黒夜行

>>2013年03月

グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ(デイビッド・ミーアマン・スコット+ブライアン・ハリガン)

内容に入ろうと思います。
本書は、グレイトフル・デッドという名の、ビートルズやローリング・ストーンズなどと同じぐらい歴史がありながら日本ではあまり知られていない、しかし音楽業界に革新をもたらし、常識に逆らい、現在でも年間で5000万ドル稼ぐという彼らの在り方を、マーケティングという視点から捉え直し、彼らのやってきたことをビジネスに活かそう、という内容の作品です。
非常に示唆に富む、有益な作品だと僕は思いました。
グレイトフル・デッドがどれほど常識外れのことを、しかも40年も前からやり続けてきたのか、ざっと書いてみましょう。

◯ ライブは録音OK
◯ チケット販売は彼ら自身が管理している
◯ インターネットがない時代から、膨大な顧客名簿を管理
◯ ライブの度に違う演出。決まった演出のないライブ
◯ 年に100回もライブを行なう
◯ CDからの売り上げではなく、ライブからの売り上げで収益を得るモデルを創りだした

などなどである。現在の視点から見れば当たり前に思えることでも、それを遥か以前から行なっていた、という点に凄さを感じる。彼らは今でも熱狂的なファンを持ち、ライブをし続け、素晴らしい体験を与え続けている。本書の著者二人も、熱狂的なファンであり、グレイトフル・デッドのファンであったことが二人を結びつけ、本書を刊行するに到ったのだ。
さて、本書が邦訳されるのには、ある人物が関わっている。本書の冒頭で、まえがきを書いている糸井重里である。糸井重里は、本国アメリカで本書が刊行される前から本書の存在に注目していたようで、そこから本書の邦訳の話が決まったという。
糸井重里はまえがきでこんなことを書いている。

『マーケティングが、いやな言葉に聞こえるのには、理由があります。
それは、ある種のマーケティングが「大衆操作的」なものだと考えられているからです。
「これをこうして、あれをああすれば、みんながこうなるだろう?」という考え方が、大衆操作的でないとは思えません。
でも、「大衆操作的」ではないマーケティングもあるんです』

まさに本書の内容を的確に掴んでいる文章で、本書は「大衆操作的ではないマーケティング」について書かれた作品だといえるでしょう。従来の、要するに「大衆操作的なマーケティング」というものがどういうものなのか、きちんと説明できるわけではないのだけど、マスコミを使ったり、大きな仕掛けをしたり、というようなことを指すのでしょう。グレイトフル・デッドは、そういうことをほとんどしないまま、現在の極めて特殊な立ち位置を掴みました。彼らがやってきたことは、確かに常識外れの異常なことばかりだったかもしれません。でも、現在の視点、つまりインターネットやSNSが発達し、コミュニケーションや流通と言ったものが根本的に変わってしまった世の中から彼らの行動を見れば、非常に合理的で必然的なことだということが理解できるでしょう。本書は、そういう見方をするための手助けをしてくれる作品だといえるでしょうか。
本書は、グレイトフル・デッドの在り方から導き出した19のアドバイスが語られます。それぞれが独立した章を成していて、どこから読んでも良いように構成されています。各章では、まずグレイトフル・デッドが何をしてきたのかが語られ、それが一般化された形で提示されます。さらに、実際にそれを行なっている企業の具体例について触れ、最後にまとめがある、という構成になっています。
各章には、章題のような感じで、簡単にその章でどんな話がなされるのかというタイトルのようなものがあるのだけど、とりあえずそれを列挙してみようと思います。

「ユニークなビジネスモデルをつくろう」

「忘れられない名前をつけよう」

「バラエティに富んだチームを作ろう」

「ありのままの自分でいよう」

「「実験」を繰り返す」

「新しい技術を取り入れよう」

「新しいカテゴリーを作ってしまおう」

「変わり者でいいじゃないか」

「ファンを「冒険の旅」に連れ出そう」

「最前列の席はファンにあげよう」

「ファンを増やそう」

「中間業者を排除しよう」

「コンテンツを無料で提供しよう」

「広まりやすくしよう」

「フリーから有料のプレミアムへアップグレードしてもらおう」

「ブランドの管理をゆるくしよう」

「起業家と手を組もう」

「社会に恩返しをしよう」

「自分が本当に好きなことをやろう」

さて、僕なりに本書の内容を非常にざっくりまとめると、こうなる。

【コミュニティを作ってしまおう。お金は後からついてくる。】

たぶん本書で一番強いメッセージはこれではないかと思う。グレイトフル・デッドはとにかく、ファンを大切にした。ファンと共に歩んできた。ファンを増やしてきたし、ファンを育ててきた。それらはすべて、コミュニティを作る、と表現できるだろう。グレイトフル・デッドがまさに40年間やり続けてきたことは、これなのだ。そして本書には、【どうやってコミュニティを作り出すか】ということへの具体的な方策が色々と載っている、と考えてもらえばいいのではないかと思います。
確かに、それは本当にそう思う。
現在も、コミュニティを作り出した企業は成功しているのではないかと思う。アップルのような、熱心なファンを生み出すようなやり方を続けられた企業は、成功していることが多いのではないか。逆に、ファンを生み出せなかったり、生み出したファンをほったらかしにしたりする企業は、すぐに凋落してしまう。まさに僕らはそういうことがはっきりとわかる時代に生きているのだな、と感じる。
グレイトフル・デッドが様々なことをやり始めた時代には、まだそういうことは見えていなかったはずだ。ライブはCDを売り上げるための手段である、と捉えられていた当時、CDを売ることよりもライブで収益を上げることを目指し、インターネットもないのにファンと熱心に交流し、時には特別感を与える演出までしてみせる彼らは、コミュニティ作りというものの大切さを時代に先駆けて理解していたということが出来るのではないかと思う。
いかにしてコミュニティを生み出すか。彼らがそれを意識して目指してやっていたのかはともかく、彼らが決断・選択するあらゆることが、結果的にコミュニティを生み出し、拡大することに繋がっていった。彼らは、インターネットもSNSもない時代にそれをやってのけたのだ。そりゃあ、それだけの偉業には、年間5000万ドルという報酬があってもいいだろう。僕らは、インターネットもSNSもあり、インターネットやSNSが世の中を変えてきた、そんな時代を生きている。そんな僕らに、グレイトフル・デッドに出来たことが出来ないわけがないじゃないかと思う。
身近な例で言うと、星海社という出版社は、まさにコミュニティ作りを熱心にやっているという印象がある。無料で読めるコンテンツが充実したサイトがあり、また熱心なファンたちを集めたイベントなども行なっている。星海社新書などは、「大学」と称して、新書執筆者たちを集めて授業のようなことをする、ということさえやっているのだ(僕もそれに参加した)。お金を使ってもらってコミュニティの一員になるのではない。まずコミュニティの一員になってもらって、それからお金を使ってもらう、という順番だ。これは、書店の売り場で日々あーだこーだ売り方を考えている僕も、出来れば目指せたらいいなと思っているところだ。とにかくまず店に来て、面白がってもらう。それから、本を買ってもらえたらいいなと思う。
ちょっと前に、対照的な経験をしたことがあったので、ちょっと書いてみたい。
渋谷で飲み屋を探していた時、呼び込みに連れられて入った店が、とにかく席料とお通し代が高かった。ちょっとびっくりする値段だった。まあ文句も言わずに支払ったけど、この店には二度と来なかろう、と思った。渋谷という土地柄、新規のお客さんはいくらでもやってくる。だからこそ成り立つやり方なのだろうけど、これはコミュニティを作るという観点からすれば非常に失格だと思う。
一方で、渋谷で割と落ち着いた感じの雰囲気の店に入った。メニューには一切写真がなかったのだけど、なんとなく色んなものを注文して待っていたら、来る料理来る料理物凄く量が多い。こんな落ち着いた洒落た感じの店なのに、こんなボリューミーな料理が出てくるものか、と驚いたぐらいだ。なにせ、隣の席にいたお客さんから、「これちょっと多すぎるから」と言ってさつまいもをおすそ分けしていただいたくらいの量なのである(非常に満腹だった)。
この店にはまた行きたいなと思うし、それだけではなく、この店のことは人に話したくなる。そういう話は、SNS時代である現在では、以前より遥かに伝わりやすいことだろう。そうやって、店のファンを増やしていく。そういう在り方がこれから求められているような気がするし、僕もモノを売る立場の人間として、そういう在り方を目指して行けたらいいと、常に考えていうのだ。
内田樹は、かなり多作な作家でもあるが、以前何かで、内田樹は自著をどんな風に引用されても構わないし、なんなら自著の文章を自分の文章だと偽ってどこかに載せたって構わない、と書いているのを読んだことがある。なかなか凄いことを書くなぁ、と思っていたのだけど、でもその後の文章を読んで、なるほどこれは合理的なのだなと感じた。例えば内田樹の文章は、著者の許可を取らずに載せることが出来るということで、よく試験問題に採用されるという。そうやって、多くの受験生の目に触れる。するとその中からそれなりの人数が、図書館で借りたり本を買ったりして内田樹の著作を読む。そうやって読者というのは広まっていくのだ
グレイトフル・デッドもまさにそうだ。彼らは、ライブの録音を許可した。許可したどころか、録音するための専用のスペースを設けるほどだった。普通、ライブを録音されたらCDの売り上げが落ちると懸念され、禁止されることが多い。しかしグレイトフル・デッドは、ライブの録音を自由にさせながら、自分たちが録音した高品質な音源を売りに出し、実際にそれはよく売れているのだ。グレイトフル・デッドのライブは、毎回ごと内容がまったく違う。録音されたテープは、その記録となり、多くの人に貸し借りされることで、グレイトフル・デッドの音楽は多くの人に届く。そしてその内の何人かが、もっと高音質でこれを聞きたいと考える。そうやっていずれお金になって戻ってくることになるのだ。
そんな風にして彼らは、とにかくファンを大事にした。「お金を払ってくれる人」だから大事にする、というのとはまったく違った関係がそこにはあった。お金は最終的な結果であり、目的ではない。チケット販売を自分たちで行なうのも、忠実なファンにこそ良い席のチケットが届くようにしたいためだし、音楽のライブだというのに「デフヘッズ」と呼ばれる聴覚障害者たちがライブに集まり、さらにグレイトフル・デッドは彼らを歓迎する。インターネットがない時代から、ライブの情報やメンバーの近況を書き綴った手紙を、住所を教えてくれた全員に送っていた。
コミュニティを生み出し、そこにいるファンを徹底的に大事にする。グレイトフル・デッドがやっていることはまさにそういうことであるし、それだけであるともいえる。しかし、「だけ」といえるほど、多くの人はこれができていない(当然僕もだ)。だからこそグレイトフル・デッドは成功したのだし、今も成功し続けている。
ビジネスでも芸術でも趣味でもなんでもいい。何かやりたいという強い情熱がある人は、本書を読んでみることをオススメする。マーケティングという単語に引きずられて読まないでいるのは非常にもったいない。本書は、マーケティングの本ではあるのだけど、マーケティングの本ではないとも言える。シンプルで、ある意味で当然だと思えることばかり書かれているのに、非常に心に残るし、本書を読んでいるだけでグレイトフル・デッドのライブに行きたくなる。その訴求力の強さはハンパではないし、それだけ力強いコンテンツを生み出すことが出来たからこそ、コミュニティもファンも獲得出来たといえるだろう。非常に面白い作品です。読んで、貴方を覆う殻を破りましょう。

デイビッド・ミーアマン・スコット+ブライアン・ハリガン「グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ」


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ボクには世界がこう見えていた 統合失調症闘病記(小林和彦)





奇妙な本である。
本書は、面白いのかと聞かれれば、ちょっと返答に困ってしまうかもしれない。内容はといえば、一人の青年の思考や行動を描いた日記のようなものだ。僕は小林和彦という人のことを知らない。知らない人の日記は、やはり退屈ではないだろうか。
しかし、興味深いかと聞かれれば、非常に興味深い作品だ。何故なら本書は、統合失調症に冒されたその本人が、何を考えて行動し、どんなものをどのように受け取り、どんな世界に支配されていたのかということを書き綴った作品だからだ。
本書は元々、小林和彦氏が自費出版のような形で出版した「東郷室長賞」という作品がベースになっている。そして、この著者の友人に、アニメーション監督である望月智充という人がいた。著者自身も一時、アニメ制作会社で演出などを手がけていたことがある。その望月氏がこの「東郷室長賞」を読み、これはもっと多くの人に読まれるべき作品なのではないかと考え、文庫化してもらおうと新潮社に打診、そのようにして出版に到った作品なのだ。
その望月氏が冒頭で、こんな風に書いている。

『統合失調症などのいわゆる「重篤な精神疾患」を患った人が、自分の病状を正確に書き綴った例はほとんどないのだという』

解説で、精神科医である岩波明氏もこのように書いている。

『これまで自らの内的体験を正確に、客観的に描写した患者の手記は、「エデン特急」(マーク・ヴォネガット みすず書房)、「精神病棟の二十年」(松本昭夫 新潮文庫)などごく稀にしか存在していない。その点からも本書は、貴重な記録となっている。』

その後こう続く。

『これには理由がある、というのは、統合失調症などの精神疾患においては、自らの病気についての認識が不十分である飢えに、誤った解釈をしていることが多いからである。つまり、「病識」が不十分か欠如していることが多いため、自らの状態について冷静な状態で客観的に語ることができない』

一方で、冒頭で望月氏はこの作品について、こんな風にも書いている。

『彼の病状と並行してアニメ制作の現場の話やよく知られたアニメの作品名などもいろいろと出てくる。つまり、本書は決して堅苦しい記録ではなく、そこに描かれる80年代、90年だいの文化現象や出来事は、読者の皆さんにも興味深い点が多いはずだ。この本は、闘病記としてだけではなく、青春記やエッセイとして読んでいただいても面白いものだと信じている』

そういうわけで、著者が子供の頃からの記憶(何故アニメ制作を目指したのかや、もしかしたら発病に繋がる前兆と言えるのかもしれない出来事や、大学時代の自由で豊かな日常などなど)から始まり、アニメ制作会社で苦しみつつもアニメ演出などを手がけていた24歳のある日、突然彼を襲うことになった出来事、そしてその日以来見えている世界がまったく違ってしまったということから、本書刊行後の状況に至るまで、自らの言葉で可能な限り自らの内的世界を綴った作品です。
僕が本書を読んでとにかく驚異的だと感じるのは、その記憶力です。本書は、リアルタイムで綴られていた記録というわけではない。ところどころ、当時書いた文章を引用、というような箇所が出てくるのだけど、基本的には症状がある程度落ち着いた頃に昔のことを思い返して書いたものだ。
それなのに、これほどまでに詳細に当時のことを覚えていられるものなのか、という驚嘆がまずあった。記憶力が壊滅的に悪い僕には、ちょっと信じられない思いだ。特に子供の頃のことも、実に詳細に綴っている。もちろん覚えていることだけ書いているのだろうけど、その後の発病してからの記録なんかを読んでいても、元々記憶力がすこぶる良い人なんだろうなぁと思う。
さらに驚かされることは、その当時の言動だけではなく、思考さえもふんだんに描き出している点だ。「何を見た」「何を聞いた」「何を言われた」というようなことは、やはり記憶に残りやすいと思う。しかし、「何を考えた」ということを、そこまで忠実に覚えていられるものだろうか、と思った。しかも本書は、どちらかといえば思考の方が多いかもとさえ思える。自分の身の回りの様々な事柄について、当時の自分がどのように感じていたのかということを、これほどまでに詳細に描き出せるものかという驚きが強かった。
と同時にやはり、読みながら、これは「本当のこと」だろうか?とも思う。記憶違いを疑っている、ということではない。記憶違いももちろんあるだろう。しかし、病気によって生み出されてしまった「新たに作り出された記憶」なのではないか、という疑いを持ちながら読み進めてもいた。もちろんそれは、誰にも証明することは出来ない。けれどもやはり、著者が統合失調症だからというのではなく、これほどまでに当時のことを詳細に覚えていられるものだろうかという驚きから、その記憶への疑いを捨てきれないでいる。
読んでいると、あらゆることを客観的に綴っていることにビックリさせられる。著者はある時から、周囲の様々なものから勝手に「暗合」を読み取ってしまうようになる。著者は早稲田大学出身なのだけど、ある時雑誌で見た「めぞん一刻」(著者によると、それまで作品の舞台を指し示すような具体的な情報が出てこないマンガだったらしい)に突然早稲田大学の描写が出てきて、これは自分へのメッセージなのではないかと思ってしまう、というようなことだ。
本書に、こんな文章がある。

『三年前と違うのは、今回は自民党が意図的にはっきり僕を大賞にメッセージを発していたのではなく、僕が自分で勝手にそういう「意味」を受け取った、と認識していることだ。これははっきり心に刻んでおこう。現実的に現実の世界で生きていくために』

この客観性にはビックリさせられました。なんとなくイメージでしか捉えていなかった精神病の患者へのイメージがちょっと変わったような気がします。この著者は、自分の内的世界を言葉で表現することが出来たからそういう部分を外側に伝えられるけど、その伝達手段がない人もいるだろう。伝達手段がないからと言って、著者のような客観性がないわけではないはずだ。そういう意味で、僕自身にもより高度な客観性を与えてくれた作品でもあります。
著者は現在は、精神病患者が集まる施設で共同生活のようなことをしていて、概ね楽しく暮らしているらしい。その意識の根底には、こんな考えがある。

『僕が精神障害なら精神障害のままでいい、とその七年後に悟るのだが、その萌芽はこの時にあった。』

僕は勝手に、これこそが本書が伝える最も重要な価値ではないか、と考えた。別にこれは、精神障害に限らない。今の自分をどのように肯定できるか。それが、現実を現実的に生きていくための唯一の方策だろうと思う。そして、著者がそこにたどり着く過程が本書で描かれていると考えると、本書は、生きるためにどう考えるべきか、という観点からも読むことが出来るのではないかと思います。
非常に特殊で興味深い作品です。内容は、言ってしまえば「個人の日記」なので、書かれている内容そのものに興味を持てるかは人それぞれでしょう。しかし、これを統合失調症を患った人間が書いたのだ、という意識で読むと、途端に興味深い作品に見えてくることでしょう。精神病患者にも様々なタイプがいて、本書を読むだけで精神病患者全体について何か知ることが出来るわけではないけど、でも読めば、精神病というものに対するイメージが変わるのではないかと思います。是非読んでみてください。

小林和彦「ボクには世界がこう見えていた 統合失調症闘病記」


光る牙(吉村龍一)

内容に入ろうと思います。
山岳カメラマンとして名の知られていた渡辺という男が下山しないという連絡が、樋口孝也のいる森林事務所に入る。その森林事務所は、孝也と、山崎という30歳も年上の有能な上司の二人でまかなわれている。孝也は、森林保護官としての仕事を、隅々まで厳しく山崎に指導してもらい、森林保護官になって2年、どうにか一人前になれたか、というところだった。
渡辺が登山申請を出していたのは、<行者返し>と呼ばれる場所。修行に来た行者でさえも追い返してしまうほどの難所であり、夏でもたどり着くのに困難を要する。まして冬山ではどれほど時間が掛かることか。孝也はきっちりと準備をしつつも、迷惑な登山者への恨みを抱えている。
二人でどうにか行者返しまでたどり着くと、そこには凄惨な光景が広がってた。渡辺の無残な死体が転がっていたのだ。孝也はそれを、殺人事件と判断する。なにもこんなところで人を殺さなくても、と。山崎は、一刻も早く下山して警察に連絡するぞと、まるで孝也を置いていかんばかりのスピードで進み始める。30歳に年齢差があるが、体力は明らかに山崎の方が上だ。かつて陸上自衛隊のレンジャー部隊にいたという経歴は伊達ではない。
帰り道、無口な上司からのポツリとした問いかけから、孝也はようやく事態を悟る。
熊だ。渡辺は熊に食い殺されたのだった。
早速、地元猟友会の面々と山狩りに入ることになるのだが…、
というような話です。
なかなか面白い作品でした。森林保護官が熊と戦う、というシンプルなストーリーながら森林保護官という仕事にリアリティを与える細部の描写だとか、人の立ち入りを拒むかのような奥深い森の人知を超えたような有り様であるとか、ストーリーの背景を支える描写が骨太に描かれているので、重厚さを感じさせる一冊になっています。
やはりまず、自然の描写は見事と言えるでしょう。いやこれは、正確に言えば、<自然を前にした人間の描写>と表現するべきだろうか。枝がしなる音、空気が切り裂かれる音、僅かにしかしくっきりと漂う獣の匂い。そういう、圧倒的な自然に取り囲まれなければ経験することはなかなかないだろう状況の中で、ちっぽけな人間がどんな風に感じるのか。それを出来る限り写し取ろうとするかのような描写はなかなかのものだと思いました。
さらにそこに、熊の存在が加わる。熊は、敏捷で有能で凶暴な生き物だ。恐らく太古の昔から人間との闘いの歴史が遺伝子に組み込まれているのだろう。人間に追われた熊が発揮する知恵の見事さは、熊をよく知る者であればあるほど驚嘆させられるようだ。突然足跡が消えたように見せて人間を襲ったり、自らの匂いを消すために川に入ったりと、知恵で人間を翻弄するだけの知性がある。それに加えて、最大で300キロを超えるという巨体に、その巨体を持て余すことなく発揮される圧倒的なスピード。それだけの存在が、山のどこかに、そして時には自らのすぐ傍にいる。その事実が、人間を恐怖させ、判断力を奪い、疲弊させていく。
そういう、自然と向き合った時の人間の心の持ちようみたいなものを如実に描き出している作品で、これほどの臨場感と共に描き出せるのはなかなかのものです。
とはいえ、個人的には、本書で描かれるその臨場感を充分に受け取れていないのだろうなぁという感覚もあります。僕自身、山と関わることがほとんどなくて、小さい頃近くの裏山みたいなところで遊んでいたような記憶はあるけど、その程度です。自然に取り囲まれその中で何かを感じたということがない。僕の中に、経験がない。だからこそ、自然に相対する描写を読んでも、想像の及ばない部分もやはり多くありました。昔から、マタギ小説のような山と深く関わるような物語に馴染めないことが多かったのだけど、そういう感触はやはり本書を読んだ時にもありました。
しかし個人的に驚かされたのは、熊が人を襲うことが<人災>であるということ。詳しくは書き過ぎないようにするけど、結局、熊が冬眠できなかった原因が人間にある、ということだ。そしてそれは、獣害駆除ではなく、ただレジャーのために動物を撃つハンターたちの責任である。熊にしたって、人間を襲いたくて襲っているわけではない、ということが、なんだか物悲しい気がするし、人間の都合だけで熊や他の動物が無用な苦しみを受けるのであるとすれば、それはちょっとどうにかならんものだろうかと思いました。
あとはとにかく、孝也の上司である山崎の存在が相当良い。本書は、メインの主人公は孝也と山崎(と熊)ぐらいしかいない、実に登場人物の少ない物語で、山崎はその中で圧倒的な存在感を放っている。山や動物に関する知識は圧倒的だし、判断力は的確だし、体力は強靭だ。自分がうるさく思われようが、自分の信念を孝也に何度もくり返して教育するし、いつもは仏頂面だが、子供たちに対してだけは笑顔を見せもするという感じで、人間的魅力に溢れている。
特に素晴らしいと思うのは、その忍耐力だ。猟友会や遭難者に、いけ好かないやつがいたりもする。しかし山崎は、少なくとも山では彼らと争うことはしない。どれだけムカツク言葉を投げかけられても、どれだけ理不尽な仕打ちをされても、山で無益な喧嘩をすることは自らの命を危険にさらすことだとわかっているのだ。そういう人間的落ち着きみたいなものも、山崎は存在感があるな、という感じがしました。
ストーリーはかなりシンプルで、どうやって熊を追い詰めていくかという自然vs人間という感じなんだけど、そのリアリティを支えるための知識や描写がなかなか見事な作品だと思います。読んでみてください。

吉村龍一「光る牙」


今朝の骨肉、夕べのみそ汁(工藤美代子)

内容に入ろうと思います。
本書は、ノンフィクション作家として著名で著作もたくさんある工藤美代子が、自分の「特殊な家族たち」を描いたノンフィクションです。
工藤美代子は、相当に稀有な環境で育ってきたと言っていいのではないだろうか。
父親は、「ベースボール・マガジン社」の創業者。母親は、後に工藤美代子がノンフィクションの題材として採ることになる「工藤写真館」の娘。父親がベースボール・マガジン社の創業者というだけでも相当なものだけど、著者の家族の特殊っぷりはそんなものでは収まらない。
本作の冒頭は、なかなか凄い場面で始まっている。
既にその時点で、著者の父と母は離婚していた。優秀な兄だけが父親と一緒に暮らし、著者と、優秀な姉と、そして障害を抱える「もっちゃん」という兄が、母とお手伝いさんと一緒に生活をしていた。
そこに、錦蘭子と名乗る恐ろしく美しい若い女性がやってくる。彼女は、著者を迎えに来て、それから父親と三人で会食をするのだ。
著者は、まだ幼い子供だったのだけど、すぐにピンときた。この錦蘭子という人は、父親の愛人なのだろう、と。
父親は、母親と離婚した後、再婚していた。公子さんという奥さんがいたのだ。
父親は、前妻である著者の母、後妻である公子さん、そして愛人である錦蘭子の三人とそれぞれうまい関係を築きやりくりをしていた、そしてそれを、特段隠し立てするでもなく、だからこそ娘である著者の目にも、奇異な場面が様々に映ることになる。父は、著者や姉が夏休みになると、公子さんと暮らす茅ヶ崎の家に二週間ほど二人を泊まらせたりもする。かと言って、父親が二人の相手をするでもない。著者の母にとっても、子供たちにとっても、父親の言うことは絶対で逆らえない。それが、既に「元」父親だとしても変わりはなかったのだ。
著者は、幼い頃自分が抱いていた父への思いを、こんな風に表現する。

『物心がついたときには、もう家にはいなかった父は、私にとってけっして親しい人ではなかったが、恋しい人ではあった。子供は父親を慕うものだと誰かから教えられたのか、それとも自然に湧き出た感情であったのかは、今でもよくわからない』

母はというと、父親とはこれまた奇妙な関係を続けていた。そもそも二人が離婚をすることになった直接のきっかけは、著者の推測によると、父親の母親(著者の祖母)であるセツにある。嫁姑の関係は相当に悪かったようだ。とはいえ、セツは親族の間でも疎まれているところがあったようで、セツは誰であったとしても上手くやっていくということは出来なかっただろう。著者は一度、セツの見舞いに行った時、女の恐ろしい嫌味の発露を目撃し(しかも、自らの存在がそれに利用された)、驚いたことがあると書いている。
そんなわけで、離婚してからもお互いに「情」はあったのだろう。週に一度は著者らが住む家にやってきていたし、母親に高価なプレゼントをすることもあった。母親も、父親が窮地に陥った際、苦渋の決断で家の権利書を父親に渡したことがあった。離婚してもう何年も経っている頃である。父親が亡くなった際の葬儀の場での母親の振る舞いも、非常に印象深い。
しかし一方で、母親は週に一度は爆発し、父親への恨みつらみをまくし立てた。子供の頃から著者は母親から、「あたしはね、あの男が死ぬまでは絶対に死なない。パパが死んだらお赤飯を炊くからね」と、ずっと聞かされ続けていたのだという。そのお赤飯に関する後々のエピソードも、哀しみの中に可笑しみが混じるような、生前の父親と母親の関係を象徴するような話で印象深い。
夫を兵隊に取られないように奔走したり、見知らぬ夜逃げ者を何ヶ月も自宅に匿ったりと、困っている人を助けずにはいられないバイタリティ溢れる母と、信念を持ってスポーツ雑誌を創刊し一代で中堅規模の出版社を育て上げた父親は、ともに気性が荒くアクティブなので、二人の結婚生活がうまく行くはずがなかった、と著者は書いている。しかし、離婚した後は、お互い信頼するパートナー的な存在となっていた。そしてそれは、父親が再婚したという事実や、父親に愛人がいるという事実ぐらいでは揺らがなかったようだ。現代でこそ、そういう自由な家族形態はそこら中に落っこちていそうだが、昭和の中頃にこれだけ奇特な家族があったのだなぁという思いで読み進めていた。
著者の兄弟も、なかなかバラエティに富んでいる。障害を持つ「もっちゃん」には、幼い頃相当苦労させられたようで、著者は一度母親にこんなことを言ったことがあるという。

『連日のように続くその騒ぎに、私は子供ながら疲れはてた。
「「ママ、もっちゃんを殺してみんなで死のうか」と泣きながら母にいった。
「もっちゃんでもね、もっちゃんでもね、生きる権利はあるのよ」』

離婚したばかりの頃は、父親からの養育費が3万円しかなかったようで(当時でどれぐらいの価値があるのかよくわからないけど)、しかも障害を抱えるもっちゃんもいて、母親は外に働きに出るわけにはいかなかった。そこで、自宅を下宿に改造し、それでどうにか収入を得ていたようだ。もっちゃんの話は、冒頭でちょっと出てきて以降は、時々顔を出す程度の扱いでしかないのだけど、それでも、もっちゃんのような子供と一緒に生活をする、というだけでも相当な苦労だっただろうと思わされる。
その一方で、父親と一緒に暮らしていた兄と、著者と一緒に暮らしていた姉は、すこぶる優秀だった。兄はニューヨークに留学、姉はたった15歳の時にハワイに留学する、と言った具合だ。子供の頃からそこまで仲良くなかった兄弟だったようだが、歳を重ねるに連れて、生活のレベルに格差がありすぎて、それまで以上に疎遠になっていくのだという。著者が自分で書いていることだからある程度差っ引く必要があるかもしれないけど、とにかく著者は出来の悪い子供だったそうだ。
あとがきで著者は、この本を書いたことで、父親への恨みつらみが流れてしまった、というようなことを書いている。そして今では、父親にしてもらった良いことばかりが思い出されて仕方ない、と続けて、ノンフィクション作家になった著者に向けられたこんな言葉を載せている。

『おまえが物書きになったから、俺のところにいろいろいってくる奴がいる。でも、俺は平気だ。おまえは好きなことを書け。俺が世間の風は受け止める。俺さえわかっていれば、それでいいことだ。』

父親はこんな風に人の心を掴むのが非常に上手かったようだ。タバコを毛嫌いしていた父は、新社屋を建てた際に全館禁煙にしてしまった。編集者にはタバコを吸う人が多かったから、これはかなり困ったという。どうしてもタバコを止めることが出来ない社員がいて、その社員を社長室に呼び出してこう言ったという。

『(現金を二十万円渡し、)なっ、おまえにこの金をやるから煙草はやめろ。口でいわれただけじゃやめられないだろうが、金を受け取ったらやめんわけにはいかんだろう』

そう言われた社員は煙草を止め、さらに非常に感激したという。
読めば読むほど、著者の父親である池田恒雄という人物の不可思議さが増していく。前妻・後妻・愛人と別け隔てなく接し、本業には最後の最後まで本腰を入れて挑み続けて会社を成長させ、かと言って自分自身のために金を使うことにはさほど興味はなかった。親戚の面倒を広く見て、また多くの人の心を掴む人心掌握術を持ちつつ、娘である著者には結局最後まで強い関心を抱くことがなかった。身近にこんな人がいたら、頼もしいかもしれないし、迷惑かもしれない。なんとも不思議な印象を抱かせる男である。そしてそんな父親のことを著者は、ある程度距離を置き、客観視しつつ、同時にある程度以上の親しみも込めつつ描き出していく。
もちろん、著者自身の話も描かれていく。非常にインパクトが強いのは、プラハでの出来事だろう。これは、この話だけでノンフィクションが一作書けてしまうのではないかと思えるほどの、なんというか凄まじい体験ではないかと思う。二度離婚をしたり、定職に就くわけでもなくぶらぶら適当な仕事をしていたりと、自分の汚点といえるだろう部分も率直にさらけだしつつ、工藤家と池田恒雄という、ねじ曲がった家族の有り様を描き出す。
どんな家族の元で育つのかというのは、その後の一生を左右する非常に大きな要素だろうと思う。僕は案外、著者のような家族の有り様を羨ましく思う部分がある。それは、「普通」を押し付けられない、という点にある。父親も母親も、著者に「普通」を押し付けることはなかった。逆に、二人があまりにも外れすぎているために、その二人を反面教師にするようなことさえあったのではないかと思う。だからこそ、自由な物の見方が、自由な考え方が出来る人になったのではないかと思う。「普通」に囚われることへの恐怖が僕には強くある。そして家族こそが、「普通」を押し付ける最たる存在だと思う。「普通」から外れまくった家族で育ったことは、人生において苦労ももたらしたことだろうけど、悪いことばかりではなかったはずだ。そういう意味で、ちょっと羨ましさを覚える。
昭和という時代を猛スピードで駆け抜けた人たちと、それに振り回された人々が描かれる作品です。改めて、家族というのはどんな形でも取りうるのだな、と考えさせられました。是非読んでみてください。

工藤美代子「今朝の骨肉、夕べのみそ汁」


大絵画展(望月諒子)

内容に入ろうと思います。
接点のまったくない二人が、共に巨額の借金に立ち向かわなければならなくなるところから物語は始まる。
大浦壮介は、代々続く地主の家の長男であるが、医者になった優秀な弟とは違って出来が悪かった。父親にお金を出してもらってデザイナーの事務所を立ち上げるもまったくうまくいかず、少しずつ借金を重ねては、それを祖母に埋め合わせてもらう。祖母は、蔵から色んなものを持ちだしては換金し、壮介に渡していた。
ある日、絶対に儲かると言われた株売買の詐欺話に乗っかり、祖母から絶対に返せるからと1000万円を借りる。しかし、自分が詐欺に加担するつもりが、実は自分こそが詐欺の被害者だった。1000万円を返さなければ実家から勘当されてしまう…。
一方筆坂茜は、かつて銀座のクラブでトップを争ったこともあるほどの女だったが、熾烈なトップ争いや業界の冷え込みなどから返しきれないほどの借金を抱え、逃亡した。地方を転々とし、倹しい生活を続けながらどうにか金を貯め、ようやく東京の外れに小さなスナックを構えるまでになった。
逃げ切れたと思った悪夢が追いかけてきた。かつての雇い先から電話がかかって来たのだ。8年間で、利子も含めると、いくらになっていると思う?
客の一人が、絶対に儲かる株売買の詐欺話があると持ちかけてきた。茜は、店を抵当に入れて銀行から500万円を借りた。しかしすぐに、自分が騙されたことを知る。
壮介と茜は、ある場所で出会うことになり、さらにその場にいた銀行員の男が、驚愕の話を持ちかけてくる。
バブル期、日本が世界中から買いまくり、しかしバブル崩壊後借金を返せなくなって銀行が引き取った大量の絵画が、自分が勤める銀行の倉庫に保管されている。様々な事情が複雑に絡まり合って、まともに表に出せない代物だ。盗まれたことが分かっても、銀行側には手が出せない。
あなた方二人に、ゴッホの「医師ガシェの肖像」を盗み出して欲しい。壮介と茜はそんな突拍子もない依頼を受ける。
「医師ガシェの肖像」といえば、「モリトク繊維工業株式会社」が180億円で買ったことで世界中で話題になった作品だ。それがその倉庫に眠っていて、それを盗み出せという…。
というような話です。
非常によくできているんだけど、不満もあるなぁ、という感じの作品でした。

ストーリー自体は、とてもよく出来ていると思います。僕は全然詳しくないのだけど、このゴッホの「医師ガシェの肖像」という絵は、それ一冊でノンフィクションに仕上がるほど数奇な運命を辿った作品なんだそうです(実際、「ゴッホ「医師ガシェの肖像」の流転」という文庫が出ている)。「医師ガシェの肖像」は、長らく行方不明だった作品で、本書はその行方不明だった作品にフィクションの歴史を与えた作品、という感じでしょうか。
壮介と茜が出てきて借金を背負わされる過程は若干退屈でしたけど(つまらない、というほどではないけど、凄く面白いわけでもない)、二人が出会ってから、壮大な計画が進んでいくようになってからは、結構スピーディでノンストップな感じの展開だなと思いました。いわゆる「コン・ゲーム」的な作品でして、後々、なるほどこういう全体像だったのか、ということが明かされていくんだけど、その絶対の設計図もよく出来ていると思いました。細かなところまで考えられているし、世界中が注目する名画を強奪するという超絶的なスケールの物語を、少なくとも絵画の世界に素人な僕には特になんの違和感も抱かせることなく読ませる技量はなかなかのものだなと感じました。
また、美術に関する薀蓄的なものもかなり面白い。本書では、作中のところどころで、様々な人間が、美術の世界や美術マーケットの世界などについて語っていくのだけど、そういう世界にまったく無知だった僕は、美術の世界ってすげぇなぁ、と思うようなことばっかりだったし、こんなドロドロした世界だったのか…とちょっと幻滅したりしました。
絵画の値段がどのように決まり、画廊がそれにどんな風に関わっているのか。多くの画廊がなぜ百貨店と仕事をしたがるのか。小さな画廊が生き残っていくためにどうしなくてはいけないか。絵画を巡る企業や暴力団との話。バブル期の何故ジャパンマネーが大量に美術作品に流れて言ったのかという話。美術や芸術というものに対する様々な人の考え方、感じ方などなど。そういった、一般人からはあまりにも遠すぎる美術や芸術と言った世界の一端を少しだけでも垣間見せてくれる。それが非常に面白い。元々芸術に造形があるならともかく、本作を書くために取材をして、ということであればなかなか凄いなと思いました。
そんな風に、面白いと思える部分もあるのですけど、ちょっと残念だなぁという部分もあったりします。
まずは、盛り込み過ぎかな、という印象はありました。色んな登場人物が出てきて、彼らの生い立ちやら関わりやらが描かれていく。それらは最終的に色々絡まって一つの物語に収まっていくのだけど、色んな方向に話を広げすぎてちとまとまりがつかなくなっているような印象がありました。それが理由なのかわからないけど、なんとなく全体的に、「どこが盛り上がりの頂点なのか」というのが見えにくい感じがしました。そういう「盛り上がりの頂点」は、作中にいくつかあっていいと思うんだけど、本書はどうも、その「盛り上がりの頂点」があんまりハッキリ見えない気がします。テンポよく物語は進んでいくんだけど、構成が良くないのか、あるいは他に原因があるのか、盛り上がっている部分がわかりにくい。あんまりうまく説明できないけど、ストーリー自体は面白いし、スピーディに物語は進んでいるはずなんだけど、どうもダラダラしているような印書が拭えませんでした。
あと、なんとなく視点が定まっていないような印象もありました。一人称と三人称が、混ざっているわけでは決してないんだけど(基本的には三人称の小説)、なんとなく、顕微鏡の倍率が急激に変化していくような、そういうアップダウンの激しさみたいなものを感じました。これもうまく説明できないですなぁ。好みの問題かもしれないけど、どうも文章があんまり洗練されていない感があって、残念な感じがしました。
そしてさらに、これは著者の責任なのかはまったくわからねないけど、本書は非常にアンフェアな点があると思うんですね。ミステリ的なルールに詳しいわけじゃないからあんまり強くは言えないけど、さすがにそれはちょっと駄目なんじゃないかなぁ…と思ってしまう部分があって、なんとなく良い評価をしにくい、という感じがあります。
決して悪くはないし、総合的に見れば割と面白い作品だとは思うんだけど、そこまで強くはオススメは出来ないかなぁ。ストーリー全般と、美術に関する薀蓄は、結構オススメです。

望月諒子「大絵画展」


弥勒世(馳星周)

内容に入ろうと思います。
舞台は、返還前の沖縄。戦争に負け、米軍基地が出来、米兵たちが好き勝手のさばり、何もできないうちなーんちゅたちはその状況に甘んじ、そんな日常をくり返してきた返還前の沖縄に、一人の男がいる。
伊波尚之。奄美出身で、幼い頃に親を失い、施設で育った男だ。
大和(本土)の人間がうちなーんちゅを差別するように、うちなーんちゅは離島の人間を差別する。そういう差別の連鎖の中で伊波は生きてきた。幼い頃から、周囲への、日常への、世界への、名づけ難い【憎悪】を心の裡で育て上げながら、伊波はうちなーんちゅとしては特殊な部類の人間になった。
生きるために幼い頃から英語を独学していた伊波は、<リュウキュウ・ポスト>という英字新聞の記者をやっていた。アメリカーのための提灯記事をでっちあげるクソみたいな仕事だ。しかし伊波には、主義も主張もない。うちなーんちゅとして、今の現状を憂えるようなこともない。伊波の目的は一つ。どうにかしてグリーンカードを手に入れてアメリカに渡ることだ。沖縄で、アメリカーに支配される環境の中で生きていても、もうどうにもしようがない。アメリカーの手先になって提灯記事をでっち上げる伊波は、うちなーんちゅの間ではよく知られた嫌われ者だった。
ある時伊波は、上司の命令で見知らぬアメリカ人に引き合わされることになった。伊波はすぐさま、そいつらがCIAだと判断した。彼らは、多額の報酬とグリーンカードを餌に、伊波にスパイになるよう迫った。
アメリカ人たちは、うちなーんちゅの奥深くまでは入り込めない。肌の色も、言葉も、まるで違う。伊波は、でっち上げとはいえ取材をして情報を取ってくる能力があったし、何よりもアメリカ人にも感心されるほど英語が上手かった。
伊波はすぐさまその話に乗る。それが、うちなーんちゅを裏切る行為だと充分理解していたが、そんなことはどうでもよかった。グリーンカードが手に入る可能性があるというなら、何の問題もない。
CIAが考えたカバーストーリーに沿って、<リュウキュウ・ポスト>を辞めさせられ、どうにか職を探している男、という風を装った。それと同時に、様々な網を張り、焦ることなく、CIAが喜びそうな情報を手に入れられるようにあちこち動きまわる。
そうやって出会ったのが、照屋仁美だった。ベ平連に絡んで、沖縄に関するあらゆる問題に対処しようと奮闘している活動家であり、伊波と同じ施設で育った女だった。伊波は施設にいた頃の仁美のことはほとんど覚えていなかったが、仁美の方は伊波を覚えていたようだ。
伊波と仁美の見ている世界は、まったく違う。伊波にはそれがはっきりと分かっていた。しかし、日に日に仁美に惹かれていく自分がいる。仁美は伊波のことを、沖縄を変革するために自分たちの活動を熱心に手伝ってくれている人、と見ている。実はうちなーんちゅを裏切るアメリカーの犬だと悟られるわけにはいかない。葛藤が伊波を苦しめる。
同じく施設で育ち、施設にいた頃から伊波が嫌悪し続けていた男・比嘉政信。政信は沖縄の有名人であり、天才的な頭脳を持ちながら、ギターや三線や女遊びに明け暮れる、一言で言えばニートだ。しかし人望は厚く、政信はあらゆるところに入り込んでは、政信にとっては児戯でしかないだろう活動を手伝ったりしている。そんな政信への反発は大人になった今でもあり、政信に頼ればすぐにあらゆる情報が手に入ると分かっていながら、伊波は政信を頼ることが出来ないでいる。
沖縄の状況は、どんどんと悪化していく。伊波はあるきっかけで、自分の進む道を大きく反転させる。この世界に罅を入れる。その一点のために伊波は、か細い危ない綱渡りを続けることになるが…。
というような話です。
これは凄い物語でした。馳星周の作品はしばらくまったく読んでいませんでした。何作か読んだんだけど、どうも、裏社会の人たちがじゃんじゃん出てきて、拳銃がバンバン撃たれて、血がジョンジョン流れる、みたいな話ばっかりなんだろうなー、という印象があって、そういうのばっかりっていうのも飽きるよなぁ、と思ってしばらく手に取りませんでした。
本書は、返還前の沖縄の煮えたぎるような雰囲気を切り取っていく作品です。僕が読んで来た馳星周作品の中では、こういう現実とリンクするハッキリとしたテーマ性を持つ作品というのはなかったのではないかと思います。そういう意味でちょっと興味を惹かれて読んでみました。
返還前の沖縄の雰囲気が、馳星周作品の特徴であるノアール感と凄く相性が良い。
さっき書いたような、裏社会の人間、銃、血と言ったキーワードは、ただそれらだけを組み合わせても似たような作品にしかならないと思うんだけど、ここに「返還前の沖縄」という舞台を当てはめると、それまで馳星周が描いてきたようなノアール的雰囲気がピッタリ収まる。暴力的描写が得意な作家というのは他にもいるだろうけど、なるほどそういう作家が暴力に満ちた時代背景を描くとこれほどリアルな雰囲気になるのか、と感じさせてくれました。
「沖縄返還」というのは、学校の社会の授業で習ったと思う。いつ誰がそれを決めて、それからどんな風になったのかというのをざっくりと習ったような気がする。
でも僕は、返還前の沖縄について、全然考えたことがなかった。知識もなかった。本書を読んで、そうか沖縄の人たちはこんな現実の中で生きていたのか、と衝撃を受けた。米兵による不祥事や事件が日常風景と化し、米兵が何をしても沖縄の警察は動けず、米軍がほとんど無罪放免で解放する。基地内で事故が起こり、うちなーんちゅが抗議をして、知らん顔。米軍にとってうちなーんちゅは犬猫と同じような存在でしかないのだ。
しかし、うちなーんちゅはアメリカの顔色を伺わずに生きていくことは出来ない。

『アメリカーは嫌いだ。基地は憎い。B52は撤去せよ。けれど、基地がなければ生きていけない。二律背反―コザが背負った十字架だ。』

基地に依存して生計を立てているうちなーんちゅが山ほどいる。沖縄に基地が出来た時からそうなる運命だっただろう。もはや諦めと共にその現実を受入ざるをえないうちなーんちゅたちの気持ちがグリグリと描かれていく。
本書では、沖縄やうちなーんちゅの特殊さについて色んな文章がある。

『食呉ゆすど吾御主―食わせてくれる人間が王様だ。うちなーんちゅはそうちゃって生きてきた。少なくとも、銃後世紀の尚真王時代以来、そうやってきた。』

『クラブ・エルドラド―黄金郷。黄金郷などどこにもないことをおれは知っている。政信も知っている。うちなーんちゅもみんな知っている。知っているくせに目を閉じている。ないものをあると言い張ることで現実を夢幻の彼方に追いやろうとしている。』

『空約束。保護にされた契約。打ち捨てられた無数の近い。繰り返される裏切り。誠実さは求めようもなく、恥知らずであることが良しとされたきた。琉球王朝は沖縄人民を見捨て、大和は沖縄を嘲弄し、アメリカーは沖縄を蹂躙する。
それでもこの島の人間は馬鹿正直にあろうとしてきた。歌をうたい、カチャーシーを踊り、すべて忘却することで生きてきた。』

『米軍占領下の二十数年、鬱屈はもちろん溜まっていたはずだが、デモや集会で不満をぶちまければ、その鬱屈は見事なまでに消えていた。歌い踊り、すべてを忘れる。それがうちなーんちゅの民族的特製なのだ。北国の人間のように怒りや憎しみや恨みが粘つき、腐臭を放つことはない。ぎらつく太陽に焙られて、すべては瞬く間に乾燥する。負の感情を維持できない仕組みになっている』

『この二十五年間、うちなーんちゅは戦場で暮らしてきた。土地と権利を奪われ、人格を貶められ、時に命さえ簒奪されてきた。施政権返還後も、その現状は変わらないだろう。この島に米軍基地がある限り、だれが施政権を握ろうが、なにも変わりはしない』

これらはほぼすべて、伊波の怒りと共に綴られる。伊波は、沖縄に関することなんかどうでもいいと達観しつつ、うちなーんちゅたちへのもどかしさを内包し続ける。それがうちなーんちゅの特性だと分かっていても、瞬間的にしか怒りを持続させられないというまさにその民族性が、結局沖縄がこれまでずっと蹂躙され続けてきた理由だとハッキリとわかっている。わかっていて、でもどうにもならない。
初めこそ、アメリカのスパイでしかなかった伊波は、しかし徐々に変化していく。特殊な立場に立ったことでより深い世界を知ることが出来たこと、仁美やマルコウといった人間と知り合い深く関わっていったこと、政信という仇敵とも呼ぶべき相手との人間関係に変化の兆しが現れたこと。それら様々な要素が入り交じって、伊波はどんどんと危険な道へと足を進めていく。
その根底にあるのは、絶望的なまでの孤独感だ。親を失い、施設では政信にまったく勝てず、離島出身だということで差別を受け、そういう環境の中で伊波はねじまがり、鬱屈を溜め込み、それが衝動に変換されて何かを求める。伊波のその何にも代えがたい孤独感は、伊波を無間地獄に叩き落とし、一方で伊波を超人的に働かせる原動力となり、伊波の人生を決定づけていくことになる。本書はとにかう、伊波という特集なうちなーんちゅの変質と孤独を描く物語だ。
一つ一つの場面にあまり描写を割きすぎることなく、物語は実にテンポよく進んでいく。それでいて、描写が物足りないなんていうことはもちろんない。スピード感と濃密感は絶妙なバランスで、読んでいきながら、沖縄の現状や、伊波やその周辺の人間関係がスルッと頭に入り、その暴力的で退廃的な世界観を実にうまく掴みとっている。
前半のストーリーは、伊波が徐々に変化していく様を描いていくという感じで、物語の展開はどちらかと言えばゆったりしていると思うのだけど、ある瞬間からギアが変わる印象がある。後半で伊波は、どんどんと危ない橋を渡っていくことになる。そのスリリングさはなかなか圧巻で、アメリカーを敵に回してここまで立ち回れるものなのかと快哉を叫びたくなる。伊波というどす黒さを増していく人間性に深入りしつつ、どう転んでいくのかさっぱり予測できない物語の展開にハラハラさせられる。暴力が、ただ暴力として描かれるのではなく、どうしてもそれが必要だから、暴力でなければこの現状をひっくり返せないから、という切実さを伴っているというのもとてもいい。
伊波の周囲を固める人間も魅力的で、特に政信は素晴らしいと思う。こんなクソみたいな世の中なんだから楽しまないと損だろ、と言い切って遊び吹けるこの無頼漢。その一方で、回転の早いその頭であらゆるものを見通しているかのような立ち位置にいる。何にも囚われない自由人。その印象はある時から変質するのだけど、どちらの面の政信も、非常に魅力的だと思おう。
ページ数も相当あるかなり重厚な物語だけど、是非読んで欲しい作品です。暴力と悲哀に満ちた返還前の沖縄の雰囲気を全身で感じながら、伊波という十字架を背負ったような生き方をしているうちなーんちゅの生き様を是非読んでみてください。

馳星周「弥勒世」




ハルさん(藤野恵美)

内容に入ろうと思います。
本書は、父親であるハルさん(春日部晴彦)と、その娘・ふうちゃん(春日部風里)の物語です。
ふうちゃんを産んですぐに亡くなってしまった、ハルさんの奥さん・瑠璃子さん。ハルさんは、瑠璃子さん亡き後、男手一つで娘を育てていかなくてはいけなくなってしまった。
ハルさんは、人形作家だ。
元々は会社で働いていたのだけど、人形作りへの情熱を絶やすことはできず、瑠璃子さんに背中を押してもらって、ハルさんは人形作家として独立したのだ。ハルさんが作る人形に惚れ込んだ道楽者(気が向いた時に店を開ける人形店「浪漫堂」の店主であり、屋号そのまま浪漫堂と呼ばれている)の後ろ盾で、どうにか家族二人、倹しいながらも生活していくことができている。
しかし、そんな父親だから、ふうちゃんには色々苦労をかけた。お金がないことを悟ってあまり我儘も言わなかったし、人形作りに没頭すると周りが見えなくなってしまうハルさんが何度約束を違えても受け入れてくれた。自分には過ぎた子どもだ。
そんなふうちゃんが、結婚するのだ。
式場に向かいながら、ハルちゃんの旧友に挨拶しながら、ハルさんはふうちゃんとの思い出を回想する。特に思い出深かった、5つの事件が頭に浮かぶ…。

「消えた卵焼き事件」

幼稚園生だったふうちゃんは、ある日迎えにきたハルさんに、探偵の衣装を作って!とプリプリしながら言う。仲良しの隆君と何かあったらしいけど、とにかく衣装を作らないと教えてくれないらしい。ハルさんは、人形の衣装を作ることも仕事の内で、裁縫はお手のものだ。
ふうちゃんが言うには、隆君がお昼ごはんのお弁当の中でもの凄く楽しみにしてた卵焼きが、お昼の時間になったらお弁当箱から消えてしまった、というのだ。そして、卵焼きを羨ましがっていたふうちゃんが疑われて、それで今喧嘩中なのだとか。
ハルさんは、ふうちゃんの無実を信じている。でも、瑠璃子さんと違って料理が得意ではないハルさんは、いつも卵焼きをうまく作れなくてお弁当に入れられないでいる。もしかしたらそれで…。いやいや、どうにかふうちゃんの無実を示さないと。

「夏休みの失踪」

小学四年生になったふうちゃんは夏休みに入る直前、学校からゴーヤを持って帰ってきた。学校の授業で色々植えているようで、毎年何かしら持って帰ってくる。植物図鑑を欲しがったり、毎日真っ黒けになりながら外を駆け回っているのを見ると、植物や自然に関心を持つ子に育ったようだ。
学校からの案内には、お子さんの安全を守るために、というようなプリントが。子どもを取り巻く環境は危険が多いので気をつけてくださいという話だ。ハルさんもふうちゃんに、出かける前に誰とどこに行っていつ帰ってくるのかちゃんと聞くことにしようと決める。
ある日ふうちゃんはハルさんに、「自分に合わない場所にいるのは、大変?」と聞いてきた。ハルさんが昔サラリーマンだった頃の話をしていて、その流れでだ。ハルさんは、自分らしくいられる場所があるならそっちの方がいい、と答える。
それからしばらくして、ふうちゃんは突然いなくなってしまった。

「涙の理由」
中学生になったふうちゃんは、ちかちゃんという女の子をよく家に連れてくるようになった。ふうちゃんの親友だと思ってきちんと挨拶するハルさんだったが、最近ふうちゃんの態度が冷たいような気がする。これが反抗期ってやつなんだろうか?
三者面談の場で、ふうちゃんの絵がコンクールで入賞し、商店街に飾られていることを知ったハルさんは、勇んで見に行くことにした。
その絵は、ぐしゃっとなって地面に落ちていた。
まさか、とハルさんは思う。最近テレビで見たのだ。学校で子どもがイジメに遭っている時の兆候の話を。思い当たるフシは他にもある。
ふうちゃん、もしかしてイジメられているのかい?もし本当にそうなんだとしたら、どうしたらいいんだろう?

「サンタが指輪を持ってくる」

高校三年生になったふうちゃんは、受験生だというのに花屋でアルバイトをすることに決めていた。どうしてもお金を稼いでみたかったという。ふうちゃんは勉強が出来るし、本人がやりたいようにさせてあげればいいと思っているハルさんは、もちろんOKだ。
初日が12月23日で、アルバイト二日目がクリスマスイブ。普段ふうちゃんは友達とクリスマスパーティをしているらしいのだけど、今年はみんな受験生だからそういう趣向は難しい。だから今年のクリスマスイブは、家でハルさんと一緒にご飯を食べるという。それならと、そう得意ではない料理をどうにか頑張ろうと決意するハルさんなのだった。
しかし凶報が届く。なんと、アルバイト中にふうちゃんが足の骨を折ってしまったという。大事ではないとはいえ、一ヶ月ほど入院しなくてはいけない。本人はケロッとしていたけども。
そんなことよりもふうちゃんが気にしていたのが、ある忘れものだ。その忘れものを渡そうと思って怪我をしてしまったらしいのだけど、明らかにそれはクリスマスプレゼントで、これを落とした人は絶対に困っているはずだ、という。「大きなツリーの間で待つ」という謎の言葉を元に本人を探しだそうとするが…。

「人形の家」

大学生になり、寮暮らしをしているふうちゃんが、一年ぶりぐらいに帰ってきた。一週間ほどいるらしいけど、友達との予定もいろいろあるようで、一日ぐらいしかちゃんと一緒にはいられそうもない。その日は、二人で瑠璃子さんのお墓参りに行くつもりだったのだけど、そうはいかなくなってしまった。
ハルさんが作った人形が盗まれた、というのだ。
そもそもハルさんは、その世界でも有名な人形作家となり、浪漫堂の仲介を経て、今では待ち人がたくさんいるほど有名な存在になった。そのハルさんが、12体の天使として同じ型を使って作った人形がある。その内の一体を所有するペンションのオーナーから、なんだか要領の得ない話が来たと浪漫堂が言いに来た。
その婦人に話を聞いてみると、人形は確かにここにあるのだけど、でもこの人形は自分が買ったのとは違う、すり替えられているのだ、春日部先生ならきっとわかるはず…と主張しているのだった。

というような話です。
これはなかなか素敵な作品でした。いわゆる<日常の謎>系のミステリという分類になるんだけど、謎そのものがメインというよりはやはり、ハルさんとふうちゃんの素敵な親子関係がメインという感じです。ふうちゃんが幼稚園から大学生と結構幅広い年代が描かれていること、そして父娘の二人暮らしというところが大きく違うとはいえ、僕は本書を読んで、【「東京バンドワゴン」×「よつばと!」】という印象を受けました(とはいえ、「よつばと!」は読んだことないんですけどね)
<日常の謎>系のミステリで巧いなと感じる作品って、やっぱり『謎そのもの』に重きを置いていないように思います。それよりは、その『謎』を描くことで、それに関わった人たちの人間関係であるとか、あるいはその謎が起こった場の雰囲気であるとかを切り取っていく、というようなものが、やっぱり<日常の謎>系のミステリではいいなと感じることが多い気がします。
本書も、謎そのものはそこまで特筆すべきものがあるわけではないと思います。なにしろ、普段ミステリを読んでてもさーっぱり分からない僕ですけど、「サンタが指輪を持ってくる」は、読み始めでピンと来ました。まあ、僕でもひらめけちゃうぐらいの難易度(なんて言ったら失礼かなぁ。そんなつもりはないんだけど)という感じで、謎そのものの難しさであるとか、論理性であるとか、そういう部分では勝負していない作品です。
本書では、その謎が明かされることで、誰かの優しさだったり、誰かの決意だったりが透けて見える、そういう部分に焦点が当てられているなと感じます。
だからこそ、ハルさんとふうちゃんの親子関係が作中でどんな風に描写されるのかという点が、作品全体の非常に重要な骨格になっていくと思うのだけど、この親子関係が結構いいです。人付き合いが苦手で、出来るだけ家の中にこもっていたくて、ふうちゃんへの愛情は人一倍のハルさんと、誰とでも喋れて、どんどん外へ外へ向かっていって、お金や父親の仕事なんかも含めて丸ごと受け入れてくれているふうちゃん。心配性なハルさんが過剰にオロオロしたり、行動力も決断力もありすぎるふうちゃんの言動が時に突飛もなかったりと、すれ違ってしまうこともあるんだけど(そして、そのすれ違いが謎そのものだたりすることもあるのだけど)、基本的にお互いがお互いを思いやって、尊重しあって、支えあいながら生きている感じがとてもいいし、時にはホロリとさせられてしまいます。全体的には、とてもほっこりさせてくれる作品だと思います。
ハルさんはふうちゃんのことを、あまり子ども扱いしない。幼稚園の頃から、守らなければならない存在であるという認識の一方で、一人の個人としてその有り様を尊重する、という姿勢で子育てをしている。僕自身は、子どもってものにまーったく関心がないんだけど、でも万が一父親になるようなことがあったら、ハルさんみたいな子どもとの接し方が、僕の中でのある種の理想形だったりします。型に押し込めもせず、価値観を否定することもなく、自然な放任の中で、本人が意識もしないまま伸ばしていった部分をより伸ばせてあげられるように手助けする。なんとなく僕の中では、子育ての理想形というのはそういう感じがあって、ハルさんのようなあり方は素敵だなと思います。まあもちろん、既に子育てを経験された方にしてみたら、いやいや子育てがこんなうまく行くわけないやん、とか、ハルさんみたいなことやってたら子どもはどんどん緩み切っちゃうって、みたいな、まあそれぞれの子育て観に応じた様々な反応があるんだろうなぁ、という感じはするんだけど、まあ、その辺は、小説ですからね。
さて、本書では、個々の謎を解くのは、実はハルさんではない。のぼーっとした感じのハルさん(失礼!)には、謎解きというのは荷が勝ちすぎているのだ。
では誰が謎を解くのか。それは、亡くなった奥さん・瑠璃子さんである。
ハルさんが、ふうちゃん絡みの謎解きで参ってしまっている時、瑠璃子さんはスーッとハルさんの意識にやってきて、ハルさんと対話しながら謎を解決に導いていく。そんな設定も、なんとなく「東京バンドワゴン」を連想させるなぁ、という感じがします。
瑠璃子さんは、単に謎解きをするだけではありません。子育てに悩みながらどうにか現実と闘っているハルさんを励ましたり元気づけたりもします。
謎の多くは、ハルさんを悩ませます。貧しさがふうちゃんに悪い影響を与えているだろうか、家が嫌になって出て行ってしまったのではないか、いじめられているのではないか…などなど。瑠璃子さんは、その謎を明快に解決することで、ハルさんの背中の重しを取り除いてあげる、そんな役目も果たしているのです。
本書は構成も非常に巧いです。「ふうちゃんの結婚式」という絶対を貫く一本の軸を用意して、その結婚式の展開と実にうまくリンクして、過去の5つの出来事が回想されるような展開になっていきます。
最後の最後、ふうちゃんがあるセリフをハルさんに言うんだけど、この場面は全体の締めくくりとしてなかなか秀逸だったなと思います。それと関わる伏線めいた描写が作中にあって、なるほどあの出来事があってのこのセリフなんだろうなぁ、と想像させてくれます。<日常の謎>系のミステリではありますが、謎そのものがメインなのではなく、あくまでもハルさんとふうちゃんの父娘の関係がメインで描かれています。気持ちの優しい人たちが織りなすささやかな物語は、心の片隅にマッチを擦ったようなほのかな暖かさを与えてくれます。きっと、こんな父娘関係は羨ましいなぁ、と世のお父さん方は感じることでしょう。

藤野恵美「ハルさん」


悩み相談、ときどき、謎解き? 占い師 ミス・アンジェリカのいつ街角(成田名璃子)

内容に入ろうと思います。
主人公の田中花子は、勤めて7年目を迎えるOLだ。会社では腫れ物のように扱われている。プライベートを詮索したり残業させたりすると不幸が起こる、という噂が流れている。しかし、彼女にとってそんなことはどうでもいい。自分は、心の内側に秘密の部屋を持っていて、そこで一人考えにふけっている。幸せだ。秘密の部屋の外側の出来事は、鍵穴からそっと覗くだけ。深く関わるつもりもない。これまでもそうやって一人で生きてきたし、それで充分だ。
草木と会話することの多い花子は、ある時名案を思いつく。世の女性達は、ありあまるエネルギーを無駄なお喋りとか恋愛につぎ込みすぎている。彼女たちのそのエネルギーを、地球の緑化に役立てることは出来ないだろうか?
そこで花子は、「アンジェリカ」と名乗り、街角で占い師をやることにした。占いで稼いだ金額全てを、地球の緑化のために寄付するのだ。
占いなんてでっちあげで適当にやっているだけなのだけど、祖母が占い師だった影響なのか、時々ふっと言葉が降りてくることがある。それは、降りてきた瞬間に自らの意思とは無関係に口から飛び出てしまい、しかも意味はわからない。ただ、言われた当人には思い当たるフシがあるようで、それによって「よく当たる!」と評判になり、毎日行列が出来るほどになった。
ある日、男の人に声を掛けられた。それまで気づかなかったのだけど、自分が占いをしているすぐ後ろで、自作のキャンドルを売っているのだそうだ。誠司というその男は、何を気に入ったのかアンジェリカにまとわりつくようになり、時々占いの相談者の人生にまで首を突っ込んでいくことになるのだけど…。

「カツン、カツン、と胸は鳴る」
ついこの間亡くなった父方の祖母が書いたという手紙を持ってやってきた女子高生。恐らくその手紙は、祖母が書いたまま出さなかった手紙だと思われるが、受け取るはずだった男性の名前に、家族一同心当たりがない。とにかく、その人の家を知りたいとやってきたのだったが…。

「南半球の友人」
高校時代、花子には翠という名の親友がいた。ひと目見た瞬間から、自分と同じように秘密の部屋を持っていると分かった。話は物凄く合い、いつまでだって喋っていられた。でも、翠が抱えていた現実は、花子とは全然違っていた…

「とんがりおもちゃ」
弟がいなくなったから探して欲しいと訴える男の子。万札も入っている貯金箱を持ってきていた。話を聞いてみると、弟というのは人気の戦隊ヒーロー物のフィギュアなのだという。適当に応対しようとするが…。

「ミス・アンジェリカは見た!」
恐らくどこかの会社の社長だと思われる人物が、妻が陰でコソコソ何かしていると疑っている。何をしているのかわからないが、占いで分かるなら見てもらえないか、と。それでもなぜか浮気を疑っている様子はないのだけど…。

「不完全な未来」
親友の居所を知りたいと切実に訴える女子高生。アンジェリカは占うが、降りてきた言葉が二択だった。今までそんなことはなかった。連絡が取れなくなった親友の名前が、漢字は違うけど「碧」だったせいで冷静ではいられなかったのだろうか…。

というような話です。
個人的にはちと評価は辛くなってしまうなぁ。
僕が気になったのは大きく二点。
まずは、占い中に時々「言葉が降りてくる」という設定。これはちと、万能過ぎるのですよね。
なんでかって、謎を生み出すのにも使えるし、謎を解決するのにも使えちゃうからなんです。とにかく、何だって出来る。この、「自分でも意味は分からないけど唐突に降りてくる言葉。しかもその内容は100%正しい」っていう設定は、物語をテンポよく進めていくのにはうってつけの設定だなとは思うんです。謎解きって、真相にたどり着く過程でダレちゃうことがよくあるから、そういう意味では悪くない。だけど、あまりにもこの設定が万能すぎて、物語を都合よくどんな風にでも展開させることが出来てしまう、という点が、個人的には一番評価できないところかなぁ、と思いました。
それに関連して、謎に意外性がないというのもちと辛い。「言葉が降りてくる」という設定は万能感満載なんだから、もっとハチャメチャな謎でもいいんじゃないかと思う。ハチャメチャまで行かなくても、もっと意外性のある、変わった謎を設定した方が、単純に物語は面白くなるよなぁ、と思います。けど、なんというか、全体的にとても小さくまとまっている。普通に読むと、物語の軸は謎解きにあるはずだと思うんだけど、でもアンジェリカと誠司の恋模様的な部分もかなり描写されていく。そこをもっと減らして、謎的な部分に注力した方が、設定を全体的に活かせるんじゃないかなぁ、とか思ったり。
もう一点は、アンジェリカの設定のちぐはぐさです。アンジェリカは、たぶん年齢的にもう30歳近いと思うんだけど、その人生30年近くを、ほとんど他者と関わることなく生きてきた、と書かれているわけです。子供の頃も、大人になってからも、他者と関わることなく、自分の内側にある「秘密の部屋」に閉じこもって、ただの観察者として他者を扱っていた、というようなことが繰り返し書かれるわけです。
なのに、誠司に一目惚れしちゃうのですよね。まあ、アンジェリカの中では、「惚れてるなんてわけがない」的な葛藤があったりして、それが物語のもう一つの軸だったりもするんですけど、どうもそれに納得感が足りないのですよね。「南半球の友人」で描かれる翠は、アンジェリカと同類だったから、普段他者と関わらないアンジェリカが仲良くなるのはわかる。でも誠司は、描写されている限りを見ると、別にどこにでもいる普通の男だと思う。誠司ぐらいの男なら、アンジェリカのそれまでの人生にもたくさんいただろう。じゃあ顔が好みだったのか?それだって、それまでの人生に好みの顔の男に会ったことぐらいはあるでしょう。そう考えると、完全に門戸を閉ざして生きているアンジェリカが、どうして誠司に惹かれたのかという部分が、どうもしっくり馴染まない気がするのです。
個人的にはその二点が凄く気になって、なかなかうまく評価することは出来ないなと感じました。
作中の話では、「南半球の友人」が一番好きですね。正直この話だけ全体の中で浮いているんだけど、イルカの話とか、そのイルカの話を二人の関係になぞらえたりだとか、翠のキャラクターだとか、結構色々面白いなと思えました。

成田名璃子「悩み相談、ときどき、謎解き? 占い師 ミス・アンジェリカのいる街角」


ポイズン・ママ 母・小川真由美との40年戦争(小川雅代)






内容に入ろうと思います。
本書は、共に名優であった、小川真由美と細川俊之の娘である著者が語る、小川真由美の「母親」の部分を「告発」する内容になっています。著者は、宗教にハマり、また人の言うことをまったく聞かず、すべて自分の思い通りにならないと気が済まない(というか、すべて自分の思い通りになって当然だと思っている)母親の支配され、それが「おかしいことだ」と自覚することもなかなか出来ず、「これが普通なんだ」とずっと思いながら、恐ろしくしんどくて絶望的な環境にずっとい続けた、その衝撃の記録です。
僕は、小川真由美という女優のことは知らない。本書では繰り返し、母親は女優としては凄かった、と書かれている。恐らくそうだったのだろう。元々文学座で杉村春子に可愛がられ、そのままスターダムにのし上がっていったようで、まったく世間知らずのままにスターになった。別に有名になりたかったというわけでもなく、純粋にお芝居がしたい人だったようだ。しかし、チヤホヤされるようになり、また怪しい宗教にハマるようになり、女優以外の部分での小川真由美は、完全に破綻しきっていた。しかしそれでも、小川真由美の周囲にいる人間はおべっかを使うし、仕事を得るために嘘もつく。そのために、著者がないがしろにされ、疑われ、酷い扱いを受けることは頻繁だった。
著者はまえがきで、こんな風に書いている。

『幼いときの親からの影響はとても大きいものです。やった方は自覚がなくても、やられた方には決して消えない傷が残ります』

『親や周りからの極度の無理解、DV、怪しい宗教、無気力、自殺未遂、パニック障害、鬱に苦しんだ私の経験が、いま同じように親子関係で苦しんでいる若い子たちの、何かしらの参考になって役に立つ事が出来れば嬉しいと願っています。』

『そしてもう一つ、母が生きているうちに発表する事にしたのは、私の中に今でも、「出来れば平穏無事なごく普通の親子関係を取り戻したい」という気持ちが強くあるからです』

本書を読み終えた今、著者がこの本をどうしても書かなければならなかった理由が、凄く伝わってきた。もちろん、「自分の経験が誰かのためになることを願う」という気持ちも強くあるだろうし、実際に本書のお陰で救われる人もいるかもしれない。でも、何よりも本書によって救われるのは、著者自身だろうと僕は感じた。この本を書くことで、著者の中で「母親」というものを「殺す」ことが出来たのだろうと思う。自分をずっと苦しめ続けてきた巨大な存在を、消し去ることは出来ないにしても、その存在を出来る限り小さくすることが出来たのだろうと思う。それぐらい本書には、あらゆることが赤裸々に書かれている。僕には、女優・小川真由美のイメージはない(「八つ墓村」とか「積木くずし」とかに出ているらしい)。だから、女優・小川真由美とのギャップを感じることは出来ないけど、そんなギャップなんて必要ないくらい、小川真由美は狂っているし、異常だ。女優・小川真由美のイメージを持っている人であれば、そのギャップに驚かされるのではないだろうか。
そしてだからこそぼくは、「普通の親子関係を取り戻したい」という欲求に驚く。これだけ酷いことをされて、子供の頃にされたことまで鮮明に覚えているというのに、それでもまだこの母親と普通の親子関係を期待している。その言葉を、嘘だと思っているわけではないけど、なかなか僕には信じがたい。いや、これは、僕が人間として冷たすぎるというだけのことなのかもしれないのだけど。
著者は、どれだけ酷い境遇に置かれていても、その話をほとんど誰にも話さなかったという。理由は明快だ。

『母の理不尽を、他の身近な大人に言いつけなかったのには理由がある。たとえ勇気を出して少し話しても、「あの大女優がそんなことをするはずがない」と信用してくれないせいだ』

『全ては私の被害妄想で、よくある「親が忙しすぎて、淋しくて注目されたいから出た虚言癖」とほとんどの人が思うようだった』

これは辛い。子供が、自分の言っていることを誰も信じてもらえない、という経験は、凄く辛い。そしてこの著者は、結局そういう環境の中で40年近くも生きていくことになるのだ。よく耐えられたものだと思う。物心ついた頃からそういう環境にいたから、あらゆることが麻痺していたという部分もあるだろう。芸能界という「ちょっと普通ではない世界」にいる人達ぐらいしか周りに大人がいなかった、ということも大きかったかもしれない。それにしても、凄まじい忍耐力だと思う。
本書はとにかく、著者が物心ついた頃から41歳になるまでの、母親(や周囲の人間)との壮絶な闘いが描かれていく。それは、どの場面を切り取っても、壮絶としか言いようがない。ここまで言葉の通じない人間がいるのか、という驚きもあるし、その言葉の通じない人間に支配され続けたまま生きていけるものなのだという驚きもあるし、そういう関係性がずっと継続出来てしまう環境にも驚かされる。
著者と母親がどれほどハチャメチャな親子関係の中で生きてきたのか、それは是非とも本書を読んで欲しいのだけど、少しぐらいは書いてみようと思います。
まず、帯には、本文からこんな文章が抜き書きされてる。

『だんだん、誰も帰って来なくなった。
一週間単位で放置されることも珍しくなかった。
何も食べていないせいで、体がシビレてもうダメだと思った。
帰ってきた母は、「3日前は食べたの?じゃあまだ平気よ」と言い放ってまたどこかへ行った。』

この飢えに関する話は凄すぎて、こんな場面もある。

『缶詰や煮干しや梅干し、非常食も食べつくし、大量にあった犬の餌を食べてみたが不味かったので、これはもう罪にならないだろうと、コンビニでおにぎりやサンドイッチを万引きして食い繋いだ。でも罪悪感にかられ、一個返しに行ったことがある。
それもだんだん面倒になり、寝ていることが多くなった。寝るのが一番カロリーを消費しないことに気付いた。最高5日~7日間寝ていた。』

これはもう、育児放棄と行っていいレベルだろう。結局それは、付き人との誤解(いや、違うか。これは犯罪というべきだな)によるものであって、小川真由美に育児放棄の意識はあまりなかったかもしれないのだけど、しかしそれにしても、と思う。
また、占いを頼りに何度も引っ越しをさせられたり、母親が運転する車に足を轢かれたのに爆笑されて終わったり、やってもいないことを「やっただろ!」と延々と問い詰められたり。他にももっと色々凄まじい状況に置かれているのだけど、よくもまあ耐えられたものだと思う。凄いとしか言いようがない。
さらにその後、仲良くしていた別の人からDV的な扱いを受けたり、離婚して時々会うだけになっていた父親から心ないことを言われたりと、とにかく味方がまったく周りにいない状況の中で、どうにか孤軍奮闘する。人生のところどころで、支えになってくれたり、ちょっとした手助けをしてくれたりする人が現れて、どうにかその細い線を繋いでいくようにして著者は生き延びる。「生き延びる」という表現がまさに適切で、何か一つでも欠けていたら、著者は今日まで生きていなかったかもしれない。
オウム真理教による地下鉄サリン事件が起こった時、著者はこう思ったという。

『オウム真理教事件が起きて、報道で「洗脳」という言葉が一気にメジャーになり、
「私も母に洗脳されていたのだ」
とその時ハッキリ気づいた。自分でも何だかよくわからず、子供の頃かの出来事を人に説明するのも難しかったけれど、これに照らしあわせて考えれば理解できそうな気がした』

まだ、「洗脳」という言葉が一般的ではなく、著者は自分が置かれた状況をきちんと理解することは出来ないでいたのだ。また、かなり重篤な鬱状態に陥ったことに関しても、こんな風に書いている。

『今のようにネットで簡単に情報を手に入れられないし、病気と言えば肉体だけのもので、精神の方の「鬱」という病気があること自体よく分かっていなかった。
「こんな気分になる自分は弱くて、人は受け入れてくれないんじゃないか?」
とひとりで悩んでいたせいで、より悪化したのだと思う。』

今ではそういう知識は割と広まったと思う。広まったが故の弊害も様々に出ているようだけど(新型うつ病と呼ばれているものも、その一つじゃないかと思う)、こうやって一人で苦しんでしまう人がいることよりは、どんどん知識は広まった方がいい。
今でこそ、「鬱の人には頑張れと言ってはいけない」というのは結構常識的な知識として広まっているのではないかと思う。著者も、病院で鬱と診断されたので、母親に、鬱病に関する一般的な知識が書かれたパンフレット一式を郵送した。その後母親から来たメールには、「気合よ、気合!頑張って!」と書かれていたそうだ。「母は私を破滅させたいのだと感じた」と書いている。それぐらい、話が通じないのだ。
著者は、自分のような体験をした人に、こんなアドバイスを書いている。

『若い人たちにアドバイス出来るような身分ではないけれど、もし、多感な少年少女時代、大人に理不尽に虐げられて、心が押しつぶされそうになったら、外部の誰でもいいから、ホノボノした温かい家族を捕まえて、なるたけ一緒に過ごすことを勧めたい。
「心温まる想い出」の既成事実を沢山作ってしまうのだ。これが、それからどんなに最悪な事態になっても心を壊さないようにするコツだと思う』

きちんとしたデータを持っているわけではないけど、今の時代は、昔の時代よりも遥かに、親との子の間でのトラブルが増えているのではないかという実感がある。子供にとってはなかなか生きにくい世の中ではないかと思う。しかも、都会に住んでいればいるほど、近くに助けを求められる大人がいなかったりするだろう。近くに大人がいても、子供の話をきちんと聞いてくれなかったりするかもしれない。そういう中でも、どうにか生きていかなくちゃいけない(死にたくなければ)。本書は、具体的にどうすればそういう親に対処出来るのかが書かれているわけではない。けれども、「これほど壮絶な環境の中でもどうにか生きてきた人がいるということ」、そして「おかしな親というのはやはりいるのだ。もしかしたら自分の親もおかしいのかもしれない、と思考する余地を与えてくれること」は、本書の一番大きな要素ではないかと思う。
今辛い環境にいる人には、このブログや、本書の存在はなかなか届かないかもしれない。でも、僕は書きたい。今生きている環境が辛すぎる人。とにかく、一刻も早く逃げてください。
芸能界という特殊な環境ではあるけれども、親と子の関係という意味では普遍性があって、程度や状況の差こそあれ、多くの人に関わってくる話ではないかと思います。是非読んでみてください。

「ポイズン・ママ 母・小川真由美との40年戦争」


人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか(森博嗣)

内容に入ろうと思います。
本書は、「抽象的な思考」を身に付けるための方向性を指南するような、そんな作品です。
人間は、色んな価値観や常識や思い込みや考え方に囚われている。そういう生き方をしていると、具体的で論理的な思考に絡め取られていってしまう。
森博嗣は、ここ10年で一番多い質問として、「ものごとを客観的に考えるにはどうしたらよいでしょうか?」というものを挙げている。抽象的思考も、客観的な思考と関係がある。抽象的に考えることで、どんな自由を手に入れることが出来るのか、どんなものが見えてくるようになるのか。また、抽象的に考えるようにするためにはどんな訓練が出来るか。本書ではそういうようなことが書かれている作品です。
非常に内容が説明しにくい。
森博嗣も作中で何度も、今書いている文章は抽象的でわかりにくいかもしれない、というようなことを言う。僕はそれほど分かりにくさを感じないのだけど、具体例が非常に少なく(これは著者がそう意図しているからだ)、定義も曖昧な表現(◯◯のような、という表現が多用される。それを多用することについて、巻末に説明がある)が非常に多く出てくる文章を苦手だと感じる人も多いかもしれない。
そんな人に、森博嗣はこんなことを言う。

『まえがきからして、いきなり抽象的な話になっている。こういう話を聞いたり、このような文章を読んだりすると、多くに人は眠くなってしまうだろう。それは日常、具体的なし激ばかりに囲まれているから、抽象性を求める感覚が退化している証拠だと思って欲しい。』

森博嗣は、本書のスタンスについて、こんなことを書いている。

『ただ断っておきたい。この本を読めば、その「客観的で抽象的な思考術」なるものが会得できるのか、というとその保証はない。基本的に、ノウハウを教えれば、すぐにできるようになる、というものではないからだ。
それでも、少なくとも「客観的になろう」「抽象的に考えよう」と望んでいる人が本書を読むだろうし、また、真剣にそれを望んでいるのなら、必ずその方向へ近づくことになるはずだ。その近づき方を多少早める効果が、この本にはあるかもしれない。そう願っているし、多少でもそれを信じなければ、やはり書けないと思う』

『単に、それだけのことである。これも、最初に断っておかなければならない。つまり、客観的で抽象的な思考、あるいはそれらを伴う理性的な行動ができても、せいぜい、もうちょっと有利になるだけの話なのだ。是が非でも、というものではない。それができるからといって、人間として偉くなれるわけではない。
ただ、そういう考え方が、あるときは貴方を救う、と僕は信じている』

本書は、先程も書いたように、具体的な話が非常に少ない。読者が具体例に引きずられてしまわないように、出来る限り具体例を入れないようにしているためだ。だから、「(具体的に)こうした方がいい」というような話はほとんど出てこない。出てきたとしても、それだけではどんな行動を取ったらいいかよくわからないような、やはり曖昧さを備えたアドバイスだろう。
そういう意味で本書は、一般的な思考術の本とはかけ離れている。本書を読んだだけでは、何をしたらいいかわからないだろう。どの方向に一歩を踏み出せばいいか、ということはなんとなく感じ取れるかもしれないけど、でもその一歩も、人によって違うだろう。本書では、抽象的思考というものにたどり着くとどんな風になれるのかという「目的地の提示」と、その目的地に至るための「道筋の提示」はしてくれているように思うのだけど、肝心の「スタート地点の提示」だけはしてくれない。スタート地点は、あなた自身が探すしかない。そしてそれこそが、一番難しいことかもしれないと思う。

『客観的、抽象的な考えができない人というのは、つまり「そうは考えたくない」という人なのである。あるいは、感情的に「そういうふうに考えるのは嫌いだ」という気持ちを持っている場合もある。人のことをあれこれ考えるのはいけないこと、はしたないことだ、と思っている人もいるかもしれない。』

これが、スタート地点に立つことの難しさだ。僕たちは常に、具体的なモノや考え方に取り囲まれている。具体的なものだけに触れ、具体的なものだけ考えることで、普通に生きていける。そこからわざわざ出る必要性を感じない人もきっと多いのだろう。だからこそ、客観的・抽象的な思考という入り口に立てない。入り口に立てなければ、例え目的地が提示されていても、そこにはたどり着けないだろう。

森博嗣は、「唯一のポリシィは、なにものにも拘らないこと」だと書いている。

『さて、どうして「なにものにも拘らない」ようにしようと思ったのかといえば、それは、自分の周りの人たちを見ていて、「ああ、この人は囚われているな」と感じることがあまりにも多かったからだ。ほとんど全員が、囚われているというか、支配されているのである。その囚われているものというのは、常識だったり、職場の空気だったり、前例だったり、あるいは、命令、言葉、体裁、人の目、立場、自分らしさ、見栄、約束、正義感、責任感、などなど、挙げていくときりがない。』

僕も周囲の人間に対して、同じように思うことがとても多い。
僕も、森博嗣ほど徹底はできていないだろうけど、「なにものにも拘らない」というのを人生のスタンスとしている。
子どもの頃は、全然そんな風ではいられなかった。色んなものに囚われていたし、凄く苦しかった。学校では、周りから浮かないように、排除されないようにと気を配り、家では優等生を演じていた。常に、僕の行動の基準は、周囲からどう見えるか、というところにあった。僕自身がどうしたいか、どうしたくないか、というのは関係なく、自分が周囲からどんな風に見られているのか、そしてそれが真っ当な範囲内に収まっているのか。ずっとそんなことばっかり考えて生きていた。
けど、そういう生き方は、きっと僕には全然向いていなかったんだろう。中学・高校ぐらいになると、もうしんどくてしんどくてたまらなくなっていた。大体いつも、逃げたい、と思っていたと思う。この優等生の殻を破りたい、周囲の評価なんかどうでもいいと叫びたい。けど、やっぱりそういう風にはできないままだった。
その後、まあ僕の人生の中ではそれなりに激動的なことがあって、その過程で僕は、色んなものを捨てることが出来た。その時に僕は、常識だの前例だの立場だの体裁だのと言った、よくわからないけど僕の周りにあって僕の動きを制限する様々なものを捨て去ることが出来たと思う。
あの時期がなければ、僕は未だに囚われたままだっただろうし、だとすれば相当しんどかっただろう。僕は僕なりに、もう限界だった。たぶん、周囲の人から見れば、色んなものを捨てすぎてもったいないとか、もうちょっと頑張ってみればいいのに、とかそんな風に思われていたことだろう。でも、僕は断言できる。あの時期に、とにかく色んなものをガシャガシャ捨てることが出来たからこそ、僕はどうにか今も生きていられる。
さて、そんな風に色々捨てて、自分を縛り付ける色んなものから解放された(と思っている)僕の目からすると、世間の人はどんな風に映るのか。
僕には、世の中のほとんどの人が、自ら進んで「檻」に入っていき、そして「この檻から出られない!」と苦しんでいるように見える。これは、本当に正直な感想だ。
サーカスの象の話に近いかもしれない。
サーカスの象がなぜ逃げ出さないのかというと、力の弱かった子どもの頃からロープで杭に縛り付けられていて、ここから逃げられないんだ、と思い込む。だから、杭とロープごときで食い止められないはずの大きさになっても、象は無理だと判断して逃げ出さないのだという。
僕の目からは、多くの人が、このサーカスの象のように見える。サーカスの象より酷いかもしれない。サーカスの象は、初めは捕らえられて強制的にロープで繋がれたわけだけど、人間は別に誰かに強制されてどこかに繋がれているわけではない(時折、そういう境遇の人はいるだろうけど)。人間は、自ら進んで檻の中に入っていって、自分の力でその檻から出られるのに、「出られない!」と苦しんでいるのだ。
昔自分もそこにいたから、そうなってしまう気持ちはよくわかる。でも、色々あって無理くり檻から抜けだした僕からすると、そんな檻さっさと逃げ出しちゃえばいいのに、と思えてくる。

『そんな限られた時間の中で、自分に押し寄せてくる雑多な不自由を、よく観察してみよう。本当に必要なものだろうか、と考えてみよう。ついつい流されているものがないだろうか。ただ単に、「当たり前だから」「みんながしていることだから」「やらないと気が引けるから」「ずっと続けてきたことだから」「断るのもなんだから」という弱い理由しかないものに縛られているかもしれない』

こういう人は、僕の周りにも多い。話していて、上記のようなセリフを口に出すわかりやすい人もいるし、そんな風には言わないけど、言葉の端々や態度などからそれが分かることもある。
そういう人を結構見てきて、僕はようやくこう思えるようになった。つまり「みんな」は、「不自由」が好きなんだな、と。口では色んなことを言っているけど、僕には結局、鍵の掛かっていない檻にただ一人で閉じこもっているだけにしか見えないことが多い。「出られない」のではなく「出られるのに出ない」のだ。
どうして「不自由」が好きなのかといえば、恐らくそれはきっと、「自分で考えたくない」「自分で決断したくない」ということなんだろうと思う。それは、とても楽な生き方だ。誰かの意見に従っていれば安全、自分で決断するよりよっぽどいい。そんな風に思っている人が、きっと、世の中にたくさんいる、ということなんだろうと思う。
そういう生き方に不満がないのであれば、本書を読む必要はまったくないだろう。自ら檻に入って、その檻に取り囲まれていることに安心感を覚える人であれば(あるいは、そもそも自分が檻の中にいるという意識を持たないでいられる人であれば)、抽象的思考なんていうしちめんどくさい考え方をする必要はない。今のままで、充分幸せである。
でも、きっとそうではない人もいるだろう。自分が檻の中にいることは気づいていて、そしてそこから出られないと思い込んでいる人。そういう人には、本書は一助となるのではないかと思う。
僕自身は今ではもう、誰からどんな風に見られようとあまり気にしないし(まあ、まだ「あまり」という言葉は外せないけど)、常識でそうすることになっているからとか、ずっとそんな風にやってきたからというような、理由にもなっていないようなわけのわからない意見には従わないでいられる。僕の人生を傍から見たら、全然羨ましくは見えないだろう。でも、僕は、結構満足している。何よりも、囚われていないことの素晴らしさは、囚われていた頃に苦しんでいたこともあって、非常に爽快だ。ちょっと考え方を変えるだけで、こんなに楽に生きられるようになるんだって、昔の自分に教えてあげたいくらいである。

『子供や若者の中には、「友達ができない」という悩みを抱えている人が多い。その種の相談を受けることも実際に頻繁である。そういう人には、「どうして、友達がほしいの?」と尋ねることにしている。「友達がいないと寂しいから」と答える人がほとんどであるが、「では、どうして寂しい状態がいけないの?」と問うと、これにちゃんと答えられる人はまずいない。不満そうに黙ってしまうのだ。
彼らは、「寂しいことは悪い状態だ」と考えていて、「友達がいれば寂しくない」と勝手に信じている。なんの根拠もなく、そう思い込んでいるのである。だから僕は、「寂しくても悪くない」こと、そして「友達がいても寂しいかもしれない」ことを説明するようにしている。そんなことは信じられない、と反発する人もいるが、つまり自分の思い込みが悩みの原因だということに気づいていない(気付けない)状態といえる。』

昔の自分も、「どうして寂しい状態がいけないの?」と問われたら、黙ってしまっただろう。昔の自分も、なんの根拠もなく、「寂しいことは悪い状態だ」と考えていたはずだ。今は、そんなことはない。寂しくても孤独でも問題ないし、「友達がいても寂しいかもしれない」というのは、大人になってからハッキリわかるようになったかもしれないとも思う。
どうだろうか。こういう思い込みに、支配されていないだろうか?

『現代社会は、あふれるばかりの情報が降り注ぎ、人々はこれに埋もれてしまっている状態である。広い範囲の具体的な情報に、誰でもいつでも簡単にアクセスができるようになった。知りたいと思ったときに、すぐに知ることができる。ただし、知りたいと思っていないものまで、無理矢理知らされてしまう、という事態に陥っている。また、いったいなにが本当なのか、ということがわからない。その理由は、これらの情報が、どこかの誰かが「伝えたい」と思ったものであり、その発信者の主観や希望が必ず混ざっているからだ。濁りのないピュアな情報を得ることは、現代の方が昔よりもむしろ難しくなったといえるだろう。』

『さらにまた、非常に瑣末な知識に大勢が囚われている。そういった身近で具体的な情報に価値があると思い込まされている、といっても良い。実は、それらは身近なもののように偽装されているだけで、「具体的な情報を知らないと損をする」と恐れている人たちに付け入っているのである』

『現実に見えるものの多くは、誰かによって見せられているものであって、その人にとって都合の良いように加工されているため、そのまま受け取ってしまうと、結果として自分の考えに合わない方へ流され、渦の中へ吸い込まれていくことになる。別の言葉でいえば、知らず知らず、他者に「支配」されてしまうのである』

情報というものとどう付き合っていくのか、ということについて、こんな風に書かれている。僕は今ではテレビはほとんど見ないし、新聞は昔から読んでない。雑誌も読まないし、ラジオも聞かない。入ってくる情報をある程度制限しよう、という意識はある。どうせ、現在流通している情報のほとんどは、誰かにとって都合よく加工されているのだ。それはわかっている。もちろん、たくさんの情報を付きあわせれば自ずと真実的なものが見えてくるのかもしれないけど、それもかったるい。だったら、別に知らない方がマシなんじゃないかと思うことが結構多い。
それは、書店で働いていると、より強く感じることでもある。
テレビで紹介されたり、新聞に載ったものが、瞬時にして売れ出してヒットすることがよくある。僕は、いつも不思議でならない。テレビで紹介されたから、新聞に載ったから、どうだというのだろう?別に、そういう購買行動をする人を非難するつもりはない。売っている立場からしても、非難できるような話でもない。ただ、僕は不思議でならないだけだ。
最近ツイッター上で、こんなツイートを見かけた。非常に共感したので、RTしたものだ。

【大好きなラーメン屋がネットで酷評されてて足が遠ざかった。観たいと思ってた映画を評論家が★1つで観なかった経験がある。先日久々に食べたラーメンは旨くDVDで観た映画は面白かった。基準を外に託すと誰かに聞かないと幸せかどうかすらわからない化け物になってしまう】

その通りだと思う。誰かの評価は、誰かの評価でしかない。参考の一つにはなるかもしれないけど、それが決定的な判断基準になってしまうのは、怖いとさえ思える。やはり僕はこう思ってしまう。みんな、自分の頭で考えたくないんだな、自分から檻に入りたいんだな、と。
僕は、働いている書店で文庫と新書の売り場を任されているのだけど、僕の売場作りのスタンスは、「どうにかして、お客さん自身が自分で本を選べるように」というものだ。出来る限り、お客さんの「考える力」を奪うような売り場は作りたくない、と考えてしまう。もちろん、お客さんの「考える力」を奪うような売り場を作る方が、より簡単に売り上げを伸ばすことが出来るかもしれない。それは、ファッションの流行色が何故か決まっているのと同じようなもので、お客さん自身に考える隙を与えないようにすることで、効率よく売り伸ばすというのに近いと思う。それを否定したいわけではないのだけど、それでいいんだろうか?と思ってしまうし、環境が許す限り僕は、お客さんの「考える力」を奪わない売場作りをやり続けたいと思っている。

『とにかく、世の中は、具体的な方法に関する情報で溢れ返っている、こんなに沢山の情報が存在できる理由は、結局それらの方法では上手くいかないからである。もし一つでも確実に上手くいく方法が存在するなら、自然にほかのものが淘汰されるはずだ。』

書店で働いていると、本当にそう思う。ダイエットの本、健康の本、自己啓発の本、他にも色んな本が毎日毎日山ほど発売されるのだけど、そんなことが可能なのは、結局のところ、どれも上手くいかないやり方を載せているからだ。そう考えるしかない。それは、誰もが疑問に思っていいことではないかと思う。こんなに山ほど色んなダイエット本が出ていて、次々と新しいダイエットが誕生していくのは、なんかおかしくないか?と。だから僕は不思議でならないのだ。なぜそういう情報に手を出してしまうのだろうか?やはりそれは、自分で考えたくないからだろう。
本書では、抽象的思考をするためにどうしたらいいか、ということが語られる本ではあるのだけど、その一方で、抽象的思考だけは教育出来ない、と森博嗣は結論している。

『本章では、抽象的思考ができるような人間を育てるには、どうすれば良いのか、ということを書こうと思っている。これは、「教育論」と受け取られるかもしれない。けれど、僕はそれを否定したい。何故なら、「教育」という具体的な「方法」が人を育てることに対して、僕は半信半疑だからだ』

『研究をしながら、多くの学生を研究者として育てたけれど、発想のし方だけは、どうしても教えることができなかった。当たり前だ、自分でも、どのようにして思いついたのか、わからないのだから。それどころか、その最初の思いつきがどんなものであったかも説明できない。説明ができるようになるのは、発想から育てたアイデアである』

僕は最近、将棋と数学をどうにか勉強したいと考えている。まだその時間をうまく取ることが出来ないでいるのだけど、どうにかしたいと思っている。
この将棋と数学は、抽象的思考そのものだと思う。将棋も数学も、「最初の発想」がなければ正しい道筋を捉えることができないし、そしてその「最初の発想」を誰もが出来るように教育することは、やっぱりできない。答えを見て「なるほど」と思うことは誰にでも出来るようになるかもしれないけど、でもその「なるほど」を自ら思いつくのは、やはりある種のセンスといえるだろう。本書を読む前から将棋と数学に時間を割きたいと思っていたのだけど、やはり抽象的な考え方を伸ばしたり身につけたりしたいという欲求や、あるいはそもそもそういう考え方をするのが好きだというような個性があるのだろうなと思う。
そしてこの話は、つい最近読んだ「喜嶋先生の静かな世界」という森博嗣の小説を連想させた。発想すること、研究することをメインのテーマに据えた小説で、非常に好きな世界観だった。
森博嗣は、教育について、こんな風にも書いている。

『だが、子供にしてみれば、努力とはつまり、目の前にあるものを覚えることなのだ。子供は、それ以外に努力のしようがない。何故なら、思いつくこと、突飛な発想をすることは、「努力」とは全然違った行為だと本能的に認識できるからだ』

『こういう社会、こういう大人たちを見て、子供は育つ。考えなければならない問題があれば、「こんなことは学校で習っていない」と文句を言うだろう。文句を言わなくても、不満に思う。腹を立てるばかりで、自分でそれを考えてみようとはしない』

内田樹の著作を読んだりしても、教育というものの難しさを感じさせてくれるのだけど、やはり「教育」というのは一筋縄ではいかないのだなと思う。森博嗣は、何かの小説かエッセイの中で、「大人になったらこんなに楽しいことがあるんだ、ということを背中で見せることが、父親が出来る唯一の教育ではないか」というような内容のことをどこかで書いていたような気がするけど、これは僕にとって、教育というものを表す非常にしっくりくる表現だなと思うのでした。
さて、本書の結論は、非常にシンプルである。

『いずれにしても、大事なことは、「もうちょっと考えよう」という一言に尽きる。これが、抽象的思考に関する本書の結論といっても良い。あまりにも簡単すぎて、「え、それだけ?」と驚かれたかもしれない』

これは、さっき僕がした表現をもう一度流用すれば、「スタート地点に立とうとしてみよう」ということだろう。まず、自分がスタート地点に立っていないのだ、ということを認識するだけでも、世界の見え方は全然変わってくるだろう。

『でも、なにに対しても、もうちょっと考えてほしいのである。なにしろ、全然考えていない人が多すぎるからだ。みんな周りを見回して、自分がどうすれば良いのかを「選んでいる」だけで、考えているとは思えない。選択肢が簡単に見つからないような、少し難しい問題に直面すると、どうすれば良いかを、「人にきく」人、「調べる」人が多くなる。でも、なかなか自分では考えない』

本書の内容は抽象的すぎて、普段「考えていない」人にはとても読みにくいかもしれない。具体的な話がほとんど出てこない文章はなかなか追えないかもしれない。でも、そういう人にこそ、本書は読まれるべきだと思う。とにかく最後まで読んで見て欲しい。最後の最後の、本書を締めくくる森博嗣の言葉に、きっと勇気づけられることだろう。
自分が普段「何も考えていないのだ」と意識すること、自分が様々なものに「囚われているのだ」と自覚すること、そして自分が今「スタート地点に立てていないのだ」と知ること。それだけでも充分に意味がある。そして本書は、それを手助けしてくれる作品だと僕は思います。国民全員に読んで欲しい一冊です。素晴らしい作品でした。

森博嗣「人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか」


いつまでも白い羽根(藤岡陽子)

内容に入ろうと思います。
木崎瑠美は、大学受験に失敗して、看護学校に入ることになった。嫌々だった。元々勉強は出来た。普通に大学に行くつもりだった。それなのにどうして、という思いは拭えない。とりあえず通うことにする。受験勉強は続けてみることにする。来年、またどこかの大学を受けるかもしれない、という可能性を残しておく。
看護学校ですぐに仲良くなったのは、同じ班になった千夏だ。千夏は、大柄で声がでかくて、いつも陽気だった。環を掛けて不器用で要領が悪くて、でも、特段やる気もなく学校に通っている瑠美には、千夏の存在はある種の救いでもあった。他に、恐ろしい美貌を持つ遠野と、二人の子どもを育てている主婦の佐伯が同じ班である。
瑠美は、器用さと優秀さを武器に、着実に実技や知識を吸収していく。成績だけ見れば優等生だ。しかし、上の者、権力を持つものに反発してしまう気質は、瑠美を学校内で孤立に向かわせる。同じく優秀で、かつ独立自尊を地で行く遠野ほど孤立はしていないが、瑠美は、自分が教員から嫌われていることをはっきりと自覚している。
図書館で出会った医大生や、千夏に誘われて顔を出した飲み会で知り合った千夏の幼馴染らと、名前のつけがたい距離感を保ちながら時間を過ごしつつ、忙しい日々を駆け抜けていく。自分が何者で、何者になりたくて今を生きているのか。そんなもの、一瞬足りともはっきりと掴めたことのない瑠美は、様々な人とで出会い、関わり合い、そうしていく中で少しずつ、自分の中で絡まりあった糸を解いていく。
なんの思い入れもなく進学した看護学校での卒業までを描く物語。
最近僕の中で、学生が主人公の物語に対する評価の厳しさが増している感がある。それは間違いなく、朝井リョウという作家と出会ったからだと思う。
学生(に限らず、若い世代、という意味だけど、ここでは学生と書く)を描くのはとても難しいと思う。というのは、作家が描く「学生」は、やはりどうしても自分が学生だった頃のことが色濃く反映されると思うからだ。そしてそれは、今まさに学生である世代とはまったく価値観が違ったりするだろうと思う。
本書は、たぶん時代設定的なものが明確ではない。時代を反映させるようなものも作中には登場しないと思う。だから、この作品を、舞台設定が大分昔であって、ここで描かれているのは現代の学生ではない、と解釈することは全然出来ると思う。
ただ、逆に時代設定がなされていないからこそどうしても、現代を舞台にしている作品なのだと無意識に思ってしまう。そして、そう思って本書を読むと、やっぱりどうしても学生の描き方にうーんと思ってしまう部分がある。
もちろん、僕が今の学生のことが分かるかと言えば、もちろん全然分からないだろうと思う。でも、バイト先の学生たちの話なんかを時々耳にしたりする中で、どっちかと言えば僕はまだそういう若い世代よりの考え方に近いんだろうな、という感じがしている(あくまで自分でそう思っているだけだけど)。
昔から、そんな風なことは考えていたと思う。学生の描き方みたいなのって難しいよなぁ、って。
でも、朝井リョウの作品を読んで、よりそういう思いが強くなった。
朝井リョウは、「今の若い世代の価値観や感覚をリアルに文章に写しとることができる稀有な作家」だと僕は思っている。朝井リョウの作品に対する賛否は色々あるだろうけど、「否」の方の意見の内の何割かは、登場人物たちの価値観とか感覚が理解できない、というようなものもあるんじゃないかな、と思う。そしてそれは、ある程度は仕方ないんだろうと思う。僕の感じている限り、今の若い世代の感覚は、ある程度以上の年代層の人たちには、きっと理解不能なんだろうと思うから。
朝井リョウの作品を読んでから、他の学生が主人公の作品を読む時に、評価がかなり辛くなったように思う。本書もそういう意味で、僕の中では評価は辛い方だと思う。やはり、本書で描かれている学生の有り様に、なんとなく入り込めない感がある。これが、舞台設定が結構古いんだ、というようなことが明確に分かる物語であればそれはそれでよかったんだけど(最近だと、宮部みゆきの「ソロモンの偽証」は、明らかに舞台がかなり古く設定されていたので、僕の中では全然問題なく読めた)。
だから、本書で描かれている学生の描写に特段違和感を覚えない人には、この作品はとても良い作品だと思います。
僕も、学生の描き方を除けば、凄く良く出来た作品だと感じます。特に、主人公の瑠美の描写は、やっぱりなかなかいいと思います。
納得出来ない感を引きずりながら入った看護学校で、はっきりとやる気がみなぎるようなきっかけもないまま、惰性のように勉強を続けていく。この設定だけでも、なんとなく「看護師は女神」的な描かれ方をされることが多い職業への先入観を打ち砕いてくれる感じがあっていいですね。それからも、はっきりとしない、なんとも収まりの悪い男女関係があったり、人と関わるのが億劫だと言いつつ色んな人と結局関わることになっていくところだとか、世の中の不合理さや違和感に流されることが出来ない不器用さみたいなところとか、そういう一つ一つが瑠美という個人を際立たせていきます。ぐわっとした勢いのある展開があるわけではないのだけど、瑠美という、人付き合いが良い訳でもない凄く狭い個人の狭い世界の中だけで、淡々とした描写を織り重ねていきながら、少しずつ変化していく一人の少女の成長を描く物語は、全体の雰囲気から、宮下奈都「スコーレNo.4」を連想させもします。表紙の印象が近い(もしかしたら絵を描いているのが同じ人かもしれないけど)というのもあるかもしれないけど。
瑠美だけでなく、脇を固める人物たちも、とても魅力的です。瑠美と千夏の繊細なやり取りは、本書の読みどころの一つでしょう。千夏という、大らかそうでいて繊細な、愚鈍そうでいて敏感な少女の「優しさ」は、時々読んでいて辛くなることもあります。遠野は、かなりトリッキーなキャラクターで、変人好きな僕としてはかなり惹かれる逸材でした。媚びず群れず従わず。それでいて優秀で美しい。近づこうとしても近づけず、逆に近づかれたら拒めないというような恐ろしさを持つ女で、かなり惹かれるキャラクターだけど、是非とも近くにはいないで欲しいと思う(笑)。佐伯も、そこまで物語に深く関わるわけではないのだけど、存在感を放つ場面がある。特に僕は、時計の話が印象に残ったかな。強いて言えば、止まった時計がきっかけだった、という話。瑠美が図書館で出会う医学生・拓海と、千夏の幼馴染である瞬也も、いい味を出していると思う。特に拓海は、なんだか掴みどころがない存在感があって面白い。ヌイ婆さんの話なんかは、結構好きだったりします。
物語は、最後の最後がとても良い。個人的には、小児病棟での実習の話と、千夏の決断の話が非常にぐっときた。
小児病棟での実習は、生まれながらにして辛さを背負ってしまっている子ども、というだけでとても悲しい気持ちになるので、これは題材によるものなんだろうと思うんだけど、千夏の決断はとても素晴らしいと思う。僕も、千夏のような立場に置かれたら、同じような判断をしてしまうかもしれない。もちろん、そんな勇気は持てないかもしれないし、分からない。けれども、千夏の決断を僕は全力で賛同するし、そんな千夏の決断に触れた瑠美や遠野の有り様も、僕は良かったなと思う。しかしホントに、大人はクソだし、社会は終わってるな、と思わされる展開でした。
学生の描き方にどうしても違和感を覚えてしまうので、なかなかすんなりと評価できないのだけど、全体的にはとても良い作品だと感じました。

藤岡陽子「いつまでも白い羽根」



東京セブンローズ(井上ひさし)

内容に入ろうと思います。
本書は、根津一帯で団扇屋を営む山中信介という一市民が、昭和20年の4月25日から毎日(どうしても不可能な日を除いて)毎日書き綴った日記、という体裁で物語が進んでいきます。780ページもありながら旧仮名使いの文章というなかなかの手強い本です。「別冊文藝春秋」という雑誌に、中断を含みつつ、15年に渡って連載されていた作品の書籍化。
戦局がどんどんと厳しくなっていく中で、山中氏の日常はあれこれと慌ただしい。団扇屋はほとんど廃業状態で、山中氏は車を手に入れて運送業でどうにか暮らしていこうと算段する。長女の絹子が闇屋で大儲けしている農機具などを手広く扱う「古澤殖産館」に嫁ぐことになりその準備もある。
激しい空襲、貧しくなっていく一方の生活、そういう環境の中で、長女の嫁ぎ先のお陰である程度不自由ない生活が出来る山中家、襲い来る悲劇。山中氏の日記からは、戦時を生きる一市民の喜怒哀楽すべてが詰まった生活の丸ごとを見ることが出来る。
やがて山中氏は、1年でこれほどの経験をしたものはなかなかいないのではないか、と述懐するほど様々なことに巻き込まれていくのだが…。
というような話です。
さて、本書の評価はなかなか難しい。
本書の帯には、こんな風に書かれている。

『日本語を救った女たちの物語!』

『国破れて国語あり。しかし、そこに未曾有の危機―日本語のローマ字化!』

僕はこの文句に惹かれてこの本を読もうと思ったのですね。
でも、この「日本語のローマ字化」の全体の3/4ぐらいまで読んでようやく、という感じです。しかも、そこまでたどり着いてさえ、「日本語のローマ字化」は凄くメインの話というわけでもない。あくまでも、ストーリーの中の一要素、というぐらいの扱いでしかありません。
「日本語のローマ字化」という話に惹かれて読み始めた身としては、なんだか肩透かしを食らったような感じがします。
本書はとにかく、終戦直前から直後に掛けての、ごく普通の市民(まあ、ちょっと普通ではないけど)の生活が丁寧に描かれている、それを楽しんで読む、というのが正しい作品だろうと思います。もちろん僕のように、「日本語のローマ字化」に惹かれて本書を手にとったけど、その時代のことが綿密に描かれていてそれに惹きこまれてしまった、なんていうこともあるでしょう。ただ僕は、そこまでそういう時代背景的なものに興味がなかったりするのですね。本書を読んでて、当時の生活をここまで細密に描き出せるものなのかと、凄く感心するし、とんでもない作品だなとも思います。ただ、僕自身の興味がそこにはあまりないし、「日本語のローマ字化」という部分を期待して読んでいたということもあって、どうしても僕にはあまり面白いとは思えない作品でした。まあこれは、作品が悪いという話ではなくて、僕が抱いた(抱かされた)先入観の問題と、僕の好みの問題なのですけど。
しかし、当時の様子を詳細に描き出すところは、やっぱり凄いなと思います。備忘録的に、気になったり感心したりした話を色々書いてみます。

○ 紙不足のために、新聞を複数購読している家庭は、それをどれか一紙にするよう通達がある
○ 結婚式の場で神主が、特攻精神について熱く語る
○ 貯蓄券がどうして床屋から始まったのか?という問いに、「チョキンチョキンの鋏の音が、貯金という音と合うからだ」と答える
○ リュックサックに闇米を入れて運ぶ人が多い。ある巡査が、コイツは怪しいと思ったリュックサックを錐で刺すと血が。その人は、リュックサックをねんねこ半纏代わりに使っていたのだ、という怪談話
○ 敵がB29から模造紙幣をばらまいたことがある。それを拾って使おうとしても、すぐにバレるという。なぜなら、敵の印刷技術の方が見事だったから
○ 山中氏による、「富士山は日本人を裏切った。富士山はB29の友達だ」という話
○ 根津に生きる人でさえも本土決戦を覚悟し、今は生きてはいるけど生かされているにすぎないのだ、という述懐
○ 空襲の時の、何百機の第編隊の音は、もはや音ではなく物体に近い、という感想
○ B29がばらまいた宣伝ビラに、「虎刈りにしてすいません。ちかぢか丸勝ちの坊主刈りにいたします」と書かれていたという話
○ 誠文堂新光社という出版社が戦後すぐに出した「日米会話手帳」という本が、発売から半月で200万部を超えたという話
○ ホテルにおける「サービス料10%」という仕組みは、帝国ホテルの犬丸支配人が考え、それが世界中に広がったのだという話
○ 五代目菊五郎が小料理屋の品書きを読み上げるだけで泣かせる、という超絶的な芸をしたという話
○ 洋食亭のスエヒロが、行列の後方に並んでいる人から順に呼び入れた話。働かざるもの食うべからず
○ 自分に勇気があれば占領軍は東京に進駐してこなかたんじゃないか、と回顧するとある理髪師の話

どれもこれも、まさにその時そこにいて見て聞いて体験した人だからこそ、という臨場感があった。日記という体裁が、まさにこういうその当時の背景を描き出すのに非常に適していると感じた。ストーリーがどうとかという部分ではなく、まさにその当時生きていた山中氏という個人が見て聞いて体験できる範囲のありとあらゆるを描写していくという形式は、その当時の様子や風俗や生活に関心がある人には非常に興味深いのではないかなという感じがします。
若干先の展開を書いてしまうことになるんだけど、山中氏はある事情から刑務所に入れられてしまう。そして、刑務所で終戦を迎えることになる。刑務所内で、外界との接触がないまま終戦後の日本に放り出された山中氏は、日本人の変化に戸惑う、というような描写が結構繰り返される。ついこの間までは「鬼畜米英」とか言ってたのに、一点アメリカさんに媚を売っている。日本人としての誇りはないのか、そんなにすぐに考えを変えられてしまうということは、結局なにも信じていないということではないのか、と山中氏は嘆く。
もちろんその一方で、生きていくためには仕方がないじゃない、という意見も出てくる。これは、女性の意見であることが多い。男はこれまで、威勢のいい言葉を生み出すことばかりしてきたけど、結局それにはなんの意味もなかった、という女性からの不満や、これからは女性の逞しさに期待するしかない、というような男の意見まで様々だ。
そういう感じで、色んな物事について多様な価値観が綴られていくというのも面白いと思う。戦時中という非常事態の中で、一致団結して敵と立ち向かっていく一方で、生活や生き方に関する部分では個々人で価値観が様々であったりする。闇屋というものをどう捉えるか、というのも、価値観の多様性が現れ出る話だった。もちろん、主に山中氏の価値観が綴られるわけなのだけど、山中氏が出会う様々な人の話も興味深い。
あとは、最後の方でちょくちょく出てくるようになる日本語の話は、やっぱりなかなか面白い。特に、日本語というのは、話し言葉ならこれほど簡単な言語はないのに、書き言葉になるとその難解さは世界最高峰、殊に漢字は、欧米諸国の言語学者から「悪魔が作った文字」と称されているようです。アメリカが、色んな理由をつけて、日本人に書き文字としてローマ字を押し付けようと画策するのだけど、その理由として挙げられていた日本語論みたいなものもなかなか面白かった。日本人は、場面に応じて一人称をどんどんと変えてしまう。それが、場に溶け込むということを容易にしている。日本人は、一人称が一つしかない言語を採用し、その一人称で自己を確立していかなくてはならないのだ、みたいな感じ。
「日本語のローマ字化」という部分ではなく、「終戦直前・直後の一市民の日記」という部分に強く反応する方なら、読んで損はない内容だと思います。

井上ひさし「東京セブンローズ」


黄色い水着の謎 桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活2(奥泉光)

内容に入ろうと思います。
本書は、桑潟幸一(通称「クワコー」)という大学教授が活躍する(いや、活躍はしないのか)シリーズです。第一弾は、敷島学園麗華女子短期大学(通称「レータン」)の助教授時代を描いた「モーダルな事象」、第二弾が、大学制度の変更によって助教授から准教授へと名前を変え、所属する大学もたらちね国際大学と変わった後の話を描いた「桑潟幸一准教授のスタイリシュな生活」です。本書は、「桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活2」と、第二弾的な表記になっていますけど、これはたらちね国際大学に移り、准教授へと名前が変化してから二作目という意味で、クワコーのシリーズという形で見ると、第三弾となります。
とはいえ、レータン時代を描いた「モーダルな事象」と、たらちね国際大学時代を描く「桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活」では、相当作品の雰囲気が変わります。「モーダルな事象」では、どちらかといえば桑潟幸一自身が主人公であったのに対し、「桑潟幸一准教授のスタイリシュな生活」の方ではむしろ、クワコーが顧問を務める文芸部の女子たち(一人だけ男子がいる。このモンジと呼ばれる男子は、たらちね国際大学唯一の男子学生でもある)が主人公だ。中でも、大学の敷地内でテントを張りホームレス生活をしているジンジンと呼ばれる女子が探偵役となり、ストーリーとしては彼女が活躍する緩いミステリ、という感じである。
一応、全体の設定をざっくり書こう。
クワコーは、たらちね国際大学という、三流以下の底辺を這いつくばる大学で准教授として働いている。講義を持ってはいるが、何かを教えているというほどのものではない。ある講義では、日本の昭和史を教えるという名目で寅さんのDVDをひたすら流しているだけである。
学内では、こんなメンバーで一つの学科が運営されているのか!と驚くほどのカス連中(クワコー自身も含む)しかおらず、またレータンからたらちね国際大学へ移る際に大いに世話になった、元大手消費者金融の取締役の鯨谷教授には頭が上がらず、鯨谷が敵対している次期学長候補と噂される馬沢教授との学内政治争いに無駄に巻き込まれる日々である。
クワコーの日常は、タダ食材や激安食材を手に入れるために奔走し、時折細やかな祝杯を上げて心を充たす。文芸部の面々にナメられ、卑屈がデフォルトになってしまっているクワコーは、常に肩身の狭い思いをしながら、日々何らかの事件に巻き込まれていくことになる。
本書には、二つの物語が収録されています。

「期末テストの怪」
次期学長候補である馬沢は、学生を集めるという大義名分を振りかざしながら、学内改革に余念がない。教室にシステムを導入し、出席率が一ある一定数を下回ると自動的に退学という仕組みを導入したのも馬沢だ。
そんな馬沢がまたぞろ迷惑な改革を持ち出してきた。それは、期末試験の解答用紙に、その講義を担当するものが100字以上のコメントを書いて生徒の親に送る、というのだ。この改革は、全職員が内心で反対しつつも、するすると会議を通り抜けてしまい、決定事項となってしまう。全職員の怨嗟が学内を覆っているかのような有様であった。
ある日、ザリガニ取りに行こうと思って研究室を出ると、入れ替わりで文芸部の面々がやってきた。そう、クワコーの研究室は、いつしか文芸部の部室と化していたのだ。戸締りだけ注意するように行ってザリガニ取りへ向かい、色々ありつつも大漁でホクホクのクワコーなのだった。
しかし翌日大事件が発生する。なんと、期末試験の解答用紙200人分がないのだ!まずい。生徒にコメントを書いて送り返さなければいけないのだ。紛失しちゃいましたテヘペロ、では絶対に済まされない…。

「黄色い水着の謎」
クワコーは、学内の仕事に追われ僅かしかない夏休みを嘆きつつ、今日も節約に励むささやかな日常を生きている。思いがけずボーナスが入って狂喜乱舞なクワコーである。これで風俗にだって行ける!ルンルン!
とそんな折、文芸部の木村部長から、夏合宿のお誘いを受ける。というか、必ず来るようにという命令である。参加費5000円は痛いが、まあ仕方あるまい。
文芸部のOGがやっているという浜辺の民宿で、みんなで豪快に魚介類を採取しながらの合宿である。何故か文芸部には、漁労部を兼ねている者が多く、合同での合宿なのだという。新鮮な魚介類をバーベキューで焼いて食べるのは美味い。また、房総工業大学(通称「ボーコー大」)のミステリ研とたらちね国際大学の文芸部は交流がある(らしく)、というかただ良いように使っているだけなのだけど(今回も、荷物はすべてボーコー大の男に運ばせているようだ)、一応毎年合同で合宿という運びであるようだ。
電車で合宿地である海辺まで向かいながらクワコーは、ギャル早田のストーカー話を聞かされる。なんでも最近ストーカー被害に遭っているようで(とはいえ、酷かった昔のストーカーと比べたら大したことはないらしい)、もしかしたらさっき一緒に電車に乗り込んできた「ガチムチのタツー男」がそうなんじゃないか、と盛り上がっている。盛り上がるような内容ではないと思うのだが。
そして事件は発生する。そのギャル早田の黄色い水着が、翌朝紛失していることが発覚したのだ…。

というような話です。
やっぱりこのシリーズは好きだなぁ。奥泉光って、それまでは純文学っぽい感じの雰囲気をプンプンさせる「お固い感じ」の小説を書いてる印象があって、固さがそれほどでもない作品であっても、なんというか「しゃんとした小説」を書く作家、という印象が強くあった。クワコーが初めて登場する「モーダルな事象」も、クワコーのグダグダさっぷりが余す所なく描かれながらも、全体的には「しゃんとした小説」という印象がありました。
でもこの「桑潟准教授のスタイリッシュな生活」シリーズの脱力感と言ったら!脊椎動物の骨を全部抜いちゃいました!みたいな感じの、それもうどこにも力入ってないっしょ?みたいな感じのノリぜ全編描かれていく作品で、それまでの奥泉光のイメージとのギャップも凄まじいです。もちろん、それまでに奥泉光の作品を読んだことがなくても楽しめますけど、そのギャップがより本書の面白さを引き立てていることは確かだろうなぁ、という感じがします。
なんと言っても、クワコーの小物っぷりが堂に入ってて凄い。このシリーズは、さっきも書いたように、どっちかと言えば文芸部の面々のインパクトの方が強くて、文芸部の面々の方が主に見えてくる。実際にクワコーと文芸部の面々との関係性は、クワコーが従で、文芸部の面々が主である。とはいえやはり、語られるのはクワコーの日常なわけで、その描かれ方は面白くて仕方ない。
とにかく、やる気も展望も野望もない。あるのは、異常なまでの節約心と、不幸を引き寄せる力である。たらちね国際大学での立場や仕事が最低だと理解しつつも、もうたらちね国際大学に寄生するしか生きていく術を持たないクワコーは、ざりがに取りで子どもに負けたというぐらいのことで、すぐに鬱々モードに入ってしまう。どうせ自分なんか生きてる価値なんかないのさ、どうせ何にも出来ない男だよ、というような卑屈っぷりが全開で発揮されて、とにかくそのクワコーの卑屈さが素晴らしい。
その一方で、ダメな自分を開き直る力もまたパワフルであって、もちろんそれは卑屈さに押しつぶされないようにするための自己弁護なわけなんだけど、だってしょーがないじゃん!的な感じの傲慢さも一方で身に着けている。どうせこれ以上落ちるわけないんだから、今更見栄を張ったってしょうがないよね、というような堂々とした開き直りっぷりも相変わらずで、それらが相まって全体的にダメ人間っぷりが凄く面白く演出されていくことになる。
何かトラブルに巻き込まれた時の思考もダメ人間特有のもので、出来るだけ隠匿する、バレるギリギリまで黙っておく、自分が損しなければ社会通念だとか道徳だとかは知らん、というようなあり方はやっぱり最低最悪で、こんな人間が大学教授とかありえねー、とか思いながら、でもこんな大学教授って実際にいてもおかしくないような気もしてくるなぁ、と思わせるだけの描写力はさすがだと思いました。
文芸部員たちの描写では、読む度に感心させられることがある。それが、彼女たちのダラダラした会話の描写である。
奥泉光は、著者略歴によれば、もう60歳になろうという年齢である。そんな、もはや初老と言っていい作家が、今時のジョシコーセーみたいな脱力感甚だしい会話をどうして書くことが出来るのか、僕には不思議でならない。著者は近畿大学の教授でもあり、普段から学生と接する機会があるのだろうなとも思うのだけど、だからと言ってこれほどグダグダで面白くて今時っぽい感じの会話を書けることにはならないだろう。
例えばこんな感じである。

「砂漠でネコミミ」「あれはない」「えー、ありでしょ」「ないよ」「丹生ちゃんはどう?」「わたし的には『愛欲の捜査本部』は、ちょっとパターンかなと」「でた、タンショウ、BLに文学を求める女」「ていうか、近頃は無機物にはまってて」「えー、そっちいった!」「みのり山の『テンプレ太平洋戦記』なんか、わりとやばい感じです」「なにそれ?知らなーい」「B29が攻めで、戦艦大和が受けとか、そういう感じの話で」「でたー、マニアの世界」「ゼロ戦とかメッサーシュミットのカプとか」「うむむ、狭すぎるゾーン」「大傑作です。っていうのは盛りすぎだけど、これから地味に布教に励もうかと」「うーん、いいけど、けっこう茨かも」「軍事オタクに布教したりして」「で、軍事オタクが萌えて腐兄化」「あるある、それある」

文芸部の面々の会話はホントこんなんばっかりである。これを60歳になろうという初老のオジサンが書いているのだと思うと、なんだかそれだけで笑えてくる。
会話以外の行動や仕草やファッションなんかもこんな感じの雰囲気が踏襲されていて、常にナース服のコスプレをしている子とか、パンに佃煮海苔を載せてたものを昼食にしている子とかがナチュラルに出てきて、それが逆になんとなく今風に思えてくるから見事なものだと思う。文芸部の面々に常識は通用しない。部長の木村はまだマシだと思うけど、他はもうひっちゃかめっちゃかである。はっきり言って、謎がどうこうなんてことはどうでもよくなってくる。実際、謎そのものに強い魅力があるという物語でもない。ミステリを読んでいても全然オチが読めない僕が、「期末テストの怪」は半分ぐらいまで読んだところで大体分かった。結構これは珍しいことだ。そういう感じだから、ミステリだとは言っても、謎そのものはそれほど強くはない。やはり、クワコーや文芸部の面々たちによるアホアホな日常を追いかけていくことに楽しみを見出す作品である。
クワコーの境遇にはまったく羨ましさを感じないのだけど、こんなダラダラグダグダとした日常は若干羨ましいかも。いや、僕はどっちかっていうと忙しい方が好きな人間だから、ダラダラする日々は向かないと思うんだけど、だからこそ、そんな風にダラダラ生きることが出来る人間に憧れる、という感じでしょうか。
とにかくキャラクターが凄く立っていて、鬱鬱と卑屈なクワコーと、底抜けに無駄に明るい文芸部の面々とのギャップや、ひたすら全力でアホなこと(本人たちはアホなことだとは思っていないけど)に真剣に取り組む感じとか、全体的に稚気があって楽しいです。是非読んでみてください。

奥泉光「黄色い水着の謎 桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活2」


新宿で85年、本を売るということ 紀伊國屋書店 新宿本店 その歴史と矜持(永江朗)

内容に入ろうと思います。
本書は、様々な題材を扱いつつも、主として書店・出版業界の話題に軸足を置く著者による、紀伊國屋書店、中でも紀伊國屋書店新宿本店の歴史を紐解いていく作品です。紀伊國屋書店を創業した田辺茂一の話から、現在に至るまでの変遷などがコンパクトに収められています。
本書は、おおまかに時代ごとに章立てが区切られているのだけど、大雑把に区分けすると3つにわけられるのではないかと思う。

① 創業者である田辺茂一とその時代
② 紀伊國屋書店の育ての親である松原治の時代の発展
③ 紀伊國屋書店の現役社員あるいはOBたちの聞き取り

創業者である田辺茂一は、なかなかの人物だったようです。冒頭の方で、どんな人物だったのかというのがざっと描かれているんだけど、「夜の市長」と呼ばれ、銀座のバーなどを飲み歩いたとか、深夜のテレビ番組に出演したり、トマトジュースのコマーシャルに出たりと、なかなか色んな顔を持っていたようです。雑誌を数多く創刊したり(赤字ばかりだったようだけど)、著作も多く書き、作家や芸術家などとも交流を持ち、死後には新宿歴史博物館で「田辺茂一と新宿文化の担い手たち」という展覧会が開かれたりと、書店の経営者というだけではない様々な顔を持っている人でした。
しかし、そもそも書店の経営者としてはどうだったのか。紀伊國屋書店を大きくした、育ての親と称される松原治さんと初めて会った時のことがこんな風に描かれている。

『初対面で田辺さんは松原さんに、
「僕は経済も経営も分からない、分かろうとも思わない。女性を通じて社会を理解するのがライフワークだ」
と言ったという』

そんな人が、後に書店業界のリーディングカンパニーとなる紀伊國屋書店という、ある意味で「異質」な書店を生み出した経緯に著者は興味を持っていたこともあり、この本を書くことになったという。
本書では、なぜ田辺茂一が書店経営を目指したのか、どんな書店を目指したのか、創業からしばらくの間の経営状況、文学者や芸術家らとの関わり、戦時中の話など、一大チェーン店となって移行の姿しか知らない「紀伊國屋書店」という会社の前史みたいなものがまず描かれていきます。
印象的だったエピソードを3つほど書きます。
まずは、戦時中でもずっと店を開けていたという話。

『本は不要不急のもの、有事となれば後回しにされるもの、というイメージもあるが、銃弾の雨がフリ、敗戦が濃厚になっている時期でも、田辺さんは紀伊國屋書店をつづけた。本が出版されなくなり、本棚がガラガラになっても、常連客は紀伊國屋書店にやってきた。』

子どもは疎開させるが、田辺さんは「新宿以外に死に場所はない」と動かず、店を開け続ける。売るものがどんどんなくなっていって、それで自分の書棚から本を持っていってはどんどん売ったという。その執念がなければ、紀伊國屋書店は今なかったのだから、感慨深い。
文章はその後こう続く。

『東日本大震災の直後に、営業を再開した書店のレジに長蛇の列ができた、というエピソードを思い出す。危機的な状況の中でも、いや、危機的な状況の中だからこそ、ぼくらは本を求めるのだ。』

田辺茂一は、非常に成功している薪炭問屋の家に生まれ、何不自由なく育った。店の売り上げをちょろまかしてひたすら本ばかり買っている子どもだったという。それが戦時中、売るものがなくなった時に役立ったわけだが、爆撃にさらされた新宿で、田辺茂一はすべてを失うことになる。
書店はもう止めてしまおうかと思った田辺茂一を前向かせるこんな言葉が描かれている。

『ある日、元店員の一人が、戦地から戻ってきた。そして云った。
「店を廃めるなんて、惜しいですよ、遠いシベリヤでも、軍隊の仲間たちは、店の名前を知っていましたからね…」
その言葉で、やっと私は決心した。(田辺茂一の自伝より)』

必死でやり続けていたことが、自分の知らない誰かのところにまできちんと届いていた。それがどれほど田辺茂一の心を照らしただろう。
さて最後に。戦前には、雑誌組合による距離制限というものがあったらしい。要するに、近くに(三百歩以内)に既に書店がある場合、新しい書店の方は雑誌が扱えないというルールが存在したのだという。
田辺茂一は悩む。雑誌は扱えないが、書店の売り上げ比率は雑誌が8割で書籍が2割という話を聞いていた。しかし田辺茂一は、執念で書店開業にこぎつける。
これが結果的によかったと著者は語る。

『雑誌を扱えないことは経営上のハンディキャップであり、致命的ともいえるものだが、結果的にこれがよかったのではないかとぼくは思う。雑誌を扱えないために、標準的な書店になることができなかった。スタートの時から、書籍に力を入れた個性的な書店にならざるをえなかった。』

後々でも、紀伊國屋書店が二番手だったからこそ早いスタートを切ることが出来た、と語られる話が出てくる。そうやって、逆境さえもうまく利用するというような底力が、紀伊國屋書店をリーディングカンパニーにしたのだろう。
さてそうして田辺茂一という破天荒な人物とその時代の雰囲気が描かれた後で、紀伊國屋書店がどんな風に成長・発展して言ったのかという話が描かれていく。
ここで重要な役割を担う人物が、先ほどから名前を挙げている育ての親・松原治である。しかし本書では、松原治個人の話はあまり出てこない。どんな人物であろうと田辺茂一と比べてしまうと印象が薄れてしまうだろうけど、昼は松原治、夜は田辺茂一という役割分担が自然に出来上がっていたようで、松原治という人はあまり表には出て来なかったのかもしれない。
紀伊國屋書店躍進のベースとなっているのは、洋書販売と大学営業である。
当時洋書の販売では丸善が独走していて(丸善は明治維新の時、福沢諭吉が弟子に作らせたのが始まりだそうで、そもそも欧米の書物を輸入することが急務であったからこそ、洋書販売に強かったのだろうと書かれている)、紀伊國屋書店は後発だったのだけど、洋書需要の高まりから供給が追いつかないほどだったという。
ついに和書の売り上げを追い抜いたという話まで出てくる。

『この結果、洋書は需要に供給が追いつかない状態になった。二十六年の売上高は和書が九千万円強に対して、洋書六千二百万円を記録した。二十七年3月には洋書の自動承認制による輸入が始まり、まるで売り手市場の様相となった。そしてこの年、洋書の売上高は和書のそれを上回り、約一億二千万円を記録した(田辺茂一の自伝より)』

また、新規大学が相次いで出来ていったことも追い風となる。大学に営業に行き、どんな洋書が求められているのか聞きに行く。注文を取り売るのだけど、それをツケで売っていたのだという。

『当時の本屋はのんびりしていて、慶應に限らず大学の先生の支払いは「あるとき払いの督促なし」もありました。支払いは年2回、ボーナスのときだけ。だから7月5日と12月5日に請求書を送って、研究室までいただきにいきました。(中略)
昔は、請求書が100万円を超える先生がいました。当時はボーナスが100万円もあるわけないとわかっていたけれども、それでもツケにして売っていたんです』

こうやって信頼を積み重ねていくことで、図書館納入などのパイプを強化していったのだという。
また紀伊國屋書店は早くからデータベースに取り組み、現在ではデータ販売をしていたり、あるいは電子書籍の販売サービスを行なっていたりするけれども、それらを他社に先駆けて行なうことが出来たのも、この洋書販売と図書館との取引の中で蓄積されていったものだという。『紀伊國屋書店の歴史を見ていると、このように種を蒔いてから20年、30年かけて実を結ぶ事業が少なくない』と書かれている。
さらに紀伊國屋書店にとっては、阪急地下街にオープンした梅田本店が非常に大きな意味を持っていたという。梅田本店は1975年に年商55億円に達し、これは単一店舗の売上額として世界一だったという。この梅田本店の成功によって、北は北海道から南は九州まで、また外国にまで紀伊國屋書店は出店し、着実に地歩を固めていくことになったという。今でこそ、全店の売上データがリアルタイムで見れる「紀伊國屋パブライン」を見て出版社は重版のタイミングを考えるが、かつては梅田本店の売り上げを元に重版のタイミングを決めていたそうだ。
さて最後に、現役社員やOBたちからの聞き書きである。ここでも、興味深い話はいくつも出てくるのだけど、個人的に一番衝撃的だったのは、1957年入社で、文庫担当が長かったという田中悦子さんのこの話だ。

『岩波文庫と角川文庫が中心の時代ですが、書名・著者名と番号をすべて暗記しました。お客様から聞かれたら、すぐに答えられるようにと、先輩から仕込まれました。』

確かに出版点数などがまったく違ったから、現在とそのまま比較することは出来ないにしても、しかし凄いと思う。データベースもない時代は、確かに問い合わせを受けたら記憶だけでどうにかしなくちゃいけないのだろうけど、それにしても凄いものだと思う。
また、社員数がまだ少なかった頃の、こんなエピーソードを話す人もいた。

『昔、社員が少なかったころ田辺さんは、社員の誕生日に本を1冊プレゼントした。社員が1冊、好きな本を選び、それを社長室に持っていくと、田辺さんがサインをして渡してくれたという。
「誕生日になると、お店から本1冊持ってきていいんですよ、好きな本を。社長室に言って、茂一さんがサインをしてくれるの。高井君、誕生日おめでとうとかって」と高井さんは述懐する』

さて、最後に、紀伊國屋書店新宿本店の矜持と呼んでもいいだろう話を二つほど引こう。

『新宿本店に新刊がたくさん配本されることをあたりまえだと思わないでほしい。みんなの努力があって、本が集まっている。仕入れの人たちの努力もあるし、棚担当の努力がなければ集まってこない。出版は人とのつながりです。それは他の書店も同じなので、努力できる人間がどれだけ多くいるかが売り上げにあらわれてくる。それがなければ本店はこんなに大きくなっていないと思います。それは先輩が続けてやってきてくれたこと。去っていく者はそれを伝えていかないと続かないと思います』

『新宿本店の担当者は恵まれている、と吉田さんは言う。視点の担当者なら、返品率や回転率を意識しなければならない。岩波書店のように返品できない出版社の本についても慎重になりがちだ。しかし新宿本店は「置くべきだ」と考えれば躊躇なく置ける。
「返品リスクを考えて仕入れることはほとんどありません。フロア長は回転率などを気にするでしょうが、私自身は売り場を担当していたとき、返品について厳しく言われた記憶がありません」』

新宿本店であるという誇り、そしてそこにあぐらをかくことなく日々努力を続け、それが連綿と受け継がれている歴史。それらすべてが新宿本店という売り場を成し、歴史を刻み、さらに紀伊國屋書店全体を牽引していく。著者は冒頭の方で、『紀伊國屋書店を紀伊國屋書店たらしめているのは、立地と規模だけではないとぼくは思うのだ』と書いているのだけど、本書を読み終わって、なんとなくそのスピリットが理解できたような気がするし、同じ本を売る仕事をしている身としては、ちょっと羨ましいぞ、とも思う。

『売上額や創業してからの年数、売り場面積などの数字には還元できない何かが、紀伊國屋書店を業界のリーディングカンパニーにしている。
ぼくは二十代のころから全国のさまざまな書店の経営者や店長に話を聞いてきた。どんな書店にしたいか、という質問をすると、「紀伊國屋書店のような」と答える人が多かった。紀伊國屋書店新宿本店は書店の理想形であり書店経営者のあこがれだ。紀伊國屋書店の、とりわけ新宿本店は、総合書店のひとつのモデルなのだと痛感した』

雑誌などでは、奇抜な個性や選書を特色ある書店が取り上げられることが多い。しかし当然ならが、そういう特色を持つ書店は例外的な存在だ。書店の多くは、パッと見でわかるような目に見える特色を持たない、平凡に思えるお店ばかりだろう。しかし当然、そういう店にも込められた思いや刻まれた歴史がある。そしてそういう「平凡な」書店の理想形として、紀伊國屋書店新宿本店がある。なかなか知ることが出来ない面を多く見せてもらって、同じ本を売る仕事をしている人間としては背筋が伸びるような気持ちになれた。僕はどうしても、売る側の立場として本書を読んでしまうので、書店員ではない人が本書をどんな風に読むのか分からないけれど、書店が好きだと言う人は是非読んでみてください。

永江朗「新宿で85年、本を売るということ 紀伊國屋書店 新宿本店 その歴史と矜持」


キャパの十字架(沢木耕太郎)

内容に入ろうと思います。
「ここに一枚の写真がある」
本書はその書き出しと共に、一枚の、世界的に有名なとある戦争写真が掲載されている。
ネットから拾ってきた画像を貼っておきます。

崩れ落ちる兵士

本書ではこの写真について、

『それは写真機というものが発明されて以来、最も有名になった写真の一枚でもある。中でも、写真が報道の主要な手段となってから発達した、いわゆるフォト・ジャーナリズムというジャンルにおいては、これ以上繰り返し印刷された写真はないように思われる。』

と書かれている。それほど有名で、多くの人の感情を喚起し、歴史に刻まれることになった写真である。
これは、ロバート・キャパという、戦争写真家として数々の傑作を残したカメラマンによる、スペイン戦争時に、共和国軍兵士が的である反乱軍の銃弾に当たって倒れるところを撮影したとされている写真である。
本書は、この写真についての物語である。
この写真にはかねてより、多くの謎が指摘されていた。
例えば、事実に属することであれば、この写真はいつどこで撮られたのか、写っているのは誰なのか、この場には他に誰もいなかったのか、撃たれた写真であるというなら敵はどこから撃っているのか、というようなことである。
また、写真の解釈の問題であれば、この兵士は本当に撃たれた瞬間であるのか? もしそうだとするなら、カメラマンは敵に背を向けていることになるがそんなことが実際に戦場で可能だろうか? またそもそも、撃たれた瞬間をカメラに収めることなど、果たして可能なのか? というようなものである。
これらについてはこれまでも、キャパの自伝作家や研究者らが独自の調査・研究を続けているが、それらの真贋についてはっきりと明確な答えが出ているわけではない。
沢木耕太郎は、この問題に真剣に挑むことになった。
こう書いている。

『この「崩れ落ちる兵士」の真贋問題について、私はリチャード・ウィーランの「ロバート・キャパ」を手にするまで、まったく疑問を抱いていなかった。しかし、「ロバート・キャパ」を訳していく過程で小さな疑問が芽生え、やがてそれはみるみる大きなものになっていった』

そうやって、小さな疑問を抱いたのは相当に前、あとがきによれば20年以上も前のことだったという。
それから折りに触れ、沢木耕太郎はこの真贋問題を意識に上らせることになる。しかし、写真や伝記を読むだけではなかなかわからない。時々、写真が撮られた場所が判明したとか、写真に写っている人物の身元が判明したというようなニュースを見かけることになる。そういうニュースに触れる度に、現地に行って取材をしたいという想いに駆られたが、しかし仕事が立て込んでいてなかなか行くことも叶わなかった。しかし著者の中ではずっと疑問として燻っていた問題なのだ。
著者のこの写真に対する違和感については、こんな風に書かれている。

『かりに「真」だとしても、あのように見事に撃たれた瞬間を撮れるものだろうか。同時に、もし「贋」だとするなら、あのように見事に倒れることができるだろうか、と』

著者の出発点はここだ。つまり、写真の真贋だけではないのだ。真だとしても贋だとしても、どうにも受け入れがたい点がある。その疑問は解消され得るだろうか?というところがスタート地点である。
さてここで、なぜこの真贋問題が未だに未解決なのか、という話を書こう。というのも、この写真を撮ったロバート・キャパキャパは、この写真を撮った後ももちろん生きていて、誰だって話を状態にあったのだ。分からなければ、普通は本人に聞けばいい。
しかしロバート・キャパは生前、この写真について出来うる限り何も語ろうとしなかったという。キャパ自身がこの写真について言及した記録は実に少ない。ほとんどないと言っていいほどだ。もちろんその、「キャパ自身の沈黙」も、この写真の真贋問題の心象として、悪い方向に針が傾く要因の一つではあるのだけれども。
本書がどんな風に展開されていくのかをざっと書こう。
まず冒頭の方で、いくつか基本的なことが確認される。それは、『「崩れ落ちる兵士」という写真の評価』や『「崩れ落ちる兵士」の写真についてこれまで明らかにされた様々な情報』や『ロバート・キャパと、キャパと一緒に戦場を駆け回っていたゲルダ・タローという女性との関係性』や『「崩れ落ちる兵士」の写真の真贋問題についてこれまで展開されてきた議論』などである。これらが冒頭の方でコンパクトにまとめられている。
そしてそれから、実際に沢木耕太郎自身が現地へ取材に行ったり、取材の結果やあるいは写真を丹念に見続けた結果明らかになった新たな事実などについて記していく。
それはさながら、ミステリー小説を読んでいるかのようである。
本書で展開される謎解きは、一言で説明してしまうと、「半世紀以上前に起こった未解決の殺人事件を、その事件に関わった当事者が一人も存命でない状態で真相を暴こうとすること」に近い。
沢木耕太郎が扱うことが出来るのは、『キャパが残した数々の写真』と『キャパ自身やあるいは伝記作家が書いたキャパについての書物』、あとは写真が撮られたと思われる場所の現在の光景、ぐらいなものである。その当時のキャパやキャパが撮影した写真について生の情報を語れる存命者はいないし、それどころか、「崩れ落ちる兵士」の真贋問題に取り組み成果を残した人さえも亡くなっている人が多い。ほとんど、人物への取材によって明らかに出来る情報はない、と言っていいかもしれない(もちろん、まったくないわけではないが)。
そういう条件下において、沢木耕太郎は、緻密な取材と執念深い観察、そして大胆な着想などを組み合わせ、誰も想像しえなかった驚くべき地平まで読者を連れて行くことになる。
これは本当にスリリングだ。
「崩れ落ちる兵士」の謎解きがどんな風に展開していくのかをここで書くことは出来ない。それは是非とも本書を読んで、驚きとともにその凄さを味わって欲しいと思う。観察と着想の組み合わせだけで、これほどまでに深い探索が出来るものなのかと感心してしまった。
一つだけ書いておこう。沢木耕太郎は、「崩れ落ちる兵士」の写真の真贋問題に取り組んでいた。それはつまり、あの写真が本当に撃たれた兵士を撮影したものなのか、あるいはそうではないのか、という問題だ。しかし、取材と観察を続けていく中で、様々な事実や着想にたどり着き、その延長線上に著者は、これまで誰も気づかなかった新たな謎が存在することを示した。これまで議論されていたこととは、まったく違う角度の問題が、様々な事実を明らかにすることで浮かび上がってきたのだ。
そして沢木耕太郎は、その新たな謎にも取り組んでいくことになる。
その執念深さは、凄いとしか言いようがない。
冒頭で、沢木耕太郎以外の人たちが、「崩れ落ちる兵士」の写真の真贋問題についてこれまでどんな展開がされてきたのか簡潔にまとめられている、と先ほど書いた。そこで触れられる議論は、やはりどこか甘いものがある。物的証拠がないまま、恐らくこうであっただろうという強引な推測で結論を出しているものや、キャパの名声に傷をつけたくなくて、結論を灰色のまま放置しているものなど、どこか緻密さに欠ける議論が多い。沢木耕太郎の探索において、この人がいなかったら正しい方向に進めなかったという、スペインのススペレギ教授の研究は、非常に論理的で緻密であり、本書で紹介されている真贋問題研究では、このススペレギ教授のものが唯一まともに見えた。
沢木耕太郎は、出来うる限り物証を追い求める。「こうだったのではないか」という憶測をいくら重ねても、説得力はない。沢木耕太郎は、「こうだったのではないか」という憶測をどうやって確証まで高めることが出来るか、それを徹底的に追求する。
もちろん、どうしてもそれが果たせない部分もある。どうしても、憶測だけで諦めるしかない事柄もある。しかし著者は、「崩れ落ちる兵士」の真贋問題に直接関わらないように思える写真や本なども丁寧に調べ、そこから非常に深い着想を閃き、検証し、そうやってあらゆる事柄を立証しようとしていく。その執念深さは恐ろしいものがある。
最終的に著者が辿り着く結論は、誰もが驚くようなものだろう。世界中の人はそもそも問題文を読み違えていたのだ、と指摘しているようなものだからだ。可能な限り確証が与えられたその議論は、僕には非常に論理的な緻密なものに思える。
しかし、何度も繰り返すのだけど、写真の観察だけから、よくもまあここまでの結論までたどり着くことが出来たものだと思う。ただ漫然と写真を見ているだけでは決して辿りつけなかっただろう。著者は、四六時中その写真を眺めては、何かないかと観察することをくり返したのだという。著者が自らの結論にたどり着くきっかけになった「<ルガール>の誌面の「突撃する兵士」」という写真がある。この写真を眺めていた著者は、ある仮説にたどり着き、戦慄する。そして、その仮説の正しさをどうにか確かめようと奔走するのだけど、その著者が写真を見ていてたどり着いいた仮説というのが凄い。確かに言われて見れば、そう見えるかもしれない。いや、そうではないな。本書を最後まで読んだからこそ、今ではそんな風に見える。しかし、本書の中でその着想が初めて現れた時は、ンな無茶苦茶な、と思った。それはさすがに、我田引水というか、希望的観測というか、祈りみたいなものではないのかという気がしてしまった。
しかし著者は、様々な立証を積み上げていく中で、その閃きを確証まで高めてしまう。いや、ホントにスリリングだなと思いました。
あとがきには、こんな一文がある。

『ここに掲載したキャパの写真はすべて「マグナム」から借りている。その際、マグナムの日本支社から、「マグナムは必ずしも沢木氏の本の内容を認めているわけではない」との一文を入れてほしいという申し入れがあった。私は「喜んで」と応じた。』

「マグナム」というのは、ロバート・キャパなど四人の写真家で立ち上げた国際写真家集団であり、恐らく現在はその写真家たちの写真を管理する団体なんだと思う。「マグナム」としてはやはり、ロバート・キャパの名声を貶めるかもしれない著作に賛同しているという印象を取られたくないと考えたのだろう。
最後に、あとがきに書かれている沢木耕太郎のこの言葉を書いて終わろうと思う。

『たぶん、これを読んでくれた方には理解してもらえるように思えるが、私のしようとしたこと、したかったことは、キャパの虚像を剥ぐというようなことではなかった。
ただ、本当のことを知りたかっただけなのだ。「崩れ落ちる兵士」は本当に撃たれているのか、本当に死んでいるのか。その問いがさらに大きな、別の謎を生み出すことになるなどとは、まったく思ってもいないことだった。
いまでも、「崩れ落ちる兵士」にまつわる謎のひとつに答えが出たいまでも、私のキャパに対する親愛の情は変わらない。それは、伝記的事実から受けるキャパの印象が、どこか私に似ているように思えるからかもしれない。』

たった一枚の写真、しかもそれは世界で最も有名な写真のいくつかに数えられるだろうと思うけど、そのたった一枚の写真を巡る壮大な物語は、誰しもが予想しえない驚くべき展開を見せる。非常にスリリングだ。まさかこれほどまでにスリリングな展開を見せるとは思ってもみなかった。是非読んでみて欲しい。

沢木耕太郎「キャパの十字架」


喜嶋先生の静かな世界(森博嗣)






『「既にあるものを知ることも、理解することも、研究ではない。研究とは、今はないものを知ること、理解することだ。それを実現するための手がかりは、自分の発想しかない」』

大人になって、「何かを学ぶ」という機会は、とても少なくなった。大人になった、とは言っても、僕はまあ真っ当からそれなりに外れているだろうし、サラリーマンがどんな風なのかちゃんと知っているわけでもないからあくまでも僕個人の印象だけど、でも、年を取れば取るほど、何かを新しく学ぶということがどんどん少なくなっていく、というのは、ある程度一般則ではないかと思う。
特にそれが、仕事や生活のために役立つわけではない「学び」であればなおさらだ。
僕たちは大体みんな学校に通っていて、そこで何かを学んできた。僕は子どもの頃は、学校の勉強は結構好きだったのだけど、その「好き」は、「学ぶこと」そのものへの関心ではたぶんなかった。
僕にとって「学ぶこと」というのは、「強いポケモンを手に入れる」とか、「かっこいいファッションをする」とかに近いものとして捉えられていたはずだ。つまり、「学ぶこと」は僕にとって、一種のコミュニケーションツールでしかなかった。
勉強をして、それを誰かに教えることで、教室という場の中である一定の存在感を得る。そういう手段として、僕はずっと勉強をしていた。そういうことを、きっと当時の僕も自覚的だったはずだ。
大学に入ってから、滅法勉強をしなくなった。
それは、それまでと比べれば、という話であって、周囲の人間と比べればやっていたほうだったと思うのだけど、やっぱり自分の感覚では、勉強に対する意欲は大学に入ったことで一気に削がれたように思う。それは、僕にとって「学ぶこと」のモチベーションがコミュニケーションにあったわけで、大学ではどうも、「勉強が出来ること」というのが有効な通貨として機能しないのだなぁ、ということが徐々に理解されてきたんだと思う。少なくとも、小中高時代よりは、勉強が出来ることへの価値は、それほど高くはなかったと思う。そういう空気を察して、きっと僕は「学ぶこと」の意欲を失ってしまったのだろう。
もう少しどこかの段階で、ちゃんとした動機を持つことができていればなぁと、本書を読んで悔やまれる思いがする。

『これは、すべてのことにいえると思う。小学校から高校、そして大学の三年生まで、とにかく、課題というのは常に与えられた。僕たちは目の前にあるものに取り組めば良かった。そのときには、気づかなかったけれど、それは本当に簡単なことなのだ。テーブルに並んだ料理を食べるくらい簡単だ。でも、その問題を見つけること、取り組む課題を探すことは、それよりもずっと難しい。』

僕は昔から、パズルを作るのが好きだった。高校時代に「パズラー」というパズル雑誌(現在休刊)にハマったのだけど、その雑誌に読者投稿欄みたいなコーナーがあって、そこに投稿する用に授業中にパズルを作り始めたのが最初だ。
そのコーナーは、オリジナルルールの新作パズルを公募するコーナーだった。既に世の中に存在しているパズルではなくて、新しいオリジナルなルールのパズルを作って投稿する、というコーナーだ。

『研究者が一番頭を使って考えるのは、自分に相応しい問題だ。自分にしか解けないような素敵な問題をいつも探している。不思議なことはないか、解決すべき問題はないか、という研究テーマを決めるまでが、最も大変な作業で、ここまでが山でいったら、上り坂になる。結局のところこれは、山を登りながら山を作っているようなもの。滑り台の階段を駆け上がるときのように、そのあとに待っている爽快感のために、とにかく高く登りたい、長く速く滑りたい、そんな夢を抱いて、どんどん山を高く作って、そこへ登っていくのだ。』

ルールを考えて、新しいパズルを生み出すというのは、本当に面白い。ルールを思いついた時点では、それがパズルとして成立するかどうか分からないのだ。だから、色々と試行錯誤してみる。その中で、そうかもしこれがパズルとして成立するならば必ずこういう性質があるなとか、別解を生み出さないようにするためにはこういう条件を付け加えないと成り立たないなということが徐々に理解されてくる。
そうやって色々試して見て、少しずつ「どこか」に向かっていく。その「どこか」は、「正解」なのか「不正解」なのか、そういうはっきりとした色を持つ場所ではない。新しいものを作っている時は、それが正解かどうか、ということはわからないものだ。オリジナルのルールでパズルを完成させることが出来ても、それが「正解」とは限らない。なぜなら、その同じルールでもっと洗練されたパズルを生み出すことが出来るかもしれないし、もしかしたら既に誰かが生み出して発表しているパズルであるかもしれないからだ。

『「問題さえ見つければ、もうあとは解決するだけだ。そんなことは誰にだってできる」』

『そういう意味では、数学の問題を解くことは、極めて昆虫的だった。あれは考えているというよりは、おびき寄せられていただけなのだ。』

パズルを解くことも好きだけど、やはり作る方が圧倒的に楽しい。パズルを解く場合は、誰かの思考をなぞっているんだな、という感覚が強い。誰かが一度通った道を、同じように歩こうとしているのだ、と。それはそれで、もちろん楽しい。なるほど、そんなルートがあったのか!とか、そこからあそこへ飛躍するって発想はなかったなぁ、というような、誰かの思考をトレースすることの楽しさもある。
しかしやはりそれ以上に、何もないところに自分で足跡をつけていくことの楽しさの方が圧倒的に楽しいと感じる。

『「この問題が解決したら、どうなるんですか?」
「もう少しむずかしい問題が把握できる」』

本書を読むと、「学ぶということ」についての本質が分かった気になれる。別に、哲学的な難しい小説というわけではない。ごく一般的な、そう評して良いならば娯楽小説である。とはいえここでは、「学ぶ」という営みがいったいどんなものであるのかについての深い考察がある。

『「そうやって調べることで、何を研究すれば良いのか、ということがわかるだけだ。本茶資料に書かれていることは、誰かが考えたことで、それを知ることで、人間の知恵が及んだ限界点が見える。そこが、つまり研究のスタートラインだ。文献を調べ尽くすことで、やっとスタートラインに立てる。問題は、そこから自分の力で、どこへ進むのかだ」』

学校での勉強は、結局のところ「学び」とは程遠かった。それは、スタートラインを示すための行為でしかなかった。人類が、今どこで立ち止まっているのかを示すための儀式のようなものでしかなかったのだ。学生の頃は、そんなことはなかなか分からなかった。先人の叡智を頭の中に取り込んでいき、そしてそれをいつでも引き出せたり応用できたりすることが「学ぶこと」だと思ってきた。確かにそれも「学び」ではあるだろう。しかし、やはり本質はそこにはない。誰かがたどり着いた地平は、結局のところスタートラインを示すものでしかない。それをいくら取り込んでも、「学んだこと」にはならない。そのスタートラインに立って、一歩でも前に進む行為を「学び」と呼ぶのだ。
コミュニケーションを動機に勉強をしていた自分を後悔する。あれだけ膨大な時間を費やして「勉強した」のに、結局僕はスタートラインがどこなのかさえ、もう把握出来なくなってしまっている。スタートラインが分からなければ、そこから先に進むことも出来ないだろう。「学び」の本質を早くから見極めることが出来た子どもは、非常に幸運だろう。本書の主人公も、その一人だ。

『小さかった僕は、それを神様のご褒美だと考えた。つまり、考えて考えて考え抜いたことに対して、神様が褒めてくれる、そのプレゼントが「閃き」というものなのだと信じた。』

橋場は、幼い頃に入った図書館で数々の本と出会い、その本を読むことで新しい世界を知り、思索ふけることができた。橋場にとって「学ぶこと」というのは、エキセントリックでファンタスティックな行為だった。
しかし、残念ながら、学校での勉強は彼にそんな感覚を与えてはくれなかった。
大学に行きさえすれば、と希望を抱いていたが、大学も三年生までは同じようなもの。教授が本の内容を喋っているだけだ。そんなものは、本を読めば理解できる。
橋場にとって、喜嶋先生との出会いは、だから奇跡的なものだった。どこかで喜嶋先生と出会っていなければ、彼は人間や世の中に絶望したまま能力を持て余しただろうし、研究者になることもなかっただろう。
喜嶋先生は、大学の中では助手という、講義も研究室も持たない立場ではあったが、世界的な研究者であり、助手の身分のままで学内でも研究者として一目置かれていたことは周囲の観察から分かった。教授・助教授しか研究室は持てないのだけど、橋場は実質的に喜嶋研と呼んでもいい環境の中で、充実した研究生活を過ごす。
本書はそんな、喜嶋先生と出会うことで世界が変わった橋場の、子どもの頃から研究者として独り立ちするまでを描いた作品です。
森博嗣の作品を読む度に書いていると思うのだけど、森博嗣の小説を読む最大の魅力は、森博嗣の思考に触れることが出来る、という点だ。
もちろん、物語もキャラクターも文章も好きだ。しかし何よりも、小説という形態の中に、森博嗣の思考が詰まっている。いや、この表現だと誤解を生むか。小説という形態そのものが、森博嗣の思考の産物であり、それに触れることが出来る喜びというのが確実に存在するのだ。
それは、森博嗣の価値観を知ることができる、というのとはまた違う。森博嗣はエッセイで何度も、小説の登場人物の価値観を森博嗣の価値観と同一視する読者がいる、という話を書いている。僕も、そうしたくなることはよくあるんだけど、でも自制する。小説の登場人物の価値観と森博嗣の価値観は別物だ。だから、小説を読んだところで、森博嗣の価値観が理解できるなんて思っているわけではない。しかし、小説というのは、そこに森博嗣の価値観がどれだけ含まれるかに関わらず、森博嗣という人間の思考の産物であることは明らかだろう。それは、キャラクターや文章なんかの端々で読者が勝手に読み取るものだし、場合によってはタイトルや装丁からもそういう何かを読み取る。それが明らかな誤読であっても、まあ別にいいのだ。森博嗣の思考だ、と信じられるものに触れることが出来れば、特に問題はない。
本書は、冒頭でもグダグダ書いたけど、読むと「学ぶこと」について深い洞察を得る事ができる小説だと思う。しかし、繰り返すけど、別に難しい小説ではない。
本書を呼んで、こんなことを考えた。
僕ら一人一人の個人は、何かの方程式の「解」みたいなものだ。僕らは、ただ「解」として世の中にポーンと放り出される。自分が、どんな方程式の「解」なのかは、分からないままで。
僕という「解」を、どこかにある方程式に代入すれば、きっとしっくりくるはずだ。なるほど、自分はこの方程式の「解」だったのか!という感覚を得ることが出来るはずだと思う。
本書では、橋場がまさに、自分を表す方程式を見つけた人間として描かれている。もちろん、すぐに辿りつけたわけではないのだけど、様々な幸運と、自らの努力によって、自分がどんな方程式の「解」であるのかを掴みとった。
それは、とても幸運な人生だ。
一方で、自分がどんな方程式の「解」なのか、永遠に分からないものもいるだろう。
本書では、大学院生の自殺率が高い、というような話が出てくる。自分が、これが正しい方程式だ、と思って飛び込んだ世界に何年もい続けながら、自分がその方程式の「解」ではなかったことが分かってしまった、ということなのだろう。
たぶん、ほとんどの人が、最適な方程式に出会うことが出来ないままで一生を終えるのではないかと思う。それはきっと、仕方のないことなのだ。自分が見つけた方程式に合わせて「解」自体を変化させる、という荒業を使える人も、中にはいることだろう。それはそれである意味では幸せなことなんだろうと思う。その一方で、その「解」として生まれた自分に最適な方程式があるはずだ、という感覚を捨て去ることはなかなか難しいのではないかと思う。
森博嗣の思考の断片には、本当に共感するし、心を掴まされる。

『「普通の人間は、言葉の内容なんかそっちのけで、言葉に現れる感情を読み取ろうとする。社会ではそれが常識みたいだ。そうそう、犬がそうだよ。犬は、人の言葉の意味を理解しているんじゃない。その人が好意を持っているか敵意を持っているかを読み取る。それと同じだね。特に日本の社会派、言葉よりも態度を重んじる傾向が強い。心が籠っていない、なんて言うだろう?何だろうね、心の籠った言葉っていうのは」』

喜嶋先生は、言葉を何かで包んで発したりしない。常に正直に、思ったことをストレートに言葉に載せて話す。それが、怒っているように見られたり、冷たいと取られることになる。そういう話の中で、喜嶋先生が言ったセリフだ。
これは僕もいつも思う。どうしても、自分の言葉が言葉通りに通じない、と感じる場面が多くある。もちろん、それなりに大人だから、どう伝えたら自分の真意がちゃんと伝わるか、考えながら喋るのだけど、時々、そのままのむき出しの言葉で喋っても通じる人に出会うと嬉しくなる。

『良い経験になった、という言葉で、人はなんでも肯定してしまうけれど、人間って、経験するために生きているのだろうか。今、僕がやっていることは、ただ経験すれば良いだけのものなんだろうか。』

確かに、そう問われると、経験するために生きている、というのはなんとなくおかしく思えてくる。経験が人の価値を高めてくれるという信仰は確かに根強くあるように思うけど、目に見えない経験というものが、目に見えない個人の価値に変換される過程を思い描くことは、案外難しいかもしれない。

『物理的な影響、時間的な不自由を、僕はまだ受け入れられない。考えるのをやめた瞬間に、綺麗に消えてしまうものが好きだった。』

これは、文章が凄く好きだ。「考えるのをやめた瞬間に、綺麗に消えてしまうものが好きだった」というのが、僕も凄く理解できる。そして、それをこんな風にシンプルに表現できる森博嗣は、やっぱり良いなぁと思う。

『なにかの本で読んで、人間ならばそうするべきだ、というルールを学んだのかもしれないけれど、残念ながら、物理法則のように普遍的なものではない。同様のことは、宗教や哲学や、とにかく人間が作ったこの世の大多数のものにいえる。ようするに、ここから世界が築かれるという根拠に位置する基本法則がないのだ。ただなんとなく、そっちの方が良いかな、という程度の判断の積み重ねだけで、この世のすべてのルールが出来上がっているように思える』

ルールが曖昧なままの方が社会がうまく回っていく、という経験則をみんなが信じているんじゃないかと思うことはある。はっきり線引出来そうなことであっても、なんとなくそのまま、灰色の部分を残しておきましょう的なありようが、なんか色んな混乱を産んでしまうような気がするのは気のせいだろうか。

最後に、清水スピカの話をしよう。
橋場と清水スピカがレストランで会話をする場面がある。もうこの場面は、おかしくって仕方がなかった。お互いの話がすれ違う。お互いに、自分なりにきちんと考えて発言してボールを投げているつもりなのに、お互いが立っている場所があまりにも違い過ぎるために、そもそも相手のボールがどこから飛んでくるのかさえ理解できないのだ。このやり取りを読んで僕は、僕らが普段どれだけ「曖昧な前提」を「共有した気になって」会話をしているか、ということに気付かされた。
こう書くと、なんか信者みたいで嫌なんだけど、でも個人的には、森博嗣の思考に触れられるだけで嬉しい。そういう感覚でいるから、本書が普通の人にどんな風に捉えられるのかは、よく分からない。けれども、森博嗣が好きな人間としては、やはり多くの人に森博嗣の思考に触れて欲しいな、と思ってしまう。本書でなくても別に構いません。いつかあなたの人生に、森博嗣の思考が占めるスペースが生まれますように。

森博嗣「喜嶋先生の静かな世界」


真剣師 小池重明(団鬼六)

内容に入ろうと思います。
本書は、掛け将棋(賞金を掛けあって戦う将棋)で生計を立てていた真剣師であり、「新宿の殺し屋」と呼ばれるほどの腕前を持つ将棋指しであり、アマ名人に二度輝き、プロも次々と打ち倒すほどの実力がありながら、破滅的な性格と生き方のためにボロっかすの人生を歩んで死んでいった小池重明という一人の天才を描いた評伝です。
ちょっと前に、大崎善生「赦す人」を読んで、本書に興味が湧いた。
「赦す人」は、将棋を題材にしたノンフィクションを描く大崎善生が、団鬼六を題にとって描いたノンフィクションだ。団鬼六と将棋は、詳しくない人には接点がないように思えるかもしれないが、団鬼六は元々将棋の実力も並ではなく、棋界の著名人とも昵懇であり、さらに晩年は「将棋ジャーナル」というアマ将棋連盟が発行していた赤字雑誌を買い取り発行していたというほどの人物である。団鬼六は、『日本一将棋に金を使った将棋ファン』と呼ばれているという。
その団鬼六が小池重明と関わるようになったのは、小池重明の晩年も晩年、死の間際のことであった。
将棋界から追われ、名古屋の飯場で2年間土方として真面目に働いていた小池だったが、さすがにそんな人生に嫌気が差し、東京へと舞い戻ることになる。そこで、将棋ファンである団鬼六を当てにして取り入り、団鬼六に散々迷惑を掛けながらも、団鬼六が小池を追放するために設定した幾度の勝負で圧倒的な強さを誇る。当時小池は、2年以上将棋に触れていない、かたや対戦相手は脂の乗り切ったアマ名人であるとか、プロの奨励会員であるとか、とにかく現役の棋士である。そんな相手に、対戦の前日まで飲み歩き、酒が残った状態でやってきて、あっさりと勝利をもぎとっていくのである。
しかし、生涯三度目の人妻との駆け落ちをしでかし、直後に吐血、それから間をおかずに帰らぬ人となった。
団鬼六自身が関わった期間は短い。しかし、小池重明という類まれな才能と破滅的な性格を兼ね備えた人物に、やはり惹かれる部分もあったのだろう。小池自身が残した生い立ちなどを綴った文章や、かつての将棋仲間からの話、そして恐らくある程度の創作も含みつつ(先に名前を出した「赦す人」の中で、団鬼六は、面白ければどんな風に書いてもいい、と豪語しており、実話として描いていることでも創作が自然と混じると言っている)、小池重明という異形の人物の生涯を見事に描き出している。
小池重明について著者が評している文章をいくつか抜書きしてみよう。

『人妻との駆け落ち歴三回、最後は奪った女を他人に奪われて、ハイ、それまで、といった風に四十四年の短い生涯を投了してしまった感じであり、彼のそうした女性に対する熱情は計算の伴わない賭博のようなものであった。しかし、いずれの恋愛においても彼は純粋であった。人間としては出来損ないであったが、その出来損ないにできているところが彼の人間的魅力であった。』

『能ありて識なきものは卑しむべし、という言葉があるが、小池はその能ありて識なき人の代表みたいな男であった。彼のように体と心がいつも近郊を失っていた男も珍しい。最後まで自分の生活に統制がとれなかった男であった。そして、宿命的に逃亡と放浪の生活をくり返していた男である』

『小池は終生、放浪癖の抜けなかった天衣無縫の人間だった。女に狂い、酒に溺れた荒唐無稽な人生を送った人間だった。
人に嫌われ、人に好かれた人間だった。これほど、主題があって曲がり角だらけの人生を送った人間は珍しい。
小池の晩年は不遇であった。しかし、それは小池を愛惜する言葉にはならない。真剣師が不遇な生涯を送るのは当然で、それは本人も意識していたことだろう。
あれだけの将棋の天才でありながら、たった一つしかない人生のそれを生かしきることができず、四十四年の短い生涯を酒と女に溺れて使いきってしまった男である』

とにかく小池は、将棋の強さだけはハンパではなかったという。そして、人間的なダメさでいえば横綱クラスだったという。小池は、それほどの強さを兼ね備えながら、プロになることは出来なかった。プロを幾度も打ち負かしているのに、プロにはなれなかった。それには、小池自身の悪行三昧の人生ももちろん大きな影響を与えているわけなのだけど、将棋界の特殊なルールも足かせになっている。
本書には、プロになるための道筋として、こんな簡潔な文章がある。

『プロになるには中学生くらいから試験を受けて奨励会に入らなくちゃいけない。そして三十歳までに四段になった者だけが正式の棋士として認められるのだ』

この制度は、今も大きくは変わらないはずだ。確かに、アマからプロになった者もいる。本書にも、真剣師からプロになった男の話が出てくるが、それは戦前・戦後の混乱期の話であって今とは事情が違う。最近では、「泣き虫しょったんの奇跡」という、サラリーマンからプロ棋士への転向の軌跡を描いた自伝を出している瀬川晶司という例がある(他にも例があるかもしれないけど、僕は知らない)。なので、アマからプロへの転向は、まったく道筋がないわけではない。しかし、その道は、相当に狭い。
しかし、将棋の実力だけで言えば、小池はプロ入りしても当然の男である。生涯戦績がどれぐらいなのかわからないが、アマ強豪やプロと対戦してもほぼ負けなしというのは、驚異というか異常とも言える強さである。
実際、小池をプロに推す動きも存在し、実際にそれが将棋連盟で議論に掛けられたことがあった。しかし、当時参加した棋士全員が、小池のプロ入りに反対したという。
それはやはり、小池のそれまでの行状が悪すぎたからだった。
酒代を踏み倒すなんてのは日常茶飯事、生活苦から闇金に手を出して、その支払に四苦八苦する。小池が生業を持たないと知っている債権者は、賞金が出る将棋の大会に小池が出場するという情報を掴むや、会場に列を作って待つ。その大会の運営にも小池の行方を問い合わせる連絡が入ったりして、大会側から参加しないでくれと言われることもあった。
しかし決定打になったのは、新聞沙汰にもなった寸借詐欺である。
子ども向けの将棋教室を開くからという名目で金を借りていた、というものだそうだが、この記事が出たのが、小池のプロ入りが否決された直後だったことから、新聞社と将棋連盟で小池下ろしを画策した人間がいるのではないか、というような推測が描かれている。
とはいえ、実際にそういう名目で金を集めていたのは事実なわけで、小池には釈明の余地はない。それで、逃げるようにして名古屋の飯場へと向かったのだ。
そういう、人間・小池重明の面は本当にクソ野郎で最低最悪なんだけど、こと将棋に関しての輝き方は物凄いものがある。こんなことがあった、というような山ほどのエピソードを並べ立てることが出来てしまう。
アマ名人との対局中、相手が長考に入ると寝てしまうとか(前日飲みまくって徹夜。しかしそれで勝ってしまう)、まだ「新宿の殺し屋」という異名がつき、真剣師として名が売れ出した頃に戦った、大阪の真剣師で将棋界の神と崇められていた加賀との壮絶な名勝負であるとか、アマvsプロという企画で、5人のプロ相手に4勝1敗という驚異的な戦績を挙げ、さらにその1敗を悔やんでいたというようなこともある。先程も書いたけど、何年も将棋から遠ざかっているにも関わらず、復帰してすぐにアマ名人やプロを打ち負かしてしまう。
小池の将棋は、プロの目から見ても不可思議としか言いようのないものだったという。序盤は、誰が見ても下手で、すぐに窮地に追い込まれる。しかしそこから徐々に挽回し、終盤の強さは圧倒的だったと誰もが語る。魔術的な強さを持つとか、江戸将棋の風格を醸し出すとか、とにかく一言では捉えにくい将棋を指す男だったようだ。
もしも、と考える。もしも小池重明が、人間的にもう少し聡明だったとしたら、確実にプロになっていただろう。しかし、もしそうなっていたら、これほどまでに多くの人の記憶に残り(良きにつけ悪しにつけ)、あまつさえこうして評伝が出ることがあっただろうか、と。いや、あったかもしれない。それはどうかはわからない。しかしやはり、圧倒的な強さを誇り、かつ、破滅的な性格によって破綻していくという、その無茶苦茶なバランスが、人を惹きつけたり引き離したりしていたのだろう。彼と関わった人間には、数多く迷惑を被った者がいるだろうが、彼の将棋に魅せられた者も多くいるだろうし、本書では描かれないが、彼の存在によって将棋を志したり実力を磨いたりといった者がいたかもしれない。そういう意味でも、非常に稀有な存在だったのではないかと思う。
僕自身、将棋はルールがわかる程度で、まったく強くないし、棋譜とか見ても全然理解できない人間ですけど、それでも本書を読むのに特に傷害はありません。化物みたいな強さを誇りながら、アマにしては強すぎたために真剣師としての看板は降ろさざるを得ず、しかしプロになれるわけでもなく、圧倒的な強さをもてあましながら困窮していった一人の天才の生涯を、是非読んでみてください。

団鬼六「真剣師 小池重明」


世界の終わりと夜明け前(浅野いにお)

内容に入ろうと思います。
本書は、何を1つとカウントするかで何編収録されているかが変わっちゃうけど、大雑把に8編の短編と1編の中編が収録された短篇集、という感じのマンガです。
どれも、言葉で内容紹介をするのは凄く難しいので、タイトルだけ列挙しようと思います。

「夜明け前」

「アルファルファ」

「日曜、午後、六時半」

「超妄想A子の日常と憂鬱」

「休日の過ごし方」

「17」

「素晴らしい世界」

「東京」

「世界の終わり」

これ以外に、「無題」となっているカラーのイラストと、「時空大戦スネークマン」という、「東京」の中に出てきた漫画家が少年時代に描いた、という設定のマンガが収録されています。
浅野いにおのコミックは初めて読んだんだけど、これすげー好きだな。あんまり普段マンガは読まないから、他の作品と比べてどうかっていう話は出来ないんだけど。
とにかく、まず絵が好きですね。
これはたぶん、浅野いにおが描く女の子が結構好き、ってことだと思います。どこがいいのかは、自分でもうまくは説明できる気がしないんだけど、なんというか、「マンガっぽくない」感じがいいのかもしれません。
昔、情熱大陸で浅野いにおが特集されているのを見ました。浅野いにおは、マンガの舞台となる街を設定して、そしてそこの風景を忠実に再現するのが好きだ、というようなことを言っていました。だから、取材のために色んな街を訪れては写真を撮りまくり、その写真の通りに忠実にマンガを再現する。実際に、街に赴いて撮った写真と、実際に描いたマンガを比較していて、確かにその通り忠実に描かれていました。
その時は人物をどう描いてるのかって話はなかったように思うんだけど、人物についても「本当っぽさ」みたいなものを追求しているんじゃないかな、と思いました。モデルとなる人物がいるのかどうかは知らないけど、でも浅野いにおの中で、「こいつなら現実にいそうだな」っていう形で人物を描いていくんじゃないかと感じました。
そんな風に描かれる人物は、リアルさを追求した街の風景に、凄くしっくりと馴染む。ピタッと収まっている感じがある。なんかそういう全体のしっくり感みたいなのもいいなと思います。
それでいて、元々ギャグ漫画でデビューしたからか、人物の描き方にしても展開のさせ方にしても、「外す」時はきちんと外している。どれも短編で短い物語なのに、全体に緩急がついているのは、「外し」をうまいこと挟み込んでいるからなのかなぁ、という気がしました。
さっき街の描写のことを書いたけど、街の描写については、「正確に、忠実に」描いているからか、「その街が持つ記憶」みたいなものまで一緒に写し取られているような印象がある。まあこれは、僕の錯覚かもしれないけど、でもそう思う。
僕は、映画でもマンガでも、視覚的なメディアである場合は、セリフが少ない方が好きだったりする。本書も、基本的にはセリフが少ない物語が多くて凄く僕好みなんだけど、セリフが少ない物語は、展開やストーリーを何かで補わないといけない。映画の場合は、ナレーションって手が使えるし、マンガでも心の声を描写するようなやり方があるけど、本書を読んでいると、その「街の記憶」みたいなものも欠落を補うのに有効活用されているような気がする。その光景がバーンと描かれることで、言葉では語られない多くのことが読者に伝わる。そんな気がする。
セリフが少ないって言えば、登場人物が何か喋る時に、その喋っている人物の顔が描かれないことが多い気がする。それも、巧くは説明できないけど、なんか僕好みだなぁ。それは、喋っているのを聞いている相手が描かれていたり、喋っている人間が描かれているんだけど首から下しか描写されないとか、色んな形を取るんだけど、そういうのも好きだなぁ、と思いました。
そんな感じで、詳しいわけでもないのに絵についてあーだこーだ書いてみましたけど、本書を読んで一番好きだなと思ったのは、ところどころに挟み込まれる文章。主人公の心の声だったり、登場人物のセリフだったりするんだけど、この文章がすげぇー刺さるんだよなぁ。

『自分にだってそんな時期があったはずなのに、今じゃもう、あたしはこの商店街の風景の一部なんだろうな』

『あたし達このままヤな感じに大人になっちゃうのかな?他人のことも、自分の人生も、だんだんどうでもよくなってゆくね』

『結局一歩でも外に出たら、バカで声の大きな奴が勝つ世の中なのさ』

『晴にも見えるでしょ!?おんなじ未来が』

『それを今更孤独だなんて言われても、同情できねぇよ。自分で選んだ道じゃねぇか』

もっともっと一杯あるんだけど、このぐらいにしとこう。こういう文章に、本当に共感させられる。
ってなことを言うと大人に、「はいはいわかったわかった」みたいな反応をされるんだろうなぁ。ってまあ僕だってもう十分大人なんだろうけど、でもどうなんだろう。僕はいつの間に大人になったんだろうなぁ。20歳を超えた時?お酒を飲んだ時?「自分って大人になったんだ!」なんて実感できた瞬間なんて今までなかったし、今この場所から過去を振り返ってみても、自分が大人になっている実感はない。子どもの頃から、大人になることを否定したがっていたからだろうか?責任なんて全然ないんだみたいなフリをして、嫌なことから目を背けて、でもなんだかんだどこかに留まることは出来てしまえていて、まいっかみたいな感じで生きてきた人間が大人であるはずがないと思うんだ。
みたいな薄っぺらくてくだらねーことを考えているような僕みたいな人間には、浅野いにおの作品はウケるだろうなぁ。んで、そういう人は世の中にどんどん増えているような気がするし、それに「ちゃんとした大人」が眉をひそめていることも知っているし、でもまあしょうがないよねなんていってお互いに見ないフリをしている。
人生は、一瞬一瞬の積み重ねで出来たモザイク模様だ。でも僕らは、都合よく色んなことを忘れていって、一瞬一瞬を取りこぼしていくから、自分の人生はあんまりモザイク模様には見えない。ツルツルですっきりとしたデザインにさえ見えているかもしれない。でも、時々こうやって、物語がその一瞬を拾い上げて、僕の人生にくっつけてくれる。「ほら、お前の一瞬、落ちてたよ」とかなんとか言って。そうやって僕らは、自分の人生がモザイク模様であることを再認識させられる。
普段は視界から外していられる「絶望」が、この作品では描かれていく。それは、「漠然とした絶望」ではない。僕らはもう、どこかからミサイルが飛んでくるかもしれないとか、日本経済が破綻するかもしれないみたいな、自分から遠すぎる(ように見える)「漠然とした絶望」に目を向けている余裕はない。ここで描かれているのは、「日常と癒着してしまった絶望」だ。「日常」と「絶望」はもう不可分で、同じ括りの中に入っている。それを分離して、「日常」だけを取り出すなんてことは、もう出来ないのだ。「そこに当然あるもの」として、「抜け出すとか抜け出さないとかではない対象」として「絶望」というものと接し続けてきた世代にとって、この作品で描かれる「絶望」は、逆説的に心地いいとさえ思えるかもしれない。
当たり前のものとしてすぐ傍に存在する「絶望」に、自分の何かを少しずつ削り取られていくように思える人生。みんなでそんな環境の中にいると、自分が努力していないことが原因であっても、「絶望」に削り取られちまうからなぁ、と諦めることさえできてしまう。そういう世代の感覚を絶妙に捉えるなぁと感心しました。
浅野いにおの作品は、たぶん読んだら好きになるだろうなぁ、と思っていたのだけど、ここまでドンピシャで合う作品とは想像していませんでした。浅野いにおのマンガは、ちょっと他の作品も読んでみたくなりました。是非読んでみてください。

浅野いにお「世界の終わりと夜明け前」


世界を変えるオシゴト 社会起業家になった二人の女の子の感動物語(マリー・ソー+キャロル・チャウ)

僕は昔、山本弘の「詩羽のいる街」という小説を読んで、凄く感動したことがある。ストーリーはこうだ。
ある街に、詩羽という女の子がいる。詩羽は、家もお金も持たないまま生活をしている。体を売っているとかそういうわけではない。
一体彼女は、どんな風にして生きているのか?
その街に住むAさんは、自分の仕事(あるいは趣味)について、何らかの問題を抱えている。その問題は、Xというものがあれば解決するんだけど、それが手に入る予定は今のところない(高くて買えないとか、そう見つかるもんじゃない、とか)。同じ街に住むBさんは、Xを持っていて、しかもBさんにとってそのXは不要なものであり、むしろ手放したいと思っている。
この二人の需要と供給をマッチングさせることが出来れば非常に良い。でも、同じ街にいても、なかなかそこまえ情報が回ってくることはない。
詩羽は、その街に住むありとあらゆる人の情報を頭に叩き込み、誰と誰をマッチングさせればいいのかというハブの役割を果たしている。そしてその働きに対して、食事を提供したり、寝る場所を提供したりというリターンがあり、彼女はそれだけで生活出来てしまえるのだ。
社会起業家というのは、この詩羽のやっていることを、もっと世界規模に広げたようなものではないだろうか。本書を読んで、僕は「詩羽のいる街」のことを思い返した。
内容に入ろうと思います。
本書は、ヤクというウシ科の動物を放牧させるチベット人と、崇明島という、上海沖にある中国で三番目に大きい島に住む女性の貧困問題を解決するビジネスプランを生み出し、「世界を変える100人の社会起業家」にも選ばれた、世界的に注目を集めているブランド・「SHOKAY(ショーケイ)」を立ち上げた二人の社会起業家が、自らの体験を綴った作品です。
彼女たちは、ヤクの毛という、これまでファッション業界の誰も目につけてこなかった素材を見出し、さらに驚異的な編み物の能力を持つ女性たちと出会い、非常に質が高くオシャレな製品を、背景にあるストーリーと共に売り出すことで、継続的に貧困地域の人々に現金収入をもたせられるように、たった3年でしてしまった。彼女たちは一体どんな風にしてそんなことをやり遂げたのか。
二人は子どもの頃から、困っている人を見ると放っておけなかったり、高校生にして奇抜なアイデアで震災募金を集めたりと、社会起業家になる素地みたいなものはある人たちだった。とはいえ、世界の貧困問題について詳しかったわけでも、興味があったわけでもない。
彼女たちがそれに関心を持ち始めるのは、二人が出会ったハーバード大学・ケネディスクールでのことでした。ハーバード大学で有名なのは「ハーバードビジネススクール」で、こちらは経営者やビジネスマンの育成を目的としている。一方の「ケネディスクール」は、NPOやNGOで社会問題を解決できる人材の育成を目的としています。
ケネディスクールは、一般企業での実務経験が入学の際の必須条件とされる大学であり、そもそも学生の年齢層が高い。そんな中でこの著者二人は、ほぼ最年少の存在だった。それを知った二人は接近、同じ志を抱いていることを知り、仲良くなって行きます。
彼女たちの志というのは、

「金持ちになるより、社会問題を解決して生きがいを感じたい」

というものでした。本書では、ペルーでボランティアをしていたキャロルが、そのペルーでの生活の中で気付いたこととして、こんな風に書いている。

『高額な給料をもらい、毎晩豪華なレストランで美味しいディナーを食べられる生活より、たとえペルーの山奥で質素な夕食しか食べられなかったとしても、困っている人たちに喜んでもらえる仕事がしたい。そのほうが、私にとって何倍も意味あることだと確信したのです』

この感覚は、僕もとてもわかる。時々こういう、社会起業家に関する本を読むのだけど、その度に、羨ましさを感じる。こんな風に生きてみたい、と思う。僕自身も、贅沢したいとか金持ちになりたいという欲はほとんどない。自分の時間が全然なくなっちゃったらそれはそれで嫌だけど、でも自分が考えたり動いたりしたことが、目に見える形ではっきりと誰かのためになったり、誰かを救っていたりするような仕事が出来たらとてもいいなと思う。そういう仕事には、結構憧れる。
さて二人は、ケネディスクール内のコンテストに応募し、見事1位となる。それは、移動映画というアイデアで、その時に得た賞金を元に見定めた貧困地域への移動映画というアイデアを実行に移そうとすると、既にそういうアイデアは存在しており、さらにあまりうまくいっていないという事実を知ることになる。
しかし、無駄足ではなかった。気持ちを切り替えて、自分たちが何をすべきかを知るために調査を始めた彼女たちは、中国国内で知らない者はいないという冒険家から、彼女たちがそれまで名前すら聞いたことがなかった「ヤク」という動物について教えてもらったのだ。
ここから、彼女たちの苦労と成功の物語が加速し始めることになる。
様々な人と出会うことで新しい刺激が生まれ、当初考えてもいなかった方向に話が進んでいく。一方で、文化も習慣も何もかも違う相手に、しかも20代の女の子が、あなたたちのためになるからと言って交渉に向かっていっても、初めの内は誰も話を聞いてくれなかった。そういう、次から次へと現れる苦労を幾度も乗り越えながら彼女たちは突っ走り、たった3年という期間で世界で広く認知されるブランドを育ててしまったのだ。
本書は、そんな彼女たちが何を考え、どう動き、その結果どんな輪が広がり、具体的にどんな問題が解消されていったのかを、プロジェクトを0から立ち上げ育ててきた二人が綴っていくことになります。
こういう話は、僕は本当に好きなんですね。社会起業家という存在を初めて知った時から、社会起業家という存在への憧れみたいなものは、自分の内側にずーっとあります。別に、具体的に何かを考えているとか、調べ始めているとか、そんなことは全然ないんです。ただ漠然と憧れているだけ。まあそれじゃ全然ダメなんですけど、でも、「自分なりの幸せ」というものを考えた時に、この社会起業家という選択肢は、僕を大きく幸せにするものだよなぁ、という風に認識しています。
社会起業家の何がそんなにいいんだろうなぁ、と考えてみる。
たぶん、「自分のためにお金を稼ぐことへの違和感」みたいなものが、社会起業家への憧れを生んでいるんじゃないかなと思う。
僕は、さっきも書いたけど、贅沢とか金持ちとかには全然興味がなくて、食べることとか着る服とか住む家とかにもまったく関心がないんで、適当に生きていくだけならあまりお金を必要としない。基本的に今は「生活をするため」に仕事をしているわけで、そうなると、仕事をしてお金をたくさん稼ぐことへのモチベーションが非常に低くなってしまうんですね。
自分以外のためにお金を稼ぐ、っていうのだったらもしかしたら面白く生きていけるんじゃないかなぁと。社会起業家という存在を知った時から考えているのではないかと思う。お金を稼ぐ目的が、「自分の生活を満足させること」ではなく、「誰かの生活を満足させること」になる方が、僕の性質だと面白く生きていられるんじゃないだろうか、なんていう風に思う。
以前、藤村靖之の「月3万円ビジネス」という本を読んだことがある。これは、月3万円稼げるビジネスを5個ぐらいやったら、それなりに生きていけるんじゃない?みたいな提案をする作品で、この作品自体もとても面白いのだけど、さらにこの著者の生き方が素敵なのだ。この著者は「非電化製品」と呼ばれる、電気を使わないで使うことが出来る製品を発明し続けている。一番有名なのは「非電化冷蔵庫」だろうか。太陽光さえあれば使うことが出来るので、貧困地域で大いに活用されているようだ。藤村靖之は、発明をすることで社会問題を解決していく、そんな風に生きている人だ。そういう類の本を読む度に、そういう生き方への憧れが強くなっていく。
実際、社会起業家やNPOで働くというのは、世界のトレンドになりつつあるようだ。彼女たちがケネディスクールに在籍していた当時(2004年から2006年)では、ケネディスクールを卒業して社会起業家になる人は全体の2%程度だったという。しかし、リーマンショックをきっかけとして、社会に強いインパクトを与える社会起業家の存在が注目されるようになり、今ではチェンジメーカーやソーシャル・アントレプレナーと言った呼び方が定着するぐらいの存在になってきている。日本ではまだまだそんなに聞かないけど、若い世代を中心にそういう動きは出ているみたいだし、ネット上で様々なサービスが開発されてきている現在では、その流れは加速していくだろうと思う。
しかし、社会起業家というのは、当然と言えば当然ではあるけれども、普通に仕事をするよりも遥かに創造的で能力も必要とされる。貧困地域の人たちが考え行動することで、自分たちの手で貧困から脱出出来るようにできなければならないし、古い因習などが未だ残る貧困地域でのビジネスそのものに苦労を強いられる。
何かの本で読んだけれど、最近欧米では、多額の年俸を提示する会社の内定を蹴って、NPOや社会起業家を選択する人が増えてきているらしい。仕事を通じて社会問題を解決するというのは、やはり大きなやりがいがあるのだろう。優秀な人間ほどNPOや社会起業家を目指す、という流れがきっと欧米では出来上がりつつあるのだろうし、そういう社会は非常に豊かだと思う。日本では、まだまだそういう文化は根付かないだろう。とはいえ、まったく不可能というわけではないだろうし、既に色んなことをやり始めている人もたくさんいるはずだ。
僕も、いつかこんな仕事が出来たらなぁ、という思いを抱いてはいる。でも、自分の腰の重さや行動力のなさを知っているので、なかなか自分では動けない。そもそも僕は、何かを先導するより、何かを先導する人を手助けする立ち位置の方が得意だと思っている。誰か身近な人間が動き出した時に、それにすぐさま乗っかる。そんな風にして社会起業家と関わることが出来たらいいな。
本書では、彼女たちが立ち上げた「SHOKAY」が社会に対してどんなインパクトを与えたのか、それを4つ示している。

① 収入の安定
② 伝統的なライフスタイルや文化の保護
③ 環境の持続可能な利用法の促進
④ 地域開発

ここには、「ただお金を稼ぐだけ」ではない働き方がある。自分たちが働いた結果どうなるのかが、手に取るようにわかる仕事がある。イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく」の中で、「お金のために働くのはやめようぜ」的なことが書かれている。僕はそれに賛同する。それは、「お金を稼がなくてもいい」ということではない。「自分以外の誰かのためになるようにお金を稼ぐ」ということだ。これからはどんどんそういう働き方が、刺激的で面白くてやりがいがあるのではないかと思う。彼女たちは、溢れんばかりの情熱と、これまで必死に学んできた学問とを見事に融合させて、まだ社会起業家というものが社会的に広く認知する以前に、実に大きなことを成し遂げた。いや、この表現は正しくないか。現在も成し遂げ続けている。そんな二人の情熱の奮闘の物語。是非読んでみてください。

マリー・ソー+キャロル・チャウ「世界を変えるオシゴト 社会起業家になった二人の女の子の感動物語」


らも 中島らもとの三十五年(中島美代子)

内容に入ろうと思います。
本書は、「不世出の天才」と帯に書かれている多才な男・中島らもの奥さんが描く、高校時代に出会ってから亡くなるまでの「らも伝」です。
本書の冒頭が、らもの死のシーンである。ここからしてとても良い。この初めの場面を読むだけで、奥さんである著者の度量の広さ、そしてらもへの愛がよく伝わってくる。

『「僕お酒飲んでるから、そんなに長生きしない。覚悟しといて」
ことあるごとにそう聞かされていたから、今こうして彼がベッドに横たわっていることは、ある意味、私にとって練習問題を繰り返して臨んだテストのようなものだった。』

いきなりこんな素敵な文章が出てくる。この時点で僕は、本書で描かれるような、中島らもと著者のなかなか壮絶と言ってもいい結婚生活のことは知らない。それを知った上で、改めてこの文章の触れると、より奥さんの心の広さが伝わってくるような感じがする。「練習問題を繰り返して臨んだテストのようなもの」なんて、そんな気持ちで誰かの死に臨むことが出来るなんて、本当に素敵だと思う。
何度も死の淵を彷徨ってきたらもだから、今回も別に死ぬことはないだろうと、全然深刻に捉えていないかった著者は、しかしらもの死に触れて、しかしこんな風に書いている。

『「怪談から転げ落ちて死ぬという、そんなトンマな死に方がいいな」
つきあいはじめた頃からのらもの口癖だ。だから、彼は自分が願っていたとおりに死んでゆけて満足しているだろう。そうだよね?らも。』

凄く素敵だと思った。自分が死んだ時に、哀しみよりも強く、こんな風に思ってくれる人がいるなら、それは本当に、お互いにとって幸せだった人生なんだろうなと思う。らもと著者の人生は、控えめに言っても「まともじゃない」感じで、その中で著者自身も色々と辛く悲しい現実と向きあってきたのだけど、それでも、このらもの死の描写を読む限り、あぁらもも奥さんも、お互いに出会うことが出来て幸せだったんだろうなぁ、と思うことが出来た。
僕は、中島らもの作品をほとんど読んだことがない。自分の読書記録を見返すと、「ガダラの豚」「恋は底ぢから」「こらっ」「こどもの一生」という四作品しか読んでいないようだ。「ガダラの豚」と「こどもの一生」は小説だし、「こらっ」はなんだったか覚えていないけど、「恋は底ぢから」は恋愛相談エッセイみたいな作品だったと思う。
本書を読む限り、中島らもは、自分の過去やその時々の周囲のあれこれを、かなり色んなエッセイに書いているようだ。でも僕は、それらを一切読んだことがない。また、中島らもの代表作の一つと言ってもいいだろう「バンド・オブ・ザ・ナイト」という小説は、家に大勢の居候がいた時代のことをベースにしているようだ。それも読んでいない。
恐らく中島らもファンが読めば、この人はあのエッセイで出てきたあの人だとか、あの小説のキャラはきっとこの人がモデルに違いない、みたいなことがわかるのかもしれない。でも、僕はそういう事前知識みたいなものは一切持っていない。だから、そういう方面には触れられませんと、先に書いておこうと思います。
僕にとって中島らもという人のイメージは、特にはっきりとしたものを持っていたわけでもなく、なんとなく、刑務所に行ってたり、クスリ的なのを吸ってたりする小説家なんだろうなぁ、というぐらいのものでしかなかった。だから本書を読んで、中島らもが灘高出身の超秀才であることや、有名な賞をいくつも受賞したことがある有名なコピーライターだったということも知らなかった。なかなかそんな状態で本書を手に取ろうという人は多くはないだろうから、そういう意味ではなかなか新鮮な感想かもしれません。
さてでも、一体何を書いたらいいか。彼らの出会いから、らもの死に至るまでの「ハチャメチャ」っぷりは、時代ごとに色が違うし、なかなか簡単には抜き出せないだろうな。
というわけで、大雑把に、「出会った頃の話」と、「夫婦生活がハチャメチャだった時代」の二つに主に焦点を当ててみようと思います。
著者が短大に通っている頃に、灘高生だったらもと出会う。ジャズ喫茶に通い詰め、そこで筆談をしてコミュニケーションを取り(喋っているとうるさいと言われてしまうのだという。しかし結果的にそれが、シャイならもとのコミュニケーションには最適だった)、そうやって少しずつ愛を育んでいくことになる。
それまでにらもを知っている人は、らもが著者に恋をしているのを知り、こう叫んだという。

『あの中島が恋をした!生きようとしている!』

幼い頃から母親の期待通りに生き、常に優秀であり続けたらもは、しかしその反動からか、高校時代は生きる希望を失っていた。

『高校時代、授業をボイコットし、シンナーを吸い、睡眠薬を飲み、酒を飲み、音楽と活字に耽溺して毎日をようやく生きのびていたらもは、誰から見ても将来に何の希望も抱いていないのは明らかだった』

長髪にアーミージャケットにアーミーバッグというなかなかに奇抜なファッションで、決してモテそうな男に見えなかったらもだったが、しかし不思議と下品さからはかけ離れていた。それは、母親の愛情のお陰である。

『お母さんのしつけが行き届いていたことは、らもはフォークとナイフの使い方がものすごく上手だったことでもよくわかる。お母さんが家で練習させていたのだ。こうして手をかけて、大切に育てられたらもは、どんなに野暮ったい格好をしていても、ちっとも下品な感じがしなかった』

母親の存在を恥ずかしく、うっとうしく感じていたらもだったが、その一方で、母親への愛情は人一倍抱いていた。後年、らもの母親が亡くなった時の、こんなエピソードが描かれている。

『どんなに酔っぱらっていても、外から帰ってきたら必ず、うがいをして手を洗っていたらもが、お母さんが亡くなってから、ピタリとうがいも手を洗うこともしなくなった。』

一方著者の方はと言えば、「お屋敷のお嬢さん」と呼ばれるような女の子だった。それは、実家の財力や屋敷の広さを指してのことであり、著者自身はと言えばまるで野生児のように育ち、男の子とばかり遊んでいた。着道楽の母親が買ってくる服はすべてオーダーメイドで、また学校の遠足で行った先が自分の家の敷地で驚いた、というエピソードまである。らもの母は倹約家であり、後に結婚する際に両家の価値観があまりにも違いすぎていざこざが起こるのだが、そんな風にまったく違うバックボーンを持つ二人が、退廃的な雰囲気を醸し出すジャズ喫茶で出会い、恋に落ちる。
著者はらもと出会った時、失恋したばかりだった。だから、らもに告白された時に、断ってしまう。しかしらもは、そんな著者を口説く。

『「別れるのがつらいから、つきあわない。友達のままがいい」
「別れるときは、絶対、ミーを悲しませない。二人で山に登ろう。山を下るときは僕がおぼってあげるから。別れのない出会いはないけど、ね」』

そうやって二人の、「ハチャメチャ」な人生はスタートしていくことになるのだ。
さて、結婚し、子どもが生まれ、らもがコピーライターとして活躍していく頃に話は飛ぶ。この頃の話では、「ふっこ」と呼ばれる女性が非常に重要になるのだけど、とりあえずその話は後回しにしよう。
傍から見れば、夫婦生活は完全に破綻しているとしか言いようがない状況だった。
らもと著者が暮らしていた家には、常時大量の人間が出入りしていた。らもがあちこちから連れてきたりする人間が入れ替わり立ち代わりやってくるらしいのだけど、その数が尋常ではない。本書には、こんな記述がある。

『私の日記の記録によると、出たり入ったり泊っぱなしの人などを入れると、一ヶ月に最高101人、平均してのべ60人から70人が泊まっていったことになっている。人が多すぎて、お正月に、汲み取り便所のフタがしまらなくなってしまったこともあるほどだ』

ちょっとレベルが違い過ぎる「居候」ではないだろうか。著者は、子どもの頃から周りに人がたくさんいる環境で育ったから、自分は楽しかった、というようなことを書いているのだけど、しかしこの時、二人の子どもの子育ての真っ最中でもあるのだ。よくもまあそんな無茶苦茶な環境で子育てをしたものである。
もっと凄い話は、らもも著者も色んな人とセックスをしていたということだ。
例えば、らもの家に誰かが女の子を連れてやってくる。その男は、女の子とセックス出来たらいいと思って連れてくるのだ。しかし、女の子はらもを気に入ってしまって、2Fで二人はセックスをする。残された著者と男の子。じゃあ、我々もやる?と言って、1Fでセックスが始まる、と言った具合だ。
また、らもが著者に、「誰々さんと寝て」というようなことをも言ったりしていたらしい。著者は、「求められたら拒否することができない」人らしく、特に好きでもない相手と、嫌々ながらもセックスをしていたりしたらしい。
無茶苦茶である。しかも、著者は「きっとバレていなかったはずだ」と書いているけど、夫婦が別々でセックスをしている一つ屋根の下に、二人の子どももいるのだ。オーマイガー、ってなもんである。
躁鬱病に悩まされたり、酒を飲み過ぎて何度も倒れたり、覚醒剤取締法違反の容疑で逮捕されたりと、まあとにかく次から次へと色んなことを起こすらもではあったが、とにかく著者は、らもが家に帰ってこなかろうが、浮気を繰り返そうが、淋しくなることはあっても、らもへの愛情だけは消えることはなかったという。
そんな夫婦生活に、どでんと打ち込まれた杭のような存在感を長いこと保持し続けたのが、先ほどちらっとだけ名前を出した「ふっこ」である。
このふっこは、らもと著者が結婚し、新居を建てた頃に、一旦二人の人生に関わってきた。らもが通っていたゴルフガーデンの喫茶店で働いていた女の子で、らもはこのふっこと付き合っていた。明らかに浮気なのだけど、著者の感覚はちょっとおかしい。

『おかしなことになってしまっているな。なんか悪いなぁ、私が先にらもと出会ったばかりに、まだ十九歳の女の子を苦しめることになるなんて。私はどうしたらいいんだろうか。』

らもが浮気をしていることを知っていて、それでどうするでもなく、その状況を受け入れている。それには著者の、こんな考え方がある。

『だって、人が人を好きになることは誰にも止められない』

なかなか言えるものでもないだろう。長年連れ添って、晩年にそういう境地に達するならともかく、二人はまだ結婚して間もないのだ。そんな時に、夫が明らかに浮気をしていて、それなのに、自分が先に出会ってしまったことを申し訳なく思う感性は、僕は結構素敵だなぁと思ってしまうのだけど、皆さんはいかがでしょうか?
こんな著者だからこそ、らもと寄り添い、最後まで一緒にいることが出来たのだろうと思う。
ふっことの関係は、ふっこが(らもと離れるために、というのは著者の想像だ)東京に出ていってしまったことで一旦終わりを告げる。しかし、コピーライターとして東京で仕事をするようになったらもは、またふっこと関係が戻ってしまう。
そしてらもは、ふっこが劇団をやりたいという望みを叶えるべく、「リリパット・アーミー」という劇団を立ち上げる。
この劇団の存在が、夫婦生活を色々と困難に貶めることになる。
面倒なことが嫌いならもから全権を委任する形になったふっこは、劇団内の女帝と化し、いつしか著者は、ふっこを通じてでなければらもと連絡が取れないようになっていく。酒を飲み過ぎて体調を崩すらもを甲斐甲斐しく面倒を見、「家に帰すとお酒を飲んでしまう。美代子さんが全然頼りにならない」と言って、らもを放さないでいる。
またらもは、演劇をやっている期間は豹変する。言葉の暴力で著者を打ちのめす。この時期は、らもはほとんど家に帰ってこなかったが、子どもたちは父親が帰ってこない日常に安心していたという。この頃のらもは、著者をいたぶる存在でしかなかったという。
そんな、夫婦生活を破綻させているふっこという存在を間に挟んだままの夫婦生活だったが、しかしこの時も著者はあまり揺らぐことがない。この時期の、著者がらもに対して抱いていた考え方は、凄く素敵だと思った。

『私は、らもがふっこに囲われている状態を見ても、らもは、簡単に独占したり、支配したりできないのに、と結構、醒めて見ていた。
人は人を独り占めすることなんてできないよ。』

これは、もう長いことらもとずっと一緒にいた著者だからこその感想だろう。らもも著者も、首に縄をつけたりつけられたりすることを極端に嫌う人間だった。自由をひたすらに愛した人間だった。だからこそ、ふっこがどれだけ頑張ってらもの首に縄を掛けようとしても、それが無駄な努力だと分かっていたのだろうと思う。
もう一つ。

『でも、私には、らもがふっこに支配されていたとは思えない。らもにとっては、表面的には誰の言いなりになろうが、どうでもよかったというのが本音だと思う。どこに住もうが、何を着せられようが、頭の中が自由ならそれでいいと思っていたはずだ。むしろ、頭の中で何かを考えているときに、あれこれ面倒なことを言われることのほうがやっかいなのだ』

これを読んで、本当に中島らもという人は、この世の中から最高の理解者を手にしたのだな、と感じました。らもを自由に羽ばたかせられる環境を自然と与えることが出来た女性。そんな女性と一緒にいられたからこそ、中島らもという存在は世の中に出てくることができたのかもしれません。
最後に。前向きで野心家のふっこが、何もせずにブラブラしている著者に、何かやりたいことはないのか?と何度も聞いてきたというエピソードが出てくる。ふっこにとっては、そんなダラダラ生きる著者のことが理解できなかったのだろうと言う。それに対して著者はこんな風に返したという。

『やりたいこともうやってるよー。らもと結婚したよ』

「異常な日常」は、「たった一人の理解者」がいさえすれば成立する。しかし、その「たった一人の理解者」と出会うことがどれほど奇跡的なことか。らもと著者は、奇跡的な出会いを果たしたと言って言い過ぎではないだろう。誰にも何にも縛られることなく、羽ばたける限り自由に羽ばたいた二人の人生の軌跡。その力強さと真っ直ぐさを、是非体感してください。

中島美代子「らも 中島らもとの三十五年」


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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)