の調整と修復、くれぐれも省エネには気をつけてくれよ。表示は読者の目に入る0.1秒前。この鉄則は忘れないように!以上!」

2008年に書いたショートショート集 No.74~No.98

74.「ホームレス入門」
『吉本美那子略奪婚!徳田恵美のモトカレ奪う!』
「芸能人はお盛んなこって」
龍彦はボソリと呟く。新聞を読んでいるのだ。休日ということもあって、普段よりもゆったりと読むことが出来る。
「ま、俺には関係ねぇか」
しかしこうしてお天道様の下で新聞を読むっていうのはなかなか初めての経験だ。これはこれで、悪くないかもしれない。お茶がないのが淋しいが、しかしまあここは我慢だろう。
『連続殺人か?ホームレスを狙う魔の土曜』
「こっちはちょっと注意しとかんとな」
巻き添えくらって死ぬなんてごめんだし。龍彦は新聞から顔を上げ、辺りを見渡してみる。
寂れた公園だ。申し訳程度の遊具と砂場がある以外、ただ土地が広がっているだけの公園。住民にもさほど親しまれているわけでもないらしい。人影はまばらだ。逆に言えば、龍彦にはうってつけの場所である、とも言える。
「まあこればっかりは運かな」
ちらりと腕時計を見る。そこで龍彦は失敗に気づいた。
「そうか。腕時計は外してこなきゃいかんかったか」
まあ初めてのことだから仕方ない。次からは気をつけるか。龍彦はとりあえず腕時計を外してズボンのポケットに入れた。
「しかし何をするかな。ホームレスってのはみんなどうやって時間を潰してるんだろうか」
そう呟きながら、また新聞に戻る。普段以上に独り言が多くなっていることに気づいているが、しかしこれは仕方ないなと思っている。
龍彦は今、どこからどう見てもホームレスにしか見えない格好をしている。一週間地面を掘って埋めておいた服を着て、なんとかうまいこと理由をつけて4日間風呂に入らずにいて、髪の毛もボサボサになっている。仕事があるので髭だけは剃らないわけにはいかなかったが、まあ十分ホームレスとして見れる格好になっているはずだ。
龍彦はずっと、ホームレスというものに関心があった。何を考えて普段暮しているのか、どういう生活形態なのか、何が楽しみなのか。そういうことが気になって仕方がなかった。
だから、ホームレスのフリをして生活してみよう、と思い立ったのだ。職場では課長、家では夫という立場である自分が、まったく何者でもない人物になることが出来るというのも、魅力的に思えた。そこで今日まで準備を進めて、ついにホームレスデビューを迎えたのだった。
しかし、とにかく退屈で仕方がない。初めから他のホームレスのところに混じるのは無理があると思い、しばらくは一人でホームレスらしさを身につける期間にしようと思っているのだけど、何にせよこの退屈さを紛らわす手段を思いつけないのが辛い。そういえばホームレスというのは大抵日中寝ているイメージがある。しかし龍彦は、今特に眠いわけではない。新聞も、いずれ読み終わってしまうことだろう。ゴミを漁ったり食料を探し求めたりすることはさすがに出来ないと思っているので、そうなるとやることがないのだった。
「まあでもそんなもんか」
ホームレスの格好をして生活をすれば何か劇的に変わると思っていたわけでもないのだが、しかしそれにしても拍子抜けの感が否めない。いや、しばらくしたら他のホームレスと接触を取ろうと思っているのだ。そうなれば、もう少し変化に富んだ生活をすることが出来るだろう。それまでの辛抱だ。
龍彦はそうしてうだうだ思考をこね回しながら時間を潰した。公園にベビーカーを押した母親が入ってきて、何やらゆったりとくつろいでいる。いつもの散歩コースなのかもしれない。妻にこんな姿を見られたらどうなるだろう、と考えてみた。しかし、恐らく気づかれることはないだろう。普段人は、ホームレスをホームレスという型にはめ込んで見ている。まさかそこに自分の知っている顔があるなんて考えもしないだろう。顔を見られても、他人の空似と思われるぐらいだろう。
相変わらず時間はゆっくりと過ぎていく。こういう時間も、まあ悪くないかもしれない。普段、あまりにも時間に追われた生活をしすぎている。こうして、何もしないで何者でもない自分のままでボーっとしている時間というのもいいものだ。退屈に思われた時間にも、少しずつ慣れていった。
そうこうしているうちに夕方に差し掛かってきた。朝からいたのだから、もう随分長い時間が経ったことになる。まあ今日はこのぐらいにしておこうか。
その時、買い物帰りらしい妻の姿を見かけた。公園の前の道を歩いている。ふとこっちに視線を向けた。手を振っている。まさか龍彦に気づいたとでもいうのか?
しかしその時、後ろから男が現れた。その男を見て龍彦は度肝を抜かれた。
まさに自分そのものだったのだ。正確に言えば、ホームレスの格好をしていない、普段の龍彦がそこにいたのだ。
その龍彦は妻のところまで駆け寄り、それから二人は並んで歩いていった。龍彦は、当然その後を追いかけることにした。
二人は談笑しながら歩き続けた。後ろからホームレスの格好をした龍彦がついてきていることには気づいていないようだ。そのまま自宅へと戻り、二人は中へ入っていった。
どうなってるんだ?何で自分とまったく同じ人間がいるのだろうか?
しかし、一つだけ明確なことがある。龍彦は帰る家を失ったということだ。即ちそれは、ホームレスというのが仮初めの姿ではなくなった、ということだ。参ったな、こりゃ。
とりあえず龍彦は、さっきの公園に戻ることにした。



75.「どこかにあるはずの本」
『…いつかアメリカンドリームをこの手にと鼻息荒い諸君に是非読んで欲しい一冊なのです。』
「よし、これで終わり、と」
キーボードを打つ手を止め、冷め切ったコーヒーをずいずいとすする。完成した原稿をメールで編集部に送れば、今日の仕事は終了だ。
私は、とりとめもなくあちこちの雑誌に書評を書いて糊口をしのいでいる、まあ世間で言うところの書評家というやつである。批評家というほど鋭いわけでもなく、かと言って一般人がブログに書く感想よりはちょいとまし、というような立ち位置だ。それでも世間的にはそこそこいい評価をもらっているようで、なんとか原稿依頼が途切れることなく、私の生活も成り立っている。
好きなことを仕事にすること云々、というような話があるが、私はこの書評家という仕事を大いに気に入っている。何せ、本を読んでお金が入ってくるのである。もちろん、意に染まない文章を書かなければいけないこともあるし、読みたくもない本を読まなくてはいけないことだってある。しかしそういう不満を差し引いても、書評家という仕事はお釣りが来るほど自分にぴったりだ。何よりも、スーツを着て満員電車に乗らなくて良いところが一番気に入っている。
私はコーヒーを淹れなおし、文章を書く時だけは消すようにしているオーディオのスイッチを入れ、そうして部屋に山と積み上がった本の中から、次に読む一冊を掘り当てる。この瞬間が一番楽しい、と言えるかもしれない。まるでお宝を探すような気分になれるし、まだ中身を知ることのない、私にとっては無垢の存在たちが、親鳥から餌をもらえるのを待っている雛鳥のように、その姿をさらしているのを見ると、本を読むことへの喜びが高まってくるのである。
次の一冊を決め、さて読もうかと思ったところに、メールの着信を知らせる音が響く。メールは、先ほど書評を送った編集部からだった。いつものように、読みました・ここだけ直してください、というような内容かと思いきや、全然違った。思わず、うそっ、と声に出してしまったくらいである。
『エミリさん
今回の、マルデッド=バキャボラン「天空の涙に濡れる街」なんですけど、そういう本が見当たりません。編集部の誰に聞いても、ネットで検索しても、見当たらないんです。もしかして今回は原書で読みました?とにかく、もう少し詳しい情報を教えてください。
頼子』
そんなバカな。私は何度かそう呟きながら、何度もメールの文章を読み返した。そんなバカな。
もちろん原書で読んだわけがない。彼女だって、私の英語力が猿並だってことぐらい知ってるはずだ。もちろん日本語訳で読んだのだ。訳者だって覚えてる。皆志賀小雪、西北大学のイギリス文学の教授だったはず。マルデッド=バキャボランは確かに新人作家で、「天空の涙に濡れる街」はデビュー作のようだが、それにしたって見当たらないとはどういうことだ?私はちゃんと読んだのだよ。ちゃんとこの手に持って、この目でちゃんと。
ストーリーだってちゃんと覚えてる。私は読んだ本に関する記憶力ならかなり自信があって、だから書評の文章を書く時手元に本を置かない。あらすじや登場人物の名前も本を見ずに書けるからいらないのだ。
イギリスで生まれた少年デフロスは、幼い頃に見た奇術ショーに魅せられて、将来マジシャンになろうと決める。アメリカでナンバーワンと言われるマジシャンの元へと弟子入りするために一人飛行機に乗り込むのだが、その機内でこの飛行機を消してみせると宣言した謎の男と遭遇する。その男はアメリカで有名なマジシャンだというのだが、デフロスは聞いたことがない。デフロスはマジシャンになろうと決めた時から世界中の著名なマジシャンのことを調べていたから、有名なマジシャンで知らない存在はないはずなのだ。
謎の男は、飛行中であり自らもそれに乗っている飛行機を本当に消すことが出来るのか?そしてデフロス少年はアメリカへと辿り着くことが出来るのか?
そういう話なのだ。サスペンスフルで冒険小説でもあり、また少年の成長を描いてもいて、新人作家とは思えない作品だったと感心したものだ。飛行機を消してしまうトリックは驚愕もので、また謎の男の正体にも度肝を抜かれることだろう。
ここまでちゃんとストーリーを覚えているのだ。その本がないはずがないではないか。少なくとも、私の部屋のどこかにはあるはずだ。読んだのだから当然だ。まあ仕方ない。このとっ散らかった部屋の中から一冊の本を見つけ出すことがどれほど困難か編集部は分かっていないのだ。とりあえず、探す努力だけはしてみよう。
しかし、私はどうしてその本を読もうと思ったのだったっけ?普段翻訳小説を読む時は、作家で選ぶか、訳者で選ぶか、知人に勧められて読むか、何かの書評を読んで気になっていたものを読むか、書店で何となく気になったものを読むか、ということになる。マルデッド=バキャボランは新人作家だし、訳者も著名というわけではない。誰かに勧められたような記憶もないし、どこかで書評を読んだ記憶もない。となれば、書店で手に取った時に気になったということだろう。
しかし、あれ?あの本どこで買ったんだっけ?全然思い出せない。でも、そんなマイナーな本があるってことは、紀伊国屋とかジュンク堂とか、まあそういうとこなんだろうな。それより問題なのは、装丁を全然思い出せないこと。どんな表紙だったかなぁ。普段だったら絶対忘れないんだけど。
そうだ。とりあえず一応知り合いの書評家にメールしておこう。誰か一人ぐらい知ってるだろう。何せ私が読んだことは間違いないのだから。存在しないなんてことはありえないのだ。
部屋をガサゴソと捜索しながらメールの返信を待つが、しかし誰も知らないという返事。んなバカな。部屋の中からも見つからないし、検索エンジンで調べてみてもさっぱりヒットしない。
そこで携帯電話が鳴った。
「もしもし」
「あぁ、エミリさんですか。頼子です」
「今部屋を探してるんですけど、見つからないんです。知り合いの書評家に聞いても知らないって言われるし、でも私が読んだことは間違いないんです」
「そのことなんですけど、なんかよくわかんないんですけど、ウチの社長がエミリさんに話したいことがあるって言うんですけど」
「戸出さんが?何の話だろう」
「私もわかんないんですけど、とりあえず代わりますね」
そして保留音。戸出辰夫というのは出版界でもかなり伝説的な人物で、その都市伝説のような偉業を私もいくつか耳にしたことがある。無名の新人作家を大ベストセラー作家に押し上げることなど日常茶飯事で、携帯小説やブログ本の隆盛もいち早く予言し手を出していたほどだ。まるで未来を知っているようだ、と言われる所以である。
保留音が途切れる。
「やあやあ、エミリさん」
何か言おうとした私を遮るようにして、戸出さんは続ける。その言葉は、私を驚かせるのに十分なほど衝撃的なものだった。
「いや、こう言った方がいいかな。はじめまして、マルデッド=バキャボランさん」



76.「受験票」
ある日、一通の受験票が自宅に届いた。それがすべての始まりだったといえるかもしれない。
僕は、どこにでもいるような、普通のサラリーマンだ。スーツを着て、満員電車に乗って、少しは残業して、たまに上司と酒を飲み、休日はゴルフをするような、そんなどこにでもいるつまらないサラリーマンだ。
もちろん、資格の勉強をしているというような事実はない。以前簿記の勉強をしようと決意したこともあったが、もう昔の話である。時間の流れに任せるようにして怠惰な生活を送っている身には、試験などというものはもう関係する余地もないのである。
そんな僕の元に届いた受験票。初めは一体何のことだかさっぱりわからなかった。いや、正確に言うなら、結局ずっと何のことだかわからなかったと言っていいだろう。
それは、日本試験監督教会、というところが送ってきたもののようで、どこで入手したのか、僕自身の写真まで貼られていた。試験日と会場が記されていて、その試験日は一ヵ月後に迫っていた。
もちろん、行くつもりなどまったくなかった。今さら試験なんか受けたってどうにかなるものでもないし、第一めんどくさい。新手の詐欺かもしれないが、それにしても無視してしまえば何の問題もないはずである。
しかし結局試験日当日、会場まで足を運んでしまったのは、その一週間前に偶然あった高校時代の友人の話を聞いたからだった。
何でもこの試験については一部では話題になっていて、インターネット上でもトピックスとなっているらしい。そこからの情報によれば、出来る限り行った方がいいらしい、ということだった。彼も詳しいことは分からないようだったが、何でも行かないと罰則があるとかいうことで、まあ別に用事があるわけでもないし、NHKの受信料の支払いみたいで嫌だけど、まあ仕方なく行くことにしたのである。
会場にはとにかく様々な人が集められていて、もしかしたらある一定以上の年齢のすべての人に受験票が送付されているのかもしれない、と思った。何日か試験日を別に設定すれば不可能ではないような気もする。しかしそこまでして何をさせたいのかというのはよくわからない。
周囲の人の顔を見ると、何とも納得しがたいという表情の人が多く、しかしどこかで噂を聞きつけたのだろう、ヤンキー風の若者までいたのには驚いた。
試験自体は、どうということはなかった。いや、スラスラ解けたというようなことではない。もちろん苦戦したのだが、しかし試験内容は数学や国語など、極々普通のものだった。これだけ多種多様な人々を集めてどんな試験をさせるのかと思っていただけに、そこは拍子抜けと言ってよかった。とにかく、自分でもよく分からないまま、なんとなく高得点を取らなければいけないような気がして、制限時間いっぱいまで頑張って解答をした。
それからしばらく何事もなかった。しばらくというのは、数年ということである。初めのうちは、試験を受けさせるだけ受けさせて、その後何もないのかと憤慨したものだが、数ヶ月も経つとそんなことがあったこともすっかり忘れ、一年も過ぎると思い出すこともなくなっていた。
そんなある日のこと、合格通知が届いた。もちろん何のことだかさっぱり思い出せず、日本試験監督協会の名前を見てもピンと来るものはなかったが、ようやく記憶が繋がり、そういえばそんな試験を受けたなということを思い出した。
合格通知と一緒に、何か錠剤のようなものが同封されていた。中の説明書きを読むと、合格した証として与えられるもので、それを飲むことで真実が明かされるのだという。僕はよく考えもせずにその錠剤を口に入れたのだが、飲み込んだ直後、これは毒物とかそういうものなのではないかという思考が過ぎり、何か思いもかけない衝撃に襲われるのではないかと思って目を閉じた。
しかし、まあ当然と言えば当然で、身体には何の変化もない。まあそりゃそうだ、と思って僕は目を明けたのだけど、しかし衝撃はそれからやってきた。
僕はどこかに横になっていて、繭のような形をしたベッドのようなものに寝かされているようだ。起き上がってみると、同じ形をしたベッドが無限に続くと思われる真っ白な空間にずらりと並んでいて、その一つ一つに人が横になって寝ている。ちらほら起き上がる人の姿があって、しかしずっと寝たままの人もいる。
もしかしたら、と僕は想像の翼を広げる。僕が今まで生きていた世界は夢だったのかもしれない。この真っ白な空間だけが現実で、僕は試験に合格したために覚醒を余儀なくされてしまったのかもしれない。
相変わらず無音のまま、何の変化もない光景が広がっている。もしこれが本当に現実だとするなら、どれだけ夢の方がよかっただろうか、と思う。何を後悔したらいいのかわからないまま、僕はそのまま後悔に溺れることになる。



77.「あ」
ピンポ~ン
「は~い」
「初めまして、わたくしシュシュコレクトという会社の者なんですが」
「保険ですか?保険は間に合ってますので」
「いえいえ、保険ではありません。今日見て頂きたいのは、わが社の新しい商品でありまして」
「あんまり時間はないから手短にね」
「承知しております。今回ご紹介させていただくのは、『あ』です」
「『あ』ですか?」
「そうです。ご存知でしょう?あのひらがなで有名な『あ』です」
「そりゃあもちろん知ってますけどね」
「わたくしどもはこの度、様々な『あ』の開発・蒐集に着手いたしまして、ようやくそれを商品として販売できる見込みが立ちましたので、こうしてご訪問させていただいています」
「なるほど。で、どんな『あ』があるんですか?」
「そりゃあもちろん、ありとあらゆる『あ』が揃っております。一例を申し上げますと、発音すると『い』に聞こえてしまう『あ』ですとか、夏目漱石が初めて書いたと言われる『あ』ですとか、世界でもっとも小さな『あ』ですとか、それはもう様々なものを取り揃えております」
「それは素敵ね!ちょっと興味が湧いてきたわ。他にはどんなものがあるの?」
「わたくしのイチオシはですね、こちらですね。ほら見てください、この曲線美。まさにこれ以上ないと言っても過言ではないほどの美しさを兼ね備えているとは思いませんか?」
「ホントね!こんな美しい『あ』は見たことがないわ」
「『あ』のありとあらゆる箇所に黄金比を適応させました『黄金のあ』という商品でして、多くの方にご好評いただいております」
「なるほど。それから他には?」
「例えばこちらはですね、水に浮く『あ』です。ほらこうしてコップに水を入れて中にこの『あ』を入れると…」
「あらホント!浮いてるわ。すごいじゃないの!」
「世界に1000羽しか残存していないと言われる超貴重種であるザブラミンゴという鳥の羽毛を使用した『あ』でして、大変貴重なものとなっています」
「ますます素敵だわ!本当にどんな『あ』でもあるのね」
「わが社としても、社運を賭けた企画でありますから、かなり頑張らせていただきました」
「でも私が欲しいのはそんな『あ』じゃないのよねぇ」
「といいますと」
「私が欲しいのはね、今まで誰も見たことのない『あ』なの。それが手に入るなら、多少高くてもお金は出してもいいわ」
「誰も見たことのない『あ』ですか…。それは難しいですね」
「それがね、実はそうでもないの」
「どういうことですか?」
「その前に、ちょっと待ってね…。えーっと、あったあった、これこれ。この錠剤をちょっと飲んでくれませんか?」
「それが何か関係あるんですか?」
「もちろんよ。ほら、誰も見たことのない『あ』を見たいでしょ。だったら早く飲んでちょうだい」
「わかりました…。これでいいですか?っ、えっ、えーあーっ…」
「ごめんなさいね。その錠剤は、人間を『あ』に変えてしまう薬なの。一人ひとりの個性に合った『あ』になるから、誰も見たことのない『あ』になるのよ。ふー、でもやっとこれで6個かぁ。コレクターの道は長いなぁ」



78.「バット祭」
今日はバット祭当日だ。小さな田舎町では、一年を通して最も大々的なイベントである。
今年はちょうど400周年に当たる年で、例年にも増して盛り上がりを見せている。地元のテレビ局も力を入れているようだし、準備にも念が入っている。今年こそは何か起こるのではないか、と思っている人は多いのではないだろうか。
400年前から続く祭りなのに、「バット祭」なんていう名前であるのは変だと思うかもしれない。元々この祭りは「バットウ祭」と呼ばれていて、漢字を当てると「抜刀祭」ということになる。それがいつしか変化して、「バット祭」と呼ばれるようになったようだ。
このバット祭、やることは非常に単純である。もちろんお祭であるから縁日も出るし、神輿も担ぐ。町中の飾りつけも派手で、人々は皆浴衣を着て歩き回る。しかし、そういう普通のお祭的なイベントの他に、このバット祭には重要な祭事があるのだ。
それが、バット祭の元々の名前である抜刀祭に関係しているのだ。
町の中心部から少し外れたところに、抜刀神社がある。この抜刀神社には、岩に突き刺さった状態でずっと抜かれることのない刀がある。抜刀神社のご神木でもあるのだが、この刀にはある言い伝えがあるのだ。
毎年バット祭の開催の宣言と共に読み上げられるその言い伝えは、こういうものである。

『ニジュウガヨンジュウツドイシトキ、カタナハヌケル』

言い伝えは文書で残されており、実際このような形でカタカナの表記になっているらしい。
これを400年前の人は、『二十歳になった者を四十人集めれば刀は抜けるのだ』と解釈した。これがバット祭の由来である。
今年も、二十歳になったばかりの男女が四十名選ばれ、この刀を抜くという大役を仰せつかることになる。僕もその一人で、なんとオオトリを勤めることになったのだ。とはいえ、この抜刀の祭事は多分に儀式的な趣を見せていて、もはや誰も抜けるとは思っていない。そういう意味では形ばかりのものなのであるが、しかし400年も続いてきた儀式に自分が参加するというのも、何だか感慨深い。
抜刀の儀式は、バット祭の終わりに行われる。抜刀の儀式を以って祭りは終了となるのだ。だから僕も集合の時間までは、友達と縁日を廻ったり、集まっている報道陣の周りをうろうろしたりしながら時間を潰した。
そうして抜刀の儀式の時を迎えたのだった。
抜刀の儀式はかなり形式が決まっていて、白装束を来たり、一週間前から特別な方法で保管しておいた水で手を清めたりといった手順がかなりある。それは、これまで毎年見物していた僕が言うのだから間違いないのだけど、外から見ていてもただ退屈なだけだ。厳粛さがひたひたと音を立てているだけで、それ以外には何もない。しんとした空気の中、誰もが静まり返って事を見守っている。400年間誰も抜けなかった刀だ。今年だって抜けるはずがない。皆それがわかっていても、どこか期待してしまう部分があるのだろう。
僕の番が回ってきた。前の人と同じ手順を繰り返す。僕がオオトリだからだろうか。心なしかシャッターを切る音が多くなっているような気がする。ふと心細い気分になって空を見上げると、カラスがふわりと宙を飛んでいた。なんとなく嫌な予感がした。
刀が突き刺さっている岩の前に立つ。普段から見慣れている光景だ。バット祭当日以外は誰も触れられないようになっているとは言え、それは普段と変わらぬ場所に普段と変わらぬ有り様で存在していた。しかし、周りの空気がそうさせるのだろうか、あるいは何かの予感を感じ取ったのだろうか、まるで初めて見るものであるかのように感じられた。
刀の柄の部分に手をかける。そのまま力を込め、一気に引っ張り上げる。
それは抵抗もなく、あっさりと抜けてしまった。一瞬、すべての時間が止まってしまったかのような沈黙が訪れ、それから思い出したかのようにカメラのシャッター音が響き渡り、それからはもうどうなったのか分からなかった。とにかくもみくちゃにされたことと、刀が人に当たったらまずいと思ったことだけは覚えているのだけど、それ以外のことはもう何が何だかわからなかった。
それからは僕の人世はまさに一変したと言っていい。町の中だけではあるが、僕はまさに英雄となったのである。それからの人生については書くべきことは多くない。恵まれた生活を保障され、何不自由ない生活を送った、とだけ書いておけばいいだろう。
ただ一つだけ、僕以外には誰も知らない真実がある。
僕は町においてはありとあらゆる権利を持つことが出来たので、抜刀神社に伝わるという言い伝えの原本を見せてもらうことができた。あの刀を抜いた時から、何故自分に抜けたのかがどうしても気になって、やはり謎を解く鍵はあの言い伝えにあるのだろう、という結論に達したのだった。
僕はその原本をじっと眺めていたのだけど、するとあることに気がついた。それで謎はすべて解けたと言っていい。
要するに、昔の人が読み間違えただけなのだ。『ヨンジュウ』ではなく、『ヨンジョウ』だったのである。『ュ』と『ョ』が微妙に判読し難いのだけど、でもおそらく間違いないだろう。
つまり本当の言い伝えは、

『二十の四乗集いし時、刀は抜ける』

だったのである。20の4乗は16000。つまり、16000人目の人間がこの刀を抜くことになっているよ、というだけの話だ。毎年40人が挑戦し、あの年が400年目だったのだから、僕が抜いて当然だったというわけである。
これはもちろん誰にも言っていない。言えば今の僕の立場が失われてしまうことはわかっているから。



79.「クラインの壺」
「あぁ、お義父さん、お久しぶりです」
「いいから、座って座って。何だ、まだ注文もしてないのか」
「お義父さんが来てからと思いまして」
「まったく君は律儀というか固いというか。まあ今さら言っても仕方ないか。ちょっとすいません」
「あぁ、お義父さん、いいですよ。僕が頼みます。えーと、コーヒーでいいですか。じゃあコーヒー二つ、お願いします」
「さてと、今日は急に呼び出してしまって悪かったな」
「いえいえ、とんでもないです。お義父さんの方こそお仕事忙しいでしょうに」
「まあそれはいいんだ。今日は娘について、どうしても言っておかないといけないことがあったものだから」
「ちょっと怖いですね。何の話なんでしょう」
「これが、まあな。一筋縄いかないわけでな。ちょっと長い話になるんだが」
「ちょっとお義父さん、僕の緊張も分かってもらえますか?世間一般的に、妻のお義父さんと二人で話をするって、どう考えてもあんまりいい内容だとは思えないんですよね。だから、結論だけでも先に言ってもらえると気が楽になると思うんですけど…」
「いや、まあその気持ちはわからんでもない。でも、この話はとてもじゃないが普通には信じられない話なのだ。だから結論から話をしたら芳人君はただ混乱するだけだろう。私を信じて順に話を聞いていって欲しい」
「分かりました」
「ただこれだけは言っておこう。これから言うことは、芳人君を糾弾するような内容では決してないのだ。どちらかと言えば、娘に関して芳人君にお願いしたいことがある、という話になる。そう言った意味では安心してくれて構わないだが、でも決していい話というわけではない」
「聞けば聞くほど不安になりますね。でも大丈夫です。お義父さんが結婚に反対というのでないのなら、僕はどんな話でも受け止める覚悟があります」
「そう言ってくれると嬉しいよ。さて、じゃあどこから話せばいいかな。突然だが、娘は順調か」
「えぇ、もういつ陣痛が来てもおかしくはないんですけどね。本当は僕がついていてあげた方がいいんでしょうけど、妻は大丈夫だっていうもんだから、仕事をしていますけどね」
「まあ順調ならいいんだ。要するに今からの話というのは、その話になるんだ」
「あ、ちょっとすいません。妻から電話です。えっ、陣痛が来た。大丈夫って…。いや、行くって。ちょっと大人しく…」
「ダメだ。行くんじゃない!」
「は?」
「いや、すまない。そんな言い方をするつもりはなかったんだが。ただ、出来れば行かないで欲しい。もちろん妻が陣痛となれば、妻の元に駆けつけたくならない夫はいないだろう。しかし、そこを曲げて私の話を聞いてはもらえないか。とても重要なことなんだ。それに、正直に言えば、君は出産の現場に立ち会わない方がいいと思う」
「分かりました。奈菜、というわけでちょっと行けなくなった。一人で大丈夫か。後出来ればお医者さんに僕の電話番号を教えておいてくれよ。何かあった時こっちに連絡が出来るように」
「済まない。ただ私の話を聞けば、いやこう言った方がいいかな、私の話を信じてもらえるなら、ここで私が取った行動の意味が理解出来ると思う」
「…妻の妊娠に関する話だっていうことですよね。どんな話なのか聞かせてください」
「初め私は、君たちの結婚に反対だったんだ。というか、正直なところ、今でも反対だと言ってもいい」
「…やっぱりそういう話なんですね」
「誤解しないでもらいたいのは、芳人君の方には何も問題を感じていないということだ。問題があるのは娘の方で、恐らくその問題と今日直面することになると思う。その結果、君は妻を失うことになってしまうはずなのだ。私にはそれが分かっていた。だからこそ、娘を結婚させたくなかったのだ」
「それは…。出産のせいで妻が死んでしまう、ということですか?」
「意味合いは大きく違うんだが、そういう風に捉えてもらってそんなに間違いはない。そう、恐らく娘は、今日君の前から姿を消してしまうことになるだろう」
「そんなバカな!何でそんなことが分かるんです!」
「気持ちは分かるが落ち着いて欲しい。これが私なりの精一杯の贖罪なんだ。結婚の報告の時点で、娘は既に妊娠していた。そのことを責めるつもりはまったくない。娘が妊娠をしているという事実は、私からすれば遠からず君が妻を失うということを意味していた。しかし、君はもちろん、娘だってそのことを知らない。子どもまでもうけている二人の結婚を反対することは出来なかったのだ」
「その話はとりあえずいいです。どうして妻が死ぬことになるのか、その話をしてください」
「分かった。私の話を聞けば、娘は決して死ぬわけではないということも分かるだろう。
25年前のことだ。私の妹が結婚し、そして妊娠した。順調に陣痛がやってきて、そしていざ出産という状況になる。まさに今の娘と同じ状況だと思ってもらえばいい」
「そこで生まれたのが妻、ということですよね」
「…それは私の話を聞いていれば分かる。
その日、妹の旦那から電話が掛かってきたのだ。その声は怯えていて、とてもじゃないが何を言っているのか分からなかった。ただ、何度か聞くうちに、妹がいなくなったと言っているんだ、ということが分かってきた。よく分からないが大変なことになっているらいしと思い、病院に駆けつけたのだ」
「…なるほど、遺伝的に妻もそうなる可能性がある、ということですか…」
「…病院に駆けつけると、妹の旦那は放心していて、話せる状態ではなかった。だから分娩を担当した医師に話を聞こうとしたのだけど、彼は母体が消えてしまったのだ、というのだ。そんなバカな、と私は詰めよった。すると、妹の旦那がビデオカメラを回していたからそれを見ればいい、と言ったのだった。
私は病院内でビデオデッキを借り、妹の旦那が撮っていた出産の場面を見た。
恐らくこれから僕が言うことは信じられないだろう。しかしこれは事実だ。その当時のビデオも、未だに取ってある。それを見せることも可能だ。
苦しい表情を浮かべた妹が必死で赤ちゃんを産もうとしている姿が映っているのだけど、おかしなことになったのは、赤ちゃんの頭がちょっと見えた辺りからだった。その時、妹の頭がちょっと首に埋まったように見えたのだ。初めは錯覚なのかとも思ったのだけど、赤ちゃんがどんどん出てくるにつれて、妹の頭はどんどん胴体にめり込んで行き、その内頭が見えなくなり、首や胸までも胴体の中にめり込んでいくようにしてなくなっていったのだ。まるで、妹の体が自分の身体にどんどんめり込んでいく力が赤ちゃんを押し出しているのではないかと錯覚するような、そんな光景だった。もちろん、ビデオに写っていた医師や看護婦なんかも悲鳴を上げていたよ。
しまいには、妹の身体のありとあらゆる部分が性器に吸い込まれていき、そして赤ちゃんの身体が完全に外に出きった時、妹の身体はすべて消滅してしまったのだ。
君ならこれをどう解釈する?私は、これは妹が生まれ変わったのだ、と解釈したよ。つまりだ、君の妻であり私の娘である奈菜は、同時に私の妹でもあるのだ。そして恐らく今日、またあの日と同じことが起こることだろう」
「…もしもし。生まれましたか。よかった。…えぇ、大丈夫です。分かってます。妻の身体が消えてしまったんですよね?えぇ、分かってます。分かってますよ。分かってますよ!」



80.「運命のドア」
仕事が終わり、家に向かう。電車に乗っている時から、今日は妻に会えるだろうか、と考えている。扉を開けた瞬間、そこに妻はいるのだろうか、と。
玄関に辿り着いた僕は、一呼吸おいた。もう一ヶ月も妻に会えていない。これまでの最長記録だ。そろそろいいんじゃないか、と毎回思う。しかし予想は裏切られる。だから、過度な期待はしない。それでも、もしかしたら今日は、と思う自分を止めることはなかなか難しいのだ。
ドアノブに手を掛け、そのままドアを開く。
「おかえりなさい」
そこに妻はいた。一ヶ月ぶりの偶然の再会だった。扉の向こうの妻が現れることを待ちわびていた。この気まぐれなドアのせいで隔てられてしまった僕らの運命が、久しぶりに正気を取り戻したのだ。
「久しぶり。ずっと会いたかったんだ」
「わたしもよ、あなた。だってもう、一ヶ月も会えなかったんだから」
「今日は久しぶりにおまえの手料理が食べれるな」
「でも、ちゃんと毎日作ってるのよ」
「分かってるって、それぐらい。さぁ、まずは飯だ、飯」
久しぶりに妻と再会できた僕は、何だか気分が高揚していて、いつもよりたくさん食べ、たくさん飲んだ。そしてその気分のまま、妻を抱いた。お互い明日の再会を祈りながら、ベッドに就いた。
ベッドで横になりながら僕は、僕と妻とを隔てるあの玄関のドアについて想いを巡らさずにはいられなかった。何故こんなことになってしまったのか、何故会うべき二人が、時間や空間によってではなく、ドアという運命によって隔てられなければならないのか、そういう考えても答えの出ないことに思考を奪われて行った。
僕たちは7年前に結婚した。結婚当初から何の問題もなく、唯一何故か子供に恵まれなかったということはあるが、お互いそこまで子供が欲しかったわけでもないので、特に問題だとは思わなかった。
家を買ったのは4年前だ。僕の仕事はローンを組めるだけのお金を稼げることを証明し、証明し続けることぐらいなもので、他のこと一切は妻がやった。家の間取りや設計にもかなり口を挟んだようで、家というものに特にこだわりのない僕は自分の家を持つことが出来たという満足感で一杯であったが、妻の方も自分が理想とする家を完成させることが出来たことについて大いに満足したようだった。
それからも、これまでと変わらない生活が続いた。自分の家に住むという興奮もしばらくしたら日常へと取り代わり、ひたすらおだやかで安らかな日々を送ることが出来た。仕事上でも家庭でも大きなトラブルはなく、そんなことはないと分かっていたが、このまま大した問題も抱えることなくずっと過ごしていけるのではないか、と思えるぐらいだった。
問題が起きたのは半年前だった。きっかけは地震によって玄関のドアが破損したことだった。破損というのは大げさな言い方で、ただ地震の際に倒れてきた鉢植えによってちょっと大きな傷がついたという程度のことであったのだが、妻はそれが不満だったようだ。それで、ドアを新しく付け替えることになった。
ドアを付け替えて初めての夜。僕がいつものように家に帰ると、妻の姿がなかった。初めの内は、どこかに出かけているに違いない、と思った。連絡を入れずに外出するのはどうかと思うが、しかしうっかり忘れたのだろう、と。しかししばらく待っても帰ってこないし、携帯電話に連絡を入れても電源が切られているようだ。結局その夜は帰ってこなかった。警察に連絡を入れようかとも思ったのだが、一晩ぐらいで大騒ぎすることはない、と考えた。
翌朝起きると、妻が朝食を作っていた。僕は、昨日どこで何をしていたか問いつめたかったのだが、そうすることは出来なかった。何故なら、逆に妻に問いつめられてしまったからだ。
「あなた!昨日家に帰って来ないでどこで何をしていたの!」と。
ここに来て、ようやくお互いの認識に食い違いがあることが判明した。僕たちはお互いに譲らなかった。僕の側からすれば、昨日の夜いなかったのは妻の方だ。しかし、妻の側からすれば、昨日の夜いなかったのは僕の方だというのだ。こんなことがありえるだろうか。どちらも昨日の夜は家にいたと主張し、相手が帰ってこなかったのだ、と言い合った。それはあまりにも不毛なやりあいであり、どこにも辿り着く保証のない航海であった。僕たちはとりあえず結論を保留し、僕は会社へと向かい、妻は妻としてやるべきことをやった。
その夜、また同じことが起こった。会社から帰って来ても妻はいない。しかし翌朝になると、妻はまたそこにいて、僕が帰ってこなかったと詰るのだ。僕たちは冷静になる必要があった。これはとりあえず、第三者の意見を仰ぐべきではないか。そう提案したのがどっちだったのか覚えていない。ただそれは正しい決断だった。相談した相手が、僕の長年の友人であり大学で物理学を教えている助教授であったということも大きかった。
「きみのところの玄関のドアを境に、時空が歪んでいる可能性を否定することは出来ないかもしれない」
わが友人は、そう慎重にも慎重を期して意見を述べた。彼が言わんとしていることはこうだった。地震の影響なのか、ドアを付け替えた影響なのかは判断できないが、僕の家のドアは時空の微妙な境界上に存在することになってしまった。ドアを開けると、ある確率で僕は妻のいる世界へと進み、ある確率で僕は妻のいない世界へと進むことになる。もちろんそれは普通には起こりえない現象ではあるが、しかしもしお互いに嘘をついていないというのであれば、これ以外にうまく説明することは出来ないのではないだろうか。
僕は完全に納得したわけではない。ドアを開けると違う違う世界へ行ってしまうなど、そんなSFのような話を素直に受け取るのは難しい。しかし、僕には選択肢がなかったというのも事実だ。僕も妻も、自らの主張を取り消すつもりはなかった。僕は長いこと妻と生活を共にしているし、その中で無駄な嘘をつく女性ではないということもきちんと心得ている。であれば、こんなとんでもない結論であっても、とりあえず受け入れるしかないのではないだろうか。
だから僕は、今でもたまにしか妻と会うことが出来ない。僕が行き着いた世界には妻はいないが、妻のいる世界では彼女が夕飯を作って僕を待っている。その間には深い断絶が横たわっている。それを思えば、こうして妻と会える日ことが偶然であり、また奇跡であると言っても決して言い過ぎではないだろう。
僕は、隣で眠る妻の姿を確認しながら、明日を思う。明日また、妻はドアの向こうにいてくれるだろうか…。

「あ、もしもし~。ねぇねぇ、今日も会おうよ~。いいでしょ?何、旦那?大丈夫だって。ほら、あなたが言ってくれた『運命のドア』の話、まだあいつ信じてるからさ。爆笑だよね~。だから、家なんかいつだって空けられるよ。じゃあ今日も××ホテルでね。7時?オッケー。じゃまたね~」



81.「永遠に出版されないエッセイ」
「あっ!」
「あっ!」
「あっ!」
(以下続く)
のっけから、行数稼ぎみたいなことをして申し訳ない。しかしこの無限に続く「あっ!」は、香川県人すべての心の叫びであり、それはメビウスの輪のように無限に続いていってしまうような、そんな悲痛なものなのである。
香川県人は衝撃を受けたのだ。国が発令したある法律に。
人はそれを、「うどん禁止令」と呼ぶ。もちろん正式な名称のわけがない。これは、アホな法律を作り出した国への非難を込めた呼び方である。
正式名称は、「国有食品保護法」という。つまりどういうことかと言えば、早い話日本人なら米を食え、ということである。
最近、日本では米の消費量が減っているという話がある。実際のデータは知らないが、しかし国がこんな法律を作ってしまうぐらいだから事実なのだろう。国内における米の生産量は一時期より減少したとは言え、既に現在では「米余り」の状況を呈している。即ち、作っても売れないのだ。あまりに日本人が米を食べなくなってしまったが故に、米の生産と需要のバランスが大幅に崩れてしまったのである。
そこで、米どころを票田に持つとある議員が動いた、という噂があるが、どこまで本当か分からない。とにかく、どっかの誰かが、このままではマズイと思い、とはいえ米だけを保護するというのはあまりにも無茶なので、自国で作っている食品をなるべく食べましょう、という政策を打ち出したのである。
具体的にはどういう内容かと言えば、諸外国から入ってくる食料品の関税率を大幅に上げる、ということになる。これについては諸外国からの猛反対もあったらしいが、珍しく日本の政治家はこれに屈することなく、この法案を押し通した。そのため、外国から輸入している食糧品は値段が高くなり、最終的には日本産のものを食べなくてはいけない、という風に仕向けるのである。
ここで問題となるのが、我等が讃岐うどんである。
現在讃岐うどんの原料である小麦粉は、そのほとんどをオーストラリアからの輸入に頼っている。国内で生産している小麦もないことはないのだが、しかしやはりオーストラリア産の方が質がいい。それが関税が上がってしまうことで輸入の道を断たれたのだ。
こうなっては、讃岐の産業は立ちいかなくなると言っても言いすぎではない。讃岐というのはうどんで成立している土地なのだ。讃岐からうどんを引いたらほとんど何もなくなると言ってもいい。これは死活問題である。
もちろん讃岐はこれと戦った。もちろん政治的な手段に出る人間もたくさんいたが、しかし多くの人間はより健全な方法で立ち向かったのだ。
それが、米でうどんを作る新しい手法の開発である。讃岐の職人はやはりすごかった。ほんの短期間で、米からうどんを作る手法を編み出し、讃岐はまたうどんの町として蘇ったのである。
しばらくはこれで何の問題もなかった。しかし、しばらくすると讃岐うどんは国から目をつけられる存在になってしまったのである。その理由が、うどんの原料に米を使ったから、である。
讃岐うどんの原料として米を使うようになってから、米の消費量が一段と増して行った。そのせいで、米の生産が追いつかなくなってしまったのである。もちろんこれは国の愚策の結果であり、讃岐の人が責められる謂れはどこにもない。讃岐の職人は、知恵で危機を乗り切っただけであり、大上段に刀を振りかざすだけの国に睨まれるような理由はどこを掘り返しても見当たらないはずだ。
しかし、もちろん国にその言い分は通じなかった。国は今度こそ本当に「うどん禁止令」を発令したのである。まさに、日本からうどんを締め出さんとする法律で、うどんだけを対象としている、まさに讃岐への当てつけのために存在する法律であった。
しかもこの法律のすごいところは、うどんの製造・販売・飲食を禁じるだけではないのである。うどんを紹介したり、うどんについての文章を書いたり、いやそもそも「うどん」という言葉を使うことさえ禁じられてしまったのである。
もはやこうなると、讃岐に対抗…

編集部注)
このエッセイはここで終わりである。著者はここまでの文章を残して、うどん管理委員会に見つかってしまった。このうどん管理委員会は、「うどん禁止令」を守っているか厳重にチェックする機関であり、この著者がうどんについての…

編集部注2)
出版社の変更があった。上記の「編集部注」が途中で終わっていることから分かるように、これを書いていた編集部員もやはりうどん管理委員会に摘発されてしまった。当社でも慎重に慎重を喫して本作の出版を目指すところであるのだが、どこまで…

編集部注3)
もはや説明は不要だろうか。またしても出版社の変更である。うどんとは…

訳者注)
これが、「禁酒法」と並ぶ世界三大悪法に数えられる「うどん禁止令」が発令されている日本で、結局出版されることのなかった文章である。当社はこの原稿を、あるルートから独自入手した。現在でも日本では「うどん禁止令」が解かれて…



82.「プラント」
これは僕が夏休みに体験したアルバイトの話なんだけど、今でもあの時のことを思い出すと震えてしまいそうになる。都市伝説の世界に紛れ込んだんじゃないかって、今でも思ってて、あれが現実だったなんて全然思えないんだ。でも、すべては僕の目の前で起こったことだったし、僕の頭がおかしくなってない限り、あれはすべて現実だった。今でもどこかで、あそこで作られたものが使われてるのかと思うと、寒気がする。
ってその話をする前に、僕の小学校の頃の話をしよう。そのバイトのことを考えると、いつもそのことを思い出すんだ。
ある時クラスメイトの一人が交通事故に遭ったとかで手術をしなくちゃいけなくなった。しばらく入院した後学校に戻ってきた彼には、なんと左腕がなかった。事故のせいで切断しなくちゃいけなくなった、と話に聞いた。可哀相だなと思った記憶がある。片手がない生活はすごく不便そうで、僕も周りのみんなもいろいろ手伝って上げたと思う。
でもその年の夏休みが終わった時、びっくりしたんだ。だって、彼の左腕が復活してたんだ。僕らは、やっぱりさすがに直接は聞けなかった。だから陰でこそこそ噂をしてたんだけど、人間の腕って気合を入れれば生えてくるんだよとか、誰かの腕をイショクしたんだよとか、すっげー完璧なギシュなんじゃねぇのとか、とにかくいろんな話が出た。出たけど、結局真相はわからずじまいだった。
今では、なるほどそういうことだったのか、とわかる。そして、そのおぞましさに改めて恐怖を感じる。
今年の夏のことだ。大学生になったばかりの僕は、そのあまりに長い夏休みをもてあましそうになり、ここはバイトでしょ、と考えて情報誌をペラペラ捲っていた。すると、
「時給15000円」
っていう表記が目に飛び込んで来た。仕事内容を見ると、簡単な農作業、とある。
いやいや、いやいやいやいや、これは誤植でしょ絶対、と初めは思った。だって、簡単な農作業で時給15000円なわけないでしょ、と。仕事内容に大きな偽りがあるか、あるいは表記にミスがあるに違いない、とそう思った。
でも、でもだぞ、もしこれが本当にホントだったらどうする。時給15000だぞ。しかも、一応ここに書いてあることを信じれば、仕事は簡単な農作業だ。農作業はキツそうなイメージがあるけど、それでも時給15000円はやる価値がある。とにかく連絡だけでもしてみよう、と思った。
果たして、僕はそのバイトをやることになったのである。電話の向こうの人に、時給15000円ってホントなんですか、ってちゃんと確認したけど、それはホントらしい。でも、仕事内容については、事前に教えることは出来ません、だってさ。
で当日。集合場所だって言われた場所に行くと、僕と同じように金に目が眩んだ人々がたくさんいた。とりあえず近くにあった大型バスに乗るように言われる。そしてバスの中で管理人と思しき人からアイマスクを受け取った。
「目的地に着くまで外さないでください」
おいおい、ものものしいなぁ、と思いながら指示に従う。途中ちょっと外してみたんだけど、バスん中真っ暗だった。用心深いぜ。
着いたのは夜明け前だった。まだ辺りは真っ暗で、よく分からない。僕らは、とんでもなくデカイ(たぶん。暗くて全体の大きさがよく分からなかった)建物の中に連れて行かれた。
そこで見たものは、未だに忘れることが出来ない。
確かにそこにあったのは畑だった。イメージとしてはビニールハウスみたいなもので、そのビニールがコンクリートの壁になった感じ。窓はなく、陽の光はまったく入ってこない。そんなところで、もちろん植物が育つわけもない。
そこで育てられていたのが、手だった。手だけじゃない。足や指、乳房や性器、そしてなんと胃や肺まであった。頭はさすがになかったけど、目だとか鼻だとかってのはあった。
建物の中は区切られていて、その一角に一種類の器官が生えていた。想像して見て欲しい。高校の体育館の二倍ぐらいの広さの面積に、人間の目だけがずらりと生えている光景を。まさにそれは吐き気を催すほどで、実際吐いている人もいたほどだ。
僕らの仕事は当然、その器官を刈り取ることだった。確かにその作業自体は「簡単」だった。特に難しい技術が必要だってわけでもないし、腰をかがめる姿勢がちょっと辛いだけで、作業自体はわけもなかった。
しかし、精神的な辛さは言い表せないほどだった。それは紛れもなく手であり、足であり、目であった。僕の身体にあるものとまったく同じものを、生きているのか死んでいるのか定義することさえ難しい物体を、僕らはただただ刈り取って行った。精神的な重圧に耐えながら。価値観の反転を押さえ込みながら。
仕事を終え、バスに乗り、また目隠しをされながら、これは本当にあった出来事だったんだろうか、と僕は考えていた。一種の現実逃避だったんだろうと思う。結局よく分からないまま、僕は日常へと戻ってきた。
今でも、きっと栽培は続けられているのだろう。そしてどこかの誰かがそれを刈り取っているのだろう。そしてどこかでそれらは活用されているのだ。そう思うと、僕が触れた真実の一端の大きさと深さに、僕は眩暈を起こしそうになるのだ。



83.「世界一の芸人」
トシユキは売れない芸人をもう10年近く続けていた。今さら普通の仕事に戻ることは出来ないし、かと言って芸人として成功する見込みもまったくと言っていいほどない。八方塞ではあったが、トシユキは何かを真剣に考えることが苦手だった。なんとかならないことはもう分かっていたのだけど、でもまあなんとかなるだろう、と常に自分に言い聞かせていた。それ以上、何かを考えることを放棄していた。だからこそ、こうして売れない芸人なんかをずっと続けていられるとも言える。
今日も小さなライブハウスでネタをやった。他の芸人の前座みたいな扱いだったけど、まだ仕事があるだけいい。いつまでこの状態ももつか、怪しいものである。
いつものようにコンビニで缶ビールを買い、歩きながら飲んでいると、ふと何かが視界に入った。何だろう。特に気になるものはなかったと思うのだけど。
暗がりに落ちていたのは、ランプだった。あの、よくディズニーの映画とかで出てくる、魔法のランプみたいな、まさにあんなやつである。カレーのルーが入っていたかもしれないと思わせるようなフォルムだった。
何でそれを持って帰ろうと思ったのか、よくわからない。というか、持って帰った記憶も実はないのだけど、翌朝起きるとそのランプが自分の部屋の片隅に落ちていた。
「よっ」
部屋の中から声がした。辺りを見渡しても、誰もいない。
「ここだここだ」
と言われたって困る…と思っていると、テーブルの上でちょこまかとしている虫がいた。とりあえずこいつを潰すか、と思って手を振り下ろそうとした。
「おいおい、待て待て、待てってば!」
その虫が喋っているらしい。よく見てみると、これまたよく映画なんかで魔法のランプから出てきそうな感じの変なやつがミニチュア版でそこにいた。
「へぇ、何か願いでも叶えてくれるってか」
「おぬし、何故それが分かる。鋭い洞察力の持ち主じゃ」
まあ、ディズニーの映画のことは説明する必要はないだろう。
「へぇ、俺もラッキーなもんだな。願いは何でもいいのか?」
「まあな。大抵のことは叶えてやれるだろう。ただし、一つだけな」
ここでトシユキは考えた。何を願うのが一番いいだろうか。大金持ちにして欲しい、というのは簡単だ。でも、金だけあったって仕方ない。欲しいものもあるし、綺麗な女を抱いたりもしたいし、行きたいところもたくさんあるけど、でもそういうのは金でなんとかなる。ってことは、やっぱあれか。
「世界で一番笑える芸人にして欲しい」
これだな。んでお笑いで大金持ちになってやるんだ。
「まあお安い御用だ。チョッペラムンチョのはい!」
「これで終わりか。まあ簡単なもんだな」
「これであんたは世界一笑える芸人だ。んじゃワシは戻るか」
そう言って魔人みたいなやつはランプの中に戻って行った。
さて、あいつが言うことを信じれば、俺は今世界で一番笑える芸人だ。ってことは、もう誰でも俺の芸をみたら大笑いしてしまうに違いない。これはいいぞ。ちょっと公園なんかでやってみようかな。
トシユキは、普段練習している公園までやってきた。練習の際はなるべく人に見られないような場所でやっていたのだけど、今日は違う。人がたくさんいる辺りで思い切ってネタをやってみよう。きっと大ウケに違いない。

何でだ。公園にいた人間、誰もクスリとも笑わなかったぞ。あの沈黙。冷ややかな目。あれほど辛いものはない。結局トシユキはネタをやり終えることなく、そそくさと逃げてきたのだった。
くそっ、あの野郎。俺を担ぎやがったな。次会ったらただじゃおかねぇぞ。
トシユキはまた缶ビールを買って、歩きながらそれを飲む。まああれだ、あんな奴のことを信じた自分がバカだったって、まあそういうことだ。
帰り道。選挙ポスターの貼ってある一角を通り過ぎた。その内の一枚の写真がイタズラされていた。女性の写真の頭に、ハゲのおっさんに写真が貼られているのだ。
ベタだけど、何だか面白かった。それに、嫌な気分を吹き飛ばすために笑いたい気分でもあった。トシユキはハハハ、と普通に笑ったつもりだった。
しかし、トシユキのハハハは、ものすごかった。それ自体が武器になるんじゃないかと思うくらい、衝撃的なハハハだった。笑い出した自分も、え?と思うくらい、それは異常な笑い声だった。中国人がまとめて100人いっぺんに笑ってるみたいな笑い声だった。
周囲に人が集まってくる。夜じゃなくても、こんなうるさい声で笑う人間がいたらどうしたのだろうと思うだろう。いやもしかしたら、笑い声だと認識されていない可能性がある。
そこでようやくトシユキは、これはあの魔人のせいだということに気がついた。トシユキは、「世界一面白い芸人」という意味で言ったのだが、それを魔人は、「世界一の笑い声を持つ芸人」と間違って解釈したのだろう。まあ確かに間違っちゃいない。けど、それぐらい分かって欲しかったなぁ、と思う。
もはやむやみやたらと笑えなくなってしまった。芸人として大成するわけもないし、一体どうすりゃいいんだろうか。



84.「うどんの快楽」
「ねぇ、うどん食べに行こう」
ついさっき、珠巳にそう言われて、私は今彼女の車に乗っている。有無を言わさず、という感じだった。
「うどん?いいよ別に、そんな気分じゃない」
特に好きな食べ物というわけでもない。仕事が終わって疲れてるし、見たいテレビだってある。何でわざわざうどんなんぞ食いにいかにゃならんのだ。
「いいからいいから」
「よかねぇよ」
「マジすげぇんだって。ホント後悔させないから!」
「すげぇって、そんなに旨いわけ?」
「いや、旨いわけじゃないみたいだけどね…」
何だそりゃ。じゃあこれからわざわざ旨くもないうどんを食いに行くつもりだっていうのか。
「行かない行かない。旨くないんでしょ、だって。いいよ」
「まあまあ、いいからいいから。ホント、騙されたと思ってあたしについて来なさい」
あんたにはこれまで何度騙されたことか、って言ってやろうかと思ったけど、止めた。こうなると珠巳はもう止められない。結局私は彼女の車に乗る羽目になってしまったのだ。
「好美っていたでしょ?」
運転席の珠巳が話し掛けてくる。
「あぁ、あの淫乱?」
「ちょっと!死んだ人のことをそんな風に言わないの!」
「いいじゃん。だってホントのことだし」
「まあそうだけど。んでね、その好美の旦那、ってまあ好美は死んじゃったんだから元旦那か、その旦那がうどん屋を始めたんだってさ」
「ふーん」
別に興味のある話ではなかった。好美は、大きな括りをするならば私たちの友達で、でも実際はあんまり好かれてる女じゃなかった。友達付き合いしてたのも、成り行きっていうかたまたまっていうかそんな感じだったし、事故で死んじゃった時も、まあそんなもんかって感じでそんな哀しくもなかった。まあそれぐらいの女だった。
好美はとにかく淫乱で、結婚してからも複数の男と付き合いを続けていた。旦那には絶対バレてないって言ってたけど、どうなんだろう。まあありえないとは言えない。好美だし。事故にあったのだって、浮気相手の家に行く途中だったのは明らかだったけど、まあそんなこと誰も旦那には言わないだろうしね。幸せだけどバカな男。
その男がうどん屋を始めたからって何だというんだろう。珠巳だって別に好美とそこまで仲がよかったわけではないはず。ってまあいいか。考えるの面倒になってきた。
「着いたよ」
いつの間にか着いたらしい。まあうどん屋だと言われればうどん屋に見えるし、パン屋と言われればパン屋に見えるかもしれない、何とも中途半端な店構えだった。
店に入ってまず驚いたのが、客が女性ばかりだった、ということだ。っていうか、全員女性だった。これは異常ではないだろうか。女性だってもちろんうどんは食べるだろう。しかし、サラリーマンのおっさんがこの時間帯に一人もいないうどん屋なんてありえるのだろうか。
「何がオススメなわけ」
珠巳に聞いてみる。
「まあ何だっていいのよ、メニューはさ」
よくわからない。しかし、元々そんなに積極的に食べたいわけでもないので、かけうどんの小を頼むことにした。
「小でいいの?」
「家に帰ったらご飯あるし」
実家暮らしなのである。
「いやいいんだけど、たぶん大とかの方がいいよ」
大にすると何がいいのかよくわからない。まあいいさ。とりあえず小でもちゃちゃっと食べて、さっさと帰ろう。
うどんは、まあ普通のうどんで、スープもまあ普通そうだった。目で見ただけじゃ、コシだとか味だとかはもちろん分からない。だからとりあえず口に入れてみる。
「えっ!」
何今の?えっえっ、どういうこと?は?今のあたしの口?
私の思考は乱れに乱れた。何が起こったのかさっぱりわからなかったのだ。私はただ、うどんを口に入れただけだ。それなのに、この衝撃は何だ?
もう一度口に入れてみる。
「ああぁ~ん」
思わずそんな声がこぼれ出てしまう。もちろんうどんは口から落ちる。
そんなバカな!私は口にうどんを入れているだけだ。それなのに、どうしてアソコに指を入れた時みたいな衝撃が走るんだろう!
私は珠巳を睨んだ。珠巳は私の視線に気づくとニヤリと笑い、
「声出してるの、あんただけだよ」
と言ってのけたのだ。
くっそぉ!私だって、こういううどんだってあらかじめ知ってたら声だって我慢したわよ!このクソ女!
しかし、いくら心の中で悪態をついても、それは弱い。弱いことを自覚している。何故なら、それほどまでにこのうどんの快感は凄まじいからだ。
まるで口が女性器そのものになってしまったかのようだ。うどんを口に入れる度、口が快感を覚えるのだ。それは、これまでに経験したどんな快感をも超えていて、私はうどんを咥えているだけなのに、何度か昇天しそうになった。
「あうぅ~ん」
「んぐぅあ~ん」
抑えようと頑張っても声が出てしまう。うどんは一向に食べられない。これじゃらちがあかないと思い、うどんを一気にすすり上げることにした。
「はぁ~ん」
背骨が溶けるかと思うほどの快感に襲われた。店にいる他の客はすごいな。こんなの、我慢できるレベルじゃないだろ。
それからも私は、襲い来る快楽に翻弄されながら、何とかうどんを食べきった。
「おかわりはいらないの?」
珠巳が面白そうに私を見ながらそんなことを言う。なんて余裕のあるやつだ。私はもう限界だってのに。
「すごいね、ホントここのうどん。でも今日はもういいや。また連れてきて。お願い」
確かにこれは病みつきになる。店に女性客しかいないのも当然だ。まったくホントに、すごいうどんだったぜ。



85.「うどんと妻と私」
半年前、妻を亡くした。事故だった。
いい妻だった、と今でも思う。家事洗濯を疎かにすることもなかったし、私の健康に気を配ってくれたりもして、あぁ結婚してよかったと常々思っていたものだった。
その妻が、死んだ。
正直、しばらく何もする気になれなかった。そんな私が、傷心旅行に讃岐を選んだことに、特に意味はない。適度に遠くて、適度に田舎で、適度に人のいる、そんな場所を漠然と思い描いた時、讃岐もいいかと思いついたのだ。
そこで食べたうどんに、私は衝撃を受けてしまった。世の中に、こんなに旨いものがあったのか、と思うほどの価値観の転換であった。とにかく、うどんといううどんを食べ歩いた。
それから私が思いついたことは、今でも失笑ものだったと思っている。しかし、その思い付きのお陰で今成功できているとも言えるわけで、人生何が起こるか分からないものである。
さぬきうどんを自分で作ろう、と思ったのだった。
弟子入りするなんて発想は出てこなかった。うどんの基本的な作り方をネットで調べ、あとは自分が食べまわった時の舌の記憶を元に、とにかくうどんを打ちまくった。気づけば、会社は辞めていた。友人とも会わなくなって行った。私は、うどんを打ち続けるだけの人間になった。
ある日。結局何度試してみてもあのさぬきうどんらしいコシが出ないことに諦めを感じ始めていた私は、もうこのくらいでいいかもな、と思った。別に店を出そうというのでもない。ただの趣味だ。もう止めよう。でも止める前に、供養をしよう。そう思った。
私は小麦粉に妻の遺骨をほんのわずか入れ、そしていつものようにうどんを打ち始めた。このうどんを自分で食べて、妻への供養としよう。そして、また新しい自分の人生を始めよう、と。
ちょうどその日。私の生活を案じた友人の麻里絵が、私の様子を見に家までやってきた。彼女は私がうどんを打っていると知ると、是非食べたいと言った。ちょっとこれはマズイかなとも思ったが、遺骨はほんのわずかだし、まあ大丈夫かと思った。
「ねぇ、これ店出そう」
麻里絵は一口食べるなりそう言った。
「いや、大したうどんではないんだ。店で出すほどでもない」
「確かに、悪いけどうどんとしては普通だと私も思う。でも、悪いようにはしない。私にまかせて。土地も店も人も、なるべく私が手配してあげる。だから、店を出そう。超人気店になることは、私が保証する」
正直言って、未だにわからない。何故彼女が、ここまで私のうどんを推してくれたのか。あれだけさぬきうどんを食べまくった私だ。もちろん、自分が作るうどんが並であることは分かっている。何故ここまでこの店は繁盛することになったのだろうか。
不可思議なことが二つある。
一つ目は、麻里絵に指摘されたことだ。店を出す条件として彼女に厳命されたのが、あの時麻里絵が食べたのとまったく同じうどんを作る、ということだった。その後、商品開発という名目で麻里絵が私のうどんを食べる機会があったのだが、その一番初めの時、妻の遺骨を入れずにうどんを打ったら、これは前のうどんと違う、と指摘された。前の時との違いは、どう考えても妻の遺骨を入れたかどうかだけだった。そう思い次から入れるようにしたら、麻里絵は何も言わなくなった。しかし、妻の遺骨を入れるかどうかで味が激変するとは思えない。実際自分で食べ比べても分からないのだ。何なのだろうか。
そしてもう一つは、店に来るお客さんは女性のみであるということだ。これは、女性が多いとかほとんどが女性である、というレベルではない。時々ふらりとサラリーマンが入ってくる以外は、客のすべてが女性なのだ。しかもリピーターが多い。
しかしまあ不思議なことはあるものの、店は繁盛しているし、妻の遺骨も役に立っていて、これはある意味で一つの供養になっているだろうな、と思っている。妻の恩に報いることが出来た、とまでは言わないが、まあ怒られない程度には頑張ったかなと思う。どこかで私の頑張りを見ていてくれるといいのだけどな。



86.「仙人・高村君の日常」
電車というのはなかなかに限定的な乗り物である。つまり、線路の上しか走ることが出来ないのだ。飛行機だったらどこでも飛べる。船だって、どこでも走れる。車だって、やろうと思えば道路以外の場所でだって走れるだろう。そういえば水陸両用の車が開発されたみたいだし。こうなると、電車というのはいささか(なんて言葉はもう使わないか)不便な乗り物であると言えるだろうか。
しかし、東京に住んでいると電車というのはなくてはならない乗り物である。いや、正直に言えば、なくてもさほど困らないかもしれない。現に高村君だって普段そんなに電車に乗る方ではない。ちなみに高村君というのがこの話の主人公であり語り部である。語り部であるのに一人称でないのは、まあそういうものだと思って下さい。そもそも「語り部」の「部」って何だろう?「語り手」の「手」もいまいちよくわからない。「語り主」だったら分かるけど、そんな言葉はあまり聞かない。「語り草」の「草」も、絶対「草」とは関係ないと思う。というわけで脱線してみました。
そんなわけで高村君、普段は乗らない電車に乗ることにしたのである。一応これがメインテーマである。メインテーマが明確に明示される小説なんて珍しいが、しかしこれは「M$S」シリーズの真似をしているだけである。「M&S」シリーズが何か分からない人は、「水柿君と須摩子さんが日常を送る物語」だと思ってください。ちなみに、「S&M」シリーズというのもあるのだけど、こちらは「犀川と萌絵が非日常を送る物語」だと思っていただければ結構です。
高村君には特に行き先があるわけではない。これは高村君の行動としては珍しくはない。高村君の行動原理は90%近くが「なんとなく」に拠っている。後々誰かに説明を求められても、それを果たすことはまず不可能だろう。これまでにも、何となく地下鉄を掘ってみたことがある…、というのは嘘だけど、何となく埴輪を埋めたことならあるのだ。しかも皇居の敷地内に、である。どうやって中に入ることが出来たのかという疑問には、高村君は答える気がまったくないので悪しからず。
高村君は、ウロボロスの蛇のように東京をぐるりと回るあの路線に乗り込んだのである。ウロボロスの蛇というのは、二匹の蛇が互いに互いの尻尾を飲み込んでいるような図形だけど、あれは最終的にはどうなるのだろう。というようなことを高村君はまったく考えていない。
電車に乗った高村君は、折りたたみの椅子を取り出して座った。高村君は、折りたたみ式のものを持ち歩くという癖があり、折りたたみの傘や携帯電話はもちろんのこと、折りたたみのコップやら折りたたみの炊飯器やら、明らかに外出先で使わないだろうというものまで持っている。高村君は、歩いていない時は座るというモットーがあるので、この折りたたみの椅子は非常に重宝しているのである。
高村君は、この路線がどの駅で停まるのかまったく把握していない。そもそも高村君には目的地はなく、ただなんとなく電車に乗っただけなのである。ということは初めの方でも書いた。じゃあ何故また書いたのかと言われても答えようがありません、と高村君は言っている。
高村君は、外の景色を見るわけでもなく、乗客を観察するでもなく、もちろん俳句を詠んだりすることもなく、ただぼーっと座っていた。周りの人達は、突然折りたたみの椅子に座った青年を訝しげに見ているのだけど、高村君はそんなこと気にしない。というか高村君は何も考えていない。
アナウンスが流れる。
「次はぁ~、函館ぇ~、函館ぇ~」
なるほど、この路線は函館にも停まるのか。東京にいながらにして北海道に行けるとは、便利な世の中になったものだ、と高村君は考えている。蟹でも食べようか、と思いはしたが、特に理由もなく止めた。
「次はぁ~、梅田ぁ~、梅田ぁ~」
なるほど、この路線は梅田にも停まるのか。東京にいながらにして大阪に行けるとは、便利な世の中になったものだ、と高村君は考えている。たこやきでも食べようか、と思いはしたけど、特に理由もなく止めた。
「次はぁ~、那覇ぁ~、那覇ぁ~」
なるほど、この路線は(以下略)
というようなことを高村君はつらつらと考えている。
「次はぁ~、東京ぉ~、東京ぉ~」
高村君は、特に理由もなく、東京で降りた。



87.「クイズ」
「クイズでもやろか」
「クイズ?頭使うの苦手やで」
「まあまあ、そう言わんと。パズルの本買ってん」
「まあええわ。第1問」
「『車の中をのぞいたら何があるでしょうか?』だって」
「いやいやちょっと待ちぃな。車覗いたらあかんがな」
「そうやなぁ。もしかしたらいやらしいことしとるかもしらんしなぁ」
「うわぁ、そんなん考える自分がやらしいわ」
「猫とかがな」
「猫かいな!」
「こないだ見た車は、あれやったなぁ、中に風呂があってん」
「んなアホな!」
「ウソちゃうで。あれなんやってんやろな。車の後ろ開けたらとこに浴槽があってな、移動銭湯でもやってるんやろか」
「移動銭湯か。それちょっとおもろいアイデアやな。ちょっと離れてたりすると、銭湯行くのめんどくさいしな。それちょっとやってみようや」
「俺らでか?移動銭湯を?でも女風呂はどうすんねん」
「あぁ、そうか。俺ら二人じゃ対応出来んわな。んじゃまあ諦めるか」
「早っ!」
「ってことはあれか、車ん中覗いたら風呂があるってのが答えか」
「んなわけないやろ!」
「でも答え分からんやん」
「真剣に考えてないような気もするけどな。まあええわ。答えは、『三』やて」
「は?三?どうゆうことやねん」
「だからな、『車』って漢字思い浮かべてみ。でそこからな、『中』って漢字を『除く』ねん。そんだら、『三』が残るやろ」
「なるほどなぁ。『覗く』やなしに『除く』ちゅうことやってんか。そらわからんわ」
「ほんなら次行くで。『目の前に二人の少年がいました』
「少年な。少年じゃなきゃあかんのかいな」
「知らんがな。とりあえず問題聞きぃな。『その少年二人は顔がそっくりで、双子にしか見えませんでした』」
「ザ・たっちみたいなもんやな」
「『そこで彼らに、君たちは双子なの?、と聞いてみたのだけど、違います、と言われてしまいました』」
「なんでやねん」
「それを考えんねん。『さてどういうことでしょう』」
「まあこら答えは一つしかないやろ」
「何やねん」
「クローンやで」
「クローン人間?んなわけないやろ。クローン人間は遺伝子が同じ生物を生み出せるってだけで、年齢まで同じになるわけじゃないしな」
「まあそうか。じゃあれちゃう?マネキンやったんちゃうん?ほら最近あるやん、人間と喋る人型ロボットみたいなん。あんなんがいたんちゃうんか」
「いやこういうのはどうよ。実はその少年は人間じゃなくて蛙だったとかね」
「それでどないになんねん」
「まあ細かいことは気にしなさんな」
「まあ人間より蛙の方がようけ卵産みよるやろしな。そうなると双子どころやないで」
「あぁ、それだわ、きっと」
「どれやねん」
「双子どころじゃないってとこ」
「それがどないしてん」
「だからさ、双子じゃなくて、三つ子とか四つ子とかだったんじゃない」
「おぉ!そうだわ。それ正解だわ」
「おっ、答え合っとるがな。なかなかやりよるな」
「でもさ、やっぱクイズじゃ腹は膨れんぜよ」
「雪山で遭難した時のお供には向かんわな」



88.「夢育人」
「おーい、こっちでまた生まれたぞ」
「分かった、今行く」
「あっ、マサ!先こっち頼む。沈みそうだわ」
「了解っす。パンケル持ってけばいいですか?」
「あぁ、あとノムテンな。こいつ、結構ヤバイねん」
「ノムテン要りますか。結構限界っすね」
「まあでも、出来る限りのことはしたろ」
「それが僕らの役目ですからね」
僕は、『夢育』で働いている。真っ白な壁で覆われた広い空間にいると、距離感が掴めなくなってくる。最近は慣れてきたけど、入りたての頃は大変だった。よく夢を踏み潰しちゃって怒られたっけ。それが今では逆の立場になったんだから、早いものだと思う。
「あぁ、やっぱ無理かな」
「寿命はありますもんね」
「このまま無理に長生きさせるよりもさ、いっそ消滅さしせちゃった方がええか」
「まあこの状態じゃそうでしょうね。このままだと新しい夢も生まれにくくなっちゃいますし」
「じゃあこれはロクソンで頼む」
「分かりました」
ここ夢育は、人間の言葉で言うと天上の世界に存在する。ただ天使なのかというとそれは違うような気がするし、神様だともっと違う。僕らはただ単に夢のベビーシッターなだけであって、決定権も運命を動かす力も何一つ持ち合わせていない。
「さっき生まれたやつはどうした」
「やべっ。忘れてました。まだニョルードにそのままです」
「バカヤロウ!あれだけほったらかしにするなっていつも言ってるだろ!」
「すいません。すぐ行ってきます!」
ここ夢育は、下界に住む人間の夢が生まれる場所だ。下界の人間が、「あれをしたいな」「こんな風になりたいな」と思うと、それがここ夢育で、卵の形になって生まれてくる。それを大事に育てるのが、僕らの仕事だ。
夢の卵は、ニョルードと呼ばれる泉のような場所から湧き出てくる。下界に住むすべての人間の夢を扱うわけだからその数は膨大なものになるが、きちんと担当が分かれていて、僕はその中でも、日本という国の一部を担当している。
「それにしてもここんとこちょっと多いですね」
ちょっと前に夢育人としてやってきたタケだ。おっちょこちょいだが、真面目に仕事をしようとする姿勢が評判がいい。
「そりゃあ、下界は四月だからなぁ」
「四月、ですか」
「四月ってのは、俺らで言うナバトフみたいなもんや。つまり、新学期やな。お前も経験あるやろ。新しい一年が始まる頃になるとさ、いろいろやってみたいこととかこうなりたい自分みたいななんが増えるやろ」
「なるほどそうっすね」
「あと多くなるのは、下界の七月と正月だな」
「何でですか?」
「七月はな、七夕ってイベントがあるんだな。要するに願い事をすると叶うよ、っていう日が設定されてるわけだ。その日になると、もんのすごい数の夢が生まれるわな」
「願い事をする日が決まってるなんておかしいですね」
「で正月ってのはだ、まあこれから一年無事でありますようにみたいなことを神様にお願いするんやな。そういうのもボコボコ生まれてくるわ」
「大変そうですね、その時期は」
「まあでも大変なんは数だけで、大したことはないわな。泡みたいなもんでな、一個一個の夢が小っちゃいからな。まあ叶っても叶わんでもええような夢ばっかちゅうこっちゃな」
「そういうのはちゃんと育てるんですか」
「アホ。そんなんしてたらいくら人手があっても足らんわ。まあほったらかしやな」
夢育人として仕事をしていると、他人の夢を見ることが出来て面白い。長いこと夢育人の仕事をしているけれども、中にはすごいものもいくつかあった。例えば、「天下統一したい」なんてのがあった。初めそれを見た時、そら無理やろ、と思ったものだけど、なんとそいつはかなり近いところまで夢を叶えてしまった。織田信長とか言うやつやったかな。
また、これは自分で担当したわけじゃないんだが、「世界を変えたい」なんていう夢があった。これもまたすごいもんだと思ったもんだが、何とそいつは夢を実現してしまいやがった。アインシュタインとか言ったかな。何かどえらい物理理論をひっさげて、世界を丸ごとひっくり返したらしい。
夢育人は、生まれ出てくる夢自体に何の決定権も持っていない。僕らに出来ることは、その夢が死んでしまわないように育てることだけだ。生まれたばかりの赤ちゃんを病院で育てるのと同じようなものだと考えてもらえばいいと思う。赤ちゃんの生死を病院が握っているわけではない。病院は、赤ちゃんがなるべくしなないように手助けするだけに過ぎない。
ただ、時折歯がゆくなることがある。人間の夢には大きなものから小さなものまで様々だ。「お腹一杯ご飯を食べたいです」なんていう夢があると、絶対この夢死なせないぞ、と思ったりするのだけど、そういう夢の方が生きる力が弱くて、すぐに死んでしまったりする。そういう時、夢育人として無力感を感じることになる。こんなささやかで慎ましい夢も守ってあげられないなんて、自分達はいる価値あるんだろうか、と思ったりもする。それでも、多くの人の夢を守ってあげようと、僕らは日々奮闘するのだ。会ったことも、これから会うこともないだろう人間たちのために。
「どうして僕ら、人間の夢なんか守ってあげてるんでしょうね」
夢育人の仕事に憧れを持って入ってきた新人が、しばらく経つと必ずこの質問を口にする。僕も、実はそうだった。初めは、夢育人は誰かの夢を叶えられるんだ、そういう使命を持った存在なんだという、崇高な使命を帯びているかのようなやる気に満ち溢れるのだけど、しばらく経つと、人間達のありきたりで変わり映えのしない夢を見るのに飽きてきて、また自分達に夢を叶える力がないということを知り、だんだんと無力感に陥っていくのだ。
そんな時、僕が掛ける言葉がある。いや、僕だけではない。他の多くの先達がこう言って後進を育てて来たのだ。僕も入ったばかりの頃に言われたことがある。
「じゃあ僕らの夢は、誰が叶えてくれているんだろうね」
僕たち夢育人にも、それぞれに夢がある。その夢は、叶ったり叶わなかったり様々だが、僕たちは夢育人なんて仕事をしているからこそ分かるのだ。僕らの夢だって、きっと誰かが育ててくれているんだ、と。
僕たちは、その僕たちの夢を育ててくれる存在に直接お返しをすることは出来ない。だからこそ、自分達が出来ること、つまり下界の人間達の夢を育てることで、夢育の連鎖を生み出していこうではないか。
他人の夢を育てることは容易いことではない。それでも僕らは日々、生まれ出てはその多くが消えていってしまう夢を育てていく。一生、人間にはその存在を知られないままで。



89.「数学者の秘密」
これは、数学者しか知らない物語だ。そして僕は数学者ではない。じゃあ誰なのかって言うと、まあ分かりやすく神様みたいなもんだと思ってください。要するにこれは、数学者以外には永遠に知られることのなかった、またこれからも永遠に知られることのないだろう事実である。
ある時から地球では深刻な問題が取りざたされていた。いや、その問題は随分と前から議論されてはいたのだ。しかし、誰も自分の問題として真剣に考えていたわけではなかった。楽観的な見方が大勢だったし、まだ遠い先のことだろうと高を括っていたのだ。
石油の問題である。
石油はまさに枯渇の時を迎えている。もちろんどの時代であっても、もうすぐ石油が枯渇すると言っては人々の不安を煽っていたものであるが、しかし、今回は本当にまずい事態であると多くの人々が認識している。既に石油の産出量は減少傾向にあり、そのために値段も上がってきているのだった。
石油に代わるエネルギー資源を見つけなくてはいけない。これは、世界各国が総力を挙げて取り組むべき問題であった。しかし自国の利益を守ろうとする動きがやはり強かったことと、そして何よりも有益な資源がなかなか見つからなかったこともあって、地球規模でのエネルギーの枯渇という問題が、いまや無視できないほど大きな問題になっていたのである。
一方で、この問題に対する解決を持っていた存在がいた。それが、数学者である。数学者は、もう大分以前から、ある特殊な方法によってエネルギーを生み出すことが出来るということを知っていた。大昔にある異端の数学者が生み出した理論によってそれは広く数学者の間に知られるようになり、またそれが正しい理論であることも証明されることになったのだが、しかし同時に、その理論の二律背反性に囚われてしまい、結局未だに公に公表するに至っていないのである。
毎年サンクトペテルブルグで、数学者による会議が開かれる。これは博士号を持つすべての数学者が召集される、いまや数学の会議において最も規模の大きなものになっている。ここでは、数学の話ではなく、このエネルギー問題が話し合われる。そして毎年、自分達が知っている理論を公表するか否かの判断を下すのだった。
この会議はもう100年以上も続いている。つまりそれは、100年以上ずっと公表が見送られている、ということである。数学者は皆、エネルギー問題を解決する手段として最も有効である、ということを自覚している。しかしその一方で、これだけは譲れない、と考えてもいるのだ。
その理論は、あの有名な方程式「E=mc2」と関連付けて、
『数字とエネルギーの等価性』
と呼ばれている。これが、数学者が頑なに守り続けている秘密である。
アインシュタインは、質量とエネルギーは同一のものである、と看破した。即ち、質量を持つものはすべてその質量に対応したエネルギーを持つ、というものである。
数字とエネルギーの等価性も同じような説明がなされる。なんと、数字という抽象的な存在が、その数字に応じたエネルギー量を持つ、というのである。
その理論によれば、世の中に存在する『数字の総量』というのは決まっている。『数字の総量』は、文字や音声の形で現れるものから、人間の思考の中に現れるものまですべて含めた総量としてカウントされる。
そして驚くべきことに、抽象的な存在であるはずの『数字』を、ある特殊なやり方で処理をすると、そこからエネルギーが生み出されることが分かったのである。それは、質量から生み出されるエネルギーほどではないにせよ、ある程度まとまった形でエネルギーを提供することが可能な量だと算出されている。
しかし、一つ問題がある。その問題こそが、数学者をしてこの理論の公表を立ち止まらせるものなのである。
それはつまり、『数字の総量』が決まっているということに由来する。即ち、『数字』からエネルギーを生み出し続けると、やがて『数字』が枯渇してしまうことを意味する。それは、数字を書いたり発音したりすることが出来なくなるだけではなく、数字を思考することそのものが出来なくなってしまうのである。
数学者はまさにこの点を恐れた。確かに現状でのエネルギー問題は解決されなければいけないだろう。しかし、そのために『数字』を生け贄に捧げることは本当に出来るだろうか。もしこの理論により地球が救われたとしても、そのせいで我々が数学を思考することが出来なくなってしまっては意味がないのではないか。
「よって今年も、本理論の公表は見送ることにします」
今年も数学者はそう結論を出した。
そしてその半年後。地球はエネルギー資源を使い果たし、そのまま緩やかに絶滅した。



90.「透明な炎」
ある日私は学校に行けなくなってしまった。それは突然で、圧倒的な出来事だった。世界が変わっていくのを、ただ茫然と眺めていることしか出来なかった。
いつものように学校へ辿り着いた。いつものように友達とお喋りをし、いつものように授業を受け、いつものようにお昼ご飯を食べた。普通誰もがそうであるように、退屈だけれども、安全でゆったりとした、特別でない一日の時間が過ぎていくだけだった。
五時間目、数学の授業中だったと思う。その瞬間から、私にとっての学校の意味は大きく変わってしまったのだ。
いつものようにぼんやりと外を眺めながら、時々意味の分からない数式をノートに書き写す、そんな時間を過ごしていた。そんな時、視界の端に飛び込んで来たものに、私の目は奪われた。
火、だった。
教室の後ろは生徒の荷物を入れるロッカーになっている。ロッカーは胸の高さぐらいまでのもので、その上にはサッカーボールだとか誰かが脱ぎ散らかしたジャージだとか、雑多なものが置かれていた。
「三橋、ちゃんと前を向きなさい」
ロッカーの上にあるものが赤々と燃えている。メラメラという音が聞こえて来そうなほど、それは圧倒的な火だった。私は驚きのせいで声を失い、しばらくぼんやりとその光景を眺めていたのだ。それを教師に注意された。
「先生、でも…、」
火が、と言おうとして、止めた。何かがおかしい。あんなに火が迫っているのに、あんなに燃え盛っているのに、誰も気づいている気配がないのだ。そんな馬鹿な、と思ったのだけど、でも一番後ろの列に座っている子たちだって全然気づいていないみたいだ。そんなことってあるだろうか。どう見たって、これはもうヤバイくらいの大火事なのに。
「いえ、何でもありません」
私はそう言って、また前を向いて座った。後ろで火がそうなっているのか確かめたかったけど、この火には誰も気がついていないのだ。私一人が騒ぎ立てたらおかしな風に思われるし、どうしたんだろうって思われるだろう。だから、意思の力で何とか前だけ向き続けていた。
熱い。
背中に熱を感じた。思わず振り返ると、もう私のすぐ後ろまで火は迫っていた。私の席は教室の中ほどにある。既に教室の後ろ半分は火の海に包まれている。クラスメイトの大半も、その火に包み込まれているのだ。それでも、誰も熱がっていないし、誰もその火に気づいているような気配はない。
でも、私には熱い。誰にも見えない火かもしれないけど、私にはどうしたってこれは現実なんだ。
私は誰にも何も言わないままで教室を飛び出した。こんなところにいられるわけがない。
それから私は学校に行けなくなってしまった。私にしか見えない火が、あそこにはある。他の誰も気づかないけど、私にだけははっきりと見えてしまう火があそこにはある。それを思うだけで怖くてダメだった。
けど、誰にもそれを説明することは出来なかった。教室が火の海なんです、なんて言っても誰にも信じてもらえるわけがない。事実学校が燃えたなんて話は聞かないし、となれば私が見た火は私の幻覚ということになる。でも、幻覚だろうが何だろが、私にはあの火は本物なのだ。
しかし、火のことを除けば学校に特に不満があるわけでもない。友達にいじめられているわけでも、嫌な教師がいるわけでも、勉強についていけないわけでもない。小さな不満はもちろんあるけど、不登校になるほど強いものなんか一つもない。
だから、学校に行けない理由は誰にも説明できなかった。初めの内は体調が悪い、とごまかしたけど、いつまでも続けられるわけがない。母親は、私がきちんとした理由を説明できないことを、学校で何か嫌なことがあったのだ、という風に解釈したらしい。学校でいじめがなかったかどうか確認してくるというようなことも言っていた。いくらそうじゃないと言っても、じゃあ本当の理由はなんなのと聞かれると答えられない。ますます泥沼にはまり込んでいく。
しばらくは、学校にはいかないけど家の外には出ることにしていた。部屋の中にばっかりいたら気が滅入るし、散歩でもして気を紛らわせるぐらいしかやることがなかった。
でも、しばらくしてそれも出来なくなってしまった。あの火が、私を追って家までやってきたのだ。
ある日外に出ようと玄関まで向かうと、玄関のドアが火に包まれていた。近づくと熱い。ドアノブに手を触れることも出来ない。
これは本物の火だろうか。私には幻覚の火と本物の火の区別がつかない。私は少し考えて、宅配ピザを頼むことにした。30分後、現れたお兄さんは、普通にドアを開けて玄関に入ってきた。私の幻覚で間違いないようだ。
私はそれから家から出られなくなってしまった。ますます世間一般の引きこもりと同じ経緯を辿っていく娘を、両親は心配しているらしかった。私も、きちんとした説明をして安心させたいと思う。でも、火が見えるなんて話をしたら余計に心配させることになるんじゃないかとも思う。もうどうしていいのか分からない。
それからは私は、ずっと部屋に籠って生活をした。本を読んだりテレビを見たり、そんなことばかりしていた。退屈だった。退屈を少しでも埋めようと、父親の煙草を吸ってみたりしてみた。でも退屈さに拍車が掛かるだけだった。でも、それぐらいしか出来ることはなかった。
そしてまさに今、火は私の部屋まで追いついてしまった。
うたた寝から目が覚めると、部屋が火に包まれていた。こうやって私はどんどん居場所を奪われていくのだな、と思った。この部屋にもいられないとしたら、私はどこに行けばいいというのだろうか。
私はしばらくそのままでいた。私にはもう、逃げる場所はないのだ。もうどうにでもなれ、という感じだった。
「火事だぁ!」
外からそんな声が聞こえてくる。へぇ、こんなタイミングでどこか他の家でも火事になったんだ、と呑気なことを考えていた。
「ちょっとあんた、逃げなさい」
下から母親の怒鳴り声が聞こえてくる。そこで私は気づいた。なるほど、今私が見ているこの火は本物なんだって。
何だかちょっと嬉しかった。やっと本物の火に包まれたからだろうか。私は逃げなかった。迫り来る炎を、少しだけ愛しく感じた。



91.「辻斬りの刀」
近頃、妙な噂が立っている。いや、噂自体はよくあるものだ。ただ、大半の噂は歳吉の耳を通り過ぎる。今度の噂は、歳吉の耳に止まったという点で奇妙だということが出来る。
辻斬りである。
往来で人が斬られる。まあ、時々あることではある。大抵しばらくすれば収まったり、下手人が捕まったりして事態は収束に向かう。
ただ、今度ばかりは違う。
もう二月も続いているのである。毎日必ず一人、誰かが殺される。下手人もまだ挙がってはいない。町はこの噂で持ち切りで、次は誰が犠牲になるかと不安に怯えている。
しかし歳吉は違う。確かに歳吉は、今度の辻斬りに関心がある。しかしそれは、不安や恐怖と言ったものとは遠い。興味があるのだ。
辻斬りについては、徐々に情報が増えてきている。初めの内は、ただの謎の辻斬りであったが、その内姿を見た、太刀筋を見た、というものが出始めた。もちろん話に尾ひれはつきものだろう。しかし、多くの話を集めてみるに、共通した点があることが分かる。
片腕なのだ。
今や辻斬りは、「片腕の疾風」と呼ばれるまでになっている。片腕なのに、滅法強いという。その強さは、当代切手の剣客である安一が斬られたことからも分かる。あの安一とやり合ってなお辻斬りを続けているとは化け物というしかない。その太刀筋はまさに風の如くであり、一振りすれば風が起こるとまで言われている。
(会えないものだろうか)
歳吉は考えている。歳吉は武士でも剣士でもないが、しかし強くなりたいとだけ願って生きている男である。剣で身を立てようとか、剣一本でお国とやりあおうとか、そんな大それたことは考えていない。ただ、強い奴と戦って勝ちたい。それだけを考えている。
(戦って勝てるだろうか)
歳吉も腕には自信がある。しかし、安一ほどではない、という自覚もある。安一が斬られてしまったということは、自分で敵う相手ではないと考えるのが妥当だろう。
(であれば、強さの秘訣を請うまでだ)
その願いは案外に早く訪れた。
片腕の疾風を見かけたのだった。
彼は、今まさに人を斬り終わったところで、一仕事終えたという風にどこかへふらっと立ち去ろうとしているようだった。
歳吉は彼を追いかけた。
「頼みがある」
歳吉は鷹揚にそう告げた。
辻斬りは振り向き、まるで奇妙なものでも見たという風に表情を変えた。
「何の用だ」
辻斬りも単刀直入に答える。とりあえず、歳吉を斬ろうというつもりはないようだ。
「なぜそんなに強い」
歳吉も真っ直ぐに聞く。辻斬りはふっと笑い、
「それを聞いてどうする」
と答えた。
「俺は強くなりたい」
辻斬りは歳吉の顔をしばらく眺め、やがて、まあいい、と呟いた。
「俺が強いのは、この剣のお陰だ」
そう言って辻斬りは腰のものを抜く。
「見ても?」
辻斬りが頷くのを見て、歳吉は剣に手を伸ばす。それは、これまでに見たどの剣とも違う奇妙なものだった。そのそも鉄から出来ているのではないようだ。刀身は白く、ざらついている。こんな剣で人が斬れるのだろうか、と歳吉は思う。
「人どころか、鉄だって斬れるさ」
辻斬りは歳吉の考えを読んだかのようにそう言い、薄く笑った。
「どこで手に入る」
辻斬りは、いいのか、と問うてきた。
「どういう意味だ」
「覚悟は出来ているのか、ということだ」
「覚悟?」
「代償は大きいぞ」
歳吉は、構わないと答えた。辻斬りは二つ隣の町にいるという刀鍛冶の場所を口にし、それから去って行った。
翌日。歳吉はその刀鍛冶を訪ねた。
「剣が欲しい」
工房にいたのは、年老いた男だった。
「よかろう。利き腕はどっちだ」
「右だ」
歳吉がそう言ったのと同時に、左腕に激痛が走った。ぼとり、という鈍い音がした。何が起こったのか分からないまま下を見ると、自分の左腕が床に転がっていた。
「安心せい。血は出ん」
そう言いながら彼は落ちた左腕を拾い、奥へと向かった。
しばらく待つと、辻斬りが持っていたのと同じ剣を持って男が出てきた。
「ほら出来たぞ」
持つと力が漲ってくるのが分かる。なるほど、あの辻斬りが強いわけだ。試しに斬ってみたくなる。となれば、勝手に左腕を斬り落とした男を斬るのがいいだろう。
「ワシを殺すのは止めた方がいいだろうよ」
そう言いながら男は、両腕を突き出した。右と左の腕が大分違う。よく見ると、左腕は歳吉の腕そのものであるようだ。
「その剣は、ワシの左腕で作ったものだ」
男はまだ左腕がしっくりこないのか、しきりに動かしている。
「ワシが死ねば、その剣も死ぬよ」
それから歳吉がどうなったのか知る者はいない。



92.「手首」
「お気づきかとは思いますが、最近生徒の間でよからぬことが起きているようです」
ある日の放課後。緊急の職員会議が開かれた。その冒頭、教頭が事態を説明している。皆、大体知っているが、こういう手順は会議には必要なものだ。
「多くの生徒が、手首に包帯をしています。これは、いわゆるリストカットという奴が流行っているということではないでしょうか」
これが議題。最近保護者の間でも大きな関心になっているようで、PTAからも事態の解明を促されていると聞く。しかし、と私は思う。あなた方は親なんだから、自分の子どもに直接聞いたらいかがですか、と。何でもかんでも学校に押し付ける今の風潮がいつ頃から出来上がったのか知らないけど、ちょっと無責任すぎないかしら。
とはいえ、教師としてもこの事態を見逃せないのは確かだ。少なく見積もって、全校生徒のおよそ半分が、左右どちらかの手首に包帯を巻いている。ひと月前くらいからこの現象が急激に広がり始めた。
「先生方にも、生徒に話を聞いていただくよう通達を出しておりますが、どうでしょう、何か事情が分かった方いらっしゃいませんか」
教頭が発言を促す。しかし、その問いに答えられるような人はいないようだ。
私にしても同じ。私だってもちろん、クラスの生徒に話を聞いてみたりしたのだ。私は別に、生徒からそこまで嫌われてるわけじゃない。軽んじられてると感じることもあるけど、でも割と友達感覚で接することが出来る数少ない教師の一人だと思っている。
でも、やっぱり教えてはくれない。誰に話を聞いても、
「ちょっと捻っちゃって」「大したことないですよ」「リストカットとか心配してるんスか?大丈夫っスよ」「ちょっと腫れちゃって。何でかよくわかんないんですけどぉ」
みたいなことしか言わない。結局よく分からないままなのだ。
「もしかしたらなんですけど」
3年A組の担任が口を開く。
「おまじない、とかじゃないんでしょうか」
「おまじない、ですか?」
「えぇ、よくあるじゃないですか。好きな人の名前を書いて枕の下に置くとその人の夢を見られる、みたいな感じの根拠のないおまじないです。これがおまじないだっていうことを誰かに言うと効果がなくなってしまう、っていう風に広まってるものだったら、誰も口を割らないでしょうし」
なるほど、悪くない意見だ。説得力がないでもない。生徒の半分以上がリストカットをしているなんて話よりもよっぽど健康的だ。
そして何より、教師というのは事なかれ主義だ。なるべく、事を荒立てたくない。おまじないかもしれない、という理屈は、そういう体質の教師を納得させるのにうってつけだったと言ってもいいだろう。
「なるほど。ではこれから皆さんには、おまじないなのかどうか、という確認をしてもらうことを重点的にお願いします。ということで会議は終わりです。ご苦労様でした」
たぶん全員が思っていることだろう。これはきっと、おまじないなんかじゃない、と。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

深夜。普段人気のない公園に、ぞろぞろと人が集まってくる。
全員、高校生のようである。
彼らは互いに会話を交わすわけでもなく、虚ろな目をしたままで、静かに一箇所に集まっていく。
その中心に、一人の少女がいる。
見た目はまだ中学生のようである。この場にいるのがまるで相応しくないくらい、もっと言えば教室にいても常に一人でお弁当を食べているような、そんな印象の少女だった。そんな少女を大勢の人々が取り囲んでいる。異様な光景だった。
「早く!」
取り巻く人々の中からそんな声が聞こえてくる。彼らは何かを我慢しているらしい。体が震える者、目の焦点が合ってない者、そんな輩が多い。
「手首を、外していただけますか」
少女は静かにそう告げる。少女を取り巻く人々は、競うようにして包帯を取り去った。すると手首が取れる。どうやら彼らの手首は、包帯によって固定されているだけだったようだ。
「では、順番に」
そう言うと少女は、近くにいた者の、手首のなくなってしまった腕の断面を舐め始める。舐められている男は恍惚と言った表情を浮かべ、うっとりとしている。
少女は次から次へと人の間を縫い歩きながら、腕を舐め歩いていく。人々は、まるで麻薬の禁断症状から救われたかのように活き活きとした表情を取り戻していった。
「では、また明日」
少女は、どこへともなく去って行った。



93.「親指猫の侵略」
悩みが二つに増えた。
一つ目の悩みは、まあありきたりというか単純というかよくあるというか、まあ考えようによってはどうにでもなるというか、二つ目の悩みが発生した今となっては大したことではないような気もしてくるような、そんな悩みになってしまった。
トシユキが最近冷たいのだ。
いや、もっとはっきりと言おう。トシユキは最近セックスをしてくれないのだ。
決してトシユキの性格や態度が変わったというのではない。これまで通り優しくしてくれるし、私といる間も楽しそうにしている。ほとんどの点でトシユキは彼氏として十分私を満足させてくれる。
しかし、ひと月ほど前から、トシユキはどうも私とのセックスを避けるようになったのだ。
普段なら、会えば必ずというほどでもないけど、それなりにはあった。トシユキが常に積極的だったかというとそうでもないけど、でも大抵トシユキの方から誘いを掛けてくるのが普通だった。それがある日を境にして突然なくなったのだ。
始めの内はお互い何事もないかのように振舞ってはいたのだけど、二週間も経つとどうしたっておかしいという感じになる。それでも、私の方から何か問いつめることも、トシユキの方から何か弁解があったわけでもない。トシユキも、私が違和感を感じていることには気づいていることだろう。それでも、何でもない風を装って私たちは会い続けている。このままでいいわけがない、とはもちろん思っている。しかし、浮気をしているような感じでもないし、私を嫌いになったというなら会わなければいい。何か深刻な事情が出来たのだろう、と思っているのだけど、それを打ち明けてくれないのがもどかしい。
ここのところずっとこの問題と一人で格闘していたのだけど、ついこの間新たな難問が降りかかってきて、それまでの悩みを吹き飛ばしてしまったのだった。
私の足の親指である。
ある日、猫を飼う夢を見た。私は昔から猫が好きで、ずっと飼いたいと思っていたのだけど、でも飼えない理由があるのだ。トシユキが猫好きではないという理由もあるのだけど、それよりももっと深刻なトラウマがある。
子どもの頃、近所に住んでいた野良猫に餌付けをしていたことがあった。私にも懐いてくれて可愛がっていたのだけど、ある日その猫がネズミを口に咥えてやってきたのだった。私は悲鳴を上げて逃げた。猫としては、私にご褒美でもあげるつもりだったかもしれないし、あるいはネズミを仕留めたことを褒めてもらいたかったのかもしれないが、ネズミだけはダメだ。ネズミは見るだけでじんましんが出そうになる。どのくらい酷いかって、ディズニーランドに行けないくらいなのである。
だから、猫を飼ったらまたあの時のようにネズミを咥えてくるのではないかと、それを恐れているのだ。
でも、夢の中でならいい。私は、ついぞ飼うことのなかった猫と夢の中でゆっくりと戯れていた。
その朝私は、猫の鳴き声で目が覚めた。
初めは、まだ夢を見ているのだと思った。しかし、完全に目が覚めた後も、猫の鳴き声が聞こえてくる。ここはマンションの12階だ。猫の鳴き声が聞こえるわけがない。
その内、右足の親指に違和感を感じだ。妙にフワフワするのである。何だろうと思って見てみると、そこに猫がいた。
私の右足の親指が猫になっていたのだった。
私はまた、これは夢なのだろう、と思った。しかし、だんだんこれは紛れもない現実なのだ、ということが分かってきた。
親指猫は、尻尾以外はきちんと揃っていた。通常爪のある方に頭があり、きちんと四本の足も生えていた。三毛猫で雑種のようだったけど、そもそも親指に生えてくる猫が雑種かどうかなんてどうでもいいと後で気づいた。
それから私の生活は大きく変化した。
と言いたいところであるが、さほどでもなかった。親指猫はそれまでの親指と大きさとしては大して変わらなかったし、体も小さいから餌だって少なくて済む。それにこの大きさならネズミを捕まえることだって出来ないだろう。靴を履いている時、中から時々鳴き声が聞こえてくることだけが難点ではあったが、まさか靴の中に猫が入っていると思う人もいるわけがなく、そこまで不審がられることもなかった。
人前で靴下を脱ぐことが出来なくなったが、これもそう機会があるわけでもない。一番問題になるのはトシユキとのセックスであるが、これも原因こそ分からないがしばらく音沙汰がない。何故トシユキがセックスをしなくなったのか、という問題は残るものの、悩まなければならない対象ではなくなったのはありがたかった。
そんなわけで、私の生活は総じて変化がないと言ってよかった。
そんなある日のことだった。休日にトシユキと部屋でゴロゴロしている時、トシユキが真剣な面持ちで話を切り出したのだった。
「今まで黙っててゴメン」
いきなりそう言われて面食らった私は、トシユキが隠しているという内容をあれこれ考えている余裕はなかった。
「たぶん僕らはもう別れないといけなくなると思うんだけど、このままでいいわけないし」
えっ、何なに。そんな深刻な話なの。私はうろたえた。トシユキが何の話をしようとしているのか分からない。ただ、しばらくセックスをしていないことに関しての話なのだろう、ということぐらいは分かった。
「驚かないで欲しい、って言ってもたぶん無理だと思うんだけど」
トシユキはそう言うと、おもむろに右足の靴下を脱ぎ始めた。
その親指は、ネズミに変わっていた。
私は悲鳴を上げ、トシユキを突き飛ばし、そのままの格好で部屋から飛び出した。冷静になる必要があった。とにかく走りながら、今見たネズミの姿だけは必至に忘れようと思った。
しばらくして部屋に戻ると、トシユキはもういなくて、書置きだけが残っていた。
『ごめん。やっぱりもう会えないよね。でも隠したままでいるのが辛かったんだ』
もし私の親指が猫になっていなかったとしたら、トシユキの足の親指を見てもイタズラだとしか思えなかっただろう。こんな酷いやり方をしてまで私と別れたかったのか、という発想にしかならなかっただろう。
しかし、今なら私にも理解出来る。本当にトシユキの親指はネズミに変わってしまったのだ。しかし何ということだろう。私の親指は、ネズミの天敵である猫に変わってしまったし、私自身もネズミは死ぬほど嫌いだ。トシユキのことは今でも大好きで、トシユキ本人には何の非もないのだけど、それでも親指がネズミに変わってしまったトシユキをこれまで通り愛する自信はない。
私はどうしたらいいのか分からなくなった。ただどうすることも出来なくて、親指猫をゆっくりと撫でていると、夜が明けた。



94.「歩く」
僕の目の前に足跡が続いている。ずっとこの足跡を追いかけて歩いてきた。それ以外に進むべき標は何一つない。足跡は、見渡す限りどこまでも続いている。金色に輝く砂が、すべてを飲み込んでしまうかのように堆積している。
僕はもうずっと砂漠を歩き続けている。何故自分が砂漠を歩いているのか、どこへ向かおうとしているのか、そんなことはすっかり忘れてしまった。ただ、砂に飲み込まれないように、規則正しく足を動かし続けるだけだ。
僕は右手に、さっき拾ったばかりの傘を持っている。何で砂漠に傘が落ちていたのか、僕は考えない。僕はただ、特に理由もないままそれを拾い、しばらく持ち歩いていたのだった。
しかし、やはりどうしても砂漠で傘を使うとは思えない。自分は無駄なものを持ち歩いているのではないか。ふと太陽に目を向けると、一瞬大きく揺れ動いたかのように見えた。それが、まるで太陽も僕の考えに同調したのだという風に思えて、僕は傘を捨てることにした。正しいことをした、と僕は思った。僕は正しい形のままで、また足跡を追いかけながら砂漠を一人歩き続けた。
砂漠には、何もない。あるのは砂と太陽だけだ。ほんの僅かな植物も見当たらないし、動いているのも自分以外には見当たらない。時々オアシスを見かける。それが唯一の変化であり、また唯一の休息所でもある。
ただ、僕には砂漠を歩いている理由が思い出せない。目的地があったのかどうかも分からない。つまり、何を持って終わりとすればいいのか分からず、だからオアシスでさえも気休めに過ぎない。どんなに長い旅路でも、ゴールがはっきり分かっているからこそ休息にも意味を見出すことが出来る。僕のようにゴールのない旅では、休息はただ間延びしたゴムのような時間に過ぎなかった。
やがて陽が沈み、追うべき足跡が見えなくなる。そうなると歩き続けることが出来なくなって、僕は寝ることにする。砂漠の夜は寒い。僕は震えながら、熱を失った砂の上でまどろむ。
翌朝。太陽が顔を出し始める頃から歩き始める。涼しい時間に距離を稼がなくてはいけない。毎朝、僕は夢を見ていたのではないか、と期待する。目が覚めると、どこかベッドの上に横になっていて、それまで砂漠を歩いていたのは夢だったのだ、となることを期待している。しかしその期待は毎朝裏切られる。僕には、砂と太陽しか与えられない。
これまでと同じように足跡を追って歩き続ける。この足跡はどこまで続いていくのだろう。追い続けると、どこか意味のある場所に辿り着くことが出来るだろうか。
前方に何か落ちているのが目に入る。砂漠はどこを見ても景色が変わらないから、何か変化があればすぐ分かる。まだその地点まで遠いが、何が落ちているのだろうかと期待が膨らむ。しかし、何であったら一番喜ばしいのか、自分でもイマイチ分からない。特に具体的な何かを思い描いているわけではない。
落ちているものは傘だった。どうして砂漠に傘が落ちているのだろうか。しかし僕は、何だかこの変化が嬉しかった。とりあえず、その傘を拾い、もって歩くことにした。杖として使えるかもしれない。
そうして僕はまた、永遠に続くかに思える足跡を追いかけながら、砂漠を一人歩き続ける。



95.「こいのぼり」
ぼくはほんとうにときどき、外にだしてもらえる。そうじゃないときは、ずっと暗い箱のなかにいれられてるんだ。
きのう、ぼくはひさしぶりに外にだしてもらえた。ほんわりこもった空気からかいほうされて、ぼくはなんだか体まで軽くなったようなきぶんになれたんだ。
ぼくは外に出ると、たかいところにつれていってもらえる。そこで風にふかれながらのんびりするんだ。
「あっ、こいのぼりだ!」
ときどきそんな子どもの声がきこえてくる。だからぼくは自分がこいのぼりってよばれていることを知っている。
いつもほんの少ししか外にだしてもらえないんだけど、でもそのあいだはとっても気持ちがいいんだ。風がぼくの体の中をすいすいとおりぬけていって、ぼくはどんどんうきうきしてくるんだ。
そうやってぼくは、ときどき外に出してもらって、この風をたのしんでいる。また暗い箱の中にしまわれちゃうのは哀しいけど、いまはそんなことをかんがえないでうきうきした気分にみをまかせよう。
「ねぇねぇこいのぼりくん」
ぼくをつなぎとめているポールのてっぺんに鳥さんがとまっている。鳥さんはぼくにときどき話しかけてくれるんだ。お空を自由にとびまわれる鳥さんのことが、ぼくはすごくうらやましいんだ。
「ずっとおなじところをとんでてたいくつじゃない?」
「そうなんだ。でも僕は鳥さんみたいに自由にはとびまわれないよ」
「どうして?君だって自由に飛んでみたらいいじゃないか」
鳥さんにそう言われると、なんだかじぶんにもできそうな気がしてくる。そうだ、考えてみればどうしてぼくはずっとおなじところをとんでなくっちゃいけないんだろう。お空はこんなにひろくって、どこだってとんでいくるはずなのに、ぼくだけがおなじところばっかりとんでなきゃいけないのはいやだなぁ。
「鳥さん手伝ってくれるかい?」
「うん、いいよ」
そういうと鳥さんは、ぼくがつながれているひもを突きはじめました。がんばれ、がんばれ、と鳥さんを応援しならが、これでぼくも自由にお空をとびまわれるんだと思って嬉しくなりました。
「ほら、どうだ」
鳥さんがそういうと同時に、ぼくの体がふわりとうきあがりました。ついにやったのです!ぼくは何にもじゃまされることなく、自由にお空をとべるようになったのです!
「気持ちいいなぁ」
風にふかれながらゆらゆらとお空をとんでいくのはとても気持ちがいいことでした。初めのうちは行きたい方向にとんでいくのはむずかしかったんだけど、そのうちコツをつかんで、自在にとびまわれるようになりました。
「こんにちわ」
蝶々さんがいたのであいさつをしてみました。
「こんにちわ、こいのぼりくん。こんなところをとんでるなんて珍しいね」
「そうなんだ。ぼくは自由になったんだよ!これからはどこへだって行くことができるんだ!」
「それはよかったね!で、こいのぼりくんはこれからどこへ行くつもりんなんだい?」
そういわれてぼくは考えてしまいました。ぼくはただ自由にお空をとびたかっただけなのです。それにいままでずっとおなじところばかりとんでいたので、どんなところがあるのかもけんとうがつきません。
「まあそんなに考えこまなくてもいいよ。そのうち見つかるよ」
そう言って蝶々さんは向こうへとんでいきました。
こんどは白鳥さんを見かけました。
「こんにちわ」
「こんにちわ。あんたどうしたの?迷子かい?」
「違うよ。ぼくは自由になったんだ。自由にどこまでもとんでいけるんだよ」
「へぇ、珍しいこいのぼりがいたもんだね。で、これからどこへ行くんだい?」
またです。またどこに行くのかと聞かれてしまいました。ぼくは、どこか行き先がないのはダメなのかなぁ、と考え始めています。
「あたしはこれから北の方へ行くよ。じゃあね」
そうして白鳥さんは北の方へと飛んでいきました。
今度は凧さんに会いました。
「こんにちわ」
「こんにちわ。あんたこんなとこで何しとるん?」
「ぼくは自由にとべるこいのぼりになったんだ」
「へぇ、そらうらやましいなぁ。俺なんかいつまでもこうやってひもにつながれたまんまだからなぁ。であんた、これからどこへ行くんだい?」
ぼくはなんだかこまってしまいました。お空ではみんな、どこか向かう場所をもっているみたいです。どこに行ったらいいのかわからないのはぼくだけみたいです。ぼくは自由にお空をとびたかっただけなのに、なんだかそれじゃあダメだって言われているみたいです。
「ぼく、どこに行ったらいいのかなぁ」
「さあな。でもな、みんなそれぞれただしい場所ってのがあるもんなんだ。俺だって、このままどこまでもとんでいっちまいたいけどな、けっきょくこのひもにに引っ張られて、元いた場所にもどるんよ」
ぼくはこれまでのことを思い出していました。子どもたちがぼくを見つけて喜んでくれること、役目を終えて箱にしまわれる前におじさんがぼくを綺麗にしてくれること、暗い箱の中にいるときかたりあった虫さんたちのこと。いままでちゃんと考えたことのないささいなことだったけど、こうして何からも自由になって考えてみると、そうした日々はとても大切なものだったような気がしてきます。
「ぼく、戻るよ。やっぱりこいのぼりは、こいのぼりらしくしてないとね」
ぼくはやっと行き先を見つけることができました。つかのまの自由は、ぼくに大切なことを教えてくれました。



96.「親方の苦悩」
親方は、つい先ほどの告白について頭を悩ませている。
(まさかこんなことになるとは)
どうしたらいいだろうか。相撲界全体で見ても、まさに前代未聞の出来事ではないだろうか。慎重にならなくてはいけない。水乃海には、最終的にはこの部屋を出て行ってもらうしかないだろう。このまま隠し続けられるわけがないし、それはどうしたって避けられないと思っている。
しかし、水乃海は天性の相撲取りだ。失うのはあまりにも惜しい。このまま成長してくれれば横綱だって夢ではない。それぐらいの実力を持っているのだ。
(だからと言ってこのままでいいわけがない)
親方の思考は堂堂巡りに入り込むのだった。
水乃海は、ある日自分で松坂部屋の門を叩いてやってきた。
「相撲取りになりたいんです」
初めて見た時の印象は、線の細い子だな、というものだった。当時中学生になるかならないかぐらいだったと思うけど、背は低いしがたいも全然よくない。まさかこんな子が相撲部屋にやってくるとはなぁ、と困惑したことを覚えている。
「稽古をつけてもいいけど、まず太らないとどうにもならないね」
正直どうしたものか迷っていた。当時弟子の数は減っており、新たに入ってくる者も減り続けていた。このままでは、部屋の運営すら危ぶまれる。そんな状況だったのだ。とにかく、一人でも多く新弟子を獲りたかった、という思惑もあった。
一方で、こんな体格の子では大成しないだろう、とも思った。どの世界でもそうだろうが、相撲も成功への道はかなり狭い。やる気があるなら仕方ないが、しかし失敗すると分かってこの道に引き入れるのも残酷だと思う。
「太ります!一杯食べます!だからよろしくお願いします」
実際、水乃海のやる気は凄いものがあった。確かに体格的にはかなり不利だった。しかし、どんな稽古であっても歯を食いしばって耐えたし、疲れすぎて食欲がない時でさえとにかく食べた。水乃海はぐんぐんと成長して行き、あっという間にそれなりの体格になった。筋力もメキメキと付き始め、同年代の弟子達と見劣りしないぐらいまでになったのだった。
(これはひょっとしたらひょっとするかもしれないな)
親方は、密かに水乃海に期待を掛けていた。技の習得も早く、汲み取りのセンスにも長けていた。実際、弟子の中でも実力ではトップクラスになりつつあったのである。
しかし、水乃海には不可解な点があった。
一つは、両親についてである。普通息子が弟子入りするとなれば、両親は少なくとも一度は部屋に来るものだし、また練習を見に来ることも結構あるものだ。しかし、水乃海の両親は一度も顔を見せることがなかった。親方も電話で話したきりで、お世話になります、という会話をしたきり音沙汰はない。まあそういう親もいるのかもしれない、とも思ったが、不思議であることには変わりなかった。
もう一つは風呂である。
水乃海は、稽古部屋に併設している風呂には絶対に入らなかったのだ。これは入門当初からで、親方を初め何人もの人間が理由を聞いたり説得したりと手を尽くしたのだが、結局翻意することは出来なかった。今ではその理由はよくわかる。だからこそ、苦々しいのだ。
水乃海は、稽古部屋の近くにある銭湯に通っていた。少なくとも本人はそう言っていた。しかし不思議なもので、その銭湯で誰も水乃海の姿を見ることはなかったのだ。その銭湯は稽古部屋の近くにあることもあって、他の弟子たちも時々利用する。しかし彼らは、一度も水乃海と鉢合わせたことがないという。これも当時は謎であった。
しかし、水乃海はメキメキと強くなっていった。見た目も、入門当時の面影はまったくなくたくましくなり、技や風格さえも一人前の力士と言ってよかった。親方としては、そろそろ場所に出させよう、そんな風に思っていた矢先のことだった。
発端は、ある弟子からの報告だった。
「水乃海は廻しを頻繁に洗っている」
それだけ聞けば大したことではないように思うかもしれない。しかし、力士というのは基本的に廻しを洗わないものなのだ。験を担ぐというのが一番大きい。確かに不潔であるが、しかしそれが習慣でもあるのだ。
しかし水乃海はそれを頻繁に洗っているという。確かに、別に問題にするようなことではないだろう。親方もそう思った。しかし、普段が普段の水乃海である。何か理由があるのかもしれない。そう思い、問いただしてみることにした。
すると水乃海は、もう隠し通せないと思ったのか、涙を見せて告白をしたのだ。
「…生理の時の血がついてしまうことがあるので…」
親方は衝撃を受けた。なんと水乃海は女だったのだ。誰も気づきはしなかった。初めて見た時は中学生ぐらいで、まだ女性としての成長していなかった。それからは、他の弟子と同じように太り、また筋力もつけた。胸は筋力に隠されて女性らしさは失われていたし、腰周りのくびれなんてあるわけがない。稽古部屋の風呂を使わなかったのも理解出来るし、親にいたってはもしかしたら、電話が来た時だけ親のフリをしてもらえるように誰かに頼み込んだのかもしれない。
「本当…なのか」
「はい。申し訳ありません、親方」
水乃海を解放した親方は、どうしたものか頭を悩ませている。これまで誰にも気づかれなかったのだから、このまま場所に出しても問題はないかもしれない。しかし、もしバレたら部屋全体の問題になるだろう。それにそもそも土俵は女人禁制だ。水乃海を土俵に上げるなんて端から問題外のはずなのだ。しかし、あの強さ。このまま黙っていれば、この部屋から横綱が誕生するかもしれないのだ。その逸材を、このまま見過ごしていいものだろうか。
親方は財布から百円玉を取り出した。表が出たらこのまま口を噤んでいよう。そう決めて、コインを指で弾いた。



97.「キャサリン」
「タカオ、今どこにいる」
「品川ですけど」
「すぐ新宿へ向かってくれ。まただ」
「またですか。分かりました」
これで何件目だ。確か前の渋谷で8件目だったはずだ。新宿でまた起きたとなれば、これで9件目ということになるのだろう。
まったく、尋常じゃない。
タクシーで新宿へと向かうと、途中で検問が敷かれている。新聞記者であっても中に入ることは出来ないようだ。
「どうしますか」
タクシーの運ちゃんだ。
「ここで降ります。領収書下さい」
焦っても仕方ない。どうせ今行っても、キャサリンは見つかりっこない。
七月に入ってからここ二ヶ月で、都内で爆破事件が連続して起きている。初めは霞ヶ関が狙われたために、政治的な背景も疑われたのだが、その後中野、上野、浅草、原宿など、一貫性のない場所での爆破が相次いだ。今のところ、誰が何のために起こしているのかさっぱり不明だ。手掛かりも、ほとんどないと言っていい。
その謎の爆破事件の唯一の手掛かりと言ってもいいのが、キャサリンだった。
初めのうちは、その存在ははっきりとしたものではなかった。しかし、三度目の爆破事件から、徐々にその女の情報が集まり始めた。
「爆破の数時間前、金髪の美女があのビルに入っていくのを見かけた」「ブロンドの白人が爆破の直前に不審な行動を取っていた」「爆破の前に現場に走って向かう金髪の女性を見かけた」
多くの人が、爆破現場の近くでこの金髪の女性を見かけているのだ。初めは単なる偶然だと思われていたが、様々な情報を付き合わせると、目撃者の証言がかなり一致するし、容姿の特徴もピッタリだった。警察ではこの謎の女性を指名手配にし、最重要参考人として行方を追っている。
その女性は、やがてキャサリンと呼ばれるようになる。これは、うちの編集長が誌上で初めてつけて、以後それが広まったものだ。今では、「キャサリン爆破事件」という名前で誌面を飾るまでになっている。
だからこそ、うちの新聞がスクープを追い続けなくてはいけない。この報道の先駆的な存在だからこそ、ネタを逃すわけにはいかないのだ。この事件に専属で駆けずり回っているタカオのプレッシャーはかなりのものである。
とりあえず現場に近づけないとなれば、やれることは限られている。写真は別の人間が押さえているだろう。とりあえず出来ることは目撃者の証言を集めることだが、爆破時の話を聞いても仕方がない。キャサリンを目撃している人間を何とかして見つけなくてはいけない。それにはどうすればいいか。
思案するタカオは、ふと視界に何か気になるものが入ったと感じた。何だろう。辺りを見渡してみる。ここは爆破現場からも遠く、野次馬こそ多いが喧騒に包まれているわけではない。人々は爆破現場の方を向いている。そんな中、爆破現場から遠ざかる方向へ歩く女性が目に入った。
キャサリンだ。
タカオはもちろん、キャサリンを直接目撃したことはない。しかし、目撃者の証言を聞いてキャサリンの容貌はきちんと頭に入っている。まさにその通りの女性が、ゆっくりと何でもないかのように通りの向こうを歩いているのだ。
(これはスクープだ)
タカオはゆっくりと女の後を追った。気づかれる心配は無用のようだ。女は後ろを振り返ることなく、歩みを止めることなく進んでいく。
(このまま行けば、キャサリンが爆弾を仕掛ける現場を押さえることが出来るかもしれない)
タカオはようやく掴んだ特ダネの匂いに狂喜しながら、落ち着いて女を尾行した。
女は二駅ほど歩いた後、とあるデパートの中に入っていった。よかった。オフィスビルなんかに入られたら後を尾けられないところだった。それともこの女はキャサリンとは無関係で、ただ買い物にきた外国人なのだろうか。
三階までエスカレータで上がったところで、女は急に振り向いてタカオの方を向いた。
「私をお探しかしら?」
タカオは気圧されそうになったが、ここで引くわけにはいかない。
「あぁ、君がキャサリンだとしたらね」
「よかったわね。私は、あなたたちが言うキャサリンよ。私たちは、と言った方が正確かもしれないけどね」
(私たち?どういうことだ?彼女の背後にある組織について言っているのだろうか)
「君が爆弾を仕掛けて回っているんだね」
するとキャサリンは可笑しそうに笑った。
「それは勘違いね。私が爆弾を仕掛けているわけではないわ」
「でも君は、爆破現場の周辺で必ず目撃されている」
「そう、私たちはね」
そう言うとキャサリンはまた薄く笑うのだ。
(どういうことだ?)
「どうせ最後だし、教えてあげるわ」
「もうこれで爆破は最後だということか?」
「違うわ。あなたの人生がもう終わりということ」
つまり今からこのデパートを爆破させようというのだろうか。しかし彼女は起爆装置を仕掛けるような素振りを見せなかった。あらかじめ爆弾を仕込んでいたのだとしても、わざわざ自分が巻き添えになるようなことはしないだろう。
「あなたがたがキャサリンと呼ぶ人間は、たくさんいるのよ。私とまったく同じ姿かたちをしたキャサリンがね。つまりクローンっていうわけ」
そう言うとキャサリンは、一歩ずつタカオの方へ近づいてくる。
「そしてね、私自身が爆弾なのよ」
そう言った瞬間、キャサリンは起爆した。



98.「エベレストの自転車」
エベレストの頂上には、一台の自転車がある。
これは、その自転車にまつわる話だ。
未だに、これは都市伝説の類だ、と思われている。それも仕方ないかもしれない。なにせ、エベレストに登って確かめよう、なんて酔狂な人間はそう多くはないからだ。
しかし、エベレストの頂上には自転車が存在する。紛れもなく。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
物語は、東京から始まります。

「名古屋に行きたいってさ」
「今時ヒッチハイクか。珍しいな」
大き目のノートブックに、
『僕を名古屋に連れて行って』
と大きな文字で書かれている。それを持って道の脇に立っている青年がいるのだ。
「まあ名古屋なら通り道だし」
「乗せてってもいいか」
二人はこうやってノリで物事を決めることが多いのだ。
「やぁ、名古屋まで行きたいんだって」
「そうなんです。乗せていってくれますか?」
「いいよ、乗りな乗りな」
「ありがとうございます」
そういうと青年は、ノートブックの一枚目を破り捨てて、そのまま地面に捨てた。
「おいおい、そらいかんだろ」
「すいません。でも、験担ぎなんです。僕なりの、ヒッチハイクを成功させるおまじないっていうか」
「まあそうだっていうならしょうがねぇか。まあじゃあいくぞ」

しばらくしておじいさん登場。

「誰だ、こんなところに自転車を停めおったのは」
道端に放置されているかのような一台の自転車。その自転車は、おじいさんの家の目の前に停められていたのです。
「まったく、ここは駐輪場じゃないんだぞ」
ここでおじいさんは、地面に落ちている一枚の紙を拾い上げます。そこには、
『僕を名古屋に連れて行って』
と書かれているのだけど、おじいさんにはその文字は見えません。裏返しになっていたからで、おじいさんはその紙を使おうと思ったわけです。
ちょうどよくボールペンを持っていました。おじいさんは軽い痴呆の症状があり、なるべくいろんなことをメモする習慣を持っていたからです。
おじいさんは拾い上げた紙に書きます。
『駐輪禁止』
それを自転車のかごに放り込んでおきました。

しばらくして一人の男性登場。

(明日からGWだけど、さてどうしたものか)
男性は考えています。
(電車も飛行機も混むだろうし、車で行っても渋滞だろう。かと言って家にいるのも何だかもったいないし)
連休をどうやって過ごそうか、という悩みのようです。
その時男性は、一台の自転車を目にしました。
(なんだこの自転車)
その自転車のかごには紙が入れられていて、そこには、
『僕を名古屋に連れて行って』
と書かれています。
(なるほど、これは面白いかもしれないな)
男性は何かひらめいたようです。
(自転車で名古屋まで行くってのはどうだろう。ちょっと遠いけど無理な距離じゃないし、サイクリングっていうのも悪くないかもしれない)
でも、この自転車勝手に乗ってもいいのでしょうか?
(それに、『僕を名古屋に連れて行って』って書いてあるしな。たぶん誰かがチャレンジしてるんだろう。自転車にメモを貼るだけで、その場所まで自転車を連れて行くことは出来るか、みたいな)
男性はタイヤの辺りを見ています。
(ほら。鍵もついてないしな。やっぱり誰かが遊びでやってるんだろうな。ってことは乗っていってもいいってことだ)
男性は自分の思いつきがなかなか冴えてると、ウキウキしながら自転車を持ち帰りました。

さて、男性が名古屋に辿り着いたようです。

(こいつともこれでお別れか)
男性は長旅を共にした自転車との別れを惜しんでいます。
(でも待てよ、これってここで終わりにしちゃっていいんだろうか)
男性は考えます。ちょっと面白いことをひらめいたようです。
(そうだよそうだよ。書き換えちゃえ)
男性はペンを取り出し、『名古屋』の文字を消して、『アメリカ』に書き換えました。
(まあこれぐらい大きな目標にしないとな)
男性は自分の思いつきに満足しながら、自転車を名古屋に置いていきました。

こうして長い時を経て、この自転車はエベレストの頂上まで旅を続けてきたのです。

2008年に書いたショートショート集 No.51~No.73

51.「夫はたぶん…」
たぶん今日が一週間目だと思う。カレンダーのない生活というものが、これほどまでに日にちの感覚を失わせるものなのか、と驚くほどだが、それでもまだ一週間だ。これから自分がどうしようというつもりなのか、僕には未だにはっきりとは分かっていない。
埃っぽい。
僕は自分の家の屋根裏部屋にいて、そしてそこに失踪している。僕は正しいことを正しい表現で言っているつもりだ。僕は自宅の屋根裏部屋にいて、そこに失踪している。屋根裏部屋と言ってもここはちゃんとした部屋ではなく、押入れの天上板を外して入り込んだ空間というだけなのだが。
「ねぇ、お父さんは?」
「お父さんは病気で入院しちゃったんだって、この前説明したでしょ」
下から子どもと妻の声が聞こえてくる。もう一週間も子どもとも妻とも会話をしていない。しかし考えてみれば、それは僕のかつての日常とさして変わらないはずだった。日々仕事に追われ、家族と話す機会などほとんどなかったといっていい。それなのに、今無性に彼らの声を遠く感じる。以前から遠かったはずのものが、その遠ささえ感じることが出来ないくらい遠くに行ってしまったように感じられるのだ。
一週間前、僕は家族を捨てた。家族だけではない。僕の生活に付属していたありとあらゆるものを捨てることにしたのだ。ちっぽけな会社の経理という立場、一人の息子の父親という立場、一人の妻の夫という立場、一つの国に住むとある国民という立場。僕はそういうもろもろをすべて捨て去ってしまいたい衝動に突然駆られたのだった。
僕はこの一週間というもの、何故自分がそんな衝動に襲われたのか真剣に考えることに時間を費やした。しかし、結局のところ何の答えも浮かばなかった。仕事に不満があったわけではない。家族を嫌悪していたわけでもない。世界に対し漠然とした不安を感じていたということもない。神経の病気だとも思えないし、何か被害妄想があるわけでもない。それでも僕は、今ここにいてはいけないと感じ、それが無二の正しさを持っていると信じ、そしてそれを実行に移すために失踪したのだった。
失踪する先に何故屋根裏部屋を選んだのか、それも僕には理解の出来ないことだった。しかし同時に、この世界にはここ以外には僕に居場所がないという直感も僕にはあったのだ。僕はどこにも誰にも受け入れられることはないに違いない。だからこそ僕は、外側へ深く失踪するのではなく、より内側へと失踪することにしたのではないかと思う。
恐らく妻は、僕が屋根裏部屋にいることには気づいていないはずだ。僕は用心して、音を立てるようなことも、何かの痕跡を残すようなこともしていないはずだった。食料や水は出来る限り大量に買って置いてある。携帯トイレの買い置きもたくさんある。まだしばらくはこの屋根裏部屋に居座ることは出来るぐらいの量はある。ずっとここでバレずに生活をしていくことは不可能であるとしても、今はま大丈夫なはずだ。そもそも妻がこのことに気づいているのなら、真っ先に屋根裏部屋を見に来るはずなのだ。
僕はまたしばらく考えに耽ることだろう。自分の正しさを支える言葉を生み出したり、自分の行動の意味を見出すための思索に忙しい。それにしても、屋根裏部屋での生活は快適で、どうして僕は今まであくせくと仕事なんかしなくてはいけなかったんだろう、とよく思う。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「ねぇ、お父さんは?」
「お父さんは病気で入院しちゃったんだって、この前説明したでしょ」
息子には何度この説明をしたか分からない。普段夫は帰ってくるのが遅いのだけど、でも夫を起こすのは息子の役割だったのだ。当然今は、毎朝起こすべき相手がいないということになる。その度にこう聞かれるのだが、嘘を突き通すしかない。
しかし、何故嘘を突き通すしかないのだろう。たぶんもっと単純で明快な解決方法があるはずなのだ。
そう、夫はたぶん屋根裏部屋にいる。
特になんの根拠もあるわけではない。音がするわけでも、何かがなくなっていたりというようなことがあるわけでもない。しかしそれでも、私には何となくわかるのだ。夫は、いなくなったその日から、きっと屋根裏部屋に失踪しているに違いない。
であれば、私が屋根裏部屋に行き夫をを見つけてくればいい。たぶんそれが最も手っ取り早い。どうして私はそれをしないのだろう。
わたしには、いくら考えても分からない。
この一週間というもの、私に出来たことはただ考えることだけだった。夫が何故失踪してしまったのか、ということももちろん時々意識には上った。その度ごとに、夫が失踪する理由を思いつけず悩んだものだが、しかしそれ以上に私を悩ませたのは、何故私は夫に会いに屋根裏部屋に行かないのか、という疑問だった。
このままでいいと思っているのだろうか。
夫に特に不満があったわけではない。毎日仕事で帰りが遅いけれども、それは仕方のないことだし、会話を交わす機会があまりなかったとしても、やはり彼は夫としてそして父親として間違ったことは何一つしていなかったと思う。
それなのに、その夫がすぐ近くに失踪してしまっているというのに、私はそれにどうして知らないフリをしているのだろう。
今だって、夫が屋根裏部屋にいると知っていながら、夫が失踪した直後警察に失踪届を出したし、夫の会社や知人に連絡をして行き先を聞いたりもした。私が働いている会社に事情を話してしばらく休ませてもらってもいる。そのすべてが徒労であることを私は知っているのだ。
屋根裏部屋にいる夫は日々何を考えているのだろう。それまでとは違った充実した生活を送ることが出来ているだろうか。しばらくは屋根裏部屋で生活できるとして、それからは一体どうするつもりなのだろうか。
失踪から七年が経過すると死亡とみなされる。もし夫がこの屋根裏部屋でその日を迎えるのだとしたら、その日に声を掛けてあげようかしら。
「あなた、死んじゃったみたいですよ」
さて、何か料理でも作って持っていってあげようかな。



52.「ブログ裁判」
それは「ブログ裁判」と総称されている。あるいは、一番初めの裁判の当事者の名前を取って、「松本裁判」と呼ばれるようなこともある。今では異常な社会現象にまでなってしまった問題であり、今ではブログ登場時の法整備の不備が指摘されたり、新たな家族論が展開されたりと、方々で様々な余波を見せている。
そもそもの発端は、後に「松本裁判」と呼ばれ有名になるある裁判であった。それは、当時26歳だった女性が両親を訴えるという形で起こった。
松本靖子さんは、当時交際していた男性と結婚間近であった。既に両家の両親とも顔合わせが住んでおり、結納の日取りや式場の検討などもされていたのである。
しかしある時突然、相手方から結婚を取りやめて欲しいと要請があった。婚約者を問いつめても、両親がダメだというとの一点張りで埒があかない。結局状況が改善されることはなく結婚はご破算となったのだが、納得のいかなかった松本さんはいろんな人に話を聞いてようやく事実を知ることが出来たのである。それは松本さん自身も知らなかったある事実によっていたのだった。
松本さんは子どもの頃、とある血液の難病に罹っていたことがあるようだった。その病気は治癒が困難であり、また遺伝によって高い確率で子どもに受け継がれるものだった。幸い松本さんは治療の甲斐あって病気を克服し、現在に至っている。もちろん子どもに受け継がれてしまうこともない。
しかし、松本さんも知らなかったその事実を、婚約者の家族が知ってしまったのである。完治しているということだが、子どもに遺伝する病気にかつて罹っていたという事実は見過ごせなかったということなのだろう。婚約者の意向を無視し、断固反対の立場を取るようになったのだった。
ここまでなら、避けられない不幸であったということで終わっていたかもしれない。もちろんこれだけの状況であれば、誰を訴えるということにもならないはずである。しかしこの騒動には、もう一つ重要な要素が絡んでいたのである。
それがブログである。
松本さんは様々な人に聞き込みを続ける中で、婚約者の家族が自分のかつての罹患について知った経緯が、松本さんの両親が過去に書いていたブログによっていたことを知ったのだった。婚約者の家族は念のために興信所に調査を依頼しており、その興信所がそのブログを探し当てたのだという。そこには、松本さんが生まれてからある程度の年齢に達するまでの様々な出来事が文章と写真で綴られていて、もちろんその中に病気治療の話もあったのである。
それを知った松本さんは、自分に許可なく自分のプライバシーをインターネット上に晒した、という名目で両親を訴えることにしたのである。
この裁判は、初めからメディアで大きく取り上げられることになった。何故なら、これがもし有罪と判定されれば、同じように子どもに訴えられる親が急増すると思われたからである。
ブログというのは世に出始めてから日が浅いメディアである。しかし、その登場時から爆発的に広まり、今では一人一ブログどころではない状況になっている。ちょうど20代前半の子どもを持つ親が大学生ぐらいの頃にブログが流行り始めて、そのため本件のように子どもの成長記としてブログを活用していた人はかなりの数に上ると思われる。「松本裁判」は、だからこそ人々の注目を浴びることになったのである。
争点となったのは、やはり本人による許可の問題である。通常、本人の許可なく写真を掲載などすれば罪に問われることになるが、しかし赤ちゃんには許可の取りようがない。これは、赤ちゃん雑誌や赤ちゃん用品のCMなどにも波及しそうな問題であるとして、さらに注目を集めることになったのだ。
結果的には「松本裁判」は無罪の判決だった。しかし予想に反して、それから同様の裁判を起こす人が増えてきたのである。それは、正当な立場から親と対立したい、という今の若者の本末転倒な発想から起こされるものばかりであるととある社会学者は看破したが、状況は悪化する一方だった。裁判によっては有罪の判決が出るようなこともあり、この裁判は「ブログ裁判」として社会問題となり、その年の流行語大賞にもノミネートされた。
私も、24歳の息子を持つ親である。周りの親と同じく、やはり息子が小さかった頃はブログで成長記をつけていた。いつ息子に訴えられるか、気が気ではない。



53.「時間銀行」
「突然だったのにありがとうね」
「いやいや、全然大丈夫だよ。困った時はお互い様ってもんさ」
「でも明日試験なのに本当に大丈夫なの?」
「平気さ。もう十分勉強は出来てるからね。洋子の勉強を教えてあげるぐらいのこと、何でもないさ」
「ありがとう。ホント助かるわ。授業にはそれなりに出てるつもりなんだけど、どうしても経済学って分からなくなっちゃうんだよね」
「まあ僕もそんなに得意だってわけでもないんだけどさ」
「またまたぁ。でもホント悠哉って、勉強だけじゃなくって何でも出来るからホントすごいよね」
「そんなことないと思うけどなぁ」
「ううん、だってピアノやバイオリンは弾けるし、簿記と英検1級の資格も持ってるし、スポーツだって大抵のことは出来るし、料理だって上手じゃない」
「まあ別にどれも人並みじゃないかな。時間があれば誰だってそれぐらいのことは出来るさ。特別な能力があるってわけじゃないからね」
「でも、時間をうまく使えるっていうのもやっぱり大きな才能だと思うわ。私なんて、あれもやらなきゃこれもやらなきゃっていつも焦ってばっかで、結局何にも終わらないんだから。今日だって、随分前から勉強しなくちゃって思ってたんだけど、結局うまくいかなかったしね」
「時間の使い方はね、まあちょっとした秘密があるんだよ」
「何それ。私にも教えて」
「ホントはあんまり言いたくないんだけどね」
「そこをなんとか」
「まあわかったよ。洋子にだけは特別に教えてあげる」
「やったー。ありがとう」
「実はね、僕は時間を預けてるんだ」
「時間を預ける?」
「そう。銀行にお金を預けるみたいに、僕は時間銀行に時間を預けてるんだ」
「へぇ、そんなことが出来るんだ」
「これって結構便利なんだよ。例えばさ、どうしても何にもやる気の出ない時とかあるじゃん。そういう時の時間を預けちゃうわけ。で、やばい時間がないなぁっていう時に、その預けていた時間を引き出すってわけ。そうすると、自分の使いたいように時間を使えるようになるんだよね」
「なるほど。それは便利だね」
「他にも、電車に乗ってる時間とか、行列に並んでる時間とか、そういうちょっと無駄だなって思う時間も預けることが出来るのさ。そうするとね、電車に乗ってる時間とか行列に並んでる時間があっという間に過ぎちゃうし、しかもその間の時間をどこか別の時に使えるしで、使い方によってはものすごいことが出来るんだ」
「だったらあれだね、寝てる時間とかも預けちゃえばいいよね」
「やっぱりそう思う?僕もそう思ってやってみたことがあるんだけど、それはやらない方がいいみたい。睡眠の時間はちゃんと残しておかないと、どうも身体が疲れちゃうみたいでね」
「ふーん、そうなんだ。私もやってみようかなぁ。ねぇ、その時間銀行ってどこにあるの?何て名前?」
「○○市に本店があって、支店は結構いろんなとこにあるんじゃないかな。××タイムバンクって名前だよ」
「あれ?その名前今日のニュースで私聞いたよ」
「えっ、何で?」
「何かね、初めにお年寄りがたくさん原因不明の症状で亡くなってる、ってニュースが流れてて。一週間ぐらい前からそういうことがあちこちで起こっていて。これが何か犯罪に絡んでるならまだ分かるんだけど、どう調べてみても全部自然死なんだって。外傷はないし、毒物によるものとも思えないし、それまで病気を持ってたかどうかなんてことも関係なくって、いろんなお年寄りが亡くなってるって」
「あぁ、確かそのニュースは僕も見たような気がするな。ウチのじいちゃんとかばあちゃんも気にしてたっけ。でもそれって時間銀行と何か関係があるの?」
「うん。それでね、その後でまた別のニュースになって。私はずっとそれ、普通の銀行の話だって思ってたんだけど…」
「うん、それで」
「なんかね、銀行が運用に失敗して多額の負債を抱えたっていうニュースでね。それで、公的資金の投入が決定されたってそういうニュースだったんだけど」
「そのニュースの時に、××タイムバンクの名前を聞いたんだね?」
「そうなの。ねぇ、これってどういうことだろう」
「あっ、そうだ。そういえば出掛けにポストに入ってた郵便をそのままバッグに入れて持ってきてたんだった。確か××タイムバンクのものが混じってたと思うんだけど」
「ねぇ、なんて書いてあるの」
「…こんなことになると知ってたら、時間銀行なんか使わなかったのに…」

『山口悠哉様
いつも××タイムバンクをご利用いただきましてありがとございます。
ニュースなどで既にご存知かとは思いますが、この度当行は時間の資産運用に不手際がありまして、お客様からお預かりした相当量の時間を損失いたしました。しかしその後政府から公的時間の投入が決定されました。余命幾ばくもないお年寄りから時間をかき集めることで、損失した時間を補填する形になります。
つきましてはお客様からお預かりしております時間はすべて正常通りとなりますので、今後とも××タイムバンクをどうぞよろしくお願いいたします
××タイムバンク』



54.「ターゲット」
「あんたが殺し屋か」
「あぁ、そうだ」
「なら要件だけ言おう。ある男を殺してもらいたい」
「了解した」
「本日18時ちょうどに、目黒タワー3階の男子トイレ、一番奥の個室のドアを開けろ。開けた時目の前にいた男がお前の標的だ」
「殺し方は?」
「任せる。好きにしろ。それからもう一つ」
「標的は二人か」
「いや、そうじゃない。もう一つは、任務終了後、20時ちょうどに自宅に戻りドアを開けること」
「は?それは何か任務と関係あるのか?」
「質問はなしだ。報酬は、あんたが約束を履行したことが確認され次第入金する」
「分かった分かった。言われた通りにするよ」
「では以上だ。なおこの電話は通話が終了すると同時に爆発する」

どかん

まったく、いつの時代のスパイ映画だよ。しかも、何でわざわざ電話ぶっ壊さなきゃいけないってんだ。
殺し屋はぶつぶつと悪態を吐く。しかし、仕事なんてこんなものだという諦めも同時にある。まあいいさ。所詮仕事なんてお金を得るための行為に過ぎない。好きも嫌いも、猫も柄杓もあったもんじゃないさ。
しかし、と殺し屋は先ほどの電話を回想する。何だか妙な依頼だったよなぁ。そもそも何で18時ちょうどにトイレに標的がいるって分かるんだ。相手を誘い込むにしたって、もう少し条件のいい場所がありそうなものなのに。しかも、その後がさらにわかんねぇ。20時ちょうどに自宅のドアを開けろか。何だそりゃ。
まあいいさ。それでお金がもらえるってんならやるまでだ。
殺し屋は、目黒タワーへと向かった。今から行けば18時には十分間に合うだろう。しかし、18時に標的を殺した後、どうやって時間を潰そうか。二時間かなぁ。映画には少し短いし、一人カラオケには少し長い。何とも微妙な時間だ。まあいいさ、本屋にでも寄ってナイフの雑誌でも立ち読みするか。
17時50分。殺し屋は指定されたトイレのすぐ隣の個室にいた。あとは時間までここで待てばいいだろう。とは言え、今のところ隣の個室から人の気配はしない。あと十分で標的が来るということだろうか。まあいいさ。殺し屋が頭を使う必要はない。殺し屋の仕事は、標的を殺すだけだ。
18時ちょうど。殺し屋は一番奥の個室の扉を開く。
そこに背中を向けた男が一人いた。個室にいるのに何故背中を向けているのだろう、という疑問は過ぎったし、そもそも周りの光景が何だかおかしいとも感じていたのだけれども、しかし殺し屋は殺すことが仕事である。殺し屋は持っていたナイフを標的へと突きつけた。
ナイフが標的の身体に突き刺さる瞬間、標的はなにやら裏返ったような声を上げる。
「待て待て、話せば分かる。お前と俺は…」
標的の個人的なプロフィールには興味はないし、標的と死の間際に会話をする趣味もない。ナイフが間違いなく心臓に突き刺さったのを確認し、死体を一瞥することもなく殺し屋はその場を立ち去る。
まあ楽な仕事だったな。さて、本屋にでも行くか。返り血は、うん大丈夫だな。この程度なら目立たないだろう。先にメシを食うってのもアリか。報酬も入ってくるし、晩餐としけこもうかな。
20時少し前。殺し屋はマンションの自分の部屋のドアの前に佇んでいた。本当はもう部屋に入ってもいいかと思っているのだけど、元来几帳面な性格なのだ。20時ちょうどと言っていたのだからその通りにするべきだろう。ちょうどに入らなかったせいでケチをつけられて報酬がもらえなくなってもつまらない。
そして20時ちょうど。殺し屋は普通にドアを開け、普通に中に入り、普通にドアを閉めた。あの指示は結局なんだったんだろうな。まあ考えることはないか。

がちゃ

閉めたはずのドアがまた開いた。あれ、俺鍵閉めるの忘れたか?いやいや、そんなことはないだろう。ちゃんと閉めたはずだ。ならなぜ今ドアが開く?
その瞬間殺し屋は、自分の後ろにいるのが誰なのかはっきり悟った。
18時の自分だ。18時の自分が今後ろにいて、ナイフを構えているのだ!
振り返ろうとして首を振りながら、殺し屋は裏返った声を出す。
「待て待て、話せば分かる。お前と俺は…」



55.「狼男」
「今日は楽しかったね」
「ホント楽しかった。咲ちゃんとも出会えたしね」
「私も、直さんと出会えてホントよかった」
「たまには合コンとかも行ってみるもんだよね」
「またまた、結構行ってるくせに」
「嘘じゃないって。ホントにたまにしか行かないんだよ」
「まあいいけどね。ねぇ、カラオケとか行かない?」
「カラオケはちょっとダメなんだ。ホント音痴なんだよ」
「わかった。でも歩いてるの疲れちゃった」
「じゃあどっかで休憩しようか。この辺にあったと思ったんだけど」
「今日は月がキレイだよね。ほら、合コンやったお店でもさ窓から見えてたんだけど、キレイな満月だなって」
「東京は空が汚いっていうけどさ、それでも月だけはそれなりにちゃんと見えるもんだよね。そっか、今日は満月かぁ」
「明日とかって予定ある?」
「昼間はダメだけど、夜なら空いてるよ」
「この前テレビで見たんだけど、ランチタイムにすっごい美味しいオムライスを出すお店があるみたいで、一緒に行きたいなぁ、なんて。明日じゃなくてもいいんだけどね」
「ゴメン、昼間はちょっとダメなんだ」
「何で?そんなに毎日忙しいの?そんなことってある?」
「学校に行かなきゃいけないし」
「お昼休みとかにひょいっと行けるわよ。直さんの予定に合わせるし」
「いや、それにおばあちゃんの看病とかもあって。近くの病院に入院してるんだ」
「そうなんだ。でもそれでも昼間全然会えないなんて、そんなのちょっとおかしいよ」
「ごめん。でもホント昼間はダメなんだ」
「二股掛けてるとか?」
「そんなことないって!」
「でもおかしいじゃない。ちゃんと理由があるなら納得できるけど、昼間はダメだなんて何か都合の悪いことを隠してるとしか思えないじゃない」
「…分かった。じゃあ話すよ。でも、絶対信じてくれないと思う」
「そんなことないよ。直さんがちゃんと話してくれるっていうなら信じるよ」
「分かった。実は僕は狼男なんだ」
「狼男ってあの狼男。そんなわけないじゃない。だって狼男は月を見ると狼に変身するんでしょ?直さん今普通じゃない」
「だから僕の場合ちょっと特殊なんだ。太陽の光を浴びると狼の姿になってしまうんだ」
「…ねぇ、直さん。まさかそれ本気で言ってるの?」
「ホントなんだ。だから昼間にはちょっと会えないんだよ」
「分かったわ」
「分かってくれてありがとう」
「直さんが私とはちゃんと付き合う気がないんだってことがよくわかったわ」
「えっ、ちょっと待って、もっとちゃんと話し合おうよ。ホントにホント何だって」
はぁ、またやっちまった。やっぱ僕には恋愛とかって無理なのかなぁ。
だってホントのことなんか言えるわけないじゃないか。
実は僕は狼で、月の光を浴びている時だけ人間の姿でいられるんだ、なんて。



56.「未納質屋」
両親が突然いなくなった。
昨日まで僕は北海道に旅行に出かけていた。ふらりと一人旅だったのだが、旅ならではの面白さを十分堪能できた満足感を抱えたまま帰ってきたのだ。
すると、家中ががらんとしている。人がいないというだけの意味ではなく、物も結構なくなっていたのだ。冷蔵庫や洗濯機など生活必需品は残っていたのだけど、母親が使っていた鏡台や、父親が使っていたゴルフバッグなんかがごっそりとなくなっている。事情はさっぱり判らないが、要するに僕は捨てられたということなのだろう、と理解した。
しかしどんな事情であれ、僕の二十歳の誕生日のまさに前日にいなくなることはないんじゃないか、と思った。今さら誕生日に固執するような年齢ではないが、しかし成人した息子を少しは祝ってくれてもいいのではないか、と思う。
これまで僕は両親に大切に育てられてきたと思う。かなり過保護な両親だったと言ってもいいかもしれない。特に怪我や病気の時などは手厚く看護してくれたし、僕のどんな願いでも大抵は叶えてくれた。それでも一人で生きて行けというならそれは全然無理な話ではないだろうし、この状況からして一人で生きて行かなくてはいけないのはまず間違いのないことだが、それにしても納得がいかない、と僕は思った。
しかしまあ、今さら両親がいなくなったからと言っておたおたしていても仕方がない。両親が事故や犯罪に巻き込まれているというなら話は別だが、家から物がなくなっているとは言っても強盗に入られたような痕跡はないし、であれば物がなくなっているのは両親がどこかに運び出したということであって、そこには誰か他人の意思が介在する余地はなさそうである。一応親戚とかには連絡をしてみた方がいいんだろうか。警察には言った方がいいのか。そういう思考が一瞬浮かびはしたものの、最終的にはまあいいやと思うようにした。
さて、当面考えなくてはいけないことはお金の問題だ。誰かに話すと怪訝な顔をされるが、僕は父親がどんな仕事をしていたのかよく知らない。しかし、我が家は一般よりは多少裕福と言える生活水準だったと僕は思っている。子どもの頃から欲しかったオモチャはなんでも買ってもらえたし、家には絵画や骨董のような安くはないだろうと思わせるものが少なからずあった。しかしそう言った類のものは両親が持っていってしまったようだ。現金の類はどうも残されていないようで、僕の銀行預金に残る僅かな額しかない。まだ大学生である僕としては、少なくとも就職するまでの生活を何とかするだけのお金を手に入れることが急務だった。
そこで思い出したのが「未納質屋」の存在だ。これについて両親が話していたのをたまたま耳にしたことがあるのだ。
この未納質屋は面白い質屋で、物を預けることなくお金が借りられる仕組みになっている。例えば指輪を質に入れることにするとして、しかしその指輪は自分の手元に置いておくことが出来る。質に入れるものによって借りられる期間と金額が決まるのだが、重要な点はその期間が過ぎてもお金を返済できなければその指輪は消失してしまう、ということだ。指輪を失いたくなければお金を返すしかない、という仕組みである。またもう一つのルールは、指輪を壊してしまったり亡くしてしまった場合には、その時点で返済が迫られるということである。この返済の取立てがヤクザよりも厳しいと評判であるようだった。
両親の話を耳にした後、これはいつか使えるかもしれないと思って家中を漁り、未納質屋との契約書を探し出したことがある。何を預けたのかきちんと見なかったが、両親は時折未納質屋を利用していたようだった。お金に困っているように見えなかったのだが、それは僕の勘違いだったのかもしれない、と感じたがまあそれはどうでもいい。重要なのはその契約書に、未納質屋の電話番号が記載されていたということだ。僕は、とりあえず冷蔵庫や洗濯機と言った生活必需品を含め、僕の周りにあるものほとんどをこの未納質屋に質に入れようと考えていた。とりあえず就職するまでの間なんとかなりさえすれば、お金を返せなくなってそれらが消えてしまってもまあなんとかなるだろう。そう考えたのだった。
未納質屋との交渉は簡単なものだった。電話一本で済むのである。僕が質に入れたいものを電話越しに伝えると、すぐさま借り入れ年数と金額の上限が提示される。そのやり取りで僕は、当面生活に困らないだけのお金を手にすることが出来た。電話をしながら僕はぼんやりと空想を働かせていた。例えば自分の所有ではないもの、つまり会社所有の車とか嫌いな人間そのものとかを質に入れることは出来るのだろうか。将来確実に手に入る予定の物を質に入れることは出来るだろうか。あるいは、生まれたばかりの子どもを質に入れたらどうなるだろうか。
時計を見るともうすぐ12時だ。あと数分で二十歳の誕生日だ。
そこで僕はふと思いついたことがあった。いやいやまさか、と思おうとしたが、ダメだった。確認する手段はある。たぶん両親はアレを持ち出してはいないだろう。いや寧ろ、僕がこういう思考に辿り着くことを見越して、敢えて残しているということだってありうる。
僕は両親が未納質屋と交わした契約書を探すことにした。それは前と変わらない場所にしまわれていた。以前は両親が何を預けたのか気にも止めなかったのだが、今ではほぼ確信を持って何を預けたのか断言できる。何の仕事をしているのか判らない両親。過保護だった両親。僕の誕生日の直前に忽然と姿を消した両親。答えはもう明らかだ。
『契約内容
父・前川和夫 母・登志子の息子・俊哉(0歳)
契約期間
20年
貸付金
3億円』
ふと思いついて契約書を裏返してみた。そこには父親の字でこう書かれていた。
「あばよ」
くそったれが!
時計の針は12時を越えた。



57.「悪意計」
「やっぱり仕事を辞めて、家事に専念してくれないか」
昨日の夜悟に言われた言葉を思い返して、私はまた不愉快な気分をぶり返してしまう。昼休み、こうして何気なく同僚と会話をしながらご飯を食べていても、ふと気づくとこのことばかり考えてしまう。
「女性が家庭に入らないといけないなんて、そんな古いことは言わないよ。智子と一緒にいられるだけでいいんだ。もちろんこれまで通り仕事は続けてくれていいよ」
1年前、プロポーズされた時、私はどうしても仕事を辞めたくなくて彼にそれを伝えた。その時彼はこう言ってくれたのだ。それが結婚してからというもの、家事を十分にこなせないことを詰るようになり、かと言って手伝ってくれるわけでもなく、不機嫌な態度を隠しもしなくなった。結婚生活は比較的順調と言えなくもないが、この問題だけは根深い。悟が子どもを欲しがるようになったということもあるのかもしれない。しばらく仕事を続けたいから、子どもはもう少し考えましょう、と結婚前にちゃんと話し合ったのに。何で男ってこうも自分勝手なのかしら。
そうやってイライラしている自分にふと気づくと、私は腰につけた「悪意計」のことを思い出す。自分が他人に発する悪意についてはカウントされないとは言え、やはりこうやって悪意を意識的に抑制できるというのも、この悪意計の一つの副産物といえるかもしれない。
悪意計は、見た目も機能もほぼ万歩計に近いものである。一応体のどこにつけてもいいのだが、やはり腰につけるのが一番フィットする形になっているし、画面にデジタルで数字が表記されるというのも同じだ。
ただ、計測する対象だけが違う。万歩計は歩いた歩数をカウントするが、悪意計は周囲の人間が自分に向ける悪意をカウントしてくれるのである。これと対になる「善意計」というものの発売されていて、こちらは周囲の人間が自分に向ける善意をカウントするものである。悪意計は黒、善意計は白のボディカラーで判りやすい。
実はこの悪意計と善意計は、悟が勤める会社で作っているものだ。とは言え、まだ販売には至っていない。悟はその会社で悪意計・善意計の開発を担当しているのだが、現在では販売に向けた最終調整段階なのだそうで、サンプルデータを取るためにいろんな人に実験的に使ってもらっているのだという。このサンプルデータと使用者の感想から採集的な調整をし、販売にこぎつける予定なのだという。
実際この悪意計は便利だと思う。様々な設定を取ることができ、例えば悪意を検出したと同時にカウントを上げることも、一時間毎や一日毎に数字を表示することも出来る。どの距離範囲までを対象にするかも設定することも出来るし、またある特定の人物からの悪意・善意を測定することだって可能だ。使い方次第でいかようにも面白く使うことが出来る。現在ではまだ試験中なのでダメだが、もしこの悪意計・善意計が広まれば、相手がもしかしたら悪意計・善意計を持っているかもしれないという気持ちが、人間の気持ちを大らかにするかもしれないし、またあるいは恋愛を促進するようになるかもしれない。いずれにしても、実際に販売されればかなり評判になるのではないか、と私は思っている。
私は日々悪意計をつけて仕事をしているが、どうやら幸いなことに、周囲には私に特別悪意を持った人とというのはいないようだ。私は一日毎にカウントを見られる設定にしているのだが、毎日家に帰ってから確認しても、数字はかなり低い。さすがにゼロということはないが、誰からも悪意を受けずに仕事をしていくなど、さすがに無理だろうと思う。概ね私の会社生活は順調だと言えるだろう。
午後の仕事を片付け、なるべく早めに家に帰った。悟との話し合いが待っているのだ。あまり嬉しくない予定ではあるが、しかし嫌なことは早めに済ませてしまいたいとも思う。絶対に仕事を辞めるつもりはないし、悟にもそれを認めさせたいと意気込みながら、私は家に向かった。
家に帰るなり、いつもの習慣で悪意計を確認する。
「えっ、ウソ…」
悪意計には、信じられない数字がカウントされていた。普段の100倍近い数字である。何で?私今日何かした?こんなに周りの人から悪意を受けるようなことした?会社で悪い噂でも出回ってるの?
私は考えがまとまらないまま、のろのろと食事の支度を始めた。悟が帰宅し食事をしながら私の仕事の話になったのだが、会社から帰る前に抱いていた意気込みはとうに萎んでいた。もしかしたら会社で私は嫌われているのかもしれない。だとしたら、意地になって仕事を続けるのも辛いかもしれない。
翌日ももちろんいつも通り出社した。周りの人の様子を窺いながら仕事をするも、これまでと変わった様子は見られなかった。昨日とも一昨日とも、もっと言えば半年前とも変わらない、いつもの仕事場の風景だった。私が特別浮いていることもないし、誰かが影でこそこそ噂話をしている雰囲気もない。しかしそれでも、昨日私の悪意計は間違いなく大量の悪意を計測したのだ。見た目に騙されてはいけない、と私は思った。
そうした帰ってから悪意計の数字を確認すると、やはりその数字はとんでもない数字だった。昨日とほぼ同じぐらいで、もはや会社の人間が私に対して明確な悪意を持っていることは間違いなかった。
それから私はどんどんと落ち込み、仕事に対する意欲を失っていった。会社では私のことを気づかって声を掛けてくれる人がたくさんいたが、しかし心の中ではどうせ私を嫌ってるんでしょ、と思うとなお一層落ち込んでしまった。次第にうつ病に近い症状が出始め、まもなく私は自ら会社を辞める決心をした。図らずも、悟の望む通りの結末に落ち着いたのだ。
それからは専業主婦として、私は夫のために献身的に動き回った。案外専業主婦も自分に向いていたようで、しばらくして子どもが出来ると、名実共にお母さんとなり、私の日常はどんどんと忙しくなっていった。
しかし、ある時ふと思いついてしまった。
悪意計がとんでもない数字をたたき出した日は、悟に仕事を辞めて欲しいと言われた翌日だった。よく考えてみればこのタイミングはおかしいような気がする。もしかしたら、その日私がつけていたのは善意計だったのかもしれない。見た目は黒のまま、内部の回路だけ善意計に組替えることなど、開発者であった悟には訳もないことだっただろう。つまり、あの異常な数値は周囲からの悪意だったのではなく、周囲からの善意だったのではないだろうか。
この考えが芽生えてからも、悟にはそのことを問いただすことが出来ていない。悟はよき父親であり、よき夫であった。今さら過去のことであれこれ問い詰めたところでどうにかなるものでもない。それに、専業主婦だって、案外悪いものではないと今ではそう思えるのだ。



58.「自分ラジオ」
「…イチロウくん、こんばんわ。元気にしてるかな~…」
そう聞こえて来た時は本当に驚いた。
高校に行かなくなって三ヶ月が過ぎようとしていた。いわゆる登校拒否というやつで、いわゆる引きこもりというやつだった。ありきたりだけど、学校でいじめられていて、それに耐えられなくなって学校に行かなくなった。
先生は何度かやってきてくれたし、仲のよかった友達も顔を見せに来てくれる。それでも、どうしても僕の心は学校へは向かわなかった。母親は、休みたいなら無理に行くことはない、と言ってくれるが、本当はどう思っているかわからない。最近では、僕とどう接していいのかわからないようだ。
そして昨日、友人の一人がラジオをくれたのだ。何故ラジオをくれたのかよくわからないが、一人で部屋にいても退屈だろうと思ってくれたのだろう。正直なところ、僕は退屈していた。家にいてもやることがない。やることがあっても、積極的にやろうという気力が出てこない。それは、学校を休んでいるという罪悪感から、自分はあまり日々を楽しんではいけないのだ、という風に感じてしまうからだと思う。
そんな僕には、確かにラジオというのはうってつけだった。テレビは居間にしかなかったから、母親となるべく顔を合わせたくない僕は見ることができないでいた。自分の部屋で楽しむことが出来、しかも積極的な娯楽というわけでもないところが僕の気持ちを向かわせたのだろうと思う。
ラジオなどこれまで聞いたことがなかったのでイマイチ勝手が分からないが、まあチャンネルをどこかに合わせればいいだろうと思ってつまみを適当に回していた。ラジオにも様々な番組があるようで、小さな箱からいろんな声が聞こえてきた。僕はどれか一つに決めることなく、とりあえずいろんなチャンネルを聞いてみようと思ってつまみを回していた。
そんな時に聞こえてきたのだった。
初めは、イチロウというリスナーがどこかにいて、その番組によく葉書なんかを送っているのだと思った。いくら自分の名前と同じだからと言って、まさか自分に呼びかけているわけではないだろうし、だったらそう考えるしかない。
しかし、気になって聞いているうちに、これは僕一人に向けた放送なのかもしれないと思うようになってきた。いや、頭の中ではそんなことあるはずがない、ときちんと分かっている。分かっているのだが、しかしそうとしか考えられない放送内容なのだ。
「…今○○高校の学食には、特別メニューとしてパフェがあるそうです。1ヶ月だけの期間限定みたいですよ。早く行かないとなくなっちゃうかも!…」
「…街を歩いていると、イチロウ君のお気に入りの本屋があったので入ってみることにしました。今旅フェアなんてのをやっていて、旅行に行きたくなってしまいました…」
「…目玉焼きにはソースなのか醤油なのか、あるいは他の調味料なのか、っていう質問よくありますよね。イチロウ君は何派ですか?って知ってるんだけどね。珍しい、ケチャプ派と見た!…」
こんなことばかりをひたすら言い続けているのだ。
これは何なんだろう。その疑問はずっと頭の片隅に残り続けたのだけど、一方で細かいことはどうでもいいじゃないか、と思うようにもなった。ラジオで言っているイチロウ君というのはどう考えても僕のことだ。誰が何の目的でこんなことをしているにしろ、誰かが自分のことを話題にしてくれているのは何だか嬉しかった。ここ三ヶ月、時折訪ねてくる先生や友達と僅かに話すだけで、ほとんど交流と言ったものがなかった。ラジオ越しではあるけれども、こうして誰かと交流を持つことが出来るのは悪くないな、と思った。
それから僕は毎日この番組を聞くのが習慣になった。何故か始まる時間と終わる時間は結構不規則だったのだけど、大体夜の8時頃から10時頃までやっていた。毎日よく僕のことだけでこれだけ喋れるものだよな、と感心しながら聞いていたのだった。
ある日その番組の放送中トイレに行きたくなった。ラジオもビデオみたいに録音できればいいのになぁ、あれやろうと思えば出来るのかな、とか思いながらトイレに向かった。
声が聞こえる。
二階から降りてきて左手突き当たりにトイレはあるのだけど、右手にある客間から声が聞こえる。母親が電話でもしているのだろうと思ったのだけど、何となく気になって耳をすませてみた。
まさにそれは、ラジオから流れてくる内容そのものだった。ボイスチェんジャーのようなもので声を変えているようだが、それは母親の声だった。どんな仕組みになっているのかきちんとは分からないが、母親がここで喋った声があのラジオから出るような仕掛けが施されているのだろう。
何となく僕は恥ずかしくなった。そして、明日はなんとかして学校に行こう、と思った。それ以外に、母親にあの放送を止めてもらえる手段はないように思えたのだ。



59.「もしもウチらが」
「ねぇねぇ、ちょっと思ったんだけどね」
「なになに~」
「もしもさ、もしもだよ、うちらの体が入れ替わっちゃったとしたら、どうする?」
「えー、それって超楽しそうなんですけどぉ。でもずっとはヤだよねぇ。ギリで1週間とか?」
「アタシなら一ヶ月はいけるかな」
「うっそー。いやでも何とかなるかもだよね」
「お姉ちゃんだったら、アタシと替わったらどうする?」
「えー、だってモヨコと入れ替わるってことはさ、ムサシ先輩と付き合うってことでしょー。アタシマッチョな男はちょっとなぁって感じだしぃ」
「ムサシのこと悪く言わないでよぉ。ほら、それに案外よかったりするかも。違った自分を見つけれるっていうかさ」
「確かにね。エッチはちょっと興味あるかも。あんなマッチョな男だとどうなっちゃうわけ?」
「お姉ちゃん、エッチぃ。でもそうだよね。エッチの相手も替わっちゃうんだよね」
「ちょっとドキドキするかも」
「アタシの場合だったら、アッ君か。アッ君のことは嫌いじゃないけど、ちょっと神経質そうだからなぁ。でも経験してみるのもいいかもね」
「でももしモヨコと入れ替わったら、アタシはノブ先輩にアタックするよ」
「それはダメだって!」
「何でよ。どう考えてもムサシ先輩よりノブ先輩の方がいいじゃん。それにモヨコ、ノブ先輩からコクられてたりしたんでしょ。アタシはノブ先輩の方がタイプだしね」
「そうだけどさぁ。でも、ノブ先輩はダメなんだってば」
「どうして?」
「どうしても!」
「分かった分かった。こんなもしもの話で喧嘩するのなんか止めよう」
「だよね」
「もしモヨコと入れ替わったら、アレやってみたい。水中サッカー!」
「お姉ちゃん、運動音痴だからねぇ。でも、入れ替わっても運動出来るようにはならないと思うけど」
「げっ、マジ。何で?」
「体が入れ替わってもさ、ほらなんていうの、経験がないわけじゃん?だから入れ替わった相手が出来ても、本人が出来なかったらやっぱ運動とか出来ないと思うよ」
「なんだぁ。そんなのツマンナイじゃん。じゃあ何、今のアタシのまんま、見た目だけモヨコになるってわけ」
「そうそう、そういうこと」
「じゃあモヨコもアタシと入れ替わっても勉強が出来るようになったりはしないんだ」
「たぶんねぇ。そうだと思うよ」
「もうちょっとね、気を利かせてくれてもいいんじゃないかなって思うんだけどさ」
「お姉ちゃんおかしい。それ誰に言ってるの?」
「わかんないけどさ、ほらそういう入れ替わりとかをやっちゃう存在みたいな。いれば、だけどさ」
「まあいないだろうねぇ」
「でもさ、ウチらの場合、こんな話意味ないよね」
「あっ、お姉ちゃんの言いたいこと分かった」
「何?」
「ウチらが双子だからってことでしょ?双子だから入れ替わっても変わんないじゃん、みたいな」
「それもあるよ。でもさ、もっと重要なとこあるっしょ」
「何?」
「そもそもウチらさ、ただのメダカだよ」



60.「万物の最小」
「あった。あったった。お兄ちゃん。あったよ」
「しー。ミチもっと静かに」
「だってあったんだってばー」
「分かったからもう少し声抑えろって」
「ほらここ読んでみて。これ絶対そうだよ」
『…街の灯りはゆっかりと落ち、辺りはゆっくりと暗闇に包み込まれていった。…』
「ほらこれおかしいでしょ。『ゆっかり』じゃなくて『すっかり』でしょ?」
「そうだな。こりゃ間違いないわ」
「やったー。順調順調」
「ってお前、まだまだ先は長いぞ」
僕らはとある本屋にいる。ここがなんという街なのかは忘れてしまった。地名や人名になるとまだまだ補強しなくてはいけない部分が多いな、と感じる。しかし、とりあえずボロを出すようなことはこれまでなかったので、まあ大丈夫だろう。
しかし、本屋では静かにしなくてはいけない、とあれほど教えられたのに、ミチはもうすっかり忘れてしまっているのだ。確かにこれだけの本がずらりと並んでいるところなど身近にはないのだから仕方ないのかもしれないが、それにしてももう少し落ち着いて欲しいものだと思う。しかし、回収率についてはミチの方がはるかにいいのだから、あまり強くも言えない。辛い立場だな、と思う。
ミチはまた売り場をふらふらと歩いている。次の獲物を探しているのだろう。どういう基準で何を感じるのか分からないが、とにかくミチはセンサーとしての才能がある。僕たちが探しているものを、少なくとも僕よりは高い精度で見つけることが出来る。まあ言ってみれば僕はそのお守りということになる。初めはこんなはずじゃなかったのにな、とため息をつく。
まあ僕も探すか。そういえばミチに声を掛けられるまで目を通していた本をまだ精査し終わっていない。しかし、僕が何をやっても焼け石に水なのではないか、と思う。ポケットに入れたセンサーは相変わらず反応しない。正直、僕に出来ることはあまり多くない。
「お兄ちゃぁん。また見つけたよ」
またミチが大きな声で僕を呼ぶ。その度に店内にいるスタッフやお客さんの視線が僕を突き刺す。何度注意しても聞きはしないだろうが、しかし周囲の手前、やはりまた言って聞かせなくてはいけないだろう。お守りは楽じゃない。
僕らには探しているものがある。それは、僕らの言葉で言えば『万物の最小』となるが、こちらの言葉で言えば『誤植』ということになる。しかし、この両者は決してイコールの存在ではない。
僕らはそもそもこの地上界に生きる存在ではない。僕らは天上界に生きる存在で、地上界に降りる際に習った知識によれば、『天使』という概念に最も近い存在なのだという。まあ僕らは羽根があるわけでも、頭の上に輪っかがあるわけでもないんだけど。
天上界というのは地上界とはまるで違った場所なのだけど、まるっきり無関係というわけでもない。大雑把に噛み砕いて言ってしまえば、地上界の出来事は天上界に影響を及ぼすことはないのだけど、天上界での出来事が地上界に影響を与えることはある、ということになる。もっと言えば、地上界を管理するために天上界がある、という言い方でも間違ってはいないかもしれない。
さてそんな天上界には、地上界のそれぞれに対応するものが存在する。それは、車のブレーキペダルとブレーキの関係のようなもので、天上界でブレーキペダルを押すと、地上界でブレーキが作用する、というようなものだ。その一つに『万物の最小』がある。
これは何かと言えば、地上界での文字全般と対応するものである。地上界では物質の存在が大きく、『万物の最小』と言えば原子などを指すのかもしれないが、天上界では物質よりも表現の存在が大きく、その中でも文字情報が最も重要とされる。
僕らの父親が、その『万物の最小』を管理する役職のトップに就いているのだが、ある時とんでもないミスをやらかしてしまったのだ。父親はなんと、厳重に管理すべき『万物の最小』を紛失してしまったのだ。絵画のレプリカのように、『万物の最小』にも多数スペアが存在し、実質的な機能はそちらのスペアが担っているので実用上の問題はないのだが、天上界で最も重視される『万物の最小』のオリジナルを紛失したとあれば、父親の責任は免れない。
そこで父親は、極秘裏の内にその『万物の最小』を回収するように僕らに命じたのだった。様々な調査の結果、天上界での『万物の最小の紛失』という出来事は、地上界における『書物の誤植』に対応するということが判明した。即ち、帰納的に言えば、地上界での『書物の誤植』をすべて回収しきれば、必然的に『万物の最小』は取り戻せるということになる。
しかし、これは考えていたほど容易なものではない。何故なら地上界で書物というものが生まれてからこの方すべての時代における誤植が対象となってしまうためだ。それらをすべて発見・回収しなくては、『万物の最小』を取り戻すことは出来ない。しかも、地上界におけるありとあらゆる言語での書物が対象なのだ。
とりあえず僕らは、地上界におけるそれぞれの時代の風習や常識、様々な国の言葉や歴史などを突貫で詰め込まれ、そうして地上界に送り出されたのだった。昨日までは第二次世界大戦中のドイツで誤植探しをしていたのだけど、あまりにも状況が酷くなり、今日からは21世紀前半の日本を歩き回っているのである。
しかし誤植というのは見つけるのが大変だ。ありとあらゆる言語についてはネイティブ並にマスターしたとは言え、どうしても見逃してしまいがちになる。そこで、地上界で誤植を発見しやすいようにと、誤植センサーなるものを作ってもらったのだが、このセンサーが屁の突っ張りにもならない使えない代物で、今まで一度も反応したことがない。
ただ、妹のミチが特異な才能を発揮し始めた。彼女には何故だか、どの辺りに誤植がありそうなのかなんとなく分かるというのだ。まさにセンサーそのもので、渡された機械なんかよりもよっぽど性能がいい。しかし、その能力には僕にはまったくないようで、必然的に僕はミチのお守りということに成り下がってしまった。
「お兄ちゃぁん。また見つけたよ」
ミチは楽しそうだ。もう声が大きいのをたしなめる気にもならなくなってきた。しかしミチは分かっているのだろうか。ありとあらゆる時代のありとあらゆる地域の書物に、どれだけ誤植が存在しているのかを。正直、いつになったら天上界に戻れるのだろうかと考えると、僕は気が滅入る。



61.「迷路」
ダルい。
日差しの強さもあるかもしれない。寝不足もあるかもしれない。でも、それだけじゃないと頭のどこかが警告を発している。何かおかしい。体に異常が起こっていることは間違いないように思える。立っているだけでもしんどい。動けないほどではない、というのがまた厄介だ。
やらなければいけないことはたくさんある。幼稚園に持っていくぞうきんも作らないといけないし、洗濯物だって溜まっている。夫に頼まれて市役所に行かなくてはいけな手続きもある。結婚する前は専業主婦なんかもっと楽だと思っていた。優雅にランチを食べて、カルチャースクールに通って、井戸端会議でくだらない話が出来るものだと思っていた。でも、現実はどうも違う。何が間違っているのか分からないが、ここ数年で専業主婦というのもかなり大変なのだと分かってきた。娘が生まれたこともあるかもしれないが、やることが増えたというよりも、どちらかと言えば人間関係が厄介であるように思える。気疲れするというのだろうか。たぶんそうしたストレスの蓄積が、今この不調の原因の一つになっているのだろうと思う。
何だかぼんやりする。車を運転しているのも危ないかもしれない。しかし、今日このタイミングで買い物に出かけないと、夕食を作る材料がない。今日は夫は早く帰ってくる予定の日だし、そこでありあわせの夕食しかなかったらまたキレるだろう。普段は優しいのだが、ふとした拍子に豹変するのだけはどうにかして欲しいと思っている。
ぐったりと重い体を引きずるようにしながらスーパーに辿り着く。幸いにも駐車場はかなり余裕がある。バックで駐車するのが苦手で、駐車場が混んでいるとかなりてこずることになる。車を何とか停め、ようやく店内に入ったところだった。
車から降りて店内に入るまでの間だけでも汗をかいてしまった。それを店内の冷房が冷やしてくれる。心地よいが、これでまた体調が悪化することになるだろうな、と気が重い。
手早く買い物を済ませてしまわなくてはいけない。今日の夕食は何にすればいいだろう。そうめんとかなら楽なのだが、夫は手抜き料理にはうるさい。しかしかと言って、この体調で作れるものなどたかが知れていると思う。結局夫の好物ということもあってカレーに決めた。これならしばらくもつし、作るのも簡単だ。材料を思い浮かべて手早くカートに入れていく。サラダもつければいいか。そういえばドレッシングが切れてたっけ?
店内の一角に、京都産の野菜の特設コーナーが設けられていた。あれ、こんなのあったっけ?一昨日まではなかったと思ったけど。まあこうやって新しい試みをしてくれるのはいいことだ、と思う一方で、でもこの辺の主婦でわざわざ高い京都産の野菜を買う人なんているんだろうか、とも思った。
娘のお菓子もカートに入れたところで、買うべきものはあらかた揃った。体調は相変わらずで、収まる気配はない。すぐにでも家に帰って一眠りしないと、ちょっとこれは本当にまずい。
レジに向かって通路を歩く。卵売り場の前まで行けば、そこを左に曲がればすぐレジに行き当たる。
「ウソ…。んなアホな…」
自分が見ている光景が信じられなかった。
レジに向かおうと左に曲がった。曲がれば目の前にレジが見えるはずだった。
しかし、ない。目の前には通路が広がり、その両端には缶詰やカップラーメンの類が並んでいる。
いや、もしかしたら売り場の配置が変わったのかもしれない。さっきも京都産の野菜売り場が新設されてたくらいだ。今自分はボーっとしてるから、普段の習慣のままでいたが、実は卵売り場も別の場所に移動になったのではないか。
とりあえずそう思うことにした。それ以外に筋の通った説明は思いつかなかった。とりあえず缶詰やカップラーメンを横目に見ながらカートを押す。売り場を変えるならその表示ぐらいしたらどうなのさ、と心の中でぐじぐじ思った。もしかしたら口に出していたかもしれない。
外周部に当たる通路に出た。
「どうなってるわけ…」
その通路は、左右に無限に伸びていた。無限に、というのが大げさな表現だということは自分でも分かっていた。しかし、そう言うしかないぐらい、それはありえない光景だった。昔何かで、外国の図書館の写真を見たことがある。世界一の敷地を持つというその図書館は、とにかくうんざりするほど通路が長かった。しかし、今自分が見ているのは、それよりも明らかに長い通路である。通路の先が霞んで見えない。
ありえないでしょ。何これ、どういうこと?普通に考えてこの店こんな広いわけないじゃない。
とにかく歩くしかなかった。重いカートを無理矢理押しながら、とにかく売り場をうろうろと彷徨った。無限に続くように思える通路を永遠歩く気にはなれなかったので、時折通路を曲がるのだが、もはやスーパーの常識ではありえないくらい通路が複雑にうねっていた。こんな売り場、ドンキホーテでもやらないだろう、というぐらいで、一時期大流行した巨大迷路の中にいる気分になった。
歩きながら店員の姿を探すも、何故かまったく見つからない。どこを探してもいないのだ。その内もう諦めた気分になって、とりあえず何も考えずにただ歩くに任せた。どうして私がこんな目に遭わなくてはいけないんだろう。
「あの、お客様」
後ろから声を掛けられた。振り向くと、そこにスーパーのスタッフらしき人がいた。
「あぁ、助かりました。ちょっと教えて欲しいんですけど…」
「そちらの商品はお会計はお済みですか?」
「そう、だから今レジを探していたんですけど…」
そう言った瞬間、私の目の前の景色が瞬時に変わった。まるで映画のシーンが切り替わるのを見ているかのようだった。私は、満載のカートを押したまま、スーパーの店内から外に出ていたのだ。
「お客様、事務所まで来ていただいてもよろしいでしょうか」



62.「幽霊屋敷」
幽霊屋敷の噂というのは、どの地方のどんな場所にもあるものなのだろうか。7年ぶりに実家に戻った譲二は、昨日弟からその話を聞いてそんな風に思った。
父方の祖父の葬式のために、東京から戻ってきた。正直なところ、実家はあまり心地よい場所ではない。子供の頃の不愉快な記憶がまざまざと蘇ってきて、くつろげる場所ではない。だからこそ地元を捨てて東京へと向かったのだし、それから7年も実家に帰らないでいたのだ。こうして誰かが死んだりしない限り、これからも実家には寄り付かない生活が続くことだろう。
久々に会った両親は、やはり年を取ったなという印象だった。お互い何でもない風に会話を交わしはしたが、両親共が過去のことは水に流してまたうまいことやっていこう、というような目をしていたのがどうにも気に食わなかった。こんな風にしたのはあんたらが悪いんだろう、という思いが今でも強く残っていた。
そんな据わりの悪い時間の中で、唯一気が紛れるのが弟の剛志の存在だ。別に仲がよかったわけでも悪かったわけでもないのだが、こうして久々に実家に戻ってきて見た時に相手をしようという気になるのが弟しかいなかった。弟は地元の大学に通っているため、地元の噂話にはさすがに強い。自分がいなかった7年間に誰がどんなことをしたのか、何が変わったのか、変わらずに残っているものはなんなのか、そんな話をずっと弟としていたのだった。
その中で弟の口から出てきたのが、幽霊屋敷の話だった。譲二がこっちにいる頃にはなかったはずの噂だから、最近出来たのだろうと思う。弟に確認してみるとやはりそうで、ここ数年の間によく聞くようになった、ということだった。
これ特にどうということのない噂話であったら聞き流していたことだろう。しかし、弟の話を聞いている内にそうはいかないと思うようになった。
その家は、高校時代譲二が好きだった女の子が住んでいる家だったからだ。その子と特に付き合っていたということはなくただの片想いだったのだが、それでも高校時代のいい思い出として未だに譲二の心には深く刻まれている。その彼女の家がまさに幽霊屋敷と呼ばれているのである。
詳しく話を聞いてみるとこういうことのようだ。その家は両親と娘の三人家族だったが、ある時両親が何かの事情でいっぺんに亡くなった。娘はそれなりの年齢に達していたので親戚に預けられると言ったようなことはなく、その家に一人で住み続けることにしたらしい。
らしい、というのは、近所で誰もその娘の姿を見た者がいないからだ。昼も夜も一切外に出ない生活をしているらしい。実はもう誰も住んでいないのではないか、という話も時折出るのだが、家の電気が点いていたりシャワーの音が聞こえたりという話もあるので、きっと誰かが住んでいるのだろう、という意見も出る。結局はよくわからないのだが、あまりにも不気味なので周りはそこを幽霊屋敷と呼んでいる、とのことだった。
なんだ、それぐらいのことで幽霊屋敷だなんて騒いでいるのか、と思った。何かの事情で家から出られないだけかもしれないし、それにそもそも誰も住んでいないのかもしれない。電気やシャワーの件だって大した話ではない。そう言うと、いやそれだけじゃないんだと弟は言う。
何でもこの噂には続きがあって、幽霊屋敷では人が消えるのだという。幽霊屋敷の噂が出始めてから、大学生なんかが勝手に心霊スポットにして幽霊屋敷の中に入ったりしているようなのだけど、その誰もが行方不明になっているというのだ。馬鹿馬鹿しい。それこそただの噂だろうが。そんな人が簡単に消えてたまるか、と譲二は弟を詰るようにして言った。
そんなこともあって、今譲二は幽霊屋敷と呼ばれている、かつて好きだった女の子の家の前にいる。どのみち噂どおりのわけがないんだし、これにかこつけて旧友に会うというのも悪くないかなと思ったのだ。
とりあえず呼び鈴を鳴らしてみる。やっぱり誰も住んでないのかなと思い始めた頃、玄関のドアががちゃと音を立てて開いた。
玄関には一人の女性がいた。異常なくらい色が白く、また髪も長い。寝巻きのようなざっくりとした服を着ているが、それでもかなり痩せているのが分かる。あの頃の面影はほとんどなかったが、それでも目の前にいる女性が彼女なのだろう。
「譲二君?」
向こうは譲二のことが分かったようだ。7年ぶりに会うのによく分かるなと思うが、確かに譲二は高校時代からさほど変化がない。その後彼女は小さく何かを呟いたようだったが聞こえなかった。「オイソウ」とかなんとか、そんな風なことを言ったようだったのだけど。
「久しぶり。ちょっと実家に戻る用があって、それでついでに」
何がついでなのか自分でも分からないが、彼女はそれに突っ込むようなことはしなかった。
「上がってく?」
彼女はそう言うと、譲二の返事を待つでもなく家の中に戻って行った。確かに彼女の姿を何かの形で見れば幽霊に見えなくないかもしれないと思いながら、彼女の後を追うようにして譲二も家に入り込んだ。
入ってすぐ左手がキッチンになっていて、そこから居間に続いている。勝手が分からずしばらく立ち止まっていたが、麦茶を入れ終えた彼女が居間に入ってという風に手招きしたので、さてどうしたものかと思いながら中に入る。ここまで来てみたものの、どうしようかなんてことは特に考えていなかったのだ。
小さなテーブルを挟んで向き合うようにして座ったのだけど、会話の切り出し方が分からない。譲二は、幽霊屋敷の噂が本当か確かめたかったのだけど、いきなりその話をするのもどうかと思う。かと言って、彼女と共通の話題があるわけでもない。彼女の方はと言えば、特に何か話そうというつもりもないように見える。
とりあえず麦茶に口をつけ、そうしてからおもむろに切り出す。
「幽霊屋敷の話を聞いたんだ」
「ああ、ウチのこと」
やはり知らないわけではないようだ。インターネットか何かでそういう噂を見かけたのだろうか。
「で、悪いなって思ったんだけど、ちょっと確認しに来ちゃった。でも、やっぱ噂は噂だな。全然幽霊屋敷じゃねーもんな」
「そうかしら。案外間違ってもいないと思うけど」
何が言いたいのかよくわからないし、微妙に会話もかみ合っていない気もする。あまり長居したくもないな、と思いながら、ふと浮かんだ疑問を口にする。
「じゃあ、家から全然出てないってのはホントなの?それならさ、食事とかはどうしてるの?」
「そうね。食事はその噂のお陰でなんとかなってるって感じかな」
また意味の分からない返答をする。噂のお陰でご飯を食べられるってどういうことだろうか。
「それに、今日も夕飯の食材がもう手に入ったしね」
家に出るネズミでも捕まえて食べているというのだろうか。案外ありえないこともないかもしれない。誰もこの家には寄り付かないはずだから、ピザや食材の配達の人間も来ないだろう。だとすればなんとか自力で食料を調達するしかない。
そんな風に思っていると、突然体中にしびれを感じた。自分の体なのに自分の意思では動かせないような感じ。何だこれ。どう考えても、さっきの麦茶しか考えられない。
「どういうことあこえ。ないかくすいでおいえたんか」
口の筋肉も上手く動かせなくなっている。
「美味しそう」
彼女はポツリとそう呟く。そうか、玄関先で彼女が呟いたのもこれと同じ言葉だったのか、と思い至る。
「さてと、夕飯の支度でもしようかな」
幽霊屋敷で人が消えるという噂は本当だったのかと、ようやく思い至った。



63.「図書館に住むことになる少女の話」
図書館の前にいて、きちんと返すべき本を持っているのに、入るかどうか悩んでいる人間、というのを想像することは出来るだろうか。僕自身そんな状況に陥っていなかったとしたら、そんな状況はまず理解できなかったことだろう。図書館の前にいるなら、速やかに本を返却すればいい。それが世の中の道理であり、正しい行いである。
しかし、現実に僕は今、図書館の前でどうしようかと迷っている。最終的には本を返しに行くしかないし、それ以外の選択肢はありえない。しかし、少しでもそれを先延ばしにしてしまいたい、という思いが僕の足を押し留めるのだ。目の前にあるのが、普段僕が働いている図書館とは別だ、というのもなんとなく緊張に拍車をかけているのかもしれない。
僕がこの状況に陥ることになったきっかけは二週間前に遡る。
僕はとある大きな街にある図書館で司書をしている。館長ではないがかなり裁量権のある立場であり、比較的自由に物事を決めることが出来る。本が好きなこともあり、普段であれば自分がそんな立場でいられることは誇らしいことであるのだけれども、しかし自分がそういう立場だったからこそこんな事態を招いたのだとも言える。
二週間前の夜。閉館後、一人で残務処理をしている時のことだった。その日は夕方から雨が降り始め、だんだん強くなってきていた。どうせ仕事も溜まっていることだし、雨が落ち着くことを期待してしばらく仕事を続けてみよう、そんな風に考えて残っていたある晩のことである。
どこからか、ドンドンという鈍い音が聞こえてくる。雨の音に紛れて聞きづらいが、どうもドアか窓を叩いているように聞こえる。とりあえず様子を見ようと館内を回ってみると、一人の少女がずぶ濡れになりながら弱々しく窓を叩いているのが見えた。事情はまったくわからないが、とりあえず中に入れてやるしかない。少なくとも、その判断は間違っていなかったはずだ。
外にいる少女に入口に回るように手振りをする。鍵を開けて少女を出迎えると、その顔は真っ青で、体も小刻みに震えていた。とりあえず事情を聞くのは後にしようと決め、タオルを渡し、暖かい飲み物を出した。あまり期待はしていなかったが、事務所を漁ってみると、サンタクロースのコスチュームが出てきた。そういえば職場でクリスマスの飲み会をした時に誰かが着ていたなと思い出しながら、もしこんなものでよければ、と少女に差し出した。驚いたことに、少女はおもむろ服を着替え始めた。咄嗟に背を向けたが、少女は僕の視線など特に気にもしていないように思えた。
夜の図書館にサンタクロースの格好をした美しい少女という、何とも場違いな取り合わせに、少なからず心の高ぶりを覚えていた。だからなのかもしれない。言い訳をするつもりはないが、結局あんな決断をしてしまったのには、そんな理由もあるのかもしれないと思う。
「ここに、泊めてもらえませんか?」
少女は、結局一切の事情を口にしなかった。僕としても、あまり無理に問いつめることも出来なかった。少女の申し出には、もちろん戸惑いもした。しかし、もう僕は既に踏み込んでしまったのだという自覚もあったし、それに僕の裁量でうまく隠し通すことは出来るかもしれないとも思っていた。昼間の内は普通の来館者のように振舞えばいいし、夜は一人ぐらい何とか匿うことは出来るだろう。正しくないことは分かっていたし、バレれば大変な問題になることもきちんと理解できていたが、しかし少女の雰囲気に飲み込まれたのかもしれない、何となく気持ちが大きくなっていて、何もかも大丈夫な気がしたのだった。
それから彼女を匿う日々が続いた。危ない場面は何度かあった。残業する職員は時々いたし、また少女の生活に必要な持ち物が見つかりそうになったこともある。その度に巧いこと切り抜けながら、僕と少女の生活は続いていった。
不思議だったのは、少女が一切食事を摂らないことだった。何か食べるものを買い与えてもいらないと言うし、かと言って自分で何か買っているような様子もない。どうしているのかその時はわからなかったのだが、しかし大丈夫だというなら放っておくしかない。事実彼女は、特に衰弱することもなく、普段通り生活を続けていたのだ。
少女は、とにかくたくさんの本を読んだ。しかし、彼女が本を読む姿を目にしたことは一度もない。私が本を読んでいる姿を見ないで欲しいと言われていたし、少女も隠れて読むようにしていたからだ。昼間はどうしていたのかと言えば、図鑑や絵本を読んでいた。図鑑や絵本を読むのは見られていても大丈夫だ、と少女は言った。何のことかよくわからなかったが、特に少女のやることに口を挟むようなことはしなかった。
少女は夜様々な本を読んでいるようで、読んだ本の内容についてよく僕に語って聞かせた。少女の読む本は、ほとんど誰も読まないようなマイナーと言っていい本に限られていた。一年に一回借り出されるかどうか、というような本ばかりを読んでいたのだ。面白いのか、と聞くと面白くないと答える。じゃあ何で読んでるんだと聞いても答えない。まったくわけがわからない。
少女は一度読んだ本の内容は完璧に覚えてしまえるらしい。今となっては納得出来る話だが、その時はすごい記憶力だなと思ったものだ。
ある夜のことである。いつものように少女はどこかで読書をし、僕は事務所で仕事をしていた。そしてトイレに行こうとして、偶然彼女が本を読んでいる光景を目にしてしまったのだ。
あれほど驚いたことはかつてなかったと言ってもいいすぎではないだろう。
少女は本を開いて文字を目で追っているのだが、その文字が少女の目に吸い込まれていくのである。何がどうなっているのかわからなかったし、自分が寝ぼけているのだとも思った。その日はとりあえず何も見なかったことにして、とりあえず家に帰って寝てしまうことにした。
翌日、少女がこれまで読んでいた本を片っ端からチェックしてみると、なんとその本からすべての文字が消えていたのだ。まったくの白紙であり、まるで本としての体裁を保っていなかったのである。
僕は茫然とするしかなかった。とりあえず夜になるのを待って、少女の言い分を聞くことなく少女を追い出した。もう二度と来るな、と言い含めて。少女もどうして追い出されることになったのか思いあたるようで、また別のところを探すかと言ったような雰囲気を漂わせながら去って行った。
今から考えてみれば、あれが少女にとっての食事なのだろう。文字を食べることでしか生きていくことが出来ないのだ。しかし、日々本を買ってそれを食べていくのではなかなか大変である。だから図書館に狙いを定めて放浪しているのかもしれない。
そんなわけで僕は、見知らぬ土地の図書館の前にいる。既に偽名でカードを作り、数日前にその図書館から本を借り出していた。やることは単純だ。その図書館で借りた本と少女に白紙にされた本を入れ替えるのだ。整理番号を入れ替えたりするのが厄介だが、しかしやるしかない。僕の手の中にあるのは、中身が白紙の本なのだ。返却してもバレないだろうか、と不安になる。なかなか中に入る勇気が出ない。
しかし考えてみればあの少女も不幸なものだ。人とは違う生き方を余儀なくされ、人とは違う選択をしなくてはいけない。図書館の本をダメにするのは勘弁して欲しいものだが、同情の余地はあるなと思う。
さて、ぐずぐずしてても仕方ない。僕は意を決して図書館の入り口をくぐる。



64.「永遠の命」
ある日タタンの元に悪魔がやってきた。
「俺は悪魔だ」
第一声がそれだった。ちょっと天然なのかもしれない。
悪魔は人間のような姿に見えた。最も悪魔には、決まった姿かたちというものはないらしい。見る側の人間が適切なイメージをはめ込むことで、悪魔というのは目に見える存在になるのだという。
「ただの人間にしか見えませんけど」
部屋で本を読んでいたタタンは、突然クローゼットから出てきた変な男に驚いた。何でそんなところから、と聞くと、ここはドアじゃないのか、と悪魔は言った。何ともとぼけた奴だった。
自分は悪魔だと名乗る男に、タタンはそう返したのだ。
「まあ信じてくれなくてもいいが。ただもし信じるのなら、お前の願いを一つだけ何でも叶えてやろう」
タタンは、もちろん悪魔のことを信じてなんかいなかった。何でクローゼットから出てきたのかという謎はともかくとして、タタンにとってそこにいる悪魔はただの不審者でしかなかった。
だから、悪魔に向かって願い事を告げたのは、ただの気まぐれだ。もちろん、叶うなんて思っちゃいない。願い事を言いさえすれば、悪魔はすぐに去っていくのではないか。まあそんな風には考えたかもしれない。
「永遠の命を手に入れたい」
叶うとは思っていないが、願い事は本物だ。タタンにはやりたいことがたくさんあった。そして何よりも、死ぬことを恐れていた。
「わかった。永遠の命をお前にあげよう」
そう言って悪魔は去って行った。
それから、何か劇的な変化があったわけではない。身体が強くなったような気がするわけでも、不思議な力がみなぎってくるように感じられることもなかった。悪魔はタタンに永遠の命を与えてくれたのだろうか。それとも、今その準備をしているところなのか。
いかんいかん、あんな頭のおかしいやつの言葉を真に受けてしまっている。どうせ茶番なんだ。どうってことはない。
それからもタタンは変わらない日常を過ごした。学校に行き、会社に勤め、結婚し、子供を産み、子供と酒を酌み交わし、親を看取り、そうやって長い年月が過ぎていった。
ある日、それは見つかった。腹部に激痛を感じた翌日、病院で検査をして分かったのだった。
ガンだった。
既に広く転移しており、手術は不可能。薬による治療を始めることになった。
この時タタンは、かつての悪魔の言葉を思い出していた。なるほど、ようやくあの話の真偽を検証できるってわけか。
タタンはもちろん、悪魔の言葉など信じていなかった。今の今まですっかり忘れていたことだし、そんな細い望みにすがるほど落ちぶれていないとも思っている。自分は間違いなく死ぬだろう。今でも不死を願う気持ちには変わりはない。何よりも、娘の成長をもう見ることが出来なくなるのかと思うと、悪魔の言葉に一瞬すがりつきたくなってしまう。
症状はどんどんと悪化していった。もはや完治する望みはないようだ。医者も妻も直接は言わないが、自分の身体のことだ、それぐらいのことは分かる。思い残すことはたくさんある。やりたかったこともまだまだ残っている。ただ、死ぬ時ぐらい穏やかで静かにいたいものだ。
もはや、息をするのも苦しくなってきた。モルヒネの効きも弱くなり、痛みがさらに増している。終わりは近いということなのだろう、病室がバタバタした雰囲気に包まれているのが分かる。妻だろうか、タタンの手を握り締め、必死で何か伝えようとしている。あぁ、もう終わってしまうのだな。タタンは覚悟を決めた。
それから、長い時間が過ぎた。
タタンはまだ死んでいなかった。どれぐらいの時間が経ったのか検討もつかない。しかし、もうあれから一週間は過ぎているのではないか。病室の緊張状態も、今では解かれているようだ。いつ死んでもおかしくないはずなのに、タタンはまだ死なない。
病室に誰かがやってくる気配があった。何となく勘が働いた。きっと悪魔に違いない。
「願いは叶えたぞ」
タタンに向かってそんなことを言うやつは悪魔以外にいない。
「どういうことだ。もう俺はこのまま死ぬんだろう?」
タタンはもはや喋ることの出来ない身体だ。しかし、思考がそのままの形で悪魔に伝わるようだ。
「いや、お前は死なない」
「どういうことだ」
「お前の時間を、死ぬ一歩手前で止めたのだ」
時計の秒針で言うと、と悪魔は続けた。お前の時計は今59秒で止まっているんだ。あと1秒をカウントすればお前は死ぬ。でもその1秒は永遠にカウントされることはない。即ちお前は永遠の命を手に入れたのだ、と。
「ふざけるな!」
「何を言う。永遠の命を手に入れたいというお前の願い、叶えてあげたではないか」
ダメだ。きっとこの悪魔に何を言っても理解できないだろう。生きているということがどういうことなのか。永遠の命というものがどういうものなのか。
タタンは、永遠に動くことのない身体を抱えて、永遠のような時間を過ごさなくてはいけない。モルヒネは効かなくなってきているから、鈍痛がタタンを突き刺すように襲ってくる。これにも耐えなくてはいけない。しかしそれ以上に辛いのが、妻と娘だ。永遠に死ぬこともない、しかし永遠に起き上がることのないタタンの存在は、いつまでも彼女らの負担となるだろう。
タタンはかつての自分を責めた。そうやって、過去の自分を責め続けることでしか、もう時間をやり過ごすことは出来なくなっているのだ。



65.「自分主演映画」
「本当にすごい映画だったんだ」
三日前、居酒屋でばったり会ったかつての友人は、ほろ酔い加減の口調でそう口にした。
「まさか、自分が出てくる映画を見せられることになるとはなぁ」
ノボルは今映画館の前にいる。友人が見たという映画を、自分も観てみるつもりなのだ。
「初めはさ、いつも見てる映画と大して変わらなかったんだよ。いつも通り予告があってさ、携帯電話を切れよみたいなのがあって、それから本編が始まるわけだ。タイトルが出てさ、どっかの工場地帯を背景に役者の名前がポツポツ出てくるわけだ」
その映画のことは、ノボルも知っていた。ただ知っていることは友人には告げなかった。
「で話が始まるわけなんだけどさ、どうもおかしいんだよな。見ている風景に、どうも見覚えがあるんだよ。あれっとか思ってさ。だってそんなわけないだろ?そりゃあさ、ロケ地が俺の地元だったということはありえるかもしれないよ。でもそういうんじゃないんだ。なんかこう、懐かしさを伴うっていうのかな。見覚えがあるっていうか、その風景と自分が分かちがたく関係しているっていうか、そんな感じなんだよ」
その映画は、ジワジワと話題を集め、今日も映画館には行列が出来ていた。これは危険だな、と思いながらノボルは最後尾につく。
「初めは風景が続くんだな。人なんかほとんど出てこないの。まあ、通行人Aみたいなやつらはいるけどな。これ何の話なんだろうなぁ、ってちょっと痺れを切らしそうになった頃に、やっと登場人物が出てくるわけなんだけどさ、それが驚いたのなんのって」
ここに並んでいる人々は、この映画についてどれだけの知識を持っているのだろうか。きっと何も考えていないのだろう。ちょっと面白そうだから見てみようよ、なんてそんなことしか考えていないに違いない。
「出てきたのはさ、まさしく俺だったんだよね」
きっと、つい先日「個人情報保護法」の条項が改定されたこともほとんど知らないに違いない。ノボルには関係ないことだから構わないが、お気樂なものだ、と思う。
「えっ、って声を上げたよ。それがさ、不思議なことに、館内にいた客のほとんどが声を上げてたんだな。でもその時はそんなことに気は回らんよ。何で俺が映画に出てるんだって、もう混乱するしかなかったよ」
行列は次第に進んでいき、ノボルはチケットを買った。上映される劇場を確認してから、すぐそこへ向かう。
「それからのストーリーはさ、まあ要するに俺の話だったわけなんだな。なんていうかまとまりのないストーリーではあったんだけど、俺の小さい頃のことからの成長とか、初めて彼女が出来た時のこと、学校での思い出、万引きして見つかった時のこと、そういうのをさ淡々と描くんだよ。ありゃ参ったね」
ノボルは自分の両親のことを考えている。恐らくだが、この映画を考案したのは両親に違いないと思う。彼らの目的が手に取るようにして分かるので、正直うんざりするのだ。
「一緒に映画を観に行った女の子がいるんだけどさ、まさかこんなのを見せられることになるなんて思わなかったから恥ずかしくって、ちょうど初恋の話になった時、いや俺あそこまでかっこ悪くなかったよ、って言ってみたのよ。そしたらさ、えっ何の話?っていうわけだよ。聞いてみるとさ、その映画は彼女には彼女の話として映ってるらしいんだな」
映画の上映が始まる。予告や注意事項が画面から流れ、ようやく本編が始まる。しかしノボルには、何の映像も見えない。ただ真っ白な画面がひたすらに続くだけだ。やっぱりな、とノボルは確信した。しばらくすると、会場のあちこちから「えっ」という声が上がる。
「たぶん皆観てるものが違ったんだろうけどさ、でもそんな映画ありえるか?映画が終わってからもさ、みんな狐につままれたような顔をしてたよ。まあ俺もきっとそうだったんだろうけどな」
ノボルの目に映画が映らない理由は明白だ。ノボルはロボットなのだ。そしてこの映画は、ロボットには見えない映画なのだ。
この映画の仕組みは、単純に言ってしまえば記憶の投影装置ということになる。映写機からは、客席に向けて人の目には見えない波長の光が放出されていて、それが人間の脳の記憶にぶつかり反射することで、スクリーンに映像が浮かび上がる仕組みになっている。だから映画を観に行った人は当然それぞれの記憶を見ていることになるし、ロボットであり人間のような形では記憶を持たないノボルにはこの映画は見えないのだ。
両親はアメリカ最大の機械メーカーで研究員として働いている。彼らは、人間と同じ機能を持ち、かつ一般に普及しうるロボットのプロトタイプとしてノボルを作り出した。世界中での展開を考えているため、アメリカのみならず世界各国に同じようなプロトタイプが送られて、実験データが取られている。日本に送られたのがノボルだ。
両親の働く機械メーカーは最終的にロボットを世界中に普及させるのが目的だ。しかしそれには一つの問題が生じる。人間と見分けのつかないロボットであるほど、人間との区別が必要な時に困ることになる。それを見越していた彼らは、人間とロボットを非接触で区別する方式を生み出す必要があったのだ。
それがこの映画だ。この人間とロボットを区別するシステムの実験のために、このシステムを映画と謳って実験をしているのだろう。
また、このシステムは既に政財界への根回しも済んでいるはずだ。政府としては、別の目的でこのシステムを使いたいのだ。つまり、人間の記憶を映写出来るこのシステムは、警察での取調べやスパイの尋問などに大いに役に立つ。ロボットを普及させたいメーカーと、システムを別の目的で使いたい各国政府の思惑が一致して、これほど大々的な展開になっているのだろうと思う。
先日「個人情報保護法」の条項が改定されたのも、このシステムの導入を見越してのことだろう。つまり、記憶というものの扱いについて新たに付け加えたのだ。このシステムのことを知らない人々には、何のための改定なのかさっぱり分からなかったから話題にもならなかったが、しかし恐らく近い将来、自分の記憶を勝手に覗き見られる社会が実現してしまうことだろう。
劇場内は未だ驚きの声で満ちている。驚くのはまだ早いよ、とノボルは彼らに言ってやりたくなった。



66.「自殺者の夢」
もうダメだわ。
自分の中でも、何がダメなのかいまいちはっきりと言葉にすることは出来ないが、しかし僕はもうダメなんだということだけがくっきりと明確に心に浮かび上がってくる。もうどうしようもない。生きていたって仕方ない。ここのところ、毎日そんなことばかり考えて生きてきた。
何もかもがうまくいかない。何もかもがよくない方向へ進んでいく。僕の人生はまさにその連続で、30数年経った今でもまったく変わることはない。もうダメだ、ともう何回思ったかわからないことをまた考えてしまう。
もう死ぬしかないな、こりゃ。
僕はホームセンターで買ってきたロープを木の枝に通した。本当は自分の部屋で死ぬつもりだったのだが、ロープを引っ掛ける時になって無理だと気づいた。部屋の天井にはロープを引っ掛けるようなところがどこにもなかったのだ。仕方ないなと思い、踏み台として使うつもりの分厚い本を何冊か持って、近くにある神社の裏手の森までやってきたのだった。そこは森というほど大きくはないのだけど、辺り一面木や草が生い茂り、ちょっと奥に入れば視界すべてが木に覆われるような、そんな場所である。
この世に未練はない。守るべきものも何もないし、やりたいことだって何もない。今の状況で出来ることなど何一つないし、僕が死んで哀しむ人間だってそういないはずだ。ロープをしっかりと木に括りつけ、片方を輪っかに結ぶ。初めてなので勝手が分からないが、首吊り自殺をするほとんどの人は初めての経験のはずだ、と思うと何だか気が楽になった。
準備は出来た。地面に本を重ねて置き、その上に乗る。あとはロープの輪っかに首を通して本を崩せば、それで終わりだ。
目を閉じながらロープの輪っかに首を通す。その瞬間、どこからか声が聞こえた。
「やぁ」
まずい、見つかったと思った。反射的に身体が固まってしまい、動けなくなった。しかし、とりあえず目だけは開けることが出来た。
目の前には近未来的な都市が広がっていた。
自分が何を目にしているのかさっぱり理解できないまま、その光景に目を奪われてしまった。それはまさに、19世紀の人々が想像した未来そのものと言った感じで、車は空を飛ぶし、見たこともないほどの高層ビルが何棟も立ち並んでいる。僕はその中で、横断歩道の前に立っているのだった。道路の反対側にはパン屋があった。こんな近未来的な都市の中で、パン屋っていうのはちょっと浮いているな、などと冷静に思ったりもした。
そういえばロープがないような気がする。僕の首に巻きついているはずのロープはどうなったのだろう。
「ねぇおじさん、ここの人じゃないでしょ?」
声の存在のことをすっかり忘れていた。右を向くとそこには、小学生ぐらいの男の子が立っていた。僕の方を見て、何だか楽しそうに笑っている。
「どっか違うところから来たんでしょ?僕そういうのすぐ分かっちゃうんだ」
まあ確かにそうだ。こんな都市は見たこともないし、ここがどこなのかもさっぱり分からない。
「僕が案内してあげようか?」
少年は屈託がない。僕が誰なのかも分からないはずなのに、案内をしてくれるというのだ。まあ確かに、突然こんな世界に放り出されて、どうしていいのか分からないのも確かだ。しかしそもそも僕は死のうとしていたんじゃなかったのか、と思い出してなおさら混乱してしまう。どうなっているのだろう。
「ほらおじさん。青になったよ」
今気づいたが、少年の顔はどうも見覚えがあるような気がする。しかし、頭が混乱しているせいなのか、記憶には浮かばない。
「ねぇ、青信号になったら渡れるっていうの知らないわけ?ほら行くよ」
そう言って少年は僕の右手を引っ張る。つられて僕は右足を前に一歩出す。
その瞬間、足元が崩れた。目の前の風景は瞬時に木々生い茂る森に変わり、さらに次の瞬間にはもう真っ暗になっていた。
そういえばあの少年は、僕自身に似ているのかもしれない。僕は未来の子孫に殺されたということになるのだろうか。何が何だか分からない、と途切れる寸前の意識の中で僕はそんなことを考えた。



67.「流れ星の作り方」
図書館の人ってのは、どれぐらい本のことを知っているのだろうか、なんて考えてしまうことがある。というより、まさに今がその場面なのであった。
図書館という空間は比較的好きで、本を読むわけでも借りるわけでもない時でもふらっと立ち寄ったりする。真夏には冷房を求めて、真冬には暖房を求めてということももちろんあるのだけど、あの周囲すべてが本で圧倒されている空間というのがただ単純に好きなのだと思う。
この図書館に通うようになってもう3年近くになると思うが、やはりその全体を把握しきることはなかなか難しいものがある。私は、誰だったか忘れたのだけど昔の偉人の、図書館の本を全部読んでしまった、というエピソードに強く惹かれるのだ。もちろん私の場合、全部読むことなど到底出来ない。だからこそ、せめて図書館のどこに何があるのかを見て、そのすべてのタイトルと目次と著者紹介だけでもすべて目を通そう、という目標を持っているのだ。本当に、他人からすればどうでもいい目標でも、私は結構真剣なのだ。
ただこれがなかなか進まない。面白そうな本があるとつい読み始めてしまったり、もちろん時々借りたりもする。その間、次の本に進むことは出来ないので(これは私が決めたルール)、遅々として進まないというのが実際のところだ。
しかしそうやって棚に並んでいるものを一冊一冊丁寧に見ていったことが思わぬ発見に繋がった、とも言えるだろう。
それは、料理本のコーナーに挿してあった一冊だった。確かにタイトルに「作り方」という言葉が入っているけど、それにしたってこの間違いは酷いだろう、と思った。だから初めは、誰かがきっと戻し間違えたに違いない、と思ったのだ。
「流れ星の作り方」というその本は、しかし普通ではなかった。まず図書館のものであることを示すシールやはんこが押されていない。また、本のどこを調べてみても、奥付と呼ばれる発行年や発行者の書かれたページがないし、裏表紙にISBNと呼ばれる発行されるすべての本につけられるはずのコードもない。つまりこれは、誰かが個人的に作った本だ、ということだ。普通の出版流通にはそもそも乗ってない本。それが何故ここにあるかと言えば、作った誰かが多くの人に読んでもらいたくて勝手に図書館の棚に挿した、ということなのだろう。だから私は思ったのだ。図書館の人は、館内にある本についてどこまで知っているのだろう、と。
その本は、地味だけど味のある絵が表紙で、大きさといい雰囲気といい絵本のような趣があった。タイトルと併せて考えてみても、本当に絵本なのかもしれない。
しかし中を開いてみると、どちらかと言えば設計図という雰囲気の本であることがわかった。右側のページに説明書きがあり、左のページにその図説が載っている、というもので、パラパラと捲って見る限り、本当に流れ星の作り方について解説している本だと分かった。
この本は面白そうだ、と思った。本当に流れ星が作れるのかどうかは別にしても、ここに書かれているやり方でちょっと作ってみたい。でも一つ大きな問題がある。この本が図書館の蔵書ではなさそうだ、ということだ。
この本をカウンターに持っていったらどうなるだろう。図書館の蔵書ではないけど貸し出してくれるだろうか。いやきっとそうはならない気がする。かと言って勝手に持ち出すのもどうかと思う。見咎められても、図書館の本であることを示すものは何もないのだから大丈夫だとは思うが、しかし万引きをしているようで気分が悪い。
だから結局私はすべて書き写すことにした。幸いそんなに分量はない。省略しながら書けば20分ぐらいで何とかなるだろう。
それから私は買い物をしてから家に戻った。買ったものはもちろん、流れ星を作るのに必要な材料である。もちろん流れ星が作れるなんて思ってもいないが、しかし遊びとしてやってみるのも面白いじゃない、と思う。
作り方は、材料が多いことを除けばそんなに難しいことはなかった。例えばこんな風なことが書いてある。
『砂糖と塩をそれぞれ100グラムずつフライパンに入れ、3分ほどよくかき混ぜながら熱してください。熱し終わったらトレイに移し、しばらく冷蔵庫で冷やしてください』
『硫化水素ナトリウムに亜鉛を加え、密閉した容器の中へいれて下さい。1時間ほどするとガスが出終わると思うので、最後の段階までそのまま置いておいてください』
『テニスボールを除光液に浸しておいてください。10個ぐらいあるといいです』
とにかく私は、そんなよくわからない指示に律儀に従いながら、レシピ通りに流れ星を完成させた。時間は掛かったが、どこにもミスはないはずだし、あの本が正しければこれは流れ星になるはずだった。
最後の仕上げは、その出来上がった『玉』を出来るだけ高いところから下に向かって投げろ、というものだった。私の部屋はマンションの14階にあるので、窓からその『玉』を放り投げてみた。
するとその『玉』は落ちながら輪郭がどんどん薄くなっていき、それを見た私は慌てて空を見上げた。
すーっと流れ星が流れて行った。
やった、成功だ。本当に流れ星って作れるんだ。私は嬉しくなって、これからもたくさん流れ星を作ろう、と決めた。何だかそれが自分で作った偽者だったとしても、流れ星を眺めるのは結構爽快なのだ。
しかし、この決断が世界を少しだけ不幸にするということに、私はまだ気づいていなかった。
「流れ星の作り方」という本をきちんと最後まで読んでいれば、流れ星を作ろうなんて思わなかったかもしれない。レシピを書き写すことだけに夢中で、その部分より後は読んでいなかったのだ。
「流れ星の作り方」の終わりの方には、こんなことが書かれている。
『人工の流れ星に祈った場合、願い事とが逆のことが叶うという性質が知られています。作る際にはその点よく注意してください』



68.「ルビンの姉」
何かあると、私はすぐピアノへ向かってしまう。初めて付き合った彼と別れた時も、嫌いなレーズンバターを食べられることを発見した時も、雨続きでの後の久しぶりの爽やかな快晴の日も、嬉しい時も哀しい時も、淋しい時も辛い時も、いつだって私はその感情をぶつけるためにピアノの前に座っていた。ピアノを弾き、その音に身を任せることで、自分の感情を手綱を握る。それが私のこれまでのやり方だった。
だから、妊娠しているとわかった今も、もちろんこうしてピアノの前に座って鍵盤を叩いている。まだ病院に行ったわけでもなく、妊娠検査薬で確かめたわけでもないのだが、なんとなく予感があるのだ。だから、きちんと確かめてみる前に、気持ちを落ち着かせようとこうしてピアノを弾いている。
それは私にとって変えようもない大事な習慣であるのだけだけれども、しかし一方でピアノを弾くと必ず思い出されることがある。30代を目前を控えた、まあ控えめに言わなくても大人になった今でも、それは不思議なものとして私の記憶に刻まれている。
私と両親の間には、大きな認識の溝があった。これが子供の時からの私の大きな謎で、結局未だに解決されていないのだった。
それは、私の姉に関する問題である。
私の姉、という言い方をしたのだが、この表現は正確ではない。というか、この表現そのもの、もっと言えば姉の存在そのものが問題だったわけで、つまりこういうことである。
私にはどう見ても姉は存在しないように思えるのだけど、私の両親には姉は存在しているようだ、ということである。
私たち家族は、少なくとも私の目から見れば三人家族である。両親と私の三人であり、となれば私が長女ということになる。もちろん周囲の認識も同じで、私は一人っ子だと思われていたし、長女であると認識されもしていたのだ。両親も、周囲に対しては姉の存在を大っぴらに口にすることはなく、ただ姉の存在を否定するようなこともなかったので、何を聞かれても曖昧な返答でずっとやり過ごしていたような気がする。
両親からすると、私たちは四人家族ということになるらしい。しかし、その四人目、即ち両親が姉と呼ぶ存在は、どうしても私の目には見えなかったのだ。それでも両親は、さも姉が一緒に生活をしているかのように振舞い続けたのだった。
我が家は、借家ではあったけど一軒家で、小さいながらも庭があるようなところだった。三人で住むには少し広すぎるぐらいだったかもしれない。居間には、窮屈そうに置かれたグランドピアノがあり、だから私は小さい頃からピアノに触れる環境にあったのだ。
私はよく、「あーちゃんはお姉ちゃんと仲良くしてあげてね」と言われた。その度毎に、お姉ちゃんって誰、と聞こうとしたのだが、しかし両親の態度がそれを許さなかった。一度、まだかなり小さい頃だったと思うのだがその質問を母親にしたら、子供に向けるとは思えない目付きを向けられたことが記憶に残っている。それ以来、家の中では禁句なのだと自分に言い聞かせた。
ピアノを弾いている時はよく褒められた。しかしそれは、「ピアノが上手いね」というようなものではなく、「お姉ちゃんと仲良くして偉いね」というようなものだった。ピアノを弾くことがどうしてお姉ちゃんと仲良くすることになるのか、今考えても私にはやはり理解できない。両親はやはり少しおかしかったのではないかと思ったりもする。あるいは、一番初めに授かった子を流産で亡くし、その子供のことを忘れられなかったというようなことかもしれないとも思う。
妊娠しているかもしれない、という今、もしお腹の子を失うことになったらと考えると、もし母親が子供を流産していたとするならその気持ちは少しは分かるかもしれないと思った。子供の頃は分からなかったことでも、大人になれば理解出来るかもしれない。もしかしたら、姉の存在の謎をようやく理解することが出来る時期にきているのかもしれない。
私は薬局で買ってあった妊娠検査薬を取り出し試してみることにした。しかしまあなんて便利なものが出来たものだろうか、と私は思った。
結果は陰性、つまり妊娠していないというものだった。私はこの結果に納得することが出来なかった。妊娠しているかどうか、もちろん感覚だけではわからないものかもしれない。でも、今私が感じている感覚が妊娠によるものだという直感が、何故か強く私に訴えかけるのだ。
だから私は産婦人科に予約を入れ、検査をしてもらうことにした。
問診や尿検査などを経て、超音波検査に移った。お腹にベトベトした液体を塗られるアレである。横にあるモニターに画像が映るようになっているのだけど、しばらく真っ暗なままだったので退屈して、それからは検査を担当した医者の手つきばかりを見ていた。
しばらくして医者が何だか頓狂な声を上げ、驚いた私は何なんですかとちょっと詰問口調で医者に声を掛けた。
「いや、ちょっとありえないものが映っていたものですから」
医者はそう言い、なおもお腹の上をグリグリと白い機械を押し付けた。何だかものすごく困惑している。
「何が映っていたんですか?」
そう聞いても、医者は返事を返してくれない。まあ答えてくれないなら自分で見るわ、と思ってモニターに目を向けた。
そこには、ピアノが映っていた。
まだ小さいが、しかししっかりとピアノだと分かる形をしたものが、私のお腹の中にいるのである。それを見た瞬間、積年の疑問のすべてが吹き飛んだ。
「こんな例は今までありませんが、しかし恐らく今ならまだ中絶は間に合う期間だと思います。出来るだけ早い方がいいと思うのですが、都合がいい日はありますか?」
何を言ってるんだ、この医者は。まるで私が中絶することが決まっているみたいな言い方じゃないか。
「いえ、中絶はしません。このままピアノを産みます」



69.「旅は道連れ」
「すみません、こちらの席って空いてますか」
「えぇ、大丈夫ですよ。あぁ、すいません。ちょっと荷物動かしますね」
「ありがとうございます。いやホント混んでますね。新幹線なんて乗るの久しぶりで」
「私も久しぶりですけどね、普段はここまでは混んでないんじゃないかしらね。何でしょう、帰省のシーズンというわけではないし、やっぱり日本人は旅行が好きっていうことなのかもしれませんね」
「まあそうでしょうね。まあそんな僕もその一人だったりするんで何とも言えないんですけどね」
「そうなんですか。あ、そうだそうだ。もしよかったらお茶でも飲みませんか。結構美味しいんですよ」
「旅はこういう出会いが楽しいものですからね。まだ旅の途中という感じですが、遠慮なくいただきます。しかし今時水筒というのはなかなかいいですね」
「私は生まれて初めて故郷から外に出たんですよ。まあその用事は大したことなくて、今も故郷に帰る途中なんですけどね、でもやっぱり知らないところに出るのっていうのは不安じゃないですか。はい、これお茶ね」
「どうもすいません。そうですよね。僕も随分と方々旅していますけど、行ったことのないところに行くのは未だに不安がありますからね。その分期待も大きいわけですけどね。あ、ホント美味しいですね」
「でしょう?いい水を使ってますからね。そうなの、やっぱり不安だったものだから、こうして飲みなれているお茶でも一緒に持っていこうなんて思いましてね。他にも、お守りだとか息子の写真だとか村のお医者さんが調合してくれるお薬なんかを持って、準備万端で出て行ったんですけどね」
「まあでも、外の世界も、なんていうと大げさですけど、悪くないものでしょう?」
「まあそうね。車がびゅんびゅん走っていたり、見上げるほどの建物が建ってたりで目を回しそうになったことも多かったけど、やっぱり刺激的で面白かったわね」
「僕は普段そういうところに住んでるので気にならないんですが、やっぱり見慣れないと恐ろしいところに見えるかもしれませんね」
「ホント。やっぱり家でゆったりと過ごしてるのが一番。もう遠出はこりごりだわ。ところで、あなたはどちらへ行かれるの?こんなことを聞いてしまっては失礼になるかしら」
「いえいえ、大丈夫です。こうして知らない方と話をするのは好きな方ですし、それが旅の話ともなれば話したくて仕方がない、という感じですから」
「それはよかったわ。そうだ、今度はみかんでもどう?」
「もらってばっかりですいません。いただきます」
「普段から旅行をされているようなことを言っていましたね」
「はい、まあ旅行と言っても、観光地を回るようなもんじゃないんですね。僕はどちらかと言えば冒険とか探検とか呼びたいくらいなんです。まあさすがにちょっとどうかなとは思うんですけど」
「なるほど。ということは、秘境を探してそこに行く、みたいな旅なのね」
「その通りです。もちろん世の中には秘境なんてもうほとんどなくなっているし、人跡未踏の地なんてほとんどないことは分かっています。それでも、きっとどこかにはまだ残っているに違いない、と思いたいんです」
「なるほどね。そういう志は私は好きですよ。やっぱり男の人は冒険心を失ってはダメだわ」
「そう言ってもらえると気が楽になりますね。というのも、両親や友人から、馬鹿馬鹿しいことはもう止めろなんてよく言われるものでして」
「まあ確かに親御さんとしては心配かもしれないですね」
「耳が痛いです。それで僕は、いろんな噂話や都市伝説を仕入れながら、日本にまだ残る秘境を見つけて足を踏み入れたいと思っているんです」
「これまでそういう秘境は見つけられて?」
「成果は芳しくありません。ただ今回の話はかなり期待しているんです。これまでの経験から、としか言いようがないのですが、何となく信じても良さそうな話なんです」
「どんな秘境なのかしら」
「神秘的な泉があるとされる村なんです。村全体の共有物とされている泉のようで、主に飲み水として使われているそうなんですが、なんとその泉の水を飲むと若返るというのです」
「それは素敵ですね」
「なんとなく若返る、というのではないそうです。よぼよぼのお爺さんが30代に見えるくらい若返るのだそうで、その効果は絶大だ、という噂なんです」
「なるほど。そんな泉があったら、確かにそれは秘境でしょうね。それを聞いて、自分のところの村の話を思い出しましたよ。私の村にも泉があるのです」
「そうなんですか?もしかしたら僕が探している泉かもしれません。○○県の南部にある、××村というところにあるそうなんですが、ご存知ないですか?」
「あらま驚いた。それはまさしく私の生まれ故郷ですよ。私はこれからそこに帰るんです」
「そうなんですか!偶然というのはすごいものです。まさか秘境…、なんて言っては失礼ですね、あの村の出身の方に出会えるなんて」
「でもそんな噂は聞いたことがないですねぇ。私が聞いたことがあるのは、もっと別の話です」
「その泉に関してですか?」
「そうそう。その泉の水は、村人が飲む分には平気だし、村人以外の人でも村にいる間に飲む分にはまったく問題はないのだけど、村人以外の人が村以外の場所で、要するにそこから汲んだ水を持って帰って別の場所でっていうことだけど、そうやって飲むと一気に年老いてしまう、っていう話なんですけど」
「僕が聞いた話とは全然違いますね。若返りの水だと思っていたけど、もしかしたらまったく逆なのかもしれませんね。まあどちらにしても秘境には違いないのでいいんですけどね」
「あっ、どうしましょう」
「どうかしましたか?」
「いえ、ホント大変申し訳ないんですけど…」
「はい」
「先ほどのお茶なんですけど、私の村の泉から汲んだ水で淹れたものなんです…」
「えっ、じゃあまさか…」
「私は目があまりよくないのではっきりとは言えませんが、恐らくかなり老けてしまっているかと…」
「…すみません、一応確認しておきたいことがあるんですけどいいでしょうか」
「はい」
「女性に年齢を聞くのは失礼だと分かっているのですけど、今何歳でいらっしゃいますか」
「この前の誕生日で243歳になりました」
「なるほど、それを聞いて安心しました。村についたら僕もその泉の水を飲めば、また若返ることが出来そうです」



70.「芸術家の夢」
「さすがに素晴らしい風景だ」
「そうでしょうとも。どこを向いても、まさしく『芸術』がたわわに実っておりますからね」
見届け人がそう言うと、自称芸術家は、素晴らしい、ともう一度繰り返した。
辺りは、何とも奇妙な風景に彩られている。
ギターを弾いている芸術家がいる。舞踏を踊っている芸術家がいる。誌を書いている芸術家がいる。他にも、歌を歌っている者、絵を描いている者、彫刻をしている者、華を活けている者など、およそこの世にあるありとあらゆる『芸術』が、見渡す限りの光景に広がっているのだ。その一つ一つは、芸術に関心のない人間が見ても驚嘆の声を上げずにはいられないもので、あらゆる人間の心を瞬時に奪ってしまうだけの力を持っている。かつてこの地を訪れたある批評家は、もしコンクールに出場出来るのであれば、世界を制することが出来るほどの実力を持っている、と表した。恐らくそれは間違ってはいないだろう。しかし、それを検証する機会は恐らく永遠には来ないだろう。
「これまでどれぐらいの芸術家を見届けて来たのかね」
書道家だという初老の男は、この期に及んで見届け人に疑念を抱いたりしたのだろうか、そんなことを聞いてきた。
「そうですね、ざっと300近くは数えるかと」
それを聞いて満足したのか、彼はうむうむと頷くようにして、それからはしばらく口を開くことがなかった。
見届け人は、いつものように準備に入った。と言っても大してすることは多くない。依頼人に最終的に飲んでもらうことになる薬品を確認し、そして神への祈りを捧げてから、あらかじめ決めてあった場所で穴を掘るだけだ。
規則として決まっているわけではないのだが、見届け人が穴を掘っている時に話し掛けてはいけないという噂が巷間には流布しているようだ。書道かも恐らくどこかでその話を聞きつけたのだろう。見届け人が穴を掘る様をじっと見つめるだけで話し掛けてはこない。いつもこの間見届け人は、この『芸術の森』の創生について思いを巡らせてしまう。穴を掘るという単純作業には、何か別のことでも考えていないとやってられない、ということもある。
ここは『芸術の森』と呼ばれていて、まさに世界レベルの芸術家が所狭しと並んでいる場所である。その始まりは、ある一人の男が、芸術家を自らの手で育てよう、と考えたことに端を発する。
その男は、株の売買で巨万の富を築き上げたが、晩年になって芸術へ奉仕することに決めたらしい。高知県の山奥の廃村になった村を買い取り、そこに様々な芸術家を呼び寄せては、生活の保障を与えた上で創作に専念させる、ということを考えた。世間からは完全に隔絶し、外部の人間をほぼ入れないという徹底したやり方に、逆に世間の興味が向くことになったが、一度潜入に成功した記者がスクープしたという記事が雑誌に載り、それがあまりにも普通の農村に日常であったために、世間の関心は一気に冷めることとなった。
なので、ここからの話は、どこから出てきたのか分からない伝聞がメインの話となる。しかし、現実にこうして『芸術の森』が生まれたからには、その話にはそれなりの信憑性があるのだろう、と思う。
村での生活は順調に行っていたが、しかしもちろん人が死ぬことはある。初めてその村で死んだのが誰だったか、それは伝わっていないが、老衰だったという話だけはある。もちろん死んだのは芸術家だ。伝わっている話では、ピアノ奏者だったらしい。
問題となるのは、その死体をどうするか、ということだ。村は外部から完全に隔絶していたこともあり、死体は土葬されることになった。
しばらくしたある日、誰かがそれに気づいた。死んだ芸術家を埋葬した場所から植物の芽らしきものが生えてきたのだ。村の人間は、芸術家が新しい形で再生をしようとしているのだ、と喜んだ。
しかししばらくすると、何だか奇妙な現象が出現した。その芽はぐんぐんと成長し、そしてそれはどう見ても人間の姿かたちを模したように見えたのである。
さらに変事は続く。ある時、どこからともなくピアノの音が聞こえてきたのだ。死んだ男以外にはピアノ奏者はいなかった。誰かが戯れに弾いているというのでもなく、それは見事な演奏だったという。まさかと思って死んだ男を埋葬した場所まで来て見ると、なんと人間の形を模したその植物がピアノを弾いていたのである。
それは、生前の芸術家の演奏をさらに上回る、まさに神の領域と言ってもいいほど素晴らしい演奏だったようだ。演奏は昼夜を問わず続き、住人はその音にいつも聞き惚れた、と言われている。
それからは同じことが起こった。人死にが出る度に土葬をする。すると、生前の芸術家と同じジャンルだが、レベルは遥かに高い芸術家が『生えて』くるようになったのだ。
しばらくそんな状況が続くと、次第に村の雰囲気が変わっていった。それはひと言で要約するとこうなる。
『生きていても芸術の極致を垣間見ることが出来ないのならば、例え植物の姿に変わってしまってもいいから、素晴らしい芸術家として生まれ変わりたい』
つまり、村では自殺が大流行することになったのだ。
そして村はまた廃村となった。
その廃村を再発見したのが、見届け人である。見届け人はこの『芸術の森』を見つけ、その芸術的豊潤に打たれ、そしてここで何が起こったのかを調べ理解した。そして自らの使命は、植物の姿に成り代わってでも至高の芸術家になりたいと願う人々を見届けることである、と悟ったのだ。
十分な深さの穴を掘ることが出来た。見届け人は書道家に声を掛ける。
「どうぞ、行ってらっしゃいませ」



71.「エキストラ」
「これからどうするぅ」
「カラオケでもいこっか」
「あぁ、俺パス。帰るわ」
「えー、帰っちゃうのぉ。淋しいぃ」
「はいはい、また今度ね。じゃ」
そう言って俺は合コンの席を後にした。毎度のことながら、別に合コンというのは楽しいものじゃない。それでも、誘われればなんとなく行ってしまう。なんとなく行って、なんとなく女の子の番号を手に入れたりもする。でも、それだけ。そこからどうこうなることは、あんまりない。
今日も、佐伯ミカという女の子と番号を交換した。しかし、こっちから連絡を取ることはまずないだろう。名前も、すぐ忘れてしまうに違いない。
辺りは音楽やら会話やらでガヤガヤしている。渋谷の街というのはとにかくうるさい。何だってこんなに人がうじゃうじゃいるんだろう、といつも思う。泉の水のように、どこからかこんこんと湧き出ているんじゃないだろうか、なんてそんな風に思ったりもする。
「よろしくおねがいします」
反射的に受け取ってしまう。ティッシュだ。俺は何故だか、街中で渡されるティッシュを断れない。損な性格だと思っているが、ティッシュをもらって損だと考えるのも何だかおかしい、とも思う。
「エキストラ募集!普段とは違う自分になりきってみませんか?」
ティッシュの広告にはそんな風に書いてある。珍しい広告だ。街中で配られるティッシュを大抵受け取る俺だからこそ断言できる。さすが渋谷だ、ということなのかもしれない。
俺は何だかその広告が面白いと思った。エキストラか。何をやるんだか知らないけど、面白そうじゃん。それに何かバイトを探さないといけないんだった。コンビニとかマックとかは嫌だしな。エキストラってのもいいかもしんないな。
明日面接に行ってみるか。そんなことを思いながら家へと戻った。
「おかえり」
「ただいま。ご飯は?」
「あぁ、食べてきた」
「んもう。食べてくるなら言ってっていつも言ってるのに」
俺は大学生で、実家暮らしだ。友人からは一人暮らしの方が気楽でいいと言われるが、家事をしなくていいし、お金だって掛かんない。ま、女を連れ込めないってとこが難点だけどな。
「明日面接行って来るわ」
「何の?」
「よくわかんないんだけど、エキストラだってさ」
「…そう。もうちょっと普通のバイトの方がいいんじゃない」
「コンビニとかはキツイしさ。まあとりあえず面接だけでも行って来るわ」
「まあそうね」
翌日。新橋にあるその会社の事務所に俺はやってきた。その途中俺は佐伯ミカを見かけた。あの、合コンで番号を交換した女の子だ。信号待ちしている時、向こう側の道を歩いていたのを見かけたんだけど、結局俺と行き先は同じだったようだ。あの子もエキストラの面接を受けに来たのかな。渋谷で同じティッシュをもらったのかもしれない。
面接は普通で、しかもその場で採用だと言われた。早い。そのまま面接官と、どんなエキストラやってみたいのか、という話になった。
「どんなって、どんなのがあるかなんて分かんないんですけど」
「あぁ、まだ説明してなかったっけね。ごめんごめん」
そう言って俺に資料らしきものを手渡してくる。
「ちゃんとしたことはまたそれを見てもらえばいいんだけど、ざっというとね、どんな仕事でもある、と言い切っていいと思う」
「どんな仕事でも?」
よく意味がわからない。
「エキストラなんていうとさ、普通はテレビドラマとか映画とかそういうのを思い浮かべるかな。でもウチはそういうのとは全然違ってね。もっと身近なこと全般のエキストラをやってるんだ」
たとえば渋谷とかね、と面接官は呟いた。
「渋谷、ですか?」
「そうそう、君は渋谷に人がいすぎだと思ったことはないかね」
それはちょうどこの間も考えたことだった。
「あれはね、半分はわが社が関係しているんだ。渋谷の街、特に駅前だけどね、あそこを歩いている人間の半分はウチのエキストラだ」
えっ、と俺は声を上げて驚いたが、同時に納得もした。なるほど、確かにそれならあの人ごみを説明できるような気がする。
「でも誰がそんな依頼をするんですか?」
「これは渋谷区からの依頼でね、要するに人が多いイメージを与え続けることで街の発展につなげよう、ということなんだね。実際渋谷はこの戦略のお陰で今のような街になったと言っても過言ではないしね」
なるほど。それが事実ならすごい話だ。
「他にも何だってある。結婚式の人数合わせや新規オープンの店の行列作りなんていう他所でもやってるようなものも当然あるけど、満員電車のエキストラだとか、皇居の周りを走るランナーのエキストラとか、合コンのエキストラなんてのもある。もっと言えば友人や家族のエキストラなんてのもあるぐらいだ」
合コンのエキストラと聞いて、なんとなく分かった。さっき見かけた佐伯ミカは既にここのスタッフだったんだろう。あの日合コンに来たのは、エキストラの仕事だったというわけだ。
「じゃあ、人がいるところであれば本当にどんなことでも仕事になる、ということなんですね」
まさにその通り、と面接官は言い、まあ次まででいいからどんなことをやりたいか考えておいてね、という。
「まあ希望通りにならないことが多いんだけどね」
だったら初めから聞かなければいいのに、と思う。
「あと帰りがけにカード受け取ってね。ウチのスタッフの身分証明書みたいなもの」
カードを受け取った僕は、本当に驚いた。運転免許証に似たそのカードを、これまでに見たことがあったのだ。
あれは中学生の頃だっただろうか。反抗期だった俺は、家中の引き出しを漁ってどっかに金が隠れてないかと探していた。その時に見つけたのだ。母親の名前になっていたそのカードを見て俺は、まあ免許証だろうと思って何も気にせずそのカードを元に戻したのだ。
そのカードがまさに今僕の手元にある。
考えられる可能性は一つしかない。
「マジかよ」
力なく俺は呟く。
「母親がエキストラだって知っちゃったら、普通に接するのキツいよなぁ」



72.「囲いある街」
「…この前だってさ、ナンパとかされちゃって。あたしもまだまだ若いじゃん、なんてさ」
「東京の人はみんな目が悪いんじゃない?」
「言うねぇ。まったくそんなとこばっかり変わってないんだから」
「そういう由香利は大分変わったみたいね」
大学時代の友人からの電話だった。大学卒以来会っていないから、もう10年ぶりぐらいかもしれない。
「まあそりゃそうよ。仕事してるとさ、何だか丸くなってもくるよね」
「だから仕事をしてない私はとんがってる、ってことね」
「またそう突っかかる」
由香利は生まれ故郷を離れ東京で就職し、私は彼女が離れたこの地で五年前に結婚して専業主婦となった。
「で、話戻すけどさ、結局来ないの?」
「そうね。やっぱ止めとこうかな」
「会いたくないのがいるとか?」
「そんなんじゃないけど」
同窓会の話だ。東京にいる由香利はもちろん幹事ではないが、どこからか私がいかないことを聞きつけたのだろう、それでこの電話だった。同窓会自体は問題じゃない。会いたくない人もいないし、楽しそうだとも思う。
ただ…。
「…専業主婦にもいろいろあるのよ」
「何言ってるんだか」
街から出られないんだと言ったら、このかつての友人はどう思うだろうか。
同窓会の会場は、隣街にあるホテルということになっていた。私の住む街でやってくれるならいくらでも行ったのだが、隣街となればそうも行かない。私はもう決めたのだ。街からは出ない、と。
「まあしょうがないか。ミナは決めたら梃子でも動かないし」
「ごめんね。また今度」
「はいはい、また今度ね」
由香利は納得してくれただろうか。別に不審に思われてもいい。街から出ないことにしたんだ、とちゃんと説明するよりはずっと。そんなことを言ったら、本当におかしいと思われてしまう。
街から出ないと決めてからは、こういうことの連続だった。行きたい場所に行けないというのはまだ何とかなる。しかし、会いたい人に会えないのは辛い。この街まで来てもらえばいいのだが、毎回そうしてもらうのも心苦しい。そんなわけで、友人関係はどんどん狭まっていく一方だった。
今も誰かは私のことを見張っているだろうか。
その誰かのことを私はいつも考えている。その誰かは、私を街から出すまいとしているのだ。本当かどうかは分からない。そもそもその誰かが本当に存在するのかもよく分からない。しかし、私はそれを信じている。
2年前のことだ。私がまだ街を自由に出入り出来た頃のこと。隣街にある美味しいケーキ屋さんへ行こうとした時のことだ。
隣街とは言え、私の家から歩いて行ける距離にあった。散歩も兼ねて歩いて行ったのだけど、道を渡ればすぐケーキ屋があるというところに新しく雑貨屋がオープンしていて、ちょっと寄ってみようか、と足を止めた時のことだった。
目の前で人がはねられていた。
トラックの巨体があっけなく人を吹き飛ばしていた。私は震えた。交通事故を目撃してしまったことに対してではない。もし私が雑貨屋に行こうと足を止めなければ、間違いなくトラックにはねられたのは私だと思ったからだ。偶然助かった。私は、その時はそう考えていた。
しかしそれから、同じようなことが頻発した。
セアカゴケグモが大量発生することもあれば、誘拐犯と間違えられそうになることもあった。毒入りの缶ジュースを飲みそうになることもあったし、子どもを怪我させそうになったこともある。
その度毎に、私は何らかの幸運に恵まれて、直接の被害に遭うことはなかった。しかし、毎回必ず誰かが被害を被ることになった。私が街から出ようとすると、誰かが迷惑する。そう思うようになるまでに時間は掛からなかった。それはあからさまな警告だった。
それから私は、街から出ることを止めた。生活は不便になったし、友人とも会えなくなった。しかし、私のせいで誰かが犠牲になるのは、もうこれ以上耐えられない。
2年前のことを思い出す。
夫を殺し、庭に埋めたのも、ちょうど二年前のことだった。



73.「離婚」
~とある省庁における、とある役人の会話~
「なぁ、この前まとめた離婚のデータ見たか?」
「ちゃんとは」
「俺もしっかり見たわけじゃないけどな。えーと、あぁこれだ。ほらここ」
「なるほど、この日だけ離婚件数がゼロだと」
「そうなんだよ。○○市って、結構な人口のとこだろ?ほら、だから他の日は最低でも5件は離婚届が出されてる。でも、何でかこの日だけはゼロなんだよな」
「まあたまたまだろ」
「それがさ、過去10年のデータで調べるとさ、なんとこの10年毎年その日だけ離婚件数がゼロなんだよ」
「まさか。でもだとしたらどういうことだ?」
「さぁ。わからん」

~とある市のとある日の市役所~
具体的に何が原因だったのかというのはイマイチ分からない。でも、5年も一緒に暮していると、何か違う、という感じがふつふつと湧き出てくるようになってきた。私はこの人の妻で一生い続けていいの?そんな思いが、もう長いこと消えることはなかった。
私は、一緒に並んで歩いている、あと少しで夫ではなくなる彼の方をチラリと見た。
何を考えているのか分からない。ずっとそうだった。付き合っている頃から、自分のことをあまり話してくれない寡黙な人だとは分かっていた。でも、多くの女性がそうであるように、結婚すれば変わるかもしれない、という期待が私にもきっとあったと思う。でも変わらなかった。そういうところが我慢できなくなってしまったのかもしれない。
市役所に入る前に彼に話し掛けてみる。
「これで終わりだね」
「あぁ、そうだな」
やっぱり何を考えているのか分からない。離婚を切り出した時もそうだった。特に意見するわけでもなく抵抗するわけでもなく、もうそれしかないなら抵抗はしない、という雰囲気をかもし出していた。
まあいい。あとは離婚届をカウンターに突き出してやれば、私たちは赤の他人になるのだ。子どももいない。また新しい人生を始めよう。
二人で離婚届を提出し、さてこれですべてが終わった、と思って帰ろうとした時、カウンターの内側にいたおじさんに声を掛けられた。
「ちょっとあんたたち」
何だか市役所に勤める人とは思えないフランクさだな、と私は思った。
「ちょっとねぇ、これじゃあダメなんだよねぇ」
離婚届にどこか不備があっただろうか。何度も確かめたはずだから漏れはないと思うのだけど。
私の表情を見て言いたいことを察したのか、おじさんはすぐこう継いだ。
「離婚届の記入には問題はないんだけどねぇ。いや、知らなくても仕方ないんだけどさ、法律がちょびっと変わったわけよ」
なるほど。よく分からないが、法改正によって離婚の際の手続きが増えたというようなことなのだろう。そう言うとおじさんは、
「お嬢さんは物分りがいいねぇ」
などと言われてしまった。おじいさんという年齢でもないだろうに、私ぐらいの年齢の女性をつかまえて「お嬢さん」もないだろう。
「そういうわけでさ」
そういっておじさんは、ピンク地の、離婚届の半分ぐらいの大きさの用紙を差し出した。
「離婚届と一緒にさ、これも出してもらいたいんだよね。ほら、とりあえず離婚届も返すからさ」
出直せ、ということなのだろう。このおじさんに言っても仕方ないのだろうが、まったく離婚するぐらいの手続きさっさと終わらせて欲しいものだ、と思った。
「分かりました。出直してきます」
そう言って手渡された用紙を見た。
そこには色んな質問が載っていて、それに回答する形になっていた。例えばこんな感じである。

・離婚の主たる原因を、双方の側の意見を共に書け
・子どもの有無、いるのなら年齢と性別
・家事の役割分担について

この辺はまだいい。しかし、こんな質問もある

・セックスの頻度について
・セックスに関して相手に抱いている不満
・浮気をしたことがあるか否か
・本件に関して、両親に伝えたいこと

「あの」
私はおじさんに問い掛ける。
「これは全部書いて提出しなくてはいけないんでしょうか?」
「そうなのそうなの。それ全部書いてもらわないと、離婚届受理できないのよ」
「でも、ものすごく書きづらい質問もありますけど…」
「そうなんだけどね。決まりだからさ。ほら文句があるならさ、その用紙に電話番号載ってるでしょ、婚姻相談センターって。そこに言ってね。私に言ってもダメよ」
私は、何だか離婚をする意思みたいなものが崩れていくのを感じていた。もともと明確に何か理由があったわけではない。ただ何となく夫と合わないと感じていて、夫も離婚に反対しなかったから、成り行きで離婚をすることになったというのが正しい。それなのに、セックスの頻度まで知られてまで離婚をしなくてはいけないとは思えなくなってしまったのだった。
「ねぇ」
私は彼に向き直る。
「とりあえず、喫茶店にでも行こうか。もう少しいろいろ考えましょう」
結局私たちは、離婚届を提出しなかった。

~ある都市伝説を語る主婦~
○○市の市役所にね、お化けが出るって噂があるんだって。それも真昼間から。別に怖いとかそういうんじゃないみたいなんだけどね。
なんか、離婚届を提出しに来た夫婦を決して離婚させないんだそうよ。色んな手を使うみたいですけどね、その夫婦の離婚の理由をあらかじめ知っていて、その上でどうしたら離婚せずに済むかちゃんと考えた上で手を打ってる。そうとしか思えないんですって。
でも、だから幽霊だってわけじゃないんですよ。その人おじさんなんですけどね、市役所の人はそのおじさんのことを誰も知らないんですって。不思議な話でしょ。だから幽霊。離婚に嫌な思い出がある人が化けて出てくるんじゃないかって噂ですけどね。
でも、そのおじさんが現れるのって、毎年4月1日みたいですから、みんなひっくるめて嘘かもしれないですけどね。

2008年に書いたショートショート集 No.27~No.50

27.「きみにしか聞こえない」
クリスマスイブだっていうのに、何の予定もない。
まあいつもそうだ。今年だけじゃない。今さら何を期待したって始まるもんでもないさ。
そんなことを考えながら信二はコンビニに向かっている。夕飯でも買いに行こうと思ったのだ。普段自炊派の信二であるが、今日はクリスマスイブだし、ケーキだのチキンだの、そういう普通のものも食べてみようと毎年考えるのだ。クリスマスイブなんて自分には関係ないと思いつつも、どうも世間の流れに流されてしまう。
予報では夜から雪になるかもしれない、と言っていた。もう暗くて空の様子はイマイチ分からないが、降りそうな雰囲気はある。ホワイトクリスマスなんていう、さらに輪をかけて自分とは関係ないお膳立てに