黒夜行

>>2012年10月

私を知らないで(白河三兎)






内容に入ろうと思います。
主人公は、銀行員の父親を持つ中学二年生の「僕」(黒田慎平)。定期的に父親が異動になるため、これまでずっと転勤族として生きてきた。季節はずれの転校生としてクラスに馴染まなければならなかった僕は、クラス内の力関係を見極めたり、当たり障りのない印象を残すテクニックを蓄積していき、どこに行ってもほどほどの、目立ち過ぎもせずかと言ってカーストが低すぎるところに落ち着くこともないまま、穏やかな学校生活を送ることが出来る術を身につけていた。
今回転校した学校はどうも女子の力が相当強いようで、僕がいるクラスではミータンと呼ばれるボス猿が仕切っていた。僕は、彼女の機嫌を損ねないように慎重に受け答えし、またミータンの取り巻きの一人であるアヤと付き合うことで自らの立ち位置の安定を図る。
いつものごとく順調に進み。このまま穏やかに学校生活に馴染めるはずだった。
そこに追い風が吹く。新たな転校生がやってきたのだ。
考え足らずの教師は、転校生同士仲良くって感じで転校生を同じクラスに押しこむが、それは逆効果でしかない。しかも、転校生である高野は、クラスのタブーに堂々と斬りこんでくる。もしかしたらこいつ、空気の読めないやつなのか?
クラスには、『キヨコ』と呼ばれている美貌の女子がいる。進藤ひかり。東京者であることを鼻にかける高野にしても、東京でもあんな子は滅多にお目にかかれないと評する恐ろしい美人だ。
しかし、キヨコのクラス内カーストは、最底だ。クラス全員から無視されている。
その理由に対して憤る高野に対し、公平に誰も助けないことを信条としている僕。僕は、何故か高野に引っ張られるようにして、渋谷に向かうキヨコの跡をつけることになったのだが…。
というような話です。
いやはや、これはいい作品だったなぁ。最初の期待値が低かったからかもしれないけど、凄く良かった。この作家の作品は初めて読んだけど、メフィスト賞受賞作品は気になってたんだよなぁ。これは、ちょっと他の作品も読んでみたくなる作家だ。
ストーリーで読ませる作品ではないと思う。ストーリーだけ取り出して内容紹介をしようとしたら、『色んな理由から辛い状況にあるキヨコを、主人公が助ける物語』ってことになっちゃうけど、でも読み終えた今、そんな内容紹介が出来る作品じゃないなと思う。
本書の主軸は、ストーリーそのものにはない。ストーリーがないわけではないし、最終的に色んなものが繋がっていく感じはなかなか巧いんだけど、でもやはりそこは主軸ではない。
主軸となるのは、『世界と自分との接点における摩擦に彼らがどう対処しているか』という、人間模様だ。
僕が『彼ら』と呼んだのは、主に三人。主人公の黒田慎平と、キヨコこと進藤ひかり、そしてもう一人の転校生である高野だ。
この三人は、三様のあり方で、世界との接点で闘い続ける。
高野は、『優しさ』から逃れられない不幸を背負いつつ、世界のと自分との接点に立つ。彼は、『正しさ』を見失うことが出来ない。『優しくあるべきだ』という考え方を捨てることが出来ない。自分の照れをうまく隠しつつ、それでもヒーローに憧れる。分かりやすいし、単純だ。単純であるが故に、時に鈍感だし、時に脆い。自分を覆うベールを何重にも積み重ねることがないから、表層が剥がれてしまえば心に傷を負う。しかし一方で、自分に何重ものベールがないお陰で、相手にもそれがないと楽観視出来る。高野の世界との闘い方は、黒田慎平や進藤ひかりと比べてしまうとものすごく下手くそに見えてしまうのだけど、でも高野のあり方は世間一般ととても近いところにあるのだろうと思う。ちょっとトリッキーなキャラに見せつつ、高野は世間一般を体現するキャラなんだろうと僕は思う。
一方で、黒田慎平とキヨコは、はっきり言って異常だ。そして、僕はそういう異常な人間が大好きだ。
キヨコについては、書きたいことが山ほどあるのだけど、でも進藤ひかりの生き様みたいなものが本書のメインみたいなところがあるから、なるべく具体的なことに触れないでおこうと思う。
キヨコの価値観は、とてもシンプルだ。しかしそれは、あまりにも他者と違いすぎる。
それは、キヨコの置かれてきた環境があまりにも他と違うからだ。キヨコは、中学生にして、恐ろしく過酷な環境下で生きている。それは、同世代の子どもたちがなかなか経験しないだろう悲惨さだ。
しかしその中でキヨコは、精一杯の努力をする。子どもにはそもそも選択肢は多くはないが、それでも多少なりとも選択の余地はあるはずだ。しかし、キヨコにそれはなかった。キヨコは、自らが託した想いを受け止めて、キヨコの未来を切り開いてくれた人の想いを汲んで、そしてそれはまさにキヨコの望みであるわけで、全力でその細い道を駆け抜ける。強い意志がなければ前進することなど不可能なほどの細く険しい道だ。そこをキヨコは、生活するために必要な価値観と、自分を守るための価値観を見事に擦り合わせることで乗り越えていく。
キヨコは、周りの環境に影響されない。クラスでどんな扱いを受けようと、近所でどんな陰口を叩かれようと、それはキヨコに影響しない。他者からの同情や施しも受け入れない。何でもするからと言ったクラスメートの女子にキヨコが言い放ったセリフは、なかなか驚愕に値する。
キヨコには、周囲の変化や状況に気を配っている余裕はなかったのだ。必死だった。必死で走り抜けた。どんな環境に置かれたら、こんなに強い女の子が生まれるだろう?
僕は、そんなキヨコのあり方が凄く好きだ。たぶん、現実に近くにいたら、ほとんどの人から好かれはしないだろう。キヨコがクラスで除け者にされるのは、ある程度仕方ない部分があると僕も思う。けど、たぶん僕はその強さに惹かれるだろう。自分が彼女に近づけないことを理解しつつ、それでもその空気を常に意識してしまうだろうなと思う。
たぶん。キヨコは、弱くなることを恐れたのだと思う。誰かに頼れば頼るほど、誰かと寄り添えば寄り添うほど、自分が弱くなっていく。一人で立てなければキヨコは生きていけない。少なくとも、キヨコはそう信じていた。だからこそ、他者を拒絶した。所詮、自分以上に人生に真剣な人間は同学年にいるはずもないし、大人にだっていないかもしれない。近所の人間は、彼らにとっては『悪意のない噂』を振りまくばかり。だったら、近寄ったり助けを求めたりしても仕方がない。そうやって、心の上に何重にもベールを積み重ねていったのだろう。
そうやってキヨコは、中学二年生とは思えない価値観を身につけていった。そしてそれは、まだ幼さの残る中学二年生という『弱さ』をひたすら徹底的に覆い隠す鎧のようなものだった。キヨコは、『進藤ひかりという弱さ』を、『キヨコ』という鎧で覆い隠したのだ。時折、そんな『進藤ひかりという弱さ』が垣間見えて、それが凄く愛おしく感じられる。
しかし、何よりも僕を共感させるのが、主人公の黒田慎平だ。このキャラは凄い。たぶん、黒田慎平のような人間を拒絶したくなる人は多いだろう。こういう人がいるなんていう想定をしたくないという人もいるかもしれない。でも僕は、この黒田慎平というキャラにもの凄く共感するし、自分自身が黒田慎平ほどこういうキャラを徹底できていないズルさみたいなものに哀しくなったりもする。
黒田慎平について何かを書くことは難しい。それは、黒田慎平が『常に周辺の余白を探してそこにひっそりと佇もうとしている』キャラだからだ。人があまりいないところを狙って突き進み、そこに自分の立ち位置を確保するのだ。天邪鬼というのとはちょっと違う。目立つために人と違うことをするのが天邪鬼だとすれば、目立たないために人と違うことをしようとするというのが黒田慎平の処世術だ。普通人と違うことをしようとすれば目立つが、黒田慎平にとって『目立たない』というのは『干渉されない』と同義だ。つまり、そう振る舞うことで違和感を相手に与え結果目立つことになっても、その違和感が相手を遠ざけるのならそれで目的に適うのだ。黒田慎平は、『干渉されない』という最終的な目的を満たすために、決して『結果的に目立ってしまうこと』を厭わない。
だから、黒田慎平についてあれこれ書くのは難しいのだ。何故なら、どこに余白があるのかによって、常に自分の立ち位置が変わるからだ。そしてこれは、僕の処世術のやり方と同じでもある。僕も、常にその場の余白を見つけては、そこに自分を押し込めている。その方が楽だからだ。
高野は黒田慎平にこんな風に言う。

『人に干渉しないところとかそっくりだぜ。私は、僕は干渉しないから、その変わりそっちも私に、僕に感傷しないでくれ』

『干渉されたくない』という形で黒田慎平を捉える高野の視点は的確だ。この『干渉されたくない』という感覚の原点は、もちろん引越しを常に繰り返さなくてはならないという環境もあるのだけど、決してそれだけではない理由がある。
また別の場面で高野はこんなふうにも言う。

『そこが黒田の美点だ。後悔も言い訳もしないのは覚悟が半端ないからだ。』

黒田は、どんな酷いことをしたとしても後悔をしたことがない、という話を受けての反応だ。これも、僕は凄く分かる。
例えばいつも僕はこんな風に思う。バイト先で体調の悪いスタッフがいる。そのスタッフは割と仕事が多い。周りのスタッフは、「体調が悪いなら帰った方がいいよ」という。
しかし僕はこのセリフが腹立つのだ。自分が言われたわけではない場合でも。
僕はこんな風に言いたい。じゃあ、あんたが仕事を全部引き受けるのか?と。
結局体調が悪くて早退したって、大量にある仕事を誰かがやってくれないのなら、体調が回復して戻ってきた時にしんどいだけだ。「体調が悪いなら帰った方がいいよ」というのは簡単だ。でもそこには、「後は自分が全部やっておくから」という意味も含まれていないといけない。そうじゃなきゃ意味がないのだ。
だから僕は、どれだけ体調が悪いスタッフがいても、そのスタッフが抱えている仕事を自分が引き受けることが出来ないなら、安易な声は掛けない。それで嫌われようがなんだろうが、それは仕方ないと思ってそうするのだ。
適切な例ではなかったかもしれないけど、でもそういうことだ。自分が関わるのであれば、責任も持たなくてはいけない。口だけで言うのは簡単だけど、それで終わらせてはいけない。そして、結局口だけで言うしかないなら、言わない方がいい。黒田慎平は、その辺りのことをとてもわきまえている。
黒田慎平が、初めから好きでもなかったアヤと別れるシーンは、ちょっと凄すぎる。あれはビビった。どんなことを言うのかはここでは書かないけど。個人的には、ああ言うことをサラッと言える人間に憧れる。その感覚は、きっと異常なんだろう。それは分かるけど、でもどうしても、黒田慎平のあり方に惹かれる。
かと思えば別の場面で、こんな風にも言う。

『命は軽いんだ。自分の命の重さを決めるのは他人だ。僕は高野の命を重くする一人だ。だから言える。高野がしたことは僕にとっては正しいことだった』

色んな黒田慎平が現れるが、しかし黒田慎平の中では矛盾はない。それが、僕には分かる。つまり、踏み出すためには覚悟がいるということだ。それは、覚悟さえ決めればいつでも踏み出せる、という意味だ。そして、出来るだけ覚悟を決めないように意識しているというだけのことなのだ。
黒田慎平の魅力を言葉で説明することはとても難しい。そもそも、本書を読んでも、黒田慎平にまったく魅力を感じられない人だっていることだろう。でも、まあそれは仕方がない。むしろ、黒田慎平に魅力を感じない方が正常なのだろうなとも思う。ただ僕は、真っ当さとか正常さみたいなものには、あまり惹かれない黒田慎平と同じだ。真っ当ではないもの、どこか外れてしまったものには、異常に関心を持つ。だから僕は、キヨコと黒田慎平に強く関心を持つ。なんというか、二人の関係はとても羨ましい。だって、あのキヨコが、黒田慎平の前では鎧を脱ぐのだ。こんな快感もないだろう。そんな感想を抱いている時点で、あぁ俺ってクソ野郎だなぁって思うけど。
三人に共通するのは、『自覚的であること』だ。自分の立ち位置に、周囲との相対的なポジションに、自らの黒さに。普通多くの中学生が、無意識の内に空気を読んで、その空気に従って行動するのに対して、三人は自覚的に空気を分析して、敢えてその空気から外れようとする。三人のそれぞれのあり方が狭い範囲でぶつかり合い、特殊な摩擦熱を発する様は、読んでいてとても面白いと思う。
デビュー作であるメフィスト賞受賞作「プールの底に眠る」が気になっていたのは、辻村深月が帯にコメントを寄せていたからだ。本書を読んで、なんとなく辻村深月を連想した。そして道尾秀介も。本書の印象を一言で書くとすれば、辻村深月と道尾秀介を足して2.5で割ったみたいな作品、となるだろうか。これは褒めているつもりだ。のうのうと生きているわけにはいかなかった、自覚的に前に進むしかなかった彼らが、中学生にとってはままならない現実の中で必死さを押し隠しつつ努力する物語。凄く雰囲気がいいし、キャラクターがとても立っている。他の作品を読んでみたくなるくらいには気になる作家になりました。是非読んでみてください。

白川三兎「私を知らないで」


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つむじダブル(宮下奈都+小路幸也)

内容に入ろうと思います。
本書は、宮下奈都と小路幸也が交互に書き紡いでいった、リレー小説みたいな作品です。宮下奈都が妹のまどか視点で、小路幸也が兄の由一視点で物語を書いています。
小宮家は、接骨院と柔道場を経営するおじいちゃんと、SEをしている父と、お菓子を焼くのがうまいキレイな母と、バンドでギターボーカルをしている兄と、おじいちゃんの柔道場を継ぐことを目標に日々練習を続けている妹の五人だ。鎌倉にずっと住んでいて、家族みんな仲がいい。
まどかは、学校で一番の仲良しの美波ちゃんと一緒に帰ったりお喋りをしたりして、家に帰れば柔道の練習をしている。小学四年生だけど、色々考える時期で、単純に子どもっぽくいられるわけでもない難しいお年頃だ。なんだか、色んなことを考えてしまう。まあもちろん、ちょっとしたことで別のことに気を取られて忘れちゃうことも多いんだけど。
まどかの一番の関心は、強くなること。女の子っぽいことに惹かれるわけでもなく、まどかはただどうやったら自分が強くなって、そしておじいちゃんの柔道場を継ぐことが出来るのかを考えている。それは、まどかにとっては、とても遠い目標に思える。どうやったら強くなれるんだろう?
まどかはある日、お母さんがいない日に変な電話を取った。芦田さんと名乗るその女の人は、お父さんの知り合いっぽかったけど、おかあさんに電話を掛けてきたみたいだ。なんか変だったから、お兄ちゃんにも報告したんだけど…。
由一は今、進学についてが悩みの種だ。進学校にいるから、進学するのはほぼ確実なコースなんだけど、でもバンドのことがある。
メジャーデビュー。
彼ら5人は、それを本気で狙っていた。結成から5年目。知り合いばっかりが来て馴れ合いになるのが嫌で、ライブはいつも吉祥寺でやってる。CDを作ったことはないけど、いつかちゃんと作って売りたいなんて話もしている。音楽に対しては、みんな本気なんだ。
だから、大学をどうするかっていうのは、凄く悩む。まあ、とにかくバンドを少しでもよくして、前に進んでいくしかないんだけど。
妹のまどかのことは、凄く可愛い。最近は、女の子的な部分も出てきて、昔ほどお兄ちゃんお兄ちゃん言われなくなったような気がするのがちょっと哀しいくらいだ。いつも元気で明るくて、柔道の練習を一生懸命やってるいい子だ。
時々まどかから、相談があります、と言ってまどかにとって深刻な話を切り出されることがある。芦田さんの話も、それで聞いたんだ。そうそう、ライブ会場に、普段は見かけないおばさんがいたってマサヤが言ってたな…。
というような話です。
なかなか面白い作品でした。確か、初めの設定と終わりぐらいしか決めないで、後は特にお互いやり取りすることもなく書いていった、みたいな話を聞いたんだけど、それでよくこれだけまとまりのある作品を書けたものだなぁと思いました。ちょっと謎めいたところのあるストーリーですけど、でも謎の核心そのものはそこまで大したことはありません。でも、結構読ませるんですね。見せ方で読ませているという感じで、巧いなと思いました。
まず、やっぱり僕は、宮下さんの弾んでるような感じの文章が好きなんだよなぁ。宮下さんは、まどかのことを、本当に活き活きと描く。
まどかの意識は世界に対して全開放されていて、あけっぴろげだ。本人は、時折引き締めたりしているつもりなんだろうけど、結構だだ漏れている。そのだだ漏れている感じが、凄く楽しい。まどか本人が基本的に常にウキウキしているわけで、そのウキウキが文章にも乗り移っているような、そんなウキウキさがやっぱりいいなと思う。
まどかは、結構色んなことを考える。大抵は、どうやったら強くなれるかな?っていうことを考えてるんだけど、少しずつ小宮家に色んなことが起こるにつれて、まどかも普段は考えないようなことを考えていくことになる。
自分が女の子であるということとか、家族のひみつについてとか、考え慣れていないことを考えるまどかは、結構フラフラする。自分の気持ちの上下に、意識がついていけていないようなおかしさがある。もっと深いところでは何か掴んでいるような感じがあるんだけど、でもそれを言葉で捉えることがまだ出来ない。その『何か』の周りをグルグルグルグル回りながら、なんだろうなぁこれ、なんて思いながら右往左往している。そういうことが、宮下さんの文章から凄く伝わってくる。小学四年生の女の子だった経験がないから、まどかのこのグルグルした感じが女子がみんな通るところなのかどうか分からないけど、なんとなく凄く小学生の女子らしい感じがするから不思議だ。由一がなんてことない場面で、まどかが最近子どもじゃなくなってることを捉えて、自分が小学生の時はどうだっただろうと考える場面があった。そこで、「男は馬鹿だからな」なんてひとりごちるんだけど、本当にそうなんだよなぁ。男ってホント馬鹿だから、小学生の頃なんか基本的になーんも考えてなかったりするんだよね。まあ、環境的にそんな風ではいられない人もいるだろうし、僕自身はどっちかっていうと周りの人よりは考えている方だったと思うけど、まあ全体的にね。本書では、なんとなく女の子から脱皮し始めている女の子っていうものを、なんか凄く巧く捉えている感じがありました。僕が一番好きなシーンは、『あ、わかった。不自由だって思っちゃうことが、もしかしたら不自由なのかな』ってとこです。
由一の方は、音楽に関する描写がやっぱりいいなと思いました。
由一は結構真面目で、それは他のバンドのメンバーも同じで、親のこととかもちゃんと考えている良い子たちだ。そして、何よりも音楽を大事にしている。結成した時から、メジャーデビューを考えてずっとやってきている。
だからこそ、将来について悩む。進学しないでバンドをやるのは、メジャーデビュー出来なかった時にキツくないか?でも、大学に行きながらバンド活動なんて、中途半端じゃないか?
ある場面である人が、由一にこんなことを言う。

『真っ当な人生を捨てる覚悟がなきゃミュージシャンなんかやってられん。あるいは端っから真っ当な人生なんかあるけない連中でしか、できない』

それを聞いて由一はちょっと驚く。そんなことは考えたことがなかったからだ。由一はそれで、自分が設問を間違っていることを悟ったのだ。どちらか選ぶこと、ではなく、覚悟を決めるかどうか、が問題だったのだ。
その人は、続けてこんなことを言う。それが、なんか僕には凄くいいセリフに思えた。

『全ての音楽は、いや芸術は、真っ当な人生を歩む人たちへのエールなんだ』

なるほどなぁ!
なんというか、由一は、自分が進むべきと信じている道のずっと先にいる人に出会えて、さらにその人から自分の人生を押してくれるような言葉をもらうことが出来た。たぶんそれって凄く幸運なことで、なかなか起こることじゃない。『そういう人に出会う連中は、出会うべくして出会うんだ』なんて一文もあったりするんだけど、そういう、由一がこれから足を踏み入れることになる音楽という世界のざらっとした雰囲気みたいなものを巧く感じさせてくれるような気がしました。
どっちがどうということはないのだけど、全体的に見て、小路さんのパートの方がストーリーを展開させる役回りという印象で、宮下さんのパートの方がストーリーの隙間を敷き詰めるより形の見えにくいものを描いているという印象でした。お互いのそれぞれの役回りみたいなものがちょうど補い合っているような感じがして、凄くいい感じで話が進んでいっているように思いました。まどかも由一も、もちろんお互い見ているものが違って、見えているものも違って、家族に対するスタンスも違って、性別も年齢も違っている。そういう中で、二人はそれぞれ、それぞれの視点での『納得』を手にすることになる。それは、辞書通りの意味の『納得』じゃなくて、どちらかというと、『まあ納得されてやるか』みたいなニュアンスだったりもするんだけど、でもそういうことが、特に小学四年生のまどかに出来るというところが、なんか素敵な感じがしました。諦めるわけでもなくて、見捨てるわけでもなくて、そういうのとはちょっと違ったところから『家族のひみつ』を捉えて深入りしない。『家族のひみつ』を通じて、家族全体が一歩より大人に近づいていくみたいな、そんなストーリーだなと思いました。是非読んでみてください。

つむじダブル「宮下奈都+小路幸也」


64(横山秀夫)





凄かった。
とんでもない作品だった。
こんな警察小説を書けるのは、横山秀夫しかいないだろう。

内容に入ろうと思います。
三上は、警務部広報室に所属する警視で、広報官である。
長年、刑事部の一課と二課を渡り歩き、数々のホシを挙げてきた、生粋の刑事だった。
しかし三上には「前科」があった。
刑事三年目に、何故か広報行きを命じられた。たった一年で刑事部に戻ったが、その時の広報経験が、三上を苦しめる「前科」となったのだ。
広報に情報を流せば記者に筒抜けになる。
刑事はみなそう思っている。三上とて、刑事時代はまさにそう思っていた。
刑事時代、三上がどれだけホシを挙げようとも、書かれてはならない捜査情報が新聞に出る度、上司と同僚の視線は不自然に三上を避けた。
この春、赤間警務部長に異動を内示された時も、その「前科」が頭をよぎった。
三上は、二年で刑事部に戻ることを目標に、それでいて広報室の改革に取り組んだ。
かつて警察には、広報という仕組みは存在しなかった。刑事には、自分の裁量で記者に情報をもたらすある程度の自由があった。自らの手柄を記者に話すことが出来た。しかし、広報という仕組みが出来、情報の流れは滞った。組織運営を担う警務部に所属する広報室は、「警察の現業」である刑事部から、情報がまったく入ってこなくなった。情報を一元化するために作られたのに、入ってくる情報は離島に近かった。刑事部からは、捜査情報漏れがあれば突き上げをくらい、記者クラブからはまともな情報が入ってこないと突き上げをくらう。広報が名実ともにエリートコースになっている大規模県警に追いつかんと、広報「室」から広報「課」への看板の掛け替えも進んでいるようだが、D県警ではまだ「室」のままだ。人員拡充の話もない。
三上は、そんな広報室を、外へ開かれた「窓」にすべく改革に取り組もうとした。刑事部に戻る意志は捨てることなく、そのため刑事部との繋がりをそれなりに保った上で、警務部広報室の広報官として、真っ当な広報を目指すつもりだった。
しかしそれは、赤間刑務部長の思惑とは違った。赤間は、「知らなければ喋りようがない」という考えで、三上に「強面の案山子」の役割を求めた。好き好んで広報官になったわけではなく、刑事部に戻りたいと思っている三上は、自らの身の振り方の難しさを思う。
さらに、三上を追い詰める出来事が起こる。
娘のあゆみが失踪したのだ。
心の病気になり、部屋から出なくなったあゆみは、ある日突然いなくなった。三上も、元婦警だった妻・美那子も必死で探すも、一向に見つからない。
三上は、あゆみを見つけ出すために、悪魔に心を譲り渡してしまう。
三上には、選択肢はなかった。何度も、これは家族のためなのだと言い聞かせた。しかしそのために三上は、手足を縛られたような状態になっている。折角順調に進んできた広報室改革。記者クラブの面々とも少しずつ関係を築けてきた矢先の出来事だっただけに、三上としても忸怩たる思いがある。
さらにそこに不運が重なる。
全国で厄介な問題として持ち上がっている『匿名問題』にぶち当たったのだ。
広報が記者クラブへの会見をする際、これまでは基本的に実名を旨としていた。事件の状況によって、広報と記者クラブの相談の中で、記事にする際匿名にするかどうか決める。そういうやり方が普通だった。しかし、個人情報保護の機運の高まりや、マスコミ取材による被害者のプライバシーの流出などが社会問題になるに連れて、警察発表の段階で記者に対して匿名で報告されるようになっていく。
もちろん記者クラブは黙っていない。全国の警察でも頭を悩ませる問題になっている。D県警広報室でも、まさに今この問題が持ち上がり、広報室と記者クラブの関係は一触即発だ。
悪いことは重なる。近日中に、警察庁長官がD県警の視察にやってくるという。
「ロクヨン」絡みだ。
「ロクヨン」とは、D経験史上最悪の事件を示す符丁だ。
たった7日間で幕を閉じた昭和最後の年。「翔子ちゃん誘拐殺害事件」は起こった。
昭和64年1月5日。漬物店を営む雨宮芳男の娘である雨宮翔子が誘拐される。逆探知のための人員が配置される直前に犯人からの電話がやってきたために録音がならず、また身代金受け渡しでも裏をかかれ、結局翔子ちゃんは死体となって戻ってきた。あれから14年間。ずっと捜査は続けられたままだが、未だホシは上がっていない。D県警の中に様々な形で影を落とす事件だ。
警察庁長官は、被害者の雨宮邸を慰問し、その帰りに記者からのぶら下がり取材に応じるという。「ロクヨン」の解決を目指し全力を尽くす、というアピールになるという。三上は、被害者遺族である雨宮芳男の許可と、記者クラブとの事前協議を任されるが、雨宮芳男はまさかの慰問拒否、さらに記者クラブとは匿名問題で大揉めに揉めている最中。八方塞がりの中三上は、『広報官』の領分を侵す調査に乗り出し…。
というような話です。
いやはや、これは凄かった!横山秀夫、やっぱり凄いです。病気療養だったという噂を聞いたことがあるけど、7年間のブランクを感じさせない、というか、これまでの著作と比べてもトップクラスの作品という感じで、横山秀夫完全復活と言っていいとんでもなく素晴らしい作品でした。
横山秀夫作品をよく読まれている方には説明不要でしょうが一応。
横山秀夫は、いわゆる『刑事』以外の警察関係者を主人公に据えた警察小説を発表し、警察小説の世界に「横山以前、横山以後」と呼ばれるほどの革命を起こした作家です。
本書でも、主人公は広報官です。
僕はまったく覚えていなかったのですけど、本書の舞台となるD県警は、「陰の季節」という横山秀夫のデビュー作と同じ舞台設定です。とはいえ、「陰の季節」を読んでいなくても全然問題はないと思います。
警察小説とか刑事ドラマとかに触れていると、警察の中には「刑事」とか「公安」とか「生活安全課」とかそういう、事件と直接関わる人しかいないんじゃないかって思ってしまうけど、もちろんそんなわけはない。お金を預かる人もいれば、人事を担当する人もいる。
そして、外に向けて捜査情報を発信する広報もいる。
まず、この広報という立ち入りが非常に面白いです。
元々刑事だった三上は、刑事視点で見た時の広報のイメージというものがある。同じ警察の仕事をしているとは思えないほど記者とべったりで、捜査情報もペラペラ喋っているように見える。そもそも、ホシを挙げた刑事が記者に話すのが一般的だった事件取材を、記者クラブと広報が大きく変えたのだろう。警察としては、マスコミに流れる情報を一元化して統制したい。マスコミとしては、自身が特ダネを得るチャンスを失ってまでも、他社が特ダネを手に入れる可能性を潰したい。双方の思惑が重なりあって、広報という仕組みが作られるようになる。
しかし、それは一筋縄ではいかない。
そもそも、刑事部と警務部の関係というのが複雑だ。お互いにやっていることはまるで違う。一定の距離を保ち、表向きは無視をしないが、陰では悪口を言う。しかし、双方の関係が希薄なだけに、実質的な衝突も起こりにくい。
しかし、一度なにかあればその限りではない。結局、刑事部は警務部を信頼していないし、警務部も刑事部を信頼していない。
D県警には、「ロクヨン」という爆弾がある。
いや、それを爆弾に変えようと動いているようにしか見えない男がいる。
警務部きってのエリート、二渡だ。
二渡は、D県警最年少の40歳で警視に承認し、組織運営の要である警務課調査官の席に7年間座り続けている。
その二渡が、「ロクヨン」について何か探っているらしい。
二渡が付けて回っている火は、刑事部を発火させる。同じ警務部に所属する三上は、日に日に刑事部による警務部に対する視線が厳しくなっていくのを感じる。
警務部は、赤間は、一体何を企んでいるんだ?
刑事部の全員が疑心暗鬼になっている。三上は、別件であれこれ動かざるを得なくなり、かつての刑事部のよしみとも多く接触するが、しかし三上は二渡と同類と思われ、警務部憎しの渦に巻き込まれることになる。
三上の心中は穏やかではない。
三上は、所属は警務部であるが、心は未だ刑事部にいる。広報官としての仕事を疎かにするつもりはないし、様々な事情から赤間の意に沿った行動を取らざるを得ない状況にあるが、しかし近い内に刑事部に戻ることを諦めてはいない。
そんな状況の中で、三上にはまったく理解不能な状況から、刑事部と警務部が対立し始めている。そして、警察庁長官による視察を成功させるために、遺族の雨宮と記者クラブを共に攻め落とさなくてはならず、そのために必死に動いている三上は、その動きによって刑事部から怪しげな目で見られてしまうのだ。
本書の物語の主軸はこの、三上の内心の葛藤にある。
三上は、刑事としての自分、広報官としての自分、そしてあゆみの父親であり美那子の夫であるという自分に挟まれ、溺れそうになっている。思いがけず広報に異動になり、刑事として生きることが出来なくなった三上の、刑事部への郷愁や未練。それは随所に現れるが、しかし広報官として広報室の改革に乗り出し、ある程度軌道に乗せてきたという自負もあり、広報官としての自分にもそれなりの自負は芽生えてきた。そして何よりも、失踪したあゆみの心配が先に立つ。立つのだが、しかしそれと自分の信念とどう折り合いをつけて行けばいいのか。あゆみを見つけ出すために、三上は魂を売った。それは、そうするしかない、三上には避けようもない選択だった。しかしそのせいで三上は、広報官としての自分にも、もちろん刑事としての自分にも、意味や自信を見いだせなくなってきている。
その葛藤が、随所で描かれていく。警察という、26万人の人間がひしめく超巨大組織の中で、組織としての論理と自らの信念に挟まれ苦悩する男の姿が、引き絞られるようにして描かれる。
その上で、三上という主人公の設定は、まさに絶妙としか言いようがない。「ロクヨン」という未解決事件を抱えるD県警において、元刑事でありながら何故か広報に異動させられた男。しかも、娘が失踪したために、上司に牙を抜かれた男。そんな三上が、警察庁長官視察という一大イベントを乗り切るために、独自の捜査を繰り広げていく中で、物語の中にミステリーが生まれる。
この展開も巧いんだよなぁ。
三上の目的は、広報官として警察庁長官視察の準備を万端に整えることだ。
しかしそのために乗り越えなくてはならないハードルは、あまりにも高い。
まず、遺族である雨宮芳男が、長官の慰問を拒否した。警務部長の赤間は、被害者宅での慰問は絶対に外せないというが、当の雨宮が警察に対する不信感を隠そうとしない。
なぜだ。
確かに犯人は捕まっていない。その失望は大きいだろう。しかし、それ以外にも何かあるのではないか?雨宮の心を開かせるために、三上も事件当初だけ関わった「ロクヨン」事件について嗅ぎ回らねばならなくなる。
しかしその途上で三上は、きな臭い動きを察知してしまう。初めはほんのりとした疑惑でしかなかったが、様々な事実が少しずつ積み重なることで、三上はD県警に秘められた爆弾の存在を確信していくようになる。
そして、三上の思惑とは違い、三上のその行動は、刑事部への反逆だと受け取られてしまう。二渡が動き回っているからだ。誰が何を知っているのかまったく読めない状況で、三上は次第に、「雨宮を説得するため」という当初の目的を外れて、D県警で何が起こっているのかを追いかけていくようになる。
もう一方の壁は、記者クラブだ。
三上は、広報官になって以来、広報室の改革を続けてきた。広報室を通した情報にはロクなものがないという状況は、元刑事とい特殊さを生かした三上が少しずつ変えていった。記者クラブの面々とも、一定以上の信頼関係が出来ていたと言っていい。
しかしそれを、あゆみの失踪と匿名問題がぶち壊した。
警察庁長官の視察が決まったのは、その直後だ。タイミングが悪すぎる。ただでさえ記者クラブはいきり立っている。匿名問題は、後々まで尾を引く、広報部にとっての大問題になっていく。彼らをどうにか鎮め、警察庁長官への取材を了承させねばならないが、その道は遠い。
三上と記者連中とのやり取りは、ほとんどが険悪なものであるが、しかし時折お互いへの理解へと繋がる瞬間もある。広報室からすれば、記者クラブの連中は言いたいように言い書きたいように書くうるさい連中に見えるが、しかし記者としたって真剣に仕事をしている。警察をただ叩きたいというわけではない。双方による不信の積み重ねが不幸を呼んでいるというだけなのだ。
だから、そんな一瞬の雪解けの場面はなかなか好きだ。特に、『見も聞きもしなかったことにします―これは我々の仕事ですから』『悔しいですよ、やられっぱなしで』というセリフは、とてもグッとくるいい場面だった。
三上は、広報官として恐ろしいまでの現実に対処していく中で、少しずつ変化していく。その変化は、物凄くゆっくりだ。様々な人に会い、様々な話を聞き、またあゆみの失踪以後人が変わったようになってしまった美那子とのやり取りを通じて、三上の内部で様々な思いが渦巻き、熟成され、三上がそれまで想像もしていなかっただろう道を歩み始める。
そんな三上を翻弄し続ける、警察という組織。本書は、三上の葛藤の物語であると同時に、生き物のように意志を持ち変化する、魔物としての『組織』の物語でもある。
横山秀夫は、まるで生き物のように『組織』を描く。三上や赤間や二渡や、その他大勢の警察関係者は、さながらその生き物の『臓器』であるかのように描かれているように思う。
警察という組織全体としては、一つの大きなまとまりを持つ。しかしその中では、様々な臓器が『自分に与えられた働き』をし、それが時に体全体にダメージを与えることもある。
広報室の記者クラブ懐柔の失敗、刑事部と警務部双方の不信、本庁からのエリートと生え抜きの思想の違い、「ロクヨン」という爆弾、二渡の謎めいた行動、赤間の目指す組織像。そういう様々な思惑が絡まり合い、D県警を舞台に様々な事象が展開していくことになる。
三上は、そんな組織の中で、自らの立ち位置を定められないでいる。刑事と広報を行ったり来たりさせられた経歴がそうさせる部分もあるが、D県警の土台が崩れ落ちようとしているという点も大きい。組織の中での役割を果たし、そこから逸脱しないようにしようとすれば、平時は組織に守られるが、有事には放り出される。三上は、そんな生き方を良しと出来ない男なのだろう。組織の論理にがんじがらめにされつつも、三上は逸脱を恐れない。D県警始まって以来の有事にあって、逸脱しなかった様々な人間が何らかの形で傷を負うのに対し、平時であっても切り傷の絶えない三上は、有事で力を発揮する。自らの土台の不安定さを見抜き、自らが依って立つ足場がいつ崩れてもおかしくないのだという認識の中で、組織の論理と自らの信念とをどちらも飲み込み、それを自らの行動原理に変換していく。
警察という組織が長い歴史の中で積み重ねてきた特殊な論理は、他の組織とはなかなか比べ物にならないだろう。しかし、組織の力学というのは、どんな組織にでもきっと存在するはずだろうと思う。官僚と職人が同居し、不可思議な論理が熟成される警察という複雑怪奇な組織における奇妙な論理を、これほどまでに分かりやすく提示し、しかも興味深く物語に落とし込めるのはさすがだなと思う。
本書は、三上の葛藤を描く作品だと言ったけど、もちろんミステリ的な要素もあるので、感想中に書けないことも多い。ラスト付近の展開の衝撃っぷりと言ったら、もう唖然とするばかりだ。ありとあらゆる伏線が見事に繋がり、怒涛の展開と共に、素晴らしい着地点を描き出す。まあ、決着がつかない部分もあるにはあるのだけど、そこまで盛り込むことを期待するのは酷だろう。既に、やり過ぎではないか、というほど盛りだくさんの内容なのだ。最後まで読んで、この部分に決着がついていないではないか、なんて文句を言う奴は野暮だなと思う。
本書の凄さの一つは、現在進行形で起こる事件がほとんどない、ということだ。普通の警察小説であれば、捜査中のデカイ事件が何かあり、それに様々な要素を組み合わせて行くだろう。しかし本書は、広報室が巻き込まれる、マスコミとの諍いのタネになる事件こそ現在進行形だが、基本的には組織政治の力学と、14年前に起こった「ロクヨン」という事件の話で物語が進んでいく。それだけの要素でよくもまあこれだけスピード感のある魅力的な物語を紡げるものだなと思いました。
自らの登場によって、警察小説というジャンルに新たな突風を吹きつけた横山秀夫が、この最新作によって、警察小説をさらなる高みに押し上げた。大げさに聞こえるかもしれませんが、僕は本当にそんな風に思います。凄い作品を読みました。横山秀夫完全復活!という表現ではまったく足りない、進化した横山秀夫の到達点を見ることが出来るのではないかと思います。是非読んでみて下さい。

横山秀夫「64」


ソハの地下水道(ロバート・マーシャル)

内容に入ろうと思います。
1970年初頭、ポーランドに暮らす初老のユダヤ人であるイグナチィ・ヒゲルは、かつて恐ろしい時を過ごした仲間から手紙を受け取り、その当時の出来事を洗いざらい書きつけることにした。本書は、その文章と、様々な人物へのインタビューを再構成して当時の有り様を再現したノンフィクションです。
1943年。ポーランドのルヴフという町は、ユダヤ人が狭い区画に押し込まれ暮らしていたゲットー地区や、少し先に収容所があり、ユダヤ人はドイツ軍により徹底的に残虐な扱いを受けていた。ホロコーストである。
ドイツ軍の上官の気まぐれで人が殺される。理由もなく、意味もなく、順番もなく、ひたすら殺戮が繰り広げられる日々。ユダヤ人たちは、自らの持てるものと知力を振り絞ってどうにか自分の身を、そして自分の家族を守ろうと努力したが、しかしそれは微々たる影響しか残さなかった。
後に『三月作戦』と呼ばれることにとなる、それまでと比べても激烈な期間が過ぎた後、一人の男がヒゲルに接触した。
ヤクプ・ベレスティツキ。父親から譲り受けた地域の顔役的な立ち位置にいるヒゲルの元で働く錠前師だった。
ヤクプは、ヒゲルが様々な家に隠れ場所を作っていることを知っていた。その手腕を活かせると思ったし、何よりもヤクプが自由に動くためには、親方であるヒゲルの許可がいる。
ヤクプは、ヴァイスという男と組んで、ある計画を進めているところだった。
それは、地下水道に潜伏しようという計画だ。
これまでも、地下水道に注目したユダヤ人はいた。しかしそれは、『脱出経路』としてだった。彼らは、地下水道を通ってどこか別の町に逃げることを目論んだ。しかし、そんなことは先刻承知のドイツ軍は、ユダヤ人が出てきそうなところに見張りを立て射殺していった。脱出経路としては地下水道は魅力的ではない。
しかし、そこに潜伏し続けると考えたらどうだろうか?彼ら三人は、ヴァイスの部屋が地下水道のライン上にあることを知っており、ヴァイスの部屋から慎重に掘り進めていき、地下水道まで至るルートを確保しようとしたのだ。
それは実に慎重に行われなければならなかった。
まずコンクリートの基礎を打ち破らねばならなかったが、しかし大きな音を出すわけにはいかない。少しずつ時間を掛け、ドイツ軍の監視の目をくぐり抜けつつ、彼らはどうにか地下水道までのルートを確保することに成功した。
興奮に満ち溢れた後、地下水道まで降りてみることにした三人。しかしそこで予期せぬ出来事が起こる。
ソハという名は後にわかるが、下水道の管理をしている労働者と鉢合わせてしまったのだ。
ヒゲルは、周囲の反対を押し切って、ソハを信頼することに賭ける。ポーランド人であるソハは、ユダヤ人を見つけドイツ軍に知らせれば、多額の報奨を手に出来る立場にいる。しかしソハは、彼らの潜伏に協力すると申し出てくれたのだ。
順調に行くかに見えた計画は、ドイツ軍の動きによってまったく予期せぬものになってしまう。
5月31日。ドイツ軍がゲットー地区で銃を乱射し、建物に火を放っていく。どこかで彼らの計画を耳にしたのだろう、地下水道へ向かう人で大混乱に陥った。当初少ない人数で潜伏するつもりでいたが、地下水道には大量のユダヤ人が逃げ込むことになってしまったのだ…。
というような話です。
これは凄い話でした。ホロコーストの話は、ノンフィクションはそこまで読んだことがないと思います。フィクションも、「サラの鍵」っていうのを読んだことがあるぐらいで、ホロコーストについては全然詳しくないでしょう。
こんなことが実際に起こったのだという驚きは、どんなノンフィクションを読んでも感じることだけど、本書で描かれる歴史の断片も凄すぎる。何せ、下水道に14ヶ月も潜伏し、生き延びたのだ。
彼らはその14ヶ月間、恐ろしい状況に何度も遭遇する。あまり書きすぎると興を削ぐだろうから、具体的にどんなことが彼らを襲うのか、具体的にはほとんど書かないようにしようと思うけど、まさに間一髪みたいな修羅場を彼らは何度もくぐり抜けていくことになる。普通、その内のどれか一つであっても、なかなか逃げ切れないのではないかと思わせるほど、どれも相当に厳しい状況だ。それを彼らは、すべて乗り切るのだ。本書の著者は、本作をノンフィクションとして仕上げるために、小説だったら必ずするだろう盛り上げ方をもちろんしていない。何か修羅場が起こる時は、本当に唐突に起こる。予感もなにもない。それが、ジメジメした暗闇の中彼らが感じた『突然』と重なるような感じがしました。
14ヶ月も地下水道で耐え抜けた要因は様々にあるだろうけど、とにかくソハとヒゲルの存在は欠かすことは出来なかっただろうなと思います。
特にソハが凄い。ソハは本書では様々な描かれ方をしていて、時にはあまり印象のよくない場面も出てくるのだけど、しかしそうであったとしてもソハは素晴らしい。何故なら、自らの危険を顧みず、14ヶ月も彼らの潜伏に付き合ったからだ。
ソハには、彼らを助けることで得られるメリットはほとんどなかった。確かに、金は受け取っていた。しかしそれは、彼らのための食料を調達し、かつドイツ軍に発覚した場合のリスクを考えると、まったく見合わない金額だった。ソハがユダヤ人をかくまっていることが発覚すれば、ソハだけではなく、妻子にまで影響が及ぶ。おそらく全員殺されるだろう。そういう中ソハは、出来る限り毎日彼らの元に顔を出し、困難な状況をどうにか解決し、彼らの話を聞き、トラブルを解決し、そうやって14ヶ月も彼らを守りきったのだ。
そういう中で、匿われている人々からのソハへの感情は様々に移り変わっていく。もちろん、それをとやかく言えるような資格は誰にもないだろう。それぐらい、彼らユダヤ人が置かれた環境は劣悪だったのだ。
常にネズミと同居しているような環境で、壁は常に濡れて湿っている。天井が低く、14ヶ月もの間ずっと背を屈めていなければならなかった。暗闇は人を恐怖させ、実際にそこでの生活に嫌気が差して地上に出ていった者もいた。後にソハの報告により、彼らのほとんどが殺されたことが知らされる。食べ物はソハの差し入れに頼らなければならず、真水を得るために毎日かなりの遠出をしなくてはならない。悪臭は耐えられないほどで、もちろん風呂などあるわけもない。さらにその状況で、まったくの他人が過ごすわけだから、ほんの僅かなことであっても疑心暗鬼が物凄いことになる。
こんな環境で14ヶ月だ。それは、どんなことだって起こりうるだろう。チリの鉱山に閉じ込められた人のニュースがあったけど、調べたらあれで69日だそうだ。しかも、確か外部との連絡はかなり出来ていたのではないかと思う。もちろん、こんな比較になんの意味もないけれど、チリで閉じ込められた人たちの7倍もの間地下にいつづけたのだ、と思うと、ちょっととんでもないことだなと実感が増すのではないだろうか。
そんな生活の中で、ヒゲルの存在は精神的な支柱となっただろう。もちろんヒゲルにも、感情を荒げたり面倒だなと感じられる瞬間はあっただろう。しかし、全体として、ヒゲルはリーダーとして優秀だった。そもそも、ソハに渡す金を工面しているのは、ほとんどヒゲルだったのだ。このお金にまつわる話も、とてもいい。特に、ソハはもう来ることはないだろうと全員が諦めたが、またソハが通ってきてくれることがわかった後で、ソハがヒゲルに提案した事柄は素晴らしいなと思う。素晴らしい。
個人的には、ムンデク・マルグリエスが凄いと思った。みんなから『海賊』と呼ばれる彼は、地下での生活が始まる前は、ゲットー地区に住みつつも、その外側にあるどんなものでも調達することが出来る闇商人として名を馳せていた。彼は、地下での生活が始まってからも何度も地上を行き来し、一度などある目的のために収容所に潜入することまでしている。彼だけは、地下での生活をしなかったとしても、どうにかこうにか生き延びることが出来たのではないかと思わせるほど、豪胆で決断力のある男だなと思った。ちょっと凄すぎる。
なるべく作中の具体的なことに触れないように書こうと思っているので、あまり書けることが多くないのだけど、読んでいて思ったのは、とにかく彼らの14ヶ月を本一冊読むだけで想像し切ることが絶対に出来ない、ということだ。もちろん、そんなことは誰にだって分かることだろうけど、でも読むと改めてそう感じられる。あまりにも想像の及ばない世界を、現実として描かれてしまうと、自分の感情や感覚をその世界の隙間に忍ばせることが非常に難しくなっていく。そこがどんな世界で、そこで生きてきた人間が何をどう感じたのかを、自分の価値観や経験から判断することなどしてはいけない気分にさせられてしまう。
しかしそれでも、こうやって当時の状況が記録として残されるというのは良かったと思う。どれだけ想像の及ばない世界であろうとも、二度とこんな経験をする人を生み出してはいけない、ということぐらいは誰にでも理解できるはずだ。彼らの苦しみをその100分の1も理解することは出来ないだろうけども、そのたった100分の1でさえを読むものを打ちのめすだけの現実の圧倒さに、なんか怖い気分になってきます。
ドラマ、なんて呼び方をしてもいいのか分からないけど、彼らの間にはまさにドラマとしか呼びようのない、とんでもない出来事が次々に襲いかかる。超絶的に劣悪な環境で、決して親しいわけではない人間と14ヶ月も過ごす。僕らが感じなくてはいけないことは、たとえそんな生活を選択しなければならないとしても、まだ地上よりはましだったという現実だ。こんな現実がかつて存在したのだという恐ろしさを、是非体感してみてください。

ロバート・マーシャル「ソハの地下水道」


空飛ぶ広報室(有川浩)





内容に入ろうと思います。
本書は、防衛省の航空幕領監部広報室を舞台にした小説です。
主人公の空井は、元パイロット。P免と呼ばれる、パイロット資格剥奪の処遇となってしまった。理由は、本人には一切非のない交通事故である。日常生活に支障を来さないほどには回復したが、戦闘機パイロットとしての適性は満たせなくなってしまった。
スカイというタックネームでブルーインパルスに乗ること。それが空井のパイロットとしての夢だったのだが、その夢は儚く潰えてしまうことになった。
そんな空井が配属されたのが、航空幕領監部広報室である。
それまで来ていた制服をスーツに替え、冷たい印象のある防衛省の建物に通勤する日々。それまでとはまるで違う環境に戸惑いつつも、事故以来薄いベールの向こう側に佇んでいるような張りあいのなかった空井は、この広報室で大いに揉まれることになる。
先制パンチは、帝都テレビのディレクターだった。
サツ回りの記者だったリカは、色んな事情があって報道に回され、前任者から自衛隊の担当を割り振られた。自衛隊嫌いとして広報室では富に有名だったリカの担当をさせられることになった空井は、世間一般の人と同じく自衛隊について好感を持っていないリカと関わりながら、リカのような人に自衛隊を理解してもらうことが広報室の役割なのだと気付き、次第に打ち解けていくようになる。
幹部になれる能力を持ちながらなぜか試験を受けようとしない広報のプロ・比嘉や、幹部として民間の広告会社で研修を受けたことがあることが自慢で、しかし強引な手法からトラブルを引き起こして比嘉のサポートを余儀なくされる片山、もの凄く美人なのに室長の前でも尻をかく『残念な美人』柚木、そんな柚木のお目付け役をして小言をいう役回りの慎、そしてそんな荒くれ者どもを一手にまとめ、しかも無敵の交渉力を誇る最強のミーハーおやじである室長の鷺坂。
そんな個性的な面々に囲まれ、また『自衛隊の広報』という非常に特集な仕事の中で起こる様々な出来事を通じ、P免となった空井が変わっていく様を追った作品です。
やっぱり有川浩は最高です!いい話書くよなぁ。基本的に広報の話なわけで、人が死んだり誰かが病気になったりといったような、分かりやすい『お涙頂戴話』が出てくるわけじゃない。でも有川浩の作品って、読んでるとなんだか泣けてくるんですよね。
やっぱりそれって、人間の描き方が素敵だからだろうなぁ、と思います。
やっぱり有川浩作品の最大の魅力は、人だなという感じがします。様々な舞台で様々なジャンルの作品を書きますけど、どんな作品出会っても、そこに出てくる『人』、そして『人同士の関わりあい』の物語が本当に巧いと思います。
本書でも、いくつかの組み合わせを通じて、広報室内の様々な人間関係が描かれます。
まず作品のメインになるのは、なんと言っても新人の空井と帝都テレビのリカです。やはり、この二人がどんな風に関わっていくのかというのが、物語の最大のメインになっていきます。やっぱり有川浩らしく、ラブコメチックな要素も入ってくるんですけど、でもそこまであからさまな感じじゃないんで、有川浩のベタ甘な感じはなぁ…なんていう人でも全然大丈夫だと思います。
リカは、ほとんど知識がないなか、優等生的に昔の教えを信じているが故に、自衛隊に対して拒絶感がある。「空軍」という単語を使うリカに対して、空井が丁寧に、「自衛隊は軍隊ではない」と説明する場面があります。それぐらい、リカには基本的な知識が欠けている。また、初対面の時点で空井に対して、とんでもない暴言を吐く。それも、リカの思い込みのなせる技だったのだけど、そんな強烈なスタートから始まった関係だから、その後の展開もとても面白い。
リカは、自衛隊の密着取材をやろうとしていて、そのネタ探しのために広報室に入り浸るようになるのだけど、その間もまあこれでもかというぐらい色んな出来事が起こって面白い。リカが、たまにはと思って手土産を持って広報室に行った時の展開なんか、物語的に見事だなぁと思わせるほどでした。
次は、比嘉と片山だ。比嘉は何事にも落ち着いているんだけど、片山は何事にもちょっかいを出してからかわなければ気が済まないというような、両極端な二人だ。片山は幹部だが、比嘉は幹部になれる力を持ちながらも下士官のまま、年齢は比嘉の方が上なのに比嘉は年下の片山のことを立ててくれる、というような関係だ。
この二人の場合は、片山の側に比嘉に対する思いがある。かつて別の隊で比嘉から広報のイロハを教わった片山は、航空幕領監部の広報室に比嘉が異動になると知って喜ぶが、しかしそれはやがて失望に変わる。片山が比嘉に対してどんな思いを抱いているのかは読んでほしいところだけど、この二人の関係も面白いですね。
で、柚木と慎という関係もある。この二人は、防大時代の剣道部の先輩後輩という間柄。慎は、女性としての慎みに欠ける、『残念な美人』と呼ばれている柚木に対して、そういう仕草があれば常にツッコミを入れるのだけど、その背景には慎なりの想いが潜んでいる。柚木がどんな経験を経て広報室の椅子に座っているのか慎は知っているだけに、余計柚木のそんな仕草が気に食わないのだ。
この三組とも、やはりお互いへの誤解やすれ違いから、微妙な関係になってしまう。そんな関係性が、空自の広報室らしいイベントやらトラブルやらの中で次第に解消されていくという展開が凄く巧い。特に、ラスト近く、空井とリカの関係が壊滅的になってしまった時に、室長の鷺坂が空井に対してした説得なんかは見事過ぎる。リカ自身の行動あってこそのその説得だったのだけど、全体的にこんがらがってしまった関係性が少しずつ解けていく展開は、本当に素晴らしいなという感じがしました。有川浩作品のこういうところはやっぱり素敵だなと思います。
本書では、『自衛隊というものが一般の人からどんな風に見られているのか』という視点が非常に重要になる。あらゆる場面で、この問いが突きつけられると言ってもいい。
ミーハーである室長は、芸能人絡みのイベントやら映像協力なんかには何でも飛びつきそうだが、でも決してそうではない。テレビで取り上げられれば、イベントで使ってもらえれば、それで満足、という発想ではダメなのだ。そこで、自衛隊がどんな風に取り上げられるのか、そこまでしっかりと見極めなくてはいけないと鷺坂は事ある毎に言う。
僕自身は、自衛隊という存在に対して特別な感情を持っていない。いや、それはちょっと違うかな。個人的に、ほんの僅かであってもどっちに針が触れているかと問われれば、好意的な見方の方に針は触れているだろうと思う。それは、災害時の貢献や、実際に有事に陥ってしまった際の安心感、みたいなものが強いのだろうと思う。
法律的に自衛隊の存在がどうとか、もはや軍隊を持っているのと同じじゃないかとか、たぶん色んな議論があるんだろうけど、でもあんまりそういう議論には興味がない。東日本大震災の時の自衛隊員の活躍は、積極的に情報を集めていなくても耳に入ってくるし、彼らが何かあった時のために厳しい訓練を重ねているのだろうということぐらいは想像が出来る。実際、日常の中でそこまで接する機会のない対象だとはいえ(公共の組織であれば、警察とかの方がよっぽど身近でしょう)、もし実際に自衛隊がなくなってしまったら、それこそ立ちゆかなくなってしまうことが山ほど出てくるんだろうなということぐらい想像ができます。
だから、自衛隊に良い印象を持っていない人の気持ちというのは、正直僕にはよくわかりません。
直接的に、あるいは間接的にでも、自衛隊から何か被害を被ったことがある、ということであるならわかるけど、普通に生きている限りなかなかそういうことってないと思うんですね。もちろん、沖縄の米軍基地とかの問題はまた別でしょうし、基地周辺に住んでいる人なら騒音がうるさいとかあったりするんでしょうけど、でもそこまで酷い状況ってないと思うんですね。だから、どうして自衛隊って悪く言われるんだろうな、という感じはします。税金の無駄遣いだみたいな話がもしあるんだとしたら、そんなのもっと無駄に使ってるところが山ほどあるだろうよ、なんて反論をしてみたいですしね。
とはいえ現実的には、広報室が必死になって色んなアピールをして、自衛隊という存在を広報していかないと、世間の印象はどんどんと悪くなってしまうという状況にあります。
それが如実に描かれている場面が、広報室で一からCMを作るという話の中ででしょう。そこで、あらゆる神風が拭いて順風満帆だったCMが、ある瞬間から批判の的になる。それは言いがかりのようなものだったけど、でもその言いがかりがそこそこの人に受け入れられてしまうだろう素地は、世間の人の中にはあるということだ。端的に言えば、『自衛隊なんだから悪く言ってもいい』という雰囲気だ。はっきりと原因があるならともかく、それは世間の空気みたいなものだから、広報室としても戦いにくい。だから広報室は、自衛隊を積極的にアピールしていくことで、世間の関心を引き、出来れば好意的に見てもらえるように様々な努力をしているのだ。
最近、横山秀夫の「64」という作品を読んだのだけど、こちらも主人公は地方の警察の広報マンだった。元刑事で、事情があって広報室にという設定も、本書と似ているだろう。しかし、警察の広報室の場合、基本的に記者クラブとの応対がメインであって、『警察という組織をどう良く見せるか』という方面での積極的なアピールは行われていないようだ。少なくとも、「64」の中では描かれていなかった。そういう意味で、同じ公共的な組織なのに、広報というものの役割やスタンスの違いなんかを考えさせられました。
しかし、自分がテレビやら映画やらをほとんどみないからかもしれないけど、自衛隊って結構色んな形で露出してるんだなあと思わされました。現実的に、本書で描かれているようなテレビの話とかイベントの話とかがどれだけあるのか分からないけど、規模の大小はあれそれなりにはあるんだろうなという感じはしました。お互いの利害が一致しさえすれば、自衛隊というのは外部に結構開放されているものなんだなぁ、と思わされました。ミーハー室長である鷺坂としてもいい環境なんだろうなと思います。あと、こんなついでのように書くような話じゃホントはないんだけど、タイミングを逃したんでサラッと。室長である鷺坂はホント上司として最高だなと思いました。こんな人の下で働きたいものですね。
最後に。本書の巻末には、「あの日の松島」という話が収録されている。本編から少し時間が経った、東日本大震災後を描いている。
本書は当初、2011年の夏に出版される予定だったらしいのだけど、有川浩は、空自広報の3.11に触れないまま本書を出すことは出来ないと判断し、それを出版社も了承し、結局2012年に出版されることになったそうです。
「あの日の松島」では、東日本大震災を東京で体験したリカが、松島基地に異動になった空井を訪ねる、という感じで展開していきます。
いやはや、ここでの色んな描写は本当によかった。凄く短い話だし、正直広報的な話でもないんだけど、とにかく凄く良かった。松島基地も被災しているのに、家族ももちろん被災しているだろうに、それでも街の復旧にすぐさま取り掛かる自衛隊とか、全国各地から届く救難物資を自衛隊は受け取らず、他の自衛隊からのカンパだけでどうにかやりくりしていたけど、それも最低限の物資しか受け取らず、お菓子などは被災者に回していたなんて話とかいい話だよなぁ、なんて思うし、民間の敷地には原則立ち入ることが出来ないと決まっている自衛隊員がどうやって街の復旧に手を貸していったのかという話も興味深い。
しかし何よりも、「わたしがどんな特集を作ったら嬉しいですか?」というリカの問いかけに対する空井の返答が素晴らしかった。本当に素晴らしいと思います。
軍オタらしい有川浩は、これまでも自衛隊を作中に度々登場させていますけど、広報室というちょっと変わった視点から、しかしこれほど真正面に自衛隊を描き出したことは初めてではないかと思います。本書は、「航空自衛隊をネタに小説を書きませんか?」という、鷺坂のモデルになった広報室長からの提案で生まれた作品だそうで、作家にそんなアプローチをしちゃう柔軟性って面白いなと思いました。作品も、やはり有川浩節前回で面白いです。是非読んでみてください。

有川浩「空飛ぶ広報室」


督促OL修行日記(榎本まみ)

内容に入ろうと思います。
本書は、新卒で信販会社に入社し、支払延滞顧客への督促を行うコールセンターに配属され、それはもう戦場のような日々を過ごし心をメッタ刺しにされ続けた著者による、自身がこれまで経験してきたことを綴ったエッセイと、督促によって鍛えられた対クレーマー対策について書かれている作品です。
著者は、内定がなかなか取れない時代に就職活動をし、ようやく内定をもらえたのが今も勤める信販会社だった。「お客様に感謝される仕事をしたい!」と思っていたにも関わらず、配属されたのは「倉庫」「男子校」と呼ばれ、社内でも最高の不人気度を誇っていたコールセンターだった。
著者が配属されたのは、出来たばかりのコールセンターで、そこにはズラリと並べられた机の上に電話がポンと置かれているだけの、パソコンも何もない、本当に最低限のものしかない足跡のコールセンターだったのだ。
3班に分けられたそのコールセンターに配属された女子社員は3名。結果、1班に女子社員一人という、まさしく「男子校」と呼ぶに相応しい環境だったのだ。
しかも窓が一つしかなく、高温多湿で人が多い、しかも一日中電話をしているという環境なので、インフルエンザを始めとした感染症の温床というオマケつき。朝7時から終電までという超激務の中、女性というハンディもありつつ、成績(回収率)をまったく上げることができないでいた著者。しかし、元々離職率の高い職場だとは言え、心を病んだり難聴になったりして辞めていく同期や先輩の姿を見るにつけ、「どうにかしなくちゃ!」という思いをどんどん募らせていくことになる。
そうやって彼女は、ヘタレなりに交渉術やテクニックを学び、と同時に、どうやったら人が辞めない環境を作れるかということも考え、今ではクレジットカードの回収部門で300人のオペレーターを指示し、年間2000億円の回収を担当するまでになっている。
そんな著者のドタバタ奮闘記です。
サラッと読める一冊ですけど、なかなか面白かったです。まったく知らない世界だということもあって、へぇーそうなんだ~、というような描写がたくさんありました。
例えば、電話をしても本人以外には会社名を名乗れないとか、確かにちょっと考えればそうせざるを得ないのは分かるんだけど、それメッチャ大変だなぁ、とか思いました。
つまり、キャッシングをしていることを家族に知られたくない場合、契約の段階で「家族には知らせない」という項目にチェックが出来る。そうなると、いくら督促といえども、電話に本人以外が出た場合、社名を名乗れないのだ。そのせいで、何度も電話を掛けてくるストーカーと間違えられたり、同棲していた女性に逃げられたりしてしまう(!)なんていうこともあるわけだ。
しかし、著者も書いているように、『会社名を名乗れないジレンマに加え、ご家族が契約者様を守ろうと取った行動が、結果としてご本人の信用を損ねてしまうことになるのは、なんだかやり切れない』というのは凄く分かる。なんというか、仕組みとしてもっと洗練されたものには出来ないものなんかなあ、とか。
著者本人の話だけじゃなくて、先輩たちの話も面白い。特に、貸金業法改正以前からバリバリ督促をやっている海千山千の猛者どもの話は凄すぎる。家に回収に行ったら包丁を持った男に閉じ込められたとか(えっ?)、「電話禁止」と書かれたファイルに手をつけたら街宣車がきたとか(えっ?)みたいな、ぶっ飛んだ話がところどころ出てくる。
とにかく、督促という仕事にまつわる珍エピソード(なんていうと、頑張って督促をやっている方に失礼かもだけど)はなかなか斬新だ。払ってくれない人に「払ってください」と言う仕事はあるだろうな、ぐらいの認識でしかなかったけど、本当にそれを日々やっている人が体験するエピソードは凄いし、とんでもない世界だなと思う。
入社当初はヘタレだった著者は、色んな人からテクニックを盗んだり聞いたりして成長していくわけなんだけど、その『交渉のプロたち』のテクニックも素晴らしい。本書の中では、『督促OLのコミュ・テク!』というコラムっぽい感じで別でまとめられているんだけど、これは督促という場じゃなくても役に立つなぁ、という感じがしました。特に、「申し訳ありません」の繰り返しは逆に耳障りだから、「具体例」+「謝罪」という形にするといい、という話は、なるほどなぁ、と思いました。このクレーマー対策のテクニックは、少しずつ僕も身に着けていきたいなぁ、という感じがします。
しかし、僕が本書を読んで強く感じたことは、『クレーマーの理不尽さ』と『クレジットカードの敷居の低さ』です。
本書に出てくるクレーマーたちには、ホントに腹が立つ。
様々な価値観が世の中にあるだろうし、状況も様々に違うだろう。でも、『借りたものを返していない』人間に、とやかく言える筋合いはなかろう、と思うのだ。もちろん、懇願したり泣き落としをしたりと、色々するのは分かる。使っちゃった方だって、止む無くということだってあるだろうし、申し訳ないと思っているならそれはそれで仕方ないと思う。
けど、『俺の支払う日に支払うんだから黙って待ってりゃいいんだよ!』『借りたお金を返せって気持ちがある人にはお金払いたくないんですよね』(どっちも本書で出てきたセリフです)みたいなことを言う奴は、あーーー!!ムカつくーーー!!!ってなもんである。いやいやいやいや、百万歩譲っても、あんたの方が悪いですから!って思っちゃいますね。ちょっと唖然とした、こんなセリフもありました。50代の女性に督促した時に言われたセリフ、と本書では書かれています。

『こんな人を不愉快にするような仕事、しない方がいいと思いますよ!まじめに働きなさい、まじめに働くことだけを考えなさい!』

はぁぁぁぁぁーーーー???って感じですよね。おめぇが払わないからこんな『不愉快な仕事』をしなくちゃいけないんだろうが!って言いたくなります。
まあ、そういう人は一部の人なんだろうけど、でもある一つの信販会社の、しかもクレジットカードの回収部門で、年間2000億円回収してるってことは、うっかり忘れててみたいなのが相当含まれているとはいえ、支払われていない金額が年間3500億円近く(本書の中で、回収率は約6~7割みたいなことが書かれていたので)あるってことですよね。それはちょっと酷すぎるな、と思いました。
それと関係するけど、『クレジットカードの敷居の低さ』にも問題があるだろう、と思いました。
僕はクレジットカードを持たないようにしているけど、たぶんフリーターの僕だって、作ろうと思えば何らかのクレジットカードをどこかで作れてしまうことでしょう。たぶん、クレジットカードの契約を担当する営業の方は、とりあえずどんな人でも成績になるからと言って、どんどんクレジットカードの敷居を下げてきたんじゃないかな、という気がします。
でも、そうやってクレジットカードの敷居が下がれば下がるほど、モラルのない人もたくさん含まれてきますよね。
貸金業法が改正された今、状況がどんな風に変わったのか僕はちゃんとは知らないけど、少なくとも前よりは敷居が上がったことでしょう。僕は、それでいいんだと思うんです。誰もかれもがクレジットカードを持っている世の中なんて、おかしいよなぁ、って思います。入り口がそうやって低くなればなるほど、本書で描かれているような督促の人たちが苦労するわけです。契約を取った人間が回収まで担当すればこんなことにはなってないんでしょうけど(自分が回収しなければならないとしたら、契約するかどうか吟味するでしょう)、自分以外の誰かが回収をしてくれるなら敷居だってどんどん下がることでしょう。なんか、それは違くないか?って凄く思いました。
本書の中で、もの凄く素敵な言葉があったんで引用してみます。著者が、海千山千の猛者の一人に、「そんなに人に嫌われる仕事なのに、なんのために、誰のためにやるんですか?」と聞いた時の答えだ。

『私たちが相手に嫌われても、怒鳴られても、包丁を突きつけられても、督促しなければならないのは、お客様の信用を守ることができるから。お客様の信用を守るのはもしかしたら命を守ることになるかもしれないしね』

本書では、信用を無くした人が救急車に拒絶された例を出して、社会の中での信用を失わないために自分たちの仕事があるんだ、というような話が出てきます。いやはや、素晴らしいなと思いました。相手は怒りに任せて怒鳴りつけてくる人たちなのに、そんな人たちの信用を守るために自分がいるんだ、なんて思えるなんて、まるで仏様みたいなものだなと思います。
あまり具体例を書きすぎて本書を読む興を削いではいけないと思って極力具体的な話は書かなかったけど、とにかく色んな話が盛りだくさんで面白いです。ハードな話なのに、全然深刻な感じで描かれないから、気楽な感じで読めます。本当に、クレジットカードの支払を延滞しちゃってる人とか、お金関係じゃなくても企業とか店舗に厳しいクレームを言っちゃうような人に、是非読んでほしいなぁ、と思いました。あなたのその行動のせいで、これだけ苦労している人がいるんですよ、と。

榎本まみ「督促OL修行日記」


新月譚(貫井徳郎)

内容に入ろうと思います。
本書は、絶筆した美人小説家の元を訪れた新米編集者が聞いた、その美人小説家の独白、という体裁の小説です。
渡部敏明は、子どもの頃から咲良怜花のファンであり、彼女の担当をすることを夢見て出版社を目指す。念願かなって出版社の編集部に配属されるも、その頃には何故か咲良怜花は小説を書くことを止めてしまっていた。
誰もその理由を知らなかった。
かつて咲良怜花を担当したことのある編集者たちは、咲良怜花に対して様々な評価を下す。その評価はバラバラで、同じ人間に対するものとは思えなかった。しかし、共通していたのは、誰も絶筆の理由を知らない、ということであった。
渡部は、まず会ってみるしかない、と考え、咲良怜花の家を訪ねることにしたのだ。
思いがけず歓待された渡部は、最終的に咲良怜花の独白を聞くことになった。
それは、咲良怜花がデビューする以前の話から筆を折るまでの長い長い物語だった。
不美人として生まれた後藤和子は、新卒で入社した大手企業を人間関係の悪化からすぐ辞めることになった。再就職先として適当に選んだ小さな会社で木之内と出会った。
木之内と出会ったことが、結果的に和子の人生を大きく変え、そして翻弄していくことになる。
木之内と和子を含めて4人しかいない小さな会社だった。木之内は社長で、有り余るエネルギーを無尽蔵に費やして前進し続けているようなパワーがあった。見た目もかっこよく、自分の容姿に自信のない和子は、自分が採用されたことにも驚くのだが、さらに木之内と親しい関係になっていく自分にも驚かされた。
和子と木之内は、その時々でお互いの距離を変えつつも、お互いの周りを回り続ける連星のように、離れてしまうということは一度もなかった。やがて作家としてデビューし、木之内がつけた咲良怜花というペンネームで作家活動を続けるが…。
というような話です。
これはちょっとなぁ…。
確かに、前評判が結構良かったんで、ある程度期待が高かったという部分はあるだろうと思います。それで、余計落差を感じたという部分はあるのかもしれないのだけど、それにしても、ちょっとこれは辛いなぁ、と思いました。
正直僕にはちょっと、本書の良さが分からないです。
amazonのレビューに、『昼ドラのよう』というコメントが載っていましたけど、まさにそういう感じでした。昼ドラをちゃんと見たことがあまりないんでそれもあくまでもイメージでしかないんですけど、安っぽさといい、展開の都合の良さといい、感情の沸点の低さといい、全体的にちょっと残念な感じが強い作品でした。
貫井徳郎の作品はそこそこ読んでいて、デビュー作の「慟哭」には驚かされたし、「灰色の虹」のような重苦しくてハードな作品も好きだったりします。本書はまったくミステリではないんですけど、でも別にミステリでないから評価できない、ということを言いたいわけではありません。もちろん、貫井徳郎だったらもっといい作品を書くだろう、という期待も含まれてはいますが、自分の中で、ちょっとこの作品は評価できないなぁ、という感じがしました。
人によってきっと評価は変わるのでしょうけど(実際、良い評価を耳にしたこともあります)、ちょっと僕にはこの作品の良さは分かりませんでした。

貫井徳郎「新月譚」


アルゴ(アントニオ・メンデス)

内容に入ろうと思います。
本書は、1979年に起こったイラン・アメリカ大使館占拠事件の裏側で秘密裏に活躍したとあるCIA隊員が自らその作戦について詳述したノンフィクションです。
1979年11月4日、イラン革命後の首都テヘランで、学生400人余りがアメリカ大使館を占拠した。カーター大統領はこの事態にうまく対処することが出来ず、結局444日に渡って大使館員が人質に取られるという長期的な事態に発展した。
さてその裏で、18年もの間秘密裏にされていた事実がある。
アメリカ大使館と同じ敷地内にあった領事館から、職員6人が密かに脱出し、匿ってくれる場所を転々としながら潜伏していた。そしてそんな6人を、CIA隊員が見事に出国させたというのだ。
その作戦を立案し、実際にイラン入りして作戦を指揮した人物こそ、本書の著者であるアントニオ・メンデスである。
作戦名は、『アルゴ』と呼ばれた。これは、架空の映画のタイトルから取られたものだった。
アントニオが立案した作戦は、CIAの歴史の中でもとびきり奇抜なものだった。
それは、脱出した職員6人を、ハリウッドからロケ地探しに来ている人物に偽装するというものだった。
基本的に偽装は、目立たないように行われるものだ。アントニオがこれまでに行なってきた作戦も、そういうものばかりであった。
しかし今回は、作戦の性質が大きく異なっていた。
それまでの作戦では、脱出させる人物は、敵国のスパイであったりと、ある程度訓練された人物であることが多かった。しかも、脱出させるのは一人であることがほとんどだ。しかし今回の作戦は、領事館の職員という訓練をまったく受けたことがない人物を、しかも一度に6人を脱出させなくてはならない、という特殊な作戦だった。彼らを脱出させるための案はいくつも出されたが、しかしどれもアントニオを納得させなかった。アントニオがふとひらめいた、この奇抜でとんでもないアイデアこそが、現実的に可能な作戦に思えたのだった。
CIA技術部(OTS)は、第二次世界大戦中に設立されたアメリカ初の諜報機関である戦略人事局(OSS)の研究・開発部(R&D)を前身に持つ。他国と比べて諜報機関の設立に遅れたアメリカは、自前で技術を開発するばかりでなく、民間と協力して技術開発をしていくという方針によって、ソ連のKGBを上回る強みを持つことが出来るようになった。アントニオが入ってくるまで、CIAの偽装技術は文書の偽造などにはかなりのレベルを誇っていたが、変装技術などについてはまだまだお粗末なものだった。アントニオは、後にハリウッドで輝かしい業績を積み上げていくことになるメイクアップアーティストである『ジェローム・キャロウェイ』(これは偽名で、解説で本名が明かされている。映画では、本名での登場となっているようだ。彼は、「猿の惑星」の特殊メイクでアカデミー賞を受賞したジョン・チェンバースである)と協力し、様々な偽装技術を確立。後に繋がる様々な遺産を残していくことになる。
そんなアントニオは、ちょうど昇進したタイミングで、膨大な仕事に忙殺される中、6人をイランから脱出させる計画を練り始める。映画のロケ地探しという設定を完璧にするためにハリウッドで実際にプロダクションを設立し、撮影を告知する広告まで出稿する。綿密な計画によってほぼ完璧にまで練り上げられたが、しかし不測の事態は起こりうる。脱出は成功するだろうか…。
というような話です。
先に書いておくと、本書にはノンフィクションとして致命的(あくまでも僕がそう感じるだけなんだけど)な欠陥があると思う。
それは、すべてを時系列順で描いてしまった、という点である。
もちろんノンフィクションにも様々なタイプのものがあって、完全に時系列順で話を展開していく方が面白い作品になるものもある。
でも、本書は絶対に違うと思う。
本書は、裏面の内容紹介で、映画のロケ地探しを装った前代未聞の脱出劇!と謳っている。それはいいんだけど、でもそれなのに、本書は読み始めてから半分ぐらいまでずっと、アメリカ大使館の占拠がどんな風に始まり、その後どんな展開を見せ、脱出した6人がどんな風に逃亡を続けているのか、という描写が続くのだ。
正直これは、かなり退屈だった。
これは、構成をちょっと変えるだけで、好転する可能性がある。どうするかというと、もっとも魅力的でスリリングな場面の冒頭だけでもいいから冒頭に持ってきてしまう、というやり方だ。
こうすると読者は、しばらく退屈な描写が続くかもしれないけど、でもいずれこのスリリングな場面にたどり着くんだから、という期待を持ち続けながら読むことが出来るようになる。こういう構成になっているのとなっていないのとでは、本当に読後感が大きく変わるよなぁと、ノンフィクションをそれなりに読んでいる僕は感じました。
具体的にいうと、本書の299ページから307ページまでの、そっくりそのまま冒頭に持ってくればいいのに、と思う。たぶんそれだけで大分印象は変わるんじゃないかなぁ、という気がします。その点が非常に残念でした。
本書は、構成上はわかれていないけど、内容的には前半と後半で大きく分かれる。ざっくり言えば、前半は、大使館占拠の発生から刻一刻とした展開、そしてそれを受けてアントニオらが計画に乗り出すところまで。そして後半は、計画の実行に乗り出したアントニオらのチームによる獅子奮迅の働きという感じです。
人にもよるかもしれないけど、とにかく前半は退屈でした。もちろん、前半の話もないと全体としてまとまりがなくなるわけで、必要な描写だということは分かるんだけど、僕としてはやっぱり『ハリウッド作戦』の話を読みたいと思ってページをめくっているわけで、だから前半はちょっと辛かったなぁ、という感じがしました。これは、どうなんだろう、書き手の能力の問題もあったりするのかなぁ。こういう、事実がどんな風に展開したかという描写でも、たぶん面白く描ける人というのはいるような気がするから、そういう意味でもちょっと前半はあまり評価出来ない感じもあります。
後半は、やっぱり面白かったです。
アントニオには、様々な難題が降りかかることになります。そのありとあらゆる場面において、CIAの技術力を総動員して偽装を成功させなくてはならない。彼ら技術者がとあるカードを偽造する際、手触りなどから紙の質まで徹底的に考えぬいて偽造をしているという話を読んで、当然なんだけど改めてすごいものだなと思いました。
また、彼らがしなくてはならないのはモノを偽造するだけではない。たとえば、彼らが脱出する予定の空港でどんなチェックがなされているのかを徹底的に調査しなければいけないし、6人の『ハリウッドの関係者』たちの偽の履歴も完璧なものに仕上げなくてはならない。もちろん、プロダクションを設立し、不自然のないように業務を遂行させる手はずも整えなくてはならない。そういうありとあらゆる方面に気を配って、最新の注意を払って準備をして、それでもなお不測の事態を警戒して当日緊張に包まれなくてはならない、というとんでもない任務なのだ。
さらに面白かったのが、作中のところどころに挟み込まれる、アントニオが自身や他のCIA隊員が経験したこれまでの作戦についての話です。特に僕が素晴らしいと思ったのが、アントニオが着陸寸前のトイレの中でしなければならなかったとあるミッションの話。そういう不測の事態に常に対処できるだけの技術力を持っていなければ、CIA隊員としてやっていくことは不可能なのだろうなと感じさせてくれました。
ノンフィクションとしての構成はともかく、『ハリウッド作戦』事態はものすごく面白いです。これ、映画になったら見所満載な感じがするなぁ、と思いました。これが現実に行われたミッションなんだ、という事実こそが、読む者・見る者をワクワクさせるのだろうなという感じがしました。人によっては前半部はちょっと退屈でしょうが、ぜひ読んでみてください。

アントニオ・メンデス「アルゴ」


百年法(山田宗樹)

内容に入ろうと思います。
物語は、2048年の『日本共和国』で始まる。
日本は、6発の原子爆弾を受け焦土と化し、しかしそこから奇跡の復活を遂げた。共和制を取り、共和国憲法と共にゼロからやり直した日本は、しかし敗戦から100年余が経った今、大いなる問題を抱えている。
それが、百年法だ。
正式には、生存制限法と呼ばれている。

『不老化処置を受けた国民は、処置後百年を以て、生存権をはじめとする基本的人権は、これをすべて放棄しなければならない』

世界中でHAVIと呼ばれる技術によって、多くの人が老化とは縁を切ることが出来るようになった。アメリカの研究者によって『ヒト不老化ウイルス(HAV)』が発見され、その処置を施された人間は永遠に老化しない。そんな技術が戦前に確立され、現在では既に世界中に広まっているのだった。
しかし、人類の不老化は、新たなる問題を引き起こす。人口の増加や食料問題など、人が死んで行かないがために社会に多大なる影響を及ぼすことになるのだ。
それを予見したアメリカ議会は、HAVIの開始と同時に生存制限法を成立させた。HAVIから100年経過したら、専用の施設で死ななければならない、と定めた法律だ。
HAVIは世界中で行われているが、各国で使われ方が異なる。中国では、HAVIを受けられるのは一部の特権階級のみ。韓国では生存可能期間を40年と定めている。それぞれ何を目的にするかによってHAVIの運用法を変え、それによって各国とも一定以上の成果を出している。
しかし日本は、間違った道を進み続けてしまった。
日本はアメリカと同じモデルを採用している。つまり、生存可能期間を100年としたのだ。生存制限法も成立させ、もちろん、HAVIを受ける際にもそのことは伝えられる。
しかし2048年現在。政治は揺れている。もうすぐHAVI導入から100年が経つというこの年、『百年法凍結』がまことしやかにささやかれているのだ。
内務省生存制限法特別準備室で室長として百年法の準備に追われる遊佐は、政治家たちが百年法を政治の道具にしていることに憤りを隠せないでいる。百年法を凍結すればどんな事態になるのか、それは光谷レポートを読めばはっきり分かるはずだ。しかし彼らは、自分の命惜しさになのだろう、百年法凍結を現実のものにしようとしている。
もし百年法が凍結されれば、この国は瓦解する。
そう確信する者たちによって百年法の準備が万端に進められるのだが…。
ユニオンという、HAVIを受けた者向けの労働機関が存在する。単純労働により、最低限の賃金を保障するという仕組みだ。そのユニオンの一員である蘭子は、ユニオン内の空気の変化に敏感になっている。
誰もが、百年法の施行を恐れているようだ。
蘭子は、街で偶然、幼い頃の友人を見かける。しかしそれは友人ではなく、友人の娘だという。HAVIを受けた娘は、友人にそっくりだった。その娘が蘭子に驚くべきことを伝える。母はHAVIを受けず、老衰で亡くなったという。
HAVIを受けないという選択肢など考えたこともなかった蘭子は、その友人の選択について考える…。
刑事である戸毛は、60年近く前に起こったとある爆弾テロにより終身刑を受け、50年の牢獄ぐらしの後仮釈放された木場という男に付きまとっている。
戸毛は、阿那谷童仁の行方を追っている。
阿那谷童仁は、60年前の爆弾テロの首謀者だったと言われた男だ。実際逮捕され、処刑されたとされているが、処刑された男は影武者だったという噂がまことしやかに囁かれ続けている。
そんな阿那谷童仁を必死で追いかける戸毛だったが、木場はどれだけ付きまとわれても口を割らない…。
というような話です。
とてもとても評価の難しい作品だなと思いました。
設定は、マジで最高に面白いです。不老不死が実現したけど、100年経ったら死ななければならない、というこの枠組みだけを捉えれば、100点満点中200点つけてもいいぐらい素晴らしいです。これまでも、不老不死をテーマにしたSFなんかはあったでしょう。そういう作品を読んでいないので比較は出来なんですけど、でも百年法のようなものを提示して、不老不死そのものよりも百年法の存在により重心が置かれる作品というのはなかなかないのではないかなというように思います。
実際、この百年法を巡る展開は、非常にスリリングで面白いと思います。
前述した内容紹介は、本書の内容のほんの一部でしかありません。上巻の半分ぐらいまでこの話が続き、その最後で日本の行く末を大きく左右する決断が提示され、それから日本が泥沼化していく様子が描かれていきます。それは、物語の導入からはなかなか想像もつかないような展開ばかりで、興味深く読めるのではないかなという感じがします。『HAVI』と『百年法』という2つの要素が存在した場合どんなことが起こりうるのか。それを想像力豊かに展開し、恐るべき未来を提示してみせる手腕はなかなかのものだなと思いました。
でも僕はどうしても、本書を手放しで絶賛することが出来ません。
それは、著者の力量不足が目についてしまうからです。
僕が力量不足だと感じるのは、二種類あります。一つは、『HAVI』と『百年法』という2つの要素の調理の仕方。そしてもう一つは、人物描写です。
前者については、たぶんもっと違う作家が書けばもっともっと深いところまで掘り下げられただろうな、という感触が僕の中に強くあります。例えば、貴志祐介がまったく同じ設定で物語を書いたら、もっと深い物語になったのではないかな、と思えてなりません。確かに、『HAVI』と『百年法』の2つの要素を想像力を駆使して練り上げたのだろうなと思うのですけど、でもまだもっと深いところを目指せるはずではないかな、という感じがしてしまいました。
さらに、リアリティのあるシミュレーションだという風にも感じにくかったのですよね。上巻の前半までは良かったと思うのだけど、それ以降の物語が、『百年法』を巡ってというよりは、『独裁政治』におけるゴタゴタが描かれているような感じがしてしまいました。もっと、『百年法』そのものを突き詰めていけばリアルなシミュレーションになっただろうし、そうではなくて物語的にもっと面白くいきたければ、もう少し別の道があったのではないかと思えてなりません。僕の個人的な感覚では、どうしてもちょっと、中途半端な感が否めないなぁ、と思えてしまいました。
そういう意味では、帯にある佐藤優氏のコメントが一番正鵠を射ているという感じがしました。佐藤優氏は、『近未来に仮託して、日本の政治・官僚機構の欠陥を見事に描いた。感動した』と書いていて、確かにそれはそうなんです。この物語は、『百年法』が主役というよりも、『日本の政治・官僚機構』が主役という感じなんですね。それを描き出すための一要素として『百年法』というものがある、という印象でした。だから僕としてはもっと、『百年法』が主軸であって欲しかったなぁ、という感じがしてしまったのでした。
さて後者の人間の描き方についてですけど、こっちはちょっと辛いなぁ、と思いました。正直に言って、人間の描き方は稚拙に過ぎると感じました。本書を作品として成立させるためには、『HAVIや百年法によって、人々がどう感じているのか』という部分をとことん突き詰めて描き出さなければならないはずなのだけど、そこが弱すぎる。出てくる登場人物がみんな紙切れみたいな感じで、会話もペラッペラという感じがしてしまう。前者の、物語の展開についてはまだ許容出来るとしても、後者の人間の描き方に関しては、ちょっと許容し難いなという感じです。
あまり切実さが感じられなかったり、感情の振れ幅が大きすぎたり、感情が突発的過ぎたり、なんというか、その場その場で登場人物にこういう反応をしてもらわないと困るから、という作者の意図通りに動かされているような印象があって、僕にはどうしても評価が出来ませんでした。そういう意味でも、もっと違う作家が書いてくれたら、と思えてなりません。
普段の僕のブログであれば、こういうテーマの時は、『自分だったら不老不死になりたいか?HAVIを受けるか?百年法についてどう思うか?』みたいなことをグダグダ書き続ける感想になるはずなんですけど、特にそういうことを書きたいと思えるような雰囲気の作品でもありませんでした。なんか、ちょっと、残念なんだよなぁ。
設定は最高です。設定だけ取り出すのであれば、これほど見事な小説はなかなかないかもしれません。でも、物語の展開や人物描写にかなり難あり、という印象を受けました。

山田宗樹「百年法」




首売り丹左(中谷航太郎)

内容に入ろうと思います。
戦国時代。村上義清と武田晴信(後の信玄)が争う信濃の国で、丹左は首売りをして兄弟を養っている。
首売りとは、戦場には出ず、逃げ落ちんとする武者を待ち伏せ、不意打ちに首を狩り、その首を売る者のことだ。
兵が敵の首を獲るのは、それが手柄になるからだ。そんな兵からすれば、丹左の行為は横取り以外のなにものでもない。妬み恨みを買いやすい。
しかし丹左は、次郎丸、鈴、駿の三人を食わせてやらなければならない。父を、そして母を喪ってからというもの、必死で身につけてきた処世術だった。
母を喪ってしばらくして丹左たちを助けてくれたのがアカホシだ。施しは一度まで。今では丹左も守っているその実践を、初めて受けたのがアカホシからであった。アカホシは武田家の忍をやっており、今では、ビジネスの相手として付き合いが続いている。
ある時、足軽の身分でありながら大金を持つ男に、首を売ってくれないかと頼まれる。角坂村の滝蔵と名乗ったその男のことを、丹左は覚えていた。かつて丹左らの命を救ってくれた命の恩人だった。名乗り損ねてしまったが。
丹左は、商売になりそうな戦場を嗅ぎ分けては、首を狙って待ち続ける。
というような話です。
ストーリーはそれなりに面白いような気がするんだけど、いかんせん僕にはあまり興味の持てない時代背景や状況設定であるので、イマイチ乗り切れない感が強いです。
どうも僕は、斬った殺しただのという話にあんまり興味が持てないみたいなんですよね。チャンバラ系というのか、剣だの槍だのでやりあっている描写にワクワクしないみたいです。
僕はどちらかというと、戦わずに勝つみたいな話の方が好きですね。「哄う合戦屋」という作品があって、これは天才軍師が知略を持って敵を倒す、みたいな話なんですけど、そういう方がワクワクします。歴史の知識は全然ないんだけど、1万の兵で10万の兵を倒すとか、いいなぁって思います。兵をつぎ込んで戦うよりも、ありとあらゆる要素を考慮して戦略を練り、武力よりも知力で相手を翻弄するみたいな話の方にどうしても惹かれます。
本書も、冒頭いきなり出てくる戦闘シーンは、なかなか面白かったです。普段そういう作品をあんまり読まないんで新鮮だったっていうこともあるでしょう。でも、読んでいく中で次第に、やっぱり戦闘シーンは別に興味ないなぁ、と思うようになっちゃうんですね。どれだけ身のこなしが超人的でも、どれだか華麗な剣さばきでも、それ自体には強い興味を持てないようです。
なので、そういうチャンバラ系というか、剣だの槍だので戦う系が好きな人には、結構いいんじゃないかなぁ、なんては思います。
キャラクターはなかなかよかったかなと思います。『感情』というものが理解できないまま、兄弟を養うことに人生を費やしてきた兄・丹左と、そんな兄に付き従って、思考は単純ながらも丹左の期待通りに動く次郎丸。そしてその下の、まだまだ幼いながら肝っ玉も強ければ生き抜く気力もなかなかである鈴と駿。そして、なんだかよくわからないけど時には(?)頼もしいアカホシ。戦闘や戦闘準備に関する以外の場面では、彼らの日常が時折挟まれるんだけど、それはなかなか悪くないかなという気がします。兄弟四人で力を合わせて生きてきたんだな、ということが伝わってくるようなところがいいですね。
僕は、歴史的事実を背景にした物語を読む際非常に困るのが、その当時の様々な立場にいる人たちのそれぞれの価値観や思考が全然分からないということです。例えば本書では、丹左や滝蔵やアカホシが、様々な場面でその判断をする根拠がわからないし、どうしてそういう価値観になるのか分からない場面も多くある。
例えばこんな場面がある。
丹左が滝蔵にある質問をした場面。こんなやりとりがある。

『ところが滝蔵は「という訳でもない』と謎めいた答えを返してきた。
「…?」
滝蔵の真意が、まったく読めなくなった。』

僕にはこのシーンがよくわからない。どうして丹左が『謎めいた』と感じるのか、元々丹左が滝蔵の真意をどんな風に想定していたのか、僕にはその辺りのことがイマイチよく理解できないのですよね。
まあその辺は、もしかしたら物語をちゃんと読めば分かることなのかもしれないし、僕の読解力がないだけなのかもしれないけど、僕に歴史の知識がなさすぎるから、歴史・時代小説を読んでなさすぎるからという面もあるんじゃないかなぁ、と思ってるんですね。
だからさっきのシーンは、「なるほどよくわからないけど丹左にとっては謎めいた答えだったのね」という理解のまま、流して読むことになる。歴史的事実を背景にした物語の場合、そういう読み方をする場面が少しずつ増えていって、結果的に全体的によくわからなくなってしまう、なんてこともあります。
そういう意味でやっぱり僕は、歴史・時代小説を読むのには向いてないんだろうなぁ、と思います。もちろん、江戸の町人を主人公にした時代小説なんかは、まあそれなりに読めそうな気もします。それは別に、歴史的事実を背景にしている、というほどの物語でもないでしょうから。でも、歴史の教科書に載っているような知識が背景にある物語を読むのは、やっぱりなかなか辛いものがあるのですよね。
歴史・時代小説になかなか手を出さない僕には、慣れがないというせいもあって、やっぱりなかなかすんなりと受け入れられる作品ではないようです。歴史。時代小説が好きだという人が本書をどんな風に読むのかはちょっと分かりません。ただ、読みやすい作品だなとは思いました。歴史が苦手でも、読みにくいということはありません。

中谷航太郎「首売り丹左」


ゼロからトースターを作ってみた(トーマス・トウェイツ)

内容に入ろうと思います。
本書は、イギリスのロイヤル・カレッジ・オブ・アート(王立芸術大学)大学院在学中にスタートさせた、超奇妙奇天烈な「トースター・プロジェクト」のスタートから顛末までを本人が書いた作品です。常に進行状況をブログで発表していたようで、そのブログをまとめたような感じの本なんだと思います。ブログで発表していた頃から、ニューヨーク・タイムズやワイアード・マガジンなどから注目を浴びた、なかなか斬新なプロジェクトです。
さて、一体彼は何をやったのか?(やろうとしたのか?)
それは、まさにタイトルの如く、「ゼロからトースターを作ってみた」というのである。
では、『ゼロから』というのはどういう意味か?
それは、『原材料から』という意味だ。
つまり、部品の一部として鉄が必要であれば、鉄鉱石を掘り出し、そこから鉄を抽出するところから始める、というのだ。
完全なるアホである。完膚なきまでの天才的なアホである!
そんな天才的なアホが、夏の卒業制作展までの9ヶ月間を掛け、移動距離3060キロ、1187.54ポンド(約15万円)の費用を掛けてトースターの製作に挑んだ、その記録である。
ざっと書けば内容はこんな感じです。
このアイデアだけでマジで天才的だなと思いました。いや、それだけじゃないな。思いつくことは思いつけるかもしれない。でも、こんな途方もないくだらない(!)プロジェクトを、最後の最後までやり通したっていうのも素晴らしいじゃないですか。『発想』と『継続』が天才的過ぎるなと思いました。だって、思いついたって、こんなこと普通最後までやり遂げないでしょう?
そういう意味で、ブログで発信し続けていたというのは重要な要素だろうな、という感じがしました。やるぜ!って宣言しちゃって、ちょくちょく更新を続けちゃったら、もうやり抜くしかないですよね。
著者は、やはり一人の知識ではやり切ることは出来ないと、色んな専門家の元へ行って助言をもらうんですけど、初めにプロジェクト全体の無謀さについてアドバイスを請うた教授から、何故トースターなのか?と聞かれる。それに対して著者は、『必要か必要でないかのボーダーライン上にあるものの象徴がトースターなんだ』というような持論を展開する。
どういうことか。
元々電気機器というのは、昼間の電気需要を創出するために生み出されたのだという。発電所が出来た当初の電気需要は、昼間はさっぱりで夜は増えるという感じだったのだけど、電気は溜めたり発電量を調節したりすることが難しいから、需要がない時間帯も一定以上の電力を生み出さなくてはいけない。だったら、昼間の需要を創出すればいいということで、電気機器が生み出されたと著者は書きます。
それからの人類の努力の大部分は、ほんのもう少しの快適さを追求するために費やされてきたと著者は言います。そうやって、トースターも生まれた。でも、別にトースターぐらいなくたって生きていけるんじゃないか?それがなくても生活に支障を来さないような製品がたくさんあるのではないか?
そんなものの一つであるトースターを作ってみることで、著者は、自分たちがこれまで歩んできた「必要さを追い求める歴史」に疑問符を打とうとしたのだ。
さて、著者は三つのルールを設定してこのプロジェクトに取り組んだ。

ルール1:作り上げるトースターは店で売っているものでなければならない

これは、完成度を非常に高く、という意味ではなくて、例えばトースターを焼くだけなら棒にパンを差して火にかざせばいいけど、でもそれはトースターとは呼ばない。そうではなくて、店で売っているような機能を備えたものを創りださなくてはいけない、というルールだ。

ルール2:すべて原材料から作り出さなくてはいけない。

これは文字通り。でもまあ、プロジェクトが進むに連れて、この部分は相当妥協されることになるのだけど…(笑)

ルール3:一般的に自分で出来る範囲のことだけでトースターを作る

例えば、原材料をトースターの工場に持ち込んで組み立ててもらったりしたら意味がない。著者は、産業革命以前から存在していたごく一般的なモノや知識は使用可能とした。また、その代替品もOKとした。例えば、車は馬の代替品だから使ってOK。でも、飛行機は産業革命以前に同等のものが存在しないから使用不可、と言った具合だ。

こんな感じにして著者のプロジェクトは始まるんだ。
一番初めに著者がしたことは、店で売ってるトースターを分解することだ。それで、必要な材料を見極めようとした。
そうやって著者は、最大限可能な限り材料を絞込み、鉄・マイカ・プラスチック・銅・ニッケルのご種類の原材料をどうにかして作り出し、さらにそれらを成形したりすることで、最終的にトースターを作ろうとしたのだ。
まあ、どんな風にプロジェクトが進行していったのかは、是非読んでみてください。ブログで報告口調で書いた文章が大体そのまま採用されているんでしょう。軽妙な口調で意気揚々とスタートしたプロジェクトは、当初の予定を大幅に変え、とんでもない紆余曲折と苦労を経て、著者なりのゴールにたどり着きます。その過程は結構面白いですよ。
本書の表紙にある写真が、最終的に出来上がった代物です。読む前にこれを見た時は、こんなんでトースターとか言っちゃうんだぁ、とか思ってたけど、読み終わった今では、よくこんなもん作ったな、という感じに変わりました。それぐらい、原材料からトースターをつくり出す過程はハチャメチャで大変でした。
僕たちは本当に長い間、身の回りにあるものがどんな風に生み出されているのかわからない世の中に生きています。昔は、ラジオぐらい自分で作っていた、なんていう子どもは結構いたでしょうし、ラジオより高度なものだって手作りする子どもはきっといたはずです。もちろん現代社会はテクノロジーが発達しまくって、そもそも手作り出来るようなものではなくなってしまっているわけなんだけど、それと同じくらい、『モノを作る』という習慣がまったくなくなってしまったんだな、という感じがします。
このプロジェクトを終えた著者は、こんな感想を書いている。

『今回のトースターを作りという試みは、僕らがどれだけ他人に依存して生きているかということを教えてくれた。』

まさにその通り。そして著者が指摘する『依存』というのは、『作り方が分からない』というだけの意味ではなくて、『誰も肩代わりしないコスト』という部分にも向けられます。
僕たちは、安く高品質な製品を手軽に手にできる時代に生きているけど、でもその安さは、環境や少数の人たちの犠牲の上に成り立っているかもしれない、と著者は指摘します。しかし、作り方さえ分からない僕たちには、そういう目に見えないコストのことはもちろんわからない。
著者は、自分の手でトースターを作って見て、店で売っているトースターの値段の安さに改めて驚き、そして疑問を抱きます。これは結局、地球がコストを負担しているだけなのではないか、と。そういう視点で、店に並んでいる製品を眺めることが出来た、という意味でも、非常に面白いプロジェクトだったなという感じがします。
バカバカしさ満点の作品ですけど、思いがけず考えさせられる部分もありました。天才的なアホが無謀なプロジェクトに挑む、その果敢さを是非堪能してみてください。

トーマス・トウェイツ「ゼロからトースターを作ってみた」


空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む(角幡唯介)





内容に入ろうと思います。
本書は、世界中のありとあらゆる場所が探索しつくされた現代においても、未だ人跡未踏の地であった、俗に『空白の五マイル』と呼ばれる地帯への単独行を敢行した著者による、ツアンポー峡谷の探検史です。
本書は大きく分けると大きな4つの流れによって構成されている。時系列順というわけではなく、章毎に時空を行き来しながらその4つの流れが語られる。
一つは、ツアンポー峡谷の探検史である。
著者は、金子民雄「東ヒマラヤ探検史」という本を読み、ツアンポー峡谷のことを知り、興味を抱いた。その本には、ツアンポー峡谷のあるチベットの文化や歴史、あるいはツアンポー峡谷へ分け入った様々な人たちの冒険などが書かれていたが、そこで書かれていた冒険は、1924年のフランク・キングドン=ウォードのものが最後だった。
今ツアンポー峡谷の冒険はどうなっているのだろうか?
大学時代の著者は、この本に出会うことでツアンポー峡谷に興味を持つのだ。
そうやって、最終的にはツアンポー峡谷に行くまでになってしまうのだが、このツアンポー峡谷にまつわる歴史がまず滅法面白いのだ。
ツアンポー峡谷が世界中の探検家の間で伝説になったのには、キントゥプという、記録に残る限りで一番最初にツアンポー峡谷を探検した人物の功績にまで遡る。1878年1884年にかけてツアンポー峡谷周辺を探検したキントゥプには、当時の地理学的な難問を解決する期待が掛けられていた。それが、ツアンポー川がヒマラヤの峡谷部で姿を消した後、ビルマのイラワジ川になるのか、インドのブラマプトラ川になるのかというものだった。キントゥプは探検を続け、それを証明するために奇抜な行動をするのだが、結局その成果は分からず終いであった。
しかしキントゥプは、後の探検家に憧憬を抱かせる、後世に残る発見をすることになる。
それが、ツアンポー峡谷には、45メートルというとんでもない大きさの滝が存在する、というのだ。
この滝の存在に関する顛末もまた面白いのだけど、それは是非読んでほしい。とにかくキントゥプは、このとんでもない規模の滝を発見したという事実によって、後の探検家にツアンポー峡谷への憧れを植え付けることになる。
その後も幾人かの探検家がツアンポー峡谷へアタックするが、チベットが政治的に不安定になり外国人を受け入れなくなり、長い間ツアンポー峡谷は世界の秘境であり続けた。
近年、主に米国の探検家がツアンポー峡谷にアタックし、それにより新たな発見もなされたのだが、しかしそれでもツアンポー峡谷には、『空白の五マイル』と呼ばれる、地元民以外世界中の誰も足を踏み入れたことのない人跡未踏の地が残されていた。
著者は、自らの冒険の対象として、その『空白の五マイル』に狙いを定めるのだ。
二つ目は、著者の大学の先輩に当たる人の話である。
早稲田大学探検部に所属していた著者は、ある時同じ大学に、ツアンポー川をカヌーで下った人がいるという話を耳にし、カヌー部へと向かう。誰もいない部室で待っている著者に初めて話しかけた人こそ、まさにツアンポー川をカヌーで下ったその人っだった。
只野靖と武井義隆は、NHKの番組のロケハンを兼ねたツアンポー峡谷の探検に、カヌーイストとして参加することになった。激流下りがまだ日本にそこまで根づいていなかった時代、就職もせずブラブラしていてかつカヌーの腕が一級という彼らはうってつけの人材だったのだ。
彼らは、自分たち以外に川下りに詳しい人間が誰一人いないという環境の中で、いけると判断してツアンポー川の支流をボートで下り、結果武井義隆は亡くなった。
著者は、現在は法律事務所で弁護士として働いている只野靖や武井義隆の父親らと会い、スケールの大きな男だったと誰もに言わしめる武井義隆という人物の内側に迫っていく。
そして3つ目と4つ目が、著者自身によるツアンポー峡谷の探検記です。
その二つは、時期が違う。
一度目は、2002年12月。大学を6年掛けて卒業し、就職をすることなくアルバイトで食いつないでいた著者は、やはりかつてからの憧れの地であるツアンポー峡谷に行く決意をする。以前と比べて緩くなったとはいえ、やはりチベットは外国人の立ち入りを厳しく制限している。それでも彼は、飄々とした感じでツアンポー峡谷に入り込み、案外軽い気持ちでツアンポー峡谷へ挑戦する。どう考えても超えられない壁を前に引き返したり、あとほんのちょっとでもズレていたら死んでいたというような状況をくぐり抜けながら、著者は恐らく世界の探検家として初めて、『空白の五マイル』に足を踏み入れた。
著者は、自分自身こそが、キントゥプの言う『幻の大滝』を見つけるもんだと信じて疑わなかった。大学生の頃のことだ。
しかしその滝は、アメリカの探検隊によって発見されてしまう。その喪失感は著者の中ではかなりのものであった。
滝を見つけるという大いなる目標を失いながらツアンポー峡谷入りした著者は、まだ『空白の五マイル』の中に発見されていない滝があるかもしれないし、という僅かな思いを抱いていた。
しかし『空白の五マイル』で彼が見つけたものは、予想もしなかったものだった。理想郷『シャングリ・ラ』の伝説は、チベット仏教の伝説から生まれたとされているが、まさにこここそがそのシャングリ・ラなのではないか、と著者は本気でそう思った。
著者の中で旅の目標が変わる。ツアンポー川の対岸にあるあの場所に行き着くことを、この旅のゴールにしよう、と。
二度目は、2009年。一度目の探検の後、朝日新聞の記者として5年間働いた著者は、再度ツアンポー峡谷へとチャレンジするために会社を辞めた。
しかし、会社を辞める決断をした少し後、チベットの情勢が穏やかではなくなっていく。一層外国人の受け入れに厳しくなることが予想されたが、著者はツアンポー峡谷への許可を取らないままツアンポー峡谷入りすることになる。
これが著者を後々まで苦しめることになる。
二度目のツアンポー峡谷への探検は、分かりやすい目的とか、功名心とか、そういうものによって突き動かされているわけではなかった。著者にとっては、登らなければならない、という強い衝動によって突き動かされているわけで、そのどうにもしようがない内側の爆発みたいなものが、けれど静かに爆発しているような、そういう印象だった。
そうやって著者は、自らの探検と先人の偉業とを重ね合わせることで、ツアンポー峡谷という、探検家以外にはほとんどその場所を知られていないツアンポー峡谷という異境について、複層的に物語っていく。
というような話です。
これはホントに凄かった!ノンフィクションは結構好きで読むけど、ホントに凄い話だったなぁ。
読んでいる間ずっと思っていたのが、この人よく生きてるな、ということだった。特に、二度目のツアンポー峡谷の探検に関しては、生きているのがおかしいぐらいの状況の中にいる。メチャクチャ過ぎる。読んでいるとどうも著者は物事を楽観的に捉える人のようで、まあそうでもなければツアンポー峡谷なんていう秘境にわざわざ行かないだろうけど、超極限状況に置かれてもある程度以上の冷静さを保たなければ生還できない『単独行』というものの恐ろしさみたいなものを実感させられるように思いました。
しかし、本書を読むまで、もちろんツアンポー峡谷なんて場所のことは知りませんでしたけど、本書で結構ざっくりめに描かれている(だろう)過去の偉人の探検史を読むだけでも充分ワクワクさせられるな、という感じがします。
世界には、これほどまでに人を寄せ付けない場所が存在するのか、という感動がある。
普通の人には行けない場所というのは、世界中にはたくさんあるだろう。たとえば、エベレストなんか、僕には絶対に登れないだろうし、世の中で登れない人の方が圧倒的に多いだろう。でも、毎年それなりの数の人がエベレストには上る。アルピニストの野口健なんかかつて、エベレストの清掃活動なんかもやってたはずで、定期的に登ってたんだろう。凄いもんだなと思います。
でも、ツアンポー峡谷は、そんなに簡単に人を寄せ付ける場所ではない。現在まででツアンポー峡谷へアタックした人全員を数え上げられるほどの人数しかツアンポー峡谷に足を踏み入れていないのではないかという感じがします。
ツアンポー川は、長さ2900メートルを誇るアジアでも有数の大河であり、その増水期の激流は、日本では比較対象がまったくないほど、レベルが違う存在感を示す。現代的な測量によって、ツアンポー峡谷は世界最大の峡谷と言われていたグランドキャニオンを大幅に超える、世界最大の峡谷であることが判明したんだそうです。
ほとんど人が立ち入らないというだけでも面白そうなのに、そこに世界規模で見ても最大級の滝が存在する、なんていう伝説が加わっちゃえば、そりゃあ熱狂するしかないですよね。なんとなくですけど、分かります、そういう気持ち。そして、その滝を自分で発見してやる!って思っちゃう気持ちも分かります。
ツアンポー峡谷の探検史は、そういうロマンや伝説という観点からも面白いんだけど、1924までの探検家たちのありえない冒険譚も面白くって仕方ない。奴隷として売られたけど10ヶ月後に脱走したとか、殺人事件がきっかけでツアンポー峡谷の探検に乗り出したみたいな話が普通に書かれてて、おいおい!っていう感じだった。ハチャメチャ過ぎるだろ。さっきも書いたけど、キントゥプが見つけたという大滝に関するオチも笑ってしまう。しかし何にせよ、彼ら先人の冒険があったからこそ、そしてチベットいう仏教文化圏の特殊さがあったからこそ、ツアンポー峡谷は特別な場所になって行ったのだ。
著者はあとがきでこんな風に書いている。

『今の時代に探検や冒険をしようと思えば、先人たちの過去に対する自分の立ち位置をしっかりと見定めて、自分の行為の意味を見極めなければ価値を見いだすことは難しい』

現代は、グーグルアースで調べれば世界中のどんな場所も見ることが出来るし、様々なテクノロジーによってかつてとは比べ物にならないほど人間の能力を延長できるようになっていった。しかしそれは逆に、冒険や探検というものを困難にしていく。
著者は、何かのために冒険をするのではない。冒険を成し遂げることで、それと置き換わる何かを手に入れたいわけでもなければ、夢を叶えたり未来を切り開くために冒険をするのでもない。
敢えて言えばそれは、絡まった糸をほぐすような行為ではないかと思う。
著者の中には、言葉にはしがたいけどそのまま消化することも出来ないモヤモヤがある。そしてそれは、ツアンポー峡谷を登ることでしか解消されないということが分かっている。そうでもなければ、『たいした仕事はしていなかったのに、ずいぶんといい給料をくれる会社』である朝日新聞社を辞めてまでツアンポー峡谷を目指すことはなかっただろう。
特に二度目のツアンポー峡谷へのアタックでは、まさにこの絡まりをほぐすような内面描写が続き、これがなかなかノンフィクションらしくなくて面白い。何故これほどまでに辛い思いをして登らなくてはならないのか。淡々と続く光景や自らの行動の描写の合間に、ところどころそういう葛藤が挟み込まれる。自分は一体何をしているのだろうか。著者はずっとそれを問い続ける。

『冒険は生きることの意味をささやきかける。だがささやくだけだ。答えまでは教えてくれない』

きっと、絡まりがほぐれるところまでは行かなかったのだろう。いや、それでいいのだ。絡まりがほどけてしまったら、それは著者の中の『冒険の死』ということになるだろうから。絡まりを解こうとしつつ、それがどうやっても、ツアンポー峡谷という秘境を単独行しているまさにこの瞬間でさえもほどけることがない、という事実を確認するために、著者はこれからも冒険を続けるのではないかなという感じがします。
早稲田大学のカヌー部の二人の話も、物凄く引きこまれた。そもそも、同じ大学の先輩に、日本でもほとんど行った人がいないだろうツアンポー峡谷へ行ったことがある人がいる、というだけでも偶然すぎるのに、部室に乗り込んで初めて話をした相手がまさにその人だったとか、なんというか物語めいているなぁ、という感じがします。
武井義隆という、ツアンポー川で命を落とした男の話が描かれるのだけど、とにかくスケールの大きな男だったちようです。武井義隆は、大学を卒業してフラフラしているだけの人間だったのに、既に社会の中で大きな成功を収めている幾人もの人が、武井義隆という人間の大きさを褒め称える。もちろん、死者を悪くいうことは出来ないだろうし、ある程度そういうバイアスはあるにせよ、人を惹きつける魅力に満ち溢れた人物だったのだろうなと思う。 
好きなシーンが二つある。
一つは、武井義隆が亡くなったという話を聞いたカヌー部のOBらが集まったシーン。武井義隆をツアンポー峡谷へ行かせるきっかけとなった人物が先輩にあることを言われある決断をするんだけど、両者とも凄いなと思う。
もう一つは、武井義隆が亡くなってから二年後、テレビ朝日のディレクターが武井義隆のライフジャケットを見つけたという場面。『だがその時、二人のもとに届けられたのは、息子のライフジャケットだけではなかった。』というその描写は、粋だなぁという感じがしました。
ノンフィクションには、対象とは距離をおいて外側から激しく切り込んでいくものと、対象に深入りし客観性を無視して突き進むものとあるけど、本書は後者に近いです。自分自身の話が基本なんでそうならざるを得ないでしょうけど、過去の探検隊の話や武井義隆の話なんかでも、著者の目線が随所に現れているように思う。どっちのノンフィクションも好きですけど、自分の中で、これは凄くいいんだよなぁ!って思うものには、後者のようなノンフィクションが多いような印象があります。二度とも、後に本に書くことなんて考えていなかっただろう、もっともっと純粋な気持ちで登ったんだろうなということが凄く伝わってくる作品です。是非読んでみて下さい。

角幡唯介「空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む」


コミック 冷たい校舎の時は止まる(原作:辻村深月 漫画:新川直司)

内容に入ろうと思います。
本書は、辻村深月のデビュー作「冷たい校舎の時は止まる」のコミック版です。漫画を担当した新川直司は、「四月は君の嘘」というコミックが結構話題だったりしますけど、著者の漫画家デビューもこのコミカライズなんだそうです。
記録的な大雪が降ったその日は、高校の登校日だった。
幼馴染でずっと仲の良い鷹野と深月。賭麻雀で停学になった菅原と、菅原といいコンビを見せるリカ。菅原のパシリ的な存在である充。優等生の清水さん。遅れてやってきた昭彦と景子。
彼らは、誰もいない校舎に閉じ込められた。
不自然に止まった時計、鳴らないチャイム、彼ら8人に以外まったく人気のない校舎。何をしても窓ガラス一枚割れないし、電話やメールも通じない。
彼らは、まったく状況が理解できないまま、雪降りしきる校舎の中で為す術もなく立ち尽くす。
彼らはやがて気づく。
2ヶ月前に自殺したクラスメートの顔を思い出すことが出来ない。
何故だ。あれほどまでに衝撃的で、記憶に刻んだはずの出来事を、その場にいる8人全員が忘れてしまっているのだ。
「おもいだした?」
繰り返しそう問いかけ続けられる彼らは、一つの結論を導き出す。
この8人の中の誰かが自殺をしたのかもしれない。
そして自分たちは、その自殺した誰かの意識の中に閉じ込められてしまったのかもしれない。
誰だ!?
自殺したのは、一体誰なんだ!?
というような話です。
僕が原作を読んだのが2005年。もう10年近く前のことなんで、内容は完璧に忘れてました。
だから、と繋げるのはおかしいかもですけど、面白かったです。やっぱりデビュー作でこんなとんでもない作品を書いた辻村深月は只者じゃないなという感じがします。
さて、原作のことをさっぱり覚えていないので、原作と比較してどう、という話を書けたりはしません。
と同時に、普段コミックをそこまで読まないので、本書がマンガ的にどう、というような話も書けたりはしません。
うーん、何を書こうかしら(笑)
本書は、閉じ込められたという設定が初めに提示された後、閉じ込められた彼らの描写と同時並行で、彼ら8人の生い立ちや内面などがかなり深く描かれていきます。
この部分が、凄くいい。
彼ら8人は、とあるきっかけで集まるようになった仲間だ。それぞれが、自分が置かれている辛い現実から、逃げたり向きあったり闘ったりしている。そんな8人は、仲間を得て、その辛い現実を一時忘れることが出来る空間を手に入れることが出来た。
彼らにとって『仲間』という存在の意味は大きい。でも、自分がどれだけ『仲間』に頼っているか、それはなるべく表に出したくない。
そんな彼らの描き方が、凄く巧い。
彼らは普段、何でもない風につるんでいる。お互いにまったく違った背景を持つ面々が、何故か一緒につるむようになった。彼らはそこに、特別な何かを見出している。
『仲間』の存在に救われた奴もいる。『仲間』の誰かを羨む奴もいる。『仲間』の誰かを好きになる奴もいる。
それぞれの想いは、彼らの関係性を壊さない程度の絶妙なバランスで成り立っている。
『仲間』の存在は、時に危うい。
それは、自分の弱さを突きつけてくる。責任を思い出させる。楽しい時間の喪失を恐怖させる。
受験勉強に必死になる環境の中、誰もが追い詰められていく。勉強そのものに悩む奴。将来について考える奴。自分の存在意義に疑問を持つ奴。みんな、色んな『何か』を抱えながら、それでも『仲間』の存在に勇気をもらいながら、彼らは前に進む。
子どもは、大人の現実を写す鏡だ。
大人の不始末は、結局子どもに降りかかる。大人が楽をすればするほど、大人が自由を求めれば求めるほど、子どもに皺寄せが行く。しなくてもいい苦労をしなくてはならなくなるし、余計な回り道を背負わされる。
どうして自分だけ。
そんな風に叫びたくなることもある。
同じ制服を来て、同じ机に座って、同じテストを受ける。外側の環境が丁寧に揃えられているが故に、内側の差が大きく出やすい。家庭環境、性格、能力。そういう自らの内側が、子どもという一瞬を強く支配する。同じ笑顔の下に、同じ感情が宿っているのか。それは誰にも分からない。
辻村深月は、そういう子どもの『ふがいなさ』みたいなものをすくい取るのが抜群に巧い。些細な出来事が、誰にどんな影響を与えるのか。どんな関係性が何を届かせるのか。
学校という、非常に苦しくて窮屈で閉ざされた空間の中で、なかなか真っ直ぐ歩くことが出来ない人を。笑顔という魔法で自分の本質を覆い隠している人を。辻村深月は、そんな人たちを見つけては、優しく耳を傾けるのだ。「どうしたの?」と。そうやって著者の辻村深月は、登場人物たちに話をさせる。彼らは、著者に喋らされているのではない。著者に向かって喋っているのだろう。それを、著者は聞き逃さない。
マンガ的にどうなのか、というのはあまり巧く書ける自信がないのだけど、マンガの良さは、絵によってシーンの緩急をつけやすいところだろうな、という感じがする。おちゃらけた場面と真剣な場面の描写を瞬時に切り替えることが出来る。小説だと、なかなかこうはいかない。文章だけで、急に作品全体のトーンを変えることは難しい。マンガなら、さっきまでおちゃらけたシーンだったのに、その直後に真剣なシーンが配置されても不自然はない。
原作小説のことはあまり覚えていないけど、やはり全体的に落ち着いた静かなトーンだったように思う。あまりおちゃらけた感のある小説ではなかったのではないかと思う。コミカライズするに当たって、どれぐらい削り、またどれぐらい足したのか、それは分からないけど、おちゃらけた雰囲気の場面は、マンガ全体の雰囲気を暗すぎるものにしないためにマンガ家が付け足したものなんじゃないかな、という感じがする。
本書は、ミステリ的な要素が作品の本線であるのに加え、登場人物たちの生い立ちや関係性の『雰囲気』を感じ取る作品であるので、書けることが凄く少ない。ミステリ的な部分にはなかなか触れられないし、『雰囲気』は短い言葉では表現できないからだ。是非、マンガでも小説でもいいから、辻村深月が作り上げた奇妙な設定と、そこで描かれる登場人物たちの切ない『雰囲気』を存分に感じ取って欲しい。どちらから先に読むにせよ、後で読む方は「ネタバレ済」という状況で読むことになるので、マンガと小説、より楽しみたい方を先に読むことをオススメします。是非読んでみて下さい。
個人的には、コミカライズでデビューっていうのはなかなか不思議なデビューの仕方だと思うんだけど、どうなんだろう。

原作:辻村深月 漫画;新川直司「コミック 冷たい校舎の時は止まる」





るり姉(椰月美智子)

内容に入ろうと思います。
本書は、みんなから「るり姉」と呼ばれる女性を中心にした、家族の物語です。
本書は長編作品ですけど、章毎に視点人物が変わる連作短編集のような形式であること、そして全体的にこれと言ったはっきりとしたストーリーがあるという作品ではないので、主要な登場人物をざっと紹介することで内容紹介に替えようと思います。
本書は、渋沢家を中心に物語が進んでいく。
渋沢家の長女であるさつきは、怠け心はもちろんありつつも、なんだかんだ長女らしく振る舞ってしまう。犬を飼いたいとせがんだのに、既に世話に飽きてしまう、なんてこともあるのだけど、母親が看護師で父親がいない生活を、それでもやっぱり自分がある程度回して行かないといけないんだろうな、というぐらいの責任感はある。成長するに連れてどんどん母親に似てきたとみんなに言われてしまう。
次女のみやこは、赤髪の中学生だ。何度その髪について母親が文句を言おうが、るり姉が前の黒髪の方が良かったと言おうが聞きやしない。口調も荒っぽく、学校でもヤンキーのグループの中にいる。でも、みやこ自身は別にヤンキーじゃない。怒られるとニヤけてしまう癖がある。鉄道研究部で出会ったキング先輩(なんと本名!)といつもつるんでいる。
三女のみのりは、小学四年生の頃からバレーを初めて、以来部活動に相当力を入れている。姉二人がどうしても飼いたいと言ったアニーの散歩は、今は結局みのり一人がやっている。おばあちゃん子で、小学生らしくまだまだ子どもだ。とりあえずバレーの話を口に出したいらしく、相手が話を聞いてなくてもお構いなしに喋る。
母親のけい子は、11年勤めた病棟から、異動で精神病棟に移ることになった。精神病棟での勤務は、なかなかにハードだった。父親がいない家庭では、もちろん自分が何もかもやるしかないが、3人のうるさい娘たちの相手をするのはなかなか大変だ。『花とゆめ』を愛読していて、マンガを読んでいる時は外の会話が入ってこないぐらいのオタクである。いつも疲れているし、いつもズボンのチャックが開いている。
そして「るり姉」である。るり姉は、三姉妹の母親の妹だ。三姉妹にとっては叔母に当たる。以前は「まあ兄」と結婚していて、三姉妹はまあ兄にかなり懐いていたのだけど、何故か離婚してしまった。今は三姉妹が「カイカイ」と呼んでいる男と結婚している。カイカイを運転手にして出かけたりすることもある。
るり姉は変わっていて、予想がつかないところがある。自分なりに好きなやり方で世界と関わっていて、その行動は大抵の場合、周囲からすれば奇妙なものに映る。それでも、るり姉は気にしないし、るり姉は我が道を突っ走る。
イチゴ狩りに行ったり、過去の聞きにくいことを聞いたり、あるいはただただ他愛もない日常を過ごす中で、彼女たちはるり姉と関わり、振り回される。そんなささやかな日常を描き出す物語です。
全然どんな話なんのか想像出来ないかもしれないけど(笑)、でもイメージ的にはそういう感じなんですよね。なかなか本書の内容をスルッと言い表す言葉ってないなぁ、という気がします。
この作品は凄く良かったです。特に、一番初めのさつきのパートが何よりも素晴らしく良かったです。
さつきのパートでは、るり姉に何らかの異変が訪れる様が描かれる。
それは、子どもである三姉妹には何なのか、はっきりは伝わってこないような、そういう事柄だ。三姉妹は、非常にもどかしい想いを抱えることになる。何か大変なことが起こっているということは分かる。それははっきり読み取れるのに、何が起こっているのかさっぱりわからないのだ。しかも、三姉妹が大好きなるり姉のことなのに、である。
るり姉には、誰も彼もを惹きつけてしまうような魅力がある。
るり姉は、常識に囚われないし、こうじゃなきゃいけないなんていう窮屈さもない。三姉妹の母親と対して変わらない年齢なのに、母親とは明らかに違う人種だ。子どもみたいにイタズラを仕掛けてくるかと思えば、きちんと大人びていることもある。
三姉妹にとってるり姉というのは、いつだってバカバカしくて、いつだって明るくて、いつだってぶっ飛んでた、そういう明るすぎる太陽みたいな存在だったのだ。
そんな三姉妹の想いを打ち砕くような出来事が起こり、三姉妹はどう対処していいのかわからなくなる。あのるり姉が、るり姉らしくないのだ!子ども扱いされて、きちんとしたことを知らされなくても、子どもたちはどうにかるり姉のためになりたいと願うし、行動する。普段るり姉から当たり前のようにもらっているものを当たり前のように返そうと思っただけなのかもしれない。ともかく、誰もが純粋な気持ちになって、変わりゆくるり姉と関わっていていく冒頭の物語には、かなりノックダウンされた。それ以降の物語ももちろん面白いのだけど、インパクトという点で言えば冒頭の話が圧倒的だったなと思う。
本書は、タイトルはズバリ「るり姉」だし、各章でそれぞれの視点人物による「るり姉像」が描かれる物語なのだろう、と思われるかもしれないのだけど、実はそうではない。本書は、るり姉よりもむしろ、視点人物本人のことがあぶり出される、そういう構成になっている。さながら、るり姉が鏡になっているかのように、るり姉を描きつつも、そこにどんな「るり姉」を見出すかで各人の個性を描き出す作品だと僕は思う。
5人の視点人物による物語が収録されているのだけど、登場するるり姉は、どの話でも同じように描き出されているように思える。突飛で、奇抜で、幼稚で、でも誰からも愛される、そんな特異なキャラクターとして描かれている。
ただ、るり姉と関わる側の人間は、るり姉のいる日常に様々な反応を示す。そして各人が、決して彼らの日常の中心にいるわけではない「るり姉」(カイカイが視点人物の話は別として)と様々な場面の描写によって、その人の個性が現れでていく。
本書が凄いなと思うのは、本当に本当に、何でもない日常の積み重ねとして物語が描き出されているという点だ。
るり姉は確かに突飛な存在だけど、日常生活の中で浮きまくってしまうほど奇天烈というわけではない。三姉妹や母親にしても、それぞれに強い個性を持っているのだけど、でもそれも彼女たちの日常を奇抜に彩るほどではない。だから本当に、特別さのあまりない、彼女たちのありのままの日常が舞台になっているなという印象が強い。
それで読者を惹きつけるだけの物語を生み出し、るり姉を中心としてこれだけ個性豊かな面々を描き出せるものなのだな、と思う。
彼女たちは、時々どこかに出かけたりするけど、基本的には、起きて学校に行って、ご飯を食べて掃除をして、家族でピーチクパーチク会話をして、なんていうその連続として描かれていく。赤髪のみやこがちょっと変わった状況に遭遇したりする場面もあるけど、まあそれにしたって『みやこにとっての日常』の範囲内のことであって、それはみやこの個性ということだ。何が起こるわけでもない物語を通じて、三姉妹と母親とるり姉とカイカイという登場人物たちの個性が濃密に描かれ、さらにその中でるり姉が中心となって物語をかき乱していく。先がどうなるのか気になる、という興味関心というよりは、登場人物たちがつくり出す雰囲気の中に自分も混じりたいと思わせるような魅力を放つ物語で、かなり読ませる物語だと思います。
さて、ここまであーだこーだ書いたところで、僕はこんなことを書いてみたい。
本書で描かれる「るり姉」は、絶対に『嘘』だと思う。
これは、『るり姉みたいな奇特な人間、実際に存在するわけない!』というツッコミではない。そうではなくて、『るり姉は、他人に見せているのとはまったく違う、自分だけの自分を持っているはずだ』という推測だ。
そう、これは僕の勝手な推測に過ぎない。
でも、本書を読んで僕は、本書では「るり姉そのもの」はまったく描かれていないのだろうな、と感じました。
これは、『嘘をついている』というのとも違うんですね。そんな表現でるり姉を貶めたくはない。たぶんるり姉は、『そうする以外に選択肢がなかった』のだろうなと思うのですね。
ジグソーパズルを組み立ててて、あと一箇所分隙間が空いているのだけど、一つ残ったピースはその隙間に嵌まらない、なんていうことがあったとしましょう。要は、不良品です。
るり姉はまさにその、隙間に嵌まらない不良品のピースみたいな存在なんだろうなと思うんです。
生きていく中で、自分の周囲の世界には、『自分が嵌まることができる隙間がない』ということに、恐らくるり姉は気づいてしまったのだろうな、と思います。たぶんそれが、るり姉が中学生とかそれぐらいの時期でしょう。本書で、それぐらいの時期に色々大変だった、とるり姉が語っている場面がある。
そこでるり姉は、自分自身の存在を、その隙間の形に合わせることが出来なかったのだ。
世の中には、そんな風にして自分の存在を隙間の形に合わせながら飄々と生きていける人もいる。僕も後天的にそういうやり方をある程度は身につけたかな、という自覚があったりする。
でも、るり姉にはそんな生き方は出来なかったのだ。
あくまでも僕の勝手な推測でしかないのだけど、もしそうだとすれば、僕はるり姉に非常に共感できる。
子どもの頃というのは、『自分に与えられた隙間』の中でどうにかやっていくしかない。それが、どれだけ自分自身の形とかけ離れたものであっても、子どもである自分にはその隙間をどうこうすることは出来ないし、かと言っておいそれと自分自身の形を変えることも出来ないから、その葛藤の中で苦しむことになる。
るり姉の不幸はきっと、それを理解してくれる大人が周りにいなかったことだろう。るり姉の姉、つまり三姉妹の母親でさえ、子どもの頃の(今もだけど)るり姉のことは、まったく理解できないでいたのだ。
るり姉は、与えられた隙間に合わない自分の存在に苦悩する子ども時代をきっと送ったんだろうなぁ、と思うのだ。
でもこれは、大人になれば解決される可能性がある。大人になって、『子どもであるが故に与えられる隙間』の存在から逃れられるようになると、たぶんるり姉は伸びやかに生きることが出来るようになったのではないかと思う。大人になりさえすれば、自分がぴったり嵌まる場所を見つけ出すこともできるようになるけど、るり姉が選択したのはそのやり方ではない。るり姉は、今自分がいる場所を自分に合うような形に変えて行ったのだ。大人になって、それが可能になった、ということだ。子どもの頃にはまったく不可能だっただろう。
物心ついた頃から「るり姉」として接していた三姉妹や、「るり姉」であるるり姉としか関わったことのないカイカイには、そのるり姉のもう一面というのは非常に見えにくいだろうなと思う。それが分かるとすれば、るり姉の姉である三姉妹の母親か、あるいはるり姉の前の旦那であるまあ兄だろう。たぶん、まあ兄との離婚も、そんな変化の延長線上にあったのだろうな、と僕は勝手に理解している。
だから僕は本書を読んで、『本書では描かれなかった「るり姉」の姿』(しつこいけど、あくまでも僕の推測が正しかったとして)に非常に興味がある。るり姉は、外からパッと見ただけでは、支離滅裂で一貫性のない言動をしているように見えるのではないかと思う。でもたぶんるり姉は、自分の中で非常に整合性の取れた一貫性の中で行動しているのだろうと思う。その一貫性がどんなものなのか、僕には具体的には分からないのだけど、でもそういう一貫した行動が貫かれているということは分かるような気がする。
そういう、るり姉をるり姉足らしめているものの存在や、るり姉が具体的にどんな人生を歩んできたのか、あるいは本書で描かれる三姉妹やカイカイらと接している時、実際るり姉はどんなことを考えているのか。なんだかそういうことが凄く気になる作品でした。もう一度書くけど、本書で描かれる「るり姉」は、絶対に『嘘』だと思う。
表向きは、『るり姉を描いていると見せかけて、るり姉を鏡として、るり姉を眺めるその人そのものを描き出す』物語です。しかしその一方で僕は勝手に、『自分のことは誰にも理解されないという諦念から、世界の中で巧くやってくためにちょっと違った皮を被って生きている女性の隠された内面を読み解く』物語としても楽しみました。ただそこにいるだけで周囲を明るくし、幸せにする。そんな特異な個性を持つるり姉を中心に、個性豊かな面々を描き出す家族小説です。是非読んでみて下さい。

椰月美智子「るり姉」


2100年の科学ライフ(ミチオ・カク)

内容に入ろうと思います。
本書は、物理学において秘めたる可能性を持つ理論「ひも理論」の創始者の一人であり、全米で放送されるサイエンス・チャンネルの司会を務め、また一般向けに科学を分かりやすく伝えるサイエンスライターとしても知られる著者による、現在の科学テクノロジーから、100年後の未来を想像する、という内容になっています。
とはいえ、ただの想像ではありません。
本書は、新発見の最前線にいるトップクラスの科学者300人以上へのインタビューに基いて書かれている。そして何よりも、本書で描かれているすべてのテクノロジーのプロトタイプは既に存在している、という点が大きいだろう。本書は、「まだ微塵も可能性が感じられないものを、未来には出来てるんじゃないかな」と楽観的に予測する本ではなく、「現在技術の萌芽はあるが、まだ実用化には至っていない。しかし、100年もあれば、技術的困難さやコストの問題をクリアして、一般に広まっていくのではないか」というものばかりを取り上げているのだ。例えばこういうことだ。もし『紙』というものがまだ発明されていなければ、「未来の世界でいずれ『本』が発明されるだろう」というのは、ただの空想に過ぎない。しかし、『紙』が発明されていれば、「『紙』を束ねて『本』を作れるだろうし、将来的に何らかの技術革新があって、その『本』を大量生産するための仕組み(まあ、つまり印刷技術ってことですけど)が生まれるだろう」というのは、プロトタイプを元にした根拠ある予測といえるのではないだろうか。
本書では、ホントに!?と言いたくなるような様々なテクノロジーが山ほど出てくる。たった100年で、そんなとんでもない未来がやってくるんだろうか、と疑いたくなってしまうようなテクノロジーが次々に紹介されるのだ。
しかし、肝心なことは、それらのプロトタイプは既に存在している、ということである。まだ実験室レベルでしか存在していないものたちばかりだが、世の中に存在するありとあらゆるものは、初めは実験室レベルの存在でしかなかっただろう。いずれそれが、様々なブレイクスルーによって、一般人のところまで普及していく。そう思えれば、本書で描かれていることを、リアルな未来として受け止めることが出来るのではないだろうか。
そしてもう一つ書いておきたいことがある。それは、『100年後を想像することの難しさ』だ。
これは、1900年の人が現在を想像するのと同じようなものだ、と考えれば近いイメージになるだろう。本書の冒頭でも、それについて触れている。
1900年はどんな世界だったのか。ラジオも映画もなく、自動車は登場したばかりで、人びとは100年後も馬に乗っていると考えていた。飛行機もトラクターもなく、多くの人は将来人類が大西洋を渡る飛行船が出来るだろうと予測できていたが、それは気球によるものだと考えていた。
そんな1900年の人から見れば、目の前にいない人と話が出来る機械や部屋を涼しくしたり温めたりする機械は想像も出来ないだろうし、治るはずがない病気が治るという現実にも驚かされることだろう。
僕たちも本書を読む前に、そういう視点に立たなくてはいけない。1900年の人から現在を見た時と同じか、あるいはそれ以上の変化(何故なら、科学の進歩は恐ろしい速度で進んでいるから)が100年後やってくる、と考えるべきだろう。そういう心構えで読まなければ、本書はどうしたって荒唐無稽な代物に思えてしまうだろう。
もちろん、ここに描かれていることが実現するかどうかは分からない。実験室レベルでは成功しても、結局のところ一般の人が望まなければ、それが普及することはないだろう。あるいは、宇宙探査など一般の人が関わることがないものであるが故に、資金が捻出できず頓挫するものも出てくるだろう。それに、現時点でプロトタイプがまだ出来ていなかった何らかの技術が、100年後に花開くかもしれない。だから当然、100年後は本書の通りにはならないだろう。それでも、これだけワクワクさせてくれる未来を見せてくれるのは、非常に面白い。
そんなわけで、本書でどんなアイデアが出てくるのかざっと書いてみようかと思うんだけど、書きすぎても読者の興を削ぐし、あれもこれも書いてたら物凄い分量になってしまうんで、あくまでざっくりと流れを示しつつ、僕が凄く気になったものがあればちょっと詳し目に書く、みたいな感じで行こうかなと思います。
本書は、「コンピュータ」「人工知能」「医療」「ナノテクノロジー」「エネルギー」「宇宙旅行」「富」「人類」という8つのテーマに分かれていて、最後に「2100年のある日」という章があります。それぞれのテーマにおいて、期間を3つに区切って描いていきます。「近未来(現在~2030年)」「世紀の半ば(2030年~2070年)」「遠い未来(2070年~2100年)」という3つです。とはいえ、面倒なので、その辺りの区切りのことにはあまり触れないまま色々書いていこうと思います。

「コンピュータの未来」
コンピュータの未来にとって最も重要なものは、あの有名な「ムーアの法則」だ。「コンピュータの性能は、およそ18ヶ月で倍になる」というアレである。しかし、この「ムーアの法則」には、物理学的な限界が存在する。その代替となるものを見つけられるかで世界の命運が変わるだろうと書かれている。
とはいえ、ムーアの法則はしばらくまだ有効だ。コンピュータ・チップはどんどん安くなり、いずれビニールの包装よりも安くなり、バーコードに取って代わるだろう。
ありとあらゆるものにチップが埋め込まれ、コンピュータからインターネットに接続するというこれまでのやり方ではなく、壁や家具や広告看板などからも瞬時にインターネットに接続できる未来がやってくるだろう。
現在、コンタクトレンズ型の液晶ディスプレイの開発が迫っている。目に装着するだけでインターネットに接続でき、その結果を網膜に映しだしてくれるのだ。
とにかくあらゆるものにチップが埋め込まれ、オンライン化する。持っているもの、身に着けているものすべてがインターネットに接続できるようになる。
思考でコンピュータを動かす、という試みも行われている。実際に身体付随の男性の脳に電極を差し込み、それをインターネットと接続することで、男性が思考だけでカーソルをコントロール出来るようになったという実験がある。夢を録画したり、超小型のMRIによって体内を簡単にスキャンできる日がやってくるかもしれない。

「人工知能の未来」
人工知能の研究は様々に進められているが、まだ人間を模倣するまでには至らない。知能的には昆虫レベルのものしか生み出せていない。ロボットは、パターン認識を苦手とし、常識を持たないことが最大のネックになっている。
ロボットが得意とする仕事をこなすロボットは、近いうちにどんどんと身近な生活の中に入り込んでいくだろう。しかし、人間のようなロボットを生み出すのにはまだまだ時間が掛かる。
脳のリバースエンジニアリングが進められている。要は、人間の脳の構造を完全に把握し、それを工学的に創りだそう、という試みだ。しかし、ボトムアップ型のアプローチもトップダウン型のアプローチにもそれぞれ難題があり、解決までにはまだまだ長い時間を必要とするだろう。
意識を持つロボットを生み出せるかどうかはまだはっきり分からないけど、遠い未来には、人間とロボットが融合するようになるだろう。つまり、負傷した手足などをロボットで置き換えるということは普通になっていくだろう。

「医療の未来」
近い将来、医者に掛かるというのは、自宅で人工知能のドクターにアクセスすることに変わるだろう。その人工知能は、あなたの遺伝子情報や病歴をすべて持ち、的確なアドバイスをする。それでも診断できなければ病院に行く、という形になっていくだろう。
クローン技術によって人間の臓器を生み出せるようになり、悪くなった臓器を交換するというやり方も増えていく。遺伝によって受け継がれる遺伝病も、根絶のためのプロセスを模索している人が多くいる。
人類にとっての最大の敵であるガンとの闘いも、様々なアプローチが生み出されている。遠い未来にあって治すことの出来ない病気は存在するだろうし、風邪なども特効薬は生まれないだろうが、今より遥かに多くの治療法が生み出されることになる。
「デザイナーチャイルド」や若返りなども、現実のものとなっていくだろう。しかし同時に、法規制も生まれるはずだ。

ここで凄く興味深かった話を二つ。
まず、「魔法の粉」の話だ。これは以前ネットで見て、絶対ウソだ!と思ったことがあるのだけど、本書で書かれているので本当らしい。これは、欠損した指が、その「魔法の粉」をふりかけるだけで再生するというものだ。条件は色々あるんだろうけど、これが本当に存在するテクノロジーなんだと知って驚いた。

もう一つ。科学的に延命効果が実証されている唯一の方法は、カロリー制限だそうだ。これだけは、ありとあらゆる動物実験で成功を収めているという。どうしても長生きしたいという人は、カロリー制限をするといいかもしれません。

「ナノテクノロジーの未来」
微細な原子一つ一つを組み合わせることで何かを生み出すナノテクノロジーは、新たな革命の一つになる可能性がある。実際にナノテクノロジーは既に様々な分野で応用されている。かつては、原子一個を見ることなど出来ないと考えられていたが、IBNの技術者がそれを可能にする顕微鏡を開発した。
ナノテクノロジーを駆使すれば、「ミクロの決死圏」のような血管をめぐるナノマシンや、数分以内に体内をスキャンしてくれるDNAチップ、原子のトランジスタなど、これまでの常識では考えられなかった様々なものを生み出すことが出来る。
インテルの技術者が創りだそうとしているテクノロジーには本当に驚いた。なんと、自由に形を変える物質を生み出そうとしているのだ。まさに「ターミネーター2」で出てきた、ぶるぶる震える水銀の塊のような、自在に形を変える恐ろしい敵のように。もしこの技術が実現すれば、子供たちはツリーの下でプレゼントの包みを開くのではなく、サンタクロースが電子メールで送ってくれたソフトウェアをダウンロードして、手元のおもちゃを別の形に変える、そんな未来がやってくるかもしれない、なんて書かれている。
ナノテクノロジーの聖杯は、レプリケーターだ。これは、原材料をマシンに投入すれば、あらゆるものを生み出すことが出来る機械だ。原理的には可能で、すでにインクジェットプリンターの技術を使い、生きた心臓組織を作る手法は開発されているという。

「エネルギーの未来」
これまでのエネルギーの歴史を振り返りつつ、有望なエネルギー源として、核融合と常温超電導が取り上げられる。核融合は、現在の核分裂による発電よりも遥かに安全であるが、まだ完成には至っていない。常温核融合を生み出した、というニュースは過去なんども飛び交ったが、すべてデマだった。常温超電導体は、ある温度以下だと抵抗がなくなるという超電導体が、僕たちの暮らす常温でも作用する物質で、まだこれも見つかってはいない。

「宇宙旅行の未来」
最も魅力的なアイデアは、ナノマシンによるものだ。これまでの宇宙探査は、一つの大きな機体を莫大なエネルギーをかけて打ち上げるというものだったが、ナノマシンによる宇宙探査は、非常に軽く安価なナノマシンを一度に大量に打ち上げ(軽いのでエネルギーもそこまで掛からない)、どこかの惑星にたどり着いたナノマシンがそこで自己増殖し、プログラムに従って形を変え、何らかのミッションを行うことだ。自己増殖するナノマシンを生み出すのはまだ遠い未来になるだろうが、そういう宇宙探査の可能性も開かれている。
しかし著者は、2100年になっても大半の人は地球に留まったままだろう、と書いている。

「富の未来」以降は、まだちゃんと読めていないので省略。

しかし本書を読んで思うことは、科学者というのは最もクリエイティブな仕事をしているのだな、ということだ。
一般にクリエイティブな仕事というのは、映画とか広告とか小説とか、パッとは思い浮かばないけど、要するにそういうものを指すだろう。科学者は、実験室にこもって何かわけのわからないことをやっているが、それが僕たちの生活に何か影響を及ぼすとは、多くの人はあまり想像していない。しかし、本書を読む限り、科学者の持つ想像力の豊かさには驚かされる。
科学者は、「物理法則に反していなければなんでも可能だ」と考える人種だ。タイムトラベルを禁ずる物理法則は存在しない。だから物理学者は、タイムトラベルを実現する方法を考えるし、実際に実現可能かどうかは別として、こうすればタイムトラベルが可能になるというアイデアは様々に存在する。
本書で描かれているアイデアも、僕らにとってはタイムトラベルとそう大差なぐらい荒唐無稽に思える。しかし、科学者はそれを本気で考えている。彼らは、「目の前の現実を理解する」という好奇心に駆られる一方で、「科学によって判明した事実を何に使えるか」ということも日々考えている。そうやってたくましい想像力を駆使した様々な結果が本書には書かれている。
本書の中にも、長生きをするためのテクノロジーについてページが割かれているけど、僕は正直長生きはしたくないと思っている人間だ。特に、長く生きることに興味がない。でも、こんな本を読んじゃったら、自分が死んだ後どんなテクノロジーが広まっているのか気になって仕方ないなぁ、という感じがする。実現するかはともかく、なんかワクワクさせてくれる未来がやってきそうな予感を抱ける作品です。是非読んでみて下さい。

ミチオ・カク「2100年の科学ライフ」


式の前日(穂積)





内容に入ろうと思います。
本書は、僕なりに大きく括るとすれば、「長い間同じトーンの関係性の中にいた人たちに訪れる大きな変化の、その直前のひととき」を描いた、6編の物語が収録された作品です。
ちょっと、内容紹介は省略しようと思います。
特に初めの二編「式の前日」と「あずさ2号で再会」は、どんな内容なのか事前情報ゼロで読んだ方が面白いと思うし、全体的に『雰囲気』が非常に重要な作品で、その『雰囲気』を写しとるような内容紹介はちょっと出来そうにないので、内容紹介は敢えてしないことにしようと思います。
新人のデビュー作のようですが、これは面白かったです。っていうか、巧いと思いました。
コミックを普段読まない人間の意見なので、「他のコミックと比べてどうか」みたいな視点ではあれこれ書けないですけど、この作品単体で見ると、物凄く巧いなと思いました。
特に、セリフのないシーンの『雰囲気』が最高に良い。
表情とか目線とか手振りとか、そういうものだけで、そのシチュエーション全体を丸ごと表現してしまっている。セリフは直接的には書かれていないけど、「この場面ではきっとこんな風に思っているんだろうな」「彼らはこんな感じの会話をしてるんだろうな」とはっきりと想像させてくれる。もちろん、その想像は人それぞれ異なるものかもしれないけど、でもそれを読んでいる人の中では、はっきり一通りに決まるのですよね。それが凄く絶妙だなと思います。
セリフがないシーンが結構多用されるんだけど、それは、この物語の登場人物たちが、「沈黙さえ穏やかに共有することが出来る関係性」の中にいるからです。
描かれる人物たちは、兄弟だったり親子だったり見知らぬ他人同士だったりと、様々な関係性の中にいる。しかし彼らに共通しているように見えるのは、「沈黙もコミュニケーションの一部」というような、長い時間の共有とその蓄積(それに当てはまらない話もあるけど)がある。そういう人たちのを描くのに、『沈黙』というのは非常に大切な要素で、本書ではその効果を抜群に巧く組み込んでいる。
なんだろうなぁ。巧く説明できないんだけど、『沈黙』の場面に、作品の世界にスーッと入っていけるような感覚がある。
登場人物が会話をしているシーンでは、僕たちはその会話には絶対に混じれないわけだから、作品の外側から彼らの会話を眺めているしかない。別にそこに疎外感はないし、大抵の『物語』というのはそういうものなんだろうけど、本書の『沈黙』のシーンでは、その瞬間だけ作品の世界に入り込めるような感じがする。その『沈黙』の場面を、その作品の世界の中で、自分も一緒に共有しているような、そんな感覚になれるような気がする。そういうシーンが、絶妙なタイミングでところどころに挟み込まれるから、作品の世界にスルッと入り込めるような感じになれるのかもしれない。
しかしそれにしても、収録されている作品のバラエティさには驚かされる。
内容にはほとんど触れないで感想を書くつもりなので、何をどう言ったらいいのか凄く難しいのだけど、幼い子どもが描かれる話もあれば、アメリカの話もあり、初老の男の話もあり、またそれまで読んできた流れの中にはうまく組み込めないような大分テイストを異にする作品もある。舞台設定や登場人物などはまったく共通項のない話ばかりなのに、でもそのほとんどが、一つの作品集の中にうまく収まっているような感覚、つまり、全体を通して世界観を共有しているような、そんな感じに思わせるのも絶妙だなと思う。テイストが違いすぎて、作品同士の読後感がくい違いすぎるのは、作品集としてあまり巧くないのだろうけど、本書では、全体的な統一感みたいなものもちゃんとあって、それも凄く好感が持てる。
しかし、内容に触れずに、あと何を書けるだろう?
個人的に、これは内容に触れてもまあいいかな、と思える一編だけ紹介しようか。
「夢見るかかし」は、広大な小麦畑しかないカンザスが舞台。ニューヨークから、妹・べティの結婚式のために久々に買ってきた兄・ジャック。二人は幼い頃叔父夫婦の家に預けられ、嫌な子ども時代を過ごした。ジャックは、ベティのただ一人の庇護者として青春時代を過ごし、ベティはそれに感謝しつつも窮屈さを覚える。
二人の居場所は、小麦畑に据えられたかかしの傍だけだった。ベティはそのかかしを「ママ」と呼び、今でもその習慣は変わらない。
ジャックがカンザスを離れニューヨークに出た理由。結婚式の招待状で久しぶりに故郷に戻ったジャックの葛藤と、ジャックがこれまで辿ってきた道のりが描かれる。
この話で一番好きな場面が、ジャックが帰るシーンなんだよなぁ。見開き2ページ丸々セリフがない。でもそれは、本書で時々出てくる『沈黙』のシーンとは違って、彼らは何か喋ってるんだけどそのセリフが描かれない、というシーンだ。僕らはそのシーンを見て、彼らの会話を想像するんだけど、これがさっき言ったみたいに、読む人によって思い浮かぶ会話は異なるかもしれないけど、自分では確信を持ってこれだって決まるような、そういう不思議さがあって、なんか凄くいい。
物語自体は結構ストレートなんだけど、かかしがところどころで巧い役割で登場して、都会的なスタイリッシュな作品(っていう表現は古いか?笑)の中にほどよいおかしみを含ませている。ジャックの妹へ向ける眼差しがどう熟成され、それがどう変化していったのか。その一つの大きな流れを、妹の結婚式の前日という立ち位置を起点にして、過去と未来に軸を伸ばしていくことで描き出していくのが巧いなと思いました。
一番好きなのは、やっぱり冒頭の二つ「式の前日」と「あずさ2号で再会」かな。内容には触れないけど、時間にしたら本当に数時間ぐらいじゃないかと思うような二人のやり取りが、ラストの一瞬で物凄い深みをみせる。その落差に驚かされるし、ウルッときてしまう。うまいなぁ。
僕は普段小説読みで、マンガって本当に読まないんだけど、本書は『マンガでじゃなければ表現しにくいもの』で物語を描き出しているような感じを凄く受けました。『沈黙』を描くって、結構小説では難しいと思うんですね。もちろん、マンガでもそれは難しいことなんだろうけど、本書はそれにうまく成功しているという感じがしました。是非読んでみて下さい。

穂積「式の前日」


十六夜荘ノート(古内一絵)

内容に入ろうと思います。
大崎雄哉は、最年少で管理職になり、グループ長として売上増に邁進する、超エリート街道まっしぐらの男だった。効率や利益以外のものにほとんど関心を示さず、利益を生み出さない部下に容赦がなく、また付き合う女性にも「高給取りである自分」に惹かれているような分かりやすさを好んでいた。とにかく四六時中仕事のことばかりで、雄哉にはそれ以外なにもなかった。しかし、それは雄哉にとって何よりも充足した人生だったし、それ以外の人生なんてまるで理解できなかった。
そんな雄哉に、ある日青天の霹靂のような知らせが舞い込んでくる。
相続される土地があるというのだ。
母方の祖母の姉、いわゆる「大叔母」である笠原玉青が、ロンドンで亡くなったのだという。玉青は、笠原家の親戚の間では有名な存在だ。葬儀などの集まりで、聞くともなしに聞かされた。
戦前華族だったという笠原家にあって、玉青は「不良娘」と罵られていたようだ。「日本にいつかない、変人の独身女」と言われ、戦時中憲兵に捕まったとか、戦後水商売をしていたとか、良からぬ噂が山ほどある人物であった。
その大叔母が死んだところで、何の関係もない、はずだった。
玉青は雄哉に、目黒区の御幸が丘にある土地と建物を相続するとしていた。
御幸が丘といえば、「東京の住みたい街ベストテン」では必ず上位に入る街だ。どうでもいいと思っていた大叔母の死が関心ごとになってきた。
しかしその土地は現在、「十六夜荘」という名のシェアハウスになっているのだという。シェアハウス?どんな人間が住んでいるのか知らないが、碌でもない連中だろう。さっさと追い出して建物も壊して、何か新しいものでも建てよう。
雄哉はすぐに動き始めた。
しかし、すぐに壁にぶち当たる。その土地の権利者には、玉青の他にもう一人名が連なっている。その人物が誰なのか、さっぱりわからない。一応何かあった時のためにこの人物を探し出し、話をつけておかなくてはと言われるが…。
一方、昭和13年から昭和22年までの、現在「十六夜荘」になっている建物で暮らしていた玉青らの生活が描かれる。
華族であった笠原家は、大層なお屋敷にお手伝いさんを住まわせ、戦時下の厳しい状況の中でも、それなりの生活をすることが出来ていた。
しかし華族ではあったが、玉青らの生活は決して『普通の華族』のものではなかった。
玉青の兄である一鶴がそもそも変わった人物であった。職業軍人であり、しかも本家であったが、一鶴は非常に柔軟な男で、自身が所属する報道部の仕事と称して、フラフラしている画家たちを離れに集め、そこで絵を描かせることにした。軍を礼賛するような絵しか認められなかった時代に、描きたいものを描きたいように描かせる場を作り出した一鶴は、分家から非難の声も上がる。それは、いい年をして嫁に行かない玉青にも向けられるのだった。
次第に戦局が厳しくなっていく中、戦時中とは思えない長閑さを醸し出す離れに、玉青は救われるような気持ちになる。誰もが「お国のため」といい、あらゆる価値観が締め出されていく中、玉青は、自らが正しいと信じた道を歩んでいく決意を、少しずつ固めていく…。
というような話です。
これはいい話だったなぁ。物語のエンジンが掛かるのがちょっと遅い印象はあるんだけども。
いや、もう少しちゃんと書くか。
本書は、現在と過去が交互に描かれる構成になっている。現在の話は、雄哉が突然大叔母から土地を相続され翻弄される話。そして過去の話は、戦時中の玉青の話。
読み始めは、雄哉の方の話が勢いがある。突然遺産を相続した雄哉だけど、さらにそれだけではない様々なことが降りかかっていき、雄哉の人生は大きく転換を余儀なくされることになる。この現在の方の話の展開がなかなかにスピード感があって読ませる。
ただやはり、本書のメインは玉青の過去の話だろうと思う。こちらは、エンジンが掛かるのが非常に遅い。過去の話は、初めの方はちょっと退屈だなという感じさえしました。牧歌的な環境の中で、特に何をするでもなく画家たちがワヤワヤしている物語なんかは、決してつまらないとは思わなかったけど、さほど面白いとも思えない感じはありました。
でも、この過去の玉青の方の話が、中盤から後半に掛けて物凄くいい。
のほほんとした環境の中で生きていられた人たちが、一人また一人とその環境から引き剥がされていく過程。環境の激変により、今までいた場所に留まることなど不可能になってしまってからの人々の困惑。その中にあって、「君のその、決め付けられたくないっていう鼻っ柱の強さは、本当にたいしたものだよ」と画家の一人に言われた、自らの価値観を曲げず揺るがさずに生きてきた玉青の決断や苦労や努力の凄まじさなんかが、少しずつ物語にうねりを与え、読者を揺さぶっていく感じが凄くいいなと思う。
僕はこの物語を、『その時々の「普通」に背を向ける人々の物語』という風に読んだ。
玉青を初め、一鶴や画家たちは、まさにそうだ。

『日本がどうなろうと、知ったことじゃない。「居場所」なんてどこにだってある。「居場所」のために、無益に死んだりしちゃ駄目なんだ』

ある画家の言葉だ。
また玉青は、こんなことを思う。

『私たちは自由だから。
自由なものはなにものにも負けやしない』

戦時下にあって、彼らの生き方は絶大に拒絶された。「華族の本家」である、という立ち位置が、彼らにある程度のエキュスキューズを与えもした。分家が何を言ってこようとも玉青や画家たちを守り通した一鶴の不動さや、自分が正しいと思ったことに邁進する玉青の強さによって成立した特殊な世界だった。彼らは、離れの中でだけは、「普通」から離れていられた。そこでは、どんな「世間の普通」さえ、意味をなさなかった。正義も喜びも不安も、すべて個人の中にあった。
時には「世間の普通」と向き合い、戦わなくてはならない時もあった。それは、誰もを疲弊させ、しかし同時に、誰かの闘志に変換されもした。特に彼らが生きていた時代は、「世間の普通」がめまぐるしく変わった激動の時代だった。その時々の「世間の普通」に自分の身を合わせて生きていくことが出来れば楽だっただろう。しかし、玉青にはそんな生き方は選び取れなかった。
その強さに憧れるし、惹かれる。「自分の普通」を疑わず前進し続けた、一人の強い女性の姿が描かれる。
玉青の胸キュンなセリフを引用しよう。

『それは、私が身の程知らずだからです』

どんな場面で放たれる言葉なのかは書かないけど、これは惚れるわ。
さて、現代の雄哉の話も、実は「普通」に背を向ける物語だと思う。
雄哉は元々、まさに「世間の普通」にどっぷりと浸かっている人間であった。
資本主義社会であり競争社会でもある日本にあって、雄哉に生き方は一つの「正解」だし、「理想」でもあるのだろうと思う。若くして業績が認められ異例の昇進をし、多くの部下たちを叱咤して成績を上げる。利益に結びつかない事柄には興味がなく、効率を上げるためにあらゆるものを切り捨てることを躊躇しない。「高給取りである自分」という要素を分かりやすく評価してくれる女性を気に入り、今なお精力的に前進しようと日々闘いを続けている。
恐らく、そんな生き方をしたいと思っている人は多いのだろう。そうじゃなきゃ、書店であんなにビジネス書が売れるわけがない。
しかし雄哉は、とあることをきっかけに、自らの人生を見つめなおさざるを得なくなる。それと、大叔母の相続がほとんど同時期だったのか、雄哉にとって幸運だったことだろう。「十六夜荘」に住む人々は、「普通」に迎合しなかった、あるいは出来なかった人間たちだ。バックパッカーがいる、仕事を辞めて絵の勉強をするために学校に入り直した人間がいる、引きこもりの「音楽家」がいる。
彼らのことを、雄哉は一ミクロンも評価しない。彼らのような人間が存在することも、雄哉には理解が出来ない。
雄哉は、「他人からの評価がすべてだ」と考えている。「十六夜荘」の住人の一人は、「他人からの評価など曖昧だ」と言う。そして大叔母は、「人生は所詮気のせいだ」という。
彼らの価値観は一切交じり合わない。
僕たちは、「普通」ということに、あまりにも囚われすぎていると僕はいつも思っている。
今日僕がたまたま知ったとあるサイトがある。

http://hana.bi/2012/07/mujica-speech-nihongo/

環境の未来を全世界で議論する「リオ会議」というものが開かれたらしいのだけど、そこで最も衝撃的で、環境問題の本質を唯一提示したと評価されている、ウルグアイの大統領のスピーチの翻訳が掲載されているサイトです。

いくつか引用してみましょう。

『現代に至っては、人類が作ったこの大きな勢力をコントロールしきれていません。逆に、人類がこの消費社会にコントロールされているのです。私たちは発展するために生まれてきているわけではありません。幸せになるためにこの地球にやってきたのです。人生は短いし、すぐ目の前を過ぎてしまいます。命よりも高価なものは存在しません。』

『ハイパー消費が世界を壊しているのにも関わらず、高価な商品やライフスタイルのために人生を放り出しているのです。消費が社会のモーターの世界では私たちは消費をひたすら早く多くしなくてはなりません。消費が止まれば経済が麻痺し、経済が麻痺すれば不況のお化けがみんなの前に現れるのです。』

『人がもっと働くため、もっと売るために「使い捨ての社会」を続けなければならないのです。悪循環の中にいるのにお気づきでしょうか。これはまぎれも無く政治問題ですし、この問題を別の解決の道に私たち首脳は世界を導かなければなりません。』

『昔の賢明な方々、エピクレオ、セネカやアイマラ民族までこんなことを言っています

「貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」』

僕はこれらの主張に、凄く共感できてしまう。
「ものを売らなければ止まってしまう消費社会」に、なんだかものすごいとてつもない違和感があって、どうにも馴染めない。
僕は、人生に必要なものはさほど多くないと思っているし、不必要なモノ・サービスを買わされているな、といつも思う。その仕組みの中で生きていく限り、ある程度は仕方ないとはいえ、その社会の仕組みにどっぷりと浸かり過ぎない生き方をどうやったら選択出来るだろうか、といつも考えている。
なんというか、誰かが作った土俵の上で戦っていることに、虚しさを感じるのかもしれない。もっと土俵は小さくてもいいし、他に影響を与えられなくたっていい。でも、その大きさ・形がまさに自分にぴったりであれば、そういう土俵を探し求めたり、あるいは自分で生み出すべきなんじゃないかな、という感じがいつもする。
「十六夜荘」の面々は、自分の土俵を見つけられている人たちだ。そして雄哉は、人の土俵の上で戦ってきた自分の存在を、「十六夜荘」の面々と関わっていくことで、少しずつ理解していくことになる。
お金よりも利益よりも効率よりも大事なものがある。何かを大切にしながらそれらと両立させることはきっと不可能ではないのだろうけど、比重がより『それ以外の何か』に置かれている人生の方が、やっぱり豊かなんじゃないかなぁ、と個人的には思ってしまいます。
ラストに近づいていくに連れて、本当にどんどんよくなっていく感じで、雄哉の価値観がどんどん変化していくその頂点と、玉青の人生の激動さの頂点とが重なりあう辺りは、本当にいいなぁ、という感じがしました。今は亡き、生前もほぼ会ったことのない、親戚中から不良娘と蔑まれる一人の女性の生き様が、時代も国境も超え、狭い価値観の中で突っ走っていた一人の若者を変化させていく過程は、なんか凄く面白いです。
見も知らぬ親族の人生が関わってくる、という物語のスタートは、なんとなく「嫌われ松子の一生」っぽい感じで、戦時中の玉青の物語はなんとなく、「小さいおうち」を彷彿とさせました。「普通」の基準が異なる人たちとの闘いが描かれる作品で、雄哉の価値観の変化が、そして玉青の底知れぬ強さが、読んでいて爽快な感じがします。是非読んでみて下さい。

古内一絵「十六夜荘ノート」


僕たちのゲーム史(さやわか)

内容に入ろうと思います。
本書は、30年ほどの歴史を持つ「ゲーム」をいうものを、ある観点に沿って流れを追いかける作品になっています。
その観点というのが、以下の二つです。

ゲームにとって変わらない部分→ボタンを押すと反応すること
ゲームにとって変わる部分→物語をどのように扱うか

本書ではゲームを、『ボタンを押すと反応するもの』と定義しています。ゲームというものの多様さの前に、あらゆるゲームを包括的に組み込むと(つまり、ありとあらゆるゲームの本質だけを抽出すると)、どうしてもそういう定義になってしまうのだそうです。
しかし、『ボタンを押すと反応するもの』という定義だけでは、これだけ多様なゲームが存在することの説明をすることは不可能です。そこで著者は、時代や作り手のスタンスによって自在に変化する部分として、「物語」というものを取り上げています。
本書の全体的な流れを示してみましょう。
本書で描かれるゲームの歴史は、『スーパーマリオ』から描かれます。それ以前にも様々なゲームがあったでしょうが、著者はここをスタート地点と定めます。
そして初めの内は、『ボタンを押すと反応する』という部分をどのように突き詰めていくか、という歴史になります。ただ、この部分の記述はあまり多くはありません。やはり、ゲームにとって『変化しないもの』とされている『ボタンを押す』という行為では、バリエーションを生み出すことはなかなか難しいのです。
そして再度『スーパーマリオ』に戻り、このゲームが、当時としては画期的な『物語性』を秘めていたと指摘します。今のゲームのような『物語性』ではなく、大量の『隠し要素』を配することで、ゲーム内の世界の奥深さに気づかせたというわけです。
そしてそこから、ゲームにとって変化する部分、『物語』についての話になっていきます。これが本書のメインと言えるでしょう。
後々語られるのですが、『物語性』を重視したゲーム作りは、日本に特異な状況のようです。海外のゲームにももちろん、『物語性』を意識したゲームは様々あるのですが、著者は様々な具体的なゲームの例を挙げながら、何故日本のゲームが『物語性』を重視するようになっていったのか、そして日本内部でも『物語性』というものの捉えられ方がどのように変化していったのか、という話になります。
そして終盤。日本のゲーム業界は、『物語性』を重視しすぎたことも要因の一つになって、衰退していきます。
何故なら、『物語性』が重視された物語は、そもそも海外の主流ではなかったというのもありますが、翻訳の問題もあったからです。
国内での販売数が落ちても、海外で売れるのであればそこまで衰退することはなかったでしょう。しかし、海外ではなかなかウケにくい『物語性』重視のゲームを作り続けてきた日本のゲームメーカーは、国内での販売数減に打撃を受けます。
そういう状況の中で、ここ最近のゲームには新たな展開が見られます。それは、変化しないと定義した『ボタンを押すと反応する』という部分まで変化していくことになります。そういう話の代表としては、『ひぐらしのなく頃に』という、ストーリー展開が一つしかなく、ボタンを押して画面を進める以外にすることがないゲームや、『ニンテンドーDS』のような、タッチペンという新しい入力方法の登場などがあります。
また『物語性』との絡みで言えば、一時期衰退した任天堂が、ニンテンドーDSやWiiなどで、短時間で手軽に楽しめる『カジュアルゲーム』を打ち出したことで新たなゲーム人口を獲得出来たけど、でもそれはスマホやフェイスブックなどでのゲームと競合しているという話が出ます。
またゲームは新たに、『コミュニティ』というキーワードを獲得します。『モンハン』や『ラブプラス』、あるいはオンラインゲームなど、コミュニケーションを主体に据えたゲームの台頭が近年の特徴という感じです。
これが大体本書の流れです。
さてここで、僕自身の話を書くと、僕は本当にゲームをまったくしない人間です。子どもの頃、家にファミコンとゲームボーイはありましたけど、スーパーファミコンがあったかどうかは覚えていません。僕がやったことのあるゲームは、『パワプロ』『マリオカート』『スーパーマリオ』とかそんなもんで、本書で取り上げられているような『物語性』が重視されているようなゲームはまったくやったことがありません。
今でも、自分がプレイするという意味でのゲームにはさほど興味が持てないんですけど(一人でゲームをするなら本を読む方がいいなと思うし、誰かと一緒にゲームをするのは面倒だなと思うので)、ただどんなものであっても、『まだ検証可能な歴史』というのは僕は好きで(学校で習うような歴史は、既に検証不可能な世界なのであまり興味が持てませんが、企業の歴史など、まだ関係者が存命であったり、当時の資料的なものがどこかにきっちり残っているような歴史に対しては結構興味があります)、たかだか30年という歴史しか持たない割に、僕たちの世界で圧倒的な存在感を持つようになったゲームというものについても、どんな歩みを見せて、またどんな出来事が後世にどんな影響を与えることになったのか、みたいな話は面白いですよね。
以前、「教養としてのゲーム史」という新書を読んだことがある。こちらも、ゲームの歴史を追っていく作品だけど、観点が少し違う。本書では『物語性』に着目しているのに対して、「教養としてのゲーム史」では、ゲームが空間的広がり・時間的広がりをどのように獲得して行ったのか、という歴史の記述になっているな、と感じました。
個人的な印象ですが、本書よりも「教養としてのゲーム史」の方が面白かったような気がします(「教養としてのゲーム史」の内容はあまり覚えていないので、あくまでも印象でしかありませんが)。
本書は、決して面白くないわけではないのですけど、個人的に感じるのは、『物語性』という言葉がちょっと広すぎたのかな、という気がしています。
確かに作中で、『物語性』について様々なタイプのゲームや、これまで起こったいくつもの変化を取り上げていますが、それを全部『物語性』という単語で括ってしまっているところが、ちょっと違うのかな、という感じがしてしまいました。個々の意見には賛同できる部分が多いんですけど(ゲームやったことがない人間の賛同なんて、信頼感ゼロでしょうけどね)、『物語性』という一つの大きな括りの中で、もう少し明確な細分化があってもよかったのかな、という感じがします。ちょっとこの、『物語性』について書かれている部分(割と本書のメインに当たるんですけど)の全体の流れみたいなものがはっきり見えてこなかったかなぁ、という感じがしました。
ただ著者があとがきで書いているように、『そのゲームを、当時の人の視点で評価する』というやり方は非常に良いと思いました。
冒頭で『スーパーマリオ』の話が出てきます。これは現在ではジャンプアクションゲームとして捉えられていますが、『スーパーマリオ』を任天堂は『アドベンチャーゲーム』として売りだしたし、プレイヤーは単なるジャンプアクションゲームに対してではありえないほどの奥深さを『スーパーマリオ』に対して感じていたのでした。
これを著者は、『スーパーマリオ』が登場するほんの少し前のゲーム業界の状況や様々なゲーム雑誌からの引用などを通じて示そうとします。
この試みは、非常に良いなと感じました。今の視点から当時のゲームを捉えるのと、当時の人たちの視点で捉えるのとでは、まるで変わったものになるでしょう。本書は、ゲーム雑誌の中の記述を様々に引用して、その当時sのゲームがどう捉えられていたのか、という部分について誠実であろうとします。そのスタンスには、非常に好感が持てます。
個人的に面白い話だなと思ったのは、『ポケモン』についての話でした。『ポケモン』が発売される遥か以前、CD-ROMとカセットという、次世代機戦争が勃発します。ソニーのプレイステーションに代表される高機能なゲーム機では、大容量で安価なCD-ROMが使われ始めたけど、任天堂はそれを冷ややかに見ます。また、『ポケモン』の開発者であり、ゲームライターとして頭角を現し、後に任天堂で販売するゲームを作る会社を立ち上げた田尻智は、CD-ROMの大容量に惹かれないと言っている。
結局CD-ROMが主流になっていく中で、田尻さんはゲームボーイという古いゲーム機で、『ポケモン』という大ヒット作を生み出すことになる。本書では、ゲーム作家の色んな思想が、ゲーム雑誌等の記述から推察される形で描かれますが、そういう様々な思想を持つゲーム作家がいたからこそ、ゲームというのはこれほどまでに広がったのだろうなと思いました。
また、『ひぐらしのなく頃に』っていうゲームの話もビックリしました。タイトルはもちろん知ってましたけど、これは選択肢や分岐が一切ない、ただボタンを押して物語を進ませるだけの、いわば『小説』のようなものなんですね。これがなぜ大ヒットすることになったのか、という話が、『ゲームより面白いもう一つのゲーム』というものを軸にして描かれているのはなるほどなぁ、という感じがしました。
個人的には、『物語性』という軸をもう少しはっきり細分化して欲しかったなという感じはしますが、僕のようにゲームを知らない人間でもなかなか面白く読める作品ではあります。個人的にはやっぱり、ゲームボーイで『ポケモン』を作った田尻智みたいに、ローテクを組み合わせることで驚きを生み出すような、そんな仕事が好きだなと思います。

さやわか「僕たちのゲーム史」


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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)