黒夜行

>>2013年09月

とっぴんぱらりの風太郎(万城目学)






内容に入ろうと思います。
舞台は、世が豊臣から徳川へと大きく舵を切りつつあった1612年。一人の忍びが、京に住み着いた。
風太郎。伊賀の柘植屋敷で忍びとして仕込まれた男。柘植屋敷では、忍びを人と扱わず、そのため幾人もの死人が日々出ていた。どうにかこうにか生き残っている風太郎は、しかしある時伊賀を追い出されてしまう。きっかけは、にんにくだった。
京に住み着いた風太郎は、何をするでもなくダラダラと時を過ごした。しかしある時、共に伊賀を追い出された南蛮出身の忍び・黒弓が久方ぶりに風太郎の前に姿を現す。黒弓が風太郎の元にひょうたんを運び込んだことで、風太郎の人生の針はまた動き出すのだ。
風太郎につきまとう謎の存在・因心居士に振り回されつつ、風太郎は日がなひょうたんを育てながらダラダラと生きる。時折舞い込む謎めいた展開に流されつつ、風太郎は世事とあまり関わることなく、しかし一方で伊賀に心を残しながら、京に馴染んでいく。
やがて戦乱の気配が次第に近づき、かつて忍びであった風太郎も関わりを避けることができなくなっていく。その頃には風太郎は既に、自身では抱えきれぬほどの大きなものをいくつも抱えることになっており、そのあまりの因業な展開に途方にくれつつ、騙し騙し前進していくが…。
というような話です。
あまりにも壮大な物語なので、内容紹介らしい内容紹介を書くのが凄く難しいですが、本書は、一人の忍びが、己の意思とは無関係に展開される様々な状況に巻き込まれつつ、やがて「一人の忍び」としてではなく「一人の人間」として覚悟を決め、異様な状況に立ち向かっていく物語です。
全体的になかなか面白い作品だと思うのですけど、先にこれを書いておかないといけないかなと思うことがあります。
それは、本書に「万城目学らしさ」を求めると、ちょっと受け取り方が大分変わるかもしれない、ということです。
万城目学という作家のこれまでの作品を読んできた方は、「おちゃらけ」とか「破天荒な設定」とか「くだらない展開」なんかに惹かれる部分があったのではないかと思います。もちろんそういう部分だけでは決してなくて、真面目に物語を展開させもするし、ただおちゃらけているだけでは決して無いのだけど、とはいえ先に挙げたような部分を「万城目学らしさ」と捉えて、そういう部分を面白がって読んでいる人、というのはそれなりにいるのではないかと思います。
そういう印象を持って本書を読み始めると、「あれ?」という感じになるかもしれません。
本書は、これまでの万城目学の作品と比べると、かなり真面目な作品です。僕の個人的な印象では、これまで万城目学は「真面目さ」を全面に押し出した作品を書いては来なかったように思います。どういう決意で万城目学が本書を書いたのか、それはわからないのだけど、意識的には「大転換」ぐらいの気持ちで書いたのではないか、と受け取りました。
なので、本書を読む人は、これまでの作品にあった「万城目学らしさ」を本書には求めない、という姿勢で本書と対峙した方がいい、と僕は思います。
もし今までのような「万城目学らしさ」を求めて本書を読むと、ちょっと拍子抜けするでしょう。一方で、本書のようななかなか骨太の作品を好む人は、「万城目学って自分と合う作風じゃないんだよね」と言って手に取らない可能性もあるかもしれない。作家が作風をガラリと変えた時は、この点が一番難しいなといつも感じています。名前が知れている作家であればあるほど、作風をガラリと変えた時、「それまでのファン」は「期待が外れた」と感じ、「その作品が届くべき人」には「元々のイメージで忌避される」。
とはいえ僕は、作家がそれまでの作風と同じような作品を書き続けていればいい、なんて思っているわけではありません。そこは是非ともどんどんチャレンジして言って欲しいと思うのです。だからここまで僕が書いてきたようなことは、読む側のスタンスについて言及しているつもりです。まあ、なかなか元々あるイメージを脇に置くことは難しいですけどね。
そんなわけで、これまでの万城目学作品とは大分雰囲気を異にする作品ですが、全体的にはなかなか面白かったと思います。おおよそ真面目な展開で繰り広げられる物語だけど、ひょうたんに絡む部分は万城目学らしい「ぶっ飛んだ設定」という感じがするし、ひょうたんを端緒にした壮大なストーリー展開は、本当になかなか圧巻です。全編を通じて、おそらく風太郎自身が一番そう思っていることでしょうが、読者も、「なんだってこんなことに命を掛けにゃならんのだ?」と思う場面が多々出てくるでしょう。それは、そういう時代だったのだ、という説明も出来るし、風太郎が阿呆だからだ、という言い方も出来るし、読む人がそれぞれ感じ取ればいいのだけど、何にしろ登場人物のほとんどが「忍び」であるという点が、舞台設定に大きな影響を与えていることは間違いありません。
本書は、全体的に、酷く物悲しい。別に、ずっと重々しく、暗い話が展開される、というわけではない。明るいおちゃらけたような場面も多々ある。しかし、どうしてもそこに物悲しさを感じてしまうのは、風太郎を始めとした登場人物たちが、「忍び」という宿命を背負っているからだと僕は思います。
「忍び」の物悲しさについて考える時、僕はある場面を思い出す。ラスト付近で、風太郎と共に修羅場を共にすることを決意した、蝉と呼ばれる同郷の忍びの言葉だ。

「儂はとても嬉しかったのだよ」

蝉は決断の理由をそう語る。何故嬉しかったのか、それはここでは書かないが、蝉のその一言が、「忍び」が置かれた残酷な世界を端的に表現している。
彼ら忍びは、地獄のような特訓の末に、忍びとしての技量を叩きこまれる。そして忍びとして活動を始めても、まさに「忍び」であるが故にその功績はなかなか表に出ない。風太郎も他の忍びも、「忍び」とはそういうものだという中でずっと生きてきた。それでもやはりどこかで、「忍び」としての生き方に疑問を抱いていたのではないか。
京に住み始めた風太郎は、思い悩むことになる。それは、それまでずっと「忍び」としての人生しか生きてこなかった風太郎の、アイデンティティクライシスだったろう。京で何か目的を持つでもなくぶらぶらと生きている中、風太郎の気持ちを支え続けたのは「また忍びに戻れるかもしれない」という淡い期待だけだった。絶望的な環境の中で過ごしていたにも関わらず、体も心も「忍び」としての生き方を求めてしまう。様々な状況で、そういう一瞬がかいま見えるたび、風太郎の有り様に物悲しさを覚えてしまう。
風太郎が巻き込まれるのは、それはそれはとんでもない状況なのだけど、それらと関わる中で風太郎の「覚悟」が、徐々に形を変えながらジワジワと固まっていく過程もとても良い。「忍び」としては下級で、知恵も才覚も特にあったものではない風太郎が、何故自分が選ばれたのか分からないままに、ありえない状況に次々と放り込まれることになる。その中で風太郎は、自らの命も仲間の命も危険にさらされる経験を何度もし、加えて、するつもりなどなかったことをやらざるを得なくなり、風太郎の進退は極まっていく。

「ちがうんだ蝉」

風太郎がこう言ったまさにその場面こそが、風太郎の「覚悟」をさらに一段引き上げたように僕は感じた。あの瞬間、風太郎は何かを悟り、何かを諦め、何かを覚悟したのだと思う。それは悲壮な覚悟であり、未来を見据える眼差しではないのだけど、一方で、それまでの「世の中とほどほどに関わる」という中途半端な立ち位置から抜け出し、「ここで俺は生きていかなくてはいけないんだ」というような、それまで風太郎が持っていなかったような「強さ」をそこで手にしたのではないかと思う。
そして最終的に風太郎に「人間としての誇り」を与えたのは、世を知らぬ一人の若者だっただろう。その若者のために、という気持ちが、風太郎の内側から違和感なく湧き上がってくる。それは、風太郎の20年に及ぶ人生の中で経験したことのないものだったのではないか。柘植屋敷では、「自分が生き残る」ことが、ありとあらゆることに優先された。とても、誰か他人のことを思いやる余裕などなかった。京に移り住んでからは、やけっぱちな気持ちから、世の中とまともに関わり合いを持たずに生きてきた。そんな風太郎にとって、その若者の生き様や言葉は、風太郎の内側に新しい何かをもたらしたことだろう。本書は、そんな風太郎の成長を追い、忍びとしてではなく人間として生きる輝きを照らす物語だ。
個人的には、結末に不満があるわけではないのだけど、もう少し希望に満ちたラストであって欲しい気がする。それは、ささやかな希望でも、あるいはかすかな希望でもいい。ありえないかもしれないけど、こうかもしれないと思い込める余地が欲しかったと思う。
他の登場人物についてもざっと書いておこう。冒頭で風太郎との犬猿の仲を見せつけた蝉は、忍び衆の中でも抜群の技能を誇る。忍びとしての才覚は非常に高いが、性格もなかなか悪い。いや、それだからこそどうにか忍びとして命を落とさずにいられるのだろうけど。
風太郎と共にあれこれ関わることになる黒弓は、商売の才覚に優れ、身体能力が抜群で、火薬の扱いに長けている。風太郎の人生をことごとく悪い向きに導く疫病神でありながら、一方で様々な形で風太郎の手助けをする。ほわんとした雰囲気をまとう忍びらしくないやつで、なかなか好きです。
美貌の忍びである常世。大坂の奥にいる常世は、物語の鍵を握る人物でもある。その美しさとは裏腹に、滅法強い。ちょくちょく風太郎の前に姿を現し、謎めいた関わりを持つことになる。
他にも様々な人物が出てくるのだけど、個人的に一番気になる存在は、芥下。風太郎が関わることになるひょうたん屋に勤める女だが、なかなか存在感があると思う。物語全体に深く関わる存在ではないのだけど、風太郎の日常にちょくちょく顔を出し、節介を焼いたり憎まれ口を叩きつつ、なんだかんだ風太郎と関わりを持つようになる。いくさに関わる芥下と風太郎のやり取りは、ほんの短いものだけど胸に刺さるし、風太郎にとっては、周りにいる人間が様々な形で風太郎を厄介事に巻き込もうとするのに対し、芥下だけは日常に留まった関わり方が出来る相手だという認識を持っているのではないかと思う。
歴史オンチな僕には、誰が誰なのかわからなくなることも多かったんだけど(「大御所」とか「御殿」みたいな感じで固有名詞ではない呼び方をされる場面では、誰が誰なのかよくわからんと思いながら読んでいた)、最後の大スペクタクルに至るまでに積み上げていく様々な展開と、ラストの怒涛の展開がなかなか面白い作品です。正直、物語の展開が遅いと思う部分もあるんだけど、とはいえ、なかなかに壮大で骨太な物語だと思います。是非読んでみてください。

万城目学「とっぴんぱらりの風太郎」


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【解放食堂・ふくしま弾丸ツアー 2013/09/29】に行ってきました

さてわたくし、2013年9月29(日)に、【解放食堂・ふくしま弾丸ツアー】という日帰りのツアーに行ってきました。

まず「解放食堂」について。僕自身は「解放食堂」には一度も行ったことがありませんが、

『“東北の美味しい食を片手に愉快に飲むことが、風評被害をはじめとするネガティブな状況を変えていくんじゃないか!”という掛け声で始まった集まり』

だそうで、現在は路面店もあるようです。
今回の【解放食堂・ふくしま弾丸ツアー】の主催者の一人でもある高木新平氏は行きのバスの中で、

『なかなか語られなくなってきてしまっている福島の現状について、ポップに伝える場を作りたかった。それなら、飲み食いがわかりやすいんじゃないか』

というような言葉で、【解放食堂】の趣旨を語っていました。

そんな【解放食堂】から派生して生まれたのが今回の【解放食堂・ふくしま弾丸ツアー】です。「ふくしまをもっと知ろう!」をテーマに、日帰りで福島に行き、生産者の話を聞いたり、軽い農作業をしたり、現地の食べ物を食べたりするというツアーでした。主催者は、

家入一真氏、高木新平氏、安藤美冬氏、四角大輔氏、安倍宏行氏

の五人とのことですが、四角大輔氏は高熱のため今回は欠席、家入一真氏は恐らく当初から不参加だったのだろうと思われます。高木新平氏、安藤美冬氏、安倍宏行氏の三人と、ボランティアの方々で、企画の運営がなされていました。


というわけで今からウダウダと、このツアーの詳細を書いていこうと思います。

8時に東京駅をバスで出発しました。参加者は、運営者を除いて45名のはずでしたが、4名ほど欠席があったようです。
バスの中で自己紹介をしまして、まあかなり多種多様な方が来ていましたが、個人的に気になったプロフィールをざっと挙げてみます。

◯ 会社を売ったり買ったりする人
◯ 基本家でゴロゴロしてる人
◯ 歯学部で歯科医師を目指す女性
◯ 36歳の大学生

他にも、銀行・証券会社・商社・会社経営者・PR会社・福祉士・介護師・鍼灸師など、様々な方がいました。ボランティアで手伝っていた方の中には、公務員の方がいました。

主催者の三人もご紹介します。

高木新平氏は、「言葉を書くことを仕事にしている」とのこと。
安藤美姫氏は、「一人の会社の経営者でありつつ、本を出したりと色んなことをしている」とのこと。
安倍氏は、「新聞やテレビでは取り上げないような、農家や水産加工業者などの人達の生身の声を伝えていく新たなネットメディアを10月に立ち上げるジャーナリスト」とのこと。

安倍宏行氏が、「なぜいわき市なのか?」という説明をバスの中でしてくれました。

昨日まで安倍氏は福島で「第三回ふくしま会議」に出席していたとのこと。NPO主催のこの会議は、『ふくしまの声を世界中に届けたい』という思いのもと、自分達に何が出来るかを模索し続けているそうです。第一回・第二回は、参加するのも気が重くなるような重苦しい雰囲気だったけど、三回目の今回は雰囲気が違ったとのこと。福島で新たなビジネスを立ち上げて行こう、という機運が高まりつつあるのだとか。

福島には、放射能や独居老人や家族の分断など様々な問題が山積している。そしてそれらを、「コミュニティの再構築」を主軸にして解決していこうと模索している。現在、クリーニングの配達や健康チェックなどを、別々の団体がバラバラにやっていると。それらを、自治体を中心にして一緒に有機的にやれないか、さらにそれをビジネスにしていくことが出来ないか、というようなことを、現地に入っている企業からと話し合いをしていたそうです。

そして毎年、「ふくしま会議」の翌日は分科会と称して、スタディツアーを組んで色々やっているのだそうです。そこで解放食堂がふくしま会議にお願いをして、解放食堂をそのスタディツアーに組み込んでもらうことにし、その関係でいわき市で行われているオーガニックコットンの生産者の手伝いをさせてもらうことになった、とのことでした。

11時10分頃久ノ浜駅に到着。そこで、オーガニックコットンの畑の管理者の一人である金成さんという方と合流し、まず「仮設の商店街」へと向かいました。

浜風商店街

久之浜小学校

この「浜風商店街」は、なんと小学校の敷地にあります。校庭の一部を使い、消失してしまった商店街を移転し、住民のために日用品や散髪などのサービスを提供しています。後々、市役所の方のお話を聞く機会がありましたが、そこでその方は「学校の敷地内に商店街を移築するなんて、当然異例の処置だった」と言います。子供にこんな異常な状況を見せたくない、と言った異論も当然出たそうですが、最終的には「異常事態だからこそ、親と一緒にこの状況を見るべきではないか」という判断もあり(もちろん、他に場所がなかったということもありますが)、学校の敷地内という処置になったようです。

「浜風商店街」は、家事で消失してしまいました。

仮設の商店街の中には、ふれあい広場というような場所があり、震災時の写真の展示などがされているところがあります。

震災時の写真


そこで佐藤さんという方から、震災当時の状況などをお聞きしました。

「この辺りの地区で言えば、並行して走っている常磐線と6号線の海側は、すべて津波でやられてしまいました。久之浜周辺は、常磐線と6号線の内側だったので、津波はまったく来ませんでした。地元の方の話によれば、津波は南から来て、殿上崎にぶち当たって町に押し寄せてきた、と。もし津波が南からではなく真っ直ぐやってきていたら、もっと内陸の方まで津波でやられていただろう、とのことでした。

私は自宅で被災をしました。築4ヶ月ぐらいの新しい家でしたが、震度6弱の揺れはもの凄かったです。
昔からよく、地震があったら机の下に隠れるようにと言われてきたものですが、地震のあった時、まず私が思ったことは、

『冗談じゃない』

ということでした。もし机の下なんかに隠れたら、机ごと押しつぶされてしまうと思いました。立つことさえままなりません。6分ぐらい揺れていたそうですが、揺れがちょっと収まった時に這って外に出ました。そこで初めて、庭に地割れができているのをみて、

『日本はもうおしまいなのかな』

と、泣きながら思いました。

津波は当日だけで全部で8度来たそうです。地震の22分後に、津波の第一波が来たそうです。ただこの一度目の津波は、とても小さかったのですね。だから、逃げてと言われながら家に財布を取りに帰ったり、堤防の方まで行って海を見たりする人がたくさんいました。それはこれまで、大きな津波というものを経験したことがなかったからです。

第二波が一番強かったそうです。推定で8.7mの津波が押し寄せ、久之浜では50名が亡くなり、12名が今も行方不明のままです。

いわき市では唯一、久之浜だけで火災が起こりました。地震の影響で水が出なかったため、消防団も消火活動をすることが出来ず、結局次の日の夕方まで燃え続けていました。

火災の後も混乱に見舞われました。ちょっと北にある末続という集落が、原発の30km圏内に引っ掛かり、屋内退避勧告が出ました。それから避難が行われ、末続はゴーストタウンのようになりました。

そこで起こったのが泥棒です。タンス預金から地デジから、中には便器まで盗まれた家もあったそうです。一方で、瓦礫が家を覆っていたために無事だったという家もあったようです。

こちらの写真を見てください。可愛らしい、これは幼稚園の写真ですね。久之浜第一幼稚園です。すぐ後ろが海なのがわかりますか?地震の当時、ここには80名の園児がいました。ほら今、幼稚園で裁判になっている件があるでしょう?ここは園長先生が素晴らしくて、園児たちをすぐバスに乗せて、普段は海側を通るのをルート変更して山側を通しました。さらに園児たちをバスの中に残したまま、外の悲惨な状況を見せなかったそうです。それで園児たちは、そこまで不安定になることがありませんでした。また、延長保育の園児たちをすぐに高台のお寺に避難させたそうです。聞くと、やはり防災訓練もきちんとやっていたとのことでした。

私は皆さんに強く言いたいことがあります。私は地震の後、車で海の傍まで行きました。行ってすぐ、これは一刻も早く逃げなくてはいけないと分かりましたので、車を捨てて逃げました。一瞬振り返った時にはもう、自分の車は津波に飲み込まれていました。
みなさんお願いです。みなさん職場や地域で防災訓練などなさるでしょう?これからはそれを、本当に熱心にやっていただきたいのです。」

佐藤さんのお話を聞いた後は、しばらく仮設の商店街を見学しました。

美容院


駄菓子屋さんが一軒あり、ご主人は叔父さんから店を引き継いたとのこと。「子供のためのものが売ってないからねぇ」と。ご自身は昔、電気屋を営んでいたんだそうです。店内には、戦場カメラマンの渡部陽一氏の写真が飾ってありました(久之浜小学校にやってきたとのこと)。

震災漂流物リスト

「浜風商店街」では、「浜風商店街 ふるさと久之浜で生きる」という本を買いました。

浜風商店街冊子

冊子のような形態ではありますが、きちんとISBNも付いていて、一般にも流通可能な形で出版されています。この本については、また別途感想を書こうと思っています。

それからバスで、オーガニックコットンの圃場へと向かいました。

コットン畑1


オーガニックコットンの事業を行っているのは、「ふよう土2100」というNPO。今回は、先ほどもご紹介した金成さんという方の指導の元、オーガニックコットンでの作業をさせていただきました。

オーガニックコットンを栽培しているのには、二つの理由があります。

まずは、繊維の自給率について。日本の食料自給率の低さはよく耳にしますが(40%~50%)、繊維の自給率は1%以下だそうで、綿の自給率に至ってはほぼ0%(0.00001%ぐらい)と言っていました。ほとんどがインド・アメリカ・アフリカで生産されているようで、米と比べて非常に手間が掛かり、値段もなかなか上がらない。そういう中で、6次産業化を目指し、生産からデザインまでをプロデュース出来るような存在になりたいのだ、というのが目的の一つ。

そして、恐らくこちらの目的の方が重要だと思いますが、「畑を放置しないため」とのこと。震災や放射能などの影響で、農作業が出来なくなっている方がたくさんいらっしゃる。とはいえ、畑をそのまま放置しておくと、いざ農業を再開したいと思った時に、0以下(マイナス)から始めなくてはならなくなる。それならば、そういう放置されかねない農地を一時的に提供してもらい、オーガニックコットンを栽培して畑の状態を保とうという試みのようです。

しかしなかなか難しい問題もあるようです。農家の方というのは「農作業をする」だけではありません。「土地を守ること」や「コミュニティを生み出すこと」など、「農業」という別の側面も非常に重要視しています。そういう中で、「農作業」だけを提供するだけでは、やはり農業再開までには程遠い。そういう難しさもあるようです。

現在いわき市内の30箇所、3ヘクタールほどの圃場があるようで、それらの作業はすべて、「ふよう土2100」の方を始め、全国から毎週やってきてくれるボランティアの方によって維持されているのだそうです。

金成さんは、お米の話にも触れていました。震災1年目は、作付はほぼ出来ず、2年目は様子を見ながら大丈夫そうなところから再開する、という形で進めていったと。で、三年目の今年は、ほぼ99%近くの場所で作付が行われたとのことです。

福島県では、「米の全量全袋検査」が行われています。文字通り、福島県内で収穫されたすべてのお米について、放射能を測定しています。そして現在では、ほぼ10割で放射能が検出されないという結果になっています。作物によって放射能の移行率が大分違い、稲の場合はかなり低く押さえられているとのこと。

しかしやはり、風評被害でなかなか厳しい現状であると。とはいえ、『全世界探しても、全量全袋検査を実施しているのは福島県以外にはない』と言っていました。それで放射能が検出されていない、という現状を、もっと知識として知っておいてもいいのではないかと思います。

コットン畑2


オーガニックコットン畑での作業中は、断片的に様々な方と話をしたので、まとまったことは書けないのですが、お一方、なかなか印象的な方がいらっしゃったので、その方とのお話だけ書こうと思います。

小島さんは、田舎暮らしをしようと4年ほど前に久之浜にやってきて、移住してすぐに震災に遭ってしまいました。

小島夫妻も避難所へと非難しましたが、小島さんの目にはそこは「ナチスの収容所」のように映ったそうです。よくわからないままバスに分乗させられ、家族もバラバラになり、そんな光景を見ている内に、自分は余所者だけど何かしなくてはという気持ちになったのだそう。

元々ターシャ・テューダーに憧れて、花と関わる仕事を始めたそうです(後々、小島さんの旦那さんに伺った話では、フラワーコーディネーターとして活躍していた小島さんは、一時期はずっと「ゼクシィ」という雑誌に毎号載っていたということでした)。本当であれば、久之浜に移住して、そこでお花のことを教える教室を開くつもりだったのだけど、震災があって生徒は誰も来てくれなくなってしまった。心は折れかけたけど、震災を機に様々な出会いがあり、色んな方と様々な活動をしていく中で、自分のやるべきことを見定めていったようです。

現在は、「千日紅の会」という集まりを主催しているようです。そして小島さんは今、大きな夢があると語ります。久之浜だけではなく、世界中の苦しんでいる人を家に招いてケアしていきたい、ということでした。今では娘さんも、仕事を辞めて久之浜に移住して来ており、一緒に活動をしています。

『この地球をキレイにしようよ』
『空は全部つながってるのよ』

という言葉が印象的でした。

さてそれから、大久公民館というところへ移動し、昼食をいただきました。「千日紅の会」の女性たちが手作りのお弁当と豚汁を用意してくださいました。かなりボリュームのあるお弁当で、豚汁もおかわりしたし、満腹になりました。

ここでも何人かの方がお話を聞かせてくださったので、紹介します。

まず、「千日紅の会」の小島さん。

私たちにとって、なによりも、こうして皆さんにいらしていただくことが力になります。
私は、絶対に久之浜を発展させるという気持ちでいつもいます。久之浜がなければいわき市は語れないという強い気持ちでこれからも頑張っていきます。」

東町の吉岡区長さん。東町は、一番津波の被害が大きかった地区だそうで、半分以上が流されてしまったとのこと。

「震災後というとんでもない時期に区長をやっているなと反省しておりますが、「誰かが引き受けねば」という思いで区長をやっております。

私たちは、これは決して大げさではなく、皆さんあって私たちがあるのです。震災後、様々な方がボランティアに来てくださいました。そういう方に、「頑張ろうね」と言われると、とても嬉しいものです。それは、体験した者の言葉だからです。体験した者でなければ出てこない言葉だからです。

(自宅周辺の写真のパネルを見せつつ)ここに15mくらいの津波がやってきました。津波は、引き波で始まりました。これは、とにかく一刻も早く逃げなければなりません。ルイス(=カール・ルイス)でさえも、負けます(その後安倍氏から、「今はボルトです」という助言がなされます)。そう、ボルトさんでも負けます

また、同級生の井戸が、これは海と繋がっているはずがないんですが、黒い水が4mも飛び出てきました。本当に、何が起こったのか分かりませんでした。

そんな中で久之浜には、海岸のすぐ傍にありながら、焼けもせず、津波にもやられず、しかも移転計画にさえ勝ち残った神社があります(これは後程実際に見ました)。地元の方々はこの神社を、本当に大切にしています。

今日は本当に、来てくださったことに感謝いたします」

西町(これは久之浜小学校があった付近)の本田区長さん

私たちは本当に、皆さんに助けられております。

震災直後の13日から、我々は体育館に避難いたしました。二ヶ月間、久之浜は空っぽになりました。そんな中、ボランティアの方々はすぐさま現地入りしてくれて、毛布など様々なものを持ってきてくれました。それでどうにか寒い日々を乗り切ることができました。いわき市は35万人の人口を擁しますが、行政は本当に何も出来ませんでした。線量もまったくわからない中、若い方々が本当にたくさんボランティアに来て、私たちを助けてくれました。

久之浜では27年に集合住宅が完成する予定です。若干延び延びになってはいますが。しかし、家が出来たからといって、問題が解決するわけではありません。お年寄りは戻ってきますが、若い人はなかなか戻れません。このままでは久之浜はジジババばっかりになってしまうでしょう。恐らくそれが一番の問題ではないかと思います。

みなさんにどうしても伝えたいことがあります。それは、『何があってもまず自分が助かることを考えてください』ということです。自分が助からないと、人を助けることは出来ません。それは本当に、肝に銘じてください。

オーガニックコットン畑の地主さんである新妻さん

「震災以降、畑仕事はまったく出来なくなってしまいましたので、金成さんたちがやってくれているオーガニックコットンの件は、本当に助けられています。

私は、先ほど言われた『何も出来なかった行政』の一員であります。我々としてはまず、何よりも先に生活再建をしていきたいと思っています。

先ほどのお話は本当にその通りで、我々は瓦礫の撤去は出来ましたが、町中の細々とした作業はすべて、諏方神社に拠点を置いたボランティアの方々がやってくれました。地元には人もお金もなくて、なかなか動くことが難しいのです。

いわき市は非常に特殊な事情を抱えています。いわき市も被災地であり、現在の時点で約7000名が、いわき市から全国様々な場所へと流出しています。それと同時に、被災地でありながら、同時に双葉郡からの避難者を約2万4000名ほど受け入れています。そのため、住宅がまったく足りていません。27年に建物は建つことでしょう。しかし、人が戻って住むところまで回復させることが出来るかどうか。どうにか、日常的に継続できる生活支援をこれからも続けていきたいと思っています。

いわき市は震災以前、製造業の出荷が東北で1位でした。震災後、製造業の撤退などもありましたが、今では徐々に戻ってきて、仙台市と同じぐらいまでは回復しています。

その流れで今、楢葉沖に浮体式洋上風力発電の設置計画が進んでいます。これは海上に設置するもので、直径90mのプロペラを備えた高さ200mの発電機が、来年には7000kwのものが2機設置され、27年まで実証実験が行われる予定です。東大の石原教授の研究をベースに、220億円を投じて行われているもので、発電に関しても新しい模索を続けています。

みなさんのお手元にお配りしましたが、いわき市も様々な発信を行っておりまして、その一環として、「フラおじさん」というキャラクターが出来ました。皆さん、遠くからでも出来る支援です。お手元のスマホからでも、一日一回投票出来るようになっております。推しキャラがいない方は是非、投票をよろしくお願い致します。」

公民館では、オーガニックコットンをしようしたTシャツや人形なども販売されました。僕もTシャツを買いました
(合うサイズのものがなかったので、僕は実際は別のところで買ったのですけど)

Tシャツ


大久公民館を後にして(ここで金成さんとはお別れ)、「ふよう土2100」の代表・里見さんをバスにお迎えして、小名浜を目指します。道中里見さんが色々な話をしてくださいました。

「(両脇に商店街が並んでいたという道を通りながら)「浜風商店街」は40店舗ぐらいのお店がありましたが、火事ですべて焼けてしまいました。震災直後、ラーメン屋さんだけは何故か営業していましたけど。

仮設住宅には2年という期間の縛りがあります。いつまで住み続けることが出来るのか、分からないのです。そういう不安定な未来のまま皆、笑って黙々と自分達に課せられた仕事をするんだ、と言っています。

商店街の方々は、昼間はボランティアの方が来てくださるんで元気なんですけど、夜になるとやっぱり気持ちが落ち込んじゃうみたいでしてね。ここ半年ぐらいでかなりよくなったようですけど、やっぱり夜になると思い出してしまうみたいです。

でもそういうことは、復興商店街を見ても分からないんです。みんな明るく笑って日々過ごしていますからね。でも、本音の部分は、やっぱりそうなんですよ。

私は温泉街にいますので(里見さんは旅館の若旦那的な立場の方)、津波の被害はまったくありませんでした。

久之浜では、火事がありましたね。みなさん消防団に入ってるんですよ。みなさん、自分の家やお店が燃えているのに、それでも人を逃したりしてるんです。普通、自分の家とか店が燃えてたら、呆然としちゃいませんか?やっぱり、自分のことだけじゃなくて、地域のことなんですよね。結局、600軒あった家は、500軒近くが無くなってしまいました。私でも、そんな凄まじい体験はしてないですよ。

これから小名浜に行きますけど、小名浜は結構復興しています。割とボランティアでツアーに来られる方って、小名浜を通って帰られることが多いんですけど、小名浜の様子を見て、大丈夫なんだなと思って帰られる方が多いみたいです。

でも是非覚えておいてください。今日回ったところだけが、いわきではないんです。

特に有機農家の方は泣いています。アメリカ農法をやられている方は、農協に入っていますからね、農協が一括で補償の手続きなんかしてくれますけど、有機農家の方は全部自分でやらないといけないですからね。

みなさん仮設住宅に住まわれていますけど、やっぱりそれまで広いお家で海を見ながら生活をしていた方には、辛いですよね。「押し入れがなくて大変だ」なんて言ってます。まあ、「津波で全部流されちゃったから、入れるものも別にないんだけどね」なんて言うんですけどね。

(基礎まで流されてしまった住宅街付近で)この辺りは、このバスの高さぐらいまで盛り土をすることがもう決まっています。芝生を敷いて、公園にするのです。

元々の計画では、神社(先ほど触れた、奇跡的に残った神社のこと)も移転する計画だったんです。でもやっぱり、地元の方にとってはシンボル的なものですからね。市の方と議論を重ねて、あの場所に残すことになったのです。

向こうの海の方、ポールが立っているのが見えますか?あそこには8mの高さまで盛り土をすることが決まっています。もう海は見えなくなりますね。

(海岸沿いの道路で)ここは、海側はすべて建物を壊して緑地にし、道路の反対側は住んでもいいよということになっています。道路を境に、家を失うかどうか決してしまう場所なのです。

私は震災時、内陸の温泉街におりました。140名の従業員がいましたが、どこかに行くよりも、鉄筋のこの建物にいる方が安全だということで、残しました。でも、ニュースを見て刻々と変わる変化についに決断をして、マイクロバスを2台借りて、従業員とその家族を全員乗せて、伊香保温泉の方まで行きました。知り合いがいましたのでね。

ここはよつくら港でして、地盤が5cmも下がりました。向こうの方にテトラポットがたくさん見えると思いますが、ここはテトラポットの生産場所なのです。そしてまた、あそこに船の残骸が見えますが、ここには震災直後から押し流された船が50隻以上集められて、船の墓場と呼ばれました。

あそこに、いわき市唯一の道の駅があります。新しいのには訳があって、ヤマト財団、ほらクロネコヤマトさんの、あそこが新築で道の駅を作ってくれたんです」

そんなお話を聞きつつ、途中で里見さんと別れ、僕らは「小名浜美食ホテル」へと向かいました。

小名浜美食ホテル

ここはいわゆる、おみやげ屋さん&食事処と言った感じです。「SEA級グルメ全国大会in小名浜」という大会で優勝した「カジキメンチカツ」というのがあって、300円で物凄いボリューミーなメンチカツが出てきました。オーガニックコットンを使用したTシャツもここで買いました。

それからバスに戻り、東京駅へと戻ります。バスの車内では、主催者の三人の方が供出してくれた本などのオークションが行われました。得られたお金は、解放食堂の活動資金として使われるとのこと。若干渋滞があったようですが、特に遅滞なく東京駅まで辿りつけました。

おしまい。

1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見(チャールズ C.マン)

これはメチャクチャ面白い。っていうか、凄すぎるな、この作品。

本書は、あるたった一つの質問に答えるための作品である。
著者はその質問に、コロンブスの大陸到着五百周年にあたる1992年に出会った。

『コロンブスが到着したころの新世界はどんなところだったのだろう?』

著者は、学生の頃に習った歴史のことを思い返してみた。基本的に南北アメリカの歴史は、コロンブスがやってきた時から始まっているものとして扱われている。それまでは、大した文明もなく、少数の原始的な人間たちが原始的な生活をしていたのだろう―著者を始め、大方のアメリカ人は、そのような認識でいたのだろうと思う。
本書は、その認識を覆す作品である。

『そのときは知らなかったが、多くの研究者が生涯をかけてこれらの疑問に答えを出そうとしていたのだった。彼らが明らかにした当時の大陸のようすは、たいがいの欧米人が持っているイメージとはまったく異なっている。だがそれは、いまだに学会の外の人々にはほとんど知られていない。』

『これはすごい、とわたしは思った。だれかが書くべきだ。きっと魅力的な本になるぞ、と。
わたしはそうした本が出版されるのをずっと待っていた。だが待っているうちに息子が学齢に達して、わたしが子供の頃に習ったとおりのことを―もうかなり前から疑問視されていた内容を―また学校で習いはじめ、いてもたってもいられない気持ちになってきた。そこでついに、だれも書いていないようだから自分で書いてみようと思い立ったのだ』

著者は、考古学者でも人類学者でもない。世界各国のいち粒子にも寄稿する、気鋭のサイエンス・ライターだ。考古学や人類学はまったくの専門外。しかし、数多くの専門家に直接話を聞き、自らも様々な場所を訪れてはその目でしっかりと見、そうやって著者は門外漢の世界を少しずつ理解していくことになる。そして、学説が個人攻撃や派閥争いに発展することが多い分野であるが故に、どこにも与さない(著者なりの判断が組み込まれる部分もあるものの)立場で、色んな学説を公平に扱おうと努力している点など、分野違いの人間が書いたからこその一冊になっているのではないかとも思う。

さてまず、僕自身の『歴史』というものへの考え方を書いておこう。
僕は『歴史』というのが基本的には大嫌いだ。いや、正確に言えば、『歴史論争』が嫌いなのだろう。歴史の世界にも色んな専門や分野があって、それぞれの中で「あれが正しい」「これが間違っている」という議論がなされているのだろう。『歴史論争』が好きになれないのは、その歴史が古ければ古いほど、『はっきりとした証拠』が少ないということだ。結局のところ、数少ない『証拠』を、どう解釈するか、という議論になる。そんなん、結局分からんやん、って僕は思ってしまう。何か、誰も文句がつけられないほど明確な証拠があるなら別だけど、そうではないなら、「現在これこれこういう仮説があって、証拠がなくてどれも決定打がない」というような結論で落ち着いておけばいいと思うのに、解釈をめぐって議論をすることはアホらしいな、と思ってしまうのだ。
また、そういう専門的な分野の話ではなく、学校で教わるような歴史も嫌いだった。こちらも、似たような理由ではあるのだけど、「これこれこうでした」と教えられるのが、僕はとにかく好きではなかったのだ。だって、そんなん分からんやん、と思ってしまう。「現時点ではこう考えられている」とか、「これこれこの可能性が高い」みたいなスタンスで教えてくれるなら良かったんだけど、「こうです」って言われると、「ホントかよ」って思ってしまう。今でも歴史の話には、「ホントかよ」って思ってしまう。ンなこと、分からんやん、と。
そういう意味で僕は『歴史』というのが大嫌いなのだけど、本書は非常に面白く読めた。その理由は、『物語』と『著者のスタンス』にあると思う。
本書は、僕は『物語』として面白いと感じました。この『物語』には二つの意味がある。一つは、『南北アメリカの先コロンブス期の人々の物語』という意味。そしてもう一つは、『先コロンブス期の歴史を紐解こうとしている考古学者・人類学者の物語』という意味だ。本書では、後で書く『著者のスタンス』のお陰で、歴史を物語として捉えることが出来たように思う。そして同時に、現代の研究者たちの様々な人間臭さが、スパイス的な物語を生み出しているように思いました。
また、本書は、サイエンス・ライターである著者が書いた作品です。科学者は基本的に、「絶対」という言葉を使わない人種です。恐らくそんな著者のスタンスが、考古学や人類学を扱う際にも発揮されたのでしょう。本書では、先ほど書いたように、裏表両面の様々な仮説が同時に提示される。だから、「これこれこうでした」と押しつけられるような感じがない。また、「著者が最も可能性が高いと考えるシナリオ」を、「目の前で見てきたかのように描写する」という場面もかなり多くて、このスタンスが、本書を実に『物語的』にしていると思う。
歴史が苦手だし嫌いな僕としては、ここまで面白く読める歴史の本は珍しいです。日本の歴史だって全然知らないのに、アメリカの歴史なんてもっとパッパラパーっていうぐらい知らない僕でも、本書は十分に楽しめます。なにせ、本書で扱われているのは、「多くの一般のアメリカ人さえ知らない歴史」なのです。アメリカの歴史を知らないから、というハンデはありませんよ。

さてでは内容に入ります。
まず本書で著者は、三つの柱を用意します。『人口』『起源』『生態系とのかかわり』の三つです。

『わたしはまず、1492年当時の先住民人口の推計値が引き揚げられたことを、また、その理由について書いた。それから、先住民が従来の説より古くからこの大陸に住んでいたと考えられるようになった理由、彼らが従来の説よりも複雑な社会を築き、高度なテクノロジーを持っていたと考えられる理由を書いた。この章では、ホームバーグの誤りのバリエーションをもう一つ、取りあげたい。それは、先住民が環境をコントロールしなかった、あるいはできなかったという思い込みである』

著者はこの三つを軸として、本書を展開させていく。これら三つのキーワードについて、アメリカ人が(そして世界の人達が)これまでどういうイメージを持ってきたのかをざっくり書いてみると、こんな感じになるだろうか。

『アメリカの先住民は、一万三千年ほどまえにベーリング海峡に出来た無氷回廊を通ってアメリカ大陸にやってきた。それからは、複雑な文明を築くことなく、槍などの原始的な道具で狩りをし、そこまで大規模な社会は存在せず、つまり人口も多くなく、自然の景観を損なうことなく自然に手を加えることなく、コロンブスがやってくるまでずっと生きてきた』

本書では、このイメージを完全にひっくり返していく。
『ホームバーグの誤り』について触れておこう。これは著者の造語らしいが、1940年から1942年にかけてボリビアのベニ地方に住むシリオノ族と呼ばれる先住民と生活を共にし、彼らの生活を研究対象にしたホームバーグという博士課程の若者による「勘違い」を教訓としたものだ。
ホームバーグはシリオノ族を「世界でもっとも文化的に送れた人々」だと紹介している。それは、僕らがイメージする、山奥で文明と関わることなく生活している原住民のイメージと同じだ。飢えと貧困にさらされ、服も着ず、家畜も飼わず、楽器や宗教らしいものも持たない。そしてホームバーグは、そんなシリオノ族について、「シリオノ族は太古の昔からこのような生活をずっと続けてきたのだ」と結論する。
これこそが、「ホームバーグの誤り」である。
シリオノ族は決して、太古の昔からそのような生活を続けてきたわけではない。では何故彼らは、文化的な側面のまったくない、貧しく厳しい生活を強いられているのか。
それは1920年代にこの地でインフルエンザが大流行したからだ。ホームバーグが訪れるまでに、人口の95%以上が失われたことが後に分かったのだ。また同時に彼らは、シリオノ族の土地を乗っ取ろうとしていた白人の牧場経営者とも戦っていたのだ。ホームバーグが直面した状況を、著者はこう表現する。

『つまり、ナチの強制収容所から脱走してきた難民を見て、つねに裸足で腹を空かせている民族だと思いこんだようなものだった』

先コロンブス期のアメリカ大陸の歴史についても、至るところでこの「ホームバーグの誤り」が散見される。状況は基本的に同じだ。ヨーロッパから「新世界」に人がやってくる以前に(以後もだが)、疫病によってアメリカ大陸は壊滅状態に追い込まれていたのだ。それによって、人口が激減し、文明が崩壊し、通常であれば立ち向かえるだけの戦力を有していた者達が、あっさりとヨーロッパの小集団に敗れてしまった。僕らもまた、ホームバーグと同じ誤りをしてしまっているのだ。本書は、その誤った認識を正してくれる。
この「ホームバーグの誤り」を推進させる力が存在する、という点も、アメリカの面白いところだ。ある先住民は、こんな風に語っている。

『考古学の主たる使命は、白人の罪悪感をやわらげることだという。』

これは非常に面白い視点だ。例えば人口の問題にしても、コロンブスが新世界にやってきた当時の人口が少なければ少ないほど、征服した人間の(そしてその子孫の)罪悪感は薄まっていく。自分達が、たくさんの人間を殺したわけではない、ということになるからだ。こういう考え方も相まって、「ホームバーグの誤り」に端を発する「歴史の誤認」がアメリカ(そして世界)を覆い尽くしてしまった。さて、本書を読んで、その認識を改めようではないか。

さてでは、本書に習って、『人口』『起源』『生態系とのかかわり』の三つに分けて、本書の内容を書いていきましょう。「本書に習って」と書いたものの、本書も、その三つは大雑把に区切られているだけであり、あらゆるページにあらゆる話題が入り込む。正直、『人口』『起源』『生態系とのかかわり』に含まれない話も多々出てくる(半分ぐらいそうだ、と言ったら言い過ぎかもしれないが、印象としてはそういう感じだ)。それでも、それらの枝葉にも触れようとするといくら時間があっても足りないので、上記の三つの点に絞って書いてみようと思う。ちなみに、本書の中から様々な引用をするが、時系列通りに抜き出しているわけでも、同じ話題の中から抜き出しているわけでもないので、厳密にいうと文脈が違うものもあるだろうと思う。同じ話の流れの中で、まったく別の地域に関する引用を並べることもあるかもしれない。でもまあ、いちいち断りを入れるのも煩雑だし、とりあえずその辺りは多目に見てもらって、詳しいことは是非本書を読んでみてください。

まず『人口』について。結論は、既に書いたようなものだ。それまで考えられていたよりも遥かに(相当に)人口は多かったようである。

『彼は紀元1000年にはこの都市(=ティワナク)が11万5000人もの人口を擁し、周辺地域にも25万人が暮らしていたと書いている。フランスのパリでさえ、人口が25万人に達したのは500年もあとのことだった』

『はじめて慎重な計算にもとづく先住民人口の推計が出たのは、1928年のことだ。スミソニアン境界のすぐれた民族誌学者、ジェームズ・ムーニーが植民地時代の文献と政府の公文書をくまなく調べ、1491年の北米大陸の人口は115万人であったという結論を出した』

『(1970年台頃には)彼らは、コロンブス到着当時のメキシコには、中央高地だけでも2520万人の先住民が暮らしていたという結論を出したのだ。ちなみに、この時代のスペイン、ポルトガルは、両国の人口を合わせても1000万人に満たなかった。当時のメキシコ中央部は地球上でもっとも人口の多い地域であったとし、人口密度も中国やインドの二倍だったと推定した』

『やがてドビンズは、1491年当時のアメリカ大陸の人口は9000万人から1億1200万人であったとする見解を発表した。べつの言い方をすれば、コロンブスが大西洋をわたったとき、アメリカ大陸には、ヨーロッパ全土を合わせたよりも多くの人々が暮らしていたというのである。』

研究者や時代によって推計値はどんどんと変化するが、とにかく一致しているのは、アメリカ大陸には他の地域に比べて圧倒的に人が住んでいた、という点だ。個々の数字はともかくとして、これはきっと間違いのないことなのだろう。
もしそのままの人口を保つことが出来ていれば、アメリカ大陸がヨーロッパに侵略されるようなこともなかっただろう。しかし、驚異的な伝染病が次々と襲った。伝染病への免疫がほとんどなかったと考えられている先住民は、その大流行に太刀打ち出来ず、人口の90%を失うという惨禍に見舞われることになった。実際本書には、当時のヨーロッパ人が、「伝染病という神のご加護のお陰で、この土地を自由に平和に所有できる」というような記述があるという。準備不足で、少人数だったヨーロッパ人がアメリカ大陸を侵略することが出来たのは、まさに伝染病のお陰なのだ。

『国連の1999年の推計では、16世紀はじめごろの地球人口は約5億人とされている。もしドビンズの推計が正しいとすれば、伝染病によって、17世紀の前半までに8000万人から1億人の先住民が命を奪われたことになる。地球上に住む人の5人にひとりが伝染病で亡くなったということだ』

この『人口』のパートには、ヨーロッパ人が初めてアメリカ大陸にやってきた当時をリアルに描き出した物語が描かれているのだけど、なかなかここで触れるのが難しい。本書を読むと、「強くて勇猛なヨーロッパ人が、非力で無教養な先住民をいとも簡単に征服した」というようなイメージがするっと覆るだろうと思います。是非読んでみて欲しいです。

さて、『起源』に移ります。
16世紀以来、アメリカ先住民の起源はずっと謎だったという。元々は、先ほどもちょっと書いたように、「1万3000年前にベーリング海峡の無氷回廊を通ってアメリカ大陸にやってきた」と考えられていた。しかし、様々な証拠から、『彼らはほぼ間違いなく、無氷回廊が開けた時期より以前にそこに到達していたはずだった』と考えられている。『アメリカ先住民が二万年前、三万年前から大陸に住んでいたかもしれない』と考えられるようになってきているという。これもまだはっきりと固まった学説ではないようで、アメリカ先住民の起源は相変わらず謎であるようだが、それまで思われていたよりも遥かに古くからアメリカ大陸に住んでいたことはどうも間違いないようである。
「アメリカ先住民の起源」は過去、ひょんなことから大きな問題を引き起こしたことがある。この話が、なかなか面白い。
当初コロンブスは、「インド」に辿り着いたと考えていた。しかし、コロンブスの後継者によって、彼らがたどり着いた場所が「アジアの一部」ではないことが判明し、キリスト教の世界に非常に難しい問題を提起することになった。

『創世記には、ありとあらゆる人間と動物はノアの洪水で死んでしまい、方舟に乗ってトルコ東部にあったと思われるアララト山の頂におち立ったものだけが生き残ったと書いてある。ではなぜ、人間や動物があの広大な太平洋を渡ることができたのだろうか。インディオ/インディアンの存在は、聖書とキリスト教を否定するのだろうか』

これは結局、「インディオはヨーロッパかアジアからそこへわたったと結論せざるを得ない」ということになり、つまる「アメリカ大陸とアジアはどこかでつながっていたに違いない」と考えられるようになった。フィールドワーク上の発見から「アジア→アメリカ大陸」への移動が示唆されていたのではなく、キリスト教の要請によってその考え方が出てきたというのが、非常に面白いと思った。
また、アメリカ大陸の先住民は、世界有数の文明を持っていたと考えられている。これは、従来の考古学では考えられないことだ。これまで文明は、農耕に適した土地でしか生まれないと考えられてきた。しかし、ノルテ・チコと呼ばれるペルー中部では紀元前3500年頃、文明が興ったと考えられている。土地は痩せ、地震が起きやすく、気候も不安定なこの土地で。

『彼らの推測通り、アスペロ遺跡が現在考えられているよりもずっと古いとなれば、世界最古の都市―人類の文明発祥地―を名乗る資格を獲得できる可能性もある』

『もしいまマクニールが「世界史」を執筆するとしたら、新たに二つの地域を書き加えることになるだろう。二つのうち、より広く知られているのは、紀元前にオルメカなどの文明がいくつも栄えたメソアメリカ。もう一つは、メソアメリカよりもずっと古い文明の発祥地でありながら、二十一世紀になったようやく光があたったペルーの海岸地方だ』

さて、最後『生態系とのかかわり』である。
メガーズという考古学者が発表した、「環境としての熱帯雨林は、焼き畑耕作に代表されるレベルまでしか文化の発達を許さない」という説は、環境保護団体などに支持され、「アマゾンの森林は、人の干渉を受けたことがない土地だ」とし、「人類の手が加わっていない自然をそのまま残そう」という機運を高めていった。1930年代には、マヤ文明が崩壊したのは、環境容量の限界を超えたからだという仮説も出されており、そのような「人跡未踏の自然を守る」という大義名分は、どんどんと大きくなっていった。
しかし近年、多くの人が「人の手が加わっていない」と考えてきた自然が、実は先住民たちが「様々に手を加え、努力して改良して来た結果なのだ」という見方が広まっている。

『マラジョア族は、森林を破壊したのではなく、「多大な人口、高い人口密度、すぐれた公共事業制度」によってこれを改良したのである、と』

『近年、アマゾン先住民が環境に大きな影響を及ぼしたと考える研究者が増えてきた。人類学者のあいだでは、広大なアマゾンの森林もまた、カホキアやマヤ中部地域と同様、文化の所産―つまり人工物ーだという意見が出てきているのだ』

『ニューヨーク州立大学ビンガムトン校の人類学者、ピーター・スタールも、「環境保護論者は人跡未踏の原始の世界と思いたがっているが、多くの研究者は、じつは何千年もの昔から人の手によって管理されてきたと考えている」と報告している。エリクソンは「つくられた環境」という表現は、「すべてとは言わないまでも、新熱帯区(北回帰線の北米、中南米、西インド諸島をふくむ生物地理区)の景観のほとんどにあてはまる」とする見解を述べている』

『現代の観点から見れば、こうした移行を成功させたことはみごととしか言いようがない。徹底的に、しかも広範囲にわたっておこなわれたので、コロンブス以後、ここを訪れたヨーロッパ人は、果樹の数が多いことと、開けた広大な土地が多いことに驚いた。だが自分たちと同じ人間がそれをつくったのだとは夢にも思わなかった。バートラムも自分が目にした景観が人口のものであることを見抜けなかったが、それは一つに、森の外科手術がまったくコン駅を残さずにおこなわれてからである』

またアマゾンの森林地帯には、『もしこの土壌の秘密を解明できれば、アフリカの農業を危機に追い込んでいる劣悪な土地を改良することができるかもしれない』と考えられている、テラ・プレータという非常に肥沃な土地が存在する。これも、研究者を酷く驚かせたようだ。『教科書どおちに考えれば、そんなところに、そんな土壌があるはずがないのです』という。

『彼らはここで何百年も前から農耕を営んできましたが、土壌を破壊せずに改良したのです。現代に生きるわたしたちもまだその方法を知らないのに、彼らはやってのけたのですよ』

さてここまでで、先に挙げた三つのテーマは終わりだ。最後にいくつか、アメリカ大陸で興った文明が発明したかもしれない、様々なものについての文章を引用しよう。

『(ゼロは)ヨーロッパには十二世紀になってから、今日使われているアラビア数字ととともに伝わった。しかしアメリカ大陸で最古のゼロの記録は、357年ごろのものと思われるマヤ遺跡から見つかっている。これは恐らくサンスクリットよりも古い。』

『オルメカ人やマヤ人など、メソアメリカに文明を興した人々は、世界的に見ても数学と天文学のパイオニアだったのだが、なぜか車輪を実用的な道具として使わなかったのだ。驚いたことに、彼らは車輪を発明しながら、子供のおもちゃにしか使わなかった』

『どちらの説も、6000年以上も前にメキシコ南部で―おそらく高地で―インディオがはじめてトウモロコシの祖先種を栽培した。現代のトウモロコシが生まれたのは、意図的に生物学的操作をするという大胆な試みが成功した結果だとしている。「まちがいなく人類初の、そしてもっとも高度な遺伝子操作がおこなわれたのである」』

『ミルパ(=トウモロコシ畑のことだが、実際はもっと複雑な意味を持つ)は「人類史上もっとも大きな成功をおさめた発明の一つ」だという』

『考古学上の記録から判断すると、驚くほど短期間で文字がつくられ、発展したことになる。シュメールでは6000年かかったが、メソアメリカでは1000年もかからなかったのだ。しかもその短いあいだに、メソアメリカ社会全体で十種類以上の文字体系が生まれているのである』

いかがだろうか。もちろん本書に書かれている内容は、まだ学説として固まっていないものが多いだろう。教科書に反映されるようになるのは、まだ先のことかもしれない。アメリカ人にさえ広く知られていない、まさに知られざる歴史。コロンブスがアメリカ大陸にやってくる以前のアメリカ大陸の姿を、実に生き生きと描きだす作品だ。僕は、冒頭でも書いたけど、歴史というものにほぼ関心を持てないでいるのだけど、本書は奇跡的に僕にも楽しめる、というかメチャクチャ知的好奇心を刺激させられる作品だった。考古学や人類学の専門家が書いているわけではないのでそこまで難しい話にはならないし、サイエンス・ライターらしい公平性が発揮され、様々な学説が出来る限る平等に扱われている。歴史を扱った作品としてはなかなか稀有な本ではないかと感じました。是非読んでみてください。

チャールズ C.マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見」


四月、不浄の塔の下で二人は(平山瑞穂)

「正しさ」というのは、とても難しい。
先日、ベトナムのジャングルの奥地である親子が保護された、というニュースを見かけた。何故彼らはそんなジャングルの奥に身を隠していたのか。それは、「ベトナム戦争から逃れるため」だ。
詳しくニュースを見たわけではないので正確にはわからないが、つまり彼らにとって、「ジャングルの外でベトナム戦争が継続している」というのは「正しい事実」だったということだろう。そう信じ続けたからこそ、彼らはジャングルを離れなかった。日本では、小野田寛郎氏がよく知られているだろう。終戦を信じず、30年もフィリピンのジャングルに潜伏し続けた人だ。小野田寛郎氏にとっても、「太平洋戦争は継続している」というのは、「正しい事実」だったのだ。
それは、とても極端すぎる例かもしれない。けれども僕らも、生きている中で様々な「正しい事実」、つまり「前提」を抱えて生きているものだ。
最近はある程度薄れてきた部分もあるだろうけど、「結婚し、子どもをもうけなければ一人前ではない」という考え方は、ちょっと前であれば社会常識と言っていいものだっただろう。そこから外れる生き方を選択する人間は、きっと「異端」だったに違いない。
「会社に就職する」という考え方も、恐らく戦後に生まれたものでしょう。それまではみな、現代の「就活」とは違った形で職を見つけ、働いてきたはずだけど、現代では「就活」こそが唯一の職探しの方法、というような考え方になっている。僕はかつて、「日本人の貯蓄好きは、ある時官僚が考えた政策に影響を受けたものだ」という話を読んだことがある。
これらの「正しさ」を担保しているものは、一体なんだろうか?
僕は、「正しさ」には二種類あると思っている。
一つは「真理」だ。これは、「いつの時代、どんな条件、誰であっても同じように正しいこと」と言っていいだろう。例えば、「光の速さは秒速30万kmだ」というのは「真理」だ。あるいは、「1+1=2」というのも、「真理」と呼んでいいだろう。江戸時代だからと言って「1+1=3」になるわけがないし、風が強い日だからと言って光の速さが変わるわけでもない。
もう一つは、「“みんな”が正しいと言っていること」だ。これを何と呼んだらいいか分からないけど、「事実」と呼んでおくことにしよう。
この「事実」というのは、「正しさ」が安定しない。“みんな”が正しいと思っている、という点だけが、その「正しさ」を担保しているのだ。
世の中に存在する「正しさ」の、99.9%以上が、後者、つまり「事実」だろうと思う。しかし僕らは、あまりそういうことを意識しないで生きている。つまり、「事実正しさ」を、「真理正しさ」のように受取りたがっているのだと思う。「私が今正しいと思っていること」は、「いつの時代、どんな条件、誰であっても同じように正しい」と思いたがっている、ということだ。
これが色んな不幸を生む。あらゆる誤解、あらゆる争いが、恐らくこういうすれ違いを背景に持っているのだろう。
これが、肌の色が違うとか、使っている言葉が違うということであれば、なんとなく納得感もある。「まあ、そりゃあ違うよね、色々」と思えるだろうし、あらかじめそういう前提で相手に接することができるかもしれない。
しかし、同じような言葉を喋り、同じような外見で、同じような空気の中で生まれ育ってきた人であっても、一人ひとり「前提」は違う。でもそれは、なかなか浮き彫りにならない。僕らはみんな、まったく違う「前提」の元で生きていると思っていた方がいい。でも、そうは思いたくはないという心の動きも働く。この人なら伝わるはず、こう伝えたら分かってくれるはず。そういうことをくり返しながら、人は傷つき、諦め、次第に、分かり合えなくて当然、という境地にたどり着くことになる。
「オオカミに育てられた少女」というのが、一時期話題になった。真偽のほどは知らないが、言葉は話せず、生肉を食し、人間社会に溶け込むことが出来ずに死んでしまった、という話を聞いたことがある。その少女にとっては、オオカミとしての生活こそが「前提」だった。外見が「人間」だからと言って、わざわざ人間の社会に溶けこまなくてはいけなかっただろうか?僕にはわからない。
人間はきっと、どんな「前提」さえも受け容れられる。環境が許せば。目の前の現実をねじ曲げるほどの強烈な「前提」さえ、環境が許せば受け入れられるだろう。
本書の「エンノイア」のように。
「エンノイア」は、「免穢地」で生まれ育った少女だ。「免穢地」の外に出たことはない。彼女たちは「光の民」として、「肉の衣」の内側に囚われた「光の粒」を、ひとつ残らず本来属していた「至高天」に帰還させることを究極の目的としている。「光の民」にとって、誕生の瞬間から肉が滅びるまでの期間は、強いられた長い刑期である。その間、「肉の衣」に包まれた「光の粒」を少しでも清浄に保てるように修行と祈祷に励む。それが「光の民」の勤めである。
「エンノイア」は、そのような環境の中で17年間を過ごした。「光の民」としても自分の役目を疑ったことはない。主遣の娘として、「光の民」を率いてきたという自負のある「エンノイア」は、今この危機にどう立ち向かうべきか考えていた。
主遣の「肉の衣」が滅んだ。それは、いずれ来るべき未来として予測されていたことではある。問題は、跡継ぎである「ヌース」が、4年前に「免穢地」を出て行ったきり、戻ってこないことだ。
「エンノイア」は、「免穢地」を出て、「泥人」が住む「被造世界」へと出て行き、「ヌース」を連れて帰る決心をした。他の民たちに引き止められたが、これは自分の使命だと「エンノイア」は決意したのだ。
「被造世界」は恐ろしい場所だと聞かされていた。「泥人」という、快楽に溺れた人間たちが、「光の民」を快楽に引きずりこもうと手ぐすねを引いて待っている。「エンノイア」は、ずっとそう聞かされて育ってきた。しかし、行くしかない。
「被造世界」の「東京」という地を目指すことになった「エンノイア」は、「被造世界」の様々なものに触れ、これまで抱いたことのなかった様々な感情を知ることになる。
一方、軽部金属工業という会社で若い職人として期待されている杉本諒は、真辺綾という可愛い彼女のいる、普通の若者だ。ちょっと普通じゃないのは、オンボロの一軒家に一人で住んでいるということ。
ある日諒は、部屋の前で倒れている少女を発見した。既成品ではなさそうな真っ白な服、少女とは思えないボサボサの髪。不審に思ったものの、助けの手を差し伸べる諒だったが…。
というような話です。
これはなかなか面白い作品でした。とにかく、エンノイアがとても魅力的です。
「特殊な環境」の中で育てられてきたエンノイアは、一般社会の常識をまったく知らない。どのくらい知らないかというと、「青信号は渡っていい」ということを知らない、というレベルではない。そもそも、「横断歩道」の存在を知らない。どうやって「道路」の反対側に行けばいいのかという知識がない。
僕はこのエンノイアの有り様を読んで、ロボットの世界の「境界問題」を連想した。
「境界問題」については、僕自身の解釈が間違っているかもしれないのだけど、僕の解釈を書けばこうだ。ロボットは基本的に、「何かをインプットしてもらわなくては動けない」存在だ。このロボットを、人間社会の中で生活できるように仕立てあげるために、何を教えたらいいか、という問題が「境界問題」だ。
例えば先程の「横断歩道」の例だとこうだ。ロボットに、「道の反対側に渡る」ための方法を教えるとすれば、「横断歩道を見つけ」「信号が青になった時に渡る」ということを教えればいいかというと、そうでもない。道路には、横断歩道がなく歩道橋があるところもあれば、交通量の少ないところであれば歩道橋も横断歩道もないところもあるだろう。だから、横断歩道が見つからないからと言って、道路の反対側に渡れないわけではない。じゃあその場合分けをどんな風に教えればいいのか。
というようなことに悩むのが「境界問題」だと僕は思っている。そしてまさにエンノイアが体験していることが、この「境界問題」に近いように僕には感じられた。
エンノイアには、人間社会の基本的な常識がない。エンノイアの持つ常識は、「特殊な環境」の中でしか通用しないものだ。それまでの人生では、それでなんの問題もなかった。何故ならエンノイアは、その「特殊な環境」から一度も出ることがなかったからだ。その中の常識を知っておけば、生活のすべては事足りた。
しかし、エンノイアが17年間過ごした「特殊な環境」と、人間の一般社会は、あまりにも違いすぎた。エンノイアは、そのまったく違う環境の中で突如一人で放り出され、たった一人でその急激な価値観の転換に立ち向かわなければならなくなるのだ。
これが、見かけはまったく「冒険」的な要素のない本作を、「冒険」的な小説に仕立て上げていると思う。エンノイアは、見るもの聞くもの触れるもの、すべてが新鮮だ。それまでエンノイアが培ってきた常識では、処理できないものも多い。あらゆるものに、エンノイアの疑問が向く。何故これはこんな風になっているのか?どうしてあそこはこうなのだ?冒頭の方で、エンノイアが培ってきた常識を読者は学び、そしてエンノイアの常識から人間社会を見るとどう見えるのか、という視点が非常に面白い。
作者にそんな意図があるか分からないけど、本書では、「僕らが無条件に受け入れている常識」に違和感を突きつける場面が多くある。おかしいのはエンノイアの方だ、と大抵の読者は思うことだろう。ただ、そこで少しだけ立ち止まってみてもいいかもしれない。もしかしたらおかしいのは、エンノイアではなく僕らの方なのではないか、と。そう思わせる瞬間は、確かに存在する。その、まったく価値観の違う両者の間の溝のようなものを凄くうまく描き取っていて、そこは非常に面白いと思った。
だからこそ、一点、どうしても不満も残る。それは、「エンノイアが、人間社会の常識を、あまりにも自然に受け入れているように見える」ということだ。この部分の処理は、恐らくとても難しいだろうと思う。思うのだけど、ここがもっとしっかりしていれば、もっともっと素晴らしい作品になるのではないかと僕は思う。
エンノイアは、生まれてこの方17年間ずっと信じきた常識を、たった数ヶ月で手放すのだ。いや、期間の短さに不満があるわけではない。その間、エンノイアにはあまり葛藤がないように僕には見えてしまうという点に不満がある。
もちろんエンノイアは、葛藤している。でも、僕の勝手な思い込みかもしれないのだけど、実際はもっと葛藤するのではないかと思うのだ。「光の民」にとって「泥人」というのは、醜悪で恐ろしい存在だった。エンノイアは少なくとも、そう言われ続けて育ってきた。それはまさに、ゴ◯ブリのような存在だと言えないか?そうだとして、たった数ヶ月で、ゴ◯ブリに抵抗感を抱かなくなることなどできるだろうか?そこの説得力が、ちょっと弱いような気がしました。
もちろん、その部分をもっとしっかり描いていたら、小説の分量が膨大になってしまうという現実的な問題もあるでしょう。それは分かる。例えばエンノイアのパートを、「過去の回想」という体裁にしたらどうだろう?「過去のことを思い出して書いているのだ」という体裁にしたら、そこまでの違和感はないかもしれない。本書では、エンノイアがリアルタイムに感じていることをそのまま写し取っているという体裁になっているから、もっと強い葛藤があるのではないかと思ってしまうのだけど、昔を思い出して書いている文章なら、そこまで違和感を覚えないかもしれない、と思ったり。その部分の説得力が、僕はもっと欲しかったなと思いました。
とはいえ、物語としてはなかなか面白い作品でした。エンノイアと関わることになる諒や綾との交流、エンノイアが人間社会に抱く違和感、エンノイアがこれまで抱いたことのなかった感情、エンノイアの内側から沸き上がってくる変化。そうした一つ一つが、なんとも愛おしいような気持ちにさせてくれます。「分かり合えない他者」といかに関わるか。それは、エンノイアのような「特殊な環境」で育った少女だけに関わる問題ではない。僕らは皆、まったく違う「前提」に立って人生を生きている。自分以外のすべての人間が、実は「分かり合えない他者」なのだ。改めて、そんなことを実感させてくれる作品だった。僕らは普段、「分かったフリ」を上手にこなして、他者との「違い」をあまり意識しないように生きている。「分かったフリ」などできるはずもないエンノイアの突然の闖入は、そんな僕たちの日常生活を緩やかに脅かすとともに、物事を見る別の視点も提示してくれる。是非読んでみて下さい。

平山瑞穂「四月、不浄の塔の下で二人は」


夏の果て(岡康道)

内容に入ろうと思います。
主人公の吉田は、ずっと、父親と折り合いをつけられずに生きてきた。
いや、吉田にとって、ほとんどの間、父は「不在」という存在でしかなかった。ある瞬間から、その「不在」の意味合いが大きく変わっただけだ。
典型的なガキ大将として育った吉田。家は、恐ろしく貧乏な時期と、恐ろしく金が余っている時期を往復した。貧乏な時代は、貧乏なりに楽しい生活だった。路地裏で近所の子供達と遊び周り、イタズラを仕掛け、学校でもロクに授業も聞かず悪さばかりしていた。
吉田の内側には、常に「得体の知れない空虚」があった。子供の頃から、それを自覚していた。それは、年齢を重ねるに連れて、表出の仕方が変化していく。しかし、それらはすべて根っこを同じくした、吉田の暗部だった。それが、父親との関わりの中から生まれたものなのか、それはわからない。
父が何をしているのか、誰も知らなかった。ほとんど家にいなかった。父と関わることがあれば、それはすかさず吉田にとって、嫌悪感に変換されることになった。得体の知れない存在として、父の「不在」を捉えていく。
スポーツや読書にハマる時期もありつつも、結局「何かにのめり込む感覚」を得られなかった吉田。学校での生活もどうにもつまらなく、将来の展望も見えず、どうしていいのかわからない退廃的な時間だけが過ぎていく。
19歳の冬。父は5億円の借金を残して姿を消した。
その瞬間から、吉田にとって、父の「不在」の意味が大きく変わっていくことになる。そして、父の「失踪」は、奇妙な形で吉田の大学生活を変えていく。
やがて、広告会社最大手のA社に入社することになった吉田。百鬼夜行の広告業界でも、彼は喘ぎ続けるが…。
というような話です。
さて、この作品の評価は、とても難しい。
広告業界に詳しい人なら、この著者名を見てきっとピンと来ることでしょう。敢えてここまで著者の略歴を書かないできたけど、本書の著者は、元電通のクリエイティブディレクターであり、その後、独立系のクリエイティブエージェンシーなど日本にはまだなかった時代に電通から独立して「TUGBOAT」を設立、現在もクリエイティブディレクターとして一線で活躍する日本を代表するクリエイター、らしいです。僕は広告業界のことはまったく知らないのですけど、恐らくその筋では有名な方なんでしょう。
さて、もう一回書きますが、この作品の評価は、とても難しい。その理由はこれから書くけど、本書が「自伝」ではなく、「自伝的小説」として売りだされている、という点が、非常に難しいと僕は思います。
僕は読みながら、ずっと二つの立場から本書を読んでいました。
一つは、「本書に書かれていることがほとんど事実である」という立場。そしてもう一つは、「本書に書かれていることは、全体の流れとしては著者が生きてきた通りだけど、具体的なエピソードはすべてフィクション」という立場です。前者の立場を「事実」、後者の立場を「フィクション」と呼びます。
「事実」の方に立って読むと、僕は本書をあまり評価できない。本書は、著者のデビュー作です。デビュー作で、丸々実体験を元にした「自伝的小説」を書くというのは、とても評価に困ると思う。「自伝」ならいいのだ。「自伝」なら、「こんなに面白い人生を過ごしてきたのか」という評価でその作品を捉えることが出来る。でも、「自伝的小説」と言われると、「小説」としてもその作品を評価したい。しかし、デビュー作で、丸々実体験を元にした「自伝的小説」だと、その著者の小説を書く力量は、ほとんど分からないと思う。確かに本書は、文章も結構いいと思うし、読ませる作品だとも思う。けどそれは、「実体験だからそういう風に書けたんでしょ」と捉えられても仕方がない。何作か小説作品を出している作家が「自伝的小説」を出すというのなら、それは良いと思う。それまでの作品で、小説を書く力量みたいなものは読者に伝わるだろうから、その上でこの「自伝的小説」を評価してくださいね、という体裁を取れる。しかし本書の場合、そうはならない。だから僕は、本書をどう評価していいのかわからなくなる。確かに、非凡な経験をしても、その経験を小説に仕立て上げられるかどうかというのはまた別問題だ。とはいえ、やっぱり僕は、「非凡な経験をしたんだから書けた小説なんだよね」という視点を拭うことが難しい。
さて一方で、「フィクション」の立場に立って読んだ場合、この作品はとても素晴らしいと思う。ある程度事実は混ぜつつも、自身の人生の全体の流れだけをフォローして、細かな部分は基本的に創作、という作品だとしたら、この著者の小説を書く力量はなかなかのものではないかと感じる。子供の頃から周囲に対して感じているなんとも言えない「違和感」とか、不可解な状況に放り込まれた時の何故か笑い出したくなってしまうような感覚とか、自分の内側に巣食っていると感じている謎めいた空虚とか、そういう著者自身がこれまでの人生で感じてきた様々な感情を、著者自身の実際の経験とは違うエピソードによって描き出しているのだとすれば、なかなか凄い書き手かもしれないと思う。いつ、どこにいても、「その時」に馴染めないでいる感覚とか、離人症のように、自分の感覚と行動が切り離されているみたいに感じとか、そういう著者自身が人生に対してなすりつけてきた色んな想いが、様々なエピソードによって積み上げられていくのだけど、それらほとんどが「実際の自分の経験」でないとしたら、物凄くレベルの高い書き手だなと感じる。
問題は、読者には本書がどちらなのか分からない、ということだ。もちろん、こんなことをウダウダ考える人間は多くないかもしれない。でも僕は、こんな風に感じてしまった。本書がもし「自伝」として売りだされるのであれば、なんの問題もない。主人公の名前を自身の名前に変えて、不都合があれば周囲の人間は仮名でも別にいいけど、そうやって「これは自分がまさに経験してきた出来事なのだ」ということを「自伝」という形で売り出すのであれば、それは良いと思う。小説的な手法で書かれた自伝もあるでしょう。そういう意味でも問題はないはず。
ただ、「自伝的小説」と言われてしまうと、なんだか困る。困るのは僕だけかもしれないけど、それでも僕は困る。「自伝だ」と言われれば、「凄い経験を乗り越えてきた人生」そのものを評価することが出来る。でも「自伝的小説」と言われると、小説としても評価したい。したいのだけど、デビュー作で自伝的小説という状況が、どう読んでも、著者の「小説を書く力量」を覆い隠してしまうように僕には感じられる。
まあそんなこと考えずに、作品そのものを楽しめばいい、と言われればその通りだ。本書は、先程も書いたけど、文章もなかなか良いし、主人公の一筋縄ではいかない内面描写がなかなか面白いと思う。思うのだけど、ここまでウダウダ書いてきたようなことが僕の頭の中をチラチラしていて、どうにも普通に「小説」として捉えることが難しかった。もしこの作品が、著者名を伏せてあって(まあ、僕はこの著者のことを詳しく知らないから、著者名は伏せなくても変わらないけど)、著者略歴が載っていなかったら、「小説」として本書を評価することが出来たかもしれない。
「自伝」なのか「小説」なのかということをウダウダ考えなければ、本書はなかなか良く出来ていると思う。「小説」としてどうなのかは上記の通り判断できないけど、本書が著者の人生そのままなのだとしたら、著者の人生は、なかなか面白いと思う。

岡康道「夏の果て」


努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論(芦田宏直)

内容に入ろうと思います。
本書は、なかなか一言では説明できないほど多様な文章が詰め込まれた、社会人を応援する書でもあり、学生を鼓舞する書でもあり、哲学的思考に浸れる書でもあり、教育界に一石を投じる書でもあります。タイトルは非常にインパクトがありますが、別に努力を否定する作品ではありません。
本書は、先程も書いたように、とにかくあらゆる種類の文章が整理されつめ込まれているので、とてもそのすべてに触れるわけにはいきません。これだけ玉石混交なのは(文体や考え方がではなく、触れられているジャンルがということ)、本書の元になったのが著者のブログだからでしょうか。非常に難しい(と僕には思える)哲学的な話もあれば、電車の中で出会ったとある少年との邂逅の話なんてのもあったりします。触れられているジャンルは多岐に渡りますが、著者のスタンスは常に一貫している(ように僕には思える)ので、作品全体としては統一感を感じさせる作品でもあります。
さて、そんなわけで僕は、本書の内容の内、「著者が学生たちに向けた言葉」と「ツイッター論」に関してのみ取り上げようと思います。
「著者が学生たちに向けた言葉」というのは、著者が専門学校の校長であった時代に、入学式や卒業式で生徒に向けて語った言葉のことです。
これが本当に素晴らしいものばかりでした。本書の第1章から第3章(およそ100Pほど)がそれに当たるわけですが、ここの部分は本当に多くの人に読んで欲しいと思いました。「これから学ぶ者」という広い意味での「学生」にも、「学ぶ者の養育者」である「親」にも、あるいは「学びを提供する者」である「教師・教授」にも、「学んだ者を受け入れる場」である「企業」にも、「社会という場で学んでいる者」である「社会人」にも、とにかくあらゆる人に読んで欲しいなと思いました。
僕の個人的な提案では、この第1章~第3章だけを、独立して新書に編集しなおして(ちょっと分量が足りないから、何か他の文章を付け足しつつ)売り出したら、メチャクチャ売れるような気がします。本書は本書として存在させつつ、本書の内容をジャンル別に再編成しなおし、それをターゲットに合わせた判型や値段設定で出し直すというのは結構アリなのではないかと思います。何故そんな風に思うのかというと、本書は索引まで込で500P近くの分量があり、値段も2940円と結構な高さだからです。内容は非常に良いと思いますが、この条件で広い層に届かせるのはなかなか難しいかもしれない、と思いもします。そんなわけで、先の「新書に再編集」というのを思いつきました。
さてでは、著者が学生たちにどんな言葉を与えてきたのか。引用していこうと思います。

<努力する人間は有害>

『三番目の人材(=がんばり屋で目標を達成できない人)は、なぜ目標を達成できないのでしょうか。それは自分の仕事の仕方を変えないからです。仕事の仕方を変えて目標を達成しようとはせずに、時間をさらにかけて達成しようとする。これが努力をする人が目標を達成できない理由です』

『「考えろ」の反対語は、しがたって「行動しろ」ではありません。IBMの言うTHINKとは、「考えてばかりいないで行動しろ、まずは行動だ」と批判される場合の理論的な思考のことを言っているのではなくて、平たく言えば、工夫をしろ、やり方を変えろ、ということです』

<時間がないと言うな>

『そして、「時間がない」というだけではなく、「時間(とお金)があれば、もう少しいい仕事ができた」とまで言うようになります。
これは間違っています。こんなことを言ってはいけない。今日のこの日をもってわが卒業生たちは「じかんがない」と言わないことを約束してください。
どんなプロの人間でもいつも時間がないこととお金がないこととの中で仕事をしています。六割、七割の満足度で仕事を終えています。悔いが残ることの連続です。プロの仕事というのは実は悔いの残る、不十分な仕事の連続なのです。
結局、六割、七割でも外部に通用するようなパワー(協力なパワー)を有しているというのが、仕事をするということの実際だということです』

<単純作業などない>

『単純な仕事を単純にしかこなせない人は、いつまで経っても単純な仕事しか与えられません。だから、「コピー上級」の人になれば、会社は、こんな人にコピーを取らせ続けるのは失礼だし、もったいないと逆に思い始めます。そのようにして、コピー上級の人は”出世”していくわけです』

『仕事は、自分からすすんでするものだという人がいますが、それは間違い。会社は、「顧客」を相手に仕事をします。だからいつでも真剣勝負です。だから会社は、いつでも真剣勝負のできる人を採用後の会社内であっても探し続けています。その結果、仕事は「与えられる」のです。だから「与えられる」というのは、それ自体<評価>なのです。評価の結果なのです。仕事が与えられるということが最大の栄誉であって、その与えられた仕事に期待以上の成果を出して答える。それが仕事をするということの意味です』

『職業人として「社会人」になるということは、最初に<選択>や<好き嫌い>があるのではなくて、他人に仕事を頼まれた、任されたという<信用>や<期待>です。この<信用><期待>というのは、その仕事を頼んだ人が期待したように仕事をするだけではなかなか得られるものではありません。そんな仕事の仕方があったのか、と頼んだ人が少し驚くような仕事をすることこそが<信用>というものに繋がっていきます。仕事を頼んだ人が、「悪かったね、こんな仕事をさせちゃって」というくらいの仕事をすることが、<信用>を生んでいきます。期待とは、いつでも期待以上のことなのです』

『単純な仕事を単純にしか考えない人は、単純な仕事しか回ってこないのです。仕事に高級な仕事も低級な仕事もありません。コピー取りであっても、その<信用>に応えることこそが仕事というものです。そういった些細ではあるけれど、一つ一つの信用に応えていくことが、みなさんが大きな仕事をするようになるきっかけになっていくのです』

<お客は遠くにいる>

『自分の好きな人にだけ商品を売っている限りは、マーケットは広がりはしない。会ったこともない、意見も会わない人に喜んで商品を買ってもらうようになって初めてマーケットは広がり、商品やサービスは売れる。その意味で、社内マーケットはその前哨戦です。自分以外のすべての人をお客様だと思いなさい。まず目の前の同僚や先輩に評価される人材になりなさい』

『つまり、あなたがお店で出くわすお客様の以前に、会社は多くのお金をかけており、ウィンドウの外に立つ一人の通行人にもすでに多くのお金が支払われている。
一人のお客様を店の内部で相手にするということは、本当はごく一部の出来事であって、そのお客様を獲得するのに、多くの逃げ去ったウィンドウの外のお客様がいる』

『ただ単に、目の前のお客様に喜んでもらえるのではなくて、一年間のさまざまな誘惑に、あたな方の技術力が勝てるのか、今度もまたあの店で、あのお兄さんに修理してもらおう、自分の車を預けよう、少しくらい高くてもいいや、という気になってもらえるか、そこが技術者としてあなた方が問われている本来の技術力です』

<顧客満足とは?>

『みなさんは、卒業する今日まで<学生>でした。だからみなさんの評価の基準は、「正しいか、間違っているか」だったと思います。(中略)
ところが、「お客様を大切にしよう」というのは、正しい、正しくないという問題ではありません。正しいことをやっていても、お客様が認めないことがあります。そんなことはいくらでもあります』

『そういう人たち(=買いたいもの以外の出費で大半の稼ぎをなくしている人)に、それでもお金を出させて、「顧客にする」。それがあなたたちの四月からの課題になります。そういったなけなし状態の家族持ちに、車を買わせたり、家を建てさせたりする仕事があなたたちの仕事になります。そのときに自らが、自由になる10万円の贅沢(=実家暮らし)をしているようでは「顧客の要求」に応えることなどできません』

<勉強するということ>

『あなた方は勉強すべく親に依存しているのであって、親もまた勉強させるべく投資しているのですから、親に直接お金(小銭)を返すことの意味などないのです。まして授業中寝ているなんてことが、親にとっては問題外のことです。大切なことは、そういった投資や信用に報いることであって、それを跳ね返すことではありません』

『学生を「顧客」と見なす学校は危うい学校です。「勉強しなさい」というのはまだ勝手に自分で考えてはいけませんということを意味しています。20歳前後のあなたたちに一番うるさいのは銀行でも親でもなくまさに<学校>であるべきなのです』

『学生時代と社会人になってからの勉強の一番の違いは、<必要>かどうかということが最大の目安になります。<社会人>になると、毎日毎日「必要」な勉強に迫られます。勉強しないと「上司」からは怒られるし、「仲間」にも迷惑をかけるし、「お客様」にも満足してもらえない、そんな「必要」から勉強をすることが日常的になります』

『いい歳して<書物>の中に、何らかの教えを見出すのではなく、日々の仕事や生活それ自体の中に課題を見出す純粋な能力が備わっているからです。「もっと勉強をしておけばよかった」は、したがって、後悔どころか、むしろ諸課題(と諸解決)からの逃亡を意味しているにすぎません』

『本をまともに読むことができるのは学生時代だけです。効率主義で社会的に分業された社会人は雑誌か新聞かベストセラーしか読めない。本を読むということは、もっとも<効率>と反することだからです。だから、書物の<心>なんてわからない。じっくり書物が読めるときは、学生時代しかありません。卒業するまでに分厚い専門書を10冊は<心>まで読み込んでみてください。それだけで一生死ぬまで<社会人>に勝てます』

<就活について>

『あなたたちの先輩は、たとえ専門学校生の総合職採用がない企業であっても、自分で学んだ内容をPowerPointにスライド化し、「ぜひ一度会って、プレゼンを見て欲しい、プログラムを見て欲しい」と先生と共に懇願し、10月採用の企業への道を切り開こうとしてきました。こんなことをやっているのは、全国の専門学校で、私たちの専門学校だけです』

『しかし「受験勉強」というのは決して悪いものではありません。一流の大学へ入学するには、計画力や実行力、忍耐やガマン、継続性、自己の欠点や強みの認識、欠点の補正能力など社会人になっても要求される数々の心理モデルが必要になります。また、もう一つ受験勉強の特質があります。それは「遠い」ものへの意識を経験するということです。全国模擬試験や偏差値を通じて、クラスの級友(のライバル)を越えた関係を意識することになります。「遠い」もの、見えないものを制御する意識を受験勉強で初めて経験し、それを乗り越えていくわけです』

『「自分の個性」「自分の特長」などと思っているものは、体外のところ「個性」でも何でもない。高度な二十四時間情報社会に生きるあなたたちの「個性」や「特長」ほどくだらないものはない。携帯メール、ミクシィ、ツイッターによって二十四時間アウトプットばかりしているあなたたちにどんなストックがあるというのか。面接官がそれらの個性について二つ三つと質問するともう何も言うことがなくなるほどの薄っぺらな個性にすぎない。自分の語った言葉や事態さえ、満足に説明できないあなたたちの「個性」「特長」って何?』

『あなたたちのこれまでの勉強は、<努力>すれば先が見えるという性格のものだった。つまり<累積>がものを言う世界だった。でも、実社会は、<累積>では仕事ができない。「予習」や「復習」が効かないのが実社会というもの。いつも<変化>を迫られている。だから<努力>では就職はできない。就職ができないだけではなく、<努力>では<仕事>ができない』

<読書について>

『”難しい”文章や本を読むのが苦手な人というのは、何が苦手なのだろうか。
その理由ははっきりしている。”難しい”本を読めないのは、順追って最初から読んでいこうとするからだ。どの一行にも意味があると思って(もちろん意味はあるのだが)、そしてまた後の行、あるいは後の段落は、最初の行や最初の段落を理解しなければ理解できないと思って、最初からきまじめに読もうとする。そして「こりゃあ、ダメだ」と言って投げ出す。これではどんなに自己研鑚を進めても”難しい”本は読めない』

『本を読める人というのは、すべてがわかる”賢い人”なのではなくて、わからないことを恐れない人のことを言う。わからないところで断念するのではなくて、飛ばして先に進む悠木があるかないか、それが読書の境目。本を読めない人は、わからないところが出てくるとすぐにそれで諦める。誰が読んでもわからないものはわからない、そう思えないのが本を読めない人の特長』

いかがでしょうか?著者は30歳前半ぐらいまでずっと大学院でハイデガーの研究をしていた人のようです。なんとなくそういう、実社会からかけ離れた研究者というのは、世の中のことから浮きがちなんではないかというイメージがあるけど、著者は全然そうではない。本書を読む限り、自分が研究してきた哲学を実社会と接続させ、自分なりに咀嚼して言葉にしているように感じる。もちろん、実社会でしてきた様々な経験も著者の血肉になっているのだろうけど、なんとなく、実社会とはかけ離れた「哲学」の存在が、著者を実社会と強く接続させているように見えるので面白い。
さてもう一つのツイッターの方である。
本書の中で著者は、ツイッターは、ミクシィやフェイスブックとは違った、斬新なコミュニティのあり方を提示した、というような話を展開していく。「ツイッター微分論」と章題がつけられており、「ツイッターは<現在>を微分し続ける」「ストックがないことが、一般人と専門家の垣根を取り払う」というような議論が展開されます。
僕は、ミクシィもフェイスブックもまともにやってないんだけど、ちょっとやった限り自分には向いてないと思いました。でも、ツイッターだけは、自分ととても相性がいいのですよね。恐らく僕は、著者が主張するような形でツイッターを使っていないと思うのだけど、書かれていることは頷けることが多いなと感じました。

『ツイッターというのは、人の自他にわたる長期の観察や生殺、つまりデータベース主義(ストック主義)をやめようというメディアなわけです』

『ツイッターというメディアが表現しようとしているものは、その意味では反人間的なものです。<現在>という状態で微分していくと、賢い人もバカな人もコミュニケーションができるようになってくる。ツイッターは<人間>や<専門性>を越えているからこそ、交流が活発化するのです。この点が、コミュニケーションを<人間>で括るミクシィやフェイスブックとの大きな違いです』

『長文の名手である専門家(知識人)というのは、結論を先送りして出し惜しみしているだけなわけです。長文を書いておけば、バカな人からは絶対に非難を受けない(笑)。バカは長文を読めないし、どこに結論があるかもわからない(笑)。それで最後は著者の年齢はいくつだとかどこの大学を出たかとか、何をやっていた人だとか、何冊本を出している人かなどでごまかしてしまう。最後の著者略歴しか読まない。しかし、そういうやり方で逃げ切れないのがツイッターであって、どんな長い文章を書くのが好きな人も140文字で書かなきゃいけないから、どんなバカでも有名な人の結論を瞬時に見ることができます。結論というものは、いつでも短いし、単純なものです。だから誰でも判断できる』

『フェイスブックが旧態依然なのは、最初から交流の単位が(ストックとしての)<人間>だからです。すでに人間が、人間の評価が平均化されている。だからフェイスブックではエライ人はエライ人でしかない。なんたってデフォルトで<学歴>を聞いてくるのですから(笑)。<人間>は、<人間>という長い時間の単位で括ると、逆に多様な交流ができないのです。その人はその人でしかないという再認しかできない。これは<ソーシャル>とはいえない。<ソーシャル>とは異質な他者との交流のことを言います。ミクシィもフェイスブックも同種の者しか集まらない。厳密にはそれらはソーシャルメディアではないのです』

『ツイッターの微分機能はそれに対して携帯でもないし、電話でもないし、チャットでもない新しい次元を切り開いたわけです。これは内面を現在で微分しているという意味ではすごく内面を強化しているけれども、タイムラインがどんどん内面を解体していきますから、携帯電話やメールのようなきつい感じにはなっていかない』

『ツイッターは過去と未来を忘れることができる究極のメディアなわけです。つまりストックなしでも生きていける希望の原理がツイッターで、バカも頭の良いと言われている人も平等だという意味で、だからみなが面白がっている』

『いま書いているツイートが魅力的でなければ、その人がすごく偉い人であろうとすごく実績を持っていようとバカはバカだというところで、実在的な過去=実績をつぶすだけの十分な威力をツイッターは持っています。みなが興奮しているところはそこです』

『ソーシャルメディアに囲まれた今日では、タレントを含めた少数の著名人以外には体験しなかった他者評価が日常化しています。他者(からの評価)など意識しなかった人たちが、さかんに自分のささいな日常を暴露して(失業中であってさえも、夜中であっても)忙しくしている。忙しくすることによって社会参加しているような気分に浸っている。自分の窮状を棚上げするかのように。(中略)働いても働いても楽にならない忙しい窮状ではなくて、働かなくても、何もしていなくても忙しい窮状が今日の窮状の本質です。誰からも期待されていない無名(無力)の人が無名のままで忙しい社会、これがソーシャルメディアが招来する社会です。一言で言うと、忙しい退屈に充ちた社会。大震災も大津波も原発のメルトダウンも「傘がない」(井上陽水)ことと等価になる社会がソーシャルメディア社会の意味です』

さてというわけで、「著者が学生たちに向けた言葉」と「ツイッター論」についてだけ本書から様々な引用をしてみました。正直ここで扱うことが出来た話題は、本書のほんの一部でしかありません。他にも、教育や哲学など大きな話から、予備校の勧誘マンが家に来た話と言ったとても身近な話も出てきます。非常に興味深く、面白く読ませる作品でした。哲学の話など、難しくて読み飛ばしたところもありますが、全体的には本書の副題通り、「学校と仕事と社会の新人論」であり、学校と仕事と社会に関わる人(つまりほとんどの人)に読んで欲しい作品です。分量・値段ともになかなかのハードルの高さですが、是非ともチャレンジしてみてください。

芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論」


映画「凶悪」(新潮文庫「凶悪 ある死刑囚の告発」原作)を観に行ってきました

「凶悪」を観に行ってきました。
元々僕は、本書の原作を読んでいました(原作の感想はこちら)。僕は、事件モノのノンフィクションをそこそこ読んでいる人間ですが、この映画の原作である「凶悪」は、とにかく凄まじいノンフィクションで、読んだ時に衝撃を受けた記憶があります。

ざっと、どんな経緯を辿ったのか書いてみます。

「新潮45」という雑誌のある記者が、死刑囚からの手紙を受け取るところから始まる。死刑囚に会って話を聞くと、シャバに殺してやりたいほど憎い奴がいる、そいつを逮捕してほしい、と訴えます。死刑囚はその男を「先生」と呼んで慕っており、自身が捕まるまでは、「先生」の指示で様々な殺人事件に手を染め、大金を得ていたのです。

死刑囚は、誰にも話していない3件の事件について記者に語ります。それらはすべて「先生」の指示で行われたものでした。

しかし、記者は非常に困難な取材に立ち向かわなければならないことになる。まず、死刑囚の記憶が非常に曖昧で、当時のことをほとんど正確に覚えていない。さらに、「新潮45」の編集長から、記事にならないから取材を止めるよう言われる。それでも記者は執念の取材を続け…

というような展開です。一応、どんな結末に落ち着くのかは書かないでおきましょう。

さて、まず映画と原作の関係を僕なりに捉えると、「映画と原作でひとまとまり」という印象を受けました。原作は、基本的に「記者がいかにして取材を続け、「先生」を追いつめていくか」という部分に焦点が当てられていきます。実際、「先生」や死刑囚がその当時どんなことをしたのかは、正確にはわからないわけですから、「ノンフィクション」と銘打った作品として出版するには、記者側の話を書くのが当然でしょう。

一方で映画は、冒頭で「この映画は事実を元にしたフィクションです」と表示されました。そして映画では、「先生」と死刑囚がいかにして極悪非道な殺人をこなしていったのか、という部分が強く描かれていきます。まさにこの部分は「フィクション」でしょう。「先生」は当時のことをほとんど証言していないだろうし、死刑囚は記憶があやふやです。「フィクションだ」と銘打つことで、本書は「先生」と死刑囚が行った極悪非道な犯罪をメインで描くことが出来たと思います。

原作では記者側の物語が、そして映画では「先生」と死刑囚側の物語がメインで描かれていく。そういう意味でこの両者は「ひとまとまり」だなと感じました。原作が存在する映画をあまり観たことはないのですが(というか、そもそも映画をあまり観ていないのだけど)、僕の勝手な印象では、原作をただ縮めたような映画や、原作をまるっきり作り変えてしまうような映画も多いだろうと思います。そう考えるとこの映画は、原作と非常に良い関係を築く作品だなと思いました。

僕は映画を観ながら、あらゆる場面で「正義とは何か?」と問われ続けているように感じました。そしてそれは、「記者側」と「被害者側」から描かれていきます。もちろん、「先生」や死刑囚の悪逆な犯罪も、「反面教師的」に「正義とは何か?」と問いかけてはくるのですが、あまりにも彼らの行状が酷すぎて、彼らの描かれ方から届く「正義とは何か?」という問いは、そこまでの強さを持ちえません。そうではなく、「ジャーナリズムはどうあるべきか?」という問いと、「家族とはどうあるべきか?」という問いが、「記者側」「被害者側」の両面から炙り出され、それが「正義とは何か?」という大きな問いへと収斂していくように感じました。

映画では、記者の家族のある設定が与えられています。それはここでは書きませんが、その設定が記者に「ジャーナリストとは何か?」「家族とは何か?」という鋭い問いを突きつけ続けることになる。

そしてそれは、記者と記者の妻との「かみ合わない会話」から表出してきます。映画の中で描かれる記者は、「記者」として存在している時は、その場に「記者らしく」溶け込んでいると感じる。しかし、「夫」として存在している時は、その場に「夫らしく」溶け込むことはない。家庭での描写が描かれる度に、非常に強い違和感を覚えた。

正しさの軸がどこにあるのか。それが、記者と妻の間で全く共有されていない。記者の「正しさ」も、妻の「正しさ」も、どちらも正しく映る。別に、どちらかが間違っているわけではないだろうと思う。しかし、両者の「正しさ」は一向に交わることがない。別のものを見ている。観ている人は、きっとどちらかには共感することでしょう(個人的には、妻の方に共感する人の方が多いだろうと思いますが)。けれども、両方に共感できる人は、ほとんどいないだろうと思います。

「私は生きてるんだよ」

そう妻がこぼすシーンは、「ジャーナリストとは何か?」「家族とは何か?」という問いの、一つの答だっただろうと思います。

記者は、家庭と離れた場でも、「ジャーナリストとは何か?」という問いを突きつけられ続けることになる。ある被害者のお宅を尋ねた際、記者は『他のマスコミと何が違うんですか?』と問いかけられる。また、ある場面で記者は『ジャーナリストですか』と吐き捨てるように呟く。記者が「ジャーナリスト」というものをどう捉えているのか、それは言葉の隙間から時折こぼれ落ちるのだけれど、定まった何かがあるわけではなく、映画全編を通じて僕は、記者の「ジャーナリスト」というものの捉え方が揺れ続けていて、その様を活写しているように感じられました。

さて一方で、「被害者側」からはどんな風に「正義とは何か?」という問いがなされるのか。

ここでの一番の軸は「家族」です。この映画では、「先生」や死刑囚の極悪非道な犯罪が描かれるのだけど、その背景には家族の悲哀が横たわっている。世の中には、様々な「家族の形」があり、「家族の問題」があり、それらは多様化しあらゆる形で顕在化し、社会に蔓延している。そしてそれらをうまく「利用」して、「先生」や死刑囚は金を儲ける。「先生」や死刑囚を断罪するのは簡単だ。しかし、それだけで何かが変わるわけではない。根本として「家族の問題」が横たわっている以上、いくら「先生」や死刑囚を排除したところで、第二第三の「先生」が現れるだけだ。この映画では、そういう主張も扱われているように感じた。

誰のセリフかは書かないけど、

「自分だけはそんな人間じゃないと思ってたんだけどね」

という一言は、「家族とは何か?」という問いを強制的に収斂させる強烈な一言だったと思う。その一方で、「弱者」として被害者が描かれることで、「ジャーナリストとは何か?」という問いも突きつけていくことになる。

「正しさ」は、無限に存在する。僕たちは、そのことを意識的にせよ無意識的にせよ、きちんと理解しているはずだ。しかし、そう思いたくない、正しさは一つだと信じたい、というバイアスが、多くの人を思考停止に追い込んでいく。それは「亀裂」や「軋轢」を生み出し、それらを「先生」や死刑囚のような人間が押し広げていく。

「先生」の最後の言葉は、実に印象的だった。記者にそう伝えることで、「先生」は「記者の正しさの脆さ」を指摘した。記者は、妻からの追及には自覚的に「思考停止」を選択したはずだから、妻がいくら記者を糾弾しようとも記者の内側には入り込まなかっただろう。しかし、「先生」の最後の言葉は、記者自身が取材によって深く入り込んでいる世界の、まさに底の底から放たれた一言であって、それは記者にとっては強烈な一撃だったのではないかと思う。別に僕は、記者の「正しさ」を責めたいわけではない。しかし、その「脆さ」を認識できていなかったことは、確かに自覚的であるべきかもしれない、と感じました。

「正義とは何か?」 これはジャーナリストだけではなく、情報の受け手である僕ら自身こそが自らに問いかけ続けるべきなのかもしれない。そんなことを感じました。

ウルトラマンが泣いている 円谷プロの失敗(円谷英明)

内容に入ろうと思います。
本書は、「特撮の神様」と呼ばれ、スピルバーグやジョージ・ルーカスに影響を与え、世界の映像技術の基礎に大きな影響を与えた円谷英二の物語…というわけではありません。円谷英二の話も出てきますが、基本的には、「円谷プロがいかに迷走してきたか」という歴史を語る話です。
本書の著者は、円谷英二の孫であり、円谷プロの二代目社長の息子であり、また著者自身もかなり短い期間ではあるけど、六代目社長を務めた(その辺りの事情も本書で触れられているけど、短く言うと、突然解任されてしまったのだ)。
本書は冒頭で、円谷英二がいかに天才的なクリエイターであったのか、という話がなされるが、話のメインとなるのは、円谷英二の死後のことだ。現在に至るまでの様々な紆余曲折を描きながら、どうして、「我々円谷一族の末裔は、現存する円谷プロとは、役員はおろか、資本(株式)も含め、いっさいの関わりを断たれています」という状況に陥ってしまったのか。それを、孫であり、六代目社長として円谷プロをどうにかまともな方向に舵取りしようと試行錯誤しようとした著者が描いていく。
円谷プロについて一言で言えば、本書を読む限り、「ムチャクチャだ」としか言いようがない。僕は、就職してサラリーマンとして働いたこともなければ、当然会社を経営した経験もないのだけど、本誌で描かれる円谷プロの有り様には、絶句させられる。よくもまあこんなムチャクチャな経営(と呼んでいいのか…)で、今日までどうにかやれてこれたな、と思わされます。
そもそも、特撮にはお金が掛かる。それは祖父・円谷英二の時代からそうであり、テレビ番組の制作費についてこんな記述がある。

『初期のウルトラマンシリーズでは、全国ネットの30分子供番組の制作費が200万円程度、一時間ドラマでも500万円を超えなかった時代に、TBSは550万円を円谷プロに支払っていました。しかし、実際の経費は1本1000万円近くかかり、番組を作るたびに借金が積み重なることになりました』

僕は、かつて読んだ「天才 勝新太郎」という本を思い出しました。勝新太郎は映画製作に乗り出すのですが、その作品にも、こんな記述があります。

『「座頭市物語」は、フジテレビからの予算は通常よりはるかに大きく、しかも間に代理店のはいらない直接受注。儲けようと思えば、どこまでも儲けられるはずだった。
だが勝は、潤沢に組まれた予算の全てを現場へと注ぎこんでいく。勝には妥協する気はもう一切なくなっていた』

円谷英二にとっては、映画もテレビ番組も、お金を儲けるためのビジネスではなく、夢を映像化する芸術作品だったようで、採算などということはまったく考えていなかったのでしょう。円谷英二のこのあり方が、会社としての遺伝子に組み込まれたのか、はたまた、「ウルトラマン」という資産に安住して怠けてしまっただけなのか、円谷プロのお金の使い方はザルというか、その全容を誰も把握していないという恐ろしい状況になっていきます。社長に就任した著者は、まず会社の全経理を徹底的にチェックしたようですが、あまりの杜撰さに唖然としたそうです。よくここまで会社が保ったものだな、と。
円谷プロの経営を成り立たせていたものは、後に「円谷商法」と呼ばれる、著作権ビジネスです。テレビ番組で放送したキャラクターなどをグッズとして売り収益を上げる、現在に至るまで様々に行われている手法ですが、これは円谷プロが生み出したようです。
三代目社長である円谷皐時代の経営陣は、

『慢性的な持ち出しが続いていたレギュラー番組の制作をやめらば、毎年の著作権、商品化権収入だけで少なくとも二億円は見込めるから、それだけで会社は存続できる』

と言っていたそうです。それが、平成に至るまでの16年間、国内でウルトラシリーズの新作が放送されなかった理由です。
実際にこの著作権ビジネスは、怪獣ブームが来る度に物凄い勢いを見せたようで、一度の振り込みで10億円を超えたこともあったのだとか。それで、「会社はうまくいっているのだ」と錯覚させられてしまい、麻痺するのだ、と著者は指摘します。著者は社長に就任後、世間的には成功と発表されていた平成三部作の支出と収入を精査してみたところ、三作品すべてにおいて赤字だったことが判明したのだそうです。特撮はお金が掛かり、著者もかなり検討したようですが、やはり経費の削減は相当に難しいようです。しかし、お金の管理をもう少しきちんとしておけば、どうにかなったのではないか、と思いたくもなります。
とはいえ、

『率直に言って、かつての円谷プロはいつの時代も長期の経営ビジョンなどはありませんでしたから、必ず来るであろう沈滞期に備えて、財務を強化しておこうというような発想はほとんどありませんでした』

という状況だったようです。
著作権ビジネスは、以外な落とし穴を見せることになります。この落とし穴も、そもそも円谷プロが財務をきちんとしていればどうにでも防げたことでしょうが、慢性的に赤字体質であった円谷プロは、ウルトラマンの玩具をほぼ独占していたバンダイの介入を防ぎきれなくなります。

『映画監督の実相寺昭雄さんは、後の著作の中で、ウルトラマンが輝きを失った原因として、こんなことを語っています。
「第一の強敵は制作費であり、第二の難敵は商品化権だ。商品化権が優先し、番組がデパートに並ぶ玩具を充実させるために、奉仕させられるようになってしまった」』

円谷プロは、どの程度バンダイの介入を受けることになったのか。

『それまでは、番組に登場するあらゆるもののデザインを、円谷プロのデザイン室と、その下請けの美術会社が一手に引き受けていましたが、この番組(=「ウルトラマンティガ」)からは、隊員のユニフォームや怪獣のデザインなどのベースを円谷プロが作り、その他の戦闘機や、隊員が携帯する銃などの小物は、バンダイ側が提案し、双方納得したうえで決めるようになりました』

このような状況も、円谷プロの有り様をさらに窮屈にする要因となったことでしょう。
しかし、著者が『円谷プロ「最大の失敗」』と呼ぶものは、別にあります。それは、「コンセプトの迷走」です。

『ウルトラシリーズが徐々に魅力を失い、視聴率低下や子供たちの怪獣離れを招いたのは、ウルトラマンという基本名称は変わらないのに、キャラクターや舞台設定など、番組コンセプトのめまぐるしい変転が、視聴者をとまどわせたという面もあったと思います。その背景には、テレビ業界に根強い「テレビは時代を映す鏡でなければならない」という考え方がありました』

『ウルトラマンのコンセプトは、どうしてここまで変える必要があったのかと思えるほどコロコロ変わりました。円谷プロが、そうせざるを得なかった一番の理由は、新シリーズが始まるごとに、あるいは始まった後も、テレビ局から、
「設定やストーリーなどの内容は、今の時代に合わせたものにしてほしい」
という要求が、繰り返されたからでした』

『結局、ウルトラシリーズには、その時々で適当に変えてしまうご都合主義=「しょせん子供番組なのだから何をしても許される」という言い訳が、常に付随していました。ウルトラシリーズの変遷を見て、大人になったファンは次第に離れていきました。時には嫌悪感すら抱かせてしまったことが、円谷プロ「最大の失敗」だったと思います。子供は親の表情を常に見ていて、親の感じ方に敏感に反応するものです。
ファンのこだわりを軽んじ、子供の感性をも軽んじたことで、しっぺ返しをくらったのだと思います』

本書では、円谷プロを取り巻く様々な状況が、包み隠さず描かれます。タイの会社とのトラブルから発展した裁判(これによって円谷プロは海外戦略上致命的な不利を背負うことになる)、ウルトラマンのデザインを担当した成田氏との関係(これは、ちと酷すぎる…)、度重なるお家騒動(円谷一族が、なかなか一つにまとまりきれない)などなど、相当な苦難を内包します。そして最終的には、あっさりと買収され、円谷一族とは一切関係のない会社になってしまったわけです。
他の制作会社がどういう状況なのか僕は知らないけれども、もう少しきちんとした経営が出来ていれば、こんなお粗末な結果にはならなかったのではないか。まさにタイトルの通り、「ウルトラマンが泣いている」という感じがして、非常に残念な気がする。
祖父の円谷英二には、こんなエピソードがあるという。

『祖父が制作に参加した第二次世界大戦中の映画「ハワイ・マレー沖海戦」では、東宝のプールに作ったハワイ・真珠湾のセットがあまりにも見事だったため、戦後、日本にやって来た米軍関係者から、
「あれは、いったオアフ島のどこから撮影したのか」
と、祖父が尋問を受けたという逸話が残っています』

これだけ偉大な祖父を戴きながら、その「特撮にかける意志」を残していくことが出来なかった円谷一族。様々な状況が存在していたとはいえ、基本的には経営者(主に三代目社長の円谷皐と、四代目社長の円谷一夫だろうか)の杜撰な経営のせいだと言っていいでしょう。僕は、ウルトラマンを見た記憶はほとんどないし、特撮というジャンルにも特に思い入れはないのだけど、それでも、何度瀕死の状況を迎えても生き残る「ウルトラマン」という資産を持ちながら、こんな結末にしか辿りつけなかったのだな、という寂しい気持ちが残りました。
社長を放逸された著者のその後にも触れておきましょう。著者は、円谷プロ傘下企業にいた頃、中国での展開を目論んでおり、社長放逸後それを再開することにした。中国という「異界」で様々に奮闘したものの、結局うまくいかず、現在は映像の世界からは完全に足を洗い、ブライダル会社の衣装を運ぶ仕事に従事しているという。偉大なる祖父を持つ孫の物語としてはいささか寂しい気もします。
著者は冒頭で、「今もウルトラマンを愛してくださる皆さんにとって、あまり知りたくないエピソードも含まれているかもしれません」と書く。ウルトラマンや特撮という世界に思い入れのある人が読むと、僕なんかが感じる以上のやりきれなさみたいなものを感じるのではないかと思う。ウルトラマンと、独創的な特撮技術という遺産を活かしきれなかった一族の、悲しい結末を描く作品です。是非読んでみてください。

円谷英明「ウルトラマンが泣いている 円谷プロの失敗」


炭素文明論 「元素の王者」が歴史を動かす(佐藤健太郎)

内容に入ろうと思います。
本書は、世界の歴史に影響を与えたいくつかの炭素化合物(って書くと難しそうだから具体的に。デンプンとか砂糖とかニコチンとかカフェインなどなど)を取り上げ、それらを「軸」として世界史を眺めてみるという、非常に面白い視点から描かれた化学と歴史の本です。
化学の本かよー、と思った方。確かに本書には、有機化学の教科書に出てきそうな構造式の図がたくさん出てきますけど、そんなのは気にしなくていいです(僕も、化学のことなんかもうすっかり忘れてしもーた)。パラパラめくると難しそうな本に見えるかもしれないけど、全然そんなことないです。少なくとも、難しい化学の話は全然出てきません。
本書では例えば、「昆布のお陰で薩摩藩は倒幕出来た」とか、「紅茶がアメリカ独立のきっかけになった」みたいな話がたくさん出てきます。そう言われると、難しくなさそうでしょう?
著者は、本書のような作品を描いた理由を、こんな風に書きます。

『化学というのは、どうにも地味な、人気のない学問だ。何しろ化学の授業で学ぶことといえば、無味乾燥な化合物名や構造式の暗記、学問の内容といえば、目に見えないほど小さな原子がくっついたり離れたりしているだけだ。無限の宇宙の謎を解き明かす天文学のロマンも、生命の神秘に切り込み、画期的な医療技術を次々と送り出す生物学の華やかさも、化学には備わっていない。化学式なんて見たくもない、元素記号なんてまっぴらごめんだ、と思う人が多いのも無理はない』

『こうした本を書いたのは、ひとつには化学に対する関心の低さを、少しでも改善したいという思いがあったためだ』

僕も学生時代は、物理とか数学は大好きだったんですけど、化学となるとお手上げでした。僕は、歴史がとにかく苦手で、それは、歴史上の出来事に関心が持てなかったことも大きかったけど、とにかく暗記が苦手だったのが致命的でした。そして化学という分野も、とにかく暗記力に左右されるようなところがあって、僕には無理だったなぁ。有機化学とか、ホント、なーんにも覚えてないもんなぁ。
しかし、本書を読むと、「化学って凄いかも!」って思います。もちろん本書は、基本的には「歴史」の本なので、「化学的な話」はそう多いわけではありません。それでも、本書を読むと、なるほど人類はこれまでの化学の成果がなければ生きてこれなかったし、これからも人類が抱える様々な実際的な問題を、化学が解決していくしかないのだろう、と思わされました。僕が本書を読んでて一番感心したのは「アンモニア」の話で、実は「アンモニア」は本書で扱われている化合物の中で唯一炭素とは関係ないという…(笑)。まあその話は後で書こうと思います。
著者は冒頭で、炭素のことを「褒め殺し」にします。

『百以上の元素の中には、我々にとって全く他からかけ離れて重要なものが、ただ一つだけ存在する。おそらく化学を学んだ者であれば、まず間違いなく答えが一致するだろう。』

『そもそもこの元素を抜きには、あらゆる生命体の存在があり得ない。何しろ三十数億年にわたって連綿と続いてきた遺伝子、生命のシステムを支えるタンパク質なども、この元素が骨格を作っているのだ。大地にも空気中にも海中にも、宇宙の遠い恒星にさえ、それはあまねく存在する。』

『地球の地表及び海洋―要は我々の目に入る範囲の世界―の元素分布を調べると、炭素は重量比でわずか0.08%を占めるにすぎない。この割合は、チタンやマンガンといったあまりなじみのない元素さえ下回っている』

本書では、そんな特異な存在感を持つ「炭素」が、歴史の中でどんな立ち回りを演じ、何に影響を与え、歴史にどう介入してきたのか。そして、人類の歴史が、いかに「炭素化合物の確保」によって彩られているかを明らかにする作品だ。
まず、本書でどんな「炭素化合物」が扱われているかを列記してみよう。

デンプン
砂糖
芳香族化合物
グルタミン酸
ニコチン
カフェイン
尿酸
エタノール
ニトロ
アンモニア(これだけ例外)
石油

「デンプン」や「石油」は、世界に影響を与えた、と言われてもピンと来るかもしれませんけど、「カフェイン」とか「尿酸」なんかは、なかなかイメージできないんじゃないかなと思います。それぞれどの項目も、非常に面白い話が満載で、僕は全ページ数の9割近くをドッグイヤーしてしまいました。
さて、本書でどんな話題が取り上げられているのか。興味深いものをいくつか列記してみます。

『ドイツはジャガイモによってある時期救われ、またジャガイモ飢饉によってアイルランドを脱出した者たちから、後のアメリカ大統領が多く輩出されている』

『アメリカの人種差別、環境破壊、南北問題などはほぼすべて、砂糖に端を発すると言っていい』

『1665年に始まった英蘭戦争は、オランダの勝利で終わったが、その時代人々が香辛料に目が眩んでいなければ、現在の「ニューヨーク」は地名が違っていたかもしれない』

『破綻状態にあった薩摩藩は、砂糖と昆布で驚異の蓄財を成し遂げ、その資金が後の倒幕の大本になった』

『独立運動で重要な役割を果たしたバージニアだが、それはタバコの産地だったから』

『英国本国の徴税制度に怒りを表明するために行った、紅茶を大量に港に投棄するという行動(ボストン茶会事件)が、アメリカ独立の大きなきっかけとなった』

『アメリカ最初の植民地は、ビール不足によって決定された』

本書ではこういう話がそれはもうたくさん登場する。これらは僕には非常に面白く感じられた。
僕は、先程も書いたけど、まったくもって歴史に興味が持てない。歴史の何が面白いのか、少なくとも学校の授業ではさっぱり掴めなかった。学校の授業では、年代で区切られ、時系列順に説明される。まあそういう必要性があってそういう教え方をしているんだろうけど、本書を読んだ後だと、その教え方そのものに関心が持てなかったのかもしれない、とも思う。本書は、時代も地域もバラバラで、ただ「ニコチン」だとか「デンプン」だとかいうキーワードで世界の歴史の転換点を色々と説明してくれる。もちろん、歴史の奥深くまでは分からないけど、少なくとも僕みたいな歴史に関心のない人間に、歴史って面白いかも、と思わせるだけの力を持つように思う。
なぜかといえば、本書で描かれる歴史は、非常に「人間っぽい」からだ。学校の授業で習う歴史は、メチャクチャざっくり要約すると、「凄い人が凄いことをやりました」となると思う。でも、本書で扱われている歴史は、「凄い人も誘惑に負けるし、あの出来事も成り行きでそうなったんだよ」みたいな風に様々な事実が提示される。どう考えたって、後者の方が面白いと思う。本書はそれを、「炭素」というキーワードで拾い上げている。こういうやり方は、着眼点次第で色々出来るだろうし、実際にそういう本は色々とあるのだろう。ただ、こんな形で、かなり分野がかけ離れた「化学」と「歴史」を融合させた作品というのは、なかなか珍しいのではないかと思う。
さて、そういう歴史的な部分も面白いし、本書ではやはりそういう話がメインなのだけど、僕はやはり理系の人間なので、ラスト付近のちょっと理系度が増す辺りも好きだ。その中で一番興味深いのは、やはり「アンモニア」の話ではないだろうか。
100年前、とある元素が地球上で不足したことで、人類存亡の危機が訪れていたことを、皆さんはご存知だろうか?僕は正直、本書を読んで初めてそのことを知った。
その元素とは、「窒素」である。
窒素が不足するとどうなるのか。非常にざっくり言うと、食物が育たなくなるのだ。つまり、人類を賄うだけの食料を生産することが出来ない!
大ピンチである。
しかし、これは非常に難しい問題だった。
「窒素(これは気体のこと。元素ではない)」は、空気中の8割を占める。しかし、気体の窒素(N2)は、非常に結合が強く、引き離すのに莫大なエネルギーを必要とする。当然、窒素という気体には、窒素という元素が含まれているのだが、これだけ大量にある窒素という気体から、窒素という元素を取り出すことは容易ではないのだ。
窒素という気体から、「アンモニア」などの他と反応しやすい窒素化合物に変換することを「窒素固定」と言うが、それが可能なのは「雷」と「マメ科の植物の根に付着する特殊な細菌」だけらしい。この二つが頑張ってくれないと、地球上の窒素元素は枯渇していってしまうのだ。
そしてついに、1898年、クルックスというイギリス人科学者が、このままではあと30年で地球の文明国家が飢餓に見舞われる、と主張した。一刻も早く「人口窒素固定」を実現しなくては、人類の未来はないのだ、と。
そしてその演説からたった15年で、ドイツの化学者がそれを成し遂げた。本書ではその偉業は『化学工業市場最高の成功例』と評する。この「人口窒素固定」の技術に対して、二度ノーベル賞が受賞されているようだが、一つの業績に二度ノーベル賞が出た例はこれ以外には思いつかないと著者は書く。
そんな大変なことが起こっていたなんて、全然知らなかったので、本当に驚きました。そのドイツ人の化学者がいなかったら、今頃人類はどうなっていたでしょう…。
と胸をなで下ろしてもいられないのです。この「元素不足」は、次々と人類を襲っています。現代では、「レアメタル」という、元々希少な元素の存在が、日本のハイテク企業の生命線となっているし、本書によると、リンという元素が不足に陥りそうで、これも早急に対策を取らなければ人類に未来はないかもしれないと言う。他の様々な話と併せて見ても、現在人類は、かなり綱渡りのような状況にいるらしい。
本書にはそのような、人類の危機を見せつけるマイナスの話も色々と描かれるが、一方で、「化学」という分野が持つ力も一緒に描かれていく。「人工光合成」の話とか、「石油を作る藻」の話なんかは、実用化まではまだまだ先だろうけど、なかなかロマンをかき立てられる話だなと思う。
「化学」と「歴史」というまったくの異分野を組み合わせ、「化学が苦手な人」にも「歴史が苦手な人」にも面白く読ませる内容になっていると思います。僕は非常に面白い作品だと思いました。歴史に詳しい人が読んだらどんな評価になるのか分かりませんが、僕はこんな風に歴史を教わりたかった気がします。是非読んでみてください。

佐藤健太郎「炭素文明論 「元素の王者」が歴史を動かす」


流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則(エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン)

内容に入ろうと思います。
本書は、なかなか刺激的な、科学的な「新理論」が扱われた作品です。扱われている理論は、「コンストラクタル法則」と呼ばれるもので、著者のエイドリアン・べジャン氏が提唱しているものです。
エイドリアン・べジャン氏はもともと、熱工学の世界的権威である。熱工学分野のノーベル賞を呼ばれている二つの賞を受賞しており(この二つを共に受賞している研究者はとても少ないようだ)、世界的に知られている研究者である。そんな著者がコンストラクタル法則を思いついたのは、あるノーベル賞受賞者の熱力学に関する講演を聞き、それが誤りであると直感したがきっかけだと冒頭で書いている。
さて、ではコンストラクタル法則とは何か。冒頭で、こんな風に定義されている。

『有限大の流動系が時の流れの中で存続する(生きる)ためには、その系の配置は、中を通過する流れを良くするように進化しなくてはならない』

このままでは、何を言っているのかさっぱりわからないでしょう。もう少し、コンストラクタル法則について書かれている文章を引用してみます。

『デザインの生成と進化は、肉眼で見える物理現象で、自然に生じ、そこを通る流れをしだいに良くする。この原理は、あらゆる尺度で成り立つから素晴らしい。ここの細流や樹木、道路など、進化をしている流動系の中で、各構成要素も進化を続けるデザインを獲得し、流れを促進するのだ』

『コンストラクタル法則は、すべての流動系はその中を通る流れのために、しだいに良いデザインを生み出す傾向があるから進化が起こることを予測する。そして、「より良い」の意味を一点の曖昧さもない物理学の言葉で表現する。すなわち、より速く、より容易な運動を促進する変化だ』

さて、先に書いておくと、僕はこのコンストラクタル法則について、ちゃんと理解できているわけではない。本書は、なかなか難しい作品だ。僕は、自分が理解できる範囲で本書を読んだ。なのでこの感想でも、自分が理解できた(と思っている)ことしか書けない。恐らく僕がここで書くことは、不完全だったり、時には誤りがあったりするだろう。でも、大雑把な雰囲気ぐらいは伝えられるのではないかと思う。僕の文章を読んで気になった方は、是非本書を読んで欲しい。
それともう一つ、このことを書いておく必要があるだろう。本書ではそうとは書かれていないが、恐らく本書で扱われているコンストラクタル法則は、まだ科学の主流ではないはずだ。エイドリアン・べジャンが提唱している一理論であって、科学的に承認された理論かどうかというのは、本書を読んだだけでは判断できない。ただ、非常に斬新で、さらにあらゆる領域(それは科学だけに限らない)にまたがっているために、様々な反発や異論が出るだろうと予想される。そういう意味でこのコンストラクタル法則は、まだまだ生まれたてであり、これから様々な知見が積み重なってよりシェイプアップしていくことだろう。そのことも、押さえておいた方がいいだろう。
さて、コンストラクタル法則についての話に戻る。
本書では、「地球上に存在するモノやシステム」はすべてコンストラクタル法則の影響下にある、と捉えている。つまり、「地球上に存在するモノやシステム」を「有限大の流動系」を捉えているということだ。「地球上に存在するモノやシステム」には、「樹木」や「河川」、「雷」や「雪の結晶」、あるいは「定住地の移り変わり」や「教育の偏り」など、ありとあらゆるものが含まれる。コンストラクタル法則が対象とする領域は、ありとあらゆる分野に及ぶ。

『このようにすべてを統一するかたちでの定義が可能になったのは、大きな進歩だ。なぜなら、それは生命の概念を生物学という専門領域から切り離すからだ。』

『生命は動きであり、この動きのデザインをたえず変形させることだ。生きているとはすなわち、流れ続けること、形を変え続けることなのだ。系は流動と変形をやめれば死ぬ』

『そして、この法則の観点に立つと、地球の生命が三十五億年ほど前に原始的な種の発生から始まったという味方も変わる。これから見ていくように、「生命」の始まりはそれよりはるかに古く、太陽熱の流れや風の流れといった最初の無生物の系が、進化を続けるデザインを獲得したときだ』

『コンストラクタル法則は、私たちの進化の理解の仕方を他のかたちでも一変させる。動物が海と陸と空を埋め尽くしたのは必然のことだったのだろうか。答えはイエスだ。流れの良さへ向かう進化は、流動系がより大きな平面領域と立体領域に行き渡り、それを混ぜ合わせ、撹拌することを意味するからだ』

著者は、コンストラクタル法則を中心に、生物と無生物を同じ軸で扱う。これは、「自然」だけではなく、「人工物」も含む。著者は、鳥の進化と飛行機の進化を、同じコンストラクタル法則から導く。人間が作った「人工物」であっても、コンストラクタル法則の呪縛からは逃れることが出来ない、というのが著者の主張だ。
まず一点、これがコンストラクタル法則の凄い点だと思う。これまで科学は、あらゆる領域を細かく細かく細分化することで進歩してきた。それぞれの細かな領域に専門家がおり、それぞれの専門家は、その領域について詳しいが、隣り合った他の領域については何も知らない、などということも多い。しかしコンストラクタル法則は、あらゆる細分化を無効にする。地球上に存在するありとあらゆるものを「有限大の流動系」と捉えることで、様々なものにシンプルな理由を与えることが出来る。
コンストラクタル法則の凄い点はまだある。それは、予測が可能な点だ。科学法則にとって、予測が出来るというのは一つ大きな条件ではあるが、しかしあらゆる分野において、予測可能な理論があるわけではないだろう。コンストラクタル法則は、「現象を説明するため」に存在するのではなく、「そうでなければならないという原理を与えるもの」だという。本書で描かれている予測で一番興味深いのは、北京オリンピックでウサイン・ボルトが金メダルを取ることを予測したこと、だろうか(恐らく論文中で、ウサイン・ボルトという個人名を表記したわけではないだろうが)。
コンストラクタル法則は、「あらゆる分野に適応出来る」「予測が可能」という二点が、非常に強いと僕は感じた。予測が可能な理論は多々あるだろうが、しかしそれは非常に狭い範囲にしか適応出来ない。あらゆる分野に適応出来る理論もそれなりにはあるだろうが、しかし予測が可能な理論はほとんどないだろう。この二点において、コンストラクタル法則は非常に特異な原理なのではないかと僕は感じた。
コンストラクタル法則がどう言ったものなのか、それを詳しく説明することは僕には出来そうにない。いくつか関わりのありそうな文章を引用してお茶を濁そう。

『(あらゆる流動系は)有効エネルギーの単位当たりで移動できる距離がなるべく大きくなるように進化してきた』

『より良い流れへと続く道は、不完全性のそれぞれの要素を、他の要素とどう均衡させるかにかかっている。系の全構成要素が協力し、いっしょになって働き、時とともにしだいに不完全性が減るような全体を生み出す』

『すべてのデザインにおいて、流れは隙間を通って比較的短い距離を低速で進み、流路を通って長い距離を高速で進む』

『そのカギを握るデザイン原理は、高速での遠距離の移動にかかる時間と低速での近距離の移動にかかる時間をほぼ等しくすべきであるというものだ』

僕がどう理解したのかを多少書いておこう。とにかく、地球上に存在するものを「流動系」と捉えた時に、まず大事なことは「そこに何が流れるのか」だ。河川であれば「水」であり、血管であれば「血」である。そしてその「流れるもの」が、流動系の中を「どう通り抜けるのか」を考える。その時に、「有効エネルギーの単位当たりで移動できる距離がなるべく大きくなる方法」というのが存在し、それが実現できるようなデザインを獲得できるようにその流動系は進化していく。そして、「有効エネルギーの単位当たりで移動できる距離がなるべく大きくなる方法」は、「高速での遠距離の移動にかかる時間と低速での近距離の移動にかかる時間をほぼ等しくすべき」という原理に支配されている、という感じだ。この説明で、非常に大雑把だけど、コンストラクタル法則について説明できているはずだと僕は思う。
ここからは、個別の話で非常に興味深かったものをいくつか取り上げよう。
まずは、「樹木」の話。これは非常に面白い。何故ならコンストラクタル法則は、「何故木が存在するのか」という点を説明しようとするのだ。
木は何故存在するのか。

『樹木と森林が現れて存続するのは大地から大気への水の迅速な移動を促進するためである』

これを著者は、

『木も草も、湿気の少ない空気が大地から水分を吸い取るために使うストローのようなものだ』

と表現する。
これまでの生物学などでの説明では、「何故木が存在するのか」という部分への説明は難しかった。何故か存在する木という存在について、「それがどのように存在しているのか」を説明するのが精一杯だ。しかし、予測が可能であり、かつ原理として作用するコンストラクタル法則は、「木が何故存在するのか」を明らかにする。
それは、木に限らない。

『河川も稲妻も樹木も動物も、自らの中や自らに沿って流動する流れを処理するために現れるデザインだ。それらは自らのために存在するのではなく、地球規模の流動のために存在している』

さて、次はスポーツの話。先ほど、ウサイン・ボルトの話を出したが、コンストラクタル法則は、「身体が大きく重いものが速い」という法則を導き出す。これは、陸上を走るものも、空を飛ぶものも、水中を泳ぐものもみな同じであり、この法則からは逃れられない。実際にスポーツの世界記録は、「身体が大きく重い者」によって更新され続けてきた。
さてここで、難しい問題がある。「なぜ、短距離走は黒人が強いのに、水泳は白人が強いのか」ということだ。走ることも泳ぐことも同じ法則に支配されているとするならば、何故このような明確な傾向が現れるのか。
本書ではこれも、コンストラクタル法則から導かれる理屈によって説明を与えてしまう。非常にシンプルな考え方で、納得感は高い。これも非常に面白い話だった。
最後に。黄金比の話。何故人間は、黄金比を「美しい」と感じるのか、という問題にも、コンストラクタル法則を使って答えを導き出そうとする。これまでは、何故人間が黄金比を「美しい」と感じるのかという説明はつけることが出来なかった。しかしコンストラクタル法則は、「目から脳への情報の移動」を考えることで、この問題に説明を与えている。これも、考え方としては非常に面白い。確かに、そのように考えるのは合理的かもしれない、と思わされる。
本書では他にも、「人間の定住地の変化」や「流通の発達」など、通常科学では扱わないような対象についてもコンストラクタル法則を当てはめて解析していく。そして最終的には、地球の歴史がどのように進行していったのかという過程を、コンストラクタル法則によって明らかにしようとするのだ。
冒頭でも書いたけど、このコンストラクタル法則は恐らく、まだ一般には承認されていない理論だろうと思う。アインシュタインが相対性理論を発表した時は、「これを理解できる人間は世界に三人しかいないだろう」と言われたらしい。それから徐々に研究され、あらたな知見が加わり、やがて一般常識となっていった。コンストラクタル法則がその過程を辿るのかどうか、それは分からない。どこかで致命的な欠陥が見つかるかもしれないし、理論としては正しいが重要性が認められずに埋もれるかもしれない。理論の正しさや、コンストラクタル法則が今後どのように扱われるのか、それはまったく分からないが、個人的には、この理論は非常に面白いし可能性を秘めていると感じる。物理学が目指す「万物理論」とは方向性が違うが、コンストラクタル法則は、地球環境を説明する「万物理論」となりうる可能性があると思う。本書の内容はなかなか高度で、正直きちんと理解しているとはいえないのだが、恐らくこれも、理論自体が過渡期であるせいだろう。アインシュタインの相対性理論も、今では僕らのような人間でもある程度までは理解できるように説明が洗練され、理論が整理されている。コンストラクタル法則が認められ、その重要性が認知されれば、いずれもっと易しい形で世間に広まることだろう。そうなる未来が来ることを楽しみにしようと思います。是非読んでみてください。

エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則」


創世の島(バーナード・ベケット)

内容に入ろうと思います。
本書は、ある特殊な<共和国>における、たった4時間の入学試験のための口頭審問を描く作品です。
21世紀末。世界大戦と疫病により、ある一つの例外を除いて完全に滅びた。大富豪であったプラトンはとある島を買い取り、その島を巡らす高い隔壁を設けることで、外の世界から物理的に隔離し、疫病の脅威から逃れた。彼らは、時折やってくる外界からの避難者をすべて撃ち殺し、外界から疫病が入り込む余地をなくす。一方で、プラトンは新たな社会づくりを目指し、遺伝子による選別や親子関係の排除などを推し進め、特権階級である哲学者がトップに立つ社会を構築していく。
当初は「外界への恐怖」という共通項でまとまることが出来ていた島だったが、次第に規律は緩み、社会は崩壊していく。そして、<共和国>に決定的な変化をもたらしたのは、漂流者の少女を助け、<共和国>内部に引き入れたアダム・フォードという一人の兵士の存在だった。
アカデミーへの入学を希望する少女・アナクシマンドロス(アナックス)に与えられた試験のテーマは「アダム・フォード」。彼女は、この国の歴史を大きく変えることになったアダム・フォードに強い関心を持ち、これまでずっと研究対象としてきた。その成果をこの4時間の口頭審問で出しきるのだ…。
というような話です。
これは非常に良く出来た作品でした。世界中で話題を呼び、著者の出身であるニュージーランドでは賞も受賞したらしいけど、なるほどという感じである。
本書は、YA(ヤングアダルト)の賞も受賞しているようで、確かに、外文の苦手な僕でもスイスイ読めるほど読みやすい作品だ。分量もさほど多くはなく、そしてそのほとんどが、試験管とアナックスの会話で構成されているので、とにかく読みやすい。
とはいえ、ただ子供にも読める作品というわけではない。本書は、非常に哲学的で深遠な作品だ。
本書ではアナックスは、<共和国>の建国から現在までの歴史や背景を、そしてアダム・フォードという男が<共和国>に与えた影響について、つぶさに語ることを求められる。僕らはアナックスの説明を聞きながら、次第に<共和国>の歴史や、アダム・フォードという男が何をしたのかということを少しずつ理解していくことになる。
まずこれが、非常に良く出来ていると僕は思う。<共和国>が、プラトンによってどんな意図を持ってデザインされたのか、そしてその仕組みがどのように機能していたのか、人類はその中でどんな風に生きていたのか、どのような問題が顕在化して言ったのかなどについて、僕らは少しずつ理解していくことになります。
<共和国>のモットーは、「過去に向かって前進せよ」となります。

『”没落”が生じたのは、人が自然な状態から逸脱したからだ、とプラトンたちは主張しました。変化はすなわち衰退を意味するという科学のもっとも基本的な法則を忘れて、変化を無批判に受け容れたからだ、と。プラトンは共和国の国民に、安定と秩序を基盤とした社会を築きさえすれば、栄光ある偉大な文明世界に立ちもどることができると語りかけました』

しかし<共和国>は、崩壊の予兆を常に抱え続けます。そしてそれは、アダム・フォードが一人の漂流少女を救出したことでさらに拡大することになる。アダム・フォードが一体何を考えて少女を救出したのか、それが国民にどのような影響を与えたのか、哲学者評議会はアダム・フォードをどう扱うことにしたのか。そういう背景をアナックスは丁寧に説明をし、<共和国>とアダム・フォードについて読者は理解を深めていく。
この、島の基本的な設定と歴史などの背景が、非常に良く出来ていて興味深い。プラトンが生み出すような<共和国>は、僕らの世界では現実にはなかなか実行しえないでしょう。彼らにしても、『世界にはもう自分達しか人類は残っていない。そして外界は恐ろしい疫病にさらされている』という共通した恐怖感を抱き続けたからこそ、そのような奇妙な建国にも従ったのだろう。だからこそ、このような設定の国家が生み出された時、実際にどうなるのかは、誰にも分からない。分からないけど、でも本書を読むと、建国から崩壊の予兆までが非常にリアリティを持っているように感じられる。「理想的な投票方法は存在しない」ということを示した、アロウの不可能性定理という法則が存在するが、それと同じように、どれだけ慎重に理想的な建国を目指そうとしても、「理想的な国家」というものは生み出せないものなのかもしれない、と思わされた。
ここまでが大体物語の前半部だ。
後半は、拘束されとある刑が執行されることになったアダム・フォードの状況が中心となって描かれる。様々な複雑な思惑が絡み合い、哲学者ウィリアムが開発した人工知能「アート」と同じ環境で過ごし、アートの人工知能の発達を促す役割を担うことになったのだ。つまり後半は、アダムとアートの知的な会話がメインとなっていく。
この会話もまた、非常にスリリングだ。アートは既に、人間と同じように思考することができる(ように見える)。しかしアダムは、「機械が思考する」などということを信じることが出来ない。だからこそアダムは、アートの存在を拒絶したり無視したりするが、アートはめげずにアダムと議論を繰り返す。
彼らの知的で哲学的な議論は、非常に面白い。アダムは、「機械が思考できるわけがない」という視点から様々な応酬を続けるが、しかし人間以上に思考する(ように見える)アートは、ことごとくアダムの議論を論破していくことになる。
アダムは、自身の存在が揺らぐことを恐れ、「思考する機械」である人工知能の存在を信じることが出来ない。あらゆる疑念をアートに叩きつけ、議論が届かないとわかると沈黙し、アートを拒絶する。しかし、死や時間の概念が人間と違うアートには、沈黙や拒絶はあまり意味をなさない。結局また議論に引きずり込まれることになり、彼らはお互いの立場から、お互いの意見をやり取りし続ける。
僕らの世界では、まだアートのような人工知能は生み出されていない(はずだ)。自らで思考し、人間と同等以上の会話を展開することが出来る人工知能は、いずれ開発されるだろうか?僕には分からない。でも、開発された時には、間違いなく本書で描かれているような、アダムとアートの議論がそこかしこで繰り広げられることになるだろう。「機械が思考する」などということを信じることが出来ない人間と、現にこうして思考していることに疑いはないと主張する人工知能の応酬は、僕ら人間がやがて経験することになる議論なのかもしれないと思いながら読んだ。有名な「中国語の部屋」の話も出てくるし、本書のやり取りを追っていくと、僕らの世界が抱えている「人工知能」に関する困難さや複雑さについて理解することが出来ていくのではないかと思う。
本書は、前半部の<建国の歴史と、アダム・フォード>と、後半の<アダムとアートの応酬>の二つによって構成され、どちらをとっても深淵で哲学的な問いが様々に発せられる。本書のような共和国の存在も、アートのような人工知能の存在も、今の僕らにとっては非現実的なものでしかなく、そういう意味で本書はSFと捉えられるだろうが、その一方で、僕らの住む世界の根幹に揺さぶりをかける続ける作品でもある。環境や技術が許さない状況に対して、その枠を取り払った時にどうなるのかをつぶさに追うことで僕らは、今ある環境や技術、そしてその延長線上にある未来について考えさせられることになるのだ。
そしてラスト。本書の内容紹介には、「最後の数ページ、驚天動地の結末が全世界で話題を呼んだ」と書かれている。このラストの展開は、見事だと思った。なるほど、そうくるか、という感じだ。前提を見事にひっくり返された快感があり、またそのラストの展開が、建国から現在に至る<共和国>の歴史を補填することにもなる、というのが見事だ。
外国人作家の作品だが、非常に読みやすい一方で、深淵で哲学的な設定や会話が非常に魅力的です。是非読んでみてください。

バーナード・ベケット「創世の島」


自殺サークル 完全版(園子温)

『世界は、役割分担でできている。それを普通の方々は、善とも悪とも言うが、それは仕方のないことなのだ。』

僕はこの『役割』という考え方に、子供の頃から敏感だった。本書で描かれているような、組織的で大規模に与えられる『役割』ではない。それはささやかで、僕自身が勝手に与える小さな『役割』なのだが、でも僕はその『役割』の存在を意識することなしには、生きていくことは難しかったような気がする。
家では『善き息子』を演じていた。これはもう、間違いなく『演じていた』と断言できるほど、僕は『善き息子』を演じていた。僕自身は、僕自身のその演技を白々しく見ていた。お前、そんな奴じゃないだろう?と。それでも僕は、演技をし続けた。そういう『役割』をこなす以外に、家族の中で自分の居場所を見つけることは出来なかったから。
学校の中でも、それぞれの関係性の中で、僕はそれぞれ『役割』を見つけていった。
僕がいつもイメージしていることがある。真っ白な白紙がある。その上にみんなが自由に円を描く。円一つひとつが誰かの『存在』であって、その場所やその関係を占めている。で、円が重ならないように白紙の上に書き続ければ、どうしたってちょっとずつ隙間が生まれる。円だけで、白紙すべてを埋め尽くすことはできない。
その隙間すべてを足しあわせたものが僕の『役割』だ。だから僕は、誰といるか、どこにいるか、何をしているかによって、僕自身の役割はどんどん変化した。白紙の上に載っている、他の円の大きさが様々に変化する度に、僕の領域である隙間の形も変わっていく。僕はそれに合わせ、白紙すべてを覆い尽くせるように、隙間の役割を演じ続ける。
なんとか僕はそうやって、今日まで生きてきた気がする。

『ここにあるのは、本当に家族のつながりが、太いパイプのように連結された、幸せの動脈管みたいな関係でできている家族だ、と思った。私もこのファミリーの一員になりたい、と心の底から思った』

だから僕は、本書で描かれる「レンタル家族」というものに、きっと違和感を覚えることはないだろう。
僕自身には、「僕自身」という形は存在しない。僕は、白紙の上に円を描ける人間を、ずっと羨ましいと思ってきた。自分の形がちゃんと分かっている、自分の大きさがちゃんと分かっている。だからこそ白紙の上に円を描くことが出来る。僕は、自分の形も、自分の大きさも持っていない。「あるのに抑えている」のではなく「ない」のだ。だから僕は、「さあ!」と真っ先にコンパスを渡されても、白紙の上に円を描くことはできない。みんなが白紙の上に円を描き終わってから、ようやく僕の形と大きさが決まるのだ。
別に、それでいい、と思っていた。そういう生き方でもいいじゃないか、と思った。世の中を、そんなやり方で生きていくことは、時に難しい。「自己主張」が求められるような場では、本当に辛い。僕には、「主張したい自己」は、たぶんない。僕がすることは、「そこで主張されたがっている言葉を汲んで、自分の口を通して外に出すこと」だけだ。別にそれでいい。

『誰もウサギになりたがらないくせに、ウサギを食べたがる。そんなジャングルなんてない』

その通りだ。だから僕は、誰もウサギになりたがらないなら、ウサギになろう。そう思っている。とはいえ、どんな役割でもこなせるというわけではない。だから、自分にはその役割はこなせそうにないな、と思ったら逃げる。ずっとそんな風にやってきた。
いつでも僕は、「白紙の上の隙間」を捉えようとしている。そして、僕という存在をそこに押し込める。それは、僕の意思ではない。「そうしたい」という、自らの欲求ではない。ただ、「そうするのが自然なのではないか」という、まあ諦めだろうか。諦めと書くとマイナスのイメージが醸しだされるけど、別にこういう自分が嫌なわけではない。自分にとって、そうすることが、最もエネルギー状態が低い、ということでしかない。
そんな生き方をずっとしてきたからだろうか。僕は必要以上に『役割』に縛られすぎる。自分が勝手に設定しただけの『役割』であれば、大したことはない。誰かが僕の役割を知っているわけでもないのだから、嫌ならその『役割』を放棄すればいいだけだ。だが、『なりゆきでそうなってしまった役割』や、『誰かから与えられた役割』になると、そうはいかない。僕はその『役割』を、嫌だからと言って勝手に放棄出来ない。だからこそ、必要以上にその『役割』に囚われることになる。完璧にその『役割』であろうとしてしまう。それは、僕を苦しめることが多い。それは、自分で自分を縛り付けているだけなのだけど、それでも僕にはどうにもしようがないのだ。『役割』というのは僕にとって、とても重要な規範なのだから。結局、その『役割』に縛られすぎて、辛くなって、結局逃げ出してしまう。そんなことばかり繰り返している。

『自殺は、決して逃げるってことじゃないってこと。自殺ってのは、今までの過去をキレイさっぱり忘れ去ることなんだ』

僕は『役割』から逃避することで、自分自身を何度も殺しているのだろうと思う。一旦自分の過去をリセットしないと、『役割』から強制的に解放されることがない。そうする以外に『役割』から逃れる方法がない、というのがとても不器用で面倒だと自分でも思うけど、まあ仕方がない。少なくとも、自分がそんな風な人間なんだと自覚出来ているだけでも、まあましかなと思っている。

『ぜんぜん違うところへ行きたかったんだ。でもそれがわからない』

本書は、園子温が監督した「自殺サークル」を下敷きにした小説であり、後にこの小説から「紀子の食卓」という映画が生まれることになった作品でもある。あとがきで園子温はこう書く。

『もし、あの時、この小説を書いていなかったら、園子温という奴は、未だに自分の方法論を探して、あちこち漂流していただろう』

54人の女子高生が、新宿駅で一斉に自殺するところから物語は始まる。
「廃墟ドットコム」というサイトに居場所を見出した女子高生・さやか。愛知県に住む彼女は、家出をして東京に出てきて、「上野駅54さん」と出会う。「廃墟ドットコム」の重鎮のような存在だ。
集団自殺はそれからも世間を賑わすことになる。そして世間は、「自殺サークル」が存在するのではないかと騒ぎ出す。
一方さやかは、「レンタル家族」という場で、それぞれの『役割』を演じることになる。『役割』が与えられ、そこに行き、設定通りに会話をし、立ち去る…。
ささやかの父親は、娘の行方を追っている。
断片が組み合わさった不揃いな形をしている作品で、小説としてはうまく評価することが出来ない。映像の場合、「一瞬の画」で伝えることが出来ることはたくさんあるだろうが、小説の場合、それらをいちいち言葉で描かなくてはいけない。なんとなく、「映像だったらわざわざ描かなくても画面に現れること」が本書では「言葉に変換されていない」ような印象を受けた。そういう意味で、小説として本書を評価することは、なかなか難しい。
けど、扱われている題材は、僕を非常に刺激した。『役割』という言葉は、僕のこれまでの生き方にまさにぴったりで、本書の登場人物たちが『役割』にとらわれてしまう理由を、僕はリアルに理解出来るような気がした。与えられた『役割』に嵌め込まれるなんて、普通の人には拒絶反応が出来るかもしれない。「私は自由でいたい」「僕には僕の個性がある」と。でも、本当にそうだろうか?僕は、自由も個性も、ある程度の制約の中からしか生まれないのではないかと思っている。そしてその「ある程度」の制約として、『役割』はうってつけである可能性がある。
そもそも僕にはみんなが、『求められた役割を演じている人』に見えることがある。ケータイの新機種を手に入れるために行列を作る人、悲惨な状況から救助された犬を飼いたいと申し出る大勢の人、ブランドの模様に彩られたバッグを持っている人…。こういう人達は、僕とはまた違った意味で、『社会に求められた役割を演じている』と僕には見える。彼らにはきっと、『役割』を演じているという自覚はないのだろう。そしてきっと彼らは、自由だと感じているはずだ。新機種を手に入れられる自分、飼い主の申し出が出来る自分、高いバッグを手に入れられる自分を、自由だと感じることだろう。そう考えれば、『役割』こそが自由を生み出していると、言えなくはないのではないか。
様々な『役割』を分担することで、僕らは生きている。『病人』がいるからこそ『医者』が存在できるように、『犯罪者』がいるから『警察』が存在できるように、僕らはそうやって『役割』を分担しているのだ。『犯罪者』の『役割』を担う人間が一人もいなければ、『警察』はその『役割』を失う。「誰もウサギになりたがらないくせに、ウサギを食べたがる。そんなジャングルなんてない」 「アリの法則」と呼ばれるものがある。これもある種の役割分担と言えるだろう。集団が生まれれば、どうしたって怠け者は出てくる。どれだけ優秀な人間だけで固めて集団を作っても、怠け者は出てくるのだ。役割分担だ。そうやって世の中は動いている。世の中がそんな仕組みで成り立っているからと言って、僕らの生活に何か特別な変化が訪れるわけではないんだけど。それに気づく人間が、自分の『役割』にちょっと自覚的になる、というぐらいのものだろう。
僕らはこんな風に生きている。そういうことを園子温は、拡大してデフォルメして小説を生み出し、後に映画にもした。僕らは、こんな風に生きている。あなたの『役割』は、なんだろうか?

園子温「自殺サークル 完全版」


福島映像祭2013に行ってきました

今日は、「福島映像祭2013」に行ってきました。僕が行ったのは、「ポレポレ東中野」です。このイベントは9/20までやっているようです。

パンフレット的なものをもらったので、そこに書かれている「開催意図」の文章をまずは引き写してみます。

『福島第一原発事故から時間が経過する中で、事故に関する報道が減り「風化」が始まっています。今、福島で何が起きているのか、原発をめぐって何が起きているか―。知ることが難しくなってきました。
「福島映像祭」は、福島原発事故にまつわる、あらゆる映像を集めて上映する映画祭です。映画、テレビ番組、そして一般市民による日々の記録まで、多様な映像を通して事故以降の福島の姿、そして「福島の今」を映し出すことが狙いです。
映像祭としては画期的な取組みとして、国内外のテレビ番組も劇場で上映。事故直後から現在まで、あの日、あのとき、何が起こっていたのかを多角的な視点から浮き彫りにするこおを目指します。
また、市民から公募するビデオを上映し、製作者を交えた対話の場を設けることで、今なお、続いている「福島原発事故」への思いを多くの人とともに共有し、私たちに何ができるのか、糸口を探りたいと考えています』

上映される作品は全部で13作品あるようで、日程によって上映されるものが変わります。僕が観たのは、

『福島 生きものの記録』
『霧の向こう Yonaoshi3.11』

という二作品です。
それぞれまず、パンフレットに書かれている情報を引き写してみようと思います。

『福島 生きものの記録』(2013/日本/76分/監督制作:岩崎雅典)

原発事故後、放射線による人体への健康被害の問題はさまざまなメディアで報道・懸賞されているが、本作は福島の生きものたちを見つめることで、放射線の健康や遺伝への影響をあぶり出していく。”被曝牛”を育てる牧場の苦悩、アカネズミやモグラの捕獲調査結果、ツバメの子育ての経過観察…。他の生物に目を向けることで他では語られない発見を見出した科学ドキュメンタリー

『霧の向こう Yonaoshi3.11』(2013年/日仏合作/94分/監督:ケイコ・クルディ)

2011年3月11日の東日本大震災にショックを受けたフランス人映画監督のケイコ・クルディはそのあとすぐに現場に向かい、一年以上をかけて現地の住人、家庭の母親、子供達、農家などに取材をした。高濃度の放射能汚染が確認される地域にもまだたくさんの人が住んでいる。この状況を理解するために、彼女は次に今の日本を代表する著名人や活動家にインタビューを行った。貴重なインタビューから見えてくるのはこの災害の危機にあって、起こる矛盾とトラウマから立ち上がる国民の躍動である



さてまず、『福島 生きものの記録』の方から。
監督らは、2012年の4月以降、何度も福島入りをし、独自に生物を追ったり、学術研究に同行させてもらいながら、福島の生態系について見ることが出来る範囲で観察を続ける。

映像を観ていて僕が興味を惹かれた話が3つある。

まずは、南相馬市にある「希望の牧場」。入り口に、牛の頭蓋骨が置かれ、「殺処分反対」という物々しい看板が掲げられている牧場だ。
吉澤さんはそこで、今も牛を飼っている。2011年5月に、国から牧畜の殺処分命令が出されたが、あくまでもそれは同意を得てのもの。大半の牧場主が、「殺処分する他仕方ない」と同意する中、10数人の牧場主は反対し、牧畜を続けているという。吉澤さんもその一人だ。
原発事故のあった直後に、取引先から出荷を拒否される。会社の判断として、売り物にならない牛についてはそれぞれに任せる、ということだった。吉澤さんは、この牛たちをどうするというあても特にないまま、殺処分に反対し、「売れない牛にどんな意味があるか?」とずっと悩み続けていた。大学の先生と話をする中で、「被曝牛の研究調査としての価値がある」と言われ、原発事故の生き証人として牛たちを育てていくことに決めたのだという。

「牛を生かす意味を考えると、哲学的になっちゃうよ」という言葉が、印象的だった。

映像の中では描かれていなかったが、映像後の監督による話の中で、やはり国としては家畜の飼育はNoであり、吉澤さんも県などに呼ばれ何度も始末書を書いたという。

次に、小高市の馬のの飼育の話。かねてから馬の飼育の歴史のある土地柄だったというこの地では、伝統行事である「相馬野馬追」が行われる。2012年は、映像中ではきちんと触れられてはいなかったが、各地に散り散りになった避難者たちがその日だけは集まって、相馬野馬追を執り行ったようである。

相馬野馬追には、「神旗争奪戦」や「野馬懸」や「甲冑競馬」と言った、馬を行事が様々に盛り込まれ、昔からの伝統を継承している。問題は、どう馬を確保するか、という点だ。流されてしまった既に馬の飼育を辞めてしまった人が多い中で、どうにか厩舎を立て直して馬の飼育を継続している人もいる。馬を飼育出来ないのは、小高市民にとっては辛いという市民の声があった。

最後に、警戒区域(現在どうなっているかは知らないが、取材当時は警戒区域)である富岡町で、一人避難せずにその地域の生きものを生かし続けている松村さんの話だ。NPO法人「がんばる福島」の代表であり、全国からの支援で、富岡町の生きものたちを守り続けている。
僕はこの人のことを、昔Youtubeの映像で見たことがあった。

原発20キロ圏内に生きる男 - Alone in the Zone

誰もいなくなった町にたった一人で住み、世話する者がいなくなった牛や、あるいは戻ってこれない家族の代わりに飼い犬や飼い猫に餌やりを続けている。

松村さんは現在数十頭の牛を育てているが、元々は牧畜を営んでいたわけではない。建築関係の仕事をしていたらしいが、「牛が可哀そう」「生きものたちが可哀そう」というただその気持ちだけで、たくさんの生きものたちを守り続けているのだという。

松村さんを取材する中で、取材班は富岡町で「野生化した牛」に遭遇する。かつては飼われていた牛だが、そういう野生化してしまった牛が、今も警戒区域内には300頭以上いると考えられているという。


正直に言えば、この『福島 生きものの記録』は、映像作品としてはさほど評価は出来ない。取材班がやろうとしていることは非常に良いと思うし、これからも継続して欲しいと思うが、映像作品としては、もう少し努力の余地があるように感じられた。



さて一方の『霧の向こう Yonaoshi3.11』の方である。こちらは、映像作品として非常に良かったと僕は思った。

監督のケイコ・クルディは、東日本大震災の時パリにいた。しかし彼女は、「パリにいながらパリにいなかった。心は日本にいた」と語る。そして震災の直後から、「出発しなくては、是が非でも」と決意する。

監督が被災地入り出来たのは2013年の5月。日本に向かう飛行機はガラガラで、まるで戦争のときのようだったという。「誰も日本に行きたくないようだった」と。

被災地入りした監督は、こういう印象を抱く。

「最初の数ヶ月間は、現実はフィクションを上回った。
これは、世界の終わりではないにしろ、『一つの世界の終わり』だと思った。
しかし楽観的な渡しは、これは新しい世界の始まりではないかとも思った」

こうも語る。

「フクシマはパラレルワールドみたいだ。
外から見ると、普通に見える」

監督はそこから1年以上の歳月を掛けて、被災地に住む人、反原発を唱える活動家、原発や電力や日本の未来について考えを持つ人などに取材をしていくことになる。

まず監督が取材を掛けた相手を列挙しよう。

山田理沙(南相馬の住人 高校生の女の子)
玄侑宗久(三春町の福聚寺の住職 芥川賞作家)
板倉幸恵・由香(南相馬の住人 親子)
坪倉正治(東大病院の医師 通いで南相馬の医師を続ける)
宮田美穂(三春町の住人)
鎌仲ひとみ(反原発の活動家 映画監督)
鎌田慧(作家)
落合信子(作家)
菅直人(元首相)
秋山豊寛(ジャーナリスト 日本の民間人初の宇宙飛行士)
YAE(歌手 鴨川自然王国に定住)
伊東豊雄(建築家)
本橋成一(写真家)

かなり多様な人達に取材を掛けている。それぞれ非常に面白い話が聞かれたのだけど、特に印象に残った話を中心に書いていこう。

まず南相馬に住む山田理沙。初っ端、彼女の発言には驚かされた。彼女は、原発のせいで実家が農業停止を余儀なくされたというのに、「原発に反対していない」という。「あっても構わない」と。常に笑顔で、日常のことやこれからのことを語る姿が、実に印象的だった。ここに住んでいることについて「怖くないのか」と尋ねられると、「怖くない。放射能は目に見えないから、意識できなくなってしまう」と返答する。

一方で彼女は、「私達がここに今も住んで要ることを、もっと多くの人に知ってほしい」とも語る。「住んでいることだけは忘れないで欲しい」と。

彼女の家では、米を作り始めた。どうなるかわからないが、作ってみないともっと分からないからだという。近くの年寄りばかりの集落では、普通に畑で野菜なんかも作っていて、時々採れたものをおすそ分けしてくれるという。「シイタケとかくれるんですよ。おばあちゃん、これどこで作ったの?と聞くと、ウチで作ったー、って。シイタケかぁ…(笑)」
そんな風に楽しそうに話をする彼女の姿が、非常に印象深かった。

住職であり作家の玄侑宗久氏の、「放射能って、自分の感覚が信じられなくなるんですよ」という言葉は、とても印象的だった。目に見えるわけでも、味が変わるわけでもない。測定器も、機械の精度によって違う数値を出す。「自分の感覚が信じられないっていうのが、暮らしていて辛いですよね」と語る。

南相馬に住んでいて、現在は避難所生活をしている板倉幸恵・由香親子は、「警戒解除してほしくなかった」と語る。その言葉もまた、実に印象深かった。

「ついこの間まで、(こんなにたくさんの防護服を身につけて)ここに戻ってきていたんです。でも、警戒解除されたから、もう着なくてよくなった。なんにも変わってないのにね」

「津波でなくなってくれれば、もっと諦めもつくんだけど。ほら、時計だって、ちゃんと動いてる」

「警戒解除されたって、こんなところに戻ってきても、なんにもできない」

家に戻りたいのかと聞かれ、母親の方は、「本当の気持ちは帰りたくない。どこかに行ってしまいたい」という。でも、家も畑も田んぼもあるのに、それらを全部捨てて他所へはいけない。それらを全部買い上げてくれるなら話は別なんだけど、と。

一方で、母親のいないところで娘は、別の想いを語る。「母はお嫁にきた人ですから、どこかに行きたいって言いますけど。私はここで生まれ育ったから、形として残っている家に帰ってこれないのは寂しい」


東大病院の坪倉氏は、「事実として、チェルノブイリより圧倒的にセシウムによる被曝は低い」と語る。ロシアと比べた場合、二桁ぐらい数値に差があるという。だからと言って、安全かというとそれも言い切れない。被曝は、決してゼロではない。だから、それぞれの家庭が、あらゆることを判断して、自分達で決めなくてはいけないのだ、と。

三春町に住む宮田美穂は、「絶対なんてものは、世の中にはないんだ」と悟ったと語る。監督による、「今回の事故で一番思ったことは?」という質問には、「明日が必ず来るとは保障されているわけではない、ということが分かった」と返す。彼女は、リスクがあることは分かった上で、それでも「普通の生活が続くことの大切さ」を選び、この地に残ることに決めたという。これから常に、リスクの選択をし続けていかなくてはいけないのが辛い、とも語る。

監督は宮田氏から、「私と同じ立場ならあなたは福島から出ますか?」と真剣な顔で問いかけられたという。監督は、その問いには答えることが出来なかったと語った。

建築家の伊東豊雄氏は、「エネルギーを、半分とは言わないまでも、6割程度まで減らす提案なら、建築家として出来る」と語る。伊東氏は、今の「自然と建物の境界をハッキリと区切るあり方」を「本質的に間違っている」とする。昔の日本建築のように、中と外との関係をもっと連続的に関係させていくべきではないか、と。

最後に監督は、こんな提言をして映画を終わらせる。

『新しい実験的な街を作ってみるのはどうだろうか?』


『霧の向こう Yonaoshi3.11』は、観ながら非常に考えさせられた。特に、現地に住む人々の飾り気のない言葉には、圧倒されたと言っていい。「原発には反対しない」「警戒解除されなければよかったのに」という言葉は、「フクシマ」という一つの言葉で被災地を括ろうとする人間を鼻で笑うようなセリフだと感じた。そこに住む人々には様々な想いがあり、それは細かなグラデーションを保ちながら広がりを持っている。そこには、単なる想像から生み出される「正義」からは程遠い現実が潜んでいる。

原発事故は、あらゆる「正義の形」を打ち砕いたのかもしれない。誰しもが抱く「正義の幻想」というもののあり方を崩壊させてしまったのかもしれない。共通の正義が失われ、様々な正義が同時多発的に存在することになった。もう誰もそれを制御することは出来ないし、元に戻すことも出来ないのだろう。そしてさらにその土地に、外から様々な正義が持ち込まれることになる。土地や繋がりはさらに分断され、正しさはどこまでもゆらゆらと揺れ続け定まらない。

僕たちに何が出来るか。それは、「浮遊する様々な正義を、そのままに記録し続けること」ぐらいかもしれない。いつかその記録が、何かの意味を持つかもしれない。たぶんそう信じて、今も「フクシマ」を記録し続けている人がいるのだろう。僕も、文章を書くことぐらいしか出来ないけど、こうやって少しずつ、「フクシマ」の記録に関われたらと思っている。

つむじ風食堂と僕(吉田篤弘)

「子供たちに、ひとつだけ伝えるとしたら、あなたは何を伝えますか。それを、原稿用紙百枚で書いてください」
こんな発想から、ちくまプリマー新書は生まれた。そういうことなら、一冊一冊違う表紙にしましょう。そうやって二百冊の新書の装丁をやり続けたのがクラフト・エヴィング商會。本書はその、二百冊目の本
舞台は、月舟町。これは、吉田篤弘の「つむじ風食堂の夜」と「それからはスープのことばかり考えてくらした」に出てくる町。主人公のリツ君は隣町に住んでいて、週に2回ほど、電車に乗って月舟町までやってくる。そしてそこの、<名前のない食堂>でご飯を食べるのだ。その食堂は十字路の角にあり。十字路には時々つむじ風が起こるので、時々その食堂は<つむじ風食堂>と呼ばれる。
リツ君はそこでご飯を食べながら、周りの大人たちに<仕事>について聞く。

『「むかし」のことと違って、「将来」のことはまだ経験していない。だから、可能性があって、いろいろ考えられる。といっても、あんまり先のことはわからないから、とりあえず、十年先くらいまでを考える。でも、そうして考えているうちに、時間は一分、二分と前へ進んでしまう。考えているうちに、将来へ近づいてゆく。
立ちどまってくれない。』

リツ君は、将来のことを考えようとして、大人たちに<仕事>の話を聞く。色んな大人が、自分がしている仕事の良さを教えてくれる。大変さも伝えてくれる。みな、リツ君が<仕事>について考えていることに、興味津々だ。誰しも、自分が続けてきた仕事、誇りを持ってやっている仕事のことは話したくて仕方がない。
リツ君は、<子供>だけど(リツ君自身は、自分のことを<子供>だとは思っていないけど)、「むかし」のことも考えてしまう。

『生きれば生きるほど「むかし」は増えてゆく。そうなると、大人のひとたちが言うような年齢になったときは、きっと「むかし」が大きくふくれあがって、どうしていいかわからなくなるんじゃないかと思う。
それで僕は、いまのうちから「むかし」について考えている。』

『もし、人生が「むかし」だけで出来ていて、「むかし」のことばかり思い出していればいいのなら、きっと楽だった。つらいこともたくさんあったけれど、それはもう、どれも終わってしまったことだ。
人生が大変なのは、これから先の「将来」のことを考えなければならないからだ』

なんというか、ちょっと達観しすぎちゃってるかも、リツ君、なんて思ったりするけど、リツ君は真剣だ。自分が「将来」に向かっているんだときちんと自覚しているリツ君は、ただ流されるだけではなく、どうにか自分で「将来」を切り開けないかと、そんなことを考えているのかもしれない。
ちょっと大人びたリツ君の、「むかし」と「将来」と「仕事」を巡る物語。
僕は、機会がある度に何度も書いているけど、中学時代に既に、「サラリーマンとして生きていくのは無理だな」と思っていた。どうしてそういう結論に達したのかは、もうすっかり忘れちゃったけど、その記憶は強烈に残っている。それでも、なんだかんだと色んなことを先送り先送りなんてしている内に、特に「サラリーマン」以外の道を模索するでもなく大学生になっちゃって、あー困った困った、なんてやってきたのが、まあ僕の人生だったりするわけです。
「働く」ってのは、ずっとずっと嫌だったし、今でもまともに働けてないなぁ、と思うわけで、だから、リツ君偉いなぁと思うわけです。「働く」ことなんて、今だって真剣に考えたくないっていうか、もうとにかく色んなことから逃げ続けてきた人生なわけで、リツ君みたいに素直に<仕事>と向き合えるのが、ちょっと羨ましいかも。
本書の中では僕は、「宇宙人」の話が一番好きです。僕らと常識が違う宇宙人が地球にやってきて人間の生活を観察したら…というのはよくある設定だし、そこで僕らがいつもやっていることが変わった風に見えるなんていうのもよくある設定なんだけど、吉田篤弘がホワホワと描く作品の中で、リツ君が妄想する宇宙人の<小さな驚き>が、なんか凄く楽しい気分でした。
<仕事>の話は、まあ大人が読んじゃうと、「まあ、そんなに単純じゃないよね」なんて、疲れたオッサンみたいな感想を抱いちゃうと思うんだけど、まだまだ「将来」の余白がたんまりある子供が読んだら、色々と自分なりの視点で<仕事>というものを捉えられるかもしれないと思います。
大人が読んでどう感じるのか、あるいは子供が読んでどう感じるのか、まあその辺りのことは分かりませんけど、「つむじ風食堂の夜」と「それからはスープのことばかり考えて暮らした」が好きな僕としては、月舟町がまた出てきてくれて、懐かしい気持ちになりました。

吉田篤弘「つむじ風食堂と僕」


風の帰る場所 ナウシカから千尋までの軌跡(宮崎駿)

宮崎駿が引退を表明した。
僕はそれまで詳しく知らなかったのだけど、宮崎駿の引退表明というのはもう過去何度もあったようで、「またかよ」という感じの人も多いようだ。本書を読んで、もう25年も前から引退のことをずっとほのめかしていて、それを知って僕は、なんというか「お疲れさん」という気持ちになった。
また僕は最近、「風立ちぬ」を観に行った。表明通りであれば、宮崎駿の最後の作品ということになるだろう。
そういうタイミングで本書を読むというのも、なかなかいいのではないかと思ったのだ。
本書の発行は2002年で、恐らくもう普通には手に入らない本だろう。本書は、渋谷陽一氏による、宮崎駿のインタビュー集であり、一番古いものは1990年に行われたものだ。「Cut」と「SIGHT」という雑誌に掲載された全5本のインタビューが収録されている。雑誌掲載時には泣く泣くカットした部分も全部収録されているのだという。
本書はとにかく、宮崎駿の言葉が非常に面白い。だから今回は、引用だけで感想を終えてしまおうと思う。

「紅の豚」

『どういう題名にするかっていうときに、赤豚ですからね?赤い飛行艇に乗ってるから赤豚野郎って呼ばれてるわけですから、これはもう豚にしようって。企画書を作ってる段階ではですね、三分の二ぐらい冗談だったんですよ(笑)。なにせ日本航空に出すんですから、流れて元々っていうか、流れたほうがいいんじゃないかって思ったりなんかしながら作った企画書ですから、もう避けてもしょうがないし『紅の豚』にしようっていうね。『赤い豚』ってより”紅”のほうがもっともらしくて冗談ぽいからいいじゃないかっていう』

『それもだから、初めからプランがあったわけじゃなくて、やっていくうちにスタッフから疑問が出てくるわけですね、『豚はなぜ前は人間だったんだ?』って。人間だったっていう絵コンテをきったときは深く考えてないんですよ』

『『紅の豚』を作らせたのは違うんですよね。あれはあんときの世界情勢、湾岸戦争です。やっぱりユーゴスラビアのことが大きかったですね。それはソ連の崩壊よりも大きかったです。こりゃあ人間は学んでないなっていう(笑)。案の定やっぱり学んでないんですけどね』

『それでも『豚』はまっいったですねえ、終わってからずーっと尾を引いてて。とんでもなくくだらないものを作ってしまったって(笑)。いや、ちょっとね、ほんとにやっちゃいけないことをやってしまったなっていう想いがずーっとありました。だから、『豚』に関しては『もののけ姫』を作ってようやく少し楽になってます。まあ、あんなようなやつでもやれてよかったとは思いますけど』

「風の谷のナウシカ」

『元々『ナウシカ』っていうのは、映画にするというスケベ心が起こらないように描いたんですよね。映画やアニメーションをやってたらできないようなことをやらなければ、わざわざコミックを描いている意味がないとおもったから、自分がこういうものはアニメーションになるまいって考えた世界をやったんです』

『ただ僕は、あのとき映画の最後の大ラストのところで絵コンテが進まなくなっちゃったんですよ。なぜ進まないかっていったらね、王蟲を一匹も殺したくないんですよね。『もう殺したくない!人間は殺しても王蟲は殺したくない』っていう気持ちが強くて(笑)』

「となりのトトロ」

『僕は『となりのトトロ』を作ったときに『ああ、一通り作ったな』って思ったんです、四角になったというかね(笑)』

『『トトロ』は後から手に入れたものだけど、やっぱり自分の子ども時代に対する一種の手紙なんですよ、緑を全然綺麗だと思えなかった、ただ貧乏の象徴にしか思えなかった自分に対する手紙でした』

『でも、そのときも、むしろ『トトロ』っていう作品はいつかどんな形でもやらなきゃいけないなと思ったんですよね。これはなんか日本人だからやらなきゃいけないと勝手に思ったんです。そうしなきゃいけない作品だって。だから、最悪自主作品としても『トトロ』はやらなきゃいけないんじゃないかなぁっていうふうに、なんか思ってたことは確かですね』

『最初はなんとなく、バス停で待ってたらオバケが来たっていう、それだけ思いついたんですけどね。それで、どういうオバケだかわかんないから、絵本で描いている時は闇のような黒いもんが来て、ヒョッと見たら爪が生えてたとか毛が生えてたとかね、全体像を必ずしも見せなくていいと思ってやったんですけど、えーい面倒くさいってこう、このくらいのことしか思いつかないっていうふうにして描いたら出てきたのが、あのトトロだったんです』

『だから、みんなが描いたトトロっていうのは、なにかものを見てる顔になっちゃうんですよね。でも、見ちゃいけないんです(笑)。焦点の合っていない、なんだか得体も知れず、茫洋としてたほうが神聖さみたいなものを感じさせるような気がするんですよね』

『とにかくひたすら『トトロ』みたいなものをやらなきゃいけないって思った最初の動機は、なんか赤土の、ぼうぼうと草が生えているところに、ボケッとした子供が立っていて、そしたら目の前を変なものが通ったっていうね、その風景だけをもうゾクゾクするぐらいやりたかったんですよね。それはもう本当にやりたかったんです』

『『トトロ』でも蛍は飛ばしたかったんだけど、両方蛍が飛んでるのもまずいから、それは結構、僕はちゃんと高畑さんに聞いて、『やっぱり蛍、飛ぶんですよね』『飛びます』『じゃあ、僕のほうは飛ばしません』って。』

「魔女の宅急便」

『それよりも、僕が引っ掛かったのは、どうしてホウキに乗ったら空を飛べるんだろうってことのほうでしたね。普通に考えたら、飛ばないんですよ。ホウキだけが飛び上がったら股が痛いでしょ(笑)。だから、ホウキに浮力があんのか、自分に浮力があんのかとかね、そういうことのほうが描く際に気になりましたね』

『やるとなったからには、ちゃんとやろうと思いましたから。ただ、終わったときにね、全力投球じゃなかったなぁっていう後ろめたさはあったですね。このくらいの範囲でやればいいんだなっていうことを初めからわかってやってたので、終わった時に自分が暗闇と直面していないっていうか、キナ臭くなるようなことがなかったなぁっていうのはありました。それはねぇ、なんかちょっと後ろめたかったです』

「もののけ姫」

『今回はストーリーを作っちゃうとものすごく嘘くさくなるから、ストーリーは作らなかったんですよ』

『だから、自分が一番魅力を感じている部分を捨てざるを得ないです。それは『風の谷のナウシカ』をやってるときもそうで、風の谷というものを描くことを断念してね、漫画を描かざるを得ない。それで、漫画で描けるとかと思ったら描けない。逆に映画で描けるかなと思ったら風の谷の一日になっちゃう』

『(バイオレンスな表現は覚悟してやったのか?) ええ、覚悟してやろうと。それから、自然に優しいジブリなんて思い込んでいるやつを蹴飛ばしてやろうとおもったんです。なにをトンカチなことを言ってるんだと。俺はそんなもんじゃないはずだってわかってるはずだと。実際はわかってないんですけどね、当然ね』

「千と千尋の神隠し」

『それから、映画のシーンを組みた立てくと、主人公にずーっとくっついていくってのはほんと苦痛なんですよ。息が詰まってくるし。だから、別のシーンに外したくなるんですよね。で、しょうがないから捨てて、また千尋にくっついてくっていう、そういうことの繰り返しだったんで。文体からいうと変な作り方だと思うんだけど、その世界を説明するよりも、千尋から見た世界に千尋がリアリティを与えていくっていうか、千尋から見た世界を千尋がちゃんと変えてくっていう、そういうことのほうが大事だと選ばざるを得なかったんで。それはもう、こうい変な映画が他にあんのかなっていう不安はものすごくありましたけどね。』

『いやいや、それでもう、こっからさらに一年かかるっていうの嫌だから。だから、なんとかして終わらせなきゃいけないっていうんで、この枠組を捨てようってことにしたんですよ。急遽話を作り替えるっていうか、縮小させたんです。うんと縮小、もう徹底的に縮小させて、湯婆婆がなんだかんだっていうのも全部捨てて。それから橋のたもとにカオナシっていう変なのが立ってたから、あいつにちょっと活躍してもらおうとかね。そういうふうに急遽そっから二~三日で考え直して、それでようやく見えた気がしたんです。そこで電車に乗っていくっていうのも出てきたんです(笑)』

『だから『こういうことだよ』っていう『こういうふうになるから大丈夫』ってその子たちに言いたいっていうかね、美人とか特に才能があるとか族長の娘に生まれるとかね、空を飛べるとかそんなのがなくても、そのくらいの力をみんな持ってるっていう、そういう映画が作りたかったっていう』

『それでいうと、はっきりしてんのは、やっぱり観客を設定できたっていうことでね。観客を設定できて、あの子たちに見せるんだっていうことが具体的に見えたからだと思うんです。その子たちにとってのリアリティを外しちゃならないっていうね。それを非常に大きな枷として自分に課して作ったんです』

『よく、一番最初の場面で、もしも千尋の横にハクが来なかったらあの子はどうなったんだ?っていう質問をする人もいます。多くの人は、一番困ってるときに誰も助けに来なかったというね、そういう人生を生きていることが多いんだから(笑)。だけど、そこで千尋には来たわけですよね。だから、『千と千尋』っていうのは、それを受け入れることができる人たちの映画なんですよ。まあ、世の中生きてると、そういうこともあるわなんていうね。それまで疑ってかかる人のための映画じゃないですよ。その範囲で自分で限定して作ったから、完成することのできた映画です』

「映画作りについて」

『その底知れない悪意とか、どうしようもなさとかっていうのがあるのは十分知ってますが、少なくとも子供に向けて作品を作りたいっていうふうに思ったときから、そういう部分で映画をつくるのはやりたくないと思っています』

『自分が善良な人間だから善良な栄華を作るんじゃないですよね。自分がくだらない人間だと思ってるから(笑)、善良な人が出てくる映画を作りたいと思うんです』

『それは、例えば、子供がある肯定的なものに作品の中で出会ったときに、こんな人いないよとか、こんな先生いないよとか、こんな親いないよって言っても、そのときに『いないよね』って一緒に言うんじゃなくて、『不幸にして君は出会ってないだけで、どこかにはいるに違いない』って僕は思うんですよ』

『それはつまりね、娯楽という言葉が意味するところにもよるんだけど、『娯楽でいいんだよ、映画は』っていうのは嫌いです。でも、エンターテインメントっていうことを否定する気は全然ないです。エンターテインメントっていうのはなにかって言ったら、間口が広いことですよ。敷居が低くて、誰でも入れるんですよ、入ろうと思えば』

『だから『おまえのところには悪人が出てこないな』っていうふうに言われますけど、悪人が出ないようにしてあるんであってね。僕は回復可能なもの以外は出したくないです。本当に愚かで、描くにも値しない人間をね、僕らは苦労して描く必要はないですよ!』

『いや、僕は本当のことを言いまして、あんまりメッセージ性っていうので映画を作ってはいなくて、もっと俗っぽいところで『わはは』と言いながら、本当は作りたいと思っている人間ですから、もちろん真面目なものは真面目に作んなきゃいけないと思ってますし、子供のために作りたいとは思ってるんですけどね』

『それも含めて、この子が生まれてきたことに対して、『あんたはエライときに生まれてきたねえ』ってその子に真顔で言ってしまう自分なのか、それともやっぱり『生まれてきてくれてよかったんだ』っていうふうに言えるのかっていう、そこが唯一(笑)、作品を作るか作らないかの分かれ道であって、それも自信がないんだったら僕はもう黙ったほうがいいなっていうね』

もっともっと引用したい部分はたくさんあったのだけど、時間の制約もあってこのぐらいで。やはり宮崎駿という人は、なかなか興味深いし、表現者として素晴らしいなと思います。そこまでちゃんと、ジブリの映画を見てきたわけでもないんですけどね。

宮崎駿「風の帰る場所 ナウシカから千尋までの軌跡」



グーグル秘録(ケン・オーレッタ)

グーグルは、創業からたった15年で、世界を変えてしまった。

『伝統メディアでは、コンテンツのある場所に視聴者を連れていくことが大切だった。だが新たなメディアでは、コンテンツがある場所に視聴者を連れて行くのではなく、視聴者のいつところにコンテンツを届けることが重要だ。そして視聴者は、ウェブのありとあらゆる場所に存在するんだ』

グーグルは、地上波テレビ・広告・映画・出版・電話・新聞といった伝統メディアのあり方を一変させてしまった。それは、電話が発明されたことで電報が廃れたのと同じような必然的な結果なのだろうか?それともグーグルは、「邪悪になってはいけない」という自らの心情を打ち破る存在になってしまっているのだろうか?

『グーグルは無料サービスを通じて、「ネット上の情報やコンテンツは無料であるべきだ」という意識を広めた。それこそ伝統メディアが目下、必死で抵抗しているものだ。「”グーグル世代”とも言うべき企業は、デジタルなものはすべて無料にすべき、というシンプルな前提にもとづいて成長してきた」とアンダーソンは書いている』

グーグルは、無料のサービスを入り口として、広告収入によって莫大な利益を上げる会社に成長した。2008年の広告収入は、五大テレビ・ネットワーク(CBS・NBC・ABC・FOX・CW)の合計に拮抗するという。
しかしグーグルは創業当初、まったく収益を上げることが出来ていなかった。グーグルが、CPCという画期的な広告手法を発明し、「アドワーズ」を稼働させたのが2002年、創業から4年が経った頃だ。そのアドワーズにしても当初は、収入の柱になるとは考えていなかったという。
創業者の二人、ラリー・ペイジとサーゲイ・ブリンは、「収益化」にはほとんど関心がなかった。いや、そうではない。検索の質を高めさえすれば、自ずと収益化の方法が見つかるはずだ、という信念を崩さなかったのだ。

『二人ともグーグルの宣伝のためには1セントたりとも使う気はなかった』

『会社には収入はほとんどなかったが、ペイジもブリンも、グーグルが完成さえすればユーザーは集まってくると信じて疑わなかった』

『ついにひとりの記者がまっとうな質問を投げかけた。「グーグルはどうやって利益を上げるのか?」
「我々の目標は、検索という行為をできるかぎり快適にすることだ。収益の最大化ではない」とブリンは言い切った。』

『あるクレジットカード会社(実際にはビザ)が、グーグルのホームページに自社のロゴマークを載せ、リンクを張ってくれれば五百万ドル支払うと申し出たことがあるが、ペイジとブリンはまったく相手にしなかった』

創業当初の創業者二人のこのブレなさは凄い。結果的にグーグルは収益化の方法を見つけることになるが、しかしれは偶然だったと語っている。CPCという広告手法を開発出来なければ、今日のようなグーグルの姿はありえなかっただろう。

本書の著者は、本書の執筆のために同社に協力を求めたが、受け入れられるまで非常に苦労したらしい。

『同社は協力を渋った。共同創業者をはじめ、同社幹部は本の電子化には熱心だが、本を読むことには大して興味がないのだ。執筆に協力するのは”時間の無駄”ではないかと懸念していた。そこで私は、本書の氏名はグーグルのしていることや、メディア業界をどのように変えようとしているかを理解し、説明することであり、グーグルは私のプロジェクトを検索と同じ発想で考えるべきだと訴えた。優れた本が完成すれば、検索結果の上位に表示され、多くの人の目に触れるようになる―。何ヶ月もドアを蹴飛ばしつづけた結果、彼らはようやく私を受け入れてくれた』

そして、グーグル社員からは頻繁に、同じようなこんな質問を受けることになったという。

『グーグルの社員からは、自分たちにとって好ましい本になるのか、とよく聞かれた。それに対する私の答えはいつも同じで、私がきちんとした仕事をすれば、彼らにとって好ましくない事柄も含まれるだろうというものだった』

その言葉通り、本書は、グーグルを様々な視点から描いている。良い点も悪い点も、グーグルにおもねることなくあけすけに書いている印象がある。
それは、、共同創業者二人に対しても同じだ。

『創業者二人に共通するのは「常識を覆すような発想をうながす能力」だ。彼らには、”並外れた洞察力”に加えて、周囲の人々の発想を刺激する才能があることに気付いたという』

『ペイジとブリンは、どこでこうしたブレのない姿勢を身につけたのだろう?
「経験がないのには、プラスとマイナスがある。僕らは予備知識がなかったから、これまでとは違うやり方を試すことに抵抗がなかったんだ。それが明確な目的意識のおかげかはわからないな。後から考えてそうだと思うのは、単にうまく言っているだけかもしれないしね」とペイジは言う』

こんな風に非常に高い評価を与えている描写もある。しかし一方で、これは本書で繰り返し描かれることになるのだけど、共同創業者二人が「人の気持ちを理解する能力に欠ける」という点もさらしていく。そしてその共同創業者二人の特性が、グーグルという企業の特殊さにも直結しているのだと。

『一人の人間の勝ちを、客観的な指標のみで測れるなどという考えはばかげている。これは若い起業家の例にもれず、社会人としてペイジとブリンの視野がいかに狭いかを物語る事例といえるだろう。彼らの成功の一員は、目標から頑なに目をそらさなかったことだ。だが創業前にペイジが経営の本を何冊か読んでいたとはいえ、二人の知識やモノの味方はきわめて偏っていた』

『またしてもブリンとペイジは、自分たちの意図を疑われる可能性を想定したり、数字では説明できない消費者の不安に耳を傾けたりする能力のなさを見事に露呈したのである』

『三人の優秀さや成功ぶりは人々に感動を与えるが、彼らの言葉やイメージはこころを揺さぶるものではない。彼らはスティーブ・ジョブズではないのだ。才能あるセールスマンでも、啓蒙的なリーダーでもない。』

本書を読んでいて僕が感じるのは、共同創業者二人の理想主義的な発想と無邪気さだ。それは、彼らが語る様々な言葉の端々から伺う事ができる。

『ペイジとブリンには、別の共通点もあった。二人は友に、やや救世主めいた理想主義に燃えていた。グーグルを創業した背景には、広告は人々をだまして無駄金を使わせているという憤りや、インターネットこそ人々を開放する、民主的な精神を育むはずだという強い思いがあった』

『ペイジとブリンを「ユートピアン(理想主義者)」と評する。「彼らは質の高い情報さえ手に入れば、誰もがより良い生活を送れると信じている。『技術さえできれば、おのずとうまくいく』と考える二人は、”技術的楽観主義”と言えるだろう」』

『グーグルのスローガンは、「邪悪になってはいけない」』

『グーグルは社是として「世界中の情報を整理し、あらゆる人が入手・利用できるようにする」という目標を掲げる。サーゲイ・ブリンとラリー・ペイジがみずからその目標を率先して布教するのを使命と考えていることは明らかだった』

『どうすれば邪悪なことをせずに成長できるか』

『シュミットと創業者たちの理想とは何か?それは検索をするユーザーの真意をたちどころに理解できるほどの情報を手に入れ、問いに大して唯一最高の答えのみを提示できるようになり、ユーザーにこれ以上ないというほどの満足感を与えることだ』

本書は「グーグル」という会社やその会社を取り巻く状況をつぶさに追い、「グーグル」という特異な会社がいかにして世界を激変させてしまったのかが描かれる作品だが、やはり僕の最大の関心は、創業者二人にある。グーグルがどんなことを成し得たのか、どんな経緯から生まれた会社なのかという点も面白いのだけど、僕はやはりサーゲイ・ブリンとラリー・ペイジの二人に強く惹かれる。それは、僕がアップル製品をまったく使っていないのに、スティーブ・ジョブズには惹かれるようなものだ。アップルやグーグルに関する本は、これまでにもいくつか読んできたのだけど、やはり創業者の破天荒な生き方や性格が非常に興味深い。グーグルにしても、ペイジとブリンの二人がトップにいるからこそ、ここまでの存在感を持ち得た。それは本書を読めば非常によく理解できる。スティーブ・ジョブズもそうだったが、ペイジとブリンも、人間としては非常に多くの欠陥を持つだろう。また、ジョブズは経営の才能もあったのだろうけど、ペイジとブリンには経営の才能があったわけではない。ペイジとブリンだけでは、グーグルという会社は存続し得なかっただろう。
グーグルという会社が軌道に乗るには、エリック・シュミットとビル・キャンベルという二人の存在が非常に大きかったという。この二人の存在がなければ、今日のグーグルはありえない。ペイジとブリンは基本的に、エンジニアだ。「エンジニアがキングだ」という社風の会社の中で、エンジニアにどうやって力を発揮してもらうかという方面では抜群の能力を発揮するが、会社全体の経営という観点ではおぼつかない。創業当初、事業計画書を作ってくれと言われた創業者は「何それ?」と返したという話もある。本書を読むと、グーグルがいかに「偶然」ここまで乗り切ってきたのかが分かる。ペイジとブリンは確かに凄いが、二人だけの天才だけではグーグルは存在し得なかった。
本書は、グーグルの創業から、アメリカで単行本が発売された年(本書の中に書かれていないけど、恐らく2009年頃なのではないかと思う。日本での単行本の発売は2010年)までの状況を、グーグル社員への150回以上のインタビューを通じて、またグーグルを取り巻く様々な状況への取材を積み重ねて生み出された作品だ。著者は、「ケン・オーレッタほど、今起こりつつあるメディア革命を完全にカバーしている記者はいない」と言われるほどのベテラン・ジャーナリストだという。本書では、グーグルの話だけではなく、グーグルの登場によってそのビジネスモデルがズタズタにされてしまっている伝統メディアへの取材もかなり厚く行われており、グーグルという一企業の物語というのではなく、グーグルという企業を中心軸に据えた、世界のメディア産業の激変を描いた作品と捉えるのが正しいだろう。本書を読むと、グーグルがどんな理想を持って創業され、グーグルが世の中や伝統メディアにどんな風に受け入れられ、またグーグルが何を目指しているのかが非常によくわかるのではないかと思う。巻末の注釈も含めて650ページというなかなかの分量の作品だけど、グーグルという、既にこの企業との関わりを持たない人の方が少ないのではないかと思えるほど僕らの生活に浸透している巨大な存在が、どんな理念を持ち、どんな行動をし、また僕らは何故無料でサービスを利用出来るのかなどを知っておくことは、非常に大事なことなのではないかと思う。「邪悪になってはいけない」というスローガンが遵守されている内は、グーグルは僕らにとって素晴らしい恩恵をもたらしてくれる企業だ。しかし、もし万が一彼らが「邪悪になってはいけない」というスローガンを忘れてしまえば、これほど危険な企業も他にない。もはやグーグルが存在しない世界は想像出来ないほど日常に密着してしまった今、改めて僕らは、グーグルという企業について知っておくべきなのかもしれない。そのためには、本書は非常にうってつけの作品ではないかと思います。是非読んでみて下さい。

ケン・オーレッタ「グーグル秘録」


リバーサイドチルドレン(梓崎優)

生まれる環境を選ぶことは出来ない。生まれた場所で生きていくしかない。
そこでの生活しか知らなければ、比較する対象を知らなければ、どんな生き方でも受け入れられるかもしれない。受け入れる、受け入れないという判断をすることなく、その人生に疑問を持つことはきっとないだろう。
でも、やっぱりそんなことはない。
近くには、階層の違う人が住んでいるし、遠くからまったく環境の違う人もやってくる。否が応でも、比較対象が目に飛び込んでくる。
最下層の厳しい環境の中で生きなくてはならない少年たち。彼らは知っている。その生活から、自分たちが抜け出せないことを。それでも、生きていかないわけにはいかない。
ストリートチルドレン。
自分たちが、虫けらのように扱われていることは知っている。人間扱いされていないことも知っている。ストリートチルドレンは、たとえ殺されたとしても、誰も気にもしない。そういう存在なのだ。
社会から見捨てられた弱い存在。それでも彼らは、毎日明るく生きる。クソみたいな現実をどうにか笑い飛ばし、自分たちは自由だとうそぶく。そうやって、どうにか毎日をやり過ごしている。
その「虚構」を成立させてくれていたのが、ヴェニィだった。
ミサキは、ヴェニィに救われた少年だ。父親と二人で、日本からカンボジアへ旅行にやってきたミサキは、衝撃の事実を知ることになり、そのままカンボジアでストリートチルドレンになった。そんなミサキを仲間に引き入れ、どうにか生きていられるだけの環境を与えてくれたのがヴェニィだ。
彼らは毎日、悪臭漂うゴミ山に狩りに出かけては、売れそうなものを漁って現金に変える。街に出れば警官に銃を向けられ、工場の主には拾ったゴミを安く買い叩かれるが、それでも、不思議なリーダーシップを発揮するヴェニィのお陰で、彼ら仲間たちはどうにか日々を楽しく過ごせている。
しかし、ある日、そんな穏やかな日常が切り裂かれる事態が起こり…。
というような話です。
梓崎優は、前作「叫びと祈り」で、普段僕らが馴染みのない「特異な環境」での殺人事件を主に扱っていた。僕らの常識が通用しない環境での価値観を描ききり、その価値観を背景にして、何故その事件が起こったのかを紐解いていくのだ。
本書でも、その流れは踏襲されている。
本書では、ストリートチルドレンという、やはり僕らにはなかなか馴染みのない世界観が扱われている。親に見捨てられ、生きていく術を持たない彼らが、どんな風に日々を過ごし、何を考えながら生きているのか。そういう部分がまず背景としてきちんと描かれていく。
何よりも面白い設定は、ストリートチルドレンの物語であるのに、主人公が日本人だという点だ。これは本書の非常に特徴的な点だろうと思う。主人公のミサキは、もうストリートチルドレンとしての生活にそれなりに慣れてはいるものの、時折やはり、カンボジアの常識や、あるいはストリートチルドレンとして共に生きる仲間たちの有り様に違和感を抱くことがある。その設定が本書を、まったく遠いものにはしない。日本人としての価値観が時折散りばめられることで、ミサキを通じてストリートチルドレンの生活に馴染みを抱くことができる。
さらに、カンボジア人でもないのにストリートチルドレンとして生活しているミサキの内心の葛藤が、本書をより深みのあるものにしていく。日本人であるミサキには、恐らく、カンボジアでストリートチルドレンとして生きる以外の選択肢が、きっとまだ残されているはずだ。そのことは、ミサキ自身もきっと分かっているはずだ。しかし同時にミサキは、ヴェニィを始めとする仲間たちとの生活を愛おしく感じてもいる。本書で、日本への郷愁が描かれる場面はほとんどない。ミサキの中では既に、日本というのは遠い遠い存在になっているということだろう。しかし時折、ミサキに日本を思い出させるような何かが起こる。その些細な揺れが、読者には大きく響くだろうと思う。
本書の中では、とある連続殺人事件が物語の中心軸となっていく。彼らストリートチルドレンが次々と殺されていく、謎めいた事件だ。
この殺人事件には、根本的な大きな問題がある。
それは、殺されているのが「ストリートチルドレン」である、ということだ。
「なぜストリートチルドレンが殺されるのか」という点が問題なのではない。殺されたストリートチルドレンには、一目見て分かる謎めいた装飾性が施されている。何故、そんなことをしたのか、だ。
簡単な発想は、「何かを隠蔽しようとした」というものだろう。しかし、それはありえないのだ。何故なら、殺されているのが「ストリートチルドレン」だからだ。カンボジアでは、ストリートチルドレンが殺されようと、誰も気に留めない。事件にさえならないのだ。だから、誰かに対して何かを隠蔽するような行動は無意味だ。
それでは、それら装飾性はなんのために施されたのか。これが最大の謎だ。
真相はもちろん最後に明かされる。殺人犯の理屈は、これはちょっと難しいと感じた。言っていることは、理解できる。しかし、その殺人犯の理屈に説得力を持たせるためには、もっと描写の積み重ねが必要だったのではないか。
いや、もしかしたら、これは指摘の方向性が間違っているかもしれない。
前作の「叫びと祈り」は短篇集だった。「特異な環境」の価値観を描きつつ、殺人事件も描く。それを短編という分量でコンパクトにまとめるために、描写は相当に切り詰めなくてはならなかっただろう。つまり、作品のほとんどを、「特異な環境の価値観」か「事件」の描写にしなくてはならなかった、ということだと思う。だからこそ、最後解決の段階で、納得感があったのかもしれない。短編という短い分量の大半を、解決で扱われる「特異な環境の価値観」の説明に費やしているのだから。
でも本書は長編だ。本書では、殺人犯が殺人を犯すことになった「特異な環境の価値観」以外にも、様々な描写がなされる。それらは、ミサキを始めとするストリートチルドレンたちの生活を炙り出すという点では非常に良いが、一方で、作品全体における「特異な環境の価値観」の描写が薄まってしまうために、納得感も薄れてしまうのではないか、ということかもしれない。
個人的には、殺人犯の動機は分かるような気がするけど、でもどうも納得感は薄い、という感じがしました。確かに作品全体を振り返ってみれば、それに関する描写はなされているのだけど、でもそれが全体の中でやはり「一部」でしかないために、動機の「異質さ」が際立つ形になってしまったのではないかな、という気がしました。
本作が、ミステリとしてどうなのか、という部分は、僕にはちょっと評価できません。僕の評価は、僕の想定が正しいとすれば、ある程度は「叫びと祈り」を読んでいるからこその評価とも言えるわけで、「叫びと祈り」を読まずに本書を読んだ人がどう感じるかはちょっとわかりません。作品全体としては、絶望的な環境の中で、「それでも生きていくんだ」という強さがあちこちからにじみ出てくる感じで、その切実さに胸を打たれるような感じでした。ナクリーという少女の存在感も良かったなと思います。個人的には、もう少しナクリーが全体に関わってくれるといいなと思いましたけど。読んでみて下さい。

梓崎優「リバーサイドチルドレン」


化石の分子生物学 生命進化の謎を解く(更科功)

内容に入ろうと思います。
本書は、「化石の分子生物学」という、なんだか耳慣れない学問についての話です。どうでしょうか?「化石の分子生物学」と聞いて、どんなものが思い浮かぶでしょうか?実は、割とみんながよく知っている、世界的に有名なある映画も、この「化石の分子生物学」をベースにしているのです。
それが、「ジュラシック・パーク」ですね。
本書にも、「ジュラシック・パーク」の話は出てきます。「ジュラシック・パーク」では、蚊が閉じ込められたコハクの化石が発見され、その蚊が吸った恐竜の血から、恐竜のDNAを入手。そのDNAから、バイオテクノロジー技術を使って現代に恐竜を蘇らせる、という物語でした。
この、「コハクの化石に閉じ込められた蚊からDNAを採取する」という部分が、まさに「化石の分子生物学」なわけです。もちろんそれだけではないのですけど、そういうイメージが一番伝わりやすいでしょう。
「ジュラシック・パーク」は、専門の研究者の間でも非常に話題になったのだそうです。原作がアメリカで発表された当時は、古代DNAの研究が始まってからまだ6年しか経っていない頃。その時点で一番古いとされていた古代DNAは、一万三千年前のナマケモノのものだったそう。しかしその年、衝撃的な論文が発表される。なんと、二千万年前の古代DNAがモクレンという植物の化石から取り出されたのだという。そして「ジュラシック・パーク」は、1993年に映画化されるが、なんとその前年に、実際にコハクの中のシロアリから古代DNAが発見されたのだという。タイミング的にはばっちりで、研究者にとっても「ジュラシック・パーク」の世界は、決して夢物語ではなかったようである。
さて、そんな「化石の分子生物学」だけれど、「化石から古代DNAを採取して研究する」というだけには留まらない。もちろんそれがメインになっていくのだけど、他にも、現在生きている生物のDNAを研究することで、分子の進化速度を判定したり、あるいは生物の進化の枝分かれの時期を推測する、というような研究もある。それまでは、化石を「観察する」ことでしか古代生物の研究が不可能だったものを、古代DNAの研究や、あるいは分子の進化速度の研究などによって、様々な可能性が拓け、それによって古代生物の生態や、あるいは進化の過程などがどのように判明して行ったのか。本書はそういった様々な内容をコンパクトにまとめる作品だ。
あとがきに、こんな文章がある。

『科学にも、ポジティブな面とネガティブな面がある。しかし、科学のポジティブな面だけを伝えて、科学を無条件に信奉する人を増やすことは、逆に人を科学から遠ざけることにならないだろうか。科学に本当に親しむ態度を、妨げることにはならないだろうか』

『科学の営みは、数学のような意味での厳密なものではない。100%正しい結果は得られないのだ。むしろ、大きな川の流れのように、右や左に曲がりくねりながら、ゆったりと真理に接近していくイメージに近いだろう。
その川の流れの中で、人は過つこともある。良心的な科学者でも誤りはおかすのだ。それらを全部ふっくるめて、科学は人類のすばらしい財産だと私は思う』

『私はこの本を、うまくいった結果だけを並べた成功物語にはしたくなかった。そういう本で科学を好きになった人は、科学のつらさやあやうさを知ったときに、科学から離れていくだろうから。
できるだけ、科学の営みを公平に伝えたかった。』

著者のこのスタンスが、本書をちょっと珍しい科学本にしているかもしれません。確かに、科学や数学の歴史や知見を紹介する本では、「成功物語」ばかりが描かれることが多い気がします。ある一つの題材を非常に深く掘り下げている本であれば、「失敗物語」も当然載るでしょうが、新書のようなコンパクトに全体をまとめなくてはならない作品の場合、どうしても「成功物語」が中心になってしまうだろうと思います。
しかし本書では、著者がそう書いているように、失敗も多々描かれています。というか、

『実際のところ古代DNAの塩基配列を決めることは難しく、成功しないことのほうが普通である。ほとんどの研究は失敗に終わる。その中での数少ない成功例だけが論文として発表されるので、傍目にはいつもうまくいっているように見えるのだ』

と書いているほどである。
何故古代DNAの研究は失敗することが多いのか。様々な理由があるが、最たる原因は、「古代DNAは完全な状態では保存されていない」という点にあるだろう。これが、古代DNA研究の最大の障壁になっていることは間違いないだろう。

『一つめのハードルは、化石の中にふくまれているDNAは、大部分が外部から混入したものだという事実である。ネアンデルタール人の化石の中にある遺伝子のほとんどは、ネアンデルタール人のDNAではないのだ』

『かなり保存状態のよい化石でも、取り出されたDNAの90%以上は、他の生物のDNAであると考えてまず間違いない。平均的に考えれば、化石の中に残っているDNAの99%以上は、混入した他の生物のDNAなのだ』

これは相当のハードルではないかと思う。くじが100個あります。でも当たりくじはたったの一個です、というようなものだ。そこからどうにかこうにかうまいことあれこれやって、99個のハズレくじを取り除き、たった一個の当たりくじを引き当てないといけない。当然、失敗することもあり、しかし失敗だと気づかずに発表してしまうこともある。1985年に行われた、世界でもっとも権威ある学術雑誌の一つである「ネイチャー」に載ったエジプトのミイラ研究は、現在ではその研究結果は誤りだろうと考えられているという。他にも本書には、勇み足だった研究が様々に載っている。
科学が面白いところは、「それらの研究は、何故間違ったのか?」と考える人間が出てくることだ。失敗の原因には様々あり、先ほど一つ、DNAが外部から様々に混入し、99%以上が違うDNAになっていることを挙げたが、それ以外にも原因はある。そしてある研究者は、過去の様々な失敗した研究を元に、「DNAを増幅出来るかどうか」「外部からの混入があるかどうか」の条件を求める研究を行った。本書には、その結論も書かれている。「ラセミ化」というのが重要なキーワードだ。興味がある人は是非読んでみてほしい。
何が言いたいかと言えば、「失敗さえも、科学の成果として積み上がる」ということだ。本書は、様々な実例を通じて、そのことを教えてくれる。果敢にチャレンジして失敗してくれる人がいなければ、「ラセミ化」を主軸とした条件を見つけ出す研究も行われなかったかもしれない。「ラセミ化」を主軸とした条件は、古代DNA研究のスタート時に非常に威力を発揮するものと思われる。それは、失敗だった実験から生まれたものなのだ。こういう部分にも、科学の面白さがあるのだ、ということが伝わればいいなと思う。
他にも、「ルイ十七世の死の謎」や「ミトコンドリア・イブ」、あるいは「分子進化時計」など、興味深い話は様々にあるのだけど、それらを個別に紹介することはなかなか難しい。「化石の分子生物学」という馴染みのない分野なので、それぞれを紹介するのにも新しい概念をいくつか説明しなくてはいけないし、また全体が緩やかに一つの大きな流れの中にあるので、それだけを取り出すことはなかなか難しい。そんなわけであと一つだけ、僕がなかなか面白いなと思った話を書いて終わろうと思います。
それは「人類は一種類なのか?」という話だ。
僕らは「ホモ・サピエンス」という人類の種に属している。人類は、約七百年前に誕生し、それから「ホモ・サピエンス」が登場するまで、およそ二十種ほどいたと推定されている。
「ホモ・サピエンス」の前が「ネアンデルタール人」である。そして三万年前までは、「ホモ・サピエンス」と「ネアンデルタール人」は共生していたと考えられている。
これは、人類で考えるとなんとなく不思議な感じがするけど、犬で考えれば全然不思議でもない。犬という種には、「秋田犬」や「ドーベルマン」や「ダックスフント」など様々な種類がいる。そしてそれらは、犬という種族として同じ時代の同じ地球で共生をしている。人類にもかつて、そういう時代があった。僕ら「ホモ・サピエンス」以外にも、「ネアンデルタール人」が一緒に暮らしていたのだ。
そこで本書では、ネアンデルタール人の古代DNAを解析することで、ネアンデルタール人とホモ・サピエンスが交配していたを調べる研究の話が載っている。なんとなく僕らは、「ヒトって一種類」って思ってしまう。まあ実際、今僕らが生きている世界にはヒトは一種類しかいないから仕方ない。けど、他の生物のことを考えれば、それは不思議なことだよなぁ、と思わなくもない。いやまあ、「ヒト」とか「犬」とかって区分は、結局僕ら人間がしているわけで、区分の仕方でどうにでも変わる話だから、そんなに不思議でもないのかもしれないけど。
DNAによる研究は、医学や生物の分野での研究を飛躍させただろうけど、化石や古代生物といった研究にまでこれほど影響を与えているのだということを初めて知りました。また、ルイ十七世の話など、歴史の謎の解明にも一躍を担うなど、「化石の分子生物学」は広がりのある分野なのだなと思わされました。是非読んでみて下さい。

更科功「化石の分子生物学」


ヒミズ(古谷実)

『お前は今”病気”だ。…お前には腐るほど道があるのに、勝手に自分を追い込んでる…。周りが見えなくなって…一番ヤバそうな道を自ら選んでる』

『君は今、自分で決めたルールにがんじがらめになっているだけだよ…他人から見ると良くわかるの…』

ンなことは分かっとるっちゅうねん、という感じだ。
住田は、自分の世界に篭って、そこで自分なりのルールに支配されている。
そうしないと、自分の心がもたないからだ。現実に押しつぶされてしまうからだ。
住田が生きる現実は、別にそう辛いものではない。初めの内は。確かに、クソみたいな家庭で育ったわけだが、その環境自体がそこまでしんどいというわけではないだろうと思う。

『「ねぇ…何かないの?…有名になりたいとか、お金持ちになりたいとか…若者らしいフレッシュなやつは」
「ないね。オレはモグラのようにひっそりと暮らすんだ」』

住田の夢は、「一生普通に暮らすこと」だ。「普通最高」だ。自分に、超絶的な不幸が訪れることも、超絶的な幸運がやってくることもあるはずがない。だから、普通を目指す。中学生である住田の、それが将来の夢だ。

『オレは勝負しない…
夢というリングに上るどころか見もしない。
だから殴られる心配もない…
オレの願いはただひとつ…
オレは一生誰にも迷惑をかけないと誓う!!
だから頼む!誰もオレに迷惑をかけるな!!!』

住田の生き方は、自分勝手だ。自分のことしか考えていない。あらゆる場面で、影のように、目立たず、ひっそりと生きていく。凄い良いことが起こらない代わりに、凄い悪いことも起こって欲しくない。自分がそうやって、とりあえず平板に生きていければ、それでいい。
僕にはそれが、凄くよくわかる。
住田は既に、自分が人生をどうにか乗り切るだけの気力がないことを悟っている。別に、それにはっきりとした理由があるわけじゃない。漠然とした絶望だ。原因がはっきりしているなら、例えば、家庭環境にそのすべての原因があるのなら、原因をぶっ叩けばどうにかなる。でも、住田の抱えている絶望は、そういうものではない。目に見えないものだ。言葉に出来ないものだ。誰かに伝えられないものだ。
そんな「漠然とした絶望」の象徴として登場するのが、住田の周囲に時々現れる「謎の怪物」だ。住田の視界には時々、その謎の怪物が入ってくる。住田にも、その正体は理解できない。しかし、その謎の怪物が視界に入る度に、住田の心は荒れる。
「漠然とした絶望」ほど、厄介なものはない。それは、殴ったり、罵倒できたりするための実体を持たない。しかし、どこかから自分の内側へと侵入してくる。その侵入を食い止めることは、とても難しい。
「漠然とした絶望」に取り憑かれると、そこから抜け出すことはなかなか難しい。実体を持たないものに対処することは、とても難しいのだ。自分の内側のどこにいるのかさえ分からないし、分かったところで追い出す手立てはない。
だからこそ、住田は、その「漠然とした絶望」を「手触りのある絶望」に変換しようとする。そして「手触りのある絶望」を増幅させることで、「漠然とした絶望」を駆逐しようとするのだ。
本書では、その瞬間は、あっさりと描かれる。
ある瞬間以降、住田は「漠然とした絶望」から一時的に解放され、「手触りのある絶望」に支配されることになる。正確には覚えていないけど、その間、「謎の怪物」は現れていないように思う。住田の心の中で、「手触りのある絶望」が優っていたからだろう。そう、住田は、「漠然とした絶望」による支配に負けて、それを駆逐するために「手触りのある絶望」を自ら引き寄せる。
しかしそれは、借金を借金で返すようなものでしかない。薬物の依存症を薬物を摂取することで抑えるようなものでしかない。一時は確かに、住田の心は立ち直ったかに見えた。自分でルールを作り出し、「手触りのある絶望」をコントロールしているという自覚を持ちながら日々を生きる住田は、それまでより「強く」生きられるようになった。
しかし、やはりそれは錯覚でしかない。「手触りのある絶望」の効力は次第に切れ、抑え込んだはずの「漠然とした絶望」がまた顔を出す。
「謎の怪物」もまた、住田の前に姿を現す。
「漠然とした絶望」に支配されていると、周囲にいる「良い人」の存在が辛くなっていく。「自分はこんなにクソ野郎なのに、どうしてこの人は俺に関わってくれるんだ?」という、謎の思考回路が自分を苦しめることになる。別に相手は、俺のことをそこまで「クソ野郎」だとは思っていないだけの話だ。でも、なかなかそう考えることは難しい。「あの人は、まだ俺のクソ野郎っぷりに気づいていないだけだ。だから、それに気づかない内に去ってもらうか、あるいはどうにか無理矢理それに気づかせて去ってもらうかしかない」というわけのわからない思考に落ち込むのだ。
正直、茶沢さんの存在は謎だ。
同学年で、どうやら住田のことが好きらしい茶沢さんは、事あるごとに住田の元を訪れ、相当ムチャクチャな目に遭うのに、それでも住田と関わるのを止めない。
何故だ。
僕には、茶沢さんのあり方は、なかなか理解できない。それは、住田と同じような思考回路だからだろう。住田も、結局最後まで、茶沢さんのことが理解できなかったはずだ。何でこの人は、ここまでして俺のために何かしてくれるんだ?と、最後の最後まで理解できなかったはずだ。
きっと、茶沢さんのことを理解できる人も、世の中にはいるのだろう。
誰かに理解してもらうためには、まず自分から誰かのことを理解しようとしなくてはいけない。僕はそんな風に思っている。茶沢さんは、徹底的に住田のことを理解しようとした。それは、茶沢さんが住田から理解されたかったということなのか?いや、そうではないような気がする。一方で住田は、誰かから究極的に理解されたかったのだと思う。この絶望を、自分の決断を、今の行動を、言葉さえなくても瞬時に理解できる人を求めていたのだと思う。しかし住田は、誰かのことを理解しようとはしなかった。住田の視線は、自分自身にしか向いていなかった。
そんな住田が、何故茶沢さんの心を捉えたのか。
本書には、「緩やかなクソ野郎」が山ほど登場する。絶対的な悪人ではない。とはいえ、善人でもない。僕が読んでいるのは上下巻の新装版だけど、その巻末に、本作を映画化した園子温の文章が載っている。そこに、こう書かれている。

『強く印象に残ったのは、気持ち悪い人間がいっぱい出てくることです。だれでも気持ち悪い人に会ったことはあるはずで、そのs記憶を思い出させられるんですよ、読んでいて。変態の性犯罪者なのに、やたらと説教ばかりしていい人ぶるとかね。そういう単純に悪と言えない、でも、すごくだらしない人間の描き方がリアルなんです。中途半端なワルが出てきて、自分も一歩間違えればこうした人間になってしまったかも知れないと思わせられる。』

まさにその通りだ。ざわざわする。人は誰かに、出来るだけ自分の良い面だけ見て欲しいと思っている。だから、普通に生きていると、あまり人の悪いところは目に入らない。でも、どんなに表面的に良い人でも、その裏側にどんな自分を隠し持っているのか、それは絶対に分からない。本書ではそうした、表向き良さげな人なんだけど、実はどうしようもない人間、というのがたくさん出てくる。「もしかしたら、自分もこうなっていたかも」という恐怖は、誰しもが持つのではないかと思う。
そういう中で茶沢さんは、本書の中で出てくる、数限りない「真っ当な人間」だ。いや、まあ茶沢さんにしても、正直「真っ当」ではないんだけど、とはいえ、底辺にいる人間ばかりいる世界が描かれ、基本的にそこをベースにして生きている住田からすれば、茶沢さんの真っ当さは眩しいほどではないかと思う。
住田の世界と、茶沢さんの世界は、本質的に交じり合わない。交差もせず、かといって平行なわけでもなく、ねじれの位置にある。どんな意味でも関わりあいがない関係。それでも、茶沢さんの「良い意味での真っ当じゃなさ」が、住田との限りなく細い関係性を持続させていくことになる。僕には茶沢さんの行動原理は理解できないけど、住田と茶沢さんの関係性は、なんとなく羨ましいし、奇跡的だなと思う。住田はその奇跡には、気づきたくないみたいだけど。
僕自身の内側に、何か引っかき傷を残すような、そんな作品だった。どうにもならないことに、僕には住田の気持ちが理解できてしまう。どれほどアホみたいな理由でも、どれほどクソみたいな行動原理でも、住田の内側に巣食う感覚が見えてしまうような気がする。「漠然とした絶望」に絡め取られた人間は、どう生きるべきだろうか?僕には、「謎の怪物」は見えないけどね。

古谷実「ヒミズ」





映画「風立ちぬ」(宮崎駿)の感想

『まだ風は吹いているか。では生きねばならん』

現実を越えた世界の中で、主人公の堀越二郎は、そう問いかけられる。
繰り返し。
何度も。

『目の前に、果てしない道が広がっている。感銘を受けました。』

そうやって堀越二郎は、自分の価値観を「現実のもの」として生み出すために、製図板に向かう。

『美しい』

堀越二郎は、繰り返しそう呟く。サバの骨を見ても、堀越二郎は「美しい」と呟く。

『これは飛ぶよ。風が立っている』

美しいものは飛ぶ。その信念で、堀越二郎は飛行機の設計に向かう。

「美しい飛行機を作りたい」

それが、堀越二郎の夢だ。しかし、戦時中という環境は、それを許さない。

『機関銃を載せなければ、なんとかなるんだけど』

冗談で繰り出したこの言葉は、あながち嘘ではないだろう。堀越二郎自身の内なる叫びではないか。堀越二郎に求められているのは「戦闘機の設計」だ。そこには、必要な機能と性能が求められる。「美しさ」だけを追い求めることは、難しい。

『飛行機は、戦争の道具でも、商売のためのものでもない。
飛行機は、夢だ。』

『飛行機は、美しくも呪われた夢だ』

これは、堀越二郎の言葉ではない。しかし、彼もその言葉には頷くことだろう。僕は、ダイナマイトを発明したノーベルのことを連想した。彼は、人殺しの道具を作ったはずではなかったろう。堀越二郎もそうだ。

『僕たちは、武器商人ではない』

堀越二郎の同期が、そう呟く。

飛行機の技術では、日本は世界各国から大幅に遅れていた。

『俺たちは、20年先の亀を追いかけるアキレスだ』

そう呟く同僚に、堀越二郎はこう返す。

『小さくても、亀になる道はないのかなぁ』

彼はそれを成し遂げる。
しかし、あくまでもそれは、物語の一つの要素でしかない。ゼロ戦開発に至る過程は、かなりあっさりと描かれると言っていいだろう。そこにある葛藤や苦労は、本作を観ていてもさほど表には現れない。ゼロ戦がどんな戦闘機なのか知らず、また堀越二郎がどんな設計者なのか知らずに本作を見れば、「凄い戦闘機を設計した凄い設計者」という点は、恐らくまったく伝わらないだろう。たまたま、戦闘機の設計を仕事にしている人を主人公にした物語だ、と捉えられるかもしれない。

もう一つの要素は、菜穂子だ。後半になればなるほど、こちらの要素が強く描かれていく。
堀越二郎の設計のパートも良いが、やはり菜穂子のパートの方が好きだ。
何故ならそれは、「天才の恋」だからだ。

正直僕は、「堀越二郎と菜穂子」の恋が実際の出来事なのか、知らない。この菜穂子という登場人物は、堀辰雄の「菜穂子」という作品から採られているようだ。堀越二郎と堀辰雄の関係も知らないし、菜穂子が実在した人物なのかもしらない。だからここで書くことは、あくまでも、本作の内容に関してのものでしかない。

先ほど書いたように、堀越二郎の天才性は、本作を見るだけではなかなか伝わりにくいだろう。事前に、「ゼロ戦を設計した、堀越二郎という天才設計者がいた」という事実を知っておく必要がある(いや、必要があるわけではない。あくまでも、僕が感じたのと同じような感じ方をするためには、そういう事前知識が必要だ、という意味だ)

僕も堀越二郎についてはほとんど知らないのだけど、とにかく凄い人だったということは知っている。そして、本作の端々に、堀越二郎の天才性がチラリとかいま見える。それは、「設計」というフィールド上ではない、日常生活だったり菜穂子との関係だったりの中に、時々紛れ込む。

話の流れを切るかもしれないが、庵野秀明の声も良かった。僕は声優のことはよく知らないし、アニメもあまり見ない。なんとなくネット上で、庵野秀明の声が賛否両論だということも知っている。実際に見て、庵野秀明の声が「上手くはないな」とも感じた。確かに、他の役の人の声と比べると、上手くない。

ただ、なんとなく庵野秀明の「決して上手くはない声」は、僕が勝手に抱いている「天才」のイメージに合うのだ。堀越二郎が天才だったのか、あるいは秀才だったのか、その辺りのことは全然知らないけど、庵野秀明による「決して上手くはない声」が、逆に僕にとって、堀越二郎の「天才性」を浮き彫りにした形に映った。嘘がない感じに映った。というか僕が観ながら感じていたことは、「庵野秀明以外の声優の声が巧くて、庵野秀明の声が浮いているから、周りももうちょっと下手でもいいんじゃないか」ということだ。別に庵野秀明を擁護しようとかそういう意図はない。実際に観て、そう感じたんだから仕方ない。

そんなわけで、作中の端々で散見される「堀越二郎の天才性のちょっとした発露」と、庵野秀明の「決して上手くはない声」が、堀越二郎にまったく詳しくない僕に、堀越二郎の「天才性」を感じさせることになった。

そして、そんな「天才性」を醸し出す堀越二郎が恋をするのだ。これが、とても良い。

堀越二郎は「美しさ」に惹かれる男だ。そしてその審美眼は、彼独特のものである。普通、サバの骨を見て「美しい」とは言わないだろう。堀越二郎の視界には、僕ら普通の人間とは違った形での「美しさ」が展開している。

それは、菜穂子に向ける視線にしても、同じことだっただろう。菜穂子は実際、とても美しい女性として描かれているが、しかし堀越二郎の心を捉えたのは決して外面的な美しさではないだろう。では何かと言われると、言語化するのに困るが、堀越二郎は菜穂子の中にその「美しさ」を見出した。

穿った見方をすればそれは、菜穂子の病気ゆえの「美しさ」だったかもしれない。もちろん直接聞かれたら、堀越二郎は否定するだろう。しかし僕には、堀越二郎の頭に繰り返し蘇る、飛行中の飛行機がバラバラに分解される映像がダブる。堀越二郎は当然、壊れない飛行機を作ろうと必死になったことだろう。しかし頭の中から、そのイメージはなかなか消えない。「美しくも呪われた夢」である飛行機に対して、堀越二郎が抱いていたものは複雑なものではなかったか。どれほど全力を尽くしても、飛ばしてみなければわからない、そして飛ばして見ればバラバラに砕け散ってしまう可能性がある。そんな可能性としての儚さに、惹かれている部分もあったのではないか。もちろんその見方は、堀越二郎と菜穂子の関係を侮辱するような視点だろうけども。

堀越二郎と菜穂子の関係は、「美しい」と思う。破綻が約束されているからこそ、一瞬の煌きが凝縮する。時間が保証されていないからこそ、限りある生を正面から向き合う。言葉にすれば陳腐だが、そうやって生み出された濃密な時間は、二人にしか解釈出来ない、余人の介入を許さない、独特な世界を作り出す。あの電車の中でも設計を続けていた堀越二郎の姿は、僕は忘れられない。

『菜穂子がいてくれたお陰だよ』

その独特な世界がなければ、堀越二郎はゼロ戦を設計出来なかったのかもしれない。

『センスは時代を先駆ける。
技術は、その後だ』

もし堀越二郎が現代に生まれていたら、彼はどんな夢を追っただろうか?菜穂子とは、どんな人生を歩んだだろうか?時代に翻弄された、と一言で書いてしまえばそれまでだが、時代に翻弄されたからこそ生み出された名機であり、美しい関係であるのかもしれない。

最後に。観ている途中で、「タバコ問題」のことを思い出した。思い出したのは、中盤ぐらいではないかと思う。それぐらい僕にとって、タバコを吸うシーンはまったく違和感がなかった。というか、一体何を問題視しているのかもよく分からなかった。不思議だ。ラスト付近の、「タバコ吸いたいんだけど」と許可を求めて譲歩せざるを得ないシーン。あれも、タバコがなければ成立しない場面だろう。

映画にしてもアニメにしてもマンガにしても、セリフが少ないものはとても好きだ。映像メディアが活字メディアに対して取れる最大級のアドバンテージが、「沈黙」だと僕は思っている。小説では、なかなか「沈黙」を効果的に扱うことは難しい。僕の個人的な意見では、映画やアニメは、もっと沈黙を取り入れたらいいと思う。本作は、それまでの宮崎アニメらしくなく(全部観ているわけではないけど)、非常に穏やかでセリフの少ないアニメだった。それは、主人公である堀越二郎の物静かさが醸しだす雰囲気だろうが、それが作品全体を良いイメージに仕立てていると僕は思う。観てよかったと思いました。

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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)