黒夜行

>>2013年02月

卵をめぐる祖父の戦争(デイヴィッド・ベニオフ)

内容に入ろうと思います。
本書は、映画の脚本家である男(訳者はこの男が、著者本人のようだと書いている。著者もまた、映画の脚本家でもあるのだ)が、何故か自伝を依頼され、それに祖父の話を書くことに決め、祖父に戦争の話を語らせる、という冒頭から物語がスタートする。そして物語の本編は、その祖父がかつてレニングラードで経験した一週間の出来事である。
1942年1月、主人公(祖父)のレフはレニングラードに住んでいた。この当時レニングラードは、ドイツ軍による包囲に耐えていた。後に「レニングラード包囲戦」と呼ばれることになるこの攻防は、実に900日にも及んだらしく、その間外部との接触を絶たれたレニングラードは、飢餓を始め惨憺たる状況を呈すことになる。しかしそれでも、レニングラードは陥ちなかったという。
そんな壮絶な包囲網の中で、絶望的な空腹と闘いながら、消防団員として働いていた17歳のレフは、ある日ちょっとしたことから、仲間と引き離され、「十字」と呼ばれる監獄に連れて行かれてしまった。外出禁止令に違反したレフは、捕らえられた瞬間に銃殺されてもおかしくはなかったが、「十字」で同じ防になった脱走兵(本人は脱走兵ではないと否定するが)のコーリャとともに、何故か秘密警察の大佐の元に連れて行かれた。
そこで彼らは、奇妙な命令を受けることになる。
1ダース卵を探してこい、というのだ。
結婚式を控えた娘のために、妻がケーキを用意するという。あらゆる食材を集めたが、しかし卵だけがどうしても手に入らない。
配給カードを取り上げられた彼らは、1週間後に1ダースの卵を手にしてここに戻ってこれなければ死を迎えることになる。しかし、卵なんてどこにある?
楽観的で喋りまくる下ネタ好きのコーリャのハチャメチャに見える行動に翻弄されながらも、どうにか任務をやり遂げようと、二人は幾度も死を覚悟しながら卵を求めて極寒のソ連を歩きまわることになる…。
というような話です。
設定はかなり面白いと思いました。
ドイツ軍からの絶望的な包囲網にさらされている中で、娘の結婚式のために卵を入手せよという場違いな命令を下す大佐の馬鹿馬鹿しさ、そしてそんな馬鹿馬鹿しい命令を遂行しなければ命を落としてしまう二人の少年。物語は、戦争という悲惨で異常な舞台で展開され、その悲惨さがねっとりと描かれる場面も多々あるのに、この珍妙な依頼の性質が、物語全体を緩ませているような感じがある。絶望と弛緩が物語のテンポを生み出していると感じます。
それは、コーリャという人物の存在についても同じように言えるでしょうか。彼らの道中は、卵探しという命令の珍妙さに加えて、コーリャという人物の陽気さ・くだらなさ加減によっても彩られていきます。絶望的な状況にありながら、コーリャはまるでそれが戦時中ではないかのような振る舞いをみせる。それは幾度もレフをヒヤヒヤさせ、命の終わりを予感させるが、しかし最終的には幾多のピンチを乗り越えてしまう。卵探しという非常識で危険な任務への覚悟がずっと定まり切らないままに見えるレフとは違って、コーリャはその圧倒的な陽気さでもって、どこからか前進するための力を引き出してきてしまう。そんな対照的な二人の道中は、危険地帯に足を踏み入れているのだということを感じさせない二人のやりとり(大抵はコーリャがグイグイと引っ張っていく会話)によって、緊張感が緩まされていくような感じがある。
そういう、超非常時に置かれながらも、どこか牧歌的な雰囲気がにじみ出てくるような二人の道中の物語は、その奇妙な設定も含めて、なかなか面白いと思いました。
ただ、やっぱり僕がどうしても外国人作家の作品を読みつけないので、どうにもこうにも文章が頭に入ってこない。どうしてこういう風になっちゃうのかわからないんだけど、やっぱりどうしても、大抵の外国人作家の作品を読むと、こういう感じで文章が全然頭に入らない感じになってしまいます。やっぱりこれは相性の問題なんだろうなぁ、というしかありません。どうしても、外国人作家の作品は苦手です。
そんなわけで、たぶん僕が外国人作家の作品をどうしても読みつけない性質だからという理由で、どうしてもそこまで評価出来ませんでした。たぶん、作品は面白いんだと思います(何かのランキングで1位だった気がします)。設定に惹かれた方は、読んでみるといいかと思います。

追記)amazonのレビューでは、みんな大絶賛です。ここまで評価の高いレビューは、なかなか見れるもんじゃありません。

デイヴィッド・ベニオフ「卵をめぐる祖父の戦争」


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僕の心の埋まらない空洞(平山瑞穂)

内容に入ろうと思います。
本書は、ある容疑で逮捕され検察での取り調べを受けている鳥越昇と、その鳥越を取り調べている堅物の検事・荒木倫高の物語です。
鳥越は、同じ会社の女性にストーカー行為を働き、そして最終的にその女性を殺してしまったという「殺人」の容疑で逮捕された。鳥越は、自分が「ストーカー行為」をしていたことは基本的に認めているし、どんな罪名や刑罰であろうと受け容れる、と主張している。しかし彼は、その女性を殺したのかどうか、警察の取り調べの段階でははっきりとは供述していない。この事件を担当した刑事は、「ストーカー野郎なんかに人権なんかない」と言い切るような、そういう意味ではちょっと問題のある男で、その刑事は鳥越の話を碌に聞くこともなく、殺人に決まってるでしょ、といわんばかりの態度である。
鳥越が取り調べにおいて唯一望んでいること。それは、「話を聞いてもらうこと」だ。
刑事はもとより、担当弁護士でさえ、彼の罪を減刑させることにしか興味がなく、鳥越の話をまともに聞こうとしない。鳥越には、自分が逮捕されるきっかけに至るまでの、被害者である松谷沙菜絵との間にあった出来事を誰かに聞いてほしい、分かって欲しいという衝動に突き動かされている。そして倫高は、なんとなくこの鳥越の主張に耳を傾けなくてはならないような気持ちが沸き起こり、そのグダグダとした、正直真相解明に役立つのかどうか判然ともしないような鳥越の話を聞き続けることになる。
倫高は、誰からも羨ましがられる妻・ちづるを得て、検事という、2~3年で全国各地を転々とする生活を続けている。検事内では「堅物の愛妻家」として知られており、昼は愛妻弁当、夜は仕事が終わればまっすぐ帰り、飲み会の付き合いも悪いと有名だ。立会事務官という、検事の補佐役には、通常同性が充てられるものだが、そんな評判から倫高には大丈夫だろうと、倫高の立会事務官には野沢瞳という女性がついていた。
倫高は唐突に、二週間後の異動が命じられた。意向打診の時期に話がなかったために今年はもうないと思っていたのだが、急に北海道への異動が決まったというのだ。
倫高の脳裏に浮かんだのは、鳥越昇のことだった。
鳥越の拘留期限が、倫高の最終日であった。もちろんそこから10日の延長は可能だが、この事案は誰かに引き継ぐのではなく、どうにか自分の手で終わらせてしまいたかった。
ストーカー的行為をしたことは事実だが、そのほとんどの期間、被害者である沙菜絵とは意志のある交流が続いていたという話を延々と続ける鳥越と、そんな鳥越の言葉に触発されるかのようにして身辺が浮つき始める倫高。「自分にとって都合のいい理屈で相手との関係を規定しようとする」鳥越と、「堅物の愛妻家」である倫高の価値観が交錯する…。
というような話です。
これはなかなか面白い作品でした。平山瑞穂は、作品を出す度に違ったタイプの作品に仕上げてくる作家で、今回もまた、少なくとも僕がこれまで読んだ範囲内の平山瑞穂作品とはタイプが違う作品だと思います。
本書はまずともかくも、鳥越の供述が非常に面白い。
本書は、鳥越の一人語りと、倫高視点での物語が交互に挟み込まれていく構成になっているんだけど、鳥越の一人語りがかなり面白いです。
とはいえ、この鳥越の供述は、女性が読んだらイライラするんだろうなぁ、という感じもあります。
僕はこの鳥越の、客観的かつ論理的な供述が凄く気に入っています。もちろん、だからと言って、鳥越の供述に共感できるかどうかというのはまた別問題です(共感できてしまう部分もあるんですけど)。理系の人間を評するのに凄くわかりやすいこんな表現があります。理系の人間は、「あなたのことは嫌いだけど、あなたの言っていることは正しい」というような価値判断をする人が多い。もちろん文系の人だっているだろうけど、理系の人間の方がそういう人多いと思うんですよね。僕は自分が理系の人間なんで、こういうのがわかります。鳥越に対しても、「鳥越という人間に対する評価はともかく、鳥越の主張そのものには一定の評価が出来る」という印象を受けます。
鳥越は、ひたすら客観的に、自分が沙菜絵に対して行なってきた「行動」を、後付けではあるけど理屈をつけて説明をしていく。「後付け」と書いたのは、その行動をしている時はそこまで冷静でいられたわけではないからです。後から振り返ってみると、こういうことだったんだろう、という形で自分を客観視して、その当時の自分の行動を説明しようとします。
鳥越は、確かに自分は「ストーカー行為」と言われても仕方ないことをしている。しているのだけど、でもそれは本当にごく僅かであって、実際は待ちぶせしたり後をつけたりというような形ではなく、きちんと本人に連絡を取って待ち合わせをして沙菜絵と会っていたのだいう。実際にそれは後に裏付けられることになるのだけど、鳥越の主張を読んでいくと、確かに鳥越を「ストーカー」という枠で捉えるのはちょっと違うのかもしれないよなぁ、という気になってくる。
しかし、この鳥越と沙菜絵の関係とか、あるいは鳥越の供述なんかを説明するのはとても難しい。一言で、「鳥越はこんな男だ」「沙菜絵はこんな女だ」と表現できない。もちろん、人間ってそういうものなんだけど、小説ってどうしてもそういう部分をわかりやすくしちゃって、「キャラクター」という属性を与えて、簡単に説明できちゃうような人格として描かれるようなことが多いような気がする。別にそれを悪いというつもりはないんだけど、本書のような小説を読むと、そうだよなぁ、人間ってもっと複雑でよくわからない存在だよなぁ、と改めて思い知らされる感じがある。
鳥越は、自分が悪いことをしてきたという点については弁解の余地はない、と言っている。でも、沙菜絵の方にだって明らかに悪い点はありますよね?と主張したい。そして、誰かにそれを認めてもらいたがっている。
沙菜絵も悪かった、という点の是非についてはまあ読んだ人がそれぞれ判断してくれればいいと思うけど、僕はこの「それを誰かに認めてもらいたがっている」という鳥越の態度には、なんとなく共感してしまう感じがある。
それは、「みんな」に対する違和感みたいなものだ。
「みんな」は、割り算をして小数点以下を切り捨てちゃうみたいな風にして、物事を「わかりやすい枠」にはめて捉えたがる。もちろん、気持ちはわかる。世の中にはいろんなことがあって、そのすべてに対していちいち向きあって正確に捉えようとしてたら参ってしまうだろう。僕自身だって、色んなことを「わかりやすい枠」にはめて捉えているのだろうし、それそのものを批判しても仕方ないと思う。
僕が思うのは、みんなさっさと割り算をしちゃいがちじゃない?ということだ。
(44÷3)という計算があった時、すぐに割り算をして、14.666666…だな、なるほどじゃあ大体15だな、みたいな感じで物事を捉えている人が多いなぁ、という印象がある。この、「14.66666…」を「15」にする行為を僕は「わかりやすい枠にはめる」と表現している。
僕が言いたいのは、なぜ(44÷3)という式を、(44÷3)という式のまま捉えておくことが出来ないのか、ということだ。つまり、割り算をしてしまわないで、カッコに入れたままにしておく。物事をそういう風に、とりあえずカッコに入れたまま未計算の状態で保持しておくというのが、結構実は大事だったりするんじゃないか、といつも思っている。
もちろん、僕自身もすぐに計算してカッコを外してしまいたくなることもある。実際にそうしていることだってたくさんあるだろう。だからこれは、自戒もこもっている。
鳥越は、沙菜絵の周囲の複数の人間からの、「ある男(明らかに鳥越とわかる)につきまとわれていた困っていると沙菜絵から相談を受けた」という証言などを元に、すぐに鳥越をストーカーと決め付けた。確かに、警察には処理すべき膨大な事件があるし、いちいちカッコのまま置いておくことは出来ないとはいえ、やはり釈然としないものがある。
そういう風に「わかりやすい枠」で捉えたり捉えられたりしていることは、僕らの日常の中に凄くたくさんあって、そういう風潮への違和感が著者自身にもあったんじゃないかなぁ、という感覚を持った。そして倫高は、「14.6666…」と「15」の間に何か本質的なことが隠されているのではないかと思って、鳥越の話に耳を傾けることになるのだ。
鳥越という男は、罪悪感や嫉妬心が欠けているとはいえ、それまで普通に社会生活を営んできた人間であり、そんな割とどこにでもいるだろう男がストーカーに変貌していく過程を、本人自らが如実に語っていく供述は、非常に面白い。鳥越の、どう考えても開き直っている風にしか見えない態度には相当イライラさせられるだろう。どの口がそれを言うんだ?何様のつもりだ?というような批判がジャンジャン飛んでくるだろう。でも、僕の解釈は違う。鳥越は、「自分が事実だと思っていることを、出来るだけ正確に伝えたい」だけなのだ。そのためには、自分を繕うような表現や、相手を慮るような気遣いはむしろ邪魔で、事実を曇らせかねない。鳥越のストーカー行為には同情の余地がないし、沙菜絵に対する執着心にもまったく理解が出来ないんだけど(そもそも僕が、あまり執着心を持たない人間だっていうのもあるんだけど)、少なくともこの、「事実を出来るだけ正確に伝えたい」という態度には非常に好感が持てる。
本当は、鳥越の発言をいくつか引き合いにだして、鳥越がどんな思考過程を経てストーカーになってしまったのか、みたいなことを書こうと思ってたんだけど、やっぱり鳥越という人間を短く描写することは難しいし、鳥越がストーカーになっていく過程そのものは、本書における軸の一つでもあるので、やっぱりそれは書かないことにしようと思います。
ただ、本書の中で「都合のいい隠れ蓑」という表現が出てくるんだけど、これは非常に絶妙だなと感じました。これは実は鳥越がした発言ではないのだけども。この「都合のいい隠れ蓑」というのは、大なり小なりある程度誰だって考えちゃうようなことではないかなと思います。「都合のいい隠れ蓑」というのは、本書の人間関係を読み解く一つのキーワードになるな、という感じがします。あと、鳥越がある場面で沙菜絵に対して「かわいそうに」と思う場面があるんだけど、それはなんとなく、ストーカー行為をする人間の倒錯した胸の内を的確に表現した描写な気がして、非常に印象に残りました。
倫高の方の物語も、なかなかにスリリングです。こちらは、どんな展開を辿るのか、あまり触れないでおきましょう。
本書を読んだ女性は、この倫高に対してはどんな感情を抱くものなんだろう?鳥越に対しては、明らかな嫌悪しかないでしょう。いくら鳥越が言葉を重ねようとも、その鳥越の言葉は、少なくとも女性には届かないでしょう。それは、それまでの鳥越がどうだったかに関わらず、現在の鳥越が「絶対的にダメ」だからです。
さて一方倫高の方は、「堅物の愛妻家」と呼ばれるほどの潔癖な男です。まあちづるとの間で「不幸な誤解」があって、それが問題になったこともあるんだけど、とりあえず倫高は世間一般の男と比べて出来すぎなくらいよく出来た男です。
そんな倫高が、まるで鳥越の供述に感化されたかのように浮ついてしまう。これを女性はどう捉えるか。単純に鳥越と比較したら、大したことはしていないと言っていいだろうと思う(まあ、ある一点を除けば)。けどそもそも倫高は、相対的に高いところにいた。そこからの「相対的な落差」みたいなものが、女性を苛つかせるかもしれないな、という風にも思う。
個人的には、鳥越の方になんとなく共感できてしまうことが多い気がする。それは、鳥越の主張や行動に対する賛同ではない。両者の立場の違いから来るものだろうと思う。倫高は、美しい妻を得て、間もなく栄転する身であり、つまりそれは「何かあれば失うものが大きい」ということでもある。だからこそ、倫高の行動原理は「言い訳がましい」ものになってしまう。一方で鳥越の方が、検事相手に供述している今の時点では、失うものなど何ひとつないと言っていいだろう。もうほとんどすべてのものを失ってしまったのだから。だからこそ鳥越の供述は、「率直で素直」なものになる。僕はその「率直で素直」な部分に共感するのだろうなという感じがします。
ちょっと今回は、「ちゃんと感想を書ききれなかった感」が強いなぁ。もうちょっと何か書けるかと思ったんだけどなぁ。特に、鳥越という人間についてもう少し色々書ける気がしていたんだけど、なかなか難しかった。非常にザワザワさせてくれる作品です。特に鳥越という男がなかなか捉えがたく、確かに倫高が鳥越に惹かれる(なんとなく気になる)理由がわかるような気がしました。女性が読んでどう感じるのか、非常に興味があります。是非読んでみてください。

平山瑞穂「僕の心の埋まらない空洞」


仙台文庫別冊 月刊佐藤純子(佐藤純子)

内容に入ろうと思います。
本書は、仙台駅前の書店「ジュンク堂書店仙台ロフト店」で書店員として働く佐藤純子さんが、3年間書き続けてきた「異色フリーペーパー」をまとめたものです。
書店員がフリーペーパーを作って店頭を配布するというのは、ここ最近ではもう珍しいことでもなくなりましたけど、3年前だとまだやっている人も多くはなかったでしょう。それに加えてこの「月刊佐藤純子」が異色なのは、「店頭で配布しているわけではない」という点だ。佐藤純子さんが、好きな時に書いて(だから、「月刊」と銘打ってはいるものの、月に何回も出るし、2ヶ月描かなかったこともあるという)、友人やお客さんに「押し配り」しているのだという。なかなかそんなフリーペーパーはないでしょう。しかも、この「月刊佐藤純子」は、結構全国区レベルの知名度を誇っている(もちろん、書店・出版界隈では、ということだけど)。だからこうして書籍化もされるわけである。佐藤純子さん自身の知名度がどんどん上がっていって、それにともなって「月刊佐藤純子」の知名度も上がっていくという感じなんだと思うんだけど、凄いもんだなぁと思います。
内容はというと、まあこれがかなり脱力的といいますか。「自分で髪を切ったら結構酷い感じになっちゃいました」とか「病気したり怪我したりしました」とか「酒飲み過ぎて記憶を失いました」みたいな、日常の色んなことが描かれていく。本書を読む限り、かなり変わった女性で、変わった人が好きな僕としてはなかなか惹かれる感じです。
あと凄いなぁと思うのは、とにかく人との繋がりの幅の広さ。書店・出版関係のみならず、とにかく色んなことに興味を持って、手当たり次第色んなところに突っ込んでいく。だから、別に親族がやっているわけではないお店屋さんの店番を頼まれて引き受けたり、取材に無理やりついていって挿絵を描かせてもらったりなんてことをしている。「人と繋がる力」なんて書くと、最近の風潮っぽくてちょっと嫌だけど、でも本当にそういう力が強いなぁ、という感じがしました。羨ましい限りです。
自分の備忘録的な感じで、琴線に触れた部分をざっと列挙してみようかな。

・「こたつをしまうと寒くなるよねぇ」に続けて、「本も返品すると問い合わせがあるよねぇ」
・ボーダーの服が好きで、かつ、店内で背中が出ていると注意される佐藤純子さん。だから、「背中にボーダーの刺青をしちゃえばいいよねぇ」って
・店内で台車を通すために「失礼します~」とお客さんに。だからついうっかり街中で自転車に乗ってる時も、周りの人に「失礼します~」って言っちゃう
・血管がまったく出なくて、驚異的に採血が不可能
・レジ閉め中にやることがなくなると、ムーンウォーク

さて本書には、通常の「月刊佐藤純子」とは別に、「ゆらゆら日記」と題された特別編も収録されている。これは、2012年3月12日から4月5日まで毎日描かれた、震災日記である。
どんな想いでこの日記を描いていたのかは想像するしかないのだけど、描かれたものを読むと、「楽しかったことを覚えておきたい/誰かに知ってほしい」というような気持ちが伝わってくる。辛い、辛いと描いても、心は晴れないし、周りも明るくなれない。しんどい日常の中にも、良かったこと、嬉しかったこと、楽しかったことはちゃんとある。そういうものをきちんと残しておこう。そういう心持ちでこの日記を描いていたのではないかな、と想像させてくれる。
やはりここでも佐藤純子さんは人との繋がり力を目一杯発揮していて、震災直後の厳しい毎日を、みんなでワイワイやりながら過ごしている。そういうワイワイした感じは、なんとなく、震災という現実に直面している人たちの話ではないように思えることもあって、なんだか心強い。こっちも、備忘録的に、ハッとさせられた部分をいくつか描いておこう。

・「かずくーん、地震よー」と声を掛けるお母さん
・「難しい専門知識やどんどん増える死者数じゃなくて、もっと別のことをききたい」
・「命にかかわらない買い物をすると申し訳ない気持ち。でもうれしい」
・左上に「配給 こうら 19:30」というメモ書き
・テレビで、リビアの戦争のニュースが流れる。「二日目の夜にみんなで星を見た。おなじはずの夜空に、ミサイルが飛んでた」
・4/3、23日目にして書店再開。お客さんから、「食べ物はこんなに入ってきてるのにどうして本は用意できないの?」と。

さて、本書は巻末に豪華な対談がある。「聞き手;伊坂幸太郎」というゴージャスな聞き手(であり、「月刊佐藤純子」の第一号からの愛読者)と、本書の編集者の三人で、「月刊佐藤純子」について語っている。佐藤純子さんから「「月刊佐藤純子」の新刊が出来ました」と連絡があって店に行った伊坂幸太郎だが、佐藤純子さんは不在。それでお店のスタッフに「新刊を取りにきたんだけど」と声を掛けると、当時はまだ「月刊佐藤純子」が店内でそこまで知名度がなかったのか、「そんな新刊はない!」ってなって大騒ぎになった、っていう話とか、面白いですよね。
最後に、交流のあるライター・編集者である南蛇楼綾繁という人が、「月刊佐藤純子」について語った文章が載っています。
佐藤純子さんのことは名前だけしか聞いたことがありませんでしたけど、本書を読んで、自分の中でなんとなくイメージが膨らみました。こういう、面白おかしく日々を生きている人って羨ましいなぁ、って凄く思います。自由人最高。これからもユルユルで楽しいマンガを描き続けてくださいと、遠くからお祈りしております。
そうそうこの本、なんと豪華なことに、栞紐つきなんでございます。

佐藤純子「仙台文庫別冊 月刊佐藤純子」


世界一プロ・ゲーマーの「仕事術」 勝ち続ける意志力(梅原大吾)

内容に入ろうと思います。
本書は、17歳にして世界一の称号を手に入れ、現在アメリカの企業と提携して日本人初のプロ・ゲーマーとなり、ギネスブックに「世界で最も長く賞金を稼いでいるプロ・ゲーマー」として認定された、現在もトッププロを維持し続けている著者による、「努力の仕方」の本です。
第一章で、著者のこれまでの経歴がざっと語られる。
運動も出来たしクラスの人気者だった著者だけど、ある時ゲームに出会い、ゲームにのめり込むことで孤立していく。ゲームばっかりやっている自分への強烈な劣等感と、それでも止めることが出来ないゲームへの愛。両親の教育方針。世界一になった後、一時ゲームの世界から離れ、今度は麻雀に手を出し、約3年でトップレベルの実力を身につけるが、麻雀の世界からも去る。その後一時介護の仕事をし、なんとなく参加してみた大会で復帰が注目され、それからスポンサードがついてプロに至る、というような人生がおおまかに語られていきます。
そして第二章以降は、自らの様々な経験を元に、どのように努力して行くのがいいのかが語られていく。
冒頭で著者は、こんな風に書いている。

『とりわけ重要なのは、本書に書かれていることは、ただ勝つのではなく、「勝ち続ける」ことに主眼を置いているという点である。なぜ、「勝つ方法」ではなく「勝ち続ける方法」なのか?両者は似て非なるもので、時としては相反するほどに大きな隔たりを見せる』

『それでも、僕は「勝ち続けられるのか?」という先の問いに、迷うことなく「YES」と答えることができる。勝ち続けるために必要なことがなんなのか、そのためにしなければならない努力や姿勢はいかなるものなのか。強い意志を持ってそれを突き詰め、実践してきたことで築き上げてきた僕の地震は、それこそ100や200の敗北で揺らぐことは決してない』

冒頭を読んだ時には、なかなか大げさだなぁ、なんて思ってたこの文章も、読み終えてみると、なるほど確かにこう言い切る気持ちは分かるな、という感じはする。
本書でとにかく語られていることは、

「めちゃくちゃ頑張れ」

っていうことだ。
もちろん、その「めちゃくちゃ頑張る」やり方にも色々あって、本書ではこういうのはあんまり正しい努力ではないというようなことが書かれているんだけど、でもまあとにかく、死ぬ気で頑張ればどうにかなる可能性は高まるよ、というようなことを言いたいわけだ。
著者の努力は、ちょっと凄い。たとえ好きなものであっても、これほどまでに情熱を注ぎ込めるものなのか、というほどの努力をしている。
そして、本書ではこんなことも書かれている。

「努力そのものを樂しめるようになれ」

結果を追い求めるために努力をするのは、いつか自分を苦しめることになる。そうじゃなくて、努力をしている時間そのものを楽しめるような努力、それこそが正しい努力なのではないかということだ。
著者は、こういった膨大な努力と、結果に囚われないメンタルを試行錯誤で手にしてきたからこそ、世界一になることが出来たのだ。
作中からいくつか抜き出してみよう。

『その点、僕の勝ち方にはスタイルがない。スタイルに陥らないようにしていると言ってもいい。
他人から「ウメハラの良さはここ」と言われると、それをことごとく否定し、指摘されたプレイは極力捨てるようにしてきた』

『普通、人はこっちの方向に何かあるはずだと当たりをつけて進むものだと思う。しかし、僕の場合は自分の足で全方向に歩くようにしている。
正解がどちらの方向にあるのか、迷う必要すらない。すべての方向を探り尽くすから、どこかで必ず正解が見つかるのだ。』

『僕にとっての正しい努力。それはズバリ、変化することだ』

『失敗した後もムクッと起き上がり、すたこら行動できるくらいのものでないと、いい努力とは言えないだろう』

『これまでの経験から、諦めなければ結果が出るとは言い切れない。だが、諦めずに続けていれば人の目が気にならなくなる日が来るのは確かだ。そして、人の目が気にならない世界で生きることは本当に楽しい、と確信を持って断言できる。』

『大会に勝って大喜びしたり、負けて落ち込んだりするのは右肩上がりの成長の邪魔だと考えている。もちろん、負けるより勝つ方がいい。ただし、個々の試合の勝ちには大きな喜びを見出さない。喜びは日々の練習にこそ感じたい。』

『何かを目標に、ある一定の時期だけ頑張っていると、目標がすべてになってしまう。そして、目標を達成できなかったときに立ち直れなくなってしまう。
日々努力を重ねて、日々成長を感じる。そうすれば毎日が楽しい。いつか来る大きな幸せよりも、毎日が楽しい方が僕には遥かに幸せなことだ。』

『「その努力は10年続けられるものなのか?」
自問自答してみるのがいい』

書いてあることは非常にまっとうで、僕も似たようなことを感じていることもあった(まあ僕の場合、頭で考えているだけで、行動が伴っていないわけなんだけど)。著者と同じくらい努力出来る人はそう多くはないだろうし、そう考えると「これだけ努力し続けることができる」ということも一つの大きな才能だと思うのだけど(著者は、自分には才能はない、というようなことを書いている)、とはいえ、こういう考え方は、闇雲に努力して時間を無駄にしているかもしれないと不安な人には役立つのではないかなと思いました。
個人的には、著者の子どもの頃の話が結構面白いと思いました。周囲の大人や子どもに対して抱いてきた違和感についての話なんだけど、僕も似たようなことを考えたりしてモヤモヤしていた時期がありました。

『しかし、心のどこかには不思議な気持ちもあった。
「みんな、よく自分の進路を決められるな」
限られた時間のなかで、自分の進む道を決めていく同級生が不思議で仕方なかった。
僕からすると、そこに本当に自分の意志があるのかどうか疑わしかったのだ』

『いまだに「このなかから将来の仕事を決めなさい」と言われたときの絶望感は忘れられない。世の中というものは、そんなにつまらないものなのかとがっかりした。。日本という国は、大人から示された道しか選べないのかと思ってむしゃくしゃした』

この進路に関する話だけではなくて、著者は子どもの頃、納得出来なかったり理不尽だと感じたりすることを結構抱えていた。その感覚は、なんか凄くわかる。僕も子どもの頃は、周りの大人の言っていることにおかしいと感じることが多かったし、同年代の子どもたちへの違和感(どんな種類のものだったのかちゃんとは覚えていないけど)もあったと思う。どこかに、流されたくない、という感覚があったのだろうなと思う。なんとなくそういう部分に共感した。
さて、そういうわけで、書かれていることはなかなか面白いと思ったのだけど、今ひとつだなとも感じた。で、自分なりにその理由を考えてみたんだけど、もしかしたらこの著者の場合、自分で文章を書くんじゃなくて、インタビューや取材という形で、誰かに言葉を引き出してもらった方がいいんじゃないかと思った。
恐らくこの本は、著者が書いてるんだろうけど(ゴーストライターとかではないだろう、という意味)、なんとなく「文章という表現」に窮屈さを感じているような印象がある。本当はもっと表現したいことがあるし、脳みそをパカっと開けて中を覗いてもらえたらそれはもっとはっきり見てもらえるんだけど、でも文章だとこれが限界、みたいな感じがする。
あくまでも僕はそう感じたというだけだから実際どうなるかわからないけど、誰か巧い人にインタビューをしてもらって、それに答えるような形で内側から言葉を出してきた方が、もっと深いものになるんじゃないかなぁ、というイメージが湧きました。
あともう一つ。これはたぶん編集者に言われてそういう描写を後から組み込んだんだろうけど、著者がしてきた努力を、会社やビジネスの現場に置き換えるときっとこうなんだろう、というような文章がところどころにある。これは、絶対に要らなかったと思う。著者はゲームをひたすらに努力してきた人なわけで、だからその自分のフィールドでの話だけを全力で書けばいい。恐らく編集者が、「新書で出すからビジネスマン向けになるように」とか何とか言ってそういう描写を入れさせたんだろうけど、そういう文章を読まされるとどうにもげんなりしてしまう。そういう文章はそう多くはなかったからまだいいけど、全体的にそういう方向で編集されていたらちょっと評価出来なかったなと思いました。
とはいえ、本書は全体的に示唆に富む内容だと思うし、「才能はない」と言っている著者が世界一になるまでにやってきた努力の話は、ゲームの世界だけではなく、あらゆる分野で参考になるだろうと思います。圧倒的な努力が生み出す自信や境地は、やはりそれを経験した人でなければ語り得ないなと感じました。読んでみてください。

梅原大吾「世界一プロ・ゲーマーの「仕事術」 勝ち続ける意志力」


火山のふもとで(松家仁之)

内容に入ろうと思います。
本書は、それまで編集者を務めていた出版社を退職してから発表された、著者のデビュー作です。正直、デビュー作とは思えないほどの重厚さに驚かされました。
舞台は、村井設計事務所という、こじんまりとした小所帯の設計事務所だ。フランク・ロイド・ライトの元で学んだことがある所長・村井俊輔を筆頭に、事務所全体の運営を司る井口、設計の中核を担うベテランの河原崎と小林、家具全般を担当する内田、3年前の入社で全体の不備を指摘するのに長けた雪子などが、とても気持ちのよい雰囲気の中仕事をしている。
大きな仕事を請け負わず、個人の注文住宅を主な仕事にしていた村井俊輔は、世間で名の知れた建築家というわけではなかったが、しかしその設計に魅了された人からの注文は耐えなかった。同時に、村井俊輔に師事しようと、事務所の門を叩く者もおおかったが、しかしその道はほとんど閉ざされていると言ってよかった。事務所の規模的に、新しく人を雇う必要がない、そんな感じだったから、希望者がいてもほとんど村井設計事務所に入社することはできなかった。
その類まれな例外が、本書の主人公である坂西徹だ。
特別な学生だったわけではないが、かねてより村井俊輔の設計に憧れ、飛鳥山教会に至っては、神父に頼んで何度も実測をさせてもらったほどだ。
村井設計事務所に入りたい旨伝え、ほとんど誰にも門戸が開かれていなかったその扉が、何故か坂西に向けて開いた。
その理由の一端は、入社してからすぐに知ることとなる。
村井設計事務所が、国立現代図書館の指名コンペに参加することになったのだ。
文部省の大臣であり、村井俊輔の旧友でもある人物から、国立現代図書館の設計コンペに参加してもらえないかという打診があった。これほどの規模の仕事は、村井設計事務所では長らくやっていない。それで、新しく人を雇い入れもするし、村井俊輔の姪である麻里子も、いつもより長く手伝いをすることになった。
村井設計事務所は、夏になると、浅間山のふもとにある「夏の家」に事務所機能を移転する。今年の夏は、そこで国立現代図書館の設計を煮詰めていく予定だ。ふつふつと白い煙を吐き出す浅間山を背負い、雄大な自然に囲まれた別荘で、静かに黙々と進められる設計。別荘のある青栗村は、その地を別荘に開拓した者たちの開拓の歴史を深く刻み込んだ土地だが、そうした古くからの人々との関わりも細やかにある。畑で野菜を育て、ナイフで鉛筆を削り、鳥のさえずりを聞く。
何か不思議な演劇でも見ているかのように、ゆったりと麻里子との仲が深まっていく。
というような話です。
これは凄かったなぁ。僕の知識だと確か、元々大手出版社で芸術系の雑誌の編集をしていた方だと思うのだけど、それにしたって小説が書けるかどうかというのはまた別の話だろう。デビュー作で、これほどまでに重厚で丁寧で肌触りの良い物語を描けるものなのか、という驚きがある。
手練れ、という言葉が浮かぶ。
本書では、建築家が描かれる。それも、もう何十年も仕事をしてきた建築家の話でもある。それはまさに、手練れという言葉で表現すべき熟達の技であり、それは能力や経験だけではなく、時間の積み重ねによって生み出されてきたもののはずだ。木の床や家具が時間と共に飴色になっていくように、そしてそれは時間経過なしによっては生み出されないように、建築を含む芸術には、時間によって熟成される何かがあると思うし、それを「手練れ」という表現で呼んでいるのではないかと思う。
本書は、著者が初めて生み出した小説であるのに、長きに渡る時間経過を経たかのような「手練れ」を感じる。陶芸家は、土を捏ねるだけで何年も修行をしなければならないという。小説家も、言葉を捏ねるのに多くの時間を必要とするものなのではないか。しかし、著者は、それをするりと飛び越えてしまっている感覚がある。デビュー作だというのは、何かの冗談にしか思えないほどだ。
とにかく、全体の雰囲気・言葉のセレクト・流れるようなリズム、そういう文章そのものが醸し出す様々な印象が素晴らしい。言葉を、生活感のある洗いざらしの布でくるんで丁寧に並べたような雰囲気がある。高級な布とか、生活感のない特殊な布というのとは違って、何度も使い込まれているんだけど清潔な布、というイメージだ。それはまさに、生活者・利用者のことを第一に考えて設計を行なう村井俊輔の思想が小説の方にも乗り移ったかのようにも思える。
村井俊輔の建築家としてのありようを示す文章3つ引こうと思う。

『80年代早々の、どこか騒がしい、風を切るような勢いの建築の世界で、先生の作品は日本的な伝統の流れをくむ懐かしいものとして評価されがちだったが、ぼくはそうは思わなかった。事務所の運営にも先生の建築にも、日本的とはいいがたい合理性が貫かれていたからだ。』

『人の気持ちはどう動くのかという理が、先生の建築の根幹をなしている。建築は芸術じゃない、現実そのものだ、と先生が言うのは、そういうことでもあるのかもしれなかった』

『「建築家が手がけたものgは、大きな艶のある声で歌いあげるみたいなのが多いじゃないですか。でも先生の建築は、聞こえなければそれでいい、というぐらいの声というか、小さな声をつつむ小さなものというか」』

村井俊輔と対照的な建築家として、船山圭一という建築家が出てくる。指名コンペの参加者の一人として名前だけが取りざたされる。建築家には恐らく、船山圭一のようなタイプが多いのだろうと思う。自らの芸術性みたいなものを優先させる、外側にどれだけ誇示出来るかを競う、というような。しかし、村井俊輔は違う。国立現代図書館にしても、指名コンペでは触れる必要のない本棚や椅子のことまで考えている。まずそうしたものを中心に据えないと、建築というのは決まらないのだ、というような言い方をする。この作品全体が、そういう村井俊輔の思想で覆われているような、そんな印象を受けました。
本書はとにかく、建築家が書いた小説だ、と言われた方が納得できるほどの圧倒的なリアリティがある。
僕はちょっと前に、「磯崎新の「都庁」」(平松剛)という作品を読んだことがある。これは、1985年に行われた都庁の指名コンペを中心にして、日本の建築の歴史を概観するようなノンフィクションなのだけど、そこで描かれる磯崎新と村井俊輔は非常に重なる部分があるように思う。磯崎新も村井俊輔と同様、その世界では知名度がある建築家だったのにも関わらず、自らの事務所を「アトリエ」と呼ぶような小さな事務所だったし、それがその建物がどんな風に使われるのかという点に非常にこだわっていたと思う。また、本書の設定が、1982年であり、磯崎新が都庁のコンペをした当時と時代設定もほとんど同じなのだ。まだCADによる設計が行われる前の時代であり、ナイフで鉛筆を削るシーンもまったく同じだった。それに、「広場」に関する考察も「磯崎新の「都庁」」の中で出てきて(磯崎新の案の中では、広場が非常に重要な位置を占めていた)、そして本書の中でも、広場に関するこんな考察があったのだ。

『市民はそこで結婚式を挙げるそ、デンマークの王子や王女が結婚するときも、式の前にまずは市庁舎で市民の祝福を受ける。この広場がね、広すぎず狭すぎず、市庁舎のヴォリュームとのプロポーションがじつにいいんだ。ヨーロッパの広場というのは、あれは日本にはない概念だね。どこからでも自由に出入りができる。街の一部であって、あらたまった特別な場所ではない。国の王室が用意するものでもない。広場に立てば、ここは誰のものでもない場所だと感じるんだよ。だから革命が起これば、いつでも集会場になり得るわけだ。つまり広場は市民のものなんだね。日本人は広場を持とうと思ったことはないし、これからもたぶん、ないだろうが』

僕の中で本書と「磯崎新の「都庁」」が凄くダブって、そういう意味もあって、本書の建築家を描くディテールが凄まじいなと感じたのでした。作中でも、国立現代図書館の設計に関してやりとりする場面があり、そこでは実際のプランが披露される。言葉から情景を思い浮かべるのが不得意な僕には、どんな設計なのか思い描くことは出来ないのだけど、相当細かいところまで練られたプランだということは伝わってくる。これは、一体誰が考えたんだろう?著者が考えたんだとしたら、ちょっと凄すぎるなぁ。著者が一級建築士の資格を持っている、とかならまた印象は変わるのだけど。
また、建築家を描くディテールは、村井俊輔が時々口にする「建築」や「住宅」に関するちょっとした言葉の中にも潜む。

『うまくいった家はね、こちらが説明するときに使った言葉をクライアントが覚えてくれていて、訪ねてきたお客さんに、その言葉で自分の家を説明するようになる。われわれ建築家の言葉がいつしかそこに暮らす人達の言葉になっている。そうすれば成功なんだよ』

『建築家はね、やっぱり後世まで記憶されるようなものをつくらなければ、与えられた役割を果たしたことにはならないんだ』

『玄関のドアは外と内の境界線だからね、金属をにぎるぐらいの緊張感があっていい。外にあるドアのノブが木でできていると、室内が表にはみ出しているみたいで気恥ずかしいものだよ』

『そんなふうにながらく記憶に残れば、建築がうまくいっているということだね』

『割り算の余りのようなものが残らないと、建築はつまらない。人を惹きつけたり記憶に残ったりするのは、本来的ではない部分だったりするからね。しかしその割り算の余りは、計算してできるものじゃない。出来てからしばらく経たないとわからないんだな』

『家を守るというのは難しいんだ。設計をするとき、火事になりにくい家、地震で崩れ落ちない家をできるかぎり心がける。それは建築家の大事な仕事だ。でもかりにだよ、東京全体が焼け野原になるような大震災があったとして、自分の家だけが燃えず崩れずでいいのか。これはね、考えておいていい問題だよ』

『一点の隙も曇りもない、完璧な建築なんて存在しない。そんなものは、誰にもできはしないんだよ。いつまでもこねくりまわして相手を待たせておくほどのものが自分にあるのか。そう問いながら、設計すべきなんだ』

また、図書館を設計する中で、本に関する言葉も出てくる。これにはきっと、長らく出版業界にいた著者の思いもこもっているのだろうなぁと勝手に想像している。

『本をテーマにそって並べるというのは、きちんと考えてもらう価値があるね。これまでの図書館というのは、本選びを利用者に委ねる受け身のシステムだったわけだ。本を借りにくる利用者にとっては、探している本があるかどうかが肝心で、国会図書館ともなれば、国家の知的財産、文化的財産をすべて収蔵する、というのが最大の役割だからね。しかし、これだけ膨大な本が刊行されている時代に、19世紀の図書館と同じ考え方でやっていても、死蔵される本が増えていくばかりだ。利用者になるほどと思われるような新しい提案が必要だろう。』

『ひとりでいられる自由というのは、これはゆるがせにできない大切なものだね。子どもにとっても同じことだ。本を読んでいるあいだは、ふだん属する社会や家族から離れて、本の世界に迎えられる。だから本を読むのは、孤独であっても孤独でないんだ。子どもがそのことを自分で発見できたら、生きていくためのひとつのよりどころとなるだろう。読書というのは、いや図書館というのは、教会にも似たところがあるんじゃないかね。ひとりで出かけていって、そのまま受けいれられる場所だと考えれば』

あまり口数の多くない村井俊輔の、シンプルなようで深みのある言葉たちは、本書の一つの大きな支柱に、そして魅力になっているなと感じます。
さて、ストーリーについてなのだけど、こちらは本当に触れにくい。ネタバレがあるとかそういう物語ではなくて、どこかに切れ目を入れて分割出来るような物語ではないということだ。別に、複雑な物語というわけではない。シンプルといえばこれほどシンプルな物語はないだろう。しかし、読んでいると、いつの間にかギアが変わっているような感じがある。いつどこで変転したのか気づかないまま、物語がそれまでとちょっと違った方向を向く。変転した場所が非常にぼやけているから、物語を分割してこうですよと提示しにくい。そういう不思議な印象を持つ作品です。
ゆったりと流れる時間の中で、少しずつ折り重なっていく人間関係を描いていく。そうして、少しずつ、本当に薄皮のように薄い何かが堆積していって、次第にその厚みを増す、というような、ストーリーの展開を説明しようとすればこういう漠然とした表現をせざるを得ないなという感じがします。ひたひたと暖かい何かが流れ込んできて、それに包まれていくかのようなふんわりした感覚があって、特別なことが起こるわけでもない物語なのに、ページをめくらされてしまいます。
本書では、「そのもの」ではなく「そのものの周辺」をみっちりと描き出すことで、「そのもの」の輪郭を浮き立たせる、というような描写を積み重ねていっているような感じがします。だから、「そのもの」の輪郭がはっきりするまで「そのもの」は見えてこないし、「そのもの」が見えるようになってきても、それは輪郭がくっきりしているからそこにあると判断できるだけのことであって、「そのもの」をきちんと捉えられているかどうかというのはまた別の問題だ。そうやって、中心を描かないで周辺を描き固めていくことで、本書の独特な雰囲気が生み出されているような印象を受けました。
同じことを繰り返しますけど、デビュー作とは到底思えない、非常に重厚で手練た作品だと思います。とにかく雰囲気の良い小説で、どっぷりその世界に浸らせてくれます。こういう形容が適切なのかはちょっとわからないけど、村上春樹や森博嗣を連想させる作品でした。是非読んでみてください。

松家仁之「火山のふもとで」


ソーシャルトラベル 旅ときどき社会貢献 価値観をシフトする新しい旅のかたち(本間勇輝+本間美和)

僕は、東日本大震災の時、一度も募金をしなかった。
今までどんな意味でも言語化したことなかったんだけど、本書を読んでなんかその話をしようと思った。
僕には、強い違和感があったんだと思う。
「これでいいのかな?」って。
「ここでお金を出しちゃって、俺は本当に大丈夫かな?」って。
たぶん、忘れちゃうと思ったのだ。お金を出したら。
忘れちゃわないにしても、たぶん急速に薄れるんだろうな、と。そのままにしてたってたぶん凄く薄れちゃっただろうけど、でも、お金を出しちゃったら、もっと速やかに薄れちゃうだろうな、って。
それが怖かったんだと思う。
今でも僕は時々、「自分はあの時募金をしなかった」と思い返す。それは「後悔」っていう感じじゃない。うまく説明できないけど、自分の体に刺さったトゲが、自分の体の一部になったみたいな感じかもしれない。
「あの時募金をしなかった」っていうトゲが、僕の中にずっと残り続けている。
だから、原発や震災の本をそれなりに読むし、被災地に足を運んだりする(連れて行ってもらっただけだけど)のかもしれない。
数千円(あるいは数万円)で、そのトゲを手放していいのかどうか。
たぶん僕はそこで立ちどまって、それで、自分の意思でトゲを抜かないことに決めたのだと思う。
もちろん、分かってもらえると思うんだけど、寄付や募金をする人のことを非難したり間違っているなんて言いたいわけじゃない。
これは完全に、僕個人の問題だ。
色んな価値観や意見があっていい。色んな支援の形があっていい。ただ僕は、自分の中の違和感に向きあって、とりあえず立ちどまってみた、というだけの話だ。
そして、本書の著者である夫婦もまた、「社会貢献」というものを前に立ち止まり続けてきた。
なんとなく、違和感を拭えないでいた。
もちろん、僕と同じ理由、というわけではないのだけど。

『振り返ると東京で働き出してから10年異常、いわゆる社会問題に対して行動したことはほとんどなかった。「飢餓に苦しむ子どもたちのために」と言われても、正直ピンとこなかったし、日本にも問題は山積みなのになんでアフリカ?とか、現地の政治を変えなきゃ意味ないでしょとか、日々さんざん浪費しておいて小銭を寄付するなんて偽善じゃんとか思う、冷めた自分がいた。』

『コルタカのマザーハウスの帰りに気付いた、壁のようなもの。社会貢献に対して凝り固まったイメージがあったのだ。世の中には、美しい心と信念を持つ立派な人々がいて、彼らが自分のお金や時間や生活を捧げている、「献身」していると。素晴らしいのだけど、だからこそ自分のような人間が中途半端に関わっては失礼で、数千円の寄付金や半日のボランティアでやった気になっては恥ずかしいと。そう思っていたのだ。』

こういう感覚は、僕も分かる。ボランティアや寄付や募金というものに、なんとなく抵抗がある。それは、それらを実際にやっている人への違和感ではない。やっている人のことは素晴らしいと思う。けど、それを自分がやるとなると、とたんに違和感が湧き出てくる。自分はそんな大層な人間か?どうせちょっと関わるぐらいなんだろ?飽きたらすぐ辞めちゃうんじゃないの?みたいな。
こういう人は結構多いんじゃないかと思う。自分が抱く違和感の正体をはっきりと見定めることができなくても、「社会貢献」や「ボランティア」や「寄付」と言ったものに、どことなく違和感を覚えてしまうような人は。そして、そんな違和感を覚えてしまう自分が「なんか人間としてダメだなぁ」なんて思ってしまうような人が。
本書は、そういう人の意識を、ほんのちょっとでも変えてくれるかもしれない作品です。
本書は、日本で普通にバリバリ働いていた夫婦(夫は会社の立ち上げに関わったり取締役COOになったり。妻は各社で雑誌編集者として働く)が、「なんとなく東京の暮らしに違和感を覚えて」、2年間の世界旅行に飛び出したその記録だ。

『社会の「当たり前」から振り落とされないように必死になっているだけなのかもしれない。いったい本当の豊かさって何なんだろう。僕らは、半ば押し出されるように出国を決めていました』

本書は、彼ら夫婦が、結果的に「ソーシャルトラベル」という新しい旅の形に行き着いた、その軌跡を追う物語です。とはいえ、初めからそんな旅を追い求めていたわけではありません。東京に違和感を覚えて旅に出てみただけで、「シャカイコウケン」なんて思ってもいなかったし、先述したように違和感も持っていたし、別に途上国だけを回ろうと思っていたわけではない(し、実際色んな国を回っている)。
彼らが「ソーシャルトラベル」に行き着くきっかけとなったのは、インドのブッダガヤの小学校での経験だった。
偶然出会った男に連れられて向かった小学校は、生徒がみな床で授業を受けていた。インドでの教育の大切さを熱心に語る先生。そして、外国人を見ると寄付を期待してしまう土地柄。しかし、お金を出すだけの関わり方にはもともと違和感を覚えていた二人。
そんな中でひらめいたのが、学校に机と椅子を贈るというアイデアだ。
しかし、この思いつきが彼らをさらい落ち込ませてしまう。詳細は書かないけど、「結局これは、ジコマンなのではないか?」という強烈な想いを拭うことが出来ないでいたのだ。
しかしそこで、幸運な出来事があり、彼ら夫婦は素敵な形でブッダガヤを後にすることが出来た。そうやって、体当たりで、体を動かして「シャカイコウケン」と関わっていく中で、彼らの考え方は次第に変わっていくことになる。

『ジコマンとか中途半端とかウジウジ言う暇があったら、とにかくやったらいいんだ』

『皆がソーシャルワーカーになる必要はなくて、皆がちょっとずつ気軽に人助けできる社会になったらいいよね。見慣れていた渋谷のスクランブル交差点が浮かぶ。あちこちから「昨日老人ホームでさ」とか「来週のゴミ拾いなんだけど」なんて会話が普通に聞こえてきたら、なんて素敵だろう。それには、大きなスピーカーで訴えてもテレビCMを流してもきっとダメだ。私たち大人が子どもたちに見せられたら…ちょっとは変わっていくかもしれない』

そうやって彼らは、インド・ネパール・アフリカと言った貧困地域で、自分たちに出来る範囲で、ちょっとおせっかいかもしれないけど「お金を出すだけではない」そして「自分たちも一緒になって楽しむことができる」ような「社会貢献」に色々手を出していくことになる。
最後の方に、こんな文章がある。

こうして振り返りながら、気付いたことがある。
それは「すべて人だったんだな」ということ。
社会貢献がなんちゃらと小難しく考えたこともあったけれど、僕らの心をわしづかみにし、僕らを突き動かしたもの。それは、子供たちのキラキラした笑顔ももちろんだけど、現地に根を張って汗をかき、果てしない課題に挑み続ける現地のソーシャルワーカーたちだった。
そう、彼らは、偶然の出会いを頼りに、「社会貢献」に足を踏み入れていった。たまたま出会った人が素晴らしいことをやっていた、たまたま出会った人が手助け出来るかもしれないと思わせてくれる場に連れて行ってくれた。そういう偶然の出会いが、彼らに、「ソーシャルトラベル」という旅の形を自然と受け入れさせたのだろうと思う。
彼らの「社会貢献」のスタンスは非常に明快だ。それは、「お金を直接渡す」のではなく、「彼ら自信が(できれば継続して)お金を得られるような仕組み作り・提案・援助をする」ということだ。
そのスタンスには、元からの「シャカイコウケン」への違和感に加えて、アフリカを始めとする貧困地域で見た現実への絶望も加わっている。
それは、

「安易な援助が、彼らの働く意欲を奪っているのかもしれない」

という現実だ。
本書の中で、「アフリカ人」について、現地の成功したアフリカ人・現地で青年海外協力隊として働く日本人女性・ジンバブエ生まれの白人の三人が自らの感想を言う場面があるのだけど、その内、青年海外協力隊の日本人女性がこんなことを言っている。

『彼らは援助されることに慣れきってしまって、外国人が来たらお金がもらえると思っているの。現状を自分で変えようと努力しないで、ただ待つだけの人が多いのは深刻な問題だと思う』

現地の状況を知らないから、僕が書くことはあくまでも想像でしかないけど、確かにそういう部分は助長されてしまうだろうなと思う。ペットとして飼われた動物は、野生に戻したらなかなか生きていけないと聞く。ずっと餌を与えられている環境で育って行けば、自分の力で獲物を獲って生き抜いていくという感覚はどうしたって薄れていくだろう。そういう現実を、この夫婦も様々に目の当たりにしてきた。
だからこそ彼らは、お金だけの援助はしない。彼らの持ち出しは多少あるけど、それは基本的に準備や経費として使う。そしてそれらを元に、現地の人が自分たちの手でお金を稼いだり、あるいは学校をよくしたり、そういうことが出来るようにする。それが彼らのスタンスだ。
しかしこのスタンスは、時に彼らを苦しめる。あるイベントに出店の準備を進め、実際に売り始めて、それなりに順調に物が売れていき、その最終日のこと。

『あ…と放心してしまった。気づいてしまったんだ。ここの売り上げより、私たちの滞在費のほうが上だってことを。学校をサポートしようと決めて、それからの宿代、食事代、ビザ延長台、材料費、フェス入場料、全部足したら、売り上げをはるかに超える金額になるということ…。フェリックスに学校に連れて言ってもらったあの日にこの分のお金を寄付したほうが、多くをあげられたということだ。』

この件に限らず、彼らは常に悩みながら、手探りで「社会貢献」に関わっていく。「お金だけの援助はしない」というスタンスには自信がある。けど、現実を見たら、お金を出した方がよりいい結果になるのかもしれない。でも…。彼らはその繰り返しを何度も行なう。たぶん、やらずにはいられなかったんだろう。
彼らは、自分たちがやったことが「正しいかどうか」ずっと悩み続けているのだろう。何度も「社会貢献」をやっていく内に、アイデアも情熱も湧きだしてくる。けど、結局それは誰のためだったのだろう?という疑問を付きまとわせることになる。
だからこそ、「ソーシャルトラベル」というネーミングなんだろうな、という感じがする。
「相手にとって正しいかどうか」はわかんないけど、「自分が楽しいかどうか」ぐらいは分かるじゃん。じゃあそれでよくね?みたいな感じなのかもしれないなと思う。
旅の終わりに彼らは、再度インドのブッダガヤに戻ってくる。そしてそこで、ブログ読者を通じて希望を募り、合宿を行なうことにした。彼ら自身が旅の中で捉えた「ソーシャルトラベル」という形が、本当に「アリ」なのかどうかを確かめることにしたのだった。
現地に来てもらい、自らで課題を見つけ、それにどういう形で貢献できるかを考えて実現させる。初海外という女の子は、外国人観光客が来たことがほとんどないという村でフェスティバルを開き、NGO職員は何もないところに学校を作った。
たぶんだけど、「ソーシャルトラベルってなんだよ、それこそ偽善じゃん」みたいな反応もあるだろうと思う。でも、僕は結構好きかもこういうの、と思う。決して嫌いではない。やはりある程度能力が要求されるだろうから(才能というよりは、実務能力みたいな部分)、自分に出来るかどうかはさておいて、こういう形で人と関わっていくのは面白いかもしれない、という感覚が僕の中にはある。
でも同じくらい僕は、自分の腰の重さを知っているし、自分で動き出さないことも知っている。
けど、もし機会があった時には、すぐ動けるようにしておきたいと思った。そんな機会が自分の人生に訪れるのかどうか、それは分からないけど、でもそのタイミングは逃さないで捕まえたいと思う。
綺麗な写真集に載っている世界遺産を見に行くような旅には、あんまり興味が持てない気がする。美味しいものを食べに行く旅行にも、そんなに関心は持てないだろう。けどこうやって、まったく違う文化・価値観の中にいる人と関わって、それが前進でも後退でも(できれば前進がいいけど)、一緒になってどっちかに向かうみたいなのは、凄く面白そうな気がする。「社会貢献」なんて難しいこと考え無くても、目の前にいるこの人となんか楽しいことをしたい!みたいな感覚が湧き出るなら、それに忠実に従えばいいんだろうなと思う。
「相手が喜ぶことを期待する」のでも、「相手のためになること」を望むのでもなく、「一緒になって楽しむこと」を一番に考える。そういう形の「社会貢献」があってもいいし、旅行の目的が勝手にそうなっていくのも面白い。そんな風に思わせてくれる作品でした。是非読んでみてください。

本間勇輝+本間美和「ソーシャルトラベル 旅ときどき社会貢献 価値観をシフトする新しい旅のかたち」


分ける・詰め込む・塗り分ける 読んで身につく数学的思考法(イアン・スチュアート)

内容に入ろうと思います。
本書は、数学教授であり、また一般向けの数学の著作を多く持つ著者による、数学的なパズルや古典的名作、あるいは数学を現実風の状況に応用した話まで、様々な話題を扱ったコラム集です。
イアン・スチュアートの作品は、以前も一作読んだことがあるんだけど、この著者の作品はなかなか難しい。
数学関連の本は時々読むのだけど、やっぱりどうしても、数学者が書いている本は難しいものが多いと思う。数学者ではなくて、サイエンスライターみたいな感じの人が書いている作品はまだ理解できるものが多いかなぁ、という印象があります。
本書も、やっぱりなかなか難しいんですね。この「難しさ」というのは、「概念的に難しい」という部分と、「与えられる解答が複雑」という二つがあります。
「概念的に難しい」というのは、そこで扱われる数学的な知見そのものの難しさです。僕が苦手な分野かどうか、という部分も関わってくるから客観的な意見を書くことは難しいんだけど、なかなかイメージしにくい話題が取り上げられていると、これは難しいなぁ、と思います。本書では、これまで僕が触れたことがない(要するに、一般向けの数学本の中で扱われることが少ない)分野の話もバンバン出てきて、難しいなぁ、と思いました。
また「与えられる解答が複雑」というのは、特に現実風の問題(たとえば、ケーキをいかに公平に切り分けるか)に解決を与える時にそうなりがちです。僕はどちらかというと、純粋数学(正確な定義は知らないけど、僕は「現実には応用しにくい、数学の世界の中だけでしかその価値を見いだせないような数学」という意味で使っています)の方が好きです。出来るだけ現実の問題から離れて、問題をシンプルにしていって抽象度を高めて、それをどんな風に扱うかみたいな話の方が、数学らしくていいなと思います。本書では、現実風の問題が多く扱われているのだけど、純粋数学であればどんどんシンプルにしていけばいいのだけど、現実風の問題はやっぱりなかなか複雑な状況であることが多くて、なので解答も複雑になりがちです。そうなると、読む気が失せるなぁ、という気がしてしまいます。
とはいえ、本書で扱われるテーマには、面白いものが非常に多くある。
ざっくりと、本書でどんな問題が扱われるのか書いてみましょう。

「ケーキを3人で公平に切るにはどうしたらいいか」
「どんな結び方にしたら靴紐を最も短くできるか」
「缶詰を隙間なく積めるための最小の箱の大きさはどのぐらいか」
「すべてのルールを順守し、かつ永遠に終わらないチェスの手順は存在するか」
「色んな条件下で、シャボン玉の形はどうなるか」
「ホタルはなぜみんな一斉に光るようになるのか」
「電話機のコードはどうして絡まるのか」
「復活祭の日を導き出すための公式はどのようなものになるか」

話題としてはなかなか面白いと思えるものが多いのではないでしょうか?どれも、これって数学で扱えるの?というようなものに思えるかもしれませんけど、本書を読むと(内容を理解できるかどうかはともかくとして)、「数学って結構現実の世界でも役に立つのかもなー」なんて思えたりするかもしれません。
僕は結構数学が好きで、数学の本もそれなりに読みます。非理系の人にはなかなか難しいかもしれない本でも、それなりには読めると思っています。でも本書は、先に挙げた二点の理由によって、結構難しい作品だなと感じました。個人的には、あまりオススメできません。数学に相当自信のある方向けかなぁ、という感じがしました。パズルに相当自信がある方向けでもあるかもしれません。


イアン・スチュアート「分ける・詰め込む・塗り分ける 読んで身につく数学的思考法」


プロメテウスの罠3 福島原発事故、新たなる真実(朝日新聞特別報道部)

内容に入ろうと思います。
本書は、「プロメテウスの罠1」「プロメテウスの罠2」と続く、朝日新聞誌上での連載を書籍化した作品です。本作は、2012年6月9日から2012年10月22日までの連載が収録されています。
この「プロメテウスの罠」のシリーズは、松本仁一というかつて朝日新聞の記者として活躍し、現在はノンフィクション作家になっている人物が監修を務め、それまで国の情報をただ流しているだけに過ぎなかったマスコミ報道を改めようと、自分たちで取材して知り得た事実だけを書く、出来る限り事実だけを書く、というようなスタンスでずっと続けられている連載です。
昔、こんな図を見かけたことがあったなぁ、というのを思い出して、探してみました。

http://map.tools-etc.info/index2.html

日本全国にある原発を中心に、「半径◯kmの円」を描くことがが出来るサイトです。
これを使って、例えば半径150kmの円を書く設定にすると、ほぼ日本全土が埋まってしまいます。
放射性物質が半径150kmまで飛散するかはちょっと分からないけど、でも半径150kmってたぶん「心理的に離れていると思える距離」ではないと思います。原発から150km離れた土地を探そうとしたら、日本全土でごく僅かしかない。
僕らは、そういう国に住んでいます。
今回は、福島の原発がやられました。でもそれは、どこで起きたっておかしくはない。僕らはどうしても、特に被災地から遠ければ遠いほど、時間と共に震災のことを忘れていってしまう。僕もそうです。やっぱり日常の中では、なかなか自分の問題として捉えることは難しいです。だからこそ、こうやって時々本を読む。
震災や原発関連の本を読む度に感じることは、

『彼らが経験したことを、僕らは、自分たちの問題として議論しなくてはいけない』

ということです。
同じことが、いつか自分たちの身近で怒るかもしれない。そうなった時、今の何も議論がされていない状態では、同じことが繰り返されるだけでしょう。誰かにただ怒りをぶつけ、右往左往する(一応書いておきますけど、今回の福島の原発事故は、日本でほぼ初のケースだったでしょうから、福島の方々が誰かに怒りをぶつけ、右往左往しているのを批判したいわけではありません)。そうではなくて僕たちは、そこで何が起こったのか、今も継続してどんなことが起きているのかをちゃんと知って、そして自分の身近なコミュニティの中で、もしこんなことがあったらどうしようか、という議論をし続けていかなくてはいけないと思う。身近なコミュニティというのは、家族でもいいし、会社でもいいし、地域でもいいし、なんでもいい。そういう個々の場で、議論の機運が高まらないと、結局何度だって同じことは繰り返されるのだろうな、と思います。
まあ、こんなことを書いている僕にしたって、別に議論をするために動いているわけでもないし、結局何もしていないんで同じことなんですけどね。なかなか日本人の場合、こういう機運が高まりにくいよなぁ、と思います。
でも、別に本書じゃなくてもいいんだけど、原発や震災に関する本を読む人がどんどん増えれば(あるいはドキュメンタリーでも写真集でもなんでもいいです)、その本の感想を語り合うという形で議論が生まれるのではないかなと思います。そういう意味で僕は、原発や震災に関する本を読む価値を捉えています。なので、僕自身も継続的に原発や震災に関する本を読んでいこうと思うし、出来ればそう思ってくれる人が増えてくれるといいなと思います。
さて、まず本書で描かれる6つの章の章題を書きだして、それからそれぞれの内容に触れることにします。

第十三章「病院、奮戦す」

第十四章「吹き流しの町」

第十五章「除染の悩み」

第十六章「カワセミ日記」

第十七章「がれきの行方」

第十八章「地底をねらえ」


「病院、奮戦す」では、住民がほぼすべて避難した後も、入院患者のために非難を拒否し入院医療を継続した、福島県広野町の高野病院をメインに、「福島県での医療の困難さ」が描かれる。
大雑把に分けると二つの話が描かれる。震災時、高野病院を含むいくつかの病院は実際にどう動き、どのように医療を維持し続けたのか。そしてもう一つが、現在医療者を確保したり、医療者のための住居を確保するためにどれだけの苦労を強いられているのか、という現在進行形の話だ。
住民が皆避難しているのに、入院患者のために残るという決断は、なかなか凄いのではないかと思う。というか、その判断が出来ない(つまり、入院患者に負担を強いて避難させるという決断をする)病院があっても、全然非難できないと思ったし、実際多くの病院では、入院患者も避難させたみたいだ。
看護師の一人のこんな言葉が、世の働く者に突き刺さるかもしれない。

『私は患者さんからお給料をもらっている、ご家族から信頼されて患者さんをあずかっているのだから』

普段そういう意識で仕事をしていたとしても、この看護師がその時置かれていた状況は相当に過酷だ。病院から原発まで22キロ。何度も爆発し、住民は避難している。警察や市からも、何度も非難するよう話が来る。そういう状況の中で、仕事人としての矜持を持つことが出来るというのは素晴らしい。
もちろん、残ったから仕事人として素晴らしい、という称賛も危険だ。それぞれに様々な事情があって、残ったり避難したりという決断を下している。避難した人を、責めたいわけではない。ただ、もし自分が同じ立場にいた時に、仕事人として何か判断が出来るだろうか、と考えてしまった。
現在進行形で苦労しているのは、医療人の確保らしい。来てくれる人がいても、彼らを住まわせる家がない。仮設住宅を使えないかと打診しても断られる。病院の運営は、どこもしんどい。採算をクリアできるか、という部分をどうクリアしながら、地域に医療を提供していくのか。本書を読んで、制度や制約を取り払って、特例でもいいから柔軟さを発揮すべきだろうと感じた。医療は特に、生活の基盤になるものなのだから。

「吹き流しの町」では、福島県にありながら、それまで原発とは無縁だった三春町で、甲状腺がんを予防する安定ヨウ素剤を住民に配布する決断を下した経緯が描かれていく。
原発から遠く離れ、原発のことなど考えたこともなかった三春町は、原発と関わりのある地域ではよく知られていた安定ヨウ素剤という薬の存在さえ知らなかった。しかし、その薬の存在を知ってから僅か数日で、住民への配布を決定した。国も県もまったく動いていない状況での配布は、県庁からもクレームが入り、全国紙でも批判を受けたという。
しかし、振り返って見ればその決断は素晴らしいものだった。
普段から町のトップが密接に話し合いを繰り返し、また山岳部で厳しい決断を何度も下してきた副町長の決断も加わって、僅か数日で決定が下された。副作用もあるとされている薬だから、本来であれば国や県の許可が必要なものだ。しかし、三春町はひるまなかった。彼らの決断の過程を追う。

「除染の悩み」では、いち早く市内の除染に取り組み、国に対しても強気で提言をする、福島県伊達市の専従除染担当である半沢隆宏を中心に描かれる。
当初半沢は、「除染」というものが住人に理解してもらえずに、非常に苦労した。「なぜ自分たちがやらなければならないのか」という怒りは当然として、「除染するのが恐ろしい」という意見もあった。しかし、土をそのまま放置しておく方が危険だ。それを半沢は、自作の模型を使って目で見て分かる形で説明を繰り返し、どうにか住人への理解を促していった。
除染は、国が担当する地域と、地方自治体が担当する地域がある。国が担当するのは、線量が非常に戦った、現在では封鎖されている地域が主だ。それ以外の地域は、予算は国だが、除染そのものは地方で行わなければならない。
住民が除染に関わる、という事態そのものが、日本では初のケースだ。皆手探りでやっていく。「除染」という現実がどんなものであるのかを、除染のモデルケースとなっている伊達市を中心に描いていく。

「カワセミ日記」は、水戸市に住む機械技術系の会社員であり、写真家でもある関根学を中心に描かれる。彼は、事故後の福島で、線量の高い地域に自動でスイッチが切られるカメラを設置し、線量計の表示と共に福島の野鳥や動物を撮影し続けている。動物たちの変化は、放射能と関係あるかどうか、それは分からない。とりあえず、5年10年と記録し続けていくしかない、と考えている。
関根学が撮影をしているのが、福島県飯舘村の長泥地区。そしてその長泥地区が、線量の高いホットスポットでありながら、非難地区から外され、2ヶ月もそのまま暮らし続けた経緯も同時に描かれていく。
飯舘村長である菅野典雄氏は、原発事故の特異性をこんな風に語る。これは、非常に象徴的というか、原発事故の本質を衝いていると感じました。

『もうひとつの特異性が分断です。ほかの災害は家族も地域も結束するんです。放射能はその逆、分断の連続です。家族のなかで違う。占領の高いところと低いところも違う。帰りたい人、帰りたくない人でも違う。放射能は心の分断をつくっているんです』

園子温の「希望の国」という映画を見た。そこで描かれているのも、まさに「家族の分断」だった。

「がれきの行方」では、がれきの広域処理について描かれていく。阪神大震災でもがれき処理に関わったことのある環境相の松本龍は、震災直後から、東日本大震災のがれきは広域処理しなければ無理だ、と判断し、その計画を練らせている。
しかし、状況は二転三転する。特に、誰にとっても予想外だったのが、宮城・岩手のがれきも「放射能の拡散の恐れがある」として、全国の地方自治体から拒絶されたことだ。福島のがれきだけではなく、宮城・岩手のがれきも受け入れを拒絶されていったことが、事態を混乱させていく。
そんな中で、宮城県石巻市でがれき処理を担当している三浦智文の言葉は、素晴らしい。石巻市は、宮城県で最大のがれきが生まれ、その量は岩手県一県分より多いという。現在もフル稼働でがれきを処理している三浦は、こんな考えを秘めている。

『今の仕事が一段落したら、仙台市など苦労した自治体同士で協力し、次にどこかで大震災が起きたときの支援の仕組みをつくろう。現場で得た経験は、どんなマニュアルよりも役に立つはずだ』

こんな風に思ってもらえることが凄いと思うし、僕も、ただボーっと座っててはダメだよな、という気にさせられる。

「地底をねらえ」は、それまでとはちょっとトーンが違う。放射性核廃棄物の最終処分場の建設に絡む、謎の「NUMO」という組織と、貧しい自治体が食い物にされている現状を描き出す。
多額の交付金を餌に最終処分場を決定したいと思惑や、それが引き起こす住民との対立。見切り発車で進められたために、結局現在に至るまで放射性核廃棄物の処分が決まっていない現状、青森県六ケ所村の再処理工場の現場などが描かれる。

本書を読んで強く感じたのは、【現場力】です。とにかくこの連載では、現場で何が起こったのかを丁寧に掘り下げ、記録しようと努めている。そこには、歴史に残るような英雄はいないかもしれない。プロジェクトXで取り上げられるほどのドラマがあったわけでもないかもしれない。それでも、とんでもない非日常とリアルタイムで取り組まなくてはならなかったそれぞれの現場では、様々な工夫が、様々な決断が、様々な苦悩が日々生み出されていく。
それらを全部掬うことは出来ない。まだまだ知られていない現場は、被災地に山ほどあるだろう。でもこうやって、個人と地域がどうにか無理矢理にでも現場を回してしまう【現場力】は、素晴らしいと思うし、見習いたいと思うし、失ってはいけないなと感じました。
報道は、とても大きなものを報じる。本書は、普通の報道からは漏れてしまうような、スケールの小さな現場が描かれる。しかし、そこで見せつけられるのは、圧倒的な【現場力】だ。自分がもしそこにいたら…という想像を交えながら読むと、彼らの行動が、努力が、決断が、どれだけ凄まじいものだったのか、ほんの僅かでも理解できるのではないだろうか。そうやって、何が起こったのかを「ただ知る」ということも、とても大事なことだと思う。本書でなくても構いません。是非、時々でも、原発や震災に関係した本を読んでみて欲しいなと思います。

朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠3 福島原発事故、新たなる真実」


永遠の曠野 芙蓉千里Ⅲ(須賀しのぶ)

内容に入ろうと思います。
本書は、「芙蓉千里」「北の舞姫」に続く、芙蓉千里シリーズ第三弾です。前作までの詳しいあらすじは、それぞれの感想を読んでください。
ざっと書きましょう。
日本で辻芸人としてなんとか生きてきたフミは、大陸一の女郎になる、という根拠のない思い込みだけを頼りに哈爾濱(ハルビン)までやってくる。そこでフミは、予想していたのとはまったく違う人生を歩むことになる。
自分を熱烈に支えてくれる男と、自分がどうしても惹かれてしまう男。日に日に評価の高まるフミは、しかし一人の女性としての生き方にずっと思い悩むことになる。
様々な決断の末に、フミは草々と拡がる曠野に立っていた。馬賊として生きる。フミはその生き方を自ら選び取った。というのが大体前作までの内容です。
幼い頃に心を鷲掴みにされて以来、ずっとフミの心の内側にい続けた男・楊建明は、馬賊の頭目として恐ろしく優秀な男だった。そして同時に、月のように冷静な男だ。建明は、ある筋から金塊を託される。国というものに縛られたくないと、日本から飛び出してきた建明は、国の独立や覇権争いでゴタゴタしている動乱の最中、自身とはまるで関係のないモンゴルの独立のためにあらゆる手を尽くすことになる。
やっと建明と一緒にいられるようになったフミ。しかし、新入りであるフミは、まだ建明以下馬賊たちに、仲間だと認めてもらえていない。建明の義弟兄からは、太太(奥さん)として堂々と振舞っていればいい、と諭されるが、黙って大人しくしていられるフミではない。これまでのフミの人生と同じく、全力で立ち向かい、あらゆるものを自力で手にして、次第にフミは仲間として受け入れられるようになっていく。
馬賊としての生活は、相当に過酷だ。しかしフミは、建明の傍にいられるのならなんでも耐えられた。
幾多の国が滅び、荒れ、その間を建明らは跋扈した。そして次第にフミは、仲間たちにとってなくてはならない存在になっていくが…。
というような話、なんですけど、本書の内容紹介は難しいです。
大げさではなく、このシリーズを読んでいる間、僕の目は大体潤んでいる。特にこのシリーズ3巻(最終巻)である本書は、その潤みっぷりも凄かったなぁ。
別に、切ないシーンがあるとか、悲しいシーンがあるとか、そういうわけでもない。そういうシーンももちろんあるんだけど、そうじゃない場面でも僕の目は潤んでいる。
それはもう、フミという女の生きざまに惚れ込んでいるからだろうなぁ、と思う。
建明が、フミをこんな風に評する文章がある。

『それは、フミ自身、常に捨て身だからだろう。保身もなにも考えず、いつも身一つで飛びこんでいく。一歩間違えれば死ぬ、危険な博打だ。頭のいいやり方とは言えないかもしれないが、それだけに成功したときの見返りは非常に大きい。そしておそらくは、フミ自身にまったく自覚はないだろうが、勝算はあるからこそ彼女はそうするのだ。自分には成功させる力があると本能で知っているために、命を担保に大博打に迷わず飛び込む。』

これは、シリーズを通じて描かれてきたフミの有り様を、実に的確に現していると思いました。
そう、こんなとんでもない生き方が出来る女の存在に、もうたまらなく惹かれているし、心をかき乱されているのだと思う。
フミの行動や選択は、馬鹿げているようにしか見えないことが多い。周囲の人間は常に反対するし、フミが決断して実行しようとしている時(あるいは実行している最中)でも、考えなおした方がいいと何度も言われることになる。
それでも、フミは、自分の選択を変えることはない。そして何よりも、どんな結果になろうとも、自分の決断を後から悔やむことはない。
そこが凄い。
確かにフミにも、後悔はある。あの時ああしておけば、と過去を振り返ることはある。でもそれは、「そう考えてみたらどうだろう」という思考実験みたいなものだと僕は思う。本当に、自分の決断を悔やんでいるわけではない。フミには、過去の決断を悔やむという発想はない。自分がこうしていたらどうだっただろう、という関心はあっても、それでも自分がしてきた一つ一つの決断をどれも全うしている。自分で受け入れている。
どれほどの経験が、どれほどの葛藤が、フミをそうたらしめたのだろう。

『どれも失いたくなくて、必死に握りしめていたら、全部ぐしゃぐしゃになってまじっちゃって、何が何だかわからなくなったの。他のまともな人たちは、もっと器用にやさしく、ひとつずつ包んで要られるんだと思う。ちゃんと大切にできるの。でも私は、それができない。力の加減がわからない。私はこのままここにいたら、もっとたくさんつかめるかもしれないけど、それはもっとたくさん握り潰してしまうだけのことで、最後には必ず自分も潰れてしまうって気がついた』

ある場面で、フミはこう言って自分のこれまでの行動の真っ当さを知らしめようとする。そう、外側の表面しかフミを見ていなければ、フミの行動はまったく理解不能だ。あらゆるものを手に入れられる環境にいて、どうしてわざわざそこから飛び出さなくてはならないのか、ほとんどの人は理解できないだろう。でも、このシリーズをずっと読んで、フミの葛藤に付き合ってきた人間には伝わる。フミがこのままでは潰れてしまうだろうということを。
フミの強さには憧れる。しかしそれは、壮絶という言葉では到底覆い尽くせないほどの足跡と、限界を何度も超えた努力と、そしてありえないほどの幸運(しかしそれは、フミ自身の力でもぎ取ったようなものでもあるのだけど)によって支えられている。ただボーっと憧れていて手に入るようなものではない。だからこそ、フミに惹かれるのだろう。もう自分の手元に何も残っていない、というところからのフミの立ち直り方も凄いのだけど、もっと凄いのは、手元に何もかもある(ように見える)現実から飛び出すことだろう。なかなか出来るもんじゃない。特に、現代と比べてあらゆる点で不自由だったろう時代なら一層。困難に直面すればするほど、フミは輝いていく。芸妓として華々しく舞っていた頃でさえも、着飾って微笑んでいるフミよりも、尋常ではない特訓の果てに全身が腑抜けているフミの方が美しかった。3巻ではフミはほとんど、着飾りもしなければ風呂にも入れない毎日だ。それでもやはり、フミは美しい。外見だけでも、内面だけでもなく、何がフミを輝かせているかと言うと、陳腐な言い方かもしれないけど、それは「魂」だろうと思う。フミは、魂が輝いている。そしてその輝きは、周囲の者を照らし、照らされた者に某かの力を与える。
本当に凄い女だよ、フミは。
本作では、それまでのシリーズではポツポツとしか出て来なかった楊建明が出ずっぱりだ。この楊建明も凄い男だと思う。
主義も思想もなく、金や物資を奪い、享楽的に生きる馬賊。盗賊ではあるのだけど、しかし仁義には厚い。弟兄の契りを交わした相手との関係は絶対だし、契約を交わせば何があろうともそれを遂行する。それは、楊建明の性格というわけではなく、馬賊として生きる者のありようなのだけど、そんな中でも楊建明の存在感はずば抜けている。
僕は、自分で言うのはなんなんだけど、子供の頃はそれなりに勉強が出来た。でも、僕が本当に望む「頭の良さ」は、建明のような才能だ。
学校の勉強なんか結局「なぞり書き」みたいなものだ。これまでに誰かが発見したこと、考えたことを、ただなぞっているだけだ。学校の勉強なんか、正直なところ、「やればできる」類のもので、まあ子供の頃からそう思ってたけど、でも僕にはそういう類の頭の良さしか手に入れられなかった。
建明はまるで違う。
僕は歴史の話がさっぱりダメで、本書で結構深く描かれる動乱の情勢は、ほとんどさっぱり理解できなかった。どの国がどんな思惑を持って何をしていて、どんな戦略を立てればどこがどんな風に動いて、あれが動いているということはきっとこうなっているんだろうと推測したり、みたいなことが相当深く描かれるんだけど(著者は歴史に相当強いっていう話をどこかで耳にした記憶があるんだけど、それにしてもちょっと凄すぎやしないか、というレベルだった)まあ、歴史に疎い僕には、本書で描かれている歴史的事実の内、どこまでが事実でどこまでが創作(著者の想像)なのかは判断できない。とにかく、ロシアやシベリアやモンゴルといった地域がお互い独立だの覇権争いだののためにあらゆることをやっていて、楊建明もその影で動いているのだ。
その中にあって、楊建明は、事態を冷徹に見極めて、チェスのように駒の配置を考えながら、戦略を練っていく。僕には、その戦略の凄さも、あるいはフミが滔々と語る国際情勢の動きなんかの話もさーっぱり理解できないんだけど、でもたぶん凄いんだろうと思う。恐らく建明以外の人間には、そこまで冷徹に、冷静に、そして慎重にはなれないだろう。それでいて、威張るわけでもなく、堅苦しいわけでもなく、「気のいい兄ちゃん」といった感じの雰囲気を漂わせる。国という縛りを嫌って馬賊になった風変わりな日本人は。馬賊の頭目として自由自在に飛べる羽を手にしたようなものだった。
そんな楊建明の生きざまにも惚れます。あんな風に生きられないと分かっていても、凄く羨ましい。頭が切れるってだけじゃなくて、なんというか男としてカッコイイのだ。
楊建明の描写では、このセリフが一番印象に残っている。

『ここにもあるんだとわかれば、俺はそれでいい。でも、この光を必要とする者も必ずいる。だから、伝えてやってくれ』

これがどんな場面で繰り出された言葉なのかは書かないけど、凄く好きな場面です。
とにかく本書は、フミと楊建明の躍動感がハンパない作品です。二人が、馬という「翼」を得て、広大な大地を縦横無尽に駆け巡り、大自然の中に溶け込みながらも、自分たちが捨てた「国」というものと関わる者達のために全力を尽くす姿は、本当に素晴らしいと思います。
あともう一人書きたいのは、楊建明の義弟兄であり、馬賊のナンバー2である呉炎林だ。本作の中でどんな立ち位置として描かれていくのか、彼がどんな人生に身を置くことになるのか、その辺りのことは触れないことにするけど、フミ・楊建明・呉炎林の三人の関係性が見事で、引き込まれてしまいます。
あとは、まるで見てきたかのように大自然を描き出すところも見事です。モンゴルの大草原とか、岩だつ山脈とか、そういう、日本のスケールではまったく捉えきれな「雄大さ」みたいなものを豊かに描き出さいている感じがしました。この文章とか、結構好きです。

『天地一体。日本にいては想像もできない、圧倒的な空間の広さというものは、わけもなく気宇壮大な気分にさせる。あまりに何もないので、何でもできるような気になるし、逆にどんなことも無意味に感じる。乾いた風も、遮るものもなく降り注ぐ陽光も、やむことなくざわめく草も、この世界が終わるその日までこうしてここにあるのだろう。』

本当に素晴らしいシリーズだと思いました。最近では、宮部みゆきの「ソロモンの偽証」を読んだ時に、あー読み終わりたくないなぁ、って思ったんですけど、本書を読んで同じことを思いました。あー、もうフミの物語は読めないのかー、って。ちょっと悲しいですね。壮大なスケールと、圧倒的な魅力を持つキャラクターが、波瀾万丈という表現では足りないほどのとんでもない人生を歩んだその軌跡。是非その密度を、体感してください。

須賀しのぶ「永遠の曠野 芙蓉千里Ⅲ」






卒業するわたしたち(加藤千恵)

内容に入ろうと思います。
本書は、1話14ページ程度の短編が13話収録された短篇集です。どの話も、「広い意味」で『卒業』がテーマになっています。学校からの卒業、恋愛からの卒業だけではなく、なるほどこんな風に『卒業』を扱いますか、というような展開の話もあります。各話の巻頭に、恐らく著者自身の作だろう短歌が掲載されています。
ざっと設定を紹介する程度に、内容紹介をしようと思います。

「胸に赤い花」
「女子高生じゃなくなってしまうあたしに、いったいどれほどの価値があるんだろう」 そんな風に思いながら、高校生活最後のイベント・卒業式に挑む少女の物語。

「未知の思い出」
彼氏と一緒に決めた教習所に、今わたしは一人でいる。一緒に沖縄に旅行に行こうよ。そう話して免許を一緒に取ろうって決めたのに。

「スタートラインすら遠く」
マッキーがバイト先からいなくなっちゃうことがあるなんて。「卒業式」と名付けられた送別会。ずっとあなたの「妹」だったあたし。

「母の告白」
「結婚願望はないの?好きな人は?」 部屋で漫画を読んでいたわたしに母がそんな風に聞く。いつから娘の婚期を気にするようになったんだろう…と思ったら、そういうことか。えっ?

「三月に泣く」
「この時期に引越しなんてピッタリだ」 頭の中でそう思ったら、頭の中の先生が、「引っ越すわけじゃないだろう」って冷静にツッコミを入れた。わたしは、ずっと好きだった先生の元を、去る。

「にじむオレンジ」
アンパルフェットのマナッシュが、バンドから卒業するらしい。えっ?そんなこと、この前のイベントの時だって言ってなかったのに。それに、学校の成績が良くないはずなのに、「学業に専念したい」って、意味分かんないし。

「春の雨」
半年以上前まで、一緒に住んでいた人。こうやって、喫茶店でぎこちなく会う機会も、もうないのかもしれない。用事は済んだのに、なんか立ち去りがたい。

「屋上で会う」
同じマンションに住む、7歳年上の、不良の聖ちゃん。子どもの頃から仲良くしてる。その聖ちゃんがあたしに何かくれるって。屋上で待ち合わせ。

「全て」
恭ちゃんと別れた後は、もうなんにもする気力が湧かなくて、結局大学の卒業式も出なかった。外国に行ったっていう噂を聞いてたけど、ちょうど日本にいるからって、わたしを恭ちゃんに会わせてくれるらしい。

「流れる川」
「あたし自身がこの中学を卒業することよりも、横田が卒業しないことのほうが理不尽に思える」 秘密主義だって言われるあたし。言えないよ。後輩の横田が好きだなんて。

「最低のホットケーキ」
卒業シーズンになると、姉の小学校の卒業式の日のことを思い出す。家に一人で留守番をしていると、パパから電話があった。車には、見知らぬ女の人がいた。

「引力に逆らって」
「卒業祝」と書かれた熨斗が掛けられたプレゼント。高級そうな万年筆。それを受け取った家族が困惑しているのは、我が家には誰も卒業する人がいないからだ。って話を彼氏にしたら、じゃあ何かから卒業してお祖母ちゃんに報告しよう、だって。

「ニューヨークは遠い」
創元が消えた。あと二週間で卒業式なんだから、大人しくしてればいいのに。数日後、あっさりあたしに連絡を寄越した創元は、ニューヨークに行くつもりだったんだって言いやがる。予想通り。

というような話です。
正直、読み始めてしばらくは、ちょっと弱いなぁ、と思いながら読んでいました。
そもそも、ページ数にして14枚程度の物語は、何か物語を描き出すにはとても短い。映画で言えば、本当にワンシーンぐらいのイメージだろうと思う。著者はその制約の中に、「卒業」というキーワードで、「学校から卒業する話」とか「恋愛から卒業する話」みたいな、結構ベタな物語を初めの方では入れ込んできた。
この初めの方の話が、個人的にはあんまり好みではないのですよね。
やっぱりなかなか、「卒業」に付随する『感傷』みたいなものを、14ページで表現するのは難しい。だからこそ、読者がイメージしやすい要素が含まれた物語にしないと厳しいのだろうというのはよくわかる。14ページしかないのだから、普通の長編と比べて、「読者自身が持っている経験や感情」をより活用するしかない。そうなると、「学校の卒業式」とか「失恋」みたいな話が多くなっちゃうんだろうなぁ、という感じはしました。
でも、途中から雰囲気が変わるような気がする。具体的に言うと、「屋上で会う」から、結構物語にバリエーションが出始めるような気がする。「屋上で会う」以降の物語は、「流れる川」を除いてすべて、一風変わった設定の物語になっている。個人的には、後半になってから結構面白く読めました。「屋上で会う」以降の物語は、結構好きです。
どの話もそうなんだけど、『一瞬を切り取る』ということに力を注いだ物語だなという感じです。まあ、ページ数の制約から、「かなり限られた時間」しか描けないのだけど、その中でも煌めく一瞬みたいなものが立ち現れるように物語を描こうとしているような感じがする。
でもその一方で、おかしなことを言うけど、その『一瞬』は、読む人によって違ってくるだろうと思う。各話の中で、誰しもがここでグッと来るだろう、というようなポイントがあるわけではないように感じた。読む人によってグッと来るポイントが結構違ってくるんじゃないかと思う。なんとなく、そんな印象を受けました。
なんとなくそれは、「卒業」というものに、はっきりとした明確な区切りなんてないんだな、ということを思わせます。本書は、様々なタイプの「卒業」が描かれるのだけど、敢えて共通項を探すとすれば、その「卒業には明確な区切りなんてない」ということかもしれません。時間も感情も記憶も、曖昧なまま連続していく。ここでスパっと断ち切って、「卒業」後のわたしは別人よ、なんてことにはやっぱりならない。「卒業」という『感傷』が一気に高まる展開が用意されている方が物語的には盛り上がるのだろうけど、でもやっぱりそれはリアル感を失うのだろうと思う。なーんだ、「卒業」なんて言ってもそんなもんか、みたいな風に思っているうちに、なんとなく「卒業」という経験を踏み越えて行く、というような。
いや、もしかしたら考え方が逆なのかもしれないな。みんな、何かの終わりがはっきりとしていることなんてないって、経験的にずっと知っていた。だから、「卒業」なんていう言葉を作って、ほらここが区切りなんですよ、っていう風にして、曖昧になりがちなものを、見かけだけでもはっきりさせようとしたのかもしれない。
なんてことを考えてみたりしました。
個人的にちょっとだけ気になったのは、例外はきっとたぶん色々あるんだろうけど、時代と結びつくような固有名詞をなるべく使わないようにしてるのかな、ということ。YoutubeとかiPodなんかを、その名称を出さずに説明している。これは、著者が高校生歌人として注目を浴びた人だっていうことを知っているからこその印象なのかもしれないけど、短歌とかはそういう固有名詞をなるべく使わないのかもしれない(今、大分適当に書いてますけど)。57577という短い表現の中に、時代性と結びつけてしか捉えられない固有名詞が含まれていたら、後々の人がその句に込められた意味を読み解けないのかもしれない。本書も、一遍あたりとても短い物語だ。だからこそ、固有名詞をなるべく含まないようにしたのかもしれない。でも、「固有名詞をなるべく使わないようにしてる」っていうのも、僕がなんとなく感じた印象だから、そもそもそれが間違ってるかもしれないけど。
「屋上で会う」以降の話は基本的にどれも好きなんだけど、特に好きなのはラスト三つの「最低のホットケーキ」「引力に逆らって」「ニューヨークは遠い」かな。
「最低のホットケーキ」は正直、「卒業」とほとんど関係ない。主人公が体験した、実に謎めいたわけのわからない一日を描写していて、「卒業」というテーマでこれを出してくるセンスが凄く好きです。
「引力にさからって」は、とびきりおかしな設定だ。これは秀逸だと思いました。誰も卒業しないのに送られてきた卒業祝と、それを「本当の卒業祝」にしてしまうために「何かから卒業しようとする」計画を立てる物語で、『感傷』とは無縁であるという点でも、本作の中では特異な物語だなと思います。
「ニューヨークは遠い」は、まあバカな男の物語です。それは、男の行動のバカさでもあるし、男の鈍感さのバカさでもあります。ほのかに恋愛の香りがする、という点では前半にあるような話と近いものはあるんだけど、それまでの話では「男は、実は気づいてるんだけど気づいていないフリをしてるんだろうなぁ」みたいな話が多いイメージだったんだけど、この話では男は本当に気づいていない感じで、そういうところも僕の好みには合っていたのかもしれないなと思います。
僕の個人的な感覚では、前半はあんまりだったけど、後半はかなり良くなりました。どんな物語が好きかで、各話の受け取り方はきっと変わってくるのでしょう。「卒業」だからと言って『感傷的なわけではない』物語の方が、たぶん僕は好きなんだろうと思います。1話がちょっと短くて物足りなさを感じることもあるかもしれないけど、映画のワンシーンを見ているような気持ちで読んでみてください。

加藤千恵「卒業するわたしたち」


ハミ出す自分を信じよう(山田玲司)

内容に入ろうと思います。
本書は、光文社新書「非属の才能」の文庫版です。光文社と星海社で出版社は違っていますが、光文社時代に担当だった編集者が星海社に移っていて、それでこんな形になっています。
さてまず、「非属の才能」について少し書きましょう。これは僕にとっては、なかなか思い入れの深い本です。
というのも、ウチの店で過去一番売れた(いや、現在進行形で売れているんですけど)新書だからです。
たぶん「非属の才能」を売り場に置き始めて5年以上経っているんじゃないかなと思いますけど、未だにハンパじゃなく売れています。どれぐらい売れているかと言えば、去年(2012年)は、当店の年間の新書ランキングで7位でした。書店で働いている人ならきっと理解してくれると思いますが、これはもう異常事態と言ってもいいでしょう。
もちろん、買う前に本の中身について100%わかるわけではないとはいえ、これだけ売れ続けているのは、その内容に共感してくれる人が山ほどいる、ということなのでしょう。実際この本は、物凄く多くの人にとって必要になると僕は思っています。それで、これまでずっと売り続けているわけなんですけど、でもまだまだこの本に出会っていない人がいるんだろうなと思うと、まだまだ売らないといけないよなと思います。
もう一つ、本書に思い入れがある理由があって、それは、この作品が「2011年本屋大賞中二賞」を受賞したことと関係があるんですけど、まあ詳しい話はいいか。
さて、そんな僕にとって思い入れの深い作品が、この度文庫化されました。「非属の才能」の内容をちゃんと覚えているわけではないんですけど、恐らくそう大きくは変わっていないでしょう(SNSの記述なんかがちょっとあったりして、きっとこれは追記されたんだろうなぁなんて思いましたけど)。ウチの店には、本書と「非属の才能」がどちらも平積みされていますけど、どんな動きをしてくれるのか楽しみです。
さて、どんな内容なのか触れて行きましょう。
著者はあとがきで、本書を書いた理由をこう書いている。

『みんなと同じじゃない子はダメな子だ。
こんな大嘘がいまでも信じられている。
そしてこの国では、今夜も孤独なエジソンたちが眠れぬ夜を過ごしている。団地のジョン・レノンは学校を追い出され、平成のトットちゃんは病気扱いされる。
感性豊かな前衛詩人は空気の読めない奴と言われ、好奇心と行動力あふれる冒険家は落ち着きのない人間にされ、机に縛りつけられる』

『僕がこの本を書いた最大の理由は、この国にあふれる援軍なきエジソンやトットちゃんたちに援護射撃をしたかったからだ』

著者自身も、周りと合わない子どもだったけど、でも自分は『運が良かった』と語る。

『僕はダメ人間なりに自分で考えて生きてきたので、なんだかんだ逃げたり、ごまかしたり、騙されたふりをしたり、本当に騙されたあとであわてて引き返したりしながら、なんとかこれまでやってこれた。
とはいえ、これも「自分で考えて自分で責任をとれ」という父の理解や祖母らの圧倒的信頼があってのことだ。僕の努力ではなく、運が良かったのだ。
でも、もし誰も味方がいなかったら?』

『「みんなと同じにしなさい」という同調圧力は恐ろしい。逆らえば、自分以外はみんな敵になってしまうかもしれない。しかも、本気で本人のためだと思い込み、「指導してあげている」つもりのバカもいる。
そんななかで、寂しくて怖くて我慢してしまう人がたくさんいる。
僕は、そんな人たちの魂を解放したい。僕だけでも「心配しなくていいよ」と言ってあげたいのだ。』

そして、こう強いメッセージをぶつける。

『もし、あなたが「自分にはみんなと違うところがある」と感じているなら、そのみんなと違う部分をもっともっと誇っていい。
もし、あなたのなかに奇人変人の気質があるなら、どうかその気質を恥じるのではなく、思いっきり自信を持ってほしい。
もし、あなたがまわりからハミ出し、孤立して、絶望しているなら、いずれその経験があなたの人生を素晴らしいものにしてくれることを知ってほしい』

そして、著者はこう断言するのだ。

『才能というものは、”どこにも属せない感覚”のなかにこそある』

本書は、様々なトップランナーに会ってインタビューをし続けてきた著者の経験から、様々な人たちの話を引き合いに出し、「どこにも属せない感覚」を持って「苦しんでいる人達」を肯定しようとする作品だ。
恐らく本書には、こういう批判があるだろうから、先に僕の意見を書いておこう。
きっと、「自分の主張に都合のいい事例ばっかり集めてきたんだろう」なんていう批判があるはずだ。
まあ、確かにそういう側面もあるだろう。でも、それでいいじゃん、と僕は思う。
だって、本書は「論文」なんかではなくて、敢えて名前をつけるとすれば「応援歌」みたいなものだ。「応援歌」の歌詞につじつまの合わないところがあったって、結果的にその「応援歌」で誰かが元気になれればそれでいい。僕はそう思う。もちろん本書を読めば、「どこにも属せない感覚を持ちながら、成功できなかった人間だっているだろう」と思ったりしてしまうだろう。そりゃあ、いるだろう。でも、著者だって、彼らの全員を救えるわけではない。本書がなければ全員救われなかったのを、本書のお陰でその一部でも救われれば、本書には大きな意義があるだろう。そんな風に僕は思う。

著者は、日本における「同調圧力」の強さを、あらゆる場面で繰り返し書く。

『ところで、僕たち日本人がどんな教育を受けているかといえば、どんな場面でも空気を読み、協調性を持つことがいちばん優先されるような教育だろう。
しかも、その多くは「協調」などではなく「同調」の圧力だ。
「みんながそう言っている」という顔のないモンスターに逆らうと、とたんに仲間外れにされ、生きる場所を奪われる。』

『こうなると、そこで求められるのは「考えない」ことであり、「疑問を持たない」ことだ。』

『「これが正解」「これがふつう」「これがあたりまえ」「これが常識」という同調を、教師は毎日これでもかというほど生徒に押しつけてくる。
やっかいなのは、それが生徒のためだと教師が本気で信じ込んでいることだ。完全に協調と同町を混同してしまっている』

そういう教育に浸り、そういう社会の中にずっと居続ける僕らは、その結果幸せになれているのだろうか?

『まったく身動きができない状態に、「どうしてこんなことになったんだ?」と振り返ってみると、なんてことはない、ただ「みんなと同じ」ことをしてきただけだったりする』

『本質的なことを考えずに、群れのなかをうまく泳ぎ切ることだけにエネルギーを注いでしまうと、もはや自分の人生を好転させることはむずかしくなってしまう。』

僕らはまず、自分たちがこういう社会の中に生きているという事実に、なかなか気づきにくい。僕は、割と抜け出せている方だろうと思う。たぶん。子どもの頃は、「みんな」の言っていることに「おかしいな」と思いつつも、群れから抜け出す勇気がなくて、そのまま流されていた。でも、そういう生き方は、どんどん辛くなっていくんですね。ちょっと変な表現だけど、自分の行動が誰かに「操縦」されているかのような、自分というのは容れ物だけで、それを動かしている人は別にいるんじゃないか、みたいな、そういう感じはずっと持っていたと思う。
それから、まあ色んな人に迷惑を掛けながら、僕は「みんなのふつう」から無理矢理抜けだした。僕なりに色々と大変な時期だったけど、今振り返ってみると、あの時期があったからこそ今こうしてどうにか生きていられるんだろうな、という風にも思う。あのまま自分が変わらなければ、きっと僕は「みんな」という顔のない存在に殺されていただろう。本当にそう思う。
今は、まあまだまだ未熟者だとはいえ、以前よりも「孤立すること」を恐れなくなった。「みんなの意見」に反対することにあまり躊躇がなくなったし、「みんなが良いというもの」に違和感を表明することも昔と比べたら格段に出来るようになった。「みんな」に合わせないことで自分がどう見られるか/扱われるかということをほとんど気にしないでいられるようになった。そういう風に生きられるようになってようやく、それまで感じていた「見えない圧力」みたいなものを消し去ることができた。そう、結局その「見えない圧力」は、自分自身が生み出していたのだ。自縄自縛って感じで、結局自分を縛り付ける縄は自分自身で巻いていたのだ。
僕はそれを、「非属の才能」を読む前に、自力でどうにかやり遂げることが出来た。「非属の才能」を読んだ時いちばん初めに感じたことは、これを中学生の自分に読ませてあげたかったな、ということだ。もちろん、中学生の自分が読んで、「ハミ出したままの自分」をそのまま肯定できたかどうかは怪しい。でも、「そっか、こんなことを言ってくれる大人もいるんだ」という風には感じられたと思う。子どもの時って、限りなく接する大人が少なくて、親と教師ぐらいだけど、その範囲内にはそういうことを言ってくれる人がいなかったのだ。

そう、本書は、是非とも親や教師に読んでもらいたいと思う作品だ。

『自分の子供に凡人のタグをつける親たちは、「天才という絶対的な才能は100%先天的なもの」だとでも思っているのだろうか。
1%の「わかりやすくない才能の芽」を見つけてあげるのが本来の親の役目のはずなのに、そのように勘違いしている人間には、自分の子供の才能は決して見えてはこない。』

『父は、僕のことを世間一般の価値観で計るようなことはしなかった。
父がよく言っていたのは、「自分の価値観は自分の世代で終わり。自分の人生は支えてくれたかもしれないが、子供の人生は子供が考えるものだから邪魔はしない」という種類のことだった』

『これは、子供にとっては絶対的に信頼されたということで、同時にそれだけの信頼を裏切ることはできないという責任感が生じる。
こうなると、僕の人生ははじめから僕のものだ。僕はちちに、人生の先輩として謙虚に意見を効くようになっていた。』

『「自分の人生で学んだことを子供に伝えることができないのはおかしい」と反論する人もいるかもしれないが、それはまったく逆で、自分が自分の考えで生きていることを認めてもらった子供は、親の言い分にも耳を貸せるようになるものなのだ。
誰だって、他人の話をまるで聞かない人の話など、聞く気にはなれないだろう』

『だから、親が本当にすべきことは、子供に失敗させることだ。
それなのに、失敗というすばらしい体験を子供から奪ってしまってはなんにもならない』

『子供の未来は、「親が子供の失敗をどれだけ許せるかで決まる」と考えていいと思う。』

『そうした引きこもりの(口には出せない)主張に対して、親や教師や世間は「自分たちにとっての正しい世界」に属させようと、学校や企業に無理矢理押し込め、それを「社会復帰」と呼ぶ。
しかしそれでは、子供が体を張って主張してきた、異常な世界に違和感を覚えることのできる能力は葬られてしまう』

『幼稚園なんかで友達と遊ばず、ひたすらアリの行列を眺めていたり、粘土でしか遊ばないような子供を見ると、大騒ぎして無理やり友達の輪に混ぜようとする親や先生がいるが、そういう余計なことはぜひやめていただきたい』

今挙げたような文章は、「著者から親・教師へのメッセージ」なのだけど、本書の中で「著者から非属な子供へ送られるメッセージ」は、本来であればその子供の周りにいる大人が伝えてあげるべきなんだろうと思う。
僕も、大人になるまでは、「社会の中にこういうことを言っている大人もいるんだ」ということを知らないで過ごしてきた。「みんなの中にうまく混じれない自分」は正しくないんだろうと思ってたし、どうにかしなくちゃいけないとも思ってた。でも、たった一人でもいい、僕の周りにこういうことを言ってくれる大人がいたならば(いたのかもしれないけど、少なくとも僕自身の記憶には残っていない)、子供の頃もっと違った風に生きられたんじゃないかなという感じがします。
そういう意味で、僕は本書を子供たちに届けたいと思うし、親や教師にも届けたいと思う。
5章以降で、そういう属せない感覚を抱いている人に、じゃあ具体的にどうしたらいいのかというアドバイスが書かれている。それがどのぐらい効果があるのか、僕自身は試したわけではないのでわからないのだけど、ちょっと前に読んだメンタリストDaiGoの本の中に書かれていたエピソードのことを思い出した。
DaiGoは子供の頃太ってて、天パーで、イジメられてたらしいんだけど、とあるきっかけでイジメがパタリと止まった。それを気に自分を変えようと決意し、今までやっていたことを全部止めた。それは、着る服や食べるものだけではなくて、通学路まで変えたという。本書でもアドバイスの一つとして、日々「それまでやったことのない新しいこと(大げさなものでなくていい)」にチャレンジしたらいい、と書かれている。また、引きこもっている人にも、こんな風にしたらいいというアドバイスがある。特に引きこもっている人には、この本がなかなか届きにくいだろうと思うけど、周囲の誰かが届けてあげてほしいと思う。
そして本書のいいところは、みんなが群れから出て非属を目指すべきだ、なんて主張を振りかざしてはいないところだ。

『本書で嫌になるくらいくり返したように、まずは群れから出ることが最善の策なのだが、とはいえ、群れから出るに出られない事情を抱えた多くの人にも、「みんなとは違う何か」があることを忘れてはいけないだろう』

そう、本書を読んで、「そうは言ったって、俺には群れから出ることなんて無理なんだよ…」と感じる人もいるでしょう。何でもかんでも「興味ない」と言って動き出さない人間は本書で駄目だしされるのだけど、色々考えた結果やっぱり無理、という人だって中にはいるだろう。そういう人のこともきちんと認めているし、群れから出られないという事実に対して悩んでしまうことも本末転倒な感じがする。別に本書は、群れの中にいる人を批判したいのではないのだ。そうではなくて、本当は群れから出たいと思っているのにどうしてか出られないと感じている人の背中をポンと押す、そういう作品だ。どんな人にも必要な本のわけじゃない。実際、「非属の才能」につけているPOPにも、「悩みなんてない人は読まんでよろしい」って書いてある。
この本が必要なあなたに、どうにか届いて欲しいと思う。「アイツにはこの本が必要なんじゃないか」と思う相手がいるなら、おせっかいかもしれないけど是非その人に渡してあげて欲しい。現物を渡すことが困難なら、本書の内容を逐一メールで打ったりしてどうにか届けて欲しい。多くの人にとっては、細々とした不満はあれど、自分の人生とか存在そのものを揺るがすほど辛い世の中ってわけではないかもしれない。でも、今の世の中に違和感を感じすぎて、でも自分ではどうにも出来なくて、ちょっとしたきっかけで楽になれるかもしれないのに、その方法が分からないで苦しんでいる人も、たぶんたくさんいるはずだ。どうにかしてこの本が、そういう人達の元に届いて欲しいと思う。
どうか一人でも多くの人が、「別に群れの中にいなくてもきちんと生きていけるんだ」と思えますように。どうか一人でも多くの人が、「自分がどうしても感じてしまうこの違和感は、別に間違ってるわけじゃないんだ」と思えますように。

山田玲司「ハミ出す自分を信じよう」


笑うハーレキン(道尾秀介)

内容に入ろうと思います。
東口は、トラック一つで、家具修理の仕事を細々を請け負っている。
かつては、確かな技術で評判だった、トウロ・ファーニチャーという家具メーカーを経営していたが、大口の取引先の倒産により会社はなくなり、今はトラックの荷台で生活する日々だ。
東口には、一緒に暮らす『仲間』がいる。
派遣の警備員として時々働く初老のジジタキさん、日々釣りをして過ごしているチュウさん・トキコさんの夫婦、若い頃に肺の手術をやって左胸が大きく凹んでいるモクさん。そして、そんな彼らスクラップ置き場の敷地を貸し与え、さらに自身が大家を務める物件の一部屋を貸し与えてくれている橋本という奇特な男。
橋本を除くホームレスたちは、それぞれがそれぞれの時間の中で、お互いあまり干渉し合わないまま、それでも時々寄り添いながら孤独を埋め合わせる、そんな関係だった。
東口が彼らの仲間に加わったのは、2年前。ちょうどスクラップ置き場の前を通りかかった時、数人の男女が何か言い合っていたのを見たのがきっかけだった。結局それは椅子の修理に関することで、東口がそれを直し、以来彼らと一緒に生活をしている。チラシを配ったりしながら地道に営業活動を続け、ようやく安定して仕事が得られるようになってきた。
東口には、『疫病神』がついている。いや、『疫病神』という名前をつけたのは東口自身であって、そいつは自分で自分のことをどうとも呼んでいない。
息子が死んでから1年後に見え始めた。そいつは、東口に語りかけ、東口は常にその存在を感じ取っている。もう長い付き合いだが、いい加減鬱陶しい。
東口は仕事に出る前、図書館で新聞を読む習慣がある。営業に言った先で、お客さんと雑談が出来るようにだ。図書館から出て、トラックに戻った東口は驚いた。
助手席に、誰かいる。
西木奈々恵と名のったその女は、東口に弟子入りしたいのだという。以前から、トウロ・ファーニチャーの家具に憧れていて…と語る奈々恵を、東口は拒絶する。
当然だ。ホームレスなんだ、こっちは。
しかし奈々恵は、なんだかんだとズルズルと一緒に居続けることになり…。
というような話です。
やっぱり道尾秀介は巧いよなぁ。まだ若い作家なのに(まだギリギリ30代のはず)、熟達という感じがする。道尾秀介の作品を読む度に毎回書くけど、本当に初期の頃の作品とはまったく違う。本当に、同じ作家なんだろうかと疑いたくなってしまうぐらい、全然違うのだ。初期の頃の作品と、最近の作品と、どちらが好きかというのはそれぞれの好みによって分かれるだろうけど、僕は断然最近の作風の方が好きだ。もしも、道尾秀介の初期の作品を何か1~2作読んで、「この作家は自分に合わないな」と感じたとしたら、何かもう一作でいいです、新し目の作品を何か一つ読んでみてください。人間を繊細に描き出す優しさと、ストーリー展開の巧みさに、驚かされるだろうと思います。
道尾秀介の作品は、大きく括って『弱者』が描かれることが多いように思う。その筆頭は、子どもだろう。道尾秀介の作品では、親の庇護下でしか生きられないという点で『弱者』である子どもの感情を、非常に巧く切り取る作品が多いように思う。
本書は、『ホームレス』という弱者が扱われている。これもまた非常に巧く描き出している。
一番に見事なのは、一緒に暮らしている同士たちの『暗黙の了解』のようなものが、言葉や行動の端々から透けて見える、という点だろうか。
彼らは、好き好んでホームレスをやっているわけでもなければ、望んで固まって生活をしているわけでもない。仕方なくホームレスになったのであり、またその方が何かと都合がいいから固まって生活をしているというだけだ。
だから、相手との関わりを、とても慎重に行なっている。
なんとなく『気のおけない仲間』風の雰囲気を出すことは大前提でなければならない。つまり、「何かと都合がいいから固まって生活をしている」という部分は生々しいから、出来るだけそれは隠した方が生活がしやすい。でも、だとしたらどうして一緒に固まっているのかという部分の説明を失うから、だからこそ彼らは、『自分たちは気の置けない仲間で、居心地がいいから一緒にいるんだ』という風を装うことになる。
相手の事情に首を突っ込まないというのは、まあホームレスの社会ではある程度常識だろうけど、個人個人が作り上げる『世界観』みたいなものを壊さない、というのもとても大事だ。彼らにとって、目の前の現実は日々辛い。愉しいことがないわけでもないだろうけど、基本的には、社会から疎まれ、何も成すことが出来ず、ただ息を吸って吐いているだけ、という存在に成り下がっているという自覚がある。東口だけは、技術があるお陰で社会ともある程度繋がりを持つことが出来ているのだけど、しかし『東口視点』で進む物語の中にいる読者には、東口がそういう方面とはまた違った葛藤に悩んでいることを知ることになる。
だからこそ彼らは、そういう惨めな自分を覆い隠す仮面を被って過ごしている。そして、その仮面は、他人がはがしてはいけないのだ。
そういう微妙な関係性が、些細なやりとりの中から透けて見えてくる。これが本当に絶妙だと思う。
本書は、物語が大きく動き出す瞬間、みたいなものがほとんどない。強いて言うなら、西木奈々恵と出会ったこと、そしてかなり後半になるのだけど、彼らが大ピンチに陥る展開の二つぐらいだろうか。
あとは基本的には、彼らが普段どんな生活・やりとりをしているのかとか、若干イレギュラーな事態が起こり、それにどんな風に対処するのか、と言ったようなことが描かれていく。
それで、これだけ読ませるんだから、本当に凄いもんだと思う。
はっきりとした『ストーリー』なんてなーんにもない前半部でも、何度も笑わされてしまったし、前述したような微妙な人間関係が浮き彫りにされる過程に感心したりと、ほとんど何も起こらない物語なのに、実に読ませる。本書は、読売新聞に連載されていた作品らしいのだけど、そういう理由もあって、結構コンスタントに笑いや哀しみといった波が用意されているのかもしれない。本当に、繰り返し書くけど、これだけストーリーが展開しない物語で、これほどまでに読ませる作品を描けるのは、やっぱり凄いと思う。道尾秀介の作品にはそういうタイプの作品が多いように思うけど、凄いと思いました。
たぶんその、ストーリー展開に頼らない物語を支えているのが、人物描写なんだろうと思います。道尾秀介は、名前の呼び方一つ、視線のそらし方一つにも意味を持たせるし、元々デビューした頃はガチガチのミステリを書いていたからという理由もあるのかもしれないけど、登場人物たちのあらゆる行動に、結構意味があったりする。なるほど、そんな風に繋がってくるのかとか、これのためにあの描写があったのか、というような、ミステリ作品では『伏線』と呼ばれるような要素があちこちに散りばめられていて、見事だと思います。何より、そういう作品を、新聞連載で書けちゃうってのが、ホントに凄いよなぁ。
物語がどんな風に展開して終着するのかというのは、是非読んで欲しいし、そもそもストーリーがあまりにも展開しなさすぎて内容を書きにくいのだけど、最後まで、『弱者』であるが故に抱え込まなければならない切なさと、『弱者』の矜持と呼んでもいいような細やかな優しさに彩られていて、読むとなんだか温かい気持ちになる感じがします。
ある場面である人物が、こんなことをいう。

『大事なものができるのが怖かった』

これは、本作中で一番グッときたし、共感した部分です。
僕もそうなんだよなぁ。
昔から、本当に、大事なものができるのが怖かったんです。今でも、怖いです。僕の場合は、『それなしでは生きていけない、というようなものを所有しない』という生き方に繋がっていくんですけど、それが傍にある安心感より、それが失われてしまった時の恐怖に怯える気持ちの方が強くあります。
僕の場合は別に、人生のどこかで何か大きなものを失ったとか、そういう経験があるわけではありません。ただ、想像で、その怖さを感じ取っているだけです。そういう意味で、「食わず嫌い」みたいなものなんで、まだまだ甘っちょろいんだろうなという感じはしますけど、長年そんな風にして生きてきてしまったんで、もうどうにもならないなー、という感じはあります。
そういう視点で捉えると、本書は、「自分の人生にとって何が大事なのか」をはっきりさせる物語、ということも出来るかもしれません。
あと最後に。道尾秀介の作品なんで当然ではあるのだけど、西木奈々恵という女性もまた、秘密や葛藤を背負って生きています。僕はやっぱりそうやって、何かに葛藤していたり押しつぶされそうになっている女性に惹かれるなー、という感じはします。不幸な人が好き、とかではなくて、どちらかというと、脳天気で幸せそうな人に特に興味が持てない、ってだけの話なんですけどね。
相変わらず素晴らしい物語でした。道尾秀介というのは本当に、安心して読める作家の一人になりました。冒頭の話を繰り返しますけど、もし道尾秀介に苦手意識を感じている型がいるのであれば、是非最近の作品(どうしても、まだ文庫化されていない作品がメインになっちゃいますけど)を読んでみてください。あなたの先入観を見事に打ち壊してくれることでしょう。道尾秀介の、『弱者』を見つめる眼差しはとても優しいし、『弱者』の視点から見た世界の広さも教えてくれます。

道尾秀介「笑うハーレキン」


ドアの向こうのカルト 9歳から35歳まで過ごしたエホバの証人の記録(佐藤典雅)





内容に入ろうと思います。
本書は、『東京ガールズコレクションを手掛けた天才プロデューサーによる』と帯に書かれている(僕自身はこの人のことを知らないので、こんな書き方をしてみました)著者による、エホバの証人についての本です。
僕自身は、エホバの証人については、本書に書かれていること+α(そういえば、小学校時代に、いつも体育の授業を休んでいるやつがいたなー、ぐらいの記憶)しか知らないのでちゃんとは判断できないんだけど、この著者、エホバの証人の証人(エホバの証人では、「信者」のことを「証人」と呼ぶ)の中でも、相当に特殊な経歴・経験を持つ人だなと感じました。ただの、「かつて、エホバの証人の証人でした。でも、今は止めてます」程度の人ではない。だからこそ、非常に特殊な体験談であり、読んでいて面白い。
一応先に、僕の宗教観を書いておこう。一応、宗教に関する本の感想を書くのに、ちと先にあーだこーだ書いておいた方がいい気がするので。
僕自身は、特に宗教には興味がない。これは、良い意味でも、悪い意味でもだ。勧誘されても(された経験はほとんどないけど。ただ一度、なるほどあれはエホバの証人だったのかもしれない、という人が訪問してきたことがある)特に興味が持てないし、逆に胡散臭い宗教に対しても、僕自身に実害がなければ特段の関心はない。オウム真理教みたいに、犯罪までやっちゃうとまた違った見方になるけど(それは僕の中で、「宗教」ではなく「犯罪集団」という括りになる)、そうでもなければ、僕自身にとってはどうでもいい。
そもそも僕は、「みんなが同じ方向を向いている」のが、なんとなく気持ち悪いのだ。みんなが同じ方向を向いているな、と感じたら、自分は出来るだけ違う方向を向こう、と考えてしまう。どう考えても、そんな人間に、宗教は向かないだろう。
本書の最後の方に、こんな文章がある。

『洗脳に関して言うと、私のカルト体験談は確かに特殊で極端な環境だった。しかし程度の差こそあれど、広い意味での洗脳は社会のあらゆる所で見られる』

これは本当にその通りだと思う。メディアや広告なんかは、まさに洗脳と行っていいだろうし、僕は家族だとか伝統と言ったものさえ、洗脳という括りに入れちゃってもいいんじゃないの、という気がしている。どうも、そういうもの全般に拒絶感がある。
というのが僕の宗教観。なので、エホバの証人についてあーだこーだ書くけど、それは本書の内容を説明するためであって、特段非難したりする意図はないっすよ、という主張でありました。
著者は、海外勤務が多かった父親と共に、子どもの頃ほとんど海外で過ごした。その中で、母親がエホバの証人にハマるようになり、その流れで著者自身も証人となることになった。
エホバの証人は、他の宗教団体のように規律が厳しくはないという。エホバの証人は、聖書だけがルールなのであって、それ以外の規律はない、と言って勧誘する。それは確かに事実だ。本書には、こんな文章もあって興味深い。

『ここで説明しておくと、証人たちおは自分が宗教をやっているとは本気で思っていない。(中略)ではなんなのか?と聞かれると、「聖書を勉強しているだけです」と言う。これは営業トークでもなんでもなく、本心からそう思っているのだ』

エホバの証人は、とにかく聖書を真面目に学び、そして聖書が示す通りに行動し、考えようとする。そういう意味では、非常に真面目な人達だ。
しかし、この聖書の通りに行動するというのが、まあ大変なのだ。
本書の冒頭で、エホバの証人にどんなルールが課せられるのか、様々に書かれている。ここでは、箇条書きのようにしてあれこれ列記してみようと思う。

誕生日・クリスマス・正月・運動会・国歌・校歌・娯楽全般・デート・エロ本・輸血

他にもまあ色々あるのだけど、これだけでも相当なものだろう。他にも、ルールとして禁止されているわけではないのだけど、大学進学もあまり良いものとはされない(しかしこれは、後に教義変更があったらしい)。
男的に相当辛いだろうと思われるのは、オナニー禁止、というものだ。著者も、これには非常に悩まされることになる。さらに、婚前交渉はご法度であり、また証人たちは大抵証人同士で結婚する。すると、結婚してから、どうやってセックスをしたらいいかわからない、という笑えない状況になる。著者自身もそうだったようだ。エロビデオなんかも見てはいけないわけだから、そもそも知識として存在しないのだ。
本書の構成をざっと説明すると、半分ぐらいまでは、著者が経験したエホバの証人の活動記録という感じ。そして後半で、細やかな疑問からエホバの証人を辞めるまでの軌跡が描かれていく。
先に書いておくと、本書を読む前の僕の先入観とは若干違う内容だった。なんとなく本書のメインになるのは、「著者がいかにエホバの証人から抜けだしたのか?」という部分になるのかな、という感じがあったのだけど、決してそうではなかった。具体的には書かないけど、著者の「覚醒」(本書ではそう表現されている)には、そこまで大きな葛藤はない。むしろ、覚醒後にどうしたのか、という部分が詳しく語られることになる。まあこの当たりはまた後で触れると思います。
前半部分については、なるべく本書を読んでみて欲しいと思うので、詳しく書き過ぎないように注意をしようと思います。ここでは、著者の経験がいかに特殊であったのかという点と、あとはエホバの証人という組織についてもう少し印象を持ってもらうための知識を書くに留めておこうと思います。
著者が特殊だった点は2点ある。一点は、ブルックリン本部で働いた経験があるということ、そしてもう一点が、著者自身が非常に熱心に聖書の研究をしていたという点だ。
ブルックリン本部で働くことは、証人たちにとっては名誉なことである。著者は、子どもの頃はさほど熱心な証人ではなかったのだけど、ある時から考えを変えて、本部で働くことを目指すようになる。そしてその願いは、案外にすぐ叶えられることになる。
本部で働くほどの人物だったのに、後にエホバの証人を辞めるという経験者は、そうは多くないだろう。これだけで、ごく一般の証人たちとは違う景色を見ることが出来る。さらに著者が特殊だったのは、聖書研究を真面目にやっていたという点だ。
これには若干説明が必要だろう。
著者はアメリカで育ったので、アメリカ人に混じって聖書研究をすることは自然だった。しかし、日本人は、どちらかというとあまり聖書研究をしない。
こんなことがあった。エホバの証人では、「長老」と呼ばれる、あるまとまった地域の長は絶対的な存在であり、仮に長老の言っていることが間違っていたとしても、それに従わなくてはならない。しかし著者は、あることで長老の奥さんと対立してしまう。
その時著者は、聖書から様々な聖句を引き出して、長老と議論をする。そもそも長老に意見をすることは許されていないのだけど、さらに、聖句を引き出して議論を仕掛ける日本人などほとんどいない、と長老から言われるのだ。
さらに時代とともに、エホバの証人に入ってくる日本人の質が変化していった。次第に、いわゆる「精神を病んでいる人達」が入ってくるようになったのだ。彼らは、聖書がどうのということには特に関心がなく、「楽園」(エホバの証人は、ハルマゲドンの後、唯一楽園に行くことが出来、永遠の命を与えられるとされている)という利益のためにエホバの証人にいる、という印象を著者は持った。
そういう意味で、聖書を真面目に研究しているというのは非常に珍しいのだ。
これは、「覚醒後」の著者のアイデンティティ・クライシスを防ぐ意味でも、あるいは他の人達の洗脳解除をするのにも非常に役立ったという。著者は、『真理真』という名前で、自身が作った洗脳解除のためのチャート図などをネットで公開していたという(現在は止めているが、ネットで検索すれば出てくるという)。理論的に、エホバの証人が「神の組織とは言いがたい」ということを示しているのだ。
そう著者は、聖書に対して真面目であったからこそ、洗脳から抜け出すことが出来たと言えるだろう。
例えば著者はある時から、一般の証人たちの会話の投げやりさが気になる。証人たちは、世の中のありとあらゆるものを、「サタンのせい」「ハルマゲドンが起こるから意味がない」「楽園でなければ解決できない」と、たった三つの単語だけで片づけてしまうという。これは恐ろしい思考停止ではないだろうか。
あるいは、こんなこともあった。地下鉄サリン事件でオウム真理教が連日メディアを賑わせていた頃のことだ。

『オウムの事件は証人たちにいくつかの疑問をもたらした。なぜオウム信者たちが親族の強い反対にもかかわらず出家したのか?社会から糾弾されているのもかかわらず、なぜ信者として留まっているのか?そしてこんな感じでしめくくっていた。
「サタンの宗教に入って惑わされると、分からなくなるんだね」
一番の問題は、自分たち自身が、外からそう見られていることに気がついていないことだ』

著者は、エホバの証人という組織よりも、聖書に重きを置いていたように感じられる。つまり理屈としては、「聖書を真面目に研究し、聖書の通りに行動しているエホバの証人だからこそ信じている」というような感じだろうか。
しかし著者は次第に、聖書を解釈するエホバの証人の理屈に、疑問を抱くようになる。
そのきっかけになったのが、90年代にあった二つの重要な教義変更だ。それまでにも小さな疑問は内にあったが、この教義変更をきっかけに著者の中で様々な疑問が渦巻いていくことになる。
そしてその疑問は、聖書を真剣に研究していたからこそ浮かぶものばかりだったのだ。
そうして著者は、自分が思いついてしまった矛盾を解消するために様々に調べることになる。そうやって理論武装をすることで、逆に著者は証人の洗脳解除をすることが出来るまでになるのだ。
35歳でエホバの証人を抜けだした著者は、世の中のあらゆる価値観に0から向き合わなくてはならなくなった。それまでは、聖書に書かれていることだけが正しくて、それ以外は間違っているという価値観の中にいた。しかしそれを、著者は自ら壊した。すると、世の中のあらゆる価値観に対する指針が当面なにもないことになる。
著者はこれに対して、こんな風に書いている。

『私はこの年齢になって、第二の陣営が与えられたことを感謝している。もう一度全ての価値基準や常識を白紙から考え直すことができるのだ』

確かに、それはそうかもしれない。僕らが普段持っている様々な価値観は、これまでの人生の中で、学校や家庭や会社など様々な場面で、自分でもそうと知らずに植え付けられてきたものだ。時々、実家の味噌汁の具に何が入っていたかで話が盛り上がることがあるけど、様々な価値観もそれと同じく人と違うし、何らかの形で自分の中に入り込んできたものだ。
著者は35歳にして、白紙のまま様々な価値観と対峙することになった。これは非常に新鮮な経験だろう。また著者は、エホバの証人での様々な経験が、自分の今のビジネスに結びついていると書いている(人脈的な意味ではない。著者は、エホバの証人時代の人と、ほぼ交流を絶っている)。特殊で過酷な経験だっただろうけど、得られたものがあるという実感を持てるのであれば、それはまだ最悪というほどではなかっただろうという感じもした。
全世界でも、この著者と同じような経験をした人を探し出すことは非常に困難だろうなと思わせるほど、相当に特殊な経験をしてきた方の衝撃的な作品です。宗教がいかに人を洗脳するか、その中にいる人たちが何をどう考えているのか、というような、なかなか普段知ることがない現実について描かれていきます。思っていたのとは若干違った構成だったんですけど、でも非常に面白い作品でした。是非読んでみてください。

佐藤典雅「ドアの向こうのカルト 9歳から35歳まで過ごしたエホバの証人の記録」


盤上の夜(宮内悠介)

内容に入ろうと思います。
囲碁・チェッカー・麻雀・古代チェス・将棋といった「盤上遊戯」をモチーフに、同じジャーナリスト視点で描かれた6つの物語です。デビュー作にして、直木賞候補にもなった作品です。

「盤上の夜」
とある出来事をきっかけに四肢を失った女性は、生き延びるために囲碁を覚え、やがて煌めくように棋界デビューを果たす。その不可思議とも思える指し手のスタイルは、棋界に衝撃を与える。

「人間の王」
チェス盤を使って行なう、チェッカーという競技において、ティンズリーは永遠無敵の勝者であった。やがて彼に、シェーファーというプログラマが作ったシヌークという機械が勝負を挑むことになる。
チェッカーは、シェーファーらの研究による、双方が最善を尽くした場合、必ず引き分けになることが証明された。

「清められた卓」
白鳳位戦のタイトルには、実は第九回が存在した。コアな麻雀ファンにも、その事実はほとんど知られていない。それは、あり得べからざる状況が出現した、異様な様相を見せたからだ。プロ一人と、9歳のアスペルガー症の少年、凡庸な精神科医、そして狂った麻雀を指す新興宗教の教祖。

「象を飛ばした王子」
古代インド。シッダールタの息子は、シッダールタの失踪により若くして王位につかされることになる。周辺国との緊張感の連続した外交政治。彼は、将棋の原型となる盤上遊戯を着想するが、周囲の誰にも理解してもらえない。

「千年の虚空」
葦原一郎と恭二の兄弟、そして織部綾は、様々な事情から、子どもの頃からとある一軒家に押し込められ、3人でくらしていた。後々政治家となった一郎が、既に亡き、プロ棋士だった恭二と、異端児であった綾との関わりを回顧する。

「原爆の局」
四肢を失った女流棋士の消息を追って、ジャーナリストとプロ棋士が一路アメリカへ。ジャーナリストは、昭和20年8月6日に広島で行われた対局の棋譜を眺めている。

というような話です。
これは、僕にはちょっと難しい作品だったなぁ。僕は、全然強くはないけど将棋は結構好きで、あと高校時代はこれまたルールが分かる程度だけど囲碁部にいたりして、こういう盤上遊戯は好きな方だと思います。本書は、それら盤上遊戯を、なるほどこんな風に扱うのか!というような調理のされ方で物語が紡がれていて、作者の想像力みたいなものの凄さは感じました。
でも、僕にはどうも、その描かれている世界への「届かなさ」みたいなものが強くあって、難しいなと感じてしまいました。
印象的には、円城塔の作品を読んでいるのに近い感覚があります。円城塔の作品は、読んでいてさっぱり理解できないんだけど、でもなんか好き、という感じがあります。本書の場合、どうもそこまでは行かなくて、好きも嫌いもよく分からないんですけど、でも、読んでいてよくわからない感が、円城塔の作品を読んでいる時に近いような気がしました。
全体的に、すごく深淵で哲学的で、盤上遊戯といういわば「ゲーム」を通じて、人間の存在や本質に迫ろうとしているような、そういう感じがしました。全然詳しくないけど、例えば将棋の羽生さんとかをなんとなく見ていると、羽生さんがどれほど凄い人なのかちゃんと分かっていなくても、なるほど人間というのはここまで到達できるものなのか、というような感じにさせられます。
それは、数学もちょっと近いな、という感じです。
本書で描かれる盤上遊戯は、数学の世界にちょっと近い気がしました。そこには、無限の世界が広がっている。それを、どうにか少しずつでもいいから捉えようと、人々は全力えそれに向かい、能力の限りを尽くしてその世界を戦う。そうやって人類は少しずつ、その世界について理解し、誰かが乗り越えたところにはハシゴを掛け、後のものがさらに奥まで行けるように繋いで行く。そういう営みは、並行して、それにどうしても惹かれてしまう、向かわずにはおれないという人間そのものを浮き彫りにしていく。
本書も、そういう営みの系譜の中にあるように思う。僕には難しくてこの物語と並走することは出来なかったけれども、どこか深遠な場所にたどり着くのではないかという予感を抱かせてくれる物語だと思います。
他の話は、それでも大体物語を追うことは出来たのだけど、「象を飛ばした王子」だけは、物語を追うことさえも僕にはこんなんで、ほとんど飛ばし読みをしてしまいました。
哲学的で高尚な世界が描かれているという感じがしました。円城塔が好きな人には、結構合うような気がします(と言っても、僕も円城塔は好きなんですけどね 笑)。元々SFがあまり得意ではないんですけど、でも本書はSFと呼ぶほどSFっぽい作品でもない感じがするので、SFはちょっとなぁ…という理由で読まないという選択は、ちょっともったいないかもしれません。

宮内悠介「盤上の夜」


赦す人(大崎善生)

内容に入ろうと思います。
本書は、SM小説作家の大家であり、将棋界で親分のような存在としても親しまれてきた団鬼六の評伝です。
大崎善生のノンフィクションは、常に何らかの形で将棋と関わっている。それは、大崎善生自身がかつて、将棋専門誌のトップだった「将棋世界」の編集長を10年近くも務めた男だからであり、時には将棋の方から呼ばれるような形でノンフィクションが形になっていくことさえあるように思える。
団鬼六は、自身の趣味として将棋を指していた。しかしあることをきっかけに団鬼六は、

『日本一将棋に金を使った将棋ファン』

と呼ばれることになる。
「将棋ジャーナル」という赤字専門誌を買い取ったのだ。
将棋専門誌には、先述した専門誌トップの売上を誇る「将棋世界(当時の発行部数 およそ8万部)」を筆頭に、「近代将棋(5万部)」「将棋マガジン(3万部)」、そしてそこから大きく水を開けられるかたちで、「将棋ジャーナル(4千部)」という四誌が存在していた。
団鬼六が「将棋ジャーナル」を引き受けるかどうかで悩んでいる時、棋士たちの多くは反対した。既にその頃には団鬼六は、将棋界の親分のような存在であり、様々な交流があったのだ。
棋士たちは、当時どちらかといえばプロ棋士と敵対的な立場にあった「将棋ジャーナル」に鬼六が関わることで、プロ棋士たちとの関係が悪化してしまうことを恐れたのだった。しかし、反対されればされるほど我を通したくなってしまう鬼六は、赤字になることは覚悟、トントンであれば御の字というぐらいの気持ちで雑誌を引き受けることになる。
5年間、鬼六は奮闘した。アルバイトを雇う余裕もなく、自宅への定期配送がメインの雑誌である「将棋ジャーナル」を、自宅の地下で妻と一緒に袋詰めする作業も、自らやった。
それから5年後に廃刊を決定するまでに、団鬼六は財産のほとんどを失ってしまった。5億円掛けて竣工し、最高時の評価額が7億円とも言われた、通称「鬼六御殿」も、たったの2億円で手放さなくてはならなかった。
こうして、2億円の借金を抱え、65歳の老作家はへなへなと呆然としている。
既に断筆宣言をしていた団鬼六。ほそぼそと将棋雑誌に寄稿している文章以外に、収入の当てはほとんどない。
しかし、そんな逆転不可能に思われた団鬼六の人生は、たった一冊の本によって、富士見の如く蘇ることになる…。
というのがプロローグ的な立ち位置で描かれる、本書の第一章である。
どうだろうか。抜群に面白くて、惹きこまれないだろうか?
僕は、団鬼六の小説は読んだことはないし、大崎善生がこの連載を始めたという話を耳にしてようやく、団鬼六が晩年に将棋雑誌を買い取ったということを知った。とにかく、エロい小説(SM小説かどうかも知らなかった)を書いている作家、という名前で記憶していたぐらいだった。
そんな団鬼六の評伝。大崎善生が書いたのでなければ、特に目に止まることもないまま読まずにおいたろう。
やはり、大崎善生のノンフィクションは素晴らしい。
本書は、大崎善生のノンフィクション作家としてのデビュー作である「聖の青春」に非常に近いタイプのノンフィクションだと思う。
大崎善生の描くノンフィクションは、先程も書いたけど、なんらかの形で将棋が関わっている。しかし、その関わり方にはかなりの濃度の差があって、将棋という繋がりがきっかけの一つに過ぎないこともあれば、棋士そのものを描くこともある。
本書が「聖の青春」と似ているなと感じるのは、棋士と作家という違いはあれど、将棋と非常に深く関わった人物を、その生誕からの生涯を余すところ無く切り取ろうとしている、という点だ。本書では、「将棋界の親分」としての団鬼六だけではなく、団鬼六という規格外の存在そのものをまるごと描き出そうとしているように思う。
大崎善生は作中で、このノンフィクションを描くに当たって諦めたことを、こんな風に記している。

『この評伝を書くに当たって、私はできる限り虚像と真実を的確に切り分けて、本質の部分と虚像の部分を別々のプレートに分けて読者の前に差し出すことはできないかと考えていた。しかし第一回目の取材を終えたときに、すでにそのようなことは私の日tyてな願望に過ぎず、不可能に近いと思い知らされた』

団鬼六は、エッセイや自伝的小説も多く物している。しかし、そこで描かれている内容と、取材の過程で明らかになった事実に差がある。あるいは、取材ではどうしても肉薄できず、本の中の記述しかない、というものもある。
大崎善生は、その扱いに困る。何故なら団鬼六は、「面白ければどんなことでも良い」とするタイプの作家であり、たとえエッセイであっても、話が面白くなるように事実を改変してしまう。そして、その改変した事実に記憶の方が引きずられて、もう何が正しいことなのか判別出来なくなってしまう、というのだ。
しかし、僕には、これは大崎善生らしいな、という感じがする。
大崎善生のノンフィクションは、どちらかと言えばノンフィクションらしくない。僕がここでいう「ノンフィクションらしさ」というのは、物事を客観的に見つめて、なるべく主観を交えずに事実だけを提示する、というスタイルだ。
しかし大崎善生は、これまでのどのノンフィクションでも、そういうスタイルをとってこなかった。大崎善生は、「主観的ノンフィクション」とでも言うべき、著者自身の主観を多分に入れ込んだスタイルのノンフィクションを書き続けてきたのだ。
好き嫌いは人それぞれだろうけど、僕はそういうスタイルのノンフィクションが非常に面白いと思うし、大崎善生の魅力の一つだと感じている。
本書はもちろん、団鬼六という規格外の人物の破天荒な人生を描き出すことで、暴れ馬のように躍動し、荒波のようにうねる『物語』に読者は乗せられることになるのだけど、それに加えて、著者自身の人生も複雑に交錯していき、それが横糸となって団鬼六の人生に絡みついていく。
例えば、団鬼六が「将棋ジャーナル」を買い取った時、大崎善生はちょうど「将棋世界」の編集長だった。団鬼六と交際のある人物から、「将棋ジャーナル」にアドバイスをしてあげてほしいという打診が、大崎善生の元に届くことがあったという。
また、大崎善生の妻が女流作家なのだけど、14歳でプロ入りした頃に、師匠に連れられて横浜の鬼六御殿を尋ねたことがあるという。未だに団鬼六は大崎善生の妻のことを「やまとちゃん」と呼び、「愛人候補ナンバー1」と言って大崎善生を苦笑させる。
また、大崎善生にとってはそもそも、団鬼六という途方もない才能そのものが大いなる疑問だった。
大崎善生は小学校高学年で小説家を志し、以後「小説家になるという目標」を見据えて、戦略的に読書を続けてきた。しかし、大学生になり、いざ書くぞとなった時、大崎善生は衝撃に打ちのめされる。
1行も書けないのだ。
一方団鬼六は、享楽的で相場ばかりに手を出す父親に引き摺られるようにして自堕落な生活を続けクソみたいな人生だった頃、突然小説を書き始める。
25歳のことだった。
その時に書いた「浪花に死す」という純文学作品が、「オール読物」誌上の「オール新人杯」で最終候補に残り、それがきっかけで団鬼六はデビューすることになる。
凄まじいことを団鬼六はいう。

『私はね、書いた原稿はただの一枚も無駄にしたことがありません。すべて金になっています』

ボツになったものなど一つもないというのだ。
大崎善生は、団鬼六のその天性の才能を「絶対小説感」と作中で呼んでいるが、戦略的に読書を続けた末に一行も書けないという衝撃を味わった大崎善生にとっては、団鬼六の才能は驚異的だったのである。
そういう、著者自身の生い立ちや人生や経験が、団鬼六の波瀾万丈の人生と絡まっていく。虚実が判然としない、聞かされてもほとんど虚なのではないかと思いたくなるハチャメチャな団鬼六の人生。その曖昧さは、自らの主観を入れ込むという大崎善生のノンフィクションのスタイルに、なかなかうまく合致しているのではないかと感じました。
さて、団鬼六の生涯については、あまり書くわけにはいかない。やはり本書を読んで欲しいので、出来るだけセーブして書くことにします。
まず、団鬼六の母が凄い。「直木賞」の名前の由来となった直木三十五の内弟子であり、岸田劉生や金子光晴らと交流があった女流文士であり、また類まれなる美貌を生かし松竹の女優としても活躍した。団鬼六の一家には、芸能関係で才能を発揮する者が多く、また団鬼六自身も、いつの間にか芸能関係者に取り囲まれているというような、そういう不可思議な引力がある。
団鬼六のデビュー作の出版を実現したのが、母の師である直木三十五の愛人の弟、というのもまた面白い繋がりではないか。
純文学作家としてデビューした団鬼六は(当時はまだ団鬼六を名乗っていないのだけど)、やがて東京を逃げ出さなくてはならなくなり、そして非常に不可思議な成り行きで、国語の教員免許しか持っていないのに、英語の教師として働くことになる。
そしてさらに面白いことに、この教師時代に、日本のSM文化を一変させたとされる「花と蛇」が書かれることになるのだ。
団鬼六が、授業を自習にして、教室で小説を書いていた、というのは、たぶん有名な話だ(何故なら、僕でも知っているから、なんだけど、もしかしたら別に有名な話じゃないかもしれない)。英語教師の口を世話してくれた妻に、SM小説を書いていることを悟られるわけにはいかず、仕方なく学校で書いていたのだという(この話には、面白い後日談があって、是非読んで欲しい)。
「花と蛇」は、「奇譚クラブ」というSM雑誌のドル箱連載となり、その後、耽美館→桃園書房→角川文庫→富士見書房→太田出版→幻冬舎アウトロー文庫と、絶版と再刊行を繰り返す、息の長い作品となった。
団鬼六のSM小説にはセックス描写が少ないらしいのだけど、それは当時の事情によるという。
当時雑誌が発禁処分になることが頻繁にあり、その対策として、セックス描写をなるべく抑える方針が立てられたのだろう。しかしそこに団鬼六は、真理を見抜く。セックス描写を抑えることが、逆に読者のエロ心を刺激すると直感したのだ。そういう運も見方につけつつ、団鬼六はSM小説の世界をひた走る。同世代の他の官能作家が次々と発禁処分になるのに、自分だけ一度もなったことがない、と悔しそうに語りもする。
ピンク映画の制作に乗り出したり(ここで、映画史の中で非常に重要だろう人物との交点が描かれる)、たこ八郎との交流が描かれたり(団鬼六は、後々描かれる小池重明にしてもそうだけど、どんな落ちぶれた人間でも、出来る限り別け隔てなく接する人間だった)、団鬼六は誰も踏みしめたことのない地平を歩きながら、浮き沈みを経験しつつ猛進していく。やがて鬼六御殿には、渥美清や立川談志なんかも顔を出すようになったという。
そして、借金まみれになった団鬼六を結果的に救うことになる、真剣師・小池重明。金を掛けて将棋をやる真剣師としてプロ棋士をも凌ぐ人気を誇っていた小池重明との関わりが、結果的に団鬼六を新たな地平に引き寄せることになる。
ここでは書ききれないほどの壮大な物語を内包する、団鬼六という途方もない作家。その生涯が非常な密度で描かれている作品です。是非読んでみてください。

大崎善生「赦す人」


世界から猫が消えたなら(川村元気)

内容に入ろうと思います。
キャベツという名の猫と暮らしている男は、”死ぬまでにしたい10のこと”を考え始めている。
脳腫瘍だそうだ。一週間先に死んでしまっても、おかしくないそうだ。
しかし、思いつく”10のこと”には、ロクなものがない。おかしい。死を前にしてやりたいことが、こんなにも思いつかないものなのか。
目の前に、自分と同じ顔をした存在がいる。妙なテンションで話しかけてくるソイツは、そいつの言っていることを真に受ければ、”悪魔”なんだそうだ。
その”悪魔”が、囁きかける。
世界から何か一つものを消し去る毎に、あなたの寿命は一日延びます。
じゃ、まず手始めに、電話なんか、消してみましょうか?
というような話です。
色々ツッコミたいところはあるのだけど、まああまりやり過ぎないようにしよう。きっとこの作品を読んで、良いと感じる人もいるのだろうし。
とはいえ、なんというか、全体的にちょっとネジの締め方の緩い物語だなぁ、という感じがする。整備士がちゃんとネジを締めてなくて、あっちこっちで不具合が生じているような、そんな印象を受ける。
全体的には、もっと深く設定を考えた方がいいような気がするなぁ、という場面が非常に多かった。扱うテーマ的に、本書の分量で足りるような物語ではないのではないか。家族との思い出であるとか、猫との触れ合いであるとか、そういう「地に足のついた、著者自身が手触りを得られる部分」に関しては、それなりにちゃんと描いている印象なのだけど、「世界からモノが消える」という壮大な設定については、ちょっと色んな意味でザル過ぎるように思う。そういう奇抜な設定を組み込むからには、それに対する「本当らしさ」みたいなものをもう少し担保してあげないといけないんじゃないかなぁ、と思ってしまいました。
特に僕が一番ダメだと思ったのは、

『その世界から完全に消えたものについて語ることが出来るのか?』

という点だ。これが一番気になった。
例えば一番初めに【時計】が消える。主人公は、【時計】という存在は消えてはいないのだけど、ドラえもんの道具である「石ころ帽子」を被ったみたいに、路傍の石のような存在になって視界に入らなくなったのだろう、というような認識をしている。
しかしだな、【その存在について意識できないはずのもの】について、語ることが出来るだろうか?
僕の頭の中では、完全に、小川洋子「密やかな結晶」との対比がある。
「密やかな結晶」でも、ある日突然唐突に、その世界から何かが消える。その何かは確か、モノであることもあれば、概念であることもあったはずだと思う。とにかく、何かが消える。しかし、そこに住む人々は、『何が消えたのか』というのは、ハッキリとは分からない。何故か一部の人達は『消えてしまったはずのものを所有したり語ったりできる』みたいな設定があったように思うんだけど、基本的には、『その世界から何かが消えてしまった』という事実だけがぼんやりと伝わり、『その世界から何が消えたのか』については判然としない、という設定だった記憶がある。
それはそうだろうな、と思う。
【時計】が消えるというのは、【時計】という概念そのものが消えてしまう、ということではないだろうか。つまり、辞書には【時計】という単語が載っているけど、【時計】が消えてしまった世界では、それが何なのか理解できない。僕はそういう捉え方をしている。それが自然ではないだろうか?
そういう世界においては、既に消えてしまった【時計】について、そもそも語ることなど出来ないのではないか、と僕には思えてしまう。
そうでないならそうでないでいい。ならどういう設定なのかということを、もう少し明確にして物語を紡いで欲しかったという感じがする。
”悪魔”の口調の軽さは、あまりにも全体に馴染まなすぎて唐突感があるし(とはいえ、ちょっと重苦しいテーマの小説になるから、明るさを加味する意味でそういう設定にしたのだろうし、そういう心持ちまでは悪いとは思わないのだけど、やるならもう少しスマートさが欲しかった)、特殊な状況に巻き込まれたとはいえ、もう少し『死そのもの』と向き合う、みたいな描写があっても良かったんじゃないかな、という気がする。
まあ好みの問題もあるのだろうけど、全体的には、やはりなかなか評価しにくい作品である。

川村元気「世界から猫が消えたなら」


思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント(飯田泰之)

内容に入ろうと思います。
本書は、「経済学」という枠組みで使われる「思考の型」を学ぶことで、問題解決や合理的な判断にたどり着くための実践的方法を身につける、という目的で書かれている作品です。
作中では、経済学の様々な思考法や前提などが描かれ、それらについて、じゃあそれをどのように活用することで、日常的な問題に応用出来るのか、という具体的な話が描かれていきます。それらについて内容に触れるとすると、本書で書かれているあらゆることに触れないといけなくなるので、本書の具体的な内容にはこの感想中ではほとんど触れないことにします。
本書は、メインの内容であるその具体的な思考法そのものもなかなか役立つと思わせてくれる作品ではあるんですけど、僕が思う本書の最大の魅力は「まえがき」にあると思います。
本書の「まえがき」はとても素晴らしいです。とりあえず、そこだけでも是非読んで欲しい、と思うくらい、なかなか素敵なことが書かれています。というわけでこの感想では、この「まえがき」についての話をしようと思います。
まず著者は冒頭で、いきなりこんなことを言い出します。

『大学は浮世離れしたことを教えるべきであり、それが現実的にもっとも役に立つ』

著者は大学で経済学他の講義をする身ですが、実感として様々な方面から、「大学ではより実践的な知識を教えるべきだ」という流れを感じるのだそうです。つまり、ビジネスの社会に出た時に即戦力として使えるように、大学の内にそういう実践的な講義を行うことでそれに対応できるようにして欲しい、という要望が、実業界や生徒の親から希望として提示されるわけです。
しかし著者は、この実学化の傾向は誤りだと断言します。そして、その理由を(つまり、大学では浮世離れしたことを教えるべきだ、という理由を)、著者はこんな風に説明します。

『大学はその専門分野の「思考方法」を学ぶためにある』

著者はここで、武道や芸事を例に取ります。剣道や空手などの武道、あるいはお茶やお花などの芸事には、ある一定の「型」が存在し、その型を繰り返し練習させられます。
しかしその「型」は、例えば武道の試合のような場ではなかなかその型通りの状況は現れないだろうし、芸事であれば型通りの作品が人を感動させることも少ないわけです。
なのに何故、武道や芸事では型稽古は基本として未だに行われるのか。それは、「型」を身につけることで、身体が基本の動きを覚えたり、型を知るで、型から外れた作品を生み出すことが出来るようになるからです。
そしてこれは、思考の場合でも同じだと著者はいいます。

『決して実践的とは思えない問題を繰り返し解くことは、型稽古のようなもの。繰り返し何度も問題を解くことで、少しずつそれぞれの専門分野の「思考の型」を身に着けているわけです』

そして著者は、何故学生が「大学教育がちっとも役に立ったように感じられない」のかと言えば、

『「思考の型を伝えているのだ」という点に無頓着な教員が多いこと、学生側が「今は型稽古をしているのだという意識を持っていないこと」』

だと指摘します。
ここまでの話が、本書で一番感銘を受けた部分です。確かにその通りかもしれません。
特に僕は元々理系だったので、「科学的な思考の型」というのはそれなりに身についていると思います。科学の知識というのは、ごく一般的な日常生活を送っている分には、さほど役に立つものではありません。もちろん、ちょっとしたことで科学的知識が活用される機会はそこかしこにあるかもしれないけど、でもやはり科学の知識そのものだけでは、あまり強く役立つ場面を想像することは難しいです。
でも、「科学的な思考の型」は違います。これも具体的な事案は特に思い浮かばないのでぼんやりした説明に終始するんですけど、物事を「科学的な思考の型」に当てはめてみることで、そのうそ臭さに気づくことができたり、あるいはその重要性を捉えることが出来たりということは、日常生活の中にもかなりあると思います。
科学者は、論理的すぎて人間味のある判断をしていないみたいな、「科学的な思考の型」に馴染みがない人にとっては科学者の判断はなんだか変なものに見えてしまうものかもしれないけど、まあそういうのは(個々の性格の差異もありつつも)やはりそれぞれの分野の「思考の型」の特徴でしょう。科学に限らず、色んな分野にはそれぞれの「思考の型」があって、結局僕らは自分が知っている「思考の型」に当てはめて物事を捉えているのだろうと思います。
著者はその中でも、ビジネスや日常の問題を解決するには「経済学の思考の型」が適している、という話をします。その理由はここでは書きませんが、確かに本書を読んでいると、ビジネスや日常の問題に経済学の思考の型は有効なのだなぁと思わせてくれます。
でも、これは僕の考えですが、ビジネス的な問題はともかくとして、日常の様々な問題については、あらゆる学問分野の「思考の型」がそれぞれに役立つ判断材料を与えてくれるのではないかなと思います。本書では、著者自身の専門分野である経済学に的が絞られていますが、恐らくどんな学問分野の「思考の型」からでも、本書のような「考えるための様々なテクニック」を引き出すことは可能なんだろうと思います。
なので、本書は確かに「問題解決のための具体的なテクニックを提示する」作品でもあるのですけど、それ以前の大前提として、「自らが保持している「思考の型」を見極めること、どんなことからでも「思考の型」を意識することができるということ、何かを学ぶ際には「自分は思考の型を学んでいるのだ」という意識こそが大事」というような、テクニックの習得というだけではないプラス要素についても意識して読むことをオススメします。
さて、内容について、一点だけ触れたいと思います。
本書では、「経済学における『合理的経済人』」についての話が出てきます。これは、経済学という問題を扱う際に、人間をどんな風に扱うのか、という問題です。
なんとなく経済学における人間の扱い方って、「機械的で非人間的」「情をはさまず冷徹で無駄がない」というようなイメージがないでしょうか?
でも、最近の経済学の考え方では、こういう風に人間を扱うことをやめているのだそうです。
その代わり経済学では、「合理的経済人」のことを、「主観的な幸せを最大限にするために思考・行動する人」として捉えます。
という話から、すべての人の判断には、その人なりの「合理的な判断」があり、他者から見てどれだけ「非合理的」と思われる行動であっても、それをしている当人には当人なりの合理性があるのだ、というような話になり、そしてその章の最後にこんな文章があります。

『自己啓発本と総称されるビジネス書では、多くの場合、価値観そのものの転換が語られます。しかし、私たちの価値観は人からどうこう言われて変わるような、もろいものなのでしょうか?このような価値に踏み込むのは宗教家の役割であって、少なくとも私の能力を超えているように感じられてなりません』

こういう発想は、全編を貫いていて、つまり著者は「ほとんどの人(もちろん自分も)が天才じゃないんだし、そんな凄いことは出来ないんだから、そんな凄いことが出来ない人がどうしたらいいかを考えよう」というスタンスで本書を書いています。このスタンスは、結構好きだなぁと思います。
個人的には、対象としているテクニックやターゲット層が若干違うとはいえ、やっぱり瀧本哲史の「武器としての決断思考」「武器としての交渉思考」の二冊の方が、意思決定や交渉に関するテクニック的には上かなと感じました。とはいえ、本書では意思決定や交渉ではない「どう考えるべきか」という部分について基本的な焦点を絞っているので、そういう意味では単純に比較するのも違うのかもしれません。「いかに考えるべきか」という点で自分が劣っているかもしれない、と感じる人には、なかなか有益な作品なのではないかと思います。

飯田泰之「思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント」


ソロモンの偽証(宮部みゆき)





久しぶりに、物語に浸りきった。
これほど長い物語を読んだのに、まだ読み終わりたくないとずっと思いながら読んでいた。
ずっと、彼らの物語に付き合っていたいと。
そして、こんなに魅力的な面々に囲まれた、苦しくても前向きな夏休みが、凄く羨ましいと。
本当に、そんな風に思わせてくれる物語でした。
あー、ホント、読み終わりたくなかったなー。

内容に入ろうと思います。
本書は、1巻当たり700ページ強で、全3巻という、なかなか化け物みたいな分量の物語です。間違いなく、僕がこれまで読んできた本の中で、一番長い物語です。
それぞれの巻毎に、かなりはっきりと区切りが分かれていて、まずその区分からざっくり書いてみます。

1巻 【事件発生&そこから始まる怒涛の展開】
2巻 【裁判開廷の決意&準備】
3巻 【裁判】

という形になります。
ここで大事なポイントは、この作品における『裁判』は、普通の裁判ではないという点です。
彼らは、中学校で起こったとある出来事について、現実の裁判所に対して何らかのアプローチをし、裁判を開かせようとするわけではありません。どだい、中学生にそれは無理でしょう。
彼らがやろうとしていることは、『中学生の被害者』を追い詰めたという容疑を掛けられている『中学生の被疑者』を、『中学生の検事』が追究し、『中学生の弁護人』が擁護し、『中学生の裁判官』が裁定しつつ、『中学生の陪審員』によって評決が下されるという、非常にざっくりとした表現をすれば【裁判ごっこ】をやろうとするわけです。
もちろん、『ごっこ』なんて表現できるような生ぬるいレベルではない。それが、この物語に凄まじさを与えている。
本書は、確かに物凄く分量のある物語だ。僕も、本屋大賞の一次投票でノミネートされなければ、きっと読まなかっただろうと思う。そう思わせてしまうほどのとてつもない分量だ。僕も、「読み始めたら一気読みだ」という評判は前々から聞いていたのだけど、なかなか手が伸びなかった。確かに一気読みなのだけど、ただまだ1巻目を途中までしか読んでいない頃に、こんな風にも思った。

『そりゃあ、こんだけ枚数を費やせるなら、どんな風にでも展開させられるし、なんだって書けるだろう。もちろん、そういう作品を書ける環境を実力でもぎ取った宮部みゆきは凄いと思うけど、でもこれだけの分量を使って描くのはやっぱりズルいな』

でも、その印象は、読み進めていく内に大きく変化して行きました。

『なるほど。この物語には、これだけの分量がどうしても必要だったのだ』

そう思うようになりました。何故なら、僕はこう考えたからです。

『中学生が、すべて自前で裁判を開くことに、圧倒的なリアリティーを持たせるためには、どうしてもこれだけの分量が必要だったのだ』

『中学生が自前で裁判』と聞いただけで、おいおい大丈夫かよ、と思う方もいるのではないかと思います。そんなん、出来るわけないだろうがよ、と。もちろんその反応は、本作中の大人たちの反応でもあり、裁判に関わらないことに決めた多くの生徒達の実感でもあります。
ただ、読んでいると、なるほど彼ら彼女らであればこの裁判をやろうという意志を持つだろうし、そしてやり遂げるだろうと、そんな風に自然と思わせてくれる。裁判シーンについては、おいおい中学生にはちょっとオーバースペックすぎやしないかい、と思わせる部分もないではないけど、でもそれも、それまでの緻密な書き込みによって、ある程度の納得感を与えてくれる。『中学生が自前で裁判を行なう』という、現実にはありえなさそうな途方も無い物語に、可能な限りリアリティーを付与するために、どうしてもこれだけの分量が必要だった。僕は読んでいてそう理解しました。
というわけで、分量にひるまずに、是非読んで欲しいと願うばかりであります。
というわけで、仕切り直しでもう一度書きます。
内容に入ろうと思います。
1990年12月25日。前夜から振り続けた雪が辺りを白く染め上げる中、城東第三中学校の二年生である野田健一は、遅刻しそうになっていた。正門に回っていたら間に合わない。彼は、遅刻者や、あるいは学校から抜けだそうとする者がよく使う通用門に回り、教師に見つからないように学校に入ろうとした。
そこで、死体を見つけてしまう。
顔を見た瞬間にわかった。柏木卓也。彼と同じ2-Aのクラスメートだが、現在は不登校中であるはずだ。その柏木が、なんで?
学校は大騒ぎになった。とはいえ、柏木卓也は、学校内ではそれほどまでに存在感の強い少年ではなかった。後々、彼が様々な人間に対して『不可解な爪痕』とでも呼ぶべき違和感を残してきたことが明らかにされるが、しかしこの時はまだ、柏木卓也はただの不登校の少年であり、不登校になっていることさえ同学年でも知らない者もいるという、その程度の存在であった。柏木卓也を発見した野田健一にしても、同じクラスにいたという認識程度であり、彼のことは詳しく知らなかったし、友達だとも思っていなかった。
葬儀の場で、柏木卓也の両親は、息子は自殺したのだと思う、という発言をし、また警察の調べでも他殺を強く疑うような根拠は特に見つからず、柏木卓也は自殺したのだということで多くの人間の見解は一致していた。
しかし、根拠のない噂も出まわることになる。それは、城東第三中学校の札付きのワルである大出俊次とその子分である橋田祐太郎と井口充である。彼らが何らかの形で関わっているのではないかという噂は、既にくすぶり始めていた。
そしてそれは、仕方のないことだった。
彼ら三人の素行は教師でも手を焼くほどであり、彼らから被害を被った人間は、学校内だけではなく方方にいた。手荒なことであれ躊躇なくやってしまう恐ろしさを、多くの人は実感と共に持ちあわせていた。さらに、大出俊次の父親がまたとんでもない人物であり、短気で凶暴であることは知れ渡っていた。あの親にしてこの子あり。彼なら、何をするか分からない。
そんな折、学校中を揺るがすようなとんでもない代物が出てきた。
告発状だ。
匿名の告発状は、大出俊次とその取り巻きが、柏木卓也を突き落としたのを目撃したと告発していたのだ。
というような話です。
冒頭でも書きましたけど、とにかく凄い物語でした。久々に、物語の世界に浸り切ったな、という感じがします。読みながら、彼らと一緒に様々な『事件』を体験し、彼らと共に『調査』をし、彼らの横で『裁判』を聞いているような、そんな感じさえしました。
正直に言えば、1巻目は、スイスイとは読み進められなかった感じはあります。これは、ある程度は仕方ないと思います。というのも、この1巻で、その後の『調査』と『裁判』の屋台骨を支えるありとあらゆる状況や要素を描き出さなければならないからです。いわば1巻は、「トランプを配っている」ような物語であって、2巻3巻でようやく「クラバレたトランプを使ったゲームが始まる」というようなイメージです。もちろん、別に1巻がつまらないと言いたいわけではありません。十分に面白い作品です。ただ、2巻3巻を読んでいる時の、あのどっぷり浸かっているような感じは、1巻目を読んでいる時にはなかったように思います。なので、これは切にお願いなのだけど、もし1巻を読んでいて、うーんあんまりかなぁと思っても、そこで読むのを止めないでください。2巻以降の物語が、きっとあなたを虜にしてくれると思います。
さて、色々書きたいところなんだけど、やっぱり物語そのものに関わる部分にはどうしても触れられないので、そういう部分を避けつつ、どうにかあれこれ書いてみようと思います。
まず、とにかく手放しで絶賛したいのが、藤野涼子を始めとする、学校内裁判の主要な関係者の「人間力の高さ」です。これは本当に素晴らしい。
中学生らしくない、と言われれば、まあその通りかもしれない。いくら舞台設定が25年近く前であっても、中学生でここまでのことが出来ると想像するのはなかなか難しい。ずば抜けている要素は違うとはいえ(熱意だったり、風格だったり、能力だったり)、中学生とは思えないレベルで思考・行動を続ける彼らに、むしろ共感できないような人もいるかもしれません。
僕はそうではありませんでした。僕自身は、「大人がそう思うこと」こそが、子供を窮屈にさえ、ひいては本書で描かれているような展開に繋がってしまうのではないか。そんな風にさえ思えます。
学校という場について、野田健一がこんな風に述懐する場面がある。

『僕は、学校は世渡りを学ぶ場だと思っています。自分がどの程度の人間で、どの程度まで行かれそうなのかを計る場です。先生たちは、先生たちの物差しでそれを計って、僕らにそれを納得させようとします。だけど納得させられちゃったら、たいていは負け犬にされます。先生たちが「勝ち組」に選びたがる生徒は、とてもとても数が少ないから』

子供は、大人のことをよく見ている。本書では、「子供→教師」の眼差しだけではなくて、「子供→親」の眼差しも様々に描かれる。むしろ、様々な環境の家族が描かれるために、「子供→親」の眼差しの多様性の方が目に付くかもしれません。
たとえば、大出俊次や、作中でなかなか重要な役回りとして登場する三宅樹里、あるいは野田健一にしても、親とのコミュニケーションに別々の形で苦労することになる。彼らは、自分の言葉が親には通じないという絶望を胸に、それでもその環境で生きていかなくてはならないという諦念と闘いながら日々を過ごしている。
柏木卓也は不登校になるのだけど、何故不登校になったのかというのが次第に語られていくことになる。これは、物語そのものには大きく関わる要素ではないけど、柏木卓也というパーソナリティを描き出すのには非常に重要な要素で、僕は柏木卓也のこの部分について触れたいので、不登校になった理由を書く。
柏木卓也は、

『学校に通う意味がない』

と感じていた。
この感覚は、僕も凄く理解できると思った。柏木卓也のパーソナリティについて書き過ぎないようにしないといけないけど、とにかく柏木卓也は、学校という場に見切りをつけていた。
僕も、柏木卓也と同じような感覚だったかまで分からないけど、学校というものに失望を感じながら学校に通っていたように思う。
それは、学校という場で出会う大人(つまり教師)への失望ということになるだろう。
僕には、彼らが「まっとうな大人」であるようには思えなかったのだろうと思う。昔のことだからもうはっきりとは覚えていないけど、教師に対して、この人は信頼出来ると感じられた人は、ごくごくわずかだったと思う。
しかし、その感覚に、絶対の自信も持てないでいたと思う。というのも、これは高校ぐらいまでなら普通だと思うけど、それまでの人生で出会う大人は、親族と教師ぐらいしかいないからだ。だから、教師という大人が真っ当なのかどうか、正しい判断基準を持つことが出来ない。
柏木卓也は、そういう点についてははっきりとしていた。自らの考えに自信を持っていた。裁判の過程で、柏木卓也というパーソナリティが様々な形で明らかにされるのだけど、それらは非常に興味深いし、読む人によっては彼に共感を覚えることもあるだろう。
僕は学校というのは、『「学校という特殊な場」でしか通用しない「存在意義」を早くから見出し、それに疑問なく従える人間』にとっては、とても居心地の良い環境だろうと思う。外側との繋がりがかなり絶たれた環境の中で、限られた価値観に押し込められながら(それを、「教育」と読んでいる)、特に何に疑問を抱くでもなく日々をやり過ごせるのは、とても羨ましい。でも、そんな風に出来ない人間もいて、そういう人間にとって学校という場は酷く残酷だ。その中にいる意味を見いだせない、と感じられてしまうことも、凄くよく理解できる。
恐らく現実の世界でも未だにそうなのだろうけど、本作では、大人が子どもを「子ども扱いする」ことで支配しようとする、そんな構造が見え隠れする。本書で描かれる問題は、ほとんど最初から最後まで「生徒たちの問題」だったはずだ。常に、生徒たちが中心の出来事であったし、生徒たちが中心にいるべき出来事であった。しかし大人は、中心にいるはずの生徒を無視した。様々な形で関わることになる大人(教師だけではない)の多くは、中心にいなければならない生徒たちを排除し、それらを「大人の問題」にすり替えてしまう。
生徒たちは、それに対して、生理的な拒否感を覚えたのだろう。いや、そういう感覚を抱いたのはごく僅かな生徒だったのだけど、その熱意が学校内裁判を開かせるに至った。これは「生徒たちの問題」だと、大人に突きつけた。そして、生徒たちだけで問題に対峙し、真相を追究した。
彼らは確かに中学生で、まだまだ子どもだ。でも、子どもだからと言って、真っ当な判断が出来ないわけではない。大人になると、何故かそのことを忘れてしまう。この作品で描かれるゴタゴタは、結局のところ、「大人が生徒を子ども扱いした」がために起こった、なんて言い換えてもいいかもしれない。
そういう作品だからこそ、子どもを子供扱いしない大人の存在は光った。作中でも、何人かそういう大人が出てくる。立場は様々だけど、皆、彼らの決断と勇気に喝采を送り、一人の個人として相手を尊重し、子どもだからと言って軽くあしらうことをしない。本書では、お手本にすべきではない大人もたくさん出てくるのだけど、お手本にすべき大人も結構出てきて、やはりそういう大人には好感が持てるなぁと思う。
学校内裁判の関係者は皆本当に素晴らしいのだけど、その中でもやはり、検事である藤野涼子、判事である井上康夫、弁護人である神原和彦の三人は、本当に見事だと思う。
藤野涼子には熱意が、井上康夫には風格が、神原和彦には能力が備わっている。
藤野涼子は、この学校内裁判を開こうと主張し、様々な無茶を繰り返しながらどうにか開廷にまでこぎつけた。彼女は、当初自分が関わろうとしていたのとは違った形で裁判に関わることになってしまい、そして初めの内はそれにかなり苦しめられることになる。それでも、覚悟を決め、自分がすべきことがなんであるのかを明確に見定めることが出来るようになって、ようやく決然と前に進み出せるようになる。
勝ち負けを争う裁判ではない。真相を明らかにするための裁判なのだ。
その意志が、彼女を最後まで支えることになる。
それでも、辛いことは多い。
藤野涼子は元々クラス委員であり、クラスのどんな立場の子であっても仲良くできていた。成績も優秀で、みんなから慕われていた。しかし、裁判を提案し、実行に移す過程で、彼女は自身への評価が変わっていくことに気づくことになる。

『あたし、嫌われ者なんだ』

それでも彼女は、前に進むことを止めない。その強さは、本当に凄い。自分が嫌われようとも、これは絶対に必要なことなんだという意志をはっきりと持つことで、彼女はあらゆる辛さを吹き飛ばしていく。本当に強いし、その強さには憧れる。
井上康夫は、学年トップの秀才だ。クラスの副委員を務めていて、藤野涼子もその有り様に信頼感を抱いている。
井上康夫を一言で語るなら、杓子定規、となるだろうか。ただ、融通が利かないわけではない。筋さえ通せば、どんな状況でも受け入れるだけの度量がある。一方で、筋の通らないことは、たとえそれが教師であっても認めない。そういう強さがある。
この裁判は、井上康夫の存在があってどうにか成り立ったと言っていいだろう。彼が何故か持つ『風格』がなければ、異例づくしであり、荒れに荒れたこの裁判を乗り切ることは出来なかっただろう。
そんな彼も、時々間違えることがあって、そういう時になんとなく、あー良かった、みたいな感じになる。そうだよね、彼だって中学生だもんね、と。
神原和彦は、恐ろしいまでの切れ者だ。それは、神原和彦の登場以来あらゆる場面で発揮されるのだけど、裁判中にはより一層その凄まじさがかいま見えることになる。
神原和彦の戦術には、もう何度も驚かされた。どうやってもひっくり返すことなど出来ないだろうと思われる事柄を逆に自分たちに有利になるように持ち込んだり、度肝を抜くような展開に持ち込んだりと、本当に凄かった。これが、中学生同士の裁判として描かれていなくても、その戦術には感動したんじゃないかなと思う。それぐらい、なるほどそうくるか!と思わされる場面が何度もあった。
藤野涼子は努力の人という感じであり、藤野涼子も中学生とは思えないような弁論を繰り返すのだけど、やはり神原和彦が持つ不気味さみたいなものはない。神原和彦は、次に何を仕掛けてくるのかまるで分からないような怖さがあって、それが一種の法廷を支配する雰囲気になっているようなところがあった。
この三人の存在が、学校内裁判という異例の『課外活動』を成立させる要因になった。他にも、こいつがいなかったらなかなか厳しかっただろうなと思わせる人物はいるのだけど、この三人は決定的だ。
中学生が裁判をやる、という展開になった時点で、どう決着をつけるのかという部分への興味が一気に膨らんだ。それはそうだろう。言っても、中学生同士による裁判だ。判事も陪審員も中学生なのだ。それで、誰しもが(もちろん読者も)納得感を抱くことができる結論に落ち着かせることが、果たして出来るのだろうかと思った。
読んでいく中で、その展開そのものに引き込まれて、ラストがどうなるのかという部分への興味は、最初に思いついた時よりは薄れたとはいえ、やはりどう決着するのかは非常な関心があった。
そして、少なくとも僕は、素晴らしい形で裁判が終結したと、そんな風に思う。この裁判を開かなければ絶対にそうはならなかっただろう、中学生たちの真剣さと熱気でしか届き得なかった真実にたどり着くことが出来た。本当に見事だと思いました。
さてあと書きたいのは、マスコミの話と、弱さの話。
先にマスコミの話から。
本書を読みながら強く感じたことは、テレビで報道される事件の背後にも、様々な人間がいて、様々な出来事が起こっている、ということだ。
テレビや新聞という『窓』は、どうしたってその一部だけを切り取ることしか出来ない。
だけど、報道に触れる側は、どうしてもそのことに無自覚になる。その窓から見える景色が、物事全部だと思えてしまうのだ。
でも、そんなわけがない。
本書でも、城東第三中学校の出来事に絡んで、マスコミが関わってくることになる。その関わり方はちょっと特殊であったとはいえ、こういうことはやはり、僕らが生きている世の中でも普通に起こりうることだろう。
僕らは、『何を見たいか』という意識によって、見えるものが引きずられてしまう生き物だ。先入観に囚われ、前提を忘れ、現実を歪める才能を持っている。
もちろん、そのすべてを知ることは出来ないだろう。でも、「すべてを知ることは出来ない」からこそ、軽率な判断や行動はしてはならない、と僕は思う。
何か事件が起こると、事情を良く知りもしないだろう、マスコミの報道だけで事件を「知った気になっている人」が、わいのわいのと喧しいことを言ったり、普通であればとても認められないような行動を取ったりする。それは、彼らの意識では「正義感」がやらせているのだろうけど、しかしその正義感を生み出した情報に誤りがあればなんにもならない。
本書では、様々な人間の行動原理や価値観が様々な形で作用し、真実がねじ曲げられていく過程が、そしてそれを少しずつ解きほどいていく過程が描かれていく。僕たちは、もう少し認めなくてはならないと思う。自分たちが「何も知らないのだ」ということを。そしてその「何も知らない」というところからすべてが始まるのだと。「知った気になっている」時が一番危険なのだと、本書を読んで強く感じました。
さてもう一つの弱さについて。
本書では、様々な人間の心の弱さが、色んな形で描かれていく。
柏木卓也の兄である柏木宏之の、柏木卓也の死体の第一発見者である野田健一の、柏木卓也殺害の容疑で法廷に立たされている大出俊次の、大出俊次を告発した三宅樹里の、柏木卓也の弁護人である神原和彦の。他にも、様々な人間の弱さが描かれていく。
みな、学校という場で、あるいは家庭という場で、自分がどう生きていけるのかで悩み、苦しんでいる。その弱さが、人によって様々な発露となって表に出てくる。柏木卓也の事件をきっかけとした影響が彼らの日常にも忍び寄り、何らかの発露があり、さらにそれが柏木卓也を中心とした事件にフィードバックされていく。
その過程で、裁判を開こうと決めた学校内裁判の関係者の面々の中に、じわじわとこんな思いがわき上がっていくことになる。
それは、「肯定してあげること」だ。
作中に、こんなシーンがある。

『逆に言えば、それほどに俊次が、「君は濡れ衣を着せられているんだ」という言葉に飢えていたのだということにならないか』

肯定されたことのない人間、あるいは、本当は肯定されていないわけではないのだけどその実感が持てない人間は、日々前を向いて歩いていくことがしんどいだろうなと思う。僕は本書を読んで、環境こそが人を作るのだろうなと思うのだけど、例えば大出俊次にしても、あんな家庭で生まれなければ、もしかしたらもっと違った風に育ったかもしれない。学校内裁判を行なうことで、彼らの一部は、この裁判を通じて「肯定すること」が出来るということに気づく。そして、それこそが何よりも大事なことなんだという確信を深めていくことになる。
そしてこれは、言うのは簡単だけど、やるのはとても難しい。どうしても好き嫌いの先入観に囚われてしまうし、こちらが相手を肯定しても、それが相手に伝わらないことだってある。
しかし、それでも彼らは、その辛い道のりを選択する。裁判という、相手側の主張を否定しにかかることがメインとなる議論の場においても、彼らは様々な手段を通じて「肯定すること」を実現しようとする。
その心の優しさに、とても感動した。ただ真実を明らかにしようとするだけなら、必要のない事柄もたくさん出てくる。でも、そうではないのだ。元々勝ち負けではなく、「真実を明らかにするため」に裁判を行なってきた彼らだけど、その一方で、その裁判の場は、「誰かを全力で肯定してあげる場」にもなると彼らは気づき、全力でそれに注力する。素晴らしいじゃないかと思う。本当に、素晴らしい。
作中のほとんどのことに触れることが出来なかったし、恐らくこれだけウダウダ色々書いても、作品の雰囲気も伝えられていないだろうなと思います。これだけのボリュームです。冒頭でも書いたけど、僕も本屋大賞にノミネートされなければ決して読むことはなかったでしょう。だから、軽々しく人にオススメするわけにもいかない気もしているのだけど、でもそんな僕だからこそ、この作品を全力で推したい。
長いから、というだけの理由でこの作品を読まないとしたら、それはあまりにももったいない。「読まないと損をする」という表現は、僕にはちょっと意味不明であんまり使いたくないのだけど、今回は使ってみよう。読まないと損をします。そう言ってしまいたくなるぐらい素晴らしい物語でした。読んでいる間、僕は彼らと一緒に目の前の出来事に関わっていたし、読み終わってしまう時には彼らとお別れなんだと思って凄く寂しい気持ちになりました。こんな気持ちになれる物語は、本当に久しぶりに出会いました。是非とも読んでください。本当に、メチャクチャ面白いです!

宮部みゆき「ソロモンの偽証」






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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)