黒夜行

>>2013年11月

アフガン、たった一人の生還(マーカス・ラトレル)





内容に入ろうと思います。
本書は、世界最強とも謳われる<米国海軍SEAL部隊>に所属する著者が、アフガニスタンで4人でも作戦従事中にタリバンの兵士に襲われ、4人対数百人の激烈な戦いをくぐり抜け、たった一人アメリカへ帰還を果たした男の、慟哭と悔恨と怒りに満ちたノンフィクションです。
彼らは、たった一人の羊飼いを見逃したことで、絶望的な危機に置かれることになった。

『この男たちを自由にするなんてことは、絶対にできない。だが困ったことに、おれにはもう一つの心があった。それはクリスチャンの心だ。そしてそれはおれを圧倒しようとしていた。心の裏側で、これらの非武装の男たちを平然と殺すのは間違っていると、何かがささやき続けていた。』

『まっすぐにマイキーの目を見て、おれは言った。「こいつらを解放するしかない」
それはおれがこの世に生を受けて以来した、最も愚かで南部的で間抜けな決断だった。とても正気だったとは思えない』

彼らは常に、任務の詳細は告げられない。しかし、自分たちが何をしようとしているのかはきちんと知っている。彼らは、9.11のテロを組織し実行に移したタリバンを壊滅させるためにここにいる。少なくとも、それが任務の一つだ。
しかし彼らは同時に、<交戦規則>に縛られてもいる。これはざっくり言えば、「民間人は殺してはいけない」という規則だ。
本書は著者の、<交戦規則>への怒りの物語でもある。

『けれども、レンジャー、シール、グリーンベレー、その他何であれ、そういった米軍先頭兵士たちの観点からすれば、交戦規則は非常に深刻なジレンマを突きつける。おれたちもそれを守らなくてはならないことは理解している。なぜならば、それはおれたちが仕えると誓った国の法のもとに定められたルールだからだ。しかし、それはおれたちにとっては危険を意味する。世界的なテロとの実践場でのおれたちの自信の土台を揺るがす。さらに悪いのは、それはおれたちを不安にし、弱気にし、ときに及び腰にさせる』

何故彼らは<交戦規則>を恐れるのか。それを理解するために、羊飼いを解放するかどうか議論をしている時に、マイキーが言ったセリフの一部を引用しよう。

『(羊飼いの)死体が見つかったら、タリバンのリーダーたちはアフガンのメディアに大喜びで報告するだろう。それを聞きつけた我が国のメディアは、野蛮な米軍についての記事を書き立てる。ほどなくおれたちは殺人罪で起訴される。罪なき非武装のアフガン農夫を殺したからだ』

<交戦規則>は、非武装の民間人を殺してはならないと定めている。これが、アメリカが自ら立てた戦争のルールだ。しかし、現場ではそんなこと言っていられない。この羊飼いは、確かに非武装だ。ただの羊飼いかもしれない。しかし彼は明らかにアメリカに対する憎しみをその目にたたえている。解放された後、彼はどうするだろうか?タリバンにこの場所を伝えはしないだろうか?いや、間違いなく伝える。というよりも、タリバン側は、どうすれば戦争が有利に運ぶかをきちんと知っていて、アメリカの<交戦規則>を利用しているのだ。彼らが非武装の民間人を殺せないことを知っているタリバン側は、それを利用して情報を集め、またその民間人が殺されるようなことがあれば徹底的に利用するのだ。
それを助長するのが、自国アメリカのメディアである。メディアは、話題になればどんなことでも取り上げる。たとえそれが、自国のために身体を張って戦争に立ち向かっている勇敢な戦士を不用意に追い詰める行為だとしても。

『アフガニスタンにおける交戦規則には、おれたちは非武装の一般市民を撃っても、殺しても、負傷させてもいけないと明記されている。しかし、その日武装の一般市民が、おれたちが取り除こうとしている違法部隊の熟達したスパイだった場合はどうだろう?または、一般市民を装ってはいるが、実は様々な形態をとって散らばる、きわめて強力な秘密の軍隊で、アフガニスタンの山岳地帯を這い回っているのだとしたら?』

『こういったテロリスト/暴徒は、イラクでもそうだったが、おれたちの交戦規則のことを知っている。それはおれたちのルール、世界のより文明が開けた側である西側諸国のルールだ。そしてテロリストというテロリストが、このルールをどうすれば自分たちの味方につけられるかを知っている。でなければ、駱駝遣いたちは銃を持ち歩いているはずだ』

『おれたちはそこに行く。一日中。毎日、しっかり任務をまっとうするか、あるいは途中で死んでしまうか―アメリカ合衆国のために。しかし、おれたちに誰を攻撃していいかを指図するのはやめてくれ。その決定はおれたちに、軍に、委ねられるべきなのだ。進歩的なメディアや政治家のグループがそれを受け入れられなければ、戦場では死ななくていい人間が死ぬ羽目になる』

『シールは他のどんな的にでも対処できる。ただし、それは合衆国におれたちを刑務所に入れたがっている人間がいなければ、の話だ。だからといって、相手が非武装のアフガン農民に分類される可能性があるというだけの理由で反撃することおもできずに、喉を掻き切られるのをただ待って山の仲をうろうろしているなんてことは絶対にごめんだ』

『今のおれのこの姿を見てくれ。拷問され、撃たれ、爆破され、最高の仲間を全員失った、無力なこのおれを。すべては自国のリベラル派を恐れたからだ。民間の弁護士を恐れたからだ。もしもきみが、ときに死ぬべきでない人が死んだり、罪なき人々が死ななくてはならなかったりするような戦争に巻き込まれたくなかったら、最初からそんなものには近づかないほうがいい。なぜなら、それは起きるべきして起きるからだ。死に値しない人々を殺すtいう、ひどい不正義。それこそが戦争なのだ』

彼らは、たった一人の羊飼いを見逃したことで、遮蔽物もない、戦闘的にはほぼ絶望的な状況の中で、しかも恐るべき訓練を受けているとはいえ、たった4人しかいない中で、数百人のタリバンに囲まれながら現状を打破しなくてはならない事態に陥る。普通、そこから生還することはまず不可能だろう。タリバンの数百人の兵士も、決して訓練されていないわけではない。戦術はきちんと理解しているし、銃の扱いも下手ではない。そんな彼らを相手に、たった4人で立ち向かった著者を含む4人のシール部隊のメンバーたち。
この戦闘は、本当に凄すぎる。親指を吹き飛ばされても、腹を何発か撃たれても、何度も崖から落ちても、彼らは戦い続ける。凄まじいとしか言いようがない。この凄さは、とても表現できないので、是非とも本書を読んで欲しいのだけど、これほどまでに超人的な戦い方が出来る人間がこの地上にいるのか、と思わされるほどだった。彼らは、最後の最後まで、決して諦めないのだ。

『世界中のどの三人の男をとっても、あの山岳地帯で、おれの仲間たちほど勇猛果敢に戦った者はいない。ほぼ完全包囲された状態にありながらも、おれたちはまだ最終的には敵に勝てると信じていた。まだ、弾はたっぷりあった』

『おれたちが万全の状態でないことはわかっている。それでも、やはりおれたちはシールだ。何ものおそれは奪えない。おれたちにはまだ自信があった。そして、おれたちは絶対に降伏はしない。いざとなれば、銃を相手にナイフででも死ぬまで戦ってやる』

普通の人間からすればどう考えても絶体絶命としか思えない状況だ。タリバン兵は、殺しても殺しても、次から次へと湧き出てくるようにやってくる。彼らにはほとんど無限の補充のように感じられたのではないか。しかも彼らが戦っていたのは、まともな遮蔽物が存在しない荒野だ。これが彼らの戦い方をさらに難しくする。というようなことをどれだけ書き連ねても、彼らが置かれた状況を説明することは出来ないのだけど、そんな状況でも彼らは、ほとんど最後の最後まで希望を失うことがなかったのだ。
結局タリバン兵との戦闘で、仲間の三人が命を落とした。著者が助かったのは、強靭な精神力ももちろんあるが、かなり運も大きかっただろう。とにかく著者は生き延びた。
しかしここからがさらに問題なのだ。著者は、撃たれ、骨が折れ、全身に激痛が走る中、連絡手段も持たないままアフガンの荒野に取り残されたのだ。アメリカ軍と連絡を取る手段はない。周囲にはまだタリバン兵が山ほどいて、見つかるわけにはいかない。
そんな状況の中で、著者はいかに救助されたのか。これはまるで映画のような展開で、こちらも凄いとしかいいようがない。彼がどんな風に救助されたのか、それは是非本書を読んで欲しいのでここでは書かないけど、あらゆる幸運があ折り重なるようにして実現した奇跡の生還と言っていいと思う。そもそもあの戦闘を生き延びることが出来たことも奇跡だったし、ほとんど動かないはずの身体で相当な距離を、しかもタリバン兵から隠れるようにして移動出来たことも奇跡だし、さらにその後に起こったこともまさに奇跡だった。アメリカでは、シール部隊全員が死亡した、と報じられていたらしい。当然だ。しかし、シールの仲間たちには、こんなモットーがある。「死体が上るまでは決して潜水工作隊員の死を決めつけてはならない」。そのモットーに従ってアフガニスタンで作戦に従事していた存在も、彼の生還を決める一つの要因になった。
彼は、戦闘で死亡した三人の仲間がいかに勇敢で素晴らしい闘いをし、最後の最後まで諦めることがなかったか、それを遺族に伝え、またこうして本に書き記すことにその後の時間を大いに使うことにした。そして驚くべきことに、彼はまたアフガニスタンの戦場へと戻っていったらしい。
彼らがどうしてそこまで強靭でいられるのか。それは、シールになるための訓練の描写が明らかにしてくれる。この訓練の描写は、本書の前半に描かれているのだ、その凄まじい訓練内容は、常軌を逸していると僕は思う。あと一歩で死ぬ、というところまで全員を追い込み、多くの人間を脱落させ、そうやって最後の最後まで残った人間だけがシールと認められる。その訓練がどれだけ凄まじいか、それはとても短くは表現できないのだけど、この経験があってこそ、彼らはどんな絶望的な状況でも諦めることがなく、最後の最後まで戦い続け、また生き延びるための努力を続けることが出来るのだな、と実感させられる。
しかし一点、僕としては非常に残念な点がある。本書は、内容は非常に面白いのだけど、構成が惜しいと思う。本書では、著者の生い立ちやシールになるための訓練がまず描かれ、それからアフガニスタンでの戦闘・生還が描かれるという、大雑把に言って時系列順に描かれているのだけど、僕はアフガニスタンでの絶望的な戦闘シーンから本書を始めるべきだったと思う。全部とは言わない。その一部でもいいから、まず彼らがどれだけ絶望的な状況で戦闘に巻き込まれたのか、それを冒頭に持ってくるべきだったと思う。本書の構成のままだと、本書の中で最も面白い(と表現するには抵抗があるが)部分にたどり着くまでに半分以上読まなくてはいけない。確かにシールになるための訓練の描写も興味深いのだけど、やはり絶望体な戦闘シーンの方が本書の核となるでしょう。それを、一部でもいいから冒頭に持ってきて欲しかった。そこだけがちょっと残念だなという感じがしました。
とはいえ、凄まじいという単語を繰り返すぐらいしか表現のしようがないほど、とにかく凄まじい状況の連続で、まさに著者が生還できたのは奇跡と言って言い過ぎではないでしょう。また、具体的には書かないけど、本書を読むと、僕らが無意識の内に一括りにしてしまいがちな事柄が、決して単一のものではないのだということ、イメージだけで捉えてはいけないということを思い知らされるような感じもあります。本当に、凄まじい作品でした。是非読んでみてください。

マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還」



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その辺の問題(いしいしんじ×中島らも)

内容に入ろうと思います。
本書は、共に作家であるいしいしんじと中島らもが対談をしているだけ(一度、アムステルダムに、ソフトドラッグをやりに旅行に行きますけど)の作品です。
対談してるだけなんですけど、この作品、ぶっ飛ぶぐらい面白いです。いやー、びっくりした。凄いなこの二人。
中島らもについては、「らも 中島らもとの三十五年」という、中島らもの奥さんが書いた本を読んで、そのハチャメチャぶりは知っていました。こんなにムチャクチャなのに、よくもまあ生きてるなぁ、という感じです。アル中でクスリ漬けなんだけど、昔はサラリーマンもやってたし、演劇・音楽・小説ととにかく多彩。そんな人だから、まあメチャクチャな経験が山ほどある、っていうのは、僕にとっては意外ではないんです。いくつかムチャクチャなエピソードを抜き出してみましょう。

『10年前、横浜でシタール買ったのが、最初。腹たったのは、中国の胡弓ってあるやろ。あれは皮が蛇なんやけど、検疫通るときに、皮だけ、ベリって、剥がされてもうた』

『(旅行先での恥のかき捨てについて)ものすごく、小便したくなったんや。運ちゃんに言うても、通じへんやろ。スーパーの袋持ってたんやね。そこいじょびじょびっとして、キュット口を結んで、降りて、どっかに置いてきた』

『(飼ってた犬をずっと散歩させないでいたら、隣の人が散歩をかって出てくれた)そやねん。そのうち、散歩帰りに自分の家にジャダを繋ぐようになって、その時間がどんどん長くなっていって、とうとう、取られちゃったんや。ジャダ』

『その点、やっぱり、猫と犬は、他の動物とは違うな。一度、猫をラリらしてみたんや(この話は、結末が凄すぎるので、自主規制)』

メチャクチャ意外だったのが、いしいしんじの方ですね。
僕は今までずっと、いしいしんじって「優等生」のイメージだったんです。著者略歴を読んだ時点では、「京都大学文学部仏文学科卒」とか書いてあるから、うんうんやっぱり優等生なんだなぁ、と思ってたんだけど、これがまったく違う。中島らもに勝るとも劣らないムチャクチャな人でした。

『ぼくはロンドンで牛食うてきました。今が旬ですから。狂牛病。空港で走り回って、ハンバーガー屋見つけて、「牛100パーか」「100パーや」「じゃあ、くれ」って。お客は「なんて勇気のある少年だ」言うて、全員立ち上がって拍手してましたよ』

『(ジャマイカで山賊に襲われた時の話)林に連れ込まれて、殴られて、血塗れになって逃げながら、財布から1枚ずつ、撒きビジみたいに、道に札を投げていったんです。最後の札がなくなったときに、山頂の別荘地に飛び込んで助かったんですけど、あのときはやばかったですね』

『現実のわけのわからなさって、やっぱり強烈ですよね。最近いちばん怖かったのは、家帰ったらね、イラン人が5人、勝手に上がり込んで、ビデオ見てたんですよ』

『(昔会社で働いてたけど)なんというか、特別学級扱い、みたいな感じで。営業とか、経理とか、ふつうの仕事じゃなくて、特別クラスみたいな部署つくってもらって、とりあえずなんかやってなさい、みたいな感じでした。だから、学生のときのまま、スクーターで会社行ったり、金髪に染めて、オフィスで朝まで酒飲んだり』

いやはや、いしいしんじ、凄いなぁ。元々「優等生」イメージを持っていただけに、本書で垣間見えるいしいしんじの姿には驚かされっぱなしでした。いしいしんじの小説って、どうも僕あんまり合わないんですけど、こんな人が書いてるんだってわかったから、ちょっとまた興味が湧いてきました。凄いなぁ、いしいしんじ。
そもそもこの対談は、いしいしんじの存在で成り立っているようなところがあります。中島らもはあとがきで、他の対談ではまともな対談になったことがない、みたいなことを言っていますけど、まあそりゃあそうでしょう。中島らものぶっ飛んだ話を冷静に受けられる人も、脈絡なく縦横無尽に話題が飛ぶのをナチュラルに軌道修正できる人も、中島らもに興味を持たせるほどの話が出来る人もそうはいないでしょう。いしいしんじはそのすべてを兼ね備えている感じで、まさに中島らもと対談をするために生まれてきたような絶妙な感じなのでした。関西人同士の会話って、ナチュラルにこういう感じだったりするのかもだけど、話術だけじゃなくて、お互いの経験と知識の深さがハンパないから、それらがグチャグチャに入り混じって濃密な対談になっている。
掛け合いも見事で、例えばスマトラ島では年間24人も落ちてきたココナッツで死ぬという話の中で、

『らも:残された子供に、母親はどう説明するんやろね
いしい:「ねえ、パパはどうして死んだの?」
らも:「ココナッツがね、落ちてきて死んだのよ」
いしい:ぐれますね、確実に』

こんな具合である。
あと、これは編集の妙と言っていいのか、よく知らない単語が出てきても、注釈とか入れない。これがまたいい。知らんプロレスラーの名前とか、知らんクスリの名前とかバンバン出てくるんだけど、全然説明されない。これがまたいい。もしこの作品に注釈とか入れちゃったら、この対談の勢いみたいなものが結構削がれちゃうだろうなと思う。冒頭も、1ページ目から対談がすぐさま始まって、この対談がどんな経緯で行われたのか、どんな風にやってたのかみたいな説明は全然ない。いきなり二人の世界に無理やり引きずりこんでいく。こういう本の作りも、とてもいいと思う。
狂った作家二人(褒めてます)が、ストッパーを外して(ないかもしれないけど、一般人から見たら十分外れてる)喋り倒している対談集です。読んでると、こんなムチャクチャな生き方しててもどうにかなるもんなんだなぁ、と思えると思うので、気持ちが沈んだ時なんかにも最適かも(笑)是非読んでみてください。

いしいしんじ×中島らも「その辺の問題」


聲の形 1巻(大今良時)

内容に入ろうと思います。
小6の石田将也は、退屈に押しつぶされないように、日々をドラマチックに生きていこうと思っていた。友達とつるんで度胸試し大会をしたり、盗まれた靴の奪還作戦を立てたりと、人に迷惑を掛けてでも毎日を面白おかしく生きていこうとしていた。
そんなある日、将也のクラスに、転校生がやってきた。西宮硝子というその少女は、耳が聞こえない。
将也は、新しいオモチャを手に入れたかのように、西宮と接することになる。耳が聞こえないことをいいことに、からかったりいじめたりするようになっていく。
5年後。将也はある決意を胸に、西宮と再会する。
というような話です。
全体的な感想としては、ザワザワさせられる作品だな、という感じでした。
僕の勝手なイメージですけど、物語全般というのは、大衆向けであればあるほど(だから、マンガや映画なんかは比較的そうだというイメージなんですけど)、善悪というのが結構分かりやすく提示されているような気がしています。もちろんそうでない場合も多々あるでしょうけど、こちら側は悪い、こちら側は良いという線引が、結構明確になされているようなイメージがあります。マンガにも色んな作品があるでしょうが、特に週刊誌で連載されている作品は、よりそういうイメージが強かったりします。
でも、僕らが生きている現実の世界は、何が正しくて、何が間違っているのか、何が善で、何が悪なのか、はっきりとは分からない世の中ではないかと思っています。善悪が複雑に入り混じってよくわからない。そういう世の中だからこそ、せめて物語では善悪がわかりやすいものが求められる傾向にあるのかな、みたいに勝手に思っていたりします。
この作品は、善悪が非常にはっきりしません。そういう意味で、現実により近い形で描かれている作品ではないかと思います。
主人公の将也の立ち位置は、とてもわかり易い。自分が面白ければ他人がどう思おうが構わないというスタンスは、この作品中もっとも理解しやすい(共感できるかどうかはまた別として)あり方ではないかなと思います。
主人公以外は、善悪のあり方がとてもブレているような気がします。将也と共にいつもつるんでいた仲間や、クラスで一緒に西宮をからかっていた連中、そして担任の先生でさえも、一筋縄ではいかないというか、ある一定の枠内にいないという感じがしました。
特に僕が面白いと感じたのは、担任の先生の言動です。今の学校の先生のあり方を知っているわけではないんだけど、とても今風だなと感じました。先生のあり方として良いのか悪いのか、そういうことは僕は考えませんけど、今っぽいなと思います。

『確かに俺は警告したぞ?何度も何度も、自己責任だと』

『俺が言いたいのは、俺に恥をかかせるなということだけだ』

昔の学園ドラマに出てくるような先生は、まず言わないセリフではないかと思います。この作品に出てくる教師は、一定の範囲内で生徒と関わる、というスタンスを貫いている。なんとなれば、教師と生徒ではなく、人間と人間の関わり、という言い方さえ出来るかもしれません。人間と人間の関わり、と言うと、なんかより良い関係という風に聞こえるでしょうけど、教師として生徒に関心を持つ場合より、人間として生徒に関心を持つ場合の方が、よりハードルは上るというか、関心を持ちにくくなるような気がします。
教師でさえ、善悪の基準になりえない。それは、今どきの学校事情が絡んでいるんだろうな、という感じがします。親の存在が非常に大きくなって、どんな場合でも、親の善悪の判断がすべての基準になってしまう、それが今の学校教育なのではないかと思います。そういう中で教師に出来ることと言えば、その時々の親の判断基準を受け入れ、それをどうにか無理矢理にでも生徒に伝える、ぐらいのことしか出来ないのでしょう。教師自身が善悪の判断基準を持つことが、教師自身にとって辛い世の中になっているのだろうな、と勝手に想像します。
そういう環境では、生徒自身もなかなか、善悪の判断を身につけていくことが難しいのかもしれません。生徒たちも、教師が親の顔を窺っていることを察しているだろうし、そうであればあるほど、教師の権威というのは薄まっていく。それは、声の大きな人間が善悪の判断基準を制定できるということでもあって、より学校という場はカオスになっていくのではないかと思います。
そういう今風の学校のあり方を、本書は巧く捉えているような気がします。もちろんこれは僕の勝手な想像なので、現実の学校教育のあり方を映しているというのは的外れな指摘かもしれませんが。まあともあれ、善悪のあり方が非常に曖昧で揺らいでいるという点が、本書を読んだ人間をザワザワさせる強い要因だろうなと僕は感じました。
連載がどんな風に続いているのかは知らないけど、1巻を読む限りだと、とにかく石田が物語の中心にいる。1巻は小6の頃の話がメインなので、そうなっているのだろう。個人的には、西宮に興味があるのだけど、1巻では西宮の存在感はまだ強いとはいえない。2巻目以降では恐らく、それから5年後の、久しぶりに将也と西宮が再会するところから話が始まっていくのだろう。そこから西宮の存在感がもっと強くなっていくのかもしれない。
大人になった今なら、将也たちのあり方を批難も出来る。でも、じゃあ自分が小学生の頃に同じように耳の聞こえない同級生がいたらどうだっただろうと考えると、まったく自信はない。もはや僕は、小中高時代のことはまったく覚えてないのだけど、同じ状況にいたら、将也ほどではないにしろ、ちょっとからかったり、止めもせずに傍観したりするような人間だっただろうと思う。大人になれば、大人になっただけまた別の問題が出てくるんだろうけど、子供時代の容赦のない「暴力」は、あまりにも避けがたいなと、本書を読んで改めて思う。作中に、「なんでみんな、仲良くできないのぉ」というセリフが出てくるんだけど、いやホントにそうだよなぁ、と思う。
「これ面白いよ」って言って人に勧めるのはなんとなく抵抗があるというか、「面白い」っていう感じではなくてモヤモヤする感じなんだけど、読まなきゃ良かったというわけでは全然なくて、この善悪の定まっていない感じが僕は結構好きなんだけど、というなかなか人に勧めにくい作品ではある。絶望というほど絶望ではないのだろうけど、日常のそこかしこに空いている穴の一つに落ちた人間の物語だ。読んでみてください。

大今良時「聲の形 1巻」


災害ユートピア なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか(レベッカ・ソルニット)

内容に入ろうと思います。
のですが、本書は、僕には若干難しめな本で、すんなり読めたわけでもなく、また内容をきちんと把握できているわけでもありません。なので僕は、本書が描く様々な要素の内、3つだけを特に取り上げて感想を書こうと思います。
本書は、平たく説明すれば、「災害が起こった時、人々はどう行動するか」について、過去の様々な研究結果や、著者自身の手によるインタビューなどから、多角的に検証をしている作品です。
僕が本書から抜き出そうとしている三つの要素は、

◯ 普通の人々の間にはパニックは起きない
◯ エリートたちはパニックに陥る
◯ 災害は様々な「革命」をもたらす可能性を持つ

という三つだ。

『地震、爆撃、大嵐などの直後には緊迫した状況の中で誰もが利他的になり、自身や身内のみならず隣人や見も知らぬ人々に対してさえ、まず思いやりを示す。大惨事に直面すると、人間は利己的になり、パニックに陥り、退行現象が起きて野蛮になるという一般的なイメージがあるが、それは真実はとは程遠い。二次大戦の爆撃から、洪水、竜巻、地震、大嵐にいたるまで、三次が起きたときの世界中の人々の行動についての何十年もの綿密な社会学的調査の結果が、これを裏付けている』

『切迫した恐ろしい状況に置かれた人々に関する研究結果を、クアランテリは災害学につきものの素っ気ない表現で、次のように記している。「残忍な争いがおきることはなく、社会秩序も崩壊しない。利己的な行動より、協力的なそれのほうが圧倒的に多い」』

クアランテリという災害学者は、「パニックの事例を多く発見できると信じて、それをテーマに修士論文を書き始めたが、しばらくすると「どうしよう。パニックについての論文を書きたいのに、一つも事例が見つからない」という羽目になった」とも書いている。
本書では、サンフランシスコやメキシコシティの大地震、ハリケーン・カトリーナやスリーマイル島の事故、そして9.11など、様々な災害を取り上げ、その時に人々がどう行動したのかを分析している。本書は東日本大震災以前に出版された作品だが、もし東日本大震災の後に出版される予定であればその事例も含まれたことだろう。
東日本大震災では、暴動や略奪が起きず、皆が助けあっていることが、世界中で賞賛されたように思う。日本人は素晴らしい、と。確かに、東日本大震災に直面した人たちの態度は素晴らしかったのだと思う。けれども本書を読んで、それは、どんな災害時にも、どんな民族にも当てはまる、普遍的な行動なのではないかと思わされた。本書で挙げられているどんな災害においても、「普通の人々」の間ではパニックは起こっていない。それどころか、あれほど素晴らしい一日はなかった、と評す人さえ大勢いるのだ。

『サンフランシスコの全歴史の中で、あの恐怖の夜ほど人々が親切で礼儀正しかったことはない』

『多くの人が亡くなり負傷した夜に、不謹慎かもしれないけれど、わたしの一生であれほど純粋で一点の曇りもない幸せを感じたことはありません』

『テロリストたちは、わたしたちを恐怖に陥れることに失敗した。わたしたちは冷静だった。もし、わたしたちを殺したいなら、放っておいてくれ。わたしたちは自分のことは自分でやれる。もし、わたしたちをより強くしたいなら、攻撃すればいい。わたしたちは団結する。これはアメリカ合衆国に対するテロの究極の失敗例だ。最初の航空機が乗っ取られた瞬間から、民主主義が勝利した』

『ああいった共同体の感覚は、長い人生でもめったに経験できるものではなく、しかも、壮絶な恐怖と向き合った中でしか起きません。9.11直後の数日間には、公民権運動のときによく話していた”愛すべきコミュニティ”の存在を感じました』

どうして、そうなるのだろうか?

『絶望的な状況の中にポジティブな感情が生じるのは、人々が本心では社会的なつながりや意義深い仕事を望んでいて、機を得て行動し、大きなやりがいを得るからだ』

『彼らの多くが利他主義的な行動を自己犠牲とは見ていない。むしろ、ギブとテイクが同時に起きる相互的な関係だと見ている。他の人々を助けると、彼らはその人たちとの間に連帯感を得る。人に何かを与えたり、人を助けたりすることは、彼らに、彼ら自身より大きい何かの一部であるという感覚を与える。他人を助けると、自分は必要とされている価値のある人間で、この世での時間を有効に使っていると感じさせる。他人を助けることは、生きる目的を与えてくれる』

さて、その一方で、圧倒的な大多数である「普通に人々」に対して、圧倒的な少数派であるエリートたちはどうなのか。

『「普通の人々」がパニックになるなんて、とんでもない。見たところ、パニックになるのはエリートのほうよって。エリートパニックがユニークなのは、それが一般の人々がパニックになると思って引き起こされている点です。ただ、彼らがパニックになることは、わたしたちがパニックになるよち、ただ単にもっと重大です。なぜなら、彼らには権力があり、より大きな影響を与えられる地位にあるからです。』

『災害学の学者たちは、現在、権力者たちのこの恐怖に駆られた過反応を”エリートパニック”と呼んでいる』

大災害が起こると、あらゆる判断や決断をしなくてはならないエリートたちの方がパニックに陥ると言います。本書の中では、ハリウッド映画で描かれるパニックモノの作品の中で、唯一正確に描かれているのが、エリートたちの描写だ、というようなことが書かれていました。
スリーマイル島の事故の際には、上層部が重大な情報を握っていたにも関わらず、「市民がパニックになるから」という理由でその事実が公表されなかったようです。これは、東日本大震災における福島第一原発事故でもまったく同じことがありました。SPEEDIという、放射性物質がどのように拡散するのか予測できる、超高額な機械が存在し、実際に予測が行われていたにも関わらず、「市民がパニックになるから」というまったく同じ理由でそのデータは公表されず、そのために逃げ遅れて放射性物質を浴びてしまう人が大勢出ました。

『事実、通常時にうまく機能していればいるほど、災害時には、臨機応変に対処できなかったり、まとまらなかったりと、うまくいかなくなる可能性が高い』

また、災害時には、「市民が略奪などを行うから」という理由で警官や兵士が派遣され、「盗みを働くものは問答無用で撃ってよい」という指示が出されることもあるようです。実際には、「物資の調達」や「瓦礫の除去」や「埋もれている人の救助」をしているだけの人たちが、「盗みを働いている」という理由で射殺され、その一方で、当の警官や兵士たちが「略奪者」に変貌する、ということが頻繁にあったと言います。

『警察官の娘が友人に宛てた手紙には「おびただしい数の悪者が町に解き放たれています。兵士たちはほんの少しでも命令に従わない人たちを片端から撃っているのです。説明を聞こうともせず、説明することもなく」とある』

なぜエリートたちは、「街から市民を守る」のではなく、「市民から街を守る」と考えてしまうのか。なぜ市民を、暴動やパニックを引き起こす「敵」と捉えてしまうのか。

『わたし自身の印象では、エリートパニックはすべての人間を自分自身と同じであると見る権力者たちのパニックである。権力者は、彼らの最大の恐怖である暴徒たちと同じくらい、残酷にも利己的にもなれるのだ。』

本書では、災害学の長年の研究結果が、こんな短い一文で記されている。

『数十年におよぶ念入りな調査から、大半の災害学者が、災害においては市民社会が勝利を収め、公的機関が過ちを犯すという世界観を描くに至った』

さて、災害は、ある種の「革命」を誘発する場合がある。すべての災害でそうなるとは言えないが。

『災害は社会に変化の機会を与え、進行中の変化を加速させ、もしくは、何であれ、変化を妨げていたものを壊すというのだ』

『現代の西欧世界の災害も現行の権力を脅かし、しばしば変化を生じさせる。そういった点で、災害は革命によく似ている。ある意味、災害は社会や政府の中に存在していた対立や軋轢や悪癖を表面化させたり、重大局面に持ち込んだりする』

『災害や危機は意志を強固にする。また、時に災害はすでに悪い状況をそれ以上耐えられない点まで悪化させることで、限界点に到達させる。それを以前には不明瞭だった不公平や社会問題を際立たせるといった方法で成し遂げる場合もあれば、人々に互いの存在を通じて市民社会や集団の力を発見させることで成し遂げる場合もある。だが、公式はない』

災害は例えば、厳しい階級格差が残る社会を一時的にせよ公平にしたり、圧政や悪政に苦しむ国が変革のために立ち上がったりといったきっかけを与える。また、それほど大きなレベルでなくとも、震災時に自分が取った行動が、その後の人生においてその人の自信や確信に繋がった、というケースもある。
災害は、様々な被害をもたらし、特に取り返しがつかないほど人命が奪われることも多い。しかし、そのようなマイナスの側面だけではない。エリートや権力者による暴走はあれど、希薄だったコミュニティが復活し、また限界を迎えていたシステムやルールをリセットし、新しい仕組みを生み出すきっかけにもなる。本書は、なかなかスイスイと読めるような易しい本ではないと思うけど(べらぼうに難しいわけでもないけど)、ハリウッド映画などによって植えつけられた、災害時の人々の行動についてのイメージを一新させてくれる作品だと思います。是非読んでみてください。

レベッカ・ソルニット「災害ユートピア なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか」


きみは白鳥の死体を踏んだことがあるか(下駄で)(宮藤官九郎)

内容に入ろうと思います。
本書は、脚本家であり、他にも様々な顔を持つ宮藤官九郎が、初めて書いた小説です。作中で本人が「恥小説」と書いていますが(そう、小説なのに、「現在の宮藤官九郎」が時々出てきます)、書かれているのは宮藤官九郎の青春時代がベースになっているよう。本人は虚8実2ぐらい、と書いているけど、さて実際のところはどうだろう。
舞台は宮城県の、冬に白鳥が飛来することぐらいしかウリのない土地。実家が文具屋である主人公の「僕」は、中学時代の仲間たちとは一人違う高校へ進学することに。月伊達高校は、筋金入りのバンカラ高で、下駄で通学、上履きは雪駄という、強烈な男子校だった。「僕」はそこで、先輩たちにもみくちゃにされながらも、童貞感丸出しのまま、何者でもないフラフラした自分を持て余す。

『不良でも秀才でもスポーツマンでもハンサムでもブサイクでも貧乏でも金持ちでもないモヤぁっとした男子高校生が、いつもお腹がモヤぁっと痛苦しい十二指腸潰瘍の十七歳が、モヤぁっとした霧の向こうにあるパリっとした何かを掴み取るための戦い』

ある場面で「僕」はそんな決意をすることになるのだが、つまり「僕」の高校時代とは、そういう感じだった。冬に飛来する白鳥に餌付けすることだけが生きがいの「白鳥おじさん」ぐらいしか話し相手がおらず、高田文夫の素人オーディションに出てみたり、修学旅行先で出会った女の子と文通してみたり、ギターに熱中してみたけど、全然続かない。ハマれない。何か違う。どう違うのかも分からないまま、モヤぁっとし続けたまま、僕は時々白鳥の死体を踏む(下駄で)。
というような話です。
小説としてどうか、というのはなかなか判断しにくい作品ですけど、読み物としてはなかなか面白い作品だったと思います。
さっきも書いたけど、著者はこの作品を「虚8実2」と書いていて、まあそれも一応小説内の描写なんでホントかどうか分かりませんけど、読んでいるとなんとなく、かなり実際のことをベースにしているんじゃないかなぁ、という感じがします。個々のエピソードはともかく、舞台設定とか、あるいはその時々の感情とか、そういうものはかなりきちんと拾っているんじゃないかなと思います。
本書の解説は、宮藤官九郎がドラマの脚本を担当した「池袋ウエストゲートパーク」の著者である石田衣良なんですけど、解説で石田衣良が本書を非常に的確な表現で短くまとめていたので抜き出してみます。

『「きみ白(下駄)」は、どんな作家でも一度きりしか書けない青春の(危機をくぐり抜ける)物語である。本来、生まれるべきでない場所に産まれたセンスのいい少年が、さまざまな葛藤を経て、のびのびと生きていける自分の居場所を見つけるまでの貴種流離譚だ』

まさにその通りの作品だ。もし宮藤官九郎が東京に生まれていたら、こんな葛藤を抱きながら青春時代を送ることはきっとなかっただろう。宮藤官九郎の存在を受け入れる場がどこかにあっただろうし、宮藤官九郎の欲求を引き出してくれるような存在にも出会えたかもしれない。そうやってきっと、どこかに居場所を見つけることが出来たに違いない。
でも、それでよかったのかどうか。宮藤官九郎は、白鳥以外に名物がない土地で、しかも下駄で登校するような高校でもみくちゃにされている。そこに自分の居場所はなさそうだと思いながらも、そこから抜け出すことも出来ない。そういう中で、悩み、もがき、苦しみながら、色んなことをグルグル考える。そんな時間があったからこそ、宮藤官九郎は宮藤官九郎になれたのではないか。
とはいえ僕には、本書で描かれているような「男子高校生の青春の葛藤」的なものに、あまり懐かしさを覚えない人間だ。同レベルの友達だと思っていた奴に彼女が出来たとか、しかもその彼女が微妙に可愛くないとか、文通をしただけで恋に落ちるとか、そういうような青春らしい葛藤みたいなものとは無縁だった。それは僕がモテたとかそういうわけではなくて、僕の場合もっと、「あー、生きてくのしんど」みたいな、青春とは程遠い鬱々とした葛藤を抱えていたような気がするので、そういう明るい真っ当な葛藤とは無縁だったような気がするんだよなぁ。僕は、辻村深月が描くような、あまり爽やかではない葛藤を描かれた方が、懐かしさを感じるし、グッと刺さる。
そういう意味で本書からは懐かしさは感じないのだけど(本書で出てくる音楽とか映画とかそういうものも全然分からない。年代が違うってこともあるだろうけど、元々そういう方面に関心がないのだ)、羨ましいなという感じはある。こういう、大人になったら馬鹿話になるような青春エピソードって、羨ましいなぁって思う。そもそも僕は、小中高大学時代のことをもうほっとんど覚えていないんで、覚えていないだけかもしれないけど、そういう話題で盛り上がっている会話なんかに入れなかったりすると、ちょっと悲しい気分になることもあるのだ。勉強ばっかりしてたからなぁ。ホントに面白くない男だったなぁ(今もだけど)。
冒頭でも書いたけど、小説としてどうなのかは、まあうまく判断できません。でも、主人公と現在の宮藤官九郎を重ねて、宮藤官九郎って面白いんだろうけどなんだかよくわかんない人だなぁ、っていうだけだったイメージが、なるほどこんな青春時代を送っていたのか、と肉厚されるような感じで、そういう面白さはあるなと思います。読んでみてください。

宮藤官九郎「きみは白鳥の死体を踏んだことがあるか(下駄で)」


格付けしあう女たち 「女子カースト」の実態(白河桃子)

内容に入ろうと思います。
本書は、男にはなかなか理解しがたい、女性の複雑な「カースト」の世界を、大学講師として多くの女子大生と関わったり、働く女性や専業主婦に話を聞いたり、「女性が輝く社会のあり方研究会」委員でもある著者が、様々な生の声と共に描き出す作品です。

『一つの集団において、そこに属するメンバーそれぞれが、その集団にしか通じない基準でお互いを暗黙のうちい格付けしあい、その序列の認識と共有が行われる。これを日本型カーストとしてこの本では定義しようと思います。
その集団における強者・弱者が「その場の空気」でメンバー全員に共有され、その結果、各人の行動まで限定されます』

本書では、「女子カースト」をこんな感じで定義します。では、どうして女子の世界にだけ、これほどまでに複雑なカーストの世界があるのか?

『隣の芝生は誰にとっても青い。ちょっとの運命の差で、私もあの青い芝生に行けたのに…と思ってしまう。
そんな「移動可能な」場所に青い芝生があるからこそ、女同志は「人は人」「自分は自分」という風に割り切れないのです。男性だったら、アルバイト暮らしが突然タワーマンションに住むのは、一攫千金を引き当てたデイトレーダーぐらいでしょうか?女性の人生のほうが、コツコツ階段を上らなくても、突然エレベーターに乗る…という可能性がまだあるのです』

これはあくまでも本書で示されている一つの可能性に過ぎないけど、なるほどと思わせる説明です。ママ友にはママ友の、独身女性には独身女性の、専業主婦には専業主婦の独特のカーストがあるわけですが、「ちょっとした運命の差で、私もあの青い芝生に…」という気持ちを持ちやすいのは、やはり女性の世界の方が強いのだろうなと思います。
また、女性には、こんな複雑さもあります。

『女性の場合、社会的な成功と同じくらい「女としての幸せ」というダブルスタンダードで人生を計られてしまうので、余計に複雑なカースト内順位争いに巻き込まれてしまうのです』

男の「社会的な成功」というのは、ほぼ仕事で計られることでしょう。そしてそれがイコールで、「男としての幸せ」とされる。そういう理屈は、未だに通用するでしょう。でも女性の場合、「仕事で成功すること」が社会的な成功だとしても、それが「女としての幸せ」とは限りません。結婚や子育てなど、さらに多くの場面で「勝ち」を拾わなければ、自分に対しても周りに対しても「幸せ」だと思えないわけです。そういう風に、社会から思わされているわけです。男であれば、人生の成功を計る指標は多くないから、格付けしようにもシンプルなものにならざるを得ない。しかし女性の場合は、男と比べれば遥かに広い範囲に渡って成功を計る指標が偏在しているので、格付けが複雑怪奇になっていくのです。
また、女子カーストの複雑さは、「自分自身の評価ではない」という場合があるので、さらに複雑になっていくのです。専業主婦のカーストがどんな風に決まっていくのかを見て行きましょう。

『「人ってきっと、物心ついた時からずっと、自分が社会の中のどの位置にいるのかを意識しながら生きている。けれど専業主婦はその位置を計るものさしがない。結果、夫や子供に頼らざるを得ないんです。働いていないと、結婚した人によって勝手に格付けされてしまう」(Mさん)』

『金銭的にも夫の給料に頼らざるを得ない彼女たちは、どうしても夫の年収によって行動範囲や金銭感覚の差が出てきてしまう。結婚するまでは同じレベルにいた女友達とも、そこで自然と階層の分断やカーストが生まれてしまいます。』

『彼女達が不安になる要因の一部に、主婦の行う家事・育児が社会から評価されづらいことにあります。家事・育児には、一定の評価基準がない。それゆえに、頑張っていても夫や子供からねぎらいの言葉をかけてもらえず、自己承認につながりにくいのです』

『外部からの評価を求めたい、立ち位置を確認したい、けれどそれはかなわず、逆に主婦仲間からの根拠のない評価に傷ついてしまう。狭いコミュニティ内の誰かの主観による評価に頼らざるを得ず、踊らされてしまうことが彼女達の苦しみの原因になっています』

著者は、専業主婦のママカーストの息苦しさの根本にあるのは、「彼女達が自分の武器で戦えないこと、評価されないこと」だと書いています。自分自身に対する評価であれば、正当なものかどうかはともかくとして、まだ受け入れやすいかもしれない。でも、専業主婦は、もはや自分自身を評価してもらうことが難しい。それはなかなか辛いだろうなと思います。
著者は、女子カーストが起こりやすい場として、4つの要素を挙げます。

①ヒマがある集団
②狭くてぬるい均質な集団
③逃れられない集団
④「悪の種」が集団に紛れ込んだ場合

ママ友なんかは、こういう要件を強く満たしてしまう感じがします(子供を持つ母親が「ヒマだ」と言いたいわけではないんだけど、ヒマな母親が「悪の種」となって集団を形成する可能性が高くなるかな、と)

『しかし、子供同志が仲がいいと、自分の好きではない相手とも付きあわなければいけなくなり、ママが感じるストレスは想像以上』

『独身時代は、純粋に気があう人と付きあうことができたが、子供を産むと、子供が幼稚園や小学校で楽しく過ごせることが最優先になる。子供が大きくなり、一人でも遊びにいける小学校高学年ごろになるまでは、どうしてもママ同志の付きあいからは逃れられない。その時までは、嫌な相手でも我慢するしかない…』

昔からあったのでしょうが、女子カーストが取りざたされるようになったのはここ最近ではないかと思います。どうしてそんな風になってしまったのか。著者は様々な形でその原因を書いています。

『周りを全く気にせず生きることができれば幸せ。しかし、どこかで人と比べてしまう。人の目線から見るのではなく、自分目線での幸せがあれ十分なはずなのに。その幸せが見つからない。
これは日本の戦後が「多様性」を拒否し、「一億総中流」の画一的な幸せを標準として社会をつくってきた結果でしょう』

『「一般に、日本の女性は、この「人並み」に異様なまでにコダワリがあります。自分の半径五メートル以内にいるご同輩の”平均値”を、自分が持っている何かが下回ると、女はたちまちしょげかえり、いじけ抜き、しまいには、自分より”持っている人”を妬み嫉むという特性を有しています」(佐藤留美さん)』

『現在の日本は、自由です。結婚しない自由、産まない自由、女性の生き方にも、いろいろな選択肢があると言われています。しかし、その洗濯をうまく選ぶことをまったく教わってこなかった。そして自由であることのリスクも教わってこなかった。選択肢が増えるほど、実は望ましい選択肢は手に入れにくくなるという法則があるのです。
いい例が結婚です。親が決めるわけでもない、自由な恋愛で相手を選んでいいんだよと言われた途端、みんな結婚できなくなりました。
多様化と言いつつ、昭和の時代に親が幸せと決めた価値観に縛られている。現代は実は「普通の幸せ」=「昭和的な幸せ」を望んでも手に入りにくい時代です』

『最近実感するのは、「女は自分の生き方を否定できない」ということです。女性の働き方や子育ての議論って、結局「あなたの生き方は?」に直結するから、小さな相違を認められない』

『「女同士が格付けしあう」のは「否定されたくない」という守りの気持ちから。
そして女同士がつながれないのは、「自分の生き方こそ正しいと認めてほしい」という、多様性のなさから』

本書では、結婚や働く女性に関しても、様々に言及されています。
結婚についての著者の結論はシンプルです。「女性は「稼ぐ」覚悟をし、男性は「家事、育児」を本気でやる覚悟をする。本当はそのあたりをちゃんとマッチングさせるのが結婚への近道です」。未だに専業主婦に憧れる女子大生は結構いるけど、これからは専業主婦でいる方が辛い世の中になっていくはずだと指摘し、女性は働き続ける覚悟を決めるしかない、と説きます。

『産業構造の変化により、2007年から「男性不況」が始まり、この六年間サラリーマンのお給料は落ち続けています。今後は年収五百蔓延がサラリーマンの生涯年収のピークになるそうです。
未婚で年収四百万円以上の男性ですら、四人に一人しかいません。
つまり、今後よほどのラッキーに恵まれない限り、今の女子大生達は働き続ける覚悟をするしか、結婚への道もない』

しかし、結婚はともかく、子供を産んでさらに働き続けるとなると、女性にとってはまだまだ辛い世の中です。
僕は全然知りませんでしたが、2009年に「時短制度」というものが出来たようで、「3歳までの子を養育する労働者について、短時間勤務制度(一日六時間)を設けること」が事業主の義務とされたようです。しかしこの時短制度も、まだまだうまく活用されているとはいえないようで。

『誰も、多分時短ママ本人も、同僚も、「時短ならどういったことが許され、また不利益があるか?」分かっていないし、「フルタイムのワーキングマザーの適正な仕事量」というのも分かっていない。これは声をあげたもの勝ちという状態になっているのだと思います』

『今必要なのは「時短の人をどう生産性よく使うか」、そして「時短をとっているママはいつから復帰してどんな風に仕事をしたいか、きちんと上司に伝える」技術です』

また、働く女性にとっては、先行世代からの厳しい声にもさらされることになる。

『働く母親の味方は働く母親じゃないんです。まだ両立制度もなかったころに、子育てと仕事の両立をやりぬいた人達からは、「今の母親は甘えてる。私達のころはこんな親切な制度なんかなかった」「ロールモデルがないって?私達のころはそんなものなんかなかったわよ」と言われてしまうんですよ』

ホントに、女性は大変ですなぁ。
著者は、社会のあり方について、こんな風に書いています。

『今新しい働く文化が生まれようとしてます。
スーパーウーマンではない、普通の女性が「運でも働くのが当たり前」という文化です。
今まで「仕事」はすべての免罪符でした。「仕事だから」と言えばすべてが優先されると誰もが信じていた。すでに宗教です。
しかしワーキングマザーの大量発生は、会社の中に違う神様を持つ人が現れたぐらいの衝撃だと思います。
そして、これからもワーキングマザーは増えます。なぜなら「両立ができるんだ」とわかれば、それほど高収入の男性を探さなくても結婚できるからです。
ワーキングマザーが起こす「働き方革命」が日本の職場を変えていく時だと思っています』

『それでは、女性が生きやすい社会とは何か?
わたしはシングルマザーが生きやすい社会が、すべての人が生きやすい社会だと思っています。今、シングルマザーは子供を抱え、就職したくても難しく、八割のシングルマザーがパートを掛け持ちしたりして、精いっぱい働いているのに、半分以上が貧困です。先進国としては異常な数字です。弱いところにいる人が生きやすい社会は、すべての人が生きやすい社会です』

本書を読んで、女性がなかなか「共闘」できない理由がなんとなく分かったし、上司や夫は、女性の部下や妻に対してどんなことをすべきなのかも見えてくるように思います。女性にとっては、本書に書かれているようなことは、日常的に感じ取る当たり前のことでしょう。だから僕は、本書は男が読むべきだと思います。女性の複雑な社会を知ろうとし、ほんの僅かでも自分の行動に反映させていけば、少しずつでも何かは変わっていく可能性があるのではないか。そんな風に感じました。是非読んでみて下さい。

白河桃子「格付けしあう女たち 「女子カースト」の実態」


ウエストサイドソウル 西方之魂(花村萬月)

内容に入ろうと思います。
不登校を続けている高校生・光一(ピカイチ 本名)は、ずっと何もしないで生きてきた。博打にハマったせいで妻に逃げられ、それから心を入れ替えて板前になった父との二人暮らしで、趣味らしい趣味もなく、父親から適当にもらう千円札でケンチキを食べに行くだけの、くすんだ生活をしていた。
ある日、以前なんとなく足を運んだ近くの古本屋で見つけた詩集に書かれていた<闇討ち>という詩に強烈なものを感じ、それを思い出してまた古本屋に足を運んだ。
するとそこに、学校一の秀才である日向がいた。
なんだかよく分からない内に、流されるようにして日向と飯を食ったり話したりして、そしてなんだか日向の家に行くことになった。
それで、流れで、なんだかいい感じになって、付き合うようになった。
そしてピカイチは、日向と出会ったことで、もう一つ、とてつもないものと出会った。
音楽だ。
日向はドラムを叩き、日向の兄の幸太がベースを弾いていた。ピカイチもかつてほんの少しだけギターを弾いていたことがあったけど、まったく駄目で、自分には音楽的な素養がないと思っている。だから、幸太から無理やりギターをやれと言われた時も、絶対に無理だと思った。
ピカイチは、異常な集中力を発揮して、一日20時間もギターを抱いていた。
日向との相性は抜群で、二人で沖縄にもいった。お互いがお互いの存在を必要としていて、言葉を介さなくても伝わるものがたくさんある。
ピカイチのギターは、周囲が驚愕するほどの上達を見せている。血なのだ。しかし、ピカイチ自身は、自分がまだギターを初めて数ヶ月の初心者で、恥ずかしくてたまらないと思っている。
ピカイチという、可能性の塊のような存在が無限に開放されたことで巻き起こる、青春の嵐のような物語。
なかなか面白い物語でした。花村萬月って、グロかったりハードだったりする作品を書く作家っていうイメージがあって、実際かつて一作だけ読んだことがある花村萬月作品はそういう感じだったんですけど、本書はグロくもないしハードでもないし、青春小説という範疇に入る作品で、花村萬月ってこういう作品も書くんだ、と思いました。
本書は、帯の文句が秀逸ですね。ハッとするような文章、というようなわけではなく、内容を実に端的に表現しているなと思います。

「セックスが好きだ。
音楽も好きだ。
いや教えてくれた君が一番だ。
ありがとう。」

まさに、こういう作品です。ピカイチからすれば、日向に出会わず、ブルースに出会わなければ、ほとんど死んでているような人生だった。ピカイチにとって、日向との、ブルースとの出会いは、まさに人生そのものを救うようなものだった。ピカイチは時々、「自分は平べったい」とか「ギターに出会うまでは透明人間だった」みたいなことを言う。日向やブルースと出会う前のピカイチについてはほとんど描かれていないけど、学校にもいかず、父親と向き合うでもなく、社会と対峙するでもなく、ただのっぺりとした生き方をしていたわけです。
そういう感じが自分と似ているようなところがあって、だから僕は、ピカイチがとても羨ましくて仕方がない。
僕は、未だに透明人間みたいに生きているかもしれない。周りからどんな風に見えているのかはよく分からないけど、自分自身の実感としてはそうだ。何もせず、何も望まず、何とも向き合わずに、ただダラダラと生きているだけ。そういう自分をなるべく肯定してあげようと思うんだけど、そう簡単にはいかない。
きっとピカイチもそうだっただろう。まだ高校生(学校には行っていなかったとは言え)だから、僕よりは可能性は大きく開けているとはいえ、ピカイチにも、やりたいことも没頭してしまうことも何もなかった。その理由を、ピカイチ自身が説明している場面があって、それはちょっと分かると思った。

『自分でもわかってきたんやけどな、手ぇ抜けへんねん。なにをやっても手ぇ抜けへんねん。そやからな、ギターいじくるまでな、逆にな、なーんもせえへんかったわけや』

僕は、自分が手抜きできてしまう人間であることを知っているから、ピカイチとまったく同じなわけではないんだけど、ピカイチの言いたいことはよく分かる。僕の場合、「ちゃんとやらなきゃ」という感覚が強い。だから、何かする際に躊躇してしまう。それで結局、何にも手を出さない。頭では、とりあえずやり始めて、失敗しながらちょっとずつ修正していけばいいんだろうな、と思ってはいる。けど、実際そうすることは出来ないんだよなぁ。面倒だなと自分でも思う。
そんなピカイチは、ギターという、どハマりできるものと出会った。
それは、ホントに羨ましいなと思う。
僕には、そういうものはほとんどない。時間を忘れて没頭してしまうもの、他のことを考えられなくなるほど止められないもの、そこから離れると不安になるもの。そういうものが、僕にはない。何をしてても、「まあこれは暇つぶしだからね」という感覚がある。そういう、のめり込むことが出来るものを、意識的に持たないようにしてきた、という部分もないではないのだけど、元々の好奇心の問題もあるだろう。ピカイチにとってのギターのような何かと出会うことが出来たらいいだろうなと思うんだけど、普通はピカイチのようにただ待ってるだけではやってこないだろうな、とも思う。ピカイチは、ただ流れされるようにしていただけでそれに出会ったわけで、それも羨ましいんだよなぁ。
ピカイチにとっての日向という存在も、ちょっと羨ましい。いや、僕の場合、実際に日向みたいな人が近くにいたら逃げたくなってしまうかもしれないけど(恐いわけではなく、まあ、ちょっと巧く説明できないけど)、でも、日向のように、適度な力であっちこっちに引っ張りだしてくれる存在、という意味ではとても羨ましい。僕はピカイチと同じで、主体性も自発性も自主性も何もない人間で、あまり自分の意見というものがない。だから、そんなフラフラと流れている人間を、適当な方向に押し出したり、適切に引き戻したりしてくれる人ってのはいいなぁ、と。ピカイチは日向に、「オレは日向に依存している」というようなことを言う。まさしく、ピカイチはそうだろう。僕は、そこまでは行きたくないなと思うけど、自分を適当な場所に連れ出してくれる存在がいるというのは、とても羨ましい。
日向にとっても、ピカイチはなくてはならない存在だ。本書は、ピカイチと日向が、いかに互いを必要としているか、という部分が強く描かれていく。ストーリーの中心にあるのは<音楽><ブルース>と言ったものだけど、物語の中心にあるのは、ピカイチと日向の揺るぎない関係性、という感じだ。
そう、揺るぎない関係性なのだ。本書は決して、恋愛小説ではない。ピカイチと日向の関係性が、物語的な展開によってフラフラと影響される、というようなことはほとんどない。ピカイチと日向は、最初から最後まで、あまり危うげなく深い信頼関係で結ばれている。
こういう関係性を物語に落とし込めるというのは凄いなと思う。
いやだって、現実の世界で、ピカイチと日向のようなカップルがいたら、物語にはなりそうにないと思う。常にイチャイチャしてて、お互いに相手を褒め称える言葉を交わして、始終セックスをしていて、喧嘩になるでもなく、起伏があるでもなく、ずっと穏やかに、その信頼関係がますます深くなっていくような、そんな関係性は、なかなか物語にはならないだろう。
でも本書では、そんな二人が物語の中心にいる。これは凄いと思う。二人の、言ってしまえば甘ったるいような関係性が、作品を退屈にするどころか、面白くしている。何がどうしてそんなことになっているのか、イマイチよく分からないのだけど、二人がただダラダラ喋っているだけの場面でも、なんだか面白いのだ。まあそれは、ピカイチと日向というかなり特異な人格(特にピカイチの方がね)に依るところが大きいんだろうとは思うんだけど、ゆるゆるとした関西弁の雰囲気とか、読者に聞かせているわけではない、ピカイチと日向が本当に会話をしているような雰囲気とか、そういう作者のいくつかの計算がうまくハマっているのかもな、という感じもしまいした。
音楽に関しては、正直さっぱりわかりません。本書で書かれている内容が、ギターをちょっとやったことがある人なら理解出来るようなものなのか、あるいは音楽をかなりやってたり学んでたりしないと理解できないようなことなのか、そういう判断も僕には出来ません。結構レベルの高い描写がなされているんじゃないかな、っていう気はします。でも、もちろん全然理解は出来ないんだけど、そういう場面を難解だなと感じるようなこともありませんでした。適度に読み飛ばしていたんだろうけど(どのみち、僕に理解できるわけがない)、音楽について語っているピカイチの熱みたいなものは、内容が理解できなくても読者には届きます。言ってることは全然分かんないけど、凄い熱心に話してるのは伝わるな、みたいな。
とにかく、<音楽>という水を得たピカイチという魚は、縦横無尽に泳ぎまくる。楽しくて楽しくてたまらない、という感じであちこち飛び跳ねている。新しいことを知ることが楽しいし、出来ない自分を発見することも楽しいし、音楽のことを話しているだけで楽しい、というような、ピカイチのワクワク感が、読者にもビンビン伝わってくる。ピカイチは、自身の凄さをまったく自覚出来ていないから、ピカイチの描写だけ読んでいると、音楽に素養のない僕のような人間はやっぱりピカイチの凄さを実感するのは難しいんだけど、ピカイチの周囲にいる人間が、あらゆる場面でピカイチを褒め倒すので、なるほどやっぱりピカイチって凄いんだなと、素人でも分かるようになっています。
日向と出会い、ブルースと出会ったピカイチは、初めの頃とはまるで違った人間になっている。本書のラストは、彼らのバンド<西方之魂>のデビューライブの描写なんだけど、そこに至るまでのピカイチの人間的成長が見事だ。それまでただ流されるように生きてきたピカイチが、音楽を、ブルースを、ギターを究めるという明確な目標を得たことで、あらゆる決断を自分でし、あらゆることを自ら引き受けるようになっていく。ピカイチには、そんな意識はきっとないだろうけど、覚悟を決めた、という感じなのだろう。今まで逃げてきた社会と向き合うぞ、今まで手放してきた多くのものを後悔しないぞ、という覚悟だ。そのピカイチの有り様が、輝きが、熱量が、読者を浮遊させる、そんな小説ではないかと思います。

『そんな光一も、なんとなく理解していることがある。
幸せについてだ。
常時、幸せな人なんて、誰もいない。どこにもいない。
ところが常時不幸な人は、掃いて棄てるほどいる。
ほとんどの人が斑紋を抱え、それを意識の彼方に押しやって日常をやり過ごす努力を重ねているのだ。
人間が生きるということは、不幸がデフォルトである。なんせ、生きることの行き着く先が死であるのだから。
だからこそ幸福な瞬間が輝き、燦く。
幸せとは、瞬間的なものなのだ。
持続と無縁にあるのが、幸福だ。
幸福は、常に節なにしか姿をあらわさぬ。』

音楽小説というとこぼれ落ちるものが多すぎるし、青春小説というほど青春なわけでもないだろう。ピカイチという、今まで自分も周りも「ただの石」だと思っていた人間が、音楽と出会うことで、自身も周囲も「原石」だと感じられるようになり、周囲に良い影響をまき散らしていく。そんな成長を切り取った作品です。是非読んでみて下さい。

花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂」


マンホール 1巻~3巻(完結)(筒井哲也)

内容に入ろうと思います。
笹原市で白昼、全裸の男が朦朧とした意識のまま商店街をフラフラ歩く姿が目撃される。ケータイをいじり、音楽を聞きながら歩いていた若者は、突然目の前に現れた男が吐血、それに驚き男を突き飛ばしてしまう。
死亡が確認された男の体内からは、奇妙な生物が見つかった。新種の寄生虫のようだ。幸い季節は冬、双翅目に分類される吸血性昆虫による感染の拡大はそこまで大きくはないはずだ。
しかしこれは、人為的な犯罪なのではないかという疑いが強まる。刑事である溝口と井上は、こんなとんでもない事態を引き起こしている犯人を追うが…。
というような話です。
なかなかおもしろいコミックでした。特にどんな理由があって買ってみたわけでもないのですけど、短い巻で完結していると手を出しやすいなということで適当に選んだ作品です。
物語そのものは、特別凝っているとか、奇抜というほどではありません。基本的な構図は、ちょっと異常な犯罪者とそれを追う警察という割と単純な図式で、その犯罪のやり方が「寄生虫」を使うという、ちょっと変わった手法を取っている、という点が特徴でしょうか。本書で登場するような「寄生虫」は、きっと実際には存在しないでしょうが、「存在してもおかしくはない」と思わせる存在ではあります。バイオテロ的なものが扱われている一方で、オーバーテクノロジーというわけではなく、あくまでも現実に起こりうる可能性の範囲内で物語が展開していきます。
マンガで描こうとすると、どうしても超常的・SF的な展開にしたくなってしまうような気がするんだけど、本書は、現実的な設定をかなり巧みに組み合わせて、リアルな物語を現出させているように思う。別にリアルではない物語が好きではないという話ではないんだけど、こういう設定でリアルさを追求しているところに、なんだか好感が持てる気がしました。
実際に、吸血性昆虫や寄生虫、あるいは医療機器なんかの知識はかなりきちんと調べているようで、それを物語の勘所にうまく組み込んでいる。「陽性・陰性検査の盲点」とか、「ヒトスジシマカ大繁殖の謎」とか、「犯人のラスト」とかなんかは、専門的な話を物語的にかなり巧く使っている印象があって、とても秀逸だなと感じました。それ以外の場面でも、「現実にこんな寄生虫が存在していたら、警察や社会や保健所はどう動くのか」という点のリアリティをかなり強く意識して書いている気がします。
本書は、「謎の寄生虫がどんな風に警察や社会を混乱させていくか」という状況の混沌さと、「犯人がどんな考えでこの寄生虫をばらまき、何を目的としているのか」という知恵比べみたいな部分が読みどころで、それらが両軸となって物語をうまく前進させています。
短い話ながら、核となる物語の部分だけではなく、登場人物たちの枝葉の部分にも意識が向いていて、特に溝口と井上のコンビの物語は、短い話にしてはなかなか面白い起伏があるのではないかと思います。
ミステリ的な要素もありながら物語が展開されていくので、なかなか内容に触れられないのがもどかしいですけど、寄生虫という設定を巧く用いて、色んなところに盲点を設けながら、ただのパニックものではない形でスリリングな物語展開をしている、なかなかに面白い作品だと思います。
ただ一点。これは、もしかしたら著者にはどうにもならなかった部分なのかもしれないけど、中盤から後半に掛けての展開が早すぎたな、という気がします。あくまでも憶測だけど、連載時にそこまで人気が出なくて、長く連載を続けられなくなってしまったのかもしれません。物語として破綻している印象は受けないけど、著者の中にはもう少し長い構成があったのに、それを活かしきれなかったのかもしれないな、という感じがしました。正直、もう少し長く続いてもいい作品だと思います。まああくまでも勝手なイメージなので、3巻ぐらいでまとめるというのは、著者の元々の考えだったかもしれませんけどね。
ところどころ、グロテスクな絵が出てくるんで、そういうのが苦手な人にはそこまで強く勧められないですが、狂信的な犯罪者と未知の寄生虫という組み合わせが警察や社会を混乱に陥れる物語展開と、その犯罪者を追う刑事の攻防、そして寄生虫の封じ込めに注力する保健所の人など、現実に足場を置いたリアリティのあるマンガだと思います。是非読んでみてください。

筒井哲也「マンホール」






灰色のダイエットコカコーラ(佐藤友哉)

『祖父は覇王。
つまりゴールだった。終着駅だった。到達点だった。百点だった』

北海道の片田舎で両親と共に暮らす19歳の主人公は、バイトして、いてもいなくてもいいような友達と時々ボーリングをして、死んでいるように生きている腐ったフリーターだ。こんなクソみたいな日常から一刻も抜けださなくてはいけないと思いながら、停滞した淀んだ底辺のような生活に甘んじてしまう。
13歳の頃の自分は、こんなではなかった。
あの頃僕には、ミナミ君がいた。
ミナミ君は隣に住んでいた同級生で、人とはまったく違った世界を持っていた。僕はミナミ君に選ばれ、『計画書』を見せてもらい、世界に制裁を与えるための思考と行動を繰り返した。
そんなミナミ君も、もういない。この町の澄んだ空気に殺されてしまった。
もっと前なら、僕には祖父がいた。
祖父はこの町の覇王だった。64人の人間を殺し、町のあらゆる人間から畏怖され、なにものも恐れず、感情のおもむくままに人を恐怖させる覇王だった。
そして僕は、そんな祖父の直系だった。祖父から「直系」と呼ばれる度に僕は、誇らしい気分になれた。あの頃の僕は、祖父と共にいた僕は、無敵だった。自分がいつか覇王になれることを、他の肉のカタマリとは違う存在なんだと、信じて疑わなかった。
そんな祖父も、もういない。
そして僕は、このクソみたいな北海道という土地で、何もない東京でも神奈川でも大坂でもない、この北海道という土地で、腐ったように死んだように生きていくのだ。
本当に?
覇王の道は、諦めたのか?
というような話です。
これはなかなか斬新で、僕にはなかなかピッタリ合う作品でした。好き嫌いは完全に分かれることでしょう。むしろ、本書を読んで嫌悪感を抱く人の方が多いかもしれません。でも僕は、このクソみたいな主人公のあり方がちょっと分かってしまうような気がするし、広く括れば同志といえるかもしれない。

『そこそこの会社に入って月曜から金曜まで労働し、休日になったらドライブだのバーベキューだのを楽しみ、子どもの授業参観だの運動会だのに欠かさず出席し、おいしいコーヒー豆を探したり鼻を植えるのを趣味とするような人生。普通の、平凡の、ちょっと周りを見渡せば誰もがやっているような人生。そんなものに楽しみを見出す肉のカタマリは徹底的に嫌悪して、徹底的に拒絶しなければならない。受け入れてはならない。楽しんではならない。』

『なるほど社会というのはきわめて光明で、あらゆる種類の人間を「普通」というカテゴリーに押し込めようとする。結婚だの子供だの言えだの仕事だの、そうした低俗なイベントをひっきりなしに持ち込み、頭一つ秀でた者も、愚鈍な馬鹿も、それらすべてを「普通」という表現で綺麗に片付けようとしている。それは社会生活を円滑にするための装置だ』

主人公はとにかく、「肉のカタマリ」になることを嫌悪する。「肉のカタマリ」というのは祖父がよく使っていた表現で、平凡で普通でありきたりな人間のことを指す。強烈な祖父の記憶と共に、主人公は、「肉のカタマリ」を、普通を、平凡を、徹底的に嫌悪する。そして、自分だけはそうはなるまいと、全力で抗おうとする。

『残された道は…普通の人生を歩むこと。
でもそれは絶対にできないだろう。僕は十九年間、普通を馬鹿にしてきた。普通は汚い、普通は醜い。そう考えてきた。それなのに主張を百八十度転換して肉のカタマリとして生存するだと?無理だ。虐待された犬が二度と犬を信用しないのと同じように、鬼畜米英と教えられた子供たちがなんの疑いもなく戦争に突入するのと同じように、僕には肉のカタマリに対する嫌悪が刷り込まれているのだ。』

主人公にとって、覇王を目指すというのは、肉のカタマリであることから遠ざかり、さらに何者かになることが出来る、彼の人生の残されたごく僅かな希望だ。しかし、当然のことながら、周囲の人間にはその浅さは完璧に見抜かれることになる。様々な人間が様々な場面で、主人公の考えの浅さ、生き方の低俗さを指摘する。

『強いとか弱いとか、勝ったとか負けたとか、そんなものだけを目指して生きる人生なんて辛いと思うよ』

『そう思わないと苦しいだけね。意味も理由も使命もない、運命の女もいなければ宿敵だっていないこの世界に、あなたは手のこんだ脚本を混ぜたのよ。この世界は何もないゲームみたいにイベントだらけってわけじゃない。敵を倒して強くなって、宝箱の中に武器が入っていて、宿敵をやっつけてお姫様と世界を救う…。そんなものはどこにもないから』

『到達しそうにもない高みばかりに目を向けて現在のレベルに苦しむ。そんなのは馬鹿だよ。恥知らずだよ』

『お前は社会に参加できないゴミクズだ。お前は世界に入れない仲間はずれだ。どんなに否定しようが、その事実からは逃れられない』

『きみときみのお祖父さんはまったくの別種なんだよ。どんなに必死に真似しても差は縮まるどころか、かえって滑稽がと呈する一方だ。美しい面をかぶった、弱々しい猿というわけさ。豚にくわせてすっきりしたいもんだね』

彼は、あらゆる人間から様々に悪し様に言われる。それはそうだ。覇王を目指すと主張している彼のやっていることは、客観的には、社会の落ちこぼれが社会の片隅で吠えているだけに過ぎない。仕事もせず、内側を渦巻く祖父のような想念を、どんな風にして表に出していったらいいのかもわからないまま、衝動に任せて暴れるだけの日々。覇王になるために何をすればいいのか、そしてそもそも、覇王になるということがどういうことなのかもさっぱり分からないまま、ただ覇王になるのだ、と空虚に叫びながら前進しているフリをしている。
それは、全力で現実逃避をしているだけだ。
その現実逃避っぷりに、僕は共感できてしまう。
主人公の有り様を100倍ぐらいに薄めたら、もしかしたら僕になるかもしれない。僕は、覇王になりたいわけでも、何者かになりたいわけでもないし、内側に暴力的な衝動を抱えているわけでもないのだけど、それでも僕は、彼が抱えている鬱屈を理解できてしまうような気がする。
僕自身も、「普通」に嫌悪感を抱いてしまうことが多い。肉のカタマリになったらお終いだ、という感覚はある。常識なんかに殺されてたまるか、とさえ思っている。
こういうことを言うと、「人と違う風でいたいのね」と思われてしまうと思う。でも、僕はそうではないと思っている。それが「普通」だから嫌悪しているのではない。僕は、自分では逆だと思っている。僕には、どうしても生理的に嫌悪感を抱いてしまうものがある。そしてそれらには大抵、「普通」というラベルが貼られてる、というだけのことなのだ。
言ってしまえば僕は、もっと普通でいたかった。もっと普通に溶け込める人間の方が良かった。僕のような人間に、普通を馬鹿にされるようなことがあっても、もっともっと普通でありたかった。でも、どうも普通というのは、しっくりこない。逃げ出したくなる。うんざりする。窮屈さを感じる。そこにいるべきではないと感じてしまうのだ。僕は、こういう自分を持て余している。

『こんなものだ、世界なんて。
期待させて期待させて裏切るか、期待も希望もあたえずに餓死させるかの、二つに一つ』

普通にもっと混じれるなら、こんな風に感じたりすることもきっとないのだろう。日常の退屈さに倦むこともなく、絶望に絡め取られることもなく、辿るべき道を素直に辿るような生き方が出来たのだろう。
僕は覇王になりたいわけではないので、ちゃんという。そういう生き方が出来る方が、羨ましい。

『僕だって、そりゃあ僕だって楽しく精いっぱい生きたいよっ!でも無理なんだ!無理なんだよ!何をやっても駄目っぽそうだし、変化もなさそうだし…ううっ、本当に全然解んない』

主人公とささやかに関わりを持つある人物の独白だ。彼がこんな風に言いたくなってしまう気持ちが、僕には分かるような気がする。そう、無理なのだ。僕も、楽しく生きたいし、精いっぱい生きたいのだけど、無理なのだ。どうしてと言われても困る。

『北海道の内陸、山もなければ海もなく、排気ガスもなければ潮風もない、札幌の外れに位置する地方の代表みたいなこの町に、僕は心底怒りを抱いているんだよ。空き地があればすぐにコンビニを建て、無駄にでかいデパートと無駄に広い駐車場があって、楽しいイベントもなくて、面白い人間もいなくて、ただ毎日があるだけで、生活があるだけで、生活だけですべてが終わってるこの町が大っ嫌いなんだ。この町なんて、全部壊れちゃえばいいと思う。みんな死んじゃえばいいと思う。僕は憎んでさえいる。こんな町じゃみんな同じだ。みんな同じ顔をしたマネキン人形だ。みんなが同じ顔をしたマネキン人形って事実は、僕たちには単なる恐怖でしかないんだ。誰が何をやっても根本部分の評価が変わらないってのは、それはもう完璧な恐怖だよ』

ミナミ君は、まだまだ覚醒していない主人公に、こんな風にして自らの怒りを語る。ミナミ君は、自分が抱くこの怒りがホンモノだと信じている。すべて町のせいだと、この町に生きるマネキン人形たちのせいだと、本気で思っている。そしてそんなミナミ君の言葉に感化されて、主人公も似たような価値観を抱くようになる。
でも、同じ風に思いたがっている僕は、同時にこれが、絶望的に現実逃避だということに気づいてしまえる。結局これは、「つまらないのは自分自身なのだ」ということを全力で覆い隠すための壮大な嘘なのだ。自分が無力で、無能で、そして絶望的につまらない人間だということを認めたくないばかりに生み出す、完璧な虚構なのだ。そのことに気づいてしまえるぐらいに大人になってしまっている自分を、そしてその欺瞞に気づきつつ、なお彼らの偽りの世界に混ぜてもらいたがっている自分を、僕は嫌悪する。吐き気がするほどに。
僕は、誰が見ても明らかな形で、現実から逃げている。彼らには、そうすることが出来なかった。すべてを、外的な環境のせいにしようとした。すべてを、普通を受け入れられない特別な存在と解釈しようとした。そうやって、少しずつ現実を歪めながら、都合のいい物語で現実を装飾しようとした。その生き方を、僕は決して笑うことは出来ない。もし僕に、ミナミ君のような存在がいたら、覇王だった祖父のような存在がいたら、主人公のようになっていたかもしれない。覇王を目指しながら、覇王になれるわけがないという諦めも同時に抱き、しかしその現実逃避から逃避することはもはや出来ないという、哀れな主人公のように。

『毒にも薬にもならないアルバイトをしながら、一日一日を正確かつ無駄に消費して生きていた。一体何をやっているのだろう。やたらと光が入り込む部屋の中で、思いついたように高校の教科書に目を通したり、面白くもない漫画や小説を読んだり…こんなのが経験値かせぎになるはずがないのを解っていながら、覇王へいたる修行になりえないのを知っていながら、ただ腐るだけなのを知っていながら、だけど何をやればいいのか見当がつかない僕は、そんな下らない日々をすごしていた。』

『そうだ、消え失せるべきは十九歳になっても何一つ自分のものにしていないこの僕だ。醜い頭と醜い性器を持ち、はっきりとした主張もなく生きるこの僕だ。今の僕は太陽にこの身を当てる資格がない。生きるに値しない二束三文のくず人形。体の外側から内側から耐えられない腐臭を放つ肉のカタマリ。僕には安っぽい未来すらない。愉快で深いな惨敗獣。ただ、余計な日を数えながら生きていくだけ。それが唯一者にもなれず、ミナミ君の遺志も継がず、何もできなかった僕の末路だった。』

親友であり理解者であったミナミ君が人生を去り、腑抜けたような生活を続けるフリーターになりきってしまった十九歳の主人公は、常日頃から全力で自己嫌悪に励む。あらゆる能力、あらゆる努力と無縁の彼は、しかしせめて思考だけでも覇王を志向しようと、頭の中だけでは威勢のいいことを繰り返す。やがて彼は、ほとんど瀕死のような追い詰められ方をした後、完全に振り切れ、これまでのクソみたいな生活とおさらばして覇王を目指す道へと突き進むことになる。主人公の内面が乱高下する様は、見ていて痛々しいが、目を逸らしてはいけないような気にもさせる。
覇王を目指すという、具体性も現実性もない目標だけを掲げた主人公を中心に据えて、よくもここまで物語を展開させられるなと感心させられた。主人公には、はっきり言って、負け犬の遠吠えのような渦巻く思考以外、何もない。何もだ。もちろん他にも様々な人物が登場し、物語をハチャメチャに展開させていくのだけど、ここまで何もない、ウダウダした思考だけしか持たない者でも主人公になれるのだな、と思わされた。常に息切れなしで場面が展開していくような、主人公の思考も、登場人物たちの会話も、止める隙がないほどに詰まっている濃密な物語の中で、主人公のそのどうしようもない衝動だけが全力で空回りし、しかし何かの配剤によって物語は前に進んでいく。たとえそれが破滅への道だとしても。
圧倒的なカオスが物語を包み込み、一瞬先もどうなるか予想がつかないぶっ飛んだ展開が続く。ありとあらゆるありえない展開を組み合わせて、疾風のような怒涛の流れを生み出していくセンスは見事なものだと思う。ラスト主人公がどんな選択をするのか、そしてその選択はどういう過程でなされるのか。その凄まじさも、読みどころの一つだろうと思います。

『お前に流れる血をお前が信じてやらないで、一体誰が信じるんだ』

主人公は、己の内に流れる「覇王の直系の血」だけを、本当にただそれだけを全力で信じて、覇王を目指した。その人生は、圧倒的な愚かさを露呈することになった。どうしようもない絶望を引きずりだすことになった。僕は彼に同情はしない。軽蔑もしない。それは、ありえたかもしれない僕の姿だったかもしれない。そう思うと、ちょっと恐い。僕にミナミ君がいなくてよかった。覇王の祖父がいなくてよかった。きちんと背を向けて現実から逃げることが出来てよかった。

『それにしても今日は本当に暗い。異様なほどの暗さだよこれは。僕が照らしてあげなきゃいけないなぁ』

この場面が、一番印象的だった。使う機会はないだろうが、覚えておこう。このセリフ。
彼らのように絶望に取り込まれてしまう人たちよ。現実なんて大したもんじゃない。そこから背を向けて、全力で逃げよう。それでいい。無茶することはない。クソみたいな生活のままでいい。そういう自分を、きちんと認めていこう。そうやってみんな生きているんだ。

佐藤友哉「灰色のダイエットコカコーラ」


君に友だちはいらない(瀧本哲史)

内容に入ろうと思います。
本書は、グローバル社会の中で、コモディティ化から抜け出して生き抜いていくために、「どんな風に仲間を作っていったらいいのか」を具体的に提示するビジネス書。なのであるが、ただのビジネス書ではなく、本書は、「仕事だけに限らず、どう生きていくか」を問いかける作品だと僕は思う。
世の中が大きく変わっていることは、様々な人が感じていることだろうと思う。いつの時代もそうかもしれないが、今の世の中もまさに、「それまであった常識が通用しない社会」になってきている。しかも、恐ろしいまでに急速に。

『世界市場を見てみると、あらゆる業界で競争が激化し、産業の浮き沈みのサイクル、ビジネスモデルの耐用年数が、どんどん短くなっている。
この企業の栄枯盛衰のサイクルが極端に短期化したことによって、ひとりの人間が生きるために働く40年ほどの現役生活において、ずっと同じ会社で同じ職種を続けることは、ほとんど不可能になってしまっている。』

『少し前の日本の企業では、一度採用されたら定年まで勤めるというのが当たり前とされていたが、今やそんな会社はごく一部の古い大企業だけだ。誰もが生き残るためには、自分でポジションを探さなければならない時代に、とっくの昔に突入しているのである』

まず本書は、「現実を知らしめてくれる作品」と捉えることが出来るだろう。僕たちは、社会のルールが激変していることを薄々感じながら、その一方でそれから目を背けたがっている部分もあるだろう。「どうにか定年まで会社でやっていけないかな」「言われたことをただこなしているだけで、なんとか逃げ切れないだろうか」。心の底で、そんな風に思いたがっている人も多いんではないかと思う。なんと言っても僕自身がそういうダメな人間であって、頭では分かっているのだけど、そういう現実から目を背けたい気持ちがとても強くある。けれども本書は、そういう現実逃避を粉砕し、「これからやってくる時代」をまざまざと見せつける。

『成功するかどうか事前には誰も分からない。「冒険」に出たものだけが、大きな果実を手にすることができるというのは、大航海時代と何も変わらない。それは情報革命によって21世紀に初めて日本に上陸した”むきだしの資本主義”の本質なのである』

本書には、そういう社会の中で、「どう働いていくべきか」ということが具体的に提示される作品だ。もっと言えば、「どうやって同じ目的をもった仲間を見つけ、さらにその中で自分の脳力を発揮していくか」について書かれている作品である。

『常に複数の緩やかなつながりを持った組織に身をおき、解決すべき課題を見つけて、共通の目標に仲間とともに向かってくこと。
これがグローバル化が進展する時代に、人々が幸福に生きるための基本的な考え方になるはずだ』

本書をビジネス書と捉えた場合、「ビジョンがあり、やる気に満ちているが、具体的にどう動いたらいいかわからない」という人には、大変に参考になるだろう。そういう人にとっては、これからの社会はむしろ楽しくて仕方ない、ワクワクに満ちた世界となることだろう。やりたいことがある人は、どんどん仲間を見つけて、次々に新しいことをやり、社会を変え、世界を拡げていくことが出来る。本書には、そのための基本的な方針が書かれている。
しかし、僕のようなやる気のない人間には、本書のそういう側面は、ちょっと辛い。本書をビジネス書としてだけ捉えた場合、多くの人にとって辛い作品になるのではないかと思う。ビジョンがあってやる気に満ちている人はいい。しかし、そういう人間ばかりではないと思う。もちろん、そういう人間はこれからの社会を生き抜くことは出来ないのだろう。僕はそんなことはすっかり諦めているんでもういいのだけど、人生を諦めきれていない人の中には、本書が突きつける現実の厳しさに臆する人もいることだろう。もちろんそういう人たちも、ただ「出来ない」「無理」「しんどい」と思い込んでいるだけで、動き出してみたらどうにかなってしまう程度のことなのかもしれないけど、それでも、こんな世の中はしんどいなぁ、と感じてしまう人もいるだろう。
だから、僕が提案したいのは、本書をビジネス書としてではなく捉えることだ。
本書は、生き方についての本だと思う。あくまでも著者は、様々な実例を「ビジネスの現場」に絞っているが、本書で提示されている「仲間の作り方」は決して、ビジネスの世界だけでしか通用しないというものではないだろう。ビジネスの世界以外でもいい、「やりたいこと」「誰かを巻き込みたいこと」があるのであれば、本書は大きな武器になると僕は思う。本書が突きつけるビジネスの世界の現実は、僕にはとても厳しく映るけど(それは僕が弱すぎる人間だからかもしれないけど)、ビジネスに限らず「やりたいことを実現するための手段を提示してくれる本」と捉えれば、本書は非常に有益なものとなるだろうと思う。

『あなたに「本当の友だち」は何人いるだろうか?』

本書の冒頭で、そんな問いが置かれる。「仲間」ではなく「友だち」である。
本書の巻末の結論の一つは、こうだ。

『夢を語り合うだけの「友だち」は、あなたにはいらない。
あなたに今必要なのは、ともに試練を乗り越え、ひとつの目的に向かって突き進んでいく「仲間」だ』

本書は、この結論を読者に納得させるための、長い長い説得の過程と言っていいかもしれない。

『しかし、経済学の原則として「増えすぎたものは価値が急激に低下する」。
人脈も同じである。
人とあまりにも簡単につながれるようになった結果、近年では一つひとつのつながりの価値が、低下してしまっている。むしろ、つながりがあまりにも豊富になったため、逆に、より価値ある仲間を見つけ出せる人と、そうではない人の格差が広がり、その「仲間格差」が、成果の格差に直結するようになってきたのだ』

『東大や京大を出ようと、人はひとりでは何もできない。
そもそもグローバル化する世界のなかで、小さな島国のなかだけで通用する大学や会社の名前で「勝った、負けた」と言い合っていることには、何の意味もない』

著者は本書を、『「僕は君たちに武器を配りたい」に寄せられた読者からの反応への回答だ』と書いている。「僕武器」を読んだ読者から、「自分たちのような弱者・非エリートには縁遠い話」「武器より友だちが欲しい」というような反応があったという。著者からの回答は、自分のことを「弱い」と思っている僕のような人間には、やはり厳しいなと感じてしまうが、とにかく、現実はそうなってしまっているのだ、ということは認めなくてはいけないだろうなと思う。

『そんな私だからこそ、今書店に並んでいるような、人脈や仲間づくり、チームビルディングをテーマとした本を読んでみると、違和感を抱かざるを得ない。「これはある程度、生まれついての社交的な人、積極的な人を前提にして書いてあるな」と感じてしまうのである』

著者は自身を、「社交的な人間ではない」と書く。パーティやカラオケは苦手だし、そもそも知らない人と会うのは億劫、多数の人間と関わるのは面倒だと感じる人間であるようだ。
しかし著者は、「人への投資」で、ビジネスの世界で成功を収めてきた。著者の本業は「エンジェル投資家」である。これは、まだアイデアと創業者しかいないような、会社の体を成していないような状態のプロジェクトに投資する人であり、バクチ的な要素がかなり強くある。その中で成果を出していくためには、人と関わり人を見抜く力を卓越させる必要があった。

『仲間づくりをテーマとする本書を私が書けるのもそれが理由である。私はこれまでずっと「人」を観察し、どういう「チーム」であれば成功できるのか、身銭を切って学んできたのだ。』

本書では、仲間づくりの具体的な方法が、段階を追って詳述されるが、その詳細について触れることはしない。いくつか、仲間づくりのスタートラインに立つために大事だと思われるスタンスや考え方を引用しておこうと思う。

『やりたい仕事、属したい組織がなければ自分でつくるしかない』

『本書のテーマである「仲間づくり」(チームアプローチ)を、私がよく使う別な言葉で表現するならば、それは「今いる場所で、秘密結社をつくれ」ということになる』

『だからそれを防ぐためにも、ときどきは自分の持つ「モノ」や「知識」を手放したほうがいい。これは勇気がいることだが、「持っているものが多いこと」が貴いのではなく「必要なものが少ない」のが貴いのである。仲間についても同じだ』

『つながっている人が自分を規定する』

『そもそもネットワークというものは、作ろうと意図して作れるものではなく、自然とできあがってしまうものだ。「自分がどういう人間なのか」によって、ネットワークは決まってしまう。禅問答のようだが、ネットワークを変えるということは自分を変えるということであり、自分が変わらなければネットワークも変わらないのである』

『「自分はこんなところで働き続けていいのか」「本当に自分が夢中になれる仕事はどこにあるのか」などと「自分探し」をしているヒマがあるならば、たとえ夢物語のような目標と周囲にバカにされようとも、大きなビジョンを掲げてそれに向かって進みはじめるほうが、ずっと現実の自分を成長させるのである』

「武器としての交渉思考」の中で著者は、「異質な人と関わろう」と書いていた。本書の核にあるものも、まさにその部分だ。それまでの自分のネットワークと出来るだけ重ならない、つまり「知っている人がほとんどいない」ネットワークの中にどんどん入っていく。そうやって、ネット上ではないリアルな関係性の中から「仲間」が生まれていく。
誰もがリーダーになる必要はない。本書の中にも、優れたチームにはリーダーを含めた5種類の人間がいると書く。僕も、リーダーにはなれないタイプなのだが、そこで落ち込んでいても仕方がない。その5種類のどれに自分が当てはまるのか、そしてその能力をどんな風に特化して行くことが出来るのか。「リーダーとして仲間を集める」という視点だけではなく、「仲間として選ばれる人間になるためにどうすべきか」という視点からも読んでみるのは良いのではないかと思う。本書で書かれている中だと、僕は「エルフ」かなぁ、と思う。優秀なリーダーがいれば、その人をサポートする「エルフ」としての存在価値は、まああるかもしれないよなぁ、と希望を持ちつつ。
本書には、「七人の侍」「王様のレストラン」「ONE PIECE」「プロメテウスの罠」など、様々な身近な具体例が扱われるのだけど、自分のいる業界の話で取り上げられていたのは、「岩波書店の採用」の話である。
2012年、岩波書店は、「当社の採用にエントリーできるのは、当社から出している本の著者、もしくは当社社員からの推薦状を持った人だけに限ります」と告知した。これは様々な波紋を呼び(僕の周辺の人も色んな意見を持っていたようだ)、厚生労働省も事実関係の確認を行ったそうだが、著者はこのやり方を「アリ」だとする。実際に、それぐらいのことが出来なければ、入社後に時流に乗った著者を口説いて原稿をもらうなんて出来ないからだ、と。僕は就職活動を一度もしたことがないんだけど、やはり多くの人は、とりあえずたくさんエントリーシートを出し、面接に行き、そうやってどこかに引っかかるのを待っているのだろうと思う。アメリカの採用の話も事例として挙げられていたが、そういう話を読んでも、世の中の流れとして、旧来のやり方は立ちいかなくなっていくんだろうなということが実感できる。
本書で著者が提示する「現実」は、とても厳しい。僕なんかは、「あーこんなしんどい世の中からは逃げたいなぁ」なんて思ってしまうダメ人間だけど、やる気に満ちた人間には逆にワクワクさせられる希望に満ちた世の中になっていくことだろうと思う。これまでは、「若いから」「経験がないから」「前例がないから」という理由で出来なかった様々なことが、「若いから」「経験がないから」「前例がないから」というまったく同じ理由でチャレンジしがいのある目標に変わっていくのだ。それはメチャクチャ楽しいだろう。そういう、これからの社会で活き活きと輝くための可能性を提示してくれる作品だ。若者に可能性がある社会というのは、希望に満ちているといえるだろう。そういう意味で、希望を感じさせてくれる作品だ。

瀧本哲史「君に友だちはいらない」


女子学生、渡辺京二に会いに行く(渡辺京二×津田塾大学三砂ちづるゼミ)

内容に入ろうと思います。
本書は、三砂ちづる氏が津田塾大学で受け持っている「多文化・国際協力コース ウェルネスユニット」というゼミ生が、ひょんなことから、評論家である渡辺京二氏と合宿をすることになり、熊本県にある真宗寺での二日間に渡る勉強会を書籍化した作品です。在ゼミ生と卒業生合わせて10名ほどで熊本まで趣き、自身がゼミや大学院で研究をした内容、まさに今している内容を渡辺京二氏にぶつけ、議論をするという内容になっています。
彼女たちが扱っているテーマは多岐に渡りますが、それぞれのテーマと各章の章題をひと通り書いて、その後でその内の一つを取り上げて、どんな議論が展開されているのかを紹介しようと思います。

「子育てが負担なわたしたち」(女性の生き方と子育て)
「学校なんてたいしたところじゃない」(学校と権威)
「はみだしものでもかまわない」(発達障害)
「故郷がどこかわからない」(帰国子女)
「親殺しと居場所さがし」(国際協力への原動力)
「やりがいのある仕事につきたい」(福祉系の仕事)
「結は現代にも存在できる?」(農業)
「痩せているほうがいい」(摂食障害と母娘の関係)
「当事者性ということ」(薬物依存)

それぞれがそれぞれのテーマを持ってフィールドワークやインタビューなどをし、自ら考えた結果を渡辺京二氏にぶつけていきます。
ちなみにですが、僕自身は渡辺京二氏が何者なのか、よく知りません。本書を読んでみても、著者略歴を読んでみても、いまいちよくわかりません。渡辺京二氏は、自分は何者でもないのだ、というようなスタンスでいるような気がしますが、どこかに括ろうとすれば、「在野の思想家」という感じになるかもしれません。特に大学に属しているとかそういうわけでもなく、様々な職を渡り歩きながら、様々な文章を書いたり、本を読んでいたりした人のようです。
さてでは、最初の「子育てが負担なわたしたち」を取り上げようと思います。
女子学生の問題提起は、「かつて子どもは、大人や社会からもっと大事にされた存在だったはずだ。しかし近代化が進み、子どもを「障害物」と捉える風潮が出てきた。また、子育てと女性の幸せは対立すると考えられてもいる。キャリアアップの妨げになるという考え方だ。このようなあり方をどうすべきだろうか?」というものだ。指摘されていることは、働きながら子育てをしている人や、あるいは子どもが欲しいんだけどどうしようかと悩んでいる人には、非常にピンと来る身近な問題だろうと思う。
それに対して渡辺京二氏は、「近代以前の世界では、子どもは「小さな大人」だった」と主張する。5,6歳になればみんな働いていたし、母親は常に忙しかったから、「外で遊んできなさい」と言って家から出す。親子の愛情というものももちろんあっただろうが、現代とはまた違った親子関係があった。確かに、子どもは社会全体で面倒を見るという意識があって、それは今と比べると非常に良い側面もあったかもしれない。しかし、現代のような、家庭が愛や平和に満ちたものであり、子どもに深く愛情を注ぐというような関係性とは違っていた。だから、単純に比較するのは難しいよね、というようなことを言う。
また、母親の仕事の「障害」になるという問題については、「自己実現の社会ならではの問題」と言い、「自己実現の社会」への肥大した幻想を斬る。これは本書に通底する価値観で、渡辺京二氏が女子学生たちに最後に話した内容をまとめた巻末の一章のタイトルは、「無名に埋没せよ」というものです。「自己実現の社会」というものに囚われすぎているからこそ、自然の親子関係の発露というものが成されにくい。それは、そういう時代だから仕方がないとはいえ、なんだかなぁ、というようなことを言っています。
本書は、議論というよりは、渡辺京二氏の演説というのが近くて、渡辺京二氏は自分の考えていることを思いつくままに喋る。しかしそれは、何らかの結論に着地させようとしているわけではない。発表者の意見やスタンスを尊重しつつ、その範囲内で自分だったらどんなことが言えるか、ということを考えて話している感じが伺えます。なので、本書を読んでも、結論が出てくるわけではありません。問題に対する結論を求めてしまう人には、本書は向かないでしょう。
本書は、「問題をよりクリアにすること」、そして「自分が抱いた問題をずっと持ち続けること」の二つを、強く教えてくれる作品です。女子学生たちは、渡辺京二氏と喋ることで、「解決に至る」のではなく、「自分が抱えている問題をより明瞭に認識する」ようになる。これが、彼女たちの合宿の最大の成果だったといえるでしょう。
三砂ちづる氏は、自身のゼミについて、「問題を捉えることに時間を掛けてもらっている」というようなことを言っている。どんな研究でもそうでしょうが、まず「何が問題なのか」をきちんと把握することが大事だろうと思います。その上でさらに、その「問題」をよりクリアにしていく。知性と教養と、人とはちょっと違った価値観を持つ渡辺京二氏との対話によって、彼女たちの「問題」は、よりブラッシュアップされたことでしょう。
さらに、そうしてクリアにした問題を、ずっと持ち続けること。その大事さも、渡辺京二氏は説きます。皆が学者になるわけでもないだろうし、結婚してすぐに専業主婦になるかもしれない。それでも、別に自分の中の問題を手放す必要はない。ずっと持ち続けて、考え続けて行くことは出来る。そういう意識も、彼女たちは持ち帰ったのではないかと思います。
作品全体としてはそういう本なわけですが、僕としては、本書の中に随所に登場する色んな価値観に救われる気がしました。
三砂ちづる氏は本書のことを、「多くの「今を生きることがつらい」人たちに届けられている」作品だと書いています。確かに、そういう側面もかなり強くある。僕も、どうしても「生きることがつらい」と思ってしまう人で、そういうことについてこれまでも様々なことを考えてきたんだけど、こうやって様々な方向から、自分の内側にはなかった(あるいは、あったはずなんだけど隠れてしまった)考え方を取り込むことも、人生に対抗する手段です。
著者自身も、生きづらさを感じてきた人のようです。

『また、ある種の強さというか、非常にアグレッシブな面もありながら、ある面では、非常に傷つきやすい人間で、これは僕はもう自分で嫌いでね。なんで俺はこんな傷つきやすいのか。人とうまくいかないことがあったりしたら、一日も二日も三日もずっとそのことが気になって、こだわってしまうという風な小さな自分がどうしようもなくある。』

そんな著者の言葉で、一番グッと来たのがこれです。

『大切なのは、その実現されている自己を、たとえば自分は人とのつきあいがあんまりうまくいかないとか、集団というのがあんまり好きじゃないとか、あるいは言葉でうまく表現ができないとか、そういうふうな自分の性格があるとしたならば、自分のその性格というものを磨くことなんですね。まかりまちがっても、自分はあんまり社交的な人間ではない、だから自己啓発だとか言って、自分を作り替えようなどとしないことですね。自己啓発講座というものがあるらしいね。自分が今まで気づかなかった自分に目覚めようとかいうことになるんでしょうが、自分で気づかなかった自分なんていやしないんだから、そんなものは。
たとえば人とつきあうのが苦手な人間だとすれば、社交的な人間になろうとしても、付け焼き刃にしかならないんです。まあ多少は努力しなきゃいかん、この世の中で生きているんだから。でも、そういうものは後から自分で付け加えたもの、本当の自分じゃないということですね。根本なのは、人付き合いが悪い自分、というものを深めることです。磨くことです。人付き合いの悪い自分というものを肯定することです。肯定して、そういう自分というものを伸ばすことです。そういう自分として生きていくことです』

これはとてもいいなと思いました。僕も、やっぱり考えてしまうことがあるんです。「こういう部分がダメだから、やっぱり自分を替えて直していかなくちゃな」って。でも、やっぱりそういうのは、自分の本来の感じではないわけだから、うまくいかないんですね。そうすると、「やっぱりうまくいかなかった。俺はダメな人間だ」とまた落ち込んでしまう(笑)。渡辺京二氏は、「自分の欠点を磨くことだ」と主張します。こういう発想をしたことはなかったので、なるほどこれなら出来るかもしれない!とちょっとワクワクしました。ちょっとこの考え方を、意識してみようと思いました。
さて、他にも色々と、「生きづらさ」を感じている人向けになるだろう文章があるので、抜き出してみようと思います。

『自分を輝かせようとする必要はない。自分の中に未知の何かが眠っているなんて考えなくていい。自分らしく生きればいい。やりたいことをやればよい。人間って平凡なものだと思う。本を読みたければ、読めばいい。女優をやりたければ、やればいい。誰がなんと言おうとも』

『だから人間は、一つの共同社会の中で、うまく共同生活をやっていけるタイプと、それかえらはみ出していくタイプと、どうしてもあると思うんですね。しかし、共同的なものから、はみ出していくようなものを持っているのが、やっぱり人間の本質であって、何気なくみんなとつきあって楽にやっているような人たちも、一皮剥き、二皮剥き、三皮剥きすると、実はやはり心の奥底にそういうふうに非常に孤独なものというか、外と通じ合えないものを持ってると思うんですね
ただ、そういうものに敏感で、そういうのが強い人たちがいるんですね。そういう人たちは生きるのが大変です。そういう人たちは人間の負ってる課題の苦しみ、自分が人とのつながりというものに対して非常に熱い心を持っていればいるほど、実際には人とのつながりにおいて、いろいろうまくいかないところが出てくる』

『変わり者であるということ、自分が変わってて周りといっしょじゃないということ、周りにあわせていくのが苦痛であったりする、それはいいんですよ、そんなことは。それが正常なんです。いろいろつらかったこともあるんじゃないかと思うんですけどね、これから幸せになってください。そういう自分はいい自分だと思ってください』

『ですからほかの人間とはうまくつきあえないけど、この人だけは、つきあえるというのがいれば、それでいいじゃないの。自分が変わっている、それからまた周りの人たちといっしょにうまくやっていけない、人間みんなそうだと思えばいいですよ。実はみんなしれっtした顔をして隠してるだけなんですよ』

『一人の人間は不幸になる権利があるんです。一人の人間は苦しむ権利があるんです。不幸になることまで、苦しむことまでとりあげないでくれと言いたいです。人間はそういう不幸や苦しみを自分で引き受けることによって辛うじて、自分の尊厳というものを保ってきたと思うんです』

『とにかく世間の男が何を好もうが、世間の女が何を好もうが、世間一般の人間が何を好もうが、あるいは好んでいると言われようが、左右されない自分というのを作っていけばいいだけのことなんですね。自分は自分だって。だからへそ曲がりの精神があればいいんじゃないのかな』

『望んでいるのは、生き延びてくれと。そこではエゴイズムがありますから、他人の子どもは死んでも自分の子どもは生き延びてくれ、と思っている。ともかくあなた方の親は、おまえ、どうぞ生き延びてくれ、しっかり行きてくれ、できれば幸せになってくれ、と言っているだけでございます。世の中に貢献しろ、なんて言ってはおりません。望んではおりません』

『実は就職口がないというのは、経済の話にすぎないわけ。就職口がないということで、社会は自分を必要としない、なんて思うのがおかしいんで、その時その時の経済状況によって、産業構成のあり方によって、就職がうまくいかないぐらいで、自分は社会に必要とされていないなんて、なんでそんなふうに追い込まれていくのかということです』

『だいたいこの人間の歴史に、いろんな災いをもたらしたやつは、社会に役に立ってやろうと思ったやつが引き起こしてきたわけでございます』

『さっき個人は集団の中において個人であったと言いましたが、近代というものはそういう集団tいうもpのの一つの皮膜、自分を覆っていた繭、そういうものの中から個人というものを飛び出させてしまった。そうすると、一人一人の個人が自分ってなんなんだろう、自分ってどういう人間なんだろう、自分をどう生かしたらいいんだろうというようなことを悩まざるを得ないし、考えざるを得なくなりました』

『自己実現という言葉について、僕が非常に不信感を持つのは、最初から自己というのは実現されているんだよ、ということもありますが、もう一つは、自己実現という言葉は、なんのことはない、出世しなさい、と言っているからですね』

『でも、そういう才能は、レピュテーションの世界なの。名声の世界、社会で持て囃されるということなの。言ってみれば社会が認める虚栄の世界なの。だから才能があって有名になるということは、すべての人間に求められるはずがありません』

『だから人間はテレビに出るような人物や国際舞台で活躍するような人間にならなくても、ごく平凡にでかまわないんですよ。無名の一生で一つもかまわないんですよ。というよりもそれが基本なんです。この世の中で、テレビや新聞などに名前が出てる人たちの比率をとったら、名前も出ないし、そういうことにあまり関心もないという人間が圧倒的多数なんです。圧倒的多数はだから黙って生きて、黙って死んでいくのです』

本当に僕は、こういうことを、親とか学校の先生が言ってくれたらいいんだけどな、と思ってしまいます。まあ、思春期の頃なんか、どのみち親とか教師のことなんか聞きゃしないわけだから、こういうことを実際に言ってくれる人がいても、聞かなかったかもしれないですけどね(もっと言えば、そういう親や教師はいたかもしれないけど、自分が聞いていなかっただけ、という可能性もありますけどね)
女子学生とのやり取り(ほぼ渡辺京二氏の独演だけど)も面白いけど、そういう、生きづらさを抱えている人に向けられた言葉も、結構響く作品ではないかと思います。是非読んでみて下さい。

渡辺京二×津田塾大学三砂ちづるゼミ「女子学生、渡辺京二に会いに行く」


祈りの幕が下りる時(東野圭吾)

内容に入ろうと思います。
小菅にあるアパートで、女性の腐乱死体が発見された。死後二週間ほど経っていると思われるが、身元を示すようなものがまったく見つかっておらず、身元を特定するのにもかなりの時間が掛かった。部屋の持ち主は、越川睦夫というが、その男の行方も分からなくなっており、そもそも越川睦夫がどんな人物であるのかも、よくわかっていない。
ようやく、被害者が滋賀県に住む押谷道子と判明するが、越川睦夫との関係は不明のままだ。警視庁捜査一課の刑事であり、この事件を担当することになった松宮は、女性が殺されたと思われる日の前後で発生した、ホームレスの殺人事件も関わりがあるのではないかと想像するが、まだそれは松宮の妄想に過ぎない。
被害者である道子の足取りは、日本橋にある明治座で途切れている。そこでは今、道子の中学時代の同級生であり、女優から演出家になった浅居博美が、自身が演出した『異聞・曽根崎心中』がかけられている。明治座という大きな舞台で演出をするのは博美にとっても初めての経験で、博美は初日からずっと監事室で舞台を見ていた。
松宮の従兄弟で、日本橋署に所属する加賀恭一郎は、松宮からこの事件の詳細を聞かされた時、ある話に食らいついた。それは、越川睦夫の部屋で見つかったカレンダーだ。越川はこのカレンダーの各月に、日本橋にある12の橋の名前を記していた。そして加賀は、それをまったく同じメモを持っているのだ。
加賀の母親は、ある日突然失踪してしまった。その後行方知れずのままだったが、ある時、母親が仙台で亡くなったという連絡をもらうことになる。遺品一式を受け取り、母親の生涯に思いを馳せるよすがにする加賀だったが、その遺品の中に、越川家にあったカレンダーとまったく同じメモがあったのだ。
加賀は以前から、日本橋署への異動願いを出していた。それは、母親が遺したこの謎を解き明かすためだったのだ…。
というような話です。
とりあえず、全体的な感想としては、さすが東野圭吾、というところです。熟達、という表現がぴったりだと思うのだけど、とにかく巧い。全体の構成、ストーリーの展開のさせ方、加賀恭一郎という男の謎と人間的魅力、物語全体を貫く切なさと人間味。さらにそこに、今、あらゆる表現者が無視することは出来ないだろうある要素を無理なく組み込んでいて、さすがベテランという感じの作品でした。安定感は抜群で、東野圭吾はやはり、安心して読める作家の一人だという認識は変わりません。
ただ、ちょっとイジワルなことも言いたくなる作品でした。僕は本書を読んで、「もしこの作品が、新人賞の最終候補作だったらどうだろう?」と考えてしまいました。
個人的な意見では、新人賞を受賞出来るかどうかは半々ではないか、という気がします。
僕のイメージでは、こんな選評が書かれるような気がします。

「構成力、文章力、展開のさせ方など、筆力は非常に高いと感じた。しかし、モチーフやテーマがいささか地味すぎるきらいもある。この作品は、リアルさにこだわったと見えて、細部に渡って非常にリアリティが追求されていると思うが、リアルさを追究するあまり、物語としての魅力を追求することが疎かになっている部分もあるのではないか。」

そして、他の候補作の中に、荒削りだけどずば抜けた部分を感じる作品があれば、きっとその作品が受賞をし、そういう作品がない場合は、消去法で本作が残る。そういう選考になりそうだなぁ、と勝手にイメージしてみました。
とにかく巧い作品だと思います。ここ最近の加賀恭一郎シリーズは、なんでもないような微細な事件を取り上げて、それを読ませるレベルに仕上げるという傾向がある気がします。「新参者」も「麒麟の翼」も本作も、そういう傾向だと思います。もちろんそれは、加賀恭一郎という刑事の存在も大きいでしょう。加賀恭一郎という人物のリアルさを追求する以上、扱う事件も現実に見合ったものにならざるを得ない。そういう部分はあると思います。そういう制約(と言っていいのか分かりませんが)がある中で、本作は、地味な事件の中に、加賀恭一郎自身を組み込んでくるという、実に野心的な謎を持ってきました。加賀恭一郎が日本橋署に異動願を出したのはこの時のためだ、という描写が出てくるので、本書の構想みたいなものは大分以前からあったのでしょう。それまでも、事件や事件の関係者に加賀恭一郎が関係する、という事件はあったと思いますが、本作ほど、事件そのものに加賀恭一郎の存在が組み込まれた事件はなかったのではないかと思います。東野圭吾がいつから加賀恭一郎をシリーズキャラクターと認識したのか、それはわかりませんが、「卒業」で登場した加賀恭一郎が、まさか作中でここまでの存在に成長するとは、という驚きも、本書にはあると思います。
しかい一方で、その点も諸刃の剣と言える部分もあります。先ほどから書いているように、本書は、事件自体はとても地味です。それが悪いと言っているわけではありませんが、現実に起こりそうな事件を、現実に捜査しているような作品、と言っていいかもしれません。その謎を、より不可思議でより魅力的な存在にするのが、加賀恭一郎の存在だと僕は思います。加賀恭一郎の母親の遺品に残っていたメモが、何故越川睦夫の部屋にあったカレンダーと同じなのか。この謎が、物語全体の謎の魅力を大きく引き上げると僕は感じています。
しかしそれは、東野圭吾の作品をある程度読んでいる人間にしか当てはまらないでしょう。加賀恭一郎シリーズに触れていない人が本書をいきなり読んだとして、どれほどそれが伝わるか。本書では、加賀恭一郎の家族の話も当然出てくるのだけど、それも、加賀恭一郎シリーズを読んでいるかいないかによって、大きく読後感が変わってくるだろうと僕は感じます。
なんとなく、謎や物語全体の魅力が、加賀恭一郎の存在に依っている印象があって、それが、新規読者にはなかなか伝わりにくいだろうな、と感じてしまいました。加賀恭一郎の存在に依っていない部分にもっと強い魅力があれば、この作品単体で完結する魅力を打ち出せるのだろうけど、先ほどから繰り返しているように、事件自体は非常に地味です。地味だから悪いというわけではないのだけど、本書から加賀恭一郎の存在を抜いてしまった場合、どこまで作品として単体の魅力を引き出せるか、それはちょっと難しいのではないかな、と感じました。
本作は、繋がりが見いだせない人間関係の謎を追う物語です。なので本書を、「◯◯の物語だ」と書いてしまうことは、若干のネタバレになってしまうかもしれないと思って自重します。加賀恭一郎も含め、本書には、関係があるはずなのにその関係がまるで表に出てこないような人間がたくさん出てきます。いくつもの点が、点のまま散在している。警察の仕事は、足で稼いでその点と点を繋いで行くこと。その過程で、誰しもが想像もしなかった真実が浮き彫りになっていく。そういう意味で本書は、「現実の事件を捜査する物語」というのとはちょっと違う。むしろ、「現実の事件を起点として、様々な人間の過去を引っ張りだす物語」といえるでしょう。犯罪に関わった者だけではなく、犯罪に関わらなかった者も含めて、誰かに寄せる思いがあり、誰かの幸せを願う気持ちがあり、それまで表に出てこなかった様々なそういう思いを、事件の捜査をする過程で掬いあげていくことになる。様々な人生が折り重なる交点に、悲しみや切なさが降り積もる。加賀恭一郎は、厳しくも優しい眼差しで、その悲しみや切なさを受け止めていく。
東野圭吾のミステリーには、犯罪者の「そうせざるを得なかった」という強い思いが丁寧に取り上げられていると思う。もちろん、犯罪は犯罪だから、それを単純に擁護したいわけではもちろんない。しかし、「自分が同じ状況にいたらどうするだろう?絶対にそうしなかったと断言できるか?」と問いかけるような鋭さを持っている。絶望的な環境で、孤独な状況で、それでも人は強くいられるのか。弱さは悪なのか。東野圭吾のミステリーには、そういう、人間の存在を揺さぶる問いが込められているように感じられる。
どうするのが正解だったのか。東野圭吾が突きつける問いに翻弄されながら、是非読んでみて下さい。

東野圭吾「祈りの幕が下りる時」


自殺(末井昭)

ちょうど10年前だと思う。僕は遺書を書いたことがある。当然、死のうと思っていたのだ。

『これを誰かが読んでいるということは、かなりの確率で僕はもう死んでいるんだと思います(というよくありがちなフレーズから始めてみました)。まず何から言ったらいいのかわからないけど、本当に申し訳ないと思う。自分勝手だし、相当ひどいことをしていることは十分にわかっているつもりです。ずっと目指していた◯◯がとれて、マジメチャクチャ嬉しい時に、なんて申しわけないとしか言いようがないです。

だからこそ、この最後の文章で、なぜ死のうと思ったのか、そしてそう決めるに至った経緯を書き遺しておくべきだと思って、今これを書いています。

で、死ぬと決めた理由を書こうと思うんだけど、先に書いておくと、たぶん意味がわからないと思うし、納得出来ないと思います。自分でも気持ちをちゃんと文章にできるかわかりません。だから理解できなくても許して下さい。

理由を簡単に書けば、“わざわざ生きていたいと思うような理由がない”とでもなるのかな。で、これからその“わざわざ”の意味を書いておきます。

まず1つ目は、“わざわざ仕事をしてまで生きていようと思わない”ということですね。俺はこれまでで3つのバイトをしたことがあります。でもその全てを2ヶ月で辞めてしまいました。バイトが嫌いな人はいっぱいいると思います。でもそういう人でも仕事である以上嫌でも続けるのだと思います。でも俺の場合それが出来ません。俺の◯◯◯◯時代や今年の四大での作業を見ている人ならわかるとおもうけど、やりたくないことは本当にやりません。それがどんなに俺の責任のはんちゅうだとしても、やらないと決めたことは頑としてやりません。そしてそれは、サークルだから、学生だから、なんとか許されているわけです。社会に出れば、そんなことは言ってられません。やりたくないことでもやらないといけません。去年の夏、俺がちょっとヤバかった時期があったけど、それは、やりたくないけどやらなきゃいけない状況が辛くて、ああなったんだと思います。つまり、あるやりたくない仕事がある。俺がそれをやらないでいることは出来るけど、その代わりに俺が迷惑をかけたくないと思っている人に迷惑をかけてしまう。それは嫌だからその仕事はやらなくてはいけない。その繰り返しの状況が辛かったです。だから俺が社会人になったとして、2つの状況が考えられるわけです。1つは、迷惑をかけたくない人に迷惑がかからないようにやりたくない仕事をやる。しかしそのためにやたら憂うつになる。2つ目は、やりたくない仕事をやらないがためにクビになる。こんな人間にまともに自立できるわけはないです。

もちろん仕事をしないで生活し続けることなど不可能です。そんなことはわかっています。だからこそ死のうと決めました。

2つ目の理由は、“わざわざ自分を偽ってまで生きていようと思わない”ということです。これはどうにも説明しずらい。なんとか頑張ります。

抽象的な話からしましょう。普通人は他人との関係において、ある程度自分を隠しながら生きていると思います。そしてその隠す程度は、親・友達・まったく知らない人など、その人間関係の種類に応じて変わってくると思います。でもそれは、自分を偽っていることではない、ということはわかってくれると思います。適度に自分を隠しながら生きるというのは、当然誰しもがやっていることでしょう。

しかし俺の場合は多少違います。俺の場合、本当の自分だと、日常の生活を維持することが出来ません。極端に言えば、本当の自分の性格は、「他者との人間関係を築き持続させることが不可能で、かつ全ての物事に対し無気力・無感動」という感じだと思います。極端に言い過ぎかもしれないけど、大筋で合っていると思います。この性格ではほぼ間違いなく、日常生活を送ることは不可能です。

そこで僕は、別の人格(と言うと、言いすぎかもしれません。性格と言ってもいい)を作り出し、その人格で生活をするようになりました。その性格を説明すれば、「そこそこ人間関係を築き、それなりに持続させ、かつそれなりのことに興味をもつ」みたいな感じですかね。もちろん、この人格は、本当の俺とまったく違うわけではなく、本当の俺と別の性格が混じった感じだと思って下さい。で、この別の人格で生活する、ということが、俺の中で“自分を偽る”ということです。

具体的に言いましょう。一番いい例は、母親との関係です。俺はある時期から母親がものすごく嫌いになりました。でも母親が嫌いであることを全面におし出すと非常に生活しずらい。だから別の人格は、母親とそれなりの関係を築くようにしていた。そういうことがあってから俺は、自分が生きやすいように自分を“偽る”ことをするようになりました。

でもそういう風にしていると、だんだんと自分ってものを見失っていきます。なぜわざわざ自分を“偽って”まで生きようとしなくてはいけないのかがわからなくなってきます。俺は◯◯ではかなりいい人間関係を築けたと思います。俺としては出来ればこのまま時間が止まって、今の仲間とずっといたいと思う。でも社会に出たら、新しい人間関係を築かなきゃいけないし、たぶん自分を“偽わら”ないとどうにもならないと思う。だから生きていたくない。

以上2つの理由で俺は死にたい。というかむしろ、生きていたくない。たぶん理解はできないと思う。それは仕方ないことだと思ってあきらめてほしい。

俺は、春に引きこもってて、その時期にはもう死にたいとは思っていた。でも死ねなかった。それはやっぱり、3年目四大をやってないのと、今の◯◯の仲間ともうあえなくなると思うと辛かったから。だから四大をやると決めた時にはもう、四大終わったら死のうと思ってた。たぶん誰も気づかなかったと思う。ついさっき解散式・三年飲みがあったけど、その時ですら誰も俺が死のうとしてるなんて思わなかったと思う。だからそのことについて自分を責める人がいたらそれはやめてほしい。俺もわざわざそんなこと誰かに言うわけないし、言動からもそんなことは絶対ににおわせなかったはず。自分を責めないで下さい。

よし、ここまで書いてとりあえず伝えるべきことは書いたはずだから、あとは個別に思うことを書いていくか。

(個別のメッセージは省略)

最後にもう一度、申し訳ない。ついさっきまで笑顔で四大の話をしていた人間が突然死ぬ辛さは、俺にはわかりません。完全に俺のわがままで、本当にひどいことをしているということはわかっています。でもこれだけは信じて下さい。◯◯で、そして四大で出来た仲間は、本当にかけがえのない存在です。本当に出会えてよかったし、一緒に◯◯◯◯が出来てよかったし、本当に一緒に四大が出来てよかった。この◯◯での、四大での経験は、本当に俺の人生にとって最高のものです。これだけは嘘偽りなく自信をもって言えます。本当に俺なんかを見捨てずに、ずっと仲間でいてくれたこと、ありがとうございます。』

この本の感想を書く時に、昔書いた遺書のことを思い出して、どうせだから公開してみるか、と思ったけど、やっぱりこれを読まれると思うと、ちょっと恥ずかしいなぁ。
読んだ人はたぶん、「え?そんなことで死にたいわけ?」と思うかもしれません。その気持ちは、とても良くわかります。遺書の中で書いていることって、ホント、大したことじゃないですよね。というか、まとめてしまえば、「将来への漠然とした不安」ということになるでしょうか。現在進行形で、何か辛いこと、嫌なこと、しんどいことがあるわけではないんです。でも、「このまま生きていると、しんどくなるかもー」なんていう理由で死のうとしているわけです。いやいや、そんな、起こるかどうかも分からない将来のことに悲観なんかしてないで、とりあえず前に進んでみればいいじゃん、みたいに言いたい人はきっといるだろうし、その気持ちはとても良くわかります。
とはいえ、とても残念なことに、10年前に書いたこの内容は、今の僕もまったく同じだったりします。全然変わっていない。いや、表現としてはもう少し違った形になるかもしれないけど、基本的なスタンスはあまり変わっていない。結局のところ何なのかというと、

『積極的に生きていたいと思えるような理由がない』

ということなんですね。これが、僕にずっと『死』というものを意識させる元凶と言っていいかもしれません。
というような感じで、今から僕自身の話をウダウダ書こうと思っているんですけど、それは本書が、

「自殺とか死にたいみたいな話を、もっとナチュラルに日常で話せる世の中の方が良くない?」

みたいなスタンスで書かれているからです。

『世の中、自殺について冷めているような気がします。交通事故死者の三倍も多いのに「最悪ベース」を報じる新聞の記事もあまり大きくなかった。おおかたの人は自分とは関係ない話だと思ってるんでしょう。もしくは、自殺の話題なんか、縁起悪いし、嫌だと目を背けてる。結局ね、自殺する人のこと、競争社会の「負け組」として片づけてるんですよ。「負け組だから死んでもしょうがない」「自分は勝ち組だから関係ない」と。「ああはなりたくないね」と。
死者を心から悼んで、見て見ぬふりをしないで欲しいと思います。』

『自己嫌悪は、自意識が作り出したブラックホールのようなものです。意識が全部そこに吸い込まれてしまって、なかなか抜け出せません。そこから抜け出すためには、自分のことを真剣に聞いてくれる誰かが必要です。自力で脱出するためには、自分を客観的に見るもう一人の自分が必要です。日記を書く、それも人に読んでもらう日記を書くということは、自分を客観的に見る訓練になります。
だから、自己嫌悪に陥ったり、気持ちがモヤモヤしている人は、ブログでその状況を日記風に書いたらいいのではないかと思います』

そんなわけで、自分の「死にたい話」、というか、「別に生きていたくもないんだよなー」という話を書いてみようと思います。
「別に生きていたくないなー」というのは、もうずーっとそう思っています。基本的に僕には、生きていく気力が全然ありません。夢も目標も野心も欲望も、とりあえずほとんどないです。「こうなりたい!」「こうしたい!」「これが出来るようになりたい!」ということも、ほとんどありません。
それは、窓という窓を塞いだ全自動の車に乗っているようなものかもしれません。外の景色は見えないし、目的地もわからないし、自分で運転しているわけでもない。ただ、その車に乗っているだけ。あと僕が考えることは、その車の中でどうやって暇を潰すか、ということぐらいです。だから僕は、ありとあらゆることを「暇つぶし」と捉えて、日々を過ごしています。本を読むのも、こうやって読んだ感想を書くのも、基本的には全部暇つぶしです。
というこの感覚は、なかなか理解してもらえないだろうなぁ、と思います。自分でも、どうしてこういう人間になっちゃったのか、よくわからないところがあります。「色々めんどくさい」「何も本気でやらない」と思うことで、きっと弱々しい自分の中の何かを守っているのだろうと思うのですけど、そういう「どうして」の部分を突き詰めて考えすぎると色々グルグルとしてくるので、あまり考えないようにしています。
僕はそんな状態で生きているので、いつ死んでもおかしくないよなぁ、とは思っています。別に、「積極的に死にたい理由」があるわけではないのです。病気だとか借金だとか人間関係だとか、そういうものに対して絶望的な状況があって、それらが理由となって死にたいと思っているのでは全然ない。ただ、「特に生きていたくもないんだよねー」というような無気力な状態でいるのも面倒だから、さっさといなくなりたいなぁ、という気持ちは、その時々の気分次第でその気持ちの強さは変わるけど、基本的に常に自分の内側にあります。「今日明日死んじゃっても、まあ別にいいや」と、大体いつも思っています。
けど同時に、「なかなか自殺は出来ないよなぁ」とも思ってはいるのです。
10年前。僕は住んでいた建物の屋上から飛び降りて死のうかな、と思っていました。いや、その時は「死のうかな」なんて呑気な感じではなくて、「あぁ、もう死ぬしかない。俺は死ぬしかないよー」と絶望的な気分でいたわけなんですけども。
自分で書いた遺書を読み返した感じだと、ある大きなイベントが終わった後のお疲れ様飲みみたいなものが終わったその深夜に飛び降りようと思っていたのだろうな、と思います。家に帰って、キャンパスノートに手書きで遺書を書き(あるいは、遺書の大部分はあらかじめ書いてたのかな?僕の性格だと、その可能性の方が高い気がする)、寒い中(たぶん11月の後半だったと思います)、屋上に行って、死のう死のうと思っていました。
でも、やっぱりこれが、なかなか死ねないわけです。
7階ぐらいの建物で、フェンスも何もない屋上でした。7階だと、飛び降りて死ねる高さなのかよく分かりませんけど、とりあえず頭から落ちるようにすればまあ大丈夫だろうと思っていたと思います。
でもやっぱり、自分の意志で飛び降りるのはなかなか難しい。テレビで芸人さんとかが、バンジージャンプを飛び出せなくてウジウジするような場面がよくありますが、たぶんそういう感じだったと思います。その時の自分には、そこから飛び降りる以外の選択肢はなかったのに、自分で決意して飛び降りることも出来ない。「あぁ、自分は死ぬこともまともに出来ないのか」と、当時の自分が思ったのかどうか、そんな記憶はありませんが、僕の性格では、そんな風に思ったとしてもおかしくはないなと思います。
そこで僕は考えました。自分の意志で飛び降りられないなら、偶然に身を任せてみよう、と。屋上の縁まで行き、そこで片足立ちをして目を瞑りました。ちょっとでも体重が前に傾けば落ちる、という体勢を作ってみました。ちょっと強い風が吹いたり、片足立ちの不安定さにちょっとよろめいたりしたら、そのままするっと下まで落ちれるような、そんな状態でしばらく縁に立ってみたりしました。昔小説で、天井からロープでナイフを吊るして、毎晩その下でお祈りを捧げる主人公が出てくる小説を読んだことがあります。自殺をすることは出来ないのだけど、何らかの拍子にロープが切れて、たまたまそのナイフが自分に突き刺さってくれれば死ねる、そんなことを期待している主人公でした。僕の気持ちも、その主人公に近いものがあったと思います。なんかちょっと均衡が崩れて、「自分の意志とは無関係」に下に落ちれたりしないかなぁ、と。
幸か不幸か、特に均衡が崩れることもなく、やっぱり落ちることは出来ず、どれぐらい屋上にいたのか分かりませんけど、すごすごと部屋に戻ったのだと思います。そしてその日から僕は、またしばらく引きこもりっぽくなったのでした。
そんな経験を昔したことがあったので、「自殺って難しいな」とずっと思ってきました。それまでは、「最悪死ねばいいや」という、最後の最後の投げやりな思考が残っていたので、それを拠り所にして色んなことから逃げたりしていたのですけど、一度自殺に失敗したことで、「最悪死ねばいいや」という思考が使えなくなってしまいました。これは、ちょっと困りましたね。「最悪死ねばいいや」っていうのは、色んなことを適当にうっちゃるための良い言い訳だったのですけど、それが使えなくなると、色んなことを適当にうっちゃることが出来なくなって行きます。そうなると、日常は、それまでよりも多少しんどくなるよなー、なんて思ったりしていました。
遺書を書いて自殺しようとしてから10年が経ちました。この10年、よく生きてこれたな、と思っています。僕の人生は10年前に終わっていたようなものなので、この10年間は付け足しみたいなもんだなと思っていたんですけど、付け足しの人生にしては上出来というか、っていうか思っていた以上に色々素敵なこともあったりして、びっくりだなぁ、という感じです。もちろん、ホントに色んな人に迷惑を掛けながら生きてきた実感があるんで、色々申し訳ないなぁ、と思う人もいるわけなんですけど、でもとにかく10年間、よく頑張って生きたなと思っています。
これからどうなるかは、まあよく分かりません。相変わらず生きる気力は特になく、かといって死ぬ積極的な理由もないので、ダラダラと生き続けるだろうなぁ、という気はします。でも気持ちとしては、「いつ死んでもおかしくはないよなぁ」と思ったりもします。今は、積極的に死にたい理由はないけど、もしこれから、積極的に死にたいと思うような理由が出てきたら、色んなバランスが崩れて、「死」の方に気持ちが傾くかもしれません。とはいえ、10年前、自分には自殺は出来ないんだろうなぁ、という実感を得てしまったので、積極的に死にたい理由が出てきたとしても、そう簡単には死ねないかもしれません。
というわけで、ウダウダと自分の「死にたい話」「生きていたくない話」を書いてみましたけど、こういうことを常日頃から考えている僕としては、本書でも指摘されているように、もうちょっと「死」とか「自殺」の話題が日常的に出来るような環境って、あるといいなって思いますね。精神科に通ってたりするような人は、カウンセラーの一環として同じような苦しみを持つ人と辛さを語り合ったりするようなセラピーみたいなのがあったりするんでしょうけど、そんな大げさなものじゃなくても、「死」とか「自殺」とかの話が出来ればいいのにと思ったりします。でも、これって難しいんだろうなぁ。例えば、ハゲげてる人がいるところでハゲの話が出来ない、みたいなのとちょっと近いイメージがあります。なんとなく禁忌になってるというか、自主規制しちゃうっていうか、そういう気持ちが働くんだろうなぁ。あと、そう、こういうことを書くと、「心配されたいのかな」と思われるかもしれないけど、別にそういうことでもないんですよね。本書の著者は、母親がダイナマイトで心中自殺しているんですけど、その話をある時人に話したら爆笑してもらえて気が楽になった、って言っています。そうなんだよなぁ。心底辛い人にはまた別の関わり方があるだろうけど、そうじゃない人にはもっと雑な、「お前アホだなー」的な扱いでもいいんじゃないかななんて思ったりもします。重く受け止められても困るしね。
さて、前置きが長くなりましたけど(そう、ここまでの文章は前置きだったのです)、内容についてもちょっと触れたいと思います。
本書は、さきほどもちょっと触れたけど、母親がダイナマイト心中をし、また周りに自殺した人や自殺未遂をした人がたくさんいるという、ちょっと変わった立ち位置の著者が(ちなみに、著者は自殺を考えたことはないという)、自己嫌悪を解消するためにネットで書き始めた『自殺』という連載をまとめた作品です。
僕は、末井昭という人も知らなかったし、タイトルが直球の「自殺」というものだったんで、なんとなくもっと真面目に自殺とかを分析したりする本なのかなと思っていました(そうであることを望んでいたわけではないんですけど、読む前の印象はそうでした)。
でも読み始めてみたら、大分違うことがわかりました。

『自殺というとどうしても暗くなりがちです。だから余計にみんな目をそむけてしまいます。自殺のことから逸脱したところも多分にあると思いますが、笑える自殺の本にしよう、そのほうがみんな自殺に関心を持ってくれり、と思いながら書きました。この本を読んで、ほんの吸う人でもいいから自殺していく人のことを考えてくだされば、少しは書いた意味があるのではないかと思っています』

そう、本書は、かなり笑える内容になっています。自殺の本なのに笑えるというのは不思議な話ですが、本当にそうなのです。
「禁煙セラピー」という本があります。僕はタバコを吸ったことがないので、この本も読んだことがありませんが、この本は「読むだけで禁煙できる本」として有名です。実際に僕の周りでも、この本を読んだことでタバコを止められたという人がいました。
どんな内容なのか聞くと、別にタバコを吸ったら恐ろしいことになるとか、そういうことが書いてあるわけでもないのだと。むしろ、このタバコは止めるなみたいなことが書いてあったりもする。でも不思議なことに、読み終わったら、「なんで今までタバコ吸ってたんだろうなぁ」なんていう気になる、と言っていました。
本書は、そういう感じに近いような気がします。
そもそも著者は、「自殺は悪いことだと思っていない」なんて書くのです。

『以後、こうして自殺についていろいろ話すようになったのですが、僕は必ずしも「自殺はダメ」とは思っていません。もちろん死ぬよりは、生きていた方が良いに決まってます。でもしょうがない場合もあると思います。人間社会は競争だから、人をけ落とさなければならない。時には人をだますこともあるでしょう。でも、そんなことをしてまで生きたくないって思うまじめな人、優しい人に「ダメ」と、分かったようなことは言えないですよ。まじめで優しい人が生きづらい世の中なんですから。』

なんというか、この文章はとても素敵だと思います。文章を文字だけで読めば、「自殺はしょうがない」と言っている。けれども、そのしょうがない理由は、「まじめで優しい人が生きづらい世の中なんだから」と言うのです。死ぬかどうか悩んでいる人は、「そうか、自分はまじめで優しいから生きづらいんだな」と思えることでしょう。そう思えることで、少しは前向きな気持ちになれるかもしれません。

『僕は、自殺が悪いこととも、もちろん、いいこととも思っていません。どうしても生きることがつらくて自殺しようとする人に、「頑張って生きようよ」と言うつもりはありません。ただ、競争社会から脱落して自殺する人に対しては、自分も加害者の一人ではないかという気持ちが、少しはあります』

こういう著者の優しさが、随所でにじみ出ることも、本書の良さをより増幅させることになっていると思います。人間に対する眼差しがとても優しいのです。著者の周りには、世間の物差しで捉えれば「ダメ人間」「落伍者」というレッテルを貼られるしかないだろう人がたくさんいます。そもそも、著者自身が「ダメ人間」「落伍者」というレッテルを貼られても仕方がない人間かもしれません。そういう人たちがたくさん出てくるのですけど、そういう人たちの「凄い話」を読んでいると、「こんな無茶苦茶な人たちが生きていられるんだから、もうちょい頑張れるかも」と、そんな風に思えてくる人もきっといることでしょう。
自殺について深刻に考えたり、データや引用なんかを駆使して時代を切り取ろうとする作品ではありません。あくまでも、著者の身近にいるとんでもない人たちの話、あるいは著者自身の無茶苦茶な話を披瀝して、「生きるって、こんなにも山ほどの選択肢があるんだよ」ということを提示してくれる作品な気がします。
最後の方に、「迷っている人へ」という章があるのですけど、そこからかなり長めに引用してみようと思います。

『自殺する人は真面目で優しい人です。真面目だから考え込んでしまって、深い悩みにはまり込んでしまうのです。感性が鋭くて、それゆえに生きづらい人です。生きづらいから世の中から身を引くという謙虚な人です。そういう人が少なくなっていくと、厚かましい人ばかりが残ってしまいます。
本当は、生きづらさを感じている人こそ、社会にとって必要な人です。そういう人たちが感じている生きづらさの要因が少しずつ取り除かれていけば、社会は良くなります。取り除かれないにしても、生きづらさを感じている人同士が、その悩みを共有するだけでも生きていく力が得られます。だから、生きづらさを感じている人こそ死なないで欲しいのです。
もしいまあなたが、自殺しようかどうしようか迷っているのでしたら、どうか死なないでください。そこまで自分を追い込んだらもう十分です。あなたはもう、それまでの自分とは違うのです。いまがどん底だと思えば、少々のことには耐えられます。そして、生きていて良かったと思う日が必ず来ます。
それでも自殺を思い留まることができなかったら、とりあえず明日まで待ってください。その一日が、あなたを少し変えてくれます。時間にはそういう力があります。ほんのすこし、視点が変わるだけで、気持ちも変わります。そして、いつか笑える日が来ます。
きっと―』

この文章だけでも、もしかしたら誰か救われたりするのではないか。そんな風に思ったりします。
本書には、それはまあ様々なとんでもないエピソード、無茶苦茶な人たちが出てきます。それぞれについて取り上げることはしません。すげぇ人たちがいるんだな、ということを是非本書を読んで確認してみてください。最後に、死にたくなっている人の気持ちをちょっと留めることが出来るかもしれない文章を、いくつか引用して終わろうと思います。

『お金持ちは「日本は自由競争で、だれにでもチャンスがある。お金がないのは、あなたが努力しなかったから。貧乏は自己責任」と言います。だけど今後、経済は縮小するし、格差も広がって、お金はますます行き渡らなくなる。だから、お金がないのは、あなたが悪いんじゃない。社会が悪い。社会が悪いのに、あなたが死ぬことはないんです』

『だから、まず「死のうと思っている」と周囲に言いふらして、窓を開けることです。死のふちで迷っている人の話は、みんな真剣に聴いてくれるはずです。話しているうちに、何とかなるのに、その発想がなかっただけだった、と気づくこともあるんじゃないかな』

『いじめられて、自殺するところまで追い込まれたら、ひきこもってしまえばいいのです。ある期間、学校や社会と遮断してしまえば状況も変わります。みんなと同じ時間軸で生きていく必要なんかありません。一年ぐらい休んだって、長い人生から見れば微々たるものです。
また一人で何ややりたい人にとっては、学校なんて必要ないのです。勉強しようと思えば、学校なんか行かなくてもできます。やめちゃえばいいのです』

『人身事故、つまり電車に人が飛び込むのが一番多いのは、月曜日だそうです。
学校でいじめられたり、会社で孤立したり、業績が上がらず上司から嫌味ばかり言われたりしている人には、休み明けの月曜日はつらいかもしれません。しかし、早まって電車に飛び込まないでください。そういうときは反対側のホームに生き、逆方向の電車に乗ることです』

『樹海に来る人は一人ぼっちです。そういう意味では、樹海は楢山より残酷です。口減らしではなく、いまは社会に適合できない人減らしです。弱い者切り捨ての社会からはじき出され、自ら死ぬために樹海にやって来るのです。
どうせロクでもない社会なんだから、真面目に自分を突き詰めるんじゃなくて、もっといい加減に生きたらいいのに、と思う僕は強い者だからでしょうか』

自殺を考えたことのない人には、特に響くような内容ではないと思いますが、自殺を考えたことがある人、今も自殺したいと思っている人には、何かしたら響く言葉があるのではないかと思っています。笑える自殺本です。是非読んでみて下さい。

末井昭「自殺」


さきくさの咲く頃(ふみふみこ)

絵を描くのが好きな澄花。双子で、無気力だけど女子からモテる暁生と、東大も狙えるほどの秀才である千夏。3人はいとこで、子どもの頃から幼なじみで、高校生になった今も一緒にいることが多い。
澄花は、ため池の向こうに引っ越してきた暁生の部屋を、ずっと双眼鏡で覗いていた。ずっとずっと。それは「向こう側」の世界で、だから自分とは関係ないと思えて、だから暁生ともずっとそのままでいられた。

『これからも今まで通り そんなわけには』

押し出されるようにして、三人の関係が少しずつ動き出す。ずっと、同じままではいられない…。

将棋は、初期配置が一番守りが強い、と言われる。駒を一つも動かさなければ、「守り」という点ではかなり強い。しかし、駒を一つも動かさなければ「攻め」は出来ないし、そもそも将棋として成り立たない。自分の「守り」が弱くなることは承知の上で、駒を動かさなくてはいけない。

『これからも今まで通り そんなわけには』

そんな風に、なんとなく将棋のことを連想した。
澄花、暁生、千夏の三人は、将棋の初期配置みたいなものだったと思う。いとことして、幼なじみとして、そのままの関係でいられたなら、「守り」としては完璧だった。そのまま、ずっといい関係を続けることが出来たかもしれない。でも、その均衡がふとした瞬間に破られた。
それは澄花にとって、予想も出来ないような瞬間だっただろう。まさかそんな形で均衡が破られることがあるなんて、思ってもいなかったに違いない。それは、澄花を一瞬動揺させる。
でも、澄花は知っていたのだ。知っていたからこそ、それを受け入れることが出来た。

『最初から無理やってわかってて だから付き合えたんやと思う』

そうやって崩れた均衡は、三人の関係や、三人の人生を、少しずつ変えていくことになる。高校三年生までずっと穏やかな関係でいられた三人は、「高校卒業した後みんなバラバラになってしまう」という時期に動き出すことになる。

『こうやって 澄花と一緒に歩くのが最後かと思うと そっちのほうが ね』

三人はそれぞれ、高校卒業を目前にして、自らの進路を悩むことになる。澄花は、大学に行くかどうか。千夏は、どこの大学に行くか。暁生は、どんな風に生きていくか。三人とも分かっている。これから進む道は、みんな違ってしまう。これまでのように、同じ道を歩いていくことは出来ない。

『ここはもうずっとそうや 自然にかこまれて 人のいい人がよけおって いいとこで 人のうわさがすきで 爪弾き者にはうるさくて 窮屈で 息がつまる このままここにおったら 山に押しつぶされてしまいそうになる』

誰も、そこに留まることは出来ない。
「ずっとこのままでいられたらいいのに」と思うことは、僕にもある。ここから踏み出しもせず、後退もせず、今のまま、ずっとこうしていられたらいいのに、と思うことはある。でもそれは、相手の時計を止めることに等しい。そんな権利は、自分にはない、ということも、よく分かっている。けれど、今まで空気のように、魚にとっての水のように、そこに当たり前にあったものがなくなってしまうことは、やっぱり、なんだか、寂しいものだ。

『こういうなんでもないことを 話したいのに 話す相手は もう もういない 誰もいないんや』

澄花の時計はたぶん、「最初の記憶」の時からずっと、止まっていたのかもしれない。そして澄花は、暁生と千夏の時計も、自分と一緒に止まっていると、信じたかったのかもしれない。だから、時間がどんどん積み上がって、いつの間にか目の前に選択肢の広がる交差点が見えてきても、そのままでいられると思いたかったのかもしれない。
いや、千夏も、そう思いたがっていたかもしれない。

『おぼえといて おぼえてくれたらいいわ』

千夏はたぶん、止まっていた時計の針を、無理やり自分で動かした。千夏のことを僕は「強いな」と感じるのだけど、その強さに僕は惹かれる。僕はきっと、あんな風に強くはいられないだろう。もっと、どうしようもない風でしかいられない。
そして、暁生の針を動かしたのは、澄花だろう。

『知ってしまった向こう側 知りたくなかったなぁ』

実は三人とも、時計の針は止まっていたのだろう。お互いにそれを誤解したり、誤解したがったり、見ないようにしたり、そんな風にして、ずっと過ごしてきたのだ。
三人はそれぞれ、自分なりの道を模索し、それぞれの方向に歩みだしていく。それは当然、「別れ」を意味する。もちろん、永遠の別れではないけれども、「それまでのようにはいられない」という悲しみを含んだ、三人の関係にとっては決定的な「別れ」だろう。
いとこで幼なじみだからこそ、「言葉では伝えられない」感情や関係性がある。長い長い関係性の中で出来上がった空気感みたいなものを鋭く描き出しながら、「言葉では伝えられない」ものを絵で表現している。そういう感じがしました。言葉では、もう何かを伝えることが難しくなっている関係性。でも、何かを変えるには、今までの積み重ねがありすぎる関係性。高校三年という別れの年に、それまでの積み重ねを「どうにかしようと」してもがき続ける三人の、1年間の物語。是非読んでみて下さい。

ふみふみこ「さきくさの咲く頃」


ジークフリートの剣(深水黎一郎)

内容に入ろうと思います。
藤枝和行は、天賦の才能に恵まれた世界的なテノール歌手だ。「いつか日本人がその座を奪う日が来るのだろうか?」と評論家が語るワーグナーの楽劇の、しかも『ニーベルングの指環』の<ジークフリート>という大役を射止めることになった和行は、<ジークフリート>と同じく恐れを知らぬ男であり、手に入らないものなど何もないという堂々たる姿勢で、様々な女性と浮名を流し、華麗な私生活を送っていた。
そんな和行だったが、ついに身を固める決意をする。
音楽学校時代の同級生であり、十人並の容姿である遠山有希子である。彼女は、端役でありながらも、今回、ワーグナー楽劇の総本山であるドイツのバイロイトで行われる『ニーベルングの指環』の新演出上演(プルミエ)で、和行と共演を果たす若手ソプラノ歌手である。彼女は、学生時代から和行の傍で、『献身的』という表現ではまったく足りない献身を捧げ続けた女性であり、日本のマスコミは、バイロイトでのプルミエ終了後に式を挙げる予定である二人を、これ以上なく盛り上げるのだった。
本番が始まれば、喉に緊張を与えず力を全力で出しきるために、頭の中で地図の色の塗り分けをやるという和行は、稽古(プローベ)が始まるまでに歌も動きも完全に頭の中に入れてしまう。自分の中で、ほとんど準備が整った状態でバイロイト入りした和行は、プローベの合間に小都市での演奏会形式の仕事が入っているという有希子を咎めていた。そんな仕事、キャンセルしてしまえばいいではないか。しかし真面目な有希子を止めることは出来ず、和行は珍しく婚約者らしくプレゼントをし、有希子を送り出したのだった。
翌日。演者の一人から「テレビをつけろ」と言われてニュースを見てみると、まさに有希子が乗っているはずの特急列車が脱線転覆したと報じていた。
有希子の遺体と対面した和行は、信じられない思いでその動かなくなった肢体を見つめていた。そして、失ってみて初めて和行は、有希子の存在の大きさを知ることになるのだ。ここまで和行がやってこれたのも、有希子の自らを犠牲にした献身的な支えがあってこそではないか…。
荼毘に付された有希子の遺骨を前に、和行はある決意をする。有希子の骨と共に、バイロイトの舞台に一緒に立とう、と…。
というような話です。
これはなかなか凄い作品でした。でも同時にこの作品は、とてもとても感想を書くのが難しい作品だなと思います。こう書くと誤解される可能性もあるだろうな、と思うけど、まあそれはそれとして。
本書の紹介の難しさは、まずなんと言っても「ミステリ」の部分です。正直僕は、この点には一切触れないでおこうと思います。本書で著者が目指した意図が、ミステリ界の中でどういう風に評価されているのか、どんな立ち位置に収められているのかも、よく知らないし書けません。ミステリ部分に関して僕が言うことがあるとすれば、「本書をミステリだと思わずに読む方が面白く読めると思う」ということぐらいでしょうか。こんなことを書いているからといって、本書が「ミステリとしてダメ」と言っているわけではないんです。そういうわけでは決してない。ただ、本書は、ミステリ作品であるということを忘れて、藤枝和行という男の傲慢さ、ワーグナーの世界観、オペラという日本人にとっては特殊な芸術作品の内幕など、本書の主軸である「芸術」の部分を強く意識して読む方が、作品を鑑賞するやり方として良いのではないか、という意味です。
そして本書の紹介の難しさのもう一点は、まさに本書の主軸である「芸術」的な部分です。
僕はオペラや楽劇やワーグナーなんかについては、さっぱり知りません。ワーグナーは、名前は聞いたことあったような気がするけど、オペラの人だとは全然知りませんでした。『ニーベルングの指環』とか<ジークフリート>なんてのも、初耳です(ゲームとかやってたらそういう単語も出てくるのかもですけど、ゲームもほとんどやらないもので)。
それでも、読んでいる分には、非常に面白く読めるんです。確かにまったく知らない世界なんだけど、元々そういう読者のことも想定しているのでしょう、この世界についてかなり噛み砕いて説明してくれます。しかもそれが、ただ説明一辺倒なわけではなくて、和行の回想だったり、評論家の本の文章だったり、知り合ったばかりの若きヴァイオリン弾きとのメールのやり取りなど、様々な形で提示されるので、「ただ説明を読まされている」という感じにならない。この構成力は素晴らしいものがあるなと感じました。オペラなんか見たことないし、読んでいても正直どんなものなのかイメージは出来ないんだけど、それでも、突っかかったりすることなく結構頭の中に入ってくる作品でした。
しかし、決して初心者向けだけを意識した作品でないのも事実です。本当にオペラに詳しい人が読んだらどう感じるのか、それはまったく分かりませんけど、本書は、オペラに関わっている様々な人の<実感>までも切り取っている、見事な作品です。そもそも、本書で和行が演じることになる演出は、当然本書の中だけの設定でしょうから、その演出も著者自身が行っていると推定するのが妥当でしょう。本書には、ワーグナーの『ニーベルングの指環』が、様々な奇想的な演出によって様々なバージョンが存在する、と説明される件があるのだけど、それら気鋭の演出家たちの演出の向こうを張って、著者自身も和行が主役を貼る『ニーベルングの指環』の演出をするわけです。それが出来るというだけで、相当に造形が深くなければ難しいだろうと思いました。
いくら著者がオペラに詳しいからと言って、まさか自身が舞台に立ったことがあるわけでもないだろうし、裏方として働いていたということも少なそうだと思います。そうだとすれば、ここまで細部に渡って、歌手の心情や演出家の意図などについて描き出せるというのは、ちょっと驚異的だなという感じがしました。
本書の紹介の難しさはまさにそこにあって、初心者に難しすぎる作品というわけではないのだけど、作品自体はかなり深いところまで掘り下げてある印象があって、そういう作品の凄さを、オペラをまったく知らない僕にはなかなか伝えようがない、ということなのです。僕はさっき、「本書をミステリとして読まない方がいい」と書きましたが、それはまさに、素直に芸術的な部分を堪能する読み方をした方が本書は面白いと思うからです。ヨーロッパではオペラという芸術はどんな位置づけにあるのか。そこに日本人が主役として入り込んでくるということの意味はどうか。ワーグナーも建設に関わったというバイロイトにはどんな歴史が蓄積されているのか。『ニーベルングの指環』という楽劇はどんな風に演じられ、どんな解釈がなされてきたのか。などなど、まさにワーグナー楽劇の本質的とも言うべき部分をかなりしっかりと描いている(ように、素人の僕には見える)ので、まさにその点を全力で愉しむ作品だと僕は感じました。
オペラについてはまったく詳しくないですが、【『ニーベルングの指環』の<ジークフリート>役を、日本人である藤枝和行が演じること】について、関係する文章を三つほど引用してみたいと思います。

『強靭な喉が要求されるワーグナーの楽劇のタイトル・ロールを、日本人の男性テノールが張る時代は来るのだろうか?ある日彗星のごとくそんな歌手が現れて、バイロイトで主役を張る日、その日こそ我が国のオペラ後進国時代が完全に終わりを告げ、新たな時代の幕が開かれる記念日となることだろう』

『オペラが西洋文明の精華である以上、この分野における日本人の擡頭を、新たなる黄禍と見做す<ヨーロッパ人>がいたとしても何の不思議もない。もしも歌舞伎座で行われる「仮名手本忠臣蔵」の大星由良之助役を、青い目の、あるいは褐色の肌の人間が演じることになったら、日本の伝統芸能愛好者たちも、きっと同じような言葉を口にすることだろう』

『それにしても筆者はこの演目を見るたびに、ジークフリート役のテノール歌手に同情を禁じえない。第一幕でこんなすごい場面を演じたあと、第二幕ではファーフナーを斃し、返す刀でミーメを葬り、そして道に立ち塞がるヴォータンの契約の槍を折りと、ほぼ出ずっぱりの歌いっぱなしで八面六臂の活躍をした後に、やっと辿り着いた最終幕では、満を持して登場するブリュンヒルデと、三十分以上にわたって輝かしい二重唱を歌わなければならないのだから、これはもう人間の限界を超えている。ただでさえ声を潰しやすいテノールの役であることを考えると、このジークフリート役は毎回その都度、文字通り歌手生命を賭して臨まなくてはならないような、危険度の高い役だと言えるだろう』

これを読むだけでも、ワーグナーの<ジークフリート>役がいかに大変で、かつその座を日本人が手にすることが凄まじいことかということが伝わるだろう。これが伝わる、というのは、本書における藤枝和行という人間性を理解する上で非常に重要だと僕は思っているのだ。
本書を、女性が読んだらどう感じるのだろう、と思う。
先ほど書いたように、日本人である和行が<ジークフリート>役を射止めたことは、良かれ悪しかれ世界的なニュースになるほどとんでもないことなのだ。それほどまでに和行というのは完璧なテノール歌手であり、かつ、その自信故に、傲岸不遜な生き方を体現するようのなっているのだ。手に入らない女はいないし、どんな状況にあっても口説くことが出来る。どれだけ酷い扱いをしたところで、自分には女性は選び放題だ。その上、一切文句を言うことなく、自分に献身的に尽くしてくれる婚約者もいる。こういう主人公を据えた本書を、女性はどう読むのだろう。
あとがきで、著者は本書についてこう書いている。

『この小説はワーグナー楽劇をライトモチーフとして、男性原理と女性原理の相克を描いたものである』

和行の有り様(の一部)は、女性にとっては(あるいは男性にとっても)許容しにくい部分はあるかもしれない。本書の、芸術でもミステリでもない部分の読みどころは、まさにこの部分だろうと思う。和行という、何もかもすべてを手に入れてきた男が、婚約者の死後、どんな風に生きるのか。かなり別世界の話だとはいえ、和行の有り様をどう捉えるかで、本書の印象はまた大きく変わるかもしれないと思う。僕自身は、和行と同じだけの才能を持ち、和行と同じ境遇にいたとしたら、同じような行動を取らないとはいえないなぁ、と思ったりする。小説だから、和行の傲岸不遜な内面が見えてしまうだけであって、誰しもが、程度の差こそあれ、同じような傲岸不遜さを内に秘めているのではないか。そんな風に僕は思う。
最後に。生き様を問う、という意味で、非常に琴線に触れた文章があるので抜き出して終わろうと思います。

『音楽家として身を立てるということは、音楽をいわば一種の免罪符として、この<世界>に背を向けることが許されるということでもあった。それに気づいたとき俺は、はじめて自分の意志で音楽家になりたいと思った。そして同時に、小さいころから音楽の英才教育を授けてくれた両親に、生まれてはじめて感謝したものだった。このわけのわからない<世界>に、一生背を向けて生きて行ける手段を身につけさせてくれて、どうもありがとう―心の底からそう思ったものだった』

『探偵に限らず、職業というものすべてが今の僕には恐怖の対象です。できれば何の職業にも就かずに、ボウフラやアメーバーのように、一生漂っていたい。』

前者は、和行の心情である。この部分を読んで、とても羨ましい、と思った。言っていることが、とてもよく理解できる。そう、まさに和行は、<世界>から背を背けても許されるだけの才能を持っている。和行の人間性の酷さは、本書を読めば如実に理解できるだろうが、それでも、日本人として初めてワーグナー楽劇の主役を張る、というとてつもない才能が、その酷さを覆い隠してくれ、<世界>と向き合わずに済むことになる。これは、とても羨ましいと思う。
後者は、和行が知り合うことになる若手ヴァイオリニストだ。彼の言っていることは、実のところ、和行と同じだと言ってもいいだろう。このヴァイオリニストは、また違った形で<世界>に背を向けている。彼も、それが許される環境にあるわけで、僕もそういう環境で、ボウフラやアメーバーのようにグズグズと生きていきたいなぁ、と思ってしまいました。
本書のラストは、圧巻と表現しても言い過ぎではないでしょう。冒頭から積み上げられてきた様々な要素が、ラストの美しさに収斂していく様は見事だと思います。解説氏も指摘していましたが、ミステリ作品は謎を解き明かすと大体おしまいである。しかし本書は、謎が解き明かされても物語は続く。そうやって続いた物語のラストを飾る、見事なワンシーン。是非読み逃すことのないように。是非読んでみて下さい。

深水黎一郎「ジークフリートの剣」


ヤノマミ(国分拓)

『緊張を強いる「文明」社会から見ると、原初の森での暮らしは、時に理想郷に見える。だが、ワトリキは甘いユートピアではなかった。文明社会によって理想化された原始協賛的な共同体でもなかった。ワトリキには、ただ「生と死」だけがあった。「善悪」や「倫理」や「文明」や「法律」や「掟」を越えた、剥き出しの生と死だけがあった。一万年にわたった営々と続いてきた、生と死だけがあった。』

NHKのディレクターであり、ノンフィクション作家でもある著者は、2007年の11月から2008年の12月に掛けて、計四回、150日にわたって、アマゾンの奥地で今も原初の暮らしを続けているヤノマミ族の集落に同居した。本書は、3つのドキュメンタリーとして結実したその取材を元にしたノンフィクションだ。

『ナプの一語は、彼らと僕たちを一瞬のうちに隔て分ける魔法のコトバだった。誰かがナプと言った瞬間に彼らは一つにまとまり、僕たちは他者となった。ついさっきまで楽しげの話したり歌ったりしていたとしても、関係はなかった。ナプの一語は万能の神がかける呪いの言葉のように、瞬時に僕たちを遠くへと追いやり、懸命に積み上げようとしてきた関係が一気に崩壊する合図となった。』

著者らが同居することになっていたワトリキという集落は、1970b年代に文明社会と初めて接触したらしい。1万年以上にわたる長い長い歴史の中で、文明を受け入れた時期はほんのわずかだ。しかもヤノマミの長老たちは、文明社会との接触が、自分たちのような少数民族を駆逐していった歴史を知っている。伝染病などに抵抗力のなかった先住民族たちは、文明社会からやってきた人間と関わりを持つことで、その数を大幅に減らすことになってしまったのだ。

『ヤノマミの居住区が保護区に指定された時、FUNAIの総裁として陣頭に立ったシドニー・ポスエロ氏は、先住民と「文明」との難しい関係について、こう語っている。
「原初の世界に生きる先住民にとって最も不幸なことは、私たちと接触してしまうことなのかもしれない。彼らは私たちと接触することで笑顔を失う。モノを得る代わりに笑顔を失う。彼らの集落はどんなに小さくても一つの国なのだ。独自の言語、風習、文化を持つ一つの国なのだ。そうした国が滅んだり、なくなったり、変わってしまうということは、私たちが持つ豊かさを失うことなのだ」』

それでもヤノマミたちは、著者たちを受け入れ、同居を認めてくれる。もちろんそれは、常に穏やかな関係が継続していたという意味ではない。本書を読む限りでは、著者らとヤノマミ族たちとの関係は、常に緊張感のあるものだったようだ。まあ当然だろう。あらゆる価値観が違い、言葉も違い、お互いに関する一切の情報を同居する中で探っていかなくてはならないという環境は、双方に大きな緊張を強いることだろう。
150日間の同居は、著者らに大きなダメージを与えることになった。

『だから帰国してからも考え続けた。番組を作りながら考え、番組が終わったあとも考えた。なのに、やはり、分からない。考えれば考えるほど何かが壊れていくような感覚も変わらない。心身は不健全なままで、求める答えも見つかりそうになかった。』

著者らをそんな風に追い詰めた要因は、様々なものがあるだろう。食事が合わなかった、様々な虫にやられた、何をするでもなくただ退屈なだけの時間を長く過ごす時があった、ヤノマミ族との関係にヒリヒリするものを感じた。それは数え上げればキリがないだろうが、最も印象的で最も打撃的だったエピソードを一つ挙げることは出来る。

『45時間後に無事出産した時、不覚にも涙が出そうになった。おめでとう、と声をかけたくもなった。だが、そうしようと思った矢先、少女は僕たちの目の前で嬰児を天に送った。自分の手と足を使って、表情を変えずに子どもを殺めた。動けなかった。心臓がバクバクした。それは思いもよらないことだったから、身体が硬直し、思考が停止した』

ヤノマミにとって、産まれたばかりの子どもは人間ではなく精霊なのだという。精霊として生まれてきた子どもは、母親に抱き上げられてはじめて人間となる。だから、子どもを産む度に、母親は決断しなくてはいけない。精霊として産まれた子どもを人間として迎え入れるか、それとも精霊のまま天に返すか。

『精霊のまま我が子を送る母親の胸中を女たちはけっして語らない。ナプに対しても、身内に対しても語らない。ワトリキでは、「命」を巡る決断は女が下し理由は一切問われない。母親以外の者は何も言わず、ただ従うだけだ』

「生と死」の概念は、現代でさえ様々に異なる。僕は宗教には詳しくないのだけど、キリスト教の場合は、「死後の世界」的なものがあるだろう。仏教だったかどうか覚えていないけど、輪廻転生するという考え方もある。僕は、生きとし生けるものはすべて、死んだらそこでおしまいだと常々感じている。文化の差であったり、個人差だったりするだろうが、「生と死」の概念は様々に存在する。
だから、ヤノマミのこの考え方を、ことさら奇異なものと受け取るのは違うな、と僕は感じる。確かに、それがショックであることは十分に理解できる。しかしそれは、そういう「生と死」の概念に初めて触れたからだ。ヤノマミにとって、「産まれたばかりの子どもは精霊であり、母親が抱くまで人間ではない」という考え方は、自然なのだ。僕らの社会で言えば、「妊娠21週までは、胎児は人間ではないから中絶できる」という論理に似ているだろう。別に、ヤノマミが特別なことをしているわけではない。僕らは、僕らの考え方に慣れているし、ヤノマミはヤノマミの考え方に慣れているというだけのことだ。

『だが、ヤノマミには墓がない。遺骸は焼いて、埋めて、掘り起こして食べるだけだ。彼らにとって死とは、いたずらに悲しみ、悼み、神格化し、儀式化するものではない。僕たちには見えない大きな空間の中で、生とともに、ただそこに在るものなのだ』

『ヤノマミのしきたりでは、死者に縁のものは死者とともに燃やさねばならない。そして、死者に纏わるすべてを燃やしたのち、死者に関する全てを忘れる。名前も、顔も、そんな人間がいたことも忘れる。彼らは死者の名前をけっして口にしない。
「私たちが死者の名前を口にしないのは、思い出すと泣いてしまうからだ。その人がいなくなった淋しさに胸が壊れてしまうからだ。ヤノマミは言葉にはせず、心の奥底で想い、悲しみに暮れ、涙を流す。遠い昔、私たちを作った<オマム(ヤノマミの創造主)>はヤノマミに泣くことを教えた。死者の名前を忘れても、ヤノマミは泣くことを忘れない」』

『子どもは死んだのではない。精霊となってホトカラに行っただけなのだ。自分も死ねば精霊となってホトカラに行く。ホトカラに行けば精霊となった子どもとまた会える。女はそう信じていた。ホトカラとは、女たちにとって再会の場でもあった』

1万年以上も文明とかけ離れて生きてきたヤノマミ。彼らは、「深い森で生きる」という環境の中で、ある種合理的な生き方を積み重ねてきたとも言える。悲しくなるから死者の名前を口にしない、育てられない子どもは殺してしまう、死後の世界で再開できると信じる。これらは、時に厳しく、時に辛い、とても狭い共同体の中で生きていく過程で、少しずつ積み上げられてきた「知恵」ということも出来るだろうと思う。
本書では、著者らが滞在期間中に出くわした様々な出来事であったり、様々な人間から聞いた話を、出来るだけ事実を淡々と述べるようにして、あまり著者自身の意見や感情が混じらないように描かれていく。もちろん、そもそもコミュニケーションがうまく取れないのだから、ある程度の推測や想像は混じるし、先ほどの産まれたばかりの子どもを殺すばめんなどで、思わずと言った形で著者の心情が出てしまうこともある。しかし基本的には、著者は自分が見たものを、出来るだけ「文明側」の論理に縛られず、ヤノマミの視点に立って描き出そうとする。
彼らが普段どんな風に生きているのか。それを短くまとめることは出来ない。是非本書を読んで欲しいところではあるが、とてつもなく大きな<シャボノ>と呼ばれる家(一つの家が一つの集落というイメージ)に160名以上が一緒に住み、間仕切りのないプライベートがまったくない環境でみな暮らす。男は狩りに出かけ、女は畑仕事をし、時折開かれる祭りに興奮し、夫婦の境界を越えて比較的男女は自由に交わる。
本書を読んでいて強く感じたことは、やはりこれは映像で見たかった、ということだ。僕は、著者が作ったヤノマミのドキュメンタリーを一切見ていない。僕がヤノマミについて知ったのは、本書の単行本が出た時であり、恐らくその時点ではヤノマミのドキュメンタリーは放送された後だっただろう。今でも、DVDなどで探せばあるのかもしれないけれども。
解説で俵万智氏は、ドキュメンタリーを見た周囲の人間の間でしばらく大きな話題となった、と書いている。そして、映像には有無を言わせぬ迫力があったが、本書を読んでようやく考えることが出来たとも書いている。
そんな風に書かれると、やはり、映像を見てみたかったという思いが強くなる。いずれ見る機会はあるかもしれないけど。
「ヤノマミ」というのは彼らの言葉で「人間」という意味だそうだ。悠久の時、と言っても大げさではないだろう時代を、生き方をほとんど変えずに現在まで生き残っている。そんな民族は本当にごく限られてきているという。著者は、「ワトリキには、僕たちの社会にはない時間が流れているようだった」と書く。そうだろう。それは、降り積もった時間なのだろうと思う。僕たちは、「時間の堆積」というものを感じられる環境に生きていないだろう。数百年、数千年の時間の堆積を感じられる機会は少ない。ヤノマミもまた、急速に文明化され始めているようで、若い世代と古い世代で対立が起き始めているという。彼らの生き方を、僕らがどうすることは出来ない。ヤノマミたちにとって、より良いと判断される生き方を、望むばかりだ。
恐らく映像の方が迫力があるでしょうが、本書も十分に刺激的で考えさせる作品に仕上がっていると思います。是非読んでみて下さい。

国分拓「ヤノマミ」


魔法使いの弟子たち(井上夢人)

内容に入ろうと思います。
一報は、山梨県から届いた。
甲斐市にある竜王大学医学部付属病院で、謎のウイルスが蔓延、既に死者が出ているのだという。
フリーライターである仲屋京介は、出入りしている雑誌編集部からの依頼で、現地まで足を運んだ。状況はまださっぱり理解できないが、恐ろしいスピードでウイルスが広がり、既に死者も出ているという。病院は完全に封鎖され、取材も何もない。そんなわけで京介は、別のところを当たってみることにした。
そして彼は、不幸にも「竜脳炎」に罹患してしまう。竜王大学付属病院に搬送され、致死率ほぼ100%という謎の強力なウイルスに…
京介は打ち克った。
しかしウイルスは彼に、変わった「後遺症」を残すことになった。そんな後遺症を持って生き残ったのは3人。京介と、病院外部へ竜脳炎を広めたとされる落合めぐみ、そして病院の入院患者だった興津繁の三人だ。あと一人、最初の罹患者だと思われている、ウイルス研究所の研究員であり、落合めぐみの婚約者でもある木幡耕三も生存者の一人だが、彼は意識不明のまま目を覚まさないままだ。
京介たちは一様に、それぞれ違った「特殊能力」を身につけることになった。彼らは、「竜脳炎」の生き残りという汚らわしい存在として嫌悪され、また、常識では理解できない「特殊能力」を身につけている、ということで賛否を巻き起こすことになる。
彼らは研究対象者として病院で生活し、社会との接点を取り戻すためにテレビに出るようになっていくが、しかし、彼らが持つ「もう一つの特殊性」が顕になっていくことで、彼らはどんどんと追い詰められていくことになる…。
というような話です。
これはなかなか面白い作品でした。強力なウイルスによる大パニックを冒頭で描きながら、ただそれだけの作品ではない。本書の主軸は、「特殊な能力を獲得してしまった人間」のストーリーであり、さらに「彼らの絶望的な悲哀」が描かれていきます。
物語の設定はSF的で、実際にこんなことが起こるはずはまずないだろうと思います。それでも、「もし万が一自分が京介たちのような能力を獲得してしまったら、どうするだろうか」とずっと考えながら読んでしましました。
彼らに振りかかるのは、圧倒的な孤独です。
彼らはまず、「竜脳炎」の生き残り、として嫌悪されます。研究者たちは、彼らの体内にある「竜脳炎」のウイルスが安定しており、それが他者に感染することはない、と判断し彼らの隔離を解くことになりますが、世間はやはり安心出来ません。彼らに関わると、「竜脳炎」をうつされるのではないか、という恐怖から、普通の人は彼らを怖がります。
ある程度、それは仕方ないことなのかもしれません。今市民権を得ている障害や病気についても、そうなるまでは相当の偏見があっただろうし、ある程度市民権を得ていても、まだまだ差別ははびこっているのだろうと思います。僕自身も、意識的せよ無意識的にせよ、そういう差別に関わってしまっていることもあるかもしれません。
自分がその場にいたら、彼らを排除しないでいられるか。いられる、と今の僕は思いますが、確信は持てません。この作品は、実際にはありえない設定が描かれているけれども、現実にあり得る状況下での僕たちの態度を試すような部分もあるような気がします。もちろん、恐いものは恐いです。「竜脳炎」は、致死率がほぼ100%です。研究者が大丈夫だと言っても、何らかの形で間違いが起こるかもしれない。そういう恐怖を拭い去ることが難しいという気持ちも、分からないではありません。
本書では、そうやって差別される側からの圧倒的な孤独が描かれていきます。社会の中での自分の居場所を一瞬にして失ってしまった彼らの孤独感は、想像も及ばないものだろうと思います。テレビのドキュメンタリーの撮影について、めぐみが研究者に訴える場面は、本当に辛い。
さらに彼らは、それ以上の重荷を背負うことになってしまう。それが、彼らが獲得してしまった「特殊能力」だ。
これは、彼らをさらに孤独にする。京介は「透視力」を、めぐみは「手を触れずに物を動かす力」を獲得する(興津の能力はちょっと説明しにくい)。それらは、様々な形で様々な議論を呼び、彼ら自身の存在に対する疑惑に変化して彼らを追い詰めていくことになる。
さらにそれだけではない。彼らはさらに厄介なものを背負うことになるのだ。これについてはここでは触れないけど、この最後の「特殊性」がダメ押しとなる。彼らは、この「特殊性」のために、完全に世間から孤立していくことになる。
パニックや暴動など、騒がしいモチーフが様々に描かれる作品ではあるのだけど、物語の中核を成すのは、やはりこの彼らの孤独だと僕は感じる。「魔法使い」となってしまった彼らの、人間と共存することが出来ないという絶望、誰にも理解してもらえないという孤独、それらが無理矢理の笑顔の下に隠されながら少しずつ描かれていくことになる。
物語的には、謎が少しずつ明らかになっていく過程も面白いことだろう。「竜脳炎」という、正体不明のウイルスが、人類に一体何をもたらしたのか。そして、京介たちが獲得した「特殊性」とは一体なんなのか。荒唐無稽な設定ではあるものの、出来る限り細部の辻褄を合わせようとしている感じがあります。とはいえ、もう少しはっきりして欲しかったかもなぁ、という部分もあったりする。個人的には、彼らが何故そういう「特殊能力」を獲得することになったのか、という説明があっても良かったなぁ、という感じがします。
この作品は、「常識」との闘いの物語でもあります。
京介たちの存在をどう扱うか。これが、作中世界の中の様々な場面で、非常に大きな問題になっていきます。前半では、「彼らは能力者なのか、はたまたインチキなのか」という論争が繰り広げられることになります。常識的には、彼らがやっていることはまったく理解できない。だから彼らはウソをついているんだ、インチキなんだ、という、自分の常識を崩されたくないという強い抵抗力が働きます。そしてこれは、後半でもまったく同じ形で、もっともっと強い形で発揮されることになります。確かに、京介たちのような存在をすんなり受け入れることは難しいかもしれません。しかし、「それが常識だから」というだけの理由で常識を手放すことが出来ない人間は、愚かではないかという風にも思ってしまいました。
最後の最後は、もしかしたら賛否あるかもしれませんが、僕は非常にうまく落としたなという感じがしました。なるほど、そういう終わらせ方があったか、という感じです。正直読んでいて、これは一体どこでどうなったら終わるんだろう、と思っていました。あまりにも残酷で絶望的な終わりしか見えない展開になって行くのですが、そこに一筋の希望を見出すラストになっていると思いました。もちろんそれは「一筋」と言いたくなるぐらい細い細い希望なのだけど、まったくないわけではない。個人的には、いい終わり方だったなという感じがしました。
SFと言えばSFに括られる作品かもしれませんが、SF的な展開以上に、人間の悲哀や絶望に焦点が当てられている作品だと思います。それなりに長い作品ではありますが、結構スイスイ読めてしまう作品だと思います。是非読んでみて下さい。

井上夢人「魔法使いの弟子たち」




トウキョウ・D 1巻(祀木円)

内容に入ろうと思います。
20年前の内戦下に、タミー社が政府に頼まれて作った戦闘用ロボット”ドール”。人間と変わらない格好をしたこのドールの半数が、まだ回収できていない。ドールが人間に危害を加えるような事態は発生しておらず、一般市民はドールの存在をほとんど知らずにいるが、放置するわけにもいかない。
そこで、ドール回収を秘密任務とする極秘チームが、警視庁公安部内に作られた。通称「D班」である。
警備部機動隊所属だった篠警部補は、ドールのことなどほとんど知らされないまま、D班の配属となった。篠の警備ロボットとして、一緒にドール回収を手伝うクロハと共に「捜査」を開始するが、D班はここ10年ほど、ドールを一体も回収できていないという。そう簡単にはいかない。
篠の常駐先となる民間の警備会社のオフィスには、タミー社製の家庭用警備ロボット”SHIMA”もいて、ほんわかした会話で周囲を和ませる…。
というような話です。
何でこのコミックを買ったのかと聞かれると、非常に答えに困りますけど、なんとなく表紙を見て良さげだなと思ったから、ということですね。表紙にもSHIMAが描かれているんですけど、そのSHIMAがなかなか可愛いわけです。拳銃の1.5倍ぐらいしかない大きさ(なのに、家庭用とはいえ、警備ロボットなんだよなぁ)っていうのも、可愛いわけなんです。
話としては、コミックをあまり読み慣れていない僕としては展開の予測はあまり出来ないけど、全体的には設定の紹介、という感じでした。ドールが何故作られ、どうして現在も逃亡中なのか。メンテナンスが必要なはずのロボットが、何故20年間も逃げ続けることが出来ているのか。篠がD班に配属された理由は何か。ロボットと人間はどんな風に関わっているのか。そういう、全体の設定を小出しに説明していきながら、SHIMAを中心としたほんわかした日常的な物語が挿入されていく、という感じです。
全体的に覇気のない人間たちが物語の中心にいて、だから物語事態も覇気がない感じで進んでいきます。それを「ほのぼの」と捉えるか「だらだら」と捉えるかは、読む人の趣味次第でしょう。僕は「ほのぼの」という感じで読めました。ドールについて全然知らないのに、特に学ぼうともせず、ドール探しに必死になるわけでもない篠や、ロボットであるが故に人間と若干のズレがあるクロハとか、様々な事情から安全に逃げ続けることが出来ているドールたちの脱力する日常とか、そういう部分は、なかなか面白いと思います。
あと、物語にSHIMAがどう絡んで来るのか、まだ全然分からないけど(絡んでこないのかもしれないけど)、SHIMAのキャラクターは凄くいいですね。正直、1巻目は、何が起こるわけでもないっていうか、展開らしい展開ってないと思うんですね。それは別にそれでいいんだけど、どうしても設定を紹介するだけだと、全体的に単調になるなという気もします。そういう時に、SHIMAのとぼけた感じのキャラクターは、ところどころでアクセントになってていいなって思います。
あんまりコミックを読まないんだけど、絵は、背景が全体的に白いなって思います。アシスタントとかいないのかも、と勝手に想像したりしています。この漫画は、「ITAN」っていうWEB上で連載されているコミックみたいなんだけど、それも関係しているのかな?時々背景が細かい時があって、でもそれは、実際の写真を取り込んで加工してるのかなぁ、っていう感じがしました。それはそれで、個人的には面白いやり方だと思いますけどね。
2巻を買うかどうかはちょっとまだ分からないけど、それなりに面白く読めるコミックでした。

祀木円「トウキョウ・D 1巻」


計画と無計画のあいだ 「自由が丘のほがらかな出版社」の話(三島邦弘)

『誰もが異口同音に出版不況と断言する業界で、年間6冊ほどの新刊だけで、6~8人の社員とともに、なんとか会社を維持しつづけていられるのはなぜか?(ちなみに金融機関から一度も一円たりとも借りたことがない)。
もっといえば、事業計画すらつくってない会社が…なぜ?』

本書は、自由が丘との一軒家に本拠地を置き、「原点回帰」を掲げて、色んな意味で絶望的で未来がないと言われている出版業界で、「非常識な成功」を収めているように見える「ミシマ社」という出版社を立ち上げた著者による、立ち上げる以前から現在(本書の発行時点の2011年10月)までの有り様を綴った作品だ。

『だけど、周りからは、ふつうの会社とは思われていない。その証拠に、2010年5月に入社したホシノは、「ミシマ社に入る前はどうしてたの?」と訊かれるたびに、「前はふつうの会社にいました」と答えている。おいおい…。毎回のことである。残念なことに、社員からもふつうの会社と思われていない会社、それがミシマ社である。』

こんなことを言っている著者自身も、とんでもない発言をしている。

『そもそも、会社を始めた頃、
会社に「決算」があることも知らなかった(本当です)。
それを思えば、少しは進化したといえますが(そうだろうか?)、
いまだに決算の本当の意味はよくわかりません』

こんな社長を筆頭に成り立っている出版社なのだ。それは、普通であるはずがない。で、実際に本書を読むと、やっぱり普通ではない。凄い会社だな、ここは。そりゃ、周りの人間が、「ミシマ社はどうやって成り立っているんですか?」と聞きたくなるわけだ。
どう普通ではないのかを知るために、現在の出版業界について書こう。具体的なことは書かないが、3つほど引用しよう。

『ただ、昨日、ある出版社の社長さんからうかがった話が、
その参入壁の高さを十分物語っているように思えました。
「この産業だけですね。
若い人が企業しないのは。
これじゃ、新陳代謝も落ちますよ」』

『取次は基本的に新規の取引を嫌がる、徹底的にしぶる―。出版社で営業経験のある人ならば見事に全員が口をそろえるほどのジョウシキだ、
本来、出版業界全体の繁栄を考えるならば、新規参入はできるだけしやすくするべきである。
新しい血が入ってこない業界が廃れるのは世の必定。』

『いま自分たちが精を出してやっている活動は、「かつて」よくできていたシステムに乗っかってのものである。あくまでも、現在乗っかっているシステムは、延命措置でしかない。そして、おそろしいことに、ぼくたちはそのシステムの上で、がんばればがんばるほど、「延命」に加担している。望むと望まざるとにかかわらず』

具体的なことを書こうとすると、色々面倒くさい流通の話なんかを書かないといけないのでこれぐらいにしておきますが、ここに挙げた3つの引用からだけでも、出版業界の瀕死というのが少しは伝わってくるかもしれません。中にいる人が「頑張っていない」わけではないのです。著者も書いていますが、がんばればがんばるほど「延命」に加担することになってしまう、というだけなわけです。その状況は、どうにかすべきでしょうが、その業界の末端に身を置く僕の実感としては、悪い流れを食い止めるのは相当に難しいだろうという実感があります。

『本当にそうなのだろうか?
新しいルール(注:グローバリズム)に乗らないことには、本当に生きていけないのだろうか。
乗る、のではなく、自分たちで、その次の時代のルールをつくっていくことはできないのだろうか。そのために、一度、原点に帰ってみる、という選択肢はダメなのだろうか。―』

その発想から、著者はスタートすることにした。本書で繰り返し語られる「原点回帰」については、是非本書を読んで欲しいが、核の部分は実にシンプルだ。つまり、「作り手の熱量を減じさせないで、その熱を読者まで届ける」ということだ。著者は、現在の「出版」のあらゆる選択や状況が、この方向から逆行していると書く。そして自分たちは、たとえどれだけ煩雑な作業に見舞われようと、どれだけ成功するイメージが掴めなからろうと、その出発点を見失わないようにして本を作り続けていく。本書は、その決意を繰り返し語る作品だ。

『そもそも出版社をつくる以上、
100年はつづけなければだめだという思いは最初からありました。
本の本質は、古びないことにある。
とすれば、それを発刊する出版社は、
ずっとその本を発刊しつづけることに意義がある』

『そういう思いから、ミシマ社では読者対象は設定していない。
本質的に面白いものは、世代や性別や時代を超える。
愚直なまでに、そう信じたいのだ』

『つまり、「どうしたら売れるか」ではなく、「どうしたら喜んでもらえるか」という問いをたてること。
会社を回すために、「売る」ことが目的化してしまってはものづくりの原点から離れてしまう。ものづくりの原点はあくまでも、「喜び」を交換することにあるはずだ』

ここに書かれている文章は、僕にはちょっと恥ずかしい。なんというか、キラキラ輝いてて、僕にはまぶしすぎるなぁ、と思う。僕なら、とても言えない。そんなこと、心から信じていると言える人間は、メチャクチャ凄い人かメチャクチャアホな人のどっちかだろう。もちろん著者は前者のはずだ。
著者のこの言葉は、「著者の口から出る」分にはまったく恥ずかしくない。何故なら、著者自身が、周囲の誰もが「どうやって成り立っているのかわからない」と口を揃えて語る「ミシマ社」という出版社を、潰すことなく続けているという事実があるからだ。それは、途方もないことだと、業界の片隅に身を置く僕は想像する。業界を知る常識的な人は、こんな考えで出版社を作ろうとする著者を、全身全霊で止めることだろう。無理だよ。考えなおせ。そんな言葉をきっと何度も掛けられただろう。それでも著者は、初志貫徹し、今もそれを継続し続けている。凄いことではないか。

『最初に断っておくが、当然のことながら、この本を読んで成功のための何かを得ることはできない。理由は明快。ぼくもミシマ社も、まったく成功者ではないからだ。経済的な面からいえば、5年たった今も、超もがき中だ』

確かに、本書を読んでも、「成功のための『具体的な』何か」を見つけることは出来ないかもしれない。しかし本書は、「成功のための『具体的ではない』何か」を見つけることが出来る本ではないかと思う。具体的でないからこそ、読み手がそれを咀嚼し、自分なりの考えとミックスして、行動や思考を生み出していかなくてはいけない。それは、成功のための「簡単な」手続きではないだろう。そう、成功することは簡単ではないのだ。
また本書は、「成功するための何か」ではなく、「どうして成功したいのか?」という理由を問いかける本にもなっていると思う。「成功の形」は人それぞれで、何を以って成功と呼ぶのかは自由だ。しかし、その背景に、「どうして成功したいのか?」という、その人にしかない必然性みたいなものがなければ、思い描いていた成功は覚束ないだろう。本書はそんな僕らに、「成功したい理由」を遠回しに問う。それに即答出来ないあなたは、まだ成功までの道は遠いのかもしれない、とも思う。
本書が出た時、ミシマ社は「5歳」だったが、現在ではもう「7歳」になっているだろう。ミシマ社はこれからも初志貫徹しつつ、誰もが足を踏み入れないような未開の荒野を駆け抜けて行くことだろう。自分たちが通った後に、道が出来ると信じて。そのお手伝いが、少しでも出来たらいいなと思う。是非読んでみてください。

三島邦弘「計画と無計画のあいだ 「自由が丘のほがらかな出版社」の話」


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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)