黒夜行

>>2013年10月

逮捕されるまで 空白の2年7ヶ月の記録(市橋達也)

『でも、「誰だって逃げる。誰だって逃げるんだ」って繰り返し自分に言い聞かせていた』

本書は、2007年、英会話講師であるリンゼイ・アン・ホーカーさんへの殺人と強姦致死の罪で手配されていた著者が、自宅にやってきた刑事を振りきって逃亡、北から南まで日本全国を逃げ続けながら、2年7ヶ月後に逮捕された、その逃亡の記録です。

『そのことを思い出したら、ああそうだ、僕は誰からも好かれることはできなかったけれど、誰からも憎まれることはできたんだと思った。そう思ったらなぜかほっとして涙が出てきて止まらなかった』

逃亡中、著者の中では、相反する様々な思いが渦巻く。

『歩きながら小説「死国」のことを思い出していた。その小説は実際には読んだことはなかったけれど、映画化されたこともあって「死者のことを思いながら四国の遍路道を回ると、その死者がよみがえる」というあらすじは知っていた。
四国に行き、お遍路をしようと思った』

人との繋がりも、社会との繋がりも自ら断つことになった著者は、あてどもなく彷徨いながら、「逃げる」という意志は持ち続けた。

『駅のそばで制服警察官たちが駐輪している自転車の盗難チェックをしていた。本当に捕まえなければいけない人間はここにいるのに、警察はこういうのも仕事なんだな、と思った』

自分がしてしまったことの大きさを、逃亡生活の中で様々な形で理解していくことになる。

『すごくおいしかった。もいだばかりの果物はチョコレートなどの砂糖の甘さとは違って、初めて食べたと思うくらい、甘くておいしかった。
そしてその時、急に、僕はリンゼイさんはもう生き返らないんだとわかった。彼女のことを思って、遍路道をいくらまわったって人が生き返るなんてことはない、僕はリンゼイさんの命を奪った、それはもうどうやっても変わらない。現実がはっきりとわかった』

逃げ続けることが出来るわけではない、ということも、分かっていた。

『現場まで行く車中では、下を向いて自分の死刑について考えていた。
十三段の階段をのぼると、ロープが自分の首にかかり、足元の床が開いて下に落ちる。どれくらいの間、苦しむのか?それとも落ちた衝撃で首の骨が折れるとも聞いたから一瞬なのか?
そんなことを考えながら、下を向いて息を止めて、繰り返し繰り返し、その瞬間がどんな感じなのかを自分で試していた』

逃げ続けることが出来ないだろうことも、逮捕されれば死刑を免れないだろうことも、よく分かっていた。でも、やっぱり死ぬことは出来なかった。

『道路沿いの畑の道具小屋に入った。農薬があったが、飲むことはできなかった』

自分が何をしたのか、その罪に対してどんな罰が与えられるべきか。著者は自分の頭で考え、本を読んで想像し、理解していく。同時に彼は、自分の罪ではないことの罰を受けなければならない状況に憤る。

『本当は、こんな話は口にするのも嫌だ。でもやってもいないことでさらしものになるのは耐えられない』

本書を「面白い」と評価するのは、色々差し障りがありそうで難しい。亡くなった人がいて、その周りで悲しむ人がいて、そういうことを抜きに、本書について語ることは難しい。でも敢えて僕はそれをやりたい。この作品を、作品単体として、現実の事件と出来るだけ切り離して評価してみたい。
そうした時、本書はなかなか「面白い」と思う。
本書は、3人の識者による解説が付与されている。この解説もなかなか面白い。三人はそれぞれ、本書を読みながら、著者のあり方や精神や価値観などを覗き見ようとする(そうでない解説氏もいるけど)。書かれていることに対して何を読み取るか、何を感じるか、それはかなり人によるだろう。どういう前提を持って本書を読むのかによっても、大分左右されると思う。同じ箇所を読んでいても、「こんなこと書きやがって」と思う人もいれば、「なるほどそんな風に考えるのか」と受け取る人もいるだろうし、「これはウソだな」と思う人もいるだろう。「世間を騒がせた犯罪者が、公判前に書いた手記」という、なかなか前例のない本なだけに、読み手側の立ち位置は様々に装丁可能で、なので本書への評価は様々なものに変化するだろう。
僕が「面白い」と感じた点は、解説でも誰かが指摘ていたけど、「徹底的に記録に徹している」という点。これは、非常に珍しいのではないかと思う。「どうして自分が事件を起こしてしまったのか」「どんなことを悔やんでいるのか」「これまでの生い立ちにどんなことがあったのか」など、こういう告白本では自分の様々なものをさらけ出す衝動に駆られてしまうのではないかと思う。でも、著者はそういうことをまるでしない。まったくということはないけど、ほとんどしない。そうではなく、どういうルートでどこに逃亡したのか、その逃亡先を考える時に頭に浮かんでいたことは何か、どんな景色が見えていたのか、その時々でどんなことを考えていたのか、などなど、ほとんど常に視点は「現在」に固定されていて、過去を出来る限り振り返らない。
このスタンスも、様々に受け取られるだろう。「自分が起こしたことを反省していない」なんていう風に感じる人もいるだろうし、「ちょっと普通の人とは感覚が違う部分があるんだな」なんていう受け取り方をする人もいるだろう。僕自身は、著者が「記録に徹した手記」を書いた動機が気になる。解説氏の一人は、「書くことで自分を癒していたのだ」と書いていた。そういう側面もあるだろう。でも僕のなんとなくのイメジでは、書くことで癒されるような人間は、過去の生い立ちや後悔など、過去に向かった視点が出てくるように思う。そういう部分がほとんどない、「記録」に徹した手記を書いた動機は、どこにあるのだろう?
また、当然のことではあるが、ここに書かれていることの、どこまでが「本当のこと」なのかという問題もある。結局のところ、それは永遠にわからない問題だから、「本当かもしれないしウソかもしれない」という留保を残しておく必要があるけど、これについては、解説氏の一人である森達也が、「著者の記憶が鮮明すぎる」という疑問を呈している。確かに、そういう側面はある。これについては、解説氏の香山リカは、「物事を写真のように記憶できるのだろう」と書いていて、まあそれもどっちか分からない。しかし、本書に付されている、著者自身の手による絵を見ていると、「写真のように記憶できる」という点に頷いてもいいかもしれないとも思う。

『自分が犯した罪の懺悔のひとつとして、それを記します。
これによってどう批判されるかもわかっているつもりです』

冒頭にこう書かれている。「どう批判される」と理解しているのか、聞いてみたい気もする。僕が同じ立場なら、この文章はちょっと書けないかなと思う。
森達也の解説のタイトルは、「「事件」が消費され尽くす日本で」だ。まさにこの本も、そういう「消費」の一環だろう。それがいいのか悪いのか、僕には特に意見はない。僕はワイドショーとかは見ないけど、ワイドショーを見てワーワー言っている人に対しては、違和感を覚えることはある。それは、犯罪者の手記を読んでこうやって感想を書いている自分の姿と、重なるだろうか?よく分からない。本書は、「読むべき本」だとは思わない。読むことで、人間の深い心理や、社会の病巣なんかが理解できるわけではない。何か驚くべき真実が分かるわけでもない。単純に、好奇心で読む本だ。そういう意味では僕も、ワイドショーを見てワーワー言っている人を、非難できないかもしれないな。

市橋達也「逮捕されるまで 空白の2年7ヶ月の記録」


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ヒッグス 宇宙の最果ての粒子(ショーン・キャロル)

『これまでけわしい道のりを経ながらもなんとかLHCの完成まで関係者を導き、LHCの建設計画で他の誰よりも責任のあったウェールズの物理学者リン・エヴァンズは、これら二つの実験の申し分のない一致を目の当たりにして、「あっけにとられた」と告白している』

『セミナーを聴くために部屋にいた83歳のヒッグスは明らかに感動した様子で、「生きてるうちにこの瞬間が来るとは思わなかった」と語った』

『その後の記者室で、記者たちはヒッグスからもっと聞き出そうとしたが、ヒッグスは、今日みたいな日に注目されるべきなのは実験家たちだ、と言ってコメントを控えた』

2012年7月4日、世界中を歓喜させた発表が行われた。「神の粒子」と呼ばれ、半世紀近くも前にその存在が予言された「ヒッグス粒子」が、大型ハドロン衝突型加速器(LHC)を擁する、ジュネーブの欧州原子核研究機構(CERN)によって「発見」されたのだ。本書の原書が出版されたのは2012年の11月であり、その時点ではこの7月の発表が最新の情報だった。その後2013年3月に新たな発表が出され、「ヒッグス粒子」の発見は間違いないものとなっている。これによって、ピーター・ヒッグスはノーベル賞を受賞した。

さて本書は、そんな「ヒッグス粒子」についての本だ、と書いてしまいたいところだが、それはちょっと不正確かもしれない。正確には、「ヒッグス粒子についての物語」についての本だ、と書くべきかもしれない。本書には、こんな文章がある。

『ヒッグス粒子の探索は単に、基本的粒子や難解な理論がどうのという話ではない。予算、政治、嫉妬の物語でもある。計画には非常に多くの人々、前例のない規模の国際協力、そして少なからぬ数の技術的ブレークスルーが関わっている。そんな途方も無い計画を実現させるには、ある程度、ずつ賢さや取り引き、そしてときには、いんちきも必要となってくる』

本書もまさに、「難解な理論がどうの」という本ではない。もちろん、ヒッグス粒子がどんなものであるのか、そしてそれを説明するために物理における現時点での最高到達点である「標準模型」についてかなり詳しく説明される。その「物理的な部分」の説明も非常に分かりやすくて、入門としてはかなり良いのではないかと思うけど(とはいえ、それでもやはり、元の物理自体が難しいから、すんなり理解できるわけではない。僕も、全部理解できたわけではない)、それ以上に本書では、「物理的ではない部分」にかなり分量が割かれている。これは、科学者によって書かれる理系ノンフィクションには、結構珍しい傾向ではないかと思う。本書の著者は、素粒子物理学が専攻ではないという。ヒッグス粒子発見に至る物語には「観客」のような感じで関わってきただけだ、と書いている。そんな客観性もあって、本書のような物理的な部分と物理的ではない部分が非常に面白い形で融合した作品になっているのかもしれない。
というわけで僕は、本書の感想を書く上で、「物理的な部分」は全部すっ飛ばすことに決めました。僕自身がはっきりとちゃんと理解しているわけではない、ということもあるし、その辺の物理的な詳細を書いても興味ない人は全然興味ないだろうなぁ、と思うからです。この感想では、本書で描かれてる「物理的ではない部分」に着目しようと思います。とはいえ繰り返しますが、本書の「物理的な部分」はかなり易しく書かれていると思うので、文系の人でも読むのにチャレンジしてみる価値はあると思います。

『ヒッグス探索は干し草の山から少数の干し草を探すようなものだ。干し草の山から針を探すなら、見つければ、見つけたとすぐわかる。しかし、全部干し草だとそうはいかない。判別する唯一の方法は、干し草の山にある干し草を一本一本、全部調べるしかない。すると突然、ある長さの干し草だけが他の長さのものよりも多いことが分かる。ヒッグス探索でしていることは、まさにこういうことだ』

この喩えは非常にわかりやすいし、面白いと思った。これは、グラスゴーの物理学者デイヴィッド・ブリトンの提案し喩えだという。
みなさんは、「ヒッグス粒子発見!」と聞いて、どんなことを思い浮かべるだろうか?顕微鏡で覗きながら、「あれがヒッグス粒子だ!」みたいな感じで見つかった、というようなイメージではないでしょうか?
しかしそれはまったく違う。本書には、「ヒッグス粒子を発見するために、どんな手続きを経ているのか」というのが、当然かなり簡略化されてではあると思うが、他の本で読んだことがないほど詳細に描かれている。本書にはこういう部分、つまり、「理論そのもの」や「実験結果」だけではなく、「その周辺部分」がかなり描かれていて、これらは普通の理系ノンフィクションにはあまり見られない特徴ではないかと僕は思う。
ヒッグス粒子はなんと、「10のマイナス21乗秒」という、恐ろしく短い時間で崩壊してしまう。これがどれぐらいなのか表現するのはメチャクチャ難しい。小数点の後に20個ぐらいゼロが並んだ後に1が来るという、とんでもなく短い時間だ。たったこれだけの間しか存在できない。瞬時に崩壊して別の粒子になってしまうのだ。
じゃあどうやって観測するのか。それは、「ヒッグス粒子が存在した痕跡」を探すのである。
しかしそれはまた途方も無く大変なことなのである。

『素粒子物理学が推理小説だ。刑事はほとんどの場合、事件現場に到着しても、事件の一部始終を記録したテープや、疑う余地のない目撃証言、あるいは署名入りの自白書などが得られるわけではない。せいぜい、部分的な指紋や小さなDNA標本などからなるランダムな少数の手がかりが得られるだけだ。刑事は、それらの手がかりをつなぎ合わせて犯罪の一部始終を再構成しなければならない。それが刑事の仕事の最も要となる部分である。
実験素粒子物理学者の仕事もこれと似ている』

まさにその通り。LHCで衝突実験を繰り返す度に、ありとあらゆる粒子が生まれ、それらがありとあらゆる痕跡を残す。毎回、ヒッグス粒子が生成されるとも限らない。実験家が見ることが出来るのは、犯行現場に残された、様々な人間に踏み荒らされた後の足跡の塊のようなもので、そこから様々なノイズを取り除いて犯人の足跡だけを見つけ出さなくてはならないのだ。
これが、LHCでの実験の超大規模なものにする要因の一つだ。LHCには、大規模な国際的な研究チームが二つあり(もっとあるかもしれないけど、本書でヒッグス粒子発見に絡むのは2チーム)、1チームに3000人近くの研究者が含まれる。本書によれば、LHCが存在するジュネーブ行きの飛行機に載っている16人に一人は何らかの形でCERNに関わっている、と書く。また、ジュネーブ行きの飛行機に乗ったら、一人か二人は必ず物理学者がいるだろう、とも。

『最近ではいかなる進歩も達成するのが非常に難しく、LHCはその象徴だ。この状況は65年前の、私(著者ではなく別の物理学者)が博士課程の学生だった時代と大きく異なる。当時、私は興味深い進展をもたらす実験を、一人で、しかも半年で行うことができた』

ノーベル賞受賞者であるジャック・シュタインバーガーは、ここ最近の「ビッグサイエンス」の状況をこんな風に語ったそうだ。物理学の最先端は、素粒子と宇宙にあるが、どちらも「ビッグサイエンス」でなければ意義のある研究結果を出せなくなりつつある。この状況は、ノーベル賞のある規定と絡んで、実験家にはより辛い状況をもたらす。

『本当に残念なのは、実際にヒッグス粒子を発見した実験家が誰もノーベル賞をもらえそうにないことだ。問題は数で、あまりに多くの物理学者があまりに多くの仕方で実験に貢献しているため、誰か一人または二人または三人を、妥当な根拠に基づいて選び出すことなどできないのだ』

ノーベル物理学賞には、「組織には与えず個人に与える」「一年に三人まで」という規定が存在する。そのため、先ごろのノーベル賞でも、ヒッグス粒子の名前に冠されることになったピーター・ヒッグス氏は受賞したが、やはり組織であるLHCやCERNは受賞出来ず、ヒッグス粒子発見に関わった特定の個人が受賞することもなかった。本書を読んだ今の気持ちとしては、その事実は、非常に残念に思える。

『本書執筆中、私は何人もの物理学者から話を聞いたが、彼らが「LHCの運転規模は畏敬の念を感じるほど壮大だ」と言うのを何度も聞いた。それだけでなく、「CERNは大規模な国際共同研究のモデルになり得る」と言うのもよく聞いた』

90億ドルという途方もない予算を使って建造され、世界70カ国の研究者が共同研究するというとんでもない研究スタイルが、CERNやLHCで実現している。その一端を本書で垣間見せてくれるが、3000人が一つの研究をしている、というのは、僕にはなかなか想像がつかない。本書では、ヒッグスだけではなく、LHCという特大の建造物についてもスポットライトが当てられる。LHCの建造に貢献した人や、LHCそのものを設計した人、またアメリカにかつて存在したが頓挫してしまったLHCと同じようなSSCという加速器についての物語など、ヒッグス粒子発見の舞台となるLHCについても、かなり多方面から描かれていく。本書はさらに、もっと現実的な話題にも触れられる。LHCでの実験データをどう保存するか、という問題だ。LHCで起こる1回の衝突事象はおよそ1バイトのデータとして保存される。この衝突が毎秒数億回も起こるという。これは1秒間に1000個のハードディスクが一杯になってしまうレベルだそうだ。こういう、実際的な問題についても本書は触れてくれるので、非常に面白い。また、面白い余談として、WWW(ワールドワイドウェブ)はCERNで生まれた、という話が出てくる。もちろん物理学者は、自分たちが生み出したWWWが、現在のようになるとは想像もしていなかった。彼らは、自分たちのすこぶるめんどうな連絡手段をどうにか簡潔にするためにWWWを生み出しただけなのだ。
本書では、アメリカで頓挫したSSCの計画などの話から、基礎研究の意義について何度か話が展開される。基礎研究というのは概ね、直接的に利益に結びつかない(あるいは、結びつかないように見える)。これは、特に現在のような資本主義が蔓延した社会だと、より難しい問題を孕むことになる。しかし、そうではないと著者は主張する。LHCも、発見された粒子そのものが直接応用される可能性は、今後もほとんどないだろうと著者は言う。しかし、LHCを作り出すのに生み出された様々な技術革新は、様々な分野で応用されている。LHCなどの加速器は、金の無駄遣いだという批判がされることがある。気持ちは分からないでもない。何せ90億ドルである。維持費も恐ろしく掛かる。そんなに金をつぎ込んで、分かるのは素粒子がどうたら、という話だけだという。無駄遣いと言いたくなるかもしれない。

『基礎研究で得られる最も重要なスピンオフは、まったく技術的なものではない。すべての年齢の人々にインスピレーションを与える、それが最も重要なスピンオフなのだ』

著者はこんな風にも書く。今回のヒッグス粒子の発見は、広く世界中で報道されただろう。かつて月に人類がたどり着くのをみて科学を志した子どもたちがいたように、ヒッグス粒子が何か分からなくても、これだけ世界中が騒いでいるヒッグス粒子の発見というお祭りに触れて、科学を志す子どもが出てくるかもしれない。それこそが、一番重要なスピンオフなのだと。
248ページからは、「ヒッグス粒子発見の功績は、誰に帰するべきか」という歴史の話が描かれる。ここは、物理的な核心にかなり触れながら話が進んでいくので、非常に難しくはあるのだけど(僕も、半分理解を諦めながら読み進めた)、歴史の話は非常に面白い。一つの発見が、一つの人物の功績として認められるということは、通常非常に少ないだろう。誰しもが、誰かの考えにインスピレーションを受け、先行結果を利用し、少しずつ積み上げていくような形で成果が生み出されていく。「ヒッグス粒子」に関してもまったく事情は同じなのだが、さらに難しい問題がある。ピーター・ヒッグスと同様の仕事を、独力で成し遂げたチームが他に二つあるという。著者は、「ヒッグス粒子」の理論部分に関して、ピーター・ヒッグスと同等の評価を得るべき人物はもっとたくさんいる、という話を書いている。これを書いているのは、ピーター・ヒッグス氏が実際にノーベル賞を受賞する以前の話だが、やはり現実にピーター・ヒッグス氏の受賞ということになった。本書では簡単に、何故この新粒子が「ヒッグス粒子」と呼ばれるようになったのか、という考察も描かれている。本書を読むと、理論的な核心については難しくて理解できないにしても、「ヒッグス粒子」の理論的な柱を支えた人間は数多くおり、彼らも同等に評価されるべきだということが分かるだろう。どんな「権威」も、その選考や評価は様々なものを抱えていて、問題がまったくないということはあり得ないが、ノーベル賞もそこから逃れることが出来ない、という事実を知ることが出来たことは良かったと思う。

『ヒッグスの発見は素粒子物理学の終わりではない。ヒッグスは標準模型の最後のピースだが、標準模型の先にある物理を見せてくれる窓でもある。これから先、何年、何十年と、ヒッグスを使って様々な現象を探索し、その性質を探求することになる。それらの現象には、暗黒物質や超対称性、余剰次元が含まれる。その他にも、急速に増加しつつある新データと付き合わせて検証すべきあらゆる現象が含まれる。ヒッグスの発見は一つの時代の終わりであり、新しい時代の始まりなのだ』

巻末には、ヒッグス粒子の発見で、どんな新しい扉が開くことになるのか、そしてヒッグス粒子がどういった形でその鍵となり得るのか、ということに触れられている。宇宙物理学の重要な難問である「暗黒物質」や、物理学上の難問である「真空エネルギー」、あるいは「ひも理論」や「超対称性」などに、「ヒッグス粒子」は大いに関係してくる可能性が高いのだという。ヒッグス粒子は発見されたが、そこで終わりではない。「標準模型」は、「普通の物質」のことは完璧に表現するが、「普通の物質」ではない「暗黒物質」のことはまったく含まれていない。明らかに「標準模型」は「万物理論」ではない。まだまだ先がある。そしてその入口に、「ヒッグス粒子」が存在する。物理の最先端は、非常に高度で、ますます身近ではなくなっていくが、これからもその動向に注目していきたいところである。
ヒッグス粒子がどんな性質を持つのか、ということは一切触れなかったけど、本書で例として挙げられている「さかさ振り子(P166)」や、「アンジェリーナ・ジョリーの喩え(P162)」などは、非常にイメージしやすく、わかりやすいと思う。もちろん、ヒッグス粒子の話は、なかなかに難しい。というか、「標準模型」の話がまず難しい。とはいえ、やはり物理は面白いなと思うし、人間の話も面白いなと思う。「ヒッグス粒子」という、たった10のマイナス21乗秒しか存在できない存在のために、人類が費やした莫大な金とエネルギーと努力。そのすべての結晶が綴られた作品だと思います。是非読んでみてください。

ショーン・キャロル「ヒッグス 宇宙の最果ての粒子」


世界でいちばん美しい(藤谷治)

誰にでも、居場所はある。

これは、僕の祈りだ。

生きていくということは、居場所を探し続けるということだ。どこでもいいわけではない。誰しもが、自分が落ち着ける、才能を発揮できる、認められる、愛される、そんな居場所を探し続けている。その居場所をすんなりと見つけられる人もいるだろう。生まれた時からそんな居場所を手にできている人もいるかもしれない。でももちろん、相当苦労しなくてはその居場所を手に入れられない人もいれば、死ぬまで居場所を手に入れることが出来ない人もいるだろう。

ヘンリー・ダーガー

本書を読んで、その芸術家のことをふと連想した。
彼は、73歳まで掃除人として働き続けた。最後は、救貧院で死んだ。死後、彼の部屋を見た人物が驚愕した。そこには、彼が19歳の時から書き始めた「非現実の王国で」という<世界一長い小説>が、そしてその小説の挿絵とした大量の絵が残されていた。ヘンリー・ダーガーは死後、アウトサイダー・アートの代表的な作家として評価されるようになった。

彼には居場所はあったのだろうか?半世紀以上に渡って、外では掃除人として働き続け、家では芸術家として存在した。誰にもその存在を知られなかった芸術家ではあったが、彼には「非現実の王国で」という物語の世界そのものが居場所になっていただろうか?彼のことについて、詳しく知っているわけではない。ただ本書を読んで、ふと連想しただけだ。

この物語は、居場所を探し求め続けた二人の男が織りなす物語、と表現できるかもしれない。その一方が、子供の頃天才的なピアノの才能を発揮し、様々な事情から音楽的な教育をきちんと受けられないまま、市井の作曲家として皆に愛された<せった君>だ。

『彼のためにできていないよ、現実は…』

ある人物が発したこの言葉が、彼を端的に表現している。せった君は、音楽以外の場には馴染めなかった。学校の勉強にも、子供らしい友達付き合いも、社会人としての有り様も。特殊な環境に彼がいるのでなければ、せった君はまともに社会の中に自分の居場所を見つけることは出来なかっただろう。

『美しい人間には、人を美しくする力がある。美しい人間とは、人を美しくする人間のことだと。』

そしてまたこの言葉も、せった君の一面を端的に現すだろう。
せった君は、大いに愛された。それは、彼が生み出す音楽の魅力だけでは決してなかった。せった君という、その存在そのものも、大いに愛されたのだ。それは「純真」という表現が一番近いだろうが、主人公の目から見たせつ君は、きっとその表現では表しきれないのだろう。

『これだけえんえんと書いても、私はせった君の美しさを、書ききれているとは思わない』

本書は、小説家である主人公が、せった君の美しさをどうにかこの世界に繋ぎとめようとして書き続けてきた小説でもある。子供の頃から主人公は、せった君についての文章を書いていた。そして主人公は、その時々でせった君に関する文章を書き足していき、せった君という美しい存在を、ごくごく平凡な自分の前に存在した素晴らしい存在を、どうにかこの世界に固着させたいと願うのだ。

『もし、このとき私が彼の目に光っていたものを、彼の目に私がとらえたものを、しっかりと表現できれば、それは芸術の秘密をひとついい当てたことになるのかもしれない。なぜ芸術は、どんなに文明や技術が進んでも、ついに人間のいとなみであるのか。機械でも、情報でもなく、生々しく不完全で限界のある、そして一人の例外もなくちょっと馬鹿みたいな、人間という存在だけが、芸術を作り出すことができるのか。それはあのときのせった君の目の光によって説明できると、私は信じている』

せった君は、主人公が弾いているピアノを「真似して」ピアノを弾き始めた。家にピアノはなかった。それまで弾いたこともなかった。楽譜さえ読めなかった。主人公はそれまで相当に苦労してピアノの練習をし、それでも思うように上達しなかったのに、せった君はあっさりとピアノを弾きこなしてしまった。
主人公の、せった君に対する感情は、時代時代で大きく変化していく。子供の頃は、主人公にとってせった君は、複雑な存在だった。才能というものを見せつけられ、自分がそこに辿りつけないと思いしらされる一方で、せった君が主人公を「音楽家」だとみなし、尊敬してくれていることに対して自尊心と嫌悪感を抱くようになる。主人公は、そのモヤモヤした感じを、きちんと言葉で表すことが出来ない。漠然とした嫌な感じを抱きつつ、しかしどうしていいのか分からない。
大人になるに従って、その感覚が変化していくのかというと、そんなことはない。相変わらずせった君は、主人公をざわざわさせる存在だった。良い意味でも、悪い意味でも。大人になった主人公の一番の変化は、せった君に対する自分の感情を、子供の時よりは正確にはっきりと言葉にすることが出来るようになったということだ。
そして、そうなってみてはっきりするのは、せった君のブレなさだ。主人公は、せった君に対する感情をめまぐるしく変化させていくのだけど、それは主人公自身の環境や心情の変化に左右される。せった君が何か変わったわけではない。変わった面ももちろんあるし、せった君がまったく悪くないわけでもないのだが、とにかくせった君はブレない。変わったのは主人公の方であり、せった君への苛立ちは、結局のところ自己嫌悪でしかなかったということを気付かされることになるのだ。

「島崎君は本当の音楽家なんだもの」

そうせった君に言われた時の主人公の気持ちは、僕にはとてもよく理解できるような気がする。それは、とても残酷な言葉ではないだろうか?自分よりも遥かに才能がある人物が、屈託なく、嘘偽りなく、自分のことを褒めている。そんな状況は、辛すぎる。しかしそれは、せった君に非はないのだ。せった君は、それを本気で言っている。だからこそ、余計に辛い。

『みんながモーツァルトやベートーヴェンになれるわけじゃない。っていうより、みんな、なれない。一人ひとり、自分になるしかない。そして自分には限界がある』

これはどちらかと言えばせった君に向けられた言葉だっただろうが、主人公にも何か届くものがあったのではないかと僕は勝手に思っている。
そして、「一人ひとり、自分になるしかない」という生き方と対極にあったのが、居場所を探し続けているもう一人の男だ。
津々見は、「何者か」になりたかった。「自分になるしかない」という諦念を受け入れる余地は、彼の内側のどこを探してもなかった。彼の肥大した自意識は、自分というちっぽけな存在を認めることが出来なかった。ここは俺の居場所じゃないと、そこにたどり着く前から踵を返していた。
津々見が抱える『正義』は、正直羨ましい。そう、僕にとって、津々見のような考え方は羨ましく映る。何故ならそれは、「目の前の現実」を否定し続けることによってしか生まれ得ない『正義』だからだ。現実を受け入れること。これは本当に辛い。あるいは、辛く思える。現実など受け入れたくない。でも大抵の人は、まあ仕方ない、と思ってしまうのだ。色んな理由から、現実に妥協する。こんなもんだろと思う。そうやって諦めることで居場所を手にする。
しかし、そうやって手に入れた居場所には、不満が蓄積していくことになる。諦念からスタートした安住だから、小さくても無視できない「そうじゃないんだよなぁ」が積もっていく。少しずつ積み重なっていくから、すぐにはその堆積に気づくことが出来ない。その堆積に気づく頃には、何もかもにうんざりしていることになる。
だったら、現実を否定し続けたいと僕は思う。安住出来る居場所は見つけられないだろうが、不満が少しずつ降り積もっていくこともない。何故なら、安住せず動き続けることで、一箇所に何かが降り積もっていくことはなくなるからだ。
しかし、現実を否定し続けることは、強烈なパワーが必要になる。それは、どこから生まれるパワーでもいいのだけど、怒りや叫びや理想と行った火を燃やし続けなくてはいけない。それがナチュラルに出来る、という意味で、僕は津々見が羨ましい。僕には、そんな生き方は、出来そうにない。
せった君は、居場所を求めてはいたけれど、自分が求めている居場所がどんな形をしているのか分かっていなかった。だから彼は、方向を定めて居場所を探し続けることは出来なかった。羅針盤を持たずに、ひたすら「美しく見える道」だけを歩き続けた。その生き様が、結局のところせった君に居場所を与えることになる。
一方の津々見は、はっきりと明確に、自分がたどり着きたい居場所のイメージを持っていた。しかし彼は、そこに至る道筋を見つけられずにいた。いや、それは津々見の直接の敗因ではないかもしれない。津々見は、現在地から一歩も動こうとしなかった。手当たり次第あらゆる方向に進んでみて、間違っていたら引き返すという生き方をよしとしなかった。現在地から、無駄なく華麗に、その居場所へと辿り着くべきだと思っていた。それでこそ自分らしい、と。その考え方が結局、彼から現在地さえ奪うことになった。
この二人が交錯する時、物語は終焉を迎えることになる。
最後に一つ、書いておきたいことがある。それは、本書の「リアルさ」と「脈絡のなさ」についてだ。
僕はなんとなく、本書に「リアリティ」を感じる。かつて著者は、せった君のような存在と関わっていたことがあったのではないか。そう感じる理由には、著者自身が音楽家であり、また本書の主人公が小説家である、という事実も関係しているだろうとは思う。
しかし、たぶんそれだけではない。
僕は本書に、「脈絡のなさ」を感じることが時折ある。どうしてこういう設定なのだろう、どうしてこういう話が出てくるのだろう、と感じる部分がちらほらある。何故、子供時代・浪人時代に「せった君に関する文章を書いていた」という設定が必要だったのだろう?大人になった主人公が、過去を改装して書いたという設定でも、特に問題はなかったはずなのに、どうしてだろう?それを僕は、「著者が実際にせった君のような人と関わりがあり、著者が子供時代実際にその人に関する文章を書いていたのだ」と思いたがっている。
そして僕にとって一番脈絡のなさを感じるのが「棒」の話だ。詳しくは書かないが、これは一体何の話だ?「棒」の話は、最後にも登場し、この「棒」の存在があったからこそこうしてせった君の話を書こうと思った、というような主人公の動機が触れられる。僕は、この「棒」の登場が、とても脈絡なく、落ち着きのないものに感じられてしまう。これも、本書で描かれているような「棒」そのものではないにせよ、実際にあった何かの出来事を「棒」という形で象徴的に描き出しているのではないか、と思いたがっているみたいだ。
実際にはどうかわからないし、著者が自身の経験をベースに本書を書いていようがいまいが、本書の評価に影響があるわけではない。ただ僕は、そういうような理由から、本書に妙な「リアリティ」を感じている。小説を読んで、「リアルな物語だな」と感じるのとは、またちょっと違った意味でのリアリティだ。誰か特定の人に宛てた手紙のようでさえあると思う。さすがにそんな風に書いてしまうと、物語に影響を受けすぎているかもしれないけど。そういう点も、僕を惹きつけるのかもしれない。
世界の片隅で、誰もが居場所を追い求めている。純真さしか武器を持たない者。安住することを恐れる者。与えられた居場所に満足できない者。ここしかないという居場所を見つける者。そして、居場所を与える者。不幸な交錯が、世界を一瞬で奪い去っていく。これは、そういう物語だ。
是非読んでみてください。

藤谷治「世界でいちばん美しい」


「十人の憂鬱な容疑者」(SCRAPのゲームブック)をクリアした!(ネタバレなしの感想)





先日、「リアル脱出ゲーム」でお馴染みのSCRAPが出したゲームブック第三弾「十人の憂鬱な容疑者」をクリアしました!

これまで出た三種類、すべてやりましたが、第三弾の「十人の憂鬱な容疑者」の出来が素晴らしいと感じたので、なんとなく感想を書いてみることにしました。

まず、「リアル脱出ゲーム」って何?っていう人もいるかもしれませんが、それはちょっと調べて見てください。謎解きとか好きな人だったらハマっちゃうような(僕は結構ハマっています)、かなり知的なお遊びです。

で、そんな「リアル脱出ゲーム」を作っているSCRAPですが、「リアル脱出ゲーム」以外にも様々なことをやっています。テレビだったり映画だったりフリーペーパーを出したり(というか、元々はフリーペーパーを出してる会社だったんですけど)と様々ですが、その中の一つにゲームブックの出版というのがあります。

これまで出たタイトルをおさらいしてみます。

  

さてまず、ゲームブックって何?というところから始めようと思います。
が、僕はこの三作以外のゲームブックをやったことがないので、ゲームブック全般の話はあくまでも想像になります。

ゲームブックというのは、大体こんなイメージをしてくれたらいいです。まずスタートのページに行くと、ストーリーが始まって、で選択肢がいくつか出てくる。Aの時は◯ページ、Bの時は△ページ、とかだ。それで物語が様々に分岐して行って、最終的に「正しいゴール」に辿り着けるか、という感じです。

しかし、SCRAPのゲームブックは、それら一般的なゲームブックとはちょっと趣が違います。最大の違いは、物語に分岐がほぼなく(ほとんど意味のない分岐はありますが)、基本的に辿れるルートは一つしかない、ということでしょうか。
SCRAPのゲームブックでは、作中で様々な謎が登場します。そして、ここが非常に重要ですが、その謎を解かないと、次に行くべきページが分からないのです。謎を正しく解くことが出来れば、辿るべき正しいルートを辿ることが出来ます。しかし謎が解けなければ、そこでひたすら立ち往生です。ゲームブック内には、謎の答えはありません。最後まで謎を解き、WEBにある答えを入力すると完全にクリアしたことになるのですが、謎が解けずにどこかで止まってしまった場合、ヒントやヘルプや答えはどこにもありません(近くで誰かやっている人がいたら、そういう人に聞いたりする以外にはありません)。これが、SCRAPのゲームブックが非常に難しい点です。

大体イメージしていただけたでしょうか?

さてではまず、「人狼村からの脱出」と「ふたご島からの脱出」についてざっくり書いてみようと思います。これらをやったのはもう結構前なので、うろ覚えの記憶で書くことになります。色々差し引いて読んでください。

まず第一弾「人狼村からの脱出」。これは、僕が人生で初めてやったゲームブックです。それまでにSCRAPのリアル脱出ゲームには参加したことがあったので、「謎を解く」という部分ではSCRAPらしさみたいなものを知ることが出来ていましたが、ゲームブックをやったことがなかったので、初めの内は、何をしていいのか、どう進めればいいのかを少しずつ理解しながらという感じでした。でも、すぐに慣れます。やることは、あちこちのページに飛んで謎解きに必要な要素を集めながら謎を解き、唯一の一本道を爆走するだけです。

謎の難易度は、結構高めだった記憶があります。かなり悩んで悩んで答えを出した問題がいくつかありました。その時はまだ、リアル脱出ゲームにはそこまで多く行ったことがなくて、SCRAPの謎解きに慣れていなかったから、という部分もあるかもしれません。いずれにしてもちゃんとは覚えていませんが、最後の最後まで辿り着いた時は「ウォー!!」って感じでした。ちなみに最後の最後の謎は、旅行中に解きました(笑)

さて、第二弾の「ふたご島からの脱出」です。こちらは、2冊セットで箱に入っている、というのが特徴です。男の子パートと女の子パートに分かれていて、それぞれの物語が折り重なりつつ同時並行で進んでいく、という感じです。

個人的な感想ですが、この「ふたご島からの脱出」は、僕はあまり好みではありませんでした。この時点ではもう既にかなりリアル脱出ゲームにも何度も参加していて、自分の謎解きレベルが上がっていた、ということも関係あるかもしれません。全体的に謎解きが面白かったという記憶はありませんでした。とはいえ、「ふたご島からの脱出」は、実は最後の最後の謎が解けていません(笑)。最後の最後にたどり着くまでの謎は非常に難易度が低かったのに、最後の最後の謎だけはまったく何をするんだか分からなくて、諦めてしまいました。そこまで解ければまた違ったのかもしれません。

また「ふたご島からの脱出」の場合、『作業だなぁ』と感じることがとても多かったです。『謎解きをしている』というよりも、『作業を繰り返している』という感触がずっとあって、それであまり面白くなかったのかもしれない、という気がしました。

そして、第三弾の「十人の憂鬱な容疑者」です。これはもう、本当に素晴らしい出来でした!

まず、謎の難易度がまさに僕にピッタリという感じの設定でした。もう既に10回以上リアル脱出ゲームに参加している僕は、ある程度以上「SCRAPらしい謎解き」みたいなものが分かっていると思います。謎解きレベルは、第一弾・第二弾をやった時よりも上がっていると自分では思います。そんな僕ですが、この「十人の憂鬱な容疑者」では何度もつまづきました。でも、どの謎も、どうにかこうにかクリア出来るレベルのもので、その謎の難易度の設定が僕的には最高に素晴らしかったなと思います。

また今回のゲームブックは、謎とストーリーが非常に巧く絡み合っているように感じました。そもそもストーリーが、殺人事件の容疑者を探すという、小説なんかでも馴染みのあるものだったし、「記憶喪失になってしまった主人公が、過去のことを少しずつ断片的に思い出す」という設定が非常に生きたストーリー展開だったと思います。そして、その絶妙に作られたストーリーの中に、謎が非常に巧くはめこまれている。素晴らしいと思いました。

また今回の謎は、「いつ解けるか分からない」というモヤモヤ感を常に抱かせてくれました。これは、解く側としては本当に苦労しますが、謎解きを愉しむという点ではとても良い効果だったと思います。

謎が描かれたページにたどり着いても、「その時点」では解けなかったりする。けど、もちろん「その時点」ですべての条件が揃っていることもある。だから、あらゆる謎の場面で(特に、難しくて立ちどまった場面で)、「これは今解ける謎なのか?」という不安と常に闘いながらの謎解きで、これは面白いと思いました。なので、これからプレイする皆さん。「謎が解けない!」と思っても、もしかしたら「その時点」では解けない問題かもしれないので、一旦諦めて他のことをやると良いt思います。

また、提示の仕方が絶妙な謎がいくつもありました。ページ内に書かれている謎を解くだけなら非常に簡単なんだけど、「で?」「だからどうした?」となる謎が非常に多かったです。「今解けるのか分からない謎」に加えて、「謎は解けたけど、で何なわけ?という謎」もあって、非常に面白かったです。

これからプレイする皆さんは、とにかく、色んな情報を注意深くメモしておくことをオススメします。メモはとても重要です。どこにどんなことが書かれていた、というようなことがざっと分かるようなメモをとにかく残し続けると、やりやすくなると思います。

今回もまた、最後の最後が僕的には相当難しかったですけど、最後の最後を突破出来た時は「ウォー!」って感じでした。これは、凄いですね。どうなってるんだろう。僕がした「失敗」も書いてしまいたいけど、そういう具体的なことを書くと何か察する人がいるかもしれないんで、それも止めておきましょう。

しかし、内容にも謎にもストーリーにも触れられない状態で感想を書くのって、メチャクチャ辛いな。たぶんこんな文章読んでも、全然面白さは伝わらないよなぁ。謎解きは好きだという方、騙されたと思ってSCRAPのゲームブックをやってみてください。個人的には「人狼村からの脱出」と「十人の憂鬱な容疑者」がオススメですが、たぶん「十人の憂鬱な容疑者」よりは「人狼村からの脱出」の方が難易度は低いと思うので(たぶん、たぶん、たぶん)、やっぱり第一弾からやるのがいいかもしれません。

是非ゲームブックにハマって、それからリアル脱出ゲームにもハマってください。

代書屋ミクラ(松崎有理)

内容に入ろうと思います。
本書は、<北の街>にある「蛸足大学」(キャンパスが街のあちこちに散らばっていて蛸足のようだからそう呼ばれている)を卒業し、「代書屋」という聞きなれない職業に就いたミクラを主人公にした、5編の短編が収録された連作短編集です。
「代書屋」とは、その名の通り、研究者の代わりに論文を書く職業だ。ミクラの大先輩であるトキトーさんが独力で始めたもので、近年「蛸足大学」においてその需要は高まっている。
何故か。
それは、通称「出すか出されるか法」と呼ばれる学内法が出来たからである。これは、3年以内に一定水準以上の論文(これは、掲載された雑誌の被引用回数を元に算出される)を「出す」ことが出来ない研究者は、大学から「出される」という法である。学内の様々な研究者が戦々恐々とする規律であり、異論など様々あるのだが、当面どうにか乗り切らねばならない。その手段の一つとして、「代書屋」が活躍しているのだ。
まだ駆け出しであるミクラは、自身でも営業を掛けるが、トキトーさんから仕事を回してもらうことの方が多い。しかし、トキトーさんが回してくれる仕事は、どうも一癖も二癖もあるというか、厄介な依頼が多くて…。
またミクラは、依頼を遂行する過程で、魅力的な女性に出会って惚れてしまう。しかし、どうにもうまく恋愛に持ち込めないミクラはやきもきするばかり…。

「超現実な彼女」
応用心理工学科の多産型研究者からの依頼。芸術家や科学者の結婚後の業績を調べることで、結婚による業績の変化を調べるという研究で、同時多発的に色んな研究をしているから論文を書いている暇がないんだという依頼人であった。と同時に、その依頼人が新たに手がけているという「呪い」の研究が、これがまたなかなか面白そうなんである。
またミクラは、大学からの帰り道、花屋による。そこの名も知らぬ店員女性をどうにか口説こうとあれこれ頑張ってみるのだが、その女性のなんとも言いようのない反応にミクラは困惑させられっぱなしだ。

「かけだしどうし」
自身が若くしてハゲてしまい、そのために様々な不利益を被っているという研究者から、はげの利点を進化生物学的に証明しようする研究論文の依頼が来る。その研究者は、話を聞く限り代書屋を必要としない研究者に思えたが、「もしこの論文を自分で書いて、そして落とされたら、ちょっと立ち直れない」という理由で依頼があったのだ。
またミクラは、「ヒゲを剃らせてください」という珍しいカットモデルの話にノ乗り、理容店で働く女性と関わることになるのだけど…。

「裸の経済学者」
農業経済学の教授は、ありとあらゆることの費用対効果を計算し尽くしている細かな男で、代書屋を使うことでどれぐらい効率が上るかを確かめるために今回ミクラに論文の依頼をしてきた。研究は、人の善意を数値化出来るかというもので、田舎の野菜などの無人販売所の回収率を調査したものだ。
またミクラは、学内で大評判になっているあんぱんを食べてみた。あちこちに料金箱と一緒に置かれている無人販売スタイルで売られているが、ミクラは作っている女性としばしば神社の境内で会うことに。

「ぼくのおじさん」
なんだか色んなことがうまくいかなくてやさぐれたミクラは、思い立って実家に帰ることにした。船医をやっていてずっと帰っていなかった叔父さんも今ちょうど帰っているみたいだし。そしたら、そんな叔父からなんと論文代行の依頼が。医師免許を取った叔父だったが、本当は文化人類学者になりたかったそうだ。
またミクラは、18年ぶりに幼なじみに再開した。こっちに戻って働いているようだが…。

「さいごの課題」
反心理学講座の教授は、「紙に書いたら目標が達成される」という俗説の研究を10年掛けて行った。3年で成果を出すことを求められる「出すか出されるか法」のことは当然知っているが、もしそれによって大学を追放されても、自分は長期研究を止めない、と主張する男だった。
またミクラは、一風変わった喫茶店に入り浸ることになる。そこの店員女性の美しいこと美しいこと。しかも、最初の出会いの奇妙さに、ミクラはやられてしまったのだ。

というような話です。
デビュー作である「あがり」が超良かったので、こちらも読んでみましたが、こちらはまあまあという感じだったでしょうか。決して悪くはないのですけど、「あがり」で僕が好きだったなぁと思う部分とは違う方向性の作品だったので、僕的にはちょっと残念ではありました。
「あがり」にもミクラは登場します。恐らくこちらが初登場でしょう。「代書屋ミクラの幸運」というタイトルです。「代書屋ミクラの幸運」も悪くはなかったんですけど、やっぱり「あがり」の中の他の作品と比べたら印象は薄い作品なんですよね。
基本的に同じパターンの作品で統一されていて、この一作品であれば心地よいワンパターンという感じで作品を読めると思います。でももしミクラの話がもっとシリーズ化していくようであれば、このパターンだけでは辛いだろうなぁ。もうちょっと新機軸が欲しいところです。
本書は、「研究の部分」と「恋愛の部分」がなかなかうまく交じり合っている話なんだけど、どっちをより重点的に好きになるかは、読む人によるだろうなぁ。僕は、大学を中退してるんでちゃんとした論文を書いた経験がないんだけど、一応理系の人間だったんで、やっぱり「研究の部分」が面白いなと思います。
読んでいると、色んなものが研究になるんだなぁ、と思います。
まあもちろん、どんなものでも研究になる。ただ、色んなことに役立つと判断されるお金を集められる研究と、あまり役立たないと判断されるお金を集められない研究がある、というだけの話である。本書ではどちらかと言えば、お金を集められそうにない、あまり社会の役に直接は立たなそうな研究が多いですが、それでも、研究そのものはなかなか面白いと思います。特に、人の善意を数値化する研究と、世界中の結婚の人類学的調査は面白いと思いました。これらの研究は、既に世の中に論文が存在しているのかなんなのか、結構詳しく説明されるんですね。大学時代の知り合い(著者は東北大学理学部卒)とかから、こんな研究をしてるとか、こんな研究をやってる人間がいるよとか、そういう情報を集めたりしたのかもしれないなぁ。いずれにしても、研究の中身も疎かにせずにきちんと書いているところは素晴らしいと思います。
恋愛的な部分は、どうなんでしょう。女性作家が男の主人公を書いている、という点も何か影響があるのかもしれないけど、どうもググっと来るものが薄い印象である。とはいえ、ミクラは草食系っぽい男だし、恋愛の話が話のメインというわけでもないから、そこまでどうこういうようなことでもないんだけど。帯には「脳内失恋数えきれず」って書いてあって、確かに、行動に起こす前にフラれている(フラれていると思い込む?)ことが多いのですね。頑張れ、ミクラ!
あと、この著者は、こだわりなのかなんなのか、カタカナをまるで使いません。カタカタが出てくるのは登場人物の名前だけで、あとはホントに潔いほどカタカナは出てきません。「上衣」なんてなかなか使わない単語が出てきたり、恐らくノートのことだろうけど「帳面」なんていう表現も出てきます。が、これが全然違和感がないのですよね。普通こういうことをやると、全体的に違和感が出ちゃうんですけど、この著者の「カタカナを使わない」という方針は、作品全体の雰囲気を壊していない。「あがり」の時はむしろ、それが作品全体の雰囲気を効果的に生み出してさえいたとも思います。本来であればカタカナで登場するはずの単語がどんな言葉で出てくるのか、そんな楽しみ方も出来るかもしれません。

松崎有理「代書屋ミクラ」


脱北、逃避行(野口孝行)

内容に入ろうと思います。
本書は、商社など企業に勤めていたものの、北朝鮮からの脱北者の問題に関心を持ち退職、脱北者支援のNGO(本書の中では「基金」と呼ばれている)で活動を開始し、中国国内を3000キロ移動、ベトナムルートで逃避行を続けた経験を持つ著者によるノンフィクションです。

『彼女たちには、安全で自由な環境の中で幸せを感じてほしい。そのためなら、私の身にどんな危険が降りかかろうとも構わない。私はジョンスンの横顔を眺めながら、そんな使命感に駆られていた』

本書の中には、こういう表現が幾度も登場する。著者は、本当に心の底から北朝鮮の問題に強く関心を持ち、心を痛め、自分を犠牲にしてでも脱北者の役に立ちたい、という強い気概のようなものがひしひしと伝わってくる。そんな著者だからこそ、アルバイトを続けながらお金にならないNGOの活動を続け、あまつさえ、ひと度発覚すれば中国の公安に捕まってしまう危険な任務を、自ら引き受けるのだ。
しかし、何故中国国内の危険は移動なのか。
北朝鮮からの脱北者は、国際的には「難民」という扱いが妥当であるらしい。中国もそれに関する国際条約を批准しているため、表向き脱北者の支援をしなくてはいけない国のはずだ。
しかし中国政府は、脱北者を「難民」ではなく「不法入国者」と捉え、厳しく取り締まっている。
昔からその傾向はあったらしいが、より厳しくなったのは、2002年3月に実行されたスペイン大使館への大規模な駆け込みからだ。
脱北者を救助する道は、隙を見て大使館に駆け込むか、あるいは脱北者支援をしている国まで「不法入国」を繰り返しながら辿り着くしかない。それまでも小規模な駆け込みは何度も行われていたが、2002年のスペイン大使館の駆け込みは周到に計画されたもので、CNNのカメラマンによって密かに撮影され、その様子が全世界に放映された。
計画者は、これによって中国に圧力を掛け、脱北者支援へと転向させようという目論見だったらしいが、中国政府はまったく別の方向に動く。脱北者の取り締まりをさらに厳しくしたのだ。スペイン大使館への駆け込み以前は、大使館への駆け込みが脱北者を救う安全なルートだと思われていたのだが、それ以降、大使館ルートは絶望的な手段と見られるようになった。実際著者が偵察のために大使館周辺をサイクリングした際に見たのは、驚くべき光景だった。大使館周辺を鉄条網などでものものしく囲ったり、中国の公安警察がパスポートチェックをしていたりする。大使館ルート以外の脱北者の取り締まりも、厳しくなったようだ。
そんな事情で「不法入国者」と捉えられている脱北者たちを救い出すためには、「不法入国」を繰り返して第三国にたどり着くしかない。かつては、モンゴルルートが有望だったが、現在有望なルートはベトナムルートであり、脱北者が多く住む中国北部から3000キロという長い距離を逃げ続けなくてはならないのだ
そんな脱北者支援を、中国には好きで何度か行ったことはあり、色んなところをバックパックで旅行したことはあるが、中国語が喋れるわけでもなく、このようなミッションに従事したことがあるわけでもない著者が行うことになったのだ。本書の前半は、その逃避行をいかに成し遂げたか、という話が描かれていく。

『むしろ淑子が窮屈に感じたのは、「選択の自由」がないことだった。自分のやりたいと思うことができず、常に限られた選択肢の中から自分の道を選んで生きていかなくてはならない。北朝鮮で生まれ育った人間であれば、それも当たり前のこととして捉えられるのかもしれない。だが、十七歳まで日本で生きてきた淑子には、選択の自由がないことはとてもつらいことだった』

初めて脱北に手を貸した元在日朝鮮人の実感だ。「地上の楽園」と言われ北朝鮮に戻った一家だったが(淑子は戻りたくなかったらしいが)、やはり帰還後相当な苦難に襲われることになる。日本語が達者な淑子とは、日本で良かったことや北朝鮮で辛かったことなどよく話をした著者だったが、ポツリポツリと語られる北朝鮮の悲惨さは、やはり尋常ではないと感じられた。

『黒竜江省の片田舎の朝鮮族の村で、私は国籍というものについて改めて考えさせられていた。日本で生まれ育ち、日本語が達者な金姉妹だが、彼女たちが生まれ故郷の日本に帰るためには、大使館への駆け込みをするか、何千キロもの距離を移動して中国から脱出するほか手段がない。その一方、北朝鮮で生まれ、そこでしか暮らしたことがなく、つい四週間前に脱北してきたばかりに順姫には、日本政府による保護が約束されている。こうした違いが生じるのは、順姫の父親がたまたま日本人だったからというたった一つの事実によるものだった』

『国境を前にすると、私という人間は、平凡な一個人から、突然「日本人」という立場に「格上げ」される。そして何の苦労をする必要もなく、さらには「日本好」などという言葉まで投げかけられて、悠々と国境を越えていくことができてしまうのだ。対して淑子たちはどうだろうか。国境を前にした彼女たちは、いきなり「北朝鮮人」という身分に「格下げ」され、表玄関から出入りすることを許されずに、山道を越えて国境をわたらなくてはならないのである。
私にとっての国境は、いつだって日本人であることに誇りを感じさせてくれる場所だった。またそう感じさせてくれる日本という国に感謝する場所でもあった。誰にとっても祖国というのは、国民に感謝され、誇りに感じられる存在であるべきだと思う。』

著者は脱北に関わる過程で、日本で日本人として普通に生きている時には決して考えないようなことを様々に感じ取る。国籍や国境という、人間が生み出したささやかな線引が、人間の運命を瞬間に翻弄する場面を幾度も見ることになる。本書には、様々な場面でそういう「違い」が描写される。それも読みどころの一つだろう。
一度目の脱北者支援では無事ベトナムのシェルターに脱北者を送り届けることが出来た著者だったが、次で失敗してしまう(この失敗の場面は、冒頭で描かれる。この構成も巧い)。そして、脱北者支援に関わったということで公安に拘束され、その後何と逮捕されてしまうのだ。

『それまで脱北者支援に関連して拘束されたことのある日本人は、「基金」の加藤さんと「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」の山田代表の二人だった。いずれのケースにおいても所属団体が記者会見を開、中国政府に対して早期の釈放を訴えた結果、一週間から三週間ほどで釈放されていた』

しかし著者の場合、異なる展開を見せた。脱北者支援に関わった日本人の三度目の拘束だったからだろうか、中国公安警察も態度を硬化させ、結局著者は243日も勾留されることになってしまった。本書の後半は、著者の留置所生活を事細かに描き出している。
こちらの話も非常に面白い。まさに「ザ・中国」と言いたくなるような何でもアリ、無法地帯っぷりが次々と描写されていくのだ。著者は、非常に劣悪な環境に置かれるのだけど、二度と無いチャンスだと思い、同房の人間や留置所内のルールやしきたりなどを観察していくことになる。
金があればどんなことでも通ったり、普通に酒が買えたり、そんな酒を持ってきた看守が「お前はもうすぐ日本に帰れるんだから、酒でも飲んで楽しんでいけよ」と声を掛けるなんて、なかなか日本では考えられない。さすが中国である。中国語が喋れない著者は、コミュニケーションに酷く苦労するが、筆談を交えながら同房の人間と会話をし、どんな容疑で収監されているのかや、何故こんな仕組みになっているのかなど、非常に詳しく聞き出していく。その実態は非常に面白く、一度も中国に訪れたことがない僕だけど、「中国らしいなぁ」と思わされる様々なエピソードに笑いそうになってしまった。
著者は収監されてからも、恐らく強制送還されてしまっただろう脱北者の身を案じたり、自分のミスを責めたりする。「自分はどうなっても、日本人だから最終的には日本に帰れる。だから、脱北者にとって最善の方法を取って欲しい」と、様々な手段で外部に伝えようとするところなど、凄いなと思う。著者が中国公安警察に拘束されたことは、日本でも大きなニュースになり、かなり立場が上な人も著者がいる留置所まで足を運んだと後から聞かされたらしいが、外の情報がまったく入ってこなかった著者は、そんな騒ぎもまったく届いていなかった。そういう情報が耳に入ればもっと心強かったかもしれないが、著者はどうにか自力で気力を立て直し、243日という長丁場をどうにか乗り越えていく。
著者の経験が単なる「獄中記」とは違うのは、著者が収監された理由が「胸を張れるもの」だったことも大きいだろう。著者自身は、結果的に中国の法律を犯すことになったものの、自分が悪いことをしたという認識はない。だからこそ、自分の境遇に絶望しすぎることもなく、また読者もそんな著者の様子を、むしろ応援するような気持ちで読めるのではないかと思う。
脱北者支援のための逃避行、そして公安警察による拘束と留置所での生活という、なかなか特殊で稀な経験をした著者の迫真のノンフィクションです。著者は、これほどの体験をしたというのに、まだ脱北者支援に関わるつもりだと表明している。凄い人だと思う。改めて、北朝鮮、そして中国という国について考えさせられる作品でした。是非読んでみてください。

野口孝行「脱北、逃避行」


緑のさる(山下澄人)

こういう小説を読んで「分かったようなフリ」をすることは、まあ出来ないわけでもない。分かったようなことが言えた方がカッコイイような気もするし、というか割と僕は、こういう小説を「分かった!」と言えるような人になりたい願望があるから、「分かった!」って言っちゃいたい欲求はやっぱり強いんだけど、
ん、でも、やっぱり、分かんないなぁ。
まあでもこの小説読んでて思うのは、分かんなくてもいいんだろうなぁってことで。分からせようとしていないし、そもそも「分かる」ための枠組みを外すところから始めているようなところがあるから、まあ分からなくてもいいよねって思ったりする。
別に難しいことを書いてるわけじゃないから、余計そう思うのかも。本書の中には、保坂和志との対談が載ってるリーフレットみたいなのが挟まってるんだけど、そこには「子供が書いたみたいな小説」みたいな表現があった。確かに。「太陽はオレンジ」とか「虹は七色」みたいな、決まりきった先入観を持ってない子供が書いた絵みたいな気がする。それはやっぱり、見てても「よくわかんねぇなぁ」ってなるような気がするんだけど、好きな人は好きになるだろうし、「分かった!」って思う人は思うだろうし、まあ色々だよね。
みたいな感じのする小説。
内容小説は、無理だなぁ。内容とかあらすじがどうとかっていう小説じゃ、ないもんね。断片をつなぎ合わせました、みたいなイメージ。そういう意味で言うと、万華鏡っぽいかも。万華鏡って、例えば誰かが「ねぇ見て、今の万華鏡の模様凄い!」とか言って渡してきても、やっぱりどうしても、その人とまったく同じ模様は見えないわけで、この小説も誰かに「凄く面白いから読んで」と言われても、その人と同じものは見えないんだろうなぁ、という気がしたりする。
保坂和志との対談の中で、「つじつまを合わせようとしていない」という表現が出てきて、それが本書を表すのに一番しっくりくる言葉だなと思う。そう、とにかく、「小説」という形につじつま合わせをする気が著者にはない。全然、つじつまが合わない。はっきり言って、無茶苦茶だと思う。特に、視点の揺らぎが凄い。瞬間的に場面が変わるし、一文の中で視点が変わった時は驚いた。Aという場所に男はいるのに、その男がBという場所から見ている光景を描くとか、「わたし」が二人いて、片方は砂浜で横たわっていて、片方は動き回っていて、その両方の視点が同じ「わたし」で表現されるとか、なんか凄いなという感じである。斬新。
そういう部分をどう評価するかによって、作品の受け取り方が変わるだろうと思います。僕は、決して嫌いではないけど、でも好きかどうかもよくわからない、なんとも言えない感じです。僕の中でこの作家は「評価不能」という分類がされていて、そしてなんとなくだけで、永遠にその分類から出てこないんじゃないかなという気がします。
なんというか、ホント、不思議な小説でした。

山下澄人「緑のさる」


はじめからその話をすればよかった(宮下奈都)

エッセイをたくさん読んでいるわけではないからサンプリングの問題かもしれないけど、僕はエッセイというのは「思考」を切り取るものなんだと思っていた。どんな形で始まろうとも、エッセイというのは、自分の考えていること、妄想していること、そういうものを表出させるものなんだと思っていた。
宮下奈都のエッセイを読んでいて、「あぁ、こんな風にエッセイを書ける人がいるんだな」と感じた。僕にとっては、非常に新鮮なエッセイの読後感だった。
「思考」を切り取るエッセイは、起点か終点のいずれかが必ず「思考」だと思う。「経験」を起点にして「思考」に着地させるか。あるいは「思考」を起点にして「思考」に着地させるか(なかなか、「思考」を起点にして「経験」に着地させるエッセイというのはなさそうだけど)
宮下奈都のエッセイの特長は、「経験」を切り取っているという点だと思う。宮下奈都は、「経験」を起点にし、そして「経験」で締めくくる。旅行記や食べ物エッセイなど、テーマに一貫性のあるエッセイであれば、徹頭徹尾「経験」だけで文章を書けるかもしれない。しかし、そんな一貫性のあるテーマもない、そのままの「エッセイ」で、ここまで「経験」を切り取ってみせることが出来るエッセイというのは初めてかもしれない。
丁寧に生きているんだろうなぁ、と思った。こんな文章を書ける人は、いやこれは文章の話ではないのだ、こんな「経験」を切り取ることが出来る人は、日常をとても丁寧に生きているんだろうなぁ、とおもった。なんとなく、風呂敷を連想した。風呂敷で大切そうにそっと包まれる、あの感じ。別に風呂敷は気取ってるわけでも、おしゃれなわけでもない。無骨なまでに、日常を支える道具である。しかし、風呂敷で包まれているというだけで、どうしてか「丁寧な感じ」が生み出されるような気もする。その丁寧さが僕の中で、宮下奈都が過ごしているだろう日常の丁寧さに結びついた。
実際、本書を読んでいると、表面上は宮下奈都の日常は「丁寧」には見えないかもしれない。何度も繰り返し「お風呂に入ることが好きではない」と書き、「料理に情熱を注ぐことをやめた」と書く。赤子を部屋に置いて「ヒカルの碁」のためにジャンプを買いに行きもする。しかし、僕が言いたいのは、そういう丁寧さではない。もっと深いところ、目に見えにくいもの、手触りを感じにくいもの、そういうものを感覚をして受け止め、決して安易に流さず、一旦自分の内側に留めておく。丁寧に生きてない人の内側をするりとあっさりと通り抜けてしまうものが、宮下奈都の内側ではしばらくじっと留まる。宮下奈都が、その微かな予感に無意識に敏感でいるからだ。見逃さない。自分の内側で、自分が無意識の内に掴みとったものがなんなのか、自分の意識がまだきちんと理解していない時から、その輪郭を捉えきれていない時から、宮下奈都はその存在の「大切さ」を直観する。直観するように見える。そうでなければ、これほど「経験」に依ったエッセイは書けないと思う。その丁寧さがなければ、これほど日常の些事を、普通の人であれば流してしまう平凡さを、「経験」に変換することなど出来ないと思う。それがこのエッセイの凄さだと、僕は思っている。
彫刻や絵画のような芸術作品に近いものがある。宮下奈都のエッセイは、「思考」を提示するものではない。まったくないわけではないけれど、宮下奈都のエッセイには、「思考」からくる「主張」がないように感じられる。宮下奈都が言いたいことは、何もない。しかし、意識的には言いたいことがまったくなくても、「何か」はその中に込められる。意識的に込めたものであるかはともかくとして。しかしその何かは、目立つような形では提示されない。それが、彫刻や絵画に思えた。彫刻や絵画も、作成者によって意識的にしろ無意識的にしろ、「何か」は込められることだろう。しかしそれらは、パッと見てわかるような形で提示されるようなものではない。受け取る側が、自分で勝手に掘り出すしかない。そういう態度を要求するようなエッセイだ。いや、違うか。宮下奈都がそれを要求しているわけではない。読む側の背筋が、自然と、スッと伸びるような感じだ。いや、それも違うか。そんなに気負って読まなくてはいけないようなエッセイではない。心の背筋がスッと伸びる、ぐらいに書いておこうか。
宮下奈都は、カメラで撮って編集するかのように、自らの「経験」を切り取ってエッセイに仕立てる。映画は、必要となる映像を撮って、それらを繋げればいい。しかし宮下奈都は、「自分の経験」という限られたストックだけの切り貼りで何かを生み出さなくてはいけない。そのハードルの高さ。しかし宮下奈都は、そのハードルを乗り越えて、じんわりさせるエッセイから、オチがちゃんとついたエッセイまで描き出していく。正直、自分や自分たちの経験を、あんなにエレガントにエッセイに仕立て上げられるものか、と感心した。タイトルを書こうと思ったけど、止めておこう。正直、何も知らないまま読んでもらう方が面白いだろう。しかし、「待合室のヘルムート・バーガー」は、読んで、なんとなく、ズルいと思った。なんかズルいぞ、これ!
凄いなと感じるのは、映画や音楽や本の感想でさえ、「経験」が先行するということだ。これは、僕には尋常ではなく思える。日常を扱ったエッセイであれば、「経験」が先行することは当然だ。しかし、映画や音楽や本の感想である。いや、正しくはこれは「経験」とはいえないだろう。実際の宮下奈都の「経験」ではない。しかし、宮下奈都は、映画や音楽や本に書かれた「経験」を、自らの「経験」であるかのように消化しているように見える。自身の体験なのだ、という強い思いが、その文章を書かせているように感じる。いや、これは僕の誤解かもしれないけれども、まあそう感じるんだから仕方ない。
個人的に、一番「うぁー」と共感してしまったのは、パンの話だ。

『しばらくして焼きあがったパンを出したら、お客さんは一瞬戸惑ったような顔を見せた。それから急いで、おいしそうですね、と笑った。はっとした。子供心にも、気遣われていると感じた。これはパンではないのだと思い知らされた瞬間だった。
父はたぶん何も気にしていなかっただろう。でも、私には世界がぐらりと傾ぐような事件だった。それからの私はパンを守ることに心を砕いた。これはパンではないと、たとえば弟が言い出さないように、頑なにパンをパンだパンだと言い続けた。まるでサンタクロースの正体を知った子供が、必死にサンタクロースを信じているふりをするみたいに』

「私はパンを守ることに心を砕いた」というのは、本当によく分かる。そう、同じ状況に直面したら、僕も同じように「パンを守ることに心を砕」くことだろう。間違いない。だって、そうするしかないのだから。それ以外に、自分と周囲との整合性を保つ方法はないのだから。そして何よりも、こういうささやかな瞬間をきちんと覚えているということが、僕には驚愕だ。自分にも、きっと同じような体験はあっただろう。あったなぁ、と思うからこそ、この場面に過剰に反応したのだろうと思う。しかし、具体的な出来事はまったく思い出せない。まったく、情けない記憶力なのである。

『ただ、専業主婦だった三十七歳でデビューしたからこそ、逃げちゃいけないことがあるとおもった。この小説の主人公の梨々こは三十代の専業主婦で、子供がいて、地方に暮らしていて、特別な趣味も特技もない。非常に小説の主人公になりにくい人物だ。でも、梨々子を書くのは私だ、どんなに書きにくくても書くのは私しかいない、という意気込みがあった。なぜなら、梨々子が生きている確信があったからだ。たくさんの梨々子たちがひっそりと生きている。普通の、平凡な、取るに足らない、ささやかで偉大な人生を、そうと気づかずに生きている。私はそれを知っているからだ』

本書には、宮下奈都による自作解説も載っていて、今引用したのは「田舎の紳士服点のモデルの妻」への自作解説からのものだ。僕はこの「田舎の紳士服店のモデルの妻」が凄く好きだ。宮下奈都は「私の書いたものの中で最も好き嫌いの分かれる小説だ」と書いているが、男で、しかも結婚もしていないような僕が、この作品に共感できてしまうのは、僕自身も不思議だった。ただ、性別や環境はともかくとして、「普通の、平凡な、取るに足らない、ささやかで偉大な人生を、そうと気づかずに生きている」人間という共通項が、共感をもたらしたのかもしれない、とこの文章を読んで思った。

『あたりまえのことをあたりまえにできないときもある、と気がついたのはずいぶん経ってからだ』

『もうこれで終わりなのだと、そうはっきり感じることができるのは若さの特権だと思う。痛々しく、残酷な特権だ。泣きながら、さようならと手を振ることができるのは若いからだ。いくつもの人や物事との決別を々、人は年を重ねていく。
年を取ると、さようならにも甘さが混じる。いつかまた会える、と心のどこかで思っている。あるいは、もしかしたら会えないかもしれないけれど、それでも日々が続いていくことを知ってしまった。
ある年齢を過ぎてからは、終わりだか終わらないんだかその辺りの境界が曖昧になった。どんなときも、まだ次がある、次はきっと来る、と思えてしまうのだ。そんなわけはないのに。次は、ない。今しかない。だからこそ、失ったときに痛烈なのだ。その痛みを緩和するために人は少しずつ鈍くなっていくのかもしれない』

こういう、言語化しないレベルの、未分化のままの感覚としてなら誰もが感じているのだけど、きちんと言葉に落としこむところまではやらないような、日常のどうということもない些細な気付きを、きちんと言語化するような文章は、とてもいいなと思います。
エッセイというのは、エッセイ単体で読まれることというのは非常に少ないかもしれない、と思う。大抵、「旅行記」や「食べ物」などの面白そうなテーマに惹かれるか、あるいは著者自身に元々関心があるかというのが入り口だろう。「エッセイを読みたいんだ」という衝動は、なかなかないかもしれない。人によって感じ方は様々だろうが、僕は、本書は、エッセイ単体で読める作品ではないかと思います。著者への興味からエッセイに手を伸ばすのではなく、文章や視点の面白さから著者の世界に関心を持つことが出来るような、そんなエッセイではないかと思います。是非読んでみてください。

宮下奈都「はじめからその話をすればよかった」


スタッキング可能(松田青子)

『普通』というものへの、静かな、でも確かな、どっしりとした、揺るぎない、確固たる怒りが、この作品の中には閉じ込められている。
素敵だ。
ホントこの作品は、「自分は人とは違うんだ!」と思ってる、僕みたいなクソ野郎にはもの凄く共感されるだろう。

『それが当たり前だとどこでそう思ったのか知るよしもないが当たり前だと思い込んでいる男たち、そいつらに合わせてるんだかそうじゃないのかわかんないけど同じ思い込みの中にいる女たちの中で、そうしない女がいることを体現してやると心に決めた』

『こいつらはなんでいつも何の疑問もなく自分たちが普通だと、自分たちがデフォルトだと信じ込めているのか。ただの脈々と続いてきた空気でしかないものを分厚い百科事典でもあるかのように鵜呑みにしていられるのか。ありもしない辞書を信じていられるのか。』

その通りだ。「その通りだ!」と叫んで歩きまわりたいぐらいその通りだ。僕が、昔から今に至るまで、どんな時間、どんな場所、どんな関係の中にいても連綿と永遠と常々感じてきたことが、この小説の中で様々な形で、断片がコラージュされるかのように、不思議な色合いと共に描き出されていく。
そう、その通りなのである。
僕自身、『普通』というものへの怒りは、常に保持し続けている。なんでそんなわけのわからんことが『普通』としてまかり通っているのか、理解できない場面が世の中には多すぎる。おかしいよね?普通じゃないよね?みんな狂っちゃってるのかな?なんか、そんな風にしか解釈できないような場面が、頻繁に、本当に頻繁にあるのだ。
それは、上司がオラウータンに見えてしまうぐらいの、すべての会話をコージーミステリーのセリフに書き換えてしまうぐらいの、意味不明な日常だ。脈絡がなく、繋がりは断たれ、論理も関係もなく、ただ「大勢がそう捉えているから」というだけの、「なんだそりゃ!」と突っ込みたくなるような理由だけで、あらゆる『普通』が決まっていく。

『「わたし」はいつか自分はがっかりしない男の人に出会えるんだろうかと想像してみた。望み薄だな』

そう、望み薄だ。

『こんなにみんな同じだと思わなかった』

そう、思わなかった。

『どうも自分はうまくやれない。この世界が居具合が悪い。理由なんて別にない。もう幼稚園からわかっていた。友達の、同級生の、周りにいる人たちの、話している内容が理解できない、意味がわからない、面白いと思えない。なぜどうでもいいことをいちいちずっとしゃべっているのか。それに合わせるとすごく疲れる。本を読んでる方が、映画を見てる方が面白いよ。だから学生時代はとにかくずっと地獄だった。こんなに惨めで逃げ場がなくて、これは本当に、冗談じゃなく、バトルロワイヤルだった』

まったく同じ気持ちで子供時代を過ごしてきたという自覚が僕にもある。あぁ、わかるわー、って感じ。そうそう、バトルロワイヤルだった。すげぇ大変だった。それはもう大変だった。だって、意味わかんなかったもんなぁ。色々。とにかく。何もかも。僕は何よりも、みんなが「おかしいと思っていないこと」に驚愕していたような気がする。昔は自分だけがおかしいのかと思ってビクビクしてた。今は、僕も含めたみんながおかしいんだなと思えるようになって、昔よりは穏やかでいられる。

『彼らより、誰より、私が一番ここにいない』

そう。僕もいない。みんなの『普通』の中で生きていくためには、自分の存在をなくす以外の選択肢は、僕には取りようがなかった。「あなたがたに全面的に合わせますよ」というスタンスをいつ身につけたのか、それはもうわからないけど、もうそれが僕の個性になった。そうなる前の自分のことなど、もう思い出せない。「僕」は、その時に捨て去ったのだろう、きっと。それで良かったのかどうかは分からないけど、どうにか『普通』の中で生きていく術を見つけることに成功した。

『同志がいるようで、D田はD山とすれ違うと少し嬉しかった。飲み屋で愚痴をこぼし合ったり、恋バナしているような関係よりも、もっとずっと同志みたいな気がしていた』

なんかそれは、わかるような気がする。つまり、「自分と理解し合える人」は、自分が関係している人の中にはほとんどいないのだ、という事実からの願望だ。自分が関係していない人の中に、「自分と理解し合える人」がいるのではないか、という期待。その期待が、すれ違う人間を「同志」と思わせる。

『どうしてただここにいられないの。どうしてずっと女だって、自分は女だって意識させられないといけないの。どうして仕事と関係ないところで、いつも居心地が悪い思いをしないといけないの。どうしてそれを含めて仕事みたいな部分があるの。どうしてありがたく思わないといけないの。少しもありがたくねえよ』

女性の方が、こういう『普通』という存在からの抑圧は強そうだろう。そう思うからこそ、女性というのは凄いなと僕は思う。男にも『普通』からの抑圧はあるが、きっと女性ほどではないだろう。女性には、当然同性からの圧力もあるが、同時に、社会からの圧力も強い。当然だ。社会は男が作ってきた、という残滓みたいなものが残っているから、その社会の中で生きる女性には、「男が作った社会」というものからの抑圧も含まれる。大変だ。ご苦労様である、女性のみなさん。

『なのに他人同士が同じ家に暮らすことになると、それらの行為の総体が急に家事になる。突然深刻味をもって目の前に立ち上がってくるのだ。家事は立体だ。その途端、分担だの負担だの考えなくてはいけなくなる。そのうちどちらかに自分の方が家事を多目にやっているなどという不満が芽生えはじめ、それが諍いの原因になり、二人とも疲れてしまうような、そんなの合っているのだろうか。結婚しなければ、皿を洗うという行為は純粋に皿を洗うという行為であるのではないか。私は皿を洗うという行為を家事になんてしたくない。私たちは皿洗いを家事にせずにどこまでやっていけるだろうか。いや、やっていけると思っているからこそ、もうすぐ結婚する女と結婚しようとしているのだが』

こういう男も、世の中のどこかにはいるはずだから、女性の皆さんはあまり絶望してはいけないと思いますですはい。

本書は、「スタッキング可能」という中編と、あといくつかの短編で構成されているのだけど、それらの内容を紹介することも、引用した文章がどこからのものなのかも書かなかった。たぶんこの作品の感想では、そういう感じが相応しいと思う。この作品は、「小説という枠」を外せる人向けだと僕は感じる。小説らしい小説さを求める人には、きっと不向きだろう。内容紹介が向かない作品でもあるし、作品ごとに区切る特別な意味を見出すことにも意味がないかもしれない。どの作品も、始まりもなく終わりもないような描写の積み重ねであって、個人的には、どの話も、終わらないまま延々とそのテンションのまま物語が続いていってくれたらいいなと思った。小説という枠組みを物理的に外してしまえば、そういうことも出来るかもしれない。まあ、「本」という物理的な形に落としこむのであれば、始まりも終わりも必要になっちゃいますけどね。
「ウォータープルーフ嘘ばっかり!」というフレーズの見事さ、そして「自宅ネイル派」という単語と、それに対する違和感。「パンツ」や「マスカラ」への疑問など、日常を楽しくささやかに拡張してくれるその視点は見事だと思いました。「自宅ネイル派」は、いいなぁ。確かに、この単語には、ささやかな見栄とか意地が込められてるよなぁ。
小説としてどうかということは、僕には判断出来ませんが、読んでいるととにかく、書いている人に強い関心を抱くようになります。やっぱり著者も、『普通』というものに苛立ちを感じているのだろうか(そうじゃないと、こんな作品は書けないだろうけど)。もしそうなのだとしたら、勝手に著者のことを、「同志」と認定させていただきたいと思います。「小説」ではなく、「新鮮な視点」と「言語体験」を楽しむ作品だと捉えて手にとってみてください。

松田青子「スタッキング可能」


考える人 2013年夏号 No.45 特集:数学は美しいか(新潮社)

「数学は美しいか」

そんな問いかけに対して、本書にはこんな文章がある。

『数学は美しい、美しければ愉しい。数学の美しさは、人間の考えの美しさだよね。絵画の美しさは感性だし、小説の美しさは人間性だけれど、数学というのは、理性の美しさだと思う』

『音楽や絵画の美しさは分かりやすい。美しい音色を耳にすれば思わず心が踊るし、美しい色彩を前にすれば目も嬉しい。ところが、これが数学となると、そうは行かない。美しい論文を前にして、素人が思わず息をのむなんてことは、まずない』

「考える人」という雑誌は、様々な広い意味での「思想的なもの」を取り上げる雑誌、という漠然とした印象しか持ってないのだけど、ある号(これは現時点での最新号ではない)の特集が「数学は美しいか」だったので、これは買うしかないと思って買ってみました。というわけで、時間もなかったので、この雑誌の特集の部分しか読んでいません。それ以外の部分はまた時間がある時にでも。
さて、100ページ弱ある特集で、どんなものが取り上げられているのか、ざっと書き出してみます。

円城塔へのインタビュー
伊東俊太郎へのインタビュー
人工知能と数学
渡しが世界で一番美しいと思う数式・証明
岡潔について
筑駒中高数学科研究会の活動
超難問を解いた天才数学者たち
東大の入試問題は美しい
日本の和算の結集:算額
東大折り紙サークル:Orist
数学本の案内
テレンス・タオの素数研究

取り上げられているすべての内容に触れたわけではないけど、大体このような感じの特集内容になっています。円城塔がどうして?とか、折り紙って数学なの?とか、算額って何?みたいなことを思う方もいるかもしれませんね。

『数学者は紙と鉛筆さえあればいいというのは間違いで、ほかに図書館と旅費は必要なんです。今、大学改革で「紙と鉛筆があればいいんでしょう」という扱いを受けて、えらい目に遭っていますけれど。』

円城塔は、「一般の人の数学者へのイメージ」を補正しつつ、20世紀の数学を先導したヒルベルトとコルモゴロフの二人の数学者について話をします。

『物理だと物理の全文やを知らなくてもなんとかなりますが、数学者は、得意不得意はあっても基本的には数学のすべてが分かっていて、筋道さえ踏めればどんなものでも理解する仕組みができているものなんだと、はっとしました。専門が枝分かれしても、その間をつなぐ作業も頻繁に行われている』

『数学者は、生涯、ひとつの分野で定理の証明に身を注ぐというようなイメージがあります。でもそれは違います。孤独に作業して誰も読まないような論文を書いているというシステムはありえません。お互いに情報交換をしながら、意味のある活動を繰り広げ、それなりの成果もちゃんとアウトプットしていくという業界なんです』

『だから閉じこもって一人でこつこつできた人は、ほとんどいません。このような奇抜なエピソードの持ち主はほんのひと握りです。全員がそんなわけないんです。まず生きていくために環境を整える必要があるし、仕組みをきちんとまとめなければならない』


円城塔のインタビューのタイトルは「天才数学者は、変人とは限らない」である。数学者の伝記などは、やはりどうしても、ひと握りの超絶的な変人ばかりに目が向く。ガロア、ラマヌジャン、ペレルマンなどなど。しかし円城塔は、それは圧倒的少数派だという話をする。そしてその流れで、ヒルベルトとコルモゴロフという二人の「常識的な天才数学者」の話をする。

『オイラー、ガウスは当然偉大ですが、いかんせん昔の人です。20世紀数学の展開というのはものすごいものでした。それを自らの業績とマネージメント力で主導した人物として、ヒルベルトとコルモゴロフには凄まじいものがあります。マネージメント力とは組織する力です。』

『抜群に数学能力があり、さらにリーダーとして仕切れる人材となったら、それはもう前面に立てますよね。ヒルベルトは運営と政治ができてしまうために、変人枠に入っていないようですが、この異能ぶりは十分に変人です』

『コルモゴロフは、様々な理論を手がけながら、学校を作るというパブリックな行動もします。そういったことを、ほかの数学者の何倍もの業績を上げながら並行してやるのが、すごいところです。かなり特殊な能力ですよ』

数学界の巨人として、ヒルベルトの名前は知っていたし、よく本にも出てくるのだけど、コルモゴロフのことは知らなかった。ただ本書には、彼が生み出した教育システムが、後に、「ポアンカレ予想」を証明することになるペレルマンを生み出したとあるから、「完全なる証明」(マーシャ・ガッセン/文春文庫)を読んだ時に出てきたのかもしれない。

インタビューアーは最後に円城塔に「円城さんだったら、ヒルベルトやコルモゴロフに会いに行きますか?」という質問を投げかけるが、これに対する返答が面白い。

『いや、行かないでしょうね。だって、彼らの時間を有効に使う道がわからないですから。能力差が大きすぎるので、彼らの時間を邪魔しないようにしようと考えます』

『岡潔という数学者がいる。大学時代に「計算も論理もない数学をしたい」と言って、仲間を仰天させた人である。並の数学者ではない。その生み出した数学があまりにも広大なので、海外では”Oka”といえば数学者集団のことだと信じきっていた人もいるぐらいだ』

名前だけはよく聞くのだけど、どんな数学を生み出したのかも知らないし、伝記の類も読んだことがない、僕にとっては未だに謎めいた数学者である。とにかく凄い人物だったようで、ある本の著者略歴に、「世界中の数学者が束になって掛かっても手も足も出なかった3つの難問をたった一人で解いた」というようなことが書かれてあるのを見た記憶がある。凄まじい。
そんな岡潔は、「情緒」というもので数学を解そうとしたようだ。著者も、外国人に「情緒」を説明しようとした時に、英語ではどうにも伝えにくかった、という経験を書いている。本書では、「情緒」について説明する過程でまず、脳と数学の関係について触れられる。

『脳には「数学をするための部位」などもちろん用意されてはいない。数学をするときには、数学をするために進化してきたわけではない様々な脳の機能とともに、身体や環境のはたらきを総動員して、なんとか間に合わせているのである。38億年の生命史のなかで「36×73」を計算しなければならない場面などかつては一度もなかっただろうから、脳からしてみれば「聞いてない」というのが正直なところだろう』

『もちろん、脳そのものが構造的に進化をしているわけではない。3000年前といまとでは、ヒトの脳構造はほとんど変わらない。ところが、3000年前にはほぼ誰にもできなかったであろう二桁どうしのかけ算を、いまなら教育を受けたほとんどの人が、難なくやり遂げる。それだけ数学が洗練されたということである。実際、筆算のアルゴリズムは実によく脳の欠陥を補っている』

このように、人間の脳は計算や論理に特化しているわけではないことに触れ、人間が計算や論理を扱うことが出来るのは、脳の外側にあるもの(数学が洗練されてきた歴史であるとか、各種アルゴリズムとか)が重要なのだと主張する。そしてその発想で「情緒」を捉えようとする。

『計算や論理が苦手な脳だからこそ、それを支える優秀な外部が要請される。本来は数学をするには不都合な脳だからこそ、数学的思考はいとも容易く脳の外へ漏れだしていく。
「数学の研究は、情緒を数学という形に表現しているのです」と岡潔は言ったが、認知科学の観点からすれば「数学の研究は、環境に漏れ出した思考を数学という形に表現しているのだ」ということになるだろう』

日本の数学繋がりということで、「算額」に触れよう。本特集の中で、繰り返し取り上げられている、冲方丁「天地明察」という作品があるが、この作品では、庶民や農民までもがみなこぞって数学をやっていた江戸時代を舞台に、神社や寺に数学の問題や解法を奉納する「算額」が登場する物語だ。僕も、「算額」の存在は、「天地明察」を読んで初めて知ったようなものだと思う(名前ぐらいは聞いたことがあっても、どんなものなのかきちんとは知らなかったと思う)。恐らく僕以外でもそういう人は多いだろうし、大半の人は「算額」が何か知らないだろう。
何故、日本人による素晴らしい数学の成果である「算額」がこれほどまで日本人に知られていないのか。

『江戸時代の数学は、意味のないものだとずっと思われてきました。数学界の定説は、「和算など取るに足らないもの」でした。まったく認められなかったんです。見向きもされず「あの人は、どうせ高校の先生だから」という扱いでした』

ここで取り上げられているのは、深川英俊という元高校教師だ。同僚の国語教師から質問を受けて、「算額」について調べてみたところ、高度は数学要素を含んでいると気付き、その素晴らしさを広めようとしたが、上記の通り、日本の数学界は「算額」に見向きもしなかった。だから著者は、海外の著名な数学関係者に手紙を出したという。それから深川氏の尽力により、海外からの逆輸入のような形で「算額」は広く認められるようになっていく。

『その手紙の送り主こそが、大物幾何学者のダン・ペドーでした。後からわかったのですが、彼が苦労した問題を、和算では鮮やかに解いていたそうなんです』

『世界中で数学コンテストが開催されているのですが、ちょうどその頃はだんだん出題ネタが尽きてきていたようで、算額の問題は新ネタとして、もてはやされました。』

ある時、モスクワの数学教育関係者からメールで受けたという質問は、面白い。

『なぜ百姓から侍まで、みんな数学をやっていたんだ?』

それは、現代の日本人でも同じ感覚を持つだろう。僕は趣味で算数(数学ではないところが残念)の問題なんかを解いたりしているんだけど、それを人に話すと「え!?」みたいな反応されますしね。
最後にあと二つだけ。
まず「私が世界で一番美しいと思う数式・証明」から。7人が、それぞれ自身のお気に入りの数式・証明を寄せているのだけど、僕の一番お気に入りである「カントールの対角線論法」も入っていました。このカントールの対角線論法、きちんと説明を聞けば文系の人間でも理解できるほどやっていることは易しいのに、「その発想はなかった!」と驚かされるような、凄いテクニックなわけです。たぶん僕は、このカントールの対角線論法を説明できるので、興味がある人は是非。
最後に、48冊が紹介されているブックガイドについて。
僕自身が読んだことがある本を挙げると、

博士の愛した数式
数学ガール
Boy's Surface
天地明察
フェルマーの最終定理
完全なる証明
素数の音楽

という感じ。で、読みたいなと思った本が、

ガウラヴ・スリ+ハートシュ・シン・バル「数学小説―確固たる曖昧さ」
レオポルト・インフェルト「ガロアの生涯 神々の愛でし人」
ジェレミー・J・グレイ「ヒルベルトの挑戦ー世紀を超えた23の問題」
ロバート・カニーゲル「無限の天才―夭逝の数学者・ラマヌジャン」
高瀬正仁「高木貞治―近代日本数学の父」
吉田武「虚数の情緒―中学生からの全方位独学法」
数学史叢書「ガウス 整数論」

という感じ。いずれ読んでみたいなと思います。
記事によって僕自身の興味の向き不向きがあり、全部が良かったわけではないけど、全体的にとても面白い特集でした。やっぱりどうにか、数学の世界に入り込みたいなぁと思うのだけど、障壁が高すぎて辛いです。とにかく今は、算数からちょっと勉強しなおして、少しずつ入り口に近づいて行こうと思っています。

新潮社「考える人 2013年夏号 No.45 特集:数学は美しいか」


異形の白昼 恐怖小説集(筒井康隆編)

内容に入ろうと思います。
本書は、筒井康隆氏が、恐怖をテーマにした小説の秀作13編を選んだアンソロジーです。最初の単行本が発売されたのが1969年。それから何度か版元を変えたりしながら再刊され続け、このちくま文庫版は最初の単行本から44年が経過しての再刊ということになります。
収録作すべての内容紹介は省きますが、まずは収録作品のタイトルを列記しようと思います。

星新一「さまよう犬」
遠藤周作「蜘蛛」
小松左京「くだんのはは」
宇能鴻一郎「甘美な牢獄」
結城昌治「孤独なカラス」
眉村卓「仕事ください」
筒井康隆「母子像」
生島治郎「頭の中の昏い歌」
曽野綾子「長い暗い冬」
笹沢左保「老人の予言」
都筑道夫「闇の儀式」
吉行淳之介「追跡者」
戸川昌子「緋の堕胎」

さて、選者である筒井康隆は、以下のような8つのルールを課して、このアンソロジーを編んだという。

1.一作家一作品とすること
2.現在第一線で活躍中の作家の作品であること
3.出来る限り、他のアンソロジーに収録されていない作品を選ぶこと
4.第三項と互いに抵触しない限り、現代恐怖小説の傑作とされている作品はすべて収録すること
5.恐怖小説の、現代における第一人者とされている作家の作品は、すべて各一篇ずつ収録すること
6.怖いこと
7.小説としての完成度が高いこと
8.現代を感じさせるもの

そして巻末に、筒井康隆自身がすべての短編に講評を加えている。
僕が面白いなと思った作品は、

宇能鴻一郎「甘美な牢獄」
眉村卓「仕事ください」
筒井康隆「母子像」
都筑道夫「闇の儀式」

の4編です。

宇能鴻一郎「甘美な牢獄」は、なんだか奇妙な物語でした。台北の寺院を訪れた主人公は、洞窟の奥に幽閉されるように暮らしている三人の男女を目撃する。その内の一人から、何故自分がここにいるのかを説明する手紙が届く。その男がそこにいるのは、子供時代、自分が寝入った後で両親が自分を殺して食べようとしている、という妄想をずっと抱いていたことに起因するのだ。一人の少年が、どうして牢獄の中で閉じ込められるようにして生活をするようになったのか、その奇妙な過程が描かれる作品。

眉村卓「仕事ください」は、本書の中ではトップクラスにシンプルで分かりやすくて単純な面白さと怖さが表現されているように思います。主人公はある夜、べろべろに酔っ払って道で倒れてしまう。そこで、「誰か来い!俺の奴隷はどこにいるんだ?」と叫んだ。すると、どこからともなく青白い男がやってきて、彼を介抱し、家まで連れ帰ったのだ。しかし翌日も、その青白い男はつきまといつづける。「仕事ください」と言いながら。「わたしはあなたの奴隷です…仕事を言いつけてください」

筒井康隆「母子像」は、非常に印象的に映像的にもインパクトのあるラストが印象的な作品。歴史学者の主人公が息子のために買ってきたアルビノの猿の玩具。シンバルをうるさく叩くあれだ。ある日、母子の姿が見えないことにたじろぐ主人公は、数日前の記憶を引っ張りだす。あの日、猿の玩具で遊んでいた息子の手が消えていたのだ。見間違いかと思ったが、まさか…。

都筑道夫「闇の儀式」は、本作中で一番好きかもしれない。若い5人の男女が、辺鄙な場所に建つ別荘にやってくる。壁に掛かっていた絵から、別荘の持ち主である伯父さんの話になる。何故こんな辺鄙なところに別荘を建てる必要があったのか…。やがて彼らは、「悪魔」を召喚すべく、奇妙な儀式を始めるのだが…。

僕には面白さが分からない作品もあったし、どの辺りが優れているのかイマイチぴんとこない作品もあったりで、作品全体が良かったかというとまたそれは別なんだけど、ところどころ面白い作品がありました。星新一と吉行淳之介の作品は、2ページに満たないショートショートなんだけど、この二作のどの辺りが怖くて、どの辺りが優れているのか、それがイマイチ分からなかったのが僕的には残念でした(こういうのを読み取れたらいいなぁ、と思うのです)。

筒井康隆編「異形の白昼」


名探偵の証明(市川哲也)

内容に入ろうと思います。
屋敷啓次郎は、80年代に一世を風靡した名探偵だ。行く先々で事件に遭遇し、「屋敷がいるから事件が起こるのだ」という無茶苦茶な批判がされることもあったが、解決率ほぼ10割という驚異的な推理力を駆使して、ありとあらゆる事件を解決。時代の人となっていた。
時は流れて2013年。屋敷は引きこもりのような生活をしていた。サラリーマンで言えばもう定年を迎えようかという年齢で、足腰も弱くなり、何よりも思考力が低下していた。
ここ最近、探偵業からは遠ざかっていた。
屋敷にはファンが多く、中でもとある事件で知り合った熱心なファンである不動産会社社長が、あらゆるところから屋敷に解決を求める事件を集めてきてくれる。しかしそれらを、「オレが出向くような事件ではない」と切り捨て、内職をしながら細々と生活をしていた。
もうオレには、探偵として生きていくことは出来ない。
その一因には、現代のアイドル探偵である蜜柑花子の存在もある。彼女も屋敷と同じく行く先々で事件に遭遇し、しかもそれらをことごとく解決している。テレビにも頻繁に登場し、かつての屋敷のように時代の寵児となっているのだ。そんな時代に、もはや老いさらばえたロートルの居場所はない。
そんな屋敷はある時、もう一度探偵業にチャレンジしてみることに決めた。
きっかけになったのは、かつて相棒だった元刑事の竜人だ。屋敷が探偵業から足を洗った後も親交は続いているが、竜人の強い勧めもあって、もう一度全力で事件に向き合ってみることにした。それで、事件を解決出来なければ、探偵業は廃業だ。
ある経営者一家に脅迫状が届いたようで、その脅迫状が蜜柑を名指ししていた。そこに屋敷と竜人も向かうのだという。周囲を谷に囲まれ、吊り橋を渡る以外にたどり着く手段のない別荘に、蜜柑・屋敷・竜人と、彼らを呼んだ4人の計7人が集まった。
そして凶行は起こり…。
というような話です。
なかなか面白い作品でした。僕はそこまで熱心な本格ミステリ読みではありませんが、昔は結構それなりに読みました。それらの作品群と比べて、本書は、非常に野心的で挑戦的な作品に仕上げていると僕は感じました。
本書の大きな特長は2つあると思います。
まずは、探偵本人の一人称で物語が進むということ。
普通、探偵と助手(いわゆるワトソン役)がいる物語の場合、ほぼ99%ワトソン役視点で物語が進んでいきます。まあそれはそうでしょう。探偵視点にしてしまえば、推理の過程も犯人も、全部すぐ読者に分かってしまいます。それ以外にも、ワトソン役視点で物語を進めていく利点はいくつもあるはずです。だからこそ、探偵とは別のワトソン役の人間視点で物語が進んでいくというスタイルが固定していったのだと思います。
しかし本書は、屋敷啓次郎という名探偵(元がつくとはいえ)の一人称の物語です。そこまで多くの本格ミステリを読んでいるわけではない僕ですが、たぶん探偵の一人称の本格ミステリというのは読んだことがないのではないかと思います。まずこの点が非常に斬新だなと感じました。
もう一つは、本書における「探偵」という存在が、とても「リアリティ」のあるものだという点です。
普通本格ミステリで出てくる「探偵」というのは、こう言ってはなんですが「リアリティ」に欠けるきらいがあると僕は感じます。「探偵役」と呼ばれる存在であればいいんです。「探偵役」というのは、普段は学生だったり弁護士だったりという形で生活をしているんだけど、周囲や警察の人間にその推理力を買われていて、事件が起こった時だけ「探偵役」という形で呼ばれる、という存在です。その場合、「探偵」としての「リアリティ」をとやかく言うつもりはありません。
ただ、作品の中で「探偵」として存在する人物というのも出てきます。そしてそういう「探偵」は、どうも現実味に欠ける存在であることが多いです。
何故なら、僕らが生きている世界には、本格ミステリの世界で描かれるような「探偵」というのは存在しないからです。僕らの生きている世界で「探偵」と言えば、浮気調査などをする存在ですが、本格ミステリの中の「探偵」はそんなことはしません。彼らは、殺人事件に介入して、そこで鮮やかに事件を解き明かします。さすがに現実の世界で、そんなことをやっている人間はいません。だから「リアリティ」を獲得するのが難しい。
でも本書では、「探偵」という存在を、僕らが生きている世界にいても不自然ではない存在として描き出します。これが本書の二つ目の特長だと僕は思います。
屋敷も蜜柑も、基本的に警察の協力を大前提としている。基本的に警察力というものを信頼していて、推理や犯人の追いつめ方にも、基本として警察の存在を前提にしている。また、屋敷と蜜柑が出向くことになる人里離れた別荘では、二人とも事件が起こる前にある行動をする。それは、普通の本格ミステリではなかなか描かれない状況だが、現実的に犯人逮捕を目指そうとすれば当然やってしかるべきことだ。また、現代で活躍する蜜柑は、尋問や推理の際にiPadを持って録音をしている。その理由を蜜柑は、「裁判で言った言わないの水掛け論になるから」と言う。そう、本格ミステリの解決のパターンとして、追い詰められた犯人が(大した物的証拠もないのに)自白する、というものがある。これは、その解決現場だけであれば、それでなんの問題もない。しかし、そこから警察に引き渡して裁判ということになると、自白だけが根拠で物的証拠に乏しい場合は、裁判の過程で「そんな自白はしていない!」と犯人が主張することが出来てしまう。それを防ぐための対策もきちんと取っている。
他にも、本格ミステリの世界の「探偵」をリアルな存在に見せるための工夫は随所にあるのだけど、これらは非常に珍しい設定ではないかと思う。普通の本格ミステリでは、名探偵は「何故か」事件に介入できる。その不自然さをどうにかするために、「嵐の山荘」とか「陸の孤島」みたいな状況設定をするのだが、本書のような設定であれば、無理に「嵐の山荘」「陸の孤島」を舞台にする必要はない。屋敷や蜜柑のような「探偵」の存在が社会に受け容れられており(まあ、これに関しても色々あるのだけど、それは是非読んでみてください)、警察ともそこそこ連携が取れているという設定がなされるので、やろうと思えばどんな環境でも違和感なく「探偵」としての存在を発揮することが出来る。
この二点が、なかなか斬新で面白い設定だなと僕は感じました。
そんな設定で物語が進んでいくので、作品全体の焦点は「事件」ではなく「探偵」に当たっている。普通の本格ミステリであれば、「どんな謎に彩られた事件なのか」という関心が先で、その後で「探偵がどのようにして事件を解くのか」という興味が続くでしょう。しかし本書の場合、「探偵がいかに事件を解くか」という関心が先にあって、その後で「どんな謎に彩られた事件なのか」という興味が続くという、非常に珍しい構成になっていると思います。
そこを面白がれるかどうかによって、本書の評価が変わってくるでしょう。一般的な本格ミステリ(つまり前者)が好きな人にとっては、本書はそこまで魅力を感じられない可能性もあるでしょう。一方で、昔は結構本格ミステリ読んだけど、最近全然読まなくなっちゃったなぁ、みたいな僕みたいな人間には、本書は一風変わった本格ミステリとして楽しめるかもしれません。
とはいえ個人的には、もう少し人間の描写を頑張ってくれたらもっと素晴らしかったんだけど、と思いもします。こう言ってはジャンル全体への侮蔑になってしまうかもしれないけど、本格ミステリって僕の認識では、「人間を描くことを犠牲にしてでも、素晴らしいトリック、魅力的な謎を描く」というジャンルだと思っています。だからこそ、人間の描き方については弱い部分がある。それはジャンルとしての宿命でもあるのでいいと思うのですが、しかし本書はそうした「トリックや謎がメインの本格ミステリ」ではありません。あくまでも「探偵」に焦点が当てられたミステリです。であれば、普通の本格ミステリ以上に、人間をもっとリアルに、もっと魅力的に描かないと、作品をより良いものにするのが難しいと僕は思います。
本書を読んでいてどうしても、登場人物の描写が類型的という感じがしてしまいました。普通の本格ミステリであれば許容範囲かなと思うのだけど、本書の場合は人間の描き方にもっと力を入れないと折角の設定が生きてこないと思うので、そこはちょっともう少し頑張って欲しかったなと思いました。
さて、蜜柑についても少し触れましょう。
蜜柑はなかなか魅力的なキャラクターだと思います。蜜柑以外のキャラクターは、「ちょっと頑張って普通の人を描こうとしてちょっと類型的になっちゃった」という感じがするんだけど、蜜柑の場合は、「ぶっ飛んでるんだけど、それが逆にリアリティを生み出している」という感じがします。チャラチャラした外見と、単語で喋るような拙い会話という、まあマンガに出てくるようなキャラクターですけど、個人的には本書の中で唯一、活き活きとして現実感のあるキャラクターに思えました。僕の感じ方がおかしいのかもしれないけど。
蜜柑が作中でどんな立ち位置で描かれているのか、それは是非読んでもらうとして、屋敷と蜜柑の関わり方は僕はとてもいいなと思いました。彼らは共に、行く先々で事件に遭遇してしまう運命の持ち主。それを「使命」と受け止めて、あらゆる雑音をはねのけて、彼らは「探偵」として生き抜いてきた。そんな二人だからこそ理解し合えるみたいな雰囲気がとてもいいなと思いました。
一つ一つの事件の質やトリックの面白さなどは、そこまで本格ミステリを読んでいるわけではない僕にはなかなか論じにくいですが、作品全体の構成はなかなか巧いと感じました。メインの事件が一つあり、その展開はなかなか面白いと思うし、冒頭の「解決シーン」から始まる謎解きとか、後半で出てくるエレベーターの事件は、それぞれにその事件が描写されるべき役割があって、その役割のために作中で登場するのだろうけど、でも事件単体で見てもなかなか良く出来ている感じで、「探偵」を描くという設定に見合った構成はなかなか良かったなと思います。
「探偵による一人称」「探偵という職業のリアリティ」という、普通の本格ミステリではなかなかありえない要素を組み込み、「事件」そのものではなく「探偵」に焦点が当てられた、なかなか珍しいタイプの本格ミステリです。本格ミステリが好きな人がどう感じるのか、それはなんとも分かりませんが、本格ミステリをそこまで読んでいない人間には、ある種手に取りやすい作品と言えるかもしれません。読んでみてください。

市川哲也「名探偵の証明」


ノーサイドじゃ終わらない(山下卓)

メチャクチャ良い小説を読んだ。今年読んだ本の中でもトップクラスかもしれない。

高校時代のラグビー部の勝治先輩が亡くなった。
高校時代の友人とは音信不通だった沢木は、奥多摩を出て久方ぶりに地元に戻った。実に15年ぶりだ。
先輩の死は、ギャグみたいなもので、ニュースにも取り上げられるほど大きな事件だった。
ヤクザの事務所にマシンガンを持ってぶっ放し、返り討ちに遭って死亡。勝治先輩らしいと言えばらしい。
久々に顔を合わせたラグビー部の面々。変わっていないようで、やっぱりみんな、それなりに色々ある。
マネージャーだった翔子は、沢木たちと同期の牧瀬と付き合っていたのだけど、結婚寸前で牧瀬が結婚を撤回。翔子はようやく立ち直り掛けている。牧瀬は、勝治先輩の葬儀にも来なかった。
結婚して子供が出来ている者が多い中で、沢木自身は離婚をしていた。その理由は、かつて沢木が書いた記事にある。
週刊誌のライターをやっていた沢木は、恐ろしく恵まれた環境に生まれながら吉原嬢をやっているまどかという少女の存在を知る。取材を続ける中でまどかに心酔していった沢木。彼女を描いたルポは反響を呼び、しかしそれが原因で彼女は自殺した。
沢木は、自責の念に耐え切れずに雑誌の編集部から去り、まどかへの手紙のように綴った小説がヒットし、一応今は小説家ということになっている。
「アホなことして死んだよね、ホント」という、悼むというよりは勝治先輩のらしさを偲ぶようなのんびりとした雰囲気が一変したのは、勝治先輩の襲撃事件に共犯者がいたという報道を見た時からだ。
週刊誌記者時代の勘が、沢木をざわつかせる。
葬儀にも顔を出さなかった牧瀬は、今は引きこもりのような状態になっているらしい。せっかく帰ってきたんだから、牧瀬にも会ってやれよと言われて向かうつもりでいたけど、まさか牧瀬が…。
というような話です。
これは凄かったなぁ。久々に、充足感のある小説を読んだ、という感じ。一週間にも満たない期間の、しかも高校時代の同級生ばっかりが出てくるような、どう考えてもスケールが大きくなりようがなさそうなストーリーを、見事な設定と展開で先が気になる物語に仕立て上げ、さらにその中で繰り広げられる人間ドラマまで描きこまれている。様々な事実が少しずつ明らかになっていき、しかもそれらが大きな全体と分かちがたく結びついていく。沢木がこれまで辿ってきた人生を一旦総決算させるような、濃密で人間味溢れる数日間の物語は、読む者を爽やかに「日常の少し先」に連れ去ってくれることでしょう。
まずストーリーそのものについて触れよう。あまり触れられることは多くはないのだけど。
物語は、勝治先輩がやらかしたギャグみたいな事件から始まる。しかしその「ギャグっぽさ」は、その事件の一面でしかなかった。その事件には、もっと複雑な背景があって、そしてそこには、沢木の知り合いが、つまりラグビー部の面々が直接間接的に関わっているのだ。
その中核にあるのが、翔子と牧瀬の結婚の破断と言っていいかもしれない。
マシンガンをぶっ放す襲撃事件と、ラグビー部内の結婚話のどこに接点があるのか。それは読んでもらうとして、「二人の結婚の破断」という極々私的な、社会全体からすれば物凄く小さな出来事(本人同士にとってはとてつもなく大きいだろうが)が、マスコミやヤクザまで巻き込むようなとんでもない事態を引き起こしているという設定が面白いし、しかもそれが不自然ではないように実に上手く作りこまれている。翔子と牧瀬の結婚の破断の背景には様々な事実や状況が横たわっていて、しかもそれらはなかなか表に出てこない。しかし、事件の中核はどうもそこにあるようで、だからこそ沢木は、翔子や牧瀬の結婚周辺の事実も探っていかなくてはならなくなる。

『こっちはけっこう必死に生きてるだけなのに、誰かが勝手に傷ついてたり、誰かに勝手に嫌われてたり、そういうの、なんかぜんぶめんどくさいよ』

これは、地元に戻ってきてかつての同級生たちからの「予想もしなかった反応」を受けて、沢木が母親にぼやいたことだ。沢木はみんなから「お前は冷たいな」と言われるのだが、その感じが、このセリフによく出ているだろう。正直僕も、この沢木の感じ方は、とても共感できる。別に、沢木と同じようなシチュエーションに遭ったことがあるわけではないんだけど、同じような状況になったら、同じようなことを言うような気がする。沢木がどんな状況に置かれたのか、それは読んで欲しいけど、この時点では、沢木の言い分は、僕にとっては「もっともだな」と感じる。
しかし、図らずも沢木は、ラグビー部の面々の様々な「過去」をほじくり返さなくてはならなくなった。沢木としても、正解がどこにあるのかまったく分からない、手探りの状況の中で、それでもどうにか手がかりを見つけようと必死になっているだけだ。沢木はある場面で、ラグビー部のあるメンバーから、「フランカーのクセにパスもしねぇでひとりで突っ込んでよ」「お前はいつもひとりでボールを持ちすぎるんだ」と指摘される。そう、沢木は、襲撃事件の背景を一人で調べている。自分がなんのために動いているのか周囲に明かさないまま、ラグビー部の面々の過去をほじくるようなことをしていたりする。そういう態度も、反感を買う原因になっていくのだろう。
そんな沢木は次第に、自分のこれまでの在り方を反省するようになっていく。

『こんな状況になるまで、知ろうともしなかった。そして、こんなことになって初めて、そのことを悔いている。都合のいいときにしゃしゃり出て、救世主を気取っているだけだ』

やはりこの物語は、どうしても沢木に焦点が当たってしまう。本書は、緻密に織り込まれた見事な設定と、それを解きほぐしていく絶妙な過程のバランスが優れた、物語だけでも十分に読ませる力がある作品なのだけど、その中に、沢木を中心とした様々な人間の葛藤や苦味みたいなものが描きこまれていく。これが、やはり見事なのだ。

『狂えるなら狂いたいという憧れはある』

『おれはいまだに、オトナになったら何になろうって考えてる』

沢木は自身のことを、こんな風に捉えている。どうも沢木の気持ちはとてもよく分かってしまう。僕も、「狂えるなら狂いたい」という衝動は常に持っている。というか、狂って彼岸の世界に行ってしまった人間が羨ましく映ることが多くある。自分にはそんな度胸がないことがわかっているから、なおのこと羨ましく思えるのだ。それに、「自分がオトナであるという事実」を、あんまりちゃんと受け入れたくない。自分が「オトナ」だと受け取られる年齢や立ち位置になっていることは、頭ではきちんと理解しているのだけど、でもそういうのは勘弁して欲しい、とも思っている。いいよ、俺のこと「オトナ」と見てくれなくたって。そんな、責任とか、めんどくせーし。コドモのままじゃ、ダメかね?みたいなことは、よく思っている。ダメ人間だなぁとは思うんだけど、まあ仕方がない。
そんな沢木はこれまで、そんな自分の有り様を、きちんと客観的に見たことがなかった。これは、とても幸せな環境だったと言える。何故ならばそれは、「周りの人間が我慢してくれている」からだ。

『ま、言ってみれば、折り合いをつけるべきときに自分の人生に折り合いをつけられなかったダメ人間ね。そういうヤツって中途半端じゃ、はた迷惑なだけなのよ。うちのママもそうだったけど、同じ駆け落ちするなら、ブラピとかとやってくれたら、こっちも勇気わくわけじゃない?焼き鳥屋のオヤジなんかじゃこっちまで気分沈むでしょー。しみったれた貧乏くささを引きずってちゃダメなのよ』

『でも、同じ思い出を共有しちゃってる人間だったらきついんじゃないかな。自分が選んだ人生が不安になるっていうか、せっかく折り合いをつけていったものを否定されてるみたいな感じでしょ。わたしだって、いまだにバリバリのレディースやって面白おかしく暮らしてるってやつがふらっと現れて、人生に悩んでるみたいな面されたら、きっと殴ってやりたくなると思うな。そこにいるんなら、そこにいる責任くらいちゃんととれよって感じ?本当はさ、誰だって、大人になんかなりたくないのよ。でも、大半の人間は自動的に大人に繰りあがっていくから、そこで自動的にいろんなものに折り合いをつけていかなきゃいけないわけよね。そのベルトコンベアから、ボロボロこぼれた連中が君たちみたいな人種ってわけ』

散々な言われようだが、沢木に似たものを感じてしまう僕としては、喫茶店店主・ナオミさんのこの言葉は、グサグサ突き刺さる。もう、「はい、すいません…」って感じです。僕はそれなりに、「周りが我慢してくれているからどうにかこんな生き方が成り立っているんだろうな」っていう自覚が少しはあるんだけど、沢木は恐らくそんなことを考えたことはなかったんじゃないかと思う(少なくとも、高校時代の同級生との人間関係においては)。でも沢木は、15年という長きに渡って不義理を続けて、ようやく久々に顔を合わせたかつての同級生たちから、陰に陽にそんな反応を読み取ることになる。それは、沢木にとっては、世界が一個壊れるぐらいの衝撃だったかもしれない。「甘えすぎていた」と沢木は独白するけど、確かにその通りで、それは僕も同じだ。目に見えないから、耳で聞こえないからと、なんとなく安心してしまって、その状況そのものに甘えてしまう。その間にも、人間関係はどんどん変化していくんだけど、でも「見えたもの」「聞こえたこと」にしか反応しないような生き方をしていると、その変化を見逃してしまう。結果、本人の自覚のないまま不義理を働くことになる(まあ、不義理ってのはそもそも、自覚のないケースの方が多いだろうけどね)。

『沢木さん、やっぱり愛されることに慣れちゃってるんですよ。自分がとるに足らない存在だとか、周りの人より劣ってるつまらない人間なんだとかって考える機会がなかったんだと思う。』

これは、牧瀬の妹であるみゆきちゃんのセリフだが、これはこれでまた手厳しい。こういう感覚は、僕にはないはずだけど、周りからどう見られてるかはわからないしね。きっと沢木も、反論したかっただろうなぁ。そんなわけない、ってね。

『でも、なんかちょっと幻滅。沢木さんって、そういう弱音吐かない人だと勝手に思ってました。なにかないと我慢できない人は黙って頑張ればいいと思う。なんにもなくてもいい人は普通の日常を楽しめばいいと思う。沢木さんはたぶん、なにかないとダメって思ってる人なんだろうけど、今の言い方を聞いてると、そういうふうに苦しんでない人はみんな人生に手をヌイてるみたいに聞こえます。自分の生き方に照らし合わせて、人の生き方を批判するって、あんまり格好よくありませんよ』

『男の人って、子供のころにあんまり現実的なふるいにかけられないから、頑張れば自分にもヒーローになれる瞬間が来るって、どっかでずっと夢みてるんだって気がします。でも、女の子って、女の子の時代に現実的なふるいにかけられまくってますからね。女の子である時代に見られる夢はひとまず生まれてきた姿形で決まっちゃうわけです。で、みんながお姫様になんてなれないんだって現実を嫌というほど知ったあとで、ようやく一人の人間っていうか、女としての人生が始まるんですよね。男の人が人生の有限性に感じる絶望感なんて、まともな女の子なら、中学二年生くらいで卒業しちゃってますよ。だって、ひとまず、女の子でいられる時間を否応なく意識させられて、人生が有限であることを突きつけられちゃうわけですから』

この、男と女の違いを主軸にしたみゆきちゃんのセリフも、非常にグサグサ来る。こういうところが、女性から見て、「男ってアホだよなぁ」っていう感じになるんだろう。「男ってアホだよなぁ」っていうのは僕も同感で、女性にはホント勝てないと思う。みゆきちゃんの言う「ふるい」は、確かに男の世界にはあまりないような気がする。受験とか部活とかは、勝っても負けても、それを装飾する様々な物語に溢れているような気がするし、しかもそれは男と女平等に存在するものだ。男が現実的な「ふるい」に掛けられるのって、就活とか出世とかそういうレベルになってくるのかもしれない。確かにそれにしたって、男女平等に訪れるからなぁ。

『なにも頼ってくれなくて、なんにも言ってくれなくて、それで今回みたいに何ごともなかったみたいに平気な顔して再会されちゃうと、心配してたわたしたちが馬鹿みたいで、おまえたちなんか最初からアテにしてないって言われてるみたいに感じちゃう』

これは翔子の言葉だ。沢木は、一人で襲撃事件の背景を調べるようなところもそうだけど、なかなか人に頼ることが出来ない。それを指摘されているのだけど、しかしこのセリフは、翔子が翔子自身に言っているようにも聞こえる。翔子自身の後悔が、沢木への糾弾に繋がっているようにも思う。
沢木は、襲撃事件の背景を調べていく中で、自身の身も削られるような時間を過ごすことになる。それは、沢木自身のそれまでの生き方を思い起こさせ、自分が辿ってきた道を反省させる時間でもあった。正しいとか間違っているとかではないけれど、比べる対象が現れて初めて気づく自分の不甲斐なさに、沢木は打ちのめされていくことになる。それでも、沢木は前に進んでいく。

『後ろにボールをわたしながら、みんな一緒に前へ進むのがラグビーさ』

沢木自身の物語も、以外な形でストーリーに絡んでくる。細かな話は書けないけど、沢木が週刊誌に書き、反響を巻き起こしたルポと、実体験をベースにした小説は、様々な場面で繰り返し沢木の前に登場することになる。そもそも、自殺したまどかの存在も、この物語の中の非常に重要なピースであるのだ。沢木の過去と、久しぶりに再開したラグビー部の面々の過去が、すべて勝治先輩が引き起こした襲撃事件に収斂していく構成は見事だと思う。思いもよらなかったような事実が、本当に少しずつ明かされていくので、先が気になっていくし、沢木を含む様々に関わる面々の、人を見る眼差しの暖かさや気持ちの強さに惚れ込んでいく部分も強くある。
惚れ込むと言えば、永田の存在感も重厚だ。永田は菱和会という、日本最大級の暴力団の実質的なトップで、若くしてのし上がったカリスマ的な男だ。カタギの世界でも間違いなく成功しただろうと言われる男は、独特な鋭利な雰囲気を漂わせる圧倒的な存在感を放つが、沢木と喋っている時の永田だけ見ていると、非常に人間味溢れる興味深い存在だなと思う。言うことも、なかなか面白い。

『上の者がそんなガキのやり方に迎合しちゃいけねえって思うんですよ。迎合ってのはね、自信がなくてビビってるってことです。年寄りはね、若い世代の気持ちなんてわかる必要はねえんですよ。ヤクザも堅気の世界のやり方なんて理解する必要はねえんです。頑固親父はガキの言ってることなんかわからねえって怒鳴ってればいいし、ヤクザはヤクを売って、オンナを転がして、暴力ふるってればいいんです』

そしてこの永田の存在さえも、物語を織りなす重要なピースの一つだというんだから恐れ入る。本当に、その構成力には圧倒されるし、物語の展開のさせ方がとても巧いと感じる。主要な登場人物それぞれに、個々の物語があり、それらが全体と大なり小なり関わっていく。見事だなと思う。
大人の世知辛い人生や人間関係が描かれ、またマシンガンでの襲撃事件やヤクザなんかが関わってくる、どう読んでも爽やかとは言えない設定の物語なのに、読むとどうしてか、青春小説のような爽快感があるという不思議な物語だと思います。それぞれの人生に、どうやって落とし所を見つけていくのか。その過程で生まれる必死さや優しさを愉しむ小説です。是非読んでみてください。

山下卓「ノーサイドじゃ終わらない」


蛇行する月(桜木紫乃)

桜木紫乃の作品を読むと、「それまでまったく関わりのなかったコミュニティに一人で飛び込んだような気分」になる。
周りにいる人は、なんだかみんな盛り上がっている。楽しげに笑っているし、会話もどんどん進む。あちこちで人がくっついては別れ、ざわめきが絶えない。
でもそんな中で僕は、途方にくれている。みんながどうして笑っているのかわからないし、なんの話をしているのかもわからない。誰とも関わり合わないまま、ぽつんと浮いたシミのようにその場で佇んでいる。
そうなってしまうのは、「前提が共有されていないから」だ。
そのコミュニティには当然、それまで積み上げてきた様々な歴史や背景があり、それらは、そのコミュニティの中にいる人にとっては「前提」として機能。「この前のアレ」や「デブリンの弟の彼女」なんていう単語が、意味のある言葉として機能し、「こんな話では盛り上がろうね」「こういう話はご法度」というような雰囲気がきちんと共有されている。でも、初めてそこに飛び込んだ僕には、そういう言葉も雰囲気もわからないし、分からないまま呆然とするしかない。
桜木紫乃の小説は、僕にそういう感想を抱かせる。
桜木紫乃の小説は、「桜木紫乃の小説」と「前提が共有されている人」には、物凄く響く作品だろうと思う。実際読むと、巧い書き手だなと感じるし、人間のいやらしさや汚さなど、「日常」からは丁寧に取り除かれている部分を丁寧に拾い集める作風は見事だなと思う。それでも僕はどうしても、桜木紫乃の作品に「遠さ」を感じてしまう。
「桜木紫乃の小説の前提」というのが、より多くの人に共有されているものなのか、それはよく分からない。僕のように、その前提を持たない者の方がマイナーというだけの話かもしれない。
「桜木紫乃の小説の前提」のキーワードの一つは、「疲弊した地方」だろう。それは、僕なりの表現をすれば、「人間の外側から押し寄せる閉塞感」だ。外側にある、環境や関係性などに内在する閉塞感だ。僕はどちらかというと、「人間の内側から染み出す閉塞感」に惹かれる人間だ。環境や関係性から独立した閉塞感というのはきっと存在しないだろうが、自身の性格や価値観が閉塞感に強く影響を与える状況の方により惹かれる。だからこそ、桜木紫乃の小説に、そこまで深く入り込めないのかもしれないと思う。
内容に入ろうと思います。
本書は、6編の短編を収録した連作短編集です。

「1986 清美」
「割烹ホテルかぐら」で働く清美。宴会の場では必ず太ももか尻に手が伸びる。もううんざりだ。しかし、どこに行けるわけでもない。受験を控えた妹、祈願に通う母、時々手紙でやり取りをする彼氏。
ある時、高校時代の同級生だった順子から電話がきた。「私、これから東京に行くの」

「1990 桃子」
「シーラブ号」の乗務員である桃子。シフトが重なる時は、北村と肌を合わせる。陸に妻子を持つ男だ。
高校時代の同級生である順子から年賀状が届く。「わたし今、すごくしあわせ」

「1995 弥生」
「菓子や 幸福堂」の女将である弥生。夫が失踪してからは、どうにかこうにか店を建て直すことだけを考えてやってきた。
夫と一緒に失踪した店の若い従業員を紹介してくれた方から、突然手紙が届く。「先代が生きているあいだにお知らせできなかったことを悔いております」

「2000 美菜恵」
高校時代の国語の教師との結婚披露宴を間近に控えた花嫁である美菜恵。披露宴の準備全般に関心のない谷川を連れ回し、衣装を決める。
披露宴の発起人を頼むのは、高校時代の図書部のメンバーだ。かつて谷川に告白して玉砕した順子だけは、ここにはいないけれど。

「2007 静江」
職場での配置換え。厳しい環境の中で、この老体はどこまで保ってくれるか。結局独り身で生活している我が身を思い、ふと、娘が今住むという東京の連絡先が書かれたは葉書を久しぶりに取り出してみる。
先立つものをかき集めて、東京に行ってみよう。

「2011 直子」
看護師である直子の趣味は、スキューバダイビング。海の中から見る太陽は青い。ここで酸素ボンベを外してみたくなる。脳裏には、呼吸器に繋がれた両親の姿が過ぎる。
沖縄に移住したいという後輩の話を聞きながら、ふと、順子に会いに東京に行こうかと思う。

というような話です。
「男と東京に逃げた順子」と「北海道でどうにか生きる女性たち」を描きだす。「現実を否定したい女性たち」は、「東京に出た順子」に思いを馳せる。報われることのない生き方に身を投じたはずの順子は、しかし漏れ聞こえてくる話によれば「幸せ」なのだという。それは、「現実を否定したい女性たち」をざわざわさせる。

『順子の「しあわせ」は自分の求めるものとはまったく違うかたちをしていた』

『順子を思うと、自分の未来にあってしかるべきと思っていた「しあわせの輪郭」がぼやけてしまう。』

「あるはずのない「しあわせ」」「たどり着くはずのない「しあわせ」」を夢想する一方で、常に「現実的な着地点」の存在にさらされ続ける女性たち。「女性として生きる」というのは、決断の連続だ。「選択肢の多さ」に喜べるのは、可能性の開けた若い内だけだ。歳を重ねると共に、「選択肢」は変わらず多いのに、「選び取れる選択肢」の数はどんどんと減っていく。それなのに、「選択肢」は多いでしょう?という視線をやり過ごさなくてはいけなくなる。

『なにもかも、捨てるときにはできるだけ遠くへ放るしかなかった。ためらいを残すと、用意にこの手に戻ってきてしまう。弱さを認めて、それをいいわけにしてしまう』

彼女たちは、環境に囚われ、関係性に囚われ、過去に縛られ、未来を手放していく。「それしかなかったのだ」という言い訳と共に、彼女たちは「最善解」を選び続けてきたはずだと、自分を慰める。
そんな人生に、順子の存在は違和感を残す。順子は、環境にもとらわれず、関係性にもとらわれず、過去にも縛られず、未来を手放しもしない。そう、最後の最後まで順子は、未来を手放しはしないのだ。そこが他の女性達との大きな違いだ。それを「強さ」と呼んでいいのか、僕には分からないのだけど、北海道で生き続ける彼女たちが永遠に手にすることが出来ないものでもあるだろう、と思いもする。

『これが一度夫婦だった男女の責任というなら、結婚とはなんと重い繋がりだろう』

行き着く先は同じでも、通ってきた道は皆異なる。「あり得たかもしれない可能性」を探し続けてしまうのは、「疲弊した地方」という前提が共有できているからだろう。「同じように辛い環境にいる」という事実が、他人の幸せを詮索し、自分の幸せと比較させるのだろう。
順子には、共有できるような前提も、比較出来るような対象も、周囲になかった。それは、故郷を捨てた代償に得たものだ。「北海道には戻れない」と語る順子には、果たして北海道に戻りたいと思う瞬間があるのだろうか?
残酷な現実を短い言葉で切り取りつつ、薄く層になって積み重なっている「何か」を少しずつ剥いで行くような物語です。環境は人を縛るが、手の届く位置にあっても人はなかなかその結び目を解くことが出来ない。そんな人間の悲哀を描き出した作品ではないかと思います。

桜木紫乃「蛇行する月」


<正常>を救え 精神医学を混乱させるDSM-5への警告(アラン・フランセス)

本書は、アメリカで起こっている話である。
だからと言って、日本人の僕らが読まなくていい、ということにはならない。
本書で描かれているような状況は、確実に、日本でも生まれつつあるように僕には思えるからだ。
一番分かりやすいのは、「新型うつ病」ではないだろうか。ネットで調べるとこんな文章が出てくる。

『多くは仕事がらみのストレスから発症する。仕事に向かうと症状が悪化、再発するのに、遊びや趣味は楽しめる、自己愛が強く、何でも他人のせいにするといった性格が多い、などの特徴がある。精神科や心療内科は比較的簡単に「抑うつ状態」の診断書を出し、病気休暇を認めることから職場のメンタルヘルスの重要課題にもなっている。休職期間に海外旅行を楽しみ、帰国するともとに戻る、などの事例から仮病と疑われ職場とのトラブルとなることも少なくない』

どうだろうか。これを「病気」と呼んでいいかどうか。その辺の判断を僕自身が下したいわけではないのでそれはしないけど、「新型うつ病」というのは今日本でも「流行り」始めているのではないかと思う。それは、本書で描かれている状況と同じだ。
他にも、精神病ではないが、「ゲーム脳」というのも有名ではないだろうか。ゲームをやりすぎて脳がおかしくなっている、という研究結果に基づいているようだが、僕が知っている知識だと、この「ゲーム脳」というのは「エセ科学」だと言われている。とはいえ、マスコミなんかでも時々「ゲーム脳」というのが取り上げられたりするでしょうし、これを根拠に、子供にゲームを制限させたりする親もいるでしょう。
本書では、アメリカで現在起こっていることをつぶさに追うことで、鋭い警告を発している。冒頭で書いたようにそれは、アメリカだけに限らない問題なのだが、その理由は、副題にもある「DSM-5」が関係している。
これは「精神疾患の診断と統計マニュアル」と呼ばれるもので、最新のものが「DSM-5」となる。そして著者は、この一つ前の「DSM-Ⅳ」のプロジェクトマネージャーとして先導した人物であるのだ。この「DSM」は、毎年数十万部売れる大ベストセラーであり、世界中でこれを基準に精神疾患の診断が行われているのだという。日本でこの「DSM」が遣われているのかどうか、それは本書には書かれていなかったので分からないのだけど、僕の知識では、日本は特に精神疾患の研究で歴史的に先行している国ではなかったと思うから、「DSM」やそれに準じる何かをベースにしていたりするのではないかと思う。それは僕の憶測でしかないけど、もしそうであるとすれば、本書で描かれていることは、決して他人事ではないということになる。
著者は「DSM-Ⅳ」に関わった際、非常に慎重に厳密に作業を進めた。そこに著者は絶対の自信を持つ。研究の裏付けがないものは無闇に変更を加えず、実際にその精神疾患を患っている人を診断漏れするリスクを取ってでも、出来るだけ精神疾患を患っているわけではない人に無用なレッテルが貼られないようにつくり上げた。
しかし著者は、「DSM-Ⅳ」が発売された数年後に、著者が「診断のインフレ」と呼ぶ状況を惹き起こすことになったことを悔いている。著者自身の責任ではないとはいえ、「もっと努力して、防衛のために最善を尽くすべきだった」と後悔をしているのだ。
「診断のインフレ」とは、「特に病気でもない者に、精神疾患のラベルを貼るような診断の急増」ということだ。アメリカではこの「診断のインフレ」が今蔓延していて、著者はそれを大きな社会問題だと捉えている。しかし、この流れを止めることは容易ではない。
それには、世界的な大企業であり、莫大な利益をマーケティングに注ぎ込んでいる巨大製薬会社の存在があるからだ。
アメリカは、世界でも類を見ない決断をかつてした。

『アメリカは、消費者に直接宣伝する自由を製薬会社に認める唯一の国になった』

「DSM-Ⅳ」の発売の数年後にこれが可決され、そこから「診断のインフレ」が爆発的に急増することになる。

『精神疾患の爆発的流行は過去15年間に4度あった。小児の双極性障害は、信じがたいことに40倍に増えた。自閉症はなんと20倍に増えた。注意欠陥・多動性障害(ADHD)は3倍になった。成人の双極性障害は倍増した。』

これらは、巨大製薬会社が莫大な金額をマーケティングに注ぎ込んだ結果だと著者は指摘する。

『そして向精神薬を売る最良の手段は、精神病を売ることである』

『潤沢な資金に支えられた広範で執拗な「疾病啓発」キャンペーンは、何もなかったところに病気を作り出せる。そして精神医学は、正常と病期の境界線の操作に対してことさら弱い。生物学的なデータを使った検査が存在せず、巧みなマーケティングに影響され易い主観的判断に大きく依存しているからだ』

『現代の製薬企業は、偽薬反応の地からと普遍性を利用して大金を稼いでいる。クスリで大きな成功をおさめる最善の方法は、ほんとうは薬が必要でない人たちを治療することだ―偽薬に最も顕著な反応を示すのは、自力で自然に回復する人たちだからである。マーケティングが実に巧妙だったのは、ほんとうは病気ではない患者を治療するように医師にうながすと同時に、正常な人々に自分は病気だと思いこませたことである』

そして著者は、「DSM-5」に警鐘を鳴らす。それは、著者が「DSM-Ⅳ」と関わり、その直後に製薬企業の巨大なマーケティングによって「診断のインフレ」が起こったことを踏まえ、著者自身の後悔も含めた警鐘だ。著者は「DSM-Ⅳ」を、出来るだけ厳密に、出来るだけ拡大解釈されないように作ったつもりだ。しかしそれでも、製薬企業の力には対抗できなかった。「DSM-5」は、「様々な新しい病気」を生み出し、「精神病を予防しよう」という試みのために穴だらけとなり、そしてそれらは確実に「診断のインフレ」をハイパーインフレに変えると著者は指摘する。
現時点でさえもアメリカ人は、精神科医による投薬によって、薬物依存に陥っている。

『アメリカの成人の5人にひとりが、精神的な問題のために一種類異常の薬を飲んでいる。2010年の時点で、全成人の11%が抗うつ薬を服用している。小児の4%近くが精神刺激薬を飲み、ティーンエージャーの4%が抗うつ薬を服用し、老人ホーム入居者の25%に向精神病薬が与えられている』

『軽々しい診断は、国中で過量服薬を引き起こしている。アメリカ人の6%が処方薬に位zんシており、いまや違法なドラッグよりも合法の処方薬のほうが、緊急救命室に運び込まれたり命を落としたりする原因の多数を占めている』

このように、病気でもない人間に投薬をすることで、薬物依存にしてしまうように、正常な人間に無用なレッテルを貼って人生に悪影響を及ぼしている現状を著者は強く憤る。しかしそれにも増して著者が危惧するのは、治療を必要とする人に資源が配分されないことだ。

『また、資源の配分も本末転倒だ。正常な「健康だが不安を感じている人」が過剰な治療をほどこされて害をこうむっている。本当に病気で、治療を必要としている人たちが、あまりにもわずかな助けしか得られていない。重いうつ病を患う人の三分の二が治療を受けず、統合失調症を患う人の多数が刑務所に行く羽目になっている。災いの前兆が現れている』

著者はこの点、つまり、「精神科の診断や治療は、必要な人にとっては絶対に必要だ」というメッセージを強く主張する。これは、本書を読む際に重要な大前提でもある。決して忘れてはいけない。冒頭でも著者は、こんな懸念を顕にしている。

『私にとって悪夢のシナリオは、一部のひつが都合のいい読み方をして、私が精神科の診断と治療に反対しているという本書の内容にも意図にもまったく反した結論を引き出すことだ。そういう人は、この分野が適切でなく用いられたときに私が向ける批判に影響されすぎていて、適切に用いられたときに私が示す精神医学への強力な支持を見落としている』

『仮定の話だが、こういう流れが推測できる―私のメッセージを根本から誤解した人たちが、薬を必要としているにも関わらず、軽率に服用をやめてしまい、そのために病気がぶり返して、自殺や暴力につながる。もしそんなことが起こったら、私に直接の責任があるわけではないとはいえ、後味の悪い思いをするにちがいない』

しかしそれでも著者は、本書を書く決断をした。

『こうした現実的な懸念はあったが、私は一歩踏み出して本書を書こうと決意した。現在のアメリカに見られる向精神薬のあまりにも過剰な使用のほうが、はるかに重大で切迫した危険だからだ。願わくば、ふたつの目的を同時にかなえたいと思っている―まずは、治療を必要としない人に理療を続けるようにうながすことである。私が批判の矛先を向けているのは精神医学の行きすぎのみであって、精神医学の核心ではない。「<正常>を救い出す」と「精神医学を救い出す」は表裏一体にほかならない。足を踏み入れるべきではないところへ突進したがる傾向から、精神医学を救い出さなければならない。だれもが病気だと思いこませようとする強大な勢力から、「正常」を救い出さなければならない』

本書の中では、製薬企業や精神科医が、これまでどんな病気を「流行」にしてきたのかという具体例も挙げられている。「多重人格」「ADHD」「双極性障害」「自閉症」「社会不安症」などである。
大事な点は、著者はこれらの病気を「存在しない」と言っているのではない。存在はするが、しかしそうと診断された人たちの大半が、実際はその精神疾患を患っているわけではない、ということなのだ。巻末には、「正しくない診断を下された個人」のいくつかの実際の物語が描かれている。

『もう自分が正常だとは思えなかった。どんなばかなことをしてしまったのだろう、A医師がほんの数分で見つけたくらいなのだから、まわりも感づいていたにちがいない、と思いました』

『双極性障害の診断は消え去らず、記録に残り、いまなおスーザンの人生につきまとっている。スーザンが保険に加入しようとしたときのことだ。四社から謝絶され、双極性障害がリスク要因と見なされていることを思い知らされた。さらに、養子も迎えられないと分かった』

これらの話は、「診断のインフレ」が実際に具体的にどんな悪影響を及ぼしているのかを実感させる。患者にこれだけの苦しみを押しつけておいて、精神科医たちは罪悪感も覚えず、豊かで金銭的にも恵まれた生活をしているのだ。異常としかいいようがない。
著者は精神科医たちに、こう診断すべきだと忠告する。

『鉄則を記しておこう。症状が精神疾患によるものだと決めつける前に、内科の病気(を含む他の様々な要因)が隠れている可能性を除外しておかなければならない。内科の病気で苦しんでいる人たちが病気に動揺しているからといって、精神も病んでいるのだと誤ったレッテルを軽々しく貼ってはならない』

『現在は初診で診断をくだすのが通例になっているが、これはたいてい、人生最悪の時期を経験している患者とのごく短い会話で得られたきわめて不十分な情報にもとづいている。確定診断をくだすには、初診は考えうる最悪のタイミングであり、初診でくだされた診断は誤っていることが多い』

また、一般の人々にも、こんな忠告を促す。

『悲しいからとか不安だからというだけで、自分は病気だという結論に飛びついてはならない。状況を整理して、成り行きを見守る時間をとるべきである。そして、明らかに役立つにもかかわらず、大部分の人がわかっていてもやらないことをするといい。ひたすら体を動かす―運動は心身の問題の偉大な癒し手である。じゅうぶんな睡眠をとる―睡眠剥奪は精神科の症状を引き起こす。アルコールやドラッグは控えるかやめる。友人や家族に連絡をとる。精神的な支えを求める。自分のいちばん好きなことを見つけて、一日のうちに楽しい時間を増やす。どの問題が悲しみの原因かを特定し、解決策を考えだす。おろして差し支えない重荷はすべておろす。どれも陳腐で当たり前に思えるかもしれないが、日々の問題には陳腐で当たり前の解決策がまちがいなく役立つ。
症状が重いときや長くつづくときは、自然の回復力や単純な解決策は効かないだろう。本物の精神疾患ならば、精神保健の臨床医に診てもらわなければならない。必要なときはためらわずに専門家の助けを得るべきだが、必要でないときは避けるべきである』

このアドバイスは、実際は難しいかもしれないと思う。「必要なとき」を、自分で判断しなくてはいけないからだ。自分で、「薬が必要な精神疾患」かどうか、ある程度見極めなくてはいけない、と言われているようだ。それが分からないから精神科医の元へ行くのだが、しかしそれは間違いの第一歩になる可能性がある、と著者は指摘する。実際、製薬会社のマーケティングに乗せられるのは癪だなと感じる。どうするのが正解なのかはよくわからないが、あまり薬に頼り過ぎない方がいいのだろう、というぐらいの意識でいた方がいいのだろうと思う。
日本ではまだ、アメリカほどの状況にはなっていないと思う。詳しくは知らないけど、そこまで「薬漬け」にされているというような印象もないし、製薬会社のマーケティングに屈しているという実感もない。とはいえ、日本がいつアメリカのような状況に陥るか、それは誰にも分からない。「新型うつ病」のような、「本来では病気ではない(ないかもしれない)ものを病気として認める」ような動きも出始めている。油断は出来ない。本書は、そんなマーケティングが支配する世の中に生きる僕たちに、「患者」としての指針を与えてくれる作品だ。是非読んでみてください。

アラン・フランセス「<正常>を救え 精神医学を混乱させるDSM-5への警告」


映画「地獄でなぜ悪い」(監督:園子温)を観に行きました

話題作を次々に繰り出してくる鬼才・園子温監督の最新作。僕が園子温の映画を初めて見たのは「冷たい熱帯魚」で、その後原発の問題を扱った「希望の国」も見た。これで三作目になる。

園子温、やっぱ天才だわ。凄すぎた、この映画も!

10年前、映画監督を目指し、日々自主制作映画の撮影に没頭していた青年たちがいた。彼らは「ファック・ボンバー」と名乗り、カメラマン二人と、アクション俳優一人、そして「後世に名を残す一本を撮って俺は死ぬのだ」と豪語する平田純(長谷川博己)で構成されていた。10年前の彼らは血気盛んで、面白そうだと思えるところにはことごとく突っ込んでいき、自分たちが偉大な映画を撮ることを微塵も疑わなかった。

そして同じく10年前。武藤組の組長である武藤大三(國村隼)の妻・しずえ(友近)は、自宅にやってた、武藤組と敵対する池上組の刺客4人を一人で撃退し、自ら自首し刑務所に入る。武藤家に突入し、武藤家で血まみれになりつつも生き残ったヒットマンの一人・池上純(堤真一)は、武藤家の娘で、子役としてCMに出演中だったミツコ(二階堂ふみ)と衝撃的な出会いを果たし、敵対する組の組長の娘でありながら、心酔して行くことになる。

10年後。「ファック・ボンバー」の面々は、映画を撮るでもなく、ただ誇大妄想だけは捨てることなくつるみ続けている。しずえは刑期を終えて、あと10日で出所する。ミツコは女優になっており、ミツコが出所する頃には主演女優として抜擢されて映画がクランクアップする予定だ。大三はそれを繰り返ししずえに語り、しずえはそれを大いに期待している。

しかししずえは、映画の撮影から逃げ出し行方知れずになった。総力を挙げて追う武藤組。ミツコは、たまたま電話ボックスで電話をしていただけの無害な青年・橋本公次(星野源)を「一日彼氏」としてレンタルし、逃亡に協力してもらう。しかしやがてミツコは武藤組に見つかってしまう。

大三はその頃、大いなる苦悩を抱えていた。組のためにムショに入ってくれたしずえが楽しみにしている映画は、ミツコが逃げ出したせいでおじゃん。しかし、しずえを落胆させるわけにはいかない。

『非常事態だ。映画班を作る』

そう宣言した大三は、武藤組で機材を借り受け、ミツコを主演女優とした映画を撮ることになる。そんなところにミツコが連れ戻されてきたのだ。
ミツコと共に連れられてきた公次は危うく殺されかけるが、「この人は映画監督!」とミツコが叫び、一時難を逃れる。しかし公次は、ミツコを主演女優にした映画を撮らなければ殺されるという異常な状況に巻き込まれ…。

というような作品です。一応、公式サイトに書かれている内容を基準にして上記の内容紹介を書いてみたので、内容について触れすぎているということはないと思います。

ホントに凄かった。先ほども書いたけど、僕は園子温の映画を見るのは3作目。「冷たい熱帯魚」はかなりシリアスな物語だったし、「希望の国」ももっとシリアスな物語だったから、少なくとも僕にとっては新しいタイプの園子温体験だった。

もう、基本的に笑いっぱなしなのだ。これは僕だけではない。観客の多くが、あらゆる場面で笑っていた。随所に散りばめられた、度が過ぎていたり不謹慎だったり間が抜けていたりするような「笑い」が、とにかく面白くって仕方なかった。

これは、ストーリーや細部だけいじってどうこうなるレベルじゃない、と感じた。作品全体の雰囲気を、「そういう雰囲気」に作りこんだからこそ、あれほどまでに観客に笑いが起こったのだと思う。僕の勝手なイメージでは(つまり「冷たい熱帯魚」と「希望の国」を見たイメージでは)、園子温の映画に出てくる人物は、その背景がきちんと「リアリティ」に支えられている印象がある。どれだけ異常な人間が描かれていようと、それが「地に足をついている」と感じさせるからこそ、人物にリアリティが生まれるのだろうと思っている。

それと対比した形で書けば、今回の作品では園子温は、登場人物たちを徹底的に「地から足を引き剥がした」と言っていいのではないか。ありとあらゆる場面で、登場人物たちを「非現実的」に描き出すことで、作品全体の「笑える雰囲気」を生み出したのではないかと思う。もしその雰囲気がなければ、たとえ同じようなシーンが描かれていても、あそこまで笑いが生まれることはなかったのではないか。

印象的なセリフがあった。

『リアリズムじゃ、負ける』

これは、ある「現実ではないシーン」で、ある人物の内面の声を描き出したもので、ここでいう「負ける」というのは、もっと実際的な意味があるのだが、このセリフは、この映画全体のことも指しているのではないかと後々感じた。園子温は、リアリズムを軽視する映画監督ではないと思う。しかし、「リアリズムだけ」では描けないものがある、ということもきっと直観しているのだろう。本作は、徹底的に「リアリズム」を「意識的に」失わせる方向にあらゆるものが描かれていく。僕の勝手な思い込みかもしれないけれど、そこに僕は、この映画を撮った監督の一つの主張を読み取ったように感じた。

しかし、冒頭から凄いシーンだった。10年前、まだ小さい女の子だったミツコが家に帰ると、床一面血まみれという凄まじい場面だ。しかも、そこでのミツコの振る舞いがまたイカしている。さらに言えば、このシーンと後半で対を成すシーンが登場する。冒頭のインパクトを演出するという意味でも、物語を一定の枠内で閉じるという意味でも、さらに、本作にとって非常に重要で印象深い登場人物の一人であるミツコという少女の「一面」を描くという意味でも、このシーンは非常にインパクトがあり意味のあるものだったのではないかと思う。

ミツコは、ホントに素晴らしかったなぁ。正直、あんな女の子が近くにいたら、振り回されてめんどくせーなーって思うんだろうけど(笑)、遠目に見てる分にはメチャクチャ魅力的だ。ヤバイ。惚れるわ。ある男のところに乗り込んでいった時の振る舞いもゾクゾクさせられるし、時折ギャップを見せつけられるのもヤバイ。ベースの設定が極道だから、ヒロイン的な女の子はミツコぐらいしか出てこないんだけど、ミツコ一人で何人分もの魅力を振りまく感じで、物凄い存在感だと思う。いいなぁ、ミツコ。

しかし、本作中で何よりも最大級の異質さを放つのが、映画監督を目指す平田だろう。彼はもう、異常者と呼んでまったく逸脱しない。この映画には、変わった人間がそれこそ山ほど出てくるけど、しかし言ってみれば、それぞれの人間の行動原理は、それぞれの世界の中ではそれほど異質ではない。極道は極道なりに、極道の妻は極道の妻なりに、「ファック・ボンバー」の面々は映画人なりに、それぞれの世界の価値観の中で多少突き抜けているという程度に過ぎない。

しかし、平田だけは別だ。平田の突き抜け方は、ぶっ飛んでいると言っていい。この作品の中で、平田だけが正常ではない、という表現のしても言い過ぎではないのではないか。それは、平田の抱える世界が異常に肥大しているとも言えるし、世界に対して平田の存在感があまりにも大きすぎると言うことも出来るが、ともかく平田は狂っている。その異常さは、もしかしたら、「地から足を引き剥がした」設定の中で、そこまで強く映らないかもしれない。他の登場人物と同じ程度に、平田もおかしいよねと捉えられるかもしれない。しかし、僕は、平田の異常さはこの映画の設定の中でも特異だと感じた。平田の異常さは特に、10年間もその異常さの中に居続けて、なお平田本人が狂うことがない、という点でも驚愕すべきだと思う。

平田と対照的なのが、公次だ。彼の存在感の薄さは、凄い。それは、公次の存在感の薄さであると同時に、僕にとっては星野源の存在感の薄さでもあった。正直僕はしばらく、公次が星野源だと気づかなかった。映画に星野源が出てくることをあらかじめ知っていたにも関わらずである。その無個性さは、ぶっ飛んだ人間ばかり出てくるこの映画の中にあって、ある種のホットスポットのように振る舞う。ドーナツの穴のように、「存在しないが故の存在感」みたいなものを公次からは感じる。個人的には公次も、この映画の中で特殊な役割を演じていると感じた。

ラスト付近、公次がミツコに繰り出すセリフは、存在感のない公次が言うからこそ、より際立って印象深いものになった気がする。そのセリフは書かないけど(自分が後で読み返して思い出せるように書いておくと、「左手」という言葉が入るセリフだ)、恐ろしく極限的な状況にあって、しかも明らかに絶望的な有り様であるのに、そこで自虐的を交えつつ自分の思いをミツコに伝える公次の姿は、とても印象深かった。

非常に爽やかな青春映画の雰囲気と、バリバリの極道映画の雰囲気を、奇妙にしかし絶妙にブレンドさせつつ、ぶっ飛んだ設定と「地から足を引き剥がした」登場人物たちの描き方によって独特な雰囲気を生み出した映画で、なんというか非常に不思議な体験だった。カラっとした明るい笑いではない、どことなくネバネバした部分を含む笑いを全編に散りばめながら、現実感を浮遊させる展開で、観る者を翻弄していく。過剰な逸脱や演出が生み出す雰囲気が観客にも伝染し、全編で笑いが起こる非常に不思議な映画だったと思う。やっぱり凄いな、園子温。

映画『希望の国』(園子温)の感想 備忘録

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映画『砂漠でサーモンフィッシング』 備忘録

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映画「風立ちぬ」(宮崎駿)の感想

映画「凶悪」(新潮文庫「凶悪 ある死刑囚の告発」原作)を観に行ってきました

そして父になる(監督:是枝裕和 原案:「ねじれた絆」)を観に行ってきました

消えた名画を探して(糸井恵)

ヴァン・ゴッホの名前を知らない人はいないだろう。本書にも、『現在おそらく最も尊敬され、また世界中のマーケットで作品が渇望されるアーティスト』と書かれている。そんなゴッホが残した作品の中でも、『最晩年の重要な作品』と評される「医師ガシェの肖像」という作品がある。
現在、この作品が「行方不明」だということを、ご存知だろうか?いや、「医師ガシェの肖像」だけではない。バブル期に日本が買いまくった、世界有数の作品のいくつかは、現在「所在不明」なのである。

『世界で最も有名な油絵「医師ガシェの肖像」が、今どこにあるのか知っている人間が、この世界にほんの一握りしかおらず、その持ち主が、その存在を、少なくとも今のところは、なるべくそれ以上の人々に知られたくないと思っているからだ』

『世界最高の価値ある美術作品が―価値というのは「値段」というだけでなく芸術的価値を含めてだが―日本に渡り、そしてその後、十年以上の間、一度も公の場に姿を現すことなく、消えてしまったというわけだ』

『名も知られていないアーティストの、だれも気にとめないような絵の話をしているのではなく、世界で一番重要だと思われている画家たちの、世界で一番重要だと考えられる作品のことなのに、だれもが、当たり前のように、持ち主がだれなのか、絵がどこにあるのかさえ、わからないという』

『たとえば本書の「はじめに」で述べたように、いろいろな美術館が競って現在の所有者を探そうをしているゴッホの「医師ガシェの肖像」や、ピカソの「ピエレットの婚礼」がどこにあるのかわからないのはなぜなのか』

本書は、それらの謎を主軸としつつ、美術の世界に「ジャパンマネー」がどう関わり、それが美術の世界にどんな影響を与えてきたのか、そして「美術品」というあらゆる意味で扱いの難しいものが、経済や犯罪のシーンでどんな役割を演じてきたのかをつぶさに描く作品です。

僕が「医師ガシェの肖像」の行方が分からないという事実を知ったのは、望月諒子「大絵画展」という小説でだった。この作品は、一般には馴染みのない美術の世界を舞台に、「バブル期に日本が買いまくった絵画の一つであり、不良債権して銀行の倉庫に眠っている「医師ガシェの肖像」を盗み出して欲しい」という依頼を受ける人間を主軸に描く小説だ。小説としてはなかなか評価の難しい作品だったが、「医師ガシェの肖像」を巡る物語は非常に面白かった。確かその本の参考文献に載っていたか、あるいは解説で本書のことに触れられていたかしたので、本書に興味を持ったのだ。
本書を読むと、バブル期の日本の「美術品漁り」がいかにとんでもないものだったのかがわかる。「医師ガシェの肖像」を落札したのは、大昭和製紙の会長だった斉藤了英氏だが、彼が「医師ガシェの肖像」に支払った125億円という金額は、現在も破られることのない、オークション史上最高額だ。

『1987年から1990年の4年間、日本に輸入された海外の美術品は、当時の世界中で売買される美術品の金額の半分、いやそれ以上になるといわれた。正確な金額はだれにもわからないが、未曾有の量だったのは間違いない』

斉藤了英氏は、「125億円でゴッホを買った」ということ以上に、欧米人の神経を逆なでする発言をしたことでも有名だ。斉藤了英氏はあるインタビューで、「まわりには(ゴッホとルノワールは自分が死んだら)おれの棺桶で焼いてくれと言っている」と発言した。これは、僕ら日本人の感覚では、特に気に障るような発言ではないだろう。著者も同じ感想を抱いている。日本には、「一緒に焼いて欲しいと思うほど大切なものだ」という表現が価値観として共有されているからだ。しかし、欧米人はこの発言に驚愕した。その反応には、著者自身困惑させられたという。欧米人はこの発言に、それほどまでに「過剰に」反応したのだ。この発言は、日本人の節操のない美術品漁りを示す際には、今に至るまで引用され続けているという。

『私自身のことでいえば、その騒ぎで初めて、遅ればせながら気がついた。どれほど、ヨーロッパが、そしてアメリカが、美術品をバブルのカネに飽かして「買いあさった」日本人を憎み、それらの美術品を取り戻したがっているかということに』

そんな日本人による「美術品漁り」の最初の一歩になったと認識されているのが、これまたゴッホの「ひまわり」だ。

『この絵が、日本の美術市場を変え、日本人がアートを見る態度を変えてしまった。1987年のことである。
日本人が1980年代後半から1990年代初めのバブル期に、欧米の美術マーケットで大盤振る舞いをした、その最初の一歩となったのは、東京の安田火災海上保険が1987念に買ったヴィンセント・ヴァン・ゴッホの「ひまわり」だった、というのが今では定説だ』

本書では、バブル期に日本に入ってきた有名画家による有名絵画の多くが、バブル崩壊後、日本から欧米に「還流美術品」として流出して行ったか、あるいは銀行の倉庫に「塩漬け」にされている様々な事実に触れていくのだけれど、「ひまわり」は幸運な例外と言えるだろう。

『バブル期に日本人が買った何十億円という値段の美術品の中でも、2001年の現在振り返ると、何十億円という特に高い金額を払ったものほど日本に残らなかった。その中で、購入当時から現在いいたるまで持ち主が変わらず、しかもほとんどの期間、常に美術館で公開され続けてきたという意味で異彩を放つのが、安田火災海上の「ひまわり」である。』

ピカソの「ピエレットの婚礼」もまた、73億円というとんでもない値段がつけられた作品だった。日本オートポリス社の鶴巻智徳氏が購入したこの絵画は、1905年に描かれてから度々行方不明になり、第二次世界大戦で燃えてしまったのだろうと思われていたのだが、ある時ひょっこり現れ、日本とパリを衛星中継で結んだオークションに出品された。それを鶴巻智徳氏が落札したのだが、本書が出版された2001年の時点では、また行方しれずになってしまったという。

『数年前に、関心を持つコレクターの依頼で、東京都内の倉庫に眠る「ピエレット」を見に行ったという画商は、「もともとコンディションのあまりよくない絵だったが、なんだかかわいそうだった」と話す。若く美しいピエレットは今どこで、人知れず憂いを秘めた表情をしているのか』

本書では、美術品が美術の世界以外にもたらした悪影響についても触れている。
本書の中で大きな扱いをされているのが、あの有名な「イトマン事件」である。イトマン事件については、大分昔関係するノンフィクションを読んだ記憶があるんだけど、本のタイトルも思い出せない。僕には全体像が理解できないほど複雑な事件だったようだが、美術品に関係することだけ触れれば、許永中という在日韓国人実業家が、イトマンという会社から金を引き出すために、ありえない高値で膨大な美術品を売った、というものらしい。美術品に値段などあってないようなもの、という言葉もあるが、イトマン事件で押収された美術品の中には、その後オークションに出品され、イトマン価格の50分の1ほどで取引されたものもあったという。いかにイトマン価格が適当でありえないほどの高値だったかがわかるだろう。
また、美術品は、日本の企業の倒産にも関わっている。名古屋の優良なトヨタディーラーだった会社が、会長が集めに集めた美術品のために破綻した。あるいは、「潰れるはずがない」と思われていた長銀(日本長期信用銀行)の破綻の一翼を担っていたのもまた美術品だった。
バブル崩壊と共に、それら美術品の多くは借金の担保として銀行に取られたが、銀行としても処分に困る「不良債権」であり、各銀行ともいやいやながら引き取っているというのが実情のようだ。「買ったときの値段と、売ろうとしたときの価格があまりにかけ離れている」からこそ、なかなか売るに売れない状況が続き、世界の名画が、日本の倉庫に「塩漬け」されているという状況が長く続くことになった。
本書では、バブル期の日本による「美術品漁り」の「罪」を主に取り上げるが、「功」がなかったわけでもない、と著者は書く。どんな形であれ、「日本人の間での美術への関心が高まった」ことは確かだし、また「欧米に認められなければ安心して文化を受け容れられない」という、かつて日本人に定流していた感覚が、少しは減ったのではないかとも書いている。とはいえ、「ジャパンマネー」が美術の世界にもたらした「罪」の大きさに比べたら、何ほどのものでもないのだろうけども。
本書で描かれているように、美術品は「マネー」としての側面も持つ。非常にあやふやでとらえどころのない、不思議な世界だ。その一方で、美術品は「ロマン」としての側面も持つ。原田マハの「楽園のカンヴァス」は、「ルソーの未発表の絵を調査する」という、なんともロマン(だけでは決してないが)溢れる物語だ。僕なんかにはさっぱり理解できない世界だけれども、絵にはそれぞれ物語や背景があり、また文化的な価値もある。それらが、「日本人の都合」のために「塩漬け」されているのは、僕個人としてはなんとも申し訳ない気分になる。美術品が、適切な環境で適切な扱われ方をすることを望むばかりである、本書は、10年位上も前の作品なので、すでに現在とは状況が変わっていることもあるでしょうが、一般にはなかなか馴染みのない美術の世界を非常に興味深く切り取っている作品だと思います。是非読んでみてください。

糸井恵「消えた名画を探して」


恋しくて(村上春樹編訳)

内容に入ろうと思います。
本書は、村上春樹が個人的に気に入った様々なタイプの恋愛小説9編と、村上春樹自身による一遍の短編を加えた計10編の恋愛小説が収録された作品集です。選ばれているのは、既に高い評価を集めている重鎮的な作家から、村上春樹が定期的に読んでいる「ニューヨーカー」誌などで見つけたものなど、様々です。
さて、先に書いておくと、ちょっと時間がなくて、まだ村上春樹の短編を読めていない状態でこの感想を書いています。村上春樹の短編の感想を後から書き足すかどうかは、まあ僕の気分次第。

マイリー・メロイ「愛しあう二人に代わって」
内気なウィリアムと、ダンサーを目指すブライディー。ウィリアムはブライディーに惹かれつつも、不格好な自分な外見もあってなかなかブライディーにアプローチ出来ない。ある時ブライディーから、「代理人結婚」のアルバイトをしないかと誘われる。

デヴィッド・クレーンズ「テレサ」
アンジェロは、二列前に座るテレサのことが気になっている。授業中、ずっと彼女のことばかり見ている。ある時アンジェロは、なんとはなしに、学校終わりにテレサの後についていくことに決めた。

トバイアス・ウルフ「二人の少年と、一人の少女」
メアリ・アンは、親友であるレイフと付き合い始めた。レイフは、少しの間この地を離れることになり、その間のメアリ・アンの相手をギルバートに託した。二人は、あちこちに出かけ、語り、ギルバートは、その一歩を踏み出そうとする。

ペーター・シュタム「甘い夢を」
ララとシモンはちょっと前に一緒に住み始めた。少しずつ、二人の生活を形作る毎日を過ごしている。レストランの上にある住まいで、二人は、大家が経営しているそのレストランに初めて足を踏み入れる。

ローレン・グロフ「L・デバードとアリエット 愛の物語」
元水泳の金メダリストである詩人は、ある時資産家の娘であり、足の機能を失いつつある少女のトレーニングを引き受けることになる。言葉が交わされ、身体が触れ、二人は恋に堕ちる。

リュドミラ・ペトルシェフスカヤ「薄暗い運命」
知り合った「恋人」を家に連れてくるべく、同居している母親に外に出て行ってもらう女性。あからさまな不幸が目の前にあっても、しかし彼女は幸福に打たれる。ショートショート。

アリス・マンロー「ジャック・ランダ・ホテル」
ウィルを追ってオーストラリアに向かったゲイルは、ウィルが手紙を送った相手が死亡していることをたまたま知り、その相手になりすましてしばらく手紙のやり取りを続けることにする。

ジム・シェパード「恋と水素」
「同性愛を発見したらゴンドラから放り出してやる」という船長と共に飛行船で働くマイネルとグニュッスは、人目を忍んで飛行船内で落ち合う。

リチャード・フォード「モントリオールの恋人」
弁護士と公認会計士は、家族を持つ身でありながら、仕事上の都合で頻繁に一緒に旅行をし、そしてそこで関係を持ち続けた。

色んなタイプの恋愛小説を読んで僕は、なんとなく自分の好みの話がどんなものなのか理解するようになった。
僕はどうも、洗練されていたり、あるいは渋みを感じさせるような「大人の恋愛」を描く作品には、どうもそこまで強く関心を抱けないようだ。その恋愛には、老いていくばかりの人生の悲哀が描かれたり、結婚という呪縛から逃れようとする人間の愚かさが描かれたり、歳を重ねると共に素直な感情の発露を失いつつある複雑な人間の心理が描かれたりするのだが、どうもそういう物語にはさほど興味が持てない。引き際をわきまえていたり、深入りしないように感情をセーブできていたり、暗黙の了解で通じ合うような熟練の人間関が横たわっていたりする物語は、どうも読んでいてしっくりこない。まあそれは、年齢の問題もあるだろうし、自分の恋愛経験の問題もあるだろうし、自分の性格や価値観の問題もあるだろう。
僕はどちらかと言えば、未熟だったり、不器用だったり、どうしていいのか分からなくて愚かな行動をとってしまったりするような恋愛物語が好きだ。若さ故の自信のなさやあるいは傲慢さ、感情をうまく伝えられないが故のすれ違い、経験がない故の勘違い、そういうものが描かれている作品がいいなと思う。
そういう意味で僕が好きだった作品が、

マイリー・メロイ「愛しあう二人に代わって」
デヴィッド・クレーンズ「テレサ」
トバイアス・ウルフ「二人の少年と、一人の少女」
ローレン・グロフ「L・デバードとアリエット 愛の物語」

の四作品です。

「愛しあう二人に代わって」は、本作中一番好きかもしれません。奥手なウィリアムは、もうずっとずっと以前からブライディーに惹かれてはいたけれど、自身の臆病さと、ブライディーのとらえどころのなさが、ウィリアムを躊躇させる。しかしそこに、「代理人結婚」という話が舞い込む。全米で、「二重代理人結婚」(新婦も新郎も出席しない結婚式)が認められるのが彼らが住んでいた州だけで、それは、戦争に出た若者たちの結婚に大いに活用された。そんなわけでウィリアムとブライディーは頻繁に、自分たちがまったく知らない誰かの「代理人」として、結婚の誓いをお互いに繰り返すことになる。なかなか心躍る設定じゃないですか。物語がどう着地するかは、読んでみてください。

「テレサ」も良かったなぁ。これはホント、アンジェロっていう少年が、なんとなく気になってたテレサっていう女の子のことを尾行するだけの話。アンジェロにしても、何で自分がテレサを尾行してるんだか「よくわかっていない」んだけど、そういう子供らしい、自身でも捉えきれていない感情の在り方みたいなのが面白いと思う。アンジェロは尾行の過程で、アンジェロには想像もつかなかった現実を知ることになる。短い話で、この後アンジェロがどう行動したのか、それが気になるところだけど。

「二人の少年と、一人の少女」も、設定がいい。メアリ・アンは親友の恋人なんだけど、「面倒見てやってくれ」と言われたギルバートは、メアリ・アンと頻繁に会い、言葉を交わすようになる。元々メアリ・アンに目をつけていたのはギルバートの方で、そういう意味でギルバートがメアリ・アンに惹かれていくのは当然の流れだ。しかし、メアリ・アンがなかなかとらえどころのない少女で、自分はこんな風に振り回されたくはないけど、メアリ・アンみたいな女の子は結構好きだ。最後、ギルバートがどんな行動を取るのか。あの場面で、ああいう反応が出てきちゃうと、男としては辛いよね…。

「L・デバードとアリエット 愛の物語」は、短編というか、中編に近いぐらいの分量があるかもしれないけど、これがなかなか壮大なストーリーなのだ。水泳の元金メダリストと、車椅子に乗った資産家の少女が恋に堕ちる。問題はそこからだ。そこから彼らは、悲しみに塗れた、しかしそれでも希望で繋がった人生を送ることになる。ある瞬間から唐突に物悲しくなり、二人の微かな繋がりに思いを馳せる。環境や時代やちょっとした運命の違いによって翻弄されてしまった二人の物語。

外国人作家の作品は基本的にあまり得意ではなくて、さっきも書いたように本書の場合だと、「大人の恋愛」を描いた作品はちょっと苦手だったんだけど、若くて不器用な恋愛を描いた作品は凄く良かったと思います。村上春樹訳だからどうなのか、という翻訳のことはよく分かりませんが、各短編毎に村上春樹が書いている短い講評は好きです。

追記)

最後の村上春樹の書き下ろしの短編を読みました。
これが、なかなか面白いです。この「面白い」は、「文学的に優れている」みたいな意味合いじゃなくて(優れてない、って意味じゃなくて、その辺のことは僕にはよくわからん、ってことです)、「笑える」って意味です。
「恋するザムザ」っていう短編なんだけど、最初の一文が、

『目を覚ましたとき、自分がベッドの上でグレゴール・ザムザに変身していることを彼は発見した』

です。僕はカフカの「変身」を読んだことはないですけど、さすがにすぐ分かりました。基本的な設定は、このワンアイデアで構成されていて、カフカの「変身」の逆パターンですね。元々なんの生きものだったか知らないけど、そいつが目を覚ますとグレゴール・ザムザになっていた、という、ハチャメチャな設定です。村上春樹としては、「変身」の後日譚のようなものを書いたつもり、みたいですけどね。
ラブストーリーのアンソロジーなので、ラブストーリーのテイストにはなっていますけど、「グレゴール・ザムザに返信してしまった奴」が、どんな風に「人間として」機能することを覚え、またどんな風に「人間としての常識」を身につけていくかという過程(というか、努力したけど結局それを果たせないでいる過程)がなかなか面白いと思います。

村上春樹編訳「恋しくて」


浜風商店街 ふるさと久之浜で生きる(武田悦江)

『浜風商店街は、我が国における仮設商店街第一号である。2011年9月3日、いわき市久之浜町にオープンした』

本書の冒頭の一文だ。なかなかカッコイイ冒頭ではないか。「第一号」である。

先日、【解放食堂・ふくしま弾丸ツアー】で、いわき市に行ってきました。そこの「浜風商店街」で売っていたのが本書です。
【浜風商店街】というのは、冒頭の一文でも描かれている通り、「仮設商店街」です。なんと浜風商店街は、久之浜第一小学校のグラウンドに建てられているのだ。

浜風商店街

何故小学校のグラウンドに仮設の商店街が誕生したのか、その経緯と、商店街の面々の震災時の記憶を収録したのが本書である。

『ブイチェーンはたや店長・遠藤利勝さんは、避難先で久之浜町の住民に会うと必ず、「(店を)やってもらわないとね」と言われた。ある人からは、「はたやさんがやんねぇと、おいら出て行くしかないんだ。久之浜町にいらんないから」とまで言われた。商売人冥利に尽きる言葉を受けて、「焦点を再開するのが、約束みたいになっていましたね」。利勝さんは、決意を固めた。そこまで言われたら、やはり嬉しいしがんばろうと誰でも思える。利勝さんをはじめとする事業主たちは資金繰りが大変な中、事業再開への道を模索し、歩き出した。』

この言葉に代表されるように、浜風商店街は住民の要望を受ける形で誕生した。

『しかし日常生活を一日でも早く取り戻すためには、震災以前のように食料品や生活用品を取り扱う地元のお店がなければ、高齢者世帯を中心に、たとえ自宅に戻ったとしても孤立してしまう。町の復興に向けて踏み出すためには、まず商業者が立ち上がらなければならない』

とはいえ、久之浜商工会が「仮設商店街」の構想をいわき市に提案したのが、3月下旬。震災からひと月も断たず、市内のあちこちでまだ断水状態が続いている時だったというから凄い。みな被災して大変だったろうに(久之浜は、いわき市内で唯一火災が起こった地域でもある)、それでも復興の青写真を描くために立ち上がった人がいたのだ。
もちろん、簡単な話ではない。何よりも皆、資金繰りが大変だ。それまであった借金を返済しつつ、新たな資金を調達して来なくてはならない。しかも、保険や賠償金などがどの程度になるのか、まだ判然としていなかった時期だろう。場所があっても、設備を整えなくては営業出来ない店舗もある。

『スガハラ理容店主、菅原紀友夫妻は、阪神淡路大震災を経験した神戸市理容連合会から、福島県理容生活衛生同業組合を通じて理容店の商売道具一式を譲り受けた』

そんな支援もありながら、みな資金繰りを模索していく。
また場所の問題もある。選択肢はほとんどなく、場所は小学校しかないと早々と決まるが、クリアしなくてはならない問題はたくさんある。

『それでもやはり学校である。小学校内に商店街が立ち並ぶ事例は過去にはない。買い物をする場所が小学校の近くにできることによる治安の問題や、飲食店からでる臭いの問題などは大丈夫だろうか等々、想定される問題に対しては関係者が集まって、一つ一つ対処を検討していった』

本書には、久之浜第一小学校の校長の話も載っているが、敷地内に商店街があることについて、こんな風に語っている。

『でも学校の行き帰りに浜風商店街を通ってバスに乗り降りするんですよ。そういう時、商店街のみなさんは、どんなに忙しくても、子どもたちが変える時間には出てきてくれて「学校どうだったか」とか「ちゃんと明日も元気に来いよ」と、子どもたちに声をかけてくれる。
そのことによって子どもたちは、「久之浜」という地域を忘れずにいることができるし、地域の暖かさを感じ続けることができるのです。浜風商店街そのものが、久之浜を集約している人たちの集まりかな』

シューズショップさいとう・斉藤洋子さんは、元々事業再開は難しいだろう、と考えており、避難先の新潟でのんびり暮らしていたという。

『「久之浜に戻らないと、子どもたちが上履きや運動着などを揃えるのに苦労するだろう」
学校関係の商品だけ揃えればそれでいいと思い、地元の子どもたちのため、洋子さんは久之浜町に戻ることを決断した』

そんな人たちが集まって、浜風商店街は誕生したのだ。

『「みんなすごいなと思った」
白●建築設計事務所の白●哲也さん(●は「土」に点)の言葉に象徴されるように、自分たちも被災者であるにも関わらず、地元の焦点主は立ち上がった。出店した事業主の中には、もう商売を辞めるつもりだった人もいる。でも、
「子どもたちの運動着や靴がないと困るだろう」
「床屋があったほうがいい」
「電器屋もあった方がいい」
と、地域に住む人たちのことを考えて出店をみんな決意したのだ。事業者たち一人一人が、商売を通じて久之浜町の灯りとなろうとしていた』

オープン当日は台風でももの凄い雨風だったという。それでも2000人の来場者があった。久之浜商工会の根本信一主査は、オープン前後から毎日取材に追われ、他の仕事が出来ないほどだったという。大勢の人の期待を背負って浜風商店街は誕生したのだった。
そんな浜風商店街は、同時期に他地域で誕生した他の仮設商店街と一緒に、「2012年日経優秀製品・サービス賞 審査員特別賞」を受賞した。本書巻末には、浜風商店街を訪れた全国各地の団体名が列挙されているが、注目度の高さが伺える。

『仕事ができるありがたさを実感した』

そう語るからすや食堂・遠藤義康さん夫妻には、こんなエピソードがある。

『浜風商店街オープンの2~3日後に、どんぶりを返しに来た常連客がいた。その日返却してもらったどんぶりは、大地震が起こるわずか数時間前、3月11日の昼に出前したものだ。震災後から6ヶ月間、配達先のお客様が自宅で大切に保管していてくれたのだ。』

僕が浜風商店街を訪れた際は、コーヒーを振る舞ってくれ、みな元気に楽しく明るく仕事をされていた。浜風商店街という仮設商店街は期限が存在するものだし、今でさえ資金繰りはきっと厳しいだろう。何ごともうまく行っているというわけではないかもしれない。それでも、傷ついた子どもたちを見守る存在として、地域の人が集う場として、そして何よりも住民の生活の基盤を提供する場として、これからもその役割を担っていって欲しいと感じました。
さて本書は冒頭で、浜風商店街の方々の震災時の体験談が載っている。その中からいくつか抜き出してみようと思う。

『とっさに新妻賢一郎さんは車から降りて、遮断機を持ち上げた。
「車がどんどん来るんで、誰かがやらなくちゃいけないですよね。それで車が途切れるまでは続けました。それから所属する、消防団の屯所に向かいましたね」』

『内郷にある共立病院を出るのが、あと10分遅かったら、私も帰宅途中で津波に巻き込まれていたかもしれないと思います。本当にぎりぎりの判断でしたね』

『何日かたって消防活動をしていた人に会ったのよ。そしたら「ごめん」って言うんだよね。「からすやさんの店を守れなくてごめん」て』

『なんか狩猟民族みたいでしたね。川にも水をくみに行きましたね。嫁さんの弟と二人で「今日はあれがなかった」とか「今日は収穫があった」とか。でも二人でいろいろ考えて「あそこ行ってみっぺ」とか「ここ行ってみっぺ」とか』

震災の記憶はどんどんと薄れている、という実感がある。それは、正直なところ、ある程度は仕方ないと思えてしまう。実際、日常生活の中に、もう「震災」とか「原発」とか「被災者」とかが入り込んでくる余地はないのだ。それは、それぞれの人が意識して引き寄せようとしなくては、もう日常の中に居場所はない。多くの人の記憶から、震災のことが消えて行ってしまうのは、ある程度仕方ないのだろうなと思える。だからこそ、僕はこう言いたい。少しでも震災に関わることに関心を持っている人は、是非そのままその関心を持ち続けていてください。行動が出来なくても、発信が出来なくても、「知識として知り、共感すること」は出来ると思う。そして、それは決定的に大切なことなのだろうなと僕は思う。すぐにではないかもしれないが、やがてそれは意味を持つだろうと思う。ほんの少しだけだけれども、僕が被災地と関わった経験で言うと、やはり被災地にいる方々は「忘れられることの怖さ」を時折覗かせる。だから、関心を持ち続けられる人は、意識して自分の日常に「震災」を引き寄せる。そういう意識を持ち続けて欲しいなと思います。
本書は、amazonでも楽天BOOKSでも扱いがないみたいなので(ISBNがついてたから、あるかなと思ったんだけど)、浜風商店街のサイトのリンクを貼っておきます。

武田悦江「浜風商店街 ふるさと久之浜で生きる」

失踪者たちの画家(ポール・ラファージ)

内容に入ろうと思います、が、内容紹介出来るような作品でもないのだよなぁ。
フランクとジェームズは、家を飛び出し、「都市」で家を借りた。二人はそこに住み、「都市」を歩きまわり、恋をし、仕事を見つけ、やがてジェームズは去っていった。
フランクは、死体の写真を撮るブルーデンスと出会い、距離を縮め、やがてブルーデンスは失踪した。フランクは、日常を生きながら、この謎めいた「都市」で、ブルーデンスの姿を探し続ける…。
というような話、でしょうか?
久々に、自分ではどうにも捉えようがない作品だったなぁ。とにかく、良いも悪いも、僕にはよくわかりません。どういう意味でも、この作品のことを評価出来ないなぁ。元々外国人作家の作品はそこまで得意ではないし、幻想的な小説も得意ではないわけで、まあ読めるわきゃないのは分かってたんだけど。
まあ、なんというか、かなり変わった小説です。理不尽な状況がたくさん出てきます。僕は読んだことはないんですけど、カフカの「城」って作品は、結局城に辿りつけない、みたいな不条理小説なんですよね?なんとなく本書も、そういう不条理感があります。なんだかよく分からないけど、「都市」の中ではそれが起こるし、それをみんなは受け入れている。フランクも、疑問を抱きつつ、それに逆らおうとするでもなく、次第にその状況を受け入れていく、みたいな。不思議な小説です。
この作家は、柴田元幸が初めて訳す(日本に紹介する)作家で、その面白さに惚れ込んで一気読みしてしまったとのこと。作者その人もなかなか奇を衒った感じの人のようで、作品の内側も外側も幻惑的な作品と言えるでしょうか。
こういう小説を読めるようになると、もっと読書の世界は広がるんだろうなぁ、と思いつつ、やっぱりどうしても僕には読めない小説なんでありました。

ポール・ラファージ「失踪者たちの画家」


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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)