黒夜行

>>2013年06月

野菜ソムリエという、人を育てる仕事(福井栄治)

内容に入ろうと思います。
本書は、総合商社で新人の頃からとんでもない実績を数々叩きだしてきた著者が、仕事で野菜と接する内に、野菜に関する情報が流通の時点で分断されてしまい、生活者まで届かないことに疑問を抱く。様々な経験を経て、やがて著者は、仲間と共に「日本野菜ソムリエ協会」を立ち上げる。著者がどんな経験から問題意識を芽ばえさせ、どんな軸を持って「野菜ソムリエ」という地位をここまで高めてきたのかなど、著者の一貫した想いが現実を様々に動かし変えていく、その過程を描く作品です。
ある目的があって、僕は本書を読んだわけですが、その目的のためには、本書はとても役立ちました。今考えていることを具体化し、じっさいに転がしていくのに、本書に書かれていることは非常にためになるだろうし、考えさせる作品でした。
本書は、商社時代の話や、野菜ソムリエが何故ここまで広まったのか、あるいは父親からの教育など、色んな話が描かれます。それらも実に興味深い話で、この人凄いな、っていう感じなんだけど、この感想ではそれらについては触れません。野菜と本という違いはあるけど、モノやモノの価値を届ける仕事をしている立場から、色々気になった部分について触れていこうと思います。

『現実的にビジネス界で行われているのは、顧客中心主義という名の「売り手主義」だと僕は感じています。
本当にお客様=生活者が欲しているものを提供するというよりは、自分たち=売り手側が「売りたいもの・儲かるもの・売れるものを売っている」という構造が、今の流通業界にはあると思うのです。それは、こと「食」という分野においては顕著だと思います』

これは、書店で働いている僕も、実に頷ける。「売りたいもの・儲かるもの・売れるものを売っている」というのは、今ほとんどのモノを売る仕事がそうなってしまっているのではないかと思います。それは、仕方ない部分もあるし、売れなくていいわけではない。でも、売っていてなんとなく自分が誇れないなと感じるものばかり売っている、そんな風に感じている人も多くいるのではないかと思います。「売れているもの」が、本当に「求められているもの」なのか。どうしても僕はそんな疑問を抱いてしまう。売上を追求しなくてはいけない立場の人間としては、その「迷い」は致命的なのかもしれないけど。

『共感、共鳴、感動というのは心の問題です。20世紀はモノを手に入れることが目的でしたが、21世紀は、いかに「心を満たしてくれるか」が購買動機になっています。食で言えば、いかに胃袋を満たすかという産業から、いかに心を満足させられるかという産業へのシフトが求められつつあるのです。』

これも、実感としてとてもよくわかる。僕は野菜ではなくて本を売っているけど、人々が「本」というものに対して求めることが変わってきているように僕は思う。昔は、「本」と個人との関係で、その個人がその本を「情報」と捉えるか「ファッション」と捉えるかというような違いはあるだろうけど、基本的には「本」は誰か個人と関わるものだったと思う。でも、僕のイメージでは最近は、「本」というのは、人と人とを繋ぐ存在として価値を求められているのではないかと思う。同じ本を読んだ人という意味でも、本を売っている書店という場という意味でもいいのだけど、「本」が誰かと誰かを繋ぐものとして価値を持ち始めてきたのではないか。僕はそんな風に捉えつつある。

『自分が提供している価値が何で、その価値に共鳴してくれる人は誰で、その人たちがどこにいるのか、どうやって彼らにアクセスしたらいいのか、そして、どういうメッセージを伝えるのか。それを自分自身で認識せよということなのです。そこにも、生活者視点は欠かせません』

僕は書店員として、「自分が何を売っているのか?」ということを、最近強く意識している。これまで、本は「本」という価値があり、その「本」という価値は、一般の人の間で統一的な合意が得られていたのではないか、と思う。「本を読む」という行為に一定の敬意が払われ、むしろ「本を読んでいないこと」が軽蔑の対象になるような時代がかつてはあったのだろう。でも、今はそういう時代ではない。そういう時代の中で、じゃあ一体「本」はどういう価値を持ちうるのか?「本」というものが、それを買っていく人にどんな価値を提供できるのか、それを僕は掴みたいと思っている。そのキーワードが、「人と人を繋ぐ」ではないかと思っているのだけれども。

『しかし、生産者がいくら丹精込めて素晴らしい野菜やくだものを作ったところで、価値を伝えなければ売れない時代。売れないということは、日本の農業をますます衰退させてしまうことになります。もしかしたら30年後、この国から農業という産業は消えてしまうかもしれないのです』

これは、「野菜やくだもの」を「本」に、「農業」を「書店」に変えても、まったく通じる文章だろうと思う。良い本は、世の中にたくさんあるはずだ。それは、自分でも山ほど本を読むし、普段から本を扱っている僕自身きちんとわかっている。でも、どれだけ良い本を作ったとしても、その本が持っている価値がお客さんに伝わらなければ、その本は売れない。僕ら書店員は、その本が持つ価値をお客さんの目に見えるように提示することが仕事だと思うのだけど、でも様々な事情があってなかなかそこまで手が回らない現実がある。

『生活者に本当に必要な情報を伝えるために、そして、生産者に生活者のニーズをフィードバックするために、必要とされているのは、作り手と食べ手をつなぎ、畑から食卓までトータルでマネジメントする存在。情報が正しく伝わりさえすれば、野菜やくだものの価値は変わるのです。そのためにも、野菜やくだものに関する豊富な知識、生活者が求めている情報を持つ人材を育成しなくてはなりません。それが、広い意味で日本の農業を活性化し、日本の農業を次世代に継承していく近道になると考えたのです』

そういう思いを持って著者は、「日本野菜ソムリエ協会」を立ち上げ、設立から12年で、野菜ソムリエという存在を非常に価値あるものにした。著者が創りだした「野菜ソムリエ」は、今では野菜の流通やレストランの方向性までも左右するような存在になり、著者の目標とする『農業を次世代に継承する』というビジョンを、一緒になって実現していけるような存在になっている。

『かっこいいことを言ってしまえば、野菜ソムリエという一つの資格を通して、それぞれが自分の夢への一歩を踏み出してくれることが理想です。なぜなら、自分にできる小さな一歩を踏み出すことが、社会を変える一歩だと思うからです』

『野菜ソムリエになった後の活動で最も大切だと思うポイントは、「一人一人がそれぞれのやりたいことを通じて、社会に価値を提供することができる」ということです』

書店はどんな風にして、「本」の価値を伝えていくべきか。あるいは、書店はどんな風にして、「本」の新たな価値を生み出していくことが出来るのか。そんなことが、ここ最近の僕の思考の方向性で、自分に何が出来るだろうかということをふとした時に考えている。
著者は、野菜ソムリエが成功し、継続し続けている理由を、こう断言する。

『なぜ僕は、野菜ソムリエ協会設立時の目標を達成し、成功したと言われるようになったのか。そして、なぜ野菜ソムリエ協会がここまで認知されたのか。
僕が導いた答えはこうです。
「僕たちがそうなろうと思ったから」』

今日、とあるイベントに参加して、「そうなろうと思った」人たちの話を色々聞いた。やっぱり世の中には凄い人がいるものだと思うし、自分にも何かやれないものかなと思ったりもする。「そうなろうと思ったから」。そんな風に言って実行して辿り着きたい場所までたどり着く。そんなことを、自分でもやっぱりやってみたいものですね。

『「こうなりたい」という想いがなければ成功の定義づけはできません。「想ったからといって、それが実現できるという保証はないじゃないか」とおもわれるかもしれません。でも、思わなかったら永遠にそうはならない。だから、まずは「想う」「成功した自分を想い描く」ことから始まるのです』

今の自分には、とてもためになる作品でした。なんとなく野菜ソムリエって胡散臭い資格だなってずっと思ってたんですけど、本書を読んでそのイメージは一変しました。なるほど、これだけバイタリティーのある人が、これだけのビジョンを持ってやっているのなら、それは素晴らしいものだなと思います。自分も、どうにか動いてみようと思います。

福井栄治「野菜ソムリエという、人を育てる仕事」


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助けてと言えない 孤立する三十代(NHKクローズアップ現代取材班)

『今脱落しておかないと、自分はこの先潰れきってしまうかもしれない…』

僕は大学を中退している。その中退の理由は、たぶん説明しようと思えばどんな理屈でもつけられる。正直自分でも、その内のどれが一番近いのか、きちんと判断は出来ないだろうと思う。でもこの、『今脱落しておかないと、自分はこの先潰れきってしまうかもしれない…』という理由は、当時の自分の感覚を、かなり的確に表しているのではないかと僕は思っている。
僕は、就職して、「きちんと働くこと」が怖くて仕方がなかった。それは、「働くこと」が嫌なのではなかった。そういう部分もあっただろうが、それは核となる理由ではない。
僕は、「積み上げていくこと」が怖くて仕方がなかったのだ。
僕は、子どもの頃はとても優等生として生きていて、勉強も頑張ってそれなりに良い大学にも入った。たぶん傍から見れば、平均から考えても「良い」と言えるような人生だったかもしれない。それから、ほどほどに悪くはない会社に入れたかもしれないし、そこできちんと仕事が出来たかもしれない。
でも僕はそうやって、自分の人生がきちんと「積み上がっていく」のが怖かったのだ。このままじゃ自分はいつか絶対に潰れると思って、だからさっさと大学の時点で脱落しておくことにした。
例えば、ドミノを並べているとしよう。
並べ始めてすぐであれば、ふとした弾みで倒して全部台無しにしてしまっても、「ま、しゃーないか」と思えるだろう。
でもこれが、相当大量のドミノを、相当の時間を掛けて並べていた後だったらどうだろうか?それまで費やしてきた努力や時間がすべて無駄になってしまう。それは、絶望的な気分になるのではないか。
僕は、自分が弱い人間だということを知っている。並べ始めた頃に崩してしまうぐらいなら、たぶんそれほどのダメージもなくいられるだろう。でも、相当大量に並べた後に崩してしまった、その絶望感に、自分は耐えられる気がしなかった。
大学をきちんと卒業して、そこそこの会社に入って、ほどほどに仕事が出来て評価されて…なんていう風に、少しずつドミノを並べていくような人生に、僕は耐えられる気がしなかったのだ。いつか崩れるかもしれない、という恐怖と、常に闘っていなくてはいけない。そして、本当に崩れてしまった時には、これまで経験したことがないほどの絶望を感じることだろう。
そんなのは、嫌だと思った。だったら、さっさと脱落してしまえばいい。
昔の僕は、自分の弱さとか恥ずかしい部分を、なかなか表に出せない人間だった。それは、「ちゃんとした自分でいなくてはいけない」という気持ちが強かったからだと思う。自分には、積み上げてきたものがある。それを、ちょっとしたことで崩してしまうのが、きっと怖かったのだろうと思う。
今は、ほとんどそんな感覚はない。僕の中では既に、「自分がちゃんとした人間に見られているという自覚」がない。ロクデモナイ人間だとも思われてはいないだろうけど、ちゃんとしていると思われているわけでもないだろう。だからこそ、気楽でいられる。自分の弱い部分、恥ずかしい部分を見せられない、という感覚があまりない。プライドみたいなものを大学を辞めたことで捨て去ってしまったと思うので、凄く気楽だ。
だから、たぶんだけど、確信があるわけではないけど、たぶん僕は、「助けて」と言える側の人間ではないかと思う。実際に助けてほしい状況になった時に、誰かにそう言えるかは分からない。分からないけど、でも今の僕は、自分の周りにいる同年代の人間よりは「助けて」と言いやすいかもしれない。「助けて」なんて言えるわけがない、というような変なプライドが、僕にはない。
ないのだけど、でも本書を読んで、色々と突き刺さるものがあった。何故なら、本書で描かれている三十代は、「大学を辞めなかった場合の未来の自分」と重なるからだ。もし大学を辞めてなかったら、僕はきっとこうなっていた。はっきりと、そう断言できる。だからこそ、僕にとっても人他人事ではない。
本書は、NHK北九州放送局の取材班が、とある事件をきっかけに取材を始め、「助けてと言えない孤立した三十代」という、衝撃的な実像を探り当てた番組を書籍化したものだ。きっかけとなった事件は、2009年、39歳の男性が、自分の窮状を周囲の誰にも相談しないまま餓死した、というもの。親戚に宛てた手紙に、「助けて」とだけ書かれていた。
取材班は当初、その男性が何故周囲に助けを求めなかったのか、理解できなかった。彼には、親友と言える存在もいたし、数ヶ月前まできちんと働いていた形跡もある。しかしその誰もが、その男性がそこまで窮地に陥っていることを知らずにいたのだ。男性は、人付き合いはよく、リーダーというほどではないが人気があったと、学生時代の同級生は言う。死亡時、男性の所持金はたったの9円だった。それだけの状況に陥っていても、まだ、誰にも「助けて」ということが出来なかった。
なぜ「助けて」と言えなかったのか…。取材班は、そこにきっと何かあるはずだと考え、突っ込んだ取材を開始する。炊き出しに現れる30代のホームレス、自分のことをホームレスとは認めたがらない若者、助けの手を差し伸べてもその手を掴んでこない三十代…。
取材の過程で、三十代を取り巻く状況が少しずつ明らかになっていく。
今の三十代は、「自己責任」という言葉に囚われている。

『いまの三十代は自分でなんとかしなければならない「自己責任」の風雨長のなかで育ってきたといえる。』

『奥田氏は、「助けて」という言葉を発することを拒み続ける三十代について、インタビューでこのように述べている。
「この十年間、社会はその人の責任だと言い続けてきた。苦しい状況に陥っても、それは自分の責任だと。そういうことを、社会が若い人に思わせているのではないか」』

『自分の責任。この言葉は、私たち取材班の心に響いた。自己責任。私たち取材班のメンバーも、三十代や三十代に近い世代で構成されていた。これまでの人生でも、自己責任という考えを、強く求められてきた。この男性に限らず、私たちは、「自分の石印で何とかします」という言葉をこの後も何でも聞くことになる』

『奥田さんも、夜回りを続けるなかで、三十代の人たちと出会い、この自己責任という言葉こそが三十代を象徴していると感じていた。
「彼らは、本当はギリギリのところまで追い詰められているんだけど、まだ自分で頑張れると思って、自分で頑張っている人たちなんだと思う。彼ら自信の思い込みかもしれないけど、僕は社会がそうさせていると思うんですね。自己責任論ということを社会は行ってきた。この社会が、自分の責任だと言い続けてきたんですよ。この十何年
。だから、本当に苦しい状況になっても、それは自分の責任だと。自分自身そう思わざるを得ないというのは、つまりこの社会が思わせているんじゃないかな」』

この取材を元に放送したクローズアップ現代は、他の回と比べて圧倒的に反応があったのだという。視聴率も、異常と言えるような数字を叩き出したという。

『なぜ三十代にここまで共感が広がっているのか。放送した番組のテーマが三十代の声を伝えることができたと、改めて革新を持てた反面、私たちには戸惑いも生まれてきた。ここまで共感が広がることは予想していなかったし、死に至るまで「助けて」と言うのを拒み続けることに共鳴する声が多かったことに、衝撃を受けたからだ』

『共鳴し増え続ける三十代の言葉。そうしたなかに、ある特徴があることが次第にわかってきた。実は、女性にも共感する声が広がっていたことだ。驚きだった。なぜ、私たちにとって驚きだったのか。それは、こうした問題は男性の非正規雇用に限られた問題だという意識が、どこかにあったからかもしれない』

『そうしたなか、取材班一同驚いたのが全国放送に展開したシリーズ二回目である。なんと17.9パーセントと「クローズアップ現代」の十七年の歴史のなかでもベスト10に入る高視聴率だったのだ。「オウム真理教」や「阪神淡路大震災」など大事件、大震災が軒並み視聴率の上位を占めるなか、一種奇異な出来事だった』

三十代が共感する様を、もっと上の世代は苦々しく見るかもしれない。「本人の努力が足りないのだ」「甘えている」「仕事なんて選り好みしなければどこかにはあるはずだろう」。きっとそういう無言の声が、三十代の重しになっている。
「仕事は探せばあるはず」というのは根性論だし幻想に過ぎない、と指摘する大学教授の話が載っている。

『雇用幻想です。仕事は探せばあるはずというのは、単なる希望、そうであってほしいと思っているだけです。実際に仕事は、はっきり言ってありません。数字を見て明らかです。しかも、三十という年齢がさらに、仕事を探すのを難しくしている。アルバイトであれば、もっと若い二十代を雇う方が、雇用する側も、悪い言い方をすれば使いやすい。三十代が就職するには、その分野のスキルやノウハウを持っていないと、簡単に面接で落とされてしまう。雇う方も余裕がないんですよ』

「仕事は探せばあるはず」という幻想は、上の世代だけではなく、三十代自身も感覚として持っている。だからこそ彼らは、「仕事が見つからないのは自分の努力が足りないせいだ」と考え、誰かの助けを借りることなく、一人でこの事態に立ち向かっていくことになる。

『そういう援助を断ったり、いくら呼びかけても助けを求めないホームレスの人がすごく多いんだよ。しかも、二十代、三十代くらいの若いホームレスの人たちが特にそう。それがいま一番の問題。どうしたらいいか、僕たちも困っている。どうしたらいいんだろうって』

『炊き出しボランティアをとりまとめるNPOの代表・奥田知志さんは、長引く三十代の路上生活に頭を抱えていた。「相談してみないか?」と奥田さんが熱心に話しかけても、彼らの反応はにぶい。自立するために積極的な相談をしてくる三十代などほとんどいっていいほどいなかった』

そしてそれは、彼自身だけの問題ではないだろうと奥田氏は言う。

『彼らが助けてと言わないのではなく、彼らに助けてと言わせない社会があるんじゃない?そのことを先に認めるべきだし、そして、彼ら自身も社会も言い続けている”自己責任論”についてだけど、社会は彼らを救済した後で”ここから頑張るのはおまえたち自身だ”と突き放せばいい。このままでは、いくら彼らが自己責任を果たそうとしても、果たせるスタートラインにさえも立てないのが、いまの世の中だ』

三十代のホームレスにとって、「自分がホームレスに見られないこと」、それが生活における最重要の問題となる。

『入江さんは、自分がいま食べるものに困るほどの苦境に追い込まれていながらも、他人から自分がどう見られているのかを、極端に気にしていた。コンビニから早く出てきたのも人目が気になるからだった』

『ホームレスに見られないようにしている努力は、これだけではなかった。入江さんは、残りわずかな生活費をつかって、コインランドリーで十日に一度洗濯をしていた。』

『入江さんは自分がホームレスであることを認めているにもかかわらず、他人にはそう見られないように、どうこうどうすれば、自分がホームレスに見られないかという一点に集中して一日を生活していた』

そしてそれは、他人だけにではない。家族にさえもそうだ。三十代のホームレスの多くは、親に自分の苦境を伝えていない。そんなこと伝えられるわけがない、という意見ばかり出てくる。親に助けを求める、という当たり前の発想が、彼らからは失われてしまっている。自分の息子はきちんと働いている、と思っている親御さん。もしかしたら、あなたの息子は、ホームレスかもしれません。

『僕みたいな状況になった人にとって”助けて”という言葉の壁は、一人では壊しきれないと思う』と、奥田さんの支援を得て社会復帰を成し遂げた元ホームレスの男性は言う。奥田さんも、ホームレスたちと寄り添って支援をしていく覚悟を決めている。

『ホームレス状態になっている三十代の苦しみのひとつはね、失敗したとき、自分の周りに応援団がいないことなんよ。ひとつダメでつまづいてしまっても、誰かが隣で”次いってみよー”って応援したらええと思うんよ。かつて、それは親だったり友達だったりが担ってきた役割かもしれないけれど、あらためてそこを求めてもな。できる人がやったらいい。』

僕は、本の感想の文章を通じてだけど、こんな風にして自分のことを書く場がある。こういう場が自分の中できちんとあるというのは、きっと僕にとって重要なことなんだろうと思う。リアルでもネットでも、自分の話が出来る場があるといいと思う。それがリアルである方がいいだろうけど、でもそれが難しいからこそ「助けてといえない三十代」が増殖しているわけだ。ネット上だっていい。どこかに、自分の話をする場を持つこと。これは一つ、大事なことかもしれない。
身近にいる誰かが、何かを抱えているかもしれない。普段会っている誰かが、苦境を隠しているかもしれない。それは、知らなかった自分が悪いわけでもないし、知らなかった自分を責めても仕方がない。僕は思う。誰かの辛さを共有したければ、まず自分の辛さを表に出すしかないのだろうな、と。自分の弱さをさらけ出すしかないのだろうな、と。たぶんみんな、強がって生きている。見せていない部分で、たくさんの苦労を抱えている。「俺は辛いよ」と、まず自分が言ったらいい。本書を読んで、なんかそんな風に思った。
この本は、一人でも多くの人に届けたい。こんなPOPのフレーズを考えた。

『あなたの夫は、息子は、親友は、”ホームレス”ではありませんか?』

NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代」


カメラ(ジャン=フィリップ・トゥーサン)

内容に入ろうと思います。
が、なんとも言えない作品で、うまく読めているとはいえない作品で、というかどんな作品なのかもちゃんとはわかってないので、あんまり書けることは多くないんですが。
主人公は、自動車の教習所に通い始めるのだけど、そこで女性に恋をし、旅をし、色々起こる、という感じの小説のようです。
日本でなかなか人気のあるフランス人作家のようですけど、外国人作家の作品が苦手な僕には、なんともいえずよくわからない作品でした。
基本的には内面描写はほとんどなく、「~した」「~した」という描写がひたすら続く感じです。僕は、自分に合わない作品の場合、文章そのものがまったく頭に入ってこなくなってしまうので、ストーリーそのものも追えていないんですけど、特別なことが起こるような感じではありません。色々流されながら、変な人達と関わりながら、恋をした女性と旅を続けていく、という感じです。
訳者による解説が載ってたのですけど、それを読むと、ちょっとは分かった気になれます。
たぶん普通に読めるはずの、全然難しくない作品のはずなんだけど、ホントに、どうにも、僕には読めない作品でした。

ジャン=フィリップ・トゥーサン「カメラ」


うみべの女の子(浅野いにお)

内容に入ろうと思います。
中学生の佐藤小梅は、どちらかと言えば地味系女子だけど、メンクイ。で、タイプの三崎先輩に強制フェラさせられて、なんだかモヤモヤして、気持ちの整理がつかなくて、だから磯辺とセックスした。
「じゃあ俺と付き合ってくれんの?」と聞く磯辺に、小梅は「ごめん…やっぱりあたし磯部のこと好きじゃないし」と返す小梅。
磯辺の両親は、なかなか家に帰ってこない。小梅は、時々磯辺の家にやってきては、ダラダラしたり、セックスをして帰ったりする。キスだけは嫌、なんて言い続けながら。磯辺も懲りずに、俺とは付き合ってくれないの?なんて言いながら。
見ているものが全然違う二人。立っている場所が全然違う二人。その二人が、何故か身体だけ先に繋がってしまう。身体を重ねながら二人は、言葉も重ねていく。二人の上には決して降り積もらない、どこに消えていくのかもわからない言葉を。
二人で、消えていくものをやり取りし合う。留まらないものを渡し合う。時間だけは、律儀に、二人の上に降り積もっていく…。
というような話です。
僕はやっぱり、浅野いにおは好きだなって思います。そんなに作品は読んだことはないんですけど、作品全体に漂う空気感みたいなものが、やっぱり好きなんだよなぁ。
本書は、一歩間違えればただの「男の妄想マンガ」だと思います。だって、磯部の視点からすれば、「好きで告白したことのある女の子から、突然セックスしようって言われる。しかも、継続的に、あんなことやこんなことまでしちゃう!」っていう、男からすればまあウハウハな設定なわけで、いいなー、磯辺ずるいなー、なんて思いながら読んでいましたよ。ええ、磯辺先輩、羨ましいっす!
けど、本書は、屈折した思いが様々に折り重なることで、ただの「男の妄想マンガ」ではない作品に仕上がっていると思う。
磯辺は、世界に対してどうしようもない憎悪を抱えている。それは、磯辺という個人の輪郭からはみ出すほど大きなものだ。でも、磯辺はそれを隠して生きている。なるべく、悟らせないように生きている。磯辺の内側には、とてもとても広大無辺な世界が広がっている。そこは、暗くて寂しくて憎しみに満ちていて、そんな世界の存在を常に意識しながら磯辺は、クソみたいな毎日をどうにか生きている。
磯辺にとって世界は、息苦しい場所だ。口元まで水がせり上がっているような、吸っても吸っても空気が足りないような、そういう場所だ。何が磯辺をそうさせたのか、それはじわりと描かれていくのだけど、でもやはり多くは語られない。
小梅の有り様は、男からすると謎めいている。何故小梅が、好きでもない磯辺に付きまとっているのか。恐らくそれは、小梅自身にも説明できない感情だったのかもしれない。女子ならみな小梅のように動くというわけでもないだろう。小梅は、たまたまそういうように動く女の子で、そこにたまたま磯辺がいた。
小梅は磯辺とは逆に、自分のいる世界のことが全然把握出来ていない。自分がどこにいるのか、どこに向かっているのか、何を考えているのか。小梅はきっと、自分の身体が触れたものしか感じ取ることが出来ない。思考の触手を伸ばしたり、想像力の翼を広げたりすることが、きっと苦手だ。それは、頭が悪いということではないと思う。磯辺が考えすぎている部分もあるだろうし、女性はそもそもそういうのが苦手なのかもしれないし、14歳という年齢のこともあるだろう。
そういう中で、自分の手で、口で、身体全体で触れることになった「磯辺という身体」は、次第に小梅の世界を広く占めるようになって言ったのかもしれない。
「好き」っていう感覚ってなんだろうって、青臭い若者みたいなことを言ってみる。僕には案外、みんながその部分を深く考えないで生きているように見える。みんな、まるで自分はそれについてきちんと知っているというような体で、知っていることが当然であるかのような顔で生きていて、だから、そういう風に振る舞えない人間は、悩む。自分には、「好き」ってなんなのかわからない、って。
磯辺と小梅の関係性は、初めからその部分をすっ飛ばすことが出来た。磯辺は男らしい性欲によって、小梅は女らしい感情によって。二人は、「好き」を保留することで、前進した。そしてそれは、決して間違いではないのではないかと思う。
僕が一番好きなシーン。2巻の182ページから187ページ。小梅は、「好き」を保留しながら前進したからこそ、ここまで辿りつくことが出来た。「好きかどうか」から入っていたら、永遠にたどり着くことが出来なかった場所だっただろう。小梅にとってその経験は、新しい世界の広がりだったことだろう。誰が見ても、磯辺と小梅の関係は「正しくない」というだろう。でも、本当にそうか?間違っているのは、「好き」についてわかっているフリをしている人間の方ではないか?小梅が行き着いたその場所は、「正しいルート」を通らずにたどり着いてはいけない場所なのか?
僕は、磯辺と小梅の「嘘を通さない会話」が好きだ。
「好き」を保留して身体を重ねるところまで一気に辿りついた二人は、そもそもの最初から、相手に見栄を張ったり、綺麗な言葉を積み重ねたりする必要がなかった。お互い、初めから罵り合いながら、初めから馬鹿にしながら、相手に真っ直ぐ届く鋭い言葉のやり取りをすることが出来た。
たぶんそれは、磯辺にとっては救いだったのではないかと思う。恐らくそれは、セックス以上に。
自分の言葉の届く相手。磯辺にとって、そんな相手はほとんどいないだろう。暗黒の世界と常に背中合わせで生きている磯辺には、想像力もなくヌルい世界で生きている者たちに言葉を届かせようとも思っていないだろう。だからこそ、小梅との会話は、ある種救いだったのではないか。ある種の救いになっていたからこそ、磯辺はあそこで、あれほど怒ったのではないか。お前が、そんな奴だとは思わなかった、と。
磯辺と小梅の関係性は、少しずつ変化していく。それは、散発的で、まとまりがない。物語的ではないように感じられる。はっきりとした輪郭を切り取らないまま、ぼんやりとしたまとまりを少しずつ動かしながら、じわじわと変化を生み出していく。輪郭をはっきり切り取った方が、物語的に盛り上がるように出来るだろう。しかし、そうすればそうするほど、リアルさが失われていく。僕らは知っている。僕らが生きている世界のどんなものだって、輪郭なんかはっきりしないんだと。進むべき方向性も、あり得べき未来も、全部、行き当たりばったりなのだと。だから、フィクションに、はっきりとした輪郭を求める。そうであって欲しいという願いを込めながら。そして同時に、はっきりとした輪郭を持たない本書のような作品に、リアルを感じるのだ。
浅野いにおの作品を読むと思うけど、やっぱり僕はセリフが少ないマンガって好きだ。映画でも同じ。絵や映像の力ってそこにあるなって、ずっと思っている。空気そのものを切り取って、言葉がなくても成立させてしまう。その強さが、僕は好きだ。
あとこれも、たぶん同じことをいつも書いていると思うんだけど、場面の切り取り方が好きだ。どんな視点からその場面を見るか、どこからどこまでを切り取るか、表情を出すか出さないか、どんなカットを挿入するか。そういう場面場面の構図が、好きだなぁって思う。そういう構図で打ち出すことで、余計伝わるものがあるように思う。
全体的に、とてもエロい。下手なエロ本なんかよりも、ずっとエロいかもしれない。でも、ただエロいだけじゃない。どうしようもなさが折り重なって、ねじれて、行き場を失って濁る。世界への憎悪と、無自覚の感情が、身体を重ねることで融け合って、それでも立っている場所も見ているものも全然バラバラで、別々の二人。若さ故の衝動や無知や絶望も積み重なっていく14歳という時間を切り取った作品。やっぱり浅野いにおの作品は好きだなって思います。是非読んでみてください。

浅野いにお「うみべの女の子」





写楽 閉じた国の幻(島田荘司)

内容に入ろうと思います。
本書は、島田荘司が小説家デビューをした当初からアイデアとしては持っており、様々な事情によってようやく書く体制を整えることが出来た、江戸時代の天才絵師「写楽」の謎を追う物語です。
さて、本書の内容に入る前にまず、「写楽問題」について整理しましょう。
写楽は誰なのか?という問題は、これまで大きな論争を生み出してきた。何故それほどまでに、写楽は謎めいた存在なのか。
まず写楽は、当時の江戸で大人気となったはずだ。これは、版画の元の板が大量に残っていることから明らかだ。売れて刷りまくったからこそそれが大量に残っているわけで、売れなかったはずがない。
しかし写楽は、寛政6年の5月からたったの10ヶ月しか歴史上の登場しない。それ以降、まったく姿を表さないのだ。何故それほど大々的に売れたはずの写楽が、たったの10ヶ月で歴史上から姿を消してしまうのか。
また、写楽は、当時の一大版元である蔦屋重三郎が歌舞伎絵を刊行したのだが、その扱いがハンパではない。当時の大スターである北斎や歌麿のデビューの時だってここまでやらないだろう、という驚異的な売り出し方だったのだ。デビュー時から28点同時刊行、しかも黒雲母摺という豪華版。こんな扱いを受けた絵師は、写楽以外に存在しないのだ。何故蔦屋重三郎は、まったく無名だったはずの写楽に対して、こんな扱いをしたのか。
まだある。写楽は当時の江戸で大々的に話題になったはずだ。しかし、蔦屋重三郎と関わりのあった絵師も、蔦屋重三郎自身も、写楽が登場しなくなって以降、一切話題に載せないのだ。蔦屋重三郎と関わりのあった絵師は、確実に写楽と会っているはずだ。蔦屋重三郎がそれほど思い入れ、しかも28点も一気に刊行させたのだ。蔦屋重三郎と関わりのあった絵師が誰一人写楽と会っていないとは、考えにくい。しかし彼らは一様に、写楽の話題を出さない。これは、写楽問題を考える上で、非常に重要で難しい問題だ。
また写楽は、当時の歌舞伎絵の常識を逸脱している。当時の歌舞伎絵は、実物よりも綺麗に描くことが当然だった。また、ブロマイドとしての性質もあったのだから、千両役者のような超人気役者ばかりの歌舞伎絵ばかりが流通していた時代だ。
しかし写楽は、千両役者だけではなく、端役の役者も同じように描いた。しかも、実物より綺麗に描くものだという当時の常識を覆し、見たまま実物を描いた。これは、当時の常識から外れまくっているので、当時の江戸で売れるはずがないのだ。しかし蔦屋重三郎は、写楽を大々的に売りだした。写楽がなぜ、端役の役者も描いたのか、そして見たままそのものを描いたのか。それも謎のままだ。
実は写楽の謎というのはまだまだあるのだけど、多すぎるのでこれぐらいにしておこう。
この謎めいた人物が誰だったのか、数多くの人間がこれまで様々な説を唱えてきた。その中に、「別人説」と呼ばれるものがある。これは、「写楽とは、当時の有名人の別名である」という考え方だ。絵の才能が世界クラスであること、当時の出版界の重鎮である蔦屋重三郎と繋がりがあったこと。それらから考えて、当時のメジャーだった誰かが、写楽という別名で絵を描いたのではないか、という考え方が広まっていく。というか、そうとでも考えないと説明がつかないのだ。
しかし、その「別人説」には決定的な欠陥が存在する。それが、先ほど挙げた、「誰も写楽の正体に言及しなかった」という点だ。写楽は別に、何か悪いことをしたわけではない。というか、当時の江戸ではスターだっただろう。だったら、後々誰かが「実は俺が写楽だったんだ」と話に出してもいい。しかしそういう痕跡を、どんな資料を漁っても確認することが出来ないのだ。
さて、島田荘司は、「佐藤貞三」という、北斎研究家を主人公に据えて、どの方向に進んでも隘路にはまってしまう、この超難問である「写楽問題」に挑む。
貞三は、不運な事故から息子を失い、さらに結婚生活も破綻し、望みはつい先日発見したばかりのたった一枚の紙切れだけだった。大阪中央市立図書館で発見したその資料は、貞三に、これはとんでもなく重要なものだとメッセージを送る。
その一枚の紙に導かれるようにして写楽問題に関わっていくことになる貞三。あるきっかで東大教授と出会ったことで、貞三の仮設は進展し、未来が拓けていくように思えるが…。
というような話です。
本書は、まあ小説としての評価はとりあえず後回しにしましょう。このブログで写楽の謎について言及することは出来ないけど、まずその辺りから。
本書で島田荘司が提示している結論は、僕としては非常に納得感のあるものでした。僕は「写楽問題」についてはほとんど知りません。昔、高橋克彦の「写楽殺人事件」という本を読んだことがあって、恐らくそこでも「写楽問題」は取り上げられていたはずですけど、正直、ほとんど覚えていません。だから僕は本書を読んで、初めて「写楽問題」を知ったと言ってもいいかもしれません。
ちょっと読みながら、ものすごく興奮しました。マジかよ!そんなことがありえるんかい!うぉー、凄っ!というような感じで、恐らく島田荘司も感じたであろう興奮を、僕自身も追体験するような形で感じました。
本書で提示される結論は、本書で様々な場面で描かれた「写楽問題」のほとんどすべてを見事に説明していると感じました。「写楽問題」を提示された時は、これに納得感のあるまっとうな結論を導くことは無理だろう、と感じました。それぐらい、「写楽問題」というのは支離滅裂で、どこをどう押したり引いたりしても、まともな結論が出てこないように思いました。
でも、本書で提示される結論は、魅力的でした。なるほど、そう考えれば、確かにあらゆることに説明がつくなという、非常にしっくりくる結論だったわけです。
でも、それを思いついた貞三にしても、それは誇大妄想だろう、と初めは思いました。詳しいことは本書を読んで欲しいけど、ありとあらゆる条件が奇跡的に積み重ならないと、絶対に成立しないような、そういう綱渡り的な仮設だったからです。
そして、本書が物語的に面白くなるのは、僕はここからだと思っています。本書で、そんなことがホントにありえるのか?と思うような前代未聞の仮設が提示されてから、その仮設を検証するまでの過程。ここがもう、実にスリリングでした。貞三は、再三落胆する。やっぱりそうか。そんなに都合のいいように現実は動かないよな、と。しかしその度に、奇跡的な発見や、誰もが忘れていた盲点などに気づいて、その度毎に奇跡的に前進していく。そしてついに、誰もが不可能だ、ありえないと思った仮設が、あらゆる資料に基づいて「不可能ではない」というところまでたどり着くわけです。この臨場感は、見事だと思いました。
本書は、現代編と江戸編という二つのパートがあって、下巻の半分ぐらいはこの江戸編になっている。この江戸編では、島田荘司が打ち立てた仮設を元に、恐らく当時写楽の周りでこんなことが起こっていたのではないか、という想像の物語が描かれていくのだけど、これも臨場感があって見事でした。詳細については書けないけど、なるほどこんなことが実際に起こったかもしれないと信じてもいいくらい、リアルに感じられる物語が展開されていきます。特に、蔦屋重三郎の描かれ方が素晴らしくて、こんな人物がいたからこそ写楽は世の中に出てきたのだし、そして、その当時、写楽を世に出すことを一つの使命のように感じていた蔦屋重三郎の人物の大きさに打たれるわけです。本書が小説として優れている部分はその二点、仮設が登場してからそれが検証されるまでと、下巻で長々と描かれる江戸編の描写だと僕は思っています。
逆に、そうではない部分の物語は、正直、イマイチかなという感じはしました。冒頭、貞三の息子が死んでしまう部分の比重が全体の中で大きすぎるし、冒頭で登場した謎の紙切れについても、尻切れトンボのままでした。まあこれについては、島田荘司が解説で言い訳をしていて、あまりにも熱を入れすぎたのか、連載時に書いた原稿を相当数削らなくてはいけなくなったようで、そのためにストーリー上齟齬をきたしている部分もある、と書いています。正直、上巻を読んでいる時はそれなりには面白かったんですけど、下巻を読むと、上巻はなんだったんだ…と思わされるほど圧倒的な面白さで、惹き込まれました。
本書で提示された結論が、学界でどんな風に扱われているのか、それは知りません。突拍子もなさすぎる仮設なので無視されているかもしれないし、逆に島田荘司が提示した方向で研究が進んでいるかもしれない。どうかわかりませんけど、僕の中では「写楽問題」はこれで解決したと言ってもいいような気がしています。これは本当に、小説家だからこそ説得力のある形で提示できた仮説であって、そういう意味で「写楽問題」と島田荘司は、奇跡的な出会いだったのだろうな、という感じがします。
あとがきで島田荘司は、本書の連載を開始した時点で、この仮説の肝となる資料は発見されていなかった、と書いています。そこを見切り発車のままスタートしたというのは物凄いことで、結果的に発見できたにせよ、ホントに色んな奇跡がこの作品を生み出したのだろうなという感じがしました。
「写楽問題」が何か分かっていない人にも、本書では繰り返し「写楽問題」の不思議さについて語られるので大丈夫です。写楽は誰なのか、という、これまで誰も辿り着くことが出来なかった聖杯に、見事に行き着いているように感じられる、知的興奮に満ち溢れた作品だと思います。是非読んでみて下さい。

島田荘司「写楽 閉じた国の幻」




暗黒女子(秋吉理香子)

内容に入ろうと思います。
舞台は、聖母女子高等学院という女子校。良家の子女が集まるお嬢様学校で、周辺の女子生徒の憧れの学校でもある。
そんなお嬢様学校の中でも、特に一心に注目を浴びている生徒がいる。
白石いつみだ。
彼女は、そもそも学園長の娘というだけでも、注目されるだけのことはある。しかし、それだけではない。文理どちらの科目にも秀で、あらゆる事柄に造詣が深く、また恐ろしいほどの美貌を兼ね備えているという、完璧にもほどがある少女である。
そんなカリスマ的な魅力を誇るいつみが、つい先日自殺した。
彼女の死を偲ぶ会が、聖母女子高等学院の文学サークルで開かれることになった。
この文学サークル、長いこと休眠状態になっていたものを、いつみが再開させたもので、「いつみに気に入られなければ入会できない」と噂されている。学園長である父親の力で、学園内にサロンのようなスペースを設け、素晴らしい蔵書の数々と、何でも作れるキッチンなどが備わった空間で、好きな文学について議論に耽る、そんなサークルだった。
文学サークルに所属していたのは、学年でたった一人の成績優秀者だけが選ばれる奨学生である二谷美礼。老舗料亭の娘であり、文学サークル内で絶品のお菓子を作り続ける小南あかね。いつみの計らいでブルガリアから留学に来ているディアナ・デチェヴァ。医者の娘で医学部を目指している古賀園子。ライトノベル作家として活躍している高岡志夜。
そして、澄川小百合。
いつみと小百合は、最高のパートナーと称されるほど、完璧な二人だった。お互いがお互いを補完するような関係性であり、二人でやればどんなことでも出来た。
そんな小百合が、文学サークル恒例の定例会を、いつみを偲ぶための場へを変えていく。
闇鍋。
一学期最後の定例会は、闇鍋で締めくくる。これが、聖母女子高等学院文学サークルの恒例行事だ。いつ始まったものなのかわからない。鍋に入れるものは食べ物でなくても良いが、女子会らしく細かくルールが決められてもいる。
そして、自作の小説の朗読。
闇鍋をしながら、それぞれが書いてきた小説を朗読する。いつもはテーマを設けない。しかし今回は、小百合の独断で、「いつみの死」がテーマとされた。
一人、また一人と、いつみとの出会いから微かな違和感、そして自分が想像するいつみの死の真相を語り合っていく。
その先に、何が待っているのか…。
というような話です。
さて、本書はなかなか評価が難しい。
一読した感想は、「最後まで読めば面白い」というものだ。これは裏を返せば、「最後まで読まないと面白くない」ということでもある。
本書は、冒頭で闇鍋会の説明が小百合の口からなされた後、文学サークルのメンバーの自作の小説が描かれる、という構成になっている。ちょっと変則的な連作短編集、と言った感じだろうか。
さてその、メンバーの自作の小説、というのがあまり面白くないのだ。
これは、作品の設定上致し方無い部分もある。この作品は、その設定上、個々人が書いた小説を面白いものにしにくい、という欠点がある。
文学サークルのメンバーはそれぞれ、何らかの切実さを抱えている。しかし、物語の設定上、彼女たちはその切実さを自作の小説の中で描くわけにはいかないのだ。
この縛りが、作品全体にあまり良くない影響を与えている、と僕は感じる。彼女たちは、一番書きたいことを書くことができない、という状況の中で小説を書かなければならない。最後まで読めば、彼女たちが抱えている切実さがどんなものなのかわかるのだが、最後まで読まないとそれが伝わってこない、というのが本書の構造上の大きな欠点だ。その切実さを描くことが出来ないから、当然、作品から切実さが伝わってこない。この「作品から切実さが伝わってこない」という点も、最後まで読めば、なるほどそういう状況だからか、と納得できるようになっているのだけど、しかしそれでも、それが最後まで読まないと伝わらない、というのが弱いなぁ、と思う。
また、文学サークルのメンバーはそれぞれ、いつみを死なせたのは◯◯だ、という指摘を繰り返していくことになるのだけど、この指摘が、憶測に過ぎなくて、それもとても弱い。
本書を読み始めた当初は、アントニー・バークリーの「チョコレート殺人事件」とか、貫井徳郎の「プリズム」を連想した。「チョコレート殺人事件」は未読だけど、どちらも、一つの殺人事件が投げかける様々な「真相の可能性」を一つずつ描き出していく、という作品だ(短く説明するのが難しいのです)。貫井徳郎の「プリズム」を読んで、なるほど一つの殺人事件に対して、これほどまでに多様な可能性が存在しうるだけの物証や情況証拠を用意できるものなのか、と関心した記憶がある。
さて、それに対して本書である。本書の場合、いつみの死というものに様々な解釈が与えられるのだけど、それらはすべて、ただの憶測にすぎない。情況証拠らしきものは出てくるが、あくまでも「らしきもの」の域を出ず、もちろん物証なんかはほとんどない。ただ単に「証拠はないけど、あいつが怪しい!」と叫んでいるようなものである。この説得力に欠ける感じも、個々の小説の弱さだよなぁ、と思ってしまう。
もちろんこの「疑惑が憶測にすぎない」という点も、最後まで読めば、なるほどそういうことだからなんですね、と分かるようになっているのだけど、でもやっぱり、最後まで読まないと分からない、というのがネックである。
こういう、「作品の構造上どうしても、最後まで読まないと分からない部分」にしか魅力がない、という点が本書の弱さなのだろうなと思う。もう少し、そうではない部分で読ませてくれたらいいのだけど、それがさほどでもない。それぞれのキャラクターはなかなか魅力的ではあるし、奨学生や留学生や老舗料亭の娘など、ここのエピソードもそれなりには面白いのだけど、「それなり」以上ではないなぁ、という感じがしてしまう。
また、これは作品の性質上もはやどうにもしようが無い点ではあるのだけど、「小説内小説に書かれたことの、どこまでが本当のことで、どこまでが嘘なのか、わからない」という難しさもある。本書は読んでいくと、少しずつ矛盾が蓄積していくことになる。個々の小説でなされる描写同士に、明らかな矛盾があるのだ。この矛盾についても、最後まで読めば、なるほどそういうことなのか、と分かるのだけど、でも、「矛盾する理屈」は分かっても、「その矛盾を解きほどく」ことは出来ない。どうして糸が絡まったのかという理由が判明しても、その絡まった糸を解きほぐす役には立たない、みたいなことである。そして本書は、基本的に小説内小説のみで構成されている物語なので、どれが本当でどれが嘘なのかということを細部まで明らかにする場が存在しない、ということになってしまう。これも、ちょっと消化不良に陥る原因ではないかなぁ、という気がします。
さて、そんな感じで色々書きましたけど、最後まできちんと読みさえすれば、僕が今挙げたような違和感にきちんと説明がつく。ラストの展開は、なかなかうまく出来ていると思いました。最後まできちんと読んでくれさえすれば、面白さが伝わる作品だろうな、と思います。

秋吉理香子「暗黒女子」


ジェリー・フィッシュ(雛倉さりえ)

高校という箱庭の中で、純粋に美しいものを追い求める若者たち。おそろしいもの、はかないもの、みにくいもの、とうめいなもの。人それぞれ、美しさへの感受性は異なる者たちが、今目の前にある現実の中から、望みようもなく限定的な選択肢の中から、「最善」ではなく「唯一」を選び出そうとする。若さ故の衝動と、若さ故の諦めが奇妙にないまぜになった5人の若者を描く、連作短編集。

「ジェリー・フィッシュ」
夕子にとって、叶子の存在はすべてだった。クラゲの水槽の前でキスをしたその瞬間から、夕子にとって、叶子との時間だけが唯一だった。けれども、叶子は、夕子以外にも美しいものを見つけてきてしまう。夕子には入り込めない世界に、叶子は行ってしまう。「あたしが本当に好きなのは夕ちゃんだけだから」という言葉に、嘘がないことはわかっているけど。

「果肉と傷痕」
叶子は、祐輔くんに満足できない。叶子は、自分を壊してくれるような衝動を求め続けてしまう。乱暴に、暴力的に、衝動的に。でも、祐輔くんは、優しい。その優しさが、叶子には物足りない。叶子は、祐輔くんとのセックスで、達したことがない。

「夜の国」
眞子は、好きだと言われて付き合っていた相手に「友達に戻ろう」と言われた。そんな時に、朝日先輩と出会ってしまった。眞子が昔読んで大好きだった、でも周りで誰一人読んでいる人がいない本。その本を、朝日先輩は読んでいた。眞子は朝日先輩に、読書部へ勧誘された。図書館のゆるゆるとした空間の中で、杉田先輩も入れた三人で過ごす日々の穏やかさ。

「エフェメラ」
祐輔はずっと、姉の翡翠を見ていた。今は結婚し、子どもを産み、普通の女になってしまった翡翠。子どもの頃は、あれほど輝き、あれほど透明で、まるで神のような存在だったのに。翡翠の子どもである琥珀の相手をしながら、翡翠という名の宝石の輝きについて、想いを馳せる。

「崩れる春」
中学時代、突如イジメられ始めた栞。高校に入って、どうにかみんなとうまくやってこれた。新学期。同じクラスになった宮下さんは、誰とも話そうとしないで孤立していた。昔の自分を見ているようだった。にわかに穏やかではない気分に陥る。宮下さんを助けようとしないは、同罪だ。

情景を切り取る巧さが抜群だ。まるで僕の五感を、著者の五感に接続したかのようなイメージ。視界だけではない、ありとあらゆる感覚の触手を世界に対してゆるりと伸ばしていくことで、「今」を、「その時」を、「その瞬間」を切り取っていく。

『一度目のキスはわたしたちの原点で、二度目のキスはわたしたちの頂点だった。あとに残されたのはゆるやかな坂道だけ。けれどわたしたちは気づかないふりをして、ついばむようなくちづけを幾度も繰りかえした。』

「一度目のキスはわたしたちの原点で、二度目のキスはわたしたちの頂点だった。」という一文だけで、夕子と叶子の関係性を切り取っていく。絶望を内包した夕子は、しかしそれを直視しない。感情の欠片を欠片のまま放置して、元の形を想像しようとしない。そうやって、果てしない日常を突き進んでいく。

『なにもかも全部、あなたのせいだ。あなたの残した傷のせいで、あたしはまた、ひとりになったよ』

自分の求めているものが手に入らない。それは、基本的に満たされた日常の中では、贅沢な悩みなのかもしれない。しかし、叶子にとってそれは、切実すぎる衝動だ。叶子の内側に残り続けている傷は、きっとこれからも叶子を振り回す。叶子に関わる人間をも振り回すだろう。その長い予感が、この短い物語から漂ってくる。

『必ず終わるときがくるのだと十七歳のわたしたちは知っている』
『始まりもなきかわりに終わりもないのだ』

何も求めないことが正しいと信じる眞子。手に入れたものは、すぐに蒸発してしまう。高校生はそんな環境にいると知っている。未来は、適度に分断されていく。ここから永遠に、何かが地続きでいられるとは思えない。見えない予感、見たくもない予感、見えてしまう予感。そうしたものに取り囲まれながら、少女たちはそれでも「今」を懸命に手探りで見つけようとする。様々な「予感」でぎゅうぎゅうに溢れ、もはや何も詰め込めないのではないかという「今」を。

『ぼくには理解できない。女とい生きものの仕組みが、湿り気を帯びた狂気の根源が、じぶんの子どもを生むという感覚が、そしてそのすべてを孕んでなお、柔らかくて細くて華奢な骨格が、理解できない。生きるためだけにつくられたはずの器官が、どうしてこんなにも美しいのだろうか』

祐輔は、狂気の狭間で立ち止まる。狂気を身にまといながら、その超然たる美しさのために存在を許されていた姉を見て育った祐輔は、常に狂気の世界と隣り合わせにいた。しかし、祐輔には、その狂気へと踏み出すことが出来ない。狂気の世界に憧れ、姉のがらくただらけの部屋を羨みながら、自らの体は現実に固定されている。祐輔のこの独白は、祐輔の言い訳かもしれない。しかしこれはまた一方で、著者の本心でもあるのかもしれない。

『彼女も、あのときの記憶にしがみついて生きているのだと思った。治りかけた傷口を何度も何度も弄って、その痛みで自分を支えている。自傷をやめ、傷が完治したそのとき、わたしたちはこの狂おしい痛みを忘れて、ほんとうの大人になるのだろう。そしてその日はきっと、そんなに遠くない』

辛い過去から逃げていると信じていた栞。逃げることだけを考え、それに成功したように思っていた。でもそれは、言い訳でしかなかった。本当は、逃げているのではなかった。自分の肌身から離れないように厳重に紐で繋いで、それでただ走り回っていただけのことだ。その自分を受け入れる。少女にとって、そこが新たなスタート地点だ。幸いなことに、同じスタート地点に立っている少女が、近くに寄り添っている。

「好き」という概念が、少しずつ違う響きを帯び、やわらかく拡張し、ゆったりと拡散し、次第に薄まっていく。少女たちの「好き」は、それぞれに向いている方向が変わり、望むものも違う。「好き」という言葉で伝わる感情もまったく違う。同じものを見ているようで、まったく別のものを見ている。見えていると信じている現実がずれていく。
「好き」に、正しいも間違っているもない。しかし、一般か特殊かという見え方の違いはある。特殊な「好き」は、先が尖り、人を傷つけ、自らをも傷つけていく。少女たちの「好き」は、やがて落ち着きどころを見つけ、固着し、穏やかな雰囲気をまとうのかもしれない。子どもを生んだ翡翠のように。しかし、17歳の少女には、まだそれは難しい。
17歳。未来の方が、まだまだ圧倒的に広い。どんな未来が展開されようとも、時間を重ねていくごとに、17歳だった頃の自分は、全体の時間の中でどんどん薄まっていく。大人になるにつれて、子どもの頃の気持ちを手放していく。
でも、そんなことを少女たちに言っても仕方がない。17歳のその瞬間は、少女たちにはすべてだ。

『結局わたしたちは、非日常にはなりきれないのだ。どこまでも平凡な、ありきたりの、少女たち。鑑に映った自分自身に恋していただけの女の子』

感覚の鋭い者たちが、分かり合える奇跡。自分にしか届かないと思っていた言葉が、誰かにも届く奇跡。

『ようやくわかった。映画を観たり小説を読んだり、そういう完成が備わっていないひとたちに何を言っても無駄なのだ。きっと彼らは一冊の本を読みきったこともないし、古い映画の美しさも知らないのだろう。そういう世界の素晴らしい部分を何ひとつ知らないし、これから先も理解することはないのだろう。なんて、かわいそうなひとたち。』

少女たちよ。自信を持って、輪から離れればいい。確信と共に、孤独を選べばいい。どうせ、大人になれば、みんな、のっぺらぼうの、同じにんげんになってしまうのだから。

『大人はみんな馬鹿だ、と思う。じぶんが大人だと信じている人間は、どうしようもなく馬鹿だ。世界は自分の思うままに動いているだなんて、どうしてそんな風に思えるのだろう。なにもかもうまくいっていると、どうして信じこむことができるのだろう。こんなにも、ままならないのに』

こうやって、大人になることへの不安を吐露するのだ。
イメージの表現が絶妙だ。著者が描いているのは、人でも場所でもないように思う。著者が描き出しているのは、登場人物たちの周囲を取り巻く空気そのものだ。無色透明、臭いなし。そんな空気に、色を感じ、匂いを嗅ぎ、撫で、耳をすまし、舌を這わす。そうやって著者は、見えないはずの、触れられないはずの、どうやっても伝えられないはずの空気そのものの輪郭を捉えようとしているように思う。
そして、著者が描く「空気」は、「今っぽさ」を内包する。
「今っぽさ」を表すような、具体的な固有名詞はほとんど出てこない。けれども本書は、どうしようもなく「今っぽさ」がにじみ出る。それは、僕らが今こうして息をしているこの世界と、小説内の世界が、同じ地続きにある、そんな風に思わせてくれるからかもしれない。
このどうしようもない「今っぽさ」が、本書を切実なものに仕立て上げる。過去の話でも、未来の話でもない。過去の自分の体験と似ているわけでもなく、未来に自分に起こるかもしれない出来事を予感させるのでもない。まさに僕らは今そこにいて、そこで体感している。そういう圧のようなものが、紙幅から押し寄せてくるようにも思う。この作品は僕らを「今」に引きずり込もうとする。それは、今を生きている実感のない人であればあるほど、強く感じられるものかもしれない。
一読して、窪美澄「ふがいない僕は空を見た」を連想した。どちらとも、「女による女のためのR-18文学賞」を受賞してのデビューだ。
「ふがいない僕は空を見た」は、絶望から抜け出すためにもがく若者が描かれる。どん底にあって、それでも生きている。生きていると叫ぶ。私はここにいるんだと主張する。その切実さが絶妙に切り取られていく。
本書は、「ふがいない僕は空を見た」を連想させる物語だが、作品の有り様は大分異なる。本書は、ぬるま湯のようなほどほどに満たされた日常の中で、捉えどころのない空白に気づいてしまった若者たちの物語だ。絶望的な境遇に生まれたわけでもない。日常に不安が渦巻くわけでもない。未来への希望が持てないわけでもない。しかしだからと言って、平穏なわけでもない。
少女たちは、ある一定の平凡さを身にまといながら、緩やかに孤立する。世界の輪郭を狭めていく。そうする中で少女たちは、空白に気づく。自分がずっと抱え続けてきた空白に。あるいは、空白と再会する。消し去ったとばかり思い込んでいた空白と。

『いつか大人になってしまったとしても、この瞬間に十七歳のわたしたちがたしかに存在していたことを、いつまでも覚えておけるように。わたしは見つめつづけた。』

僕はここまで、とある事実を伏せたまま文章を書いてきた。やはり、それには触れないことにする。本を見れば分かってしまうけど、余計な先入観を持つ必要はない。凄い新人が現れたものだ。これからどんな作品を生み出していってくれるのか、楽しみで仕方がない。やはり、「女による女のためのR-18文学賞」は、異才を発掘する場となっている。物凄いきらめきを放つ新人の登場です。是非、心して読んでみてください。

雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ」


教場(長岡弘樹)

内容に入ろうと思います。
本書の舞台は、警察学校。様々な経歴を持つ人間が、様々な理由を胸に抱きながら、この警察学校にやってくる。携帯電話と免許証は取り上げられ、毎日提出する日記に「事実ではないこと」を書くと即刻退校処分。恐ろしく厳しい環境の中で煮詰められていく悪意が発露し、切れ者の教官である風間がそれを様々に裁く6編の連作短編集。

「職質」
ある警察官に命を救われ警察官を目指す宮坂。彼の命を救った警察官の息子が、たまたま同期としてこの学校にいる。平坂は、あまり出来のいい男ではない。いくつかの職業を流れて、こうして警察学校にやってきたようだ。
風間は宮坂の能力を見抜く。「なぜ、わざと下手なふりをした」

「牢問」
インテリアコーディネーターだったしのぶは、学校内では沙織と仲良くしている。大柄で太めの眉毛。沙織はある授業中倒れた。脅迫状が届くようで、心配で睡眠不足なのだという。
しのぶは沙織に、取り調べの極意を教える。江戸時代に行われていた牢問という拷問。どんな人間でも、自白してしまう。

「蟻穴」
白バイ隊員を目指している鳥羽には、動いているものの速度を瞬時に聞き取る能力がある。ちょっとしたきっかけで仲良くなった稲辺は、計算が得意だ。自分のせいで、稲辺にまでしごきが飛び火してしまった。こういうことがないようにしなくては。
日記に嘘を書いてはいけない。このルールは絶対だ。

「調達」
元プロボクサーの日下部は、警備勤務の最中、相棒の樫村に絡みつく。成績のよくない日下部は、スパイのように学生たちの悪事を教官に注進していると陰口を叩かれていることは知っている。
今学校内では、小火騒ぎの犯人探しが行われている。犯人が名乗り出なければ、連帯責任でみな苦しい思いをする。

「異物」
由良は、講習会の準備をコンビを組む相手に押し付けて、床屋にやってきた。そのまま四輪の運転技術講習会に向かう。車は好きだ。運転には誰よりも自信があると言っていい。
指名され、車に乗り込む。目の前を、何かが横切る。

「背水」
都筑は、ちょっとしたことから、文集を書かせ集める係を押し付けられた。卒業試験が近いが、都筑は特に心配していない。問題なく優秀な成績を残せるだろう。
理由も分からないまま、風間に呼び出された。「いつにする?」

というような話です。
なるほど、これはなかなか面白い作品でした。舞台設定やミステリとしてのひねくれ方が、これまでにないタイプの小説に仕上がっていると感じました。
まず、警察学校という舞台設定が良い。この作品は、広い意味で捉えれば警察小説ということになるのだろうが、実際の設定は学園小説に近いと言えるだろう。
しかし、じゃあ青春小説なのかというと、そういうわけでもない。何故なら、登場人物たちが決して「若者」ではないからだ。警察学校には、高校を卒業したばかりの人間もいるのだろうけど、本書ではそういう人間はあまり描かれない。大学出というのはいるだろうけど、それ以上に物語に足跡を残すのは、転職組である。元々別の仕事をしていたけれども、何らかの事情で警察官を目指すことにした人たち。そうすると、自然と年齢層もばらついていく。
さらに、警察学校という特殊さが、本書を青春小説にはしない。警察学校は、恐ろしく厳しい規律によって日常が支配されていて、誰もが窮屈さを抱えている。私語が許されていなかったり、罰としてランニングを科せられたりと、プライベートで学生たちが話をするような機会がそう多いわけではない。そういう特殊な環境が舞台だ。
これまで警察小説はそれなりに読んできたし、作中に「警察学校」という文字も出てきたと思うけど、少なくとも僕は、警察学校の描写が描かれる作品というものを読んだことはないように思う。本書を読んで凄く納得したことは、なるほどこのようにして『警察官』や『刑事』が要請されるのか、ということだ。警察の仕事というのは、非常に特殊で、経験がものを言う世界だと思う。なんとなくそれまで警察小説とか読んでても、元からこういう素質がある人が実践に投入されてすぐさま出来るようになるんだろうなぁ、とぼんやり考えていたと思うんだけど、そりゃあそんなわけはないのですよね。警察学校というメチャクチャに厳しい場で、相当に様々な訓練を積み上げていくからこそ、警察官や刑事というのが生み出されていくのだな、ということを初めて実感出来ました。
しかし、警察学校の特殊さは、この一文ですべて表すことが出来るだろう。

『必要な人材を育てる前に、不要な人材を篩い落とす場。それが警察学校だ』

適性がないと判断された者は、すぐに追い出されていく。適性があるように見える者であっても、まったく予想もしなかった方向からグサリとやられることもある。警察官や刑事の世界は、死と隣り合わせだろうし、憧れだけでどうにかなる世界ではないと思っていたけど、警察学校という場から既にそのスタンスが徹底されていて、その雰囲気が凄く伝わってくる作品だった。
本書は、ミステリ的にもなかなか面白い作品だ。
本書で提示される謎の特徴は、解決されるまで謎が何であるのかハッキリしない、ということだろうと思う。どの短編でも、なんとなく気になる出来事や違和感が描かれる。が、それのどれがメインの謎であるのかというのは、読み進めていてもよくわからない。もちろん、それらはつながり合っているわけなのだけど、謎の本質がどこに隠されているのか、というのがハッキリとわからないようになっている。
そして解決と同時に、「なるほど、これこそが謎だったのか!」という、普通のミステリとはちょっと違った驚きがもたらされることになる。昔読んだ京極夏彦の「巷説シリーズ」でも似たようなことを感じたことがあったけど、これはなかなか面白い趣向だと思った。
だからこそ、内容紹介が書きにくくて、どの部分を切り取ればいいか悩んだ。謎がなんなのか分からない、というのが一つの魅力なのだと僕は思うから、謎そのものを明確に提示してしまうわけにもいかない。かといって、謎を描けないと内容紹介はやりにくい。そのバランスは、こうやって感想を書いたりする時には難しいなぁ、という感じがしました。
そしてその謎解きには、風間という切れ者の教官が深く関わっていくことになる。この風間という男が凄いのだ。風間が何を考え、どういう意図で行動をしているのかというのも魅力的な謎の一つだ。風間が何を問題だと捉え、どのようにそれを察知し、そしてどうやって解決(解決と呼ぶには相応しくないものもあるかもしれないけど)に導くのか。その手腕の見事さには惹かれる。
柳広司の「ジョーカーゲーム」というシリーズを連想した。「ジョーカーゲーム」は、<D機関>と呼ばれる、陸軍内に極秘裏に設立されたスパイ養成機関を舞台にした作品で、結城というのが<D機関>を立ち上げた伝説のスパイだ。本書の風間と、「ジョーカーゲーム」の結城には、なんだか近いものを感じる。
警察学校という、これまでなかなか描かれたことのない異色の舞台設定の中で、警察官という特殊な仕事を目指すために集まった者たちの様々な人生が、ミステリの調べに乗せて描かれていく。変わった方向から叩きつけられるように見えてくる謎と、風間という底の見えない男が導く解決が見事に嵌っている作品だと思います。是非読んでみてください。

長岡弘樹「教場」


暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出(綾瀬まる)

僕がブログを書き始めてから、もうすぐで丸9年のようだ。
その時々でたぶん、感想の書き方は変わっていると思う。意識的に変えているつもりはないのだけど、その時その時で、何を伝えたいか、どう伝えたいかということが変わっていっている感覚はある。
今僕は、「出来るだけ本の雰囲気を伝えられるような文章を書けたらいいな」と思っている。もちろん、到底そんなことは出来ていないのだけど、意識としてはそんなことを考えている。その本を読んで、僕がどう感じたのか、何を考えたのか、ということが伝わることよりも、その本を読んでいない人が、その本の雰囲気を感じ取ることが出来るような文章が書けたら素敵だ。淀川長治さんが、「この映画はこういう構成で、こんな人が出てきて、こんなところが面白いんですよ」と喋っているような、そういう文章を書きたいのではない。僕は、映画の予告編のような、それを見るだけで映画そのものの雰囲気を感じ取れるような、そういう文章が書けたらいいなぁと意識だけはしている。
なんでこんな話をし始めたのか。
それは、本書を読んで、本書についてはそんなこと、どうやっても出来ない、と感じたからだ。本書について、どんな風に何を書こうと、本書の雰囲気はまったく伝えられないだろう。きっと、ほとんど、何も。読み始めてすぐ、そう思った。この作品は、実際に自分がその前に立って向き合わなければ、作品が持つ圧力みたいなものは一切感じられないだろう、と。もちろんどんな作品だってそうだろう。実際に対峙しなければ伝わらないだろう。しかし本書は、それが圧倒的だと感じた。
そして同時に僕は、きっと著者もそう思ったのに違いないと思った。これも、読み始めてすぐ思った。著者は、圧倒的な現実を目にした。その場にいて、目だけでなく、鼻でも耳でも舌でも皮膚でも、常に何かを感じ続けた。その経験を文字に変換する。
無理だよ。たぶん、そう思ったはずだ。
それでも著者は、自分が感じたことのほとんどを伝えることが出来ないと分かっていて、それでも文章を書いた。まずそのことだけでも称賛に値するだろう。よくぞ書いてくれた、と思う。
第三章で著者は、Tさんという編集者と共に福島入りをする。本書の担当をしてくれた人だ。その人に、第一章「川と星」で書いたある場所へと行った時のことだ。

『おそらくTさんは、日本で一番「川と星」に目を通してくれた人だろう。そんなTさんにすら、見たものを伝えられていない、書けていないのだと、その横顔を見ながら痛感した』

著者はそう述懐する。さらに別の現場での編集者の反応に対して、こんな思いも抱く。

『衝撃を受けた様子で壊れた家々を見上げるTさんを見ながら、私は妙な歯がゆさを感じた。人の手で片付けられた後の風景を見て、ショックを受けないで欲しい。はじめの状態は、もっともっとひどかったんだ。そう思った後すぐに、私があまり手をつけられていない地区にボランティアに行ったことなんてほんの偶然じゃないか、と自省する。けれど、もっと、違うんだ、もっと、見えないものがあった、今見ているものよりも辛い状態だったんだ、と袖をつかみたくなる。もちろん、Tさんにはなんの落ち度もない。難癖をつけているのは私の方だ。混乱したまま、私は無口になった』

それでも著者は、文章を書いた。雑誌に書いた文章を書籍化した。感じたことをすべて表現しきれるわけがない、それでどれだけのものが伝わるだろうか、さらに自分は一旅行者として被災地を通りがかっていただけだ、そんな人間が書く文章などどんなものなのだろう。そういう葛藤が渦巻いただろう。それでも著者は、文章を書いたし、書籍化した。まずそのことを、称賛したいと僕は感じた。

著者は3月11日のあの日、二泊三日の東北旅行の二日目だった。あるきっかけで知り合った福島の友人と待ち合わせをしていたのだ。
線路沿いが燃えている、というアナウンスの後、電車が揺れた。横転するかと思うほどの強烈な揺れだった。看板で駅名を確認する。「新地」という、知らない駅名が書かれていた。
それから著者は、電車から離れ、津波から逃れ、避難所で向かい、縁あって個人宅へとお邪魔させてもらい、数日被災地に留まった後、どうにか命からがら自宅へと戻った。

『私はこのとき確かに自分の死を思った。全身の血の気が引き、凍え、それなのに頭は痛いくらいに冴えていた。死ねない、死ねない、と鐘を打つように頭の中で繰り返して、死にものぐるいで坂の上の中学校に辿りついた。』

『なるべく人のいない方向へ向かった。暖房の入っていない渡り廊下へ出ると、さすがに誰も眠っていない。壁にもたれて、携帯を開いた。家族との最後のメールを眺め、「新規作成」の項目を押す。
がくがくと震える指で遺書のはじめの二行を綴り、私は携帯の画面を閉じた、書けなかった。いやだった。どうしても、どうしても。』

著者は、この作品を書くのに、多くの決断をしたはずだ。その一つに、「出来るだけ、自分の気持ちを、嘘偽りなく、正直に書く」という決意があったはずだ。
一旦落ち着いた後、ボランティアに参加することにした著者は、こんな不安を抱く。

『出発前夜、支度を終えると少しずつ腹の底が冷たくなり、落ち着かない心地になっていった。
こわかった。二泊三日。また、なにかが起こるのではないか。家に帰って来れなくなるのではないか、ひどい目に遭うのではないか。根拠のない、条件反射のような不安感だ。これからたくさんの人が住み、日々生活している場所に行くというのに、なんて失礼な感覚なんだろう。頭ではわかっている。けれど、止まらない』

『車を降りたときから、私は防塵マスクをつけていた。うすぼんやりと、怖かったのだ。いくら線量が低くても、やろうと自分で決めたことでも、怖かった。二十七キロという数字がただ怖い。』

『無意識に息を細めてしまうことが申し訳なくて、やるせなかった』

また著者は、ボランティアを終えた後、農家の方からタマネギをもらう。

『笑ってお礼を言いながら、わたしは一つのことしか考えられなかった。原発三十キロ圏内のタマネギ。依頼主の男性には、善意しかなかった。全国から無性でやって来たボランティアに、自慢の野菜をせめて土産に持たせようとしてくれたのだろう。グループのメンバーは貰う人、貰わない人、半々だった』

『ボランティアセンターへ戻り、解散した後も、私は手にしたタマネギのことで頭がいっぱいだった。正直なところ、原発三十キロ圏内で作業をしたこと、さらに線量が高いと言われる側溝の掃除を行ったことで、心がすでにすくんでいた。食べるか、食べないか、どうしよう。おそらくこのタマネギを食べたぐらいで私の人生に変化が起こることはない。それでも少し胸が濁る。』

『善意で野菜をくれた男性の「安全だよ」を信じきることが出来ない。つまり私は「出来る限り福島県の農家の方を支援したい」などと言ってきたにも拘わらず、「原発から五十キロ離れた農家の野菜は食べても、二十七キロの農家の野菜は食べたくない」と根拠のない差別を行なっているのだ』

正直、書かないと決めれば、書かないでいることも出来たことではないかと思う。自分が目にしたもの、人から話で聞いたこと。それだけでも、十分圧倒的な力を持つ。自分の嫌な部分は、汚い気持ちは、隠したままでも、きっと文章は書けたはずだ。でも著者はそうしなかった。自分の弱い部分、揺れている部分、迷う部分、決めかねる部分、理性ではわかっているけど感情がついてこない部分。そうしたことを、出来るだけ忠実に、嘘をつくことなく書いていく。
これは、辛い作業だったはずだ。傷口に刃物を突き立てて無理やり膿を出すようなものだろう。しかもその行為は、膿を出してスッキリするためになされるわけではない。膿は恐らく、これからも長いことずっと出続けるだろう。ちょっとした処置をしたぐらいで止まるものではないと、著者もわかっているはずだ。それでも、傷口に刃物を突き立てずにはいられない。

『震災後、関東に帰りついた私は日々重苦しい自責の念にとらわれることとなった。あんなに親切にして貰った人たちを置いてきてしまった、という罪悪感だ。自分だけ安全圏に逃げた、という後ろめたさもある。理性では、あそこに残っていてもなにもできない、そばにいる人の負担になるだけだ、とわかっている。けれど憂鬱は晴れず、罪悪感を払拭するように震災にまつわるルポを書き、募金にためにと仕事に打ち込んだ。
ひと月経ち、ふた月経つにつれて、今度はだんだん自分の意識が被災地から遠ざかっていく恐ろしさを感じるようになった。まるで薄皮のむこうの出来事のように、ニュースや新聞でいくら被災地の情報を目にしても、「大変そう」と平面的に思うばかりで、感情が伴わなくなって来たのだ。』

そんな罪悪感を抱く必要はない、と答えるのは簡単だ。それに、著者だって、それはわかっている。けれどもそれは、まるで刻印のように、著者に焼き付けられてしまったのだ。刻印は、洗っても拭いてもこすっても消えない。そういうものを著者は内側に抱えてしまった。刻印のある者とないものの差、そしてさらに、被災地に生きる刻印を持つ者たちとの差。そうした差異を著者は、刻印を持つ者の一人とした感じ、生きていくことになる。

『私の内側の、世界とはこういうものである、という認識の安定を司る部分がばらばらになってしまった気分だった』

被災地で著者が感じること、また、そこに生きる人たちが感じること。日常になってしまっていることと、それが日常になってしまっていることへの強烈な違和感。それらを著者は、素直に切り取っていく。

『震度三ぐらいの揺れは、もう会話にすら上らない』

『それぞれが見てきたもの、感じたことを語れば、すぐに誰かの死や恐ろしい虚無に行き着いてしまう』

『蠟燭の細い火は、余計に室内を暗く感じさせた』

『あんなにおいしいご飯は食べたことがなかった』

『けれど、エトウさんを探す伝言板のメモは、その後もずっと剥がされなかった』

『店内に残っている食べものは駄菓子のグミが三袋とホワイトデー用だろうラッピングされた六百円のチョコトリュフが一箱だけだった』

『つまり、私がショックをうけている光景は、すでにたくさんの方が三ヶ月かけて片付けをした後のものなのだ』

『「解体撤去」の紙が貼られた玄関の板壁には、黒のマジックで丁寧な字が大きく書き込まれていた。
「カタフチ家 築百年 長い間、お世話になりました」
別れの言葉のそばには、箒が三本、きちんと並べて立てかけられていた』

『一つ一つ、転がる品を手にとって捨てていくうちに、家主の像が浮かんでくる』

『捨てていいものだとは思えなかった。どうすればいいのか分からなくて、手に持ってしばらくうろついた後、ためらいを押し殺して燃えるゴミの袋にそっと入れた』

『少しずつ見えるスペースが増えてきた室内を眺めながら、家というのは記憶の蓄積なのだ、と痛いくらいに思った』

その中で、著者がもっとも衝撃を受けたのが、自宅でしばらく面倒を見てくれたショウコさんの弟さんの言葉だ。

『はじめは、なにも気づかなかった。景色を見ながら、弟さんが言った。
「本当は、ここから膿は見えなかったんだ。防風林に完全に隠れていた。それに林の手前には、住宅地があった。もう、なんにもないな」
ぞっとした』

著者は被災地で、無数の善意に助けられてどうにか生き延びた。そしてその人達が語る言葉の強さもまた、心を打つ。

『私たち、あの津波を生き残ったんだから、ぜったい運が良いわよ。だいじょうぶ、死なないわ』

『恩なんて考えないで、向こうに帰ったら、こっちのことはきれいさっぱり忘れていいよ。しんどい記憶ばかりで、思い出すのも辛いでしょう』

『放射線量の低い地域の作付けについては、補償は行き届かないでしょうから。補償がされないってことは仕事を続けない限り無収入になるってことです。でも、作ったお米が仮に安全基準を満たしていたとsても、売れるかどうかは分かりません。それでも、補償の範囲が明確にならない以上、やっていくしかないんです』

著者は、震災で強烈な体験をし、被災地と少しずつ関わる中で、自らの内側で様々な考えを渦巻かせて、こんな風に考えるようになる。

『私は逆に、無理なのだ、と思った。この、放射性物質という見えない恐怖に、国民全員が「理性的に、落ち着いて、差別が起こらないよう冷静な対応をすること」は、出来ないのだ。安全か、安全じゃないか、どこまで安全か、何年経っても安全か、その情報は、本当か。こんなグレーゾーンを抱え込み、それでも全員が理性的に振るまい、被災者と苦痛や不安を共有できるほど、きっと私たちの社会は成熟していないのだ妄想がふくらみ、不信が起こり、その鬱憤がこうして、ただでさえ日々辛い思いをしている人へ向けられる』

虚しい結論だ。しかし、刻印を持つ著者は、その結論の絶対性に、抗うことが出来ない。刻印を持たないものは、きっと、なんとでも言うことが出来るだろう。良い悪い、すべきすべきでない、正しい間違っている。しかしそれは、たぶん、極限状態では意味をなさない言葉だし、そして被災地は、まだ、極限状態が継続しているのだ。極限状態から脱する日など、果たしてくるのだろうか。
本書を読んで何を感じるか、それは自由だ。著者も、気持ちや価値観を押し付けるつもりはないだろう。何をどう感じてもいい。何も感じたくなければ、読まなくてもいい。僕は、まだまだ知りたい。自分の可能な範囲で、知りたいと思う。そして、ささやかにではあるけれども、自分が知ったことと同じことを、誰かも知ってくれたらいいな、と思う。

綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出」


ぼくは本屋のおやじさん(早川義夫)

内容に入ろうと思います。
本書は、当時はさほど売れなかったらしいけど、現在では「幻のロックグループ」と称される「ジャックス」というバンドのリーダーとして活躍していた著者が、23歳で音楽の世界から足を洗い、書店経験を積んでから書店を開業する。そこで発行していた、お客さんからの投稿を中心とした「読書手帖」(今でいうフリペみたいなものかな?)に載せた文章を中心した作品です。
本書を一言で説明すると、「実に品のある愚痴」という感じです。著者は、最初から最後まで、まあこれでもか、というぐらい愚痴っている。別に、業界紙に載せている文章ではない(そういうものもちょっとはあるらしいが)。基本的に、自分の店のお客さんに見てもらう媒体に載せているのだ。そこで、まあ愚痴る愚痴る。新刊が入ってこないだの、客注っていって出したのに入ってこないだの、神田村での商品の確保が大変だの、という業界に関することなら、まあまだ分かる。けど、同じ調子で、お客さんへの文句も書いちゃうんだから、大したもんだなぁ、と思います。いいの?そんなこと書いちゃって、いいの?という感じである。
とはいえ、先ほども書いたように、「実に品のある愚痴」なのである。鋭い刺を持った、触れれば切れてしまうような愚痴ではない。耳障りではない調子で愚痴が語られていくので、なんとなく落語とかラジオみたいな、要するに耳で楽しむ娯楽みたいな雰囲気を持っている気がする。ウダウダと愚痴っていうだけなんだけど、別に不愉快ではないし、なるほどなるほど、という感じがする。それは、僕が書店員だからという理由だけではないだろう。書店員じゃなくても、著者のことの愚痴に思わずウンウンと頷いてしまう人はいるのではないだろうか。
それは、著者の本への愛情がにじみ出てくるからだろう。

『本なんてのは、読まなくてすむなら、読まないにこしたことはない。読まずにいられないから読むのであって、なによりもそばに置いておきたいから買うのであって、読んでいるから、えらいわけでも、知っているから、えらいわけでもないのだ』

全体的に、こんな感じの調子である。本が好きなんだろうなぁ、ということがにじみ出てくる文章ではないか。そういう著者が、次のような文章を書くからこそ、不愉快には思わないのだろう。

『だって、「私は何を読んだらいいのでしょうか」とか、「この本の類書は何ですか」などと、人にたずねて、簡単に答えを得ようなんてこと自体、えばれたことじゃないんだし、本来は、本は、自分で探し、時には、捨てたくなるような本を買ってしまったり、そうした失敗を重ねながら、毎日失敗を重ねながら、ひとりで本を探すことが本当の本好きなのだと僕は思うのだ。だいたい、◯◯の入門書は◯まるである。なんてことは、人によって絶対違うのだから、読書相談を受け持つ方も受け持つ方である。』

『本の売り方に、うまいへたがあるように、本の買い方にもうまいへたがあると思う。本の買い方のまずさや売り方のまずさを、僕は始終身にしみているから、どういう売り方やどういう買い方をすればよいのかなどということは、いまだもってわからない。ただ、言えることは、たと、相手の売り方がへたでも、飼い方さえうまければ、たとえ、相手の買い方が下手でも、売り方さえうまければ、お互いに、もっと快く、本は流れていくだろうと思うことである。そして、それは、決して技術なんかではない』

なんかいいじゃないですか、こういうおやじさん。確固たる主義主張を持って、強く自説を展開する、なんてのとは全然違う。芯の部分はきっちりと固まっているのだろうけど、その周辺では迷いに迷い、何が正しいんだか全然わからなくって、それでも何か言わずにはいられない、というような雰囲気がすこぶる出ているではないか。
本書を読むと、出版社のあり方・出版流通・書店の作業量などなど、まああらゆる不満がワンサと描かれるわけなんだけど、面白いなぁ、と思うのは、本書で描かれている不満は、現代でもそのまま通用する、ということだ。本書の発行は、1982年。僕が生まれる前の年である。30年以上も前なわけですね。もちろん、改善されている部分もあるだろう(僕がいる本屋は、本書で描かれるような本屋よりもまだ規模が大きいだろうと思うので、同列には比較できないのだ)。とはいえやはり、30年前から業界の問題だったことは、未だにずっと問題なんだなぁと、なんだかおかしくなってしまいました。

『お客さんが発売前に注文を出す。うちで一冊確実に売れるとわかっていても、発売日と同時には入ってこない。いくら実績がなくとも、いくら新潮社にうちが貢献してなくとも、一冊注文を出したのだから寄越せばいいじゃないかと誰でも思うでしょう。まともに考えればおかしいと思う何日か遅れて、どうせ注文分がくるのなら、はじめから寄越せばいいじゃないかと思うのが普通である。くればいいけど、くるのかこないのか当てもないわけだから、書店が、大書店に本を買いに行くことになる。こんなバカなことがあるだろうか』

『いずれにしても、欲しいものはいっこうに来なくて、特別ほしくもないけれどというものはうんとくる。そのアンバランスな送品と種類の多さに書店は悩まされるわけである』

『ただでさえ、新刊配本が適正でないうえに、予約数や注文分がこないような、現物がいかなければ、ないと思って下さい式の、そんないいかげんなことを、版元や取次がしていると、同じように書店もいいかげんになってゆく』

『書店は文化の担い手だとか、書店は、本を売りだけではなく、知識も売る商売であるなんてことをいったい誰が言い出したのだろう。そんな、うぬぼれちゃっていいのだろうか。なにも、書店の人や読書サークルみたいな団体が、良書、悪書を選び出し、良書が売れなくなったねなんてつぶやく必要がどこにあるのだろう』

『よくこんな話を聞く。嘘か本当かは確かめてはいねい。しかし、この噂は、実によく耳にするのだ。取次内で、中小書店の注文分から、特販の係が本を抜いてしまうという話である。どこで抜いてしまうのかはっきりしないが、番線担当者のところに行き着くまでに抜かれてしまうらしい』

『本をどこから出そうが、どの取次に卸そうが、どの本屋で売ろうが、そして、読者が、どこで買おうが、売れさえすれば、手に入りさえすれば、なんでもいいというのが寂しい。金太郎飴のような本屋をつくらせている原因は、まずは、出版社にあるのだ』

『(僕ができないからそう思うのかもしれないが)数の少ない本をつきあいのある書店に優先するというのは人情であろうが(だから、もしかしたら気がつかないえれどもうちもそういう恩恵を受けているかもしれないが)、それはいやだ。明らかに自分の失敗で本が入らないのなら、当然のことだが文句はない。ただ、そうではないのに入らないと、僕はいまだに頭にくる。
仕入能力とか販売能力をもしも問うならば、そんなパイプの太さなんか、本来は関係ない。もっと事務的であってほしい。僕たちは、本を売っているのであって、顔を売っているのではない』

なるほどなぁ、という感じである。今でも通用するような愚痴はあるし、さすがに改善されているだろうけどまだまだ完全にとは言えないという部分もあるだろう。いずれにしても著者は、色んなことに違和感を覚え、吠えていく。
とはいえ、ただ吠えているだけではない。取次はきちんと仕事をしている面もあると評価しているし、自分の店の努力が足りない面もあると認めてもいる。ただ、それでもどうしても納得行かないことが山ほどあるんだよ俺は、というような気持ちがズシンズシンと伝わってくる作品である。上品さを身にまとっているが、実に舌鋒鋭いのである、この男は!
さて、もちろん本書は、愚痴ばかりで構成されているわけではない。さすがに、そんな愚痴愚痴した作品というわけではない。読んでいると、「なるほど!」とか「確かに!」と思わされる文章もたくさんあるのだ。まずは、書店に関係するものからピックアップしよう。

『お客さんは欲しい本があればいいのであって、ない理由を知りたいわけではないのだ』

『いずれにしても、ないものを聞かれたり、時には不満をぶつけられたりするうちが花で、もう、なにもお客さんに期待されなくなったら、おしまいのようである。』

『実際、「本屋のやり方」という本があるわけじゃないし、こういう並べ方、こういう売り方をするのだというふうにきまっているわけでもなく、だから、店によってやり方はかなり違うようである。たぶん、これでいいのだろうという根拠も、たまたま、最初に見習ったところでのやり方をまねているにすぎず、本屋というのは、ひとろおちのしくみがわかればあとは応用であり、まったくきりがない仕事量をいかにこなすかというところにある。というよりも、実をいえば、そのうちの何を略してしまうかによって、それぞれの書店の違いが出てくる。』

『商売というのは、実際にお客さんが欲しがりそうなものを置くわけで、それが、限られたスペースの中で置くわけだから、あれもこれもは無理だけど、本屋の商品構成というのは、その本屋に集まり、お客さんによって、きまるはずだと思うのだ。お客さんの望むものが、結局は置かれていくのである。だから、もし、この本屋は、意外にいい本が揃っているなというのは、けっして、その本屋の主人がいい趣味だからなわけでもなく、たまたま、そこに集まるお客さんが、いい趣味だったわけで、だから、もし、この本屋は、ロクなものしかないなというのなら、その本屋に集まるお客さんが、ロクなものしか求めないからだといっても間違っていないと思う。そこに集まるお客さんが、長い時間をかけながら、無意識に、棚構成に参加しているのである。そういう、お客さんを持てるか持てないかの違いだけなのだ』

『いや、たしかに、本の中には、本じゃないようなものもある。これは、売れるな、と思った本が売れれば楽しいし、どうして、こんな本が売れるんだろうという本の売れ行きが止まれば、安心するし、たぶん、売れそうもないな、でも、一冊ぐらいは置いておきたいなという本が、いつのまにか売れてくれれば、これ、誰買ったの、なんて聞くこともある。そういう、地味な本が、売れて行く時、喜びがある。』

『良書っぽい本を置いているから、いいっぽい本屋ということではないのだ。本が好きになるきっかけなんてなんでもいい。それぞれの人がそれぞれのものを自由に選び出せるような店づくりをすることだけが、売り手側の仕事なのではないだろうか。一冊の本が、著者から読者へ、その間に位置する出版社、取次、書店の人たちの仕事というのは、ただの運び屋なのである。運び屋として完璧かどうかということである。すくなくとも、僕や僕のまわりは、正確でスピーディで、適正な運び屋としてまだまだだから、中身の好き嫌いは言えるけれど、良い悪いは言えないのである』

『(大型書店の出店に)反対する気力があるならば、普段から、出店されぬようどこにも負けない店づくりをしておくべきなのだ。うぬぼれているわけではない。寂れたら寂れたで、それもいいではないかと僕は思う』

続いて、書店の話というわけではないものをいくつか。

『腹が立つということは、決して、その人に腹が立つということではなく、自分がうまく、その場をまーるくすることができないことに、腹が立ちイライラするのである』

『人は、よく、ああはなりたくないよ、と言うけれど、本当は、なりたくないのではなく、出来ないからしないのであって、したくないからしないのじゃない。したくないとか、なりたくないとかいう、そんなかっこいいもんじゃない。出来ないのであり、もう、なれないのである』

『気弱なものが遠慮して、図々しいものだけが得をするような、そんな世界は、できることなら、つくりたくない』

引用した文章を読んでもらえたらわかると思うんだけど、一文がとてもながい、ダラダラした文章で綴られていく。決して、巧いとは言えない文章だろう。ただ、著者のキャラクターには合っていると思う。と書くと、この著者と面識があると誤解されそうだから、違う表現にしよう。こういうダラダラした文章であることで、読者の側に立体的な著者像が浮かびやすい、とでも言ったらいいだろうか。なんとなくこの独特な文章が、作品全体に巧くハマっているな、という感じがする。
30年以上も昔の書店の話ですが、不器用なんだけど主張はしたいというような、ちょっとヘンテコな「本屋のおやじさん」が、日々の出来事にあーでもないこーでもないと書いているその感じが結構素敵です。お客さんとの話も面白くて、特に、ある超個性的なお客さんとの、バトルと名付けてもよいような日々は、スリリングでさえありました。是非読んでみて下さい。

早川義夫「ぼくは本屋のおやじさん」


OCICA 石巻 牡鹿半島 小さな漁村 の 物語(つむぎや)

内容に入ろうと思います。
本書は、地震の爪痕が残る。宮城県石巻市牡鹿半島西部に位置する牧浜集落という小さな漁村を舞台にしたもbの語りだ。カキの養殖によって生計を立てていたが、津波によって壊滅的な被害を受け、復興にはまだまだ時間が掛かる。
ここから生まれたアクセサリーがある。その名も、「OCICA」という。鹿の角を利用したものだ。本書は、「OCICA」がどのように生まれ、そしてその物語がどのように日本中に広がっていったのかを描いた作品だ。
「OCICA」をプロデュースしたのは、友廣裕一が代表を務める「つむぎや」。この「OCICA」をプロデュースするために組織された。友廣裕一は、大学卒業後に日本全国の農山漁村を訪ね歩き手伝いをしながら、地域に身を投じる形で地域社会を学んできた。震災後宮城入りした友廣裕一は、自分に何か出来ることはないかと考え始める。
物資による援助など、緊急支援が一段落した後、被災地では「自分たちでも何かしたい」ということが一つの課題として現れ始めた。

『現地の人たちと交流していく中で、「ただ支援を受けるだけでなく、自分たちでも何か貢献したい」「工場がやられて加工の仕事ができないから、新しい仕事がしたい」「一人で過ごしていると、どうやって時間をつぶせばいいかわからない」といった声を耳にした』

『しばらくすると、客観的なニーズなどの状況も、一人ひとりの心境も、自分の目から見える世界に関しては確実に変化していった。次に必要なものは「仕事」ではないかと感じた。収入という意味合いもあるが、それよりも、”役割としての仕事”というほうが適切だったように思う。
生きることを肯定するためには、「あなたが必要です」という言葉を並べるだけでは限界がある。何かモノや差0ビスを差し出して、それを受け取った人が、感謝やよろこび、場合によってはお金で返してくれたとき、初めて、自分の役割が実感できるものだと思う。しかし、被災地と呼ばれる場所には、そうした機会が著しく損なわれていた。産業が壊滅してしまったのはもちろん、支援物資や炊き出しが次から次へとやってきていたというのも一因としてある。特に、女性の役割が見えづらくなっていたように感じた。それがOCICAが生まれるきっかけだった。』

「つむぎや」と地元の女性部の方を繋げてくれた区長も、こんな風に語る。

『全国から物資や人が集まって、ありがてぇことですが、それに甘えるばっかりになっでは困る。地元の人間がまず立ち上がらねぇと』

OCICAは、鹿の角を丸く切り、そこに漁網の補修糸をドリームキャッチャーのように巻きつけたものだ。デザインは、デザインを通して社会の問題を解決することを目指す「NOSIGNER」の太刀川英輔氏。鹿角という難しい素材を、商品として価値があるデザインに仕立て上げ、さらに浜の女性にも加工しやすいデザインに落としこむ。このデザインの力があって、初めてOCICAは軌道に乗ったと言っていいだろう。
この太刀川英輔氏は、被災地で役立つオープンデザインWiki「OLIVE」の代表でもあるという。以前、「災害エバノ」というものを作った際に「OLIVE」の情報も参考にしたのだけど、これは本当に有用なサイトだと感じた。本書を読んで、OCICAそのものにも強く関心を持ったが、この太刀川英輔氏にも惹かれた(あと、「つむぎや」の代表である友廣裕一氏にも)。
OCICAを作る女性たちの感想は様々だ。

『初めは地震がなかったけど、自分で一生懸命つくったものを、お客さんに買ってもらえて、よろこんでもらえるなんて本当にうれしいね』

『仮説にいると仕事もないし、どうやって時間をつぶそうかといつも悩んでいたけど、ここにくるとみんなと話せて、笑えるから元気が出るのよ』

『仮設の人はみんな近くだから、私ら離れた在宅組は遠慮してた部分もあったんですけど、今回のをきっかけに混ぜてもらえて、ほんと、うれしいんですよ』

『ずっと一人で寂しく過ごしてたけど、みんなと毎回作業するのが楽しくて、これが今の私の生きがいだよ』

『何度もくじけそうになったけど、みんながいるから私もがんばれたんだよ。津波は怖かったけど、津波があったからこうしてみんなと会えたんだもんねぇ。感謝しなくちゃね』

OCICAのプロジェクトについて話すとき、ビジネスの現場にいる方から「まだまだこれからだね」という反応をされることがよくあったという。確かにOCICAは小さな事業なのだが、規模を大きくするためにやっているのではない。そういう気持ちが、本書を書く動機の一つだったという。

『つむぎやとしても、売上を追求するのではなく、一人ひとりの動機を育むことにエネルギーを使うことができた。この事業の本当の目的は、利益を最大化することではなく、お母さん方の笑顔を最大化させることなのだ』

『OCICAのプロジェクトの価値とは、どれだけ商品を売っていくら稼いだかだけではなく、プロジェクトが生まれ、チームが育ち、仲間が増え、OCICAが多くの人々の手にわたっていく、そのプロセス自体にこそあるのだと思う。』

OCICAは、基本的に営業活動をほとんどしないまま広まったという。

『商品流通に関して、僕たちつむぎやは、これまで「営業」ということをほとんどしていない。それよりも周りの方々が自発的にルートをつないでくれたことが大きかった。ほとんどの販路が、人の縁―知り合いの紹介や、スタッフともともと縁があったお店とのやりとりによって開かれていったものだ』

『単なる「モノ」としての商品に留まらず、その背後にある「人」や「物語」の存在も感じさせる。それがOCICAの特徴であり魅力なのかもしれない』

『OCICAを「モノ」だけではなく、温度感のある物語として伝えていってもらえるような設計をどう組み立てるか。デザイン的な優位性はあるものの、何も知らずに買うには少々ハードルが高い。何万人というお客さんが訪れる大型店舗よりも、小さなカフェに置いてもらったほうがよく売れた、ということもあった。これは規模の問題ではなく、ていねいに物語を伝えてくれる人の存在があるかどうかだと思う。その人が媒介となって、きちんと伝えるためのディスプレイや言葉を生み出してくれるから、伝わり、手にとってもらえる』

本書にはコラムとして、OCICAのプロジェクトに関わっている人たちの文章がいくつか載っているのだけど、その内の「つむぎや」のメンバーの一人でもある多田氏は、

『誰のために、誰に向かって仕事をするか』

と問いかける。「誰のために、誰に向かって仕事をするか」を考えることで、そこに物語が生まれる。そうやって生み出された物語を、「モノ」と一緒に丁寧に届ける。世の中のありとあらゆるモノが、こんな風に売れるわけではないだろう。しかしやはり、これから「モノを売る」ということを考えた時、どんどんこういう方向に比重を移していくべきなのだろうと、僕は実感しつつある。そういう中で「つむぎや」は、『自分たちはあくまでもヨソモノ』というスタンスでOCICAと関わる。あくまでも主役は浜の女性たち。何かと何か(この場合は、売ってくれるカフェやお客さんと、浜の女性)を繋ぐ触媒のような存在を目指すこと。それは、僕の生き方の理想であったりもする。
本書は、手作業で造本しているのではないか、という本の造りになっている。OCICAのペンダントにも使われているのだろう漁網の補修糸で製本されているようにも見える。本の中身だけではなく、外側からも、何か伝わってくるものがあるように思う。ささやかなワンポイントとして、パラパラマンガがあるのも面白い。パラパラするとどうなるかというと、OCICAのペンダントに赤い糸が巻かれていく様子が映し出される。そういう、全体的な造りも面白いなと思います。
僕たちはこれまでずっと、マスからマスへ(大きなものを大きな集団へ)届けようとして、たぶんそんな風に成長してきたんだと思う。でも、そのやり方は、これからも通用するだろうか?僕は、ニッチからニッチへ(小さな物語を小さな集団へ)届けることこそが、これからの「モノを売る」ベースになっていくのではないかと思っている。そういう、自分の問題意識と重なる部分が面白いと思った。もちろんそれだけでなく、このささやかな物語を自分の内側に取り込んで、静かに育て、未来の自分の行動に繋がる何かを生み出すきっかけになるかもしれない、という感覚もある。先日、初めて震災後の福島にも行った(その記事はこちら)。自分の最近の意識は地方に向いている。OCICAのプロジェクトにも、注目して行きたい。
本書を読む前に、すでにこんなイベントに応募していたりする。

OCICA~人を介して伝わるアクセサリーと物語~

OCICAのペンダントを自分で作ってこようと思います。まだ若干残席が残っているようなので、興味のある方は是非。

「OCICA 石巻 牡鹿半島 小さな漁村 の 物語」


魔法科高校の劣等生1 入学編上(佐島勤)

内容に入ろうと思います。
本書は、小説投稿サイト「小説家になろう」上で、2008年10月から2011年3月まで連載され、絶大なる人気を誇り、それ故書籍化され、本もベストセラーになるという、なかなか稀有な形で世の中に出てきた作品です。Web発の本というのは、ブログ本でもコミックエッセイでも小説でも色々あるのだけど、書籍化されて物凄く売れるもの、というのはあまり多くはありません。しかも本書は、現時点で10巻までシリーズが出ていますが、現在も勢いがまったく衰えないほど売れまくっています。そういう意味で、なかなか凄い作品だなと前から思っていました。
物語は、司波兄妹が、国内最高峰の魔法科高校に入学するところから始まる。
本書の舞台は、「魔法」が科学的に解明され、かつて杖や呪文などによって呼び出していた「魔法式」を、機械的なデバイスで呼び出すことで様々な魔法を使いこなすことが出来る世界。ただし、「魔法師」と呼ばれる現代の魔法使いになるには適正があり、家系によっても大きく左右されると言われている。「魔法科高校」は国策高等学校であり、「魔法師」を要請するための高校だ。
司波兄妹が入学した魔法科高校には、成績が優秀な「一科生(ブルーム)」と、補欠扱いの「二科生(ウィード)」に分かれており、胸のエンブレムの有無で区別できるようになっている。
優秀な妹・司波深雪は「一科生」であり、入学式で新入生総代を務める。
方や兄・達也は「二科生」であり、補欠扱いだ。
深雪は兄である達也に、ブラコンと呼ぶには控えめすぎるほどの愛情を持っており、昔からそういう環境に身を置いていた達也としては、そんな深雪を巧いことあしらう術は身につけていた。
入学早々トラブルに巻き込まれたり、何故か生徒会と関わることになったりと、「二科生」とは思えないポジショニングをせざるを得なくなる達也。「二科生」として入学した「劣等生」である達也には、実は秘密があって…。
というような話です。
これが、予想してたよりも遥かに面白くてびっくりしたのでした。ライトノベルを久しぶりに読みましたけど、これはかなり大当たりだなぁ、と思います。
まず何よりも、世界観の設定が緻密すぎて凄い。本書の舞台は2095年という近未来であり、それゆえ、僕らが今住んでいる時代とは色んな点で違いがある。授業の受け方だったり、通学の仕方だったりという日常的なものから、「魔法科高校」という高校を設立しなければならない時代背景など、かなり細かなところまで設定が作りこまれている。実際のところ、物語が高校の敷地外で展開されることは非常に少ないから、そういう外側の設定についてはまだまだ輪郭が描けていないものも多いのだけど、既に描かれている設定だけでも、なんというか一貫性を感じられるような気がする。些細なことであっても、近未来が舞台なのだという配慮が行き届いているような気がする。
しかし、何よりも驚かされるのは、本書で描写される「魔法」の設定だ。
いやはや、この緻密さ加減は、ちょっと異常ではないかと思えるほどだ。
僕はSF作品が苦手なのであまり読まないけど、SF作品には、架空の設定を非常に緻密に織り上げている作品も多くあることだろう。僕は、ライトノベルもそこまで読んでいるわけではないから、あくまでも想像でしか言えないのだけど、ライトノベルでここまで細部への設定の緻密さが発揮されている作品というのは、そう多くはないだろうと思う。
該当しそうな箇所をざっくり抜き出してみたい。ちなみに、僕自身、きちんと理解できているわけではない、ということを先に言っておく。

『霊子(プシオン)と想子(サイオン)。どちらも「超心理現象」―魔法もこれに含まれる―において観測される粒子で、物質を構成しているフェルミオン(フェルミ粒子)には該当せず、物質間に相互作用をもたらすボソン(ボース粒子)とも異なる非物理的存在だ。想子は意志や思考を形にする粒子、霊子は意志や思考を生み出す情動を形作っている粒子と考えられている(残念ながら、まだ仮説段階だが)』

『現代の魔法師は、杖や魔導書、呪文や印契の代わりに、魔法工学の成果物たる電子機器、CADを用いる。
CADには感応石という名の、想子信号と電気信号を交互に変換する合成物質が組み込まれており、魔法師から供給されたサイオンを使って電子的に記録された魔法陣―起動式を出力する。
起動式は、魔法の設計図だ。その中には、長ったらしい呪文と、複雑なシンボルと、忙しく組み替えられた印を合わせたものと同等以上の情報量が存在する。
魔法師はサイオンの良導体である肉体を通じてCADが出力した起動式を吸収し、無意識化に存在し魔法師を魔法師たらしめている精神機構、魔法演算領域へ送り込む。魔法演算領域は起動式に基づき、魔法を実行する情報体、魔法式を組み上げる。
CADはこうして、魔法の構築に必要な情報を一瞬え提供することができるのである』

『四系統魔法に属さない魔法は、大きく分けて三つのカテゴリーに分類されている。
一つは五感外知覚(ESP)と呼ばれていた知覚系魔法。(この場合のESPは「超能力」全般を指す言葉ではなく、知覚系の能力を指す)
一つは、事象に付随する情報体「エイドス」を一時的に書き換えることで事象を改変するのではなく、サイオンそのものを操作することを目的とする魔法で、これを無系統魔法と呼ぶ。真由美が得意とするサイオン粒子塊射出の魔法は無系統魔法の典型とされている魔法だ。達也が服部をKOした魔法も厳密には振動系魔法ではなく無系統魔法になるのだが、サイオン操作の形態にも四系統八種の分類が適用されることがあり、四系統魔法と無系統魔法の区別はそれほど厳密なものではない。
そして残るもう一つが、物質的な事象ではなく精神的な現象を操作する魔法で、これを総称して系統外魔法という。系統外魔法はまさしく系統に属さない、系統に分類できない魔法で、霊的存在を使役する神霊魔法・精霊魔法から読心、幽体分離、意識操作まで多岐にわたる』

魔法に関する描写になると、こういう文章がウワッと一気に押し寄せてくることになる。もちろんこれらをきちんと理解していないと作品が楽しめないなんてことはない(巻を追う毎に関わりが出てくるかもしれないけど、少なくとも1巻では、この詳細すぎる魔法の説明を理解できなくても、さほど問題ではない)。しかしなんにせよ、この設定の細かさには圧倒されてしまう。
そして、その設定の細かさが、作品にも活きている。魔法の設定を、読者は完全には理解できないかもしれないが、本書の登場人物たちにとっては基本的に当たり前の知識だ。だからこそ、「一般的ではない」達也の魔法師としての様々な能力を見せつけられる度に、周囲の人間は驚かされることになるのだけど、その周囲の驚きが、物語に起伏を生み出していくことになる。まだ1巻しか読んでいないけど、恐らくこの「魔法」の世界は、巻を追う毎により深化していくのではないかと思う。その、設定の深さは、本書の大きな魅力の一つである。
その上で、学園内のいざこざだったり、兄妹のイチャイチャだったり、当意即妙な会話の応酬だったりというライトノベルらしい要素が含まれる。ベースがきちんとしているので、そういうライトノベル的な部分が「息抜き」のような役割に思えるし、「ライトノベル的な部分が作品のメインなのではない」という点が、より多くの読者を獲得するポイントにもなっているのではないかと思う。
本書は【Web発】という部分が特異なのだけど、この【Web発】というのは、この作品を成立させるのにも非常に大きな役割を担っていると感じた。それは、解説氏も指摘していることだ。
本書は、ネット上という、ほぼ一切の制約がない環境で連載され続けていたからこそ、書籍化が成った作品だと思う。実際もし本書が、新人賞に応募されてきたとしたら、そのあまりに緻密すぎる「魔法」の設定を1巻に詰め込むために無理をし、さらに1巻の時点で、今後重要になってくるキャラクターの魅力を出来る限り表現していかなくてはならず、非常に窮屈な作品になっていただろう。本書は、Webで連載されていたからこそ存在し得た物語だなと、解説氏と同じことを感じました。
普段ライトノベルをあまり読まない人間なので、本書を「ライトノベルとしてどうか」という観点から評価することは出来ないのだけど、「物語として」はとても面白かったと思います。シリーズ物を読むというのが苦手なので、続きに手を出すかどうかは悩ましいところではありますが、純粋に続きが気になる物語で、読んでみたいなという気持ちはあります。是非読んでみてください。

追記)amazonでの評価は、相当辛いなぁ。そうか、そんなに酷評されるような作品なんかなぁ。

佐島勤「魔法科高校の劣等生1 入学編上」


お任せ!数学屋さん(向井湘吾)

『数学と関係がないことなんて、この世界に存在しないよ』

少年は、そう高らかに宣言する。

『数学者は探偵にだってなれる。何にだってなれるんだ』

少年は、そう力強く主張する。

『数学は、試験問題を解くためのものじゃないんだ』

少年は、そうはっきりと口にする。

『誰がやっても、答えは一緒になる。数学は、決して僕らを裏切らない』

少年は、そう優しく諭す。

季節外れの転校生は、クラスメイトへの第一声、自己紹介の場で、皆をポカンとさせた。

「将来の夢は、数学で世界を救うことです」

神之内宙、中学2年生。GW明けに転向してきたその少年は、数学が大の苦手なソフトボール部員・天野遥の隣の席にやってきた。
夏服期間中なのにホックまで掛けている暑苦しいスタイル、ウケを狙ったわけではなさそうな自己紹介、小学生だと言っても通りそうな童顔。彼は自己紹介を終えると、すぐさま本を読みだした。それから一週間、クラスメイトも彼を遠巻きにし、彼も本だけを読み続ける。その間には、一切の交流がないままだった。
一週間後、宙は動き出す。
長い棒に布を付けたような幟のようなものを自分の机に付けていたのだ。そこに書かれていたのは、

『数学屋』

という単語。
…意味が分からない。
遥は、隣の席のよしみで、何をしているのか聞いてみると、驚くべき返答が返ってくる。

「数学の力でみんなの悩みを解決する、お悩み相談所みたいなものだよ」

話が通じるとは思わなかったけど、まさかここまでとは…。数学で悩みを解決する?何を言っているのだろう、この少年は。
しかし、成り行きで相談してみた悩み事を、まさに数学を使って宙はすぐさま解決してしまった。そして遥は、今まで苦手で、考えるのも嫌だった「数学」というものをちょっと見直した。
それから、遥の協力もあって、『数学屋』は繁盛していくことになるのだが…。
というような話です。
これはなかなか面白い作品でした。特に、ラストの展開がメッチャいいですなぁ。
数学を扱った小説である「数学ガール」と対比させると、「数学ガール」が【初級者から上級者までを魅力する物語】だとすれば、本書は【苦手者を初級者に変える物語】と言えるのではないかと思う。
「数学ガール」は、レベルの低いところから高いところまで自在に行き来し、あんまり知識はないんだけどという人から、数学はかなり好きっすみたいな感じの人までごそっと取り込むことができる凄まじい小説なんだけど、もし唯一欠点があるとすれば、「数学に興味がない人には面白さが伝わりにくい」という点だろうか。もちろん、そこまで拾える物語を書けるとしたらそれは凄すぎるので、全然それは欠点ではないのだけど、敢えて挙げるとすればそうなる。その点で、「数学ガール」と本書は大きな差があると言えるだろう。本書の場合、数学に関してある程度以上知識がある人には、正直そこまで響く描写は多くはない。少なくとも、中・上級者が、数学的な知識に関して本書から得られることは特にないだろう。もちろん、本書は元々そういう層をターゲットにしていないから欠点なわけではないのだけど。本書は逆に、「数学に関心がない人」にこそ読んでもらえる可能性がある、という点だ。苦手だ、嫌いだ、生理的に受け付けない。そんな風に思っている人に、数学のちょっと違った面を感じてもらえる可能性がある。そういう作品ではないかと思います。
たぶん数学が苦手な人って、まあ苦手な理由は色々あるだろうけど、「計算が不得意」っていうのがあるんだろうと思う。
でも、有名な話だけど、世に言う「数学者」と呼ばれている人たちの中にも、計算が苦手な人はたくさんいる。僕は、数学者の伝記みたいなのを時々読むんだけど、後世に名を残している高名な数学者たちが、講演での板書で計算ミスをするだとか、大学院生との授業中に大学院生に計算ミスを指摘される、みたいな話を読んだことがある。
「計算が出来ない」=「数学ができない」という方程式は、まったく成り立たない。正直、計算なんてどうでもいいのだ。本書にも、こんな描写が出てくる。

(計算は自分の手でしないといけないと習った、と主張する遥に対して)「だって、電卓の方が素早く、正確に計算できるんだよ。わざわざ時間をかけて筆算でやらなくてもいいでしょ?」

そう。その通りなのだ。数学の数学たる本質は、計算ができるかいなか、なんていうところにはない。ちゃんと式とか数字を入力したら、電卓とかコンピュータが計算を代わりにやってくれるのだ。計算が苦手だって、数学はできる。
どんな学問でもそうだろうが、最も重要なのは「好奇心」だろう。宙もこう言っている。

(宙の言っていることが理解できなかった遥が宙に猛烈に疑問を突きつけた時に)「うん、いいね。そういう疑問、大切だよ」

数学は、自然観察に近いと僕は思う。例えば、野の花を見る。花の色が赤いやつや、根っこが異常に長いやつや、葉っぱがおかしな形をしているものを見つけることができるだろう。どうしてそうなっているのかと、好奇心のある人は考える。
数学も似たようなものだ。2・3・5・7…と続いていく素数はどんな風に分布してるんだろう?規則性はあるんだろうか?一番大きな素数っていうのは存在するだろうか?そんな風に、式や数字を観察することで、色んな疑問が湧いてくる。そうやって浮かんできた疑問を考えるのが、数学という学問だ。
そのために、時には計算をしなくちゃいけないし、時にはグラフを書かなくっちゃいけないし、時には方程式を立てなくちゃいけない。それは、自然観察をするのにルーペや虫取り網が必要なのと同じことで、道具に過ぎない。学校で習うことはすべて、道具の使い方を教わっているだけなのだ。そりゃあ、面白くない。野球部に入ったのに、延々と素振りをさせられているようなものだ。だから、数学が面白くない、って思ってしまう気持ちはわからないではないんだけど、でも素振りをするだけが数学のすべてじゃない。素振りしかさせてもらえなかった人には、野球の試合の面白さを想像することは難しいかもしれないけど、でも一回野球の試合を観に行ったら、好きになるかもしれないし、面白さを自分で発見できるようになるかもしれない。
本書はだから、【今まで素振りしかさせてもらえなかった人に野球の試合を観せる】というような立ち位置の作品だろうなと思いました。もう野球の試合を何度も観に行っている人には、野球の面白さなんか分かっとるがな、という感じになるかもしれないけど、そうじゃない人を野球好きにさせるための作品、という感じですね。
僕が考える数学の魅力は、二つある。
一つは、【答えがあるかどうかさえわからない問題を山ほど見つけることができる】ということだ。数学の世界は恐ろしく広くて深い。探検家には、地図がある。未踏地の地図はなくとも、「そこに未踏地がある」ということを教えてくれる地図はある。しかし、数学者にそれはない。数学者にとっても、どこが未踏地なのかわからないのだ。あるかどうかさえ分からない島を目指して航海に出る海洋冒険家みたいなものだ。
しかし、数学以外の学問であっても、数学ほどではないだろうとは言え、いくらでも「答えがあるのかわからない問題」を見つけることはできるだろうと思う。そこで2つ目の魅力である。これは数学にしかないと断言してもいいのではないかと僕は思う。
それは、【絶対】という言葉を使うことができる唯一の学問だ、ということだ。
数学的に証明されたことは、絶対に覆ることがない。
素数の話をする宙は、「1000桁の素数を使ったら凄いことが出来る」という話を遥にする。しかし遥は、1000桁の素数なんてあるの?と疑問を突きつける。それに対して宙は、「1000桁の素数は存在する」と断言するのだ。しれどころか、百万桁の素数だって、絶対に存在するんだ、と。
その証明は省くけど(本書で紹介されています)、これは紀元前300年ぐらいには既にギリシャで発見されていた証明だったりします。
物理では、こうはいかない。いや、物理に限らず、他のすべての学問でも、絶対なんていう断言は出来ないはずだ。物理にしても、現在「正しい」とされている理論は、「現実をよく表していること」「他にもっともらしい理論がないこと」によって「正しい」と評価されているにすぎない。だから物理の理論は、どんどん変わる。学生時代、物質の最小単位は「原子」だと習ったはずだ。しかし、既にその知識は間違っている。現在では、物質の最小単位は「クォーク」である、ということになっている。しかしこれも、あくまでも現時点で、だ。魅力的だけど荒唐無稽と称される「ひも理論」がもし万が一正しいと証明されることがあれば、物質の最小単位は「ひも」ということになるだろう。
しかし、数学では、こういうことはありえない。一度数学的に正しいと証明されたことは、絶対に正しい。覆ることはない(もちろん、証明に誤りがなければ、の話だけど)。【物質の最小単位は「絶対に」クォークだ】と主張することは出来ないけど、【素数は「絶対に」無限に存在する】と主張することはできるのだ。僕にはこれが、数学だけに存在する魅力ではないかと思っている。
さて、本書は、それなりに数学が好きで色々本を読んでいる僕個人としては、数学的に面白い部分はさほどないのだけど、「数学で日常的な問題を解決するという設定」と「宙の奇妙なキャラクター」と「物語の展開のさせ方」は結構好きです。
「数学で日常的な問題を解決する」っていう設定は、一つの作品として成立させるにはなかなか厳しいんじゃないかなと思うぐらい難しいような気がしていたんだけど、本書では巧いことやっていました。本書で扱われる悩み相談は、「練習をサボる野球部員に練習をちゃんとさせるにはどうしたらいいか」「好きな人に告白した方がいいか」など、そんなん数学で解けるの?というようなものも出てくるわけなんだけど、これがなんだかんだで巧いことやるんですよね。数学で解決するという設定と、悩み相談の中身の設定が結構絶妙なんじゃないかなと感じました。
宙のキャラクターもかなりいいです。いわゆる「理系男子(理系少年かな)」っていう感じで、相当に素っ頓狂です。数学に関する知識は抜群なんだけど、常識が著しく欠如している。野球とソフトボールの違いが分からなかったり、栽培されているトウモロコシを見てもなんていう植物なのかわからなかったりする。そもそも、しょっぱなの自己紹介で「数学で世界を救う」とか言ったらどう思われちゃうだろうか、みたいな発想もないわけだ。まさに変人である。しかし羨ましいのは、「本を読みながら、授業の内容もすべて頭に入る」という点。これはマジで羨ましいと思った。
あと、物語の展開。これがなかなか良いです。冒頭の方は、変人がクラスメイトと交流がなく、でもじわじわとその才能が認められて…的なよくある展開なんだけど、ラストに到る流れはかなり好きです。そして、その間にきちんと数学が介在しているというのが素敵すぎる!第五章に書かれた、数学(算数?)の授業で絶対に一度は見かけたことがある数式。あれが、あんなに切ないなんて!っていうか、数式を見て「切ない」って思うなんて!さらに!その数式に対抗するように書かれたもう一つの数式。なんて素晴らしいんだ!なるほどなぁ、あそこであれを出せるセンスは見事だと思いましたですよ。もしかしたら、このラストに到る展開の過程は、数学好きじゃないとなかなか伝わらないのかもなぁ。いや、ホント、数式が切ないんだよ!
数学のことが苦手だって遥は、やがてこんなことを言うようになる。

『ちゃんと生活に役立ててあげないと、数学がかわいそうだもんね』

別に、どんな学問も、実用性がなければならない、なんてことはないだろう。でも、実用性を持っていることが一つのフックになり得るなら、そこから数学というものに興味を持ってもらえる可能性があるなら、数学の実用的な部分がクロースアップされてもいいと思う。
宙はガウスについて語る。14歳で素数定理を発見したと言われるガウスが、天才的なひらめきだけでそれを見つけたわけではなくて、素数をひたすら計算し続けるという地道な積み重ねがあってこそだったんだと言った後で、宙はこんな風に言う。

『一番大切なのは才能なんかじゃない。諦めずに、腰を据えて考え続ける。それができるかどうかなんだ』

そして宙自身は、「リーマン予想」という聖杯を追って、日々研鑽を積んでいく。「フェルマーの最終定理」も「ポアンカレ予想」も、「ABC予想(検証中)」も陥落した今となっては、世間的な認知度のある数学の難問は「リーマン予想」と「ゴールドバッハ予想」ぐらいではないかと思う。150年間あまねく数学者の挑戦をはねのけてきた「リーマン予想」。素数という、神秘的でありながら乱雑でもある世界に、一筋の秩序をもたらすことになるその予想。僕が生きている間に解かれるといいなぁ。
僕はかつて、サイモン・シンの「フェルマーの最終定理」という文庫のPOPに、「数学が苦手だ、というだけの理由でこの作品を読まないのは、あまりにももったいなさすぎる」と書いた。「フェルマーの最終定理」は文系の人でも読めるが、まったく難しくないわけではない。本書は、さらにその手前に位置する、苦手者を初級者に変える、数学に関心をもってもらうステップとなりえる作品ではないかと思います。是非読んでみてください。

向井湘吾「お任せ!数学屋さん」


わが盲想(モハメド・オマル・アブディン)

内容に入ろうと思います。
本書は、15年前、20歳になる少し前にスーダンから日本にやってきた著者が、来日時まったく日本語が喋れず、さらになんと、既に視力がほとんどないという状態だったにも関わらず、15年後の現在、音声読み上げソフトを利用して、本書を『自らの手で』執筆するまでに至った、その激動とも言える日々を、面白おかしく綴った作品です。
本書は、ノンフィクション作家であり高野秀行がプロデュース。以前、同じくポプラ社から発売になった、大野更紗「困ってる人」も、確か高野秀行プロデュースだった記憶がある。どちらも、かなり特異で特殊な人物であるのだけど、そういう人間を引き寄せてしまう高野秀行の引き寄せ力みたいなものも凄いなと思わされる作品だ。
元々スーダンのハルツーム大学(結構レベルが高いようだ)に通っていた著者は、ある時、胡散臭い先輩から、胡散臭い話を耳にする。なんでも、日本が鍼灸を学ぶ留学生を募集しているといい、スーダンにもその募集が来ているというのだ。日本では目の見えない人は鍼灸を学び、それを職業にすることが出来るという。日本へのイメージは、「テレビの組立が出来ないと小学校に上がれない」というようなものしか持っていなく、つまり何も知らなかったのだけど、鍼灸なんていう危険な仕事を視覚障害者にやらせるってことは、日本っていう国全体が視覚障害者向けに色々整備されているに違いない、という希望的観測を頼りに、応募してみることになった。
それで、スーダンからたった一人アブディンが選ばれることになった。アブディンが「ライオン」と評す恐ろしい父親をどうにか説得し、不安も抱きつつも日本へと向かうのだった。
日本についた時ちょうどラマダンの時期であり食事の時間心配をしなくてはいけなかったこと、日本で出される食事を食べられるかどうか不安だったこと、地獄のような熱さの「風呂」を体験させられたこと、などなど、日本初体験のアブディンには様々な試練がのしかかるのだが、当然のことながら何が一番の難関かと言えば、やはり「日本語」なのだった。
アブディンは、日本にやってきた当初、基本的にまったく日本語を喋ることが出来なかった。アブディンはとにかく、日本語の訓練で相当に苦労させられることになる。そもそも「日本語」をまったく話すことが出来ないのに、いきなり日本語の点字を教えられたり、あるいは、様々な事情があって福井の盲学校に入学することになるのだが、日本語すら覚束ないのに、鍼灸の授業で出てくる難解な専門用語と福井弁も同時に学んでいかなくてはいけなくなったのだ。
さらにさらに、目の見えないアブディンにとって、「漢字」というのは最難関にもほどがある、恐ろしい難関であった。これも、ある人物の熱心な指導のお陰で乗り越えていけることになる。
日本にやってきた時アブディンは、「靴紐を結ぶことができない」「パソコンのパの字もわからない」「日本語がまったく喋れない」というような状態だった。しかし今では、「この世で一番旨い食べ物は寿司」「好きな作家は夏目漱石と三浦綾子」「好きな球団は広島カープ」と、完全に日本に溶け込んでいる。
そんなアブディンの、15年間の激闘を描いた作品です。
なかなか面白い作品でした。外国人(しかも目が見えない!)が書いたとは思えないほど自然な日本語で、もちろんまったく修正が入らなかったということはないでしょうけど、本書を読むと、確かにこの著者が自分で書いているんだろうなぁ、と思えてくる作品です。15年間で、母語ではない言語、しかも「日本語」という、習得するのに世界でもかなり難易度が高いと言われている言語を、漢字混じりでこれほど操ることが出来るようになる、というところが、やっぱりまず一番の驚きでした。日本に来た時点で、日本語についてまったく知らず、話すこともほとんど出来なかったなんて、やっぱり想像出来ません。
アブディンは、日本語で相当苦労させられるわけですが、本書で印象的だった話は、「福井の盲学校でクラスメートから掛けられた言葉」と「漢字の習得」です。
アブディンは、日本語がほとんど分からない状態で、さらに専門用語が山ほど出てくる鍼灸の授業に出て、絶望します。まったく分からない!そんなアブディンに、同じクラスで学んでいたTさん(40歳前後の、子どもが三人いる女性)が、背中を撫でながらこんな風に言います。

「何言ってるの、これは日本語じゃないよ。私たちにとっても外国語なのよ。モハメドと一緒だよ。私だって泣きたいぐらい」

こう言われてアブディンは、思わず吹き出しそうになったと言います。凄く肩の荷が下りた気がしたとも。もしかしたらTさんのこの言葉がなければ、アブディンはちょっと諦めてしまっていたかもしれません。Tさんとしては、自分の素直な感想を口に出しただけで、別にアブディンを殊更励まそうとしたわけではないのかもしれないけど、アブディンにとっては、この言葉は福音と表現してもしすぎではないほどの言葉だったことでしょう。素敵な仲間が周りにいて良かったな、と思いました。
もう一つの「漢字の習得」の話。盲目のアブディンに日本語を教えてもいい、という人がなかなか現れなかったのだけど、高瀬先生という、元看護師の40代の女性が、アブディンの日本語習得を大いに加速させてくれることになる。高瀬先生は、長女が脳腫瘍を患い、その摘出出樹の歳に神経を傷つけられたために、知能の発達が遅れてしまったとのこと。それで長女のために様々な工夫をするようになったのだが、その経験が盲目のアブディンにも活かされたのだ。
そんな高瀬先生がアブディンに、漢字を覚えた方がいいという。アブディンが「(目が見えない自分が)どうやって勉強するの?」と聞くと、その方法については何も考えていなかったようで、アブディンは爆笑してしまう。高瀬先生はあれこれ考えて、粘土に割り箸で漢字を書いて覚える、というやり方を思いついて、それでアブディンは漢字を覚えることが出来たのだ。
そうやって漢字を覚えていったアブディンが一番気に入った漢字は「大」だという。

『一番気に入ったのは「大」の字である。こんなにくつろいでいいのかと思うぐらい、この字はまったりしているのだ。「大」というよりも「寛」と読ませたいぐらいだ』

外国人が書く文章とは思えないですよね。
こういう文章は作中にかなりあって、ちょっと色々と抜き出してみようと思います。

「父の行為は、明らかな国際人道法違反である」

「ぼくは、人生最大の「トライ」へ向けて、日本”渡来”を果たしたのであった」

「ぼくは初対面の人に「スーダンってどんなところですか」と飽きるほど…、ある時、「数段」という言葉を見つけて、以来、この質問に「スーダンは日本より数段広くて、数段暑い国だ」と返事をするという、初対面の人と打ちとけるのにもってこいのネタを作った。」

「つくばにいた後半の時期にぼくはブラインドサッカーと出会い、以来このスポーツに「盲目的情熱」を注ぐようになった」

「ある日、高野さんから電話があって、しばらく世間話をしていたら、突然とんだ話を持ちかけてきた」

「「めくらめっぽう」ってこういうことなんじゃないかなと、視覚障害をもった兄弟に容赦なく叩かれながらぼくは思った」

「「留学」という言葉があるが、それを聞いたとき、ぼくは「流」に「学」だと直感的に思った。だって、自分がいるところから動いてどこかへ学びに行くのだから、きっと流れて学ぶのだろう。だが、現実はそう甘くはなかった。「りゅう」は流れるどころか、その反対の「留まる」である。その衝撃的事実を聞いたとき、ぼくは怒りさえ覚えた」

こういう表現を、ただ外国人がしているというだけではなく、アブディンが視覚障害者であるという事実に、やっぱり驚かされてしまう。なんでもやれば出来る、なんていう胡散臭いことはあまり言いたくないのだけど、アブディンの15年間を読んでいると、努力で乗り越えられる幅は、それなりに広いのだろうなぁと思わされました。
本書では、日本語への苦労や違和感は結構描かれるのだけど、日本文化や慣習への違和感はあまり描かれない(と僕は感じた)。アブディンにとって、日本はなかなか相性のいい国だったのだろう。なにせ、生魚を基本的に食べることがないスーダン人が、世界で一番旨いものは寿司だというぐらいなのだから、その相性の良さはなかなかのものがある。
とはいえやはり、時々は日本への違和感を抱くこともある。僕が印象に残ったのは、「言論の自由への執着のなさ」と「就活の異様さ」についての話だ。
スーダンは、アブディンが生まれた時には既に内戦が起こっていた。2005年、アブディンが視覚障害者団体主催のスキー旅行中に、ニュースでスーダンの内戦が終結したという事実を知る。
スーダンでは、老いも若きも、政治や未来について議論をするのが当たり前だった。しかし日本でそういう議論をしようとしても、日本の若者は誰も興味を示さない。アブディンはそれを不満に感じるのだ。
また一方で、「就活の異様さ」は、アブディンを恐怖させる。新卒という賞味期間をみんな気にして、昨日まで金髪でアフリカの民族衣装っぽい服を来ていた仲間さえも、就活が始まった途端激変してしまうのだ。アブディンは、日本の就活に不自然さを感じ、正しくないのではと感じるのだが、と同時に冷静に、これは就活をしない自分を正当化するための負け惜しみかもしれない、とも言っている。
15年間、アブディンの人生は激動続きで、時には諦めたくなったこともあっただろう。正直、この原稿を書いている今でさえも、不安が一蹴されているとは思えない。しかしアブディンの筆致は、底抜けに明るいと言っていい。楽観的なわけではないし、現実を見据えていないわけでもない。その辺りのバランスはきちんと保った上で、さらに自分を道化のように仕立てて面白おかしく文章を綴っている。母語で文章を書いても、こういうバランス感覚を発揮することはなかなか難しいのではないか。そういう意味でも本書は、凄まじい作品だなと感じたのでした。
これからアブディンがどんな世界へと羽ばたき、またどんな活躍をしてくれるのか、とても楽しみだなと思います。こんなとてつもない外国人がいるんだな、と思えるだけでも、なんだか力をもらえるような気もします。是非読んでみてください。

モハメド・オマル・アブディン「わが盲想」


今を生きるための現代詩(渡邉十絲子)

これほど僕をホッとさせてくれる作品を読んだのは、久しぶりかもしれない。

僕は、とにかく国語の授業が嫌で嫌で仕方がなかった。
本を読むことは、昔から嫌いではなかった。休み時間にも本を読んでいるような子どもだった。けれど、国語の授業は大嫌いだった。今でも、昔のことを思い出して、国語の授業への嫌悪を思い出せるほどだ。
国語の授業では、ある言葉・ある文章・ある段落への解釈が一方的に決められる。それを読んだ「僕」がどう感じたかなんてことは、国語の授業では関係ない。あくまでも解釈には正解があって、その正解をに辿りつけない人間は、国語力がないとされるのだ。
そんなバカな、と子どもの頃からずっと思っていた。
大人になって、本を読んでからこうして感想を書くようになって、なんというか、自分の内側の本を受け入れるスペースが広がったような気がする。どんな作品を、どう受け取ろうが、それは僕の勝手だと思う。どれだけ僕が誤読しようとも、どれだけ間違った解釈をしようとも、その作品は僕にとってそういう価値があるものとして存在可能だ。唯一の解釈なんてどうでもいいし、他の人がどう思っているかなんてこともどうでもいい。ただ僕にとってその作品はどういうものであるのかということだけに忠実にいられればいい。そういうことを、少しずつ掴んでいけるようになった。国語の授業で強制的にそう教わったように、解釈は一つであり、その「正しい解釈」に辿り着けなければ作品を観賞したことにはならない、なんていう風に思っていたら、読書はどれだけつまらないものになっていただろうと思う。
著者も、似たようなことを経験し、考えてきたようだ。

『もともと、日本人は詩との出会いがよくないのだと思う。
大多数の人にとって、詩との出会いは国語教科書のなかだ。はじめての体験、あたらしい魅力、感じ取るべきことが身のまわりにみちあふれ、詩歌などゆっくり味わうひまのない年齢のうちに、強制的に「よいもの」「美しいもの」として詩をあたえられ、それは「読みとくべきもの」だと教えられる。そして、この行にはこういう技巧がつかってあって、それが作者のこういう感情を効果的に伝えている、などと解説される。それがおわれば理解度をテストされる。
こんな出会いで詩が好きになるわけないな、と思う。こどもの大好きなマンガだって、こんなこちことのやり方でテクニックを解説され、「解釈」をさだめられ、学期末のテストで「作者の伝えたかったこと」を欠かされたら、みんなうんざりするにちがいない。詩を読む時の心理的ハードルは、こうして高くなるのだ。
人がなにかを突然好きになり、その魅力にひきずりこまれるとき、その対象の「意味」や「価値」を考えたりはしないものである。意味などわからないまま、ただもう格好いい、かわいい、おもしろい、目がはなせない、と思うのがあたりまえである。
詩とはそのように出会ってほしい。』

これが、本書全体を貫く著者の切なる希望だろう。「詩とはそのように出会ってほしい」。まさにそれを伝えるためにこの本はある。あなたは、詩との出会いが悪かったために、詩の世界からはぐれてしまっているかもしれない。けど、それは当たり前のことだし、そしてそこからまだいつでも引き返すことが出来るのだ。そう著者は言いたいのだ。

『教科書は、詩というものを、作者の感動や思想を伝達する媒体としか見ていないようだった。だから教室では、その詩に出てくるむずかしいことばを辞書でしらべ、修辞的な技巧を説明し、「この詩で作者が言いたかったこと」を言い当てることを目標とする。国語の授業においては、詩を読む人はいつも、作者のこころのなかを言い当て、それにじょうずに共感することを求められている。
そんなことが大事だとはどうしても思えなかった。あらかじめ作者のこことのなかに用意されていた考えを、決められた約束事にしたがって手際よく解読することなどに魅力はない。わたしはもっとスリルのある、もっとなまなましい、もっと人間的な詩をもとめていた。』

『現代詩は、世の中にすでに存在していてみんながよく知っている「もの」や「こと」を、わざわざことば数をふやし、凝った言い方で表現しようとするものではない。まして人生訓をふくんだ寓話のようなものではない。
そのように詩を読むことは、詩のもっている力のほとんどの部分を使わず捨ててしまうようなもったいない読み方だと思った』

そして著者は、こんな叫びをくりだす。

『「作者の伝えたかったこと」なんて、ここにはないのだ!
なくていいのだ!』

これは僕にとって、とても心地よい結論だ。僕にとって、詩とは「なんだかよくわからないもの」でしかなかった。みなが良いというものであっても、そうかなぁ、としか思えないものでしかなかった。そして、物語であれば「自分の解釈をすればいい」と思っていた僕も、詩になると途端に「これにはやっぱり僕には掴めない奥深さがあるのだろう」「それを掴み取れない僕には詩に触れる資格はないのだ」という風に考えていた。それを強く意識したことはないが、詩に限らず芸術全般に対して、漠然とそういう感覚を抱いている。僕には届かない世界なのだな、と。
しかし著者は、そんなことは大した問題ではないという。自分が良いと思った気持ち、それこそが一番大事なのだと伝えてくれる。

『「解釈」ということを、いったん忘れてみてはどうだろう、
詩を読んでそのよさを味わえるということは、解釈や価値判断ができるということではない。もちろん、高度な「読み」の技術を身につけたらそれはそれはすてきなことだが、みんながみんなそんな専門的な読者である必要はないはずだ。もっと素朴に一字一句ありさまをじっとながめて、気にいったところをくりかえし読めばいいと思う。わたしはふだん自分のたのしみのために詩を読むときは、そのように読んでいる』

『そういうちょっとした魅力のとっかかりは、無数にある。それはあくまでも「自分にとって」魅力があればいいので、誰にも賛同してもらえなくても、自分だけが発見したその魅力点について考えつめているうちに、もっと普遍的な「読み」に合流していく可能性がひらけている(もちろん合流しなくたっていい。これまでのどんな説ともちがう斬新な読みをうちたてて人を説得できたら最高だ。渾身の「読み」は、ときに詩を書いた本人による解釈をも更新する)』

こういう姿勢でいることは、とても難しいかもしれない。「わからない」と認めることには勇気がいるし、「わからない」ものを「わからない」まま受け止めるには努力が必要だからだ。実際著者が出会う多くの人たちは、そうであることが多いという。「わたしは詩はよくわかりません」とよく言われるのだという。

『詩人ですと名のり初対面のあいさつをして名刺を交換して、そしてかけられる第一声が「わたしは詩はよくわかりません」。そういうことが、しばしばある。文芸雑誌の編集者にすら、そう言われたことが何度もある。そのことばは、オマエハヨソモノダと言っているようにきこえる。
それを言う人は、べつに悪意で言っているわけではないのだ。彼らの言いたいことはなんとなくわかる。
あなたの仕事が詩を書くことならば、それについてなにか言ってあげたいけれど、日ごろ詩や詩人は「遠巻きに見ている」程度なので、自分のなかに評価基準がない。たまさか一篇の詩を読んでみたところで、なんとなく好きだとかおもしろくないとか、幼児の感想みたいなことしか言えないと思うし、それは自分の知性を疑われそうでいやだ。だから、詩はよく知らない、自分の守備範囲ではないということで押しとおしてしまいたい。
たぶん彼らはそうやって身をまもっているだけなのだ。』

この気持ちはわかる。今の僕にはあんまり、そういう鎧を着て自分の身を守るという意識はないんだけど、昔の自分はそうだったし、ダメな自分を見せることは恥ずかしかった。わからないことが恥ずかしかったし、理解力がないと思われるのも嫌だった。そういう人にとって、詩というのは、とてもハードルが高いものだ。

『わからないことをうけとめて肯定すればいいのに、「作者の感情なり意見なりがかならず詩のなかにかくされていて、それを発見するのがゴールだ」という考え方にとらわれていると、わからないことがゆるせない。
そういう気持ちでこの詩を読むと、「正解に到達できないのは自分の読解力がないからだ」という劣等感か、その裏返しである「こんなわかりにくい書き方をした詩人が悪い」というさかうらみにしか行き着けない』

でも著者は、詩はわからないからいいのだ、という。

『試験問題をつくったときに万人の納得する「正解」を用意できるように選ばれた詩は、われわれに迷子になる自由をあたえてくれはしないし、「正解」が用意されているのにそれを見つけそこなったとき、われわれは自分自身に落第点をつけ、その科目に自分は向いていないと思い込んでしまう。
このわなに落ちこまず、わからないことを否定的にとらえないですんだ人は幸運である。わたしも幸運だったひとりだ。』

『すべての人には、「まだわからないでいる」権利がある。そして国語教科書の詩の単元は、この権利をわたしからうばうものだった。「わからない状態のたいせつさ」という考えは、このころに芽ばえ、いつのまにかわたしの生涯のテーマになったように思う』

著者は本書の中で「詩」とは何かを様々な言葉で表現しているのだけど、これもその一つだ。「わからない」まま体内に取り込むことで、いずれ芽を出すものとして詩を捉えている。

『わたしが知った詩の役割とは、つまりそういうものだった。詩はなぞの種であり、読んだ人はそれをながいあいだこころのなかにしまって発芽をまつ。ちがった水をやればちがった芽が出るかもしれないし、また何十年経っても芽が出ないような種もあるだろう。そういうこともふくめて、どんな芽がいつ出てくるのかをたのしみにしながら何十年もの歳月をすすんでいく。いそいで答えを出す必要なんてないし、唯一解に到達する必要もない』

実は僕はちょっと前に、心を打たれる短歌に出会った。ネット上でふと知った短歌なのだけど、これには本当に衝撃を受けた。

『問十二、夜空の青を微分せよ。街の明りは無視してもよい』

元々僕が理系の人間だということもあるだろう。文系の人間には、この作品はただ意味不明なものということで、特に引っかかることなく流されてしまう可能性もあるだろう。
でも、この短歌は、僕の心にズバッと届いた。正直、こんな体験は初めてだった。絵を見ても、詩を読んでも、音楽を聞いても、「なんとなく好きかも」ぐらいのことを思いはするけど、衝撃を受けることはない。それぐらいこの短歌は、僕にとってそれまで出会ったどの芸術作品よりも異質で真っ直ぐ届いたのだった。
正直、意味はよくわからない。「夜空の青を微分する」というのが何を指すのか、説明しろと言われても出来ない。「問十二」と書かれているからには、それ以前の十一の問題も気になる。「街の明かり」は、どうして無視してもよいのか。無視できるほど街の明かりが暗いということは、つまりこれは都会ではないということか。でも、もし「夜空の青」というのが、宇宙全体を指すのであれば、都会の街の明かりだろうと誤差の範囲だろう…。
みたいな感じで、別にこの短歌の言わんとしていることが理解できたから良いと感じているのではない。全然分からない。分からないけど、どうしてかこの短歌は僕の心に刺さるのだ。
この短歌が、短歌の世界でどういう評価になるのかわからない。短歌に季語を入れないといけないのかどうかすら僕には分からないけど、もしそうだとすればこの短歌には季語はないだろうし、そういう意味でダメなのかもしれない。この作品は、確か高校生の作で、何かの賞を獲ったんだかで話題になったような気がするのだけど、詳しいことは知らない。とにかく、短歌の世界でこの作品がどう評価されていようとも、少なくとも僕という人間の心には何かを突き刺すだけの存在感があった。
本書を読んで、それでいいんだな、と思えるようになった。何が言いたいのか分からなくてもいい、どんな技巧が使われているのかも知らなくていい。ただ、自分の「良い」という感覚に身を任せて、それをきちんと受け止める。そのようにして詩と対峙すればいいのだな。そういう風に思わせてくれた作品で、この本を読めてよかったと感じている。
今更だけど、本書の位置づけを著者はこんな風に書いている。

『この本は、これまでに書かれた詩の紹介書とは性質がちがう。
引用した詩の解読をめざしていない。その詩を、大きな詩の潮流のどこかに位置づけることもめざしていない(だから、現代詩の「これまでのあらすじ」を知りたい人は、べつの本をさがしてください)。
ここには、そもそもわたし自身がよくわかっていない詩ばかりを引用した。わかったと思う部分については気をよくしておおいに書いたが、来年の自分がおなじように読むかどうかはわからない。これはあくまでも中間報告だ。
むしろ、わからなかったこと、読み取れなかったこと、読みまちがえたことを書きおとさないように、自分の人生のおりおりに詩がどうかかわってきたかを書いた』

本書には、日本語の特殊さや、その特殊さが詩に与える影響、個別の詩の解釈や、著者自身の経験など、色んな内容が盛り込まれるが、本書を読んだ僕が一番伝えたかった部分はここまで書いてきたようなことだ。「わからない」まま「わからない」ものを受け止める。それが詩の面白さなのだ、と。
最後に。「詩とは何か」についての著者の文章を抜き出して終わろう。

『詩とは、けっきょくのところ、なんだろう。
詩とは、あらすじを言うことのできないもの。詩とは、伝達のためのことばではないもの。「なにかでないもの」という言い方ならばできそうだが、「詩とはこれだ」とひとことで言うことはむずかしい。
詩は、雨上がりの路面にできた水たまりや、ベランダから見える鉄塔や、すがたは見えないけれどもとおくから思い音だけひびかせてくる飛行機や、あした切ろうと思って台所に置いてあるフランスパンや、そういうものと似ている。
そういうもろもろの「もの」は、たしかにある状況のなかでは役割や意味をもつのだけれど、いついかなる場合にもその役割や意味をにないつづけているわけではない。意味をはなれて、ただたんに存在しているだけのときもある。そういうときには、われわれはそれらを純粋に視線の対象物としてただ見て、世界の手ざわりを知る。』

『でも詩は、たぶん、「言いあらわしたいこと」より「ことばの美的な運用」が優先されるものなのだ。だから、書いた本人も自分がそんなことを書くなんて思いもよらなかったことが書かれることもあるし、書いた本人だからといってその一篇の詩を完全に読みとけるわけでもない。
このことは、自分が詩を書くようになったいっそうはっきりした』

著者は最後に、こんな風にまとめている。

『いま人間にできることは、謙虚になれるきっかけとしての詩に接することだ。
理解しようとしてどうしても理解しきれない余白、説明しようとしてどうしても説明しきれない余白の存在を認めること。
そのとき、自分の思いえがく「自分像」は、かぎりなく白紙に近づく。閉ざされていた自分がひらかれる。いまの自分がまだ気づくことのできない美しい法則が、世界のどこかにかくされてあることを意識するようになる。
詩に役割があるとしたら、それだけでいいのだと思う』

渡邉十絲子「今を生きるための現代詩」


箱館売ります 土方歳三蝦夷血風録(富樫倫太郎)

内容に入ろうと思います。
舞台は、後に<戊辰戦争>と呼ばれることになる戦争の最中の箱館。「ガルトネル開墾条約事件」という、戊辰戦争の陰に埋もれてあまり一般には知られていない史実をベースに描かれる物語。
元号は明治に変わり、新しい時代が始まろうとしている時、まだそれを受け入れることができない者たちがいた。
旧幕府の陸海軍の兵士たちである。彼らは、東洋一といわれた艦隊と共に、新天地を求めて北へと向かった。箱館府を襲い、新政府を追い出し、暫定政権を打ち立てることに成功した。艦隊司令官である榎本武揚や、新撰組で名を上げた土方歳三らが幹部となり、新政府と対抗する政権を打ち立てる。いわゆる、戊辰戦争である。
その陰で、日本の土地を奪いとろうと策略を練るロシア人が蠢いていた。
ロシアの秘密組織<第三部>に所属するユーリイは、絶望的な気分で酒を飲んでいた。絶対に成功するはずだった計画が、まったくうまくいかない。まさか新政府軍がこれほどまでに早く陥落するとは思わなかった…。このままではユーリイは、実績を挙げられなかった者としてペテルブルグへと戻り、恐らく失格者の烙印を押されて極北にでも飛ばされるのだろう…。
しかし、ユーリイに運気が向いてきた。
バーでもあり娼館でもある店で、ユーリイは久しぶりの相手と再会する。リヒャルト・ガルトネルとは、かつてドイツで関わったことのある相手だった。しかし、小者である。ユーリイの今のこの状況を好転させる男とは思えない。
しかし、リヒャルトの話にユーリイは食いついた。なんでも、リヒャルトの兄であり、プロシアの日本副領事でもあるコンラートは、巧みな話術で政府とやりとりし、政府から借りていた土地をたった1年で1500坪から70000坪へと広げたというのだ。
ユーリイは、この話に着目した。同じやり方で、旧幕府軍から、もっと広大な土地を奪うことが出来るのではないか。日本に、ロシアの租借地を作り出すことが出来るのではないか…。
一方、蝦夷に根を下ろし、峠下村塾を開いて学問を推奨していた平山金十郎は、新政府の存在を認めない佐幕派であり、新政府へのクーデターを企てた容疑で追われ、長く洞窟暮らしを余儀なくされた。同じ塾で共に学んだ齋藤順三郎は勤王派であり、考えを異にする金十郎とは疎遠になる。お互いに、自らが正しいと信じる道を進み、そのために学問に励み、身を粉にして動きまわった。
そんな彼らはやがて、旧幕府軍がプロシア人に莫大な土地を売り渡そうとしているという話を耳にし…。
というような話です。
これは、思ってたよりも断然面白くて、掘り出しものでした。「ガルトネル事件」というのは、史実に記録されている真実らしいですが、ただその背景で何が起こっていたのか、その詳細までが記録されているわけではないでしょう。本書はその「ガルトネル事件」の背景を、想像で創作した、という立ち位置の物語でしょう。史実を曲げるわけにはいかないはずだから、結構な制約の中で物語を生み出さなくてはいけないはずだと思うのだけど、そんなことを感じさせない、実に自然な物語だなと感じました。
僕が何よりも驚いたことは、その読みやすさです。
僕はこのブログでも何度も何度も書いていますけども、とにかく歴史の知識はまったくありません。正直、「佐幕派」と「勤王派」の違いも分からないので、内容紹介で使ったその二つの単語の使い方が正確なのかどうかも、自分では判断出来なかったりします。
それぐらい僕は歴史がさっぱりダメだし、興味もまったくないんですけど、この作品は、そんな僕でもスイスイ読めました。いわゆる歴史小説を読む時どうしても僕にとってその歴史的な部分っていうのは大きなハードルになってしまうんだけど、この作品の場合は、そういう印象がまったくなかったことが驚きました。
まあもちろんそれでも、超絶歴史オンチの僕には「???」と思うような場面はあったんですけどね。例えば、同じ集団を「旧幕府軍」と書く場面と「蝦夷政府」と書く場面とある。状況によって呼び方が変わるのはしょうがないのだろうけど(戦争の場面だと大体「旧幕府軍」、交渉ごとだと「蝦夷政府」という感じ)、でもそうやって違う呼び名が出てくる度に、「えーと、蝦夷政府ってのは要するに今蝦夷を治めてるところなわけだから、つまり旧幕府軍ってことだよな」って自分の頭で変換しながら読み進めました。たぶん歴史の知識がある人にはそんな苦労はまったくないんでしょうけど、佐幕派と勤王派さえよくわからないような歴史オンチには、普通の人が想像できないような困難さがあるのですよ。
歴史的事実をベースにしつつ、嘘八百を超大真面目に展開させていく、という構成もとても面白い。ガルトネル兄弟が榎本武揚から広大な土地を借りた、というのは事実のようで、でも恐らくそれ以上のことは詳しく記録に残されていないのではないかと思う(だからこそ、知名度も低いのだろうし)。そこに、作家としての想像力をつぎ込んでいく。「ガルトネル事件」の背景で、もしかしたらこんなことが起こっていたんじゃないか?と思わせてくれるようなホラの吹き方はなかなか痛快で、しかもそれが、歴史オンチの僕から見ると歴史的事実との矛盾を感じさせないような仕上がりになっていて、巧いなぁ、と思いました。
本書は副題に「土方歳三 蝦夷血風録」と書かれているのだけど、土方歳三がメインの主人公、というわけでもありません。たくさんいる主要人物の一人、という感じでしょうか。平山や齋藤と言った市井の人々、榎本武揚や土方と言った旧幕府軍の人々、ユーリイやガルトネルなどのロシア・プロシアの人々がかなり入り乱れている作品なのだけど、不思議と「読みにくい」と感じることがありません。これだけたくさんの登場人物を読みやすく描いていくというのも、さすがだなと思ったのでした。
土方歳三は、物語の合間合間で登場して、なかなかの存在感を示していくことになるのだけど、とにかく圧巻なのはラストの戦闘の場面でしょう。下巻の内容紹介に書かれてるから書いちゃうけど、土方歳三は「戦闘経験のない素人50人を使って策略と立ち向かう」という展開になる。軍神と恐れられたらしい土方歳三は、その素人50人を使って状況をひっくり返そうとするのだけど、その計略が素晴らしい。戦は大将によって大きく変わるものなんだろうけど、それを実感させられた気がします。
本書には、大鳥という名の、フランスの軍事教典については並ぶもののないほど詳しい男が出てくる。この大鳥もまた、舞台を率いる大将なわけだけど、土方歳三とは違って「常敗将軍」と呼ばれているほど戦に弱い。知識だけは日本随一のものを持っていても、気持ちの持ちようが違う。本書では、大鳥の失敗が数多く描かれていくのだけど、読み進めていくと、まあさもありなん、と思わされる感じで、大鳥の描写を読む毎に、土方歳三の凄さを改めて実感する、という感じがしました。
日本にとって絶望的な内容の条約(しかし、その条約を結ぼうとしている人間には、その条約の恐ろしさが分かっていない)を阻止しようと目論む日本側と、どうにか条約を結んでしまおうとするロシア・プロシア側の思惑が交錯し、歴史的な事実を踏まえつつ展開されていく物語は、とても面白いと思いました。信じるもののために命を投げ出すという生き方は、当時の人たちにとって自然なものだったのかもしれないけど、今を生きる僕たちにはやはり遠い。国を、人を、そして未来を信じるが故に、苦難の一歩を踏み出す者たちの苦闘が生々しい。歴史の知識がなさすぎるので、歴史的事実との整合性や、史実で描かれる人物とのギャップなんかについては何も書けないのだけど、とにかく、僕のように物凄く歴史オンチな人間でもメチャクチャ楽しめる作品だと思いました。是非読んでみてください。

富樫倫太郎「箱館売ります 土方歳三蝦夷血風録」


島はぼくらと(辻村深月)

内容に入ろうと思います。
舞台は、瀬戸内海に浮かぶ「冴島」。本土とフェリーで20分ほどのところにあり、朱里・衣花・新・源樹の四人は、冴島から毎日フェリーで本土の高校に通っている。
網元の娘である衣花や、冴島でリゾートホテルを経営するためにやってきた経営者の息子である源樹、外部の協力者と一緒に立ち上げた「さえじま」という会社で押し付けられるように社長になった母を持つ朱里、冴島保育園の園長であり人間関係の狭い島の中でもかなり顔が広い母を持つ新など、それぞれ島の中でちょっとした立ち位置を占めながらも、そんなことに関わらず、子供の頃からずっと一緒に過ごしてきた四人として、そして、島から出ていかなくてはいけない未来がほんのすぐ先まで迫っているという環境の中で、彼らは島を愛し、仲間と楽しみ、島のあらゆることに関わっていくことになる。
冴島は、現村長の手腕によって、Iターン者の集まる島となった。シングルマザーたちが駆け込み寺のようにこの島にやってくることもあるし、デザイナーや作家など離れた土地でも仕事が出来る人たちが移り住んでくるケースも多い。離島をもり立てるという意味で現村長の手腕は島民から称賛されているし、「地域活性デザイナー」という肩書きを持つ谷川ヨシノという女性の関わりもあって、島はどんどんと活気溢れるようになっている。しかしその一方で、元からの住民とIターン者との考え方の溝みたいなものはやはり存在し、朱里たちもIターン者と関わることで、様々な価値観に触れ、様々に考えさせられることになる。
シングルマザーとして島にやってきた、一時テレビで見ない日はなかった程の有名人であった蕗子、ぼーっとしていると言われ「頼りないイマドキの若者」と言われてしまう本木など、長い時間を掛けて島に溶け込んでいったIターン者もいるが、その一方で、瞬間的にやってきてすぐ立ち去っていくような人もいる。この間はフェリー内で、著名な作家が書いたはずの演劇の脚本があるはずだと言って、胡散臭い男が島にやってきたばかりだ…。
というような話です。いや、全然内容紹介になっていませんけど。
辻村深月らしい、優しさと鋭さを内包した作品だなと感じました。やっぱり良い作品を書くなぁ。
まず、設定が絶妙だと思う。
僕は以前「水底フェスタ」の感想の中で、『閉じ込められている感』について書いたことがある。
僕的に、辻村深月の最大の魅力だと感じている点は、少年少女たちが「学校」という酷く閉塞的な環境に閉じ込められている、その窮屈さを絶妙に描き出しているからだ、と思っている。だからこそ、少年少女たちを描く作品の場合突出して良さが浮き出るのだ、と。でも、「水底フェスタ」は大人たちの物語だった。これでは、少年少女たちが日々感じている『閉じ込められている感』を描き出すことは難しい。
でも、「水底フェスタ」では、閉塞感のある村が舞台となっている。その村の存在が『閉じ込められている感』を一手に引き受けることで、辻村深月らしさを全力で放出出来たのではないか、というようなことを書いたことがある。
そしてそれは、本書でも近いものがある。
本書は、視点人物は高校生四人だが、描かれる人物は全年齢に幅が振れている。そういう意味では本書も、少年少女の物語だとは言えない。
しかし本書でも、本土から離れフェリーで行き来しなければならず、それゆえ、人間関係が本土以上に濃密になり、独特な濃度を持った人間関係が長いこと熟成され続けている離島を舞台にすることで、その『閉じ込められている感』が見事に描き出されている。こういう舞台設定はやっぱり、辻村深月らしさを全開で引き出すなぁと思います
さらに本書の場合、Iターン者を積極的に受け入れるようになった島、というのが舞台になっていて、これも絶妙だ。何故なら島の人間は、「人間関係が本土以上に濃密になり、独特な濃度を持った人間関係が長いこと熟成され続けている」という事実について、外から来た人たちと密接に生活するようになって、徐々に理解していったと思うからだ。
島には島の理屈があり、外から来た者には外から来た者の理屈がある。それは、「同じ島で住む」という現実を共有するために、無理にでも削られ、調整されていくことになる。そしてそれを調整するのは当然、後から島に住む外から来た者の側だ。
とはいえ元からの住民も、まったく考え方を変えなくて良い、ということにはならないだろう。とかく、もう長いこと住んでいる者ならともかく、朱里や衣花のような子供であれば、なお外から来た者の影響を受けやすいだろう。高校生を主人公に据えたのも、そういう外からの影響と元々の島独自の文化との境界線上でリアルタイムで自らの価値観を更新され続ける存在であるからかもしれないと思う。
また、Iターン者を受け入れる島という設定は、「近景」と「遠景」の両方を描き出すのにも実に上手い役割を果たす。
僕はどうしても、辻村深月の「狭さを描く力」が好きすぎる。さっき書いた、少年少女たちが学校という閉塞的な環境で感じる感情というのは、まさにその「狭さを描く力」あってこそだろうし、狭い環境の中での濃密な人間関係を描き出す手腕はピカイチだと思っている。
しかし、やはりそれだけでは、なかなか多様な物語を生み出すことは難しいのかもしれないとも思う。究極的に狭さを追求した物語を読みたいと思いつつ、そうではない作品も求めてしまうのはワガママだなぁと思いつつ。
本書の場合、「島民の生活」という狭さを描きながら、一方で「外から来る者を受け入れる」という広さを描き出すことで、バランスがとてもよく取られていると思う。「島民の生活」を近景として描きながら、外から来る者との関わりを、そしてもっと広く、冴島という島全体の立ち位置や未来を馳せるという描写を「遠景」として描きながら、冴島という離島を立体的に描き出していく。接写とパノラマをこまめに切り替えていくような物語の展開は上手いなと感じました。
また、これは穿った見方かもしれないけど、Iターン者を受け入れる島という設定は、物語に必要な多様な人物がその島にいることの「不自然さ」を覆い隠すのにも役立つ。映画でも小説でもよく、「なんでそんなところにそんな人達が集まってるわけ!」みたいな不自然な設定ってあるけど、本作からはそういう不自然さを感じない。これも、舞台設定の妙だよなぁ、と思いました。
「島民の生活」は、もう色んな方向にベクトルがあって何を書いたらいいか迷うけど、とにかく一つ言えることは、「離島に住むという濃密さ」を読んでいて強く感じた、ということ。離島に住んだこともなければ、住んだところで結局ずっと島で暮らしていた人のことなんて分からないだろうけど、自分が離島に住んでも感じられないかもしれないことを、本書は感じさせてくれるような気がする。
例えば、凄く些細なシーンなんだけど、島にやってきたちょっと胡散臭い男に、衣花が「どうしてうちに?」と尋ねる場面がある。その時の衣花の調子を、朱里はこんな風に表現する。

『冴島を“うち”と呼ぶ響きが殊更はっきりと響き』

はっきりと言葉にしなくても、「衣花が島に誇りや親近感を抱いている」ということが一発で伝わる。辻村深月は本当にこういうのが巧いなと思う。ちょっとした名前の呼び方の違いだったり、視線の向け方だったり、そういうことを本当に丁寧に拾うことで、人の感情を立ち上らせていく。こういう些細な描写を山ほど積み重ねることで、言葉や行動だけからは見えてこない「匂い」のようなものが読者に伝わってきて、それが離島に住み続けているという「現実」を、僕らが知っている「現実」と繋ぎ合わせるための糊のような役割をしてくれるのではないかと思う。
本書は、多視点の物語なのだけど、第一章はすべて朱里視点で統一してあるというのも、その「匂い」のようなものを読者が感じ取れるようにという配慮のようで巧いなと思う。離島に住んだことも行ったこともない人には、そこでの雰囲気はなかなか想像しにくいだろう。それを、朱里という一人の人間を通した一貫性のある視点をまず固定することで、読者を離島の雰囲気に馴染ませていく。
離島での生活は、新しい名前をつける必要があるのではないか、と思えるような、僕自身の内側からは立ち上がって来にくい、それでいて感じていることは伝わってくるという、なんとも表現しようのない日常の積み重ねの上に成り立っているように思う。
そこで生まれなければ、見ることも知ることも考える必要もなかった現実が横たわっている。最終のフェリーの時間があるから部活に入れない、というのはとても軽いものの一例だろうか。島での生活は豊かで満ち足りたものだが、同時に、外のことを知れば知るほど、今まで気づくことのなかった「ないもの」の存在に、その空虚な空白に気付かされていくことになる。
存在しない物、存在しない選択肢、存在しない未来。そういう「ないもの」の存在に対して、島の住民は、出来る限り「くっきりとした答え」を探そうとしない。島で生きてく、という現実の方を変えることは、実はなかなか難しいのだ。「くっきりとした答え」を探す行為は、島で生きていくという現実を否定しなくてはならない場面にも行き着いてしまう。だから、曖昧にしたまま、わかっているのだけどわかっていないフリをしながら、とりあえず前に進んでいく。
この島に根付く「兄弟」という仕組みも、そういう中で生まれているのではないか。
島では、男同士が「兄弟」の契りを結ぶ風習がある。ヤクザのようだと言われるが、「兄弟」は親戚のような関係を築き、それがある種のセーフティーネットとなって、離島での生活を支えていく。島で生きていくという現実を飲み込むために、先人が知恵を絞って生み出したのが「兄弟」という仕組みなのだろう。
「兄弟」という関係は、本書の中でも実に素敵な役割を担っている。詳しくは書かないのだけど、「兄弟になろう」という言葉がこんなに響く作品もないだろうと思う。
内容が色んな方向にベクトルを持つので、具体的に触れにくくて、こうやって分析するようなことをわーわー書いてしまうのだけど(しかし、辻村さんの作品を読むと、なんでか分析っぽいことをしたくなってしまう)、さらにちょっと別のことを書こうと思う。
本書で描かれていることは、まさに今僕が関心を抱いている事柄にとても近い。
勝手な憶測なのだけど、本書のモデルとなっている島は、海士町なのではないかと思っている。
島根県の属する海士町は、知っている人は知っている、なかなか有名な離島だ。本書の舞台となる冴島は瀬戸内海にあるけど、海士町は日本海に浮かんでいるらしい。有名な離島、と言いながら僕は知っていることはほとんどなくて、唯一知っていることと言えば、日本全国から優秀な人間がIターン者として移住し、そこで様々なプロジェクトが進められているということ。僕の関心のドンピシャだということを示すように、僕は海士町のプロジェクトが描かれている本を買っていて、もうすぐ読む予定だったりする(この文章が表に出る頃には、もう読んでいることでしょう)。
僕は最近、ソーシャルデザイン的なことに関心がある。「ソーシャルデザイン」という本を読んでいたりするし、町おこしだとか、人と人を繋げるだとか、そういう話に今とても関心がある。リアルで僕のことを知っている人には、なかなか想像出来ないだろうけど。
「ソーシャルデザイン」の中で、ソーシャルデザインとはこう定義されていた。

『社会的な過大の解決と同時に、新たな価値を創出する画期的な仕組みをつくること』

僕は、とても大げさな言い方になるかもしれないけど、本書で描かれる冴島の姿は、僕らが今後行き着くことになる未来の姿だと思っている。大量生産・大量消費の時代の終焉をもうみんなが感じていると思うけど、でもだからと言って、じゃあ僕たちの未来がどういう方向にあるのか、きちんとした道筋はまだ描かれていない気がする。冴島のような、地域ごとの良さを残しながら、外からどんどん人を取り込んでいき、小さな規模で循環可能な生活環境を生み出していく。冴島は、まさに離島という環境だからこそ、「小さな規模で」「循環可能な」生活環境にせざるを得ないという事情があるのだが、そういう事情を持たない地域も、これからどんどんそういう方向にシフトしていくのではないかと思う。
また、住む場所に限らず、「モノをどのようにして手に入れるのか」「ヒトとどのように関わっていくのか」というような部分でも、どんどんとこれまでに有り様が変わっていくだろうと思う。
そういう中で、自分に何が出来るか、というようなことを、どうも僕は最近考えているようだ。そして、そういうことを考えることは、なかなか面白い。
別にアイデアマンではないので、凄いアイデアが出てくるわけではないんだけど、「誰もがそこにたどり着きたい」という目的地を明確にイメージさせ、みんなでそこに行こうぜ!って声を掛ければ、後は勝手にそこに辿り着けるのではないか、という根拠のない自信を最近持ち始めてもいて、何かやりたい気分ではある。
本書には、「地域活性デザイナー」という肩書きの谷川ヨシノという女性が出てくる。全国あちこちの自治体などと関わって、住民から話を聞いたり人をつなげたりして、その地域ごとにそれぞれの問題を解決していくという仕事をしていて、僕らの現実の世界にも、コミュニティデザイナーという肩書きの山崎亮という人物がいる。
なんとなく、谷川ヨシノがやってるようなことをやりたいんだよなぁ、という感覚が、本当にここ最近の僕の感覚で、そういう意味でも本書は面白く読めました。
色々書いたけど、僕がここでわーわー書いた部分ではないところに強く反応する人もいることでしょう。本書は、様々な視点や価値観が入り乱れているところにも面白さがあると思います。最後の方で、あの人も出てきます。楽しみにしててください是非読んでみてください。

辻村深月「島はぼくらと」


夏色ジャンクション(福田栄一)

内容に入ろうと思います。
信之は、しばらくずっと車の中で生活していた。度々場所を変えなくてはならなかったが、ここ最近はずっと公園内の駐車場に陣取っている。
そこに子供たちがやってきた。なんでも、お年寄りが体調を崩しているから助けて欲しい、というのだ。
めんどくさい、と信之は思った。しかし、子供たちの視線を無視するのもなかなか難しい。とりあえず形だけでも様子を見に行って、適当に帰ってこよう、と考えて腰を上げることに。
しかしなんだかんだ言って結局、そのお年寄りを車に乗せてあげることになってしまったのだった。
勇と名乗ったその老人は、山形まで行くつもりらしく、駅まで送ってくれないかと信之に頼んだ。しかし、勇の分厚い財布を目にした信之は、気が変わった。このままこの老人を山形まで車で送ろう。そうすれば、道中の飯代・宿代・ガソリン代は全部持ってくれるだろう。ここしばらく碌なものを食ってなかったから、ここぞとばかり良い物を食べてやる。
そう決めると信之は、山形まで出来るだけノロノロ行けるように、カーナビでルートを遠回りで設定するのだった。
やがて信之は、勇がボストンバッグの中に大金を抱えていることを偶然知ることになる。良からぬ考えが信之の脳裏に浮かぶ。この金を奪ってしまえば、借金も返せる…。
途中、リサという名のアメリカ人も拾うことになり、三人でそれぞれの目的地を目指して旅するロードノベル。
個人的には、全体的にちょっと弱いなぁ、という印象の作品でした。
物語の起伏が平坦すぎる点。平坦であることそのものが悪いわけではないのだけど、本書はちょっと平坦すぎるかなぁ、と思いました。別に、スリリングでテンポの良い物語じゃないとダメだなんて話をしたいわけではないのですけど。
本書はとにかく、車でどこかに向かいながら、途中でご飯を食べたり、目的地について旅が終わるはずだったのにそうならなくて次の目的地が現れたり、ということが繰り返されていくだけなのですよね。なんというか、とても単調だなぁという気がしてしまいました。
僕は小説を読んでて、「◯◯するだけ」っていう面白い小説って凄いなって思うんです。本書は、「ただ車であちこち行っているだけ」の小説なんですけど、でも残念ながら面白い小説というところには届いていない気がする。
例えば、山田深夜の「ロンツーは終わらない」という作品がある。この作品は、「東北からバイクで東京を目指すだけ」の物語だ。しかしこれが、ハチャメチャに面白い。追っ手がいて、その追っ手との息詰まる攻防も読み応えがあるし、父と子というテーマも非常にうまく織り込んである。「ただ東北からバイクで東京を目指すだけ」のストーリーなのに、恐ろしく面白いわけです。
何が違うんだろうなぁ、と考えても、正直よくわからない。もちろん、この二作品を同じ土俵で比べることそのものが間違いだったりするのかもしれないけど。
本書の場合、「車に乗っている三人の意志」以外に、物語に影響を与えたり展開を左右するような要素がない、という点が、盛り上がりに欠けるのかもしれません。本書では、どこに行くにも、何をするにも、車の中の三人の意志だけで決まってしまいます。そうしたい、という欲求だけで物語が展開していくので、なんでもありというか、どういう風にでも物語を転がせてしまう、という制約のなさが、僕にはあまり面白く感じられなかったのかもしれません。
リサのキャラクターはなかなか良いかな、という感じはしました。信之が様々な場面で抱える葛藤は、なんとなくちょっと薄っぺらいかなぁ、と感じてしまったし、勇は年配者っぽい貫禄的ものを感じさせてくれる場面がなくて、最後までずっとなよなよしいイメージだったんですけど、リサは結構楽しいキャラクターだなぁ、という感じです。
最後の最後、彼らの旅が実はそんな風に捉えられていたのか!という流れにするならば、もうちょっと伏線というか、納得感のある設定が必要だった気がします。いや、さすがに、そういう状況になっているのに、8日間ものんびりしてられるかなぁ、と思ったりしました。

福田栄一「夏色ジャンクション」


スカル・ブレーカ(森博嗣)

内容に入ろうと思います。
ヴォイド・シェイパ」「ブラッド・スクーパ」に続く、シリーズ第三弾。
カシュウと二人で山で暮らしていたゼン。カシュウが死に、カシュウの命に沿って、ゼンは山を降りる。町から町へと旅をしながら、なんとなく漠然と都を目指す旅。
強くなりたい。
ゼンの心中のど真ん中には、常にその思いがある。カシュウからは、多くを教わった。剣さばきも、人の世の習いも、侍としての生き様も。しかし、カシュウは山を降りろと命じた。それは、より強さを得られる何かが里にある、という意味だろうとゼンは判断した。
町中で喧嘩が始まったらしい。特に興味もないが、人が集まっているので見てみると、刀は抜いてはいるが闘う気配はない。まあいいか、と通り過ぎ、うどんでも食おうとしたのだが、何がどうなったのか、結局その喧嘩があったが故にゼンは、城に連れて行かれることになってしまう。
ゼンには、状況がよく判断できない。ゼンとともに、ヤナギという、先ほど喧嘩を売られていた男も一緒に連れて行かれることになった。
人違いだと分かってもらえたようだったが、殿様の前でスズカ流の剣を見せるよう命じられる。スズカ・カシュウは、どこに行っても知っている者がいる。やはり相当に名の知れた男だったようだ。
奇妙な一日を過ごしたゼン。帰り際に、文を渡される。九日後に、瑞香院で、と。
というような話です。
森博嗣の作品の登場人物は、『前』に進もうとしない人物が多いように思う。ここで言う『前』というのは、『世間の人が前だと思っている方向』というような意味だ。
ひねくれている、と言いたいのではない。ひねくれていると受け取られる人物もいるだろうが、そうではない。純粋に、見えているものがまったく違うだけなのだと思う。
ゼンは、「失礼します」という言葉に対して、こんな感想を抱く。

『失礼します、というのも、失礼だとわかっていて、でもそうは思わないでほしい、と言っているのである』

僕たちは、特に何も考えずに「失礼します」という言葉を使う。それはもう定型句であって、誰もが疑問なく使う言葉だ。でも確かにそれは、ゼンの言う通り、特殊な使われ方をしている。こういう疑問を持つ人物が、とても多く描かれている。
ゼンは、山で二人きりでずっと過ごしてきて、里に降りてきたのは最近。世の中の常識は、旅をしながら身に着けている。その設定が、この作品を非常に面白くしている。ゼンは、ひねくれてるのではない。世の中をナナメから見たいと思っているのではない。ゼンにとっては、多くのことが純粋に疑問なのである。しかし、ずっとそういう社会の中で生きてきた人間には、それが分からない。気付けない。ゼンの視点で物事を見て、初めて、それが変わっていることなのだ、と気付かされる。
森博嗣の多くの作品で、このような視点が登場するが、このシリーズはそれがとても色濃く表れているように思う。

『いろいろなものが無駄に見えるが、それが作られたときには、作るという意味、作るという価値があったのかもしれない。ただ、それが残っているだけなのだ。建物も仏像も庭も、人が作るものは、それが作られているときには生きているようなものだ。どんどん成長する。しかし、完成してしまったときには、もう死んでいる。したがって、屍を見ても、そのものの価値はわからないのかもしれない』

『誰より強くあっても、すべてを知っていても、死ねば消えてしまう。それなのに、何故求めるのか。何故、自分でなければならないのか。誰かが強くなり、誰かが知れば良いではないか、何故、自分なのか』

『おそらく、差があるが故に、このように人が結びつき、世が丸く収まるのでしょう。才がそれぞれにあるというのは、裏を返せば、それぞれに欠けるものがあるということです。欠けたものを補うためには、他の者たちを信じ、互いに与え、分かち、合わせることが必要となります。そうなるようにと、それぞれに違って生まれてくるのでありましょう』

『あちらこちらに、実は無駄といえる仕事が多々あって、それらに誰かが金を支払っている。だからこそ、そういうものを仕事にできる。無駄で回っているのだ。無駄の准看があるから、このように大勢が集まっていられるのだろう』

森博嗣は、見てきたように情景を描く。これは、小説家なら当たり前ではないかと思われるかもしれないが、どうも森博嗣の描写は違うように思えてならない。本当に、その場にいて、そのものを見て、その場の空気を感じて、それをそのまま文章にしているような印象がある。何故そう感じるのかは分からない。けど、恐らく森博嗣は実際に、その場にいて、そのものを見て、その場の空気を感じて文章を書いている、ということなのだろうと思う。それこそが、僕が感じる、森博嗣の作家としての特異な点ではないかと思っている。誰かに説明するためではなく、その場にいるかのようにあらゆる描写をするというのは、やはり凄いなと感じる。
侍としてのゼンは、時と共に成長していく。いや、この表現は、正しくないかもしれない。正直読者には、ゼンの成長を捉えることは出来ないだろう。剣道などやっている人であれば、多少は想像出来るかもしれない。あるいはそれは、武道全般に言えることかもしれないけど、それでもゼンの成長を捉えることはとても難しいだろう。
なにせ、恐らくその成長は、ゼン自身にも的確には捉えられていない。高みにいる者にとっては、ほんの僅かな成長であっても価値がある。しかし、その成長はあまりにも僅かであるために、自分自身であっても的確に捉えることは難しい。もしその成長を捉えることが出来ている人物がいるとすれば、それは著者である森博嗣ぐらいなものかもしれない。
ゼンはそれぞれの町で、腕の立つ者と出会う。剣の道は様々で、極め方も様々だ。ゼンはこの町で、それを非常に思い知らされることになる。ゼンにとってこれまで発想になかった剣の道が示される。それに感嘆し、驚愕し、そしてそこから学ぼうとする。

『理屈が先行して、理屈によってものを見ようとすると、もしかすると見誤ることになる。そればかりに囚われていると、大きな流れの変化に気づかず、判断に遅れてしまうことがあるものです』

『経験などしても、頭で考えることと大差はない。たとえば、見るのと触るのと、何が違いますか?それは目で捉えるのと、手で感じるのと、その違いでしかない。いずれも、ただ、己がそう思っただけのことです。学ぶものは、己の外にあるのではない。貴殿の内にあるものを探しなさい』

ゼンが里を降りたのは、侍が既に闘う理由を失った時代。

『戦がなければ、大勢の侍が侍として生活できなくなる。今はそういう時代なのだ。刀は持ってはいるものの、実際に使う機会など滅多にあるものではない。武芸は、己の鍛錬に重きが置かれ、人を倒すことを第一としなくなったとの話も聞いた。
自分は、まだそのあたりのことがよくわかっていない』

そのような時代にあって、強さとは何か、勝ち負けとは何か、侍とは何か。ゼンは、旅をしながら、ぼんやりとそんなことを考える。カシュウの教えさえ、まだ自分の中で紹介しきれていない。ゼンは、旅を続け、どこへ向かうわけでもなく、何を求めるわけでもなく進み続ける。何も求めず、何も願っていないのに、ゼンはあらゆることに巻き込まれていく。それは、カシュウの名や、ゼンの立ち振舞から察せられる強さが引き寄せるものだ。人と関わることは面倒だが、しかし人と関わらなければ里に降りた意味がない。難しいことだ。
一緒に旅をしているわけではないが、旅先でよく顔を合わせるノギという三味線弾の女がいる。ノギとゼンの会話は、とても面白い。この会話だけでも、延々と読んでいられそうだ。言葉や想いがまったく噛み合っていないのだけど、それでやり取りはどうにか成り立っている。いや、ノギが諦めることで成り立っているのか。でも、実はゼンもわかっててやっているのではないか、などという邪推をしてみたりもして、ノギとゼンの会話を楽しんでいる。
本作は、ゼンという個人の立ち位置を大いに揺るがす展開を持つ作品だ。ゼンは少しずつ、人の世に慣れていく。それでも、ゼンの目に映るものの多くは、ゼンを驚かせ、不思議がらせる。ゼンは旅の果てに何を見つけるのか。あるいは、ゼンの旅は終わることはないのか。ゼンが目指す『強さ』に、答えは見つかるのか。素敵なシリーズです。

森博嗣「スカル・ブレーカ」


煌夜祭(多崎礼)

<語り部>と<魔物>が住む島・十八諸島。
イズー島を中心に、蒸気で浮かぶ島が円環状に連なる。生物も住めぬほどの死の海に囲まれ、蒸気船でお互いを行き来する。
冬至の夜、後夜祭と呼ばれる祭りが開かれる。語り部が集い、火を囲み、各々がこの国の真実や歴史を夜が明けるまで語っていく。
今夜も冬至。人々が絶えたターレン島に集った二人の語り部。島主を失った島で煌夜祭を開いても、褒美がもらえるわけでもない。
語り部は面をつけ、名を秘す。小鳥の仮面を被ったナイティンゲイルと、本物の頭蓋骨のような仮面を被ったトーテンコフ。
二人は、たった二人しかいない煌夜祭を始める。お互いに、十八諸島の歴史を語る。
何故冬至の日に煌夜祭が開かれるようになったのか?魔物とは、一体何者なのか?王位継承戦争で何が起こったのか。
様々な島で起こったいくつもの歴史を積み重ねていく中で、お互いがお互いの存在理由を見出していく冬至の夜…。
というような話です。本当は、形式的には連作短編集のような作品なので、それぞれの短編の内容に触れたいところなのだけど、ちょっと今回はあまり詳細に内容に触れない方がよかろうという判断をしたので、こんな感じの内容紹介にとどめておくことにします。
なるほど、これはよく出来た作品だなと思いました。何よりも構成力が抜群の作品だと思いました。本書は、十八
諸島という国を舞台に、『二人の語り部が煌夜祭の夜に語っている物語』が短編として7編収録され、その短編の合間合間に二人の語り部が語り合う、という構成になっています。この説明で通じるかなぁ。
以前、山本弘の「アイの物語」という作品を読みましたが、本書は「アイの物語」を連想させる構成だなと思いました。「連作短編集の外側に、その連作短編集を包み込むもう一段外側の世界が存在する」という設定の共通点ぐらいなものですけど、そういう設定の連作短編集をほとんど知らないので、この構成は非常に巧いと思うし、見事だなと思いました。
詳しいことはここでは書かないけど、本書は、短編(つまり、語り部が語る歴史)を読み進めていくにつれて、十八諸島や二人の語り部にまつわる様々な謎が提示され、そして明かされていく。それぞれの語りは、ほとんどの人にとっては繋がりを見出すことは難しいものだろうと思う。これを、ナイティンゲイルとトーテンコフの二人が語り合う。これこそに意味があるのだ。この二人の語り部が、煌夜祭の夜、たった二人しかいない島で歴史を語り合う。この設定が見事に転がり、二人の語り部が出会わなければ誰も知ることのなかっただろう歴史が浮き彫りになっていく。
本書では、<魔物>という設定が非常に重要で、かつ魅力的な存在として描かれていきます。魔物を取り巻く謎、というのが、本書の一番の大きな謎と言えるでしょう。
魔物は、昼の陽の中で出歩くことは出来ず、夜の世界でしか生きることが出来ない。どうやっても死ぬことはなく、死ぬことがあるとすれば、たった一つの方法しかありえない。魔物は人から生まれ、人と同じように育つが、しかしある時から魔物としての本性を表すことになる。そして魔物は、冬至の夜に、必ず人を喰う。
本書では、自分が魔物であることに気づいた人間の悲哀、魔物に恋をした人間の辛苦、魔物であることに希望を見出した人間の決意など、魔物であるが故の苦しみが様々な形で描かれていく。人と同じ心と姿を持ち、人と同じように育てられながら、ある時から魔物として扱われることになる、暗い牢獄に閉じ込められ、冬至の日は用意された人を喰い、永遠に死ぬことなくその生を永らえさせる。昔、重松清の「永遠を旅する者 ロストオデッセイ」という、不死の傭兵を主人公にした作品を読んだことがある。永遠に死ぬことなく生き続ける悲哀というのは、なんだか近いものを感じた。しかし本書の場合、魔物は、冬至の日にはどうしても人を喰いたくなってしまう。この設定が、あらゆる絶望を引き寄せることになる。生きていたいわけではないのに、死ぬことはできない。自分こそが死ぬべき存在であるのに、人間を喰らうことで生き続けなければならない。その果てしのない苦しみは、想像を絶するなと感じます。
<魔物>という特異な存在を中心に据えて、ファンタジックな物語が展開されていくことになる。
僕は正直、ファンタジーが苦手だ。有名なファンタジー作品をいくつか読んでみたことがあるのだけど、どうもしっくりこない。SF作品もあまり得意ではないので、僕らが生きている現実から逸脱するほどの奇異な世界観をうまく自分の中に取り込むことが出来ないんだろうなぁ、と思っている。
でも、本書は、スイスイ読めたのだ。普段ならファンタジー作品を読む時は、なかなかページが進まないなぁ、と思いながら読むのだけど、本書は特に引っかかりを覚えることなく、スムーズに読むことが出来た。それだけでも、僕的にはなかなか凄いことである。僕にも読めるファンタジーがあるんだなぁ、と思わされましたですよ。
まあ本書の場合、魔力を帯びた剣が出てくるわけでも、特異なモンスターが出てくるわけでも(魔物は、姿形は人間ですからね)、魔法が出てくるわけでもない物語だから、特別な想像力を必要としない物語だった、ということはあるかもしれません。そういう、外側の装飾があまり華美ではない物語だったからこそ、ファンタジー作品でも抵抗なく読むことが出来たのかもしれません。
ただ一点だけ。横文字の名前を覚えるのが苦手な僕は、途中誰が誰だったのかを度々見失ってしまいました。正直それがちょっと残念だったなぁ(自分が悪いんですけど)。どうも、ほとんどの登場人物の名前をまともに覚えることが出来なくて(ホントに横文字の名前は苦手なんです)、そこが苦労しました。難しいかもしれないけど、簡単な登場人物表が欲しかったかもなぁ、と思わなくもないです。
全編を通じて描かれていくのは、「あいつを守りたい」という強い感情。これが、あらゆる人の行動原理に潜んでいる。これが、物語をとても魅力的にしていく。守る側と守られる側の関係性は、様々だ。もちろん、その間には、魔物であることの悲哀が組み込まれていくことになる。「それでも、あいつを守りたいんだ」という強い思いが束になって、様々な歴史を生み出していくことになる。一つ一つの歴史は、十八諸島の片隅で起こった小さな出来事かもしれない。しかしそれが、時を超え、海を超え、身分を超えて作用し、広がり、うねりとなって歴史を翻弄していく。
そしてその歴史が、二人の語り部の前で着地を見せることになる。戦い続けてきた様々な歴史に終わりがやってくる。戦い続けてきた者たちの様々に渦巻く感情が唸り声をあげる。なかなか見事な物語でした。
圧巻はやはり、本書のメインの物語となるのだろう、「王位継承戦争」でしょう。お互いを守り合おうとして二人の勇敢な者たちが、最後まで諦めることなく戦い続けたその記録が、激動的に描かれていくことになる。
本書には、書き下ろしの短編が収録されているのだけど、正直僕にはよくわかりませんでした。うーん、これは何の話なんだろう?
まあそんな感じなんですが、とにかく全体的に非常に構成力が高く、物語性豊かな作品だなと思いました。僕自身がそもそもファンタジーが苦手なので、この作品はファンタジーが苦手な人にもオススメ出来ると言うことができます。作品全体の構成力が高いために、一部だけ取り出してあれこれ言うのが難しい作品で、あまり内容に触れることが出来ないのが残念なところ。これがデビュー作だそうです。なるほど、ちょっとこの作家には注目してみようと思います。

多崎礼「煌夜祭」


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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)