黒夜行

>>2012年09月

推定無罪(スコット・トゥロー)

内容に入ろうと思います。
本書は、出版当時全米を沸かせ、日本でも翻訳されるや絶大なる評価を受けた、法廷ミステリー作品の傑作です。
舞台となるキンドル郡では今、地方検事選挙が白熱している。現職であり、高い評価を受けつつ、徐々にその衰えを隠せないでいるレイモンド・ホーガンに対し、検事補である若き俊英 ニコ・デラ・ガーディアが善戦し、どちらが地方検事の椅子に座ることになるのか、白熱した闘いが繰り広げられている。
レイモンドの部下として忠誠を尽くし、主席検事補まで上り詰めた主人公のサビッチは、そんな選挙戦の最中、とある事件を担当することになる。選挙で忙しいレイモンドから、君が担当してくれと言われたのだ。
それは、女性検事補として有能な働きをした、キャサリン・ポルヒーマス殺害事件であった。
サビッチとキャサリンはかつて、体の関係があった。すべてが終わってから、サビッチは妻にそれを告白した。その付き合いは周囲にはもちろん内緒であったために、サビッチは自らのかつての愛人の殺人の捜査を担当することになったのだった。
しかしその捜査は困難を極める。
頭部を殴打され、レイプされたと思われる状態で発見されたキャサリンだったが、犯人の手がかりに結びつきそうなものはほとんど発見されなかった。サビッチは、選挙で苦戦しているレイモンドのために、この事件の早期解決を目指す。世間を騒がせているこの事件を選挙前に解決することが出来れば、レイモンドの株が上がるからだ。
しかし、有力な容疑者はまったく浮かんで来ないまま、時間だけが過ぎていく。レイモンドから手渡された、サビッチがこれまで目にしたこともない謎のファイルの存在。レイモンドの対立候補であるニコ陣営も、何やらこの事件に対して動きを見せている。また、キャサリンとの関係によって亀裂が入ってしまった妻・バーバラとのやり取り。サビッチにとって、何もかもうまくいかない、そんな時間の先に、さらにサビッチにとって驚嘆すべき展開が待っている…。
というような話です。内容紹介が難しい。
これは面白かったなぁ。外国人作家の作品は、結構読むのに時間が掛かることが多いんですけど、本書は、スイスイとは言わないけど、普通の日本人作家の作品を読むのとさほど大差ない時間で読めました。元検察官という経歴からはなかなか想像もつかないような文学的な描写と、元検察官であったことが大いに頷けるような圧倒的な法廷の描写が素晴らしい作品だなと思いました。
まず、裁判に至るまでの展開だけでも非常に面白かったです。
本書を読み始めた時、バイト先に本書を読んでいたスタッフがいて、そのスタッフから、「前半はつまらないよ」と言われていたのでした。家族の話ばっかりが続くから、と。でも、僕は全然退屈だとは感じませんでした。
事件自体は、特別派手なところがあるわけではないのですけど、地方検事選挙期間中という通常とは違った背景の中起こった事件であること、検事補が殺害された事件であること、さらに被害者であるキャサリンが色んな形で色んな人と関わりを持っていたことで、物語全体の幅が広がっていくことになります。
特に、検察側の捜査の責任者であるサビッチと、被害者であるキャサリンが深い仲だった、という点が、物語複雑にします。サビッチは、キャサリンの捜査を自分でやりたいと思っている。それは、ある種の弔いのようなものだろうし、キャサリンという謎めいた女性についてもっと知りたいという欲求だっただろう。しかしそのためには、キャサリンと深い関係があったことは絶対に伏せておかなくてはいけない。
そのために、サビッチの行動にはところどころ不可解な点が出てくる(これは読者にとってという意味ではなく、サビッチとキャサリンが付き合っていたという事実を知らない登場人物にとってという意味)。微妙な差異でしかないのだけど、心中複雑であろうサビッチの内心が様々な形で描写されていて巧いなと思いました。
サビッチには、やらなければならないことが山ほどある。
事件の捜査ももちろんだが、レイモンドの選挙の手助けもしなければいけないし、レイモンドから渡された謎のファイルについても調べなくてはいけない。妻のバーバラとも難しい距離感の中で毎日を過ごさなくてはいけないし、レイモンドの対立候補で、キャサリンの事件をどうもコソコソと調べているらしいニコ陣営の動きも把握しておかなくてはいけない。もちろん、キャサリンとの思い出に耽ることもあれば、精神科医に自らの境遇を話すこともある。それらはサビッチの中ですべてキャサリンと結びついていて、それでいてもうキャサリンはこの世にいないのだ。前半では主に、妻以外の女性に初めて心を奪われ、ある種『骨抜きにされた』と表現してもいいようなサビッチが、キャサリンの死と立ち向かっていく、そんな姿が描かれているように思います。
確かに、事件自体はまったく進展しない。いつまでたっても容疑者は現れないし、それどころか、有力な証拠一つさえ見つかることはない。それでも、様々なエピソードの断片として描かれる、キャサリンという謎めいた女性の存在や、同じくその心中を理解するのが困難な妻・バーバラの描写、事件とどう関係するのか想像も出来ない謎のファイルの話、検事局という狭い世界の中の複雑な人間関係など、興味を惹かれる話がどんどん展開されていく。
そして中盤から裁判が始まるのだけど、この裁判が本当に素晴らしいんだよなぁ!法廷ミステリーってそんなに読んでないから他と比較は出来ないんだけど、この裁判の展開は凄くスリリングで読まされてしまうなと思いました。
まず驚いたのは、アメリカの裁判における判事の裁量の広さです。
もちろん、本書の舞台となっている州(どこかは知らないけど)だけかもしれないし、あるいは、僕が知らないだけで日本の裁判官にも同様の権限があったりするのかもだけど、とにかく判事が裁判の中であらゆる決定をしていくことになる。
もちろんそれは、陪審員制度という、一般の人に評決を決めてもらう仕組みであれば当然なのかもしれない。裁判員制度が始まった日本でも、それまでなかったような権限が裁判官に付与されているかもしれません。
そういう周辺のことは僕にはわかりませんが、本書を読んでまず驚いたのがその判事の権限の広さです。陪審員を決める際に、被告側が不利にならないように繰り返し警告を与えることや、証拠品を提出させるかどうか、証人に発言させるかどうかなど、裁判の中で非常に難しい決定をいくつもしていくことになる。
そしてこの事件の裁判の判事であるラレン・リトルは、出来るだけ被告人の利益になるように動きつつ(これは、推定無罪の原則があり、裁判で有罪と決するまでは無罪として扱わなくてはいけない、という原則による)、検察側・弁護側がともに納得できるような非常に公平な裁定をくだしているように思えます。
特に、「推定無罪」の原則に則り、あたかも「被告人咳に座っている被告人は無罪なんですよ」と訴えかけるような場面が何度かあって、これに結構驚きました。日本の裁判を見にいったことがないので分かりませんけど、日本の場合、起訴されると99.9%有罪と言われるように、既に法廷という場が事の真偽を議論するのではなく、有罪であることが前提で進んでいくようなそんな印象があります。名付けるなら「推定有罪」とでも言えばいいでしょうか?日本では、無罪判決を出した裁判官はなかなか出世出来ない、みたいな話も聞いたことがあったりして(真偽は不明)、また最高裁の判断がないとその下の裁判所は独自の判断を打ち出すことが出来ない、というような印象もあって、日本とアメリカの裁判は相当違うんだな、という感じがしました。本書を読む限りにおいては、アメリカの裁判というのは、事の真偽を判断する場として機能しているように思いました。
その裁判が、スリリングな展開を見せるんですよね。事件自体はさっきも書いたとうに、そこまで特別な点があるわけではありません。しかしその裁判は、衆目の注目するところとなります。被告人も弁護士も検察官も判事も、まさに衆人環視と言ってもいい状況の中で、ほとんど物証のない非常に難しい裁判を続けていくことになります。
その中で、弁護士であるスターンの手腕の高さに感激します。この裁判、物証はほとんどないのだけど、状況は被告人に限りなく不利という中スタートしました。その中でスターンは、場面場面で瞬間的に最良の選択をし、綱渡りのような公判を乗り切っていくことになります。
異例づくしの裁判の中で、スターンは異彩を放つ。圧倒的に不利な状況の中、鋭い洞察力と、粘り強いやり取りによって、検察側の有利な主張や証拠を次々に粉砕していきます。その過程が本当に面白い。
特に印象的だったのが、検察側の証人の中で恐らく最も手強いだろう二人の証言の威力を減じさせたことでしょうか。
レイモンドは、検察が喚問する証人の中で、恐らく最も一般に信頼されている人だろうと思います。陪審員に選ばれた人にももちろんそういう印象があり、だからこそスターンはレイモンドの証言を重視します。スターンは、非常に巧妙に議論を進め、レイモンドの証言者としての信頼性を下げることに成功します。このやり取りは、純粋に言葉による応酬という意味では、裁判中最も素晴らしいものだったのではないかな、と思います。
もう一人検察側の非常に重要な証人となるのが、監察医であるドクター・クマガイ。物証が非常に少ない事件である中、その物証についての様々な証言をするクマガイの存在もまた、弁護側としては厄介な存在です。
そのクマガイの証言も、スターンは素晴らしい努力によって粉砕することに成功します。これは、裁判中のやり取りによってもそうですが、何よりも事前の調査によって判明したある事実を元にしていて、これもまた非常にスリリングでした。
それ以外の場でも、ほんの僅かな隙も見せないスターンの有り様は、読者を惹きつけることでしょう。時に被告人は、スターンの戦略に不安を抱きます。それは本当に正しい道なのだろうか?と。この疑問は最後の最後までつきまとうことになる非常に重要な問いですが、結果だけ見れば、スターンは最高の戦略で裁判をくぐり抜けたといえるでしょう。
また、先ほども挙げたラレンの存在も素晴らしいです。裁判におけるラレンの存在は、船の錨のようなもので、裁判全体にどっしりと重みを与える役割を担っている。黒人裁判官として、被告人や弁護側に非常に優しくしつつ、法律の範囲内で非常に公正に判断をしようとするラレンのあり方は素晴らしいなと思いました。
裁判の裏側で進行していく出来事にも注目です。それは、裁判のための準備だったり、ラレンとバーバラのやり取りっだったりと、物語的に起伏の激しいものは多くはありませんが、一つ裁判と同時進行でやり続けなければならない調査というのが残っていて、こちらの進展もなかなか興味深いです。その真相が明らかになることで、それまで見ていた「裁判」という場に、また新たな視点が組み込まれるような気がします。
そしてラスト。素晴らしいです。驚き、という点に焦点を当てすぎず、あくまでも全体としての品格を保ちつつ、ミステリとしての完成度も高めていくような感じがあって、デビュー作とは思えないほどの凄い作品だったなと思います。
ちょっと書けないことが多すぎるので、モヤモヤした感じの文章になってしまいますが、これから読む人の楽しみを奪ってはいけないので、これぐらいにしておきます。
最後に。訳者あとがきに書かれていた、いくつか興味深い話を。ちなみに訳者はもう亡くなっており、この訳者あとがきは1990年に書かれたものです。
スコット・トゥローは、作家としてデビューした後は弁護士に転身したようですが、その前は検察官として激務をこなしていました。そんな中、プロットを練り、通勤の電車の中で少しずつノートに書きためていったらしいです。脱稿後二ヶ月(発売の八ヶ月前)には既に原稿の争奪戦が始まり、またその映画化権の争奪戦も凄かったようです。アメリカではトータルで580万部も発行されたというとんでもない作品で、新人のデビュー作としては相当破格だったのだなと思います。
法廷ミステリーとして、非常に高い評価を受けている作品です。文学チックな格調高い文章と、現職検察官としての知識をフル活用して描いた圧巻の法廷描写が見事な作品です。是非読んでみて下さい。

スコット・トゥロー「推定無罪」





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ここは退屈迎えにきて(山内マリコ)

内容に入ろうと思います。
本書は、都会から地方に戻ってきたり、ずっと地方にいて悶々としている人たちを描いた8編の短篇集です。連作短編集というほどの繋がりはないのだけど、個々に緩い繋がりがある。

「私たちがすごかった栄光の話」
私は、十年東京にいて、地元に戻ってきた。時期は違うけど同じように十年東京にいて地元に戻ってきたカメラマンの須賀さんと組んで、ライターの仕事を細々と続けている。
母親のおせっかいで、中学時代の親友であるさつきちゃんと久々に会うことに。久しぶり感の気まずさを紛らわせようと、私は、同じ高校に通ってた男の子を誘ってみることに。

「やがて哀しき女の子」
森繁あかねは、その村では異質な美しさを放っていた。オーディションでとある映画のヒロインに選ばれ、それから雑誌の専属モデルを務めたが、今では地元に戻ってスタバの店員をやっている。流しのスタバ店員である山下南と仲良くなり、続々と結婚していく地元民たちをバカにしつつ、くだらない会話で盛り上がる日々。

「地方都市のタラ・リピンスキー」
ゆうこは、心を慰めてくれる名言をケータイのメモ欄に書き溜めていて、辛くなるとそれを見て気分を落ち着かせる。自身の中にもう一人の自分を飼っていて、もう片方は、世界的な活躍をするフィギュアスケーターだ。半端ない記憶力を活かして、ゲーセンのクイズゲームで時間をやり過ごす日々。その店員が、かつての同級生だった。

「気味がどこにも行けないのは車持ってないから」
バイトを終えてコンビニから出ると、遠藤が待っている。私を送り迎えするためだが、食事をしてセックスをしたいとも思っている。私は、断る方が面倒で、別にしたくもないセックスをしてしまう。なんか、気づいたら、遠藤しか周りにいかなかったのだ。

「アメリカ人とリセエンヌ」
大学に一人だけいる留学生。アメリカ人のブレンダはいつも一人で、だからわたしは話しかけて親友になった。アメリカ人に生まれてたら、きっとわたしの人生はまるで違ったものになっていたはずなのに。ブレンダは、わたしが憧れる素敵なアメリカ人ではなかったけど、でも一緒にいるとよく思う。

「東京、二十歳。」
朝子は、家庭教師のまなみ先生の家で勉強を教わっている。うちとはまるで違う部屋。一人で暮らしているそのスタイルへの憧れ。東京の大学に行くことを猛烈に反対されたというまなみ先生は、朝子が東京の大学に行くことを望む。
東京で朝子は、どこに行ったらいいのかわからない女の子になった。

「ローファー娘は体なんか売らない」
学校から出ると、正門前に車が停まっていて、彼女は駆け寄る。顔は若そうなのに禿げ上がった頭。同級の女の子たちはきっと、『生理的に無理』っていうんだろう。彼女には、その感覚は薄い。逆に、母性本能をくすぐられるような感じもある。ホテルに行って、彼女は服を脱ぐ。

「十六歳はセックスの齢」
周りがどんどん処女を捨てていく中、早生まれのあたしと薫ちゃんは、16歳になったら処女を捨てようと話をする。でも、みんなからのリアルな話を聞いて、セックスってなんか怖そうに思えてくる。オナニーの不健全さに嫌気がさして「断オナニー宣言」をしたり、セックスしてくれそうな大学生を探そうとするも、なかなかうまくいかない。そんな時、薫ちゃんが、物凄く名案を思いつく。

というような話です。
それぞれの切実さがにじみ出る作品で、なかなか面白いと思いました。
なんというか、描かれる登場人物の誰もが、物凄く狭い世界の中で生きている。こんな狭い場所嫌だ!と思って都会に飛び出して行っても、実はそっちの方が自分にとってはより狭かった、なんていうことさえある。
その狭い世界の中で、限られた価値観の中で、彼女たちの感情は余計尖った方に煮詰まっていく。元々変わった方向にねじれている人たちが、時間とともに醸造されていく煮詰まった価値観に塗り固められていくかのように、どんどんそのねじれ具合を酷くしていく。そんな話が面白いなと思う。
なのだけど、どうも僕の抱えている『この感じ』とは違うのかなぁ、という思いがあって、ドンピシャにズバリと内側に飛び込んでくる作品でもなかったなぁ、と思う。
本書の登場人物たちには大抵、『理想的な未来』や『追いかけ続けた夢』みたいなものがある。積極的にそれを抱いていなくても、漠然とした何かをぼんやりと描いていることが多い。
でも僕は、どちらかというとそういう感情は薄かったと思う。僕の中に強烈にあったのは、『こんなところにはいられない』という感情だ。それは、『(ここにいたら理想的な未来が叶えられないから)こんなところにはいられない』とか、『(こんなところにいたら夢を追えないから)こんなところにはいられない』という感情ではなくて、ただただ絶対的に『こんなところにはいられない』という強烈な感覚があったのだ。
だから僕は、地元に残るなんていう選択肢はまるで考えなかったし、大学進学と同時にこっちに出てきてからは、地元のことなどほとんど思い出さないような生活を続けている。
こっちでの生活に、何か憧れがあったわけではない。ここにくれば、何か変わるかもしれない、という思いは少しはあっただろうけど、でも過度に期待があったわけでもない。はっきり言えば、僕の場合、まあどこだってよかった。どこだってよくて、どこに行くにも手間がさほど変わらないなら、まあなんとなく華やかそうなところに行くのがいいか。そんなことぐらいしか考えていなかった。
だから正直僕には、本書で描かれる人たちの『焦燥』みたいなものが、巧く捉えきれていないのではないかと思う。彼らの中には何らかの『理想』があって、それは地元とは結びついていない形で自分の中に存在していることが多い。でも、自分はなかなかここから出られないからその『理想』にはたどり着けないし、ここから出られたとしても結局その『理想』には近づけないんだなという絶望したりして、『焦燥』がつのる。
僕には、こういう感覚は頭では理解できるつもりだ。でも、僕自身の経験ではない。だから、彼女たちの『焦燥』がぐさりと胸を刺すことはないのかもしれないなぁ、と思う。
本書の構成で非常に巧いなと感じる点が、本書には中心軸が存在することだ。
それが、前述した内容紹介では名前を挙げなかった、一人の男の存在である。
この男は、地元におけるある種の『典型』として描かれる。人気者だったという特殊さはあるけれども、基本的に地元における『ベタ』を体現する存在として常に描かれている。
本書には、そういう中心軸が存在するために、各話で主人公たちが、自身の立ち位置をその中心軸からの距離で示すことが出来る。それが、各話ごとの対比をより強く浮き彫りにするし、彼らの『焦燥』をより色濃く描き出すことにもなる。
ある人は中心軸に寄り添おうとするし、ある人は中心軸を嫌悪しようとする。またある人は、時間とともに中心軸との距離のとり方を変えようとする。そんな彼女たちのあり方は、時に痛々しいし、時に哀しいけれど、同時に、そうするしか生きていけない感じも凄くよく分かって、なんとも言えない気分になる。
なんか、みんな窮屈だよね、なんて思う。
昔の僕も、恐ろしく窮屈で、毎日をやり過ごすのが凄く大変だった。そういう時期をどうにか乗り越えて、今は凄く気楽に生きている。『正しい価値観』なんてないし、『大多数』に合わせる必要なんてないし、『他人』にどんな風に思われたっていいや、なんていう風に徐々に思えるようになってきて、ようやく気楽に生きていけるようになった。
本書で描かれる人たちは、やはり『何か』に囚われている。それは、自分を縛り付ける手錠のようなものであるのと同時に、自らの存在を世界と繋ぎ止める錨のようなものでもある。だからこそ、その窮屈さに喘ぎつつ、彼女たちはそれを手放すことが出来ないでいる。
彼女たちが生きている世界は、あまりにも狭い。その狭い世界からどうにかして抜け出せば、たぶんそこには『他人には理解できないかもしれないけど、あなたにとって最高の幸せ』が存在する可能性があるんだけど、でも、その一歩を踏み出すのには、なかなか勇気がいるものだ。
生きづらい世の中になって、特に地方に生きる若者の生きづらさみたいなものはあるのだろうと思う。もちろんそんな風には思わない若者もいて、そこに分断がある。きっとその分断は、これからも徐々に広がっていくのだろう。ミシミシと静かに音を立てながら裂け続ける溝の音を聞きながら、僕たちはこの世界に生きる。そんな同志たちが、きっとどこかにいるんだな、とそんな風に思わせてくれる作品でした。読んでみて下さい。

山内マリコ「ここは退屈迎えにきて」


探検隊の栄光(荒木源)

内容に入ろうと思います。
舞台は1980年代。まだまだテレビの勢いがガンガンあって、テレビ屋も自由にバリバリ仕事が出来た時代。
「杉崎探検隊」は、不定期のスペシャル番組として既に6年続き、本数にして40本に迫ろうという局の看板番組だった。
元プロ野球選手だった杉崎正雄を隊長として、プロデューサーの井坂善三、構成作家の水島啓介、ディレクターの瀬川学、ADの赤田康弘、音声の小宮山秀一、カメラマンの橋下政明、照明の渡部繁というメンバーでロケにやってきている。
今回の設定は、ジャングルの奥深くに潜む伝説の大蛇「ヤーガ」を追うというものだった。金色に輝く「ヤーガ」は、無数の蛇たちに守られて洞窟に暮らしている、という設定で、長い行程の間にいくつもの撮影を挟みながら、ようやくロケハンの時に使えそうだと判断した洞窟までやってきた。
彼らにとっては、とにかく「本物らしく」見えればなんでもよかった。ヤラセ、どころではない。『探検』という形で撮影されるほぼすべての行程が捏造だ。しかし、それでいいと思っている。視聴者だって、そういうもんだと思って見ているはずだ。とにかく、楽しければいい、くだらなければいい。彼らは、設定には出来るだけ忠実に、それでいていかにインパクトがあり、かつ馬鹿馬鹿しい映像を撮れるか。それを真剣にやっている。
その洞窟には、異物があった。
薬莢だ。
そしてその洞窟には、人型の的もあり、それを見た現地ガイドらは、報酬も受け取らずに逃げた。
しかし彼らには、その重要性は理解できず、そのまま撮影を続けたのだった。
その洞窟で寝袋を敷き眠っている一行の元にやってきたのは、迷彩服を着た三人の男たちだった。
彼らは、反政府組織に所属するゲリラなのだった。
確かに彼らがロケにやってきた国は独裁的な政権が続いており、反政府組織との武力紛争も時折日本のニュースで伝えられていたが、反政府組織は南部を中心に活動しており、彼らがロケをしている北部周辺にはいないはずだった。外務省が指定する渡航危険地域というわけでももちろんない。どうしてこんなところにゲリラがいるのか?
ゲリラたちは隊員たちに危害を加えるつもりはなさそうだったが、目的があるらしく、そのために隊員たちは拘束されることになった。意志の疎通は可能だが、完全に安全が保証されたわけではない。
そんな状況で彼らは、ゲリラたちを仰天させるとある提案をすることになる。
「撮影の続きをさせてくれないか?」
というような話です。
これはなかなか面白かったです。サクサク読める軽いタッチの作品としては、かなり優秀だなぁ、と思いました。
本書は、まず何よりも設定がスーパーに素晴らしい。言ってしまえば本書は、その絶妙すぎる状況設定こそが肝であって、これだけ設定が秀逸だと、よほどのヘマをしない限り、作品がつまらなくなることはないだろうな、という感じがしました。そしてやはり本書には、そんな「よほどのヘマ」はないわけで、それだけでもうある一定以上の面白さは間違いないと思います。
何せ、反政府組織のゲリラに捕まってるのに、ゲリラたちに「日本人ってのはアホなのか?」と言われるような映像を撮らせて欲しい、と申し出るっていうんだから、アホとしか言いようがない。でもこれ、日本人だと、なんかありえるなぁ、って感じがしちゃいますよね。うわー、日本人ならやりそう…、みたいな(笑)。もちろん彼らにしたって、始めっから全員一枚岩で撮影の続行を望んでいたわけではないのですよ。成り行きでそうなって、少しずつ状況が変化していって、その中で隊員たちの気持ちもどんどんと変化していく。その変化の過程が、『リアル』という表現は適切ではないと思うけど(同じ状況にいて、自分だったらどうするのか、非常に想像しにくい設定だろうから、『リアル』かどうかなんて判断しようがないですよね)、なんとなく「わかるわぁ」っていう説得力はあるなという感じがしました。
一人ひとりの個性も実にうまく描かれていて面白い。本書は、先ほど挙げた「杉崎探検隊」のメンバーに加え、ミゲル・カルロス・レイという三人のゲリラが出てきて、彼らの視点が入り乱れながら進んでいく三人称の小説なのだけど、「テレビ局員」という、なんとなくステレオタイプ化しやすい職業であることも相まって、彼らのキャラクターを結構すんなり受け入れやすいな、という感じがしました。もちろん、著者の描き分けも巧いのだろうと思います。読み始めこそ、登場人物が一気にたくさん出てきてちょっと大変だったけど、次第にキャラクターが安定してくるにつれて、誰が誰なのかすぐ理解できるようになっていきます。この著者の作品を読んだのは初めてだけど、これまでの著作の外側からの雰囲気なんかも合わせると、きっとキャラクターを描くのが凄く巧い作家なんだろうなぁ。
「撮影の続きをさせてくれないか?」と頼んだ彼ら。そこからの展開もハチャメチャでいい。人質になってまでも仕事を続けようとする日本人と、彼らなりの論理で正しさを追求しそのための行動を取ろうとするゲリラたち。彼らの価値観は、まるで違うと言っていいだろう。生まれや育ちの環境が、まるで違いすぎる。ゲリラたちの話を聞いて、日本人として幸せな国に生まれ、特別不自由することもなく生きてきた自分を恥じる隊員も出てくる。彼らは、ストックホルム症候群(誘拐犯と人質が次第に仲間意識を持ってしまう状況のこと)とはまた違うのだろうけど、お互いに歩み寄り、お互いの立場を理解しようと直接には伝わらない言葉をどうにか重ね、当初の立ち位置からは想像もつかないような関係性に発展していく。
さらにそこからの展開もまた怒涛なのだけど、それはまた読んでみて下さい。この辺まで来ると、元々無視されていたリアリティが(笑 ゲリラに捕まって、撮影を続けさせてくれって言ったり、それを言った後のその後の展開とかのことを指してます)さらに薄くなっていくような感じがあるけども(さすがにあれは無理でしょ 笑)、でもそれは、本書が「川口探検隊」をモデルにしているだろう「杉崎探検隊」というフェイクを撮っている、という設定が実にうまく効いているな、と感じました。これが、真面目なドキュメンタリーの撮影でゲリラに捕まる、とかだったら恐らく物語として成功していないでしょう。「杉崎探検隊」という虚構を撮影している一行が、現実の世界でさらに一回り大きな虚構に取り囲まれる、という構成になっているからこそ、どれだけ荒唐無稽な設定や展開でも許容出来るのだろうな、という感じがします。そういう構成になっているからこそ、冒頭で、「杉崎探検隊」という虚構がどのように作られているのか、という背景が結構ちゃんと描かれる。非常に巧いなと思いました。
まあそんな物語だからこそ、虚構を離れて現実に戻ってしまえば、魔法が解けたようになってしまうのはある程度しかたないだろう。正直そういう意味で、最後の最後はもう少しどうにかならないかなぁ、とか思ってしまった。確かに、あれを描くためには最後の最後がなければどうにもならないのだけど、でもそれなしで、どうにか虚構の世界に留まったままで物語の幕をうまく閉じる方法はなかったものかなぁ、という気はしてしまいました。まあ、僕には思いつかないですけどね。
おちゃらけた雰囲気全開で突き進みながら、なかなかグイグイ読ませる作品だなと思いました。エンタメとして上出来じゃないかなぁ、と思います。何よりもやはり、設定が素晴らしい。この設定を思いついた時点で8割ぐらい勝ってるよなぁ、という感じがしました。是非読んでみて下さい。

荒木源「探検隊の栄光」



カマラとアマラの丘(初野晴)

内容に入ろうと思います。
本書は、廃墟となった遊園地を舞台にした、4編の連作短編集です。
その遊園地には噂がある。
廃墟となった今も、一年中様々な花が咲き乱れる庭園を動物霊園としている青年がいる。
月の出ている夜、自分の一番大切なものと引き換えに、訳ありのペットの埋葬を引き受けるという青年の噂。
廃墟となった遊園地に、様々な理由から訪れる人々に、青年は退治する。

「カマラとアマラの丘」
金子リサ。心理療法士。廃墟の遊園地の話は、担当しているおばあさんから聞いた。
愛猫を辛い形で喪ってしまったそのおばあさんは、愛猫を探すため夜徘徊するようになった。ある時、手折られた桜の枝を持ち帰ってきたおばあさんは、廃墟の遊園地の中に動物霊園があることを教えてくれたのだ。
リサは、最後の力を振り絞って、その遊園地にたどり着いた。そこにいたのは、森野と名乗る一人の青年。
ハナをここに埋葬して欲しい。
青年は、リサとハナの物語を聞かせて欲しい、それから考えると答えた。
人間とゴールデンレトリーバーの友情の物語。

「ブクウスとツォノクワの丘」
廃墟となった遊園地にやってきたのは、アメリカ人のブライアン・レイと、その妻・夕鶴だ。
ブライアンは、アメリカから持ち帰ってきた『ビッグフット』をここに埋葬して欲しいという。
あの、映像に撮られたことがあり、未だに見つかっていない未確認動物である。
妻の夕鶴は、流産をきっかけに精神を病んでしまったと言い、ブライアン一人が話を続ける。
何故ビッグフットをここに埋葬したいのか。
青年は主張する。あなたがたの話を最後まで聞いて、一人でも反対に手を挙げる者がいれば、埋葬は諦めてください、と。
ブライアンが席を外すと、夕鶴は森野に、ブライアンが語ったのとはまるで違う話を聞かせる。
醜いヒヒの話だ。

「シレネッタの丘」
その日非番だった市川は、最後の望みを託して、廃墟となった遊園地までやってきた。
ひと月前事故に遭い意識を取り戻さない息子のことが過る。お世辞にも良い父親とは言えなかった自分が、妻の言い分に真っ向から反対している。どちらが正しいのか。
市川は、三鷹で起こったとある殺人事件の捜査をしていた。新聞に大きく取り上げられている、センセーショナルな事件だ。
捜査を、していた。
担当から外された市川は、祖父母が殺害された現場で唯一一命を取り留めた、脳性マヒを患う息子・仁紀の記憶を喚起するかもしれない切り札を探していた。
天才インコだ。

「ヴァルキューリの丘」
弁護士の鷺村は、ある男の跡をつけて、廃墟となった遊園地までたどり着いた。
「おんじい」と呼ばれる、街中で『奇人』として有名なその男は、謎めいた雰囲気を持つ青年に何かを手渡していた。
鷺村はおんじいのことを、リゾート開発される予定の土地の不法占拠の片棒を担いでいる男だと糾弾し、森野と名乗る青年に事情を説明するはめになった。
土地売買契約を一方的に反故にした売主。そこに出入りする、天才的なネズミ駆除技術を持つおんじい。失踪した13人の若者。おんじいへの疑惑。鷺村の推測。
土地の売主はなぜ、敷地全てに有刺鉄線を張ってまで、土地売買契約を反故にしたのか?

というような話です。
僕が初野晴に求めているものとは若干ズレている感じの作品だな、というのが正直な印象です。けど、やっぱり初野晴、巧いなぁって思います。
物語の作り方が本当に巧い。
初野晴作品の魅力の一つは、一体どこから引っ張ってくるんだろう?と不思議に思うくらいの様々な斬新なトリビアと、そのトリビアを絶妙に物語の中に組み込んでいく手腕だと思います。
本書でも、その巧さは発揮されています。
本書の場合、動物に関する様々なトリビアが出てきます。犬やビッグフット(これは動物かな?)、インコやネズミなど、本書でメインで扱われる動物はもちろんのこと、それ以外の様々なトリビアが縦横無尽に散りばめられていきます。
そしてそれが、物語の中で非常に巧い位置に収まっているんですね。物語に無関係な、雑談の話題としてトリビアが引き出されるわけではない。それら一つ一つが、物語を構成する重要なピースになっていく。
愛玩犬の中には自殺する犬がいるというのも初めて知ったし、異種臓器移植なんてものが存在するなんて知りませんでした。オウムのアレックスと馬のハンスの存在は知ってたけど、それをこんな風に物語に絡めてくるんだっていう驚きがあるし、近代化学兵器によっありますね。
森野は、博愛主義ではないのだけど、やはり基本は動物側に立っている。会話の端々に、人間が動物を扱う際の立ち位置、視点、前提などを非難する色が滲む。廃墟となった遊園地にやってきて森野と話す人たちに、森野が何を望んでいるのか、それはなかなか判然としない。反省して欲しいのか、真実を見出して欲しいのか、はたまた何も期待していないのか。森野の立ち位置は、どこか不安定で揺らいでいる。しかし一方で、真っ直ぐ芯が通っていてまるで揺らがないようにも見えてくる。不思議な印象を残す男で、そんな森野と対峙する人たちは、森野の掴みどころのなさに戸惑う。
『森野』という名前からの連想だけど、本多孝好の「MOMENT」と「WILL」という作品を連想した。その二つの作品の中で、葬儀屋として出てくる女性の名前が、確か『森野』だったはずだ。死者を弔う、という点でも近しい存在だなと、全然関係ないのだけどそんなことを思った。
廃墟となった遊園地という同じ舞台設定で、これほどバリエーションの違う物語を生み出せるというのもさすがだと思う。初めの二つは、動物霊園という噂を聞いてやってきた話だけど、後の二つはそういう設定ではない。埋葬とは違った事情で廃墟の遊園地までやってきてしまった人たちだ。そういう、物語の展開のさせ方や構成力みたいなものは、さすが初野晴という感じがする。
また、トリビアルな知識を、登場人物たちの輪郭を太くするためにも活用していて、それも巧いなと思う。
例えば、医療機器の販売をしていた男は、コーヒーカップを見てこんなことを言う。

『思い出したのは子供の頃じゃないんだ。遊園地のコーヒーカップがくるくるとまわる複雑な動きにはサイクロイド、トロコイド曲線と呼ばれていて、俺が売っていた医療用の遠心分離機と同じ軌道になるんだ』

また、刑事は森野を見て、こんな感想を抱く。

『よく見ると左の目元とまぶたの形が右とすこし違って二重になっていた。親の虐待を受けてきた子供がこんな顔をしていたことを思い出す。利き手が集中する顔半分に後遺症が残るからだ。』

こういうのが巧いなと思う作家は、パッと思いつくところだと森博嗣と荻原浩だ。森博嗣は、理系的な知識で情景や登場人物の描写をするのが巧い。荻原浩は、それぞれのキャラクターの個性に沿った喩えや言い回しが非常に巧い。初野晴にそれまでそんな印象を抱いたことがなかったのだけど、僕が見逃してただけか、あるいは作家としてよりレベルアップしたのか。そういう表現が本作では僕の印象に残りました。
本書は、人間と動物の物語だ。人間は、「動物には感情がない」と断定し、それを前提としてこれまで発展してきた、という。

『昔は、とくに神話の世界では、神と人と動物ははっきり区別されていなかったんだ』

という一文は本書の、いや森野の心象を的確に表現しているかもしれない。
しかし僕は本書を読んで、『人間同士も分かり合えるのか?』と突きつけられているように感じられた。
僕が動物というもの全般に、さほど愛着を抱けないからかもしれない。
人間と動物の間には、普通は言語による会話は成り立たない。言語以外のコミュニケーションが成立しているのだ、という主張をすることは可能だけど、第三者にそれを示すことが出来ない時点で、それは科学的ではない。だから、言語によるコミュニケーションが成り立たない時点で、意志の疎通が出来ないと判断していいだろうと思う。
でもそれは一方で、では言葉が通じさえすれば意志の疎通が出来たことになるのか?という問いを突きつけることでもある。
どうだろう?
僕は、人間同士が分かり合えるなんていうのは幻想だと思っている。そんなわけがない。いくら言葉が通じようと、どれだけ賛同を得られようと、それが分かりあえている証拠になるわけではないだろう。
そうやって議論を一周させたその先に、新たな着地点を著者は見出している。そんな風に僕は思う。
つまり、これまでの議論の流れを逆行するような結論だけど、『言葉が通じないからこそ、最高の意思疎通が可能なのではないか』ということだ。
動物と人間のいくつもの物語を描き出すことで、著者は、そんな着地点を読者に提示しているのかもしれない、となんとなくそんなことを感じました。
初野晴作品に対する僕の好みとはちょっとズレているのだけど、初野晴の巧さを実感できる作品でした。動物との接し方について考えさせられる部分もあり、夢を持たせてくれる部分もありです。動物が好きな人が読んだらどんな感想になるのか、興味があります。読んでみて下さい。

初野晴「カマラとアマラの丘」



浜村渚の計算ノート(青柳碧人)

内容に入ろうと思います。
本書は、とある事情からテロリストになってしまった天才数学者・高木源一郎と、彼の挑戦に立ち向かう中学生・浜村渚の闘いの物語です。
まず全体の設定を説明しましょう。
高木源一郎は、現在日本を震撼させているテロ組織「黒い三角定規」の主導者であり、自ら「ドクター・ピタゴラス」を名乗っている。
彼の目的はただ一つ。学校教育における数学の地位向上だ。
とある心理学の権威が、少年犯罪の急増の理由を義務教育の内容と関連付けた論文を発表した。それを受け文部科学省は、小中学校における教育内容を刷新することにした。
刷新の大きな柱として導入されたのは「心を伸ばす教科」。つまり、絵画や道徳などの科目の比重が増した。
その一方で、これまで「勉強」と呼ばれていた科目はどんどんと削られ、なかでも数学と理科は徹底的に迫害され、学校によってはほとんど教わらない、そんな状況になってしまった。
そんな現状を変えるべく立ち上がったのが高木源一郎である。彼は、全国の高等学校の数学教育で使われていた数学ソフトの監修者であり、彼はそのソフトの中に特殊な信号を仕掛け、日本国民全員に予備催眠を掛けていたのだ。高木源一郎は、ちょっとした数学的操作を加えることで、そのソフトに一度でも触れたことのある人間を自由に操ることが出来るようになった。
国民全員が人質に取られた形だ。
高木源一郎は、学校教育における数学の地位向上を、動画配信サイト「Zeta tube」で訴え、政府に一ヶ月の猶予を与えると告げたが、政府は高木源一郎の思惑と真逆の対策を取ることになる。
かくして高木源一郎は、テロ行為に手を染めることになる。
それに対するのが、中学生の浜村渚だ。
何故中学生が捜査に加わるのか。
高木源一郎が作った数学ソフトは20年以上使われており、警察の捜査本部には、「39歳以上、または高木源一郎作製のソフトを一度も見たことがない警察官」のみが集められた。その結果、捜査本部に数学的な知識を持つ人間がいなくなったのだ。
しかし、数学に強い人間に協力を求めるのも難しい。何故ならそういう人間は、まず間違いなく高木源一郎のソフトに触れているからだ。高木源一郎のソフトに触れれていないのは、39歳以上か中学生以下という条件になるが、中学生以下でも塾などでそのソフトが使用されていることがあり、難しい。
そんな中で白羽の矢が立ったのが、浜村渚だったのだ。彼女は、数学の恐るべき才能を持ちつつ、これまで高木源一郎の作成したソフトを一度も見たことがないという、日本国内においてこれ以上望むべくもない人材だったのだ。
かくして、高木源一郎率いるテロ組織「黒い三角定規」が仕掛ける様々な「数学が絡む犯罪」を、浜村渚と共に解決していく…。
というような話です。
では、4編ある各章の内容を紹介しようと思います。

「ぬり絵をやめさせる」
「黒い三角定規」は、長野県内で殺人を犯し続けている。殺されている人たちには関係性はなく、捜査本部は、何故彼らが殺されているのかまったくわからない。
浜村渚はこの事件に、「四色問題」が関係していると見抜くが…。

「悪魔との約束」
美術館で、揮発性の毒ガスが撒かれる事件が多発する。捜査本部は、毒ガスの入手経路から、渋谷にある『カルダノ』という名の数学喫茶にたどり着く。
その数学喫茶には、『何もないことを示す』数字である『0』が重要なモチーフとして扱われている。捜査本部の面々は、「0で割り算をしてはいけない」という、数学における最も基本的なルールを学ぶことになるが…。

「ちごうた計算」
「黒い三角定規」によって、奈良理科大学教授であり、数学の世界では世に知られた天才数学者・四日市潔が誘拐されるという情報を入手した捜査本部は、浜村渚を連れて奈良まで赴く。デパートのタイルを見て、フィボナッチ数列という、数学そして自然界において非常に有名な数列に魅せられる渚。警察による警備の中、四日市教授は誘拐されるが、手がかりを残しており…。

「πレーツ・オブ・サガミワン」
相模湾に浮かぶ無人島・津殿島に、「黒い三角定規」の関係者がサバイバル生活をしていると判明する。捜査本部の面々は、ちょっとしたきっかけで彼らに拘束され、渚の機転で彼らの仲間となって島を探ることにした。
島の面々はみな、5桁の数字が書かれたTシャツを着ている。どうも、円周率の数字のようである。円周率を10万桁まで記憶しているという鑑識課の上原ヤマトと共に、テロ活動のための準備をしている「黒い三角定規」のメンバーに対抗すべく策を練るが…。

というような話です。
いやはや、予想してたより遥かに面白くてビックリしました!これは掘り出しものだったなぁ。
なんとなく、軽くサラッと読めるあまり歯ごたえのない小説だろうな、なんて予想で読んでたんです。でも、『軽く』『サラッと読める』ってのはあってたけど、『歯ごたえがない』は間違ってましたねぇ。
冒頭の話からもう、心を鷲掴みにされちゃいました。
「四色問題」というのは、世の中に存在するありとあらゆる地図は、4色あれば塗り分けられるかどうか、という問題であり、数学の世界に非常に波紋を呼び起こした証明で知られます。僕はこれまで色んな小説を読んできましたけど、まさか「四色問題」がストーリーにここまで絡んでくる小説が存在するなんて、思いもしませんでした。確か、東野圭吾の「容疑者Xの献身」の中で、ちょこっとだけ「四色問題」が出てきました。確か、主役の一人である数学者が、コンピュータに依らない「四色問題」の証明法を考えている、という設定ではなかったかな、と思いますけど、ストーリーそのものに絡んでくるわけではありませんからね。
4つのどの話も、その話の中で扱われる数学的な話については、ストーリーを理解するための最低限の知識は提示されるんで、「四色問題」についても、ストーリーを理解するために必要な事柄はきっと理解出来ることでしょう。
でも、そういう部分を超えた何かが、本書にはあると思うんですね。だから、文系の人が読んでどう感じるのか、凄く知りたい。
例えば、ストーリーが理解できたとして、じゃあ何故、浜村渚のとある提案によって犯人が犯行を取りやめてしまったのか、その心情まで理解できるのかというと、それはちょっと難しいのかもしれないなぁ、なんて思ったりします。それは、2話目でもまったく同じことを感じました。
本書で描かれているのは、『数学に対する誠実さ』なのだ。
本書では、『数学の地位向上のためにテロ行為を行う』という、まあはっきり言ってしまえばトンデモな設定の元に物語が進みます。そもそも、そういう馬鹿げた設定を受け入れがたい、という人もきっといるでしょう。まあ、それはそれでいいです。でも、この設定をとりあえず受け入れて、ストーリーが理解できても、じゃあ納得できるかというとまた別かもしれないなって思うんですね。
僕の中にもあるのだけど、『数学に対しては嘘はつけないな』っていう感覚があったりします。これは、ちょっとでも数学が好きだったりする人の中には存在する感覚なんじゃないかな、と思うんですけど、どうでしょう?
喩えが適切ではないかもしれないけど、それはキリスト教におけるイエス・キリストの存在のようなものかな、っていう気がします。たとえどんな状況で嘘をつくことが出来ても、イエス・キリストに対しては嘘をつけない(告解とか、要するにそういうことですよね?)みたいな感覚ってきっとあるんだと思います。数学が好きな人の中にも、「数学に対しては嘘をつけない、誠実でありたい」という感覚が必ずあると思うんですね。
本書の中で、その感覚がかなり強く描かれているように僕には感じられます。だからこそ、「ぬり絵をやめさせる」でも「悪魔との約束」でも、彼らは浜村渚の追及によって観念してしまうのです。
この感覚を共有できるかどうかで、本書を面白いと感じられるかどうか結構違ってくるかもしれないなぁ、なんて思ったりします。「数学に対して誠実でありたい」という感覚を共有できない人にはなかなか、犯人と浜村渚のやり取りをうまく捉え切れないだろうなぁ、なんて思ってしまいます。
「悪魔との約束」も見事でした。特に、最後の最後浜村渚が犯人の行動を抑える場面は、爆笑しつつ感動するという、なかなか経験することのない感情に支配されました。まさかそんなぶっ飛んだラストになるとは!という笑いと、でもそれなら仕方ないよねという納得とが押し寄せてくる、見事なラストだったな、と思いました。
「ちごうた計算」は、4つの話の中では一番微妙な感じかな、という気がしましたけど、四日市教授が残したメッセージ、犯人による隠匿、そしてそれを解き明かす浜村渚の活躍なんかが面白い話です。
「πレーツ・オブ・サガミワン」はまさに、数学のロマンについての話です。『円周率』という、古来数多の数学者たちが立ち向かってきた強大な壁と、それに魅せられた者たちのロマンの物語です。ストーリー自体は他の話同様物騒ですけど、円周率という、ごく一般的な人からすればどんな意味があるのか何の役に立つのかまるでわからない謎めいた数字の羅列に込められた重みみたいなものが伝わってくる作品だなと思いました。
浜村渚というキャラクターも凄くいいですね。全体的にラノベっぽい感じのキャラ設定で(まあ、あんまりラノベを読んでいるわけでもないんですけどね)、そういうのがちょっと苦手という人が読んでどう感じるのか分からないけど、とりあえずどんな場面でも『数学が好き』というのが最優先されるけど、普段は別にごく大人しい女の子という設定は、読んでてなかなか楽しいです。他のキャラクターも、深みは別にないのだけど、ストーリーの邪魔をし過ぎなかったり、逆にストーリーを盛り上げたりと、それぞれのキャラクターがいい動きをしているので、楽しく読めるなと思いました。
全体的に数学ネタが散りばめられていて楽しいです。もちろん、ストーリーに必要な部分はあらかじめ説明されるし、ストーリーに関係ないものでも説明されることが多い。でも、説明なしで出てくる描写も時々あって、ニヤリとしてしまう。「πレーツ・オブ・サガミワン」の中に、『一本の針を、平行に引かれた数本の直線めがけて落としている』という描写なんか、なるほどぉ、って感じでしたもんね。これは、『ビュフォンの針』という有名な確率の問題が元ネタになっていて、数学が好きな人ならニヤリと出来るんですよね。そういうちょっとした仕掛けが見え隠れすると、なんか楽しくなってきます。
設定はまさに荒唐無稽です。そういう荒唐無稽な設定に馴染めない、という人もいることでしょう。でもこの設定は、あくまでも『数学を物語に落としこむための舞台設定』に過ぎないわけで、そこをとやかく言って楽しみを半減させてしまうのは面白くありません。数学が好きな僕としては、予想していたよりも遥かに面白い話で、大満足です。数学を小説にしたということでは先駆者である、結城浩「数学ガール」という作品があるのだけど、これはそこそこ以上の難易度がある。しかし本書は、数学初心者にだって理解出来るストーリーである。そして本書を読むと、数学好きの「数学に対しては誠実でいたい」という、文系の方にはなかなか理解し難い感覚を少しは知ることが出来るかもしれません。個人的には、シリーズの続きも読んでみたくなってしまうような、面白い物語でした。是非読んでみて下さい。

青柳碧人「浜村渚の計算ノート」



あの戦争から遠く離れて(城戸久枝)

内容に入ろうと思います。
著者の父が中国から帰ってきたのは1970年。中国との国交が正常化される2年も前であり、「中国残留孤児」という言葉がメディアを賑わす10年以上も前であり、さらに中国で文化大革命の嵐が吹き荒れる最中のことであった。
城戸久枝の父・城戸幹は、満州国軍の軍人であった祖父の子として生まれ、終戦時様々な不幸が重なり、中国に取り残された。父は、様々な人の助けを経て、牡丹江のほとりにある頭道河子村へと連れられてきた。
当時父は5歳。「日本人の子を育ているとわかったら、ロシア人に何をされるかわからない」という恐怖もあって、なかなか育ての親が見つからなかったが、自警団長の義理の娘である付淑琴は即座に名乗りを上げた。二度の流産を経験し、子どもの産めない体になってしまったこともあり、強く子どもを引き取ることを望んだのだ。
それから父は、孫玉福という名前を付けられ、日本人ではあるが中国人と同じように育てられた。
孫玉福は非常に優秀だった。中国語が非常に苦手だったにも関わらず、あるきっかけを経て一念発起。元々他の成績はよく、小学校時代に飛び級をしている。その後、玉福の苦学と淑琴の必死の金策などにより、玉福は高校まで行くことが出来、しかも名門である北京大学を狙えるほどの学力を身に着けていた。
しかし、そこで悲劇が起こる。中国で文化大革命の嵐が吹き荒れている中、玉福はほんのちょっとしたすれ違いから、自らの戸籍を「日本民族」と記載を変更してしまった。
これで、玉福が中国社会の中で真っ当な道を歩む可能性は絶たれてしまった。
一方で玉福の中に、中国人として育ってきた自分と、日本人という出自についての葛藤が生まれ始める。そして玉福は、生みの親をどうしても探し出したいという思いに駆られ、猛烈な行動を起こすことになる…。
前半は、そんな激動の人生を過ごした父の、育ての親と出会ってから日本へ帰国するまでの人生が、父の視点で描かれていく。
そして後半は、「日本生まれの中国残留孤児二世」という特異な立場にありながら元から中国に興味を持っていたわけではない著者が、どんな経緯から中国と関わりを持ち、そして父の足跡を辿ることになっていったのか、という経緯が綴られていきます。
骨太の濃密な作品でした。凄い作品でした。
僕には初め、著者略歴のところに書かれている、「日本生まれの中国残留孤児二世」という立ち位置が、何故それほど特殊なのかということが分かりませんでした。そしてそれは、しばらく読んでいてもずっと分かりませんでした。
しかし、後半になって、著者が中国残留孤児やその二世と関わるようになっていって、初めて著者の置かれた立場が特殊なのだということがようやく理解出来ました。
それは、著者の父が、ほぼ独力で、恐らく誰よりも早く日本に帰国したことと関係がある。
多くの中国残留孤児は、日本からの支援が特にないまま、日本へ帰国する当てがなく、仕方なく(なのかどうかはわからないけど)中国で結婚し子どもを儲けたわけです。つまり、ほとんどの「中国残留孤児二世」は、中国生まれ、ということになります。そんな二世たちもやはり、言葉の問題から、日本へ帰国してからも苦労している人が多いという。
しかし著者の父は、まだ「中国残留孤児」という言葉が浸透するずっと前に、自らの不断の行動でもって奇跡的な帰国を果たした人だった。文化大革命の最中、まだ若かった著者の父は、帰国してから結婚し、子どもを儲けた。だからこそ著者の「日本生まれの中国残留孤児二世」という立場は、非常に特殊なわけです。
本当に、よく帰国出来たものだな、と思いました。
是非本書を読んでもらいたいのだけど、本当に「孫玉福」が「城戸幹」として帰国出来たことは奇跡としか言いようがありません。何せ玉福は、帰国するという発想がなかった時から、自分がどこの誰でどんな経緯で淑琴のところまでやってきたのか、という経緯を、自らの興味から調べていたわけです。それでも、ほとんどなんの情報も出てこなかった。玉福が、聞ける限りの関係者に聞きまくっても、玉福がどこの誰なのかはっきりとはわからなかったわけです。
玉福は、日本赤十字に宛てて、自分の両親を探して欲しいという手紙を何百通と送ります。まったく返信がなくても諦めず、何度となく送り続けた結果ようやく反応があったわけですが、そこに「もっと情報がないと両親を探せない」というようなことが書かれていて、玉福は頭を抱えます。それまで、あれだけ色んな人に話を聞いて、それでも何もわからなかった情報を、どうやってまた調べればいいというのか。
しかし、最終的に玉福の身元は判明します。この経緯も素晴らしいです。
さらに、難問はそれだけではありません。そもそも中国と日本の間の国交は、まだ回復していないわけです。
さらに当時中国では、文化大革命という強大な嵐が吹き荒れていました。脈絡なく様々な対象が吊るし上げられる、そんな環境にあった玉福は、自らの「日本人」という身分が大っぴらにバレると殺される、というような恐怖を常に抱きながら、同時に日本へ帰国するための様々な行動を取っていたわけです。
後年、著者の父がNHKドラマ「大地の子」の再放送(「大地の子」は、中国残留孤児を主人公にした作品)を見て、こんな風に言ったという場面があります。

「なあ、久枝。父ちゃんがいたころは、あんな甘いものじゃなかったよ」

僕は「大地の子」は読んでもいないし見てもいませんが、「大地の子」の話を知っている方には、玉福が経験した壮絶さがある程度イメージできるかもしれません。
国交がない国からの帰国という、果てしない難関を突破した玉福は、ようやく「城戸幹」として帰国できる。しかし、帰国出来たからと言って万々歳というわけではない。なにしろ、言葉は通じないし、自分が家族の厄介者になっているような雰囲気も感じる。それに、中国では大学に行けないことに絶望し、だからこそ日本への帰国を強く望んだという側面もあったのに、日本での大学進学も諦めざるを得なくなってしまう。そんな境遇の中でも城戸幹は、結婚し子どもを儲け、日本社会の中できちんと生きてきた。
だからこそ、著者である「城戸久枝」が生まれた。著者はその歴史の流れの大きさに立ち向かわんとしている。
孫玉福と、育ての親である淑琴の親子関係もまた素晴らしいと思う。血の繋がりなど、ましてや国籍の違いなどなんの関係もなく、淑琴は玉福に惜しみのない愛情を注ぎ、玉福もその愛情に応え、子ども時代に散々迷惑を掛けた(主に金銭的に)淑琴に対し、大人になってからあらゆる手段を持って報いようとする。その行動が、やがて玉福の帰国に繋がるのだが(おかしな話に聞こえるかもしれないけど、本書を読むと分かる)、もちろん玉福はそんな打算で淑琴と接していたわけではない。
だからこそ、孫玉福の帰国は、淑琴にとってはもちろんのこと、玉福にとっても心を引き絞られるような苦しみを与えるものだった。
もし、玉福が、戸籍を「日本民族」と書き換えなければ、どうなっていただろう?玉福は玉福として、北京大学に入学し、中国人として中国社会の中で成功し、淑琴と離れることもなかっただろうか?しかしそうなると、著者は生まれていない。戦争というものを挟んで、歴史に翻弄された人々は、山ほどいただろう。ちょっと前に、「たった独りの引き揚げ隊 10歳の少年、満州1000キロを歩く」というノンフィクションを読んだ。これも、戦争によってその運命を翻弄された、数奇な出自を持つ少年の物語だった。だから、誰にも物語はある。本という形にまとまっていなくても、戦争によって翻弄された人々それぞれに、個別の物語があるはずだ。しかしその中でも孫玉福(城戸幹)が経験したことは、かなり特異な経験になるだろう。僕は、祖先の歴史とか血の繋がりとかにあまり思いを馳せることはないのだけど、もし自分の父がこういう存在だったらどうだろうな、なんてことを考えた。
著者も、元々は中国にそこまで関心を持っているわけではなかった。父が「中国残留孤児」であるということは知っていたし、自分が「中国残留孤児二世」であるという意識もあったけど、日本生まれで日本語が普通に話せる著者は、何の苦労もなく育ったし、父が中国に対して抱く感情を理解できるわけでもなかった。
しかし、父の育ての親である淑琴が亡くなる9ヶ月ほど前、父が突然著者を中国へ誘った。父の友人の家でホームステイしてみないか、というのだ。
そしてそこから著者は、中国という不可思議(に思える)な国に関心を持ち、留学したり、あるいは父の知り合いを訪ねたり、父と関わりのある土地に足を運んだりして、父の足跡を追いかけるようになっていく。
著者が経験する様々な出来事は、色々と考えさせられる。特に、「『日本人』に対する強烈な悪感情」と、「『城戸久枝』という個人に対する親愛の情」のギャップに、著者自身も何度も悩まされることになる。そして、そんな経験を何度も繰り返すことでようやく著者は、文化大革命というとんでもない時代に「日本人」として中国国内で生きてきた父の過酷さを僅かながらでも実感できたような気になる。
著者は、中国に足を運ぶ一方で、日本国内にいる中国残留孤児やその二世とも関わりを深めていくことになる。そしてようやく彼女は、自らの「日本生まれの中国残留孤児二世」という立場の特殊さを知り、中国残留孤児らへの現状に憤る。
ある時父が突然、中国残留孤児として日本に帰国したけどまるで補償がなかったことを、県や厚生省に訴え始めた。著者には、今更なんでそんなことをしているのか理解ができないでいた。しかし、国に対して裁判を起こした中国残留孤児らと関わりを深めていくに連れ、徐々に彼女は父の気持ちを理解できたような気になっていく。著者は、問題の根深さをより一層実感するようになっていく。
また著者は、「城戸幹の娘」としての自分だけではなく、「軍人だった祖父の孫」としての自分にも焦点を当てていく。中国留学中何度も耳にした日本への非難。その多くは、「日本の軍人」に対してのものであった。自身が「軍人の孫」である事実から逃げてはいけないと感じた著者は、少ない資料の中から、祖父の面影も追おうとする。
著者の立ち位置は明確だ。「中国」や「日本」という大きなものを考えるのではなく、「城戸久枝」という自分の存在に繋がる歴史をまず踏み固めようとしている。それは、こんな言葉にも現れているだろう。

『私が感じ、いまも思うことはたった一つだけだ――私とかれらの間には、わかりあえることもあれば、わかりあえないこともある。彼らが私を変えることはできないし、私が彼らを変えることもできない――特別なやり方など、どこにもありはしない。それでも、彼らとの関係は続いていく。』

何が正しかったのか、何が間違っていたのか。そういう議論は、今の尖閣諸島の問題のように、平行線を辿るばかりだろう。しかし、そうではないアプローチもある。著者は、歴史がほんの少しイタズラをすれば自分は生まれなかったかもしれない、そんな立ち位置を起点として、父や祖父、そして中国の歴史と関わっていくことになる。個人の歴史が、一つの時代の歴史と重なる。そんな特異な体験をすることになった父・城戸幹と、その父の痕跡を中国国内で追い続けた娘・城戸久枝の奇跡の物語。是非読んでみて下さい。

城戸久枝「あの戦争から遠く離れて」



天のシーソー(安東みきえ)

内容に入ろうと思います。
本書は、小学5年生のミオと、その妹・ヒナコを主人公にした7つの連作短編集です。

「ひとしずくの海」
コンビニによくいるサチエねえちゃん。なんか嫌なことがあって、サチエねえちゃんに、前にもやってもらった「目かくし道」で家まで連れて帰ってもらった。

「マチンバ」
山にいるからヤマンバ。町にいるからマチンバ。ピンポン逃げをして遊んでいる家のお婆さんは、顔とかたるんでて怖い。どうしても面白い遊びがなくて、ピンポン逃げを続けてしまったある日。

「針せんぼん」
家の前で遊んでいた5歳と3歳の男の子の面倒を見始めるミオ。ちゃんと面倒見て優しいね、なんて言われるけど、そうなのかな?ある約束の日。

「天のシーソー」
転校生の佐野君は、どうもミオに気があるらしい。なんとなくそんな話があって、それでどうしてか佐野君を家まで尾行することになった。

「ラッキーデイ」
今日は本当にツイてない日。何をやってもうまくいかない。しまいには、見知らぬ男から掛かってきた電話に怯え、クラスメイトの住所と電話番号を教えてしまった。でも、たった一つだけいいことが。

「毛ガニ」
送られてきた毛ガニを、妹が飼うという。名前までつけてしまう。「海に還そう」 そう言った妹だったが…。

「明日への改札」
それまでの話から数年たち、ミオは高校生に、ヒナコは中学生になった。そして彼女たちは引っ越ししている。ヒナコが、引っ越し前の友人に久々に会いに行く。

というような話です。
なかなか、児童文学的な作品とは、相性が悪いのですよね。
梨木香歩にしても湯本香樹実にしても、読んだことはあるのだけど、どうも自分の中ではうーむという感じなのです。
なんだろうなぁ。やっぱり、『小学生の女子』っていうのが、男からするとちょっと遠すぎるのかなぁ。
『小学生の男子』なんて、アホばっかじゃないですか?いつの時代も、まあ女性より男の方がバカなんだろうけど、小学校時代に限って言えばその差がもの凄いんじゃないかって思うんですね。
だから、『小学生の女子』のことって、たぶん男にはなかなか想像しがたいんじゃないかなぁ、なんて思います。
重松清みたいに、少年を描く作品は結構好きだったりするから、やっぱり性別の問題なのかなぁ、って思うんですね。大人になると、想像力もついてくるし、両性ともある程度以上の社会性を身に着けているから、異性が何を考えているのか理解しやすいような気がする。でも小学校時代って、女子には社会性があるけど、男にはまだ社会性みたいなものって備わっていない気がするんですよね。そういう、劇的な差がある時代の話だから、児童文学(『小学生の女子』を主人公にした)はあまり読めないのかもなぁ。
どうなんだろう。こういう作品を女性は、「そうそう、自分もそうだったんだよなぁ」という感覚で読むんだろうか。もしそうだとすれば、やはり男にはちょっと遠い世界かもなぁ、って感じはします。
個人的には、「天のシーソー」と「毛ガニ」がなかなか面白かったですね。「天のシーソー」は、お互いの、どこに持っていけばいいのかわからないなんとも表現しようのないやり場のない感情が、なかなか良かったなと思います。「毛ガニ」は、ものっすごいアホっぽい話なんだけど、そこに真剣さが加わってて、なんとも言えない味を醸し出しています。
あと、表紙が素晴らしすぎますね。この絵だけ取り出して部屋に飾りたい(笑)
どうなんだろう。なかなか男にオススメするのは難しい作品かなぁって印象はあります。恐らく、女性ならドンピシャなんでしょうね。表紙が気になったら、是非手にとってみてください。

安東みきえ「天のシーソー」



下町ロケット(池井戸潤)

こんな仕事がしたい!!
もうほんっとうに、こんな仕事がしたいぞ!!

とりあえず内容に入ります。
佃航平はかつて、宇宙科学開発機構の研究者として、ロケットの要であるエンジンの製作に携わっていた。
セイレーンと名付けられたそのロケットは、しかし打ち上げに失敗した。
膨大な額の国費を投入しての失敗に、最終的に佃は責任をとって辞めざるを得なくなった。打ち上げ失敗の原因は、エンジンシステムの根幹を成すバルブシステムにあったからだ。
そうして佃は、元々継ぐつもりのなかった、父が創業した町工場の社長に収まることになった。
大田区にあり、資本金三千万円、売上百億円足らずの、まさに中小企業だ。小型エンジンを主力としてはいるが、研究開発に無尽蔵のお金を注ぎ込み、すぐにお金に変わるわけではない技術研究にも余念がない。というか、主力であるはずの小型エンジンの研究費を削ってでもチャレンジングな研究を続ける方針に、苛立っている若手もいる。そんな状況だ。
しかし、いずれにせよ、佃製作所の技術力はトップレベルだ。
なのに、佃製作所は様々なとんでもない事態に見舞われる。
ライバル会社であるナカシマ工業が、佃製作所を特許侵害で訴えてきた。
ナカシマ工業は、流行りものがあればそれに乗っかって類似の技術を提示するやり口で成長してきた。一部上場企業であるが、その横暴さに泣かされた中小企業は多い。ナカシマ工業の法定戦略はもはや熟練の域に達しており、今回の訴訟も、どちらかと言えばナカシマ工業の方が佃製作所の特許を侵害しているとさえいえる状況なのに、佃製作所の特許の不備を突き、訴訟を長引かせて佃製作所の経営が行き詰るのを待つ、といういつものナカシマ工業のやり口だ。
最大手の取引先である京浜マシナリーが、エンジンの内製化に踏み切ったことで取引を取りやめると言ってきたのも痛い。銀行からの融資もなかなか引き出せず、そんな中でのこの訴訟である。一部上場企業であるナカシマ工業が訴訟に踏み切ったのだからそこには相応の何かがあるのだろうと、銀行もこれまでの取引先も佃製作所から離れつつあった。
一方、帝国重工の宇宙航空部宇宙開発グループは、ある事実に驚愕していた。
同グループは、政府から民間委託された大型ロケットの製造開発をイッテに引き受け、宇宙航空関係の国内最大のメーカーである。
その帝国重工は、社長の肝入りの「スターダスト計画」という壮大なプロジェクトを立ち上げ、すべての技術を内製化し、宇宙航空開発で世界のトップに立とうというプランを推し進めていた。
しかしその計画は早くも躓いた。ロケットエンジンのキーテクノロジーであるバブルシステムを帝国重工でも開発したのだが、その特許がタッチの差で別の会社が申請していたというのだ。
それが、佃製作所だ。
担当の財前は、佃製作所からその特許を買い取るために交渉に赴くが…。
というような話です。
いやはやいやはや!!もう素晴らしいのなんの!!もうかんっぺきに最高で素晴らしい物語でした!!僕の中で、今年読んだ本の中でダントツのトップはもう決まってたんですけど、ちょっと考えなおさないといけないかも。これも、今年読んだ本のトップだと言いたくなる作品だなぁ。小説読んで泣いたのなんか、ホント久しぶりですよ。
もう、初めにも書いたけど、とにかく読んでてずっと思ったのは、「こんな会社で仕事をしたい!!」ってことです。
大人になって、お金を儲けることの大事さは、そこかしこで耳にするし、昔よりも理解は出来ているはずだと思う。お金がなければ何も出来ないし、前に進めないというのはもちろん当然の事実である。
でも、じゃあお金を稼げればそれでいいのだろうか?と思う。「お金を稼ぐこと」それだけが仕事の目的になってしまうのが、果たして正しいのだろうか?
僕には、やはりそうは思えない。
多くの人が本書を読んで、ナカシマ工業に腹が立つだろう。彼らはまさに、法律の範囲内であれば、「どんな手段であろうとお金を儲けられるならそれでいい」という哲学の持ち主だ。
確かに、それは否定出来ない部分はあるかもしれない。本書で描かれているだけでは、それは判断出来ないだろうと思う。例えばナカシマ工業が、儲けて儲けて儲けまくったお金を、何か素晴らしいことに使っているなら、まあそれでもナカシマ工業のやり口は認めたくないけど、でも少しは考えを変えるかもしれない。だから、本書で描かれているだけの情報から判断するべきではないのだろう。
でもさ、それでもさ、ナカシマ工業ムカつく!!!
たぶん現実の世界でも、こういうことは起こりうるのだろうと思う。よくテレビなんかにも出てくる、日本一の町工場経営者(名前は忘れてしまった)は、自社で開発した技術の特許は取っていない、というようなことを前に言っていたように思う。それは、どうせ誰も真似できないからだ、という(うろ覚えだから正確ではないかもしれない)。もちろん、そこまでとんでもない技術力を持っていればそんな風にも言えるのだろうけど、多くはそうじゃない。
それを、ただ企業規模が大きいからというだけの理由で食い物にする権利が、一体誰にあるというんだろう。本当に、ナカシマ工業のような会社では働きたくない。結局本書で描かれている範囲では、ナカシマ工業の人間でまともな人間は一人も出て来なかった。あー、ホント早くナカシマ工業なんか潰れて欲しいわ!!
銀行にも腹が立つ。
自分たちに都合のいい時は擦り寄り、都合が悪くなるとさっさと退散する。それは、銀行が描かれる色んな小説(まあ主に池井戸潤の作品だったはずだけど)を読んで知ってたけど、相変わらずムカつくなと思う。
状況が逆転してからの佃航平の啖呵には、スカッとしました。「やはりビジネスはお互いの信用ですから」という言葉を口に出してしまう佃は経営者としては未熟者なのかもしれないけど、でも本当にそう思うし、それを毅然と言い放てる佃は素晴らしいと思う。
そして殿村ですよね。殿村、好きです、ホント!
殿村は、佃製作所の主力銀行であり、京浜マシナリーが契約を打ち切ってきたタイミングで佃製作所への融資を渋った白水銀行から佃製作所に出向扱いで来ている社員だ。どこかよそよそしく、口調も堅い。銀行屋のような言い分に、佃も何度もイライラさせられてしまう。
でも次第に、殿村はただ不器用なだけなんだ、と分かってくる。
この殿村が、ホントいいキャラなんだよなぁ。要所要所で見せつけてくれる。特に、緊迫したとある場面で、「何か勘違いされていませんか」と斬りこんでいった殿村のかっこ良さと言ったら!!ホントもう、感動的ですよ。
帝国重工にも、もう腹が立つ腹が立つ。帝国重工は、ナカシマ工業なんかとも比べ物にならないぐらいの、国内最大メーカーであって、随所に尊大さが見え隠れする。
あー、マジでムカつく!!
そんな帝国重工に、佃製作所は悩みながらも闘う道を選ぶ。それは、帝国重工との闘いではない。自らとの闘いの道だ。
佃は、「なんのために働くのか?」という問いかけを、社員にも、そして自らにもする。
佃が、不満を持った若手社員に話す「2階建ての家」の話はまさにその通りだなと思う。会社の基盤がガタガタの時に、佃は敢えて挑戦の道を進む。それを快く思わない社員も多い。しかし、佃の決断は、「なんのために働くのか?」という問いと正面から向きあったその結果だ。結果的にこの物語では、彼らの挑戦は成功する(ぐらいのことは書いても大丈夫ですよね?)。しかし、もし彼らの挑戦が失敗に終わったとしても、佃の決断は正しいと僕は思う。いや、佃のような立場の人間になったことはないから、佃のような決断を正しいと思える人間になりたい、と表現しておこうかな。
佃製作所は冒頭から、様々な形で内部の不満や争いを抱えている。決して、常に一枚岩だったわけではない。佃も、経営者としては不器用だ。決してうまく立ち回れる人間ではない。
しかし彼らが、徐々に一つにまとまっていく。「佃個人の夢」と揶揄されたプロジェクトが、「佃製作所全体の夢」に変化していく。その過程が本当に素晴らしい!!何度も書くけど、ホントこんな会社で働きたいよなぁ。最後の最後まで、社員に恵まれてるしなぁ。
夢は、それを叶えられるだけのサイズを獲得しなくては実現できない。そんな風に思うかもしれない。本書の例でいれば、ロケット開発を請け負う帝国重工の研究者でなければ、ロケットに携われないと思ってしまうかもしれない。
でも、帝国重工からすれば吹けば飛ぶような中小企業でも、その夢を叶えることが出来る。彼らは、ロケット全体というサイズに見合う大きさを持っていない。しかし、ロケット全体の中で最重要、それなしではロケットを発射させられないという部品について、日本一ではなく世界一の技術力を有していた。
誰にでも夢はあるだろう。そしてその夢は、大きすぎてなかなか叶えられないと思えてしまうかもしれない。でも、案外そうではないのかもしれない。全体から見ればほんの一部に関わることが、その夢全体を担うことになる可能性だってある。そんなことを本書は示してくれているように思う。だからこそ、こんなに爽快な物語なのだ。
本書は、冒頭から訴訟問題というクリティカルな問題から始まるのだけど、そんなことが大した問題とは思えなくなるほど、帝国重工とのやり取りはスリリングだ。元々は、ビジネスの話だった。佃製作所が持つ特許を、帝国重工がいくらで買うか、という話だった。しかし次第にそれは、ビジネスと呼ぶには熱くなりすぎていく。どちらが何を売り、どちらが何を買うかという話ではなくなっていく。プライドなんていうちっぽけなものも、時間と共にゆっくりと剥がれ落ちていく。
残ったものはなんだろう。ちょっと書くのは恥ずかしいけど、「魂」かなぁ、なんて思う。「魂」は人だけに宿るのではない。会社にも宿るのだ。そしてそれは、巨像をも跳ね飛ばすほどの力を持つ。素晴らしいではないか!!
色々書きたいんだけど、これぐらにしとこうかな。本当に素晴らしすぎる物語でした。今更読んだのかよ、って感じですけど(笑)、本当にこの作品に出会えてよかったなと思います。最後にまた書きます。こんな仕事がしたい!!

池井戸潤「下町ロケット」



去年はいい年になるだろう(山本弘)

内容に入ろうと思います。
物語は、2001年9月12日の朝から始まる。
その日山本弘は、妻の真奈美と娘の美月がテレビに釘付けになっている光景を目にする。
ビルに飛行機が突っ込む。
衝撃的な映像だった。特撮マニアである山本弘には、それが作り物ではないことが瞬時にわかった。二つの巨大ビルが、いとも簡単に倒壊する。これだけの大惨事。死者はとんでもない数に上るだろう。
「このように、本来の歴史では、9月11日に起きた同時多発テロにより、実に2973人の犠牲者が出ました」
2973人か。やはり多いな…って、ん?
美しい顔をした、国籍が判然としない美しい女性は、「本来の歴史では」という言葉を使った。
「しかし、ご安心ください。この事件は起こりませんでした。私たちガーディアンが阻止したからです。」

ガーディアン。

24世紀からタイムマシンでやってきたというアンドロイドだそうだ。人間とまったく同じ見た目で、同じように喋るが、テレビの向こう側では自らがロボットであることを示すパフォーマンスを行なっている。

なんだこれは?

次第に状況が明らかになっていく。彼らガーディアンは、世界中の軍隊の武装を一瞬で無力化したのだという。同時に、貧困や暴力のはびこる地域に赴き、人道的活動を始めているのだという。これから起こる地震の予知をして警戒を促し、現代の技術では生み出せないテクノロジーや薬などの知識をあちこちに提供している。
彼らは、1年毎にタイムトラベルしてはそこに10年留まり、人類の歴史をよりよくするために、人間には対処不可能なレベルでの介入を行なってきたのだという。彼らアンドロイドには、「人間を傷つけない、人間を守りたい、人間を幸せにしたい」という本能が備わっており、戦争や暴力によってしか物事を解決できない人間を救うため、あるいは富の偏在や思想の偏りなどによって苦しむ人を解放するために、分を弁えつつ人間の歴史に介入してくるのだ。
SF作家である山本弘は、これで作家としてやりづらくなったなぁ、と感じている。未来においてこんなことが成し遂げられている、未来はこんな風になっている、というものを描くのもSF作品の常道だが、ガーディアンによってもたらされる様々な情報によって、SFが成り立ちにくい世の中になってきてしまっている。実際、今書いている小説は没にするしかないだろう。なかなか自著が売れなくなっている時代、愛する妻と娘を養っていくために、どうにかしなくては。
そんなことを考えている最中、山本弘は驚くべき訪問を受けることになる。
ガーディアンだ。
人類と友好的な関係を築くために、あらかじめ全世界で120万人の人間を選んでガーディアンが接触してくる。AQと呼ばれるその対象に、山本弘は毎年選ばれているのだそうだ。
彼は、未来の自分が送ってきたメッセージや、未来の自分が書いたという小説の存在に困惑し、何よりも目の前にいるカイラ211というアンドロイドの存在をどう捉えていいのか分からないまま、出来るだけ日常を過ごす努力をしつつ、自分の身に降り掛かってきた非日常をやり過ごしていく…。
というような話です。
SFは基本的にあんまり得意じゃないんですけど、山本弘と小川一水は大好きなんですよね。正直、山本弘のSFってあんまり読んだことなかったんですけど、本書もやっぱり、SFが苦手な僕でも十分以上に楽しめる作品でした。
まず設定がメチャクチャ面白い。
僕はSF方面にはほとんど詳しくないんで分からないのだけど、本書の中で山本弘(もちろん、小説の主人公としての山本弘)は、「こんな設定のSFなんてないだろう」みたいなことを言っている。僕の中でもなんとなく、SFに異星人とかアンドロイドとか出てくる場合は、どうしても人間と敵対するとか、あるいはどこかでひっそりとファーストコンタクトが行われていた、みたいな話になりそうだな、と思う。
本書の場合、突然現れたガーディアンは、人間のことを物凄くよく知っているのだ。
それもそのはず。24世紀にタイムマシンが完成してから1年毎にタイムトラベルをし続け、それぞれの世界に10年いるのだから、彼らガーディアンには既に3000年分の蓄積がある。3000年間、人間というものを見続け、彼らをどうやったら救うことが出来るのか考え続けているのだ。
だから、彼らガーディアンの手際は考え方は、物凄く合理的だし、無駄がない。世界中の戦力を無力化し、独裁政権を解体し、貧困や暴力の蔓延る地域に支援を向け、未来の情報をじゃんじゃん提供することで人を救ったり景気をよくしたり、個別に人間と接触することで人間のアンドロイドに対する不信感を取り払おうとする。
なかなか見事だ。合理的ではない行動も取る人間というものをどうにか理解しようとし、彼ら人間に出来るかぎり合わせる形で物事を推し進めようとする。
しかし、やはり限界もある。
本書は、人間とアンドロイドを対比させることで、人間というものをより色濃く描こうとする作品だ。そしてその中ではやはり、アンドロイドと人間の思考が食い違う場面が常に出てくる。
マイケルサンデルの「これからの正義の話をしよう」の中に出てきた話を思い出した。
暴走する列車があって、そのまま進めば線路上にいる5人の作業員を殺してしまう。しかし、待機線に入れば、そこで作業している1人の作業員を殺すだけで済む。
さて、あなたがこの電車の運転手だとして、どういう決断を下すか、というものだ。
人間は、こういう問いを突きつけられると、悩む。どちらにしても、人を殺してしまうことには変わりはない。確かに、5人殺すことになるよりは、1人だけしか殺さずに済む方がいいのかもしれない。でも、本当にそれでいいのだろうか、と。
しかし、ガーディアンにとっては、この問題は悩むことのない単純な問題だ。
5人殺すより1人殺す方が圧倒的に正しいのだ。
ガーディアンにとって、人の死は『数』でしかない。つまり、本来死ぬはずだった人をどれだけ救うことが出来るかが彼らにとっての使命なのだ。
しかし、問題はそう簡単ではない。
例えば、ガーディアンがやってくることによって、歴史も変わる。ガーディアンが直接的に関わったわけではないにせよ、ガーディアンがタイムトラベルでやってこなければ命を失う必要のなかった人、というのもいるわけだ。
ガーディアンが来なければ死んでいた人数と、ガーディアンが来たせいで死んだ人数。後者の方が少なければ、ガーディアンとしては成功だ。彼らは、自らを完璧な存在だと思っているわけではない。失敗もするし、誰も死なせないというのはそもそも不可能なのだ、と。しかし、ガーディアンが来たからこれが起こらず、結果的にこれだけの人が救われたのです、と言われたとしても、ガーディアンが来たせいで自分の大切な人が死んでしまえば、なんの意味もないだろう。
そういう意味で、2001年という舞台設定は実に見事なのだ。
2002年までの人間は、あの同時多発テロを経験している。だからこそ、暴力による解決が意味をなさないことや、ガーディアンが暴力以外の形で介入してくることに対して、まだ許容感はあったのだろう。作中でも、そういう会話がなされる場面がある。やはり、あのテロを経験していないというのが大きいのかもしれない、とカイラが呟く。
しかし2001年に生きる人々は、ガーディアンによって同時多発テロが防がれた、と知らされただけだ。映像は確かに、それよりも未来の世界で実際に起こったことをテレビで流したわけだが、しかし2001年のこの世界では同時多発テロは発生しなかった。その前に、テロリストたちを拘束したのだ。
同時多発テロを経験しなかった、そして同時に、侵略ではないと言いつつ人間を支配しているガーディアンの到来を経験した2001年の人々。この舞台設定がまず絶妙だなと感じました。
本書が、実在の人物ばかり登場させているというのも巧いなと感じました。山本弘がかつて活動していたグループSNEの人たちや、山本弘が会長を務めると学会の面々。奥さんや子どもも実際の名前なんだろうし(巻末の謝辞にその通りの名前で載ってた)、小川一水や冲方丁なんかの名前も出てくる。僕らが生きている現実の世界で起こった様々なことがネタにされていたりもする(しかも面白いのが、未来から送られてきた実際の情報を、まさかそんなことが起こるわけがないと、トンデモ本を見つけては楽しんでいると学会の面々がネタにしていることだ。『岡田斗司夫が50キロの減量に成功してダイエット本を出してベストセラーになる』とか)。
実在の人物を出すことで、この小説自体が、僕らがいるこの現実に対する一つの『パラレルワールド』になるのだ。
図なしで説明すると複雑になるので書かないのだけど、結局タイムトラベルで過去を変えても、様々な分岐が出来るだけで元の歴史は変わらない。実際に作中の山本弘は、2020年の山本弘や2002年の山本弘などからメッセージを受け取っている。ガーディアンが改変した歴史は、枝分かれという形でその後も残り続けるのだ。
そして本書も、そんな枝分かれの一つとして読むことが出来る。僕たちが生きている世界には、2001年にガーディアンはやってこなかった。しかし、彼らの世界には2001年にガーディアンがやってきた(まあ実際ガーディアンは、2001年に限らず毎年来ているわけなんだけど)。実在の人物がモデルになった小説という設定のお陰で、僕らはこの作品を、僕たちが経験しなかったパラレルワールドの一つ、として読むことが出来る、という趣向になっている。これも面白いなぁ、と思いました。
しかし、実在の世界の話という設定なので、2001年から見た未来の世界の描写が面白い。ガーディアンは未来から、過去の自分にメッセージを送りたい人を募るのだけど、そこには2001年以降の様々な情報が描かれている。
山本弘は編集者との会話の中で、数年後には「ケータイ小説」という空白だらけの本がベストセラーになること、あるいはまだ誰も現物を見ていない『ダ・ヴィンチ・コード』という小説が国内だけで1000万部売れることを知る。『ダ・ヴィンチ・コード』の獲得合戦は今まさに加熱しているようで、ベストセラーになるという情報がもたらされたせいで、本来の何倍ものお金を払わなければいけなくなるだろう、なんて話をしている。
もちろん本書では、ガーディアンがやってきたことで歴史が改変されるので、僕らの世界では起こらなかった様々なことも起こる。それらと、僕らの生きている世界で起こった出来事が入り交じって描かれるので、なんだか物凄く不思議な気分になる小説だなと思う。
作品は、ガーディアンの存在をどう捉えるか、という苦悩を様々な形で描き出すことに重きを置いている。
ガーディアンが未来から来たというのは正しいだろう。しかし、人類を奴隷化したり、地球を侵略したりする意志がない、という主張はどうだろう?いや、そこを受け入れてもいい。しかし、そもそも根本的には、果たして人類の歴史にこんな形で介入することが果たして正解なのかどうか、ということだ。
これは、非常に難しい問いだろう。
どれだけガーディアンが歴史の分岐を増やしたところで、僕たちはたった一度の人生しか生きることが出来ない。
例えば、ガーディアンがやってきたことで親しい人物を喪うことになった人の場合、ガーディアンがこなくて同時多発テロが起こった世界(もちろん、親しい人物は死なない)とどちらがいい人生だろうか。
言うまでもなかろう。その人にとってみれば、同時多発テロが起こった世界の方が良い人生に違いない。
しかし、ガーディアンはそうは考えない。個別には色々あるかもしれない。しかし、人類全体として死者が減れば、それはガーディアンにとって正しい行動なのだ。
両者の差は、決して埋まることはない。何故ならガーディアンは、善意で(というか、本能的に)人間を救おうとしているからだ。彼らが何らかの悪意を持って歴史改変を試みているなら話は簡単だ。しかし、彼らにとって、人間を救うこと、まさにそれが彼らのアイデンティティの一部なのである。彼らにとっても、人間を救うことは止められないのだ。
しかし本書を読むと、人間の愚かさをより一層痛感させられる。ガーディアンは、人間の不合理な行動に手を焼く。合理的に判断すればどうしたってそんな判断になるはずのない行動や考えを、人間は平気で取る。ガーディアンにはまさに理解不能だ。
もちろん、人間である山本弘にも、ガーディアンには不思議にしか思えない不合理な行動の大半が不思議に映る。
しかし人間である山本弘は、そのすべてに賛同は出来ない。人間は、どうしたって不合理な選択をしてしまう、そういう存在なのだ。
アンドロイドと人間を対比させることで、人間という不完全な存在の輪郭がより濃く描かれている。そういう印象があります。山本弘にも、戦争を止めることが出来ない人間の愚かさは理解できている。しかしその一方で、完全に合理的に判断を下すガーディアンにどことなく不信感を抱いてもいる。その揺れが、ガーディアンという存在をどう捉えていいのかという苦悩に繋がっていく。SF的な設定や展開も面白いのだけど、何よりもその、人間の不完全さを完璧な存在から突きつけられる、という極限状況に置かれた人間がどう反応するのか、という部分が面白いなと思います。
ストーリー的には、ラスト近くの展開はなかなか驚くようなもので(SFをよく読んでいる人にはそうでもないのかもしれないけど)、いや確かにそうなる可能性はあるんだよなぁ、とか思いました。しかもその描写がまた予想を遥かに超えるもので(凄いこと考えるよなぁ…)、驚かされました。
驚かされたと言えば、作中に登場する小川一水が非常に面白い指摘をする場面があって、まあ実際は山本弘が考えている描写なわけなんだけど、SF作家ってのは面白いことを考えるよなぁ、と思いました。なるほど、そんなこと思いつきもしませんでしたよ。
SFというと、何百年後の世界で宇宙船がとか、コールドスリープで他の惑星に、みたいな印象があるけど、本作は、僕らが生きている現実の世界を舞台にして、そこにガーディアンという異物を投入することでどんな反応が生み出されるのかを楽しむ作品です。SFなんで時々聞きなれない単語とかも出てくるけど、山本弘の描写は読みやすいし、それらの単語が特別重要ってわけでもないから、よくわからないまま読み進めることになっても大丈夫です。人間の存在そのものを問いかけるような深い内容になっていて、実に面白いです。是非読んでみて下さい。

山本弘「去年はいい年になるだろう」






私とは何か 「個人」から「分人」へ(平野啓一郎)

本書は、先にざっくりした感想を書くと、非常に評価が難しいな、と感じた。とても面白い部分と、どう捉えていいか悩む部分とに分かれていて、全体としてまとまった評価を下すことがとても難しい。
本書では、小説家である著者が「ドーン」という作品で提示した「分人」というアイデアを、それだけ取り出して解説した作品になっている。
まずこの「分人」の話を書こう。
人は、誰といるかによって違う人間性が現れる。それをこれまでは、「本当の自分論」で捉えてきたし、それが様々な悩みを生じさせていると著者は書く。
「本当の自分論」とは、「人間には『本当の自分』という中心となるような人格が存在し、様々な場面で現れる人間性の違いは、その都度違う仮面を被っているのだ」という説明の仕方だ。
著者は、これは僕らの感覚の実際とうまく合致しないという。
そこで著者が提唱するのは「分人」という考え方だ。「個人」というのは元々、「これ以上分けられないもの」という意味を持つ英語から来ているのだった。しかし、そう考えると、先ほどの「本当の自分論」になってしまう。そうではなくて、ここで新たに「分人」という単位を導入し、自身の中にある様々な「分人」の総和こそが「個人」なのである、という捉え方をしてみてはどうか、というのが、本書で提示されている「分人」という考え方である。
僕自身の話をしよう。
僕は、自分の人間関係のあり方を、ずっとこんな風に捉えてきた。
たとえば今、複数の人がいて、その中に僕もいる、という場を考えよう。話を簡単にするために、全員が初対面だということにする。
みなおずおずと話しだし、しばらく話していくに連れて、それぞれのキャラクターやその場における役割なんかが少しずつ固まっていくような感じがする。
それを僕は、真っ白な紙と絵の具でいつも捉えている。
目の前に、真っ白な紙がある。そこに色んな人が、その人独自の色で自分の陣地を獲得していく。自分がこの辺りの位置を占めたいと望んでいるその場所を、自分の色で染めていくのだ。お互いに牽制し合いながら自分が取りたい陣地を染め、時には相手に譲りつつも、白紙の上にカラフルな色が載っていく。
ここまでの想像はうまく出来るだろうか?
さて、ここで、僕は一体どうするのかという話をしよう。僕は、自分では白紙の上に色を載せないことの方が多い気がする。僕は、次第にカラフルになっていく元白紙を黙って見つめる。しばらくすると、ある程度固まった形で元白紙の上に色が載る。
そこには、ちゃんと白い部分も残っている。で、僕は、その白い部分を『その場における自分』と捉えるのだ。
たぶん僕はずっとこんな風に、他者と人間関係を築いてきたように思う。
白紙に色を載せるというイメージでそのことを捉えたのがいつぐらいからだったのか、そんなことはもうすっかり覚えていないけど、たぶんずっと昔から僕は、その場の中で『余った立ち位置』を見つけ出し、そこに収まろうとしてきた。
そうすれば、誰かと競合して陣地を争うこともないし、白紙の上以外の場所にポツンといることもなくなるからだ。その場に必要な最後のピースを自分が担うことで、自分自身の存在意義も見出すことが出来る、という利点もある。
そんな風だったから僕は、ずっと自分の『中心のなさ』を感じていたし、誰と一緒にいるかによって自分の人格が変わることに不思議さを感じることもなかったと思う。
『本当の自分がない』という事実への不安は、ずっと感じていました。そういう意味で僕も昔は、「本当の自分論」を信じていたのだろうと思います。他の人を見ると、ちゃんと芯があって揺るぎない『本当の自分』を持っているように見えた。それなのに僕は、隙間に入りたがる猫みたいにしてその場その場で隙間を見つけてはそこに自分の体を押し込むみたいなことをやっているだけだった。『本当の自分』という中心のない空疎さに、子どもの頃は不安を覚えていたはずだ。どうして自分は、こんな風にしか生きられないんだろう、って。
いつの頃からだろう。僕は自然と「本当の自分論」を捨てることが出来たようです。いや、『自然と』なんていう言い方は、たぶん嘘でしょう。僕自身にとってはとんでもなく激動の期間というものがあって、そこでたぶん悩みに悩んだからこそ、いつの間にか突き抜けたんだろうな、という感じはします。
『本当の自分』なんてものはないんだ、と思えるようになってからは、人間関係が凄くラクになりました。人間関係の構築の仕方は、それまでとは変わらずです。相変わらず、どうにか隙間を見つけては、自分の体をそこに押しこむようなやり方だっただろうと思います。でも僕はきっと、『本当の自分論』を捨てることで、自分がどんな風に見られたって一向に構わない、という価値観を身につけることが出来たんだろうな、と思っています。「本当の自分論」に拘っている時は、自分の中に『本当の自分』なんてものがないことは分かっていて、でもやっぱり周りの人からは『本当の自分』で見られたいという欲求があり、その激しい矛盾に悩んでいたんだろうなぁ、と今振り返ってみて思います。でも、『本当の自分』なんてものはないんだと思えるようになってからは、『本当の自分』として見られたいという欲求も消え、自然とその矛盾が解消されていったのだろうな、という感じがします。今では、かつての自分が見たら驚くぐらい、対人関係に苦労しなくなりました。
だから(という接続詞で繋げて大丈夫なのかどうか不安ではありますが)、本書で扱われている「分人」という考え方は、非常に僕にしっくり来る。あとがきでも著者自身が書いていたけど、本書を読んで、自分がそれまでに感じてきたことに「分人」という名前を与えただけじゃないか、という人はきっと出てくるでしょう。僕も、確かにそんな風に思えました。僕が頭の中で、「分人」という言葉を与えずに考えてきたことが、本書で展開されているように感じられました。
なので、「分人」という考え方は非常に面白いし、こういう風に自分自身を捉えることでラクに生きられる人もいるんじゃないかなと思います。
しかし、「分人」というアイデアの面白さだけでは、この作品を評価することは出来ない。そこがなかなか難しいところです。
とりあえず、本書の流れをざっと説明しておきましょう。
第一章で「本当の自分論」の限界を示し、第二章で「分人」についての詳しい説明に入る。第三章で、「分人」という考え方でどれほど人間関係に説明をつけることが出来るかを提示し、第四章で「愛」や「死」を「分人」というキーワードで捉える、という感じになる。
本書で描かれている「本当の自分論」や「分人」に関する話を色々書いてもいいのだけど、論旨自体は大体想像出来るようなものが多いだろうし、他に書きたいことが山ほどあるので省略。本書は、著者がまえがきで「わたしは学者ではない」と書くように、論文のような難しい話ではない。著者自身の様々なエピソードや著作を引き合いに出しながら「分人」というキーワードについて語る、どちらかと言えばエッセイに近い作品だと思う。
さて、先ほどから書いているように、僕は「分人」という考え方には非常に共感できる。僕自身昔から考えてきたことに、「分人」というネーミングを与えた、という風にさえ僕の中では捉えられる。
しかし、作品全体の評価は難しい。
第一章と第二章、つまり「本当の自分論」の限界と「分人」の詳細についての部分は非常に面白いと思った。僕が、かつて自分の頭で漠然と考えていたこととはいえ、やはりここまで理路整然と考えていたわけではないし、何より「分人」というネーミングは非常に分かりやすいし伝わりやすい。「分人」という考え方を導入することで、実際に人間関係をラクに感じられるようになる人もきっといるだろうと思う。確かに、本書で書かれているように、『私たちは、唯一無二の「本当の自分」という幻想に捕らわれてきたせいで、非常に多くの苦しみとプレッシャーを受けてきた』のだろうと思う。
しかし、第三章と第四章、つまり僕はこの二つの章を、「分人という考え方の正しさを示す章」と捉えているのだけど、この二つの章は非常に評価がしにくい。僕には、我田引水に感じられてしまう部分が非常に多いのだ。
何故そうなるのか。それは、「分人」という考え方の正しさは、決して証明することが出来ないからだ。
二つ例を挙げてみよう。
一つは、物理学における「ひも理論」の話だ。物理の量子論という分野に、量子論という分野につきまとう様々な難問を一挙に解決してくれるかもしれない、非常に美しくエレガントな仮説があり、それが「ひも理論」と呼ばれている。この「ひも理論」の詳細については僕は説明できないけど、もしそれが正しいとすれば、量子論における色んな難問を解消しうるかもしれない非常に見事な仮説なんだそうだ。
しかしこの「ひも理論」、実はその存在は非常に危ういのだ。何故か。それは、「ひも理論」の正しさを実験で証明することはほぼ不可能ではないか、と言われているためだ。
「ひも理論」の正しさを実験で証明したい場合、とんでもないエネルギーが必要になる。現在物理学の実験において最大のエネルギー出力を誇るはずの「CERN」という加速器がヨーロッパにあるが(ヒッグス粒子を発見したかもしれない、と話題になった実験施設だ)、しかしその施設でもお話にならないぐらいエネルギーが必要なんだそうだ。そんな実験、地球上はおろか、人類が宇宙空間に頻繁に飛び出すようになってさえも行えないのではないか、と思われている。もちろん、「ひも理論」を証明するための実験が行える未来はやってくるかもしれない。しかしそれが行われない限り、どれほど「ひも理論の」が美しくエレガントな理論であろうが、「ひも理論」は物理学において正しい位置を占めることは出来ない。
さてもう一つの例だ。僕の友人には、死ぬのがどうしても恐ろしくて仕方ない、というやつがいる。どれだけ話を聞いてみても、その男の怖さの根源がイマイチ理解できないのだが、とにかく自分という存在が消えた後も世界が続いていくことが信じられないのだそうだ。その男と会うと、よくその話になり、あーだこーだしている内に、何故生命は誕生したのか、という話になるのだが(その男にとって、何故生命が誕生したのかという問題と、自分が感じる死の恐怖には、通じるものがあるらしい)、そこで僕はいつも「パラレルワールド理論」を繰り出す。
他の面々は、唯一の宇宙に地球という奇跡的な星が生まれ、その環境の中で奇跡的な確率で生命が誕生したことの不思議さをどう捉えるか考えるのだが、僕はそんな風には考えない。僕は、宇宙は山ほどあり、その中には地球のような生命が育まれる星が生成されなかった宇宙もあるだろう。そういう星が生まれても、色んな理由で生命が誕生しなかった星もあるだろう。つまり、「地球で生命が生まれた」という事実を、「他の山ほどの可能性の中の奇跡的な一例」と捉えるのだ。宇宙が何億個も何兆個もあれば、その中の一つぐらい、生命が生まれたっていいだろう。だから僕にとって、生命が生まれたことは不思議でもなんでもないのだ。
でもこの理論を繰り出すと決まって、「それは反則だ」と言われる。確かにその通り。何故ならこの理論は、その正しさを絶対に証明できないからだ。絶対に、ということはないかもしれないけど、少なくとも今人類は、僕らがいる宇宙すべてさえも見ることは出来ていない。宇宙に果てがあるのかどうかさえも、まだ議論されている途中だ。そんな中で、僕らの宇宙の他にも山ほどの宇宙が存在することを観察することなど、果たして出来るだろうか?もちろん、直接的に他の宇宙を観察する以外の証明方法もあるのかもしれないけど、現実的に考えて可能性は低いと思わないだろうか?
二つの例を出した。ともに、『それは現実をうまく説明するように見えるが、それでなければダメな理由を示すことが出来ない』という話だ。「ひも理論」は美しいしエレガントだが、実験でその理論の正しさを示すことが出来ない以上、「ひも理論」でなければならないという理由はない。同じく、生命の誕生を「パラレルワールド理論」はうまく説明するが、「パラレルワールド理論」でなければ説明出来ない、ということを示すことは出来ない。
「分人」という考え方も、まさにこれと同じジレンマを抱えている。「分人」という考え方は決して、その正しさを証明できるような類のものではないだろう。
僕は「分人」というアイデアは、理論ではなく意見だと思っている。本書の読み始めから、そう捉えていた。著者は学者ではないと自分で書いているし、自分の身近な実例を挙げつつ「分人」というアイデアを説明する感じは、理論を提唱するというのではなく、意見を述べているだけという感じがするだろう。本書をエッセイに近いと評したのも、そういう理由からだ。
だから、後半でわざわざ、自身の「分人」というアイデアを、色んな実例を挙げて補強しようとする必要はまったくなかった、と僕は思う。
正しさを、多少強引にでも示すことが出来るような類のものであれば、そういう補強は有効だったろう。しかし「分人」というアイデアは、個々人の捉え方の問題だ。「本当の自分論」で捉えて問題のない人だっているだろうし、そういう人には「分人」の正しさなんて微塵も理解できないだろう。あくまでも、「本当の自分論」に苦しめられている人に、ほら「分人」っていう考え方をしてみたらどう?という提案をするに留めておくべきだったのではないかと思う。であれば、後半のような我田引水めいた展開にはならなかったのではないだろうか。
確かに後半の、人間関係における様々を「分人」というアイデアで説明する部分は、なるほどと思える。「新型うつ」を「分人」を主軸に捉えてみる話なんかは、なるほどそれはありえるかもしれないなぁ、なんて思ったりもした。
しかし、やはり「分人」というアイデアは、理論ではなく単なる意見に過ぎないと僕は思うので、「ほらこんな状況も「分人」で説明してみると筋が通るでしょう?」という話の連続は、強く違和感として残った。知識はないから知らないが、精神医学とか心理学の世界にも、「本当の自分論」や「分人」に似た色んな理論があるのではないかと思う。本書では、『「本当の自分論」はやっぱ限界でしょう?「分人」だと、ほらこんなに筋が通る』ということを主張しているわけだが、やはりそこには、「分人」というアイデア以外ではダメな理由が示されていないように思えて、主張が弱くなってしまっているように思えてしまう。本書のでやろうとしているように、「分人」というアイデアの正しさを主張しようとすれば、「他のどんな理論でもダメで、「分人」というアイデアだから説明できる」という部分をもっと強く主張しなくてはいけないと僕は思う。それが弱くて、だから我田引水のように感じられてしまうのではないかなぁ。
何度も繰り返すけど、「分人」というアイデアや「分人」というネーミングは、実に素晴らしいと思っている。本書の第一章と第二章に当たる内容をもう少し縮めて、雑誌の連載か何かで5回分ぐらいの分量で読ませてくれたら、凄くしっくり来たんじゃないかな、と思う。個人的には、「分人」というアイデアは非常に面白いのだけど、「分人」というアイデアだけで一冊の本を構成しようとしたところに、ちょっと無理があったのかもしれないなぁ、なんて思いました。
本書はあくまでも、「分人」という面白いアイデアを提示した作品、と捉えて欲しい。「分人」というアイデアは、正しいかどうか議論出来るような性質のものではない。それは、個人の考え方の一つとして選択するかどうか、という話であり、正しいかどうかではないのだ。僕には本書では、「分人」というアイデアの正しさを様々な形で示そうとしているように思えて仕方ないのだけど、その部分はあまり気にしなくていいと思います。そうではなくて、「分人」という面白いアイデアがあって、「本当の自分論」を捨てて「分人」という考え方を導入したらもしかしたらもっとラクに生きられるかもしれない、そんな風に思いながら読むのがいいと思います。著者が語る個々のエピソードなんかは思い当たる節のある人はたくさんいるだろうし、エッセイとして捉えれば非常に面白く読めると思います。そして、この新書を読んだ後で、「分人」をテーマにした「ドーン」読んでみるのもいいかもしれません。僕は大分以前「ドーン」を読みましたけど、なかなか難しいなぁ、という感想です。今読んだら、またちょっと違うかもなぁ。

平野啓一郎「私とは何か 「個人」から「分人」へ」


丸太町ルヴォワール(円居挽)<再読>

本書は、一人の青年の、生涯初の恋にして、人生最大の失恋の物語です…
と言い切ってしまうわけにはいかないのかもしれないけど、まあとりあえず。
内容に入ろうと思います。
とはいえ、本書の内容紹介をするには、薄氷を踏むようなアクロバティックな筆力が必要とされるんだけど、どうにかその細い細い道を渡りきろうと思います。
本書は主に、二つのパートに分かれている。前半は、主人公がとある女性と出会う話。そして後半は、3年前に一度出会ったきり忽然と姿を消してしまったその女性を主人公が探す話。
まずは前半から行きましょうか。
城坂論語は、大病院を経営する祖父・慈恩のお気に入りの孫であり、孔子先生の言葉を頻繁に引用する、申し分ない学力と申し分ない経済力と申し分ない容姿を備えた、反則的とも言える中学三年生だ。現在は、京都の岡崎にある祖父の屋敷で養生中。先日ちょっとしたことで怪我を負い、この屋敷の中でリハビリのような生活を続けていた。
ある日のこと。うたた寝をして目が覚めた折、携帯電話を取り出そうとジーンズのポケットに伸ばした手が、女性の手に触れた。直感に従って論語は、その助成の手を掴んだまま離さなかった。
それが、後々まで論語の心を捕えて話さない、ルージュとの出会いだった。
どうも屋敷への闖入者であるらしいルージュは、偽名としか思えない名前を明かしたきり、素性を晒すような話ははぐらかす。論語は、相手の正体が掴めない内はルージュの手を離すつもりはなかった。
そこでルージュはこんな提案をする。絶句したら負けというゲームをしよう。君が負ければ手を離す。私が負ければ君が聞きたいことを語ってあげよう。
そうやって彼らは、一見他愛もない会話を繰り広げる。ルージュは知らないはずだが、制限時間は2時間。それまでどうにか持ちこたえれば、お手伝いの芳野さんが買い物から戻ってくるはずだ。論語は、自らを不利にするだろう怪我をルージュに悟られないようにしながら、ルージュの正体に迫ろうとあれこれ策を弄する。
目的のないただのお喋りにしか思えないやり取りの末、論語はルージュに驚愕させられることになる。しかし、論語も決して負けてはいない。会話の応酬という知的ゲームを繰り広げた彼らの行き着く先とは…。
さてそれでは後半だ。
後半の物語は、前半から3年後。京都で平安時代から続くと言われている『双龍会』が舞台だ。
『双龍会』とは、私闘制度に由来する、いわば裁判のようなものだ。家同士が反目しあっても、そうそう武力で解決するわけにはいかない。そこで、問題の中心となった人物を『御贖(被告人)』とし、『黄龍師(検事)』と『青龍師(弁護士)』が議論の応酬をして『火帝(裁判官)』に勝敗を決してもらう、というものだ。
しかし、もちろんただの裁判ではない。ルール無用の格闘技とでも言うべきもので、相手が捏造を指摘できなければ証拠のでっち上げもアリ、バレなければどれだけ嘘をついてもいい、とにかくその場の聴衆を納得させられればいい、という代物で、裁判というよりは見世物と言った方が近い。実際、黄龍師としてその世界では有名な龍樹家は、家長である落花を初め皆大人気のスターである。
京大生である御堂達也は、中学時代に出会いその破天荒な性格に振り回されっぱなしだった瓶賀流と4年ぶりに再開を果たす。流は相変わらずだったが、なんと4日後の双龍会で青龍師として立つことになった、という。しかも相手は、龍樹落花。相手が悪すぎる。
御贖は、城坂論語だ。彼は、祖父殺害の容疑を掛けられている。論語が有罪であるかどうか、それを判断するために双龍会が開かれるのだ。
3年前のあのルージュと出会った日、論語とルージュがやりあっていたすぐ傍の部屋で祖父は死体で見つかった。心臓発作だったが、ペースメーカーをつけていたこと、論語の部屋の電話から論語自身の携帯電話に何度も着信があったこと、そしてその携帯電話が祖父の部屋から見つかったことで、論語に容疑が掛かっているのだ。
論語は、ルージュという女性が存在したこと、そして恐らくそのルージュが祖父を殺害したのだと主張したが、ルージュが存在した痕跡は一切残っていなかった。
3年間、彼はルージュを探し出すためにあらゆる手を尽くした。しかし、結局見つからなかった。そして論語は、寝た子を起こすような行動を取ることで、敢えて双龍会が開かれるような状況に導いた。
そう、ルージュを探し出す手がかりを見つけるために。
というような話です。
この作品を読むのは実は二度目なんですけど、二度目に読んでもあらかた騙されるこの安定の記憶力の悪さよ。まあ、読んだのは随分前ですけどね。
ホント、この作品は素晴らしすぎると思います!何よりも嫌になってくるのは、この著者、俺と同い年だってことです。マジかぁ。同い年の人間に、こんなとんでもない作品を書かれると、マジ凹むんですけど…。しかも、単行本が刊行されたのは今から3年前。凄すぎるでしょ。
まず、前半のルージュとの出会い!ここだけでも読んでみて欲しい。第一章の「朱雀の女よ」という100ページほどがそれなんだけど、ここだけでもマジでビビります。
なにせ、登場人物は二人だけ、舞台の転換はなしという、一幕ものの舞台のような設定なんです。それほど使える要素が少ないのに、これだけの怒涛の展開を生み出せるとは!冷蔵庫の余り物でフランス料理のフルコースを生み出しちゃうぐらいの衝撃がありますよ、マジ。
僕がこのルージュとの出会いの話を一言で表現するとしたら、『丁々発止の減らず口』とか『トントン拍子の嘘八百』みたいな感じになります。
まさに二人共、会話だけを武器に相手と戦う剣士のようなものです。彼らの会話を表面だけ聞けば、なんということはない馬鹿話をしているようにしか感じられないでしょう。これをただの馬鹿話だと思って聞いていてもたぶん面白いと思いますけど(その会話の面白さも、本書の魅力の一つだと思う。ルージュとの出会いの話は、8割強ぐらい会話で構成されているんじゃないかな)、もちろんそれだけではない。彼らのなんてことはない会話は、剣道家が竹刀を交えているかのように鋭い。
実際、「朱雀の女」を最後まで読めば、彼らがどんなところに罠を仕掛け、何を考えて発言をし、どういう展開に持ち込もうとしているのかという先読みに、驚愕することだろう。初対面の二人が、即興のやりとりでこれだけ面白い言葉の応酬を生み出せる。しかもそれは、刃のように鋭く尖り、相手に刺さればそこから毒が回る。お互い、刃が刺さったことも、毒が回ったことも、気づくのは大分後になる。しかも相手は、刃が刺さったフリや毒が回ったフリさえしてくるから気が抜けない。相手の言葉のどこまでが本当で、自分の投げた刃がどの程度刺さっていて、全体の主導権をどちらが握っているのかなど、不確定要素が山ほどある中で、表向き「絶句しない」という条件だけをクリアすべく、二人は言葉を紡ぐ。
このやりとりは、本当に刺激的だ。
正直、論語が羨ましい。この羨ましさは二重になっていて、一つは論語ほどの頭脳が羨ましいということ。そしてもう一つは、その頭脳を全力振り絞って互角に持ち込めるかどうかという、論語と張るだけの言葉の魔術師と、ほんの2時間弱とは言え出会うことが出来たということ。この二つがとても羨ましい。
初対面だから共通の話もないし、お互いに隠さなくてはいけないことを抱えているから、それにも注意しなくてはいけない。それでいて彼らは、傍目には何気ない会話を、その実むき身の刃で斬り合っているような会話の応酬をし続ける。読んでいるこっちは、その会話の面白さにただ身を任せていればいいのだけど、少しでも彼らの心情を想像してみると、凄いだろうなと思う。こんなスリリングな経験、なかなか出来るもんじゃないだろうと思う。
そりゃあ論語も、ルージュに惚れるわけだ。
女性に嫌悪感を持っている論語は、この時初めて恋に落ちた。結局霧のように消え失せてしまったルージュを、以後も追いかけ続け、決して諦めることがない。
ルージュの側も、決してまんざらではなかっただろう。

『人生の中で君と過ごしたこの時間が最高だと言えるよ。何の衒いも無くね』

とルージュは論語に言っている。しかし、どうしても正体を明かすことができないルージュは、自分がいた痕跡をすべて消し去って自らも消えてしまった。
そしてそれが、論語を追い詰めることになる。
後半もまた、言葉の応酬による知的ゲームだ。しかしこちらは、観客がいるという点で前半と大きく変わる。
前半では、お互いの納得があればどんなこともセーフだった。お互いを説得し合うゲームだった。しかし双龍会は違う。双龍会は、やりあっている相手同士はどれだけ納得できなくても、観客(特に火帝)を納得させれば勝ちだ。
だから、自ずと知的ゲームの性質も変わってくる。
さて、唐突にここで、登場人物の一人のセリフを引用しよう。僕は、次に引用するようなセリフを通常であれば書きたくないのだけど、本書については書いても問題ないと思うし、それが最大の魅力だろうから敢えて書く。けど、自分のルールに準じて、登場人物が言っているセリフを引用するという形にします。

『夢から醒めてもまた夢なんだぜ?どれだけどんでん返しするんだよ。馬鹿じゃねぇの!』

いやホント、どれだけどんでん返しするんだよ!とツッコみたくなる作品なんですよ。そして、読む前からどんでん返しの連続がある作品だという事実を知っていても、まあまず見抜けないだろうし、「どんだけ!」という驚きは決して消えないだろうと思う。
何せ本書で描かれる双龍会の凄さは、扱われる事件自体が恐ろしく地味だということだ。
論語が祖父を殺害した、という容疑について議論するわけだけど、そもそもまず殺人かどうか怪しい。ただの事故かもしれない。なにせ、ペースメーカーの誤作動で心臓発作が起こったかもしれない、ということ、そして論語の携帯電話に関する事実ぐらいしか客観的な事実は存在しないように見える。あとは、とてもじゃないけど、証拠も用意できなければ立証することも出来ないようなものばかりだ。
密室もアリバイトリックもダイイングメッセージも双子の入れ替えも首なし死体も何も登場しない。そんな、事故なのか殺人なのかも判別出来ないような、恐ろしく地味な事件が俎上に載せられている。
それなのに、なんだろうこのどんでん返しの連続は。
双龍会という設定も、非常に巧く作られている。バレなければなんでもアリ、という無法地帯のような戦場で、黄龍師も青龍師も、共にあの手この手の奇策を繰り出しまくる。技のネーミングセンスとか、お互いを呼び合う号なんかは西尾維新を彷彿とさせる感はあるけど、まあそれはご愛嬌。ルールの範囲内で出来る限りの知力を振り絞って状況を好転させようとする気迫の連続が、読者を驚かせる様々な展開を生むのだ。『つまるところ龍師の実力というのは、その場その場の状況に応じていかに面白い理屈を紡げるかだ』という一文が、双龍会というやり取りの本質を短く言い表していると思う。
そんな場では、『真実』という言葉の意味も歪む。
落花は双龍会の前達也に、『ウチらはシノギになるように夢を見せるまでや』と語る。
そう、双龍会の場においては、『真実』とは『誰かの見たい夢』を指すのだ。様々な思惑が渦巻く中で、その場にいる全員に同じ夢を見せることが出来るか。それが龍師の腕の見せ所であり、本書の面白さのポイントでもある。
面白いのは、誰もが論語の容疑について議論している中、双龍会の会場にいるすべての人間の中で当事者である論語だけがまったく別の目的を持っていた、という点だ。論語には、自らの処遇などどうでもよく、ただ一点、ルージュを探しだすという目的しかなかった。そんな論語が双龍会の最後で見せた行動は、まさに双龍会史上に残るとんでもない奇行だったろう。
さて、具体的な内容に触れると、どこでネタバレするか分からないっていう恐ろしく繊細な物語なので、なかなか内容に触れられないままここまであれこれ書いてみたけど、どうでしょう、本書の凄さがちょっとでも伝わったでしょうか?本書では、まさに言葉一つで世の中を渡っていけるだろう化物がうじゃうじゃ登場する。語りだけで夢を見せ、絡まった糸をほぐしつつ新しい形を紡ぐという意味では、京極夏彦の京極堂シリーズにも通じるものを感じる。凄い新人が現れたものだと思う。是非この議論の応酬を体感してみてください。

円居挽「丸太町ルヴォワール」



銭の戦争 第2巻 北浜の悪党たち(波多野聖)


内容に入ろうと思います。
本書は、帝大生であり、同時に相場師でもある井深享介(実王寺狂介)を主人公に据えた、シリーズ二作目です。
前巻の感想はこちら→http://blacknightgo.blog.fc2.com/blog-entry-2205.html
本書は、また様々な方面に話が展開されるんで、簡単に内容紹介をするのは難しいんだけど、実王寺狂介の物語を中心に内容紹介をしようと思います。
播磨総一は、大阪船場の呉服問屋の長男として生まれた。<相場を張った者、暇を取らず>という家訓があり、東京の大学に出た総一も控えていたのだけど、ある時魔が差して相場を張ってしまう。
それで大損を出すことになる。
店の主人である祖母がどうにか収めたが、総一は罰として比叡山で3年修行することになった。
修行の最後を飾る回峰行の最終日、野犬に襲われそうになった総一は、偶然通りかかった男に助けられた。
男は、実王寺狂介と名乗った。
彼は、妾腹の子として生まれた京都の実王寺という寺に養子縁組で息子になったと言い、自らも回峰行の真似事をしていたという。帝大生だと語るその男に惹かれた総一は、是非船場の呉服問屋まで自分を訪ねてくるように男に言った。
狂介は父・井深雄ノ介に勘当された。相場師として生きていくための決断だった。色々調べる中で、京都の戸籍を買い取り、実王寺狂介と名を改めて、これからの身の振り方を考えているところだった。
狂介は、大阪に向かった。
帝大の同級である岩下荘一の父が、関西の経済界の重鎮、北浜銀行頭取である岩下清周であった。
狂介は荘一に、父親への紹介状を書いてもらい、そして岩下清周に、大阪の相場師に一回の帝大生として会わせて欲しいと頼む。
様々な相場師と会ったが、狂介が見定めていたのは二人。
野村證券の前身となる会社を立ち上げた野村徳七と、日本を代表する大阪の実業家である岩本栄之助だ。
というような話です。
2巻目もなかなか面白い話でした。
1巻目は、井深享介(後の実王寺狂介)の登場、と括れる作品でした。様々な描写がなされるのは2巻目と同様なのだけど、1巻目は、井深享介という人間がどのように生まれ、どんな経緯で、後の実王寺狂介となるような生き様を身につけて行く事になるのか。そのプロローグみたいな作品だったな、という感じがします。
2巻目は、実王寺狂介として活動をし始めた男が、虎視眈々と準備を重ねていく、という物語になります。狂介としては、特別これという目的が定まっているわけではなく、目標を見定めるための「準備」というような感じですが、ラスト近くでその目標とやらが現れることになります。
狂介の生涯のライバルになるという、天一坊こと松谷元三郎である。
布袋様のような体格をしたこの男、相場の天才であり、これまで誰もやろうとしなかったアイデアを次々に実行しては、名前を残していった。しかもこやつ、何が恐ろしいって、自分の金で相場を張ることをしないのだ。自分の懐は痛まない。人を惹きこむ上でも天才的な手腕を発揮し、金を引っ張ってきてしまうのだ。
本書の終わり方は、次巻で狂介と天一坊がバトルするのだろうな、と予感させるようなものになっている。そういうわけで、本作もまだプロローグという気の長い作品ではあるのだけど(笑)、しかし随所で物語を盛り上げる要素が組み込まれているので飽きさせない。
例えば、相変わらずロシアの対日諜報活動は続いているし、野村徳七の成功譚や岩本栄之助の慈善、国の金庫が空っぽになった対策を井深雄ノ介が取らされている中での起死回生のアイデア、吉原大火からの脱出など、様々な描写がなされる。ロシアの話が狂介とどれほど絡んで来るのか、未だによく分からなかったりするのだけど、他の話は、株取引なんかをやらない人間にはなかなか理解し難い「相場」というものをイメージさせるような描写であったり、あるいは狂介という個人を際立たせるような描写であったりと、作品の流れに沿った形になっている。なので、狂介の物語という捉え方をすると、まだまだプロローグでしかないのだけど、でもプロローグの中に色んな展開を盛り込むことで、読者の興味を惹き続ける工夫がなされているな、と感じました。
出てくる人間たちも皆、個性的な面々ばかりだ。
1巻の感想でも書いたはずだけど、僕は歴史というものをさっぱり知らないんで、本書に出てくる人物の内、誰が実在の人物で誰が実在の人物でないのか分からない。実王寺狂介はもちろん架空の人物だろうけど、他はどうなんだろう。たぶん、野村證券の前身を作ったという野村徳七は実在してるんだろうな、というぐらいのことしか分かりません。
しかし、実在していようがいまいが、個性的であることには変わりがありません。特に、相場に関わる人間は非常に面白い。
本書でも、実王寺狂介を筆頭に、野村徳七や岩本栄之助、高倉藤平、藤本清兵衛、そして天一坊(松谷元三郎)と言った人たちが、その個性的な相場人生と共に描かれていく。
正直株取引をしたことのない僕には、『相場』というものの実感は持ちにくい。だけれども、それに熱狂し取り込まれ絡め取られていく人物たちの描写を読んで、『相場』というものの底知れなさ、恐ろしさというものは実感できる。そして同時に、ほんの学生の分際で「相場師として生きる」ことを決め、父である雄ノ介に「人間じゃない」と言われた狂介が、何故そこまでのめり込むのか、その理由がほんの少しだけわかったような気になれる。現在でも株取引やなんかの世界では同じようなことが繰り広げられているのかもしれないけど、どんな世界でも、深く深くはまり込んでいる人間の描写というのは面白いものだなと思います。
本書は、ストーリーや個性的な人物たちの描写が面白い作品だと思うのだけど、情景描写も凄いと思う。まるで、その場にいて目から入ってくる情報を写し取っているかのような描写は、凄いものだなという感じがします。
まあこれぐらいのことは、歴史・時代小説を書く人間には出来て当たり前ぐらいのものなのかもしれないけど、時代が時代なだけに凄いなと。
だって、まだその当時のことを記憶している人が生きているような、そんな時代の話ですよね?
戦国時代のことであれば、ある程度どんなことを書いたって、絶対に間違っている!なんて言える人間はいないだろうけど、ほんのちょっと前の日本を舞台にしている本書の場合、その時代のことを覚えている人ってまだいると思うんですよね。
そういう方が読んでどう感じるものなのか、そういう評価を耳にしたことがあるわけでもないんですけど、でも著者が自分で目にしたはずのない様々な光景を、まるで見てきたかのように語る点は、本当に凄いなと思います。
まだまだ物語は立ち上がったばかり、という感じ。次回予告がついている、というのもなかなか斬新です。今後どうなっていくのか展開がさっぱりわかりませんが(特にロシア絡み)、ただの経済小説というだけではない、歴史のうねりの中に突如現れた『相場』というものを取り巻く人びとの悲喜こもごもを描き出す作品です。1巻から読んでみて下さい。

波多野聖「銭の戦争 第2巻 北浜の悪党たち」



ルーズベルト・ゲーム(池井戸潤)

内容に入ろうと思います。
舞台は、現会長が創業し、年商500億円までに成長させた、機械部品メーカーの青島製作所。
創業者の青島は大の野球好きで、創業7年目に自社の野球部を創設した。当初こそ野球好きの社員を集めてやっていた程度だったのだけど、少しずつ規模は大きくなり、青島製作所野球部は、社会人野球でもかなり名を知られた伝統あるチームとなった。
しかし去年。監督だった村野が、青島製作所野球部のエース二人を引き連れて、本業でもライバル関係にあるミツワ電器の野球部に移籍してしまう。青島製作所野球部は、いきなり監督不在という大ピンチの中、野球部の部長も引き受ける役員の三上は、監督探しに奔走することになる。
チームも、エース二人を引きぬかれて、満身創痍だ。マネージャーの古賀、キャプテンの井坂らが奮闘するも、チーム作りにも難航することになる。
そんな青島製作所にやってきた新監督は、元高校野球の監督だった大道だ。大道は勝つために、データ重視のチームの組立をし始める。それは、レギュラーを奪われることになる古参の選手の反発を買うことになるが…。
しかし、そんな野球部は、そもそも存続が危ぶまれてる。
青島製作所は、創業者である青島が社長を退き、青島が営業部長として他社から引き抜いてきた細川が抜擢人事で社長に就任していた。細川は、社内で誰も注目していなかったイメージセンサを青島製作所の主軸に据える提案を行い、5年間で50億円もの売上を伸ばした功績がある。
しかし、米国発の金融不況の煽りを受けて、業績は急激に悪化。先の見通せない状況が続いている。
問題はそれだけに留まらない。ミツワ電器が強敵なのだ。
ミツワ電器は、営業力で売上を伸ばして来た会社だ。創造力はないが、他社で売れているものも自社でも開発し、コストダウンで受注を取るという戦略でやってきた。
そのミツワ電器が、イメージセンサ部門に注力するようになったようで、青島製作所と競合する。
不況の煽りで、大手取引先からの大幅な生産調整を飲まなければならない中、さらにミツワ電器が食い込んでくるために、受注を取るためにはさらなるコストダウンを迫られることになる。
青島製作所は、青息吐息の状態だ。
そんな中で、年間の維持費が3億円も掛かる野球部を存続させる理由があるのか。青島製作所の番頭である笹井や、製造部役員である朝比奈など、役員の中にも野球部嫌いは多い。
果たして野球部は、そして青島製作所は、生き残ることが出来るのだろうか…?
というような話です。
素晴らしい!!さすが池井戸潤としか言いようがない最高の物語ですなぁ。やっぱ池井戸潤、好きだなぁ。
銀行や中小企業を中心にした作品を多く発表してきた池井戸潤だけど、企業野球を描いたのは今回が初かもしれませんね。
企業野球部の視点から『会社』というものが描かれる物語は、とても新鮮だと思う。
これまでは、経営者の視点、銀行の視点、一社員の視点、そんな方向から『会社』というものを見る作品が多かったと思うのだけど、今回は企業野球部の視点から『会社』を見る作品だ(もちろんその視点だけではないのだけど)。
確かに、不況の中、リストラを推し進めなくてはいけないという状況の中で、莫大な維持費の掛かる野球部を存続させる必然性は、強く感じられることはないだろう。
役員の中には、はっきりと野球部のことを「コスト」と言い切る人間もいて、さっさと廃部にするように部長である三上に何度となく言い続ける。
しかし、野球部にも役割があるし、何よりも野球部の面々もれっきとした社員だ。
社長の細川が、久々に(初めてだったかな?)野球部の応援に行く、というシーンがある。その場面で細川は、何故創業者の青島が野球部を作ったのか、分かったような気がしたのだ。
社員の一体感。
野球というスポーツを通じて、社員が一体になれる。球場に来て応援をする社員の姿を見ていると、そしてその中でいつの間にか大声を出していた自分の姿を確認して、細川は、リストラを推し進めている最中の自分自身に、『経営とは何か』という問いを突きつけることになる。
青島と細川のやり取りは、いつも示唆に富んでいる。
青島は、創業者として細川に強く出ることはない。自身はもう引退した身であり、細川のやりたいようにやればいい、というスタンスだ。そんな青島だが、時折細川に、細川の視点からは見えないだろう『何か』を示唆する言葉を呟く。細川には、青島に言われた時にはそれが何を意味するのか分からない。でも、苦境にあえぐ中で、様々に頭を悩ませている時、あるいはふとした時に、青島の言葉をスッと理解できる時がくる。
野球部の存在は、そんな青島の存在を代表している、と言っていいかもしれない。青島の遺伝子が、野球部にはある。細川は、作中でほとんど野球部と関わることはないのだけど(時折応援に行くだけ)、しかし経営という観点から野球部というものを扱わねばならず、そういう時、そこに青島の大きさを見ることもある。本書は、色んな主軸が乱立する構成になっているけども、青島の遺伝子を持つ野球部と直接間接に関わることで、細川が経営者として成長していく過程も非常に面白いと思う。
野球部の面々も、みんな良い奴だ。初めこそ、監督不在・エースの引き抜き、新人とベテランの確執など、あまりいい描写のない野球部だけど、大道が来て、すったもんだあってチームの雰囲気がどんどん変わっていき、野球部の描写はどんどん面白くなっていく。
しかし、野球部の話もドラマ満載だ。会社本体の方ならともかく、野球部にもこれだけドラマ性を持たせるところはさすがという感じです。
実際どんなドラマが展開されるのか、ここでは書かないけど、中盤以降でクローズアップされることになるある人物には、本当に肩入れしたくなります。後半の野球部の描写は、彼の様々が主軸となって物語が進んでいくんですけど、本当に、純粋に、「頑張れ!!」と応援したくなってしまいます。もうね、幼稚でもなんでもいいんですけど、やっぱり『正義』は勝って欲しいんですよ!
会社としての青島製作所には、本当に様々な危機が訪れます。どうやってこの危機を乗り越えたらいいか、社長の細川にもまるで想像が出来ないような、そんなとんでもない事態です。
さて、本書のタイトルの意味を書いてみましょうか。
青島が細川に、「一番面白い野球の試合はどんなゲームか分かるか?」みたいな問いかけをします。青島は、「8対7が一番面白い」と言います。これは、野球を愛したルーズベルト大統領がかつてそう言ったのだそうで、だから8対7の試合はルーズベルトゲームと呼ばれている。
細川は、0対7ぐらいの試合に立たされている。そんな状況だ。
大手取引先からは生産調整を飲まされる。ライバルのミツワ電器は、コストダウンを武器に青島製作所のシェアを食い破ろうとしている。銀行からは、リストラをガリガリ推し進めなくては融資がもらえそうにない。社運を賭けたイメージセンサを搭載するはずだったカメラの発売が前倒しになり、イメージセンサの開発が間に合わないかもしれない。
まさに踏んだり蹴ったりだ。
しかもさらに、細川を追い詰める事態が舞い込むことになる。それは、会社そのものの存亡を左右するような事態で、細川は悩む。
細川を悩ませているものは、青島製作所そのものの経営に関してもそうなのだけど、『何故自分は社長なのか』『青島製作所の社長としてどうあるべきなのか』という悩みに囚われている、という部分もある。
青島はある場面で細川に、「イズムが必要だ」という。しかし、細川には、それが分からない。コンサルタントとしてずっと数字ばかり追い続けてきた細川には、青島がいう「イズム」がなんなのか分からないのだ。細川は作中、ほとんどの場面で悩み続けているのだけど、その人間的な有り様は好きですね。
他にも魅力的な人物はたくさんいる。
特に僕は、笹井と三上が好きですね。
共に青島製作所の役員なのだけど、対照的な存在で面白い。
三上は総務部で、リストラを主導するという辛い立場にいる。一方で野球部の部長でもあり、これだけの大規模なリストラを敢行している中でも、どうにかして野球部を存続させられないかと八方手を尽くす。企業人として考えれば、野球部の廃部は当然だ。しかし、三上は粘る。何故そこまで野球部にこだわるのか。そこに三上の人間性が現れているようで、凄くいい。
一方の笹井は、野球部嫌いの役員として有名だ。コストが掛かる野球部はすぐに廃部すべし、と言わんばかり。青島が社長時代から青島製作所の番頭をずっと続けてきた男で、誰にも次期社長だと目されていた。
笹井は作中で、あまり良い風に描かれることがない。大抵、嫌な感じの奴に見えることが多い。でも、実はそうではないのだ、という点がチラホラ見え隠れする。それが、笹井という会社に尽くしてきた一人の男の矜持を見え隠れさせる感じがして素敵なのだよなぁ。
他にも、チラッとしか登場しないたくさんの人物がいるんだけど、一人ひとりが結構個性的だ。本書は、冒頭から大量の固有名詞が出てきて、初めはちょっと不安だったんだけど、キャラクター一人ひとりがきちんと作品の中で『生きている』ので、登場人物の名前を覚える苦労はほとんどありませんでした。社長や銀行マン、ライバル会社の社長と言った人物だけではなく、技術者や契約社員や応援団と言ったちょっとした端役に至るまで個性が与えられている、見事な作品だと思います。
素晴らしい作品だと思います。池井戸潤は本当に、安心して読める作家の一人になったな、という感じが強くあります。エンタメというほど軽いわけではなく、でも経済小説と言うほど堅いわけでもなく、絶妙なバランスを保ちながら、読みやすくかつすべての働く者をたぎらせるような作品を描き出すのが本当に巧いと思います。是非読んでみて下さい。

池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム」



日本の問題を哲学で解決する12章(小川仁志)

内容に入ろうと思います。
本書は、京都大学卒業、商社に入社した後退社して弁護士を目指すも司法試験に失敗、その後市役所勤務を経て哲学者に。2011年にはプリンストン大学で研究もしたという、異色の哲学者による、日本を取り巻く様々な問題を取り上げ議論する作品です。
まえがきで著者は、現在なされている議論は二つの理由で問題がある、と書きます。

『一つは、大転換期の問題であるがゆえに、政治の現場に顕著なように、「場当たり的」「表面的」な解決を模索していては、すぐに行き詰ってしまうという点ですそうではなくて、今は問題を根本にさかのぼって考える態度が求められているのです。』

『もう一つは、政治やメディア、あるいは学問の世界における専門家に事を委ねていては、もはや問題は解決しないという点です。そもそも自分の国の問題は「自分ごと」のはず。それをあたかも他人ごとであるかのように、人任せにする態度に問題があります。』

そして本書は、「考えるためのヒント集」として提示した、と書き、さらにヘーゲルの弁証法的議論を進めていくと書いています。

『自分で考えていただくための工夫として、各論点ごとに、まず賛成論と反対論の両論を示し、何が対立しているのかを明らかにしました。
そのうえで、「そもそも論」にさかのぼり、思想や哲学の知見を参照しつつ、問題の本質に迫っています。そして最後に、賛成・反対の両極を乗り越えた第三の案を提示しています。
実は、これはヘーゲルの弁証法にのっとた論理展開です。』

さて、本書で扱われている12の問題について、各章の章題を列挙する形で紹介しましょう。

第一章「どうなる民主主義!やっぱり気になる橋下徹」
第二章「どうなる安全保障!いつまでアメリカに守られるつもり?」
第三章「どうなる市場経済!格差や就職難は誰のせい?」
第四章「どうする税と社会保障!「弱者のための消費税増税」は正しい?」
第五章「どうする原発!停電は困る。でも放射能はもっと困る」
第六章「どうなるTPP!国内産業の保護かグローバル化か」
第七章「どうする政治制度!コロコロ変わる総理大臣」
第八章「どうなる道州制!都道府県はもういらない?」
第九章「どうなるネット時代の政治!インターネットで変わる世界」
第十章「どうする同性婚!結婚は多数決で決めるもの?」
第十一章「どうする裁判員制度と死刑!私たちが人の死を決めていいのか?」
第十二章「どうなる日本の教育!詰め込み教育か、ゆとり教育か」

さて、読んだ感想ですけど、ちょっと僕としてはイマイチだったかな、という感じがしました。
という評価は、ある程度割り引いて受け取ってください。
というのも、本書を読んで改めて僕は、日本の諸問題に対する知識と興味がないのだなぁ、と実感したからです。
なんというか、難しいのですよね。
まさに本書で書かれている、「自分ごとのはずのものを他人ごと」と捉えている人間の代表みたいな人間ですけど、正直あんまり興味が持てないものが多い。
本書では、日本人は「市民」ではない人が多い、みたいな話があって、それは凄く納得しました。
「市民」というのは、「政治的共同体の一員」ということで、つまり政治的な共同体に積極的に関わりあいを持っていく存在、というような意味合いでしょうか。
確かに、そういう人って少ないですよね。難しい問題は、きっと誰かが解決してくれる、って思っている人、すごく多いと思うんです。
だから僕は、ある意味で橋下徹の出現は面白いな、と思っていたりするんですね。
橋下徹が何をしようとしているのか、実際何をしているのか、これからどう変わるのか、なんていう知識は僕にはないんですけど、橋下徹が出てきたお陰で、大阪とかその周辺の人って、自分たちが住む地域や政治そのものについて考えるきっかけが凄く増えたんじゃないかな、という気がするんですね。
もちろんその中には、橋下徹の言っていることにただうんうん頷いているだけの思考停止状態の人もたくさんいるでしょうけど、でも一方で、なんとかしなくちゃと立ち上がった人も多くいることでしょう。
そういう意味では、東日本大震災と原発の問題も、同じような状況を引き起こしているかな、という感じがします。
そういう、身近な出来事が起こると、「なんとかしなくちゃ」という機運が色んな人の中で高まる。でも、日本人だけなのかわからないけど、そういうのってどうも、長続きしないのですよね。
本書で、ウォール街の支配に反対するデモをアメリカ人がやっている、という話が出てきて、そのデモは今までのデモと感じが違ってて、リーダーもいなければ明確な主張もないように見える。でも長続きしている、と。日本でも、一過性のデモって結構たくさんあるけど、なかなか持続しないのですよね。
ただ、そういう僕の無関心を差し引いても、本書はあまり魅力的ではなかったように思うなぁ、と僕は感じました。僕自身の無関心がどれほど読む態度に影響を与えているのかわからないので、なんとも言えないのですけど。
比較対象としておかしいのは重々承知しているのですけど、やはり池上彰の方が面白いな、と思ってしまいます。
池上彰は、世の中の出来事を『解説』するだけなのに対して、本書では様々な問題について『自身の意見』や『様々な観点を考慮した今後のあるべき姿への提言』なんてのがあったりするので、本質的にやろうとしていることが違います。だから同列で並べて比べるのはおかしいんですけど、でもどうしても。
本書も、確かに著者の意見や未来への提言などありますけど、どちらかと言うと物事の解説が多いような印象を受けました。タイトルにある「哲学で解決する」というのも、本書を読んでもあまりピンとこないし、ちょっと中途半端かな、という感じがしてしまいました。
確かに、賛成派反対派の論点を整理して提示する、というやり方は分かりやすいと思うのだけど、でもやっぱり『解説』に限れば池上彰の方に軍配が上がるなぁ、と思ってしまいました。
読んでて、たぶんいいこと言ってるんだろうなぁ、とは思うんです。でも、知識も興味もない僕には、その実効性や実行性が判断できないし、提言そのものに惹きつけるものがあるわけでもないので(まあ、現実的な提言なんてそんなもんでしょうけど)、あんまり読んでてフムフムという感じにならないのですよね。
読んでて凄く共感したのは、次に一文。

『ぜひあなたも、物を売り買いする時は、その行為が誰かを傷つけていないか、ほんの少しだけ立ち止まって考えてみてください』

これ、考えちゃうんですよね。どうしても僕は、純粋に売上だけをバリバリ追い求めてものを売ったり出来ないのが弱点。売ることが、逆に自分にマイナスとして跳ね返ってくるよなぁ、と思えることが結構多くて、躊躇してしまうことが多かったりします。僕はこういう感覚って、結構大事だと思うんですけど、なかなか周りに話しても共感されないんで、この一文は好きですね。
あと面白いなと思ったのは、英語教育に関する話。日本は政府による教育施策が愚策で、カリキュラムを一生懸命こなしても英語が喋れるようにならない。まあ、日本でも英語教育をもっと!みたいな意見にはあんまり僕は共感できないんですけど、著者自身は英語を学ぶために相当のお金を英会話学校に費やしたようで、それでこんな文章を書いています。

『この費用は、国家の無策のせいで支払わざるを得なかったものですから、私は本気で日本政府を相手に賠償請求を行うことを検討しています。』

凄いなぁ。こんな発想、したことないっす。
個人的には、今ひとつかなぁ、という感じがします。あんまり、ビビッと来る作品ではなかったなと思います。

小川仁志「日本の問題を哲学で解決する12章」



その科学が成功を決める(リチャード・ワイズマン)

内容に入ろうと思います。
本書は、なかなか面白い経歴の大学教授による、世の中に様々に出回っている「成功法則」に疑問符を叩きつける作品です。
なんと著者は元プロマジシャンだったようで、それから大学で博士号を取り、膨大な被験者のデータを分析する科学的アプローチを得意とする心理学の研究を行なっているそうです。
本書の内容について、巻末で訳者が非常に簡潔にまとめているので、それを引用しようと思います。

『自己啓発の方法には、たしかに科学的根拠のないかなりあやしげないものもある。その一方、科学的な裏づけのある方法は理解して実行するのに時間がかかり、一般の人にはなじみにくい。科学的な裏づけがあって、しかも簡単にできる方法はないものか。それを模索するために、ワイズマンは心理学の幅広い分野から研究論文のほか「ネイチャー」や「サイエンス」などの科学雑誌の記事を何百種類も克明に調べた(本書の巻末の参考資料をご覧いただければ一目瞭然、その数はまさに圧倒的だ)。そのうえさらにテレビやインターネットなどで、みずからユニークな実験もおこなった。その結果生まれたのがこの本である。』

本書を的確に表現した内容紹介です。
では、本書の構成をもう少し具体的に書いてみましょう。
本書は、様々なジャンル(後で触れます)で章を割っていて、それぞれの章でまず、一般的に信じられている俗説について検証される。その中には、それなりに正しいだろうと判断されるものもあるのだけど、ほとんどの場合俗説は科学的な根拠がない。つまり、やっても意味がないか、時にはやると悪影響をもたらす、ということが示される。
本書は、決してそれだけでは終わらない。それではじゃあ、科学的に正しさがある程度実証されており、さらに実行するのに簡単な方法はないのか。それを著者は、様々な実験結果を読みあさったり、自らも実験したりして得られた知見からいくつかの方法を見出し、それについて紹介しています。
本書で扱われるジャンルは多種多様で、自己啓発から面接のノウハウ、婚活やストレス解消やダイエット、果ては離婚や子育てまで、とにかくあらゆるジャンルについて、俗説の誤りと正しい方法が紹介されます。
一応本書でどんなジャンルが扱われているか分かりやすいように、各章の章題を全部書いてみます。

実験1「「自己啓発」はあなたを不幸にする!」
実験2「「面接マニュアル」は役立たずだった!」
実験3「イメージトレーニングは逆効果」
実験4「まちがいだらけの創造力向上ノウハウ」
実験5「婚活サイトに騙されるな」
実験6「ストレス解消法のウソ」
実験7「離婚の危機に瀕しているあなたに」
実験8「決断力の罠」
実験9「「ほめる教育」の落とし穴」
実験10「心理テストの虚と実」

さて、僕は本書を非常に面白い本だと評価しているのだけど、それには大きな理由が一つあります。
それは、実験による裏づけがある、という点です。
本書の巻末には、すべて英語ですけど、本書で取り上げた実験がどの文献のどこに載っているのか、という一覧があります。実際に本書に載っている各種実験について、元データを確認しようとする人はほとんどいないでしょうけど、でも少なくとも本書は、本書で書かれている内容について本当であるかどうか、元の情報にアクセスすることが可能である、という点が非常に大きいなと思っています。
僕は、一般に流布している自己啓発本や健康本やダイエット本は本当にクソだなと思っているんですけど、その理由は、それがあくまでも「個人の経験」を超えていないからです。
ある一人の成功者(ビジネスでもダイエットでもなんでもいい)が、『自分はこのようにして成功した』という話を書いたとしましょう。しかしそれはあくまでも、『その成功者がそう思い込んでいる』という以上の意味を持ちません。
例えば、ある成功者が、『自分が成功したのは周囲の意見を何でも聞くようになったからだ』と思っていたとしましょう。しかしもしかしたら、その人が成功した本当の理由は、『犬を飼い始めたから』かもしれません。人生の中で様々な要因がある中で、『このお陰で成功した!』と考えているものが実際に成功の要因であるかどうかなど、誰にもわかりはしないのです。
そしてそれをきちんと判別するためには、どうしたって実験が必要です。
健康本などではよく、「医者が実証した~」みたいなことが書かれていたりします。そういう本を読むことがないのでわかりませんけど、恐らくその本にはそれを実証した実験についても載っているのでしょう。
でも、実験をどのように行うのか、というのも非常に重要なポイントです。特に、『因果関係の逆転』と『因果関係と相関関係の取り違え』については注意深く見定めなくてはいけません。
『因果関係の逆転』というのは、例えばこういうものです。本書では、『犬を飼っている人は穏やかになる』という研究結果がありますが、これは、犬を飼っている人がどんな性格をしているかを調べるだけでは充分ではありません。何故なら、『元々穏やかな人間は犬を飼う傾向が高い』というだけかもしれないからです。だから、そこもきちんと調べられるような実験を組み立てなくてはいけません。本書では、そういう部分についても細かく説明されます。
『因果関係と相関関係の取り違え』については、こんな例を挙げましょう。『川で遭難事故が起きる日』には『アイスがよく売れる』という相関関係が成り立ちます。だからと言って、『川で遭難事故が起きるからアイスがよく売れる』わけではない、というのは誰でも分かるでしょう。両者共に『暑いから』というのが原因として隠れていて、本当の因果関係は、『暑いから川で遭難事故が増える』かつ『暑いからアイスがよく売れる』となります。こういう、因果関係と相関関係の取り違えにも注意して実験をしなくてはいけません。
健康本やダイエット本にはおそらく、実験の結果も載っているのでしょうが、実験がきちんと行われているのかどうか、というところまできちんとチェックしなければ、正しい知識を得ることは難しいでしょう。
さて、そういう意味で本書は非常に有益な本だと僕は感じるのですけど、本書を読む際には二つ注意しなくてはいけない点があると僕は思います。
一つは、これは本書に限らずあらゆる実験に共通ですが、『実験で◯◯という結果が出た』からと言って、『◯◯が正しい』ということにはならない、ということです。物理や科学の実験ならそういうことはあまり起こりませんが、人間を対象に行う実験の場合、実験に関係のない要素を完全に取り除くことはかなり難しいでしょう。それに、人間のような複雑な存在を対象に実験を行えば、様々な実験によって相反するような結果が出てくることもよくあります。本書では、様々な実験結果を紹介し、そこから結論を引き出していますけど、それを信頼し過ぎないという態度は非常に重要だと思います(とはいえ本書は、著者がありとあらゆる関連する実験結果を読み漁った結果を書いているので、かなり信頼度は高いと判断していいと思いますけど)。
そしてもう一つ。本書に特有の注意点として、本書は日本人を対象に行われた実験をベースにしていない、という点です。著者はイギリス人みたいですし、色んな実験データにはアメリカのものも多数あるでしょう。日本人を被験者とした実験は、僕の記憶では一つしかなかったと思います。人種でどれだけの差が出るのかわかりませんが、文化や宗教や常識が異なる国では、人間の考えや行動にもそれなりの変化があることでしょう。なので、日本人を被験者に行われた実験結果はほとんど使われていない、ということも意識して本書は読んだ方がいいと思います。
というような長い前置きをした上で、非常に印象的だと思う三つの実験とその結果についてちょっと書いてみたいと思います。
まず本書では、「イメージトレーニング」は逆効果だ、と書いています。
よく自己啓発本では、「成功した自分を思い描け」というような話が出てきますが、これは現在の調査結果では、効果がないか悪くすると害が大きい、とわかっているのだそうです。
たとえばこんな実験がある。肥満体の女性を集め、様々な食事の場面を思い描いてもらった。プラスのイメージ(「わたしはちゃんと自制して、ケーキやアイスクリームには手を出さない」)からマイナスのイメージ(「私はすぐ飛びついて、自分の文ばかりかほかの人の文まで食べてしまう」)まで様々に分かれたが、マイナスのイメージを持った女性の方が平均11.8キロも減量に成功したという。
ではどうすればいいのか、という話は是非本書を読んでほしい。
「ブレインストーミング」が創造的なアイデアを生み出すために有効だ、と思われているが、これも実験によって否定されているという。様々な実験により、参加者が一人で考える方が集団で考えるよりも量も質も上だという結果が出ている。
それは「社会的手抜き」と呼ばれる現象によるという。たとえばこんな実験がある。参加者に重い物を綱を轢いて動かすように頼む。普通は、集団で作業した方がより重いものを動かせると思うだろう。しかし、一人で綱を引いた場合は85キロまで動かせたのに対し、集団で綱を引いた場合は一人あたり65キロまでしか動かせなかった。誰かがやるだろう、という思いが手抜きをさせるのだ。
さて最後に、非常に面白い実験を紹介しよう(本書には面白くない実験の方が少ないのだけど)。ホテルのサービス係を二つのグループに分ける。片方には、彼らが一日の仕事でどれだけカロリーを消費しているのか、一つ一つの動きについて数字を教え、この内容が頭に刻み込まれるよう掲示板に張り紙もした。もう一方には、運動の効果に関する一般的な知識は伝えたが、具体的なカロリーなどは教えなかった。
するとどうだろう!作業内容はそれまでとまったく同じだったにも関わらず、前者のグループは大幅に体重が下がったのだ。これは、お酒だと言われて飲めば酩酊するのと同じようなもので、プラシーボ効果によるものと考えられている。
他にも、時間の許すかぎり箇条書きで色々書いてみようか。

・マイナス思考を抑えつけようとすると、余計その考えに取り憑かれる。
・嫌なことや悩みを人に打ち明けても幸福度に変化はない。
・人のためにお金を使うと幸福感が増す。
・高い報酬を約束するとやる気を奪うことになる。
・就活で唯一大事なポイントは好感度
・相手に小さな親切を求めると相手から好かれる
・目撃者の数が多いほど、助けようとする人が少なくなる
・赤ちゃんの写真を見えやすいように財布に入れておくと戻ってきやすい
・怒りを発散させても火は消えず、逆に火に油を注ぐことになる
・褒められた子どもは失敗を恐れるようになる

他にもまだまだたくさんあるけど、これぐらいにしとこうか。短い文章で説明しちゃってるんで、具体的な話は是非本書を読んでみて下さい。
自己啓発とかダイエット本などのいわゆる「成功法則」が書かれた本は僕は全然信じたり出来ないし、凄く嫌いなのだけど、本書は非常に面白いと思います。実験による裏づけがあること、そして実験が適切に行われているように思えること。なかなかこういう条件を満たせる成功法則本は少ないだろうなと思います。どうしても成功法則本に手を出してしまうけど全然成功できない、という人にも読んでほしいですけど、成功法則本なんて胡散臭いよなぁ、と思っている人にも是非読んでほしい作品です。

リチャード・ワイズマン「その科学が成功を決める」


エレクトラ 中上健次の生涯(高山文彦)





内容に入ろうと思います。
本書は、熊野の「春日」という被差別部落で生まれ、『これを書かなければ生きていけないというほどのいくつもの物語の束をその血のなかに受け止めて作家になった者がどれほどいるだろうか』と著者に言わせるほどの稀有な作家として世に現れた中上健次という作家の生涯を、自身もまた被差別部落が身近にあった土地柄で生まれ育った著者が追った渾身のノンフィクションです。

『私は部落が文字と出会って生れ出た初めての子である』
中上健次は後年、そう書いている。

今でこそ非常に高い評価を得ている中上健次であるが、デビューしその才能が認められるまでには、恐ろしいまでの紆余曲折があった。
後に小説の中に書くことになる、実に複雑な家族構成の中で生まれた中上健次。被差別部落全体で一つの家、とでもいうような濃い血縁関係が存在した春日という土地。中上健次が後に全身全霊をかけることになる「熊野大学」の連続講義で、中上健次が春日の年寄りたちに話をしている場面で、著者が「そのどの腹から生まれてもおかしくはなかった女の年寄りたちをまえにして彼は」という表現をしている。被差別部落内以外での婚姻関係が成立しにくい状況の中で仕方ないとはいえ、この複雑な家庭環境は、後々まで中上健次の人格形成に、そして作品に大きな影響を与えることになる。
その最大の要素が、24歳で自殺した兄の存在だ。中上健次は、この兄の死を、ずっとずっと引きずって作品を生み出し続けていく。
「春日」という土地そのものがまた、大いなる歴史を背負った複雑な背景なのだ。
春日には、大逆事件の舞台となった浄泉寺がある。今では明治政府のでっちあげと判明しているこの大逆事件を描きつつ著者は、春日という土地がいかに平等を旨とし、また政府による弾圧に抵抗し続けてきたのかを描く。被差別部落というだけでなく、複雑な家庭環境というだけでなく、「春日」という土地そのものの背景も、中上健次という稀有な作家を生み出す根っことなっただろう。
字が読めず、本を読んでいると狂ってしまうと信じていた母親に育てられた中上健次は、とあるきっかけから大量の本と接することができる環境を得、やがて彼は上京する。早稲田大学を受験すると嘘をついて。予備校に通うと嘘をついて。亜細亜大学に合格したと嘘をついて。
中上健次の義父は、春日で成功した土建会社の経営者であった。中上健次が、ろくに仕事もせずに、文学を語ったり作品を書いたり出来たのは、この裕福な義父のお陰である。
上京した中上健次は、同人誌に詩や小説めいたものを発表する一方で、「ジャズビレッジ」というジャズ喫茶に入り浸るようになる。中上健次は、ジャズとドラッグと暴力の日々の中で、無軌道な青春を過ごすことになる。
そしてそんな折、やがて中上健次をデビューさせ、さらに中上健次に出世作を書かせることになる二人の編集者、高橋一清と鈴木孝一と出会うことになる…。
内容紹介はこのぐらいにしておきましょうか。
凄い作品でした。作家の評伝のようなものを、そこまでたくさん読んでいるわけではないのだけど、これほどの出自、これほどの経験、これほどの作品、これほどの人との出会いの中で生まれ出てきた作家というのは、そうそういないのではないかと思いました。
中上健次自身も凄いのだけど、何よりもまず編集者が凄いと僕は思いました。
中上健次をデビューさせたのが、一度倒産して再生した河出書房新社の「文藝」編集部にいた鈴木孝一。そして、芥川受賞作である「岬」を書かせたのが、文藝春秋に「文學界」編集部にいた高橋一清。この二人との出会いがなければ、中上健次という作家は今評価されているような形では世に出て来なかったかもしれない。
何より凄いのは、鈴木だ。
鈴木は、中上健次にとにかく小説を書かせたが、そのほとんどを没にした。デビューさせる前も相当に書かせたが、デビューさせてからもほとんど雑誌に原稿が載ることはなかった。中上健次が作品を書いて待ち合わせ場所の喫茶店まで持っていくと、鈴木は後ほどそれを読み、大量の書き込みを入れて原稿を返してきた。鈴木と中上健次は、何年もそういう関係を続けていった。
鈴木には、中上健次がその内にもの凄い物語を秘めていることを見抜いていた。しかし、素材は素晴らしいが、まだ描く力がない。そういう判断を何年も続けることになるのだ。
ある時鈴木は、中上健次の書きたいもの、つまり自分の生まれや血縁などを素材にした小説を書くように言う。そうして描き上げてきたのが、本書のタイトルでもある「エレクトラ」である。結局「エレクトラ」は、出版されることはなかった。
その原稿を読んだ鈴木は、いつもなら大量の直しを入れるのだが一切直しを入れないままの原稿を中上健次に返しこう言う。

『ところが、作品になってない。素材が素材のまま投げ出されている。この状態で世の中に出したら、あなたは作家として損をする。だから、おれは発表できないと言っているんだ』

『頼むから、おれをどんなに憎んでもいいから、これだけは活字にしないでくれ。かならずあなたはこの素材でもっと素晴らしい小説を書くんだから、いま出しちゃいけない』

そして、この素材を10年封印しようと言い、東京を舞台にした作品を書くように進言するのだ。
この鈴木と中上健次のエピソードを読んで、編集者って凄いなと思わされました。
現代の編集者がどんな風なのか、僕はちゃんと知っているわけではないのだけど、ここまでできる編集者はなかなかいないのではないか。というと語弊があるのだけど、たぶんだけど、この当時でさえ、鈴木と中上健次のような関係性の中で作品を生み出すというのはかなり奇跡的なことだったのではないかな、という気がしないでもない。
鈴木も高橋も、中上健次という男の才能を信じていたし、将来間違いなく大物になるという確信があった。だからこそ、ぬるい作品でデビューさせることなく、相手に恨まれてもいいからという覚悟で厳しいことを言い、そうやって中上健次という才能を育てたのだ。
たぶん、紙一重だったのではないか。
少し前に、「ドラフト1位」という文庫を読んだ。ドラフト1位で球団に入団した野球選手たちの悲喜こもごもを描いた作品だが、あまりにも期待されすぎているが故に、コーチなどによる特訓で怪我をしたりメンタルをすり減らされたりして活躍できなかった選手が結構多くいたようだ
中上健次も、そうならなかったとは言い切れないだろう。どれだけ厳しいことを言われても書き続けた根性と集中力がずっと継続したからこそ中上健次は世に出たけど、同じことをされて途中で諦めてしまう人だって多くいるだろう。中上健次は、有り余る才能のきらめきを見せつつも、それを形にするまでには長い時間を要した。結局鈴木は、中上健次が文壇で絶賛を受ける前に、中上健次の元を去っている(体調不良により、異動願いを出していたのだ)。その鈴木と入れ替わるようにして高橋が戻ってくるのも面白い。
元々中上健次に目をつけたのは、高橋一清の方が先立った。高橋一清は配属された「文學界」で、巻頭に詩を掲載するという企画を立ち上げ、その一人に中上健次を選んでいたのだ。
後に芥川賞を受賞した際、中上健次は高橋一清にこう言った。

『詩を書けと、おれに声をかけてくれましたよね。あのとき出会わなかったら、おれは永山則夫になってましたよ』

作中で、永山則夫について詳しく書かれている。米軍から盗んだ拳銃で4人を次々に射殺し世間を賑わせた19歳の男だ。
中上健次は、『一番はじめの出来事』というデビュー作(鈴木が、それまでもらった中では、作品として水準が高いと判断し、雑誌に掲載すると決断した作品)を発表したのと同じ月、「文藝首都」という同人誌に『犯罪者永山則夫からの報告』というエッセイを書いている。
北海道の番外地で生まれ育った永山則夫の生涯と自らの生涯を重ねあわせているのだった。著者は、この永山則夫の事件も、中上健次に小説に向かわせる原動力の一つになったはずだと書く。

『おそらくこの一文をしるしながら健次は、兄の死をめぐる物語を、故郷の永山を舞台として、これから繰り返し書いてゆこうと決意を固めたのではないだろうか。永山則夫になれなかった、もしくはならなかった永山の者として、永久運動のような連続射殺事件を起こした犯人の隣人である自分は、ペンによって兄の悲しみを、人がわかったと言うまで書きつづけてゆこうと考えたのではないか』

逮捕されるまでの永山則夫が、中上健次が入り浸っていた「ジャズビレッジ」の通り一つ隔てた「ビレッジバンガード」というジャズ喫茶で皿洗いのボーイとして働いていたという偶然も、その思いを強くするのに影響を与えたことだろう。
このように、中上健次の周りでは、中上健次を結果的に創作へと駆り立てることになる様々な出来事が起こる。「文學界」の巻頭に載せる詩を高橋一清に渡すひと月ほど前に故郷で起こった、親族間の殺人事件にしてもそうだ。中上健次は、深い感受性でもって様々な事柄をその内側に溜め込み、やがてそれを放出することで作品を生み出していく。
妻との出会い、そして子が生まれるという経験も、中上健次にとって重大な影響を与えたことだろう。
本書では、中上健次とその子どもたちとの関わりがところどころで描かれるが、しかし何よりも、妻であるかすみの存在が大きかったことだろう。
同人誌「文藝首都」で出会った二人は、子どもが生まれたのを機に結婚。中上健次が計数用紙に書いた小説を、かすみが清書するという形でずっと作品は生み出されていくことになる。芥川賞を受賞するまで、精神的な支えになったのも、間違いなくかすみだろう。
このかすみとの色んな話も素敵だが、何よりも素敵だと思うのは、晩年妻と子と別居して暮らすことになった時の話である。
結婚してからというもの、家の中でさんざん暴れまわった中上健次と本気で離婚しようと考えたこともあるかすみは、46歳で亡くなった中上健次の晩年は、中上健次の都合で別れて暮らすことになった。中上健次は、家庭人としてではなく作家として生きる決意をしたのだ。
しかし時折、甘ったれて電話をしてくることがある。そんな時かすみは、中上健次にこんな風に言ったという。

『あなたは中上健次という作家なんでしょ?あなたは作家として生きることを選んだんだし、私たち家族もそれを許容してあげてるんだから、それで行きなさい。素顔にもどろうなんてするな』

なんてかっこいい。中上健次は、その人生で出会った様々な人物との関わりの中で成長し、大きくなっていくのだが、このかすみの存在は中でも一番大きかったのではないかな、とそんな風に思いました。
さて最後に。本書を読んで僕が「あぁっ!」と思い出したことがあるので、それについて書こうと思います。
それは、中原みすずという作家の「初恋」という小説のことです。
この小説について、少し話をしましょう。
この中原みすずは、著作は一作だけで、正体は不明とされています。本書は、「自分が3億円事件の犯人だ」ということを告白した小説として、非常に話題になりました。宮崎あおい主演で映画化もされました。
「初恋」を読んだ僕の個人的な感想では、なるほどこれは真実味があるな、と思いました。もちろん、本当かどうかは分からないわけですけど、本当っぽさがプンプンする作品ではありました。
何故その小説のことを思い出したのか。
この「初恋」という小説には、『ジャズ喫茶<B>』というのが出てくる。
これは恐らく、本書で描かれている『ジャズビレッジ』ではないかと思う。何故なら、僕の記憶が確かなら、「初恋」という小説では、その『ジャズ喫茶<B>』でたむろしていた仲間に、中上健次がいた、という描写があったような気がするのだ。
3億円事件が起こったのは1968年(昭和43年)。そして本書を読む限り、中上健次が『ジャズビレッジ』にたむろしていたのも、それとほぼ同時期のはずだ。『ジャズビレッジ』の描写を読んですぐに、「初恋」のことを思い出した。「初恋」の内容はほとんど覚えていないし、本書でも『ジャズビレッジ』に関する描写はそこまで多くはないのだけど、なんとなくそれを思い出せて僕は嬉しかったのでした。
『文学などそもそも本のなかにはなく、健次の場合、その生い立ちのなかにこそ文学の芽はあって、その芽を育み土壌も稀に見る豊かさだった』と著者が語るほどの背景を内包した、中上健次という一人の偉大な作家の生涯を、膨大な作品群を読み解き、様々な人からの証言を集め、再構成していく。正直僕には、著者による中上健次作品の解読なんかは難しいなと感じられたのだけど、中上健次という一人の男の人生を追いかける物語として非常に面白く読みました。是非読んでみて下さい。

高山文彦「エレクトラ 中上健次の生涯」


THE BOOKS 365人の本屋さんがどうしても届けたい「この一冊」(ミシマ社編)

内容に入ろうと思います。
本書は、独特の流通方式を採用し、「原点回帰の出版社」として業界内外に新鮮な驚きと可能性を提供してくれる出版社であるミシマ社による、365人の書店員にオススメ本を聞いたブックガイド&ブックショップガイドです。
とりあえず、本書がどんな構成になっているのかを書いて、その後、僕が気になったことをいくつか書いていきますね。
1ページ一冊(一人)という構成で、まずタイトルと書影があり、その下に推薦者による手書きのフレーズ、そしてその下に推薦者によるコメント、と続きます。その下に、推薦者が考える「次の一冊」のオススメ本と短いフレーズが載っています。その下に推薦者名と書店名が載り、その横に、ミシマ社の社員によるその書店への一言コメントが載っている、という構成になっています。
1/1から12/31までの365日それぞれに一冊ずつオススメ本が割り当てられています。各月には、ざっくりとしたテーマが設けられています。1月であれば、「1年にはじまりは名作で」ですね。ただ、このテーマに完全に縛られているわけではない、という構成になっています。
巻末には、全国地図に本書で紹介された書店が載った書店MAPと、本書で紹介されたすべての本が五十音順でリストアップされている索引も用意されていて、ブックガイドとしてもブックショップガイドとしても「使える」内容になっています。
推薦者に与えられた条件は、「(できれば)自分の担当ジャンルであること」「絶版本ではないこと」という二点のみ。なので、本書で紹介されている本は、小説や絵本はもちろん、新書も哲学書もアート本もなんでもアリです。普段あまり本を読まなくて、何を読んだらいいだろうなぁ、なんていう人にももちろん最適なガイドブックですけど、普段本は読んでるんだけどどうもいつも似たような本ばっかり読んでしまって広がりがない、と感じている人なんかにもオススメできるブックガイドになっています。
さて、あとは興味の赴くまま、自分が使いたいように本書を是非使ってみて下さい。本書に載った本を読むもよし、その本を紹介者の書店で買うもよし、「オススメされた本、つまんなかったぞ!」と直接文句を言いに行ってもよし…(いや、それだけは止めてほしい…笑)。
さてそういうわけで、個人的に色々と気になった話をあーだこーだ書いてみよう。
まず、コメントのエピソードが面白いものが結構ある。特に気になったのは、「ルバイヤート」(オマル・ハイヤーム)を勧めている諸橋さんと、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」(村上春樹)を紹介している小澤さん。
諸橋さんは、この本と出会うきっかけとなったとあるお客さんとのエピソードを載せていて、なんだかとてもしんみり来るし、本屋冥利に尽きる、という感じもする。小澤さんの話は、まさに本に人生を狂わされた(?)というご自身のエピソードで、本の力って凄いもんだなぁ、と思わされる。
あともう一つ。これは具体的にどれとは言わないんだけど、あるエピソードが、あぁあの方の話なのだなと思わされてしまい、なんとなく個人的にしんみりしてしまった。
「人を助けるとはどういうことか」(エドガー・H・シャイン)を勧めている竹内さんの話は、書店員の感覚として頷けるものがある。

『ずっと残るだろう、重版を重ねるだろう、改訂されたりもしてきっと長く読まれ続けるだろうと思った本は、発売時はさほど売れなかったりします。爆発的に売れるだろう、というのとは、感触が違う。しつこく平積みを続けてようやくわかるのです。間違ってなかった、やっぱりこれは良本だ!』

これは凄くよくわかるな、と思いました。まさにそんなことを考えながら、僕も日々仕事をしています。
しかし、他の人のコメントを読んでいると、自分のコメントはあまりにも内容に触れていなさすぎるなと思えて、ちょっと書き直したい(笑)。エピソードもあれば一緒に書いて欲しい、なんて言われたんでそっちばっかり書いちゃって、内容にはまったく触れなかったのですよね。不覚。
本書を読んでて、もちろん読んでない本の方が多くて、読みたくなる本が増えすぎて困るわけですけど、もちろん読んでいる本も結構ある。その中で、そうそうこれは俺もちょっとオススメなんだよなぁと思ったのが二作。「えいやっ!と飛び出すあの一瞬を愛してる」(小山田咲子)と「クラウド・コレクター(手帖版)」(クラフト・エヴィング商會)。もちろん、既読の本で他にもこれはオススメだぞって本はいっぱいあるんだけど、この二冊は、なかなか紹介される機会がなさそうな本だから、これが紹介されてて嬉しかったです。
本屋の紹介の部分も面白いのですよね。例えば「富士日記」(武田百合子)を勧めている阿部さんが働いている書店は「一月と六月」という名前。この書店名だけでも気になりますよね。「地球のレッスン」(北山耕平)を勧めているヴィレヴァンで働く宮脇さんは、実はカメラマンが本業なんだそうです。すげー!「知的生活の方法」(渡部昇一)を勧めている花田さんは、「本屋の寅さん」という書店にいて、ここはなんと出張販売専門のお店なんだそうです。他にも、書店のコメントだけ読んでいても、全国にはホント色んな本屋があるんだなぁ、と思わされるだろうと思います。
さて最後に。個人的にちょっと気になった点を二点ほど。まず、複数巻に分かれている本については、「全◯巻」という表記があるんだけど、何故かこの表記が、推薦者のコメントの最後についてるんですよね。これは別に、書名と書影の欄に書いておけばよかったんじゃないかな、なんて。
あと一つ。どっちかっていうとこっちの方が個人的には問題ですけど、ページ数が見にくい。ページ数は、どうせなら下につけてくれた方がよかったなぁ、なんて思いました。巻末の索引から各ページに行く方もいるでしょうけど、ちょっとページ数は見にくいかもです。
世の中には色んなブックガイドやブックショップガイドがあるでしょうけど、本書はかなり内容的にも濃く使える、実用的な本になっていると思います。是非一冊買って、ふとした時にパラパラめくってみてください。オススメの1冊も含めれば730冊の本の紹介と、365店舗の書店の紹介が載っている本。是非読んでみて下さい。

ミシマ社編「THE BOOKS 365人の本屋さんがどうしても届けたい「この一冊」」



あめの帰るところ(朝丘戻。 イラスト:テクノサマタ)

さて、内容に入る前にあれこれ書くことにしよう。
著者名で分かる方もきっといるんでしょうけど、本書はBL小説です。
人生はつのBL小説です。
BLに詳しい人に、ちょっと初心者でも読めそうなやつを一冊オススメしてよ、と言って選んでもらったのが本書です。
BLってどんなもんなんかなぁ、という興味本位で読んでいますけど、BLというジャンルを貶したりバカにしたりするつもりはないので、これから色々書くと思いますけど、怒らないでくださいまし。
という言い訳をまず先にした上で、内容に入ろうと思います。
高校3年に進級して、大学受験のために予備校に通うようになった千歳。マンツーマンの指導を受けられる予備校で、千歳の担当になったのが、能登先生だった。
能登先生は、物凄く変わった講師だった。基本的に先生の方から教えることはない。分からないことがあったら聞いて欲しい、というスタンス。自習の延長みたいな授業だ。雑談する中で千歳は、先生が生徒の名前も覚えないし、シャープペン一つ用意していないことを知り、その度に「講師としてなってないです!」と諭した。
それが能登にとっては、人生で初めての経験だった。
子どもの頃いじめられていて、人と仲良く接することが出来なかった。勉強だけはできたから、それには自信があるけど、それ以外のことについては恐ろしく自己評価が低い。大人になってからも人とうまく関わることが出来なくて、そんなまま大人になってしまった。
そんな能登の人生で初めて、自分を真剣に叱ってくれる人に出会えたのだ。
それから能登は、千歳のことを「あめちゃん」と呼んで、ありえないぐらい可愛がった。相変わらず他の人には心を開けていない能登だったが、あめちゃんにだけは自分のすべてをさらけ出せたし、自分の感情を素直に伝えることが出来た。
千歳は、先生と一緒にいると、凄く心地いい自分に気づいてはいた。でも、男同士というのは、すんなり乗り越えられる壁じゃない。一緒にいて凄く楽しいし癒されるけど、でも恋人ってのはやっぱり考えられない。
能登も、決してあめちゃんを急かせることはしなかった。あめちゃんを愛しているが故に、あめちゃんが最も幸せになれる選択肢を自分で選び取れるように最初から最後まで気遣っていたのだ。
思いがけず指定校推薦で大学に合格した千歳は、予備校を辞めることになった…。
というような話です。
さて、これから何を書けばいいかしらん。
全体の印象としては、案外読めたなぁ、という感じでした。これをオススメしてくれた人曰く、本書はいわゆる『純愛モノ』だそうです。BLにものっすっごい多岐に渡るジャンルが存在していることは知っているのだけど、恐らくその中で最もオーソドックスで普通なのがこの『純愛モノ』なんでしょう。恐らくだから結構読めたんだろうな、と思います。ラスト付近とか、なんだかんだいいながら、結構ウルウルしてたりしましたしね。
本書しか読んでない中でBLを分析するというのはさすがに無茶だとは思うんだけど、本書を読んで感じたことを含めつつ、BLってこういう感じなんだろうなぁ、という僕の勝手な理解を書いてみようと思います。
まず、とにかく形容が多い。読み始めは、これに物凄く違和感を覚えました。とにかく、一瞬一瞬の自分の感情や相手の状況、ふと心に浮かんだことなんかを、とにかくこれでもかと形容する。ストーリーを展開させるための描写ってのが本当に少なくて、文章のほとんどが、会話か、あるいは感情や情景の形容という感じで、ラノベすら普段ほとんど読まない僕には、これがかなり斬新で、読み始めはなかなか慣れませんでした。
まあ、要するに恋愛小説なわけだから、主人公とか相手の気持ちを刻々と映しだしていく、っていうのはもちろん必要なんだろうけど、それにしたってなぁ、という感じがしてしまいました。まあ、これが凄いことに、読んでいくと次第に慣れてくるんですけどね。
いや、違うか。少なくとも本書に関しては、前半の方がそういう形容が異様に多かったかな、という感じがします。
これは、BLという小説の宿命みたいなものなんだろうなという気もしなくもありません。
BLにも、『登場人物が元々同性を好き(あるいは異性も同性も好き)』というパターンと、『登場人物が元々同性が好きなわけじゃない』というパターンがあるだろうと思います。前者の場合は、話の展開に難しさはそこまでないと思うんですけど、後者の場合は、『何故元々同性を好きなわけではなかった主人公が、同性を受け入れられるようになるのか』という部分に、ある程度以上の納得感を持たせないと作品として成立しないんだろうな、と思います。
本書も後者で、千歳も能登も、共に同性が好きだったわけではありません。能登はこれまでの人生で異性の恋人がいたことがあるし、千歳は恋愛の経験はなかったけど、同性と付き合うことはおかしい、という価値観を持っていました。本書の構造の場合、能登→千歳というベクトルについては、かなりあっさりと描かれます。まあそりゃあそうでしょう。両者共に、同性と付き合うことに悩む、なんていうストーリーは、なかなか高度すぎて難しいでしょう。能登の場合、千歳という同性を好きになったのは、これまでの人生において生きる目的もないただ枯れ切った人生だったのが、千歳と出会うことで一変した、という能登自身の中の強烈な変化があったわけで(何故その強烈な変化が起こったのかは、まあ読む人の受け取り方次第ってところかな)、それでとりあえずOKという感じになる。
問題は、千歳→能登のベクトルだ。つまり、ここを説得力ある描写で描き出すために、前半で刻一刻と変化する感情や情景を形容し続けなくてはいけない、ということなんだろうなと思います。
千歳→能登のベクトルさえ成立すれば、あとはいかにイチャイチャするかっていう話なわけで、それはまあ会話でいい。だから、そうなってからはそこまで大量の形容はなくなったような気がするから、だから後半は大丈夫だったのかもしれません。とはいえ、後半は後半でまたなかなか凄い展開があって、それによってまたお互いの気持ちを色々ぶつけ合わなくてはならなくなるので、後半でも感情や情景の形容が復活するんですけどね。でも、それでも読めたのは、やっぱりそれは慣れかな。
本書を読んで、何故女性が『男同士の物語』を求めるのか、僕なりになんとなく理解しました。
理由を三つに分けて書いてみましょう。
まず一つ目は、言葉でのやり取りが圧倒的に増えるから、ではないかと。
普通の恋愛小説の場合、男女が恋愛をすることは普通だから、言葉でのやり取りがそこまでなくても恋愛って成立しうる。実際だって、体の関係から恋愛が始まる、なんてことだって現実的にあるんでしょう(たぶん)。男女の恋愛小説で、BLほど言葉を尽くして相手に近づこうとするのは、逆にうそ臭いしありえなさが生まれちゃう気がするんですね。
でも女性って、言葉で「好きだよ」とか「愛してる」とか言ってもらうのが好きなわけじゃないですか。
恋愛小説を読んでても、登場人物の男はあんまりそういうことを言わない(ような気がする。少女コミックとかケータイ小説とかはわかんないけど)。たぶんそれが、恋愛ってものを楽しめない人、っていうのが女性には多いんじゃないかなぁ、とちょっと思ったわけです。
二つ目は、一つ目とちょっと似てるけど、男女の恋愛では正視できないような描写も男同士であれば許容できるからではないか、と。
読んでいる間、特に能登が千歳にベタ甘なセリフを言っているシーンとか、二人がイチャイチャしてるシーンとか、そういう部分を読んでいると(まあつまり、ほとんどのページでってことですけど)、なんとなくムズムズしてくるんです。むず痒いっていうか、落ち着かない気分になる。こっ恥ずかしすぎる描写が、読んでいるこっちも恥ずかしくさせるんですね。
でもふとこんなことを考えました。もしこの描写が、男女の間のこととして描かれていたとしたら。
…それはそれでちょっと辛いかもな、と思ったのでした。
その理由を僕はこんな風に考えました。つまり、男同士であれば、それをファンタジーと捉えることが可能だ、ということなんです。
実際世の中には、同性同士で恋愛をしている人がいるわけだから、ファンタジーとか言っちゃうのは申し訳ない気分なんだけど、でもやっぱりそういう人ってそういう事実を隠して生きているし、絶対数としても多くはないと思うから、日常的に僕らの目には触れない。だから、同性同士の恋愛を、『なかなかありえないこと=ファンタジー』という風に捉えられるんですね。
そうすると、過剰に過ぎる言葉のやり合いやイチャイチャも、『ファンタジーだから』という目で見ることができる。
でもこれが男女の間のこととして描かれていたら、とてもじゃないけど『ファンタジー』とは捉えられないだろう。
そういう意味で、甘々な過剰さを放つ恋愛物語を存分に楽しみたいということであれば、男同士という括りは、案外アリなのかな、という感じがしました。
しかし、これって面白いよなぁ。男の場合って、『できる限りリアルにありそうな設定』の官能小説とかの方が、興奮しそうな気がするんですよね。でも女性の場合は、僕の理屈が正しければ、『可能な限りリアルから遠ければ遠いほどハマれる』ってことですよね。まあ女性の場合は、興奮を求めていない、というところが、男とは大きく違うのかな。わかんないけど。
そして3つ目は、これはなんとなくの印象での話なんだけど、BLってある程度ハッピーエンドが約束されているんだろうな、って思うんです。
男女の恋愛小説の場合って、色んなパターンがあると思うんですよ。浮気だ不倫だ死別だなんだって、とにかく色んなパターンがある。常にハッピーエンドとは限らないと思うんですね。それは、男女の恋愛というものをリアリティを持って描き出すためのある種の要請でもあって、男女間の恋愛小説というのは、ハッピーエンドだけで終われるジャンルではなくなってしまった。
でも、BLって、たぶん基本はハッピーエンドだと思うんですよ。何故なら、BLの世界の中では、『男同士の恋愛』は『ファンタジー』だからです。現実の世界の男同士の恋愛をリアリティを持って描きたい、という根っこから生まれているジャンルなわけではなくて、『男同士の恋愛』という『ファンタジー』の枠組みを借りて、自分たちが求めるギュンギュンな恋愛を表現したい、という根っこから生まれているジャンルなわけで、だからわざわざアンハッピーエンドにする理由がない。それは、ハッピーエンドを求める人には安心して読むことができる一つの要因になるのではないかな、という感じがしました。
僕がBLを読んで、女性がBLを追い求める理由をなんとなく分析してみました。この文章を読んでくれているBL好きな女性がどれぐらいいるかわかりませんが、どんなもんでしょう?
BL論はこれぐらいにして、作品の話に戻りましょう。
読み始め結構不思議だったのは、千歳の立ち位置です。千歳はある場面で、『男同士はだめかな』と聞いてきた能登に対して『だめだよっ』と返す。
けどそれより前のある場面で、こんな内面描写もあるのですよね。

『大人の男の人に純粋な好意を向けられたのが、生まれて初めてだった。』

これって、『大人の男の人に純粋な好意を向けられて嬉しい』って意味だよなぁ。
この、男同士はダメだと言っているのに、男の人からの好意は嬉しい、っていう千歳の立ち位置は不思議だったなぁ。
まあもちろん、後々の千歳のあるセリフから考えるに、『だめだよっ』っていう否定はきっと強がりだったんだろうな、と思います。つまり、内心では、男同士がどうとかっていうことはともかくも、先生のことはずっと好きだった、というわけですね。しかしそれにしても、それまでの人生の中で自分のセクシャルな部分に思い悩んだ過去がある、という設定ならともかく、ごくごく普通の男子高校生が、そういう葛藤(体面的な葛藤ではなくて、内面的な葛藤)がほぼないままで、同性の好意を受け入れることができるっていうのは、やっぱりファンタジーだなぁ、と思いました。
能登のキャラは、実は結構好きなんだよなぁ。基本的に他人に関心がなくて、生きている価値を特別見いだせなくて、自己評価が恐ろしく低くて、自分の感情よりも相手の感情を推し量れるっていう能登の有り様は、なかなかいい感じです。物凄く生きづらそうな性格をしてて、実際そんな自分の性格に後半苦しめられることになるんだけど、その辺りの能登の葛藤は結構いい感じだったなぁ。ちょっとウルウルしたのも、そういう感じの場面です。
逆に受け入れがたいのは、中盤に発覚したとある出来事以降の千歳の有り様。いやぁ、さすがに、徐々にではあるにせよ、その心情の変化はちょっと無理あるような気がするなぁ、と思っちゃいました。後半の千歳の変化に比べれば、前半で能登を受け入れる決断をした心情の変化の方が断然受け入れやすいよなぁ、という感じがしました。後半の能登の感じは凄く良かったんだけど、千歳の感じはちょっとなぁ、と思いました。まあ確かに、ストーリーの展開上、あんな感じにする以外方法はなかったんだろうなぁ、という気はしますけどね。
さて、最後に。これも読みながらふと思ったことなんだけど、もしかしたら男はBLを読むべきなんではあるまいか、と。というのも、BLって結局女子の妄想が満載に詰まっているわけだから、BLを読めば、女性がどうして欲しいのかが分かる、っつーことにならんかな、とか。いや、それでも、そのためにBLを読むってのは、なかなかハードル高いと思いますけどね(笑)
BL小説を読んで、6000字弱の感想が書ける俺って結構凄いなぁ、と自画自賛しつつ感想を終わりにします。いや、なかなか面白い経験でした。ちょっと時間をあけて、また読んでみてもいいかも、という気はします。今度はもっと、ムズムズしないやつがいいなぁ。

朝丘戻。「あめの帰るところ」



ふくわらい(西加奈子)

鳴木戸定は、出版社の書籍編集者だ。
「マルキ・ド・サド」を文字って名付けられた定の名前。父親の栄蔵は、旧家の息子として生まれながら放浪の旅にh人生を見出し、「紀行作家」としてコアな人気を誇る作家であった。
定はもちろん、そんな栄蔵に影響を受ける。定はある時から父親の旅行について行くようになり、とあるきっかけで定は、日本中で知られる有名人となった。
定を形成したのは、幼い頃母・多恵に教わった「ふくわらい」だ。
定が5歳の時に亡くなった多恵は、定が笑うのをたった一度しか見ることがなかった。それが、初めて「ふくわらい」をした時のことだ。
以来定は、「ふくわらい」に取り憑かれるようになった。タオルで目を覆い、父親が世界中から集めてきた奇妙なものが散乱する暗い書斎で、いつまでも飽かず「ふくわらい」をやり続けた。そうして定は、大人になってからも、誰の顔のパーツでも自在に動かすことができるようになった。
定は、友情というものを知らず、恋をいうものを知らず、乳母である悦子以外の肌に触れたこともなく、編集者になって担当することになったとある老作家以外に自分の裸を見せることもなく、周囲から奇妙な眼差しで見られたままで、ずっと生きてきた。
それで、不自由したことはない。定は、周囲との差異や違和感に懊悩するようなきっかけすらなかった。
そんな定は、編集者となり、様々な個性的な人物と接することになる。時には熱々のミルクティを一気飲みし、時には雨乞いをした。
というような話です。内容紹介が難しいなぁ。
本書は、凄く複雑な形状をした多面体のようなもので、見る方向によってい色んな風に見えるのだろうなぁ、と思います。はっきりとした方向性とか、明確な価値観とか、揺るぎない意志とか、そういうものとは無縁で、混沌とした様々な『個』が、混沌としたまま触れ合い重なりあい、結局最後まで混沌としている、そういうイメージです。ただ、最後の方で、ほんの少しだけ上澄み液みたいなものが生まれる。初めの混沌にはなかったその上澄み液みたいなものが、本書のある種の到達なんだろうな、という感じがしました。
僕にとってこの物語は、「ことばの物語」です。
定の感覚が、僕には微笑ましい。
定の言葉との関わり方は、普通に接したら「堅苦しい」と感じるだろう。
律儀過ぎるのだ。
普通の会話って、流すべきところはするりと流し、足りない部分は自分で勝手に補っている。よく言われることだけど、普通の人の会話をテープレコーダーに撮ってその場にいなかった他者が聞いてみると、きっと意味不明だろう。それぐらい僕たちは、勝手に言葉を引いたり足したりしながら会話をしている。
しかし定にはそれが出来ない。
定にとって言葉というのは、勝手に足したり引いたりできるようなものではない。いや、もちろん編集者だから、原稿に赤を入れて文字を足したり引いたりするのだろうけど、それは定にとって、相手の思考に近づいたりリンクしたりするための道筋だ。だから定は、勝手に言葉を足したり、勝手に言葉を引いたり出来ない。分からない単語があれば説明を求め、内容に矛盾があれば指摘し、理解できない価値観には頷かない。
そんな定のことを、周囲はなかなか理解することが出来ない。子どもの頃からそうだったし(まあ、会話能力以外の部分で避けられていた部分もあるにせよ)、大人になってからも、定の奇妙な言動にはほとんどの人が理解が追いつかない。
しかし不思議なものだ。作家、というか物を書く人間には、案外定の言葉は通じるのだ。
もちろんそれは、定があの鳴木戸栄蔵の娘だ、という先入観もあることだろう。物書きにもファンの多い栄蔵の娘というのは、作家という人種からちょっとした特別な視線で見られたとしても不思議ではない。
しかし、それを差っ引いても、定の言葉は物書きには伝わる。
定は、ある物書きに対して「言葉以前から始めている」という表現を使う。
それは、「ふくわらい」で、顔のパーツの組み合わせから無限の顔が生み出されることを学んだ定にしても同じだ。単語というパーツの組み合せで文章が生まれる。
作家と定のやり取りは、とても面白い。普通の相手であれば絶対にそうはならないであろう会話の展開は、その会話を受けているのが定だからだ。
ある物書きが出てくる。敢えてどんな人物かは書かないで置こう。
彼も、「ことば」と格闘している。

『言葉を使うのが怖いときってあるよ。その言葉がすべてになっちまうんだから。』

『文字が怖い、とか、言葉が嫌だ、とか言ってたけど、おいら5年も続けてたんだぜ?こんな、こ、こんなに原稿がたまってるんだ。言葉を書いてきたんだ。(中略)そうだよ才能がなくて、社会も怖いし、言葉も怖いし、おいらには何もない。心底狂うことも出来ない。中途半端なんだ。何もかもよう』

『おいらは、体があればいい。なのに、おいらはこうやって「言葉」にすがってる。結局、言葉によう。』

そんな彼の言葉を、定は素直に受け止める。恐らくはこれまでの担当編集が受け止めることが出来なかっただろうやり方で。定の言葉は、彼に届く。彼の言葉も、定に届く。「ことば」が届くって本当に素晴らしい、と僕は思う。
ある人物がいる。彼は、目が見えない。

『目の見える人には分からないでしょうが、人が、人を知る、と言うとき、見る、という行為がとても大きいんです。僕も、10年ほど前まで見えていたから、分かるんです。あの人知ってる、と言うとき、僕は、はっきりその人の姿を思い浮かべていた。どんな髪型だったか、どんな目をしていたか。でも、その情報が絶たれると、「知る」ということが、どういうことなのか、改めて考えざるを得なくなるんです。知るってなんだろう。今も分かりません。だから僕は、自分で自分の「知る」を決めるしかないと思った。』

彼のこの考え方は、凄く面白い。
「知る」ということについて「見る」という要素が強いと主張した彼の話を聞いて、きっと定はこう思ったことだろう。私は、「知る」ということについて「ことば」の要素が強い、と(もちろん「顔」の要素もだけど)。
定は、顔を見る以外の視覚を、本当に働かせない。ある場面ではずっと一緒に仕事をしてきた女性編集者の服装を、その時初めて見た、というような描写がある。定にとっては「見る」ことはさほど重要な要素ではない。それは、目隠しをして「ふくわらい」を続けてきた子どもの頃の経験もあるし、乳母である悦子の片目が見えなかったことも関係しているかもしれない。
とにかく定にとって、「ことば」あるいは「顔」の方が「知る」という意味において重要だ。
「ことば」や「顔」によって捉えられた定の世界観は、とても不思議な形をしている。色や匂いや感触も、きっと独特なことだろう。迷宮に迷い込んだような感じで、定の世界観を読者は歩きまわる。「知る」ということについて、ある種の貪欲さを持つ定が作り上げた、他者とはなかなか共有しがたい世界観。そのグルグルする感じを味わう作品だろうと思う。
定については、このシーンが一番好きだ。
ある担当作家に、雨を止ませて欲しいとか雨を降らせて欲しいとか頼まれる定は、父と一緒に行った南米のある国で行われていた雨乞いの儀式を出版社の屋上でやる。
ある時、雨を降らせようと思って雨乞いの儀式を始めようとしたところ、同じ部署の女性編集者が屋上にやってきて号泣したので話を聞くことになった。そしてしばらくして、雨が降った。
そこで定は、こう思うのだ。

『きっとさいこさんは、この雨は私が降らしたとお思いになるだろう。そうではない、と伝えなければ。』

このシーンは、定の定らしさが凄く現れているいい場面だなぁと思いました。
あと僕は、水森ヨシが素敵だなと思いました。彼女もまた、「ことば」と格闘し続けた人生でした。彼女の行為は、確かに罪かもしれないけれど、僕はそれを肯定してあげたいな、という感じがします。
読む人によって、色んな読み方ができることでしょう。僕は「ことばの物語」だと思いましたけど、そう感じない人も多くいることでしょう。僕は本書を読んで、「祝福」という単語が浮かびました。誰が「祝福」したいのか、誰を「祝福」したいのか、その辺りははっきりとは分からないのですけども。なんだかたくさんの人物の言動が、「祝福」に結びついている。そんな感じがしました。読んでみて下さい。

西加奈子「ふくわらい」



ふたご侍(梅本チンウー)

内容に入ろうと思います。
本書はマンガです。
ユン(男)と小春(女)の双子の兄弟。彼らは、いつも『刀』を持っていて、サムライという設定で毎日を過ごしている。
そんなユンと小春の、日々のドタバタを描いたマンガです。
普段はお母さんに食べることを禁止されているカップラーメンが何故かテーブルの上に置いてある。どうにかして、『しかられないように早く食べてしょうこいんめつしたいんだ!』。
テレビで「最強の戦士は一人で充分だ」というセリフを聞いたユンは、小春に決闘を申し込む。どっちが最強か決めるんだ!
母親の従姉妹であるヨシムネ(女)が、用事がある母親に代わって二人の面倒を見る。ヨシムネの大人げない関わり方。
母親の職場の後輩(かな?)である滝さんが、買い物に出かけてちょっと母親が家を留守にしたタイミングでやってくる。
したはずのないおねしょの痕跡が目の前に残っている小春。ユンの顔を見ると、絶対にユンが何かして小春に罪を着せたんだろうけど…。
というような、凄く日常的な話の中に、ユンと小春の子供らしいアホさや、時々垣間見える不安とか悲しみ、あるいは母親やヨシムネとの関わりの中で新しい発見など、子どもとの関わりの中で見えてくる色んな世界が描かれている作品。
これは面白かったなぁ。普段コミックを全然読まないから、本書より面白い子育てマンガみたいなのがあるのかどうかは知らないけど(よつばと!とか、なんか近い気がする)、この作品は単純に面白かったです。
まず何よりも、ユンと小春のアホさが素敵過ぎる。僕は兄弟とあんまり仲が良くなかったんだけど、でもユンと小春ぐらいの年齢の頃(実際二人は、何歳ぐらいなんだろう?学校に行ってる気配はないから6歳以下だろうけど)はまだ兄弟で色々アホなことをやっていた気もします。
けど、ここまで面白くはならないよなぁ。これって、双子だからっていうのと、二人の年齢設定が絶妙だから成立するんだろうなぁ、って思います。
まずやっぱり二人が同じ年齢ってのが重要だなって思います。どうしても、同じレベルの価値観で馬鹿なことが出来る相手の存在がないと、ユンと小春が暴れまわって起こる結果みたいなものって生まれないと思うんですよね。子どもの頃って、ほんのちょっと年齢が違うだけでも考え方とか行動がまるで違ってたりするイメージがあるから、だから同じ年齢で、同じぐらいの思考レベルの二人がずっと一緒に家にいる、っていうところがまず大事だよなぁ、って思います。
そして、同じ年令であっても、ある程度年齢が高くなっちゃうとダメですよね。一般的に、女子の方が男子よりも大人びるのが早いイメージですけど、ユンと小春にしても、もう少し年齢が高かったら、小春の方が大人びちゃって、こういう面白さは生まれないだろうなぁ、とか。
読んでて、そうそうこれぐらいの年齢だったら、まだこんなアホなこと出来ちゃうよなぁ、って思える舞台設定があるからこそ、読んでて凄く楽しめるんだろうなって思います。基本的な世界観が、ユンと小春の二人によって成り立っていて、大人が出てきても、基本的にはそのユンと小春の世界観を優しく広げる形で関わっていくことになるし、そうではない他者が関わる場合でも、ユンと小春の世界観を押し通して、その他者が困惑する様が描かれます。そういう、ユンと小春の世界観に一貫性があって、その視点で物語が構成されているんで、読者もスッとその世界観に馴染みやすいのですよね。
しかし、本書はユンと小春の面白さが際立つけど、何よりも、ユンと小春の世界観と関わる大人(つまり、母親とヨシムネ)の存在が素晴らしいなと思います。もちろん本書は、子育ての面白い部分だけ取り出したマンガなんで、『子育てしてる大人がこんなユルやかな感じで子どもと関われるわけがない』みたいな反発は、なんか出そうだなぁ、という感じが僕はしました。でも、もしそういう批判が出るようなことがあるんだとすれば、それは逆に本書への褒め言葉でもあるな、なんて僕は思います。
母親もヨシムネも、ユンと小春と同じ目線に立つことが出来る。二人の世界を壊したり否定したりすることなく、二人の世界に通じる言葉で話すことができる。
それが一番如実に現れた話が、僕は一番好きだ。
最強の戦士を決める闘いに敗れたユンは、小春に、もう侍はやめると行って、忍者になってしまう。「ユンちゃん、本当に侍やめちゃったのかな…」と寂しそうに呟く小春を見ていた母親は、ユンにあることを吹き込む。
そうやって母親はユンに、忍者をやめさせることに成功するのだ。
このシーンは一番好きだなぁ。まさに、ユンの世界観を壊すことなく、その世界にズバッと通じる言葉を一言与えるだけで、ユンにとっても小春にとっても望ましい選択を引き出すことができる。素晴らしいなぁと思いました。
ヨシムネも二人と同じ目線で話せる大人で、僕が結構好きなシーンは、「もしもし?ひさしぶりー。今、ユン、困ってるでしょ」とユンに電話を掛けるシーン。大人げないなぁっていう感想を持つ人もいそうだけど、僕は好きだなぁ。
『子育てしてたら、そんな綺麗ごとだけじゃ済まないよ』なんて思う人はたくさんいるかもしれないけど、でもそれってそもそも、自分が子どもの視点まで下りていないだけ、っていうこともあるんじゃないかな(なんて、子育てをしたこともない、ってかそもそも子どもが嫌いな俺が言ってみる)。だから、そんな批判をする人がいるとすれば、それはないものねだりっていうか、自分が出来なかったからのやっかみというか、そんな風に僕には見えちゃうかもしれないし、だからこそ、そういう批判は、本書には褒め言葉になりうるなぁ、なんて思いました。
本書は当然、ユンと小春の話がメインなのだけど、大人の話も時々チラホラ見える。そもそもユンと小春の父親がまったく出てこないから、何か事情があって母子家庭なんかなぁとか、母親は休職中のはずなのに、職場の後輩(?)の滝さんがやってきたりとか。あるいは、ヨシムネについては、ちょっとハードそうだなというような描写が用意されていたりする。子どもたちののほほんとした生活の中に、時折そういう『異物』が挟み込まれることで、ただのほほんとしただけの話じゃなくしているのが僕なんかは結構いいなと思いました。
あと、母親がキレイでいいなー。
ユンと小春のハチャメチャっぷりは、もう当然面白いです。でもそれだけじゃなくて、そんなユンと小春のハチャメチャっぷりと視線を合わせられる大人の存在がかなり光る作品だなぁ、なんて感じました。是非読んでみて下さい。

梅本チンウー「ふたご侍」



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国語の授業が嫌いで仕方なかった僕が考える、「本の読み方・本屋の使い方」

2014の短歌まとめ



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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)