黒夜行

>>2013年04月

インタビュー集 出版トップからの伝言(小林二郎)

内容に入ろうと思います。
本書は、1992年に出版された、各社出版社のトップへのインタビューをまとめた作品です。
群馬に、煥乎堂という老舗の書店がある(今もあるのかは知らない)。著者は、その煥乎堂の代表取締役(当時。今はどうでしょう?)である小林二郎氏である。著者略歴には、『協力なリーダーシップは、すでに定評のあるところ。天衣無縫、豪放磊落にして、義理を重んじ、人情に厚く、多分に上州気質に富み。歯に衣着せぬその発言は、業界のご意見番にふさわしい』と書かれていて、なかなかの人物のようである。
そんな小林二郎氏が会長を務める「書店新風会」というのがある(今もあるのかは知らない)。これは、『東京を除く全国有名書店の会』というような集まりだそうです。そしてその「書店新風会」が、「新風」という月刊の会報誌を出している。
本書は、その「新風」誌上で連載されていた「ジローのトップ対談」という読み物を書籍化したものだそうです。地方の一書店員が、様々な出版社のトップと対談をする、という趣向は、なかなか面白いなと感じました。
「新風」誌上での連載時には、書店経営や流通にまつわる専門的な話もされていたようなのだけど、それらは書籍化に当たってかなり割愛したとのこと。たぶんその影響もあるのでしょう、対談によって分量に差があります。
対談相手は以下の通り。

岩波書店 前社長 緑川享
岩波書店 社長 安江良介
音楽之友社 社長 浅香淳
雄鶏社 前社長 故竹内俊三
学習研究社 社長 古岡滉
角川書店 社長 角川春樹
河出書房新社 社長 清水勝
共立出版 社長 南條正男
講談社 社長 野間佐和子
三省堂 会長 上野久徳
実業之日本社 社長 増田義和
集英社 前社長 堀内末男
集英社 社長 若菜正
主婦と生活社 社長 遠藤昭
主婦の友社 社長 石川晴彦
小学館 社長 相賀徹夫
祥伝社 社長 伊賀弘三良
晶文社 社長 中村勝哉
誠文堂新光社 社長 小川茂男
世界文化社 社長 鈴木勤
増進堂・受験研究社 社長 岡本惠年
淡交社 社長 納屋嘉治
中央経済社 社長 山本時男
徳間書店 社長 徳間康快
株式会社 トーハン 前社長 遠藤健一
株式会社 トーハン 社長 上瀧博正
二玄社 社長 渡邉隆男
株式会社 日教販 社長 大藤耕治
日本実業出版社 社長 中村洋一郎
日本出版販売株式会社 社長 五十嵐一弘
白水社 前社長 故高橋孝
博文館新社 社長 大橋一弘
ぴあ 社長 矢内廣
福武書店 社長 福武總一郎
婦人画報社 社長 本吉敏男
二見書房 社長 堀内俊宏
文化学園 理事長 大沼淳
文藝春秋 前社長 上林吾郎
文藝春秋 社長 田中健五
平凡社 社長 下中弘
保育者 社長 今井悠紀
ポプラ社 社長 田中治男
マガジンハウス 前社長 清水達夫
マガジンハウス 社長 木滑良久
有斐閣 社長 江草忠敬

本書は、出版が1992年で、インタビュー自体はそれよりも前だろうから、既に四半世紀以上前の話です。それなのに本書を読んでいると、「若者が本を読まない」だの「購買層はお年寄りが増えている」だの「ニューメディアや電子出版が業界をどう変えるのか?」だの「類似本がたくさんあってよろしくない」だの「買い切り制への移行云々」だのといった、現在とまったく同じような問題を抱えていて、出版・書店業界は全然進歩してないなぁ、と思いました(笑)。とはいえ、読みながら、面白いなぁと思う点は多々あったので、引用しまくってこの感想を終えようと思います。

【岩波書店 前社長 緑川享】

(出版点数について)版元の都合で増えているというのは、一つには、一つのものが出て売れると、類似のものがいっぱい出る。これは独創性のない話でね。出版界全体として、反省すべき問題がありますね。

現状からすれば、本はいかに自己規制をしても、コントロールしても、新刊の数が増えていくでしょう。だからその受け皿として、流通がコンゴどうさばくかが、問題となってくるわけでしょうね。これまでの方式では、困難な時点にきているわけです。

なかでも返品問題は、出版界のガンになっているわけです。これは、版元も困るし、取次・書店も困ってしまう。即日返品なんていう現象まで、出てきてしまっている。

学生の読書指導を、本格的に考えるべきだと思うんです。大学生協の読書調査を、ずっとここ十年ぐらい、私は見てきていますけれども、学生が一ヶ月に本を買う金額とか、それから読書の時間とか、そういうのはそう変わりないんです。
ところが、読書の内容が非常に変わってきている。ひとことで言いますと、学生特有の読書というのが、だんだん増えてきているんです。一般の読書と変わりなくなってきていますね。それだけ読解力が落ちているのです。

しかし、岩波は、この分野には積極的に考えて取り組んでいます。初めは意外に思われたようですが。電子情報による出版も、従来の活字による出版も、同じ出版だと思うのです。そして、出版会が主体性を見失わなければ、出版の市場をもう一つつくることが、できるはずだと考えています。もちろん、むずかしいことはたくさんありますね。

出版の仕事は、かなり影響力のある仕事だけれども、資本という面から言うと、ものすごく小さい。だから、出版の側がよほど主体性をもたないと、他の産業にのみこまれてしまうと思うのです。

だから、世間では錯覚しているようですけれども、新しいハイテク時代においては、実は活字をしっかりと読める、むずかしいものだって読める、理解できる、そういう教育をまずしなければだめだと、ぼくは言うんです。

【角川書店 社長 角川春樹】

とくに書籍が中心になればなるほど、人数は少なくてすむんです。また人数を少なくしなければ、例えば三年間、買切商品をこなしていくことが、書籍の場合できないわけです。その一方、雑誌の場合は、買切がなかなかむずかしいと思っているんです。その点では、書店経営がいま、雑誌を含めて成っている形態から、書籍と雑誌が分離することは充分ありえるなと。

【講談社 社長 野間佐和子】

先ほども申し上げましたように、規模からすれば、日本で最大の出版社だという意識があまりございませんでした。あとになってから、出版物の種類の多さとか幅といったものを、一つ一つ確認したことによって、”ああ、すごく大きな会社の社長になっちゃったんだな”という感じがいたしました

社長になった時は、何をどうしようという意識より、”家業として、継いでいかなければならない”という責任感の方が強かったものですから、会社の規模云々ということは考えもしませんでした

永年後援させていただいていても、社員にもあまり知られていない事業もございます。例えば四十四年の歴史をもつ、野間教育研究所の活動などがあります。ここで蒐集している教育史をはじめtする文献は、きわめてユニークなコレクションで、その道の先生がたから、大学の図書館にも劣らぬ、学界では大変貴重なものだと承っております。

出版点数が多くなりますと、プロダクションからの企画も多いものですから、ノウハウの多くがプロダクションに蓄積されてしまって、編集者に残らないんですね。それじゃいけないと思います。現場を知り、自分でものが書ける上で、プロダクションにお願いするのならいいんですが、そういうことは何も知らないで、プロデューサーになってしまっては、編集者とはいえないと、私は言っているんです

【三省堂 会長 上野久徳】

『大辞林』一つつくるにしても、何十億円の金を注ぎ込んだわけです。それは二十八年間も回収できない。今度はみなさまのご努力で、七十万部も売っていただけて、ほんとうにありがたかったのですが、こんな企画をやるには、財力が必要でございます

【実業之日本社 社長 増田義和】

『夫人世界』は当時東洋一の部数でしたし、『日本少年』、『少女の友』などは、国民的人気雑誌だったと言ってよいと思います。
(小林)大正時代は、”実業之日本社時代”と言われたほど、出版界に君臨しておられた

実は、委託販売制度は、どうやら実業之日本社が最初に取り入れたらしく、諸悪の根源を。(笑い)
(小林)ぼくは、そんなことを諸悪の根源と言っているのえはなくて、最初に取り入れた時には、非常にいい制度だったと思うのです

【集英社 社長 若菜正】

この別冊体系は、私が発明したんですよ。というのは、週刊誌で使った原稿を、総集編として月刊誌に掲載する。この二本立てでやると、雑誌にもだんだん力がついてくるんですよね。

『週刊少年ジャンプ』はいま、毎週五百八十万部発行しているんです。これだって創刊の時は十万部ちょっと。それも月二回刊でしたからね。

『ノンノ』は、大変優良雑誌なんですよ。創刊以来、前年比が落ちたことがないんです。

男性誌で言いますと、やっぱり『月刊PLAYBOY』が心に残る仕事でした。
(小林)ともかく出版界に、あれだけの衝撃を与えた創刊は、後にも先にもないですね。大変なインパクトだった。
社内的にも、陶山社長以下、編集、営業一体となってがんばりました。あの時は四十六万部が、一日で売れてしまいました。

【主婦の友社 社長 石川晴彦】

『主婦の友』は、大正六年二月十四日に創刊されましたので、今年の三月号で創刊七十周年になりました。戦後の、深刻な用紙不足の時代にも、一号といえども休刊することなく、七十年間発行しつづけてきました。

【小学館 社長 相賀徹夫】

買切制というのは、昔から言われていますが、版元の考える買切、取次の考える買切、書店さんの考える買切、それぞれちょっと、ニュアンスがちがうみたいですね。自分の立場で、有利な買切というものを、まず頭のなかで描いちゃう。だからいつも、すれちがいみたいになるのでしょうが。

【祥伝社 社長 伊賀弘三良】

これは、そのころたたきこまれたのですが、本の企画と宣伝のキャッチフレーズは、一本のものでないといけないということ。つまり本の企画ができたときには宣言のキャッチフレーズもできている。いわゆるセリングポイントをつかんだ本じゃないと、成功しないということですね。

【誠文堂新光社 社長 小川茂男】

(戦後初の大ベストセラー「日米英會話手帖」について)聞くところによりますと、焼け残った社屋の四階で、父(小川菊松氏・創業者)は数名の社員と、天皇陛下の御詔勅を涙ながらに聞いた後、「これからは英語が重要な役割をもつだろう。必要なのは英会話だ」と、さらりと言ったそうです

【淡交社 社長 納屋嘉治】

出版業界は、やはり専門的なプライドを堅持してほしい。出版というのは文化を残すことですから、わが社は何を残せるのかということを真剣に考えていただきたい。売れる本だったら何でもいいという具合に、利益優先でもものを考えるから、ますます、ほんとうにいい本が出なくなってしまった。

【株式会社トーハン 前社長 遠藤健一】

私どもは経理公開制をとっています。出版社も、もっと経理公開の勇気をもって、それでここまではできる、ここまではできないということを、はっきりすべきだと思うんですよ。それはなぜかというと、定価を決めるのは、メーカーである出版社でしょう。そこに秘密主義をとられたら、どんなシステム構築も、壊されちゃうんですよ。

書籍の定価に対する原価率が、各出版社でちがいすぎるというんですよ。それで売りの時は、それが同じように一率八掛けとか、なんとかということで、統一になっているでしょう。そのへんの矛盾も、かなり問題だとね。

ですから、私は定価をアップしてもらいたい。だけど、それに対してプロの世界ですから、買切、ないし淳買切で対応しますと。それがギブ・アンド・テイクだと思うんですよ。だから、私は経理を公開する勇気がないと、書籍の改善は無理だなと思っているんですよ。

【博文館新社 社長 大橋一弘】

(小林)(博文館新社の創業者の)大橋新太郎さんは、『大橋新太郎伝』によると、日本の今日の大手の企業の中で、東京電力や、あるいは東京ガス、日本鋼管、日本郵船、王子製紙、それから政界と、おそらくあの人は、五十くらいの創立に参加したり、役員になったりした。出版界でも、大橋新太郎さんのおかげで、今日あるというところがたくさんある

ご承知のように、大正時代を実業之日本社時代としますと、めいじじだはまさに博文館時代だった、と言えましょう

【ぴあ 社長 矢内廣】

その時、街のなかの文化発信拠点としての、本屋さんが果たす役割というのは、イメージも含めて、本だけじゃない商品構成へと変わっていく時代にきているのではないでしょうか。とても観念的な言いかたですが

【婦人画報社 社長 本吉敏男】

そういうわけで、書店さんも「本しか売らないんだ」という考えかたは、必要ないと思うんです。「商売をどんどん広げなきゃ、生きていけませんよ。広げないで、守るだけで苦しいと言われても困るんです」とよく申しあげています。それぞれの店が努力すべきだと思うんです

印刷にいて、出版業界を見ていて「変な所だな」と思いましたよ。出版社と仕事するのがいやだったですよ。安くて、儲からなくて、期日にうるさくて、品質についてもグズグズ言う。校了日を決めても、「ちょっと事件があったから、待ってくれ」でしょう。

【二見書房 社長 堀内俊宏】

そして創業当時は、水にちなんだ社名の出版社が隆盛をきわめていました。例えば、岩波書店さん、新潮社さんといった具合にです。
三重県の出身ではないのですが、二見ヶ浦も水に縁があり、それにあやかって、二見書房にしたのだと、私に話してくれたことがありました

しかし、『白い本』というのは、なんでこれがベストセラーになったのか、いまもってわからない。この企画だけは、売れれば天才で、失敗すれば、二見は企画がなくなったと笑われる。最終的には、百万部以上いきましたね。

【文藝春秋 前社長 上林吾郎】

ほんとに十五人から二十人ぐらいの規模で、きちんとした、りっぱな仕事をされるところがありますね。そういうところが出版業界で、もっと評価されてもいいんじゃないかと思うんです。なんか、マンガで売れたとか、映画やってるからいいわ、ベストセラーの小説出たからいいわ、裸の雑誌で儲かっているとか、そういうところだけが、出版社のランキングみたいにもてはやされるのは、大変残念だと思いますね

【保育社 社長 今井悠紀】

現職図鑑も、現在では一〇〇点近くになり、その他の図鑑をあわせますと、二〇〇点を超えます。図鑑の出版社としては、世界に類のないことです

【ポプラ社 社長 田中治男】

久保田も私も、当時は無給で、久保田が田舎から通勤しながら、サツマイモや餅を運んでくる。わずかな配給米しかありませんのでそれで飢えをしのぎ、少しでも金があると闇紙を買って、本をつくるということのくりかえしでした。

その欲求不満が、しゃにむに出版に突っ走ったことにつながります。自分たちと同じように、本を読みたい読者が、ワンサといるにちがいないと思い、食えるか食えないかなんてことは考えずに、出版を始めればなんとかなると、ゼロからの出発を無謀にも断行したんです

戦後、静岡の書店さんの跳躍がめざましく、各出版社が発表する販売リストの上位に並ぶのは、静岡の書店さんでした。沼津のマルサン書店、富士の岳陽堂、清水の戸田書店、静岡の吉見、谷島屋両書店、浜松の谷島屋、三省堂と、強豪がぞろりとそろっていましたね

【マガジンハウス 前社長 清水達夫】

当初は、『平凡』というタイトルで、芸能娯楽雑誌ができるとは思いませんでしたからね。タイトルから言えば、『中央公論』、『改造』のような総合雑誌のイメージでした。だけど、いかんせん、私はそういった堅い雑誌は、ふむきでしたから、なんとなく、娯楽性のある文芸誌でいこうかな、ということでスタートしました。その後、”芸能娯楽誌”に模様替えして、八年後には、百万部を超える雑誌になりました。

雑誌をつくるとき、私どもは、マーケット調査をして、このへんが当たりそうだとか、これが受けているから、というやりかたではないんです。私の場合で言えば、自分の中に、読者が一人いて、こんな雑誌、こんな本があったらいいだろうな、と思う。それを自分のなかの編集者が受けとめて「これでどうだろうか」とつくっていく。そんなふうに私がやってきているものですから、幸いなことに、みんなそんなくせがついて、それがよい結果を生んでいるのかもしれませんね。

私は、雑誌を創刊しようと思うと、まずその雑誌のタイトルを決めて、表紙を自分でつくってみるんです。表紙ができたら、その雑誌は半ばできたと同じで、あとの中身は、編集者に任せて、自由にやってもらっていいと思っています

小林二郎氏の話も、なかなか面白い。

『たとえば、きのうは雨が降ったから売れなかったとか、この前の日曜はどうだったとか、常に人が来てくれることしか、考えていないことですね。こちらから積極的に売ることは、あまりないですよね。だから店員からお客に奨めない。お客が「これ」と言ったら売る。本屋はセルフサービスの元祖だと。(笑い)お客が「この本」と言ったら、カバーを見て、千円なら千円の金をもらって渡すだけなんです。こんなことでは将来はない、だめなんじゃないかと思います』

『だから、逆に関連なんてことを考えるな、と。単純に十代の人が大勢来るから、アイスクリームを売った方がいいとか、あるいは、簡単に食べられるものでもいいし、着られるものでもいいし。彼らが志向しているものをキャッチして、そこに開発したものを、くっつけられるようにしていこうと。そうすれば、営業の主体がこまかくなっても、プラスが増えていくでしょう』

『本屋には商売人が少ないのね。本が売れるか売れないか、お客が北か来ないかなど、人をあてにした言葉が多いでしょ。とにかく需要を創造する努力が少ない。例えば、業界でもっと図書館を利用するような、キャンペーンをしたりすることも必要だとは思っているんですよ』

『ヨーロッパとか、アメリカの書店を見学してきましたが、向こうでは、本屋はゆったりした商売をしていますね。ああいう売りかたで、商売になっていくという仕組みは、ああいう収益弘三を、やっぱり研究すべきじゃないかと思うんですよ』

古書店ぐらいでしか売ってないでしょうから、なかなか手に入れるのは難しいでしょが、機会があったら是非読んでみてください。

小林二郎「インタビュー集 出版トップからの伝言」


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「ぴあ」の時代(掛尾良夫)

内容に入ろうと思います。
本書は、かつて「キネマ旬報」の編集長であり、創業当時の「ぴあ」とも関わりがあった著者による、「ぴあ」という熱気溢れる魅力的な会社が、どういう時代背景の元、どんなやんちゃな連中によって生み出され、彼らが業界をどんな風に変革していったのかを描いたノンフィクションです。
著者は、「ぴあ」の休刊を知った際のことを、こんな風に書く。

『しかし、筆者である私も含めた40代以上の層はもっと複雑だった。それは、廃刊を嘆くとか、悲しむとかいう単純なものではない。「ぴあ」の情報で名画座に通いつめたり、ライブハウスに足繁く通ったこの世代は、ニュースに触れた途端、脳内に冷凍保存されていた記憶が解凍された。そして、「ぴあ」を片手に街中をめぐった日々の記憶が鮮やかに蘇ったに違いない。言い換えるなら、このニュースが読者それぞれの青春を呼び起こしたのだ。繰り返すが、彼らの反応は嘆き悲しむ類のものではなく、「お疲れさま、ご苦労さま」といった感情だったはずである』

これはやはり、あらゆる情報が瞬時に手に入ってしまう時代に生きている僕らにはなかなか共有しがたい感覚なんだろうなぁ、と思う。もちろん僕だって時代的に、まだ子供の頃はインターネットがそこまで広く普及していなかったと思うけど、それでもさらに昔と比べれば格段の差だっただろう。
著者は本書を、「正確なノンフィクションではない」と書く。

『本書は、ぴあという会社の正確なノンフィクションではない。おもに映画関係の分野で特に私が親しく付き合ったぴあの友人を通した、ぴあの一側面である。それゆえ、ぴあという企業の全体像からは欠落している部分も多々あると思うが、それはご理解いただきたい』

そして、本書で著者が描こうとしたのは、「お祭り騒ぎの喧騒を背景にしたサクセス・ストーリー」だ。

『彼らはエンタテインメント情報誌を作っていたが、私には、彼らの毎日の生活自体がエンタテインメントに見えた。私は、そんな彼らの青春を伝えたいと本書の執筆を思い立った』

『私が目撃してきたのは、矢内廣というひとりの若者と彼に魅せられた仲間たちが、70年代、80年代という昭和の最後の20年間を背景に演じた、エンタテインメント・ノンフィクションにほかならない。彼らは、好きなことのために、一途に、体当たりでぶつかり、素晴らしい出会いを経験に、お祭り騒ぎの日々をすごしたその姿は、傍目にも眩しかった。私は彼らが駆け抜けた青春の軌跡を、多くの人に、特に若い人たちに伝えたいと思う。それは、「起業して上場、大金を稼ぐ」などといった、ケチなサクセス・ストーリーでは決してない』

ぴあは、中央大学映画研究会に所属していた矢内廣が、同じ映画研究会、そしてアルバイトをしていたTBSで出会った仲間たちが作り上げた雑誌だ。その頃は、どこでどんな映画が上映しているのか、その映画館にどうやってたどり着けばいいのか、と言った情報を網羅的に収集することは不可能だった。もしそんな雑誌があったら自分たちも嬉しい、だったら作ろう!という意気込みで、安アパートの一室で雑誌づくりが始まることになる。
ぴあは、『メジャーな情報もマイナーな情報も均一に扱い、思想性、批評性は排除する』という、矢内が当初から掲げていた編集方針を元に作られた。そのため、大手映画会社の映画と、自主制作の映画が同列で扱われることになる。『「いつ」「どこで」「誰が」「何を」という客観情報をもれなく掲載する一方、編集部の主張といった主観を一切排除し、情報の取捨選択は読者がする』という編集方針は、当時としても斬新だっただろうし、現在でもこういう形で情報を提示出来ている媒体というのは多くないのではないかと思う。
これは、時代の要請という部分もあったようだ。当時は、マガジンハウスの「平凡パンチ」「anan」「POPEYE」が全盛期だった時代。その姿勢は、『ついて来られない、または来ない者は無視』という排他性が色濃く現れていた。常にオリジンを海外に求める、という情報発信の在り方だった。
しかし次第に、『マガジンハウス文化の外側で日常生活を送る、より多くの若者たちが、自分たちと等身大の仲間から発信あsれる独自の文化やサブカルチャーを求めはじめ』るようになる。

『72年っていう年がね、絶妙なタイミングだったと思う。もうちょっと前の時代、学生運動真っ盛りだったら、「なんだこんな軟弱な雑誌を作りやがって」なんて相当批判されたはず、でもね、72年はそろそろ、別の価値観というか、「人生の地図」を必要とする、人間の気持ちのゆとりみたいなものが出てきていた』

ぴあはまさに、そういう時代の流れに飛び乗る形で生まれ、広まっていったのだった。ピーク時には53万部を発行したというから、凄まじいものがある(参考までに。2010年現在、「週刊文春」は48万2000部)
さてぴあは、元々は雑誌を発行するだけの会社だったが、次第に「ぴあフィルムフェスティバル(PFF)」の主催や、チケットぴあというチケット流通業に乗り出すなど、幅広く関わっていくようになる。その中で矢内は、自社の有り様を規定し直すことになる。

『そのころ、矢内をはじめぴあの社員は全員、「出版社」で働いているという認識を持っていた。しかし、「キャプテンシステム」の実験に参加したことから、矢内は「ぴあは出版社ではない。ぴあは情報伝達業の会社だ」と自己規定しなおした、
この時点の「ぴあ」は、たまたま雑誌という形態で情報を届けているにすぎない。しかし、新しい情報メディアが登場すれば、そのメディアに自分たちの持っている情報を流せばいい。それが情報伝達業なのだ。いつまでも雑誌の形態にこだわっていると、将来を見失うことになりかねない』

本書ではそう書かれているのだけど、本書を最後まで読んだ僕の印象は違う。「ぴあ」は、情報伝達業ではない。「ぴあ」は、【作品の作り手を育て、作品の受け手を育てる会社】だと僕は思う。
ぴあはまず、雑誌を創刊することで、【作品の受け手】を育てた。本書で繰り返し出てくる、「ぴあを片手に街を歩く」という表現は、決して比喩ではないはずだ。実際に多くの人が、ぴあを手に持って街をあちこち歩き回ったことだろう。どこで何をやっているのかわからないから行かないという人を、ぴあがあるから行ってみよう、という気にさせたのだ。実際に、ぴあのお陰で映画館に足を運ぶ人間は増えたようで(それには、ぴあを劇場に持っていくと100円割引、というサービスも大きかったようだ。150円のぴあを買って、2回映画を見れば元が取れる、と創刊当初は言われていたようだ)、【作品の受け手】を育てるという部分への貢献は大きかったはずだ。
さらにぴあは、【作品の作り手】を育てた。
ぴあが現在に到るまで主催している「ぴあフィルムフェスティバル(PFF)」は、海外からの招待作品の上映などもやっていたが、主に自主制作映画を公募し審査するという場であった。そしてこのPFFから、数えきれないほどの映画監督が旅立っていくことになる。

『回を重ねるうちに、プロとして活躍する映画監督の多くがPFFアワード出身者で占められるようになった。映画会社が経営難から人材育成を控えた結果、その役割の多くの部分をぴあが果たすようになってしまったのだ。PFFをはじめたとき、まさかこんな事態の到来は想像すらできなかっただろう』

それまで映画業界では、映画監督の元で助監督として修行をした人間がその後映画監督になる、というような旧弊な世界であった。しかし、ぴあがPFFを盛り立て、自主制作映画の取り上げていくことで、旧弊なスタイルではない形で映画監督になる人間が増えていくことになり、現在ではPFF出身者が多数、という状況になっているようだ。これも凄まじいではないか。以前読んだ、映画監督の園子温の「非道に生きる」の中にもこのPFFアワードの話が出てきた。園子温も、PFFアワードを受賞し、そのスカラシップとして与えられた賞金300万円でまた映画を撮る、というようなことをして映画監督になっていったのだ。
僕は、本を売る人間として、この部分を一番考えさせられた。つまり、ただ漫然と本を売っているだけではダメなのだ。本を売るだけで満足していてはいけない。僕らもどうにかして、【作品の作り手を育て、作品の受け手を育てる】ということをやっていかなくてはいけないはずだ。映画を観る人口はかつてと比べれば激減したらしいが、本も同じだ。本を読む人間はもの凄く減っている。そういう中で、【本を書く人間】そして【本を読む人間】をいかに育てていくことが出来るか。これをもっと考えていかないといけないのだよな、と思う。そこから逃げていてはいけないのだよなぁ、と強く思わされた。一人ひとりが、そういうことを考ええ、実行していくようになれば、少しは変わっていくよなぁ、と。
矢内は、ぴあが次第に成長していく中で、『ぴあという雑誌に、読者との強いつながりがあることを感じてきた』『ダイレクトに読者とのコミュニケーションができた』という実感を持つようになっていく。現代は、つながりの時代と言われている。雑誌からウェブへとその舞台は移っているとはいえ、僕らにもきっと、何が出来ることがあるはずだよなぁ、と思う。
書店員としては、ぴあ創刊時の「販売」に関するエピソードには、グッとくるものが多かった。
ぴあがここまで成長したのには、紀伊國屋書店の創業者である田辺茂一と、日本キリスト教販売専務の中村善治の支援があってこそだ。後にある業界の重鎮はこう言ったという。

『業界広しといえども、こんな話に一肌脱いでくれる人は田辺さんと中村さんしかいない。偶然とはいえ、イッパツでそこに辿りついたのだから、このときの幸運は奇跡だ』

そう、この件に限らず、著者の「出会い系人脈」の凄さには幾度も驚かされることになるのだ。
ぴあは、驚くべきことに、発行部数が10万部に達しても、まだ取次を通さず、自分たちの手で書店に配本していたのだ。
雑誌を取次を通さずに流通させることはなかなか難しい。現在でもそうだろうけど、恐らく当時の方がより難しかったのではないか。矢内らは、雑誌の見本を持ってあらゆる書店を回るが、置いてくれるところなどまったくなかった。
そこで、新聞記事に書かれていた内容に触発されて、矢内はある場所へ電話。そこから、奇跡的な幸運で、田辺と直接話をすることが出来たのだ。そこで田辺は、俺じゃわからんからと言って、すぐに中村を紹介してくれた。
この中村が凄い。一度目の面会で中村は、「どの書店に置いて欲しいのかリストを作れ」と矢内に言う。そしてリストを持っていくと、中村はなんと、その書店すべての紹介状を用意してくれたのだ。その紹介状の威力は甚大で、ようやくぴあは89店舗に置いてもらうことができた。
それからも販路拡大は積極的に行い、展開書店もどんどんと増えていったのだが、まだ取次を通していない。というか、取次に話を持っていったのだが、けんもほろろに断られてしまったのだ。
では、10万部の雑誌をいかにして書店に配本していたのか。
発売日前になると、「ぴあ」の誌面で募集したクルマ持ち込みのアルバイト部隊が集まり、彼らが東京・神奈川・千葉・埼玉と手分けして書店に届けていたのだ。信じられない。10万部の雑誌を都内近郊に配本するために、一体どれぐらいの規模のアルバイト部隊が必要だったのだろうか。
やがてぴあの認知度が上がっていくと、書店から取次に、どうして内に配本してくれないのだ、という苦情が舞い込むことになる。扱っていないと答えると、「なんで扱わないんだ」と怒られたという。
そしてついに、創刊時には扱いを断られた取次から、「ぴあ」を扱わせて欲しいという連絡が入る。
そしてさらに「ぴあ」は、取次を驚かせることになる。
基本的に雑誌の配本数は、出版社ではなく取次が決める。ぴあにもそのように伝えると、矢内はもう反論。類似誌の配本数をベースに決めるという取次に対して、「類似誌は参考にならない。僕らの資料をすべて見せるからそれで決めて欲しい。「ぴあ」の返品率は5%以下ですよ」と言った。
取次の人間は信じなかった。当時の雑誌の返品率がどの程度なのか、本書には書かれていないけど、2010年の雑誌の平均返品率は36%と言われていると本書に書かれている。
そして、ぴあのデータを見た取次は驚愕することになる。本当に、返品ゼロという書店がズラリと並んでいたのだ。
これは、ぴあの配本のやり方がうまかったこともある。たとえば、70冊置いて69冊売って、次号は75冊欲しいと言っても、70冊しか渡さない。で、70冊完売して初めて次号は75冊渡す、というやり方をしていたそうだ。こういうきめ細かな売り方も、ぴあが広まっていく下地となっていたのだろうと思う。
またこんなこともあった。
ぴあはかつて月刊誌だったのだが、キヨスクでは基本的に月刊誌は扱わないのにも関わらず、キヨスク側からぴあを扱わせて欲しい、と言ってきたことがあった。しかし、ぴあはその破格の申し出を断ったという。ぴあは創刊当時、89店の書店が協力してくれたからこそここまでこれた。今ここでキヨスクに置いてしまったら、書店の売り上げが落ちてしまって迷惑を掛ける、という理由だった。
その後、ぴあが隔週刊となり、そのタイミングでキヨスクでの扱いを解禁したらしいけど、その際も、キヨスクでの販売の了解を求め、一軒一軒挨拶しに回ったという。
当時キヨスクには、ウチの雑誌を置いて欲しいという出版社が順番待ちをするほどだった。そんな中で、キヨスク側から置いて欲しいと頼むのは異例中の異例だったという。だから、断られるなんて想像もしていなかった、と当時の担当者は語る。こういう、人と人がきちんと商売をしている、という感じも素敵だと思う。
ぴあという会社を、矢内はこんな風に捉えていた。

『厳しい仕事であっても、それを仲間と楽しめる会社にすることだった。それは、アルバイト仲間と集まって、自分たちで仕事を作ろうといってはじめたときの気持ちが続いているものであり、冗談の通じ合う仲間たちで経営基盤を作り、1円でも利益を追求するということだけにエネルギーを費やすのではない会社にしたい、ということである』

この言葉を象徴するような出来事があった。
ぴあは、チケットぴあなど色んな事業に乗り出し、その過程で証券会社から上場を提案されるようになる。そこで矢内は、「ぴあは、ぴあフィルムフェスティバルという映画祭を行なっているが、これは、利益を生むどころか、持ち出しになることもある。上場してもPFFは続けられるのですか」。すると証券マンたちは口を揃えて、「上場すれば、利益を産まないことに使う金があるなら、株主に配当しなさい、ということになる」と答えたという。「それなら、一生懸命ぴあをやっている意味がない」と答え、矢内は彼らの提案を断ったのだという。後に、また上場を提案された際は、時代の変化によって、PFFのような活動は評価されるようになっており、それならと上場に踏み切ることになるのだが。
僕は「ぴあ」という雑誌を買ったことがない。もし買ったことがあったとしても、本書で描かれているような「ぴあ」の情報がなければどこにもたどり着けない、なんていう時代のことを想像することは無理だろう。だから、郷愁という観点から本書を読むことは出来ない。しかし一方で本書は、時代の空気に身を任せながら、自分たちのやりたいことをその流れの中に乗せ、お金よりも名誉よりも、やりがいや業界全体への奉仕を目指して突き進んできた熱い若者たちの熱気が伝わってくる作品だ。うずうずする何かを内側に書かれている人、好きで好きで仕方ないことがある人、仲間と共に懸命に何かを目指したい人。そういう人の背中をそっと押し、鼓舞してくれる作品だと思いました。是非読んでみてください。

掛尾良夫「「ぴあ」の時代」


ミリオンセラーガール(里見蘭)

内容に入ろうと思います。
正岡沙智は、アパレルショップに入社してすぐ、他に代わりがいないという理由で店長になり、過酷な日々を過ごしていたが、ある日突然ショップの閉店を言い渡されてしまう。前日に彼氏に振られていた沙智はダブルパンチでショックを受ける。親友に尻を叩かれてどうにか就職先を探そうと動き始める沙智。やはりファッションが好きだから、ファッション雑誌の編集者になれたら、と思い出版社の求人に目を通す。が、四大卒が条件というところがほとんどだ。そんな中、「ULTIMO」という女性誌を出している紙永出版は応募条件に当てはまり、面接を受けた。その面接では、失態を繰り返すことになったが、沙智はなんととんでもない倍率をくぐり抜け採用が決まったのだった。
ただし、販促部員として。編集者になれるものだと信じて疑わなかった沙智は、絶望と言っていいほどのショックを受ける。
出版社の販売促進部が何をするところなのか、沙智にはまるでわかっていなかった。先輩に連れられ、書店を臨店するも、あまりにも本を読んで来なかったためまったく知識もなく、おまけに業界の常識も一切何も知らないという状態のまま、編集者になれなかった絶望と、書店営業の辛さが相まって、沙智はますますやる気がなくなっていく。
そんな中、沙智の面接時に失態の傷口を広げたエロ編集者である玉村から、作家に引きあわせてやるから来いと言われる。沙智はそこで、玉村が今一押しの新人作家・瓜生旬の次作の特命係長を押し付けられることになる。あらゆる手を尽くして、一冊の本を「仕掛ける」ための切り込み隊長というわけだ。
研修として書店で2週間働いたことで、業界全体に関する知識(多くは、どうしてそんな風になってるんだ?と思うような不可思議なものばかりなのだけど)も前よりは深まった沙智。研修先の書店でふと手にとって見た本を読んで以来、睡眠時間を削ってまで本を読むようになった沙智は、瓜生旬の新作に惚れ込み、全力で仕掛けることを決意するが…。
というような話です。
シンプルにストーリーだけ見れば、なかなか面白い作品です。「本って、返品出来るんですか?(書店は、仕入れた本を出版社に返品できる、という仕組みがある)」と聞いてしまうほど書店・出版業界への知識がゼロだった主人公が、やがて本を読むようになり、情熱を込めて本を仕掛けるようになり、販売促進という仕事にのめり込んでいくようになるまでの成長を描いたオシゴト小説で、なかなか面白く読めました。特に最後の最後の展開は、凄くいいなと思いました。
ただ同時に、僕自身が書店員なので、だからこそ面白いと思えるのだろうか、という感覚もあって、なかなか客観的に評価することは難しいなぁと思います。時々お客さんに、「雑誌の付録やコミックのシュリンクは書店でやっているんですよ」と説明する機会がありますけど、そういう時にやっぱり驚かれます。そうだよなー、そんなこと知らないよなー、と思うんですけど、本書ではそういうこと以上に詳しく、本が作られた出版社から売られる書店までどのように届き、そこで働いている人たちが普段どんなことをしているのかということが描かれていきます。果たして、そういう部分を普通のお客さん(書店・出版・取次業界の人ではない方)がどれぐらい面白がってくれるのかというのは、僕にはちょっと判断できないなぁ、と思います。
ただ、この業界に関わらない人たちが読んで面白いかどうかは客観的に判断できないけど、書店で働いている身をしては、本書を読んでもらえると、「書店も結構頑張ってるのね」と思ってもらえるかもしれないなぁ、と期待したいところだったりします。たぶんお客さんには、書店への不満は色々あると思うんですけど、店だけの努力ではどうにもならない、業界全体の悪習みたいなものも色々とあります。だから許して、なんて言うつもりはないのだけど、やっぱり時々、それはウチの店の努力ではどうにも…と思うことがあったりするので、こういう業界の不可思議なところがお客さんに伝わってくれるというのは、書店員としては…うーん、でもやっぱりそれは『恥』と捉えるべきなのかなぁ。
個人的にちと辛いかなと思った点は、説明が多すぎるかな、という点。本書は、出版・書店業界について、かなり詳しいところまで踏み込んで内情を描き出しています。どうして注文した本が届くのにあんなに時間が掛かるのか、話題になっているはずなのにここの本屋にその本がないのはどうしてなのか、発売されたばかりの本なのにここの書店にはどうして1冊も入荷していないのか。そういう、お客さんがよく抱くだろう疑問を解消するような描写もあるし、出版社の販売促進部や販売部や、取次や書店の各担当者がどんな風な思考・価値判断で行動をしているのかみたいなことも描かれていきます。
そういう描写が出てくるのは、本書のようないわゆるオシゴト小説では当然ではあるのだけど、ただ僕は、作中でもそれが「説明」として出てくるのが、あまりスマートではないな、と感じてしまいました。何を描くにしても、「業界についてまったく無知な沙智」に対して「詳しい人が講義する」という流れになります。確かに、説明すべき事柄は多いし、テンポよく物語を展開させていくにはそれが一番ベストなのかもしれないけど、個人的にはそういう説明を、もっとどうにかしてストーリー展開や物語そのもののそのものの中に組み込むことは出来なかったのかなぁ、という気がしてしまいました。
さらにそういう「説明」が、「業界の内情について描き出す」というだけの目的しかないように思えるものが多い印象がありました。業界の内情が「説明」として作中で登場したとしても、それがその後の物語できちんと絡んでくるのであれば良いのかもしれないけど、そういうものは少なかったように思います。そうではなくて、「業界の内情を描き出す」という目的のためだけにこの「説明」が存在するのだなぁ、と感じられてしまう部分が多くて、もったいないと思いました。もちろん、書店員としては、そういう内情について「そうそう!」とか「やっぱりそうだよなぁ」と思いながら読むんですけど、業界に関わらない人には、ただ「説明」で終わってしまうそういう描写を読まされることはあんまり面白くはないんじゃないかな、という気がします。だったら、業界の内情の描写はもう少し抑えめにして、でもその描き出した内情はきっちりとストーリーに絡めていく、という感じにした方がよかったのかな、という気がしました。
物語の部分では、その点が一番気になりました。とはいえ、なかなか楽しい小説です。特に、沙智のあけすけな人物評は、僕は結構好きです。
沙智のキャラクターは非常にわかりやすくて、「同じ家賃なら、風呂がある五反田のアパートより、風呂がない恵比寿のアパートに住む」という感じです。ファッション業界という派手やかな世界にいたというのもあるだろうし、元々の性格もあるんだろうけど、見た目とかイメージとかブランドとか、とにかくそういう価値判断こそが一番大事だと思っているような人間です。
そんな沙智からすると、書店・出版業界に関わる人間への不満や疑問みたいなものが吹き出てきます。ダサいし地味だし面白くない。沙智が書店員を「腹黒い」と評する場面もあるし、沙智ではない他の販売促進部員が、「書店員にはおたくとか変わり者が多い」なんて言う場面もあります。「腹黒い」っていうのは、沙智の間違ったイライラ込みの評価だから置いておくとして(でも実際そういう書店員もいるんだろうなぁ)、「おたくとか変わり者が多い」っていうのは、確かにそうだよなぁ(僕も含めて)と思ったりして、そういう人への印象が率直に描かれているのは面白いですね。
また、アパレルでの常識が身についている沙智には、沙智には「狂気」としか思えない書店・出版業界の慣習にも、素直な嫌悪感を示してしまいます。
沙智は書店で研修する中で、業界の謎めいた常識を様々に教わるのだけど、その店の店長が、それらを総合して、こんな風に言う場面があります。

『本を売るのは書店員だぞ。なんで俺たちの意思が反映されずに、取次の言いなりに仕入れさせられなきゃいけないんだ。こんなおかしな流通システムがまかり通っている業界、他にあるか?』

これは決して書店員の総意ではないし、現在の書店・出版の流通は優れていると評価している人もいるのだけど、でも僕自身も、そういう風に思ってしまうことはあります。なんかおかしいよなぁ、と。
そういう業界の謎めいた悪習を対峙しつつ、沙智は瓜生旬の小説を仕掛けることになるのだけど、これがまあなかなか大変なのだ。何しろ、年間で8万点以上の本が出ているらしい(雑誌を除いてですよ)。1日だと200点だ。どんな書店にも200点すべて入ってくるわけではないけど、それにしても毎日毎日これだけの本が出版されている。だから、良い本を作れば売れるというわけではない。

『俺たちはまちがいなく面白い本を創る。でもな、この時代、いくらいいものを作っても、それだけじゃ売れないのが現実なんだよ。とくに本という商品はな』

そう、昔はそうではなかったのだ。昔のことを知っているわけではないんだけど、販売促進部の部長であり、バブル時代の遺物のような女性を指して、ある部員がこんな風に言う。

『バブル期の成功体験をいまだに引きずってるのが最大の難点だね。そこでの反省も生かせていない。読まれもしない文学全集が、インテリアの一部としてじゃんじゃん買われていた時代だ。実力がなくても、頑張りさえすればものが売れた。そんな時代はもう来ないよ』

そんな中で、それまでまったく本を読まなかった沙智は、色んな本を読むようになり、そして瓜生旬の本を仕掛けたいと思った。それであちこち手を尽くして色んなことをやり始めるのだけど、その中で別々の人物から同じようなこんなことを言われる。

『ようは、その人がどれだけその本をちゃんと読んで面白いと思っているか、それを借り物じゃない自分の言葉で語れるのか、なによりそこに情熱があるのか、ですよね』

『セールスの極意っていうのは、たくみなセールストークでもオシの強さでも、人たらしの能力でも、あるいはセールスマンの朴訥な人柄でもない。売る人が、自分が商う品にどこまで惚れ込めるかがすべてなんだ。恥ずかしくなんかない、そんなふうに思えるなんて、営業をする人間として最高に幸せなことじゃないですか』

これにも、様々な意見があることを僕は知っている。読まなくても売ることが出来る、と言う書店員もいるし、それは一つの意見としてアリだと思うけど、やっぱり僕個人としては、自分でも自分以外の誰かでもいいんだけど、ちゃんと読んで良いと思ったものをより売りたいと思う。そういう気持ちが重なって、本が売れていけばいいなと思う。
とはいえ、難しい問題もないではない。本書の中には、辰巳という名の書店店長(書店・出版業界の人なら、なるほどあの本を仕掛けた人がモデルなのだな、と分かるのだけど)が出てくる。辰巳は、まだPOPというものが販促として効果があるものだと思われていなかった時代にある文庫のPOPを描き、結果的に100万部を超える売り上げにつながるきっかけを作り出した人であり、業界では伝説と言われる人、という設定だ。
ある書店営業が、辰巳の言葉としてこんな風に言う場面がある。

『書店員が版元の販促に巻き込まれるようになったことに、辰巳さんは責任を感じているみたいです』

今では、書店員にゲラやプルーフと呼ばれる発売前の原稿が印刷されたものが送られてくるのが普通になった。僕も時々もらうことがある。有名な書店員であればあるほど、それが大量に届くことになる。恐らく、辰巳がそのPOPを描いた頃には、そんな慣習はなかったのだろう。書店員のコメントやPOPに価値があると思われていなかった時代だ。今は、書店員のコメントやPOPに価値があると思われている。だからこそ、発売前の本を読んでもらい、コメントやPOPを集める。それについても、業界内で色んな意見がある。読んで良かった本は推したい。でも、なんでもかんでも読めるわけではない。とはいっても、ゲラはどんどん送られてくる。そういう大変さと共に仕事をしている書店員もいる。なかなか難しいものだ。
また、販売促進部内の会話として、こんな話も出てくる。

『百万部売れた本ならばだれにとっても絶対に面白いかというと、そんなことはありえない。ベストセラーだけで小説の本当に面白さがわかるかというと、それもちがう。百万部の本が出るよりは、十万部の本が十本出てくれたほうが、わたしはうれしい。五万部が二十本なら、もっとうれしいかな』

『前にあるお笑い芸人が「売れるというのは、馬鹿に見つかること」っていう意味のことを言っていました。さすがに馬鹿はまずいですが、ベストセラーになるというのは、ふだん本を読まないような人にも手にとられるという事。少人数でもあの小説の真価をわかってくれる人に届けば、それでいいのかなって』

これは共に、本好きな地味系少女・小塚さん(沙智は子鹿ちゃんと呼んでいる)の意見だ。
この意見も、また難しい。業界内でも色んな意見があるはずだ。僕はどちらかというと、小塚さんの意見寄りに感じてしまう。五万部が二十本の方が嬉しい。どんな小説だって、ベストセラーになればいいわけじゃないと思いたい(人の好みはそれぞれだから、やっぱりそれを良いと思える人は少ないだろうなぁという作品だって当然ある)。けど一方で、売らなければ書店も出版社も取次もやっていけない。効率的に売ることを考えれば、五万部が二十本より、一本の百万部の方が良い、という判断も当然ある。何が正解かは分からない。それぞれがそれぞれの環境の中で許される境界条件の中で、自分が最も寄り添える選択肢を見つけるしかないのだろう。
前述した辰巳が、こんな風に嘆く場面がある。

『本は好きだ。その気持ちは変わらない。でも、書店員に負担を強いる業界の現状には疑問が増すばかりだった。ひとりの書店員としてはもちろん、部下を預かる店長としても。もう十年近くも店に貢献してくれている蒲田さんさえ社員にしてやれないなんて、どうかしてる。店長の俺も、本部も、この業界もな』

一方で、こんな風に思ってくれる営業もいる。

『書店の売り場をつくっているのは、書店員だけではありまえん。もちろん品ぞろえの基本は取次によるパターン配本ですが、そこに書店員と、そして出版社の書店営業の情熱がくわわって、はじめて読者の心に火をつけることができる。わたしはそう信じています』

そうやって色んな人に話を聞き、色んな経験や失敗をし、少しずつ営業らしく成長していく沙智は、最後の最後、ある場面でこんな風に言う。

『読者に届いて、本ははじめて本になるんですね』

これだよなぁ、と心底思いました。「届く」というのはどういう状態なのか、あるいは「どのように届く」のかなど、色々不確定な文章で、この文章一つ取っても、人によって色んな解釈をするだろうと思うんだけど、でも、解釈が人それぞれだとしても、この部分をみなが共有出来ていれば、まだどうにかやっていけるんじゃないかな、という気はします。楽観的過ぎるかな?
冒頭の文章はちょっとイマイチだなぁと思ったり、沙智がいきなり本を読み出したりどんどん注文が取れるようになるのは都合いいなぁと思ったりしなくもないんだけど、全体的にキャラクターがとてもいいのと(特に僕は小塚さんが好きだなぁ。部長に対して小声で「出来れば◯◯と呼ばないで欲しいです」っていう辺りとか萌える)、ラストの展開が凄く良いのとで、全体的にはなかなか面白い作品に仕上がっていると思います。特にラストの展開は、それまで出てきた個性的な面々のキャラクターや能力が個々に発揮される展開で、巧いなと感じました。オシゴト小説として色んな人に読んでもらえたらいいけど、やっぱり本や書店が好きな人の方が面白がれる作品だろうと思います。是非読んでみてください。

里見蘭「ミリオンセラーガール」


隻眼の少女(麻耶雄嵩)

内容に入ろうと思います。
1985年、信州の山深くにある栖刈村の温泉宿にしばらく逗留を続けていた種田静馬は、そこで御陵みかげという、巫女のような格好をした美少女と出会う。彼女は、父親と共に全国を放浪し、あちこちで「占い師」のようなことをやっているらしいが、その実「探偵」であるらしい。御陵みかげというのは二代目であり、初代は全国の警察で崇拝者が出るほどの名探偵であった。二代目御陵みかげが1歳の時に亡くなり、以後父親から、母のような名探偵になるべく修行をしていたのだ。
そこで、殺人事件が起こる。
栖刈村には、琴折家という旧家がある。古くからの伝説があり、この一家には「スガル様」と呼ばれる特殊な人物が受け継がれてきた。そのスガル様が村の平穏をもたらしているはずだとさて、村では崇拝されている。現在のスガル様は病床であり、その娘である三つ子の長女である春菜にスガル様が移る予定だった。春菜はまだ中学生であるのに、しばらく前からスガル様を継ぐために修行を続けていたのだ。
そんな春菜が、首を斬られて殺されていた。他所者だった静馬は真っ先に疑われたのだが、みかげは、元刑事だった父親の口添えで事件に介入し、真犯人は琴折家の中にいるはずだと看破する。
事件解明のために警察と共に捜査することになったみかげと、みかげから助手見習いを押し付けられた静馬。二人は、琴折家の面々から疎まれつつも、そして事件は終息するどころか次々と続いていく中で、犯人を追うべく捜査を続けるが…。
というような話です。
なるほどなぁ。確かにこれは、問題作だなぁ。
問題作だ、という評判は、読む前からなんとなく耳に入っていました。で、読んでみると、なるほど確かに、という感じでした。
最後まで読んだ感想をとしては、個人的には、全体的に筋が通っていて、よく出来た作品だなと思います。賛否両論出ることは理解できる作品ですけど、僕は、その議論の中心にあるだろう事柄については、別段拒否感もなく、なるほど凄い物語を生み出したものだな、と感じたものでした。
というわけで、今から僕が書くことは、「本作へのウダウダ」ではなくて「本格ミステリへのウダウダ」だと思ってくれるといいなと思います。
昔は本格ミステリをよく読んでいましたけど、次第に離れていきました。本書は、久々に読んだ本格ミステリ作品だと思います。
本格ミステリが特殊な読み物であるのは、「挑戦者のために優しく作られている」という点です。この「優しい」というのは、「解くのが簡単」という意味ではもちろんなくて、「条件や手がかりがフェアに適切に描かれていて、挑戦しがいがある」という意味です。
だからこそ、本格ミステリというのは、「特段謎を解き明かそうとしていない人」には、あまり優しい作品ではなくなってしまうのです。条件や手がかりをフェアに提示するために、そこまで書かなくても、と思うほど描写が複雑になってしまったり、細々とした事柄についても触れなくてはいけません。なにせ、「◯◯であること」を示唆する描写もしなくてはならないのですが、同時に、「◯◯ではないこと」を示唆する描写もしなくてはいけません。本書には密室トリックは出て来ませんが、例えば密室トリックの場合、「著者が想定しているトリックに行き着くためのヒント」を提示するのと同時に、「著者が想定しているトリック以外を排除するための描写」も必要になってくるわけです。
これが、「特段謎を解き明かそうとしていない人」を本格ミステリから遠ざけてしまう要因だろうなぁ、と僕は感じています。僕は、そこまで多くの本格ミステリを読んでいるわけではないですけど、僕がこれまで読んだ中では、有栖川有栖の<石神>シリーズ(だったかな?)は、そういう謎解きに必須な細かな条件の描写が限りなく少なかった印象で、凄く好きです。
本作でもやはり、色々と細かな描写が続いて、個人的にはちょっとしんどいなぁ、と思っていました。特に、第一部(317ページある)は、ちょっと退屈な感じがしました。御陵みかげというキャラクターはなかなか面白くて、興味深く読めたのだけど、肝心のストーリーは、それほど面白いとは思えませんでした。あとは、伝承が長く伝わる旧家、という設定が、そこまで物語に上手くくみこまれていない印象も受けました。
317ページを長い長いプロローグだと考えれば、第二部はなかなか面白いかもしれません。ただ、第一部をプロローグと捉えるにはあまりにも長すぎるし、本書のラストを受け入れられない人もいることでしょう。なかなか評価の難しい作品です。
とはいえ、ストーリーではなくて、全体の構成だけで判断すれば、やはりよく出来ている、と感じます。ストーリーはあまり面白くないのだけど、プロットというか、全体の骨組みは非常に巧いと思います。さすが麻耶雄嵩、という感じでしょうか。本格ミステリという舞台上で、誰も描ききったことがない特異な世界観を描き続けてきた奇才ならではの作品だと僕は感じました。
個人的にはあまりオススメが出来ませんが、表紙の女の子は可愛い。

麻耶雄嵩「隻眼の少女」


ストーリー311(ひうらさとる他)

マンガって凄いかもしれないって、30年生きてきて初めて思ったかもしれない。
普段、あんまりマンガを読む方ではない。というか、ほとんど読まない。時々気になるマンガ(大抵シリーズものではない)に手を出すぐらいだ。子供の頃から、マンガをほとんど読まずに育って来てしまった。
普通の人は、どこかでこういう感覚を体感するのかもしれない。あっ、マンガって、ちょっと凄いかも、って。
いや、そうでもないかもしれない。子供の頃からマンガに触れ続けている人には、僕がまさに本書に触れて感じたような、「マンガって凄いのかもしれない」という感覚は起こらないのかもしれない。冷たい水からゆっくりと温められ続けた中にいれば、熱湯になるまでの変化に気づきにくいかもしれないけど、僕みたいに、いきなり熱湯に手を突っ込んだ人間には、その熱さが衝撃を与える。そういうものかもしれない。
「言葉では、伝えられないことがある」
とてもありきたりだけど、本当にそう感じさせられた。
僕は、震災とか原発の本を、これまでも何冊も読んできた。それらは、震災当時の衝撃を僕に伝え、今も被災地で生きる人達の苦しみを僕に伝え、被災地と関わろうとしている人たちの迷いを僕に伝えてくれた。
それでも。
言葉で伝えられることには、限界がある。
いや、同列で語ることは、どちらに対しても失礼かもしれない。言葉による創作物より絵の方が上だ、なんて言いたいわけではなくて、両者はまったく別のものを描き出すための表現方法なのだ。
言葉でしか伝えられないことがある。絵でしか伝えられないことがある。
とても当たり前のことだ。当たり前のことなんだけど、でも、それを『体感』する機会が、僕には生まれてこの方なかった、と言い切ってしまっていいものか自信はないけど、そう感じた。
以前、映画監督の園子温の「非道に生きる」という本を読んだことがある。園子温は震災後、撮影中だった(撮影しようとしていた?)「ヒミズ」という映画の構想を練り直し、また「ヒミズ」の冒頭を被災地で撮影した瓦礫の山のショットに据えた。「希望の国」という、原発事故後の福島の人たちの暮らしを描き出した映画も撮っている。
その「非道に生きる」の中に、こんなセリフがあったことを思い出した。

『映画に込めるべきは「情報」ではなく「情緒」です。整理整頓された言葉を仕入れたいだけなら、本を読めばいいし報道を見ればいい。セリフのボキャブラリーにしろ、シーンの持つ意味にしろ、映画の中の言葉は市井の人びとの肉声でいいのです。』

『映画の中の言葉は市井の人びとの肉声でいい』 まさにマンガも、これに近いことが出来る、と感じました。言葉による表現の場合、「市井の人びとの肉声」だけではどうしても足りない。しかし、映像にせよマンガにせよ、そこで描かれる言葉は「市井の人びとの肉声」でよいのだ。
僕が本書を読んで一番泣いた場面。その場面で描かれているセリフは、こうだ。

「持ってけ な? いいがら いいがら」

言葉による表現が、「市井の人びとの言葉」だけでは足りないことは、今僕がこのセリフを本書の中から引用した、まさにこの状況で理解してもらえることだろうと思います。言葉による表現で、このセリフが書かれていても、そして、いくらそのセリフを発した情景が言葉で説明されていても、その場面そのものを感じさせることは難しいだろう。でも、マンガなら、それができる。
「非道に生きる」の中には、こんな言葉もあった。

『報道やドキュメンタリーでは取材する相手をカメラに収め、彼らの言葉を収めていきます。しかし、その言葉はすべて過去形で語られます。「あのとき、何が起きたか、どうだったか」――決して、現在進行形で「その刹那」が語られることはありません。いま現在の体験を描くこと、これが、実話を基に僕がドラマを作る理由のひとつです。ドキュメンタリーに絶対に不可能なのは、「その刹那を生きること」。ドキュメンタリーは、他者の声を聞き、その情報を他者のものとして認識し、人に理解させることはできても、それを受け取る人自身の経験にすることはできないのです』

これは、マンガでも同じことがことが言えるはずだ。本書は、マンガ家たちが実際に現地に取材に行き、マンガ化を了承してくれた方々の実話をマンガにするプロジェクトだ。そのため本書では、取材記のような体裁をとっているマンガもある(決して、それを責めたいわけではない)。が、やはり多くは、「その刹那を生きること」を切り取ろうと、あの時を生きる人びとを短いストーリーの中で描き出そうとしていく。
過去形ではない「何か」を描き出すことができる。
そして、映画とマンガは、言葉では表現できないものを描き出すことができる、という点で非常に似ているのだけど、映画とマンガでも決定的な違いがある。
それは、エンターテイメントにできるかどうか、という違いだ。
震災や原発事故を描く際、映画であれば、さすがにまだそれをエンターテイメントとして提示することはとても難しいだろうと思う。これは、「映画」という表現媒体そのものが内包する問題ではなくて、受け取る側の問題だ。映画は娯楽だけど、でも震災や原発事故を使ってエンターテイメントにするのは、ちょっとねぇ、という雰囲気はないだろうか?
けど、マンガはまたちょっと違うと思う。
実は、マンガでも同じだろうと、本書を読むまで僕は思っていた。特別それについて考えていたわけではないんだけど、映画でダメならマンガでもダメだろう、というイメージがあったのは確かだ。
しかしそのイメージは、本書のある一遍を読んで変わった。
宮城県南三陸町を描いたうめ氏の作品。これは震災をテーマに扱いながらも、完璧にエンターテイメントとして昇華されている。僕はそう感じました。これは、まさにマンガならではだ、と感じさせられました。このうめ氏のマンガは、本作中でダントツで好きです。他の作品も色々考えさせる、震災や原発の問題と真剣に取り組んだ作品で、それも素敵なのだけれど、エンターテイメントとして描き出しているという点で、そしてそれが表現として非常に完成されているという点で、この作品は見事だなと感じさせられました。
さて、ここまで、本書についての具体的なことをほとんど書かずにあれこれ文章を書いて来ましたけど、一旦、本書がどんな経緯で出版に到ったのか、どんなマンガ家さんが携わっているのか、などについて触れたいと思います。
発起人は、漫画家のひうらさとる氏。何かしたい気持ちはありつつも、「一番大切なことは、被災者ではない私たちが普段通りの日常生活を送ることではないか」と考え、「私にとっての日常は漫画を描くことなのです」と思っていたひうらさとる氏。しかし、ボランティアに行っていた友人から、被災者の方々の話を漫画に出来ないか、と提案があり検討。知り合いの漫画家に声を掛けたり、ネット上で漫画を掲載するスペースを確保できたり、講談社のkiss編集部の協力を得られたりとプロジェクトは進み、こうして一冊の本になったわけです。
本書に掲載されているマンガ家さんは以下の通り。

ひうらさとる
上田倫子
うめ
おかざき真里
岡本慶子
さちみりほ
新條まゆ
末次由紀
ななじ眺
東村アキコ
樋口橘

『ましてやあなた方は、出版されるものを描かれるのでしょう
「伝える」っていうのは、すごくすごく覚悟のいることなんですよ』

ひうらさとる氏は、末次由紀氏とさちみりほ氏と共に現地入り、様々な取材をするのだけど、その中で一番心に残ったのが、「語り部」という活動をしている人の話。これは、まさに「語り部」の方にお話を伺った際の言葉なんだそうです。

『あの日から、ずっと思っていました。
なにか少しでも、私たちにできることはないんだろうか…
削れてしまった地図をみて、なにかしたいと駆り立てられる気持ちは、おこがましいことなんだろうか。
悩みながら、迷いながら、この日常から、勇気を出してペンをとりたいと思います。』

ひうらさとる氏は、まえがきをこんな文章で結んでいる。
震災や原発事故で人生が変わってしまった「個人」の物語は、朝日新聞で連載中の「プロメテウスの罠」という作品でも描かれている。あの時あの場所で何が起こったのか、という大きな物語も、もちろん伝えていかなくてはいけない。しかし同時に、悩み苦しみ時に笑う「市井の人びと」の物語も、やはり僕は知りたいと思う。
本書の内容については、ほとんど触れないことにします。あなた自身で、是非読んでみてください。マンガにしか出来ない、言葉では伝えきれない「何か」が、この作品には詰まっています。「語り継ぎたい想いがある。残したいストーリーがある。」表紙に、そう書かれています。是非読んでみてください。

ひうらさとる他「ストーリー311」


ガソリン生活(伊坂幸太郎)

内容に入ろうと思います。
本書の主人公は、「車」です。
大学生の長男・望月良夫、利発な小学生の次男・享、高校生の長女・まどか、そして夫を亡くし一人で子どもを育てあげた郁子。この望月家の自家用車である緑のデミオが、本書の主人公である。
彼ら車たちは、人間の会話を聞くことが出来る。そして、車同士でも喋ることが出来る。車内で交わされた会話から人間の社会のことを知り、そして行き先々で出会う車たちと情報交換することで、車たちの間で情報が広まっていく。望月家のお隣さんの、小学校の校長先生である細見氏の車・ザッパとは、日々隣同士でいるためによく会話を交わす相手だ。ザッパは、持ち主が校長先生であるために、人間についてなかなか高度なことを知っており、既に買い替えが行われてもおかしくない年式であるにも関わらず、ずっと乗られ続けている奴でもある。
さて、人間社会で、そして車社会でも、後々大いに話題になる出来事がある。それが、荒木翠を襲った不幸な出来事だ。荒木翠は、仙台出身の、恐ろしく家柄が良い一族出身の有名な女優であり、その家柄だけでも充分に話題性があるのに、さらに一般男性と結婚したために、事ある毎にマスコミに追いかけられる存在ではあった。
そんな荒木翠が、浮気相手の運転する車で事故死したというニュースが流れる。望月家にとってそれは、衝撃的なニュースであった。
何故なら、事故死するほんの少し前、良夫が運転するデミオ(つまり、本書の主人公のことだ)に、なんと荒木翠が乗ってきたからだ!追ってから逃げているんだと説明し、良夫と享が乗るデミオに乗り合わせた荒木翠は、利発で小学生とは思えない享の質問に答える形で色んな話をし、しばらくして去っていったのだった。
その事故は、マスコミが追いかけて煽ったから起こったトンネル事故だとされ、ダイアナ妃を襲った交通事故が引き合いに出された。車社会でも、挨拶代わりにこの話がされるようになるのだが、望月家のデミオは車たちと会話を交わす中で、荒木翠が亡くなったあの事故にちぐはぐしたものを感じるようになる。
そしてそれと同時に、望月家の長女であるまどかにも、別の魔の手が迫り…。
というような話です。
面白い話だったなぁ!こういう表現はあまり好きではないのだけど、まさに伊坂幸太郎らしい作品、という感じでした。軽快に会話が進み、ちょっと変わった家族が出てきて、少しずつ謎めいた状況が明かされ、色んな伏線が結びついて、なるほど!というような事実が明かされていく、という、伊坂幸太郎的王道作品ではないかなという感じがしました。
ストーリーの感じは、まさに伊坂幸太郎の初期作品を彷彿とさせるような感じで、色んなところに散りばめられた細々とした話が次第に組み合わさっていき、少しずつ謎が解けていく。荒木翠に関する交通事故の話と、まどかが巻き込まれることになる「トガリ」に関する話が大きな主軸となるのだけど、その二つがうまく交じり合い、面白い展開を生み出していくことになる。
さらに本書の注目すべきポイントは、車が主人公であるという点だ。これは、物語の展開を非常に面白くしていく。
例えば本書では、人間たちはほとんど知らないけど、車たちにとってはもう常識、というような事件の顛末が描かれる。あるいは、人間たちには今まさに迫り来ている危機は知らないけれど、車の方は知っている、というような描写もある。こういう描き方は、ミステリ的に非常にスリリングだ。車は人間の声を聞いて話を理解することは出来るけど、車が考えたことや感じたことを人間側に伝達する手段がない。車が、様々な情報網から、人間にとって有益な情報を手に入れたとしても、それは人間側に伝えることが出来ないままなのだ。このもどかしさは、非常に面白い。車自身には、今相当ピンチな状況であることがわかっている。でも、人間側はその情報を知らないからのんびりしている。車は人間にその危機を伝えたいけどどうにもすることが出来ずにやきもきする。猫が探偵、というような有名なシリーズがあるけど(ちなみに僕は未読です)、あの場合、言葉では無理でも、何らかの仕草や鳴き声で、飼い主に何らかのアピールを伝えることが出来るはずだろうと思う。しかし、車の場合は無理だ基本的に、車側から人間にアプローチする手段は一切ない。車は、人間の指示通りに動くだけの存在であって、人間にアクションを起こさせることは出来ないのだ。よくもまあそんなハードルの高い制約を設けて、ここまで面白い物語を生み出すことが出来るものだなぁ、と感心させられました。
そして、車が主人公、というのは、ストーリー上の面白さを生み出すに留まりません。僕はこれが本書の最大の魅力だと思っているのだけど、とにかく車同士の会話が面白すぎるのだ!
車は基本的に、「持ち主やその家族が車内で喋ったこと」か「他の車から聞いたこと」しか人間について知りえない。だからこそ、それぞれの車がどんな状況にあるかによって、性格や知識や価値観に大分差が出る。そもそも車は、ペットと同じ(?)で持ち主に似るらしく、また車の種類や年式によっても様々な序列や風格が生み出されるために、一台一台違った個性を持っていると言っていい。
例えば、望月家のデミオ(大抵車は、車体の色+車種という名前で呼ばれるのが慣習だそうで、望月家のデミオも、緑デミ、と称されることが多い)の隣によくいる細見家のザッパ(ザッパについては、細見氏がフランク・ザッパという歌手が好きでよくその話をしていること、ナンバープレートの「38」がザッパと読めることなどから、ザッパという愛称で呼ばれている)は、持ち主が校長先生であるために、話が含蓄に富んでいるし、教訓めいたことも言う。プリウスはやはり環境問題について語るようだし、また燃費が良いことから来る落ち着きが感じられるそうだ。また、車社会の中では、電車というのは恐ろしく尊敬に値する存在らしく、貨物車が通る際には、そのコンテナの数を数えると長生き出来る、なんていう噂まで出回っているほどなのだ。
そんな彼らが、車たちの常識で人間を捉えてみたり、あるいは車独特の表現である状況を言い表してみたりする場面がとにかく面白くって仕方がない。
例えば、「浮気」という概念を説明した時に、ある車がこんなことを言う。

『例えば車庫証明で申請した場所ではないところに駐車したり、そうじゃなかったら、任意保険を家族限定としたにもかかわらず、友人に運転させたり、そういうちょっとした、違反と同じようなものなのかい』

あるいは、ある話題で緑デミがなんかおかしな情報だなと感じた時、「違和感があるね」というと、ザッパがそれに対して「半ドアか?」なんて返すところも、僕は結構好きだったりします。
あと爆笑してしまったのが、「開いた口が塞がらない」に対応する車バージョンの表現だ。これはここでは書かないけど、思わず吹き出してしまいました。
他にも、運転者が乱暴でスピードを出し過ぎると、恐怖から車は意識を失ってしまうだとか、あるいは、車にとっては、自分にそんな醜いものがついているとは思いたくないほど嫌悪している「クラクション」というものについて、何故人間がクラクションなんてものを車につけなくてはいけなかったのか、なんて議論する場面もかなり好きです。
とにかく本書では、「もし車が喋ったら?」「もし車に感情があったら?」ということを徹底的に考えて、それを面白おかしく描写している場面がとにかく面白くって、ストーリーがどうとか関係なく読まされてしまうのではないかと思います。
キャラクターで言えば、とにかくダントツで享が素晴らしいです。まだ小学生である享は、しかし小学生とは思えない知性や価値観を持っている。緑デミは享のことを「望月家の知性」と言った感じの表現をしていたほどだ。享は、大人顔負けの質問を繰り出し、子どもとは思えない洞察力を見せ、それでいて時には子供らしさを武器にする、なかなかしたたかな男である。江戸川コナンみたいなものを想像してもらえたら、大体イメージとしては正しい。絶対享は、謎の薬で小さくされた大人だって。
伊坂幸太郎の作品には、ちょっと変わった人たちがたくさん出てくるイメージがある。本当に「ちょっと」で、変人というほどおかしいわけではないけど、ごくごく平均的な「普通」からはどうしてもはみ出してしまうような人間たちがたくさん活躍する。伊坂幸太郎はそういう人間を優しく描く。というか、彼らに居場所を与えてあげるのだ。僕らが生きている現実の世界では、そういう「ちょっと変わった人」は、なかなか窮屈で生きにくいだろうと思う。せめて小説の中だけでも、と思っていたりするかもしれない。せめて自分の小説の中だけでも、彼らが安住出来るような場所を提供してあげたい、というような。享もまさにそういう人物であって、望月家という一家の中にいなければ、かなり不遇の扱いを受けることになるだろうな、と感じさせられます。どちらかと言えば僕自身も、ごくごく平均的な「普通」からははみ出す方のタイプだと思うんで、だからこそ伊坂幸太郎がそういう人に安住の地を与えてあげることに、なんとなくホッとするのかもしれないな、という気もします。
伊坂幸太郎作品は、他の作品との繋がりがチラホラ散見されることも特徴だけど、本書もちゃんとありました。僕が気づいた限りでは、「オー!ファーザー!」と「残り全部バケーション」との繋がりはありました。僕が見逃しただけで、他にも繋がりはあるかもしれません。
それまでずっと緑デミの視点で描かれてきたわけだけど、エピローグは望月家の母・郁子の視点で描かれる。この最後の最後のエピソードもいいですねぇ。なんとなくだけど、「ゴールデンスランバー」を彷彿とさせるような、なるほどなるほどという感じの綺麗な終わり方で、最後の最後まで楽しませてくれる作品でした。
表紙の感じから伝わってくるような、なんとなくホワホワした楽しさみたいなものがばっちりと体現されている作品だと思います。車を主人公にする、という点を細部まで突き詰めた上で、人間側にアプローチする手段はない、という制約の中で、スリリングえありながらのほほんとした展開を描き出していると思います。是非読んでみてください。

伊坂幸太郎「ガソリン生活」


100の基本 松浦弥太郎のベーシックノート(松浦弥太郎)





内容に入ろうと思います。
本書は、「暮らしの手帖」の編集長であり、文筆家でもある著者が日々心がけ意識している「100の基本」と、「COW BOOKS」という古書店の店主でもある著者が、「COW BOOKS」10周年を機にスタッフに向けて、仕事をする上で意識するべきことをまとめた「COW BOOKSの100の基本」を収録した、計200個の基本が描かれている作品です。
「基本」というだけあって、本書で書かれていることは、まさに基本的なこと、当たり前のことが多いです。とはいえ、その基本的なこと、当たり前のことを実行できている人は非常に少ないことでしょう。
実際に、「COW BOOKS」のスタッフに、「COW BOOKSの100の基本」をどの程度実践できているのか確かめてみたことがあったそうです。著者としては、まあ半分も出来ていれば上出来ではないかという感覚でいたようですが、なかなかどうして、やはり基本的なことであっても、実践することは困難なのだなと思わせてくれる結果が載っています。
まえがきとして、こんなことが書かれている。

『「100の基本」は、自分を知るために、自分について考えるために、自分の考えを整理するために、自分らしくいるために、しっかりと身につけておきたい基本の心がけです』

『「100の基本」は、日々アップデートさせて書きなおしていくものです。そうすることで、「100の基本」という地図は、さらにわかりやすく詳しくなっていきます。
「100の基本」は、完成させることが目的ではありません。常に身につけて、自分の成長に合わせて変化させていくものなのです』

そして、それを実践してもらうために、巻末に、『あなたの「100の基本」の作り方』というページがある。これは、100個の空欄が羅列されているページであって、自分が思いついた「基本」を書き留め、見返し、実践していくために使えるのではないかと思います。
本書を読んで、改めて、基本の大切さを感じさせられました。本書に書かれていることすべてに賛同するわけではありませんが、なるほどと深く納得させられることも非常に多いです。本書は、そもそものスタンスとして、「松浦弥太郎の100の基本」です。著者としては、読者に「自分と同じ100の基本を実践しろ」と主張するつもりは毛頭ないでしょう。そうではなく、私の100の基本はこうですけど、あなたはいかがですか?という問いかけが主体の作品だと感じました。なので、本書を読んで、書かれていることをそのまま受け容れる、というスタンスも、また違うのだろうなと感じます。本書を読んで、自分はそれに対してどう思うだろうかと考え、自分なりの「100の基本」を探る。そういう営みの手助けとなるような作品だと感じました。自分がやろうと思っていてできていないことや、やろうとさえ思っていなかったことなど、様々なことが書かれていて、大げさではなく、身が引き締まる思いがしました。一度読んだだけでは忘れちゃうと思うんで、手近に置いておいて、機会がある時にペラペラめくるようにしようと思いました。特に、形態に違いはあるとはいえ、同じ書店で働くものとして、「COW BOOKSの100の基本」は、無視できない記述が多いなと思わされました。
本書は、見開きの左ページに1,2行程度の要約が、そして右ページにその説明が書かれている作品です。あとは読んでみてください、としか言いようがないのですが、個人的に気になった文章をガンガン抜き出してみようと思います。

「100の基本」より

『すべては自分の責任と思うこと。他人を責めても何も生まれない。どんなことであろうと「起きることは全部自分に原因がある」と僕は思っています。「納得の落としどころは自分だ」と覚悟すると、人に依存せず、頼らず、自分の足で歩いていくことができます』

『人とのつながりや関係性をこわさない。約束をやぶらない。人に多くを求めない。そして、常になんごとも続けていく努力をする。何かを初めたらやめないことが大切です。いくら気をつけても、こわれること、断絶することがあるのは事実です。だからこそ、こわさない、やぶらない、求めない、やめない努力をしていこうと思っています』

『小さい約束ほど大切にする。「今度、ごはんを食べに行きましょう」「その本なら貸すよ」僕たちはこうしたことを気軽に口にします。おしゃべりのついでのひと言かもしれませんが、れっきとした約束であり、大きな約束と同じように守るべきものです』

『自分の経験しか、本当の情報にはなりません。見たり、読んだり、聞いたりしたことは、情報ではなく知識です。知識が増えると、自分の頭でものを考えなうなります。だから知識はほどほどに。なんでも知っている人ではなく、なんでも考える人になりましょう。「何も知らない自分」は何に対しても素直に向き合えます。世の中には知識があふれています。放っておくと増える一方なので、時どき忘れる努力をしましょう』

『テレビ、新聞は遠くから見るだけ。遮断する必要もないし、嫌ったり否定することもないけれど、じっくり見なくてもいい。テレビも新聞も鵜呑みにせず、ちょっと離れたところからちらっと見るくらいでちょうど良いと思います。「こんなことが起きているんだ」という程度の認識にとどめ、自分の主たる情報源にしないようにしています』

『成果を出すためにも、モチベーションを高めるためにも、競争が必要だという説があります。まったくもってナンセンスだと思います。誰かより優位に立つために仕事をしているわけではなく、人に喜んでもらうために努力をしているのですから。もし、争うような環境に置かれたら、僕はさっさと勝ちを譲ります。「どうぞお先に」くらいでちょうどいいと感じます』

『本当の味方が欲しければ、きちんと自分の意見を述べるべきです。それに対して「支持できる」と思ってくれる人、「そんなの全然違う」と思う人が出てきます。全員に支持されるなら、あり得ないのですから。そこで支持してくれた人と関係を深めていくのが、コミュニケーションの本来の姿ではないでしょうか』

『孤独は人間として生きている条件のひとつです。仕事でも生活でも孤独感は襲ってきますが、そこからは逃げられないし、逃げれば逃げるほど、孤独は影のごとく追いかけてきます。「人間は孤独である」と受け入れ、「孤独こそが自分が生きている証だ」と理解する。これが大人になるということかもしれません』

『100冊の本を読むよりも、よい本を100回読む。次から次へと数をこなし、「こんなに本を読みました」と言ったところで、いったい何が学べたというのでしょう?残るものは「100冊の本を読んだ」という記録だけだと感じます。それよりはいい本を見つけて、100回繰り返して読みましょう。』

『どんなに経験を重ねても、どんなにかしこくなっても、素直でいましょう。決してもの馴れせず、初々しさを失わないでいましょう。それが成長を続けるための秘訣です。本当に素直で初々しけれど、自分の意思だけは貫く。それがベストだと思います。』

『「会いたい人」としてイメージされる存在になる。それには「会えばうれしいしメリットがある」と思ってもらうことです。いつも相手に説くさせると、いつか自分がお願いした時、力を貸してもらえます』

『無料のものには近寄らない。あげると言われても断るようにしています。カードのポイントの類も避けています。「カードなら◯%ポイント割引」というお得と引き換えに、どれだけ自分が個人情報などを引き渡しているか冷静に考えてみましょう。こちらが渡すものの方が大きいかもしれません。理由もなくただというものは、存在しないのです』

『何かに挑戦しているから、毎日が失敗だらけです。うまくいかないことばかりでも、くよくよしない。失敗も自分の経験になるのですから。もしかすると、成功よりも失敗の方が実体ある情報となり、あとあと役に立つかもしれません。何事も失敗を覚悟で、挑戦することが大切です』

『「絶対に」「普通は」という言葉を、できるだけ使わないようにしましょう。絶対などないし、万人にとっての普通もまた、存在しません。うっかり使ってしまうからこそ「いけない、いけない」と自分をいさめましょう。相手と意見が対立した時は納得がいかなくても、「相手が言うことが正しい」と考え、そこを落としどころにします。「自分がわからないだけで、相手が正しい」と譲れば、ものごとはぐっと前へ進みます。』

『「本当にやさしい人」になるのは難しいけれど、「やさしい人」だと言われるのは簡単です。真実から目をそむけても、相手に狭いことだけ言い、どんな結果を招こうと、その場しのぎでやさしくするなら誰でもできます。責任を果たし、何かを成し遂げるには、やさしさでごまかさない強さも必要だということです』

『迷った時はしんどいほうを選ぶこと。何を選択するか決めあぐねた時は、一番しんどいものを選びましょう。一番しんどいものに取り組むと、否が応でも集中します。慎重になり、入念に準備もするでしょう。結果としてもっとも正しい方法でやることになり、学びも多く、成功につながります。』

『弱者とは、他人に依存して保護を受けなければ生きていけない人のことです。たとえば、リストラされてなくても、会社に依存していれば弱者にすぎません。敗者は、どんなに失敗を繰り返したとしても、自分の力で立ち直って、再び挑戦を挑む勇気を持つ人のこと。敗者にはチャンスはやってきますが、弱者には未来はありあません』


「COW BOOKSの100の基本」より

『来店されたお客様に自分が何を与えられるかをいつも考える。お店に来てくださった人に、自分は何が与えられるか、どれだけ喜んでもらえるかに尽きます。何も買わなかった人にも、なんだかいい気分という小さな喜びを持ち帰ってもらいたい』

『ゴミ箱はいっときゴミを「入れる」ためのもの。ゴミを「ためる」ためのものではありません。ゴミが満杯のゴミ箱などはあり得ません。「一日の終わりにまとめて捨てればいい」というのではなく、たまったら捨てること。いいえ、たまる前に捨てるということです』

『お客様を送り出す時、「ありがとうございました」だけでは終わらせず、何か言葉を添えるようにしましょう。「遠くから来ていただいてありがとございました」「雨なので、お気をつけて」。マニュアルではなく、自分で考えたひと言を添えましょう』

『仕事の目的は、本を売ることではなく、お客様に喜んでもらうこととする。「売るためにどうすべきかなんて考えない。お客様に喜んでもらうにはどうしたらいいかを考える」これがすべての仕事の基本です。売ることを目的にしたら楽しくありません』

『規則を受けずに自由に仕事をする以上、その責任はすべて自分で引き受けること。自ら良いこと悪いことすべての情報をオープンにすること。自分たちの在り方を自分たちでチェックし、即座に問題解決をすること』

『頼まれない限り、商品の説明はしません。本屋だから本に詳しい人が必要とも感じません。本に詳しくなるより、お客様に喜んでもらうことを考える人と働きたいと思っています。「相手のほうが知識豊かだ」という前提でいきましょう。「本の話を聞かせる店ではなく、お客様の話を謙虚に聞く店」を目指します。』

『COW BOOKSの基本は、礼儀作法を守り、いつもていねいであること。相手を敬うこと。何事もおざなりにしないこと。お願い、問い合わせ、返事、謝辞はすべて手紙です。書いた手紙は全部コピーを撮ってファイリングしておきましょう。そうすれば書いた当人がいなくても、いつでも対応できます』

『COW BOOKSに行ってよかったとお客様に思ってもらうことに尽くす。お客様が来店してから帰られるまで、「どうすれば、この店に来てよかったと思ってもらえるか」と考え続ける。何かひらめけば行動に移す。この二つに全力を尽くします』

『最初からものを売ろうとしても、なかなか売れません。まずは自分を知ってもらうこと、自分を売ることから始めましょう。自分を知ってもらうと信用が生まれます。信用が生まれてはじめて、商品説明といった次のステップに進むことができます』

本書は、装丁も素敵なので、贈りもの用なんかにもいいかもしれません。会社に一つ、家庭に一つという感じで、何人かで一冊所有する、という感じでもいいかもしれません。なかなか慌ただしく日々を過ごしている人間だけど、もう少し立ち止まって、基本に立ち返る時間を取りたいものだと思わせてくれました。是非読んでみてください。

松浦弥太郎「100の基本 松浦弥太郎のベーシックノート」


人外魔境(小栗虫太郎)

内容に入ろうと思います。
本書は、日本四大ミステリの一作に数えられる「黒死館殺人事件」の著者であり(残りの三つは、 夢野久作「ドグラ・マグラ」、中井英夫「虚無への供物」、竹本健治「匣の中の失楽」)、探偵小説作家としてデビューし、様々な作品を物した作家による、世界中の「人外魔境」を舞台にした伝奇的作品です。
本書はまさに、世界中の「魔境」を描いている作品で、人跡未踏であり、様々な伝説の残る土地を、世界的冒険家として鳴らし、秘境探検には声が掛かる折竹孫七がアタックし、そこでの奇談を知り合いであう伝奇作家に話して聞かせている。そういう体裁を取っている作品です。
13編の短編が収録されていますが、それぞれどんな「秘境」が扱われているのか、ざっと書いてみようと思います。

「有尾人」
赤道中央アフリカのコンゴ副東武にある、「悪魔の尿溜」と呼ばれる地帯。そこは、また人類が一人として見たことのない、巨獣の終焉地「知られざる森の墓場」があると伝えられる。

「大暗黒」
仏領北アフリカのチュニスから南へ250マイル離れたところに、「椰子のある地」と呼ばれるオアシスがある。そこから僅か南へ5マイルのところにある、「Schott el Djerid」と呼ばれる、塩の結晶が灼熱の陽を浴びる鹹湖がある。

「天母峰」
支那青海省の南部チベット境をヌイ、25000フィート以上の高峰をつらねる山脈の中にある、チベット人が「天母生上の雲湖」と呼ぶユートピアがあると信じられている未踏の大群峰

「「太平洋漏水孔」漂流記」
ミクロネシアとメラネシア諸島の間にある海の絶対不可侵域、「海の水の漏れる穴」

「水棲人」
アルゼンチン、パラグアイ、ボリビアにまたがる密林であるグラン・チャコ

「畸獣楽園」
コンゴにある大禁猟区・National Park Albert の奥地

「火礁海」
「人間ならぬ人間」と呼ばれる謎の生き物が発見されたスマトラ諸島

「遊魂境」
グリーンランド内部にある「未踏の地」

「第五類人猿」
アマゾン河がペルー周縁でふた手に分かれる一方、ジュタイ河が大密林に没した奥の奥

「地軸二万哩」
パミール高原中にある、底なしの谷と考えられている「大地軸孔」

「死の番卒」
コロンビアのアトラス川周域

「伽羅絶境」
北ラオスにある Yat Giang

「アメリカ鉄仮面」
地上5万フィートの成層圏

これぐらいの内容紹介しか出来ずにすいません。壮大過ぎてついていけない物語もあったり、同じようなトーンの物語が続くために後半はちょっと飽きちゃって若干流し読みだったりで、なかなか内容紹介がうまくできません。
僕はそもそも、豊かな想像力を必要とする物語は苦手だったりするんですけど、本書はなかなか面白く読みました。本書も、頭の中で想像するにはなかなか難しいような描写が多々あって、読むのに苦労したんですけど、決して「秘境」の描写だけで終わってしまう物語なのではなくて、きちんと物語がある。「地球上には、まだこんなとんでもない秘境があるんだ!」という描写だけに終始してたら、僕的にはちょっと辛かったかもしれないけど、本書では、その「秘境」で起こる様々な出来事に説明をつけたり、あるいはその「秘境」をアタックする人間関係のあれこれが解消されたりと、「秘境」だけにスポットライトが当たる展開ではないというところがいいなと思いました。
しかしまあ、作者の想像力には凄いものを感じました。よくもまあこんなことを思いつくなというような驚くべき「秘境」っぷりを描き出していくところは見事です。しかも、ただ荒唐無稽にとんでもないことを書いているだけではなく、そこにちゃんと理由付けがあったりするからまた凄い。ここがこんな風になっているのは、これこれこういうことがこうなっているからなんだ、というような下支えが結構きちんとしているように感じられた。
舞台設定も、なるほどここだったらまだ「秘境」が存在するかもしれない、と思わせてくれる場所が多くて、現代のように衛星やなんかで世界中を「見る」ことが出来てしまう時代にはなかなか「秘境」の存在を思い描くことは難しいかもしれないけど、本書が発売された30年以上も昔の時代であれば、まだまだそういう「秘境」を信じることが出来ただろうし、本書はそういうぼんやりとした「秘境」のイメージに、はっきりとした輪郭を与えてくれるような、そういう力があるなと感じました。最近では、人跡未踏だったチベット山地を単独踏破した日本人が描いた「空白の五マイル」っていう作品を読んだけど、なかなか今の時代にはもう「秘境」って見つからないんだなぁ、という気持ちになりました。
色んな話が描かれていて、原始人類がそのまま生きてるんじゃないか?とか、地底人がいるんじゃないか?とか、アトランティス大陸の名残があるんじゃないか?とか、他にも色んな展開があるけど、面白いと思いました。個人的には、「グリーンランド内部に新発見の土地」という話は、非常に斬新でも納得感のある、非常に面白い話だなと感じました。あと、近づくことが出来ない島の話も、よくもまあそんなこと考えたな、という感じです。
あて、あとは本書の表紙の話を書きたい。
僕は本書を古本市で買ったんだけど、表紙のデザインが非常にかっこいい。amazonで拾った画像だと違うので、ネットで拾った本書の画像のアドレスを載せてみます。

http://image.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&p=%E5%B0%8F%E6%A0%97%E8%99%AB%E5%A4%AA%E9%83%8E+%E4%BA%BA%E5%A4%96%E9%AD%94%E5%A2%83#mode%3Ddetail%26index%3D3%26st%3D100

バーコードもISBNも記載がなくて、内容紹介もなくて、裏表紙もまるまる絵のデザインになっているカッコイイ装丁で、これぞまさにジャケ買いだなという感じでした。
なかなか今手に入る作品ではないでしょうが、機会があったら是非読んでみてください。

小栗虫太郎「人外魔境」


整数論のための前菜(Projective X)

内容に入ろうと思います。
本書は、暗黒通信団(円周率πを百万桁までただ羅列した本を出したりしている)が出版した、整数論に関する同人誌です。「コミケ」で販売されていたもののようですが、ISBNが付与されていて、書店で流通出来る形態になっています。僕はこれを、神保町の三省堂で買いました。
本書の「はじめに」には、こんなことが書かれています。

『コミケに集う人々をはじめオタクな人たちは、どこか世間の人と雰囲気が違う。その違いは実用性を問うか否かに現れている。オタクな人々は生活で必要なものは欲しない。そのかわり「萌え」に命をかけ前収入を注ぎ込む。』

『しかし暗黒通信団のブースにきてこの本を手に取っているあなたのことだ。二次元萌えとは別の萌えに飢えているはずだ。そして知っているはずだ。数学は二次元幼女以上に萌えることを。』

『昔々、フェルマーとかオイラーとかガウスとかいう偉大なオタクたちがいて、整数に萌えまくっていた。この本は彼らの萌えのエッセンスを一口サイズにしたものだ』

そんな風に書かれている本だ。それなりに、油断して手にとったとしても仕方なかろう。まあ、僕でも理解できるんじゃないかな、「前菜」って書いてあるし、「整数論」だったら微積分とかよりどうにか理解できそうだし、コミケで売ってたっていうぐらいだしな、と。
いやいや、全然勘違いでした。僕は、数学は好きだけど別に能力があるわけではない、いわゆる「下手の横好き」ってやつで、数学は下の上ぐらいしか出来ない、という認識を持っています。恐らく本書は、下レベルの人にはちと辛いんじゃないかな、と思います。せめて中の下とか中の中ぐらいの実力のある人でないと、書かれていることは理解できないんじゃないかなぁ、という気がしました。僕は、とにかく内容についてはほとんどさっぱり理解出来ませんでした。難しすぎるでしょうよ!まあこの本も、いずれ理解できるようになったらいいなぁ。
しかし、本書を読んで改めて、結城浩「数学ガール」シリーズの凄さを思い知らされました。「数学ガール」のシリーズも、内容的にはかなり高度だと思います。けど、かなり楽しく読めるし、なによりも難しさを感じさせないところが驚異的だ。改めて、数学本も中で、「数学ガール」シリーズの凄さを思い知らされた作品でした。
著者は現在、ニートのような生活をしながら数学の研究をしているようで、『大学のアカデミックポストがなければ研究ができないということに懐疑的であり、もっといろいろな研究スタイルがあると考えています。みなさんもあまり悲壮感にかられず自由なスタイルで数学をされるといいと思います。もともと数学ってそうやって楽しむものですから!』と書いている。確かに数学なら、紙とペンさえあれば(理想的には、他の研究者と議論出来る場があればもっとベストだけど、それはネット上で確保出来るでしょう)どこでも研究が出来る学問だろうなと思います。
個人的な興味に加えて、若干ネタ的に買った本ではありますが、思った以上に内容が高度で驚きました。こういうのがコミケで売られる時代って、僕はなかなか面白いなぁ、と思ったりします。

Projective X「整数論のための前菜」


「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂(湯谷昇羊)

内容に入ろうと思います。
本書は、中国が流通近代化に向けて、中国市場での大型チェーンストア経営の確立を目指して誘致したイトーヨーカ堂が、まさに『戦場』と呼ぶに相応しい、ありとあらゆる苦難・困難・障害を乗り越えて、中国にまったく新しい商習慣を植え付け、『中国で最も成功した外資』と呼ばれるようになるまでの軌跡を描いたノンフィクションです。
これはちょっと凄すぎました!イトーヨーカ堂って、こんなに凄い会社だったのかぁ!ってかなり感激しました。まあ、僕はビジネス方面には詳しくないんだけど、セブン&アイグループも、色んな毀誉褒貶があるのでしょう、きっと。とはいえ、本書を読むと、とにかく「中国のヨーカドー」については、誰しもが絶賛せずにはいられないと思います。中盤から最後に掛けて、何度もウルっとさせられてしまいましたですよ。
どんな内容なのかはこれから書いていくけど、本書はとにかく、ありとあらゆる小売業の人間、そしてありとあらゆる上司に読んで欲しいと思う。「自分は努力している」と思っている小売業が、本書を読んでもそう言い続けられるかは疑問です。また、本書には、これぞ理想!と思わせてくれる上司が山ほど出てきます。物を売る商売をしている人は、マジで読んだほうがいいと思います。
イトーヨーカ堂は当初、中国政府から依頼を受けた伊藤忠商事に請われる形で、中国への出店を検討することになる。反対する意見が多く出る中、鈴木敏文は中国進出を決断する。中国進出の総指揮を取ることになったのは、全国に2万5000人の部下を持つ常務取締役営業本部長だった塙昭彦だ。塙は、「大バカ者は志願して欲しい」と全体に呼びかけ、中国行きの人選を進め、市場調査のために中国入りすることになる。これが1996年7月のことである。
そして、1997年11月21日に、中国内陸部の四川省・成都にイトーヨーカ堂がオープンすることになる。
オープンさせるまでも、幹部たちは超絶的に厳しい道のりをひたすら進み続けることになった。
成都に降り立った彼らの最初の印象は、「終戦直後の日本のようだ」というものだった。

『街は銀杏の木など緑も多いし、季節になるとピンクや白の芙蓉の花が咲き乱れる。車で見る街は、一見整然としている。しかし一歩路地に入れば、舗装はされていないし、道路脇には石ころがごろごろしている。朝になると、道ばたで住民が下着のような格好で歯を磨いたり、顔を洗ったりしている』

そもそも、出店予定地も、あまりいい場所ではない。そういう、そもそも不利な条件からのスタートだったのだ。
中国語がちゃんと喋れるスタッフは一人だけ、四川料理は辛すぎて身体に合わない、中華料理が食べられなくなって二週間ヒマワリの種で凌いだ幹部、中国の商習慣がまったくわからない、法律がごろごろ変わるし役人の解釈も人によって違う、基本性悪説である中国では親切にすればするほど「裏があるのでは?」と疑われる、一年の内休みは健康診断のために日本に帰る1週間だけ…。
日本からやってきた「大バカ者たち」は、そんな過酷な環境の中で、しかしオープンに向けて凄まじい努力を続ける。どんな物が買われているのか調べるためにスーツ姿の男たちがゴミを漁り、また一般家庭に入れてもらって家中を観察した。近くの市場で売られているものをチェックし(しかし、鶏肉に注射器で水が入れられてまさに「水増し」されているなど、酷い商品が多かった)、売り場のイメージを固めて行った。
しかし何よりも彼らを苦しめたのは、「中国人」との価値観の違いである。
店をオープンするために、スタッフを教育しなければならない。
しかし中国は長らく共産主義国家であり、計画経済を標榜していたため、ずっと配給制度が続いていた。配給制度の場合、支給する側が威張っており、受け取る側がありがたがる。
そんな社会だったから、普通の店でも、店員は恐ろしく横柄だった。料理のオーダーを間違えても嫌なら帰れといわれるし、釣り銭を投げてよこす、それが中国での「普通」だったのだ。
そんな中国人たちを、イトーヨーカ堂で接客できるレベルまで「教育」しなければならない。
これがどれほど大変だったか。

『中国では「むやみに人に頭を下げるな」と小さい頃から両親に教育されている。それなのにヨーカ堂の教育では頭を下げさせるばかりか、お辞儀の角度は45度とまで指示される。(なんでこんなことをさせるのか)、黙っている中国人従業員たちの視線が冷たくなってくる。』

『そうこうするうちに一人辞め、二人辞めと、挨拶ができないで辞めていく中国人が続々と出てきた。調べると100人を超えている。研修を受けていた李華(26歳)は言う。
「挨拶の必要性は理解できたが、なにしろ慣れないことなので、恥ずかしくて声が出なかったんです」』

挨拶だけではない。中国人のモラルの低さにも悩まされた。

『何しろお客さんでも従業員でも、失敗しても、間違えても、絶対に非を認めない。従業員はミスを認めたらクビになると思っているようで、すべて原因を他のせいにする。しかも大声で、けんか腰で反論する。』

『もっと酷いのは、盗みだった。ある外資系流通企業の内部レポートによると、在庫としてあるはずの商品が無くなっているのは「9割が内部の犯行によるもの」としているほど。外部も内部も酷かった』

本書を読んでて凄いなと感じさせられたのは、そんな中国人たちの成長だ。初めは、「いらっしゃいませ」さえ言えなかった彼ら。イトーヨーカ堂が中国で着実に認められていく過程で、彼らは一体どんな風に変わっていったのか。

◯ 牛乳売り場のあるスタッフは、1ケース12本入りの牛乳を買いにきたお婆さんに、賞味期限が短いから毎日買う方がいいですよ、と伝えると、足が悪くて毎日は来られない、という。じゃあと、そのスタッフは、自分が家まで届ける、と提案した。結果的にこれは、そのお婆さんが新聞に投書し、大反響を巻き起こすことになった。

◯ 気に入ったコートのサイズを尋ねられたスタッフは、サイズがないと伝え、同時にお客さんの電話番号を聞いた。客は、連絡が来るとは期待していなかったけど、翌日連絡があり、遠方の在庫も確認したけどなかった、と連絡をくれた。それだけでも嬉しかったけど、さらに二週間後、サイズ違いで返品されたものがあるけどどうか、と連絡が来た。

◯ 反日デモが激化した頃。中国人スタッフは暴徒が店内に入ってくるのを身体を張って止めてくれた。しかも、デモの集団に紛れ込んで行き先や状況などを逐一伝えてくれる。日本人の指示によるものではなく、自発的にやってくれていることなのだ。

幹部たちが中国にやってきた当初、ある幹部がボールペン3本を買うために店に入った。たった3本のボールペンを買うために、あちこちをたらい回しにされ、結局45分も掛かった。彼ら日本人幹部は、中国に新しい流通スタイルを定着させたい、という強い意思を持って無我夢中で仕事を続けた。その後ろ姿をずっと見続けたスタッフが、「いらっしゃいませ」が言えなかった頃から、ここまでに成長したのだ。
また、世界中どこでも通用したハトのマークが、ここ中国ではまったく通用しなかったことも彼らを苦しめた。商品を確保しようとするのだけど、どこも担当者が会ってさえくれない。イトーヨーカ堂の知名度が全然なかったためなのだけど、門前払い、と言った対応をどこでもかしこでもされた。説明会の案内状を送っても、伊藤忠商事との付き合いで来てくれたような会社がちらほらいるだけで、会場はがらんとしたまま。
中国でのイトーヨーカ堂出店プロジェクトは、それほどまでに過酷な土俵でスタートを切ったのだ。
しかし大変だったのは、オープンまでだけではない。オープンしてからも七転八起の苦しみを味わうことになる。
そもそもからして、「オープンで目立つな」という異例の指示を受ける。これは、北京に配慮してのことだ。イトーヨーカ堂の中国進出は、本来は北京が先導を切るはずだった。が、もろもろの事情で遅れ、結局成都が先にオープンする形になってしまったのだ。北京の案件は、中国政府との国家案件だったから、北京に配慮せよという命令が下ったのだ。
オープンしてからも、何年も何年も全然売れなかった。彼らは一年中ほとんど休まないで仕事をし続けたのに、それでもまったく成果が出ない。彼らは、日本で名物店長と言われたり、凄腕バイヤーと言われた猛者たちだ。その猛者たちが懊悩していた。それほどに売れなかった。
だからこそ彼らは、ありとあらゆることをやった。ここで描かれる具体策は、そのまま実際に応用出来るものもあるだろうし、「これぐらいの気力でやれば針の穴にラクダを通すような不可能事でも成し遂げられる」という気持ちで読んでもいいかもしれない。なるほど、これぐらいやらないと「努力」と言ってはいけないのだろうなぁ、と思わされた。
例えば、中国で折り込みチラシの習慣を根付かせたのも、クリスマスのイベントを根付かせたのも、イトーヨーカ堂だ。日本人幹部は塙から、「中国に染まれ、ただし染まりすぎるな」と言われていた。彼らは、ミレニアムのイベントを企画したが、中国人スタッフは猛反対した。中国人は年越しは家で過ごすから、店に来るはずがない、という。しかし強行すると、最終的に5万人を超える人が買い物をし、あまりに店内に人が溢れかえって危ないということで、責任者の塙が警察に逮捕されそうになるほどだった。また、中国人は、夏でも冷たいものを飲まない、と言われていた。しかし、氷水に缶ジュースなどを冷やして売り場に置いてみると、これが飛ぶように売れた。こうやってイトーヨーカ堂は、中国の慣習や常識さえも疑って、ありとあらゆることを仕掛けていったのだ。
そうやって、恐ろしいまでの努力を積み重ねていったイトーヨーカ堂は、中国国内でどんな風に扱われるようになっていったのか。

『「イトーヨーカ堂が出店を計画している」と伝わると、まるで「駅ができる」と伝わるように周辺の地価が上がることだ。駅と同じような、価値あるインフラと認識されているといえる。』

『ヨーカ堂進出は街づくり、再開発のシンボルになるため、そこに住みたいという人が増え、地域のレベルが高くなるり、地価が上がり、税収が増える』

『店頭に反日抗議の人たちが来た。すると自分たちが出るまでもなく、お客さんが彼らを説得している。
「華堂商場は北京市民に利便性を与えてくれるところだ。温かい目で見るべきだ」』

『(四川地震の後、店に来たお客さん)「昨日はとっても怖かった。今日、何を買ったらいいのかわからない。でもヨーカ堂がやっているかどうか、みんな無事かどうか知りたかった。店を開けると聞いて感動した」
そう話していた。ヨーカ堂の従業員を心配してくれたことに、李の方が感激していた。』

そして驚かされるのは、イトーヨーカ堂が中国政府から表彰されたことだろう。

『2008年12月18日、この日は中国のイトーヨーカ堂にとって永遠に忘れられない日になった。セブン&アイグループ全体にとっても歴史的な日といえるだろう。
改革開放30周年を記念して、改革開放に功績のあった企業人と企業が北京の釣魚台国賓館で表彰されたのである。この中になんと三枝の緊張した姿があった。わずか30人しか選ばれなかった「最優秀人物」に、外資系でただ一人選ばれたのだ』

この他にも、日本人幹部や中国人店長などが、様々な形で表彰されたり、あるいは要職へ就いたりしている。こういった多くの実績が、「中国で最も成功した外資」と呼ばれる所以である。
さて、これだけの事業を成し遂げられたのには、ある人物の存在が大きい。
それは、中国進出の総指揮を取ることになった、塙昭彦である。彼がいなければ恐らく、中国進出プロジェクトは頓挫していたのではないかと思われる。それほどまでに、決断力や包容力、あるいは臨機応変な行動や人をて名付ける存在感に溢れている男だと思う。

『(オープン直前までPOSシステムが正常に動かず、オープンを延期したいという主張に対し)何言っとんじゃお前ら。パンダの生息地の成都は竹の産地だろう。竹のカゴなんぞいくらでもある。竹のカゴを買ってこい。売り場にカゴを吊るして”溜め銭”で商売すればいいじゃないか』

『「中国人のほしいものがわかってないんだよ。極めていない。自由市場でよく売れているものを買ってきて、売ってみろ。10元のものなら15元で売ればいい」
「しかしそれは…」
「格好つけている場合じゃない。ヨーカ堂はこうあるべき、なんてものは無いんだ。ここは中国なんだよ」』

『まだまだ頭が硬いな。すべて俺が責任を取ってやるんだ。やるかやらないか、あんたたちが決めることじゃないんだよ』

『こんなことを当時の中国人スタッフに言っても理解できない。そこで塙は、従業員たちにこんな言い方をした。
「遠くの美人より、隣のお婆ちゃんを大切にしよう」
そしてこう解説した。
「遠くの美人とは、遠くに住んでいるお金持ちのことです。たまにしか来店してくれないそんなお客さんも大事だが、たとえ5元や10元(75円や150円)しか使わないお婆ちゃんでも、毎日来て、店を冷蔵庫代わりに使ってくれるお客さんを最優先しよう」』

『(予算が達成出来ないスタッフに対し)俺たちの目の前には、金帝百貨店がある。少し離れたところには雪銀百貨店がある。まさに金と銀い挟まれている。将棋で金と銀に挟まれているのはなんだ。王将だろう。この華堂商場は必ず王将になるから心配するな。われわれは王将になるんだ』

『日本人が遊んでいて、中国人の誰が必死に仕事をするか。中国人に対しては後ろ姿で教育するんだ。中国人に一生懸命働いてもらおうと思うなら、この日本人についていけば幸せになれる、と思ってもらうしかないんだ』

『中国で生きようと思うなら、中国人と目線を合わせるしかない』

『難航していたのは候補地だけではなかった。契約に関する様々な問題に漢詩、ヨーカ堂再度は現場と2年間も交渉を続けていた。(中略 塙が相手側の代表者と電話で話をする) 延々と交渉を続けて決着しなかった何台が、なんと僅か3分ほどの電話であっさりと片付いたのだ』

まさに、塙昭彦という大人物あってこそ、中国進出、そして中国で最も成功した外資という偉業は達成できたのだろうと思う。塙以外の日本人幹部たちの働きやスタンスも素晴らしく、もちろんそうした全員で手にした偉業だろうとは思うのだけど、やはり塙の存在は相当に大きかったのだろうな、と思う。こういう人の下で働いてみたいものだな、と思わされました。
最後に。僕自身も物を売る立場の人間として肝に命じなくてはな、と感じさせられた一文を抜き出して終わろうと思います。

『しかし三枝や今井は、それを環境のせいにはしない。売れないのは、「売り場にわくわくする商品がない、感動する商品がない。もっと楽しく、もっと新しく、提案力を高めよう」と従業員に呼びかける』

本書を読んで、僕もまだまだ出来ることがあるはずだよな、と思わされました。色んな要因から、徐々に店の売り上げは下がっているのだけど、きっとまだまだやれることはあるはずだ。本書で描かれている猛者たちのように奮闘できるかどうか、それは分からないけど、僕もやれることを頑張っていこうと思いました。是非読んでみてください。

湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂」


八本脚の蝶(二階堂奥歯)





内容に入ろうと思います。
本書は、とある出版社の編集者であり、2003年4月26日、自らの意思で命を断った女性が、2001年6月13日から亡くなるその日までインターネット上に書き続けてきた日記を書籍化した作品。常に、「物語ること」「物語を読むこと」「生きること」「死ぬこと」「少女でありたいということ」などについて考え続けながら、ファッションや展覧会など自らの趣味にも旺盛だった女性の生き様が綴られていく。
さて、本書の評価は、なかなか難しい。
僕は、「説明」と「吐露」の違い、というものを考えました。
両者は何が違うのか。
僕の感覚では、「前提(自らの立ち位置)を説明するか否か」ではないかと思っている。
「説明」の場合、自分がどんな価値観を持っているのか、自分がどんな立ち位置にいるのか、ということも一緒に伝えなくては、伝わりにくくなってしまうはずだ。しかし、「吐露」の場合はそうではない。何故なら、「吐露」する相手は、その前提を共有してくれている人、あるいは共有できていると信じている人であることが多いはずだからだ。
僕は、ここで書かれている文章は「吐露」だと思う。つまり、「前提が共有されている相手(概ね、直接的に面識がある人、ということになるだろう)」に向かって投げかけられている言葉だ、と思う。
もちろん、前提が共有されていない(直接面識がない)人にも伝わるものはあるだろう。そうでなければ、本書が刊行時から高く評価され、7年の歳月を経て復刊されるようなこともなかったはずだ(本書は、復刊を希望する声に押されて、ほぼ絶版だった作品だったのにもかかわらず、7年ぶりに重版が掛かったのだ)。
とはいえ、やはりそこにはある程度のハードルはある。「書かれている文章から前提を読み取り」、かつ「その読み取った前提が自分と合致している」人にとっては、この作品は劇薬のような効果をもたらすだろうと思う。しかし、そうではない人にとって本書は、鍵穴だけが存在していて鍵がどこにもない扉のようなものではないかと思う。その扉はガラス張りで、向こう側を見ることは出来る。しかし、その扉を開けて向こう側の世界に行くことは出来ない(何故なら、その扉を開ける鍵を持っていないから)。そういう意味で本書は、この作品だけで完成しているパッケージなのだろうか?という疑問はなくもない。もちろん、それは著者に責任があるわけではない。著者は恐らく、自覚的に「吐露」しているのだし、「説明」のためにこの文章をインターネット上に書いていたわけではないだろう。これは、本書を捉える側に突きつけられている問いなのだ。
さて、僕自身は、この著者の価値観を理解し、共有することが出来たのか?
それが微妙なところなのだ。本書では、全編に、『死』というものに魅入られている文章が多くある。僕もかつては、『死』を希求し、行動しかけ、そして最終的に諦めたという経験がある。自分には、自殺は出来ないんだなぁ、という諦念を獲得する、そういう経験をしたことがある。経験、というほど大げさなものでもないんだけど。そういう意味で、著者が『生』と『死』について考えていること、どうにもならないこと、抑えようもないこと、そういう描写には強く共感できる。また、物事への斬新な視点だとか、特異な価値観なども、共感できる部分も多かった。
とはいえ、ではすべてに共感できるかというとそうでもない。ファッションや化粧やエログロや幻想文学やラブドールや、その他もろもろの著者が持つ特異な性癖や趣味などの話には興味が持てなかった(そしてそういう描写が、結構多いのだ)。それに、『恐らく具体的な対象/出来事を念頭において書いているのだろうけど、その具体的な対象/出来事については書かないで、それ以外の脳内イメージだけを書き綴っている』というような文章も結構あるんだけど、これも僕にとってはあまり共感できるものではなかった。これは僕自身も、昔ブログによく書いていたことだ。僕のブログの過去の記事を読んでもらえるとそうなっているのが分かると思うんだけど、本の感想の前にダラダラとした自分語りをよく書いていた。それは、まさに今指摘した感じになっていて、書きながら具体的な対象/出来事が頭に浮かんでいるんだけど、それについては触れないであれこれ書いているので、たぶん読む人にはなんのこっちゃ分からない文章になっていると思う。そしてそれは、本書でも同じで、そういう具体性を排除した脳内イメージだけを綴った描写は、やっぱり読んでいてよくわからないものが多かった。
本書を読んでいて驚かされるのが、著者の周囲の人間が、著者が「死ぬこと」について、ある程度異以上の覚悟を決めている、という点だ。

『(知人からのメール)先日、奥歯さんのお父さんとお会いした時、食事が終わり場所を替えるために、明るいエレベーターホールからほの暗いエレベーターに乗り込んで、ゆっくりと降りはじめた時、ふいに、ふつりあいなほど坦々と、このように言いました。
「私は、奥歯は自殺するかもしれないと思っていました。そして、私には止められないだろうと、思っていたんですよ」』

『(彼氏からのメール)奥歯ちゃんが死に瀕してね、死への期待と不安で張り裂けそうな時、僕は奥歯ちゃんのそばにいてあげるの。
そしたら少しは怖くないでしょう?
死への期待の方が、ほんのすこしだけ奥歯ちゃんの中で勝るかいおしれないでしょう?
よくがんばりましたって言ってあげるの
こんなにも残酷な、こんなにもあなたを責めたて続ける世界に、よくもあなたは耐えましたって。
もうがんばらなくてもいいよって。
もう耐えなくてもいいよって。
もう死んでもいいよって。
ねえ、いいでしょう
最期の時くらいそばにいさせて>そのくらいの役には絶たせて>
愛しい奥歯ちゃんのために。
こんなにも、こんなにも愛しい、あなたのために。
でもね、これだけは知ってて。
本当はね。
本当の本当はね。
世界はあなたのことを愛しているよ。
あなたの周りの人々も。
あなたの周りのお人形たちも、
あなたは知らないだろうけど。
あなたは決して信じないだろうけど。
だから愛しい人、
あなたが幸せでいられますように。
あながた世界に許されますように。
あなたが、あなたを、あなた自身が許せますように。
あなたの幸せだけが、あなたの安寧だけが、私ののぞみです。
愛しい奥歯へ』

『(母と弟と食事に出かけた際、外を歩きながら、飛び降りるためのビルを探してしまう奥歯に母が言うこと)「奥歯、ビルの回数数えるの止めなさい」「奥歯は死ぬのに向いてないんだからもうあきらめなさいよ」』

僕は、これはかなり幸せな環境だったのではないか、と思う。
普通、死にたい、というような話をすると、止められたり怒られたりするだろう。それは、死にたいと思っている人を救うこともあるかもしれないけど、余計辛くさせることだってあるだろう。著者の周囲の人々は、著者が死んでしまうことを受け入れている。受け入れてはいないのかもしれないけど、覚悟している。それは、凄い愛情ではないかと僕は感じた。たぶん、そういう環境でなければ、著者はもっと早くに、生きることに絶望してしまっていたのではないか。そういう意味で、幸せな環境にいられたのではないかと思う。
著者が、『生』と『死』に関して綴っている文章をいくつか抜き出してみる。

『人間が、いやむしろ私が、幸せの絶頂で死んでしまうくらい弱いいきものだったらよかったのに』

『いま私が手渡されたこのようにかそけくうつくしいものを消してしまわないように、そしてだれかにまた手渡せるように。そのためだけにでも私は生きていこう。』

『大切なもののために死ぬのはいいなということです。
いや、違う。死んでもいいくらい大切なものがあるのはいいなということなのです』

『好きな人でも、神でも、理想でも、信念でも、そのために死ねるものがあるなんて、めちゃくちゃテンション高くキラキラした人生だろうな。
でも、それで長生きすることをよしとするんじゃなくて、切腹とか殉教とかに惹かれるのは、私はそんな風に何かを信じ続けることができないだろうと思っているからです』

『私は、今日死んだって全然かまわないもの』

『世界が今日終わればいいと思っていることは知ってるよ。でも終わらなかった。いつも終わらないんだ』

『何不自由なく道たりたこの世界で私はなぜだか戦場にいるような気がします。
ほんの小さな失敗でもしたら私はここにいることを許されなくなってしまうような気がします。
挨拶はきっと複雑な合図で、それを間違えれば即座に虐殺されるような気がします。
私をかこむ隣人達の中に入っていくとき、砲弾の飛び交う中を進んでいく気がします。
時限爆弾を解体するかのように息をつめて仕事をします。
世間話をしながらも銃弾が耳をかすめる音が聞こえてきます。
私の微笑みは自然に見えますか?口の中には恐怖の味がします。
今日も生き延びた。でももうすぐ明日が来る。明日は生きていられるのかな』

『あなたのおかげで、ここでこうしていられます。
でも、でも、もうこわくてしかたがありません。
(それはあなたのせいではないのです)
もうここにはいられません。
(あなたはいていいよって言ってくれますけれど)。
ただ明日が来るのがこわくて仕方がないだけです。
今日が世界の終わりなら、私は幸せに生きるでしょう』

『ただ、私にとって、私の存在価値はゼロなのです。誰かに認めてもらって、はじめてプラス。貶されれば、マイナス。ゼロからはじまって、完璧にすればゼロをキープできる。失敗すれば、マイナス。
にこにこと綱渡りする。見て、こんなに高く私飛べるよ。一生懸命頑張ります。どうか、私を放してください。私の存在を赦してください。』

『あたりまえのことだ。生きるのは、明日を迎えるのは、あたりまえのことだ。
そんなあたりまえのことが、私には、ものすごくがんばらないとできないのだ。
なんで、そんなことができないのだろう』

僕は本書を、自分に関心がなさそうな部分は適度に飛ばし読みしつつ読んだ。そして、とりあえず日記の部分だけ読み終わって今この感想を書いている。日記の後には、生前著者と関わりのあった人たちによる寄稿がいくつかあるようだけど、まだそこは読んでいない。
あとは、本書から、気になる文章を抜き出しまくって終わろうと思います。

『幼稚園から小学校低学年くらいまで、私はある使命感を持っていた
地球の風景を見なければいけない。
漠然と、私が見た映像は写真のように切り取られ送り出されていつまでも取っておかれるとかそんな設定を持っていた。
異星人か神様かわからないけど、何かが、(ひょっとしたら地球がなくなってから)その風景を見て、地球はどんなところで、地球人は何を見たのかを知るのだ。
そのために風景を切り取る人が地球のあちこちにいるのだと想像していた。』

『私は生きていることに絶望などしない。なぜなら希望を持っていないから。
それは生を悪いものとして低く評価しているということではなくて、評価をしていないということである。
生を呪うのは裏切られた者だけで、そして裏切られるのは信じていた者だけなのだ』

『私の大切な人が変わり果てた姿で苦しんでいるときに、気持ち悪いと思ったり、お化け扱いして助けることができないのは嫌だ。
本当は助けたい気持ちがあるのに、そのような見慣れない姿に嫌悪感を覚えて、助けることができないどころか、相手を傷つけてしまうのは嫌だ。
だったらどうすればいい。
見慣れればいいのだ。普通の人は大怪我や血まみれの姿を怖がったり気持ち悪がったりするけれど、お医者さんは平気で手術をする。それは慣れているからだ。
それから私は、怪我や火傷や皮膚病や、その他一般に「気持ち悪い」、「怖い」と言われる有様に慣れようと心がけることにした。
轢かれて死んでいる猫の死体が腐って蛆がわいているところを観察し、死体写真を探し(昔はインターネットも悪趣味雑誌もなかったし子供だったから大変だった)、図書館で医学書(主に法医学)を借りて写真を眺め、食事中テレビのニュースで手術の様子が映し出されたときは目を背けずに見た。自分が怪我をしたときは(よくした。いまもよくする)、虫眼鏡まで出してきてじっくり眺めた。
大切な人がどうなっても助けられるようになりたいとそうしたんだという話を母にしたら、「そうだったの!?感動したー。奥歯はそういうのが好きなんだと思ってた」と言われてしまった』

『私は「女」ごっこをする女になった。
「女」の仮装をする女になった。
「女」は「少女」程素敵ではないのだが、やはり高度に抽象的な美しい概念だ。
そしてなにより、「少女」でなくても女の子はなんとか上手くやっていけるかもしれないが、大抵「女」じゃないと女は上手くやっていけないのだ。能力(仕事、学力、趣味、なんでも)が高い女がいても、「女」度が低いと減点される。
「女」度が高くても、能力が低ければとてもよく利用される。
両方ちゃんとできてやっと一人前だ。
私は「女」ではないのをはっきり知っている。』

『その頃私は世紀の大発見をしていた。
なんと、声を出さなくても本を読むことができるのだ。
音を媒介しなくても、本に書いてある字を目で見るだけで、その意味がわかる。
それまで言葉は音そのものだったので、それらが分離しうるということには本当にめんくだった。
色のない物があるとか、匂いに触るとか、そんな種類の信じられなさを覚えた。
しかも、目で言葉を読むと、このすごく速く本が読めるのだ。』

『「人間性」とは感情移入される能力のことであり、感情移入「する」能力ではない。
ほとんどすべてのヒト(ホモサピエンス)が人間であるのは、多くの人々に感情移入されているからである。ヒトであるだけでまずヒトは感情移入され、人間となる
しかし、人間はヒトに限られるわけではない。感情移入されれば人間になるのだから、ぬいぐるみだって人間でありうるのである。
そう、ピエロちゃんは人間だった。私が人間にしたのである。「した」と言う言い方は傲慢だ。言い換えると、ピエロちゃんは私にとって人間として存在していた。
上に書いたようなことを私は小学一年生ながら理解していて、すさまじい責任を感じていた。なぜなら、ピエロちゃんに感情移入しているのは世界でおそらく私一人だったからだ。ピエロちゃんが人間であるかどうかは私一人にかかっていた。これは大きな責任である。ピエロちゃんに対する責任に比べると、この意味での責任を例えば生まれやばかりの弟に感じることはなかった。私一人弟に感情移入しなくなったって世界中のおそらくすべての人間は彼を人間として扱うだろうから。
私がピエロちゃんが人間であることを忘れてしまったら、ピエロちゃんはきたない布切れで構成されたくたびれたピエロのぬいぐるみに過ぎなくなってしまう。それは人殺しだと思っていた。私がピエロちゃんをどこかに置き去りにしてしまったらピエロちゃんを見た人間は誰一人ピエロちゃんを人間だと思わないだろう。忘れもののぬいぐるみだと思って捨ててしまうかもしれない。そして実際私はピエロちゃんを忘れ、ピエロちゃんをはどこかにいってしまった』

『(<ごしゅじんさまだいぼしゅう>という案内に書かれた【最重要条件】)いらなうなったら、必ずだれかに譲るか、殺してください。痛がりなので、なるべく痛くしない方法で殺してください。私は全面的に協力し、決して抵抗はしませんので、スムーズに殺してください。殺し方は一緒に考えましょう!』

僕はたぶん、この著者に直接会っていたら、物凄く好きになっていたことだろうと思う。趣味は合わないかもしれないけど、考え方には惹かれただろうし、永遠にずっと話していられるのではないかと思う。面識がない人に向かってこんなことを言うのは変かもしれないけど、世界にとって、惜しい人を失くしたのではないか、と思う。

二階堂奥歯「八本脚の蝶」


道化師の蝶(円城塔)

内容に入ろうと思います。
本書は、芥川賞を受賞した表題作「道化師の蝶」と、「松ノ枝の記」という二編の短編が収録された作品です。
それぞれ内容に触れようと思うんだけど、相変わらず円城塔の描き出す世界観は独特で難解だったりするんで、こんな感じの設定です、ぐらいのことしか書けないのですけども。

「道化師の蝶」
僕にはこの物語は、実業家であるA・A・エイブラムス氏と作家である友幸友幸の物語である、というようなことぐらいしか書けない。
エイブラムス氏は、常に飛行機に乗っている。ある意味では、飛行機に乗ることが仕事みたいなものだ。エイブラムス氏は、飛行機に乗って、銀の袋を振りかざし、着想を捉える。そうやって、事業を成功に導いていったのだ。
友幸友幸は、謎めいた作家である。その行方は、杳としてしれない。世界各国を旅し、世界中のあらゆる言語で作品を残したとされる友幸友幸。ペアノという数学者が考案した人工言語でさえも小説を書き残しているという不可思議さ。そのあまりの膨大な痕跡たちのせいで、友幸友幸の研究は遅々として進まない。

「松ノ枝の記」
二人の作家が、奇妙なことを始めた。お互いがお互いの翻訳者であるような、そういう関係をずっと続けている。
きっかけはこうだ。ある時ある作家が、ある異国の作品を読んだ。彼はその異国語が漠然としか理解できないが、それでも最初の章をざっくり翻訳して出版社に送った。すると、なんとその著者本人から連絡がくる。是非そのまま訳してくれないか、と。さらに、そうやって訳出された小説をさらに自分が翻訳し直して出版する、と。
それまで順調にお互いの作品を翻訳し続けてきた二人は、しかし5作目でトラブルに見舞われる。一方が送ったと主張する原稿が、もう一方の元に届かない。送ったと主張する側は、訴訟さえも辞さないと言い、受け取れていない側は初めて相手の元を訪れることに決める。

というような話です。
さっきもちらっと書いたけど、正直円城塔の作品は、どれを読んでも大抵理解できない。よくわからない。デビュー作の「Self-Reference ENGINE」もまあ意味わからん話で、それ以降も、出る本出る本意味分かんないんだけど、でも円城塔の作品は読んじゃうんだよなぁ。巧く説明できないんだけど、全然理解できないのに読みたいと思わされてしまうような魅力を、円城塔作品は内包しているように思う。
それは、何が描かれているのかさっぱり理解できない抽象画を眺めているような気分かもしれない。
僕は、絵画にはまったく造詣がないから適当に書くんだけど、抽象画って、伝わる人にはきっと何かが伝わるんだろうと思う。僕は大抵絵を観ても特別何も感じないんだけど、何が描かれているんだかさっぱりわからない絵であっても、そこから何かを感じ取れる人というのはいるのだろうし、だからこそ抽象画も芸術と捉えられるのだと思う。
円城塔の作品も、僕にとってはそういう抽象画のようなものだ。ストーリーは、きちんとは理解できない。なんとなくの設定こそ捉えることが出来るけど、世界観全体を捉えることは、僕には不可能だ。分かった気にさえなれない、という感じだ。まあ、僕の読解力がちゃちいだけなのかもしれないけど、でも円城塔の作品に触れて、なんだかよくわからない感を覚える人は少なくはないんじゃないかなと思う。
円城塔の作品の「わからなさ感」を表現する別の比喩を思いついた。「自然」だ。円城塔の作品は、「自然」のようなわからなさ感がある。
人間は太古の昔から自然と共に生き、時に自然の恵みに生かされ、時に自然の猛威にさらされてきた。人間にとって、自然とは征服しがたい謎めいた存在ないのであって、共生しつつ、自然に対する畏怖みたいなものを常に持ち続けてきたはずだ。
円城塔作品に対する感覚も、なんとなくそれに近いような気がする。自分にとって理解出来ないけれども、なんとなく畏敬の念を抱かされてしまう。自分というちっぽけな存在よりも遥かに深く、遠く、果てしない存在として、円城塔の作品を捉えてしまう、という感じだろうか。
まあこれらは、自分が円城塔の作品をきちんと理解できないことの、長い長い言い訳なわけなんだけど(笑)、とはいえきっとこれからも僕は、円城塔の作品を読むことだろう。自分の足元にある地面が消え去って、日常から遥か遠くまで落とされ続け、気づけば非日常の檻に閉じ込められてしまっているような不思議な読後感をもたらす作品が、やっぱり僕は好きなのです。
装丁も、素敵ですよね。

円城塔「道化師の蝶」


考えるヒント(小林秀雄)

内容に入ろうと思います。
本書は、文筆家として活躍した小林秀雄が、様々な媒体に書き綴った文章を集めたものです。雑誌「文藝春秋」に掲載された結構分量のあるエッセイ、概ね「朝日新聞」で発表された比較的短めエッセイ、そしてソ連作家同盟からの招きによってソ連を訪問した際のエッセイ2編が収録されている。
僕には結構難しい文章だったなぁ、というのが正直な感想でした。僕は、国語の教科書に載っているような評論文みたいなのがあんまり読めなかった人間で、本書も、決して平易とは言えない文章だなと感じました。僕は本書を全体的に、わかるところだけなんとなく読む、というスタンスで読みました。分からないところは、わからないまま放っておこう、という形でとりあえず最後まで読みました。以前、野矢茂樹「哲学・航海日誌」を読んだ時も、あまりにも難しい作品で、僕にはかなりお手上げだったんだけど、その時に僕は、いつか無人島に一冊持ってくとしたらこの本を選ぶかもしれない。そしてひたすら繰り返し読み続けて、そこに書かれていることを理解したい、というような感想を書いた記憶があるんだけど、本書に対しても似たようなことを感じた。無人島に本書を持って行って、永遠に終わることのない時間の中で繰り返し繰り返し読み続けて、最終的に書かれていることの意味を理解したい、そんな風に思わせてくれる作品でした。
とはいえ、難解に過ぎるか、というとそうでもありません。どの話も、話の導入は非常に身近なものが描かれます。のらくろの話だったり(なんと、のらくろの作者は、小林秀雄の義弟だったそうです)、嘘発見器の話だったり、作家同士でやる文士劇の話だったりと、難しさを感じさせないような話題から話が始まってく。そこから次第に、著者の思索が深まっていき、最終的には導入の話からそんなところまで議論が深まりますか、というようなところまで行く。そういう展開の凄みみたいなものがあって、教養や知性の深さを感じさせてくれる。
さて、本書については、あーだこーだ言えるほど僕には読解力がなかったので、僕自身が気になった文章を抜き出して終わろうと思います。

『常識を守ることは難かしいのである。文明が、やたらに専門家を要求しているからだ。私達常識人は、専門的知識に、おどかされ通しで、気が弱くなっている。私のように、常識の健全性を、専門家に確かめてもらうというような面白くない事にもなる。機会だってそうで、私達には、日に新たな機会の生活上の利用で手一杯で、その原理や構造に通ずる暇なぞ誰にもありはしない。科学の成果を、ただ実生活の上で利用するに足るだけの生半可な科学的知識でも、ともかく知識である事には変わりはないという馬鹿な考えは捨てた方がよい』

『だが、小説の映画化が盛んな現代には、意外に強い通年がある。それは、小説家の視力をそのまま延長し、誇張し、これに強いアクセントを持たせれば、映画の像が出来上がるという通年であり、作家が、これに抗し、作家には作家の密室があると信ずる事が、なかなか難かしい事になっている。井伏君が、言葉の力によって抑制しようと努めたのは。外から眼に飛び込んで来る、あの誰でも知っている現実感にほかならない。生まの感覚や近くに訴えて来るような言葉づかいは極力避けられている。カメラの視覚は外を向いているが、作者の視覚は全く逆に内を向いていると言ってもよい』

『なるほど、画面に現れる人々の狂態は、日常生活では、誰にも極く普通な自然な行為である。ただ、私達は、自分の行為を眺めながら行為する事が出来ないだけの話だ。実生活の自然な傾向は行為せずに眺める事を禁じている。作者の眼は、この禁制を破る。作家は、観照の世界という全く不自然な心的態度のうちに棲むものだ』

『(嘘発見器について)この機械の利用者は、機械の性能の向上を願って止まないであろう。だが、この事は、機械がよく働けば、自分は馬鹿でも済む以上、自分の馬鹿を願って止まない事になりはしないか。』

『考えるとは、合理的に考える事だ。どうしてそんな馬鹿気た事が言いたいかというと、現代の合理主義的風潮に乗じて、物を考える人々の考え方を観察していると、どうやら能率的に考える事が、合理的に考える事だと思い違いをしているようぬい思われるからだ、当人は考えている積りだが、実は考える手間を省いている。そんな光景が到る処に見える。物を考えるとは、物を選んだら話さぬという事だ。画家が、モデルを掴んだら得心の行くまで離さぬというのと同じ事だ。だから、考えれば考えるほどわからなくなるというのも、物を合理的に究めようとする人には、極めて正常な事であるだが、これは、能率的に考えている人には異常な事だろう』

『誰も、変り者になろうとしてなれるものではないし、変り者振ったところで、世間は、直ぐそんな男を見破って了う。つまり、世間は、止むを得ず変り者であるような変り者しか決して許さない。だが、そういう巧まずして変り者であるような変り者は、世間は、はっきり許す。愛しさえする』

『変り者はエゴイストではない。社会の通念と変った言動を持つだけだ。他人がこれを許すのは、教養や観念によってではない。附き合いによってである。附き合ってみて、世人は知るのだ。自己に忠実に生きている人間を軽蔑する理由が何処にあるのか、と。そこで、世人は、体裁上、変り者という微妙な言葉を発明したのである。』

『嗅ぐという経験は確実だったが、嗅ぐという言葉は曖昧だった。それは今日とても変りはあるまい。だが、曖昧な言葉しかなければ、その経験自体前曖昧なものと見なしたがる、そういう病気は、今日の知識人の方が重くなったであろう。』

『数学に関する私達の通念にとっては意外なことだが、数というものを考えぬいたこの思想家の言うところを信ずるなら、「職業にたとえれば、数学に最も近いのは、百姓」なのである。「種子をまいて育てるのが仕事で、その独創性は、ないものから、あるものを作ることにある。数学者は、種子を選べば、あとは大きくなるのを見ているだけのことで、大きくなる力はむしろ種子の方にある」と言う。』

小林秀雄「考えるヒント」


あのひとは蜘蛛を潰せない(綾瀬まる)

「優しいですね」って言われることが、結構ある。
「◯◯さん(僕のこと)って、優しいですよね」って。
その度に、心がざわつく。そうじゃねぇんだよなぁ、と。全然違うんだよ、と。
でも同時に、まあ確かにそう見えても仕方ないよなぁ、と思わなくもないから、何も言えない。
僕のことを「優しい」というフォルダの中に入れてしまう人に、僕のことを分かってもらうのは難しい。その人にとっては、こたつの中で猫が丸くなっているみたいに、違和感のない落ち着かせ場所なんだろう。それで、安心している。猫だし、こたつだし、うん、大丈夫、と。別にそれを責めるつもりはない。僕の方にだって、そう見えるような隙があるのだし、そう見せたいという気持ちがゼロというわけでもないのだし、それは仕方ない。
仕方ないけど、でも違うんだよなぁ、そうじゃないんだよなぁ、という気持ちは、やっぱり拭えない。

『一度や二度、気まぐれに人に親切にするのは楽しい。けど、それをねだられるのが当たり前になると、だんだん面倒くさくなってくる』

この感覚は、僕にぴったりだ。もう少し説明すると、相手が自分に何も期待していない時(最初の一度や二度は、そういう状態だ)に親切にするのは、面白いしやりがいがある。でも、相手が自分に期待し始めると(ねだられる、という状態だ)、途端に嫌になる。「親切」の主体が、自分から相手に移ってしまっているような感じがする。それまでは、自分の意思で親切にしていたのに、次第に自分が、親切をするための一個の機会のように思えてくる。そうなると、しんどい。
「優しい」というフォルダに放り込まれると、端から『期待された状態』に閉じ込められることになる。それは、余計にしんどい。だから、「優しい」と言われると心がざわつくのだろうと思う。俺を、そんなところに押し込めないでくれ、と感じるのだろう。
最近自分の周りに、自分と似た人を見つけることが出来るようになってきた。それは、僕を本当に救ってくれる。昔は、自分と同じような人を見つけることは、とても難しかった。何故だろう?僕が探そうとしなかったのか。本当にいなかったのか。いたのに僕が見ていなかっただけなのか。わからないけど、自分が『普通』からはみ出していている気分は僕をささくれ立たせたし、相手と自分の言葉が『すれ違う』感じにやきもきさせられもした。
今は、言葉が通じる相手が何人かいる。素晴らしい。別に、僕のことを理解しているわけでもないだろうし、理解しようとも思っていないだろうけど、それでも、なんだかとても気楽だ。
主人公の野坂梨枝には、ずっと、言葉の通じる相手がいなかった。そしてそもそも、梨絵自身が、言葉を持っていなかった。
ドラッグストアの店長を勤める梨絵。就職して家を出た兄の代わりに家に残ろうと、地元中心で展開するドラッグストアに就職を決めた。28歳。離婚して二人の子どもを育てあげ、家のローンまで完済した完璧な母は、家での生活を完璧に保ち、娘の生き方に干渉し、そうやって長い時間を掛けて、真綿で包まれたような暖かさと窮屈さが家を支配した。
梨絵は、そこからずっと逃れられないでいた。
逃れたい、と思ったことがあるのかどうかさえ、梨絵にはちゃんとは分からなかった。
私は、頭が悪いから。

『何も不満はない。仕事は順調だし、母も落ち着いているし、実家暮らしのおかげで給料もちゃんと貯金出来ている。家に帰れば、いつも手の込んだ食事が私を待っている。私は最善の選択をした。母も、母の周りのおばさん達も、みんなそう言って誉めてくれる。』

でも、でも。

『けれど時々、子供の頃から眠り続けていることの部屋でまた目覚めなければならないことが無性に嫌になる。狭い穴の底にいる気分だ。同じ天井、同じ家具、同じ部屋の広さ。歳を重ねて同級生の誰それが結婚した、転勤した、今は海外にいて、などの話を聞くたび、少しずつ穴の深さが増していく気がする』
生まれて初めて、男の人と付き合った。

『いつかわかるわ。この世に、お母さん以上にあんたのことを考えてる人間なんていないんだから!』

8歳も年下の大学生の三葉くんは、自分とは全然違った。肌のすべやかさも、寄って立つ場所も、見ている方向も。

『他人を殴るより自分を殴った方が、文句言われねえしずっと簡単だもんな』

違う人間だからこそ見えるものがある。三葉くんの言葉は、自分がこれまで生きていた世界には満ちていなかった言葉は、次第に梨絵の中に染みこんでいく。初めは、全然理解できなかった。でもそれは、自分が閉じていたからだ。母と二人の世界に、閉じていたからだ。母が自分に覆いかぶさって、目隠しをしていたからだ。

『それなのに、どうして、私は母を許せないのだろう。』

生まれてこの方ずっと母に寄り添っていきてきた。まだ梨絵が幼い頃、弟を失った。それが遠因になって、父親とも離婚した。兄も、家を出て行った。母はずっと、かわいそうな人だった。だから、自分がいなくちゃいけない。
あるいはそれ梨絵にとっても、一種の免罪符ではなかったか?外の世界に出ていかなくてもいい言い訳にしていなかったか?母とは、ズルい共犯者だったのではないか?
離れて暮らしてみて、見えてくるものがある。男の人と付き合って、分かってくることがある。
日常は、大股で駆け抜けてしまえば、地面の凹凸に気づきにくい。でも、ゆっくり一歩ずつ前に進んでいけば、ちょっとした勾配や、ささやかなカーブにも気づけるようになるかもしれない。
梨絵は、それまで見えなかった、感じられなかった、分からなかったたくさんのものを、日常のそこかしこで見つける。ささやかな変化が、梨絵を変える。
普段と違ったような感じで感想を書こうかなと思ってこんな感じになりました。
なかなか素敵な小説でした。日常を丁寧に掬い取る作品なので、盛り上がりや起伏には欠ける物語なので、そういう激しい展開の物語が好きな人には合わないでしょうが、自転車で走り回れる範囲を舞台に、なんでもないようなはずのことが日常の悩みの大半を占めるような「手のひら感」を感じさせてくれる物語として、非常に優れているような感じがしました。
物凄くありきたりな感想だけど、「色んな人がいるよなぁ」と思いました。小説を読むのって、やっぱりそういう風に感じさせてくれるところが、僕は好きだなって思います。
生きているとどうしても、自分と考え方の近い人やメディアの話ばっかり触れてしまうきらいがある。それはそれで悪くないけど、そういう環境の中でずっと生きていると、どんどん『普通』が濁ってくると思う。自分たちがこんな風に思ってるんだから、世界の常識だってそうであるはずだ、というような歪んだ考え方に支配されてしまうように思う。そして僕は、それは怖いなと思う。
普段から僕は、自分と意見が合わない意見も切り捨てないように意識しているつもりだ。あくまで、なるべく、だけど。小説を読むのもそう。やっぱり、色んな人がいるよね、と思いたくて、きっと僕は小説を読んでいるんだろうなぁって思う。

『頭良くないってことにしておく方が、落ちつくのか。そういう人もいるんだ。』

三葉くんの在り方は、結構好きだ。本書には、丁寧に描かれる人物があまり多くはないのだけど、その中で三葉くんが一番いいキャラしてるなぁ、と思う。
こんな風に、本質をズバッと衝くようなセリフを時々吐く。それは、若さ故の傲慢さかもしれないし、無知故の不安の裏返しなのかもしれないけど、とにかく、三葉くんのものの見方は好きだ。梨絵と三葉くんが全然違うタイプで、二人が微妙にすれ違ったり、ピッタリ収まり切らなかったり、そういう些細なことが物語を少しずつ進ませていく。自転車を漕ぐと、前輪のダイナモライトが光るみたいに、それは物凄く小さくて穏やかな原動力でしかないんだけど、世界のサイズが小さく、とても小さく描かれているこの作品の中では、その穏やかさはむしろ安心感を与えてくれるのではないかと思う。
僕はあんまり小説の好みとかがなくて、何でも読むし、どんなものでも割と比較的楽しめるんだけど、本書のような「輪郭のはっきりしない小説」も結構好きだ。例えば、梨絵はどんな人かと聞かれて、はっきり答えられる人はなかなかいないのではないか。物語の展開を聞かれて、巧く説明できる人も少ないに違いない。僕はそういう作品を「輪郭がはっきりしない小説」って呼んでいるんだけど、結構好きです。たぶん、はっきりしない輪郭を読者が補う余地が残されている、っていうのがいいんだと思う。どんな価値観でその輪郭を補強するかによって、作品の受け取り方が変わる。そういうところがいいんだろうなと思う。
そういう、「輪郭のはっきりしない小説」を下支えしているのが、文章の巧さかなぁ、と思う。どこがどう、ということははっきりとは言えないのだけど、文章は巧いなと感じる。例えば、こんな文章とか好きなんだよなぁ。

『母の言う通り、私は生活まわりのことを一人でなにもしたことがない。ぜんぶ母がやってくれた。家のこと、生活のことについて、私の手足は胎児のように柔らかい。』

なんか、物事の捉え方が面白いなと感じました。
本当に、何が起こるわけでもない、なんということはない地味な展開の物語なんだけど、読まされてしまう物語だと思います。手の届く範囲の世界を、つまりそれは、手が届くが故に普段意識の外に外してしまう世界、ということだけど、そういう世界を流してしまうことなく、丁寧にすくい取り、目の前にあるけど意識の外に追いやられてしまう多くのことを文字に変換しているような感じがしました。是非読んでみてください。

綾瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない」


彼岸からの言葉(宮沢章夫)

内容に入ろうと想います。
本書は、劇作家であり、エッセイストでもある著者による、デビューエッセイの復刊です。親本は、今から23年も前に発売されたもので、そもそもは「月刊カドカワ」に連載されていたようですが、宮沢章夫にエッセイを書くよう依頼してきたのが、現在幻冬舎の社長であり、かつて角川書店の編集者だった見城徹だったそうです。そう考えてみても、なかなか時代を感じさせる作品でもあります。
本書は、タイトルからも連想できるように「言葉」についてのエッセイだと言えるでしょう。
著者は、「時々彼岸に行ってしまった人の言葉」を色々と記憶し、引き合わせ、エッセイに仕立てあげていく。自分の妻の寝言であったり、葬式における不文律であったり、お屋敷に伝わる言い伝えであったり、精神科の待合室での発言だったりと、色んなところから言葉を拾い集めては、それらの「おかしみ」を客観的に綴っていく。
事前に仕入れた知識で期待感が高まっていたというのもあるのかもしれないけど、僕としては、そこまで面白いと思える作品ではなかった。決してつまらないわけではない。僕はそもそも、「変な言葉」みたいなものは好きだったりするので、本書のテーマである「彼岸からの言葉」そのものは色々と実に興味深く読んだ。しかし、「爆笑させられる」というようなタイプの作品ではないのではないか、と思う。なんというか、さざ波のように振動が伝わってくるような、そういう静かな鳴動ではないかと僕は思う。あたかも、著者自身が「彼岸」への案内人であるかのように、読者の手をそっととって「彼岸」へと連れて行こうとする者であるかのように、あれ?いつの間にかこんなところにいるんだろう?と不思議に思わされてしまうような、そういう「静かさ」みたいなものが本書の魅力なのであって、爆笑だとか抱腹絶倒だとかいう評価は的外れではないかなぁ、という印象を抱いた。
しかし、そもそもの人間観察力が優れているのだろう。普通には見過ごしてしまうような「彼岸からの言葉」に著者はよく出くわす。もちろん、劇作家という仕事の特殊性ゆえに、周囲に変わった人が多い、ということもあるのかもしれない。けれどやはりそれに加えて、人とはちょっと違った視点で常に物事を見ているというような在り方がなければ、これほど多くの言葉を採集することは出来なかっただろうと思う。
加えて僕が関心したのは、類似の例を引き出しから用意することが出来る、という点だ。
ある変わった「彼岸からの言葉」について語ることはそれほど困難ではないかもしれない。自分がたまたまそういう場面に出くわせば、こういうことがあった、という話が出来ることだろう。しかしさらにそれに被せるようにして、「こんな似たようなことがあった」「かつてこんなことに遭遇した」と繋げることは、かなり難易度が高いと思う。そのためには、引き出しの奥に、それこそ無数の、山ほどの「言葉」をストックしておかなければ、そしてそれを常時取り出せるようにしておかなければ、絶対に出来ないだろうと思う。僕が一番感心した点は、まさにそれだ。そういう意味でこのエッセイは、なかなか凄いなと感じさせられた。
全体的には、つまらなくはない、という感じの評価です。

宮沢章夫「彼岸からの言葉」


狭小住宅(新庄耕)

内容に入ろうと思います。
良いところの大学を卒業して、就職した先が、超ブラック不動産販売会社。休みはなし(表向き水曜日が休みということにはなっているが)。営業の基本である「案内」が取れないと罵詈雑言を浴びせられ、時には手も出る。ちょっとしたミスも許されず、上司がいる場では私語はまったく出来ない。売り上げが上げられなければ圧力をかけられて辞めさせられてしまう。そうでなくても人の入れ替わりの激しい業界。いつの間にか社員がいなくなっている、なんていうのは日常茶飯事だ。
そんな会社で若尾(僕)は、まったく成績を上げられないでいる。針のむしろの上にいるような状態で、常に胃がキリキリしたままで、それでもどうにか仕事にしがみついている。
大体は、ペンシルハウスを売るのが仕事だ。細長い外観から、そんな名前がつけられている。それでも、高級住宅街にあるペンシルハウスは、四千万円とか六千万円とかする。そういうペンシルハウスをいかに客に買わせるか。「客を殺せ!」と檄が飛ばされる職場で、せめて「案内」だけでも取り付けようと必死で電話を掛けたり、該当で「サンドイッチマン」をしたりする。
大学時代の気の置けない友人と久々に飲んだり、酒場で出会った女性と仲良くなっていったり、相変わらず上司にいびられたりと、めまぐるしい生活の中で、若尾は、自分の仕事のことを、働くということを、人生を時折考える。
というような話です。
なんとなく勝手にイメージしていた内容と全然違っていて、そういう自分のイメージと違っていたなぁ、という意味であんまり面白く思えない作品でした。本書は、結構リアルに狭小住宅を売る話なんだけど、僕はなんとなく、「狭小住宅を売るという中で、なんとなくファンタジックな(あるいはシュール)な展開になってしまう」的な話なのかなって勝手に思っていたりしたのでした。わかる人には伝わると思うけど、イメージとしては森博嗣の「銀河不動産の超越」です。そうか、今それを書いてて思い出したけど、「銀河不動産の超越」も不動産会社の話か。それで連想したのもあったのかなぁ。
読んで思ったのは、物語に対して分量が少ないような気がする。大学時代の友人と会ったり、親しくなる女性との関係があったり、上司とのやり取りがあったり、客とのやり取りがあったりと、方向性が色んなところに伸びているのに、全体の分量がちと短すぎるような気がした。特に根拠はないけど、この1.5倍ぐらいは分量があってもいいんじゃないかなぁ、という物語に感じられました。詳しく知らないけど、本書が受賞した「すばる文学賞」ってのは、枚数制限が結構短めなのかな?まあそれなら仕方ないのかもだけど、もうちょっと書いて全体的にどの方向も深めて欲しかったなぁ、という感じはありました。
決してつまらない作品だとは思っていないんだけど、特に面白くもないなぁ、というのが素直な印象でした。
ところどころ、これは面白いなと思える場面はあります。面白い、というか、印象的だった場面、ということですね。
まずは、主人公がどうして今の仕事を辞めないのか、について考えた時の述懐。

『だが、辞めようと辞めようと思いつつも、どういうわけか今日までつづいている。辞めようとすることで降りかかる諸々の面倒がひとつのブレーキにはなっていた。あるいは何をすべきかわからないまま辞めたところで、畢竟、似たような状況に陥ってしまうといった予感も手伝っているのかもしれない』

これはなんか凄く分かる感じがしました。僕も、自分で自分の状況を変えるのが苦手だったりして、なかなか腰が重いです。変化を決断することで起こる様々な事柄を面倒だと感じてしまうが故に、辛い状況に甘んじてしまうという感覚は、なんか凄く分かるなと思いました。
次は、不動産販売会社の社長が営業マンにハッパを掛ける場面。

『お前らは営業なんだ、売る以外に存在する意味なんかねぇんだっ!売れ、売って数字で事故表現しろっ!いいじゃねぇかよっ、わかりやすいじゃねぇかよ、こんなわかりやすく自分を表現できるなんて幸せじゃねぇかよ、他の部署見てみろ、経理の奴らは事故表現できねぇんだ、可哀そうだろ、可哀そうじゃねぇかよ。売るだけだ、売るだけでお前らは認められるんだっ、こんなわけのわからねぇ世の中でこんなにわかりやすいやり方で認められるなんて幸せじゃねぇかよ、最高に幸せじゃねぇかよ』

はっきり言って、言ってることは無茶苦茶だなと思うんだけど、勢いとテンションで、なんとなくそうなのかもしれないと思わされてしまいそうです。実際この会議の場にいたら、その雰囲気に流されて、よく考えもせず、あぁそうか俺って幸せなのか、とか思っちゃいそうな気がしました。
あと、色んな形で、ペンシルハウスをどう売るかっていう話が出てくるんだけど、こういう家の売り方みたいな部分は結構興味深いなと思いました。どう客を焦らせるか、どう客に条件を諦めさせるか、どう客にこちらが売りたいと思っているものを買わせるのか。そういう手腕が結構細かく描かれていて、家を買うってのも怖いなぁって思ったし、ここまでやらないといけないのかとちょっと驚かされました。
個人的には、甘い考えなのかもしれないけど、仕事っていうのは、「(自分も含めた)誰か他人を幸せにする行為」だと思いたいんだけど、本書で描かれる「住宅販売」の仕事は、時にお客さんを不幸にすることもあるだろうし、売っている方はしんどすぎてやはり幸せとは言えないのではないか。僕は割と楽しく仕事をやっているんで、こういう辛い環境で仕事をするということがイマイチ想像出来ないんだけど、もうちょっと世の中どうにかなるんじゃないかなぁ、と思ったりします。
強くはオススメしない作品です。決してつまらない作品ではありませんが。
ちなみにどうでもいい情報だけど、著者とは同い年であるようだ。

新庄耕「狭小住宅」


夢を売る男(百田尚樹)

内容に入ろうと思います。
舞台は、丸栄社という出版社。主人公は、牛河原という編集者。彼が行なっているのは、「自費出版ビジネス」だ。
「ジョイント・プレス」という名で、著者からもらったお金で本を刷り、書店に配本し、利益を上げるビジネスをやっている。
何故わざわざ書き手は、自分がお金を出してまで本を出そうとするのか。
牛河原の巧妙な説明に誘導されている部分もある。これは詐欺に近いはずだが、牛河原は、「出版には数百万円の費用が掛かる」と伝え、「その費用をすべて出版社で負担するのは厳しい」と言い、「著者がある程度負担してくれるのならば出版が可能だ」というような持って行き方をする。もちろん、書き手のタイプによって様々にテクニックを変えるのだが、「出版費用を折半しているのだ」と書き手に思わせる巧みな話術を駆使している。
しかし、実は出版費用はそこまで掛からない。500万円掛かると伝え、著者に200万円も出させればぼろ儲け、という感じなのだ。
そういう詐欺的な手法に乗せられている部分もあるのだけど、それ以上に、多くの国民に「表現したい」という自己顕示欲がある、という点が大きい。
丸栄社を創業した社長はそれを見抜き、濡れ手で粟の恐ろしいビジネスを作り上げた。なにせ、本が一冊も売れなくても利益が出るのだ本書には、こんな名言がある。

『仙人の読者を集めるよりも一人の著者を見つける方がずっと楽だ』

本書では、自分には溢れんばかりの才能があると信じながら特に何をするわけでもなくフリーターをしている男、自分の子供への教育に自信を持ち周囲のママ友達を軽蔑している主婦、退職しこれまでの我が道を綴った自分史がベストセラーになるはずと信じている団塊世代の退職者などが、牛河原の口車に乗せられて金を出し、売れるわけもない本が出版されていく過程が描かれていく。
「自費出版ビジネス」という特集な出版の世界を描きつつ、皮肉と自虐と諧謔を織り交ぜて出版業界すべてを風刺する、著者の問題作!
これは面白い!本書の内容をざっと知った段階でこれは問題作だろうなと思っていたけど、読んでさらにその気持を強くしました。これはホント、百田尚樹にしか書けない作品かもしれないなぁ。なにせ、日本の小説家すべてを敵に回すような作品ですからね。
本書では、「自費出版ビジネス」について描きつつ、一般の小説家について言及している描写もかなりある。これがかなり辛辣なのだ。小説家が読めば、穏やかではいられないだろう内容ばかりだ。

『それを言うならプロの作家の方が滑稽だ。一部の人気作家を覗いて、大半の作家がほとんど読まれもしない小説をせっせと書いている。特に純文学作家は悲惨の一語だ。しかし本人は読まれるべき芸術作品だと信じて書いている。プロ野球の最下位争いをしているチームの消化試合の観客以下にしか読まれていないのに、だ』

『売れない作家にちゃんとした大人なんてまずいない。たいていが大人になりきれなかった出来損ないのガキみたいな連中だ。才能もないのに作家でございとプライドと要求だけは高くて、始末に負えない。売れない本ばかり出しやがって、出版社は赤字を出して頭を抱えているのに、奴らはそんなことは気にもせずに、売れないのは出版社が宣伝をしてくれないからだ、営業が力を入れないからだ、などと抜かしやがる』

相当に辛辣だ。しかし作中で、著者自身の自虐めいた描写もあって、さすがにその辺りバランスは取られている。
確かに、本が読まれていないというのは事実だろうと思う。本を売る現場にずっといる人間からすると、それは相当深刻なレベルに感じられる。どんどん売れなくなってきている、という感じだ。

『今はテレビもDVDもあるし、TVゲームもあるし、ソーシャルゲームとかいうのもある。インターネットには様々なサイトがある。それこそ無数にある。自分の趣味と嗜好に合うサイトやページは必ずある。同じ本でも、マンガも雑誌も昔と比べて、ニーズが恐ろしく細分化している。
そんな中で千五百円とか千八百円とか出して読む価値のある小説がどれだけある?テレビをつけたら、小説よりもずっと面白い番組が二十四時間いつでもやっている。ハリウッドが何百万ドルもかけて作った映画が無料で見られるんだ。好みのアイドルやスターがばんばん出てくる歌謡番組が無料で見られるんだ。旬のお笑いタレントが面白おかしいことを言って笑わせてくれるバラエティーが無料で見られるんだ。そんな時代に高い金出して、映像も音楽もない「字」しか書いていない本を誰が買う?』

これは、僕も常に意識している。僕は本と関わる業界にいるから、やっぱり周りに本を読む人間は多い。でもそれは、例外的な存在だと常に意識している。電車に乗ってもスマホを見ている人ばっかりだし、バイトの休憩中もテレビの話で盛り上がっている。別にそれを悪く言うつもりはまったくない。それぞれが面白いと思うものが違うんだから、当然の結果だ。世の中に、とにかくコンテンツが多すぎる。そんな中で、わざわざ「本」を選んでもらうというのは、本当に難しい。
作中で、牛河原に騙されるフリーターが、出版業界をこう評する場面がある。

『若者にそっぽを向かれた文化には未来なんてない。昔から文かは若者が作ってきたんですからね』

どこに書かれていたのか見失ってしまったけど、作中には、「金の集まらないところには、才能も集まらない」というような文章もあった。なかなか辛辣だが、確かに出版業界を客観的に眺めると、そういうことになるのかもしれない。僕は本を読むのが好きだし、これからも読んでいくだろうけど、書店で働いている限り、どうやって本を読む人口を増やすかというのは考え続けなくちゃいけないと思う。本をずっと読んできた人間からすると、まだ出版という文化に未来はあると思いたいし、才能がある人間が集まる場であって欲しいと思う。頑張らないと。
しかし、本を出したいと思う人間は、一旦書店で働いてみると良いと思う。日々どれだけ大量の本が入荷し、日々どれだけ大量の本が売り場から消えていくのか、よく理解できるだろうと思う。どれだけ本が売れないのか、というのも体感できるはずだ。
本書のストーリーのメインは、「自費出版ビジネス」を仕掛ける側とそれに嵌められる側のやり取りなんだけど、本当にこれは面白いと思う。っていうかマジで、この「自費出版ビジネス」を考えた人は天才だなと思う。なんせ、「一冊も本が売れなくても利益が出る」し、「客にお金を出させているのに感謝される」のだから。もちろん、あくどいことをやっている、阿漕な商売だ。でも、出版社の側が幻想を頑丈に作り上げ、お金を出してくれる客にその幻想を崩さずに見せ続けるのであれば、ある意味で人助けと言えるのかもしれないと思う。出版に関する誤った情報を故意に伝える点では詐欺であることに間違いないと思うのだけど、幻想が崩れることがないならば、結果的には高い満足度を与えられるのかもしれない、とも思う。
本書にはこんな表現さえある。

『この商売は一種のカウンセリングの役目も果たしているんだよ』

占いに大金をつぎ込んで安心感を得るのに近いかもしれない。占いだって、あることないこと言ってある意味で騙しているみたいなものだけど、それでお金を払った側が満足を得られるなら良し、とされているはずだ。自費出版ビジネスも似たようなもので、「本が出版され、全国の書店に並んでいる」という幻想を与えることで、お金を出した側が満足を得られるという仕組みになっている。牛河原はその手腕が恐ろしく高いわけなんだけど、とにかくそうやって、幻想を打ち崩さないだけの努力をしているのであれば、一概に責め立てることは難しいのかもしれないなぁ、と思わなくもない。
まあ個人的にはやっぱり、自費出版ビジネスは嫌いだな、と思いますけどね。
本書では、牛河原がことある毎に、部下に対して自費出版ビジネスの旨味について語る場面が描かれるのだけど、本当によく出来たビジネスだなと感じさせられます。日本の「本を読むこと」の価値観の高さ、出版に関する知識の薄さ、夢の印税生活という虚像を脳内に植えつける手腕。それらを実に巧く組み合わせて、著者に幻想を与え、金を出させる。

『大手なら、二、三十冊に一冊はヒットを飛ばさないと苦しいが、うちは三千冊に一冊ヒットが出れば充分すぎるくらいだ』

今出版業界はどこも厳しいはずで、そんな状況だからこそなおさら「売れなくても利益が出る」というビジネスモデルの凄さを感じさせられる。
それにしてもやっぱり、

『他人の作品は読みたいとは思わないが、自分の作品は読んでもらいたくて仕方がない』

という現状は不思議だなと思うし、歪だなとも思う。僕自身もこんなブログを書いているぐらいだから、本書で散々ボロクソに書かれている「表現したい側」の人間なわけなんだけど(笑)、僕の場合は「他人の作品は読みたいとは思わない」という部分がないだけまだマシだろうとは思う。というか、本に限らず映画でも数学の問題でもなんでもいいんだけど、「他人の作品に触れないと書くことは特にない」人間なんで、そういう意味でちょっと違う人種だと思いたいところです(笑)
最後の方では、読まれてもいないブログをメッチャ更新しているブロガーがターゲットになったりとかするんだけど、その件とか、自分のことを言われているみたいでグサグサきました(笑)。とある書評ブログの管理人に連絡を取って、出版しませんか、みたいな連絡を取る場面があるんだけど、僕も、もし書店で働いていない状態でそんな連絡が来たら、舞い上がってしまうかもしれないなぁ、なんて思ったりしまいた(笑)。まあさすがに今はそんなことにはならないと思うけど、気をつけないといけないなぁ、と思いました。
「本」に関わるありとあらゆる人をボロクソに貶す作品で、読む人によっては怒りを感じることでしょう。でも、本書で書かれているすべてのことに賛同するわけではないけど、客観的に出版業界というものを眺めれば、本書に書かれてることは相当的を射ているのだろうという感覚はあります。僕には、「出版という文化を残さないと」なんていう高尚な気持ちは特にありません。でも、やっぱり、「自分が面白いと思った作品をそれを面白いと思ってもらえる人のところに届けたい」という気持ちはずっとあります。その気持がある内は、可能な限り書店で働き続けるでしょうし、ブログも続けるんだろうなと思います。ベストセラー作家が、出版業界をメッタ斬りにする超問題作です。明らかに実在するモデルがはっきりとわかるものがたくさん出てきて、自費出版ビジネスについて詳しく知らなかった僕としてはなかなか衝撃的な作品でした。僕はあまり、「普段あまり本を読まない人にオススメです」なんていう表現をするのは嫌いなんだけど(なんとなく、本も読者も馬鹿にしている感がありますよね、その表現)、本書にはその表現を使いましょう。それは、「こんな自費出版ビジネスに騙されないようにするために」という意味でです。是非読んでみてください。

百田尚樹「夢を売る男」


眼球堂の殺人(周木律)

内容に入ろうと思います。
本書は、メフィスト賞を受賞した新人のデビュー作です。
十和田只人という天才数学者がいる。彼は非常に変わった男で、若くして数学上の難問に解答を与えたのだが、その後失踪。やがて彼は、ほとんど物を持たないまま世界中を放浪し、行く先々で様々な数学者と共同研究をしている、ということが明らかになった。定住先を持たず、また私有財産を煩わしいと感じる十和田は立派な変人だが、社会性がないというわけでもない。
そんな十和田を追い掛け回しているルポライターがいる。陸奥藍子である。ルポライターの端くれとして色んな仕事をこなしながら、同時に、世界中を放浪し続ける十和田にくっついて回っている奇特な女性だ。彼女は、十和田に関するノンフィクションを出版することを目標にしているのだ。
ある日、定住先を持たない十和田の元に、まるでそこにいることを知っているかのように招待状が届く。送り主は、世界的な建築家として知られる驫木煬である。驫木は、非常に優れた建築家なのだが、その一方であらゆる学問の頂点には建築学が聳え立つのだ、という持論を持ち続け、あらゆる人間に議論や喧嘩を吹っかける変人でもあった。その、建築学優位の思想はいっそ病的なほどだが、類まれな才能の前ではなかなか事を荒立てることが出来ない、というのが多くの人の本音だ。
驫木は十和田を、私財の大半をなげうって建設した屋敷に招待したい、ということのようだった。
基本的に人との関わりを強く望むわけではない十和田は、しかしその招待を簡単に受ける。十和田の目的は驫木ではなく、驫木の子供だと言われている天才数学者・善知鳥神である。行けば善知鳥神と共同研究が出来るのではないかと期待して、日本への帰国を決断したのだった。そして藍子も、招待されているわけでもないのに屋敷に押しかける決意をし、山奥にある驫木の屋敷を訪れたのだった。
それは実に奇妙な建物だった。
出入口は一つだけ。明暗がくっきりと別れる円形の回廊と、鍵はないが二重扉になっている各部屋の扉。吹き抜けの先にそびえ立つ様々な形をした塔。奇っ怪な意匠を凝らした幻惑的な空間に戸惑う二人。
「眼球堂」と名付けられたその屋敷に招待されたのは、世界中から集められた天才たちだった。精神医学者の深浦征二、世界的に注目される美人画家である三沢雪、ノーベル賞を受賞した物理学者である南部耕一郎、辣腕を振るう政治家である黒石克彦。あとは、眼球堂の使用人である平川正之と、建築雑誌の編集をしている造道静香である。
驫木による挑発的な議論が繰り広げられ、そこで驫木と南部が舌鋒鋭くやり合う。やはり噂通り、建築学以外の学問を隷属しているかのような主張を繰り広げていく。驫木が食堂からいなくなるや、残った面々は、自分たちがどうしてこの屋敷に呼ばれることになったのか、ささやかに議論を交わす。
翌日…。
というような話です。
これは実に見事な作品でした!本格ミステリとか、本当に久々に読んだ気がするけど、この作品は非常にレベルが高いな、と感じました。まあ、本格ミステリファンってのは、僕なんかより遥かに本格ミステリを読んでいるわけで、そういう人がどう感じるのかはわからないのだけど、僕ぐらいの、本格ミステリそこそこ読んでる(読んでた)人には、相当面白く読めるんじゃないかなと思います。
こういう表現が正しいのかわからないけど、古き良き本格ミステリ、という感じがします。警察が来られない環境の中で殺人事件が起こり、そこで推理が繰り広げられる。さらに本書は、いわゆる<館もの>という作品で、特殊な構造を持つ建物を舞台にしています。その屋敷に天才たちが集められるというのも、様式を踏まえているなぁ、という感じがしますね。
本格ミステリは人間を描けていないことが多い、なんていう話がよくあって、まあ確かにそう感じることもあったりするんですけど、本書はキャラクターも非常に面白いし、きちんと描かれているなという感じがしました。展開も謎もキャラクターも、全体的に非常にレベルが高くて、これが新人のデビュー作っていうのはなかなか凄いなぁ、と思いました。
とりあえず、謎やトリックの部分に関してはやっぱりほとんど触れられないので、さらっと書きます。トリック的なものは非常に面白いと思ったし、よく考えたなと思いました。本格ミステリの世界では確か、<物理トリック>(その反対は、<心理トリック>かな)はもうほとんど出尽くされてしまっているだろう、なんて考えられていると思います。例えば、『密室にする』という手法についても、過去連綿と様々なアイデアが生み出され、分類され、なかなか新しいトリックを生み出すことは難しくなっていると思います。
そんな状況の中で、敢えて<物理トリック>で挑戦しているというのが素晴らしいと思いました(館モノでかつ建築家が物語の中心にいるから、<物理トリック>だ、ってことぐらいは言ってもいいよね)。
トリックそのものの壮大さは圧巻だし、「眼球堂」という設定を隅々まで巧く使っているのではないかな、という感じがしました。まあちょっと個人的には、「眼球堂」というのが【人を殺す目的で作られた建物だ】という点が残念かなと思いましたけどね。そういう設定にしちゃったら、割と何でも出来ちゃうかな、みたいに思ったりはしました。もちろん別に、何でも、は出来ないんだけど、可能なんであれば、殺人とは別の目的があって作られた機能を、巧いこと殺人に利用したんだ、的な設定の方がベストだっただろうなぁと思いました。まあ、相当難しいでしょうけどね。
あと、最後まで読んだ人はこの文章をきっと理解してもらえると思うんだけど、【あの処理】が素晴らしいと僕は感じました。【あの処理】は、巧くやらないとアンフェアになってしまうと思うんだけど、本書の中では、なかなかアクロバティックな手法(先例があるのかどうかは知らない)でアンフェアになることを回避してて、狙っていたのかたまたまなのかは分からないけど、これは本当に巧く処理したな、と個人的には思いました。
というわけで、謎とかトリック的なことを書いてみました。
本書が素敵なのは、謎とかトリック的なことだけではありません。
まず、登場人物たちがする議論や会話が非常に面白い。
天才ばかりが集められている、という設定を考えても、その天才をうまく描くことができない作品っていうのもあると思うんだけど、この作品ではなかなか巧く描けていると思います。というか、著者が博識だなぁ、っていう感じですね。数学だけではなくて、集められた天才たちのそれぞれの学問分野について、高度(に見える)議論を展開させられるだけの素養を著者が持っているのだなと感じました。
例えば僕は、こんな文章に感心させられたりするんですね。

『まったく畑違いにも思える画家と心理学者だが、人の心に浮かび上がるものを扱うという点では、興味の対象は一致しているとも言える。方や心象の作り手、方や心象の解き手であり、相性が良いのだ。』

画家を「心象の作り手」、心理学者を「心象の解き手」と表現して対比させる、っていうのが巧いなと思ったのでした。本書にはそういう、著者が博識なんだろうなと思わせる描写が結構あって(とはいえ、それがストーリーの中で浮いている、著者の自慢の垂れ流しになっている、というのではなく、作品にうまく馴染んでいると思うんですけど)、僕は結構好きでした。
本作中ではやはり、建築学の優位性を巡る議論が一番激しいでしょう。

『建築学とは実に深遠な学問だ。思想、工学、芸術のすべてを人々の実用に供することを前提としている。だからこそ建築は他に比して一つ抜きん出た多様性と進歩性を有するのだ』

これは驫木の言葉だけど、彼は心の底から本当に建築学の優位性を信じている。そしてそれは、作品の中で重要な要素として立ち現れることになるんだけど、個人的にはやっぱり、建築学に優位性があるという主張には、ちと頷けないものがあるなと思いました。
僕の主張としては、あらゆる学問は確かに「人間」が行なうものだけど、「人間」の存在がなくなれば世界に存在する必然性が消えてしまうものに優位性があると思えないのですね。芸術や建築はまさにそういうタイプでしょう。人間がいるからこそ、それらは存在価値を持つ。でも、例えば物理であれば、人間がいようがいまいが天体は回転し続けるし、どこから水が氷に変化する。そういう風に捉えて僕は、人間の存在がなくなれば世界に存在する必然性が消えてしまう建築学の優位性を否定したいと思います。
とはいえ、読んでいればわかるけど、著者が建築学の優位性を信じているわけではないと思うんですね。議論は、やっぱり結構無理矢理かなっていう気はしました。まあそりゃあそうでしょう。あらゆる学問において、建築学が最上であるという主張は、やっぱりちょっと無理がありそうですしね。
数学者である十和田がメインで描かれているために、数学の話がちょくちょく出てくるんだけど、数学の話はやっぱり面白いです。僕としては元々知っている話が多いわけなんだけど、でも、「なるほど、この場面でその数学の話を持ってきますか!」というような感動がある。まさか殺人事件の謎解きの過程で、「エウクレイデスの五つの公理」の話を絡めてくるとはとか、遠目からではある情報を判断できない状況に対して、「詩人と物理学者と数学者」っていう有名な話を持ちだしてくるとか、そういう、ストーリーと無関係に数学を絡めてくるんではなくて、ストーリーの中に巧く収まるように数学の話が持ちだされてくるのが巧いなと思いました。様々な分野に博識ではあるけど、特に数学が好きな著者なのかな、と思いました。
あと、本書を読み始めてすぐに、ちょっとニヤニヤしてしまいました。それは、読み始めてすぐに、あぁ十和田のモデルはエルデシュなのか、と分かったからです。
本書の参考文献の一つに、「放浪の天才数学者エルデシュ」っていう本が載ってるんだけど、まさにこのエルデシュこそが、定住先を持たず、世界中を放浪し、世界中の数学者と共同研究をして膨大な業績を残した数学者なのです。ぼくも「放浪の天才数学者エルデシュ」って本を読んでたので、読み始めてすぐに解りました。まさかエルデシュをモチーフにした登場人物が出てくるなんてと、ちょっと面白かったです。
謎解きやトリックの部分にはほとんど触れられないので、いつも本格ミステリ作品の魅力を文章で伝えることには苦労させられますけど、本書は謎やトリックだけではなく、天才たちによる議論や、数学の奥深い話なんかがかなり面白く描かれている作品です。クローズドサークル内に天才たちが集められる、という設定は、西尾維新のデビュー作(これもメフィスト賞受賞作ですね)「クビキリサイクル」と近いですけど、大分違う印象を受ける作品です。「クビキリサイクル」では、天才を「理解不可能な存在」として描くけど、本書では「理解可能な範囲に留まってくれている存在」として描かれている感じがしました。本格ミステリ作品を久々に読みましたけど、久々に読んだ作品が大当たりで素晴らしいと思いました。実にクラシカルな、古き良き本格ミステリという感じがしますけど、作品自体が古臭いとかそういうわけではありません。是非読んでみてください。

周木律「眼球堂の殺人」


プロメテウスの罠4 徹底究明!福島原発事故の裏側(朝日新聞特別報道部)

想像力は及ばない。
読めば読むほどにそう思わされる。
「わかった気になる」ことの恐ろしさを感じさせられる。
知れば知るほど、「知らなかったこと」が増えていく。
僕たちは、全然何も知らない。そのことを忘れちゃいけない。
朝日新聞紙上で現在も連載が続いている「プロメテウスの罠」の書籍化第四弾です。

『朝日新聞の朝刊3面を定位置に、「プロメテウスの罠」は3月で500回を超えた。(中略)500回を数えながら、しかしやり尽くしたという感覚はない。惚れば掘るほど知らなかった事実が出てくるからだ。福島の被災者のありさまも変わっていない。』

もしかしたら毎回同じことを書いているかもしれないけれども、それでも毎回書く。
本書に限らずだけれども、原発・震災に関する本は、「何があったのかを知る」ために読むのではないと僕は思う。もちろん、そういう動機があってもいい。ただ、知ったところで何が出来るわけでもない。何かは出来るかもしれないけど、出来る人は既にもう動いているだろうし、出来ない人は読んだところで動けないだろう。だから、何が起こったかを知った上で、その事実を知ったということを、被害に遭った人を手助けするモチベーションにするというのは、なかなかないのではないかと思う。
ただ、自分を救うモチベーションにはなるだろう。
僕は、原発・震災に関する本は、自分を救うために読むのだと思っている。これからの自分の行動・決断の指針とするために読むのだと思う。東日本大震災以前にも、震災時の行動を指南したような本はそれこそ山ほど出版されていただろう。
しかし、それらを読んでいてもどうしようもない出来事が起こりうるということを、僕らはもう知ってしまった。少なくともこれからは、地震によって「原発が破壊される可能性がある」という前提で行動していかなくてはいけない。そういう実用書は、まだまだ多くはないだろうと思う。
それに、冒頭でも書いたけど、やはり人間の想像力には限界がある。思いもしなかったことが、山のように現れる。そうか、そんなことが起こりうるのかと何度も思わされた。
「プロメテウスの罠」は、少数の人たちにも目を向けた連載だ。「おわりに」にこんな文章がある。

『「プロメテウスの罠」は、少数の人たちにも目を向けようと努めている。たとえば飯舘村長泥の世帯数は74にすぎない。しかしいかに少数であれ、いや少数だからこそ、目を向ける必要がある。マスメディアが目を向けなければ、彼らの言葉を聞き出さねば、彼らの存在自体がないことにされかねないと思っている。
東京電力を再建するとき、最も邪魔になるのは被災者への賠償ではないだろうか、遠からず国や県、市町村が「もう除染は終わった。大丈夫だから戻れ」と被災者に号令をかけるだろう。そのときに最も邪魔になるのは不安を感じる被災者の意識かもしれない。彼らさえ切り捨てれば、彼らの思いさえ無視すれば、と考える者もいるのではないだろうか』

本書の中に既に、それに近い兆候が描かれていると僕は思う。
福島市双葉郡内に中間貯蔵施設を作る案が浮かび、環境相の細野豪志が双葉郡内の首長たちに打診しにきたことがあった。その時、双葉郡内にある双葉町の町長は、こう思う。

『おまえの町はもう汚染されてしまった、だから中間貯蔵施設を引き受けてもいいのではないか。政府はそういおうとしているのだ。
除染で生じる土壌をもてあました自治体の住民たちはそのうち、中間貯蔵施設を受け入れない自分たちを非難するようになるだろう。そんな酷な状況に政府が追い込むなんで、それはないだろう―』

そしてやはり、状況は町長の推測通りに進んでいく。

『そのころ、県内の市町村では、除染で出た土や放射性物質を含む廃棄物が仮置き場にうずたかく積まれ、ブルーシートに覆われた光景があちこちで見られるようになっていた。
中間貯蔵施設の設置が決まらなければ、除染作業が滞り、復興が遅れてしまう。どうして3町は調査を受け入れないのか―。
そんな声が福島県内であがるようになった。それは、細野が頭を下げた日、井戸川が予想したとおりの展開だった』

恐ろしいことに、同じ被災者同士であっても、こんな軋轢が既に生まれてしまっている。それぞれ事情は違うとはいえ、被災者としての立場は同じはずだ。それなのに、中間貯蔵施設の調査を受け入れない町を、同じ福島県民が責め立ててしまう。
いや、別に福島県民を責めているつもりはない。それは、そういう状況に追い込んだ者(広く捉えて、国民全員、ということだけど)の責任だ。しかし、責任がどこにあろうと、現実に被害を被るのは現地の人だ。こんな現状は本当に辛いと思う。
同じ被災者同士でも、そうなってしまう。であれば、「おわりに」で記者が書き綴った懸念は、恐らく現実のものとなってしまうのだろう。
同じく「おわりに」には、こう書かれている。

『原発があってこそ安い電気が使えるではないか、と主張する人がいる。日本国民のほとんどが電気なしでは暮らせない生活を送る現実もある。しかし反面、原発によって不幸になった人がいる。今も避難生活を強いられている人たちがいる。あとあとまで不安に悩む人がいる。子や孫の行く末を心配して涙を流す人がいる。
大事なのは、そのような人たちの存在を忘れないことだと思う』

少数の意見を切り捨てないこと。どんな意見も「存在した」という事実を残しておくこと。忘れないこと。誰もが、被災者の声を直接聞きに行けるわけではない。でも、聞き出された言葉を忘れないでいることは、誰もが出来るのではないか。初めの方で僕は、自分のために原発・震災の本を読むのだ、と書いた。そしてやはり、覚えていくために、忘れないためにも読もう、という意識も常にある。
冒頭で僕は、「想像力は及ばない」と書いた。本書を読んでいて、なるほどそんなことまったく考えたことなかったというような、平和な日常の延長線上には浮かび上がらないだろう出来事がたくさんあった。まずはそれらを抜き出してみたい。

『そんな活動(避難所に行くことが出来ない障害者らの世話)で最大の障害になったのが、個人情報の問題だった。
どこに誰がいるのか、どこに避難したのか。市は「いえません」。(中略)
「混乱の中では個人情報保護なんていっていられないはずなのに。命にかかわることだってあると思う。」』

『原町区の八巻江津子(55)は、「放射能、という意味がしばらく分かりませんでした」という。「放射能」という手話の表現を知る機会がなかったのだ。(中略)
「聴覚障害者は、見た目は健常者と変わらない。大変さを理解されないのです」』

『(飯舘村村長の訴え)避難生活が長引けば、避難先に住民票を移す住民が出てくるだろう。それでは飯舘村と切れてしまう。村に住民票を置いたまま、避難先で行政サービスを受け、帰村の日を待つことができる制度をつくって欲しい』

『「なごみ」がオープンした当初、熊谷は驚いた。仮説のお年寄りがまず買い求めたのがカップ麺だったからだ。料理をまったく苦にしなかった人たちが、料理をたくさんつくって周りの人に配っていたような人たちが、カップ麺に手を伸ばす。熊谷にとっては衝撃的な光景だった。
「60代、70代の人たちがカップ麺をまとめ買いしていくんだよ。見ているうち、涙が出てきて…」
避難後、食生活は大きく変化していた。
「みんな、火を使うことを極端に恐れているんです。火を出したらよその家まで焼いてしまう。迷惑をかけたら大変だ、と。カップ麺なら電気ポットでつくれますから。」』

『缶詰やレトルト品もよく売れる。それで食事は楽しいのだろうか。せめて温かい惣菜を出したい。しかし規制が厳しく、仮設の店舗では調理ができない。非常時なのに、なぜしゃくし定規なのかと熊谷は憤る。
「どうお願いしてもだめ。最も大きな理由は、『仮設だから』です。最低限の設備さえあれば、温かいお惣菜を出すことができる。そうするのが公的な機関の役割だと思うんですが、従来のルールでしか対応してくれません。」』

『みずえが知っているだけで、5、6人がここで亡くなった。お年寄りがメダル。浪江にいたときは畑仕事に歩き回って元気だったのに、仮設暮らしで体調を崩した』

『(日本唯一のパラシュート部隊の大隊長・赤羽に対して)「隊員には空から原発に向かって降下しながら、核分裂を抑えるためのホウ酸をまいてもらうことだって、今後あるかもしれないんだ」
赤羽は息をのんだ。まさか、特攻もあるということか―。』

僕は特に、カップ麺の話にグッときた。これは、なかなか人間の想像力だけではたどり着けない現実ではないだろうか。温かいものを食べたい。でも、火を使って火事を起こしてしまったら隣の家まで焼いてしまうかもしれない。そういう気遣いが、70代のお年寄りにカップ麺を買わせる。やりきれないなと思う。
また最後の特攻の話は、衝撃的だった。「死の淵を見た男」を読んで、吉田所長を初めとした東京電力の面々が、死を覚悟して現場に残り食い止めたという話を読んだ。物凄い話だったし、壮絶だと思った。しかし、捉えようによっては、東京電力の社員にとっては、自分の会社の問題だ。彼らが命を「捨てて」くれたからこそ日本は助かったのだけど、そうせざるを得ない立場だと言ってしまうことも出来るかもしれない。
しかし、自衛隊はそうではない。自衛隊がどういう存在なのか、僕は明確に言えないけど、少なくとも自分たちが起こしたわけではない出来事で命をなげうたなくてはならない理由は想像できない。どれほど危険な任務であっても、安全を確保したり危険の可能性を出来るだけ低くしてから行なうはずだ。
しかし、この「特攻」の話は違う。初めから「死」を前提にした作戦だ。その作戦は現実にはならなかったとはいえ、そういう想定もされていたのだという事実には驚かされた。
さて本書には、書きぶりからそう判断できるわけでも、そういう意図が込められているわけでもないけど、僕ら読者(被災者ではない読者)に向けられたと捉えることも出来る描写がいくつもある。

『ある日、長女が大和田にいった。
「お母さん、そんなに自分を責めなくていいよ。あたしもう割り切ってるから」
聞き返すと長女は答えた。
「県外の人と結婚するってなるときっと反対されるよね。福島出身というだけで合うとでしょ。だから結婚は考えてないよ」
大和田はショックを受けた。』

『中学生と高校生の孫娘が何を話しているかと聞いたら「もう嫁に行けない」と言います。このことを考えるとオレ、涙出るんですが…。恋人もできない、そういうことを学校で話している、と。結婚もできない。子どもも産めない、と。たとえ恋人ができたって福島とか、飯館とか、そう言っただけで別れられるんじゃないか、と』

『「消費者にとっては、グレーは黒なんだ」
全部リセットするんだ。将来につけを残したらダメなんだ―。』

これは、僕たちの問題だ。僕たちだけの問題ではないけど、僕たちの問題でもある。
僕たちは、「絶対的な安全」を欲しがって、「絶対に間違いのない事実」を求めて、「確実な未来」を希求してあらゆる判断や行動をするだろう。してしまうだろう。僕はあまりそういうことに敏感ではないのだけど、世の中の人がそうなんだろうなとは感じる。
それ自体は、決して責められるべきではないだろう。難しいけど、そういう「絶対的」で「確実」なものを求める気持ちを非難することは難しい。
しかし一方でそれは、被災者たちへの重石となって、ずしんとのしかかることになる。
僕は、「絶対的」で「確実」なものを求める行為が、被災者への重石となる、という事実を、やはり常に意識して判断・行動しなければならないと思う。それを意識したところで、自らの判断や行動を緩めたり諦めたりする必要はないだろう。それでも、自分の行動が、誰にどんな重石となって影響を与える可能性があるのか。やはりそれは、常に自覚しておかなくてはいけないのではないかと思う。
本書では、イトーヨーカドーの判断が素晴らしい。
岩手県の遠野は、放牧によって良質な牛を育てていたが、放牧地の草から放射能が検出されたために、その風景が重要文化的景観に選ばれもしている放牧が中止となった。
震災が起こる直前に、イトーヨーカドーと遠野市はある契約を交わそうとしていた。遠野出身の子牛が全国のブランド牛になることを知ったイトーヨーカドーの食肉部門の責任者が、「いわて遠野牛」というブランドで遠野の牛を引き取る計画を立てた。そしてその契約寸前に、震災が起こった。
しかし震災から半年後、イトーヨーカドーは約束通り、その契約を交わした。この姿勢は、非常に評価されるべきだと僕は思った。
役場機能ごと埼玉県に移った双葉町の井戸田町長の話は、非常に興味深かった。井戸田町長は町長なりに、町民のためと奮闘した。しかし、ちょっとした誤解や行き違いで、井戸田には非難が集まった。井戸田の決断・行動が正しかったかどうか、僕には判断できない。でも、もし間違っていたとしても、それは仕方ないのではないかと思う。壮絶な状況の中、瞬時に決断を下さなくてはいけない(それも何度も)状況の中で、間違った判断を下すことになっても、それは仕方ないのではないかと思う。もちろん、僕は被災者というわけではない。「間違った判断を下しても仕方ない」なんて言えるのは、自分の生活に害が及ばないからだ。それは充分自覚しているつもりだけれども。
最後に。「プロメテウスの罠」シリーズや、他の原発・震災本を読んでいつも思わされること。それは、「土地・人との繋がりがあるからこそ前に進める」ということだ。東北地方は、まだそういう繋がりがきちんと残っている土地柄であり、だからこそ救われた命があり、復興への希望を保ち続けられ、前に進んでいけるのだと思う。

『遠野は米をつくっている家が多いうえ、1981年の水害や93年の冷害を経験した。そのため多くの家が籾米のまま1年分を蓄えている。市役所が呼びかける前から、自分たちの地震の被害もそっちのけで、市民が次々と「どっか持っていくとこないか」と米を持ってきた』

『この知で食料生産ができなくなったら、仕事はない。農家から土地を奪わないでくれ。遠野の人たちが東電に伝えたいのはそのことだ。』

『福島に身を落ち着けたあと、考えたのは田畑のことだった。
「われわれにとって、土地は預かり物なんですよ。仙台から預かり、次の世代に渡す。だからもうからなくても農業するわけですよ」』

こういう描写を読む度に、もし東京で大震災が起こったらどうなるんだろう、と考える。近所との付き合いは絶えている。生まれ育ったわけではない人たちが多いはずで土地への愛着があるわけではない。そういうところで大震災が起こったら、恐らく悲惨だろう。少なくとも、東北の人たちのような助け合いの精神は生まれにくいのではないか。言い方は悪いけど、きっと、僕たちは東日本大震災を「きっかけ」にして、日常をもっと広い範囲で変革していかなくてはいけないのだと思う。
「プロメテウスの罠」は、出たら読むようにしている。読まなければならない、と思っているわけではない。やはり僕は、純粋に、知りたいのだろうと思う。何が起こったのか、何をすべきなのか。

朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠4 徹底究明!福島原発事故の裏側」


羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる(梅田望夫)

内容に入ろうと思います。
本書は、シリコンバレー在住であり、「ウェブ進化論」という新書がベストセラーになった著者が、羽生善治という棋界のエースを中心として、『現代将棋』というものを可能な限り捉え尽くそう、という意気込みの作品です。著者は、自身でも将棋は指すけどそれほど強いというわけではなく、主に将棋観戦を趣味にしている、という。
本書は、「シリコンバレーから将棋を観る 羽生善治と現代」と「どうして羽生さんだけが、そんなに強いんですか?―現代将棋と進化の物語」の二冊を合本し、再編集した作品です。あらたに羽生善治との対談が収録されています。
内容はかなり多岐に渡っていて、羽生善治との対談や、羽生善治の試合をリアルタイムで記録したウェブ観戦記、羽生善治を含む現代将棋のトップランナーたちの分析など、現代将棋というものをキーワードにして、様々な文章が載せられている、という印象です。
著者は本書のテーマをこう書いている。

『「シリコンバレーから将棋を観る」と「どうして羽生さんだけが、そんなに強いんですか?」の二冊を貫く主テーマとは「将棋を観る」という行為についてである』

本書の中で、このテーマは非常に重要な位置を占め、僕も非常に関心したので、僕自身の話を経由しながら、まずこの話を書こうと思います。
僕は、将棋は好きなのだけど、いわゆる「下手の横好き」というやつで、全然強くない。どれぐらいかというと、将棋は本当に、ルールが分かる、という程度の知識しかない。最近、「羽生善治のみるみる強くなる将棋入門」という本を買って読み始めているのだけど、これは漢字にルビが振ってある。つまり、子供でも読めるように作られた本、ということだ。詰将棋を眺めてても、とりあえず何も駒の動かし方が分からない程度には将棋の実力がない。
さて、そんな将棋が強くない僕は、プロ棋士の対局とか見てても、全然理解できないんだろうなぁ、という漠然とした感覚があった。実際にプロ棋士の対局を見てそんな風に感じたわけではなく、あくまでもイメージでしかないのだけど、指す方が強くないのだから、見ても理解できないに違いない、という思い込みがある。これは割と、将棋とそこまで近接していない多くの人が感じていることではないかと思うのだ。

『将棋と言えばあくまでも「指す」もの、将棋とは二人で盤をはさんで戦うもの、というのが常識である。「趣味が将棋」といえば、ふつうは「将棋を指す」ことを意味する。そして将棋を指さない人、将棋が弱い人は、将棋を観てもきっとわからないだろう、と思われている。』

そして著者はこう続けるのだ。

『しかし考えてみれば、それも不思議な話なのである。
「小説を書く」人がいて「小説を読む」人がいる。「音楽を演奏する」人がいて「音楽を聴く」人がいる。「野球をやる」人がいて「野球を見る」人がいる。「小説を読む」「音楽を聴く」「野球を見る」のが趣味だという人に、「小説を書けないのに読んで面白いわけがないだろう」とか「演奏もできないのに聴いて楽しいはずがないよね」とか「野球をやらない人が見ても仕方がないでしょう」などと、誰も言わない。しかし将棋については「将棋を指さない人は、観ても面白くないでしょ、わからないでしょ」と言われてしまいがちだ』

これには「なるほど!」と思わされた。確かにそんな風に考えてみたことはなかった。なんとなく、「将棋は指せない」から「観てもつまらない」と思い込んでいた。でも、こう説明されると、確かにどうして将棋だけがそんな風に扱われるのか、不思議だ。どうだろうか?
その理由を著者は、イチローの言葉を引用した後で、こんな風にまとめる。

『イチローのいる野球の世界は、テレビ画面を通すとあまりにもやさしく見えてしまう。だからファンが映像で「わかった気になって楽しむ」ことができる。それゆえに野球は、膨大なファン層を抱える人気スポーツたり得るのである。』

『どんなスポーツ競技も、また頭脳スポーツである将棋も、その奥の深さを、観ている者が完全に理解したり、感じとったりすることはできない。しかし野球が「テレビ画面を通すとやさしく見えてしまう」から「わかった気になって楽しめる」のに対し、放っておくと将棋は「あまりにも高度でわからない」という感覚を、観る側に呼び起こさせてしまう』

なるほど、確かにそうかもしれない。どうしてそう見えるのかはともかく、野球は確かにテレビで見ていると、なんか出来そうな気はする。なんでこんないい球打てないんだよとか、今の球ぐらい獲れよ、みたいに思えたりする。でも将棋の場合、そんな風に思えることは少ない。なんでそんな場所に打つんだ!とか、今は攻めより守りだろとかいうようなツッコミがなかなかしにくいイメージがある。そういう敷居の高さを感じさせてしまうのだろう。
羽生善治も、対談の中でこんなことを言っている。

『たとえば絵画なら、自分で絵が描けなくても「感動した」と言う自由が許されているわけです。システィーナ礼拝堂の「最後の審判」を見て感動した、と言って「おまえ、描けないだろう」とは言われないですよね。将棋を観て感動したと言うと「え、君どのくらい指せるの」となる(笑)。プロのように美しい将棋を自分で指せるようになるには、それこそ一生を費やさねばならない。そんな根性はないから観るだけのファンになるのだけれど、棋力が伴っていないと、発言は控えなくてはいけない。将棋の世界には、そんな暗黙の了解があったと思います』

しかし羽生善治一方では、テレビを通して観るということについて、野球よりも将棋の方が遥かに面白みがある、と説く。

『ところがテレビで見ているときは、そんなことは見えないわけですよ。投げる瞬間、捕る瞬間だけ。球場にある、そのスポーツの全情報量と、テレビが切り取って見せている情報量とに、差がありますよね。非対称というか、全然違うわけです。ところがね、将棋というのはそこが同じなんです。だからそこは、すごく可能性を感じるんです。全員が同じ局面で同じことを観ていられる、共有できる』

渡辺明という棋士は、中学卒業前に四段になった天才棋士であり、羽生善治の下の世代で突出した実力を持つ若手棋士だ。中学卒業前に四段になった棋士は、加藤一二三、谷川浩司、羽生善治と渡辺明の四人しかいないという。
そんな渡辺明は、「頭脳勝負」という新書を書き、そこで彼は、「指さない将棋ファン」「将棋は弱くても、観て楽しめる将棋ファン」を増やさなくてはならない、という問題意識を明示している。彼はまた、ブログを書き始め、ファンに向けて棋士の日常を公開し、待った将棋も負けた将棋も、翌日にはファンに向けて自ら本音を語って解説をするという画期的なことを始めたのだという。現代将棋の若手トップランナーである渡辺明がそういうことを主張し、実行に移しているということが、非常に大きな変化の一つなのではないかと思う。
また、ウェブ観戦記をインターネット上にアップし続けた著者自身にも、その問題意識は常にある。だからこそ本書のような本を書いたのだし、自らもまた現代将棋というものを追いかける日々を送っているのである。
羽生善治は対談の中で、こんな発言さえしている。

『極端な話をすれば、ルールがわからなくたって、観ていればそれなりに面白いと思うんです。もちろんルールを知っていたら尚更、将棋の多面的な面白さに行き着くってことがあるんですけど、たとえ基本的なことを知らなくても、ただ観るものとしても、まあ、何かしらの価値はあるのではないかと思っています』

僕は、ちゃんと将棋を学びたいな、という意欲が湧いてきて勉強する気になっているのだけど、やはり気持ちのどこかには、ちゃんと勉強しないと観ても分からないだろう、という意識があったのだと思う。だから、基本的な勉強をするのと同時に、プロの対局というのを観る機会をどうにか作ってみようかな、と思っている。「観るだけの将棋ファン」をいかに増やすか。本当にそういう問題意識が浮かんだことが一度もないので、それだけでも本書には蒙を啓かれた思いです。
さて本書でもう一つ主軸として描かれているのは、「現代将棋の急速な変化」についてです。
羽生善治が「現代将棋」への道筋をつける以前は、将棋の世界というのは非常に窮屈な世界だったようです。それは、「序盤はお互いに、暗黙の了解で、ここまではスイスイ進むよね、ということが決められている将棋」だったようなんです。

『羽生さんが初めて七冠になったとき(著者注:1996年)は、将棋界全体の戦法の幅が狭く、どんな線形でも中盤は指定局面になることが多かった。プロが序盤で個性を発揮できない時代だったわけです』

『羽生に現代将棋の本質について尋ねるとき、決まって彼が語るのは、つい最近まで「盤上に自由がなかった」ということである。(中略)羽生が問題視していたのは、将棋界に存在していた、日本の村社会にも共通する、独特の年功を重んずる伝統や暗黙のルールが、盤上の自由を妨げていたことだった』

『1994年には「邪道」だった「先手7六歩 後手3二金」は、盤上の自由が行き渡った現在では、当たり前の展開の一つになり、不確かな価値観に基づいた「邪道」などという曖昧な言葉は、将棋界から消え去った』

羽生善治が初めて名人位に挑戦したのは1994年。その時羽生は、「普通の定跡形は指さない」と宣言し、その通り実行した。それに対して将棋界の重鎮たちは、「将棋界の第一人者たるもの、少なくとも若いときには居飛車党の正統派でなければならない、歴代の名人は皆そうだった」「名人戦のような大舞台では、将棋の純文学たる矢倉を指すべきだ」「大舞台で先手を持って大先輩を相手に飛車を振るなんて」というようなバッシングが吹き荒れたのだという。
羽生善治の問題意識はまとめるとこうだ。

『後手が想定局面まで安易に先手に追随するという怠惰を廃しさえすれば、その先に将棋の未来が広がっているに違いない。そう、羽生は問題提起したのだった。』

羽生善治は、この問題意識を常に持ち、将棋界の慣習を打ち破り、将棋の世界に新たな風を吹き込み、「現代将棋」への道筋をつけた。羽生善治は凄い人だと思っていたし、強い人だとも思っていたのだけど、どう凄いのか、どう強いのかというのはよく知らなかった。けど本書を読んで、羽生善治という人の、「将棋そのものと戦っているその有り様」の凄さみたいなものを実感させられた。

『いちばんの違いは時代における戦い方で、大山先生は人と戦っていたけれど、羽生さんは将棋そのものと戦っている。たとえば、羽生さんは相手のミスを期待するのではなく、できるだけ長く均衡が保たれた局面が続いて、将棋の真理に近づければいいと思っている。』

『どうやら羽生は、一局の将棋の勝ち負けや、ある局面での真理とかそういう個別のことではなく、現代将棋の進化のプロセスをすべて正確に記録しないともったいない、それが「いちばんの問題」だ、と言っているのである。どうも彼は、一人だけ別のことを考えているようなのだ。』

『羽生は、きっと若き日に七冠を制覇する過程で、一人で勝ち続けるだけではその先にあるのは「砂漠の世界」に過ぎず、二人で作る芸術、二人で真理を追究する将棋において、「もっとすごいもの」は一人では絶対に作れないと悟ったのだ。そして「もっとすごいもの」を作るには、現代将棋を究める同志(むろんライバルでもある)が何よりも重要だと確信した。「周りに誰もいなければ(進むべき)方向性を定めるのがとても難し」いからである。そして、同志を増やすという目標を達成するための「知のオープン化」思想が、そのとき羽生の中で芽生えたのだと考えられる』

『何人かの棋士が口を揃えて言うのは「最近の羽生は、番勝負(真剣勝負)でリードすると実験をする」ということである。その時点で羽生が抱いている「将棋の真理を巡る仮説」を検証する場としてタイトル戦の大舞台が使われるという意味だ。』

これらの文章を読むと、羽生善治という棋士の特異性が少しでも理解できるのではないかと思う。羽生善治はもはや、自らの勝敗を最優先事項として捉えていない。それよりも、現代将棋の奥深さ、深遠さをいかに捉えるか、ということに意識が向かっている。だからこそ、勝負に勝った時でも、対戦相手に「怒る」ことがある。なんでもう止めてしまうのだ、と。まだこの将棋は先があるはずだし、そこで何か見えてくるものがあるかもしれない。でも、今君が投了してしまうことで、その深遠さに到達出来ないのだ、こんな形で投げ出すんじゃない、という怒りなのだ。著者が、「どうも彼は、一人だけ別のことを考えているようなのだ」と書くのも納得という感じである。
羽生善治は、2008年に「永世名人」有資格者となった時、「ここ10年は今までの将棋の歴史のなかで一番変化が大きい時代」と言った。将棋に詳しくない僕も、本書を読むと、そんな風に実感出来る。つい15年ぐらい前まで、古い世代による悪しき慣習が残っていたところに、羽生善治がそれをぶっ潰し、研究による日進月歩の世界へと変貌したのだ。その変化の凄まじさを、こんな風に表現する文章がある。

『ふつうは、技術が進歩する速度に合わせて人間がどう変わるべきかを必死で考えて追いつこうとするものなのに、将棋の世界では、棋士という人間そのものが技術を体現した存在であり、人間が進歩する力、推進力にこそすべてがある。そう考えるとあらためて、棋士たちの頭脳のすさまじさ、他の世界との異質さを感じざるを得ない。』

まさに日々新たな研究結果が生み出されていく現代将棋の世界は、本当にかつてと様変わりしてしまったようだ。

『以前、羽生が私に「最近は、公式戦の結果だを見ていっても、将棋の真価を追うことができなくなってしまった」と話していたことがある。』

『しかし2手目でこんなことになるとは…。こういう時代になるとは、思いもしませんでした』

『序盤の最新研究における知識の差が勝負に直結してしまう、その比率が上がっている、ということなのだと思います』

しかしその一方で羽生善治は、このような現状に対する危機感も表明している。自らが切り開いてきた現代将棋の進化ではあるのだけど、行き過ぎた研究や、研究の弊害というものが徐々に見え始めて来ていて、棋士を取り巻く環境は日々変化している。羽生善治は、将棋界に限らず現代社会の有り様を的確に表現したとして絶賛された「高速道路論」(本書のP47、P258に詳しく載っている)においてもそうした懸念を主張するが、こんな表現でもその懸念を現している。

『つまり、誰か優れた人が出てきてその人だけがイノベーションを起こすというのじゃなくて、イノベーションを生み出しやすい土壌をこそ作らなければならない。逆に、そうしちゃ土壌がなくなってしまうと、ぢおんなにいいアイデアを持った人がいても、そこからは花が咲かない、誰も咲かすことができない。』

羽生善治は、「創造性以外のものは簡単に手に入る時代」になったと言い、だからこそ「何かを作り出すのは無駄な作業に見えるけど、一番大事なことなんじゃないか」と主張する。それこそが、将棋の世界で研究が盛んになり、そのでの研究結果がすぐに広まる「知のオープン化」が行き渡った世界に身を置きながら、トップランナーであり続ける秘訣の一つなのだろう、と感じた。
本書には、「なるほど、そういう視点で対局を観るのも面白いのだな」と思わされる描写がいくつかあった。例えば、打ち方に現れる棋士の性格。それこそ素人が見ても全然わからないかもしれないけど、本書を読むと、色んな棋士のタイプが分かって面白い。そして、将棋という同じ頭脳スポーツをやっているのに、タイプが皆本当に違う。そういうことを、棋譜とか見てもさっぱりわからない僕にもなんとなく理解できるように文章にしてくれているのはとても面白いと思うし、こういう視点で観戦記を書いてくれる人がいるとより将棋を楽しめるのだろうなと思った。
あとは、対局における「時間」との闘いである。
例えば対局が2日に渡る場合、翌日一番初めに指す手を「封じ手」にして一日目を終える。そうしないと、次の手を打つ方が、一晩中ベストな手を考え続けられるからだ。局面のどこで一日目を終了させるか(どのタイミングで「封じ手」をさせるか)という駆け引きがある。うまく説明できないのだけど、なるほどそういう闘いもあるのか、と思った。
また、長考の時間が相手に与える影響、というのもある。長考というのは、次の一手を1時間とか1時間半とか考え続けることだけど、この場面で相手が2時間長考してくれたら、きっとこうだろうと判断してこう打てる。でも実際は相手が1時間の長考で終わったから判断が狂った、というような話も出てくる。これも実に興味深い。また、持ち時間を使いきってしまうと、次の一手を1分以内に指さなければならなくなるんだけど、その心理的プレッシャーに押しつぶされてしまう、ということもある。対局における「時間」との闘いというのも、また面白い要素なのだろうなと思う。
さて最後に。本書には、著者がリアルタイムで記したウェブ観戦記が掲載されていて、その最後に投了図(どっちかが「負けました」と言った時の棋譜)が載っているのだけど、2008年6月11日の羽生善治と佐藤康光の対局の投了図(P87)が本当に理解できない。羽生善治が負けたらしいんだけど、羽生善治の玉の周りに敵の駒は全然ないし、味方の駒はまだ沢山ある。なんでこれで負けたわけ?と不思議でしょうがない。将棋のルールが分かるかた、是非本書を書店で手にとって、P87を開いてみてください。やっぱり、指せる人なら理解できるもんなのかなぁ。
本書は、将棋にちょっとでも興味がある人(ルールがなんとなく分かる程度でOK)なら物凄く楽しめるんじゃないか、と思います。凄い本です。本書を読んで僕は、羽生善治の凄さ、そして現代将棋の急激な変化をなんとなく理解できたし、あらためて棋士というのは凄まじい人たちなのだなと感じさせられました。是非読んでみてください。

梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる」


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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)