赦す人(大崎善生)
内容に入ろうと思います。
本書は、SM小説作家の大家であり、将棋界で親分のような存在としても親しまれてきた団鬼六の評伝です。
大崎善生のノンフィクションは、常に何らかの形で将棋と関わっている。それは、大崎善生自身がかつて、将棋専門誌のトップだった「将棋世界」の編集長を10年近くも務めた男だからであり、時には将棋の方から呼ばれるような形でノンフィクションが形になっていくことさえあるように思える。
団鬼六は、自身の趣味として将棋を指していた。しかしあることをきっかけに団鬼六は、
『日本一将棋に金を使った将棋ファン』
と呼ばれることになる。
「将棋ジャーナル」という赤字専門誌を買い取ったのだ。
将棋専門誌には、先述した専門誌トップの売上を誇る「将棋世界(当時の発行部数 およそ8万部)」を筆頭に、「近代将棋(5万部)」「将棋マガジン(3万部)」、そしてそこから大きく水を開けられるかたちで、「将棋ジャーナル(4千部)」という四誌が存在していた。
団鬼六が「将棋ジャーナル」を引き受けるかどうかで悩んでいる時、棋士たちの多くは反対した。既にその頃には団鬼六は、将棋界の親分のような存在であり、様々な交流があったのだ。
棋士たちは、当時どちらかといえばプロ棋士と敵対的な立場にあった「将棋ジャーナル」に鬼六が関わることで、プロ棋士たちとの関係が悪化してしまうことを恐れたのだった。しかし、反対されればされるほど我を通したくなってしまう鬼六は、赤字になることは覚悟、トントンであれば御の字というぐらいの気持ちで雑誌を引き受けることになる。
5年間、鬼六は奮闘した。アルバイトを雇う余裕もなく、自宅への定期配送がメインの雑誌である「将棋ジャーナル」を、自宅の地下で妻と一緒に袋詰めする作業も、自らやった。
それから5年後に廃刊を決定するまでに、団鬼六は財産のほとんどを失ってしまった。5億円掛けて竣工し、最高時の評価額が7億円とも言われた、通称「鬼六御殿」も、たったの2億円で手放さなくてはならなかった。
こうして、2億円の借金を抱え、65歳の老作家はへなへなと呆然としている。
既に断筆宣言をしていた団鬼六。ほそぼそと将棋雑誌に寄稿している文章以外に、収入の当てはほとんどない。
しかし、そんな逆転不可能に思われた団鬼六の人生は、たった一冊の本によって、富士見の如く蘇ることになる…。
というのがプロローグ的な立ち位置で描かれる、本書の第一章である。
どうだろうか。抜群に面白くて、惹きこまれないだろうか?
僕は、団鬼六の小説は読んだことはないし、大崎善生がこの連載を始めたという話を耳にしてようやく、団鬼六が晩年に将棋雑誌を買い取ったということを知った。とにかく、エロい小説(SM小説かどうかも知らなかった)を書いている作家、という名前で記憶していたぐらいだった。
そんな団鬼六の評伝。大崎善生が書いたのでなければ、特に目に止まることもないまま読まずにおいたろう。
やはり、大崎善生のノンフィクションは素晴らしい。
本書は、大崎善生のノンフィクション作家としてのデビュー作である「聖の青春」に非常に近いタイプのノンフィクションだと思う。
大崎善生の描くノンフィクションは、先程も書いたけど、なんらかの形で将棋が関わっている。しかし、その関わり方にはかなりの濃度の差があって、将棋という繋がりがきっかけの一つに過ぎないこともあれば、棋士そのものを描くこともある。
本書が「聖の青春」と似ているなと感じるのは、棋士と作家という違いはあれど、将棋と非常に深く関わった人物を、その生誕からの生涯を余すところ無く切り取ろうとしている、という点だ。本書では、「将棋界の親分」としての団鬼六だけではなく、団鬼六という規格外の存在そのものをまるごと描き出そうとしているように思う。
大崎善生は作中で、このノンフィクションを描くに当たって諦めたことを、こんな風に記している。
『この評伝を書くに当たって、私はできる限り虚像と真実を的確に切り分けて、本質の部分と虚像の部分を別々のプレートに分けて読者の前に差し出すことはできないかと考えていた。しかし第一回目の取材を終えたときに、すでにそのようなことは私の日tyてな願望に過ぎず、不可能に近いと思い知らされた』
団鬼六は、エッセイや自伝的小説も多く物している。しかし、そこで描かれている内容と、取材の過程で明らかになった事実に差がある。あるいは、取材ではどうしても肉薄できず、本の中の記述しかない、というものもある。
大崎善生は、その扱いに困る。何故なら団鬼六は、「面白ければどんなことでも良い」とするタイプの作家であり、たとえエッセイであっても、話が面白くなるように事実を改変してしまう。そして、その改変した事実に記憶の方が引きずられて、もう何が正しいことなのか判別出来なくなってしまう、というのだ。
しかし、僕には、これは大崎善生らしいな、という感じがする。
大崎善生のノンフィクションは、どちらかと言えばノンフィクションらしくない。僕がここでいう「ノンフィクションらしさ」というのは、物事を客観的に見つめて、なるべく主観を交えずに事実だけを提示する、というスタイルだ。
しかし大崎善生は、これまでのどのノンフィクションでも、そういうスタイルをとってこなかった。大崎善生は、「主観的ノンフィクション」とでも言うべき、著者自身の主観を多分に入れ込んだスタイルのノンフィクションを書き続けてきたのだ。
好き嫌いは人それぞれだろうけど、僕はそういうスタイルのノンフィクションが非常に面白いと思うし、大崎善生の魅力の一つだと感じている。
本書はもちろん、団鬼六という規格外の人物の破天荒な人生を描き出すことで、暴れ馬のように躍動し、荒波のようにうねる『物語』に読者は乗せられることになるのだけど、それに加えて、著者自身の人生も複雑に交錯していき、それが横糸となって団鬼六の人生に絡みついていく。
例えば、団鬼六が「将棋ジャーナル」を買い取った時、大崎善生はちょうど「将棋世界」の編集長だった。団鬼六と交際のある人物から、「将棋ジャーナル」にアドバイスをしてあげてほしいという打診が、大崎善生の元に届くことがあったという。
また、大崎善生の妻が女流作家なのだけど、14歳でプロ入りした頃に、師匠に連れられて横浜の鬼六御殿を尋ねたことがあるという。未だに団鬼六は大崎善生の妻のことを「やまとちゃん」と呼び、「愛人候補ナンバー1」と言って大崎善生を苦笑させる。
また、大崎善生にとってはそもそも、団鬼六という途方もない才能そのものが大いなる疑問だった。
大崎善生は小学校高学年で小説家を志し、以後「小説家になるという目標」を見据えて、戦略的に読書を続けてきた。しかし、大学生になり、いざ書くぞとなった時、大崎善生は衝撃に打ちのめされる。
1行も書けないのだ。
一方団鬼六は、享楽的で相場ばかりに手を出す父親に引き摺られるようにして自堕落な生活を続けクソみたいな人生だった頃、突然小説を書き始める。
25歳のことだった。
その時に書いた「浪花に死す」という純文学作品が、「オール読物」誌上の「オール新人杯」で最終候補に残り、それがきっかけで団鬼六はデビューすることになる。
凄まじいことを団鬼六はいう。
『私はね、書いた原稿はただの一枚も無駄にしたことがありません。すべて金になっています』
ボツになったものなど一つもないというのだ。
大崎善生は、団鬼六のその天性の才能を「絶対小説感」と作中で呼んでいるが、戦略的に読書を続けた末に一行も書けないという衝撃を味わった大崎善生にとっては、団鬼六の才能は驚異的だったのである。
そういう、著者自身の生い立ちや人生や経験が、団鬼六の波瀾万丈の人生と絡まっていく。虚実が判然としない、聞かされてもほとんど虚なのではないかと思いたくなるハチャメチャな団鬼六の人生。その曖昧さは、自らの主観を入れ込むという大崎善生のノンフィクションのスタイルに、なかなかうまく合致しているのではないかと感じました。
さて、団鬼六の生涯については、あまり書くわけにはいかない。やはり本書を読んで欲しいので、出来るだけセーブして書くことにします。
まず、団鬼六の母が凄い。「直木賞」の名前の由来となった直木三十五の内弟子であり、岸田劉生や金子光晴らと交流があった女流文士であり、また類まれなる美貌を生かし松竹の女優としても活躍した。団鬼六の一家には、芸能関係で才能を発揮する者が多く、また団鬼六自身も、いつの間にか芸能関係者に取り囲まれているというような、そういう不可思議な引力がある。
団鬼六のデビュー作の出版を実現したのが、母の師である直木三十五の愛人の弟、というのもまた面白い繋がりではないか。
純文学作家としてデビューした団鬼六は(当時はまだ団鬼六を名乗っていないのだけど)、やがて東京を逃げ出さなくてはならなくなり、そして非常に不可思議な成り行きで、国語の教員免許しか持っていないのに、英語の教師として働くことになる。
そしてさらに面白いことに、この教師時代に、日本のSM文化を一変させたとされる「花と蛇」が書かれることになるのだ。
団鬼六が、授業を自習にして、教室で小説を書いていた、というのは、たぶん有名な話だ(何故なら、僕でも知っているから、なんだけど、もしかしたら別に有名な話じゃないかもしれない)。英語教師の口を世話してくれた妻に、SM小説を書いていることを悟られるわけにはいかず、仕方なく学校で書いていたのだという(この話には、面白い後日談があって、是非読んで欲しい)。
「花と蛇」は、「奇譚クラブ」というSM雑誌のドル箱連載となり、その後、耽美館→桃園書房→角川文庫→富士見書房→太田出版→幻冬舎アウトロー文庫と、絶版と再刊行を繰り返す、息の長い作品となった。
団鬼六のSM小説にはセックス描写が少ないらしいのだけど、それは当時の事情によるという。
当時雑誌が発禁処分になることが頻繁にあり、その対策として、セックス描写をなるべく抑える方針が立てられたのだろう。しかしそこに団鬼六は、真理を見抜く。セックス描写を抑えることが、逆に読者のエロ心を刺激すると直感したのだ。そういう運も見方につけつつ、団鬼六はSM小説の世界をひた走る。同世代の他の官能作家が次々と発禁処分になるのに、自分だけ一度もなったことがない、と悔しそうに語りもする。
ピンク映画の制作に乗り出したり(ここで、映画史の中で非常に重要だろう人物との交点が描かれる)、たこ八郎との交流が描かれたり(団鬼六は、後々描かれる小池重明にしてもそうだけど、どんな落ちぶれた人間でも、出来る限り別け隔てなく接する人間だった)、団鬼六は誰も踏みしめたことのない地平を歩きながら、浮き沈みを経験しつつ猛進していく。やがて鬼六御殿には、渥美清や立川談志なんかも顔を出すようになったという。
そして、借金まみれになった団鬼六を結果的に救うことになる、真剣師・小池重明。金を掛けて将棋をやる真剣師としてプロ棋士をも凌ぐ人気を誇っていた小池重明との関わりが、結果的に団鬼六を新たな地平に引き寄せることになる。
ここでは書ききれないほどの壮大な物語を内包する、団鬼六という途方もない作家。その生涯が非常な密度で描かれている作品です。是非読んでみてください。
大崎善生「赦す人」
本書は、SM小説作家の大家であり、将棋界で親分のような存在としても親しまれてきた団鬼六の評伝です。
大崎善生のノンフィクションは、常に何らかの形で将棋と関わっている。それは、大崎善生自身がかつて、将棋専門誌のトップだった「将棋世界」の編集長を10年近くも務めた男だからであり、時には将棋の方から呼ばれるような形でノンフィクションが形になっていくことさえあるように思える。
団鬼六は、自身の趣味として将棋を指していた。しかしあることをきっかけに団鬼六は、
『日本一将棋に金を使った将棋ファン』
と呼ばれることになる。
「将棋ジャーナル」という赤字専門誌を買い取ったのだ。
将棋専門誌には、先述した専門誌トップの売上を誇る「将棋世界(当時の発行部数 およそ8万部)」を筆頭に、「近代将棋(5万部)」「将棋マガジン(3万部)」、そしてそこから大きく水を開けられるかたちで、「将棋ジャーナル(4千部)」という四誌が存在していた。
団鬼六が「将棋ジャーナル」を引き受けるかどうかで悩んでいる時、棋士たちの多くは反対した。既にその頃には団鬼六は、将棋界の親分のような存在であり、様々な交流があったのだ。
棋士たちは、当時どちらかといえばプロ棋士と敵対的な立場にあった「将棋ジャーナル」に鬼六が関わることで、プロ棋士たちとの関係が悪化してしまうことを恐れたのだった。しかし、反対されればされるほど我を通したくなってしまう鬼六は、赤字になることは覚悟、トントンであれば御の字というぐらいの気持ちで雑誌を引き受けることになる。
5年間、鬼六は奮闘した。アルバイトを雇う余裕もなく、自宅への定期配送がメインの雑誌である「将棋ジャーナル」を、自宅の地下で妻と一緒に袋詰めする作業も、自らやった。
それから5年後に廃刊を決定するまでに、団鬼六は財産のほとんどを失ってしまった。5億円掛けて竣工し、最高時の評価額が7億円とも言われた、通称「鬼六御殿」も、たったの2億円で手放さなくてはならなかった。
こうして、2億円の借金を抱え、65歳の老作家はへなへなと呆然としている。
既に断筆宣言をしていた団鬼六。ほそぼそと将棋雑誌に寄稿している文章以外に、収入の当てはほとんどない。
しかし、そんな逆転不可能に思われた団鬼六の人生は、たった一冊の本によって、富士見の如く蘇ることになる…。
というのがプロローグ的な立ち位置で描かれる、本書の第一章である。
どうだろうか。抜群に面白くて、惹きこまれないだろうか?
僕は、団鬼六の小説は読んだことはないし、大崎善生がこの連載を始めたという話を耳にしてようやく、団鬼六が晩年に将棋雑誌を買い取ったということを知った。とにかく、エロい小説(SM小説かどうかも知らなかった)を書いている作家、という名前で記憶していたぐらいだった。
そんな団鬼六の評伝。大崎善生が書いたのでなければ、特に目に止まることもないまま読まずにおいたろう。
やはり、大崎善生のノンフィクションは素晴らしい。
本書は、大崎善生のノンフィクション作家としてのデビュー作である「聖の青春」に非常に近いタイプのノンフィクションだと思う。
大崎善生の描くノンフィクションは、先程も書いたけど、なんらかの形で将棋が関わっている。しかし、その関わり方にはかなりの濃度の差があって、将棋という繋がりがきっかけの一つに過ぎないこともあれば、棋士そのものを描くこともある。
本書が「聖の青春」と似ているなと感じるのは、棋士と作家という違いはあれど、将棋と非常に深く関わった人物を、その生誕からの生涯を余すところ無く切り取ろうとしている、という点だ。本書では、「将棋界の親分」としての団鬼六だけではなく、団鬼六という規格外の存在そのものをまるごと描き出そうとしているように思う。
大崎善生は作中で、このノンフィクションを描くに当たって諦めたことを、こんな風に記している。
『この評伝を書くに当たって、私はできる限り虚像と真実を的確に切り分けて、本質の部分と虚像の部分を別々のプレートに分けて読者の前に差し出すことはできないかと考えていた。しかし第一回目の取材を終えたときに、すでにそのようなことは私の日tyてな願望に過ぎず、不可能に近いと思い知らされた』
団鬼六は、エッセイや自伝的小説も多く物している。しかし、そこで描かれている内容と、取材の過程で明らかになった事実に差がある。あるいは、取材ではどうしても肉薄できず、本の中の記述しかない、というものもある。
大崎善生は、その扱いに困る。何故なら団鬼六は、「面白ければどんなことでも良い」とするタイプの作家であり、たとえエッセイであっても、話が面白くなるように事実を改変してしまう。そして、その改変した事実に記憶の方が引きずられて、もう何が正しいことなのか判別出来なくなってしまう、というのだ。
しかし、僕には、これは大崎善生らしいな、という感じがする。
大崎善生のノンフィクションは、どちらかと言えばノンフィクションらしくない。僕がここでいう「ノンフィクションらしさ」というのは、物事を客観的に見つめて、なるべく主観を交えずに事実だけを提示する、というスタイルだ。
しかし大崎善生は、これまでのどのノンフィクションでも、そういうスタイルをとってこなかった。大崎善生は、「主観的ノンフィクション」とでも言うべき、著者自身の主観を多分に入れ込んだスタイルのノンフィクションを書き続けてきたのだ。
好き嫌いは人それぞれだろうけど、僕はそういうスタイルのノンフィクションが非常に面白いと思うし、大崎善生の魅力の一つだと感じている。
本書はもちろん、団鬼六という規格外の人物の破天荒な人生を描き出すことで、暴れ馬のように躍動し、荒波のようにうねる『物語』に読者は乗せられることになるのだけど、それに加えて、著者自身の人生も複雑に交錯していき、それが横糸となって団鬼六の人生に絡みついていく。
例えば、団鬼六が「将棋ジャーナル」を買い取った時、大崎善生はちょうど「将棋世界」の編集長だった。団鬼六と交際のある人物から、「将棋ジャーナル」にアドバイスをしてあげてほしいという打診が、大崎善生の元に届くことがあったという。
また、大崎善生の妻が女流作家なのだけど、14歳でプロ入りした頃に、師匠に連れられて横浜の鬼六御殿を尋ねたことがあるという。未だに団鬼六は大崎善生の妻のことを「やまとちゃん」と呼び、「愛人候補ナンバー1」と言って大崎善生を苦笑させる。
また、大崎善生にとってはそもそも、団鬼六という途方もない才能そのものが大いなる疑問だった。
大崎善生は小学校高学年で小説家を志し、以後「小説家になるという目標」を見据えて、戦略的に読書を続けてきた。しかし、大学生になり、いざ書くぞとなった時、大崎善生は衝撃に打ちのめされる。
1行も書けないのだ。
一方団鬼六は、享楽的で相場ばかりに手を出す父親に引き摺られるようにして自堕落な生活を続けクソみたいな人生だった頃、突然小説を書き始める。
25歳のことだった。
その時に書いた「浪花に死す」という純文学作品が、「オール読物」誌上の「オール新人杯」で最終候補に残り、それがきっかけで団鬼六はデビューすることになる。
凄まじいことを団鬼六はいう。
『私はね、書いた原稿はただの一枚も無駄にしたことがありません。すべて金になっています』
ボツになったものなど一つもないというのだ。
大崎善生は、団鬼六のその天性の才能を「絶対小説感」と作中で呼んでいるが、戦略的に読書を続けた末に一行も書けないという衝撃を味わった大崎善生にとっては、団鬼六の才能は驚異的だったのである。
そういう、著者自身の生い立ちや人生や経験が、団鬼六の波瀾万丈の人生と絡まっていく。虚実が判然としない、聞かされてもほとんど虚なのではないかと思いたくなるハチャメチャな団鬼六の人生。その曖昧さは、自らの主観を入れ込むという大崎善生のノンフィクションのスタイルに、なかなかうまく合致しているのではないかと感じました。
さて、団鬼六の生涯については、あまり書くわけにはいかない。やはり本書を読んで欲しいので、出来るだけセーブして書くことにします。
まず、団鬼六の母が凄い。「直木賞」の名前の由来となった直木三十五の内弟子であり、岸田劉生や金子光晴らと交流があった女流文士であり、また類まれなる美貌を生かし松竹の女優としても活躍した。団鬼六の一家には、芸能関係で才能を発揮する者が多く、また団鬼六自身も、いつの間にか芸能関係者に取り囲まれているというような、そういう不可思議な引力がある。
団鬼六のデビュー作の出版を実現したのが、母の師である直木三十五の愛人の弟、というのもまた面白い繋がりではないか。
純文学作家としてデビューした団鬼六は(当時はまだ団鬼六を名乗っていないのだけど)、やがて東京を逃げ出さなくてはならなくなり、そして非常に不可思議な成り行きで、国語の教員免許しか持っていないのに、英語の教師として働くことになる。
そしてさらに面白いことに、この教師時代に、日本のSM文化を一変させたとされる「花と蛇」が書かれることになるのだ。
団鬼六が、授業を自習にして、教室で小説を書いていた、というのは、たぶん有名な話だ(何故なら、僕でも知っているから、なんだけど、もしかしたら別に有名な話じゃないかもしれない)。英語教師の口を世話してくれた妻に、SM小説を書いていることを悟られるわけにはいかず、仕方なく学校で書いていたのだという(この話には、面白い後日談があって、是非読んで欲しい)。
「花と蛇」は、「奇譚クラブ」というSM雑誌のドル箱連載となり、その後、耽美館→桃園書房→角川文庫→富士見書房→太田出版→幻冬舎アウトロー文庫と、絶版と再刊行を繰り返す、息の長い作品となった。
団鬼六のSM小説にはセックス描写が少ないらしいのだけど、それは当時の事情によるという。
当時雑誌が発禁処分になることが頻繁にあり、その対策として、セックス描写をなるべく抑える方針が立てられたのだろう。しかしそこに団鬼六は、真理を見抜く。セックス描写を抑えることが、逆に読者のエロ心を刺激すると直感したのだ。そういう運も見方につけつつ、団鬼六はSM小説の世界をひた走る。同世代の他の官能作家が次々と発禁処分になるのに、自分だけ一度もなったことがない、と悔しそうに語りもする。
ピンク映画の制作に乗り出したり(ここで、映画史の中で非常に重要だろう人物との交点が描かれる)、たこ八郎との交流が描かれたり(団鬼六は、後々描かれる小池重明にしてもそうだけど、どんな落ちぶれた人間でも、出来る限り別け隔てなく接する人間だった)、団鬼六は誰も踏みしめたことのない地平を歩きながら、浮き沈みを経験しつつ猛進していく。やがて鬼六御殿には、渥美清や立川談志なんかも顔を出すようになったという。
そして、借金まみれになった団鬼六を結果的に救うことになる、真剣師・小池重明。金を掛けて将棋をやる真剣師としてプロ棋士をも凌ぐ人気を誇っていた小池重明との関わりが、結果的に団鬼六を新たな地平に引き寄せることになる。
ここでは書ききれないほどの壮大な物語を内包する、団鬼六という途方もない作家。その生涯が非常な密度で描かれている作品です。是非読んでみてください。
大崎善生「赦す人」
世界から猫が消えたなら(川村元気)
内容に入ろうと思います。
キャベツという名の猫と暮らしている男は、”死ぬまでにしたい10のこと”を考え始めている。
脳腫瘍だそうだ。一週間先に死んでしまっても、おかしくないそうだ。
しかし、思いつく”10のこと”には、ロクなものがない。おかしい。死を前にしてやりたいことが、こんなにも思いつかないものなのか。
目の前に、自分と同じ顔をした存在がいる。妙なテンションで話しかけてくるソイツは、そいつの言っていることを真に受ければ、”悪魔”なんだそうだ。
その”悪魔”が、囁きかける。
世界から何か一つものを消し去る毎に、あなたの寿命は一日延びます。
じゃ、まず手始めに、電話なんか、消してみましょうか?
というような話です。
色々ツッコミたいところはあるのだけど、まああまりやり過ぎないようにしよう。きっとこの作品を読んで、良いと感じる人もいるのだろうし。
とはいえ、なんというか、全体的にちょっとネジの締め方の緩い物語だなぁ、という感じがする。整備士がちゃんとネジを締めてなくて、あっちこっちで不具合が生じているような、そんな印象を受ける。
全体的には、もっと深く設定を考えた方がいいような気がするなぁ、という場面が非常に多かった。扱うテーマ的に、本書の分量で足りるような物語ではないのではないか。家族との思い出であるとか、猫との触れ合いであるとか、そういう「地に足のついた、著者自身が手触りを得られる部分」に関しては、それなりにちゃんと描いている印象なのだけど、「世界からモノが消える」という壮大な設定については、ちょっと色んな意味でザル過ぎるように思う。そういう奇抜な設定を組み込むからには、それに対する「本当らしさ」みたいなものをもう少し担保してあげないといけないんじゃないかなぁ、と思ってしまいました。
特に僕が一番ダメだと思ったのは、
『その世界から完全に消えたものについて語ることが出来るのか?』
という点だ。これが一番気になった。
例えば一番初めに【時計】が消える。主人公は、【時計】という存在は消えてはいないのだけど、ドラえもんの道具である「石ころ帽子」を被ったみたいに、路傍の石のような存在になって視界に入らなくなったのだろう、というような認識をしている。
しかしだな、【その存在について意識できないはずのもの】について、語ることが出来るだろうか?
僕の頭の中では、完全に、小川洋子「密やかな結晶」との対比がある。
「密やかな結晶」でも、ある日突然唐突に、その世界から何かが消える。その何かは確か、モノであることもあれば、概念であることもあったはずだと思う。とにかく、何かが消える。しかし、そこに住む人々は、『何が消えたのか』というのは、ハッキリとは分からない。何故か一部の人達は『消えてしまったはずのものを所有したり語ったりできる』みたいな設定があったように思うんだけど、基本的には、『その世界から何かが消えてしまった』という事実だけがぼんやりと伝わり、『その世界から何が消えたのか』については判然としない、という設定だった記憶がある。
それはそうだろうな、と思う。
【時計】が消えるというのは、【時計】という概念そのものが消えてしまう、ということではないだろうか。つまり、辞書には【時計】という単語が載っているけど、【時計】が消えてしまった世界では、それが何なのか理解できない。僕はそういう捉え方をしている。それが自然ではないだろうか?
そういう世界においては、既に消えてしまった【時計】について、そもそも語ることなど出来ないのではないか、と僕には思えてしまう。
そうでないならそうでないでいい。ならどういう設定なのかということを、もう少し明確にして物語を紡いで欲しかったという感じがする。
”悪魔”の口調の軽さは、あまりにも全体に馴染まなすぎて唐突感があるし(とはいえ、ちょっと重苦しいテーマの小説になるから、明るさを加味する意味でそういう設定にしたのだろうし、そういう心持ちまでは悪いとは思わないのだけど、やるならもう少しスマートさが欲しかった)、特殊な状況に巻き込まれたとはいえ、もう少し『死そのもの』と向き合う、みたいな描写があっても良かったんじゃないかな、という気がする。
まあ好みの問題もあるのだろうけど、全体的には、やはりなかなか評価しにくい作品である。
川村元気「世界から猫が消えたなら」
キャベツという名の猫と暮らしている男は、”死ぬまでにしたい10のこと”を考え始めている。
脳腫瘍だそうだ。一週間先に死んでしまっても、おかしくないそうだ。
しかし、思いつく”10のこと”には、ロクなものがない。おかしい。死を前にしてやりたいことが、こんなにも思いつかないものなのか。
目の前に、自分と同じ顔をした存在がいる。妙なテンションで話しかけてくるソイツは、そいつの言っていることを真に受ければ、”悪魔”なんだそうだ。
その”悪魔”が、囁きかける。
世界から何か一つものを消し去る毎に、あなたの寿命は一日延びます。
じゃ、まず手始めに、電話なんか、消してみましょうか?
というような話です。
色々ツッコミたいところはあるのだけど、まああまりやり過ぎないようにしよう。きっとこの作品を読んで、良いと感じる人もいるのだろうし。
とはいえ、なんというか、全体的にちょっとネジの締め方の緩い物語だなぁ、という感じがする。整備士がちゃんとネジを締めてなくて、あっちこっちで不具合が生じているような、そんな印象を受ける。
全体的には、もっと深く設定を考えた方がいいような気がするなぁ、という場面が非常に多かった。扱うテーマ的に、本書の分量で足りるような物語ではないのではないか。家族との思い出であるとか、猫との触れ合いであるとか、そういう「地に足のついた、著者自身が手触りを得られる部分」に関しては、それなりにちゃんと描いている印象なのだけど、「世界からモノが消える」という壮大な設定については、ちょっと色んな意味でザル過ぎるように思う。そういう奇抜な設定を組み込むからには、それに対する「本当らしさ」みたいなものをもう少し担保してあげないといけないんじゃないかなぁ、と思ってしまいました。
特に僕が一番ダメだと思ったのは、
『その世界から完全に消えたものについて語ることが出来るのか?』
という点だ。これが一番気になった。
例えば一番初めに【時計】が消える。主人公は、【時計】という存在は消えてはいないのだけど、ドラえもんの道具である「石ころ帽子」を被ったみたいに、路傍の石のような存在になって視界に入らなくなったのだろう、というような認識をしている。
しかしだな、【その存在について意識できないはずのもの】について、語ることが出来るだろうか?
僕の頭の中では、完全に、小川洋子「密やかな結晶」との対比がある。
「密やかな結晶」でも、ある日突然唐突に、その世界から何かが消える。その何かは確か、モノであることもあれば、概念であることもあったはずだと思う。とにかく、何かが消える。しかし、そこに住む人々は、『何が消えたのか』というのは、ハッキリとは分からない。何故か一部の人達は『消えてしまったはずのものを所有したり語ったりできる』みたいな設定があったように思うんだけど、基本的には、『その世界から何かが消えてしまった』という事実だけがぼんやりと伝わり、『その世界から何が消えたのか』については判然としない、という設定だった記憶がある。
それはそうだろうな、と思う。
【時計】が消えるというのは、【時計】という概念そのものが消えてしまう、ということではないだろうか。つまり、辞書には【時計】という単語が載っているけど、【時計】が消えてしまった世界では、それが何なのか理解できない。僕はそういう捉え方をしている。それが自然ではないだろうか?
そういう世界においては、既に消えてしまった【時計】について、そもそも語ることなど出来ないのではないか、と僕には思えてしまう。
そうでないならそうでないでいい。ならどういう設定なのかということを、もう少し明確にして物語を紡いで欲しかったという感じがする。
”悪魔”の口調の軽さは、あまりにも全体に馴染まなすぎて唐突感があるし(とはいえ、ちょっと重苦しいテーマの小説になるから、明るさを加味する意味でそういう設定にしたのだろうし、そういう心持ちまでは悪いとは思わないのだけど、やるならもう少しスマートさが欲しかった)、特殊な状況に巻き込まれたとはいえ、もう少し『死そのもの』と向き合う、みたいな描写があっても良かったんじゃないかな、という気がする。
まあ好みの問題もあるのだろうけど、全体的には、やはりなかなか評価しにくい作品である。
川村元気「世界から猫が消えたなら」