黒夜行

>>2012年11月

戦友の恋(大島真寿美)

内容に入ろうと思います。
主人公は、漫画原作者の山本佐紀。佐紀は、「山本佐紀」の生みの親であり育ての親でもある編集者・石堂玖美子とこれまで突っ走ってここまでやってきたのだけど、その玖美子が突然死んだのだ。
玖美子が死に続けている世界を、今日も私は生き続ける。
佐紀の中には、常にその感覚がある。
漫画家を目指していた山本あかねは、まだ新人編集者だった玖美子に、「絵は巧くないけど話はいいから、漫画の原作者にならないか?」と声を掛けられる。漫画家になりたかったあかねはしばし抵抗したものの、自分に絵の才能がないことはちゃんと分かっていた。「山本あかね」という本名は、いつか漫画家としてデビューする時までとっておきたいから、という理由をつけて、漫画家志望の山本あかねは「山本佐紀」という漫画原作者になった。
二人は、共に新人だった。編集者も漫画家原作者も、がむしゃらに頑張った。玖美子ががむしゃらに企画を作り、佐紀ががむしゃらに話を紡ぎ、そうやって二人は「戦友」として戦ってきた。
玖美子は生前、「佐紀は友達じゃないから」と言っては場を白けさせていた。けど、確かにそうなのだ。玖美子と佐紀は、友達というのとは違う。「戦友」という響きの方がぴったりくる。
玖美子も佐紀も、その実力や実績を買われて、共に順調にメジャーになっていった。玖美子は社内でも敏腕編集者となっていたし、佐紀も、どうにか食べていけるという状態はとっくに脱し、余裕のある生活を送れるようになっていった。
玖美子が突然死んだのは、そんな折だった。
佐紀は、生前玖美子が付き合っていた男とその息子に会い、変わった担当編集者と噛み合わないやり取りをし、どこにも行き着かなかった恋愛の果てに深夜焼肉を食べ、風呂屋の娘とライブに行き、幼稚園から同じだった旧友と再会し、そうやって終わりなき日常を生きる。
玖美子のいない日常を。
というような話です。
本書は、実際は6篇の短編が収録された連作短編集なんですけど、個々の短編を紹介しないで全体を長編のように扱った方が良さそうだなと判断しました。
これはなかなか面白い作品でした。でも、この良さを伝えるのはなかなか難しいんだよなぁ。
僕が凄くいいなと思ったのは、本書の「ダラダラしている感じ」です。全然褒めてる感じしませんね。でも、こんな風に書くしかないんです。
そうだよなぁ、俺らの日常とか会話って、これぐらい「ダラダラ」してるよなぁ、って思うんですん。
特にドラマを見てると思うんだけど(最近あんまりドラマとか見ないからわかんないけど)、「日常の中にそんなこと起こらないでしょ」とか、「そういう関係性の人間がそんな会話するか?」みたいなシーンって結構出てくる気がするんですね。小説なんかでも、そんな風に思うことってあります。
まあそれは、ある程度「お約束」として受け流すことになっています。ドラマにしても小説にしても、やっぱり『ストーリー』的な部分がメインになってくるし、そうするとどうしても不自然な部分というのは出てきてしまうだろうなと思うんです。
本書は、『ストーリー』的な部分に力点を置いていないと思うんですね。
正直、本書で描かれる話って、「そうでなければならない」みたいな感じって、どの場面でもあんまりないんです。展開とか状況設定に、特段の必然性がない。なんとなく、普通の小説を読み慣れてると、こういう作品って「あれ?」って思われちゃう感じがあるように思います。
でも、僕らの日常って、基本的にそうですよね。
ドラマとか小説に何を求めるのかという、受け取る側のスタンスによってもかなり変わるんで難しいところではあります。ドラマや小説に「非日常」を求めるのも正しいし、そうであれば、それを「僕らの日常」と比較することにさほど意味はないでしょう。つまり、僕らの日常とどれだけかけ離れているかで、非日常感が変わってくるわけだから。
けどその一方で、ドラマや小説に「日常」を求めるのもまだ正しいでしょう。そして本書は、「限りなく日常に近い日常」を描き出している作品だと思うんです。
日常には、特別なことは起こらないし、必然性のある展開というのもあまりない。大体、何故か分からないけど突然何かが起こって、それまでの脈絡を無視して物事が展開していく。もちろん人間は、自分が受け取った様々な情報に後付けで意味を見出してしまう生き物だから、そういう日常であっても必然性を感じられることもよくあるんだけど、でも冷静に客観的に見てみたら、日常なんてハチャメチャだと思います。
それは会話も同じで、僕らが普段している会話を録音して後で聞いてみたら、きっと愕然とするでしょう。第三者が聞いて理解できるような会話って、ほとんどありえないと思います。もちろん、それじゃあ物語が成り立たないから、ドラマや小説の中ではリアリティをある程度犠牲にしつつ会話が組み立てられる。それはお約束として成り立っているんだけど、でもそれに従わないといけないわけでもない。
本書で描かれる会話は、本当に「ダラダラ」している。一文が長いし、話の途中で別の話題に飛ぶし、要領を得ない話し方をしている。もちろんこれでも、小説用に分かりやすくデフォルメされている方だと思うけど、それでも、普通の小説にはない「ダラダラ感」が満載だなと思います。
本書の一番の魅力は、この「ダラダラ感」なんだろうなぁ、と僕は感じました。
おかしなことだけど、著者が本書に対してとっているスタンスは、「邪魔しないこと」なんじゃないかな、とさえ思った。
石堂玖美子だって山本佐紀だって、もちろん著者が作り出したキャラクターなわけで、行動も会話も全部著者が書いてるのはわかってるんだけど、でもなんとなく、「石堂玖美子」と「山本佐紀」という二人が実際にいて、とりあえず即興で会話をさせてみて、著者がそれを巧いこと切り取って編集している、みたいな感じがしちゃうんですね。著者がやっているのは、会話の雰囲気をなるべく壊さないように編集することだけで、どこかで即興の会話をテープに録っているんじゃないかなぁ、なんて思わせてくれます。
展開に必然性のない日常を書くのって難しそうだなぁって思いました。どんなことでも脈絡なく起こりうる日常を、日常の雰囲気そのものを壊さずに一部だけ取り出してみるっていうのは、やっぱり凄いんじゃないかな、と思います。本当に、特に何が起こるわけでもなく、登場人物たちがダラダラと喋っているだけの小説なんだけど、そのダラダラしい日常のズルズル引きずられていってしまう感じがします。この、巧く説明できない感じがなかなかもどかしいんだけど、結構面白いんじゃないかなぁ、と思いました。
登場人物についてもあーだこーだ書いてみたい気もするんだけど、捉えどころがなさすぎてなかなか難しい。人間って、やっぱりわかりやすい生き物じゃないから、そんなに簡単に切り取れるものじゃない。でも普通は、人間を「キャラクター」という、性質のわかりやすい何かに置き換えて物語を進めていくんだけど、でも本書の場合、人間のわからなさみたいなものをそのままポーンと投げ出しているような感じがある。言語化されていないものを受け取った時、人間はそれを「わからないものとして拒む」か、「自分の中で無理やり言語化して取り込む」かになりそうだけど、でも本書の場合、わからないもののまんま自分の内側にスーッと入ってくるような感じもする。言語化しないまま取り込んでいるから、それをどう表現していいのかも分からなかったりして、なかなか人に伝えるのが難しい小説っだなぁ、という感じがしています。
たぶん僕の感想を読んでも、どんな小説なのかさっぱり分からないでしょう。でも、まあそれは仕方ありません。あなたにとって、特にどうということもなかった一日を、誰かに説明してみるとしましょう。あまりの伝わらなさに愕然とするのではないかと思います。本書は、なんかそんな感じの小説です。僕は本書の「ダラダラしさ」みたいなものが凄く面白いんじゃないかな、と思いました。是非読んでみてください。

大島真寿美「戦友の恋」


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ノエル(道尾秀介)

内容に入ろうと思います。
本書は、二人一緒に絵本を紡ぐことで、自分を取り巻く「嫌な現実」から逃げてきた二人の少年少女からスタートする、「絵本」を介して緩やかに繋がった人たちの物語です。

「光の箱」
圭介は14年ぶりに故郷に戻ってきた。高校を卒業してすぐ東京へやってきて、一度も帰ることがなかった土地。子供の頃から書き続け、大人になってからも書き続け、今では童話作家として独り立ちして生計を立てている。
弥生も来るのだろうか?
同窓会の案内だった。雑誌に載った圭介の記事を読んで、旧友が調べて招待状を送ってくれた。
弥生と会うことがあっても、きっとあの話はしない。あのことがあって以来、気まずいまま別れてしまった僕達は、一体何の話をしたらいいんだろうか。
中学高校と、クラスメートにいじめられ続けた圭介。そんな圭介と同じような目をした弥生が、圭介の支えになった。二人で絵本を作る。それに没頭している時だけは、僕らは辛い現実を忘れることが出来たのだ…。

「暗がりの子供」
ちょっとした悪戯のつもりだった。お雛様の段の陰に隠れて、両親を驚かせてやりたかっただけだ。
それなのに、あんな話を聞くことになるなんて。
病気のお祖母ちゃんと、両親のため息。そして、新しく生まれてくる子供と、莉子のため息。
莉子は、お気に入りの「空とぶ宝箱」という絵本を読んで気を紛らわせる。そこには、真子という女の子が、小さな穴に入り込んで冒険をするお話が描かれていた。
あることがきっかけで、莉子は真子とお話が出来るようになる…。

「物語の夕暮れ」
与沢は、あと3回だけ子供たちにお話を聞かせることにした。まつぼっくり会の二人にも、そう伝えている。
元々は、妻が見つけてきた話だった。
共に小学校の教師をしていた与沢と妻は、定年後、子供もなく、二人で過ごしていた。唐突に妻が買ってきたインコと一緒の、静かな生活だった。お話を聞かせるようになって与沢は、教師生活の中で自分が何かを与えることが出来ただろうかという、長年抱き続けてきた疑問を反芻することになる。
二つのことが重なって起こった。
一つは、お話を終えた与沢の視界にたまたま入った一枚の写真だ。雑誌に掲載されているものらしく、いいというのでその雑誌を持ち帰ってきた。
かつて与沢が住んでいた家だった。今は童話作家が住んでいるらしい。
そして与沢は、珍しく行動を起こした。その童話作家に長い手紙を送ったのだ。もし自分が受け取ったとしたら疑ってしまうような、そんな奇妙な依頼を。

というような話です。
やっぱり道尾秀介は素敵な話を書きます。もう安心して読める作家の一人ですね。未だにデビューの頃の印象を持っていて、えー道尾秀介ぇー、なんて思っている人がいるなら、さっさと認識を改めた方がいいでしょう。
「光の箱」は、実は「Story Seller」というアンソロジーで読んでいました。読んでいましたけど、やっぱりするっとまるっと忘れていたので、おぉそうそう、そういえばこんな物語だったなぁ!と改めて新鮮な気持ちで読むことが出来ました。
道尾秀介の作品には、いじめとか虐待とか、そういう辛い状況に置かれた子どもの話がよく出てくるんだけど、そういう描写がとても巧いと思います。
道尾秀介は、ただ辛いだけの話ではない、ほのかであるかもしれないけど手触りの確かな救いが描かれる物語に決着させることが多い。僕自身はいじめや虐待というようなものを経験したことはほとんどないんだけど、道尾秀介の作品を読むと、それは僕らの現実と連続しているということが伝わってくる。誰だって、いじめられていない、虐待されていないという現実は、ちょっとしたラッキーなのであって、誰だってそういう状況になりうるのだ、ということがまずすんなりと伝わってくる。何か特別なわけでもない、でもほんのちょっと運命の歯車がガタッとしてしまったがために不幸に身をやつしてしまう。
さらにその中で、主人公たちは耐える。彼らは、子どもであるという自分の存在をきっちりと自覚し、子どもであるが故にどうにもならない現実というものを諦念と共に受け入れている。いや、受け入れなくては生きていけないようなそういう世界の中でずっとやってきたのだ。だから、耐える。結局やり過ごすしか、自分が我慢するしかないんだということを、もはや「哀しい」と思う余裕さえも失われた心の中で感じる。
そういう、いじめられ虐待されている子どもたちの姿を描くのが本当に巧いと思う。どうしても孤独の中に逃げ込まなくては生きていけない彼らの日常を、実に巧く切り取っていく。いじめや虐待という同じテーマを扱うことが多いのにも関わらず、それぞれの作品ごとに印象が違うから、キャラクターをとても巧く組み立てているんだろうなと思う。
キャラクターの描写の巧さは子どもだけではなくて、どんな登場人物に対しても思う。冒頭、大人になった圭介が14年ぶりに故郷に戻ってきたという場面。一日中晴れの予報だったはずなのに雨が降ってきたというシーンで、圭介は気づく。自分は今朝、無意識の内に東京の天気予報を見てしまったのではないか、と。そういう些細な描写から登場人物の輪郭を立ちあげていくのが本当に巧い。
いじめられ虐待されている子どもたちは、寄り添い、お互いの存在を支柱としながら長い長い苦痛をやり過ごしていく。二人は、お互いの存在がとても大事なものであることがちゃんと分かっている。
分かっていて、でもあんなことが起きてしまう。道尾秀介は、すれ違いを描くのも巧いんだよなぁ。やっぱりそれは、ミステリ的なスピリットがあるからなのかもなぁ、という感じがする。ミステリ的なテクニックを、「驚かせたい」という方向で持っていったのがデビューの頃の道尾秀介だとすれば、今は「人間関係のままならなさを描く」という方向性に持っていっている感じがする。本当に繊細に人間関係の機微を描いていくのだけど、いつも巧いなぁと感心させられる。
「暗がりの子供」は、小学生の女の子の話だけど、さっきと同じことを書くけど、やっぱり子供視点の描写がとてもうまい。「光の箱」は高校生の物語だったけど、「暗がりの子供」は小学生。どんな年代の子供の話でも自在に書けるんだよなぁ。
冒頭の方で、こんな描写がある。

『父も母も、妹が産まれてくることをとても楽しみにしている。家族が増えるその日をわくわくしながら待っている。
いっぽうで、祖母が退院したら、いっしょに暮らしはじめるのだから、やっぱり家族は増えることになる。赤ん坊が生まれてくるのと、祖母がやってくるのと、どう違うのだろう。』

こういう視点が巧いなと感じさせるんですね。物凄く子供らしい疑問じゃないですか。大人になった僕達には、「赤ちゃんはワクワクするけど、退院した祖母にはワクワクしない」というのは、まあすんなり理解できちゃうようなことで、疑問に思ったりしない。でも、子供らしい視点で捉えると、それは一気に不思議な出来事になるのだ。道尾秀介は、そういう子供らしい視点で物事を描写して、子供っぽさを醸し出すのが実に巧いなと思わせる。
両親の会話を結果的に盗み聞きしてしまった日のやりきれなさ、今まで以上に絵本に逃避する日々。そしてあることをきっかけに、それまでとは違った形で絵本を接するようになり、ついには絵本の登場人物である真子と会話を交わせるまでになる。普通の作家が書いたら物語になりそうもないそういう些細な変化を巧く捉えて描き出していきます。
どの短編でもそうなのだけど、作中に絵本の文章が挿入されます。「空飛ぶ宝箱」の内容も挿入されるんだけど、そこで「王女さまが何に載って飛ぶのか?」というオチが凄くいいなと思った。その絵本のテーマ的なものと、莉子を取り巻く環境がとても巧くマッチしていて(それでいて、分り易すぎなくて)とてもいい。
挿入される物語とのリンクということであれば、「物語の夕暮れ」もなかなか秀逸だ。特に、与沢が子どもの頃に作ったという、カブトムシと蛍の物語で描かれる「カブトムシの存在意義」という話がとてもいい。与沢は、自分の人生に意味があったのかどうか、常に自問している。それは、与沢が子どもの頃からずっと恐れていたことでもあった。それが、与沢の「今」の物語と重なり合い、与沢なりの結論に行き着く過程は素敵だと思う。
道尾秀介の作品はどれもそういう印象があるんだけど、意識的にそうしているのだろうという「余白」がある。これは、言い方によっては「読者に親切ではない」となるだろう。読者がうまく汲み取らないと、ストーリーが理解しにくかったりする場面もきっとあるだろう。あるいは、会話もリアルなものに近づけるために、余白がある。読者に向けて情報を伝えるための会話ではなく、登場人物たちがまさにその世界でその状況にいたらそう話すだろうと思わせる言い方で口を開くのだ。だから、意味のない独り言もあれば、「あれ」だの「それ」だのと言った指示代名詞が多く出てきたりする。そういう部分も、僕は素敵だなと思っている。わかりやすい物語が好まれる世の中にあって、「本当っぽさ」を追求するために敢えて余白を残すという選択肢は、いいなぁ、という感じがします。
絵本を介して繋がるいくつかの物語。辛い現実を描くことが多く、心がキューッとなる作品が多い印象があるけど、この作品は優しい気持ちになれるんじゃないかなと思います。是非読んでみてください。

道尾秀介「ノエル」


サイレント・ヴォイス 行動心理捜査官・楯岡絵麻(佐藤青南)

内容に入ろうと思います。
本書は、行動心理学を駆使して被疑者の嘘を見破る超美人捜査官・楯岡絵麻が活躍する、ちょっと変わった警察小説です。
一介も巡査部長にすぎない楯岡絵麻は、下の名前をもじって「エンマ様」とやっかみまじりに呼ばれる。警視総監にまでその評判は届いているようで、被疑者の自供率は100%。嘘をつく際の「なだめ行動」を見破り、感情を司りると呼ばれる脳の部位「大脳辺縁系」と直接会話を交わすことができるとのたまう。実際絵麻は、被疑者に様々な質問を浴びせ、被疑者の口から出る答えではなく、被疑者の全身のどこかに現れるなだめ行動をチェックして真相にたどり着く。
という設定の、5編の物語が収録された作品です。

「YESか脳か」
身代金目的の誘拐を企てたとして、公衆電話で捕らえられた男。絵麻は、まるでキャバ嬢であるかのように、親しげに被疑者と話をする。常に絵麻の取り調べに付き添ってきた西野も、今回ばかりはヒヤヒヤする。なにせ、まだ誘拐された女の子は犯人の手の内にあるのだ…。
絵麻は混乱する。男は何かを隠しているけど、それが何なのかわからない…

「近くて遠いディスタンス」
火災現場から他殺体が発見され、重要参考人として連行された歯科医。犯行を否認する歯科医になだめ行動は見られない。しかし歯科医は、凶器の在り処は知っていて、実際に絵麻の能力で凶器は発見されている。一体どういうことだ…。

「私はなんでも知っている」
夫が始めた喫茶店の片隅で占いを始めたところ人気が出たという占い師。とある殺人事件の重要参考人として連行される。その占い師が「三日後に死ぬ」と予言したまさにその通りに死亡したのだ。しかし、占い師になだめ行動は見られない。予言が当たったなどというアホみたいな話を受け入れないとすれば、犯人は占い師としか考えられないのだが…。

「名優は誰だ」
人気俳優が殺害され、その不倫相手だとされていた若い女優に容疑が掛かった。若い女優はテレビカメラの前で容疑を否認。そしてその直後、同じく女優で、殺された人気俳優の奥さんが、私が殺しましたと出頭してきた。自分が殺した、という証言になだめ行動は見られないのだが…。

「綺麗な薔薇は棘だらけ」
西野が最近付き合いだしたという女の話を聞くと、明らかに西野はその女に騙されている。しかし西野は耳を貸さない。
そんなやり取りをした直後、西野が無断欠勤をした。強引に捜査を開始した絵麻は、最終的に西野から話を聞いていたその女を連行してきた。
結婚詐欺の疑いがある。そして、引っ掛けた男たちを自殺に見せかけて殺しているという疑いが。
西野は、西野はまだ生きているのだろうか…。

というような話です。
本書を読んだ正直な感想は、「惜しいなぁ」というものです。
なんというか、設定や物語の展開はなかなか巧いと思うんです。心理学を応用したという地に足のついた嘘の見抜き方は、僕自身には知識はないけど恐らくまっとうなものでしょうし(本書を読んで、メンタリストのDaigoは、恐らくこういう手法を様々に組み合わせてマジック的なことをやってるんだろうなぁ、と思いました)、一編一編違った展開を見せる物語もなかなか上出来だと思うんです。
でもどうしてもなぁ。「面白かった!」というところまで行かないんですよね。あと一歩なんだけどなぁ、という惜しさがつきまとう感じがします。
その惜しさの正体がどの辺りにあるのか見定めようと思ったんですけど、なかなかズバッとこれだっていうのを見つけるのが難しかったです。
僕が思ったのは、舞台に動きがなさすぎるのが敗因かなぁ、ということです。
基本的にどの話も、取調室を全然出ません。取調室から始まり、取調室で終わります。物語の最後は、絵麻と西野が飲みに行くっていうところで終わるんですけど、まあそれはオマケのようなもので、メインのストーリーはすべて取調室で完結します。
もちろん、舞台設定がまったく変化しない小説で素晴らしいものもたくさんあるでしょう。東野圭吾の「むかし僕が死んだ家」なんかは、ある一軒の家が舞台で、しかも登場人物は最後までほぼ二人という設定で面白い物語に仕上げているし、円居挽の「丸太町ルヴォワール」の第一章も、ある部屋の中で登場人物が二人きりという設定で同じく物凄く面白い物語に仕上げています。
とはいえやはり、舞台設定に変化がない物語というのは、非常に難しいのかもしれないなぁ、と思いました。
本書も、話の展開は巧いです。ただ嘘を見抜くだけではなくて、相手の嘘は見抜けるんだけど、でも…というところから話を展開させているところは巧いんです。相手が嘘をついているということが分かっても、絵麻の側が適切な認識をして適切な言葉を叩きつけないと、どんな嘘をついているのかというのが分からない。そこにミステリの核があって、それはなかなかよくできています。
ただ、そこまで面白くないんだよなぁ。惜しい。どうしたらいいのか分からないけど、どうにかして取調室だけの話じゃなくするしかないような気がするんだよなぁ。
ネタ的に、もうちょっと長くてもいいのかな、という感じもしました。
例えば二話目なんかは、ミステリとしては若干フェアではないかな、という感じがします。最後の解決編の場面で初めて登場する人物が出てきたりする。まあ、別に本格ミステリってわけでもないし、そこまで厳密に考えなくてもいいのかもだけど。
でもこの話も、例えば絵麻は取調室で被疑者を追い詰め、同時に刑事が外で捜査もする、という展開を組み込めば、中・長編としても成立しそうだし、取調室だけの話でもなくなるから、物語全体に動きが出ていいかなぁ、なんて思ったりしました。
ちょっと惜しい作品です。でも、ハードルを上げないで読めばある程度面白く読める作品だとも思います。

佐藤青南「サイレント・ヴォイス 行動心理捜査官・楯岡絵麻」


成功はすべてコンセプトから始まる 「思い」を「できる」に変える仕事術(木谷哲夫)

内容に入ろうと思います。
本書は、2~3年で離職することが多いマッキンゼーに10年間在籍し、現在は京都大学産官学連携本部イノベーション・マネジメント・サイエンスの寄附研究部門教授として、起業家教育を担当している著者による、こんな風に仕事をするといいと思うよ、という提案の書です。
まずざっくりと、著者が本書でどんなことを言っているのかを書いてみましょう。
それはまあほとんどタイトル通りなんですけど(まさにタイトルが、本書に出てくる「1行コンセプト」そのものになっています)、『コンセプトを決めてから動きなさい』ということだ。
『コンセプト』とは何か?本書には、こんな風に定義されています。

『出来たときのことを考えると、ワクワクする。実現すれば、良いことが続いていくはず。達成できるまではいろいろな困難があるかもしれないけど、何とか頑張ってみよう。そういう気持ちにさせる、将来のあるべき姿が「コンセプト」です。』

イメージできるでしょうか?
例えばスティーブ・ジョブズ。「今の携帯電話がダサいから、とにかくカッコイイ携帯電話を作るべ」と言って作ったのがiPhoneだと思います。とにかくスティーブ・ジョブズにとって大事だったのは、「カッコイイ携帯電話」という部分で、まあいわばこれがコンセプトです。
何故コンセプトがなければならないのか。それを、実現可能性ドリブン(つまり、今出来ることを積み上げていって届く場所まで行ってみよう、という方法)と比較してこんな風に書かれています。

『実現可能性ドリブンの多くのケースでは、足元の問題解決に追われているうちに次々と直面する問題の多さや複雑さに押しつぶされ、結局は最も確実な、「何もしない」という結論に落ち着いてしまうのです』

『なぜなら、いまの時代においては、面白いコンセプトには、おカネも人も集まるからです。逆に、人がいる、おカネ、がある、だけでは勝てません(昨今の大企業の何社かを見ていれば、おのずとわかるのではないでしょうか。)』

コンセプトさえはっきりと明確にカラフルに鮮やかに描ききれていれば、それがどれほど実現困難に思えるものでも、おカネも人も集まり、結局それが実現できてしまう。実際に著者は、『まともに論理的に検討すると「ありえない」となるはずの大胆なコンセプトが、意外にすんなりと実現していく例を、たくさん目にしてきました』とのことです。
一方で、面白みはないけど実現可能性だけはばっちりというやり方では、もはや戦えない時代になってしまいました。本書にも、こんな風に書かれています。

『顧客は技術におカネを払うのではありません。技術ではなく、「コンセプト」で勝負しないと勝てないのです』

ものづくり大国ニッポン、と言われる日本が、最近世界の市場の中で苦戦しているのも、このコンセプトを明確にするという観点が失われてしまっているからなんだろうな、と本書を読んで強く感じました。
ただ、あとがきで書かれていましたけど、日本は元々コンセプト立案に向いている国です。

『かつての日本は、いまのような技術大国でもなく、お金持ちでもありませんでした。元にあるものと言えば、達成したいコンセプトと意志の力しかなかったのです』

たかだか100年ほど前の日本人に出来たことが、そんなにすぐできなくなるというわけでもないでしょう。『おカネ』や『技術』など、かつてはそれさえあれば優位に立てていたものがたんまりある環境の中にどっぷり浸かってしまっているせいで、自分たちの良さを忘れてしまっているのでしょう。
本書は、日本人が元々得意としていたはずの「コンセプト立案力」みたいなものをどう養って生かして行くか。その観点で描かれた実用的な本です。
物凄く面白いと思いました。僕は本書の存在を、瀧本哲史氏のツイートで知りました。瀧本氏の師匠みたいな感じの存在だった、というような感じで書かれていたと思います。瀧本哲史自身もとんでもない人間なのに、さらにその師匠的存在だとどれだけ凄いんだろうな、と思いました。
僕は、特にビジネスを立ち上げるつもりもなければ、社会や世の中に対して「なんかやったるぜ!」なんて思っている熱い人間でも全然ないんだけど、でも本書は非常にためになりました。
なんというか、ここで描かれていることは、単に「会社やプロジェクトを立ちあげて成功する」という人だけではなく、あらゆる人に関わってくることではないかな、という感じがします。ビジネスの枠だけではなく、もっと広い範囲で応用の利く話じゃないかな、という感じがしました。
僕は本書を、本を書く人に読んでほしいな、と感じました。ここでいう「本」は、主に実用的な本を指していて、小説は除外します。
本を一冊書いて世に問うて売るというのも、プロジェクトを立ちあげて実現するというのに非常に近いのではないかな、と思います。その際、本書で書かれている思考は非常に役立つのではないかな、という感じがしました。
後でも書くけど、結局コンセプトというのは、万人受けするものではないんです。万人受けするものであれば、既に誰かが実現しているはずで、そんなものはコンセプトになりえません。そして、そのコンセプトが届く顧客を確実に見極め、さらにその顧客が、そのコンセプト(あるいは、そのコンセプトを反映させた製品)のどの要素に一番食いついているのかを調べ、その一点をさらにさらに掘り下げていく。そうやって、そのコンセプトが届く熱狂的なファンに向けて技術なり製品なりサービスを生み出せば、自ずとそれは広がっていく、というような感じです。
本も同じだと思っています。
僕が出版社の営業さんによく言う話は、「この本は誰に向けて書かれている本なのかよくわからない」というものです。
なるべく広い範囲の人に手にとって買ってもらいたいと思うからでしょうか。タイトルや装丁や中身が、そつなくどの層にもアピールするような本というのが結構多い印象があります。でも、こういう本は、大抵売れません。

『ごてごてと機能をテンコ盛りにすれば、誰かがどれかにひかれて引っ掛かるだろうというのは、どんな顧客も取りこぼしなく捉えようとする地引網的な貧乏くさい発想です。しかしコンセプトの勝負で勝てるのは、どこかに引っ掛かればいいや、という地引網の発想ではありません。たとえ少数の顧客であっても、本物のニーズを鶏血する一本釣りの発想です』

こんな感じのことは僕もよく言います。とにかく、ある特定の世代(層・コミュニテイ なんでもいいです)にズバッと突き刺さるような本にしないと売るのは難しい、と。まずその集団が敏感に反応して、熱狂してくれる。すると次第にその熱狂が、元々ターゲットにしていなかった集団にまで広がっていく。書店で働いていると、色んな形の本の売れ方を目にすることがありますけど、特に『良書』と呼ばれる本は、そういう感じで売れていくことが多い印象があります。
以前、「20歳の自分に受けさせたい文章講義」という新書を読みました。文章を書くコツみたいなものが書かれているのですけど、その中に、「大多数に向けて文章を綴るのではなく、ある特定の人物に向けて文章を書く」というものがあります。例えば、「この文章で自分の母親に届くだろうか?」というような、特定の人物に向けて文章を書く。そうすると、自然と多くの人に共感してもらえる文章になる。しかし初めから万人受けを狙った文章を書くと、結局その文章は誰の心にも届かないものになる、というようなものでした。これも非常に近い話だな、という感じがします。
また、本書を読んで、先日観客として参加した出版甲子園のことも思い出しました。
出版甲子園というイベントは、大学生が主催しているもので、本を出版したいと思っている大学生が、実際の編集者の前でプレゼンをし、いい企画であれば書籍化の道が開ける、というものです。
僕が見たプレゼンで一番惹かれたのは、「骨格標本」のものでした。
その大学生(女子)は、骨格標本作りに目覚めてしまったようで、自宅で出来る骨格標本作りの本のプレゼンをしたのでした。
まあこのプレゼンがとてもよかった。
別にプレゼンが巧かったわけでは全然ないと思います。プレゼンの巧さだけ見れば、他にもっと巧い人がいました。
でもそのプレゼンに一番惹かれたのは、結局、その人の「好き」がにじみ出たからだろうなと思います。
本書では、『コンセプトは、「やる人」がいないと絵空事』という文章が出てきます。コンセプトだけあっても、それを実行に移す人がいないと意味がない。そしてその実行に移す人は、そのコンセプトに惚れ込んでいなくてはいけないのです。

『あなた自身が真剣に惚れ込んでいることを、徹底して、一分の隙もなく表さなければなりません』

『(ジャパネットたかたの高田社長の言葉)訓練より、自分が扱っている商品を隙になることだと思います。私も自分が隙になった商品でないと言葉が出ません』

『高田社長は、「基本的に好きでない商品は表現できないので売らない」とも言っていますが、これはコンセプトのプレゼンでもまったく同じです。「お客はものすごく賢いので、すべてを見抜いてしまう」からです』

その「骨格標本」のプレゼンをした大学生は、聞いているだけで、あぁ骨格標本のことが好きで好きで仕方ないんだな、ということが物凄く伝わってくる作品でした。なにせ家族が、「浜辺にイルカが打ち上げられたらしいよ」と連絡を寄越してくれるほどです(実際にイルカの骨格標本を自宅で作ったそうです)。
実際に「骨格標本」の本は、出版甲子園の2位になりました。編集者の座談会でもこの「骨格標本」の話題は結構出て、概ね皆こういう評価でした。

「この本は売れそうにないけど、書き続けていればいつか凄いものを書くのではないか」

骨格標本なんていうテーマは、まあ万人受けするものではないでしょう。でも、そのプレゼン者の「好き」という気持ちが、聞く者の心を掴むんですね。もちろんそのプレゼン者は、コンセプトがどうなんてことは考えているわけではないんでしょうけど、本書を読んで、なるほど確かに、コンセプトと、そしてそのコンセプトを実現するための自分の情熱みたいなものは物凄く大事なんだな、と思いました。
また僕は、以前行った瀧本哲史氏の講義で聞いた、「オトバンク」の話を思い出しました。
「オトバンク」というのはオーディオブックを展開する会社です。かつて、オーディオブックのコンペが開かれたらしく、大企業も含めた多数の公募があった中で、大学生(だったかな?)であるオトバンクの創業者がプレゼンを勝ち抜き、オーディオブックのコンペを通ったという話をしていました。
何故、大企業でもない、一介の大学生が、コンペを勝ち抜くことが出来たのか。
それは、彼が何故オーディオブックを作りたいのか、という動機にありました。
祖父が目が見えなくなってしまったそうで、その祖父に本を聞かせてあげたい、という情熱が強かったのだそうです。
オーディオブックは、技術開発や版権集めなど、様々な困難を伴う事業です。ちょっと参入して一儲けしよう、なんていう人間には、なかなかやり抜くことが難しい。でも、そこに強い情熱があるならば、どんな状況にも耐えてやり抜くことが出来る。そういう部分も評価されて、コンペを勝ち抜くことが出来たのでした。
技術力や資本の差ではなく、コンセプトとコンセプトを伝える情熱こそが人を動かすのだ、ということがよくわかるエピソードだなと思いました。
さて、一応「具体的な手法」みたいな話についてはあまり書き過ぎないようにしたいので、あとは、ここまでの文章で書けていない、「コンセプト」にとって大事なこと、みたいな話をいくつか書いて終わろうと思います。
まず本書には、「良いコンセプトとは?」という要素が書かれています。

①面白いこと、インパクトが大きいこと
②ひるまない程度の実現可能性を納得させることが出来る説得力
③具体的に生き生きとイメージできること
④分かりやすく、全体が一発で理解でき、焦点が絞れていること

これらを満たすコンセプトをいかに見つけ、かつそれをどう実現していくのか、ということが本書に書かれている内容になります。
また、コンセプトのオリジナリティに関して、こんな注意も書かれています。

『「オリジナルを目指すな」というのは、私のマッキンゼー時代の師匠、横山禎徳氏の教えです。アイデアのオリジナリティにこだわるのは、失敗への第一歩です』

『覚えていくべきは、アイデアは、あくまでもコンセプトの一部にすぎない、ということです。アイデアそのものは二番煎じ、三番煎じだったとしても、開き直って徹底的に実現して勝つことも、立派な戦略です。』

『さらに重要なのは、自分だけのオリジナリティにこだわると、人の輪が広がらないということです。(中略)つまり、「自分ひとりで全部つくった」というのではなく、「みんなの想いが結集した」ものにすることが大事です』

さて、コンセプトだけあっても、ビジネスとして成立させなくては意味がありません。そのために大事なことがいくつも書かれていますけど、僕はその内から二つ抜き出したいと思います。「持続可能性」と「コミュニケーション」です。

『突き詰めていうと、ビジネスモデルとは「どうやっておカネを回すか」ということです。』

『ですから、事業コンセプトを考える際には、従来よりも顧客に価値が提供できるかに加え、おカネが回るか、持続可能かを最終型としてイメージできるかが、何よりも重要です』

この『お金を稼ぐこと』については、瀧本哲史氏も繰り返し言っていました。「武器としての交渉思考」の中で、ベンチャー企業に投資しようとしている投資家は、二つのことを聞くという話が書かれていました。一つは、「どうやって世界を変えるの?」。そしてもう一つは、「どうやって儲けるの?」です。とにかく、いかにお金を稼いで「持続可能なビジネスモデルとして成立させるか」という点は、とにもかくにも重要だそうです。

『コンセプトのコミュニケーションとは、楽観論を売ることです。
「できる」と言う人には、「実際に行動を伴った支持」「手弁当で協力してくれる同志」が集まります。「できる」と言う人がたくさん出てくると、それにより、コンセプトは雪ダルマ式に実現していきます』

良いコンセプトは、人を巻き込むことが出来る。逆に言えば、人を巻き込むことが出来ないコンセプトは良いコンセプトではありえないわけです。いかに人を巻き込むか、という点も、きちんと考慮した上でコンセプトを考えることが大事です。
最後に。「私には大したことも出来ないし、コンセプトなんて思いもつかないし」なんていう人向けにも、こんなメッセージがあります。

『コンセプト自由競争の時代には、自らコンセプトを立てること、コンセプトの選択眼を養うことも大事ですが、コンセプトを自分自身では判断できない場合、「見えている人」を選び、ついていく「フォロワーシップ」も大切です』

僕自身は、まあこっちのタイプですね。何か「やりたい!」という人に乗っかって、「よっしゃ、じゃあ俺もやる!」というのは得意です。割と無茶に思えても、まあそいつがやるっていうなら付き合うか、的なノリで前進し始めてみる、っていうのは結構得意だったりします。本書で書かれているようなことは自分では無理!と思ったとしても絶望しなくて済むという、素敵な構成になっています(笑)
とにかく素晴らしい作品でした。普通のビジネス書というのをあまり読まないんだけど、本書は「普通のビジネス書」という感じではないですね。見た目も内容もとてもビジネス書っぽいけど、でもビジネスシーン以外に限らず、「楽しく面白おかしく生きていく」ために必要な発想だなと思いました。ビジネスのことなんて自分には…なんて思うのはもったいないと思います。自分が情熱を掛けて「やりたい!」と思えるものがあって、それで周りを巻き込みたいと思っているすべての人が読んだらいいと思います。是非読んでみてください。

木谷哲夫「成功はすべてコンセプトから始まる 「思い」を「できる」に変える仕事術」


女の子の昔話 日本につたわるとっておきのおはなし(中脇初枝)

内容に入ろうと思います。
本書は、「きみはいい子」が話題になった著者による、昔話の再話です。大学時代に民俗学を学び、昔話にも興味を持ち、昔話の語りなどをやっていたそうです。
昔話というと、男の子や悪いおばあさんが出てくる話が多いですけど、本書は、女の子や良いおばあさんが出てくる話を中心にまとめています。本書ではこんな風に書かれています。

『この本では、語りつがれてきた昔話のなかから、女の子が自分の力で人生をきりひらいていく話ばかりを集めてみました。もちおrん、女の子の行き先である、嫁やおばあさんの話もふくみます。』

タイトルだけ全部ざっと書いてみましょうか。

「わらしべ長者」
「へひりの万人」
「豆ころころ」
「ほらふきむすめ」
「したきりすずめ」
「たわしの神さま」
「へっぴりよめご」
「ならなしとり」
「どんぐりひろい」
「ぴんぱらりんひめ」
「竜宮の銭ひり犬」
「おおみそかの火」
「お月お星」
「へびむこりい」
「花をぬすんだ神さま」
「たにしのむすめ」
「おかねのはなし」
「ホーラのマーヤ」
「オンカミ・アチャボとかしこいむすめ」
「赤いちょうと黄色いちょうと白いちょう」

それぞれ昔話が描かれた後、著者のあとがきがあり、さらにその後で、それぞれの昔話に対する著者の一言コメントみたいなものが収録されているという構成になっています。
昔話を読んでどんな風に評価するのかはなかなか難しい話ですけど、色々と思うところはありました。
まず、やっぱりシンプルだなぁということ。
なんとなく僕の中で昔話って、「夜口笛吹くと蛇がやってくるよ!」みたいなものだと思ってるんです。あれってホントは確か、泥棒が夜口笛で合図をするとかで、口笛を吹くと自分の家に来ちゃうから、とかなんとかそんな意味合いがあったりするんですよね。
昔話も、そういう効果も考えあわされて存在しているんだろうなという感じがします。教訓、というほどの強さが当時の人たちへのメッセージとして存在したのかどうかはわからないのだけど、「こうするとこうなりますよ」「こうしないとこうなりますよ」みたいなシンプルさが面白いなと想いました。
まあ大抵、素直で優しくて分け隔てないといいことが起こって、ズルくてがめつくて差別とかしちゃうと悪いことが起こるみたいな感じで、わかりやすいです。末っ子とか継子が活躍する話が多いのも、後から生まれたことによる不利感を物語の力でなかったことにする、みたいな感じなのかなぁ、という感じがしました。
あと、案外残酷なんだなということ。
なんかあっさり殺されちゃったり、結構酷い試練を受けたり(馬のしょんべんを一升飲まないといけないとか)、天罰的なものが酷かったりと、子供に語って聞かせるのにちとハードだなぁ、なんて思う話も結構ありました。今だったらPTAとかが、そんな話を子供に聞かせないでください!みたいに怒鳴りこんじゃったりするんだろうなぁ、なんて思ったりしました。
ただ、著者による解説の中で、「聞いている子供たちを安心させるための残酷さなんだ」みたいな表現をしている話もあったりして、なるほどなぁ、という感じがしました。
あと、繰り返しの効果、みたいなのが巧いと思います。巧い、という表現はちょっと違うかもだけど。
なんというか、例えば、「一番上の姉が、これこれこんな風にした」っていう描写のあと、「二番目の姉もこれこれこんな風にした」っていう同じ描写が続き、さらに「末の娘がこれこれこんな風にした」っていう同じ描写が続くんですね。
これ、読んでいると、結局コピペなんで読み飛ばしちゃう感じがあるんですけど、たぶん口に出して読んだら違った感じになるんだろうなと思いました。同じ行動とかやり取りの繰り返しを語ることによる効果みたいなものが、語って聞かせることに特徴がある昔話の場合有効なんだろうなと思いました。
あと、語感が面白い響きが結構多いなという感じがしました。
本書の中で著者はこんな風に書いています。

『再話にあたっては、語りつがれてきたままを尊重し、耳で聞いてここちよい文章になるよう、こころがけました。』

これは、実際に音読したわけではないけど、なんとなく分かります。文章のリズム的にもストンとくる感じだし、単語単語で見ても、たとえば「ぴんぱらりん」なんていう響きは結構いいですよね。やはり、「語り継ぐ」ということに重点が置かれているのだなと思いました。
あと、これはなぜだかよく分かりませんけど、岩手県の昔話が結構多かったなと思いました。特に数えていたわけではないんだけど、この話また岩手の話だなぁ、と思うことが何度かありました。これは何でなんだろうなぁ。
あと昔話って、解説でも書かれてたけど、「ここで終わりですよ」っていう文句が最後につくみたいで、それが痴呆によって全然違って面白い。「どんどはれ」とか「どんどんはらい」、「とっちばれ」みたいな言葉があります。それぞれ、どんな意味なのかちゃんとは分かりませんけど、「ここでお終い」とか「ちゃんちゃん」みたいな感じなんだろうなぁ。こういう型が決まってるっていうのも、昔話が語りつがれてきた理由の一つなんだろうなという感じがしました。
最後に。解説で書かれたこんな文章がなかなかいいなと思いました。

『昔話は昔語りともいわれるように、独特のリズムと抑揚をもった語りのなかで展開していきますが、聞き手は話の合い間合い間にタイミングよく相槌をうちのが大切な約束事です。本来昔話は、語り手と聞き手がじかに向きあう場のなかに成立しているものです。発話と同時に消えていく語り手の言葉に聞き耳をたてながら上手にかえしていく相槌は、生き生きとした語りを生み出す条件といってよいでしょう』

つまり、受け取る側の「相槌」という要素も含めて『昔話』という一つの大きなパッケージとして成立していたというわけで、なるほど、物語とのそういう形での関わり方も面白いものだなと感じました。今だと、ニコニコ動画みたいなものと近いのかもしれませんね。
大人が読んでどうこうという感じの作品ではないと思いますけど、子供に読み聞かせたりしたらいいのかもしれません。

中脇初枝「女の子の昔話 日本につたわるとっておきのおはなし」


旅猫リポート(有川浩)

内容に入ろうと思います。
本書は、一匹の猫とその飼い主が、『結果的に旅をすることになる』物語です。

野良猫として生きていきた、ある車のボンネットが気に入っていた。その車の上に乗っていてもとやかく言われないからだ。持ち主は猫好きのようで、時々関わってくる。
ある日僕は車に轢かれて重症を負ってしまう。どうにか力を振り絞っていつもの車のところまで這って行った。
そうやって僕たちは一緒に暮らすことになったんだ。

宮脇悟は、飼うことになった猫に「ナナ」と名付けた。小学生の頃に飼っていた猫が「ハチ」だったのと、尻尾の形が「7」の形に似てたからだ。悟は、最後まで飼うことが出来なかったハチの分まで、ナナを可愛がった。

凄く素敵な5年間だったけど、でも、色々あってサトルは僕のことを手放さなくちゃいけなくなった。それでサトルは、僕を連れて車であちこち行くことになったんだ。

「Report-01 コースケ」
澤田幸介は小学生の頃、悟と一緒にスイミングスクールに通っていた。
ある日。スイミングスクールに向かう途中の道で幸介は捨て猫を見つけたのだった。
幸介はその猫を飼いたかった。でもウチは…。
父親の猛反対に遭い、幸介はその猫を飼わせてもらえなかった。それを悟に告げると、「じゃあ今から家出しよう!」と持ちかけてきた。
僕らは、そんな風にして仲良くなったんだ。
その時の猫がハチだ。結局あんなことがあって、悟とハチは一緒に住むことができなくなっちゃったけど…。

「Report-02 ヨシミネ」
吉峯大吾は、家庭のとある事情により、中学二年の時に転校してきた。そこで、悟と仲良くなった。
理想の教師像とやらを持っているらしい美人教師の同情が物凄く鬱陶しかったんだけど、それを悟がとりなしてくれたのだ。吉峯は、担任教師からの同情が過剰なだけで大したことはないのだけど、悟は大したことないなんて言えない環境だった。それでも、そんな風に見せない悟の姿に惹かれた。
農作業をしたことがないという悟を、吉峯は自分が祖母宅へと頻繁に誘った。こんな祖母を持てただけでも、両親に感謝したくなるほどだった。

「Report-03 スギとチカコ」
杉修介と悟は、高校時代に一匹の犬を助けたことで仲良くなった。
杉には幼馴染の千佳子がいて、その千佳子が大の動物好きだったのだ。定期考査の朝、まだ仲良くなかった悟が困っている犬を見つけたというだけでは動かない杉だが、このことが後で千佳子の耳に入って、「修ちゃんは犬を見捨てた!」なんて言われると面倒だからなぁ、なんて思いで手伝ったのだ。
最初から、悟には叶わなかった。千佳子も悟も猫好きだし、二人とも底から「良い奴」なのだ。自分の人間の浅さが嫌になる。
不安な気持ちが、最悪な行動を取らせる。杉は未だに、悟への負い目を消せないでいる。

以降の内容紹介は省略。

というような話です。
さすが有川浩!やっぱり素敵な話を書くものですなぁ。
今回は内容紹介がなかなか難しくて、とりあえずこんな感じになりました。猫の話がほとんど出てこないけど、その辺りのことはこれから書きます。
有川浩の作品は、冒頭の設定の段階で読者の心をギュッと掴みとるものが多いと思う。その設定だけで満点ですよ!と言ってしまいたくなるような作品だ。
本書もそう。本書は、しばらく読まないと全体を構成する流れが見えてこないのだけど、でもその設定は「ズルいぐらいいいなぁ」と思わせる。
表向きは、「諸事情あって猫の引き取り手を探している悟が、お見合いのためにあちこち渡り歩いている」という作品だ。いや、別に「表向き」なんて断らなくてもそういう作品なんだけど、でもそれだけじゃない。そして、それだけじゃない部分に、猫の「ナナ」が関わってくるんだよなぁ。
この辺りの設定が本当に絶妙だなと思います。本書は、悟の行動が物語全体を引っ張っているように見せかけて、実はすべてはナナが引っ張っている、という物語なのだ。なるほどなぁ。
当然、ナナ視点の描写も挿入される。このナナ視点の描写が凄くいい。僕は猫に詳しいなんてことはなくて、ってか全然知らないけど、でも猫の生態なんかをうまく踏まえつつ、『猫の思考』なんてものがあるとして、それを取り出すことができたらこんな感じなのかもしれないなぁ、と思わせる描写になっている。人間との感覚の違いを描写してクスっと笑わせたり、猫らしい(?)素直さを発露して感動させたりと、このナナ視点の描写が本当に作中でうまく活きるんですね。上手いです。設定としては、人間は猫の言葉は分からないけど、猫は人間の言葉は理解できる(しかも、外国語もOK!)らしく、「猫が人間の言葉を理解できないと思ってるなんてまだまだだね」みたいな感じの呟きさえ出てくる。人間の言葉を理解して行動してるのかもしれない、と思わせる動物の行動は、本当に人間の言葉を理解しているからかもしれませんよ(笑)
しかし、こうやっていつものように思いついた端から色んなことをブログの文章として書いてるんだけど、本書の場合、「これは書かない方がいいよなぁ」というものが多くて困る。ブログを書く時はいつもその辺りのことは結構きっちり考えてるんだけど、今回はなかなか苦労させられるなぁ。
内容紹介をした三つの話は、いずれも子ども時代の話がメインになってきます。彼らがどんな風に出会い、どんな時間の中で育ってきたのか。その中で、宮脇悟がどんな人間だったのか、という描写が結構メインになります。
有川浩作品は、こういう描写が本当に上手いと思う。出会いから関係性の深化まで、そこまでトリッキーなわけではない、どこにでもありそうなエピソードを積み重ねることで描き出していく。「コースケ」で描かれるハチとの出会いは、悟のキャラクターを描写するのにぴったりだし、「ヨシミネ」で「理想の教師像を持つ美人教師」を登場させるのは絶妙だ。そして何よりも、「スギとチカコ」で描かれるスギの葛藤は、ホント絶妙なバランスで成り立っているよなぁ、という感じがします。有川浩は、些細な出来事の積み重ねで、人間関係のちょっとした機微を本当に巧く描き出すのだけど、その手腕は本書でも遺憾なく発揮されているなという感じがしました。
僕は、ペットとかほとんど飼ったことがないし、これから飼うつもりもないし、動物を可愛いともあんまり思わないのだけど、飼っている動物がいたり、飼ってはいないけど動物が大好きなんていうような人には、もうたまらんのだろうな、という気がします。僕は、ペット飼いたくなったりしないんですか?と以前聞かれた時に、「気まぐれに撫でたりする時だけ現れて、そうじゃない時は空間から消えさってくれるならいいよ」と言い放ったことがあるどうしようもない人間なので、動物を飼うという感覚とか、その可愛がる感じなんかはイマイチよく分からなかったりするのだけど、ナナみたいな思考を持ってて、さらに出来ればそれを喋ってくれたりするなら、ちょっと考えてもいいなぁ、なんて思ったりしました。
というわけで素敵な作品なんだけど、でもこの作品を人に勧めるにはちょっと抵抗があるなぁ、という感じもあるのでした。
それは、若干の『気恥ずかしさ』です。
本書は、ちょっとあまりにも真っ直ぐ過ぎるな、という感じがしてしまいました。確かに有川浩の作品は、恋愛でも任務でも仕事でも、とにかく真っ直ぐ突き進んでいく人間が描かれることが多いけど、本書の『真っ直ぐさ』はまたちょっと別ではないかな、という感じがしました。
それは、片割れが猫だから、なんだろうなと思います。
サトルとナナのペアが、もし人間同士だったら、どんな人だってそこに気恥ずかしさを感じ取ると思います。でも、片割れが猫だからこそ、そういうことを気にせず作品に浸れるようになっているんだろうな、という気はします。猫なんだから、真っ直ぐすぎても大丈夫だよね、なんていう意図が著者にあったかどうかは分かりませんけど、なんとなくそういう雰囲気を感じてしまうんですね。
だからこれまでの有川浩作品よりも、より『真っ直ぐさ』が濃いような気がするんですね。そして僕は、それがなんだかちょっと恥ずかしかったりするんです。
この感覚、分かってもらえたりするかなぁ。
僕はこの作品を「良いよ!素敵だよ!」って言いたいんだけど、なんだか胸の内に残るこの気恥ずかしさがそれを邪魔するんですね。なんとなく、べた褒めするのが恥ずかしいし、「これ良いよ」って言って人に勧めたりするのが恥ずかしいような気がしちゃうんだよなぁ。まあ、僕だけかもしれませんけど。
まあとはいえ、さすがは有川浩だなという感じの作品でした。内容紹介を敢えて書かなかった部分の展開も素敵です。やっぱりちょっと泣かされてしまいましたしね。ペットを飼ってたり動物好きだったりするとより良いんだろうけど、そうじゃなくてもきっと楽しめます。是非読んでみてください。

有川浩「旅猫リポート」


終わらない歌(宮下奈都)

内容に入ろうと思います。
本書は、高校二年の合唱コンクールを描いた「よろこびの歌」の続編で、「よろこびの歌」から3年後の面々が描かれていきます。

「シオンの娘」
御木本玲は、進むべき道を見失っている。夏休みに一人で行った旅行でも、どこに行けばいいのかわからないでいた。
音大の声楽科に進んだ玲。しかしそこでは、自分は一番ではない。20人ほどのクラスの中でも、一番にはなれないのだ。みんな耳がいい。誰が一番なのか、普段から嫌というほど突きつけられるのだ。そういう中で、自分がもう一番になれないと分かっている中で、どうやって道を見つけ出せる?クラスでも7番程度の歌を、誰が聞きたいと思う?
千夏は、時々うちに泊まりに来る。レッスンやバイトの掛け持ちで、時々終電を逃すのだ。うどん屋の娘で、今はミュージカル女優として日々努力している。真っ直ぐで、強い。それに比べて自分は…。
歌に乗せて伝えたいことなど、あるだろうか?どうしても伝えたいと、思っているだろうか?

「スライダーズ・ミックス」
スポーツトレーナー養成用の講義。「あの頃」の自分には、まさか今こんな講義を受けているなんて、想像もつかないだろう。たぶん、この講義を受けている人はほとんどそうだろう。かつて、輝かしい「あの頃」を持っていたことがある人。
肩を壊して投げられなくなった。中溝早希は、自分が何故その道を進もうとしているのかはっきりとは摑めきれていないまま、スポーツと関わる進路に進もうとしている。
大学本部から離れたところにあるここは、学部もクラブも運動系ばかりだ。だから、知り合いからオーケストラの定演のチケットをもらった時も、恐らく他の大勢の人と同じように早希は興味が持てないでいた。
それが、こんなに心を掴まれるなんて。
早希の目を引いたのは、「スライダー」という言葉だ。スライダーを投げるのは、難しい。どんな曲なんだろう。ただその興味だけでオーケストラを聴きに言ったのだ。
トロンボーンを吹いていたのは、早希が道案内した、雨のような声をした男の人だった。

「バームクーヘン、ふたたび」
マルなんて、つけるんじゃなかった。クラス会なんて、行きたい気分じゃない。目の前のことに忙殺されている。思い出を語り合ったり、懐かしんだりする余裕なんてない。
それでも、結局足を向けることにした。幹事で、2Bの委員長だったひかりが、簡単に近況を話そうなんて言っている。
止めて。人に話せるほど大した近況なんて、ない。
千夏は、オーディションをたくさん受けているようだ。いきなりそんな近況、止めて欲しい。玲は、本を読んでいます、という近況でちょっとした論争を引き起こした。あらかじめの案内で、餞別をあげようということになっていたあやは、悲壮的とも思える決意を胸に東京を離れる決意をしたそうだ。
私は。私の人生には、何がある?

「コスモス」
こんな町の、こんな会社にどうして。
東京生まれの東京育ちです、と自己紹介した新入社員。東條あやという名の20歳そこそこの女の子は、私に異質な印象を残した。
高校を卒業して10年間この会社で働いてきた。町も会社も、別に悪いわけではない。でも、わざわざ東京で生まれ育った人が来るようなところでもない。仕事は一生懸命だけど、どこか浮いている感じもある。ある日ふとした流れで、東條さんのiPodに入ってた曲を聞いた。ほんのさわりだけ。それぐらいしか、関わりがなかった。
子どもの頃の追突事故以来、首が痛い。しくしくと痛む首は、私の気力を奪う。奥野さんと一緒にいても、なんだか気分がはっきりしない。
そんな時、聞こえてきた。カーラジオから、あの曲が。

「Joy to the world」
「育ちがよすぎる」と言われて、千夏は何をどう感じればいいのかわからなくなった。
育ち、なんだろうか。裕福な家に育ったわけでも、子どもの頃から歌や踊りに触れることが出来たわけでもない。何が「よすぎる」のか?千夏には、うまくその言葉を捉え切れない。
オーディションに落ち、千夏と同じく劇団のホープである七緒がその役を取ったと聞かされた。その時に、仁科さんに言われたのだ。
歌える歌が流れて来たら家に帰ろう。歌えない歌だったら実家に。
そう決めて、ウォークマンでシャッフルされた曲を聞く。「Joy to the world」。この曲だけは、今は歌えない。

「終わらない歌」
この話はなんとなく、内容紹介をしないでおこうかなと思います。

というような話です。
いい話でした。読んだ本の内容をすぐさま忘れてしまう僕は、正直前作である「よろこびの歌」の内容を覚えていないんですけど、でも「よろこびの歌」より本書の方が好きかもしれません。覚えていないんでちゃんとした比較はできないんですけど、高校という狭い範囲の中での鬱屈より、社会に出て境界線が一気に拡大した中での戸惑いの方が、宮下さんらしさが存分に発揮されたんじゃないかな、なんて思っています。
彼女たちは、何か目に見えないものに引っ張られている。前からも後ろからも。
前から引っ張られれば、それは自分が期待している以上の力で前へ前へと前進することが出来る。自分にこんな力があったなんてまるで思いもしていなかったような行動をしていることに気づく。
一方で、後ろから引っ張られれば、それは迷い彷徨う自分自身の不安定さをより一層強調することになる。何が自分を後ろ向きに引っ張るのかわからないけど、分からないから止めようもない。後ろに下がりたいわけではない。出来れば自分だって前に進みたい。それでも、体が何故か後退していくのに任せて、諦めとともに自分の存在も否定していくことになる。
この見えない二つの力が、まだ高校を卒業してから2年しか経たない彼女たちを翻弄する。力が釣り合ってその場に留まる人も、後ろ向きの力が強くて後退し続ける人も、前向きの力に後押しされて翼を得たような瞬間を経験できる人もいる。
その変化は、本当に些細なものだ。力の拮抗による停滞は変化を見出しにくいし、翼は一瞬しか生えない。宮下奈都は、そのほんの些細な変化を、余白のある言葉を幾重にも積み重ねることで捉えようとする。余白のある言葉をいくら重ねても、『くっきりとした意味』にはならない。ピンポン玉をいくら積み重ねても直方体にならない、というのと同じようなものだ。しかし、その隙間を存分に残したまま、宮下奈都は情感を、情景を、価値観を、人生を、そしてそれらの変化を描き出して行く。隙間があるから、読者がそこに何か足すだけの余裕もある。どんな人生を歩んで来たかで、宮下奈都の物語は捉え方が変わると思うんだけど、きっとそれはそういうことだろうと思う。
彼女たちは、自分たちの目の前に広がる『真っ白な空白』を様々な形で捉える。ある人はそれを、『何色かで染め上げなくてはならない、無駄に広い空間』と捉える。自分には情熱が足りない、と思っているその人物は、その広大無辺な空白を自分色に染め上げることが出来ないことで、自身の情熱の足りなさを感じとる。
ある人はそれを、『四辺を覆われた檻を打ち破った先の外の世界』と捉える。それまで自分自身を自分自身によって閉じ込めていたその人は、ふとしたきっかけから自分がその檻から出られることを知り、生まれて初めてその『真っ白な空白』を目にした。あまりにも突然のその広さに、彼女は新鮮な戸惑いを感じている。
ある人はそれを、『そのすべてに足跡をつけてみないと気が済まないワクワクするほどの広さ』と捉える。その人は、その広さがたまらなく楽しい。一生の内に足跡をつけきることなどできそうもない広大な広さの中で、その人は無限の可能性を思って身震いする。広さに挫けそうになることもあるし、目印になるものがあまりにもなさすぎて、自分が目指す方角を見失いそうになることもあるけど、それでもその人はその広さの中でどんどん開放されていく自分の存在を楽しんでいる。
面白いのは、誰もが誰かのことを羨んでいるということだ。誰もが、自分以外の人の目の前に広がる『真っ白な空白』を羨む。
正面から見るのと横から見るのとでは、見える景色もまた違う。誰もが、自分の目の前に広がる『真っ白な空白』は正面から見ている。でも、自分以外の誰かの『真っ白な空白』は、横から見ているのだ。そうやって羨ましがっている。自分とは違う。自分は、どうしてこうなんだろう、と。
かつて同じクラスにいたことがある。一緒に同じ歌を歌ったことがある。言ってしまえば、ただそれだけの関係でしかない。高校を卒業しているのだから、お互い同士の関係は少なくなってしまっていることの方が多い。
それでも、誰かのことが気になる。自分とは違った、素敵な人生を歩んでいるんだと妬みたくなる。自分の人生が、世界で一番みすぼらしいものに思えてくる。
でも、お互いにそう思っている。自分とは違ったタイプの人間が輝いて見えるだけのことだ。自分には、その『タイプ』はないんだから、輝いて見えて当然だ。自分の中にある『タイプ』をちゃんと見つめて、それをきちんと伸ばしていけばいい。でも、それは言うほど簡単じゃない。そして、その『簡単ではない感じ』を、宮下奈都はうまくすくい取るのだ。
僕が特に好きな話は、冒頭の二編。「シオンの娘」と「スライダーズ・ミックス」だ。
「シオンの娘」は、実は雑誌に掲載されていたものを昔読んだことがある。雑誌で読んだ時は、正直そのまで良いとは思わなかった。どうして印象が変わったのかよくわからないけど、やはり作品として一つにまとまっていて、他の話との絡みも読むということが、印象を変えたんだろうなとは思う。
御木本玲は、『私は情熱が欲しい』と言う。僕も、それにはもの凄く共感できる。僕にも、情熱がない。大体いつも冷めている。冷めている自分が嫌で、ちょっとでも熱くなろう、熱くなれなくてもちょっと温かくなるぐらいでもいい、なんて思っていた頃もあるけど、でもやっぱりダメみたい。基本的に、僕には情熱がない。
情熱って、ホント何なんだろう?情熱があるように見える人が羨ましい。何が違うんだろう?よく思うけど、でもあんまり考えないようにしてもいる。考えたって、情熱って生まれてこないと思うから。『考える』という行為からとても遠いところにあるのが情熱だと思うから。
『今まで生きてきた分よりもずっと長いこれからを生きていくには、どう考えても私の情熱は足りないだろう』 確かにその通りで、僕もそれが一番怖い。だから、と繋げるのはおかしいかもしれないけど、情熱を節約しながら生きているようなところはある。自分の中の情熱の分量が分かっていて、それでこの先の長い人生を乗り切るには、普段からこれぐらに抑えておかないと辛いかも、みたいな。いや、そんなこと意識して考えたことなんてないけど、なんとなく。
玲は、考えすぎて袋小路に入っている。『もしもあったとしても、たかが私の伝えたいものなど、取るに足らないものではないか。人に届ける必要があるだろうか?そう考えるとわからなくなるのだ』 足りないものを探す、というのは不毛だ。足りないものなんて多すぎるのだ。情熱が足りなくても、伝えたいことが足りなくても、それでも前に進めるのが人間だ。たぶん、そうとでも思わなければ、僕も前に進めなかっただろう。
「スライダーズ・ミックス」でも、早希は『熱くなれない』と言う。でもそれは、玲とはちょっと違う。玲が自身に情熱を感じられないのは、自分がクラスで一番でないことが分かってしまったからだ。そして、クラスの中でさえも一番になれる可能性がないことに気づいてしまったからだ。でも早希の場合は違う。早希の場合は、一番になれる可能性が存分あったからこそ、今熱くなれないのだ。そんな自分をどうにか保つために、早希は『むしろ、早く降りられてよかったのかもしれない』なんて、心にもないことを思うのだ。
この話で秀逸だったのは、早希が心を奪われたようになってしまった演奏をしたトロンボーン奏者の言葉だ。その言葉そのものは引用しないことにする。エースという立場からトレーナーという裏方に回らざるを得なくなった早希に対して、『裏方であること』の意味を混同していると指摘する場面だ。これはとにかく素敵だった。本作中で一番好きな場面かもしれない。
「コスモス」は、とにかく最後の一文が綺麗すぎてびっくりした。もちろん、それまでの流れあってのラストなんだけど。素敵な終わり方だなと思う。
「終わらない歌」も凄く良いと思ったんだけど、なんとなくこれは内容を伏せておく方がいいかなと思ったんで触れないことにします。一点だけ。『◯◯だったらここには来なかった』っていう一文があって、それがとてもいいなと思いました。
少女と呼ぶにはちょっと大人で、大人と呼ぶにはちょっとまだ幼い彼女たちの揺れ動く感じを巧く捉えた作品です。是非読んでみてください。

宮下奈都「終わらない歌」


大幽霊烏賊 名探偵 面鏡真澄(首藤瓜於)

内容に入ろうと思います。
舞台は、昭和の初め頃、葦沢病院という精神病院だ。
日本の精神病治療に新風を巻き起こし、様々な改革をもたらした養父秀三。彼は、これまで患者たちを閉じ込め、拘束し、酷い扱いをしていた精神病治療の現場を開放し、患者にとってよりよい環境で治療が出来るようにとこれまでの人生を掛けて努力し、その集大成とでも言うべき病院が葦沢病院なのだ。
その病院に、使降醫は赴任することになった。葦沢病院の副院長である胡柳教授に大学時代から個人的に師事していて、念願かなっての赴任となったのだ。
使降は早速、看護長である小田原妙子に病院内を案内してもらうのだけど、閉鎖病棟に一人気になる患者がいた。部屋の入口に『危険につき濫りに開扉を禁ず』と書かれているのだが、小田原看護長に聞いても、名前も経歴も何もわからないという。その後もあらゆる人に訪ねてみるのだけど、どうもその患者のことは分からないままだ。使降は、黙ったまま身じろぎもしないその患者を「黙狂」と呼ぶことにした。
声帯模写の達人で普通の会話が成立しない足助や、何かのスイッチが入ると突如昔の記憶を放出させる宙丸、そして何故入院しているのか分からない、どうみても普通の人にしか見えない老鼠など、使降が気になる患者らと関わり、また同僚や先輩医師から様々な話を聞くにつけ、葦沢病院に関する様々な情報が集まってくる。謎が多い葦沢病院の逐一を、使降は一緒に赴任してきた面鏡真澄に話して聞かせるのだが…。
というような話です。
うーん…という感じだったなぁ。なんだかなぁ。
首藤瓜於という作家は、デビュー作で強烈な印象を残しすぎたな、という感じはあります。
メフィスト賞を受賞した「脳男」は、内容はほとんど覚えていませんけど、まあそれはそれはとんでもない作品でして、読んで衝撃を受けたものでした。最近ではメフィスト賞はほどほどに落ち着いてしまっているような印象がありますけど(読んでないんでわかりませんけど)、メフィスト賞が一番とんがってた時代に、その中でも一段ととんがってる作品、という印象がありました。
だから、「脳男」を読んでしまっている人間には、その後の首藤瓜於作品へに気体は高まるんですね。
まあ僕は、「指し手の顔 脳男Ⅱ」を読んで、ん…?という感じだったので、本書にそこまで強く期待を持っていたわけでもないんですけど、それにしても期待を下回る作品だったなぁという感じがします。
辛辣なことを書きますけど、『なんとなく、設計図の存在が透けて見えるような気がしちゃうなぁ』というのが、僕の正直な感想です。
色んなタイプの作家さんがいると思います。終わりまで展開を考えてから書き始める人もいれば、とりあえず書き始めて展開に応じてストーリーを考えるという人もいるでしょう。どっちでも面白ければ全然いいです。
でも前者の場合、『設計図』の存在が透けて見えちゃうのはよろしくないよなぁ、という感じがします。
これは、結末がわかるとかいうそういう話ではなくて、登場人物たちが予定調和で動いてるような感じがしちゃうなぁ、ということです。つまり、ストーリーありきで、ストーリーを展開させるために登場人物が動かされているような感じがするなぁ、ということです。まあ、僕がそう思ったというだけですけどね。
クジラを捕る話とか、千夜一夜物語の裏話とか、意識とは何かという話や、アインシュタインの相対性理論の話など、個別に面白いなと思える箇所はありました。でも、ストーリー全体で言うと、ちょっとなんとも言えないなぁ、という感じがします。最後まで読んでも、結局この話は全体の構図の中でどういう役割だったんだろうなぁ、というのがよくわからないような浮いた場面もあったりして、むむむ…って感じがしました。
首藤瓜於の作品を読むのは本書が初めて、という人なら、それなりに楽しめるかもしれません。でも、「脳男」を読んでその凄さに震えてしまった人にはオススメしませんです。

首藤瓜於「大幽霊烏賊 名探偵 面鏡真澄」


泣きながら、呼んだ人(加藤元)

内容に入ろうと思います。
本書は、4人の男女が主人公となり、4組の母娘の姿を描く、連作短編集です。

「ハルカの場合」
ハウスメーカーから独立しインテリアコーディネーターになったハルカは、兄嫁と共に、亡くなった母親の部屋にいる。部屋の片付けのためだ。
兄嫁との関係がうまく行かなくなって実感を出ていった母親は、マンションに移り住み、以後ずっとそこに住み続けた。部屋は、インテリアコーディネーターのハルカでなくたって嘆きたくなるような惨状で、要らないものばかりが散乱する恐ろしく散らかった部屋だった。
代々続く小料理屋『まつ川』を継いだ兄は店の準備で忙しく、妹は二人の幼子を抱えて出てこれない。子どもの頃からそうだったけど、結局母の遺品整理という貧乏くじを引かされるのはハルカなのだった。
兄は男の子だから多少のことは仕方ない。妹はまだ小さいんだから仕方ない。ね、分かるでしょう?
母親はそうやって、昔からハルカに我慢を強いた。ずっと母親には、親しみを感じられないままだった。
遺品整理をしていると、母親がそこにいた。幽霊になって出てきたようだ。母親は、何か伝え忘れたことがあって化けて出てきたようだ。

「菜摘の場合」
ハウスメーカーで働く哲郎は、妻の母親にうんざりしている。
引っ越すなら実家の近くがいい、という妻の意見に賛同した哲郎だったが、まさかここまで入り浸られるとは思わなかった。大体いつも、家に義母がいる。妻が妊娠した今、さらにその傾向に拍車が掛かっているように思う。
義母は、話がまるで通じない人間だ。義父は常に苦々しい顔をしているのだが、その理由の大半はこの義母によるものなのではないかと思う。自分の考えの正しさを微塵も疑うことなく、自分の思った通りに事が運ぶべきだと考えているようなのだ。そして、妻もそんな義母の様子に異を唱えることがない。哲郎としては、なかなかしんどい。
赤ちゃんが女の子かもしれない、と分かった瞬間、義母から出産のお祝いの話くる。おひなさまとかどうでしょう?それを聞いた妻の顔色が変わった。

「千晶の場合」
母方のおばあちゃんの家を取り壊して新しく家を建てるらしい。そう聞いて、千晶は久しぶりにおばあちゃんの家に行くことにした。
千晶は子どもの頃から、よくおばあちゃんの家に来ていた。
千晶のママは、千晶がするあらゆることに口を出してきた。
「千晶が二十歳になったら、ママはもうなにも言わないわ。それまではママの言うことをよく聞いてね」
そう言われて、初めこそママの言うことを律儀に聞いていた千晶だったが、大きくなるに従って次第に、ママの言っていることのおかしさが理解できるようになってきた。ママのせいで何かうまく行かないことがあると、千晶はすぐおばあちゃんの家にいって、話を聞いてもらっていたのだ。
ママの期待に沿って栄養士になった千晶は、学校の給食センターから保育園へと職を移していた。そこで出会ったたまえちゃんとその父親と、よく関わるようになっていく。

「芙由子の場合」
歯科医を開業している親父殿の期待を裏切り獣医になった亮平は、一人娘であるたまえを預けている保育園の栄養士と再婚することになった。
離婚歴のあるコブ付きとよく一緒になってくれるものだ。
そっちはとりあえず、概ね順調だ。
問題は、姉の芙由子だ。
亮平がまだ幼い頃、母親は我が家を出ていった。親父殿はその後後妻を迎え、亮平も芙由子もそれなりにうまいことやってきたのだが、ある時をきっかけに芙由子は一切生みの母親と会わなくなってしまった。
結婚の挨拶に先方の新居を訪れた際、勝気そうな母親に、どうして前の奥さんとは別れたのかと詰問された。亮平は、納得のいかない思いを消せないでいるかつての結婚生活のことを思い返す。

というような話です。
なかなか巧いなと思いました。
描かれる話は、どれもごくごく『普通』の話だ。小料理屋を営んでいたり獣医だったりと、多少『普通』からズレる部分もあるにせよ、嫁姑の問題に困っていたり、子離れ出来ない母親に参っていたり、どうにも解消しようがないわだかまりが残り続けていたりと、ありきたりの家族の形が描かれる作品です。それでもやっぱり、そうか『普通』ってこんなにたくさんあるんだよなぁ、と思いました。一つ一つの『普通』の積み重ねが『普通』という概念を形作るのではなくて、一つ一つの『普通』そのものが全部個別に『普通』という概念そのものなのだなと思わされるような作品でした。
本書を読んでとにかく強く感じたのは、『言葉の通じなさ』です。
子どもの頃からずっとそう思い続けてきたけど、そうだよなぁ、やっぱり『言葉』って通じないよなぁ、と改めて思ったのでした。
本書はすべて、娘の視点から母親の姿を描いた作品だ。
娘からすると、母親に届いて欲しいと期待する『言葉』は山ほどある。いや、そうではないか。現在から遡って、子どもの頃を振り返ると、どうしてこれが通じなかったんだろうという想いが様々に湧き上がってくるということだ。
でも、やはりそううまくはいかない。
何せ子どもの頃は、自分の感情をうまく言い表せずに『言葉未満』が積もっていくだけだ。伝えたいことの半分も『言葉』にすることは出来ないだろう。そうやって伝えられない『言葉未満』が溜まっていくと、母親に何か言い返せるようになる年齢になっても、既に母親との関係性が固定されていてそこから抜け出せなくなってしまう。
だから結局、娘の言葉は母親には届かない。
そしてそれは、逆も同じだ。母親の言葉も、娘には届かないものなのだ。
大人になって、家庭を持ったり仕事に打ち込んだりと、もう充分長いこと大人をやってきた娘たちは、ようやく母親たちの本音を知ることが出来るようになる。それを子どもの頃に知りたかったよ、という複雑な気持ちを、登場人物たちはみな感じたことだろう。そうと分かっていれば。そんな風に思っていたなんて。娘たちのそんな思いが安堵の色と共ににじみ出てくる様がとても良い。傍から見れば、はっきり言ってどうでもいいことだろう。人に相談すれば、そんな些細なことに思い悩むことなんてない、とばっさり切られてしまうようなことだったりするのだろう。でも、4組の母娘の着地点は、双方に新しい感触をもたらしただろうし、それはお互いの人生を肯定するという前向きな一歩を踏み出す原動力にもなる。今更、なんて言うのは止めよう。結局、いつまで経っても、親と子の関わりを断ち切ることは出来ないのだから。
母親になる可能性もなければ、娘だったわけでもない僕が何を言ってもあまり説得力はないのだろうけど、僕自身も親との関係にはあれこれうだうだしく悩んでいた頃があったので、わかる部分もある。
結局僕は、家族の問題って、『本来的に他人のはずなのに、他人として接するわけにはいかない間柄』であることに原因があるんだろうなぁ、という感じがします。
僕は、今なら、家族なんてただ血が繋がっているだけの他人だ、という風に思うことが出来る。こう思えるようになるまでに時間が掛かった。そして、そんな風に思えるようになったからこそ、親という存在を強く意識しなくて済むようになれたのだと思う。
つい最近バイト先の女の子から、母親との関係の話を聞いたことがある。母親は自分勝手で、そして何故か兄にだけ甘い。出来れば早く親元から離れたいよ、というようなことを言っていた。僕はそれに対して、母親というのは自分が娘だったことがあるから、その自分と今目の前にいる自分の娘とを比べてしまうのだろう。けど、自分が息子だったことはもちろんないわけだから、自分の息子に対しては娘に対して湧き起こるような感情は生まれないんじゃないか、なんて言ってみた。すごく納得してくれてたけど、さてどうだろうか。
子どもの頃、親とどうやったらあまり関わらずに生きていけるだろうかと真剣に考えて、優等生の道を歩むことにした僕は、正面切って親とやりあった経験がほとんどない。闘う前から、めんどうくさがってリングにも上がろうとしなかったのだ。『言葉』を使って何かを相手に届けようともしなかったし、相手の『言葉』を受け取って親の虚像を少しずつ更新しようとする努力もしなかった。そういう意味で言えば、バイト先の女の子も、本書の娘たちも、結局通じることはない『言葉』を使って親と格闘し続けてきたというだけ、やっぱりまともなんだろうなぁ、という感じがしました。
血が繋がっていれば『他人』じゃない、という感覚は、僕にはやっぱりよく分かりません。だって『家族』って、年齢も経験もまったく違う集合体だと思っている。そんな集合体の人よりも、年齢も経験も近い人との方が分かり合える可能性が高いのは当然だし、血の繋がりのある数人よりも、血の繋がっていない残りの数十億人の方が、単純な確率にしたって気が合う人は見つけられるだろうと思う。
それなのに、やはり『家族』というものに囚われる。僕も、逃れたつもりでいて、まだまだ逃れて切れていないに違いない。今日常の中で『家族』のことを思い出すことなんてほとんどないし、親兄弟とは数年に一度会えばいい方という暮らしをしていても、やっぱり『家族だから』という謎の理由によって何かを決断しなくてはならない時は来るのだろう。なんだかなぁ、と思っているのだけども。
作中で出てくる『園長先生』の言葉がしっくり来る。

『子育てに正解はない。親がどう育てようが、子どもによって答えが違うんだって、園長先生はよく言うの。せっかく産んで、母親になれたとしても、いつまでも仲良し親子でいられる保証はない。実の親子であれ、義理の仲であれ、ぶっつけ本番で、とにかくやってみるしかないものなんだって』

そんな風に思える人は凄いなって思います。
それぞれの話についてちょっと書いてみます。
「ハルカの場合」では、貧乏くじを引かされるハルカの感じが僕は凄く分かる。妹と弟はいつも自分の主張を全面に言い張っていて、結局誰かが引かないと収まりがつかない。とにかく色んなことが面倒くさかった僕は、自分が引いて解決するならそれでいいや、とばかりに、特に何も主張しないし、何か損を引き受けなくてはいけない時には引き受けるような、そんな感じになっていったような気がする。まあ、兄弟たちとそんな話をしたことはないから、二人がどう思ってるのか分からないけど。
この話は、兄・主人公・妹の三人それぞれが母親に対してどんな風に思っているのか、その食い違いも面白い作品です。
「菜摘の場合」は、とにかく義母が嫌過ぎる。結婚相手は慎重に選べるかもしれないけど、義母を慎重に選ぶことは難しい。こんな義母がいたら、ちょっと精神的に参ってしまうだろうな、と思う。
この話ではとにかく、義父が素晴らしい。ラスト近くのあのちょろっとしたシーンで、普段まったく喋らない義父が喋るところ。あれは秀逸だったなぁ
「千晶の場合」は、過干渉のママがやっぱりウザい。子どもがどんな風に育つかは、常日頃から一緒にいる母親の価値観が大きな影響を与えるのだろうけど、本当に真っ当とは言いがたい価値観を持つ親に育てられた子どもは不幸だよなぁ、と思えてしまう。
しかしこの話は、ある場面で景色がサッと反転するところが巧い。「実は…」という描写は大なり小なりどの話にもあるんだけど、話全体の景色を鮮やかに変えてみせるという点ではこの話が一番巧いと思う。
「芙由子の場合」は、一箇所に焦点を当てることが難しい作品なのだけど、総じて亮平という人間の人の良さがいいなと思う。亮平のにじみ出る朗らかさみたいなものが、作品全体の雰囲気を決定づけているような感じがします。
この話では、連作短編集という設定がなかなか巧く活きているなという感じがしました。なるほど、そこであの人が出てきますか、みたいな感じですね。
劇的なことが起こらない、ごくごく普通の物語は、その良さに気づくことがなかなか難しいかもしれない。僕自身も、どこまでこの作品の良さを気付けているか、それにはあまり自信はない。でも、小説をたくさん読んできて、『普通のこと』こそ書くのが難しいんだろうな、ということがなんとなく分かってきた。それは、何が起こったわけでもないある日の日記を一週間後に思い返して書こうとしているような難しさかもしれない。何か劇的なことがあった日の日記は、時間を置いても書きやすいだろう。でも、なんでもなかった普通の日の日記を後から書くことは、とても難しいはずだ。本書は、そういう感じにとても似ている。当たり前過ぎて普段意識しもしないようなことをサラッと描き出すのが巧い。
決して特別なことが起こるわけでもない母娘の日常が丁寧に描かれていきます。やはり、かつて娘だった人、今母親である人、そういう方が読む方がグッとくる作品なのだろうと思います。是非読んでみてください。

加藤元「泣きながら、呼んだ人」


公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し ソープの帝王 鈴木正雄伝(木谷恭介)

内容に入ろうと思います。
本書は、『角海老グループ』という、ソープランドから始まって、ボクシングジムや不動産会社などを手広く手がける企業を作り上げた鈴木正雄への聞きがたりと、かつて風俗ライターをしていたという著者による、戦後の風俗史を直で見、体験したその記録です。
最近ではデリヘルが台頭し、風俗業界がさらに見えにくくなってしまっているのだけど、かつてはソープランドが一世を風靡した。それは、「トルコ風呂」と呼ばれるものから徐々に進化していったもので、さらにそれ以前には、「赤線」と呼ばれる戦後の売春公認地帯の歴史が存在する。
かつて「売春」は犯罪でも何でもなかったが、法律が出来、「売春」は犯罪ということになった。しかし現在でも、ソープランドで「売春」が行われていることは店も女の子も取締当局も知っているのだけど、黙認されているというのが現状だ。
そんなグレーゾーン上に存在するソープランドを「本業」と見定め、堅実で明朗な経営を続け、かつて風俗業界の風雲児たちが成し遂げられなかった「長期に」「グループ化」というソープランド経営を成し遂げた鈴木正雄の語りが全体の半分。
そしてもう半分は、かつて風俗ライターとしてトルコ風呂の隆盛を直に体験し、戦後の風俗業界を知る人間として著者が語る、戦後の風俗史のあれこれというのがもう半分、という感じの作品でした。
読んだ印象としては、「お年寄りの思い出話かなぁ」という感じでした。だから作品として質が劣る、と短絡的に言いたいわけではないんですけど、でももう少し手の入れようはあったのかなぁ、という感じもします。
著者である木谷恭介が語る風俗史の方は、まあまだある程度のまとまりを感じられるような気もするんですけど、鈴木正雄の語りの方は、なんというかやっぱり「思い出」と呼ぶのが一番ぴったりくるなぁ、という感じがします。あんな人ともお付き合いさせていただいて、あんなこともあった、こんな風にお国のために奉仕させていただいた、というような話が、色んな方向に飛びつつも並んでいるという感じです。個々の内容は結構面白いと思うし、書かれていることを読むと、なるほどこの鈴木正雄という人はなかなか凄い人なんだなぁ、という感じがするんですけど、でも話が面白いのと本が面白いのはまあ別なんだろうなという感じがします。たぶん本書を読むと、鈴木正雄は自身を「太鼓持ち的」と表現するところなんかからも、きっと話してて面白い人物なんだろうと想像します。ある人が本田宗一郎に会いに行く時は、絶対に自分しか連れて行かないのだ(話の面白さを本田宗一郎が気に入ってくれたから)、みたいな話も出てきたりして、まあたぶんそうなんだろうなという感じがします。
でもそれを本にする過程で、きっと直接話した時にはにじみ出ていただろう面白さが消えてしまっちゃっているんじゃないかな、という感じがします。
だから本書を読んで、鈴木正雄という人物には凄く興味を持ちましたけど、作品単体としてはうーんどうかなぁ、という感じがしました。
木谷恭介の文章も鈴木正雄の文章も、どちらもとても『個人的な話』に終始してしまっているんですね。それが、僕が本書を『思い出話』と呼ぶ理由です。もちろん、そういう思い出話があってもいい。けど、『戦後の風俗史を語れるのは自分たちしかいない』というような自負の元、かねてからの知り合いである鈴木正雄にインタビューを敢行したと語るのであれば、もう少し『個人的な話』を抜けだした記述が欲しかったなぁ、という感じもするのです。そうじゃないと、単行本1冊分の値段を出してもらうだけの価値を見出すのはちょっと難しいのかなぁ、と思ったりしました。
一番いいなと思った話は、トイレ掃除の話です。本書のタイトルの由来にもなっています。
鈴木正雄はある時、当時住んでいた松戸市に水洗の公衆トイレを寄贈したことがあるそうです。
そしてそのトイレを、今では2日に1回になってしまったけど、40年間未だに自分で掃除をしているんだそうです。
経営者とトイレ掃除の話はよく聞きますけど、やっぱりこういう見えにくいことを地道にしっかりと続けていくということが、どんなことにも必要なんだろうなという感じがしました。
作品としてはちょっと物足りない部分は多いのですけど、鈴木正雄という人物は面白いなと思える作品でした。

木谷恭介「公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し ソープの帝王 鈴木正雄伝」


映画 『ソハの地下水道』の感想 備忘録

今日は、つい先日原作のノンフィクションを読んだ「ソハの地下水道」という映画を観に行ってきました。
昨日の「希望の国」(園子温)についで、この映画も感想を書きたい気分になったので備忘録程度に書いてみようとおもいます。
一応、原作「ソハの地下水道」の感想も→http://blacknightgo.blog.fc2.com/blog-entry-2341.html

舞台は、1943年のポーランド。下水道の検査人をしているソハは、ある日地上から下水道に穴を掘ってホロコーストを逃れようと企んでいたユダヤ人数人を見つける。ソハの同僚は、ドイツ軍に突き出すことを提案する。ドイツ軍にユダヤ人を密告すれば、金が入るのだ。
しかし、ソハは違う判断を下す。ユダヤ人の内の一人がある程度金を持っていると判断するや、金を絞りとってからでも密告は遅くないと同僚を諭す。
そうやってソハは、金を受け取りつつ、下水道にユダヤ人を匿うことになったのだ。
じめじめとした暗い環境の中で、何が出来るわけでもなく佇むしかないユダヤ人たち。彼らは、ソハが持ってくる食料や、地上の情報を的確に知り下水道内を逃げまわることを頼りにしか生き延びることは出来ない。
しかし、ソハも安全圏にいられるわけではない。かつての知り合いがポーランド軍の将校となっており、下水道のプロであるソハにユダヤ人を発見次第教えるように言いつける。ソハの同僚は、ユダヤ人を匿っているという重圧に耐え切れず抜けてしまう。ソハは、ユダヤ人を匿っていることがドイツ軍にバレれば家族もろとも処刑されるという危険と隣合わせの中、ユダヤ人たちを匿い続ける。
14ヶ月に及ぶ地下生活を支えたソハの視点から描く、史実を基にした映画です。

昨日見た「希望の国」も凄かったけど、「ソハの地下水道」も凄かった。『凄さ』のタイプは違うのだけど、どちらも胸の奥底まで響くような重低音で僕に迫ってくる作品だった。
この映画を見ている時僕は、時々呼吸を忘れている自分に気づいた。大げさじゃない。画面に目を奪われて、いや違うか、『目の前で展開されている紛れも無い現実』に圧倒されて、僕は時々呼吸を忘れた。意識して息を吸い直さなくてはならない場面が何度もあった。
それぐらい、作品の世界に取り込まれてしまった。
映画にはまったく詳しくないくせにこんなことを書くのもおこがましいけど、カメラワークの妙が、『映画という虚構』を、まるで『目の前で展開されている現実』であるかのように観客に思わせたのではないかと思う。
カット割りの非常に少ないカメラワークだった。長回しで撮っているんだろうなという映像を繋ぎあわせているという構成で、だからこそ自分自身がまるでその場にいるかのような感覚に陥った。カメラのブレは自分が走っているからこそのブレだし、カメラが上下左右に動くのは自分がその方向に視線を動かしているからだ、と思わせるような画面構成になっていて、だからこそ僕は食い入るように見ていたのではないかと思う。
いやそれは、『映画を見る』という感覚ではなかったように思う。それは、登場人物と共に、『その空間を体験する』というような感覚に近かったように思う。自分が映画館にいることを忘れた、なんていうと言い過ぎになるけど、でも瞬間瞬間であればそういう一瞬はあったかもしれないとも思う。
もちろんそれは、僕があらかじめ原作を読んでいたということとも大きく関わるかもしれない。原作を読んで、その圧倒的な『現実感』を取り込んでしまっていたからこそ、映画の世界により入り込んでしまえたのかもしれないとも思う。確信はないけど、もしかしたら原作をあらかじめ読んでいなければ感じ方が違ったかもしれない、という風には思っている。
原作と映画は、別物と言っていい。
話が違うわけではない。同じ題材を扱っているし、登場人物も同じだ。でも、原作と映画はまったく別物と言っていいと僕は思う。
何故か。
それは、原作は『ユダヤ人の物語』であったのに対して、映画は『ソハの物語』だったからだ。
それにはちゃんと理由がある。
原作のノンフィクションは、ユダヤ人のリーダー的存在であり、ソハにお金を払い続けたイグナツィ・ヒゲルが、自身の死の6ヶ月前に書き上げた回顧録をベースにしている。ヒゲルは、計画の初期の段階から関わり、そして14ヶ月の地下生活を生き抜き、さらに当時の記録をメモ書き程度に残していたのだ。それらを頼りにヒゲルは、30年近く前のあの恐ろしい記憶を一からすべて書き起こすことにした。
しかし、それは当然のことながら、14ヶ月間地下に居続けたユダヤ人の視点からの物語でしかない。
原作のノンフィクションを書いた著者のマーシャルは、ヒゲルの回顧録をベースにしつつ、現存するすべての関係者やその子どもらに話を聞き、それらの情報を総合してノンフィクションという形でまとめた。
しかし、ユダヤ人を救ったソハは、早くに亡くなってしまっている。ノンフィクションの中では、ソハの言動はすべて、地下でのことに限られている。ソハが地上で何をし、どんなことを考え、どんな苦労を背負っていたのか、そういうことはもう誰にも分からないのだ。
一方で映画は、ソハ視点で物語が展開されていく。原作では、いかにユダヤ人たちが苦しい環境を生き抜いたのか、どういうトラブルが起こったのかというような、14ヶ月にわたるユダヤ人たちの生活を追うのが主眼になっているが、映画ではその要素は全体の半分でしかない。そして残りの半分はソハの物語である。
もちろん、映画で描かれたソハの地上での姿は、ほとんどすべてフィクションだろう。ソハが何をしているのか知っている人間は地下のユダヤ人だけだったし、地上ではソハは出来る限り慎重に行動していた。原作では書かれていないけど、ヒゲルがこの回顧録を書いた時点で恐らくソハの妻ももう亡くなっていたのだろう。ソハが地上でどんな風であったのか、知る者はいないはずなのだ。
しかし、そのフィクションとして後から付け加えられることになるソハの姿が、物凄くいい。とてもいい。原作を読んでも、ソハの行動原理はまったく理解できない。なぜユダヤ人を助けようとしたのか。明らかに辛い環境にあるだろうに、どうしてユダヤ人を助け続けることを諦めなかったのか。原作の中では、著者の憶測は書かれていた。こういうことなのではないか、と。しかし、やはりノンフィクションという形態で本を出版するためだろう、地上でのソハの行動については、具体的な憶測は書かれないままだった。
映画では、原作では謎めいたままだったソハの行動に、ようやく一本の筋道が与えられたように感じられた。もちろん、謎めいた部分も残っている。ソハの行動すべてに合理的な理由がつけられているわけではない。それでも、ソハという一個の個人が実に見事に立ち上がっている。ソハという人物をきちんと描き出すためだろう、原作とは若干細部を変えている場面もあった(尺を調節するための都合かもしれないけど)。実話をベースにした物語で、それをやってしまうのはなかなか勇気が入ることではないかと思う。しかし、少なくともこの映画に関して言えば、それは大正解だったといえるだろう。ソハという、14ヶ月に渡って様々な困難を乗り越えて、ドイツ軍に支配されたポーランドでユダヤ人を匿い続けた一人の男の人間としての輪郭が、とても濃く描き出されていると感じました。それが本当に凄く良かったと思う。
映画をそこまで見るわけではないし、原作のある映画についてその両方を読む/見るということもほとんどないので、ちゃんとした比較は出来ないのだけど、でも原作と映画において、こんな風に補完しあうような関係ってありえるんだな、と感じました。この映画は、原作を先に読んでも映画を先に見ても、どちらも楽しめるようになっているなと感じました。
とはいえ、個人的には原作を先に読むことをオススメします。なぜならこの映画は、ホロコーストに関する知識は当然のものとして省かれているからです。
原作は、当時のポーランドの状況、ユダヤ人が置かれた劣悪な環境、ホロコーストの恐怖など、地下に潜るまでに当時の状況を出来る限り描写してくれている。そういう前提がきちんと頭に入るからこそ、ユダヤ人が何故地下を目指したのか、ソハがどれだけ危険を冒しているかということが伝わるのだ。
しかし映画では、尺の関係もあるのだろう、そういう前提的な描写は省かれている。
そうなると、ホロコーストについてどれだけ知識を持っているか、という点が、映画の評価を左右すると思う。僕は原作を読んでいたから、前提的な情報の大半が省かれたまま唐突に物語がスタートしてもついていくことが出来た。もちろん、歴史の授業をきちんと受けて、ホロコーストについてもちゃんと知ってるぜ!なんていう人も、恐らく冒頭から特に問題なくついていくことが出来るだろう。でも、そういう知識を持たない人がいきなりあの映画を見せられても、なかなかついていくのに苦労するかもしれない。もちろん、まったく描写されないわけではないので、どうにかついていけるとは思うのだけど、個人的には原作を読んでから見る方がより楽しめるのではないかな、という感じがしました。
映画全体では、とにかく『死』=『日常』である、という空気感が全編を通して物凄く醸しだされている点がとてもよかった。あの当時のあの町では、『死』はまったく特別なものではなかった。ちょっとしたきっかけで人は死ぬ。もう、驚いてなんかいられないし、『死』に直面する度に覚悟を決めていたら身がもたない。そういう時代だったのだろう。それが、本当によく伝わってくる。
無理やり『希望の国』と結び付けたいわけではないのだけど、恐らく震災直後も、いや震災以来今でもずっと、被災地はそういう感じかもしれない。『死』がまったく特別なものではないという異様な環境。『死なない』ことが『奇跡』であるという環境の中で生きる人たちの諦念のようなものが、見ていてとても重苦しい気分にさせられた。そういう雰囲気も、カメラワークの妙から生まれているように思うし、極力無駄を配したセリフや、沈黙が支配する場面などの描写によってもそれがより強調されるのではないかという感じがする。
最後に、凄く好きなシーンを挙げておこう。ラストシーンなのだけど、地下から出てきた男の子が母親に対して言うセリフ、そして全員を地上に上げ終わったソハが周囲の観客に宣言するセリフ。この二つが、物凄く印象に残りました。
外国人の顔を識別するのがなかなか難しいのと、ほぼアングルが固定されたカメラで動きのある場面を描くこと、また全体的に暗い場面が多いことなどの理由で、映画の見始めは誰が誰なのか識別するのがちょっと難しかったりするという点だけ、映画を見慣れない僕にはなかなか難しいなと感じたのだけど、でも全体的に本当に素晴らしい映画だったなと思います。お互いを補完しあっている原作と映画、共に楽しめる作品だと思いました。

映画『希望の国』(園子温)の感想 備忘録

園子温「非道に生きる」を読んで、なんだか園子温の映画を見たくなったので、「希望の国」を観に行きました。「非道に生きる」の中に入ってた割引券を使うつもりだったんですけど、なんだか「映画の日」らしく、1000円で観れました。ラッキー。

「非道に生きる」の中で園子温は、『映画は巨大な質問状です』と書く。それが、物凄くよく分かる作品だった。
答えなんてない。
正解なんてない。
もしかしたら、『事実』なんてものさえないのかもしれない。
そんな状況に放り込まれた人びとを、丸ごと切り取る。
それは確かに、『巨大な質問状だ』と感じました。

福島で地震と原発事故が起こった後の世界が舞台。
長島県が巨大な地震に見舞われ、長島県にある原発も爆破。放射能がばら撒かれるという設定だ。
原発から20キロ圏内は立ち入り禁止。その立入禁止区域のちょうど境目になったある一家が主人公となって物語が進んでいく。
牛を飼い生計を立てる父と、痴呆症に症状を見せる母。その一人息子と、その嫁。家族四人のささやかな生活は、地震と原発の事故による、一瞬にしてなぎ倒される。
ギリギリ20キロ圏から外れた一家。20キロ圏内の人びとはすべて強制退避させられる。隣家の住民は避難しているのに、ウチは避難指示はない。20キロ圏外だからだ。
しかし父は息子に、奥さんを連れてここを出るように言う。父親を心から愛する息子は、それを拒絶するが、しかし父の決意は固い。そして逆に、父は家を離れない決断をする。
分裂させられる家族。
様々な視点から、激変した日常が語られる。父に説得され、生まれて30年間住み続けてきた土地を去ることになった息子。赤ちゃんが出来、放射能を『極度に』恐れる妻。そんな妻のあり様を笑う町の人びと。妻の『奇行』に翻弄される夫。たまたま付き合っていた彼氏と一緒にいたお陰で自身は難を逃れたが、恐らく家族は津波に流されてしまっただろう少女。痴呆症の妻と共に、生まれ育った地に残る決断をした男と、そんな男を説得しようとやってくる役所の人間。
誰もが、それぞれの『現実』を抱えている。それを、出来るだけ整理せず、出来るだけ分かりやすくせず、出来るだけ丸のまんま混ぜ込んで、それでいて全体としてまとまりのあるストーリーに仕立てあげた映画だと思う。
映画を見ながら、何度か観客が『笑った』場面がある。これは、物凄く考えさせられた。
先に書いておくけど、『笑った観客』のことを攻めたいとか悪く言いたいというようなつもりはまったくない。監督の意図はわからないけど、観客が笑うことを意図して挿入されたシーンだと捉えてもおかしくはないような場面だったし、確かに『笑える場面』だった。
でも僕は笑えなかった。確かにおかしかったんだけど、でも笑えなかった。
あの場面で『笑う』ということは、『登場人物がやっていることはおかしい』『普通じゃない』という判断をしたということだと思う。もちろん、そうじゃない人もいるかもしれない。ビジュアル的に面白くて反射的に笑ってしまった人もいるだろうし、その場面が自身の何らかの経験と咄嗟に結びついて思い出し笑いみたいなことになったかもしれない。
それでも、やっぱりああいうシーンで『笑う』ことの意味は、『おかしい、普通じゃない』という判断を下すことに近いんじゃないか、と僕は思った。
僕には、その、『おかしい、普通じゃない』という判断を下す、ということが出来なかったのだ。
印象的なシーンがあった。放射能を『極度に』恐れる妻のことで揶揄された夫が、職場の人間に掴みかかるシーンだ。
『奇行』にしか見えない妻の行動を『笑う』職場の人間は、妻のやっていることが『おかしい、普通じゃない』と判断して『笑う』のだ。その態度は、夫が勢いに任せて反論しても変わることはない。
お前の妻は、『おかしい、普通じゃない』。
その判断を否定したいわけじゃない。それは、ああいう場面で『笑った』観客を責めたいわけではないのと同じだ。
『おかしい、普通じゃない』と思うことは個人の自由だ。でも、僕にはそれは出来なかったと言いたいのだ。
『おかしい、普通じゃない』のは、『笑った』側の人間かもしれないのだ。それは、まだまだ分からない。いつになったらわかるのか、それさえわからないけど、少なくとも『今』はまだ分からない。僕はそう思っている。
僕たちは元々、『永遠に結論の出ない世界』の中で生きているはずだ。世の中にはあらゆる価値観があるし、他人に迷惑を掛けなければ、どんな価値観だって存在を許容されるべきだと思う。ちょっとぐらい他人に迷惑を掛けたっていいかもしれない。
でも、そういう世の中は、生きにくい。世界は僕達に、あらゆる問いを投げかける。僕達は、そのすべてにいちいち答えを出して前に進まなくてはいけない。でも、それが『正しいかどうか』は、『永遠に分からない』のだ。僕はそんな風に思って生きている。そしてそういう世界は、生きていくのがしんどいのだ。
だからみんな、『普通』が欲しい。それが『正しいかどうか』が永遠に分からないというのであれば、せめて『多くの人が選んでいる道』を知りたい。みんなが選んでいるから、正解の可能性はちょっとは高いだろう。そういう『普通』を追い続けていれば、自分で結論を出さなくて済むようになる。生きていくための負担が、少しずつ減っていくことになる。
日常であれば、それでいいのだ。世界に亀裂さえ入らなければ、そういう生き方で充分だ。というか、そういう生き方をすることが『賢い生き方』でさえあっただろうと思う。
でも、日常ははじけ飛んでしまった。世界に亀裂が入ってしまった。そうなってしまうと、『普通』を追いかける生き方はできなくなる。
『普通』なんてものがどこにも存在しないことが、『非日常』ということだからだ。
それでも次第に、『非日常が日常のように』見えてくるようになる。それは錯覚なのだけど、人間は『非日常』の中で穏やかに生きていられるほど強くない。だから、どうにかして、無意識的にでも『日常』へと揺り戻そうとする。
それはつまり、『普通』を定着させることに他ならない。
『非日常』を『日常』に揺り戻す過程で、たくさんの『普通』が生まれる。そしてその『普通』こそが、『おかしい、普通じゃない』という価値観を生み出す。『普通』に寄り添って、『日常』を装うとしない人間を排除しようとする。
そういう世界観の中で、どれだけ『普通』とか『普通じゃない』とかいう判断が意味を持つだろうか?
僕は、『普通』の皮を被った『非日常』を強要される環境の中で、『普通じゃない』を選択する人びとを笑うことが出来なかった。『非日常』を『日常』に揺り戻す過程で生まれる『普通』は、安心して寄り添うことが出来そうに『見える』大木みたいなものだ。その大木の、根がどうなってるかなんて、誰にもわからない。でも、あれだけ大きいんだから根っこだってちゃんとしてるだろう、うん、そうに違いないという楽観こそが、『非日常』の中の『普通』だ。
それが倒れない保証はどこにもない。もしかしたら、映画の撮影用に作られたセットの大木かもしれない。でも、みんなの不安を取り除いて、みんなで協力して『日常』を装うためには、誰にもわかりやすい形で見える『普通』を提示する以外にない。
『非日常』の中で生まれる『普通』に寄り添って生きることは、一つの選択肢だ。それが間違ってるなんて思わない。でも同時に、『非日常』の中で生まれる『普通』に取り込まれないように努力する生き方も、また一つの選択肢だ。それだって、決して間違っているわけではない。
この映画ではそういう、『非日常』に放り込まれてしまったが故に『正解』を見失ってしまった人たちが、自分なりの『正解』を追い求める過程で『普通』と対立せざるを得なくなった状況を見事に描き出していると思う。
それは、もう既に『非日常』から脱し、ごく普通に『日常』を生きている僕達にも突き刺さる刃だ。
『日常』に生きているからと言って、『普通』に従うことが正解になるわけではない。『日常』の中では、『普通』に従うことが最も省エネ戦略だ、というだけに過ぎない。『日常』にあっても、正解は無数に存在する。でも、『普通』に従うのが、最も無駄がなく、最も疲れず、最も面倒くさくない戦略なのだ。
しかし、『本当にそれでいいのか?』と、この映画は問いかけているように思う。『非日常』に生きる人びとが直面する『普通』との対立という極端な状況を切り取ることで、『日常』に生きる僕達の横っ面を叩いている映画なのではないかと思う。
だから僕は、ああいう場面で『笑う』ことが出来なかったのだと思う。そこで『笑う』ことは僕にとって、『日常』の中の『普通』に迎合するのと同じ意味を持つと悟っていたのだろうと思う。
そういう意味で、観客が『笑う』場面は、本当に考えさせられた。あらゆる場面で様々なことを突きつけてくる映画だったと思うけど、やはりそのほとんどは、『自分が直接的に経験したわけではない、震災・原発事故という巨大な災害に翻弄される人びとや空間の質量』だったと思う。実際の被災地で撮影したらしい数々のシーンや、どうにもならない状況に置かれた人びとの様々な感情なんかが押し寄せてくるのだけど、やはり『日常』に安住しきっている僕には、それは結局深くまでは届きようがないのだ。『届いた』と言ってしまうのは、圧倒的な『非日常』の中で生きなければならない人に対して失礼でさえあるような気がして、そのどうにもならない現実そのものは、若干の距離を感じるものなのだ。
でも、観客が『笑う』シーンで突きつけられたことは、『日常』を生きる僕達にも直接的に向けられている刃だと僕は思った。『本当にそれでいいのか?』という『質問状』を、確かに僕は受け取った。そして、それに答えるのは、僕自身でしかない。

さて、「非道に生きる」の話に少しだけ戻ろう。この中に、こんな一文がある。

『被災地で撮影するには現地の人々の協力が必要です。被災したスタッフの荒れ果てた実家や親戚の家を映像に収めたりもしました。そこで僕が聞いたのは想像していたのとまったく違う言葉でした。「片付けられてしまう前に記録を残してもらってよかった」。さらに一年後に同じ場所で聞いたのは、「『いまだに津波の映像を流したりすると、思い出すからやめてほしい』と言う人たちは、忘れても大丈夫な人たちなんだ」という意見でした。その言葉を耳にして、より一層の使命感が生まれました。』

これは、「ヒミズ」という作品を撮った際、『被災直後に被災地を映像に収めることについてセンシティブな態度をとる人が多かった』ことに対する著者の感想だ。本を読んだ時、この意見はなるほどと思ったのですけど、映画を見て余計にそういう感覚は増しました。
確かにあの光景は、どういう形であれ、映像と残しておくべきものかもしれない、と思いました。
映画の舞台背景としてどう、というような感想を一気に超えて、あの被災地の映像はダイレクトに見るものに届くと思いました。どんな言葉も、どんな歌も、どんな説明も敵わない圧倒的な現実がそこにあると思いました。そして、それを『残しておきたい』と考える被災者の気持ちも、なんだか分かるような気がしたのです。
園子温はとにかく『取材』を徹底的にやる、と書きます。そうやってしか見えてこないものがある。聞こえてこないものがある。園子温は、現実に起こった出来事をベースに映画を作ることが多いのだけど、とにかく徹底して話を聞き、体験し、対象そのものになりきっていく。その膨大な『取材』に裏打ちされているからこその圧倒的なリアリティなのだなと思うし、被災地をそのまま使ったシーンでの圧倒的なリアリティにも繋がっていくのだろうと思います。
園子温は、『だから僕が脚本を書くときには、物語の中盤ぐらいまでは取材を基に積み上げていきますそうやってプロットの方向性が決まり、ストーリーに速力がついてきたら、そこで初めて想像の力を借りてもいい』と書きます。そしてさらに、『出来事の追想ではなく、出来事の真っただ中にいるときの気持ちや情感を、貧弱な言葉でもいいからそれで綴ること、それがドラマ映画にあるべきスタンスだと思います』と書く。
それは見ていて本当に感じました。
前に、『説明過剰の映画たち』という記事を読んだことがあります。「踊る大捜査線」と「おおかみこどもの雨と雪」を題材にして、「過剰に語りすぎる映画」と「語らないことで生まれる表現」について考察したものです。
「希望の国」も、語らないことで表現した映画だと思いました。
セリフは日常的なよくあるフレーズだし、説明的なセリフはない。説明的な描写を極限まで排除して、『その時その時の人間の感情』を表現することに全力を尽くしているという感じがします。
そして、その『引き算による表現』は、やっぱり好きだなと思うのです。沈黙の場面が非常に多く、それでいてその沈黙のシーンから伝わってくるものが多くある。そういう表現っていいなぁ、と思うのでした。
直接的に映画の内容にあまり触れていませんが、個人的には盆踊りのシーンと、老夫婦のラストシーンは忘れられないだろうなという感じがします。特に、老夫婦のラストシーン。息子夫婦が『最後に』やってきて父と抱擁を交わす場面。僕は、『こんな形での今生の別れなんてものがありうるのか』と感じさせられました。病気でも戦争でもなく、目に見えるものが彼らを隔てるのではない。しかし、目に見えない数多くの『何か』が、彼らをあちらとこちらに分けてしまう。これは本当に衝撃的でした。こんな『今生の別れ』がありえるなんて。

あれこれ思いつくままに書いてみました。映画の感想をブログで書いたのは初めてかな、たぶん。

本にだって雄と雌があります(小田雅久仁)

内容に入ろうと思います。
本書は、「増大派に告ぐ」でメフィスト賞を受賞しデビューした著者の最新作です。
「増大派に告ぐ」もまあとんでもない作品でしたけど、「本にだって雄と雌があります」もまあとんでもない作品でした。
さて、この作品の内容紹介を、どんな風にしたらいいか。
本の話と言えば、まあ確かに本の話ではあるんだ。けど、僕らがよく見知っている『本』の話かというと、それはいささか違うと言わざるを得ないかもしれない。もちろん、深井家という一家の物語でもある。しかし、じゃあ一体誰が主軸なのかというと、ちょっと困ってしまう。本書の書き手である深井博の祖父である與次郎が一応の主軸ではあろうが、しかし決して與次郎だけの話でもない。というか、連綿と続く歴史の繋がりの中で、誰一人欠けていてもこの物語は生まれ得なかったのではないかと思わせるほど、誰もが誰かの人生に密接に関わりを持つのである。
本書は、『深井博が、自分の子である恵太郎にいずれ読ませるつもりで書いている本』という体裁の作品である。博がこれを書いている時分、まだ恵太郎は生まれて間もない頃。読ませるのは大分先になることだろう。しかし、これは書き残しておかねばならないのだ。なにせ、恵太郎の将来に大いに関わることなのだから。
「あんまり知られてはおらんが、書物にも雄と雌がある」という書きだして始まる本書。それは、祖父・與次郎の口癖の一つでもあった。
学者であり、蔵書家でもあった與次郎は、広い広い屋敷を埋め尽くさんばかりに本を集めに集めていた。祖母であるミキは、鷹揚にその状況を受け入れているようだが、仲睦まじい夫婦は頻繁に、『本が増えてしまうことの言い訳』というやり取りをしているのだった。狸を助けたらお礼に本が大量に届けられただの、飼い犬が地面を掘ったら本がワッサワッサと出てきただのと、様々な繰り言を口にしては、ミキは楽しそうにその戯言に相槌を打つのだったが、その中でも頻繁に出てくる話が、「隣り合った本同士が子を成す」という話だったのだ。
さてここで二人の人物に登場願おう。
一人は、10歳の頃、博が一人で祖父宅に1ヶ月預けられた際、毎夜彼を苦しめることになる壁に掛かった写真の内の一人である。黒川宏右衛門は、深井家の恩人と言っても決して言い過ぎではないはずなのに深井家では何故か別段崇められているというわけではない明治時代の蘭方医である。宏右衛門は、「直亭牛涎」という名で特にどうということもない戯曲を幾つか物していたという顔も持つ人物である。
そしてもう一人は、本名を亀山金吾と言い、後に「鶴山釈苦利」という名で文筆業を営む、與次郎の一高時代の同級生である。彼は一高時代に、「百年しゃっくり」と名付けられることになる奇病を得、生涯しゃっくりが止まることがなかったという不幸を背負うのだが、まあそれはどうでもいい。
さてこの二人。共に『幻書蒐集家』という顔も持つのである。
幻書とは何か。それこそが、祖父・與次郎が与太話として語っていた、「隣り合った本同士が産んだ本」なのである。
相性の良い本同士を隣り合わせに置いておくと、その一組から子が生まれる。その『子』は、様々な呼ばれ方をする、一部の蔵書家の間では秘された存在であったが、與次郎は「幻書」と呼んでいたようだ。
與次郎は、子どもたちには「本の置き場を変えるべからず」というような家訓まで作って厳しく幻書が生まれるのを防ぐ一方で、自らは様々に本の組み合わせを試しては、意図的に幻書を生み出し続けていたのだ。
博は、與次郎と共に、『朝の幻書狩り』に付き添ったことがある。祖父は、白亜に輝く蔵書印を持ち、それを次々に本に押しては、今にも飛び立たんとする幻書と『契約』を交わしていたのだが…。
という話です。
なんてまとめるわけにはいかないぐらい、『という話』ではありません。読んでもらえば分かりますけど、僕が書いたこの冒頭の展開からはとても想像できないくらいの驚くべきストーリーを内包する物語で、まあとにかく読んで度肝を抜かれてください。
「増大派に告ぐ」を読んだ時も、まあとんでもない新人が出てきたものだな!と思いましたけど、本書を読んでさらにそういう感覚が強まりました。ホント、凄い作家です。残念ながら、僕にはこの作家の凄さをうまく切り取って適切に並べて見目良く提示するなんてことが出来そうにないのですけど、まあジタバタしてみますんで、凄さの片鱗ぐらいでも感じ取ってもらえたらなぁなんて思います。
とにかく、さっきも書いたように、冒頭からはまったく想像もつかない展開をする物語です。本書は要するに、「恵太郎に向けた物語」なわけで、初めの内は「恵太郎が知り得ない前提的な事実で、かつ今後の話を理解するのに必須な知識」というのがたくさん出てくるわけです。祖父(まあ、恵太郎からすれば曽祖父ですけど)である與次郎の言動や、ミキとの仲睦まじい感じ、釈苦利を介した與次郎とミキの出会い、『幻書』というけったいな存在、與次郎が朝な朝な行なっていた謎の幻書狩り、與次郎が語る与太とも真実とも解せない謎めいた物語などなど、とにかくどうということもない色んな断片が語られる。
しかし、この「どうということもない色んな断片」が、まあ面白い面白い。大雑把に言えば、『家族の来歴』と『幻書』という二つに大別される色んな断片だけれども、特に前半部分に置いては本当に「恵太郎に向けた前提情報の提示」という感じで、全体に流れるストーリー性というのはあまりない。個別の断片の中でストーリーはもちろんあるもののぶつ切りの断片がごったに置かれているという感じで、普通だったらこんなに面白くなるはずもなかろうという話だと思う。
でもまあこれが面白いのだ。もちろん、個別の断片そのものも面白いのだ。與次郎とミキの馴れ初めなんてアホ臭いし、『幻書』についての尤もらしい説明や来歴なんかを真面目くさった風にしているところなんかもクスクスしてしまう。そもそも、與次郎を含めた深井家の面々がなかなか壮絶に奇特なキャラクターをしていて、普通にしていても可笑しみが滲みでてしまうような、そういう人たちなのである。
しかし、この作品の面白さは、決して個別の断片が持つ魅力だけではない。『博による語り』の面白さが、さらに輪を掛けてこの作品を面白くしていく。
例えばこんな具合である。

『しかし恵太郎よ、安心してほしい。お父さんがこうやって部屋に籠もり、この手記を書いていても、愛するお母さんが突然ドアを開けて入ってくることはない。「鶴になって自分の羽を毟り毟り機を織るから絶対に開けないでね」とよくよく頼みこんであるのだ。というのはもちろん嘘で、学生運動華やかなりし時代に覚えた手習い、鉄壁のバリケードをドア内に築いているのだ。というのもやっぱり嘘で、本当のところはアルカトラズのコンクリートに穴を掘るみたいにいつもびくびくしながらこれを書いているのだ。全然安心できない。安心したい。』

『実際、釈苦利は一部のコアなファンのあいだでは「伯爵」などと呼ばれていて、ネットで見かけた設定によると、禁断症状が出るたんびに血の気の多い馬鹿召使いの鼻を猫パンチしてその鼻血をブラッディ・マリーに垂らして飢えをしのいだり、昼間は最上級シルクで内張りされた宇宙樹イグドラシル製の棺桶にもぐりこみ、内接のスピーカーから流れてくるワーグナーを聴きながらムーミンに出てくるニョロニョロの抱き枕で眠ることになっていたりする。』

こんな感じの、なんというかいい感じに脱力された、気の抜けたコーラみたいな文章が頻繁に出てくるのだ。結構真面目なことを言っている文章の合間にこんな文章が唐突に入り込んで来たりするから、なんとなく思わずクスリとさせられてしまうんだなぁ。一文が恐ろしく長い、捉えようによってはダラダラとした文章が続く緊張感のない文章であるのに、スーッと一息で淀みなく読めてしまう。テンポが恐ろしくいいのだ。
しかも、脱線に告ぐ脱線が凄まじい。真っ直ぐ歩いているつもりなのにいつの間にかカーブしていて、あれここどこ?みたいに、なんというかよく分からない場所に着地していたりする。それでいて博の文章は決して本流を見逃すことはなく、あれどこ?と思っている場所からこれまたスムーズに本流に合流したりするのだ。まあ、その繰り返しである。
博のこの語り口でなら、僕のクソ面白くもない日常さえもメチャクチャ面白い物語に変わるのではないか、とさえ思わせるほどだ。それぐらい、内容だけでなく語り口に力のある作品だ。この語り口で最後まで書き通したという点だけでも、賞賛に値するなと僕は思いました。
印象的には万城目学とか森見登美彦の感じに近い気がするんだけど、でもそれともまた違う。近いものは感じるけど、ちょっと違う感じなのだ。その辺りの感じを巧く説明することは出来ない。何より凄いなと思うのは、「増大派に告ぐ」とはまったく違うタイプの作品だということだ。「増大派に告ぐ」は、軽妙さの欠片も感じさせないような、どちらかというと重苦しい感じの作品だった印象がある。妄想に取り憑かれた男や鬱屈した中学生の恐ろしいまでの内面描写が迫ってくるような作品で、本書とはタイプがまったく違う作品だ。「増大派に告ぐ」を読んだ人間が本書を読めば、こんな作品も書けるのか!と驚くだろう。一方で、表層的な違いは明白でありながら、なんとなく小田雅久仁らしさみたいなものも感じられる。著者名を伏せて作品を読んで、その作品の著者名を当てろと言われて当てられる自信があると言い切れないほどには自信がないのだけど、でも両者を比べて、なるほど確かに同じ著者らしさみたいなものがあるよなぁ、なんていう感じはしてくるのだ。繰り返すけど、「増大派に告ぐ」と本書では、文体はまるで違う。それなのに、どこかしらに小田雅久仁らしさみたいなのを感じさせるという点が、なんというか小田雅久仁という作家の稀有さを表しているなぁ、という感じがしました。
ちょっと内容についてどうにもこうにも突っ込んだ話をしようがない作品なので(前半は、全体的なストーリー性のない断片の整列であるし、後半の内容は未読の人には知らないままでいて欲しいし)、どちらかと言えば文章や文体についてあれこれ書いてみたけど、とにかく内容も凄まじいです。これだけの奇想をどこから引っ張ってくるんだろうと思わせるほどの、なんというかとんでもない世界観だなという感じがします。『本』を題材にした物語というと、「なんか恐ろしいほどの本好きじゃないとどうせ理解できないんでしょ?」みたいな風に思われるかもしれないけど、全然そんなことないです。本書は、本好きかどうかに関わらず楽しめる物語です。なにせ、どんな本好きだって、本書で描かれているような経験は「しようがない」し、「本書を読む以前から望んでいた」なんてことはほとんどありえないと思うからだ。だから、『本』を題材にした物語だからと言って躊躇しないでほしい。この作品は、想像力という翼を限界目いっぱいまで広げ、それでもまだ飽きたらずに、伸ばした翼を想像力という名の馬に両側から引いてもらってギリギリ目一杯まで広げようとして、翼が根本からボキリと折れてそのまま悠久の彼方にまで飛び去ってしまった、とでもいうような作品です。著者の文章の真似をしてみようと思いましたけど、たった一文でも無理ですね。いや、ホント凄い作品だと思います。是非是非読んでみてください。

小田雅久仁「本にだって雄と雌があります」


理系の恋文教室(海野幸)

内容に入ろうと思います。
本書はBL小説で、前回読んだ、朝丘戻。「あめの帰るところ」に続く、人生二度目のBLです。
今回は、「ほら『理系』って書いてあるから買わなくちゃ」という謎の理由によりこの本を勧められて、まあいいかということで買ってみることにしました。
理系学部しかないキャンパスで、一番不人気な研究室の教授である春井は、伊瀬君によく叱られ、それでいて仕事を手伝ってもらったりしているという、情けない教授である。
伊瀬君は、「なぜウチの大学に?」と誰しもが思うほどの成績優秀者だ。東大後期レベルの物理の試験で満点を叩きだしたことでその名は広く知られ、学内のあらゆる研究室から引く手あまただった。
なのに伊瀬君は、学内一不人気で、「落ちこぼれの避難所」と呼ばれる春井研究室にやってきた。学内一人気研究室の竹中教授などは、どうにか伊瀬君を引きぬきたくて仕方がないようだ。
しかし、私にだって理由はわからない。誰か教えて欲しいくらいだ。
伊瀬君は、怖い。私なんかよりもプログラミングの知識はあるし、雑務全般の効率もいい。人に仕事を振ることが出来ずに仕事を溜め込んだり、生徒に要領よく説明出来ない講義下手である自分が、なんだか悲しくなってくる。伊瀬君はことあるごとに私を叱り飛ばし、だから私は伊瀬君を恐れるようになってしまったのだ。絶対に嫌われている。どうして伊瀬君がウチの研究室に来てくれたのか、それはさっぱりわからないけど、でも絶対に軽蔑されているし、私は伊瀬君が怖い。
ある時、誰もいない研究室にポツンと置かれたパソコンを何気なく見たら、それは伊瀬君が書いているらしい恋文だった。『貴方のことが好きです。だから、やらせてください』なんていう、直截すぎるラブレターを期せずして見ることになってしまった私は、成り行きで伊瀬君のラブレターの添削をすることになったのだが…。
というような話です。
今回も、思ったよりは読める作品でした。っていうか、「あめの帰るところ」より理解しやすい設定だったなぁ。
まず、「恋文を添削する」っていう設定が秀逸じゃないですか。いや、秀逸っていっても、普通の物語の中ではこっ恥ずかしくてちょっと成立し得ない設定だと思うけど、こういう、「好きだと思っている相手にそうと悟らせずに恋文の添削をさせる」なんていう恥ずかしい設定が普通に成立しちゃうBLっていうジャンルの包容力のデカさは凄いなと思います。これが、普通の恋愛小説とかで使われてたらちょっとゲンナリするけど、BLなんだと思って読むと、なんかアリな気がしちゃう。
もうちょっと理由を考えてみると、たぶんそれこそ男同士だからなんだろうなぁ、という気がします。男女間の場合、「恋文の添削」っていう設定には余計な邪推が入ったりするような気がします。要するに、「完全に自分のことではない」という前提に立てるわけではない、と言いますか。
でもBLの場合、「完全に自分のことであるはずがない」という前提に立てます。男同士だからありえないでしょう、と。それが、BLという設定の中で「恋文の添削」という状況がそこまでこっ恥ずかしくない理由なのかな、という感じもします。
まあ当然のことながら、「普通男同士で恋文の添削なんかするはずがない」というまた別のこっ恥ずかしさが現れてくるはずなんですけど(まあ、別に女子同士でも恋文の添削なんかしないでしょうけど)、でもそれはこの作品の設定が結構うまくカバーしています。恋文は、生徒が書いて教授が添削するという体裁で、恋文の件をなしにしても、一応もとから教える・教わるという関係なわけだから(まあ、春井と伊瀬君の場合、その辺りちょっと歪んでいますけど)、あまり抵抗感はないかもしれない。それに、伊瀬君は、プログラムという無機質なものを扱うのには長けているけど、人の感情なんかを扱うのはあまり得意ではない、というキャラクター。論理的に成立していれば成り立つはず、論理的に矛盾がなければOKみたいな考え方をする人間なんで、普通の人よりは『羞恥心』を感じないで済むのかもなぁ、なんていうことも考えたりしました。
まあともかく、この「恋文の添削」という設定は、なかなか巧いんじゃないかなという感じがしました。それはこういう巧さです。春井は、まさか伊瀬君が自分に好意を抱いているなんて欠片も想像しない。本書では本当に、中盤を過ぎないと春井の中にそういう感覚は生まれて来ません。それでいて、読者には、伊瀬君が春井に好意を抱いていることが一発で伝わる。ちょっと変なたとえだけど、「志村、後ろ!後ろ!」みたいなノリで読めるんで、それも結構面白いなぁと思いました。
前に読んだ「あめの帰るところ」は、始めっから片方の愛情が全開過ぎて、相手方にも読者にも愛情が伝わりすぎちゃってたなぁ、という感じがしました。いや、それが悪いって話でもないんですけど、男同士の話でそれはなんとなく自然じゃない感じがして、だから本書のような設定だとなんか全体的に凄く自然に話が進んでいく感じがしていいなと思いました。
それに、二人の年齢差も、物語を自然に理解するために一役買っているように思います。
「あめの帰るところ」では、高校生と30代ぐらいの男の話だったかな。本書は、大学生と、年齢に関する表現があったか覚えてないけど、まあ40歳は超えてるだろう教授。
「あめの帰るところ」では、年上の塾講師が高校生を誘惑するんだけど、「何故高校生が男の誘惑に乗っちゃうのか」っていう部分が、やっぱりリアリティ的にちょっと辛いなって思うんですね。いや、わかります、BLにリアリティなんて求めるんじゃねーよバカ!っていうツッコミはまあ当然なんで、別に「あめの帰るところ」がダメなわけじゃないんです。
本書は、大学生がオジサンを誘惑する話です。そういう話だと、どうしてオジサンが大学生の誘惑に乗ってしまうのか、というリアリティを理解しやすい。だって、「自分はもう別に老い先も長くないし、容姿だってなんてことはないし、だから誰かに求められるようなことはきっとない」というような前提がオジサンの側にあるはずだし、そういう部分があれば、相手が男であっても、その誘惑に乗せられてしまう可能性はまあ考えられなくもないかな、という感じがするんですね。
それに、「あめの帰るところ」は、中盤以降、なんというか超絶的な展開になって、まあBLだしね、なんて思いながら読んでたんだけど、でも本書は基本的に地に足のついた展開が最後まで続くんで、非常に理解しやすいなと思いました。
ただ、「あめの帰るところ」との最大の違いは、本書には絡みのシーンが結構ちゃんとあった、ということですね。正直、その部分はザザッと読んだ感じですね。さすがに、絡みのシーンはちょっとまともに読むのは辛い。男同士かー、と思うと、なんというか心がしんどいですね(笑)。さらに、絡みシーンの挿絵も一個あったりして、むむむ…って感じでした。いや、まあ、大抵のBLは絡まないと終われないんだろうけど、男がBLを読む上で絡みのシーンはちょっと難関だなぁと思いました。
ちょっと時間がないんでざっくりした感想ですけど、今回もなかなか読める作品でした。まあたまにはこうやって、普段読まない本を読んでみようというチャレンジを心がけているのであります。

海野幸「理系の恋文教室」


非道に生きる(園子温)

先に、著者と出版社の方に謝っておきます。
今回は、ちょっと本の内容を書きすぎてしまうかもしれません。
普段は、これから読む本書を読む人のために、なるべく内容を書き過ぎないようにセーブするんですけど、この作品はちょっと良すぎたんで、書きすぎてしまうかもしれません。

内容に入ろうと思います。
本書は、「愛のむきだし」「冷たい熱帯魚」「ヒミズ」など話題作を次々と発表し、最新作の「希望の国」では、原発問題に真っ向から斬り込んでいく、鬼才映画監督である園子温による、「映画論」「人生論」とでも呼ぶべき作品です。
いやはや、これは凄い作品だったなぁ!いや、本としてどうか、という評価がどうでもよくなるくらい、園子温という人物の凄さが浮き出てくるような作品です。ぶっ飛んでるなぁ、この人!
僕は園子温の作品は、「冷たい熱帯魚」しか見たことがありません。しかも、それを見た時は、園子温という監督のことはまったく知りませんでした。その後、なんとなく園子温という名前をよく見かけるようになって、徐々に凄い人なんだなという漠然とした認識を持つようになっていったんですけど、本書を読んで、やっぱりこの人凄すぎるな、と思いました。
園子温という人物を一言で切り取ることなど出来ないでしょうが、敢えて無理やり一言で表現しようとすれば、「対立なきテロリスト」という感じでしょうか。
僕の『テロリスト』に対するイメージは、「何かの思想や価値観に対して、少数派が対立するために起こす集団やその行動」という感じになります。確かに園子温自身も、映画界や人間としての生き方そのものについて、腹がたったりムカツイたりします。でもそれは、園子温のモチベーションにはなりません。園子温にとって、「対立のために行動している」わけではないのです。
じゃあなんのために行動しているのかというと、「自分のものさしに沿って」ということになります。つまり、自分が面白いと思ったこと、正しいと思ったことをひたすらやり続ける。周りの反応とか批判とか大義名分とか、そういうのは全部どうでもいい。モチベーションの中心にあるのは、常に自分の内側から湧き出る『何か』です。
しかしそれが結局、傍から見れば『テロリスト』のような行為に映る。園子温は、周りに抵抗したり対立したりという中心軸を備えているわけではなく、自分自身の内なる声に忠実に動いているだけなのに、結局のところそれが周囲の思想や価値観をぶっ壊すような行動になってしまう、ということです。
本書は、子ども時代から、様々な紆余曲折を経て映画を撮るようになった経緯、映画の撮影と宣伝に明け暮れて、また映画とは関係のないパフォーマンス集団のようなものを組織したりしつつ、貧乏に耐えながら映画を撮り続け今に至るまでの生い立ちと、映画の撮影に対するスタンスや、今の日本映画界に対する違和感などが書かれている作品です。
子どもの頃から、園子温はぶっ飛んでる。とにかく園子温の行動原理にあるのは、「他人と同じことをしたくない」という思いだ。
そんな風に思っている人はたぶんたくさんいるだろう。「人と同じなんてかっこ悪いよ」みたいなやつだ。いや、僕だってそう思ってる。僕を含めてそんな風に思ってるやつは、ほら俺ってやっぱり、ちょっと人と違うじゃん?みたいなことを内心では思ってたりするんですよ。自分の周囲の狭い範囲だけを見渡して、ほら周りには俺みたいな奴いないでしょう?なんて思ってたりする。まあ同時に僕は、そんなこと言ったってやっぱり俺なんか普通に見えるんだろうなぁ、みたいなことも思ってたりするんだけど。
しかし、園子温のハチャメチャっぷりに比べたら、ほとんどの人が「普通」の範疇に収まるでしょう。
なにせ小学校時代、一度も「起立・礼・着席」に従わなかった、っていうんだから凄すぎます。「なんで服を着て学校に行かないといけないんだろう」と思い立って、実験と称してフルチンで教室に入ったり、小学生なのに構内新聞に団地妻のエロ小説を書いたりする。『自分でまいた種とはいえ、当時は学校で1時間に一発は教師に殴られる地獄のような毎日でした』なんて書いてあって、地獄のようなら止めりゃいいのに、なんて凡人は思っちゃいますけど、でもそういう衝動を抑えられないからこそ大成するんでしょうね。
17歳で家出して東京にやってきた時のエピソードも凄すぎる。『セックスと死が身近につながっていることをまざまざと見せつけられた』なんて書いてるけど、ホントかよ!?ってツッコんでしまいたくなるぐらい、とんでもない出来事が起こります。
それから自主制作映画を撮っていくことになるんだけど、作品がどうこうというより(もちろん僕は見てないし、本書でも内容についてそこまで触れられているわけではないんで、内容についてはそこまで分からないんですけど)、とにかく宣伝が凄い。
『内容なんかどうでもいいから目立て!』というその一心で、ありとあらゆることをやる。今僕は、「ありとあらゆることをやる」って書いたけど、この文章を読んでくれている人がいたら、その「ありとあらゆること」をちょっと想像してみてください。
園子温は、大学に入って一年目に撮った「俺は園子温だ!!」という作品で「ぴあフィルムフェスティバル(PPF)」で入選した。その次に撮った「男の花道」でPFFのグランプリを獲ったことで、制作費300万円の映画を撮ることができる。その300万円を使って撮ったのが「自転車吐息」で、これはPFFスカラシップ作品ということで新宿歌舞伎町にあったシネマミラノ(現・新宿ミラノ3)で記念上映会をすることになっていた。
でも、基本的にここまで。普通の自主制作映画はなかなか実際の映画館で上映されない。そこで園子温は、自力で映画館と交渉し、どうにか中の武蔵のホールで、10日間限定、21時からのレイトショーにこぎつける。とはいえ、当時のレイトショーなんて、1回に5,6人入ればいい方。誰も期待していなかった。
しかし園子温は、「ありとあらゆること」をやり、結果10日間で2500人を動員し、中野界隈で伝説になった。
さてそのために園子温は何をしたか。出来る限り箇条書きで書いてみます。

◯「ペルリン国際映画祭招待作品」とチラシに書く(「ベルリン」ではない)
◯マンションやアパートにチラシをまきまくる
◯別の映画の上映後のトークショーで手を挙げ、監督らに向かって「面白くなかった!」などと絡み、その後その映画を見に来ていた観客にチラシを配る

◯手書きで葉書を書きまくる。着いた頃を見計らって電話する。鈴木清順や大島渚みたいな大御所にも臆せず電話。試写に来てくれた人にはお礼の電話
◯ベルリン国際映画祭の担当者に直接ビデオを送る。実際、公式のフォーラム部門に通った。
◯場所によってまくチラシをまったく変える
◯テレビドラマのロケ地になりそうな場所にチラシを貼りまくる
◯「燃えるゴミ」置き場のバケツの蓋の裏にチラシを貼る
◯酔ったフリをして車内広告をチラシに変える
◯本屋で売れている雑誌に勝手にチラシを挟む

まあムチャクチャなものもありますけど、これでもか!というぐらいムチャクチャにやって、そうやって自分を売り込んでいく。もちろん、内容に自信があってのことだけど、とにかくどんな形でもいいから見てもらわないことには始まらない、そのためにはどんな手段でもいいから目立つしかない、という執念は凄まじいものがあるな、という感じがしました。モノが売れないとか、お客さんが来ないと言っている人はきっとたくさんいるんだろうけど、それは全然努力が足りないだけなんだろうなと自戒も込めつつ思いました。
映画に関する話には、かなり示唆に富むものが多かったように思います。基本映画はほとんど見ないし、詳しくも全然ないんだけど、そんな人間にもスーッと届く言葉が多かったように思います。
一番好きなのはこの言葉です。

『映画ば巨大な質問状です。「こうですよ」という回答を与えるものではないと思うのです。』

ちょっと前にネットで、「踊る大捜査線」と「おおかみこどもの雨と雪」を比較した文章を読みました。それは、『「踊る~」はあらゆるシーンで説明がされる観客にとって親切な映画だけど感動は少ない。「おおかみ~」は、あらゆるシーンで説明が省かれている分、奥行きが増している』というような話でした。最近の日本映画は「踊る~」のような説明ばっかりしてしまうものが多いけど、本来映画ってそれだけのものじゃないよね?というような内容だったと思います。
この文章で園子温が言いたいことも、似たようなものなんだろうなという感じがします。映画に限らず、あらゆる物語に「分かりやすさ」が第一に求められる(あるいは求められていると作り手側が信じている)という状況の中で、「回答が与えられない映画」は親切ではないとみなされてしまうだろう。
ちょっと前に「桐島、部活やめるってよ」という映画を観に行った。僕自身は物凄く好きな映画だったけど、隣で見てた女子中学生らしき二人組の反応が非常に面白かった。たぶん彼女たちにとっては「分かりやすく」はなかったのだろう。ラスト、結局桐島が一度も登場しないままで終わった後で、「え、これで終わり?」「桐島出てきてないじゃーん」「なんかよくわかんないー」みたいな会話をしていた。
園子温の『映画は巨大な質問状』という表現は、なんというかとてもしっくり来ます。答えは、見ている人が考えればいい。全員が共通して納得できる「回答」っていうのも、まああるはあるだろうけど、そんなの面白くないし、園子温はそういう『誰も強制していないのに社会に浸透している』価値観みたいなものを否定するところに立っています。その映画をどう捉え、どう受け取るのか。それは全部自由。園子温の映画を「映画じゃない!」と批判するのも自由だし、好きにしてくれ、という感じですね。とにかく、「質問を受け取りにいくんだ」というスタンスでいられるかどうか、という点が観る者に求められているんだろうなと思います。
園子温はこんな風にも書く。

『「希望の国」は評価を気にするような映画ではありません。僕も監督というからには、作品の評価を気にするよりも、作品に対する責任を取ることのほうを重視したいと思います。』

こういうスタンスは素敵だなと思います。
映画を見る人向けに、こんな文章もあります。

『映画を見る人にも同じことを提案したいと思います。メディアや著名人があおり立てる面白さを安易に信じないでほしい。本当は美味しくないと思っている実感をないがしろにして、店構えの美しさや立派さに騙されてついつい不安から声まで出して、「おいしいねえ」と確かめ合うのはやめてほしい。自分にとっての面白さ、美味しさを他人と合わせる滑稽な状況を抜けだして欲しいのです。』

著者は、映画を撮る理由をこんな風に書いている。これは、実際に起った事件を題材に映画を撮る、という文脈の中で語られています。

『報道やドキュメンタリーでは取材する相手をカメラに収め、彼らの言葉を収めていきます。しかし、その言葉はすべて過去形で語られます。「あのとき、何が起きたか、どうだったか」――決して、現在進行形で「その刹那」が語られることはありません。いま現在の体験を描くこと、これが、実話を基に僕がドラマを作る理由のひとつです。ドキュメンタリーに絶対に不可能なのは、「その刹那を生きること」。ドキュメンタリーは、他者の声を聞き、その情報を他者のものとして認識し、人に理解させることはできても、それを受け取る人自身の経験にすることはできないのです』

著者は脚本を書く時に、「登場人物の内面を想像する」のではなく、「登場人物そのものになる」と書きます。生身の人間との対話を繰り返す『取材』をする中で、その園子温はその人になりきっていく。「恋の罪」の時は女性になりきり、「希望の国」の時は福島に住んでいる人になりきる。映画監督になったような人であれば、どうして映画を撮りたいのかという動機やきっかけはきっちりあったりするんだろうけど、それをきちんと言語化し、また自身が撮る映画で実践していける人というのは、きっとそこまで多くはないんだろうなと思います。
さて、引用ばっかりになっちゃいますけど、他にも映画に関して惹かれる文章がいくつかあったんで抜き出してみます。

『もしも映画に文法があるのならそんなものぶっ壊してしまえ。もしもわずかに「映画的」なるものが自分に潜んでいるとすれば、それもぶっ壊してしまえ。映画がバレエや歌舞伎や能や日本がや、そんな伝統芸能に成り下がったのなら、とっとと捨ててやる。そんな気持ちで映画を撮ってきた。』

『映画に関わる人は目に映るものすべてをライバルだと思わないと成長しないように思います。テレビドラマでもAVでもアートでも、いま窓の外に見える風景でも、すべて映画と同じレベルに存在している。「映画は映画だ」と、何か独立したものと捉えているようではダメじゃないでしょうか。
たとえば、シネフィル(映画通)の人たちが、「いやあ、今日のゴダール映画の夕陽ってすごいよかったよね」と言って、目の前の夕陽は無視したりする。でも、大切なのは映画の中の夕陽ではなく、現実に輝いている夕陽のほうです』

『僕の現場ではまず、この場面ではどうしたいのか、役者に自由に動いてもらいます。それを見たうえで、僕が証明や撮影などのプランをその場でスピーディに立てていく。役者に判断を預けると、与えられた自由の中でもがいてあたらしい芝居を見つけてくれることがあって面白いのです』

『映画に込めるべきは「情報」ではなく「情緒」です。整理整頓された言葉を仕入れたいだけなら、本を読めばいいし報道を見ればいい。セリフのボキャブラリーにしろ、シーンの持つ意味にしろ、映画の中の言葉は市井の人びとの肉声でいいのです。』

さて最後に、園子温の「人生論」とでも言うべき部分に触れましょう。
冒頭で、こんな風に書いている。

『何度も骨をボキッとへし折られるような痛みを世間が僕に与えてくれたことには、いつも感謝している。そして最大の悪意をもって奴らに恩返ししようと、いつだって思っている。』

『下水道に叩き落されて、ドブの水を浴びるほど飲んで、才能の欠片もないとせせら笑われているときに、燃え立つような「やる気」が出て、目眩がするくらい憎しみが湧き立つ。その「刹那」に生きたい。』

普通の人がこんなこと言ってたら、なんか負け犬の負け惜しみみたいな感じに聞こえちゃう気がしますよね。どうにもならない人生の中で生きていて、辛くしんどい。でも、それを『辛いししんどいし』と思っちゃうと余計辛いから、無理やりにでも前向きに捉えよう、みたいな風に思えちゃう。でも、園子温の場合、本当にこんな風に思っているんだろうなということが、作中からムンムン伝わってくる。
それは、「人と違う俺ってカッコイイ」というのともちょっと違う。そういう薄っぺらいことを考えている人間(もちろん僕も含む)は、みんなが歩いている本道を横目に見つつ、あーあこっちにもちゃんと道があることに気づいてないのねぇ、なんて思いながら歩いてたりするものだけど、園子温は違う。本道なんか、園子温の視界にまったく入ってない。本道を歩いてる人間なんて、園子温からすればどうでもいいのだ。自分を相対的に高めたくて、敢えて本道ではない道を歩いているのではない。園子温には、自らが歩くその道しか見えていないのだ。だから、他にどんな道があるのかをキョロキョロしたりすることもないし、自分が歩いている道が「正しい」かどうか不安に思うこともない。
園子温の文章をいくつか引用しよう。

『たとえ他の奴らがマスターベーションだのナルシストだのと言ったところで、平気のへいちゃらで自分が面白いと思うものだけを追求すること。それが非道の生き方です。』

『他の人と同じ考え方をするために生きるのなら、生まれなくてもよかったとさえ思います。少しでも面白くないと自分が思うことは一切やらない。それを他人が「非道」と呼ぼうが、知ったこっちゃない。』

『左右をよく見渡して、みんなと一緒に青信号を渡るなんて、人生台なしだ。あたりを見渡して、自分が周りからちょっとはみ出しているのを気にする人生なんて、僕らから言わせりゃ交通道路だ。交通道路には交通標識がいっぱい並んで立っていて、ナビもあって――規則通りに光る信号の言うことを聞く人生。多くの人間は交通道路のような人生を生きている。そんなところに何の醍醐味があるか。自分だけのけもの道を走る以外、生きていて面白いことなんてあるわけないじゃないか』

僕も、園子温からすればハナクソみたいなレベルですけど、自分なりのものさしで自分なりのけもの道を歩いて生きているつもりだ。
子どもの頃はそういう「踏み外し」ができなくて、凄く苦労した。自分の中では「違和感」を覚えていることに、異を唱えたり、無言で輪から外れたりすることが出来なかった。怖かった。周りの評価に縛られていて、そこから抜け出したいなと思っていたのに全然出来ないでいる自分が嫌だった。
大人になって、色々あって、今では周りの意見とかどうでもいいと思えるようになった。今は凄く楽だし楽しい。もちろん、園子温ほどぶっ飛んだ生き方は出来ないから(まあ、「出来ない理由」はないんだけど)、社会の中でほどほどに溶けこむような言動もあるんだけど、昔と比べたら雲泥の差だ。これで僕に「やりたいこと」があったら結構強いんだけどなぁ、なんて思ったりとかしてるんだけど、残念ながら僕には特に「やりたいこと」ってないのよね。まあしょうがない。
園子温の生き方に賛同できない人はきっと多いでしょう。そんなの無理だよと。才能があるからそういう生き方が出来るんだと。でも、そういうのって、全部違うと思うんだよね。原発事故で、故郷を追い出されてしまったような人たちがたくさんいるわけだからこういうことを軽々しくは言えない状況になっちゃったけど、でも、「自分の人生」なんて、基本的に「自分の考え一つ」でどうにでもなるはずだと思う。「無理だ」というのは結局、「自分の考え」でしかなくて、「無理だ」という状況に置かれているんだという感覚はただの錯覚のはずだ。もちろん、園子温のようになれる人はほとんどいないだろう。でも、『みんなと一緒に青信号を渡る』人生から外れることは、別に簡単だと思う。交通道路以外にも、色んなところに道は走っているんだし、そこを通るのに通行許可が必要なわけでもない。なんなら、道のないところに自分で道を作ったっていいわけだ。はみ出さないように慎重に生きているのは、疲れる。僕には無理。だったら、周りからどう思われてもいいから外れて生きる方が断然楽だ。本書を読んで、そんな思いを改めて強く持った。
最後に園子温は若い世代に向けてこんなメッセージを放つ。

『非道であれ――そのために、若い世代は自分の敵を見つけてほしい。そうした人たちの相手であれば、僕自身が敵になってもかまいません。』

脇目もふらず、周囲からの評価なんてのも無視して、映画監督として突き抜けてきた著者。そんな著者のはみ出しまくった生き様が溢れている作品です。映画に興味がある人だけではなく、自分の人生これでいいのかよなんか違う気がするんだけどじゃあどうしたらいいんだよ俺にはもうわけわかんねーよ!みたいな感じの人にも是非読んでもらいたい作品です。是非読んでみてください。

園子温「非道に生きる」


楽園のカンヴァス(原田マハ)

内容に入ろうと思います。
岡山県にある、大原美術館。中国地方はもとより、日本屈指の西洋美術コレクションを所蔵することで知られるこの美術館に、監視員として働く早川織絵は、「コレクター以上に名画に向き続けるのは、美術館の監視員だな」という、昔言われた言葉を時々思い出す。監視員は、鑑賞者のために存在するのではない。作品と展示環境を守るために存在する。一時も気を緩めてはいけないが、しかしどうしても、名画の世界に入り込んでしまう瞬間がある。昔からの癖は、そう簡単には抜けてくれない。
ある時織絵は、国内屈指の西洋美術史家であり、大原美術館の館長でもある宝尾義英から呼び出しを受ける。先日、周囲にはそうと知らせていないが、娘が学校の引率で美術館にやってきた時、ガムを噛んでいることを窘めたことがあった。まさかそれについてのクレームでもあったのだろうか?
さっぱり理由が判然としないまま館長の元へ連れられると、そこには暁星新聞社文化事業部の高野智之という人物がいた。
そこで織絵は、驚くべき話を聞かされる。
新聞社の文化事業部と言えば、国内の美術館と組んで大規模な展覧会を行うパートナーのようなものだ。これは、日本独特のシステムだ。欧米の美術館であれば、西洋美術展をやりたければ、どこかの美術館から借りたい作品があれば、何か自分のところの作品を貸し出すことで取引を成立させることができる。しかし日本の美術館には、他の美術館に貸し出せるような名画があまり多くない。そこで多額の貸出料が必要なのだが、新聞社がその経費を肩代わりすることになるのだ。
高野は、アンリ・ルソーの大規模な展覧会を企画しているという。
アンリ・ルソー。「税関吏」というあだ名が有名で、「遠近法も知らない日曜画家」という評価がずっとなされてきた画家。40歳から本格的に絵筆をとり始めたルソーは、同時代に時代の寵児となっていくパブロ・ピカソに見出されるも、生前はまったく評価されることがなかった。その後も長く、下手くそな絵を描く画家というだけの評価で終わってしまっていた。熱心なルソー研究家がその再評価に務め、また著名な美術館もその評価を定めるような展覧会を開くことでようやくルソーに陽の目が当たり、現在では「素朴派の祖」とされる画家として評価されている。
「ティム・ブラウンという名前をご存知ですか?」
高野がそう言うのを聞き、織絵は驚愕を隠すことが出来なかった。17年前、ある濃密な一瞬を過ごした同志。現在では、MoMA(ニューヨーク近代美術館)のチーフ;キュレイターである彼が、織絵を指名しているのだという。
17年前。MoMAのチーフ・キュレイターであるトム・ブラウンのアシスタントでしかなかったティム・ブラウンは、ある一通の驚くべき手紙を見つける。それは、美術界において「伝説」と呼ばれ、実在するかどうかさえ判然としないコレクター、コンラート・バイラーからの手紙であった。本来は上司であるトムの元に届くはずが、一字違いで自分の元に届いてしまったのだろう。そんなのは日常茶飯事だ。しかしティムは、そこに書かれている内容に釘付けになった。
バイラー氏の所有する、未発表のルソーの名作を調査して欲しい。
ティムは、すぐさまバーゼルへと飛んでいた…。
というような話です。
これはなかなか凄い話でした。自身もキュレイターだったことがあるという著者の経験を存分に生かした作品ということでしょうか。
本書には、夢が詰まっている。そしてそれと同じくらい、欲も詰まっている。
美術の世界のことはさっぱり分からないけど、そこに集まるあらゆる感情や思惑を大雑把に整理すれば、それは「夢」か「欲」か、大体どちらかに分類できるのではないか。
本書では、バイラー氏が所有するルソーの名作に、ありとあらゆる人物の視線が注がれることになる。そしてその視線は、「夢」か「欲」に分類できるだろう。
バイラー氏から鑑定を依頼された人物が持つのは、純粋な「夢」だ。ずっとむかしからルソーを追い続け、その際評価に務め、作品を前にすれば瞬時に入り込んで抜けられなくなってしまう。そんな、ルソーにとり憑かれた人物は、バイラー氏に誘われ、奇妙な『鑑定』を行うことになる。
それは、絵そのものを見るのではなく、ある書物を読んで真贋を判断しろ、というものだ。
この難題に挑む。その物語は、誰が書いたのかも分からない、謎めいたものだ。ルソーとそれを取り巻く人々を活写した、史実に忠実な物語のような話だ。その物語は、ルソー研究者を震わせる。これは何なんだ?という疑問符を常に頭の中に置きながら、同時に、ルソーが生きた時代の空気に取り憑かれていくことになる。
彼らが追う「夢」は、とてもロマンに満ちている。
生前はまるで評価されなかったルソー。そして、1983現在においても、未だルソーは「遠近法も知らない日曜画家」という評価を脱していない。ティムは、上司であるトムが企画したルソー展の準備を、その立ちあげから行なってきている。MoMAがルソー展を開くことでルソーの再評価に繋げたい。その一心でこれまで突き進んできた。そんな自分が掴んだありえないぐらいの幸運。バイラー氏は、『鑑定』の後、法外な条件を提示している。それが叶うなら、ティム自身の評価にも繋がるはずだ。
ティムは、自分が10歳の時にのめり込み、未だに心を奪われてしまうルソーと真正面から向き合う7日間を過ごす。
しかし、その7日間は同時に、「欲」の存在を思い知らされる7日間でもある。
バイラー氏所蔵のルソーの名作を狙う人間は山ほどいる。ティムは、様々な場面で、そういう人物からの接触を受けることになる。バイラー氏に招待されたことは超極秘事項であるはずなのに、ティムに接触してくる人間はみな内部事情を知っている。そして、バイラー氏所蔵のルソーの名作の秘密も。
ティムはそれまで知らなかったが(バイラー氏がルソーの名作を所蔵していることも知らなかったのだから当然だ)、そのルソーの名作にはとある噂がある。そしてその噂こそが、未だに評価の定まらない、美術界においても値段のつけにくいルソーという画家の作品の、知名度も値段も釣り上げる要因になっているのだ。
ティムは、そういう「欲」の情報を様々に耳にし、うんざりしていく。初めこそ、この『鑑定』をやり遂げて、自分の昇進にも繋げたいという意欲を持っていたティムだったけど、次第にその考え方も変わっていく。ルソーにとって、そしてルソーの名作にとって、何が最も正しい選択肢であるのか。様々に周囲を包囲され、選択肢を徐々に狭められている苦しい状況の中で、それでもティムは、自分が愛するルソーのことを考えて行動しようとする。
そういう、「夢」と「欲」のバランスが素敵だなという感じがしました。まったく知らない美術の世界の中で、「夢」と「欲」という真逆の感情が渦巻いていくことになる。「名画を愛する者」と、「名画で商売しようとする者」の駆け引きは非常にスリリングだし、何よりも「名画を愛する者」の苦悩が描かれるのがとてもいい。現実的には「欲」とは無縁ではいられない美術の世界の中で、しかし奇跡的に純粋な「夢」を追い続けられる環境に置かれた者。しかし、その奇跡的な環境さえ、「欲」の力の前に打ち倒れようとしている。そういうせめぎ合いみたいなものが、圧倒的なリアルさを持って描写されていて、凄くいいなと思いました。
何かを評価したり、その真贋を見極めることは非常に難しいだろうけど、でも、何故か低い評価のままである対象を、自らの努力によってその評価を変える可能性を持つことが出来る、という環境は非常に面白いだろうなという感じがします。「生み出す者」と「批評する者」の関係というものも考えさせられました。それは、ルソーやピカソがいた時代とどんな風に変わっただろう?あるいは、変わっていないのだろうか?
個人的には、折角織絵と織絵の娘との確執が冒頭で描かれるのだから、そこももう少し掘り下げてもよかったかなぁ、という感じがしました。あるいはまったくなくすとか。ちょっと中途半端な扱いで、そこだけ個人的にはちょっと気になりました。
美術の世界がまったく分からなくても楽しめるはずです。何かにこれほど惚れ込むことが出来るという事実がそもそも羨ましいし、その『熱意』こそが、「欲」から名画を守る最大のカウンターなんだろうなという感じもしました。是非読んでみてください。

原田マハ「楽園のカンヴァス」


夏服パースペクティブ(長澤樹)

内容に入ろうと思います。
本書は、青春学園ミステリとして絶賛を浴びたデビュー作「消失グラデーション」の続編です。前作で出てきた樋口真由がまた登場します。
遊佐渉は、都筑台高校2年生。映画研究部の部長だ。部長とはいえ、部員は二人。しかも、内一人は幽霊部員。
幽霊部員である樋口は、遊佐は惚れ込んで見つけて無理やり引っ張ってきた逸材だ。『bloody-May』という名前で動画サイト中心に作品を発表している人物を見つけた遊佐は、その才能に惚れ込んだ。撮影場所などから執念で樋口にたどり着き、強引に部に勧誘したのだ。
そんな遊佐に、ある話が舞い込んできた。
幼馴染であり、名門・葦原女学院高校の映画研究部に所属する御津矢秋帆から、とあるプロジェクトに参加しないかと話が来たのだ。
主にセミノンフィクション系の映像で第一線を走り続ける真壁梓。葦原女学院のOGでもある彼女が、また新たな構想を持って映像作品に取り組むのだという。
それが、HAL Projectのプロモーションビデオの撮影をする撮影チームを撮影するセミノンフィクションだ。
HALは、着実にファンを増やしつつある音楽ユニットであり、丘崎春花と矢窪日菜子は共に葦原女学院の生徒だ。
さらに、彼女たちの人気に拍車をつけたのが、御津矢が撮るプロモーションビデオである。歌とルックスと映像の魅力が相まって、彼女たちは着実に人気になりつつある。
HALは「空蝉乙女」という新曲を出し、そのためのプロモーションビデオを撮影する。しかしそこに、真壁梓が絡む。真壁が何を企んでいるのかはよくわからないが、撮影スタッフの不和を引き起こし、撮影現場にドラマ性を生み出してそれをセミノンフィクション風に撮影しようという意図であるようだ。
その撮影スタッフの募集が急遽あり、これまでの実績を提出してオーディションをすることになった。遊佐自身オーディションを受けるつもりだが、樋口にも声を掛けることに。しかし樋口は、曖昧な返事のままオーディションには顔を出さない。
そして撮影。3日間の合宿を組み、廃校となった中学校を舞台に撮影がスタートする。HALのプロモーションビデオの撮影は、何故かこれまで映像作品にタッチしたことのない、葦原女学院映画研究部部長であり、文芸班チーフである永井美鈴が務め、御津矢は撮影監督となった。「ラブティーン」の読者モデルである佐伯圭史や、プロダクションに所属する女優・名塚佐織らも加わり、少ない人数の中で誰もが何役もこなしつつ、撮影が進んでいく。
しかしそこで、『事件』が起こる…。
というような話です。
デビュー作の「消失グラデーション」も斬新な作品でしたけど、本書もまあぶっ飛んでる感じの作品でした。物語の始まりはちょっと尖った学園小説っぽい感じなんだけど、突然本格ミステリっぽくなる。しかも、恐ろしく複雑な設定で物語が進んでいくのだ。さらに、最終的に本格ミステリの範疇からははみ出してるだろこれ、というような展開で、なんというか油断を許さない作品だなぁという感じがします。
本書の斬新な点は、映像撮影中に起こる事件が『架空の事件だ』ということだ。これは、とても説明が難しい。
遊佐らHALのプロモーションビデオ撮影メンバーは、当然HALのプロモーションビデオを撮影するスタッフだ。しかし彼らは同時に、真壁梓の新作「夏服とフリッカー」という作品の登場人物でもある。さらにその外側に、撮影とは関係ないリアルの世界が存在する。
事件は、「夏フリ」の世界の中で起こる。リアルの世界で起こるわけではない。本当に人が死ぬわけではなく、「夏フリ」という映像作品の設定の中で、真壁が仕掛けた殺人事件が起こるのだ。
問題は、HALのプロモーションビデオ撮影も含めて、真壁が集めた資金で行われているという点だ。つまり、HALのプロモーションビデオは、真壁の掌の上で行われる。真壁が取っている「夏服とフリッカー」の進行に従わねばならないのだ。
『架空の事件』で死ぬ人物は、HALのプロモーションビデオ撮影の欠かせない役者だ。つまり、「夏服とフリッカー」という映像作品の中でその事件を解決しないと、その役者をHALのプロモーションビデオの撮影では使えない、ということだ。
ややこしい。俺の文章で理解できるかなぁ。
遊佐は、父親が私立探偵という理由で探偵役に抜擢されるのだが、この『事件』の難しさは、普通の本格ミステリではなかなかありえないものだ(もちろん、似たようなタイプの作品はあるし、読んだこともあるけど)。
それは、境界条件が曖昧、という点だ。
リアルの世界で殺人事件が起これば、境界条件は、法律だったり物理法則だったり世間の常識だったりする。
しかし本書で解かなくてはならない事件は、「夏服とフリッカー」という世界観の中で起こっている。つまり、境界条件を設定するのは真壁自身ということだ。
これがさらに『事件』を、そして事件解決をややこしくしている。実際、この『事件』の謎解きは、ちょっとぶっ飛んでてて、普通はたどり着けないだろう。ンなアホな、という感じである。もちろん、アンフェアと言いたいわけではない。本格ミステリに凄く明るいわけではないけど、本書の記述なら、アンフェアという感じにはきっとならないだろう。しかしよくもまあこんなぶっ飛んだことを考えたものだよなぁ、と思うわけです。
まあそれからも色々『事件』的なことが起こるんだけど、まあミステリ的な部分についてあれこれ書きすぎるのもよろしくないだろうからこのぐらいにしておきます。
このシリーズのもう一つの魅力は、登場人物たちのやり取りだ。基本的に尖った感じのキャラクターばっかり出てくる作品で、彼らのなんというか、むき身のナイフでやり合ってる感じは凄く楽しい。
「消失グラデーション」の方はあんまり覚えてないけど、確かあっちは一人称だったように思うけど、本書は三人称で視点人物が章毎で結構入れ替わる。誰が何に対してどんな風に感じているのか、という部分が前作以上に多面的に現れていて、凄く面白い。
また、会話がいいんだよなぁ。こいつら高校生じゃないだろ!というような突っ込みはまあ置いといて、相手の内側を抉るような投げかけだったり、裏に何か秘めたような冷静さだったり、なんというか会話の裏側が凄く気になるような感じがある。全体的に凄くスタイリッシュな印象があって、ミステリ的な要素がなくても、この会話とか彼らの立ち振舞いだけでも結構読ませてしまう力がある。
特に、やっぱり樋口がいいなぁ。こういうキャラは凄く好きだ。で、樋口に振り回される遊佐もいい感じ。遊佐は樋口への恋心をあまり隠そうとしてなくて、でも樋口はまったく連れない。さらにそこに、遊佐の幼馴染の御津矢も絡んでくるから余計めんどくさいことになって面白い。キャラクターが物凄くハッキリ描写されている印象で、ただミステリ的に驚かせるだけの作品というだけではない点も高評価です。
この作品が本格ミステリの範疇から外れてるだろ、と言った点は、まあ読んでもらったらなんとなく分かるんじゃないかなと思うんだけど(再度書くけど、別にアンフェアだと言いたいわけじゃない)、現在と過去が少しずつリンクしていく感じとか、細かな部分まで作りこんである感じとか、全体の様式美(使い方間違ってるかな?)も素敵だなと思いました。
僕の方にあんまり時間がないのと、本格ミステリ的な部分にはあんまり触れられないのとで、ちょっと感想が短い感じになっちゃったけど、これは凄く面白い作品だなと思いました。ただ、映像的な描写が多く(映像を撮ってるっていう設定だから仕方ないけど)、その辺りでちょっとイメージしにくい部分もあったから、これは映像にしたら面白いかもなぁなんて思います。実際、「夏服とフリッカー」みたいな、プロモーションビデオ撮影を外から撮るセミノンフィクションみたいな映像も、見てみたいですしね。個人的には「消失グラデーション」の方がオススメですけど、本書も凄い作品だと思います。是非読んでみてください。

長澤樹「夏服パースペクティブ」


中の人などいない @NHK広報のツイートはなぜユルい?(NHK_PR1号)

内容に入ろうと思います。
本書は、ツイッターにおいて絶大なる人気とフォロワー数を誇るNHK広報のアカウント(@NHK_PR)の中の人(中の人はいないんですけど)が、NHK広報のアカウントを作ろうと思ったきっかけから、その後何をどう考えツイッターをやり続けてきたのかということが書かれた作品です。本書のあとがきには、こんな風に書かれています。

『この本は、これまでのツイートを振り返りながら、私がその時々で何を思い、どんなツイートをしてきたのかを、一方的に美化された私の記憶をたよりにまとめてみたものです』

こういう、わざと抜いているスタンスがいいですよね。おなじくあとがきにはこんな文章もあります。

『そういう意味でいえば実際にあったことを基にしたフィクションに近いかもしれません』

まあそんなわけで、どこまでホントのことなのやらわからない話ではありますけど、この作品はメチャクチャ面白かったです。
まず冒頭のエピソードが最高です。NHK広報のアカンとを運用し始めて1年。どんな風にしていったらいいのかいつも悩んでいるNHK_PRさんは、ある日、「ソーシャルメディアで楽しくコミュニケーションして、お客さんを満足させるマル秘テクニック」的な講習会に言ってみるんですけど、そこでなんと…!というような話です。まずこの掴みが最高だなと思いました。
NHK_PRさんがNHK広報のアカウントを作った時の話にまずはびっくりしました。
なんと、「ようし、やっちゃえ!」というノリで作ったらしいんです。つまり、NHKの許可を取らないまま、勝手に非公認的にスタートさせちゃったみたいなんです。
読んでいると分かるんですけど、このNHK_PR1号さんは、しなやかな豪胆さを持った、すごく柔軟な人なんだなという感じがします。『ギリギリのライン』みたいなものがあらゆる場面で存在するとして、NHK_PR1号さんは常に、その『ギリギリのライン』を、あまり気負わず(あるいは、気負っているように見せずに)飛び越えることが出来る。でも、決して飛び越し過ぎない。『後退』を『敗北』と捉えず、下がるべき時はどんどん下がれる。
僕は、こんな本を読んでいながら、実はNHK_PRさんをフォローしてないので、普段のツイートは全然見てないんですけど、でも本書を読むと、そういうNHK_PR1号さんの、最終的に『ユルさ』と呼ばれる部分に行き着く感じの印象を凄く受けます。
そうやって、とりあえずやっちゃえ!と言ってあっさりアカウントを取ってみたNHK_PR1号さんは、どんな風にこのアカウントを運営していくか考えます。
NHK_PR1号さんは、宣伝と広報の違いをこんな風に書いています。

『宣伝がみんなに知ってもらう、使ってもらう、買ってもらう仕事だとすれば、広報はみんなの中にある、「あの会社ってこうだよね」といったイメージを創るのが仕事です』

『自分たちの言いたいことを言うのが宣伝。みんなにどう思ってもらうのかが広報』

NHK_PR1号さんはとにかく、自分のアカウントで『宣伝』はやりたくない、と思っていました。それは、広報がやるべき仕事ではない、と。じゃあ、広報として自分は何が出来るのか。
NHK_PR1号さんのスタート地点は、『実態のない「企業そのもの」に人格を感じさせてみたい』というものでした。
NHK_PR1号さんがツイッターを始めた頃は、『企業アカウントは、担当者の顔が見えるようにした方が成功すると言われ始めて』いたそうです。つまり、そのアカウントの背後に『中の人』を感じさせる、そのアカウントを運用している人間その姿を透けて見せる。そういうやり方がいいのではないか、と言われていたそうです。
でも、NHK_PR1号さんのスタンスはそれとは違いました。NHK_PR1号さんは、自分自身の人格ではなく、『NHKという組織』そのものに対して人格を感じてもらえるような、そんなやり方を当初から目指していたのでした。
そのスタンスを現実のアカウントの運用に落としこむために、NHK_PR1号さんは試行錯誤を続けます。
と言っても、NHK_PR1号さんはもちろんツイッター専従なわけじゃない。業務の合間にパソコンで時々ツイートするだけ。驚いたのは、今はどうか知らないけど、NHK_PRのアカウントを始めた当初は、NHK_PR1号さんの携帯はメールも出来ないようなシロモノだったそうです。必然、会社のパソコンからやるしかない。しかもNHK_PR1号さん、僕が親近感を抱くほどパソコン系の知識が皆無。アイコンの画像も自分では用意出来ないし、ツイッターに詳しいからという理由で広告代理店の会議に呼ばれた時も、自分のそういう方面への知識のなさにオタオタしてたりしました。なんとなく企業のツイッター担当者って、IT系に強そうなイメージなんだけど、全然そんなことないみたいで面白いです。
NHK_PR1号さんは、どんなキャラクターにしたらいいのか、どんなツイートをしたらいいのか、リプライやRTのガイドラインをどうするか、というような割と問題がはっきりとしたものから、そもそも何をどう捉えたらいいのか分からない、問題なのかどうかもよくわからないようなモヤモヤしたものもあるんだけど、NHK_PR1号さんはとにかく自分の頭で考え、さらに実践での失敗(というべきかどうか)から多くを学び、自分なりのスタイルを築いていくことになります。
さっきちょっと書いたけど、広告代理店の人との会議の場で、広告代理店の人のツイッター観とNHK_PR1号さんのツイッター観がまったく違うことが面白い。あまり書き過ぎないように一つだけ。NHK_PR1号さんは広告代理店の人に、『NHKは放送局ですから、情報発信は難しいことではないんです。ですから、NHK_PRは情報の発信というより、むしろ情報を受信するためのツールだと考えているんです』と主張します。
この辺りの感覚は凄いなと思います。ツイッターをやっている人は誰もが感覚的に、「よく喋る人・フォロワーが多い人=情報発信している人」、「あまり喋らない人・フォロワーがそこまで多くない人=情報を受信している人」というような印象を持っているような気がします。でもNHK_PR1号さんは、フォロワー数も多く、フォローしてないからちゃんとは知らないけど、ツイート数もそれなりにあるはずなのに、NHK_PR1号さんの感覚では、受信しているというスタンスなんですね。
こういう感覚は随所にあって、NHK_PR1号さんは、必死で自分の頭で考えながら、同時にチャレンジャーな実践をどんどん積み重ねていくことで、感覚的に(恐らく自分の中で言語化したのは、誰かに説明しなくてはいけなかったり、こうやって本を書いたりする時で、それまではずっと、言語化出来ないけど感覚的にはこういうことなんだよと捉えていただけだろうなと思う)ツイッターというものの本質的な部分に深く斬り込んでいったんだろうなという感じがします。多くの人が捉えているのとは違った形でツイッターというものを見ているし、使っているのだろうなという感じがします。その辺りの一つ一つの感覚が、言語化したことはないけど僕自身の頭にあったものもあれば、なるほどそんなことは考えたこともなかったというようなものまで様々で、凄く新鮮です。
あまり内容について書き過ぎないように注意しているつもりなんで、NHK_PR1号さんのこれまでの軌跡をあまりわーわー書かないように抑えているんだけど、これだけは触れないわけにはいかないという話があります。それが、震災の話です。
僕は、未だにNHK_PRをフォローしてませんが、NHK_PRが凄いなと初めて思ったのは、たぶんこの震災の時です。
いや、ホント、割と泣きそうになりましたよ、あの時。
本書にも書かれていますけど、どこかの中学生がNHKのニュースをYoutubeに流しているという情報を目にしたNHK_PR1号さんは、独断でそれに許可を与えるようなツイートします。実際に僕はそのツイートを(というか、その後のツイートを、か)見た記憶があって、「そんな許可出して大丈夫なのか?」という突っ込みに対して、「辞表を胸に忍ばせています」みたいな感じのツイートをしてたような気がします。凄いなと思いました。あの時は本当に、これは凄いなと思いました。
その後も、まだ震災の余波がまるで収まっていない頃に、「ユルいツイートを再開します」という宣言をして物議を醸し出しました。これについては、様々な意見があることでしょう。被災地の方でも、様々に意見が割れる話だろうなと思います。でも僕は、その当時も、こんな決断が出来る人って凄いなと思ったし、本書を読んで、もちろん当然そうだとは思っていたけど、物凄い批判も飛んでくる中で、辛い思いをしながらユルいツイートをしていたという話を読んで、より凄いなと思いました。
本書には書かれていませんが、確かNHK_PR1号さんが阪神大震災の被災者である、というようなやり取りがあった、というようなまとめも読んだことがあって、その時の経験も含めて、非難轟々の中ユルいツイートをするという辛い決断をすることが出来たんだろうなという感じがします。
こんな文章を引用しておきましょう。

『何かが起きたときにすぐに行動すること、早くなんとかして欲しいと拳を振り上げ大声を上げることは、とても大事なことです。けれどもそれは30年間も続けられることではありません。ただのブームは必ず去ります。ブームになってはいけないのです。
「だからこそローギアで、遠い遠い道のりをゆっくりと進んでいく覚悟が必要なんだ」私はそう確信していました。「そうしなきゃ、支援する人が疲れきった時点で、ぜんぶ終わってしまう」』

最後に、ツイッターに限らず、あらゆる場面でそう言えるよなぁ、という一文があったんで、それを引用して終わろうと思います。

『本当のことを誰も知らないまま話が広がっていくことの恐ろしさ、そして、誰もが本当のことを知らないまま、ものごとについて語ってしまえることの恐ろしさを、私は自分自身で経験していました。私たちはいつも自分で考えているつもりでいるけれど、実は誰かが考えたことや何かで見たことをそのまま受け入れてしまっているだけなのかもしれない…』

本当にNHK_PR1号さんは、ツイッターの運営を通じて色んなことを考えています。
本書を、「よっしゃー、俺もこれを読んでツイッターのフォロワー数倍増だぜ!」みたいな感じで読んでも無意味でしょう。本書は、そんなテクニック的なことが書かれているわけではありません。もしNHK_PR1号さんがやっていることを『テクニック』と呼ぶのであれば、その『テクニック』は非常に単純です。でも、誰でも出来るわけではありません。結局、どんな媒体が出てこようと、どんなツールを使うことになろうと、変わりはないんだな、と感じました。結局、『人に対する興味』の強い人間には、何でも出来るんだろうなぁ(自分があまり『人に対する興味』がないからこその僻みです 笑)。ツイッターを使っていない人でも、コミュニケーションの基本として学べることは多いのではないかと思います。是非読んでみてください。

NHK_PR1号「中の人などいない @NHK広報のツイートはなぜユルい?」


クラウドクラスターを愛する方法(窪美澄)

内容に入ろうと思います。
本書は、1編の中編と1編の短編を収録した作品です。

「クラウドクラスターを愛する方法」
細々とイラストを描きながら、どうにかこうにか生きている私。30歳までは頑張ろうと思っている。居候である向井くんの家で、今は一人。昨日大げんかをして、何故か向井くんが出ていってしまった。
大晦日の朝。私は向井くんの部屋で一人くつろいでいる。
再婚した母のところへ顔を出さなくてはいけない。弟や向井くんも連れてきな、と言われたけど、やっぱり無理そうだ。母の再婚相手は10以上も年下。青森の農家の出らしく、お酒の注ぎ方と、ニコニコと笑いながら褒めちぎるのがとにかくうまい。
子どもの頃。母が家を出ていった。しばらくして私も、弟を残して家を出た。私たちを育ててくれたのは、父の姉である伯母さんだ。しかし、伯母さんも、苦手だ。
母とは、祖母の死後、久々に再開し、それから時折会っている。どうしても私には、家族というものが馴染まない。

「キャッチアンドリリース」
同じ塾に通う光と莉子。塾で片親なのはこの二人だけだ。
莉子の母は、モデルをしていた。莉子の父は、仕事は出来るけど、他は何も出来ない人だった。離婚の前日まで穏やかに会話をしていた夫婦だったけど、結局離婚した。莉子は、小学生とは思えない容姿を持つ、美しい女の子に成長しているのだけど、その変化に、莉子自身がまだついていけない。
光の父は、次第に仕事をしなくなっていった。反比例するように、母が仕事をバリバリこなすようになっていく。よく家にいるようになった父は、光を趣味の釣りに時々連れて行く。離婚した今も、時々父に会うと、釣りに行く。

というような話です。
窪美澄は、デビュー時から恐ろしいまでに僕を抉る作品を書いてきているので、どうしても僕の中でハードルが上がる作家だ。なので、本書は、ほどほどという感じです。もちろん悪くはないけど、どうしても「ふがいない僕は空を見た」とか「晴天の迷いクジラ」と比べてしまうので、評価が厳しくなっちゃうなぁ。
どちらの話も、家族との距離の取り方に苦労する人たちの物語だ。というか、窪美澄は一貫してそういう物語を紡ぎ続けてきた。
そしてその、家族とどう関わっていいのかわからないという感じは、僕にもものすごくよく分かるのだ。
こんな文章がある。

『家族という確かな足場を作って、それを手がかりにして、社会に居場所を作っていくことが怖いのだ。』

本書の中で、一番共感した文章だ。ものすごくよく分かる。
年齢的に、周りの人間が結構結婚していたりする。それぞれがどんな決意やら思いやらなんやらを抱えて結婚というのを選んだのか、まあよくは知らないけど、そういう話を知る度に、すげぇなぁと思う。
先の文章の後、こう続く。

『自分を産んだ母との関係もうまく結べない自分が、自分を守ってくれる家族をすんなり手に入れられるとは思えない』

そうなんだよなぁ。俺も、自分の親とか兄弟のことがすげぇ苦手で、未だに関わるのが面倒だなと思う。昔ほどじゃないとはいえ、やっぱり近すぎる人間関係って辛いなぁって思う。そんな自分が、新たに家族を作っていくなんて、やっぱり想像出来なかったりするのだ。

『母という人間に対する行為や愛情の温度は、私のなかではイラストの仕事をくれる編集者たちと大差がない』

主人公はこんな風に思うのだけど、こういう気持ちも理解できてしまう。僕にとってもそうで、血が繋がってるからと言って特別感は全然なかったりする。というか、血が繋がってるだけで、年齢も経験も何もかも違う存在なんて、合わなくて当然じゃないか?と思ったりもする。僕も、家族に対する感覚は、家族以外の人たちに対する感覚と大差はない。家族だから特別、というような意識が僕にはまるでない。それなのに、『家族だから』という言葉で色んなものが括られてしまうのが苦痛なんだ。『家族だから』というのは、僕にとってどんどん積もっていく重しのようなものでしかない。
まあ別に、『家族だから』なんて直接的に言われたことはないし、これからだってそうはないんだろうけど、僕自身がそういう雰囲気を勝手に汲み取ってしまうんだから仕方がない。まあこれは、『家族』に限らず、名前のある関係性全般的にそう思っちゃうんですけどね。だから、色々しんどいっす。最近、名前のない関係性って素敵だなぁ、って思うようになってきました。名前がなければ、『◯◯だから』なんていう前提も生まれようがないし、そういう関係性だと無意味に枠とか意識しなくていいなぁ、なんて。
窪美澄の作品は、『正直さ』が凄いなと思う。これは、作家さんにしたら褒められているとは感じられない話かもしれないけど。
こういうことだ。本書もそうだけど、その『正直さ』は、もちろん登場人物たちの『正直さ』なんだけど、でもその奥に『窪美澄の正直さ』も伺える、ということなのだ。もしかしたらこれは、ツイッターで窪さんのツイートを見てたりすることも影響してて、純粋に作品そのものから感じられているわけではないのかもしれないけど、でも僕はそう思う。
なんというか、こういう部分はちょっとボカしちゃいたいよなぁ、みたいに思っちゃいそうなところも、どんどん書いていく。それが、登場人物たちの印象を余計弾ませている印象があって、そういう部分も面白いなと思う。特に、「キャッチアンドリリース」の方で出てくる子ども二人。割と子どもを描く時に避けちゃいそうだよなぁ、なんていう部分をサラッとなんでもない感じで書いてて、そういうところも魅力な気がします。
「ふがいない僕は空を見た」や「晴天の迷いクジラ」は凄く重苦しい感じでハードだったけど、それと比べたらライトな印象で、窪美澄入門みたいな感じでいいかもしれません。

窪美澄「クラウドクラスターを愛する方法」


光圀伝(冲方丁)

内容に入ろうと思います。
本書は、後に『水戸黄門』と呼ばれることになる二代目水戸藩藩主・水戸光圀の生涯を追った一代記です。
物語は、子龍と呼ばれていた子供時代から始まる。父・頼房の三男であった子龍は、兄・竹丸(後の頼重)を差し置いて、水戸藩の世子であることが幼い頃から決まっていた。病弱であり、一時命も危うかったと言われる竹丸よりも、頑強で病に強い子龍の方が相応しいからだ、というような雰囲気であったが、しかしこの決定は、後々まで光圀を苦しめることになる。
(なぜ俺なのだ?)
そんな思いを常に抱き続けていた。父・頼房は、自身の子らについては完全な放任を貫き、どうしようという思惑も感じ取れない。子龍は幼い頃から、父のとんでもなく厳しい『お試し』の数々を乗り越えてきたのだが、しかしそれすら、世子であると決まった自分を殺して別の者を世子として立てるためなのではないかと疑い続けることになる。
年を重ね、馬術や剣術などに秀でた子龍は、やがて『光國』という名を得、世子としての鍛錬を積むと同時に、市中に分け入っていって、身分を隠して市井の者と関わるようになっていく。
そんな中で出会ったのか、真っ赤な衣装を身にまとう、恐ろしい膂力を持った老人だった。後々、宮本武蔵という名であることを知るが、光國は彼から学ぼうとある寺へと出向く。そこで、儒学の師たる人物に邂逅する。それまでも書物を読んで研鑽を積んできた光國であったが、そんなものが欠片も役に立たないほどの知性を目の当たりにすることになる。
また同じ頃光國は、身分を隠して腐れ坊主どものとの議論に連勝し続け評判となっていた。そんな頃に、林守勝、後に読耕斎と呼び親しく付き合うことになる男と出会う。最初の最悪な出会いから敵愾心を抱き続けてきた光國であったが、林家という強大な知性と関わりを持つ中で、次第に読耕斎を師と仰ぐようになっていく。そうして光國は、これまで以上に書物を読み研鑽を積んでいくことになるのだが、それが後々将軍をも凌ぐ強大な人脈を築き上げることになり、さらに『大日本史』の編纂という、強大な事業へと繋がっていくことになる…。
市井の人々に寄り添い、詩作を愛し、親しい人との別離に追われた、その生涯を全力で駆け抜けた一人の男の生涯を描く大作。
なるほど、評判通り、さすがの作品でした。スケールのデカさが半端無くて、またこれだけ長くて、しかも登場人物も山ほど出てくるのにものすごく読みやすい。幼少の頃から死に至るまでの生涯を、様々な起伏を描きつつ追っていく様は圧巻という感じがありました。
とはいえ、正直に言うと、そこまでのめり込めなかったかな、という感じもあります。たぶんこれは、僕が『歴史』というものに強い関心がないからなのかなぁ、という感じもするんだけど、それはまた時間があったら書きます。
本書は、上述したように、それぞれの年代における光國の姿が、様々な出来事を含ませつつ描かれていきます。あまり展開を書きすぎてもつまらないので、一応自分用のメモとしてそれ以降の展開をザザッと書くだけにしてみます。読耕斎と出会って以降は、光國にとって自身のこれまでの鬱屈をすべて晴らすことが出来る大義を見つけ、その実現のために動き、また生涯で唯一の妻・泰姫と出会う。江戸の大火を経験しその復興に務め、一方で史書編纂という大事業に乗り出すことになる。若手の有望株も徐々に現れ、特に光國に師事している紋太夫は見所がある。父が隠居してからは治藩も積極的に行い、父の事業を継続しつつ、様々な新規事業を立ちあげていく。また、保科正之に頼まれ、改暦に乗り出すという碁打ちの後見を引き受けもする。そしてやがて隠居し、隠居後も精力的に動きまわり、やがて死に至るという流れです。
さて、そういう光國を主人公とした物語が展開されていく一方で、光國自身の手になるという設定の『明窓浄机』という文章が時折挿入されることになる。上述した内容紹介が、時代時代における光國の有り様を描く一方で、この『明窓浄机』の記述は、本書の背骨のような存在となる。
それは、光國が殺したある人物と、歴史書の編纂についての思いを綴った文章だ。
光國はこれまでも、自らの手で様々な人物を殺めてきたが、しかし『明窓浄机』で描かれるのはたった一人についてだ。それは、最後の最後まで明かされることがない。冒頭、その殺害のシーンが挿入されてから、幼い子龍の物語が始まるのだが、この『光國は一体誰を殺したことについて言及しているのか』というのが、本書全体を貫く謎のようなものになっています。
また、歴史書とは常に草案であるべきであって、常に更新されねばならず、またその評価は常に後世のものが行うべきものだ、というような、自身の歴史書に対する考え方なんかも繰り返し描かれて行く事になります。
個人的には、『光國が誰を殺したのか』という謎で引っ張るのはどうなんだろうなぁ、という感じがしました。確かに最後まで読むと、なるほどこれは光國にとっても非常に大きな出来事だったろうなという感じはするのだけど、作品全体に占める重要度からすると、そこなのかなぁ、という感じはします。とはいえ、物語のラストをあそこに見定めておいて物語を書きだしたのだとすれば、まあ順当かなぁという感じもするので、なんとも言えません。個人的には、『明窓浄机』の挿入は、そこまで必要だったかなぁ、という感じがしてしまいました。
本編は、なかなか面白いです。どの時代の光國も、人間的魅力に溢れている。子どもの頃は、『なぜ自分なのか?』という問いを消すことが出来ないままでいながら、豪胆さを兼ね備えている。青年時代は、世子でありながら市井に飛び込んでいって議論を吹っかけ、負けず嫌いの猛進さだけで突っ走りつつ、学問の修練は欠かさない真面目さもある。藩主となってからは、水戸藩主でありながら江戸常勤という離れた立場でしか指示が出来ないもどかしさを抱えつつ、細やかに民衆に寄り添い、家臣を労う、見事な上司っぷりを発揮します。常に中立であり公正であろうとし、自らに歯向かってくるような人間こそを取り立てていき、それが普通とされていることに異を唱え、理論武装しつつ自らの正しさを押し通す様はなかなか痛快です。
とにかく、もちろん会ったこともないし、水戸光圀についての本なんかもまったく読んだことがない僕が、こんな人間だったら会ってみたいなぁと思わせるような強烈な人間的魅力を持っていて、そしてそれが充分に物語の中で発揮されているなと思いました。光國の言動のあれこれが痛快だし、こんな人がトップに立ってくれたらどんな組織だって素晴らしく回っていくんだけどなぁ、なんて考えさせられました。
でも、やはりそこまでは深く入り込めなかった部分もあります。何故なのかを、『天地明察』と『海賊と呼ばれた男』と比べることで書いてみようと思います。
『天地明察』では、物語のメインは改暦でした。改暦というのはとんでもない大事業で、元々は朝廷が持つ権限だったのだけど、朝廷に今その力はなく、だから代わりに幕府がやろうという話で、それを一介の碁打ちが成し遂げる、という話でした。改暦というスケールの大きなものが先にあって、そこに一介の碁打ちという小さな存在がどう立ち向かっていくのか、というその面白さみたいなものが強く出ていたように思います。
けど、本書では、『天地明察』での『改暦』に当たるようなスケールの大きなものが出てこない。いや、大火にやられた江戸の復興とか、飢饉などで苦しむ水戸藩の治藩などどれもスケールは大きいんだけど、それが個別に分散されてしまっているから、どうにも作品全体を包み込むスケールが出てこない気がしました。さっきも書いたけど、『明窓浄机』で描かれる、『光國が誰を殺したのか?』という謎も、スケールは大きくないですし。
また、『海賊と呼ばれた男』は、周り中敵だらけで味方なし、立ち位置も低いところからという、かなり絶望的な状況から、国家のためにと奮起して遮二無二張り切りまくる経営者の話で、苦境から乗り切る感じとか、絶体絶命のピンチを吹き飛ばすところなんかがやはり爽快だったりします。
でも本書の場合、光國自身に様々な葛藤はあれど、基本的に徳川家の御三家の一つの水戸藩の世子である光國の物語なのであって、基本的に障害はあまりない。光國が自らの裡に理想を抱き、その理想とのギャップに絶望するような場面は多々あるのだけど、しかし客観的に見れば光國は恐ろしく恵まれた環境にいる男だと思う。そういう意味で、『海賊と呼ばれた男』のような痛快さはないんだろうなという感じもしました。
また、光國が熱中する詩作や史書の編纂というものにも、個人的には強く関心が持てなかったりしました。生臭坊主が蔓延る寺社にメスを入れるみたいな、僕自身でも想像できそうな話なら結構面白いんだけど、家同士の争いとか、様々なしきたりなんかによって行動や人生が決まってしまう時代の物語にやっぱりあんまり馴染めないんだろうなぁという気もします。この辺はやっぱり、これまで歴史をちゃんと学ばなかったし、歴史のことが嫌いだったからだろうなぁという感じもします。
とはいえ、一人の男の生涯をここまで深く繊細に描けるものかと感じました。物語としてのスケールは非常に大きいと思うし、読み始めてしまえば一気に読ませる作品だとは思います。読んでみてください。

冲方丁「光圀伝」


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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)